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鷗外と「事件ノ独乙婦人」
鷗外と「事件ノ独乙婦人」 鷗外と「事件ノ独乙婦人」 一 鷗外を追う謎のドイツ娘 一 築地「精養軒」に投宿した女 一 築地「精養軒」に通う連絡係 一 恋人エリーゼの帰国とその後 一 鷗外を追う謎のドイツ娘。 宮 永 孝 森鷗外(一八六二~一九二二、本名林太郎。明治・大正期の軍医、小説家、評論家、翻訳家)は、大正十一年七月九日午前七時に息をひきとっ た。享年六〇歳であった。病名は萎縮腎、肺結核であった。この年の六月中旬ごろから健康がおとろえ、役所をやすんだ。 鷗外は死期の迫ったある日のこと、妻しげに命じ、目のまえ(おそらく庭先)でドイツ留学時代の恋人の写真ややり取りした手紙などを焼却さ せた。惜しいことにこのとき、鷗外の青春時代の思い出の品は、ことごとく失われてしまった。かれの恋人のおもかげはある程度伝わっており、 にしかたまち せい し 近年ついに当人の写真と思われるものが現われた。 あるとき鷗外は、西方町の誠之小学校の道すじにある川崎屋という荒物屋の少年店員(当時十歳くらい)が、ドイツ時代の恋人に生きうつしで いちまつ あん ぬ ある、と妻に語った。その少年はいわゆる美少年というものでもない。一見、かしこそうな、気持のよい顔つきをしていた。じぶんの子供たちが、 )。 その少年と語り合っているようすを目撃した軍服姿の父の表情に一抹のさみしい影が感じられたという(小堀杏奴「母から聞いた話」 228(1) (一八八四) らんだものであろう。 ちん じ 当時、欧米に留学した者は、若さと生気とさみしさゆえに、現地の女性と関係をもち、女性問題 でごたつく場合がすくなくなかった。鷗外のばあいもドイツ滞在中に、一つや二つ女性との椿事が 寄せている」光景であった。鷗外はおれは肺病だぞ、 そばに寄るとうつるぞと叫んだ。 (森鷗外「ヰタ セクスアリス」 ) 。 は「ちぢらせた明色の髪に金粉をつけて、肩と腰とに言いわけばかりの赤い着物を着た女を、客が一人ずつそばに引き 鷗外はライプツィヒ滞在中に、紅灯のちまたに足を踏み入れたようである。赤色灯のついた娼家において、見たもの に到着。すぐにライプツィヒ(ドイツ南部の都市)に移り、ホフマン教授につく。 明治十七年(二十三歳)………六月、陸軍衛生制度および軍陣衛生学研究のためドイツ留学を命じられ、八月フランス船で出発。十月中旬、ベルリン (一八八五) 軍医監ロートを訪ねる。 イツ南東部の都市)におもむき、負傷兵運搬演習を参観。八月から九月にかけて、ドイツ陸軍の秋季演習に参加。十月、 明治十八年(二十四歳)………ライプツィヒで迎年。 「日本兵食論」 「日本家屋論」の著述にしたがう。のち石黒軍医監に送る。五月、ドレスデン(ド (一八八六) 明治十九年(二十五歳)………一月、ロートに一週五時間日本語を教える。三月、日本語の教授をおえる。同月、ミュンヘンに移る。ペッテンコーフ ェル教授に師事す。ホイ街十六番地のJ・パルム方に下宿す。 (2)227 のちにドイツ時代の恋人は、鷗外の跡を追って日本にやって来るのであるが、当人と会った小金 よしきよ こ 悪気のない、小柄な美しい人。 み 、一〇三頁)。 井良精(一八五八~一九四四、明治から昭和期の解剖学者、鷗外の妹と結婚した)の印象では、 ― き であったという(小金井喜美子『森鷗外の系族』大岡山書店、昭和 ・ 12 鷗外は身長が高いほうでなく、中肉中背のようだが、じぶんとせかっこうが似た女性を相手にえ 18 あったにちがいない。いまドイツ到着から帰国までの間に、かれが経験したであろう女性との出会いを年譜的にしるすと、つぎのようになる。 ドイツ留学時代の鷗外 鷗外と「事件ノ独乙婦人」 すご み 鷗外はミュンヘン時代に美人の娼婦とかかわりがあったようだ。この街に日本人がよく出入りするカフェがあった。 そこにハンサムな土地のならずものが連れてくる「凄味がかった別品」がいた。日本人は皆その女性を美人だといって ほめちぎった。 ひじ ― 引用者)の頸にからみつく。金井君の唇は熱い接吻をおぼえる」。 くび ある晩のこと、その二人づれがいるとき、鷗外はトイレに立った。あとから足早にトイレにはいってくる者がある。 や 「たちまち痩せた二本の臂が金井君(じつは鷗外 鷗外は名刺を一枚にぎらせられた。番地がついている。 つら あ 名刺には、エンピツで「十一時三十分」と書いてあった。鷗外の同胞は、かれが娼婦と関係しないのは臆病からだと おもっていた。そこで鷗外は面当てに冒険することにした。その女性はパーティに着ていく衣装を質屋から請け出すた めに、鷗外を誘ったのである。その美女は「腹の皮に妊娠したときのあと」があった、というから帝王切開をしたので あろう。 (森鷗外「ヰタ セクスアリス」 ) 。 明治二十年(二十六歳)………四月十五日、ミュンヘンを発し、ベルリンに移る。五月、細有機物(細菌)学を修めるためにローベルト・コッホの衛 生試験所に入る。同月十八日、マリエン街三十二番地のシュテルン夫人方に下宿することにした。 めい 鷗外はベルリン滞在中に三度下宿を変えたが、この最初の下宿はいろいろ問題があった。戸主のシュテルン夫人は四 はだじゅばん しかし、この姪は毎晩肌襦袢ひとつになって、鷗外の寝ている寝台へやって来ると、そ のふちに腰をかけて、三十分ずつ話をした。「おばさんが起きて待っているから、ただ お話だけして来るのなら、かまわないといいますの。いいでしょう。おいやではなくっ て」 (森鷗外「ヰタ セクスアリス」 ) 。 鷗外は夜ごと部屋にやってくるこの娘から逃れるため、六月十五日衛生試験所にちか いクロースター街九十七番地のA・カエディング方に居を転じた。 ただのり 七月十七日、鷗外は留学生・谷口謙(一八五六~一九二九、軍医)とともに駅舎に上 官の石黒忠悳(一八四五~一九四一、明治期の軍医、のち陸軍軍医総監)を出迎えた。 石黒は九月にカールスルーエで開かれる第四回国際赤十字大会とウィーンでひらかれる 国際衛生学会に出席し、その後、諸制度を調査するのが主な目的の渡欧であった。 226(3) 十歳くらいの未亡人であった。十七歳になる姪トゥルーデルは、おしゃべりのうえ、遊び好きであった。 ( 「獨逸日記」) 。 明治20年(1887年)、ドイツを訪れたときの 石黒恵直。 石黒は谷口、鷗外をともないベルリンを発し、カールスルーエにむかい、二十二日の大会に出席した。 わりあい こ むすめ 引用者)ヲ見ル。 き きわま れいによって もっと せい った。七月五日の夜九時、石黒と鷗外は駅舎にむかった。見送り人の中に、目印の白いバラをつけた石黒の愛人が、中 (4)225 石黒はフリートリヒ・カルル河岸一番地のフッシュ夫人方に下宿した。 ― 九月十六日 石黒は鷗外を通訳として演説をした。 九月二十八日、石黒・谷口・鷗外は、早朝の列車でウィーンをめざした。国際衛生学会はすでに二十五日からはじま っていた。学会出席の合間にオーストリア陸軍の兵営や病院などを見学した。のち石黒の夜のお供は谷口がになうこと になった。 石黒は十日ほどウィーンに滞在したが、この間に街娼をもとめて夜な夜な街をさまよい歩いた。そのありさまは、 さら 「石黒日乗」 (すなわち「還東日乗」のこと)が如実にしめしている。 ― 十月二日(日)……十時帰宿ス。帰宿後更に散策ス。碧眼赤髪ノ狐娘ヲ見ル。 十月四日(火)……夜散策。十時帰宿。 十月六日(木)……夜散策ス。 か じん 十月七日(金)……散策。此夜黒装美服ノ佳人(美しい女 ざん げ 注・中井義幸著『鷗外留学始末』岩波書店、平成 年 月、二六六頁を参照。 石黒はウィーン滞在中、連夜谷口をともない娼婦をもとめて外出したが、十月八日、石黒・谷口・鷗外の三人は、ベ これにつぐ 多罪、石黒次之、谷口割合ニ少なり」 ( 「石黒日乗」 ) 。 「青山」は、 〝青い山〟の意であるから、これらの語は紅毛碧眼(赤い髪と青い目)の女性の暗喩であろう。 へきがん た。 フ リ ー ト リ ヒ・ カ ル ル 河 岸 の 下 宿 代 は、 月 二 百 マ ル ク で あ っ た( 中 井 前 掲 書 を 参 照 ) 。 石 黒 が い う「 蒼 山 」 と か 婦と会うつど、玉代として二十八マルク(日本円で約六円二十銭)払い、月四回で百十二マルク(約二十五円)散財し 山」と呼ぶ若い娼婦(フランス人)と出会い、毎週土曜日にその女性を訪ねることになったからである。かれはこの娼 ざん ベルリンに戻った石黒は、十一月末になるとにわかに滞在延期を願い出るが、それはかれが「蒼山」もしくは「青 そうざん ルリンへもどる夜行列車のなかで、女遊びの戦果を語ったようである。「車中三人ノ懺悔話アリ。奇極ル。 你 例 森最モ 7 明治二十一年(二十七歳)……ベルリンで迎年。三月から七月まで、鷗外は近衛歩兵第二連隊の隊付医務にしたがった。五月、石黒は帰国の準備に入 (一八八八) 11 鷗外と「事件ノ独乙婦人」 ら をもっ きざし そうざんひそか 号所収、平成 その か おう ・ ) 。 ― 年の家政婦といっしょに見送りに来ていた。 「石黒日乗」はいう。 「蒼山竊ニ来リ送ル 其家媼(老女 しろ ば ナリ 白薔薇以テ兆トナス」 。 (武智秀夫「還東日乗を読む㈠」 『鷗外』第 1 ため そうぜん のち か みん 引用者)ト共 引用者) 。後互ニ語ナクシテ仮眠ニ入ル」 ( 「石黒日乗」 )。 イツ船で日本へむかったことを石黒に伝えた。鷗外が恋人の日本行を知ったのは、パリの連絡先に通知があったからである。 そのじょうじん ルセーユへむかうとき、鷗外はベルリンの恋人がブレーメン(北ドイツの都市。ハンブルクの南西一一六キロ、ベーザー川下流に位置)より、ド その後、石黒と森はオランダ、イギリス、フランスを経て横浜に帰着するのである。が、七月二十七日の夜、両人が夜行列車でパリを発ち、マ ノ事ヲ語リ 為に愴然たり(悲しみにいたむ 恋人をベルリンに残してきたことを知っており、二人は夜行列車のなかでそのことを話題にした。 「車中、森ト其 情 人 ― 九時四十二分、列車はベルリンを発し、ハノーファを経て一路オランダのアムステルダムをめざした。石黒は鷗外が 12 便船を何度か替えた。 へむかう。日本へむかう途中で のせたアヴァ号を追いながら東 ンを出帆。以後、石黒、鷗外を ウンシュヴァイク」号ブレーメ 明治二十一年七月二十五日(水)………恋人をのせたドイツ汽船「ブラ (一八八八) [鷗外の恋人] いま石黒一行と、鷗外の謎の恋人の日本までの道程を比較対照表にすると、つぎのようになる。 [石黒一行] (一八八八) 徳 大 寺 公 弘、 明治二十一年七月二十九日(日)午後四時……石黒と鷗外のほか、帰国 ― 者五名 ら 前田利武、松平乗承、橋 ― 口文蔵、外山修蔵 をのせたフランス汽船 「 ア ヴ ァ」 号、 マ ル セ ー ユを出帆。 八月三日(金)……………………………………アレキサンドリア着 224(5) 66 ブレーメン ブレーメンおよびハンブルクの地図 出帆。 八月二十二日(水)………………………………シンガポール着。翌日、 八月十六日(木)…………………………………セイロンのコロンボ着 八月九日(木)……………………………………アデン着 ハンブルク ( ) 鷗外の恋人がブレーメンを出航するときに乗った貨 客船「ブラウンシュヴァイク」号(2150t)。 ルダァ」号、香港出帆。 九 月 六 日( 木 ) の 午 後 六 時 二 〇 分 …… ド イ ツ 汽 船「 ゲ ネ ラ ー ル・ ヴ ェ 1 (6)223 八月二十五日(土)………………………………サイゴン着。翌日、出帆。 八月二十九日(水)………………………………香港着 九月二日(日)……………………………………上海着 九月八日(土)……………………………………横浜着 九月十二日(水)の午後四時四〇分……恋人横浜に到着。鷗外におくれ ること四日である。のち汽車に て東京へむかい、築地の「精養 軒」に投宿した。 鷗外の帰国後、ドイツから一ヵ月以上も船にゆられながら日本にやって来たドイツ女性のことは当時から知られていたが、鷗外が告白体の小説 「舞姫」を『国民之友』誌上に発表するに及んで、主人公豊太郎と踊子エリスの恋物語が、読者にあたかも真実として受けとられることになった。 「鷗外の『舞姫』エリスのモデル 本名は『ミス・エリーゼ』当時の英 の見出しのもとに、エリスのモデルの名をつきとめたことを報じた。「助教授コンビ」 『朝日新聞』の夕刊は ― また鷗外の妹・喜美子がこのドイツ婦人のことを語るようになると、多くの研究家がこの謎のドイツ女性のことを追跡調査するようになり、こん にちに至っている。 ― 昭和五十六年(一九八一)五月二十六日 ― 字紙に手がかり〝素人探偵〟が解明 助教授コンビ」 というのは、茨城大学助教授(地理学)・中川浩一氏と千葉敬愛経済大学助教授(日仏交流史)・沢 護氏であった。両人は『ザ・ジャパン・ウィ すでに金山重秀と成田俊隆両氏によってこのことは発見されており、この乗船 (ミス・エリーゼ、ヴィーゲルト)というドイツ人女性がただ一人、男性 Miss Elise Wiegert ) 紙([ 一 八 八 八・ 九・ 一 五 付 ]) に 出 て い た 入 港 し た ド イ ツ 船「 ゲ ネ ラ ー ル・ ヴ ェ ル ダ ァ」 号 ー ク リ ー・ メ イ ル 』 ( The Japan W eekly Mail )の乗客名を調べたところ、そこに General Werder 客にまじって乗っていたことを知った。 ― エリスのモデルを発見した、というニュースに先立つ数年前 客のことを雑誌『鷗外』に発表する予定であったが、資料不足から公表を控えていた。その後突然『朝日新聞』がスクープ記事として報じたので ある。この新聞記事がきっかけになったかどうかわからないが、その後〝エリーゼ〟の身元しらべが活発になったようだ。そのせいかかなりの所 まで解明された感がある。 222(7) ( 鷗外と「事件ノ独乙婦人」 聞』 (明治 ・ ・ 9 独汽船ゲネラール・ヴェルダァ号が横浜に入港したときの船客名。「エリーゼ・ヴィ ーゲルト嬢」の名前がみえる。The Japan Weekly Mail 紙(1888・9・15付)より。 ば シュミット・フォン・レーダ氏(総 千住の家では、かれが帰国する年の春から、そのうわさばかりをしていた。母は旅に出た者はその顔をみるまで安心できない、 またゲネラール・ヴェルダァ号は、一八二〇トンの船であり、船長はW・フォン・シュックマンであった。雑貨と郵便物を積んでいた。 ― 鷗外の実家 (8)221 問題の『ザ・ジャパン・ウィークリー・メイル』紙(一八八八年九月十五日付)の記事を和訳すると、つぎのよ うになる。 到着した乗客 ― ドイツ汽船「ゲネラール・ヴェルダァ」号で香港からやって来た一等船客 領事) 、R・F・レーマン氏、エリーゼ・ヴィーゲルト嬢、マスヤ・イワタ医師、パウ・トング氏。二等船客は中国人 二名。三等船客は、ヨーロッパ人二名、中国人二十八名、日本人一名。 マエダ男爵、森医師、イシグロ、 同紙はまた横浜に先着した石黒一行が乗った「アヴァ」( Ava )号の船客にふれているが、それにはつぎのよう にある。 ― フランス汽船「アヴァ」号で香港から上海、神戸経由でやって来た一等船客 う マツダイラ、ステナーケルス(フランスの副領事) 、ハシグチ、トクダイジ、ド・ミショ・パデル、シャサニョン、モ スの諸氏、オクスリイ夫妻と子供と乳母、ニコルソン氏、グラント・バーチ夫妻、ギュンツバーク男爵と召使い、ヒ ュリディ氏と召使い、マーシャル夫妻、アレヌ夫人、ホヴィオン氏と召使い、バーフ、レイノー、ドゥギィの諸氏。 アヴァ号は三一二〇トンの船であり、船長はドゥ・フォコンといった。同船の横浜入港に関して『東京朝日新 付)は、 「仏国郵船アバー号は 香港より上海及びマルセールを経て 砂糖ならびに雑貨を積込み 昨八日午前七時に入港し 9 ……」と報じている。 21 鷗外と「事件ノ独乙婦人」 といっていた。家には父の往診用の人力車があったが、鷗外が帰国するので一台新調し、出入りの車夫にはっぴ(しるしばんてん)を作ってあた えた。帰朝の日(九月八日)には、新橋駅まで迎えに出す計画でいた。 ところが、石黒一行が新橋駅に着くと、赤十字社差し回しの馬車が待機しており、すぐそれに乗って陸軍省その他にあいさつにむかったため、 出迎えは不要になった。 鷗外は役所へのあいさつをおえたのち、千住の家へむかった。人力車のうしろには、はっぴを着た人びとが大勢いた。家に着くと、かれはその 人たちにあいさつをした。気のきいた仲働き(奥むきと勝手との間の雑用をする女中)が、鷗外について来た人びとに印ばかりの祝い酒をだした。 ― 家の中では、古い書生たちが、集って安着の悦びをいった。母は気丈な女性であり、おじぎをしただけで、涙ばかりふいて、物をいわなかった。 ・ )。 ― いたらしい。(小金井喜美子「次ぎの兄」『森鷗外の系族』所収、大岡山書店、昭和十八年十二月)。 ドイツから鷗外のあとを追ってきたこの女性は、鷗外のことをじっさい富豪の子のように思って いでは無理だ」というと、「まあ考えてみましょう」といって、別れたと、父に語った。 着いたら自活してみます。「お世話にならなければよいでしょう」というから、「手先が器用なくら 正直な女だから、真にうけて「日本へ行く」といった、という。踊りや手芸が得意だから、日本に ま のなかには、おもしろがって森家の暮らしむきが豊かなようにいって、そそのかす者がいた。根が ただふつうの関係の女だけど、じぶんはそんな人間を扱うことはごく不得手なのに、多くの留学生 引用者)ドイツ女性のことを話した。そのとき、 鷗外はタバコを吸いながら、にこにこしているだけであり、さかんに話をするのは弟・篤次郎であった。 ( 小 金 井 喜 美 子「 兄 鷗 外 の 思 ひ 出 * 兄の帰朝」 『文藝 臨時増刊号』所収、河出書房、昭和 一 築地「精養軒」に投宿した女。 7 鷗外の妹・喜美子は、あと追い女のことを耳にしたのは、だいぶ経ってからのようだ。小金井良 220(9) 31 鷗外は帰国した九月八日の晩、父・静男にドイツ滞在中に心安くなった(親しくなった意 新橋駅の図 鷗外の恋人が滞在した築地・精養軒の図 ( 喜 美 子 ) つき 精日記から「事件ノ独乙婦人」(小金井良精の表現)に関する記事だけを抜きだすと、つぎの ようになる。 (一八八八) しょう じ 明治二十一年九月八日(土)晴…………おきみハ 林太郎本日帰朝ニ付 千住ニ行キシガ同時 ニ帰リ来ル 九月十二日(水)雨………おきみ千住エ行ク、少時シテ帰リ来ル *この日、問題のドイツ女性は来日した。 九月十四日(金)晴………午後四時帰宅シ 千住エ行ク 九時帰宅 九月十七日(月)晴………午後四時教室(解剖学教室の意― か 引用者)ヲ出テ、 ― 引用者)去ル し 石黒忠悳子(子は敬称“氏”のこと 八日帰朝ニ付見舞フ面会ス せきけい いた 引用者)云々ノ談話アリ 夕景千住ニ到リ相談 うんぬん 九 月 二 十 四 日( 月 ) 曇 晴 … 今 朝 篤 次 郎 子 教 室 ニ 来 リ 林 子 事 件( 林 太 郎 氏 の 事 件 ― ただち 時ヲ移シ十二時半帰宅 すえ すぎ 引用者)ニ到リ 事件ノ独乙婦人ニ面会 種々 いた 九月二十五日(火)曇……午後三時半教室ヨリ直ニ築地西洋軒(〝精養軒〟の誤 ― り 引用者)モ来ル 共ニ出テ、千住ニ到 談判ノ末 六時過帰宿 いよいよ き こく いう 九 月 二 十 六 日( 水 ) 晴 曇 … 三 時 半 出 テ、 築 地 西 洋 軒 ニ 到 ル 愈 帰 国 云 篤 子 ― (篤次郎氏 すぎ ル 相談ヲ遂ケ九時半帰宅 すで きたり あ ざん じ さ これ 九月二十七日(木)晴……医学会ハ欠席ス、五時半過出テ、築地西洋軒ニ到ル、 暫時ニシテ去ル 林太郎氏既ニ来テ在リ 十月二日(火)快晴………午後三時半教室ヲ出テ、長谷川泰君ヲ訪フ 不在 是 (10)219 鷗外と「事件ノ独乙婦人」 采女橋から見た築地・精養軒 ことやぶ も ようよろ ただち 引用者)賀古子(賀古鶴所のこと ― ヨリ築地西洋軒ニ到ル 模様宜シ 六時帰宅 十月四日(木)快晴………午後十二時教室ヲ出テ、築地西洋軒ニ到ル 林子ノ手 あたり 紙ヲ持参ス 事敗ル、直ニ帰宅 たずさえ 十月五日(金)晴曇………午後築地ニ到ル ― 十月七日(日)快晴………午後おきみヲ携テ団子坂辺ニ散歩ス せきえい 十月十二日(金)晴………夕影(夕方 引用者)来ル 森林子ニ付テノ話ナリ 共ニ晩食ス これ あ 十月十四日(日)晴………是ヨリ築地ニ到ル 林子在リ、帰宅晩食 千住ニ行キ すぎ 十一時帰ル 十月十五日(月)雨暑……午後二時過教室ヲ出テ、築地ニ到リ今日ノ横浜行ヲ延 ― べんてんどおり 引用者) 晩食後 引 用 者 ) 篤 子 待 受 ケ タ リ 横浜糸屋ニ投ス(横浜の駅前旅館「絲 いと 引ス 帰宅晩食シ原君ヲ見舞ウ 十月十六日(火)曇………午後二時築地西洋軒ニ到ル。二時四十五分発汽車ヲ以 テ三人同行ス ― 屋」に投宿したの意 ば しやみち (鷗外の弟・篤次郎が待っていた 引用者)ヲ以テ発シ 本船 迄 General Werder まで 馬車道 太田町 弁天通ヲ遊歩ス はしけ ぶね 十月十七日(水)晴………午前五時起ク 七時半 艀 舟(乗客や貨物をはこぶ小 ― 舟 見送ル、九時本船出帆ス、九時四十五分ノ汽車ヲ以テ 218(11) 帰京 十一時半帰宅、午後三時頃おきみト共ニ小石川 辺に遊歩ス ・ ) 、二~三頁を参照。 注・ 長 谷 川 泉「 エ リ ス『 事 件 ノ 独 乙 婦 人 』」 ( 『鷗外』 号所収、昭和 15 49 11 井良精 たといふ知らせがありました」 (小金井喜美子「兄鷗外の思ひ出 兄の帰朝」 ) 。 している事例を耳にしていたからである。残してきた女性への送金に っていた。外国から女性を連れて帰ったのはよいが、その扱いに難儀 な女性なのか。まさかつまらぬ人間ではなかろうかと、疑心暗鬼にな 動地の大事件であった。家族は心配でたまらなかった。だれもがどん どう ち ドイツ女性が日本にやって来た、というのは、森家にとっては驚天 きょうてん ― ― 引用者)がそのことを大学へ知らせに来たので、主人(小金 次郎 ― 引用者)は授業が終るとすぐ様子を聞くために千住へ行っ たある日のことだった。 「婦人の名はエリスといふのです。次兄(篤 軒にいる、といった話を聞いて仰天したのは、九月も二十日ほど過ぎ 小金井喜美子がドイツ女性が兄のあとを追って来日し、築地の精養 鷗外の弟・篤次郎 住吉町 横浜駅 太田町 弁天通り 横浜の地図 The Japan Directory(1888=明治21年)より。〔横浜開港資料館蔵〕 (12)217 鷗外と「事件ノ独乙婦人」 ひどく困っている者の話も聞えてきたからである。 ― ドイツ女性が来日して十日後の九月二十四日 森家においては、この女性の扱いをめぐって夜おそくまで親族会議がおこなわれ、帰国をうな がすことに決したようである。その交渉役と連絡係をになわされたのは、ドイツ留学の経験もある東大医学部教授・小金井良精であった。かれは 森家の方針が出た翌日、東大より築地の精養軒に直行し、数時間るる諸事情をドイツ語で説明したと考えられる。 好人物だ。 おそらく小金井が相手の女性と会ったのは、このときが初めてであろう。妻喜美子が夜帰宅した夫に、どのような人か、と尋ねたとき、 ― との返事をえて、ひとまず安心したという。 翌九月二十六日から二十数日間、交渉人兼連絡使の小金井は、ひんぱんに精養軒を訪れた。篤次郎はまだ学生だし、語学は不十分であった。鷗 「 愈 帰国云」は、どのように解釈すべきか。この日、ついに帰国をうながしたということか。 いよいよ き こくいう 外は軍服を着たまま、役所の帰りに西洋女に会いに行けないし、けっきょく文民の小金井が本務の合い間をぬってエリーゼもうですることになっ た。 ― 九月二十六日の小金井日記のくだり 鷗外が二ヵ月ぶりにエリーゼと会ったのは、九月二十七日(木曜日)のことだが、話をしているとき小金井がやって来たので、鷗外はほどなく いたのか。いずれにせよ彼女はその手紙をよんで、感情を害したようである。 十月十四日(日曜日)、鷗外は精養軒でエリーゼと会っているが、このころ彼女は帰国す る肚をきめたものか。喜美子によると、森家では彼女が帰国するとき、できるだけのことを し、土産をもたせ、費用その他の雑事を篤次郎がやった、という。 エリーゼは日本に入国し、出国するまで、この国に三十六日間いたことになるが、とくに 東京にいる間にどのように日を送っていたのであろうか。この点になると、かいもくわから ないのである。一日中、旅宿である築地の精養軒に引きこもり、散策に出ることもなかった とは考えにくい。食後、ときに居留地内を歩いたり、買物などもしたことであろう。 216(13) 席を立ち帰ったようにも考えられる。十月四日、小金井は鷗外がドイツ文でつづった手紙をもってエリーゼを訪ねているが、そこに何が書かれて 小金井良精 つき じ 一 築地「精養軒」に通う連絡係。 * 〝築地〟とは海や沼を埋めてつくった土地の意である。明暦三年(一六五七)以後、埋め立てられ、西本願寺や諸大名や旗本の屋敷などが建て られた。幕府崩壊後は、武家やしきは荒れはて、ぺんぺん草が生えていた。が、鉄砲洲(現・中央区湊町、明石町一帯)に外国人のための居留地 (慶応三年から明治三十二年まで)が置かれてから発展をとげた。 うね め ㈡ ( ) 彼女は明治二十一年(一八八八)九月十二日から同年十月十六日まで、三十五日間この西洋レストラン兼ホテルに滞在した。精養軒の位置は、 ― ベランダ 采女橋の西側たもと角地である。ホテルの規模は、建坪二〇〇坪、二階建。客室は十二あった。エリーゼが泊ったのは、 支配人………… T・マツイ レジ係……… … ツ バ キ チーフ・コック 事務員……… … ジ ョ ー ジ ・ ウ メ コ ッ ク 料 理長……… … C ・ J ・ ヘ ス 料理人……… … ア ン リ ・ ソ ロ モ ン コ ッ ク ― 料理人…………S・トヤマ(戸山慎一郎のこと ボーイ長…… … ノ グ チ 引用者) しげたけ 『ジャパン・ガゼット人名録』 (一八八九=明治二十三年版)に、精養軒ホテルの従業員名がみられる。 ている。 そのうちの一室である。南西むきに玄関があり、みゆき通りに面していた。当時の銅版画や写真をみると、縁側付のなかなかしょうしゃな姿をし 築地采女町三十三番地 2 ( ) ( ) エリーゼはこれらのスタッフの世話になったものであろう。精養軒の創業者は北村重威といい、明治五年(一八七二)開業したが、同年二月に 4 起った銀座の大火で焼失し、翌明治六年に采女ヶ原の払い下げ地に再建した。上野支店は明治九年(一八七六)に開業した。築地・精養軒は明治 3 (14)215 鷗外と「事件ノ独乙婦人」 三十九年(一九〇六)まで存在し、同四十二年(一九〇九年)十一月三階建の新館(客室三二)が完成した。が、大正十二年(一九二三)の関東 大震災で崩壊した。 料理長C・T・ヘスの正式名は、カール・ヤコブ・ヘスといった。明治十七年(一八八四)から同二十九年までその地位にあった。本来はパン やパイの職人であり、名義だけの料理長であったようだ。そのあとを引き継いだのは戸山慎一郎であり、調理場を取りしきった。ヘスはスイス人 ( ) ])を創業した。太平洋戦争中の昭和十八年(一九四三)廃業し 』亜紀書房、平成 ・ 、七頁)。 ・ であり、築地の綿谷よしと結婚した。ヘスはフランスパンや食パン、高級飲料水(シャンペン、サイダー、レモン水、ジンジャーエールなど)な 築地居留地 11 どを製造し、明治七年「チャリ舎」というパン製造所(新栄町[現・入船 ― 5 16 9 9 明治十四年(一八八一)の『ザ・ジャパン・ディレクトリ(住所氏名録) 』の英文広告を和 この新しい、間取りのじゅうぶんなホテルは、ヨーロッパ人旅行者や滞在者に格別便宜を提供いたします。駅舎からたった五分歩けばよい位置にある 精養軒ホテル 広告 マ マ 東京の采女町 五 十 二 番地にある 訳すると、つぎのようになる。 エリーゼが「精養軒ホテル」に宿泊する七年前 ― と、精養軒の食事は、イギリス風、フランス風、日本風がまじったものであり、値段も張ったという。 早馬で横浜まで買い入れに行ったという。明治八年(一八七五)の夏、築地・精養軒に滞在したアメリカ少女クララ・ホイットニーの回想による )。料理材料は鉄道がないために 経営者であった北村重昌の談話によると、創業当時の料理代は、一食事一円ほどであった(『日本ホテル略史』 しげまさ =一八七三、十月)はいう。 「○ 洋料理ハ 采女町西洋軒」。 9 者の嗜好によるものだから、その優劣を論じることはできない。しかし、築地「精養軒」は、評判がよかったようである。『新聞雑誌』(明治六年 し こう 文明開化の波にのって、東京の各所に西洋レストランが開かれ、それが日を追って繁昌したという。レストランのよしあしは、料理を口にする た。東京で没し、青山墓地に葬られた。(『近代文化の原点 10 からです。当ホテルは華族や上流の在留外国人のみなさんから愛顧をうけています。 214(15) 3 vol.3 ・ ) 。 12 (16)213 いつでも食事を摂ることができます。 晩さん会は、格別じん速にご用意いたします。 最高級のワインや酒をご提供いたします。 すべて料金は 、 低 価 で す 。 大きな玉突き 室 が あ り ま す 。 ………… … … … 英米人用のゲ ー ム 台 が あ り ま す 。 ………… … … … 家族用のスイトルームがあります。 ガイドは当ホテルがご用意いたします。 一八八一年一月 東京 明治三十年代の精養軒の紹介記事に、つぎのようなものがある。 注・ 『東京 諸営業員録』 (堀口印刷所、発売元賀集三平 渡辺清太郎、明治 エリーゼが滞在して六年後の広告に、つぎのようなものがある。 ― さらに離日九年後 27 鷗外と「事件ノ独乙婦人」 ・ ) 。 注・編述兼発行者・金子佐平『東京新繁昌記』 (東京新繁昌記発行所、明治 注・編輯兼発行者・松本順吉『東京名物志』 (公益社、明治 9 ・ ) 。 30 12 明治三十七年(一九〇四)ごろ、芝区高輪南町にも「精養軒」(支店)があったが、当時の朝食・昼食・晩食の代金がしるされている。 212(17) 34 注・ 織田純一郎 田中昂 編纂『東京明覧全』 (集英堂、明治 木村新一郎 塩入太輔 ・ ・ )。 ) 。 十月十六日(火)小金井良精や鷗外と精養軒を出たのは、午後二時すぎのことか。三人は馬車で新橋駅にむか 注・編輯兼発行者『日本写真帖』 (ともえ商会、明治 そして新建築の精養軒(明治四十二年=一九〇四年完成)の紹介文は、つぎのようなものであった。 ― 3 1 あろう。 ― 新橋 横浜間の鉄道が開通したのは、明治五年(一八七二)九月のことである。明治四年英国ヴァルカン社、シャープ社、スチュアート社な った。良精日記によると、午後二時四十五分発の汽車に乗ったという。おそらく汽車にのる十五分前には駅舎にいたり切符などを購入したもので エリーゼが日本を離れる前日 37 45 ど蒸気機関車が、三輌の客車をひっぱって走行したようだ。開通当時、客車は三つの等級から成っていた。 [定員] [新橋・横浜間の片道料金] 上等(いまでいう一等か)………… 名 一円五〇銭 18 (18)211 鷗外と「事件ノ独乙婦人」 注・ 『日本鉄道史 上編』 中等(二等)………………………… 名 一円 名 五〇銭 36 付)によって知ることができた。 ― 横浜へむかう下り列車(新橋発)は、午前中五本、午後は八本 をわかりやすく一覧表にすると、つぎのようになる。 七・三〇発 六・一五発 四・五発 二・四五発 一・三〇発 一二・一五発 [午後の部] 八・四五発 [午前の部] 九・四五発 六・一五発 一日計十三本出ていた。それ 横浜間は、一五マイル(約二四キロ)あるが、当時は汽車で一時間ほどかかった。つぎ 一一・一五発 八・四五発 七・三〇発 一一・〇〇発 ― 新橋 に新橋から横浜までの駅名とエリーゼたちの出発時刻をしるすと、つぎのようになる。 210(19) 30 22 下等(三等)………………………… ~ ・ 9 エリーゼら三人は、きっと上等の客車に腰をおろしたものであろう。当時の発着時刻について知りたいと思っていたら、『東京朝日新聞』 (明治 ・ 21 7 明治期の新橋駅。横浜駅もおなじ造り。 ( いと や ― ― ) ― 大森(三・三発) ( 横浜(三・四〇着) 品川(二・五四発) ― 神奈川(三・三五発) ( ) (川) ― 河崎(三・一五発) ( ) 鶴見(三・ 三人は帰りの汽車のなかで、エリーゼのことを話題にしたが、その顔にすこしも憂ひがみられなかったこ 同船は九時に出帆した。エリーゼは船べりで見送り人にハンカチを振って別れをつげた。彼女を見送った きた。四人は午前七時半、はしけに乗ると、沖合いに停泊しているゲネラール・ヴェルダァ号にむかった。 翌十月十七日(水)は、エリーゼが出帆する日である。出発する者、見送るほうも、まだ暗いうちに起 で夕食を摂ったのち、繁華街である馬車道、太田町、弁天通りなどを散歩した。 「絲屋」(明治十八年[一八八五]住吉町六丁目八〇番地に開業)の別館にむかい投宿した。四人は、旅館 8 ) )の中にふたたび現れるのである。彼女は一等船客であり、「ミス・ヴ 付)の「出帆した船」( Departed 日 本 を 離 れ る エ リ ー ゼ の 名 は、『 ザ・ ジ ャ パ ン・ ウ ィ ー ク リ ー・ メ イ ル 』 紙( 一 八 八 八 年 十 月 二 十 日 る。 ( 鷗外は駅前で二人と別れると、その足で石黒軍医監を訪ね、エリーゼが帰国したことを報告したようであ 良精、鷗外、篤次郎らは、九時四十五分発の汽車で東京にむかい、新橋には十時四十分ごろ到着した。 とをふしぎに思った。エリーゼはおだやかに帰国したのである。 9 つぎのように報じている。 (20)209 新橋(二・四五発) ― 二三発) ) 横浜の駅舎(アメリカの建築家ブリジェンスの設計による。現・桜木町駅)は、石造りの二階建であっ 6 た。横浜到着後、エリーゼ・良精・鷗外ら三人は、おそらく人力車で篤次郎が待ちうける新装の駅前旅館 7 10 )として登場する。ゲネラール・ヴェルダァ号の出帆については、『東京朝日新聞』 (明治二十一年十月十六日付)は、 ィーゲルト」 ( Miss Wiegert 独汽船ゲネラール・ヴェルダァ号が横浜を出航したときの船客名。「ヴィーゲルト嬢」 の名前がみえる。The Japan Weekly Mail 紙(1888・10・20付)より。 鷗外と「事件ノ独乙婦人」 * ● 外国郵船横浜発着表 (横浜より出帆の分) (十月) 香港行 独逸 ゲネラルウエルデ号 同 十七日発 一 恋人エリーゼの帰国とその後。 エリーゼはどのような航路で帰国したのか。彼女がドイツ本国に帰るまでの経路をわかりやすく記すと、つぎのようになる。 [帰路] (一八八八) 明治二十一年十月十七日……ゲネラール・ヴェルダァ号の一等船客として、横浜出帆。 十月十八日……………………神戸入港、三日間碇泊。 十月二十日……………………同港出帆 十月二十二日…………………長崎入港、同日出帆。 十月二十六日…………………香港入港。エリーゼ、香港に四日間滞在。 十月二十九日…………………ドイツ郵船「ネッカー号(一八六九トン) 」に移乗し、香港出帆。 十一月三日……………………シンガポール入港 十一月四日……………………同港出帆。のちコロンボ、アデン、スエズ、ポートサイドに寄港。 号所収、平成 ・ )を参照し、まとめた。 208(21) 十一月二十八日………………ジェノヴァ(イタリア北西部)に入港。その後、陸路ミュンヘンを経てベルリンにむかったものと考えられる。 注・宮崎逸夫「エリーゼはなぜジェノア経由で帰国したのか」 ( 『鷗外』 7 7 一ヵ月以上もの長い船旅をおえて、再びヨーロッパの大地を踏みしめたエリーゼは、その後いかなる人生をあゆんだのであろうか。 57 ・ ・ ・ ・ 付)は、 付夕刊)が、 「舞姫」のエリスのモデルが〝ミス・エリ 同紙の夕刊(平成 鷗外の恋人エリスに関する新説を紹介した。それは「 『舞姫』は十六歳だった? 父は 仕立物師であった」という見出しの記事であった。 その後もさまざまな研究者がエリーゼに関する身元調査に手を染めた結果、同人のこ とはこんにちかなりのところまで解明された。まず「事件ノ独乙婦人」(エリーゼこと 一八六七年︵慶応三年︶ごろ結婚。 一九五一没︶ [鷗外の恋人・エリーゼと考えられている] 。 長女アンナ・ベルタ・ルイーズ︵一八七二・一二・一六生、 次男ヴィルヘルム・フリードリヒ︵一八七〇・七・二一生︶ 長男グスタフ︵一八六八・五・二五生、夭逝?︶ ルイーズ)の家系を表にすると、つぎのようになる。 ︵一八九二・一・二九生︶ ヨハネス・ ク ニ ッ ペ ル 一八七九年︵明治十二年︶ベルリン市 [マグデブルク市ヨハニスファールト街八番地] ︵?∼一八八 八 ・ 四 ・ 一 没 ︶ シリング街三十七番地に移転。仕立屋開業。 クニッペルの娘 ルイーズ︵?∼一八七八・一〇・二七没︶ 長男ウィルリイ (22)207 『朝日新聞』(昭和 ― ーゼ〟である、という記事を発表して十七年後 21 26 関西大学法学部教授・植木哲氏(当時、五十四歳)のドイツにおける調査結果を掲載し、 10 5 ︵ベルリン市シリング街三十七番地︶ マイスタァ ガラス職人 [ 親 方 ] 10 56 仕立屋フェルディナンド・ヴィーゲルト 鷗外の恋人エリーゼ 鷗外と「事件ノ独乙婦人」 マイスタァ ガラス職人 [ 親 方 ] クリスティ ア ン ・ フ リ ー ド リ ヒ ・ ウイリアム ・ ケ ー タ ー 一八九三年 ︵ 明 治 二 十 六 年 ︶ 九月三十日 結 婚 。 アンナ・ベ ル タ ・ ル イ ー ズ ・ ヴィーゲル ト クニッペルの娘 ルイーズ︵?∼一八七八・一〇・二七没︶ 長男ウィルリイ ︵一八九四・一一・二七∼一九五九・七・一四︶ ︵電気商会を営む︶ 次男フランツ 三男ルドルフ︵夭逝︶ 長女リスベット 長女アンナ・ベルタ・ルイーズ︵一八七二・一二・一六生、 一九五一没︶ [鷗外の恋人・エリーゼと考えられている] 。 長男ハインツ︵一九三四・一・二九生︶ 次男ゲルハルト︵一九三五・一一・八生︶ さとし 注・今野勉著『鷗外の恋人 百二十年後の真実』 (日本放送出版協会、平成二十二年十一月)と植木 哲 『新説 鷗外の恋人エリス』 (新潮社、平成十二年四月)を参照して、筆者がまとめたもの。 アンナ・ベルタ・ルイーズである。一八七九年(明治十三年)、彼女は父や兄とともにベルリンに移住した。 マグデブルクはベルリンの西一六九キロに位置し、エルベ川沿岸の中都市である。この市で一八七二年(明治五年)十二月十六日仕立屋の子と ― して生まれたのがエリーゼこと エリーゼにとっては母方の祖父にあたるヨハネス・クニッペルは、ひとり娘のルイーズ(アンナの母)を亡くしたことで、娘むこや孫たちをベル リンに呼び寄せたようだ。 マエリン街三十二番地の例の変な姪がいた第一の 祖父のクニッペルは、洋服製造業をなりわいとしていたが、七世帯が入るアパートの持主であった。ルイーズはシリング街三十七番地でどのよ ― うな幼少女時代を送ったものかわかっていない。鷗外は明治二十年(一八八七)六月十五日 下宿を出て、この日クロースター街九十七番地のA・カエディング方に転居した。そこからシリング街は近かった。 こんどの下宿は、ベルリンにあって、悪漢や娼婦などがいる、かなりいかがわしい、環境のわるいところであった。新居は前の下宿よりも広く、 206(23) かる しょうじょう まい 鷗外の恋人が 住むシリング街 マリーエン教会 市庁舎 テンツエリン ベルリンの地図 (24)205 ドイツ陸軍の衛生試験所にちかいところであった (「獨逸日記」 )。このときの転宅が、ルイーズとの 出会いを生んだと考えられている。当時、鷗外は 二十六歳、ルイーズは十四歳と六ヵ月であった。 両人のなれ染めについては想像の域を出ていない。 ベルリン時代、鷗外は昼間講堂で講義をきいた り、実験室で研究にしたがった。夜はよく芝居を みたり、ダンスホール、カフェなどに出入りした。 カフェでは店が閉まるまで過すこともあったが、 「素直に帰らないこと」もあった。それは娼婦を 買うときであったであろうし、連れだってそのア パートに行ったであろう。鷗外はどこかの商店ま たはダンスホールでエリーゼ(ルイーズ)と出会 い、軽やかに、自由自在に舞うこの金髪少女のと りこになったものと思われる。 「舞姫」の中にみら 長男ウィリイが生まれ、やがて次男フランツ、三男ルドルフ(夭逝)、長女リスベットら四人が生まれた。 ルイーズは夫のために、中庭にガラス工房(「ケーターとその息子」と名づけた)をつくり、のち看板工房もつくって、その利益で晩年には隣り ズ二十歳のときである。翌年の暮 ― ともあれルイーズは、離日後四年ほど経った一八九三年(明治二十六年)九月三十日、ガラス職人ケーターと結婚した。新郎二十七歳、ルイー と、記しているが、これはルイーズの年齢と重なる。 ルイーズが鷗外の跡を追って日本に来たときは、十五歳九ヵ月であった。「舞姫」に登場するうすい金髪のエリスの年は、「十六、七なるべし」 れる「この常ならず軽き、掌上の舞をもなしつべき少女」といった表現は、きっと〝踊る女〟(ルイーズ)をイメージしたものであろう。 つね 鷗外の第2の 下宿があった所 鷗外と「事件ノ独乙婦人」 ドイツがポーランドに侵入するにおよんで ― 第二次世界大戦がはじまった。はじめ諸戦において優勢 のアパート(シリング街三十九番地)を購入した(今野勉の前掲書、一一六~一一七頁)。彼女は新たに手に入れたアパートで暮らした。 ― 一九三九年(昭和十四年)九月一日 の古典的な であったドイツは、戦争が長びくにつれて劣勢へとむかった。連合国側の空襲がはげしくなり、一九四三年(昭和十八年)の爆撃により、シリン グ街三十八番地、三十九番地のアパートは破壊された。戦後、ケーター一族は分散してくらした。ルイーズは、近くのソフィエン街 アパートに移った。 の真実』 (日本放送出版協会、平成 ・ 百二十年後 )に紹介されている。一九二五、六年(大正十四、五年)ごろに撮った家族との集合写真に、皆とソフ 彼女は二十年ほど長生きしたことになる。ルイーズの子孫宅に何点か彼女が写っている写真があり、それが今野勉氏の『鷗外の恋人 彼女の終えんの地は、このソフィエン街か。一九五一年(昭和二十六年)に亡くなった。享年七十九歳であった。鷗外は六十歳で逝ったから、 22a 問 五 まだ大人になっていない娘(十五歳九ヵ月)が来日したころの日本の出入国事情は、どのようなものであったのか。 問 四 父親である仕立屋の親方に、高額の船賃を出すよゆうがあったのか。 マイスタァ ト」となっているのか。 問 三 アンナ・ベルタ・ルイーズ・ヴィーゲルトが、エリーゼ・ヴィーゲルトと同一人物であれば、なぜ船客名が「エリーゼ・ヴィーゲル 問 二 鷗外の恋人が日本に来た一八八八年(明治二十一年)当時、ベルリンに何人ヴィーゲルト姓を名乗るものがいたのか。 た「ミス・ヴィーゲルト」は、はたして鷗外の恋人であったのか。 問 一 来日したときドイツ汽船「ゲネラール・ヴェルダァ」号に乗っていた「エリーゼ・ヴィーゲルト嬢」と、離日のとき同船の船客であっ 「事件ノ独乙婦人」についての六つの謎。 五月(ルイーズは六十一歳) 、アパートの中庭で夫のケーター、孫のハインツと撮った横顔の写真をみると、やせぎすの表情をしている。 ァにすわった姿がみられる。当時ルイーズは、五十代前半であった。その表情は、やさしく、顔はふっくらとしている。一九三四年(昭和九年) 11 問 六 なぜ鷗外の恋人は、日本にやって来たのか。 204(25) 22 問一の答……こんにち「エリーゼ・ヴィーゲルト嬢」は、ほぼ間違いなく鷗外の恋人であった、と考えられている。 問二の答……「ベルリンの住所録」(一八八八年)によると、当時たった一世帯のヴィーゲルトしかなかったという。すなわち、フェルディナ (仕立屋)である。 Schneider シ ュ ナ イ ダ ァ (エリーゼ)と偽って入国した。 Louise (ルイーズ)の愛称「リーゼ」が「エリーゼ」となって、エリーゼ Elise ンド・ヴィーゲルトである。住所はシリング街三十七番地。職業は 問三の答……何らかの理由で を名乗った(植木哲説)。 乗船切符をもとめるとき、「エリーゼ・ヴィーゲルト」の名を用いた(今野勉説)。 問四の答……父親は仕立屋を生業とするほか、家作(アパート)をもっていた。毎月、七ないし十二世帯から家賃が入り、中流以上の生活をし パスポート ていたと考えられている。一等船客の船賃を払ったのは、父フェルディナンドと考えられる。 問五の答……エリーゼ・ヴィーゲルトは、明治二十一年(一八八八)の時点で、旅券を提示する必要がなかった。当時のドイツの旅券法では、 出国と入国時に旅券を必要としなかった。 問六の答……若い娘がたった一人で、一ヵ月以上も長い船旅をして日本へおもむくということは異常なことであり、鷗外とただならぬ仲であっ たと考えるのがふつうであろう。 日本へやって来た動機は、つまびらかにしない。何か深い、隠されたたくらみ、たとえば求愛とか求婚を意図したものか。 遠来の若い娘が志に反して帰国せねばならぬことは、まことにふびんに思われる。が、エリーゼには、人のことばの真偽を知るだけの常識に欠 ける無邪気なところがあった。そういった哀れな女性の将来をつくづく考えさせられたのは、鷗外の妹・喜美子であった。 ぼ たん 鷗外はこの少女エリーゼのことを、はっきりと書き残さなかった。しかし、しずかに、あきらめて帰って行ったエリーゼのことは終生忘れなか ったことであろう。後年、この跡追い少女のあわい想い出を、日露戦争時代の「うた日記」の中の「扣鈕」のなかで描いているようにも思える。 なんざん そでぐち 南山の たたかひの日に 袖口の こがねのぼたん (26)203 鷗外と「事件ノ独乙婦人」 ぼ たん お ひとつおとし つ その扣 鈕惜 し ( ベ ル リ ン ) ( ア ー ケ ー ド 街 ) みやこ べるりんの 都大路の ぱつさあじゆ 電燈あをき 店にて買ひぬ はたとせ(二 十 年 ) ま へ に えぽれつと( 軍 服 の 肩 飾 ) かがやきし友 をとめ こがね髪 ゆらぎし少女 はや老いにけ ん 死にもやしけ ん はたとせの 身のうきしづみ よろこびも かなしびも知る そで 袖のぼたんよ かたはとなりぬ(一つだけになってしまった) くだ ますらを(つ よ く 立 派 な 男 ) 玉と碎けし ぼ たん ももちたり(〝多年〟の意か) それを惜しけれど こも惜し扣鈕 身に添う扣鈕 注・( )は引用者による。 202(27) ) 、一一頁。 ( )川崎晴朗「ヤン・レツルについて」 ( 『外国人名録と精養軒 ⑴』 )を参照。 ( )『日本ホテル略史』(運輸省、昭和 ・ 11 ( )川崎晴朗著『築地居留地』(雄松堂出版、平成十四年十月) 、一一一頁。 21 ( )横浜開港資料館編『 年前の横浜・神奈川 絵葉書でみる風景』 (平成十一年十二月)を参照。 ( )小金井喜美子「次ぎの兄」。 (岩波書店、平成二十年九月)、三一頁。 ( )二村一夫著『労働は神聖なり、結合は勢力なり 高村房太郎とその時代』 に むら ( )『日本鉄道史 上編』(鉄道省、大正十年八月) 、五一頁。 100 ( )若木虎雄著『鷗外研究年表』(鷗出版、平成十八年六月) 、二三九頁。 完 (28)201 娘時代のエリーゼは、どこに勤め、どんなしごとをしていたのであろうか。彼女は平凡な仕立屋の娘として、父のしごとと何らかのかかわりが あるアーケード街の洋品雑貨店のような所に勤めていたのではなかろうか。 おっとう ボタンを買いにその店に入った鷗外は、そこでエリーゼと知りあい、その後も店に出入りするうちにだんだん親しくなっていった。 このぼたんは昔ベルリンで買ったのだが、(日露)戦争のとき、片方なくしてしまった。とっておけ。 筆者の想像は、この詩篇からふくらみをましてゆくが、「うた日記」が出たあと、鷗外は当時中学生であった長男・於菟に、 ― いろど といって、くれたという。於菟はその片方のぼたんを、外国の貨幣が入れてある小箱にしまった。 いずれにせよ、エリーゼは鷗外の青春時代の一コマを彩った可憐な花であった。 注 (一八八八・九・一五付)記事による。 The Japan W eekly Mail ( )清水正雄著『東京築地居留地百話』 (冬青社、平成十九年六月) 、二一二頁。 ( ) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10