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歯 車 - 田辺聖子文学館

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歯 車 - 田辺聖子文学館
高校部門
【優秀賞】
歯 車
岸 華鈴
最優秀賞は田辺聖子賞のページ(
ページ)に掲載しています。
小さく吐き出した闇は、ホームに入ってきた電車の音に掻き消
された。暗い空間がライトで照らされ一気に明るくなるが、真尋
の心は暗いまま変わらない。
誘い入れるように開いたドアに、足は機械的に進んだ。
ちらりと腕時計に目を遣ると、時間は午後八時八分。時刻表が
示す時間から三分ほど遅れた時間だ。なにか引っかかるその時間
を呟き記憶の糸を手繰り寄せながら、真尋は暖かい車内へと吸い
込まれて行く。その直後、音を立てずに電車は口を閉じ滑り出し
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真尋は力の入らない足で立ち上がった。よたよたと向かいの窓
に近づく。そして崩れ落ちるように座席に膝をつき、鼻先がぶつ
呼吸が止まった。
眼球が飛び出そうなほど目を見開き、口をパクパクと開閉させ
る。
暗闇に佇むホームは不気味だった。ぼぅと灯りを放ち、見慣れ
たものではないようだ。
真尋は座席に腰掛け、電車の揺れに身をまかせる。ホーム同様
一人の車両。この電車には、自分以外誰も乗車していないのでは
ないかと錯覚してしまう。
何か起こりそうな気がして、そわそわが止まらなくなる。そん
な気持ちを落ち着けようと目を閉じ小さく息を吐いた。
何か起こるわけない。これはただの電車で、偶々人がいない車
両。それだけだ。期待はした分だけ、傷つくことを知っている。
太股の上に置いてあった手をぎゅっと握った。そしてゆっくり
と目を開ける。
「えっ……?」
(群馬県 群馬県立沼田女子高等学校) た。
電車が遅れているらしい。
真尋は右腕の内側につけた、黒い腕時計を見てため息をつい
た。
午後八時を少し回ったこの時間。田舎の真冬のホームに立つの
は彼女一人だ。ハァと吐いた白い息を、チカチカと点滅する蛍光
灯が照らした。太陽は完全に沈み、辺りはとうに黒く染まってい
る。
寒い寒いとコートのポケットに手を突っ込むと、冷え切った懐
炉が指先に当たった。再び温もりを求めようと握り締めるも、そ
れは変わらず冷えたままだ。
真尋はマフラーに顔を埋め、電車を待つ。しかし、帰りたくな
い家へと向かう電車を待つのは憂鬱だった。
家には母がいる。大嫌いな母がいる。自分の人生を狂わせた母
が、暖かい部屋で帰りを待っている。
「……消えちゃえばいいのに」
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小説の部
高校・小説・優秀賞
高校・小説・優秀賞
かりそうな程窓に顔を寄せた。それでも状況が飲み込めない。
紅い。窓の外が紅い。
闇に包まれていた町が、今はほんのりと紅い。そうそれは、沈
む太陽が町を染めるときと同じ。
真尋は振り返る。反対側の窓からも外を確認すると、同じよう
にほんのりと紅く染まっている。
「夕方……?」
そうとしか考えられない色付いた町。車窓から見える空は、夕
焼け独特の、夜に向かおうとするグラデーション。しかし電車に
乗ったのは、太陽が沈みきっていくらか経った夜の八時過ぎ。
おかしい。
自分の目が異常なのかと、ごしごし擦る。しかし再び見た空や
町は、夜には戻らない。それどころか、いくらか明るくなってい
るような気もする。
大きく電車が揺れた。それと同時に、床にぺたんと座り込む真
尋。身体が震える。それは期待からか、恐怖からか、彼女自身も
わからない。自分の腕を抱いて、浅く呼吸を繰り返す。
闇が切り開かれる。空が透き通った水色へと変化していく。
「本当、なの?」
掠れる声で呟くと、頷くように電車が揺れた。
八時八分の違和感はこれだ。時間を潰すために寄っている図書
館で、たまたま聞こえたある噂。
午後八時八分の電車に、誰もいない車両に乗ると――
「…戻りたい過去に、戻れる――」
吐息のような声で零し、溢れ出そうになる感情を思わずぐっと
堪える。口元を押さえた手のひらに、熱い息がかかる。
視界の端に映った黒い腕時計。腕を内側にし、見た時計の針は
止まることを知らないかのように回っていた。時間が戻るのに合
わせて、針が外れそうなほど反時計回りに回る。居場所を探し続
ける針たちの様子は不気味で、不安を煽った。その不安から逃げ
るように空を見上げる。床に座り込んだまま、徐々にスピードを
上げて時間を逆行していく空を瞳に映した。
いつの間にか白んでいた空が、暗くなって、茜色に染まって―
―。
あぁ。本当に、時間が巻き戻っている。
戻りたい過去に、戻ろうとしている。
時間軸を遡る不思議な感覚に、苦しいくらい心臓を大きく鳴ら
しながら、丁度差し込んできた太陽の光に目を細めた。
くるくると気持ち悪くなりそうな程変わり続ける空が遮られ、
ゴーッという音が車内に響く。真尋はそれまでずっと、床に座り
込んだまま空を見上げていた。
トンネルに入るとおもむろに立ち上がり、一番初めに座ってい
た座席へと再び腰掛ける。背もたれに身体を預け小さく息を吐
く。すると、向かいの窓にそんな自分が映った。
窓の中の自分と目が合う。何かに怯えるような顔。長く伸びて
目にかかっている前髪は暗そうなイメージを加速させる。
全部、母のせいだ。
小学校で怖がられて誰も近寄って来なくなったのも、中学校で
机に花を置かれたのも、高校で陰口を言われて怯えながら過ごし
ているのも――
全部、母のせいだ。
一度ついたイメージは消えなくて、ずっと普通の女の子にはな
れなかった。今度こそはと期待に胸を膨らませ、誰一人知り合い
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高校・小説・優秀賞
のいない高校に通い始めても、その話は誰からか直ぐに広まっ
て、そこでも普通にはなれなかった。きっとあいつが居なかった
ら、普通の女の子で居られたのに。
窓の中の真尋が泣きそうな顔をする。泣いてたまるかと泣きそ
うな自分を睨み付ける。
これから、過去を変えに行くんだ。七年前に失った、普通を取
り戻すために。
トンネルが途切れて、太陽が注いだ。
携帯の液晶画面を確認する。ボタンを押すとそこに映し出され
る七年前のあの日の日付。その日付に、もうすぐ降車駅なのだと
真尋は思った。
七年前の改札口を抜けると、腕時計に無意識に目を遣る。そこ
には、ぐるぐると狂ったように回っていた針の面影はない。秒針
は元通り時計回りに時を刻んでいた。時刻は十二時五分前で、そ
れは駅の柱にかかる時計と同じ時刻だ。
プランターに花を植える母と、シロツメクサで遊ぶ真尋。その
中で、それは確か十二時頃に起きた。駅から歩いてほんの数分の
真尋の家の前。そこで、町内に響く正午を知らせるチャイムの
中、まだ幼い自分が立ち尽くしていたのを今でも鮮明に覚えてい
る。
その自体を未然に防がなくてはならない。
真尋は七年前の我が家を目指し、走り出した。
駅から家までの道のりは、今も七年前もほとんど変わっていな
い。しかしどの家も少しばかり新しく、何だか不思議な感じがし
た。
空は青くて雲一つない晴天。日差しが眩しくて、少し動くと、
じんわり汗をかく。記憶に残る、あの日と一緒だ。
走り続けると苦しくなった。肺が酸素を求め、必死に息を吸お
うとするが、上手く吸い込めない。緊張と期待と不安とが混ざり
合って、心臓が壊れそうになる。今にも砕けそうな膝を抱えなが
らも、決して足は止めない。
母の元へと走る。時間がない。
我が家へと向かう最後の角を目前にして、苦しい中、無理矢理
息を吸い込んだ。そして角を曲がり、周辺の窓ガラスを割る勢い
で叫んだ。
「お母さんッッ!」
ぎゅっと強く瞑っていた目を開けて、母親の姿を視線で捉え
る。そのときにはもうすでに、彼女の手に握られた土のついた
ショベルが、男の頭めがけて振り上がっていた。しかし大声のお
かげで、制止しこちらを振り向く。
電線に止まっていた鳥たちは、羽音を立てて一斉に逃げてい
き、しんと静まり返った空間が出来上がる。
間に合った。過去を変えられた。
もう人殺しの子供だなんて、言われない…。
膝に手をつき切れた息を整えようと、荒い呼吸を何度も繰り返
す。口の中がぱさぱさに乾いて水分を欲し、足が震えた。はぁ
はぁと苦しそうに呼吸を繰り返しながら、視界を遮る乱れた髪の
束を耳にかけようと、顔を上げる。
そのとき、正午を知らせるチャイムが鳴り響いた。
「待って!」
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高校・小説・優秀賞
声を上げる、止まらない。手を伸ばす、届かない。
脳裏に焼きつけられる、幼い自分が倒れていく姿。母が殺そう
としていた男の手には、血塗れたナイフ。自分の頬を伝う、汗か
涙かわからない雫。
「真尋っ」
母が叫んだ。自分の名前を。
真尋も呼ぶ。幼い自分がコンクリートに打ち付けられる姿を見
つめながら。
真尋、真尋、ねぇ真尋……
縋るように、何度も何度も、コンクリートの上に上向きで横た
わる過去の自分を呼ぶ。母も、真尋も。
しかし、過去の自分はぴくりとも反応しない。大好きだったあ
の頃の母に駆け寄りもしないし、今は大嫌いである母に悪態をつ
きもしない。
倒れている自分を中心に、コンクリートに赤黒い染みが広がっ
た。それをただ、呆然と瞳に映す未来の真尋は、そこから一歩も
動くことができない。止めようと伸ばした手を重力に従って下ろ
す。
自分が、死んだ?昔の自分が死んだ?そしたら、今の自分はど
うなる…?
真尋は強く手を握った。爪が食い込み、きりきりと痛んで、自
分は生きているということを実感する。それでもまだ自分の存在
が危うい気がして、足に力を入れて地を踏みしめたり、わざと息
を止めたりした。自分は、生きている。
人殺しの子供というレッテルは無くなった。けれど、過去の自
分も共に失いかけている。
倒れた幼い自分は動かない。未来の自分も動けない。そんな
中、犯人となった男だけが動いて母が倒れた。
より一層増す血の匂いと血の絨毯。駆け出す犯人。
「真尋だけは…真尋だけは…」
刺されても尚、か細い声で繰り返される母の願い。
そこでやっと、真尋は一歩を踏み出せた。
ふらふらとした危なげな足取りで倒れる自分と母に近寄る。そ
して母の側に膝をつき、震えた。母と過去の自分の血液が混じ
り、ついた膝を湿らせる。
「お母さん……」
ごめんなさい、と声に出さずに呟く。
利益のために人を殺したり傷つけたりしないって、信じてあげ
られなくてごめんなさい。守ってくれたのに、守ってくれたお母
さんを、恥ずかしいと思ってごめんなさい。消えてしまえなんて
言って、ごめんなさい――
母は閉じかけていた瞳をゆっくり開けて、真尋の頬に手を伸ば
し愛しそうに撫でた。その手はまだ、温かい。
「貴女、何だか真尋みたいね…。真尋もね、泣くとき、唇を噛ん
で声を押し殺して泣くの……」
ぽつりぽつりと、蚊の鳴くような声で紡がれる母の言葉。それ
で、自分が泣いていることを初めて知った。
辛そうに時節、顔を歪めながら母は言葉を続ける。
「貴女が未来の真尋なら…きっと、真尋は助かるわね…」
小さく弱弱しく微笑む母に、真尋はごめんなさいと繰り返し、
頷くことしか出来ない。
過去は変わった。母は人殺しじゃなくなった。けれど――
眠るように瞼を下ろした母。ゆっくりと胸を上下させているこ
とから、息があることを確認し安堵する。その隣で横たわる過去
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高校・小説・優秀賞
の自分も、指先が微かに動いた。
大丈夫だ。二人とも生きている。
母もああ言っていた。大丈夫、真尋は死なない。
早く電車に、それで早く未来に――
急いで、走ってきた道を転びそうになりながら戻った。足がが
くがくと震え、上手く走れない。まるでそれは、自分の足ではな
いみたいだった。
大丈夫大丈夫と、呪文のように繰り返しながら駅に入る。する
と丁度ホームに電車が入って、直感的にあれだと思い乗り込ん
だ。
電車はすっと扉を閉じ、音も立てずに滑りだす。
誰もいない車両。手近な座席へと腰掛ける。
自分の荒い呼吸だけが車内に響いて、心臓はばくばく音を立て
暴れまわった。汗と涙と血で汚れた頬を、手の甲で拭う。そんな
自分が、再び窓の中に映し出される。
青白くて酷い顔。抱え切れない後悔が、涙となって頬を伝う。
でも、母のせいなんかではない。全部、自分のせいだ。
車窓から見える空は、再びころころと色を変え始める。青く澄
んでいた空は、もうすでに白み出していて再び夜を迎えようと太
陽を東に引っ込めた。
元の世界に戻ったら、母に何と言おうか。目まぐるしく変わる
空を、ぼーっと見つめながら、そんなことを考える。ありがとう
か、ごめんなさいか…その前に、母は許してくれるのだろうか。
自問を繰り返しても答えは見つからず、ぐるぐると回る空と思考
に真尋は気持ち悪くなった。
背もたれに身体を預け、息を吐き、目を閉じる。電車の揺れる
音が耳を支配し、それが何だか落ち着いた。
母のせいではなく、自分のせいだと分かった今なら、何か変え
られるだろうか。
少しばかりそのまま電車に揺られた後、そっと目を開け腕時計
に目を遣る。想像通り忙しそうに回転する針たちは、反時計回り
に回る。しばらくぼーっと腕時計を見つめて、真尋は視線を上げ
た。向かいの窓の外を見つめるその瞳から、一筋の雫が零れ落ち
る。
反時計回りに回る腕時計と、それを付ける透けはじめた腕から
彼女は全てを察した。
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