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282 獨島硏究 제20호 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 朴 炳 渉* <目 次> 1.はじめに 2.第1章 「于山島は独島なのか」 3.第2章「17世紀に領有権は確立したか」 4.第3章「元禄竹島一件」 5.第4章「空白の200年」 6.第5章「古地図に見る竹島」 7.第6章「竹島の日本領編入」 8.第7章「サンフランシスコ平和条約と政府見解の応酬」 9.おわりに 【要約】 1) 表題に記した本は, 池内敏が4年前に発刊した論文集 竹島問題とは何か(前書と称 す)を発展させ, かつ一般向けにわかりやすく書いたものである。 新しい論考として日韓 両国がそれぞれ発行したパンフレットへの批判, 「近代日本の海図と水路誌」, 1950年代 の日韓両国間の領有権論争, 「固有の領土」論などが追加された。 今回の本は前書同様, 近代前期までは日韓両国ともに独島の領有権を確立したことが ないと主張する。 日本の場合,元禄竹島一件, 天保竹島一件, 明治太政官指令によって日 本は独島の領有を放棄したという。 この論証は中央 · 地方を問わず幅広い史料にもとづ いて展開された。 一方, 朝鮮史料の分析は木村幹が指摘したように日本史料のそれに比べると大きな落 差があり, 問題が多い。 中でも官撰書 春官志の分析は内容の理解のみならず, 池内が * 日本 竹島=独島問題研究ネット 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 283 重視する文献史学のうえからも疑問である。 また, 池内は今回もリスクをおかしてサンフランシスコ講和条約など現代史も扱った。 前書に対して木村幹が先行研究の検討が不充分であると指摘したが, その批判は今回の 著書に充分生かされなかったようである。 特に米英共同草案に対しては誤解しているよう であり, それにもとづいて導き出された結論は疑問である。 キーワード : 独島, 于山島, 石島, リヤンコ, 竹島, 松島, 春官志, サンフランシスコ講 和条約, 元禄竹島一件 1.はじめに 日韓両国において独島(日本名, 竹島)に関する書物はあふれるほど発刊 されているが, 必ずしも独島に関する理解はあまり進んでいない。 その一 例として朴裕河の論説をあげることができる。 朴裕河は2012年に論説 「和 解のために」にて安龍福の渡日事件を取りあげ, 「その頃[1696年], 安龍福 が現れ, ありもしない職名を詐称して欝陵島と于山島を監視しにきたと称 する事件が起こった。 このとき彼が口にした于山島というのは竹嶼島であっ たとみるべきだが, 彼のこの錯覚が江戸幕府と朝鮮の間の領土認識を混乱 させる原因となった」と記した。1) この短い文章に多くの誤りを見つけることができる。 安龍福は隠岐の代 官手代に渡日目的を竹島(欝陵島)訴訟であるとしている。 また, 安龍福は 子山島(于山島)を実見したうえで子山島と欝陵島との間の距離を50里 (200km)と語ったのであり, 決して子山島を竹嶼と錯覚していない。 さらに 重要なのは, 彼の渡日によって朝鮮領の子山島は日本の松島, 欝陵島は竹 島であるという領土認識を日朝両国に植え, むしろ混乱が収まったのであ る。 朴裕河のように十年近くも独島問題を注視してそれに関する論説を書い 1) 朴裕河, 「和解のために」 atプラス 14号, 2012, 82頁。この論説は, 朴裕河 和解の ために 平凡社, 2006(韓国語の原本は2005)を一部修正して再録したものである。 この本は 2007年に朝日新聞社から「大佛次郎論壇賞」を受賞し, 日本で高く評価された。 284 獨島硏究 제20호 てきた者すら上のような誤解をおかすのであるが, それほど独島問題は複 雑で理解は容易でない。 そのため, 一般にわかりやすく, しかも領土ナ ショナリズムにとらわれない適切な解説書の発行が待望されていた。 こうした時期に発刊されたのが, 池内敏 竹島-もうひとつの日韓関係 史(竹島と略す)である。2) 同書は竹島=独島問題を16世紀から説き起こ し, 江戸幕府および明治政府あわせて三度にわたる領有権放棄, 1905年の 日本領編入, 1951年のサンフランシスコ講和条約での扱いなど現代に至る 歴史に関して両国の主張を逐一検証するものである。 池内は2012年にそれ までの論文を中心に 竹島問題とは何か(前書と称す)を発刊したが, 今回 の 竹島はその後に発表した論文および新しい知見を追加して一般向け に読みやすく書いたものである。 そのため, 注はほとんど省略して前書を 参照するよう求めている。 したがって, 本稿で 竹島を論評するにあたっ て必要に応じて前書を引用する。 前書で展開した池内の独島問題に対する 核心的な理解は, 木村幹によれば次のとおりである。3) 結局, 前近代における竹島[独島]を巡る状況は日韓両国のどちらかがこ れを有効に支配したと言えるような状況ではなく, 少なくとも, 従来の議 論はその爲の有効な歴史的史料を示しえていない。 だからこそ, 19世紀以 前における竹島は国際法の言う「無主地」つまり, 如何なる国家も領有して いない土地であると判断されるべきである, という事になる。 だからこそ著者[池内]は, 竹島について1905年の閣議決定を以て日本の 「無主地先取」が成立し得るという結論に至る事になる。 何故なら, 1905年 以降において竹島が日本によって支配された事は誰の目にも明らかだか らである。 とはいえ, ここでこのような著者の結論が, あくまで 「條件づき」 2) 3) 池内敏, 竹島-もうひとつの日韓関係史, 中公新書, 2016(新書版9+264쪽)。 木村幹, 「池内敏著 竹島問題とは何か」 東洋史研究 72巻4号, 2014, 110頁。 旧漢字 や難読漢字は新漢字やひらがなに直した。以下同様である。 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 285 のものとして示されている事は見落とされてはならない。 日本による 「無 主地先取」が成立する爲には, それ以前に竹島が他国によって有効に支配 されていない事が絶対條件である。 この要約は的確であろう。 次に, 木村は, 池内が20世紀以降の対日講和 条約の締結過程まで論じたことに驚き, 「著者は敢えて大きなリスクを犯 しており, その勇気には拍手を送りたい」と記すが, これはよもや褒め殺し ではあるまい。 この褒め言葉の直後, 木村は 「最も重要な事は, 前近代に 関わる分析においては日本国内に存在する多様な史料を用いた史料間の 相互検証が綿密に行われているのに対し, 20世紀以降, 特に第二次世界大 戦以後に関わる部分においては, 既知の限定された数の史料の内容が整理 されているに過ぎず, 表面的な分析となっている」「膨大な研究がなされて いる, 講和條約に至るまでの過程についての先行研究の検討も不十分であ り, いささか不十分な感を否む事はできない」として池内を批判した。 その一方, 木村は池内が専門とする近世日本史の研究に対しては, 「日 本側の史料については, 中央所在の文献のみならず, 鳥取藩や對馬藩, 更 には松江藩等に関わる文献をも数多く利用して書かれており, しかも, そ のかなりの部分は本書或いは本書の元になった著者の論文においてはじ めて紹介されたものになっている」と絶賛する。 それに引きかえ, 韓国史 料の研究に対しては「その大半が既に先行研究において触れられたものと なっており, 特段の史料的新しさは存在しない。 むしろ, この点における 著者の分析は, 韓国側の文献やその解釈の信憑性を日本側の史料により検 討する事に重きが置かれているように見える」と記し, 韓国史料の研究に 大きな落差があることを指摘するのであった。 本稿は, 池内が竹島にて この二つの批判にどう答えたのか注目することにする。 一方, 本稿では池内の論考をとおして日本における最近の論争の状況も 紹介することにする。 日本国内で独島問題をめぐり激しい論争が繰りひろ 286 獨島硏究 제20호 げられており, その帰趨は独島問題の行方に大きな影響を与えよう。 なお, 本稿の引用文において( )は原文のままであり, 筆者の注は[ ]に入れる。 2.第1章 「于山島は独島なのか」 竹島の第1章は, 韓国外交部のパンフレット韓国の美しい島 独島に 記された于山島に対する批判である。 同パンフレットは, 独島は天気の 良い日に欝陵島から見えるので欝陵島の一部として認識され, 世宗実録 地理誌(1454)に于山島の名で記されたのみならず, 512年に新羅に服属した 于山国の領土として記録されたと記した。 さらに同パンフレットは, 独島 の記録は 新増東国輿地勝覧(1531)や東国文献備考(1770), 萬機要覧 (1808), 増補文献備考(1908)などの官撰書に一貫して書き継がれ, 中でも 東国文献備考, 萬機要覧などには「輿地志では, 欝陵と于山はいずれも 于山国の地であり, 于山は日本でいう松島だとしている」と記述されたと 記した。 これに対して池内は韓国の文献に現れる于山島·于山の事例を列挙し, まず 世宗実録以前の官撰書7点にて于山はすべて欝陵島のことであると した。 次に池内は世宗実録地理志(1432)に書かれた于山島を取りあげた。 同書は「于山島と武陵島の二つの島は, 蔚珍県の真東の海中にあり。〔割 注〕二島はお互いにさほど遠く離れてはおらず, 天気がよければ眺めるこ とかできる」と記述した。 この于山·武陵二島は独島と欝陵島とみなされ てきたが, これに異論をとなえたのが下條正男と川上健三である。 池内は この二人の説が成りたたないことを示した。 まず, 下條正男であるが, 下條はうえの割注で述べているのは, 二島相 互の間隔·距離についてではなく, 地理誌作成の規式(調査基準)に準拠し て朝鮮半島本土と二島の間隔·距離とみるべきであり, 二島に関する記述 は二島が陸地から見えると解釈すべきであると主張した。 この場合, 于山 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 287 は独島とみなせないのである。 これに対し, 池内は下條説には四つの難点 があり, 二島が陸地から見えるというのは「史料解釈としてはあまりに無 謀である」とした。 また, 規式については最古の地理書慶尚道地理志(1425) ではそれに従ったが, 世宗実録地理志では規式は必ずしも機能しないこ とを具体的に京畿道南陽都督府の島々で例示した。 次に, 池内は川上健三の恣意的な解釈に反論した。 川上は, 高麗史地 理志においては「欝陵島は于山国である」という記述を重視して異説とし ての「一説には于山と武陵はもとは二島であり, お互いにさほど遠く離れ ておらず, 天気がよければ眺めることができる」を無視する一方, 新増東 国輿地勝覧においては見出し「于山島, 欝陵島」について書かれた割注「二 島は蔚珍県の真東の海上にある」を無視して異説として挙げられた記述「 一説于山·欝陵本一島」を重視した。 これに対して池内は「川上の態度は自 らの見解に都合のよい記述に着目して選び出すという, いささか恣意的な 解釈であり, 到底受容できない」と厳しく批判した。 下條, 川上説が否定さ れれば, 世宗実録地理誌の于山島は独島であるという従来の解釈は問題 ないことになる。 池内は引きつづき世宗実録地理志以後に于山島·于山を記述した事 例として官撰書を9点4), 私撰書を7点ほど例示し5), 于山の用法を検討した。 池内は「事例を網羅」したと記したが, 私撰書は網羅からもれた史料が多 い。 たとえば, 東国輿地志, 東国地理志, 雑同散異, 陟州誌, 輿地図 書, 輿図備志, 大東地誌, 大韓地誌などがもれている。 また, 地方誌 なども抜けている。 池内がどのような基準で私撰書を取捨選択したのか疑 問である。 それ以前に, 朝鮮政府の認識とは直接関係ない個々人の私撰書 を列挙するのは, どのような意図なのか疑問である。 私撰書でも官撰書の 4) 5) 高麗史 地理誌, 世祖実録 巻7, 新増東国輿地勝覧, 粛宗実録 巻30, 春官志, 東国文献備考, 萬機要覧, 高宗実録 巻19, 増補文献備考. 芝峯類説, 星湖僿説, 水道提綱, 疆界考, 海東繹史考, 五洲衍文長箋散稿, 大韓地誌. 288 獨島硏究 제20호 編纂にあたった人物やその学派の私撰書ならその官撰書を理解する補助 手段として役立つが, それ以外の私撰書を分析するのは議論を紛れさせる だけであろう。 官撰書であるが, ここで問題なのは春官志および高宗実録である。 まず春官志を検討しよう。 春官志は礼曹の記録集であり, 写本のみが 伝わる。 同書は王命により李盟休が礼曹に伝わる記録を編纂して稿本を 完成し, その後に何度か修正されたが, 刊行はされなかった。 池内を始め 多くの研究者は春官志の成立を1744年としたが6), 同年は李盟休が編纂 の王命を受けた年であり, 初稿の完成は1745年9月とされる。7) 池内は同書 の文中に「一説では, 于山と鬱陵はもとは一つの島であった」「于山も羽陵 も蔚陵も武陵も磯竹も, みな発音が訛伝してそのようになったのである」 と記されたことから, 下條正男と同様に春官志でも「于山は鬱陵島のこ とである」と主張した。 しかし, 池内や下條の引用は史料の一部のみを引 用して他の関連部分を無視するなど, 史料の扱い方が疑問である。 具体的にいうと, うえの一節が記載されたのは奎章閣に所蔵された春 官志8)(写本Aと称する)第3巻の付録「欝陵島争界」の前段である。 その前段 には壬辰乱=文禄の役(1592)ころまでの欝陵島の歴史が記された。 その当 時の朝鮮の「于山」に関する認識は曖昧であり, 「于山国」と「于山島」の区別 が充分なされなかった。 写本Aは前段に続いて本論の欝陵島争界(元禄竹島 一件)における日朝交渉や安龍福事件を記述したが, 下條や池内はそこに 登場する芋山島には言及がない。 そこに「芋山島」はこう記された。 [欝陵島にて]龍福ひとり前に出て憤罵して「なぜ我が境域を犯すのか」と 6) 7) 8) 宋炳基, 欝陵島 · 独島(竹島)歴史研究 新幹社, 2009, 58頁(注1); 朴炳渉, 「下條正男の 論説を分析する(2)」 獨島研究 7号, 2009, 92頁(日本語), 122頁(韓国語)。 김문식, 「春官志筆写本의 原文比較」 星湖学報 4号, 2007, 287頁。 影印は, 서울大學校奎章閣韓國學研究院, 奎章閣資料叢書官署志篇 春官志, 서울大學 校, 2013。 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 289 いった。 倭人は「本来松島に向かうところであり, まさに去ろうとすると ころである」と答えた。 龍福は追って松島に至り, またののしって「松島は 即ち芋山島, 汝は芋山もまた我が境域なのを知らぬのか」といった。 ここに記された芋山の発音は日韓両国ともに于山と同じ「うさん」であ る。 また, この一節とほぼ同じ内容が 粛宗実録(1696.9.25.条)に記録され たが, そこでは芋山島ではなく「子山島」とされた。 これら安龍福の語った 芋山島(子山島)が独島を指すことは隠岐代官手代が記録した 「村上家文書」, 別名「元禄覚書」からも確認できるが, 池内はこの芋山島には言及せず, 前 段のみを取りあげて「ここでも于山は鬱陵島のことである」と結論づけた。 後に詳述するように池内は「史料の恣意的な切り取り」をおこなったとし て塚本孝を批判したが, 池内の韓国史料の取り扱い方にも疑問が残る。 池 内の春官志に関する分析は下條正男と同様に前段に偏っているうえ, 先 行研究の調査も充分おこなっていない。 下條が春官志にて芋山島を無視 して恣意的な解釈をしたことはすでに朴炳渉により指摘されている。9) さらに, 池内は前述の一節「于山も羽陵も … 」中の「于山」が他の写本に ないことも看過した。 春官志は前述の写本A以外に二種類あり, 詳細な 比較研究がなされている。10) それによると, 星湖記念館が所蔵する写本B は李盟休の家門に伝えられた春官志を底本にし, 内容から判断して1821 年から1890年の間に筆写したと推定される。 写本Bの体裁は8巻であって写 本Aの3巻と異なる他, 冒頭に李盟休による「春官志序」, 巻末に跋文を載せ ている。 ほぼ完成本の写本といえよう。 三番目の写本Cは写本A系統の史 料を底本に筆写し, 昭和19(1944)年に写本B系統の家蔵本をもとに校訂し て朱筆で加筆した。 この校訂者は写本Aよりも写本Bが正しいと考えたの 9) 10) 朴炳渉, 「下條正男の論説を分析する(2)」 獨島研究 7号, 2009, 92-94頁(日本語), 122-124頁(韓國語)。 김문식, 前揭論文, 297頁。 290 獨島硏究 제20호 である。 一方, 写本Aであるが, 筆写には数人の字体がみられる。 また, 筆写後に 多くの修正が施された。 修正の方法は, 原文のうえに重ね書きをしたり, 誤った部分を切り取って新しく修正文の紙を張ったり, 原文の上段に箋紙 を張って修正事項を記入した。 また, 重要な語句には黒い批点を打ったり, 重罪人の名には黒丸をつけるか墨塗りをしており, 刊行目的の底本でない ことが明らかである。 また, 「春官志序」や跋文がなく, 作成時期は李盟休 が初稿を完成した1745年9月以前とされる。 写本Aは明らかに推敲途中の原 稿である。 このように春官志には完成本と推敲途中の写本があるが, 池内が引用 したのは推敲途中の写本Aなので適当でない。 当然, 完成本の写本Bを引用 すべきであろう。 写本Bにて前述の一節は「羽陵欝陵武陵磯竹皆音號転訛」 と記され, 「于山」の文字が削除されている。11) したがって 春官志でも 「于山は鬱陵島のことである」という池内の主張は文献史学の手法からみ ても成り立たないであろう。 一方, 芋山島に関する記事は写本Aでも写本Bでも「松島即芋山島」と一 貫している。 したがって, 1745年ころの芋山島認識はその後も変化がな かったのである。 これは官撰書 東国文献備考に引きつがれ, 同書も「松 島即芋山島」と記した。 さらに東国文献備考は「輿地志にいう。 欝陵も于 山もみな于山国の地である。 于山はすなわち倭のいういわゆる松島であ る」と記し, 倭のいう松島を于山と表記した。 春官志や東国文献備考 にて日本の松島をさすのに于山, 芋山の2種類が使用されたが, この表記の 違いは引用文献の違いによるものであろう。 東国文献備考に記された于 山·芋山の記事はさらに萬機要覧および増補文献備考に転載された。 これに関して堀和生は「増補文献備考が二百年にわたる編纂事業の所産 で, 実録を補完する官製文献であることから, 朝鮮政府が于山島に対して 11) 影印は, 大東文化研究院, 近畿實學淵源諸賢集 第2冊, 成均館大學校, 2002, 413頁。 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 291 領有意識を維持していたことが明らかである」と記した。12) 堀の見解に対して池内は「領有意識の対象となった「于山島」は「于山 島=松島(竹島)」の場合もあれば「于山島=鬱陵島」の場合もあった。 し たがって, 堀のように, (東国)文献備考から増補文献備考に到る時期 に, 朝鮮政府が現在の竹島[独島]に対する領有意識を維持していたと強調 するのは適切ではない」と批判した。 しかし, 安龍福事件後は 春官志を始めとして官撰書に「于山島=鬱陵 島」と記された例はないであろう。 しいていえば 高宗実録に李奎遠の個 人的な見解として登場するが, これは後述する。 どうやら, 池内は私撰書 の中にはそのような記述があることを拡大解釈して堀の主張は成立しな いと主張しているようであるが, 私撰書は十人十色であり, これを官撰書 と同列にみるのは適切ではない。 朝鮮政府の認識は官撰書に表現される のであり, 個々人がいかなる認識を持とうと政府の認識とは直接の関係は ないのである。 次に池内が「1880年代の于山島は現在の竹島[独島]ではない」と主張する 根拠になった高宗実録をみよう。 同書には鬱陵島検察使に任命された李 奎遠が出発前, 1882年4月7日に王を拝謁した記事などが記録された。 李奎 遠は王から鬱陵島に邑を設置するために調査して図形(地図)と別単を提出 するよう命じられたが, その時に芋山島など周辺の島が話題になった。 実 録によると両者は鬱陵島の地理に関して下記のような認識をもっていた。 王 : 鬱陵島(統称)=鬱陵島+松竹島(または松島竹島)+芋山島 李奎遠 : 芋山島=鬱陵島, 松竹島=松島竹島, 芋山は昔の国都の名 この時, 李奎遠が島名としての芋山と, 昔の国都名としての芋山と二種 類あるのを認識していたのは注目される。 ところで, 李奎遠が芋山島=鬱 12) 堀和生, 「一九〇五年日本の竹島領土編入」 朝鮮史研究会論文集 24号, 1987, 100頁。 292 獨島硏究 제20호 陵島という認識を持ったことは特異なことである。 後に池内が分析した ように, ほとんどの地図で鬱陵島と于山島は別々に書かれていたが, 李が それを知らないはずはない。 この李奎遠の認識は当然のごとく, 王の認識 と異なっていた。 王は総称としての鬱陵島は鬱陵島の他に芋山島などを含 むと理解していた。 このように二人の間で芋山島に対する認識が異なった ので, 王は李奎遠に鬱陵島の開発見込みの他にわざわざ鬱陵島周辺の島々 の実状も調査するよう命じた。 翌年, 李奎遠は実際に現地を調査し, 竹島と島項近くにある現在の観音 島との二島を確認して「鬱陵島外図」に記入し, 書契や別単などとあわせて 朝廷へ提出した。 また, 6月5日には王に拝謁した。 その時の話題は実録に よれば鬱陵島の開発方策などが中心であり, 芋山あるいは于山は話題にな らなかった。 わずかに「松島」と書かれた標木が鬱陵島に立てられたことが 話題になった。 これに関し, 王が「日本人が標木を立てて松島と書いたが, 彼らに話をつけなければならない」と述べたところ, 李奎遠は「彼らが立て た標木には松島と書かれてありました。 松島というのは以前から話が詰 められていた所です。 第1次として[公使]花房義質に公簡を送らざるを得ま せん。 また, 日本外務省へ書を送らざるを得ません」と答えた。13) 二人は日 本に抗議することで意見が一致した。 また承政院日記の内容もほぼこれ と同様であり, 芋山あるいは于山に関する話題はなかった。 ほとんど関心 を持たれなかったようである。 しかるに, 池内は「この段階で, 朝鮮政府中央では「于山島=松島=鬱陵 島」なる理解が成立した。 したがって, 少なくとも1880年代の于山島は現 在の竹島ではない」と主張した。 あるいは, 王と李奎遠との間に鬱陵島は 日本のいう松島という理解が成りたったとしても, 于山島=鬱陵島という 13) 高宗実録 1882.6.5. 原文は「敎曰 日人立標 謂之松島 不可無言於彼 奎遠曰 彼立標木 書以松島 松島云者 自前相詰者也 不可無一次公幹 於花房義質處 亦不可無致書於日本外 務省矣」。 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 293 理解が朝鮮政府にて成立したとはみられないであろう。 池内はそのように 考えた根拠として李奎遠欝陵島検察日記を取りあげ, その後半に収めら れた「啓草本」14)を引用した。 そこに「晴れた日に高所に登って遠くを眺望 し, 千里先をも窮めようとしたものの, 石のひとつも土のひとつも見えな かった。 つまり, 于山を欝陵というのは耽羅を済州というのと同じだ」とす る記述があり, これがそのまま国王への復命内容となったと主張した。 池 内はこの復命によって朝鮮政府も于山島=鬱陵島という理解になったと みたようであるが, はたしてそうであろうか?これについて検討する。 池内はこの一節の前段 「松竹·于山などの島を仮住民たちはみな近傍 の小島にあてるが, 根拠となる図籍はなく, また郷導の指的もない」15)とい う内容を無視した。 この文章から李奎遠が于山島は欝陵島近傍にあるとい う現地住民の話を聞いて高所から于山島を探して失敗したことはわかる が, さりとて住民のいう于山島の存在を完全に否定したとみるのは無理で あろう。 さらに, 李奎遠は比喩的に耽羅を持ちだしたが, 耽羅は昔の済州 島にあった国の名前である。 これに対応する于山も昔の欝陵島にあった国 の名前, 于山国になる。16) 出発前の李奎遠は芋山島と昔の国都の名である 芋山を使い分けていたことも考えると, 李奎遠が「于山を欝陵島という」と 記した意味は于山国=欝陵島と解釈される。 したがって, 李奎遠が検察後 も于山島を鬱陵島であるとの認識であったと見るのは疑問である。 また, たとえ李奎遠が于山島は鬱陵島であるとの認識を持ち続けたと仮定して も, 王が考えを変えて同じ認識になったと見るのは論の飛躍である。 まし てや朝鮮政府中央がそのような認識を確立したというのは, さらなる論の 飛躍であり, 史実に反する。 14) 15) 16) 池内や一部の研究者は「啓本草」と記すが, 欝陵島検察日記の原文には「啓草本」と書 かれている。下記文献でも「啓草本」が正しいとされる。이혜은 · 이형근 晩隱 李 奎遠의 鬱陵島検察日記韓国海洋水産開発院, 2006。 原文は, 「松竹于山等島 僑寓諸人皆以傍近小島當之 然旣無圖籍之可據 又無鄕導之指的」。 이혜은 · 이형근, 前掲書の注167, 210頁。 294 獨島硏究 제20호 実際は, 李奎遠の「啓草本」于山認識は官撰書にほとんど影響を与えず, 東国文献備考の改訂版である増補文献備考(1908)は依然として「輿地 志にいう, 欝陵も于山もみな于山国の地, 于山はすなわち倭のいういわゆ る松島である」と記した。 また, 官撰図「大韓全図」(1899)でも「于山」島が欝 陵島とは別々に描かれた。 朝鮮政府中央では于山島=鬱陵島なる理解は成 立しなかったのである。 一方, 朝鮮社会でも于山島=鬱陵島なる認識はなく, 皇城新聞(1899.9.23.) は「蔚珍の東海に一島があり, 鬱陵という。 その附属の小六島の中で最も 顕著なのは于山島竹島である。 大韓地誌によれば, 鬱陵島は古代の于山国 」と記した。17) 皇城新聞も昔の于山国である欝陵島に于山島が付属され たと見たのである。 この記事をもとにしたのか, 朝鮮で内閣補佐官として記録·編纂·官報 事務を監督したとする恒屋盛服は退官後に日本へ帰って朝鮮開化史 (1901)を著したが, 恒屋は同書34頁にて「欝陵島 … 古の于山国なり … 大 小六島あり 其中 著名なるを于山島(日本人は松島と名く)竹島と云ふ」と記 した。 日本でも古の于山国である欝陵島に于山島が付属していると理解 された。 さらにその于山島は日本でいう松島であると理解されたのであ る。 池内のいう于山島=欝陵島という理解は日本にもなかったのである。 第1章の後半は, 地図上の于山島に関してである。 池内は, ① 18世紀初 頭までの朝鮮図では, 鬱陵島の左側にほぼ同じ大きさの于山島が描かれる, ② 18世紀初頭を過ぎると, 鬱陵島の南側や東側, 東北側に, 鬱陵島よりも 小さく于山島が描かれるようになる, ③ 18世紀半ば以後にあっては, 鬱陵 島の東北隅に, 鬱陵島に近接する格好で, 鬱陵島よりはるかに小さな島と して描かれると主張した。 そのうえで, 現代韓国の古地図発達史研究を踏 17) 皇城新聞 1899.9.23., 「鬱陵島事況」。原文は, 「蔚珍之東海에 一島가 有하니 曰 鬱陵 이라 其附屬한 小六島中에 最著者는 于山島 竹島ㅣ니 大韓地誌에 曰 鬱陵島는 古于 山國」。 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 295 まえれば, 「18世紀半ば以後に見える朝鮮全図の于山島には, 実測図に準じ る位置と大きさの正確さが反映されていると見なければならず, その位置 と大きさから判断すれば現在の竹島とは一致しない」と主張した。 しかし, 朝鮮では1882年まで鬱陵島への渡航が禁止されており, そのよ うな状況で鬱陵島近海も「実測図に準じる位置と大きさの正確さが反映」 されることはあり得ない。 日本でも内務省が発刊した大日本府県分轄図 (1881)中の「大日本全国略図」ですら, 竹島と松島は同じような大きさに描 かれ, しかも松島の位置は欝陵島のあたりに, 竹島は朝鮮寄りに書かれた。 19世紀末期になっても日本の官撰図ですら離島は「実測図に準じる位置と 大きさの正確さ」が反映されなかったのである。 朝鮮の古地図では欝陵島 などの大きさや位置は正確さを欠いたが, 確実なのは多くの地図に于山島 が欝陵島と別個に描かれたことである。 これは于山島=欝陵島という見方 が成り立たなかったことを示している。 3. 第2章 「17世紀に領有権は確立したか」 日本政府が竹島=独島を日本固有の領土と主張する根拠は17世紀にお ける大谷·村川家の竹島(欝陵島)渡海事業の付随事項にある。 外務省のパ ンフレット竹島-竹島問題10のポイント」は, 1618年に幕府から竹島渡 海免許を受けた大谷·村川は, 竹島(欝陵島)にての漁業に従事して同島を 独占的に経営する一方, 「竹島[独島]は, 航行の目標として, 途中の船がか り(停泊地)として, また, あしかやあわびの漁獲の好地として自然に利用 されるようになりました」, 「日本は17世紀半ばには竹島[独島]の領有権を 確立しました」と主張した。 さらに, 幕府は1635年に日本人の海外への渡 航を禁じる鎖国令を出したが, 竹島·松島への渡航は禁止されなかったと 付け加えた。 これらに対して池内は次のような反論をおこなった。 296 獨島硏究 제20호 ① 外務省は渡海免許の発給年を1618年として1625年も一説として紹介す るが, 1618年はあり得ない。 これは学問の研究成果を無視したものである。 ② 外務省は竹島(欝陵島)渡海事業の違法性にふれていないが, 17世紀 初頭の江戸幕府, 対馬藩は竹島(鬱陵島)を日本人の渡航·居住が禁止され た朝鮮領であると確認していた。 ③ 外務省は竹島(独島)を「あしかやあわびの漁獲の好地」とするが, 実は 「漁獲物は家の再生産を保障しうる量にはほど遠かった」のである。 ④ 竹島(独島)は「自然に利用」されたものにすぎないし, 主目的は漁業で はない。 なのに, 外務省は「17世紀半ばには, 竹島[独島]の領有権を確立」し たというが, これでは「論の飛躍は覆いがたい」。 なぜ, 17世紀半ばなのか の説明がまったくない。 ⑤ いわゆる「鎖国令」は長崎奉行に宛てられた単なる職務内容の確認書 面であり, 外務省の説明は「鎖国令」研究を無視した誤りである。 上の指摘は的確である。 上記④にて外務省の説明が不充分, あるいは論 の飛躍があるのは, 外務省が基本資料にした川上健三竹島の歴史地理学 的研究の主張を外務省が取捨選択した結果であろう。 同書にて川上は17 世紀半ばに「松島[独島]に対しても, 竹島の場合と同じく大谷·村川両家が 幕府から渡海免許を受けた」と主張していた。 外務省もかつては韓国政府 へ送った「日本政府見解3」および「日本政府見解4」にて川上説にした がって「松島渡海免許」なるものを日本が竹島(独島)の領有権を確立したと する主張の最も有力な根拠にした。 ところが, 最近の外務省は有力な根拠 のはずの松島渡海免許にまったく言及しなくなった。 そのために論の飛躍 は覆いがたいものになってしまったのである。 外務省が川上の松島(独島)渡海免許説に言及しなくなった理由は, それ を塚本孝が否定し, 次いで池内が否定したためであろう。18) 塚本は「松島 18) 池内敏 「竹島渡海と鳥取藩」 鳥取地域史研究 第1号, 1999, 38頁。 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 297 (今日の竹島)については“竹島”[欝陵島]の場合のような渡海許可の公文書は 残っていない(恐らく発出されなかった)」と記して免許を否定した。19) た だし, 最近の塚本は変説したのか, 大谷·村川家の世話をしていた阿倍四 郎五郎の家来, 亀山庄左衛門から大谷九右衛門勝実に宛てた書状(1660年) に, 「来年から大谷船が松島[独島]へ渡海することにつき四郎五郎が老中の 内意を得たとあるので, 記録上, 1661年以降は, 今日の竹島についても幕府 の公認の下で渡航していたことがわかる」, 「同島[独島]についても, 1661年 以降は幕府の許可を得て漁を行っていた」と記した。20) 塚本はかつての外 務省や川上が主張した松島(独島)渡海免許という語を「幕府の許可」に置き 換えたのである。 これについて池内は次のように反論した。 塚本が「老中の内意」を強調することには大きな違和感がある。 「内意」は 先述したように大谷家·村川家両家の松島(竹島)渡海の調整作業に関わる 意向のことである。 百歩譲って仮にそれを幕府による松島(竹島)渡海の公 認に関わる行為であったとしよう。 しかしながら,それはあくまでも幕府決 定でも免許でもない老中の「内意」である。 それは同業他者を排除したい民 間人にとって権威づけとなる効果を持ったことは容易に想像がつくが,名 前も明らかにならない某老中の「内意」をもって「幕府の公認」「幕府の許可」 とするのは暴論である。 おまけにこの史料にいう「内意」それ自体が, ひょっとすると阿部四郎五郎正之の裁量でそのように述べたにすぎない 架空の作為である可能性すら否定できないことは, 川上自身が述べている。 川上健三ですら実際にあったのかどうか疑いを持つような「老中の内意」 を塚本は何ら検証することなく事実として受け入れ, さらに拡大解釈して 「幕府の許可」があったと断言した。 これに対し, 池内は「空疎な史料解釈 19) 20) 塚本孝 「竹島領有権問題の経緯」 調査と情報 244号, 1994, 1-2頁。 第3期竹島問題研究会編竹島問題100問100答ワック,2014,142および184頁。 298 獨島硏究 제20호 で外務省見解の穴埋め」をおこなっていると塚本を批判した。 結論として池内は「今日の竹島[独島]への渡海について幕府から公式の 許認可があったことは, 論証不可能であり, 「17世紀半ばには, 竹島[独島]の 領有権を確立しました」とする日本政府(外務省)見解は, その立論の基幹部 分で致命的な弱点を抱えているのである」と記した。 この結論は今日では ほぼ定説になっているといっても過言ではないようである。 塚本孝ですら 「17世紀の松島(今日の竹島)での漁猟は幕府が特に許可したものであるた め, 国家権能の表示[主権行為]の一つの証拠になり得る」と記すものの21), 17世紀に「領土権の確立」がなされたなどとは決していわない。 ましてや塚 本のいう「幕府の松島渡海許可」が暴論となれば, 外務省の「領土権の確立」 に関する主張も暴論となる。 4. 第3章 「元禄竹島一件」 1) 元禄竹島渡海禁止令 元禄竹島一件とは1693年に日本漁民が欝陵島で安龍福を連行したこと に始まる日朝交渉, 朝鮮史書にいう欝陵島争界のことである。 交渉は竹島 (欝陵島)の領有権をめぐって難航した。 この過程で幕府は鳥取藩へ竹島(欝 陵島)の所属を問い合わせたところ, 鳥取藩は竹島·松島は鳥取藩の所属 ではないと回答した。 また, 幕府の追加質問に「松島は[日本の]いずれの国 にも付属しないことを承っています」と返答した。 そのため, 幕府は竹島 (欝陵島)を朝鮮領と判断し, 1696年に1月に竹島渡海禁止令を鳥取藩などへ 言い渡した。 この禁止令が松島(独島)にふれなかたので, その解釈をめぐって日本で 21) 塚本孝, 「日本は, 竹島をいつ頃からどのように利用してきたのか」 WiLL 2014.3, 143頁。 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 299 は古くから論争が続いてきた。 川上健三や, 彼の主張に従った外務省や塚 本孝らは松島への渡海は禁止されず, 当時から松島(独島)は日本領と考え られてきたと主張した。 これに対して池内は, 禁止令が鳥取藩の回答, す なわち松島(独島)は鳥取藩領ではないという回答を踏まえて出されたの で, 禁令の文面上に明記されなくても松島渡海禁止が含意されていると主 張した。 さらに池内は松島(独島)の活用は竹島(鬱陵島)の活用と切り離し ては成立せず, 竹島渡海が禁止されれば松島渡海は存立しえなかったので あり, 元禄竹島渡海禁令によって, 日本人の竹島(鬱陵島)·松島(独島)への 渡海事業は, 幕府すなわち当時の日本政府中央によって明確に終止符を打 たれたのであるという。 したがって, 外務省の見解「日本は17世紀半ばに は竹島[独島]の領有権を確立しました」は成立しないどころか, 日本は「17 世紀末には, 竹島の領有権を放棄したことは否定しようがない」と池内は 主張するのであった。 妥当な見解である。 2) 安龍福事件 第3章の後半は安龍福事件である。 竹島(欝陵島)渡海禁止令の4カ月後, 安龍福は今度はみずから渡日した。 この渡日事件は日韓両国政府間で見解 が大きく異なる事件である。 韓国外交部パンフレットは粛宗実録をもと に, ① 安龍福は欝陵島で遭遇した日本漁民に対し「松島は子山島[独島]であ り, わが国の領土である」と話した, ② さらに日本へ行き我が国の領土で ある欝陵島と独島に対する日本の領土侵犯に抗議したと主張した。 これに対して日本外務省のパンフレットは, 安龍福の証言は虚偽が多い としたうえで, ① については1月には竹島(欝陵島)渡航禁止令が出ており, 日本漁民は欝陵島へ行かなかったので事実に反すると主張した。 しかし, ② に関しては安龍福が官職「鬱陵于山両島監税将」を詐称したことを指摘 し, 安龍福は「朝鮮を代表するものではない」と記述した。 しかし, 安龍福の 領土主張については特にふれず, 韓国外交部の主張②を否定はしなかった。 300 獨島硏究 제20호 こうした応酬に対して池内は, ① については「多数の日本人が出漁する というのはなかなか想定が難しい」, 客観的な資料である「村上家文書」に よれば安龍福は「直接鳥取藩領に行こうと思っていたが, 偶然に隠岐に立 ち寄ることとなった」と述べたことなどを理由に欝陵島で日本人との遭遇 はなかったと見た。 この見解はほぼ妥当であろう。 そもそも 粛宗実録 自体が安龍福の供述を記録したものの虚偽が多いと見ていた。22) ただし, 日本人との遭遇は1696年ではなく1695年なら可能性があるとの見解が ある。23) 一方, ② に関して池内は,「村上家文書」に隠岐代官手代らが安龍福の認 識のままに欝陵島(竹島)と子山島(松島)が江原道にあると記したことは認 めるが,それをもって鬱陵島と独島が朝鮮領だと日本人に向かって明言し たとまで述べるのは過大評価であると主張した。 それなら安龍福はなぜ重 罪を覚悟し,海禁を犯してまで何の目的で日本へ来たのかということが問 題になるのだが,今回の竹島はそれについてはほとんど語らない。 わず かに「日本へ渡航しようとした背景には,元禄六年時に対馬藩から受けた冷 遇に対する不満があり,当時厚遇を与えてくれた鳥取藩に対する解決への 期待があった」と記すのみである。 これは前書の主張を変えたようである。 前書では,安龍福の来日目的は3 年前に対馬藩で冷遇を受けた事実を鳥取藩に訴えるためであり,目的は竹 島が朝鮮領であることを訴えるところにあったとする内藤正中,金柄烈,下 條正男らの主張は明白な誤りであると主張していた。24) 内藤正中らの主 張は「村上家文書」を中心にし, 他にも安龍福が欝陵島·子山島を管轄する 官吏を詐称したことなどを根拠にしていた。 これらの根拠以外に朴炳渉は 次の2点をあげ, 池内の見解に異議をとなえた。25) 22) 23) 24) 朴炳渉, 안용복 사건에 대한 검증 安龍福事件に対する検証, 韓国海洋水産開発院, 2007, 34頁(日本語), 36쪽(韓国語)。 同上書, 68-70頁(日本語), 73-76頁(韓国語) 池内敏, 前書, 207頁。 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 301 ① 隠岐国から鳥取藩へ朝鮮人が竹島の儀についての訴訟に訪れた旨を いっているとの注進があった。 ② 竹島紀事によれば, 鳥取藩が朝鮮人の来日目的を竹島訴訟とみて いるが, 対馬藩はこれを鳥取藩の邪推であると考えていた。 しかし, 鳥取 藩は安龍福が藩主あてに差し出した訴状の内容を把握した上で安龍福の 目的は竹島訴訟であると判断して対馬藩へ伝えたのである。 安龍福は池内がいうように3年前に対馬藩で受けた冷遇を鳥取藩へ訴 えることも目的の一つだったようである。 しかし, 出発前にわざわざ欝陵 島と子山島を記入した朝鮮八道之図や官服を準備し, 因幡志に記録され たように「朝欝両島監税将」と書いた旗を船に掲げ, さらには「村上家文書」 に記されたように隠岐代官手代らに朝鮮八道之図を見せながら, 朝鮮江原 道の中に欝陵島すなわち日本でいう竹島と, 子山島すなわち松島があると 語ったのである。 このように諸史料を総合的に判断すると, 安龍福が「鬱 陵島(竹島)と独島(松島)が朝鮮領だと日本人に向かって明言した」と見る のは決して過大評価ではない。 3) 竹島渡海禁止令以後の新史料 第3章にて竹島渡海禁止に関連する新たな史料が紹介されたことが注 目される。 史料は渡海禁止後に大谷家が寺社奉行に嘆願した史料であり, 2014年に池内が「日本史研究会」大会にて発表したものである。26) 寺社奉行 とは単に寺社を取り締まるだけでなく,最高司法機関である評定所の一員 も兼ねるなど,大きな権限を有する幕府中枢機関の役職であり,老中と並ん で将軍直属である。 25) 26) 朴炳渉 「元禄·天保竹島一件と竹島=独島の領有権問題」 北東アジア文化研究 41号, 2015, 26-30頁。 池内敏, 「「国境」未満」 日本史研究 630号, 2015, 16-18頁。 302 獨島硏究 제20호 池内が紹介した史料は米子市立図書館が所蔵する村川家文書である。 それによると,1740年に大谷勝房は4名から成る寺社奉行一同を訪ね,禁止 された竹島渡海事業に代わる新たな利権として大坂廻米および長崎貫物 連中へ参加する権利を要望した。 この時,寺社奉行は大谷勝房に「竹島·松 島両島渡海禁制」以後の大谷家の状況を尋ねた。 これに対して大谷も「竹 島·松島両島の渡海禁制」以後と明言して大谷家の状況を説明したという。 つまり,幕府側も大谷勝房もともに,元禄竹島渡海禁令を「竹島·松島両島 渡海禁制」と認識していたのである。 これは日本外務省の主張,すなわち竹 島(欝陵島)渡海禁止令は竹島(独島)への渡海を禁止したのではなく,当時か ら日本が竹島(独島)を自国の領土だと考えていたとする主張を根本的に覆 すものである。 5. 第4章 「空白の200年」 1) 天保竹島一件 1950年代,韓日間の独島領有権論争にて外務省は天保竹島一件を日本の 領有権主張の有力な根拠として引用した。27) それがなぜか最近の外務省 はこの事件にまったくふれないのである。 その理由は, この事件が日本に とって有力な根拠ではなくなったためであろうか。 天保竹島一件とは, 石 見国で回船業を営む今津屋八右衛門が浜田藩家老の家臣橋本三兵衛と結 託し, ひそかに竹島(欝陵島)へ侵入して伐木などをおこなった事件である。 やがて, 八右衛門の密航は発覚し, 天保7(1836)年に八右衛門は大坂町奉行 によって逮捕されて死罪になった。 かつての外務省は, この事件に関する川上健三の見解をそのまま受け入 27) 韓国政府へ送った「日本政府見解3」(1954.9.25.), 「日本政府見解4」(1962.7.13); 「竹島領 有をめぐる日韓両国の歴史上の見解」 外務省調査月報 2巻5号(1961.5)。 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 303 れていた。 川上健三は, この事件の判決文中に八右衛門が橋本三兵衛の教 唆にしたがって「松島[独島]へ渡海するという名目で竹島[欝陵島]へ渡り」 と記されていることを根拠にし, 「この事件の当時においても, 松島への渡航 はなんらの問題のなかったことを示している証拠といえよう」と主張した。28) これに対して池内は事件の裁決過程を重視し, 「八右衛門が処刑された 事実は, 橋本三兵衛の教唆が通用しなかったことを意味しているのであり, 橋本の教唆は, 元禄竹島渡海禁令の趣旨や松島(竹島)が竹島(鬱陵島)抜き では活用できないという実情を無視して述べた, 一地方武士の机上の空説 にすぎない。 こうした空説に依拠した川上説は成り立たない」と主張した。 さらに, 池内はこの事件を審理した幕府評定所が対馬藩へ松島に関して 問い合わせをおこなったことを記した。 対馬藩から幕府へ「松島もまた竹 島同様に日本人の出漁が禁止されたとも考えられるがはっきりとはわか らない」との回答がなされたという。 なお, 池内の前書によれば, この文に 続き対馬藩は「朝鮮地図をもって考えれば, 蔚陵·于山の二島があると見 えます」と回答したという。29) 対馬藩は竹島·松島を朝鮮の蔚陵·于山の 二島と見ているようであるが, この回答を幕府がどのように理解したのか が重要である。 しかし, 池内はこれには何も語らない。 この時の幕府の認識を示すのが, 川上健三が指摘した「八右衛門吟味の 際に彼の供述に基づいて描いた竹島方角図」であろう。 川上は個人が所 有する史料を引用したが30), これとほぼ同じと思われる「竹島方角図」が東 京大学所蔵の竹島渡海一件記に添付された。31) この地図にて竹島·松島 は朝鮮半島と同じく赤色で彩色される一方, 隠岐や石見など日本の領域は 黄色で彩色された。32) 明らかに「竹島方角図」は竹島·松島を朝鮮の領域と 28) 29) 30) 31) 32) 川上健三 竹島の歴史地理学的研究古今書院, 1996, 191頁。 池内敏, 前書, 69頁。 川上健三, 前掲書, 191頁。 森須和男 八右衛門とその時代浜田市教育委員会, 2002, 資料編, 3-9頁。 朴炳渉, 前掲「元禄·天保竹島一件と竹島=独島の領有権問題」, 38頁; 朴炳涉, 「安龍福 304 獨島硏究 제20호 見たのである。 また, 地図中には「前書中に照合をもって試みに図かく」と 記された。 前書とは八右衛門の陳述書である。 したがって, 地図を描いた のは八右衛門を取り調べた幕府機関である。 具体的には評定所あるいはそ の有力構成員である寺社奉行であろう。 同様に事件の記録集である朝鮮 竹島渡航始末記の付図にも竹島·松島が「竹島方角図」と同じように朝鮮 の領域として描かれた。 このように幕府の中枢機関は竹島·松島を朝鮮領 と見たのである。 この判断に先の対馬藩の回答が重要な役割をはたしたこ とは疑いない。 幕府は事件関係者の処分を終えた後, 全国津々浦々に竹島渡海禁止令を 出した。 これについて池内は「天保竹島渡海禁令にも松島(竹島)渡海を禁止 する文言が明示されないが, 元禄竹島渡海禁令を踏まえて発令されたもの である以上は, ここでも継続して日本人の松島(竹島)渡海が禁止されてい ることが明らかである」と主張した。 この主張は幕府が作成した「竹島方角 図」, あるいは 朝鮮竹島渡航始末記の付図によってより一層強化される。 2) 1877年 太政官指令 第4章の後半は, 外務省が決して取りあげない明治時代の太政官指令で ある。 日本の国家最高機関である太政官は内務省が提出した「日本海内竹 島外一島地籍編纂方伺」(「編纂方伺」と略す)に対し, 1877年に竹島外一島を 本邦関係ないとした指令を発したが, この「竹島外一島」をめぐって日本で は熾烈な論戦が交わされている。 塚本孝は, 当初はこの一連の資料を発掘した堀和生の見解に賛同し, 竹 島外一島を竹島(欝陵島)および松島(独島)と見ていた。 しかし, 最近の論文 では, 「中央政府レベルでは対象を「竹島(欝陵島)及び松島(今日の竹島)」で はなく「竹島とも松島とも称される島(欝陵島)」と認識し, 当該対象につい 事件以後의 獨島領有權問題」, 獨島研究 13호, 2012。 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 305 て本邦無関係との判断を下したものである可能性がある」と記した。33)そ の論拠は, 1881年に島根県が内務省に提出した「日本海内松島開墾之儀に 付伺」に対する外務省の意見書に「朝鮮国蔚陵島すなわち竹島松島」と記さ れたこと, 翌年に内務省が島根県へ送った回答書に「書面松島の義は最前 指令の通 本邦関係これ無き義」と記されたこと, 1883年の太政官資料に「 日本称松島, 一名竹島, 朝鮮称蔚陵島」と記されたことなどである。 こうした見解に対して池内は塚本「論証」の問題点は, 第一に竹島·松島 の重大なすり替えがなされていること, 第二に同時代史料にもとづく確定 を避けて後年の史料を援用して誤った推理をおこなったことであると指 摘した。 そのうえで池内は, 「塚本は自らの論証過程を「史料を総合的に検 討」したものと述べるが, その実は, 史料の恣意的な切り取り, 継ぎはぎに よって正反対の結論を導いてみせたにすぎない。 こうした「論証」は学問的 な営為ではない。 歴史的事実の生起した前後関係を無視して自分勝手な想 像を膨らませることは「総合的な検討」などではない。 不要·不当な混乱を 議論の現場に持ち込んでいるだけのことである」と厳しく批判した。 しかし, 池内の批判には論証が少し不充分な面もある。 池内は内務省が 松島(独島)の所属を主体的に調査, 判断した根拠として史料「礒竹島覚書 地理局」を提示したが, そうであるなら内務省が「編纂方伺」を太政官へ出 した 1877年 3月 17日以前にこの史料を内務省が作成したことを証明しな ければならない。 しかし, この証明ができていないのである。 この問題は同書の書誌学的考察により解決されよう。 同書の表紙は礒 竹島覚書 地理局であるが, 和綴じの表紙は傷むと取り替えられる可能性 もあるので, 表紙より内表紙が重要である。 内表紙は「礒竹島覚書 全」との み書かれ, その横に「地理寮印」の朱印が押されている。 したがって, 同書 は地理寮が地理局と改称する1877年1月11日以前に作成されたと考えられ る。 そうであれば, 内務省が「編纂方伺」を出す以前に作成されたことにな 33) 塚本孝, 「韓国の保護·併合と日韓の領土認識」, 東アジア近代史 14号, 2011, 58頁。 306 獨島硏究 제20호 り, 池内の主張は問題ないであろう。 しかし, それよりも決定的なのは同じく国立公文書館が所蔵する礒竹 島覚書 完である。 これには内表紙がなく, 末尾に「明治八年八月八日 中 邨元起」と書かれ, 「元起」の朱印が押されている。 それ以外の内容は礒竹 島覚書 地理局とほとんど同じである。34) 明治8(1875)年8月時点の中邨 (村)元起は内務省地理寮地誌課の所属であり, 日本の地誌を編纂する過程 で礒竹島覚書 完を作成したのである。 したがって「元起」の朱印がある 同書は原本である。 翌9月, 中邨を含む地誌課はそっくり太政官正院修史 局へ移転して地誌掛となった。 そうなると, 内務省には礒竹島覚書 完が 残らないことになる。 そうした折に内務省は島根県から「編纂方伺」を受け とった。 内務省は竹島·松島の所属を確定するため, および判断資料の保 存のために礒竹島覚書 完が必要になり, 同書の写本である礒竹島覚書 全(表紙は礒竹島覚書 地理局)を作成したと思われる。 塚本孝は「太政官が内務省の判断とは別に独自の調査をしたことは考え にくい」と記したが35), 内務省地誌課をそっくり受け入れて礒竹島覚書 完を有する太政官こそ竹島·松島を最もよく熟知する機関であった。 そ のため, 太政官は内務省の「編纂方伺」に対して「版図の取捨は重大の事件」 であるにもかかわらず, わずか3日で迅速に竹島外一島を本邦関係なしと する指令案を作成することが可能だったのである。36) 結局, 内務省や太政 官など政府中央は主体的に松島(独島)の所属を判断して本邦関係なしと判 断したのである。 34) 35) 36) 朴炳渉, 「近代期 獨島의 領有權 問題」獨島 領有權 確立을 위한 研究 선인, 2013, 164頁; 朴炳渉, 前掲「明治政府の竹島=独島調査」北東アジア文化研究 41号, 2016, 54-55頁。 塚本孝, 前掲「元禄竹島一件をめぐって―付, 明治十年太政官指令」, 50頁。 朴炳渉, 「明治政府の竹島=独島調査」北東アジア文化研究 41号, 2016, 56頁。 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 307 6. 第5章 「古地図に見る竹島」 1) 江戸時代の日本図 第5章は, 第2章に続いて日本外務省の主張の検証である。 池内がまず取 りあげたのは長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」である。 日本外務省の パンフレットは日本が古くから竹島·松島を熟知していたことを示すた め, 特に両島が彩色された1846年版を掲載した。 一方, 韓国外交部のパン フレットは, 「改正日本輿地路程全図」は私撰地図にすぎないとことわった うえで外務省への反論の意味から竹島·松島や朝鮮半島などが彩色され ていない1791年版を掲げた。 かねてより「改正日本輿地路程全図」における無彩色の意味が日本領土 外の認識を示すのかどうかをめぐって研究者間で論争されてきたが, 池内 は今回の竹島で新しい知見を示した。 その際, 池内は日韓両国政府が掲 げた地図を対等に扱っているが, これは疑問である。 日本政府が掲げた 1846年版は「改正日本輿地路程全図」と題するものの, これは海賊版であり, これを長久保赤水の地図とするのはふさわしくない。 というのも, 江戸幕 府が出版物に関して「何の書物によらず, 今後は新版の物は作者ならびに 版元の実名を奥書に書かなくてはいけない」という触れを1722年にだして いたからである。 これに違反した出版物は海賊版であり, 作者や版元が書 かれない1846年版などは長久保赤水の地図とみなされないのである。37) 外 務省がそのような海賊版を引用したのは, 長久保赤水の正規版(第1~5版)。38) がいずれも竹島·松島を彩色しなかったためであろう。 そのような正規版 37) 38) 馬場章, 地図と絵図の政治文化史, 東京大学出版会, 2001, 397頁. 触れの原文は, 「一, 何書物ニよらす此以後新板之物, 作者并板元之実名, 奥書ニ為す致す可申候事」. 同上書の393頁によれば, 正規の「改正日本輿地路程全図」の刊行は, 初版が安永8(1779) 年, 再版が寛政3(1791)年, 三版が文化8(1811)年, 四版が天保4(1833)年, 5版天保11(1840) 年である. 308 獨島硏究 제20호 を掲載したのでは一見して両島が日本領であることに疑念をもたれるの が必定である。 ただし, 同図で彩色されなかったのは竹島·松島だけでない。 舩杉力修 によると, 初版では筑前の御号島(現在の沖ノ島), 薩摩の口永良部島, 蝦夷 地(現在の北海道), 第2版では八丈島, 御号島, 口永良部島, 蝦夷地などがあ り, 舩杉は「彩色がないことをもって日本領外, さらに朝鮮領であることを 証明したことにはならない」という。39) これらの議論に対して池内は竹島にて新しい知見を示した。 長久保 の同図における無彩色の島はすべて境界領域であり, 「日本であり, かつ異 国(異域)である」ないしは「日本でもなく異国(異域)でもない」という両義 性を帯びているという。 こうした境界領域には御号島を除いて地図上に特 別な説明が付されている。 竹島(欝陵島)の場合は隠州視聴合記にならっ た「見高麗猶雲州望隠州」(高麗を見るのは雲州(出雲)から隠州(隠岐島)を望 むようである)という語句である。 これらの境界領域が日本領かどうかは「 改正日本輿地路程全図」だけでは判定できず, 他の文献史料を援用する必 要がある。 その判定基準は村高であり, 御号島, 永良部(口永良部島),八丈 島,鬼界島(喜界島)には村高が付せられて旧国単位で郷帳に記載されたか ら,これらは紛れもない日本領であるという。 一方,「竹島(鬱陵島),松島(竹 島)には高の付けられることがなく,郷帳や領知朱印状に載せられることは なかった。 その意味で,これら二つの島は日本領ではない。 ただし厳密に 腑分けすれば,竹島(鬱陵島)は元禄竹島一件をもって幕府としても朝鮮領 と認めたから異国(異域)である。 松島だけが「日本でもなく異国(異域)でも ない」場所であるという。 以上のような分析によって長久保の地図における彩色問題はほぼ解決 されたと思われる。 ところで, 池内は同図の松島(独島)に関し, 彩色以外に 39) 舩杉力修, 「日本側作製地図にみる竹島(1)」, 2007. http://www.pref.shimane.lg.jp/admin/ pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04-e.html. 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 309 は注意をはらわないようである。 池内は竹島(欝陵島)には「見高麗猶雲州 望隠州」という語句が付されたと記したが, この語句は竹島から松島にか けての空間に書かれており, 明らかに同図は両島を一対として描いている。 すなわち「改正日本輿地路程全図」にても竹島·松島は不可分の関係であ り, 竹島(欝陵島)が朝鮮領なら松島(独島)も朝鮮領と見るべきではないだ ろうか。 一方, 池内は長久保の地図以外に江戸時代の古地図に竹島·松島がどの ように描かれたのか調べ, 地誌類との関連を分析した。 50枚近くの地図を 調べた結果, 17世紀半ばから竹島(欝陵島)に対する地理的認知がなされる 一方, 隠州視聴合記に見られるように竹島·松島両島は日本の版図外で あるとする領域認識や, 幕府が竹島(鬱陵島)を日本領ではないことを公式 に確認しているため, 日本図上には竹島·松島が描かれなかったり, 描か れても彩色されないという。 それが18世紀以後になると草盧雑談や中 陵漫談などに竹島は朝鮮へ与えた島であるとの認識がはびこり, もとは 日本領だったという記述が現れるようになったという。 この原因は大谷家 の誤った情報による可能性があるとした。 こうした誤認の結果, 一九世紀の日本図では竹島·松島が日本本土と同 色に彩られる場合があるという。 先に外務省が示した海賊版「改正日本輿 地路程全図」がそのいい例であろう。 そうした認識は幕府の一部にもあり, 天保竹島渡海禁止令がそうであった。 あるいは1861年に実測図にもとづく 日本図を幕府が刊行する時, 「日本」の範囲をどのように画定すべきか議論 があったが, 外国奉行らの間に竹島(鬱陵島)は「元禄年間に朝鮮国へ御付与 となったそうだ」とする認識があったという。 しかし, 発刊された官撰図「 官板実測日本地図」には, 竹島(鬱陵島)も松島(竹島)も記入されなかった。 この地図は幕府が発刊した唯一の官撰地図であるが, 同図に独島はなかっ たのである。 池内が古地図での竹島·松島を分析してわかったことは「両島ともに記 310 獨島硏究 제20호 載される場合, ともに同色が施されるか無彩色となるかであって, 片方に のみ彩色が施されたり, 両島に異なる色が施される事例はひとつもない。 したがって, 両島は常に一括して扱われる存在であった」という。 日本で 松島(独島)は竹島(欝陵島)とほとんど一対として扱われたようである。 2) 近代日本の海図と水路誌 第5章の後半は日本の海図や, これと補完関係にある水路誌に関する分 析である。 この分析も池内の前書以後におこなわれた研究40)をもとにした ものである。 これまで海図, 水路誌の性格に関し, 日本ではこれらはいず れも領土·領海を示すものではないとする見解と, 水路誌からは領土·領 海意識を読み取ることができるとする見解が対立していた。 しかし海図か ら領土·領海意識を読み取りうるとする主張は見あたらない。 池内はこれ らについて検討を加えた。 その結果, 池内は海図については「海図の作成目的は領土·領海を確定 するところにはなかったが, 海図には作成者の領土·領海意識が反映され ていると見てよい」との結論を得た。 一方, 水路誌の作成目的は領土·領 海の確定にあるわけではないにしても, 日本水路誌第5巻(1898年)の序文 が「本邦領海ニ関スル水路誌[シリーズ]ハ本巻ヲ以テ結了セル」と記したよ うに, 水路誌の作成にあたっては領土·領海が前提されていたことは確実 であるという。 それを如実に示す一例が日本水路誌第一巻第一改版(1904 年)である。 同書の元版である1892年版では付図「海岸区域図」に描かれな かった台湾が, 第一改版では日本領として赤く彩色されて描かれた。 これ は日本が1895年に台湾を領有したことを反映したのだという。 同様に日本 領とみなされなかったリアンコールト列岩(独島)も1905年の日本領編入に ともなって 朝鮮水路誌以外も 日本水路誌 第4巻にて日本領として記 40) 池内敏, 「「海図」「水路誌」と竹島問題」 名古屋大学付属図書館研究年報 12号, 2015. 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 311 述されたという。 このように, 池内は 水路誌や海図の成り立ちを歴史的に追究してゆけ ば, その作成にあたって領土·領海が意識されていることは明瞭であるこ とを論証した。 7. 第6章 「竹島の日本領土編入」 朝鮮では海禁·捜討政策にもかかわらず, ラペルーズによると1787年に はすでに朝鮮人らしき船大工が欝陵島に居住していた。41) 一方, 日本人も 1870年代から欝陵島へ侵入する者が相次ぐようになった。 それにともなっ て独島が注目されるようになり, 日韓両国でさまざまな名前で呼ばれる ようになった。 池内によれば, 独島の名称は日本の資料では次のとおりで ある。 1893年 隠岐·欝陵島在住者はリランコ島(山陰新聞) 1900年 日韓漁民はヤンコ島(地学雑誌) 1902年 欝陵島在住の韓国人はリヤンコ島, 日本人は松島(日本人警部 報告) 1904年 欝陵島在住の韓国人は独島と書き, 日本人はリヤンコ島と呼ぶ (軍艦新高行動日誌) この中でリランコ, ヤンコ, リヤンコは Liancourtを語源とする。 一方, 韓国の資料では独島, あるいは独島と関連があるとみられる島の名称は次 のとおりであるという。 41) 小林忠雄編訳, ラペルーズ世界周航記, 白水社, 1988, 58頁. 312 獨島硏究 제20호 1895年 金允三の回想にてトルソム(民国日報) 1899年 学部発行の「大韓全図」に于山島 1900年 勅令41号に石島 1902年 朴雲学の回想にてトルソム(朝鮮日報) 1906年 欝島郡守 沈興沢の報告書に独島 池内は上のように1904年から1906年にかけて「書き言葉」として現れた 独島に着目し, これは現在の竹島=独島をさすことは間違いないという。 しかも1906年には偶然に日本が「独島」を編入したことを知った欝島郡守 や韓国政府がそれを不当であると認識していた。 そうした脈絡の中で1905 年にリヤンコ島(独島)の日本領編入がなされたという。 編入を決定した閣議決定文には「他国による占領の事実がない無人島」 に対し, 「国際法上占領の事実あるものと認めうる」から日本領に編入する という意図(無主地先占の法理)が明確に述べられているとする。 一方, そ の文にはどこにも近世に確立された竹島に対する領有権を再確認するな どとは記していないが, これは当然であるという。 かつて元禄竹島渡海禁 令, 天保竹島渡海禁令, 明治10年太政官指令の3回にわたり, 「今日の竹島 は日本領ではない」ことを日本の中央政府歴代がそのつど繰り返し確認し てきたからであると池内は主張した。 ここで池内が問題にするのは日本の閣議決定以前に「書き言葉」として あらわれた独島が, 韓国人が活用したトルソムや勅令41号の石島とどのよ うな関連があるのかということである。 勅令41号とは欝陵島を三陟郡から 分離して欝島と改称し, 欝島郡として昇格して郡の管轄区域を欝陵全島, 竹島, 石島とするものである。 石島など島名に関する先の史料を対比する と, 次のような疑問点が浮かびあがると池内はいう。 疑問点は, ① 日本の資料では独島を韓国人はリヤンコ·ヤンコと呼ぶ としたが, 韓国人の回想ではトルソムとされ食いちがっている, ② 「于山 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 313 島」が独島をさすとした場合, 勅令41号はなぜ于山島の名を使用しなかっ たのか, ③ 1900年勅令41号の石島が独島をさすとした場合, 1906年の公文 書に独島とされた経緯をいかに整合的に説明するのか, とする3点である。 これらの疑問は, 先行研究によってある程度明らかにされている。 まず ① リヤンコとトルソムの違いであるが, これは韓国人の場合, 話し相手が 同胞かどうかで島名を使い分けていたという証言がある。 池内もふれてい るが, 欝陵島の奥村は植民地時代に親子二代にわたって朝鮮人を雇用して 独島でアワビ採取を行っていた。 息子の奥村亮は戦後の島根県の聞き取り 調査において「当時, 朝鮮人は, ランコ島(竹島)を独島(トクソン)と言って いたが, 内地人と会話するときは「ランコ」島と言っていた」と証言した42)。 朝鮮人は日本人と話すときはランコ, 朝鮮人同士ではトクソンと呼んでい たのである。 トクソンは「石の島」を意味する全羅道や慶尚道の一部の方言 である독섬, T(D)okseomの日本式発音であり, 標準語のトルソムに通じ る。 このように独島と書いてトクソン, あるいはトルソムと呼ぶのは1940 年代にも確認されている。43) 次に, ② 于山島の名が使用されなかった理由であるが,朴炳渉は于山島 が欝陵島住民に見失われためであるとみた。 1882年,前述のように李奎遠 は于山島の探索に失敗したことを「啓草本」に記したが,この時に現地の住 民も于山島を近くの近傍にあるというだけで正確な位置を知らなかった。 さらに,1900年ころ,住民が于山島の探索をおこなったが,やはり発見でき ず,伝説の島になってしまった。 このように存在が曖昧な島を法令に記載 できないので,勅令41号に記載されなかったのであろう。44) 42) 43) 44) 速水保孝, 竹島漁業の変遷外務省アジア局, 1953, 37頁; 朴炳渉「竹島=独島漁業の 歴史と誤解(1)」 北東アジア文化研究 33号, 2011, 25頁; 朴炳渉「日本의 새論調와 島根縣漁民의 獨島漁業」 獨島研究 9号, 2010, 246頁。 朴炳渉, 韓末の欝陵島・独島漁業-独島領有権の観点から, 韓国海洋水産開発院, 2009, 72頁(韓国語), 213頁(日本語). 同上書, 80-82頁(韓国語), 220-222頁(日本語)。 314 獨島硏究 제20호 最後に, ③ 石島の問題であるが, 石島の比定問題は重要なだけに最近で も少しずつ独島との関係を明らかにしようとする努力が続いている。 ま ず, 石島の名は1906年にも登場することが山陰中央新報によって明らか にされた。 同紙は次のような皇城新聞(1906.7.13)記事を引用した。 鬱島郡の配置顛末 統監府から内部[内務部に相当]へ公簡を送り, 江原道三陟郡管下所在の 鬱陵島に所属する島嶼と郡庁の設置年月を示せとの公簡があったので, 返 書を送り, 光武二年五月二十日に鬱陵島監を設置した後, 光武四[1900]年十 月二十五日に政府会議を経て郡守を配置し, 郡庁は霧台[ママ]洞にあり, 該 郡が所管する島は竹島 石島で, 東西六十里, 南北四十里, 合二百余里とし たとか。 この記事が書かれるまでの経緯を洪政阮は次のように説明した。45) 1906年 3月27日, 島根県第3部長神西由太郎は独島を調査し, 翌日, 天候 悪化を口実に欝陵島へ上陸した。 神西は欝陵島の調査を進めるとともに郡 守沈興沢に日本が竹島(独島)を領土編入した事実を知らせた。 これに驚いた沈興沢は, 日本が「本郡所属独島」を編入したことなどを上 司の江原道観察使署理である李明來へ伝えた。 4月29日, 李明來が議政府 参政大臣へこれを報告したところ, 参政大臣は日本人の行動などをさらに 調査するよう指令3号を5月10日に発した。 その前に内部は訓令を出したよ うであり, 帝國新聞(1906.5.1.)によれば「内部にて訓令するに日本人の戸 口調査は容或無怪なことだが, [日本が欝島を]占領をしたという話は無理 なことなのでお互いに争うようなら日本理事と交渉して処決裁断せよと したという」ことであった。 日本理事とは統監府の地方機構である理事庁 あるいは理事官を指すのであろう。 この内部の訓令を実行した結果なので 45) 洪政阮 「露·日의 鬱島郡 侵奪과 大韓帝國의 對應 研究」 軍史 80号, 2011, 156-161頁. 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 315 あろうか, 大韓毎日申報(1906.7.13.)によれば統監府通信管理局長池田十 三郎から「三陟郡から分設された鬱島郡の面名, 洞号や設置年月を詳細に 書いて交付せよ」とする公簡が内部へきたという。 これに応じて内部は先 の皇城新聞記事にあるように, 政府会議によって欝陵島を郡に昇格して 竹島, 石島を管轄することなどを回答したという。 この政府会議決定によ る発令は勅令41号である。 統監府が辺境の欝島郡に特別な関心を持って内部へ問い合わせた理由 を洪政阮は「時期的に統監府に日本の独島領土編入に対する大韓帝國政府 の照会があったために統監府から欝島郡の所属島嶼を内部に問い合わせ たのではないだろうか」と推測した。46) そうであれば, 沈興沢報告書の独 島が勅令41号の石島であることを間接的に示したことになる。 このように今でも石島の研究が少しずつ進んでいるが, こうした動きに 池内はあまり関心をはらわないようであり, 今回の 竹島にて石島に関 する記述は前回とあまり変わらないようである。 池内は依然として「石島 が竹島[独島]に一致することが直接的に証明されたことは一度もない」と 記した。 そもそも, 池内は石島をどの島であると考えているのだろうか? 前書では「石島が竹島[独島]とは一致しないとする立場からは, 鬱陵島周辺 を描いた古地図上の島々のうち「石島」に該当する島をあれこれと穿鑿す る作業が行われてきた。 こちらも決定力を欠き, それに対する有力な反論 もまた繰り返されてきた」と記した47)。 この「穿鑿」とは下條正男が石島を 観音島に比定した見解を指し48), 「反論」とはこれを反駁する朴炳渉の見解 をさすようである。49) うえの一節を読むかぎり, 池内は, 石島は独島以外 に該当する島がないと考えているように見える。 しかし, 池内は「古地図上 46) 47) 48) 49) 洪政阮, 前掲論文, 160頁. 池内敏, 前掲 竹島問題とは何か, 243頁。 下條正男, 「独島呼称考」 人文·自然·人間科学研究 第19号, 2008, 30頁。 朴炳渉, 韓末の欝陵島・独島漁業-独島領有権の観点から韓国海洋水産開発院, 2009, 73頁(韓国語), 214頁(日本語)。 316 獨島硏究 제20호 に「石島」を捜そうと試みても, 結局は水掛け論にしかならない」と記し50), 石島がどの島であるのか比定することを避けた。 これは果たして水掛け論 であろうか? 鬱陵島近辺には, 数十個の小さな岩があるが, 島と呼べるの は竹島, 観音島, 独島の三島しかない。 したがって, 石島はこの内の一つを さすことは間違いない。 この内, 竹島は勅令にいう竹島であり, 観音島は「 有力な反論」によって石島に該当しないことが明らかである。 すると, 石 島の候補として残るのは独島しかない。 ともあれ, 石島に多大な関心を持 つ研究者なら勅令41号を「門前払い」せず, 何らかの仮説を立てて解明する ことが期待される。 8. 第7章 「サンフランシスコ平和条約と政府見解の応酬」 第7章は, 池内がリスクを顧みずに挑んだ戦後の独島問題である。 研究 者が安易に専門外の領域に足を踏み入れるととかく大きな過ちを冒しが ちであるが, 池内のSCAPIN 67751)に対する理解は問題が多い。 池内は前書 や今回の竹島において同指令は「日本領域の特定地域に対し, 日本政府 による政治上または行政上の権力行使ないしは行使の企てが停止された。 その特定地域のなかに竹島が含まれた」と記した。 この見解は川上健三の 前掲書から引用したようであるが, そもそもSCAPIN 677の指令は「日本領 域の特定地域」に適用されるのではなく, 「日本国外の領域」に対して適用 50) 51) 池内敏, 前掲 竹島問題とは何か 243頁。 池内をはじめ多くの研究者は, SCAPIN 第677号と記すが, 下記文献によれば SCAPIN の本来の綴りは「Supreme Commander for the Allied Powers Index Number」である ので, 「第」や「号」を付するのは疑問であり, 単にSCAPIN 677とすべきであろう。 GHQ/SCAP Records Box 757. Sheet No. AG(B)-04519 class No.032;朴炳渉「對日 講和條約과 獨島·済州島·쿠릴·琉球諸島」獨島領有權 確立을 위한 研究, 圖書出版선 인, 2015, 406頁;朴炳渉「サンフランシスコ講和条約と千島・竹島=独島問題(1)」 北東アジア文化研究38号, 2014, 59頁(注6)。 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 317 されると第1条で規定されたのであり, 池内は第1条の適用範囲から誤解し ている52)。 また, 池内は竹島(独島)を「日本領域の特定地域」と見ているが, 同島は第3条によって日本の領域から除かれ, 日本の定義に入らない島と されるので解釈を誤っている。 さて, 池内はサンフランシスコ講和条約における独島の解釈について終 章では「サ条約に竹島が日本領であることが含意されていることは, アメ リカの説明にもあるようにきわめて明快だ」と記した。 アメリカの説明と は, ラスク書簡(1951.8.10)およびヴァン·フリート報告書(1954)を指す。 こ の中で先にヴァン·フリート報告書について考察する。 ヴァン·フリート報告書は, 独島(竹島)は日本の領土であり, サンフラ ンシスコ講和条約で放棄した島々には含まれていないというのが米国の 結論と記したように, 同報告書はサンフランシスコ講和条約で放棄がうた われない島々は日本領であると解釈する。 しかし, この解釈は国際慣習法 である「条約法に関するウィーン条約」(条約法条約)に反する。 条約法条約 31条は文言主義であり, どんな条約であれ条約の文言を忠実に解釈するよ う求めている。 もちろん, 条約に明言されていないことを勝手に解釈する ことはできない。 これは当然であろう。 文言に書かれないのは特別な理由 がある可能性を排除できないからである。 サンフランシスコ講和条約の場 合はハボマイ·シコタンの二島がそうであった。 ソ連が現実に両島を占有 している現状を考慮して米英両国は条約に明記しないことや, 日本の領域 を示す地図を条約に添付しないことを決定したのである。53) 一方, 独島に関しても特別な理由があった。 それを具体的にみるため, 52) 53) 第1条の原文は次のとおりである。 The Imperial Japanese Government is directed to cease exercising, or attempting to exercise, governmental or administrative authority over any area outside of Japan, or over any government officials and employees or any over persons within such areas. 朴炳渉, 前掲 「對日講和條約과 獨島·済州島·쿠릴·琉球諸島」, 447頁; 朴炳渉, 前掲 「サ ンフランシスコ講和条約と千島·竹島=独島問題(3)」, 56頁. 318 獨島硏究 제20호 次にラスク書簡を考察する。 ラスク書簡とは条約草案にて日本が放棄する 島として独島を明記するよう求めた駐米韓国大使の要望を拒否した米国 国務次官補ラスク(Dean Rusk)の書簡をさす。 ここで留意すべきは, アメリ カはラスク書簡のわずか二日前に駐韓アメリカ大使館をとおして韓国が 要求した「独島」がリアンクール岩であることを知ったことである。 しかし, 全世界へ向けた条約草案の公表を一週間後にひかえたアメリカは独島に 対する韓国の統治状況などを改めて調査することもなく, 一方的に独島を 日本領と断定したラスク書簡を韓国へ送ったのであった。54) 池内はその 時のアメリカの判断がそのままサンフランシスコ講和条約の解釈につな がったと見たようであるが, この見解は疑問である。 そもそも, 池内は条 約策定過程を誤解している。 池内が掲げる<表5 サンフランシスコ平和条 約の草案と草案中の竹島>をみると, 最終段階である1951年7月3日以降の 条約草案はすべて米国単独の草案とされた。 この表は池内の前書を再掲し たものなので, 校正ミスはないと見てよい。 どうやら池内は, 条約が最終 段階においてアメリカ単独の草案にしたがって策定されたので, アメリカ の解釈がそのまま条約の解釈につながると見たのではないだろうか。 すな わち, 6月末以降はイギリスの役割をほとんど無視し, アメリカ一国の独島 に対する判断が条約に含意されたと理解したのであろう。 そうであれば, これは先行研究を看過したのである。 7月草案に関する 先行研究であるが, 鄭炳俊によれば「7月3日付け条約草案は関連国に送付 された最初の米英合同条約草案」とされる。55) この草案の経緯を調べてみ ると, 6月 30日 に駐英アメリカ大使館の一等書記官リングウォルト(Ringwalt) がイギリスの日本·太平洋局長ジョンストン(Johnston)宛てに書簡を送り, 6月 14日付け米英共同草案の修正を提案し, 両国の協議の末にこの草案が 54) 55) 朴炳渉, 前掲 「對日講和條約과 獨島·済州島·쿠릴·琉球諸島」, 456頁; 朴炳渉, 前掲 「サ ンフランシスコ講和条約と千島·竹島=独島問題(3)」, 62頁. 鄭炳俊, 獨島1947, 돌배게, 2010, 545頁。 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 319 生まれたのである。56) したがって, これはまぎれもなく米英共同草案であ る。 この草案はさらに7月20日および8月13日に両国で協議され, 微修正さ れた後に9月8日に調印された。 このように7月以降の草案も米英共同草案 であり, 米英両国の一致した見解のみがサンフランシスコ講和条約に含意 されうるのである。 しかるに, 「ダレス電文」が明らかにしたように, 独島を日本領とみる見 解は多くの条約署名国の中でアメリカ一国の考えに過ぎないという事実 が多くの先行研究によって明らかにされている。57) 池内はこうした「ダレ ス電文」なども無視, あるいは看過したようである。 その「ダレス電文」か ら推測されるように, 共同草案の当事者であるイギリスは独島を日本領外 と判断し, 同国単独の最終草案を作成していた。 したがって, アメリカが 条約にて独島を日本領に規定しようとするなら米英協議をおこなって意 見を統一する必要があるが, 結果的に条約には反映されなかった。 それ以 前にアメリカ国務省内でも地理専門官ボグス(S. W. Boggs)が一度はリア ンコールト岩[独島]を韓国領にする場合の条文例を具体的に進言してい た。58) この進言によって国務省の担当者は条約草案にリアンコールト岩 が抜けおちていることを知り, 草案を書き換える必要を認識したのである が, アメリカがどのような処置を取ったのか明らかでない。 この理由につ いて朴炳渉は, アメリカはイギリスとの協議に耐えるほどのリアンコール ト岩の信頼すべき資料がないうえに同島を日本領に変更した理由が薄弱 なため,イギリスとの協議に提案できないと見て米英協議を保留にしたよ うであると主張した。59) あるいは実際に米英協議をおこなったが,合意に 56) 57) 58) 59) FRUS 1951, Vol.6, p.1168。 韓国国史編纂委員会 獨島資料Ⅰ, 2008, 7頁; 鄭炳俊, 前掲書, 213頁; 朴炳渉, 前掲 「サンフランシスコ講和条約と千島·竹島=独島問題(3)」 ,63-64頁。 李碩祐, 對日講和條約資料集, 東北亜歴史財団(ソウル), 2006, 243-246頁; 鄭秉俊, 前掲書, 755-759頁。 朴炳渉, 前掲「對日講和條約과 獨島·済州島·쿠릴·琉球諸島」, 467頁; 朴炳渉,前掲「サン 320 獨島硏究 제20호 至らなかった可能性もある。 こうした事情がダレス電文に暗示された可能 性もある。 かつて米英両国は個別に何度もリアンコールト岩(独島)の帰属を検討し て各々の条約草案を作成したが, 次の共同草案作成の段階で両国はリアン コールト岩に関する協議が成立せず, 独島に関して何も規定しなかった。 単に, 条約の2条に「日本国は, 朝鮮の独立を承認して, 済州島, 巨文島及び 欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利, 権原及び請求権を放棄する」と 記したのみである。 この「朝鮮」の範囲が問題になるが, このように「朝鮮」 の意味が曖昧な場合, 条約法条約32条によってその意味を決定するために 条約の準備作業及び条約の締結の際の事情によることができる。 これをリアンコールト(独島)に即して適用すると, 同島を日本領とみる アメリカと, 同島を日本領外とみるイギリスの見解が食いちがったまま講 和条約は調印された。 このように, 条約の共同草案作成国である米英両国 の見解が異なるため, 独島は講和条約からいかなる解釈もできない。 した がって, サンフランシスコ講和条約は独島問題に何ら直接の影響を与えな いことになり, 池内の「サ条約に竹島が日本領であることが含意されてい る」という主張は成りたたない。 その結果, 独島の所属は最終的に決定さ れず, SCAPIN 677によって暫定的に日本国外とされた事実のみが残った。 日本政府も竹島(独島)の帰属はサンフランシスコ講和条約によって何も影 響を受けなかったと見て, それを示す日本地図まで作成した。60) また, 竹島(独島)を日本の島嶼外と規定する日本の法令は講和条約前後 にて何ら変化がなかった。 それどころか, 新たに日本は「接収貴金属等の 数量等の報告に関する法律」を1952年8月5日に制定し, その施行令「大蔵 省令99号」にて竹島(独島)を日本の付属島嶼に含まないと公布した。 一方, 独島の所属であるが, 連合国最高司令官はSCAPIN 677によって独 60) フランシスコ講和条約と千島·竹島=独島問題(3)」,70頁。 朴炳渉, 「샌프란시스코 講和條約前後 日本의 獨島政策」, 独島研究 19號, 2015, 257쪽. 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 321 島を日本国外とした直後, 同島を南朝鮮の領域と定め, これを示す地図ま で作製した。61) この時に独島は在韓米軍政庁の管轄下におかれたのであ 同 るが, 1948年に韓國の独立にともなって合法的に韓国政府の統治下に移管 された。 翌年,韓国政府は独島で発生した米軍機の誤爆事件を処理するな ど独島を実際に統治し,1953年からは日本の巡視船が独島へ侵入するよう になるや独島の警備を強化した。 こうした韓国の一連の措置はサンフラン シスコ講和条約に反するものではなく,独島警備が不法占拠であるという 日本外務省の主張は成立しない。 第7章の後半は,1953年から始まった韓日両国政府間の領有権論争のレ ビューである。 見解書の往復は1965年までに4回にわたっておこなわれた。 今日の観点で見ると両国ともに論理の欠陥が多く見いだされるが,池内は 往復書簡の内容を説明するにとどまり,これに対して自身の見解をほとん ど加えなかった。 9.おわりに 終章「固有の領土とは何か」では前章までの内容を要約したが, それ以外 にも充分に論じられなかった事項についての考察もおこなった。 ここでは その考察のみを取りあげることにする。 最初は1905年の日本の独島編入に関する国際法的な視点である。 池内は 「新たな領土の獲得に際し, 関係各国を含めた国際的な通知を行わずとも, 国内向けの告示であれ公表しさえすれば合法である」と主張した。 しかし, 池内はその根拠をまったく示さなかったので, 国際法に関する先行研究を どの程度検討したのか疑問である。 先行研究の一例であるが, 朴培根は通告に関する1905年前後の国際法 61) 愼鏞廈, 獨島領有權 資料의 探求 第3巻, 獨島研究保全協会, 2000, 254頁。 322 獨島硏究 제20호 (時際法)を次のようにみた。62) 一般に, 先占により新たな領土を獲得する にはまず国家の領有意思の表明が国際法上必要であるとされるが, その方 法については多様な見解がある。 池内が書いたように対外的な通告が必要 ないと見るのも一つの見解である。 一方, ウェストレイク(John Westlake) は「領有意思は通告によって宣布される」と主張する。 また, 他国への通告 は必要ないと主張する学者でもオッペンハイム(Lassa Francis Lawrence Oppenheim)は, 1885年にベルリン議定書が定めた他国への通告義務は一般 的には適用されないが, 「通告が先占の要件として慣習国際法化されると いう点には疑問の余地がない」と主張した。 池内はこうした時際法に関す る学説はすべて誤りであるとして根拠を示さずに門前払いするのであろ うか? また, 池内は上記のように, 「国内向けの告示であれ公表しさえすれば 合法である」と記したので,竹島(独島)を島根県の管轄にした島根県告示40 号を合法とみたようである。 しかし,一方では「島根県告示での領土編入通 告は有効なものであって違法ではない」とか,「島根県告示での公表は国際 法に照らしても合法だと主張するのは,開き直りでないならば,あまりにも 配慮が足りない」と記した。 これは,島根県告示は有効であっても日本が竹 島(独島)を編入した手法は韓国を踏みにじった帝国主義的な行為であった ので,この事実を日本は直視すべきという主張であろうか。 次に池内は中学校の教科書を取りあげた。 中学校の社会科教科書の検 定は2010年度, 2014年度におこなわれたが, 検定のたびに竹島(独島)に関す る記述が強化されたという。 ある会社の教科書は2010年度の検定時から竹 島(独島)を日本固有の領土とする記述し, 2014年度の検定時には竹島(独島) に関する記述量を倍に増やし, 17世紀に日本人が漁業をおこなったとか, 1905 年に領土に編入したとか,1952年以降には韓国が警備隊員を常駐させたと 62) 朴培根, 「無主地先占의 要件에 關한 1905年前後의 學説」, 領土海洋研究 6号, 2013, 56頁. 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 323 か記したという。 この変化は文部科学省の指導にもとづくものであるが,こ れについて池内は特にコメントをつけなかった。 次に池内は「日本固有の領土論」を詳細に論じた。 これは池内の前書に対 する木村幹の批判に関連した論考63)を要約したものである。 木村は, 池内 が「最重要な議論の一つである固有の領土」論に配慮せず, 文献的に史料的 検討を厳格に行って日韓両国の主張の実証的不十分さを指摘した結果, 第 二次世界大戦以後の部分を除いて必然的に日本側に有利なような結論を もたらしたと指摘した。 ただし, 木村が述べる「固有の領土」とは, 古くか ら自国の領土という素朴な古い「固有の領土」論ではなく, 「特定の領土がそ の領有権を巡る紛争が勃発する以前において自国以外に支配されたこと がない領土」という今日的な「固有の領土論」である。 これを独島問題に適 用すると, 韓国が1905年の日本の領土編入以前に独島を支配したことを有 効に示さない限り, 日本の「固有の領土」論が成立してしまうという構造に なっていると木村は説く。 さらに, 木村はこの問題に関連する韓国側の主張は, 1900年「勅令41号」 と, 前近代の「于山島」問題であると指摘した。 木村は前者の「勅令41号」に ついては, 池内は石島が独島を示すという事が証明されていないという理 由でその支配の実態に踏み込む以前の段階で「門前払い」して韓国の主張 を棄却する一方, 後者の前近代の于山島に関わる部分についてはその意味 の揺らぎを指摘するが歴代の朝鮮王朝がこれを「実効支配」した事があっ たのか否かを示すには至っていないと指摘した。 これに加えて木村は「前 近代における「実効支配」とはそもそもどのようなものであり, またそれは どのような史料により示す事ができるのか」との問いを発したが, これは 歴史研究者にはかなり荷の重い問いになろう。 この前近代の「実効支配」の問題を別にして, 木村が指摘した二点に関し, 今回の 竹島がそれを考慮した形跡はあまり見られない。 単に, 木村のい 63) 池内敏, 「「竹島は日本固有の領土である」論」 歴史評論 785号, 2015. 324 獨島硏究 제20호 う今日的な「固有の領土」論が日本外務省の主張においてどのように展開 されてきたのか, その推移を追うだけであった。 その結論は, 古い「固有の 領土」論は今日の歴史学の実証水準に照らすと完璧に破綻しているのにも かかわらず, 外務省はそれを日本国民に対して竹島(独島)を日本領とする 合意を形成するために利用する一方, 今日的な用法の「固有の領土」論は韓 国に対して防衛線を張る議論として用いるなど役割を分担させていると 分析した。 この分析には傾聴すべきものがある。 一方, 木村が指摘した勅令41号の門前払いに関し, 池内は依然として姿 勢を変えないようにみえるが, そうであれば残念なことである。 池内は石 島をどの島であると考えているのかさえ明らかにしない。 そうした姿勢は 木村幹が指摘したように外務省のいう固有の領土論に与する結果を招く ことになる。 そのような予期せぬ歴史研究の副次的な効果は池内自身も望 むまい。 そうであれば, 石島に関して何らかの仮説を立てて解明されるよ う期待したい。 池內敏 竹島-もうひとつの日韓関係史 325 【참고문헌】 韓国語 김문식, 「春官志 筆写本의 原文比較」, 星湖学報 4号, 2007.. 大東文化研究院, 近畿實學淵源諸賢集 第2冊, 成均館大學校, 2002. 朴培根, 「無主地先占의 要件에 關한 1905年前後의 學説」, 領土海洋研究 6号, 2013. 朴炳渉, 「近代期 獨島의 領有權問題」, 獨島領有權 確立을 위한 研究 Ⅴ, 圖書出版 선인, 2013. ______, 「對日講和條約과 獨島·済州島·쿠릴·琉球諸島」, 獨島領有權 確立을 위한 研 究 Ⅶ, 圖書出版 선인, 2015. ______, 「시모죠 마사오(下條正男)의 論説을 分析한다」, 獨島研究 7호, 2009. ______, 安龍福事件에 對한 檢證, 韓國海洋水産開發院, 2007. ______, 「安龍福事件以後의 獨島領有權問題」, 獨島研究 13호, 2012. ______, 「샌프란시스코 講和條約前後 日本의 獨島政策」, 獨島研究 19호, 2015. ______, 「日本의 새 論調와 島根縣 漁民의 獨島漁業」, 獨島研究 9호, 2010. ______, 韓末 欝陵島·獨島 漁業-獨島 領有權의 觀点에서, 韓國海洋水産開發院, 2009. 서울大學校奎章閣韓國學研究院, 奎章閣資料叢書官署志篇 春官志, 서울大學校, 2013. 愼鏞廈, 獨島領有權 資料의 探求 第3巻, 獨島研究保全協会, 2000. 李碩祐, 對日講和條約資料集, 東北亜歴史財団, 2006. 이혜은 · 이형근 晩隱 李奎遠의 鬱陵島検察日記, 韓國海洋水産開發院, 2006. 鄭炳俊, 獨島1947, 돌배게, 2010. 韓国国史編纂委員会, 獨島資料Ⅰ, 2008. 洪政阮, 「露 · 日의 鬱島郡 侵奪과 大韓帝國의 對應 研究」, 軍史 80号, 2011. 英語 · 日本語 FRUS 1951, Vol.6 池内敏, 「「海図」「水路誌」と竹島問題」, 名古屋大学付属図書館研究年報 12号, 2015. ______, 竹島-もうひとつの日韓関係史, 中公新書, 2016. ______, 「竹島渡海と鳥取藩」, 鳥取地域史研究 第1号, 1999. ______, 竹島問題とは何か, 名古屋大学出版会, 2012. 326 獨島硏究 제20호 ______, 「「竹島は日本固有の領土である」論」, 歴史評論 785号, 2015. 外務省, 「竹島領有をめぐる日韓両国の歴史上の見解」, 外務省調査月報 2巻5号, 1961. 川上健三, 竹島の歴史地理学的研究, 古今書院, 1996. 木村幹, 「池内敏著 竹島問題とは何か」, 東洋史研究, 72巻4号, 2014. 下條正男, 「独島呼称考」, 人文 · 自然 · 人間科学研究, 第19号, 2008. 宋炳基, 欝陵島 · 独島(竹島)歴史研究, 新幹社, 2009. 第3期竹島問題研究会編, 竹島問題100問100答, ワック, 2014. 塚本孝, 「韓国の保護·併合と日韓の領土認識」, 東アジア近代史 14号, 2011. ______, 「日本は,竹島をいつ頃からどのように利用してきたのか」, WiLL, 2014. ______, 竹島領有権問題の経緯, 「調査と情報」 244号, 1994. 朴九秉, 「アメリカ捕鯨船の日本海来漁と竹島発見」, 歴史と民俗 神奈川大学日本常 民文化研究所論集11, 1994. 朴炳渉, 安龍福事件に対する検証, 韓国海洋水産開発院, 2007. ______, 韓末の欝陵島 · 独島漁業-独島領有権の観点から, 韓国海洋水産開発院, 2009. ______, 「下條正男の論説を分析する(2)」, 獨島研究 7号, 2009. ______, 「竹島=独島漁業の歴史と誤解(1)」, 北東アジア文化研究 33号, 2011. ______, 「明治政府の竹島=独島調査」, 北東アジア文化研究 41号, 2016. 朴裕河, 「和解のために」, atプラス 14号, 2012. 馬場章, 地図と絵図の政治文化史, 東京大学出版会, 2001. 速水保孝, 竹島漁業の変遷, 外務省アジア局, 1953. 森須和男, 八右衛門とその時代, 浜田市教育委員会, 2002.