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99 号 - 有田町ホームページ
町 史 の 行 間 開校以来の甲子園初出場! ~佐賀県立有田工業高等学校の歴史~ 明治 44 年 3 月 有田工業学校野球部(梶原家提供) 今年の夏は気温と同じく熱く盛り上がった有田でし た。それも、有田工業高校ナインによる甲子園初出場 はヒダをひろげて球を押さえこむ奮闘ぶりで、相手を 幻惑した。」 という若者の快挙があってのことでした。 甲子園での開会式直後、抽選で第一試合を引き当て、 対戦相手は岐阜県大垣日大高校。試合結果はすでにご 結果は今の有工ナインが佐賀県予選決勝戦で成し遂 げた逆転勝利と同じ奇跡的な勝利だったそうですが、 これが、後に東洋陶器(現 TOTO)や日本碍子などの 存じの通り、これまた佐賀大会同様、劇的な逆転で初 勝利をおさめました。 地域では「アリコー」と呼んで親しまれている佐賀 社長を歴任し、陶業近代化のリーダーと称された孫右 衛門が有工時代を回想する時に、必ず口にしていたエ ピソードの一つだったそうです。おさな友達に「マゴ 県立有田工業高等学校ですが、その歴史は古く、明治 33 年(1900) 、 県立佐賀工業学校の分校として発足後、 同 35 年 5 月 23 日泉山に新校舎が完成し、翌年に佐 賀県立有田工業学校が誕生しました。現在、学校跡地 は泉山体育館となっていますが、佐賀出身の経済学者 で歌人でもあった高田保馬氏が作詞した「朝風清き泉 山」という出だしから始まる校歌に、その歴史の始ま りを知る事ができます。 明治 37 年第 1 回陶業科卒業の江副孫右衛門を紹介 した「江副孫右衛門~近代陶業史上の一人間像」( 小 出種彦著 ) には県立伊万里商業学校と対抗試合した時 のことを次のように紹介しています。 「相手はまがりなりにも都会の学校でユニホームを 揃えていた。孫右衛門をピッチャーに押し立てる有工 チームは仇討ちの助太刀よろしく、たすきを十字に綾 エンシャン」と呼ばれていた孫右衛門の生家は上幸平 の窯焼きで、現在は「小路庵」としておなじみです。 父江副八蔵は、楽ではない暮しの中から息子を有工 製陶科から東京工業学校へ進学させました。 明治 36 年に分校から佐賀県立有田工業学校として 独立したころの定員は 100 名。第 1 回生の孫右衛門 が在籍していた当時、本科は図案・陶画・模型・陶 業・製品の各科に分かれ、製品科の3年制を除いて他 は 4 年制、これとは別に年限 2 年の別科がありまし た。マゴエンシャンが卒業した明治 37 年の卒業生は 12 人。ちなみに第 2 回 8 名、第 3 回 9 名、第 4 回 8 名と、まだ焼き物屋に学問などいらないという時代で もあり、いかに選ばれた者であったかということでも あります。 数多くの卒業生は今も町内外のさまざまな分野で活 どり、袴をたくしあげ、裸足でグランドに乗り込む有 様だった。これでは、いかに野球を知らない見物の眼 にも、羽織袴の必負はレキ然とうつった。ところが、 イザ試合を始めてみると、着馴れないユニホーム姿が 躍中です。今回の甲子園出場はその OB が応援に駆け 付け、再会を果たした場でもあったということですが、 残念ながら2回戦敗退という結果であっても、有田の 町がこれほど一つの心になったのは若人の力でした。 しばしば球をミスするのに反して、体当たり的な袴組 め も (尾﨑 葉子) 有田工業高校に関しては「有工百年史」が、江副孫右衛門に関しては本文中の書籍 の他に、当館で編集発行した「有田皿山遠景」、「おんなの 有田皿山さんぽ史」など にあります。 皿 山 季 刊 No.99 有田町歴史民俗資料館・館報 秋 2013 平成 25 年度企画展 アジアが初めて出会った有田焼 -蒲生コレクションを中心に- 会期:平成 25 年 10 月 1 日 ( 火)~ 11 月 30 日(土) 期間中無休・入館料無料 はじめに 海禁令と有田焼の海外輸出 当館の今年度の企画展は、有田焼の海外輸出をテー 有 田 焼 の 海 外 輸 出 の 記 録 上 の 初 見 は、 正 保 4 年 マにしています。館報 No.96 でご紹介しました「蒲 (1647)に長崎を出帆し、シャム(現在のタイ)を経 生コレクション」を中心に来月から展示を行う予定で 由してカンボジアに向かう一艘の唐船が積んでいた す。蒲生コレクションは、東京在住の蒲生慎一郎さん 「粗製の磁器 174 俵」です。有田焼の創業からわずか が収集されたものです。蒲生さんは学生時代に有田町 30 年ほどでアジアは有田焼と出会うこととなります。 内の天狗谷窯跡の発掘調査にも参加された方で、調査 この有田焼の海外輸出の始まりは、当時の東アジア情 を指揮された故三上次男博士とともに世界を旅して、 勢が大きく関わっています。最大の陶磁器輸出国で これまで各地に残る有田焼を収集されてきました。そ あった中国は 17 世紀中頃に大きな混乱期を迎えます。 して、それらの内、カンボジアやインドネシアで収集 明から清へと王朝が交替する混乱の中、有田焼は海外 されたものを昨年度と今年度にわたり、有田町に寄贈 へと運ばれていきました。 していただき、今回のお披露目となりました。 さらにその混乱は続き、新しい清王朝は海禁政策、 今回はこの蒲生コレクションを中心に、フィリピン すなわち海上貿易を禁止する政策をとります。その結 から出土した有田焼、当時の海外輸出港であった長崎 果、中国磁器の海外輸出が激減し、その代わりに有田 から出土した有田焼、長崎からアジアへ運ぶ途中に沈 焼が海外市場に広く輸出されることとなりました。展 んだと思われる海岸採集資料を集めて紹介し、最近の 示では、海外輸出が本格化した頃の様子を当時の海外 研究成果を織り交ぜながらアジアへ渡った有田焼の軌 輸出港であった長崎の出土遺物と、東南アジアに運ぶ 跡をたどってみたいと思います。 途上で沈んだ陶磁器から見ていこうと思います。 大航海時代の陶磁器貿易 アジアが出会った有田焼 中世以来、海の道は陶磁の道でした。東アジアの中 続いてカンボジ 国で生産された磁器は、インド洋を経て、西アジアや ア、インドネシア、 アフリカまで船で運ばれていました。東西交易路とし フィリピンなど東南 ては陸のシルクロードがよく知られていますが、陶磁 アジアに渡った有田 器のように重くてかさばるものを大量に遠くへ運ぶた 焼の展示を行いま めには船が適していました。東西間の物流の大動脈は す。一口に東南アジ 海にあり、有田焼もこの大動脈によって運ばれていっ アと言ってもその風 たのです。 土や文化は国や地域 そこでまず企画展の導入として、大航海時代末期、 によってそれぞれ異 有田焼の海外輸出が始まる前にアジアに流通していた 陶磁器の展示を行います。フィリピンのセブ島で出土 している中国磁器、伝カンボジア出土の中国磁器など 16 ~ 17 世紀前半にかけての製品を紹介します。 写真1 伝カンボジア出土染 付碗(蒲生コレクション) なっています。その ため、使う器もさま ざまです。東南アジ アに渡った有田焼の器を通して、地域の食文化の違い を知ってほしいと思います。 カンボジアでは、大碗や鉢が大半を占めています(写 真1) 。この傾向は同じインドシナ半島のタイでも同 じです。おそらく汁物を入れるためのものでしょう。 これらは 17 世紀前半に流通していた中国磁器をモデ ルに有田をはじめ波佐見や三川内、嬉野、武雄など肥 前一帯で生産されたものです。 インドネシアでは、中皿、大皿が主体です(写真2)。 大皿を囲んで手づかみで食事をする食文化が反映され ているのでしょう。 写真4 セブ島ボルホーン遺跡遠望 またインドネシアに はオランダ連合東イ ンド会社(VOC)の 拠点であるバタビア がありましたから、 オランダ船も数多く 有田焼を運んでいま す。インドネシアで 写真2 インドネシア伝世染 付皿(蒲生コレクション) 発見される皿の中に はオランダ船によっ 写真5 セブ島ボルホーン遺跡出土状況 てヨーロッパに運ば れる予定だったものも含まれているかもしれません。 が堰を切ったように来航した長崎にも中国磁器が大量 フィリピンは、当時スペインの植民地でしたが、異 に持ち込まれています。長崎の中国人を居住させるた なる文化や社会が混在していました。今回の企画展で めに元禄 2 年(1689)に築かれた「唐人屋敷」の造 はフィリピンのセブ島の遺跡から出土した有田焼を展 成土の下から、展海令前後の中国磁器が有田焼などと 示します。一つはセブシティの独立広場から出土した ともに大量に発見されています。 もの、もう一つはパリアン地区(イエズス会旧宅跡) 中国磁器の再輸出が本格化した後、多くのアジア市 から出土したものです(写真3)。 場は中国磁器に奪還されてしまいますが、オランダの その他、今回は写真だけの展示となりますが、セブ 拠点があったインドネシアにはオランダ船による有田 島の南東部のボルホーンという小さな村の墓地から出 焼の輸出が続きます。蒲生コレクションのインドネシ 土した有田焼なども紹介します(写真4・5)。 ア伝世品の中にも 17 世紀末~ 18 世紀前半の有田焼 が数多く見られます。 おわりに アジアに運ばれた有田焼の旅はそこだけでは終わり ませんでした。バタビアに運ばれた有田焼はオランダ 船によってヨーロッパに運ばれましたし、フィリピン のマニラに運ばれた有田焼はさらにスペイン船に載せ られて、太平洋を渡っていきました。また、エジプト 写真3 セブシティ・イエズス会旧宅跡出土の有田焼 (courtesy: Jimmy and Tony) のカイロ付近の遺跡や東アフリカの沿岸部で発見され ている有田焼も、東南アジアに輸出されたものがイス ラーム商人やインド商人によって運ばれたものと思わ れます。 展海令前後の長崎 17 世紀中頃、アジアが初めて出会った有田焼は、 その後、世界を巡りました。それは世界各地それぞれ 17 世紀末には中国が展海令を公布して海禁政策を の需要に応えたものでした。世界市場を相手にした工 撤廃し、磁器の再輸出を本格化します。清朝の中国船 業製品の先駆けと言えるものでした。(野上 建紀) 歴史の川ざらい~ベンジャラを探そう !! 開催しました キミも考古学の博士になろう !! ~山辺田遺跡発掘体験~ 昨年第一弾を実施し好評を得た「歴史の川ざらい」 8月8日(木)に、有田町でははじめての試みであ を、今年も8月3日(土)に開催しました。これは、 る、子ども達による遺跡の発掘調査体験を行いました。 子ども達に川底に眠る古い陶片を探してもらうことに 当日は、ちょうど有田工業高校野球部の甲子園での試 よって、郷土・有田の歩んできた歴史の一端に触れて 合と重なったためか、欠席者もちらほらありましたが、 もらおうというもので、かつて川の周辺の丘陵に多く 参加した子ども達はもちろん、それ以上に(?)保護 の登り窯が築かれ磁器が焼かれていた、有田ならでは 者の方々が貴重な体験を楽しまれたようでした。 の企画です。 発掘した山辺田(やんべた)遺跡は、隣接する国指 今年は、秋に当館において「アジアが初めて出会っ 定史跡山辺田窯跡などに関わった人達が、製作工房を た有田焼」展を開催することにちなんで、その展示品 構えていた場所です。17 世紀の初頭から約1世紀の と同じような輸出用の有田焼を探してみようというこ 間工房が継続していましたが、その間、1640 ~ 50 とで行いました。 年代頃には、日本で最初期の色絵磁器が生産されてい 親子で川の中に散らばる陶片を次々と集めて行くの ます。体験では、土の中にその頃の染付製品などがびっ ですが、やはり鑑定してもらうと、江戸時代の古いも しりと詰まった状態で発見され、中には色絵磁器を掘 のは、ごく少量になってしまいます。それでも、今回 り出した子どももいました。猛暑の中での、午前中の も参加した子ども達がすべて江戸時代の陶片を探すこ 短い時間の体験でしたが、まだ土の中で頭をのぞかせ とができ、海外輸出用の製品を見つけた子どもも何人 る陶片の数々に、皆さん名残惜しそうな様子でした。 も い ま し た。 ちなみに、今 回最古の陶片 は、1640 年 代の染付皿 で、有田が世 界へと羽ばた く直前の製品 でした。 陶片を探している子ども達 第 13 回 町屋模型作り教室 開催しました 説明を受け、遺物を慎重に掘り出している様子 例年、講師は職員が担当するのですが、今年は『れ きみん応援団』のみなさん、2 日目からはインターン シップの有田工業高等学校 2 年生の山領誠也さんと 8 月 19 日(月) 、20 日(火)の 2 日間にわたって、 堀江美沙さんにもご協力いただきました。驚くことに、 第 13 回 町屋模型作り教室を開催しました。参加者 堀江さんは小学生のとき、第7回の模型教室に参加し は町内小学校の5・6年生 10 名。今年は内山地区に た経験があるとのこと。今度は教える立場になって、 ある伝統的建造物群の建物を実際に見て、それから模 カッターの使い方や庭・樹木の作り方を子ども達に指 型製作に取りかかろうということで、場所を有田町役 導してもらいました。 場東出張所の 2 階に移して行いました。 子ども達は思い思いの町屋を作り、それぞれ特徴の ある町並みを完成させました。 季 刊 『皿 山』 通巻 99 号(平成 25 年 9 月1日) 編集・発行 有田町歴史民俗資料館 〒 844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山 1 丁目 4-1 ☎ 0955-43-2678 FAX0955-43-4185 インターンシップの有工生が先生に URL:http://rekishi.town.arita.saga.jp