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マルセル哲学の解釈の傾向の若干の変化の過程をめぐって

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マルセル哲学の解釈の傾向の若干の変化の過程をめぐって
J. Rakuno Gakuen Univ., 25 (1) :7∼18 (2000)
マルセル哲学の解釈の傾向の若干の変化の過程をめぐって
小 林
敬
Comment se changeaient-elles, les etudes sur la philosophie marcellienne?
Kei KOBAYASHI
(Avril 2000)
たからである。
序
そこで,同書の中でマルセルの 敷居の立場 の
この小論は先に上梓した拙著
で展開した ガブ
持つ 前・神学的な特質 に着目したことについて
リエル・マルセルの哲学の前・神学的特質 という
の,このような意味での 独自性 と 有意義性
筆者の解釈について,同書ではあくまでマルセルの
を示すために ,ここではまずこれまでのマルセル
著述そのものに即した検討を試みたため,筆者自身
研究ないし理解
がなにゆえこのような解釈を取るに到ったかの説明
者が同書を執筆した際にとった立場がこれらの傾向
には特に立ち入る意図がなかった
の主な傾向を振り返り,次いで筆
ことを勘案し
に対していかに関係づけられるかについて述べ,さ
て,改めて, マルセルの 前・神学的特質 に注目
らに 敷居の立場 に注目する視点が,かかる筆者
することが,彼の思想の理解において,他の仕方と
の立場とどのように関わっているのかを整理し,最
比べて,どのような意味を持つといえるか ,につい
後にこの視点で見る事によって浮かび上がったマル
て,筆者自身の
セルの 前・神学的な
えるところを述べようとするもの
思想が哲学 及びキリスト
である。従ってもし本論の記述の中で同書の内容と
教思想 の中で占める重要な位置について改めて言
の重複が見られるとしても,このような本論の意図
及する,との手順で本論を進めたい。
からして,それはやむをえないものだと える。
筆者は同書においてマルセルの思想が 前・神学
Ⅰ
的である という点に着目する動機として,いくつ
同時代の他の思想家と比べて必ずしも膨大な蓄積
かの,筆者自身の マルセルとの関わり方 に基づ
量には到っておらず,また相互に根本的な解釈の対
く,いわば 内的な 関心
に言及した。ここでは
立も現れていないガブリエル・マルセルの思想につ
それに加えて,いわば 外的な ,次のような要因も
いてのこれまでの研究ないし理解にも,あえて差異
挙げておきたい。第一にマルセルの 敷居の立場
を求めるならば,次のような傾向の違いを指摘する
に焦点を集中してこれを 前・神学的に 理解する
ことができると思われる。その主な傾向は,極めて
視点は,これまでのマルセル解釈の歩みの中で,少
概括的に整理すれば,次の三つの時期ごとにそれぞ
なくとも筆者自身の把握する限りでは先行する例を
れ特徴づけられるだろう。即ち第一はマルセル生前
未だ知らず,その点で筆者自身がこの視点を,マル
のかなり早い時期におけるもので,この段階では,
セル研究の流れの中にマルセルを理解するために提
多少の強調点の差異はあれ,一般的にはマルセルを
供しうる新たな視点と称しても,同学の先達に対し
実存哲学者 の系譜の中で理解するものが一般的で
て決して 越とはなるまいと思われたからである。
あり,第二はマルセルの晩年から死後の比較的初期
第二に,この新たな視点は,マルセルの思想を西洋
に見られるもので,ここでは カトリック信徒たる
哲学
の中に位置付けるにお
哲学者マルセル の側面を強調する方向に以前より
いて,なかなか気付かれにくいマルセルの重要性を
及びキリスト教思想
は傾いているものが多い。そして第三のものは彼の
改めて気付かせてくれる点で,マルセル理解のため
死後ほぼ十年前後から今日に及ぶもので,前二者に
の大きな示唆を我々に与えてくれるものと えられ
対してより強く ガブリエル・マルセルその人の独
獣医学部哲学研究室
Seminaire philosophique
a la Faculte de la medecine veterinaire
小 林
8
自性
に焦点をあてた研究が増加している傾向が見
敬
の 本質的な 根源と堅く信じる) キリストの神
られる。本章ではこの三つの傾向の概要を粗描し,
という契機とを結ぶものに対しては,どうしても焦
かつそれについての筆者の見解を提示したい。
点を強く集中することが難しくならざるを得なかっ
第一期の傾向の原点には,ジャン-ポール・サルト
た。極端な場合,単なる 実存主義とカトリシズム
ルによる 無神論的実存主義とキリスト教的実存主
の折衷 という批判が彼に対して向けられるのも,
義の二
がその背景として大きく影響してい
実存主義という枠組み の中でのマルセル理解を前
るといいうる。サルトルによればマルセルらの キ
類
提としたところに生じたものといいえよう。例えば
リスト教的 実存主義もまたサルトル自身の 無神
パウル・ティリッヒのマルセルに対する批判
論的
実存主義と同様 本質に先立つものとしての
造は概して, 初期のマルセルはサルトルと同様ラ
実存
の構
に依拠したものとして えられている。もち
ディカルに本質より実存を優位に置いた哲学者で
ろんこの 類に位置付けられることは生前のマルセ
あったが,後期のマルセルはカトリシズムとの矛盾
ル自身の強く拒んだところ
であることも早くか
を避けるために,その実存主義を修正した との文
ら知られてはいた。しかしそれでも,そもそも 実
脈によっている。こうなればマルセルの思想は根本
存 という術語の源流たるキェルケゴールの思想に,
的に首尾一貫性を欠くものとされ,ひいてはそれに
サルトルやハイデガー以上に近い 信仰者にとって
ついて研究する意味も又失われてしまいかねない。
の実存の哲学
という側面からマルセルをハイデ
もしそれだけならマルセルについての研究も途絶し
ガーやサルトルに対置するという視野で,まず大枠
てしまったろう。しかし,そうではなかったという
として 実存的な哲学 ∼これらはすべてサルトル同
事実は,やはり,この視点にとどまらないマルセル
様 本質に先行するものとしての実存
に依拠する
理解の視点が存在したことに負っているというべき
ものと えられている∼の枠を設定した上でその中
である。又,この キリスト教的実存主義 の視点
において キリスト教的な思想 と 無神論的な思
に立って,しかもマルセルの キリスト教的契機
想 を小 類する,サルトルと同様の
類法は,極
と 実存的契機 の結合を説明しようとして,マル
めて
利な け方 とみなされ,多くの論者がこ
セルをキェルケゴールになぞらえ,ここに十字架に
の 類を念頭に置いてマルセルを論じていたことは
よる絶対的飛躍を読み込む解釈もたしかに存在し
否定できない。例えばジャン・ヴァールの哲学
た。例えばヴァールや
をはじめ,エマニュエル・ムニエ
ルケゴール的マルセル解釈を援用している要素があ
キエ
やポール・フル
の視点は,サルトルの 類に無批判に追随し
てはいる訳ではないが,マルセル同様にサルトルの
る
浪教授の視点にはこのキェ
。たしかにマルセルもキェルケゴールも,同じ
く 人間の本質規定ではなく実存 析から出発して,
類を拒んだハイデガーやヤスパースとともにマル
究極的にはキリストの神の信仰を求める 基本的方
セルも, 広義の実存哲学ないし実存主義思想 の枠
向においては全く共通している。その点ではパスカ
内にこれを置いた上でそれ以前の 本質主義的な
ルもアウグスティヌスも又同様である(これは第二
諸思想と対置するという見方を取っており,ここで
期の視点につながる)。だが,ここでマルセルの実存
マルセルも 基本的にハイデガーやサルトルと共通
理解を完全にキェルケゴールの実存理解に依存して
する実存理解に立脚しており,ただ最後に 神> を
理解することには,
どうしても説明の無理が生じる。
要請した点で彼らとは違う
キェルケゴールにおいてはあくまで 単独者 たる
思想家として理解する
方向に傾いている点では,サルトルの
類の影響は
人間と神との関係にその関心が集中されていたが,
やはり大きいものがあろう。わが国の
浪信三郎教
マルセルにおいては 絶対の汝 と自己との関係と
授もまた,基本的にはこの
実存哲学者マルセル
同様,地上における人間と人間の 我と汝 の関係
の位置付けに異を唱えてはおられない よ う で あ
にもまた,キェルケゴール以上に強い関心が寄せら
る
。この クリスチャンでかつ実存主義者(ない
れている。つまりキェルケゴール,マルセル両者か
し実存哲学者または実存思想家) としてのマルセ
らは, 神との関係 において共通する 信仰 を見
ル,という視点は,マルセルの思想をドイツ観念論
出だすことは十 に正当であるのだが,しかし 神
やデカルト的合理主義から区別して理解するにおい
の前に立つ
ては大いに有効であったし,また彼を同時代の新ス
ものとはいえないのである。もしマルセルにおける
人間 の理解に関しては,決して同じ
コラ主義の哲学から区別するにも 利ではあったろ
実存 と 信仰 の関係を,本来的に 神の前の単
う。しかし反面,ここでは彼の思想における 人間
独者 としての自己を前提としたキェルケゴールの
ないし自己の実存 という契機と,
(マルセルが存在
場合と全く同じものと想定するだけならば,ここで
マルセル哲学の解釈の傾向の若干の変化の過程をめぐって
9
マルセルの地上での 我と汝 の関係への関心は,
パスカルと同様, 哲学者の神を超えてイエス・キリ
絶対の汝 への信仰から切り離されてしまうおそれ
ストの神を弁証しようとする ところにマルセル哲
がある。以上のような点で,マルセルを単に(サル
学の目的を見ようとしたことなど,パスカルを援用
トル的にせよ,キェルケゴール的にせよ) 実存 哲
しなかったトロワフォンテーヌとは異なる方法を取
学とキリスト教信仰を 並立させた 思想 とみな
るものではあるが, 神を弁証するための哲学 とし
すだけでは,マルセル理解においてどうしても漏れ
てマルセルの思想を解釈する方向性においては共通
る重要な点が生じざるを得ないことを否めない。事
しているといえよう。このように 実存 という用
実この第一期の
は,いわゆ
語のもたらす先入観から解放された結果, 神 の前
る 実存主義の流行 が二十世紀の後半に終息する
実存的マルセル解釈
に立つ証人の証言としての側面により傾いていった
とともに,極めて低調となり,それに伴ってマルセ
第二期の研究は,第一期に比べて,哲学的・哲学
ル自身についての研究も,その数を減じてきたもの
的な文脈よりむしろ神学的ないし教義論的文脈の中
である。
でマルセルの思想を捉える方向に転じてくる。この
このような第一期の 実存的ないし哲学的な解釈
とは傾向を転じて,いわば
護教論的ないし神学的
時期の研究の多くが,聖職者,神学者ないしカトリッ
ク系の諸大学等に関係する研究者によって進められ
な解釈 が強まってきたのが第二期の特徴であるが,
たのは極めて自然であろう。ここでは 存在たる神
その端緒は第一期と重なって始まっている。例えば
の証言者マルセル について, キリスト者でもあっ
ルーヴァンの神学者ロジェ・トロワフォンテーヌ神
た実存主義の哲学者マルセル を眺めた時期よりも,
の研究は,明らかに サルトル的な意味での実存
主義
への強い反感がその前提に見受けられるもの
はるかに首尾一貫したマルセルの全体像を提示でき
たといってよかろう。ただし,その首尾一貫性の追
であり,そこから マルセルの思想は
実存主義>
求自体によって,漏れてきたマルセルの側面もまた
などといった 神を冒涜する現代の不
な思想> と
存在する。マルセルは回心者であった。彼の著作活
共通するものでは断じてありえず,むしろ 正統的
動は,いまだキリスト者ではなかった時期 から キ
なカトリック神学の伝統> を現代の状況に適用した
リスト者として終油の秘蹟を受ける 直前まで継続
結果としての人間論を展開したものである との主
している。特にトロワフォンテーヌの研究では,こ
張を込めて,マルセルの初期から後期に及ぶ諸著作
ういったマルセル自身の立場の変化の過程をそれぞ
をすべて 合し,あくまでこれを その信仰の弁証
れの時点に即して追うことなしに,回心以前のマル
ととらえてまとめたものが彼の大著 De l existence
a l etre である 。この著書の論旨は一貫して, サ
セルのテキストと,回心以降からかなり後期に及ぶ
ルトルの 本質に対する実存の優位 という意味で,
いる。確かにマルセルの 神 への志向は彼が洗礼
マルセルが 実存 に依拠する哲学を唱えたとはい
を受けるよりもずっと先立って始まっており,又回
えない との主張に基づいており,そのため表題の
心の後でもマルセルの哲学的議論の方法が根本的に
如く,おそらくハイデガーの前期から後期への変化
変化した事実は見られない。だからといってマルセ
になぞらえる意図も当然あったろうが,マルセル哲
ルを, 神を信じ告白する以前から,未だ知らぬ神を
学の目的は 存在としての神 の神秘的なる本質へ
すでに証していた 人とみなすことによって彼の思
の接近であって,
実存の 析はその入口にすぎない
想の首尾一貫性を守ろうとするならば,
彼自身と 絶
との旨が強調されている。この例のように,もはや
対の汝 としての神との関係の最も重要な転機であ
同じ (本質に先立つものとしての)実存に立つ哲
る 彼自身の回心の事実 の意味が,どうしても弱
学 としてサルトルなどとの近さに注目する 方向
まらざるをえないことになる。もし回心以前の彼に
を取らず,逆に いかにマルセル哲学がいわゆる 実
とっての 可能的な汝
としての 神 と,信仰者
存主義 とは異なるか に注目し,むしろ彼の関心
としての彼にとっての
現実の 主 なる汝 を,
は 神の本質 にこそ向うものであると見て,結論
全く同一のものと捉えるならば,トロワフォンテー
的に
ヌの依る 神学的,教義学的な 基盤自体をあいま
カトリック教義の弁証者としてのマルセル
テキストとが,すべて同列に取り扱われてしまって
の像に集中する視点が,第一期とは対照的な第二期
いにする恐れもある
の研究の主な傾向といいうる。同時期の他の例とし
テーヌのとったような方法での 神学的なマルセル
ては,ピエトロ・プリニ教授
解釈 では, なぜマルセルが回心以降もあえて 神
や岳野慶作教授
。それに加えてトロワフォン
が,20世紀においてパスカルの精神を継ぐものとし
を信じる以前と同様の哲学的方法 を続けようとし
ての視点でマルセルの思想を詳しく解釈し,もって
たのか の説明が難しくなる。その点でパスカルと
小 林
10
敬
マルセルのアナロジーについてはマルセルの回心を
よって, じてこれに先立つ マルセルを他のいか
パスカルの 恩寵の夜 の体験と類比できる益があっ
なる思想に引き寄せて解釈するか の姿勢に基づく
たのだが,そもそもパスカルがあくまでも 護教論
研究の限界が克服され,マルセルその人の多様な側
の組み立てを自己の関心としており 哲学 なるも
面が明らかになってきたのは極めて有益なこととい
のがどうであるかなどといった問題に関与する必要
えようし,今後もこのような成果が続くことが大い
を認めていなかった点で,あくまで自己の思索を 哲
に期待されうるものである。その上でなおしかし,
学 と規定していたマルセルと違っていたという点
少なくとも筆者自身が思うには,そうして新たに見
では,マルセルの回心はパスカルの回心とは又違っ
出だされた所の,或いは今も見出だされつつある所
た側面から把握する必要があろう。又第一期からす
の,マルセルの思想の多くの注目点が,哲学 にせ
でに対照されることの多かったキェルケゴールにつ
よ神学ないしキリスト教思想 にせよ,マルセルに
いても,その関心事はあくまで すでに キリスト
先立つ先人たちの思索の積み重ねの中の文脈におい
教会の内部にいた 前提の下に真のキリスト者 で
て,いかなる意味において位置付けられるべきかに
あろう とするために,神学的たると哲学的たると
ついて思索し解釈するという,ちょうど第一期や第
を問わず 偽りのキリスト教を排する
議論を提起
二期における研究者たちの関心が,改めてこの第三
ことにあって,内的のみならず外的にも 最
期の諸成果に対して融合されてゆくことによってこ
初はキリストの教会と無縁であった マルセルの場
そ,この第三期の研究の貴重な諸成果は真に生かさ
合と同じものではない。やはりマルセルの理解のた
れることとなろうと思われるのである
めには, 彼にとって神が 汝 ではなかった時期が
ルセルの独自性を無視して先人と対照するだけの研
あった 事実,即ち いまだ 哲学 という形式を
究には限界があろう。 実存主義者 としてのマルセ
用いてしか,神を窺い知ることが不可能だった 時
ルの像に偏っていた第一期や キリスト者・カトリッ
期があった事実を捨象することはできないのであっ
ク者 としてのマルセルの信仰の側面にのみ重心を
て,この時期から回心の後まで引き継がれる彼の 哲
置きすぎた第二期の研究でどうしても薄くなりがち
学 がすべて 神学的,護教論的 な目的に∼結果
であったのがまさにこの独自性の点であることは上
的にそうなった と し て も 最 初 か ら の 意 図 と し て
に眺めた通りである。しかしだからといって今後も
∼ ったものとして解釈できるとは少なくとも筆者
し逆に,マルセルと先人や同時代人との比較を一切
には思えないのである。
排して彼の思想そのものだけにもし関心がすべて限
する
第三期の研究傾向は 哲学的・実存的 といえる
第一期, 神学的・護教論的
。確かにマ
定されてしまう方向に傾くとすれば,今度は一体彼
ともいえる第二期の傾
の独自性とは何に対してのいかなる独自性であるの
向に比べて,あえて言うならば 文(献)学的 な
か,ということ自体が問われてくるだろう。やはり
いし
第三期の研究に顕著な
マルセル論 的 な,即ち マルセルその人
マルセル自身はどう えた
に即してマルセルの文章を理解する 傾向を強めて
か の関心も,先立つ第一期,第二期の関心であっ
いるように思える。前二期の視点に共通するのは,
た マルセルをどう捉えるか の問いに対して,互
マルセルをどう捉えるか であったのに対して,第
いにあい補ってこそその真の価値を生むであろうと
三期では マルセル自身はどう えたか を関心の
筆者は える。
中心として,基礎的,事実本位的な∼決して偏狭な
Ⅱ
意味での 実証主義 を用いた訳ではないが∼テキ
スト解釈を基にして ガブリエル・マルセルという
人の他とは異なる独自の像
を読み出そうとする姿
勢が大きい。例えばパランヴィアル女
らの協力の
もとにプルールド女 が編集した マルセル独自の
用語・概念の
果
うな態度を取り,もって先の拙著を著すに到ること
となったかについて,筆者自身が える所を本章に
示したい。
析した語彙集 の成
第一に,筆者は前章で第三期の研究傾向として紹
は,彼の 用する概念を改めて マルセル自身
介した,比較的近年の新たな研究成果の進展を,大
の文脈に即して
用について
これら先行の諸研究に対して,筆者自身がどのよ
再規定し,それによって語義の誤
いに尊重しかつ執筆の際にも具体的に参 として活
読のもたらすマルセル像の歪みを矯正せんとした労
用したものである。特にパランヴィアルやプルール
作であった。これと共通する方向性のもとにマルセ
ドらの研究の成果は,筆者のみならず今後の研究者
ルを研究する成果が,今日現在に到るまで,少なか
すべてにとって,無視できない重要な資料を提供し
らず輩出するまでになっている
てくれるものである。例えば先の拙著の第二部での
。この期の成果に
マルセル哲学の解釈の傾向の若干の変化の過程をめぐって
問題と神秘 に関する研究
や第四部の 不安と苦
悩 の概念区 についての検討
11
ルセル自身の最晩年の証言には,彼自身にとっての
は,彼女らの研究
回心の体験の意味と関連して,彼のプロテスタン
とすることによってこそ,基本的な概念の明
ティズムとの接触の持つ重要性とさらにそれに連続
確な把握が可能となったものである。今後も又,こ
したカトリック信徒となって以降の彼のエキュメニ
のようなテキスト研究の発展が,研究者全体の理解
ズム志向の意義が彼本人によって特に言及されてい
を大いに促進することが期待されるだろう。
るのを読むことができる
を参
。上述したように カト
しかしながら第二に,研究の前提たる筆者自身の
リック信仰の護教家としてのマルセル像 により傾
問題意識には,むしろ第二期や第一期の諸研究と共
斜していた第二期の研究では必ずしもこういった
通するものがあるといえる。即ち マルセルはどう
エキュメニカルなマルセルの像 にそれほど大きな
えたか に関する実証的ないし文献学的な研究を
アクセントが置かれてい た と い う 訳 で も な かっ
尊重しつつも,あくまで筆者の関心は
私自身はマ
た
。しかし彼の死後一定以上の時間が経過し,か
ルセルをどうとらえるか に向いており,さらに∼こ
つ第三期の諸研究におけるテキスト解釈の進展の成
れはむしろ今後の課題であるが∼ マルセルととも
果にも助けられている現在,このように カトリッ
に∼或いはマルセルに対して∼私自身はどう える
ク者マルセル よりも広義の キリスト者マルセル
か について,哲学的,宗教哲学的ないし神学的に,
の像を念頭に置いて彼の思想を改めて るならば,
筆者自身の思索 との有機的連関の中で,マルセル
ちょうど第一期と第二期の諸研究が探求していたマ
の った道を追体験しつつ自ら えてゆきたいとい
ルセルの思想 的位置付けに関して,新たな視野を
う希望を筆者は抱くのである。その点で,或いは 実
開くことが可能になると信じるものである。
存哲学者 としてのマルセルの像に専ら集中してき
同様に第一期の傾向を補足するべき筆者の視点を
た第一期の傾向からも,或いは 信仰の弁証者 と
第四に挙げるならば,やはりマルセルを単に 二十
してのマルセルの像を特に重視した第二期の傾向か
世紀の 実存哲学者 の一人 と見るだけでは,彼
らも,学ぶべきものは等しく学ぶべきであり,かつ
の理解において十
その両期の対照的な傾向にそれぞれ不足しがちで
る。この点に関しては筆者は第二期の研究者たちと
あった, この二つの側面が,マルセルにおいて,ど
共通する見解を有する。むしろ筆者は,どうしても
のようにして両立することが可能だったか につい
二十世紀前半から中期にかけての時代思潮の中で限
ての検討への関心が,第三期の諸成果によって新た
界付けられた 実存と本質の対立 という枠組みを
に得られた知見に大いに助けられつつ,筆者をして
前提とした視点でマルセルを捉えるのではなく,あ
マルセル自身が自任していた 敷居の哲学者 とし
くまで 出発点としての実存 から 存在即ち絶対
ての独自の立場
への注目に向かわしめ,かつそれ
とはいえないということであ
の汝たる神 に向かう思想としてのマルセル哲学を,
を前提としたところの,他の哲学者や神学者との比
しかも第二期の諸研究の多くが傾斜していたように
較を通したマルセルの思想の思想 的位置付けにつ
カトリック教会の内側の人としてのマルセル の像
いて
えることを可能にしたものだ,と振り返るこ
を念頭に置くのとはややアクセントの置き方を変え
とができよう。この点,少なくとも前二期の研究と
て, キリストにおいて絶対の汝を見出だした結果,
は方法を異にするという点では,他の研究者の目か
カトリック教会に回心した,存在論の哲学者たるマ
ら見て,或いは筆者の研究も 第三期の諸研究のひ
ルセル の像を念頭に置いて,先の拙著を執筆した
とつ として捉えられるかもしれないものであるし,
ものである。
又筆者もそれを排するものでもないが,しかし筆者
マルセルの 敷居の立場 を 前神学的な特質
の関心自体は第三期の研究者たちから見て より古
として規定するという先の拙著において筆者が示し
い と思われるかもしれない第一・第二両期の関心
た解釈は,先行する三期に及ぶ諸研究に対して筆者
とむしろ共通しており
,しかも第一期と第二期と
自身が取るところの,以上のような視点に基づいて
の関心の間の,まさに 敷居の地点 こそが,マル
成立したものである。次章ではこれに続いて,マル
セル自身と同様に筆者自身が関心を寄せた点だった
セルの思想を 前神学
のである。
章で示した筆者の関心を,どのように表現できるも
以上の諸点から筆者の研究が第二期の研究に対し
て付け加えるところを第三に示すならば,筆者はエ
キュメニストとしてのマルセルの側面により焦点が
当てられるべきであると えるものである。特にマ
と規定するこの解釈が,本
のだったかについて,改めて整理してみたい。
Ⅲ
筆者が先の拙著において第一期の諸研究の傾向と
小 林
12
敬
異なるアプローチをとろうと試みた点は,何よりも
イエス・キリストの なる神 と同一視されうるに
マルセルにおける 実存 の概念を, あくまでも 存
到ったのかを検討するという,いわば哲学的側面と
在としての神の本質を目標とする形而上学 のため
神学ないし信仰的側面とを二重に 察する方法を試
の出発点なのである ,
という位置付けにおいて扱っ
みたものである。そしてそのような二重の 察を有
たことである。確かにマルセルの哲学における実存
機的に結合する鍵として, 敷居の立場 即ち 前・
の 析は非常に重要である。特に回心以前の 形而
神学的 な構造に大きく着目するに到ったものであ
上学日記
る。そして前章で述べたように,この点への着目が,
の第二部以降の省察はそのほとんどが
実存の 析によって成り立っているともいいうる。
第二期ではあまり重視されていなかったかあるいは
しかしマルセルにおける実存の 析がもしそれ自体
副次的な側面として扱われていた所の,マルセルに
を目的として完結するものであったとするならば,
おけるエキュメニズム志向をも,彼の思想全体にお
彼のその後の思想の歩みは,いかにして 汝 さら
いて重要な意味を持つものとして再認識することを
に 絶対の汝 に向けて導かれ得たのだろうか。マ
可能とし,また一方で彼の形而上学が神学・教義学
ルセルがもしサルトルのような意味での 本質に先
そのものに対して置かれるべき位置付けとして,一
立つものとしての実存 に依拠して思索した哲学者
見意外な感も与え得るものではあるが,むしろスコ
であったとするならば,彼における存在論と神をめ
ラ的な自然神学にも相通じるものがあるとの理解に
ぐる省察との結びつきは全く説明しがたいものとな
も到らしめたものである
。
ろう。それゆえ筆者は,最初から 本質と実存の対
さらに現在も進行中の第三期の研究傾向に対して
立 を過度に強調する方法をとらず,むしろマルセ
は,前章で述べたごとく筆者はこれに対してことさ
ル固有の存在把握の枠組みである 問題と神秘 の
らに異を唱えようとするものではないが,前章で述
区別を基盤として彼が人間と世界さらに神をいかに
べたように筆者の意図がむしろ第一期や第二期の研
理解していったかの道筋を
究傾向と共通する関心に依拠しているものであると
ることに徹し, 実存
の概念はあくまでその道筋における出発点として理
いう点で,いわば第三期においてこれまで新たに提
解するように努めたものである。あるいはその結果
出され,あるいは現に提出されつつある,実証的な
としてマルセル哲学の具体的な実存 析の側面には
いしテキスト中心的な新たな知見を,再びマルセル
あまり焦点が当たらなかった恨みが残ったかもしれ
思想の全体的解釈というやや思弁的であるいは 古
ないが,これについては前著で解釈した基礎構造を
い と思われるかもしれないがやはり重要な関心へ
前提とした個別の論題として,将来において再び論
還元する一つの試みという点で,マルセル研究の全
じうる機会を待ちたく えたい。
体的な歩みの中で,先の拙著も,これらの諸研究に
このような 存在としての神 をめざす形而上学
と神学ないし信仰の立場での イエス・キリストの
なる神 との関係として,マルセルのいう 敷居
の立場 ,即ち筆者の名付けたところの 前・神学的
伍した筆者なりの 独自の寄与 だと自認しても許
されようと
える。
結
な 特質に焦点を集中した点が,前著が特に第二期
先の拙著において筆者は以上の観点から,マルセ
の諸研究の傾向に対して独自の視点を保とうと努め
ルの思想における 前・神学的特質 を えるため
た点である。第二期の傾向ではマルセルの思想を
に,まず第一部においてはマルセルと同時代のいわ
神 に引き寄せようとする志向があまりにも強すぎ
ゆる 実存的 な無神論思想の二つの例としてのカ
た結果,彼の省察が本来あくまで 啓示を前提とし
ミュやサルトルの思想との対比のうちに,マルセル
ない
哲学・形而上学として展開されたのであって
の思想が,単なる キリスト教的実存主義 の哲学
固有の意味での神学ないし教義学というわけではな
でもなく,しかしながらキリスト教信仰の弁証の下
い,ということが過小評価されてしまっていたよう
に形而上学的省察の役割に終止符を打って 神学的
にも思える。筆者はあくまでマルセルの哲学におけ
護教論 に向かうものでもない,第三の道を進むも
る 神 の表現を,決してパスカルが非難したよう
のとして解釈し,続く第二部では,マルセル哲学の
な意味での 哲学者の神 として理解する訳ではな
根本概念としての 問題と神秘 の枠組みを再確認
いが,第一にはあくまで 哲学的な省察の限りにお
する過程の中からこの 第三の道 が彼の思想にとっ
いて
として規定し,その前
て不可欠な前提であったことを論じ,又これと同時
提の上で第二に,そのような 存在としての神 の
えられた
神 の像
に,このような不可欠性を明示する重要な例として
概念が,いかにして彼が最終的に信仰するに到った
神の存在証明 に対する彼の態度を取り上げ,この
マルセル哲学の解釈の傾向の若干の変化の過程をめぐって
第三の道 が,ちょうどスコラ的な 自然神学 に
13
よって組み立てられた,ひとつの実存主義の哲学
対して,省察の展開のために用いた論理については
として読むだけでは,彼の思想に一貫する 絶対の
全く異なるとはいえ,信仰と思 との媒介という点
汝 に向けての指向性は極めて弱められざるをえな
では,極めて共通した位置にあるものとして解釈し
い。しかし逆に あくまで彼の信仰の証言だけに意
た。さらに第三部ではこの点を別の側面から確認す
味があり,他の諸要素はそのための導入にすぎない
るため,まずパスカルの思想との比較を通して,マ
もの という視点のもとにマルセルの思想をもし還
ルセルの思想が,実存に立脚しつつも最後にはこれ
元するならば,ではなぜ彼が回心後何十年も 啓示
を超えて神をめざすという根本的な内容では極めて
を前提としない 方法に留まり続けたかの理由が説
パスカルに近いものであるが,この事を省察してゆ
明しにくくなる。彼の思想をトータルに理解するた
くための方法の点では,神学的な護教論の樹立をめ
めには,彼独自の方法論を正確に規定することが不
ざしたパスカルとは異なり,マルセルがあくまでこ
可欠と え,
筆者は先の拙著を上梓したものである。
の 第三の道 を ろうとしたものであることを述
ガブリエル・マルセルは たまたま信仰者でもあっ
べ,次いでブーバーとマルセルそれぞれの 我―汝
た,一人の実存哲学者
にすぎないものでもなけれ
思想を比較しながら, それ の世界としての科学者
ば,単に 雄弁ならざる 言的な護教家 に留まる
や哲学者の世界を超越する所に 汝 ,さらに究極的
ものでもない。むしろ彼は,数百年 る先達と同じ
には 永遠の汝 の世界を見出だそうとするブーバー
く, 恩寵の影としての被造自然 を注視し,信仰と
とは微妙に異なって,マルセルにおいては, それ
理性の媒介としての,いわば 実存的な自然神学
の世界( 問題 の領域)と 絶対の汝 の世界(大
を二十世紀の状況の中で模索しようとした,一人の
文字の 神秘 Mystere の領域)との中間に,媒介
的な 地上の相対的な汝 (小文字の 神秘 mystere
メタフィジシアンにして同時に一人の信仰の証言者
なのである。
の領域)の世界が独立してあり,この三者がいわば
スコラ的な存在秩序の如く上下に階層づけられてい
るのであって,この中間の世界こそ,かかる 第三
の道
をマルセルに可能ならしめたものであるとの
⑴ 拙著: 存在の光を求めて
セルの宗教哲学の研究
( )
ガブリエル・マル
, 文社,1997.
解釈を展開し,さらにこの第三部の末尾では,かか
⑵ 少なくとも筆者自身が同書を執筆する過程にお
る 第三の道 を進むことが許されるという点が,
いてはかかる説明を自覚的に表す意図は特にな
マルセルをしてその幼児期以来極めて身近な場所で
かったものであるが,それでも尚,筆者の意図
あったカルヴァン派の教会にではなく,教 やスコ
以上にこの点に焦点を置いて読み取って下さっ
ラ以来の伝統のもとで信仰への理性の奉仕をより一
た書評者の方々には,ここで改めて感謝を申し
層重視してきたカトリック教会へと回心させた所以
述べたい:岩田文昭: 小林敬著 存在の光を求
であろうとの伝記的 証を付記した。最後に第四部
めて
では,人間の立場だけに終始する単なる 実存主義
究( )
的哲学でもなく又神の立場にのみ集中する神学的
本宗教学会発行,1998年6月.高柳俊一: 小
護教論 でもないこの 第三の道 が,具体的には
ガブリエル・マルセルの宗教哲学の研
林敬著
, 宗教研究 第 316号所収,日
存在の光を求めて
ガブリエル・マ
いかにして相対的な人間実存を神の絶対的存在へと
ルセルの宗教哲学の研究( )
, 日本の
方向付けていくかの一つの例として,マルセルにお
神学 第 37号所収,日本基督教学会発行,1998
ける不安の 析を取り上げ,確かに直接的に不安か
年9月.
らの神による救済の弁証を試みているわけではなく
⑶ 特に,前掲拙著 まえがき 参照.
むしろ不安な実存の有限性そのものに立脚している
⑷ 尚ここでいま一つ予め記しておくべきことがあ
点では 哲学的
なのではあるが,しかし不安の
る.それは本論で展開する 筆者の研究の独自
析それ自体を自己目的とした 析に終始するのでは
の意義
なくむしろ不安そのものに内在する不安からの解放
限界についての筆者の偽らざる認識である.
の契機に注目しここから 信仰への出発点 を見出
の開陳の手続きそのものの持つ意味の
一般に哲学・思想研究のみならずいわゆる 人
だそうとする点では 非・神学的 でもない,まさ
文科学
に 前・神学的
ものの研究全般についても,これがいわゆるプ
なマルセルの 第三の道 が彼の
不安論をも貫いている事をここで改めて確認した。
マルセルの思想を たまたまキリスト者の手に
ないし 人文・社会科学 といわれる
ロの 学者の世界
において評価される場合,
おそらくは自然科学研究の流儀の介入によるも
小 林
14
のであろうか,特に現代では 独 性
敬
学界に
めに書かれている以上,
ここではこのように 本
対する新しい寄与 あるいは これまでなかっ
来は決して本質的ではないと思える各研究の差
た新たな知見 ,
等々という類のことがらだけが
異 にもあえて焦点を当てざるをえない.少な
重視されることになっており,新しかろうが古
くとも筆者自身の現在の思いとしては,これに
かろうがとにかく 誠実に先学の知恵から学ぶ
よって他の先学各位の貴重な業績に対して,根
ことから出発するのが当然である
本的な異議を申し立てようと意図などはさらさ
文科系の学
問 の伝統に必ずしも合致するとは限らない,
らないものである.
ということは筆者ひとりの思いではあるまい.
筆者は以上の点を予め明確に示した上で,こ
筆者もまたかかる 学者の世界 の中で活動せ
のことを前提として,あえて以下の 研究 ・
ざるをえない以上,好むと好まざるにかかわら
ず, 自 の学びがいかに
独 的 であるか
解釈 批判 的な記述を進めざるをえない.
⑸ 本稿が
マルセル研究ないし理解 というやや
を弁明しなければならない宿命を負っており,
冗長な表現を用いる理由は,広く マルセル以
本稿自体もまた,いわばかかる弁明の手続き
外の人によるマルセルの思想の解釈 のうち,
∼しかもこれは先の拙著ではあえて全く度外視
マルセルの思想を固有の主題としてなされた
していたものである∼を意図して書かれている
研究 ∼これは本文で示すように主として 第
ものであることは本文にも示唆した如くであ
二期 以降に位置付けられている∼のみならず,
る.しかしそもそも,このような 学者の世界
哲学 家によるマルセル思想の把握やマルセル
の枠組みの中に 生きた思想 を押し込める事
と同時代の思想家によるマルセル思想への言及
を拒む立場に立つガブリエル・マルセルの思想
∼これらは主に 第一期 に位置付けた∼から
をこそ筆者が学んでいるものであるからには,
も又,マルセル思想の解釈において,無視でき
本稿を書きつつ筆者には,どうしても内心の慨
ないものが見出だされるのであり,かつそれら
嘆を禁じえないものが残る.
は固有の意味での
そもそもガブリエル・マルセルの思想につい
研究 に対しても,何らか
の影響を及ぼしていることが多いものである以
てのこれまでの研究の量的な蓄積は,例えばハ
上,狭義の 研究
の系譜に限らず広義の 解
イデガーやサルトルなどの彼と同時代の思想家
釈 の系譜をも参照することが必要である,と
についてすでに多くの研究がなされている事実
筆者が
えたからである.
と比較するならば,未だに極めて少ないのが現
⑹ Jean-Paul SARTRE:L existentialisme est un
状である.こういう マルセルという人の存在
humanisme, (org.1946,) 2 edition, Nagel,
1968;pp.16-17.
自体がそれほど知られていない 状況において
は,
これらの膨大とはいえない研究書の多くも,
⑺ Gabriel MARCEL:Le mestere de l etre, Vol.
好むと好まざると そもそもマルセルとはいか
I, Reflexion et mystere, Aubier, 1949;p.5, En
なる思想家か という基本的な紹介からまず筆
chemin, vers quel eveil?,Gallimard,1971;pp.
228-231.
を進めなければ読者一般に受け入れられにくい
事情を負っており,この中では各研究者独自の
視点による解釈を強く打ち出すことができる余
⑻ Jean WAHL:Les philosophies de l existence,
Lib.Armand Colin,1959. 同書ではマルセルの
地も必然的に制約されざるをえなくなってく
思想を,その著作の記述におおむね忠実に従い
る.それゆえ本稿のように 先行の研究につい
つつ他の 実存哲学者たち と並べて紹介して
てのコメント を試みようとしても,実は先行
いるが,基本的には彼をあくまで 本質に先立
の研究も筆者自身の研究もともにまず 何より
つものとしての実存 に依った 実存哲学者
マルセルのテキスト自体を正確に祖述する 作
としての共通項の中にくくるべく,マルセルの
業から始めることにおいて全く同じ課題を共有
サルトル或いはハイデガーやヤスパースそれぞ
しており,これらの間の差異をことさらに強調
れとの間の違いも,むしろいうなれば 同類中
すること自体がマルセル研究そのもののために
の差異
は本来さして重要であるかどうか自体が本質的
に疑問に思われるものである.
しかし序文で示したように本稿が筆者自身の
研究に限ってその 独自な意義 を弁明するた
のようなものとして位置付けつつ全体
が構成されている.
́
⑼ Emmanuel MOUNIER: Introductions aux
existentialismes, (org.1947,) Nouvelle edition,
́
Editions Denoel, 1961. 同書は全般的に前掲の
マルセル哲学の解釈の傾向の若干の変化の過程をめぐって
15
ヴァールの哲学 書よりもサルトルに対して批
ティリッヒの思想
判的な文脈で展開されているが,枠組みとして
マルセルは,(デカルト以来の)合理主義の視
はサルトルの提示した二 類にむしろのっとっ
点から自由ではない ものとして批判している.
た上で,無神論的実存主義に対するキリスト教
(Cf.MARCEL: La dignite humaine, Aubier,
1964;pp.100-101.)
的実存主義の優位 を弁証せんとする構成に
理解の枠組みに対して逆に
よっているといえる.マルセルに関してもむし
浪氏の前掲書はサルトルの二 類をやや修正
ろサルトル以上に 本質主義 に対して徹底的
して,ハイデガーの存在への哲学をむしろ 神
に対決するものとしてとらえる視点が同書全般
をめざす実存主義
の枠内の諸思想と共通する
の基調をなしている.
́: L existentialisme, (Org.
⑽ Paul FOULQUIE
ものと解釈し,キェルケゴールの逆説的な神の
1951,) Nouvelle edition, Collection Que saisje?, P.U.F., 1961. 同書は前二書よりもはっき
もまたこの系譜の中でとらえている( 浪:前
りと, 実存主義対本質主義 という外に対する
にキェルケゴールの神との関係を後のマルセル
弁証をその先駆と見,そしてマルセルの思想を
掲書;第三章参照)
.一方ジャン・ヴァールは逆
枠組みと 無神論的実存主義とキリスト教的実
の 我―汝 の関係論を援用して解釈している
存主義 という内における 類をその項目立て
として採用している点で,一層サルトルの規定
(Cf.WAHL:op. cit.;Pt, II, Cp.4).しかしや
はりこの解釈も,キェルケゴールもマルセルも
に忠実に従っている.マルセルについてはおお
ともにサルトルの定義した 本質に先立つ実存
むね, キリスト教的実存主義 の
の哲学
類中にさら
の枠内でとらえる見方を前提した上で
に小 類を設け,プロテスタント的実存主義者
成り立ったものである.ここではマルセルのみ
のキェルケゴールに対するカトリック的実存主
ならずそれと比されたキェルケゴールについて
義者のマルセル として扱う視点が同書全般に
も又,果たしてその 実存 概念がサルトル同
一貫しており,そもそもサルトルによる二 類
様に 本質 概念に先行したものといえるか,
法の前提となった 本質に先立つものとしての
との点が問われる必要があるのではなかろう
実存 の理念が果たしてマルセルの思想にも適
か.
用されうるかどうかについては,同書の中では
Roger TROISFONTAINES:De l existence a
一切触れられていない.
l etre, (2 Vols.)2 edition, Nauwelaerts,1968.
例えば 浪信三郎氏の 実存主義 (岩波新書所
収,岩波書店,第1版 1962)でもやはり前3者
Pietro PRINI: Gabriel Marcel, Economica,
1984. マルセルの思想の全体を再構成し, 人間
と同様に,マルセルも又,サルトルらとの相違
論 から 神への超越 へというパスカル的な
点よりはむしろ共通点としての,本質に依る哲
枠組みで組み立てている.
学ではない
岳野慶作: マルセルの世界
とする視点でとらえられていると
いえよう.
神の死と人間
,
( 岳野慶作著作集 第 巻)
,中央出版社,
この点に関しては筆者がすでに前掲拙著の第三
1980.著者はマルセルを基本的にパスカル同様
部第三篇第三章で触れた点と重複する事を許さ
の信仰の弁証者としての視点で解釈している.
れたい.ティリッヒは 存在と勇気 において,
この点に関して補足するならば,実はトロワ
基本的には中世のカトリック思想を,近代以降
フォンテーヌとは全く逆に,マルセルの思想を
の個人主義に対立する集団主義ないし半集団主
正統なカトリック教理との連関よりはむしろ神
義(Semicollectivism)として批判的にとらえて
秘主義的ないし汎神論的な文脈において理解す
いるが,それに対してハイデガー及びサルトル
る傾向があることも,筆者が先に前掲拙著第二
に見る如き ラディカルな実存主義 (Existentialist radicalism)は二十世紀における個人主
部第一篇の冒頭及び末尾で示唆したごとくであ
義の徹底したものとされており,その理解のも
とでマルセルがその回心を境に ラディカルな
humaine の邦訳の解説において( 人間の尊厳
( マルセル著作集 第八巻)
,春秋社,1966;第
実存主義から半集団主義へ移っている と批判
二二八頁以下参照)
,マルセルの神概念は必ずし
している(Cf.Paul TILLICH:The Courage to
もキリスト教の教義にとらわれないで解釈する
Be,Yale Univ.Pr.,1952;p.150)が,このよう
に中世に対する近代の進歩の観念を前提した
必要があり,現にマルセルの 神 概念は人間
る.例えば信太正三氏はマルセルの La dignite
的実存と同じように 受肉 した存在ではない
小 林
16
と批判され,明らかに彼の 神 概念を三位一
敬
(Rene DAVIGNON: Le mal chez Gabriel
体論の枠外にあるものとして理解しておられ
Marcel
る.もちろん回心以降のマルセルにとって 受
Comment affronter la souffrance
こそ彼の信
et la mort?
,Bellarmin/Cerf,1985)事を,
特に第二期の研究がややもすれば∼キェルケ
仰を支えるものであったことは(Cf.Gabriel
ゴールの 暗い宗教哲学 との違いを強調した
M ARCEL:En chemin, vers quel eveil?, Gallimard,1971;pp.285-288)いうまでもないが,
かったのかもしれないが∼マルセル哲学の 明
ここでなぜマルセルの
変えた新たな傾向につながる研究として,氏と
肉した御子イエス・キリストの光
神 が
・子・聖霊
なる神 ではないと誤解される余地があるかに
るい側面 にのみ偏りがちであったのとは趣を
ついては,筆者の思うに,ちょうど正反対のト
同様の問題意識からマルセルの 不安 (inquietude)の概念を軽視できなかった筆者自身(前
ロワフォンテーヌの解釈と方法論的には全く同
掲拙著第四部参照)の共感を込めつつ,紹介し
じように,回心以前のマルセルが希求していた
たく思う.
神の像 と回心以降の
信仰者にとっての主な
この点については,わが国の筆者に近い世代の
る神 とを区別せずに一括して論じてしまった
研究者の業績において,マルセルと彼に先立つ
ゆえではないだろうか.
人々との思想的な連関に大きく焦点を当てた研
Simonne PLOURDE,etc:Vocabulaire philosophique de Gabriel Marcel, Bellarmin/Cerf,
究が現在進行中であることを,共感を込めつつ
ここで紹介したい.南山大学出身の塚田澄代女
は前述のパランヴィアル女 に師事されて博
1985.
現在マルセル研究は,主に雑誌 Presence de
士論文を提出されたが,ここではマルセルとそ
Gabriel Marcel (editee par «
Presence de Ga-
の師の一人ともいうべきアンリ・ベルクソンと
briel Marcel»
, publiee par Aubier, depuis
定期刊行が企図されていたが,財政難の
1979.
の両思想の,内容的な共通点とともに,物質的
ためか,1999年現在まで不定期にしか刊行を見
指向的表現の残滓による制約がなお否めないベ
ていない)を中心に継続されているが,特筆す
ルクソンに対するマルセルの超越の哲学の相違
べき書籍としては,先述したパランヴィアル女
を深く
による労作(Jeanne PARAIN-VIAL: Ga-
自然に対するアナロジーの点でいまだ合理主義
析し,ベルクソン哲学のベルクソン自
身を超えた完成者としてのマルセルの像を読み
briel Marcel, un veilleur et un eveilleur,
L age d Homme,1989 )が,特にトロワフォン
出しておられる(Sumiyo TSUKADA: L immediat chez H.Bergson et G. Marcel,[Bi-
テーヌ神 のなした先行の研究における,マル
いままにすべてを一括して論じてしまった欠点
bliotheque philosophique de Louvain, N 41,
́
Editions de lInstitut Superieur de Philosohie,
.
Louvain-la-Neuve,]́
Editions Peeters,1995)
の是正を,強く意図して執筆され,精密な文献
また上智大学出身の大柳貴氏は,フランスの文
証を伴った研究の結果,その方法論としての
学と思想にあらわれた諸聖人のイマージュを主
《immediat》の重視とそこから導きだされた内
容としての独自の存在論を見出だしたもので
題とする論集の中に収められた論文において,
あって,現時点において最も主導的な研究と
の回心の意味と対比しつつ,まさにアウグス
なっていることをまず第一に挙げねばなるま
ティヌス神学の核心を 20世紀に新たな形で証
い.またその他に筆者が特に関心を強く抱いた
言している思想家としてのマルセルの像を浮き
研究を一つだけ挙げておくならば,やはりパラ
彫りにしておられる(大柳 貴: ガブリエル・
ンヴィアル,プルールド両女 などの僚友の一
マルセルの宗教的回心に伴う聖人像 ,
西川宏人
人で前掲の語彙辞典の編集にも協力した,1951
編: フランス文学の中の聖人像 所収,国書刊
年生まれのダヴィニョン氏が,マルセルの思想
行会,1998)
.筆者もまたこれらお二人と同様,
における 悪 (さらに 罪 )からの解放のテー
やはり
マを,氏自らの この世の悪の存在 について
強く抱くものである.
の主体的な問題意識をも保ちつつ,しかしあく
前掲拙著第二部第一篇参照.
までマルセルのテキストを忠実に追う方法論に
前掲拙著第四部第二篇参照.
即して,深く掘り下げた著書をあらわしている
この点に関連してここで,前掲拙著に対する岩
セルの著作の彼の生涯における時期を 慮しな
マルセルの回心の意味を教 アウグスティヌス
思想 の中でのマルセル への関心を
マルセル哲学の解釈の傾向の若干の変化の過程をめぐって
17
田文昭氏による前掲の書評において,筆者の視
とどまるものではなかったことに,マルセルに
点がマルセルの 隠れた護教論 に(筆者自身
おけるエキュメニズムの反映を大きく見ておら
の意識よりも一層)強く傾斜していることを指
れる(岳野:前掲書;三八六∼三九七頁参照)
摘されたこと(岩田:前掲書評;一七八∼一七
が,ここでも彼のカトリシズムへの回心に先
九頁)に,感謝を込めつついま一度触れておき
立ってその幼児期まで
たい.筆者の思うに,これもやはり筆者の関心
ティズム(カルヴィニズム)との接触が,少な
が,特に第二期の 護教的な 研究者たちの関
くとも主題として大きく取り上げられている,
心と,(筆者自身は無意識ではあっても)
それだ
という訳ではない.
け共通する所が大きいことが現れたゆえなのか
Gabriel MARCEL:Journal metaphysique,Gal-
もしれない.この機会に付け加えるなら,筆者
自身としては筆者の関心と第二期の研究者たち
limard, 1927.
本稿だけを目にされた読者の中には,なぜスコ
の関心とが異なる点としては,後述するように
ラ的な自然神学にも通じる枠組みをとるカト
マルセルにおけるエキュメニズムについてのア
リック信徒による哲学がエキュメニカルといえ
クセントを挙げたいと思うのだが,これについ
るのか ,との疑問を抱く方も
(特にプロテスタ
ては高柳俊一氏によるもう一つの書評の中で,
ントの方には)
或いはおられるかもしれないが,
プロテスタントである筆者自身の目でとらえら
これについては前掲拙著の特に第三部第三篇を
れたカトリックのマルセル,という点に前掲拙
お読み願えるならば,話はむしろ逆であって,
著の特徴を指摘されておられる(高柳:前掲書
元来カール・バルトの厳格な神学にもあい通じ
評;一二九頁)事に接し,筆者自身より一層,
る傾向を持つ神理解を示すマルセルの宗教哲学
第一に高柳氏のおっしゃるように筆者がプロテ
が,にもかかわらず啓示神学の中への発展的解
スタントであることを生かしたエキュメニカル
消に向うのではなく,むしろ啓示神学のための
かつさらに多宗教間対話的な視野を,第二に岩
予備としての意味では,自然神学的な位置づけ
田氏がおっしゃるように筆者自身も例えばトロ
を取る
ワフォンテーヌ氏に見られるようなあまりに強
を見ようとしている,という文脈をご理解頂け
すぎる護教的関心に れてしまわないような謙
るものと信じる.このように,マルセルの生涯
虚な配慮を,あらためて自らの念頭に置こうと
と思想形成の過程との関連において,まずプロ
えている.
る彼とプロテスタン
所に筆者が彼のエキュメニズムの根底
テスタンティズムとの接触が先行する中で彼の
Cf.En chemin ...;pp.137-145, 213-218.
もちろんこれについて全く何も触れられていな
思想が形成されており,結果としてカトリシズ
かった訳ではないが,少なくとも筆者の見る限
筆者の視点を,前掲拙著よりも簡潔に要約した
り,おそらくこの時期の研究者のほとんどがカ
ものとしては,次の事典記事を参照されたい.
トリック者であったためにどうしても マルセ
拙論: マルセル,ガブリエル.1889-1973 ,小
ルにおけるカトリシズムを語ること即ちマルセ
林道夫等編: フランス哲学・思想事典 所収,
ルにおけるキリスト教を語ること
弘文堂,1999.
が自明であ
ムへの回心とともにその思想が熟成した,との
ると思われたのであろうが,それほど大きく マ
ルセルとプロテスタンティズム の点が取り上
*付記:この論文の要旨は,1999年9月の日本宗教
げられたとは思えないものである.例えば岳野
学会・第 58回学術大会(於,南山大学)において
慶作氏の前掲書においては,回心以降のマルセ
口頭報告された.同発表の抄録は別途,同学会発
ルが断続的に加入と脱退を繰り返した超教派の
行 宗教研究 第 323号(2000年3月刊行)に,
宗教的なグループである オックスフォード・
本論文と同題で,既に掲載されている.この論文
グループ (後に改称されて 道徳再武装運動 )
はまた,博士論文の補充論文として,関西学院大
に対するマルセルの関わり方を通じて,マルセ
学大学院文学研究科哲学専攻において,博士論文
ルの信仰の証しが,ただカトリック教会内部に
本体とともに審査対象となっている.
小 林
18
敬
Resume
Nous avons deja publie,en 1997,une oeuvre sur la philosophie de Gabriel M ARCEL,entitulee En chemin,
vers la lumiere de l etre (Librairie Sobunsha, Tokio). Dans cette oeuvre, nous n avons fait aucun commentaire sur les etudes precedantes sur M ARCEL, puisque nous ne voulions pas nous ecarter du sujet propre de nos etudes.M ais,maintenant ou 3 ans sont passes apres cette publication,il nous paraı
t que c est une
bonne occasion de faire comparaison entre nos propres etudes et celles precedantes.
Dans cet article, nous voyons les 3 periodes differentes des etudes precedantes;
1 , les etudes philosophiques ou existential «
iste»s,
2 , les etudes theologiques ou apologetiques,
3 , les etudes litteraires, philologiques ou positives,
....et,en les critiquant,nous montrons une idee originale de nos propres etudes,qu on peut trouver dans notre
oeuvre en 1997.
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