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アイゼンハワー政権第一期における 対ラテンアメリカ援助政策

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アイゼンハワー政権第一期における 対ラテンアメリカ援助政策
アイゼンハワー政権第一期における
対ラテンアメリカ援助政策
江 原 裕 美
はじめに
アイゼンハワー政権 8 年間のうち、その第一期(1953-1956)は、冷戦
という文脈の中で、アメリカの対外援助の制度的基盤が固められた時期で
ある。開発に対する理念やアプローチが形成されていく時期でもあり、そ
の動向は、1960 年代への展開を考えるとき大きな意味を持つ。ラテンア
メリカはそうした中でどのような位置を与えられていたのだろうか。それ
を知るためには、当時のアメリカの援助体制と全体的な外交方針が明らか
にされる必要がある。本稿では、アイゼンハワー第一期の援助の全体像と
ともに、ラテンアメリカに対する適用について探り、アメリカの対ラテン
アメリカ援助政策の特徴を明らかにすることを目的とする。
1.アイゼンハワー期における対外援助政策
(1)制度と対象
アイゼンハワー政権はトルーマンの援助理念を引き継ぎつつ、実施体制
を組み替え、援助という概念を定着させた。1953 年相互安全保障法は経
済援助を 24 カ月以内に、軍事援助を 36 カ月以内に廃止することを規定し
ていたが 1、1954 年 8 月に成立した相互安全保障法は同法を廃止し、対外
援助は一時的救済措置から恒常的なシステムとなったのである。
1953 年 8 月、 ア イ ゼ ン ハ ワ ー は、 ト ル ー マ ン が 残 し た MSA(Mutual
Security Agency) と TCA(Technical Cooperation Administration) を、Foreign
Operations Administration(FOA)として統合した。FOA は国務省内にあった
MSA の業務を吸収し、軍事、経済、技術援助の全てを統括する単純で強力な
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組織となった。次いで 1955 年 6 月、大統領は非軍事的な様々の援助を組織的
にまとめるために、FOA を、国務省内の半独立組織「国際協力局(International
Cooperation Administration,以下 ICA と略記する。
)
」に再編成した 2。
対外的な資金供給元としては、輸出入銀行(Export-Import Bank)が戦時
中から活動し、また 1946 年からは国際復興開発銀行(International Bank for
Reconstruction and Development)も活動していた。これ以外にも技術協力や
人的交流は、農業省などの専門省庁、そして国務省も行っており非常に複
雑な制度になっていたが、アメリカ政府はこれらを目的に応じて駆使した。
当時の特徴は軍事援助の優勢であった。1950 年、朝鮮戦争が勃発すると、
アメリカはソ連への対抗のため、規模の大きい軍事援助を開始した。40
年代のマーシャル・プランで多額の経済援助が行われたのと一転して、軍
事援助は急増し、アイゼンハワーが就任した 1953 年にはその額は最高に
達する(図 1)。
単位百万ドル
図1 アメリカの経済および軍事援助(1946‐61)
9,000.00
8,000.00
7,000.00
6,000.00
5,000.00
4,000.00
3,000.00
2,000.00
1,000.00
0.00
経済援助合計
軍事援助合計
出典)
US Overseas
Loans and
Grants.
これらの経済・軍事援助は、1950 年代初頭まではヨーロッパに集中し
ていたが、冷戦の地域的拡大を背景に、旧植民地など、いわゆる「低開発
地域」へも拡散していく。その主な対象は、韓国、ベトナム、台湾、など
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冷戦の危機が進行するアジア次いで中東であり、ラテンアメリカへの援助
は低くとどまった(図 2,3)。1953 年度を例に取ると、ヨーロッパへの配
分が圧倒的で援助総額の 73%を占めていた一方で、アジア太平洋に 14%、
中東及びアフリカに 11%、ラテンアメリカには僅か 1% であった3。
図2 アメリカの軍事援助地域別推移(1946‐61)
単位百万ドル
4000
3500
中東北アフリカ
3000
ラテンアメリカ・カリブ海
2500
アジア
2000
西ヨーロッパ
1500
1000
出典)
US Overseas
Loans and
Grants.
500
0
図3 アメリカの経済援助地域別推移(1946‐61)
単位百万ドル
7000
6000
中東北アフリカ
5000
ラテンアメリカ・カリブ海
4000
アジア
西ヨーロッパ
3000
2000
出典)
US Overseas
Loans and
Grants.
1000
0
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(2)目的と特徴
ではアイゼンハワー第一期において、各種援助はどのような役割を担っ
ていたのだろうか。
ま ず 軍 事 援 助 で あ る が、 軍 事 援 助 は 1954 年 相 互 安 全 保 障 法 で い う
タイトル I「安全保障援助」の一つであり、軍事顧問団の派遣から、あらゆ
る種類の装備までを提供することにより、一層レベルの高い軍事的防衛を可
能にすることが目的であったが、同時に、物資や人員を補給して、貧困を抑
制し生活水準を上げることで、市民社会の中から生じうる反乱要因を排除し、
政治的な防衛体制を作ることも意図していた 4。「安全保障援助」にはもう一
種、
「防衛支持援助(Defense Support)
」が含まれている。「防衛支持援助」は、
アメリカとの地域安全保障協定に加入している国向けに「軍事的努力を支持
増大させるために 5」供給される援助で目的としては軍事方面への貢献であ
るが、「自らの経済力よりも過大な防衛努力を行っている国に経済援助を与
える6」ものであり、資金的分類としては経済援助に含まれる。
広義の経済援助としては上記の「防衛支持援助」のほか、中近東、アフ
リカ、南アジア、米州諸国といった国々の「経済発展を促進するため」お
よび「経済政治的安定性を保つため」に与えられるタイトル II の開発援
助 7、技術者の派遣や訓練と限定され、国連への拠出も含まれるタイトル
III の技術援助、そして亡命者支援、余剰農産物販売による支援、占領地
支援、難民支援、子ども支援などタイトル IV の雑多なプログラム、といっ
たものが含まれる。
タイトル V では、1955 年 6 月末を期して技術援助関係は国務省の管轄下に
移されることも定められ、それを運営する機関として前述の ICA が編成され
ることとなる。
相互安全保障法の規定では、タイトル I のみで 50 億ドル弱、タイトル II
は約 2 億ドル、タイトル III は 1 億ドル強の支出を規定していることから
見て、トルーマン期に続き、アイゼンハワー政権の援助が軍事面を重視し
ていることは明らかである。実際の支出においても先に見たように、1940
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年代に大部分を占めていた経済援助に代わり、1950 年代前半には軍事援
助が急増していた(図 1)。軍事援助は 1952 年には経済援助の額を追い抜き、
1950 年代中をとおしてみると、経済援助合計額の 283 億ドルに迫る 247
億ドルという支出を記録した8。
しかも前述したように経済援助に分類される援助の中に軍事援助と同様
の目的を持つ「防衛支持援助」援助がかなりの割合で含まれていた 9。経
済援助と軍事援助という分け方は「ラベルの違い」だけ10 であるとも言わ
れており、目的は重なっていた。
またタイトル II の「開発援助」にも「政治経済の安定を維持するため」
との文言が盛られていることからして、開発援助もまた安全保障目的と関
連して考えられている11。このように軍事援助と経済援助が一体となって
目的を追求する体制が特徴の一つとなっているといえよう。
(3)援助の論理 以上のような体制の背景にある論理とはどのようなものだろうか。この
時期、アメリカとソ連はともに核戦力を保有しつつ、冷戦を戦う防衛体制
を敷いていたのであり、軍事援助が中心で経済・技術援助もその視点から
構成された。そうしたアイゼンハワー政権の論理を示しているのが 1959
年に発行された軍事援助に関する大統領委員会の報告書である。ここでは
おおよそ以下のような内容が記述されている。
すなわち、植民地体制から独立する国々が増えているが、それらは国家
として確立されたというには程遠い状態であり、軍隊が唯一、力と規律を
備えた集団ということも珍しくない。それらの国々が軍隊をコントロール
し、公的秩序を取り戻し、人々の支持を得ることが必要である。全世界に
アメリカと同様の民主主義をもたらすのは不可能に近いが、唯一の実現可
能な目標は、各国の政治制度をより高度な形態にすることであり、経済軍
事的援助はその核となる役割を果たす、と述べる。援助の目的は(1)国
内的な政治活力と政治的健全性の獲得、(2)国際的に責任ある行動を取ら
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せること、(3)システムとしての自由世界の成長と防御性の向上、(4)ア
メリカに対する対外イメージの向上、であるとする12。ヨーロッパ向けの
マーシャル・プランがアジアやアフリカの経済に役立ったように、一部は
全体のために重要なのであり、個別国の事情への対応だけにとどまらず、
援助の制度全体としての政治的、軍事的、経済的必要性を考えるべきだと
している。このようにアメリカのこの時期の援助は軍事、経済、と別個の
目標を追求しているのではなく、軍事面を中心に全体として一つの目標を
達成することが求められていた。
注目すべきは、アメリカの防衛上重要な国々を 4 つのカテゴリーに分類
していることである。I と II はいまだ内容が明らかにされていないが防衛
上の重要国家と位置づけ、III は、防衛上の重要性はマージナルであるが、
それらが自由主義陣営にとどまるのが重要とされる国々であって、東南ア
ジア、ビルマ、パキスタン、イラン、中東を挙げ、ここでは政治が中心的
ポイントであるとしている。カテゴリー IV は政治の伝統がすでに強く、
経済が最重要であって軍事問題は二次的な国々であり、ラテンアメリカ、
インド、フィリピンを挙げている。そして割当額は「共産主義の脅威との
関係による」と述べている13。このように当時の軍事援助の配分基準は共
産主義の脅威の程度であった。しかし、システム全体として目的に対応す
ることから、当然経済援助、技術援助をも枠づけることになった。
2.アイゼンハワー期の対ラテンアメリカ政策
(1)ラテンアメリカに対する経済・軍事援助額
前節で見たように、ラテンアメリカは他地域と比べて共産主義の脅威が
低いと考えられていたことから同地域向けの軍事援助の割当額は少なく、
経済援助もアジアや中東北アフリカに比べて低額であった。ただ考えるべ
きは共産主義の脅威を割当額の基準としていたとしても、ラテンアメリカ
地域では「経済的要素が重要」と指摘されていたことにもかかわらず経済
援助もまた少なかったのである。このようなラテンアメリカへの援助配分
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は、どのような文脈で形成されていたのだろうか。
金額的には、ラテンアメリカへの軍事援助は 5000 万ドル前後で横ばい
を保った。一方、経済援助は政権第一期(1953-1956)と第二期(1957-1960)
で大きなうねりを見せた(図 4)。経済援助は第一期には次第に増加し、第
二期初めの 1957 年には 2 億 5000 万ドルに達した。その後は減少するもの
の、1 億 5000 万ドルを下回ることはなかった。そうした変動はアメリカ
の対外援助政策とラテンアメリカ政策によるといえよう。以下でアイゼン
ハワーのラテンアメリカ政策を確認しておこう。
図4 対ラテンアメリカ経済援助と軍事援助(1953-1961)
450
400
350
単
位
百
万
ド
ル
経済援助合計
300
軍事援助合計
250
200
150
100
50
0
1953 1954 1955 1956 1957 1958 1959 1960 1961
出典)
US Overseas
Loans and
Grants.
(2)対ラテンアメリカ政策の基礎 第二次大戦末期から 1950 年代初期にかけて政権にあったトルーマンは
ラテンアメリカに対しては外交的関心は強くなかった。これに対しアイゼ
ンハワーは大統領選の期間中、トルーマン政権のラテンアメリカ政策を「善
隣政策」ではなく「poor neighbor policy」であるとして批判しており14、
就任すると早速ラテンアメリカ政策を検討させた。
1952 年 4 月にはボリビアで革命が始まり、6 月にはグアテマラで農地改
革法案が成立した。朝鮮戦争は 1953 年 7 月にようやく休戦となる。世界
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的な共産主義の脅威に対する対抗ということが当時の政府の思考を支配し
て い た。1953 年 3 月 の 国 家 安 全 保 障 評 議 会(National Security Council,
NSC)で提出された「対ラテンアメリカ政策」原案は幾分「拙速」のきら
いはあったが 15、アイゼンハワーはこれを気に入り、さらに検討して練り
上げることを承認した。
それによれば、対ラテンアメリカ政策の目的は、外交・軍事面において
は、国連などの場におけるアメリカの政策への支持の確保、西半球防衛の
ための各国軍事力の整備、究極的な軍備の共通化、他の自由主義地域防衛
のための共同行動の支持獲得であり、国内政治・経済面では、統率のとれ
た政治的経済的発展、共産主義者と反米主義者の反乱防止、ラテンアメリ
カの戦略的物資の生産とアメリカのアクセスの確保、という、合計 7 項目
であった 16。これらは「共産主義への対抗」という発想から来ていること
は明らかである。
報告書の観点からラテンアメリカを見るとこの地域には 3 つの問題が
あった。第一に人々の期待の高まりと改革への要求による政治的不安定と
扇動への弱さ、第二に経済格差に加え以前からの偏見による反米主義と経
済的ナショナリズム、第三に共産主義である。貧困と階級格差、労働運動
の未成熟、税制の不公平、起業家精神を持たない資本家たちに見られるよ
うに「社会進歩が遅く」、投票権の制限、参政意識の低さ、軍人と地主に
よる少数支配、軍事独裁、行政能力不足など「政治的な発展が時代に即し
ていない」体制、アメリカとの経済格差を外資の「搾取」によると見なす
ドクトリンと反米主義が存在する風潮、こうした状況から、「共産主義が
いわゆる『民族的願望』を集合させ、すべての反米的分子に対して組織的
な政治的指導を行う力となる 17」ことをアメリカは恐れていた。
ラテンアメリカの軍隊とアメリカの実質的なつながりは、トルーマン政
権期に戦争装備品の余剰分を販売したことから始まり、ラテンアメリカの
集団安全保障体制(1948 年のリオ条約やその他の決議)ができてからは、
2 国間協定を結んでアメリカの武器を供与する体制となった。その目的は
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西半球の地域的な防衛であった。NSC は、各国はしばしば必要以上に軍備
を求める傾向があるとし、そうした欲求を刺激しないよう常に注意するべ
きだと述べている18。アメリカの目的は、各国の軍隊が自国領土内で、敵
の結社行動や攻撃、反乱などを防ぎ、戦略物資や通信を保護して「秩序を
守る(maintaining security)こと」ができるようにすることであった 19。ラ
テンアメリカへの軍事援助が拡大しなかったわけは共産主義の脅威の程度
と併せて軍事援助へのこうした姿勢にあったとみられる。
ヨーロッパとアジアで適用された国際的な対共産主義防衛のドクトリン
は、ラテンアメリカでは主に国内における内乱の防止という形に転化した。
国内の反乱防止(Internal Security)が軍事援助の目的の一つとなったので
ある。民族主義、組合運動、社会運動など様々な動きは「反乱」と見なさ
れる結果となった。共産主義の土壌となりやすい貧困、共産主義予防のた
めの貧困緩和、そのための経済発展、それによる安全な社会体制つくり、
米国の安全という循環の論理が、援助の暗黙の前提となっていた。
NSC の別冊は、アメリカがラテンアメリカに対してとるべき政策行動指
針として強制、分離、協力という 3 つの選択肢を挙げている。第一の策は「可
能だがその結果は破滅的である」、第二の策は「放置することにより敵対勢
力をラテンアメリカ内に増やす恐れがある」として否定し、第 3 の「協力策」
を取るべきと進言している。これは利害共同体であること、類似の目標を
持つことを強調して西半球の結束を目指すものである20。しかし、1951 年
に米州機構憲章ができたばかりであり、そこに盛られた不干渉、各国の主権、
紛争の平和的解決、といった合意のなかでアメリカは行動しなければなら
ない。この「協力策」をもって「ラテンアメリカの無責任さと極端なナショ
ナリズムの昂進を抑える21」ことは悩ましい課題であった。秩序の維持を重
視するあまり、アイゼンハワー政権は反共産主義的であれば、ベネズエラ
のペレス・ヒメネス(Perez Jimenez)、キューバのフルヘンシオ・バチスタ
(Furgencio Batista)、ドミニカ共和国のラファエル・トルヒーリョ(Rafael
Trujillo)など、いわゆる「独裁政権」をも「支持」することになった 22。
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3.アイゼンハワー期の開発政策とラテンアメリカへの態度
(1)経済開発へのアメリカの立場
それではアイゼンハワー期にはラテンアメリカの経済発展についてどの
ようにとらえられていたのだろうか。アイゼンハワー自身は財政的には保
23
守的であり、さらに保守的なジョージ・ハンフリー(George Humphrey)
を財務長官に選任した。アイゼンハワーは“trade not aid”
(「援助ではなく
貿易を」)をモットーとしており、援助には全く反対であったわけではな
いが、共産主義からの直接的な脅威のあるところに向けられるべきだとい
う考えを持っていた24。 1954 年大統領が指名した対外経済政策の検討委員会の報告書、通称「ラ
ンドール・レポート(Randall Report)」は事実上の軍事援助に近い「防衛
支持援助」以外は増加すべきでなく、低開発地域の国々がアメリカからの
経済援助を要求しているがそのような権利を彼らはもたない、とし25、人
や知識の交流伝達のための技術援助とアメリカからの民間投資を増やすこ
とを強調している。一次産品価格の安定化のための協定には反対で、代わ
りに貿易や投資の自由化を進めるべきであると従来からの主張を繰り返
し、税の控除や、国有化、革命、戦争等発生の場合の補償を提案している。
技術援助は民間投資がスムーズに行われるよう、食糧事情や衛生環境、教
育水準などを改善する狙いを有していた。
このような主張に沿い、アイゼンハワーは「援助―削減したいもの、投
資―奨励したいもの、通貨の交換性―促進したいもの、貿易―拡大したい
もの」と述べており26、1955 年も同様の発言をしている27。当時、経済成
長は本来国内的な問題であり、アメリカの役割は補助的なものであること
が強調され、貿易の障壁を低めてアメリカに対する輸出を活発にさせれば、
輸出元への外国投資も盛んになり援助は減らせると考えられていた28。国
務省は民間投資の有利さをくり返し主張し29、それを助けるのが政府の仕
事であると国務長官のダレスは語っている30。このような考えが「援助で
なく貿易を(Trade not Aid)」というキャッチフレーズで呼ばれたのである。
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アイゼンハワー政権第一期における対ラテンアメリカ援助政策
アメリカは、助言、脅かし、外交手段を駆使して、民間投資を迎える好ま
しい環境を作るように外国政府に働きかけた31。
当時の政府部内の意見も、ラテンアメリカが工業化を主張する一方で地
元民間資本の活用や外国資本を引き付ける「環境(Climate)」作りを拒否し、
国内で売れず国外で競争することもできないような製品を生産する工業化
を主張していると批判している32。国家安全保障評議会に提出された方針
(NSC144)は、取るべき行動として、第一に経済発展に必要な資本は民間
企業によって供給されるのであり、そのためには民間企業を引き付ける「環
境」作りが必要であることをラテンアメリカ政府に認識させるよう努める、
とし、第二に国際復興開発銀行やアメリカ輸出入銀行の貸出水準は現行の
ままとし、ただ必要に応じて民間投資の補助のために増額すると述べてい
る。経済的贈与は限定し、むしろ相互貿易協定により、税関手続きを簡素
化すると同時に貿易障壁を低くして、ラテンアメリカ諸国の産物をアメリ
カ国内で売りやすくする方法を取るとする。技術援助については今後も継
続するが、各国の受け入れ能力に応じたものとする、特に IMF や国際復
興開発銀行、輸出入銀行など適切な手段を通じてラテンアメリカ政府に経
済発展に不可欠な財政や予算に関わる助言をすすめると述べている 33。
こうした考え方は貸し付けに表れている。以下の図のように、経済援助
は 1950 年代前半低く抑えられ、輸出入銀行の貸付が大幅にそれを上回っ
ている。経済援助が増加したのはアイゼンハワー第二期後半になってから
であった。(図 5)
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図5 対ラテンアメリカ経済援助と輸出入銀行
ローンの比較(1946‐1961)
500
450
400
単
位
百
万
ド
ル
350
300
経済援助合計
250
輸出入銀行ローン
200
150
100
50
0
1946 1948 1950 1952 1954 1956 1958 1960
出典)
US Overseas
Loans and
Grants.
政策の根拠を説明した別冊の報告書でも、アメリカの民間投資が戦略物
資の入手とラテンアメリカの購買力を高めるなど重要な働きをしていると
認め、経済発展には外国資本と技術による刺激が不可欠であり、アメリカ
の目的はそれを助けることであって、ラテンアメリカに民間資本へのより
良い環境を作るよう奨励すると述べる34。
このように、民間投資主体の開発、公的資本投資除外の姿勢はトルーマ
ン時代と大きく変わるところはない。ただし、ラテンアメリカへの贈与的
経済援助が少ないことは認めており、それは「輸出入銀行に払われるラテ
35
であると述べてい
ンアメリカ諸国の利子からだけでも払える程度の額」
る。世界の他地域との差は大きく、これがラテンアメリカ諸国の恨みを買っ
ている、現在のところ、我々のヨーロッパ支援は短期的で復興と再軍備の
ためと説得しているが、ほかの国や地域にさらに援助をすればこの説明も
効力を失うだろう、ラテンアメリカへの追加援助はアメリカに対する好意
をつなぎとめる要因となろう、と述べ、将来的には援助の増額は避けられ
ないとの含みを持たせている。このように、40 年代と同様の前提に基づき
つつも、ラテンアメリカの現状を気にしている様子が顔をのぞかせている。
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そして目立たないながらも変化も生じ始めた。一つは、1954 年に制定
しなおされた NSC 5432/1 である。いくつかの点でそれ以前の NSC 144/1
との違いがあった。まず、第一ページの現状認識の点で、ラテンアメリカ
における共産主義の浸透と反乱の危険をより強調し、アメリカの支援を必
要としている、という点を加えている36。経済政策は「より一層の安定と
経済的発展」をタイトルに据え、輸出入銀行は条件に合う「全ての健全な
経済開発プロジェクト(all sound economic development projects)」に融資
を「保障する(assure)」とし、それらの政策が不適切でそれなくしてはア
メリカの国益に合うプロジェクトが着手または続行できない場合に「開発
援助ローン」を用いることができることを記し、ラテンアメリカからの地
域的行動を認めるとしていた37。政治面では米州機構での多国間技術援助
を増やし、他国にも増やすよう勧めるとしている38。経済援助に対する出
資の方法も増やされた。1954 年農業貿易開発援助法(the Agricultural Trade
Development and Assistance Act, 通称 PL 480)と 1954 年相互安全保障法第
402 項による余剰農産物及び農産品への外貨支払いの承認、貸付援助(Loan
39
」
Assistance) の 導 入( 第 505 項 )、「 開 発 援 助(Development Assistance)
の導入(第 201 項)などの項目はそれに相当する。
しかしラテンアメリカに対しては、実際に公的資本の投下を伴う貸し付
けの増加や贈与の増加は簡単な決断ではなかった。
(2)開発アプローチをめぐる対立
こうした動向は政権内での開発観の違いと力関係に影響を受けていた。
政権部内では対外援助の抑制を厳しく主張するグループと、ラテンアメリ
カとの関係改善を目指すリベラルなグループとの対立が存在していた。
アイゼンハワー自身は士官学校卒業後過ごしたサン・アントニオでの経
験、軍人としてパナマに駐在した経験からラテンアメリカに親しみを持っ
ており、トルーマン時代にはラテンアメリカへの軍事援助の増額を主張し
ていた40。1953 年、彼は、ラテンアメリカへの関心の表明として、実弟の
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ミルトン・アイゼンハワー(Milton Eisenhower)を自らの個人的代理(特
別任命大使相当)に任命、ラテンアメリカの様々な事情や要望について自
分に報告することを要請した41。ミルトンは 1953 年、1958 年にラテンア
メリカ諸国を歴訪し、大統領に報告進言を行った。
ミルトンはカンザス州立大学とペンシルバニア州立大学の学長を務め、
のちにはジョンズ・ホプキンス大学の学長をも務めた学者であり、兄から
の信頼は厚かった。彼は、1953 年 6 月 23 日から同年 7 月 29 日までラテ
ンアメリカ諸国を巡り、報告にまとめて大統領に提出したほか、度々諸国
の陳情を受けてこれを政府に伝えるなど、当時の対ラテンアメリカ関係の
構築に努めた人物である。
その報告によれば、現在もお互いの間で誤解があるとして、相互理解の
強化と経済協力の強化をうたっている。特に、ラテンアメリカは資本を必
要としていることに触れ、実施すべき行動として、(1)貿易の安定化(一
次産品の値段の安定と割り当ての制限)、(2)戦略物資の備蓄拡大によっ
てラテンアメリカ経済を助けること、(3)関税障壁の低減、(4)健全な経
済発展プロジェクトへの公的融資(輸出入銀行の長期開発援助への融資)、
(5)国家計画立案への技術援助の提供、(6)余剰物資からの贈与、(7)技
術協力プログラムの拡大、などを挙げている42。
ミルトンの報告書の内容は穏健なものだったが、政府部内で反響を呼び、
ラテンアメリカへの経済政策をいかにすべきかが 1 年にわたる議論となっ
た。歴訪に同行したラテンアメリカ担当の国務次官(Assistant Secretary for
Inter-American Affairs)ジョン・カボット(John Moors Cabot)は、アメリ
カよりはるかに貧しい地域の事情を理解し、アメリカが開発援助のわずか
1% 程度しかラテンアメリカに配分していないことについて、外国資本だ
けでラテンアメリカの全ての経済問題を解決できるのか、と疑問を提示し
ていた43。優遇措置があるところですら、外国資本は運輸通信など経済イ
ンフラの不足や人々の教育的技術的水準の低さから、ラテンアメリカに進
出しておらず、「ほとんど封建的な支配」さえも残っている。彼は、経済
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発展の基礎的インフラに役立つグラントを少額でも提供するべきだという
意見を提起し44、また開発のための基礎的な設備、道路、空港、港湾、灌漑、
鉄道、などに対して公的資金が必要だと考えていた。輸出入銀行はすでに
40% も元金を回収し潤沢な利益を上げており、ラテンアメリカは多額の返
済を行っている、と、輸出入銀行による 10 億ドルの貸付を提案した45。
財政に関して大統領を上回る保守派のハンフリーはカボットのそうした
提案には真っ向から反対した。雄弁な自信家のハンフリーは政府の様々な
会議において連邦政府の支出増大の危険性を絶えず主張した46。国務長官
のダレスはハンフリーの側にはくみせず、ラテンアメリカの共産主義化を
恐れ、ラテンアメリカへの経済援助を増額する提案を支持していた47。し
かし同時に主張を強硬に展開するカボットをスエーデン大使に転任させ、
代 わ り に 企 業 弁 護 士 の 経 験 の 長 い ヘ ン リ ー・ F・ ホ ラ ン ド(Henry F
Holland)を起用した。アイゼンハワーはダレスを支持し、ハンフリーに
よる 1953 年の輸出入銀行の長期貸付削減方針を転換・回復するとともに
少額の開発援助の提供を承認し48、ダレスは第 10 回米州諸国会議(カラカ
ス、1954 年 3 月 1 日―3 月 28 日)においてそれを発表した。
1954 年 9 月 3 日には新たな政策方針 NSC 5432/1 が発表された。それは
これまで通りアメリカの貿易拡大を目標とし、ラテンアメリカ側が「国内
及び外国資本による民間投資につながるような政治的経済的環境を作るこ
と」を謳いつつも、国際復興開発銀行が融資できないときは輸出入銀行に
「全ての健全な経済開発プロジェクトへの融資」を保証するとし、開発援助
ローン(development assistance loans)の可能性を認めていた49。技術援助
は長期的に強化し、各国の要望と受け入れ能力に合わせるとともにラテン
アメリカ技術者をアメリカ国内で訓練する機会を増大するとしている。副
大統領のリチャード・ニクソンが議長を務め、国務長官、財務長官、防衛
長官の代理が出席していた前日の会議 50 は大きな論争もなく決着していた。
しかし、実務レベルではこの問題が決着したわけではなかった。1954
年 4 月から米州機構のリオ会議の準備が始まっていたが、政策の一致は難
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しかった。FOA は新たな局長ハロルド・スタッセン(Harold Stassen)の
もと、6 月 8 日付で「緊急に新しいドラマチックな行動路線を出す必要性」
を主張し、
「開発銀行(bilateral and multilateral development banks)」の設置、
IBRD と輸出入銀行の貸付拡大、贈与とソフト・ローンの援助の増大、一
次産品価格の安定化や買い入れといった提案をしたが、国務省は慎重で
あった 51。
1954 年 6 月の FOA 特別会議ではラテンアメリカ諸国の三つの要求、す
なわち世界の他地域と同様の経済開発支援、米州地域銀行の創設、底値に
近い商品価格への対策、にどう対処すべきかが話し合われた。会議は「ア
メリカのラテンアメリカ経済政策が不適切であり、政治および安全保障上
の問題を引き起こすおそれがあるため、新しい適切な政策を策定すること
が重要である52」との結論に至った。前述のカボットを上回る FOA の積極
的な提案に対し、財務省はもちろん反対であり、上級(sub-cabinet)レベ
ル会合でもそうした動きには慎重であった53。米州関係担当国務次官補
(Assistant Secretary of State for Inter-American Affairs)のホランドは現状維
持派であり54、あからさまに反対を表明していた55 が、防衛省と中央情報
局(CIA)は FOA の提案を支持しており、この話題が「国務省―FOA―
財務省の問題を超えてきている」なかで、絶対反対の財務省との間に立っ
て落とし所(a middle-of-the-road)を探っていた 56。
11 月 22 日から 12 月 2 日までリオデジャネイロで開催予定の第 4 回米
州経済社会評議会(the Fourth Extraordinary Meeting of the Inter-American
Economic and Social Council, 通称リオ会議)を目前にした 11 月 15 日、国
家安全保障評議会の会合ではハンフリーとスタッセンは大統領の目前で激
しく対立した57。会議の代表団長として出席予定のハンフリーは、「健全な
企業」によるアメリカのこれまでの対ラテンアメリカ政策を踏襲し、「不
健全」に見える様々な提案を拒否するという目的を示したのち、国連の 10
億ドルの開発資金提案、ラテンアメリカ諸国による商品価格の安定化提案、
ラテンアメリカ諸国の地域統合案、新しい米州銀行案、をすべて拒否する
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と述べ、続いて、NSC5432/1 の文言の 3 か所に対して修正を提案した。「輸
出入銀行は全ての(all)健全な経済開発プロジェクトへの融資を保証する
(assure)」とあるのを「全ての」を削除し、
「保証する」を「支援する(support)」
とすべきだという点、
「開発援助」を考慮する条件があいまいで「ファジー」
なローンを認めることになるため文言を明確にすべきだという点、地域統
合を「好意的に(sympathetically)」考慮するとした点は、域内貿易が少な
く多くをアメリカとの貿易に頼るラテンアメリカにおいてはアメリカの利
益を損なわないという条件を入れる必要があるという点がその主張であっ
た。大統領は「保証する」という言葉を残すべきとしたが、「好意的に」
を削除することに賛成した。しかし大統領はハンフリーに対し、アメリカ
は共産主義との戦いをしていることを思い起こすように述べ、ラテンアメ
リカ諸国の離反を招くことになってはならないという考えを持っていた。
スタッセンは、ハンフリーが拒否するとした米州銀行案を強く支持する
発言を行ったが、ハンフリーはこれに強く反論した。スタッセンはしかし
元の文書にあった米州銀行の提案を支持したばかりか、さらに地域統合に
関してもより好意的に対処すべきだと主張した。ラテンアメリカ側の全て
の提案を却下することには大統領も懸念しており、議論は再び「好意的に」
を残し、しかし但し書きをつけるという方向に転換した。大統領は細かい
字句修正の論議にいらつき、代表団を信頼し不明の点はワシントンに照会
するようにと述べた。ハンフリーはそれでも反対の意向を述べたが、地域
銀行には特に反対し、スタッセンに代表団長として会議に行き銀行設立を
表明するかと迫った。スタッセンは代表団長の意向に従うと言わざるを得
なかったが、地域銀行の考えの正しさは信じていると付け加えた。勝負は
つき、リオ会議でのアメリカの政策路線は定まったのである。
4.ラテンアメリカの希望と失望
上記のようなアメリカの方向性に対し、ラテンアメリカは別のことを考
えていた。
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ラテンアメリカ諸国においては、経済開発の必要を訴える声はさらに高
まっていた。第二次大戦後、朝鮮戦争による一時的な増大以外は、主要輸
出物である一次産品の輸出が伸び悩んでいた。1953 年に至っても輸出額
は実質的に 1947 年レベルまでにも回復せず、余剰はつみあがっていた。
戦火がやみ、錫や銅と言った戦略物資の備蓄が終了し、また物価統制が解
除されて物品の値が下がったことがその主要な要因であった。ラテンアメ
リカでは一次産品の値段の低下は、輸入能力を悪化させ、貿易収支の不均
衡をもたらしており、しかも人口増加が危機を増幅させていた。19471948 年当時、一人当たり輸出額 45 ドル、輸入額 43 ドル(1948 年値)であっ
たのが、1952-1953 年度では一人当たり輸出額が 37 ドルで輸入額が 40 ド
ルと逆転しており、しかも輸出、輸入とも赤字であった58。ラテンアメリ
カを襲うこうしたいわば定期的な経済的危機に左右されることなく、貿易
の脆弱性を減らし成長を可能にしなくてはならないとの考え方はラテンア
メリカ諸国に共有されていたが、そうした開発には、国内経済の根本的な
変革により、輸入構造を改めることが必要であった59。
国連ラテンアメリカ経済委員会(Economic Commission for Latin America,
以下 ECLA と略記する。
)はラウル・プレビッシュ(Raul Prebisch)を中心
に、このような状況にあるラテンアメリカの経済調査を精力的に発表して
いた。アメリカが主張する自由主義経済は比較優位に基づく国際分業をそ
の基本としていたが、プレビッシュは、交易条件は歴史的に一次産品にとっ
て悪化しているとしてその理論に挑戦した 60。
ラテンアメリカの輸出が世界の輸出増額に占める割合は 1948 年以降、
長期的低落傾向を示していた61。生活水準は世界の他の低開発地域よりは
良いものの、一人当たり所得はのちの 1960 年になっても 366 ドルと、ア
メリカの 8 分の 1 という状況であった62。長期的交易条件の悪化がラテン
アメリカの経済発展を阻害しているとするこの説明はラテンアメリカに受
け入れられた63。ラテンアメリカ諸国は ECLA の発信を活用して自らの主
張を行うようになった。カラカスにおける第 10 回米州諸国会議では、各
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国の代表団が次から次へと良く準備された文書を用意して、アメリカが承
認 で き な い 要 求 を 表 明 し、 ア メ リ カ を 驚 か せ た64。 ア メ リ カ は そ れ が
ECLA の影響であると直ちに察した。
ECLA はラテンアメリカの工業化が発展のカギであり、その最大の障害
は資本の不足であると考えていた。輸出での収入のほかに、低利の長期融
資が必要であった。この立場を 1954 年のリオ会議でラテンアメリカ側は
表明した。会議にはラテンアメリカ各国の代表や関係者として後にチリの
大統領となる上院議員のエドゥアルド・フレイ・モンタルバ(Eduardo
Frei Montalva)、コロンビアの経済通の政治家カルロス・イェラス・レス
トレポ(Carlos Lleras Restrepo)、チリ中央銀行総裁で後に米州開発銀行総
裁となるフェリペ・エレラ(Felipe Herrera)、ブラジルの外交官で経済学
者のロベルト・オリベイラ・デ・カンポス(Roberto Oliveria de Campos)
らが顔をそろえていた。リオの会議場において、プレビッシュの召集で
ECLA の年次報告の準備を名目として彼らは集まったが、実の目的は、ラ
テンアメリカの立場を明らかにすることであった。その提案は、1 国際復
興 開 発 銀 行 と 輸 出 入 銀 行 か ら 6 億 ―6 億 5000 万 ド ル、 米 州 間 基 金 か ら
5000 万―1 億ドル、直接民間投資として 3 億―3 億 5000 万ドル、1 年につ
き合計 10 億ドルの外国投資を 10 年間にわたり続けること、2 鉱工業、農
業のラテンアメリカにおける起業に融資するための米州開発銀行の設置、
3 優先順位を決め公私の投資を配分するための国家計画の策定、4 ラテン
アメリカの主要輸出品のための価格安定協定、であった65。
この提案は事前に参加者に回覧された。それはラテンアメリカ側が外部
援助に対する要求を初めて数値化して示したものであった66。こうした動
きに対しどう応えるのか、アメリカの代表団長であるハンフリーの発言に
期待が集まったが、ハンフリーはラテンアメリカに対し、民間外国資本を
引き付けることに集中すべきであり、インフレや外国為替レートをコント
ロールして投資環境を改善すべきだと従前の主張を繰り返し、輸出入銀行
の貸付枠を 5 億ドル増やすとした以外はラテンアメリカ側の提案は基本的
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にすべて拒否した。ハンフリーは会議の終結を待つことなく、二日間のみ
リオに滞在して去った。
リオ会議前にハンフリーは国務次官補のホランドにラテンアメリカ各国
を訪問させ、アメリカの主張を伝えてあった67 ため、リオ会議で批判が渦
巻くような大きな混乱はなかった。こうした結果をハンフリーは大統領に
伝え、大統領もアメリカの政策に満足した。しかし、アジアや中東への寛
大な援助を目にして長年の期待を抱いていたラテンアメリカ諸国は深く失
望した。ミルトン・アイゼンハワーはもちろん、ジョン・カボット、ハン
フ リ ー の 方 針 に 反 対 し て リ オ 会 議 の 調 整 役 を 辞 任 し た メ ル ウ ィ ン・
ボ ー ハ ン68 (Merwin Bohan)、R・ リ チ ャ ー ド・ ル ボ ト ム ら(R Richard
Rubottom)国務省のリベラル派もこの会議を失敗だと考えていた。こうし
た経緯の中でラテンアメリカに対する基本的な経済政策は定まり、しばら
くの間継続することとなったのである。
おわりに
以上のように、アイゼンハワー政権第一期の対外援助は、草創期にあっ
て軍事援助を中心に一体化した冷戦対応策であったといえるだろう。その
なかでラテンアメリカは共産主義の脅威が低いと見なされ、軍事経済援助
とも低く抑えられていた。この地域に対する経済援助は、国際復興開発銀
行や輸出入銀行の融資が主で、贈与的なものは少なく、自由貿易と民間投
資、技術援助を主としたトルーマン政権以来の政策の継続を示していた。
アメリカ政府部内には、そうした経済政策をめぐって対立もあったが、共
和党の金庫番であるジョージ・ハンフリーを中心にそれまでの強固な態度
が保持されることとなる。ラテンアメリカは長らく経済援助を求めていた
経緯があり、リオ会議においては、ECLA のラウル・プレビッシュを中心
に協調してアメリカに資本供与を提案したが実らなかった。上記のような
経緯にラテンアメリカ諸国の失望は大きく、それが後に大きな変化を産む
こととなるのである。
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アイゼンハワー政権第二期に生じたその変化については稿を改めて論じ
ることとしたい。
注
1
市川泰治郎『アメリカ低開発国援助の構造』鹿島研究所、1960 年、p 153
2
Samuel Hale Butterfield, U.S. Development Aid--An Historic First: Achievements
and Failures in the Twentieth Century (Westport, Connecticut: Praeger, 2004),
pp 38-39 1954 年相互安全保障法 Title V では、1955 年 6 月末を期して
技術援助関係は国務省の管轄下に移されることが定められ、それを運
営する機関として「国際協力局(International Cooperation Administration,
ICA)
」が編成されることとなる。
3
S Clay Willmington, and Gale Sievers, Complete Handbook on Foreign Aid
Policy of the United States (National Textbook Corporation: Skokie, Illinois,
1966), p 7
4
Legislative Reference Service U S Library of Congress, U.S. Foreign Aid: Its
Purposes, Scope, Administration, and Related Information(Washington, DC:
Greenwood Press, 1968)
,p4
5
Public Law 665, Aug 26, 1954, 68 Stat p 838
6
Mutual Security Act of 1954, Report of the Committee on Foreign Affairs, 83rd
Congress, Report 1924, Part 1, p 5
7
Public Law 665, Aug 26, 1954, 68 Stat p 840 開発援助は、ここで初めて独
立した項目となった。それ以前は技術援助の予算の中から「デモンスト
レーション」費用などとして捻出されていた。
8
US Overseas Loans & Grants [Greenbook] より計算。
9
Legislative Reference Service U S Library of Congress, U.S. Foreign Aid: Its
Purposes, Scope, Administration, and Related Information(Washington, DC:
Greenwood Press, 1968), p 3
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10 Supplement to the Composite Report of the President Committee to Study the
United States Military Assistance Program, Annex B, March 1959, p 37
11 Public Law 665- Au 26, 1954(Mutual Security Act of 1954), U.S. Statutes at
Large 68, pp 840-841
12 Supplement to the Composite Report of the President Committee to Study the
United States Military Assistance Program, Annex A, March 1959, p 7
13 Ibid , p 18
14 Stephen G Rabe, Eisenhower and Latin America: The Foreign Policy of
Anticommunism (Chapel Hill: The University of North Carolina Press, 1988),
p6
15 国務長官のスミスは、原案は急いでまとめられた「a shotgun approach」
と称している。
Foreign Relations of the United States 1952-1954 Volume IV, 1983, p 2 (以下
FRUS)
16 NSC144 A Report to the National Security Council by the Executive Secretariat
on United States Objectives and Courses of Action with Respect to Latin
America, March 4, 1953, p 2
17 Annex to NSC144 A Report to the National Security Council by the Executive
Secretariat on United States Objectives and Courses of Action with Respect to
Latin America, March 6, 1953, pp 3-6
18 Ibid , pp 16-17
19 Ibid , p 18
20 Ibid , p 10
21 Ibid , p 11
22 Rabe, p 87
23 ハンフリーは忠実で頑固な共和党員で、連邦政府の支出を抑えることに
熱意を傾けており、彼の決定が当時のラテンアメリカに対する援助政策
に大きく影響した。
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24 Rabe, p 65
25 Commission on Foreign Economic Policy, Report to the President and the
Congress, Washington, January 23, 1954, p 9
26 New York Times, March 31, 1954, p 18
27 New York Times, January 11, 1955, p 16
28 江原裕美「トルーマン政権期対ラテンアメリカ技術援助に見る開発観」
日本国際教育学会紀要『国際教育』第 16 号、2010 年 9 月。
29 Roger W Straus,“Benefits of Foreign Investment,”Department of State
Bulletin, January 3, 1955, pp 19-22“Statement by Mr Jacoby on the Financing
of Economic Development,”Department of State Bulletin, September 23, 1957,
pp 502-504
30 Dulles,“Economic Assistance to Underdeveloped Areas,”Department of State
Bulletin, December 20, 1954, p 958
31 David A Baldwin, Economic Development and American Foreign Policy 194362 (Chicago: The University of Chicago Press), p 121
32 Annex to NSC144 A Report to the National Security Council by the Executive
Secretariat on United States Objectives and Courses of Action with Respect to
Latin America, March 6, 1953, p 8
33 NSC144 A Report to the National Security Council by the Executive Secretariat
on United States Objectives and Courses of Action with Respect to Latin
America, March 4, 1953, pp 5-6
34 Annex to NSC144 A Report to the National Security Council by the Executive
Secretariat on United States Objectives and Courses of Action with Respect to
Latin America, March 6, 1953, 12
35 Ibid , 1953, p 13
36 NSC 5432/1, September 3, 1954, p 1
37 NSC 5432/1, September 3, 1954, p 5
38 NSC 5432/1, September 3, 1954, p 3
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39 その経緯としては技術援助プログラムが経済ないし開発援助として拡大
されたもので、製鉄所や製油所、発電所、灌漑など工業プロジェクトの建
築費用を含んでいた。これはもともと経済協力局(Economic Cooperation
Administration, ECA)による「ヨーロッパ工 業プロジェクト(European
Industrial Project)
」として、1948 年から 1954 年までの 7 年間にギリシャ、
トルコとヨーロッパ諸国計 14 カ国に投下されていたが、アジア、アフリ
カ、ラテンアメリカなどにも拡大された。Overseas Economic Operations:
A Report to the Congress by the Commission on Organization of the Executive
Branch of the Government, June 1955 p 31
40 Rabe, p 26-27
41 Dwight D Eisenhower, The White House Years The Mandate for Change 19531956 (New York: Doubleday & Company, Inc ), pp 420-421
42 Milton S Eisenhower,“United States-Latin American Relations”Department
of State Bulletin, November 23, 1953
43 Rabe, p 67
44 John M Cabot“Strengthening Inter-American Ties”Department of State
Bulletin October 19, 1953, p 516
45 Cabot to Under Secretary Smith, 20 January 1954, FRUS, 1952-1954, IV,
pp 203-205
46 Rabe, p 68
47 FRUS 1952-54, IV: 197-201
48 Rabe, p 70
49 NSC 5432/1, September 3, 1954, p 5
50 FRUS 1952-54, IV, pp 67-88
51 Ibid , pp 312-320
52 Ibid , pp 321-325
53 Ibid , pp 327-330
54 Ibid , pp 330-335
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55 Ibid , pp 330-340
56 Ibid , pp 342-344
57 Ibid , pp 344-352
58 ECLA, Economic Survey of Latin America 1953 (New York: United Nations,
1954), p 44-45
59 Ibid , p 1
60 江原、前掲論文。
61 Celso Furtado, Economic Development of Latin America: Historical
Background & Contemporary Problems, Second Edition (Cambridge:
Cambridge University Press, 1976), p 60
62 Victor L Urquidi, The Challenge of Development in Latin America (New York:
Frederick A Praeger, 1964), p 5
63 Furtado, p 180
64 FRUS, 1952-1954, IV , pp 306-307
65 Jerome Levinson and Juan de Onis, The Alliance That Lost Its Way: A Critical
Report on the Alliance for Progress, (Chicago: Quadrangle Books, 1970),
pp 39-41
66 Ibid
67 リオ会議の準備として、1954 年 9 月 5 日から 10 月 10 日までホランド
はメキシコと全ての南米諸国を回ってリーダーらに会い、準閣僚級の委
員会で決まったアメリカの政策を説明し了承を取っていた。FRUS 19521954. IV, pp 332
68 Rabe, p 72
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