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日本の火縄銃装具その多様性と芸術性

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日本の火縄銃装具その多様性と芸術性
2009年1月
日本銃砲史学会
日本ライフル射撃協会前装銃射撃連盟
会員
須川
薫雄
日本の火縄銃装具その多様性と芸術性
①多様なる日本の火縄銃
日本では燃える火縄の火を発火に使う「火縄銃」使用期間が約300年間と長期だった。
狭い国土だが、地方により、流派により、用途により多様な機構、形式の銃が存在してい
た。
銃には開発、生産に加え「射撃」と言う技術が必要であり、詳しく書かれた文献では、
旧式な火縄銃でも、その技術水準は一部、現在でも通用する概念が含まれていた。
さまざまな「伝書」類もそうだ。射手を裸にして描いているのは近代ソ連の射撃教書以外
には見当たらない。「射撃」には、火薬、弾丸、火縄、が最低、必要である。
それらを収納する、火薬入れ、口薬入れ(着火薬)、玉入れ、火縄入れ、玉型、早合(火薬
と弾丸を一体化しておく筒)、整備道具など様々な用具が存在したのである。
銃、射撃の目的は実用性と命中率であるが、日本の「鉄砲小道具」も、また銃と同じく、
様々な機構、形式のものが多種存在し、中には美術品の水準に達しているものも少なくな
い。
なぜ日本にはたかが武器、兵器にこんなに多くの形や機構があったのであろうか。
なぜ過酷に使用される装具に高価な費用を掛けたのであろうか。
日本の武家文化のひとつの象徴ではある、鉄砲、そしてその小道具の背景を探ってみたい。
②戦国時代と江戸時代の鉄砲に関する意識の差
徳川政権は戦国時代の延長上にあり、その制度や機構は戦国体制をとっていた。
しかし、近世日本はもはや中世ではなく、経済的には消費経済、貨幣経済が発達した。
従って、武家の装備、鍛錬、諸規制の厳守、義務付けられていた武器・兵器(鉄砲も含む)
の管理、使用は必然と変化を与儀なくされたのである。
江戸期の武器兵器管理の実態は戦国期の実戦的なものとは大きくかけ離れたものになっ
たのである。一つの現象が「射撃」のスポーツ化である。
それにも2種類あった。ひとつは「砲術」といわれる、的場(射撃場)での練習である。
つまり命中率を競う競技としての射撃である。
もうひとつは「狩猟」だった。
「狩猟」は、刀狩など厳重な武家社会の武器・兵器管理の隙間をぬい農作物の収穫に大き
な影響を与える有害鳥獣駆逐を、武家だけでなく、百姓階級にも許したのである。
③戦国期の鉄砲装具
写真①戦場で使用した「玉薬箱」内部に引き出し4段ありそれらに早合を収納した。
常識的に考え、当時、一会戦(敵味方が直接戦闘する一単位、近代戦では3日間)用には
鉄砲1挺あたり2‐300発の火薬、弾丸、火縄を用意しておく必要があったのである。
戦場では、火薬と弾丸を一体化した早合(竹、木、紙などの筒)を、射手は胴乱、紐で
つなぎ肩掛けにしたもの、などで大体20‐30発程度を身に付けていたのである。
一方予備の早合は、木箱、中は数段に引き出しになっており、1箱に200‐300の
早合が収納される、を「玉薬方」と呼ばれる雑兵が担ぎ鉄砲隊に付いていた。
射手は火縄、と口薬入れ(大体100発分は入る)を戦場で持ったのである。
一日の戦闘が終わると、雑兵たちは早合への再装填に忙しかったに違いない。また玉が
不足すれば、鉛を溶かし玉型で製作した。
しばしば、胴乱を下げる紐や、早合を結んだ紐も、火縄に使用されたのである。
だから戦国期における戦闘、鉄砲使用では「火薬入れ」から直接、蓋で火薬を測り、一発
ずつ装填するようなことはなかっただろう。また口薬入れも簡単な仕組みであり、厚さは
なく、表に合印などが陣笠と同じく入れられていた。蓋も単なる栓形式多かった。
写真②戦場で使われた、玉と火薬を一体化した早合(筒)と大型箱の火薬入れ、家紋入り口薬入
そして戦闘で使用した鉄砲は口径も統一されていたし、弾丸も火薬の量も共通であったは
ずだ。(日本の火縄銃の口径は玉の重さ、匁で表したのである。)
④江戸期「スポーツ」射撃の用具は
戦闘用装具は、城や武家の倉にしまわれていたであろうが、ここで江戸期の特徴として
あげられるものは参勤交代の「軍事パレード用」の装具である。
江戸時代、「入り鉄砲に出女」と厳しく管理された銃砲だが、参勤交代には華麗な鉄砲袋、
胴乱、口薬入れなどが用意された。
鉄砲はむき出しのまま、市中を持ち歩くことは殆どなかったし、制限されていたのであ
る。それで各鉄砲には何らかの袋が用意されたのである。
江戸期の「侍日誌」を読むと、一人の若い侍は、大体、2‐3種の武芸は指南代を払い教
授してもらっていた。
「砲術」もそのひとつだった。宇田川教授は砲術指南料、皆伝まで二百疋と記していた。
北斎漫画に詳しくあるように、射場においてその藩の流派免許皆伝になるために射撃を練
習した。射場は弓術を同じく「的場」と呼ばれ、使われた用具は固定的な作りであった。
写真③ステーショナリーな火薬入
家から的場まで従者に持たせるにしても銃と射撃に必要なものは相当な嵩になるのであ
る。(現在、競技会に行くには車でないと持ちきれない。)
又、江戸期に流行した大口径火縄銃は専用の運搬箱、弾薬用具箱などを用意し、屋敷か
ら2名以上の従者に担がせて的場に向った。
ちなみに的場は各藩の下屋敷などに設置されていた。例えば、土浦藩下屋敷は麻布四の
橋にあり、古川に面し、的場は奥の台地に向っていた。
その的場で使う敷物代わりは筵であった。
一つの木箱に納められた、角型の火薬入れ、引き出しに玉と火縄。火薬は引きこみの筒
状の蓋を使い計量した、ものになった。これらの装具は、戦場や、猟に持ち歩くには不便
な形式だが、射撃場では便利だったのである。
射場での装いは、火事場衣装に準じ、着物の合わせから火の粉が入るのを防ぐ、上位者
に自分を誇示するために、家紋入りの羽織や、胸当てが着用されたのである。
⑤武家が狩りで使った道具
写真④デザイン、材質、作りが優れた、火薬入、口薬入、玉入のセット
一方、当時の猟は、野鳥は群れるほどに渡来し、またカモシカ、猪、猿、鹿、熊、その他
小動物が田畑を荒らした。
しかし、武家が軍事演習的、またはスポーツとして、「鷹狩り、巻き狩り」などのように
行うのと、百姓の一部が「マタギ」として行うのとではそのスタイルや、用具、装具がか
なり異なったものであったことは想像できるのである。
武家の狩猟も身分の高いもののスポーツから、身分が低く、自作農に近い層の実質的狩
猟(彼らも鉄砲足軽として射撃に関しては専門家だった)まで広く行われていたのである。
身分の高いものは恐らく自分で銃を持ったり、装填したりはせずに従者が装填した銃を
用意したことだろう。しかし、口薬をもる、火縄を付けるは自分でやる必要があったから、
美術品のような家紋入りの凝った作りの口薬入れが存在する理由はここにあろう。
身分の低いものは戦闘用の装具と異なるので猟用装具は自作したである。
しかし猟では戦場と異なり、多くの数を発射するものではない。従って、小型な火薬入
れ、口薬入れ、玉入れ、これは別々だが、当時の風習としては同じ家紋を入たり、「一作」
にしたものだったのである。(猟は今でも1日数発撃てればよいほうだから量的には小型で
良い。)
⑥幕末における武家装具の変化
19世紀、近海に外国船が現れるようになると、日本全国に国防意識が高まった。
相変わらず火縄銃が主体であったが、外国装具の影響を受けるようになったのである。
これも小道具の多様化のひとつの原因である。
明らかに西欧の影響を受けた小道具、特に胴乱などが見られる。
輸入した材料、紫檀、黒檀、象牙、ラシャなども使用されるようになった。
日本の小道具全般に言えることだが、その材料の仕上げには防水と堅牢さを増すために
「漆」がふんだんに使われたのである。
「漆」は美術的な価値があるだけでなく、防水性に優れ、火薬関係の容器には最適の素材
であった。また皮革製品にも漆は多く使われていたのである。
漆は皮革を収縮させて面白い文様ができる。幕末に作られた洋式銃用胴乱が、フランス
のブランドバックのヒントになったという事実は興味深い。
⑦日本の口薬入れ
薩摩地方に多い口薬入れは、蓋をバネ仕掛けにしているもの。これは西欧の方式であっ
た。蓋が二重になっている口薬入れ、小型の銃、大型の銃に使い分けられた。
平たく、火薬を口から入れ、口は簡単な栓をする方式も多かった。これは湿気を防いだ
のである。
手を放すと蓋が下に落ちて、自動的にしまる、また本体が二分され、上部を外して、中
に火薬を補充する方式である。口薬入れは多様であるが、この方式は西欧では見たことが
ない。日本の火薬入れ、その他装具もひと工夫もふた工夫もしてあるのである。
写真⑤このような構造の口薬入は西欧では見てない
⑧猟師の装具
猟師は百姓のなかから、庄屋が選び、彼らには鉄砲が貸出されたり、払い下げられたり
したのである。
東北諸藩の「マタギ」と呼ばれる専門猟師集団が存在した。
言うまでもなく、収穫を荒らす、有害鳥獣の駆除と、獲物からの収入両方が目的である。
得られた鳥獣は「薬食い」として食用に、羽、皮、ツノ、内臓などは有効な使われた。
猟師に払い下げられた鉄砲は古い鉄砲であった可能性がある。
一つの例は、福島県阿武隈の「猪狩」家の納屋にあった銃身だ。銃身長は約82cm、
口径は15‐6mmである。火皿の修理が荒いものである。
写真⑥
猟師に払い下げられた鉄砲は古い鉄砲であった可能性がある。
もう一つの例は多摩の山岳地の家から出た鉄砲で、全長が124cm、銃身長74cm、
口径15‐6mmの完全品であるが、古い形式で痛んでいた。
大体、この寸法の少し短い、口径の大きな鉄砲が狩猟に使われたようである。
鉄砲の小道具は大体が猟師自身で自作した。
写真⑦猟師が野山に持ち歩く装具
従って同じものはないだけでなく、身近の材料をうまく使用し、過酷な猟場に耐えるよう
防水性に優れ、頑丈で、そして何よりも身に付け易い、実用性とさまざまな工夫があった。
まとめ
以上の如く、江戸期における日本の火縄銃装具、道具は、本流として「合戦に使う戦闘
用のもの」があり、武家の、訓練調練用と狩猟用、
さらに民間の猟用というふうに広い使われ方がされたので、それぞれ多種多様なものが
存在していたのである。
戦国末期から江戸期にかけての武具を奢侈品にすると言う文化が、鉄砲自体、またその
多様な装具に影響し、個人の趣味を生かしたさまざまな美術品に近いものが存在している
のである。
以上が日本独特の鉄砲装具、道具の存在背景であると推察できるのである。
参考文献:
安齋
實著
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雄山閣
安齋
實著
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安齋
實著
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日本ライフル協会
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雄山閣
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洞
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『種子島銃』1958年
淡路書房
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新人物往来社
宇田川
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宇田川
武久著
『鉄砲伝来』
2000年
思文閣出版
東京書林
中公新書
浅野
長武監修『図巻雑兵物語』人物往来社
前川
久太郎著
松田
名和
『道具からみた江戸の生活』
ペリカン社
毅一著
『日本・ポルトガル交渉小史』
1992年
弓雄著
『時代考証百科』新人物往来社
『砲術』
日本武道全集
丸山
擁成著
小野
清著
占部
日出明著
葛飾
北斎
須川
薫雄著
ポルトガル大使館
人物往来社
『幕藩体制下の政治と社会』1983年
『史料徳川幕府の制度』
1978年
『日本の砲術流派』2006年
文献出版
新人物往来社
自家本
漫画
『日本の火縄銃I』『日本の火縄銃II』
1989年
光芸出版
厳しい自然下の鉄砲道具
① 江戸期農民による狩猟
写真①マタギの泥人形
「マタギ」は江戸期以前より日本列島の山岳部に住み、農業、林業に従事する傍ら、冬季
には、組織的、計画的に山に生息する動物を狩猟し、それらを生活の糧にした人々である。
彼らに鉄砲が渡ったのは江戸期の中ごろで、火縄銃はその後、明治中期まで使われた。
「マタギ」以外にも一般農民に、代官から庄屋の管理のもと鉄砲が払い下げもしくは貸与
され、作物の収穫を守るためと、鳥獣を糧とするために、狩猟が行われたのである。
仕組みとしては、銃砲管理はかなり厳格であり、南部藩では獲物は藩の買い上げであり、
熊一頭三百銭であったという。藩からはタテ(ナイフ状の穂先を持つ槍)と鉄砲が渡され
た。(戦前の聞き取りより。)
残されている、江戸期の「マタギ」や農民の狩猟に関する資料は少ないが、木製の銃の
鑑札、狩猟地域に関する高札、そしてたまに山岳地帯の民家から発見される粗末な鉄砲や
道具から推察できのである。
この銃身は福島県阿武隈の農家の納屋にのこされていたものだが、銃身長82cm、口
径は15mmくらいだが、その火皿の修理跡がいかにも、素人鍛冶の作業である。
この口径は熊、猪などの大型獣に対して弾丸である。
なお、農村、山村で発見される鉄砲には全長110cm、銃身長76cm、口径15‐
6mm(六匁)程度もものが多い。この寸法が主に狩猟に使われた銃ではないか。
一発玉と散弾が兼用できる。大きな獲物にも効果のある大きさ、携帯しやすい、寸法であ
る。
②当時、狩猟して獲物の数々
日本カモシカ、現在は保護獣だが、江戸期には撃ち易い獣だった。これは火縄銃の射程で
充分に倒せた。日本カモシカは山の稜線に立ち、下を見る習性がある。従って、50‐1
00mくらいの射程で撃てたである。
写真②猟師の装具
熊はほぼ全国に生息し、毛皮、肉、内臓全てが商品化されたので、南部藩も三百銭とい
う価格をつけたのだろう。冬眠するので、冬眠の前後、雪に付いた足跡からその
場所を特定し、比較的に猟は楽だったと言われている。しかし、山奥でこれを解体し、里
に降ろすのは雪を利用しても手間が掛かったのである。近距離で撃ったという。
猪は作物を荒らす王者であり、大体テニスコート一面くらいの芋畑を一晩で掘り起こし
てしまう。田畑の廻りに石垣を組み、ところどころに陥穽(落とし穴)を掘る、石垣を廻
りこんで陥穽に落ちたところを、石を投げたり、槍で突いたりしたが、これも至近距離に
おいて鉄砲で撃つのが効果的だったのである。ほかに日本犬を使い、猪の動きを封じ、射
殺する方法もとられたのである。
小動物、ありとあらゆる小動物が獲物であったが、特に兎は鉄砲に頼らずとも猟したそ
うだ。
③山で使用した道具の数々
「マタギ」の研究、その写真に出てくる鉄砲と装具を観察するに、東北地方阿仁、沢内な
どに残されている資料では、鉄砲は、一般的な長さ全長130cmより短く、多分口径は
大きいだろう全身110cm程度のものが見られる。
熊などの猟は近距離で発射したと言うのでこのような鉄砲が使用されたのだろう、過酷な
使用で保存程度は良くないのである。
一方装具は、
1、
筒型、骨製の計量蓋火薬入れと、長皮袋の玉入れ骨口、口薬入れはないが身に付
ける長い紐がついた、上手なもの。
2、
早合、竹製だろう。皮の蓋。
3、
大型の設置式火薬入れ、吊り下げる輪があるので、湿気を避け囲炉裏の上などに
吊るしたのだろう。時々、非常に煤けたものを見ることがある。大型火薬入れは家に収
納しておくもので、そこから猟にでる小型のもの、早合に詰め替えた。
4、
同、ありふれた形の大型。
5、
1本の紐に火薬入れ、口薬入れ、火縄、玉、散弾、早合、それに銃の尾栓回し、
火打ち道具などを装着した一式。
それを首かけにすることで忘れ物を防ぎ、直ぐに家を出られた。一つでも忘れものがあ
ると猟はできないのである。
この方式は一般的だった。
左肩に装具を掛ける工夫、銃は右で撃つ。左側に装具を置く、脇のした、頭巾と合羽の
両方で隠されており、防水性が高かった。また左肩に装着する早合入れもあったのである。
写真③猟師の装具
④玉の製造と猟の準備
なお日本の火縄銃で、散弾を使用したか。これは明らかに使用したと考えらのである。
飛ぶ鳥はどんな名人でも火縄銃の一発玉では命中は難しい。
猟場ではどんな名人でも失敗がある。火薬の前に玉を入れてしまえば、銃身を台から外
し、尾栓を開けて、後ろから突き出さねばならない、従って簡単な尾栓回しは必要だった
のである。
木箱に上記の紐に結んだ装具一式、鉛、柄杓、玉型、散弾型など整理して納めたものも
良く見る。農業期間、鉄砲と装具は乾燥した人の目に付かぬところに管理したからである。
玉で関心があるのは、どのように散弾を作成し、使用したか?と言うことだ。
火縄銃で空中を狙っている猟師の絵(北斎)をみても明らかに散弾は使用したであろう。
古い民家から火縄銃とともに出た木箱、その中に狩猟に使った道具、玉型があった。
鉄板の内側を凸凹にして上から溶けた鉛を流し込むと細長い、凸凹状の鉛の紐ができる。
それを鋏で切ると、細かい粒になり、散弾を作った。一回、現在の5号くらいの大きさも
散弾が100個くらいできる。
現在の狩猟に使う散弾銃12番口径は18mm。その散弾のパターンは30mの距離で1
m四方くらいだ。これを火縄銃口径15‐6mmくらいで使うと、1m四方に広がるには
50mくらいの距離だろう。水面の鳥を撃つために使用するには最適だ。
なお丸い一発玉は皮の袋にカラス口を呼ばれる、玉をひとつずつ取り出せる仕掛けの入
れ 物 に 、 散 弾 は 計 量 を 兼 ね た 蓋 の 付 い た 入 れ 物 に 収 納 し た 。
写真④玉造りの箱
⑤北斎漫画に観る「マタギ」の様子
興味深いのは日本の「マタギ」の装具、行動、姿勢など、欧米の「マウンテンマン」と
呼ばれる専門猟師の装具や狩猟方法と多くの共通点があることである。
猟師は山の中を自分の足で歩く。そのために銃や装具に様々な工夫をしてあった。
何かひとつ忘れても苦労は報いられない。得た獲物はどう持ち帰る、そういうことを考え
てあったのである。北斎の漫画に鳥笛を使っている(現在は禁止)、またトヤ(簡単に雨露
を防ぐもの)から空中を飛ぶものを射撃している、雪中で熊に接近している、こういう描
写はかなり正確な観察によるものである。
写真⑤雪中で熊を撃つマタギ
写真⑥トヤ(仮説の小屋)から空中の鳥を撃つ
材料は身近にあるものを使用したが防水性を強化するために漆は必ず使われていたのであ
る。木材、竹、カモシカの角、獣類のなめし皮、毛皮、紙の紐を寄ったもの、水牛の角、
などなど身近に手に入るものだった。
日本の猟師の火薬入れには金属が使われていることは少ない。
殆どが自作である。
玉入れのカラス口は日本カモシカのツノで作るが、カラスの口のように出来ていて、中
から出てくる玉が一発引っかかる。
竹素材と曲がりの利用は腰に挟むために竹の曲がった部分を使うのである。
い
ず
れ
の
漆
の
使
用
も
荒
く
、
装
飾
性
は
少
な
い
写真⑦猟師の道具、筒は切火縄入
と早合。皮の玉入は散弾用だっただろう。
。
⑥江戸の銃砲管理
江戸期、社会的責任体制は地域単位であり、農村部では名主、庄屋がその任にあったこ
とは衆知の事実だ。
農民に鉄砲が渡される場合は、個人の猟師としての資質、性格など安全性を重視して、
地域の長の推薦の元、地域の代官が発行した鑑札が必要であった。
また代官などは安全性を考え、禁猟区を説定し、高札などを立てた。
先日、銃砲史学会で野田の茂木家(現在は市の博物館)を見学してが、そこには6挺の
同じ形、寸法六匁の火縄銃があった。領主と話し合いの上、許可を得て、狩猟、自衛のた
めに装備していたものと推定されるのである。
鑑札に「威筒」(おどしつつ)と書いてあるものがみられる。
写真⑧江戸期の「威し鉄砲」の鑑札
「威筒」は動物を威かすもので、実弾は発砲できないとする説があるが、実弾が使えない
火縄銃の実物は想像も付かないし見たこともないのである。また物理的にも存在しえない
のである。ちなみに「威し筒」と言う鑑札に、「玉三匁」と併記してある。明らかに矛盾し
た記載である。
これは武家以外に鉄砲を渡すに対しての「建前論」で、このようによんだのではないで
あろうか。ちなみに現在、田畑に一定の間隔で響く装置があるが、あまり効果はないそう
だ。だから、火縄銃を一発撃って鳥獣を撃退する行為自体はあまり意味がないのである。
以上のような体制は江戸期から明治中期頃まで続いていたと推定されるのである。
現在、狩猟は一般的ではない。狩猟人口は減るばかりだが、里山では猪、熊、猿、鹿など
による農作物の害は大きく、休猟地も極端に少なくなった。
江戸から明治、自然が多く残っていた日本全国、狩猟は想像以上に重要な生活活動であ
り、そのための鉄砲と道具は予想以上に頻繁に使われていたのである。
以上。
参考文献
太田
雄治著
『マタギ』
1989年
八幡書店
戸川
幸夫著
『マタギ』
日本の伝統狩人探訪記
安齋
實著
『砲術家の生活』
安齋
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『砲術図説』
日本ライフル協会
荘吉著
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洞
富雄著
『日本の合戦』
洞
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『種子島銃』1958年
淡路書房
洞
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『鉄砲伝来とその影響』
1991年
武久著
雄山閣
新人物往来社
『鉄砲伝来』
思文閣出版
中公新書
浅野
長武監修『図巻雑兵物語』人物往来社
前川
久太郎著
松田
名和
『道具からみた江戸の生活』
ペリカン社
毅一著
『日本・ポルトガル交渉小史』
1992年
弓雄著
『時代考証百科』新人物往来社
『砲術』
日本武道全集
クロスロード選書
雄山閣
所
宇田川
昭和59年
ポルトガル大使館
人物往来社
田原
久著
『民具』1981年
葛飾
北斎
漫画
須川
薫雄著
至文堂
『日本の火縄銃I』『日本の火縄銃II』
1989年
光芸出版
Fly UP