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山形 勝宏
現代カンボジアにおける歴史教育 〰ポル・ポト時代をどう教えるか〰 国際協力専攻 牧田東一ゼミ 207D0993 山形勝宏 提出日 1 月 18 日 1 目次 序章……………………………………………………………………………………………………….….3 第 1 章 歴史的背景…………………………………………………………………………………….…...3 第 1 節 クメール・ルージュとは…………………………………………………………………………....3 第 2 節 民主カンプチア時代……………………………………………………………………………...4 第 3 節 民主カンプチアの崩壊から内戦へ……………………………………………………………....5 第 4 節 ポル・ポト派の消滅…………………………………………………………………………….….6 第 2 章 人民党の政治的利害………………………………………………………………………….…..7 第 1 節 人民党の概要……………………...……………………………………………………………...7 第 2 節 ヘン・サムリン時代(1979~1991 年)…..…………………………………….………………..…8 第 3 節 UNTAC 統治時代(1992~1993 年)….…………………………………….………………..…8 第 4 節 現在のカンボジア(1994 年~)……………………………………………………………….…...9 第 3 章 国民和解…………………………………………………………………………….…………….9 第 1 節 ポル・ポト時代の傷跡…………………….………………………………………….……………9 第 2 節 カンボジア特別法廷をめぐる問題………………………………………………………………10 第 3 節 歴史教育が果たす国民和解の役目…….……………………………………………………...11 第 4 章 現在の歴史教育について…………………………………………………………………….....11 第 1 節 副読本作成 NGO に関して…………………………………………………………………….11 第 2 節 副読本に関して………………………………………………………………………………....12 第 3 節 在日カンボジア人に対するインタビュー………………………………………………………..15 終章…………………………………………………………………………………………………………18 参考文献・参考 HP………………………………………………………………………………………..19 2 序論 筆者は、2009 年 8 月 15 日から 9 月 5 日まで行われた大学のカンボジア研修に参加したときに、トゥー ル・スラエン 1 やキリング・フィールドを見学し、カンボジア特別法廷を傍聴して、ポル・ポト時代の歴史につ いて初めて知った。その際に、ポル・ポト(クメール・ルージュ)時代のドキュメントを貯蔵しているNGOのカ ンボジア資料センター(DC-Cam)で、このNGOが作成したポル・ポト派について詳しく記された教科書の 副読本が、2010 年から高校の社会の教科書に採用されることを知った。カンボジア政府は、なぜ、今ま でポル・ポト時代に関する教育をしてこなかったのか筆者は関心を抱いた。 ポル・ポト派とは、カンボジア共産党のクメール・ルージュと呼ばれる都市知識集団のうちポル・ポトを中 心とした一派である。クメール・ルージュ内で、もっとも急進的な政策を主張して、権力を掌握したのがポ ル・ポト派だった。ポル・ポトがクメール・ルージュのトップになり、当時の親米主義のロン・ノル政権を崩壊 させ、1975 年 4 月から 1979 年 1 月までの 3 年 8 カ月の間、国名を「民主カンプチア」として政権を握っ た。ポル・ポトは農業を基盤にする極端な共産主義政策を行い、都市住民に農村での強制的な重労働を 課し、体制に反対する、もしくはその疑惑のある者を処刑した[小倉 1993 : 3-37]。これにより、3 年 8 カ月 の間に少なくとも 120 万人から 200 万人 2 近くが死亡したと言われている。 本論文を研究するにあたり、ポル・ポト時代に関する研究は、多く存在するが、カンボジアの歴史教育 に関する研究は極めて少ない。そのため、論文の課題として、歴史教育に関する部分の大半が、一つ の NGO からのデータであり、他文献との比較検討ができなかったこと、フィールドワークの対 象が国内に限定され、現地にいる様々な立場の人の意見を聞くことができなかったことが挙げら れる。これらの課題を承知して読んでいただきたい。 筆者は、これまでのポル・ポト時代に関する研究の中から、政府が歴史教育を行わなかった理由として 当てはまる、以下の 2 つの仮説をたてた。第 1 は現与党の人民党とクメール・ルージュの政治的利害関係 にその原因がある。第 2 の仮説は、ポル・ポト時代後のクメール・ルージュ側と被害者との国民和解の問 題という点である。 本論文では、現在カンボジアで行われているポル・ポト時代の歴史教育に関して、なぜ行われていな いのかを第 1 章では歴史的背景、第 2 章で政治的利害関係の観点から述べ、第 3 章では国民和解につ いて述べ、第 4 章はで現在行われている歴史教育に関して検証していきたい。 第 1 章 歴史的背景 まず、ポル・ポト派に関する歴史背景について説明する。 1. クメール・ルージュとは クメール・ルージュとはいったいどのような組織なのだろうか。クメール・ルージュの語源は、1953 年から 1970 年まで、国を統治していたノロドム・シハヌークが、国費でフランスに留学していた学生たちがマルク ス主義に傾倒して王政を批判していたことに腹を立て、学生の頭の中が赤(共産主義の色)くなったと例え て、「クメール・ルージュ(赤いクメール人)」と称したことが、クメール・ルージュという表現の由来だとされて いる[小倉 1993: 7-9]。その留学生は、カンボジアに帰ってインドシナ共産党(その後、クメール人民革命 別名、S21(Security Office 21)。ポル・ポト政権時代の政治犯収所。現在は虐殺博物館として当 時の拷問や虐殺の様子を見学できる。 2 正確な情報は不明。各機関によってデータは様々。 1 3 党を経て後のカンボジア共産党になる)に合流し、党員をとして地下活動を行うと共に、プノンペンの 大学や教育機関で教師として活動していた。ポル・ポトは、党内でもナンバー3 あたりの地位で あったが、上層権力の排除によってトップに君臨した。そして、フランス留学生組やポル・ポト 政権ナンバー2 のヌオン・チアなどインテリ系を集めて、党上層部で固めていった[山田 2004: 22-35]。 ポル・ポトらは、北ベトナムをはじめとする東アジアの共産主義国を訪問した。特に中国への 訪問が、後の政権運営に大きな影響を及ぼした。ポル・ポトの訪問時はまだ文化大革命 3 が本格的 になる前のことだが、毛沢東の大躍進、人民公社、情報活動と粛清といった活動に非常にインパ クトを受けた。以後、毛沢東主義に傾倒して、1960 年代から表面化する中ソ対立において親ソの ベトナムとは、ますます対立関係を築くことになる[山田 2004: 32-33]。 2. 民主カンプチア時代 1975 年 4 月 17 日にクメール・ルージュはプノンペンを制圧した。それまで政権を握っていた親米のロ ン・ノルを政権の座から引きずり下ろしたクメール・ルージュは、国名を、クメール共和国から民主カンプチ アに改めた。それまで、反政府組織の顔としてロン・ノル政権に対抗していたシハヌークが、カンボジアに 戻ったのは、1975 年 12 月ごろである。シハヌークは翌年 76 年 4 月に国家元首を辞任し、同時にクメー ル・ルージュによってプノンペンの王宮内に幽閉された。クメール・ルージュは国交を数カ国としか結んで いない鎖国状態であった[上田 2006: 186-187]。ロン・ノル政権時代に共闘してきたベトナムとは 77 年 12 月に国交を断絶した。ポル・ポトは以前から存在していた社会制度、文化、人間関係をすべて否定し た。この代表的な例として、貨幣や市場経済活動、宗教、学校制度の禁止が挙げられる。そして、集団に よる農業を中心とした共産主義社会の実現を目標とした[上田 2006: 186-187]。この極端な思想は中国 の文化大革命に影響されたものであった。 ポル・ポトがまず取りかかったことは、プノンペンにいる都市住民の農村への強制移住だった。強制移 住は 4 月 17 日のプノンペン制圧直後から行われ、5 日間ですべての住民をプノンペンから退去させた。 強制移住と同時に、ロン・ノル政権時代の政治家または軍の少尉以上は夫人も含めて探し出し、次々と 粛清していったのである。この退去が意味していたものは、クメール・ルージュ側によると、アメリカ軍から の爆撃があるから避難のためにやらざるを得なかったとしているが、実際には、クメール・ルージュはプノ ンペンに住む都市住民はアメリカ帝国主義に浸かった敵だと考えて、新国家建設にあたって都市住民を 排除することが優先課題だったことが考えられる[小倉 1993: 17-19]。また強制退去に際して、ロン・ノル 政権時代の軍人を探し出すこと以外に、学生や教師といった知識人も場所によっては粛清された[山田 2004: 64-69]。 都市住民が各地に移動させられると、集団合作社(サハコー)という集落に住まわされた。移住はその後 も数回行われている。集落には家族は存在しない。クメール・ルージュによって家族制度は破壊された。 そして、都市住民を「新人民」、元からその土地に住んでいた農民たちを「旧人民」とした。新人民は労働 に際して旧人民より過酷な労働を課せられたり、食料や水の配給が旧人民より少なかったりした。労働は サハコーごとに行わされた。サハコー内では班があり、1 班 15 人程度で形成される。基本的には農作業 中華人民共和国で 1966~69 年に行われた政治闘争。毛沢東が主導して既成の一切の価値を変 革する政策だが、党内においての権力闘争を伴い民間人を含む多くの死者が出た。 3 4 だが、ダムや堤防、運河の建設においてはサハコーが多く動員されていた[小倉 1993: 17-31]。 ポル・ポトは共産主義の基盤を農業としていたために、国民たちを農業に従事させた。食糧増産はす べての国民に食糧を与えようとする考えであったが、計画ではヘクタール当たり 3 トンのもみ米の生産を 要求していた。これは、中国で始まったキャンペーンの数値をそのまま引用してきたとされている。カンボ ジアが実際に米を生産できる限界は、その数値の半分以下とされていたので、ポル・ポトの政策には無理 があった。ポル・ポト政権内に農業経験者は一人もいなかったために、中国からの政策をまるまる持ち込 んだとされている。また、1977 年から始まった「四カ年計画」によると、77 年から 80 年までの間にコメを総 計で 2670 万トン生産するとしていた。その主な生産地は米所であるバッタンバン州とポーサット州であっ たが、その計画に際して用いたデータは 1960 年代のもので、戦争による破壊等は考慮されていなかった。 生産活動の作業を主に担っていたのは農業知識のない、旧人民とは運動能力に差がある新人民であっ た。当然、コメの生産は予想を大きく下回り、元々少なかったクメール・ルージュからの配給がさらに悪く なった[山田 2004: 98-104]。 ポル・ポト政権下では教育も宗教も禁止されていた。学校は 6000 校のうち 5857 校が廃止、寺院も教 会も破壊させられて、仏教の僧侶たちですら農業に従事させられた。サハコー内で子どもたち向けに教 育が成されていたが、それはクメール・ルージュによる政治思想教育のみであった。読み書き教育はされ ていなかった。クメール・ルージュによって子どもたちは、サハコー内にスパイがいないか監視する役目ま で担わされていた。それは、例え家族でも容赦なく密告することが奨励されていた。また、知識のないの に医者として患者の治療、子ども兵として戦地の最前線に立たされることも多かった [小倉 1993: 24-31]。 こうしたポル・ポトの政策には不可能なことだらけであった。しかし、ポル・ポトを中心とした政権幹部はこ の政策が失敗している理由は、国民が堕落しているからと判断した。そして、内部の敵の粛清が始まった。 ポル・ポトは 1976 年、プノンペンにあった元高校を S-21(トゥール・スラエン)と呼ばれる政治犯収容所にし て、CIA やベトナムの手先といったスパイ容疑を掛けられた人々を収容し尋問することにした。ここで尋問 を受けた人々は、有罪にされ、プノンペン郊外にあるキリング・フィールドまで運ばれて殺された。地方で も同様に収容所とキリング・フィールドが多く設けられて虐殺が行われた。ここで殺された大多数は無実の 罪であった。S-21 では一般の国民はもちろん、政権関係者も多く収容された。地方においても、知識人 はポル・ポトの政策の敵であったので、当然虐殺された。サハコー内で仲間を密告して殺すことも行われ た。家族ですらスパイの対象であった。その理由は、もし密告しないと自分の生命が危ないので、自分は クメール・ルージュに貢献していることをアピールしたためである。こうした死への恐怖から、国民からポ ル・ポトに最も近い政権幹部(イエン・サリやキュー・サムパン)まで、すべての国民がポル・ポトの方針に盾 突くことができなかったのである。ポル・ポト政権時代に粛清や飢餓、病死により死亡した人数は、未だに 明確な数値が出ていないのだが、約 120 から 200 万人とされている[山田 2004: 112-134]。 3. 民主カンプチアの崩壊から内戦へ 粛清は政権を安定に導くものではなく、崩壊に導くものであった。カンボジア東部地区の書記のソー・ ピムが反乱を起こした。反乱は失敗に終わり、ソー・ピムは殺されたが、粛清を恐れたヘン・サムリン、部下 のチア・シムがベトナムに逃亡し、すでにベトナムに逃亡していたフン・セン(現首相)とベトナム軍の力を 借りて、1979 年 12 月 2 日にカンボジア救国団結戦線を結成した。1979 年 12 月 25 日に救国団結戦線 5 とベトナム軍はカンボジアに侵攻した。1 月 6 日から 7 日にかけて行われた首都攻撃によってプノンペン は陥落した。ポル・ポトらは、タイ国境付近へ逃げて、それ以降、政府軍とゲリラ戦をすることになった[山 田 2004: 148-160]。 その後、ベトナム主導の社会主義体制の「カンボジア人民共和国」が設立された。カンボジア人民共和 国の行政面では、各部門にベトナム人顧問が登用された。軍事面に関しても、10 万~20 万人ものベトナ ム軍がカンボジアに送り込まれた。このようなベトナムの支配的状況と反共産主義の立場から西側諸国、 中ソ対立最中の中国は、ヘン・サムリン政権(以下プノンペン政権)を、ベトナムの傀儡政権として認めな かった[山田 2004: 162-167]。国連の議席は、プノンペン政権にあるものではなく、未だに民主カンプチ アが持っているものとされた。プノンペン政権を認めなかった西側諸国は、タイ国境付近に逃げ込んだポ ル・ポト派(クメール・ルージュ)、反ベトナムを掲げたシハヌーク派(独立・中立・平和・協力のカンボジアの ための民族統一戦線 4 )、旧クメール共和国の流れを組むソン・サン派(クメール人民民族解放戦線 5 )が 1982 年に協力してできた三派連合政府を支援して内戦が勃発した。三派連合の設立目的は、ベトナム からの主権回復と独立、ベトナム軍の即時撤退と自由選挙による国家の設置であった。三派連合政府の 主な支援国は、ポル・ポト派に中国、ソン・サン派はASEAN(特にタイ)、シハヌーク派はアメリカが支援し た。これに対して、プノンペン政権は政府軍とベトナム軍で対抗した。1984 年から 85 年の乾季戦闘に よって三派連合政府の拠点を政府軍が制圧して、カンボジア国内の実効支配を確立していた。しかし、 国際社会からの承認がないために内戦は長期化したのであった[山田 2008: 51-65]。 1980 年代後半、冷戦終結の兆しにそれまで各派を支援してきた国同士が和解を始めた。これら、カン ボジアにおける国際社会の障害が次々と取り除かれることによって、プノンペン政権と三派連合との対話 が増えるようになった。1991 年 10 月に「カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定(パリ和平協 定)」が締結されたことによって、内戦が一区切りする。パリ和平協定の内容は、冷戦の代理戦争として国 際化されたカンボジアの問題を国内化すること、UNTAC 6 (国連カンボジア暫定統治機構)による管理下、 複数政党制と政権議会選挙の実施、新憲法の制定であった[山田 2008: 51-65]。 4. ポル・ポト派の消滅 パリ和平協定の締結によって、和平へのプロセスとして四派が形成するカンボジア最高国民評議会 (SNC) 7 が設置された。SNCの管理を行う国連のUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)も設置された。 UNTACの目的は、軍事・行政面でカンボジアを暫定統治し、平和維持活動を推進し、1993 年 4 月から 5 月末までにカンボジアの民族和解・民族自決を理念とする総選挙の実施であった[丸山 1992: 190-204] 。こ の他にカンボジア国内の民主化支援、武装解除、治安維持を行った [山田 2004: 168-173]。 1992 年 8 月にUNTACは、総選挙に向けて一党独裁制を封じるために、複数政党制の導入を含んだ 略称 FUNCINPEC(Front Uni National pour un Cambodge Inde’pendent Pacifique et Coope’ratif) 5 略称 KPNLF(Khmer Paeople’s National Liberation Front) 6 パリ和平協定に基づいたカンボジアの暫定統治を行う機関。代表は、明石康氏。 7人民革命党(プノンペン政権)6 名、その他 3 派から各 2 名ずつの 12 名で構成。国連の暫定統治に あたって、国家の独立・主権・統一を担う唯一の機関とされた。 4 6 選挙法を施行した。今まで対立してきた四派 8 が、政党として国会を形成する。しかし、ポル・ポト派が途中 で離脱してしまった。選挙不参加を表明して、選挙活動の妨害を始めたのである。ポル・ポト派の妨害に あいながらも 1993 年 5 月に、UNTACは選挙を強行実施して、フンシンペック党が第一党、次いで、カン ボジア人民党が第二党になった。第一党が過半数に満たなかったため、連立を組まなければならなかっ た。そのため、フンシンペック党は、1980 年代からカンボジア国内を統治して、強い影響力のあった人民 党と連立を組み、フンシンペック党の党首で、シハヌークの息子のラナリットを第一首相、人民党のフン・ センを第二首相とする二人首相制を採った。また、国王に再びノロドム・シハヌークを置いて国名を「カン ボジア王国」とした。 ポル・ポト派は、王国政府に対抗しようとしたが、新政府はポル・ポト派を非合法化する法律を制定した。 この法律で、政府軍に投降したポル・ポト派兵士は罪を問わないこととしたため、ポル・ポト派の戦力は後 退し始める。1996 年に、ポル・ポト政権時代の最高幹部の一人、イエン・サリが数千人のゲリラを引き連れ 投降。97 年に、ポル・ポトが党幹部のソン・センを殺害し、さらにタ・モクの殺害を図る事件が起き、タ・モク はキュウ・サムパンとともにポル・ポトを逮捕した。逮捕され監禁されていたポル・ポトは 1998 年に死亡した。 ポル・ポトの死亡や元幹部の相次ぐ投降によりポル・ポト派は消滅した。これにより、実質的なカンボジア の内戦はようやく終了した。 第2章 人民党の政治的利害関係 本章は、人民党による政治的利害から、歴史教育が行われなかったことついて検証する。 1. 人民党についての概要 クメール・ルージュについての概要は前章で述べた。そこで、ここではクメール・ルージュ崩壊から現在 まで政権を握っている人民党(人民革命党)について概観する。ポル・ポト政権を崩壊させたカンプチア救 国団結戦線の元ポル・ポト政権の中堅幹部と、ベトナムに長期亡命していたクメール・ハノイ 9 と呼ばれる 古参活動家が合流し、ポル・ポト政権とは異なる、ポル・ポトが権力を握る前のカンボジア共産党(1981 年 に人民革命党に改名)が再結成された。人民革命党は、親ソ連・親ベトナム、クメール・ルージュは親中で あった。カンボジアは 1960 年代から始まった中ソ対立 10 のまさに縮図であった。 人民革命党のイデオロギーは、クメール・ルージュと同じマルクス・レーニン主義とされるが、クメール・ ハノイを除けば、マルクス・レーニン主義に忠実な思想・政治教育を受けたものは、人民革命党政権が発 足するまでに、ポル・ポト派に 90%は殺害されている。また、クメール・ルージュも同様にマルクス・レーニ ン主義を掲げて政策を実行していたこともあり、国民からは不信や警戒心も強かったことから、イデオロ ギー的なことより、国家再建のための実質的な政治運営がなされていた[山田 2009: 12-13]。 8 人民党(1991 年に人民革命党から改称)、フンシンペック党(FUNCINPEC・シハヌーク派)、仏 教自由民主党(KPNFL)、クメール・ルージュ(ポル・ポト派)の四派。しかし、クメール・ルージュ は和平プロセスからの離脱を表明したため含まない。 9 クメール・ベトミンとも呼ばれる。北ベトナムで政治・軍事運動を受けた後、反ロン・ノル闘 争に参加した党員。 10 1956 年ソ連のニキータ・フルシチョフが党大会でスターリン批判を行い、平和共存路線を推 進したが中国(中華人民共和国)と関係悪化。 7 2. ヘン・サムリン時代(1979~1991 年) ポル・ポト政権崩壊後に、どのようなクメール・ルージュの教育が行われてきたのか検証していく。前述 した通り、ベトナムの支援を受けたカンプチア救国団結戦線は、ポル・ポト政権を倒し、人民革命党として 政権(以下、プノンペン政権)を握り、国家再建に着手した。しかし、政府のみならず当時のカンボジアに おいて、ポル・ポト政権時代に知識人が多く殺害されてしまったために、知識人が不足していた。そのた めベトナム人の力を頼らざるを得なかった政府は、教育のアドバイザーにベトナム人を登用していた。これ によりベトナム寄りの教育方針、教科書開発が成された。まず、学校の再建にあたって教師のトレーニン グは、ベトナムとソ連から講師が送られて指導した。教科書も東側諸国の援助によって作られた。教師は 無資格の者が多く、過去に読み書きのスキルが少しでもあると教師として起用されることにより、教師全体 のレベルが低いことが懸念されていた。しかし、教育が国家に全くない状態からの救済措置から、この方 法が採用された。優秀な学生には奨学金を出して、ベトナムをはじめとするソ連、東ドイツといった社会主 義国に留学させて、高等教育を受けさせた[Dy 2008: 2-4]。 学校では、ポル・ポト政権時代に行われなかった基礎教育に重点置いていた。ポル・ポト時代のことに ついても授業内で教えられた。教師のほとんどがポル・ポト時代に家族や親せきの所在が不明で、その中 にはクメール・ルージュに家族を殺され、クメール・ルージュにトラウマを持っている者もいた。これによりポ ル・ポト時代について感情的に訴えることができた。ベトナムやプノンペン政権が残虐なポル・ポト政権を 倒したことを称えること、また、プノンペン政権が国のほぼ全土を実効支配していたにも関わらず、ベトナ ムの傀儡政権として国連の議席を認めらなかったことから、三派連合政府としてプノンペン政権に抵抗し ていたポル・ポト派は悪という政治的プロパガンダとしての色が濃い教育が成された[Dy 2008: 2-4]。ポ ル・ポト政権が崩壊した後に、ポル・ポト政権に関する分析文献が外国人によって書かれており、学生もポ ル・ポト時代についてアクセスすることはできたが、文献はすべて外国語で、当時の学生の能力では理解 することは難しかったとされる[Dy 2008: 1-3]。1980 年代後半になると、それまでの冷戦構造にも雪解け が見られ、カンボジアにおける国際社会の障害が次々と取り除かれることによって、プノンペン政権と三派 連合との対話が増えるようになった。この時期からプノンペン政権はポル・ポト派をパリ和平協定に調印さ せるために、ポル・ポト時代の記述の削除を始めた。 3. UNTAC 統治時代(1992~1993 年) UNTAC 統治時代から国際機関や NGO が教科書開発への援助を行うようになった。これに伴い、こ れまで政治的プロパガンダの色が濃かった記述に関して改善がみられるかと思われたが、ポル・ポト時代 の記述は削除された[Dy 2008: 4-8]。これは、UNTAC には総選挙が控えており、ポル・ポト派の離脱が 懸念されていた中で、ポル・ポト時代に関して教育することは、ポル・ポト派の感情を逆なでして、再び内 戦がおこる可能性が懸念されたからである。これ以降、カンボジアの歴史の教科書ではアンコール期に 重点が置かれ、近代史は多く取り上げられなかった。特にポル・ポト時代の内容は教科書が発行されては、 削除されるということの繰り返しだった[上田 2006: 104-198]。 UNTAC 統治後のフンシンペック党のラナリット第一首相と人民党のフン・セン第二首相の二人首相制 時代にポル・ポト派を非合法化する法律が制定された。さらにポル・ポトは 1998 年に死亡した。ポル・ ポトの死亡や元幹部が政府軍に相次ぐ投降によりポル・ポト派は消滅した。これにより、また歴 史教育が再開されるかと思われた。しかし、1998 年の総選挙の前年、フンシンペック党が勢力拡大 8 の一環としてポル・ポト派と連携を取ろうとしたことに対して、人民党が反発し、両党間で武力衝突が起 こった。この戦闘は、人民党の勝利に終わり、ラナリットは第一首相の座を追われた。このような政治的対 立があり、教科書の改訂が先延ばしされ、ポル・ポト時代の歴史教育も先延ばしされたのであった。 4. 現在のカンボジア(1994~) 武力衝突後 (1998 年以降)の選挙では、人民党が圧倒的な強さで議席を多く獲得し第一党となり、 国家の主要な機関を独占する形となった。この主要機関の人民党の独占により司法や警察まで人 民党の力が及んでいるために独裁的との見方もとれるが、内戦以後 1997 年のフンシンペック党 と人民党の武力対立を除いて表立った政治的不安はない。フン・センは現在も首相であり、カン ボジア人民共和国時代から数えると、約 25 年近く、国家のトップに存在し続けている[山田 2008: 51-65]。ポル・ポト時代の歴史記述も教科書に掲載されることもあったが、削除されることばか りであった。2000-2001 年に 9-12 年生 11 用の社会の教科書が、カンボジア独立からポル・ポト時代、 1998 年の総選挙までの内容を含んで出版された。ポル・ポト時代についても客観的に明示してあり、世 界からの評価も高かったが、カンボジア政府により削除されてしまった[Dy 2008: 7-9]。 政府の見解としては虐殺の人数の不正確性、ポル・ポト時代の記述が長すぎる、再び内戦の危惧が挙 げられていた。しかし、実際には 1996 年から相次いだポル・ポト派非合法化に伴う、ポル・ポト政権元幹 部の投降による恩赦を国王が与えていたことで、ポル・ポト時代について、政権指導者の名前を挙げて批 判する記述を避けたかったことが理由だった。また、元ポル・ポト派兵士と被害者が未だに和解できない 関係があった。しかし、副読本が出る直近の教科書を見ると、ポル・ポトに関する記述が 2000 年の 6 行 12 から 2009 年には 6 ページ 13 に増加している。これは、ポル・ポト派が消滅したこと、国内の政治的安定が 保たれていること、国際社会の働きかけにより、カンボジア特別法廷(ECCC)が開始されたことによる、ポ ル・ポト時代への国民の関心が高まりつつある事に政府が応えたともいえる[Dy 2008: 1-14]。 第3章 国民和解 本章では、国民和解の観点から歴史教育について検証する。 1. ポル・ポト時代の傷跡 カンボジアにおける国民和解の問題とは、ポル・ポト時代にクメール・ルージュ兵として虐殺に手を染め てしまった人々と家族をクメール・ルージュに殺された人々との和解がなされていないことである。しかも、 肉親を殺された人と殺した人が同じ村の中に住んでいるケースが多く存在する。前述の通り、粛清はカン ボジア国内全土に広がっていた。党中央の粛清を除けば、虐殺は地方で起こっている。この場合の、直 接の加害者は、殺害を命じた下級幹部、すなわち町長やサハコー長である[井上 2001: 242-243]。さら に実際に殺した部下などを入れれば、虐殺に関与した者は膨大な数になる。しかし、殺した側にも、殺さ なければ自らが党への反逆者として自分の命がないために殺すという負の連鎖があったのだ。ポル・ポト 11 12 13 カンボジアは小学校 1 年から高校 3 年まで通して 12 年制としている。 教育・青年・スポーツ省発行の社会科教科書『社会科 9 年生』2000 年度版、169 ページ 教育・青年・スポーツ省発行の社会科教科書『社会科 12 年生』2009 年度版、223~228 ペー ジ 9 政権が終わり、死への恐怖から解放されても、内戦が続いていたために和解の機会がないまま現在に至 るケースが多々ある。彼らは、周りの目を気にして、村に住んでいても、いつ報復が来るかと恐怖に駆られ ることもあるという。副読本を作成した NGO のカンボジア文書センター(DC-CAM)は、元クメール・ルー ジュ兵も加害者ではなく「被害者」という視点でケアを行っていかなければならないとしている。 2. カンボジア特別法廷をめぐる問題 和解をめぐる問題として、一つの大きな取り組みが「カンボジア特別法廷(以下 ECCC)」である。国連、 日本をはじめとする先進国諸国の支援によって 2009 年に設置された。訴追対象者は、ポル・ポト政権時 代に最高幹部として、粛清を計画、命令した責任を問われている。しかし、起訴予定であった政権当時の 首相ポル・ポトが 1998 年に死亡。2002 年に元党中央委員のケ・ポクが死亡。2006 年に同党中央委員の タ・モクが死亡した。これにより訴追対象者は、ポル・ポト、ケ・ポク、タ・モクを除く元最高幹部、カン・ケク・ イウ(元トゥール・スラエン収容所長)、ヌオン・チア(元人民代表議会議長)、イエン・サリ(元副首相)、イエ ン・チリト(元社会問題相)、キュー・サムパン(元幹部会議長)の 5 人とされている[ヘダー 2005: 36-42]。 国連は 1996 年から、カンボジアの民主カンプチア時代の犯罪行為の責任追及を始めた。年を重ねるご とに ECCC 設置に向け政府と協議を重ねるが、それを阻んでいたのが現首相のフン・センであった。フ ン・センは 99 年にアナン事務総長宛に、特別法廷を設置して、民主カンプチア時代の幹部を裁こうとする と、国内が再び戦火にさらされるとして、国連とカンボジア政府との混合式裁判を拒否した。しかし、国際 社会の圧力もあり、2001 年 1 月に「カンボジアの裁判所に民主カンプチア時代の犯罪を訴追するための 特別裁判部を設置することに関する法律」がカンボジアの国会で採択された。2009 年に日本をはじめと する先進国の援助により、ようやく開始された[ヘダー 2005: 44-65]。 フン・センは、なぜECCC設置に消極的だったのだろうか。それは、自分自身がクメール・ルージュの元 一員であったことではないだろうか。前述の通り、フン・セン率いる現在の人民党は、民主カンプチア時代 にポル・ポトに殺されそうになったクメール・ルージュ幹部がベトナムと協力してポル・ポト政権を倒したこと にルーツがある。つまり、今裁こうとしている人物は、元は仲間だったこと。1979 年に人民革命党は、民主 カンプチア時代の幹部を裁く裁判 14 により判決は既に出ているということが挙げられる。さらに、政府として は、ポル・ポト派の壊滅に寄与した元幹部のイエン・サリには恩赦を与えたにも関わらず、訴追されること は、ポル・ポト派が政府に不信感を持って、再び復活することも懸念できることである。これらの要因で、自 分の思惑通りに裁判を進めたい理由から消極的だったのではないだろうか[ヘダー 2005: 32-65]。 また、裁判運営に関する問題として資金面が懸念されている。翻訳作業(カンボジア語、英語、フランス 語)の費用や被害者の裁判参加ための追加費用負担である。特に批判が集中しているのが汚職の問題 である。ECCC 内に汚職が蔓延して国連が一時的に資金を凍結した。しかし、日本政府が国連負担分の 一部として追加支援を打ち出したために、裁判は継続できている[初鹿野 2009: 224-226]。さらに問題と されているのが、容疑者の健康状態である。2010 年に判決が下されたカン・ケク・イウ(通称ドゥイッ)以外 は高齢で、イエン・サリは逮捕されてから 5 回も入院している。このため、ECCC は時間との勝負でもある [天川 2008: 222-223]。 14 ベトナムの支援された当時のカンプチア人民共和国による裁判。この裁判は欠席裁判で、西側 諸国は容認していない。 10 和解の観点として挙げることは、「時間」と「過去」である。国民を多く死に追いやった民主カンプチアの 指導者を裁くことは、忌まわしいポル・ポト時代の記憶に区切りをつけること、再び大虐殺を繰り返さないよ うにするという一定の意義をもっている。しかし、ICTY(旧ユーゴスラヴィア国際刑事裁判所)や ICTR(ル ワンダ国際裁判所)は紛争終了後、すぐに設置されたが、ECCC に関しては約 30 年前の罪を裁くというこ となので、国民の中でも、もういいと考える人も少なくない。民主カンプチア時代に家族を失った被害者の 中には、自分の家族を殺したクメール・ルージュ兵を裁いてほしいという見解をもっているも多い。また、カ ンボジア国会内においても、人民党は、国連との協議の通り、カンボジア共産党内序列 10 位以内を訴追 対象とする決定を出したが、人民党以外の政党の議員は、下級幹部や末端の党員を訴追対象から外し たことに異議を唱えた[ヘダー 2005: 18-19]。このようにカンボジア国内で意見が割れる複雑な状況であ る。カンボジア全体のポル・ポト時代の責任追及に対しての見方は、ポル・ポト時代に過酷な労働や家族 を殺された新人民は裁判に行うことによって、責任追求を求める声が強い。旧人民は「できればそっとして おいてほしい」と考える人が多く、しかも、カンボジア全体を見れば旧人民の方が多数である[井上 2001: 242-245]。 3. 歴史教育が果たす国民和解の役目 ポル・ポト時代に関する歴史教育を行うことと、国民和解はどのような関係性を持っているのだろうか。 和解を進めるためには、過去についての記述を慎重に扱うことが必要である[Dy 2008: 18-23]。前述した ように、旧人民においてポル・ポト時代の出来事はできれば掘り起こさないでほしいという意見が多数を占 めている。その中で、クメール・ルージュを一方的に批判する記述は、元クメール・ルージュ兵の傷を深め ると共に、村内での被害者との関係悪化を引き起こす可能性がある。カンボジア政府は、中立性の欠い た教科書を発行するより、歴史教育自体を取り上げなければ問題は起こらないと判断して教えてこなかっ た。 しかしながら、歴史教育を行うことによって次世代に、曖昧になっていた過去のポル・ポト時代を知るこ と、そして、このような大虐殺を再び起こさないようにすることと、副読本には書いてある。また、副読本を 作成した NGO のカンボジア文書センター(DC-CAM)とカンボジア教育・青年・スポーツ省とのジェノサイ ド教育のコンセプトには、「民主カンプチア時代の経験を話して和解を促進して子どもたちに相互理解を 教えよう」というスローガンを掲げていることから学生のみならず社会全体で、ポル・ポト時代について考え て行こうという姿勢がうかがえる。 第4章 現在の歴史教育について 本章では、現在の歴史教育に関して DC-CAM の資料とフィールドワークを基に検証していきたい。 1. 副読本作成 NGO に関して まず、副読本作成したNGOに関して概説する。DC-CAM(Documentation Center of Cambodia)は、 1995 年 1 月にイェール大学のカンボジアジェノサイドプログラムとしてクメール・ルージュ時代の資料保存 や調査を開始した。1997 年にDC-CAMとして独立。クメール・ルージュ時代の記録を次世代のために保 存すること、およびクメール・ルージュの犯罪の情報収集、構成の 2 つを活動目的としている。活動内容 は、今回の副読本作成からカンボジア特別法廷への資料提供、特別法廷に傍聴困難な地方の人々への ツアー、さらにラジオ放送やクメール・ルージュ時代の出来事に関して話をする機会を与えたりしている 11 15 。 2. 副読本に関して まず、副読本のコンセプトを紹介する。DC-CAM の資料によると、副読本は DC-CAM と教育青年ス ポーツ省との協力関係によって作成された。学年は、高学年(中等教育)に適応している。プロジェクト期 間は 2011 から 2013 年までで、目標は、1600 名の教師に民主カンプチアの歴史の指導の方法論を教 授することである。すでに、2008 年から 2010 年において 1057 名の教師がトレーニングを受けた。教師 のトレーニングに関しては、DC-CAMが行うとされている 16 。 2-1 教師の指導トレーニング DC-CAM は、学生に歴史教育を行うために、まず教師に指導の方法を教えている。対象の教師は、 国立、州立、地方の高等学校の教師。さらには国立大学でのレクチャートレーニングも行っている。トレー ニングの期間は、1 週間程度である。ポル・ポト時代の概要、ワークショップなどを副読本にリンクさせて、 自らが学生にどう教えるかをトレーニングする内容となっている。 教師のトレーニングに対する評価はいったいどうであるか。2010 年の教師に対するトレーニングの結果 がある。受講者は以下の 7 つの設問に答えて評価する。 ①指導用機材 ②指導の全体的印象 ③ゲスト/トレーナーのプレゼンテーションスタイル ④トレーナーの議題への知識 ⑤トレーニングの構成 ⑥トレーナーの問題処理能力 ⑦トレーナーが問題に関連する事例を扱っていたか。 以上の設問に受講者が答えたところ、約 90%の教師が、トレーニングを受けた結果、「素晴らしい」「満足」 と評価している。また、州ごとによるトレーニングの結果も同様に、約 90%の教師がトレーニングに満足し ているという結果になった 17 。 表1 表 2 教師トレーニング地方別結果 教師トレーニングの調査結果 カンボジア文書センターのウェブサイト(http://www.dccam.org/)。閲覧日:2010 年 12 月 26 日。 16 同上。 17 同上。閲覧日:2011 年 1 月 2 日。 15 12 (表 1・2 いずれも DC-CAM Teacher Training Survey 2010 より) 2-2 副読本の内容 副読本は、クメール・ルージュが誕生してから民主カンプチア(ポル・ポト政権)崩壊までを 70 ページ余 り、11 章で描く構成となっている。章内のところどころに、その内容に関係ある経験者の回想録が入る。本 節では、副読本の構成内容を検証していきたい。 2-2-1 クメール・ルージュ誕生から政権開始まで(第 1 章~3 章) 第 1 章には大まかな概要が記されており、正確には第 2 章から本題に入る。第 2 章は、クメール人民 革命党、カンボジア労働党、カンボジア共産党というように党史に絡ませてポル・ポトが党内で権力を握る 過程、カンボジアを取り巻く環境を説明している。 第 3 章では 1975 年 4 月のプノンペン制圧から都市住民の強制退去の様子を 2 人の回想録を含めて 紹介している。 2-2-2 民主カンプチアの基本体系(第 4 章・5 章) 民主カンプチアにおける国旗や国歌、権力図、議会、行政地区の管轄といった基本概要について述 べられている。また、シハヌークの民主カンプチアの誕生後の帰国、国家元首の辞任から幽閉まで書か れている。その中で、シハヌークが中国とクメール・ルージュとの利害一致でクメール・ルージュに協力し たこと、王室関係者おいて、少なくとも 7 人が S-21 で粛清されたことが記されている。現在でも、圧倒的な 人気のあるシハヌークがクメール・ルージュによって操られていたことが描かれている。 2-2-3 4カ年計画(第 6 章) これは、本論文の第 3 章 3-1 で説明した農業を基盤とした民主カンプチアの行動指針となった計画の ことである。しかし、カンボジアは戦争の爆撃による土地の荒廃、仮に荒廃がなくとも政府が示した生産量 はキャパシティーをはるかにオーバーしていること、また生産したコメは軍、工場労働者、社会主義圏に 輸出されたために、国民の多くにはあまり行き渡らなかったとされている。 13 2-2-4 民主カンプチア時代の生活(第 7 章) 政府が国民のすべての行動を制限していたこと。その中における人民の区別、結婚、子どもの教育、 労働、粛清という順序で生活の様子を描いている。特に結婚や子どもの教育、粛清に関しての記述が多 い。恋愛や教育の禁止といった現代の自分の置かれている立場と比較することで、親近感を出させてい るように感じる。 2-2-5 セキュリティーシステムと S-21(第 8 章・9 章) 第 8 章では民主カンプチア内におけるセキュリティーシステムについて述べている。この中で、オン カー 18 の内部の敵と外部の敵を詳細に説明している。内部の敵は、新人民、クメール共和国(ロン・ノル政 権)の関係者、少数民族(高地民、シャムのムスリム)、ベトナム人、華僑、知識人、反逆者。外部は、アメリ カ、タイ、ベトナムやソ連を敵とみなしていた。民主カンプチア時代に多くとも 50 万人が粛清されたとして いる。 第 9 章は、S-21(トゥール・スラエン)に関して記述している。S-21 は 1976 年半ばに設立され、およそ 14000 名が収容されていたが、1979 年の民主カンプチア崩壊の際に生存していたのは、わずか 12 名 19 だけであるという。一度入れられたら、二度と戻ってこられない収容所であった。記述には、建物、独房の 構図、収容者の生活、所内の規定・組織図、拷問、粛清など、細かく書かれている。 2-2-6 対外関係と政権崩壊まで(第 10 章・11 章・まとめ) 第 10 章では、対外関係、特にベトナムとの関係を述べている。民主カンプチアは中国、北朝鮮、ベト ナム、ラオス、キューバ、ルーマニア、ユーゴスラヴィア、アルバニア、エジプトと国交を結んでいた。大使 館は、中国を除きすべてプノンペンにあった。中国と北朝鮮とは友好的な関係であったがベトナムとは関 係が悪化して、1977 年に民主カンプチア軍がベトナム国境を攻撃して、多くの市民が殺されたとされて いる。そして国交を断絶した。ベトナムとは、国交を断絶したものの、翌年には日本、タイ、香港、マダガス カル、バングラデシュ、シンガポールと関係を結んだ。そこでは、米やゴム、木材、動物製品を輸出して、 逆に武器などを輸入しようとした。特に中国は武器を民主カンプチア政府に提供して、ベトナムに対抗し ようとしていた。 第 11 章は、ポル・ポトの政策には不可能があり、それを最後まで押し通そうしたことにより、東部地区の 反乱を引き起こして、カンプチア救国団結戦線とベトナム軍によって崩壊させられたこと。また、その後の カンボジアの歴史の流れが書かれている。この章において、カンプチア救国団結戦線において、幹部と して、民主カンプチアを倒したフン・センの名前は、後に二人首相制の第二首相になったところでしか 載っていない。 2-3 評価・修正要求 このような内容に対して、政府の見解はどうだろうか。カンボジアの教育省における「民主カンプチアの 歴史」の検討会の議事録内で、カンボジア王立学士院長のソーン・ソムナーンは 1975 年から 79 年まで 18 クメール語で「組織」を意味する。民主カンプチア時代には、クメール・ルージュは、自らを そう呼んでいた。 19 文書によると 12 名だが、実際に生存が確認できたのは 8 名だった[山田 2010: 8-9]。 14 の記述が長すぎることと、人の名前を多く載せすぎている、著者は本当にあった出来事を載せるべきであ り、自分の意見と分析を与えることは避けた方が良いとした。さらに、章のページ数に偏りがあり学校のカリ キュラムを考えたときにバランスが悪いとも述べている。また、カンボジアは現在、国民和解の過程にある ので民主カンプチアに関することを挙げるべきでないと言っている。クオイ・ティアヴィーは、ある場面にお いて、作者が多くの哲学的な意見を用いてポル・ポトをより破壊的に描いているように見えると述べている。 このような批判が集中する中で、教育・青年・スポーツ省の長官のウム・セティー(現在は同省大臣)は、こ れらの内容は副読本としての内容であるので、議論している観点は、すべて教科書に記入してあることに 着目して、これを副読本として認めた 20 。 フン・セン首相の教育アドバイザーであるシアン・ボラットによるDC-CAMに宛てた手紙には、副読本を 評価する一方で 2 つの修正要求をしている。要求箇所は、序章の部分に人民党が現在まで影響力を 持ってきたことを明確に明記すること。また、概要のところにおいては、人民党はクメール・ルージュが起 源ではなく、残虐なポル・ポト政権を倒すために作られたカンプチア救国団結戦線が起源であるので、こ れにそぐわない部分の削除を要求した 21 。しかし、実際のところ、筆者が所持している副読本、VOA Cambodia 22 に掲載されている副読本のファイルを照合してみたが、修正はなされなかったとみられる。 人民党は、今回も残虐なクメール・ルージュを倒して、現在まで国民に強力なサポートをしているというプ ロパガンダ的な要求をしている。現在の、ほとんどすべての行政部署に党の関係者を登用している人民 党の権威主義的状況を考えると、この要求は必然であったともいえる。 3. 在日カンボジア人に対するインタビュー 3-1 在日カンボジア人の意見 フィールドワークとして、在日カンボジア 3 名にポル・ポト時代の出来事から歴史教育についてどう思う かインタビューを行った。3 名ともインドシナ難民として日本やってきた 1 世である。 A 氏は、1985 年に来日して、現在、日本に在住しながらカンボジアで NGO を立ち上げ、学校建設な どの援助をしている。年に数回カンボジアを行き来している。 B 氏は、1984 年に来日して、現在、自動車部品の製造会社で働いている。 C 氏は、1984 年に来日して、現在、製造会社で働いている。 質問内容は 5 つで、①カンボジアにいた頃の生活②クメール・ルージュについて(クメール・ルージュは 何がどう悪いか)、③現在行っている歴史教育の内容をどう思っているのか、④カンボジア特別法廷をどう 思うか、⑤国民和解は成しえるか、というインタビューを行った。 ① カンボジアにいた頃の生活 A氏 カンボジア文書センターのウェブサイト(http://www.dccam.org/)。閲覧日:2011 年 1 月 3 日。 21 同上。 22 The Voice of America は 1942 年に設立されたアメリカ合衆国が運営する放送局。冷戦期には 東側諸国に対してプロパガンダ的な放送もしていた。カンボジアに対しては、ポル・ポト政権期 以前から放送しており、現在は web サイトでカンボジア特別法廷などの情報も流している。 20 15 ポル・ポト時代に入る前は、プノンペンに住んでおり、高校に進学を控えていたが、ポル・ポト時代に 入ったために進学はできなかった。当時のロン・ノル政権に対しては、汚職が蔓延しておりかなり失望をし ていた。またプノンペン近くにおいて、アメリカ軍の爆撃があったため恐怖を感じていた。 B氏 5 人家族でプノンペンに住んでいた。比較的富裕層な家庭で、兄は、大阪万博のカンボジア館 のパビリオンの館長を務めていた。ロン・ノル政権についての印象は、悪くはない。アメリカな どの外部要因が戦争を起こしている。クメール・ルージュについては、共産主義を押していたの で、「平等」という観点から富裕的地位にいた B 氏の家族は「怖い」イメージを持っていた。 C氏 ポル・ポト時代の前は、プノンペンに住んでいた。ロン・ノル政権は、汚職が激しいという印象を持ってい た。クメール・ルージュはロン・ノル政権のように汚職はないという期待はしていた。 ② クメール・ルージュについて(クメール・ルージュは何がどう悪いか) A氏 クメール・ルージュは、最初は規律正しく、汚職などはしないと思っていたので悪いとは思っていなかっ た。しかし、政権を握ってからは一転した。強制移住、教育、家族、経済・・・すべてを禁止したことに対し て失望した、何よりカンボジア人が同じカンボジア人を殺すことが信じられなかった。 B氏 クメール・ルージュは、首尾一貫しない言動。新人民にだけ重労働を強制すること、また、密告によって 無実の罪で殺すこと、クメール・ルージュを「うらむ」。 C氏 強制移住をさせられた時に、人を殺しているクメール・ルージュ兵を見て失望。また、過酷な強制労働や 親戚をクメール・ルージュに殺されたことからもクメール・ルージュは「最悪」だと思っている。 ③ 現在行っている歴史教育の内容をどう思っているのか A氏 読んだことはあるが悪くはない。しかし、副読本としての機能しかないために、歴史を通して学ぶようで はない。クメール・ルージュが誕生する部分が不十分。そのため、教科書にこの流れを組み込む方がわか りやいのではないか。 B氏 やるべき。歴史を忘れないために。同じ過ちを繰り返さないために。 C氏 やらないといけない。歴史を繰り返さないために。日本においても太平洋戦争についてのことを教えて いるように、カンボジアも教えるべき。 ④ カンボジア特別法廷をどう思うか。 A氏 16 無駄である。資金がかかる。汚職も激しく失望している。また、ポル・ポトに多くの責任があるのに、その ポル・ポトがいないことで、何の意味があるのか。また、ECCC の場合、シハヌークへの責任もぶつかって しまい、再び内戦がおこる危機があるため、フン・センはシハヌークを庇うために反対した。国民は関心が あまり向いていない。カンボジアをめちゃくちゃにしたアメリカ、中国、ソ連がポル・ポトに責任をなすりつけ ようとしている。カンボジア問題に関与した国々に責任はないのか。 B氏 意味がない。時間が空いているから。首謀者(ポル・ポト)は死亡している。 ポル・ポトに責任がある。クメール・ルージュ兵は、他人を殺さないと自分の命が危ない。子ども が犯した罪は親が責任を負うように、政治も国家のトップが責任を負うべき。 C氏 意味ない。時間が空き過ぎている。お金が無駄である。 ⑤ 国民和解は成しえるか A氏 難しい。お互いの傷が深すぎるので、曖昧なまま生活するしかない。若い世代かが 0 からスタートするこ とを望む。そのためには、歴史教育は必要。 B氏 難しい。まだ段階的なことなので達成できるかは未知。 C氏 難しい。時間が経ち過ぎている。 3-2 インタビューを行って インタビューを行って、歴史教育再開に関しては、一定の理解をしていることは、筆者として大きな期待 を感じた。3 者とも歴史教育は行うべきであるという答えを持っていた。しかし、歴史教育と国民和解との結 び付きは弱いのではないかと筆者は感じた。歴史教育は国民和解を促進させるということより、同じ過ちを 繰り返さないためという見方が強い印象を受けた。また、クメール・ルージュの何が悪いのかという問いに は、虐殺を行ったこと。また、政策への失望も挙げられていた。 特に、筆者を驚かせたのは、カンボジア特別法廷(ECCC)に関しての見解だ。A 氏をはじめとする 3 名 とも無駄であるという見解を持っている。筆者がインタビューを行った方々は、新人民である。なぜ、自分 たちを苦しめたクメール・ルージュを裁くことに批判的なのか。一つは、時間の問題である。政権崩壊から 30 年も経っており、政権トップであったポル・ポトが死亡していることには、意味がないという。人民党によ る汚職も国民の関心を落としている。また、A 氏の言うシハヌークとアメリカなどの国際社会の責任につい ての考えは筆者の関心を引いた。シハヌークは確かに、民主カンプチアが建国されてカンボジアに帰国 して国家元首を辞任するまでは、政権のトップとされていた。しかし、シハヌークには責任はないように筆 者は考える。シハヌークは、ロン・ノル政権に対しての反政府勢力の象徴として名前をおいていただけで あり、事実上のトップはポル・ポトであり、虐殺には何も関与していない。このような問題が山積している中、 裁判は、果たして国民和解に貢献できるのか。今後の動向を追うことが必要であると筆者は考える。 17 終章 これからの歴史教育の展望 2010 年にポル・ポト時代の歴史教育が開始された。現在、学校で教えられているために最終的な評価 をすることはできないが、カンボジア史はおろか世界史に名を残すことになった、カンボジア大虐殺を習う ことは、再びこのような惨事を繰り返さないためにも重要である。 本論文で、筆者は、なぜ、今までポル・ポト時代の歴史教育をしてこなかったのかという問題に対して、仮 説を立てた。それを検証した結果、政治的利害との結びつきが強いのではないかと考える。この理由とし て、1979 年から現在まで続く人民党による政治的権力の掌握、カンボジア人へのインタビューによる ECCC への意義の揺らぎ、また、歴史教育は国民和解を促進させるということより、同じ過ちを繰り返さな いためという見方が強いことが挙げられる。人民党はポル・ポト時代の歴史教育を、ヘン・サムリン時代に はプロパガンダ的、UNTAC 統治以降は、対立回避の手法として、現在の副読本にはプロパガンダ的記 述を DC-CAM に要求していたことからも、自らの利害の道具として用いている。また、和解をめぐる取り組 みとして行われている ECCC は、汚職や時間の経過といった問題からカンボジア国民から疑念を持たれ つつあること。ECCC への関心の薄れから歴史教育は、和解のためではなく、歴史としての位置づけが強 いことが言える。現在のところカンボジアの政変は安定しているが、政治状況に応じて歴史教育を中止が 懸念された場合に、DC-CAM をはじめとする NGO または国際社会が連携を強めて継続するように圧力 をかけることも必要となってくる。 現在のカンボジアは、2000 年から 2006 年までの GDP の成長率は平均 9.2%で、一人当たりの GDP は 288 ドルから 506 ドルへと急成長している。GDP の成長とは反対に貧困層と富裕層との 格差が広がっている。人口の 7 割が一日 2 ドル以下の生活を強いられているのも現実である。貧 困に加えて、土地登記の問題、地雷も今もなおカンボジアに影響を及ぼしている[山田 2008: 51-65]。貧困や学校へのアクセスの悪さによって、農村部では初等教育のうちにドロップアウト してしまい、カンボジアの歴史とは疎遠になってしまうことも少なくない。こういった問題から も政府には、自らの利害に応じた政治を行うのではなく、国民のために政治を行うべきである。 この歴史教育を通して次世代の若者が歴史と向き合い、沈黙を保ってきた大人が真実と向き合う きっかけになれば良いと筆者は考える。序章で述べた通り、本論文の課題として、歴史教育に関 する部分の大半が DC-CAM からのデータであり、他文献との比較検討ができなかったこと、 フィールドワークの対象が国内に限定され、現地にいる様々な立場の人の意見を聞くことができ なかったことがあげられる。次に機会があれば、これらの作業を行ってみたい。最後に、本論文 の作成に協力していただいた方々に感謝したい。 18 参考文献リスト 天川直子編 (2004)『カンボジア新時代』アジア経済研究所 Dy, Khamboly. (2007) A History of Democratic Kampuchea (1975-1979). Phnom Penh: Documentation Center of Cambodia. ― . (2008) “Teaching Genocide in Cambodia Challenges, Analyses, and Recommendations.” (http://www.dccam.org/Projects/Genocide/Boly_Teaching_Genocide_in_Cambodia1.pdf) ヘダー, スティーブ、ブライアン・D・ティットモア (2005)『カンボジア大虐殺は裁けるか:ク メール・ルージュ国際法廷への道』現代人文社 井上恭介・藤下超 (2001)『なぜ同胞を殺したのか:ポル・ポト-堕ちたユートピアの夢』NHK 出 版 永瀬一哉 (2010)『気が付けば国境、ポル・ポト、秘密基地:ポル・ポト派地下放送アナウンサー の半生』アドバンテージサーバー 丸山庸雄 (1992)『キーワードで追うカンボジア紛争 増補版』梨の木舎 ノロドム・シアヌーク (1980)『シアヌーク回想録:戦争・・・そして希望』中央公論社 小倉貞男 (1993)『ポル・ポト派とは?』岩波ブックレット 上田広美・岡田智子編著 (2006)『カンボジアを知るための 60 章』明石書店 山田寛 (2004)『ポル・ポト〈革命〉史:虐殺と破壊の四年間』講談社・選書・メチエ 山田裕史 (2008)「カンボジア」広瀬佳一・小笠原高雪・上杉勇司編著『ユーラシアの紛争と平和』 明石書店、51~66 頁 ―. (2009)「カンボジア人民党の特質とその変容(1979~2008 年)」上智大学アジア文化研究 所 Monograph Series 2009 No.4 ―. (2010)「トゥール・スレーン刑務所(S-21)とは」 (2010 年 10 月 23 日、立教大学 AIIC 公開講演会「ポル・ポト時代の大虐殺、癒えない傷、和解への道:トゥール・スレーン収容 所生き証人の訴えとカンボジア NGO による草の根平和づくり』配布資料」 参考 HP アジア動向データベース (2010/12/23) Documentation Center of Cambodia HP (2011/1/2) http://www.dccam.org/ JICA HP (2010/12/24) http://www.jica.go.jp/index.html VOA Cambodia HP (2010/12/19) http://www.voanews.com/khmer-english/news/special-reports/politics/Democratic-kampuchea -90092047.html 参考資料 1 教育・青年・スポーツ省発行の社会科教科書『社会科 9 年生』2000 年度版、169 ページ 2 教育・青年・スポーツ省発行の社会科教科書『社会科 12 年生』2009 年度版、223~228 ペー 19 ジ 20