...

第3章 トルコの都市行政と交通問題:イスタンブルの地下鉄建設の事例

by user

on
Category: Documents
46

views

Report

Comments

Transcript

第3章 トルコの都市行政と交通問題:イスタンブルの地下鉄建設の事例
相沢伸広『首都圏政治の比較研究』調査研究報告書 アジア経済研究所 2013 年度
第3章
トルコの都市行政と交通問題:イスタンブルの地下鉄建設の事例
村上
薫
要約
トルコは1950年代から急速な国内人口移動と都市化を経験してきた。不法住
宅(ゲジェコンドゥ)とともに都市問題を形成してきたのが公共交通インフラ
の不足であった。本稿では不法住宅問題の陰にかくれて社会科学研究の対象と
なってこなかった都市政治と交通問題の関係について考察するための素材を
提供することを狙いとしている。そのために、最大都市であるイスタンブルを
事例として、都市行政と交通インフラの概況について述べ、次いで昨年10月に
開通したボスポラス海峡横断鉄道(マルマライ)と地下鉄の建設プロセスを検
討する。マルマライと地下鉄はともに、イスタンブル市が掲げる軌道システム
への移行を実現するだけでなく、国家威信をかけた政治プロジェクトでもあ
る。
はじめに
トルコは都市における工業化と農村への資本主義経済の浸透を背景として、195
0年代から国内人口移動が開始し、急速な都市化を経験してきた。1990年代に鈍化
するまで、1960年代以降、年平均4.3%というスピードで人口が増加した(Gerçek
et al. 2004)。都市行政の第一の課題は移動者の住宅問題であった。ゲジェコンド
ゥ(gecekondu)と呼ばれる都市周辺部の公有地などを占拠して建てられた建築法
の基準を満たさない低質の不法住宅の規制は、イスタンブルをはじめとする大都市
の行政の最大の課題となってきた。1980年代には経済自由化と規制緩和により、中
東の金融センターでありグローバルな資本主義の結節点となったイスタンブルや
首都のアンカラでは、ゲジェコンドゥ地域の再開発が始まった。郊外への富裕層向
け住宅地の拡大、高速道路、高級ホテルや高層オフィスビルの建築により、これら
の都市の景観は大きく変化した。近年では、地方分権化と規制緩和がさらに徹底さ
れたことにより、自治体が都市住宅公団と民間企業と組み、大規模な再開発を進め
37
相沢伸広『首都圏政治の比較研究』調査研究報告書 アジア経済研究所 2013 年度
る事例も増えている 1。
ゲジェコンドゥと並んで都市問題を形成してきたのが、公共交通インフラの不足
であった。経済発展と人口増を背景に、自家用車の利用が増えると、渋滞問題も深
刻化した 2。1970年代には交通問題が都市行政の課題として認識されるようになる。
第一次五カ年開発計画(1963-67年)は都市化にほとんど触れず、第二次計画(1
968-72年)では都市化は産業化の推進力としてむしろ肯定的に評価されている。だ
が、第三次計画(1973-77年)以降は、都市化が統制を必要とする問題として認識
されるようになる。第三次計画では初めて都市化の項目がたてられ、大都市におけ
る都市計画の不備が指摘され、住宅や交通などのインフラ整備が課題としてあげら
れた(DPT 1973, 851-852)。第四次計画(1978-83年)は、上下水道と環境汚染と
並んで、市内交通インフラの不足と混雑問題をとりあげ、石油と民間車両に頼る国
の交通政策が、都市でも反映されたと指摘している(DPT 1979, 78)。1980年代
までに人口移動と都市人口増加のスピードはやや鈍化する。だが第七次計画(199
6-2000年)は再び「大都市における秩序」の項をたて、人口流入による無秩序な都
市化への対応のひとつとして、とりわけイスタンブルについて、交通インフラと公
共交通サービスの不足の解消の必要性を指摘した(DPT1995)。
こうした行政の関心に相反して、都市問題に関する既存の社会科学系の研究はゲ
ジェコンドゥと都市再開発を取り上げるものが多数を占め、交通インフラの問題に
政治学や社会学の視点から迫る研究は管見ではほとんどない 3。以上を踏まえ、本
稿では昨年10月に開通したイスタンブルのボスポラス海峡横断鉄道(マルマライ)
および地下鉄建設の事例を検討することにより、交通問題への取り組みを通してト
ルコの都市政治を考察するための素材を提供することにしたい。マルマライと地下
鉄の建設は、1980年代半ばに、イスタンブル市の交通インフラの二大プロジェクト
として構想された。以下では、都市行政と交通インフラの概況について述べ、次い
でマルマライと地下鉄の建設プロセスを概観する。
I
都市行政
1.行政区画と人事
1
ゲジェコンドゥ地域の再開発については、さしあたり村上(2011)を参照。
たとえばイスタンブルでは自家用車の所有率は、1980年から2000年のあいだに8倍に伸び
た(Gerçek et al. 2004)。イスタンブルの渋滞ぶりを示す数字として、Castrol 社およ
びTomtom 社による世界50 都市を対象にした交通調査の結果で、イスタンブルは一車両あ
たりの年間ストップ・アンド・ゴーの回数で最多数を記録した(http://corporate.tomto
m.com/releasedetail.cfm?ReleaseID=794153 最終閲覧日2013年3月12日)。
3
例外としてたとえば、オリンピック誘致活動と交通インフラの発展の関係に着目したAb
ebe et al (2014)などがある。
2
38
相沢伸広『首都圏政治の比較研究』調査研究報告書 アジア経済研究所 2013 年度
トルコの地方行政制度は煩雑だが、本稿で必要となる部分を中心にかいつまんで
説明しておこう 4。トルコの地方行政は、中央行政の下位単位としての地方機関と、
地方自治行政の単位としての地方自治体とが併置されている。中央行政の地方機関
は、県(il)、市(ilçe)、村(köy)に、地方自治体は、県特別行政体(il özel id
aresi)、自治体(belediye)、村(köy)に大別される。県と市には中央から任命さ
れた行政官(県行政官vali、市行政官kaymakam)が置かれ、県行政府(valilik)と
市行政府(kaymakamlik)をそれぞれ統括する。市と村では公選の首長、および公
選の議会も置かれる。県では県行政官が県特別行政体の首長を兼任するが(したが
って首長選挙は行われない)、公選の議会が置かれる 5。県行政官は県議会と、市
行政官は市長および市議会と行政を分担する。
イスタンブルやアンカラを含む大都市には、日本の政令指定都市にあたる大都市
自治体(büyükşehir belediyesi)が設置されている。イスタンブルやアンカラでは
人口流入により、複数の行政区域にまたがって都市化が進行したが、こうした状況
に対応するため、1984年に法律3030号にもとづいて制定された制度が、大都市自治
体である。当初はイスタンブル、アンカラ、イズミルの3都市に設置されたが、現
在は30の都市に設置されている。大都市自治体は「市」を単位とする区自治体(市
自治体と同じilçe belediyesi であるが、混乱を避けるためこう呼ぶこととする)と、
「市」に含まれないが都市機能の一部をなしている周辺地域に設置された下位自治
体(alt kademe belediyesi)から構成される(澤江2012)。たとえばイスタンブル
大都市自治体の場合、41の区自治体 6と下位自治体から構成されている。
大都市自治体は大都市自治体法(法律5216号)により、都市計画の作成や住宅供
給、上下水道の整備などともに、交通マスタープランの作成や公共交通サービスの
供給を行うと定められている。区自治体は、大都市自治体が担うと定められた業務
以外を担当するとされ、ゴミ処理、スポーツ施設など公共施設の整備や高齢者・障
害者などへの社会サービス、職業訓練、歴史的建造物の維持補修、埋葬などを行う
(Ministry of Interior General Directorate of Local Authorities, n.d.)。
大都市自治体には公選の首長(市長)が置かれるが、公選の議会は置かれず、各
区の区長と区議会から選出(区議会議員の五分の一)された議員、および市長から
構成される大都市自治体議会が置かれる。大都市自治体議会と市長の意見が対立し
た場合は、議会の決定が優先される。ただし市長は議会の決定の無効を求めて行政
4
地方行政制度の詳細については澤江( 2012)を参照。
県の地方自治体としての性格は公選の県議会に由来する(澤江2012)。
6
当初は13であったが、分割・新設により数が増えた。区自治体の境界と数は区長・区議
会議員の選出にかかわるため、分割・新設は都市化と人口増への対応という行政的理由に
加えて政治的理由によっても行われてきた。
5
39
相沢伸広『首都圏政治の比較研究』調査研究報告書 アジア経済研究所 2013 年度
裁判所に提訴することができる。
なお、土地開発にかんする区議会の議決はすべて都市マスタープランとの整合性
を審議するため大都市自治体議会にかけられる。大都市自治議会は必要に応じて修
正を加え、議決する(Ministry of Interior General Directorate of Local Authorities,
n.d.)。
2.予算
他のOECD諸国と比較した場合、トルコの地方財政の規模は小さい。全自治体の
歳入はGDPの4.76%にとどまる(OECD2008,207)。背景のひとつは地方税の規模が
小さいことにある。自治体には地方税の税率や税源の決定権はない。もっとも重要
な税は資産税である。資産税の税率は、大都市自治体は0.2%、それ以外の自治体
は0.1%と定められている(OECD2008,207-209)。地方財政のうち重要な部分を占
めるのが地方交付税である。大都市自治体の場合、2006年に歳入に占める地方交付
税の割合は、イスタンブル市(本来は大都市自治体と呼ぶべきだが、煩雑さを避け
るため以下では市と呼ぶことにする)が47.4%、アンカラ市が55.8%、自治体平均
は43.6%であった。また税収に占める地方交付税の割合は、イスタンブル市が72.7%
、アンカラ市が74.9%、自治体平均は72.8%であった。イスタンブル市には地方交
付税全体の四分の一(25.7%)が配分された(アンカラ市は 10.4%)(表1および
表2参照)。
大都市自治体の予算支出の特徴としては、資本投資(capital investment)の比重
の大きさを指摘できる。とくにイスタンブル市は、自治体平均の35.4%を上回る48.
5%を資本投資にあてている(表3)。資本投資には交通インフラへの投資が含ま
れる。イスタンブル市の場合、中央政府がボスポラス第三大橋、第三空港、マルマ
ライ、ハイダルパシャ港整備などのプロジェクトに投資するほか(2013年6月19日
付Dünya紙)、市も次に述べるように予算の相当額を交通インフラに投資している。
イスタンブル市の2013年の全体予算は、327億リラであった。その内訳を見ると、
市が80億リラで最大であり、これに市の部局であるイスタンブル水道局(İSKİ)の
35億リラとイスタンブル電気軌道(İstanbul Elektrik Tramvay ve Tünel, İETT)の2
0億リラが次ぐ。市の関連企業25社の予算は95億リラである。以上の合計は229億リ
ラとなり、これに41の区の予算総額86億リラと、県特別行政体の13億リラをあわせ
て327億リラになる(2013年6月19日付Dünya紙)。
イスタンブル市の予算80億リラのうち50億リラ(63%)、İSKİ予算のうち16億リ
ラとIETT予算のうち7億9700万リラ、関連企業予算のうち5億9100万リラは、それ
ぞれ投資に振り向けられる。市の予算の最大の投資先は、例年交通インフラであり、
2013年も50億リラの62%にあたる31億リラがあてられることとなった。これに環境
40
相沢伸広『首都圏政治の比較研究』調査研究報告書 アジア経済研究所 2013 年度
関連の投資の9億5900万リラ(19%)が続く。市は2012年までの8年で合計256億リ
ラを交通インフラに投資し、そのやく半分の122億800万リラが軌道システムへの投
資であった(2013年6月19日付Dünya紙)。
II
イスタンブルの地下鉄とマルマライ建設
1.イスタンブルの交通インフラ
イスタンブル市は、2009年に全国人口の18%に相当する人口1300万人を擁し(第
二位の首都アンカラは440万人)、GDP生産の22%を占める経済の中心地であり、
ボスポラス海峡をはさんでアジア側とヨーロッパ側を結ぶ交通の要衝でもある。
イスタンブル市の公共交通機関はバスや乗り合いタクシーが中心であり、軌道シ
ステムや海上交通の利用は限定的である(表4)。乗合タクシー(トルコ語ではド
ルムシュdolmuş)は、市内に縦横に路線が張り巡らされ、路線上なら好きな場所で
乗り降りできるというもので、バスと並ぶイスタンブル市民の足である。
人口増により公共交通機関は慢性的に不足してきたが、これを補うため、経済発
展を背景として、自家用車の利用が増加してきた。自家用車の所有率は、道路キャ
パシティの増加を超えて膨らんでおり、1980年から2005年に人口増加率が142%に
たいし、車両増加率は実に647%であった(OECD2008, 100)。
交通混雑の要因としては、自家用車の利用増加以外に、ボスポラス海峡によって
市がヨーロッパ側とアジア側に分断され、海峡横断が交通のボトルネックになると
いうこの都市に特有の地形的要因もある。海峡を横断する交通手段は長らく海上交
通に限られてきたが、1973年にボスポラス第一大橋、1988年にはその北側に第二大
橋が建設された。二本の橋はともに高速道に接続された。第二大橋が接続するヨー
ロッパ自動車道(Trans European Motorway: TEM)は、都市間の輸送を目的とし
ていたが、実際には日常的な市内交通に利用され、とくに朝夕の通勤通学時にはボ
スポラス海峡の横断に利用されている(Alpkokin and Hayashi 2003)。ボスポラス
第一、第二大橋の通行量は一日当たり38万台であり、これは27万台のキャパシティ
を大きく超えている(OECD2008)。ヨーロッパ側とアジア側の往来が多い背景の
ひとつは、ヨーロッパ側は人口の65%が居住するのにたいし、雇用の74%が集中す
るという不均衡にある。海峡横断交通需要の高さは、ラッシュ時の橋の混雑をもた
らすばかりでなく、市内交通全体に影響する(Alpkokin and Hayashi 2003)。
こうした状況にたいして、第七次五カ年開発計画(1996-2000年)はイスタンブ
ルの交通インフラと公共交通サービスの不足の解消の必要性を指摘し、ボスポラス
海峡横断のための第三の橋の建設の必要性を述べている。計画は、理由のひとつと
して、ボスポラス海峡を通過する船舶量が年間4万近くにのぼり、その半数が外国
船籍であること、1952年~91年に444件の事故が起きたこと、そのうち35%は直近4
41
相沢伸広『首都圏政治の比較研究』調査研究報告書 アジア経済研究所 2013 年度
年間に起きたことをあげ、海峡の安全に問題があるとしている(DPT1995)。
ボスポラス第三大橋の建設とともに、交通混雑を緩和する手段として注目された
のが、地下鉄などの大量輸送を可能とする軌道システムの拡充である。イスタンブ
ル市は1995年にコンソーシアムを招集し、ヨーロッパ側の公共交通システムを改善
するための軌道システムプロジェクトを準備するための予備調査を委託した(Ger
çek et al. 2004)。また、交通マスタープランの作成にも着手した。すでに1985年、
1987年にイスタンブル交通マスタープラン(Istanbul Transportation Master Plan)
が作成されたが、1997年にはイスタンブル工科大学によってより包括的なマスター
プランが作成された 7。市はその後2005年にイスタンブル首都圏計画都市デザイン
センター(Istanbul Metropolitan Planning and Urban Design Center, IMP)を設置
し、改めて交通需要の調査を行うとともに、調査結果を踏まえて2007年に新たなイ
スタンブル都市交通マスタープランを作成した。マスタープラン作成にあたっては、
日本のJICAが協力した。2007年のマスタープランには、マルマライをはじめとす
る軌道システムへの大規模投資のほか、自動車用海底トンネル計画、第三ボスポラ
ス大橋計画、イスタンブル第三空港計画、黒海―マルマラ海横断運河計画などが盛
り込まれている。
2.地下鉄
イスタンブル地下鉄(Istanbul Metro)は、2000年に最初の路線となるTaksim-4.
Levent線が開業した。地下鉄は現在5路線、87キロメートルが営業中である(図1)。20
19年までに地下鉄は18路線、280キロメートルに延伸を予定している。これにより、マルマ
ライ、トラムやライトレールなどをあわせた市内の軌道システムは現在の141キロメートル
から2019年には420キロメートルに延びる(http://www.istanbulunmetrosu.com/brosur.h
tml最終閲覧日2014年3月12日)。 地下鉄はイスタンブル市が建設、所有し、市が出資
するイスタンブル交通公社 (İstanbul Ulaşım A.Ş.)が保全と運営を担っている。
地下鉄建設はいくつかの困難を伴ってきた。第一に、地下鉄に限らずイスタンブルの
交通インフラ整備の課題として、ステークホルダー間の調整問題がある。イスタン
ブルの交通インフラ建設には、中央政府とイスタンブル市の各部局および関連企業、
41の区など、全部で17の関連機関がかかわっている。これらの機関の利害関心を調
整することは容易ではない。たとえば鉄道の計画策定、建設、部品供給については、
7
イスタンブルは1990年代初頭からオリンピックの招致に乗り出した。(2020年夏季オリン
ピックの最終候補まで残り、東京に敗れたことは記憶に新しい。)1997年の包括的な都市
交通マスタープランの策定の背景には、 1993年に2000年夏期オリンピック招致に失敗
した最大の要因が都市インフラの不足にあったことへの反省があるという指摘も
ある (Abebe et al.2014)。
42
相沢伸広『首都圏政治の比較研究』調査研究報告書 アジア経済研究所 2013 年度
国土交通省鉄道港湾空港局およびイスタンブル交通公社が関係する。調整役は、イ
スタンブル市が設置した交通調整センター(Transportation Co-ordination Centre: U
KOME)8とイスタンブル首都圏計画都市デザインセンター(IMP)が担っている。
また イスタンブルは古くから文明が栄えた土地であるため、地下を掘ると遺跡が発見さ
れることが珍しくない。そのため、考古学的な価値の高い遺跡が発見されて、建設工事が
滞ることがしばしばある。たとえば、1998年に入札が行われ2004年に開通が予定されてい
たSishane-Yenikapi線も掘削中に遺跡が見つかったために完成が10年遅れ、ようやく2014
年2月に開通にこぎつけた(2013年6月19日付Dünya紙)。
さらに、地下鉄建設には大規模な投資も必要となる。たとえばライトレールのT
opkapi-Habibler線15.3キロメートルの建設費は2億1700万リラであったが、KadikoyKartal線21.7キロメートルの建設費は14億6600万リラ、上記の地下鉄のSishane-Yeni
kapi線は遺跡が見つかり工期が延びたこともあり、3.5キロメートルの建設に3億リ
ラを費やした。(http://www.istanbulunmetrosu.com/brosur.html最終閲覧日2014年3月
12日) 9。
3.マルマライ
マルマライ計画(Marmaray projesi)とは、ボスポラス海峡を横断する海底鉄道
トンネルにより、イスタンブルのヨーロッパ側とアジア側を接続する計画の名称で
あり、マルマライ鉄道線は、ヨーロッパ側のハルカルとアジア側のゲブゼの間の郊
外路線と、ボスポラス海峡横断海底トンネルからなる。全長76キロメートルのうち、
地下部分は13.6キロメートルで、そのうち1.4キロメートルが海底トンネルである。
海底トンネルは、11個の函を組み立てた沈埋トンネルである。将来的にはアンカラ
-イスタンブル高速鉄道(2014年完成予定。最高時速250キロでアンカラ-イスタン
ブル間を3時間で結ぶ)に接続される予定である。
海峡を横断する軌道システムは、すでにオスマン帝国時代から構想があったが技
術的な困難のため実現してこなかった。だが、交通需要の高まりを背景に1980年代
初頭から本格的な調査が開始し、85年にヨーロッパ側の南北を地下鉄で結び、ヨー
ロッパ側とアジア側は海底鉄道トンネルによりマルマライで接続するという今日
8
UKOMEの主なメンバーは、以下のとおりである(OECD 2008)。イスタンブル市建設局お
よび交通局、国土交通省高速道路局、内務省交通警察局、防衛省ジャンダルマ局、イスタ
ンブル電気軌道(İETT)、イスタンブル海上バス(İDO)、イスタンブル交通公社、トルコ
国有鉄道(TCDD)。またミニバス、乗り合いタクシー(ドルムシュ)、タクシーなどの事
業者団体もオブザーバーとして参加する(OECD2008)。
9
2007年には軌道システムに準じ、既存の道路を利用すれば低投資ですむメトロバス(met
robüs)が導入された。メトロバスとはBRT(Bus Rapid Transit)、すなわちバス専用道
を設けたバスである。ボスポラス大橋を渡り、アジア側とヨーロッパ側を結んでいる。メ
トロバスは市の部局であるイスタンブル電気軌道(İETT)が運営している。
43
相沢伸広『首都圏政治の比較研究』調査研究報告書 アジア経済研究所 2013 年度
のイスタンブルの交通システムのもとになる構想が立てられた。
1998年に調査が終了し最終的に建設が決定すると、1999年にトルコ政府と日本の
国際協力銀行(JBIC)のあいだで借款の協定が結ばれた(http://www.marmaray.co
m最終閲覧日2014年3月11日)。コンサルタントは2000年に入札により日本とトル
コの企業グループのAvrasyaconsultに決定した。資金調達は財務省が担当し、JBIC
のほか、欧州投資銀行(EIB)、および欧州議会開発銀行から総額93億リラの融資
を受けた(2013年10月29日付Daily News紙)。マルマライはトルコ国民の利益に資
するものであり、そのため最終的な責任はトルコ国会が負うとされ、したがって運
賃もトルコ国会が決定する。事業を推進し国会への報告の責任を負うのは国土交通
省(http://www.marmaray.com最終閲覧日2014年3月11日)、完成後の運営はトルコ
国鉄(TCDD)が行う。
マルマライは2004年に着工し、2013年10月に計画の中核であるトンネルが開通し
た。トンネルの開通により、海峡横断に要する時間はフェリーで30分かかっていた
のが、4分に短縮された。全線(76.3キロメートル)が開通すれば、ゲブゼ(アジ
ア側)からハルカル(ヨーロッパ側)の所要時間は鉄道とフェリーを利用した場合
185分であったのが105分に短縮され、一日あたり120万人の輸送が見込まれている
(2013年10月29日付Dunya Times紙)。マルマライ線はヨーロッパ側の始点である
イェニカプとアジア側の始点であるウスキュダルで地下鉄、ライトレールおよびバ
スと接続する。マルマライと地下鉄という二つのプロジェクトが完成すれば、この
二つの駅がイスタンブルのハブとなる。マルマライ線はトルコ国鉄(TCDD)が運
営するが、イスタンブル交通公社(İstanbul Ulaşım A.Ş.)もこれに協力し、地下鉄
やバスとの相互利用が可能である(2013年10月10日付Radikal紙)。
おわりに
昨年10月29日に行われたマルマライの開通式は、ギュル大統領、エルドアン首相
をはじめ、技術・資金協力した日本の安倍首相ら八カ国から政府要人が出席する華
やかなものであったが、この日は建国90周年にあたる建国記念日であった。マルマ
ライの工事は海底にトンネルを建設する技術的に難しいものであり、またビザンチ
ン帝国時代などの遺跡を発掘したことによる工事中断などにより工期は大幅に遅
れた。開通を報じる新聞紙上では、「オスマン帝国からの153年来の夢かなう」(2
013年10月29日付Dünya Times紙)、「現代のシルクロード」(2013年10月29日付S
abah English紙)といった言葉が踊った。開通式でエルドアン首相は、「将来はロ
ンドン、北京、東京、ウスキュダル(海底トンネルのアジア側の始点)を結びたい、
夢はかなう」と語り、これにたいして日本の安倍首相は「ロンドンからイスタンブ
44
相沢伸広『首都圏政治の比較研究』調査研究報告書 アジア経済研究所 2013 年度
ル経由で東京まで高速電車で結ぼう。トルコと日本はアジアの二つの翼だ」と応じ
た(2013年10月31日付Hürriyet紙)。建国90周年という国家の歴史の節目の日の舞
台がマルマライの開通式であったことや、マスメディアの報道、政治家の発言から
は、マルマライが国の出資による交通インフラ整備プロジェクトであるだけでなく、
国の威信をかけた政治的プロジェクトでもあることが伺える。
同様のことは地下鉄についてもあてはまる。図2はイスタンブル市の広告である。
「どこでもメトロ、どこへもメトロ:イスタンブルの区と区が、街と街がメトロで結びつ
く!」とあり、地下鉄は2004年に24キロメートルであったのが、2013年には141キロメート
ル、2019年には400キロメートル、その後最終的には776キロメートルに延伸を予定とある。
左側の男性はトプバシュ・イスタンブル市長、右側はエルドアン首相である。地下鉄の開
通式に首相が登場するのはイスタンブルに限らず、たとえば首都アンカラでも同様である。
エルドアン首相は昨年12月の地下鉄Batıkent-Sincan線の試運転式に出席し、国土交通省、
アンカラ市、工事を請け負った企業、技術者と労働者にたいし、国民の名のもとに感謝の
気持ちを捧げたいと演説した(http://www.ankara.bel.tr/haberler/basbakan-erdoganda
n-baskentlilere-yilbasinda-metro-mujdesi/
2014年3月13日最終閲覧)。限られた材料
からの推察ではあるが、こうした 構図は、地下鉄もまた一自治体の市内交通混雑対策
にとどまらない国家の政治的プロジェクトとしての性格を帯びていることを示唆
しているように思われる。
参照文献
Abebe, Ngiste, Mary Trina Bolton, Maggie Pavelka, Morgan Pierstorff. 2014. Biddi
ng for Development: How the Olympic Bid Process Can Accelerate Transporta
tion Development, New York: Springer.
Alpkokin, Pelin and Yoshitsugu Hayashi. 2003. “Istanbul Transportation Master Pla
n Study towards a More Integrated Transportation and Sustainability for the C
ity”, Proceedings of the Eastern Asia Society for Transportation Studies, 4. (h
ttp://www.easts.info/2003proceedings/papers/1639.pdf
よりダウンロード。最終
閲覧日2014年3月13日。)
DPT (T.C. Başbakanlık Devlet Planlama Teşkilati). 1973. Yeni Strateji ve Kalkınma
Planı Üçüncü Beş Yıl 1973- 1977, Ankara: Başbakanlık Basımevi.
DPT (T.C. Başbakanlık Devlet Planlama Teşkilati).1979. Dördüncü Beş Yıllık Kalkı
nma Planı 1979-1983, Ankara:DPT .
DPT (T.C. Başbakanlık Devlet Planlama Teşkilati).1995. Yedinci Beş Yıllık Kalkınm
a Planı 1996-2000, Ankara:DPT .
45
相沢伸広『首都圏政治の比較研究』調査研究報告書 アジア経済研究所 2013 年度
Gerçek, Haluk, Birsen Kaprak and Tülay Kılınçaslan. 2004. “A Multiple Criteria A
pproach for the Evaluation of the Rail Transit Networks in Istanbul,” Transpor
tation 31.
Ministry of Interior General Directorate of Local Authorities. n.d. “Local Authoritie
s in Turkey”. ( http://www.migm.gov.tr よりダウンロード。)
Turkish Statistical Institute. 2008. Budgets :Municipalities, Special Provincial Admin
istrations and Villages 2006.
OECD. 2008. Territorial Reviews of Istanbul, Turkey (http://browse.oecdbookshop.
org/oecd/pdfs/free/0408051e.pdf#search='Territorial+Reviews+of+Istanbul+Turkey+
oecd'
よりダウンロード。最終閲覧日2014年3月13日。)
澤江史子. 2012. 「トルコの選挙制度と政党」『中東諸国の選挙制度と政党』日本
国際問題研究所。
村上薫. 2011.「イスタンブルは誰のもの――ゲジェコンドゥと都市再開発」『アジ
研ワールドトレンド』第191号(2011年8月号)。
46
相沢伸広『首都圏政治の比較研究』調査研究報告書 アジア経済研究所 2013 年度
図表
表1
イスタンブル市・アンカラ市の歳入 (1000 YTL)
Type of revenues
%
Istanbul
%
Ankara
Municipalities
%
total
Tax revenues
4,420,153
Share of the tax revenues
3,212,007
Revenues other than taxes
1,065,751
15.7
291,615
12.5
6,536,840
22.8
Capital revenues
914,061
13.5
175,141
7.5
2,663,091
9.3
Grants and aid
105,151
1.6
55,460
2.4
1,429,681
5.0
Collection of receivables
264,937
3.9
75,381
3.2
528,696
1.8
28,511
0.4
5,000
0.2
445,798
Deficit (borrowing) or surplus
65.2
1,742,593
74.6
17,181,976
1,304,490
59.9
12,507,506
1.6
(lending)
Rejection and refunds
Total revenues
-18,437
-0.3
-8,644
-0.4
-93,595
-0.3
6,780,129
100.0
2,336,548
100.0
28,692,489
100.0
出典:Turkish Statistical Institute(2008), pp.22, 58, 60より筆者作成。
注:特別地方行政(Special provincial administrations) からの援助は、Grants and a
idに含まれる。
表2
地方交付税の割合(%)
イスタンブル
アンカラ
自治体合計
歳入に占める地方交付税の割合
47.4
55.8
43.6
税収に占める地方交付税の割合
72.7
74.9
72.8
地方交付税全体に占める割合
25.7
10.4
100.0
出典:Turkish Statistical Institute(2008), pp.22, 58, 60より筆者作成。
47
相沢伸広『首都圏政治の比較研究』調査研究報告書 アジア経済研究所 2013 年度
表3
イスタンブル市・アンカラ市の歳出 (1000YTL)
Expenditures
Istanbul
%
Ankara
%
Municipalitie
%
s total
Personnel expenditures
806,169
11.9
382,181
16.4
5,110,371
17.8
State contribution to soc
130,643
1.9
64,385
2.8
869,164
3.0
1,583,483
23.4
464,493
19.9
7,843,251
27.3
65,574
1.0
6,190
0.3
3,155,382
11.0
359,686
5.3
189,525
8.1
1,292,235
4.5
3,286,088
48.5
958,653
41.0
10,146,439
35.4
Capital transfers
225,677
3.3
35,207
1.5
354,774
1.2
Domestic lending
72,137
1.1
6,745
0.3
277,397
1.0
250,667
3.7
229,164
9.8
2,483,471
8.7
6,780,129
100.0
2,336,548
100.0
28,692,489
100.0
ial security institutions
Purchases of goods and
services
Interest expenditures
Current transfers
Capital expenditures
Contingencies
Total expenditure
出典:Turkish Statistical Institute(2008), pp.22, 58, 60より筆者作成。
表4
イスタンブル市の交通インフラ
一日あたり平
均輸送人数
軌道
%
1,632,863
14.3
地下鉄
609,269
5.4
ライトレール(LRT)
337,950
3.0
トラム
546,276
4.8
ケーブルカー
77,839
0.7
近郊電車(国鉄・マルマライ)
61,529
0.5
9,158,823
80.5
750,000
6.6
バス
2,888,823
25.4
ミニバス
1,910,000
16.8
タクシー・乗り合いタクシー
1,210,000
10.6
道路
メトロバス(BRT)
48
相沢伸広『首都圏政治の比較研究』調査研究報告書 アジア経済研究所 2013 年度
通学通勤送迎サービス
2,400,000
21.1
590,725
5.2
海上バス
211,476
1.9
連絡船
228,880
2.0
その他
150,369
1.3
11,382,411
100.0
海上
合計
出典:イスタンブル電気軌道(IETT)のホームページ
(http://www.iett.gov.tr/tr/main/pages/istanbulda-toplu-tasima/95
最終閲覧日2014年3月12日)より筆者作成。
図1
イスタンブル市の軌道システム(メトロバスを含む)路線図
出典:イスタンブル交通公社(İstanbul Ulaşım A.Ş.)ホームページ(http://www.istan
bul-ulasim.com.tr/yolcu-hizmetleri/ağ-haritaları.aspx)よりダウンロード。(最終閲
覧日2013年3月12日。)
注1:点線は建設予定。
注2:南北に走るボスポラス海峡を横断する二路線のうち、北側はボスポラス第一大橋を
通るメトロバス、南側は海底トンネルを通るマルマライ線。ボスポラス海峡の左側がイス
タンブル市のヨーロッパ側、右側がアジア側。
49
相沢伸広『首都圏政治の比較研究』調査研究報告書 アジア経済研究所 2013 年度
図2
タクシム駅に掲げられたイスタンブル市の広告
2013年10月筆者撮影
50
Fly UP