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Title Author(s) Citation Issue Date Type ジョイスとオリエンタリズム : 「アラビー」を巡る序論 吉川, 信 一橋論叢, 107(3): 402-410 1992-03-01 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/12441 Right Hitotsubashi University Repository ジ目イスとオリェンタリズム ー﹁アラ ビ ー ﹂ を 巡 る 序 論 1 」− 1 信 に対する辛辣な批判として色濃く浮かび上がってくる。実 たるジ冒イス自身の影を認めるとき、当時のアイルランド れる故国脱出と挫折のモチーフは、そこに﹁自発的亡命老﹂ 短嚢一ダブリナーズ一S萎§1・夢に繰り返し現 所でもある。 ︵1︶ −エドワiド・サイード﹃オリェンタリズム﹄ てきたように、人が訪れるべき、全くもって新しい場 ロンブスが新世界を築き上げるためにアメリカにやっ の園や楽園のようなものであるが、他方ではまた、コ きものの新たな型を築き上げるべくしてある、エデン は、人間が回帰すべき旧世界であり、そこにおいて古 ⋮⋮それゆえオリエントとは、頭のなかの地理学で の、様々に程度の異なる複雑な指導権の、関係である。 オクシデントとオリエントの関係とは、権力の、支配 吉 190〕 第107巻第3号 平成4年(1992年)3月号 橋論叢 リンにいては何もできないと主人公の眩いている﹁小さな 際に駆け落ちを計画する﹁エヴリン﹂︵、向き=烏”、︶や、ダブ 二つの作品においても、たとえそこにダブリンからの脱出 雲﹂︵、.>=匡①Ωo巨..︶は言うまでもなく、︿少年期﹀の が描かれていないとは言え、ともに少年の異国.異文化へ ﹁避遁﹂︵、>目向目8昌8﹃.、︶は、アメリカの西部劇の真似事 の憧れがテーマとなっている。批判を恐れずに要約すれぱ、 を楽しもうと仲問と一日のサボタージュを決めこんだ少年 が、結局はダブリンの内部で、この都市の現実と出会う の将来の自分と出会う1物語であり、一方﹁アラビー﹂ 1あるいはもうひとりの自分、ダブリンに留まった場合 ︵。、>轟耳、、︶は、淡い恋心を刺激する︿アラビー﹀という音 に英国からの出稼ぎの香具師たちに出会い、現実に憤りを に誘われて、陳腐なバザーに出掛けて行った少年が、最後 覚える物語である。﹁アメリカ西部﹂も﹁アラビア﹂も、主 問の夢の謂である。ダブリンの外部であるという点で両者 人公にとってはとむにダブリンの現実から遊離した、束の の媒体となっている。 にはほとんど差異がない。いわぱ閉塞状況を映し出すため 二こでは﹁ダブリンの麻痒﹂を言うことはしない。単に 言い古された感があるのみならず、われわれには、いまさ ただ、﹁ダブリン﹂の外部であるはずの﹁東洋﹂ 十九世 らそれを語る資格があるのかどうかすら疑わしいからだ。 402 ︵3︶ 紀のヨーロッバにおいて、﹁アラビア﹂はその典型である ︵6︶ 岸量一冒竃箒9き昌︶のことだから、﹁現実認識﹂に辿り着 えば、最後に暗闇を見上げる少年の姿は、アダムというよ く主人公の姿はこの短篇に限ったものではない。さらに言 りはむしろルシフェルに似ている。大天使失墜の主題は、 ︿外部﹀は、﹁アラビア﹂という具体的な名称を呼ぴ寄せる iに注目したい。短篇﹁アラビー﹂のなかで表象される れは﹃ユリシーズ﹄︵妻8L竃N︶におけるレオポルド・ がゆえに把握しやすいものとなっている。ここから、いず ﹃若き日の芸術家の肖像﹄︵㌧きミ§、呉§“トミ急§s さミ轟きsし旨①︶及び﹃ユリシーズ﹄にまで引き継がれ、 やがて蟻の羽根を背負ったイカロスの姿と錯綜しながら、 洋の、しかもアイルランドの、しかもジョイスの作品のな 崖竈︶における転落と再生の物語へと発展してゆくはずで ブルームの東洋艶にまで考察を及ぽすこととなろ之西 かに、所謂﹁オリエンタリズム﹂がどのような機能を果た しているか−実は﹁コロニアリズム﹂と表裏一体である あるから、初期の短篇に垣問見えるこれは、むしろジョイ ︵彗oq9争彗庄彗①q彗︶で燃え上がった。︵三六頁︶ あることを知った。そして眼は、苦悶と怒り ︵毒邑ξ︶に駆り立てられ愚弄された者︵實轟巨冨︶で 暗闇をじっと見上げながら、ぼくは自分が虚栄 ったほうがよいだろう。 ス世界に通底する主題の、極めて早い時期のあらわれと言 最終的には﹃フィネガンズ・ウェイク﹄︵尋sミ§§§ぎ一 はずのそれが、本論の最終的な主題である。 少年の家の裏庭には、中央に林檎の樹が植えられ、薮の ム︶が少女︵1ーイヴ︶の﹁誘惑﹂を経ることによって現実 中には錆ぴた自転車の空気入れが転がっている。批評家た “ ^5︶ ちはここにエテンの園を見てきた。ひとりの少年︵1−アダ 認識という﹁知﹂に至る失墜の物語だとする観方は、これ を原型的なロマンスとして読む読老にも、十分説得力を持 っていよう。バザーの当日、叔父の帰りを待ちながら﹁階 段を昇り家の二階に到達した︵∋o⋮訂葦ぎω訂マs竃螂邑 極めて重い。少年の恋心が﹁虚栄﹂と表現されていること けられそうな少年の心理にしては、﹁苦悶と怒り﹂の頭韻が 恋物語として読み進んできた老はおそらく、ここで一見 唐突な、鮮烈なイメージに出会うことになる。失恋と名付 その場所に不思議な解放感をも味わっている。もっとも、 もーそれはもちろん、聖杯探究の騎士にも似た使命感に Oq巴目&亭①ξ潟﹃温斗O︷↓訂ぎ易①︶︵三三頁︶﹂少年は、 ﹁エピファニー﹂とは突然の﹁精神的顕現﹂︵與彗監8省干 403 研究ノート 19ユ〕 よって、幼い恋を神聖化していたことを指していようが 希望を抱かせるものは、﹁東方の魔力︵黒ω8冒 8g彗R, ∋9け︶︵一一二一頁︶﹂と語られる、謎めいた響きを持つ語 、.>冨耳..である。当時、大衆の東洋趣味・異国情緒にうっ たえるべく。.O冨目oOユ①葦巴︸Φ冨.,と宣伝されたこれは、 このあたりにも少年の﹁苦悶と怒り﹂の根拠は見出せよう ︵10︶ 実際はカトリヅクの慈善団体の催しものに過ぎなかった。 が、一方で、先の失楽園のテーマを思い起こせば、﹁東方﹂ というのはエデンの園と少なからず関連がある。アダムと の言及が多い。順を追って箇条箸きにすれぱ以下のように イヴが追放され、ついでカインが放浪を余儀なくされるま での、楽園を巡る﹁創世記﹂の物語には、なぜか﹁東﹂へ なる。 ︵1︶主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設け 一説によれぱ、大天使ルシフェルとその仲間が失墜した て、その造った人︹1−アダム︺をそこに置かれた。︵二 理由はわからないけれども エデンの園は神の造った 地に住んだ。︵四章一六節︶ ︵3︶ カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの た。︵三章二四節︶ ムと、回る炎のつるぎを置いて、命の木の道を守らせ ︵2︶ 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビ 章七節︶ シフェルに重ね合わせるステ.イーヴンであれぱ、﹃肖像﹄に る。彼女は﹁アラビー﹂の少女︵;竃電目.ωω犀胃︶のよう に、バザーに行くという明確な目標を与えてこれに成就の 未だ抽象的な対象に過ぎなかった少年の﹁恋﹂︵、、一〇毒.、︶ はかつての楽園であったに違いない。 の中に取り残される熾天使に等しい。彼が見上げているの れ﹁異国﹂のバザーにまでやってきたものの、最後には闇 て﹁アラビー﹂の少年は、このもうひとりのイヴに誘惑さ ︵9︶ に、もうひとりの擬人化されたアイルランドである。そし おいて、.向−O.”、という女性をイヴに見立てているのも頷け のは、彼らがエデンの園にいるイヴの性的魅力に負けたか ^8︺ らである、と注釈老のギフォードは述べている。自已をル 堕ちた熾天使どもを誘惑した人よ。 ^7︶ もはや魅惑の日々を語ることはやめよ 熱情のそぷりに倦むことはないのか、 補強 す る こ と が で き る 。 は、﹃肖像﹄でスティーヴンの創作するヴィラネルによって 上より失墜した大天使の姿だったのではないかという推測 1尋常ではない。これが、実際は已が虚栄心のために天 (92〕 一橋論叢 第107巻 第3号 404 (93) 研究ノート ︿世界﹀の﹁東﹂にある︵1︶。そしてアダムとイヴが追い 出された後に神は﹁エデンの園の東﹂に﹁ケルビム﹂と﹁炎 のつるぎ﹂を置いたのだから、二人はさらに﹁東﹂へと追 い出されたことになる︵2︶。しかもカインは、弟を殺害し たゆえに父母のもとから離れているはずの﹁エデンの東﹂ に追放されるのだから、彼はもっとも遠い﹁東﹂の住人と なる︵3︶。ヘブラィの伝統において﹁東﹂の意味するもの を考えねぱなるまいが、それにしても彼らは、東へ東へと 追いやられて行くのである。最初は﹁楽園﹂としてあった ﹁東﹂が、徐々に意味を変えてゆくのがわかる。人の本来住 むべき東方の﹁楽園﹂を行き過ぎてしまえぱ、やがては追 放老の妨裡う荒野に至る。﹁東﹂とはひとつの引力、あるい は魔力の謂であろうか。この世の果て、重力の源であろう か。 ︿アラビL﹀という単語の音節が、ぽくの耽っている沈 黙を縫って耳に届き、ぼくに東方の魔術︵向麸8昌 實9彗一目彗一︶をかけるのだった。ぽくは土曜の夜の バザーに出掛ける許可を求めた。叔母は驚いて一フリ ーメイスンか何かに関わることじキないのか、と心配 した。︵==一頁︶ この単語は、叔母と同様少年にとっても明確な意味を有 していない。叔父が﹁愛馬に別れを告げるアラビア人﹂ に、それは単に﹁異国情緒﹂というロマンティシズムを意 1+九世紀に書かれた異国趣味の詩−を連想したよう 味している。サイードの言うように、当時のヨーロヅバに 一例ともなろう。叔母は危険なニュァンスを感じ、叔父は おいてはアラビアが﹁東洋﹂の典型であったことを物語る ロマンティシズムを感じる。少年はガス灯に照らされた街 の雑踏を通り抜けながら、﹁この旅の目的︵亭①君εo器艮 ∋ごε昌2︶︵三四頁︶﹂を思い出す。それは、狸雑なダブ リンの現実を通り抜け、恋する人のために何らかの東方の ︷O窃︶︵=二頁︶﹂をくぐり抜けて﹁聖杯︵9昌8︶︵一一二 品を手に入れることである。﹁敵兵の雑踏︵印 亭﹃昌oqo︷ る。 頁︶﹂を運ぷことである。東方は危険とロマンに満ちてい オリエント世界が西洋にとってはつねに制圧し啓蒙すべ き空間であったことは、はるか十字軍の時代にまで遡る西 洋の﹁伝統﹂である。未だキリスト教化されざる野蛮な空 間であり、そこを開発し﹁未開﹂の状態から救うことが西 洋の﹁義務﹂であった。同時にその空問は、未知で危険な 場所であり、そこにおいておのれに試練を課しつつも、最 後には困難を克服し、より一層確固たる自我を確率すべき ﹁荒野﹂であった。少年は敢えてその危険を冒そうとレて 場所、つまりは一﹁楽園﹂を達成するための﹁野蛮﹂ないし 405 一橋論叢 第107巻 第3号 (94〕 いる。それこそが彼女を獲得する唯一の方法とまで考える ようになる。 ﹁アラビー﹂という単語がアラビアを表す詩語であるこ とは、実際ここではどうでもよいことだ。その音が、その 音の醸し出す雰囲気こそが、重要なのであり、この点は西 洋の側から見れぱ当然のことであろう。﹁覇権.指導権﹂ ︵いわゆる、訂o目①冒oξ、.︶を握る側にとって、支配されるべ きものとしてある国の言語は、ます意味作用を剥奪された ものとしてある。︵卑近な例だが、﹁上を向いて歩こう﹂が ア・ノリカでどう﹁訳﹂されてヒツトしたかを考えてみるの もいい。︶単なる意味不明の音としてあれぱそれでよい。 むしろ意味などわからぬほうが、不可解な音としてあるほ なのだ。アラビアの地図上の位置も、歴史も、民族も、少 うが一耳にした老の空想をかきたてる。意味はむしろ邪魔 りとした輸郭を確定できない少年の恋心−彼はただ、.o 年の耳に響く音にとっては暖味なままである。未だはっき ざミ、oざミ㌔..︵二二頁︶と眩くぼかりだ1は、意味の駿 味な単語と結ぴ合うことで辛うじて形をとどめているに過 ぎない。薄暗がりのなかに立つ少女の幻影が、﹁アラビー﹂ という語によって輸郭を与えられ、彼の脳裏に刻み込まれ るのである。 少年のエピファニーが、﹁虚栄に駆り立てられ愚弄され た老﹂としての自己認識であるとすれぱーエデンがたち まち堕天使の住処であることを明かすのだとすれぱ−−、 彼に二の失墜を知らしめたものは、男女三人の香具師にほ いなかった少女は、実際﹁失恋﹂の対象ともなり得ない。 かならない。最初から漠然とした印象としてしか存在して 端から崩れ去るべき実像を伴つていない。したがつて、 ﹁アラピー﹂が﹁東方の魔力﹂ないし﹁魔法の名前︵艘① ∋鍔斥巴畠昌①︶︵三五頁︶﹂であることをやめると同時に、 彼女の姿も暗闇の中に失われる。ここで︿アラビー﹀は、 いわばその意味生成の場を少年に向かって暴露すると言っ てよい鉋つまり、語源的な意味や歴史的な意味を一挙に飛 び越えて、この語がこれまで表象していた空間、表象を成 立させていた現場それ自体を露にする。きっかけになるの ある。 は香具師たちの話す英語の︿音﹀−1、向長=争彗8目誌..で 露店の入口では一人の若い淑女︵5身︶が二人の若い は彼らの英国のアクセントに気付いて、なんとなく彼 紳士︵oq雪巨①昌昌︶と話をしながら笑っていた。ぼく らの会話に耳を澄ませた。 1あら、あたしそんなこと言わなかったわ。 ーいやいや、君は言ったよ。 −いいえ、言ってないわ。 1そ・2言ったよな。 406 −ああ。ぼくも聞いてたよ。 −あらあ、そんなの⋮⋮デタラメよお。 ∼三六頁︶ ︵三五 他愛のない男女の会話でありながら、彼らがその︿アク セント﹀ゆえに﹁淑女﹂﹁紳士﹂と形容されていることは、 ければそれ以外のいかなる異国でもない。ただ単に、英国 現状を説明して余りあるものだ。即ち、ここは東洋でもな からやって来た人問も露店を開いている地方のバザーに過 ぎない。それは彼がこれまで﹁敵兵﹂の中にいると感じた ーの名にひかれて群れ集まるダブリンの市民が、陳腐な異 狸雑な市場となんの変わりもない。そしてそこは、アラビ 国情緒を求めて結局はその﹁紳士﹂﹁淑女﹂たちに裏切られ る場所である。 少年が東洋にひかれるのは、この西の果ての植民地から 解放される希望がないからである。だが西の国の住人にと っては、東洋もまた、英国の植民地としてもたらされた新 世界に過ぎず、ダブリンの市民が抱く﹁東洋﹂への憧れも、 所詮は主権国家の野心に彩られたイメージに基づくもので しかあり得ない。少年の見つめる﹁東洋の歩哨︵蟹ω8; の入口にありながら彼らの侵入を受け入れざるを得ない。 ①q畠己ω︶︵三六頁︶﹂のように立っている大きな壷は、露店 そこもまたもうひとつのダブリンに過ぎないのだ。英国人 の男女が笑い興じているのももっともな話しである。贋の かしている。 東洋もまた、現実のダブリンと同じ植民地であることを明 いる。キリストの聖杯の護り手を自負していた少年は、わ ﹁アラビー﹂というバザiが実際はカトリツクの慈善団 体の催物であったことも、ここでは周到な仕掛けとなって れ知らずローマ・カトリツクの事業に貢献を誓っている。 に、彼は﹁愛﹂の名において﹁アラビア﹂へと行進する。 聖戦を唱えて東方へ進軍してゆく十字軍の騎士たちのよう すでにして彼は口iマ教会の使老であり、権力に脆き東洋 への冒険を敢行しているのだ。 ﹁敵兵﹂と形容されていたものは、その実市場に群れ集ま るダブリンの市民たちであり、ならぱ彼らは、﹁聖杯﹂を運 ぷ騎士にとっては異教徒に相当するだろう。少年がダブリ ンを、他老の空間として意識していることが窺える。だが これは、裏を返せぱ彼にとっての﹁東洋﹂が、もともとは そのような自ら身を投じて分け入ってゆくべき他者の空間 は、あるいは﹁アラビア﹂は、少年にとっては勝利を獲る としての意味をも備えていたということになる。﹁東洋﹂ ための憧れの空間であるに違いなく、一方そこの住人は、 騎士にとっての﹁異教徒﹂であり﹁敵﹂である。所謂紋切 この少年の憤慣のなかにも見出すことができる。しかし、 り型の﹁オリェンタリズム﹂が持つアンビヴァランスは、 407 研究ノート (95〕 {96〕 第3号 第107巻 橋論叢 果たして辿り着いた場所は、すでに教会の支配下にあるダ ブリンであった。すでに馴致された植民地であった。ここ での﹁エピファニー﹂は、﹁東洋﹂の持つ複雑な意味内容を 越えて、少年を突如現在の状況に立ち戻らせる。同時に、 それはオクシデントから派生した﹁オリエント﹂が、霧散 する瞬間でもあるだろう。 司祭の死にまつわる物語﹁姉妹﹂︵、。↓悪ω冥①易..︶に始 まって、﹃ダブリナーズ﹄は死を思う老の姿で幕を閉じる。 あまりに有名な﹁死老たち﹂︵、、↓ぎ冒ぎ..︶の最後の段落 は、降り積もる雪に﹁西の方への旅︵一昌∋睾峯鶉暮胃匡︶﹂ を思うゲイブリエル・コンロイ︵OきH邑Oo冒oく︶の独自 である。﹁西の方﹂が﹁死老の国﹂の謂であることは明らか だが、さらに、ここにはもうひとりの大天使の姿もある。 硝子を軽くさらさらと打つ音に、彼は窓の方へ振り 返った。またも雪が降り出していたのだった。彼は眠 たげに、その銀色の暗い粉雪が、街灯の明かりに向か って斜めに降りつけているのを眺めた。彼には西の方 への旅に出る時が来ていたのだ。そう、新聞は正しか った。雪はアイルランドの国じゅうに降っている。暗 い中部の平地のいたるところに、木のない丘の上に、 降り積もっている。アレンの沼沢の上にも優しく降り の暗い波間にも優しく降り積もっている。それから、 積もり、さらに西のほうでは、抑えがたいシャノン川 マイケル・フユーリィ︵冨ざぎ巴ヨ﹃2︶の葬られて いる丘の上の寂しい教会墓地の至るところにも、降り 積もっている。︵二五五∼五六頁︶ イケル・フユーリィを連想させる。それはまるで大天使、、、 ﹁西の方への旅﹂という思いは、ゲイブリエルに死んだマ カェルが、大天使ガブリェルを死の国へと誘っているかの ようだ。失墜した天使ルシフェルの姿はもはやなく、夢の ルランド全土のイメージを被っている。おそらくはそこが、 謂であった﹁東洋﹂とは正反対の﹁西の方﹂が、いまアイ ︿ダブリナーズ﹀の辿り着く場所なのだろう。西の果てで あるアイルランドは、﹁東方﹂よりはおそらく神の国に近 い。これは天使も住まう死後の楽園を意味している。だが、 ルシフェルとなる老は東へ向かわなければならない。雪の とは別な場所に向かわなけれぱならない。﹁西の方への旅﹂ 降り積もる﹁不毛の疎︵艘O罫目9亭O昌︶︵二五六頁︶﹂ れていることは、多分この意味において理解されるべきな を思うゲイブリエルによってこの処女短篇集の幕が閉じら ﹁西﹂の果てに留まることはなかったー−1bしかし言うま のだろうージヨイスは﹁東の方への旅﹂を敢行した。 408 力﹂.にひかれたゆえではない。ヨーロヅパの所謂﹁中心﹂ でもなくこれは、けっして未知の、他老の空問、﹁東方の魔 ト﹂である。﹁今日ソクラテスが自分の家を出れぱ、彼は家 ︵u︶ の表の石段に、賢老が座っているのを見出すだろう。﹂少年 ものなのだから、そこに見出せるのはやはり﹁オクシデン の出会うものもそれであった。そしてこれは、ワイルドに へ向けての旅、﹁西の方﹂の祖国を相対化するための亡命に ほかならなかった。 代表される世紀末文学を、ジ目イスがいかに乗り越えねば ならなかったを示す証ともなるかもしれない。紋切り型の ﹁東洋﹂に疑間が差し挟まれる瞬間を、期待してよいかもし もちろん、西の国の住人ジョイスにとって、﹁東洋﹂の持 つイメージがある種の紋切り型から逃れていたとは考えら れない。同じ西国の芸術家オスカー・ワイルドの作品にも れないのである。 るように、そこには官能的なイメージも付随していたこと る。ヨiロヅバの言語の極限で、おそらくジ冒イスは、 最後に、ジ目イスの最終作とも関わりの深いジャン・バ ヅティスタ・ヴィiコのことぱを引いて、この序論を終え としてあったろうし、レオポルド・ブルームの思い浮かべ 見出せるように、おそらくは﹁異国清緒﹂を喚起する場所 だろう。だが、少なくともジ冒イスの小説にとっては、そ ︵﹁幾何学﹂ならぬ︶﹁言語﹂の領域に同じものを見ていた。 いていたに違いないのである− 認識にはつねに他老の空間があることに、だれよりも気付 れは自国を眺める手段として機能している。むしろ、事実 上それ以外の機能は持っていないとまで言ってよい。自国 ームのしぱしぱ思い浮かぺるユートピアと同様、現実を唆 れらをわれわれは作っているからである。 幾何学上のことどもをわれわれが証明するのは、 ︵12︶ 1﹃われらの時代の学問方法について﹄ −凹ヨ①ω−◎くo9皇︸ミS“δ ︵−o目oo昌一﹄o目四一す與目O凶o9 ︵2︶ 以下、﹃ダブリナーズ﹄からの引用は、すぺて 宛彗3昌=o易9Hミo。︶ら.㎝ら.雷より拙訳。 ︵1︶ 向庄冬彗α奉‘ω印員◎ぎ§ミ沖§︵z①ミく害τ そ を眺めるためのバースペクティヴとしてあるそれは、ブル うための媒体である。言い換えれば、それは現前していな くても構わない。虚構の視点を提供すればよいのである。 ﹁西﹂という方角に反して、相対的にはその逆の、﹁東﹂と いう方角から眺められれぱそれでよいのだ。つまりは他老 の視点を持ち込むこと1﹁アラビー﹂の少年が、ダブリ ンを﹁東洋﹂を通して垣間見ることができたのも、実はこ の場所からであった。そこでは真の﹁東洋﹂など必要はな い。﹁オリエント﹂とは所詮﹁オクシデント﹂の作り上げた 409 研究ノート (97〕 (98〕 第3号 第107巻 一橋論叢 H㊤雪︶に基づいた拙訳である。 ︵3︶蟹員oP9.ら.ミー 一8︶U99ま具言§ト§§ミ一き雲さ・ ︵−9庄o﹃旨量亭彗O署9冨器︶一〇﹄S・ .δミミぎ雨易、、sミ、、ドきミ§、県き雨トミ泳、§亀 さミ轟き§、、︵困雪ぎ一2俸−8>コoq9鶉一c邑毒H・ ︵4︶ ﹃ユリシーズ﹄において、主人公レオポルド.ブ ルームはしぱしぱ東洋へ思いを馳せている。第五挿 ω岸くo︷O巴弍o﹃目訂勺﹃①窃一H㊤o0N︶−o−N①ド ある︶という詩の作老富∋窃Ω害雪8;彗皿q竃の ..o胃穴丙o窒一①g.、︵彼女はアイルランドの擬人化で ︵9︶ ギフォードは、竃彗胴彗、竃葎實という呼称が、 話では﹁地上の楽園﹂としてのセイロンを思い ︵雪8一>Oユユ︹巴凹冒庄ωく目oo巨o向o−9oPZ①ミ くO︸俸−O邑冒一〇彗一彗O∼;ω巨轟しOO。戸①早 名を喚起するものである点に、読老の注意を促して ωo宗“=.轟−窒︶、第十五挿話では、ブルームの幻 想の中で、妻モリーがトルコ風のスタイルで登場し いる。旨己二p宣1 ︵10︶ 一巨o’ヲき. てもいる︵①qωoo①−9=.N㊤デω0N︶。 ︵n︶ このメーテルリンクのことぱからの︵幾分正確 さを欠く︶引用は、q冨夢⑭口ωo宗9=﹂冒N.お ︵5︶ 例えぱ幸⋮旨昌くo寿ヨ目監戸ト氏§昏︶ ○ミ鳶ざ旨§sきs︵−oま昌一↓訂冒窃彗o 雪巨ωo貝H㊤8︶一p昌は、もっとも早い時期にこれ にあらわれる。 ︵一橋大学講師︶ 房、一九八八年︶一四八頁によっている。 ︵12︶ 本訳丈は上村忠男﹃ヴィーコの懐疑﹄︵みすず書 を指摘している。 ︵6︶ω慧ぎ§き§︵−冒o昌一勺彗ま①・雰o頁 一7一トきミ§ミ県§㌧ミ芝§sき・轟きミ 岩ミ︶一〇.Hoooo. 410