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π電子系を使って見る分子のかたち - 東京大学 大学院理学系研究科

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π電子系を使って見る分子のかたち - 東京大学 大学院理学系研究科
π電子系を使って見る分子のかたち
東北大学大学院理学研究科化学専攻
磯部
寛之
1.プロローグ
ロバート・フックが初めて「炭」を顕微鏡観
察してから300年余り(Micrographia, 1665),
似たような「黒いスス」が,つくば市の産業技
術総合研究所にある透過型電子顕微鏡のなかに
置かれていた.観察野にある細い筒のなかで小
さな「もの」がうごめくのを,越野雅至博士が
目にしたのは2006年1月26日午後7時6
分を過ぎたころだった.「透過型電子顕微鏡に
より,単一有機分子の動きが観察できる」とい
う新しい常識が姿を顕した瞬間である.
本稿では,これから急速に進展することが期
待される「電子顕微鏡による有機分子の動的挙
動観察」についてトピックスを紹介し,ささや
かながら,これから花ひらこうとしている一分
野のプロローグとしたい.
2.ナノカーボンのなかの分子・原子
飯島澄男博士によりナノカーボンのなかに閉
じ込められたフラーレン分子の電子顕微鏡像が
初めて報告されたのは,実はフラーレンの発見
前 , 1 9 8 0 年 の こ と だ っ た ( Iijima, S. J.
Microscopy 1980, 119, 99-111).その後,199
8年に D. E. Luzzi が,今ではピーポッドとして
知られるカーボンナノチューブに閉じ込められ
たフラーレン分子の電子顕微鏡像を報告し
( Smith, B. W.; Monthioux, M.; Luzzi, D. E.
Nature 1998, 396, 323–324)
,さらに,2000年
には,末永和知博士らによりカーボンナノチュ
ーブのなかのフラーレン分子に閉じ込められた
単一原子の観察およびその元素分析が報告され
た(Suenaga, K.; Tencé, M.; Mory, C.; Colliex, C.;
Kato, H.; Okazaki, T.; Shinohara, H.; Hirahara, K.;
Bandow, S.; Iijima, S. Science 2000,290,
2280-2282).剛直な骨格をもつカーボンナノチ
ューブを「観察試料管」とすることで,内部の
分子・原子を直接観察でき,その過程・結果に
より電子顕微鏡観察法が大きく発展することを
示したものである.
有機化学を専門とする我々が,電子顕微鏡に
関わり始めたのは飯島澄男教授・湯田坂雅子博
士・末永和知博士らとの共同研究からだった.
1998年に見つかったカーボンナノホーンを
発見間もない時点で試料提供いただき,その有
機化学修飾法の開発に着手したものである.電
子顕微鏡によりカーボンナノホーン上に導入し
た「はず」の有機官能基の観察を試みたが,そ
の構造決定には至らなかった.この共同研究は,
無機物の観察へと焦点を変え,カーボンナノホ
ーンに金属イオンを捕捉・内包させる方法の開
発につながったものの(図1,Hashimoto, A.;
Yorimitsu, H.; Ajima, K.; Suenaga, K.; Isobe, H.;
Miyawaki, J.; Yudasaka, M.; Iijima, S.; Nakamura,
E. Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A. 2004, 101,
図1.カーボンナノチューブの酸化開口部に
捕捉されたガドリニウム原子
8527-8530),有機分子・有機官能基を見るとい
うことは「難しい」ということを強く印象づけ
られた研究だった.
Me
N
3.「有機分子は壊れてしまう」のか?
1
電子顕微鏡が開発されてから70年を経たこ
の時点でも,観察された「分子」の例は非常に
限られており,フラーレンや電子照射に強い特
殊な分子のみが観察できると理解されていた.
この時点での「常識」では,2004年の Egerton
らの総説にあるように,普通の有機分子は電子
顕微鏡観察により「化学結合が切れ,分子はそ
の形と位置を変えてしまう」と考えられていた
のである(Egerton, R. F.; Li, P.; Malac, M. Micron
2004, 35, 399-409)
.
中村栄一教授が科学技術振興機構の ERATO
プロジェクトを開始したのは,こうした状況の
もとだった.我々大学のグループと電子顕微鏡
のグループが目指したのは有機分子の電子顕微
鏡観察である.前述のように有機分子の観察は
非常に難しいことだとは理解していたが,これ
までに見えているフラーレン分子がその他の分
子に比べ格段に安定な理由も自明ではないとい
うことにわずかな希望を見いだしていた.
単分子観察を目指して,我々がとった戦略は
次の2つである:
(1)カーボンナノチューブを
観察試料管にして分子を内部に固定し,動きを
抑制する,(2)電子顕微鏡で見えていることを
実証するための目印となる構造を持たせる.こ
の研究を進めているうちに,末永博士らが別の
グループとの共同研究からフラーレン上の有機
官能基を観察した(Liu, Z.; Koshino, M.; Suenaga,
K.; Mrzel, A.; Kataura, H.; Iijima, S. Phys. Rev. Lett.
2006, 96, 088304)
.もし「普通の」有機分子が見
図2.脂質様カルボラン分子 5 の動きの可視
化.左の構造から右の構造までは 2.1 秒.
R1
2: R1 = C12H25, R2 = H
3: R1 = C12H25, R2 = C12H25
4: R1 = C22H45, R2 = H
5: R1 = C22H45, R2 = C22H45
R2
BH
C
Me
N
H
N
O
6
7
H
H
H
N
H
N
O
O
8
9
O
CNT
O
H
N
H
N
N
H
O
HN
H
10
NH
H
S
O
(CH2)4CH=CH(CH2)3CH3
(CH2)11CH3
H
H
11 (trans isomer)
図3.これまでに単分子観察された有機分子.
12
え得るものならば,それを可視化する能力をも
つ第一級の電子顕微鏡グループとの共同研究で
あることを,再確認させる成果だった.そのな
かで,我々は「どこにもある,ありふれた有機
分子」のモデルとして脂質に似た構造をもつア
ルキルカルボラン分子(2-5)を設計していた.
この設計は,別のプロジェクトのために
「Biomembranes (R. B. Gennis 著)」を眺めていた
ときにふと思いついたものではあるが,ホウ素
クラスターを目印とし,さらに複数の対照分子
をつくることで有機分子が観察できることを確
実に証明しようという狙いが込められている.
いくつかの解説にまとめているので詳細は割愛
するが,このカルボラン分子の観察により,狙
い通り有機分子の単分子観察が可能であること
を実証した.思いがけない発見は,冒頭にある
ように,その分子が動く姿が見えたことだった
( 図 2 ; Koshino, M.; Tanaka, T.; Solin, N.;
Suenaga, K.; Isobe, H.; Nakamura, E. Science, 2007,
316, 853)
.2007年には,さらに末永博士ら
のレチナール様分子の異性化の可視化(図3,
分子 6;Liu, Z.; Yanagi, K.; Suenaga, K.; Kataura,
H.; Iijima, S. Nature Nanotech. 2007, 2, 422-425)や,
我々のアミド分子の立体配座変化の可視化(図
3,分子 7-9;Solin, N.; Koshino, M.; Tanaka, T.;
Takenaga, S.; Kataura, H.; Isobe, H.; Nakamura, E.
Chem. Lett. 2007, 36, 1208-1209)が続き,
「カー
ボンナノチューブに閉じ込めた単一有機分子は
電子顕微鏡で動きまで見える」ということが確
実となった.
4.ナノチューブの中と外
上述の2007年の常識は,今さらに「孤立
化した単一有機分子は電子顕微鏡で動きまで見
える」という常識に変貌しようとしている.前
述のカーボンナノホーンの先に,アミド結合を
介して連結したビオチン分子が可視化されたの
である(図3,分子 10 と図4;Nakamura, E.;
Koshino, M.; Tanaka, T.; Niimi, Y.; Harano, K.;
Nakamura, Y.; Isobe, H. J. Am. Chem. Soc. 2008,
130, 7808-7809).この観察では,ナノチューブ
図4.カーボンナノホーン上のビオチン
の外側にあるビオチンとその連結部が,動く様
が見て取れた.カーボンナノチューブのなかに
閉じ込めることなく対象分子の動的観察が可能
であることを示すものである.この観察で特筆
すべきもう一つの点は,画像の濃淡と分子模
型・シュミレーションとの対比により,精密な
構造解析がなされたことであり,「分子は電子
顕微鏡で見える」ことが,
「複雑な有機分子の構
造解析」にまで発展し得ることを示している.
2004年には到底見えるとは思えなかったも
のが可視化されたひとつの鍵は,有機化学者と
電子顕微鏡専門家の緊密な協力関係にあるのは
間違いない.
カーボンナノチューブの外にある分子の動き
も秒単位で観察できるほどに遅いとなると,ナ
ノカーボンはなんのためにあるのだろうか.現
時点での我々の理解は,観察対象分子を真空中
に「差し出す」試料管であるというものである.
有機分子一分子が電子を散乱することにより顕
図5.カーボン基盤上のカーボンナノホーン
(黒い粒).基盤の外にあるナノホーンが真空
中に「差し出した」分子を顕微鏡観察する.
写真は越野博士ご提供.1辺 2.7 µm.
微鏡像が得られるが,一原子,一分子により散
乱される電子はわずかなものであり,その画像
の濃淡が,大変淡いものであることは容易に想
像されよう.電子顕微鏡の試料保持には炭素基
盤が使われるが,この分厚い基盤の上では観察
分子の濃淡は見分けることも難しいほど幽かな
ものになってしまう.そこでカーボンナノチュ
ーブやカーボンナノホーンを使って,分子を炭
素基盤のない真空中に差し出し,対象分子の電
子線散乱の割合が大きい環境で観察する(図5).
この図から,観察者の根気・経験・判断が観察
の成否を決める大きな要素となることもおわか
りいただけよう.
カーボンナノチューブが観察対象分子の「試
料管」だとすると有機官能基をもつカーボンナ
ノホーンは「ピンセット」のようなものだろう
か.最近では,新しいπ電子系ナノカーボン「グ
ラフェン」を試料台にした観察などが報告され,
分子の「プレパラート」までも登場している
(Meyer, J. C.; Girit, C. O.; Crommie, M. F.; Zettl,
A. Nature 2008, 454, 319-322)
.
5.これから
ごく最近の観察例では,炭化水素鎖がカーボ
ンナノチューブの穴から抜け出る様子が映し出
され(Koshino, M.; Solin, N.; Tanaka, T.; Isobe, H.;
Nakamura, E. Nature Nanotech. 2008, 3, 595-597)
,
まっすぐに伸びた立体配座で飛び出してくる様
が観察された(図3,分子 11, 12;図6).我々
の持っている「統計的解析から理解してきた分
子像」からは予想し難い分子の動きではないだ
[付記]本稿では,筆者が2007年度初頭まで所属していた
中村研究室で参画したカーボンナノチューブ・電子顕微鏡に関
わる研究と,それをとりまく代表的な研究を紹介しました.
「融合領域の創成」の一例としてお読みいただければと思いま
す.独立した研究室を構え新しい挑戦を始めているこれからは,
百花繚乱の成果が期待されるこの分野を一観客として「先端ウ
ォッチング」していきたいと思います.
「NMR と MS それから TEM
で調べたの?」近い将来,研究室セミナーで,こんな質問を学
図6.ナノチューブから飛び出る炭化水素鎖
ろうか.この観察では,さらに興味深いことに,
「室温に置かれた観察野中」と「液体ヘリウム
温度に置かれた観察野中」で,分子がほぼ同じ
ような速さで動いていた.有機分子の構造解析
の一手法としての発展はもちろんのこと,真空
中で電子線に曝された有機分子がどのような環
境に置かれ,そこでなにが起きているのかとい
う根本的な疑問も興味深い研究課題である.
「有機分子は電子顕微鏡により観察できる」
ことが「常識」となった今,これからの興味は,
見える「もの」から理解される「こと」へと移
り変わろうとしている.将来は,一分子構造解
析により明かされる分子像が,既存の統計的分
子像と相まって新しい「分子像」が形成される
のかもしれない.
生に投げかける日がくるのでしょうか.最後に,お名前を挙げ
させていただいた方をはじめとする共同研究者の皆様にエキ
サイティングな研究を一緒に楽しませていただいたことを感
謝申し上げます.
著者の紹介
磯部
寛之(いそべ
ひろゆき)
東北大学大学院理学研究科教授
1994年東京工業大
学理学部化学科卒業,1
996年東京工業大学
大学院理工学研究科修
士課程修了,1996年
6 8月プリンストン
大学短期滞在学生,19
98年東京大学大学院
理学系研究科博士課程
中退,1998年東京大学大学院理学系研究科
助手,1999年東京大学博士(理学)取得,
2004年同研究科助教授,2003 200
7年 JST さきがけ研究者(ナノと物性領域)兼
任,2007年5月東北大学大学院理学研究科
化学専攻有機化学第二研究室教授,現在に至る.
現在の研究分野:有機化学,ナノ科学.
http://www.orgchem2.chem.tohoku.ac.jp
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