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明治学院大学機関リポジトリ http://repository.meijigakuin.ac.jp/

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明治学院大学機関リポジトリ http://repository.meijigakuin.ac.jp/
明治学院大学機関リポジトリ
http://repository.meijigakuin.ac.jp/
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「黄色い皮膚、白い仮面」:舞踏会としての『自由夫
人』
朱, 昶奎; 黄, 均
; 具, 珉
; 斉藤, 綾子
明治学院大学藝術学研究 = Meiji Gakuin University
Art Studies, 24: 59-85
2014-07-10
http://hdl.handle.net/10723/2262
Rights
Meiji Gakuin University Institutional Repository
http://repository.meijigakuin.ac.jp/
59
チュ
・
チャン
昶
均
ギュ
ナ
奎
/具 珉
子
ク ・ ミ
綾
ファン・ギ ュ ン ミ ン
藤
訳した。著者のチュ・チャンギュは、中央大学校大学院映像芸術学科
を頼み、その原稿を斉藤が監修、また曖昧な点は著者にも確認し、完
他の日本の研究者とも共有したいと思い、今回訳者二人に改めて翻訳
示す好例として、また斉藤自身の戦後映画史比較研究の一環として、
翻訳監修・解題 斉
訳 黄
朱
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
解題
チュ・チャンギュ
博士課程卒業。韓国芸術総合学校(KNUA)韓国芸術研究所ポスト
ク・
ていたときに論文に出会い、大学院生の二人に翻訳を頼んだことによ
うジャンルを、新派と東アジアの文脈で考察するための資料調査をし
二〇一四年一月一五日に韓国映像資料院が発表した「韓国映画一〇〇
六年三星映画社製作、戦後韓国映画を代表する大衆映画の一本である。
いて簡単に紹介しておきたい。韓 瀅 模監督の『自由夫人』は一九五
本論について解題する前に、まず対象となる映画『自由夫人』につ
朝鮮映画と忠武路映画の歴史的文化想像』(昭明出版)な
鮮映画と忠武路映画の歴史的文化想像』(昭明出版、二〇一二)の一
ファン・ギュンミン
さんの共訳を指導教官の斉藤綾子が監修したものである。
る。翻訳草稿の段階で、ポスト朝鮮戦争の韓国で一九五六年公開時に
選」では、第一位の金綺泳監督の『下女』(六〇)、第二位の兪 賢 穆
どがある。
大ヒットした大衆映画『自由夫人』を分析した本論が、フェミニズム
監督『誤発弾』(六一)、第三位の河吉 鐘監督の『馬鹿たちの行進』
ハ・ギル チョン
ハン・ヒョンモ
理論とポストコロニアル理論を駆使し、韓国の近代化という視点から
(七五)に続き堂々四位にリストされたが、残念ながら日本では未公
サムスン
考察しながら、当時の女性観客性を考慮し、歴史的再読に挑戦してい
ユ・ヒョンモク
る野心的な論文だということが判明した。韓国映画研究におけるフェ
開である(二〇一三年に「第五回日韓次世代交流映画祭」のプレイベ
キム・ギヨン
ミニズム映画理論がどのように議論の枠組みとして使われているかを
日韓の映画史における新派の問題、さらには、広義のメロドラマとい
国映画
ドクター研究院、西原大学校未来創造研究員学術研究教授を経て、現
ナ
章「「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』」の全訳で
朝
在、仁荷大学校芸術体育学部研究教授で、主著に『植民的近代性と韓
以下に訳出するのは、朱 昶 奎著『植民的近代性と韓国映画
さんと具
ミ
ある。本学文学研究科芸術学専攻博士課程在籍の黄 均
珉
翻訳の経緯は、斉藤が関わっている別プロジェクトのテーマとして、
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et
yandWomen
二〇一二年に韓国映像資料院発行が出した「スクリーン上の女性たち
ントとして開催された「映画で見る韓国女性史」で上映されている)。
されている。当時はキスシーンが有名になった(『自由夫人』でも後
マで、低予算で作られたために、基本的な登場人物は三人のみで構成
の恋に落ちるが、互いの正体を知り南北の壁に苦しむというメロドラ
鮮のスパイであるヒロインと苦学生と偽った防諜団大尉が互いに偽り
の名は』で日本でも大流行していたスカーフの真知子巻きをヒロイン
述のようにラブシーンが問題になり、検閲された)。また、当時『君
がしている姿が印象的である。すでに『城壁を通り抜けて』が反共映
Thr
oughFi
l
ms
」と題された八巻入りのDVDボックスに日本語字
監督のハン・ヒョンモは五〇年代から六〇年代の韓国映画の黄金時
画であったにもかかわらず、ジャンル的な要素を取り入れたが、メロ
幕付きのバージョンが入っており、入手可能である。
代における大衆娯楽映画を代表する監督である。日本では韓国映画と
ドラマとスパイ反共、活劇などが混ざった『運命の手』は、当時ハリ
イ ・ マ ニ
いえば申 相 玉、ユ・ヒョンモク、金洙容、金基悳、李晩煕あるいは
ウッドで流行の、後にフィルム・ノワールと分類されることになる犯
キム・ギドク
近年韓国を代表する作家として評価されているキム・ギヨンなどに比
罪メロドラマを上手く取り入れた映画であり、本格的にジャンル監督
キム・スヨン
べると知名度が低いが、韓国における良質な大衆娯楽映画、とりわけ
としての手腕を発揮し始める。
シン・サンオク
ジャンル映画を発展させ、また撮影監督としての経験を活かした高度
(2)
な撮影技術を駆使した演出で、一九五〇年代の韓国の商業映画産業
パク・シチュン
五六年には韓国映画史初のコメディと称されることもある『青春双
いたが、ソウルに移り崔 寅 奎監督と出会う。同監督の四一年の『家
時満州の新京大学で美術を学び、その後朝鮮北部の清 津で活動して
部にある平安北道の義州に生まれた。幼少から美術の才能を示し、当
ハン・ヒョンモ(一九一七―九九)は朝鮮民主主義人民共和国北西
ンモは本作で韓国映画史初となる本格的なクレーンとドリーを駆使し、
社会現象としても注目を浴びた。撮影監督として出発したハン・ヒョ
されたのが『自由夫人』である。『自由夫人』は大ヒットし、一種の
ズが活かされ、独特のモダニズムを感じさせる。その二ヶ月後に公開
り入れたミュージカル・コメディとなっている。ここでもダンスやジャ
ストン・スタージェスを思わせるようなスクリューボールの要素を取
曲線』を発表、音楽は韓国の国民的作曲家の朴 是 春が担当し、プレ
なき天使』に美術担当として参加し、その後、崔監督の援助で東京に
躍動感 れる映画を完成させ、メロドラマというジャンルを活かした
引した重要な監督として知られる。
(それはしばしばソウルの「忠武路」という地名で象徴される)を牽
出てくると東宝撮影所の撮影技師の宮島義男に師事し、撮影技術を学
演出、質の良い大衆映画のパイオニア的監督としての評価を勝ち取っ
ウイジュ
んだ。その後も、チェ監督の『太陽の子供たち』(四四年)で撮影監
た。その後も、メロドラマの『殉愛譜』(一九五七)、サスペンス・ス
リラーの『悪魔』(五七)コメディの『女社長』(五九)などジャンル
(1)
チョンジン
督としてデビュー、『愛と誓ひ』(チェ・インギュ・今井正、四五年)
映画を製作する一方で、『嫉妬』(六〇)ではレズビアニズムを扱うな
チェ・インギュ
でも山崎一雄と共同で撮影担当としてクレジットされている。
韓国独立後には初の長編映画『自由万歳』(チェ・インギュ、一九
ど時代を先取ったテーマにも挑戦したことでも知られる。
五四年の一月から八月までソウル新聞に連載された
飛 石作の同名
チョン・ビソク
では、『自由夫人』について簡単に解説しよう。『自由夫人』は一九
四六年)に撮影監督として参加し、四八年までチェ・インギュ監督の
撃」(二部作、五一)を完成させた。朝鮮戦争の休戦後五四年に自身
の製作会社による第一作『運命の手』を製作、監督、編集した。北朝
九)であり、また国防部撮影隊として朝鮮戦争中のさなか「正義の進
撮影監督として協働した。監督デビューは、『城壁を通り抜けて』(四
60
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
61
パク・ アム
オ・ ソニ ョン
キム・ ジョン リム
聞の売り上げが大幅に落ち、また単行本化されると一四万部を売り上
のため当初の一五〇回から二一五回まで延長され、連載終了時には新
話をチャン教授はしぶしぶ承諾する。洋品店「巴里洋行」に向か
紹介された洋品店で雇われ店長として働きたいというソニョンの
一人息子ギョンスを育てる中流階級の主婦である。夫の兄夫婦に
泰渊 (朴 岩)の妻呉善英 (金 靜 林)は
チャン・ テ ヨン
げたほどである。独立後のナショナリズムの台頭に加え、朝鮮戦争終
う途中、 ソニョンは隣に下宿している今時の大学生の申 春 浩
大学教授である張
了後のアメリカ文化流入による急激な近代化と社会変化を背景に、ダ
(李敏)に話しかけられ写真を撮られたり、また偶然女友達崔 允
の新聞小説を原作として映画化、五六年に公開された。連載は大好評
ンスホールやジャズといった新風俗と女性の社会進出、アメリカ文化
珠 (盧 耕 姫 )に会うと車に乗せられ、名士婦人たちの親睦会に
ジュ
ノ・ ギヨ ンヒ
キム・ドンウォン
ヒ
ハン・ テ ソク
チェ・ユン
シン・ チュ ンホ
の影響による意識の変化に対する不安がジェンダー秩序の混乱に最も
連れていかれる。 ソニョンは、 洋品店の経営者韓 泰 錫 社長
イ・ミン
先鋭的に現れるのは、多くの国で確認される現象である。韓国でも朝
ヤン・ ミ
(金 東 園)に面接し、無事採用される。
パク・ウン ミ
鮮戦争後に大きな世相の変化が見られ、儒教的な家父長制に基づいた
一方、チャン教授はタイピストの朴 恩美(梁 美嬉)に、彼女
とタイピスト仲間に一日二時間ずつ韓国語を教授して欲しいと頼
イ・ギュファン
まれ引き受ける。また、たまたま姪の呉明 玉(安 那英)とチュ
伝統的な韓国文化が大きく揺らいだ時期でもあった。
実際に一九五六年には李 圭 煥監督による、戦後初めての韓国の国
ンホがキスしているのを見かけるが、自由恋愛を楽しむ二人がダ
アン・ ナ ヨン
民的物語である『春香伝』が映画化され、大ヒットを記録している。
ンスパートナーと知り、自分にもダンスが習えるかとチュンホに
オ・ミョンオク
現象や人々の変化を捉えた最先端の風俗ジャンル映画『自由夫人』が
『春香伝』という伝統的な物語と「アプレ・ゲール」と称された社会
会風俗をスクリーンに巧みに描き出した。ドリーやクレーンを駆使し
の小説を映画化したハン・ヒョンモは、このようなダイナミックな社
れを既婚婦人の不倫として描き、社会現象ともなったチョン・ビソク
ンは、マンボに合わせた情熱的なダンスを見て圧倒されていると、
ないといわれる。チュンホに誘われダンスホールに行ったソニョ
スに仕事を始めてから母の帰りがいつも遅いので、自分も勉強し
教授は授業後にウンミと公園でデートし帰宅すると、息子ギョン
一方、ソニョンはチュンホの部屋でダンスを習い始め、チャン
尋ね、「いつでもどうぞ、マダム」と言われ密かに胸騒ぎを覚え
た大胆なカメラ移動と判りやすいジャンル映画の枠組みを活用し、さ
たまたまハン社長に出会い、親しくなる。授業の帰りに公園でウ
る。
らに服装やメーキャップ、そして洋品店やダンスホール、伝統家屋な
ンミとそぞろ歩きをするチャン教授は密かに彼女に心を寄せる。
共にヒットを記録したことからも、この時期の韓国社会が抱えていた
どのセットを巧みに使った丁寧な演出、さらに映画の中心を成すドリー
矛盾と変化を読み取ることができる。こうした社会道徳の揺らぎや乱
を駆使したダンスシーン、アメリカのジャズやヨーロッパのポピュラー
トラックの使用なども当時としては改新的で、この映画が、のちに
やけになったソニョンは、チュンホの部屋を訪ね、ウィスキーを
り、夫に「私にも夜遊び相手はたくさんいるわ」と言ってしまう。
夫とウンミが一緒にいるのを見てしまう。帰宅後二人は口論にな
ある夜、ハン社長とダンスの待ち合わせをしていたソニョンは、
「忠武路映画」と呼ばれることになる良質の大衆娯楽現映画現代劇の
飲み、踊り始めるが、チュンホに「好き」だと言い寄られ思わず
音楽(「枯葉」がメーンテーマになっている)を取り入れたサウンド
『自由夫人』の主要登場人物とストーリーを理解しておく必要があ
よろめきそうになるが、隣で母を呼ぶ息子の声に我に返り、その
一つの原型を作ったと言っていいだろう。
るので、あらすじを以下にまとめる。
業」であったという発言が議論の出発点となって
プロジェクト
いる。
へと導く「啓蒙事
ハン・ヒョンモはジャンル映画の構造的な作りを明確に理解し、
場を去る。一方、チャン教授の韓国語授業も終わり、教授の気持
コ・
ちが妻との不仲に原因があると知ったウンミは別れを告げる。一
イ・ ウォル ソン
方、チュンホの言葉は嘘だと判明したソニョンは憤る。
対立を際立たせるように演出と編集を組織している。チャン教授と妻
に亘って、プロットとサ
『自由夫人』の物語構造と主題が最も明白になり、映画形式上も二項
され友人にまで借
ブプロットが観客に明確になるようにパラレル関係で進行する。チャ
ソニョンの行動が対比的に描かれ、ほぼ全
かねてから夫の浮気を疑っていたハン社長の妻李 月 仙 (高
ヒャンミ
チュ・ ソン テ
響美)が書いた、社長とソニョンが密会しているという匿名の手
ペク・ グァン ジン
紙がチャン教授に届く。一方、ダンスパートナーで洋品店の上客
る。古典的ハリウッド映画にしばしば見られるように、常にひとクラ
同時に、古典映画らしく、視覚的快楽と映画的快楽は存分に提供す
ン教授の家とソウルの街の風景、伝統服と洋装、堕落した中流夫人と
屋に押し入り、ソニョンの頬を叩く。泣きながら家に帰ったソニョ
ス上の階級の頽廃を魅惑的に描き、観客を視覚的な中流階級の豪奢な
若いタイピスト、拝金主義で詐欺師の貿易社長など、基本的には全て
ンは夫に許しを乞う。最初は、家を出ていけと妻を拒絶したチャ
世界を垣間見せつつも、物語上の道徳で階級差を否定し、階級構造を
金を重ねていたユンジュは、社長が詐欺罪で逮捕されるとダンス
ン教授だが、息子の訴えで彼女を家に入れる。息子を抱きながら
パーティで毒を飲んで息絶える。ハン社長に誘われるままにホテ
ソニョンは「母さんが悪かったの」と泣き崩れるのだった。
供している。まさに、この点が朱論文の中で、『自由夫人』が潜在的
安定化させるというイデオロギー上の操作が行われるのである。『自
に持っていた啓蒙性を裏切ってしまうという主張に繋がるのである。
由夫人』は、大胆なラブシーンを描くことで韓国社会が直面していた
クシュアリティが位置し、そのコントロールをめぐって、新旧の道徳
『自由夫人』は検閲の対象となり、公開前にキスシーンがカットさ
このように、ストーリーの骨格は女性に対するシンプルな家父長的
や価値観、伝統と風俗、伝統文化と外来文化、インテリと成金・拝金
れた。DVDボックス所収の英語冊子に掲載された東亜日報の当時の
教訓映画である。物語は極めて寓話的に作られており、主題と形式が
趣味、世代間の軋轢など全ての矛盾が劇化されている。また、拝金主
特集記事によると、公開前日の一九五六年六月八日、計四シーン、一
性道徳の変化を端的に表すと同時に、映画的な視覚的快楽を提供する。
義で夫から自立しようとするユンジュは自殺に追い込まれ、伝統的な
〇〇フィート分がカットされたバージョンが試写されたものの、九日
図式的と言えるほどにまで、整理され、判りやすい作りになっている。
妻や母のジェンダー役割から逸脱したソニョンは不倫現場を相手の妻
の公開日に教育文化省の役人が劇場にやってきて、ハン社長とソニョ
従って、映画は不倫を道徳的に否定し、失敗に終わらせるが、映画の
に押さえられるという恥辱を味わい、夫と息子に自らの罪の許しを乞
ンのラブシーンを全てカットしろと指示があり、監督やプロデューサー
視覚的な面では、観客に道徳以上の効果をもたらす快楽とスリルを提
うが、ここでも、社会規範を逸脱した女性が最終的に罰せられるとい
から猛烈な反対が起こったと報じている。記事では、検閲に反対し、
性が衝突し、全てが二項対立で対比されている。その中心に女性のセ
る運命
(4)
う、ハリウッド映画で言えば、フィルム・ノワールの悪女が
(3)
と同じ図式が展開する。本論においても、原作者のチョン・ビソクに
「二〇世紀の今時にこのような問題が起きること自体不思議だ、キス
『自由夫人』では、主題レベルでは韓国の伝統文化と外国からの近代
がコード化され、演出はそれを最大限に活かすものとなっている。
だった貿易会社社長白 光 鎭 (朱 善泰)に
ルに行ったソニョンが社長と抱擁し合っていると、社長の妻が部
とって、「自由夫人」は「ダンスに狂乱する」女性たちを正しい方向
62
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
63
や抱擁はすでに私たちの日常の一部になっているのに、なぜ映画では
発言、文化教育省芸術部長の「個人的意見はさておき、貞淑なる妻の
るべきで、当然映画などで見せるべきできありません、という主婦の
は思えない、夫と家族に忠実な妻としてはこのような女性は罰せられ
ソウル大学校教授の発言や、映画に現れるような女性が実際にいると
ばならないのなら、外国映画は全面禁止にすべきではないか」という
国人はどう思うか、そもそも、もしこのようなシーンを検閲しなけれ
覚の大衆的生産」という文脈でのヴァナキュラーな近代性としての
要な要素であり、本論が理論的に依拠するミリアム・ハンセンの「感
映画体験こそが、著者が強調する忠武路の女性観客にとって極めて重
表象していた。その社会文化的現実のメロドラマ的表象がもたらした
チョン・ビソクも指摘するように、当時の世相や風俗をかなり的確に
う。映画はメロドラマという典型的なジャンル映画であるだけでなく、
以上のような文脈を理解すると、本論の議論がより明確になるだろ
発展のために寛容な対処をお願いしたい。」
不倫などは禁止されるべきである」といった意見や国会議員の「映画
『自由夫人』の女性観客性とその受容に関する分析が展開されるので
検閲なのか理解しかねる」「このような問題が未だに出てくるなど外
が現代風俗を描いているというのは判るとしても、大学教授の妻が隣
ある。
『自由夫人』を見た女性観客の観客性を再構築しようとする試みであ
本論はポストコロニアリズム理論とフェミニズム理論を駆使し、
(5)
に下宿する大学生と一緒にウィスキーを飲み、踊りながら身を任せる
姿を見せるなどは、韓国社会の道徳的観点からは言語道断だ」といっ
監督のハン・ヒョンモと原作者のチョン・ビソクも意見を述べてお
た批判が載せられている。
る種のリアリズムが感じられる。過去の韓国映画の質は大変低かっ
れた小説もあるが、『自由夫人』には小説で表現できなかったあ
チョン・ビソク 「自分は二〇年以上小説を書いており、映画化さ
意味では、この映画は優れた「教育映画」であるとさえ言える。」
とを理解し、必ずしもマイナスの面ばかりではないだろう。その
観客が目にしたとしても、最終的に観客はこれが教訓だというこ
へと帰るという話だ。たとえ映画のなかで描かれる様々な悪行を
い。『自由夫人』は、要するに堕落した女性が最終的に家族の元
シーンをカットすることは理解できない。愛と芸術には国境はな
ハン・ヒョンモ 「芸術的に洗練された表現で描かれたこのような
な体験がもたらしたモダニズムの経験だと言えよう。本論は、一九七
記憶が極めて重要であるが、それは、文学とはまったく違った映画的
「動き」を身体的に受け止め、ある種の躍動的な経験を持ったという
再構築する。本論にとっては、『自由夫人』を見た観客が「運動」や
論客の理論を、著者は野心的に取り入れ、『自由夫人』の同時代性を
らメアリ・アン・ドーン、そしてテレーザ・デ・ラウレティスに至る
ンの引用であることは一目瞭然だが、ガヤトリ・C・スピヴァックか
られる矛盾の体系が考察の焦点になる。タイトルがフランツ・ファノ
転覆的な要素を抱え込んでしまっているという大衆映画にしばしば見
的にはその原作の意図に忠実でありながら、映画自体は、その意図に
に、自由夫人を否定し、処罰するために書かれた原作を元にし、基本
察を、本論は展開する。すでに指摘したように『自由夫人』は最終的
無意識」(フレデリック・ジェイムソン)を読み取れるのかという考
る。『自由夫人』というジャンル映画から、一体どのような「政治的
たが、原作者の私も満足した『自由夫人』は立派な作品である。
り、主旨をまとめれば以下のようになる。
だが、新聞連載中も、また映画化された後もこの作品が物議を醸
〇年代からの豊かな映画理論の洞察を、一九五〇年代の韓国映画分析
システム
したことに対しては忸怩たる思いがある。政府には、韓国芸術の
(7)
に、理論的枠組みを共有することで、戦後と映画、戦後と女性という
る』(一九五一年)との共通項で見ることをも可能にする。そのとき
メディウム
韓国社会を通過したか、それを捉えようとしているのである。
最後に、翻訳掲載を快く承諾してくれただけでなく、細かい質問に
問題にも広がる可能性を持っている。
に取り入れ、映画という媒 体が持ち得た独特の近代性がどのように
また著者は、忠武路という劇場が集まる空間の中で、
「韓国のエディ
も丁寧に答えてくれた著者に深く感謝したい。また、翻訳の基本は母
プス化」つまり「近代化」が一時停止するという興味深い概念を提起
する。この概念に関して、代表的な韓国フェミニズム映画理論家の
国語への翻訳であるが、母国語から外国語の日本語に、それも高度に
(6)
金素榮の「宙づりの近代性」が思い出されたので、その関連性がある
キム・ソヨン
のかを確認したところ、著者から次のようなコメントがあった。本論
理論的で難解な文章を翻訳するという難しい作業をこなしてくれた訳
者二人にも感謝したい。
の主張を理解する助けになると思うので、ここで紹介したい。
[キム・ソヨンの「宙づり」というよりはむしろ]、朝鮮戦争以来
一方的に進んできた男性的近代に問題を提起した映画的瞬間と捉
える方がより正確だと思います。(中略)しかし、今思い出して
みると、キム・ソヨン先生の「猶予された近代性(宙づり状態に
なった近代化)」を女性のモダニズムによって、より能動的で積
極的に転換したかったのかもしれません。猶予された状態を超え
て、挑戦される、より躍動的な瞬間が、この映画が上映される映
韓国人名の表記は、原則として初出のみハングル音読みのルビをつけた漢
字表記とし、以降はハングル音読みのカタカナ表記とした。本文中も以下同
様。
れていたと想像したと思います。
(
画館に満ち
この躍動感というのは、もちろん(女性)観客の映画経験そのもの
( ) 先述のDVDボックスに所収された英語資料冊子「スクリーン上の女
性たち 映画から見る韓国社会史と女性史」に掲載された『自由夫人』
に関する資料によれば、ハン・ヒョンモは当時ソウルにはいなかったと
いう情報もあり、調査が必要だという指摘がある(韓国映像資料院、二
〇一二年、四三頁)。
( ) 中村秀之『映像/言説の文化社会学 フィルム・ノワールとモダニティ』
(岩波書店、二〇〇三年)、特に第三章「ハリウッドの殺人メロドラマ」
を参照のこと。
( ) フィルム・ノワールのジェンダー構造に関しては、E・アン・カプラ
ン『フィルム・ノワールの女たち 性的支配をめぐる争闘』(水田宗子
訳、田畑書店、一九八八年)を参照されたい。
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( ) 検閲に関する情報は全て ・
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une10,1956(前掲、六四―
六六頁)を参照。
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St
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s
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.Chr
i
s
t
i
ne Gl
Ar
nol
d,2000,pp.
332350.
) キム・ソヨン「宙づりの近代 韓国映画におけるフェティシズムの論
1
2
3
でもあり、本論でも最も重要なコンセプトとなっている。一言付け加
えるのならば、本論ではあまり強調されなかったが、実はハン・ヒョ
ンモが『自由夫人』で駆使した移動カメラというものの重要性はさら
に考察すべきであろう。彼は「活動写真は動かねばならない Movi
ng
pi
ct
ur
ess
houl
dmove」(マックス・オフュルス)という信条を実践
(デイヴィッド・
『自由夫人』が戦後メロドラマを代表する『 びき』
した監督だったのである。
ではない。あるいは、日本においては木下恵介の『カルメン故郷に帰
(一九四八年)といつた映画に映像的な共通項を見いだすことは困難
リーン、一九四六年)やマックス・オフュルスの『忘れじの面影』
4
5
6
64
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
65
(
理」『トレーシーズ1』(岩波書店、二〇〇〇年、二九四―三一三頁)。
) 斉藤綾子「カルメンはどこに行く
戦後日本における 肉体 の言
説と表象」『ヴィジュアル・クリティシズム』(中山昭彦編、玉川大学出
版部、二〇〇八年、八三―一二六頁)を参照されたい。
7
翻
訳
一 『自由夫人』の記憶と沈黙
イ・ジングァン 「私はその時、他のことは覚えていないが、
中略
(1)
力になったわ」。
ハン・
私たち、いつも男性に属している存在じゃないから気を
殻を破ったこと、それと女性も少しは動ける[ことは覚えてる]。
つけろと声を上げたよね。 中略
強く流れているからである。
思い、家庭から飛び出て、ダンスに狂う混乱を
中略
無批判的
過程を小説の形で提示しようとしたのが『自由夫人』であった」。
(2)
こそ、こうした主題を以って、歴史的な混乱を正当な方向に導く
に慨嘆ばかりして放っておくと、社会が破壊してしまう。だから
が押し寄せたことを機に、「我々も自由を取り戻さなければ」と
をして生きてきた韓国の女性たちが、アメリカ式の自由民主主義
「五〇〇〇年間、男性の専制下で、自由を抑圧し、悔しい思い
業が力
プロジェクト
飛 石が抱いた強い啓蒙の意志が、(ホ
ミ・バーバ式に言うならば)民族の教育学的な時間と啓蒙事
を固定させようとした原作者
チョン・ビソク
で終わるとはいえ、以下の内容から分かるように、植民地の女性たち
る。なぜなら映画『自由夫人』には、小説に比べて多少開かれた結末
連想、情緒、そして付随的な記憶は相当選択的なものであったと言え
を見出したと言える。しかし、観客の頭の中で再構成されたこうした
になった映画として覚えている。「動き」と「生きる力」。つまり希望
瀅模、一九五六)を、「動き」に関する映画として、そして生きる力
四五年という歳月が経っても、この女性観客は『自由夫人』(韓
ヒョンモ
ネイティヴ
た女性とを組合せることで、韓国の近代的な家父長制において異人種
ため、「黄色い皮膚、白い仮面」の土着のエリート男性と西欧化され
間の不倫とロマンスに対する世俗的な欲望、即ち西欧を模倣すること
比較的に素直に内情を明かしている作家のこの発言には、去勢され
ナルシシズム的な欲望がよく表れている。しかし、近代的主体とは、
要だった権力/知識装置が、一九五〇年代のエリートにおける支配的
に重なる。そして、こうした近代化に対する欲望を隠
た男性性を回復し、近代的主体へと進もうとした民主主義エリートの
何より世俗化された主体であり、神の摂理に任せる禁欲ではなく自己
するために必
欲望を保持した独立的な主体である。そして、フェティッシュ化され
だが、この欲望自体は自由な欲望ではない。ラカンが指摘したように、
た世俗的欲望の追究とは、近代的主体固有の特徴であると言えよう。
た。いわば、植民地の経験と戦争によって去勢された民族の家庭には、
な言説であった倫理と不倫、道徳と肉体という二分法のドラマであっ
したがって『自由夫人』は、「不倫」や「浮気」など、植民化され
ジョワジー家庭の女性を模倣した継母が必要だったのだ。
た韓 国女性、即ち専業主婦の抑えきれない性的欲望という狭い意味
韓国生まれの植民地女性ではなく、「教養と実力を備えた」西欧ブル
そうであるならば、作家チョン・ビソクにとって大文字の他者とは
を超えて、テクストと表象などの外的な論理で未だ論じられてこなかっ
特定の対象との同一化による主体化であり、それは大文字の他者との
何か。それはアイロニカルにもアメリカである。このことは、小説と
ネイティヴ
映画ともに『自由夫人』において、去勢されたヒロインの夫で国語学
去勢された民族のフェティッシュとしての
た、独立した近代的主体として世俗的な欲望を追及するのは、新たな
た都市ソウル、ひいては「韓国性」の象徴に位置付け、二重的な凝視
ンの肉体を、あらゆる腐敗によって堕落し、拝金主義によって汚され
映画『自由夫人』における同一化の構造は、専業主婦のオ・ソニョ
『自由夫人』
植民化を意味するからである。そして、こうしたジレンマと分裂、矛
二
(3)
たもの、つまりテレーザ・デ・ラウレティスの言葉を借りるならば、
パク・ アム
・
]に位置する女性た
『自由夫人』のスクリーン外の空間[・
s
paceof
f
チャン・ テ ヨン
泰渊教授(朴 岩)と「可哀想にもハングルが下手な」タイピ
ちの経験と、そしてスピヴァクの言葉を借りるならば、支配的な言説
ヒ
スト、即ち「教養と実力を備えた西欧女性」朴 恩美(梁 美嬉)との
者張
によって幾重にも囲まれているジェンダー化されたサバルタンの沈黙
キム・ジョンリム
ヤン・ ミ
ロマンスは倫理的に受け入れられるものとして、対照的に、押し寄せ
に耳を傾けること、つまり、サバルタンとしての下層の韓国女性たち
オ・ソニョン
パク・ウン ミ
てくるアメリカ化を含意する申 春浩 (李敏)と物質主義に捕らわれ
の苦痛とジレンマとを理解するのが重要なのである。一九五〇年代の
イ・ ミン
たヒロインである呉善英(金 靜 林)のロマンスは不倫として判断さ
忠武路の映画館は彼らの声と沈黙を聞くのにもってこいの場所である。
シン・ チュ ンホ
れていることからも判る。しかし、それはアメリカ式の自由民主主義
ている。こうした矛盾は、植民化された時空間で、民族という名の下
で近代的主体になろうとする際に必ず生じる。なぜなら、植民地が民
族という名の下で近代へ進入するに当たって、アメリカ化から韓国の
盾を封合する装置として機能するのが、まさに専業主婦の不倫である。
性チュンホの視線によって構造化され、この二つの視線は接合され、
ネイティヴ
つの軸、即ち韓国的な男性のチャン教授の視線とアメリカ化された男
の対象としてイメージ化(i
magi
ng)する。こうした二重の凝視は二
「教養と実力を備えた」「現代女性」を通じて始めて可能になる。その
つまり、去勢されたポストコロニアルのエリート男性にとって主体
(4)
から韓国の女性を守ろうとした作家の民族的な意図と根本的に矛盾し
同一化を通じて果たされる。
化の過程は、前近代的な女性、即ち「夫人」を通じては不可能であり、
女性を守るという民族的な価値を追究するのは「遅滞」を意味し、ま
66
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
67
あることを明確に示す(図
)。この映画の形象的な凝視は、韓国人
映画におけるナラティヴの主体が他でもなく韓国的なエリート男性で
にのぞき見るチャン・テヨンの視線が前景化されたポスターは、この
この映画のポスターにもよく表れている。ソニョンの不倫を窃視症的
味で形象的だと言える。こういう形象で現された家父長的な凝視は、
を見るとすぐ気付くが、目に見えない形で視線を構造化するという意
チャン教授の凝視となる。そして、こういう家父長的な凝視は、映画
たことを機に性的に自由な主体になっていくのだが、こうした過程は
ソニョンは、チュンホと呉明 玉(安 那英)がキスする場面を目撃し
ズとガタリの言う、ノマド的でリビドー的な主体へと変貌していく。
ニョンは性的に解放された主体、即ち性を能動的に欲望する、ドゥルー
ることをソニョンが発見する過程で行われる。そしてこの過程で、ソ
の街で撮影された自分の全身写真がチュンホの下宿部屋に掛かってい
化は、チュンホがソニョンを引き続きカメラに収める行為と、ソウル
オ・ソニョンは性愛的な過剰投入の対象になっていく。こうした性愛
まず、映画のナラティヴ上、アメリカ化された男性の視線によって、
的な主体意識とは、結局、「言説的
そうとした自由意志や個人的で主権
を廃止することで彼女たちにもたら
的で温情的な行為、即ち「サティー」
主義男性の植民地女性に対する施恵
の分析で明らかにしたように、帝国
クがインドの殉葬慣習「サティー」
しかし、ガヤトリ・C・スピヴァ
を性的な主体にする。
て性愛化されると同時に、また彼女
帝国の男性を意味するチュンホによっ
音楽、洋酒、ダンス、そして同じく
のセクシュアリティは、写真、西洋
父長制下で抑圧されてきたソニョン
を連想させる。つまり、伝統的な家
性から有色人種の女性を救っている」
(5)
な表現「白人の男性が有色人種の男
していく過程は、スピヴァクの有名
にして性的な主体のソニョンを構成
アン・ ナ ヨン
的な男性と帝国を含意するアメリカ化された男性との接合と共謀によっ
オ・ミョンオク
て行われるが、この過程でソニョンの肉体は二重にフェティッシュ化
西欧化された男性の視線によって行われる。この映画が、性的な対象
図 1『自由夫人』のポスター
されると同時に処罰される。
オ・ソニョンの不倫を窃視症的にのぞき見るチャン・テヨン教授の凝視が前景化
されているこのポスターは、『自由夫人』におけるナラティヴの主体が、主体化
を欲望する韓国的なエリート男性であることを示している。
1
68
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
実践の内部にあって、良き妻であることと夫の火葬用の薪の上で自己
としてイメージ化されるのだ。
ここでソウルという都市が韓国性として空間化され、堕落した女性性
(6)
犠牲に供することとを絶対的に同一視することによって、それらの女
性たちにいっそう大きなイデオロギー的強制を課す」ことになる。そ
てリビドー的で性的な自由とは、「倫理的な家庭」に限られるという
教授からソニョンを性的に解放させる役割を担うが、既婚女性にとっ
る結果を招いてしまう。同様に『自由夫人』でも、チュンホはチャン
サバルタンにかける家父長制な抑圧を正当化し、さらにそれを強化す
してこれは、インド的なエリート男性と共謀してジェンダー化された
勢が行われた衝撃的な光景を覆い、否定するヴェールとして機能する。
号としての役割を果たし、その代替物は一種の仮面として作用し、去
象とは、喪失したと思われる対象を代替する点において、ある種の記
互作業するようになる。本来、フロイトにとってフェティッシュの対
は、オ・ソニョンを始め、商品を崇拝する女性たちの身体を中心に相
この過程で、マルクス式の商品崇拝とフロイト式のフェティシズム
ネイティヴ
教訓を想起させることで、結局のところ、ソニョンにより大きなイデ
こうして見ると、『自由夫人』で商品を崇拝する女性たち、即ち「虫
(7)
オロギー的な抑圧を加えることになるのである。
食われた薔薇」の身体は、当時、韓国のエリート男性たちが民族の混
ー
族の社会の近代化、あるいは腐敗が蔓延する経済的な混乱と無政府
ナ
状態から生じた不安感であるが)を否定しながら、それを一時的に覆
ア
乱した社会的状況を「見た」瞬間に「覚えた」不安感(去勢された民
なエリート男性の視線には、商品をフェティッシュ化する存在として
うことのできる代替物であったと言えよう。要するに、物質主義に目
次に、オ・ソニョンは腐敗した都市の象徴となるが、それは韓国的
イメージ化され、ついには処罰される。『自由夫人』で、禁欲主義的
がくらんだ倒錯的で病的な女性のイメージ、あるいはダンスに狂った
ー
な倫理観を持つタイピストのウンミを除いた他の女性たち、ソニョン、
化された商品が自律性を獲得するようになる。そして、それを作った
去勢された民族の「腐った男根」であることが判る。恐らく原作者チョ
は、お酒、賄賂、贅沢、不倫のような社会の近代化と関連付けると、
この映画で女性たち、つまり「自由夫人」たちに施された代替物と
いるのだ。
という記号は、去勢された民族の外傷を二重否認する機能を果たして
キ
崔 允珠(盧耕姫)、そして社長夫人は、皆、贅沢、消費主義、そして
中年女性たち(おばさん)は、社会の亀裂を覆うための効果的な「仮
ノ・ギョンヒ
物質主義に没頭している。言い換えれば、商品のフェティッシュ化を
面」になる。こうして、商品を崇拝し、性的にふしだらな「自由夫人」
本来、マルクスが分析した商品のフェティッシュ化とは、労働力の
チェ・ユンジュ
示す存在として描かれる。
普遍的な商品化と関連している。つまり、人間の労働が持つ本来の使
人間の統制を逃れ、人間が商品を支配するのではなく、自律性を獲得
ン・ビソクは、そうした腐った男根だけを切り取ってしまえば、民族
用価値が、貨幣の交換価値に変形されるにつれ、人間の労働力が外在
した商品がむしろ人間を支配することになる。まさに、この過程が商
の主体化が可能になると判断したのかもしれない。
けば、女性たちの労働と仕事は、犯罪や詐欺、腐敗、不倫、商品のフェ
マルヴィが指摘したように、女性身体の去勢不安を緩和するための一
定するためのフェティッシュが前景化されている。つまり、ローラ・
冒頭のパーティーの場面では、去勢された民族の衝撃的な光景を否
品を崇拝する現象、つまりフェティッシュ化である。『自由夫人』で
ティッシュ化と関連付けられている。こうして、女性の労働と社会参
般的なフェティッシュ化の戦略で女性の身体を分節化していると考え
は、ごく例外的な場合(アメリカ系会社に勤めるウンミの労働)を除
加が否定され、ひいては当時の韓国社会の腐敗がイメージ化される。
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
69
)。
指輪、貴金属などの腐った男根の代替物で去勢された民族の衝撃的な
られる。同時に、腐敗と贅沢、虚栄心を暗示するビール瓶、たばこ、
た「動き」と「生きる力」の経験はどのように説明されるのだろうか。
参加を非難する構造を持っている。それでは、当時の女性観客が覚え
在として持続的にイメージ化し、対象化することで、女性たちの社会
アメリカ式の資本主義化を体現している男根的な女性として、正常的
いは、彼女が去勢された民族に相応しい男根を所有した女性、つまり、
彼女も同じくフェティッシュ化される。しかし、「自由夫人」との違
いるならば、「教養と実力を備えた」西欧化された女性はどうなのか。
由夫人』が韓国人らしいエリート男性チャン教授の凝視を構造化して
それでは、タイピストのウンミはどうなのか。言い換えれば、『自
通じて簡単に説明されるだろう。つまり、チャン教授、即ちカメラの
る。一つ目の反応は上述したように、マルヴィ的な古典的視線理論を
女性観客たちであり、三つ目は「危ない」と感じたエリート観客であ
下層の男性観客であり、二つ目は「生きる力」になったと語る下層の
は大きく三つに分けられる。まず一つ目は「小気味がよい」と感じた
トと非エリートとの間で様々な反応を起こした作品もない。その反応
韓国の大衆文化において『自由夫人』ほどに、性別、そしてエリー
体がもたらす去勢不安、それに去勢された民族の外傷を共に中和する
)。
チャン教授がウンミとの出会いで、幼児的、かつロマンチックでマ
化すると同時に、「女性主体の罪意識、あるいは病気を審問」し、処
方式である。言い換えれば、性愛的な過剰投入を通じてフェティッシュ
さらに韓国の植民的な資本主義という公的な領域からも追い出され、
たちは、韓国の近代的な家父長制という私的な領域から追い出され、
最後の場面がそうだが、この結末はかなり徴候的である。つまり彼女
表門の外で自分の過ちを許してほしいと泣きながら許しを請う映画の
ユンジュが公衆の面前で笑い物になった後に自殺し、オ・ソニョンが
ように忠武路映画の重要な「歴史」は、フェミニズム映画「理論」が
る忠武路の女性映画の意味を改めて考えさせる。そして何よりもこの
ルタンたちの映画的経験から見出すべきであり、それは家父長的すぎ
は何だろうか。恐らく、その理由は二つ目のジェンダー化されたサバ
「中共軍五〇万人に当たる威力」を持つ危ない映画だと直感した理由
家父長的イデオロギーを体現する教訓的すぎる映画を見て、彼らが
興味深いのは三つ目のエリートの反応である。このように明らかに
罰するのだが、これこそが「あなたがチャン・テヨン教授ならどうし
帝国の男性によって利用され、植民地のエリート男性の世俗的な欲望
長い間悩んできた根本的な問題、つまりイメージと女性観客が結ぶ関
ますか」という映画の宣伝文句に対する解決であると言えよう。
によって非難されるジェンダー化されたサバルタンなのである。例え
係とを直接対決させるものだ。言い換えるならば、韓国の近代的な家
を受ける。韓国人らしい植民地女性に対するこの映画の凝視は、明ら
るならば、民族の「自我」を省察する「私」とは、世俗的な主体化の
父長制の鏡に映された自分たちの姿を、忠武路の女性観客たちがいか
てしまうことは極めて軽率なことであるだろう。
に経験するかの問題である。この問題を検討する前に、その鏡を破っ
(9)
過程で形成された近代化の欲望のために、必然的に「道」そして「ア
ネ イ テ ィ ヴ
りジェンダー化されたサバルタンたちをフェティッシュと関連した存
このように『自由夫人』の凝視は、韓国的な植民地女性たち、つま
スファルト」の上に追い出され、捨てられるべき女性なのである。
かに窃視症的であり、サディスティックであり、教祖的である。特に、
(8)
ゾヒスティックな男性に退行する所以がそこにある。それと対照的に
構造化された窃視症的な視線と同一化することで、欠乏した女性の身
にフェティッシュ化されている点であり、そのため彼女は崇拝の対象
光景を二重に否認している(図
2
「腐った男根」を持つ不適切なフェティッシュは、直ちに苛酷な処罰
になり得るのだ(図
3
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
70
図3
図2
教養と実力を備えた西欧化された女性ウンミに対しては
正常的なフェティシズムが行われる。ウンミは去勢され
た民族の主体化を可能にする適切な男根を持っているた
め崇拝の対象になり、チャン教授はウンミとの出会いで、
幼児的でロマンチックでマゾヒスティックな男性に退行
する。
女性身体の分節化と腐った男根の代替物(ビール瓶、貴
金属、たばこなど)で民族の衝撃的な光景を覆おうとし
た、去勢された民族のフェティッシュとしての自由夫人。
彼女は去勢された民族のフェティッシュであるため、崇
拝の対象になるというより処罰の対象になるという女性
フェティシズムの非正常的な経路をっていく。
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
71
三 「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての
供する「不可能性の所在地(l
ocusofi
mpos
s
i
bi
l
i
t
y)
」を追いながら、
(
)
受容の次元における支配的な主体位置との折衝過程として女性観客の
デルである。こうした古典的モデルが持つ根本的な限界は、映画にお
ハリウッド女性映画を分析して検討した過剰同一化とマゾヒズムのモ
なモデルであり、もう一つはメアリ・アン・ドーンが一九四〇年代の
(キング・ヴィダー、一九四六)に触発されて分析した服装倒錯症的
ると、ここには二つの選択肢がある。一つはマルヴィが『白昼の決闘』
かに知覚し、経験するのだろうか。伝統的な女性観客性のモデルによ
位置付けられた女性たち、即ち「自由夫人」を忠武路の女性観客はい
同一化とは異なる「歴史的に重要な観客性」に向けて理論化される必
典型的な特徴を持ち、それゆえに、古典映画のナラティヴが提供する
るにもかかわらず、感傷的な状況やイメージを生々しく覚えるという
部分に強く反応し、男性観客に比べてタイトルやプロットはよく忘れ
間的なイメージを捉える凝視、つまり共感覚的で動的な(ki
net
i
c)
な特徴を示している。ハンセンによれば、女性観客は、映画を見て瞬
を破ったこと、それと女性も少しは動ける」は、女性観客性の典型的
冒頭に引用したインタビュー発言「他のことは覚えていないが、殻
)
要があると主張した。
シュ化が行われるとしても、フェティシズム自体がもうそれ以上安定
一時的な男性化を通じて自分自身の欲望を対象化することでフェティッ
性観客性の効果をそれ以上保証できなくなってしまった。なぜなら、
しかも今となっては、この二つのモデルが最初に前提としていた女
忠武路映画のように、テクスト的に男性的な主体性が過度に前景化さ
したままイメージを消費するという批判の根拠になってきた。しかし、
なる検討が必要だが、こうした側面は長い間、女性観客が自我を喪失
ハンセンが指摘する特徴が女性のみに限られるのかについてはさら
)
れた状況下で、家父長制のナラティヴよりも感傷的なイメージに集中
るものと知っているものとの距離が欠乏しているため、閃光の中で判
と女性とが距離を取れないという、つまり、女性にとっては「見られ
客性を分析しながらミリアム・ハンセンが指摘したように、イメージ
「化粧」をし、家を出てどこかへ去るが、再び元の場所に戻るという
メージが頻繁に登場し、プロットの構造自体も、「鏡」を眺めながら
「ダンス・パーティー」や「キャバレー」、「街」のように躍動的なイ
憶するのは、決して偶然ではないだろう。なぜなら、この映画には
忠武路の女性観客が『自由夫人』を「動き」に関する映画として記
(
した同一化の領域ではなく、不安定で、躍動的で、翻訳される、「遅
たナラティヴとイメージの知覚との同一化をいかに遂行するかにある。
することは非難の根拠にはならないだろう。問題は女性観客がそうし
断できる位置が整っていない」というマゾヒズムのモデルもまた、フ
専業主婦の「旅程」を描いているからである。こうしたナラティヴは、
)
ロイトが「子供が叩かれる」で検討したサディズムとマゾヒズム、つ
前述したように、植民地主義に魅せられた韓国的なエリート男性のエ
)
まり権力と権力喪失を揺るがすファンタジーとしての流動的な主体位
(
置に代替される。したがって、表象の政治を主張しながら家父長制の
ディプス化の論理によって導かれる。デ・ラウレティスは、ナラティ
(
たからである。そのため、ルドルフ・ヴァレンチノ主演映画の女性観
延された意識(bel
at
edcons
ci
ous
nes
s
)」として思われるようになっ
(
ける男性と女性との関係が、能動/受動、不在/現存、距離/近接性
り有効であるだろう。
映画的経験が持つ唯物性、歴史性、そして時間性を解明することがよ
を維持するというところにある。
それでは、堕落した都市空間を象徴するイメージであり、犠牲者に
忠武路女性観客性
鏡を破るよりは、ドーンが鋭く洞察したように、映画が女性観客に提
ヴとは、その基本的な構造自体がフロイトのエディプスの旅であると
ティスは「ナラティヴとは、最終的に女性のイメージに依存する復元
する「イメージ化(i
magi
ng)」へ発展させた点である。デ・ラウレ
は、映画における女性の位置を「イメージ」からナラティヴ性が介入
)
定義する。彼女によると、男性中心のナラティヴが成人男性の主体性
の過程」であり、映画の見ることの快楽において女性が果たす役割と
(
獲得と女性の所有へ向かう旅であるならば、女性中心のナラティヴは、
は「交換の機能としてのナラティヴ・イメージ」であるという、スティー
)
フロイトの女性性に関する神話的な物語、つまり成熟した女性性であ
(
る受動的な女性が、男性の欲望の対象であることを自分の役割として
ヴン・ヒースの提案を受け入れる。つまり、映画が消費し、宣伝する
置が効力を発する、視覚的同等物とナラティヴ同等物とが結合した女
イメージ、つまりイメージと物語が相互に結合され、映画的な視線装
)
しかし、これだけでは『自由夫人』が巻き起こした波紋と躍動性を
のは「女性のイメージ」ではなく、女性がナラティヴで占める位置の
説明することはできない。なぜなら『自由夫人』には、女性たちが自
ク ロ ー ジ ャ ー
性の「ナラティヴ・イメージ」である。したがって、映画における女
が「凝視とイメージとの間で板ばさみになる」わけではなく、ナラティ
デ・ラウレティスは、古典的凝視理論が仮定したように、女性観客
な目的に相応する。したがって男性性と女性性とは、男児と女児が単
の関係で主体が占める位置であり、それはリビドーの受動的で能動的
に、そのナラティヴの終結、つまりナラティヴ・イメージとも二重に
かうナラティヴ運動の形象、つまり神話的な主体と同一化すると同時
こらないと見ている。そのため、女性観客は本質的にエディプスに向
間の分離は縫合不可能になり、だとするといかなる意味や同一化も起
はなく交替的(al
t
er
nat
i
on)に行われるとするならば、その二つの
た視線との同一化と女性性に関連したイメージとの同一化)が同時で
のだ。こうした形象に対する二重の同一化は、交互ではなく同時に行
完結を表す形象としてのナラティヴ・イメージ」に同一化するという
また「ナラティヴ運動の形象、つまり神話的な主体」と同時に「閉止―
まり女性観客は、「ナラティヴ運動の主体と空間」に同時に同一化し、
ティヴ運動が、映画における女性の同一化を説明すると見ている。つ
こる空間としての女性の位置を生み出す運動」であり、こうしたナラ
的な主体としての男性の位置と、神話的な障害物、あるいは運動が起
デ・ラウレティスは「その運動がナラティヴ言説の運動、即ち神話
同一化すると主張する。女性観客性はナラティヴの快楽に参加するた
を引き続き維持させる。こうした働きによって、ナラティヴと映画は
つまり「他者への欲望」、そして「他者から欲望されたいという欲望」
われ、能動的であると同時に受動的な目的を持つ様々な位置の欲望、
デ・ラウレティスがマルヴィの古典的凝視理論を「拡張」した部分
の所在地」になるのだ。
めに、ナラティヴの運動とナラティヴのイメージとの「二重の同一化
女は、もし女性観客が凝視とイメージの同一化(即ち男性性に関連し
一の目的地、つまりエディプスに向かう運動の位置なのである。
と解釈する。つまり、フロイトにとって女性性と男性性とは、欲望と
性性と男性性を視覚的な次元ではなく、ナラティヴの次元で認識した
あるのだ。他の学者とは異なり、デ・ラウレティスは、フロイトが女
フィギュア
分の欲望を噴出しては撤回するにもかかわらず、それ以上の何かがあ
)
形 象であり、「ナラティヴ化の結果として生み出されたイメージ」で
(
ディプス化、つまり、男性的な近代化は一時中断され、さらには挑発
性の位置は単に視覚的な対象ではなく「ナラティヴが閉止=完結する
(
受け入れ、自身の欲望を撤回するに至る旅であるという。『自由夫人』
るからだ。結論を先取りしてデ・ラウレティス風に言うならば、忠
は典型的に後者に属するといえよう。
武路女性観客の頭の中で、そして身体的な反応を通じて、韓国のエ
ヴ運動と関連した形象的で二重の同一化を行うと主張する。つまり彼
される。
72
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
73
れた所以もそこにあるだろう。
ているにもかかわらず、女性の欲望と権力が鮮やかに表現したと思わ
をいかに遂行し、またいかなる欲望を覚えたのだろうか。前述したよ
それでは『自由夫人』を見て、忠武路の女性観客は形象的な同一化
の映画に描かれた女性主体の欲望は、単に忠武路の家父長的なテクス
ヴとイメージを軸に回収されてしまうのだろうか。言い換えれば、こ
リート男性のエディプス化という言説的な網の目が構造化したナラティ
それでは『自由夫人』で表現された女性主体の欲望は、植民地のエ
)
女性観客から合意を得て、ナラティヴにおける支配的な女性性へと女
うに、この映画におけるナラティヴ運動の神話的な主体は、カメラと
(
性観客を誘うようになるのだ。
登場人物、そして観客の視線を不可視なものに構造化するチャン教授
)
体的な主題を含意しながら、ナラティヴ・イメージとして機能する。
品のショーケースから捉えた彼女のクロースアップは、この映画の全
ンのショット、そして初めて洋品店で働く日に華やかな外国製の化粧
ソニョンを撮影した「写真」と、化粧するために「鏡」を眺めるソニョ
国男性にとってのエディプスドラマが抱える欺瞞なのである。小説
植民地主義に魅せられた国家としての韓国の近代的主体化、つまり韓
エディプスの女性版とされるエレクトラ・コンプレックスではなく、
象的な二重の同一化を交えながら接合するのは、正確に言えば、単に
りにも多くの矛盾に満ちているように見える。つまりこの映画が、形
ラティヴ・イメージを通じて女性の性的欲望を表しているとしても、
つまり、チマチョゴリを着て街で立っているソニョンの写真と、鏡に
その欲望は、最終的にブルジョア起源の神話によって作り出されたナ
デ・ラウレティスは、たとえこの小説が性に関して多くを告白し、ナ
タンを暗示する「自由夫人」というナラティヴ・イメージとして機能
「O嬢の物語」に関するカジャ・シルヴァマンの分析を検討しながら、
するのである。そのため女性観客は、植民地のエリート男性のエディ
ラティヴ・イメージに過ぎない受動的な欲望であり、また男性エディ
映る化粧した彼女の顔は、チマチョゴリを着て公的な領域に進出し、
プス化というナラティヴ運動の神話的な主体の形象と、「自由夫人」
プスの論理下の女性エディプスの状況を単純化し過ぎたものであると
)
というナラティヴ・イメージを表す形象と二重に同一化し、さらに、
批判する。
位置性」に分散させる。そのために、ヒロインの形象は女性性と男性
として働くため、そのイメージを女性のエディプスドラマの「二重の
主人公の形象化は、単に鏡の役割を果たすのみならず一種のプリズム
ター形象を通じて女性観客へと中継される。ところが、こうした女性
配的な女性イメージは容易には同意を得られなかったように思われる。
人」というナラティヴ・イメージと頻繁に衝突を起こすため、その支
は、女性観客がナラティヴの完結として形象的に同一化する「自由夫
的なイメージの女性、即ち「教養と実力を備えた西欧化された女性」
対照的に、『自由夫人』がイデオロギー的に構成しようとした支配
性との間を揺れ動き続ける。この映画がエディプス的な解決を提供し
(
こうした二重の同一化の関係性が収斂され、ソニョンというキャラク
化粧をして「生き残」らなければならないジェンダー化されたサバル
しかし、それには「自由夫人」というナラティヴ・イメージがあま
過剰、破裂を示しているだけなのだろうか。
父長制のための安全弁」として)、家父長的なイデオロギーの矛盾や
領土化され(あるいはマルヴィ式に言うならば、韓国の近代的な「家
トから許しを得て、結局は批評的な再構成を通じて再統合、再総体化、
イメージとは何だろうか。
(
徴の一つが、女性イメージの入れ子構造や鏡に映った姿、あるいは肖
映画における女性のエディプス軌跡とドラマを再現する典型的な特
ミ ザ ナ ビ ー ム
の凝視である。だとすると、女性観客が他に同一化するナラティヴ・
像画であるならば、この映画に繰り返して登場する、チュンホがオ・
イピストのウンミを指しているはずであり、[女性観客がウンミに同
にはならない」とインタビューに答えた時、「窈窕たる淑女」とはタ
この映画を記憶する他の女性観客が「自分は少なくとも窈窕たる淑女
者であるアメリカの支配的な理念が持つ権威が脅かされたのである。
うナラティヴ・イメージによって、韓国の近代的な父親であり、抑圧
れたのは当然の結果であったと思われる。つまり、「自由夫人」とい
ディプス・ドラマの限界は、統制不可能な差異が西欧の近代性の制度
な差異」である。言い換えれば、『自由夫人』で見られる非西欧のエ
の近代性との間に横たわる「還元不可能であるのみならず統制不可能
そが、「自由夫人」というナラティヴ・イメージに刻み込まれた西欧
るとエリートたちが思った理由がそこにあるだろう。そして、それこ
表すゆえ]映画『自由夫人』に「中共軍五〇万人に当たる威力」があ
変身する。また、映画の後半で韓泰錫(金 東 園)を待つ場面では、
ニョン」は物語が展開するにつれ、華やかな洋装の「オ・マダム」に
いチマチョゴリを着てアイロンを掛ける脱性愛的な専業主婦「オ・ソ
「女性らしく」なっていく。性的に受動的で、色気のひとかけらもな
開されるにつれ、この映画に登場する女性たちは次第に華やかに、
場する「華やかな女性たち」をいかに知覚するのだろうか。物語が展
イメージとして機能するなら、忠武路の女性観客たちはこの映画に登
『自由夫人』で「写真」や「鏡」の中のオ・ソニョンがナラティヴ・
一化しなかったのは、映画の目論見は必ずしも成功しなかったことを
的な根幹を成す「自由主義的な個人主義」と「ブルジョアの家族叙事」
男を待ちわびるヒステリックな女の姿、即ち男性に取りすがる従属的
キム・ドンフォン
には翻訳不可能であること、あるいは、それを翻訳しようとする目論
な女性の姿を見せるが、ここで濃い化粧をして髪を飾り、翼のような
う。それは、まさに、非西欧のサバルタンが
ユンジュの場合も同じく、最後のダンス・パーティーで毒薬を飲んで
洋装のチマチョゴリを着ている彼女の姿は余計に華やかである。チェ・
ハン・テソク
ったもう一つの別のエ
見そのものが抱える最終的な矛盾を自ら露呈してしまうのだと言えよ
ディプス軌跡、即ち、近代的な主体化というエディプス化の内部にお
自殺する直前に、胸もとが深く開いたセクシーなイブニングドレス姿
るというより、ポストコロニアルの女性にはあり得ない非西欧の自由
このように、忠武路における女性の自由は、その程度がわずかであ
シュ化」された姿である。これらの全てを結晶化するイメージは、映
性、即ち「よその男性の手振りでうっとりする女性」の「フェティッ
に浸った女性の姿は、原作者のチョン・ビソクが当初描こうとした女
で、男性パートナーの胸に抱かれてうっとりする瞬間、エクスタシー
主義の欺瞞による約束それ自体が問題になってしまう。言い換えれば、
ラカン式に言うならば、西欧起源の「自由主義」は、非西欧である目
主義」は、それが本来持つ矛盾と限界を露呈し、道に迷ってしまう。
あれこれ絡んだ忠武路というポストコロニアルの迷路の中で、「自由
らく男性観客はこうしたイメージやシーンを窃視症的にのぞき見るこ
で従属的な態度で自分の性的欲望を「告白」するショットである。恐
を任せるかのように「電気を消してください」と、あまりにも受動的
響美)が部屋に乗り込んでくる直前に、ソニョンがまるで男性に全て
前のシーンである。より正確に言えば、ハン社長の夫人李月 仙 (高
コ・
画の最後の部分でハン・テソクとオ・ソニョンがホテルで不倫する直
的地にたどり着けないまま、忠武路の映画館で滑ってしまう。このよ
とで、性愛的でフェティッシュ的な快楽を感じ、そしてナラティヴ運
ヒャンミ
うに『自由夫人』が上映された忠武路には、アメリカが韓国という
)
「植民地として正当化した象徴的な空間に対する疑問が提起」されて
動の神話的な主体であるチャン教授の窃視症的な凝視を通して彼女が
(
いるため、「中共軍五〇万人」という極度の反共レトリックが動員さ
イ・ ウォル ソン
「自由主義」という記号自体に対する遂行性を経験してしまうのだ。
ろう。
いて非西欧の女性主体の欲望そのものが不可能であることの理由であ
74
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
75
味がよい」と思ったのだろう。
処罰されるところを目撃してサディスティックな快楽、つまり「小気
との距離を開き、欠如を作り上げ」、女性が「自分の身体とセクシュ
踏会/仮装(mas
quer
ade)」の概念が、「自我と女性自身のイメージ
イメージと女性
験するのか。恐らくこれらの全てが少しずつ同時に行われたのだろう。
れとも自らを欲望の対象に設定し、ナルシシズムによる自我喪失を経
男性化されるのか。過剰同一化によるマゾヒズムを経験するのか。そ
それでは、忠武路の女性観客は何を経験するのだろうか。一時的に
を被っていたのではないか。だとすると、男性も仮面を被れるのだろ
造化するチャン・テヨンの凝視さえも、結局「黄色い皮膚、白い仮面」
う。それに、前述したように、この映画のナラティヴ運動の形象を構
い仮面」の主体を形成するジェンダー・テクノロジーであると言えよ
それ自体が一つの有機的で総体的な「仮装」、即ち「黄色い皮膚、白
観客との距離を確保」するならば、『自由夫人』というテクストは、
)
女性の異性愛的な視覚的快楽、即ち女性の窃視症や、さらには同性愛
うか。ドーンは「男性も特定の目的や利益のために自分の身体を利用
(
的な快楽のようなものも同時に覚えたのだろう。しかしそれより、
できないというわけではないが、男性はそもそもそうする必要はない」
アリティを一種の仮面として使用することで 中略
『自由夫人』を見た女性観客が覚えるもっと有力な快楽がある。それ
と述べている。しかし、帝国による去勢を経験したポストコロニアル
)
は、この映画に登場する全ての女性がきれいに着飾って、身体に帽子、
面は、チャン・テヨンとパク・ウンミが公園で「品行方正な」デート
このように、植民地のエリート男性が被る「白い仮面」が際立つ場
(
プレゼント、賄賂、包み金のように何かを着けているような印象を受
のエリート男性は、西欧の男性性とは異なり、近代的な主体化のため
ない。チャン・テヨンと最初に電話で話す場面で、過度に女性らしい
)
仕草、つまり「猫を被り」ながら、テヨンにタメ口で「うん」と答え
をしている時、ウンミが「先生は奥さんが職場で働くことを許すほど
洋パン)に乗せられた」と憤りを爆発させたという。しかし、エスニッ
敬の念を抱いているのだ。だが、[現実に]異人種的な不倫現場を目
男性を真似して被っている人種的なマスク、つまり「白い仮面」に尊
ファン・サンドク
て電話を切る。その後、アメリカ人の上司に「サンキュー」と言って
た」タイピストは、植民地主義に魅せられたテヨンが白人中産階級の
開放的な方」だと褒める照れくさい場面である。「教養と実力を備え
クな観客性は「既定事実」であるというレイ・チョウの指摘を踏まえ
撃するエスニックな忠武路の女性観客たちは、テヨンが被っている、
)
まさにその「白い仮面」の欺瞞性に鼻を鳴らして笑ったのだろう。
(
産階級の女性性を真似する「白い仮面」を被ったウンミの行動は、相
仮面」の異人種的な組合せに発展させようとする陰謀のようなものも
白い仮面」のように、ポストコロニアルのエリート男性が近代的な主
ジョーン・リヴィエールの「女性らしさとは、外したり被ったりで
仮面が含意するジェンダーの流動性、さらにはジェンダーの非同一性
された外傷を一時的に覆うためにも使える。だが、それ自体(つまり、
体化のためにも、あるいは「フェティッシュ」と同じく、民族の去勢
きる仮面のようなもの」だという主張を借りてきたドーンの「仮面舞
予め直感したのだろう。
前述のように、仮面は様々な目的によって使われる。「黄色い皮膚、
て考えるならば、忠武路の女性観客、特に既婚女性にとって、白人中
ヤンゴンジュ
山徳は
(
に意図的に「白い仮面」を被る必要があるのだ。
けること、つまりドーンが指摘した「仮装(mas
quer
ade)」的なも
のに対して覚える快楽である。タイピストのパク・ウンミも例外では
堂々と席に戻り、タイピングを始める。当時弁護士だった黄
この場面を見て、
「大学教授が洋公主([訳注]米軍を相手とする娼婦、
当生意気で、少し滑稽に見えたはずであり、以後「黄色い皮膚、白い
第二に、「真の女性性と仮面劇を見分ける基準」がない以上、女性性、
性を所有」すること(つまり他者が権力を所有すること)を隠す役割。
を持っておらず、また固定されていないはずであり、即ち、その起源
のではない。したがって、思慮深く議論すべきは、その仮面を誰が、
が装っている権力や権威の本質を見抜いたりパロディーしたりするこ
(noni
dent
i
t
y)までも含めて)では、いかなる急進性も保証するも
では、女性観客にとって仮面はどんな意味を持つのだろうか。ドー
とで、その流動性を浮き彫りにする機能を果たしているのだ。この二
またいかなるアイデンティティーが装う権力であっても、起源や本質
ンの次の反問は、『自由夫人』の女性観客性を理解するのにかなり役
つの側面から考えると、『自由夫人』は「仮装」の豊かな特徴が如実
どんな目的で、いかに被っているかであろう。
立つ。「違う見方をするために「仮面」を装うのではないか」。だとす
)
ると「仮装」は、韓国的なエリート男性が与えた[仮面としての]フェ
に表れたテクストである。
(
ティッシュを凝視するために、そしてより根本的には、ジェンダー化
験した近代性を理解するために、有効な分析的道具になり得るだろう。
うことで可能になる。映画の冒頭、テヨンの同意を求めるために、ソ
まず、専業主婦のオ・ソニョンが洋品店のマダムとして公共の場
ニョンは「愛嬌」を振りまき、とりあえず部分的ながら承諾を約束さ
(公共圏)に進出するのは、チャン・テヨンに自分の女性らしさを装
性観客たちはジェンダー化されたサバルタンに施された「贅沢」、「退
れる。社会参加と経済的な身分上昇のために、ソニョンが女性らしい
ここで、この映画を専業主婦の不倫に関する映画として記憶する女性
廃」、「不倫」という表面、つまり去勢された民族のフェティッシュと
オーナー、イ・ウォルソンに自分の能力(つまり社会的な権力)を証
「仮面劇」を遂行する姿は、映画の随所に見られる。特に、洋品店の
マスカレード
いう仮面の下で何を経験したのだろうか。本来、リヴィエールが指摘
ペク・ グァン ジン
チュ・ ソン テ
明するシークエンスで、こうした側面がよく表れる。かたくなに最高
けるために被る一種の仮面であると見るべきだろう。それは、ま
ことを隠し、それが見つかってしまった時に予想される報復を避
で、ウォルソンがたばこの煙を吐き出しながら、疑うような目つきで
彼は「サービスがいいですね」と彼女の能力を褒める。次のショット
そして、ソニョンがグァンジンに巻きたばこを勧め、火をつけると、
クロースアップが交互に提示され、二人は意味深長に視線を交わす。
のセットを販売した後、レジにお金を入れるソニョンとウォルソンの
級品だけを求める詐欺師白 光 鎭 (朱 善泰)に高価な外国製化粧品
るで泥棒が物を盗んだことを疑われた時に備えて、自分のポケッ
カ
トを空けておくことと同じである。だとすると、読者は、私が女
ス
ソニョンを見る。濃いメイクのソニョンがウォルソンを見て、ウォル
マ
性らしさをいかに定義するか、そして真の女性らしさと「仮装=
ド
ソンがウィンクで答えるクロースアップは、まさに「自分の身体と性
ー
)
武路の映画史における性的な流動性と脱安定化、即ち、韓国社会で女
そうした視線の交わりあいを忠武路の女性観客が眺める瞬間は、忠
レ
仮面劇」をどうやって見分けるのかが気になるだろう。私が提案
を利用して」、そして「女性性を振りまきながら」、グァンジンを見事
(
)
するのは、その二つに何らの違いはないということ、つまり根本
に「 す」。
(
的であれ表面的であれ、その二つは同じだということである」。
「したがって、女性らしさとは、女性が男性性を所有している
二つの機能を果たしている。
した仮面劇は、何度も引用されてきた以下の文章から分かるように、
観客が少ないという事実を想起しておきたい。それでは、忠武路の女
されたサバルタンたちが韓国のエリート男性とは「違う」やり方で経
このように仮面劇が果たす機能は二つある。第一に、「女性が男性
76
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
77
画に登場するチャン・テヨンやシン・チュンホ、そしてハン・テソク
が仮面を被ることで 力 を持ち、階級を上昇できるという事実は、映
パワー
)。そしてその瞬間は、女性の労働と社
性も能動的に権力を持つことができるという希望を最初に確認できる
観客が生きる力になったと語ったように、忠武路のスクリーンによっ
性が生存するための戦略を覚える瞬間であり、何より、忠武路の女性
ることが確認できる瞬間である。さらに、家父長制下で権力を持つ女
スが指摘した二つの欲望(つまり女性エディプスの軌跡)が共存でき
会参加の可能性を開く条件を確認する瞬間でもあり、デ・ラウレティ
感じたのだろう。このように、密かな女性同士の共同体的連帯感と関
でもお金を稼ぎたい」というユンジュにもこれと似たような連帯感を
的な連帯感のようなものであると言えよう。女性観客たちは「何が何
て忠武路の女性観客のみが共有できる、女性の間のある密かな共同体
さえ全く気付かないであろうし、ソニョンを眺めるウォルソン、そし
のような男性たちはもちろん、「小気味がよい」と思った男性観客で
連しているために、『自由夫人』は、忠武路の女性観客にとって「不
倫と倫理のドラマ」というより「生きる力に関する映画」として、言
大金が けられるというペク・グァンジンの話に
され、ついに自殺
ましく感じるのだ。
の途中、毒薬を飲んで自殺するユンジュの姿を見るに耐えないほど痛
をパロディーするものだ。そのために我々は、映画の最後のパーティー
「密輸」、そして「詐欺」といった、男性が主導した植民地的な近代化
は、一九五〇年代当時に韓国社会に蔓延した「腐敗」、「胡麻すり」、
に至ってしまう。その過程でユンジュが上演する男らしい仮装パーティー
あり、ユンジュに被せた仮面は「腐敗」である。ユンジュは、密輸で
即ちフェティッシュは二つある。ソニョンに被せた仮面は「不倫」で
ラウマを否認するためにジェンダー化されたサバルタンに被せた仮面、
える。前述したように、韓国のエリート男性が、去勢された民族のト
ジュは、男性の仮装(mas
cul
i
nemas
quer
ade)に参加していると言
れ、経済的な物神崇拝者になった当時の男性を真似する)チェ・ユン
ならば、より積極的に経済的な権力を追求する(植民地主義に魅せら
quer
ade)に限らない。オ・ソニョンが女性らしい仮面を被っている
が強調する女性のパロディー、即ち、女性性の仮装(f
emi
ni
nemas
-
しかし、『自由夫人』の中で上演される「仮面舞踏会」は、ドーン
マ ス カ レ ー ド
しかし、この女性たちを力づける女性が仮面を被っていることは、
図4
い換えれば、「権力と権力喪失のドラマ」として記憶されるのである。
オ・ソニョンは女性らしさの仮面劇を成功裏に遂行することで、女性の社会参
加の可能性と経済的上昇の自信を確信する。
同じ女性のみが気付くことができる事実であるだろう。オ・ソニョン
間でもあるのだ。
てジェンダー化されたサバルタンをエンパワーする真に素晴らしい瞬
歴史的な瞬間でもある(図
4
(
)
が憧れるかのように眺めるシーンは印象的である。しかし、この場面
せて、半裸の踊り子が舞台の上で情熱的に踊り、またそれをソニョン
いて初めて行ったダンスホールで、楽団が演奏するマンボ音楽に合わ
の場面であるだろう。その中でもオ・ソニョンがシン・チュンホにつ
が、全く同じではない差異の主体」として、ジュディス・バトラーが
「同じようで違う」、ホミ・バーバ式に言うならば、「ほぼ同じである
バーグのように、白人の女性を模倣した黒人女性は、白人女性とは
の映画を分析している。セクシーなイブニングドレスを着たゴールド
タニア・モドゥレスキーはウーピー・ゴールドバーグが出演した一連
接合、つまり、人種とセクシュアリティの接合を試みたある研究で、
を見て、女性の身体をフェティッシュ化したと批判するのは、男性の
ag)効果を生み
指摘した一種のジェンダー・トラブルと異性装 (dr
を生み出すと指摘している。ポストコロニアリズムとフェミニズムの
視覚、快楽、そして近代的な経験を完全に代弁することになる。なぜ
出すと主張する。そして、こうした効果を、息が詰まるような女性性
恐らく『自由夫人』が忠武路の女性観客に最も強い印象を与えた場
なら、妻についてこの映画を見に来た男性たちは、帝国と韓国のエリー
の因襲から解放される出発点として理解する。
)
り子が踊るシークエンスが観客に与えたであろう躍動的な経験を解明
以上のクラカウアーとモドゥレスキーの議論は、『自由夫人』で踊
つまり、労働の合理化から脱却した、脱規律化された身体的な動きの
症的な快楽を「安全に」楽しんだはずであるからだ。しかし、その観
経験を伝えているのである。同時に、黄色人種の女性が白人の女性性
客席に座っている忠武路の女性観客が、ソニョンを媒介に舞台を眺め
女性の衣装を下手に模倣したような(まるでクリスマスツリーの飾り
を演じ、模倣することで、一種のドラァグ効果が倍加し、忠武路の女
ジカルの集団化され、合理化された動きではなく、そこから脱却した、
物で作り上げたかのような)衣装を着た半裸の踊り子が音楽に合わせ
性観客にジェンダー自体が脱安定化される流動的な凝視の瞬間を許す
する糸口を提供する。つまり、この場面で踊り子は、ハリウッド・ミュー
て情熱的に身体を動かしている。しかし、この踊りの動きは、我々が
のだ。男性観客とは異なって、女性観客には、瞬間的ではあるが、黄
色い皮膚の踊り子に被せている白い仮面が揺れ始め、その裏面を見抜
ハリウッド・ミュージカルで見てきたような、集団的ではあるが、規
であるならば、この素晴らしい場面が忠武路の女性観客に提供する
格化され、規律化されたその動きとは大きく異なっている。
る瞬間、全ての状況は不安定になり、
「危うく」揺れ始める。ハリウッ
ド・ミュージカルを下手に模倣したようなこの舞台で、さらに白人の
(
ド ラ ァ グ
トによってフェティッシュ化された植民地女性の身体がもたらす窃視
面は、この映画に頻繁に登場するパーティー、つまりダンス・パーティー
ベヤー・ベルトの美徳」、つまり「能率と管理」という資本主義の合
片化された踊り子たちの身体を見たクラカウアーは、公演後に「コン
いる。人工的で、まるで数式のように動く、つまり、抽象化され、破
アメリカの舞踊団、ティリー・ガール(Ti
l
l
yGi
r
l
s
)の公演を挙げて
な大衆文化の代表的な例として、一九三一年にドイツを巡演していた
りも鋭い洞察力で理解したジークフリード・クラカウアーは、保守的
それは、言い換えれば、ジェンダー化されたサバルタンの辛い現実と
く見える西欧文明の啓蒙として近代性が持つ影の面が存在している。
画が女性に被せた白い仮面の裏には、近代性のアポリア、即ち、明る
しないということである。しかし、ポストコロニアルの女性向けの映
即ち女性に関する、ひいてはジェンダーに関していかなる本質は存在
西欧の女性らしい「仮装パーティー」の裏面に、女性性の非同一性、
それでは、その仮面の裏には何が隠れているのだろうか。恐らく、
)。
理化と労働の合理化を称えているかのような印象を受けたと述べる。
苦しい歴史が位置しているのである。恐らく忠武路の女性観客たちは、
く凝視の瞬間が許されるのである(図
そして、こうした印象が観客をして近代化に対する合理化された反応
映画的経験とは何だろうか。大衆文化としての映画の曖昧さを、誰よ
5
78
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
79
く揺れるようになるのだ。しかし『自由夫人』が、当時の女性観客に
動かずに動く『自由夫人』の時間性
もたらした躍動的な経験はこれだけではない。
四
)
ジェンダー、階級に構成された多層的な仮装パーティーで植民地の女
あろう。「黄色い皮膚、白い仮面」というポストコロニアルの人種、
放的な動きと現実に対する苦しい認識との間で揺れ動いていたからで
うに二つの矛盾した映画的経験、つまり、脱規律化した女性身体の解
この場面がそれほど躍動的に記憶されたのは、女性観客が、このよ
過ぎる「列車の旅」のようなものであり、最終的に以前の状態に戻っ
のようにソニョンの旅はまるで「家」という停留所を繰り返して通り
映画の最後の場面で、ソニョンは門外で子供を抱いて泣いている。こ
それ以後、家に戻るショットが何回か繰り返され、同じ場所で終わる
外から中に移動し、アイロンをかけているオ・ソニョンの姿を捉える。
繰り返し到着する。映画の冒頭、カメラがクレーン・ショットで家の
地にたどり着く。これと同じように『自由夫人』も、家という空間に
性が踊るが故に、植民地主義に魅せられた民族の共同体は危うく激し
う。
「列車旅の経験」に例えた。つまり、動いている汽車の窓の外を眺め
この踊り子が映画館の外で白人の女性の衣装を着て踊る黄色い皮膚の
(
元の状態に戻ろうとする傾向があることに注目し、そのような経験を
ドの直線的なナラティヴとは異なり、女性向けのメロドラマはいつも
モドゥレスキーは、最初と最後が明らかに異なる古典的なハリウッ
か。また女性観客はどのように反応するのだろう。
景化しているこのラストシーンで、ソニョンは何を経験するのだろう
メロドラマのお決まりの結末のように、典型的に視聴覚的な過剰が前
ストシーンで、動きを経験することは当然不可能である。女性向けの
されるように見える。このように動きと権力関係の変化を否定するラ
のことの許しを求めながら告白する。この場面で、動きはむしろ否定
じ場所に戻って泣きながら、権力を所有した自分の間違いを認め、そ
後の場面で、ソニョンは「化粧」をして家を出かけたものの、結局同
ニョンの行き先は、窮屈なことに、まるで出発点のように見える。最
連したものであろう。ところが、『自由夫人』の最後の場面でオ・ソ
は動ける」ことであり、「動き」は何よりも時間性、そして変化に関
それでは、その他の経験とは何であろうか。それは前述した「少し
ていると、決して出発した場所ではないが、毎度繰り返してある目的
図5
女性たち、即ち「洋公主(洋パン)」に似ていると一瞬感じたのだろ
ジェンダー化されたサバルタンに被せた「黄色い皮膚、白い仮面」が揺れ始め、近
代性の裏面、即ち植民的近代性に対する流動的な凝視が許される瞬間。
(
)
来事が反復される最後の瞬間に噴出する。では、フロイトが指摘した
しており、ナラティヴの重要な瞬間、つまり付随的な記憶は以前の出
の反復構造は、時間と場所に対するヒステリックな経験と密接に関連
つまり「循環、妊娠、自然に順応する生物学的なリズムの反復」へと
r
i
ort
empor
almodal
i
t
i
es
)」と呼んだ女性のヒステリックな時間、
を女性の時間と見なし、それをクリステヴァが「未来時制態(ant
e-
ヴァの試みが短絡的であると批判した。メロドラマで反復される時間
八)を分析し、女性の時間をメロドラマと女性性に適用したクリステ
モドゥレスキーは『忘れじの面影』(マックス・オフュルス、一九四
(openme
mor
y)」を通してより説得力のある深い説明を提案した。
ように、オ・ソニョンは何かを失った記憶がもたらす喪失感、つまり
えれば、忠武路の女性観客は、女性ヒステリー患者のジレンマ、つま
すべきなのか。忠武路の女性観客はヒステリックになるのか。言い換
る悲しみという抑圧されたものの回帰としての転換ヒステリーと見な
るのか。そして、演
い。だが、同時に、女性を歴史から排除し、永遠に幼児の状態に留ま
で進化的な歴史観を否定するためには、一定の効果はあるかもしれな
性から否定することを意味する一方で、完全なる外部を想定すること
洋の歴史的な概念としての時間と比較し、つまり女性を歴史的な時間
本質化したことは、計画、目的論、直線的かつ将来的に展開される西
クリステヴァは、このような女性に関する本質論的な見解を、その
らせるという否定的な結果も招いてしまう。
しかし、スクリーン上の身体が提示する感覚を観客の身体が単純に
せ、起源を解体するよりむしろ復元」させようとしたと強く批判した。
試みに対しスピヴァクは、女性を「記号以前の潜在的な空間に位置さ
後、非西洋の女性である中国人女性へと展開していくが、このような
再生産するというリンダ・ウィリアムズの仮説はあまりにも単純な見
恐らく、ジェンダー化されたサバルタンの近代性を本質化したクリス
リズムに満ちた一連の民族映画、例えば去勢された「韓国性」と女
)
テヴァ式の女性の時間と声は、民族の過去を哀悼する自己オリエンタ
あるチャン・テヨンである。つまり「黄色い皮膚、白い仮面」のジェ
性とを同等の位置付けで取り扱った 『風の丘を越えて/西便制』
イム・グォンテク
ンダー・イデオロギーが失敗することを恐れているテヨンなのである。
いずれにせよ、『自由夫人』の最後のシークエンスで民族の去勢を
(林 權 澤、一九九三)のような映画に簡単に見出すことができる。
まり、男性の時間である強迫的な歴史の時間と女性の時間であるヒス
ドラマに対する女性観客の反応を性差に基づいて提示した二分法(つ
の経験、これが意味する時間性、またジュリア・クリステヴァがメロ
モドゥレスキーは、女性向けのメロドラマの中心になっている喪失
自ら許しを求めているからである。もしかすると、彼は、子供のため
心に浮かれて民族を潰したフェティッシュ[=仮面を被った妻]が、
れる。なぜなら、去勢された民族の喪失感の原因であった贅沢と虚栄
して男性の]強迫的な歴史、まさしく近代化の時間に進入したと思わ
テヨンは[クリステヴァによれば女性的なヒステリー的な時間委に対
哀悼しながら、植民地主義に魅せられた韓国のエリートであるチャン・
テリックな時間)を問題化し、エレーヌ・シクスーの「開かれた記憶
欲望と経験が作られて、衝突したのか。
それでは、情緒的に過剰な映画の最後のシークエンスが映写される忠
(
化されたサバルタンを統合することができずイライラする民族主体で
解である。むしろ、ヒステリックな状態に陥っているのは、ジェンダー
みになるジレンマに陥るしかないのだろうか。
一化するのだろうか。または男性の欲望の対象になるかの間で板ばさ
れをうまく表現することができない女性、あるいは、男性の凝視と同
り、自らを表現しようとする大きい欲望に捕らわれているものの、そ
出と音楽の過剰は、ソニョンの権力喪失に対す
ミザンセーヌ
権力の喪失に対する回想が作る身体的な徴候としてヒステリックにな
多くの研究者が指摘するように、このような女性向けのメロドラマ
たという印象を与える。
武路の劇場では、果たしてどのような時間性が流れ、またどのような
80
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
81
することで民族の去勢から離れることができるはずだという近代的な
を教養と実力を備えた女性に変貌させ、西洋のブルジョア家族を真似
の昇華には、失った対象を取り入れ、ジェンダー化されたサバルタン
シシズムの感情がわき出て、いい気になったかもしれない。また、そ
に仕方なく閉めた扉を再び開ける「容赦」と「慈悲」から昇華とナル
このシーンには悲しみと哀悼はないが、苦痛はある。忠武路の女性観
ラストシーンを悲しい結末だと感じる観客は一人もいないからである。
想しながらヒステリックに見えるのは、表面的に過ぎない。なぜなら、
オ・ソニョンが最後に表門の前で泣いている姿が、権力の喪失を回
れは絶え間なく道を開いてゆく「開かれた記憶」のようなものだ」。
れるようになり、それを理解し、生き抜く、そして跳躍するのだ。そ
ことはない。そのために、苦しみが生じ、「喪失という課題を受け入
)
主体化への確信もあったのだろう。だとすれば、苦しみを超えて、民
ての「新派」、または「メロドラマ的想像力」なのである。このよう
を哀悼すると同時に、近代的な欲望を追求する文学的な表現形式とし
そのような悲壮の美学と昇華の民族的な表現形式が、民族の権力喪失
てきたので]テヨンが経験した時間は、直線的な歴史の時間性である。
とだが、それでも結局彼女が家父長制の支配の空間である家庭に戻っ
徐々に女性の仕事と労働、社会参加のように開けられた歴史、脱規律
地エリートから二重に植民化された苦しい経験と身体の歴史を理解し、
の植民地主義を鋭く見抜いているのだ。そして、体全体で帝国と植民
げさに哀悼するソニョンの姿に苦痛を感じると同時に、他方で近代性
圧に関わった、矛盾した「自由夫人」という植民地の歴史と記号を大
客は、一方で、権力喪失、資本主義と韓国固有の家父長制の二重の抑
客は泣いているソニョンを淡々と眺めるだけである。忠武路の女性観
(
族の新しい家族が生まれたと悲壮にお祝いする[妻の浮気は残念なこ
な側面から考えれば、六〇年代に起こる近代化はすでに五〇年代に準
化された身体、そして「開かれた記憶」の持ち主になっていく。そう
)
するうちに、急に跳躍する。それは「動かなくても動いている」経験
(
)
(
)
女性観客が経験した時間性は何であろうか。それは引き続き反復され
ンダー化されたサバルタンの近代性、つまりヴァナキュラーな近代性
)
であり、植民地主義に魅せられたエリートとは異なって、ジェンダー
(
あることだ。別の言い方をすれば、男性は去勢に抵抗する方法、つま
うに喪失を哀悼し、喪の行為に陥ることは失うことを否定する行為で
身を任せないと生きていけない存在である。しかし、問題は、そのよ
国のエディプス化が一時中止するのだ。間もなく劇場の中が明るくな
間、それは字義通り非近代的な主体が脱・植民化するこの瞬間に、韓
コロニアルの女性という「民族の破片」の共同体の痕跡を確認する瞬
とは異なる。そして、この違いを見抜ける批判的な目を持ったポスト
として西洋の発展に従属した「黄色い皮膚、白い仮面」を被った民族
)
り昇華を通じて失った対象を取り入れることで、去勢を切り抜けるの
(
だ。喪の行為は失った対象に向けたリビドーの投入を早急に回復する
る。
間ではなく、軍事独裁の近代化という名で挫折されるはずだが、資本
る瞬間である。そしてこの瞬間は既に排除が予定されている抵抗の瞬
偽りの喪失である。対照的に、女性たちは哀悼せず、喪失に身を任す
シクスーによると、男性たちはそうするという。男性たちは喪失に
だろう。だとすると、権力の喪失を悲しんで哀悼するのか。
るヒステリー的な時間では決してないだろう。さらに、女性をそのよ
楽としての女性の近代性でもない。それは認識と苦痛としてのジェ
化されたサバルタンたちが近代を「根本的に異なるやり方で」経験す
享
ジュイサンス
であると言えよう 。 それは進歩としての男性の近代性でもなく、
(
強迫的な欲望に捕らわれた歴史的な時間は、虚しいことに「死という
備されていたと言えよう。しかし、近代的な主体化という世俗的で、
障害に行き着くまで常に遠のいてゆく目的地に向かって動く時間」で
あるだろう。
うにヒステリー的な位置に追い出すことで我々が得られるものもない
それでは、『自由夫人』の最後の場面で、オ・ソニョンと忠武路の
このように忠武路の映画の起源になる作品の一つとして考えられる
『自由夫人』は全く意図しなかった結果、つまり「現代の女性の生態
を見せて警鐘をならしたい」といった怪しい権力によって希望を量産
(
)
した。フーコーに倣えば、「自由夫人」の言説は、権力の効果として
(
)
かれている過去としての現在」と言える「ヴァナキュラー・モダニズ
もう一つの公共圏の役割を果たしたと思われる。「未来に向かって開
光学的無意識を忠武路の女性観客たちの頭と身体に提供することで、
化、つまり女性の労働、セクシュアリティ、歴史への参加を記録する
れていた媒介の役割を果たしたのである。さらに、未来的な歴史の変
館は、韓国の近代化に対抗していた別の社会的な主体に向かって開か
えよう。このような意味から『自由夫人』が上映された忠武路の映画
「別の社会的主体のための可視性の条件」という希望を生産したと言
ロ
ム」としての忠武路映画の起源と歴史は、このように生産と受容との
チュン ム
(
性性を回復するために、植民支配者の立場を取ると主張する。支配国の
アメリカを模倣する中で、被植民地の韓国の男性たちは、女性の主体性
を否認するだけではなく、植民地女性を抑圧する。彼らは去勢され、幼
児化された自己イメージを払拭し、自分の男性らしさを誇示するために、
女性に対する暴力を含め、過度な支配力を行事する。つまり、植民地の
男性と植民支配者は、植民地の女性を抑圧するという同志的な関係を築
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,1983,p.
22.
) ファン・サンドク、「再び『自由夫人』の作家へ
抗議に対する返
答」、『ソウル新聞』、一九五四年三月一四日付。
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,1990,p.
26.
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4,1986,pp.
632.
) 本稿における映画的経験とは、経験主義や科学や技術などで用いる道
具的な意味としての安定した主体・対象関係に基づいた知覚と認知を指
してはいない。それより、社会的な意味を伴いながら個人的な知覚を媒
介すること、無意識的な過程を伴う意識、自己反映性を伴う自己の喪失、
社会的なつながりと関係を見る能力、そして記憶と希望が互いに 藤す
る時間性という意味を持つ。こうした映画的経験に関する理論化は、映
画をプロレタリアの代案的な公論の場として理論化しようとしたオスカ
ル・ネクトとアレクサンダー・クルーゲによって試されたが、彼らの理
論は、アドルノ、クラカウアー、そしてベンヤミンの理論に基づいてい
る(Mi
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,1991,pp.
1213)。ここでプロ
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レタリアとは、実際のプロレタリア階級というより、疎外された労働と
経験の歴史的な主体を代表する意味として理解できる。この文脈から考
えると、彼らの理論化は、女性や植民地の他者にまで拡張できるだろう。
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on,p.
125.
) 過剰として去勢された民族の恨み、言い換えれば、新たに生まれ変わ
ろうとする民族の挫折したエディプスドラマと、その民族の中で家父長
制の他者としてジェンダー化されたサバルタンの抑圧された声とが入り
混じって、時には共鳴し、時には衝突するのが、忠武路の女性映画の特
徴である。こうして見てみると、忠武路の女性映画は男性的で民族的な
無意識によって量産され、容認される隷属した(s
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屋であり、それはマスター・ナラティヴとして提示される民族の挫折し
た歴史的な時間の上に、女性の空間と経験を締め付ける。ハリウッド映
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8
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10
11
12
1413
食い違いから始まったのである。
( ) ビョン・ジェラン、「韓国映画における女性観客性に関する研究」、中
央大学校博士学位論文、二〇〇〇年。
( ) チョン・ビソク、『自由夫人』、コリョウォン、一九九六年。
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,1987,p.26.
( )[訳注]ソウルの中区に位置している 忠 武路は、一九五〇年代半ばか
ら大規模な映画館や映画会社の本社が集まるにつれ、映画の町として知
られるようになった。現在でも韓国映画を象徴する名称として使われて
いる。
( ) ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク著、テ・ヘスック訳、
「サバルタンは語ることができるか」、『世界思想』四号、東文選、一九
九八年、一一六頁。
( ) 同上、一三〇頁。
( ) ベル・フックスは、被植民地の女性たちが植民支配国によって、また
同族の男性によって、二重に植民化されるという見解を示した。黒人の
民族主義経験に基づき、ベル・フックスは、被植民地の男性が自身の男
1
32
4
5
76
82
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
画の女性の声が容易に言説の場に進入するのに比べて、非西欧映画のジェ
ンダー化されたサバルタンの声が容易に言説の場に進入できない理由は、
抑圧された者の「仮面」を被ったマスター・ナラティヴが、彼らの声と
言語を「真似」しながら、持続的に介入するからである。しかし、民族
のヒステリーとその内部の他者が表現する言語は、似ているように見え
るが、明らかに異なる。よって、ジェンダー化されたサバルタンとして
忠武路の女性観客が体験する映画的経験は、既に民族の言語になってし
まったヒステリー、即ち、恨みを超えた別の意味を持つはずであり、忠
武路の女性観客性の研究は、その違いを確かめるべきであろう。これま
での民族映画に関する議論は、主にマスター・ナラティヴとの関係に基
づいていた。最も代表的な例として、クラカウアーの『カリガリからヒッ
トラーまで』が挙げられるが、これはドイツ映画史を、ドイツの歴史的
事件のより深層的で根本的な叙事、即ち、ワイマールの歴史と映画の歴
史との両方を組織する、受動的な男性性と象徴的な敗北感の叙事として
書き直されたものであった。この試みは、フレドリック・ジェイムソン
式に言うならば、民族映画をある種の民族アレゴリーとして理解したも
のである。ジェイムソンは次のように主張する。「表現型因果性あるい
はアレゴリカルなマスター・ナラティヴの観点から解釈する誘惑には、
どうしても抗いたいものがあるとするならば、そのようなマスター・ナ
ラティヴが、テクストのみならずテクストを前にしたときの私たちの思
考法そのものに、しみついているからである」
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,1981,p.
34[邦訳、『政治的無意識 社会的
象徴行為としての物語』
、大橋洋一他訳、平凡社、一九八九年、三九頁]
)
。
このように、ジェイムソンの主張は、ナラティヴと歴史から主体性とい
う興味深い問題を提案するが、「アレゴリカルなナラティヴが、歴史と
現実に関する我々の集団的な思考と幻想を露出する」という主張は多く
の問題を引き起こす。つまり、マスター・ナラティヴが我々の文化と我々
の言説に影響を及ぼすことは事実であるが、そのナラティヴを社会的経
験の総体として受け入れるのは、それが、他の経験と他の欲望を抑圧し
てきた、その実際的な機能を消してしまう恐れがあるからだ(Pat
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,1989,pp.
察の主体が民族の男性であるならば、その内部の経験と声は当然消えて
しまう。したがって、民族映画研究の目的が、民族の境界の内外を横断
する超民族的な実践であるならば、それはマスター・ナラティヴの内部、
あるいはそれと競合する様々な他者の映画的経験を言説的に構成するこ
とになるはずである。
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,1982
,pp.
134157.
( )[訳注]ここで著者とのやりとりによれば、『自由夫人』の女性観客に
よる受容の体験を、「朝鮮戦争以来、一方に進んできた男性的近代に問
題を提起した映画的瞬間」として捉え、それゆえに「男性的な近代化が
一時中断され、さらには挑戦された」と解釈しており、この「猶予され
た状態を超えて、挑戦される、より躍動的な瞬間が、この映画が上映さ
れる映画館に満ち れていたと想像した」とコメントをしている。
( ) デ・ラウレティスは、「イメージ」の代わりに「イメージ化」を好ん
で使っており、また、それを理論的に考察する。彼女によると、映画的
装置は、単にイメージではなく同一化を確立し、欲望の運動を方向付け、
観客を位置付けることで、イメージに情緒と意味が付与され、イメージ
化されると主張する。つまり、イメージ化とは、意味、感情、情緒がイ
メージに張り付く方式であり、観客は映画に語りかけられ、観賞の過程
に主体的に参加する。そのため、イメージには、意味論的な価値と社会
的な価値、そして情緒と幻想が結合することになる。このように、彼女
がイメージに関する根本的な再理論化を試みたのは、常にイメージとし
て固定されていた女性の位置を躍動的なものとして再概念化することで、
女性たちがもっと動けるように理論的な機能性を考案しようとしたフェ
ミニズムの実践であった。
( ) デ・ラウレティスがフェミニズム理論に貢献した部分は、「凝視とし
ての男性/イメージとしての女性」という、性差と視覚に基づいた古典
的凝視理論に、ナラティヴ過程を再導入したことである。これによって、
デ・ラウレティスは、マルヴィ式の形式主義的な分析を批判すると同時
に、「分極化の抑圧された側面としての女性も社会的言説の対象ではな
く、主体として理解されるべきだ」という、マルヴィが当初意図してい
た政治的な企画を再度確信するようになる。これが可能になる理由は、
女性の主体性という政治的な問題が、違う次元で、即ち女性が単にイメー
ジに還元されるわけではなく、欲望の対象であると同時に主体であると
いう、二重の同一化の所在地として理解されるようになるからだ。家父
長制社会でこうした女性の同一化が意味する二重性、即ちその不/可能
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い方式の社会文化的な質問を可能にする領土になり得たのである(de
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151152.
) ホミ・バーバ、『文化の差異』、民音社、二〇〇二年、一九九頁。
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「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
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54)([訳注]ここでシクスーが「開かれた記憶」と形容しているのは、
フロイトがメランコリアを「傷口の開いた傷(openwound)」と称し
たのに対し、喪の行為は、その傷口を塞いで喪失を否定し、去勢に抵抗
する方法と対照させていると考えられる)。
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336.
) ここで本研究は男性の近代性はマーシャル・バーマンの議論を、女性
近代性はリタ・フェルスキの議論を念頭に入れている。この二つの議論
は近代性に対する男性と女性の異なる経験を扱っているが、非西洋の差
異は論じていないという共通点がある。特にバーマンの場合、非西洋の
経験を低発展として、また遅延された近代性としてロシアの経験を一般
化しており、フェルスキは女性内部の差に注目していないため、還元論
的な側面があると思われる。したがって、いかなる場合でも、二つの議
論を韓国の近代性の議論に適用する時には、相当な注意と注意深い翻訳
が要求される。特に、ジャン・スドンとアリフ・ダーリックによれば、
バーマンのモダニズムには、世界の植民化が近代性のユロ
アメリカ
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的な経験に及ぼした方式に対する言及がなく、近代性を外部からの支配
を通して経験した人々の経験に対する言及は全くなかった (Zhang
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,1997,pp.
23)。
一方、フェルスキは自分の著書に言及できなかった部分を後書きで次
のように述べている。「近代性の歴史を、それの形成過程に寄与した多
様な下層階級のアイデンティティーから再考する必要がある。近代的な
主体の必然的な複数性に対する我々の理解を拡張させることにおいて、
そのような企画は既存の時間的な図式と時代区分の構造を壊して改造す
ることを伴う」(Fel
s
ki
,1998)。本稿はフェルスキの考察から出発した。
( ) ジェンダー化されたサバルタンはいかにして近代性を経験するのか。
それは二つの方式を通じてのみ可能である。一つはハリウッド映画や雑
誌、外国小説のように西洋の近代性を媒介したものを接することであり、
もう一つは西洋の近代性の衝撃に向き合って戦う「集中化された凝視
(concent
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e)」ではなく、忠武路映画のように歴史的な外傷に
よって去勢された植民地男性の不安で「散漫な凝視(di
s
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act
edgaz
e)
」
(クラカウアーのように言えば、表面的な散漫ではなく、社会的な現実
を完全に再構造化できる矛盾した曖昧さと二重の意味を持つ散漫)を通
して、つまり西洋の近代性を眺める能力を失って既にオーラに捕われた
「黄色い皮膚、白い仮面」の家父長制の「ガラスの鏡」を通じて経験す
るのである。前者の場合、多くの研究者が指摘したように、近代性の物
質的で、表面的な殻だけを経験すること、つまり近代を正面から見られ
ず、その一部だけを眺めて資本主義の物質主義と消費主義のような近代
性のオーラに捕われる。後者の場合、既に近代性のオーラに捕らわれた
ポストコロニアルのボードレールが、植民宗主国の近代性を不手際に真
似して翻訳した矛盾する雑種化の過程であるため、ジェンダー化された
サバルタンに「弁証法的に見る行為」を、言い換えれば、近代性の植民
地主義、矛盾、アポリア、そして翻訳不可能で、還元不可能な差異を正
面から見られる凝視と権力の瞬間を許す。忠武路の女性向けの映画が許
すこの瞬間は、ポストコロニアルのジェンダー化されたサバルタンが近
代を「根本的に異なって」経験することであり、忠武路の女性観客性の
文化的な近代性はここに現れる。
( ) ここで非近代的な主体というのは、西洋として伝統を示してはいない。
また西洋の産業化とそれ以降を示す脱近代を意味するものでもない。そ
れよりは、歴史を回復した伝統と脱近代を渡る位置として、非西洋の別
の選択肢=他者/土着(al
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/nat
i
ve)の可能性を含む概念である。非
近代は近代に至らなかったと思われるが、このような観点も西洋の考え
から発生した誤解である。還元不可能な差異のため、まるで英雄のよう
39
40
23
2827262524
313029
32
36353433
3837
84
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
「黄色い皮膚、白い仮面」舞踏会としての『自由夫人』
85
(
(
を参照)
に近代化に抵抗する存在ではなく、それで慣らすことができないため、
最初から疎外されているサバルタンに非近代というのは適切なものであ
る。この土に西洋として近代が移植されて以来、昔から今まで我々が立っ
ているこの時間帯は近代の以前でも、以降でもない。それは西洋として
近代の余波(af
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mat
h)であり、呼ばれた効果として既に近代の中に
あると同時に外にいる。
)(フーコーの『性の歴史』以来)一つの公式になった「可視性の条件」
に関するテレーザ・デ・ラウレティスの説明は次のようである。
「イメー
ジ化を再定義してみると、現在の女性映画の課題は物語と視覚的な快楽
の解体ではなく、むしろ男性主体のみが欲望の基準となったのとは別の
参照枠を構築することにあるかもしれない。なぜなら、結局肝心なこと
は「不可視性を可視化」するのではなく、異なる社会的主体のために可
視性の条件をどのように生産することができるのかにあるからである」
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89)。彼女の発言に加えると、非西洋
の女性映画において「別の基準」というのは、男性との差だけではなく、
西洋との差をも考慮に入れなければならないだろう。
) 代案的な公共圏(al
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vepubl
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pher
e)は、ネクトとクルーゲ
がハーバーマスの公共圏への対応として提案したものである。これはブ
ルジョワ公共圏のように安定した形式の公共圏ではなく、歴史の不連続
的な隙間から浮かび上がるもので、一時的な議論である。それは否定す
ることによって存在することができるもの、つまり「代案的な経験の組
織化を含む公的な形成体を抑圧・解体・疎外・分離・同和させようとす
る覇権的な努力から出現するもの」(Hans
en,1991:13)である。忠武
路の女性向けの映画を一種の代案的な公共圏として理論化するとすれば、
それは実際の公共圏であるというより、支配的な言説の権力とその折り
目、そしてその摩擦の中から浮かび上がるものとして考えられる。
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