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社会論集16号論文

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社会論集16号論文
社会論集16号論文
介護職の職業倫理(エートス)に関する一考察
阿部正昭
1.はじめに
1)問題の所在
福祉・介護分野の従事者は、平成 2005 年で約 328 万人であり、このうち高齢者分野の従事者が約 197 万
人と約6割を占めており、介護職については、今後、平成 2014 年までに約 40 万人から約 60 万人の確保が
必要となるといった推計がなされている(厚生労働省調べ)*1。急速に進む高齢化の中で、介護の現場では
介護職の人材難が常態化し、離職率も 21.6%と全産業平均の 16.2%に比較して高い状況となっている*2。
これらの要因として、これまで新聞等のマスメディアでは、賃金の低さや休暇の取りにくさ等が取り上
げられてきたが、実際の離職に至った理由には、経営理念や人間関係への不満も上位に入っており*3、労働
条件の低さだけで、介護の現場の人材不足や離職率の高さを説明するのには無理がある。また、離職率が
10%未満の事業所が 35.7%、10~15%未満の事業所が 10.4%であり*4、介護の現場の半数近い事業所では全
産業平均の離職率よりも低い数値が示されていることからも、介護職の離職や定着には労働条件以外の要
因が大きく影響していることが考えられる。
介護の現場に定着することなく、離職してしまう者が後を絶たない背景について、阿部真大(2007)
は次のように問題提起している。そもそも接客業とは、際限のない労働であるが、介護職とファスト
フード店等の飲食業の接客業との違いは、介護職の場合は利用者に対する全人格的な「共感」や「同
情」が強くはたらく点にある。そのため、介護職は助けが必要な利用者を前にして、自らの労働条件
を犠牲にしてまで彼らの願いをかなえるように努力する。そして、その努力はケア労働を通じた自己
実現の余地の拡大と重なり、介護職はリミッターの外れたワーカホーリックとなってしまう。かくし
てケアワーカー達は倒れるまで働き続けてしまう、という指摘である*5。
また、サービス化された労働そのものに限度を超えた無際限性があるという指摘もある。杉村芳美
(1990)は、「サービス化」された労働には、「貢献」としての意味の過剰が現れるとして、次のよう
にいっている。
「労働はもっぱら目的的な活動として、自己目的的に追求されることになる。手段性が切り落とさ
れた労働は、目的の達成によって報われることがない、報われることを期待しない活動ということに
なり、いわば無償の活動となる。目的(end)の実現を到達点として終局を迎えるという枠組みが失
われて、終わりのない無際限(endless)の活動になっているのである。それゆえ、この方向への労働
の意味の過剰な傾斜は、いわゆる『労働のための労働』という姿で現れてくることになる。目的-手
段の枠組みが持つ平衡性からすると、限度を超えた『無際限』の労働である」*6。さらに杉村は、こ
のような「過剰な貢献」の労働への方向は、労働の「サービス化」であり、「サービス化」された労
働が無際限に続き、無限定に広いのは、サービス(奉仕)のもともとの意味のなかに「奴隷の労働」
という特徴が含まれているからなのだといっている*7。
2)研究の目的
そこで、本研究では、そもそも職業における「働きがい」といったものがこれまでどのように理解
されてきたのかを振り返りながら、介護職がこのような状況から抜け出し、「働きがい」のある職業
として成り立つための根拠となる視点を考察していきたい。なお、ここでは、「働きがい」を「職業
倫理(エートス)」という言葉に置き換え、これまでの「職業倫理(エートス)」に関する研究を概
観していく。ただし、「職業」というもの自体が近代産業社会以降に確立したという前提に立ち、近
代以前については、「職業倫理(エートス)」という用語は使用せず、「労働倫理(エートス)」と
いう用語を使用して考察を進めていく。これらの作業を通じて、あらためて現代における職業倫理(エ
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社会論集16号論文
ートス)を捉え直し、その上で、介護職が「働きがい」をもった職業として成立するための職業倫理
(エートス)を明らかにすることを目的とする。
3)研究の方法
産業社会学の先行研究を中心に検討することで、介護職における「職業倫理(エートス)」に着目し、
その基本構造とその形成過程を示していく。
2.職業倫理(エートス)の定義
「職業倫理」は、多種多様な職業のそれぞれに特有の倫理を指す場合と、全ての職業に共通の倫理
を指す場合がある。また、「職業倫理」という場合の、「倫理」をどう意味づけるのかという問題もある。
「倫理」といえば、それはある社会全体で公認された行動基準であり、社会的規範を意味するのが普
通である。しかし、厳密にいうならば、同じ倫理であっても、倫理の遵守が外部から課せられる他律
的な行動基準としての「倫理」と、自発的な職業上の気風や気質、心構えのような内面的な「倫理」
がある。
尾高邦雄(1970)は、前者を「モーレス(mores)」、後者を「エートス(ethos)」と呼んで、「ラ
テン語の語源をもつモーレスのほうは、ある社会の成員がそれにしたがうことを要求されている行動
基準で、それに対する違反が集団によるなんらかの制裁を伴うものをさす。これにたいして、ギリシ
ャ語に由来するエートスのほうは、ある社会の成員が習慣的にそなえるにいたった道徳的気風を意味
する。モーレスであるプロフェションの倫理は、拘束的・他律的であり、それにたいする違反が制裁
を結果するがゆえに、人々はその意に反してもこれにしたがわざるをえない。これに反して、エート
スである勤労の倫理は、制裁を設けることによってこれを人々に強制することができない。この内面
的な道徳的気風を培うためには、辛抱強い指導とそして特に人々自身の自己啓発が必要である」*8と
説明している。
また、大塚久雄(1989)は「エートス(ethos)」について、次のように定義している。「『エート
ス』は単なる規範としての倫理ではない。宗教倫理であれ、あるいは単なる世俗的な伝統主義の倫理
であれ、そうした倫理綱領とか倫理徳目とかいう倫理規範ではなくて、そういうものが歴史の流れの
なかでいつしか人間の血となり肉となってしまった。いわば社会の倫理的雰囲気とでもいうべきもの
なのです。そうした場合、その担い手である個々人は、なにかのことがらに出会うと条件反射的にす
ぐその命じる方向に向かって行動する。つまり、そのようになってしまったいわば社会心理でもある
のです。主観的な倫理とはもちろん無関係ではないけれども、もう客観的な心理となってしまってい
る。そういうものが『エートス』だ、と考えてよいのではないかと思います」*9
医師や弁護士などの専門職は、医師会や弁護士会といった職能団体を形成しているが、専門職の職
能団体は必ず、「倫理綱領」を設けている。この「倫理綱領」は、行動基準の遵守を要求する対象を
その職能団体の成員に限定しており、かつ患者や依頼者の利益を擁護するために特別の規律や規制を
設けている。そのため、医師や弁護士として活動するためには、行動基準としての「倫理綱領」を遵
守することが団体によって要求されるのである。
一方、自発的な職業上の気風や気質、心構えのような内面的な倫理といったものは、家庭でのしつ
け、学校教育や職場での育成、先輩や友人からの影響、さらには制度的な拘束等の一定の社会的規範
が「内面化」されたものと考えることができる。このような、職業上の気風や気質、心構えのような
内面的な倫理が、ある時代の社会的期待に合致している場合には、その心構えは正しいとされ、支配
的な職業倫理(エートス)となって現れるということができるだろう。
3.職業倫理(エートス)の変遷
1) 未開社会の労働倫理(エートス)
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社会論集16号論文
未開社会の労働と労働観を考察するには難点がある。それは、未開社会には近代的な意味での労働
という言葉も観念も存在していなかったからである。先行研究も限られているため、ここでは今村仁
司(1987)に依拠しながら整理していきたい。
近代資本主義経済の下では、労働の生産物は商品として交換される。商品は産物だけでなく、労働
力も商品となり、それは労働量によって測定される。測定される労働量は、他の社会的行為とは切断
され、独自の実態と考えられる。ところが、未開社会にはこのような労働表象は存在せず、量として
の労働も単独の実態としての労働も存在しない。また、食糧を獲得したり生活道具をつくる活動は経
済過程として分離されておらず、社会関係全体の中に位置づけられている。
例えば、「狩猟」は、近代経済社会の労働過程からみれば、ひとつの技術的過程であり、自然科学
的認識を基礎にして技術的法則に従う道具=手段の体系である。しかし、未開社会では、「狩猟」は
単なる技術的生産活動にとどまらず、その労苦のなかには、狩りの成功の吉凶を占う予感的夢想、贖
罪の儀礼、魔術的=宗教的行動が含まれている。
近代社会においては、「労働・生産」は単独に突出し、「自然と闘い、自然を征し、自然を変形す
る」労働が成立するが、未開社会においては、それらは社会的活動に埋め込まれており、自然と人間
の切れ目はない。近代的意味における分業が存在しない社会構造であるため、男女の性別による役割
の分担を除けば、誰もが同じような仕事をし、同じようなものを食べ、同じような生活をする。した
がって、近代的な意味での「生産」、「交換」、「消費」の分裂も存在していない*10。
2) 古代社会の労働倫理(エートス)
2)-1 古代ギリシャの労働倫理(エートス)
古代ギリシャにおいては、生命を維持するために必要な労働は、人間にとって不可欠であるが、だ
からといって高い価値が認められていたのではなく、むしろ限りなく「奴隷的な」活動とする考え方
が支配的だった。これについて、ハンナ・アレント(1958)は次のように説明している。
「労働することは必然(必要)によって奴隷化されることであり、この奴隷は人間生活の条件に固
有のものであった。人間は生命の必要物によって支配されている。だからこそ、必然(必要)に屈服
せざるをえなかった奴隷を支配するとによってのみ自由を得ることができたのであった。奴隷への転
落は運命の一撃によるものであったが、その運命は死よりも悪かった。なぜなら、それとともに人間
はなにか家畜に似たものに変貌するからである」*11
、「労働に対する軽蔑はもともと必然(必要)か
ら自由になるための猛烈な努力から生まれたものであり痕跡も、記念碑も、記憶に値する偉大な作品
も、何も残さないような骨折り仕事にはとても耐えられないという労働に対する嫌悪感から生まれた
ものである」*12。
このように、食糧生産であれ、対人的な労働であれ、つかの間に消費されるものに携わる労働は決
して自由な人間にふさわしくないとされていた。
同じ生活必需品の生産に携わる労働のなかでも、職人労働は「技術(テクネー)による「製作(ポ
イエーシス)」として他の活動から区別され、耐久性を持った製作物自体は肯定的評価を受けたが、
職人労働自体は「真の活動(プラークシス)とは区別されていた。なぜなら、職人労働は、「多忙」
であり、古代ギリシャにおいては、「多忙」とはひとつの倫理的悪とされていたからである。そこで
は、「暇」にこそ「真の活動(プラークシス)」があるとされていた*13。
それでは、ここでいう「余暇」とは「労働」に対してどのように位置づけられていたのだろうか。
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これについて、ヨゼフ・ピーパー(1965)は、「余暇はギリシャ語ではスコレー、ラテン語ではスコ
ーラ、ドイツ語ではシューレ(学校)となります。つまり、ドイツ人が教養、あるいは人格形成の場
をさすのに用いている言葉自体が、余暇を意味しているのです。シューレとは、知識を詰め込んでば
かりいる場所のことでなく、本当は『余暇』なのです」*14と述べ、一方、「労働」については、「ギ
リシャ語では週日のれっきとした「仕事」をさす言葉がなく、ただ『暇なし』(スコレー〈暇〉と否
定を意味するアを結びつけた『アスコリア』)という否定形があるだけだという事実です。ラテン語
でもこのことは同じで、業務仕事を意味するネゴティウム(英語のネゴシエイションはここからきて
いますは、オティウム(暇)の否定形なのです」*15と説明している。加えて、アリステレスが、『政
治学』のなかで、『余暇が物事のかなめであり、すべてはそれを中心に回転している』といっていた
ことに触れ、「余暇」にこそ「真の活動(プラークシス)」があることを強調している。
では、「余暇」とはどのような活動であろうか。そのひとつは、「観照(theorianous)」である。
ハンナ・アレント(1958)は「人間の最高の能力とは、logos すなわち言論あるいは理性ではなく、
nous すなわち観照の能力であって、その主要特徴は、その内容が言論によっては伝えられないとこ
ろにある」*16と説明している。また、杉村芳美(1990)は、「観想は、古代・中世を通じて最高の価
値をおれた人間の営みである。観想は沈黙のなかで目をこらし、耳をすまし『存在のうちへと沈静し
ていくこと』とされる。自己の存在をふり返り、自己が根を下ろしている価値や伝統に精神を向かわ
せることであろう」*17と述べている。さらにヨゼフ・ピーパー(1965)は、キリスト教の精神生活の
理想とされている「コンテンプラティオ(contemplatio)」(日常生活のあらゆる心づかいや関心を
はなれ、小さな自我を抜出ることによって、世界をあるがままにながめ、その創り主にふれること)
はアリストテレスの「余暇」の思想にまで遡ることを示唆している*18。
そして次にあげられるのが「真の活動(プラークシス)」であり、それは、「何もつくらないこと」
でありその最たるものは政治活動であった。これは、何かを作り、生産する行為ではなくて、人間の
本性にふさわしい生き方をすることである。そこでは、一切の労働から解放されており、自然的必然
性と労苦から解放され、言論をもって公共の事物を共同して運営することが自由な活動であり、それ
はと人との関係が非暴力的な言葉と説得によって決定されるという意味であった*19。
このように古代ギリシャにおいては、観想や活動が最も重要であり、労働は必然によって奴隷化さ
れることであるとして蔑視されていた。これは古代ギリシャ社会の階層序列を構成する概念でもあり、
肉体労働から解放されて、活動を行うことができる上級市民は、共同体を排除された奴隷によって支
えられていた。つまり、古代ギリシャにおける余暇は、奴隷労働なしには成立しない活動だったので
ある*20。
ここまで、古代ギリシャにおいては、「労働」は「奴隷的」とみなされて、蔑視する考え方が支配
的だったと述べてきたが、一方で「労働は恥ではない」とる考え方の原型も残っている。
そのひとつはヘシオドスの『仕事と日』である。ヘシオドスは、紀元前8世紀頃の人物であり、『仕
事と日』は人間が日々の生活において守り従うべき戒めを語る教訓叙事詩である。
詩のはじめにはパンドラの説話が出てくる。それまで苦しい労働も病苦もなかった人間の世界に彼
女はさまざまな苦難をもたらす。それらの苦難はゼウスの怒りによって人間の世界に送りつけられた。
ゼウスは人間のために火を盗み出し、プロメテウスに欺かれたからである。そのため、人間は労働と
いう労苦を背負うことになった。以後、人間世界の段階的な堕落が語られて、叙事詩が展開されてく
のであるが、その中に、「労働の尊さについて」という節があり、次のようなことが語られている。
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「不死の神々は、優れて善きことの前に汗をお据えなされた、
それに達する道は遠くかつ急な坂で、
始めはことに凹凸がはなはだしいが、頂上に到れば、
後は歩きやすくなる
-
始めこそ歩きがたい道であるが。
行く先々、また結末に至るまで、最善となるべきことごとを思いめぐらし、
万事をみずから思量できる者こそ、類なく優れた人間であるが、
他人の善言に従う者もまた、善き人間じゃ。
-(中略)-
怠惰な生を送る者に対しては、神も人もともに憤る
-(中略)-
人間は労働によって家畜もふえ、裕福にもなる、
また働くことでいっそう神々に愛されもする。
労働は決して恥ではない、働かぬことこそ恥なのだ」21
これらの言葉をまとめると、この叙事詩を次のように受け止めることができるだろう。つまり、
労働は神々によって人間に与えられた苦難のひとつである。しかし、それは「優れて善きこと」に達
するために必要な苦難でもある。人間は労働によって、飢えから免れ、裕福になることができ、神々
にも愛される。
このように、ヘシオドスの労働観には、労働によって生活の糧が得られ、ゆとりが生まれ、神々に
愛されるという徳にも通じるとする判断が含まれていた。
2)-2 初代キリスト教会の労働倫理(エートス)
古代ギリシャに続いて古代社会における労働倫理の源流をなしているのは、初代キリスト教会の労
働観である。ここでは、1世紀の中頃にキリスト教を伝道した使徒パウロをとりあげる。パリサイ派
の律法学者であり、キリスト教徒の迫害を行っていたサウロ(回心後はパウロ)は、旅の途中で「目
から鱗が落ちる回心」を経験し、その後はキリストの使徒となって、生涯をキリスト教の福音宣活動
に捧げた人物である。
パウロは新約聖書に多くの書簡を残しているが、そのひとつである「テサロニケ人への第2の手紙
3章6節~12 節」には次のような手紙が記されている。
「6 兄弟の皆さん、わたしたちの主イエズス・キリストの名において、あなたがたに命じます。け
じめのない生活を送って、わたしたちから受けた正統な教えに従わないすべての兄弟たちから遠ざか
っていなさい。7 わたしたちをどのように見倣うべきか、あなたがたにはわかっているはずです。あ
なたがたがいっしょにいたとき、わたしたちはけじめのない生活を送りませんでした。8 また、だれ
からもパンをただでもらって食べるようなことはしませんでした。それどころかあなたがたのだれに
も負担をかけまいとして、わたしたちは昼も夜も労苦し、骨を折って働きました。9 それは、生活を
支えてもらう権利がないからではなくわたしたちの模範にあなた方が見倣って欲しかったからです。
10 わたしたちがあなたがたの所にいたとき、働きたくない者は食べてはならないとはっきり言って
おいたはずです。11 それなのに、あなた方の中にはけじめのない生活を送り、仕事はせず、余計な
おせっかいばかりしている者がいると聞いています。12 主イエズス・キリストに結ばれている者と
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して、そういう人たちに命じ、勧めます。人々と働いて、自分でかせいだパンを食べなさい」*22
この手紙でパウロは信徒に対して怠惰な生活を戒めている。救いを求める信仰生活は、霊的・精神
的な活動を重視し、ともすれば現世的な日常性を軽視する態度を生んだであろう。これに対して、パ
ウロは信仰における働くことの重要性を説いている。実際、パウロ自身も天幕(テント)職人を続け
ながら伝道活動をしていたことはよく知られており、教団内での役割としては、労働せずに使徒とし
ての活動に専念することが認められる立場にいながら、模範として自らも労働したのである。パウロ
は「テサロニケ人への第1の手紙4章9節~12 節」でも働くことを重視して、次のように勧めてい
る。
「9 兄弟愛について、ことさらあなたがたに書く必要はありません。あなた自身、神に教えられて
互いに愛し合っていますし、10 マケドニア全地方の全ての弟たちに対してもそれを実行しているか
らです。しかし、兄弟の皆さん、その愛をさらにますます完全なものとするように勧めます。11 す
なわち、腰を落ち着けて自分の努めに専念し、あなたがたに言いつけておいたとおり自分の手で働く
ように心がけなさい。12 そうしてこそ初めて、外部の人に対し体面を保つことがき、また、人の世
話にならずに暮らしていけるのです」*23
このように、パウロは労働を蔑視してはいない。しかし、だからといって労働そのものが信仰であ
るともいっていない。「愛をますます完全なものとする」ために「自分の手で働くよう心がけなさい」
といっているのである。つまり、パウロの労働倫理においては、労働は信仰を完全なものとするため
の活動のひとつとして位置づけられているのである。
パウロの労働倫理は、その後のアウグスティヌス(354-430)にも、引き継がれている。杉村芳美
(1997)によると、キリスト教における新たな禁欲的信仰生活のかたちである修道院が出現するのは、
313年のミラノ勅令によってキリストがローマ帝国で公認された頃だとされる。修道院では、農業
をはじめ造園、鍛冶パン作り、機織り、大工などさまざまな労働が行われ、労働は人が背負うべき日
々の十字架であるとして、その禁欲的意味が強調された*24。しかし、その一方で、「もし使徒がその
生命を維持しようとして肉体労働を行なったとすれば、それ自体どういう労働であったか。労働し、
しかも福音を教える暇がいつ彼にあったか」*25、と労働を忌避し、放浪を旨とする修道士も存在して
いた。これに対してアウグスティヌスは、「もし誰かに説教を教えなければならないからといって、
彼がそれに没頭して手によって労働することに専念しないというようなことがあれば、一体修道院内
において、他の生活領域を棄ててやってきた兄弟たちに聖句を解き明かしたり、あるいはなにかの質
問についてすべての者が公正に討議するとなど果たしてできるだろうか」*26と怠惰な放浪修道士たち
の偽善的生活を戒めて、「修道院では毎日一定の時間労働に従事すべきこと、その他の時間は読書、
祈り、聖書釈義に当てるべきこと」*27と説いている。
3) 中世の西欧修道院の労働倫理(エートス)
アウグスティヌスによって示された修道士の労働観は、西欧の修道院に受け継がれ、ベネディクト
(480頃~550頃)の「聖ベネディクト戒律」によって確立された。そして、後にはこの戒律が
全西欧のほとんどの修道院で、基本準則とし遵奉されることとなった*28。「聖ベネディクト戒律」で
は、労働、祈り、読書、食事、黙想、休息などが細かく決められているが、労働については、その第
48章『日課の労働について』があり、「怠惰は魂の敵である。ゆえに修道士は一定時労働しなけれ
ばならない。-(中略)- わたしたちの師父と使徒たちがそうでしたが、己の身を労して働いて(Ⅰ
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社会論集16号論文
コリ 4:12*29)、始めて真の修道士なのです」*30と規定している。また、修道士にとって、神を探求し
神と出会う最も特徴的な活動とされた「レクティオ・ディヴィナ(lectio divina)」は「朗読(lectio)」、
「黙想(meditatio)」、「観想(contemplatio)」、「祈り(oratio)」の4つで構成され、そこに「労
働(labor)」が取り込まれて有機的にひとつに結ばれることで、修道士の 1 日を初期修道制以来の伝
統的な「不断の祈祷」にしてきたのである*31。
修道院におけるこのような禁欲的な徳目は、現代においても「従順」、「清貧」、「貞潔」、「沈
黙」、「完徳」、「一定所住」といった修道生活における修道士(ブラザー)や修道女(シスター)
達の信仰を修練する重要な行為となって引き継がれている。このなかで、「労働」もまた、労苦と忍
耐を伴う点で禁欲的行為であり、それは人間の生存にかかわる根源的行為であり、自給自足を旨とし
た修道院においては特に重要であった。その意味で、「労働」は信仰を完成する上で軽視できないも
のであり、「魂の浄化と怠惰の予防のための行い」32と位置づけられてきたのである。
4) 近代の労働倫理(エートス)
資本主義経済が勃興してくる過程で、その動きを人々の心の内側から推し進めいった心理的機動力
がキリスト教のプロテスタンティズムにおける禁欲的な精神であるといったのはマックス・ウェーバ
ー(1920)である。彼はこのことについて、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で
次のように述べている。
「キリスト教的禁欲といっても、その中には、外面的現象から見ても、またその意味からいっても、
明らかに恐ろしくさまざまなものが含まれていた。しかし、西洋では、すでに中世においてその最高
の形態は完全に、またいくつかの現象については早くも古代において、合理的な性格をおびていた。
東洋の禁欲僧生活 -総体ではなく、一般的類型として
- に対比して、西洋の修道士生活のもつ
世界的意義は、この点にある。西洋的禁欲は、聖ベネディクトの規律において、すでに無方針な現世
的逃避と達人的な域の苦行から原理上脱け出て、クリュー派ではその傾向は一層明白となり、シトー
派ではさらに顕著に、最後にイエズス会ではまった決定的となっている。それは、自然の地位を克服
し、人間を非合理的な衝動の力と現世および自然への依存から引き離して計画的意志に服させ、彼の
行為を不断の自己審査と倫理的意義の熟慮のもとにおくことを目的とする。そうした合理的生活態度
の組織的に完成された方法として、すでにできあがっていた」*33
そして、こうした中世西洋の修道院における能動的な自己制御による完徳が、後のピューリタニズ
ムの実践生活に決定的に重要な理想であった、と説明している。ウェーバーのいう「いくつかの現象
については古代において」とは、古代イスエルの宗教意識から生まれた宗教倫理であり、それがキリ
スト教に流れ込み、さらにギリシャ思想と手を携えて、キリスト教的禁欲を生み出していった。まず、
中世修道院において世俗外的禁欲の倫理が生まれ、それがピューリタニズムの世俗内禁欲倫理の姿を
とり、広く一般信徒の間に浸透し、それによって、「資本主義の精神」を形成する中心的な要因が生
み出された、というのがウェーバーの歴史的説明である。
しかし、なぜピューリタニズムの世俗内的禁欲倫理が、「資本主義の精神」を形成する中心的な要
因となりえたのであろうか。ウェーバーは、「あたかも労働が絶対的な自己目的-Beruf(天職)-
であるかのように励むという心情が一般的に必要となるからだ。しかしこうした心情は、決して、人
間が生まれつきに持っているものではない。また、高賃金や低賃金という操作で直接作り出せるもの
でもなくて、むしろ長い年月の教育の結果としてはじめて生まれてくるものなのだ」*34。つまり、長
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い間の宗教教育の結果として、はじめて生まれてくるものであり、またこうした行動様式を持った労
働者達が大量に与えられて、はじめて資本主義的な産業経営が成立し得るというのだ。
ここで、ウェーバーは「職業」の意味に着目しており、「職業」を意味するドイツ語の「ベルーフ
(Beruf)」や英語の「コーリング(calling)」には、神から与えられた「使命(Aufgabe)」とい
う観念がこめられており、特にプロテスタントが優勢な諸民族においては、「天職(神から与えられ
た召命としての職業)」として使われてきたと述べている。そして、この「天職」が使われ出したの
は、ルターの聖書訳に端を発しているという*35。
ルターは、「ベン・シラの知恵」という旧約聖書外典の翻訳を通じて、カトリック教会の修道院に
おける世俗外の禁欲的生活を、現世の義務から逃れようとする利己的な愛の欠如の産物だとして否定
した。そして、世俗的職業の内部における義務の遂行をおよそ道徳的実践のもちうる最高の内容とし
て重要視し、世俗の職業労働こそ隣人愛の外的な現れであるとする、世俗的日常労働に宗教的意義を
認める思想を生み出し、「天職」という概念をつくり出した。ウェーバーはこのことを「世内的禁欲
倫理」といっているのである*36。
このように、ルターにおいては、職業倫理(エートス)は「隣人愛」から導き出されていたがこの
「世俗内禁欲倫理」は、①カルヴィニズム、②敬虔派、③メソジスト派、④洗礼派運動から派生した
諸教団の禁欲的プロテスタンティズムにおいては、「神の栄光」が職業倫理(エートス)となった。
この変容についてウェーバーは次のように説明している。
「現世にとって定められたことは、神の栄光化に役立つということ - しかもそれだけ - で
あり、選ばれたキリスト者が生存しているのは、それぞれの持ち場にあって神の誡めを実行し、それ
によって現世において神の栄光を増すためであり
- しかもそれだけのためなのだ。ところで、神
がキリスト者に欲し給うのは彼の社会的な仕事である。それは、神は人間生活の社会的構成が彼の誡
めに適い、の目的に合致するように編制されていることを欲し給うからなのだ。カルヴァン信徒が現
世において行う社会的労働は、ひたすら「神の栄光を増すため」のものだ。だから、現世で人々全体
のために役立とうとする職業労働もまたこのような性格持つことになる」37
これは、パウロが新約聖書のフィリピ人への手紙*38で、決勝点に向かってひたすら邁進することを
勧めているように、ゴールに向かって他のあらゆることがらへの欲望を抑えて、すべてのエネルギー
を目標達成のために注ぎ込む行動様式であり、このことをウェーバーは「キリスト教的禁欲」といっ
ているのである*39。
ところが、このようなキリスト教的禁欲を基盤として形成された近代の職業倫理(エートス)は、
結果的には、ピューリタンの意図に反して、合理的産業経営を土台とする、歴史的にまったく新しい
資本主義の社会的機構をだんだんとつくりあげていくことなった。しかし、いったんつくりあげられ
た資本主義の社会機構は、今度は逆に彼らの世俗内禁欲を外側から強制するようになり、もはや信仰
による内面的な力を必要としなくなってしまったのである。ウェーバーはこの状況を次にように述べ
て『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を締めくくっている。
「禁欲が世俗を改造し、世俗の内部で成果を上げようと試みているうちに、世俗の外物はかつて歴
史にその比を見ないほど強力になって、ついには逃れえない力を人間の上に振るうようになってしま
ったのだ。-(中略)- 勝利をとげた資本主義は、機械の基盤の上に立って以来、この支柱を必要
としない。禁欲をはからずも後継した啓蒙主義の薔薇色の雰囲気でさえ、今日ではまったく失せ果て
たらしく『天職義務』の思想はかつての宗教的信仰の亡霊として、われわれの生活の中を徘徊してい
- 8 -
社会論集16号論文
る。そして、『世俗的職業を天職として遂行する』という、そうした行為を直接最高の精神的文化価
値に関連させることができない場合にも
てしか感じられない場合にも
-
- 逆の言い方をすれば、主観的にも単に経済的強制とし
今日はおよそその意味を詮索しないのが普通だ。-(中略)-
こうした文化発展の後に現れる「末人」にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。『精
神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことない段階にまです
でに登り詰めた、と自惚れるだろう』と」
5) 近代産業社会と職業倫理(エートス)
これまでの職業倫理(エートス)の変遷をもう一度ふり返ると、未開社会においては、近代的な意
味での「労働」は存在せず、そこでは「生産」、「交換」、「消費」の分裂が存在せず、宗教的な行
動が含まれるなかで社会関係全体の中に位置づけられていた。
古代ギリシャのポリス社会においては、余暇と活動が最も重要であり、労働は必然(必要)によっ
て奴隷化されることであるとして蔑視されていた。これは古代ギリシャ社会の階層序列を構成する概
念でもあり、肉体労働から解放されて、余暇の活動を行うことができる上級市民は、共同体を排除さ
れた奴隷によって支えられていた。一方、ヘシオドスの『仕事と日』では、労働は神々によって人間
に与えられた苦難のひとつであるが、それは「優れて善きこと」に達するために必要な苦難でもあり、
人間は労働によって、飢えから免れ、裕福になることができ、神々にも愛されるという徳にも通じる
とする判断が含まれていた。
初代キリスト教会においては、パウロが「愛をますます完全なものとする」ために「自分の手で働
くよう心がけなさい」といっており、信仰を完全なものとするための活動のひとつとして、労働が位
置づけられていた。
また、アウグスティヌスの時代の修道院においても、「修道院では毎日一定の時間労働に従事すべ
きこと、その他の時間は読書、祈り、聖書釈義に当てるべきこと」とされており、労働は人が背負う
べき日々の十字架であるとして、その禁欲的意味が強調された。
中世の西欧修道院においては、労働を「怠惰は魂の敵である。ゆえに修道士は一定時間労働しなけ
ればならない」と規定して、祈りと読書以外の時間を労働にあてるべきとし、労働は罪の償いや慈善
のためであるとともに、「魂の浄化と怠惰の予防のための行い」とみなされた。しかし、ここまでの
労働は、労苦と忍耐を伴う点で禁欲的行為として捉えられ、修道院における「従順」、「清貧」、「貞
潔」、「沈黙」、「完徳」、「一定所住」といった徳目と合わせて信仰を修練する重要な行為となっ
て引き継がれていたのである。それは、宗教改革を通じてルターが「天職」概念をつくり出した時点
でも、隣人愛の外的な現れとしての姿を保っていた。ところが、カルヴィニズム等の禁欲的プロテス
タンティズムにおいて、現世で行う社会的労働が「神の栄光」を増すためのものとなったことが契機
となり、結果的には、ピューリタンの意図に反して、合理的産業経営を土台とする、歴史的にまった
く新しい資本主義の社会的機構がだんだんとつくりあげられた。しかし、いったんつくりあげられた
資本主義の社会機構は、今度は逆に彼らの世俗内禁欲を外側から強制するようになり、もはや信仰に
よる内面的な力を必要としなくなってしまったのである。
かつての修道院における「従順」、「清貧」、「貞潔」、「沈黙」、「完徳」、「一定所住」とい
った徳目と合わせて引き継がれていた労働は信仰を通じた自己完成を目指した労働であった。それに
対比して、このような内面的な力を失った労働とはどのようなものだろうか。
それは、ウェーバーがいうように資本主義の社会機構によって強制されるようになった「天職義務」
であり、自己目的化した労働である。そして、このような労働は、本節の冒頭で触れたように、労働
の意味の過剰な傾斜によって、目的の実現という到達点を見失った終わりのない限度を超えた無際限
の労働であるということができるだろう。
杉村芳美(1990)は、この労働の自己目的化への過剰な傾斜は、無際限に遂行される労働となり、
さらに過剰な集団化と合成されることで、無限定に広がる労働となっていき、その結果「過剰な貢献」
- 9 -
社会論集16号論文
となって奴隷労働化すると指摘している*40。そしてその結果、「貢献という活動において本来欠くこ
とのできないはずの自己実現、苦痛、役割といった意味のバランスを保った関係を失わせている。こ
こにある『貢献』は、個人を無視(滅私)し、手段を問わない(猛烈)、貢献なのである」*41と述べ
ている。
このように、自己完成といった内面的な力を失った労働は、その目的が労働そのものへの貢献と会
社や企業といった組織への貢献に向かい、結果的に個人を無視(滅私)し、手段をいとわない(猛烈)
な奴隷的ともいえる労働へと変容してしまうのである。
そこで、あらためて、職業の基本要素を問い直す作業を通じて、介護職における職業倫理(エート
ス)の在り方について考察したい。
4.職業の基本要素と介護職の職業倫理(エートス)
1)職業の3要素からみた介護職の職業倫理(エートス)
尾高邦雄(1941)は、職業を社会学的に研究するにあたって、スペンサーの『社会学原理』の第三巻
にある「職業制度」および「産業制度」の研究、デュルケムの『社会分業論』、マックス・ウェーバ
ーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を土台にして*42、職業は「職」と「業」からなる
二重構造を有し、さらに「個性の発揮」、「役割の実現」、そして「生計の維持」の三要素からなっている
ことを示した*43。
まず、「職」と「業」からなる二重構造について、「職」とは、ドイツ語の「ベルーフ(Beruf)」、英
語の「ヴォケーション(vocation)」における「天職」という意味、そして英語の「コーリング(calling)」
における「召命」、そしてフランス語の「プロフェッション(profession)」における「宣誓」とい
う意味があり、いずれも「職業」の意味には宗教的な概念が含まれている。それは、職業選択に先立
って、あらかじめある人に課せられた使命を意味し、天職はかかる使命と同時にある特別の才能があ
る人にさずかっていることを意味する。すなわち、一方ではそれは神の召命であるがゆえに職分であ
り、しかも他方では召命が特別の天分を授かっていることを意味するがゆえにそれは天職である*44。
一方、同じく職業を意味する言葉である英語の「オキュペーション(occupation)」や「ビジネス
(business)」は、社会のなかのある場所つまり、「職場」を占有することであり、「生業」と訳さ
れるにふさわしい職業の意味であるとしている。これが職業の「業」を構成する部分である*45。
次に、職業の3要素については、それぞれ職業の個人的側面、社会的および経済的側面と考えるこ
とができるとしている。第1に個性の発揮は職業の個人的側面である。これは各個人の信念であり、
特別の天分であるところの能力を発揮することである。第2に役割の実現は職業の社会的側面である。
社会の成員である限り、各人にはそれぞれその役割があり分担がある。かかる役割あるいは分担が遂
行されることによってのみ人間の社会生活は可能となる。第3に生計の維持は職業の経済的側面であ
る。人々は一定の勤労の代償として、一定の収入を得る。これによって人々はその生活を営み、その
家族を養っていく。
その上で、尾高は個性の発揮は、役割の実現のためであり、その結果として伴うのが生計の維持で
あるとしている。そして、これらの3要素の関係が調和的である時、職業はその理想形態を得ること
ができるとしている*46。
尾高の職業の3要素から介護職を検討してみると、「生計の維持」については、大きな課題として
取り上げなければならないのが給与等の労働条件の厳しさである。
2005(平成17)年の賃金構造基本統計調査によると福祉施設職員及びホームヘルパーの給与
は、2002(平成14)をピークに減少傾向にあり、2001(平成13)年から2005(平成
17)年までの4年間で約1万5千円以上下がったことがわかる。全労働者平均と比べた水準は、6
8.3%から63.9%に低下している。この背景には、2度に渡る介護報酬の見直しがある。200
0年の介護保険制度開始時に3.6兆円だった介護保険の総費用は高齢化で急増し、2007年度予
算で7.4兆円に達した。保険料も上昇し、「持続可能な制度」を旗印に給付抑制が重要課題となっ
た。2003年度の初改定で、介護報酬は2.3%、施設に限ると4%引き下げられた。2006年
度(05年 10月改定分を含む)も2.4%、施設は4%減った。
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社会論集16号論文
介護サービスの値段は介護報酬といういわば公定価格である。そのため、職員の配置基準も決めら
れ、大幅な人減らしはできない。報酬が大きく下がると、事業者が利益を確保する方法は人件費カッ
トしかない。ところが、報酬を上げても事業者が儲かるだけという指摘もあり、実際、介護報酬の見
直しに先立って行われた介護保険事業所調査では、入所施設を中心に、措置の時代よりも利益を出し
ている事業所があったことは無視できない。しかし、このような低賃金で、将来の昇給の展望が描け
なければ、いずれ人材難による「介護崩壊」は避けられないだろう。
介護職の労働条件改善は抜本的に考え直さなければならない時期にきている。しかし、そのために
は、介護報酬をただ上げればいいわけではなく、報酬を人件費とそれ以外とに分け、一定の給与水準
を保証する仕組みをつくる必要がある。
「個性の発揮」については、「事業所における介護労働実態調査」(2006 年 6 月:介護労働安定センター)に
よると、介護職の離職率は、1年未満が30%、1年から2年未満が30%、2年~3年未満が37.4%であり、それ以
降は25%台から10%台へと下がっていくという結果がでている。このことは、介護職の離職の背景には、初期段
階では、ジョブマッチングのずれや必要な技能が習得されていないことに起因する離職が考えられるが、2年~3
年の中堅職員の段階では、職務経験の積み重ねや資格の取得によって - 介護福祉士は実務経験3年で国
家試験の受験ができる - より専門的な技能が発揮でき、資格が活かされる事業所へ移動している状況が考
えられる。このことから介護職の職業倫理(エートス)の獲得においては、専門的な技能が発揮され、取得した資格
が社会的に認知され、評価される状況が必要であるということができるだろう。
「役割の実現」については、介護職には、医療職や保健職と共通して、対面的な関係形成や身体接
触を持った介護の技術が求められるという特性がある。これは、具体的な介護場面において、利用者
からの「ありがとう」という「役割の実現」を確認できる対人援助の関係が形成されるということで
あり、事業所への貢献を通じた地域社会の発展につながる貢献を確認できる場が形成されるというこ
とでもある。このことは、「介護労働実態調査」(2008 年 10 月:介護労働安定センター)において、現在の仕
事を選んだ理由で上位を占めている回答が①「働きがいのある仕事だと思ったから」(58.1%)、②
「人や社会の役に立ちたいから」(35.4%)、③「今後もニーズが高まる仕事だから」(34.7%)、④
「資格・技能が活かせるから」(33.9%)の順となっていることからも、介護職においては「役割の実
現」や「社会貢献」が職業倫理(エートス)を支える重要な要素なっていることがわかる。
2)人間の活動力からみた介護職の職業倫理(エートス)
ハンナ・アレント(1958)は、人間の基本的な活動力を「労働(labor)」、「仕事(work)」、「活
動(action)」の3つに分け、この3つが「人間が地上の生命を得た際の根本的な条件に、それぞれ対
応している」*47として、3つの条件について次のように定義している。
「労働 labor とは、肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に 成長し、新陳
代謝を行い、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生み出され消費され
る生活の必要物に拘束されている。そこで労働の人間的条件は生命それ自体である。
仕事 work とは、人間存在の非自然性に対応する活動力である。人間存在は、種の永遠に続く生命循環
に盲目的に付き従うところにはないし、人間が死すべき存在だという事実は、種の生命循環が永遠だとい
うことによって慰めるものでもない。仕事は、すべての自然循環と際立って異なる物の「人工的」世界を
作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、
この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。そこで、仕事の人間的条件は
世界性である。
活動 action とは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行われる唯一の活動力であり、多
数性という人間の条件、すなわち、地球上に生きる世界に住むのが一人の人間 man ではなく、多数の人間
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社会論集16号論文
men であるという事実に対応している」*48
アレントが示している人間の活動力から介護職を検討してみよう。
まず、介護職においては、「食事」・「排泄」・「入浴」といったいわゆる3大介護の領域で「労
働(labor)」として活動力が消費されることが起こりうるだろう。というのは、例えば、「食事」と
いう生活行為は、まさに肉体の生物的な新陳代謝の過程であり、利用者の空腹感を満たすべく介助を
行っても、生命過程の中では、再び空腹感が生じ、介助を必要とする状態が生じる。「排泄」もしか
りであり、生命過程を維持するためには、一定の間隔で排泄介助を継続していくことが求められる。
「入浴」もその主な目的を清潔の維持や血液の循環を円滑にすること、皮膚の新陳代謝を促すことと
いった、保健衛生的な目的を中心に介助が行われるならば、それはやはり肉体の生物学的過程に対応
した活動力である。
従来型の特養ホーム等でしばしば行われている介護方法に、排泄介助を行う介護職は、排泄介助ば
かりを延々と行い、おやつ介助の介護職はおやつ介助を延々と行い、居室環境整備の職員は次から次
へと居室環境整備を行うといった流れで介護が展開されていることがある。これは、限られた時間と
職員配置で最も効率的に多くの介護を行おうとした結果採用された介護の方法なのだが、このような
介護業務に組み込まれた介護職員と利用者との関係からは、人格的な関わりが排除され、介護は生命
過程の必要に拘束された労働となってしまうのである。
次に、介護職における「仕事(work)」とは、介護・福祉実践の根拠となる制度やシステムをつくる
こと、事業所やチームといった組織を形成すること、職場研修等を通じた人材を育成すること、ケー
ス記録をはじめ、マニュアルやケアプラン等の記録物を作成することがこれに該当するだろう。介護
の職場組織がこれらの「耐久性」・「永続性」を持った人工物によって構成され、「世界」が存在し
ていることによって、入職する職員が円滑に職務に入ることができ、退職する職員がいたとしても、
他の職員が新たに役割を担い、一定の介護の質を維持することができるのである。
また、このような、「耐久性」・「永続性」を持った「世界」をつくることは、生命過程の必要に
拘束されて消費されてしまいがちな介護職の実践が、制度や記録を介して他の職員に広がっていくこ
とを意味する。さらに、利用者と介護職の間における「今、此処で、この人」との唯一性を持った関
わりが、チーム連携といったつながりに発展していくことをも意味する。
最後に、介護職における「活動(action)」とは、利用者との対面的な関係形成を通じて介護職が利
用者との間で「よく生きる」*49ことであり、「今、此処で、この人」との関係の中に完全な意味があ
り、ユニークさがある。これは介護職にとっては、介護関係を介して利用者のまなざしのなかに、介
護職として「よく生きる」自分をリアリティを持った「現存性」*50として認知する人格的な出会いの
場を経験することでもある。そして、このような出会いを継続的に積み重ね重ねていくことは、利用
者との間で「物語」をつくっていく働きとなる。また、組織におけるリーダーシップやチームワーク
等の職員間のコミュニケーション活動は、組織の「歴史」を形成する働きであるということができる
だろう。
このように生命過程の必要に拘束されて消費されてしまいがちな介護職の実践を「耐久性」・「永
続性」を持った「世界」に変えていったり、利用者との間で「よく生きる」というをリアリティを持
った「現存性」を実現していくことは、それ自体が介護職の職業倫理(エートス)の形成を支えるこ
とにもつながっていくのだということができるだろう。
ところで、「世界」を構成する「耐久性」・「永続性」を持った「構築物」はみな、使用していく
過程で耐久性が減退していくため、常にメンテナンスすることが必要である。先に、「食事」・「排
泄」・「入浴」といったいわゆる3大介護の領域では、介護は「労働(labor)」として活動力が消費
されると述べたが、ここで仮に、人間とは、神が創った作品(works)なのだと捉えると、3大介護の
領域も「仕事(work)」として位置づけるべきなのかもしれない。というのは、「食事」・「排泄」・
「入浴」といった介護は、人間が生きていく上で欠かすことのできない生活支援であり、神の作品
(works)としての人間をメンテナンスをして、その「耐久性」・「永続性」を保持し、意味ある生の
物語を完成するための働きかけである、ということができるからである。
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社会論集16号論文
3)職業的自尊心の形成過程からみた介護職の職業倫理(エートス)
岡本浩一ら(2006)*51は、職業的使命感に関する一連の研究で、職業倫理(エートス)を「職業的自尊
心(self efficacy)」という概念枠組みに則って説明している。
岡本浩一らは、「職業的自尊心」を専門的な技能の習得によってもたらされる「職能的自尊心」と仕事
の社会的責任や社会的貢献度の自覚によってもたらされる「職務的自尊心」の2次元モデルで説明してい
る。これを介護職に当てはめた場合、「職能的自尊心」は初期段階に必要とされるものであり、新任職員
の段階においては、必要な技能を習得することが「職能的自尊心」を獲得するうえで重要となる。介護職
の離職率が、3年未満時期に高く、その要因として必要な技能の習得がされていないことが考えられるこ
とはすでに述べたとおりであり、「職能的自尊心」はちょうど職業の3要素における「個性の発揮」に対
応している。
次に、「職務的自尊心」では、教育や人材育成、経験を重ねることで習得された専門的な技能が利用者の
役に立ち、事業所や地域社会に貢献していることの自覚が必要となる。そのため、介護職が自ら習得した
専門的技能を日常の職務場面で発揮して、社会貢献していることの自覚を持つことができない状況に置か
れているならば、それは離職の大きな要因となるだろう。これはやはり職業の3要素における「役割の実
現」に対応している。
岡本浩一ら(2006)はこの2次元モデルに加えて、「職務的自尊心」と平行する概念として「天職観」
があることを示唆しているが、わたしはこれを「職命的自尊心」として説明したい。「天職観」は、ウェ
ーバー(1989=1920)*52が明らかにしているように、自己選択的に自覚するというよりは、ある社会の成
員が習慣的に備え、いつのまにか血となり肉となるような職業倫理(エートス)である。介護職のように、
対面的で身体接触をともなった相互関係的な関わりを職務の中核とする職業では、「職命的自尊心」の形
成は利用者が介護職としての自分をどのように認知し、評価するかということに大きく関わっている。こ
のことはクーリー(1902)*53の「鏡に映った自分」の概念からも説明できる。つまり、介護職は介護を実
践することで、利用者のまなざしの中に介護職として認知され、評価され、必要とされる自分を発見し、
職業的な自己像を形成していくのである。この過程はまたミード(1934)*54が「創発的内省性」として説明
した概念とも重なる。「創発的内省性」とは他者の目を通じて自分を振り返ることによって新たに創発さ
れる自我像である。介護職は、介護を介した利用者との相互関係の深まりによって、どのような場面で自
己の能力が発揮され、利用者から介護職として認知され、評価され、必要とされるのかを、あたかも脱皮
するかのように新たな自己像として自覚していくのである。
この相互関係は、まず利用者が介護職を呼び、介護職が応答するという関係であるから、利用者の「呼
びかけ」が先にあることで介護職の「応答」が成立する*55。「呼びかけ」への「応答」としての介護関
係が成立することで、「呼格」*56としての介護職が受容され、これにより、主体的な職業倫理(エー
トス)としての「職命的自尊心」が形成される。
以上のことから、職業的自尊心の形成過程からみた介護職の職業倫理(エートス)は、「職能的自尊心」、
「職務的自尊心」、「職命的自尊心」という3つの「職業的自尊心」が段階的に自己覚知される過程を通
じて形成されるものであるということができるだろう。
なお、この職業的自尊心の形成過程は、専門職としての自己覚知が深められるプロセスでもある。まず、
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社会論集16号論文
「職能的自尊心」が獲得され、「職務的自尊心」が自覚される過程で、エキスパート(熟練)としての専
門職像が形成され、次に、「職務的自尊心」から「職命的自尊心」が形成される過程では、利用者との相
互関係の深まりを通じて、スペシャリスト(分化)としての専門職像が自覚される。さらに、利用者「呼び
かけ」への自発的な「応答」としての関係が成立することで、プロフェッショナル(使命)としての
専門職像が自己覚知されるのである。
5.おわりに
さて、本研究の目的は、職業における「働きがい」といったものがこれまでどのように理解されて
きたのかを振り返りながら、介護職が「働きがい」をもった職業として成立するための職業倫理(エ
ートス)を明らかにすることであった。
まず、現代の職業倫理(エートス)における基本的な在り方として、労働が自己目的化と集団化に
よって「過剰な貢献」となって奴隷労働化している現状を乗り越えるためには、「天職」の原型が「信
仰を通じた自己完成を目指した労働」であったことを再確認し、職業を「自己完成」という内面的な
力を持った労働として位置づけることが必要であろう。
その上で、介護職の職業倫理(エートス)においては、「個性の発揮」、「役割の実現」、「生計の維
持」からなる3要素の調和によって介護職を職業を成立させることが重要であろう。また、介護職に
とっての介護とは生命過程の必要に拘束され、労働条件の厳しさのみで捉えられる「労働」ではなく、
永続性や耐久性のある世界をつくるという社会的目的が重視される「仕事」であり、利用者の意味あ
る生の物語を完成し、組織の歴史を形成する「活動」でもあるということができるだろう。そして、
「職能的自尊心」、「職務的自尊心」、「職命的自尊心」という3つの「職業的自尊心」が段階的に自覚
される過程を通じて、介護職の職業倫理(エートス)が形成されていくということができるだろう。
1*「社会福祉事業に従事する者の確保を図るための措置に関する基本的な指針」(平成 19 年厚生労働省告示
289号)5~8 頁
2*介護職の数値は、「事業所における介護労働実態調査」(平成 20 年 7 月:介護労働安定センター) 全労働者
の数値は「雇用動向調査(平成 18 年)」
3*「同調査」(平成 20 年 7 月:介護労働安定センター)
4*「同調査」(平成 20 年 7 月:介護労働安定センター)
5*阿部真大(2007)『働きすぎる若者達-「自分探し」の果てに-』NHK 出版 37-44 頁
6*杉村芳美(1990)『脱近代の労働観-人間にとって労働とは何か-』ミネルヴァ書房 51 頁
7*杉村芳美(1990)『同掲書』 52 頁
8*尾高邦雄(1970)『職業の倫理』中央公論社 25-26 頁
9*マックス・ウェーバー著(1920)/大塚久雄訳(1989)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波
書店 388 頁
10*今村仁司(1987)『仕事』弘文堂 3-25 頁
11*ハンナ・アレント著(1958)/志水速雄(1994)『人間の条件』 137 頁
12*ハンナ・アレント著(1958)/志水速雄(1994)『同掲書』ちくま学術文庫 136 頁
13*今村仁司(1987)『前掲書』 55-68 頁
14*ヨゼフ・ピーパー著(1965)/稲垣良典訳(1988)『余暇と祝祭』講談社学術文庫 22 頁
15*ヨゼフ・ピーパー著(1965)/稲垣良典訳(1988)『同掲書』 24 頁
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社会論集16号論文
16*ハンナ・アレント著(1958)/志水速雄(1994)『前掲書』11 ちくま学術文庫 48 頁
17*杉村芳美(1990)『前掲書』ミネルヴァ書房 9 頁
18*ヨゼフ・ピーパー著(1965)/稲垣良典訳(1988)『前掲書』14 25 頁
19*ハンナ・アレント著(1958)/志水速雄(1994)『前掲書』11 ちくま学術文庫 43-49 頁
20*今村仁司(1987)はこのことを次のように説明している。「古代ギリシャの労働表象に従って人間的活動
の階層序列を提示してみよう。最上階には、あらゆる肉体労働から解放された上級市民の活動がある。そ
れは何よりもまず公共的事物を扱うプラークシスであり、あるいは観想(テオーリア)である。プラーク
シスには知恵(ソフィア)の徳が伴う。中間の階には、勇気という美徳を持つ戦士がいる。最上階には農
民と職人がいる。ポリス共同体は三つの階層から成る。ポリスの周緑に在留外人による商業がある。そし
て最後に、ポリスの生活を有形・無形に支える奴隷労働が存在する。奴隷は言葉を話す動物であって、ポ
リス共同体から排除されている」(今村仁司(1987)『前掲書』 72-73 頁)
21*ヘーシオドス/松平千秋訳(1986)『仕事と日』岩波文庫 285-310 頁
22*フランシスコ会聖書研究所訳(1979)『新約聖書』中央出版社
758~759 頁
23*フランシスコ会聖書研究所訳(1979)『同掲書』中央出版社 748~749 頁
24*杉村芳美(1997)『「良い仕事」の思想』 88 頁
25*今野國雄(1981)『修道院-祈り・禁欲・労働の源流-』 42-43 頁
26*今野國雄(1981)『同掲書』 43 頁
27*今野國雄(1981)『前掲書』25 45 頁
28*今野國雄(1981)『前掲書』25 72 頁
29*「自分の手で働きながら労苦を重ねています。ののしられては祝福を祈り、迫害されては耐えしのび、そ
しられてはやさしい言葉をかけます」(新約聖書コリント人への第Ⅰの手紙4章12節)
30*吉田暁(2000)『聖ベネディクトの戒律』すえもりブックス 188-189 頁
31*吉田暁(2000)『同掲書』 189-190 頁
32*杉村芳美(1990)『前掲書』24 98 頁
33*マックス・ウェーバー著(1920)/大塚久雄訳(1989)『前掲書』9 200-201 頁
34*マックス・ウェーバー著(1920)/大塚久雄訳(1989)『前掲書』9 67 頁
35*マックス・ウェーバー著(1920)/大塚久雄訳(1989)『前掲書』9 95-109 頁
36*マックス・ウェーバー著(1920)/大塚久雄訳(1989)『前掲書』9 109-111 頁
37*マックス・ウェーバー著(1920)/大塚久雄訳(1989)『前掲書』9 166 頁
38*「12 わたしは、そこへ、すでに到達したわけでも、自分がすでに完全なものになったわけでもないので、
目指すものをしっかり捕らえようと、ひたすら努めています。このために、わたしはキリスト・イエズス
に捕らえられたのです。13 兄弟の皆さん、わたしは自分がそれをすでにしっかりと捕らえているとは思っ
ていません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのことを忘れて、前のことに全身を傾け、14 目標を目指
してひたすら努め、神が、キリスト・イエズスに結ばせることによって、わたしたちを上へ招き、与えて
くださる賞を得ようとしているのです」(フランシスコ会聖書研究所訳(1979)『前掲書』22 中央出版社
722 頁)
39*マックス・ウェーバー著(1920)/大塚久雄訳(1989)『前掲書』9 399-401 頁
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社会論集16号論文
40*杉村芳美(1990)『前掲書』24 52 頁
41*杉村芳美(1990)『前掲書』24 53 頁
42*尾高邦雄(1995)『職業社会学』夢窓庵 26 頁
43*尾高邦雄(1995)『同掲書』 47 頁
44*尾高邦雄(1995)『前掲書』42 45 頁
なお、ここで尾高(尾高自身がクリスチャンでもある)が宗教的な意味として「あらかじめある人に課
せられた使命」といっているのは、新約聖書のヨハネによる福音書 15 章 16-17 節のキリストの聖句であろ
う。「16 あなたがたが私を選んでのではなく、わたしこそあなたたちを選んだのである。わたしがあなた
たちに使命を与えたのは、あなたがたが出かけていき、実を実らせ、その実がいつまでも残るためであり、
また、あなたがたがわたしの名によって父に願うことは、何でもかなえていただけるようになるためであ
る。17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これがわたしの命令である」。
また、「特別の天分」といっているのは、聖書に記されているタレント(賜物)のことであるのは明ら
かである。これは新約聖書のローマ人の手紙 12 章 6 節~8 節に次のように記されている。「6 わたしたち
は与えられた恵みに従って、異なった賜物をもっているので、それが預言の賜物であれば信仰に応じて預
言をし、奉仕の賜物であれば奉仕をし、また教える人は教え、励ます人は励まし、施しをする人は惜しみ
なく施し、つかさどる人は心を尽くしてつかさどり、慈善を行う人は快く行うべきです」(フランシスコ
会聖書研究所訳(1979)『前掲書』22 中央出版社
562 頁)
45*尾高邦雄(1995)『前掲書』42 45-47 頁
46*尾高邦雄(1995)『前掲書』42 48-50 頁
47*ハンナ・アレント著(1958)/志水速雄(1994)『前掲書』11 ちくま学術文庫 19 頁
48*ハンナ・アレント著(1958)/志水速雄(1994)『前掲書』11 ちくま学術文庫 19~20 頁
49*ハンナ・アレント著(1958)/志水速雄(1994)『前掲書』11 ちくま学術文庫 331 頁
50*ハンナ・アレント著(1958)/志水速雄(1994)『前掲書』11 ちくま学術文庫 331 頁
51*岡本浩一・堀洋元・鎌田晶子・下村英雄他(2006)『職業的使命感のマネジメント』新曜社 ⅱ頁
52*M.ウェーバー著(1920) / 大塚久雄訳(1989)『前掲書』9 岩波書店 388頁
53*C.H.クーリー著(1902)/納武津訳(1921)『社会と我
-人間性と社会秩序-』日本評論社
54*G.H.ミード著(1934)/河村望訳(1975)『精神・自我・社会』人間の科学社 264~278 頁
55*村岡晋一(2008)『対話の哲学
-ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜-
』162-190 頁
56*マルティン・ブーバー著(1923・1932)/田口義弘訳(1978)『我と汝・対話』198-202 頁
フランツ・ローゼンツヴァイク著(1921)/村岡晋一他訳(2009)『救済の星』266-268 頁
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