Comments
Description
Transcript
2013.06.29 対話のまとめ テレビの歴史について番組で歴史バラエティで
中世日本への侵略とそれを阻んだもの conference note no/c130629a conference note no/c130629a 中世日本への侵略とそれを阻んだもの 江戸期への継続・明治への蓄積 2013.06.29 対話のまとめ テレビの歴史について番組で歴史バラエティで、武田信玄と上杉謙信は、イエズス 会の宣教師から手に入れたヒ素で毒殺された説が出ていたそうです。イエスズ会の での考察 侵略の意図については盛り上がる話題で興味深い話です。バチカンの内部文書に ついての発見などで説は信憑性を高めています。米大陸に対する侵攻などが史実 としてあるのに日本だけは例外であったと考えるほうが不自然ではないでょうか。 また戦国の権力奪取の渦中にあったものはたとえ相手が対日侵略意図をもっていたとしても利用 するのではないでしょうか。ライバルがその力を活用して闘争に敗北してしまったら得るものはなに もないです。権力掌握がなったときの対外防衛を同時に考慮するという思考の組み立てになるよう に推測します。信長は最初はキリスト教容認していましたが、イエズス会の軍事的意図を見抜いて からは排除に乗り出していますとの見方になるわけでしょう。イエズス会の軍艦を自慢したり、シナ 大陸への侵攻を進言したり、世界各地で非キリスト教地域を征服してきたことを誇らしげに語ったり など、イエズス会の植民地侵略の実態を知るようになったからではないかともいえます。対日侵略 を意識すれば「 秀吉が朝鮮出兵したのも、イエズス会の進言を断った後ですね。「イエズス会は 大陸を狙っているのか。イエズス会が大陸を支配したら厄介なことになる。なら先手を打つ」という 感じだったと思います。秀吉は天才的感性で当時の世界情勢を肌身にしみて理解していたようで す。伴天連追放令も神社仏閣の破壊や奴隷貿易への関与などイエズス会の横行に対処する政 策でした。」というようにも見えてくるでしょう。 戦国時代 【日本が信長や秀吉のようなすぐれた人物に恵まれず、また民族的なエネルギーも不足してゐた ら、メキシコ人と同じ運命をたどった可能性があった。】という感想に結びつきます。 江戸時代 すぐれた天才という個性に日本がすくわれたのも事実だしそれ以外にも日本の国 につづく 力が侵略を阻むほどに充実していたからではないかという視点も提示されました。日 本の技術力はこの当時から優れていて伝来した鉄砲は諸外国を凌駕する生産力を もの もち対日侵略意図を挫くほどのものあったそうです。 そして江戸以降は文化は花咲きましたが、一方で科学技術の方は鉄砲が禁止されたので衰え、 そこで国力については西洋とはじめて差がついたようです。江戸時代は今に続く日本文化が完成 の域に達して世界に誇る文化大国になりましたが、科学技術では一歩遅れることになりました。文 化が完成されたことが何より大きいと思います。江戸時代の軍縮は間違っていたとは思いません。 更には「東芝が万年時計復元のプロジェクトをやってましたが、かなり手こずったみたいですよ。 こういうものがあるのに科学技術で劣ってるとか、納得出来ません」という疑問が提示されて江戸期 中世日本への侵略とそれを阻んだもの conference note no/c130629a 1/9 中世日本への侵略とそれを阻んだもの conference note no/c130629a の発展は独自のもので比較しにくいがも劣ってるって思われる原因ではないのかという示唆もあり ました。その例として豊後の学者で三浦梅園という人がいたのですが 独自の科学哲学を考え出 した人です。また和算の発達もあります。あと明治以後に合理的な思考が可能になったのは、江 戸時代に朱子学などで合理思考が鍛えられていたからだ という説もありますね。 こういう合理主義思想家によって、科学技術の発展は準備されたのかもしれません。 明治時代 豪農層は高い教養をもってい政治意識も高く、幕府政治を末端で支え、幕末には攘 への準備 夷運動に乗り出す者も多かったようです。三井や住友など大財閥には江戸時代以来 の商家が多いですね 三菱は岩崎やたろうですが、坂本商会ともいうべき亀山社中をひきついだのが三菱と考えれば江 戸時代由来ですね。 江戸時代以来の商家と下級武士から資本家になったものと 二種類ある気がします。 前者が三井や住友 後者が渋沢栄一、岩崎弥太郎、五代友厚などです 江戸期を通じて広い教養、合理的な思考も鍛えられて明治の飛躍が準備されたし富も大財閥に 繋がる商家も準備それていたということです。 以上 中世日本への侵略とそれを阻んだもの conference note no/c130629a 2/9 中世日本への侵略とそれを阻んだもの conference note no/c130629a 以降はまとめきれなかったこと 参考の備忘です。 その他 日本への侵略に関連してヨーロッパ以外の大国はどうだったのでろうか たとえば中国 そして 日本では 他国のような王朝の断絶という革命はなかった。 キーワード 八神殿 天神地祇=天地の神々 宮中三殿 賢所には皇祖神が 皇霊殿には歴代天皇の御霊が 八神殿には天地 歴代天皇の御霊=祖先崇拝 と 天神地祇=自然崇拝農耕神崇拝 祖先崇拝 自然崇拝 この 三要素 易姓革命 朝貢 天帝思想 柵封秩序 鄭成功 近松門左衛門の国姓爺合戦 武士の世界では易姓革命に近いことがあるようですが 皇室に持ち込まれることがなかったのは何故ですかね 武家が天皇の権威を必要としていたというのが定説ですが 足利義満の王権簒奪計画は 天皇をどうするつもりだったのかと 足利義満は、古来の秩序に代えるのに、シナの柵封秩序を利用しようとし、シナ皇帝の臣下にな ることで天皇の権威を凌駕し奉り自分が日本国王として権威と権力を独占するつもりだったんじゃ ないでしょうか。日本の中世は宗教はかなり多様でしたよね。禅宗と浄土教などまさに水と油で 皇室が100代で滅ぶという「百王説」なんかすら唱えられていて日本中世ほど思想統制とはま逆 の時代状況も珍しいのではないかと私なんかは思うのですが江戸時代は朱子学が官学イデオロ ギーとして定着しましたが、民間レベルでは多種多様な思想が許されていたように思います。 江戸期の儒学者の中には皇室を否定して孟子の易姓革命を肯定する者が多かったとも言います。 観念の世界でいくら易姓革命を肯定しても、現実の歴史はそうなっていないのは、観念以上の何 かがあるから という気がします。 洗脳したから易姓革命が起きなかった とは私は思えません。 易姓革命思想で洗脳しても易姓革命が起きないのが不思議です。 中世日本への侵略とそれを阻んだもの conference note no/c130629a 3/9 中世日本への侵略とそれを阻んだもの conference note no/c130629a 【参考資料】 歴史くらぶ http://rekishi-club.com/kijin/huransisuko.html フランシスコ・ザビエル 不可解な死と日本占領計画の相関関係は? フランシスコ・ザビエルはカトリック教会の宣教師で、イエズス会の創設者の一人だ。ザビエルは 1547 年、マラッカで布教活動中、鹿児島県出身のヤジロ ウ(=弥次郎)という日本人に出会い、 日本で宣教したいと思い立ち 1549 年、鹿児島に上陸。鹿児島をはじめ平戸、山口、岩国、堺、京 都などで 2 年 3 カ月 にわたって布教活動を行い、日本に初めてキリスト教を伝えたことでとくに有 名だ。 その後、ザビエルは日本を離れ、厳しい鎖国政策下の中国・明へ渡り、布教する予定だったが、 明への中継地、マラッカで 4 カ月近くも足止めされているうちに肋膜にかかって、46 歳の若さで病 死したといわれる。ただ、この死には不可解な部分が多く、謎に包まれている。 また、7 つの海をまたにかけて競争が行われた大航海時代は、植民地化の時代でもあった。ザビ エルがポルトガルから見れば最果ての地、日本にやって来た目的 は、単なる宣教活動だけでは なかったのか。現実に交易などをテコにしたポルトガルの日本占領計画も見え隠れしていることを 考え合わせると、果たして、実体 はどうだったのか。 ザビエルがゴアに送った書簡は、日本に関する情報がふんだんに書き込まれた調査報告書 だった。ところが、ある一時期を境にその内容が、手の平を返すよう に変わっていくのだ。それは 離日後すぐに書かれた書簡からだ。最初は日本を金銀に満ちた豊かな市場として報告し、有望な 交易国として商売の促進を呼びかけ ていたが、日本を離れるや否や、今までの魅力的な市場に ついては触れず、いかに日本に来る途中の海賊が危険であるか、また日本人は好戦的で貧しく 積極的な 関係を持つには値しないと、正反対の内容になっているのだ。 これは明らかにニセ情報だ。ある歴史家はザビエルがいなくなった後、金銀に惹かれたポルトガ ル人が武力に訴えて日本を占領しにくることを危惧したためだと分析している。果たして、ポルトガ ルが日本に本当に内政干渉してくる可能性があったのだろうか。 実は具体的な形として記録に残っている文書がある。ザビエルの死後 38 年経った 1589 年(天正 17 年)、豊臣秀吉が宣教師の追放令を出したときに書かれ た彼らのメモがそれだ。このときすで に信者は 15 万人を超え、教会は美濃から薩摩にかけて 200 以上もあったという。しかし、突如とし て発令された追放令 はイエズス会の宣教師たちを震撼させ、強い危機感となって表れる。布教で 日本を手なずけることはできないと確信するのだ。そこで彼らはキリシタンに改宗し ている大名た ちに反乱を起こさせ、自国の軍隊も上陸させて一挙に植民地にする計画だったという。 中世日本への侵略とそれを阻んだもの conference note no/c130629a 4/9 中世日本への侵略とそれを阻んだもの conference note no/c130629a この衝撃的な文書は、研究家の高瀬弘一郎博士がイエズス会本部の文書館から発見して明ら かになったもので、その後極秘扱いとなり、残念ながら現在は外部 に一切出されていないという、 結局、当時の日本侵略計画そのものは、実行に移されることはなく、机上の空論に終わったという が、布教でダメなら最終手段は 軍事力しかないという当時の列強の国々の思想をうかがい知るこ とができる。 いずれにしても清新な心の持ち主だったザビエルが日本を戦禍に巻き込むことを望まなかった ことは、残されている書簡や史実が物語っている。彼以外の宣教 師、具体的にいえば場合によっ ては武力行使も辞さない好戦的な人物が、宣教師として最初に来日していたら、日本はどうなって いたかと考えずにいられない。 日本の中世史が少し変わっていたかも知れないのだ。中世ヨー ロッパの植民地政策に伝道が相乗りせざるを得なかったことが、宣教師ザビエルの死を早めてし まったことは間違いない。 ザビエルは現在のスペインのナバラ地方、バンブローナに近いザビエル城で地方貴族の家に 育った。5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子。1525 年、19 歳で名門パリ大学に留学。バルバラ学 院に入り、そこで自由学芸を修め、哲学を学んでいるときにビエール・ファーブルに出会い、さらに 同じバスクからきた中 年学生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)と出会い、これがザビエルのその後の 人生を大きく変えることになる。ザビエルはイグナチオから強い影響を受け、俗 世での栄達より大 切な何かがあるのではないかと考えるようになり、聖職者を志すことになる。1534 年、イグナチオを 中心とした7人のグループは、モンマ ルトルにおいて神に生涯を捧げるという同志の誓いを立て た。その中にザビエルの姿もあった。これがイエズス会の起こりだ。 ザビエルは、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれるカトリック教会 の聖人だ。ザビエルはバスク語で「新しい家」の意味。生没年は 1506~1552 年。 (参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本 中世日本への侵略とそれを阻んだもの conference note no/c130629a 5/9 中世日本への侵略とそれを阻んだもの conference note no/c130629a 鄭成功 【てい・せいこう】 朝日日本歴史人物事典の解説 • 生年: 寛永 1.7.14 (1624.8.27) 没年: 康煕 1.5.8 (1662.6.23) 中国,明朝復興運動の中心人物。肥前国平戸(長崎県)生まれ。父は明の鄭芝竜,母は田川 七左衛門の娘。幼名福松,中国名は鄭森,字は明儼,号は大木。日本 名和唐内,国姓爺とも 呼ばれる。7 歳で,単身中国へ渡り,南安県(福建)学員生にも選ばれた。明滅亡後,唐王陵 武帝より国姓(明皇帝の姓である朱)を賜 り,成功と改名。父芝竜の清朝への加担により福 建泉州にある居城が陥落,このとき母は自害するが,成功は抗清復明の立場を貫徹。このの ち,厦門,金門の両 島に拠り,中国沿海各地に拠点を拡大しながら,日本,琉球,台湾,安南(ベ トナム),暹羅(タイ),呂宋(フィリピン)などと通商。日本への請援も行っ た。万治 1(1658)年か ら南京攻略を開始するが敗走。寛文 1(1661)年には,オランダ統治下にあった台湾を攻略 し,その解放を実現した。直後から 呂宋征討計画を進めたが,実現せぬまま翌年台湾で死 去。日本では「国性爺合戦」(近松門左衛門作)で知られる。中国,台湾での民族的英雄で ある。< 参考文献>石原道博『国姓爺』 (岩崎義則) 中世日本への侵略とそれを阻んだもの conference note no/c130629a 6/9 中世日本への侵略とそれを阻んだもの conference note no/c130629a 1942 年の世界地図 中世日本への侵略とそれを阻んだもの conference note no/c130629a 7/9 中世日本への侵略とそれを阻んだもの conference note no/c130629a 13 世紀前半の世界地図 15 世紀~16 世紀の世界地図がほしかったけどとりあえず見つからず 世界遺産 石見銀山 世界貿易 日本の銀 秀吉の財源 中世日本への侵略とそれを阻んだもの conference note no/c130629a 8/9 中世日本への侵略とそれを阻んだもの conference note no/c130629a PHP新書 中国は社会主義で幸せになったのか • 北村 稔【著】内容説明 万人に幸せをもたらす真に豊かで平等な理想社会…中国共産党が歩んだ社会主義革命への道は、目標とは似ても似 つかぬ大悲劇を招いてしまった。文化大革命は民衆に夥しい犠牲者を生んだ。改革開放が進んだのちも官僚の汚職が 蔓延し、農民への搾取が横行する悲惨な現況。伝統的抑圧からの解放をめざしたはずの共産党は、むしろ伝統の申し 子だったのではないか。中華人民共和国は「社会主義の衣を着た封建王朝」―本書が引導を渡す。変わりたくても変わ れない、逃れようのない“悲劇”への哀悼歌。 目次 序章 中国という悲劇 第1章 虚像の中華人民共和国 第2章 マルクス主義が中国に進入した理由 第3章 なぜ国民党ではなく共産党だったのか 第4章 幸福になれない中国人 終章 中国に社会主義は必要だったのか 出版社内容情報 中国人はそもそも共産党を必要としていたのだろうか?「社会主義の衣を着た封建王朝」にすぎない現代中国の悲劇を 実証的に解明する。 • • 中世日本への侵略とそれを阻んだもの conference note no/c130629a 9/9