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古藤実冨の児童文化・文学に関する研究 A study of the child culture
福山市立大学 教育学部研究紀要 2014, vol.2, pp.31-40 古藤実冨の児童文化・文学に関する研究 ~日本統治下の台湾との繋がりを背景として~ 齋木 喜美子(1) A study of the child culture and literature by Sanefu KOTO: Following a background of Taiwan under Japanese rule SAIKI Kimiko(1) The aim of this study is to reveal the trend of children’s literature in Okinawa on the basis of analysis of the historical sources. Focusing on the trend which leads to the postwar period of Okinawa on the background of prewar cultural exchanges between Taiwan and the Yaeyama region, this study analyzes the history and characteristics of works written by Sanefu Koto in children’s literature. Koto contributed greatly to the postwar cultural renaissance in Yaeyama. He was a teacher of a public school in Taiwan under the Japanese rule at the time, and he wrote many stories set in his hometown, Yaeyama, after the war ended. His works are under the influence of the tradition of Japanese juvenile literature, which was popular in Taiwan at that time, and reflect his experience as a teacher. Keywords : Child Culture and Literature, Sanefu・koto, Taiwan, Yaeyama, Okinawa 1.はじめに 復興へと繋がっていった流れに着目した。管見によれば戦 近年,日本児童文化・文学史研究においては,地方の活 後の沖縄では,沖縄学の祖である伊波普猷を出発点とし, 動や出版物についての史料発掘,実証的な考察が相次いで 岩崎卓爾や喜舎場永珣,宮良長包らへと繋がる児童文化活 い いわさきたく じ 1 き しゃ ば えいじゅん は ふ ゆう みや ら ちょうほう 発表されており,貴重な研究成果の蓄積が見られる 。中 動を引き継ぎながらも,違う要素が新たに入り込んでいる 央の活動や著名な児童文学作家の作品研究のみならず,こ ことがわかってきている3。 うした地方文化への目配りや地道な研究の成果は,日本児 たとえば終戦直後の八重山地方では,のちに「八重山ル 童文化・文学史研究に広がりと深みを増すことに繋がり, ネッサンス」とも称され,戦後沖縄文化史上の転機にもなっ 歓迎すべき傾向であると言える。その一方,沖縄について た出版活動の活性化が起こっていた。この時期,次々と意 は大人読者を対象にした文学研究が主流を占めており,児 欲的に雑誌が刊行されて戦争によって枯渇した活字文化が 童文学分野は作家や作品の書誌情報さえ十分に整っていな 復興したことは,一般によく知られている。当時,その活 い現状がある2。このことは,この分野の研究がいまだ未 動の中心を担っていたのは,戦前・戦中に本土や台湾で活 開拓であり,子どもの本や雑誌,文化活動をめぐる問題へ 躍し,敗戦によって引き揚げてきた文化人たちだった。児 の研究的関心が乏しいということを示している。 童文化・文学に関しても事情は同様である。彼らの中に, そこで本論文では,近代以降の沖縄における児童文化・ 文化復興に力を尽くした人物がいた。具体的に名前をあげ 文学の展開過程とその中身について,具体的な史料をもと ると,台湾の公学校で教師をしていて,戦後八重山に引き に明らかにすることを目的とする。とりわけ本論では,戦 揚げて実業家となった古藤実冨,本土からの引揚者で,詩 前の台湾と八重山の文化交流を背景地とし,戦後沖縄文化 人で児童文学者の伊波南哲,地元小学校の現役教員で,詩 こ とうさね ふ い (1) 福山市立大学教育学部児童教育学科 31 ば なんてつ 福山市立大学 教育学部研究紀要 2014, vol.2, pp.31-40 齋木 喜美子 とみむら ち ゆう 人でもあった富村致佑の三人である。富村が他の二人に呼 ただし「八重山こども新聞」は創刊・終刊時期がいまだ判 び掛けて八重山童話協会を設立し,「八重山こども新聞」 明せず,現時点で確認できるのは1948(昭和23)年6月21 という児童向けのタブロイド紙や児童雑誌『青い鳥』を機 日発行の第29号と,同年9月22日の第34号のみである(沖 関誌的に発行していたのである。沖縄本島にまだ子どもの 縄県立図書館八重山分館所蔵)7。新聞の主な記事は,子 ための新聞や雑誌がなかった頃,離島でいち早く子どもの どもむけの教養記事,八重山地方に伝わる昔話の再話,全 ための文化活動が展開されていたことは,特筆すべきこと 国紙からの転載と思われるトピックス,短い科学読み物の であった。 ダイジェスト版,英語や算数の問題などの学習記事,笑い この時代の熱気は,沖縄本島と違って活字が戦災を逃れ 話,保護者に向けて書かれた簡単なメッセージ,読者から たということだけでなく,戦前の台湾との関係性,文化資 募集した作文などで構成されており,定価は2円であった。 本が大きく影響していると筆者は考えている。しかし同時 素朴な内容のタブロイド版は特段優れた新聞とは言い難い にこの動きは,数年で児童雑誌の発行を断念するなどの脆 が,終戦直後米軍統治下で本土からの文化情報はほとんど 弱さを併せ持っていたことも指摘できる。 入らず,活字に飢えていた離島の状況を考えると,多くの 八重山から発信された新しい児童文化・文学の水脈はど 子どもたちに夢や希望を与えた活動であったことは想像に のように誕生し,どう展開していったのだろうか。本論で 難くない。娯楽的な要素だけでなく,地元八重山の昔話や はそれらを解明する手掛かりとして,おそらく三人の中で 身近な人々の詩や作文が活字になることは,子どもたちに 創作だけでなく実務的にも中心的役割を果たしていたと思 とって楽しみでもあり自信にもなったと思われるからであ われる古藤実冨(1906-1961)を取り上げ,作品解釈にも る。 踏み込みつつ,具体的に考察を進めたい。このささやかな また古藤の実績と手腕は,八重山童話協会の機関誌『青 試みが,沖縄の児童文化・文学史の空白部分を埋め,古藤 い鳥』にも生かされていたとみてよい。なぜなら,八重山 実冨という児童文学者の評価につながるとともに,一文学 童話協会の本部は八重山こども新聞社内に置かれていた 者の発信した作品を通して沖縄の児童文化・文学の成り立 し,古藤は『青い鳥』の印刷だけでなく,その中でいくつ ちと課題を明らかにする手掛かりとなることを目指したい。 かの作品を発表するとともに,台湾時代に磨いた絵心を生 かして雑誌の表紙絵,カット,4コマ漫画などを一手に引 2.古藤実冨の経歴と児童文化・文学活動 き受けていたからである。 古藤は1906(明治39)年3月19日,八重山の石垣市新川 だが次第に世の中が安定し,本土から子どもの本や雑誌 に生を受けた。青年期に一時沖縄本島に渡り沖縄師範学校 が入荷し始めると,『青い鳥』も「八重山こども新聞」も に学ぶが,卒業後の1929(昭和4)年には再び郷里に戻り, 出版を打ち切り,終息していったようである8。この頃の 石垣市内の石垣尋常高等小学校で3年間訓導を務めた。そ 古藤は八重山こども新聞社経営以外にも,1947(昭和22) の後小浜島の小浜尋常高等小学校に転勤するが,わずか9 年4月から八重山初等高等学校嘱託教授,翌年八重山高等 か月後には小浜を去って台湾に渡り,1932(昭和7)年12 学校教授嘱託を委嘱されており,教育界にも活躍の場を広 月に台湾の七星郡松山公学校訓導となった。台湾移住を決 げ始めていた。『青い鳥』編集と発行に関わっていた時期 意させた背景は不明だが,この時代の八重山は台湾との交 は,古藤が文化・教育活動に最も精力的に活動していた時 流が盛んで,多くの人々が海を越えて新境地に活路を求め 期でもあった。だが古藤は,1950(昭和25)年8月に各職 ていた。沖縄出身の台湾公学校教員も珍しいケースではな を退職して今度は沖縄本島に移住している。創作活動は完 かったため,おそらく古藤もその当時の機運に乗った一人 全にやめたわけではなかったようで,1953(昭和28)年4 であったろうと推察される4。小学校教員として勤める傍 月に上京して後には,出版物では米軍のプロパガンダ誌と ら油絵と俳諧を学び,台湾の新聞に児童文学作品を投稿し 目されていた『守礼の光』に八重山昔話を掲載したり,講 たり,俳諧や絵画の部門で活躍していたと伝えられている 談社から『牛になった花よめさん』というタイトルの単行 5 が,台湾での活動の詳細や実態はほとんど不明であった 。 本を刊行するなど,断片的に児童文学との関わりも見いだ だが戦後の活動については,若干足跡をたどることがで せた。台湾-八重山-沖縄本島-東京へと繋がる児童文化・ きる。終戦後,八重山に引き揚げた直後に魚の行商を始め 文学の発信は,戦前から戦後という激動の時代を経て,微 たが事業は軌道に乗らず6,まもなく石垣市大川で「八重 かながらも地下水脈のごとく続いていたのである。 山こども新聞社」を設立,「八重山こども新聞」を発行し 以上が,古藤の戦前から戦後にかけての略歴と児童文 たのが,古藤による戦後児童文学・文化活動の嚆矢である。 化・文学活動との関わりである。だがこれまでの沖縄研究 32 福山市立大学 教育学部研究紀要 2014, vol.2, pp.31-40 齋木 喜美子 で古藤はどの分野からも注目されず,ほとんど顧みられる その作品分析を通して彼の作品の背景,主題・思想や,古 ことはなかった。またこれは戦前に中央で作家として活躍 藤の児童観について明らかにしていきたい。 し,ある程度名が知られていた伊波南哲も同様である。こ また、古藤が児童文学を創作し始めた頃の台湾は戦前に れまで彼らが注目されてこなかったのは,児童文学の地位 日本の統治下にあったため,沖縄本島よりも直接的に中央 の低さや研究者層の薄さに加えて,その史料的制約も隘路 の児童文化活動や文学活動の影響を受けていた。古藤自身 となっていた。作品の発掘を含め,黎明期の沖縄児童文学 が戦前から戦後,そして今度は米軍統治下の沖縄から東京 の実態そのものに不明な点が多いため,特に無名であった へと,創作の場を移していったことから推して,時代の制 古藤などは歴史の中に埋没してしまい,彼の仕事に関して 約を強く受け,一個人としての信念や思想も揺れ動き,そ の正当な位置づけはなされてこなかったのである。 の振幅は作品にも投影されたのではないだろうか。つまり 一昨年,筆者は古藤の三男・光彦氏と接触する機会を得, 古藤の児童文学作品には,近・現代の沖縄が抱えていたさ そこで初めて古藤の詳細な履歴が判明した(資料1)。 まざまな問題が典型的に反映されていたとも考えられるの さらに遺品の中に大量の未整理の原稿やメモ,雑誌類が である。ということは逆に,古藤の作品の思想的背景,児 残されているという情報を入手し,現物の確認を行うこと 童観などを分析することによって,沖縄の近・現代という ができた。それによってようやく,前述したような古藤の 時代的意味,あるいは沖縄児童文学の課題を逆照射して見 戦前から戦後の足跡も辿れることになったのである。それ ることも可能だとは言えないだろうか。 以上に,一個人の生涯の作品がまとまって存在すること自 体きわめて稀であり,しかもそれが終戦直後の沖縄児童文 3.古藤実冨の児童文学と文化的背景 学史の空白期を埋める史料群であることが非常に貴重であ 古藤の遺品の中に含まれていた児童文学関係の史料一覧 る。そこで以下の節では,古藤の児童文学作品に注目し, は表(資料2)に示す通りである。2009(平成21)年,光 資料 1 古藤実冨(1906 - 1961)・年譜 本籍:琉球八重山郡石垣市字大川 207 番地 (台湾在住中に , 鹿児島県鹿児島市下荒田町 179 番地より転籍) 年月 職歴 文化・児童文学関連事項 備考 1929年3月1日 沖縄県師範学校卒業 1929年4月 八重山郡石垣尋常高等小学校訓導 1932年4月 八重山郡小浜尋常高等小学校訓導 1932年12月 七星郡松山公学校訓導 渡台 1940年12月 1941年4月 俳諧宗匠免許状 松山公学校が台北市松山国民学校と改称 1942年11月 1943年3月 1943年11月 1945年1月 大潮会絵画展にて油絵25号入選 台湾教職員の展示会 台湾●術展に油絵40号入選 ●は不明 台湾日日新聞に童話を2編連載 作品名不明 台北市堀江国民学校訓導 台北市双葉国民学校訓導 1945年2月 1946年4月 台湾から八重山へ引き揚げ 帰郷 1946年3月 八重山こども新聞社創設 47年か? 1947年4月 八重山初等高等学校教授嘱託 1948年4月 八重山高等学校教授嘱託 八重山子ども新聞発行 1949年9月 推定 「青い鳥」創刊 1950年?月 八重山臨時教員養成所教授嘱託 1950年8月 各職を退職 1951年12月 旅館ひめゆり荘創設(八重山毎日新聞社那覇支 局員を兼務) 1953年4月 那覇転居 上京 33 福山市立大学 教育学部研究紀要 2014, vol.2, pp.31-40 齋木 喜美子 資料2 古藤実冨作品リスト(綴り順) 枚数 掲載誌 掲載年月 (原稿用紙字数) 35枚(200)『守礼の光』第20~24号 1960年8月 10枚(200) 13枚(300) 5枚(400) 21枚(400)『八重山文化』第4号 1976年5月 35枚(400) 26枚(400) 『牛になった花よめさん』に収録 1955年1月 40枚(400) 36枚(400) 10枚(400) 9枚(400) 作品タイトル 状態 八重山昔ものがたり:大浜頭と石垣頭 民謡物語り 宴の始めと終り 仲筋のぬべーま 八重山民謡「赤馬節」の由来 実話断髪騒動記 牢屋大浜の主伝記 名馬赤馬 あいなァま石(姉御岩) 川良山節(カアラヤマブシ)考 孝行雀の話 綱張(アンパルヌ)ミダガーマ 原稿 原稿 原稿 原稿 原稿 原稿 原稿 原稿 原稿 原稿 原稿 竹富島の民話物語り 野鷲(ヌサン)の麦刈り 川良(カアラ)山節考 尾長(ブーナー)鳥とからす 原稿 原稿 原稿 12枚(400) 39枚(400) 4枚(400) 榮・いそば 原稿 27枚(300) オーフダーガと子供たち 蛇のぬけがら あいなァま石 八重山民話 からすのあだうち 空にあがったにわとり 八重山民話 しお枯れ島の老い鳥 タラマ・オモシ漂流記 鱶の天使 西塘 川良山節考 民謡物語り ウサイの泊のヤグジャーマ 空にあがったにわとり 離れ小島の女傑と人枡田んぼ 離れ小島の残酷 人枡田んぼ 創作 あいなァま石 沖縄昔話 牛になった花よめさん 原稿 原稿 原稿 原稿 原稿 原稿 原稿 7枚(300) 17枚(400)『青い鳥』第一巻第二号 44枚(400) 10枚(400) 16枚(300)『青い鳥』第一巻第三号 18枚(400) 77枚(400) 『青い鳥』七月号 39枚(400) 11枚(400) 16枚(400) 43枚(400) 47枚(400) 原稿 原稿 原稿 原稿 原稿 新聞記事 図書 備考 61年1月まで4回連載 完成原稿 推敲原稿 『牛になった花よめさん』に収録 「守礼の光」 (1959年9月)にも「海 1955年1月 (「桃原の大女」) 賊船と大わらじ」という題で掲載 168頁 1949年10月 1949年12月 1950年7月 1955年1月 彦氏に遺品整理について相談を持ちかけられた名桜大学教 完成原稿(紙紐綴) 完成原稿 雑誌のみ(原稿なし) 完成原稿(紙紐綴) 推敲原稿 推敲原稿(紙紐綴) 完成原稿 新聞の切り抜き記事 大日本雄弁会講談社・刊 痕跡が見られること。 授の中村誠司が,古藤の史料約70点をリスト化した。作成 3.のちに出版されたかどうか確認できない作品が散見 した表(資料2)は,それをもとに児童文学作品のみを筆 されること。 者が抽出し,さらに2011(平成23)年に発掘され,光彦氏 古藤の作品の書誌情報と創作の過程については,現時点 によって提供された新資料や,独自に調査した既刊作品情 で未確認情報が多いため今後の課題として確認作業を行っ 報等を加えて再構成したものである。提供された原稿には てゆくこととし,今回は1番の課題を中心にしながら考察 創作年月日が記載されていないが,一部が『青い鳥』に掲 結果を以下に述べる。 載されており,原稿用紙の状態がほぼ同一年代のものと思 われることから,古藤が沖縄本島へ渡る前,すなわち1950 3.1 八重山の文化的土壌 年前後の作品かと推察される。また,これらの作品リスト 当然ながら,古藤の創作や児童文化活動に影響を与えた から読み取れる特徴は以下の3点であった。 要因として,まず第一に考えられるのは,八重山の文化風 1.ほとんどの作品が八重山地方に伝わる伝承物語の再 土の影響である。先に述べた戦前の沖縄学の祖である伊波 話であること。 普猷を出発点とし,岩崎卓爾や喜舎場永珣,宮良長包らへ 2.手書き原稿からなる原史料には,繰り返し推敲した と引き継がれた児童文化活動の流れは,戦前の八重山の文 34 福山市立大学 教育学部研究紀要 2014, vol.2, pp.31-40 齋木 喜美子 化的気運を理解するうえで最も重要である。なぜなら,古 たな証言を得ている14。古藤が台湾公学校で教員をしてい 藤らとともに八重山童話協会に関わった伊波南哲は,喜舎 た時代は,台湾総督府の教育関係者や日本童話協会台湾支 場や宮良の小学校訓導時代の教え子でもあり,彼らの影響 部の協力を得て,日本の口演童話家たちが台湾の津々浦々 を受けて詩人を志すようになったという経緯がある。また の学校を廻り,日本語で口演していた。また古藤が幾たび 南哲自身も児童文化活動に参加するのは戦後が初めての経 かの転居に際してもずっと小波の額を大事に保管していた 験ではなく,1917(大正6)年頃に八重山で友人らと「児 ことなどから推して,この時代に日本の口演童話から強い 童学楽会」を立ち上げ,会報を発行したり活動写真の上映 影響を受けたとみてほぼ間違いないだろう。台湾経験とい やお話会を開催したりしていた。1919(大正8)年には「八 う文化資本は,このような形で古藤を通して戦後の八重山 重山児童学友会」と名を改め,岩崎卓爾の支援を受けなが へと引き継がれていったのであった。 ら本格的に児童文化活動を展開するようになっていた9。 のちに小学校教員になり八重山童話協会の会員となった 4.古藤実冨の児童文学作品ジャンルと作品分析 人々は,少年時代に南哲の学友会に通い,お話に聞き入っ 4.1 八重山昔話の再話 たメンバーだったのである。古藤が学友会のメンバーだっ 作品リストからもわかる通り,古藤の児童文学は八重山 たことも,近年資料で確認することができた10。古藤自身 地方に伝わる昔話を素材とした創作が中心であった。台湾 は少年時代の思い出を書き残してはいないが,八重山に伝 から八重山に引き揚げてからのものでは,「こども新聞」 わる昔話の再話が作品の中心であることは,故郷の学友会 に連載された「童話 オヤケアカハチ」が,筆者の確認し で南哲からお話を聞いた体験が影響していると思われるの た最初の作品である。「オヤケアカハチ」と言えば,伊波 である。古藤の児童文化・文学への関心の芽生え,素養は, 南哲が上梓して昭和初期に一世を風靡した作品がよく知ら 少年時代を過ごした八重山にあったといってよいだろう。 れている。両者の作品を比較することで古藤の児童文学の 特徴がよりはっきりするため,ここでは南哲と同じモチー 3.2 台湾の文化的土壌 フの作品を考察の対象としたい。 古藤の作品ではじめて活字になったものはおそらく台湾 まず,古藤の「オヤケアカハチ」は南哲の長編叙事詩と 時代に「台湾日日新聞」に掲載された2編の昔話だと推察 違って,時代考証よりも物語性に寄った短篇で,より幼い される11。古藤が渡台した1930年代初頭,昭和初期の占領 読者向けの再話となっているのが特徴的である。わざわざ 地台湾は,折しも日本の口演童話が台湾で全盛期を迎えた 「童話」と銘打っていることからもその意図が読み取れる15。 時代でもあった。台湾児童文化研究者の游珮芸は,日本統 表現は子どもたちにも理解しやすいように工夫されてお 治下の児童文化状況について「戦前台湾の児童文化運動は, り,「アカハチも,野山や海に出かけては,色々なえもの そのまま日本の児童文化運動の一支流とみなすことができ をどつさりおみやげにもつてかえつて,みんなに分けてや 12 る」 と述べて,日本の中央から流れ込んでくる児童文化 つたり,田畑に出かけてお百姓のお手伝いをしたりして, 活動の直接的な影響力と教育やメディアの徹底的な統制に 平和なその日その日を暮らしました。」と平易な言葉で書 言及している。とくに1930年代以降は,久留島武彦や巖谷 かれている。「どっさりおみやげにもってかえって,みん 小波といった口演童話の大家だけでなく,一般の口演童話 なに分けて」「お百姓のお手伝いをしたり」等の,童話ら 家も台湾で童話行脚を行うようになり,日本の児童文化が しい表現も垣間見える。南哲は郷里への想いを情熱的に綴 一世を風靡していたという。このことは,古藤の児童文学 り,「南島の情熱詩人」と称されたが,古藤には南哲作品 への創作動機を知るうえで大変参考になる。 にみられるような激しさはない。むしろ子どもの日常生活 これまでの筆者の研究成果からも,古藤が発行していた の感覚や,言葉の理解の段階への配慮が見られる。その違 こども新聞や『青い鳥』は,小川未明の童話や巖谷小波の いは,同じ児童文学の書き手でありながら,古藤が小学校 お伽噺,与田凖一の詩,蘆谷蘆村の講話など,本土発行の 教員という「子ども」の日常に直接かかわれる環境にあっ 童話雑誌からの再録が多々見られ,その影響を強く受けて たことによるだろう。 いたことがわかっている13。さらにこのたびの聞き取り調 同様のことは他の再話にもあらわれている。『青い鳥』 査で,光彦氏より「父は巖谷小波をとても尊敬していて, に掲載された「蛇のぬけがら」は竹富島の「ウーバナシャー」 あんな風になりたいと思っていたようです,今でも家に父 が原話だが,古藤は創作童話と銘打って発表している。話 が大事にしていた小波の額があります。童話大会や何かや の筋立ては,主人公の正夫さんが朝,石垣の間に蛇の抜け るときには必ずその額を飾っていましたから。」という新 殻を発見し,それを兄さんに知らせたところ,兄さんが正 35 福山市立大学 教育学部研究紀要 2014, vol.2, pp.31-40 齋木 喜美子 夫さんに「なぜ蛇は皮を脱ぐか」という由来話を語って聞 れるほど,ますます憧れは募るのである。実は,この「つ かせるという構成になっている。つまり,読者と同世代の まらない」「いやだなあ」と何度も繰り返されるわかいお 子どもをお話の中に登場させ,その子の視点から気づいた んどりのセリフは,そのまま世間知らずの無邪気な子ども こと,不思議に思ったことを兄さんに語り聞かせてもらう の発想である。児童文学において「行きて帰りし物語」は, という物語構造をとることで,子ども読者にとって自然に 幼い子どもたちの読み物の定番と言ってよく,子どもの好 昔話の世界に入り込める仕掛けとなっているのである。同 奇心と発達に適合した構成と言われてきた。この話も,世 じ号に掲載された伊波南哲の再話「雀とひばり」が,同じ 間知らずの子どもが好奇心から外の世界に憧れる思いを基 話をモチーフとしながらも,「ひばりのあしはなぜ短いか」 軸にしているため,幼い読者の理解を得られやすいと考え を「若水」由来と結び付けて再話している点と対照的であ られる。外に飛び出してはみたがやはり世間はそう甘いも る。南哲と同じ再話が同じ号に掲載されたのは偶然であっ のではなく,怖い思いをしたあげくに「ああやっぱりお母 16 た が,「郷土の古童話,所謂『ウージャナバー』を主材 さんの所がいいなあ」と悟る結末も,子ども読者の想定範 にして,それをどういう風にして児童の生活童話として取 囲内にある。子どもの日常生活から空想世界,あるいは非 り入れたら,効果的であるかという点が,作者のねらいで 日常の世界へ,そしてまた日常生活へと戻ってくる筋立て あります」17とわざわざ本人が書いているように,古藤の も,幼年期の子どもの向けの童話伝統を受け継ぐ文脈の中 目指す創作はあくまでも八重山民話を素材とした生活童話 に位置づいた作品と言ってよいだろう。ただこの作品では にあったと言えよう。この手法は後述する「タラマ・オモ 空想や非日常にあたる部分が,説明に終始してしまってい シ漂流記 鱶の天使」(未発表原稿)でも試されており, て,わかいおんどりが心から自分の日常の良さを再認識す 古藤の創作スタイルを示す手掛かりの一つになると考えら るに至る展開にはなっていない。空を飛んでいる間に水や れる。 食べ物がないのは当然で,ほうおうも空だけで暮らしてい るわけではない。ほうおうの暮らしのほんの一部を経験し 4.2 幼年童話 ただけにもかかわらず,わかいおんどりは「もうこりごり」 以上の観点を踏まえつつ,古藤の童話作品を見てみたい。 「これからはけっして,ふへいを申しません。」と,日常へ 「空にあがつたにわとり」は『青い鳥』に掲載された創作 と戻っていくのである。「一しょうけんめいにはたらきさ 童話である。前項で指摘した通り,古藤の児童文学作品は えすれば,たべものは年中あるし,寝るところもちゃんと 八重山地方の昔話にモチーフを得た創作昔話であるため, ある。よそをうらやんだじぶんは,なんて馬鹿だったんだ 管見の限りでは,創作童話は本作のみである。この作品の ろう。」と結末を教訓めいた締めくくりにし,主人公を行 あらすじは,「大空を飛びまわってみたいと願うおんどり 動的な現実変革へと向かわせなかった点は,時代的限界で が,ほうおうに頼み込んで空に上がってみたものの,大空 もあった18。 には水もえさもなく,寒いうえに空気は薄くて息苦しいし, また,ほうおうが「どうだ,おいしいものはどこにもみ 高さに目が回って恐ろしい。とうとうおんどりはもとの地 つからんだろう。やっぱり君は,君のすんでいた所が,一 面に戻してほしいと泣き出してしまう。それ以来,おんど 番よいということを,今わかったろう。」とお説教をしたり, りは人をうらやむことはやめ,一心に働くようになった。」 地面におろしてほしいと懇願するわかいおんどりに,「よ というものである。 ろしい,さあおりるよ。」と指導者らしく振舞う様子には, この作品では,わかいおんどりは日常にあきあきして不 教師が子どもを諭すような調子がある。子どもの日常の感 平を漏らす存在として描かれている。不平の理由は,ほか 覚や言葉の理解の程度をよく理解しているだけでなく,こ の鳥たちが大空を飛びまわれるのに自分が空を飛べないこ のような道徳的な結論を子どもに教え導く人物を配するあ とや,ぞうりむしやみみずを食べるわが身に比べて「われ たりにも,小学校教員という古藤の立ち位置が垣間見える われがゆめにも見たことのない,おいしいもの」を食べ のである。 て,ぜいたくに暮らしているように見えることに起因して いる。それに対して年とっためんどりは,自分たちの体は 4.3 創作児童文学 生まれつき地面で暮らすようにできているのだから,「こ 古藤の創作意識の中には幼年童話ではなく,さきにあげ こが一ばんくらしよいところだ」と諭している。ほうおう た「タラマ・オモシ漂流記 鱶の天使」のように,「沖縄 も年とっためんどり同様,空のくらしはわかいおんどりが 版ロビンソン・クルーソー」を創作しようとした試みもあっ 思うほど楽ではないことを告げる。しかし否定されればさ た。その点については従来の昔話をモチーフにした沖縄児 36 福山市立大学 教育学部研究紀要 2014, vol.2, pp.31-40 齋木 喜美子 童文学には見られなかった新しい意識を内包している事例 にあたる日に何年かぶりで帰り着いた真牛に対して,村人 として評価できる。 は「きっと,神さまのおひき合わせだ,なんとありがたい 実はこの作品は原稿のみで出版された形跡はないが,原 ことではないか。」と再会を喜ぶものの,真牛自身にも村 稿用紙77枚にも及ぶ長編である。本作も先にあげた「蛇の 人にも何の変革も訪れないまま物語は終息する。古藤の創 ぬけがら」と同じく,読者と同世代の子どもをお話の中に 作は,「行きて帰りし」物語の形式にはなっているが,何 登場させているのが特徴的である。物語の発端は,正夫君 らかの通過儀礼的意味はない。無人島での生活が今後の島 という少年がテレビで沖縄のことが取り上げられているの のくらしや真牛の生き方にどういう意味を持ったのかが語 に触発され,昔沖縄で先生をしていたという隣のおじさん られないので,読者に物足りなさを感じさせる。冒険物語 に沖縄のお話をせがむ。おじさんの話というのが,八重山 はさらに遡れば悪者退治や宝探しをモチーフとした昔話に 群島にある黒島の仲本という部落の掛け軸に由来する冒険 行き着くが,両者は似て非なるものである。なぜなら「昔 物語なのである。「昔の話」として語られてはいるが,内 話は,筋だけを語り,困難や危険をリアルに語ろうとしな 容は創作であり,これまでの作風とは違って「描写」と「叙 いので緊迫感は薄い。言い換えれば冒険譚の面白さの主要 事」による小説の手法で構成されている。たとえば島の水 な部分は,リアルな描写によるスリルとサスペンスにある」20 事情を説明するくだりは以下のようである。 からである。子どもの問いかけに端を発し,海を舞台にし それでは,どういう風にして,大切な飲料水を得てい た冒険物語は,島の自然や文化的背景に関するいくつかの たかというと,全部落の住家の周囲には,台風よけに, 描写に現代的児童文学の可能性を見いだせるものの,冒険 葉のこんだ福木という大木がぎっしりと植えめぐらされ 物語として読者を惹きつける「物語る力」は脆弱であった てあるが,それ等の木の幹には,どれにもこれにも蒲葵 といわざるを得ないのである。 の大きな葉を,長い柄を下に向けて巻きつけ,固くしば りつけてあり,その柄の先の真下にあたる地面には,素 5.まとめ 焼の水がめが据えられてある。(本文より) 以上,古藤実冨の作品についていくつか事例をあげて考 水の乏しい状況は主人公・真牛の冒険の重要な伏線であ 察してきた。紙面の都合上,取り上げた作品はごく一部に る。真牛は,米作のために他の島に渡る途中,嵐にあって すぎず,台湾時代に児童雑誌等に掲載された作品の詳細, 無人島へと流される。 書誌情報は現在も継続調査中であるため,本論文では完全 無人島で真牛は,食用になる野草,貝や魚,鳥の卵,自 に掌握することがかなわなかった。だが,これまで未解明 生するヤシやバナナやパパイヤ,水や塩,油など次々と食 であった古藤実冨の戦前から戦後の動向,および児童文学 料を確保するだけでなく,貝で食器を作ったり荷物に紛れ 作品の概要はおおよそ整理することができたのではないか 込んでいた籾で田を拓いたりと,生き抜くために努力と工 と思う。現時点で掌握できる作品の全体像を見通して明ら 夫を怠らない。都合よく島に果物が豊富に自生していたり, かになったことは,以下の点に集約することができる。 浜で大きな真珠の入ったあこや貝をたくさん拾ったり,鳥 5.1 古藤の児童文学作品は,八重山地方に伝わる伝承物 語の再話と再創造である。 の巣に宝石があるのを発見したりと,いくつもの「幸運な 偶然」によって日々の暮らしが語られる点が説明的でリア この点は「はじめに」でも触れた。古藤の児童文学は, リティがないものの,古藤が子どもたちの好きな冒険物語 ほとんどの作品が八重山の伝承によっている。あるいは一 を創作しようと試みたことは感じ取れる。 部をモチーフとした創作であった点に最大の特徴があっ だが残念なことに,結末はさらに急展開で唐突に幕を閉 た。だが同じく八重山の伝承物語である昔話や伝説にモ じる。夢に現れた神様のお告げによって真牛が海に入って チーフを得てはいても,伊波南哲の作品とは再話の視点が いくと,そこに鱶がやってきて真牛を背に乗せ,ものすご 異なっていたことを改めてここで指摘しておきたい。民話 いスピードで海を渡って懐かしい故郷へと送り届けてくれ を採集し,それを忠実に口語訳していくのではなく,「祖 るのである。 「昔話は,あらゆる状況を簡単にする。登場 先との協業」によって再創造していくという明確な立場は, 人物ははっきりと描写され,こまかい点は,特に重要でな 1952(昭和27)年に組織された「民話の会」の活動まで待 い限り,省略される。だれもかれも,型にはまっていて個 たねばならない。よってこの時点での古藤の意識の中には, 性がない」19と言われるが,少なくとも日常小説の手法で まだ民話を「語り替え」ていくことの現代的意味は形成さ 書き進められてきた作品は,ここへきて背景を丹念に描く れていないとみてよい。むしろ古藤の意識の中にあった「語 ことや自然観察による描写も見られなくなる。自分の命日 り替え」の視点は,台湾時代に一世を風靡した1930年代, 37 福山市立大学 教育学部研究紀要 2014, vol.2, pp.31-40 齋木 喜美子 すなわち昭和初期の日本における童心主義的児童文学観で 仕だと,深く信じ込んでいたのであるから始末におえぬ。」 あったろう。古藤の再話は,八重山の伝承を「生活童話」 等々と,延々と4頁にわたってその無知と残酷さ,凶暴性 として再創造した作品だったのである。また古藤は台湾公 を説明しているのである。 学校の教員として日々子どもたちに接する機会がふんだん 筆者は,古藤のこうした台湾人観には,やはり教員とし にあった。実践による経験知,教師としての古藤の教育的 ての立場と経験が反映されているのではないかと推察して 配慮や子ども理解が,作品の再話にも影響を与えたと考え いる。先行研究によると台湾領有以降,多くの沖縄人教員 られる。子どもの日常や疑問に端を発したお話の展開のし が台湾へ向かったが,第一号の教員が台湾に渡ったのは かた,大人あるいはそれに準ずる人生経験を象徴する人物 1896(明治29)年と言われている。当時の台湾は治安も悪 の語り,教え諭すような態度が散見される点などに,古藤 く,抗日ゲリラの襲撃で派遣教員が殉死した「芝山巌事件」 の児童文学創作の特徴を見ることができたのである。そこ の記憶も生々しい頃であった。日本人の台湾認識も十分で には,現代を生きる作家が,自身の郷土観や教育観,子ど はなく,「生蕃」は大根を切るように容易に人の首を切る も観をかいくぐって新しい創作に挑むという姿勢は萌芽的 といった誇張した話がまことしやかに伝えられていたとい に見られるものの,豊かな物語性の確立という点では必ず う21。この事件を台湾公学校教員である古藤は当然知って しも成功していなかった。この点は,現代の沖縄児童文学 いたはずである。しかも古藤が渡台するわずか2年前には, にも共通する課題である。 台中州能高郡霧社で高砂族が蜂起し,日本人134人が殺害 5.2 台湾の子どもをモチーフにした作品が全くないこと。 される「霧社事件」が起きている。これは過去の「芝山巌 これは上記の結論と表裏をなすものと言ってよいが,古 事件」を彷彿とさせるもので,在台の沖縄教員を震撼させ 藤の作品を概観してみて初めて,大きな疑問も感じざるを たろう。こうした事件が古藤の台湾人の描き方に影響を与 得なかった。古藤の児童文学作品には台湾の子どもの姿は えていると考えられるのである。果たして古藤の異郷での おろか,台湾の風物や自然,文化などは一切登場しない。 数年間は,その土地の物語や生活への関心よりも異郷を否 あれだけの作品数を創作しながら, 「台湾」に言及した作品, 定し,望郷の念を一層かきたて,八重山への思いを深める 台湾の人々や子どもの生活を描いた作品が一篇も見当たら 方向にのみ作用したのかどうか。この点は引き続き調査が ないことは不可思議なことである。唯一「台湾」の二文字 必要である。 が登場するのは,刊行されたものでは『牛になった花よめ さん』所収の「わらじ祭り」のみである。しかもそこには, 6.今後の課題 以下のような台湾人=蕃人という差別的表現が見られる 本論文の今後の課題としては,まず第一に古藤の児童文 与那国島は,台湾のじき近くにあるはなれ島ですが, 学作品の全貌を明らかにすることと,教員としての古藤の おてんきのよい日に,海べに立って見ると,高い台湾の 教育観を,成育史も含めて考察していくことがあげられる。 山々が,西の水平線にながくつらなっているのが,はっ 古藤の作品分析結果から,教育との関連性の持つ意味は決 きりと見えます。 して小さなものではないと考えられた。台湾で教員として そのため,まだ台湾があまりひらけなかったころには, 古藤が何をし,どのように子どもと関わっていたのか,台 台湾の蕃人どもが,ときどき与那国まで,おしかけてやっ 湾での経験が創作にどのような影響を与えたのか,あるい てきて,賊をはたらいたり,女や子どもをさらっていっ は与えなかったのか,これはさらなる史料調査や聞き取り たりしました。(「わらじ祭り」冒頭より) を総合して明らかにしていかねばならない。 また,出版はされなかったものの同じ作品と思われる 第二に,「台湾を背景地とした」戦後の子ども文化・文 「離れ小島の残酷 人枡田んぼ」,「離れ小島の女傑と人枡 学の系譜の全体像を解明することが,課題として残されて 田んぼ」では,さらに差別的な表現を伴って台湾が登場す いる。たとえば本島で戦後黎明期の文化行政に携わった川 る。台湾の「花蓮港に近いタロコ渓谷の奥地に住む,タイ 平朝申も,古藤同様に戦前の台湾で弟とともに児童文化活 ヤルという蕃族」と名指して,「その昔は,至って凶暴な 動にかかわった経験を有していた。戦前の台湾は,那覇を 性質をもっていて,常に他種族との間に争いが絶えず,た 経由するよりもいち早く日本本土,しかも中央の情報が入 がいに襲撃し合って,多数の首を切ることを平気でやって 手できたため,その地で教育や文化に関わってきた人々の いた。」「彼等の常識では,そういう行為を,人道に反する 経験知は八重山の文芸復興のみならず,戦後沖縄の文芸復 悪事だとは,わきまえていなかったらしく,却って逆に, 興全般に大きな影響を与えていたはずである。古藤だけで 自分たちに幸福をもたらして下さる神への,真心こめた奉 なく,川平の弟で台湾の小学校教員であった川平朝甫,教 38 福山市立大学 教育学部研究紀要 2014, vol.2, pp.31-40 齋木 喜美子 育者として戦後活躍した屋良朝苗,後に弁護士から政治家 には400人から500人もいたという(又吉前掲書,128頁)。「辺 になった安里積千代,児童文化活動にも貢献していた教育 島教育」の国防上の重要性は当時の国家政策の一環であり,沖 者の金城順亮など,他の沖縄人文化人たちの動向や実践に 縄皇民化教育の成果を台湾でも展開することは時代の要請でも も目配りがなければ,その全貌を明らかにすることはでき あった。こうした機運に古藤たち沖縄人教員も連なっていたと ない。とりわけ戦後初期の沖縄の教育・文化実践に関して 考えられるのである。 は,戦禍による混乱と人材不足もあって,一人の人物が各 5「童話の作家として台湾出版界に頭角を現しいたる」(伊波南哲・ 方面で多様な活動を展開し,文化人たちの人脈や交友関係 古藤実冨編『八重山人事興信録』八重山人事興信録編集所, も全体像解明のための重要な要素となっている。子どもの 1951年,63頁)という一文が確認できるのみで,これまで長年の ための本や文化活動を基軸に戦後沖縄の文化状況を読み解 調査にも関わらず詳細は不明であった。 いていく研究課題は,まだ緒についたばかりである。本論 6 故・古藤邦彦氏(古藤実冨の長男,千葉県在住)への聞き取り調査 文をその一角と位置づけ,今後も研究をさらに深めていく より(1998年8月)。 ことを課題としたい。 7 新聞が定期刊行であったとするなら,月初めと20日前後の月2回 発行だと仮定した場合,創刊は1947年4月頃かと推察される。自 註 筆の履歴書によると,1946年4月に台湾から引き揚げ,翌年4月 1 先行研究では地方における児童文化史研究の対象地域として, に「八重山子ども新聞」創刊とあるため,創刊時期に関しては 大阪,京都をはじめ,愛知県の名古屋や金沢,仙台を中心とす 1947年4月とみてほぼ間違いないだろう。 る北陸・東北地方,北海道などが注目されてきた(上笙一郎『児 8 富村は『青い鳥』終刊の理由を,世の中が安定してきて本土か 童文化書々游々』,1988年参照)。近年では『愛知の児童文化』(中 ら読み物が入荷し始めたことや,南哲の上京,自身の離島転勤 京大学文化学研究所,KTC出版,2000年), 『愛知児童文化事典』 にあったと述べている(富村和史(致佑)「南哲さんと八重山童 (KTC出版,2000年)のほか,北海道の児童文化史研究を堅実に 話協会」三木健編『南島の情熱-伊波南哲の人と文学』,伊波南 蓄積している北海道子ども文化研究所の同人誌『ヘカッチ』, 『論 哲詩碑建立期成会刊,1978年58頁参照)。筆者は,当時ともに活 叢 児童文化』(くさむら社)に加藤理が連載中の「仙台児童文化 動していた故・石垣正二や故・玉代勢秀子らに聞き取りをした 活動の諸相」,『日本古書通信』(日本古書通信社)誌面で上笙一 ことがあるが,中心メンバーと協力者的な立場の教員の間に微 郎が北海道,アイヌから琉球・沖縄までを網羅した「日本植民 妙な対立,経済的な事情等もあったことが推察された。 地児童文学史」などが先行研究として注目される。 9 伊波南哲『故郷よさらば』雄文社,1974年参照。 2 なお沖縄地方の児童文化・児童文学事情及び歴史的展開過程に 10 伊波南哲の自伝的書『炉邊物語』(自費出版,1984年,42頁)に, ついてはほとんど先行研究がない。よって拙著『近代沖縄にお 古藤が少年時代伊波の学友会に通っていたという記述がある。 ける児童文化・児童文学の研究』(風間書房,2002年)を参照さ 11 光彦氏からの情報によると,台湾日日新聞に連載(未見)との れたい。 こと。今後確認が必要な項目の一つである。 3 この問題については前掲拙著,『近代以降沖縄の児童文化・児童 12 游珮芸『植民地台湾の児童文化』明石書店,1999年,31頁。 文学の研究』で触れている。本論文でとり上げる伊波南哲,富 13 詳細は拙稿「児童雑誌『青い鳥』に関する一考察」沖縄学研究 村致佑,古藤実冨らは,子ども時代を宮良長包の「八重山子供会」 所『沖縄学』第5号,2001年12月,40 ~ 61頁参照。 で過ごし,お話の楽しさを経験した世代であった。このことが 14 古藤光彦氏聞き取りより。2011年10月10日実施。 戦後,「いとし子に夢を」という童話協会設立の原動力となった 15 現在確認できるのは第29号(1948年6月21日)と第34号(1948 ことは重要なことである。 年9月22日)のみ。 4 先行研究によると明治以降,沖縄では師範学校や中学校から多 16「作者のことば」には,「編集人のもとに,期せずして同一主材 くの教員有資格者を輩出していたが,それを吸収する市場がな のものが寄ったので,小生は,別のものに取り代えようかとも かったため多くの人材が台湾に渡ったという。その就職機会拡 思ったのですが,またちがつた行き方で作話された二つのもの 大の背景には,「台湾人」を「日本人化」するための皇民化教育 を読んでもらつて,童話作法の研究資料にもなれば幸と思いま の担い手としての役割が,沖縄出身教員に求められていたこと したので,そのまゝこれを取りあげてもらうことにしました。」 がある。とりわけ八重山は南の守りを固める意味で植民地台湾 (古藤実冨『青い鳥』十月号,1949年10月,35頁)とあり,当初 との関わりが重視されていた。(又吉盛清『日本植民地下の台湾 古藤が掲載を躊躇した形跡が見られる。 と沖縄』沖縄あき書房,1990年,97および110頁参照)。また台 17 古藤実冨 「作者のことば」 『青い鳥』 第1巻第2号, 1949年10月, 35頁。 湾に派遣された沖縄人教員は台湾領有も終わりに近い1943年頃 18 大正デモクラシーを背景に,明治期の「お伽噺」は封建的な児 39 福山市立大学 教育学部研究紀要 2014, vol.2, pp.31-40 齋木 喜美子 童観を克服し,文学運動としての『赤い鳥』運動へと向かう。 子どものための文学はそののち,童話を乗り越えて児童文学へ の高まりを目指すが,郷愁や追憶をモチーフとする童心主義児 童文学につながるものとして否定されていく(関口安義『アプ ローチ 児童文学』翰林書房,2008年,12~13頁参照)。この時 代の子どもの文学はいまだメルヘンの域を出ず,メルヘンや生 活童話が克服されるべきものとして提起されるのは,1953年の 早大童話会によるいわゆる「少年文学宣言」まで待たねばなら なかったのである。 19 ブルーノ・ベッテルハイム著,波多野完治・乾侑美子共訳『昔 話の魔力』評論社,1978年,25頁。 20 藤本芳則「冒険物語」関口安義前掲書,32頁。 21 又吉盛清前掲書,118~119頁。 本論文は、平成23~25年度の日本学術振興会科学研究費補助金 (挑戦的萌芽研究,課題番号23653256,研究課題「戦前の台湾文化 交流史を背景地とした戦後沖縄児童文化・文学の展開と全体像の 解明」)の助成を受けた成果である。 (2013年11月18日受稿,2013年12月3日受理) 40