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ドイ ツ公的介護保険をめぐる社会史的考察

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ドイ ツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
今井 薫
(京都産業大学教授)
I.はじめに
-ドイツにおけるシステムドイツにおける要介護者はおよそ165万人O このうち施設介護を受
けている人びとが45万人で、それ以外は在宅介護を受けているといわ
れる。在宅介護を担当する者は、ドイツでも圧倒的に女性で、介護時
間も一日あたり6∼9時間に達する。要介護者の多くは、症状が固定
し、回復が望めず、かつ要介護期間も3年から10年と長期にわたるた
め、介護という仕事は家族とくに介護担当者に経済的・身体的はもと
より精神的にも重い負担となっているO他方、介護の負担は要介護者
の居住環境によってもさらに増大する。すなわち、要介護者を想定し
ない一般住居は、介護には狭過ぎる部屋、階段、ドアの間葛が介護者
の大きな負担となり、さらには家庭に介護施設の様な介護援護設備が
1)
ないことが、問題をさらに深亥山こしているO
高齢化と介護をめぐるかかる状況に対応して、およそドイツ国内に
50社ある民営の疾病保険会社は、私的介護保険を販売したが、低所得
者層を中心に、このようなサービスからスポイルされる、あるいは関
心を示さない層が相当程度残ることになったO そこで政府は、従来か
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ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
ら完備されていた公的疾病保険制度(国民の90%が加入O残りは民営
の疾病保険か公務員補助給付による保護を受け、無保険者は0.5%以
下という)を利用して、1989年1月1日から重度要介護被保険者につ
き、介護担当者にさしつかえある場合は、年1800ドイツ・マルクの範
囲内で最大4週間の休暇介護を導入したO さらに1991年1月1日から
は、月額750マルクの範囲内で一回1時間で月25回を限度とする介護
2)
貞派遣サービスを導入した。このようなサービスは、すべて原則的に
「現物給付」であるが、介護に適切な方途を講じることができるとい
う条件で、これに代えて月400マルクの金銭給付も選択できることと
した。
ところで、民営保険による介護給付が開始されたのは1985年からで、
疾病保険会社は介護給付金・介護費用保険金を給付する保険を、生命
保険会社では介護年金を給付する保険を販売したO介護給付金を供す
る保険とは、約定日額を要介護の程度に応じて(介護に要する費用と
は無関係に)支払うものであるO これに対して介護費用保険とは約定
限度額の範囲内で、介護手段を講じることにより生じる費用の一定割
合を負担するものであるO介護年金では、要介護の程度に応じて年金
が給付されるO さらに1992年9月からは、契約者年齢を15才から60才
とする一括払生命保険に付帯して介護保険が発売されたO給付される
介護年金の額は、年額で基本とされる一括払保険金顆の36%O したがっ
て、月額2000マルクを確保するためには、約66,000マルクの一括払保
険金額を要することになる。また、あらゆる民営の介護保険において
保険給付を受けるためには、最低3年の契約継続期間を要し、保険料
は保険加入年齢、性別、加入時の健康状態によって異なるO もちろん
私保険であるから、健康状態により条件体割増を要する場合や、謝絶
3)
体として契約締結を拒絶される場合もある0
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ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
したがって、すでに要介護者である者はもはや民営保険による介護
給付を期待することはできないし、それ以外の者でも、年齢や所得等
の点で、私保険サービスをもはや期待できない人びとが多く存するこ
とが予想されるO また、従来の公的疾病保険における介護枠の拡充は、
介護給付を要するものが多くの場合ごく高齢者であり、それも全員が
つねにそのサービスを要するものではないにしても、従来の公的疾病
4)
保険の財政を著しく悪化させる。さらに、介護について公的扶助を行
わなければ、高齢化時代の今日では、家計の負担増からの介護の放棄
など、結果的にもろもろの社会的費用負担の増加が予想されるOドイ
ツが、近隣EU諸国との関係なども考慮のうえ、公的介護保険制度導
5)
入に着手したのは、まさにこのような状況からである。
そこで、この高尾・今井論稿においては、このように、ドイツで導
入されるに至った公的介護保険制度を、歴史的・社会的に分析しつつ、
そこに内在する経済的な問題点とをそれぞれ明らかにすることにより、
将来わが国でも導入が予定されているといわれる介護保険制度に、一
定の提言を行おうとするものであるO
注1)F.Straub,Diegesetzliche undpriuate Pftegeuersicherung,Freiburgl.Br
1994,S.21
2)Straub(1994),S,21,
3)Straub(1994),SS.21,22.足立正樹『現代ドイツの社会保障』法律文化社(1995年)
191頁以下。本沢巳代子「ドイツの公的介護保険」ジュリスト1056号111頁以下。本
沢助教授によれば、いままで独自の医療保障制度をもつため法定ないし民営の疾病
保険にいずれも加入しなかった層(公務貞、DB[旧国鉄]職員、郵便・電話職員)
が、民営ないし公的な介護保険加入の選択権を有することになり、多くが民営介護
保険に加入するとの予測を紹介している。すでに民営介護保険に加入している層は
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ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
700万人であり、これに新規に150ないし200万人が加わるとされる。
4)そもそも、公的疾病保険制度は、その費用面で爆発的な拡大の一途をたどり、こ
のまま推移すれば2000年には保険料が75%に達するというショッキングなリポート
が提起されたほどであるO H Geissler,Die neue soziale Frt2ge,Ana&se und
lbkumente,Frelburgi Brl980(3Aufl.),S.112.足立(1995)117、159頁。
5)1995年9月におけるケルン大学保険学研究所所長ディーター・ファーニー教授へ
の高尾・今井のインタビューにおいて、同教授はこのような見解を呈示された。
II.社会的介護のもつ意味-「歴史的検討2.1.概説
さて、人間社会において家族内看・介護の枠を超えて、病院ないし
は介護施設による看・介護が行われるようになったのは、中世的都市
の形成と不可分の関係にあるといえるO伝えられるところによれば、
病院施設は、12世紀の末頃、南フランスのモンペリエにおいて、貧者・
病者・不治の療養者・身寄りのない者などのために最初の病院が設立
tし、
されたことに始まるというO
そもそも、注6)に見るように、古代あるいは中世の病院施設は、巡
礼者や貧窮者、老人・孤児のような社会的係累を喪失した階層のため
に創出された施設であったOだから、一族が一地方に土着して分厚い
親族関係が形成され、その中で相互扶助されている農村型社会(多く
は母系制社会)では、病者や要介護者の看・介護は、網の目のような
親族組織の互酬的扶助システムによってなされ、その必要性が一般の
7)
公共的空間に漏出してくることはなかったOわれわれの周辺にいまな
お色濃く残置される多くの通過儀礼(結婚式・葬式・村入りの儀式な
ど)は、いずれも、資源配分の再調整を共同認識するために必要な不
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ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
可欠のものなのであるO あるヒトが親族共同体に参加、あるいはそこ
から離脱することは、このような関係を介して資源配分を行っていた
関係に破綻を生じることを意味する。たとえば、家長の死は、それを
媒介に負担と配分とを得ていた家族関係者の資源配分ルートを断絶さ
せることになるO したがって、葬式のような親族一同が会する儀式を
開催して、資源配分ルートをいずれかの形で開設することに、親族全
員による合意がなされることになるOわが国においても、兄の死亡に
ともない兄嫁と弟が結婚する形態がかつて散見されたが、これはまさ
に兄嫁が親族組織から配分を受けるためのルートを親族構成員資格を
8)
有する弟を介して確保する手段であったことによるO このような、構
成は負担についても同様で、病者や要介護者の看・介護についても、
このルートを通じて、弾力的かつ多層的に行われたと解されるO さら
に、このような親族共同体を複数含む村落共同体は、多く労働力を共
有する必要から、親族の範囲を超えて互酬的関係が成立した。農作業
においては、村内の各農家が手弁当で参加し、これに費用を支払わな
いという慣習は、互酬関係が喪失したといわれる今日のヨーロッパに
q)
もなおみられるところであるO したがって、看・介護を要するケース
も、このような共同体では、相応に親族の範疇を超えることも予想さ
れるのであるO
これに対して、都市はこのような互酬的機能を完全に欠いていると
いわねばならないO少なくとも中世都市の多くは、商業的機能を実現
させる目的をもって誕生したO したがって、資源の配分も、閉じられ
たサークル内で形成された資源を、そのサークル構成員がその資格に
もとづいて特段の対価を要しないで(対価は事後的な反対贈与でよい)
分配を受けるという、農村型の分配システム(ある種のクラブ財)を
もたないO そもそも、都市は外部から流入する財貨を経済合理的に受
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ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
容するリセプターであって、ヒトもその目的で集散し、その背後に互
酬的関係を成立させる巨大な親族組織をもたないO疾病に雁患したも
のは、看・介護サービスを対価なく支えてくれる制度を本来的にもた
10)
ないのであるO
さらに、とくにヨーロッパ都市は、ヒトが集住しながらこれに対応
する衛生設備をもたなかったから、疾病の羅患率が高かったといわれ
る。この不衛生さの度合いは著しく、そのためもあって都市家族は三
代続かないといわれた。したがって、都市機能を存続させるには、つ
ねに外部からの絶えざる人口流入が求められたのである。ちなみに、
中世後期にヨーロッパを襲ったペストの大流行は、都市の存在が喚起
したヒトの流れと、そこにおける濃密で衛生手段を欠くヒトの集合と
11、
がもたらしたものであるO
したがって、このような都市のもつ「負の要素」は、都市住民をし
て、病院・介護施設・孤児院を、都市を存続させるうえでのコストと
して理解させることとなったO その具体例をドイツバンザ都市リュー
ベックの聖霊病院(Das Heiligen-Geist-Hospital)を中心に見てみ
よう。
注6)阿部謹也F整える中世ヨーロッパ』日本エディタースクール出版部(1987年)116
貢以下。阿部教授によれば、ローマではコンスタンテイヌス帝の時代にローマ軍団
の傷病者の収容施設があり、6ないし7世紀の司教たちも貧民救済施設をつくり、
貧民を組織化して自分たちの配下にしていたという。しかし、施療院あるいは宿泊
施設としての病院は12世紀のモンペリエをあげる。「病院」という用語は、ラテン
語のhospitallSによる(Enciclopedia europea,1979,VO18,pag382.)。同書に
よれば、325年のニケーア公会議において、各司教に対し、「XenOdochium」なる
施設の設置を義務づけたという。この施設では、巡礼者や貧民が宿を与えられ、治
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ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
療・看護をうけることができた。この時代最大の病院は、カイザリア(Cesarea dl
Cappadocia)の教父として著名な大バシレウス(Basilioil Grande,330ca-379)
が同地に370年ごろに設けた病院であるといわれる。この施設は、巡礼者、貧窮者、
一般病者、ハンセン病患者用にそれぞれ区分されていた。ユステイニアヌス皇帝時
代(527-569)には、病者用の施設が倍増したため、その管理は法定されるに至った。
いわゆる「エスティニアヌス法典」は、これら施設について様々なタイプを想定し
ている。すなわち、巡礼者のための前述した「xenodochio(以下イタリア語表記)」
の他、要介護者のための「nosocomi0」、貧窮者用の「ptocotrofio」、老人施設と
しての「gerontocomio」、遺棄された乳幼児のための「brefotro石0」、孤児のた
めの「Orfanotro五0」などである0
7)農村的伝統について、これが一般的に認められよう。しかしながら、ヨーロッパ
を語る場合、かかる「互酬的伝統」が乏しいことに気づくO イタリアにおいて、彼
の地のラティフンディウムを破壊したのはゲルマン民族の大移動であったが、イタ
リアを制圧したゲルマン諸族はもとより、ゴート族(Goti)もランゴバルト族(Lonr
gobardl)もともに農耕民ではなかった。彼らが文明社会にはじめて登場したとき、
商業都市社会を高次に構築していたローマ法的な個人所有概念にはじめて遭遇する
ことになった。彼らゲルマン社会では、家族やゲンス(氏族)における共同の所有
の概念しか、それまで存在しなかったことはタキトゥスやカエサルの文献にも明ら
かである。ゲルマン民族がイタリアにおいて定着に向かうと、やがて個人所有の概
念が彼らのうちに、とくに相続や財産贈与法のみならず売買法をつうじて7,8世
紀ごろに定着していったといわれる。R.Caggese,ChlSSie comuniruralinel
medio evoitalhlnO,Firenze,1907,pagg.26r29.
8)ファン・ヘネップ(綾部恒雄・裕子訳)「通過儀礼』、弘文堂(1977年)57頁以下、
99頁以下、125貢以下参照O また、フアースによれば、儀礼的交換が生じる場合と
して、誕生、ムラ入り、結婚、病気、死などをあげる。この場合の交換は等価交換
であるとは限らないが、資源の再配分的要素をそこに見ることができる。R.Firth,
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ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
PrimitiveFbbmesianEconomy,London1965,p.321,
9)ピーター・メイル(池秋央訳)『南仏プロヴァンスの12か月j河出書房新社(19
93年)。そこには、「同じアパートに長年暮らしていながら、六インチの壁一重を
隔てた隣とほとんど口もきかないことだって珍しくない」ロンドンやニューヨーク
の暮らしとは異なり、「何百メートル離れていようと隣同士、お互いの生活の一部
である」田舎暮らしにおける近所付き合いの「大きな意味」(8頁)や、葡萄やアス
パラガスの作付の費用について、「私はフォースタンを脇へ引き寄せて支払いのこ
とを尋ねた。トラクターは三日間拘束したし、みんなの手も借りた。いくら払った
らいいだろう? フォースタンは、ここは説明が必要と慌ててグラスを置いた。苗
の代金は負担してもらうが、それ以外はこの谷間の村の年来のしきたりで、必要に
はおよばないというO大がかりな植え替えには近所中が無料奉仕することになって
いる。順繰りに手伝うから、長い間には貸し借りなしになる」(68頁)と、互酬慣習
について興味深げに記している。
10)労働の提供が、ある種の霊的な意味を持ち、これがギフト(贈与)をともなうも
のであったことは知られるところである(将来的調整を想定し、対価性をもたない)。
しかしながら、それが日常化(卑俗化)することにより将来的な贈与関係を想定し
ない等価交換へと変容したO贈与には「個人対個人」間贈与という面は乏しく、集
団間贈与的関係が成立していたと考えられるが、集団を背景としない都市空間では、
ギフトの卑俗化という現象は容易に生じたと考えられる。エネンによれば、15世紀
の総人口に占める都市住民の割合は20ないし25%に達し、中でも南ネーデルランド
に顕著であったという(プラバントでは32,8%が都市居住)。このような中で都市
は次第にその成長の衰えに遭遇するようになる。経済危機が都市を襲い、人口減少
(死亡率が高いので、成長が衰えればただちに人口減少が現れるが、14世紀の経済
危機やさらにペストの流行がこれに輪をかけた)をきたした都市住民間の対立を助
長した(たとえば親方・徒弟間)。斜陽化した手工業労働者や農村から流入する未
熟練労働者が貧困層を形成したが、この数が都市人口に占める割合は、たとえばプ
ー80-
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
リュッセルで1437年から1496年の間に10.5%から17.1%に増加し、小都市では36%
にまで増加したとエネンは記している。中世は信仰心の厚い裕福層によるおびただ
しい慈善のおこなわれた時代であったが、それもみな膨大な貧困層の存在がこれを
可能にしたともいえようO エネン(佐々木克巳訳)rヨーロッパの中世都市』、岩
波書店(1987年)、273頁以下、A.La Torre,Lbssicu71lZione nella sl0ria delle
idea,Assicurazioni1993,pagg.11e segg.ラ・トルレ教授(メツシナ控訴院
長)の所説及び関連文献の説明については、拙稿「荒野のエクリチュール-文化
思想としての保険-」国民経済雑誌170巻3号、「日本人の法意識・契約観」
(水島一也編著『保険文化』千倉書房(1995年)所収)参照0
11)蔵持不三也『ペストの文化史-ヨーロッパ民衆文化と疫病-」(朝日選書)、
朝日新聞社(1995年)61頁以下参照。1338年にクリミア半島で発生したペストが西進
して黒海から地中海へ伝染、シチリアのメッシナからマルセイユへと上陸したとき、
伝承されるところによると当地で56,000人もの生命が失われ、それはなんと人口の
8割を占めたというO中世を彩る「鞭打ち苦行者」の発生はペストの消長と期を同
じくする(80頁以下)という。プロテスタンティズム(とくにカルヴイニズム)にお
ける虚無的なまでのペシミズム(神は人間を救済することを約束などしていない。
神の栄光を讃えることだけが人間に課せられた役割で神はただ「彼らのうちに不潔
や汚物しか認めたまわない」存在だという)も、ここにその源を発しているように
思われる。P.プリッタレ(田中真造/増本浩子訳)『ドイツの宗教改革』、教文
館(1991年)24貢以下O エミール・G・レオナール(渡辺信夫訳)『改訳プロテスタ
ントの歴史j(文庫クセジュ)、白水社(1968年)74貢以下O
2.2.リューベック聖霊病院の成立
上述のように南フランスで成立した中世型病院(介護施設を含む)
は、その後イタリア、ドイツ、イングランドにも広まっていったO こ
一81一
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
れを支えたのはローマ教皇を背景にした修道会であり、したがって病
院には礼拝堂が付置された。その結果、病院は司教の支配に従うこと
を余儀なくされたのである。
しかし、都市は教会などの支配を排除していくところに、その存立
の意味があることはよく知られるところであるOバンザ自由都市はそ
の代表例であろうし、また教会権力から離脱しようとしたミュンスター
市も、教会権力の中枢であるドーム広場からの主要出口たるミヒャエ
リス・トーア(インムニテート境界)に市民勢力の象徴としてのラー
トハウスを建てているO それゆえ、都市に不可避的な病院の設置が、
同時に都市の独立を犯すことになるという矛盾を解決することが、こ
れら都市には求められるO
リューベックは、13世紀初頭に誕生した聖霊病院をめぐって同地の
司教と対立したO この病院は、伝承によればベルトラム・モルネヴェー
クという男によって設立されたO この男は、貧しい孤児であったとい
われるが、裕福なリューベックの商人に引き取られ、教育を受け、の
ちに巨大な富を得た。彼は、中世の商人の常として、市民に奉仕する
一環としてこの病院の共同設立者となり病院長となったというO設立
年は不明であるが、1234年以前にはホルステン・トーアにも近いプフェー
ルデ・マルクトの一画にあったというO
しかし、前述のように、患者が看・介護のための大家族を本来的に
もたない都市においては、これを担うべきは都市自身であって、その
ために病院・介護施設はどうしても必要な施設であった。このような
経緯もあって、リューベックでは都市と司教が病院経営をめぐって対
立したO まず、その建築に司教ベルトルド(1210-30在位)の許可を
得なかったO
また、宗教的な兄弟団を病院内に設けることに市は同意しなかった0
-82-
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
ところが病院に収容されている患者たちは、中世市民として当然に病
院司祭を求め、兄弟団のような団体を結成しヨハネ修道会にならって
規約もつくったので、司教は病院内に祭壇を設置し司祭を任命するこ
とを許可したOすなわち、司教権力の排除は成功しなかったのであるO
これにもかかわらず、都市側はさらにドイツ騎士団を巻きこんで抵
抗したO そのためリューベック・ドイツ騎士団は教皇より破門される
窮地にたつことになったほどである。そして、この病院が1276年にリュー
ベックの大火により焼失したのを機会に、今日もコーベルクに残る現
病院に移転・再建するにあたっては、付置教会の位置を伝統的な位置
から大きく変更したO すなわち、病室をなす「ランゲス・ハウス」の
西側にT字型に教会を設置したのだが、これは旧来の伝統的な病院教
会の位置である東側設置と大きくことなっているO これらも、市側が
病院から教会を切り離すことができないにしても、教会権力の力をな
12)
んとしても排除したいという意思の現れといわれる。
注12)DasHeilqen・Geist-Host・ikllzuLubeck,Lubeck1993 参照。
2.3.中世都市市民における救済観
ヨーロッパ中世都市と、そこに居住した市民についても一言してお
こうO Herlihyによれば、10世紀の末から1250年頃にかけて、ヨー
ロッパは未曾有の人口増大を達成し、この人口はその後100年間は維
持されたという。すなわち、1086年のドームズデイ・ブックによれば、
当時のイングランドの人口は110万人ほどだが、1300年には700万人
と推定されているO歴史家は、14世紀のヨーロッパは人口過剰に陥っ
ていたと推測しているが、ペスト、農民戦争等による「中世の秋」の
一83-
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
訪れは、このような過大な人口圧力によってもたらされたものという
ことができるO
しかし、このような爆発的人口増加は、都市の誕生によってはじめ
て可能になったことは明らかであるO農村は土地を制約要因とするか
ら増加人口を支える力はきわめて小さいO これに対して都市は、この
ような制約要因をもたないから、増加人口は多く都市に流入すること
となったO しかし、同時に都市は自由人によってのみ構成されていた
わけではなく(15世紀のアウクスプルクでは、財産税を免除された貧
困手工業者・下層民層は35∼60%を上下していたという)、また互酬
的システムも欠いていたから、決して矛盾から免れていたわけでもな
かったO そこで、前述の都市による看・介護に財政的な裏付を与えた
富裕市民層の存在をクローズ・アップしないわけにはいかない。けだ
し、彼らによる出柄が貧困・疾病者層の保障制度を支えたからである。
このような、大商人による寄進による出損のひとつの例は、フィレ
ンツェに隣接するプラートのフランチェスコ・ディ・マルコ・ダティー
こであり、アウクスブルクのヤーコプ・フッガーであるO
前者はアヴィニョン捕囚時代のトスカーナに生きた冷徹な合理的精
神をもつ商人で、その活動領域は黒海沿岸からブリュージュ、ロンド
ンにまで及んだO しかし、同時に彼は典型的な中世人として、そのビ
ジネスを「神による出資(幸運の)」を得て行ったと信じる者でもあっ
たO この時代の多くのイタリア商人は、「神の出資に対する配当口座
(慈善勘定)」を有しており、これが社会扶助のための支出の原資と
なっているO La Torreによれば、中世イタリア兄弟団においては、
彼ら富裕者は「相互扶助こそ、団員が遭遇する病気や死に対する慈悲
の奉仕uf丘ci di pieta」であると考え、その守護聖人の保護の下に
教会、礼拝堂、祭壇あるいは埋葬式などで、その組織が支えたのであ
一84一
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
るO したがって、都市自体としては、支配組織としての教会とはつね
に対立しながらも、その市民たちは、神への厚い信仰のもとに兄弟団
あるいは都市住民にまで敷宿した擬制家族への奉仕を矛盾なく任務と
した。イタリア都市を圧倒的に支配した商人たちにとって、信仰は特
別なものではなく人生のすべてであった。ちなみに前述のダティーニ
は、大量の商業帳簿を保存するアルキビオ(公文書館)を残すと同時
に、彼はその死の床で、総額7万フロリンにも及ぶ財産で、貧者救済
の財団『プラート慈善会Ceppo di Prato(今日なお「フランチェス
コ・ディ・マルコの貧者慈善会」の名称で現存)』を創設することを
友人のラボ・マッゼイに遺言している。すなわち、彼にとってその信
i.1、
仰の下にビジネスも慈善も矛盾なく統合されていたのである。
後者のヤーコプ・フツガーの場合も同様であるO時代はまさに慈善
の時代から社会政策への転換期をなす16世紀のはじめであったが、そ
の意味で彼による「貧者の理想郷」フツゲライは、慈善の最後を飾る
ものといえるO諸田賓教授によれば、前述の「慈善勘定」の商慣習は
その後南ドイツにも伝わり、アウクスプルクでも、その守護聖人ウル
リッヒにちなむ「ウルリッヒ勘定」が設けられ、寄進活動が行われた
という。これは「彼岸との取引」とよばれるもので、現世利益と引換
えに死後の利益を得ようとする大商人の行動のひとつで、フッガ一に
よる貧者のための住居であるフツゲライの建築もかかる意味を有する
ものといえよう。彼は、この維持・管理のために1万グルテンの基金
を出資して財団を作り、購入不動産の地代収入とフッゲライ入居者の
家賃収入により、フツゲライを維持しようとしたのである。そして、
フツゲライの門を飾る記念額には、「慈悲深い全能の神から受領した
われらの財産をふたたび神に返却する義務」から、この事業を行った
旨が書かれているO ダティーこの例と同様に、ここでも信仰に根ざし
-85-
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
14)
た慈善により、貧困都市住民の福祉が図られていたといえようO
注13)La Torre(1993),pag.16-18
14)諸田賞Fフツガ一家の遺産』、有斐閣(1989)、28頁以下01367年に近郊農村から
アウクスプルクに出てきたハンス・フツガーが祖。南ドイツの農村では、農業の傍
ら亜麻布織が盛んであったということだが、亜麻布職工は差別業種であったことが
知られている(たとえば、阿部謹也r中世賎民の宇宙」、筑摩書房(1987)、181貢)O
ところで、ハンス・フッガーは、アウクスプルクで織物工のツンフトに参加する。
このころアウクスプルクではバルへント織が盛んで、彼もこの業務に従事していた
ものと思われる。なお、バルヘント織は当時有力産業で、エネンによれば、中世末
期の経済危機(フランドルの没落を招く)をケルンが克服できたのも絹織物とバル
ヘント織とによるという。エネン(1987)280頁。
2.4.小括
以上に明らかなように、中世以来、病院・介護施設は都市的状況に
不可避的な施設であり、しかもそれは、概ね都市の成功者たる大商人
たちの信仰にもとづく寄進・慈善活動などによって担われたというこ
とができよう。神との取引において、兄弟団あるいは都市共同体を疑
似家族と捉え、これらに対する慈善を互酬の最後の拠り所とした。
しかし、都市は閉鎖空間ではないO被贈与者が、将来という時間軸
の上で反対給付の提供を強制される環境は存在しないO しかも、被贈
与者はつねに参入しつづけ、信仰の裏付がなければ贈与者は、フリー・
15)
ライダーにつねに悩まされることになる。そして、過剰人口をかかえ
て14世紀へと突入したヨーロッパは、①気候の寒冷化、⑦ペストの大
流行、(り農民戦争という不幸にみまわれて、さしもの人口も2/3へ
-86-
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
と激減し、互酬を支えたオプティミスティックな連体感が喪失したO
「死」の日常化は、互酬の「貸しと借り」の関係を清算・破壊した。
すなわち、自身や相手側の死の危険は、給付に対する将来的な反対給
16、
付幻想を根底から揺さぶったのである。そして、それはいつしか貧者
に対しても、「神はそれを欲し給う」という思想へとつらなっていく
ことになった。慈悲による救済を神は欲してはいないO共同体幻想は
このような中に消滅し、貧者・病者・孤児などの問題は、結局社会的
コストの問題としてのみ解決が期待される社会保障へとその姿を変え
ていくことになった。
もちろん病院そのものは、医学の進歩によりその機能は拡大し、も
はや都市に固有のものではなくなった。しかし同時に、かつてもっぱ
ら寄進・慈善目的で設立された病院が有していた「身寄りなき患者を
世話する」任務は、病院が担うところではなくなった。このように親
族組織あるいは兄弟団などの疑似親族組織に依存した都市の扶助シス
テムが、都市のみならず社会全般的に機能しがたくなった現代におい
て、その任務をだれが担うのかという状況が生まれたO もはや、病院
にはこの役割を期待することはできない。とくに高齢化が進展した今
日、生体的機能低下あるいは障害を生じたとき、医学的技術の進歩に
よりその死亡リスクは低下しても、老齢により喪失した機能が回復す
ることは不可能であるO したがって、彼らが天寿を全うするまで、誰
かがこれを「世話する」役割を、中世の病院のように果たさねばなら
ないことは避けがたい事実である。だが、かつて都市が疾病者を含む
多くの要介護者を支え得たのは、それが常にそのコストを負担しえた
(あるいは負担しうる者をもちえた)からであるO また、看・介護に
要する費用も低廉で、また宗教上の理由でこれらに従事する人間も多
く、また医療技術や当時の寿命、衛生環境などの外部的要因から、介
一87-
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
1丁、
護負担は決してそれほど重くはなかったのだO
しかし、時代はその後富裕者層にこのような費用の供出を求め得な
くなっていったO 自発的拠出から租税を原資とする社会保障への転換
が生じるのは、前述のフッゲライのすぐあとの時代のことである。宗
教的・経済社会的状況が社会のもつ緩衝領域を削ぎ取っていき、この
結果、都市の疑似親族組織的領域が失われたのであるO このように、
人間関係のアトム的状況、すなわち互酬網の喪失した状況が普遍化し
た今日、農村ですらも互酬的扶助システムを期待できず、また都市も、
そこへの一方的な富の集中が失われた現在、コスト負担可能性が失わ
れたO
特定の社会単位をベースにした互酬・贈与構造の崩壊は、いきおい、
最後に残った最小かつ絶対的互酬単位である核家族にその負担を強い
るという、現代のもつかつてない状況を生んだのであるOかならずサー
ビスに対して対価を必要とする社会において、要介護ニーズが生じた
場合、「贈与」の形で当座の反対給付を回避するシステムは、もはや
「核家族」の中にしか存在ない。しかし、「核家族」は単層構造で、
サービス給付者の代替がきかず、かつコストを支えるバッファーも存
18)
在しないのであるOドイツ政府が、このようなニーズをかかえながら
その給付を核家族以外に転化できない人びとを社会保険に組織化する
ことで、介護システムを構築しようとした意図は、もちろん他のEU
諸国の介護立法との関係もあるであろうが、このような現代の社会変
化を踏まえてのことであることは明確に指摘されねばなるまいO
注15)たとえばケルンにおける矛盾の噴出について、林毅『西洋中世自治都市と都市法』
敏文堂(1991)、8貢以下、36貢以下参照0
16)たとえば、実在主義を斥けたオッカム主義にその萌芽を見(J・マレンボン
ー88-
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
(加藤雅人訳)『中世後期の哲学」勤葦書房(1989)、210頁以下)、また、基本的に被
造物に「無」が帰せられるとするエツクバルトの思想に、トマス的なものに対極の
相対主義的、悲観論的人間観をみることはできないであろうかO(中山善樹『ェッ
クバルト研究序説』、創文社(1993)、109貢以下)。
17)たとえば、林(1991)によれば、中世後期のドイツ諸都市には5%程度の聖職者が
いたというO したがって、これらに従属する者の数は、もとよりはるかに多いこと
が知られるであろう(2貢)。
18)田村健二「家族の内部過程(III.情緒関係)」(社会学講座3 F家族社会学』東
大出版会(1972)所収)、103頁以下。家族生活は社会化過程の一面を担うのであって、
自己存在の確立にとって重要である。しかし、自己実現に必要な充足も支援もそこ
から得られないとなれば、家族は崩壊せざるを得ないO
III.民営介護保険との関連
3.1.序説
さて、上述した介護に内在する問題点を踏まえて今日のドイツ介護
保険制度をみれば、そこには先行する任意による民営介護保険と、内
国介護リスクを網羅しようとする社会保険とが、不連続の接合を前提
にしていることに気づくO高尾教授が後述するように、そこには(∋介
護リスクは民営保険になじむか?、②介護リスクは社会保険になじむ
か?、という問題が横たわるにしても、現実に制度が前者が任意、後
者が強制として存在する場合には、両者間の不連続が、いかなるもの
か、あるいはどのように調整されるかという問題を生じる。そこで、
以下ではかかる論点について現状を紹介し、若干のコメントを試みる。
3.2.公的介護保険制度
一89-
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
公営疾病保険の付保義務者には、法律により公的介護保険の付保義
務がある(社会法典11章20条1項)。ただし、この中には1993年6月
23日以前にすでに民営介護保険契約を締結している者を含まない(介
護保険法42条)。したがって、要介護リスクを1995年1月1日現在民
営保険に付保している者は、1993年6月23日以前から当該契約が継続
されていることを条件に、申請により公的介護保険の付保義務を免れ
るO これらのうち、民保の保険保護範囲が公的介護保険に比し不十分
なものである場合は、1995年12月31日までに公営保険の保護範囲に一
19)
致させなければならないO
免除申請は、1995年3月31日までに所轄の介護金庫に対して行い、
免除の効果は付保義務が開始したときから生じ、付保義務が復活する
ことは原則としてないO
付保義務者については、以下のとおりである0
3.21.被用者
労働者、職員、有償の職業訓練生は、公的介護保険に加入しなけれ
ばならないO保険料は、被用者と雇用主が半額づつ負担し、月額給与
が基準月額の1/7を超えない従業員には雇用主が保険料の全額を負
担する。最低所得額は毎年改訂されるが、1995年は旧西ドイツ地域に
ついて610マルク/月、東ドイツ地域については500マルク/月であっ
たO保険料額は所得の1%であったが、96年には1.7%に増額される。
疾病給付金の受給者は、同給付金の算定根拠となる給与額の80%が保
険料支払義務のある所得となり、保険料は疾病給付金受給者と疾病金
20)
庫が半額づつ負担する0
3.22.社会保障給付受給者その他
さまざまな社会保障給付を受ける者も、介護保険の被保険者たりう
る。農民およびこれと協働する家族ならびに老齢者は介護保険の対象
-90-
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
となる(農民疾病保険法2条1項1∼4号)。農地委譲年金/離農促
進法14条4項による生産中止年金または補償金の受給者も同様であるO
農業経営者は、その協働する家族の場合も同様に疾病保険料の割増金
の支払が求められるが、割増金額は毎年決定されるO
芸術家、ジャーナリストについても同様に介護保険に含まれるO詳
細は芸術家社会保険法によるO雇用促進事業の対象となる者について
も介護保険の対象となり、保険料の支払義務があるO職業訓練受給者、
施設で就業している障害者についても同様であるO学生、年金受給者
21)
なども介護保険の強制加入者とされるO
注19)Straub(1994),S.60.
20)Straub(1994),S.99
21)Straub(1994),S,100,
3.3.民営介護保険制度
この一方、公営介護保険に先行する民営の介護保険は、この公営保
険の開始によりどのような状況にたたされることになるかを検討しよ
うO
ところで、このドイツの公的介護保険制度についてはよく知られる
ところであるが、施設介護とは異なる在宅介護Ambulante Pflegeに
は、要介護者の程度によって3段階が定められることになったO等級
I(Pflegestufel)は、その程度がもっとも軽度なもので、専門介
護者の介護を1.5時間/日以上必要とし、その費用が月額1,800マル
クから3,600マルク程度を要するものとされる。等級IIは、中程度の
要介護者で、それぞれ3時間/日以上の専門介護と月額3,600から6,0
-91-
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
00マルクの介護費用を要するもので、さらに等級IIIは、5時間/日以
上の専門介護と、最低月額6,000マルク以上の介護費用を要するもの
とされるO したがって、専門介護を1.5時間/日未満要する程度の要
22)
介護者には、公的介護の給付はないことになるO
これに対して、このような専門介護を受けるために、この公的介護
保険給付制度によれば、等級Iで月額750マルク、等級IIで1,800マル
ク、さらに等級IIIでは2,800マルクの専門介護サービスが提供される
ことになるO また、家族介護を選択するものは、それぞれ各段階で400
マルク、800マルク、1,300マルクの現金給付を受ける。また、介護負
担者の都合による一時的な施設介護は制度として認められ、1996年の
7月1日から年間最大4週間の施設介護を受け、そのために2,800マ
ルクまでの費用が制度により負担されるO
以上の計算からも明らかなように、公的介護保険は、介護の経済的
問題を完全に解決する制度ではない。従来民営の介護保険サービスを
購入していたものが、公的介護保険に乗り換えるという性質のもので
はないことは明らかであるO法的には、国民が最低限の介護サービス
を享受しうるように、民営か公営の制度を、前述の給付を最低限度と
して選択し、そしてこの選択は変更できないとされていたが、実質的
には、民営保険は公的介護の上乗せとして予定されているように思わ
れる。けだし、公的介護保険制度の導入にもかかわらず、介護リスク
はあいかわらず相当のレベルで残存すると考えられるからであるO
一方、民営介護保険についても若干言及する必要があろうO たとえ
ばアリアンツの介護年金特約部分は、それぞれ要介護等級1、1I、III
について1,200、2,100、3,000マルクが給付される。また施設介護の
ためには3,000マルクの給付がなされるが解約返戻金のない、このタ
イプの保険料月額は30才で男性で43.5マルク、女性で61.5マルクであ
ー92一
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
るO もっとも保険料額は給付の態様により各社さまざまで、単純な比
較は困難であるO もっとも、給付金額は専門介護と家族介護とで金額
に差がないO また、若干の会社については、介護段階の基準が公的介
護のそれとは異なっている。すなわちそれは、「ポイント・システム」
とよばれ、3ないし4段階に分れているO これは、身体的介護(①洗
顔、髪・髭の手入れ、⑦排泄)、③食事介護、移動介護(④起床・就
寝、①着物の脱・着、⑥室内移動)のうち、それぞれ3ないし6ポイ
ントを要するものに、程度にあわせて介護保険金を給付するものであ
23)
るO
いずれにしても介護を得ようにも、前述のとおり公的介護保険制度
では十分な介護を受けることはできないから、相対的に高額の所得を
有するものには、さらに民営保険を利用するインセンテイヴが確保さ
れているといえようO また、年齢によっては公的介護保険よりも民営
介護保険の方が保険料が安い場合もあるO ただし、この選択を一度行
うと変更が原則的にできないので、免責条件が広い民営保険を利用す
ることが不利に働くことも否定できない。もっとも民営を選択しなが
らその後に失業すると、社会保障制度に移行するため(失業保障)、
介護保険も自動的に公的介護に切換わるなどの例外があることに留意
する必要はあろう。
注22)本沢・前掲注3)、113頁。本沢助教授によれば、等級I及びIIに該当する要介護
者は、それぞれ45万人、等級lIIに該当する要介護者は20万人とするO なお、疾病保
険金庫の医療サービス機関の言によれば、95年1月1日の開始から3カ月後のデー
タは次のとおりであった。介護給付の申立件数はおよそ23万件O そのうち等級I及
びIIが、それぞれ31.4%、同IIIは14.7%であったO したがって、22.5%が給付を拒
絶されたことになるO在宅介護の希望者は80%、施設介護を選択したのは20%であ
一93一
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
る0年間保険料収入については、所得の1%の料率で170億マルクO支払介護費用
は150億マルクに達し、なお支払う必要のあると思われる費用が29億マルク想定さ
れるので、もはや初年度にして手持ちの資金プールに余裕がないことになりそうだ。
FhnkbYieγAlkemelneZeitung(以下FAZと略記),29 Marz.'95.
23)1も壷強調明画昭か脚勒9/95,SS.28-30.
3.4.民営介護保険制度の問題点
3.41.総説
ところで民営介護保険についても、これを営む疾病保険会社は、介
護保険において、かつて疾病保険で失敗したのと同様の道を辿ろうと
しているという見解がある。これは、制度導入について拙速に過ぎた
結果、保険契約法や保険監督法の近時の改正も、民営介護保険につい
てなんの顧慮も払うゆとりがなかったことによるというOバンベルク
大学のウルリヒ・マイヤーの見解として伝えられるところによれば、
24)
同氏は民営介護保険の計算根拠は現実的ではないと批判しているO介
護費用は、妥当な金額の若年者の保険の場合も評価算入されようO L
かしこのようなことは非現実的であるO積立てるべき加齢責任準備金
(Alterungsrtlckstellung)の予定利率は3%に定められているO こ
れを超えて獲得される利息収入は、疾病保険では、超過利潤をそのま
ま充当しない限り中期的にはインフレリスクに効果的に対処する方法
はないO したがって、剰余金のできうるかぎりの加齢準備金導入を行
わないかぎり、医学の進歩により老齢加算される医療費を抑えるすべ
はなく、結局、若年層に過度の負担を強いることにならざるを得ない
はずであるO強制社会保険のように賦課方式による保険料設定が可能
な制度であればともかく、平行して存続することになった(決して社
-94-
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
会保険の上乗せではない)民営保険のケースでは、これを効果的に機
能させるべき法改正が必要であったにもかかわらず、公的制度導入に
のみ留意した結果、このような二本建ての制度そのものの破綻の可能
性が残された0
3.42.両介護保険制度に関連する問題
また、公的介護保険も、将来的な破綻が目にみえているという指摘
が、ブレーメン大学のヴィンフリート・シュメール教授からなされて
いる。すなわち、公的介護保険においても介護給付にみあった拠出が
確保されていないという。社会保険料自体も、過去20年間に30.5%か
ら39.3%に上昇しているという。このうえ、介護保険のために拠出を
なさしめる余裕はなく、また介護リスクに対する拠出についても、
270億マルクのコストを要するとの指摘もあり、最初から問題を含ん
Z5)
でいるO
介護保険制度は、他面では従来都市や郡などの地方公共団体によっ
て負担されてきた社会扶助(生活保護)費用を引下げることも期待さ
れており、これも制度導入の理由のひとつとされてきたが、期待され
た効果はないとする地方議会側の指摘もある。他の保険分野からの給
付が期待できなければ、保険料も一方的に上昇してしまう。現段階で
も、サービスに対する時間給80マルクは支払えないとされるが、バー
デン・ビュルテンベルクでは、交渉された介護時間あたりの時間給は、
すでに家事について35マルク、介護について51マルクに達していると
26)
伝えられる。FAZ紙4月11日版はさらに、社会扶助は将来も介護の
ケースにも支出され(要介護者のみならず、介護担当者が社会扶助を
必要とするケースなど)、96年度にも149億マルク(介護保険がなけれ
ば195億マルク)が予定されると述べているO この社会扶助額は、在
宅介護に10倍マルク、施設介護に127億マルク、新たな施設の建設投
一95-
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
資に12億マルクの計算であるO
このような状況下で、先行した民営介護保険に残ったのは850万人
である。うち700万人は他の民営疾病保険制度にも加入し、120万人は
鉄道・郵便年金制度にも加入しているO ところで、1995年6月30日ま
では、公営疾病保険の被保険者も、民営介護保険保護を選択すること
が可能であった。しかし、560万人にのぼる任意の公営疾病保険加入
者で民営介護保険を選択した者は、2ないし3千人に激減したO これ
は、「介護保険は疾病保険に付従する」というコンセプトによるもの
27)
であるO
民営介護保険の昨年度の保険料収入は、23億マルクが予定されてい
たが、これは支払および加齢責任準備金形成に必要な金額である0 時
間が経過すればさらに、この責任準備金額は増大し、それにともなっ
てすでに今日要介護に必要な資金のための賦課部分は下がるという0
40才以下の被保険者では、民営介護保険においては「古いお荷物」
(足立)と称される高齢者層が民営介護保険からは排除される(民営
保険では給付待ち期間があり、保険料はリスクに応じて設定される)
28)
結果、保険料は低く推移することが期待されるO Lかしこのことは、
公的介護保険にはこのような保険料引下げ要因がなく、かつ人口の高
齢化という効果にともない、今後ともはるかに保険料を押上げる要因
となるであろうことは指摘されなければなるまいO前述のように、そ
れがごく長期の「掛け捨て」を前提とする保険制度であるがゆえに、
民営介護保険の危険性を指摘する見解を紹介したが、それは公的介護
保険を肯定することにはならない。すなわち、ここで述べたように、
さらに不安定な要素を公的介護保険制度は内包しているからであるO
最後に、人為危険についても一言しておくO すでに昨年の7月レベ
ルで、民営保険企業も鉄道・郵便年金制度加入者を含めて約8万件の
一96-
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
給付請求があったというO とくに民営介護給付は人為危険を招致する
ことが(虚偽の申告による保険金の不正受給)相当程度予想される保
険であることから、要介護の確定、あるいは程度の確定が医学的に求
められるO したがってドイツでは、メディコプルーフ社(本社ボン)
のような鑑定会社が設立され、その社医や契約医を介して要介護者を
自宅訪問し、当人および介護補助者を審査することが必要となってく
29)
るO
注24)fAZ16.Mai1995,Nr.16.
25)旦AZ,2.Mai1995 同紙によれば、ドイツ年金保険連合会(VDR)代表フ
ランツ・ルーラント氏のハイデルベルクにおけるシンポジウムでの発言として、
「年金保険は、もはや連帯共同体国家のなすことに抗するすべがない」と語ったと
報じたO また、ドイッチェ・バンクの主席エコノミストであるノルバート・ヴァル
ター氏は、より直裁に目下のところはともかくも、経済的には破産だ、と述べてい
る。すなわち、老齢保障制度はすみやかに積立財政方式に転換すべきだと主張するO
ドイツにおいてさえ、自助を前提とする保険という名を借りて、リスクの異なる対
象を一律賦課式で保障しようとする欲求に抗し難い状況を如実に示しているといえ
よう0
26)凡4Z111Apri11995,
27)lhrsicheningSWiybchqP,Heft14,15Juli'95.
28)足立(1995)、201頁参照。
29)Ve73ichenLngSWir短血脆Heft14,15.Juli'95.
IV.結 語
いわずもがなとはいえ、公的介護保険制度あるいは民営介護保険の
一97一
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
いずれも、ともにきわめて今日的問題であるO これは要介護者が、自
己を介護してくれる家族や共同体をもたず、あるいは幸運にもそのよ
うな家族があったにしても、この家族をささえる親族・地域共同体を
もちえないという現代社会に特有の現実に根ざしていることは論をま
たないO思えば近代とは、自由主義が「∼からの解放」というイデオ
ロギーのもと、実は家族・社会的紐帯から個人を解き放ちつつ、その
紐帯内部に死蔵されていたエネルギーを効率的に利用する資本主義に
力をかしていった時代なのであったO この、あたかも「核エネルギー
利用」に似た構造は、同様にそれが内包するいくつかの「負の遺産」
に苦しむことになった点でも核物質に似ているO現代は、「人間解放
が人間疎外、人間の尊厳の侵害」という大きな廃棄物をもともなった
からであるO そして、いままで無条件で賛美されていた「長寿」とい
う近代的成果すらも、このような「負の遺産」から免れることはでき
なかったのであるO
かつて、都市という価値における「負の遺産」であった貧者・病者
の問題が、病院の誕生をもたらしたことはすでに述べたO たしかに、
個人の自由の観点からみれば、中世は決して十分な時代とはいえなかっ
たであろうO各個人が単独では享受しえないという意味で、共同体や
個人には著しい富の偏在があったのではあるが、しかしそれは、「負
の遺産」を都市レベルで解消しようとするときには、これらの富は莫
大な資源として効果的に機能しえたのである。また、当時そのコスト
は低かったし、拠出のインセンテイヴ(社会における宗教の役割とい
う点で)は高かった。
現在、平均すれば、個人は当時に比べものにならない資産をもった。
これは、共同体や特定の個人に偏在した富の再分配と、それにともな
う利用の効率化の効果である。しかし、この結果もたらされるコスト
ー98-
ドイツ公的介護保険をめぐる社会史的考察
も、ある一面で対応しきれないほどに巨大化したことは否めないO た
とえば、介護という一点に論点を絞っても、「長寿社会」の到来によっ
て要介護者数の割合は圧倒的に現代が高く、また単位コストも莫大と
なったO しかし、共同体にはこれに費やされる富も、そのために拠出
しようとするインセンテイヴもすでに存在しないO しかも、介護リス
クとは、「保険制度」のように本質的にリスクを個人によって解消す
るということが前提となるものなのではない。筆者がバーバルに素述
したとおり、バッファーとして共同体や特定の個人に「富」が留保さ
れていない社会においては、このような問題は、いかなる形式にしろ
保険では解決できないかのように思われる(介護に限ったわけではな
30)
いがヨーロッパにおける「家族」の再建論をみよ)。しかしこの厳密
な解析は、高尾厚教授に委ねたいO
注30)ユーグ・フルシュロン「現代フランス家族法における自由、平等、博愛」ジュリ
スト1032号参照O ここでは、すでに解体したアンシャン・レジーム期の家族にかわ
る新たな家族の構築を法的に模索する。また、連生保険(保険法典L.132-1条2
文)が配偶者の特定をはずしたのもかかる観点との関係を見れば興味深いものがあ
る。
付記
(この共同研究は簡易保険文化財団より平成7年度助成金を受けた成
果であるO ここに記して謝意を表するO)
一99-
Fly UP