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魔族大公の平穏な日常 - タテ書き小説ネット

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魔族大公の平穏な日常 - タテ書き小説ネット
魔族大公の平穏な日常
古酒
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
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このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
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囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
魔族大公の平穏な日常
︻Nコード︼
N0520CM
︻作者名︼
古酒
︻あらすじ︼
ちょっとしたアクシデントから、世界を統べる魔王に次ぐ大公の
座に就くことになってしまったジャーイル。そんな大公としての生
活も二年をなんとか平穏無事に乗り切り、三年目を迎えていた。ブ
ラコンで我侭な妹、世界最強で美貌の女王様、女好きで何を考えて
いるのかよくわからない親友、やや変態だが真面目な魔王様、厳格
だが頼りになる家令、無表情だが時々やらかす美人副司令官、賑や
かなオッサン等々に囲まれつつ、ジャーイルの平穏な日常は今日も
1
次回更新未定。
続いていくのであった。﹁新任大公の平穏な日常﹂の続編です。
後夜祭編
2
0.プロローグ
﹁大演習会の開催とか、はたから見てると簡単そうに見えたのに、
やってみたらハンパなく大変でした。やっぱり見るとやるとじゃ大
違いですね﹂
⋮⋮⋮⋮。
﹁でも他の大公って、いつもものすごく楽そうですよね。長年やっ
てるともうちょっと簡単に、なんでもサクッと決められるようにな
るのか、さぼってるのか、どっちなんでしょうね?﹂
⋮⋮⋮⋮。
﹁だいたいねえ、なんだって魔族ってああ脳筋が多いんでしょう。
すぐ喧嘩するから、見てるだけで疲れますよね。はあ﹂
⋮⋮⋮⋮。
﹁⋮⋮というわけでこのところの俺は、とっても疲れてるんですよ。
わかってもらえます? この気持ち﹂
⋮⋮⋮⋮。
﹁ちょ⋮⋮うわ、い、いたいいたいいたい。魔王様、痛いですって
!!﹂
いくら腕を叩いてきても無駄だ!
いっそこの金髪がズルムケになるまで掴んでいてやろうか!?
﹁黙れ、この馬鹿。脳筋というなら、お前こそ脳筋だろうが。あ?
お前には見てわからんのか、この私が仕事中だということが!﹂
﹁えー今更﹂
﹁何が今更だ、何が!﹂
3
こいつ⋮⋮魔王をなんだとおもっているのだ。
手を放すと、ジャーイルの奴は大げさに頭を抱えてしゃがみこん
だ。
﹁あーあ。また頭蓋骨が⋮⋮ほんっと、乱暴なんだから﹂
脳味噌まで砕ければいいのに。
﹁なんならお前が代わりに引き受けるか、この書類の束の処理を!﹂
そういいながら、机の書類の束をバンバンとたたいてみせると、
ジャーイルは実にさわやかな笑みを浮かべつつ、こう言い放った。
﹁命令ならやりますけど、世界の支配者である魔王ルデルフォウス
陛下ともあろうお方が、部下に仕事をおしつけて自分はのうのうと
しようだなんて、どうなんでしょうね?﹂
この顔だけさわやか男め。腹の立つ。
むしろ、私は魔王としては、仕事熱心な方だ。
前魔王など、ほとんど王座に座って命令するばかり。二百年の間、
奴のもとで大公として仕えたが、その間、一度として事務仕事をし
ているところなぞ、目にしたこともなかったというのに。
本当にこの金髪をむしって、ハゲさせてやろうか?
⋮⋮そうなるとさすがにウィストベルも愛想をつかすかもしれん
⋮⋮か?
しかしそんなことよりも、今回もまた、うちの衛兵や儀仗兵たち
は一体何をしているのだ?
なぜ、こいつは毎回、誰にもとがめられもせず、したり顔で執務
室に入り込んでこれるのだ?
魔 王 城 だ ぞ !?
いくら七大大公の一とはいえ、知らせもなく入り込む権限はなか
4
ろう。
警備を見直す必要がありそうだ。
﹁ところで、丁度いいから知らせておく。御前会議の日程が決まっ
た。明日には一度目の正式な伝令を、それぞれの城に向かわせる﹂
﹁ああ、一回目の知らせは一ヶ月前、二度目は十日前、でしたっけ﹂
どうでもよさそうなことなのに、よく覚えてるなこいつ。
﹁そういえば、デイセントローズの具合はどうなんですかね?﹂
﹁どう、とは?﹂
﹁ほら⋮⋮陛下の弟君が、かなりこっぴどくやったんでしょ?﹂
なぜそこで、わざわざ私の弟、と強調する。確かに大公ベイルフ
ォウスは紛れもなく血のつながった弟だが。
﹁ああ⋮⋮そなたの親友がか﹂
﹁参加には問題ないようで?﹂
﹁ないだろう。先日、最後の訪問先であるプートの城を訪ねたそう
だからな﹂
﹁ああ、そうなんだ。それはよかった﹂
⋮⋮笑顔が嘘くさい。実に胡散臭い。
﹁ウィストベルには門前払いをくらったそうだ﹂
﹁で、しょうね。となると⋮⋮結局デイセントローズは望み通り全
員と同盟、とはいかなかったようですね﹂
﹁デーモン族の大公とはな。だが、デヴィル族の大公全員とは同盟
を結べたようだが﹂
私がそういうと、ジャーイルは意外そうな顔をした。
﹁へえ。全員と、ですか?﹂
﹁ああ。全員と、だ﹂
﹁ふうん⋮⋮﹂
珍しく、まじめな顔をして黙り込む。
5
﹁まあ⋮⋮予も気を配るが、お前も気をつけておいてくれ﹂
﹁⋮⋮何にです?﹂
﹁もちろん⋮⋮そなたの親友が、やりすぎないように⋮⋮だ﹂
ジャーイルは沈思黙考し、それから首肯した。
﹁仰せの通りに、陛下﹂
ベイルフォウスが何かしでかしたとして、止められるならこいつ
だろう。
﹁ところで、一つ、お聞きしたいんですけど﹂
﹁何だ?﹂
弟のことか、それともデイセントローズのことか。
﹁魔王様って⋮⋮騎竜の方法、誰かに習いました?﹂
予想だにしなかった問いに、一瞬、意味を把握しかねる。
﹁騎竜、だと?﹂
私が確認のため尋ねると、ジャーイルは真剣な表情でうなずいた。
なんだ⋮⋮なにか特別な方法でもあるのか?
﹁もちろん、習った﹂
﹁習ったんだ⋮⋮﹂
脳天気なジャーイルには珍しく、ずいぶんと暗い声音だ。
﹁大半の家では父が子に教えるというが、予の場合は教師からだ﹂
﹁習ったんだ⋮⋮﹂
奴はもう一度そういって、深くため息をついた。
﹁ベイルフォウスもですか?﹂
﹁ああ。弟には予が教えた﹂
この情報に、なんの価値があるというのだろうか。
いつもの雑談かとも思うが、それにしてはジャーイルの態度は真
6
剣そのものだ。
﹁なんで、習ったんです?﹂
﹁なんで、とは、どういう意味だ﹂
﹁魔王様なんだから、習わなくたって竜の一体や二体⋮⋮﹂
﹁無茶をいうな。いくら予でも、子供時分からこの強さではない。
それに、不用意に竜に近づいて、瀕死の重傷を負う子供が毎年何人
もいるのを知らないのか?﹂
その言葉に反応したジャーイルの表情には、絶望の色がありあり
と浮かんでいた。
何がそんなにショックなのだ。
本当に知らなかったのだろうか。だが、だからといって、こんな
ガックリとするものだろうか。
﹁まさか、マーミル嬢が竜に噛まれでもしたのか?﹂
あの小さな姫は、どうやらうちの弟のお気に入りでもあるらしい。
デイセントローズを瀕死の状態においやった原因も、彼女にある
のだと小耳に挟んだのだが。
﹁まさか⋮⋮いや、でも、そうなってもおかしくはなかったという
ことか⋮⋮﹂
後半はほとんど独り言だ。
﹁他には?﹂
﹁他?﹂
﹁なんかこう⋮⋮魔族としての、常識的な考え方、というか、やり
かた、というか、慣習、というか﹂
急に何を言い出すのだ、こいつ。
う ざ い。
この、涙目でオロオロしだすところがもうなんかうざい。
7
﹁儀式のことが知りたければ、儀典長にでも聞くがいい。居場所は
役所の最奥だ。とっとと行け﹂
﹁ちょ、魔王様、ちが⋮⋮﹂
私はジャーイルの頭をめがけて奴を廊下に蹴り出した。
8
1.そうしてまた、僕の平穏な日常は始まっていくのです
御前会議かぁ。面倒くさいな。
⋮⋮いや、俺は当日に魔王城へ行けばいいだけなんだけど。
御前会議というのはあれだ。
四年に一度開かれ、侯爵までの配下の一部を引き連れて、俺、ジ
ャーイルを含めた七大大公が魔王城に集まり、魔王様の前でこの四
年に領地で起こったあれやこれやを、なんやかんと報告しあう会な
のだ。
いや、俺が報告するんじゃないけど。
半年ほど前に行われた御前会議は、当日にデイセントローズがマ
ストヴォーゼへと大公位をかけた挑戦をしたため、中止となった。
そうしてそれまで爵位さえ得ていなかった、無名のデヴィル族の
青年デイセントローズが、同じくデヴィル族のマストヴォーゼを破
って大公位についたのだ。
大公マストヴォーゼの同盟者であった俺は、その義務により彼の
妻スメルスフォと、その間に生まれた二十五人の娘を引き取ること
になり、今に至る。
二十五人のうちの四女と五女は双子で、俺の妹のマーミルとはと
ても仲がいい。あんまり仲がよすぎて、最近では三つ子だったかと
思うくらいだ。
⋮⋮見かけはデヴィル族とデーモン族なので、全く似ていないが。
マストヴォーゼの子らは、みんな背の高さが違うだけで外見はそ
っくりだ。娘だと知っていなければとても性別の判別など⋮⋮ごほ、
9
ごほっ。
だって仕方ないじゃないか。デヴィル族の見た目なんて、動物の
複合体だぞ。俺には判別できない⋮⋮美醜もわからない⋮⋮。
逆にデヴィル族の者だって、俺たちデーモン族の美醜などわから
ないだろう。
それはともかくとして、御前会議が開催されることを、せっかく
魔王様から事前に教えてもらったんだ。正式な伝令は明日としても、
部下に先に知らせておくのはかまわないだろう。
俺は<断末魔轟き怨嗟満つる城>に帰城すると、まっすぐ執務室
に向かった。
とりあえず、資料やらなんやら用意してくれるのも、会議の席で
実際に報告してくれるのも、副司令官だからな。四人いるうちの、
誰か一人くらいは城にいるだろうか?
フェオレスじゃないといいな⋮⋮俺は先日の、妹たちの騎竜練習
の件で、まだちょっぴり傷ついているのだ。俺の見学する前で完璧
な指導をしたフェオレスに、ほんの少し、嫉妬中なのだ。
俺に口出しするな、見ていろといって、見事な教師役をつとめた
フェオレスに⋮⋮。
思い出すと、涙が出そうだからやめておこう。
﹁ワイプキー。今日は城で副司令官を見たか?﹂
執務室に入り、筆頭侍従のワイプキーに尋ねると、彼は眉間に深
いしわを刻んだ。ちなみにこのワイプキーは、デヴィル族の多いこ
の城では珍しいデーモン族だ。一見したところ、髭を生やした上品
な紳士だが、それはあくまでも見かけだけ。内面はフザけたオッサ
ンだ。
﹁あーーー。はあ、まあ⋮⋮﹂
なんだよ、そのぐだぐだな返事。
10
そうか⋮⋮なるほど。
ワイプキーが口ごもる副司令官といえば、たった一人しかいない
ではないか。
﹁ジブライールを見たんだな?﹂
俺がそう指摘すると、ワイプキーは信じられない、とでもいいた
げな視線を向けてきた。
﹁だ⋮⋮旦那様が、鋭い、だと?﹂
俺がいつも鈍いみたいな言い方はヤメロ。
﹁ところで、いつにいたしましょう?﹂
は? なぜ急に質問に転じる?
﹁明日にでも伺候させましょうか? 誰のこと申しているのか、察
しのよい旦那様には、もちろんおわかりでしょうが﹂
せっかくのダンディっぷりを台無しにする、このにやついた顔。
﹁気遣いは結構。エミリー嬢にわざわざ足をお運びいただくような
ことは、何もない﹂
﹁しかし、旦那様。なんでも、このあいだ娘をご信頼なさった時の
お礼、とやらをいただけるお約束なのでしょう?﹂
ぐ⋮⋮こいつ⋮⋮。
そうなのだ。俺は、マーミルの呪詛を解くための実験のさい、エ
ミリー嬢の手を借りたのだが、まだその礼ができていないのだった。
だが、それはそれ。
話を逸らそうという魂胆がミエミエなんだよ、ワイプキー!
﹁ジブライールを見たんだな?﹂
俺が話をそもそもの話題に戻すと、ワイプキーはあきらめたよう
な表情で、大げさに肩をすくめた。
﹁お見かけはしましたが、さて、あれはいつのことでしたかな? 11
どちらにせよ、朝早い時間⋮⋮旦那様が魔王城においでの時間帯で
あったと思いますので、もうこの城にはいらっしゃらないのではあ
りませんかねぇ﹂
こいつ、とぼけやがって⋮⋮。
﹁ジブライール公爵に何のご用です? 万が一、まだ城においでの
ようで、お見かけしましたら、私からお伝えしておきますが?﹂
﹁ワイプキー﹂
俺はため息をつきながら、執務机の椅子に腰掛けた。
﹁ジブライールは俺の副官の一人だぞ。この間から、妙な勘ぐりを
しているみたいだが、エミリー嬢もジブライールも、俺が困ってい
るときにたまたま居合わせたんで、手伝ってもらっただけだ。それ
以上の意味はない﹂
大演習会の後の舞踏会で、ジブライールと踊ると言ったらこのエ
セダンディ、後ろから歯ぎしりしやがったからな。
一女性魔族と踊るくらいで、いちいち侍従に不満を示されたので
は、ますます俺の婚期が⋮⋮ごほっ、ごほ。
いや、ともかく、言うべきことは、きっちりと言っておかねばな
らない。
﹁あんまりエミリー嬢を焚きつけるなよ。彼女にだって、自分の好
みってものがあるだろう﹂
﹁もちろん、ございます。娘の好みに、旦那様、ドンピシャ﹂
上司を指さすな、この髭め。しかも両手使って。
﹁本当ですよ、旦那様。うちの娘は私に似たもので﹂
うわ、気持ちわる。ウインクしてきやがった。
﹁そっちの趣味はない﹂
﹁いやですよ、旦那様。私だって性癖はノーマルですよ。旦那様の
好きそうな、清楚で可憐な妻を、世界一、愛している、愛妻家です
よ。ただ⋮⋮わかるでしょ? 権力が大好きなだけなんです!﹂
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なんか自慢げに言ってくるんだけど。その撫でてる髭、抜いてい
いかな? 一本残らず。
ほんと、ワイプキー。君の正直さには、時々本気で感心するよ。
なぜこんなフザケたオヤジが、あんな清楚な奥方を得られたのか。
やはりあれか、ギャップというやつなのか。それとも誰しもやはり、
自分とは正反対な相手に惹かれるのか?
っと、なんでこんなに話が脱線したんだ。
﹁とにかく⋮⋮俺が副司令官を探しているのは、御前会議の開催日
が決まったことを、知らせておこうと思ったからだ。正式な伝令は
明日、魔王城よりやってくるとは思うが﹂
﹁そうでございますか。いつでございましょう? 関係部署に知ら
せておきますが﹂
﹁各部署には魔王城から知らせが来てからでいい﹂
﹁つまり⋮⋮先にお知らせいただける私はと・く・べ・つ﹂
ワイプキー。今日は絶好調だな。気持ち悪い方向に。
﹁筆頭侍従に知らせたぐらいで、特別もなにもないもんだ﹂
だいたい、特別というなら、俺にとって臣下として特別なのは家
令のエンディオンであって、お前ではない。断じて。
そのままワイプキーの髭面を見ていると、どうしても髭をむしり
たい気持ちが沸くのを抑えられなかった俺は、筆頭侍従から離れる
ことにしたのだった。
***
﹁お・に・い・さ・まー!﹂
おっと。
うざい髭から逃れたと思ったら、今度はかしましい妹に横から抱
きつかれてしまったではないか。
13
﹁マーミル。大勢の面前で、いきなり抱きつくのはどうかと思うぞ。
たとえ、兄と妹という関係でも、な﹂
マーミルの肩を押して離れさせる。
﹁あら、お兄さま。私だって、時と所と場合は考えていますわ。本
棟でなら、こんなことしませんけど、居住棟なんですもの。お家な
んですもの。お家で従僕や侍女の目まで気にして、兄妹が仲良くで
きないだなんて、そんなの間違ってますわ﹂
む⋮⋮また両手を胸の前でぎゅっとしてからの、この上目遣い。
おかしい。絶対誰かが妹に吹き込んだ結果だ。
四女と五女か? いや、あの子らはそんな小細工をしそうにない。
侍女のアレスディアか? いや、デヴィル族一の美女である彼女
のことだ。男には媚びる仕草なんて、思いつきもしないだろう。
﹁⋮⋮いっとくが、お兄さまにやってもダメだぞ﹂
﹁な⋮⋮何が、ですの⋮⋮﹂
急にあたふたし出した。
やっぱり、わざとだったんだな。
﹁逆に気持ち悪い。どん引きだ﹂
﹁⋮⋮ベイルフォウスめ。何というでたらめを!﹂
妹は小声で吐き捨てるように言った。
しかし、ベイルフォウスめか!
あいつはこの間から、マーミルにろくでもない話ばかり聞かせて
るんじゃないか?
もういっそ、接近禁止令でもだすか?
﹁まあ、しかしそうだな。お前のいうとおり、居住棟でまでお行儀
よく、というのじゃ、さすがに堅苦しすぎるかもな﹂
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俺の言葉を聞いて、妹は大きな赤い瞳をキラキラと輝かせ、再び
抱きついてきた。
﹁そうでしょー。お兄さまなら、わかってくださると思ってました
わ!﹂
仕方がないので俺によく似た赤金の髪を撫でつけてやると、妹は
さんざん俺の腹に顔を押しつけ、頬をすりすりしたのち、ようやく
満足げに離れた。
﹁で、何か用だったのか?﹂
﹁用がなければ、抱きついてはいけません?﹂
いや⋮⋮別にダメとは言わないが⋮⋮。
﹁でも、そうですわね⋮⋮せっかくなのでおたずねしますけど、騎
竜練習の二回目はいつ、してくださいますの? 次は竜具をつける
のだって、フェオレス先生が言ってましたわ﹂
この間までフェオレス公爵と呼んでいたはずなのに、一回教えて
もらっただけで﹁先生﹂だと?
なんだろう、この胸を駆けめぐる敗北感⋮⋮。
﹁せっかく、竜の顎を撫でられるようになったんですのよ。時間を
おきすぎて、この間習ったことが全部台無しになってしまうのは嫌
ですわ﹂
﹁そうだな⋮⋮いや、しかし、この間はたまたまフェオレスがいた
だけで、彼も忙しい身だし、毎回指導役をお願いするわけにもいか
ないだろう﹂
なんたって、フェオレスは軍団副司令官とはいえ、公爵として屋
敷を構える領主でもある。たまたま大公城にいることはあり得るが、
普段は自分の城で忙しく仕事をしているだろうからな。
教師役は俺ではダメなようだし?
﹁じゃあ、イースでどうかしら、お兄さま﹂
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イース? ああ、マーミルと双子に剣を教えてくれている、デヴ
ィルの従僕か。あいつなぁ⋮⋮ちょっと頼りないんだよな⋮⋮。
﹁それと、もちろんお兄さまは毎回、見学してくれるのでしょ?﹂
なんだと?
珍しくやる気満々だったのに、お前の教える内容はすべて間違っ
ている、と言われて教師役を放棄せざるを得なかったこの俺に、他
の奴が教えるのを、黙ってみていろというのか。
﹁時間があればたまにはな﹂
﹁お兄さま!﹂
そっけない俺の返答をうけて、マーミルは両手を腰に当てながら、
目をつり上げる。
﹁いつもそれ! 時間があれば、そればっかり! 時間というのは、
自分で作るものですわ!﹂
誰だ、妹にこんな面倒くさい考えを吹き込んだのは。ベイルフォ
ウスめか。
﹁わかった、わかった⋮⋮なるべく時間を作るよ﹂
俺がうなずくと、妹は力強く握られた拳をかかげた。
﹁よぅし!﹂
⋮⋮大丈夫か、うちの妹。
どんどんおかしくなっているのではないだろうか。
お前は最終的には、なにを目指しているのだ。
兄はとても、心配です。
16
2.会議の前にうろちょろするのは、今後控えようかと思います
﹁いかがですか、閣下。そろそろ、出発のお時間かと思うのですが﹂
正装に着替えている俺を、扉の向こうで待ちかまえているのはウ
ォクナンだ。
前回の御前会議の時に俺がなかなか会場に現れず、みんな大層気
をもんだんだそうだ。それで今日は早朝からウォクナンに押し掛け
られて、せかされている。
確かに、前回は魔王城の外まで全員で迎えにこられたからな。
ちなみに、迎えに来ているのはウォクナンだけじゃない。
どうやら会議に参加する全員が、この<断末魔轟き怨嗟満つる城
>の前庭でそろって待っているらしい。
なにこの、みんなで引きこもりの子を誘って、外に遊びに連れて
いってあげようよ、みたいな感じ。
たった一回、ギリギリの到着だっただけ、でこんなに締め付けら
れないといけないんですか?
前回だってちゃんと間に合ったじゃないですか。
遅刻なんて絶対にしませんよ。
そんなに信頼してもらえてないんですか。
だいたいあのときだって、別に俺が最後じゃなかったし⋮⋮。
最後の仕上げとして、床につきそうなほど長いマントを羽織って
出ていくと、軍団副司令官の一人、リス顔のウォクナンは、目を輝
かせながらこう言った。
﹁おお、今日もおいしそうな黄金の⋮⋮いや、なんでもありません﹂
まて、このリス。
17
今俺の頭を見て﹁おいしそう﹂、と言ったか?
言ったな?
﹁ようし、ウォクナン。お前は前を歩け。絶対後ろに立つな﹂
﹁ええ、なぜですか?﹂
﹁かじろうとするからに決まってるだろ!﹂
﹁いやだなぁ。閣下の頭に歯をたてたりなんて、しませんよ﹂
よだれを垂らしながら言われても、ぜんぜん説得力ありませんか
ら。
お前、ほんとに今度振り向いて口開けてたら、前歯抜くからな。
ちなみに、俺の軍団副司令官の一人であるデヴィル族のウォクナ
ンは、顔はリスで大変可愛いのだが、隙あらば俺の頭をかじろうと
狙ってくる、不逞の輩だ。
リスなんて、力も弱いだろ?
いやいや。首から下はゴリラですから。ゴリラマッチョですから。
﹁だいたい、別に全員で待ってくれなくていいんだぞ。揃って魔王
城へ行くなんて、格好悪い⋮⋮﹂
俺がそうつぶやくと、ウォクナンが振り返って曰く。
﹁なにをおっしゃるのですか、大公閣下。臣下をぞろぞろ引き連れ
て颯爽と先頭を歩けるだなんて、ものすごく格好いいじゃないです
か! それも、三十数頭の飛竜を率いて空を駆ける! 最高に気持
ちいいじゃないですか!﹂
リスゴリラくん。どうやら君と僕とでは、価値観が大いに異なる
ようだ。
城の前庭に出るとそこにはウォクナンの言葉通り、三十数頭の竜
がずらりとその巨体を並べていた。そしてその前には、竜と同じ数
だけの臣下⋮⋮今回の御前会議に同伴する面々が、膝をつき整然と
列をつくっている。
18
﹁閣下。随員、揃ってお待ち申し上げておりました﹂
ジブライールの音頭で、一斉に頭をさげられた。
だから俺は、こういう仰々しいのは嫌いだっていってるのに。
﹁あ、うん。待たせてごめん﹂
いや、ほんとに。
俺をここでこうして待ってるってことは、みんなもっと早くから
支度してやってきてるってことだからね。それぞれの城や屋敷から。
やっぱり非効率だよね。
みんな自分の城からサクッと魔王城へ直行した方がいいんじゃな
いのかな。ほら、待たされてみんなの機嫌も⋮⋮。
うん、あれ?
なんでみんなそんなに上機嫌なの?
あれなの?
協調性ないくせに、﹁へいへい﹂言いながら列をなしていくのは
好きなの?
それとも、遠足気分なの?
そうだ、列の最後を飛べば、少しは恥ずかしさもマシなのでは?
ドヤ顔で先頭をきらないといけないと考えるから、背中がむず痒
くなるんだよ。
﹁ウォクナン。よかったら、先頭を飛ぶか?﹂
気持ちいいんだろ?
﹁なにをおっしゃるんです、大公閣下。私はもちろん、閣下のすぐ
後ろに⋮⋮﹂
よだれをふくな、このリスめ。 ﹁わかった⋮⋮とにかく、出発しよう﹂
19
グダグダやってても仕方ない。
こんなの気にしなければなんでもないさ。
たぶん他の大公の何人かだって、こうして一行を引き連れて魔王
城へやってくるのだし。それが当たり前なんだ。
気にしてるのなんて、俺だけなんだ。そうなんだ。
そう言い聞かせて飛竜を飛ばしたが、後ろを振り返るたびに気持
ちがしぼんでいくのを止められなかった。
ふと地上に視線をおとせば、空を見あげる子供たちが、こちらを
指差しているのが目にはいる。
よけい心に突き刺さった。
﹁お母さん、見てあれ。大人なのに一人でお出かけできないのかな﹂
とか言われてるんだろうか。
せめてもの幸いは魔王城に着いた時間帯が早かったので、他の大
公と鉢合わせせずにすんだことだ。
そこは早朝から押し掛けてくれたウォクナンに感謝しよう。
﹁先に魔王様に挨拶をしてくる﹂
飛竜の背から臣下全員が降りるのを待つつもりはない。
一番近くにいた副司令官、ジブライールにそう伝えて離れようと
したのだが、マントをつかまれた。
﹁ジブライール?﹂
﹁あ⋮⋮す、すみません﹂
彼女は葵色の瞳に一瞬、とまどいの色を浮かべた。どうやら、手
が出たのは無意識だったようだ。
が、咳払いを一つすると、すぐにいつもの冷静な表情に戻って、
背筋をピンと張る。
﹁では、閣下。我らもご同行を﹂
﹁嫌だ﹂
20
やばい。ジブライールの申し出を、つい本音ダダ漏れで反射的に
断ってしまった。
嫌だ、じゃなくて、駄目だ、だろ。せめて!
﹁あ、いや⋮⋮会議前だぞ? ルデルフォウス陛下だって、忙しい
に決まってる。そんなところへみんなで押し掛けるのはどうだろう。
俺はダメだと思う。きっと迷惑だ。うん﹂
﹁閣下がそうお考えであれば⋮⋮﹂
ジブライールさんは怪訝な表情だ。
本気で忙しいと思うなら、お前も行かない方がいいんじゃないの
か、って思ってるんだよね。そうだよね。そりゃそうだよね。
だが、魔王城にお邪魔するときは、それが公式行事のためであれ、
非公式の訪問のためであれ、魔王陛下に挨拶をすることに決めてい
るのだ。
俺はこれでも、誰よりも忠実な臣下のつもりなのだから!
﹁じゃあ、そういうことで⋮⋮﹂
﹁は。では、会議室でお待ちしております、閣下﹂
俺が手を挙げると、ジブライールは両手の平を胸の前で交差して、
こちらに向ける、軍隊式の敬礼で送ってくれた。
だから、笑っちゃうから、それいらないのに。
***
今日はさすがに御前会議の日なのだから、魔王様も執務室にはい
ないだろう。
いるなら謁見室か⋮⋮いや、今頃あの、真っ黒な衣装に着替えて
いる最中かもしれないな。
さすがに衣装部屋にずけずけ入っていくのは、いくらなんでもな
ぁ。
21
俺がもはや、この城で顔パスになっているとはいえ、そこまで入
り込んだら魔王様だって許してくれないだろう。
まあ⋮⋮顔パス⋮⋮というか⋮⋮⋮⋮なぜか、気づいてもらえな
いんですけどね⋮⋮ええ、魔王城では特になぜか⋮⋮俺の存在が⋮
⋮よけいに薄い⋮⋮。
﹁こんなところで何をしておるのじゃ、ジャーイル﹂
長い廊下の途中でうずくまっていると、よく知った声が耳朶を叩
いた。
大公ウィストベルだ。
表向きは七大大公の第四位、その本来の実力は魔王ルデルフォウ
ス陛下をも凌ぐ、魔族最強の女王様だ。
艶々とした長い白髪をなびかせた絶世の美女は、俺と同様の赤金
の瞳にあふれんばかりの嗜虐性と覇気をみなぎらせている。
このまま座っていたら、蹴られてしまうかもしれない。魔王様な
ら喜ぶだろうが、俺は泣いてしまう。
そうなる前に、立ち上がって彼女を迎えよう。
﹁ウィストベル。陛下を探しておいでで?﹂
蹴るために?
魔王ルデルフォウス陛下がウィストベル大公に蹴られて喜ぶ性癖
の持ち主だというのは内緒だ。
﹁いや、強いて言えば、主を探しておった﹂
そう言って、ニヤリと笑う。
正直に言おう。ウィストベルは大変に美しいが、そんな笑いを向
けられると、俺はヒュンってなってしまうので、勘弁願いたい。
たとえ視線を下にずらせば、豊かな谷間がのぞけるという、この
状況でもだ。
22
そう、会議だというのにウィストベルは今日もまた、肩も腕も足
もがっつり露出した、かつ身体の線の出まくった裾を引きずるドレ
ス姿なのだった。
あと一歩でその谷間に触れそうな位置まで近づいてくると、彼女
は俺の頬に手を伸ばしてきた。細い腕に何重にもつけたブレスレッ
トが、シャラシャラと鳴る。
ちょ⋮⋮近いんですけど、ウィストベル。
﹁ちゃんと、デイセントローズの申し出を断ったようじゃの?﹂
ああ、その件か⋮⋮そういえば、ウィストベルは俺がデイセント
ローズの同盟を受けるのではないかと、疑っていたのだったか。
いや、確かにはっきりどうするかとは伝えていなかったが⋮⋮。
﹁我との同盟だけで十分じゃと、主にもようやく得心が行ったのだ
な? よい子じゃ﹂
頬を撫でられてぞわぞわしたので、俺はウィストベルの手をそっ
と握って一歩下がり、それから腕を降ろした。後退したのはあれだ
⋮⋮そのまますっと降ろしてしまうと、触れてしまいそうだったか
らだ。その⋮⋮柔らかいところに。
﹁まあ、あのラマとは今後一切、何があっても同盟は結びませんの
で、ご安心を﹂
手を引こうとしたが、ウィストベルが放してくれない。
﹁本当じゃな? その言葉に、嘘偽りはないな?﹂
彼女は薄く笑っているが、瞳の奥には鋭く冷たい光が宿っている。
あと、またいつもの謎怪力のせいで、俺の手はギシギシいってい
る。
痛い⋮⋮。
﹁誓って﹂と、答えると、ようやく力をゆるめてくれた。
23
﹁ウィストベル、会議室に行きましょうか? ほら、他の大公たち
もそろそろやってくる頃かと⋮⋮﹂
魔王様に会いたかったが、仕方がない。まあ陛下もいろいろ忙し
いだろうしな。今日は遠慮しておくか。
﹁ルデルフォウスが会場に入るまでに揃っておればよいのじゃ。そ
う急く必要もあるまい? それとも何か、お主は我と二人でいるの
は嫌だと申すのか?﹂
﹁ま⋮⋮まさか、まさか⋮⋮﹂
正直、ちょっと怖いです。いろんな意味で。
﹁この間、庭を散策すると約束したであろう? 今から魔王城の庭
を歩くというのはどうじゃ?﹂
そういえばデイセントローズの食事会で、今度ゆっくり散歩をし
ようとか、約束してたんだっけ。
﹁いや、でも⋮⋮さすがにそれは、時間が⋮⋮﹂
ちらちら廊下に視線を走らせる俺。
なぜ誰も通りがからない?
なぜいつも、この城には衛兵の姿がない?
ちょっと警備を見直したほうがいいんじゃないのだろうか。
いくら外部と会議室をつなぐ廊下ではないとはいえ!
﹁気になるなら、庭の散策は後でもよい。だが、少し小部屋で休憩
する程度の時間ならあろう﹂
そう言って、じりじり進み寄るウィストベル、じりじり後退する
俺。
はっ!
背中に鋭い殺気を感じた俺は、とっさにウィストベルをかばうよ
うにして振り向いた。
24
だが、そこには金ぴかの剛剣を鞘から抜きつつある魔王、ルデル
フォウス陛下の姿が⋮⋮。
﹁貴様⋮⋮我が魔王城の廊下で、何を不埒な行為に及ぼうとしてお
る⋮⋮しかも、ウィストベルと⋮⋮!﹂
ちょ⋮⋮。
﹁ちが⋮⋮違いますよ、そんなわけないでしょ!?﹂
﹁私をとっさに庇おうとしたのじゃな⋮⋮﹂
うわお、ウィストベル!
そんな甘い声を出しながら、ぴったりと背中にくっついてくるの
はやめてください!
当たってる、当たってるから!
魔王様から発せられる殺気が、どんどんしゃれにならないレベル
に⋮⋮!
﹁貴様⋮⋮もう我慢がならん、殺す!﹂
ぎゃああああーーー!
マーミル、お兄さまはもう二度とお前の元に帰ることができない
かもしれませんーー!!
***
久々に本気で頭をやられた。
きっと頭蓋骨にヒビが入っている。
しかし、納得がいかない⋮⋮別に俺の方からウィストベルに迫っ
たわけではないというのに⋮⋮。
ちなみに、あの後、魔王様とウィストベルは二人でどこかに行っ
てしまった。たぶん、いつもの儀式を行うのだろう。
儀式の内容? 聞いてはいけない。死にたくなければ。
25
﹁おい、どうした、ジャーイル﹂
なんとか会議室にたどり着くと、派手な赤毛がニヤニヤ笑いなが
ら近づいてくる。
俺の親友にして魔王様の実弟︱︱外見も性格も全く似ていないが
︱︱、デーモン族一の美青年と名高い大公ベイルフォウスだ。
﹁ずいぶん男前なナリじゃないか﹂
こめかみの切り傷のことなら、君のお兄さんのせいです。
手を伸ばしてきたので、触れられる前に阻む。
﹁ヤメロ。触るな、崩れる﹂
﹁崩れる?﹂
﹁頭蓋骨が﹂
﹁は?﹂
だから、君のお兄さんがね⋮⋮。
会議室にはすでに、他の大公の随員も含め、百人ほどの姿があっ
た。
俺の随員はさっきも言ったとおり三十数人だが、うん⋮⋮ベイル
フォウス。君の同伴者はまた少ないね。一桁だね。やる気ないのが
みえみえだね。
﹁ジブライール﹂
待て、ベイルフォウス。なぜお前が俺の副司令官の名を呼ぶ。
そして、ベイルフォウスに呼ばれて大人しくやってくる、ジブラ
イール。
﹁どうかなさい⋮⋮閣下、その、お怪我は⋮⋮!﹂
﹁ああ、ちょっとね⋮⋮大したことはない。あ、ごめん。触らない
でくれないか﹂
ジブライールが懐からハンカチを出して、手を伸ばしてきたのだ
が、それは断る。割れてるから。触られたら、崩れそうでこわいか
ら。
26
﹁誰が⋮⋮こんなことを﹂
すっと葵色の瞳が細まり、ついでにぎゅっと握ったハンカチも縮
まった。
せっかくピシッとアイロンがきいてるのに、くしゃくしゃになっ
ちゃうよ?
﹁いや、ちょっと転んだだけだから、心配しないでくれ﹂
転んだだけで頭蓋骨は割れませんけど。
しかし、正直に魔王様にやられた、と言ったって、ジブライール
も反応に困るだろ。
﹁違う、ジブライール。なぜわざわざ呼んだと思ってるんだ。何も
わかってないな。そんな態度は誰も求めていない﹂
ベイルフォウスがため息をついた。
いや、お前がジブライールに何かを求めるなよ!
﹁こういう時はこう言うんだよ⋮⋮﹃私が傷口を舐めて治してさし
あげます﹄ってな﹂
ちょ、おま⋮⋮。なんつー下品なことをいうんだ!
ほら、真面目なジブライールが真っ赤になってるじゃないか。
﹁おい、ベイルフォウス! お前ほんとにいい加減にしろよ! マ
ーミルのことといい、うちの家族や配下にいらないことを﹂
﹁そんなこと、できません!﹂
ベイルフォウスの肩を押して間に入ろうとしたら、ジブライール
に背中を強く押されてしまい。
﹁うお﹂
﹁あ?﹂
あああああああ!
27
ちょ⋮⋮ちょ⋮⋮!!!
あああああああ!!
ゴンッて! ベイルフォウスの頭とゴンッて!!
ああ、俺の⋮⋮俺の⋮⋮頭蓋骨⋮⋮が⋮⋮。
﹁ジャ、ジャーイル閣下!?﹂
﹁おい、ジャーイル?﹂
頭蓋骨が割れる音を、繊細な俺は遠くで聞いていた。
28
3.七大大公って、誰かと誰かが喧嘩しないと気が済まないので
しょうか?
意識を取り戻したら、なんか始まってました。
いや、別に⋮⋮気絶したわけじゃない。
ちょっとショックだったので、意識が飛んでいただけだ。
頭蓋骨の割れる音って、聞いたことある? ねえ、聞いたことあ
る?
そりゃあ、呆然とする俺の気持ちもわかってもらえるよね?
死なないけど、痛いんですよ!
さすがに痛いんですよ!
割れた骨が脳にささって⋮⋮って想像してみてください!
聞いてるだけでも痛いでしょ!?
呆然とうずくまる俺、最大限に焦るジブライール、駆けつけてく
る配下、そしてその騒動を見ながら、俺を指さしてゲラゲラ笑う薄
情な親友。
頭蓋骨はすぐに、会議室の入り口脇に控えていた魔王城の医療班
に治療されたのだが、俺の意識は戻らなかった。いや、戻らないっ
て言うか、しばし呆然としたままだったのだ。
繊細だから。なんといったって、俺は繊細なのだから。
そして気がついたら、会議はとっくにはじまっていた。
後から来たほかの大公たちと、挨拶を交わした気もしないではな
い。が、あんまりよく覚えていない。
もちろん、俺はちゃんと自分の席に座っていた。でも自分で座っ
たのか、座らせてもらったのか、覚えていない。
たぶん、変なことは口走っていないと思う。
29
そして現状、目の前で殺気だった二人が仁王立ちしながらにらみ
合っています。
ウィストベルとアリネーゼ?
いいや。
たくましいゴリラの腕を組み、獅子の顎髭をのけぞらせているプ
ートと、右手を腰にあてて、蒼銀の瞳に怒りをみなぎらせているベ
イルフォウスだ。
﹁なに、どうした。何が起こってるんだ?﹂
前回同様、七大大公は背後にそれぞれの臣下を従えており、壇上
では魔王様がまた姿勢正しく剛剣に手を置いて、厳しい表情でにら
み合う二人を見下ろしていた。
大公の席は奇数位と偶数位に分かれている。序列六位の俺と四位
のウィストベルは隣同士、そして二位のベイルフォウスは彼女の向
こうだ。
俺たちの正面には、一位のプート、三位のアリネーゼ、五位のサ
ーリスヴォルフが並び、俗に言うお誕生日席である魔王様の正面に
は、七位のデイセントローズが座っている。
そう、見事にデヴィル族とデーモン族に分かれているのだ。
﹁ウィストベル﹂
俺は右隣のウィストベルにそっと声をかけた。
﹁おお、ようやく意識が戻ったか、ジャーイル﹂
にらみ合う二人の緊迫感なぞ歯牙にもかけない様子で、女王様は
俺に微笑む。
ああ、俺が呆然としてるの、バレてたんだ。まあ、そりゃあバレ
バレですよね。
﹁戻りましたが、これはいったい⋮⋮﹂
30
俺の問いに、ウィストベルはつまらなさげに鼻で笑ってみせる。
﹁いつものことじゃ。プートとベイルフォウスが、殴り合いでもす
るのであろう。どうでもよい内容でな﹂
どうでもいい内容?
どうでもいいことで殴り合いするんですか?
﹁いつも言ってるだろ、いちいち他人のことまで口出しするんじゃ
ねえよ﹂
﹁他人のこと、と言ってすむ程度のことなら、もとより私とて口出
しはせぬ。黙っておれぬのは、陛下の治世をお守りしたいという意
志がまさってのこと。そなたが誰彼かまわず喧嘩を売って回り、騒
動を引き起こしてばかりいるのを見過ごしては、せっかくの平穏が
乱れてしまうと危惧してのことよ﹂
﹁あ? 俺が兄貴の邪魔になってるってのか?﹂
ベイルフォウスが一気に殺気立つ。
おい、ベイルフォウス。興奮しすぎて会議の席でも兄貴って言っ
ちゃってるよ? ﹁陛下﹂だろ、﹁陛下﹂!
プートもダメだよ、お兄ちゃんのこと絡めちゃ! ベイルフォウ
スは意外にブラコンなんだから!
﹁上等だ! 今日こそてめえの地位を奪ってやるよ!﹂
﹁貴様のようなヒヨッコが、百度かかってきても私に勝つのは無理
だと、まだわからんか﹂
一気に緊迫する場内。
だがしかし、それなりに慣れているのか、臣下たちは特に混乱す
る様子もみせずに立ち上がって、さっと壁際に引いた。
平然と座っているのは魔王様と七大大公だけだ。
だが、駄目だろ。このままおっぱじめたらダメだろ!
31
会議の最初に﹁相手が気にくわなくても、破壊行為をしたらいけ
ないよ﹂と、宣言するのはプートの役目ではなかったのか?
まさか開会宣言の内容が、毎回変わるわけでもないだろう。
そう言っているはずの本人が、戦う気満々ってどういうことだ。
魔王様の様子をうかがう。
あ、目があった。
陛下はすっと目を細め、かすかに頷く。
仕方ない、ちょっとがんばるか。
つい先日も、弟を頼む、的なことを言われたばかりだしな。
ベイルフォウスは後ろに回した右手の先に、術式を展開する。四
層百式が三陣。
対するプートは悠然と構えながら、それでもやはりベイルフォウ
スと同じ規模の術式を展開した。
ベイルフォウスの術式は真っ赤、プートのは金銀混じった黒だ。
しかし、合わせると百式六陣か⋮⋮しかも大公レベルでは、一気
に無効化するのも辛い。プートの方は面倒くさい術式組んでるし。
間に合わないか?
焦る俺の耳に、場違いに脳天気な声が届く。
﹁お二人とも、私のために争うのはおやめください﹂
デイセントローズだ。
奴のやや浮かれたような声に、二人の意識が一瞬それた。
よし、これなら!
俺は片方の手でベイルフォウスの術式を解き、もう一方でプート
の術式を無効化するための術を展開する。
だが。
32
﹁ふざけんな!﹂
一歩、遅かった。
プッツンしたベイルフォウスが術を発動させ、プートがそれを迎
え撃ったのだ。
﹁ああ!?﹂
﹁む!?﹂
あと少しだったんだが!
完全な解除は間に合わなかった。
それでも、ベイルフォウスの方はただの十五式までに減らせたし、
プートのほうもなんとか二十式で押さえられた。
その結果、ベイルフォウスの術はただの炎の鞭となりプートの右
腕をかすめ、プートの術は黒光りする一本の槍となってベイルフォ
ウスの左頬をなで、消滅する。
﹁はあ!? なんだよ、今の!﹂
﹁我が術が、無効化された?﹂
キレるベイルフォウスと驚くプート。
﹁誰だ、邪魔しやがったの﹂
プートの槍は、ベイルフォウスの左頬を切ったようだ。刻まれた
一筋の傷から、血がにじんでいる。それがまた、デーモン族一と名
高い美貌に凄みを与えているようだった。
一方で、プートの方は服を破いただけですんだようだ。
まあ⋮⋮これはあれだな、実力差というやつだな。
﹁俺がやった﹂
立ち上がると、二人から驚愕の瞳を向けられた。
まあね⋮⋮七大大公でさえ、術式の無効化とかしないんだろうか
らなぁ。
33
実質、俺は御前会議には初めての参加といっていい。前回は中途
半端だったからな。だから他の大公にとっては、いつもの光景なの
かもしれないが、そんなことは無視して言わせてもらう。
﹁会議とは戦うための場ではないだろう。相手の意見がどれほど気
に入らなくても、この場での破壊行為は認められないのではなかっ
たのか? 御前会議だぞ。意見の相違は言葉で解決したらどうだ﹂
妹に見せてやれないのが残念だ。俺だってね、言うときはいうん
ですよ、ビシッとね!
二人から厳しい視線を向けられるが、そんなことで怯む俺でもな
いのだ。
﹁ジャーイルの言うとおりじゃな﹂
俺の援護にと立ち上がってくれたのはウィストベルだ。
彼女は見るからに上機嫌といった笑みを浮かべている。
正直、プートとベイルフォウスの両方に睨まれるより、ぞっとし
たことは内緒だ。
﹁二人とも、座れ。陛下、会議を続けてよいか?﹂
ウィストベルが壇上のルデルフォウス陛下を見上げると、魔王様
は薄く笑いながら立ち上がった。
﹁さきほどもジャーイルが申した通り、開催にさいしてプートによ
る戦闘を禁じる宣言がなされている。故に、今後一切、会議場内で
の魔術や暴力での争いを禁じる。四人とも座るがよい﹂
さすがに魔王様にまでそう言われては、ベイルフォウスもプート
も従うしかないようだ。
俺たちは静かに席についた。
以後、ベイルフォウスは腕を組み、机上の一点を睨みつけたまま
黙り込んでしまった。
34
おかげで二度とプートとの間に諍いは起きなかったが、代わりに
ウィストベルとアリネーゼの小競り合いを俺が止めないといけなく
なった。まあ、あの騒動をみた後ではかわいいものだ。サーリスヴ
ォルフも間に入ってくれて、二人の口喧嘩はすぐに収まったのだか
ら。
そうして会議は席に戻った臣下による報告会に移り、特に中断さ
れることもなく、無事終わったのだった。
***
御前会議の後は、特になんの催しもない。別に終わったからと言
って、飲み会などしない。
魔王様を全員で見送れば、終了即解散。
アリネーゼは終わるなり、さっさと臣下を引き連れて帰ってしま
ったし、プートもそうだ。
﹁俺は魔王様に挨拶をしてから帰るから﹂
来たときにはちゃんと挨拶できなかったからね。帰る前には顔を
見に行って、会議前の仕打ちに対する文句をいっておかないとね!
ゾロゾロ引き連れて帰るのが嫌、っていうのが本音だろって?
そこはあれだ⋮⋮つっこんじゃ駄目だ。
﹁ですが、閣下。こちらで医療班の治療を受けたとはいえ⋮⋮やは
り一刻も早く御帰城なさって、<断末魔轟き怨嗟満つる城>の医療
班にも看てもらったほうがよいのではないでしょうか﹂
ジブライールはここでも真面目だ。
﹁大丈夫、くっついたから﹂
もう脳味噌も痛くないから大丈夫だと思う。
﹁⋮⋮申し訳ございません⋮⋮﹂
俺を押してしまったことを、気にしているらしい。顔が真っ青だ。
﹁いや、悪いのはベイルフォウスだ。気にするな﹂
35
そうとも! あいつがよけいなことを言わなければ、こんなこと
にならなかったんだ!
﹁本当に大丈夫だって。なんなら触ってみるか?﹂
俺が頭を突き出すと、ジブライールは右手を挙げかける。が、今
度は真っ赤になりながら、すぐにひっこめた。そうして床をじっと
にらみつけるようにして一言。
﹁結構です﹂
なに⋮⋮そんな、怒りで赤くなって打ち震えるほど、俺に触れる
のが嫌ってことですか。そう、ですか⋮⋮。
以前よりは仲良くなっているつもりだったのだが、所詮、俺の独
りよがりだったのだろうか。
﹁⋮⋮とにかく、ここで解散ということにしよう。各自、自由に帰
ってくれ﹂
俺が少し落ち込みながらそう言うと、渋々、といった感じでジブ
ライールは頷いた。
﹁承知いたしました。では、我々は帰宅いたしますが、閣下もくれ
ぐれも無理をなさらぬよう、お気をつけください﹂
﹁うん、ありがとう﹂
⋮⋮と、そんなことを言っている間に、サーリスヴォルフが臣下
と帰りかけているではないか!
﹁じゃあ、ジブライール。後は頼む。サーリス﹂
﹁おい、ジャーイル﹂
サーリスヴォルフを引き留めようとしたら、俺がベイルフォウス
に捕まってしまった。
いや、まあ、何か言ってくるだろうとは思ったが。
サーリスヴォルフはといえば、俺の呼びかけに気づいたように一
36
瞥をよこしてきたのだが、微笑しつつ行ってしまった。
この間デイセントローズが言っていた件⋮⋮マーミルの呪詛をサ
ーリスヴォルフが阻止したのだという話の真相を、確認したかった
んだが。
﹁なあ、さっきのなんだ? お前の特殊魔術か?﹂
喧嘩を邪魔された怒りでもぶつけてくるのかと思ったが、俺の親
友はそれほど狭量ではなかったらしい。
﹁いや、特殊魔術じゃない。普通に術式を使っただけだ﹂
﹁普通に? 普通ってどうやって?﹂
興味津々だな、こいつ。
﹁だから、相手の使ってる魔術を解析して、その威力と効果を相殺
できる術式をくむんだ。それだけだ﹂
﹁解析? どうやって?﹂
いや、お前も考えて術式組んでるだろ?
相手の術式見れば、分析できるだろ?
それともなにか、ホントに本能だけで戦ってるのか、こいつ。
﹁お前、頬の血﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
俺の指摘に、友は粗雑に手の甲で頬の血をぬぐう。
﹁そんなことより、なあ、もちろん教えてくれるんだろ? さっき
のやり方﹂
ぐいっと肩を抱き込まれた。俺に血をつけるなよ。
お前とひそひそ話してると、なんか悪巧みでもしてるみたいじゃ
ないか。
﹁知りたいのか?﹂
﹁知りたい﹂
面倒くさいな。まあしかし、こいつにはマーミルに剣と魔術をタ
37
ダで教えてもらっているという恩もあるしな。
﹁わかった、教えるよ﹂
﹁おう!﹂
俺がしぶしぶ頷くと、ベイルフォウスは子供のように瞳を輝かせ
た。
こいつ、ホントにただの脳筋バカに見えるんだけどな。
﹁ジャーイル閣下、ベイルフォウス閣下﹂
その声でベイルフォウスの表情が曇る。親友は舌打ちをしつつ俺
から離れ、相手をじろりと睨みつけた。
﹁用もないのに声をかけてくるんじゃねえよ﹂
いや、ベイルフォウス君。用があるから相手は呼びかけてきたの
ではなかろうか?
いつもの慇懃無礼な笑みを浮かべつつ立っていたのは、デイセン
トローズだった。
38
4.お庭の散歩は、楽しく腕を組んで?
﹁先ほどは、私のことで大変なご迷惑をおかけしまして﹂
ああ、さっきのベイルフォウスとプートの喧嘩のとき、私のため
に争わないで、とか言ってたっけ、このラマ。
きっかけはデイセントローズにあるのか。
﹁お前のためじゃない。迷惑なのは常にだがな!﹂
ベイルフォウス⋮⋮気持ちは大いにわかるが。
﹁デイセントローズ。以前にも言ったが、俺たちは序列はあるとは
いえ、大公としては同位なのだから、閣下はいらない﹂
口でだけ下手に出られても、かえってムカつくだけだからな。
それにしてもデイセントローズのやつ⋮⋮以前に比べてずいぶん
魔力が強くなってないか? あれからそんなに経っていないのに、
一体なにがあった。
﹁こんな奴に優しくする必要はないだろ、ジャーイル﹂
ベイルフォウスが殺気立つ。
﹁マーミルに手を出した奴だぞ。百回殺しても、殺し足りない﹂
まあ、俺にとってはそうだけど、お前は単に嫌いなだけだろ。
ん? まてよ⋮⋮。
﹁おい、まさか⋮⋮ベイルフォウス。お前、この間の訪問の時に、
こいつを殺したのか?﹂
﹁は? 殺したら、ここにいないだろ﹂
あ、いや⋮⋮うん、そうだよね。甦るには呪詛以外は無効だろう
しな。
だが、瀕死の状態を治療するのに医療班の手を借りるのではなく、
一度呪詛を受けて甦る、という手もとれるわけだな、こいつの場合。
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﹁まさか、ベイルフォウスにまでその件が漏れているとは思っても
みませんでした。存外、お二人は仲がよいのですね﹂
なんで不満げな顔をみせてくる。俺の神経を逆撫でしたいのか、
こいつ。
﹁それで、何か用か? ベイルフォウスの言葉じゃないが、俺はお
前との雑談に時間を割くつもりはないんだが﹂
機会があればいつでもガツンといかせてもらいますからね!
あれで許したわけじゃないですからね!
﹁ああ、いいえ⋮⋮さきほどの会議の件で、ご迷惑をかけたお詫び
をと思ったものですから。私を巡ってベイルフォウスとプートが争
い、ジャーイル⋮⋮にまでご迷惑をおかけした、そのお詫びを﹂
なんでちょっと、陶然としてるんだ、こいつ。
﹁お前を巡って? 気持ち悪い言い方するな﹂
うん、その言いぶんには完全に同意するよ、ベイルフォウス。
﹁ですが、先ほどの争いの発端は、ベイルフォウスが私に瀕死の重
傷を負わせたことを、プートが咎めて始まったもの。全くの無関係
とは申せません﹂
ああ、そうなんだ。それで二人は喧嘩し始めたのか。
てことは、プートが同盟者であるデイセントローズを庇ったって
感じ?
﹁無関係だ。それを理由にしただけで、プートの奴は俺に文句さえ
言えればそれでいいんだからな。お前だからああなったわけじゃな
い。だから謝罪を受ける必要もない﹂
ベイルフォウスはデイセントローズに冷たい一瞥をなげかけた。
﹁行こうぜ、ジャーイル﹂
﹁ああ﹂
40
﹁あ、お待ちを﹂
ベイルフォウスにあわせて歩きかけるが、デイセントローズに腕
をつかまれた。その瞬間、ゾッとしたのは生理的嫌悪からか。
﹁ジャーイル⋮⋮私も是非、先ほどの技について、ご教授いただき
たいと⋮⋮﹂
は?
俺はデイセントローズの手を乱暴に振り払う。
﹁なんでお前に⋮⋮同盟者でもない相手に、そんなこといちいち教
えてられるか﹂
どれだけ図々しいんだ、こいつ。
﹁同盟者でないというのなら、ベイルフォウスとて同じことではあ
りませんか﹂
﹁ジャーイルにとって、貴様と俺とが同列だと?﹂
ベイルフォウスが今にも手を出しそうだったので、押しとどめる。
﹁こいつは親友だ。同盟がどうこうは関係ない﹂
﹁そうですか⋮⋮それは残念だ⋮⋮﹂
デイセントローズの瞳に剣呑な色が浮かぶ。
こいつ、この間ベイルフォウスに瀕死の重傷を負わされたってい
うのに、よくその実力の差に躊躇もせず、軽口をたたいてこれるも
んだ。
こういうのも剛胆というのか?
いや、言い表すなら無謀だろうな。
﹁それではこの件はいずれ、私が貴方の上位に躍り出たあかつきに、
提案することといたしましょう﹂
﹁俺の上位、だと?﹂
俺の上位に躍り出るにはつまり、俺かそれ以上の相手と戦って勝
41
たねばならないということだ。
今のこいつが七大大公の誰に勝てるって?
ああ、厳密にいうと、勝てる相手はいるか。たった一人だけ。
だが、こいつにそれを図る能力はあるまい。
それともなにか、この間会った時から今現在の魔力の補強具合を
みるに、このペースで成長していくから、あっという間に上位に躍
り出られるという目算あってのことか? そういうつもりなら、ち
ょっと問題だな。
まあ、どちらにせよ、今の状況でこんな台詞を口にするのは命知
らずではあるまいか。
なにせ、大公の間には、同盟を結んだ相手に挑戦するわけにはい
かないという不文律がある。ならば、デヴィル族の大公全員と同盟
を結んだデイセントローズが挑戦できるのは、俺かウィストベルか
ベイルフォウスに限られる。三人とも正式に挑戦を受ければ、手を
抜かずにデイセントローズを殺すだろう。たとえ大公同士の序列を
かけた戦いでは、相手を殺さないのが普通だとしても、だ。
﹁今すぐに挑戦させてやろうか? もちろんこの間のような、手加
減はなしでだ﹂
ほら、我慢できなくなった人が俺の横から手を出しましたよ。
マジで手がでてますよ。
ラマの胸倉ぐっと掴んでますからね。
ベイルフォウス、殺る気ですよ。
﹁やめろ、ベイルフォウス﹂
﹁だがな、ジャーイル。こいつのこの態度⋮⋮﹂
﹁俺もムカつくが、やるなら外にでろ。ここは魔王城の中だぞ﹂
別にもう、止めません。ええ、止めません。
正直、ラマなんてどうでもいいです。
42
でも、魔王様には遠慮しよう。
城をつぶしたら、きっと怒られるよ?
﹁⋮⋮申し訳ございません⋮⋮口がすぎました﹂
さすがに俺も止めないとなるとビビったのか、ラマが青ざめ、あ
とじさる。
プートにはかなわないまでも、ベイルフォウスはマジで強いから。
しかも、短気だし。すぐ手がでるし。
だが、いくら短気な奴だといえ、俺にはこんな風に喧嘩を売って
きたことはない。それどころか意見が対立しても、最終的には自分
から引くかごまかすかしないか? 俺のことも最初は気にくわなか
っただろうに。
それだけこいつも、デイセントローズに生理的嫌悪を感じている
ということなのだろうか。
﹁イライラする。ジャーイル、俺は帰る。帰って発散しないと気が
済まない。さっきの魔術の件は、また後日、お前の城で教えてもら
うことにする﹂
ベイルフォウスは突き放すように、デイセントローズから手を放
した。
﹁ああ、別にかまわないよ、俺は﹂
しかし、帰って発散って、何で発散するんだ。⋮⋮うん、聞かな
いよ。むしろ、言わないでおくれ、ベイルフォウス。
﹁俺は魔王様に挨拶してから帰るよ﹂
﹁ああ、そうか。じゃあ、な﹂
ベイルフォウスは俺の肩をたたき、デイセントローズを射抜くよ
うな視線で一瞥して、会議室を出ていった。
俺もこんなラマには用がない。というか、二人っきりでいたくな
43
い。
いつの間にかウィストベルも他の臣下もいなくなって、会議室に
はデイセントローズと俺だけとなっていたのだから。
とっとと魔王様のところへいくか。
だが、廊下に出た俺の後を、なぜかデイセントローズがついてく
る。
なんですか、この人。ストーカーですか?
気持ち悪いんですけど。
俺は足を止めた。
﹁⋮⋮なんだ⋮⋮?﹂
﹁いえ。私もルデルフォウス陛下にご挨拶を、と、思いまして﹂
﹁そうか、なら先を譲ろう﹂
後ろをぴったりついてこられるのは正直気味が悪い。しかも、こ
んな何考えてるかわからない奴に。
行くなら勝手に行けばいい。ついてくるな。
﹁いえいえ。お先にどうぞ﹂
﹁後を待たれて、急くのはごめんだ。先に行け。それに俺には、ま
だ他の用事があるしな﹂
せっかくの気安い時間を、こいつのせいで台無しにされてはたま
らない。
﹁その通り、ジャーイルは我と約束があるのじゃ﹂
し⋮⋮しまったーーーー!
﹁のう、ジャーイル?﹂
そうして俺の腕に回される白く細い手。
俺をのぞき込んでくる、赤金の瞳。
ウィストベル以外に、こんな瞳を持つものはいないではないか!
44
﹁約束をしたのであったな?﹂
俺はその艶っぽい声を聞いて思い出したのだ。会議前の、彼女と
の会話を!
﹁はい⋮⋮その通りで﹂
他にどう、答えることができただろうか。
俺はウィストベルに引きずられるようにして、その場を後にした。
***
あれ?
﹁ウィストベル、竜に乗るんじゃ?﹂
城によって、竜を乗り降りする場所は異なるが、魔王城は正面だ。
だが、ウィストベルが俺を引っ張っていったのは、裏手の方だっ
た。
﹁何を申す。庭を見るといったであろう?﹂
ああ、魔王城の庭なのか。そういえばそうだっけ。てっきり<暁
に血濡れた地獄城>に行くのかと、誤解してしまった。
﹁まあ、それは表向きの話じゃ。後でルデルフォウスと確認したい
ことがあっての﹂
つまり、デイセントローズが帰るまでの時間つぶしか。
﹁それとも何か? それほどお主、我の寝室に招待されたいか? もちろん、そう望むのであれば﹂
俺は背の高い垣根の続く庭園に引きずり込まれた。
﹁場所など、どこでもかまうまい?﹂
両肩を細い手で掴まれ、垣根に追いつめられる。
背中に繁みが刺さる。痛い。地味に痛いです。
いつも謎なんだけど、なんでウィストベルはこんなに力が強いん
だ!
45
俺、結構、腕力あるよ?
﹁ウィストベル、待って。庭⋮⋮ほら、あっちに綺麗な花が咲いて
る! 散策しましょう!!﹂
無視ですか、無視ですか!?
やばい。これは非常にやばい。
ギラギラ光る赤金の瞳が近づいてきて⋮⋮赤金の⋮⋮そうだ。
﹁デイセントローズの、魔力、どう思いました!?﹂
俺が早口でそうふると、ウィストベルはピタリと接近を止めた。
﹁主も⋮⋮やはり、気づいたか﹂
ウィストベルの体がすっと離れる。
﹁ルデルフォウスと話し合おうと思っていたのも、その件じゃ﹂
おお、マジか。
よかった、この話題を思いついて。
俺は繁みから脱出し、背中についた葉を手で払う。
﹁なんじゃ、あの魔力の増量加減は⋮⋮我は未だかつて、あのよう
な短期間であれほど成長した魔力を見たことがない。主はどうじゃ
? あれをどうみる?﹂
やはりウィストベルも気になったか。あんまりにも不自然だもん
な。
﹁あのペースで増えていったんじゃ、あっという間に俺も負けちゃ
いそうですね﹂
そう言って肩をすくめると、ウィストベルはクスリと微笑んだ。
﹁バカなことを申すな。いくらなんでも、それはあるまい。それに、
万が一にもそのようなことは、我が許さぬ﹂
つまり、俺より強くなりそうだったら、ウィストベルがサクッと
やっちゃうんですね。うん、デイセントローズ。お前が俺の上位に
たてることは、生涯なさそうだ。
46
﹁ウィストベル⋮⋮蘇生に関わる特殊魔術って、知ってます?﹂
ウィストベルは本好きだ。蔵書に関して、俺とかぶっていること
も多いし、むしろ俺の持っていない本も多く所蔵している。
だからもしかすると、特殊魔術にも俺より詳しいかもしれない。
﹁蘇生? つまり、死して甦るということじゃな?﹂
ウィストベルはその純白に輝く長い髪を、華奢な肩からはらった。
そのまま手を口元にもっていき、じっと物思いに耽る。
﹁知っているというか⋮⋮見たことは、ある⋮⋮﹂
おお、見たことがあるのか。どんな蘇生術だ?
﹁胸に剣を刺しても、首を落としても、肉体をつぶしても、甦って
くるのじゃ⋮⋮﹂
あ⋮⋮敵だったんだ。そうなんだ⋮⋮。
﹁身の爛れた女での⋮⋮そう、アリネーゼのようにな。近づくと異
臭がしての⋮⋮醜い女であった⋮⋮﹂
デヴィル族としては、美人の部類なんだろうな、たぶん。
﹁魔術で塵と化して、ようやく滅ぼした。だが、それまでに何度も
いたぶれたのは⋮⋮むしろ、楽しい経験であったが﹂
嗜虐心に満ちたその笑みに、俺の背筋は震えた。
いや、別に内容的には大丈夫なんですよ。俺だって魔族なんです
から。
﹁そう⋮⋮あの女を殺せた時は⋮⋮﹂
ウィストベルは恍惚としながら、首をゆっくり左右に振る。
﹁ふふ⋮⋮生涯で、二度目の喜びであった﹂
ただでさえ白い顔がいっそう白くなり、反対に唇は血を塗ったよ
うに艶をまして見えた。
やばい。このままいくと、ウィストベルがどんどん怖くなる。
﹁俺がその話をふったのは、実はデイセントローズがそうだからで
47
して﹂
﹁なに? では、あ奴も殺しても死なぬと言うのか?﹂
﹁いえ⋮⋮その女性とは、少し違う。あいつは呪詛を受けると死に、
甦るそうなんです﹂
﹁呪詛を受けて、甦る⋮⋮じゃと?﹂
さすがにそのパターンは、ウィストベルも知らないか。
まあ、いいんだ。それは。
﹁俺がこんなことを言い出すのも、もしかするとその蘇生が、魔力
の成長に関係あるんじゃないかという可能性を思いついたからなん
ですが﹂
あくまで勘で、根拠はいっさいないが。
だが魔力は成長するものとはいえ、いくらなんでもこの短期にあ
の増量具合は異常だ。普通に誰かと戦ったり、訓練したり、だとか
で伸びる量ではあるまい。なにせ、マーミル一人分くらい増えてい
たからな。
半年で、一マーミルだぞ。
となると、特殊魔術の影響を考えるのは妥当だろう。
﹁なにせ、一度爛れて溶けて、それから再生するそうなんです。も
っとも、本人の言に嘘がなければ、ですが。俺が思うに、その再生
するときに、魔力も再構築されるのではないかと⋮⋮おまけつきで﹂
﹁魔力の再構築⋮⋮﹂
ウィストベルは特に俺の説に反論する気もないのか、小さく頷い
ている。
﹁なるほど、あり得ないことではないな。あの女は⋮⋮どうであっ
たか思い出せぬが﹂
ええ、そりゃあもう、嬉々としていたぶってらっしゃったんでし
ょうから。他のことなど目に入らないほど。
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﹁一度、実際に目にすることができれば、その真偽もわかるのじゃ
がな﹂
やはりあのとき、おとなしく帰すのではなかったな。たとえ絨毯
が汚れ、エンディオンに怒られようとも。でも蘇生したら何かが変
わってるかも、だなんて、考えもしないじゃないか。
﹁それにしても、主はどうやってその情報を仕入れたのだ? 本人
の言といったな? なぜ、そのような秘密をあれが主に語る? い
ったい、どういう関係なのじゃ?﹂
たて続けの問いかけに、俺は口を開き、閉じた。
まあ⋮⋮あれだな、ベイルフォウスでさえ知っていることだ。同
盟者のウィストベルに知らせないというのもな。
﹁どこかで座りませんか? ちょっと説明に時間が⋮⋮﹂
俺は別にこのまま話し続けてもいいのだが、さすがに女性をずっ
と立たせたままというのはどうだろう。
いくらウィストベルが謎怪力を誇る、丈夫な女性でも。
﹁では、この奥に⋮⋮あまり人の通りがからない四阿がある﹂
詳しいな、ウィストベル。やっぱりあれか、魔王様とのお楽しみ
のために、いろいろ把握しているのか。
とにかく俺は、ウィストベルの案内に従ってその四阿を訪れ、デ
イセントローズと妹の間に起きた一件を、彼女に語ったのだった。
﹁なるほどの。⋮⋮しかし、興味があるな⋮⋮﹂
デイセントローズの能力にか? まあ、そりゃあそうだよな。
﹁その軟膏⋮⋮今度、是非、わけてくれぬか?﹂
あ、そっちですか。
なんですか、ウィストベル。誰か飲ませたい相手がいるんですか。
まさか、俺じゃないよな?
あんな目にあうのは、二度とごめんだぞ。
﹁今度、届けさせます﹂
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﹁届けさせる?﹂
ウィストベルのこめかみが、ぴくりとひきつる。
﹁⋮⋮届けます﹂
言い直すと、彼女は満足そうに頷いた。
﹁そろそろ、デイセントローズは帰ったであろうかの?﹂
﹁竜舎を見てきますよ。飛竜がいるかどうかみれば一発だ﹂
俺は四阿を離れかけ、それからふと思い立ってウィストベルを振
り返った。
﹁ところで、ウィストベル。騎竜は?﹂
﹁何のことじゃ? もちろん、今日も乗ってきておるが?﹂
﹁いや、練習⋮⋮どうやってしました?﹂
﹁練習⋮⋮? そんなもの﹂
彼女は俺の言葉を鼻でせせら笑った。
﹁竜など、力で従えるだけじゃ。何を練習する必要がある﹂
あ、同類、発見した。
俺は思わずウィストベルの元にかけもどり、その手をしっかりと
握る。
﹁全くそのとおり﹂
﹁?﹂
そうしてキョトンとなったウィストベルをその場に残して、俺は
竜舎に向かったのだった。
結局、竜舎にデイセントローズの飛竜はおらず、奴はすでに帰っ
たものと思われた。それで俺とウィストベルは、デイセントローズ
の動向に注意をはらう約束だけして、次の時まで様子をみることに
したのだった。
50
5.そろそろネズミくんも落ち着いたことでしょう
﹁すみませ∼ん。誰かいますか∼﹂
俺はそろそろと、その扉を開いた。
場所はここであっているはずだ、たぶん。聞いていたような悪臭
は漂ってこないが。
万が一間違っていても嫌なので、開いた扉から顔だけ差し込んで
中を見てみる。
あれ?
やっぱり間違ったかな⋮⋮話に聞いていた医療棟は、たしか足の
踏み場もないような有様だったはず。
だがここはどうだ。
エントランス・ホールはこじんまりとしてはいるが、床はピカピ
カで塵一つ落ちていない。左手の壁際にはピリッと革張りのきいた
椅子が五脚ほど整然と並び、右手の壁際に伸びた階段の脇には、き
れいな赤い実を付けた観葉植物が置かれている。
壁に飾られた絵はどれもきちんとまっすぐ、等間隔に飾られてい
るし、嫌な臭いどころかほのかに甘い、いい匂いが漂ってくる。
俺が聞いた話だと、医療棟のエントランスは書類の束がつっこま
れた段ボールが乱雑に通路をふさぎ、天井近くには蜘蛛の巣がはび
こり、ゆがんで飾られた壁の絵にはホコリが付着し、足を踏み入れ
ようとしたら黒い小さなアレがヒュッと視界を横切る、という感じ
だったのだが。
屋敷を間違えたか?
しかし、本棟の北にある三階建てのこじんまりした建物といえば、
51
ここだと思うんだけど。
やっぱり誰かについてきてもらうんだったかな。
迷いながら玄関の戸を閉めようとすると、奥の扉から見たことの
ある顔が出てきた。
ヌーの顔をしたタコ手の⋮⋮確か名前はウヲリンダ。
彼女がいるということは、ここは医療棟であっているらしい。
﹁これは、ジャーイル閣下﹂
﹁やあ、ウヲリンダ。この間は世話になったね。ありがとう﹂
﹁いえ、仕事ですので﹂
彼女は深々と俺に向かって一礼する。
﹁サンドリミンはいるかな? 様子を見に来たんだけど⋮⋮﹂
﹁もちろんおります。すぐに呼んで参りますので、どうぞ、中へ﹂
俺は彼女の案内で、応接室のようなところに通された。
本棟の応接に比べると狭いが、置いてあるソファのクッションは
悪くない。
全体的に茶系統の色で室内は統一されており、それほど高価なも
のがないだろうとわかるからか、逆に安心感を感じる。
そういえば、以前すんでいた男爵邸の応接が、こんな雰囲気だっ
たことを思い出す。
﹁失礼いたします﹂
くつろいでいると扉がノックされ、飲み物を置いた盆を手に、一
人のデヴィルが入ってきた。
﹁おまえ⋮⋮リーヴだよな?﹂
どこかで見たことのあるネズミ面。他のものではあるまい。
﹁大公閣下⋮⋮お久しゅうございます﹂
いや、そんなお久しぶりじゃないはずだけど。
52
なんか⋮⋮リーヴ、変わったな。目がきらきらして、肌もつやつ
やしてないか?
﹁ちょうどよかった⋮⋮お前の様子を見に来たんだ﹂
﹁え、僕のですか?﹂
机の横に跪き、俺の前に紅茶のカップを置いた。ものすごく、手
慣れた感じだ。
﹁こんな僕のことを気にしていただいて⋮⋮嬉しいです﹂
顔を赤くして、潤んだ目で見上げてくる。
こいつ、やっぱり小心で純粋っぽいんだけどな。
下位にはこういう、お人好しで気弱げなのが多い気がする。
﹁あ、それと⋮⋮﹂
懐をごそごそやって、白いハンカチを取り出してくる。
﹁この間は、本当に⋮⋮ありがとうございました﹂
ああ、俺の紋章入りのやつか。
﹁いや。別に返さなくてもよかったのに﹂
そう言いながら受け取ろうと手を出したら、逆にハンカチを引っ
込められた。
﹁本当ですか? いただいても、よろしいのですか?﹂
﹁ああ⋮⋮いいけど⋮⋮﹂
﹁で、では⋮⋮ありがたく﹂
そうしてリーヴはまたいそいそと、懐にハンカチをしまう。俺は
なんとなく、差し出した手で空を二、三度握ってから、おろした。
そのまま、せっかく入れてくれた紅茶でも飲むかとカップを手に
取る。
が、熱そうだ。もうちょっと、冷めてからがいいかな。
迷っていると、再び扉がノックされ、サンドリミンが入ってくる。
﹁あ、じゃあ、僕はこれで⋮⋮﹂
﹁いや、リーヴもいてくれ。言ったろ、お前の様子を見に来たんだ﹂
53
立ち上がり、出ていこうとしたリーヴを呼び止めた。
﹁旦那様がこうおっしゃっておいでだ。お前もこちらへ﹂
﹁あ、はい⋮⋮﹂
そういって、サンドリミンとリーヴは俺の正面に並んで座った。
﹁旦那様。この医療棟へ、ようやくお運びいただけましたな。いか
がです、ごらんになった感想は?﹂
﹁俺は前の様子は聞いた限りでアレだが⋮⋮随分、清潔なところじ
ゃないか﹂
俺の言葉に、サンドリミンは満足げに頷いてみせ、そうして横で
縮こまって座るリーヴの肩を叩いた。
﹁彼のおかげです。まさか、これほどよく働いてくれるとは! よ
い若者をよこしてくださったと、医療員は皆、旦那様に感謝してお
ります﹂
﹁そんな﹂
手放しに誉めるサンドリミンの横で、リーヴは背中を丸め、両手
をぎゅっと膝においてガチガチに固まっている。
﹁そう、か。リーヴは使えそうか﹂
﹁ええ、それはもう! 掃除だけでなく、資料の整理もまかせてい
るのですが、自分でも熱心に医療のことを勉強して、症例や治療別
にうまく分類してくれますし。我々医療班としては、大変助かって
おります! 以前は医療員を呼びつけられるばかりでしたが、今は、
少しの怪我などなら、こちらへやってきて、治療を受けて帰る者も
増えたようですし。手間や時間が省け、研究にいそしむ時間にあて
られると、医療員たちも大喜びで⋮⋮﹂
随分と、歓迎されているらしい。
﹁そうか。リーヴはどうだ? このまま、医療棟で今の仕事を続け
る気はあるか?﹂
54
俺の問いかけに、ネズミはキラキラ光る瞳を向けてきた。
﹁でも⋮⋮その、私は、閣下の命を狙った大逆人で⋮⋮﹂
あ、自称が僕から私に変わった。
﹁いや、それは別に気にしなくていい。下位の挑戦を受けるのは、
上位の義務だしな﹂
﹁で⋮⋮でも、私の場合は挑戦とは⋮⋮しかも、後ろから狙うだな
んて、卑怯な手を⋮⋮﹂
まあ、確かに。あれは挑戦ではなくて、暗殺の類だな。本人に能
力がなかったせいで、まったく機能していなかったが。
﹁申し訳ないと思うなら、そろそろ理由を聞かせてもらえないか?
なぜお前程度の実力で、俺を害しようと思ったんだ﹂
﹁それは⋮⋮﹂
さっきまでとは別の緊張感が、リーヴを包む。
しばらく沈黙が訪れた。
﹁旦那様、私は出ております﹂
サンドリミンが気を利かせて立ち上がる。まあそうだな、必要だ
と思えば、後で伝えればいいか。
﹁ああ、悪いな、サンドリミン。少し、リーヴを借りてるよ﹂
﹁どうぞ、存分に。ですが⋮⋮﹂
ハエリーダーは俺の傍らに立つと、小声で耳打ちしてくる。
﹁リーヴの罪は存じておりますが、それを承知でお願い申しあげま
す。どうか、寛大なお沙汰を。医療員一同、そう願っております﹂
﹁承知している﹂
いやだな。俺はいつだって寛大だよ。これだけ優しく接している
というのに、まだそんな念押しをされるとは⋮⋮。いったい、配下
のなかで、俺の評価はどうなっているんだ?
﹁ところで、サンドリミン。残ってる礼な。思いついたら、いつで
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も言ってくれ﹂
﹁はい、ありがとうございます﹂
﹁それから、もう一つ。悪いが、この間の軟膏⋮⋮いくらかわけて
もらえないか? 帰りに持って帰れると、助かるんだが。ウィスト
ベル大公が欲しておいででな﹂
帰りって言うか⋮⋮うん、ここも<断末魔轟き怨嗟満つる城>の
城内なんだけど。
﹁承知いたしました。ご用意しておきます﹂
サンドリミンは一礼し、部屋を出ていった。
二人だけになっても、リーヴは黙ったままだ。
俺はせかすこともなく、そろそろ飲み頃になった紅茶を口に運ん
だ。
﹁本当に、申し訳ございませんでした﹂
リーヴはやっと、言葉を発した。
﹁当然ですが、あれが成功するとは思っていませんでした。自分の
実力が、ともすればか弱い人間にさえあっけなく滅ぼされてしまう
ほど、魔族としては劣ったものだと自覚しております﹂
ああ、本当にそうだよな。たぶん、強い人間が相手なら、一対一
でも負けるよな、こいつ。たいして魔力もないし。
﹁⋮⋮父はヴォーグリム大公だというのに⋮⋮﹂
え、ちょ⋮⋮なに鼻ぐすぐす言わせてんの?
泣くの? 泣いちゃうの?
﹁だ、だから⋮⋮母は⋮⋮ぼ、僕のこと⋮⋮﹂
おいおい、いい大人なんだから、泣くなよ⋮⋮俺どう反応したら
いいの?
慰めるべきなの、それともとりあえず黙って話をきいておいたら
いいの?
56
﹁僕が⋮⋮いつまでも、弱くて情けないから⋮⋮でも、母はそんな
こと、許してくれなくて⋮⋮鍛えて、強くなり、いずれは閣下を倒
して、大公の位につくのだと⋮⋮﹂
ちょ⋮⋮まさか、お母さんに言われたからやりました、ってか?
﹁でも、僕なんて⋮⋮僕なんて、そんな強くなれるはずもないし⋮
⋮ヴォーグリム大公が父親だっていったって、別に魔族は親の魔力
を受け継ぐわけじゃないし⋮⋮性格だって⋮⋮﹂
﹁わかった⋮⋮つまり、お前は母君に毎日けしかけられるのに耐え
かね、自暴自棄になって俺をおそったというわけか﹂
俺の言葉に、リーヴがこくりとうなずく。
本当にそうなのか。
気が弱すぎるのも考えものだな。
﹁僕が実際に大公閣下に挑戦して、あっけなく破れるのを見れば、
母さんだって⋮⋮﹂
あっけなく破れるって、お前、それあっけなく殺されると同義語
だぞ。
俺でなければ、確実にそうなっていたぞ。
生きて帰るつもりもない、っていってたし、覚悟はあったんだろ
うが。それだけ母親に追いつめられてたってことか。
しかし、それだけ息子に期待してる母親なら、何か言ってこない
ものだろうか? あの事件は成人している全魔族の目前で⋮⋮いや、
おそわれた瞬間は、みんな気づいてなかったけど、演習会は中止さ
れたのだし、何があったのだか知らぬ者はいないだろう。こいつの
母親だって、当然参加していたはずだ。
だが、誰かが助命の嘆願に現れたという報告はない。
ちょっと調べてみるか。
﹁話はわかった。で、さっきの質問に戻るが、お前はこのまま医療
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棟で働く気はあるのか?﹂
リーヴははじかれたように顔をあげ、すがるような瞳で見上げて
くる。
﹁お⋮⋮お許しいただけるのですか? こんな、情けない理由でも﹂
﹁別に理由はなんでもいい。ずっと言ってるだろ、戦いを受けるの
は上位の義務だ。そんなことより現状、お前のおかげでここは清潔
にたもたれ、医療員たちにからもその継続を望まれている。俺とし
ては、この雇用契約を、続けられるかが一番の気がかりなわけだが﹂
﹁それは⋮⋮それは、ぜひ﹂
リーヴは椅子から滑り落ちるように床に膝をついた。その時、机
ですねを打ったんだが、痛くないのだろうか? ゴンッっていった
ぞ、ゴンッって。
﹁僕、⋮⋮こんなに優しくしてもらえたのって、はじめてで⋮⋮感
謝してもらえたのも、はじめてで⋮⋮掃除も嫌いじゃないし、資料
を整理するのも楽しいし、そのために医療の勉強をするのも⋮⋮毎
日が、ワクワクしてて⋮⋮こんなの、生まれてはじめてで⋮⋮﹂
リーヴは上半身を机によりかからせ、両手をついて、額を思い切
り振り下ろす。
﹁ここで、働きたいですっ!﹂
おい、額もゴンッていったぞ。大丈夫か? この机、堅そうだけ
れども。
﹁なら、決まりだな。正式に医療棟に採用だ﹂
俺がそう言うと、リーヴは顔をあげて、再度頭をさげた。
﹁ありがとうございますっ!﹂
頭⋮⋮痛くないのかな⋮⋮。
帰りにはサンドリミンが約束通り軟膏を持ってきてくれて、俺が
リーヴをこの部署に正式採用するといったら、ものすごく喜んでく
れた。
58
まあ⋮⋮俺の命を狙った理由とかは、話しておかなくてもいいだ
ろう。
それから本棟に戻り、リーヴの母親を調査するように命令を出し
たのだが、その女が行方不明であるため、調査は不可能であるとい
う結果が返ってきた。
行方不明、ということは、この大公領を出たということか?
殺されるかもしれない息子をおいて?
魔族も肉親にだけは、情があついかと思っていたのだが、なかに
はこんな親子もあるのか。
とにかく、その母親が見つからないのではしかたがない。
俺はこの件は、これきりにすることにした。
59
6.たまには同盟者らしく
ウィストベルに約束した軟膏を届けようと、久しぶりに<暁に血
濡れた地獄城>を訪れたら、ベイルフォウスがいました。
﹁おお、来たか、ジャーイル﹂
まるで自分の城であるかのようなくつろぎようだ。赤い酒の入っ
た瓶を片手に、応接の長椅子に両足を放り出して寝転んでいる。
そこはこの城を訪れた際によく通されるガラステーブルのある応
接室だったが、ウィストベルの姿はない。
しかし友ほどではないものの、俺にとっても多少は慣れた場所な
ので、迷うことなく一人掛けの椅子に腰掛ける。
するとベイルフォウスも姿勢正しくとは言い難いが、身体を起こ
して座り直し、壁際に控えた従僕に対して酒瓶をふってみせた。
この部屋に従僕がいるのは珍しいと思ったら、ベイルフォウスの
酒の世話のために控えているようだ。
慣れたものなのだろう、彼はすぐさま新しい酒とグラスを二つも
ってきて、空瓶と交換した。
それにしても、いったいベイルフォウスは何本目なんだ?
この部屋、若干酒臭いんだが。
﹁なんでこんなところにいるんだ?﹂
﹁なんでって、好いた女のところを訪れるのは、当たり前だろう?﹂
まあ、そりゃそうか。
ベイルフォウスはグラスに酒をつぎ、一脚を自分の手に、一脚を
俺によこす。
﹁お前こそ、何のようだって? まさか、その気になったのか?﹂
60
疑わしげな視線をよこしてくる。
﹁まさか。単に以前、約束した品物を届けにきただけだよ﹂
ベイルフォウスとグラスをあわせ、半分ほど口にする。さすがに
甘党だけあって、酒も甘口が好みらしい。
見た目はむしろ、逆っぽいんだけどな。
﹁品物? なんだよ﹂
﹁いや、別に⋮⋮ただの軟膏だ﹂
﹁ふうん?﹂
ベイルフォウスはマーミルがデイセントローズの呪詛を受けた一
件に気づいているが、軟膏のことは知らないはずだ。いちいちベイ
ルフォウスに教える必要性を感じないから、話すつもりもない。
﹁ところで、ウィストベルは?﹂
﹁さあ⋮⋮俺もしばらく待ってる。まあ、女の支度ってのは、時間
のかかるもんだからな﹂
女性に限らず、だろ。ベイルフォウス。君も着替えに二時間ほど
かけるんじゃなかったかな?
﹁お前が来てくれて助かった。この城にいるのはスカした野郎ばっ
かりだからな。話し相手にもならん﹂
﹁女性だっているだろ?﹂
俺の城のデヴィルにまで手を出しているくせに。
﹁俺だって、さすがに好きな相手の城の女にまで、手を出そうとは
思わないさ﹂
ああ、そうなんだ。さすがにそうなんだ。
﹁なあ、時間があるならちょうどいい。この間のあれ、教えてくれ
よ﹂
﹁このあいだの、あれ?﹂
﹁ほら、あの、術式を消す⋮⋮術式?﹂
61
ああ、そういや教える約束だったっけ。
﹁なにも特別なことじゃないさ。術式を組み合わせる時に使う魔術
と、反対のものを組んで干渉させるんだ﹂
﹁干渉させる? 他人の術式に、どうやって?﹂
﹁どうって⋮⋮こう⋮⋮﹂
俺は小さな炎の術式を右手で作ってみせる。そうして左手に水の
術式を作った。
﹁で、片方をこう⋮⋮干渉させるんだよ﹂
左手の術式から俺にしか目視できないだろう魔術の糸が伸びる。
それを右手の術式へとつなぎ、お互いの魔術をうまく混合させて打
ち消していった。
﹁な、こんな感じ﹂
﹁⋮⋮いや、わからん。もう一回﹂
リクエストにお応えして、もう一度やってみせる。
だが、今度もベイルフォウスは首をひねった。
﹁その、干渉させる、ってとこがぜんぜんわからん。なにをどうや
ってるんだ?﹂
﹁なにをどうって⋮⋮口で説明するのは難しいな﹂
こめかみをぐりぐり押さえてみるが、いい言葉が思いつかない。
魔力が見えないと、理解するのはなかなか難しいか? 感覚さえ
つかめば、簡単だと思うんだけどな。ベイルフォウスなら。
﹁ぶつけて消してるんじゃないんだよな? 抵抗も衝撃もないもん
な﹂
﹁なんていうんだろ⋮⋮。別々の元素を使って、一つの術式を組む
こと、あるだろ? あの応用だよ。別の相反する魔術を、力ずくで
消しあわせるんじゃなくて、お互い混ざるように⋮⋮﹂
﹁なあ、結局それって、どれくらい有効なんだ?﹂
62
ベイルフォウスはどこかうんざり顔だ。飽きてきたな、こいつ。
﹁どれくらいって⋮⋮まあ、この間くらい﹂
﹁この間はお前、完全に消せてなかったよな?﹂
﹁さすがに大公二人の術式だし、時間も足りなかったからな﹂
﹁なら、あれ以上だとお前だって消すのは難しいってことだろ? しかも本気でやりあうなら、お前の方だって攻撃に転じる必要があ
る。実際には使いどころがないってことだよな?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮まあ、お前と俺がやりあうならな⋮⋮⋮⋮﹂
俺がそういうと、ベイルフォウスはあっけらかんと白い歯をみせ
て笑った。
﹁じゃあ、別に覚えなくてもいいわ﹂
ベイルフォウスめ⋮⋮俺とやりあう気、満々か!
油断しないでおこう。絶対に。
﹁また二人で楽しそうじゃの﹂
ウィストベルがやってくると、俺たちはすかさず立ち上がる。ベ
イルフォウスは音もなくグラスをガラステーブルに置いて、彼女の
側に歩み寄った。
﹁待ちかねたぞ、ウィストベル﹂
当たり前のように彼女の白い髪を一束とり、そっと口づける。こ
ういうくさいことを平気でできるのが、この男のすごいところだよ
な。
なにがあっても、俺にはできそうにない。
﹁どうした? 顔色が悪いんじゃないか?﹂
白い髪から手を離し、そのまま自然な動作で頬を撫でる。
うーん、この⋮⋮。
﹁なんでもない⋮⋮大丈夫じゃ﹂
63
ウィストベルはそっとベイルフォウスの手をはらうと、俺の正面
の椅子に腰掛けた。
確かにベイルフォウスの言うとおり、どこかけだるそうだ。
﹁それで、今日は何のようじゃ? 二人とも⋮⋮﹂
口調もそっけない。本当に具合が悪そうだな。いつものような覇
気が感じられない。
﹁大丈夫ですか? どこか辛いところでも?﹂
ウィストベルは肘掛けに右半身をもたせかけるようにして座り、
頬杖をついて目を閉じた。
﹁辛くはない。ただ、夢見が悪かっただけじゃ。気にするな﹂
俺とベイルフォウスはもとの席に腰をおろし、顔を見合わせた。
﹁俺はご機嫌伺いにきただけだ。だが、それだけ調子が悪そうなら
長居はしない﹂
﹁俺も先日約束したものをお届けにきただけですから、すぐお暇し
ます﹂
懐から黄色い容器をとりだし、ガラスの机に置いた。
サンドリミンが軟膏の一部を移してくれたものだ。
ウィストベルはゆっくり瞼を持ち上げると、その容器に気だるげ
な視線を向けた。
﹁ああ、あの面白そうな軟膏か﹂
興味をひいたのだろう。だんだんと赤金の瞳に生気がもどってい
く。
彼女は身を起こし、容器に手にとった。
蓋をひねり、中身をみる頃には、もうすっかりいつものウィスト
ベルだ。
本当に体調が悪いわけではなさそうだ。本人の言のとおり、気分
の問題だったのか。
64
﹁なんの軟膏だって?﹂
怪訝な表情のベイルフォウスに、ウィストベルは妖艶な笑みを向
ける。
﹁お主のような男に最適の、とっておきの秘薬じゃ﹂
﹁俺?﹂
うん、まあそうだね。ベイルフォウスは飲めばいいよね。飲めば
っていうか、誰かに飲まされればいいよね。
そしてずっと個室にこもってるといいよね。
﹁試してみるか? うまいらしいぞ?﹂
ウィストベル、ベイルフォウスで楽しむ気まんまんだね。
﹁不能の薬なら、俺じゃなくてジャーイルに飲ませろよ。精力剤だ
としても不要だ﹂
そうでしょうね、ええ、そうでしょうとも。
﹁いや、そんなんじゃないから飲んでみろよ、ベイルフォウス。う
まいぞ﹂
トイレとお友達になるがいいのだ。
俺はウィストベルに乗ることにした。
﹁は? なんだよ、お前まで⋮⋮﹂
ベイルフォウスは俺とウィストベルの顔を見比べ、それから眉を
ひそめる。
﹁うさんくせえ。絶対に飲まない﹂
ちっ。
﹁まあ、よかろう。いくらでも試す相手はおる﹂
えっと、ウィストベル⋮⋮それはつまり、自分の気が多いと告白
しているようなものじゃ⋮⋮。
﹁ルデルフォウスにでも試してみるかの﹂
﹁ウィストベル!﹂
65
やめてあげて!
お願いだから、魔王様にはやめてあげて!!
﹁冗談じゃ。なぜ、お前が涙目になる、ジャーイル﹂
﹁いや⋮⋮ちょっと想像したら﹂
かわいそうになって。
魔王様はあんなにもウィストベルのことが好きだというのに。
いや、まてよ⋮⋮あの魔王様のことだ。逆に喜ぶんじゃないか?
ウィストベルに嫉妬された、とかいって、小躍りするんじゃない
のか?
ありうるから怖い。
﹁頭を割られても、慕ってみせるか。たいしたもんじゃの﹂
ウィストベルにせせら笑われた。
﹁とにかく、今のやりとりで、ろくでもないもんだってことはよく
わかった﹂
ベイルフォウスが俺の方だけを、じろりと睨んでくる。
なんだよ。いつもお前がいらないことばかりいうから、お返しだ。
﹁ところで、今日は我が同盟相手が二人ともそろったのじゃ。晩餐
までおるのじゃろう?﹂
まあ⋮⋮城主の具合もよくなったみたいだし、多少ゆっくりして
いってもいいか。なにせ、ウィストベルの言うとおり、俺たちはそ
れぞれが彼女の同盟者だしな。とはいえ、ベイルフォウスがいなか
ったら考えたところだけど。
﹁晩餐といわず、一晩泊まっていってもいいぜ?﹂
﹁二人ともというならな﹂
ベイルフォウスの言葉を受けて、ウィストベルが意味ありげに俺
に視線を送ってくる。
66
﹁三人でか? まあ、俺はそれでも⋮⋮いて! なんだよ、ジャー
イル!﹂
うるさい、このエロ大公。黙ってろ。今すぐその下品な口をつつ
しまないと、もう一回すねを蹴るぞ!
﹁外泊はさすがにできかねますが、晩餐はごちそうになります﹂
﹁つまんねえ野郎だな﹂
蹴り返された。くそ、ベイルフォウスめ。
﹁ふん、まあよいが﹂
ウィストベルはそう言って、軟膏の容器を手のひらの上で転がし
た。
﹁では、どちらかの食事にこれを混ぜておくかの? 愉しみじゃな﹂
そう言って彼女は無邪気で邪悪な笑みを、俺とベイルフォウスに
向けてきたのだった。
67
7.寝室は、休息をとるためのプライベート空間なのです
俺がウィストベルの城から自分の城に帰り着き、医療棟を訪れる
までに、どれだけの緊張を強いられたかおわかりだろうか?
もうすっかりあたりは暗く、医療棟の玄関扉も閉まっていたため、
俺がどれだけ必死で扉を叩いたか、おわかりだろうか?
そう、軟膏は俺の料理に混ぜられていた。トマトスープにだ。
当然、食べる前に気がついた。ウィストベルの魔力が漂っている
のが見えたからだ。
だが、わかったからといって、それが何の役に立つ?
飲まない? ウィストベルは俺が気づくのをわかっていて、それ
でも入れているのにか?
ああ、そう。本心を言うと、飲まないでおこうと思ったさ。だけ
ど側までやってこられて、耳元でこうささやかれたら、飲まないで
はすまないだろう?
﹁そうか、躊躇するか。そなたはつまり、自分の城に帰って解呪薬
を飲むまでに、私以外の女に欲情する可能性が、確実にあるという
ことなのじゃな?﹂
俺はすぐ飲んだ。
飲み干した。
そうして後は、女性には目を向けないことにした。
念のためだ。万が一のためだ。
確かに俺の好みは清楚な女性だが、だからといって、それ以外に
は反応しないわけでもないのだから。
68
行動にでるかどうかと、心の中は別なのだ。多少の妄想くらいは
⋮⋮勘弁してほしい。
仕方ないので、ウィストベルとベイルフォウスに集中した。
そうして夜中近くにやっと解放されるや、夜の飛行には向かない
竜を超速で飛ばして、医療棟に駆け込んだのだ。
この日ばかりは、うちの城がデヴィルばかりでどれだけありがた
かったかしれない。
対応してくれた医療員には白い目で見られたが、そんなことは知
ったこっちゃない。
悪いがそこまで気を使っていられない。
わかるまい⋮⋮この恐怖は経験したものにしかわかるまい⋮⋮。
そうして解呪薬を飲んでやっと、俺は人心地つけたのだった。
﹁こんな夜中に悪かったな。ゆっくり休んでくれ﹂
﹁いえ⋮⋮﹂
俺は欠伸顔の医療員に見送られて、居住棟へ足を向けた。
***
﹁お帰りなさいませ、旦那様﹂
いつものようにエンディオンが出迎えてくれる。
﹁悪いな、こんな時間なのに⋮⋮﹂
﹁いいえ、とんでもございません。遅くまで、ご苦労さまでした。
さぞお疲れでしょう﹂
最近ずっと、ねぎらってもらってる気がする。
﹁何か変わったことは?﹂
﹁いえ、特にはなにも﹂
俺はコートを脱いで、エンディオンに渡した。
69
﹁何かお口になさいますか?﹂
﹁いや、いい。ウィストベルのところでがっつり食べてきたし⋮⋮
今はちょっと、なにも口にしたくない。風呂にでも入って、それか
らすぐ寝るよ。エンディオンも休んでくれ﹂
エンディオンは俺の居室までついてきて、コートを衣装部屋にし
まうと出て行った。
とりあえず、ちゃっちゃと風呂に入って、とっとと寝てしまおう。
解呪したとはいえ、一度でも呪詛を身体に受け入れるというのは、
やはり気持ちが悪い。別に腹もゆるくはならないが、下っ腹が重い
気がして仕方がないのだ。
まあ、気のせいだろうけど。
俺はいつもより長めに湯船につかり、それから特に腹のあたりを
念入りに洗って風呂を出た。
気休めだ。
﹁はぁ⋮⋮。最近毎日、寝る前はため息をついている気がするな⋮
⋮疲れがたまってるのか?﹂
そう独りごちて布団に足を入れる。
﹁まあ、それはいけませんわね。お疲れは、その日のうちにとらな
いと﹂
﹁そりゃ、そうできれば一番⋮⋮﹂
ん?
今、誰か、俺の独り言に反応⋮⋮。
ん?
今、誰か、俺の左腕に触って⋮⋮。
恐る恐る、左に顔を向けた。
﹁ですから、ジャーイル様。私が疲れをとってさしあげますわ﹂
70
ぼんやりした黄色いランプの光の中、妙に艶めいた表情の白い顔
が浮かび上がっていた。
﹁え⋮⋮えええええ!? ちょ、だ⋮⋮!?﹂
俺はベッドから飛び降りる。
なんで俺のベッドに、見知らぬ女性が!?
見知らぬ⋮⋮あれ、なんか⋮⋮見たことある顔⋮⋮見たことある
薄い金髪⋮⋮。
まさか⋮⋮いつもより、かなり化粧が濃いが、これは⋮⋮。
﹁もしかして⋮⋮エミリー?﹂
俺が相手の名を呼ぶと、その女性はゆっくりと身体を起こした。
スケスケのレースをあしらった、キャミソールを一枚身にまとっ
ただけのその身体を。
そうして乱れた髪を耳にかけ、嫣然と微笑んだのだ。
﹁はい、ジャーイル大公閣下﹂
解呪薬を飲んでいてよかった!
って、そんなことを言っている場合かーーー!!
***
緊急会議です! 夜中だろうが、かまっていられません。関係者
を緊急招集です!
そう、関係者。
﹁これはどういうことだ、ワイプキー!﹂
ここは俺の居室だ。
腕を組んで仁王立ちの俺の前にいるのは、ワイプキーとその娘エ
ミリーだ。
本来ならこの時間に居住棟に絶対にいるはずのないワイプキーは、
あっさりとこの部屋の周囲で見つかった。
71
それはそうだろう。エミリーがこんなところまで、一人で入り込
めるはずはないのだから。
父娘共謀してのことだと証明する、なによりの状況証拠だ。
当然のように、二人とも正座だ、正座。
さすがにエミリーはあの格好のままだとまずいので、俺のガウン
を羽織らせてはいる。
﹁エミリーは大事な一人娘だろう? その貞操を、どう考えている
んだ!?﹂
あり得ない。俺なら絶対、マーミルにこんなことはさせない。
父娘は、両手を膝において同じようにうなだれている。
いや、そんな殊勝な態度をみせてもだめですから。
﹁エミリーもエミリーだ! 自分が何をしたか、わかっているのか
? 下手をすると不敬罪ものだぞ!?﹂
﹁喜んでもらえると思ったのに⋮⋮なにがいけなかったのかしら。
やっぱり化粧が濃すぎたのかしら? それとももっとスケスケの⋮
⋮﹂
エミリーがぶつぶついいながら、首をかしげている。
やっぱり反省は形だけか!
主君の寝室に勝手にもぐりこむだなんて、そんなことはベイルフ
ォウスでもなきゃ、喜びません!
﹁だからもうちょっと可憐な感じで、といっただろうが!﹂
ワイプキーが娘の腕を肘でつついている。
﹁ちょっと、やめてよ!﹂
父の肘をつつきかえす娘。
こいつら⋮⋮。
﹁だって、この間、ジャーイル様は無理をしない私が好きだって言
72
ってくれたんだもの﹂
いや、言ってないからね。そんなこと、一言も言ってないからね。
幻聴が聞こえるのか、妄想を真実と思いこむタイプなのか、どっ
ちなんだ、この娘は。
﹁なにをのんきな⋮⋮。下手をすれば暗殺者と思われて、その場で
終わりだぞ、エミリー。それくらいわかるだろ?﹂
俺が即殺派でないのをありがたく思ってもらいたいもんだ。
﹁ジャーイル様に殺されるのなら、本望ですわ﹂
上目遣いで腰をくねらせない、エミリー!
俺はため息をついた。
﹁いったいいつ、潜り込んだ?﹂
﹁閣下がお風呂に入っているすきに⋮⋮﹂
まあそうだろうな。
エンディオンがコートをしまいにきたときは、いなかったはずだ。
なにせ衣装部屋は寝室の奥にあるのだから。
﹁なんだって、こんなことを⋮⋮﹂
男の寝室に忍び込む、それも父親の手引きで、だなんて、正気の
沙汰じゃない。
﹁だって、お礼をくださるって約束したわ! なのにまだ、果たし
てくださってないんですもの! ジブライールとは嫌らしく密着し
て、ダンスをなさったと聞きましたわ! なのに⋮⋮﹂
いや、別にいやらしく密着なんてしてません。普通に踊っただけ
です。
﹁じゃあ、君への礼は一夜を共にすることだと?﹂
﹁そうですわ!﹂
キリッとした顔で俺をみあげてくる。
この気のきつそうな感じが素なんだな。
73
﹁なんでもいいなら、こういうのもありでしょう?﹂
﹁エミリー。もう少し、自分のことを大切にしたらどうだ?﹂
﹁あら、この上なく、私は私を大切にしてましてよ?﹂
なぜそこで胸を張る。
貞操観念はどうなっているんだ? 俺には理解不能だ。
﹁そうですとも。この一夜をきっかけに、旦那様がうちの娘を側女
にしてくだされば、それでどちらも万々歳。丸く収まります﹂
いや、丸く収まらないよ。
とりあえずこの髭、一発殴っとくか。
俺は髭おやじの頭上にきつい一発を、それからエミリーにも手加
減した一発を落とした。
﹁ぎゃ﹂
﹁きゃん﹂
痛い目にあわないと、わからないようだからな、この父娘は。
﹁ワイプキーはしばらく停職、エミリーにはこの<断末魔轟き怨嗟
満つる城>への出入りを禁じる﹂
﹁停職!? ですが、旦那様!﹂
﹁反論は許さん﹂
俺がじろりとにらみつけると、ワイプキーはあわあわ言ってから
押し黙った。
﹁今日はこれで帰っていいが、いいな? 二度目は許さん。今度こ
んなことをしたら、不敬罪を適用するからな。ワイプキーだって、
次は停職ではすませないぞ。そこのところを、よく肝に銘じておけ
よ?﹂
主君の寝室に忍び込むのは、後ろから暗殺しようと襲いかかるよ
り重い罪なのだ。少なくとも、この城では。
﹁じゃあ、お礼は!?﹂
74
エミリーが頭をさすりながら、不満顔で見上げてくる。
﹁そんなもの、今回の件で相殺だ﹂
﹁ええ?﹂
手を抜きすぎたか? ぜんぜん懲りてないぞ、この娘。
﹁まあいいわ。このガウンはもらっていくから﹂
⋮⋮そりゃあ、ここで脱いで下着で帰れ、とはいえないが。
しかし、転んでもタダでは起きない娘だな。
ある意味感心する。
俺はため息をついた。
﹁好きにしろ。もういいから、出て行ってくれ。俺はもう休みたい
んだ﹂
﹁添い寝は⋮⋮﹂
﹁いらん﹂
もう一発いっとくか?
拳を握ると、父娘は不満ありありながらも、部屋から出て行った。
そうして俺は、やっとのことで就寝できたのだった。
***
ちくしょう、昨晩はひどい目にあった。ウィストベルのところで
は軟膏を飲まされるし、家に帰れば夜這いが待っているとは。
ワイプキーは停職にしたため、しばらくその代わりを務める者を
探さないといけない。俺としては侍従なんて大勢いるんだし、代わ
りは誰でもよかったんだが、ずっと側にいる者となると、吟味して
決めなければいけないらしい。それで家令のエンディオンが、一時
的にワイプキーの代わりを務めてくれることになった。忙しいだろ
うに、申し訳ない。
﹁サーリスヴォルフと、どうにかして話ができないかな⋮⋮いや、
75
まあ、なにがなんでもってわけじゃないんだけど﹂
俺は気になっていることをエンディオンに相談することにした。
マーミルの呪詛を止めてくれたのがサーリスヴォルフだという例
の一件を、未だ俺は確認できていないからだ。
本当なら恩人だしなぁ。
﹁何かお話しするのに問題があるので?﹂
﹁え? いや、同盟者でもないのに、城を訪ねていくのも⋮⋮﹂
﹁たとえば、ベイルフォウス大公閣下は、旦那様と同盟をお結びで
はありませんが﹂
それを言われると、そうだ。
同盟関係があるかないかは、訪問に際してあまり気にしなくても
いいのか?
﹁旦那様はきちんと先触れもお出しになられますし、他の大公をご
訪問なさるのに全く問題はないかと﹂
つまり、俺は別に誰のところでも気兼ねなく訪ねていっていいわ
けか。
ウィストベルの機嫌さえ、気にしないのであれば。
それにしても、やっぱりあれだな。近くから嘴を見上げさえしな
ければ、公私混同をしないエンディオンの補佐は快適だ。
﹁じゃあ、一度いってみるかな⋮⋮﹂
でも、理由は何にしよう? 先触れを出すのに、理由もなしでは
⋮⋮ベイルフォウスじゃないんだから。
サーリスヴォルフといえば、見境ないエロ⋮⋮他になにかあった
っけ?
そのサーリスヴォルフから、彼の城への招待状が届いたのは、そ
れから数日後のことだった。
76
8.子供が成人するからと、お誕生日会を行うようです
魔族は成人すると、全員が軍団員に組み込まれる。だから戸籍は、
軍務を管理担当する兵部にまかされている。
そこから紋章官という役人が二、三人でやってきて、おたくのお
子さんは来年のいついつに成人ですから、それまでに紋章を考えて
提出してくださいね、と言ってくるのだ。
その日から当人は自分の紋章のデザインを考えるし、その保護者
は当日に行う儀式の内容に頭を悩ませる。
とはいえ、その儀式の形式に決まりはなく、それぞれがそれぞれ
の考えのもと、お祭り騒ぎを行うだけのこと⋮⋮まあ、ぶっちゃけ、
儀式でもなんでもないんだけどね。
簡単にいうと、生涯に一度のお誕生会、だ。
それまでは自分の生誕日にこだわらず、年さえ数えないものだか
ら、本人も周囲もその子が子供であるとだけしか認識していない。
それが、その知らせがきた瞬間から、大人になるという心構えを
当人はいだき、周囲もそれなりの扱いをするのだ。
ちなみに俺の時は、内輪で食事会を開いただけだった。当日一日
限りで、使用人も含めての無礼講にして。そして、成人したのだか
らと割とすぐに出て行った。男爵位を得て。
だが、大公となると、そう簡単にはすまないのだろう。
サーリスヴォルフの子供が成人するからと、そのお誕生会の招待
状がつい先ほど届いたのだが、なんと会は三日にわたって開催され
ると書かれてある。三日もだ!
だから彼の領民は別として、他領の者で複数日招待を受けるもの
には、部屋を用意するとのことだった。その部屋の用意のために、
77
参加日数と人数をこと細かに返事しないといけないようだ。
それだけの会なのだから、参加者も誰でもいいというわけでもな
いようだ。
というのも招待状のカードには、招きたい相手の条件が書かれて
いたのだ。
必ずしもそのとおりでなくてはいい、という注意書きがついてい
たにしても、こう書かれていては。
そろそろ身を固めたいと望んでいる、独身のデヴィル族の男女を
第一に希望する、と。
そして同時に成人を迎えるという彼の息子と娘の姿絵と、ご丁寧
に二人の性格と能力、身体情報までもを記した手紙が同封してある
のをみれば、この会の目的は容易に察せられる。
﹁つまり、これは⋮⋮﹂
﹁サーリスヴォルフ大公はこの際に、お子さまの身の振り方も決め
ておきたいと考えておいでなのでしょうね。招待者には未婚のデヴ
ィル族を希望する、とあるからには、結婚相手をお探しということ
でしょう﹂
ワイプキーが停職中のため、今日もエンディオンがその代わりを
つとめてくれている。
﹁そういうことだよな﹂
どうやらサーリスヴォルフは、子どもたちの成人の義を単なるお
誕生会ですませる気はないらしい。三日もかけて、その伴侶を選ぶ
つもりのようだ。
魔力の強さは遺伝しない。だから、大公の子であっても爵位を得
られないほど弱い、ということは往々にしてにある。ヴォーグリム
78
大公の息子であるリーヴが、異様に弱いのがいい見本だ。
俺自身を顧みたところで、両親もそれほど飛び抜けた存在ではな
かったし、マーミルだって今のところごく普通といっていい成長具
合だ。今の状態から将来を予測する限りでは、爵位はいずれ得られ
るだろうが、大公レベルまで達するのは難しいと思われる。
そんなマーミルの将来を考えれば、強大な力を持つ親がその子の
行く末を心配して、自分以外の保護者を求める気持ちはわからない
でもない。今は自分が健在でも、大公であるからには、いつその地
位を取って代わられるか知れないのだから。
﹁それにしたって、なんだって身体情報まで⋮⋮﹂
身体のデータを書くにしても、デーモン族ならばせいぜいバスト
ウエストヒップに身長体重くらいだろうが、様々な動物の混じった
デヴィル族ではそれですまないらしい。
脇回り、胴回り、乳回り、腰回り、尻回り⋮⋮その他の項目が、
数字となんの動物であるのかという詳細と共に書き連ねられている。
体型を知らせることは、デヴィル族にとって重要なことなのだと
いわれれば、そうなのかもしれないが、正直読むのも面倒だ。
同じ日に成人する二人は男女の違いはあれど、よく似ている。お
そらくネネネセのように双子なのだろう。蛙の顔と上半身をしたそ
の二人は仲良さげに腕をくみ、お互いがもたれかかるようにぴった
りとくっついた姿で一枚の紙に描かれていた。
﹁お祝いの品に、衣服を選ぶものも多いからでしょうね﹂
そうか。招待されるんだから、当然プレゼントを持って行かない
といけないのか。
しかも、大公の身内への贈り物となれば、簡単にすませるわけに
もいかないのだろう。
79
なぜなら、その開催日は二ヶ月近く先に設定されていたからだ。
通常の会なら、一ヶ月前の知らせでいいはずだ。準備期間を多めに
やるから、その間にいいプレゼントを用意しておけよ、ということ
なのだろう。
﹁しかしこれは⋮⋮衣服をお選びになるのでしたら、よほど気をつ
けなければいけません﹂
﹁え? このサイズ通りにつくれば⋮⋮﹂
﹁お見かけしたところ、お子さま方は双身一躯であるように思われ
ます。そこを配慮しそこねると大変なことになってしまうでしょう
から﹂
双身一躯。
聞いたことがある。デヴィル族にも稀という、一つの下半身に二
人分の上半身が備わっているというものだ。なるほど、だから絵も
こんなにぴったりくっついているのか。
親が雌雄同体、という珍しい身体だと、子も何かしら変わった特
徴を持つものなのだろうか。
﹁ってことは、この子たちは⋮⋮どっちになるんだ? 息子、それ
とも娘?﹂
﹁どちらも、でしょう。お手紙にもご子息とご息女で、二人、とあ
りますし。それぞれに個性があり、それぞれ嗜好も異なるはずです﹂
﹁ってことはえっと⋮⋮結婚相手って⋮⋮どっちになるの?﹂
﹁やはりどちらもでしょうね。ご子息には細君を、ご息女には夫君
をお探しなのでしょう﹂
え?
よくわからないな⋮⋮それだと二人は離れられないんだから、そ
れぞれの相手とはどうやって夫婦生活を送るんだ?
﹁四人で一緒に暮らすことになる、ってこと?﹂
まさか。常に四人で一緒のベッドに眠るのか?
80
﹁そういうことになりますでしょうな﹂
ちょっと俺には耐えられそうにない。
デヴィル族は奥が深い。
﹁しかし、祝いの品の選別かぁ⋮⋮大変そうだな﹂
俺は二人の絵をじっと見つめながら、頭をかいた。
今の話だと、衣服は避けた方が無難か? そうなると、装飾品と
かがいいのか?
そもそも、どの程度の品をもっていけばいいんだ?
二ヶ月もかけろってことは、山ほど用意しないといけないのか?
﹁よろしければ、旦那様。この城の贈答記録がございますので、そ
れを参考に案をお出ししましょうか?﹂
﹁助かる⋮⋮ぜひ、そうしてくれ!﹂
やっぱりエンディオンだな!
もういっそ、どんな時でもエンディオンがついててくれないかな!
しかし、未婚で相手の定まっていないデヴィル族の男女、か。
誰かいたか?
そういえばイースは、と考えてみる。あいつも未婚だったはず。
だが、あいつは無爵位だしなぁ。
そりゃあ、この城はむしろデヴィル族の方が大多数を占めるのだ
から、確認すればいくらだって該当者はいるのだろう。だが、俺が
よく知りもしない者を、大公の身内候補として紹介するっていうの
はどうなんだ。
仕方ない。デーモン族であるジブライールと、既婚であるらしい
ウォクナンは不参加でいいとしても、あと二人の副司令官は強制参
加にするか。いっそ、軍団長も参加させるとしよう。いくらなんで
も、誰も連れていけませんでした、というのはまずいだろうからな。
﹁それほど堅苦しく考えずともよいのではないでしょうか。お悩み
81
でしたら、旦那様。スメルスフォ様にご相談なさってはいかがでし
ょう?﹂
スメルスフォ?
確かに、彼女は未亡人だから未婚と言えなくもないが。
﹁それはさすがに⋮⋮初婚だろう大公の子に、未亡人を紹介するだ
なんて⋮⋮スメルスフォだって、うんとは言うまいし﹂
﹁いいえ、旦那様。そうではなく、スメルスフォ様にお嬢様の参加
を打診なされては、ということなのですが﹂
娘たち?
﹁いや、いくら彼女たちがデヴィル族といっても、まだ一人として
成人していないようでは⋮⋮﹂
﹁ですが、アディリーゼ様とシーナリーゼ様は、お年頃といってい
いご年令のように見受けられます。成人してはいないといっても、
それもそう先のことでもないと思われますが﹂
マジか。
俺にはぜんっぜん、わからん。
デーモン族なら多少は見かけで判断がつくんだがなぁ。
﹁じゃあ一度、スメルスフォに相談してみるよ。助言をありがとう。
ちなみに、エンディオンに未婚のお子さんは?﹂
﹁お気にかけていただいて、光栄ではございますが、幸いなことに
皆、片づいております﹂
だよな。
数千年を生きているエンディオンの、息子と娘だもんな。
***
俺はさっそく、彼女の娘たちの同行について、スメルスフォに相
談してみることにした。
82
﹁というわけなんですが、どうでしょう?﹂
﹁そうですね﹂
スメルスフォは絵と釣書のような手紙を見比べている。
﹁私は、よいと思いますが﹂
﹁やっぱり難しいですか。そうですよね、いくらなんでも四人で新
婚⋮⋮え?﹂
今、もしかして、﹁よい﹂って言った?
それは同行させてもいいってこと?
え? いいの?
双身一躯だよ。それでもいいの?
﹁娘たちにとっても、いろんな方と交流できるのは、よい社会勉強
になると思いますわ﹂
そうか。招待客はたくさんいるだろうから、こっちだって何もサ
ーリスヴォルフの子供たちだけを見合い相手に考える必要はないし、
それ以前に別の目的を抱いていくってのもありなのか。
そういう考えだったからこそ、俺が開いた舞踏会にもマストヴォ
ーゼとスメルスフォは子供たちを連れてきていたのだろうし。
﹁では、誰を連れていきましょう﹂
﹁年齢的に、上の二人だけでよいと思いますわ﹂
エンディオンの予想と同じ答えが返ってきた。
ということは、長女と次女は見かけも成人レベルだと思っていい
のか。
今度から、そのことを念頭に置いて接するようにしよう。今まで
はつい成人前だと思って、子供扱いしすぎていたから。
しかしそういうことなら、フェオレスが長女と特別な関係だった
としても、ロリコンドン引きというわけではないということだな。
﹁わかりました。けど、実際に同行するかどうかは、二人の意志に
83
任せたいと思うんですが﹂
もしかして、フェオレスとなんだったりするなら、行きたくない
と言うかもしれないし。
もちろん一方のフェオレスは、副司令官という立場にありながら
独身なので、強制参加だ。
﹁お気遣い、ありがとうございます﹂
﹁返事には二、三日かかっても大丈夫なので、お話はお願いできま
すか? そちらの絵と手紙は、そのときに返していただければ﹂
﹁わかりました。確認してお返事いたしますわ﹂
こうして俺は、母に娘への説明を任せて、通常業務に戻ったのだ
った。
長女と次女が、二人とも参加するつもりだという連絡をもらった
のは、それから二日後のことだ。
そうしておおよその参加者も決まり、本格的に誕生日会への参加
準備に追われる日々を送っていた最中に、その事件はおこったのだ
った。
84
9.もう我慢の限界です!私だっていつまでも堪え忍んではいな
いのです!
﹁うええ、うええええ、うえええええええ! げほっ、げほっ!﹂
﹁まあまあ、マーミルお嬢様。いつまで泣いていらっしゃるんです
? ほら、鼻水がかぴかぴになってますよ、汚らしい﹂
主人に向かって汚いとはなんだ、この侍女め!
﹁マーミル、元気を出して﹂
﹁仕方ありませんわ、私たちはまだ子供なんですもの﹂
﹁うえええ⋮⋮で、でも⋮⋮﹂
ネセルスフォとネネリーゼが頭や背中をなでてくれますが、それ
では私の気持ちはおさまりません。
これまで私はお兄さまに対して、とっても我慢してきたのです!
大公になったとたんに、仕事、仕事といって、会えない日が何日
も続き、たまに一緒に寝たいといっても、疲れてるから駄目とすげ
なく断られ⋮⋮。
いつものお仕事が休みだと聞いて喜んでみれば、魔王城やウィス
トベル様のお城に行くという。
何が不満で泣いているか、もう察していただけますね!?
そうです、お兄さまがかまってくれないのです!!!
その上、なんですって? サーリスヴォルフ大公のお子さまが、
成人するから泊まりがけで祝いにいくですって!?
招待状には家族や臣下を連れて来てもいいと、書いてあるとか!
なのに!
﹁なんで私は行っちゃ駄目なのぉぉぉぉ!!﹂
85
﹁だから、双子姫がおっしゃっておいででしょ。お嬢様が子供だか
らですよ﹂
﹁じゃあなんで、シーナリーゼとアディリーゼは一緒に連れて行っ
てもらえるのよぉぉぉぉ!!﹂
そうです!
双子の姉たち、長女のアディリーゼと次女のシーナリーゼは連れ
て行ってもらえるそうなのです!!
﹁不公平だわ! お兄さまの実の妹は、私なのに⋮⋮私⋮⋮なのに
⋮⋮うえええええ﹂
﹁そういう問題じゃありません、お嬢様。お姉さま方は、成人前と
はいえお年頃だから連れて行ってもらえるのです。でもお嬢様はま
だこんなクソガキ⋮⋮いえ、お子ちゃまじゃありませんか﹂
知るもんか! そんな理屈で、納得できるもんか!!
﹁⋮⋮⋮⋮てやる⋮⋮⋮⋮﹂
﹁マーミル?﹂
﹁家出してやるーーー!!!﹂
そうして私は、必死に追いすがる双子の手をふりきり、なぜか笑
って止めようともしないアレスディアに見送られ、<断末魔轟き怨
嗟満つる城>を飛び出したのでした。
***
﹁うえええええええ﹂
﹁わーかった、わかった。いや、わからないけど。とにかく泣くな、
マーミル﹂
﹁うええええええ⋮⋮うぇ?﹂
目の前に差し出されたラズベリーケーキに、私の目は釘付けにな
86
りました。仕方ありません、好物なのですから。
﹁ほら、これでも食べて落ち着け。な?﹂
そう言って、ベイルフォウスが強引にお皿を渡してきます。しか
たありません、こんなに強引にぐいぐいやられたら、受けざるを得
ません。
決して自ら奪い取ったわけではありません、ありませんとも!
ケーキにがっつく私。そのまま床に座り込もうとしたのを、ベイ
ルフォウスに抱えられます。
﹁ちゃんと椅子に座って食え﹂
荷物のように運ばれますが、今日だけは勘弁しておいてやりまし
ょう。
それより今は、ケーキです!
﹁ぷはー﹂
最後に紅茶でケーキのかけらを流し込み、私は満足のため息を⋮
⋮って、違う!
満足などしてはいない、私は怒っているのだから。
ちょっと、頭をなでないでください、ベイルフォウス!
﹁で、何があった? 俺の妹になる決心でもついたのか?﹂
﹁ばかなことを言わないでください﹂
べーっと舌を出したら、ほっぺたを引っ張られました。
﹁いりゃい﹂
﹁生意気な口をきくからだ。泣いて駆け込んできたくせに﹂
ぐっ⋮⋮。
そうです、ここは<不浄なり苔生す墓石城>、ベイルフォウスの
居城です。
どうやってきたかって? もちろん、竜を駆ってです!
87
イースに乗り方を教えてもらえたのはつい昨日ですが、そこはあ
れ、マーミルちゃん、気合い一発です!
ちょっと暴れかけられましたが、お兄さまが最初の日にいってい
たとおりに殺気を込めてにらみつけ、強引に従えました!
⋮⋮嘘です。そんなことで、私がベイルフォウスのところまで、
たどり着けるわけはありません。
なにせこの城と来たら、兄の領地から広大な魔王領を越え、まる
で海のような湖を越えて、さらに飛ばないとたどり着かないのです
から!
確かに、途中まではなんとか自分の力で飛びました。
けれど、なれていない竜をこんな長距離にわたって制御できるは
ずもなく⋮⋮。途中で竜の背からおちかけた私は、後をついてきて
いた城の竜番によって助けられたのでした。
もちろん竜番は、私をつれて城に帰ろうとしました。
が、そこは簡単に引き返すわけにはいきません!
家出をするといって、飛び出してきたのですから!
必殺泣き落としを使い、なんとかこの<不浄なり苔生す墓石城>
へ向かってもらったのです。
あんまり遠いので、途中でもっと身近な相手のところにすればよ
かった、と思ったのは内緒です。そして、考えてはみたものの、そ
の相手を思いつかなかったのも⋮⋮。
﹁ぐす⋮⋮﹂
﹁ケーキならまだある。食べるか?﹂
﹁ありがとうございます。でも結構ですわ﹂
私が泣き出すと、意外にもベイルフォウスは困惑顔です。もっと
こう、迷惑な感じで対応されるかと思っていたのですが。
88
ついでにいうと、私がケーキを食べている間に、器用に鼻水と涙
の跡を拭いてくれたのは、お手柄として付け加えておきたいと思い
ます。
しかし、泣き出しそうになるたび甘いものを差し出すという、単
調な対応しかしないのは、女たらしとしてどうなのでしょうか。
﹁どうした、またジャーイルに折檻でもされたのか?﹂
﹁お兄さまはシスコンです。私を痛めつけたりしません﹂
﹁⋮⋮⋮⋮お前って、鳥頭?﹂
なんだと、失礼な男だな、ベイルフォウス!
﹁私は家出してきたのです。なので、しばらく泊めてください、ベ
イルフォウス様﹂
﹁家出? なんでまた⋮⋮﹂
涙をふくふりをして、いつまでもほっぺを触るのはやめてくださ
い。
﹁貴方が目の前で女性といちゃつくのも、私の情操教育には大変悪
影響ですが、我慢する覚悟です﹂
﹁お前な⋮⋮﹂
ベイルフォウスは私の頬から手をはなし、深いため息をつきまし
た。
﹁泊めてやるのはいいが、お兄さまにはちゃんと断ってきたのか?﹂
﹁家出なのに、断ってくるはずがないでしょう!﹂
よく考えるがいい、ベイルフォウス!
しかし、今の私は下手にでなければいけない立場⋮⋮あまり強く
は言い返せないのです。
﹁それよりも⋮⋮お願いが、あるのですが﹂
お兄さまには通じませんでしたが、ベイルフォウスには通じるか
もしれません。私はぎゅっと両手を胸の前で握りしめ、上目遣いで
89
ベイルフォウスを見つめました。
﹁それ、教えたの、俺﹂
ちっ。そういえばそうだった。
﹁閣下﹂
遠慮がちに、従僕がやってきます。
﹁おじゃまをして申し訳ありません﹂
﹁まったくだな﹂
ベイルフォウスに睨まれて、その従僕は少しひるみました。相手
が男性だからといって、なにもそんな舌打ちまでしないでもいいと
思います。可哀想です。
﹁あの、お客人がいらっしゃっておいでで⋮⋮﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
ベイルフォウスは毒気の抜けた顔で立ち上がりました。
﹁お客様?﹂
あら、お約束でもあったのかしら。
どうしましょう、私。どこにいればいいかしら。
ここでいいかしら。居間みたいだし、お客様には応接で対応する
だろうし。
﹁マーミル! ベイルフォウス、マーミルは⋮⋮やっぱりここか!﹂
お兄さまでした。
﹁お兄さま!? なぜ、ここに!﹂
私はベイルフォウスの背にさっと隠れます。
﹁なぜってお前、大事な妹が泣いて城を飛び出したと聞けば、当然
探しにくるだろ!﹂
大事な妹!
はい、もう一度!
大 事 な 妹 !
90
いけない、顔がにやけてしまうわ。
それにしても、なぜここだとわかったのでしょう?
私の行きそうなところなんて⋮⋮いくらでも⋮⋮いくら⋮⋮でも
⋮⋮ぐすっ。
ち、ちが⋮⋮愛の⋮⋮愛のなせる技⋮⋮これは、愛のなせる技⋮
⋮。
﹁⋮⋮お仕事は⋮⋮?﹂
﹁お前が飛び出したのを放っておいて、仕事なんてしていられるか。
走って出て行ったぐらいならともかく、竜を駆って出たというなら
なおさら﹂
ああ、やっぱり私、お兄さまに愛されている!
﹁さあ、一緒に帰ろう。今すぐ﹂
手をさしのべてくるお兄さま。すぐにでも駆け寄って、その手を
握りしめ、割れた腹筋に抱きつきたい!
しかし、チャンスです。これはチャンスなのです。
﹁いやですわ﹂
その一。頬を膨らませ、ぷいっと横を向く。
﹁でも、お兄さまがお願いをきいてくださるなら、帰ってもいいで
すわ﹂
﹁なんだ、言ってみろ﹂
ようし!
その二。ちょっとすねた様子を残しつつ、ちらりちらりとお兄さ
まを見る。
91
﹁サーリスヴォルフ大公のお城へ、私も連れていってくださると、
約束してくれるなら﹂
﹁駄目だ﹂
即答か!
即答です、即答!
考えるそぶりもみせませんでした!
﹁また帰ってきてから、体調を崩したらどうする。それに今度招待
されているのは、重臣の他は妙齢の未婚男女だけだ﹂
﹁じゃあ、どうしてシーナリーゼとアディリーゼは連れて行くんで
すの? あの二人だって、まだ成人前ですわ!﹂
﹁成人前だが、あの二人は年頃なんだよ⋮⋮スメルスフォに聞いた
から、間違いない﹂
兄が困ったように頭をかきつつ、弁解してきます。
﹁なるほど、サーリスヴォルフの招待の件でもめてるのか﹂
ベイルフォウスが腕を組みながら頷きました。
﹁マーミル。ジャーイルの言うとおりだ。その、なんちゃらいう娘
たちのことは知らないが、今回の招待はむしろ結婚適齢期に達して
いる者⋮⋮それも、デヴィル族の男女がメインで、俺たちですらお
まけみたいなもんなんだぞ。なにせ、サーリスヴォルフの息子と娘
が成人する祝いの儀式だからな﹂
私だって、それほど世間知らずではありません。
成人の儀の際に、両親が子の行く末の平穏なことを願って、力あ
る魔族とのつながりをもとめたり、保護してもらえそうな相手と婚
姻を結んでしまう、ということがあることは、知っています。
でも、だからって、その結婚相手になりそうな相手以外は全排除
だなんて!
92
﹁絶対よけいなことはしませんわ! 私だって、自分の時の参考に
したいと思っていますのよ!﹂
﹁いや、俺はお前の儀式の時に、結婚相手は探さないからな、絶対。
今回のとは全く違う式になるから、参考にする必要はない﹂
まあ、お兄さまは私のことを手放さない決意ですのね!
そんなにも私のことを⋮⋮。
嬉しいですが、それはそれ、これはこれ。お誕生会なんて、めっ
たにあることではありません。参加してみたいと思うのは、当然で
す。
そして、何より⋮⋮⋮⋮お兄さまとお泊まり! お兄さまとお泊
まり!
お と ま り ーーーーーー!
﹁つまりマーミルは、なにがなんでもジャーイルが、サーリスヴォ
ルフの城に連れて行くと約束するまでは帰らない、と。だが、ジャ
ーイルはマーミルが心配だから、絶対に連れて行かない、と﹂
マーミルが心配だから!
心配だから!
﹁その通りです!﹂
私は胸を張ってベイルフォウスに答えました。
﹁よし、わかった。とりあえずジャーイル、お前は帰れ。マーミル
はしばらく俺が預かる。なあ、マーミル。お前だってこのままでは
気がおさまらんだろう﹂
﹁その通り、おさまりませんわ!﹂
よし、その調子だ。ベイルフォウス。
﹁は?﹂
兄がじろりとベイルフォウスをにらみつけます。
﹁お前のところに、一人で置いていくわけがないだろ。嫌だと抵抗
するなら、引きずってでも連れて帰る﹂
93
強引なお兄さまもすてきです!
私のことを思うあまりの行動だというのなら、なおさら!
﹁なあ、ジャーイル﹂
ベイルフォウスは私の盾役を放棄し、兄の方に歩み寄っていきま
した。そして、兄の首をぐいっと引いて、二人で私に背をむけてこ
そこそ話し出します。
﹁⋮⋮いや、でも⋮⋮﹂
﹁⋮⋮だから、⋮⋮大丈夫﹂
﹁そんなの⋮⋮﹂
﹁⋮⋮だろ?﹂
﹁⋮⋮でも⋮⋮﹂
なんでしょう。何を話しているんでしょう。
ものすごく気になります。
内緒話なんて、マーミルちゃんの気分が悪いです。
﹁わかった、じゃあ、そうしてみよう﹂
最後に兄が頷いて、二人は離れました。
﹁マーミル。今すぐお兄さまと帰ったらどうだ?﹂
な⋮⋮なんだと、ベイルフォウス! 無条件で屈しろというのか!
さっきは預かるといったではないか!
その舌の根も乾かぬうちから、帰れだと!? なんという変わり
身の早さだ!
﹁いやです! 私はお兄さまがお誕生日会に連れて行ってくれると
約束してくれるまで帰りません! 絶対にです!﹂
﹁そこまでの気持ちがあるなら、選べ、マーミル﹂
﹁な⋮⋮何をです?﹂
ベイルフォウスが兄と顔を見合わせ、ニヤリと笑います。
94
﹁無条件でいますぐジャーイルと帰るか、残って俺のことを﹃お兄
ちゃん﹄、と呼ぶかだ!﹂
﹁だから残ると言っているで⋮⋮⋮⋮え?﹂
﹁よし、残るか!﹂
は?
﹁いや、ちょっと待て、ベイルフォウス!﹂
﹁残ると言った!﹂
不服を申し立てようとした兄に、ベイルフォウスが勝ち誇った風
に宣言しました。
﹁言いました、でも⋮⋮﹂
﹁ほら、本人も言ったと言ってる。ジャーイル、お前も約束したよ
な? この条件で、マーミルが残るといえば、いったんあきらめて
帰ると﹂
﹁⋮⋮約束、したが⋮⋮﹂
お兄さまがちらりと私を見てきます。
ああ、違うの、違うんです、お兄さま!
反射的に答えてしまっただけなんです。誰がこんなエロ大公を、
﹁お兄ちゃん﹂だなんて呼びたいものですか!!
﹁わかった。そのかわり、さっきの話⋮⋮﹂
あきらめないで、あきらめないで、お兄さま!
さっき言ったとおり、強引に連れて帰って、お兄さま!!
﹁承知してる。マーミルがいる間は、その世話係以外の女は基本、
表に出さない。間違っても、目の前で触れたりしない﹂
﹁約束だぞ⋮⋮﹂
﹁俺だって子供の前で、本命でもない女といちゃつこうとは思わな
いさ。信頼しろ﹂
ちょ⋮⋮二人で話をすすめないで!
私の意見も聞いてください!
95
いや、帰らないといったけども⋮⋮いったけども!
﹁わかった⋮⋮じゃあ、少しの間、マーミルを頼んだぞ﹂
﹁お兄さま!﹂
待って、お兄さま!
私は必死に目で訴えます。
いくら﹁お兄ちゃん﹂呼びが嫌だからといって、さすがにいまさ
ら﹁連れて帰れ﹂とは口にしがたいのです。
でも、お兄さまならわかってくれるはず!
﹁マーミル⋮⋮おまえ、そんなに⋮⋮﹂
え? なぜ、ため息をつくの、お兄さま。
私の気持ちは通じているはずでしょ?
﹁ほんとに⋮⋮信頼していいんだな、ベイルフォウス﹂
えっ!?
﹁しつこいな。さすがに温厚な俺も、本気でキレるぞ﹂
﹁わかったよ⋮⋮﹂
え、ちょ⋮⋮。
﹁お兄さまのバカー!﹂
その後、兄は私の最後の叫びを無視して、あっさりと帰宅してし
まいました。
そして残ったのは、涙目になる私にしつこく﹁お兄ちゃん﹂を強
要してくるベイルフォウス。
なぜこんなうざい状況になってしまったのか?
これもそれも、それもこれも、全部ベイルフォウスが悪いのです
!!
﹁お兄ちゃん﹂などと、呼んでやるものかっ!!
96
10.僕だって妹のことは、それなりに可愛いのです
マーミルが家出をして、今日で三日がたつ。
まあ、普段から毎日顔を合わせているわけではないから、別にい
てもいなくても⋮⋮⋮⋮そんなわけないし!
ベイルフォウスだぞ、ベイルフォウス!!
いや、わかってる。ベイルフォウスにロリコンの気はないことは
わかってる。だが、あいつは素行の悪さを考えると⋮⋮。
駄目だ、俺。信頼しよう。
我が友はあんなにもしっかり約束してくれたじゃないか。
マーミルがいる間は、ところかまわず女性といちゃつかないって!
⋮⋮だが、本当にそんなことが可能なのか?
あの、女と見れば相手がデーモンであろうがデヴィルであろうが、
色目をつかう奴が、果たしてほんとうにマーミルのために煩悩を抑
えられるのだろうか。
心配だ⋮⋮。
いやしかし、俺がベイルフォウスに強要したわけではないんだ。
俺だっていくらマーミルへの影響が心配だからといって、さすが
に他の城の女性を全員表に出すな、だなんて我侭は言い出さない。
マーミルの世話をお願いする侍女をのぞいて、他は裏方に回す、
とはむしろベイルフォウスの方から提案してきたことなのだし。
さすがに自信があってのことなんだろう。
﹁閣下。一度、休憩をとりましょうか?﹂
俺がぼうっとしていたからだろう。フェオレスが心配そうに声を
かけてくれる。
97
現在俺は、四人の副司令官と会議中だ。
サーリスヴォルフの主催する祝賀会への参加者と、残る者の役割
分担の調整で。
﹁ああ⋮⋮いや、大丈夫だ﹂
本当は大丈夫じゃない。しばらく上の空だった。申し訳ない。
だが、今は仕事を中断している暇などない。一刻も早く終わらせ
なければ!
さくっと会議を終えて、さっさとベイルフォウスのところへ妹を
迎えにいこう。さすがに三日目ともなれば、マーミルの気持ちだっ
て落ち着いているだろう。
しかし、正直にいうと、あれはショックだった。
まさか俺と帰るより、ベイルフォウスを﹁お兄ちゃん﹂と呼ぶほ
うを受け入れるだなんて。
しかも、帰りがけには睨まれたからな。
さっさと去れ、といわんばかりに。
サーリスヴォルフのところへ連れて行かないくらいで、あんなに
怒り出すだなんて。
﹁気を使わせてすまん。話を続けてくれ。確か、軍団員の⋮⋮﹂
﹁うわあああああん!!﹂
俺の発言は中断された。
突然、泣きながら部屋にかけ込んできた妹によって。
﹁マーミル!﹂
﹁お兄さまああああ﹂
﹁ぐっ!﹂
立ち上がり、妹に駆け寄ったら腹に頭突きをくらった。
﹁うえええええ!﹂
98
﹁どうした、ベイルフォウスに何かされたのか!?﹂
くそ、あいつ⋮⋮!
俺は床に膝をつき、妹の顔をのぞき込む。
だが、妹は首を左右にふった。
﹁むしろ、優しくて気持ち悪かった﹂
⋮⋮⋮⋮。
﹁じゃあ、どうして泣いてるんだ。というか、いつ帰ってきたんだ﹂
﹁ベイルフォウス様に送ってもらって⋮⋮ぐすっ⋮⋮﹂
﹁旦那様﹂
エンディオンが遅れて姿を見せる。
﹁今しがた、ベイルフォウス大公閣下がマーミル様をお送りくださ
り、そのままご帰城なされました。旦那様をお待ちいただくよう、
お願い申し上げたのですが、お断りになられまして⋮⋮﹂
﹁そうか﹂
悪かったな、ベイルフォウス。疑って。
マーミルをちゃんと預かってくれたというのに。今度会ったら、
礼をいっておかないと。
﹁閣下。休憩をはさみましょうか?﹂
﹁ああ、すまん。そうさせてくれ﹂
フェオレスが再度の提案をしてくれ、今度は俺もそれに賛成した。
***
俺はマーミルを連れて部屋の隅に移り、妹を椅子に座らせると、
その前にしゃがみこんで話を聞くことにした。
﹁で、どうした、マーミル。なぜ帰ってきても、泣いている﹂
ベイルフォウスにひどいことをされた、というのでないのなら。
99
﹁だって⋮⋮み⋮⋮三日も、お兄さまと別々のおうちで⋮⋮お兄さ
まの、いないお城で⋮⋮ひっく﹂
三日程度なら、この城でも顔をあわせないこともあるだろうに。
しかしあれか⋮⋮これがいわゆるホームシックというやつか。
懐からハンカチを取り出して、妹の手に持たせる。
すると、どうしたことか妹はぴたりと泣き止んで、俺とハンカチ
をちらちらと見比べた。
なぜそんなに不服そうなのだ、妹よ。
﹁渡すだけ?﹂
渡す以外に何をしろと?
だが、これをきっかけに、妹の感情は泣きから怒りにシフトした
らしい。
さっきまでわんわん泣いていたくせに、今度は目尻をつり上げて
睨みつけてくる。
﹁お兄さまったら、全然迎えに来てくれないし!﹂
ええええ⋮⋮だってお前、帰らないって言ったじゃないか⋮⋮さ
すがにそれで、次の日に迎えにいくとかはできないだろ。しかもあ
んな、睨んで来たくせに。
まあ、今日は迎えに行こうと思ってたんですけどね。正直には言
わないけど。
﹁お兄さまが迎えにきてくれないから、ベイルフォウス様がずっと
優しくて⋮⋮。優しすぎて気持ち悪くて。でも正直かまわれすぎて
うざいし、ことあるごとに﹃お兄ちゃん﹄と呼べといってくるから、
ほんとにうざくって。甘いものばっかり持ってくるし、朝はご飯の
瞬間から晩は部屋に戻るまで、かまって遊ぼうとしてくれるし、う
ざくって! あんなことなら、目の前で女の人といちゃつかれた方
がどれだけマシだったか!﹂
100
マーミルはそう言いながら、俺のハンカチをぎゅっと握りしめた。
涙もすっかり乾き、妙に遠い目で天井を見つめている。
どうやら我が友は、約束通り女性の使用人のほとんどを、裏方に
回したらしい。
しかしマーミルは、ベイルフォウスが思いの外うざかったから、
帰ってきたってことか。
ベイルフォウスを﹁お兄ちゃん﹂と呼ぶのを承知で、残ることを
選んだのは妹よ、お前ではなかったろうか。
⋮⋮⋮⋮友にはあとであやまっておこう。
﹁あんなうざい兄なんていらない! あんまり構ってくれないお兄
さまの方がいい! たとえ優しく涙をふいてくれないとしても!﹂
そういって、妹はひっしと抱きついてきたが、正直俺の心中は複
雑だった。
﹁まあ、無事に帰ってきてくれて、よかったよ﹂
息をつきながら、妹の頭をなでる。
ん? また、複雑な髪型してるな⋮⋮もしかして、あれか。また
ベイルフォウスにやってもらったのか。
あいつは見かけによらず、ほんとに手先が器用だな。
⋮⋮いや、手先は⋮⋮⋮⋮もともと器用か⋮⋮⋮⋮うん⋮⋮⋮⋮。
﹁帰ってきたけど⋮⋮帰ってきたけど、パーティーにはいぎだいー﹂
息がつまりそうなほど、力を込めて抱きついてくる妹。
﹁だから、それは駄目だっていってるだろ﹂
﹁お兄さまは⋮⋮﹂
マーミルはふっと腕の力を弱め、俺からそっと距離をとった。
﹁私のことが、可愛くないんですの?﹂
なぜそうなる。
101
﹁マーミル。わがままを聞くことだけが、可愛がっている証拠では
ない﹂
﹁嘘よ⋮⋮だって、みんな⋮⋮﹂
みんな?
妹の眉間には深い皺が刻まれている。
﹁閣下。よろしいでしょうか? 私に一つ、提案があるのですが⋮
⋮﹂
遠慮がちに言いながら近づいてきたのは、ジブライールだった。
﹁悪いけど、ジブライール。話は会議の再開後に⋮⋮﹂
﹁マーミル姫のご同行をお許しになられてはいかがでしょう﹂
軍団に関する提案かと思えば、現状の私的な悩みに対する提案だ
った。
思わぬ援軍に、マーミルの瞳がきらりと輝く。
﹁ジブライール。心配事を察して助言をくれるのはありがたいが、
その提案は許諾できない。俺がずっとついていられるならともかく、
そうはできないだろうからな﹂
この間のように、またあのラマがマーミルにちょっかいを出さな
いとは限らない。あれだけ脅しておいたのだから、さすがに大丈夫
だろうとは思うが、万が一のことがあってはいけない。それに、あ
の一件があってから俺も反省したのだ。
なぜ、家族がいるはずの他の大公が、許されているにもかかわら
ず、誰もおおやけの行事にその子どもや年若の兄弟たちを連れてこ
ないのか⋮⋮やはり俺の考えは、甘かったといわざるを得ない。
成人しているのならともかく、妹はまだ非力な子供だ。せめて護
衛を付けられるという状態でもなければ、領外まで連れて行くのは
危険を伴うのだということに思い至るべきだったのだ。
だから今後は一層、注意をして連れ歩かないようにしたいと思っ
ている。
102
なにせ警戒すべきはラマだけではないだろうしな。
﹁ですので、閣下。私が閣下の代わりに、姫の傍らに片時も離れず
ついている、ということではいかがでしょうか?﹂
え?
﹁ジブライール公爵!﹂
妹はぎゅっと両手を胸の前で握り、上機嫌でジブライールを見上
げている。
ジブライールは今回の行事には不参加だ。彼女は確かに独身では
あるが、デヴィル族ではないから連れていっても意味がないと判断
してのことだ。だから同じく不参加のウォクナン同様に、領地の平
穏に目を光らせてもらうつもりでいる。
﹁駄目だ。妹のわがままに、気を使わせてわるいな、ジブライール﹂
気持ちはありがたいが、いくらジブライールであっても特殊魔術
もなしにラマの呪詛は看破できまい。
﹁お兄さま! せっかく公爵閣下が、こうおっしゃっておいでなの
に!﹂
﹁姫の身をご心配なさっておいでなら、閣下。誰であろうが、指一
本触れさせません。体調にも気をつけて、お世話いたします﹂
﹁一日でもかまいませんわ! 三日のうちの、たった一日でも!﹂
﹁大公閣下の妹君として、いろいろな行事を経験しておくのは、ご
本人のみならず、閣下のためにもなるのではないでしょうか﹂
﹁大人しくしていますわ! 絶対、ほかの人の迷惑にはなりません
わ!﹂
﹁それとも、私では姫の護衛には力不足ということでしょうか﹂
妹と、ジブライールがたたみかけるように言ってくる。
なぜ二人とも、そんなに必死なのだ。
よその家の子の成人の儀式なんて、そんなに見たいか?
103
できることなら、俺と代わってもらいたいくらいだ。
しかし、考えてみればラマは独身のデヴィル族だ。この間に俺の
ように、あらゆる女性からアプローチをかけられ、身動きできない
ありさまに陥るやもしれん。あるいは主役の相手として、白羽の矢
がたっている可能性も⋮⋮。そうなると、サーリスヴォルフが側か
ら離さないだろうし。
それに、俺だって妹のすぐ近くにはいられないかも知れないが、
ラマを抑えておくことはできる。
単なる護衛としてだけなら、ジブライールほど任せて安心できる
相手もいない。ジブライールもこれだけ請け負ってくれていること
だし、考えてみるのもありか⋮⋮。
なにがそんなに彼女を必死にさせているのか、そこはわからない
が。
﹁⋮⋮わかった。じゃあ、ほんとに一日だけだぞ?﹂
そういうと、妹とジブライールは喜びの表情を見合わせた。
おい、まさか二人で共謀してたわけじゃないだろうな。
いや、ありえないか。妹は今帰ってきたところだし、そもそもジ
ブライールと会う機会はないから、親しくもないはずだ。
とにかく、俺の言葉に満足した妹は会議室を出ていき、心配事の
減った俺もまた、会議に集中することができたのだった。
104
間話1 ∼僕の名前はリーヴ∼
僕の名前はリーヴ。
ジャーイル大公閣下の支配なさっている<断末魔轟き怨嗟満つる
城>の医療棟で、事務員をしています。
事務員⋮⋮とはいっても、仕事は机上のことだけじゃありません。
確かに資料を集めたり、分類したり、医療員のみなさんのメモを
清書したりと、事務的な仕事は多いです。でもそれ以外にも、医療
員さんたちの指示で薬をまぜあわせたり、実験に付き合ったり、材
料や器具を消毒してそろえたり⋮⋮と、いろんな仕事があります。
いってみれば、雑用係というやつです。
毎日がとても忙しいけれど、充実しています。
﹁リーヴ、ちょっと実験に付き合ってくれる?﹂
資料をファイルにとじていたら、ウヲリンダさんに声をかけられ
ました。
彼女は医療員の中でも古参に数えられるらしく、爵位はないけど
みんなに頼りにされ、慕われています。
普段は冷静な人なんですが、実験や実証をするときは気が逸るん
でしょう。今もタコの八本足がうにょうにょと、跳ねるようにうご
めいています。
﹁あ、はい⋮⋮僕でよければ﹂
ウヲリンダさんが手伝いを必要とすることは、あまりありません。
腕が八本もあるので、たいていのことは足りるからです。そんな彼
女が手伝いを必要とするとき⋮⋮それは相手に何かを施したいとき
⋮⋮つまり、人体実験が必要なとき、です。
105
﹁君、好きな人はいる?﹂
﹁えっ!﹂
突然、なんということを聞いてくるんでしょう!
それも、実験室で二人きりになった途端⋮⋮。
こ⋮⋮これは、つまり⋮⋮。
自分の頬がほてっているのがわかります。唾を飲み込む音が、い
やに高く響いたような気が⋮⋮。
﹁い⋮⋮いません⋮⋮けど、でも⋮⋮そんな⋮⋮僕⋮⋮その⋮⋮﹂
﹁じゃあ、私のことをどう思う?﹂
﹁えっ! そ、そんな⋮⋮あの⋮⋮﹂
ウヲリンダさんのことは嫌いじゃありません。たまに暴走して怖
いと感じることはあるけど、でも、うにょうにょ動くタコの手に、
全く魅力を感じないわけでは⋮⋮。
そんなふうに考えているだけで、頭が爆発しそうになります。
ちらり、とウヲリンダさんを見ましたが、彼女は僕に背を向けて
いて、何を考えているのだか皆目見当がつきません。
﹁よかった、別に私のことが好きってわけじゃなさそうだね﹂
﹁えっ! あの、そんな! 嫌いとかでは⋮⋮﹂
好きじゃなくて⋮⋮よかった?
﹁わかってる。何とも思ってない、ってことで、被験者合格だ﹂
⋮⋮あれ? えと⋮⋮?
なんだろう。振り向いたウヲリンダさんの目が、とても怖い、で
す。
﹁ひ⋮⋮被験者⋮⋮﹂
やはり人体実験⋮⋮怖い⋮⋮何をされるのだろう。
﹁ああ、大丈夫。想った相手に盛るのでなければ、体に異常はでな
106
いはずだから⋮⋮それを実証したいと思ってね﹂
体に異常⋮⋮。
気分が落ち込んでしまう。
最初はものすごく怖かったけど、今はそんなひどいことはされな
いと、経験でわかってはいます。でもやっぱりまだちょっと怖いの
です。
﹁本当に、異常はでない実験だから。安心して。そう、緊張しない
で? とりあえず、こっちに座って﹂
ウヲリンダさんに示されるまま、窓に背を向けて置かれたソファ
に腰をおろしました。
﹁なにせ、大演習会があったおかげで、研究の進みが悪くてね﹂
大演習会⋮⋮わかっているんです。ウヲリンダさんが言っている
のは、怪我をした人たちの治療に時間がかかったということ。決し
て、僕のしでかしたことに対する言葉ではないのだと。
わかってはいても、やはり自分の愚かさを思い出して、落ち込ま
ずにはいられません。
﹁⋮⋮いつまでたっても、ジャーイル閣下にご報告ができない﹂
﹁大公閣下にご報告⋮⋮﹂
﹁そう。何もおっしゃらないけど、きっと医療班からの報告がない
ことを、不甲斐なく思っておいでのはず。できれば、<魔犬群れな
す城>から帰っていらっしゃる頃には、報告の第一弾ぐらいはでき
るようになっていたいもの﹂
﹁ぜひ⋮⋮ぜひ、協力させてください!﹂
閣下のお役に立てることなら、なんであろうが尻込みなどしてい
られません!
なにせ、あの方は僕の恩人!
107
何の能力も持たず、今までさげすまれて生きてきた弱い僕⋮⋮そ
れも、大公閣下の命を狙うようなことをした僕を、許してくださっ
たばかりか、生き甲斐まで与えてくださった。
あの方のためになるのなら、僕はなんだって、どんなことだって
⋮⋮。
﹁助かるよ! じゃあ、早速だけど、これを見てほしい﹂
僕の前に小瓶が突き出されます。
﹁これは、飲み物や食べ物に混ぜ、特定の相手の体内に入れること
で、呪詛を発動させる軟膏なんだけど﹂
﹁呪詛⋮⋮﹂
足先から急に冷え込んだような気がして、膝の震えを抑えられま
せん。座っていなければ、たぶん僕はその場に崩れ落ちていたでし
ょう。
なぜならその小瓶に入っているものは、僕にとっては⋮⋮。
﹁どうした、リーヴ。顔色が悪いけど﹂
﹁ご⋮⋮ごめんなさい⋮⋮ごめんなさい、ごめんなさい! 許して
ください⋮⋮どうか、僕にそれを飲ませないで⋮⋮﹂
僕は自分の体が情けないほどガタガタと震えるのを、止めること
はできませんでした。それほどに、その小瓶の中身は恐ろしいもの
だったのです。あれだけ昂揚していた気持ちが、あっけなくしぼん
でしまうほどに。
﹁ああ、ごめん。呪詛といって、怖がらせてしまったかな。でも、
それほど恐ろしいものではないよ﹂
違うんです、違うんです、ウヲリンダさん。僕は⋮⋮僕にとって
呪詛とは⋮⋮。
﹁ほら、ただの軟膏だ。少なくとも、私が君に飲ませる分には、な
んの障りもない。それに万が一のことがあっても、ちゃんと解呪薬
108
もあるから、心配いらないよ﹂
そう言ってウヲリンダさんは小瓶の蓋を開け、中身を僕につきだ
してきました。
﹁ひ⋮⋮﹂
それがあまりに恐ろしくて、僕は反射的に手を突きだしてしまい
⋮⋮遠ざけるつもりが、中の軟膏に手がかすめてしまったのです。
﹁ああ⋮⋮あああああああ!﹂
しゅうしゅうと音を立て、煙をあげる僕の指。
軟膏に当たった部分が、炎で焼けているかのように、熱い。
剣を突き立てられ、生皮を剥がれているかのように、痛い。
﹁リーヴ!?﹂
﹁あああああ⋮⋮﹂
僕は涙を流す間もなく、意識を手放しました。
***
僕が軟膏に手を触れて気を失った一件は、医療員さんたちにとっ
て、非常に興味深い現象だったようです。
意識を取り戻すと、周りを十人以上の医療員さんに囲まれていて、
ものすごくびっくりしました。
そして僕は医療棟の責任者であるサンドリミン閣下に問われるが
まま、自分の体質について話しはじめたのです。
﹁つまり君は、呪詛を受けると全身に痛みが走り、気絶してしまう、
のだと﹂
﹁はい。そうです﹂
今はあれほどいた医療員さんたちはみんなどこかにいってしまっ
て、サンドリミン閣下とウヲリンダさんだけが目の前にいる状態で
す。
109
﹁母によると、特殊魔術の一種だそうです。その能力が発動した後
は、きっと魔力が増幅されている、というのですが⋮⋮﹂
僕にヴォーグリム大公の仇をうてと、毎日のように口をすっぱく
言っていた母が、その能力を利用しないはずはありません。
ある日、僕は瓶いっぱいの粉末を渡され、毎日それをスプーン一
杯飲むように義務づけられました。
単純な破壊魔術ではなく、相手に直接障りを与えられる特殊魔術
のことを、呪詛というのだといいます。母がどこからか手に入れて
きたその粉は、それと同じ効果を、口に含んだ相手にもたらすのだ
とか⋮⋮。
一度母の前でそれを飲んで気を失ってからというもの、僕はその
粉薬にたいする恐怖心がおさえられず⋮⋮結局、自分の部屋で飲む
からといって、二度と母の前ではそれを飲まず、また、実際に口に
入れることはありませんでした。
母も、さすがに僕の醜態を目にするのは忍びなかったのでしょう。
そのわがままを、許してくれました。
とはいえ、飲めば僕が気を失うほど苦しむことを知っている母に
怪しまれないため、僕は毎日その粉薬を手のひらに取ったのです。
なにせその粉末は、触るだけで僕に苦痛をもたらすのです。手に
とったその瞬間、しゅうしゅうと煙をたてて僕の手を焼き、爛れさ
せ、骨まで溶かしてしまいます。そしてたいてい、僕はその苦痛に
負けて、気を失ってしまうのです。
不思議なのは、しばらくして目を覚ましたときには、手が元通り
になっていることです。溶けてなくなっていた手が⋮⋮。あの苦痛
がうそのように、痛みもありません。
母は抑えきれない僕のうめき声だけをきいて、粉末を毎日飲んで
いると誤解してくれました。
そんなわけなので、僕の魔力は全く強くなった様子はありません
110
でした。母の言うとおり、いったん体内に入れないと効力はないの
かもしれません。触るだけでもあれほどの痛みを伴うというのに⋮
⋮。
﹁しかし、呪詛というからには、誰かの魔力が混入されていなけれ
ばなるまい。例えばこの軟膏ならば、飲ませる相手が呪言を込める
必要がある⋮⋮しかるに、今の君の話では、その粉はただ飲むだけ
でいいのだろう? 他者の介入もなしに⋮⋮﹂
﹁その⋮⋮僕には詳しいことはわかりません。とにかく、母がそう
言ってたんです﹂
粉末をどこから手に入れたのだか、材料はなんなのか⋮⋮僕は一
切、聞かされていないのです。
﹁もしかすると、すでに魔力は混入されているのかもしれませんよ。
班長﹂
ウヲリンダさんの言葉に、サンドリミン閣下はうなずきます。
﹁かもしれんな。実物をみてみないことにはなんとも言えんが⋮⋮。
リーヴ、その粉末を、今も持っているかね? ぜひ、研究材料に加
えたいのだが﹂
﹁あの、今は⋮⋮でも、家に帰ればきっと⋮⋮﹂
医療棟で働くようになって以後、僕は実家には帰っていません。
暗殺が失敗したと聞いて、あの母が許してくれるとは思えず、怖く
て帰ることができなかったのです。
けれどジャーイル閣下がお調べになったところによると、母はも
う家にはいないとのことです。僕は寂しく思う一方で、解放された
喜びに、ホッとしてしまったのでした。
僕は勇気を振り絞り、久しぶりに家に戻りました。
母と僕の狭い部屋の他には、水回りのスペースしかない小さなそ
の家には、聞いたとおり全く誰の気配もありません。
111
僕は机の引き出しから粉薬をとると、自分の部屋を出ました。長
居はしたくありませんでした。
生まれてからずっと、過ごしてきた部屋でしたが、いやな思い出
ばかりが頭をよぎります。今の生活にくらべ、ここでの思い出はな
んと色あせているのでしょうか。
台所のマントルピースの上に置かれた母の姿絵⋮⋮他者をさげす
んでいるような冷たいラマの瞳が、僕を睨んでいるように見えます。
その恐ろしい姿絵を倒し、僕は生家を逃げるように出てきたので
した。
112
11.成人の儀式、別名・お誕生日会
結局、妹とジブライールの参加は、初日のみということにしてお
いた。なぜなら予定表によると、一日目は祝辞式が行われるという
ことだったからである。
決まった形式はないから内容は予測するしかできないが、おそら
く参加者から延々祝辞を述べられたり、祝いの品の目録が読まれた
りするのだろう。
だとすれば会場内では出入りはある程度制限されるだろうし、城
内が入り乱れるということもないだろう。なにより七大大公は貴賓
扱いだから、主催者の近くで歓待を受けるはずだ。
つまり、俺がどうこうというより、ラマの居場所がサーリスヴォ
ルフの近くに固定されるはずだという予想のもとでの決定だった。
そして、どうなったかというと、式はほぼその通りに進行してい
る。
そこは、円周が五mにも及ぼうという柱が、等間隔に広く東西各
六本、南北に三本ずつ並んだ、広大な青天井の広間だ。
四方を回廊で囲み、その一階部に今日のために集まった人々がひ
しめきあっている。その中から名前が読み上げられた順に、中央の
空間に進み出てお祝いの言葉を述べる、といったぐあいだ。
主役の二人は北を背にして設けられた高さ約一m、広さ約五m四
方の壇の中央におとなしく座っている。
その右手後方に女装のサーリスヴォルフと、彼女の伴侶であろう
双子によく似た蛙顔の男性魔族の席がある。そこから中央に空間を
おいて左手後方に俺とデイセントローズの席が、低く小さな丸テー
113
ブルを挟み、並んで設置されている。
いや。正確にはその男性魔族は、伴侶の一人、と表すべきか。そ
れとも愛人の一人というべきなのか。
しかし、参加するまではサーリスヴォルフは父親なのか、母親な
のか、どちらなのだろうと思っていたのだが、どうやら母親である
ようだ。
ということは、この蛙兄妹をサーリスヴォルフが産んだってこと
か。
サーリスヴォルフが⋮⋮うん、あんまり深く考えないでおこう。
主役の双子は⋮⋮でかい。
いや、上半身は、二人とも普通サイズなんだ⋮⋮だが、その下半
身が。
彼らは腰の下、通常なら股にあたる部分のあたりで、一つに収束
していた。そこから伸びていたのは、胴回りが二mはありそうな黒
々と光る蛇の長い尾。
あれで首を絞められたら、すぐ落ちそうだな。
サーリスヴォルフ、どうやってあんな大きな子たちを⋮⋮いや、
産まれた当時から、あんな大きさな訳はないか。
ちなみに正面から見て右半身が娘のサディオナで、左半身が息子
のサディオスというらしい。
﹁さすがにサーリスヴォルフのお子さまたちです。どちらも、お美
しいではありませんか﹂
デイセントローズは、さっきからしつこく俺に話しかけてくる。
ほとんど無視しているのだが、一向に気にした様子がない。
ちなみになぜ俺とデイセントローズが二人だけで並んでいるかと
いうと、他の大公はまだ一人も来ていないからだった。
そもそもどちらも美しい、とか言われても、俺にはぜんぜんわか
114
らない。
﹁お美しいと言えば、閣下のお連れ様⋮⋮あの二人の美女は、マス
トヴォーゼ大公のご息女ですね﹂
アディリーゼとシーナリーゼのことか。やはりデヴィル一の美男
子と名高かったマストヴォーゼに似た二人は、美女と認識されるら
しい。このあたり、別に男女の区別はないんだな。
﹁あら、デイセントローズ閣下は、あのお二人のような方がお好み
? 確かに、お綺麗なお嬢様方ですけど﹂
サディオナが、自分の身だけをねじってデイセントローズに視線
をむけてきた。
﹁審美眼と好みは必ずしも一致しませんが、それでも美しいものを
目にするのが嫌いな者はおりませんからね﹂
ラマの返事に、蛙娘は首をかしげる。
﹁それは、好きってことですの? それとも、そうじゃないという
ことですの?﹂
デヴィル族から見れば妖艶な仕草なのかもしれない、という予想
が立てられるようになってきたあたり、もしかして俺にもデヴィル
に対する審美眼が育ってきているのだろうか。
まさかいつかはベイルフォウスのように、デヴィル族でもかまわ
ない、とか思うようになったりするのだろうか。
いや、多分大丈夫⋮⋮大丈夫。
アディリーゼを見て、ムラムラしたことはないのだから。
﹁さて。私は少し、変わった嗜好の持ち主なものですから。それを
はっきり言ってしまうと、お嬢様をがっかりさせてしまうかもしれ
ません﹂
﹁すでにその意味のわからない答えで、がっかりしていますわ﹂
蛙娘ちゃんは、デイセントローズのはっきりしない返答を好まれ
115
ないようだ。
低い声でそう言うと、ぷいっとばかりに正面を向いてしまった。
聞いていただけの俺も、何がいいたいのかさっぱりわからなくて、
無駄にいらいらしたのは内緒だ。
眼下の広間では、ちょうどフェオレスが中央の空間にすすみでて、
祝いの言葉を述べつつ優雅に腰を折ったところだ。
さっきまでデイセントローズに気をとられていた蛙娘ちゃんも、
今はその所作に目を奪われているようだ。
不思議なもんだな⋮⋮フェオレスは、外見はそれほど混じりが多
いようにも見えないから、デヴィル族の感覚ではそれほど美形と認
められないと思えるのだが、なぜかみんな見ほれてしまうようだ。
やはり、仕草が洗練されているせいだろうか。
そうしてフェオレスは、俺からの贈答品の目録を読み上げる。
双子それぞれに豪華な宝石を散らした冠、それと同じデザインの
ペンダントと腕輪が一揃えずつ、蛇体を考慮して縫われた衣装の数
々、宝剣、宝鏡、などなど⋮⋮。エンディオンが過去の帳面を調べ
て用意してくれた品の数々だ。
贈答品が読み上げられるたび、会場からは好意的な感嘆がもれる。
先に読み上げられたデイセントローズの目録の時もそうだったか
ら、みんな大公の贈答品だと気を使っているのかもしれない。
だが会場はともかく、サーリスヴォルフの反応も、それから祝い
を受け取る本人たちの反応も、悪くはないようでホッとした。
まあエンディオンのすることだから、過不足があるとは思ってい
ないが。
最後を優雅な礼でしめくくると、フェオレスはマーミルたちのい
るあたりに戻っていく。
116
広場での立ち位置は、椅子はないから固定でないにしても、その
身分や地位によってだいたいの場所が決まっているようだ。
距離と身分や立場の高低が比例しているようで、俺の身内や副司
令官たちは壇のすぐ下に立っているし、軍団長たちはだいぶ遠い。
﹁ジャーイル。後で妹君とご同行のお嬢様がたに、ご挨拶させてい
ただいてもよろしいでしょうか?﹂
フェオレスの挨拶が終わると待ちかまえたように、デイセントロ
ーズが話しかけてきた。
一応、俺の配下の口上ということで、口を利くのを遠慮していた
とでもいうのだろうか。
﹁俺がそれを許すと思うか? お前を身内に近づける気は、今後一
切ない。説明しなくても、理由は理解できると思うが?﹂
﹁しかし、私は実は、上の姫とは浅からぬご縁がありまして⋮⋮﹂
そういえば、アディリーゼはデイセントローズに襲いかかったの
だったか。そのことを言っているのだろう。
﹁ああ。アディリーゼがマストヴォーゼの仇だと、剣で切りかかっ
ていったんだったか。もしかして、その詫びが必要だとでも?﹂
﹁ご存じでしたか﹂
﹁まあ一応、養い子だからな﹂
アディリーゼの方は、デイセントローズと口もききたくないだろ
う。さっきから、意識的にこちらをみないようにしているのが、堅
い雰囲気でわかる。もっとも、彼女は普段からうつむいていること
が多いので、そう感じるだけかもしれないが。
﹁今更、そのような狭量なことは申しません。魔族においては、刃
傷沙汰は常態ですし、あのようにか弱い女子に切りかかられたとこ
ろで、ネズミにかじられたほどの衝撃すらありませんので﹂
﹁そうか。なら、俺の答えは同じだ。お前を俺の身内の側にやるつ
117
もりはない。それは妹でなくとも、だ﹂
﹁一度の失敗が、悔やまれます。これほど貴方の信頼を失ってしま
うとは、正直なところ思っておりませんでした﹂
知ったことか。
俺は席を立ち、壇上の背面に伸びた階段を降りて、妹や副司令官
たちのもとへ向かう。
なにも、ずっと席に座っていないといけないわけでもないだろう。
正直、ラマのおしゃべりを聞き続けるのは苦痛でしかないのだ。
たとえ、その会話にろくに応じないとしても。
﹁フェオレス。ご苦労様、さすがだったよ﹂
﹁ありがとうございます﹂
俺のねぎらいに、フェオレスは微笑する。
﹁俺が読んでもよかったのに﹂
横でヤティーンが不満声をあげるが、おかしいな。面倒くさいか
らそんな役目はごめんだと、ヤティーンが口にしたのを、俺は確か
に聞いた気がしたのだが。
﹁あとはゆっくりしてくれ﹂
フェオレスの肩を軽くたたき、俺は妹に視線を移した。
﹁お兄さま﹂
あんなにわがままを言って来たがったくせに、マーミルは喜ぶど
ころかつまらなそうな顔で見上げてくる。
せっかく新調したピンクのドレスを着ているというのに、表情の
暗さで華やかさが台無しだ。
参加してみたものの、周囲は自分よりずっと年上の大人ばかり。
そもそも、彼らも気はむかないが強制参加させられているか、出会
いを求めてこの場にいるかの二極に分類されている。子供で、しか
118
もデーモン族である妹の相手をするような、酔狂な者はいない。
こうなるのは予想できたろうに。
﹁無理を言って参加したところで、結局は退屈なんだろう﹂
﹁否定できませんわ﹂
﹁ジブライールまで巻き込んだんだ。これにこりたら、もう二度と
わがままをいうんじゃないぞ﹂
﹁⋮⋮それについては、反省してますわ﹂
よし!
兄は言質を取ったからな!
マーミルはジブライールの腕をぎゅっと握り、殊勝な表情で彼女
を見上げた。
﹁ご迷惑をおかけして、ごめんなさい。ジブライール公爵﹂
﹁とんでもない。マーミル様のお気持ちもわからないではありませ
んから﹂
ジブライールもベイルフォウスみたいに、子供好きなのだろうか?
マーミルに向ける笑顔は、珍しく柔和だ。
﹁そもそも、私は⋮⋮私こそわがままで、マーミル様の護衛をかっ
てでたのですし﹂
護衛とはいえ、ジブライールも別に軍服を着込んで参加している
わけではない。
今日は大演習会後の舞踏会の時のような、少し大人しめのデザイ
ンの裏葉色のドレスだ。だがあのときよりずっと肌の露出は少なく、
育ちのいいご令嬢といった感じで、知り合いじゃなかったら気軽に
声をかけるのもはばかられる。
ところで、俺は妹たちとこんな会話をしているが、その実、意識
はマストヴォーゼの長女・次女にむいている。
119
どうやらさっきから、主に話しているのは次女のシーナリーゼの
方で、それに対してヤティーンが鼻の下を伸ばし、フェオレスは穏
やかに相づちをうっているといった感じだ。長女は次女の隣にいる
にはいるが、ほとんど会話には加わらず、妹の話をじっと聞いてい
るだけ。いつも通り存在感がほぼない。
特に⋮⋮フェオレスがどちらかを意識している感じはない、か。
﹁ジブライール公爵は楽しそうですわね﹂
﹁マーミル姫?﹂
﹁だって公爵ったら、お兄さまの横顔ばっかり﹂
﹁マーミル様!﹂
﹁ふぐっ!﹂
こうして近くで様子をうかがっていると、次女が二人の副司令官
を手玉にとっているようにも見える。やはり長女とフェオレスの関
係については、俺が気にしすぎただけだったか。
フェオレスは誰にでも優しそうだしな。
﹁ん? 何してるんだ、二人とも﹂
ふと意識を目の前に戻すと、ジブライールに口をふさがれている
妹の姿が。
﹁な⋮⋮なんでも⋮⋮ありません﹂
ジブライールは苦笑いを浮かべながら、マーミルの口から手を離
した。
﹁⋮⋮公爵。そんなことでは、何も進展しませんわよ﹂
﹁マーミル姫!﹂
﹁進展? 何が﹂
マーミルがジブライールと俺を、呆れたような目で交互に見てい
る。
120
﹁ほら、この調子ですわ。まあ私は、その方が嬉しいですけれど﹂
そういって、マーミルは上機嫌で俺の腹に抱きついてきた。
﹁マーミル。ここは他の大公の居城なんだが。この間の居住棟だか
らくっついてもいいだろう、は、やっぱり都合のいい言い訳だった
のか?﹂
マーミルの頭を軽くこづく。
﹁だってぇ⋮⋮﹂
妹は俺の腹筋をぐりぐりしてから、名残惜しそうに腕を解いた。
﹁ねえお兄さま。大公閣下はお兄さまとデイセントローズ大公だけ
ですのね﹂
妹が視線をラマに向ける。どうやらデイセントローズもこちらを
見ていたようで、珍しくマーミルは愛想笑いを浮かべて黙礼してか
ら、すぐに視線をそらした。
どうやら一緒に散歩してからというもの、ラマのことが少し苦手
になったようだ。
﹁同盟者であるアリネーゼは午後から参加するらしいが、魔王陛下
と他の大公は明日にしかやってこないそうだ﹂
それどころか、魔王様を含めたデーモン族は、誰も宿泊しないら
しい。明日の午前中にやってきて、夜が更ける前には帰ってしまう
のだそうだ。
俺も同盟者ではないのだから、二日目からの参加でよかったんだ。
だが、サーリスヴォルフに聞きたいことがあったのと、配下はいる
とはいっても、長女と次女だけを先に行かせるのは気が引けたので、
一日目から参加することにしたのだった。
もっとも、俺とサーリスヴォルフの席はかなり離れているうえ、
間にデイセントローズもいるので、なかなかしたい話ができない。
121
﹁では、ウィストベル閣下も、明日しかおいでにならないのですか
?﹂
﹁そうなるな﹂
﹁そう⋮⋮ですか⋮⋮﹂
俺が頷くと、ジブライールは小さく息を吐いて、複雑そうな顔を
した。
いや、いつもの無表情なのだが、最近は目を見るとちょっとだけ
感情を察せるようになってきたんだ。
⋮⋮そうなっている、つもり⋮⋮俺の思い過ごしってことはない
よね?
﹁ウィストベルに何か用事でも?﹂
二人に共通点は全くないと思う。そもそも、口を利いているとこ
ろすら、目にした覚えがない。
﹁いいえ、何もございません﹂
ジブライールはどこか暗い表情だが、それを見上げる妹はなぜか
訳知り顔だ。
はっ! まさか、ジブライール!
俺の副司令官なんてやってられない、とかいって、ウィストベル
の配下に下る気じゃ⋮⋮。
今日のイベントに、あんなに参加したがったのは、それが目的だ
ったのか?
﹁ウィストベルのところの城にいるのは、男性魔族が多い﹂
﹁はい﹂
﹁いや、そりゃあ、配下に女性魔族もいるんだろうけど、きっと重
用されない⋮⋮よ?﹂
﹁はい⋮⋮?﹂
ジブライールは怪訝そうな表情を浮かべ、首をかしげた。
意味が分からないということは、俺の杞憂か。
122
﹁いや、なんでもない﹂
俺は妹の視線にあわせるために、腰をおろした。
﹁で、マーミル。どうする? そんなにつまらないなら、気分が悪
くなったとでも言って、城に帰ってもいいんだぞ? 今日は一日こ
んな調子なんだし﹂
いいんだぞ、っていうか、ぜひ帰る、帰らせてくれと言ってくれ。
﹁あら、いくらなんでも、そこまで好き勝手はできませんわ。無理
わがままをいって、こうして参加させてもらった自覚はありますも
の。ちゃんと予定通り、最後までいますわ﹂
あれ?
どうしよう、マーミルが殊勝だ。
﹁マーミル⋮⋮無理しなくてもいいんだぞ? お前一人帰ったとこ
ろで、この大人数の中じゃ目立ちもしないし﹂
﹁あら、そんなことありませんわ。むしろこのデヴィル族の中にあ
って、デーモン族は目立ちますもの。その上、主役のお二人のこん
なにも近くに陣取っていますし。私とジブライール公爵の二人が帰
ってしまえば、誰だってすぐ気づくに決まってます﹂
あれ? 妹がまともなことをいっている?
確かに数百人がいるこの会場の中で、デーモン族は壇上近くの場
所に数人が認められるだけだ。顔に覚えのある男性ばかりだから、
ウィストベルのところの副司令官たちが、主人の名代としてやって
きているのだろう。
この中で二人が帰ってしまうのは、確かに目立つ。
﹁そんな不作法なことをして、お兄さまの評判を落としてしまった
ら⋮⋮﹂
大公って、評判とか気にしないといけないような身分だったっけ?
妹に心配されないといけないような地位だったっけ?
123
俺がおとなしいだけで、みんな傍若無人に振る舞ってなかったっ
け?
っていうか、マーミルって、そんなこと気にするような子だっけ?
﹁それに、ジブライール公爵だって私の護衛とはいえ、せっかく頑
張って着飾ってきたんですもの。もっと長くいたいですわよね?﹂
マーミルが期待を込めて、ジブライールを見上げる。
だが、妹よ。ジブライールは俺の味方だ。
彼女にはお前をなるべく他の者には接触させたくない、どうせ退
屈するだろうから、そうしたら途中で城に帰らせたい、と、ラマの
呪詛の件までちゃんと説明して、言い含めてあるのだ!
きっと、今すぐお前を連れて帰ってくれるに違いない!
﹁私のことは⋮⋮ただの護衛、ご考慮いただかなくとも結構です。
あくまでマーミル姫の意志をご優先ください﹂
⋮⋮ん?
今のは一応、俺の方に沿った意見だと思っていいのかな?
でももっとこう⋮⋮今すぐ帰ろうとガンガン攻めてくれると期待
してたんだけど?
﹁姫が帰りたいとおっしゃるなら、お城までお送りいたしますし、
この場にいたいとおっしゃるなら、全身全霊でお護りいたします﹂
⋮⋮ん?
⋮⋮あれ? ジブライール?
俺の説明がわかりにくかったのかな?
なぜだろう。俺の意志よりマーミルの意志を尊重するような発言
に思えたのだが、気のせいだろうか。
﹁ありがとうございます、ジブライール公爵。お兄さま、せっかく
124
公爵にもこう、おっしゃっていただいてるんですもの。私も心を入
れ替えて大公の妹として、ふさわしい態度でこの場にいることを誓
いますわ!﹂
﹁つまり、マーミル⋮⋮城には⋮⋮﹂
﹁ご安心ください、お兄さま! 最後までちゃんと、しっかり、参
加しますわ!﹂
隣でジブライールが満足げに頷いている。
なぜだ。なぜ二人とも、今日に限って予想外の反応をするんだ。
125
12.マーミルもジブライールも、なんだっていうんでしょう
﹁わかった。じゃあ、万が一、途中で帰りたくなったら、いつでも
俺に声をかけるように⋮⋮﹂
ちなみに、お兄さまはデイセントローズに話しかけられるばかり
で、とっくに帰りたい気分になっている。もっとも、本当に妹たち
と一緒に帰ってしまうわけにはいかないので、我慢するしかない。
﹁大丈夫、お兄さま! もうふてくされたりしませんわ。せっかく
わがままをいって、連れてきてもらったんですもの。ちゃんと、い
ろいろ学んで帰りますわ!﹂
マーミルはぐっと俺に拳をつきだしてくる。
えっと⋮⋮何を学ぶつもりなのだろうか?
これは兄として、妹の成長を喜ぶべきところなのだろうか?
まあ、そうなのだろうが。
﹁まあ、気張りすぎないようにな⋮⋮﹂
なんだろう。
素直に喜べない。
少し気分を変えよう。
﹁ところで⋮⋮さっきから、いい香りがするんだが、これは何の匂
いだろう?﹂
実は下に降りてきてからというもの、どこからか俺の好きな香り
がふんわりと漂ってくる。香でも焚かれているのかと思って見回し
たが、そんな気配もない。
妹からか? いや、妹の洗髪剤は俺と同じものなはず。
じっと嗅いでいると、もやもやとしたこの気持ちがほぐれそうな、
いい香りだ。なんだっけ、この匂い⋮⋮。
126
﹁マーミル、香水つけてきたのか?﹂
﹁ええ、レモンの香りですわ!﹂
妹はそういうと、胸を張って金色の巻き髪を肩から払った。その
瞬間、確かに鼻をツンと刺激する香りが漂う。
なんてこった⋮⋮まだ子供だと思っていたのに。
﹁レモンじゃなくて、もっと甘い匂いなんだが⋮⋮﹂
﹁あら、お兄さま。それはきっと、ジブライール公爵の髪ですわ。
この金木犀の匂いのことでしょう?﹂
金木犀。
珍しくふんわりと巻かれたジブライールの銀髪を見ると、確かに
マーミルの言うとおり、小さなオレンジの花が散りばめられていた。
そうか、どうりで嗅いだことのあるにおいだと思った。
﹁す、すみません⋮⋮きつい、でしょうか?﹂
﹁いや、待って。払わないでくれ﹂
ジブライールが髪を払う仕草をしたので、手首を掴んでそれを止
める。せっかくのいい香りなのに、払ってしまうなんてもったいな
いじゃないか。
﹁もしこれが明日だったなら、ジブライールの迷惑を顧みず、何度
もダンスを申し込んだだろうな﹂
ぼんやりというと、ジブライールが驚いたような表情をした。
﹁えっ⋮⋮そ⋮⋮それは、また⋮⋮なぜ⋮⋮﹂
﹁なぜって、だって⋮⋮こうだろ?﹂
俺が左手を差し出すと、ジブライールは素直に自分の右手を重ね
てきた。少し近づいて、次は左手を彼女の腰に回す。ダンスを踊る
ときの体勢だ。
﹁ほら、こうしたらずっと側で嗅いでいられるだろ? 動くとよけ
い、ふんわり匂うし。俺、金木犀の香りって、大好きなんだよ﹂
127
﹁だい⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あーごほん﹂
妹が、えらく低い声で咳払いして、俺をじろりと睨みつけてきた。
﹁なんですの、お兄さま。私が人前でお兄さまにくっつくのを注意
なさったのは、他ならぬお兄さまではありませんでしたの? それ
も、ついさっき。それなのに、舌の根も乾かぬうちから、女性に抱
きつかれるだなんて! それで許されるというんですの? それが
大公の特権だとでも?﹂
﹁え?﹂
妹に言われて気がついた。
ジブライールがぷるぷる震えている。
しまった!
確かに、妹の言うとおりではないか。
ここはダンスホールではないのだ!
しかも、相手の許可もなく腰を抱くとか、俺はいったいなにをや
っているんだ!
いくらなんでも、気安すぎないか? 俺!
俺は急いで体を離し、慌ててジブライールを見た。
﹁ごめん! その⋮⋮つい⋮⋮﹂
﹁い、いえ⋮⋮﹂
ジブライールは目をあわせてくれない。
じっと、右下にそらして床を睨みつけている。熱光線が出て床を
焦がしたら、しゃれにならない。そう危機感を覚えるほどだ。
やばい。怒ってる。
これはあれか、セクハラか?
それともあれか、パワハラ?
128
﹁マーミルのいうとおりだ! ほんと、俺は何をやってるんだ⋮⋮
申し訳ない、ジブライール!﹂
﹁閣下! みんな、見ています。どうか、頭はさげないでください﹂
さすがはジブライールさん。
こんな時でも、冷静ではないか。
確かに、ちょっと周囲からの視線を感じる。
うん⋮⋮自分のしでかしたことを考えると、確認したくはない。
﹁く⋮⋮くっつかれるのは困りますが、そんなに金木犀の香りがお
好きなら⋮⋮﹂
ジブライールはそう言いつつ、巻き髪をくるんくるんと指で巻い
てから、上目遣いで俺を見上げてきた。
﹁ど⋮⋮どうぞ⋮⋮﹂
そう言って、俺に銀髪の束を差し出してくる。
ん?
え?
なにこれ?
﹁いや、あの⋮⋮ジブライール?﹂
意味がわからないんだけど。
つまりそれは、髪を匂えってことか?
あの、ジブライールさん⋮⋮さっき貴女がおっしゃった通り、み
んな見てるんですが⋮⋮。
﹁お⋮⋮お好きなのでしょう?﹂
え⋮⋮なにこれ。
もしかして、あれか。
俺のセクハラに対する、これが報復なのか。
羞恥プレイというやつを、強いられているのか?
129
そこまで怒らせたのだとしたら、拒否することなんてできないじ
ゃないか⋮⋮。
いや、でも⋮⋮女性の髪を手にとって匂いをかぐとか⋮⋮ダンス
よりハードル高いんですけど?
俺は周囲に視線をめぐらせた。
あれ?
結構、見られてるかと思ったんだが、みんなこっちを見ていない。
こ⋮⋮これなら⋮⋮⋮⋮。
﹁お兄さま!﹂
しかし、妹はご立腹だ。
肩をいからせて腕を組み、右足をパンパン床にたたきつけて、ギ
リギリいいそうな勢いで歯をかみしめている。
怒りを爆発させる妹、詫びを要求する部下。
俺に、どうしろと⋮⋮。
妹よ、さっきはお前、俺の評判がどうとかいっていたではないか。
今こそその気遣いが必要なのではないだろうか。
﹁マーミル﹂
明るい声をかけてきたのは、次女のシーナリーゼだ。
﹁お兄さまを困らせては、いけませんわ。あなたは大公の妹として、
ふさわしい態度を取ると誓ったばかりでしょう?﹂
さすがは社交的な次女!
大公の身内の先輩として、妹に心構えを説いてくれようというの
だな。
﹁でも、シーナリーゼ﹂
﹁でも、は駄目よ、マーミル。大公というのは元来、傲岸不遜、傍
若無人なものですわ。その身内だというならば、それを許せる度量
130
を持たなくては﹂
⋮⋮シーナリーゼさん。
それ、ぜんぜん、フォローになってないです。
そもそもなんですか、その大公に対する認識⋮⋮君の父上は、お
っしゃったのとは正反対の人物だったように思うのですが⋮⋮。
しかし妹は、その言葉に思うところがあったようだ。
﹁ぐぅ⋮⋮﹂
一言うなると、左足を軸にくるりと回転し、俺に背を向けた。
﹁ほんの一瞬なら、目をつむりますわ!﹂
次にシーナリーゼは、長女やフェオレス、ヤティーンを引っ張っ
てくると、俺とジブライールを他の魔族の目から隔てるよう壁にな
るよう、間に並んで立った。
﹁さあ、どうぞ。これで他の目は気にならないでしょう?﹂
え⋮⋮なに、シーナリーゼ。
そこまでして、俺に恥ずかしい思いを味わわせたいの?
むしろ、かえって目立ってると思うんですけど⋮⋮。
もしかして、俺のこと、嫌いなの?
やっぱり呪いがかかってるの?
﹁なんすかー? なにするんすかー?﹂
ヤティーンが気の抜けた声で尋ねてくるが、無視だ。
﹁ヤティーン様! あそこにものすごい美女が!﹂
﹁え? どこどこ?﹂
ヤティーンめ。
すっかりシーナリーゼの手の上だな。
﹁私はただ、ここに立っているだけですので⋮⋮﹂
いや、フェオレス⋮⋮そんな気遣いはいらない。長女も、なんで
そこで顔を真っ赤にしながらうつむく。
131
そして、正面には相変わらずのきつい目で、床を睨みつけながら、
まんじりともせず髪を突き出すジブライールの姿が。
﹁そ⋮⋮そんなに、お嫌なら⋮⋮無理にとは⋮⋮﹂
声が震えている。
やばい、これ以上ジブライールを怒らせるわけには!
﹁いや、いやいや。そうじゃないよ、別に嫌っていうわけじゃ⋮⋮﹂
俺は慌ててジブライールの銀髪を手にとり、周囲の視線がこちら
に向いていないことを確認してから鼻先に寄せた。
これでいいか?
これでいいんだろ?
超恥ずかしいんだが!
傍目からみると、髪の匂いを嗅いでいると言うより、口づけてい
るように見えるのではないかとか、つい考えてしまうのだが!
もう許してもらえるだろうか?
ちょっと泣きそうになりながら見上げると、ジブライールの顔が
間近にあった。
睫毛、長いな。
いや、そんなことより、だ。
﹁もう⋮⋮いいかな?﹂
許可を求めようと口を開いた瞬間、ジブライールの体がふらりと
揺れる。
膝から崩れ落ちるジブライールの体を、俺は慌てて抱き留めた。
***
﹁ジブライール!?﹂
132
閣下の驚いたような叫びが響く。
何事かと思って振り返ると、俺の主君であるジャーイル大公閣下
が、脳筋お馬鹿女のジブライールを抱きかかえているではないか。
﹁どうなさいました、閣下﹂
フェオレスの奴が声をかける。
こういう反応の早いところが、ジャーイル大公には気に入られて
いるんだろうな。
﹁フェオレス。ジブライールが急に倒れて⋮⋮﹂
倒れた? 脳筋馬鹿が?
分不相応に、頭を思考にでも使ったんじゃないのか?
﹁気付けに殴ってみますか﹂
俺が拳をあげると、閣下は大いに眉をしかめられた。
﹁おい、ヤティーン。馬鹿を言うな﹂
ジャーイル大公はジブライールを横抱きにする。
﹁とにかく、ジブライールを休ませてくる。悪いがアディリーゼ、
シーナリーゼ⋮⋮﹂
﹁私たちのことはお気になさらないでください。ジャーイル大公。
ここには立派な護衛の殿方もいらっしゃることですし﹂
にこやかに微笑んでそう返してきたのは、シーナリーゼだ。
﹁二人のことは頼むぞ、フェオレス、ヤティーン﹂
﹁お任せください、大公閣下﹂
今度はフェオレスに先んじて胸をうち、返答する。
﹁くれぐれも頼む。たとえ大公であれ⋮⋮いや、むしろ⋮⋮﹂
閣下はぐいっと俺とフェオレスに顔を近づけて、低い声でこうお
っしゃった。
﹁たとえデイセントローズがやってきても、二人には絶対に近づけ
るな。指一本ふれさせんように気をつけてくれ﹂
133
﹁承知しました﹂
フェオレスの奴が訳知り顔でうなずく。
この要領のよさが、時々鼻につく。
﹁殴れば目をさますと思うけどなぁ﹂
そう呟いた俺に白い目をむけて、ジャーイル閣下は颯爽と身をひ
るがえした。
﹁行くぞ、マーミル﹂
﹁はい、お兄さま!﹂
小さなマーミル嬢が、ぴょんぴょんと飛び跳ねて兄君の後に続く。
そうしてお二人は、回廊の奥に消えていった。
﹁閣下はジブライールに甘すぎるよな﹂
﹁特にそうは思わないが﹂
俺の言葉に、フェオレスが苦笑を返してくる。
まあ、お前もどちらかといえば、優遇されているもんな。
﹁そもそも、なんだってあいつ、急に倒れたんだ? 体調が悪いな
ら、出かける前にそう断っておくべきじゃないか?﹂
﹁あら。ジブライール閣下は、体調不良で倒れたわけじゃないと思
いますわ﹂
軽やかな声が俺の耳を打つ。
﹁では、なぜ倒れたのだと?﹂
俺の問いかけに、シーナリーゼは意味ありげな笑みを浮かべた。
﹁私、直前のご様子をみていましたけど⋮⋮無理ありませんわ﹂
お前、わかるか? とフェオレスに目を向けると、奴は肩をすく
めた。
それはわかるのか、わからないのか、どっちだ。
﹁お慕いしている方のお顔が、あんな近くにあるんですもの。それ
こそ、唇が触れそうなほど近くに。貞淑な乙女なら誰だって、恥ず
134
かしさのあまり、あんな風に気を失ってしまうものですわ﹂
﹁乙女!﹂
俺は思わず吹き出してしまった。
﹁あの、好戦的な脳筋馬鹿が乙女!?﹂
﹁あら、ヤティーン様。笑うなんてひどい。ジブライール様の真摯
な想いが、貴方にはわかりませんの?﹂
どうやらシーナリーゼは、本気で言っているようだ。
ジブライールの真摯な想い? お慕いしている?
あの脳筋女が、ジャーイル閣下に気に入られようと頑張っている
ことは知っている。ヴォーグリム大公の時にはあんなに報告役や補
佐的立場を、自らかってでることはなかったからな。
だがそれは、同じデーモン族であるためだろうと思っていた。寵
を望んでいるといっても、それはあくまで上司と部下との関係上で
のことだと⋮⋮。今までの冷遇を埋める意味も含めて。 ﹁まさか、ジブライールはジャーイル大公のことが好きだってのか
?﹂
シーナリーゼがあきれたような目で俺を見てくる。
﹁結構あからさまですわ。お二人がご一緒のところをほとんど見る
ことのない私でも、一目でわかるほど⋮⋮そう思われません、フェ
オレス様﹂
﹁ええ。彼女は非常にわかりやすいですね﹂
フェオレスがこくりと頷く。
えええ。
マジか⋮⋮。
﹁なんか⋮⋮気持ち悪い⋮⋮﹂
なんだろう、この気持ち⋮⋮顔を合わせれば楽しく殴り合う仲だ
った幼なじみが、急に色気づいたことで異性だったのだと思い知ら
135
されて感じる違和感⋮⋮みたいな?
待てよ⋮⋮ってことは、この事実は何かに利用できるんじゃはな
いか?
例えばええと⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮何も思いつかないけど。
とりあえず、帰ったらウォクナンにもこの事実を教えてやろう、
と、強く決意したのだった。
﹁そうか。だからジャーイル閣下もジブライールに甘いのか﹂
ジャーイル閣下もまんざらではないということか?
﹁ジャーイル大公は、気づいていらっしゃらないと思いますわ。下
手をすればヤティーン様⋮⋮貴方より鈍そうですもの﹂
俺は鈍いのか?
﹁でも、今、殴ったらって進言したら、すんげえ睨まれたんだけど﹂
﹁倒れたのがヤティーン様で、そうおっしゃったのがフェオレス様
でも、やっぱりフェオレス様が睨まれたと思いますわ﹂
﹁私はそんなことは申しませんけれどね﹂
フェオレスが苦笑を浮かべている。
﹁うらやましい⋮⋮﹂
ん? 今、誰か何か言ったか?
ふとシーナリーゼの隣に目をやって、そういえばアディリーゼが
いたのだと思い出す。
二人は外見はそっくりなのに、雰囲気は正反対だ。
次女は快活で話していても楽しいが、長女の方はうつむいてばか
りでほとんど口もきかないから、存在自体を忘れてしまいそうだ。
いくら美少女でも、こう陰気くさい顔をされては食指が伸びない。
だが今は珍しく、彼女は顔をあげていて、ジャーイル閣下の消え
た方向をじっと見つめている。
136
待てよ。今、﹁うらやましい﹂って言ったか?
つまりジブライールがうらやましいってことだよな?
それってまさか、彼女もジャーイル閣下のことを?
﹁アディリーゼ嬢もジャーイル閣下から、あんな風に抱きあげられ
たいとか?﹂
俺が尋ねると、彼女は頬を真っ赤にして頷いた。
﹁そんな⋮⋮私、そんな⋮⋮﹂
おお、この反応。
俺って聡いじゃん! ぜんぜん鈍くないじゃん!
﹁心配だったら、様子を見にいってみるか? 俺がついていってや
るぜ?﹂
俺に任せろ、というつもりで胸をどんとたたく。
気がついたジブライールが、ジャーイル閣下にどんな顔をするの
か、俺も見てみたい。
が、長女はますます顔中を真っ赤にして、うつむいた。
﹁ヤティーン。彼女をからかうのはやめろ﹂
﹁何怒ってるんだよ、フェオレス。俺は親切のつもりで⋮⋮﹂
﹁それがよけいなお節介だというんだ﹂
随分ないいぐさだと思ったが、フェオレスが不機嫌なのは珍しい。
俺はそれ以上反論しないことにした。
137
12.マーミルもジブライールも、なんだっていうんでしょう︵
後書き︶
※次回男性注意回です︵痛い的な意味で︶
すみません。
138
13.休息が必要なのは彼女か、それとも?︵前書き︶
※男性注意
痛い表現があるかもしれません
ごめんなさい
139
13.休息が必要なのは彼女か、それとも?
意味がわからない。
匂えというから匂ったのに、その結果、どうして倒れるんだジブ
ライール。
俺の行為が意識を手放すほど、我慢しかねるものだったというこ
とか?
でも自分から言ったのに? 自分から髪をさし出してきたのに?
それとも⋮⋮。
それとも、まさか、ジブライール⋮⋮。
俺になにか特別な⋮⋮。
いや、まさか。
だってジブライールだぞ?
今までのことを思い起こしてみるんだ、俺。
いつも、無表情で⋮⋮そう、基本無表情。でもたまに、頬を赤ら
めたり、もじもじしたり⋮⋮そういえば倒れる直前も、耳や首まで
真っ赤に、目を上目遣いでうるうるさせて⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮あれ?
え? そんな⋮⋮そんなこと⋮⋮ない、はず⋮⋮。
ジブライールが、俺に特別な感情なんて、抱いているはずがない
140
ではないか。
⋮⋮⋮⋮ない⋮⋮よねえ?
﹁お兄さま、公爵をどちらに?﹂
﹁二階に小部屋が用意されているはずだ。とりあえず、そこへ﹂
回廊の二階には、休憩のための部屋が用意されているらしい。
四方を囲む建物の中に入って幅広の階段を登ると、東西に伸びた
長辺の内廊下の壁には、いくつもの扉が並んでいた。
俺は手近な部屋に入ろうと、東側の一番近い休憩室のドアノブに
手をかける。
が、内から鍵がかかっているらしく、ノブは回らなかった。
休憩するだけの部屋に鍵?
﹁大公閣下。そちらは、ご使用中です﹂
廊下にいた家僕が、申し訳なさそうに声をかけてくる。
﹁使用中?﹂
﹁はい、その⋮⋮手前五つほどは、現在ご使用中で⋮⋮奥でしたら
今のところはどちらも空いておりますが﹂
家僕は、ちらちらとジブライールと俺の顔を見比べる。
ああ⋮⋮休憩って、そういうことか。この城が誰の城かを考えれ
ば、納得いく話じゃないか。
しかし、それにしても、できればもうちょっと早い段階で、注意
喚起してほしかった。
例えマーミルが今の言葉の意味を、理解できずにいるとしても。
﹁いくら立ちづくめだからって、爵位もちの方々が、もうこんなに
何人もお疲れだなんて!﹂
﹁マーミル、行くぞ﹂
無邪気に感想を述べる妹を促して、扉の前から急いで離れ、今登
141
ってきた階段を逆に降りる。
﹁お兄さま、奥なら空いてるって⋮⋮﹂
馬鹿な。隣に誰かが入ってきたらどうするんだ。
防音バッチリならいいが、そんなのわからないじゃないか!
お前の耳をずっと塞いでいるわけにはいかないんだぞ。
﹁お兄さまの部屋にいこう。その方が、ジブライールもゆっくり休
めるだろうし﹂
俺に充てられた客室ならば、防音もばっちりなはずだ!
しかし、今この場にマーミルがいてくれてよかった。
そうでなく、ジブライールだけでこの状況なら、俺は迷わず奥の
部屋に入っただろう。そこでジブライールの目がさめたら、たぶん
聞いてしまう⋮⋮唐突に浮かび上がった疑問の答えを。
そして万が一⋮⋮万が一、ジブライールがそれを肯定したとした
ら⋮⋮。
そのタイミングで隣室に誰かが入ってきて、騒音が聞こえてきた
りしたら⋮⋮。
いやいやいや。
考えが飛躍しすぎじゃないか、いくらなんでも痛い考えではない
か。
落ち着こう、俺。一人で何を妄想してるんだ、俺。
自意識過剰にもほどがある、恥ずかしすぎるぞ、俺。
馬鹿丸出しもいい加減にしよう、俺。
怪訝な表情の妹を連れて俺は会場を後にし、綺麗に整えられた庭
を横切り、噴水の前を通って、客室のある館へと向かう。
そうして最上階の最奥を占めるその部屋にたどり着くと、広い寝
台にジブライールの身をそっと降ろした。
﹁気付けになるものがないか、隣を探してくる。ちょっと様子をみ
142
ていてくれ﹂
ジブライールのことをマーミルに頼んで、飲み物を探しに居室を
探索する。
通常は、いくらかの種類が用意してあるはずだ。
すぐに見つかった。
俺は飾り棚の上に置かれた水と蒸留酒、それからグラスを手にと
る。
そうして寝室に戻ると、ジブライールが身を起こしているのが目
に入った。
﹁お兄さま。たったいま公爵が﹂
マーミルがホッとしたように口元をほころばせる。
﹁気がついたか、ジブライール﹂
気付けは必要なかったようだ。
﹁あ、あの⋮⋮私⋮⋮﹂
ジブライールは珍しく気弱な表情だ。そしてやっぱり耳まで真っ
赤にして、潤んだ目で俺を見上げて⋮⋮。
だがそれも一瞬のこと。
頬を殴られでもしたかのように、ジブライールはハッとした表情
を見せたかと思うと、たちまち顔色を青ざめさせ、こわばらせた。
そして姿勢をただして正座し、俺とマーミルに向かって三つ指を
つくと、そのまま勢いよく頭を振り下ろす。
﹁申し訳、ありませんでした!﹂
そう言いながら、ぐりぐりと、寝具に額をこすりつけている。
一応、クラッときたんだから、頭は振らない方が⋮⋮。
例え⋮⋮体調不良で倒れたのではない、としても⋮⋮。
﹁マーミル様の護衛を自ら引き受けておきながら、気を失ってろく
143
にお役目を果たせないだなどと⋮⋮なんという、失態! どうお詫
びをしてよいか﹂
あれ? やっぱり俺の考えすぎだったかな。ジブライールは今日
も男前だ。
﹁とにかく、ジブライール。顔をあげてくれ。急に倒れたんだし、
頭は大事に扱ったほうが﹂
どうも彼女は時々⋮⋮時々? いや、割と? 猪突猛進に過ぎる。
これはもしかしてあれか⋮⋮残念美人というやつか。
﹁いいえ、私は愚か者です! こんなスカスカな頭など、いっそつ
ぶしてしまった方が!﹂
そう言いながらガンガンと何度も頭を上げ下ろしして、寝具に叩
きつけるのをやめようとしない。
﹁ちょ、ちょ、ジブライール!!﹂
﹁お兄さま、止めて!﹂
いくら柔らかいベッドの上とはいえ、目の前でそう何度も頭を打
ち付けられたら、さすがに俺も妹も焦る。
特に俺は、頭の大切さに関しては、誰よりわかっているつもりだ。
正直、見ているだけでこちらの頭が痛い。
だからジブライールが頭をあげたところで、両肩をがっしりとつ
かんで、上下運動をやめさせた。
﹁落ち着け、な? 落ち着こうジブライール。せっかく綺麗に結わ
えた髪が、台無しに⋮⋮﹂
確かに勢い余って、そのまま押し倒してしまったのは悪かったか
と思う。
だって、ジブライールの抵抗が思いの外、強かったんだもん。
でも、だからって、何も⋮⋮。
一見したところ華奢に見えても、ジブライールは魔族の公爵だ。
144
つまり、紛れもない、世界の強者の一人なのである。
俺はそれを、思い知らされることになった。
﹁い⋮⋮﹂
﹁い?﹂
﹁いやあああああ﹂
股間に強い衝撃を受けたと気づく間もなく、俺の目の前には星が
瞬いていた。
***
んなああああ、もう駄目!
俺生きてる?
俺、
生 き て る ?
これなに、地獄?
息 が で き な い
マジ吐きそうなんだけど、なにこれマジ吐きそうなんだけど!!
内蔵が全部、口から出そうなんだけど!!
俺生きてるの?
むしろ、なんで生きてるの!?
これで生きているといえるの!?
***
145
さっきまで、この寝台に横たわっていたのはジブライールだ。
だが、今は俺が占領している。
うずくまって。
﹁⋮⋮はぁ、はぁ、はぁ⋮⋮﹂
どれくらいたったのだろう。
ようやく痛みがひいて、なんとか周囲を見回せるようになってみ
ると⋮⋮寝台にしがみついて涙目になっているマーミルとジブライ
ールの姿があった。
﹁お兄さま、お兄さま、大丈夫? しっかりなさって!﹂
﹁閣下、閣下! すみません、閣下、ほんとに⋮⋮あああ⋮⋮﹂
二人の声が、ようやく俺の耳にも届く。
﹁し⋮⋮﹂
﹁し?﹂
﹁死んだかと⋮⋮思った⋮⋮﹂
俺は目をつむり、枕に顔をうずめた。
正直、まだ鈍痛はひかない。局部はジンジンしている。
脂汗もひかない。
ああ、こんなひどい目にあったのは、生まれて初めてだ。
﹁何かして欲しいことはあります?﹂
﹁こ⋮⋮こ、し⋮⋮⋮⋮叩いて⋮⋮﹂
妹が、ぽすぽすと両手で腰を叩いてくれる。
﹁申し訳ありません、閣下⋮⋮﹂
ジブライールは涙声だが、ごめん。泣きたいのは俺のほう。
﹁私も腰を⋮⋮﹂
146
﹁いや、ジブライールはいい!﹂
ジブライールが拳を力強く握りしめたのをみて、俺は慌てて手を
振った。
万が一、続けて腰までいってしまったら、もう俺は駄目だ。
いくらその後、医療班が何もなかったかのように治療してくれる
としても、心のダメージまでは彼らだって決して癒してはくれない
のだ! そんなことになったら、繊細な俺は立ち直れない! 大公
をやめて死ぬまで引きこもってやるからな!!
﹁あれ?﹂
マーミルでもジブライールでもない、素っ頓狂な声があがる。
俺はゆっくりと頭をもたげて声の主を見た。
﹁倒れたのは彼女の方じゃなかったかしら? なんでジャーイル。
君が寝てるの?﹂
怪訝な表情を浮かべながら、寝室の入り口に立つサーリスヴォル
フの姿があった。
﹁サーリスヴォルフ⋮⋮﹂
﹁医療班をつれてきたんだけど⋮⋮いる?﹂
こんなことで診療を受けるだなんて、恥ずかしすぎる。
俺は首を横に振った。
147
14.僕っていつも、誰かから説教されてませんか?
なんとか起きあがれるようになったので、サーリスヴォルフと居
室に移る。
そのさい、ジブライールも体調不良ではない、大丈夫だと診療を
固辞したために、医療班には何もせずに帰っていただいた。
そのジブライールは、マーミルと寝室で待機中だ。
﹁ははっ。顔色悪いよ、ジャーイル。今なら簡単に、君を殺せそう
だね﹂
無邪気に怖いことをいってくれるな、サーリスヴォルフ。
言葉だけだよな? 冗談だよな?
目がキラリと光った気がして、怖いんだけど。 俺は腰をたたきながら、ソファに腰掛ける。
﹁二階にいるかと医療班をやったのに、どの部屋にも入らず降りて
いったっていうじゃない? だからこっちにやってきたのよ。さす
がに、大公の部屋を訪ねるのに、医療班だけでは心細いだろうと思
って、私が同行したというわけ﹂
今日は女装しているだけあって、言葉遣いもやや女性的だ。
時々微妙だが。
﹁気を使わせてすまない﹂
﹁まあ、正直、目録や挨拶なんて聞いていてもおもしろくはないか
らね。気分転換になっていいわ﹂
まあ、気持ちは大いにわかる。壇上でじっと座って、知っている
相手やら知らない相手からの祝辞を延々と聞き続けるのは、なかな
か大変なのだ。緊張しつつ言ってくれている本人たちには悪いが。
148
﹁それより、元気ないね、ジャーイル﹂
そりゃあ、元気なんてあるわけありません。
こんな目にあって、元気なんて出るわけないじゃないですか!
今、こうしてふつうに対応するだけで、精一杯なんです。
﹁用件はもう一つ⋮⋮部屋が余分にいるかと思って﹂
﹁部屋?﹂
﹁うん、そう。倒れた彼女⋮⋮君の副司令官だよね? 具合が悪い
のなら、今日は帰れないかなと思ってね。部屋の用意が必要か、聞
きにきたんだけど⋮⋮むしろ無粋だったかな?﹂
いやに意味ありげな視線を寄越してくる。
好色なサーリスヴォルフが何を考えているかは、聞かなくてもわ
かる。
俺はため息をついた。
﹁いや、大丈夫だ。本人が問題ないと言っているから、予定通り、
本日は妹と帰宅させる。⋮⋮いや、そうはいっても、倒れたことに
間違いはないわけだから⋮⋮後の儀式は不参加とさせてもらう。す
まないが﹂
うん、ほんと。
すぐ帰ってもらおう。
俺の精神の安定のために。
﹁むしろ、彼女は元気そうだもんね?﹂
ええ、そうですね。
とっても元気そうです。俺の股間を蹴り上げた、あの脚力の力強
さから判断して!
﹁ジャーイルはどうする? むしろ、君の方が具合悪そうだけど?﹂
﹁いや。俺は大丈夫だ。少し休ませてもらうが⋮⋮また会場に戻る
よ﹂
﹁そう。承知したわ﹂
149
﹁サーリスヴォルフ!﹂
サーリスヴォルフが席を立とうとしたので、俺は慌ててひきとめ
る。
﹁この機会に、聞きたいことがあるんだが﹂
こうして訪ねてきてくれたのは、むしろ幸いだった。
ずっと話したかったのに、その機会がなかったからな。
﹁あら、女性との穏やかな付き合いかたなら、あなたの身近に詳し
い人がいるでしょう? 親友に教えてもらえばよいのでは?﹂
いやいやいや。
冗談はよしてください。
ベイルフォウスなんて、ぜんぜん参考になりませんから。あいつ
が穏やかに女性と付き合っているだなんて、聞いたこともないです
から。
だいたい、俺は誰とも⋮⋮ジブライールとだって別に⋮⋮⋮⋮っ
て、違う、そうじゃない!
﹁デイセントローズの昼餐会の時のことだが﹂
俺は寝室を気にしつつ、小声でささやいた。
﹁あら、知ってるんだ?﹂
そうは言ったが、当然予想していたのだろう。サーリスヴォルフ
は訳知り顔で頷く。
﹁あなたが妹を助けてくれたこと、なら。ずっと礼を言いたいと思
っていたんだ。ありがとう﹂
﹁助けたつもりはないわ。私は単に、デイセントローズにいじわる
をしたかっただけ⋮⋮気まぐれを起こしただけだから、恩に着ても
らう必要もないけど﹂
サーリスヴォルフは苦笑を浮かべている。
150
﹁どうやって、デイセントローズの企みを知ったのか、尋ねてもい
いかな? もとから、彼の特殊魔術を知っていた、とか?﹂
﹁いいえ、まさか。あの時点では、まだ、私とデイセントローズは
同盟者ですらなかったのよ。特殊魔術のことなんて、同盟者同士だ
って話し合わないわ。私が知っているはずはないでしょ﹂
まあ、そうだ。
残虐と簒奪が習いの魔族において、特殊魔術はそれがどれだけく
だらない能力であっても、本人次第で強力な隠し玉とすることがで
きる。それを自ら他者にべらべらとあかすような者はいないだろう。
デイセントローズだって、俺が目の前で軟膏を飲むように強制し
たから、打ちあけずにすまなかっただけで⋮⋮というより、奴のあ
かした内容が、その能力のすべてとも限らないのだし。実際、俺と
ウィストベルがその付加価値を疑っているように。
﹁単にデイセントローズの不穏な動きに気づいたから、ちょっと邪
魔しただけよ。困った顔をしたデイセントローズは、可愛らしかっ
たわ。正直にいうと、彼がどうやって何をしていたのか、正確には
把握していないのよ。ただ、何かを阻止できたと気づいただけ﹂
サーリスヴォルフの口元に、剣呑な笑みが浮かぶ。
サーリスヴォルフはデイセントローズの特殊魔術の内容は把握し
ていない、と言いたいようだ。それを阻止できたのも、偶然の産物
であって意図して成功させたわけではないと。
俺の目は相手の魔力をはかるが、特殊魔術の有無までは見通せな
いから、サーリスヴォルフが言葉通りたまたまデイセントローズの
邪魔をできたのか、それとも何か特殊魔術を使って意図的に止めた
のか、判断できない。
﹁そんなことより、君にはもっと気にすべきこと、やるべきことが
あると思うよ。もっと、根幹的なところで﹂
151
﹁根幹的なところ⋮⋮?﹂
﹁昼餐会で私は聞いたよね? 妹君に。爵位を得るつもりはあるの
か、と。彼女はあるといった。そして、君はそれに特に反対もしな
かった。だよね?﹂
﹁ああ﹂
反対どころか、どちらかといえば賛成だ。
そのために、協力もしている。
剣や魔術の腕を磨きたいというから教師をつけてやってるし、騎
竜だって教えている。
さらにいうなら、こうしていろんなところに連れていってやるの
も︱︱いや、今回は渋々だが︱︱爵位を得るために、役立つ経験だ
ろうと思ってのことだ。
それでは足りないと、サーリスヴォルフはいうのだろうか?
﹁なのに、妹君にデイセントローズのしでかしたことを、内緒にし
てる﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
﹁ねえ、ジャーイル。君は、私に子供が何人いるか、知ってる?﹂
﹁いや⋮⋮﹂
まだまだたくさんいるのか?
今回の祝賀会場にも、姿はなかったようだが⋮⋮。
﹁じゃあ、他の⋮⋮例えばプートの子のことは? アリネーゼにも
いることを、知ってる?﹂
プートに妻子があるのは知っていたが、アリネーゼもなのか!
てっきり彼女は独身だと思っていた。サーリスヴォルフだって、
あんなに口説いていたし!
﹁知らないでしょう? 自分で自分の身を守れないほど、弱い子を
⋮⋮誰が残虐な同胞の前にすすんでさしだすと思う? 成人した後
152
は、本人の力量にまかせるとはいえ、それまでは大事に囲って育て
るものよ。君はその点、不用心だわね。そのせいか、妹君自身にも
警戒心がなさすぎる。そりゃあ、デイセントローズのような輩につ
け込まれるはずよ﹂
⋮⋮ああ、そうなのかな。
確かに、そうなのかもな。
うん、最近、どうもそんな気がしてきていたんだ。
なんというか⋮⋮耳が痛い。
﹁それとも君は、成人していない親族であろうと、保護対象ではな
いというのかな? 他者から害されるのも、本人の未熟さ故と割り
切っている、というのなら、なにもいわないけど。でも、それなら
それで、もう少し本人に危機感を持たせるべきじゃないかしら? 例えば私はむしろ、君とは逆で、子供たちは成人するまで大人たち
の交際に参加させないことにしている。そのかわり、誰が何をしで
かしたのか、ちゃんと教えているわ﹂
確かに俺は、マーミルの身の安全を、軽く考えすぎている節があ
る。俺自身が子供の頃からほとんどの大人に対して、警戒する必要
がなかったせいか、マーミルに危険が及ぶ可能性について、全く考
えが及んでいなかったのだ。
俺の子供時代の環境と、マーミルの環境が同じであるはずはない。
それ以前に、マーミルは俺と同じ目を持っていない。そんなことに
さえ、気づかなかった。それにマーミルの魔力は、俺の子供時代に
比べて、はるかに弱い。
ああ、確かに、もっと注意が必要だな⋮⋮。
﹁⋮⋮考えが至らなかったことを、痛感しているところだよ﹂
﹁そう思ったのなら、まずは一番の間違いをただすべきだと思うけ
ど? 君ときたら、妹を平気でベイルフォウスに近づけて⋮⋮﹂
153
サーリスヴォルフ。本気でベイルフォウスがロリコンだと勘違い
しているのだろうか?
﹁いや、意外にあいつ、子供には優しいよ?﹂
﹁本気で言ってるの?﹂
サーリスヴォルフは呆れ顔を向けてくる。
﹁今、自分の考えが甘すぎると自覚したのではなかったの?﹂
﹁まあ⋮⋮あいつがただの脳筋でないのは、わかってるつもりだけ
ど﹂
彼女は苦笑を浮かべ、立ち上がった。
﹁君はなんというか⋮⋮今までに見たことがないタイプなのよね。
それだけに、観察しているのは楽しい。だからできるだけ長く、一
緒に大公位にありたいと思っているのよ﹂
﹁そのためにいろいろと忠告してくれてるわけだ﹂
ベイルフォウスとサーリスヴォルフは、普段は仲良くやっている
ようなのだが、やはり見かけだけのことのようだ。お互い同じよう
な忠告を、俺に与えてくるとは。
さすが、似たもの同士ということか。
俺は苦笑をもらさずにはいられなかった。
﹁心に留めておくことにするよ﹂
﹁ええ、そうすることね。後悔したくなければ﹂
そう言いおいて、サーリスヴォルフは祝賀会の会場に戻っていっ
た。
﹁お兄さま﹂
サーリスヴォルフが出て行った気配を感じたのだろう。マーミル
が遠慮がちに寝室から顔をのぞかせてくる。
﹁サーリスヴォルフ大公、お帰りになった?﹂
﹁ああ﹂
154
妹はホッとしたような笑みを浮かべると、寝室から飛び出してき
た。
﹁お兄さま、ジブライール公爵の気分も回復したようだから、私た
ち、会場にもど﹂
﹁いや、マーミル。今日はもう、帰った方がいいんじゃないか?﹂
俺は慌ててマーミルの言葉を遮る。
たった今、妹の身の安全について考えさせられたばかりの俺が、
これ以上、他の城で長居させたくない、と考えるのは当然だ。
﹁ジブライールが大丈夫だと主張したって、やっぱり一度は医療班
の診察を受けた方がいいだろう。彼女も疲れているだろうし、お前
だって俺の体面を考えて、無理に儀式に参加しつづける必要はない﹂
俺はしゃがんで妹に目線を合わせながら、その柔らかい頬に手を
撫でた。
﹁成人の儀式だって、これからいくらでも参加する機会はあるさ。
なにせ、うちにはマストヴォーゼの娘たちがたくさんいるしな﹂
俺が冗談めかしてそう言うと、妹は小さな手のひらを俺の手に重
ねてホッとしたようにほほえむ。
﹁ほんとにそうですわね。あんまり儀式ばっかりで、そのうちうん
ざりするかもしれませんわ﹂
﹁その通りだ﹂
﹁閣下﹂
ジブライールの声に、情けなくも反応してしまう。
なんとか後じさるのだけはこらえたが、ついビクッとしてしまっ
た。
﹁ジ⋮⋮ジブライール⋮⋮﹂
俺の笑みはひきつっていただろうか。
155
だって仕方ないじゃない!
ついさっき、あんな目にあったばっかりなんだから!!
﹁あの⋮⋮閣下⋮⋮﹂
ジブライールは寝室から出てはきても、こちらに近づいてこよう
とはしない。彼女は彼女で、気まずい思いを感じているのだろう。
﹁ほんとうに⋮⋮なんとお詫びをすればよいか⋮⋮も⋮⋮もし⋮⋮
もし、これで、閣下の⋮⋮⋮⋮⋮⋮支障が⋮⋮⋮⋮﹂
ぐっと唇をかみしめ、今にも泣き出しそうな表情を浮かべて、真
っ赤になるほど手を握りしめている。
これは、やばい。
なにが嫌って、誰かを泣かせることほど嫌なことはない。
﹁いや、いやいや、大丈夫、俺は大丈夫だから、そんなに気にする
な、ジブライール!﹂
くっ⋮⋮正直、本能が彼女に近づくのを恐れている。
わざとやったのじゃないとはわかっていても、足が前に動きたが
らないのだ。
だが、俺はなんとかその本能に逆らって、ジブライールに近づく
と、彼女の手を取った。
﹁ほら、そんなに力一杯握りしめると、怪我をするぞ? 今からマ
ーミルを送るのに、飛竜の手綱をとってもらわないといけないんだ
からな﹂
ゆっくり拳を開かせると、ジブライールは驚いたような表情で俺
を見上げてきた。
﹁マーミルを無事城に送り届けてくれ。それでさっきのことは、チ
ャラにしよう﹂
﹁閣下⋮⋮﹂
正直、すぐにでも患部を守りながら、彼女から離れたい。
156
なにこれ、恐怖心? これが真の恐怖というものか?
﹁かならず無事に、姫を大公城までお連れいたします﹂
ジブライールはまぶたを震わせると、いつものひきしまった厳し
い表情に戻って、びっしりと敬礼をとった。
﹁ああ、頼むよ﹂
そうして二人を送り出してから、俺がそっと患部を確認したこと
は、いうまでもないだろう。
157
15.二日目もまた、違う意味でいろいろ疲れています
今現在、俺はピンチに陥っている。
いや、蹴られた箇所じゃない。そこは大丈夫だった。
⋮⋮うん、たぶん。
少なくとも、見た目は⋮⋮。
いや、違う。見た目だけじゃない。
ダイジョウブ⋮⋮ダイジョウブな、はず⋮⋮だ⋮⋮。
﹁聞いたぞ、ジャーイル。昨日は随分、お楽しみだったようじゃな
?﹂
そう言って真正面から薄い笑みをなげかけてくるのは、誰あろう、
最強の女王様だ。
いつもの謎怪力を発揮する細腕にがっちりと両肩をつかまれ、壁
際に追いつめられている、俺。
あれ?
この間も、こんな目にあっていたような⋮⋮?
せめてもの幸いはここが密室でも、人の全く通らない廊下でもな
い、ということだろうか。
いかに俺たちの様子を目にした者たちが、みな逃げるように去っ
ていく現状であっても、だ。
だが、この間の魔王城の時と違って、今日の女王様はややご立腹
だ。
目にいつもの余裕がない。
やばい。怖すぎて、昨日の箇所にひびく⋮⋮。
158
﹁なんのことだか、俺には⋮⋮﹂
一日目の昨日は楽しむどころかむしろ、どっと疲れたのだが。か
つてないほどに、死を間近に感じた一日だったのだが。
ウィストベルは俺の肩をつかんだまま、腕を折って顔を近づけて
くる。
﹁ごまかしはきかぬぞ。お主、昨日は配下の副司令官をいきなり抱
きしめたばかりか、そのまま我慢しきれず抱き上げて自分の部屋に
連れ込んだそうじゃな? 数時間も会場に戻らず、その美女副司令
官とやらと、いったい何をしていたというのかの? 何時間も寝室
にこもって?﹂
おい、誰だ!
ウィストベルが誤解するような説明の仕方をしたのは!!
﹁違います、誤解です。そもそも、抱きついていません﹂
いや、ダンスのつもりでちょっと距離は縮めたけど。
抱きしめたわけではない、決して。
﹁抱き上げたのは本当ですが、それはその⋮⋮副司令官が、気を失
ったからで﹂
﹁ほう、介抱するためだったと? ではなぜ、わざわざ自分の部屋
に連れ込んだのじゃ? 会場の二階には、休憩室が設けられていた
そうではないか?﹂
徐々に詰められる距離が、怖い。
﹁連れ込んだわけじゃ⋮⋮妹が一緒だったもので⋮⋮下手な場所で
休憩するわけにはいかなかっただけです﹂
﹁マーミル嬢が、一緒?﹂
ウィストベルの頬がぴくりとひきつる。
﹁二人きりではなかったと?﹂
﹁もちろんです!﹂
159
よし、ここは力強く主張しよう!
しかし、ウィストベルに状況を伝えた相手には、悪意を感じるじ
ゃないか。妹が一緒だったことを、わざわざ伏せて聞かせるとは。
﹁妹をたった一人にするわけにはいきません。デイセントローズの
件は以前もお話しましたが、それ以来、俺は妹から目を離さないこ
とに決めたからです。そして、副司令官はその妹の護衛としてきて
同行したにすぎません﹂
⋮⋮なんていうか⋮⋮俺、なんでこんなに必死に言い訳しないと
いけないんだろう⋮⋮我ながら、ちょっと情けなくなってきた。
﹁彼女もすぐに意識を取り戻したので、それからすぐに妹と一緒に
城に帰しました﹂
本当のことだから、声には自信があふれているはずだ。
﹁よかろう。その美人の副司令官⋮⋮ジブライールとやらに主が手
を出さず、妹と帰らせたという言葉を信じてもよい﹂
俺はホッとため息をつく。
っていうか、なんでウィストベルはジブライールの名前を知って
いるんだ!
﹁だが、そなたがぐずぐずしていたのは、そのジブライールとやら
の残り香を、一人で楽しんでいたからではないのか?﹂
﹁断じて違います!﹂
間髪入れず、俺は叫ぶ。なんて疑いを持つんだ、この女王様は!
本当に誰だ! 誤解させるようなふうに、昨日のことをウィスト
ベルに語ったのは!!
そりゃあ、ちらっと⋮⋮多少、ちらっとは、よぎらなかったわけ
ではない。ジブライールが寝ていたんだな、とか。だが、何もして
ない。
できるわけがないじゃないか。
160
それに、シーツはすぐに取り替えてもらった。俺の自尊心のため
にも。
﹁俺が会場に戻るのが遅れたのは⋮⋮それは、その⋮⋮俺自身の問
題で﹂
すぐに戻らなかったのは、しばらく放心していたからだ。
アソコを蹴られたショックがいかほどに大きいか、話したところ
でウィストベルにはわかるまい。
なんといっても、繊細なのだ、俺は。
あと、明らかな負傷がないか、時間をかけて点検していたという
のもある。
だが、こんなことをあけすけと、ウィストベルに説明できるはず
もないではないか!
﹁とにかく⋮⋮俺は、何一つ、やましいことはしてません!﹂
俺はウィストベルの両腕首をつかみ、力をいれすぎないように気
をつけつつ肩から離した。
﹁そうか⋮⋮﹂
ウィストベルの腕から力が抜けたので、気を抜いて手を離したら、
すかさず両手指を組まれ、体をぎゅっと押しつけられた。
やばい⋮⋮感触が⋮⋮。
﹁なら、それを証明するために、主の寝室に行こうではないか? 昨日の動作を逐一、二人で検証してみるのじゃ。まずは、主が私を
抱き上げるところからじゃな﹂
やばい。言ってることがめちゃくちゃだ。だが、断れる気がしな
い。
怒りは消えたようだが、別のやる気に溢れている。
うっすらと色づいた頬、やや潤んだ瞳、塗れた唇、そして、俺に
押しつけられる豊満な⋮⋮⋮⋮。
161
俺はいろんな意味で、唾を飲み込んだ。
﹁ほう、貴様⋮⋮ところかまわずウィストベルと不埒な行為に及ぼ
うというのか﹂
これは⋮⋮天の助け!!
声のした方を見ると、今日も真っ黒な正装でマントを翻した魔王
様の姿が。
﹁陛下⋮⋮!﹂
頭を割られても、今の俺に文句はない!
だいたい、昨日のあれよりひどい痛みなど、この世にあるはずが
ないではないか!
﹁貴様⋮⋮今すぐ、ウィストベルから離れろ!﹂
﹁はい、今すぐ!﹂
﹁あ⋮⋮﹂
俺が手をほどいて急いであとじさると、ウィストベルから切なげ
な声があがる。
ちょ⋮⋮やめてください、響くから!
﹁ベイルフォウスがそなたを探しておったが﹂
魔王様の冷たい目が、今はありがたい。
﹁あ、俺もベイルフォウスに用があったんです! 探しにいかない
と﹂
﹁ジャーイル⋮⋮﹂
﹁ウィストベル、また、後でダンスを楽しみましょう!﹂
俺はにっこり笑ってそういうと、急いでその場を離れた。
魔王様の名を呼ぶウィストベルの声に殺気を感じたが、陛下はき
っと喜んでいらっしゃるはずだ。うん。
162
***
今日はお誕生日会の二日目だ。場所を本棟に替え、大小さまざま
の部屋をいくつも使用して、舞踏会が行われている。
あちこちで音楽が鳴り響き、男女が手を取り合ってダンスホール
を舞い、談話室で楽しげな声をあげる。で、そのうちの数人は昨日
のように、どこかに消えていくのだろう。
昨日より雑然としているから、誰がどこにいるのだか、よくわか
らない。
なにせ、昨日から今日はさらに人数が増えて、千人近くになって
いる。
その中から特定の相手を捜すというのは、なかなか骨の折れる仕
事で⋮⋮。
ああ、だが、いた。シーナリーゼだ。
彼女は俺も知らない男性魔族と、ダンスを楽しんでいるようだ。
いやいやといった感じは全くなく、心から喜んでいるように見えた。
正直、次女のことはあまり心配をしていない。しっかりしている
から、万が一言い寄られることがあっても、自分の意に添わぬ合意
はしなくてすむだろう。
だが、アディリーゼは?
うつむいて無言を貫いている間に、どこかに個室に連れこまれで
もしないかと、気が気じゃない。
﹁おい、ヤティーン!﹂
今まさに、女性魔族の腰に手を回しかけていたヤティーンをつか
まえる。
昨日はじっとおとなしく、長女や次女といてくれたヤティーンも、
今日は自分の遊び相手を見つけるのに忙しいらしい。
﹁うわあ、閣下⋮⋮空気よんでくださいよ⋮⋮﹂
163
ものすごく、嫌そうな顔をされた。
﹁悪い⋮⋮だが、アディリーゼの姿がみえないのが気になってな。
知らないか?﹂
﹁知りません。俺は彼女のお守りではありませんので﹂
まあそうだけど。
なんだよ、なんかヤティーン⋮⋮機嫌悪くないか? いや、って
いうか、なんか俺に冷たくないか?
なんだろう⋮⋮俺、何かしたっけ?
﹁ああ、でもずいぶん前に見かけたときは、フェオレスと一緒でし
たが﹂
﹁わかった。邪魔をして悪かったな﹂
ヤティーンの言うとおり、フェオレスが一緒にいてくれているの
なら、何も心配はいらないのだが。
俺はご機嫌斜めのヤティーンから離れると、長女の姿を捜して次
の部屋に移ったのだった。
﹁おい、ジャーイル!﹂
突然、肩を掴まれて振り返ると、いつになく不機嫌な顔のベイル
フォウスが立っていた。
そういえば、こいつが俺のことを探してるって、魔王様がいって
いたっけ。
﹁ああ、ベイルフォウス。この間はマーミルが世話になったな。悪
かった、ありがとう﹂
俺の言葉に、ベイルフォウスは舌打ちで応じてくる。なんだ、お
まえもか、ベイルフォウス。
今日はあれか?
みんなで俺に冷たくする日、とかなのか?
俺の顔をみると、なんかイライラする呪いにでもかかってるのか?
﹁結局、最後まで﹃お兄ちゃん﹄呼びはなしだ﹂
164
ああ、それね。
まあ、マーミルも頑固なところがあるからな。
﹁その話はまた、後でな﹂
今はアディリーゼの行方の方が気になる。フェオレスと一緒のと
ころを、確認しておきたい。
それで友人の手をふりほどいたのだが、ベイルフォウスは諦めて
はくれず、腕をつかまれた。
﹁まあ、そうつれなくするな。せっかくの祝賀会だぞ? 俺とお前
で、主役の二人を楽しませてやろうじゃないか?﹂
﹁は?﹂
主役はこの部屋にはいませんけれども。
﹁いいからこっち、こいよ﹂
いつになく、ベイルフォウスは強引だ。
いつもは割とすんなりひいてくれるのに、今日はどうしたことか、
自分の意志を押し通そうという態度を崩さない。
そうして引きずられるようにしてたどり着いたのは、二部屋のダ
ンスホールにまたがるように設けられた、芝生の中庭だった。
俺たち⋮⋮というか、ベイルフォウスから漂う不穏な空気を感じ
たのか、芝生に座って歓談していた数組のカップルが、いそいそと
立ち上がって離れていく。
ベイルフォウスは芝生の中央で俺の腕を乱暴に離すと、デヴィル
族の青年の元へ歩み寄った。
たぶん、あらかじめ待たせてあったのだろう。その青年からベイ
ルフォウスは剣を二本、受け取ると、一本を俺に投げてよこしたの
だ。
﹁なんだよ、ベイルフォウス⋮⋮﹂
﹁抜け。やるぞ﹂
165
そう言って、ベイルフォウスは音もなく鞘から剣を抜き取る。
﹁は? 正気か?﹂
俺と手合わせするって?
﹁もちろん、正気だ。お前も知っているとは思うが、俺も剣は割と
得意でな。手加減はいらないぜ?﹂
ああ、知ってるとも。マーミルからお前の指導方法について、色
々聞いているからな。
俺たちが向かい合って対峙すると、いったん芝生から離れていっ
た者たちが何事かと戻ってくる。周囲にはすぐに人だかりができた。
﹁おや、面白いことが始まりそうだね﹂
軽い声をあげたのは、サーリスヴォルフだ。彼女は主役の双子と
一緒に、人垣の最前列に進み出る。
別の場所には、プートとアリネーゼの姿も見えるではないか。
﹁ほら、さっさと剣を抜けよ、ジャーイル。主役のお出ましだぜ。
剣舞を披露といこうじゃないか、なあ、親友?﹂
笑みがとげとげしい。
なに怒ってるんだ、ベイルフォウスのやつ。
どうやらひきそうにないと、俺は諦めて腰の剣を抜いた。
166
16.ベイルフォウスくんには、今後もお相手をお願いしたいと
思います
﹁ルールは?﹂
﹁魔術はなし。剣のみで戦う﹂
魔術なしか。大公同士の戦いで魔術も使用するとなると、確かに
この場所では狭すぎるもんな。
﹁承知した﹂
﹁なら、始め、だ!﹂
ベイルフォウスは間髪入れず、懐に飛び込んでくる。
﹁ちょ、おま⋮⋮終了の条件は!?﹂
俺は素早いその切っ先を受け流しながら、叫びをあげた。
﹁そんなもの、適当だ!﹂
﹁おい、まて、ベイルフォウス!﹂
﹁またない!﹂
俺は以前も言ったが、剣技についてはかなり自信がある。
それだけなら、ウィストベルと戦っても勝利を確信できるほどだ。
だが⋮⋮。
二度、三度とベイルフォウスと刃を打ち合わせる。
魔術を使うときの単なる力押しとは違い、ベイルフォウスの剣捌
きは実に柔軟だ。
刃をあわせるや、力の重点をそらして分散させ、受け流し、翻し
て打ち込んでくる。
本気で戦うとなれば、一番いやなタイプだ。
思わず舌打ちしてしまう。
167
﹁おい、ジャーイル! 少しは本気を出したらどうだ? それとも
俺では、相手にならないか?﹂
﹁いいや、まさか! だけど、こんなことは今回限りにしてほしい
⋮⋮なっ!﹂
右から眼前に迫ってくる刃を受けて左に受け流し、反撃に転じた。
ベイルフォウスは強い。
それは剣をあわせる前から、予測できたことだった。
だが、正直これほどとは⋮⋮。
﹁強いな、ベイルフォウス!﹂
﹁お前ほどじゃないがな!﹂
高らかな金属音が鳴り響き、火花が飛ぶ。
やばい。楽しくなってきた。
こうして誰かと本気で剣を打ちあえるのは、久しぶりだ。
なにせ途中から、武器をとっての戦いでは、誰も俺の相手をまと
もにしてくれなくなったのだから。槍の名手と謳われた父でさえ、
だ。
俺が右を攻めれば、ベイルフォウスは左に受け流し、ベイルフォ
ウスが左を攻めてくれば、それを俺が右に受け流す。
それは仕合というより、ベイルフォウスの言ったように剣舞のよ
うで。
﹁なに笑ってんだよ﹂
あわせた刃の向こうで、ベイルフォウスが吐き捨てるように言う。
だが、口と表情が一致していない。
﹁お前だって、笑ってるだろ?﹂
﹁そうか?﹂
168
結局俺たちはそれから一時間の間、黙々と剣を交え続けた。その
せいか、双方疲れ果てて腕を降ろした時には、あれだけいた見物人
は、ほとんどいなくなっていたのだった。プートやアリネーゼはも
ちろん、肝心のサーリスヴォルフとその双子もだ。
﹁ほんとに強いな、ベイルフォウス﹂
﹁いや⋮⋮だから、お前ほどじゃねえって﹂
ベイルフォウスはそう言うと抜身の剣を芝生の上に放りだし、あ
ぐらをかいて汗にぬれた長い赤髪をかきあげる。
﹁ただ言っておくが、兄貴は俺より強いぜ﹂
そう語る口調はどこか誇らしげだ。
身体を動かしてすっきりしたのか、不機嫌さはどこかにいってし
まっている。
どうやら俺に対する呪いなどではなかったようだ。よかった、よ
かった。
﹁それにしても、いい運動になった。できればまた、二人で稽古し
ないか?﹂
なにせものすごく楽しかった。俺としてはたまにはこうやって、
全力を出した稽古をしたいのだ。
﹁ええ⋮⋮お前、さっきはこれっきりにしろっていったくせに﹂
一方のベイルフォウスはうんざり顔だ。
﹁いや、お前が強いもんで、楽しくて⋮⋮時々はこうして運動して
汗をかくのも、いいもんだろ?﹂
﹁運動による汗なら、毎日かいてる。女とな﹂
なにこいつ⋮⋮殴っていい? いいよな?
﹁怖い顔すんな。冗談だよ﹂
いや、冗談じゃなくて真実だよね?
169
どうでもいいけど! どうでもいいけど!
﹁本当のところ、俺は結構いっぱいいっぱいだった。八つ当たりの
つもりが、お前が予想以上に強すぎて、今の俺は若干ひきぎみなん
だが﹂
さすがに大公二位からここまで言われると、ちょっと誇らしい気
持ちがするではないか。
﹁八つ当たりって、なんの?﹂
俺はベイルフォウスに手をさしのべる。
親友は舌打ちをすると、俺の手につかまって立ち上がった。
﹁決まってるだろ、この間のマーミルの件だ﹂
﹁⋮⋮ああ、そんなに迷惑かけたか、うちの妹⋮⋮﹂
﹁いや、全然﹂
⋮⋮ん? 迷惑じゃなかった?
﹁だから、さっきいったろ? 俺のこと、﹃お兄ちゃん﹄って一度
も呼ばなかったんだって。毎日、朝から晩までかまってやったって
いうのに、髪の毛だって、毎日きれいに結わえてやったっていうの
に、デザートだって、毎日好物を用意してやったってのに﹂
⋮⋮なるほど、マーミルの言っていた通り、うざいな。
﹁そんなことぐらいで、お前⋮⋮八つ当たりって⋮⋮﹂
﹁そんなことってお前、俺はその間中、夜だって一人で寝てたんだ
ぞ?﹂
俺がそこまで要求したわけじゃない。単に、妹の目の前で教育上
悪いようなことはやめてくれとお願いしただけで。
﹁マーミルにあたるわけにはいかないからな。お前に当たってすっ
きりすることにしたんだ﹂
こいつ、いくつだっけ?
170
マーミルと同い年だっけ?
俺の倍ほど生きてるんじゃなかったっけ?
やはりサーリスヴォルフはベイルフォウスを買いかぶりすぎじゃ
なかろうか。
﹁さて、それじゃあ俺は汗を流しがてら、着替えてくるか⋮⋮⋮⋮﹂
今度はたっぷり色気をまき散らせながら、女性魔族に視線をやる
ベイルフォウス。
よかった⋮⋮今日この場に、ジブライールとマーミルがいなくて
本当によかった。
いくらベイルフォウスが種族に見境ないといっても、やっぱりデ
ヴィル族よりはデーモン族の相手の方が、いろいろと楽だろうから
な。そして、ベイルフォウスの奴が女性を口説くときには言葉はい
らないのだ。
目を見ながら手を伸ばせば、それでたいてい完了だ。
何度もそんな場面を目撃しているので、間違いない。
こいつには目を見るだけで女性をたらしこむ、特殊魔術でもある
のかと疑うほどだ。
だからというか、存外、口は下手なのだ。気障ったらしいせりふ
は言わないのではなくて、思いもつかないし、無理して言ってもう
まくない。口説き文句とか、むしろ魔王様の方がうまそうだったり
する。
本当、ジブライールとマーミルを昨日のうちに帰しておいて、正
解だった。万が一、ベイルフォウスがジブライールを標的と定めた
ら⋮⋮。
﹁お前はどうする、ジャーイル?﹂
﹁俺はいい。着替えるほどではない﹂
俺がそう言うと、ベイルフォウスは口元をひくつかせた。
171
﹁癪に障るな﹂
うっすら汗ばんではいるのだが、別に不愉快なほどじゃない。汗
くさくも⋮⋮たぶん、ない⋮⋮たぶん。
なんなら魔術でどうにかするし。
それよりも、だ。
ベイルフォウスとの打ち合いに夢中になりすぎて、アディリーゼ
のことをすっかり失念していた。
別にスメルスフォに、ずっと見守るよう頼まれた訳ではない。そ
れどころか、彼女からは娘たちのことは気にしなくてもいい、と、
お墨付きをもらってさえいる。逆に俺が一日目から参加するといっ
たら、そこまでしなくていいと注意されたぐらいだ。
俺がマーミルに何も知らせないのとはちがって、スメルスフォは
彼女たちに危機管理に関する教育をしているようだし。
だが、そうだとしても、あのアディリーゼはなぁ⋮⋮。
俺はベイルフォウスと別れ、再び長女を探しにダンスホールに戻
ったのだった。
***
﹁これは、アディリーゼ嬢。お久しぶりですね﹂
﹁あなたは⋮⋮﹂
美しい雌牛の顔が、私の姿を認めてゆがむ。
さっきまで舞踏場の派手な床を自信なく見つめるだけだったその
瞳に、明らかな憎悪の色が浮かぶのを見て取って、私は背筋を震わ
せた。
﹁ああ⋮⋮これは失礼。そういえば、正式な挨拶はまだでしたかな
? 私はデイセントローズ。以前一度、<断末魔轟き怨嗟満つる城
172
>でお会いしたかと思うのですが⋮⋮﹂
もちろん、彼女が私を忘れているはずはない。それどころか、忘
れたくても忘れられないだろう。
最愛の父親を殺した仇である私に、彼女は以前、剣を向けてきた
のだから。
﹁もちろん⋮⋮存じ上げておりますわ、デイセントローズ大公閣下﹂
ささやくような声は、震えている。それは恐れのためか、それと
も憎しみのためか。
だが、以前のことを詫びるでもないところは、気の強さが表れて
いるといえなくもない。
私が一歩近づくと、彼女は一歩半離れる。
その反応がおもしろくて、ついつい歩を進めてしまった。
﹁あ⋮⋮﹂
背に壁があたって、アディリーゼは青ざめる。
獲物にはもはや逃げ場はない。
ああ⋮⋮こういうときにわき上がってくる嗜虐心は、実に心地い
い⋮⋮私があのお方の子であるという、何よりの証拠と思えるから
だ。
﹁そう、怯えずともよいではありませんか。何も私はあなたをとっ
て食おうというのではない。先日のことを気にしておいでなら、そ
の必要もありません。なにせ、私は大公⋮⋮下位の挑戦は、上位と
して受けるが義務⋮⋮﹂
ジャーイル大公の言葉を引用する。
距離をつめるたび、彼女は嫌悪に身を震わせ、私は快楽を感じて
うち震える。
﹁そんなことよりも、今はあなたの美しさに惹かれている、この気
173
持ちの方が大事ではありませんか。アディリーゼ殿﹂
﹁いや⋮⋮近寄らないで⋮⋮﹂
牛目が大きく見開かれ、じわじわと涙が滲んでくる。
やはり、初対面の時は怒りで理性が吹き飛んだだけのことか。再
度襲いかかってくるほどの勇気は、もっていないようだ。
﹁そう、怖がらず⋮⋮どうか、姫君。今宵最初の栄誉を、お与えい
ただけませんでしょうか?﹂
そう言って手をさしのべてみれば、よけいにその震えは大きくな
った。
﹁おお、なんとも光栄ですな!﹂
だが、突然、横から伸びてきた犬の手が、私の手に重ねられる。
﹁大公閣下にダンスを申し込んでいただけるとは、恐悦至極!﹂
私は唐突に現れたその相手を、険しい目で睨みつける。
長い耳をピンとたてた犬顔の女が、そこに立っていた。
﹁なんですか、あなたは⋮⋮私はアディリーゼ嬢にダンスを申し込
んでいるのであって、見も知らぬあなたと踊るつもりなど、毛頭な
いのですが﹂
冷静にそう言いつつ、手をひっこめると、その犬女はとぼけた顔
で自分の耳の裏をかく。
﹁ええ、なんと⋮⋮そうでしたか、それはすみませんでした、大公
閣下。ですけど、こちらのお嬢様は⋮⋮﹂
犬女はやや緊張した面もちで、だが、目に強い力を込めたまま、
私を見つめてくる。
大公を相手に大した度胸だと、いえなくはないのだろうが。
﹁昨日、足をおいため遊ばして、今日はダンスができないようです。
それに⋮⋮うちの大公閣下が、お嬢様を捜しておいでで﹂
﹁あなたの大公閣下⋮⋮﹂
174
なるほど、つまりこの犬女はジャーイル大公の配下であるという
ことか。度胸の据わり方は、主に似るのかあるいは⋮⋮。
﹁では、私がアディリーゼ嬢をあなたの閣下⋮⋮ジャーイル大公の
もとまでエスコートいたしましょう。足を怪我されているというな
ら、なおさら﹂
﹁いやあ、まさかそんな!﹂
犬女は大仰に驚いてみせる。
﹁デイセントローズ大公閣下に侍従のまねごとをさせるわけには参
りません! そんなことをしていただいては、私がジャーイル大公
にしかられてしまいます。我が大公のところに姫をお連れするのは、
そう命ぜられた私の役目⋮⋮どうか、デイセントローズ閣下は、我
らのことなどお気になさらず、他の美女との交遊をお楽しみくださ
い﹂
そういうや、犬女はアディリーゼを私の前からさらっていった。
ふん⋮⋮まあ、いいだろう。
正直なところ、マストヴォーゼの小娘などには一遍の興味もない。
今日のところは犬女の剛胆さに免じて、おとなしく見送ってやる
ことにしよう。
175
17.犬伯爵、色々がんばりました
﹁うえええええ、怖かったーーー!! 超怖い、大公って超怖い!﹂
デイセントローズ大公のいる部屋から廊下に出て、だいぶ離れた
というのに、まだ心臓がバクバク言ってる!
なんて、上司ににっこに
まったく、ジャーイルもなんてことを頼んでくるんだ!
ティムレ伯爵、お願いがあるんですが
こで言われたら、嫌とは言えないじゃないか。
もし、アディリーゼが副司令官と一緒にいればそれでいいですが、
と。
一人でいるか、ほかの者に話しかけられて迷惑そうにしていれば、
自分のところに連れてきてください
捜索に私のもつ犬の鼻が有効だと思ったのだろう。
いや、でも私、アディリーゼちゃんの匂い知らないんだけどね!
けれどなんとか見つけてみれば、迷惑そうというよりは、怯えた
様子のアディリーゼちゃんが。しかも相手は七大大公の一だ。
正直、たかが伯爵の私にとっては、恐怖を感じていないふりをす
るだけでも精一杯。
﹁あ、あの⋮⋮﹂
﹁怖かった、怖かったね、アディリーゼちゃん!!﹂
興奮したテンションのまま、彼女の肩をがっしり掴むと、ものす
ごくびっくりした顔をされた。
﹁はい、あ、あの⋮⋮?﹂
おっと、いけない。私と彼女は初対面だし、それにこの子はちょ
っとおとなしい子らしい。
魔族には珍しいほどのおとなしい⋮⋮あれ? もしかして、待て
176
よ⋮⋮魔族にはめったにいないほどおとなしい女子?
もしやこの感じ⋮⋮ジャーイルがいつも言っていた、可憐な女子
ってやつじゃないの?
ということは、もしかしてこの子が、ジャーイルの想い人?
私はとある副司令官からの刺すような視線を思い出し、アディリ
ーゼちゃんに同情せずにはいられなかった。
﹁かわいそうに⋮⋮苦労するね﹂
﹁え? あの⋮⋮私⋮⋮アディリーゼと、いいます﹂
﹁知ってるよ!﹂
マストヴォーゼ閣下の二十五人のご息女が、父に似た美女ぞろい
だというのは周知のことだ。
﹁あの⋮⋮それで、あの⋮⋮あなた、は⋮⋮﹂
おっと、いけない。そういえば、名乗っていなかったじゃないか!
﹁私はジャーイル君の配下で、第二十二軍団の軍団長、伯爵のティ
ムレだよ。よろしく、アディリーゼちゃん!﹂
﹁ティムレ伯爵様⋮⋮﹂
私は手を差し出したのだが、彼女は握ってこなかった。
肉球のお手入れは欠かしていないというのに。握ってもらえれば、
絶対に気持ちいいと思うんだけどなぁ。
思わず自分で手をあわせて、肉球の感触をたしかめてしまう。
うん、やっぱり気持ちいい。
﹁あの⋮⋮ありがとうございました、ティムレ閣下﹂
アディリーゼちゃんは、深々と頭を下げてきた。
﹁私⋮⋮私⋮⋮﹂
下げられた背中が、ぶるぶると震えているのに気がつく。
﹁そうだよね、そりゃあ怖かったよね。でももう大丈夫! 一緒に
ジャーイル君のところにいこう? あ、デイセントローズ閣下の前
177
以外では、足は引きずらないでもいいからね!﹂
当然、足を怪我した云々は、私の嘘だ。
彼女の手を取って、体を起こさせる。
﹁ジャーイル閣下、の、ところ⋮⋮ですか?﹂
﹁そう、君を捜してきてって、頼まれたんだ。大事にされてるねー﹂
私は肘で彼女の腕をつつく。が、反応はかえってこなかった。
うん、確かにおとなしい子だな。
﹁あ、ティムレ伯爵!﹂
しかし、噂をすればなんとやら。
アディリーゼちゃんのことを心配するあまり、待っていられなか
ったのだろう。ジャーイルがやってくる。
﹁よかった、アディリーゼ、見つかったんですね﹂
この大公閣下は、今でははるかに私より上位にあるのに、いつま
でたっても配下であった時のくせが抜けないらしく、丁寧語をやめ
ようとしない。
もっとも、私の方も逆に、見張る目がなければタメ口で話してし
まうんだけど。
﹁ジャーイル閣下﹂
アディリーゼちゃんも、ジャーイルの顔を見てホッとしたのだろ
う。
口元に薄く笑みが浮かんでいる。
﹁私、マジ頑張ったよー、ジャーイル君! なんてったって、デイ
セントローズ大公のところから、彼女をさらってきたんだから!﹂
私が大公の名を出すと、彼の表情が厳しいものに変わった。
﹁デイセントローズ⋮⋮アディリーゼ、何か、されたのか? もし
かして、どこか触れられた、とか⋮⋮﹂
﹁あ、いいえ⋮⋮﹂
178
おいおい、ほかの男は指一本触れるのも許さないってか?
そこまで独占欲が強いとは、意外だな。
﹁大丈夫、その前に私が助け出したから。ね、ご褒美でもくれる?﹂
﹁いいですよ、肉一年分でもお屋敷に届けましょうか?﹂
私がおちゃらけて言うと、ジャーイルはいつもの柔らかい笑みを
浮かべて応じてくれた。
彼が成人してすぐの頃からの付き合いだからか、どうしてもその
笑顔が無邪気な子供のそれのように思えてしまう。
だが私がデーモン族だったらまた、違った感想をもったのかもし
れない。なにせ、あの怖い副司令官殿がほうっと見ほれるくらいだ
から。
﹁そんなのいいよー。ただ、ちょっとの間、じっとしていてくれた
ら!﹂
そう言って、ジャーイルの尻をめがけて手を突き出す。
が、またいつものように紙一重でかわされてしまった。
﹁ふっふん、甘いですね、ティムレ伯爵﹂
﹁あああ、またセクハラ∼!﹂
逆に耳をもまれる。
ものすごく、気持ちいい。うっとりしてしまう。
はっ!
しまった、彼女であるアディリーゼちゃんの前で、私は何をして
いるのだ⋮⋮。
彼女がもし、あの副司令官殿だったらと想像して、青ざめた。
﹁どうしました、ティムレ伯?﹂
﹁なんでもない、なんでもないよ!﹂
179
いないとわかっていても、思わずキョロキョロと見回さずにはい
られない。なにせ、あの副司令官殿の視線は怖い。
私がジャーイルと少しでも仲よさげに話をしていると、必ずとい
っていいほどやってきて、冷たい視線でプレッシャーを与えてくる。
それはもう、心臓を刺してえぐるような視線で⋮⋮。
たとえ本人はいないとしても、その配下がジャーイル君と私のや
りとりを見ていないとは限らないじゃないか。
へんに誤解されて、とばっちりを受けてはたまらない。
﹁それじゃ、私はこれで⋮⋮﹂
﹁ああ、ご協力、感謝します。頑張ってお相手を見つけてください
ね﹂
別に私は結婚相手を捜しにきたわけじゃないんだけど。
君が、未婚の軍団長は全員参加、とかいうから、仕方なしに参加
しているだけなんだけど。
﹁じゃあ、アディリーゼちゃん、またね﹂
私は美人な彼女に挨拶をすると、二人からそそくさと離れていっ
たのだった。
その後怖いけれど、もう一度さっきの場所の近くまで戻ってみる。
デイセントローズ大公の様子を遠くから観察するためだ。
なにせ私は、閣下の前から美女をさらった無礼者、という立ち位
置だ。
できれば、二度とお目に止まりたくない。
なんといったって、相手は大公閣下⋮⋮ジャーイルは、かつての
部下だったし、本人が気安い性格をしているから、今でも恐怖心は
感じないが、ほかの大公閣下は違う。
大公に登り詰めるほどの実力者ならば、そばにいるだけで重圧を
感じ、肌がぴりぴりと痛むほどなのだ。
180
ちなみに、私が大公で一番怖いのは、ウィストベル閣下だ。
あの方だけは、なんというか⋮⋮かなり離れていても、恐怖を感
じずにはいられない。多分、野生の勘のなせる技だと思う。
今日も、私なんぞに気を止められるはずもないとわかっていても、
ついつい距離をとってしまう。
部屋の入り口ちかくから、さっきの場所をのぞいてみたが、デイ
セントローズ大公の姿は確認できなかった。
﹁おおおお。よかった﹂
だが、そこにデイセントローズ大公はいなかったけれども、別の
よく知った顔があった。
公爵で副司令官の、フェオレスだ。
﹁あれ? 猫公爵じゃない﹂
手を挙げて、背の高い猫に近づいていく。
今は公爵と伯爵と、身分に随分差が付いてしまったけど、フェオ
レスはよく知った相手だった。具体的にいうと、あれだよ。幼なじ
み、というやつだよ。
﹁これは、犬伯爵﹂
フェオレスはいつもの優雅な仕草で腰をおると、穏やかな笑みを
浮かべてみせる。
﹁なにしてんの、こんなところで。ダンスの相手がいないのなら、
私がつとめてやろうか?﹂
にっかりと笑って言うと、フェオレスは苦笑で返してきた。
﹁ありがとう。だが、大丈夫だ﹂
﹁遠慮するなよー。私とあんたの仲じゃないか﹂
ばんばんと、フェオレスの腕をたたいてみせる。
ちなみに、フェオレスもそれほどいろんな種は混じっていないの
181
だが、性格と所作のせいで、割ともてる。こんな風になれなれしく
しているのを見られると、嫌がらせを受けてしまうこともあるほど
には。
﹁そんなことより、ティムレ⋮⋮ここにアディリーゼ嬢がいたと思
うのだが、知らないか?﹂
アディリーゼちゃん?
ああ、そういえば昨日はこいつ、ずっと彼女と一緒だったっけ。
それで仲良くなったのか。
そういえば、ジャーイルも配下と一緒にいれば、それでいいと言
っていたな。それってフェオレスのことだったのかな。
護衛でも請け負っているのだろうか。
﹁アディリーゼちゃんなら、今、ジャーイル大公のところまで送っ
ていったところだよ﹂
﹁閣下のところか。ありがとう﹂
そのまま去ろうとするので、私は慌ててフェオレスの腕を掴んだ。
﹁待てって、無粋だよ、フェオレス。せっかく今日は、怖い副司令
官殿がいないっていうのに。二人っきりにしてあげようよ﹂
猫くんは、私の顔を怪訝そうに見下ろす。
﹁どういう意味だ﹂
﹁どうって⋮⋮君、何も気づかなかったの?﹂
﹁気づく?﹂
昔から、この猫公爵は、割と聡い部類だと思っていたんだけど、
買いかぶりすぎだったのだろうか。
﹁だから、あの二人⋮⋮アディリーゼちゃんとジャーイル閣下の関
係についてだよ。デヴィルとデーモンの恋路なんて、大変だろうけ
ど、応援してあげようよ﹂
私の言葉に、フェオレスは表情を強ばらせた。
182
あ、やっぱり、気づいていなかったみたいだ。
だったらビックリするかもな。
私もビックリだけど。
なにせ、デヴィル族の美醜にまったく理解を示さなかった、あの
ジャーイルが、と考えると。
﹁何をいっているのかわからないが、ティムレ﹂
フェオレスは、私を呆れたように見ながら、深いため息をついた。
﹁そのありえない推論を、私以外には話さないでくれるよう、お願
いしておくよ﹂
﹁あり得なくないって。だってアディリーゼちゃんは、ジャーイル
君の好みのおとなしい子だよ? 彼女くらいじゃない、おとなしい
魔族なんて﹂
﹁それで、閣下がデヴィルとデーモンの垣根を越えられると?﹂
﹁愛は偉大っていうじゃん﹂
もう一度、幼なじみは深いため息をついた。
﹁もう一度いう、あり得ない﹂
﹁なんで?﹂
﹁なぜって、彼女はジャーイル閣下の、ではなく、私の大切な人だ
からだよ﹂
﹁うえええ?﹂
意外な告白に、私は変な声を上げてしまったのだった。
183
18.僕⋮⋮邪魔者ですか?
よし。アディリーゼの確保、すみ。
やはりティムレ伯に頼んで正解だったか。犬の鼻は、よく利くら
しい。
だが⋮⋮。
俺とアディリーゼは、今は談話室で飲み物を手に、くつろいでい
る。
朝からすでにいろいろあったので、そろそろ休憩したい気分なの
だ。それに、こうして腰を落ち着けていれば、さすがに誰彼と気軽
には近づいてこないだろう。
なにせ、こういう改まった場では、上位から下位へ話しかけるの
が礼儀にかなっており、その逆は無礼とみなされているからだ。つ
まり、大公か魔王様以外は、顔見知りか、よほど肝の据わった者か
しか、話しかけてこないはず。
俺の右斜めに座るアディリーゼは、なんだかそわそわと落ち着か
ない。手をしきりに組み替えたり、ちらちらと視線をあちこちに送
ったり。
まさか、自分に見合う相手がいないか、物色している⋮⋮とか?
⋮⋮⋮⋮間違っても、俺と一緒なのが嫌でたまらない、ってわけ
じゃないよな?
﹁どうした、アディリーゼ。⋮⋮もし、誰か話したい相手がいるな
ら、俺のことは気にせず、その相手のところに行ってもいいんだぞ
?﹂
マナー的にも、性格的にも、アディリーゼは自分から相手に話し
184
かけることはできまい。
だが彼女はデヴィル族では相当の美人らしい。話したい対象に近
づけば、きっと相手から声をかけてきてくれるだろう。
しかし、アディリーゼは俺の言葉にびっくりしたようだった。
﹁え⋮⋮﹂
とまどいの色を瞳に浮かべて、俺をじっと見てくる。
﹁君だって年頃だ。今日ほどデヴィル族の男性が多く集まることは、
そうあることじゃない。いい機会だと思うなら、積極的に動いてい
いんだよ﹂
俺は心からそういったのだが、気弱なアディリーゼが簡単に首肯
するわけはなかった。
﹁そんな⋮⋮﹂
彼女は俺の言葉にはにかんだように頬を赤らめ、うつむいてしま
う。
﹁あ、いや⋮⋮いきなり自分から話しかけるのは、無理だよな。う
ん﹂
やっぱり無理か。
それにたとえ彼女が誰かを捜しているとしても、それは不特定の
者などではないだろう。
﹁気になる相手がいるなら、俺が声をかけて、ここに連れてきても
いいが﹂
そう、たとえば。
﹁それとも、誰か⋮⋮特定の相手を捜している、とか?﹂
ずるい聞き方をしたと自覚している。
アディリーゼは顔を真っ赤にして、またうつむいてしまった。
しまった。さすがにいらん世話だったか⋮⋮。
フェオレスがどこかにいないものかと、視線をめぐらせる。
185
だが、俺の視界をさえぎったのは、猫顔の副司令官ではなく、蛙
顔の男女だった。
そう、このお誕生日会の主役⋮⋮サディオスとサディオナ、双身
一躯の双子だ。
サディオスは俺と目が合うと、サディオナに囁きかけ、蛇身をく
ねらせやってきた。
﹁ジャーイル大公閣下。こちらにおいででしたか﹂
﹁ああ、サディオス、サディオナ﹂
この子たちを呼ぶときもまた、順番を組み替えたりしないといけ
ないのかな。双子サディとかじゃ駄目なのかな。
俺とアディリーゼは立ち上がって、大公の子供たちを迎える。
﹁さきほどのベイルフォウス閣下との剣舞は、見事でございました。
僕はもう、興奮してしまって⋮⋮もっとも、ほとんどお二人の剣捌
きを目では追えなくて⋮⋮。それでも最後まで見ていたかったので
すが、サディオナが⋮⋮﹂
﹁あら、だって、いつまでも終わりそうになくて、退屈だったので
すもの。だいたい、見切れないものを見て、何が楽しいのか私には
わかりかねますわ﹂
蛙児くんはどうやら戦いの観覧を好むようだが、蛙娘ちゃんはそ
うでもないらしい。こういうふうに、二人で意見が違ったときは、
蛙児くんが押し負けるのだろうか。
﹁それより、閣下。ぜひ、私たちにそちらの美しいお嬢様をご紹介
くださいな! サディオスだって、なんだかんだと理由をつけてお
きながら、その実、お嬢様が目当てで話しかけたのでしょ! 男と
いうのはこれだから﹂
﹁そりゃあ、きれいなお嬢さんを嫌いな男なんていないと思うけど、
それにしたって妹よ、君のデリカシーのなさにはビックリだ。そう
いう君だって、さっきは美男の伯爵に情けなくも首っ丈だったじゃ
186
ないか﹂
どちらも相手のことを少し小馬鹿にしたような口振りだ。だが、
お互いを見る目には、愛情とユーモアが溢れている。
雰囲気がどこか母親に似ている⋮⋮かな。
﹁こちらはアディリーゼ。我が<断末魔轟き怨嗟満つる城>でお預
かりしている、ご令嬢だ。アディリーゼ、お二人にご挨拶を﹂
大丈夫かな。アディリーゼ、人見知り激しそうだけど、挨拶でき
るかな。
﹁あ⋮⋮あの⋮⋮﹂
アディリーゼはうつむきながら、手をもじもじと組み替えた。
﹁ジャーイル閣下のご紹介にあずかりました、アディリーゼと申し
ます⋮⋮サディオス様と、サディオナ様のお誕生日を、心からお祝
い申し上げます。⋮⋮その⋮⋮﹂
﹁まあ、なんてつつましくもかわいらしいお方!﹂
サディオナがサディオスを先導するようにアディリーゼに歩み⋮
⋮⋮⋮這い寄り、上体を落としてアディリーゼの両手を握りしめた。
﹁マストヴォーゼ閣下のお嬢様とお聞きしましたわ! 大公の娘と
して育ったもの同士、ぜひ、お友達になっていただきたいわ! 実
際のところ﹂
サディオナは俺たちだけに聞こえるような小声でささやく。
﹁私、別に今日は伴侶を求めてなんていないんですのよ。どちらか
といえば、お友達がほしいの。だって、今まではサーリスヴォルフ
様の子供たちくらいしか、同年代のお話相手がいなかったのだもの。
それも、サーリスヴォルフ様の子供は、基本的には自分の母や父ご
とに別館に別れて暮らしているから、時々しか会えないの﹂
この子たち、母親を名前に敬称付けで呼ぶのか。それに異母兄弟
のことは兄妹とみなしていないかのような口振りだな。
まあサーリスヴォルフの呼び方については、ある子は﹁母﹂と呼
187
び、ある子は﹁父﹂と呼ぶのでは、ややこしそうだもんな。
と、いうか⋮⋮子供何人いるんだ、サーリスヴォルフ。
﹁ねえ、ジャーイル閣下。よろしいでしょうか? 私、お嬢様とい
ろいろ女の子同士のお話しがしたいわ。少し、お借りしても?﹂
⋮⋮オジサンは邪魔ってことですか。そうですか。
っていうか、女の子同士といったって、君にはずっとお兄さんだ
か弟さんだかがついていると思うのですが、それはよろしいのでし
ょうか。女の子だけのお話し合いにはならないと思うのですが、よ
ろしいのでしょうか。
それはともかく、アディリーゼが少しでも嫌そうだったら、断っ
てあげよう。
そう思って彼女に視線をうつすと、意外にも長女はこくりと頷い
た。
﹁あの⋮⋮私も、妹たちしか普段はお話ができなくて⋮⋮﹂
えっと、うちのマーミルは⋮⋮ああ、子供すぎて同年代には数え
られないからですね。
﹁お⋮⋮お友達は、欲しいと⋮⋮常々⋮⋮﹂
ちらり、と、俺を見てくる。
まあ、本人がそう望むのなら、それでもいいか⋮⋮。いくらなん
でも、主催者の誘いを保護者面しただけの他人の俺が、一方的に断
る理由もないしな⋮⋮スメルスフォにも、構わなくていいとはいわ
れていたことだし⋮⋮。
俺はそれでも周囲を見回し、自分の配下の位置を確認する。
よし、なんとなく気にしてもらうように、言っておこう。
﹁わかった。じゃあ、俺はちょっと席を外す。少ししたらまた様子
を見に来るから、それまでごゆっくり﹂
188
そうして俺はその部屋に数人いた配下に、アディリーゼの様子に
気を配ってくれるよう伝えてその部屋を出た。
﹁閣下!﹂
﹁フェオレス﹂
副司令官が、廊下を軽やかにかけてくる。
﹁アディリーゼ嬢が、閣下といらっしゃるとお伺いしたのですが⋮
⋮﹂
あ、うん。
俺じゃなく、アディリーゼを探しているのか。
﹁ああ、今、談話室でサディオナと話をしているよ。お互い、お友
達になりたいといって﹂
﹁ありがとうございます﹂
フェオレスは俺の言葉が終わらないうちに、颯爽とかけ去ってい
った。
なんていうか、少し焦った感じで珍しい。あれかな、やっぱりフ
ェオレス⋮⋮。
いかんな、ついつい邪推してしまって。
さて、俺も誰か話し相手を探そう。
ウィストベルをダンスに誘うか、魔王様と話すか、ベイルフォウ
ス⋮⋮は、きっと今頃個室だろうから⋮⋮ティムレ伯と遊ぶか⋮⋮。
とにかく、誰か探そう。
ぼっちには慣れているが、なんというか⋮⋮このがっついたデヴ
ィル族だらけの中で、一人でいるのはちょっと辛いのだった。
そうして俺は、ティムレ伯爵を見つけだし、彼女と気安い会話に
興じることにした。
この機会に相手を探さなくていいのかと聞いてはみたのだが、今
はまだその気にならない、と返ってきたので、邪魔者にはならずに
189
すみそうだ。
このところ、話しかけてもどこかそっけなかったティムレ伯だっ
たが、今日は昔のようにノリノリで相手をしてくれる。ちょっとう
れしい。
﹁今日は怖い目がないからね!﹂
意味が分からないのでつっこんだら、言葉を濁して教えてはくれ
なかったが。
とにかく俺はティムレ伯爵と、なごみつつ砕けた話をしていたの
だった。
そしてその時、その騒ぎは突然もちあがったのだ。
﹁サディオスとどこかの公爵が、中庭でにらみ合っている﹂
ざわめく一団が、こぞって舞踏室をかけ出て行く。
中庭って⋮⋮あの、俺とベイルフォウスが対峙したところか。
﹁喧嘩かなぁ!﹂
ティムレ伯爵が目をきらきらと輝かせた。
﹁いや、今日の主役に喧嘩を売るバカはいないでしょう。さっき、
サディオスは俺とベイルフォウスの仕合に関心を示していたから、
自分もやってみようと思ったんじゃないですか?﹂
しかし、相手が公爵レベルって⋮⋮あの蛙児ちゃんは、そこまで
の腕はないと思うのだが。大丈夫なのだろうか。
﹁相手は、猫顔の公爵だそうだ!﹂
﹁ああ、昨日、ジャーイル閣下の目録を読み上げていた、あの﹂
ぶっ!
俺は飲んでいた飲み物を吹き出した。
﹁は!? フェオレス!?﹂
﹁おお、猫公爵か!﹂
190
ティムレ伯爵は、その情報を聞いてもなお、楽しそうだ。
﹁見に行こうぜ、ジャーイル君!﹂
俺の腕をぐいぐいと引っ張ってくる。
いや、見に行こうっていうか、もちろん見に行かざるを得ないと
いうか!
俺とティムレ伯爵は、中庭に駆けていった。
191
19.決闘なんて、穏やかじゃないですね!
さっき俺とベイルフォウスが向かい合っていたその場所に、今は
サディオス・サディオナとフェオレスが対峙している。
それも、いやに殺気だって⋮⋮。
フェオレスは、アディリーゼを探しに行ったはず。アディリーゼ
はサディオナと話していたはず。
フェオレスがかけつけた談話室で、何があったというのだろうか。
﹁おお、これはあれか! 一人の女を巡って、二人の男が戦うとい
う! 熱い構図だね!!﹂
ティムレ伯は呑気だ。
ん?
﹁一人の女を巡って⋮⋮?﹂
﹁アディリーゼちゃんを巡った戦いだろ﹂
﹁⋮⋮えっと⋮⋮つまり?﹂
俺は周囲を見回した。
﹁アディリーゼちゃんはあれだけの美人だもん。そりゃあ、もてて
当然。恋人としては、嫉妬しちゃうのもわかるだろ、ってこと﹂
恋人⋮⋮。
﹁恋人って⋮⋮フェオレスが? アディリーゼの?﹂
いや、疑ってはいた。いたが⋮⋮。
﹁さっき猫公爵がそう言ってた! アディリーゼちゃんは、自分の
恋人だって! 私は正直、あの子は君の想い人かと邪推してたんだ
けど﹂
君の想い人⋮⋮って、俺のことか! なんでそう思ったんだ、テ
ィムレ伯。勘違いなんてレベルじゃないぞ!
192
それにしても、俺が気になっていたことを、あっさりと本人から
聞き出すとは⋮⋮いろんな意味で恐るべし、ティムレ伯爵。
対岸の人だかりにアディリーゼを見つけた。胸の前でぎゅっと両
手を握りあわせ、不安な面もちで、対峙する双方に目を向けている。
俺は、ティムレ伯と彼女の元へ駆けつけた。
﹁アディリーゼ! これはどうしたんだ、いったい⋮⋮﹂
﹁ジャーイル閣下⋮⋮﹂
見上げる雌牛の瞳からは、今にも涙があふれそうだ。
﹁止めてください! 今すぐ、二人を⋮⋮﹂
震える手で、俺の胸元を掴んでくる。
﹁わかった。とりあえず、そうしよう﹂
だが、二人の間に入ろうとした俺の肩を、引き留めた手があった。
﹁このまま、見ていてやってくれないかな、ジャーイル﹂
﹁サーリスヴォルフ!﹂
誰あろう、双子の母親だ。
﹁しかし、どう考えてもこの勝負⋮⋮フェオレスは公爵だ。一方、
君の子たちは男爵位を得るのが精一杯の実力。これでは⋮⋮﹂
﹁そう、男爵位、ね⋮⋮﹂
サーリスヴォルフの瞳がキラリと光った気がする。
﹁いいんだよ、あの子たちは強引なところがあってね⋮⋮今までだ
って、弱い者に随分ひどい仕打ちをしてきたんだ。成人したことだ
し、自分たちより強い者がたくさんいて、いつでも我が侭が通るわ
けではないということを知るにはいい機会さ。どうせ、そっちのお
嬢さんに強引に迫ったあげくの顛末だろうからね﹂
アディリーゼを見ると、否定するでもなく、気まずそうにうつむ
いてしまった。
193
俺に話しかけてきた双子は、随分ほがらかで、快活な印象だった
のだが。
﹁そうなのか、アディリーゼ﹂
﹁あの⋮⋮は、はい⋮⋮⋮⋮その、サディオナ様が⋮⋮﹂
大きな牛目から、ついに涙の粒がこぼれる。
﹁あの子は女好きだからね! お嬢さんの身体をまさぐりでもした
かな? ごめんね﹂
口では謝りながらも、サーリスヴォルフに悪びれた風はない。
﹁それをちょうどやってきたフェオレスが目撃して、この騒ぎとい
うわけか⋮⋮﹂
まあ、それなら母親もこう言っていることだし、ちょっと痛い目
に合っても自業自得かな。
しかし⋮⋮手を出したのは娘のほうかよ⋮⋮。まさか、逆に息子
は男が好きとかいわないよな?
⋮⋮聞かないでおこう。
しかし、ということは、むしろ今の構図は、サディオナ対フェオ
レスってことなのか?
﹁私はただ、女性同士、お付き合いを深めたいと思っただけなのに。
いやあね、男ったら邪推ばかりして!﹂
サディオナが、挑発的な笑いを浮かべる。
それに対し、珍しくフェオレスが声を荒げた。
﹁相手がいやがっていることを無理に押し通して、なにが付き合い
を深めたい、だ! 今までいったいどれだけ、その調子でやってき
たのだか知らないが、私の大事な人に手を出したことは、許し難い﹂
おお、こんな大勢の前でそんな宣言を!
すごいな、男前だな、フェオレス!
194
﹁サーリスヴォルフ大公閣下﹂
感心していたら、フェオレスがこっちを向いた。
﹁申し訳ございません。ご子息・ご令嬢に対する無礼は重々承知の
上ですが、これをなかったことと収めることはできません。許容で
きないとお考えならば、どうぞ手をお出しになって、私をお討ちく
ださい﹂
サーリスヴォルフの怒りを受けても、引くつもりはないのか。フ
ェオレス、よっぽどだな。
﹁構わないわ。ただ、殺さないでやってくれると助かるけど﹂
﹁サーリスヴォルフ様!﹂
サディオナが、責めるように母親を呼ぶ。
その様子からして、母は子に絶対服従を強いているというわけで
はないようだ。
﹁ジャーイル大公閣下。お許しを﹂
フェオレスは、俺にはただそれだけを告げ、黙礼して双身一躯の
双子に向き直った。
まあ⋮⋮許すも許さないも、仕方ないよな。
﹁公爵だから、なんだというの! ちょうどいいから私たちで倒し
てしまって、その公爵位をいただきましょうよ! ねえ、サディオ
ス!﹂
﹁そうだね、サディオナ! そして、あのかわいらしいお嬢さんも
一緒にね!﹂
双子は狂気じみた笑みを交わしあい、頬をすりあわせた。
その言葉はフェオレスの神経を刺激したのだろう。
彼は音もなく地を蹴り、素早く腰のサーベルを抜き取って襲いか
かる。
195
だが双子は長い蛇体でそれを受け止めた。
素早い。反応速度はいいようだ。
﹁あら! 剣なんて、私たちの鱗を切ることもできませんわ!﹂
サディオナが甲高い声をあげる。
﹁それに!﹂
フェオレスの刃を弾いた蛇の尾は、そのまま猫の首を標的として
鞭のように伸びる。
﹁フェオレス様!﹂
アディリーゼの叫びが中庭にとどろく。
だが、紙一重でフェオレスはそのしなやかな攻撃をかわした。
﹁ところで、君の同行者⋮⋮﹂
子供たちの心配はどこへやら、サーリスヴォルフは呑気な声で俺
に話しかけてくる。
﹁犬の彼女、かわいいね。君のところの軍団長だって? 紹介して
くれない?﹂
おい⋮⋮まさか目の前の戦いを無視して、ティムレ伯爵をナンパ?
母親がいいのか、それで。
﹁え⋮⋮サーリスヴォルフ閣下って、ブス専なの?﹂
いや、ティムレ伯爵⋮⋮その反応もどうなのだろう。
俺から見ると、ほぼ犬の伯爵は十分かわいいのだが。
﹁ねえ、後で二人きりでお話するってのはどうかな?﹂
もはや俺をスルーして、直接ティムレ伯に話しかけるサーリスヴ
ォルフ。
がっつきすぎだろ、サーリスヴォルフ!
子供たちを見守ってなくていいのか、サーリスヴォルフ!
﹁なにもこんな時に⋮⋮﹂
196
﹁こんな時でもないと、他の領地の子と知り合う機会はないからね﹂
ウインクとか⋮⋮。
いや、俺がいったこんな時ってのは、決してお誕生会全体を通し
てのことではなく、今、この瞬間のことなのですが。
﹁いやいやいや。大変光栄ですが、正直、大公閣下とか⋮⋮怖いで
す。遠慮します!﹂
ティムレ伯⋮⋮全然怖がっているように、見えませんが。
﹁怖くないよ、優しくするよ?﹂
﹁怖いです﹂
なんだこれ。なんの状況だ、これ。
なんで間に立ってる俺を無視して、仲良く二人で話しあってるん
だ。
﹁ほう、面白いことをしておるの﹂
ところが俺はそんな呑気な感想を抱いている場合ではなかったよ
うだ。
サーリスヴォルフとティムレ、二人の間から、後ろに腕をぐいっ
と引かれてしまったのだ。
﹁一人の少女を求めて、争いがおこる⋮⋮のう、ジャーイル。お主
も我をめぐって、ルデルフォウスと戦ってよいのじゃぞ?﹂
俺の腕に絡みつくように、自分の細腕を回してきたのは、魔族の
女王様だ。
﹁いや、俺、死にます⋮⋮確実に殺されます⋮⋮﹂
魔王様となんて、戦えるはずがない。だいたい、ウィストベルを
間に挟んでなんていったら、本気で俺のことを殺しにくるに決まっ
ている。
﹁殺されぬよう、強くなればよいではないか。できるであろう? 主なら﹂
197
わあい! ウィストベルの俺に対する評価は絶大だ!!
うれしいな、うれ⋮⋮しいな⋮⋮。
﹁不穏なことを言わないでください﹂
こんなこと、魔王様に聞かれたら⋮⋮。
やばい、敵対しなくても殺される。
﹁陛下はどちらに?﹂
﹁弟と同じじゃ﹂
え! 魔王様まで、デヴィルでもデーモンでもいいとか、そうい
う⋮⋮。
﹁配下のお気に入りの娘と、部屋にこもっておる﹂
ああ⋮⋮自分の城から愛妾を連れてきてたのか⋮⋮って、魔王様
! それでいいんですか?
﹁さて、そうなると、我の相手は誰がしてくれるのかの?﹂
⋮⋮⋮⋮。
やばい。やばいぞ⋮⋮。
﹁この決闘は、俺の部下が⋮⋮﹂
﹁終わってからでよい﹂
﹁でも、アディリーゼは俺の庇護者で⋮⋮﹂
﹁おお、妹がやってきたようじゃぞ? 娘たちはほんとうにマスト
ヴォーゼにそっくりじゃの。それに、今戦っているのが、その娘の
愛人なのであろ? 主がいつまでもおっては、むしろ邪魔じゃろう﹂
﹁⋮⋮ティ⋮⋮ティムレ伯と⋮⋮﹂
﹁犬娘なら、サーリスヴォルフと会話を楽しんでおる﹂
⋮⋮⋮⋮俺の退路はどこだ。
﹁なぜそう拒む。我はなにも、夫として我に仕えよ、などと申して
198
おりはせぬぞ。主が昨日連れ込んだという小娘を、正妻に迎えたと
ころで、文句一ついわぬ。ただ、我とも楽しくやろうと言っておる
だけじゃ﹂
いやいやいや。
なぜ拒むっていわれてもね、その倫理観がもう、俺とは全く違う
わけで⋮⋮。
﹁俺はこれでも、女性には男として誠実でありたいと思っているん
です﹂
﹁相手にする女は一人でよいと⋮⋮そういうのか?﹂
﹁まあ、そうです⋮⋮﹂
ウィストベルの眉がつり上がる。
﹁では、覚悟をきめて我一人に決めればよいではないか﹂
﹁でも、ウィストベルは俺一人に決められないでしょ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
あ、沈黙した。
できないんだ。正直だな。
﹁理解できぬ﹂
﹁すみません﹂
﹁⋮⋮まあ、よい。今はそんなことを言っていても、先は長いのじ
ゃ⋮⋮考えというものは、変わるもの﹂
余裕を見せてそう婉然とほほえまれると、そりゃあ俺だって男だ
からグッとこないわけではないが。
﹁面倒な男じゃ。が、そこがいい﹂
どうやら俺は、許されたようだ。
俺がなんやかんやしている間に、フェオレスと双子たちの戦いに
決着がついたようだった。
199
当然というか、フェオレスの完勝という形で。
フェオレスは悠然と元の場所にたち、双子は地にその巨躯を横た
えていた。
途中からは魔術も使われたようだ。
剣の通じなかった双子たちの丈夫な蛇体のあちこちに負傷が認め
られ、どちらも意識を失ったようにぐったりとなっている。
フェオレスはサーベルを腰の鞘におさめると、優雅な足取りで俺
たちのほうへやってきた。
﹁我が君、サーリスヴォルフ閣下、並びに大公閣下方﹂
彼は右手を拳にすると、片膝を折って俺たちの前にひざまづいた。
﹁お見苦しい戦いを、お見せいたしました。また、サーリスヴォル
フ閣下には、お子さま方を苦しめたこと、深くお詫びいたします﹂
﹁なんの、なんの。生かしておいてくれたんだ。感謝するよ﹂
サーリスヴォルフ、意外に容赦ないな。
弱い子供は守るもの、ではなかったのか。
それでも成人したとたんに、放り出すということなのか。
﹁サーリスヴォルフ。配下の行動は、俺の責任。責めをおう必要が
あるなら、俺が負おう﹂
﹁我が君、それは⋮⋮﹂
フェオレスが顔をあげる。
最初から俺は、戦いが終わった後はそう提案するつもりだったん
だ。
﹁先にいったろ。彼の行為に問題はない。むしろ、よい余興をあり
がとうと、拍手を与えたいくらいさ﹂
サーリスヴォルフはぱちぱちと手を叩いて見せた。
﹁ただ⋮⋮主役がこの調子だと﹂
彼女は自分の子らに、歩み寄る。
200
﹁ヘイルプン﹂
サーリスヴォルフの声がけに、観衆の中から一人の男性魔族が進
み出る。
それは、昨日、壇上でサーリスヴォルフの隣を占めていた、その
男性魔族に違いない。つまりは双子の父親だろう。
﹁はい、閣下⋮⋮﹂
姿勢正しくサーリスヴォルフのそばまでやってきたヘイルプンの
表情は、青ざめている。その蛙の双眸には激しい怒りの炎が宿り、
手はわなわなと震えていた。そしてその目は、フェオレスを射抜い
て離さない。
父親としては当然の反応だろう。
﹁この子たちを自分の部屋へ⋮⋮会はお開きにするよ。もちろん、
異論はないね?﹂
﹁はい、仰せのままに⋮⋮﹂
サーリスヴォルフは満足げに頷くと、ヘイルプンの頬をいとおし
げに撫でて俺たちのもとへやってきた。
﹁悪いが、そういうことにさせてもらうよ。ただ、もちろんまだ愉
しみたい⋮⋮というのなら、好きに使ってくれてもかまわない。ま
あ、ごゆっくり﹂
サーリスヴォルフは軽く手を振ると、夫や子供たちの後を追って
行ってしまった。
まあ確かに、主役がいないのに、他の者たちで騒いでも仕方ない。
閉会は妥当だろう。
﹁申し訳ありません、ジャーイル閣下。お二人の間にいらぬ軋轢が
うまれねばよいのですが⋮⋮﹂
﹁まあ、大丈夫だろう。そうなるなら、サーリスヴォルフだってそ
もそも止めているだろうし﹂
201
戦いを止めようとした俺を、サーリスヴォルフが制止したのだか
ら。
﹁それに、万が一、そうなってもそれはその時だ﹂
争いはしないにこしたことはないが、それでも致し方ないときは
ある。
そして、致し方ないときには、俺は手を抜かない方針だ。
﹁まあ、今はアディリーゼを頼むよ。俺がなぐさめるより、君がそ
ばにいた方がいいだろう﹂
さっきからずっと、アディリーゼはシーナリーゼに抱きかかえら
れて、こちらを見つめている。いや、こちらっていうか、フェオレ
スをか。
﹁ご配慮、痛み入ります﹂
フェオレスは優雅に腰をおる。
﹁あ、だが⋮⋮そのうちでいいから、その⋮⋮どうするつもりなの
か、聞かせてくれたら助かる⋮⋮﹂
いや、結婚するつもりとか、今はまだつきあっているだけとか⋮
⋮ほら、結婚式するなら、俺が父親の代わりとしていろいろ手配し
てやらないといけないだろうから。
﹁はい、いずれ、ご報告にあがります﹂
フェオレスは今度は黙礼すると、アディリーゼを目指していった。
﹁さて、では帰るかの⋮⋮主もうんとは言わぬし。であれば、長居
する必要はない﹂
つまらなそうに、ウィストベルがつぶやく。
﹁ウィストベル、よければ一曲だけ、つきあっていただけませんか
?﹂
俺は彼女に手を差し出した。
﹁サーリスヴォルフも好きにしていいといってくれたことだし⋮⋮
もし、お嫌でなければ、姫君。今宵最初の栄誉を﹂
202
ウィストベルは俺の手を握ると、見ほれるような笑顔で頷いた。
﹁もちろんじゃ、若君。一曲といわず、何曲でも付き合おうぞ﹂
そうして俺とウィストベルは、ダンスホールに戻ってしばらくダ
ンスを楽しんだのだった。
203
間話2 魔王様と忠臣
﹁ほんとに⋮⋮あの時、魔王様がきてくれて、助かりましたよ﹂
⋮⋮⋮⋮。
﹁でなければ、俺はウィストベルを拒めたかどうか⋮⋮﹂
そういって、ジャーイルの奴は両肩を抱きしめ、青い顔で震えた。
説明せずともわかるであろう。
今日もまた、こいつは私の執務室に入り込んできて、<魔犬群れ
なす城>での一件をうだうだと語っているのだ。
﹁ウィストベルの何に不満があるというのだ、このボンクラが!﹂
いや、違う。違うぞ、こんなことを言いたいのではない。
こいつがウィストベルを拒むのは、喜ぶべきことではないか!
頭ではそうわかっているのだが、否定されると彼女に魅力がない
と言われたようで、ムカつく。
﹁不満っていうか⋮⋮だって、怖いですもん。陛下はよく平気です
よね? 怖くないんですか?﹂
ウィストベルが私より強いとはっきり知っているのは、実はこい
つだけだ。弟でさえ知らないことであるのに、なぜかこいつは初対
面の時にその事実を看破したようなのだ。
ああ、おそらくそれも、こいつのその目のせいだろう。
彼女と同じ、赤金に輝く双眸の⋮⋮。
ウィストベルに確かめたこともなければ、こいつを問いつめたこ
ともない。だが、彼女が異様な執着を見せるその目には、他者の魔
力を判別する、なんらかの能力があるにちがいない。
204
﹁⋮⋮え? なんです? じっと見て⋮⋮ちょ⋮⋮俺、その気はあ
りませんからねっ!﹂
心底ぞっとしたような顔で見るな、失礼な男だ!
私にだって、その気はない!
﹁だいたい、陛下⋮⋮なんだかんだいいつつ、自分は別の美女とお
楽しみだったらしいじゃないですか。いいんですか? ウィストベ
ルを放っておいて、そんなこと⋮⋮﹂
﹁予とウィストベルは、お互い自分の欲望を抑えて、相手を束縛す
るような付き合いはしておらぬ。欲望には忠実であれ⋮⋮魔族であ
れば、当然の考え方であろう﹂
まあ、束縛はせぬといっても、お前を相手に選ぶのを黙って見て
いるつもりは毛頭ないがな!
ほかの者なら許しても、お前だけは駄目だ、絶対!!
﹁そもそも、よその祝い事の最中に、休憩室で短時間休むくらいな
らいざしらず、自分の部屋に愛妾を連れて戻らなかった男に、そん
なことを言われる覚えはないというものだ﹂
﹁愛妾? 何言ってるんですか。え? それ、俺のことですか?﹂
﹁お前が式典の初日に、自分の副司令官を客室まで強引に連れ込ん
で、数時間部屋から帰らなかったことを、知らぬ者はいないのだか
らな﹂
そうとも。初日には不参加であった私でさえ、そのことは聞き及
んでいるのだ。
私がそういうと、ジャーイルは頭を抱え込んだ。
﹁くそっ⋮⋮誰だ、ほんとに⋮⋮﹂
ぷるぷると震えながら、ぶつぶつ言っている。
﹁魔王様!﹂
205
﹁何だ?﹂
珍しく、私に向けられた目が、怒りをはらんでいる。
﹁それ、誰に聞きました?﹂
﹁誰⋮⋮とまで、覚えていない。誰からともなく、聞こえてきたか
らな﹂
﹁違いますからね! 俺はそんなこと、してませんからね!!﹂
知るか。どうでもいいわ、そんなこと。
﹁あ、そうだ! 念のため、聞きますけど⋮⋮魔王様って、子供と
かいます?﹂
﹁おらん﹂
﹁隠し子も?﹂
隠し子もってなんだ!
﹁今、子供はいないと言っただろう!﹂
こいつの質問は、私にはその意図を推測するのも困難なものばか
りだ。
なにを思って、そんな疑問を抱くのだろうか。
まさか、子供ができない方法を知りたい、とかか?
まあ、それなら多少、相談にのれないことも⋮⋮。
﹁いや、この間ね、サーリスヴォルフから、大公は意外に子持ちが
多いことを聞かされたんですよ。それで、もしかして魔王様も⋮⋮
と思って﹂
私は大公ではなく、魔王なのだが?
﹁それは<デヴィル族の大公>のことだろう。多産の彼らに子供が
数人いたところで、なにも不思議なことはあるまい。一方で我々、
デーモン族は、デヴィル族に比べれば圧倒的に子供ができにくいと
きている﹂
﹁ああ、それをいいことに、魔王様もベイルフォウスも、遊びまく
206
っているわけですね﹂
ちょっと待て。
こいつ、殴っていいか?
いくらなんでも、魔王を相手にその口の利き方はないのではない
だろうか?
魔王というのは、魔族の王だよな?
私の認識が、間違っているのではないよな?
こいつには己が主に対する畏敬の念が、足りないのではないのだ
ろうか?
よし、次、何か無礼なことをいったらやってやろう。
粉砕してやろう。木っ端みじんに!
﹁弟はともかく⋮⋮予は遊びまくってなど、おらん﹂
特定の相手と特定の期間、付き合っているだけだというのに。
﹁俺は最近、妹の教育に、頭を悩ませているわけですよ⋮⋮いった
いどこまで教えて、どこまで自分で体験させればいいものか⋮⋮﹂
いや、人の話も聞けよ。
だいたい、ここは魔王城であって、教育相談所ではないのだが。
私とて、何でも相談員ではないのだが。
﹁魔王様とベイルフォウスって、そこそこ年が離れてるんでしょ?﹂
﹁お前のところほどではない。たかだか、五、六十ほどだ。魔族の
中では、むしろ近い方だといっていい﹂
﹁でも、魔王様がいろいろ教えたんでしょ? この間も、飛竜の乗
り方を教えたって﹂
﹁まあ、それくらいはな﹂
﹁靴下も履かせてやってたし? まさか、パンツまで履き替えさせ
207
てやってた訳じゃないですよね!?﹂
⋮⋮よし、いっとくか。
私はジャーイルを窓の外に蹴り出した。
***
﹁魔王様⋮⋮ひ ど い ーーーーー!﹂
俺は落下しながら、大声で叫んだ。
執務室は三階にあるのに、そこから外に向かって蹴り出すだなん
て、いくらなんでもひどすぎる。
木と下生えがクッションになってくれたからよかったものの、そ
うでなければ怪我の一つくらいはしていただろう。
俺になんの失態があったというのだろうか。
ほんと、何がきっかけで怒り出すんだか、わかったもんじゃない。
なんだろう⋮⋮⋮⋮情緒不安定?
まあ、魔王様も難しいお年頃なのだろう。しばらくそっとしてお
いてあげよう。
俺は立ち上がると、軽く手で汚れをはたいた。
まだまだ相談したかったことがあるんだが、仕方ない。さすがに
追い出された場所を、もう一度訪ねて行く図々しさはそなわってな
いからな。
残念だが、自分の城に帰るか⋮⋮。
﹁誰かと思えば、ジャーイル大公ではないか﹂
背後から、地を震わすような低い声が響く。
﹁これは⋮⋮プート大公﹂
208
なんどか魔王様のもとに通っているが、こうしてほかの大公に出
会ったのは、ウィストベルをのぞけば初めてだ。
いつものごとくプートは黒の重厚なマントを羽織り、ゴリラの立
派な大胸筋を強調したピッチリの服を着込み、獅子の顔に厳格さを
にじませて、ごつい体躯の側近を四人ばかり従えている。これぞ大
公、といった感じで一分の隙もない。
﹁そなたが魔王城へ足繁く通っているとは噂に聞いておったが、ど
うやらまことであったようだな。しかし⋮⋮﹂
プートは執務室の窓を見上げた。
﹁おかしなところから、登場するものだ﹂
いや、俺だって、別に好きであんなところから現れたわけでは⋮
⋮。
﹁そなたの為を思って忠告しておくが、魔王城を訪ねるのであれば、
もう少し装いに気をつけてはどうかな? ルデルフォウス陛下はそ
なたの友人ではないのだ﹂
いや、これでも俺はそれなりに盛装はしているつもりですが。髪
だってなでつけてますし。
もしや、白なのがお気に召しませんか? そうでしょうね、正装
といえば、黒だと思ってそうですもんね。
っていうか、そんな胸元バーンとはだけた人に言われたくないん
ですが。
マント羽織ってればいいんですか?
意見の相違が甚だしいと思います。
﹁はあ、御忠告どうも。それではこれで﹂
﹁まあ、そう邪険にするな。こうして偶然顔を合わせたのだ⋮⋮た
まにはゆっくり話でもしようではないか﹂
おや、意外だ。
209
むしろデーモン族を嫌い、邪険な対応をしてくるのは、プートの
方だと思っていたのだが。
俺と話がしたいって? 本当に?
﹁所用あって、魔王城にやって来たのでは?﹂
プートも魔王様に個人的な相談事かな。
彼がデーモン嫌いのデヴィルの筆頭だというのは、ベイルフォウ
スの言葉だ。が、俺が見る限りでは、魔王様にはいつも一定の敬意
を払っているように見える。
﹁ルデルフォウス陛下は執務中と聞いた。私が参内していることは
御存じのはずだから、お呼びがかかるまでは待機していよう﹂
え⋮⋮。
あ、そうなの?
執務中って、執務室にずかずか入っていったら駄目なの?
でも、魔王様、いつも何も言わないけど⋮⋮。
舌打ちして睨んでくるだけで、出てけとは言わないんだけど⋮⋮。
だからてっきりかまわないもんだと⋮⋮え? 家臣とか、呼びに
くるの?
そんな制度、いつからあるんですか?
最初から?
というわけで、俺とプートは今、執務室の窓下からそう離れてい
ない四阿で、プートとお茶している。
自分で了承したものの、なんかものすごい違和感。
どちらの前にも湯気をたてた紅茶が同じように置かれてあるが、
背後の景色は大きく違う。
プートの後ろにはいかつい筋肉魔族が四人も並んで威圧感を放っ
ているが、俺の後ろはなごやかな緑の垣根が見えるだけだ。
210
ちょっと寂しい。
それはともかく、こうして差し向かいで話し合うことなんて⋮⋮
話題にさっそく困っている。
なにかいい話はないものかと、紅茶をふーふーしながら考えてい
ると、プートの方から口を開いてきた。
﹁さて、私が今日、この魔王城へやってきた件なのだが、実はそな
たにも全くの無関係という訳でもないのだ。今後は、そなたの協力
も請うことになるだろう﹂
誘ってきたのはプートなのだから、そうか。振りたい話題はあっ
ちにあるのか。
﹁と、いうと?﹂
﹁実はルデルフォウス陛下が魔王に即位なされて、そろそろ三百年
がたとうとしているのだ﹂
ああ、そういえばそんな話、誰かとしたなぁ。
しかし、まだ越えていなかったのか。
﹁若いそなたは知らぬであろうが、魔王の在位が三百年を数えた時
には、盛大に祝うのが慣例でな﹂
歴代魔王の在位が意外と短命なのは、知っている。たいてい、百
年を越えたあたりで、大公の誰かが魔王を斃してその座を奪うそう
だ。
先代の魔王の在位は千年を数えたが、それも五千年ぶりの快挙な
のだとかなんだとかいうのを聞いたことがある。
もっとも、今の状況のままなら、ルデルフォウス陛下の在位は、
それを遙かに超えるかもしれない。俺の知る限りの現状では、どう
努力をしても魔王様にかないそうなものなど︱︱当然、ウィストベ
211
ルをのぞいては︱︱一人もいないからだ。
﹁だが、私の他にこのようなことを気にする者は、おらぬとみえて
な⋮⋮当の魔王陛下でさえ、失念しておいでの御様子。それで、今
回、ぜひ私にルデルフォウス陛下在位三百年祭の音頭をとらせてい
ただけないかと、お伺いするつもりで参ったのだ。このタイミング
でそなたに出会ったのも何かの縁⋮⋮我が補佐として、陛下のため
に尽くす気にはならぬか?﹂
プートの補佐、か。けどまあ、俺だって魔王様を祝いたい気持ち
は強い。そのために役にたてることがあるのなら、協力するのは吝
かではない。
﹁俺にできることがあるのなら、協力は惜しまないが﹂
俺の言葉を快諾と捉えたのか、いつもせわしなく揺れる二本の尾
は、今日は静かだ。
﹁デーモン族というものは男であろうが外見からして細く、頼りな
く、弱々しく見えるせいで侮りがちだが、その実なかなかの胆力を
持つ者が多いのを、常々不思議に思っておった﹂
ん?
﹁なかでもそなたは最も大公にはそぐわぬ者に見える。雰囲気まで
それほど柔和であれば、見かけ通りさぞ惰弱な男であろう、とな﹂
俺、デーモン基準では、別にヒョロヒョロじゃないんですけど。
そりゃあ、ゴリラに比べると細いかもしれませんけど⋮⋮腹筋だっ
て、割れてるんだけどな。筋肉とか、結構ついてると思うんだけど
な。
もっと筋トレしないといけないのかな⋮⋮。
﹁だがこの間、我と奴を仲裁した魔術といい、成人式典での、奴を
212
相手の剣さばきといい⋮⋮。まこと見事という他はなかった。やは
り、見かけだけで判断できるものではないと、今一度肝に銘じる必
要を感じたものだ﹂
奴って⋮⋮ベイルフォウス?
名を口にするのも嫌なの?
﹁過分な評価をどうも﹂
どうもプートは大仰だな。
﹁謙遜するな、ジャーイル大公。そなたのような者が、ルデルフォ
ウス陛下の忠臣であるというのなら、我とてそれを心強く感じると
いうもの。だが、寵臣の座をただ欲し、陛下に掣肘を加えようとす
るのなら、その時は⋮⋮﹂
はあ⋮⋮。
なに言ってるんだ、プート。
寵臣の座を欲している?
俺が??
まさか!
だって、俺、すでに 寵 臣 ですから!
執務室にずんずん入っていくぐらいですからね、許しもないのに!
﹁さて、そろそろお呼びがかかるようだ﹂
魔王城から侍従が優雅な歩みでこちらに向かってくる。
へえ⋮⋮そうなんだ。
ほんとに家臣が呼びにくるんだ。
へえ⋮⋮。
﹁では、またいずれ﹂
そうしてプートは去っていった。
今日はいつもより話しやすい雰囲気だったが、結局は俺に牽制を
213
加えたかっただけなのか?
しかし、魔王様の即位祭か。
過去にはどんなことをやっていたのか、ちょっと調べてみるか。
エンディオンにでも聞いて!
214
20.配下になにやら、問題があったようです
双子のお誕生日会から、数日が過ぎた。
帰城したその日は、エンディオンにずいぶん心配されたものだ。
心配といっても、それは前日にマーミルとジブライールが日も高
いうちから帰ったことについて、ではない。俺があらかじめマーミ
ルは予定より早く帰すつもりだと計画を語っていたから、それにつ
いて気にした様子はない。ただ、帰った二人の様子が少し妙だった、
と家令は言う。
何か問題があったのか、と、二人に確認したところ、急にそわそ
わとしだしたらしい。
そうして﹁お兄さまが⋮⋮﹂と、悲痛な顔で意を決したように口
を開きかけたマーミルを、ジブライールが制止したのだという。
そんなやりとりがあった上で、俺が予定より一日も早く帰宅した
もので、何か問題でも起きたのかと心配になったらしい。
﹁お加減でも崩されましたか?﹂と、身の上を案じられたので、な
にも問題はないと断言しておいた。
⋮⋮うん、問題ない⋮⋮はずだ。
それから、ニ日目で帰ることになった理由︱︱式典が中止になっ
た事情を説明すると、ようやくホッとしてくれた。
話がフェオレスと双子の決闘に及ぶと、エンディオンは妙に納得
したように頷いていた。アディリーゼとの関係に、薄々気づいてい
たとのことだ。
⋮⋮教えてほしかった。いや、まあ、そりゃあプライベートなこ
となわけだし、別にいいけど。
215
いったん普段着に着替えてから、スメルスフォにもその件を報告
したが、当然先んじて姉妹から説明があったようだ。もっとも、詳
細を伝えたのは当事者のアディリーゼではなく、次女のシーナリー
ゼだったようだが。
フェオレスがいずれ挨拶にやってくると言っていたことを伝える
と、心得たように頷かれた。
実は彼女もフェオレスとのことを少し知っていたらしい。まあ、
母親だしな。今考えると、知っていたからこその放任主義だったの
かとも思うが⋮⋮俺にもちょっとでいいから、ヒントなり示してい
てほしかった。それなら俺だって、あんなに心配しなくてすんだの
に。
いや、プライベートな⋮⋮いいけど。
むしろスメルスフォは自分の娘の縁談のことより、俺とサーリス
ヴォルフの関係が悪化しないかということを気に病んでいるようだ。
だからサーリスヴォルフが双子の敗北を予想した上で、なお乗り気
だったことを伝えると、少し安心したようだった。
実際、問題があればあったで、それなりに対応するだけのこと。
だが、サーリスヴォルフのあの様子なら、全く心配はいらないだろ
う。
それからなぜか、俺の幸せを祈られた。いやに訳知り顔の、慈悲
深い表情で。意味が分からない。
そうしてようやくホッと息をつき、平素の生活に戻っていたある
日。
驚くべき一報が、俺にもたらされたのだ。
***
﹁ワイプキーが爵位を奪取されました﹂
216
﹁⋮⋮⋮⋮え?﹂
エンディオンの沈痛な言葉に、俺は眉を寄せた。
今、家令はなんといった?
﹁ワイプキー子爵は昨日、下位の男爵の挑戦を受けたそうです。そ
して、破れたとの報せが参りました﹂
え?
マジで?
え?
﹁ワイプキーって⋮⋮あの、ワイプキー⋮⋮だよな?﹂
﹁さようでございます、旦那様﹂
俺の筆頭侍従の。
うざい髭親父の。
﹁それで⋮⋮殺されたのか?﹂
﹁いいえ、旦那様。相手は筆頭侍従とは旧知の間柄であったようで
す。敗北した後は許されたとのことです﹂
まあ、話自体はよくあること、か。
ワイプキーは子爵だ。
下位の挑戦を受けて敗れたのなら、待っているのは死か爵位簒奪、
つまり無爵という身分⋮⋮それからまたもとの爵位を得るには、な
んらかの功績を認められて叙爵されるか、別の爵位持ちから奪うし
かない。
ワイプキーは殺されなかっただけ、運が良かったのか。本人がそ
の気なら、まだ爵位を得られる機会はあるわけだしな。
普通ならそれだけのことだが。
﹁それで、旦那様。筆頭侍従の件ですが⋮⋮﹂
217
そう、それだ。
単なる簒奪話なら、奪った者が相手の領地をそのまま引き継いで
治めればいいだけの話だ。城に報告はきても、俺の耳にすら入らな
い些末事として、事務的に処理されるだろう。だが、奪われた方が
大公の城の筆頭侍従となると⋮⋮役職とか、どうなるんだ?
なにせ、男爵時代の屋敷勤めは無爵の者ばかりだったから、初め
ての経験で予想がつかない。
﹁爵位を失った者は、筆頭侍従の任を解かれます。ゆえに、新任者
をお選びになる必要がございます﹂
新しい筆頭侍従。
﹁侍従にもなんとなく順位があるだろうから、普通にワイプキーの
次位を選べばいいんだろう﹂
俺がそういうと、エンディオンは実に複雑そうな表情を浮かべた。
﹁もちろん、通常でしたらそれでよろしいのですが⋮⋮申し上げに
くいことに、現在の侍従のうちには有爵者がおらず⋮⋮つまり、現
侍従は無爵の者ばかり、筆頭侍従の役を与えるには、地位の不足し
たものばかりなのです﹂
大公の家令や筆頭侍従が爵位持ちでないといけないのは、俺だっ
てもちろん知っている。だからこそ、筆頭でなくとも数人は爵位持
ちがいるものと思っていた。なにせ、魔族にたった七人しかいない、
大公の侍従なのだから。
だが、そうか⋮⋮確かに、俺が今まで目にした侍従の中に、子爵
位を得られるほどの魔力を持った者はいなかったな。
それでワイプキーが謹慎中は、その代役をエンディオンが務めざ
るを得なかったのか。
それにしても、エンディオンにしてはずいぶん歯切れの悪い言い
方をする。
218
﹁なら、領内の子爵の中から新しく選ぶ、ということになるか﹂
﹁そうなります、旦那様﹂
﹁⋮⋮そのワイプキーの爵位を奪った者、に、任せてみるとか?﹂
﹁もちろんそれでもよろしいのですが⋮⋮ただ、筆頭侍従を一から
選ぶとなれば、この際ですし、侍従としての能力はもちろん、旦那
様との相性も考えた方がよいかと﹂
俺との相性、ね。
駄目だ。男爵なら昔のなじみが数人いるが、子爵なんて誰一人思
いつかない。伯爵でいいならティムレ伯とかいるのになぁ。
侍従に向いてるかどうかはわからないけど。
﹁さらに、今後はこのように対応に困ることのないよう、他にも数
人、有爵者を侍従に取り立てておくのもよいかと考えますが﹂
まあそうだな。筆頭侍従が謹慎︱︱は、めったにないとしても、
爵位を争奪されるたびにエンディオンがその代役を務めねばならな
いとなると、家令としての業務に支障がでるだろうし。
﹁となると、まずは公募するか⋮⋮やる気のない者を選んでも仕方
ないし。その後に俺が面接する、という手順でどうかな﹂
﹁公募となりますと、かなりの応募があると思いますが、よろしい
のですか?﹂
﹁そうかな? 筆頭侍従って、それほど魅力的な地位とも思えない
んだが﹂
むしろ、一人も応募してくれなかったらどうしよう、という感じ
だ。
だって、常に主人と一緒にいなきゃいけなくて、しかもそれが大
公だとなるとうっとおしくないか?
何てったって、魔族は上位に行けば行くほど高慢で傍若無人、思
いやりのかけらもないものだからな。
219
⋮⋮あ、俺と魔王様は違うけど! 数少ない例外だけど!!
﹁それは旦那様。当然、お仕えする大公閣下にもよるとは思います。
ですが、この城の城主は、長くデヴィル族が続いておりました。そ
の事情を踏まえますと、恐らくデーモン族の子爵が張り切るのでは
ないかと思われます。野心のある者なら下位の者でも、これをチャ
ンスと子爵位に挑戦して爵位を得た上で、応募してくる者もおりま
しょうな﹂
まあそうだろうな。だが、爵位の争奪がいつもより活発になると
いうくらいは、温厚な俺でも気にしない。
﹁ちなみに、参考までに聞くんだけど、ワイプキーってどうやって
選ばれたの? ヴォーグリム大公の時に面接でもしたとか?﹂
ワイプキーの年はたしか四百歳を越えたほどだと聞いたことがあ
る。ヴォーグリムが大公位についたのは、三百余年︱︱つまり、前
魔王の時代と聞いているから、それ以前の代に侍従についた訳はな
い。
﹁先代大公閣下は思いつきと気まぐれで人事を刷新なさいましたの
で、面接など一切なさらず⋮⋮。しかし、デーモン族であるワイプ
キー殿が大公閣下にお近づきになるのに、ずいぶんお力を尽くされ
たのは、間違いないようです﹂
うん。あの髭親父なら、うまいことネズミに媚びたんだろうな、
と思う。
﹁もっとも、筆頭侍従の地位についたからといって、特に重用され
た事実もございません。ヴォーグリム大公は、この城を支配された
歴代の大公の中でも殊更、役職や地位に意味こだわりを認めていら
っしゃらないお方でしたから﹂
まあ、そうだろう。あいつは小物だったけど、態度だけは傲慢で
傍若無人な上位魔族の見本のような奴だったから。
220
だが本心をいうなら、俺だって別にそんな慎重に相手を選ぶべき
とは思っていない。歴代の大公が筆頭侍従を適当に選んだというの
なら、それに倣ってもいいんだけど。
なぜって、エンディオンのような人材は、そうそういないのだ。
時間をかけて選んでみたところで所詮は脳筋。だったら誰がなって
も一緒だろ。
ヤティーンみたいに俺の弱みを探すやんちゃ者でも、ウォクナン
みたいに俺の頭をかじろうとする無礼者でも、別に構いはしない。
俺はそう思うのだが、なんだか我が家令は慎重を期したいらしい。
それだけ俺の身辺に、気を張ってくれているのだろう。有り難いこ
とだ。
﹁それから爵位喪失の報告とともに、ワイプキー殿から私へ、私信
がございました。その書中にて、旦那様へご挨拶したいとの希望が
記されてございました。いかがなさいますか?﹂
謹慎中なので自重してエンディオンを、それも私的に通してきた
のか。
ワイプキーにすれば、謹慎中でもなければ自由に出入りできるは
ずだったこの城に、今後は謁見の場でもなければ許可なく足を踏み
入れられないわけだもんな。わかってはいたが、改めて考えるとシ
ビアだな。
﹁もちろん、会おう﹂
さすがに、謹慎中に爵位を失ったからといって、一目も会わずに
﹁はいさようなら﹂では情がなさすぎる。俺はあの髭親父のことは、
そう嫌いではないのだし。ちょいちょい暴走してうざいのは事実だ
けど。
ついでに、新しい子爵の人となりも聞いてみよう。公募はそれか
らでもいいだろう。
221
﹁俺の予定、どうなってたっけ? いつなら会えそうかな?﹂
毎日仕事ばかりで代わり映えしない予定の詳細など、自分では把
握していない。
﹁明日はさすがに急すぎますし⋮⋮五日後の午後ならば、まとまっ
たお時間がとれるかと﹂
﹁ああ、ならそうしてくれ。筆頭侍従の公募は、それからでもいい
だろう。ワイプキーの意見も色々聞きたいし﹂
﹁承知いたしました﹂
エンディオンはホッとしたような微笑を浮かべて頷いた。
やはり同僚の行く末は、彼としても気になるのだろうか。
﹁他に何か問題は?﹂
﹁特に問題というわけではございませんが、旦那様。医療班より、
報告書が届いております。お手元、右手の資料がそれでございます﹂
ふと机上を見ると、横に置いた俺の手より厚い資料の束が⋮⋮。
医療班の報告書ってあれか? 例の、軟膏の分析とか⋮⋮だろう
な。
パラパラと、めくってみる。うん。見事に文字ばっかりだ。
﹁あ⋮⋮後で読むよ。うん、もうちょっと、まとまった時間がとれ
たときに⋮⋮﹂
なんでだろう。本はあんなにすらすら読めるのに。
いや、ほんとに⋮⋮重要なものだってのはわかってるんだ。わか
ってるんだが、今はちょっとこの分厚い資料を読む時間も気力も⋮
⋮ですね。
後でちゃんと読むから。後で!
﹁そういえば、話は変わるけど、式典の贈り物。サーリスヴォルフ
にも主役の双子にも、好意的に受け取ってもらえたよ。さすがはエ
ンディオンの選別だな﹂
222
﹁いえ、私はただ、過去の記録を紐解いただけでございますので﹂
過去の記録、か。やっぱりなんでも、記しておくっていうのは大
事だよな。書記官や記録係が重要なわけだ。
もちろん、それをうまく活用できる家令や筆頭侍従の存在も。脳
筋魔族であればあるほどに。
あれ? 筆頭侍従って、重要じゃない?
﹁ああいう宝物って、一から集める訳じゃないよな。宝物部屋があ
ったりするんだろ?﹂
男爵邸にも小さな部屋があり、数点の宝物が保管されていたが、
さすがにあれだけの品物を揃えられたのは大公ならではといえるだ
ろう。それでもたぶん、ごくごく一部なのだろうし。
﹁宝物庫が別にございます。一度、ごらんになられますか? 珍し
い宝物のほか、剣や盾などの武具などもございますよ﹂
それは興味深い!
ベイルフォウスと訓練の約束もしたことだし、いい武器がないか、
ちょっとのぞいてみるか。
﹁後日ちらっとでいいから、のぞいてもいいかな?﹂
﹁もちろん、旦那様は城主でいらっしゃるのですから、いつ、どこ
を訪れられようと、ご自由です。宝物庫には管理人がおりますので、
一報をいれておきましょう﹂
そうして俺は、あといくつかの実務についてエンディオンと打ち
合わせをすませ、医療班の報告書を手に、自室に戻ったのだった。
223
21.宝物庫の管理人になるには、鑑定魔術を持っていることが
望ましいようです
ある日の謁見が予想外に早く終わったため、俺は午後までの空い
た時間を宝物庫の見学に費やすことにした。
﹁おおお、すげえ﹂
宝物庫は俺の想像以上の規模だ。思わず感嘆の声があがってしま
う。
以前住んでいた男爵邸では、一部屋がその保管場所としてあった
だけだが、大公の城ともなればそれではすまないらしい。三階建て
の一棟まるまるを、宝物が占めている。
柱がいくつも並ぶ、だだっ広い空間の中を仕切るのは、宝物を納
めた種々様々な棚だけだ。
一階は武具・防具の類、二階が小物から大型の宝物、三階は宝飾
品に限った宝物と、鑑定室や資料庫があるらしい。
俺の目当ては、もちろんこの一階だ。
おおお、なんだあの弓!
五メートルはあるんじゃないか? 矢は? あのでかいのか?
あんなので頭を打ち抜かれたら、さすがの魔族でも即死ものだな。
あの剣もでかいな! 柄が俺の腕ほどありそうなんだけど、どれ
だけでかい奴の持ち物だったんだよ!?
何あのきれいな輪っか!
え? 投げるの?
くるくる回して投げるの?
扱い難しそうだな! でもやってみたい!
224
壁にずらりとかけられた大小さまざまな盾、円筒に入った数種類
の矢と造りの異なる弓、彫りの細かい鞘に納められた刀剣・短刀の
類は言うに及ばず、棹状武器、投擲武器、その他の俺も初めて見る
ような特殊な形状の武具の数々⋮⋮。すべて合わせると、万を越え
るだろうか?
細かく見て回るとなると、一日でもこもっていられそうだ。
まさかこんな近くに、こんな楽しい場所があっただなんて!
﹁この槍、見たことある﹂
父の持っていた槍と、柄の部分が色違いのものを見つける。
子供の手ではとても握れないような柄の太い槍で、穂先は三形態
で構成されている。先端の尖った部分で突き、横に延びた斧のよう
な刃で斬り、その逆側の鉤爪でひっかけるのだ。
俺の父は、それは見事な槍使いで、流れるような動作でその大槍
を操ったものだった。
しかし、大公の宝物庫にあるのと同じもの、ということは、父は
魔槍ヴェストリプス
と言われる名槍でございます、閣
結構いい槍を持っていたんだな。
﹁それは
下。先々代の大公閣下が、先代の魔王陛下に下賜されたものでして﹂
魔王が配下に下賜するほどのものか。どうやって、そんなのと同
じものを手にいれたんだろう。
まあ、単なる模造品かもしれないが。
ちなみに持ち主が敗れた後の武具の扱いは、というと、その親族
が形見として持ち出しでもしない限り、屋敷の所蔵の一つと数えら
れて、新しい主の所有物となる。
父の槍がその簒奪者のものとなり、ヴォーグリムの宝物が俺のも
のとなっているように。
225
﹁さて、その隣にございます鉄の棒は、かつての魔族大公の手にあ
って、数千の人間を撲殺するのに活躍しましたものでございます。
その大公閣下は、血を見るのがたいそうお好きな方でいらしたため
に、魔術ではなくこの鉄棒で人間を⋮⋮﹂
さっきから一つ一つ丁寧に、別に知りたくもない情報まで長々と
説明してくれるのは、特殊魔術である物品鑑定の能力を持っている
という、宝物庫の管理人だ。アルパカの顔をしたデヴィルで、名を
ヒンダリスという。
なんと、城付きには珍しい伯爵だ。
鑑定魔術は医療魔術より、さらに保有者は珍しい。だから高位で
あっても、本人が能力を隠すか、頑迷に拒否するかでなければ、宝
物庫の任につくのが普通だ。
だがたとえ大公の城でも、実際に鑑定魔術を持った管理人がいる
ことはほとんどない。そして、それが伯爵のような中位の爵位の者
であるという可能性は、さらに低い。それだけ珍しい存在なのだ。
﹁どうももったいないな⋮⋮これだけの武具が倉庫の中で眠ったま
まとは⋮⋮﹂
まあ、たいていの魔族にとって武具はほとんど飾り。魔力の強弱
こそが価値あるもので、自分の地位を確定するものだからだ。
だが、俺にとっては違う。これだけあるなら片っ端から手にとっ
て、性能をためしてみたくなる。
﹁どうぞ、大公閣下。お気に召された剣なり弓なりございましたら、
ぜひ傍らにお持ちください。閣下のおっしゃるとおり、どの品もこ
の場で眠らせるだけでは惜しい物ばかり⋮⋮技を持たぬ私や下賤の
下働きが毎日磨くだけでは、これらの品々も、武具として生み出さ
れた意味がなかろうというもの﹂
226
﹁そうだな⋮⋮いくらか、ためしてみるか﹂
正直に言おう。今日は内勤であるにもかかわらず、珍しく帯剣し
ているのだが、それはこんなこともあろうかと期待してのことだ。
収納された剣を片っ端から抜いて軽く振り、そうして手にしっく
りくる一本を選んだ。
﹁いいな、これ﹂
﹁ほ⋮⋮本当に、それでよろしいのですか?﹂
ヒンダリスの表情が、こわばってみえる。
なんだろう、俺はまずいものを選んだのか?
そう思っていると、彼は予想とは逆の言葉を口にした。
﹁さすが閣下、お目が高い﹂
蹄型の手をパンパンと合わせ、歓声に近い声をあげる。だが、無
理矢理感ハンパない。
レイブレイズ
⋮⋮別名、魔断の剣、または蒼の
﹁そちらはこの世に存在するものなら、何であろうが切れぬものは
ないという名剣
剣とも申します。この世に出て、二千年を数える歴史ある剣でござ
います。もっとも、そのうちの千五百年ほどは、この大公城の宝物
庫にあるのですが。残りの五百年は世にございまして、そのわずか
の間に、数千の人の血を吸って人間よりは邪剣、覇者の剣と恐れら
れ、五十の竜の命を奪って竜殺しの剣と称えられ、四の魔族を滅ぼ
して類いまれなる名剣と尊ばれております。その間、一度として刃
こぼれせず、切れ味おとろえず、血も払う必要すらなく錆もしない。
それがこのレイブレイズです。まさに大公閣下が持つにふさわしい
一品かと⋮⋮﹂
蒼の剣、か。鞘は黒いが、抜いた諸刃の剣身は目の覚めるような
蒼だ。片側に黒い色で呪文のような文字︱︱我々、魔族の使う文字
ではない︱︱が刻まれており、その剣自体が魔力を宿しているかの
227
ような、一種独特の威圧感を放っていた。
﹁そういうのって、鑑定してわかるのか? それとも、手に入れた
元から判別してることなのか?﹂
﹁元からわかっていることも、もちろんございます。なにせどの品
々も、それなりにいわく付きの一品ですので。しかし鑑定魔術は、
当然それ以上の詳細を知れるのです。私の場合、そのものを視認す
ると、脳裏に言葉が浮かぶのです。それはもう、今説明申し上げた
こと以上の詳細が⋮⋮。たとえば、誰がこの剣を、どの期間保有し
ていたか、だとかいうような、持ち主の簡単なデータなども含めて。
物とは案外、歴史を記憶しているものでして⋮⋮﹂
﹁へえ⋮⋮そんなことまでわかるのか﹂
今の説明が本当だとすると、どうやら目に付随の能力ではないよ
うだな。
ちょっと待て。ってことは、だよ?
たとえば、このヒンダリスに例の軟膏を見せたらどうだろう。も
しかして、流通経路とかわかったりするのではないだろうか。もし
かして、作った者なんかもわかったりするのではないのだろうか。
やってみる価値はあるかもしれない。
﹁ヒンダリス⋮⋮君の能力を見込んで、今度是非、見てもらいたい
ものがあるんだが。宝物の類じゃなくて、悪いんだけど﹂
﹁はあ。もちろん、ご命令とあらば、どのようなものでも﹂
そう答えはするが、やや怪訝顔だ。
そもそも、宝物以外を鑑定しろと言われた経験はあまりないのだ
ろう。
それにしても、興味深い能力だ。
﹁色々、面白そうな能力だな﹂
228
﹁ええ。おおむねは、楽しんでおりますよ﹂
ヒンダリスはニタリ、と笑った。
⋮⋮なんだろう、ものすごく既視感がある⋮⋮。
いや、わからないフリはやめよう。こいつは似ているのだ。デイ
セントローズ⋮⋮あの、ラマに。
エンディオンからアルパカです、と、事前に聞いていなければ、
同じだと思っただろう。
正直、俺にはあまり違いがわからない。多少⋮⋮こいつの方が、
毛が多い⋮⋮のかな⋮⋮。
﹁ところで閣下。二階の方もごらんになられませんか? その剣を
吊すにふさわしい剣帯なども各種、そちらにございますし。それに、
この際ですので、ぜひ儀式用の錫杖や宝冠、杯や儀式用布なども、
ご覧いただければ幸いにございます﹂
儀式用の云々はともかく。
﹁剣帯か⋮⋮﹂
確かに、今のは男爵時代からのもので、相当くたびれている。剣
を新しくするのだから、いっそ剣帯も選び直すっていうのもありか
な。ピッタリくるのがなければ、新調してもいいわけだし。
﹁そうだな、見てみよう﹂
時間になれば、エンディオンが迎えをよこしてくれるはずだ。そ
れまでは、この宝物庫にいても大丈夫だろう。
﹁ああ、閣下。剣はこちらに一端戻しておかれてはいかがでしょう。
二本もお持ちでは、重うございましょうし⋮⋮﹂
﹁⋮⋮剣ぐらい何本持ったところで、重くはない﹂
えー。
プートにもヒョロヒョロみたいに言われたが、まさか、他のデヴ
229
ィルから見ても、俺ってか弱く見えるの?
いや。いくらなんでも、このアルパカくんよりはたくましいと思
うんだけど⋮⋮。
やはり筋トレするべきか。筋肉もりもりにならないといけないの
か。
﹁それに、剣帯を選ぶのなら、実物とあわせるべきだろう﹂
﹁至極ごもっともですな⋮⋮﹂
口では同意し、頷くのだが、どうも表情が険しい。
なんだろう、さっきからこの管理人、態度と口調が一致していな
い気がする。
ともかく俺は、ヒンダリスの案内で、二階へ続く階段を登ってい
った。
﹁ところで閣下はやはり、と申しますか⋮⋮青い色をお好みなので
しょうか? 大演習会の時も、白地に青の模様の服をお召しでした
し﹂
﹁いや、あれは俺の趣味じゃ⋮⋮﹂
近頃の正装は、俺の趣味で色やデザインが決まっているわけでは
ないことだけは、はっきり言っておきたい。
なぜだか会議で衣装まで多数決を取られ、決められるのだ。まあ、
正直俺はあまり服飾には興味がないので、自分で決めなくていい分、
楽と言えば楽なのだが。それに、青系の色も嫌いではないし。
﹁そうですか﹂
まずは剣帯を見せてもらう。むしろそれ以外は、割とどうでもい
い。
古い剣帯を腰からはずし、二本の剣と共に狭い机に置く。
それからヒンダリスが次々と棚から出してくれる剣帯を手に取り、
230
腰に吊してみた。
まあ、ある程度はサイズ調整が可能だが、やはりなかなかこれと
いうのは⋮⋮。
﹁もうちょっと、幅のある奴はないかな?﹂
俺はベルトに吊したり代わりに巻くより、どちらかといえばがっ
つり腰に巻き付けるベルトと一体型の幅広タイプが好きだったりす
る。
﹁では、こちらでいかがでしょう﹂
ヒンダリスは俺の要望にあわせて、一本の剣帯を出してくれる。
幅の広い、光沢のある黒革の剣帯で、蒼い糸で縁取りがしてある。
色目が剣とも合うし、俺の腰にもぴったりだ。
﹁ああ、いいな。あとは剣を吊してみて⋮⋮﹂
﹁おまちください、閣下。ぜひ、最後の仕上げにこちらを⋮⋮﹂
そういって、ヒンダリスは大きめのジュエリーボックスを俺に差
し出してきた。
パカッと開かれたそのボックスの中に入っていたのは、中央に蒼
い宝石をはめ込んだ、ネックレスのような宝飾品だった。
﹁剣帯用の帯飾りでございます、閣下﹂
﹁いや、儀式用じゃないんだし、飾りなんて﹂
﹁閣下。実用性を重んじられたい閣下のお気持ちはわかります。た
かが男爵であれば、それもよろしいでしょう。が、高位であればあ
るほど、こういった宝飾品は、閣下のご威光の一助ともなるもの⋮
⋮所詮、魔族にとって剣など宝飾品と同様。配下のためにも、ぜひ
外見を多少なりとも美しく装飾なさることも、御考慮ください﹂
え?
なんですか⋮⋮え?
231
それはつまり、宝石の一つもつけなければ、俺なんてみすぼらし
すぎて見ていられない、ってことですか?
いくらデヴィル族とデーモン族では審美眼が異なるといっても、
結構ショックなんですが。
ああ、エンディオン。俺が間違ってたよ。
やっぱり、側にいる相手だと相性は重要だよね。筆頭侍従には、
相手の気持ちを慮って、穏やかな言葉を口にする相手を選びたいな。
ともかく、俺はその帯飾りを受け取り、剣帯に吊してみた。
まあ⋮⋮動いてもさほど飾りは邪魔にはならないみたいだから、
まあいいか⋮⋮。
﹁閣下、鏡でぜひ、ご確認を﹂
﹁ん?﹂
それは剣を吊してからでいいのでは?
だが、ヒンダリスは三面鏡らしき五十センチ四方の鏡を手に取り、
俺に向かって開いた。
その瞬間。
半端ない倦怠感が俺を襲う。
目が回り、身体が揺らぐ。
なんだ、これ。
倒れるのはこらえたが、片膝をつかずにはいられなかった。
﹁大丈夫ですか、閣下?﹂
ヒンダリスの声がいやに遠くで聞こえる。
気味が悪いほど、冷静な声が。
﹁大丈⋮⋮夫⋮⋮﹂
額に手を当て、なんとか顔を上げ⋮⋮。
232
﹁⋮⋮!﹂
目の端で捉えた光を、俺は間一髪、左に避ける。
蒼光の残像⋮⋮レイブレイズか!
何でも切れる、との言葉通り、俺の身を捉え損ねた切っ先は、床
を大きく抉って突きささっている。
﹁ヒンダリス!﹂
もちろん、犯人が他のものであるはずはない。彼と俺しか、この
宝物庫にはいなかったのだから。
﹁ち⋮⋮﹂
ヒンダリスは忌々しげに舌打ちをすると、レイブレイズの柄から
手を離した。いくど引こうとも、床から抜けないらしい。
﹁なんの、つもりだ﹂
目眩、は、おさまった。
俺はゆっくりと立ち上がり、宝物庫の管理人をにらみつける。
﹁ふん⋮⋮おとなしくしていれば、楽に生を終えられたものを﹂
その態度には、強者の余裕が見られる。
﹁つまり⋮⋮これは反逆とみなしていいわけだな?﹂
リーヴのお粗末な暗殺とは、訳が違う。ヒンダリスは何らかの方
法をつかって、一瞬とはいえ俺に体調不良を引き起こさせ、その瞬
間に殺そうとしたのだ。
﹁反逆、ね。私は元から、貴様に忠誠など誓った覚えはないのだが﹂
ヒンダリスの口元に下卑た嘲笑が浮かぶ。
﹁我が主は先代の大公ヴォーグリム閣下。我が忠誠は、そのご家族
にのみ、向けられる﹂
ネズミ大公と、その家族、だと?
ネズミの親兄弟のことか?
233
それともまさか、リーヴのことか?
あるいは他にも、息子なり娘なりがいるのか?
それにしても。
﹁ずいぶん、余裕だな。暗殺が失敗したんだから、とっとと尻尾を
巻いて、逃げるべきなんじゃないか?﹂
仮にも大公を前にして、伯爵⋮⋮真実、実力がその域から越える
ことのない伯爵が、こうも落ち着いているのには違和感を感じる。
違和感⋮⋮いや、違和感は⋮⋮相手の態度にだけ、じゃない⋮⋮。
まさか⋮⋮。
﹁そう、気づいたかな、ジャーイル大公? 今の貴様に、もはや大
公の実力はない﹂
ヒンダリスは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
﹁この三面鏡は邪鏡ボダス。下賤な人間どもが造ったものだが、馬
鹿にできない特殊な能力があってな﹂
さっき、俺の姿を映していたその鏡は、今はきっちり閉じられて
ヒンダリスの手に握られている。
﹁特殊な能力?﹂
軟膏と違って、呪詛のかかったものではない。呪詛とは魔力を媒
体とするもので、それならば、俺にわからないはずはないからだ。
それに、人間が造ったもの、とは?
﹁姿を映した相手の魔力の、九十九パーセントを奪うのだ。つまり、
ジャーイル大公。今の貴様であれば伯爵の私であっても、正面から
堂々戦って、貴様をなぶり殺しにできるということ!﹂
ああ、確かにこいつの言うとおりだ。
俺の魔力が、ずいぶん減っている。
234
そう、百分の一ほどにな。
だが、だからといって。
俺がお前に負けるって、誰が保証してくれたんだ?
235
22.魔力の著しく減った僕が、伯爵と対峙せざるをえなかった
結果
﹁お前、宝に愛情を注いでいるんじゃないのか? こんなところで
暴れたら、台無しになってしまうぞ﹂
二階には剣帯の他にも、雑多な宝物が置かれてある。漆塗りの筆
入れや杯、飾りのせいで重そうな宝錫、刺繍も見事な腰巻き、絵画
や彫像・壺なんかの大物がこの階にあるようだ。
俺は芸術を判ずる目はもたないが、それでも、どれもかなりの一
品だということはわかる。
﹁知ったことか! 役目だから磨いていただけだ! 誰がこんなお
ぞましいものどもに、愛着なぞ抱くものか!﹂
楽しんでいたっていうのは嘘か?
叫びつつヒンダリスが展開したのは、三層五十五式が一枚。
普段の俺なら貧弱な術式だと判断して、一瞬で解いただろうが、
今はちょっとばかり事情が異なる。
なにせ、いつもほどの術式が使用できないのだから。
正直、これほど魔力の少なかった経験は、物心ついてから一度も
ない。そのせいか、どうも調整がうまくいかない。
くそ、もどかしいな⋮⋮。
俺は相手の魔術を解除するのをあきらめ、攻撃のみに集中した。
つまり、今日に限っては、一切の手加減はなしということだ。
床に突き刺さっていたレイブレイズの柄に手を伸ばすと、一気に
引き抜く。
236
自分が引いてもうんともすんとも言わなかった剣が、俺の手にあ
っさり渡ったことで、ヒンダリスは驚愕に目を見開いている。
その一瞬の隙に、すかさず奴の間合いに踏み込んだ。
相手の術式に、蒼光りする刃を向ける。
並んだ二枚を一閃すると、術式は見事、四散した。
思わず、口笛を吹いてしまう。
﹁さすが、世にあるものはすべて切れる剣だ! 術式までとはな﹂
賭けだったのだが、うまくいった。万が一、薙払っても術式を消
せないでいたら、俺は発動したその魔術を少しは食らっていただろ
う。
魔王様の蹴りほどの威力はないにしても、痛かったに違いない。
﹁まさか!﹂
驚愕しているところを見ると、ヒンダリスもこの剣の威力を知り
尽くしてはいないようだ。恐れるあまり、鑑定に手を抜いたのか?
それとも単に、術式を切った者が今までいなかったのだろうか。
﹁さて、覚悟しろよ﹂
﹁黙れ、それはこちらの台詞だ!!﹂
ヒンダリスは慌てて机上の剣を引き抜いた。さっきまで、俺の腰
に収まっていた、もう一本だ。
その頼りない構えを見れば、奴が武具を武器として使用した経験
がないのは一目瞭然。軽く打ち込めば、それだけで呆気なく勝負は
ついてしまうだろう。
だが、それでは意味がない。
奴にはっきりと誤算を自覚させるには、魔術で勝たなければ。
俺は剣で相手を威嚇しつつ、術式を展開する。
四層七十式二枚⋮⋮情けないことに、今、俺が一度に発動できる
237
最大の術式だ。
ヒンダリスも同様に術式を展開する。さっきと同じ、三層五十五
式一枚。どうやらこれが、こいつの限界らしい。
発動はほぼ同時だった。
俺の魔術とヒンダリスの魔術⋮⋮炎を纏った猛禽と、触れるもの
を切り裂く黒い竜巻がぶつかり合う。
机上に並べられていた剣帯が宙を舞い、棚に収納されていた宝物
は飛び出し、ぶつかり合って砕け散る。
あるものは切り刻まれ、あるものは炎をあげて燃えさかった。
どれも、由緒あるものばかりだろう。後でエンディオンに怒られ
なきゃいいが⋮⋮。
そんなことを考えていたからだろうか。猛禽の顔が、家令に見え
た。
呑気な俺。
ー方、ヒンダリスの頭部からは脂汗が滝となって、白い毛をべっ
とりと濡らしている。
術式を再構築する。
炎の鳥は、黒い竜巻を苦もなく圧倒しかけていたが、それに最後
の一押しだ。
﹁ばかなっ﹂
ヒンダリスが悲鳴を挙げた。
小さな文様を追加すると、猛禽は勢いを増した。
頼りになる家令を思わせる鋭い嘴は、竜巻を貫いて霧散させ、そ
の先にいたアルパカを炎で包み込み、消えた。
﹁ぐあああああっ﹂
238
炎は白い毛を焼き、ことごとくを焦がし尽くして、ようやく鎮火
する。
ヒンダリスは火だるまになって倒れ、体中を掻き毟って激痛に身
もだえし︱︱やがて静かになった。
だが死んだ訳ではないらしい。その証拠に、口元がぴくぴくとひ
きつっているし、体から発せられる魔力も消えてはいない。
やれやれ。手加減しなくても、この程度の魔術では相手の命を取
るまではいかない、か。魔族の体は頑丈だしな。
つまり、俺の今の実力は、その程度、ということ⋮⋮。
⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
え? マジで?
やばい。
超不安になってきた!
なにこれ、なにこの弱い魔力!
え?
どうしたらいいの、俺、こんな弱くて、生きていけるの?
みんなどうやって、こんな魔力で平然と暮らしていけるの!?
どれくらい弱いかというと、この程度の伯爵をかろうじて圧倒で
きる程度だ!
マーミルで例えると、千マーミルくらいだ!
うわあ⋮⋮今更ながら、変な汗がふきだしてきた。
どうしよう⋮⋮俺、生き残れるのだろうか。
だって、大公の最低条件といってもいい、百式一枚も展開できな
いんだよ!?
239
⋮⋮いや。動物を描くのにこだわらなければ、小さい一枚くらい
ならギリギリなんとか?
とにかく、このままというわけにはいかない。どうにかこうにか
なる前に、魔力を元にもどさないと⋮⋮しかし、どうやって?
俺は泡を吹き、煙を上げて倒れるヒンダリスに目を向けた。
とりあえず、こいつに質すしかないか。わざとではないとはいえ、
殺してしまわなくてよかった。
俺は散らばった剣帯を拾い、比較的無事なものでヒンダリスの手
首を縛る。
あと、口もふさいでおこう。アルパカの涎で汚すには、勿体ない
布ばかりだが、仕方ない。⋮⋮まあ、涎云々以前に、焦げ付いて原
型が残っていないのがほとんどだが⋮⋮。
エンディオンに怒られ⋮⋮ない、と、いい⋮⋮な⋮⋮。
ヒンダリスをがんじがらめにしたところで、三面鏡を手に取る。
開いては⋮⋮みない方がいいだろう。
一度目では魔力を奪い、二度目では魔力を返してくれる⋮⋮そん
な単純に片がつくならいいんだが。
とにかく調査が必要だ。ある程度判明するか、全く手がなくなる
までは、うかつなことはしない方がいい。
俺はやはりそこら辺に散らばっていた大き目の布で、三面鏡を包
み込んだ。
少しすると、騒ぎを聞きつけてきたのだろう。エンディオンが数
人の従僕を引き連れてやってくる。
﹁旦那様、このご様子はいったい⋮⋮? 何がございました?﹂
240
エンディオンは険しい表情で、宝物庫を見回している。
その表情には、宝物が台無しになったことによる不機嫌さはまっ
たく認められない。むしろ、俺に対する気遣いが見え隠れしている。
ごめん⋮⋮怒られるかも、なんて考えて悪かった。いつも本当に
ありがとう、エンディオン!
﹁ヒンダリスから爵位の挑戦を受けた。まあ、ほとんど不意打ちだ
ったが、結果は見ての通りだ﹂
まあ、事実はちょっと違うけど、この場ではそういうことにして
おこう。
俺の言葉に、従僕たちは﹁おお﹂とそろって嘆息を漏らす。
それはなに?
俺が打ち損じられて残念ということなのか、それとも心配してく
れているからこその、ため息なのか。
やめよう、俺。疑心暗鬼に陥りすぎだ。
﹁宝物庫の職員は管理記録簿持参で、執務室に招集。一人残らず、
な。手配を頼む﹂
﹁は﹂
神妙な面持ちで、従僕たちが頷く。
ヒンダリスはさっき、宝物を磨く下働きがいるといっていた。だ
から、宝物庫に出入りしている者が数人はいるはずだ。いや、この
宝物庫の規模からすると、かなりの数の職員がいるのかもしれない。
鑑定魔術を持ってはいなくても、この鏡については何か知ってい
るかもしれないし、記録があるかもしれない。なにより、ヒンダリ
スと思想を同じくする者がいるかどうか⋮⋮調査は必要だろう。
その場の片づけは従僕たちにまかせることにする。そして俺自身
241
は二本の剣を左腰に佩すると、右肩にヒンダリスを担ぎあげ、鏡の
運搬をエンディオンに任せて、彼と共に執務室に戻ったのだった。
***
﹁⋮⋮って訳なんだが⋮⋮﹂
エンディオンに一部始終を打ち明けた。
本来なら、俺の魔力が減ったことを誰かに知られるのは、非常に
まずい。それが下位のものであるならなおさらだ。
だが、エンディオンは別だ。彼には絶大な信頼を置いている。
﹁つまり、旦那様は今現在、通常の百分の一ほどの魔力しかお持ち
ではない、と⋮⋮﹂
﹁ああ。この状態で、侯爵以上から挑戦されると、相手によっては
きつい。公爵とかになると、割とやばい⋮⋮と、思う﹂
正直、今はウォクナンの不意の突撃をよけられる自信はない。別
に反射速度が鈍くなった訳ではないが、心理的に不安なのだ。
俺の弱体化をはっきり知れる者なんて、ウィストベルの他には誰
もいないだろうが、うかつに背後をみせないようには気をつけない
と。
﹁それでも侯爵以上、ですか﹂
エンディオンは息を呑んだようだ。
俺のあまりな弱体化に、事態の深刻さを認識してくれたのだろう。
﹁とにかく、まずい。早急になんとかしないと、な﹂
俺は床に転がるヒンダリスを見下ろした。
奴はまだ、気を失ったままだ。その顔は黒く、苦痛に歪んではい
ても。
242
﹁おい、起きろ。ヒンダリス﹂
胸元をつかんで上体を起こさせると、痙攣した後、瞼がゆっくり
と開いた。
ヒンダリスはその双眸に俺を映すや、表情を強ばらせて︱︱焦げ
ているので、非常にわかりにくかったが︱︱、身体をのけぞらせる。
その瞳には、さっきの余裕はもうない。あるのは俺に対する恐怖と、
苦痛のみだ。
﹁うぐ⋮⋮ぐ⋮⋮﹂
あ、猿ぐつわをはずしてやるか。
たとえ叫ばれても大丈夫。執務室の防音設備は完璧だからな!
﹁ば、化け物!!﹂
ちょ⋮⋮唾とばすなよ!
頬にかかった粘っこい水滴にイラッとして、眉を寄せてみせると、
ヒンダリスは﹁ひいっ﹂と一言、小刻みに震えだす。
俺は奴の衣服で頬を拭くと、そのまま乱暴に手を離した。
ごん、と鈍い音がしたが、ムカついたので気にしない。
﹁企てが失敗して、残念だったな。せめてあのとき、俺にこの剣を
選ばせていなければ、少しは望みもあったかもしれないのにな?﹂
レイブレイズは俺の腰に収まっている。
この剣でなければ、奴の術式を一閃にはできなかったろう。通常
の剣では、魔術をはじくことは場合によっては可能でも、斬って消
滅させることなどできないのだから。
もっとも、この剣がなくとも、俺がこいつに負けるとは微塵も思
っていないが。
﹁それを選ぶとは⋮⋮思わなかったのだ。そんな、目にするのもお
ぞましい、恐ろしい剣を、よくも平然と⋮⋮﹂
243
ヒンダリスの声は、震えて弱々しい。
﹁ああ、鑑定の能力があると、この剣はおぞましく見えるのか。俺
にはただの美しい剣としか映らないのだが。特殊魔術が当たり前に
備わっていると、通常と異なる見方をしてしまうことがあるが、お
前の場合はそれが弊害として表れたようだな﹂
今日の俺は、いつもより冷たいです。
なんといったって、マジで半端なくムカついてるんだもん!
いつもの四倍ほどは、ムカついてるんだもん!
いくら温厚な俺でも、こんな微弱な魔力におとされては、怒らな
い方がどうかしてるだろう!!
だって、いいですか?
今、万が一、ベイルフォウスが剣の稽古をするぞ∼、なんて呑気
にやってきたらどうする!?
俺は間違いなく、殺される!
あいつのことだ、俺の弱体化を見逃すはずはない!
楽しげに笑いながら、ものすごくサクッと殺ってくるに違いない!
ジブライールにアソコを蹴られたら死ぬし、ウィストベルにはい
っさい抵抗できずにいただかれる!
あと、魔王様の蹴りを受けたら、間違いなく脳味噌が砕け散って
死ぬ!!
⋮⋮⋮⋮かもしれない。
別に魔力の強弱は、身体の強化や弱体化に影響しない?
いや、だから、つまり、俺はそれだけ不安なんだってことなんだ
よ!
情けないと思うなら思うがいい!
244
だって⋮⋮ほんとに、こんな弱い魔力しか持たなかったことなん
て⋮⋮⋮⋮物心ついてから、ほとんど覚えがないんだもん⋮⋮。そ
りゃあ、不安にだってなるよ⋮⋮。
﹁正直、お前に尋ねたいことは山ほどある。が、今はただ一つだけ、
問おう。俺の魔力は、どうすれば元に戻る?﹂
﹁誰がそんなこと、白状するものか﹂
ヒンダリスは身体を震わせながらも、反抗的な色を瞳に込めるの
をやめない。歯ぎしりの音さえ聞こえてきそうだ。
﹁俺の領内に、鑑定魔術を持った者って、他にいる?﹂
こっそりエンディオンに尋ねてみる。が、家令は首を左右に振っ
た。
﹁私の把握する限りではおりません。特殊魔術の中には血統隠術と
呼ばれる家系に脈々と受け継がれるものもございますが、鑑定魔術
は一代限りのものとされておりますし⋮⋮﹂
それは俺も知っている。
やはり、俺の目ほど稀少ではないにしても、そうそういる訳はな
いか。
﹁なら、どうやったって、こいつから聞き出す他はないよな﹂
﹁念のため、調査はしてみますが﹂
確かに、エンディオンが知らないだけで、鑑定魔術を持った者が
領内に存在する可能性はあるもんな。
﹁頼む。それから、医療魔術で自白を強制させる能力を持つ者、あ
るいはそれに近い能力の持ち主は?﹂
いたらいいな、そんな便利な能力の持ち主。
人間たちには自白剤とかいう、飲むだけで秘密をべらべらしゃべ
るようになる便利な薬があるらしい。しかし、毒の効かない魔族に
はその他の薬剤なんかもほとんど効かないからなぁ。
245
ちなみに、俺が知る限りでは、相手の意思を封じ込めて操る、と
いう魔術は存在するはずだ。術者の力量によって、その影響力の強
さは異なるにしても。
﹁サンドリミンに確認して参ります﹂
﹁ああ、いたらとりあえず、つれてきてくれ﹂
エンディオンは俺に一礼すると、部屋から出ていった。
﹁無駄だ。私は絶対に語らん。たとえどんな目にあわされてもな!﹂
どんな目にあわされても、だと?
﹁そういや、世界残虐大全に、いろんな拷問方法が載ってたっけ⋮
⋮いくつか試したいと思ってたんだよな。丈夫が取り柄の魔族だ。
さぞ長い間、耐えてくれることだろう﹂
俺ができる限り邪悪と思える笑みを浮かべて見せると、ヒンダリ
スは歯の根をガタガタいわせだした。
﹁き⋮⋮きしゃ⋮⋮きしゃま⋮⋮﹂
あ、噛んだ。
﹁貴様のような男がいたせいで⋮⋮私は⋮⋮﹂
こいつ、口は大層だが、さっきから態度が伴ってないんだよな。
いくらなんでも、歯がガチガチいうほど震えなくても⋮⋮。
﹁主も、⋮⋮敬愛するお方さえも、失うこととなったというのに⋮
⋮いくら恨んでも、恨み足りない⋮⋮しかし、それでも。それでも、
ああ⋮⋮なんと恐ろしい⋮⋮﹂
ヒンダリスは絶望的な表情を浮かべて俺を見上げる。
なんか⋮⋮そりゃあ脅そうとはしたけど⋮⋮したけど、だよ? でも内心複雑だ。
246
いくらなんでも恐がりすぎじゃないのかと思うんだけど?
俺ってほら、自分でいうのもアレだが、見た目は好青年じゃない?
睨み付けたところで、そんな怖くないだろうに。
なんでいつも、みんな過剰に反応するんだ。
きっとあれだな⋮⋮むしろ、デヴィル族が多いからこそ、こうな
るんだろうな。デーモン族相手なら、俺がすごんでも怖くはないは
ず⋮⋮うん。そう思っておこう。
﹁お許しください。どうか、お許しください!﹂
急にヒンダリスはそう叫ぶと、うつ伏せに体を転がし、背中を左
右に揺らし出した。
俺に言っているのかと思ったが、様子が変だ。
その瞬間、魔術のひずみを感じた。
小さな術式がヒンダリスの体内で生じたのだ。
とっさに解除を試みる。だが、体内では術式の詳細は、完全には
見て取れない。しかし、規模も大きくはない。威力の軽減はできる、
はず。
そんな俺の考えも、むなしく。
一瞬の後、ヒンダリスは口を大きく開き、白目を剥いた。
﹁!? おい、ヒンダリス!!﹂
俺はしゃがみ込み、ヒンダリスの首に手をかける。
領内唯一の鑑定魔術を保持した男は、事切れていた。
247
23.この間もピンチでしたが、今度はまた違う意味で大ピンチ
です!
ああああ、何でこんなことになったの!?
俺が脅しすぎたの!?
どうしたらいいの!?
ジブライールにアソコを蹴られたときは、これ以上のピンチはな
いと思っていた。だが、今まさに、それ以上の窮地に追いやられよ
うとしている。
エンディオンと戻ってきた医療員は、サンドリミン一人。
自白を強要する、あるいはそれに似た魔術を持つ者は、現在の医
療班には一人もいない、という報告とともに。
もっとも、自白も何も、今となっては無駄だ。ヒンダリスは死ん
でしまったのだから。
せっかくなので、サンドリミンにはそのままヒンダリスの死亡診
断をしてもらった。結果はもちろん、仮死でも失神でもない、完全
な死だ。当然、全身を覆っていた魔力は、今はひとかけらも残って
いない。
死因は魔術解剖してみなければわからない、とのことだったので、
遺体は医療班に預けることにする。
まあ、自分で自分の体内に魔術を展開しての自殺、というのは間
違いないだろうが。
﹁ところで、サンドリミン⋮⋮こんな三面鏡について何か知らない
か?﹂
布を解き、しっかりと閉じた状態の鏡を見せてみる。
248
﹁鏡⋮⋮で、ございますか?﹂
手を伸ばしてきたので、俺はそれをとどめた。
﹁触るな。万が一のことがあってはいけない。呪詛に関係ないとは
思うんだが⋮⋮その⋮⋮いわゆる魔道具、でな﹂
人間は邪鏡と呼んでいるようだが、魔族の間ではこういった魔術
や魔力に関係した道具のことを、魔道具と呼び表す。
医療班としていろんな症状の患者を診ていれば、その原因だって
調査するだろう。呪詛を研究している彼らならば、状態異常の一因
となり得る魔道具のことも、調査対象としているかもしれない。⋮
⋮そう考え、尋ねたんだが。
﹁いわゆる魔鏡、とやらですね。効果はどういったものが?﹂
﹁⋮⋮効果はすまん。今はまだ伏せさせてくれ。だがもし、こうい
った魔道具に心当たりのある者や詳しい者が医療班にいれば、ぜひ
知恵を借りたい﹂
﹁かしこまりました。必ず、そのように﹂
サンドリミンはどこか寂しそうな表情で頷くと、死体を引き取っ
て執務室を出て行った。
悪いなサンドリミン。さすがにエンディオン以外には、この状況
を告白できない。小心者の俺を許してくれ。
俺は改めて執務机につき、エンディオンに説明する。
﹁どうやら、ヒンダリスはヴォーグリムに忠誠を誓っていたらしい。
俺に主を殺害され、恨みを抱いての犯行のようだ﹂
﹁さよう⋮⋮ですか⋮⋮﹂
エンディオンは腑に落ちない、といった表情だ。
﹁なにか引っかかることが?﹂
﹁どうも⋮⋮記憶をたどってはみたのですが、ヴォーグリム大公が
それほど宝物庫に足しげく通い、彼を重宝していた記憶がございま
249
せんので。しかし、これはあくまで私の印象によるものです﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
確かに、俺が大公位に就いて後の簡単な調査では、ヴォーグリム
に心酔しているような者はいなかったはずだ。もっとも、誰もがみ
んな、わかりやすく思想を公表している訳でもないのだし、調査し
ている者だって脳筋魔族なのだから、情報に穴があるのは仕方ない。
﹁実は、奴はヴォーグリムの家族の存在をほのめかしていたんだ⋮
⋮俺はリーヴぐらいしか知らないが、エンディオンなら何か心当た
りがあったりしないかな?﹂
﹁ヴォーグリム大公のご家族⋮⋮でございますか? いえ、寵姫は
大勢おいででしたが、お子様は⋮⋮旦那様もご存じのように、かの
大公閣下はご家族は不要と思われていたご様子でして﹂
﹁報告にあったからな⋮⋮まあ、口にしたくないようなことを、し
ていたことは知ってる﹂
ヴォーグリムが大公位の安定のために、子をなした女性を殺害し
たり、生まれた子を亡き者としていた⋮⋮というのは、報告があっ
たので知っている。
他者には残虐を好む魔族だが、身内にはとことん甘いことが多い。
だから奴の行為を知れば、眉をひそめる者がほとんどだろう。
﹁とにかく、ヒンダリスの動きについて、詳しく知りたい。調査を
頼んでもいいかな?﹂
﹁ご命令などなくとも、もとよりそのつもりでございます、旦那様﹂
エンディオンは深く頷いた。
﹁この鏡については、図書もあたろうかと思ってるんだ。なにせ、
造ったのは人間だというし⋮⋮。確か、司書がいたよな? ぜひ、
力を借りたいんだが﹂
250
この城の図書館は、ちょっとしたものだ。その規模で大公の威信
を誇る目的のためか、ほとんど誰も読みもしないのに、無駄に大量
の本が収蔵されていた。そこにさらに俺が自分で集めた分を追加し
たものだから、本棚に収まりきらないほど、蔵書が増えている。近
々、増築を考えていたほどだ。
そして、俺が集めた本の大部分は、人間たちの町から得たもので、
当然書き手のほとんどは彼らだ。魔力が無いかあっても微弱なもの
でしかない彼らには、脳筋魔族ではとうてい及ばないほどの想像力
が備わっているらしく、真実に基づく物語であっても、虚構の物語
であっても、その内容は多種多様に富んでいた。
ヒンダリスは鏡を作ったのは人間だと言っていたから、きっと、
一冊くらいはこの鏡についてか、もしくは近いものに対する記述が
見つかるはず⋮⋮見つかる⋮⋮と、いいな⋮⋮と、思う。
俺は、一度でも読んだ本の内容は、ざっくりとだが覚えている。
所蔵の五割ほどは、なんとか時間をつくって読み込んではいたが、
それでも後の五割に関しては、全く内容の見当がつかない。
だから姿も見たことがない、図書館司書の力を借りることにした
のだが。
﹁司書、ですか⋮⋮﹂
﹁⋮⋮いた、よな? 確か﹂
未だ会ったことはないのだが、いる筈だ。
﹁いるにはいるのですが⋮⋮﹂
﹁いるのですが?﹂
何か問題でもあるのか? まさか、名目ばかりで全く仕事をして
いない、その能力すらもない、とか?
﹁名をミディリースと申しまして、もう六百年もこの城に勤めてお
251
ります﹂
おお、ベテランじゃないか。それは頼もしい。
﹁ですが⋮⋮実は、その⋮⋮六百年の間に、その姿を見た者はほと
んどおらず⋮⋮私にしましても、二度、目撃したばかりで⋮⋮しか
も一度は、司書を決める面接の時でして、実質、図書室で見かけた
のは一度⋮⋮﹂
は?
何それ⋮⋮え?
﹁いやいやいや、まさか。そんな六百年間ほとんど誰も姿を見たこ
とがないだなんて、そんなはずはないだろう。単に、魔族のほとん
どは本を借りたりしないから、図書館にいることの多い司書とは、
顔を合わせる機会もないというだけで⋮⋮﹂
﹁旦那様。もちろん、旦那様には及ぶべくもございませんが、私と
て読書はいたします。少なくとも、二十日に一度の頻度で、図書館
に通う程度には﹂
﹁あ、うん。ごめん﹂
二十日に一度は、魔族にしては確かに読書家な方だね。魔族にし
ては!
だがそう言われれば確かに、この城に暮らした期間はエンディオ
ンに比べれば遙かに短いとはいえ、それ以上の頻度で図書館に通っ
ている俺にしたところで、一度も司書を見かけたことがないわけで
⋮⋮と、なると、そのミディリースって奴、ほんとに実在してるの
か?
﹁仕事はきちんとこなしているようです。本はいつもきちんと整理
されておりますし、新しい本の要求や、備品の請求なども定期的に
あります。意見書などもたまに届きますので﹂
なにそれ⋮⋮え?
まさか、透明魔術の持ち主、とかじゃないよな? 近くにいるけ
252
ど姿の見えないあの人、とかじゃないよな?
﹁⋮⋮大変そうだけど、伝言を頼む。明日にでも俺が知恵を借りに
出向くから、姿を見せてくれるようにって⋮⋮﹂
さすがに、図書館でかくれんぼをするつもりはない。ちゃんと出
てきてくれないと困る。
﹁はい、必ずそのように、お伝えしておきます。旦那様﹂
﹁⋮⋮悪いな、エンディオン﹂
﹁とんでもございません、旦那様﹂
本来なら、こういった種々の手配は筆頭侍従に命じることだ。家
令のエンディオンの役目ではない。それを思うと、申し訳なかった。
そうしてエンディオンは一礼して出て行き、俺は一人、執務室に
取り残されたのだった。
とりあえず、俺は俺でできることを試してみるしかあるまい。
本当ならこんな時は、他者の知識を募るべきなのだろう。サンド
リミンにだって、正直に今の状態を告げて、全面的な助力を願い出
るべきだ、と。
ああ、俺たちが魔族でなければ、それは正解だろう。
だが、万が一にも俺が弱体化していることが漏れ、広く知られれ
ば、当然のようにその地位を狙った挑戦者が列をなすことは想像に
難くない。
そして、敗れる。
さすがにそれは許容できない。
と、なると、今の状態についてはなるべく明かしたくない。さて、
解決するまで秘密にしていられればいいが。
せめてもの慰めは、俺が術式をも一閃できる名剣を運よく手に入
れられたこと、そして、その剣をふるうにふさわしい技量をもって
いること、だ。
253
純粋な魔力量や魔術の威力で劣っても、工夫しつつこの剣に頼れ
ば、ある程度の相手にも対応することはできるだろう。
そういえば、ウィストベルなら何か知らないだろうか?
彼女は俺と同じで、変わった本を集めたり読んだりするのが趣味
だ。
魔力を奪う鏡について、何か情報を持っていないだろうか。
本来なら直接<暁に血塗られた地獄城>を訪れて、意見を聞きた
いところだが、彼女の城の男どもときたら、俺にはあまりいい感情
を持っていないようだからな。
こういう時に限って、マーリンヴァイールのような輩が、また現
れないとは限らない。
危うい橋は渡らない、というのが、俺の信条だ。
俺は机の引き出しから紙とペンを取り出すと、詳しい現状は伏せ、
邪鏡ボダスについての知識を問う手紙を書き、それを<暁に血塗ら
れた地獄城>に届けさせたのだった。
***
さて、情報を整理してみよう。
宝物庫の管理責任者としてのヒンダリスの元で働いていた職員た
ちを取り調べた結果は、全員が無爵で脳筋の脳天気だった。誰一人、
上司の思惑に気づいた様子はない。その上、邪鏡ボダスに何らかの
反応を見せた者もいなかった。
記録簿も閲覧したし、きちんとした説明も受けたが、記載さえど
こにもない。それどころか、職員たちは口をそろえて、ヒンダリス
の私物なのだろう、という。
聞けば、奴は自分の所有物をよく宝物庫に持ち込んで、リストに
254
加えていたらしい。その中には明らかに大公の所蔵品として相応し
からぬ価値の低いものもあったとのことだ。だが、それに気づいた
ところで相手は鑑定魔術を持つ伯爵だ。加えて横暴な上司とくれば、
異を唱えることすらできなかったと、職員たちは言葉を濁しながら
も、告白してきた。
なにせヒンダリスは、自分に異を唱える者はもちろん、性格が気
にくわないというだけでも、すぐに部下を免職にしたそうだ。そん
なだから、二十人近い職員たちの全員がこの五年以内に採用された、
職歴の浅い者たちばかりだった。
彼らは一様に、ヒンダリスが俺の大公位に挑戦して返り討ちにあ
った、という情報を信じているようだった。あの高慢っぷりなら、
そんな大それたことでもするだろう、という見解のようだ。一人が
不満の口火を切ったのを合図に、全員から今までの不満を滔々と語
られた。
俺にうっぷんをぶちまけてすっきりしただろう彼らには、全所蔵
物の調査点検と、ヒンダリスが操作したと思われる品物の洗い出し
を頼んだ。もしかすると、邪鏡ボダスの他にも魔道具が粉れこんで
いるかもしれないからな。通常業務へ戻るのはそれからだ。その上
で、配下に職員たちの様子をそれとなく探らせるよう指示はしてあ
る。
ちなみに、宝物庫責任者の後任には、ヒンダリスがたまたま伯爵
であっただけで、無爵であってもよいというので、職員たちの意見
を取り入れて一人を選び、管理責任者代理とした。
それから当然だが、今回の件については箝口令を敷いた。職員た
ちは全員、神妙な顔つきで口外しないと誓ってくれたが⋮⋮うん、
ここでもちょっとビクビクして見えたのは、やはり全員がデヴィル
族だったからだろう。
255
ヒンダリスの身辺調査の第一報もあがってきた。
それによると、奴がこの城の宝物庫に勤めだしたのは、二百年ほ
ど前のことらしい。
兄妹は奴を含めて十二人。そのうち五人は他領で爵位についてお
り、両親と四人は既にこの世に亡く、二人は他領の一領民として、
健在であるそうだ。
つまり、生きている身内はすべて俺の領民ではなく、さすがに他
領にまで調査の手は及ぼせない。
だが少なくとも、この城に勤めて以後、実家や家族とのやりとり
は無かったようだ。
そしてそれ以外の関係者となると、知人友人、つきあいのある者
の調査を命じたが、今回のたくらみに関係のありそうな話は未だ出
てきていなかった。
そして現在、俺はヒンダリスの死因が判明したとの報告を、サン
ドリミンから受けているところだ。
さすがは大公の医療班。数時間のうちに、報告をあげてくるだな
んて、仕事熱心だな。
﹁死因は内臓の消失、です﹂
﹁消失?﹂
﹁体内にぽっかりと、空洞ができているのです。跡形もなく。その
周囲は、焼け焦げ、ただれ、見るも聞くも楽しい⋮⋮ごほん、いえ、
おぞましい、有様でした﹂
﹁自分で内臓を焼き切ったか﹂
﹁そのようです。信じ難いことに﹂
自分の目と魔術で確認した事実ながら、サンドリミンの表情には
驚愕の色が濃い。
256
それはそうだろう。
普通の魔族ならそんな方法は思いもつかないし、実行できるはず
がない。他者を痛めつけるならともかく、自分を痛めつけるなんて。
そもそも魔族に自虐趣味の者はほとんどいない。多少その気があ
ったって、死ぬことまでは考え及びもしないだろう。
﹁自分で自分を痛めつけるなど、リーヴの話を思い出しますな﹂
サンドリミンがぽつりと言った。
ん? なぜ、リーヴ?
なに、あいつ、そういう趣味があるの?
確かに俺を襲撃し、あっけなく捕まった直後は、死にたがりかと
思わせるようなことを言ってはいた。だが、実際に殺気を向けるや、
素直に後じさったことからもわかるように、檻がなければ脱兎のご
とく逃げをうったことだろう。そんなリーヴに、自分を痛めつける
ことはできないと思うが。
﹁ああ、まだそこまでご存じではありませんか。そうでしょうとも。
旦那様はお忙しい身⋮⋮それにあれは、報告書の最後でしたし、お
まけのようなものですからな﹂
サンドリミンの視線が冷たく感じるのは、気のせいだろうか。
もしかして、いや、もしかしなくても、例の分厚い報告書か?
確かあれ、私室に持ち込んだはずだが⋮⋮うん、結局一頁も読ん
でないな。申し訳ない。
いや、読もうとは思ったんだ、読もうとは。でもほら、毎日慌た
だしくて⋮⋮というか⋮⋮。うん、ごめんなさい。
しかし、あれにリーヴがどう関係してくるっていうんだ?
リーヴにも実験に協力してもらったということか?
リーヴといえば、あいつにも一度、話を聞いてみた方がいいかも
な。今回の件とは直接は関係ないだろうが、ヴォーグリム絡みとい
257
うことで、何か心当たりがないとは限らない。なにせ、ヒンダリス
の言葉を信じるなら、奴はヴォーグリムとその家族に忠誠を誓って
いたらしいからな。
﹁話が脱線しました。申し訳ありません。とにかく、ヒンダリスの
死因については、以上でございます。詳細は報告書にまとめてござ
います﹂
そう言って、サンドリミンは数枚にまとめられた用紙を差し出し
てきた。
﹁ああ、ご苦労様﹂
その報告書には、解剖図や考察、結論などがかかれている。
まあ、今の報告をより詳細に記してあるだけだ。目新しい事実は
ない。
﹁それから、魔道具の件ですが⋮⋮﹂
﹁ああ、何かわかったか?﹂
﹁申し訳ございません。残念ながら、お役に立てそうな者はおらず
⋮⋮﹂
医療班もさすがに魔道具までは誰も研究していないか。
魔族にとって、魔術は己の才覚。自らの魔力を反映させられるか
奪える道具ならともかく、そうでなくば興味も湧かないか。
﹁ところで、大公閣下﹂
﹁ん?﹂
﹁最近、どこか、お体の⋮⋮体調がお悪い⋮⋮などということは、
ございませんか?﹂
え? なに?
顔色でも悪い?
﹁なにか俺、おかしいか?﹂
258
﹁いえ⋮⋮何もなければ、よろしいのですが⋮⋮﹂
﹁あ、うん⋮⋮体は大丈夫⋮⋮だよ﹂
別に魔力が減ったからといって、体調まで悪くなったという覚え
はない。
﹁万が一、医療班でお役に立てることがあれば、なんなりとお申し
付けください。それはもう、持てる力のすべてをもって、対応させ
ていただきますので!﹂
なんだろう。ものすごく、力強い。
﹁ああ、ありがとう。頼りにしてるよ﹂
サンドリミンは執務室から出て行った。
だが、そのときの視線が⋮⋮。
⋮⋮あれ?
もしかして、サンドリミン⋮⋮視線が俺の⋮⋮俺の⋮⋮下半身⋮
⋮。
え?
ちょっと待って!
もしかして、魔力云々の話じゃないのか!?
ちょっと待って!
俺の下半身に何か異常を感じたのか!?
なら言って、なら言って、お願いーーーー!!!
259
24.図書館に棲みついていたのは透明魔族⋮⋮などではなく
サンドリミンの視線が気になる⋮⋮。
しかし、それはいい。今はいいじゃないか。
俺はそのことをしばし忘れることにした。とにかく魔力の件に専
念だ。
現実逃避? いいや、違う。
俺は断じて否定する。現実とは、魔力の減少。それに対処するこ
とこそ、俺が第一にすべきこと!
か⋮⋮確認するのが怖い⋮⋮からではない。ないんだ。
大丈夫。大丈夫だよ、俺。
だって何も異常を感じないもん。
だからきっと、大丈夫。そうとも!
さて、気を取り直して。
今日も、図書館にやってきている。
しかし図書館、とはいうものの、ここは医療棟のように全く独立
した建物ではない。内部は三階の高さに匹敵するほどの、広大な空
間にはなっているが、本棟に付属の一区間であることには変わりな
い。外部からは廊下に出る一カ所と、外のテラスにつながる一カ所。
その二カ所からしか出入りできないのだとしても。
そして今日も、というのは、実は昨日もここに足を運んでいたか
らだ。
だが、司書には会えなかった⋮⋮必ず出てくるようにという俺の
260
命令は、エンディオンから伝わっているはずなのだが⋮⋮。
だが昨日、図書館に入った俺を、出迎える者はいなかった。よく
利用する読書机の上に、一通の手紙が置いてあっただけだ。
そこには綺麗な字で、用件を声に出して言ってくれればその通り
にする。だから会うのは勘弁してくれ、と、まあ、そういう意味の
ことが丁寧で回りくどい文章で、長々と書いてあったのだ。
さすがにそんな馬鹿な話があるかと思ったので、出てくるように
珍しく偉そうに命令してみたのだが、なんの反応もなかった。
仕方がないので、探している本の概要を伝えて帰ってきたのだが
⋮⋮俺の気持ちもわかっていただけるだろうか?
だだっ広い図書館の真ん中で、一人声を張り上げて、淡々と話す
虚しさを!!
いくらその後数時間で、きっちりと俺の執務室に希望通りの本が
届けられたとしても、だ!
今日は絶対に司書を探し出してやる。
俺は固く決意していた。
⋮⋮こんなことをしている場合ではないのに。
﹁ミディリース。今日こそ出てきてもらえないか?﹂
まずは、優しくいってみよう。最初から出てこいオラ、では、余
計萎縮するだろう。昨日はそれで失敗したに違いない。
﹁君が俺の希望通り、本を探して届けてくれたことには感謝する。
だが、やはり顔を見てでなければ、伝えきれないことがあると思う
んだ。実際、こんな風に姿も見せない相手では、もう少し詳しい事
情を話して協力を仰ぎたいと思っていても、そうする訳にはいかな
い。なぜかはわかるだろう?﹂
261
少し、待ってみる。でもやはり返事はない。
仕方ない、今日もこのまま独り言を⋮⋮。
ふ。ふふふ。
な・ど・と。
あきらめるとでも思うか?
俺のこの赤金の双眸は、魔力を視ることができるんだぞ?
いかに相手がこの広い中をうまく隠れおおせているとはいっても、
俺が本気で探せば、探し出せないことなど⋮⋮。
ことなど⋮⋮。
⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
完敗だ。
見つからない⋮⋮。
隅から隅まで、かけずり回って気配を探ろうとしたが、本の他に
は何も見つけられなかった!
ほんとに存在するのか? そのミディリースとやら⋮⋮。
いや、もしかしてずっと図書館にいる訳ではないのかもしれない。
いや、でも昨日も何の気配もなかったけど、本はちゃんと届いた
し、手紙だって⋮⋮。
仕方ない、奥の手だ。
﹁いいだろう、ミディリース。君がこのまま強情を張るのなら、や
むを得ない。俺だってこんな手は使いたくなかったが⋮⋮君を見つ
けるために、見晴らしをよくする必要があるようだ﹂
262
⋮⋮これで、本当にいなかったら恥ずかしいな。いや、いっそい
ない方が、こんな独り言を聞かれなくていいか。
とにもかくにも今はいると仮定して、俺は手のひらの上に炎を揺
らめかせる。出てこないならそれでも構わない、その代わりこの邪
魔になる本を焼いてやるぞっ、というパフォーマンスだ。
もちろん、本気ではない。誰が必死に集めた愛蔵書を、しかも、
今からその知識が必要になるかもしれない重要なものを、焼き尽く
そうというのか。
だが、相手は脳筋魔族。俺の企みになど、気づくはずはない。
ほら、今にもその棚の向こうから、俺に向かって突進してくる影
が⋮⋮。
﹁いやあああああ﹂
ん? ⋮⋮あれ?
あれ?
この声⋮⋮は??
﹁あああああああ﹂
ぐ。
しまった⋮⋮一瞬あっけにとられた隙に、腹に回し蹴りが⋮⋮。
いや、受け止めたけど。炎を消して、手で受け止めたけど!
ちょっとやばかった。入るところだった。
相手がジブライールと同じ早さの足さばきの持ち主なら、たぶん
もらってた!
﹁ぎゃ﹂
俺が右足首を掴んだまま手をあげてしまったので、軸足を保って
いられなくなったのだろう。その上半身がぐらりと揺らぎ、床めが
けて頭から落下していく。
263
衝撃に備えてとっさに目をつむった彼女の細い足首から、俺は手
を離した。すかさず腰を支えて、額が床と﹁こんにちは﹂するのを
防いでやる。
そう。俺は親切をしたつもりだったのだが。
﹁大丈夫か?﹂
﹁ひぃ!﹂
彼女は顔色を赤や青に忙しく変えつつ、俺を突き飛ばしてきた。
﹁ぱ、ぱぱぱぱぱぱ!﹂
﹁ぱ?﹂
﹁パンツーーー!!﹂
は?
再度の回し蹴りを、今度は受け止めず避ける俺。
そして、彼女はそのまま足をすべらせ、顔面から床につっぷした。
***
咳払いを一つして、俺は口火を切る。
﹁さて、改めて自己紹介といこうか。もう知っているとは思うが、
俺はジャーイル⋮⋮この<断末魔轟き怨嗟満つる城>の、現城主だ﹂
今更だが、顔を合わせるのは初めてなのだから、おかしくないは
ずだ。
俺は図書館の中央に並列に設けられた読書机の一つを背に立って
いる。
そして、その目の前で正座をしながら、ほとんど顔を床と平行に
保ってうつむいているこじんまりとした女性⋮⋮彼女こそがこの図
書館の司書であるミディリース⋮⋮で、あるに違いなかった。
264
正直言うと、まさか女性とは思っていなかった。あのクドい長々
しい手紙を書いた相手が、女性だとは思わなかったのだ。
しかし、考えてみればミディリースとは女性名だな。
だとしても⋮⋮本当に本人か? まさか、他の誰か⋮⋮例えば娘
であるとか? なにせ、あの手紙とはあまりに印象が違いすぎる。
その顔は俯きすぎていて、今の表情はうかがいしれない。が、花
葉色の髪を割ってのぞく細いうなじは、真っ赤に染まっている。
﹁閣下、パンツ⋮⋮見た⋮⋮ひどい⋮⋮﹂
⋮⋮。
いや、見てないから。見えてないから。
そもそも、見えるような回し蹴りしてきたのは、君だから。
⋮⋮⋮⋮み⋮⋮見てないけど。
﹁ミディリース、でいいんだよね? それとも、君は誰か別の人?﹂
﹁⋮⋮﹂
返事がない。なぜだ。
ラチがあかない。俺はしゃがみこみ、彼女のあごを掴んで顔をあ
げようと⋮⋮。
﹁きゃあああああ。目が腐るーーーーー!!﹂
⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
俺、落ち込んでいいかな?
なに、この仕打ち⋮⋮。
目が腐る? 俺を見たら、目が腐る?
265
そういうこと⋮⋮だよな、今のは。
デヴィル族から過剰に怖がられるのはまだギリギリ耐えられると
しても、デーモン族の女性からこんな扱いを受けるなんて⋮⋮。
弾かれた手より、心が痛い。
もういい⋮⋮あきらめよう。彼女が俺を目の端にも入れたくない、
近寄りたくないというのなら、それはそれでいいじゃないか。とり
あえず、こうして目の前に出てきてくれたのだし。⋮⋮出てきてっ
ていうか⋮⋮まあ⋮⋮うん⋮⋮。
俺は立ち上がり、彼女から距離をとって読書机の椅子に腰掛けた。
﹁ほ⋮⋮本をありがとう。俺が言ったとおりに、魔道具について書
かれたものばかり、届けてくれて⋮⋮﹂
心を強く持て、俺。そうとも、これはプライベートじゃない。仕
事で来ているんだ。
部下が上司を理由もなく嫌うなんてこと、世の中にはよくあるこ
とさ。
だが今度からは、対面を避ける相手には無理に会わないようにし
よう。なぜ相手が俺を避けるのか? 理由があるに決まっている。
そしてその理由は、知らないままでいる方が、俺の精神安定上のた
めなのだ! そんなことも考え及ばず⋮⋮。うかつだった。
﹁あんまり本の数も多いので、びっくりしたが﹂
昨日俺の執務室に届けられたのは、数ページで終わる薄い絵本か
ら、振りかざせば鈍器になりそうな分厚い本まで、しめて五十冊。
その本を読み解いていたら、ほとんど眠れなかった。
⋮⋮決して、サンドリミンの視線が気になって、眠れなかった訳
ではない。ないとも。
266
ちなみに、それでもまだ半分以上は残っている。
速読術をマスターする必要性を、感じているところだ。
﹁きょ⋮⋮きょ、届ける分⋮⋮です﹂
ミディリースの指が、図書館の一角を指す。そこには、さらに六
十冊ほどの本が積み上げられていた。
﹁ああ⋮⋮ありがとう﹂
その量に、思わず口元がひくつく。
自分の窮地を知られたくないからといって、魔道具に関して書か
れた書物を届けてほしい、なんて、あまりにもざっくり伝えすぎた
結果が、これだ。
事情をすべてあかすのは無理でも、せめてもう少し情報を伝えて、
選択肢を絞ってもらうべきではないか。だがそうなると、勘のいい
相手なら結局は何かしらの真実を察するに違いない。
だから、協力を仰ぐにしても、相手と会ってその人となりを見極
める必要があったのだが⋮⋮。
﹁ところで君は⋮⋮えっと、普段はどうやって⋮⋮生活してる、の
かな?﹂
城の出入りは俺のところまでいちいち報告があがってこないだけ
で、自由なようでもちゃんと記録されている。
それを確認したエンディオンによると、ミディリースがこの城で
勤めだしてから、一度として城外に出たという記録はない、らしい。
まさか、いくら誰も姿を見たことがない、といったって、この図
書館から一歩も出ない、というわけでもないだろう。城内の官舎に
部屋を確保していて、そこから通っているのだろう⋮⋮と、思った
のだが、彼女は図書館の壁の一カ所を指さした。
そこには、廊下やテラス、つまり外とつながる二カ所の扉とはま
た違う、質素で小さな扉が。
267
﹁資料⋮⋮室?﹂
備品や資料を置いてある倉庫、のはずだ。俺も入ったことがある
が、細長い廊下のような狭い部屋の両脇に、天井まである棚が並ん
でいるだけで、とても人が住めるようなスペースはない。
彼女は俺の言葉に頷き、それから小声で言った。
﹁奥⋮⋮部屋⋮⋮﹂
﹁え? 部屋?﹂
⋮⋮どういうことだ?
﹁隠し⋮⋮部屋⋮⋮?﹂
いや、疑問形で言われても!
むしろ俺が聞きたいんだけど。隠し部屋ってどういうことだ?
食事や風呂はどうしてるんだ? もしや奥って広いの?
まさか、水回り完備とか言わないよな? 誰も彼女を見かけない
のは、もしかして普段はそこに隠れているからか?
今度、じっくり城の見取り図を見てみよう⋮⋮。
﹁部屋があるのはわかったけど、だからってまさか、図書館から一
歩も出ないって訳はないよな? 昨日だって、ホントは外出してて
いなかったから、出てこなかっただけだよな?﹂
いや、別に昨日のことはいいんだけど、思わず疑問が口をついて
しまったのだ。
﹁ろ⋮⋮六百⋮⋮年⋮⋮﹂
は?
﹁一歩も⋮⋮﹂
え? 本気で言ってる?
六百年間、一歩もこの図書館を出ていないって、本気で言ってる?
268
⋮⋮だめだ。これ以上、聞いたらいけない気がする⋮⋮。知らな
い世界のまま、おいておこう。
﹁あー、それで⋮⋮話は戻るんだけど、選ぶ本をもう少し絞っても
らえないかと思って、情報を追加しに来たんだが﹂
半分ほど読んだ現状では、俺の欲しい情報はどの本からも、まだ
出てきていない。いくら物語的にはおもしろい本ばかりでも、隅々
まで無駄に読み解いている余裕はないのだ。
﹁⋮⋮お役に立てなくて⋮⋮﹂
え?
いや、ちょっと。
何、この娘⋮⋮さっきの回し蹴りしてきた勢いは、どこにいった?
なんでちょっと、しょんぼりしてるんだ? そんな肩を落とさな
くても⋮⋮。
﹁いや、そんなことない。ものすごく、助かってるよ! むしろ俺
に、配慮がたりなかったというか!﹂
なぜ俺がこんな必死にフォローを?
﹁閣下、に⋮⋮いつも⋮⋮感謝⋮⋮。本、増えて⋮⋮私、うれしい﹂
あと、なんでこの娘、こんなカタコトなの?
もしかして、俺と話したくないから、言葉少ななの?
人見知りの激しいアディリーゼでも、もうちょっとマシだぞ。
それにさっきから、一度も目を合わせてくれないし。
っていうか、そもそも顔を見たのは、回し蹴りの前後だけだ。む
しろパンツ⋮⋮いや、なんでもない。
﹁私、頑張る⋮⋮任せて、ほしい﹂
彼女はぐっと手を握り、胸をたたいた。
269
顔は俯いたままで⋮⋮。
うん、やる気は伝わってきたよ。
﹁ありがとう。じゃあ、早速だけど﹂
俺は邪鏡、またはボダスという名前に関係する情報、あるいは魔
道具によってもたらされた効果を解く方法、ということに重点を置
いて、書物を探してほしい旨を伝えると、彼女は小さく頷いて了承
の意を示した。
﹁⋮⋮それで、ミディリース。今日は本当に、強引に会ったりして
悪かった⋮⋮。俺も反省したよ。そこで提案なんだが、これから後
のやりとりは、できるだけ手紙でしよう⋮⋮それでどうだろう? あ、もちろん簡単な書き付けでいいから﹂
俺がそう提案すると、彼女はさっきより大きく、何度も頷いた。
そうか⋮⋮それほどに、俺と顔を合わせるのはいやか⋮⋮。
そうして俺は、逃げるように図書館を後にしたのだった。
270
25.妹が、なにやら浮かない顔をしています
図書館を訪れた、翌日のことだ。
﹃突然、こうして二度目のお手紙をお届けいたします不敬を、お許
し下さい。昨日の、閣下に対する大変無礼な態度についてもまた、
深く陳謝いたします。申し訳ありませんでした。それというのも、
私はもう六百年ほどこの図書館で一人引きこもり、その間に会った
お方も口を利いたお方もいないのです。ただ一度、本の整理中にう
っかりと、エンディオン殿に見つかってしまったことがあるばかり。
先代のヴォーグリム大公とはお会いしたことすらありません。
そんな状態ですので、どなたかと対面して、よどみない言葉を発す
るには、長すぎる空白が私の声を嗄らし、心を怯えさすのです。そ
れも、大公閣下がお相手では!
ですからどうか、あの時の私の態度を、悪意をもって解釈なさらな
いようお願い申し上げます。私はそれはもう、あの時も申しました
通り、閣下には平素よりひとかたならぬ感謝と敬愛を捧げているの
でございます。
︵中略︶
しかし、それはそうとしても、閣下のあのなさりようも褒められた
ものではないと愚考いたします。冗談にしても、本を焼くだなどと
おっしゃるとは、あまりにもたちが悪すぎます。そもそも、あの場
で炎を出現させるなど、万が一のことがあったならと想像するだに
恐ろしく⋮⋮
︵後略︶﹄
冒頭の三枚は、以上のような挨拶と言い訳じみた言葉と、俺に対
する説教で埋めつくされていた。誰あろう、ミディリースからの手
271
紙だ。
彼女は俺の要望に対して、また新たな本を三冊、届けてくれた。
それについていたのがこの十枚に及んで、細かい文字がびっしり書
き綴られた手紙だ。
喋るとあんなカタコトだったのに、この手紙の長々しさはなんだ。
本当に同一人物か?
⋮⋮うん、わかった。とりあえず、六百年の引きこもり経験が、
とても大変なことだというのはよくわかった。
﹁本題は⋮⋮﹂
四枚目からだった。
手紙には、三冊の内容の詳細な解説があった。そして何故その三
冊を選んだのか、という理由。
﹃それは閣下が現在、魔道具の持つ効力によって、何らかの不利益
を被っていらっしゃる、そしてそれを解決するための手段を、書物
の中に求めていらっしゃるのではないか、ということ。なぜ、そう
判断したかと申しますと、先日お会いした時の閣下のご様子が、い
つもと違って﹄
待て。
いつも? いつもと違って?
いつもって何だよ。俺と彼女は、先日が初対面⋮⋮いや、まあ、
そりゃあ、俺が気づいてなかっただけで、図書館に引きこもってい
るわけだから⋮⋮え? いたの? いつも見てたの、俺のこと?
まあいい。そこはいい。この際いい。
とにかく、ミディリースは俺にいつもの余裕がないことに気がつ
いたらしい。そして追加された情報から、魔力の減少までは突き止
められてはいないだろうが、俺が魔道具によって被害を被っている
272
現状に気付いたというのだ。
見た目の印象と違って、思ったより勘が鋭くて若干焦る。
まあ⋮⋮推測に解答は示さないで済ますことにはして。
幸いにも、というか、ミディリースは引きこもりだ。それも、六
百年という年季のはいった。彼女から、他に漏れることはない⋮⋮
と考えても、たぶん大丈夫だろう。
﹃邪鏡と言う呼び方に込められた意味を、閣下がご存じないことと
仮定して御説明いたします。が、これは決して閣下を侮っている訳
ではなく、⋮⋮
︵中略︶
⋮⋮つまり人間たちは、彼らが作ったもので価値のある効力を発す
ると認めた魔道具には聖を冠し、不利益をもたらすとされるものに
は邪を冠するのです。邪鏡と呼ばれるからには、その鏡がもたらす
ものは、人間にとっても不利益であるはずだということ。しかし、
そうはいえ邪鏡と呼ぶものが一転して⋮⋮
︵後略︶﹄
長いので割愛する。
いや、ほんとに長いから。
ミディリースは、手紙と口で語る内容を、足して二で割ればいい
んじゃないのかな。
とにかく、彼女の結論としては、こうだった。
人間の町にでも行って、聖者と呼ばれる職業のものをさらってく
と。
るか、その場で脅すかして、魔道具の効果を無効化させるのが、一
番手っ取り早い
ミディリースは人間によって造られたものは、その効力も解除の
仕方も、人間ほど詳しい者はいない。よって、彼らの手を借りるの
273
が一番確実で簡単だ、というのだ。
届いた三冊も、魔道具で被った被害を、聖者が解いた実例が載っ
た本ばかりだった。
正直にいうと、俺だってその手は考えなかったわけじゃない。だ
が、<人間>だぞ?
人間に祓ってもらう、ってことは、つまり人間の力に頼る、とい
うことに他ならないわけだ。
さすがにそれは、魔族の大公としてどうかと思うじゃないか? しかも、魔力に関することで。
俺は、ミディリースに返事を書いた。
﹃本と手紙を、どうもありがとう。君にせっかくご教示いただいた
提案ですが、実行には踏み切れません。心中は察していただけるか
とは思います。その方法は、僕も考えないではなかったのですが、
やはり最終手段にとっておきたいと思います﹄
俺はその短い手紙に封を施し、図書館に届けさせた。
魔力が減少して、今日で四日目。
さすがに我慢の限界だ。
実はさっき、思い切って鏡を開いてみた。もう一度姿を映してみ
たら、今度は魔力が返ってくる、なんて、都合のいい展開には⋮⋮
当然ならなかった。
それどころか⋮⋮不安が増しただけだ。開いたそこにあったのは、
ただの磨かれた鏡面のみ。俺の魔力の残滓さえ、見つけられなかっ
たのだから。
まさか、吸われた魔力は完全に消滅し、二度と戻ってこない、と
かじゃないよな? 大丈夫だよな?
274
⋮⋮いや、きっと大丈夫。大丈夫だよ、根拠はないけど!
むしろ、何もなかったことを喜ぶべきかもしれない。そう、さら
に百分の一になるという可能性も皆無ではなかったのだから。
しかし、疲れがハンパなくたまってきているのを感じる。ここ数
日、ほとんど寝てないから余計だろう。
だが、この数日で俺の変化に気付いたのは、妹、ただ一人だ。
事情を知るエンディオン以外には、いつも通りに接しているつも
りなのだが、マーミルだけが怪訝そうな顔をして、俺の表情をうか
がってくる。
もっとも、現在俺は謁見以外の理由で、ほとんど執務室から出る
ことはない。夜も休憩室で仮眠をとっている。通常業務以外の自由
時間を、この状態を解決するための模索に費やしているのだ。
だから妹とは一昨日、昼食の時に顔を合わせただけなんだが、そ
れでもその一回の機会に何かを感じたらしい。
なにせ、こうして執務室まで押しかけてきているのだから。
﹁お兄さま、本当にどこか、お悪いのではなくて? それとも何か、
重大な問題がおありですの? もう何日も、寝室に戻ってらっしゃ
らないわ﹂
﹁単に仕事が忙しいだけだ。心配いらないよ。そりゃあ、お兄さま
はこれでも大公だからな。仕事も心配事も、山ほどあるさ。今はと
くに、筆頭侍従がいないから、よけいに忙しくてな﹂
悪いが、ワイプキーのせいにしてしまおう。
﹁ああ⋮⋮挑戦を受けて敗れた、というお話は聞いていますわ﹂
妹の反応は、やや冷ややかに見える。
﹁だろう? それで筆頭侍従を選ぶために公募をする予定で、その
準備やなんやで忙しいんだ﹂
275
全くの嘘ではない。実際、筆頭侍従の敗北は、領内に特別の意味
をもって広まっているようだ。公募前だというのに、自薦他薦を問
わず、経歴書じみたものが山を成すほど送られてきている。
最近は、謁見にもその目的でやってこようとする者も多く、俺は
二重の意味で爵位を持つ者の謁見を禁止したところだった。
﹁次の筆頭侍従も⋮⋮デーモン族がいいですわ﹂
ぽつり、とマーミルがつぶやく。
あれ? さっき冷たく感じたのは気のせいか?
マーミルはこの城では数少ないデーモン族であるワイプキーを、
気に入っていたのだろうか?
エンディオンと違って、接点はほとんどなかったはずだが。
﹁あとは、独身であることが望ましいと思いますわ。間違っても、
未婚の娘がいるような野心家はいけませんわ﹂
﹁気には留めておくよ﹂
エミリーのことをまだ気にしているのか。
﹁今はそんな事情で忙しいだけだから、大丈夫。マーミルが心配す
るようなことは何もない。もう少しすれば新しい筆頭侍従も決まっ
て、お兄様も通常通りの生活に戻れる予定だ﹂
﹁でも、お顔の色が冴えませんわ⋮⋮﹂
顔色、だよな? あくまで冴えないのは顔色だけだよな?
﹁マーミル様。お兄さまはご多忙ながら、至ってお元気なご様子。
でも、お嬢様がいつまでもこちらでお邪魔なさっては、かえってお
仕事に支障がでて、終わるものも終わらなくなってしまいますよ。
さあ、いい子ですから、アレスディアとお部屋に戻りましょう?﹂
相変わらず、アレスディアは気が利く。
しかし、今日は珍しく双子は一緒じゃないのか。執務室にやって
276
くるので、遠慮したのだろうか。
﹁アレスディアの言うとおり、俺は元気そのものだ﹂
﹁嘘⋮⋮とてもそんな風には見えませんわ。ちゃんと休んでらっし
ゃらないのじゃなくて?﹂
鋭いな、意外に。
﹁まさか、お兄さま⋮⋮どこか、お体に不調なところでもあって⋮
⋮不安で夜も眠れない、とか⋮⋮﹂
待て。今、なぜ視線をさげた。お前の言う不調な箇所ってどこだ。
足下をみている⋮⋮んだよ⋮⋮な? 俯いただけだよな?
﹁体調なんてどこも悪くない。むしろ、絶好調だ﹂
ああ、そうとも! 悪くなんてない、ちょっと眠たいだけだ!
﹁本当に? でも、なんだか嫌な予感がしますの﹂
おい、嫌な予感ってなんだ。そして、なぜ視線は微妙に下がった
ままなんだ。
俺は心中の不安を隠しつつ、妹の目線にあわせてしゃがみこみ、
その柔らかい頬を撫でた。
﹁大丈夫だ。お兄さまを信頼しろ。確かに、現状、心配事に悩まさ
れている。が、数日のうちには解決する。それまで、お前の心を悩
ますようなことは、何一つ起きないと約束しよう﹂
妹は俺の手に二回り以上小さな手を重ね、渋々といった感じで頷
いた。
﹁わかりましたわ、お兄さま﹂
まだ納得しかねるといった表情で、けれど妹は侍女と共に執務室
を出て行った。
まさか、マーミルがあれほど食いついてくるとは。
俺のことに関しては、勘がいいというか⋮⋮さすがは兄妹という
277
べきか。
⋮⋮ちょっとした勘違いがあるようだが。
***
私はだまされませんわ、お兄さま!!
だって、本当に、お兄さまが寝室でお眠りにならないなんて、異
常事態ですもの!
私たち魔族にとって、あまり意味のないものは多いのです。
毒は効きませんし、気温の変化で気分は変わっても、体調に影響
を受けることはありません。そして、もちろん睡眠というのも、ほ
とんど無意味なものの一つです。
実をいうと、子どもの私ですら数日起きていたところで、ほとん
ど全く、疲労や体調に影響はないのです。
寝室にいても、眠るか眠らないかはまた別問題⋮⋮だからそう、
ベイルフォウスのように、一晩中いかがわしいことをしていても、
何の問題も支障もないのです。
ただ、寿命などほとんどないと言っていい魔族にとっては、やは
り何かで気分を変える必要があります。お手軽にできる気分転換⋮
⋮それを実現するのが睡眠なのです。
でも、お兄さまは違う。
お兄さまだけは違うのです。
誰に何を言われたのだか、それとも人間の書いた本などを熱心に
読むあまり、そう思い込んだのか⋮⋮とにかく、お兄さまは睡眠で
体力が回復する、疲れがとれる、と信じている節があります。そし
て、毎日きちんとお休みになるのです。六時間ほどがっつりと!
278
それもただ眠るだけじゃありません。ぐっすりです! 私が寝顔
見たさにたまに寝室へ入り込んでいても、全く気がつかないありさ
まなのです!
その、お兄さまが⋮⋮。寝室に戻らないで、執務室にこもりっき
り?
一大事に違いありません!!
体調に不安があるあまり、夜も眠れず、仕事をせざるを得ない状
況であるに違いありません!
そしてそう! 私にはその不安に心当たりがあります。あのお誕
生会での、ジブライール閣下による下半身への見事な攻撃⋮⋮。あ
んなにのたうち回る⋮⋮いえ、のたうち回ることさえできずにうず
くまるお兄さまを見たのは、生まれて初めてなのです!
かわいそうなお兄さま⋮⋮人前に出るのも憚られるほど、夜も眠
れないほど思い悩んでいるだなんて、よほど支障があったにちがい
ありません。
医療棟を訪ねてもみましたが、お兄さまからは何もご相談を受け
ていない様子。箇所が箇所だけに、ためらう気持ちもわからないで
もありません。
最近では、図書館に通われ、本を取り寄せているとか。医療班に
かかるのが恥ずかしくて、治療法を本に頼っているにちがいありま
せん!
本など役に立つ訳もないのに!
お兄さまが変な習慣を覚えたり、効果のないことをやり出してし
まう前に、なんとかしなければ!
仕方ありません、ここはマーミルちゃんがお兄さまのために、一
279
肌脱いであげましょう!
﹁さあ、アレスディア! ペンと紙を用意してちょうだい!﹂
﹁どなたにお手紙を?﹂
﹁決まっているでしょ。こういう時にしか役に立たない男と、お兄
さまの悩みを作った張本人へよ!﹂
なによ、アレスディア! その冷たい目は!?
280
26.髭親父が長い謹慎の末に得たもの
﹁何? マーミルがいない?﹂
妹の姿が城内に見あたらない、と報告にやってきたのは、その剣
術の指南を任せているイースだ。
﹁荒れ地で特訓でもしてるんじゃないのか?﹂
﹁私も、最初は魔術の特訓でもなさっているのかと思ったのですが、
そちらにお姿もなく、ファトムもお見かけしていないと⋮⋮﹂
城外に出ての特訓は、剣の指導者であるイースか魔術の指導者で
あるファトムのどちらかが一緒でなければ許可していない。
﹁双子やアレスディアは?﹂
一緒に剣や魔術を習っているネネリーゼとネセルスフォは、年が
近いせいか妹とはまるで三つ子のように仲がいいし、侍女のアレス
ディアはめったなことで妹から目を離したりはしないはずだ。
﹁双子姫はご在宅です。そもそもはお二人が日課の訓練のためにお
庭にいらっしゃったのに、マーミル姫がおいでにならないので、え
っと⋮⋮城中をお探ししたのですが、どちらにもいらっしゃらず﹂
﹁ってことは、双子も居場所を知らないってことか?﹂
﹁はい、そのようです﹂
そういえば、この間俺のところに来たときにも、双子は一緒じゃ
なかったな。喧嘩でもしたのか?
それでイースが、普段は足を踏み入れることのない俺の執務室に
まで、わざわざ報告にやってきたというわけか。
マーミルめ。まさかまた、家出したんじゃないだろうな。
281
﹁アレスディアは何と言ってる?﹂
﹁いえ、アレスディア殿もいらっしゃらないのです。それで、その
⋮⋮竜番に尋ねたんですが、お二人でどちらかにいらっしゃったと
⋮⋮﹂
﹁なんだ。アレスディアは一緒なのか﹂
俺は息をついた。
﹁なら、心配しなくていい。腹が減ったら、帰ってくるさ﹂
この間は侍女をも置いて一人で飛び出したりしたから慌てたが、
アレスディアが一緒なら例え家出のつもりで出かけたにしても問題
はない。
領内を出ると言い出せば、さすがにアレスディアは止めるだろう。
だから今日は、ベイルフォウスなんかのところには、間違っても行
けないはずだ。
と、なると、他に食事をごちそうになるような友達は皆無だから、
少なくとも夕食までには戻ってくるだろう。
﹁しかし、今まで訓練を黙って休まれたことはないのです。それに、
最近の姫のご様子を見ていると⋮⋮﹂
最近の様子?
﹁何かあったのか?﹂
﹁はっきりどう、ということではないのですが⋮⋮なんというか、
ここのところ、マーミル様のお元気がなく⋮⋮なにか思い悩んでい
るようにも見えて、ご心配申し上げていたところなのです﹂
﹁気のせいだろ。昨日、執務室で会ったときも、元気そのものだっ
たぞ﹂
﹁はあ⋮⋮なら、よろしいのですが⋮⋮﹂
イースは堅苦しいほどきっちりと頭を深々と下げ、執務室から出
て行った。
282
元気がない? あの、マーミルが?
昨日もそれ以前も、俺の見たところでは特に気落ちしている様子
はなかったと思うが。
しかしこのところの俺に、例え相手が妹であっても、他者を観察
できる余裕があるはずもない。それに意見を否定してはみたものの、
イースは兄の俺よりよほど、妹と一緒にいる時間が長いのだ。その
彼がああ言っているのだから、全く耳を貸さないというのもどうだ
ろう。今の状況が落ち着いたら、少し様子をみてみることにするか。
ちなみに昨日は、マーミルに続いてウォクナンがやってきた。
せっかくの可愛いリス顔に、気持ち悪いニヤニヤ笑いを浮かべな
がら俺の前に立つものだから、魔力減少がばれたのかと内心バクバ
クだった。
だがリスのやつは突然、﹁最近、お盛んなようですな?﹂と、意
味不明な質問を投げかけてきたのだ。
答えないでいると、なぜか俺の恋愛観を探ろうとし、しばらく後
には自分と奥方ののろけ話を披露しはじめた。ものすごくしつこか
った。
とりあえず、苛立ちが不安を上回ったので、いっそ殴ってやろう
と拳をあげたら逃走された。
だがホッとしたことに、俺の弱体化を知っていた様子も、それに
気づいた様子も全くない。
じゃあ、結局何をしにやってきたのか?
決まってる、暇にあかせてのろけに来ただけだ! そうとしか思
えない!
まさか、俺の好みを聞いたからといって、ドンピシャな女性を紹
介してくれる訳でもないだろうからな!
283
女性、といえば、ミディリースとはあれ以来顔を合わせてはいな
い。が、手紙での意見交換は、割と頻繁にしている。さすがに最初
ほどの長文は届かないが、それでも毎回、一枚ではすまない文字量
の信書が届く。
半分ほどは不必要な情報だったが、有用なものもあった。その一
つがレイヴレイズの詳細だ。彼の剣が、世にある何を斬り、何を破
壊し、何を消滅させるのか、というようなことを知らせてくれたの
だ。
正直俺は、この剣なしでは今の不安を乗り切れる気がしない。だ
からその情報は、本当にありがたかった。
だがやりとりをするうちに、心配事も出てきた。
彼女は確かに人と会ったことはこの六百年の間、︱︱エンディオ
ンによる一度の目撃以外は皆無らしいが、手紙のやりとりは数人と
しているらしい。その中に魔道具にも詳しそうな相手がいるので、
そちらの方向でも調べてみる、とのことだった。
引きこもりだというから、安心していたのに。まさか、文通友達
だなんてものがいるとは⋮⋮それも複数!
もちろん、俺が困っているであろうということは、自分の推測に
過ぎぬ故、余計な詮索もしなければ、情報をもらすことも決してな
い、と、確約してくれたが⋮⋮。正直、あの長文を目にした後では
不安だ。
そんなこんなで俺は今日、ワイプキーとの面談の日を迎えていた。
***
通常の謁見を終えた後、応接室の一室に向かう。
もうワイプキーは到着しているらしい。一人でではなく、彼の地
位を奪った新子爵と一緒に。
284
これは、あらかじめ先方からの打診があって許可したことだ。俺
の方としても都合がいいので受け入れた。
話してみて、もしその子爵の感じがよければ、筆頭侍従の公募は
しなくてすむ。なにせ今は、悠長に面談をしている暇はない。簡単
に決められるなら、それにこしたことはないだろう。
﹁待たせ⋮⋮﹂
﹁ああああ、旦那様∼!!﹂
扉を開けるなり、髭親父が飛びついてこようとしたので、とっさ
に避ける。
ワイプキーはそのまま扉の縁にぶつかり、鼻を押さえてしゃがみ
こんだ。
いや、踏みとどまれよ! 避けられるの想定してたら、ぶつかる
わけないだろ?
まさか、受け止めるとでも思ったのか?
俺は男に抱きつかれて喜ぶ趣味はない。髭をこすりつけてくるよ
うなオッサンは、なおさらごめんだ。
﹁気でも狂ったか﹂
﹁すみません、数ヶ月ぶりに旦那様とお会いした喜びを、このワイ
プキー! 感動のあまり抑えきれず。つい興奮してしまいました⋮
⋮ぐふ﹂
鼻血出しながらにやけるな。不気味だ。
飲み物をもって入ってきた従僕が、若干ひいてるじゃないか。
そうして俺とワイプキーと新任の子爵は、それぞれソファに腰を
落ち着けたのだった。
***
285
﹁では、あらためて﹂
ワイプキーがこほんと咳払いを一つ。
﹁こちらはセルク子爵。私の⋮⋮屋敷と爵位を継いだ者でございま
す、だん⋮⋮いえ、大公閣下﹂
ワイプキーがねっとりとした視線を隣に向ける。が、それを受け
てもセルク子爵とやらは、涼しい表情を崩さない。
﹁ジャーイル大公閣下。お初にお目にかかります。ただ今ご紹介に
あずかりました、セルクと申します。このたび、ワイプキー殿と戦
い、勝利し、閣下の領地にて子爵の地位を得ました者にございます﹂
闇を塗りつぶしたような黒髪は、魔王様を思い出さないでもない
し、瞳の色は妹のに少し黒を混ぜたような赤だ。顔つきは精悍、目
つきは穏やかで、雰囲気のさわやかな好青年に見える。
まあ、第一印象は悪くはないかな。
﹁挑戦前は、男爵だったと聞いているが﹂
﹁はい、ワイプキー殿に実績を認められ、男爵にとりたてていただ
きました﹂
そうなの?
ってことは、言ってみりゃ恩人の地位を奪ったってことか。見か
けによらず、なかなかいい性格をしている、のか?
しかし逆に恩があったればこそ、手心を加えて生かしておいたと
も考えられる。
なにせこのセルクという男、伯爵位でも得られそうな魔力は内包
しているのだから。
﹁この者の父とは昔なじみでして、その父親を簒奪で亡くして以降
は、身内のように目をかけておりました。それがまさかこんな、恩
を仇で返すような男に育つとは⋮⋮﹂
286
ワイプキーは恨みがましい目でセルクをねめつけている。
﹁恨み言をいうのはやめてください。屋敷の引き渡しが終わったか
らといって、誰もすぐに出ていけとはいいませんから﹂
セルクはこの時、はじめてワイプキーを見返した。
口元には笑みを浮かべているが、その目に宿るのは苛立ちだ。
穏やか⋮⋮というのは間違いだったかもしれない。結構、いい性
格をしてそうだ。
﹁聞きましたか、旦那様! この恩着せがましい口の利き方⋮⋮こ
やつ、私から爵位を奪ったその日のうちに、我が屋敷をも奪ったの
ですよ! ふつうは最低でも五日は猶予を与えるもの⋮⋮落ち着く
先も決まらぬうちから出て行けというなら、それこそ無慈悲でござ
いましょうに!﹂
いや、ふつうは本人殺されるよね。五日って、家族に与えられる
猶予だよね。
しかし今の話だと、現在その男爵邸が主人不在なのは当然として、
ワイプキーも行くあてが決まっていないということか。
子供は三人とも無爵位だったから、頼るどころか一緒に路頭に迷
うしかないのか。
﹁今までの功績を考えれば、ワイプキーに男爵位を与えて、セルク
の住んでいた男爵邸への転居を許可することならできるが⋮⋮どう
する? もちろん、そこじゃなくても、他に空いている屋敷はいく
らかあるはずだから、そちらでもいいが?﹂
別に子爵位を簒奪された、といっても、本人の実力が落ちたわけ
ではない。
さすがに簒奪されたすぐ後にあらためて子爵位を、というなら自
287
分自身の力で奪取してもらわないといないが、男爵位なら与えても
問題はないだろう。
﹁だ⋮⋮旦那様ぁ∼∼∼∼!!!﹂
目を潤ませ両手を握りしめ、そわそわして腰を浮かせるワイプキ
ー。
よし、いつでも逃げられるようにしておこう!
﹁なるほど、大公閣下はこのご容姿に加えてそのお優しさで、ワイ
プキー殿の増長を促し、彼女の勘違いを是正なさらなかったのです
ね﹂
ワイプキーの増長はともかく、彼女の勘違い?
つまり⋮⋮。
﹁セルク、お前、旦那様に対して、なんと無礼な口の利き方を﹂
﹁大公閣下﹂
セルクは焦るワイプキーのことなど、どこ吹く風だ。
俺に戻された視線も、さっきよりはわずかに厳しい。
﹁私はエミリーを、妻に迎えるつもりでおります。これにご異存あ
りましょうや?﹂
こいつ⋮⋮ずいぶん強気な物言いするな。異存はないな、ときた
か。
それにしてもやはり、彼女とはエミリーのことか。
﹁俺とエミリー嬢は単なる顔見知りだ。その婚姻に口を挟むほどの
仲ではない。好きにすればいい﹂
もともと、エミリーの俺に対する興味は、父親の熱意に押された
のと、彼女自身の権力欲によるものが大部分だろう。
﹁旦那様⋮⋮﹂
288
なんだよ、髭。恨みがましい目で俺を見るのはやめろ。
﹁それはまことでございましょうか?﹂
﹁セルク!﹂
セルクの詰問するような口調に、ワイプキーが色めき立つ。
﹁まこともなにも、周知のとおりだと思うが﹂
﹁では、彼女を妻に望んではいないと?﹂
﹁当然だ﹂
おい、なんでそんな敵意丸出しなんだ。
俺とエミリーの間に、何かあると勘違いしてるのか?
﹁本当ですか? 後で花嫁を奪われるようなことは、いくら大公閣
下であろうとも、ご容赦願いたいのですが﹂
﹁セルク!﹂
セルクはさっきから髭親父をまるっきり無視だ。
それは別にかまわない。だが。
﹁いったいどうして、俺がこれ以上の言葉を尽くさなきゃいけない
んだ?﹂
さすがに何度も確認されるような態度は、腹に据えかねる。
ただでさえ、最近の俺は不安と鬱憤を外に出さないようにと気を
張っているせいで、精神的疲労が蓄積しているんだ。いつもなら笑
ってすませられる無礼でも、今日はそんな寛大な態度をとってやれ
る余裕はない。
﹁彼女との間は潔白だと、お前に誓わなければならない、とでもい
うのか?﹂
慌てたのはワイプキーだ。
元筆頭侍従は、普段こそふざけて俺をいらだたせることもあるが、
289
一線は越えようとはしなかった。彼なりに、俺の怒りどころと距離
感を把握していたのだろう。
﹁いい加減にしろ、セルク! いくらなんでも大公閣下に対してそ
の口の利き方は、不敬に過ぎるぞ! 娘のことは、閣下には関係な
い⋮⋮私とお前、それから娘で話し合うべきことではないか。口を
つつしめ!!﹂
激しい叱責にセルクは眉根を寄せ、ワイプキーを冷たく一瞥する。
しかし思うところがあったのか、一転、素直に頭を下げた。
﹁たしかに、口がすぎました。申し訳ありません、大公閣下。これ
もどうか、恋する男の盲目さ故と、ご容赦ください﹂
恋する男⋮⋮。
頭を低く下げたセルクからは、真摯さがビシビシと伝わってくる。
それを見ているだけで苛立ちが驚きに取ってかわられるではないか!
だってそうだろう?
あの、エミリーだぞ!?
セルクは本気であのエミリーが好きだといっているんだぞ。
あの、エミリーを⋮⋮な。
﹁まあ、しばらくは子爵として、真面目に領地の運営に励むことだ
な。その上で誰を妻にしようが、それは君の自由だ。日時が決まれ
ば知らせてくれ。こうして縁もできたことだし、祝いの品でも届け
させよう﹂
俺が関心を抱きつつそう言うと、ワイプキーはホッとしたように
目尻を下げた。
﹁ありがとうございます、閣下﹂
顔を上げたセルクには、俺に対する畏れやわだかまりは一切見受
290
けられない。
やっぱりそうだよな!
俺は、怖くないよな?
デヴィル族だからこその、あの反応だよな?
﹁正直に申しますと、大公閣下が彼女にご執心だと、信じきった訳
ではございませんでした。いかにエミリーが、閣下からのご寵愛を
語ろうとも﹂
ん?
おい、ご寵愛を語るってなんだよ!
エミリーはまた、妄想で何語ったんだよ!!
﹁ですが、不安でした⋮⋮彼女は若く、目も覚めるような美少女で、
性格は快活そのもの⋮⋮﹂
ん? え?
﹁その態度は愛らしく、可憐﹂
えっと⋮⋮。
﹁少々の虚言癖はございますが、それもいじらしさの一端を彩る程
度⋮⋮﹂
少々の虚言癖? ⋮⋮少々?
﹁果たして彼女を愛さない男が、いるのであろうかと!﹂
今のは本当に、俺も知っているエミリーへの評価なのか?
だとすればこいつ⋮⋮⋮⋮大丈夫か?
﹁全くもって、その通り﹂
ワイプキーは娘を絶賛する言葉に、腕をくみつつ頷いている。
﹁しかも、閣下のお好きな巨乳ときてる!﹂
馬鹿なの? 俺がいつ、そんなこと言ったの?
⋮⋮言ってない⋮⋮よな?
291
﹁小父さん!! いい加減にしてください!﹂
セルクの怒りのこもった呼びかけに、ワイプキーは肩をすくめた。
﹁小父さんがそんな風にけしかけるから、エミリーがあんな風に⋮
⋮ただでさえ、夢見がちな子なのに!﹂
夢見がち⋮⋮夢見がちだって? あれを、あの妄想癖を、そう言
い表すのか!?
すごいな、セルク。俺には急に、この男の器が大きく見えてきた
⋮⋮ような気がしないでもない。
﹁⋮⋮それもこれも、貴方が閣下のお側でその権力と自分のそれを、
同一視してしまったのが原因! ですから、私はこれではいけない
と、一念発起したのです﹂
ワイプキーを見ると、髭親父はずいぶんシュンとした様子でうな
だれている。
﹁大公閣下は軍団副司令官であるジブライール公爵を、めでたくも
ご寵愛の相手に選ばれたいうではありませんか! このようなめで
たいご縁を、己の野心のために邪魔しようとするとは﹂
ん?
んん?
待て!
なに?
なんだって?
﹁閣下、聞いてください! ワイプキー殿が娘をあおったために、
エミリーは謹慎の身でありながら、それを破って閣下に真実を問い
ただしに行こうとしたのです。それを止める私と、焚きつけるワイ
プキー殿との間にいさかいが起こったのが、そもそもの始まりで⋮
⋮ですがこれからは、もうワイプキー殿の好き勝手にはさせません
!﹂
292
﹁ちょっと待て! 今のところ、もう一度⋮⋮﹂
いや、君たちのいきさつもそりゃあ、興味深いよ。だが、それよ
り今、聞き捨てならないことを言ったよね!?
俺とジブライールがなんだって!?
﹁ワイプキー殿の好き勝手にはさせません!!﹂
いや、そうじゃなくて!
﹁ジブライールが俺の、なんだって?﹂
﹁ああ⋮⋮閣下が副司令官閣下を、寵姫となさったことですか?﹂
チョウキ?
チョウキってなんだよ!
弔いの旗か?
それとも長い期間のことか!?
﹁もしかして、まだご内密でしたか? しかし、噂はもはや領内の
隅々まで⋮⋮﹂
﹁いや⋮⋮いや、内密とかじゃなくて⋮⋮噂? え? 領内に広ま
ってる?﹂
待て。ワイプキーが爵位を簒奪されたのは、確か成人式典から帰
って四、五日たったころ⋮⋮え?
隅々? 隅々っていった? 今!
﹁口惜しゅうございます、旦那様。謹慎中でなければ、この私がど
んな手を使っても、阻止しましたものを⋮⋮実に口惜しい!﹂
髭はハンカチを懐からとりだし、引き裂かんばかりの勢いで、ギ
リギリと噛みしめている。
その言葉には痛恨の思いが、嫌と言うほど込められていた。
結局、その噂話に気を取られた俺は、筆頭侍従の件をワイプキー
に相談することも、セルクに打診することもできず、会談を終えた
293
のだった。
次から次へと、いったいなんなの?
俺は誰かに呪いでもかけられてるの!?
294
27.この違和感を、僕はいったいどうすればいいのでしょうか
?
ちょっと待ってくれ。
なんだって、こんなことになってるんだ。
﹁ジブライール公爵が、<魔犬群れなす城>での成人式典に参加の
おり、旦那様の寵愛を得た、さらに旦那様はこれを一度きりの関係
で終わらせるつもりはなく、彼女を寵姫として迎え入れるらしい、
という噂が、領内にまことしやかに広まっているようでして﹂
エンディオンの報告に、俺は頭をかかえた。
確かに成人式典の会場で、俺とジブライールの間に噂がたってい
たのは知っている。
ウィストベルやベイルフォウス、魔王様だって誤解していたくら
いだ。
だが、だとしても⋮⋮領地に帰ってまで、それが噂話として広ま
っているだなんて、誰も思わないじゃないか!!
まさかとは思うが、ウォクナンはこの噂を確かめにきたわけじゃ
ないだろうな?
だいたい、寵姫ってなんだよ?
俺には妻どころか恋人すらいないってのに、なんでいきなり寵姫
なんだよ!
いや、問題はそんなことじゃないんだけども。 ﹁違うからな! まさかエンディオンは、誤解してないよな?﹂
若干の焦燥感にかられてそう訴えかけると、このところいやに優
しい家令は、まるで子を見守る親のような慈悲深い目を俺に向けて
295
きた。
﹁私は旦那様のおっしゃるとおりのお言葉に、信を置いております﹂
その絶大な信頼がうれしいよ、エンディオン!
﹁ジブライールはこの噂を知ってるのか?﹂
﹁それが、旦那様。実は、公爵閣下はあの式典より帰られて以来、
屋敷にこもっておいでのご様子でして。ご存じかどうか⋮⋮それが
また、噂話を後押ししているふしもあるようでございます﹂
え? ジブライール、引きこもってるの?
なんで?
確かに式から帰って以来、この城で彼女の姿を見た覚えはない。
もしかしてあれか。
俺の⋮⋮アソコを蹴ったのを、気にしているのか?
それともまさか、会場で倒れたのは⋮⋮本当にどこか、具合が悪
かったから⋮⋮とか?
﹁まさか、病気でも?﹂
﹁詳細はわかりかねます⋮⋮問い合わせますか?﹂
﹁それで噂がよけい広まることはないかな?﹂
﹁それはなんとも。気になられるようであれば、一度、出頭命令を
お出しになられてはいかがでしょう? 公の場で普通に接していれ
ば、噂もいずれ落ち着くかと﹂
まあ、そりゃあそうだろうけど。
しかし、呼び出すといってもなぁ。特に今のところ、なんの用事
もない。なのにわざわざ呼びつければ、顔を見たかったからだろう、
と、かえって野次馬に邪推のためのいい餌をまくことにはならない
か?
それに、今、ジブライールに会って⋮⋮万が一にも挑戦されてし
296
まったら⋮⋮。
うん、ほとぼりがさめるまで、俺からはなにもしない方がいいの
かもしれない。
﹁この件はしばらく静観ということにしよう。少なくとも、俺の魔
力が回復するまでは⋮⋮。ただ、ジブライールの様子は気になるな。
病気でなければ、それはそれでいいが⋮⋮﹂
俺が深いため息と共にそう告げると、エンディオンは同情心も露
わに頷いた。
﹁それとなく、情報を集めてみます﹂
﹁すまないな。頼むよ﹂
弱体化だけでも神経が参ってるのに、なんだってジブライールと
の噂まで⋮⋮。
﹁少々、失礼いたします﹂
ふと、エンディオンが執務室の扉に目をやり、部屋を出て行った。
長年家令をやっている上で身につけた勘の良さなのか、それとも
最初から備わった能力なのかは知らないが、エンディオンは他者の
気配に聡い。扉がノックされる随分前のタイミングで、誰がやって
くるのかわかるらしい。
この時もそうだったようで、家令はイースを伴って戻ってきた。
﹁旦那様。お嬢様が帰っていらっしゃいました!﹂
イースは少し、興奮気味だ。
ほらみろ、だから腹が減ったら帰ってくるといったんだ。ちょう
ど昼前じゃないか。
﹁報告ご苦労さま。でも、妹が出かけたとか帰ったとか、わざわざ
報告してくれなくてもかまわないぞ﹂
俺がそう言うと、イースは少し困ったような表情を浮かべる。
297
﹁それがその⋮⋮⋮⋮旦那様、とにかくお越しいただけませんでし
ょうか? 実は、お嬢様お一人でのご帰宅ではないのです﹂
﹁ああ、そりゃあ⋮⋮アレスディアが一緒だもんな?﹂
﹁それはもちろんですが、彼女だけではなく⋮⋮ベイルフォウス大
公閣下や、ジブライール公爵が⋮⋮それと、その他の存在が問題で
して⋮⋮それで、みなさまには今、離れにおいでいただいているの
ですが﹂
え!? ベイルフォウス!?
まさか、マーミルがベイルフォウスのところへ行ったっていうの
か!?
いや、領内を出たという報告は入ってきていないから⋮⋮。
それに、ジブライール!?
まさかのジブライール!?
このタイミングで、ジブライール!?
引きこもってたんじゃなかったのか?
俺は執務を中断して、急いでマーミルたちのいるという、離れへ
と足を向けたのだった。
***
イースの言う離れとは、城の西側、城壁近くに立つ丸天井の小さ
な建物のことだった。
こんな建物があるのも知らなかったので、当然だが見るのも初め
てだ。
この城にはどれだけ俺の知らない建築物があるんだ。もっとも、
全て把握するつもりは毛頭ない。
298
まず、中に入って感じたのは得体の知れない違和感だ。
だがそれの正体を考え及ぶまでに、俺は奴の不用意な一言に凍り
付いてしまった。
﹁よお、ジャーイル。本格的に不能になったんだって?﹂
⋮⋮。
﹁ベ、ベベベ、ベイルフォウス! いきなりなんてこと言うの!!﹂
妹が、わたわたしながらベイルフォウスに手をあげて突進し、逆
に抱きあげられている。
﹁か⋮⋮閣下⋮⋮このたびは、その⋮⋮本当に⋮⋮私の⋮⋮私のせ
いで⋮⋮﹂
ジブライールが身を縮こませ、半泣きになりながら、床と俺とを
見比べてくる。
﹁わ⋮⋮私でお役にたてるなら、どんなことでも⋮⋮﹂
⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
ベ イ ル フ ォ ウ ス !!
﹁まさか、噂の出所はすべて貴様か、ベイルフォウス﹂
俺はこのところずっと佩刀しているレイヴレイズを引き抜いた。
﹁あ? なんだよ、噂って﹂
この野郎⋮⋮とぼけやがって⋮⋮。
299
﹁いいから、剣を収めろよ。お前の不能ぐらい、俺がすぐになおし
てやるから。いい薬があるって、前から言ってるだろうが﹂
今更こそこそ耳打ちして、それで気を使っているつもりか、ベイ
ルフォウスめ!!
そのつもりがあるなら、まずマーミルを下ろせ、バカめ!
﹁それともあれか、ジブライールに蹴られたそうだが、それで潰れ
たのか? だったらさっさと医療班になおしてもらえよ。でなきゃ、
手遅れになるぞ﹂
やっちゃっていいかな、この剣でさくっとコイツ、やっちゃって
いいかな!?
﹁表に出ろ、ベイルフォウス﹂
﹁剣の練習なら後でいいだろ、空気よめよ﹂
いや、お前に言われたくないから!!
﹁それに、お前の相手は後回しだ。問題はマーミルなんだからな﹂
なんでそんな上から目線なんだ、ベイルフォウス!
誰も相手をしてほしいなんて、一言もいってないんですけど!!
むしろ、なんでこんな時にきたの、お前、って感じなんですけど!
なんだったら、すぐさまお帰りいただいても結構ですけど?
⋮⋮ん?
マーミルに問題?
﹁ベイルフォウス様のバカバカバカーーーー! お兄さまに不用意
なことは言わないって、約束したのにっ、約束したのにー!! も
う二度と信じませんわ!!﹂
必死で抵抗を見せる妹、ぴくりとも動じないベイルフォウス。
300
イラっとしたので、ベイルフォウスから妹を奪い取ってやった。
﹁マーミルの何が問題だ。早く成長させろ、とか無茶なことはいう
なよ。あと、大人になっても、お前には絶対にやらんから﹂
﹁お兄さま!!﹂
マーミルが力いっぱい首に抱きついてくる。
﹁は? 俺は妹が欲しいだけだし。あ、いいことを思いついた﹂
ベイルフォウスは手を打ち鳴らす。
﹁お前がジブライールを嫁にもらって、娘をつくったらいいんじゃ
ないか。俺が養女としてもらってやるよ! それでどうだ?﹂
は? 何言ってるの、こいつ。
意味がわからないんだけど。なんで俺の娘をお前にやらないとい
けないんだよ。
二度と口がきけなくしてやろうか? なに、今は魔力で劣っては
いるが、この剣さえあれば⋮⋮⋮⋮って。
なんだ、ベイルフォウスに感じるこの微妙な違和感。
いや、ベイルフォウス⋮⋮だけじゃない。
俺は頑としてしがみついてくるマーミルの腕を首から引き離して
床におろし、その全身を目に収める。
それからジブライール。
﹁そんなっ、私などが閣下の⋮⋮よ⋮⋮よ⋮⋮よめ⋮⋮﹂
ジブライール? やっぱりどこか、具合でも悪いのか?
﹁おい、どうした。ベイルフォウス﹂
﹁どうしたって、何が?﹂
﹁何がって、お前たち⋮⋮﹂
魔力が減ってる。
部屋に入るなり感じた違和感の一つはこれか。
ベイルフォウスとジブライールはわずか⋮⋮たぶん、二人は同じ
301
くらいの量だな。だがマーミルは⋮⋮かなり魔力が減ってるじゃな
いか。
まさか。
﹁おまえたち、まさか鏡でも見たのか?﹂
いや、そんなわけはない。
俺はあれを執務室から出していない。厳重に、魔術で造った岩で
囲み、その上から封印を施している。その封印は、誰にも破られて
いない。それに、あの鏡でこの程度の減り方ってことはないだろう。
﹁あら、どうして知ってるんですの? まさか、お兄さま⋮⋮私が
かわいいあまり、後をつけて!?﹂
マーミルがぴょんぴょんと飛び跳ねる。
﹁まさか⋮⋮そうなのか? おい、どうするジブライール。お前の
手柄にするつもりで珍しく氷の魔術なんて使ってみたってのに、全
部知ってるらしいぞ﹂
﹁いえ、元から私の手柄になどするつもりは⋮⋮﹂
は?
え?
﹁待て、お前たち。いったい何の話だ? だいたい、なんで三人一
緒なんだ? 手柄ってなんのことだ? 氷の魔術? どこでそんな
もの⋮⋮それに⋮⋮﹂
俺は違和感のもう一つの正体を見つけた。
部屋の隅に、ぶるぶると震える薄汚れた布切れ⋮⋮いや、生き物
⋮⋮?
⋮⋮。
﹁おい、ベイルフォウス、説明しろ﹂
302
﹁なにを?﹂
めんどくさそうに頭を掻く親友。
﹁なんだってこんなところに、人間がいるんだ?﹂
薄汚れた生き物の正体。
それは腹のでっぷりと張り出した、中年の男だった。
303
28.はい注目ー!それではここで、マーミルちゃんを囲む会を
開催したいと思いまーす!
話はベイルフォウスやジブライール公爵と、<断末魔轟き怨嗟満
つる城>に戻る、その数時間前にさかのぼります。
﹁では、<第一回 マーミルちゃんと、愉快な仲間たちの語らい>
をはじめまーす。はい、ぱちぱちーー﹂
あら?
なぜだれも拍手しないのかしら。私の司会進行は、完璧なはず。
﹁ちょっと、お二人とも。なんですの、ぼーっとして! 拍手、ほ
ら、拍手ですわ!﹂
二人とも、拍手という言葉を知らないのかしら?
そんなバカな。
﹁おい、マーミル﹂
憮然とした声が私の名を呼びます。
﹁なんですの、ベイルフォウス様﹂
﹁何って、聞きたいのはこっちだ。訳の分からん会議を宣言する前
に、まずはここに俺と﹂
そう言って、ベイルフォウスは同じ粗末な木のテーブルを囲む、
もう一人の女性に目を向けました。
もの
だなんて意味
﹁ジブライールを呼んだ理由を答えてもらおうか? お前が
すごく困っている、助けてくれないと身がもたない
深な手紙をよこすもんだから、俺はてっきりまた、ジャーイルに折
檻でもされたのかと⋮⋮﹂
﹁はい? 意味がわかりませんわ?﹂
304
大丈夫かしら、この人。あの優しいお兄さまが私を折檻?
﹁違うなら違うで、理由を説明しろ。なんだって俺とジブライール
は、こんな辺鄙な場所に呼び出されなきゃいけなかったんだ?﹂
ジブライール公爵までもがベイルフォウスの言葉なんぞに、こく
こくと頷いています。
確かにここは辺鄙です。ええそう、辺鄙ですとも。私たちがいる
この場所は、人間の群生する町なのですもの。
建物は魔族の住居に比べればどれも手狭で、町並み⋮⋮というの
かしら、住まいが隙間なく建ち並ぶさまは、ものすごくごちゃごち
ゃしています。
私だって、故無くこんなところにお二人を呼び出したりはしませ
ん。でも仕方ないのです。どうしたって、お兄さまに聞かせたくな
い相談事だったのですから。
もっとも、正確にいうと、私がお二人を呼び出したのはこの近辺
の森であって、この町ではないのですけれど。
﹁ですから、それを今から説明するのですわ。こらえ性のない方で
すわね!﹂
私が立ち上がり、両手を腰にベイルフォウスをにらみつけた、そ
の瞬間。
﹁あ、あの⋮⋮ご注文は、おきまりでしょうか?﹂
人間の娘が、空気をよまずに声をかけてきました。
頬が真っ赤です。人間は弱いというから、熱でもあるのかもしれ
ません。ええ、ベイルフォウスに見惚れているのでは、決してあり
ませんとも!
﹁注文? 注文って、なんですの?﹂
﹁あの⋮⋮ここは食べ物や飲み物を提供する場所なので、ただ座っ
305
ていられるだけだと困るんです。何か、頼んでいただかないと⋮⋮﹂
あら、この娘は侍女のようなものなのかしら。そう言えば、さっ
きからあちこちに給仕をしているようだけど。
﹁食べたいものや飲みたいものを伝えればいいんですのね? なら、
私は赤い薔薇を乗せたさっぱり味のアイスクリームと、あまーーい
リンゴジュースが飲みたいですわ﹂
まあ、希望を言わないといけなかったのね。どうりでいくら待っ
ても、何も運ばれてこないと思ったわ。
﹁そんなもの、あるわけないでしょ? ここは大衆食堂なんだから
⋮⋮﹂
私の言葉に、どういうわけだか娘は呆れ顔で頬をひきつらせます。
﹁たいしゅうしょくどう? それってなんですの? ベイルフォウ
ス様、ご存じ?﹂
ここは談話室ではなかったのかしら?
どのテーブルにも人間が座っていて、軽食をとりつつ会話を楽し
んでいるようなので、てっきりそうだと思ったのですが。
﹁俺が知るわけないだろ。呼び出されてやってきただけなんだから。
むしろ、ここにつれてきたのはマーミル、お前だろうが﹂
﹁あら、私じゃありませんわ。寝ぼけてらっしゃるの? 私たちは
はずれの森で会ったはずですわ。どこか座って、ゆっくりお話がし
たいと言ったら、ジブライール公爵がここに案内してくれたのです
わ﹂
私とベイルフォウスはジブライール公爵に視線を向けました。
ちなみにアレスディアには、森で竜の番をしてもらっています。
﹁あ、あの⋮⋮実は私も、ここにはジャーイル閣下のご案内で、一
度訪れたことがあるばかりでして。そのときの印象から、座ってゆ
306
っくりお話しするには、この場所が最適なのではと思いついただけ
で⋮⋮その、たいしゅうしょくどう、とやらがどういう場所である
のか、正確には知っておらず⋮⋮﹂
私たちの視線を受けたジブライール公爵は、困惑顔です。
﹁もしかして⋮⋮あなた。あの、ものすごく綺麗なお兄さんと一緒
に来た人よね?﹂
娘が急に嬉しそうにはしゃぎだします。
そう言えば、ジブライール公爵はお兄さまとこの町で一泊したの
でしたわね⋮⋮。一泊⋮⋮一泊⋮⋮⋮⋮⋮⋮ぐぎぎ。まさか、寝顔
をこっそり見たりはしていないでしょうね!
それにしても、綺麗なお兄さんとは⋮⋮ええ、まあ、うちの兄は
顔だけはいいですが! そうですとも、ベイルフォウスにだって負
けないくらいには!
﹁今日はあの人、一緒じゃないの? もしかして、そのジャーイル
ってあの人のこと?﹂
﹁人間ごときが馴れ馴れしく、閣下のことを⋮⋮﹂
どこか遠くを見るように目を潤ませる娘に対して、殺気を漂わせ
るジブライール公爵。
お兄さまからいつも無表情だと聞いていたのですが、全くそんな
ことはないんですけれども。私と関わる時はいつもお兄さまに関係
した時ばかりだからかもしれませんが、ものすごくくるくる表情が
変わるんですけれども、この方。
公爵とちゃんとお話をしたのは、私を成人式典に出席させるため
に味方をしてくれた、あの時が初めてです。あの後、私は後押しの
お礼にと、お兄さまがキンモクセイの香りを好まれていることをお
教えしたのですが、それを知ったときの彼女の子供のように無邪気
な笑顔と言ったら⋮⋮教えたのを後悔したほどです。
なぜって、わかるでしょう?
307
自分の兄がもてるのはうれしいですが、嫉妬もしてしまうのです
よ!! それが可愛い妹の心境というものなのです!!
﹁ジャーイルと一緒に?﹂
ベイルフォウスが眉を寄せます。
﹁ああ⋮⋮そういえばあいつ、俺が人間どもを全滅させた時のこと
を調べに、ジブライールと町を訪れたんだったか。てことは、この
町があいつらを森によこした奴がいる場所ってことか﹂
ベイルフォウスに、つかの間、剣呑な雰囲気が漂います。
﹁しかし、あいつも物好きだよな。人間のことなんて知って、何に
なるってんだ。まあそうはいっても⋮⋮﹂
そうして一転、いつもの下品な視線を、給仕娘の上に這わせます。
﹁女はどんな種族でも、深く知る価値はあるかもしれないがな﹂
うげえええ。
﹁何言ってるの、あなたたち⋮⋮人間ごときとか、全滅させた、と
か⋮⋮そんな言い方、まるで⋮⋮⋮⋮﹂
給仕娘は何かを察したのでしょうか。さっきまでベイルフォウス
を見て赤くなっていたのに、今は表情をこわばらせて木の盆を胸に、
後じさろうとしています。
他の席に座っていたむさくるしい男たちが、娘の不穏な空気を感
じ取ったのでしょう。こちらを注視しだしました。
﹁どうした、イーディス。何か問題か?﹂
﹁マグダブさん⋮⋮﹂
一人の筋肉だるまが席を立ち、私たちの席に近づいてきます。
﹁ああ、よく見りゃ、この間のべっぴんさんじゃないか。今日はま
た、この間とは違う色男と一緒⋮⋮﹂
下品な視線でジブライール公爵を一瞥した筋肉だるまでしたが、
ベイルフォウスを見てびくりと身体を震わせます。
308
﹁なんだ、おまえたち⋮⋮その雰囲気、まるで魔物﹂
魔物? 魔物ですって?
﹁⋮⋮いや⋮⋮人間ではあり得ないその目の色⋮⋮﹂
ベイルフォウスを見つめる筋肉だるまの額から、脂汗が吹き出し
ます。
﹁まさか⋮⋮⋮⋮まさか、ま、魔族⋮⋮﹂
あら、見かけによらず、ずいぶん勘のいい筋肉だるまです。
﹁ま⋮⋮魔族⋮⋮だって⋮⋮?﹂
﹁まさか⋮⋮﹂
﹁魔族⋮⋮?﹂
男の呟きを耳にして、人間たちが急にざわつきだします。
﹁バカ言うな、マグダブ。こんなところに魔族がいるはずがないだ
ろう!﹂
一人の男が、怯えを声音ににじませながらも、そう強がります。
﹁俺だってそう思いたい。だが、この身のすくむような威圧感は⋮
⋮魔物を前にした時と、比べものにならないこの恐怖は⋮⋮﹂
筋肉だるまはもじゃもじゃの手の甲で、額の汗を拭っています。
もっとも、拭う端からまた汗がにじみ出てくるようです。
それにしても、イライラします。なんなんでしょう、この人間た
ちは。
﹁ええ、魔族です。魔族だから、なんだというのです? 口にする
までもないことでしょう。これほど愛らしい女児が、人間に存在す
るとでも思うので﹂
阿鼻叫喚というのはこういう場面をいうのでしょうか。
た
私が言い終える間もなく、人間たちは全員が席を立ち、持ち物を
から争うように出て行きました。
放り出し、叫び声をあげながら、もつれる足を動かして、この
いしゅうしょくどう
309
後に残ったのは、私たち三人だけ。
﹁まあ、人間というのはなんとお行儀の悪いものなんでしょう。し
つけを受ける機会がないのかしら? 食事の途中で、そのお料理を
を震わせました。
ひっくり返して逃げ出すだなんて⋮⋮エンディオンに見られでもし
たいしゅうしょくどう
たら、説教されますわよ! 二時間ほど!!﹂
私の憤怒の声が、その
﹁おい、マーミル。人間のことなんてどうでもいいから、説明をし
ろ。今すぐに﹂
机に肘をついて、ブーたれるベイルフォウス。
﹁今からしますってば!﹂
こんな子供みたいなのに、お兄さまの倍ほどの年齢だというのだ
から、びっくりです。
﹁お二人をわざわざ屋敷外にお呼びしたのだから、もちろんお兄さ
まに聞かれたくない、デリケートな相談ごとがあるからに決まって
るでしょう!﹂
﹁ジャーイルに聞かれたくないこと?﹂
あ、ベイルフォウス。ちょっとイライラが減った。興味がわいた
ようです。
﹁そうですわ! 今、お兄さまは大ピンチですのよ!﹂
﹁ほう、大ピンチ。ジャーイルがどうした? なにかあったのか?﹂
あ、楽しそうで意地悪そうな顔になった。
﹁閣下がどうされたというのです!?﹂
ジブライール公爵は、いつもの無表情をかなぐり捨て、不安をに
じませています。
﹁まさか、この間の⋮⋮私の⋮⋮私のせいで﹂
310
﹁ジブライールのせい? どういうことだ?﹂
ジブライール公爵が青ざめる一方、ベイルフォウスは興味津々で
す。さっきまであんなに面倒くさそうだったのに、今は銀の瞳をき
らきらと輝かせ、身を乗り出して質問してきます。
﹁この間ってまさか、成人式典の時のことか? やっぱり、噂通り
におまえたち⋮⋮﹂
﹁噂? 噂って、なんですの?﹂
私の問いかけに、ベイルフォウスは私をちらりと見ただけです。
そうして、何事かをジブライール公爵に短い言葉をささやきました。
するとどうでしょう、公爵はあっという間に頬を赤らめたではあ
りませんか!
またか、ベイルフォウス!
子供の前で、卑猥なことをいうのはやめてほしいものです!!
聞こえてはこなかったけれども。
﹁ち⋮⋮違います、そんな⋮⋮﹂
﹁違うのか。なら、この間のことってなんだよ?﹂
﹁つ⋮⋮つまりその⋮⋮私はあのとき、気を失ってしまって⋮⋮。
意識を取り戻したら介抱してくださっていた、ジャーイル閣下のお
顔が間近に⋮⋮それで、驚いて⋮⋮その⋮⋮⋮⋮つい、足を⋮⋮﹂
﹁足を?﹂
﹁蹴ったのですわ。お兄さまの、大事なところを。力の限り﹂
私がジブライール公爵の代わりにそう答えると、ベイルフォウス
は一瞬ビクッと眉を震わせました。
﹁⋮⋮⋮⋮蹴った?﹂
ジブライール公爵がベイルフォウスの質問に、控えめに頷いて⋮
⋮というか、うなだれています。
311
﹁お前、それはいくらなんでも⋮⋮﹂
一気にベイルフォウスのテンションはだだ下がりです。どうした
というのでしょう。まるで自分が蹴られでもしたかのように、痛そ
うな顔をしています。
﹁あのときのお兄さまは、おかわいそうでしたわ。あんなお兄さま
を見たのは初めてですもの。ベッドの上にうずくまって、脂汗をか
いて⋮⋮私、お兄さまが死んでしまうのではないかと、本気で心配
しましたもの﹂
﹁⋮⋮聞くんじゃなかったぜ⋮⋮もっと面白い話が聞けるかと思っ
たのに、俺までなんか痛い﹂
あら。ベイルフォウスなのにどうしたというのでしょう。
﹁かわいそうにな⋮⋮さすがの俺でも、同情する﹂
﹁す⋮⋮すみません⋮⋮﹂
あら、私ちょっと言い過ぎたかしら。ジブライール公爵が涙声に
なっています。別に彼女を責めたつもりはないのですが。
﹁私が相談したかったことを察していただけましたかしら?﹂
私は苦々しい顔のベイルフォウスと、しゅんとうなだれるジブラ
イール公爵を見比べました。
﹁あれ以来、お兄さまは不安で夜も眠れないご様子。せめて医療班
に相談すればいいと思うのに、なさらないの。きっと、恥ずかしい
んだと思いますわ。それで、やっていることが読書ですのよ。気を
紛らわせるためならいいですけど、きっとお兄さまのことだから、
本には役立つ知識が詰まっているとかなんとかいって、解決法を探
してらっしゃるんだと思うの﹂
﹁閣下がそんな⋮⋮﹂
顔をあげたジブライール公爵の瞳が、少し潤んでいます。
﹁⋮⋮それで、マーミルは俺にどうしてほしいんだ?﹂
﹁決まってますわ! ベイルフォウス様は、大事なところの専門家
312
なのでしょう? たらしなのですから! 私だって、それくらい知
っているんですのよ!﹂
﹁たらし⋮⋮お前の前では発言にも気をつけているし、女に手を出
したこともないはずなんだが⋮⋮﹂
嘘をつけ! 今さっき、給仕の娘を変な目で見ていたくせに。
﹁とにかく、なんとかできますの? できませんの?﹂
私ばかりか、ジブライール公爵まで縋るような視線をベイルフォ
ウスに向けています。
﹁まあ⋮⋮そりゃあ、同じ男として、相談にはのってやらないこと
もない。⋮⋮あいつが俺に、素直に悩みを打ち明けるならな﹂
﹁私ももちろん、協力できることがあれば、なんでもします! ど
んなことでも⋮⋮そもそも、私のせいなのですから⋮⋮﹂
二人とも、協力はしてくださるようです。当然ですがね。一人は
自称親友で、一人はお兄さまのことを⋮⋮ぐぎぎ。
﹁では、ベイルフォウス様はご一緒に城へ来てくださいます?﹂
﹁ああ、いいぜ﹂
﹁もちろんですけど、デリケートな問題なので、お兄さまが打ち明
けるまでは知らないそぶりをしてくださいね﹂
﹁おい、マーミル。俺を誰だと思ってるんだ?﹂
私の言葉に、ベイルフォウスはいつもの根拠のわからない、自信
に満ちた笑みをこぼしました。
結果は、私が裏切りという言葉を覚えただけでしたけれどもね!!
﹁ジブライール公爵は、どうなさいます?﹂
﹁わ、私もぜひご同行を! 閣下の一大事とあらば、お顔を拝見せ
ずには⋮⋮﹂
いえ、公爵はいざというときに協力してくだされば、それでいい
んですけれども。
313
そうして私たちは
ました。
たいしゅうしょくどう
の粗末な扉をくぐり
するとどうでしょう。この小さな建物を、人間たちの集団が、取
り囲んでいたのです。
314
29.人間たちに慈悲を垂れるのは
我々から一定の距離をとりつつ、輪を形成している人間たちは、
みな筋骨たくましい男ばかり。数にして三十ほどだろうか。
その男たちが一人残らず何かしらの武具を手に携え、我々に向か
って構えている。
﹁俺は女に囲まれるのは種族問わず好きだが、ムサイ男が並ぶ真ん
中に置かれるのはごめんだ。だが、よほどお前ら人間というのは、
俺にかまって欲しいらしい。また灼熱の炎で骨も残らんほど、焼い
て欲しいのか?﹂
うんざり気味のベイルフォウス大公が、舌打ち混じりにそうおっ
しゃっただけで、数人が恐怖に埋没したようだ。
﹁また⋮⋮だと? まさか、樹海で傭兵団を壊滅させたのは⋮⋮﹂ 三十人を率いているのは、さきほど建物の中で私に無礼な口を利
いてきた男のようだった。
さっきは悲鳴をあげて逃げ去ったくせに、なぜわざわざ斧を持っ
て向かってくるのか。彼らの自虐趣味の深さと言ったら、全く理解
が及ばない。それとも、武器を持つことで我々に対抗できると自惚
れてしまうのだろうか。
そんな人間たちを相手に、ベイルフォウス大公がこの地を焦土に
と望まれるのなら、魔族の一員として反対する理由はなにもない。
魔族としてなら、だ。
ジャーイル大公閣下の副司令官としては、黙ってこの状況を見過
ごす訳にはいかなかった。
なぜといって、我が大公閣下は人間にお優しい。この町を滅ぼし
315
て帰ったとお伝えしたら、気分を害されるに違いない。閣下のご意
向は、人間に手出しはしない、なのだから。
﹁ベイルフォウス閣下、ここはこのジブライールにお任せ願えませ
んか? この地は我が大公閣下の領内でありますし﹂
勇気を振り絞り、進言してみる。
﹁そんなの、俺が手を出したからって、ジャーイルは怒りはせんだ
ろう﹂
確かに、もしここでベイルフォウス大公が人間を殲滅なさっても、
ジャーイル閣下は﹁ベイルフォウスのすることだから﹂とおっしゃ
るだけかもしれない。
けれど。
﹁ですが、我らが領内の件でベイルフォウス閣下のお手を煩わせた
とあっては、私の立つ瀬がございません﹂
重ねていうが、私だって人間の運命などはどうでもよいのだ。そ
れでも私はこうして食い下がる。
なぜならば、町がなくなってしまえばジャーイル閣下は再び調査
のためと、この地に足をお運びになられるだろうからだ。
ただでさえ高位魔族にあらぬ生真面目さでご多忙な閣下のこと。
人間のためにその貴重なお時間を割かれるなど、もったいないでは
すまないではないか。
いや、でも、その時はもちろん、私も前回のようにお供ができる
わけで⋮⋮つまり、また薄い壁を隔てたすぐ向こうに閣下が⋮⋮で
も、焦土になってしまえば、建物もなにも無いわけで、そうなると
どこで寝食を⋮⋮⋮⋮いや、違う、そうじゃないでしょ、そうじゃ
ないでしょう、ジブライール!!
﹁そんなこと気にするな。俺が好きでやるんだ﹂
316
私の提案は、聞き入れられそうにない。ベイルフォウス大公は、
どうしてもご自分で人間の相手をされるようだ。
﹁ですが⋮⋮﹂
﹁そんなに心配なら、ジャーイルにはジブライールが対処したと言
っておいてやるさ。それで体面は守られるだろ?﹂
駄目だ。私の言葉などには、耳を貸そうともなさらない。
﹁ベイルフォウス様、ベイルフォウス様﹂
私が諦めかけたその時、マーミル姫が大公の裾を数回、引っ張ら
れた。
﹁なんだ?﹂
﹁私、人間の焼ける臭いなんて、かぎたくありませんわ! うえー
ってなるのは間違いありませんもの!﹂
目尻をつり上げて抗議なさる。
驚いたことに、それだけでベイルフォウス大公の表情から嗜虐性
が薄まり、柔和な笑みがそれに取って代わった。
﹁そうか、それもそうだな﹂
この大公閣下は、マーミル姫にはとことん甘いようだ。姫が一言
いっただけで、あっけなく考えを翻されたのだから。聞こえてくる
噂は、真実なのだろうか。
﹁今だっ!﹂
私たちの注意が自分たちから逸れ、緊迫感が薄れたと判断したの
だろう。
人間の集団の最前列にいた筋骨たくましい男が、叫びつつ斧を持
った手をあげる。
その瞬間、前に建つ四階建ての建物の窓が一斉に開いて、隙間な
く並んだ女たちが耳障りな言葉をぶつぶつ呟きながら、丸い手鏡を
窓枠から差し出してきた。
317
日の光りが鏡面にはじかれ、光線となって我々三人を襲う。
ちくり、としたのは眩しさを感じて閉じた目だっただろうか?
﹁何だ、女だってたくさんいるじゃないか﹂
こんな状況でもそれですか、ベイルフォウス大公!
赤毛の大公閣下は相手がデヴィル族でも理解不能なのに、人間に
まで食指が動くらしい。なぜこの方とジャーイル閣下が親友でいら
れるのか、私は本気で不思議に思うことがある。
我が閣下はあんなにも、清廉潔白で高潔なお方なのに⋮⋮!
しかし、誰しも正反対の相手に惹かれるものだ、ともいうし。
と、いうことは、私もジャーイル閣下の正反対の性格になれば⋮
⋮。
でも、正反対って? まさか、ベイルフォウス閣下のようになる
わけにはいかないし。
﹁ジブライール!﹂
﹁あ、はい!﹂
﹁聞いたか、今の言葉?﹂
﹁と、申されますと?﹂
考えに没頭しすぎて、会話を聞き漏らしてしまったようだ。
しかし、﹁聞いたか?﹂ということは、少なくとも私はうっかり
大公を無視するという失態を犯したわけではないらしい。
﹁おい。そんなにジャーイルのことばっかり考えてたら、日常生活
に支障がでないか?﹂
えっ!!
﹁な、なななな、なな何をっ⋮⋮﹂
﹁慌てると、かえって認めてるみたいですわよ、ジブライール公爵﹂
318
マーミル姫の冷静なつっこみに、私は黙りこくるしかなかった。
﹁公爵、この方たちはこうおっしゃったのですわ﹃鏡によって、お
まえたちの魔力は封じた﹄と。確かに⋮⋮私、いつもほどの術式が
展開できませんわ﹂
そう言って、マーミル姫がずいぶん可愛らしい五式を展開された。
発動と同時に、姫の手の平大の雪の結晶があたりに降りしきる。
人間たちにざわめきが広がった。
我らにとっては初期に習得する、子供だましの魔術だが、人間た
ちにとっては五式でも十分脅威に映るらしい。
﹁まさか⋮⋮魔力を吸い取る鏡だったんじゃないのか!? なぜ、
魔術を使えるんだ!﹂
﹁おい、ガストン! どうなっている!?﹂
﹁そんな⋮⋮バカな⋮⋮﹂
男たちの言葉責めに、屋敷の四階から女に混じって鏡を突き出し
ていた男が、ふるえる声でつぶやいた。
どうやら鏡を用意したのは、その腹の出た男らしい。
﹁いや、俺も使ったことがあるが、魔物には効いた! 確かに効い
たんだ!﹂
筋肉隆々の角刈り男が叫ぶ。
全く、人間というのは本当に騒がしいものだ。
﹁という訳らしい。ジブライール、お前は?﹂
﹁私は⋮⋮そうですね、多少、何かが削られた気はしますが⋮⋮﹂
そう言われれば、魔力の感覚が少しおかしい。わずかな抵抗とい
うか、もどかしさを感じる。
﹁俺は感じんなぁ⋮⋮だが﹂
319
頭を掻きながらどうでもよさげに言ったベイルフォウス閣下は一
転、殺気だった瞳を人間たちに向けられた。
﹁マーミルに実害があると知っては、対処せんわけにもいくまい。
だが人間ども、珍しくも慈悲を垂れてやろう。今すぐ己の所行を悔
い改めるなら、許さんでもない﹂
男たちが、じりじりと遠ざかっていく。私たちを囲む輪はいつの
間にか大きく広がりをみせていた。
﹁許して欲しくば、そうだな⋮⋮女を十人ほど差し出す、というの
はどうだ? 別に年齢も容姿も問わんぞ。それぞれにそれなりの愉
しみ方というものがあるからな﹂
﹁私をダシにつかって、結局はそれですの!?﹂
マーミル姫が嫌悪に満ちた表情を、ベイルフォウス大公に向けら
れる。
私も心の中で、そっと姫に同意した。
﹁お前の魔力を戻した上で、とは言うまでもないだろ。別にダシに
使ったわけじゃない﹂
十分使ってると思います、ベイルフォウス閣下。
﹁自分のことは自分で対処しますわ! 手出しは結構よ﹂
﹁おお、勇ましいな。ならジブライール。俺たちは傍観を決めこむ
か﹂
ベイルフォウス大公は腕を組むと、店の扉にもたれられた。
﹁は﹂
相手はたかが筋肉頼みの人間。マーミル姫は今でも五式なら発動
できるようだし、その程度なら町も壊滅せずにすむだろう。お灸を
すえるだけで終われて、かえって結果よしかもしれない。
とはいえ、何かあればすぐ動けるようにはしておこう。
320
﹁我ら人間も、ずいぶんなめられたもんだな﹂
やけに冷静な声が、男たちの後方からあがった。
武器を手に、筋肉ばかりを誇っていた人間たちの後ろから、ロー
ブを着込み、手に杖を握った数人が進み出てくる。
﹁おお、魔術師たち!﹂
筋肉男たちが喜びの声をあげた。
﹁よかろう、魔術勝負といこうじゃないか﹂
そうして中央に立つその白髪の魔術師は、勝ち誇ったような笑み
を浮かべた。
﹁あら、ずいぶん自信過剰な方ですわね。ええ、相手をしてさしあ
げてもよろしくてよ﹂
マーミル姫も負けじと鼻を鳴らされる。
だが、今にも姫とその魔術師たちの間で、魔術の応酬が始まろう
としたその時。
﹁あーやめた。茶番につきあうのもここまでだ﹂
ベイルフォウス大公は突如としてそう宣言されると、天空に町を
も覆う規模の百式を展開されたのだ。
しかしその巨大さと早さ故に、発動はおろか、展開されたことに
気づいた者もすらいないだろう。この私ですらほとんど一瞬しか、
認識できなかったのだから。
そして、彼らは自分たちの身に起こった変化をさえ、知ることは
できなかったろう。なにせ一瞬の後には、町の全てが凍り付いてい
たのだから。
建物も、人間も、木も、虫も、大地さえ。町に存在するものは全
321
て。
例外は私たち魔族と、前の建物で悲鳴をあげている人間の女たち
だけだった。
﹁ちょっとベイルフォウス様! なんで邪魔なさるの!﹂
マーミル姫はベイルフォウス大公の壮大な魔術に驚くどころか、
自分の活躍を奪われてご立腹だ。
﹁なんでって、そりゃあ未熟な魔術合戦なんかを、日が暮れるまで
見ているのはごめんだからに決まってる﹂
﹁なんですって!﹂
ベイルフォウス大公は、髪を逆立てんばかりの姫の頭を、なだめ
るようにぽんぽんと叩くと、地を軽々と蹴って、女たちのいる建物
の四階へと跳躍されたのだった。
322
30.本能ばかりに従うのも、どうかと思うんです
俺は今、盛大に呆れている。
またしてもとんでもない勘違いを発動して、ベイルフォウスとジ
ブライールをわざわざ人間の町に呼び出したというマーミルに。
そうして、なによりも。
いきさつ
﹁話はわかった。まず人間たちの方から、お前たちを取り囲んで攻
撃しようとしてきたって経緯は。でも、だからって、なんで町をま
るごと一つ、凍土にする必要があるんだ﹂
あの町は、まあまあな広さがあったはず。とはいっても、この<
断末魔轟き怨嗟満つる城>の敷地の半分もなかったと記憶している
が。
﹁必要? お前は必要か不必要かで攻撃の規模を決めるのか? い
つだって敵は全力で叩き潰す。そうでなくて、どうして大公なんか
やってられる﹂
くそ、この脳筋。いや、むしろこれが高位魔族としては一般的な
考え方なのか?
常に自分の最大限に近い実力を示し続けることで、周囲への牽制
としている⋮⋮とか?
ちょっと待てよ。
もしかしてサーリスヴォルフの城で俺と剣をあわせたのも、周囲
に対する実力誇示のためとか言わないよな?
いや、まさか。本人の言ってたとおり、八つ当たりだよな。だよ
な?
単純バカに見せかけて、実は狡猾なんてことはないよな?
323
﹁だいたい俺は今回、いつもよりよっぽど気を使ったんだぞ。マー
ミルは人間の焼かれる臭いは嫌だと言うし、ジブライールは体面ば
かり。おかげで、氷なんて慣れない魔術をつかうはめになったって
のに!﹂
目を見ても、口先だけで物を言っているようにはみえない。とい
うか、単純脳筋バカに見える。
でもこいつの場合、意外にそうと断言できないのは、今までの付
き合いでわかっている。
うん、もういいや。
﹁悪かったな、ジブライール。変なことに巻き込んで﹂
﹁いえ⋮⋮とんでもございません﹂
ジブライールは、俺との噂のことを知っているのだろうか?
さっきから一度も目を合わせてくれないのは、そのことを迷惑に
感じているから、とか? 目も合わせられないほど、怒り狂ってい
るからなのだろうか。
そうだったらどうしよう⋮⋮。
﹁で、ベイルフォウス、氷のどんな術式を使ったんだ? これに書
いてくれ﹂
とりあえず、ジブライールへの対処は後で検討しよう。
俺は友に向かって、白紙を差し出した。
マーミルが興奮して語ったところによると、ベイルフォウスは一
瞬で何もかも凍らせたらしい。それなら、人間たちは仮死状態に陥
っているだけかもしれない。だとすれば解除方法さえ間違わずうま
く氷解できれば、何事もなかったかのように蘇生するかもしれない。
いつものベイルフォウスなら町は猛火で焦土と化して、人どころ
か建物の跡すら残らなかっただろう。そうなるともう手の施しよう
はなかった。
324
本人の言うとおり珍しいことだろう氷の魔術を使ったのは、むし
ろ人間たちにとっては不幸中の幸いだったという他ない。
﹁人間のことなんてどうでもいいだろ? それより、マーミルの魔
力をなんとかする方が先決だ!﹂
ベイルフォウスは俺の差し出した紙を奪うようにひったくってか
ら、乱暴に投げ捨てた。
白紙はひらひらと舞い降り、ジブライールの足下に着地する。
我が親友は、どうも本気でイライラしているらしい。
﹁その魔術師とやら、割と強そうだったのか?﹂
﹁マーミルの敗北を確信できるほどにはな﹂
こいつ、あれだよな⋮⋮マーミルの前だと軽口を叩いてからかっ
たりするくせに、意外に本気で親身なんだよな。
こういうところを本人に対してちゃんと態度に現せば、一回くら
いは﹁お兄ちゃん﹂と呼んでくれるかもしれないのに。絶対に、助
言はしてやらないけど。
そう、今この離れには、マーミルとアレスディアは︱︱ついでに、
イースも︱︱いない。
マーミルには事情を簡単に聞いたあと、部屋に戻るよう言いつけ
た。本人も疲れているようだったし、正直いても何の役にも立たな
いからだ。不満を口にするかと思ったら、少しは反省する気持ちが
あるのか、おとなしく居住棟へ戻っていった。
だからこの部屋に残っているのは俺とベイルフォウス、ジブライ
ールに、それからガストンとかいう人間の中年男性、その四人だけ
だ。
もっともそのガストンとやらは、部屋の隅でうずくまってガタガ
タ震えるばかり。存在感は皆無だ。
325
﹁もちろん、マーミルのことはなんとかする。当然だろう、たった
一人の妹だぞ﹂
ああ、当然だ。むしろ、俺の一番の関心は、そっちに向いている。
正直にいうと、人間の町がどうとか、問題にもならないくらいだ。
だって鏡だぞ?
手鏡とはいえ、鏡だぞ?
俺の被ったより遙かに実害は少ないとはいえ、魔力の減少という
効果をみせている鏡だ。あの魔鏡と無関係のはずはない! そう考
えるのが当然というものだ。
でもそっちを先に聞いてしまうと、ほかのことはどうでもよくな
ってしまうかもしれない。
正直、俺はそれくらい興奮している。だから冷静になるために、
こうして必死に状況確認に時間を割いているというのに!
﹁それにしても、よくこの男が情報を握っていると看破できたな。
その上で一人だけ氷漬けにしないだなんて、機転のきくことを﹂
﹁女を全員連れて帰ろうと思ってな。マーミルが可愛らしくすねた
ので、やめたが。そいつはたまたまそこにいただけだ﹂
﹁えっ。たまたまだったのですか?﹂
ジブライールが信じられない、といった表情でベイルフォウスを
ガン見している。
正直、俺も信じられない。いや、信じたくない。デヴィル族に食
指が動くだけでも驚きなのに、人間にまで手を出す気満々なのか、
こいつ。女性なら種族すら問わないのか!? ﹁ともかく、だ。こいつがその手鏡に詳しい奴らしい。魔力が戻る
方法を知っている。俺も聞いたが⋮⋮⋮⋮お前にまかせる﹂
聞いたのか、ベイルフォウス。つまり、面倒くさい方法だったん
だな?
326
だから、わざわざ連れて帰ってきたんだな?
﹁わかった。あとは俺がなんとかする。⋮⋮妹が迷惑をかけて、悪
かったな。ベイルフォウス。この詫びはいずれまた⋮⋮疲れている
だろうから、もちろん手合わせなんか頼まないよ﹂
とりあえず、ベイルフォウスにはさっさと帰ってもらおう。いく
ら親友とはいえ、今は高位実力者と同じ空間にはいたくない。ジブ
ライールでもドキドキするのに!
今なら自信を持って言える。目の前にいるのがデイセントローズ
でも、同じようにドキドキすると!
嫌でも目に入ってくるからな、保有魔力の差ってやつが。心を抉
って、不安にさせるんだよね。
ベイルフォウス自身も少しは魔力が減ってるけど、そんなの誤差
程度だ。本人は支障なんて、全く感じてはいないだろう。
もっとも、解除方法がわかれば、元にもどしてやるつもりはある。
ただし、こっそりと。当の本人さえ気づいていない魔力の減少を、
なぜ俺がわかるのか、とかいう話になるとまずいからだ。
﹁なんだよ、詫びだなんて水くさいな。まあ、人間の町になんて呼
び出されたのは不快だったが、結果、楽しかったから問題ない。そ
れにお前が困ってるってのに、俺が力にならんはずがないだろう。
もちろん、解決するまで協力は惜しまんぞ﹂
それ、困った相手に向ける心優しい親友の笑顔じゃないよね? おもしろいことは一つも見逃さないぞっていう、好奇心と嗜虐心に
満ちた笑みだよね?
﹁いや、ほんとに俺はどこも悪くないから⋮⋮マーミルが一人で勘
違いして、暴走しただけだから。ジブライールも、気にしないでく
れ。蹴られたところは無事だ。全く、全然、なんともない﹂
本当はジブライールを視界に入れると、あのときのことを思い出
327
してちょっと⋮⋮なんていうの、不安とともにヒュンってなるんだ
けど。腰がひけるんだけど。
﹁本当ですか?﹂
真剣な顔で、ぐいっと一歩近づいてくるジブライール。
あ、やばい⋮⋮。
無意識に二歩、後退してしまった。
﹁か⋮⋮閣下⋮⋮﹂
﹁あ、ごめん⋮⋮いや、反射的に⋮⋮﹂
﹁は、反射的に?﹂
頼むから、そんな不安そうな顔をしないで、ジブライール。いつ
もみたいに無表情でいてくれ!
﹁いやつまり、だからその⋮⋮﹂
あああ、やばい。頭が真っ白になってきた。
なんて言い訳すればいいんだ?
﹁そ、そうだ! ジブライールは覚えてないか? ベイルフォウス
の魔術、みただろ?﹂
彼女はため息をついた後、床に落ちた用紙を拾った。それから迷
いもなく、さらさらと術式を書き出してくれる。
﹁視認できたのは一瞬だけですが⋮⋮確か、こうだったかと⋮⋮﹂
﹁おお、だいたいあってる。お前、記憶力いいな。あとは、ここが
⋮⋮﹂
つられたのか、ベイルフォウスがジブライールからペンと紙をひ
きとってすらすらと訂正し、またジブライールに戻した。
いや、俺に渡してくれよ!
﹁閣下、このように⋮⋮﹂
差し出された紙を、俺は手を伸ばして受け取る。ちょっと遠かっ
たが、なんとか指に挟めた!
328
﹁やっぱり、な﹂
ベイルフォウスは俺とジブライールを見比べて、うんうんとうな
ずいている。
﹁何が!﹂
﹁ジブライール。しばらくはジャーイルに近づくな。大事なところ
を、魔族の女の力で蹴られてみろ。いくら大公であろうが、モノが
無事だろうが、相手に対する恐怖心がわくってもんだ。お前にはわ
からないだろうが、死ぬほどの痛みを味わったことだろうからな。
さすがの俺も同情するぜ﹂
﹁私に対する恐怖心⋮⋮﹂
﹁ちが⋮⋮別に、ジブライールが怖いわけじゃない! ベイルフォ
ウス、よけいなことを言うな!﹂
そうとも、ジブライールが怖いわけないじゃないか。ただあの⋮
⋮ちょっと、近づきたくないと本能が⋮⋮尻込みしているだけで。
怖いわけじゃ⋮⋮。
﹁大丈夫。女に対する恐怖心の克服なら、俺にまかせろ。今日中に
なおしてやる!﹂
﹁頼むから、ちょっと黙っていてくれ、ベイルフォウス!﹂
くそ、こいつ。楽しそうな顔しやがって!
﹁とにかく⋮⋮俺のことは心配いらない。むしろ、現時点でジブラ
イールには多大な迷惑をかけていると、申し訳なく思っていて⋮⋮
それでつい、過剰な反応をしてしまっただけだから!﹂
﹁閣下が私に? ご迷惑など、被ってはいませんが⋮⋮﹂
この様子だと、あの噂のことは耳にはいっていないのだろう。
﹁実はこのところ⋮⋮﹂
いや、待て。噂の件は、ベイルフォウスには知られない方がいい。
絶対に。
329
こいつのことだ。よけいに面白がって、いらないことを言い出す
に違いないからな!
仕方がない。
﹁おい、ベイルフォウス﹂
﹁なんだ?﹂
﹁俺はジブライールと領内のことで、ちょっと話があるんで別室に
失礼する。その間、この人間の面倒を⋮⋮﹂
﹁ひやああああああ!﹂
それまで隅でガタガタ震えていただけの中年男が、突然叫び声を
あげて俺の足にすがりついてきた。
﹁行かないで、行かないでくださいー!! お願いです、この恐ろ
しい魔族と二人きりにしないでください!!﹂
おい、ベイルフォウス⋮⋮げらげら笑ってやるな、可哀想だろ!
﹁わかった、わかった。置いてったりしないよ﹂
﹁あああああありがとうございますぅぅぅぅ﹂
わかったから、鼻水を俺の足にこすりつけるな。顔面蹴るぞ。
﹁ジブライール。もしかすると、だが﹂
とりあえずオッサンを足から引き離す。
﹁君にとっては不本意な噂を耳にするかもしれない⋮⋮それについ
ては、本当に申し訳ないと思っているんだ﹂
﹁ふ⋮⋮不本意な、噂⋮⋮ですか?﹂
本当に何一つ耳に入ってはいないようだ。
﹁俺としてはしばらく静観するつもりだが⋮⋮君がそれに異論あり
というなら、訴えてきてくれ。もちろんきちんと対処はさせてもら
う。とにかく、もし不満があるというのなら、俺に挑戦してくる前
にまずは口頭で伝えてくれると助かる⋮⋮考慮しておいてくれ﹂
330
ジブライールが噂話に激怒して、俺をボコボコにしたいと思うほ
ど腹がたたないとは限らないからな! まずは話し合いを希望する
ということを、伝えておかないと。
﹁よくわかりませんが﹂
ジブライールは小首をかしげながらも、小さくうなずいてくれた。
﹁承知いたしました﹂
﹁ええと⋮⋮うん、じゃあ⋮⋮気をつけて帰ってくれ﹂
﹁え? けれど、領内の件でお話があるのでは⋮⋮﹂
あ、うん。さすが真面目なジブライール。
﹁いや、まあ⋮⋮それは急がないから。⋮⋮他の副司令官でも、明
日以降でもいいことだから、かまわない﹂
と、いうことにさせてもらおう。
﹁あの⋮⋮でも⋮⋮⋮⋮では﹂
意を決したように顔をあげる彼女の視線が、まっすぐすぎて痛い。
﹁なに?﹂
﹁ほ⋮⋮本当に、閣下が私にその⋮⋮恐怖心を抱いていらっしゃら
ないとの証明を⋮⋮し、していただけないかと⋮⋮﹂
え、ちょっと待って? 証明ってなんだよ!
まさかちょっとでも手合わせを、とか言うんじゃないよな!?
俺は今、こんななのに!
ジブライールみたいな強い娘が相手だと、手加減するどころじゃ
ないんだけど! っていうか、今度こそ本気で自分の命が心配にな
るんだけど!
﹁しょ⋮⋮証明って、つまり⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ぎゅ⋮⋮﹂
﹁は?﹂
331
ぎゅ?
﹁あ、あああああの⋮⋮ぎゅ⋮⋮ぎゅって、触っていただけたら⋮
⋮﹂
ああ、なるほど。
なんだよ、びっくりした。
そうか。さっきは思わず後じさってしまったからな。触れて証明
になるのなら、いくらでもそうするさ!
﹁これでいいのか?﹂
俺は若干の勇気を振り絞ってジブライールに歩み寄ると、固く握
りしめられた両手を包み込んだ。ぎゅっとな!
﹁せっかく勇気を出したのに、残念だったなジブライール。まあこ
いつはそういう、ガッカリな奴だよ﹂
なにがだ、ベイルフォウス!
そして、なぜまたちょっと涙目なんだ、ジブライール?
332
31.さて、僕にとってはむしろここからが本題です
﹁ううう⋮⋮うううう⋮⋮﹂
⋮⋮。
﹁こわ⋮⋮怖かった⋮⋮本当に、怖かったんです﹂
⋮⋮あ、うん。
人間のオジサンことガストンは、床に直座りして泣きじゃくって
いる。
ちょっと内股なのが気持ち悪い。乙女か!
﹁気持ちはわかった⋮⋮いや、ほんとに気の毒だったね。まあ、町
の方はなんとか元通りにできないか、試してみるからさ。そう気を
落とさずに﹂
俺はそう言いながらオジサンの前にしゃがみ込み、その肩をぽん
ぽんと軽く叩いてやる。
ベイルフォウスが帰ってくれない。だから、とりあえず部屋の外
に追いやった。
そしたらとたんに、この有様だ。
﹁あああありがとうございますぅぅぅぅぅ。ぜひ、ぜひよろしくお
願いしますぅぅぅぅ﹂
﹁うおっ﹂
そうしてオジサンは、俺の膝にすがりついてきた。
ベイルフォウスに怖い目をみたってのは、よくわかるんです。
そりゃあ、このオジサンは人間ですからね。魔族がはっちゃけた
ら、そりゃあ怖いよね。わかるんですよ。
333
目の前で町一つが、一瞬で凍土にされたんだもんね。恐怖心を抱
かないほうがおかしいよね。
でも、いいですか?
ちょっとつっこんでいいですか?
あの、実は俺も魔族なんですけど。
こう見えて魔族の、しかも大公なんですけど。
あなたが大層怖がっている、あの赤毛の魔族と同じ地位にあるん
ですけど?
なんでこのオジサン、俺には平気で話しかけてくるばかりか、と
りすがってさえくるの?
いくら魔力が半減しているとはいえ、大公としての威厳が、です
ね⋮⋮。
威厳⋮⋮ないのかな、俺。
ないん、だろうな⋮⋮。
﹁ここは⋮⋮げふ、げふ⋮⋮寒気がします。怖い気配がたくさんし
て⋮⋮ひっく。ぞわぞわします⋮⋮おえ⋮⋮町に⋮⋮町に、帰りた
いです⋮⋮おええええ﹂
おい⋮⋮吐くなよ? 俺の膝で吐くなよ!?
それにしても。
今なんていった?
怖い気配? それって、曲がりなりにも魔族の気配を感じてるっ
てことだよね。
あれ?
だったらなんで、俺のことは平気なの?
どうしてなのかな?
334
魔族としての気配が俺から感じられない、とかそういうことなの
? それもこれも、俺の隠密体質のせいなのか?
⋮⋮もういいや。
﹁もちろん、帰してあげるよ。でもその前に、一つ教えてもらえな
いか? 君たちが使ったという手鏡⋮⋮いわゆる邪鏡ってやつだよ
な?﹂
その質問で、ガストンはようやく俺の膝から身を起こしてくれた。
﹁邪鏡じゃありません、聖宝鏡です﹂
聖宝鏡?
ガストンの語ったところをまとめると、こうだ。
去年の傭兵団の全滅。ベイルフォウスが俺の配下を助けるために、
人間の傭兵団五十人を跡形もなく焼き尽くしたあの一件。
俺は傭兵団の雇い主であった領主に、その噂を広めないようにと
言い含めたつもりだったのだが、手遅れだったらしい。というのも、
領主がその跡地の調査を任せた集団︱︱冒険者という者たちの職業
が、問題であったようだ。
冒険者たちというのは依頼主と雇用契約を結ぶときに、とくに秘
匿すると約束したこと以外のことは、経験を口述して講談師や詩人
に売ったり、作家を雇って本にしたりして、副収入を得ているらし
い。なるほど、俺が好んで読んでいる人間たちの冒険譚のいくらか
は、そうやってできあがっているわけか。
そして当然、件の冒険者たちも傭兵団の調査結果を本にした、と
いうわけだ。
このところ︱︱具体的にいうと、魔王がルデルフォウス陛下に代
335
わってからの、この三百年近く。魔族によって非道が振る舞われた
という具体的な話が、多くの地域であきらかに減少傾向にあるらし
い。もちろん、直接支配を及ぼしている魔族によっては、そうも言
っていられないのだが。
とにかく、人間たちにとってこの三百年を魔族との関係に絞って
みると、おおむね平穏と言い表してもいい状態と言えるようだ。
だからかえって、五十人もの傭兵が壊滅したという話は、その一
団が勇猛さで名を馳せていたことも手伝って、人々の間に新鮮な好
奇心と恐怖を呼び起こしたのだろう。
その結果、魔獣や魔族を警戒し、恐怖を新たにした人々が増えた
一方で、好奇心にかられて跡地を見学するために、森へ侵入する者
も現れた。だが、森には当たり前のように魔獣がいるし、下位の魔
族と遭遇する危険もある。そこで仕入れられたのが、その<聖ポダ
リスの手鏡>であるらしい。
鏡は大変高価だが、鏡面に映ったものの魔力をすべて吸い取る、
という効果があり⋮⋮。
うん。どこかで聞いた話だよな。
ああ、つまりそうだとも。
﹁そう、魔族の魔力を根こそぎ奪い取るという、伝説の聖宝鏡。そ
れを作った伝説の技師ポダリス! 手鏡はその方の造形物を研究し、
一般化することを目的に創設されたポダリス工房が、百年にも及ぶ
研究の末、小型化に成功して量産したものなのです! その効果は
絶大⋮⋮ほとんどすべての魔獣の魔力を、根こそぎ奪ってしまうほ
どの⋮⋮!﹂
ガストンは、話すうちに宝具屋の血が騒ぎだしたのか、興奮で?
を赤らめ目を輝かせて熱弁してくれた。
336
しかし、聖宝鏡、だと!? 魔鏡⋮⋮邪鏡じゃないのかよ!
ポダリス!? ボダスじゃないのかよ!!
まさかヒンダリスの奴、わざと違う名を俺に伝えたのか?
もっとも、言われてみれば納得はできる。
人間にとっては魔獣や魔族の魔力を抑えることで、益をもたらす
という認識になり、聖の方に分類されるわけだ。
いや、俺だってもちろん、多少は名称の相違を考慮に入れてはい
たけどさ⋮⋮。
﹁ですがまさか、魔族といっても子供にしか効かないとは⋮⋮やは
り、本家本元の技術を利用して造られたとはいえ、聖技師とまで言
われたポダリスの技は、並の者たちでは再現することも困難という
ことですな﹂
ガストンは誤解している。手鏡だって、子供でなければ全く効か
ない、というわけじゃない。実際にジブライールのみならず、ベイ
ルフォウスですら、魔力は減少していた。
だがおそらく奪い取る量に上限があるのだろう。だから元から魔
力容量の少ないマーミルだけは、ごっそり減って見えた。
もちろん、そんなことを正直に教えてやる義理はない。
﹁その手鏡⋮⋮今、持っているか?﹂
俺の質問に、ガストンは首を左右に振った。
﹁いいえ。この身一つでここにさらわれて⋮⋮ぐぶ⋮⋮﹂
また恐怖を思い出したのだろう。口元を手で覆って体を前のめり
に折る。
俺の膝の上じゃないから、吐いてもいいぞ。
﹁で、その奪った魔力を戻す方法があるんだろ? どうすればいい﹂
背をなでてやりながら、話を続ける。
ベイルフォウスは面倒くさい方法だと思ったらしいが、どうなん
337
だろう。
﹁それは⋮⋮﹂
ガストンは体を起こすと、ちらちらと俺の方を上目遣いで見だし
た。
﹁なんといいますか⋮⋮もちろん説明するのに吝かではないのです
が⋮⋮まずはその⋮⋮お約束通り、町をなんとかしていただかない
と⋮⋮﹂
ん?
⋮⋮ええっと、聞き違えたのかな? 俺の耳が、おかしいのかな?
まさか、ベイルフォウスには素直に白状しておいて、俺には対等
の取引を申し出てくるとか⋮⋮何かの間違いだよね?
﹁よく聞こえなかったな。なんだって?﹂
﹁ですから、魔族に対しての効果に疑問が残るとは言え、手鏡は我
ら人類にとっての生命線ともいえる大切な宝具。魔獣にちゃんと効
くのは実証済みですし、魔族であっても子供になら効果はあるので
すから。その情報を、ただで教えろとおっしゃるのは⋮⋮﹂
へえ、そうくるのか。
﹁ああ、なるほど⋮⋮。よしわかった、今から町に連れて行ってや
ろう﹂
俺の言葉に、ガストンは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
﹁氷漬けの町を、隅々まで粉々に砕いてやろう。塵と紛うほどに細
かくな。もちろん、その手鏡とやらもだし、残った女たちもすべて
だ。一人残ってはお前も寂しいだろうから、その結果を見届けた後
に同じように扱ってやろう。なに、妹の魔力を戻してやれないのは
残念だが、今はまだ成長期⋮⋮わずかに減った分など、あっという
間に取り戻すだろうよ﹂
俺は微笑を浮かべつつ、そう言った。
338
ガストンは反射的に口元をゆるめかけ、それからしばらく表情を
硬化させる。言葉の意味を、よく噛み分けているのだろう。
俺は何も人間の味方ではない。ただ他の魔族よりは無駄な殺生を
厭うている、というだけのことだ。本性は、残虐と無慈悲さを好む
魔族であることには違いない。そこのところを、この男は勘違いし
ているようだ。
いや。ある意味では、勘のよさを褒めてやってもいいかもしれな
い。
確かに実際のところ、俺にとって彼の持っているだろう情報は、
喉から手が出るほど欲しているものに違いないからだ。
手元の邪鏡ボダスと伝説の聖宝鏡ポダリスとやらが、全く別のも
のであるという可能性もなくもない。が、たとえ別物だとしても、
停滞している現状を打破するきっかけにはなってくれるだろう。
だがそれにつながる情報を、人間の有利な風に運ばれ公開してい
ただいた、というのでは、さすがに大公としての面目がすたるとい
うものだ。多少のハッタリは、必要だろう。
まあ、ほんとに町を粉々に壊す気なんてないけどね。面倒くさい
から。
けれど万が一、ガストンがこれ以後も対等の取引相手のような態
度で接してくるなら︱︱。 ﹁図に乗って、申し訳ありませんでした!﹂
おおっと。振りかぶっての見事な土下座だ。
﹁あ⋮⋮貴方様があんまり資産家のぼんやり息子っぽ⋮⋮⋮⋮いえ、
あまりにお優しそうで、お育ちがよさそうなので、つい、いつもの
くせが⋮⋮人間のお坊ちゃま方と、同列に扱おうなどという浅まし
339
い根性が出てしまい⋮⋮。それに、まさかあの可愛らしいお嬢様が、
城主様の妹君だとはつゆとも思わず⋮⋮﹂
頭を床にこすりつけて大声で叫んでくる。
つまりこいつは、普段は人間の資産家を相手には、割とあくどい
商売をしているわけか。
﹁本気ではないのです、本気では⋮⋮ええ、この期に及んで魔族様
に逆らおうなどと、思うはずがございません。ましてや、交換条件
などと!! お優しそうな城主様、どうかお願いです! 町を救っ
てくださいなどと、大それたことは申しません! ええ、申しませ
んとも!! ただ、このガストンは⋮⋮ガストンめの命ばかりは、
ご容赦ください! お見逃しいただいた暁には、もてる財産、もて
る知識の全てを差し出し、犬のごとき忠誠を貴方様に誓約いたしま
す!!!﹂
⋮⋮極端な奴だな。
いや、いらないんだけど。人間のオジサンの忠誠とか、いらない
んだけど。鏡に関する情報だけでいいんだけど。
﹁忠誠は結構だ。それより、鏡のことを⋮⋮﹂
﹁あ、はい! 実は、あの手鏡はですね!!﹂
オジサンは、べらべらとしゃべり出した。
必要な情報を得られるまで、なんと長かったことか。
ようやく聞き出せた、という感じだ。
なんだろう⋮⋮端から恐怖で屈服させ、あっさりと聞き出しただ
ろうベイルフォウスとの差をみると、世の不条理さを感じずにはい
られない。
まあ、それはおいといて、だ。
340
ガストンに聞いた﹁手鏡で奪った魔力を抽出する方法﹂というの
はこうだ。
1.まず、手鏡を机に置きます。
2.鏡面を割らないように気をつけて、︵最悪割ってもかまいま
せん。粉々でなければ大丈夫でしょう。たぶん︶周囲の装飾を取り
ましょう。削っても、割っても、切ってもかまいません。お任せで
す。
3.取り出した鏡を、ひっくり返しましょう。ほら、なんとそこ
に、呪文のような文字が!!
4.これは、失われた古代文字です。なんとか解読して、そこに
かかれてある通りの方法を行いましょう!
5.さて成功すれば、魔力は解放されます! ※これは決して、
奪った相手の側でやってはいけません。せっかくの魔力が、その器
に戻ってしまうからです。解決方法としては、そのときに、手鏡の
横に魔力を吸う宝珠などを置いておけばあら不思議!! 宝珠がそ
の魔力を吸い取り、あなたが魔術師であるならば、とても役に立つ
聖玉のできあがりです!! ええ、ただのガラス玉ではいけません。
ですが、ご安心ください! このガストン商会にお任せを! 親指
の爪ほどのものから、水おけほどの大きさまで、大小様々なものを
取りそろえて⋮⋮え? いりませんか、そうですか。
余計な宣伝まで入ってしまったが、要するに鏡の後ろに解除方法
が記されている、という単純な話だ。
まさか、量産品なのに書いてあることが一枚一枚、違う訳でもな
かろう。たった一枚あればいいのだが、このオジサンは持っていな
いというし。
仕方ない。手鏡を取りに行くついでに、町の氷結を解除してやる
ことにするか。
341
しかし今の方法を聞くに、その手鏡は手元の邪鏡と同じ人間が造
った訳でもないそうだから、同じ方法で俺の魔力まで戻ってくるか
どうかは怪しい。
だが、とりあえずは手元の邪鏡も囲いをはずして、裏面を確認し
てみることにしよう。案外、同じように解決方法が書かれているか
もしれない。なにせ、俺の持っているのは、手鏡の元となった鏡な
のだろうから。
全部やってみて、それでも駄目な時は、直接そのポダリス工房を
訪ねてみるということでいいだろう。
よし、早速試してみるか!
俺が膝を叩いて立ち上がると、ガストンは反射的にだろうか、俺
の足にすがりついてきた。
﹁あ、あの⋮⋮どちらへ!?﹂
どちらって、もちろん鏡のある執務室にきまっている。
そう正直に答える義理はないが。
﹁い⋮⋮行かないでください!﹂
黙っていると、ガストンは小刻みに震えだした。
﹁こんなところに一人で残されたのでは、私の神経がもちません!
どこかへ行くなら、私もご一緒に!!﹂
いや、意味がわからないから!
﹁この部屋を出なければ何も危害を加えることはしない。配下にも
そう申し伝えておくから、安心しておとなしく待っていろ﹂
﹁で、ではせめて⋮⋮せめて、お願いが﹂
﹁なんだよ﹂
﹁それがその⋮⋮決して失念していたわけではないのですが⋮⋮﹂
﹁何を?﹂
俺が聞く耳をもったとたんに、バツの悪そうな表情を浮かべる。
なんだっていうんだろうか。
342
﹁その⋮⋮私がさっき申し上げたことですが⋮⋮﹂
﹁さっき?﹂
聖宝鏡の解除方法のことか?
﹁あの、町を救ってくださいとは申しませんと⋮⋮﹂
ああ。自分の命だけ見逃してくれ、といったことか。
﹁その⋮⋮どうか、あの発言はなかったことにしていただきたいの
ですが。私はもちろん、町のことを深く思っており⋮⋮ですね。で
すから本当に、彼女たちのことを忘れていた訳ではないのです﹂
﹁彼女たち?﹂
氷結を逃れられた、という一部の女性たちか。
﹁ですからどうか、お優しい城主様。ここで待つならせめて彼女た
ちも一緒に! この部屋で、一緒に⋮⋮!!﹂
彼女たちも一緒にこの部屋で?
彼女たちも一緒に?
彼女たちも?
嫌な胸騒ぎがする。
﹁ちょっと待て。まさか⋮⋮ここに連れてこられたのは、お前だけ
じゃないのか?﹂
﹁さようです、魔族の城主様。ええ、私と一緒に三人ほど、女性が
⋮⋮﹂
三人?
﹁この城に連れてこられてすぐに、引き離されてしまいまして⋮⋮
ええ、はい⋮⋮⋮⋮あの、怖い赤毛のお方が、彼女たちをどこかに
連れて行っておしまいに⋮⋮﹂
おい。
ベ イ ル フ ォ ウ ス は ど こ だ !?
343
32.人間の女性が弱々しいと、誰が言いましたか?
﹁おい、ベイルフォウス!!﹂
俺は赤毛の親友がいるという部屋の扉を、乱暴に開けた。
その瞬間。
﹁きゃああああ﹂
えっ!
﹁し、失礼﹂
女性の悲鳴に驚いて反射的に扉を閉じ、考えること数秒。
いや、待て。
なんで俺が自分の城で悲鳴をあげられて、退散せねばならないの
だ。
別に着替えの最中をのぞいたとかいう訳でも⋮⋮。着替え?
そういえば、ちらりと生足とか二の腕とか背中とか、胸の谷間と
か⋮⋮見えたような見えなかったような⋮⋮。
あれ? だけど目の端に、あの派手な赤毛を捉えたような気も⋮
⋮。
⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
﹁ベ⋮⋮ベイルフォウス! おい、ベイルフォウス! 中で何して
るんだ! お前、まさか女性にいかがわしいことを強いてるんじゃ
ないだろうな!!﹂
ドンドンと扉を叩いていると、中からしかめっつらの親友が出て
きた。
344
﹁人聞きの悪いことを言うなよ。俺は女に無理強いしたことはない。
お前がそんなだから、マーミルが俺のことを誤解するんじゃないか﹂
いや、マーミルの認識は正しいだろ!
﹁で、聞いたのか? あの親父に。マーミルの魔力が戻る方法を﹂
﹁もちろん聞いた。それでお前が俺に任せるといった理由も理解し
たよ!﹂
失われた古代文字を紐解く、だなんて、俺が聞いても面倒だと感
じるくらいなのに、ベイルフォウスがすすんでやるわけがない。
いくらマーミルのためとはいっても、だ。
﹁よし、そうか。じゃあ、これ﹂
ベイルフォウスは懐から一つ、手鏡を取り出した。
﹁これ⋮⋮おい、まさか?﹂
﹁ああ。問題の手鏡だ﹂
なんだよ! 持ってきてるなら、最初から出してくれればよかっ
たのに!
﹁ちょ⋮⋮こっちに向けるな﹂
予想では、この手鏡が吸い取る魔力量は、今の俺が奪われても支
障のないほど僅かなものだ。が、万が一そうでなかった時が怖い。
この半減している魔力が、さらに半減したりするとしゃれにならな
い。
だが、邪鏡ボダスと違って、その手鏡からは何の拘束力も感じな
かった。少しくもった鏡面に、俺の姿がぼんやりと映っているだけ
だ。
﹁大丈夫。発動には、呪文がいるそうだからな。お前、読めるか?﹂
そう言って、ベイルフォウスは鏡をくるりと回し、俺に背面を見
せてくる。
﹁いや、全く﹂
345
そこには虫が這ったような模様が刻まれていた。
これが古代文字、とやらか? こんな線をくねらせたようなもの
⋮⋮本当に、意味があるのか?
﹁ちなみに、呪文は﹂
﹁言うな。後でガストンに聞く﹂
俺は手鏡をベイルフォウスから奪い取り、懐にしまいこんだ。
ちなみに、おいすがってきたオジサンは、引きはがしてあの部屋
においてきた。今頃ぶるぶる震えながら、俺の帰還を待っているこ
とだろう。
﹁まあ、一つだけ持ってきても、意味ないとは思ったんだがな﹂
ん?
﹁どの鏡にマーミルの魔力が奪われたのか⋮⋮それとも、複数から
一斉に奪われたのか、わからないだろ?﹂
あれ? ⋮⋮そう言われれば⋮⋮そうなるのか。
しかも、俺の目でも鏡が奪っているはずの魔力を見ることさえで
きないとなると⋮⋮。
ベイルフォウスとジブライールにこっそり魔力を返すとか、無理
じゃないか?
いや、ジブライールはいけるか。マーミルの魔力を返すときに、
一緒にいてもらえればいいだけだしな。それはそう難しいことでも
ない。
問題は、ベイルフォウスだが⋮⋮。あいつはこの程度の減少なん
て、なんの支障も感じていないだろう。実際何一つ、気付いてない
わけだし。
最悪、なかったことにさせてもらおう。
それよりも、今はこの部屋の中のことだ。
346
﹁それより、ベイルフォウス! ここで何してるんだ。いや、って
いうか、この中にいるのは誰だ!?﹂
﹁もちろん、お前のためになるだろう娘たちだよ﹂
俺が詰め寄ると、ベイルフォウスは待ってましたといわんばかり
に、大きく扉を開いた。
その向こうには、露出度の高いドレスに身を包んだ人間の娘が三
人、いた。
その態度に恐怖をにじませながらも、彼女たちがベイルフォウス
に向ける目は、どこか陶然としている。
あれか⋮⋮また、この赤毛のたらし能力が発揮されたのか? 魔
族の女性だけじゃなくて、人間にも有効なのか? ほんとに特殊魔
術か何かじゃないのか?
こ
三人のうちの一人には見覚えがある。確かそう、食堂で働いてい
た元気な娘⋮⋮イーディスだったか? その娘じゃないか。
イーディスも俺が以前の客だと気づいたのだろう。視線が合うと、
すがるような目を向けてきた。 ﹁おい、ベイルフォウス。これは一体、どういうことだ。マーミル
全員
連れ帰るのはな。この三人はお前の
がすねたんで、女性をさらうのはやめたんじゃなかったのか?﹂
﹁ああ、自分のために
ために連れてきたんだ﹂
さっきから何いってるんだ、こいつは。
﹁あんな目にあったんじゃ、魔族の女なんて、お前にとってはしば
らく恐怖の対象になるだろうと思ってさ。ジブライールへの態度を
見るに、俺の予想は外れていないようだし﹂
意味が分からない!
まだ俺がジブライールに恐怖心を抱いているだなんて、言うつも
りか。そんなことないのに! そんなこと、ない⋮⋮ない、よな⋮
347
⋮?
﹁その点、人間の女ときたら、触れるにもよほど注意しないと、す
可憐な女性
だっけ? つまりはそんな感じだろ?﹂
ぐに壊れてしまいそうなほど弱々しい。なんだっけ⋮⋮ほら、お前
の言っていた
お前が可憐という言葉の意味を、全く理解していないということ
だけは、よおくわかったよ!
﹁だいたい、土産がムサい男一人だなんて、さすがに俺だってそこ
まで無神経なことはできないさ﹂
いや、現状が神経を使った結果だというなら、どうぞ無神経にな
ってください。むしろお願いします。
だいたい、人間を三人︱︱ガストンは仕方ないとして︱︱も連れ
て帰るより、手鏡を全部回収して持って帰ってくる方が簡単だと思
うのだが、どうだろうか!
﹁俺なら相手の見た目や年齢は気にしないが、お前はそうでもない
だろう? だから若くて人間にしては見目のいいと思われる、胸の
大きな娘を選んできた﹂
いや、あの⋮⋮。
﹁さあ、選べ! それとも三人ともいっとくか? 相手は人間だ。
さすがにお前だって、全員一度に相手をしても大丈夫だろ? 心配
するな。三人には、色気でお前を陥落するよう、けしかけてある﹂
バカなのかな。ベイルフォウスってバカなのかな。
﹁頼む、ベイルフォウス。帰ってくれないかな? でないと俺、腰
の剣を抜いてしまいそうなんだ﹂
震える手をぎゅっと握りしめ、俺はベイルフォウスにひきつった
笑みを向けたのだった。
***
348
﹁ああ、ガストンさん!!﹂
﹁おお、イーディス、ミナ、それに⋮⋮⋮⋮﹂
今、俺の目の前では、ガストンと三人の娘による感動の再会が⋮
⋮。
感動の⋮⋮あれ?
﹁それに⋮⋮? 君、誰だっけ?﹂
﹁あ、初めまして。私、マリーナといいます﹂
娘の一人が、ガストンに向かって深々と頭をさげる。
﹁ああ、これはご丁寧に。ガストン商会の社長兼ガストン宝具店店
長の、ガストンです。今後はぜひ、うちの店をごひいきに﹂
⋮⋮。
どうやら三人のうちの一人とは、初対面であったようだ。
ちなみに、娘たちには元の服に着替えなおしてもらった。少し、
残念そうな表情で顔を見合わせられたのは、意外だったが。
とにかく、四人はお互いの無事を喜び合っている。
少しの間、そっとしておくことにしよう。
手鏡のことをガストンに確認するのは、後でいいだろう。
俺はベイルフォウスが町の上空に展開したという術式の書かれた
用紙を手に、椅子に深く腰掛ける。
魔術を打ち消すには、まずその術式を理解しないと。
改めてじっくり見てみるが⋮⋮。
ああ、うん。やっぱり、何度見ても百式だよな。五枚四層の、見
事な百式一陣だ。
それも⋮⋮。
349
あいつ、炎の術式の時には単純な文様しか描かないくせに、なん
で今回に限ってこんな複雑なんだ。丸や星なんかは定番だが、なに
これ⋮⋮わけのわからん文様が、いっぱい描かれている。
俺は割と文様には詳しいほうだと自負していたのだが、それでも
これを一目で解読して、とっさに効果を打ち消すのは無理だ。
やばい。意外に難解だ。無理に帰す前に、解説をしてもらうんだ
ったか。
例えば、一層なんかは完全に炎の術式を表している。これを含め
てどうして氷の魔術になるんだ?
ベイルフォウス⋮⋮こういうところがあるから、あいつは侮れな
い。
仕方ない、効果のわからない文様は、一つ一つ展開して試してみ
るしかないか。と、なると、解読には少し時間がかかりそうだが⋮
⋮。
いや、待てよ。
﹁あ、あの⋮⋮﹂
声をかけられて顔をあげると、目の前には四人の人間の姿があっ
た。
術式に没頭している間に、感動の再会は終わったようだ。
彼らを代表して声をかけてきたのは、イーディス。食堂の娘だっ
た。
﹁あの、お兄さん⋮⋮ですよね? 目の色は違うけど、去年、うち
の店にきてくれた⋮⋮﹂
﹁ああ、あの時は人間に見えるように、色を変えていたから﹂
正確に言うと、目の色が違う色に見えるように魔術で幕を張った
んだが。
﹁じゃあ本当に、お兄さんも⋮⋮<魔族>なんだ⋮⋮﹂
350
﹁ああ﹂
しかも大公ですけどね。魔族の中でも、そこそこ高位ですけどね。
﹁でもあの⋮⋮お兄さんのことは⋮⋮信じていい、ですよね?﹂
信じて⋮⋮とは、どういうことだろう。
﹁あの⋮⋮あたしたち、さっきの赤毛の⋮⋮方、に、お兄さんをそ
の⋮⋮⋮⋮元気にするように、いわれて⋮⋮﹂
イーディスが、頬を真っ赤にしてもじもじとうつむく。
ベイルフォウス!!
﹁あいつの言ったことは、気にしないでくれ。君たちの貞操につい
ては、何の心配もないと断言しておこう﹂
俺の確約で、女性たちは強ばった表情を、いくらかゆるめたよう
だった。
だが、イーディスにも以前の気安さはない。
まあ、森で五十人を殺害されたばかりか、目の前で町を氷漬けに
されたんだ。俺がやったことではないとはいえ、同じ魔族。恐怖心
を抱かない道理がない。
﹁大丈夫、大丈夫! 心配するな、イーディス!﹂
魔族様だよ! あの怖い赤毛の魔族が氷漬
俺の言葉を後押しするように、朗らかにそう叫んで娘の肩を抱い
いい
たのは、ガストンだ。
﹁この城主様は
けにした町を、元通りに戻してくださるそうだし、我々のことも無
事、帰してくださるそうだ!!﹂
まあ、確かにそのつもりだけども。
急に元気になったな、ガストン。
ついさっきまで泣いて消沈していたのが、嘘のようだ。
﹁このガストンと約束してくださったから間違いない! ああ、そ
351
うだとも﹂
そうしてガストンは、やや抑えた暗い声でこう続けた。
﹁引き替えに、私の財産はすべて差し出す覚悟だが、全く問題ない
さ。ああ、町のみんなが元通りになるならな﹂
﹁ガストンさん⋮⋮﹂
イーディスが、同情心も露わにガストンを見つめる。
⋮⋮なんだろう、このオジサン。なんかイラッとする。
さっきまで町のことはどうでもいいと言っていたことを、思わず
口にしたくなるじゃないか。
﹁バカね、こんなお城に住んでいる魔族様なのよ。ガストンの財産
なんて、見向きもなさらないわよ﹂
イーディスやガストンを押し退けて前に出てきたのは、気の強そ
うな顔立ちの⋮⋮たしかさっき、ミナと呼ばれていた娘だ。
﹁魔族様。町を救ってくださるお礼が、私自身ではいかがでしょう
?﹂
こ
片腕で不自然に脇を締めて胸を強調し、もう片方の手で長い髪を
かきあげてくる。
なんだろう、この娘。エミリーを思い出すな。
﹁ミナ! 何言ってるの、アンタ!﹂
﹁あん﹂
イーディスがミナの腕を引いて、強引に自分の方へ向き直らせた。
それから俺の見ている前で、二人の娘は背を向け、小声で話しだ
す。
﹁変な声ださないで。気持ち悪いわね﹂
﹁バカね、イーディス。これはチャンスなのよ? 見てみなさいよ、
このお城。それに、さっきのドレス。こんな豪華なお城に住んで、
あんなきれいなドレスを着せてもらえて⋮⋮しかも、肝心のお相手
352
が⋮⋮﹂
二人で俺の方をちらりと見てくる。
﹁あの男前よ? 心惹かれない方が、どうかしてるわ﹂
﹁バカなことをいわないでよ。いくらあのお兄さんが信じられない
くらいに素敵でも⋮⋮まあ確かに、それは⋮⋮⋮⋮でも、魔族よ?
魔族なのよ? 残虐非道で、冷酷無比な魔族。町を一瞬であんな
風にしてしまった、魔族の一員。それを、わかって言ってるの?﹂
あの⋮⋮すみません。丸ぎこえなんですけど。
なんか、いたたまれない気分になるんですけど。
﹁町は元に戻るのよ。何を心配することがあるの。私はさっきの赤
毛の魔族が相手だって、かまわないわ。むしろ、色気がたまらなか
ったくらいで﹂
﹁あー、おほん﹂
聞くに堪えない。
どこが弱々しいんだ、人間の女性のどこが。
しかしまあ、好意的に解釈すれば、不安が高じてこのハイテンシ
ョンということも考えられなくはないが。
﹁四人とも、無事に連れて帰る。心配するな﹂
そこ、あからさまにがっかりしない!
﹁それに、町もできる限り元に戻すつもりだ。だからといって、礼
なんぞどんな形でもいらない。ベイルフォウスが気まぐれに氷結し
たのを、俺が気まぐれに解くだけのこと。だいたい、氷漬けになっ
た人間を解氷したからといって、無事に蘇生となるかは保証の限り
ではないしな﹂
四人は町のことを気楽に考えていたのかもしれない。俺の言葉に
少し表情を強ばらせた。
﹁とにかく、その対処には時間がかかる。君たちは準備ができるま
353
での間、ここでゆっくりしていてくれ﹂
﹁あの、時間ってそれはどのくらい⋮⋮﹂
﹁それはまあ、今日一日か、十日か⋮⋮まだなんとも言えないな﹂
町に向かうには、最低でもベイルフォウスの術式が解けてからで
ないと。二度も足を運ぶ羽目になるのは、できる限り避けたい。
﹁あの⋮⋮だったらせめて、あたしたちを先に町に帰してもらうこ
とはできませんか?﹂
﹁君たちを先に?﹂
﹁はい﹂
イーディスはしっかりと頷く。
﹁あたしたちと一緒にいた女の人たち、今頃みんなとても不安がっ
てると思うんです。自分たち以外の人は氷漬けになって、あたした
ち四人はさらわれて⋮⋮今頃どうしているか、心配で⋮⋮。それに
あたし、考えたんですけど、こんなに時間がたったらもう、氷も溶
けているんじゃないかって。ほら、今日ってよく晴れてたし!﹂
なるほど、割と脳天気に感じたのは、ベイルフォウスの魔術が氷
だったせいで、自然解氷の可能性があると考えていたからなのか?
だが、残念ながら、それは不可能だろう。ベイルフォウスが炎で
すべてを塵とする代わり使用した魔術だ。それはつまり、相手に確
実な破滅をもたらすつもりで生み出したものだということ。
実際にあの複雑な術式をみる限り、熱源を近づけたからといって、
簡単に溶けるようなものができるとは思えない。
だが何も正直にそう伝えて、不安をあおることはないだろう。
﹁わかった。今日中になんとかできないようであれば、それも考え
てみよう﹂
俺の言葉に、イーディスはようやくホッとしたような表情をみせ
たのだった。
354
﹁それから、ガストン。この手鏡のことで、確認したいことがある
んだが﹂
俺はベイルフォウスから受け取った手鏡を、懐から取り出して宝
具屋に見せる。
﹁おお、聖宝鏡!﹂
ガストンが俺から奪いとる勢いで手を伸ばしてきたので、手鏡を
高く掲げた。
その瞬間。
﹁アルファッスタラーラ!﹂
唾と共に、聞いたことのない言葉がガストンから発せられる。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
こいつ⋮⋮手鏡の効力を発動させて、俺の魔力を取ろうとしたな?
だが、残念!
鏡には布を張ってあるのだ!
俺は鏡面を見せながら、ガストンににっこりと笑いかけた。
﹁研究熱心だな、ガストン﹂
﹁ひっ﹂
﹁子供にしか効かないと思っていても、試さずにはいられなかった
ということか?﹂
俺はじりじりと後じさるガストンの肩を、がっしりと掴んでみせ
る。
﹁ところで、お前、ちゃんと古代文字とやらが読めるんじゃないか﹂
俺が耳元でささやくと、ガストンは乙女のような悲鳴をあげた。
355
33.大公城の図書館にはいろんな本があります
俺は四人の人間たちを離れに置いて、執務室に向かった。
もちろん、休憩室の奥に封印した例の三面鏡⋮⋮邪鏡ボダス、そ
の背面を確かめるためだ。
二度目に姿を映した時も、全く魔力に変化はなかったから、今度
も大丈夫だろう。が、用心にこしたことはない。
俺はすべての鏡面が下を向くように、三面鏡を机の上に開き置く。
それから魔術で周囲の木製の囲いを切断し、取り除いた。
その結果、三枚の裏の真ん中、そこに術式らしき図と虫の這うよ
うな文字を発見した。間違いない、手鏡にあった文字と同じ種類の
ものだ。
やはり邪鏡ボダスと聖宝鏡とやらは、同一とみて間違いないのだ
ろう、という思いが強くなる。
この数日の鬱々悶々とした気分を省みれば、この発見がどれだけ
俺の心を励まし喜ばせたか、思いやっていただけると思う!
俺はその図と文字を丁寧に、一字一句違えることなく書き写すと、
もう一度しっかりと三面鏡に封印を施した。
結局、ガストンは古代文字を読めなかった。手鏡の装飾をはずし、
鏡面の裏に彫られた踊る虫のような文字を読ませてみたのだが、全
く、一文字も解読できなかった。
ではなぜ、鏡の装飾に彫られていた呪文を唱えることができたの
か。
手鏡にはもともと、発動の呪文や解除方法などが書かれてある説
明書がついているのだという。
356
まあ、全員が同じ呪文を口にして、マーミルたちの魔力を奪った
のだというんだから、発動の呪文をあらかじめ知っているのは当然
だ。
しかし、まさか説明書なんかがあるとは。なぜ情報を小出しにす
るんだ、ガストンめ!
まだ何かたくらんでいるんじゃないだろうな、と、怪しんでしま
う。
もっとも、今はその説明書を持っていないそうだ。しかし当然な
がら、町には手鏡の数だけ説明書が存在する⋮⋮というので、俺は
とにかく出かけることにした。まあ、一枚二枚あればいいんだけれ
ども。
だが、せっかく行くのならば、やはりベイルフォウスの魔術もな
んとかしてしまいたい。
そんなわけで、俺は執務室を出ると、今度は図書館へと向かった。
***
なぜ、図書館に?
答えは簡単だ。
図書館には、いろんな本がある。当然、術式の文様辞典なんかも
あるのだ。
ならば、これを利用しない手はない。術式の解明のために一つ一
つを展開して確かめるよりも、辞書を紐解く方が安全だし、魔力の
消費も気にしなくていいのだから。
俺は図書館にたどり着くと、辞書・辞典類がまとめられた本棚の
一角に立った。
魔術の文様に関する辞典は、四冊ほどある。分類が違うだけで、
いくらか内容がかぶっているとはいえ、この中からいくつもの文様
357
を探し出すのは困難だ。
なので、俺はつぶやいてみた。
﹁術式を解読するのも手間だな⋮⋮本も四冊もあるし、それに古代
文字だとかいうのなんて、本を探すところからだからなぁ。手間だ
なぁ⋮⋮。誰か手伝ってくれないかな⋮⋮一人でやるより、二人で
やった方がきっと早いと思うんだよな⋮⋮急いでるんだけどなぁ﹂
以前なら、エンディオンに一緒に本を探ってくれるよう頼んだと
ころだが、図書館には常に司書がいるのだから、これを利用しない
手はない。
だが⋮⋮。
俺はちらり、と視線を動かして周囲を探ってみたが、人の気配は
ない。
やっぱり無理か?
つぶやいただけでは、助けに出てきてはくれないか?
仕方ない。
俺があきらめて四冊の辞典を手に、読書机に腰掛けた時だった。
目の端を、黒いものがかすめる。
本棚を伝うように、それは徐々に距離を詰めてきて︱︱、読書机
にもっとも近い本棚の向こうで、ぴたりと止まった。
﹁やあ、ミディリース。助かるよ﹂
俺は自分の目の前の席を、手で示す。
手伝ってくれること、前提だ。彼女には強引にいかないと駄目な
のだと、本能が囁いている。どうせ嫌われてるんだ。いっそ開き直
ってやる。
ふっふっふっ。そうとも、テンションがあがっている今の俺に、
怖いものなどないのだ。
358
影はためらいを見せた後、そろそろと本棚から姿を見せ⋮⋮姿を
⋮⋮。
ミディリース⋮⋮そんなに俺の側に来るのが、嫌なのか。俺に見
られるのが、耐えられないのか。
開き直ったつもりだったけど、さすがにちょっと傷ついた。
なにせ彼女の姿ときたら。
頭のてっぺんから足のつま先までを覆う、黒いローブ。唯一あい
た顔の場所には、目の位置にごくごく小さな二つの点しかない真っ
黒な仮面をかぶっている。極めつけに、ローブからでている二本の
手には、やはり真っ黒な手袋がはめられて⋮⋮。
﹁ふ⋮⋮ふふ⋮⋮ふ﹂
変な笑いが漏れてしまった。
平常心、平常心だ、俺。
気にするな。気にするんじゃない、俺。
気を取り直して、さっさと用事を済ませてしまうんだ。
﹁じ⋮⋮実は、この術式を解読したいんだが⋮⋮﹂
声は震えていない。震えてなんかいないぞ。
ミディリースは氷結の術式が描かれた用紙を受け取ると、仮面の
前に持って行く。
ものすごく近い。くっついているといってもいい距離だ。
﹁ほう⋮⋮﹂
くぐもった低い声が聞こえた気がした。
ミディリースは用紙を上下左右に何度も何度も動かして、全体を
舐めるように眺め尽くした後、それを机の上に置いた。
359
それから俺の方をじっと見⋮⋮うん、たぶん見ているのだと思う。
妙に小刻みに体を動かした後、体の前に四角を描く。
これは⋮⋮もしかして、あれか? 紙がほしいとでも言っている
のか?
おもしろいのでちょっと意味が分からない、と、首を傾げてみせ
る。
﹁あうう⋮⋮﹂
じれったがるような声が漏れた。
﹁ううう⋮⋮﹂
彼女はうめきながら、踵を返すとどこかに行ってしまった。
素直に白紙を出すのだったと、一瞬後悔しかけたが、ミディリー
スはすぐに戻ってきてくれた。その手にノートとペンを持って。
それから無言で俺の前に腰掛けると、顔がほとんどノートにくっ
つくのではないかというほど前屈みになって、それから目にも止ま
らぬ早さでペンを動かし出した。
﹁いつもそんな姿勢で手紙を書いてるのか? 書き物をするときは
背を正したほうがいいぞ。そんなにノートに近づいていると、肩や
腰を痛めるだろう。目だって悪くするぞ?﹂
話しかけたが、俺の忠告なんて無視だ。
彼女は一心不乱に書いては頁をめくり、そうして四枚を両面とも
真っ黒にしたところで、はじかれたように立ち上がり、ノートをビ
リリと一気に破った。
肩を上下にはあはあ言わせて、その紙を突きつけるように差し出
すさまは、鬼気迫るものがあって怖い。
たぶん、仮面をはずしたらその目は血走っているに違いない。
﹁あ⋮⋮ああ、どうも⋮⋮﹂
360
俺がその用紙を受け取ったと見るや、ミディリースは勢いよく頭
を下げ、それから姿を見せた時のもどかしさが信じられないほどの
勢いで駆け去ろうとする。
﹁え、ちょ⋮⋮﹂
一瞬、反応が遅れかけたが、なんとかその腕をつかんで逃走を阻
止できた。
﹁ちょっと待って、ミディリース﹂
﹁あああああああ!!﹂
焦ったような叫びと共に、またも回し蹴りが放たれる。
俺はそれを軽くいなすと、彼女を強引に椅子に座らせた。
﹁乱暴にしてごめん。でも、頼むから待っててくれ。ミディリース。
割と本気で緊急事態なんだ﹂
少々強い口調で言うと、彼女はビクリと体をふるわせたが、大人
しく椅子に腰掛け直し、それからこくりと小さく頷いてくれる。
﹁助かる﹂
そうして俺はミディリースから手を離し、その隣に腰掛けて、渡
された四枚の用紙に視線を落とし︱︱驚愕した。
なぜならば、そこにはなんと、ベイルフォウスの術式の文様の一
つ一つについての詳細な解説が書かれていたからだ!
﹁まさか、全部?﹂
術式と、ミディリースの書き付けを、一つ一つ比べてみる。
﹁ぜ⋮⋮全部⋮⋮解いた⋮⋮⋮⋮です﹂
ミディリースのくぐもった声が、仮面の下から漏れた。
言葉通り、俺の知っているもの、知らないもの含め、すべてが解
かれてあった。
﹁すごいな、ミディリース!﹂
まさか、こんなスラスラ解いてくれるとは思わなかった。二人で
辞書を繰っても、かなりの時間がかかると思っていたのに。
361
もちろん、解読できたからといって、すぐにそれに対応する術式
を作れるかといえばそうではない。もともとが意味不明の術式だっ
たのだから、その意味に対応する文様を選んで、配置し術式を構築
するのには割と時間がかかる。
だが、そんなことは、手がかりのないまま複雑な術式を解読する
手間にくらべれば、なんということはない。
町に向かう竜の上ででも、できる作業だ。
﹁ありがとう、ミディリース。ものすごく助かった! 恩に着るよ
!﹂
俺は彼女に向き直り、手を伸ばしかけて︱︱やめた。﹁ひい﹂と、
小さな叫びをあげてのけぞられたからだ。
なんだろう、これ。グサリとくるなぁ⋮⋮。
﹁と⋮⋮ところで、実は、もう一つ問題があって⋮⋮﹂
咳払いをし、少し椅子をずらして彼女から距離を取った。近づく
と、お互いダメージを被ってしまうようだし。
今度は懐から例の裸になった手鏡を取りだし、外した装飾と共に、
ミディリースにその背面を見せた。虫の這ったような古代文字。
これも一瞬で解いてくれたりは⋮⋮。
﹁傷? らくがき?﹂
さすがにミディリースにもできないようだ。
﹁いや、古代文字、らしい。人間の⋮⋮だとは思うが。実はこれも、
解読しないといけなくて⋮⋮﹂
﹁人間の⋮⋮古代文字⋮⋮﹂
ミディリースの雰囲気が変わる。
焦りと戸惑いからどこか浮ついた雰囲気だったのが、今は目の前
362
の手鏡に集中するあまり、怖いほどピリピリとした雰囲気があふれ
ている。
﹁いや、というか、本当はこっちが本命なんだが⋮⋮﹂
俺は手鏡の横に、邪鏡の写しを置いた。
その瞬間。
﹁古代文字⋮⋮! 人間の、言葉⋮⋮! 新しい、術式⋮⋮!﹂
ミディリースは嬉々とした声音で立ち上がり、それから図書館の
一角を目指して走り出す。
一度逃走を阻止して気が抜けてしまったようだ。今度は彼女が去
るのを、止められなかった。
﹁おい、ミディリース!?﹂
慌てて追いかけ、奥まった本棚の間に彼女の黒い姿を見つけてホ
ッとする。
どうやら、逃げたのではないようだ。
それどころか、役に立ちそうな本を思いついて、取りに走ってく
れたみたいだ。
なにせ、ものすごい勢いで、本棚から本を出しては中を確認し、
確認しては手に持ち、元に直しを繰り返し、あっという間に片手に
本の山を築いたからだ。
あんな子供みたいに小さいのに、結構な怪力だな。
まあ⋮⋮そうはいっても、ウィストベルの謎怪力や、ジブライー
ルの脚力ほどではないだろうが⋮⋮。
俺は彼女の腕から本を引き取ってやった。
一瞬、ビクッとはされたが、流れるような作業は続いていく。
あっという間に抜き出された本は三十冊をくだらない。
それをすべて読書机に持っていくと、ようやくミディリースは口
363
を開いた。
﹁あ、あの⋮⋮閣下⋮⋮﹂
最初に比べれば、少しはなめらかな口調になっているような気が
する。
﹁わ⋮⋮私、まか⋮⋮まか、される⋮⋮解読⋮⋮﹂
いや、気のせいだな。
やっぱり片言だ。
それより今、なんて言った?
﹁まかされる? 解読してくれるのか?﹂
ミディリースは深く頷く。
﹁まかさ⋮⋮れる⋮⋮だ⋮⋮⋮⋮ダメ?﹂
﹁いや、ありがたいが⋮⋮﹂
うーん。しかしどうだろう。内容がなぁ⋮⋮。
いや、もう本の選定を任せている時点で、割と事情を察している
ようではあるんだけど。
﹁実は、これから俺、出かけないといけなくて⋮⋮まあ、今日中に
は戻ってくるんだけど﹂
﹁あ⋮⋮解読、時間、かかる⋮⋮帰るまでに⋮⋮間に⋮⋮あわない
⋮⋮かも⋮⋮と、思う⋮⋮けど⋮⋮﹂
それなら、俺が帰ってから、一緒に解読できるか。後はミディリ
ースを信用できるかどうか、だが⋮⋮。
まあ、引きこもりだしな。
文通相手が複数いるとはいえ⋮⋮。
﹁これは秘匿事項だということだけは、理解しておいてくれ﹂
俺の念押しに、ミディリースはこくこくと頷いた。
﹁もちろん⋮⋮了承⋮⋮見つかったら⋮⋮大変⋮⋮⋮⋮でも、私⋮
⋮誰にも、見つからない⋮⋮﹂
364
うん。見つからないんだろうな。そして、ああ、たぶん、いろい
ろバレてるんだろうな。
﹁手鏡の文字については、説明書があるそうなのでそれを今から取
りに行く予定だ。だから、本格的な解明はそれからでもかまわない。
まあ、少しでも解いてくれていたら助かるのは助かるが。そして、
この手鏡の装飾に書かれたのが、その効果を発動するための呪文な
んだ。こちらの読み方は、<アルファッスタラーラ>だそうだ。意
味はわからない﹂
﹁<アルファッスタラーラ>﹂
ミディリースが小さな声でつぶやいた。
﹁そんなわけだ、任せるよ、ミディリース。すまないな。俺もなる
べく早くに帰るから﹂
そう言ったとたん、彼女は激しく左右に顔を振る。
いや、顔だけじゃない!
胸の前で両手を交差している。
え、なに?
早く帰ってこなくていいってこと?
むしろ、帰ってくるなってこと??
俺は解説が書かれた四枚の用紙を手に握りしめ、逃げるように図
書館を飛び出したのだった。
365
34.僕だって、あんまり高圧的なのはどうかと思うんです
﹁うぎゃあああああ! ひいいいいいいいい! しぬうううううう
う!!!﹂
う る さ い。
オジサンが、ものすごくうるさい。
ここは竜の背の上、つまり、彼らの町へ向かう空の途中だ。
俺と家僕のイースに分かれて、四人の人間たちを半分ずつ竜に乗
せて運んでいる。
こちらに同乗しているのはガストンとマリーナ、イースの方にイ
ーディスとミナだ。
が、イーディスとガストンは逆にするべきだった、と、後悔して
いる。あまりのオジサンのうるささに。
﹁ひいいいいいいいいああああああああああ﹂
竜の背は広い。本当なら、四人一度に乗っても支障ないほどだし、
風は俺がすべて遮断しているから、飛ばされて落ちる心配なぞもな
い。
飛行だって、氷の上を滑るように丁寧だ。
なのに、このオジサンは竜が両翼を羽ばたかせたその瞬間から、
竜の背に敷いた絨毯にしがみつき、こうして耳をつんざく悲鳴を張
り上げているのだ。
同じく同乗しているマリーナの方も、顔はやや青ざめているが、
口はきりりと結ばれていて、視線はまっすぐ前を向いている。彼女
366
の方が、よほど肝が据わっていると言わざるを得ない。
付け加えると、寒い訳でもないと思う。
行きが着の身着のままだったために、上空の寒さは堪えたらしい。
また竜に乗るのなら、上着を貸してほしいと頼まれたために、四人
には厚手のコートを与えてあるからだ。
ちなみに魔族は寒さなど感じない。もっとも、外出着の上に羽織
っているマントは、やや厚めではあるが。
﹁おい、ガストン。二つから選べ。今すぐ口を閉じるか、吊される
かだ﹂
﹁はっ﹂
ベイルフォウスによって竜の腹にくくられ、運ばれるという経験
をしたガストンは、そのときの恐怖を思い出したのだろう。それき
り口をつぐんだ。
ようやく静寂が訪れる。
俺は少し遅れて続く、イースを振り返った。
どうやらあちらでは、意外にもイースと二人の娘が和気藹々と、
会話を楽しんでいるようだ。
会話の内容までは聞こえてこないが、それでも三人がひっきりな
しに口を開いているのが見える。
イースを供に選んだのは、万が一俺が何をしているのかを知って
も、反逆はしないだろうと思ったからだ。まあそれより何より、タ
イミングよく前を通りがかった、というのが一番の原因だが。
それにしても、イースを間近で見たときの四人の人間たちの反応
は、とても興味深いものだった。彼らは全員、恐怖の色濃い悲鳴を
あげたのだ。
聞けば、四人は俺の城でデヴィル族を見るたびに、怯えだしたの
367
だという。
容姿に共通点の多いデーモン族より、魔力を持たず感じられもし
ない人間たちには、デヴィル族の方が恐ろしく映るのだろうか。イ
ースなんか、威圧感もないし、雰囲気なんてどこかほんわかしてさ
えいるというのに。
なによりイースは猿面だ。人間たちは野生の猿のことを可愛いと
もてはやす、と聞いていたのだが。
それともあれか? 首に生えたエリマキトカゲのエリが威嚇的に
見えて怖いのか?
ズボンの裾から見える足は、小さな爪がちょこんと見えて、可愛
いんだけどなぁ。
それはともかくとして、俺は少し皺のよった四枚のノートを取り
出す。
元の術式を理解さえできれば、それに対応する術を考え出すのは
そう難しいことではない。
町につくまでには、なんとか考えもまとまるだろう。このオジサ
ンが、以後もこうして大人しくしていれば、な。
ただ、術式の図式を考え出せたところで、実は問題がある。
何かといえば、今の俺にその術式が展開できるのか、ということ
だ。なにせ百式⋮⋮それも、こんな複雑で町を覆うほど巨大な術を
展開するには、膨大な魔力が必要となってくる。今の俺に、そんな
魔力は⋮⋮。
せめて、ジブライールに残ってもらっておくんだったか。ジブラ
イールほどの公爵なら、百式ぐらい⋮⋮うん、この規模は無理かな。
もし可能なら、小規模な術式で一部ずつ解いてみるのもありかな。
いや、待てよ。
﹁おい、ガストン﹂
368
﹁は、はひ!﹂
ガストンは、俺の言葉に反射的に返事をして、それからばっと口
を押さえる。
﹁確か宝具屋だと言っていたな?﹂
オジサンは手で口を塞いだまま、ぶんぶんと首を縦に振った。
いや、俺が話しかけたんだから、別に返事したって怒らないよ。
﹁例えば、の、話だが⋮⋮魔力を増幅するような道具を扱っていた
りしないか?﹂
人間の道具に頼るのは癪だが、何度も足を運ぶ面倒を思うと、な。
ガストンは少し考えるように視線を巡らせ︱︱こいつ、また性懲
りもなく、いらん画策をしたりはしないだろうな︱︱頷いた。
﹁手を離せ。しゃべっていいぞ﹂
許可すると、口を覆っていたごつい手を離し、ほうっと息をつく。
﹁で、あるんだな?﹂
﹁ございます。何点か、ございますが⋮⋮﹂
よし。人間の造ったものといって、侮れないのは鏡を見ても明白
だ。百式が展開できるほどに、魔力の底上げが見込める宝具だって、
あるかもしれない。
﹁ガストン﹂
﹁は、はい﹂
﹁なんだっけ? 俺に全財産を差し出す覚悟、と言っていたよな?﹂
﹁は、はい。それはもう⋮⋮!﹂
俺はガストンに慈悲深い笑みを向け︱︱。
﹁ひい﹂
⋮⋮とにかく、満足げに頷いてみせたのだった。
***
369
﹁さて、ではその魔力増幅に役立つという、宝具を出してもらおう
か﹂
﹁は、はい、すぐさま!﹂
鋭い返事を残し、オジサンは店の奥に消えた。
ここはガストンの店だ。
五メートル四方の店内には、様々な宝具が種類別に整然と並べら
れてある。
ただ⋮⋮うん。すべて氷漬けだけども。
﹁さ⋮⋮さむ⋮⋮﹂
マリーナの表情は、引き続き真っ青だ。
吐く息も白く、手はかじかんで頭のてっぺんから足のつま先まで、
ガタガタと震えている。
﹁人間というのは⋮⋮ほんとに寒さに弱いんだな﹂
厚手のコートごときでは、自然には永久に溶けないだろうと思わ
れる氷の上にあっては、防寒の意味をなさないらしい。
俺は自分のマントをぬぐと、マリーナの肩にかけてやった。
﹁イーディスたちのところに行くといい。ここよりはずいぶんまし
だろ﹂
イースには氷結を免れたという、女たちの残っているだろう建物
に向かわせた。
マリーナはたまたまこちらに乗っていたから連れてきただけだ。
ここに留まっている必要は、全くない。
﹁あ、ありがとう⋮⋮ございます⋮⋮﹂
マントのせいで少しは暖かく感じるのか、頬に血色が戻っている。
そうして彼女は、氷の床に時々足を取られそうになりながらも、
ガストンの店を出ていった。
370
それにしてもガストンの奴、遅いな。
少し様子を見にいってみるか。
俺は客ではないんだ。何もこんな店先で、ずっと待っていなけれ
ばいけないということはないだろう。
オジサンの姿を求めて奥へ続く扉をくぐると、左右にまっすぐな
長い廊下が伸びていた。
通路の両側にはいくつかの扉が並んでおり、右廊下の突き当たり
に、太った影が見える。
﹁ガストン?﹂
影は一番奥の扉に手をかけたまま、膝から崩れ落ちて動かない。
﹁おい、どうした?﹂
その肩に触れてみると、冷たかった。かつ、皮膚は青紫だ。
どうやら凍死しかけているようだ。
人間って、ほんとに弱いな。
俺はため息をつきながら、ガストンの手を凍ったドアノブから引
きはがし︱︱ちょっと⋮⋮いや、だいぶ? 皮がめくれたかもしれ
ない︱︱、その太った体を肩にかつぎあげた。
***
﹁いたいいいいいい﹂
オジサンがそう叫びつつ目を覚ましたのは、店の在庫のおかれた
倉庫で、俺が手鏡の説明書を自力で見つけだし、魔力増幅に役立ち
そうな道具をいくつか選び終えた時だった。
﹁あああああ、手が、手がああああああ﹂
ガストンは床から起きあがると、目の端からさめざめと涙を流し、
皮のめくれた右手を抱え込むように上半身を曲げている。
371
なんて大げさな男なんだ!
俺なんて魔王様になんど頭を割られても、泣いたことなど一度も
ないというのに!
ジブライールにアソコを蹴られたときは⋮⋮⋮⋮正直に告白しよ
う。
ちょっと目尻は濡れていた。でも、さすがにそれは大目に見てほ
しい。
﹁おい、ガストン。必要なものはもらった。俺は行くから、お前は
ここで寝ているなり、ついてくるなり、好きにしろ﹂
声をかけたが、自分の手に夢中なオジサンが気づいた様子はない。
この調子なら、たぶんこの倉庫の氷が解かれていることにも、気
づいていないんだろうな。
俺は試しにごく小規模な解氷の術式を、展開してみたのだ。
ベイルフォウスの術式にきっちり対応するものではなかったから
か、氷漬けだった物のいくらかは、氷と共に蒸発してしまった。ま
あ、全財産を差し出すといってたんだし、文句はないだろう。
俺は泣き濡れるオジサンをその場に置いて、イースが向かった建
物に竜を飛ばした。
そこはイーディスの店の前の、四階建ての建物だとか。
ガストンの店を目指すときに、一カ所だけ不自然に氷の支配を逃
れた建物を見たので、そこなのだろう。
そもそも、遠目からでも上空にイースの竜が旋回しているので、
すぐにわかる。
というのも、この狭い町では、竜が着地する場所がないのだ。俺
の場合はガストンとマリーナを抱えて、飛び降りたのだが、たぶん
イースも同じだろう。
ガストンは叫び、マリーナは一瞬気を失ったようだったが、さて、
372
イーディスとミナはどうだったろうか。
しかし、見事だな。ベイルフォウス。
町一面が日の光さえ拒絶する分厚い氷に覆われて、静寂に包まれ
ているというのに、よくもまあ、この建物一棟だけをきれいに残し
たものだ。
イーディスの店の前の道には、大きなひとかたまりの氷があった。
人間の男たちが、まとめて凍り付いているのだ。
その体つきや服装で、戦士と魔術師の別は一目瞭然だ。魔術師の
先頭で、杖をやや振り上げている男⋮⋮あれがマーミルを打ち負か
そうとした奴か。今は魔力は見えないが⋮⋮うん、見るからに弱そ
う。
竜の背から町の様子を一通り眺めてから、目的の建物の屋根に跳
び降りる。
そして四階の窓から、室内に入り込んだ。
﹁おっと⋮⋮﹂
あんまり静かなので誰もいないのかと思ったら、そこには生き残
ったという人間の女性たちの姿があった。それも⋮⋮。
﹁私の話は以上です。では、慎むように﹂
彼女たちを前に、両手を腰に胸を張り、どこか居丈高に振る舞う
イースがいた。
373
35.イースくん、キャラに似合わず張り切りすぎじゃないです
か?
﹁何を慎むんだって?﹂
俺はイースの背後から、そう尋ねた。
﹁か⋮⋮閣下!﹂
閣下?
お前、いつも俺のこと﹁旦那様﹂って呼ぶだろう。
﹁ただいまこの人間どもに、閣下の偉業を言い聞かせておりました
! ちゃんと己の立場をわきまえるように、懇懇と申しつけました
ので、その点もご安心を!﹂
は?
なに、どうしたの、イース。
俺の偉業って、なんだよ?
そこはイーディスの店よりいくらか広い、飲食店のようだった。
奥にカウンターがあり一人掛けの椅子が七脚、四人掛けのテーブル
セットが十席ほどもうけられている。
だが、女性たちは全員が床の上に正座させられており、俺に向け
られた視線には怯えが混じっていた。
対するイースの表情は、晴れやかで自信に満ちており、ただでさ
え赤い顔が興奮のせいか、いつも以上にほてって見える。いつもの
頼りなさはどこへやら、だ。
ただ、イーディスとミナだけは、困惑顔だ。
マリーナの姿はない。もしや、途中で追い抜いたか? 俺もガス
トンの店でかなり時間を使ったんだがな。
﹁あ、あの∼﹂
374
イーディスがそろそろと、手をあげる。
﹁なんだ、女。発言を許す﹂
イーディスをびしっと指さすイース。
いや、イース。どうしたの、ほんとに。
﹁えっと⋮⋮ガストンさんとマリーナは、ええっと⋮⋮どう⋮⋮な
さった? ん? ですか? どうして、一緒じゃ⋮⋮えっと、ご一
緒じゃ、なさらないんですか?﹂
イーディス。無理して丁寧にしゃべろうとしなくていいから。
言葉がおかしくなってるから!
﹁閣下。お答えになられますか?﹂
﹁ガストンは⋮⋮﹂
﹁閣下!﹂
イースがまたも機敏な動作で、今度は俺に向かって手のひらを見
せてくる。続いて言った言葉が。
﹁人間どもに直接お声をお聞かせするなど、勿体のうございます!
私が言い聞かせますゆえ、どうか、このイースにお耳うちを⋮⋮﹂
俺はイラッとして、イースの頭を掴んだ。
﹁よし、わかった。お前の忠誠心はわかった。だが、黙っていろ、
イース﹂
﹁だ、旦那さまぁ﹂
情けない声を出すな。
﹁イースに何を言われたのだか知らんが、気にしなくていい。足を
崩すなり、立ちあがるなり、好きにしてくれ。俺は君たちに危害を
加える気は、いっさい無い﹂
ああ、たとえこの中の何人かが俺を、突然襲ってきたとしてもな。
なにせ、人間の女性は︱︱性根がどうかは別として︱︱魔族の子
375
供に比べたところで、まだか弱いのだから。
戸惑い、顔を見合わせる女性たちの中で、一番に立ち上がったの
はミナだ。
﹁よかった。もう、足がしびれちゃって⋮⋮﹂
そう言って彼女は立ち上がりかけ、ふらりと⋮⋮ふらりふらりと
⋮⋮ちょ⋮⋮なんでこっちにくるんだよ。
﹁いやだ、足がしびれてまっすぐ歩けなーい﹂
なんてわざとらしいんだ!
﹁イース、受け止めてやれ!﹂
俺は家僕の頭をミナの方へ押し放つ。
﹁ぎゃあああああ﹂
ミナは迫るイースから逃れるように、とびすさった。
足がしびれてたんじゃないのか?
それにしても、竜の上では和気藹々と見えたのに、今の驚きよう
はひどいな。それだけデヴィル族は恐ろしいのか。
俺ならこんな反応をされたら、ちょっと落ち込んでしまうところ
だが、イースはどこか誇らしげだ。
﹁ガストンは宝具屋に置いてきた。生きてはいるから、心配いらな
い﹂
イーディスの表情が曇る。まあ、生きてはいる、という言葉で安
心できるはずもないか。
﹁マリーナは先に解放した。ここに向かっている途中か、それとも
どこか寄り道をしているのか⋮⋮俺にはわからない﹂
﹁そう、ですか﹂
イーディスの声は暗い。
初めて会ったときの明るさは、今の彼女にはない。
376
しかし、芯は強そうに見えるから、町が元に戻ればまた以前の明
るさを取り戻すだろう。
俺としては、いつまでも彼女たちと話を続けて、時間を浪費する
のも惜しい。会話はここらへんで打ち切らせてもらおう。
﹁イース、手鏡を回収してくれ﹂
﹁手鏡、でございますか?﹂
﹁そう⋮⋮ああ、あれだ﹂
窓際の席のいくつかに、鏡が置かれている。
魔鏡と同じで吸われているはずの三人の魔力は感じないが、ベイ
ルフォウスから受け取ったものと同じだから、間違いはないだろう。
﹁この手鏡を使ったのは、今ここにいる全員に、マリーナとガスト
ンを足した数でいいのかな?﹂
俺の視線を避けるように、女性たちの目線がイーディスとミナの
間をさまよっている。
どうも、俺と直接口を利く気のある者は、彼女たち二人以外には
いないようだ。
俺はこの町を氷漬けにしたベイルフォウスとは違うのだが、まあ
人間からみれば同じ魔族。恐怖の対象なのだろう。
﹁⋮⋮はい。たぶん﹂
周囲の顔ぶれを確認して、イーディスが頷いた。
と、いうことは⋮⋮一、二、三⋮⋮三十七人か。俺の城に一つあ
るから、三十八個の手鏡を集めればいいわけだ。
﹁イース、手鏡を三十八個集めろ。マーミルの今後に関わる重要な
ものだ。頼んだぞ﹂
﹁お嬢様の⋮⋮今後⋮⋮!!﹂
イースが真剣な表情で、ごくりと喉をならす。
377
﹁俺は町にかけられた、ベイルフォウスの氷結魔術を解く﹂
そう言いおいて四階の窓枠に足をかけると、そこから一気に跳躍
し、竜の背に飛び移った。
さて、ここからはガストンの店から持ち出してきた、魔道具の数
々が役に立ってくれるはずだ。
万が一役に立たねば⋮⋮町はこのまま、かな。正直、俺にはなん
の影響もない⋮⋮。
いや、ないこともないか。
下見のつもりで解いてみようと試みさえしなければ、影響はなか
ったんだろうが⋮⋮いったん魔術を展開して、それがかなわなかっ
たとしたら⋮⋮その事実が隠し通せるはずはない。そうなると、俺
はベイルフォウスに遠く及ばない、とか噂されてしまったりするの
だろうか。
たとえ魔力が戻った後に、解氷に成功したとしても。
まあ、大公位的にはベイルフォウスは二位。俺は六位だ。
対外的には何も問題はないはずだが⋮⋮。
うん。
一方的に劣ると言われるのは、面白くはないな。
俺はガストンの店から持ち出してきた、︽つけるだけで魔力が増
幅! 効果は宝石の種類によります!︾というブレスレットを左右
の腕に八つずつ通し、︽額こそ魔力の源!︾なサークレットを三つ
かぶり、︽可愛さと実用性を兼ね備えました!︾などと宣伝の貼ら
れたピンクに輝く大きなハート型のネックレスを五つつけ、︽魔道
具の効果を倍増!︾という派手な腹巻きを⋮⋮。とにかく、身につ
けられるだけのものを全て身にまとった。
全部合わせると五十以上にはなるだろうか? 動くとじゃらじゃ
378
らとうるさい。そして、いろんな所が暑い。
まあ、つまり。
誰にも見られてなくてよかった!!!
大半はつけるだけで効果があるとうたっているものだが、いくつ
かは呪文が必要らしい。説明書で確認した呪文を思い出しつつ、片
っ端から唱える。
その仕組みはわからないし、道具によってその効果に差はあるも
のの、確かに徐々に魔力が増幅されるのを感じたし、目でも確認し
た。
だが⋮⋮さすがに百倍にはならない。
俺の元の魔力と同等までは、戻らない。
せいぜい、今の魔力の十倍に届くほどだ。
しかしそれでも、百式を展開するには十分。
俺は町の空高くに、おそらくベイルフォウスが展開しただろうも
のと同じ規模の術式を、今もてる限りの全魔力を費やして、発動さ
せたのだった。
***
私が剣をお教えしているマーミルお嬢様は、今は確かに無爵の私
よりも魔力は劣っておられます。そんなのはまだほんの小さなお子
様なのだから当然なのです。ですが、私は確信しております。
旦那様ほどは無理でも、きっとうちのお嬢様は強くおなりです!
間違いありません。成人なされば、すぐにでも爵位を得られるこ
とでしょう!
そのお嬢様の今後に関わる大切な品、と聞いて、真剣にならない
379
わけはありません。
﹁隠しだては許さんぞ、とっとと手鏡を出すんだ!﹂
私に対して怯えを見せる人間たちに、高圧的に言い放ちます。
旦那様のお供だというだけでも、緊張で胃液を吐きそうなのに、
人間たちにまで神経を張り巡らさないといけないとは!
魔族は世界の支配者、絶対的強者。すべての生物の中で、もっと
も偉大で高貴で完璧な存在!
我が主であられる旦那様は、その魔族の中にあってもたったの七
人しか存在しない、大公閣下なのです!
そう、その比類無き魔力、無慈悲な力!
人間などというのは、旦那様が気まぐれに手を振られるだけで、
瞬時に滅びてしまうほどの矮小な存在でしかないのです!
万が一、人間が無礼きわまりない態度をとって、旦那様を怒らせ
てしまったらと考えると⋮⋮それだけで震えが止まりません。
なにせぼんやり見えても、旦那様がものすごくお強くて、ものす
ごく容赦のない、ものすごく怖いお方だというのは、<断末魔轟き
怨嗟満つる城>に勤めるものの周知するところなのですから。
﹁これで⋮⋮最後、だと思います﹂
そう言って手鏡を差し出してきたのは、旦那様の竜に同乗してき
た娘のうちの一人。もう一人に比べると、まだ旦那様への態度には、
遠慮が見られる娘です。
﹁ご苦労であった。では、もう用はない。解散するがよい﹂
私の宣言に、人間たちは顔を見合わせました。
﹁解散っていわれても⋮⋮﹂
380
﹁ねえ﹂
表情から感情を読みとるのは難しいですが、空気を読み、声を聞
けば、不満が漂っていると判断できます。
私が人間たちにカツを入れようとした、その瞬間。
金属が割れる甲高い音が、耳を刺す痛みを伴って響きました。
地面は動きもしないのに、体中を駆け巡る血の一滴までをも、大
地につなぎ止めるほどの重圧。一気に押し寄せる、肌を刺す大気の
熱い震え。弱者が存在するのを許さないかのような、圧倒的魔力の
波動。
弱い人間たちのいくらかは気を失って倒れ、そうでない者も頭を
抱えて地に伏せています。幾人かが声をあげて泣いているのも、本
能的な恐怖のためでしょう。
私だって、もしもこの者たちがいなければ、戸棚の奥に隠れてし
まいたい⋮⋮。
間違いありません、旦那様が魔術を展開していらっしゃるのです。
これほどの重圧を感じる魔術。一体どれほどの⋮⋮。
恐ろしくて窓の外を見ることもできません。
ですが、実際にはそんな暇すらなかったのです。
その魔術が展開されたのは、おそらく数秒⋮⋮。窓際に駆け寄っ
て、空を見上げる頃にはすべて終わっていたでしょうから。
そう、さっきまで空間を蹂躙していた圧力は、瞬時に消え去って
しまいました。
私はようやく、窓へと駆け寄ります。
﹁旦那様!﹂
見上げた上空では、旦那様の竜が空中停止しており、私の乗って
381
きた竜がその周囲をぐるぐると回っています。
竜の背はバカみたいに広いため、ここからでは旦那様のお姿を確
認することもできません。
﹁旦那様、手鏡を回収いたしました!﹂
私の叫びに、答える声はありません。
どうなさったというのでしょう?
私の声が小さすぎて、聞こえなかったのでしょうか?
﹁旦那様? いかがいたしましょうか﹂
竜に乗った方がよいのでしょうか。
私は周囲を見回しました。
さきほどの魔術の結果でしょう。あの分厚かった氷が、すべてな
くなっています。跡形もなく、です!
氷結なさったのはかのベイルフォウス閣下とのこと! 旦那様は
それを解氷しにこられたとか。
私はてっきり旦那様の魔術の結果として、今度はこの町が水に埋
もれるのだと思っておりました。ベイルフォウス閣下の造形なさっ
た氷は、そう思わせるほど凶悪にも分厚いものであったからです。
ですが今この場には、その氷の溶けた形跡すらありません。
大公第二位の御親友にであっても、一歩もひけをとらない、と、
御自身のお力をお示しになられたのです、我がジャーイル大公閣下
は!
ええ、そうですとも。我らが旦那様は、とにかく本当にお強いの
ですから。
そもそも、その御対応からいって、私の理解の範疇を超えていま
す。
ええ、いいえ。人間たちのことなど放って置けばいいのに、とい
382
う意味ではありません。それも確かにそうなのですが、私が理解で
きない、というのは別のことです。
つまり他者が展開してその効果を現している魔術を打ち消そうだ
なんて、そもそも、そんな突拍子もないことを考え思いつく段階で、
普通の魔族ではあり得ません。相手の魔術を上回る魔術で応戦し、
力によって打ちのめす⋮⋮たとえばこの場合なら、永久凍土とも思
える氷を世界を焼き尽くすほどの業火で溶かし、ついでに町を焦土
と化す。それが通常の魔族の考え方でしょうから。
ですが、結果はお見事です。旦那様は人間の町を、先の魔術を打
ち消すことによって、そのご意志通りによみがえらせたのです。
いいえ、よみがえったのは町ばかりではありません。
﹁なんだ⋮⋮﹂
﹁一体、どうなった?﹂
氷像となっていた人間たちもまた、一斉に動き出したのです。
この建物の前にいた、数十人の男たちもまた。
﹁おい、あの魔族たちはどこだ!?﹂
彼らは口々に叫びだし、緊迫感を漂わせながら、周囲を見回しま
す。
そしてごつい筋肉だるまの一人が、四階の窓から顔を出していた
私に気付きました。
﹁あそこに魔族が!﹂
私に向けられる、人間たちの複数の目。
その視線には、恐怖と憎悪が混じっており、私の自意識をほどよ
く刺激してきます。
﹁バカな⋮⋮さっきまで、あそこには女たちがいたはず!﹂
﹁いったい何があったんだ﹂
383
﹁まさか、あの魔族が女たちを⋮⋮﹂
察するところ、人間たちはベイルフォウス閣下に氷漬けにされて
いたことにすら、気付いていないのでしょう。呑気なことです。
しかし、ということは、旦那様の慈悲深さを知ることもないので
す!
これはいけません、私が言い聞かせなければ!
﹁人間たち﹂
﹁おのれ、魔族⋮⋮! よくも女たちを!﹂
筋肉たちが口々に叫びをあげ、私の言葉を遮ります。
﹁怪しい術を使いおって!﹂
白いローブを着た一団、その中央にいた白髪の人間が、杖を振り
回しながらぶつぶつ言い始めました。
何かの魔術が発動される!
さすがにそれがわからない私ではありません。迎えうつべく、術
式を展開させるつもりで手を突き出します。
﹁待って!!﹂
突然、私のいる建物の一階から、人間が飛び出していきました。
あれは恐れ多くも、旦那様の竜に同乗した娘ではありませんか。
む?
しかも⋮⋮旦那様のマント?
なぜ、あの娘が羽織っているのだ!
﹁おお、無事だったか!﹂
ほっとする男たち。
白髭もまた、呪文の詠唱を取りやめます。
だがそれは娘を歓迎した故のことではないようです。
﹁手鏡はどうした? あの魔族に向けるのだ!﹂
384
私が娘を詰問する前に、白髭の周囲の男が怒鳴り声をあげました。
﹁他の女たちはどうした。おまえだけが、あの魔族に見逃されたの
か?﹂
﹁そうじゃない、違うの。とにかく私の話を聞いて。早まらないで
!﹂
ですが、白髪は娘の言動には耳を貸そうとしません。
﹁同志よ、杖を掲げよ! あの思い上がった魔族に、我らが魔術を
もって開眼させてやろうぞ!﹂
その杖を天高く掲げた、まさにその瞬間。
雲一つない天より、一筋の光が地上めがけて伸びたのです。その
光は、地表近くで枝分かれしました。
そうして鳴り響く、鼓膜が破れるほどの轟音。
何が起きたのか、私以外に気付いた者がいるでしょうか。
旦那様が発した魔術を、理解した者がいるでしょうか。
一瞬浮かんでは消えた、その術式を目にできた者がいるでしょう
か。
﹁は⋮⋮﹂
﹁え?﹂
同じようなローブを羽織った一団が、空の手を振り上げたままで
硬直しています。
そう。その手にあった全ての杖が、一瞬で粉々になったが故に。
しかしどういう加減なのでしょうか。杖は雷撃で崩れ落ちたのに、
人間たちの身は黒こげどころか、火傷すら負っていません。
ですが、その精神にはいくらかのダメージがあったようです。表
情が恐怖で固まったままなのは、種が違っても容易に観察できます
から。
385
﹁今日の俺は、機嫌が悪い﹂
光の次に天から降ってきたのは、旦那様のお言葉。
空を見上げれば、我らが主が竜首の根本にすらりと起立して、町
を見下ろしていらっしゃるそのお姿が。
﹁今のが譲歩できる最大限だ。次に反撃の意志を見せる者があれば、
今度砕くのは杖だけではないぞ﹂
確かに、ご機嫌がお悪いようです。こんなにドスの利いたお声は、
耳にしたことがありません。
﹁な、なにをバカな⋮⋮﹂
白髪は反応しますが、声が若干震えています。
﹁竜⋮⋮だと?﹂
﹁竜まで!﹂
人間の男たちが、上空を見上げてざわざわと騒ぎ出します。
竜より旦那様の方が百倍以上恐ろしいというのに、何を騒ぐこと
があるのでしょう!
﹁お兄さん!﹂
イーディスとかいう娘が駆け寄ってきて、私の横から身を乗り出
しました。
﹁あたしがちゃんとみんなに説明するから! これ以上は勘弁して
ください! お願いです﹂
﹁あ、こら、娘!﹂
あれほど口を酸っぱくして言い聞かせたというのに、なんて無礼
な口の利き方をするのでしょう!
これ以上旦那様がお怒りになられたら、人間だけでなく、一緒に
地上にいる私まで命はありません!
﹁⋮⋮イース、手鏡は?﹂
ですが、旦那様は娘の言葉に反応なさいませんでした。あるいは、
386
応えないということで、許諾を示されたのかもしれません。
私は姿勢を正し、大声を張り上げます。
﹁はい、旦那様。すべて回収いたしました!﹂
﹁ならいい。帰るぞ﹂
﹁は﹂
私はカーテンを引きちぎり、それで鏡を包みました。
それから竜笛を取りだし、その長いひもを持ってぐるぐると回し
ます。
我々にはヒューヒューと、風の通る音しか聞こえませんが、竜の
耳には彼らにだけわかる音が鳴っているはずです。
旦那様のような強い魔族であれば、竜には﹁こい﹂と遠くから命
じるだけでいいのですが、竜たちは我ら下級魔族の言葉には、距離
がある状態では従ってくれません。それで竜が思わず近寄りたくな
るような音を出す、竜笛を使うのです。
竜が降りてくると、あたりに爆風が巻きおこりました。
氷から溶けた木々はミシミシと幹から音を立て、塵芥が舞い上が
り、人間たちの大多数は目を塞いで地に伏せます。
横にいた娘も、口を塞ぎながら部屋の中へ引っ込んでしまいまし
た。
私は手鏡をまとめたカーテンを背負うと窓枠に足をかけ、空中停
止した竜の背に飛び乗ります。そうして手綱を取ると、旦那様のい
らっしゃるあたりまで上昇しました。
﹁人間たち、よく聞くがいい﹂
旦那様は、慈悲深くもまだ人間たちにお言葉を賜るようです。
﹁お前たちが今後間違いを犯さぬよう、森に近い広場のあたりは解
かずにおいてある。後は自力でなんとかするがいい﹂
そういって、旦那様は一枚の紙を地上に向かって投げ捨てました。
387
ああ、もったいない!
あれは旦那様の紋章が入った紙ではないですか! 私ですらもら
ったことはありません。
人間にくれてやるなら、葉っぱにでも書き付けなさればいいのに!
旦那様の魔術が運んでいるのでしょう。杖を失った白髪の人間の
元へ、まっすぐに降りていきます。
白髪の者は、おそるおそる、といった様子でその紙をつかみ、そ
の周囲を囲む者共含め、書き付けを見て顔面を蒼白にしました。
﹁これは⋮⋮こんな陣を、どうやって⋮⋮﹂
戸惑いを隠さない人間たち。
ですがさすがの旦那様もそれ以上、人間に慈悲を垂れるのはおや
めになるようです。
小さなため息を一つついて、首から背に移動なさいました。それ
からどっしりと胡座をかかれると、あとは人間たちのことなど目も
くれぬご様子で、<断末魔轟き怨嗟満つる城>に竜首を向けられた
のです。
388
36.ものすごくだるいので、余裕がないのは勘弁してください
﹁旦那様⋮⋮あの、旦那様﹂
イースの声が聞こえる。だが、目も口も、開く気にはならない。
正直に言おう。
町の一部を解氷しなかったのは、わざとではない。
うん⋮⋮やっぱりね、借り物の力では、限界があったんだよね。
なんとか百式を展開したまではよかったが、長くはもたなかった。
町の九十パーセントを溶かしたところで、身につけていた魔道具
共々、術式が砕け散ったのだ。
人間にも、ああやって対応するのが精一杯だった。竜を降りる気
力もわかないんだから。
ただ、またこんなことがあっても面倒なので、高圧的な口調を心
がけはした。
けど、サービスもしておいたつもりだ。
俺の考えた百式の図を置いてきたんだから。
あれを展開できさえすれば、残りの地なんてあっという間に元通
りになるはずだ。
そして俺は今、絶賛疲労中で、絶賛鬱々中だ。
もう何もかも嫌だ。
ベイルフォウスの術式は解けなかったし、なのにただでさえ少な
い魔力がごっそり減ったのを感じるし、頭のてっぺんから足のつま
先まで痛いし、なにより眠くてたまらない⋮⋮。
地中深くに穴を掘って、うずくまったまま潜ってしまいたい。
389
百年くらい、そのままでいたい気分だ。
なんかちょっと泣きたくさえなってきた⋮⋮。
ああ、もし今⋮⋮誰かが俺に挑戦してきたら、間違いなくやられ
るな。確実に、殺られるな。
そうわかってはいたが、俺は意識を手放した。
***
どのくらいたったのだろうか?
目をさましたのは、刺激臭が鼻をついたからだ。
俺は荒れ地に立っていた。
いや、ネズミ大公を追いかけた末の荒れ地じゃない。
あそこは割と更地に近い状態だが、ここは違う。
俺を中心にして、大きな爪がえぐったような痕が、半径五百メー
トルに及んで大地を飾っている。その周囲は木が取り囲んでいるこ
とを見ても⋮⋮森、なのか?
森の中の空き地⋮⋮的な?
っていうか、あれ?
確か俺、人間の町から自分の城に帰る途中だった⋮⋮よね?
竜の背で寝てたはずなのに、なんで立ってるんだ?
しかも、右手には抜き身のレイブレイズ⋮⋮。
意味がわからない。
でも⋮⋮もうそんなこと、どうでもいいや。
考えるの面倒くさい。
相変わらずの疲労感⋮⋮どころか、さっきより余計疲れてる。な
390
ぜだ。
俺はレイブレイズを杖にその場にしゃがみこみ、あぐらをかいた。
﹁だ、旦那、さ⋮⋮ま⋮⋮﹂
イースの小さな声が聞こえる。
﹁旦那様⋮⋮お⋮⋮お側に⋮⋮うかがっても、よろしいですか?﹂
ん?
なんで声が震えてるんだ?
顔を上げて、声のした方向を見る。
俺の頭上を避けるように、二頭の竜が旋回している。その片方の
背からそっと顔を出すようにして、イースがこちらの様子をうかが
っていた。
相変わらず、大声を張り上げるのは面倒くさいので、手招きをす
る。
イースはすぐに竜の背から飛び降り、俺の元に駆けてきて⋮⋮数
歩前で立ち止まった。
猿面の赤い顔が、心なしか青ざめて見えた。
その怯えた目は、レイブレイズを捉えている。
﹁ああ⋮⋮﹂
俺が剣を鞘に収めると、イースはやっとほっとしたように、残り
の距離を詰めてきた。
﹁なにがあった﹂
﹁お⋮⋮覚えて、いらっしゃらな⋮⋮い?﹂
﹁寝てたのに覚えてるわけないだろ﹂
﹁えっ﹂
﹁え?﹂
391
﹁えっ﹂
﹁だから⋮⋮え?﹂
﹁あ、あの⋮⋮﹂
じりじりと、イースが後退る。
なにその反応。軽く傷つくんだけど。
﹁飛行中に⋮⋮六人の魔族が⋮⋮旦那様に襲いかかり⋮⋮﹂
﹁えっ!﹂
やばいやばい!
心配してたことが、まさか本当にあったなんて!
﹁じゃあ、お前が六人とも倒してくれたのか?﹂
﹁えっ﹂
﹁え?﹂
﹁まさか! 六人は全員が、有爵者のようでした。私なぞ、到底及
ぶはずもなく⋮⋮﹂
﹁じゃあ、誰がこれを?﹂
ベイルフォウスがまた都合よく通りがかった、なんてことはない
だろうし。
﹁それはもちろん、旦那様⋮⋮です﹂
は? 俺?
﹁え。寝てたのに?﹂
﹁⋮⋮いえ、あの⋮⋮ずっと、起きていらっしゃるように見えまし
たが⋮⋮﹂
﹁えっ﹂
なにそれ怖い。
夢遊病とかいうやつか?
ああ、でも⋮⋮確かに、レイブレイズは引き抜いて手に持ってた
392
もんな。
﹁で、もしかして、俺はその六人全員を、剣で薙いだのか?﹂
何一つ、ここに残っていないところを見ると⋮⋮肉体を切っても、
術式のように消滅するのだろうか?
ミディリースが教えてくれた能力の中に、物体の消滅はなかった
と思うが。
﹁いえ⋮⋮あ、確かに剣はお使いでした。この爪痕のようなものは、
旦那様が剣をおふるいになった跡で⋮⋮ですが、森の木々や彼らが
消滅したのは、旦那様が⋮⋮見たこともないような、黒い魔術を展
開されたからで⋮⋮﹂
そう語るイースの体の震えはだんだんと大きくなり、皮膚からは
血の気が引いていく。真っ赤な顔が、今度こそ本当に真っ青に変化
した。
だが⋮⋮俺にも物体を消滅させるような魔術は、あまり心当たり
がない。しかも黒い魔術ってなんだよ。
⋮⋮⋮⋮。
まあ、いいか。
とにかく、だるい。
とっとと城に帰ってしまおう。
あれこれ考えるのは、休んだあとだ。
今は頭も体も働かない。
﹁帰るか﹂
よくできた竜たちは、俺の力ないつぶやきにも反応して、地上に
降りてきてくる。
ああ⋮⋮。
今日なんかは、その背に乗るのに登竜機が欲しいくらいだ。
そう思ったのが通じたのか、竜は寝そべるように地にべったりと
伏せてくれた。
393
俺は最後の力を振り絞って竜の背に乗ると、今度は眠らないよう
に意識を保ちながら、城を目指したのだった。
***
自分の寝室で眠ったのは、久しぶりだ。
弱体化してからというもの、ほとんど執務室で過ごしていたのだ
から。
ぐっすり眠ったからか、気分もすっきりしている。
さて、今日も頑張るぞ!!
﹁はい! 頑張りましょう!﹂
﹁⋮⋮ん?﹂
何、今の返事。
﹁⋮⋮何してる、マーミル﹂
﹁え? 何って⋮⋮添い寝ですわ﹂
﹁⋮⋮ここに正座しなさい﹂
俺はマーミルをベッドの上に正座させ、懇々と淑女のたしなみに
ついて言い聞かせたのだった。
﹁わかったか?﹂
﹁わかりましたわ。二度と、お兄さまのベッドにこっそりと潜り込
んだりしませんわ﹂
本当にわかっているのだろうか。
だったらそのぷっくり膨れた頬はなんだ。
﹁じゃあ、次やったら尻叩きの刑だからな﹂
394
﹁うえっ﹂
罰の宣言に、やっとマーミルは神妙な表情で頷いた。
さて、説教はこのくらいにして、今日もやるべきことをやろう。
妹もここにいるし、手鏡の使用説明書も手元にある。
だが手鏡は⋮⋮。
割と意識がもうろうとしていたので、どこへやったのだか覚えが
ない。
確か、イースに回収を任せて⋮⋮。
それからどうしたっけ?
確かミディリースへの書き付けだけは、頼んだはずだ。その後は
寝室に駆け込んで、倒れるように眠ってしまった⋮⋮のだと思う。
﹁ねえ、お兄さま。隣の居室にあの手鏡がたくさん並んでましたわ。
私の魔力を戻すために、人間たちから取ってきてくださったのね?﹂
マーミルはぴょんぴょん飛び跳ねながら、瞳を輝かせている。
そうか。イースのやつ、居室に置いてくれてるのか。
﹁ああ、そうだ。今から解呪するつもりだから、隣で待っていなさ
い。お兄さまは着替えるから﹂
﹁はーい!!﹂
妹はかなり上機嫌な様子でぴょんぴょん飛び跳ねながら、俺の寝
室から出ていった。
俺は手早くシャワーだけ浴びると、黒地に紋章の入ったローブに
着替え、ベルトを巻いてレイブレイズを帯剣する。今日は謁見は休
みなため、かなり室内着仕様だ。
さて、気分も落ち着いたことだし、儀式を執り行う前に、手順を
確認しておくか。
ガストンの説明では、鏡の装飾を外して背面を見、古代文字を解
395
読しろ、ということだったが、使用説明書を手に入れた今、そんな
面倒をする必要はない。
きちんとその説明書に、解呪方法が書かれているからだ。
曰く、
︵1︶手鏡に、対象となる姿を、一部でもかまわないので、映しま
しょう。
まず、一つ目の時点で俺はつっこみたい。
ガストンの説明では、裏面を見るのに鏡が粉々になってもいいと
言っていたと思うのだが? 粉々になったら、対象物を映すの苦労
するよな!
︵2︶対象を鏡に映したまま両手を天に掲げ、片足をあげて軸足に
クロスさせ、対象に向かって舌を出します。
このとき、舌苔で真っ白になっていてはいけません!
きちんと口内を清潔に保った状態で、実行しましょう!
おい!
おい!
この二番目は、丸ごと無視していいだろう。いい、よな?
とりあえず、無視しよう。
︵3︶呪文を唱えましょう。
﹁ああ、天よ! 我が訴を聞き入れたまえ! デヴァイング・
エメス・ファルファレーザ!﹂
ただし、この呪文を言っている間に、対象を鏡から外しては
いけません。
うーん。どう考えてもおかしい。
396
だってそうだろ?
奪うときは短い呪文だけだったじゃないか。
それに、わざわざ裏の解説をさえ、古代文字で書いているのに、
解除の呪文だけに現代語が混じってるっておかしいだろう!
多分あれだな⋮⋮最初の﹁ああ﹂から﹁たまえ﹂までは、唱えな
くても問題ないに違いない。
しかし、対象物をずっと鏡に映しておかないといけないってのは
⋮⋮魔獣相手と考えると、人間にはちょっと難しい話だろうな。
よし、結論としては、︵1︶を行い、︵2︶を飛ばして、︵3︶
の呪文を唱える、と。
それでやってみるか!
そうして俺は、マーミルの待つ居室に移動した。
妹の言ったとおり、三十八枚の手鏡はその応接机の上に並べられ
ている。
重なりあわせながらも、八列五行で整然と。
﹁不思議ですわね。こんな小さな手鏡に、私の魔力が奪われただな
んて﹂
マーミルはソファに腰掛けながら、手鏡を一つ手に持ち、くるく
ると回してその表裏を点検している。
﹁それで、どうしますの?﹂
﹁そのままじっと、椅子に座っていてくれ﹂
ベイルフォウスやジブライールの減少分を考えて⋮⋮マーミルに
は二十枚分を戻せばいいだろう。
一斉に鏡を向けられたのだろうが、マーミルが前列にいたせいだ
ろうか。妹の減少分が一番多くなっている。
もしかすると、一枚の鏡に三人分の魔力が吸われたのかもしれな
397
いが、俺の目でも判別はできないのだから、割合に応じて戻すしか
ない。
俺は残りの十八枚の鏡をひとまずあいている棚に収納した。
﹁あら﹂
マーミルがつぶやいたが、気にしない。
机に置いたままでもマーミルの姿は手鏡に映っていたが、念のた
めだ。魔術で二十枚を空中に浮かし、妹の前で固定する。
そこで、呪文だが⋮⋮。
足をちょっとだけ交差してみようかな⋮⋮。
﹁お兄さま、儀式を行うのに、そんなだらしのない格好でいいんで
すの?﹂
﹁気にするな﹂
そうして、俺は呪文を唱えた。
﹁デヴァイング・エメス・ファルファレーザ!﹂
果たして。
結果は成功だ。
魔力は本当に、手鏡の中にあったらしい。表面ではなく裏面から、
誰のものとも判断のつかない魔力がわき上がってマーミルに向かっ
て延び、吸収されたのだ。
そうして、妹に魔力が戻ったのはいいのだが⋮⋮。
﹁あ! また魔術が使えるようになりましたわ!﹂
だが。
﹁あら? でも⋮⋮あら?﹂
マーミルは困惑した表情で、俺の方を見ている。
それもそのはずだ。確かにマーミルの魔術は戻った。
だが、全てではない。
398
これは⋮⋮まさか、俺が︵2︶を省いたからか!?
それとも、二十枚分しか戻らなかったという事か。
⋮⋮うん、きっと、二十枚分しか戻らなかったんだな。
︵2︶の変な格好が必要な訳はない!
俺は一度しまった残り十八枚の手鏡を、棚から取り出した。
となると、ミディリースに預けた分は⋮⋮まあ一枚くらいはいい
だろう。
﹁もう一度、やってみようか﹂
俺は妹に、満面の笑みを向けた。
なんだ、その、不審なものを見るような目は!
***
マーミルの魔力は、無事元︱︱やや欠けてはいるが︱︱に戻った。
あとは俺の魔力だが、成功例があるというのは随分気を楽にして
くれるもんだ。それとも、気分がいいのはぐっすり眠ったせいかも
しれない。
とにもかくにも、落ち着いた気持ちで執務室に向かう。
ええと、昨日は他に何があったんだっけ⋮⋮。
確か、人間の町に行って、ベイルフォウスの氷結を解いて⋮⋮い
や、一部無理だったけど。
待て。この件はちょっと置いておこう。
思い出すとこう⋮⋮胃がむかむかと⋮⋮。
その前に、手鏡と邪鏡ボダスの古代文字の解読を、ミディリース
に頼んでおいたんだった。それに昨日、帰ってから手鏡の説明書を
399
一部、厳重に封をして、書き付けと共に彼女の元に届けさせたはず
だ。
進捗状況はどうなっているだろう。
あとは⋮⋮ええと⋮⋮あ!
そういえば、俺、昨日の帰りに爵位持ちから挑戦されたんだっけ
か!
六人?
よくもまあ、それだけの人数を相手にして、無事だったものだ。
いつもに比べれば、今の俺は魔力もないに等しいというのに。
しかも、寝てたのに!
そんなことを考えながら歩いていたら、いつの間にか執務室の中
にいた。
﹁おはようございます、旦那様。本日は大変、お顔の色もよろしい
ご様子で、何よりでございます﹂
エンディオンがにこにこと頷いてくれる。
最初はあんなに怖かったのに、今では誰よりも癒やしをくれる。
なんだろう、この気持ち。これが恋かしら。
冗談はさておいて。
﹁昨日はすまなかった。執務室に顔も出さず、帰るなり寝てしまっ
て⋮⋮﹂
﹁いえ、事情はイースよりあらかたうかがっております。このとこ
ろの状況をあわせても、お疲れになるのは無理ありません﹂
エンディオンは俺の事情を正確に知るただ一人の人物だから、こ
うして納得してくれるのだろう。
﹁手鏡を応接机の上に並べておきましたが、よろしかったでしょう
か? 旦那様の応接に入室を許されている者は限られておりますし、
400
机上の私物には手を触れないよう、きつく申しつけておきましたの
で﹂
並べたのはエンディオンだったのか。どうりできっちりしている
と思った。
﹁ああ。三十八枚きっちりそろってた。ありがとう﹂
エンディオンはこくりとうなずき、報告を続ける。
﹁旦那様に挑戦したという六人に関しては、イースの証言と、旦那
様のもとに下った紋章を照らし合わせて特定いたします。ただ、数
日の猶予は必要かと存じます﹂
﹁だろうな。まあ、急ぐ必要もない﹂
今の俺が勝てた位だから、爵位持ちといっても下位の者だろう。
﹁それで、だが⋮⋮ミディリースから何か報告はないか? あの変
な文字が解読できたとか、できなかったとか⋮⋮﹂
俺の行動や意志は、エンディオンには常から全て話してある。当
然、ミディリースに古代文字の解読を依頼していることも、伝えて
あった。
というか、昨日回収した手鏡の説明書を図書館に届けてもらえる
よう頼んだ相手が、そもそもエンディオンだ。
﹁いえ、特にご報告などは届いておりません﹂
そうか。さすがに全く知らない言語を解くとなると、一日では無
理か。
昨日は俺の帰りを待ってたりは⋮⋮絶対ないな。うん。
﹁しかし、驚きました﹂
エンディオンは長い息を吐いた。
﹁昨日、旦那様のお手紙を、ミディリースに届けようと図書館を訪
れたところ、そこに黒ずくめの怪しげな者がいるではありませんか
!﹂
401
ああ、確かに怪しいな⋮⋮うん、あの黒ずくめは怪しいよな。
﹁思わず攻撃してしまうところでした。まさか、ミディリースであ
るとは﹂
えっ。
エンディオン対ミディリースが始まるところだったのか?
一触即発状態?
不審者は有無を言わせず実力で排除なの、エンディオン?
﹁いやはや、かなり久しぶりだったもので、あれほど小柄であった
ことすら、すっかり失念しておりました﹂
そんな穏やかな笑顔で言われても!
しかし、二人はどうやってわかりあえたのだろうか。
﹁ミディリースからはございませんが、旦那様。昨日、別の方から
の信書が届いております﹂
エンディオンの合図で、盆をささげ持った侍従が執務室に入って
くる。その上には、黒い封筒とペーパーナイフが置かれてあった。
侍従は盆ごとエンディオンに手渡すと、そのまま一言も発せず出
て行った。
俺はその封筒を、エンディオンから受け取る。
﹁これは⋮⋮﹂
信書といえど、気安い書簡ではなさそうだ。
真っ黒な封筒の表には、用紙の半分を使って紋章が焼かれており、
裏にはその人物の頭文字が押された封蝋がなされている。
その紋章は<咆哮する獅子>。
誰あろう、七大大公の第一位、プートの紋章だった。
402
37.もう一刻の猶予もない感じ⋮⋮ですか?
プートからの信書だって?
嫌な予感がする。どんな内容なんだ。
ペーパーナイフで封を開け、中に入っていた黒い紙を取り出す。
そこにはこう書かれていた。
明日 昼餐会を兼ねた<大公会議>を我が城にて開催する
議題:魔王ルデルフォウス陛下の在位三百年を祝う大祭について
たった二行。
たったこれだけ⋮⋮。
しかも、明日って! おい、明日って!!
以前、魔王様に御前会議の開催日時のお知らせ日について、余裕
を持って報せろと文句を言っていたのは誰だったっけ?
なのに明日って!!
しかもこの書き方だと、有無を言わせず強制参加かよ!
お ー ぼ ー。
魔族の大公、横暴ー。
っと、遊んでいる場合ではない。
真面目な話、俺はまだ元の魔力に戻っていないんだぞ?
この状況で、七大大公揃い踏みとか、勘弁してくれ!
﹁どうしよう、エンディオン。これ、欠席できないかな⋮⋮?﹂
403
エンディオンに書簡を渡すと、家令はじっくりとその文面を読ん
だ後、こう答えた。
﹁議題が議題ですし、難しいかとは思います。そもそも、<大公会
議>と書かれているからには、拒否権は認められないかと⋮⋮﹂
え⋮⋮そうなの? <大公会議>って、大公が絶対参加しないと
いけないものなの?
そんなに特別な会議なの?
﹁旦那様。大公閣下といえば、ほとんどの存在と命令に対して否を
言える立場ではございますが、魔王陛下の御命令と、同僚であられ
る他の大公閣下が宣言されて召集された<大公会議>のみは、何が
あっても拒否なさることはできません﹂
まあ、魔王様の命令に関しては、内容と関係性によって変わると
は思うけどね!
﹁この<大公会議>というのは、実は公的な会ではなく私的な会に
分類されるのですが、扱う議題は全魔族の運命を左右するというほ
どの大事ばかりなのです。故に、この会議に不参加を表明すると言
うことは、自ら大公位を降りると表明したも同様の意味をもつので
す﹂
えええええ。
なにその面倒くさい決まり。
でも待てよ?
﹁ってことは、なんだったら俺も、そんな強制力を持った会議を招
集できるってこと?﹂
﹁もちろんです、旦那様﹂
﹁プートの例を見れば、手紙を送るだけでいいということかな?﹂
﹁はい。召集状のなかに、<大公会議>との一文を入れれば、それ
だけでよいのですが﹂
お手軽だな!
404
ってことは、あれか?
﹁例えば俺の伴侶を捜すための話し合いを﹂
﹁旦那様。恐れながら、全魔族の運命を左右する議題、でございま
すので⋮⋮﹂
あ、はい。ごめんなさい。
そうですよね、たかが大公の嫁探しくらいで召集できる会議では
ないんですよね。
第一、そんな議題が通ってしまっては、逆に怖い。
その会議場でウィストベルがどう出るのか、考えると怖い。
ウィストベルといえば⋮⋮手紙の返事はきていなかったな。
魔道具に関する知識を問うたが、もうそれはよくなったし。
それより、俺の今の状況を目にして、彼女はどう反応するだろう。
ちょっと怖い。
﹁しかし、それにしたって急すぎじゃないか? 明日だなんて⋮⋮﹂
﹁旦那様。<大公会議>は、たいてい急なものでございます﹂
ああ、うん⋮⋮。全魔族の運命を左右する議題、だもんね。
でもそれ、どうなの?
魔王様をのぞいて、魔族の運命って決めていいことなの?
﹁例えば前回の会議では、七大大公のお一人を断罪するための裁判
の開廷が、決定されました。その後、被告人である大公閣下は有罪
となり、六人の大公閣下方のお手によって刑に処されたのでござい
ます。また、前々回には、仲のお悪かったお二人の決闘が行われる
ことになり、他の大公閣下の立ち会いの元、片方の大公が絶命なさ
るまで、戦いは続けられたのです﹂
うわ、なにそれ怖い。
﹁このように、どちらかというと大公間での争いや諍いを議論した
405
り、仲裁したりする性質の強い議会と認識しております﹂
ああ、なるほど⋮⋮大公同士が戦わず、平和的に優劣をつけられ
るなら、確かにそれはかなりの魔族の運命を左右する、といっても
いいかもな。
でも、今の二例とも、仲裁のちゅの字もなかったんですけど、そ
こはつっこんだらいけないんだろうな。
が、今回は魔王様の在位を祝う祭に関してか。
まあ、確かに三百年で初めての大祭となれば、魔族の大事には違
いない。それに召集に強制力を持つ会議でもなければ、ベイルフォ
ウスあたりが﹁なんでプートが主導するんだよ﹂とか言って、不参
加を決め込みそうだ。
﹁旦那様。封筒の中にもう一枚、お手紙が残っておりますが﹂
エンディオンが小さく折られた便せんを取りだし、俺によこして
くれた。
さすがに、二行では情報不足だもんな!
こっちに詳細が書かれているんだろう。
そう思って開いてみたのだが。
そこにはプートの直筆らしき猛々しい文字で︱︱招待状や召集状
や公文書は、達筆な書記官が代筆する︱︱こう書かれてあった。
﹃先日約束した通り、大祭について貴君の助力を願いたい。他の大
公が到着の前に、ご来城を請う﹄
俺だけ早く来いってか!
確かに、約束したけれども。補助を乞われて、俺でよければとは
言ったけれども。
406
﹁絶対いやだ。俺だけ早くとか⋮⋮これは断っていいよな?﹂
魔力がないに等しい状態で、デーモン族嫌いの大公第一位と二人
きり?
そりゃあ<大公会議>の前だし、プートが何かするとは思えない
が⋮⋮。
期待を込めつつエンディオンを見る。だが家令は苦笑を浮かべる
ばかりだった。
つまり⋮⋮ああ、断らない方がいい、ってこと⋮⋮?
こうなると、今の俺がすべきことはただ一つ。
﹁朝からすまん。ミディリースのところに行ってくる﹂
明日までに、この状況をなんとかしないと!
俺はいつもの仕事を放り出して、図書館へと駆け込んだのだった。
***
ミディリースは、昨日別れた場所にそのままの姿でいた。
そのまま、というと、語弊があるか。
正確には仮面と手袋を取った状態だ。
少し観察していると、本を開いてはノートに書き込みをし、時々
眉根を寄せてペンの背で額をこづいている。
身にまとったローブはそのままなので、たぶん昨日から一度も休
んでいないのだろう。
そのことにも驚いたが⋮⋮。
﹁もったいない。そんな可愛らしい顔をしているのに﹂
俺の正直な感想に、ミディリースの手がぴたりと止まる。
子供みたいに大きな目が余計大きく開かれ、俺を見上げて恐怖の
色を浮かべた。
﹁い⋮⋮﹂
407
﹁い?﹂
﹁いやあああああ!!﹂
叫び声と共に、次々と本が飛んでくる。
それを傷まないように受け止めながら、読書机にきれいに積み直
していく俺。
﹁ああああ、大切な本がっ!﹂
こ
さっきは赤くなったかと思ったら、今度は顔を青くしている。
自分でその大切な本を投げたくせに、忙しい娘だな。
彼女は自分の投げた本が俺によって机上に積まれ終わると、ガバ
ッと顔を伏せた。
﹁ひどい⋮⋮ひどすぎる⋮⋮﹂
﹁ミディリース?﹂
﹁黙って見てるなんて、ひどいです⋮⋮﹂
おお! ミディリースが、割とすらすら喋っている!
初めてのことじゃないか?
﹁えっと⋮⋮ごめん?﹂
﹁謝ってすめば、魔王様はいらない!﹂
なんか⋮⋮うん。ものすごく怒ってるみたいだ。
﹁でも、可愛いのに﹂
俺がそういうと、ミディリースは顔を伏せたまま、両の拳をダン
ダンと、机に叩きつけた。
鼻に衝撃が当たるだろう。痛くはないのだろうか。
前からその挙動不審な態度といい、小柄なところといい、カタコ
トな言葉遣いといい、子供っぽいとは思っていたが、その童顔をし
っかりと確認した後では、余計その感は強まるばかりだ。
408
何より、子供だと思えば、今までの仕打ちもあきらめられる気が
する。
いいや、だが、子供扱いしてはいけない! なにせ相手は、確実
に俺より年上⋮⋮六百歳は下らないのだから!
でも、思わず﹁ごめんな﹂とか言って、頭を撫でてしまいそうだ。
﹁本⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁お詫びに、本が欲しい⋮⋮﹂
お詫びって何。ミディリースの顔を見たこと?
なんか、理不尽な要求のように思わないでもない。
まあしかし、詫びはともかくとして、今回はだいぶ世話になって
いるのは事実だ。
﹁この件が片づいたら、お礼に望みの本を数冊、図書館にいれると
約束するよ﹂
﹁ふふ⋮⋮﹂
不気味なくぐもった笑い声が漏れたと思うと、ミディリースは少
しだけ顔を机から浮かし、その間に仮面を差し込んで器用に装着し
た。
もう今更、隠さなくてもいいのに。
﹁後日⋮⋮リスト⋮⋮送る、です﹂
あれ?
なんでまた、カタコトに戻るの?
そこはもう、すらすら喋ってくれよ!
﹁ところで、今も昨日の続きをしてくれてると思うんだけど﹂
俺の言葉に彼女は何度も頷いた。
﹁でも、難し⋮⋮です⋮⋮﹂
409
床にまで散らばった書き付けの紙が、彼女の試行錯誤をよく表し
ている。
﹁どんな具合かな?﹂
ミディリースの横に行こうとすると、彼女は立ち上がってものす
ごい勢いで後退した。
おい⋮⋮おい⋮⋮。
﹁わ⋮⋮私、⋮⋮してない⋮⋮ずっと⋮⋮昨日から⋮⋮だから、そ
の⋮⋮﹂
はい?
﹁そ⋮⋮側、くる⋮⋮ダメ⋮⋮です﹂
⋮⋮ああ⋮⋮。
⋮⋮うん⋮⋮。
要するに、近寄るな、だね。
ふ⋮⋮泣いていいかな?
寂寥感に満ちた心を抱えながら、俺はミディリースの前の席に座
った。
これくらいは許してもらえるだろう。隣ではないし、机は広くて
距離もあるんだから。
気を取り直して、本題に戻ろう。今回も、さくっと事務的にいこ
うではないか。
﹁それで、進捗状況を教えてもらいたいんだが﹂
ミディリースはこくりと頷くと、逃げたときの倍ほどの緩慢な動
作で、元の席に戻った。
﹁⋮⋮意味、一部判明⋮⋮けれど、全容⋮⋮まだ⋮⋮﹂
おお、一部でも判明したのか! それはすごい!
だが⋮⋮だが、しかし、だ。
﹁意味もあれなんだけど⋮⋮ミディリース。読み方は判明しないか
410
?﹂
正直、意味などどうでもいいのだ。
人間たちだって、理解した上で呪文を唱えたわけではないだろう。
それでも発動した。
邪鏡ボダスだって同じはずだ。言葉の音さえ分かればいい。後は
術式をそのまま展開すればいいだけのはず。
﹁音だけ⋮⋮たぶん、だめ﹂
ミディリースは首を左右にふる。
﹁理由、これ﹂
彼女は資料の山の中から、俺が昨日帰ってすぐに届けさせた手鏡
の使用説明書を取りだし、俺の方に差し出す。
﹁手順、変える⋮⋮元に、戻らない⋮⋮手順通り⋮⋮元、戻る﹂
彼女は説明書に線をひきつつ、説明してくれた。
﹁やり方⋮⋮手順⋮⋮間違う⋮⋮無効﹂
﹁いや、そうでもないだろう﹂
マーミルに魔力を戻す時、二回とも︵2︶の変な顔の指示は無視
したが、支障なかったぞ。
﹁ダメ。無効﹂
しかしミディリースはやはり首を左右に振った。
﹁私、これ、やってみた﹂
﹁あれをやったのか!﹂
ミディリースの肩が、ビクリと跳ね上がる。
﹁ご、ごめ⋮⋮検証の、ため⋮⋮﹂
﹁いや、別に責めたわけじゃない。少し、驚いただけだ﹂
だって、あれをやったっていうんだぞ? あの、変なポーズを!
﹁誰に協力してもらったんだ? エンディオンか?﹂
検証するには手鏡を持つ役と、映される役とがいるだろう。
411
だが、エンディオンは特に何も言っていなかったが。
﹁自分⋮⋮﹂
え?
﹁一人⋮⋮やった⋮⋮﹂
自分で自分に手鏡を向けて、呪文を唱えたの?
いや、吸うときはまだいい。
解除も試したということは、鏡を上にかかげながら、自分を間違
いなく映し続けなければいけないし、なにより⋮⋮あの、ポーズ。
﹁まさかあの、変なポーズ⋮⋮あれも、書いてあるとおりにやった
のか? 自分自身に鏡を向けて? ︵2︶のことだが⋮⋮﹂
﹁も⋮⋮もち、ろん⋮⋮﹂
ミディリースはこくりと頷く。
なんというか、ミディリース。素直だな。
﹁ミディリース⋮⋮あの︵2︶はやらなくても、大丈夫だったんだ
ぞ﹂
﹁えっ!!﹂
﹁順番を変えたって、どこを変えたんだ? まさか、︵3︶、︵2︶
、︵1︶の順でやってみたとか、それだけじゃないよな?﹂
﹁︵2︶︵3︶︵1︶も⋮⋮やった⋮⋮﹂
どちらにしても、︵3︶と︵1︶が逆になっているだけじゃない
か。
﹁あと、舌を先、足を後⋮⋮﹂
落ち込み具合が、うなだれた首の角度でよくわかる。
﹁まあ、そう落ち込むな⋮⋮﹂
思わず頭をぽんぽんしそうになってしまったが、すんでのところ
で思いとどまった。
﹁とにかく!﹂
412
そう言って、彼女はガバッと顔をあげ、俺が置いていった手鏡を
机の上に出した。とはいっても、周囲の装飾が取られ、ただの楕円
になっていたが。
﹁それで、いくらかの文字、判明した!﹂
﹁そうか、試行錯誤を重ねてくれたんだな。ありがとう﹂
ミディリースはこくりとうなずく。
﹁けど、まだ、一部⋮⋮﹂
﹁それなんだけど、実は急いで解読しないといけなくなったんだ。
というのも、もうあらかたバレてると思うんだけど⋮⋮﹂
ミディリースが首を傾げる。
﹁実は、この写しの結果が必要なのは⋮⋮俺、なんだ﹂
彼女はこくんと頷いた。ああ。やっぱり、バレてるよな。
﹁つまりその⋮⋮俺の魔力は今、減っているということで﹂
また一つ、うなずく。
﹁だが明日、七大大公の集まりがあってな⋮⋮﹂
﹁っ! 閣下⋮⋮瞬殺⋮⋮⋮⋮悲しい⋮⋮﹂
﹁いや! さすがに瞬殺はされないけど!﹂
誰が相手でも、一矢報いてみせるさ!
って、そうじゃない!!
なんで俺の状況がバレて、殺られる前提なんだ!
﹁とにかく、俺としてはこんな状況で行くのはごめんというか⋮⋮
なんとしても、今日のうちに魔力を戻したいんだ。わかってくれる
かな?﹂
﹁もちろん﹂
ミディリースは深く頷いた。
﹁城主⋮⋮替わる⋮⋮本、入らない⋮⋮﹂
つっこまないぞ!
413
俺は、つっこまないぞ!!
それから俺とミディリースは、それから一昼夜、二人で協力して
翻訳作業を続けたのだった。
もっとも、彼女は俺が近づくことは相変わらず拒否したし、途中、
ものすごく息苦しそうにふーふー言い出したのに、仮面を取ること
は決してしなかった。
つまり二人の親密度は全く上がらなかったが、それでも解読は進
んだのだった。
そうして、判明していない単語はあと二つだけとなったその時、
図書館にエンディオンがやってきたのだった。
﹁旦那様。そろそろご用意をなさいませんと﹂
タイムリミットも、やってきたのだった。
414
38.プートさんの意外な一面⋮⋮知りたくないです
こうなったら、俺だって腹をくくるしかない。
元々、他人の魔力量を知れる者なんて、俺とウィストベルくらい
しかいないんだ。
ウィストベル自身の反応は怖いが、彼女が俺のピンチとなるよう
な状況を、ほかの者に漏らすはずはない。なんといっても、俺と彼
女は同盟関係にあるのだから!
それに、ベイルフォウスはあれで、聡いところがある。そのベイ
ルフォウスが何も気付かなかったのだ。他の連中にだって、バレず
にすむだろう!
まあ⋮⋮ある意味、ウィストベルに知られるのが一番⋮⋮怖い⋮
⋮というか⋮⋮。いや、ほんとに⋮⋮どうしよう。
今更だが、こんなこと言っても今更だが、自力で解くのにこだわ
らず、聖者⋮⋮だっけ? もうプライドがどうとか何とか言わない
で、人間に解いてもらえばよかったのではないだろうか!
今更言っても遅いけど!
﹁ジャーイル大公閣下、御来城ー!!﹂
うお!
考えに没頭している間に、いつの間にかプートの<竜の生まれし
窖城>だ。
無意識なのに、よく到着できたな、俺。初めて訪ねる城だったと
いうのに。
しかも、いつの間にか竜を降りて、城の玄関ホールで家臣団に迎
えられてるんですけど!
415
玄関ホールは奥に深く伸びていて、太い柱がいくつも立ち並んで
いる。柱の前に立派な肘掛けのついた椅子がおいてあるのは、ここ
が待合いの役目も果たしているからなのかもしれない。
今は、中央に敷かれた黒い絨毯の左右それぞれに、五十人ずつほ
どのいかついデヴィル族の家臣団が並び、俺に頭頂部を向けていた。
そして、絨毯の行き着く先には、いつものように胸の前を誇らし
げにはだけさせる、プートの姿が。
なんというか⋮⋮全体的に、黒い。
家臣団の服装や絨毯ばかりか、天井や壁まで黒い。置かれた家具
も黒い。そしてプートのはだけた胸まで黒い。黒くないのは、獅子
の顔部分だけだ。
黒すぎる。
﹁よくぞ、我が<竜の生まれし窖城>に参られた!﹂
俺からプートのところまで四十メートルは距離があるというのに、
鼓膜に響くほどの大音声。しかも。
﹁ようこそおいでくださいました!﹂
マッチョデヴィルたちの唱和付きだ。
﹁歓迎いたすぞ、ジャーイル大公!﹂
﹁歓迎の至りにございます、ジャーイル大公閣下!﹂
わかった。わかったから、もう少し近づいてから普通の音量で話
してください!
あと、唱和もしないでください!!
俺はほとんど駆け足なみの早さで、プートに歩み寄った。
ちなみに、白い服を着てきて、なんやかんや言われては面倒なの
で、今日は紋章を染めたマント以外は、上から下まで黒一色だ。そ
こを合わせたからといって、胸まではだけようとは思わないがな!
416
﹁召集に応じ伺った﹂
あと二、三歩の距離まで近づくと、プートはそのゴリラ手を高く
あげた。
おおい、その手をどうするつもりだ。まさか⋮⋮。
空を切る音を発して振り下ろされる手、響く打音、きしむ俺の肩。
やめてくれない、ゴリラの馬鹿力で叩くの! しかも二回も!!
殺す気なの?
俺のことを、撲殺する気なの!?
﹁奥に席を設けておる。まずはゆっくりと親交を深めようではない
か!﹂
親交を深める?
﹁大祭についての打ち合わせかと思ったのだが?﹂ ﹁もちろん、そうである。我は儀礼を重んじる故、常套句を欠かさ
ぬだけである﹂
あ、そうですか。
俺は大人しくついていくことにした。
そうして俺は、プート自らの案内によって、城の奥に通された。
奥に十五メートル、横に十メートルほどの長方形の会議室だ。
あれ?
席を設けてあるって、ここほんとに<大公会議>で使用する場所
だよね。本当に言葉だけだったんだね。
﹁別室をとも思ったが、それでは不自然であろうと思ってな。ここ
に通すだけならば、初のことで逸ったそなたが余裕を持ちすぎてや
ってきたので、我が歓待した、ということにすればよい﹂
つまり、俺にだけ早く来いと言ったことは、内緒にしたいわけか。
﹁なにせ、ただでさえ実兄のことを私が主導するのを快く思わぬで
417
あろうあの者が、その親友にまで協力を要請したとしっては、また
邪推するであろうからな﹂
ああ、ベイルフォウスに知られたくないわけね。
﹁それに、実際そなたも初の会議がどうやって行われるのか、聞い
ておきたいであろうし﹂
﹁いつもの会議と、何か違う点でも?﹂
会議場には部屋と同じ縦横比の四角い机が中央に置かれており、
奥に席が一つ、他の三方に二つずつ設けられていた。
そして、明言するまでもなく、黒い。
中央に飾られた花や花瓶さえ、黒い。
これ⋮⋮花を飾る意味、あるの?
﹁奥に座すのは召集をかけた者⋮⋮今回の場合、私だ。そちらから
見て右手の席に残りの上位二名、左手に次の二名、正面に最後の二
名が座る。つまり、今回は私の右手にベイルフォウスとアリネーゼ
が座り、左にウィストベルとサーリスヴォルフが。そして、君が私
の向かって右、デイセントローズがその隣となる。当然、魔王陛下
は不参加だ﹂
うわ。あのラマとがっつり隣か。
﹁これに書記官が一名加わり、私の左斜め後ろの小机で記帳するこ
ととなる﹂
表向きは私的な会議なのに、記録を取るのか。
まあ、内容が内容だけに、メモはとらないといけないだろうが。
﹁後は給仕が出入りするが、これを数にいれる必要はないだろう﹂
ああ、昼食もここでなのか。
﹁今回は今までの会議と違って、決して室内での戦闘は許されぬ。
相手を口汚くののしることも禁止だ﹂
え⋮⋮あの、今までの会議と違ってって⋮⋮今までもダメでした
418
よね?
あなたたちが決まり事を守らなかっただけですよね?
しかもあなた、喧嘩はダメだって注意事項を自分の口から発した
くせに、破った人ですよね?
﹁ゆえに、いちど席についたが最後、終了までは立つことさえ許さ
れぬ。何十時間かかろうとな﹂
え? じゃああの⋮⋮トイレ⋮⋮は?
食事もするのに、トイレ行けないとか⋮⋮いや、別に俺は近くな
いけど。
﹁過去にそんな⋮⋮何十時間もかかったことがあるのか?﹂
﹁私の経験ではないが、それ以前にはな。最長で五日間続いたと聞
いておる。終わった頃には、みな痔になっていたそうだ。椅子は血
みどろになり、数人が立ち上がれなかったという﹂
えっ!
俺はプートの顔をまじまじと見つめた。
﹁そんな顔をするな。私とてたまには冗談くらい言う﹂
ああ、冗談なんだ。冗談言うんだ。
﹁まあ、とにかく座られよ﹂
プートはどこかバツの悪そうな顔をして、俺に着席をすすめてき
た。
へえ⋮⋮困ったりもするんだ。
いつも威圧的にぷんすか怒って不機嫌なばっかりの印象だったが、
意外だな。
まあ、口を開く度にちらちら牙がのぞいて、なんかこう⋮⋮冗談
言うからってちっとも和みはしないんだけどね!
﹁さて、本題に入ろう。何も初心者相手に親切な解説をするばかり
419
が目的で、そなたを呼んだのではない﹂
俺が彼の向かって右手の席に座ると、プートは机上で両手を組み、
口を開いた。
﹁<大公会議>というのは、たいていが危機的状況下において開催
されるものだが、今回は違う。書面に書いたとおり、魔王ルデルフ
ォウス陛下の在位を祝う大祭が、その議題だ﹂
﹁大祭の内容を話し合って決めるのが目的と思ったらいいのかな?﹂
俺の言葉に、プートは頷く。
﹁その通りだ。本来ならばめでたいこと⋮⋮。大公全員一致で盛り
上げていきたいのだが、そうはいかぬであろう﹂
プートはなんだな⋮⋮デーモン族嫌いだというが、魔王様に対す
る忠誠心には嘘がなさそうに見えるんだよな。
﹁そこで、会議が滞りなく進行するために必要なことを話し合いた
いのだ。つまり、そなたの親友についての対応を、だが﹂
⋮⋮なに?
俺に助力を乞うって、ベイルフォウスのことなのか?
﹁さきほども申したが、私がこの会を主催していることを、あの男
が快く思うはずはない。自分では<大公会議>の開催を思いつくど
ころか、三百年目の節目もわからぬくせに、だ﹂
まあそれは⋮⋮魔族なんて、自分の年齢どころか生まれた日さえ、
覚えていないくらいだからな。
﹁いつものようには表だって喧嘩を売ってくることはすまい。なに
せ、<大公会議>であるからな。だが、議題の進行を、邪魔してこ
ようとするに違いない﹂
﹁まさかそんな。子供じゃあるまいし﹂
﹁いいや。邪魔をしたあげくに、こう言い出すに違いない。今回は、
いっこうに話が決まらなかった。故に、次回の<大公会議>は自分
420
の城で、自分が主催して行う、と﹂
﹁いくらベイルフォウスでも、そこまでは⋮⋮﹂
﹁いや、する。確実に。若いそなたにはわかるまいが、<大公会議
>を主催する、というのは大変なことであり、それは他の大公と戦
って勝利するより、名誉なことなのだ。その名目が、他ならぬ奴の
兄君のことに関係しているとあっては、他者にその誉れを譲ろうは
ずがない﹂
どうも大げさに考えすぎている気がする。
けど、俺もいまいち<大公会議>の重要性を把握できていないか
らなぁ。
﹁で、プートは俺にベイルフォウスの諫め役に回って欲しいと﹂
﹁まあ、有り体にいえばそうだ。私はあれと同僚となってこの三百
年⋮⋮いや、奴が成人する前から知っているが、今そなたに見せて
いるほどの親愛を、かつて誰かに示していたという覚えが全くない﹂
えー。口では確かに親友っていってるけど、でもあいつ、いつで
も俺のこと殺しにきそうなんですけど?
﹁万が一、奴がいつもの態度をとるようであらば、会議の議題は大
祭に関しての話し合いから、ベイルフォウスを断罪するものに変わ
らざるを得ない﹂
目が怖いですよ、プートさん。牙みせてぐるるるとか唸らないで
くださいね。
いつもの俺なら引き受けてもいいんだが、今は⋮⋮なあ。
﹁何かと思えば、小賢しいことをするものじゃな﹂
突然響く、嘲笑を含んだなまめかしい声。
ああ、それを聞き違えようがない。
プートの視線が俺の背後に向けられる。
421
俺も立ち上がり、扉を振り返った。 絶世の美貌を誇るその女大公は、妖艶な笑みの中に怒りを含め、
真っ黒な部屋でその白い姿を浮かび上がらせていた。
422
39.女王様の女王様たる所以⋮⋮うん、やっぱり知りたくない
です
﹁心配せずとも、ベイルフォウスとてそこまでバカではない。プー
トよ﹂
痛い痛い痛い!
デーモン族一の絶世の美女︱︱大公ウィストベルは、笑みを浮か
べつつ側までやってきて、がっしりと俺の二の腕をいつもの謎怪力
でつかんだのだ。
そうして間近から俺を見上げ、こうおっしゃった。
﹁主には随分と、説明してもらわねばならぬことがありそうじゃの﹂
怖い怖い怖い!
﹁昼餐にはまだ随分早いようだが﹂
プートは冷静だ。その声はこの場に不似合いなくらい、静かだっ
た。
﹁そうじゃな。早すぎる。のう、ジャーイル?﹂
いや、俺じゃなくて、どうぞプートに目を向けてください!
この城の主ですから!
召集者ですから!
﹁ジャーイルは若輩ゆえ、<大公会議>が何かも知らぬで早く出過
ぎたのであろうと⋮⋮心配になって追ってきたのじゃ。なにせこの
者は我が同盟者。面倒を見る必要があるとすればプート、それは主
ではなく私であるべきじゃろう﹂
今度はしっかりと、プートを見据えている。
423
﹁⋮⋮そなたの怒りに触れるようなことは、我とて望んでおらぬよ、
ウィストベル。好きにするがいい﹂
プートはそっけなくそう言うと、何を考えているのだか部屋を出
ていったのだ!!
ちょっと!
わざわざ早く来いと自分から呼んでおいて、ウィストベルがきた
ら話し途中であっさり出て行くとか。
そこは居座るべきだろう!
たとえ彼女がいることで、目当ての話ができなくなるにしても。
要するに、だ。
今の俺と、ウィストベルを二人っきりにしないでくれよ!!
あっさり降参とか、アンタそれでも魔族第二位の実力者ですか!!
まさかプート、ウィストベルの真の実力を知ってるんじゃ⋮⋮?
はっきり魔力が見られる目なんて持っていなくても、魔族ならば
相手の強さや弱さを、ある程度感じることはできるはずだ。まして
ちから
やプートほどの上位者であれば、他者との実力差には敏感であって
も不思議はない。
けれど万が一プートが相手の魔力に敏感であったとしたら⋮⋮今
の俺の弱体化にも気づくのではないだろうか。
今のところ、そんな気配はなかったが。
だが、今はそんなことよりも。
﹁ウィストベル。なぜ、こんなに早く?﹂
デヴィル族嫌いのウィストベルのことだ。てっきり昼前ぎりぎり
にくるものだと思っていたのに。
﹁主を追ってきた、といったろう。この城へやってくるのに、主は
424
我が領地を通ったであろうが﹂
あああ、しまった!!
俺の城からプートの城を目指すには、ウィストベルか魔王様の領
地を横切るのが近道なんだ。それで思わず通りやすいウィストベル
の領地を横切ったんだが⋮⋮。
魔王領を通るんだった!!
そりゃあ他の大公が通ったんだ、領主に報告がいかないわけはな
いよな!
﹁で、昼餐と言われているのにも拘わらず、わざわざ早朝から城を
出たのは、プートと密談をするためだったというわけか?﹂
俺は強引に椅子に座らされる。その上、肘掛けに彼女の両手が置
かれて逃げ道がない。
覆い被さってくる髪がもう、牢獄の柵のようだ。
﹁密談だなんて⋮⋮違います。ちょっと、会議の前に打ち合わせを
⋮⋮﹂
﹁プートは主の同盟者ではないぞ? そんな相手と、何を話し合う
必要がある。それとも何か? これを機に同盟を結ぶつもりでおる
のか? 黒づくめなど、そなたには似合わぬというのに。まさか、
のう?﹂
笑顔が怖い。笑顔だけど、怖い。
﹁まさかそんな! ある訳ないじゃないですか!﹂
やばい。どうやって逃げる、俺。
﹁ほう⋮⋮では別の用件か? 例えばそう⋮⋮この見るも無惨な魔
力の減少を、あの男ならなんとかしてくれると?﹂
いっそうぐっと顔を近づけてくる、ウィストベル。
その目力が怖いです!
425
そりゃあまあ、バレない訳がないよね。
どうしよう、俺。
﹁なんじゃ、この主の状態は。詳しく説明してもらおうか?﹂
ですよねー。ですよねー。
﹁えっと⋮⋮詳しく説明するには⋮⋮ちょっとこの体勢だと不安定
すぎて、落ち着いて話ができないというか⋮⋮﹂
﹁ふん﹂
鼻でせせら笑いながらも、ウィストベルは肘掛けから手をはなし、
俺を解放してくれた。それから少し乱れた髪を華奢な手でかきあげ
ると、本来デイセントローズが座るべき場所にゆったりと腰を降ろ
す。
﹁それで? お主、なぜそれほどに魔力が落ちておる。尋常ではな
いぞ⋮⋮。いったい何があった﹂
﹁ええっと⋮⋮まあ、話せば長いことながら⋮⋮﹂
﹁⋮⋮待て﹂
ウィストベルの指が俺の唇に伸びてくる。
﹁二人きりとはいえ⋮⋮念のためじゃ﹂
そうして彼女は周囲を見回し、部屋いっぱいに強力な結界を張っ
た。
﹁これで、城の主さえ入ってはこれぬな?﹂
﹁は?﹂
なんですか、その怪しげな笑顔は!
せっかく座ったのに、なんで立ち上がるの?
しかもなんでゆっくり寄ってくるの?
﹁ちょ⋮⋮﹂
そしてなんで、俺の太股の上に座るの!?
426
視線を降ろせば、すぐ下には並ぶ者のない美貌と深い谷間、そし
て太股には柔らかい感触⋮⋮が⋮⋮。
やばい!
こんなところを魔王様に見られたら、確実に殺される。
いや、魔王様は今日はいないけれども、さすがにこれはダメだろ
!!
﹁ウィストベル!﹂
俺はそのまま彼女を横抱きに立ち上がる。
﹁ようやくその気になったか?﹂
首に手を回してこようとする気配に慌てて、彼女を地面に降ろし
た。
﹁なりません!﹂
﹁無粋な﹂
ちょっと待って!
さっきまで怒ってたのに、なんで今は上機嫌なんだ。上機嫌って
言うか⋮⋮その、獲物を捉えた肉食獣みたいな目、やめてくれませ
んか。
プートに睨まれた時の百倍怖いんですけども!!
さりげなく、椅子の後ろに回る俺。じりじり歩み寄るウィストベ
ル。
何これ、何これ。
﹁まあしかし、今の主に迫って想いを遂げたとしても⋮⋮力でねじ
伏せたとあっては興が醒めるの﹂
そう言って、ぴたり、と足を止めるウィストベル。
﹁ですよね、ですよね!!﹂
よかった!
ウィストベルが無理矢理を喜ぶタイプじゃなくてよかった!!
427
﹁冗談はこれまでにして﹂
冗談なの!?
ホントに冗談だったの?
﹁では、心おきなく説明してもらおうか? 主の魔力が、デイセン
トローズにすら遙かに劣る、今の状況をの﹂
ウィストベルは俺から離れ、本来、彼女が座るべき席に移動した。
俺もようやく落ち着いた気持ちで、自分の席に座り直す。
﹁何から話せばいいか⋮⋮﹂
﹁最初から、一つ残らず語るがよい﹂
えー。一つ残らず?
それはさすがになぁ。
だってなんか、保護者に話してるみたいじゃないですか?
一応、立場上は同位なんですから、そんな全部って貴女。
﹁一つ、残らず、じゃ﹂
目力が怖い、目力が。
﹁はい﹂
そうだった。保護者じゃなくて、女王様だった。
俺は彼女にあらいざらいを話した。
といっても、もちろん魔力の減少に関係することだけだ。もっと
も、ベイルフォウスが人間の町を氷漬けにしたことや、それを戻し
た⋮⋮⋮⋮まあ、そこら辺は本題には関係ないので、人間から解読
方法を手に入れた、という情報だけを伝えるにとどまった。
ガストンとかいう奴が⋮⋮とか、詳細はいらないだろう。その帰
り道の出来事を含めて。
﹁なるほど。では主の回復は、そのミディリースという司書が、今
428
この間にどれほどの成果をあげているか、ということにかかってい
るわけか﹂
﹁ええ、まあ⋮⋮ですが、あと解明されていないのは単語たった二
つでしたから、ミディリースならきっと、帰るまでになんとかして
くれていると思うんですよね﹂
﹁⋮⋮随分な信頼じゃの﹂
﹁人物は相当変わってますが、能力に関しては信頼できるかと﹂
あのベイルフォウスの術式を、一瞬で解いた時には驚いたからな。
﹁ほう⋮⋮﹂
ウィストベルの瞳がキラリと光ったような気がした。
﹁⋮⋮というわけで、まあ元にもどる目処はたっているんです。だ
から、ウィストベルに送った手紙のことも⋮⋮﹂
﹁手紙?﹂
﹁はい、魔道具について問い合わせた手紙ですが﹂
﹁なんのことじゃ? 我が元には主からの手紙なぞ、届いておらぬ
ぞ⋮⋮一通もの﹂
﹁え?﹂
﹁魔道具について⋮⋮⋮⋮そういえば、他からはあったような気が
するが⋮⋮﹂
ちょっと待てよ。俺、確かに手紙を書いたよな?
で、エンディオンに託して⋮⋮。
まあ、実際に届けたのはもちろん別の者だろうが。途中で何か問
題があったという報告は、あがってきていない。
﹁これは、捨ておけぬ問題じゃ。大公の手紙が紛失したなどと、あ
ってはならぬこと﹂
ウィストベルは立ち上がり、俺の方へ歩み寄ってくる。
今度膝に座ろうとしたら、それは断固として阻止するからな!
429
﹁主の手紙を失ったのはそなたの配下か? 我が配下か? それと
も⋮⋮﹂
﹁俺の、ではないと思いたいですが﹂
﹁うむ。だが、不安要素はある。どちらにもな⋮⋮主が配下を未だ
把握すらしきれておれぬのは、宝物庫の管理人に反逆されたことか
らも明らか。そして私は、城内の者はあらかた掌握している上で、
こういうことをやりそうな者に心当たりがある。しかも複数な﹂
﹁は?﹂
心当たりがある?
しかも複数って⋮⋮。
﹁嫉妬故に、な﹂
ああ⋮⋮ああ、そりゃあ山ほどいるでしょうね。またそれが楽し
くて、わかっていながら放置しているというわけか。
それはもう⋮⋮どうしようもないな。
﹁その件は、双方で調査することとしよう。それよりも⋮⋮私なら
今すぐにその魔力を元に戻してやれる、といったらどうする?﹂
えっ!
﹁本当に!? どうやって!?﹂
それが本当ならありがたい!
﹁知りたいか?﹂
﹁それはもちろん﹂
俺は立ち上がり、ウィストベルに歩み寄った。
彼女は満足げに頷く。
﹁正確には私が何かをして戻してやれる、というわけではない。が、
戻るであろう方法を教えてやれるということじゃ﹂
﹁俺は何をしたらいいんです?﹂
430
今すぐ戻るのなら、俺は何だってするだろう!
プートにもばれなかったからといって、やはり七大大公が揃う場
で力がないのは不安でしかない。いくらレイブレイズがあるとはい
っても⋮⋮。
﹁何でもするか? 自らの力のために、全てを犠牲にできるか?﹂
そう、何だって⋮⋮。
は?
え?
ちょっと⋮⋮ちょっと待って。
なにその重々しい雰囲気。
普段でも怖いのに、しかも今なんて俺の魔力がないせいで余計怖
いのに、そんな血も涙も通っていない、なんて顔をされたらヒュン
どころじゃすまないんだけど!
﹁全てって⋮⋮﹂
ちょっと待って。まさか俺の貞操的な⋮⋮そんな感じのことか!?
何でもするって、そういうことか!?
﹁いやあの⋮⋮何でもっていうか⋮⋮何でもっていうのはさすがに
ちょっと⋮⋮﹂
何でもやるとか、軽々しく思ってすみませんでした!
俺には魔王様みたいなことはできない。ちょっとできない。魔王
様のことは尊敬してるけど、あの性癖は真似したくないというか、
真似できないというか!
﹁何を考えておる? 意外に主も俗物じゃの﹂
﹁すみません⋮⋮﹂
なんだろう⋮⋮ウィストベルにこの手のことでため息をつかれる
と、なんだかちょっと傷つく。
431
﹁まあしかし、そうじゃの⋮⋮せっかくこちらも情報を提供するの
じゃ。それもとっておきの、な。引き替えに、口づけの一つくらい
はいただいてもよいかの?﹂
しまった!
俺のバカ!
いらないことを考えたせいで、ウィストベルがその気になったじ
ゃないか!!!
﹁ちょ⋮⋮﹂
伸びてくる繊手から、間一髪、飛びしさる俺。
﹁力を手に入れる方法を、知りたくはないのか? 主の今後を左右
するほどのものかもしれぬぞ?﹂
﹁知りたいです、知りたいですけど!﹂
﹁ではウダウダ言わずにおとなしくしておれ!﹂
おかしくない?
おかしくない、この状況!
魔族を代表する強者である大公が、狭い会議室の中で追いかけっ
ことか、おかしくない?
しかも、男の俺が逃げる方って、なんかおかしくない!?
﹁それにこれは⋮⋮我らが特殊魔術に関することなのじゃぞ﹂
俺は足を止めた。
それに呼応するように、ウィストベルも追いかけてくるのをやめ
る。
我らが特殊魔術? ってことは。
﹁この、目⋮⋮ですか?﹂
俺とウィストベルに共通するものというなら、これしかないでは
ないか。
432
﹁そうじゃ。主が知らぬであろうその目の秘密を、私が教えてやろ
うというのじゃ﹂
つまり⋮⋮この目は魔力を見る能力を持っているだけではない、
ということか?
ウィストベルが他に比べて異様に強いのも。
﹁私が魔術の修行や研究の結果、この強大な力を手に入れたと思う
のか?﹂
その微笑みには、残虐さと⋮⋮悲痛さが同居しているように見え
た。
﹁覚悟さえあれば、主は私と並ぶことができるのじゃ。この世で唯
一、主だけが⋮⋮の﹂
ウィストベルが俺の方へゆっくりと歩みよってくる。
逃げなければ捕まるのはわかっていたが、足は根が生えたように
そこから一歩も動かなかった。
﹁だがそのためには⋮⋮﹂
白く細い手が、俺の頬を優しく撫でる。
﹁主は我と同じ道に堕ちねばならぬ﹂
背筋を冷たいものが走った。
かつて覚えたことのない本能的な恐怖が、俺の全身を支配してい
る。
確かにウィストベルの姿形をとっているのに、その女は初めて見
る顔をしていた。
﹁おい、ジャーイル。他人の城でいちゃつく度胸が、お前にあると
は思わなかったぞ﹂
433
よく知ったその皮肉たっぷりの声音に、俺は我に返る。
﹁ベイルフォウス!﹂
会議室の扉に手をかけて、我が親友が立っていた。
細い眉は逆立ち、目は殺気で満ちあふれている。
だが、そんなことが今の俺の気になろうはずはない。
ウィストベルの白い手が頬から離れると同時に、俺は足早に親友
に歩み寄った。
﹁久しぶりだな、ベイルフォウス!!﹂
ベイルフォウスの手を取り、激しい握手を交わす。
﹁は? 何言ってんだお前﹂
うん、言いたいことはわかる。
一昨日会ったばっかりだもんね!!
﹁ちょうどよかった。聞きたいことがあって⋮⋮ここではなんだか
ら、あっち行こう!﹂
﹁は? いや、お前、何を⋮⋮﹂
﹁いいから行くぞ!﹂
腑に落ちないという顔のベイルフォウスの腕を強引に引いて、俺
は会議室から飛び出したのだった。
﹁おい⋮⋮おい、ジャーイル!!﹂
腕をふりほどかれたのは、廊下を曲がって会議室の扉が見えなく
なってからのことだ。
本気で怒っているのがわかる。肌がピリピリするあたり、魔王様
が怒っている時と同じだ。さすが兄弟というか。
でもごめん!
ウィストベルへの恐怖心で、それどころじゃないんです!
434
本気で怖かった。今までもそりゃあ怖かったけど、今回は更に怖
かった。
なんだろう⋮⋮ウィストベル自身に対する恐怖心と⋮⋮あれはた
ぶん、彼女が話そうとしていた内容に対する本能的な畏怖。
ウィストベルは俺たちの目に関係することだと言っていたが、だ
からこそ、かもしれない。聞いてはいけないと、本能が俺に命じた
のだ。
腹の底からぞっとした。
逃げるべきだと、脳の中で警鐘が鳴っていた。
だが、動けなかった。一歩も動けなかった。
﹁ジャーイル、いったいどういうつもりだ⋮⋮って、なに青ざめて
るんだ、お前﹂
俺の顔を見たとたん、ベイルフォウスは呆れたような表情を浮か
べる。
﹁⋮⋮結界は?﹂
俺は廊下の壁にもたれ掛かり、息を吐いた。
﹁は?﹂
﹁ウィストベルが張ってた⋮⋮﹂
﹁ああ、それか。随分お粗末な結界だったな。すぐ砕けたぜ﹂
俺は彼女が結界を張るところを見ていたが、お粗末なんてとんで
もない。それこそ、俺やベイルフォウスが頑張っても突破も解除も
できないほどしっかりしたものだったのに⋮⋮。
俺との追いかけっこの途中で手を抜いた?
それとも⋮⋮わざと、ベイルフォウスに解除させた?
⋮⋮わからないな。
﹁結界が張ってある時点で、怪しすぎるだろう。それで入ってみた
435
ら、お前とウィストベルがいちゃついてるんだ。俺の怒りも納得で
きるだろ?﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
そういえばすっかりロリコン属性なイメージが強いが、そもそも
こいつはウィストベルに懸想してるんだっけか。
﹁まさかジブライールで得た恐怖心を、ウィストベルで克服しよう
って魂胆だったとはな﹂
﹁は?﹂
俺は改めてベイルフォウスを見る。
今なんて言った?
こいつの頭には、本当にそれしかないのだろうか。
﹁ベイルフォウス、お前⋮⋮鈍いな﹂
﹁ああ?﹂
あの女王様の怖さがわからないなんて! でもだからこそ、さっ
きも平気で部屋に入ってきて、邪魔してくれたわけだしな!
人間の町での魔術の一件⋮⋮こんな目に合うまではちょっとひっ
かかっていたんだが、そんなことはもうどうでもいい。
﹁お前が来てくれて、ホントによかったよ﹂
俺はベイルフォウスの肩に手を置き、満面の笑みで言った。
﹁これからも、俺たち親友でいような!﹂
﹁ふ ざ け ん な !﹂
なぜか蹴られた。
﹁兄貴にも伝えておくからな。お前がウィストベルを誘惑してたっ
て!﹂
﹁ちょ⋮⋮しゃれにならない。やめてくれ﹂
436
そんなこと魔王様の耳に入ったら、絶対ただじゃすまないじゃな
いか。
俺だってそういつもいつも、頭蓋骨の心配ばっかりしたくはない
んだ!
﹁ジャーイル大公閣下、ベイルフォウス大公閣下﹂
プート配下のマッチョ従者が、遠慮がちに近づいてくる。
他の大公たちがやってきたというので、俺は改めてベイルフォウ
スと会議室に戻ることにしたのだった。
437
40.穏やかな大公会議が始まりました!
会議室についたのは、俺とベイルフォウスが最後だった。
城主のプートを除いて、の話だが。
他の大公に挨拶をして、何食わぬ顔で自分の席に座り、こっそり
ウィストベルの様子を観察してみる。どうやら心配したほどご立腹
ではないようだ。
退屈そうな様子で肘掛けにもたれ掛かって座り、出された飲み物
で喉を潤している。
﹁ジャーイル﹂
げ。見てるのがバレたか!
﹁はい﹂
﹁話の続きはまた後での﹂
そうだよね。さすがに何もなかったことにはならないよね。
﹁⋮⋮はい﹂
それからすぐに城の主人がやってきて、昼餐会を兼ねた会議がゆ
ったりと始まった。 ***
正直、息苦しかった。
食べながら積極的に話をしていたのは、サーリスヴォルフとデイ
セントローズの二人のみ。
ウィストベルとベイルフォウスは不機嫌だし、プートはもともと
饒舌なほうじゃない。アリネーゼも相づちは打っているが、自分か
438
ら話すという風でもない。
そして俺は、自分の魔力の状態がみんなにバレるのではないかと、
心配で心配で、料理の味すらわからないありさまだ。
﹁さて、ではそろそろ議題に入りたいと思うのだが﹂
全員の真っ黒な陶器のデザートプレートに、これまた見事に真っ
黒なチーズケーキが配り終えられたところで、プートがそう提案す
る。
それにすぐさま応じたのは、ベイルフォウスだ。もちろん、舌打
ちで。
ちらり、とプートがこちらを一瞥してきた。
いや、今日の俺にはあんまり期待しないでもらいたいんだけど⋮
⋮。
魔王ルデルフォウス陛下の在
。皆で意見を出し合っていきたいと
﹁召集状に書いたとおりだ。議題は
位三百年を祝う大祭について
思うのだが﹂
﹁なんで﹂
ベイルフォウスが乱暴な手つきでケーキフォークをチーズケーキ
に突き刺し、陶器音を響かせる。
﹁兄貴⋮⋮陛下の在位を祝う祭りを、貴君がしきる理由を聞いても
いいか、プート﹂
ベイルフォウスとプートの間に緊張が走る。
今のはえっと⋮⋮一応単なる質問とみなされて、喧嘩を売ったこ
とにはならない、のか?
声は低かったし、どう聞いても声音は不機嫌さで一色だが、一応
ベイルフォウスなりに押さえてはいる⋮⋮のか。
﹁理由の第一としては、私が大公の第一位にあって、一応は諸公を
439
総轄する立場にあるからであろうな﹂
対するプートの冷静さは完璧だ。相変わらずしゃべり方は鼻にか
かって高慢に響くが、まあ地なのだろうし。
﹁一位だからといって別に、総轄の任まで負ってはいないと思うが
?﹂
うん、まあ今の表現は俺も気になった。総轄される覚えはないな、
確かに。
﹁第二に﹂
どうやらプートは、ベイルフォウスの意見に答えを返すつもりは
ないようだ。
﹁むしろこちらの方が理由としては大きいのだが、私の他に陛下の
在位年数を正確に覚えているものがいないから、ということが挙げ
られるであろう。実際、そうでなくば、そのものが会の開催を言い
出していたであろうゆえ﹂
さすがにベイルフォウスも、この意見には反論できないのだろう。
再度舌打ちをしただけで、黙りこくった。
なんだよ、プート。俺の手助けなんて必要ないじゃないか。
⋮⋮よかった。
﹁では改めて、まずは大祭の行事について、諸公らの意見をいただ
きたいのだが﹂
﹁それって、大祭の間に何をするかってことだよね?﹂
﹁そうだ﹂
サーリスヴォルフも在位祭の運営など経験がないのだろう。疑問
が俺と同じレベルだ。
﹁そもそも、どのくらいの期間、開催されるものなのでしょうか?
なにせ私は、魔王様の即位のおりには未だ生まれていなかったほ
どの若輩者ですので、何から何まで予想がたたず﹂
440
今度の質問者はデイセントローズだ。
今日は隣に座っていても、会議だからか個人的に話しかけられる
ことがない。
ちなみに、魔力の減っている俺と違い、こいつは⋮⋮。
うん。やっぱり、わずかだが増えている。以前に比べればほんの
少しなので、よく見ないと分からない程度だが、それでも増えてい
るには違いない。
死んで甦ったか?
﹁そうだな⋮⋮たいてい、大祭と名の付く祝祭の期間は、百日ほど
と決まっておる﹂
長いな。百日もかよ。
何するんだよ、そんなに!
﹁パレードは必要でしょうね。やはり、見目の麗しい者を選んで⋮
⋮そうね、裸で行進、というのはいかがかしら? ふふ﹂
ふふ、じゃないから、アリネーゼ!!
﹁見目のよいものじゃと? つまり魔族一の美女であられる主も、
全裸で参加なさるのじゃな? これは見物じゃ。露出狂の気をお持
ちのことはもちろん存じておるが、そこまでとはの﹂
﹁あら、私が参加すると言うことはウィストベル。貴女も出場なさ
るという事ね。それなら、よろしくてよ?﹂
あの⋮⋮ねえ、あの⋮⋮喧嘩はダメじゃなかったんですか?
ちょっと語尾丁寧にしてるだけですよね、皆。
口げんかはぎりぎり許されるってことなんですか?
﹁そうだな。パレードは大公を除く、見目麗しい者を各領民より百
名ほど選出し⋮⋮着飾らせて行うこととしてはどうか﹂
よかった。プートはマトモだ!
441
だよね、だよね。当然全裸行進なんてなしだよね。
﹁行進地は大公城を順に巡り、最後に魔王城へ到達するということ
でよかろう。反対がなければ、これで決定としたいがいかがか?﹂
え?
そんなに長い距離歩くの?
全領地って、それはつまり世界中に等しいよね?
もしかして、百日間かけて各地を回るの?
参加者は大変だな。
﹁特に異論はないね﹂
サーリスヴォルフが答えただけで、後はだんまりだ。
まあ、俺も含めてそれが肯定の意味なんだろうけど。
﹁ちょっと待て。話を進める前に﹂
ベイルフォウスが軽く手をあげる。
﹁今回の会議の主催者がプートなのは納得した。だが、大祭主まで
そうと決まった訳ではなかろう﹂
おとなしく黙っていると思ったら、そんなこと考えてたのか、ベ
イルフォウス。
大祭主とは、祭りを執り行う中心人物のことだ。俺はもっと小さ
な祭りの祭主さえ、やったことがない。だが、大演習でも面倒なん
だから、百日も及ぶ大祭の運営なんて、絶対に面倒くさいに決まっ
ている。
なのにそれをやりたいのか、ベイルフォウス。
⋮⋮まあ、みんなどうせ、細かいことは配下にまかせて、手を抜
くんだろうけどな⋮⋮適度に。
﹁ベイルフォウスが大祭主を望んでいるようだが、他はどうか? 他薦でもよいが?﹂
442
﹁そうねぇ。私は辞退いたしますわ﹂
アリネーゼはやる気なし。
﹁大祭主など、誰がやろうとかまわぬ。面倒な話は当人同士、後で
決着をつけてもらえぬか?﹂
ウィストベルは不機嫌だ。しかしせっかくだから、その案にはの
ろう。
﹁俺もウィストベルに賛成だ。内容を決めてから祭主を決定するの
でもいいんじゃないかと思うが﹂
痔にはなりたくないし、何より一刻も早く、自分の城に帰りたい
もんね!
内容だけさくっと決めてしまいたいよね!
﹁いいぜ。会議の後でも﹂
﹁私もかまわぬ。むしろ、願ったりだ﹂
会議終わったら殴り合いが始まるんですね!
俺が帰った後にしてね。お願いだから。
﹁では議題を続けましょう。次の提案としては、いい機会だから美
男美女を決め直したいわね。前回からまだ千年たってはいないけど、
顔ぶれも随分変わったことだし﹂
アリネーゼが大公の顔を見渡した。その視線はウィストベルの上
で止まる。
﹁まあ、デーモン族がデヴィル族を上回ることはないと思うけど﹂
ウィストベルをあおるのやめてください! ただでさえ、女王様
は不機嫌だというのに!!
﹁ふん。数で勝っているだけのことを鼻にかけねばならぬとは、よ
ほど他に自信のないもののすることであろうな﹂
アリネーゼのこめかみがぴくりと動く。
ねえ、結局いつもの会議とどこが違うんですか!?
443
そんなこんなで、俺一人がハラハラ見守る中で、大祭の行事は次
々と決定していった。
まずはパレード。これは初日にプートの<竜の生まれし窖城>か
ら始まって大公城を序列順に巡り、最後に魔王城で終わる。参加者
は魔王領を含めた各領地より、見目のいい者を百人ずつ選出する。
期間は百日。
同じく、ほぼ常時開催されるのが、各大公城を開放しての舞踏会
だ。場は提供するから、勝手に騒げというわけだ。終わった後の始
末が大変だろうな⋮⋮。
それからあちこちで開かれるのは、大音楽会。とはいえ、音楽を
やりたいものが、勝手に騒ぎ立ててもよいというだけのことだ。た
ぶん途中で殴り合いとか別の戦いが始まると思う。
もう一つ、ほぼ全日程を通して開催されるのは、竜の飛ぶ速さを
競う競竜だ。各大公領で予選が行われ、後半に魔王城での決勝があ
る。
最初の十日間に魔王領で開催されるのが、爵位争奪戦。魔王城の
前地に簡易の客席が設置され、公爵以下による爵位の挑戦が行われ
る。たぶん、混戦になって訳のわからないことになる。そして、十
日で終わるはずがない。
そして、中日に行われるのはアリネーゼから提案のあった、美男
美女コンテストだ。成人している全魔族が対象だが、特に何をする
というわけでもなく、投票だけが数日にわたって行われるというこ
とだ。一応、最終日近くに五十位までの結果発表があり、上位十名
にはそれなりの報奨がでるらしい。ついでに、一位になると、もっ
となんやかんや色々あるらしい。まあ、俺にはあんまり関係ない。
終盤に予定されたのは、恩賞会。この大祭の総轄というか⋮⋮ま
あ、大祭に関係ない件も含めて、功績が表彰され、褒美が与えられ
る。
444
そんなものか。
ついでにボツになった案もちらっと挙げておくと、まず、人間の
大虐殺。前魔王は喜んだらしいので、祭りの際にはよく行われたそ
うだ。ルデルフォウス陛下は好まれないだろうということで、却下
となった。
竜の対戦なんて意見もでた。俺は真っ先に反対した。数十頭を抱
える上位の者にはなんでもない話かもしれないが、下位にとって竜
は簡単に飼えるものではない。貴重な存在だ。その絶対数を減らす
ような、バカなことはできない。
大酒のみ大会。そんな大会をしても、酒に強い魔族が多いので意
味がないと誰も賛成しなかった。そうでなくとも、消費量がハンパ
ないだろうし。
芝居。音楽会で芝居も兼ねたようなものも上映されるだろうし、
そもそも脳筋が長い間じっと座っていられるわけがない、というこ
とで流れた。
そして、俺の提案した武具の品評会。何が楽しいのか全くわから
ない上意味もない、という全員一致の意見で、歯牙にもかけられな
かった⋮⋮。泣きたくなった。
とまあ、全体的にはこんな感じだ。あとは細々した催しなんかが、
各自や各領地で行われるだろう。
なにせ百日だ。百日にも及ぶ大祭だ。
なんかもう、考えるだけで疲れる。
いや、魔王様の在位を祝う気持ちは強いよ!!
それはもちろん、盛大に祝いたいよ!!
少人数で内々にならね!
でも考えてもみて欲しい。
魔族全体の大祭だ。
445
つまり、脳筋が百日間、大騒ぎするんだぞ!
一緒にバカ騒ぎできたら楽しいんだろうが⋮⋮。
今の俺には、どっと疲れる未来しか予測できない。
﹁あらかた提案も出尽くしたように思うが、いかがか?﹂
議長であるプートが、会議の終了をにおわせる。
﹁考えていたんだが﹂
そこへ、いやに挑戦的な目つきで皆を見回したのは、ベイルフォ
ウスだ。
﹁爵位争奪戦とは別の戦いを、もう一つ提案したい。下位の者ばか
り頑張らせては、不公平だからな﹂
嫌な予感しかしない。なにを提案するつもりだ、なにを。
﹁と、いうと?﹂
サーリスヴォルフが促すと、ベイルフォウスは嗜虐的な笑みを浮
かべた。
﹁つまり、大公位争奪戦だ﹂
は?
﹁下位からの挑戦を受ける、ということね﹂
アリネーゼが冷静に応じる。
﹁いいや、それだけじゃない。せっかくの大祭だ。俺たちも戦って、
この機会に全員の順位をはっきりさせようじゃないか﹂
はあ?
なに言ってんの、なに言ってんの、こいつ!
﹁ジャーイルとデイセントローズも、後から入ったというだけで、
下位の序列に置かれているのは不満だろう? 正当な評価を得たい
よな?﹂
﹁俺は別に、今のままで全く、一つも、不満はないが!﹂
むしろ、このままそっとしておいて欲しいんですけど!?
446
﹁ジャーイル大公は謙虚な性格でいらっしゃる。私などは今の話を
聞いて、もうすでに心が浮き立っておりますが﹂
デイセントローズ⋮⋮!
﹁まあ⋮⋮悪い提案ではないの﹂
ウィストベルまで! しかもなに、こっちを意味ありげに見てく
るの、やめてくれませんか?
﹁俺の意見に、反対なら挙手を﹂
ちょ⋮⋮俺以外、誰も手をあげないとか、どういうことなの!?
ニヤニヤ笑いで見てくるの、やめてくれませんかね、ベイルフォ
ウス君!!
﹁愉しみですな﹂
﹁愉しみね﹂
﹁愉しみだねぇ﹂
自分の地位が上がると信じて疑わないのか?
下がるとは考えないから、こうして賛成するのか?
そうなんだろうな。
くそ、この脳筋どもめ!!
﹁全員の地位をはっきりさせたいというのだから⋮⋮全員が、全員
と戦うことでよいか?﹂
﹁いいだろう﹂
ちょ⋮⋮は?
全員と?
当然、ウィストベルとも、ってことだよな?
﹁ちょっと待て。もちろん、命をとるところまではいかないよな!
?﹂
大事なことだ。確認しておかないと!
だって、ウィストベルの本気なんて、それこそみんな瞬殺される
447
よ?
まあ女王様が本気を出すことなんて︱︱ないだろうが。
﹁瀕死の重傷までいった段階で、他の大公が止めにはいることにし
よう﹂
物騒ですね!
相変わらず、物騒ですね!
くそ、この脳筋ども!!
﹁では、賛成多数により、ベイルフォウスより意見のあった︽大公
位争奪戦︾を決定行事に加える﹂
なんだってこんな事に!
﹁この結果を陛下に奏上し、裁可をいただくこととする。期間は特
に問題なき場合は、今より五十日の後。それまでに大祭運営委員会
を設立し、詳細を決定する。委員会には各領より委員を五名選出し
て役目にあたらせること。初回と、委員より要望のあった場合は、
必ず大祭主も参加すること。異論・異議、提案がなければ、これで
閉会としたいが﹂
﹁異議なし﹂
サーリスヴォルフの返答を受け、プートが頷く。
﹁他に異もないようだ。では、これにて<大公会議>を閉会する﹂
プートの宣言で、<大公会議>は平穏無事に︱︱俺の心中を除き
︱︱終了したのだった。
448
41.会議も終わったので、各自、自分のお城に帰りましょう!
﹁じゃあさっそく、さっきの続きを話し合おうか?﹂
会議が終わるなり、目に殺気を込めて立ち上がったのはベイルフ
ォウスだ。
﹁よかろう。もっと広い場所で、ゆったり落ち着いて話し合おうで
はないか﹂
一方のプートも、その立派な黄金のたてがみが逆立ちそうなほど
の覇気をみなぎらせている。
口では話し合うといいながら、本気で殴り合う気らしい。
⋮⋮よし、帰ろう。すぐ帰ろう。
﹁おい、ジャーイル!﹂
ベイルフォウスが呼びかけてくるが、聞こえなかったふりをしよ
う。
﹁ジャーイルって!﹂
腕を掴まれたが、気づいていないふり。
﹁お前、立ち会え﹂
聞こえないふり、気づいていないふり⋮⋮。
﹁おい﹂
﹁いてっ!!﹂
蹴られた!
今日のベイルフォウスは、いやに足癖が悪い。
﹁無視するなよ﹂
そう言うとベイルフォウスは半ギレの表情で、俺の首にがっしり
と腕を回してくる。
449
﹁断る。話し合いだったら立ち会いなんていらないだろう。どうし
ても必要なら、他に頼め﹂
魔力がいつも通りならともかく、百分の一しかない今のこの状態
で、大公同士の争いの場になんかいてみろ、とばっちりが無いわけ
がない!
それこそ、自殺行為に等しいではないか。
﹁これからも親友でいようって言ったの、誰だっけ?﹂
俺だけども。ついさっき言ったけども。
﹁それとこれとは、話が別だ。今日はダメだ。絶対にダメだ。どう
しても、はずせない用があるんだ!﹂
ふりほどこうとするが、ベイルフォウスの奴、腕に青筋たてて抵
抗してくる。
どうあっても離さない気か、このやろう。
﹁お前、ウィストベルにこの間のこと、言いつけるぞ﹂
ベイルフォウスが声を潜める。
﹁なんだよ、この間のことって?﹂
﹁お前がジブライールに強引に迫っておいて、大事なところを蹴ら
れて死にかけた件に決まってる﹂
﹁おまっ⋮⋮誰がそんな!﹂
ふざけるな、ベイルフォウス!
強引に迫ったってなんだよ!
﹁俺はただ、介抱しようと⋮⋮﹂
﹁お前がどう思って行動したか、ということじゃない。紛れもなく
ベッドの上で、お前がジブライールに覆い被さった状態にあったと
いうこと。そして、玉を蹴られたという事実だ。それを聞いたウィ
ストベルが、その事実をどう捉えるか⋮⋮重要なのは、それだけだ
よ﹂
450
くそ、こいつ⋮⋮!!
﹁ベイルフォウス、諦めよ﹂
そう言って俺の腕をとり、ベイルフォウスの魔の手から救ってく
れたのは、誰あろうウィストベルだった。
﹁ジャーイルには先約があろう﹂
力が今すぐ元に戻るかもしれない、というのは魅力だ。
だが⋮⋮だが、しかし!
ミディリースとの解読作業もあとわずかだし、方法がわかればそ
れを試すだけでいいのだ。
会議が無事に終わった以上、今この瞬間にと急ぐ必要はなくなっ
た。
というか、正直なところ、俺にはウィストベルの話を聞く勇気が
もてない。こればっかりは⋮⋮本能的な恐怖だと、素直に認めよう。
﹁残念だな! 立ち会いなんて頼まれたら、断るわけにはいかない
なー。ベイルフォウスは親友だしなー。という訳で、俺は﹂
﹁さっき、断る、と、はっきりそう申していたであろう﹂
聞かれてた!
﹁主は同盟相手である私と、そうでない二人との、どちらをとるの
じゃ?﹂
口調は優しいが、目が怖い。否は認めないと、その強い瞳が宣言
しているようだ。
﹁⋮⋮もちろん⋮⋮⋮⋮﹂
﹁もちろん?﹂
﹁ウィストベル、です﹂
俺はがっくりとうなだれた。
女王様は満足げに頷く。
451
﹁ちっ⋮⋮友より女をとるか。お前が軽薄な奴だってのは、よくわ
かった﹂
変な言い方するなよ!
俺はむしろ、同情して欲しいくらいだ。
だいたい、軽薄なんてお前に言われたくない!
﹁さて、話はついたのかな?﹂
プートが席についたまま、低い声でベイルフォウスを促す。
わたくし
そこへ、デイセントローズがやってきた。
﹁では、若輩ながらこの私⋮⋮デイセントローズがジャーイル大公
に替わり、判定役を務めさせていただきとうございます﹂
﹁それが必要だというなら、私に異存はないが﹂
プートは頷いたが、ベイルフォウスは眉を寄せている。
立ち会いを言い出したのは自分だから、簡単には断れないのだろ
う。
﹁では、我らはゆくか、ジャーイル。主の城へ﹂
ウィストベルはもはや、二人のことなど知らぬ顔だ。
﹁俺の城? ウィストベルのじゃなく?﹂
﹁我が城に向かってどうする。先ほどの⋮⋮今すぐ魔力を取り戻せ
る、という話であれば、拒まれた上に無理強いをしてまで聞かせよ
うとは思わぬ。主が望まぬうちは⋮⋮﹂
やはり、結界はわざとゆるめておいてくれたのかもしれない。
彼女にしても、あまり喜ばしい話題ではなかったということなの
だろうか。
﹁なら、なぜ俺の城に?﹂
ウィストベルは声を潜めてこう言った。
﹁我が同盟者が帰宅時に、万が一のことがあってはなるまい? そ
の状態で、よくぞここまで一人でやってきたものじゃ。公爵にでも
452
襲われたら、なんとした? 護衛も連れずにまあ、主の度胸には感
心する﹂
つまり帰りはウィストベルが自ら護衛をしてくれるってことか。
魔力がはっきりと見える彼女からすれば、今の俺の状況は信じら
れないほど頼りないものに見えるのだろう。
まあ確かに、俺だってレイブレイズがなければ、<大公会議>に
一人ではやってこられなかっただろうな。
﹁主を失うつもりは、私にはさらさらない。それに⋮⋮﹂
ウィストベルは肉感的な唇の端をつり上げた。
﹁今の主は、保護欲をそそる﹂
きゃあああああ。
﹁気になることもあるしな。確かめずにはおられまい﹂
気になること?
なんだろう。やはり、魔鏡のことか?
しかし、考えてみればウィストベルが俺の城にやってくるのは、
お披露目の舞踏会以来じゃないか?
あれを公的な行事と数えると、私的な理由の訪問は初めてと言っ
ていい。
﹁プート﹂
俺はこの城の主に声をかけた。
﹁伝令をお借りできないだろうか? 城に帰宅の連絡をいれておき
たいんだが﹂
呼びもしないのに勝手にやってくるベイルフォウスとは違う。同
盟者であるウィストベルの来訪だ。
ここはやはり、しっかりお出迎えせねば!
エンディオンにさえ知らせておけば、ぬかりなく手配してくれる
だろう。
453
﹁よかろう。好きにつかうがよい﹂
プートは快く頷いてくれた。
﹁では、我はこれで失礼する。ベイルフォウスとの話し合いがある
のでな﹂
そう言って、彼は重々しい動作で席を立つ。
﹁この件は忘れないぞ、ジャーイル﹂
憎まれ口のベイルフォウスに続いて、デイセントローズがプート
の後を追う。
だが城の主は扉のところでふと立ち止まり、俺たちにたくましい
胸を向けた。
その背にぶつかりかけたベイルフォウスが、目元をひきつらせて
いる。
﹁そうじゃ。諸公に尋ねたいことがある。我が配下が先日より六人
ほど不明になっておるが、もしや知る者はおらぬか? 六人はいず
れも公爵⋮⋮それが一時より不明とあらば、大公位へ挑戦でもした
のかと思うたのだが﹂
⋮⋮えっ。
えっ?
六人⋮⋮行方不明⋮⋮?
こう⋮⋮公爵⋮⋮?
どこかで聞いた話⋮⋮だが。
いや、気のせいかな。気のせいだな!!
はっきりそうと決まった訳じゃないのに、決めつけてはいけない
な!
きっと偶然だ。ただ人数が同じだというだけで、似たような話は
454
日常茶飯事のはず!
だって、今の俺に公爵だなんて、一人でも勝てるかどうか怪しい。
たとえばジブライールと本気でやったら⋮⋮負ける。
なのに、六人も一度に相手して、勝てるはずがないではないか。
いかにレイブレイズがあったにしても。
﹁心当たりはないけれど、紋章をもらえれば、何かあった際に連絡
はできるだろうね﹂
サーリスヴォルフ、いいタイミングでいい提案をしてくれるじゃ
ないか。
まるで俺のためにしてくれたような提案だ!
﹁うむ﹂
彼の提案にプートは頷き、そうして我々に六枚の紋章が配られた。
まあ、ないだろうが⋮⋮ないとは思うが、俺に下った六魔族の紋
章と照合はしてみよう。一致しないとは思うがな!!
そうして<大公会議>は、昼餐を含めて五時間ほどで、無事解散
となったのだった。
***
デイセントローズを迎えた時でも、家臣の約半数の人員を費やし
たんだ。
同盟者であるウィストベルが、初めて私的に俺の城を訪ねるとい
うのに、エンディオンにぬかりのあるはずがない。当然、下働きも
裏方も、普段俺とすら接しない全家臣総動員でお出迎えを⋮⋮。
とは、ならなかった。
プートの家臣を借りて、先触れを出そうと思ったのだが、ウィス
455
トベルに止められた。
というのも、俺の城は言わずもがな、デヴィル族が圧倒的に多い
のだ。そんな家臣団のずらりと並んだ姿を、彼女は見たくないとい
うのである。
そういえば、ウィストベルは極度のデヴィル嫌いだった。
それで結局、城には報せを出さないことにした。
俺たちは<暁に血塗られた地獄城>にも寄らず、ウィストベルの
領地を通過し、<断末魔轟き怨嗟満つる城>へと向かった。なぜか
というと、ウィストベルの城に寄るとなると、一時間以上はよけい
にかかることになるからだ。
強者には逆らわず夜間も飛行する、というだけのことで、竜が自
発的に夜の空を飛ぶことはない。夜目がきかないのだから。
そんな訳で、できる限り早く帰るにこしたことはない。
なにせ、プートの城から俺の城までは、どう急いでも日の暮れる
前にはつけないのは明らか。それだけ、距離があるのだ。
だから当然⋮⋮⋮⋮あれ?
日の暮れる前にはつけない?
ちょっと待って!
﹁ウィストベル!﹂
﹁なんじゃ?﹂
﹁やっぱり明日にしませんか? 俺はこのまま帰りますから、ウィ
ストベルもやはりご自分の城に戻られて、明日、ご来訪いただいた
方が﹂
だって、このまま俺の城にくると言うことは⋮⋮どう考えても、
一泊するってことになるもんね!
いや、別に問題ないけど⋮⋮問題ないとは思うけど!
456
﹁主は⋮⋮私が付き添っている理由を忘れているのではないのか?﹂
⋮⋮あ。
俺の護衛だった。
﹁すみません⋮⋮﹂
﹁そこまでこだわると、逆に誘っておるとしか思えぬぞ?﹂
﹁いや、すみません! ほんと、すみません!﹂
もう余計なことは言うな、俺!
そうして俺とウィストベルはなんやかんや言いながら、闇の中に
ぼうっと浮かび上がる白亜の我が城、<断末魔轟き怨嗟満つる城>
にたどり着いたのだった。
***
﹁お帰りなさいませ、旦那様。ようこそおいでくださいました、ウ
ィストベル大公閣下﹂
竜から降りたところで、エンディオンが出迎えてくれた。
さすがにわざわざ伝えておかなくても、俺がウィストベルをつれ
て帰ることは把握済みのようだ。俺の耳にはいちいち入ってこない
だけで、領地の境界や城の近辺はある程度監視されている。そして
城に近づく者がいれば、家令や筆頭侍従に連絡が入るようになって
いる。
だからこそ、ベイルフォウスの突然の訪問にも、いつもエンディ
オンは驚かず慌てない。
﹁迎賓館のご用意ができておりますが、すぐにお休みになられます
か?﹂
さすがエンディオン! 迎賓館って確か、俺の居住棟からは結構
457
離れてたよな! できた家令だ。
彼の後ろに立っている数人の女性は、ウィストベルの侍女役をつ
とめるのだろう。ちゃんとデーモン族を選んでいるあたり、気が利
いている。
﹁歓待に感謝する﹂
おお。ウィストベルがデヴィル族に優しい。俺に気をつかってく
れてるのか?
﹁が、まだ休むつもりはない。ジャーイルをしばらく借りる。侍女
はいらぬゆえ、さがらせよ﹂
え。休まないの?
俺のことを無事護衛してくれたんだから、もう休んでくれればい
いと思うんだけど。
まさか⋮⋮。
﹁なんじゃ?﹂
﹁いえ﹂
余計なことはいうな、余計なことはいうな、俺。
﹁すまないな、エンディオン﹂
﹁いいえ﹂
エンディオンは頭を下げ、侍女を連れてひきさがった。
﹁では早速、図書館に参ろうか﹂
え?
俺はもちろんそのつもりだったけど、ウィストベルも?
﹁とにかく主の魔力を戻すが先決であろう。他のことは後じゃ﹂
どうやら俺の魔力の回復に、力を貸してくれるつもりのようだ。
そうして俺たちは、そろって図書館に足を向けたのだった。
458
42.⋮⋮色々⋮⋮考えることが⋮⋮あって⋮⋮
﹁ふーふー﹂
ミディリース。
相変わらずだな。俺が図書館を出た、そのときそのままの姿、席、
状態だ。
息苦しいのか、肩が大きく上下している。仮面を外していないせ
いだろう。
俺に顔を見られたのが、そんなに嫌だったのか?
﹁主が、ミディリースか﹂
ウィストベルが近づくと、ミディリースはビクッと肩をふるわせ
て、顔をそろそろとあげた。
﹁あう⋮⋮?﹂
﹁ウィストベルじゃ﹂
﹁ウィ⋮⋮?﹂
自己紹介?
なんか、ウィストベルにしては珍しくご機嫌だな⋮⋮。
﹁それとも主には、<暁の支配者>と名乗った方が通るかの? <
凡俗の司書>殿?﹂
⋮⋮ん?
なんか今、とても恥ずかしい呼称が聞こえたような?
﹁ふげ!?﹂
ミディリースが変な声をあげて勢いよく立ち上がる。
﹁あ⋮⋮<暁の⋮⋮支配者>!?﹂
ぷるぷると震える指が、ウィストベルに向けられる。
459
﹁私に指を向けるな。折るぞ﹂
ウィストベルがミディリースの指を握り、ぎゅっと⋮⋮。
﹁いだっ! いだだだだ﹂
え? 折ったの?
ねえ、折るぞといいながら、折ったの??
﹁それより、なんじゃ主のその暑苦しい格好は﹂
﹁ひょ? ひや、え? ⋮⋮え?﹂
ウィストベル一人が冷静だが、俺とミディリースは混乱中だ。
どういうことだ?
なんでウィストベルはミディリースにこんなに親しげなんだ?
﹁しかも、なんじゃこの仮面⋮⋮﹂
ウィストベルによって、仮面が外される。
﹁ひいいい⋮⋮﹂
必死に仮面を取り戻そうと、手をのばすミディリース。が、ウィ
ストベルはその仮面を床に放り投げると、露わになったミディリー
スの頬をがっしりと両手で挟んだ。
﹁あああああああ﹂
ウィストベルの美貌が間近に迫った状態に、人見知りの激しいミ
ディリースは涙目だ。
﹁別に隠すほど醜くないではないか﹂
うん、隠す意味がわかりませんよね。
﹁しかし、臭いの⋮⋮。まさか、風呂に入っておらぬのではないだ
ろうな?﹂
風呂? ああ、ずっとそのままだろうから、入ってはないだろう
な。
というか、そんなことよりも。
460
﹁あの、そろそろ俺にも説明をしてもらえませんか?﹂
置いてけぼり感ハンパない。ちょっと寂しい。
ウィストベルはミディリースの頬から手を放し、俺を振り返った。
﹁説明はあとじゃ。このように不潔な者と、大公が同席するわけに
はいかぬ。この娘の部屋はどこじゃ?﹂
﹁えっと⋮⋮﹂
俺は資料庫を指さす。
﹁ぎゃ﹂
ウィストベルに首根っこをつかまれるミディリース。
﹁え? ウィストベル?﹂
﹁しばらく席を外す。主は休んでおれ﹂
え?
俺の魔力の回復が、先決だったのでは!?
﹁いやあああああ、ひいいいいいい﹂
呆然とする俺の目の前で、涙目のミディリースは資料庫の奥へと
引きずられていったのだった。
そして、一人図書館に取り残される、俺。
ええっと?
⋮⋮何が起きているのだかちっともわからないので、誰かに説明
を要求したいんですけれども!! とりあえず突っ立っているわけにもいかないので、ミディリース
が座っていた席に移動して、机の上の情報を整理してみる。
俺がこの場所にいた時点で、未だ不明だったのは二つの単語だけ
だ。書き付けを見る限りでは解明されている。
解明されている⋮⋮。
461
なんだって!?
解明、されているじゃないか!!
よし、これで⋮⋮これで俺の魔力が元に⋮⋮!!!
二人の様子はなんだかよくわからないし、休んでいろと言われて
もいるんだ。ここで待つ必要はないだろう。
今すぐやろう、今すぐ!!
そうして俺は、邪鏡の裏面の文字を解読したミディリースの書き
付けを手に、執務室に駆け込んだ。
邪鏡ボダスを前にレイブレイズを一閃して、魔術による封印と岩
を一度に砕く。封印を解くにはこの方法が一番楽だと、最近気がつ
いたのだ。
マーミルの時と同じように、邪鏡を魔術で空中に固定して自分の
鏡に対象の存在を映して、術式を足下に展開し
姿を映し、それからは翻訳の通り。
願いを込めて、術式を唱えよ
よし、足の下に二層五十式の展開。
願い? つまり、こうか?
︵俺の魔力が無事戻りますように!︶
﹁サスティアーナ エル エターナ ヴィア ブラディアー レイ
ブ レイディア
ラサスティアーナ メル ファターナ ディア フルレイン ジ
イル モレーディア
サスティアーナ メル レレイウム ファタ ヲクタリーブ
ネレス レレス ジーク ウォクナ!﹂
か ん た ん だ !
実に簡単だった!
462
手鏡よりずっと簡単に、俺の魔力が⋮⋮。
魔力が⋮⋮あれ?
もど⋮⋮戻って⋮⋮ない?
え?
もう一度、じっくりと書き付けを見てみる。
術式に誤りがあったのか?
鏡の裏面を見て確認する。
いや。細かい文様まで、間違いはない。
唱えた呪文に誤りが?
いいや、ミディリースの解読してくれた音と、一字一句間違いは
ない。
だったら⋮⋮解読に誤りがある⋮⋮としか。
いや、待て。
願いを込めて
ってところが人間にとっては暗黙の了
俺の願いが弱すぎた? もっと真剣に願わないといけなかったの
か?
それとも
解的な、儀式を表す⋮⋮とか?
たとえば、空を見上げて爪が食い込む勢いで両手を組みあわせる、
とか
光をあまねく支配
とか、額を血がにじむまで大地にこすりつける、とか。
魔の王
とかに祈らなければいけないとか?
もしくは、この訳にある⋮⋮
する者
とにかく俺は、手をあげたりさげたり色々しながら、その後幾度
となく術式を繰り返し展開し、抑揚を変化させて呪文を唱え続け⋮
⋮。
気がつけば夜は更け、明けていたのだった。
463
***
疲労困憊の末、いつの間にか気を失うように眠っていたらしい。
遠くで聞こえる﹁ひいいい﹂という悲鳴のような声⋮⋮冷たいが、
ほどよい弾力が気持ちいいこの抱き心地、それに、唇を覆う柔らか
い感触に、喉を潤す甘い液体⋮⋮。
え?
喉を⋮⋮⋮⋮なに⋮⋮?
﹁痛いのも、愛情がこもっていると思えば、心地良いものじゃの﹂
はっ!?
目をあけると、間近にうっとりとした表情で舌なめずりをする⋮
⋮。
﹁ウィ⋮⋮ウィストベル!? え、なんで⋮⋮うわあ!﹂
ええええええ、何してるの俺、何この手、どこ回してるの俺、な
に、ウィストベルを全力で抱きしめてるんだ俺!!!!!
﹁就寝中の行動は、本能に基づいているというぞ?﹂
﹁うわ、すみません!!﹂
今何してた?
今、何してた、俺!?
ウィストベルを抱きしめて⋮⋮⋮⋮だ、抱きしめてただけか!?
﹁今、なにを⋮⋮﹂
﹁再現してやろうか?﹂
扇情的な笑みを浮かべるウィストベル。
﹁いや、いいです!﹂
落ち着け、俺。
まずは手を離すんだ!
464
ウィストベルの背に回した腕を離し、次いで体を離す。
そして、寝台代わりにしていた長椅子から、慌てて立ち上がった
瞬間、後頭部に別の衝撃が。
﹁いだっ!!﹂
﹁うお、ごめん!﹂
誰かの顎に頭突きを食らわしてしまったようだ。
誰か⋮⋮。
﹁じだ、がんだ﹂
顎を押さえながら、涙目になっている小さな女の子。
珍しいこの花葉色の髪は⋮⋮もしかして。
﹁ミディリース?﹂
﹁そうじゃ﹂
本人でなく、ウィストベルが頷く。
﹁仮面を外したのか!﹂
っていうか、今日は随分まともな格好じゃないか。
髪はきちんと巻いたツインテールだし、うっすら化粧もしてる?
服もいつもの地味なワンピースじゃなくて、髪と同色のレースを
ふんだんに使った華やかなものだ。ちょっと少女趣味な感が強いが。
まさか、ウィストベルの趣味? いや、普通に考えて、ミディリ
ースの趣味だろうな。彼女の服なんだろうから。
ちなみにウィストベルも、昨日の服とは違う⋮⋮けれど、相変わ
らず露出部の多い、メリハリのある体型がよくわかるドレスを着て
いる。
あと、近づくとものすごくいい匂いが⋮⋮あ、いや。
﹁くっ⋮⋮﹂
ミディリースは耳まで真っ赤になって顎を押さえながら、俺から
465
目をそらした。
あれだよな⋮⋮単に、いつもの人見知りな態度をとっているだけ
だよな?
いつも以上の深い意味はないよな?
間違ってもその⋮⋮俺と⋮⋮ウィストベルが⋮⋮ナニを⋮⋮目撃
⋮⋮。
っていうか、むしろ、何してたか聞いていいですか?
﹁いだだだだ﹂
悲鳴があがったと思ったら、ミディリースがウィストベルに頭を
掴まれ、俺の方へ無理矢理顔を向けられていた。
﹁いかにジャーイルが気安いとはいえ、大公じゃ。無礼な態度をと
るでない﹂
﹁ご、ごめんだしゃい⋮⋮﹂
なんだろう。初めて会ったときからの、ウィストベルのミディリ
ースに対するこの親しげな態度は。
まるで親戚のお姉さん、とかみたいなんだが?
﹁あの⋮⋮二人は知り合いなんですか?﹂
ミディリースは六百年間、引きこもっていたわけだから、知り合
いだというならそれ以前のことになる。
﹁会うのは初めてじゃ。が﹂
ウィストベルはミディリースの頭から手を離した。
﹁ここ二百年ばかり、手紙のやりとりをしておる﹂
⋮⋮え? ああ、じゃあ。
﹁ミディリースの魔道具に詳しい文通相手って、ウィストベルだっ
たのか!﹂
﹁ま⋮⋮まあ、そのうちの一人、というか⋮⋮いいますか!﹂
じろり、とウィストベルに睨まれて、ミディリースは言い直した。
466
﹁もっとも、お互い正体は隠した上での文通じゃがな。本名も、所
在も、何も知らぬ状態での﹂
所在も? それでどうやって、やりとりしてるんだ?
誰がどうやって、手紙を届けてるんだ?
まさか、鳩? 文書鳩とか言わないよな!?
﹁文章のくどさから受ける印象と、実際の人物像とはえらく違った
がの﹂
ええ、そうでしょうね!
あの長文だらだらの文章を読んで、こんな口べたで人見知りな小
さな女の子をなんて、誰も想像しませんよね!
﹁ウィストベル大公は手紙でも尊大⋮⋮あ゛ーーーー﹂
っていうか、二人とも⋮⋮さっきの呼称⋮⋮<暁の支配者>と<
凡俗の司書>⋮⋮だっけ?
あの恥ずかしい名前でやりとりしてるのか?
もうちょっと⋮⋮匿名でやる必要があったにせよ、せめてもうち
ょっと普通な感じの呼び名にすればよかったのに。
﹁ジャーイルからの手紙は届かなかったが、ミディリースからの手
紙は届いたのじゃ。魔道具に関しての、知識の有無を問い合わせる
手紙がな。それほど急ぎとも思わなんだから、返事を書いたのが三
日前での﹂
詳しいが、何か?
み
ああ、文通相手に問い合わせたって言ってたもんな。それがウィ
ストベルだったとは。
﹁昨日届いた。さんざん待ったあげくに、
たいなそっけない感じで、ちっとも役にい゛ーーーーーー!! ご、
ごめ、ごめんなさい!!﹂
貴重な喋るミディリースだが、話している最中にウィストベルの
指導が入るので、語尾が必ずといっていいほど悲鳴に変わっている。
467
﹁主の質問が具体的でないのが悪い。私とて、ジャーイルがこんな
目にあっていると知っていれば、何をおいてもすぐに飛んできてや
ったものを⋮⋮﹂
女王様の必殺技、流し目だ。今日はなんだか頬も唇も血色がよく、
色気がいつにも増してハンパない。
⋮⋮さっき、目が覚める前のこととか⋮⋮は、つきつめなくても
いいかな。
﹁まあ、そこら辺は俺が秘匿だと念を押したせいなので、ミディリ
ースを責めないであげてください。素性がわからないまま、事情を
明かすわけにもいかなかったんですよ。っていうか! そうだ、ミ
ディリース!!﹂
思い出した!!
のんびりしている場合ではない!
﹁魔力が戻らないんだけど!!!﹂
悲鳴のような叫びが執務室にとどろいたのだった。
︱︱俺の。
﹁そんなバカな﹂
﹁ミディリースの解いてくれた、この紙の通り⋮⋮えっと⋮⋮﹂
書き付けを探す。
あ。寝て下敷きにしていたみたいだ。長椅子の上に、くしゃくし
ゃになった紙があった。
﹁何度もやってみたんだけど、ぜんぜんダメで⋮⋮﹂
皺を丁寧にのばし、二人でのぞき込む。
﹁で、この鏡がそれか?﹂
468
声のした方に視線を向けると、ウィストベルが机の上に裏向けて
置いた邪鏡を、持ち上げているではないか!
﹁ダメです、ウィストベル! それは姿を映しただけで魔力が⋮⋮
!﹂
一歩、遅かった。
ウィストベルが鏡面を、自身に向けたのだ。
今度は自分のことじゃないから、はっきり見えた。
ウィストベルと、一緒に映ったミディリース。その二人から魔力
が引きはがされるように剥離し、鏡に吸い込まれるところが。
当然、二人の魔力量は百分の一になっている。
﹁ウィストベル!! 貴女ともあろうものが、なんて軽率な!﹂
しかし、慌てているのは俺一人のようだ。
当の本人は、どこか余裕の笑みを浮かべている。
まあ、そりゃあ⋮⋮ウィストベルの場合、百分の一と言っても⋮
⋮。
﹁なるほどのぅ。これは不安にもなるな﹂
⋮⋮わざとですか?
もしかして、わざとですか!?
﹁しかし、ちょうどいいとは思わぬか? 大公位争奪戦とやら⋮⋮
この魔力量であらば、ちょうど今の地位を無理なく維持できよう﹂
今の地位って⋮⋮大公四位の?
﹁そのためにはもちろん、主にもきちんと、実力通りの力を出して
もらわねばならぬがな﹂
えー。
俺に地位をあがれっていうのか。
ウィストベル、本気で言ってるのか?
⋮⋮本気なんだろうな。
それに確かに⋮⋮百分の一でも、四位なら維持できますよね。全
469
員が一切手加減せず、実力を出し切って本気でぶつかり合うならば。
だが、わかっているのだろうか⋮⋮ウィストベルは。
そうなると少なくとも三人からは、本気で負ける悔しさを味わわ
されることになるというのに。
﹁この鏡、主の魔力が無事戻った暁には、私がもらい受けよう。き
っちり管理して、決して表には出ないようにすると誓う。どうじゃ
?﹂
﹁できればこんな物騒なもの⋮⋮粉々に砕いて、塵も残らないよう
消滅させたいと思っていたんですが﹂
正直、見るのもイヤだ。今すぐ粉々にしたい。この世から抹消し
てしまいたい!
﹁そうじゃの。それは大公位争奪戦の後に、考慮しよう﹂
﹁そこまで言われては﹂
そうでなくとも、俺に拒否できる訳がないですよね。
﹁よかろう。それで決まりじゃな。では一つ、解読を試みてみるか
の?﹂
力強い言葉と共に、女王様は嫣然と微笑んだのだった。
470
43.ついに長かった苦痛の日々を終わらせる時がやってきたの
です!
﹁七カ所も間違っておるぞ﹂
執務室のクッションふかふか長椅子に足を組んで座りながら、翻
訳の書かれた紙と鏡の裏面を見比べ、女王様はそうおっしゃった。
﹁へ!?﹂
俺の隣に座ったミディリースがその言葉に衝撃を受けて、大きな
目をいっそうまん丸にしている。
﹁ど⋮⋮どこが間違ってるんです!?﹂
眼がギラギラと輝いているのは知識欲のせいか。
そして、やっぱり喋りに淀みがない。
ウィストベルが相手だから、とか?
会うのは初めてでも、二百年も文通してたら︱︱とても恥ずかし
魔の王
、ではなくて
力の王
闇に棲まう
ではない。
い匿名を使ってだが︱︱やはり親しみも沸くのだろうか。
は、
夜にうごめく
ブラディアー
それとも、この一晩で打ち解けたのか?
﹁ここ⋮⋮
じゃし、レイディアは
じゃ⋮⋮﹂
﹁ほうほう﹂
つまり翻訳が間違っている、ということらしい!
ウィストベル、すごいな。いつの時代、どこで使われていたのだ
かさえわからない、こんな虫の這ったような文字を、本に頼ること
すらなく解読できるなんて! 本当にすごいと思う。
でも、白状しよう。
俺は意味とかどうでもいいんです。音が⋮⋮発音さえわかれば、
それでいいんです!
471
﹁ジャーイル﹂
﹁はい﹂
﹁関係ないと思って、聞き流しておったな﹂
﹁いや、あの⋮⋮﹂
なぜバレた?
﹁まあ、よい。が、ここから先はよく聞くがよい﹂
﹁はい﹂
俺は姿勢を正した。
ェ
レ
を挟むようにするがよい。そして、
﹁実践にあたっては、呪文の音はおおむねその通りでよいが、
の発音の際には小さい
術式を足下ではなく、頭上に展開せよ﹂
﹁えっ﹂
俺とミディリースの叫びが重なる。
﹁頭上!? 足下じゃなく、頭上!?﹂
﹁そうじゃ﹂
﹁おぅ、なんてこったい﹂
言っておく。今のは俺じゃなくて、ミディリースの台詞だ。しか
も、額を叩くという動作付きの。
いや、今だけじゃない。さっきからずっと、ミディリースの相づ
ちはどこかオジサン臭い。
﹁いったいどうして、こんな間違いをしたというのか!﹂
﹁解説が欲しくば、後でじっくりしてやろう。二人きりでの⋮⋮﹂
﹁ひぃ﹂
ニヤリ、と笑うウィストベルに、悲鳴をあげるミディリース。
昨日あれから二人きりの密室で、なにがあったというのだろう。
﹁さて、では実践じゃ。まあ⋮⋮そうじゃの。ミディリース。主は
472
この術式を、展開できるか⋮⋮無理じゃの﹂
﹁え?﹂
本人が反応する間もなく、早口で答えるウィストベル。
あれだな⋮⋮ミディリースも減少前の魔力ならできたんだろうが、
今の総量ではたったの二層でも無理がある。本人は、気づいていな
いにしても、ウィストベルや俺からすればその実力は一目瞭然だ。
﹁では必然的に、私かジャーイルがこれを行うことになるが﹂
﹁もちろん、俺がやります﹂
もともと俺の問題だ。他人に任せる気はない。
だが、ウィストベルは嬉しそうに微笑んだ。
﹁では、主に任せるとしよう﹂
仕切り直しだ。
一度気を落ち着けた方がいいというので、本棟の小さな食堂で三
人そろって朝食を摂り、風呂に入って衣服をただした。
では、いよいよ実践だ。
﹁わ⋮⋮私も?﹂
しきりにスカートをいじったり、背を丸めてキョロキョロしたり、
ミディリースはいつにも増して、落ち着きがない。
そりゃあ六百年も引きこもっていたんだ。それなのに、なるべく
人払いをしているとはいえ、朝食時には数人の給仕がいたし、移動
時だってどうしても多数の目にさらされるからな。
﹁もちろん、主もじゃ。同じく鏡に映ったのじゃからな。一生その
魔力量のままでもよいというのなら、好きにするがよいが﹂
﹁お供します!!﹂
なに、その腹から出たような野太い声。
未だかつて、こんなにはっきり喋るミディリースを見たことがあ
っただろうか。いや、ない。
473
とにかく俺たちは、三人そろって広間に移動した。
そこは舞踏会が開けそうなほど広い割に、出入りの扉が一つしか
なく、窓もやはり小さく数少なくで、家具もほとんど置かれていな
かった。
ものすごく暗くて、陰鬱な雰囲気の部屋だ。
ヴォーグリムが何に使っていたのかは聞いたことがないが、本棟
にあって、開かずの間に近い扱いを受けている場所だった。
もっともそういう部屋は、ここ一室ではない。
だが掃除だけは怠っていないようで、埃なんかは積もっていない。
エンディオンには俺たちがこの部屋にいる間は、決して誰も近寄
らせないよう頼んである。そうはいっても念のため、結界を⋮⋮。
﹁主がやる必要はない﹂
ウィストベルに止められた。
﹁ミディリース。主の特殊魔術は隠蔽魔術であろう。わずかな間、
この部屋を誰からも見つけられぬようするくらい、今の魔力でも息
をするようにできるはずじゃな?﹂
隠蔽魔術!
え?
なにそれ、なにその珍しい魔術。
六百年、引きこもっていられたのはそのせいか?
後で聞いたら、色々教えてくれるかな?
﹁はい、もちろんです、女王陛下!﹂
⋮⋮なんなの、そのノリ。
﹁調子に乗るでない﹂
﹁いだだだだ。すみません、もうしません!﹂
こめかみをぐりぐりされるミディリース。
今日は随分表情がくるくる変わって、おもしろいな。
474
とにかく、こんな風に騒ぎながらも、ミディリースは隠蔽魔術を
発動し︱︱た、らしい︱︱、俺は改めて儀式に入った。
まず、三面鏡を俺たち三人の前に空中固定し、術式を頭上に展開
する。
奪われた時は違ったとしても、同じ邪鏡には違いないのだから、
レ
を
レェ
にして唱えて。
返してもらうのは一度にでも大丈夫だろう。
そして、呪文。
術式が頭上で薄く点滅しだし、それに呼応するかのように鏡面も
また、ぼうっと発光する。
失敗した時には無かった反応だ。
ならば今度こそ、今度こそ︱︱。
﹁ほう﹂
手鏡の時と同じ、ただし今回は裏ではなく鏡面からだ。
目立った特徴のない魔力がじんわり浮き出ると、枝が広がるよう
に俺たち三人に向かって線が延びる。ウィストベルへ向かうものが
もっとも多く、ミディリースが一番少ない。どういう仕組みかはわ
からないが、やはり奪った分量が考慮されているようだ。
やがてその魔力の束は、各人の魔力にたどり着くとそれに混じり
合い、同化したのだった。
﹁うまくいったようじゃの﹂
同化した⋮⋮そう、同化したのだ!!!
ひゃっほーーーーい!!
ようやく、ようやく俺は⋮⋮俺の魔力がっ!!
すっかり元通りにっ!!
475
長かった⋮⋮ここまで、本当に長かった!!
部屋の中にあらためて強力な結界を張り、百式を展開してみる!
無数の雷撃が天井を覆いつくしたかと思うと、やがて二体の雄々
しい獣の姿をとり、部屋中を駆けめぐる。
﹁ひいいいいいい﹂
ぶつかり合い、混じり合う獣たち。
二体は一体となり、一体は四体に別れ、また二体へと融合する。
部屋中のあちこちで集まっては散りを繰り返す、眩いばかりの雷
光!
そこへ更に百式を追加。
万の矢が間断なく広間に降り注ぐ!
鳴り響く轟音に続いて、目を焼く光の波が広がり、結界を破らん
ばかりの振動が生まれる。
ああ、見よ、この魔術の美しさ!
獣の雄々しさ、矢の鋭さよ!
余すところ無く百式を操作できるこの力!!
体中にみなぎるこの魔力!!!
脳をしびれさせるこの快感!
気 持 ち い い !!!!
﹁各々間違いなく、魔力は戻ったようじゃの﹂
﹁ありがとうございます、ウィストベル!!﹂
俺は我がことのように喜んでくれているウィストベルに駆け寄り、
彼女を力いっぱい抱きしめた。
﹁あん⋮⋮﹂
476
﹁ミディリースも!﹂
ウィストベルを離し、次の目標と定めたミディリースを探すが。
しかし、相手は視界に入らず⋮⋮。
﹁あれ? ミディリース?﹂
ぶるぶると震え、頭を抱えながら床に這いつくばるミディリース
の姿が、そこにあった。
***
﹁ごめん、ごめんって﹂
﹁うっぐ⋮⋮ひっぐ⋮⋮﹂
ミディリースが泣きやまない。
百式魔術がものすごく怖かったらしい。
﹁ほんとごめん、思わずテンションがあがってしまって、つい⋮⋮﹂
﹁つ⋮⋮つい、で、すんだら⋮⋮魔王様は⋮⋮うえっぐ﹂
﹁あーごめん、ほんとごめん﹂
床に崩れ落ちて泣きじゃくるミディリースの頭を、俺はできるだ
け優しく撫でた。
﹁もうよい﹂
﹁いだだだだだだ﹂
﹁ウィストベル!﹂
再び、ウィストベルに頭を鷲掴みにされるミディリース。
﹁子供じみるのは外見だけで十分じゃ! いい年の大人が、いつま
で泣いておる。主が恐怖を感じたのは、己の弱さ故ではないか。大
公がこうして頭をさげておるというのに、いい加減、臣下の分を思
いおこすがよい﹂
うわ、かわいそうにミディリース。涙と鼻水で、顔がぐしゃぐし
ゃなんですけど!
477
﹁ウィストベル⋮⋮そう厳しいことを言わずに。俺が周りをみてい
なかったのが悪いので⋮⋮﹂
﹁暴挙暴虐は強者の特権じゃ。主は弱者に甘すぎる﹂
いや⋮⋮それ、どうなんでしょう。
﹁弱さはすなわち罪。弱者は生きることをさえ許されぬ。それがこ
の世の摂理。生き残りたければ、すべてをかけて強くなるしかない。
そうであろうが﹂
つまり、ウィストベルは強くならねば生き残れなかった、という
ことか?
﹁それはあの⋮⋮俺の知ってる世界とは、ちょっと違うような⋮⋮﹂
確かに残虐と非道は魔族の習いだけども、だからってそこまで殺
伐としてはいないと思うんだけど。
﹁主にとって、世界はもっと優しいものだと申すのか?﹂
﹁そうですね⋮⋮弱いからと言って、たちまち死が訪れるほど、厳
しくはないとは思います﹂
俺とウィストベルの間に、緊張感を持った沈黙が流れる。
﹁脆弱な言い分を、我は好かぬ。察するに、主の世界は随分と、生
ぬるく優しいものであったようじゃな﹂
怒っているのかと思ったが、ウィストベルが浮かべたのは笑みだ
った。
それも嘲笑ではなく、随分と優しい⋮⋮いいや、どこか頼りなげ
にも見える笑みだ。
﹁ウィストベル?﹂
﹁興が逸れた。我が城に帰るとしよう﹂
ふっと、ウィストベルの表情から一切の感情が消える。
完璧に整った美貌のせいで、まるで氷の彫像のようだ。
478
﹁え? もうですか? せっかくいらして下さったんですから、ゆ
っくりと⋮⋮﹂
自分のことばかりで忘れていたが、我が城にとっては久しぶりの
同盟者の訪問だ。
それもウィストベルに限れば、まだたった二回目の訪問なのだ!
今回の恩も含め、ぜひにでも盛大に歓待せねばならないだろう。
だが、ウィストベルは頭を左右に振った。
﹁いいや。私も少し疲れた﹂
その言葉は真実なのか、いつもに比べて雰囲気が随分と弱々しい。
﹁これ以上の愉しみは、先に送るとしよう。ミディリースに道理を
言い聞かせるのも﹂
﹁ひいいいい﹂
﹁主との朝寝に酔うのも、な﹂
だが彼女は、最後にいつもの高慢で嗜虐的な笑みを浮かべて、そ
う言ったのだった。
そうしてウィストベルは、邪鏡ボダスだけを携え自分の城に帰っ
ていった。
﹁せめて昼餐くらい﹂という俺の言葉をさえ、聞き入れることもな
く。
今回のことでなんとなくわかったが、彼女は随分な幼少期を過ご
してきたようだ。
少なくとも、俺みたいに両親が揃った上で保護され、成人するま
では何一つ不自由なく︱︱ただ、友達はいなかったけれども︱︱ぬ
くぬくと育った訳ではない。それだけは、よくわかった。
それも、俺と同じこの目⋮⋮魔力を見られる、この目のせいで、
なのだろう。
だからこそ、ウィストベルは気付かざるを得なかった。この目の
479
もう一つの能力に。
俺が未だ気付かずにすんでいる、誰よりも強くなるための能力に。
あの女王様が一瞬とは言え、弱々しい姿を見せたんだ。気になら
ないはずはない。
だが⋮⋮俺に何ができる?
その秘密を聞く勇気もない、今の俺に。
魔王様ならあるいは、彼女の生い立ちを知っているのかもしれな
いが⋮⋮。
﹁なんにせよ、旦那様のお力が戻られて、ようございました﹂
考え込む俺を、慰めるような優しい微笑みで迎えてくれたのは、
エンディオンだ。
﹁ああ、ありがとう。エンディオンにも随分心配かけたな﹂
とにかく、気持ちを切り替えよう。
しばらく魔力の回復に集中していたから、やらないといけないこ
とが山積みになっているはずだ。
﹁ミディリースにも礼をしないとな。そういえば、本をいくらか入
れる約束をしたから⋮⋮もし、要望があれば、聞き届けてやってく
れ﹂
﹁かしこまりました﹂
ちなみに司書は、ウィストベルを一緒に見送った後、気づけばも
う姿を消していた。あっという間にいなくなっていたのだ。
それも彼女の特殊魔術の賜物なのだろう。
﹁ああ、それからこれ﹂
プートから預かった六枚の紋章の写しを、エンディオンに手渡し
た。
﹁プート麾下の六名が、行方知らずらしくてな⋮⋮一致しないとは
480
思うんだが、一応あの⋮⋮ほら、例の⋮⋮﹂
﹁旦那様に挑戦してきた、六魔族の紋章との照合でございますね﹂
﹁うん、まあ一致しないとは思うけどね!﹂
エンディオンは六枚の紋章が書かれた紙を、一枚ずつ丁寧に確認
している。
﹁紋章録で確認したものと似通っているように思われますが﹂
﹁いや、六名は全員が公爵らしいんだ。昨日までの俺は、一人の侯
爵にすら負けるほど弱体化してたからね! なのにそれ以上の実力
者である公爵を、一度に六人も退けることなんてできるはずがない。
偶然、数が合っただけだろう﹂
﹁公爵⋮⋮﹂
エンディオンの表情が、険しさを増す。
﹁プート大公閣下麾下の公爵⋮⋮が、一名というならわかりますが、
六名もが一度に旦那様へ挑戦してくるとは⋮⋮。なにやらきな臭い
話でございますな﹂
えっと⋮⋮偶然だと思う、っていう俺の主張は聞いてくれてたか
な?
﹁とにかく、至急照合してみてくれ﹂
﹁かしこまりました﹂
エンディオンは紋章の写しを手に、執務室を出て行った。
481
44.ようやく、心休まる日々が帰ってくると思ったのも束の間
魔族にとって紋章というのは、特別なものである。
生まれた時に自分の身体の一部から生成される、特殊な力を持っ
た用紙を<紋章符>という。
成人の時、その紋章符に自分で定めた図柄を描く。以後はそれが
紋章として、己が魂に深く刻まれるのだ。故に紋章は、魂と同一視
されているし、実際そうであることは現象として認められる。
たとえば魔族同士の戦いがあったとしよう。その決着が片方の死
で終わりを迎えた場合、敗者の<紋章符>は消滅し、その紋章は勝
者の<紋章符>に吸収される。これを<魂が下る>とか、<魂が吸
収される>とか言い表したりする。
とはいえ、紙面は限られている。強者であればあるほど、倒した
相手の数が多くなるのは普通だ。下った紋章がすべて並ぶのでは、
紙面はすぐにいっぱいになってしまう。
だからなのか知らないが、表面にはその紋章の持ち主に下った者
の数が刻まれ、紋章官が照合の呪文を唱えると、敗者の紋章は順番
に裏面に浮かんでは消えていくようになっているそうだ。
俺がうっかりネズミ大公を殺ってしまった時にも、当然、この現
象が起きたわけだ。
つまり俺の紋章符には、ネズミ⋮⋮ヴォーグリム大公の紋章が含
まれているということになる。
この紋章符を、領地ごとに分類して整理・管理しているのが紋章
482
官たちで、彼らは魔王城の役所にしかいない。
全魔族の紋章が、魔王城に集められているわけだ。
だがその情報は、当人が属する大公の元でも共有されることにな
っている。
とはいえ、紋章符がもう一枚、あるというわけではない。
大公城で紋章の管理に携わる紋章管理士は、何か変化があるたび
に面倒にも魔王城に出向かねばならないらしい。そうして紋章官に
一つ一つ紋章を見せてもらい、それを模写しなければいけないそう
だ。だから、その任につく者は、念写の特殊魔術を持っていること
が望ましいとされる。
そんな風に手間をかけて集められた、全領民の紋章の写し。それ
を束ねたものを紋章録といい、地位の順に綴じられている。
そんな訳だから、先日の六魔族の襲撃事件があって後、我が城に
勤める紋章管理士も、日々の業務の一環として、紋章録を手に魔王
城に問い合わせに行った。その結果、俺の紋章の写しには、新たに
下った六つの紋章が書き加えられているはずだ。
エンディオンが今、プート麾下の紋章を手に、照合しに行ってい
るのもこれだし、魔王城では消滅しているはずの紋章符をプートが
知れたのも、自分の管理下にある紋章録を参照できたおかげだ。
ところで話が﹁らしい﹂とか、﹁だそうだ﹂とかばかりになるの
は、俺にしたところで自分の紋章符ですら、それを自分の手で描い
た成人の時以降、目にしたことがないからだ。だから表面にいくつ
の数字が刻まれているのかすら、知らない。
別に隠匿されて見ることができないのではない。ちゃんと手続き
をすれば、紋章符を確認することは可能だ。それでも魔族のほとん
どがそうしないのは、単なる数字には、誰も興味がわかないという
だけのことだ。
483
さて、そんな事情だから、六公爵の紋章の照合結果については、
家令の帰りを待つ他ない。
それにそろそろ他の仕事にも取りかからないといけない。
魔力の復元が一番の気がかりだったせいで、いろいろなことがお
ざなりになってしまっている。
放置していたヒンダリスのことも、そろそろ本腰を入れて調査す
べきだろう。
一度、リーヴに話を聞いてみるか。あいつが今回の件に関わって
いるとは思わないが、一応、前大公の息子だしな。
だが、医療棟に行くならまずはあの分厚い報告書に目を通してお
かないと⋮⋮。
それから、大祭運営委員会に参加する委員を五名、決めないとい
けない。いつ、運営委員会の召集がかかるかもしれないのだから。
こういう人員は、上位の方がいいのかな?
いや、地位にこだわるより、前回の大祭を経験している者で、議
論に向いてそうなもの⋮⋮の方がいいか。
そうなると、すぐに全員で口をそろえて叫び出す、軍団長はなし
だな。
よし、後でエンディオンに相談してみよう。
その上で大祭に向けて、自領で行う独自の催しも、計画しないと
いけない。
俺が魔王城へ行っていて不在のことも多いだろうし、四人の副司
令官のうちの誰かを総轄役に決めるか。
ヤティーン⋮⋮ないな。四人の中で一番の脳筋バカは、間違いな
くこいつだ。留守を任せたら、後始末が大変になる予感しかしない。
484
ウォクナン⋮⋮ううん⋮⋮どうだろう。俺が前に立ってさえいな
ければ、うまく仕切るとは思うんだが⋮⋮。
ジブライール⋮⋮⋮⋮仕事は間違いないだろうが⋮⋮俺が城を空
けないときは、一緒にいる時間が多くなるだろうし⋮⋮。噂話、も
う耳に入ってるだろうか⋮⋮⋮⋮。
そうなると、やっぱりフェオレスかな。そりゃあ、魔族なりに短
気なところもあるかもしれないが、基本は冷静だし、やることは割
とそつがない。
しかし、フェオレスといえば、アディリーゼとの仲はどこまで進
展してるんだろ。母親への挨拶は、すんだのだろうか。
まあ、とにかくこれもエンディオンに相談してみるか。
⋮⋮薄々わかってはいたけど、俺、エンディオンに頼りっぱなし
じゃないか。
ワイプキーのときは、これほどじゃなかったとは思うんだが。ほ
んとに早く、筆頭侍従を決めないと。
セルクにその気があれば彼でもいいかと思っていたんだが、エン
ディオンの補佐を経験してしまうと、つい高望みする気持ちが生ま
れてしまう。
そんなことを考えていたら、エンディオンが戻ってきた。俺は早
速、今の案件を相談しようと⋮⋮。
﹁一致いたしました﹂
え? 何が?
﹁間違いございません、旦那様。先日の挑戦者は、いずれもプート
大公麾下の公爵であったようです﹂
エンディオンの表情は、いつにも増して真剣だ。
﹁何かの間違いだろ。だって、あの時は俺⋮⋮﹂
﹁旦那様がお嘆きになられるほど、お力を減らしておいでであった
485
ことは、もちろんよく存じております﹂
それも、つけ加えるなら俺はあの時、寝てすらいたんだ。
記憶だって完全にないというのに⋮⋮。
﹁本当に、俺がやったのか?﹂
﹁私はその場にはおりませんでしたので。しかし、イースの話では
間違いなく、旦那様の手によるものだと。彼の人柄からいっても、
嘘をつくとは考えられませんが﹂
いや、まあ、そう⋮⋮そうなんだけど。
しかも、イースによると俺はちゃんと目を開けていたらしいから
な。
でも信じられない⋮⋮何があったんだ。
どんな奇跡が起きたら、今の百分の一しかない僅かな魔力で、一
度に六人もの公爵を相手にして勝てるっていうんだ。
まさか⋮⋮。
この剣のせいなのか?
レイブレイズの力なのか?
俺は手に入れて以来、ほとんど帯剣しているその蒼い姿を見つめ
た。
それとも、俺自身の問題か? 夢遊病⋮⋮でも患っている? こ
の間だって、ウィストベルに⋮⋮。
一度、サンドリミンに詳しく調べてもらった方がいいのだろうか。
だがたとえ、夢遊病のたぐいだったとしても、それで減った魔力
がどうにかなるとも思えないが。
﹁プートになんて知らせたもんだろう⋮⋮﹂
﹁事実をありのまま、お伝えする他はありませんでしょう﹂
エンディオンの表情はいつになく厳しい。
﹁いや、まあ、そうなんだけど⋮⋮﹂
486
﹁発覚する以前に、旦那様のお力が戻られて、幸いでございました﹂
えっ。
なに? 何を想定しての、その言葉なんですか?
というか、さっきからなぜそんなに誇らしげなんだ、エンディオ
ン。
﹁ま⋮⋮まあ、そうだな⋮⋮暫く会う機会はないだろうし、手紙で
でも知らせて⋮⋮みるかな⋮⋮調査の結果判明したことだが⋮⋮っ
てことで淡々と﹂
爵位の挑戦は、魔族のたしなみだ。その結果、配下が敗れたこと
については何も思うまいが、俺自身が挑戦されたことなのに、反応
が遅れたことについては⋮⋮不審がられる可能性もないとはいえな
い。
でも、真実をありのまま伝える以外に、どうもできないからなぁ。
ああ、もちろん俺の弱体化に関することは伏せるけど。
まあ、仕方ないか。つっこまれたらつっこまれたときのことだ。
﹁手紙と申しますと、旦那様。今ほど、旦那様宛のお手紙が、一通
届きまして﹂
え?
﹁こちらでございますが﹂
え?
え、何?
なんか、嫌な予感がするんだけど⋮⋮。
誰から?
何の手紙??
まさかプート?
プートから、俺の配下を殺っただろう、って手紙が来たんじゃな
いよね?
487
今度の封書もまた形式は正式なもののようだったが、俺の予想と
は違って、プートからのものではないのが遠目でもわかった。それ
どころか誰からのものか、一目で理解する。
だが相手を察して、安心するどころか余計に不安は増した。なぜ
ならば、その差出人が、通常手紙など送ってくるような奴ではなか
ったからだ。
裏の封蝋は<べ>を表す文字。
そして、表の紋章はもちろん<巣を張った蜘蛛>。
そう︱︱。
我が友、ベイルフォウスからの手紙だった。
﹃この件は忘れないぞ、ジャーイル﹄
<大公会議>の別れ際、そんな憎まれ口をきいていた姿が思い出
される。
嫌な予感しかしない。
﹁エンディオン。開けてくれないか?﹂
﹁はい、それでは﹂
ペーパーナイフを紙に滑らせるその手つきは、例によって完璧だ。
﹁なんと書いてある?﹂
﹁失礼して、代読いたします﹂
﹂
﹂
エンディオンは二つ折りのその紙を、丁寧に開いて⋮⋮それから
通達書
⋮⋮。
﹁
プート大公との協議の結果を、諸公に伝える
通達書!?
﹁
プートの召集状同様、大公の全員に送っている書簡か。
なのに公式の文書じゃないの?
ここら辺は、<大公会議>が私的な会議だからなのか?
488
﹁
デイセントローズを交えた、慎重かつ活発な議論の結果
議論? ホントかよ。殴り合ったんじゃないのか?
﹁旦那様、こちらのお手紙は⋮⋮﹂
え? 何。
﹂
気になるから、そんなところで意味ありげなことを言うのはやめ
だ、そうでございます﹂
﹃魔王陛下在位三百年を祝う大祭﹄の大祭主は、双方一致でジ
てくれ!
﹁
ャーイル大公と決定した
⋮⋮は?
は?
え?
なに、聞き間違い??
俺が⋮⋮俺が、なんだって??
改めてエンディオンからその<通達書>とやらを受け取り、その
一文に視線を走らせる。
だが何度読み返しても、そこに書かれた文章が変わることはない。
おまけに、文末にはベイルフォウスだけでなく、証人としてプー
トとデイセントローズの紋章まで小さく焼いてある。
大祭主は、双方一致でジャーイル大公と決定した
ベイルフォウス!
おい、ベイルフォウス!!!
手紙を持つ手が震える。
もちろん、怒りのためだ。
﹁旦那様、もう一枚奥にお手紙が﹂
489
ま た か よ !
その四つ折りの厚い紙を広げると⋮⋮。
そこには、満面の笑みを浮かべつつ親指を立てる、我が親友の素
描が⋮⋮⋮⋮。
俺はその厚紙を、自分の手で細かくちりぢりに破り捨て、塵すら
残らぬよう、炎で消滅させたのだった。
490
間話3.人間も色々大変なんです その1
﹁信じられん。何度聞いても、にわかには信じられん話だ﹂
もう何度も聞いてるんだったら、全然にわかじゃないと思うんだ
けど、というつっこみはおいといて。
あたし︱︱イーディス︱︱とミナ、それからマリーナの三人は、
出入り口横の壁際に置かれた、背もたれの固い木の椅子におとなし
く座っていた。
そうしてあたしたちをここに呼び出した、町の偉いオジサンたち
の話し合いを、さっきから黙って聞いていたりする。
そろそろ退屈してきた⋮⋮のは、ミナ。隣で必死に、欠伸をかみ
殺しているのが気配でわかる。
オジサンたちが何の目的でこのお役所の会議室に集まっているの
か。
もちろん、この間の金髪のお兄さん⋮⋮<魔族大公の襲撃事件>
と名づけられた、あの一件を話し合っているのだ。
今は事実の確認中かな。
もっとも、あの金髪のお兄さんが魔族の大公だと判明したのは、
あの猿顔の魔族があたしたち女子を正座させて、ものすごくだらだ
らとお兄さんの経歴を語ったからだった。
前のネズミ顔の大公を、その部下ともども一気に葬った恐ろしい
魔力のことだとか、血のつながった妹さんを瀕死の状態にまで追い
込む容赦のなさだとか、魔王の城にしょっちゅうお呼ばれしていて、
大公の中でも特別な寵を受けていることだとか、ものすごく実力の
ある、それもとても綺麗なお相手が何人もいて、誰を正妻にするの
だか困っている位なのだ、とか、いかにお兄さんが強くて怖くて女
491
性にもてるか、というような話。
と、話が脱線しちゃった。
とにかく、そのお兄さんのお城に行った四人、ということで、あ
たしたちはここに参考人として呼ばれているというわけ。
ちなみに四人といったけど、ガストンさんは偉いオジサンの中に
混じっている。あたしにとっては気安いオジサンの一人だけど、一
応町を代表する商人の一人だったりするからだ。
ほかのオジサンメンバーは⋮⋮まずは領主様。長方形の机の一番
奥⋮⋮上座にどでんと座っている。遠くから見たことはあるけど、
こんな近くでみたのは初めてだ。あたしの感想は、﹁太ったふつう
のオジサンだな﹂かな。
しかもなんか、目つきがいやらしくて好きじゃない。
﹁まさかあの、南国の伯爵令嬢とその従者殿が魔族であったとは⋮
⋮﹂
領主様はぶるぶる震えている。きっとシャツをめくれば、お腹が
お皿に置いたゼリーみたいに、ぷるんぷるんしているに違いない。
まあ、見たくもないけど。
領主様。怖がっているのかと思ったら、なぜだか自分の手を急に
見つめて目をウットリさせ、頬を赤らめた。正直、気持ち悪い。
領主様の右手に座る、立派な白髭を生やしたおじいさんは、ブレ
イスさん。この町在住の魔術師の中で、一番偉い人らしい。手にも
つ真新しい杖は魔道具であって、足が弱いから持っているわけじゃ
ない、ってよく怒ってる。
さっき﹁にわかには信じられん﹂とか言っていたのがこのおじい
さんだ。
492
﹁本当に我々は、凍結していたというのか?﹂
﹁信じられん気持ちはわかる。だが、実際に俺たちは時間の超越を
体験したはず⋮⋮﹂
筋肉もりもりオジサンは、マグダブさんだ。冒険者たちのまとめ
役みたいな感じで、頼りになる。
まあ、赤毛の綺麗なお兄さんが魔族だとわかったときには、店か
ら逃げるのに必死だったけど、それはみんなそうだし、仕方ないと
思う。
﹁赤毛の魔族と子供、それから銀髪の美女⋮⋮目の前にいたのはそ
の三体だったというのに、一瞬後には奴らの姿はなく、女たちの代
わりに背後の建物にいたのは猿面の魔族、そして空を舞う二体の竜
⋮⋮しかもあれは朝のことだったというのに、気がつけば昼を随分
すぎていたからな﹂
﹁それから、あの男前の大公もいたわ!﹂
ミナが声をあげて、みんなの注目を集めた。
﹁信じたくない気持ちはわかるが、真実です。我々四人は、あなた
たちが氷像になっていたまさにそのとき、大公の城に連行されて⋮
⋮ひどい目にあったのですからな﹂
ガストンさんがいつもよりだいぶ低い声で、発言した。
普段はおちゃめな太ったオジサンだけど、こういうときは真面目
でマトモな感じに見える。
﹁そうですとも⋮⋮私がもし、自分の財産をなげうって、あの魔族
大公へ忠誠を誓わなければ、今頃はまだ⋮⋮﹂
ガストンさんの顔は真っ青だ。さわさわと撫でる右手には、今も
しっかり包帯が巻かれている。
なんでも、あのお兄さんと一緒にお店に戻って気を失い、目覚め
てみれば手の皮がごっそりめくれていたらしい。聞いただけでも痛
々しい。
493
おまけに、店の魔道具の在庫がごっそりなくなっていたのだとい
う。
ガストンさんが言うには、人間が力を持ちすぎることを危惧した
あのお兄さんによって、焼き払われたり奪われたりしたのだろう、
ということだった。
なにせ、気付けば店の氷だけは溶けていたそうなので。
その話を聞いて、魔術師たちは町の隅に残っていた氷を、炎で解
こうとしたらしい。けれど、結果は今もその氷が溶けていないこと
を見ればわかるとおりだ。
﹁君の店についてはその功績を考慮して、町の資金より補償される
ことになっている。それではとても、君の勇気に報いることはでき
まいが⋮⋮﹂
領主様の左手側に座る、眉間に三本のしわが入ったオジサンは、
この町の町長のボディガさんだ。
しっかりした人で、領主様にもこびることなく意見を言う人柄が、
町の人たちに好かれていた。
そのほか、顔は知ってるけど親しくはないオジサンたちが十数人
ほど。
﹁それでどうかね、ガストン。君の見たところ⋮⋮その魔族大公は、
またこの町を襲ってくると思うかね?﹂
﹁また、来てくださるかのぅ⋮⋮﹂
領主様、ため息ついて気持ち悪い。
財産をなげうって町を救ったガストンさんは、すっかり英雄扱い
だ。
もとからこの小さな町で成功していた商人だから、発言権は強か
ったらしい。そこへ今回の誘拐された一人だということ、それに店
494
が魔道具の専門店だったということも手伝って、魔族のことならガ
ストンに聞け、と言われるまでになっている。
﹁そうですな⋮⋮いや、私の見るところ⋮⋮﹂
正直あたしはなんかこう⋮⋮違和感を感じている。
ガストンさんの英雄扱いには、だ。
確かにガストンさんが頑張ってくれたのは、実際にお城で一緒だ
ったから、よくわかっている。
聞けばあたしたち三人が、あのぞっとするほど綺麗な赤毛魔族に
言われてドレスに着替えている間に、﹁ひどいことをしないでくれ﹂
とお兄さんを説得してくれたらしい。それであたしたちの貞操は守
られたというのだけど。
けど、なんかね⋮⋮。
﹁君たちはどう思うかね?﹂
急に話を振られてびっくりした!
どう思うかって、あのお兄さんがまた町を襲ってくるかって質問
のこと?
﹁うーん⋮⋮もともと、あっちから襲ってきたわけでもないし⋮⋮﹂
思い返してみれば、あの三人の魔族だって、別に人間を襲いにき
たって訳じゃなかった。
あたしたちが⋮⋮あたしがまず、怖くなって過剰に反応しすぎた
っていうだけの気も、今となってはするのだ。
店から出てくるところを、攻撃するつもりで待ち伏せたのもこっ
ちだし。
それに⋮⋮あの金髪のお兄さんなんかは逆に、町を助けてくれた、
といえない訳じゃないもの。
まあ、あたしがこんな呑気な感想を抱いていられるのも、広場で
495
氷漬けになっている人の中に、友達も家族もいないからという身勝
手な理由からかもしれない。
解くための方法があるにはある、とも聞いているし。
﹁もしまた来たら、今度は私の魅力で悩殺してあげるわ﹂
ミナの頭の中は、あたしより更にお花畑だ。正直、感心する。
﹁話の腰を折ってすみませんが、実はここに﹂
マリーナが急に持参の袋をごそごそやりだした。
彼女だけは、妙に大きな荷物を持ち込んでいたのだ。
いったい何を出すんだろう。
﹁私が手に入れた、魔族大公のマントがあります﹂
マリーナはあのお兄さんからかけてもらったという、灰色に青の
ラインの入ったマントを取り出した。
﹁今一番の高値をつけてくださった方に、この場でお譲りしてもか
まいません。さあ、どうする?﹂
何言ってるんだろう、この子。
そう思ったのはあたしだけだったみたい。
﹁私、私にちょうだい!! お金はないけど!﹂
早速、ミナが参戦だ。目がギラついている。
﹁お金がないのは却下です﹂
﹁金ならある! 糸目はつけん!!﹂
領主様⋮⋮気持ち悪い。
﹁魔族の所有物だぞ! 素人が持っては危険なものかもしれぬ。ま
ずは、我ら魔術師協会で保管・研究して⋮⋮﹂
白髭の魔術師ブレイスさんも、興味があるらしい。
﹁いや、さっき補償をくださるとおっしゃった! ならばぜひ、こ
のガストンめにこの場はお譲りいただきたい!﹂
496
ガストンさん⋮⋮どうせそれ、高値をつけて転売するつもりでし
ょう。
﹁どうせそれで金儲けするつもりだろう! そのような貴重なもの
は、今回の事件を忘れぬためにも町で保管するのが一番であり﹂
﹁いいや、我ら魔術師の研究のために﹂
﹁バカを申せ、記念にというなら我が館の収集物にこそふさわしい
!﹂
領主様、気持ち悪い。
自分が、いや、自分こそが、という声で室内が満たされる。
⋮⋮結局、みんな欲しいらしい。その意識や目的は違えども。
参加していないのは、あたしとマグダブさん、それに町長のボデ
ィガさんだけだ。
﹁まあ、おまちください。商品は、これ一つではありません﹂
マリーナ。まだ何かあるの?
彼女は意外にちゃっかりしてる。
あたしたちが四階で猿面の魔族の監視下に置かれていた間に、一
階に到着していたらしい。けれど上の階にはあがってこずに、その
場で様子をみていたんだって。
賢いと言えば賢いのかもしれないけど。
﹁さて、次に取りいだしたるは、そのマントに付着していた黄金の
髪! 魔族の毛髪ですよ、しかも大公です! 何か不思議な力が宿
っているかも? 三本あります! 一本からばら売りいたします!﹂
また、自分が自分が、の大合唱。
会議の趣旨が、変わっていると思うんだけど⋮⋮?
﹁それからなんと、こちらは竜の垢! 世にも珍しい、竜の垢です
よ! セットで爪のかけらもあります! なにかいい道具が作れる
497
かもしれませんね!﹂
竜の背中からこすり取ったんだろうか。
商魂たくましすぎるんじゃないかな、マリーナ。
﹁お次はなんと、あの魔族が持ち帰り損ねた手鏡⋮⋮! 当然、あ
の場で使用したものです! と、いうことは? この中には当然、
魔族の魔力が⋮⋮? 魔球を使えば、その力が自分のものに!﹂
すごい⋮⋮手鏡まで出てきた。鏡までくすねていたとは!
﹁さて、今度はなんだ? ええ、もちろんこちらです! 銀髪の美
女が着ていたかもしれない! そういえば何か、使用済みのにおい
が? 魔族製の高級下着、高級下着です! レース使いが見事です
ね!﹂
ちょっと待って! それってドレスと一緒に支給された下着よね
? ドレスは返却したけど、さすがに下着はそのままでいいってこ
とだったから⋮⋮まさか、自分の使用後のものを出している!?
だとしたら、正直どん引きじゃすまないんだけど!
﹁俺がっ俺がっ﹂
そして急に大声を張り上げだしたマグダブさんに、私は軽蔑の瞳
を向けた。
それにしても、ずっとおとなしく黙っていたマリーナと、同一人
物とは思えない。
こっちが本性なんだろうけど。
そうしてなぜか、この間の魔族の襲撃事件のことを話し合うはず
が、会議は途中でマリーナによる魔族大公由来の商品即売会に早変
わりしたのだった。
呆れたあたしは、熱気渦巻くその会場からこっそりと抜け出した。
498
お役所の外に出て、そのまま家には帰らずに町の南に向かった。
この町に唯一に残された、氷漬けの広場がその目的地だ。
別に、あの暑苦しさにあてられて、涼みたくなったからではない。
あたしだって、あの日のことを思い起こさない日は、一日だって
なかったのだ。
そう。呑気に暮らしているようには見えても、やっぱりあの事件
はあたしをはじめ、町の人々の心に深い傷を残した。魔族に対する
恐怖と、その魔術の結果に対する不安と悲しみで、町は満ちている。
実際、あのお兄さんと猿面の魔族が行ってしまった後は、それは
大変な騒ぎだった。
いまいち事情をわかっていない建物外の人たちは、途切れる前の
記憶のままのテンションだったけど、周囲が氷漬けの中で半日も不
安に耐えた女たちは、町が解放されるや緊張の糸が切れたのだろう。
一斉に泣き出したのだ。
もっともあたしもその例外ではなく、それまで気丈にふるまって
いたミナでさえ、号泣していた。
けれどああ、そうね⋮⋮マリーナは平然としてたかな。
それはともかく、あの日以来、あたしは広場にはまだ一度も足を
運んでいなかった。
以前は四日とあけず、朝市のためにでかけていたというのに。
たぶん、家族や友人が広場で氷漬けになっていないことを、知っ
ていたことが大きい。わざわざ残酷な現場を見に行く気にはなれな
いもの。
けれどこうして改めてあの日のことを話し合った今︱︱途中から、
現場は大いに脱線したけれど︱︱、ようやくその爪痕を、見にいく
決心がついたのだった。
現場に近づくにつれ、下がっていく気温。
499
今は薄手でも少し汗ばむ時季だというのに、たどり着くその手前
から手はかじかみ、足はふるえてくる。
これは寒さと⋮⋮それに付随する、恐怖のためだ。
広間に隣接する家の人々は、見えない呪いを恐れて別の場所に移
ったという。
そうしてあたしは、そこへたどり着いた。
ここに来る前、あたしはきっとたくさんの人がいるだろうと予想
していた。
けれど、実際にはその逆だった。
公に立ち入りを禁止されてるのも大きいと思うし、自分に災いが
ふりかかるのを、なんとなく恐れているからかもしれない。
だから分厚い氷に覆われた広場には、彫像のように見える人々の
他に、動く影はない。
あの日はちょうど朝市が休みだったから、犠牲者はそれでも少な
くすんでいる。けれどざっと見ただけでも、その場には二十を超す
氷像が立っていた。
この中にはあたしの店に食べにきてくれた人だって、きっと一人
くらいはいるはずだ。そう思うと、胸が締め付けられた。
やっぱり、帰ろう。少なくとも、一人で来るのではなかったと、
後悔していたその時。
中央の、噴水をとりかこむ氷像の中に、一つだけ動く影を発見し
た。
一度見たら忘れない、見事な黄金の髪⋮⋮。
﹁あれ? 君⋮⋮イーディス?﹂
なぜかそこに、あの魔族のお兄さんがいた。
500
間話4.人間も色々大変なんです その2
﹁私の財産と引き替えに、この命はっ⋮⋮いえ、町はお救いくださ
ると、約束してくださったではないですか!!﹂
最初に反応したのはガストンさんだ。
お兄さんを見るや、跳ねるように立ち上がって、すぐに椅子の後
ろに隠れた。でもお腹がはみ出している。
﹁おおお、あなた様は! また、会いにきてくださったのですな!
!﹂
逆に両手を前につきだして、お兄さんへと歩みよろうとしたのは
領主様だ。気持ち悪い。
﹁きゃああああ! 私が忘れがたくて、さらいにきたのね!﹂
赤らむ頬を押さえて立ち上がったのはミナ。その横でマリーナの
手が、わきわきと動いている。
﹁おのれ、魔族⋮⋮今度はいったい、どんな残酷なことをしに、や
ってきたのだ!!﹂
青ざめながら、杖をぎりぎりと握りしめたのは魔術師ブレイスさ
んだ。
ここは、あたしがこっそり抜け出した役所の会議室。
まだマリーナによる即売会が行われていたその場所に、あたしは
お兄さんを案内して戻ってきた。
と、いうのも、お兄さんが︱︱。
﹁いやあ、どうなってるのかちょっと気になって。ほら、術式はお
いて帰ったものの、あの面子じゃやっぱり解くのは無理かな、と思
501
ってね﹂
なんて、とても気軽で優しい口調であたしに言ったからだ。
この間のどこかピリピリとしたお兄さんと違って、初めて会った
ときのような柔和な雰囲気だったもんで、あたしの緊張も緩んでし
まい、つい﹁広場を元に戻してほしい﹂とお願いしてしまった。
けれどお兄さんは、簡単に頷いてはくれなかった。困ったような
顔をして、﹁そうしたいのはやまやまだが、そうする理由がみつか
らない﹂と言ったのだ。
だからあたしは、ちょうど今、町の偉いオジサンたちがこの間の
ことを話し合いに集まっているから、そこへ一緒に行ってほしい、
とお願いしたのだった。
その結果が、今のこの騒ぎ、というわけ。
けれど、お兄さんは周囲の喧噪なんてどこ吹く風。
﹁⋮⋮あれ? なんか、見覚えのあるものが並んでる⋮⋮﹂
飄々とした様子で、机の上の品々を見てぽつりとそういった。
マリーナが売り出していた品々が、買い取ったのだろう人の前の
机に置かれていたからだ。
マントは領主様の前に、髪の毛と手鏡は魔術師ブレイスさんの前
に、竜の爪の垢は道具屋のオジサンの前に、下着は⋮⋮口にしたく
もない。
﹁この手鏡は﹂
お兄さんは品物の中から手鏡に目をつけ、そちらに一直線に向か
った。
前にいっそう進み出たミナと領主様をのぞいて、その行進を避け
るように、他の皆は部屋の端まであとじさる。
口では頑張っていたブレイスさんも、さすがに近くにはよりたく
502
ないらしい。というか、一番遠くの端まで逃げている。
﹁全部集めろといっておいたのに、残っていたのか。それで⋮⋮﹂
そう独りごちて、お兄さんは手鏡を懐にしまいこんだ。
それを買ったのだろうブレイスさんが、﹁あっ﹂という顔をして
マリーナを見たが、彼女は知らんぷりだ。
それからお兄さんは領主様の立つ奥の方へ歩み寄っていき︱︱領
主様、満面の笑みを浮かべた顔が赤らんでる。気持ち悪い︱︱、あ
たりまえのように上座に腰掛けた。
﹁よし。じゃあみんな、席につこうか﹂
こうして、どこか氷を思わす微笑を浮かべる魔族大公と、彼に反
対もできないオジサンたちによって、<魔族大公の襲撃事件>につ
いての会議が再開されたのだった。
***
﹁何をしにきた、魔族めが!!﹂
さっきはあんなに逃げていたくせに、席に着くなりブレイスさん
が杖を振りながら口火を切る。
だけど。
﹁なんだって?﹂
お兄さんが無表情にブレイスさんを見た途端、彼は杖をそっと机
にたてかけて、背をただした。
愛用の杖が雷で砕かれたことを、思い出したのかもしれない。
﹁いや、何をしにいらしたのかな⋮⋮と﹂
ちなみに、領主様は﹁マテ﹂と命じられた犬のように、お兄さん
の椅子の横にじっと正座して、キラキラした目でお兄さんをひたす
らに見上げている。気持ち悪い。
503
﹁何をしにきたのか、か﹂
お兄さんは居並ぶオジサンたちを見回した。その途端、数人が目
をそらし、大多数が緊張の面もちを浮かべたまま、固まってしまう。
﹁ガストン﹂
﹁はひ!﹂
いきなり名を呼ばれて、ガストンさんが直立不動の姿勢になった。
﹁手、まだ痛いか?﹂
﹁は⋮⋮いえ、その⋮⋮はい、ええ、まあ⋮⋮﹂
とたんに情けなくなるガストンさん。うん、やっぱりこっちの方
がしっくりくる。
﹁薬草を煎じた薬だ。傷口に塗り込んでおけ﹂
お兄さんが小さな瓶を、ガストンさんに向かって放り投げた。
﹁ははあああ。ありがたき幸せ!!﹂
それをうまくお腹と手で受け取って、ガストンさんは深々と頭を
下げる。本人はとても必死だが、それをみる周りのオジサンたちの
目がどこか冷たいものを含んでいることに、ガストンさんは気づい
ているだろうか。
﹁あああ、私もなんだか胸が痛いわ⋮⋮誰か親切に薬をくれないか
しら﹂
ミナが声をあげたが、お兄さんどころかオジサンたちからさえ、
注目されなかった。
﹁直接、診察してくれてもいいんだけど!﹂
声を張り上げるが、反応はなし。憐れ、ミナ。
﹁ところで、あの広場はまだ氷に閉ざされたままのようだが﹂
お兄さんの金色の目が、魔術師のおじいさんに向けられる。
恐怖で色が抜けたかのように、おじいさんの顔はその髭とおなじ
ように真っ白だ。
504
この会議室に入ってから、お兄さんの雰囲気はまたちょっと変わ
っていた。
私と二人で話していたときはあんなに親しげで優しげだったのに、
今はどこか毅然として、近寄りがたい。
そもそも顔だちが整いすぎているんで、笑顔でも浮かんでいない
と、とても冷たく見えるのだ。
﹁俺は解除のための術式を置いていったはずだが﹂
﹁くっ⋮⋮それは⋮⋮﹂
ブレイスさんが悔しそうにうめいた。
﹁ああ、そうか。あれを展開するのが、そもそも無理なのか。人間
というのは、それだけ微弱な魔力しか持たないのだったな﹂
皆の前で力不足を指摘されたブレイスさんは、奥歯をかみしめた。
さっきはあの面子じゃ無理だろう、って言ってたのに。なんでわ
ざわざそんな意地悪な言い方をするんだろう。
﹁人間だからといって、不可能なわけではない⋮⋮ただ悔しいが、
あれほどの魔術を使えるものが、この町にはいないのだ⋮⋮﹂
反論も弱々しい。
﹁一人で無理なら、複数でやってみたらいいじゃないか﹂
そう声をあげたのは、お偉いオジサンの一人だ。
﹁もちろん、それも考えた。だが、この町にいる魔術師全員でかか
っても、あの魔法陣を形成することはできないのだ﹂
﹁なんだって! そんな話は聞いていないぞ﹂
偉いオジサンの一人が声をあげ、他のオジサンたちも不安そうに
顔を見合わせる。
﹁準備に時間が必要だ、もう少し待ってくれ、というから我々は⋮
⋮﹂
505
﹁時間が必要なのは本当だ! なぜなら今、魔術師協会に特級魔術
師の派遣を要請しているからだ! もう少し⋮⋮いま少し、時間を
くれ﹂
ブレイスさんは声を絞り出すようにそういった。
﹁それで、魔族の大公殿。つまりあなたは、我々の無力さを実際に
その目で確かめ、人間たちの動揺を誘って、冷笑するためにやって
こられたのか﹂
不穏な空気に満ちた中で、冷静な声をあげたのは町長ボディガさ
んだ。
﹁いいや、まさか。俺だってそれほど、暇ではない﹂
﹁では何をしに、いらした﹂
緊張はしてるけれど、怯えた態度をみせない町長さんをどう思っ
たのか、お兄さんは薄く笑みを浮かべた。
﹁答える義理はないが、魔族を恐れぬその度胸に免じて聞かせよう﹂
相手が偉いオジサンたちだからだろうか。お兄さんも、私と話す
ときと違って、言葉も態度も固い。それにとても偉そうだ。
まあ、あんな立派なお城に住んでいるんだから、本当に偉いんだ
ろうけど。
﹁さっきの手鏡⋮⋮あれの回収が、その目的の一つだ。我が妹の魔
力が、未だ減少前の水準に戻らぬ。それで回収し損ねた手鏡がある
のではないかと考え、調査にきたというわけだ﹂
あれ? さっきはそんなこと、一言もいっていなかった⋮⋮。
﹁他に隠し持った鏡はあるまいな? 出すなら、今のうちだぞ﹂
オジサンたちが青ざめた顔を見合わせている。
﹁マリーナ。どうだ?﹂
﹁いえ! 持ってません!﹂
﹁マリーナ?﹂
506
お兄さんはマリーナの顔と、机の上の品々を見比べた。
﹁ああ、なるほど⋮⋮﹂
苦笑が浮かぶ。
﹁この品々は、返してもらうことにしよう﹂
そういって、お兄さんは手を閃かした。
その瞬間、小さな魔法陣みたいなものが空中に浮かんだとみるや、
机の上の品は一つ残らず消え去ってしまった。
どこかへ移動した、というより、この世から消滅した、という感
じだ。
商品を買ったらしいオジサンたちは、それぞれに複雑そうな顔を
したが、中でも領主様の落胆ぶりといったら⋮⋮気持ち悪い。
﹁さて、もう一つの目的だが、単なる下見だ﹂
﹁下見? 一体なんの⋮⋮まさか﹂
﹁町を襲う下見に⋮⋮﹂
オジサンたちの間に動揺が走る。
﹁まさか。人間の町を滅ぼすくらい、下位の魔族であっても一瞬で
足りる。わざわざ大公が足を運ぶ必要などない﹂
お兄さんは冷笑を浮かべてそういった。それだけで、部屋の温度
が冷えきったような顔を、オジサンたちはしている。
でもなんだろう⋮⋮不思議だけど、あたしはちっとも怖くない。
優しい方のお兄さんを知っているからだろうか。あっちの方が、
本性なんじゃないかと思っている。
﹁お前たちには関係のないことだが﹂
お兄さんはそう言って、魔族の王の即位を祝う祭りが百日に及ん
で全土で開かれること、そのために竜が空を飛び交い、恐ろしい魔
族たちが列をなして行進すること、を、語った。
507
﹁まあ、つまりはその下見⋮⋮みたいなものだ﹂
大祭主を押しつけられたからな、と、お兄さんは意味のわからな
いことをぽつりと呟く。
﹁⋮⋮町はもちろん、避けていただけるのだろうな﹂
魔族に町が蹂躙されるところを想像したのだろう。さすがのボデ
ィガさんの声にも、不安が色濃い。
﹁さてな。道程は行進を取り仕切る者が決めることだ。万が一、パ
レードが町を避けたとしても、それ以外の魔族の行動まで制限する
ことはできない。まあせいぜい、幸運を祈っているんだな﹂
突き放すようなその言葉に、全員が声をなくした。
あたしだって、お兄さんは怖くなくても、他の魔族は怖い。
その存在がどれだけ人間にとって残酷で、容赦のないものかは昔
話で聞いていたけれど、今は身を以て知っている。
その恐ろしい魔族たちが数百体も列をつくって驀進する、あちこ
ちに出没して騒ぎ出す、と聞いて、恐怖を感じないものはいないだ
ろう。
﹁さて、どうする? いっそ、町全体を氷で閉ざしてやろうか? この間とは違って、何一つ、誰一人残さず。そうすれば今、お前た
ちが心配しているような恐怖は、誰も見ないですむわけだが﹂
つまり今度はあたしも氷像になるということね。
いかにも魔族らしい申し出に、町長さんがひきつった笑みを返し
た。
﹁情報を事前にいただけたのは幸いだったが、その申し出は遠慮さ
せていただく。人間は、それほど非力ではない﹂
そうかしら。結構非力だと思うけど。
﹁まあ⋮⋮この世界に魔族以外の者がいることは、俺も気にかけて
508
おくことにしよう﹂
お兄さんはそういうと、おもむろに立ち上がった。
﹁さて、そのつもりはなかったが、存外に楽しませてもらった。そ
れに免じて、一つ、褒美をやろう﹂
そのせりふを聞いて、領主様が正座したまま身体を跳ねさせてい
る。こんな色んな話を聞いた後まで、その反応なの?
とことん、気持ち悪い。
お兄さんは食堂の給仕を呼ぶように、軽く手をあげた。
ただ、それだけだ。
さっきみたいに、魔法陣が空中に浮かぶこともない。
けれどそれだけで、部屋の空気が重くなった。
一瞬だけ。
この間、町のほとんどがお兄さんの魔術で解氷されたときは、と
ても立っていられないほどの重圧と、正体のわからない恐怖でパニ
ックになりかけたものだ。
けれど、今度はたったの一瞬。ズン、と、身体をつきあげる重圧
があっただけ。
そうして、終わり。
﹁残った氷は解いておいた。これで町は元通りだ﹂
その言葉を、魔術師であるブレイスさんだけは実感として理解し
たのだろう。
それまで反発心が大部分を占めていた、その瞳。けれど今、お兄
さんに向けられている視線には、熱意と憧れに似たものが込められ
ている。
今更ながら、お兄さんの持つ能力に、本当の意味で気づいたのか
もしれない。
509
﹁元通り? 本当か?﹂
オジサンの数人が席から立ち上がり、窓に駆け寄って外を見る。
ここから広場を見るのは、間にいくつも建物があるから無理だ。
けれど、そうせずにはいられない、という熱を感じた。
﹁なんだ今の⋮⋮﹂
﹁魔法陣⋮⋮あんな大きいものが?﹂
﹁まさか、また⋮⋮﹂
町の外からは、そんなざわめきが聞こえてきた。
どれも不安に満ちた、暗い声だ。
けれど少しして、﹁おーいおーい﹂という明るい叫び声が遠くか
ら聞こえてくるや、状況は一変した。
﹁みんな来てくれ! 広場の氷が溶けたぞ!﹂
歓声にも似た叫びに反応して、会議室に座っていた他のみんなも
立ち上がり、窓際に駆け寄る。
﹁おお、なんという﹂
さっきまでの緊張と不安が吹き飛び、町は安堵と喜びで満ちてい
た。
話し合いの最中、ずっとお兄さんに熱い視線を送り続けていたミ
ナでさえ、オジサンと手を取り合って目を輝かせている。
そんな歓喜に沸く会議室から、黙って出て行くお兄さんに気づい
て、あたしは慌ててその後ろ姿を追った。
﹁お兄さん!﹂
﹁ん?﹂
役所の出入り口で立ち止まってくれたお兄さんに駆け寄る。
振り返ったその表情には、さっきまでの厳しさはもうない。
﹁あの、ありがとうございました!﹂
510
﹁ああ。別にいいよ。さっきも言ったけど、俺ももともと、こうす
るつもりでやってきたわけだしね。理由はまあ⋮⋮どうだろう。魔
族の気まぐれ、ということで、うまく説明つくかな?﹂
お兄さんは苦笑を浮かべている。
やっぱり一対一でいる時の雰囲気は、どこか優しい。
﹁あの⋮⋮お祭りのこと、本当ですか?﹂
本当に、魔族が町の側までやってくるのだろうか。たくさん、た
くさん⋮⋮。
﹁ああ、大祭が開かれるのは本当だ。パレードは⋮⋮まあ、皆の手
前、ああは言ったけど、なるべく人間の町を避けるように俺も考え
てみるよ。もちろんそうはいっても、うかつに町の外には出ないよ
うに﹂
﹁はい﹂
﹁まあ、万が一⋮⋮そうだな、浮かれた魔族に出会ってしまったら﹂
お兄さんは少し考えて懐に手を入れ、ハンカチを取り出した。
派手なバラが、金色の糸で刺繍されたハンカチだ。
﹁これを見せるといい。俺のものだと相手が理解したら、君は無事
でいられるだろう﹂
﹁あ、ありがとう⋮⋮ございます﹂
あたしはそれを受け取る。
マリーナには、絶対に見つからないようにしないと!
﹁でも、どうしてこんな⋮⋮親切に⋮⋮﹂
お兄さんはにこりと微笑むと、あたしの頭をぽんぽんと軽くたた
いた。
﹁君の物怖じしないところと、明るい笑顔が気に入ったから、かな﹂
やばい。惚れてしまいそうだ。
﹁もっとも、竜はそのハンカチを理解しない。たぶんね。その場合
511
はあきらめてくれ﹂
なんとも魔族らしい言いぐさに、あたしは苦笑するしかなかった。
そうしてお兄さんは町から去り、あたしは役所から出てきたミナ
やオジサンたちと一緒に、南の広場の様子を見に行ったのだった。
果たして、広場はちゃんと氷解されていた。マグダブさんやブレ
イスさん、その他のみんなが以前、無事に氷解されたのと同じよう
に。
そしてやっぱり、記憶は氷漬けになる以前のままで止まっている。
けれどそれがなんだというのだろう。
町はつかの間、お祭りのような騒ぎで満たされた。
魔族の大公がやってきて、襲撃事件とは名付けられたものの、終
わってみれば被害は魔術師たちの杖とガストンさんの店の商品だけ。
巨大な魔術に驚きはしたし、そのことに対して恐怖を新たにはし
たけれど、それでも今回に限っては犠牲者が一人も出なかったこと
で、町の人々には魔族を単純に憎悪するより畏怖する心の方が強く
根付いたのだ⋮⋮とは、誰かがだいぶあとになって言った言葉だ。
それにはあたしのもらったハンカチも、一役くらい買っていたの
かもしれない。
その後、数十日を経て始まった魔族の大祭は、知らなくても気づ
かずにはいられないほどの狂瀾を及ぼしたからだ。
お兄さんの言うとおり、空には竜が舞い、普段は見かけない場所
でいくらもの魔族をみかけた。
幸運にもパレードが町の側を通ることはなかったが、ふらりとや
ってきて乱暴を働こうとする魔族が、少しはいたのだ。
あたしはその姿をみつけると、お兄さんからもらったハンカチを
512
魔族に向けた。最初は怖かったけど、町の誰かが魔族の犠牲になる
のを見るのは、もう嫌だったからだ。
それに、あたし一人でやったことじゃなかった。
その頃ちょうど、以前ブレイスさんが要請した特級魔術師がこの
町に滞在していて、あたしと一緒に行動してくれたりしたことも大
きい。
それから、彼と一緒にやってきていた、冒険者たち。
お兄さんの言ったとおり、バラのハンカチは魔族によく効いた。
人と変わらない姿の魔族も、動物が混じったような魔族もみんな、
それが誰のものかすぐに理解して、大人しく引き返してくれた。見
たとたんに悲鳴をあげて、逃げる魔族すらいた。
そうして町は百日にも及ぶその狂瀾を、無事に乗り越えることが
できたのだった。
まあその間に、特級魔術師や冒険者たちと、あたしやミナの間で、
色々すったもんだあったりするのだけど、それはまあいい。
そうしてその後、ハンカチの噂がよその町まで広まったせいで、
あたしはいろんな人からそれを譲ってくれと言い寄られることにな
った。特にマリーナは、何度も何度も懲りずにあたしのところにや
ってきた。
当然、誰にも譲らなかったけれど。
そう、マリーナといえばちゃっかりしたもので、即売会の品物は
消滅したにもかかわらず、約束した代金の半分はきっちり回収した
そうだ。なんでも売る契約は成立していたのだし、品物もきっちり
譲渡していたのだから、それを守ることができなかったのは本人の
せいで売った事実は変わらない、と、いうことらしい。
そのがめつさ⋮⋮抜け目のなさが気に入ったのか、彼女はガスト
ンさんに見込まれて、彼の店で働くことになったようだ。
513
その騒ぎからしばらくたち、町が平穏を取り戻した後、お偉いオ
ジサンたちはまた数回に及んで会議を開いたという。
そしてなぜか、<ジャーイル大公閣下に真実の忠誠を誓う町>と
いう方針が決定され、五十人の傭兵たちが全滅した跡に、立派な祭
壇がもうけられることになった。それだけでなく、毎年決まった時
期になると、そこへ供物がささげられるようになったりしたのだけ
れど⋮⋮どうしてそうなったのかは、あたしの知るところではなか
ったのだった。
514
45.頭痛を感じるのは、たぶんお気楽な配下のせいです
﹁で、なぜお前なのだ﹂
﹁ベイルフォウスのせいです﹂
即答だ。
こいつ⋮⋮弟のせいだと言えば、私が黙るとでも思っているのか
? もっとも⋮⋮それが真実である可能性は、限りなく高いが。
今私は、己の在位三百年を祝う大祭、その総轄役である大祭主を
務めることになったというジャーイルから 珍しくも執務室でなく、
謁見室で挨拶を受けている。
魔王を祝う大祭といえば、魔族にとっては一大事のはず。
だというのに、大公になりたてのジャーイルがその大役に選ばれ
たと聞けば、選定理由を尋ねたくなるのも無理からぬというもので
はないか。
﹁まあ、よい。それで?﹂
﹁それで、とは?﹂
何もわからない振りをするのはやめろ。
﹁大祭行事の概容はプートより報告があり、これは了承済みだ。そ
なたが大祭主に就任したことも、その時点ですでに承知しておる。
故に、ここにやってきた目的を聞いておるのだが?﹂
﹁だって魔王様! 魔王様は知らないでしょうけど、俺はこの数日、
領内へのちょっとした外出どころか、城の中にいてさえ極度の緊張
を強いられていたわけなんですよ﹂
知るか。
﹁魔王様のところに来たくても、来れない日々が続いていたわけな
んですよ!﹂
515
永遠にそんな日が続けばよかったのにな!
﹁病気にでもなっていたか﹂
﹁まあ、そんなもんです﹂
嘘をつけ! 殺しても死ななそうな図太い男のくせに!
﹁それが、ですよ? ほら、見てください。もうばっちり回復!﹂
いや、見ても何もわからないのだが。シャツをまくって、力こぶ
を見せつけてくる意味も、全く理解できないのだが。
﹁またこうして魔王様のところに遊びに来たり、できるようになっ
たわけですよ﹂
﹁今、遊びにって言ったか? 遊びにって!﹂
﹁え? 言いましたっけ、そんなこと﹂
目をそらしやがった!
﹁言ってないなら、今お前がここにいる目的を申してみよ﹂
﹁えー。もちろん、ご挨拶ですけど? 今日からちょいちょい、魔
王城で運営会議を開くので、まずは魔王様に就任のご報告含め、ご
挨拶をと﹂
報告はプートから受けたと言っただろう。
﹁うざいから、いちいち来なくていいのに﹂
思わず本音が漏れてしまった。
﹁え? 何かいいました?﹂
﹁ご苦労だった、と言っただけだ。目的を果たしたのなら、さっさ
と出て行け。以後、会議のたびにいちいち挨拶など来ずともよいぞ﹂
ジャーイルならやりかねない。会議で魔王城を訪れる度、挨拶に
来られたりしたら、うっとおしくてたまらない。来るなと釘を刺し
ておかないと。
あとは、そうだな。儀仗長にもよくいいきかせておこう。
大公であろうが、弟であろうが、ジャーイルであろうが、私の許
516
可なく居場所を教えるな。当然、知られても通すな、と。
⋮⋮ウィストベルを例外として。
﹁ちょ⋮⋮ひどくないですか、その手。犬を追い払うみたいな仕草、
やめてくれません? 傷つくなぁ﹂
勝手に傷つけ。むしろ、傷つけ。
﹁それより、聞いてくださいよ!﹂
それより?
出て行けとはっきり言ったはずだが、聞こえなかったのだろうか?
それからジャーイルは、プートの開催したという大祭を決めるた
めの<大公会議>でのやりとりを、逐一語り出したのだ。
だから概容はプートに聞いたといっただろうが!
﹁で、プートとベイルフォウス! 意外にも本当に話し合いだけし
たみたいで﹂
﹁それはそうだろう。大公位争奪戦できっちり決着をつけるのだろ
う? その前に逸って戦う理由はあるまい﹂
﹁いや、まあ⋮⋮そう言われればそうかもしれませんけど⋮⋮でも
あの二人、殴り合う気、満々に見えたんですけどね。でも、その結
果俺を大祭主に勝手に決めるとか⋮⋮あり得ないと思いません? 絶対いやがらせですよね! 本人の意思も確認せずに決めるだなん
て、横暴だと思いません?﹂
﹁ほう⋮⋮つまり、そなたは予の在位を率先して祝うなど、面倒以
外の何物でもないと、そう言いたいのだな?﹂
﹁そんなこと、ひとっことも言ってませんよ。やだな。被害妄想気
味じゃないですか?﹂
今のは不敬罪に問うても、誰も文句をいわないよな?
﹁あ、そうだ! 魔王様から何かご要望あります? 行事に対する
517
ことでも、それ以外でも﹂
﹁特にない。だからもう行ってよいぞ。というか、行け﹂
﹁えー。せっかくなんだから、わがまま言っていいんですよ? 遠
慮しないで、ほら﹂
無 視 か !
相変わらずウザい。
なんでこいつ、こんなにウザいんだ。
あと、笑顔がいつもうさんくさい。
なのになぜ、ウィストベルはこいつにご執心なのだ!!
いや、待てよ⋮⋮。
﹁そうだな⋮⋮要望というか、まあ考えていたことは一つあるが﹂
﹁なんですか?﹂
こいつがデヴィル族なら、きっと犬の尻尾が生えている。そして、
いつもうるさいくらいぶんぶん振られていることだろう。
﹁魔王城を新築せよ﹂
私の言葉に、ジャーイルの表情が笑顔のまま固まる。
﹁聞こえなかったか? 魔王城を、新しく建て直すのだ。ここでは
ない、別の場所にな﹂
﹁えーと? それって⋮⋮えっと⋮⋮﹂
﹁もちろん、すべてお前にまかせる。予とウィストベルの居住性を
第一に、そのお粗末な脳味噌を使って、この世に二つとない快適な
城を構想せよ﹂
﹁そんな、無茶な⋮⋮﹂
いつも脳天気なジャーイルが、本気で困っているようだ。
﹁考えてみれば、予とウィストベルの関係を知っているそなたが大
518
祭主に選ばれたのは、幸いであった。そなたも我らのために力を尽
くせるとあっては、今から気が逸って仕方ないであろう。これは忠
臣にしか、できぬこと故な﹂
﹁あ、いや⋮⋮確かに忠臣ですけど⋮⋮ですけど⋮⋮城って⋮⋮﹂
﹁わがままを言ってもよいのだろう?﹂
私がニヤリ、と笑うと、ジャーイルは観念したようにがっくりと
肩を落とした。
﹁わかりましたよ⋮⋮頑張りますよ⋮⋮﹂
﹁詳細に困ったときは、城の者に相談せよ。魔王城のなんたるかを、
実際に誰よりも知るのは現状勤めている者たちであろうからな。そ
なたにすすんで協力するよう申しつけておく。心配するな﹂
﹁くそ、ベイルフォウスめ﹂
なぜそこで弟の名?
﹁承知しました。この件に関しては、魔族の一大事。全大公一致で
事にあたらせていただきます﹂
いつもはどこか間の抜けた表情を、珍しくキリリと引き締めてい
る。
だがどうせ、一瞬で崩れ去るに違いない。
なぜならば。
﹁ところで、その弟から聞いたのだが、そなた⋮⋮プートの城では
随分人目をはばからず、大胆な行為に及んでいたそうだな? ⋮⋮
ウィストベルと﹂
案の定、ジャーイルはたちまち顔を青ざめさせ、情けなくもオロ
オロしはじめた。
本当にこいつ、魔族の強者たる大公なのか?
﹁ああ、いや⋮⋮違います。それはベイルフォウスがきっと大げさ
プートの城では
?﹂
にいっただけで、プートの城では何も⋮⋮﹂
﹁
519
私とて、この小心者が他者の城で事に及ぶとは思っていない。
そうとも。思ってなどいなかった。
今の言葉を聞くまでは。
﹁と、いうことは何か? プートの城では何もしなかったが、別の
場所ではウィストベルに手を出した、ということか?﹂
﹁あ、いやいや。違います! 俺から手を出すだなんて、そんなこ
俺から
? つまり、ウィストベルから手を出してきたとでも
とあるわけがないじゃないですか!﹂
﹁
⋮⋮﹂
﹁いやいやいや。そんな意味じゃなかったんです! 出されてませ
ん! ウィストベルからだって⋮⋮何も⋮⋮⋮⋮⋮⋮何も、されて
⋮⋮⋮⋮⋮⋮されてないと⋮⋮⋮⋮思って⋮⋮るし⋮⋮﹂
意味深に口ごもりやがって!
しかも、﹁何もされてないと思ってる﹂ってなんだ。どういうこ
とだ。
そのアタフタする様子がもう、肯定しているようにしか見えん!!
こいつ⋮⋮本当にウィストベルと何かあったのか?
﹁いや、魔王様、落ち着いて! 大丈夫だから、本当に大丈夫だか
ら、ちょっと落ち着いてください!﹂
﹁黙れ、この痴れ者﹂
私は王座に立てかけた黒の剣を鞘から引き抜いた。
その結果、ジャーイルは血をまき散らせながら、破壊音と悲鳴を
伴って窓から姿を消したが、まあいつものことだろう。
しかしこれで暫くは、ジャーイルも魔王城に来ても私のところへ
来ている暇などなく、我が平穏は守られるはず!
ただ⋮⋮。
気になるのは一点。
520
ウィストベルとジャーイルの間に、何があった。というか、本当
に何かあったのか!?
私は一人になった謁見室で、勝利に酔いしれるはずが、複雑な心
境を握りつぶすような気持ちで、拳を震わせたのだった。
521
46.兄弟揃ってわがままを言われても困ります
んー。
確かにわがまま言っていいとはいったけど、魔王様も限度っても
のを考えてくれないとなー。
城を建てろって。
城って!
簡単に言ってくれるよね。
魔王城なんて、住んでいるのに全容を把握できていない俺の城よ
りまだ広いんだぞ。
それを、今の準備期間を入れるとしても、あと百五十日ほどで建
てろと言うのか!
⋮⋮まあ、魔族の能力をもってすれば、できないことはないかな。
とりあえず現魔王城の見取り図を手に入れないと。それから建築
関係に向いた人員を各領から集めて、設計図をおこして⋮⋮。
なんか秘密の通路とか秘密の寝室とか⋮⋮秘密の部屋をつくらな
いといけない感じだ。つまり、魔王様とウィストベルが、誰にも邪
魔されずに逢い引きして、そのままいられる部屋⋮⋮ってことで。
ただでさえ、大祭主なんて面倒くさい役目を負っているってのに。
まあ、それ以前の問題だけど!
さすがにこの大事業を、俺一人で負うつもりはない。細かいチェ
ックは俺がするにしても、他の大公も全員巻き込もう。っていうか、
勝手に受け持ち場所とか決めてやろう!
大祭主を押しつけられたんだ。礼はきっちりとさせてもらわない
とな!
それでもたぶん、忙しさで俺は死ぬ。
522
とにかく今は、運営会議に出席しないと。
俺は頭から流れ出る血をふき取りながら、もう一度魔王城の正面
に戻って玄関から入りなおし、今度は会議室に向かった。
大祭主を押しつけられたあの日から二日後の今日が、初めての大
祭運営会議の日だ。
魔王城の中会議室では、各領から五人ずつ、委員にと選出された
総勢四十名が、俺の到着を待ちかねているはず。
脳筋だから逆に、なのか、決められた時間とかはちゃんと守るん
だよね、魔族って。
そうして、謁見室から中会議室へとたどり着いてみると︱︱。
﹁と、言うわけだ。気合い入れて頑張れよ! 手ェぬいた奴は殺す
から、覚悟しとけ!﹂
なぜか、運営委員たちを相手に発破をかける、親友の姿があった。
﹁ベイルフォウス⋮⋮なにしてるんだ、お前。っていうか、なぜこ
こにいる?﹂
﹁なぜって、ここにいるんだから当然、運営会議に出席しにきたに
きまってる﹂
ちょっと待て。
俺は残りの運営委員たちの数を数えてみる。
俺とベイルフォウスをのぞいて三十九だ。四十人いるはずなのに、
三十九人しかいない。
ちなみに、デヴィル族とデーモン族の比率は六対四、男女比も六
対四だ。
つまり⋮⋮。
523
﹁おいベイルフォウス。まさかお前も運営委員の一人なのか?﹂
﹁ここにいるんだから、当然だろ﹂
即答だった。
﹁いや、お前⋮⋮意味わからないから。大公がただの運営委員に?
そんなの聞いたことないんだけど!﹂
俺が信じられない、という顔で指摘すると、ベイルフォウスはさ
も得意げな顔でこう答えた。
﹁まさにそれが狙い目だ。他ならぬ、兄貴の在位を祝うための大切
な大祭。運営委員とは、その方向性を主導する大事な役目だ。それ
を弟の俺が、赤の他人に一任して黙っていられるはずないだろう!﹂
赤の他人で悪かったな!
めんどくさいな。こいつ、本当に面倒くさいな。
﹁それなら、最初から俺に役目を押しつけないで、大祭主を引き受
けろよ!﹂
にんまり顔の素描を思い出して、イラッとした。
﹁だから、手紙に書いただろ? そうできたなら、最初からやって
る。だがこれがプートと話し合った結果なんだから仕方ねぇだろう
が。あいつは俺が大祭主なのは、頼りないとかいいやがるし⋮⋮俺
だってあいつがやるのは絶対許せん﹂
﹁それでなんで、俺になる﹂
﹁デイセントローズが、お前ならどうかと提案してきてな﹂
デイセントローズ!? あの、ラマの奴がいらないことを言った
のか!?
﹁プートはお前のことを真面目な奴だと思っているらしくて、拒否
しなかったし、俺もまあ⋮⋮お前なら、俺がこうして参加しても文
句はいわないだろうし、いいかと思ったわけだ﹂
いや、なんで文句いわないと思った?
﹁でもお前がこうして参加するなら、大祭主をやらなくても同じ事
524
だろう。よく、プートが承知したな﹂
﹁馬鹿かお前。運営委員の選別は、各大公に一任されているんだぞ。
俺が誰を選ぼうと、他の奴には関係ない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮つまり?﹂
﹁ふふん。まさかプートだって、俺がこうした形で運営委員に影響
を及ぼそうとは、考えもしていないだろうな!﹂
なに自慢げに言ってるんだ。馬鹿はお前だろ!
誰を選ぼうと関係ない、か。
確かにそうかもしれないが、しかしどうなんだ。
こういう委員に、各領地からまとめ役として、公爵クラスが一人
参加するのはわかるんだよ。
でも残りの四人は侯爵以下の、それもどちらかといえば下位の者
から選ばれるもんなんじゃないの?
俺のところだってそうだからね。五人のうちの一人は、副司令官
と同等の実力を持った公爵を選んで参加させている。
けれどその他は、以前の大祭を経験したことのある伯爵か子爵だ。
それは魔王領を含め、他領の委員だって大差ない。
だって大祭運営委員会なんていったって、実際は大祭主に選ばれ
た大公が好き勝手に振る舞って意見を貫こうとするのを、承認する
ためだけの委員会だろ?
それをフォローするとなると、下手に対抗心とプライドの高い上
位魔族はむしろ邪魔だと思うんだけど。
いや、もちろん俺はそんな無茶も勝手も言わないつもりだし、ち
ゃんと話し合っていろんな事を決めていきたいと思ってるけど。
けれど、ベイルフォウスのところの人選。
自分自身が参加している時点で、もう意味が分からない。なのに
残り四人中三人も副司令官、あとの一人も公爵って、どうなのそれ。
525
大公一人と公爵四人って、どれだけこの運営会議でぶちこんでくる
つもりなの?
副司令官って、確か各領地に四人ずつしかいなかったよね?
だから、せいぜい運営委員に選ぶにしても、一人が限度のはずだ
よね?
だって他にも自領での催しの指揮役とか、大騒ぎするに決まって
る臣下の取り締まり役だとか⋮⋮そういう重要な役目があるはずだ
よね?
なのになんで、運営委員に三人も連れてきてるの?
他の役目も兼任させる気なの?
いや、その副司令官たちが事務能力に優れてる、とか、協調性が
ある、とかならわかるよ?
でもどう見ても、いいですか?
ベイルフォウスのところの副司令官とか、プートのところなみに
ムキムキの男性ばっかりで、しかもさも脳筋の極みです、っていう
覇気あふれる顔つきしてるんだけど!
おかげで下位の委員たちが、ちょっと萎縮気味に見えるんだけど!
﹁ところでお前、なんでいつも魔王城で怪我してんの? それも頭
ばっかり﹂
なぜかな! 君のお兄さんが、頭ばっかりねらってくるからかも
ね!
﹁そんなことはどうでもいい﹂
﹁いいのか? 血がでてるけど?﹂
﹁血なんてそのうち止まる。中が割れてないから大丈夫だ。それよ
り、会議を始めるぞ﹂
俺は流れる血を拭いつつ、議長席についた。
会議室の席は、一対多数の配置になっている。
526
幅の広い重厚な机を前にした正面席に議長が座り、残り全員が対
面で腰掛けるようになっているのだ。
二席ずつで一つの机を共有し、それが三固まりで一列は六席、後
ろに九列延びているから、全部で五十四席あることになる。
列は一段ずつ、昇り階段になっていて、議長は他の議員から、一
斉に見下ろされる形だ。
会議室、というよりは、講義室、といった方がピンとくるのでは
ないだろうか。
ベイルフォウスはその最前列のど真ん中⋮⋮二席分の机を、一人
で占めていた。
まあ、それくらいは仕方ない。
﹁では、みんな揃っているようだし、さっそく第一回目の運営会議
をはじめよう﹂
俺は深いため息とともに、その台詞を吐き出した。
初回の運営会議の目的は、大祭の正式名称を決定するのがまず第
一、<大公会議>で決まった大祭行事の具体的な内容の決定が第二、
第三に大祭の運営方針や指標について話し合って、時間があればそ
の他の細々したことも決めねばならない。
新魔王城の築城については運営会議ではなく、改めて大公を招集
して、意見を出し合うつもりだ。
﹁よし、じゃあとりあえず、ジャーイルが大祭主なのは仕方ないと
して、副祭主は当然、俺がつとめる﹂
ベイルフォウスはやる気満々だ。
だが待ってほしい。
本来、副祭主などという役はない。
なにが当然なのか、全くわからない。
各人の手元には、以前までの大祭の例を書き連ねた資料が配られ
527
ている。
それによると、役は大祭主をのぞけば祭司と書記が各領一人ずつ
で、残りの三人ずつが平委員となっている。
祭司というのは大祭主の指示を仰ぐ時間がないときや、それほど
の案件でもないときに、決定権を持つ役だ。当然、各領の公爵がつ
いている。
書記の役割は言うまでもないだろう。地位に関係なく、能力の向
き不向きで決定した。
残り全員がついた平委員は大祭の間中、二人一組であちこちに出
向き、問題がないかを確かめ、意見を集約し、大祭主や祭司の指示
を現地に伝達する。いわば実働部隊だ。
だが、そんな風になるはずが、ベイルフォウスが副祭主だなんて
役についたものだから、ただの委員が一人不足になっている。おか
げで一組だけ、三人組になってしまった。
だが、その状態に異を唱えようとする者は、一人もいない。
大祭の正式名称も、さくっと決まった。
<魔王ルデルフォウス大祝祭>だ。こういうときは、単純な名称
の方が好まれるらしい。
そして、<大公会議>で開催が決定された、大祭行事について話
し合うところなのだが。
﹁各城で行われる舞踏会を除けば、主行事の数は七つ、大公の数も
ちょうど七だ。せっかくだから、一人が一つの行事を指揮してはど
うかと思うんだが﹂
大祭主が行事全ての責任者になるわけではないし、運営委員会が
全ての行事を取り仕切るわけでもない。そんなことまでするのでは、
俺と四十人ではとても足りない。
この会議で決めるのは、各行事の責任者とその基本方針だ。そし
て始まってからは、問題があった場合の対処などに限られる。
528
それに、こういう大切な行事では、大公全員が等しくなんらかの
責を負うべきだろう。
﹁ま、いいんじゃないか? その場合、俺は大公位争奪戦を担当さ
せてもらうがな。自身の発案だし﹂
当のベイルフォウスが賛成すれば、ほかの者から反対の声はあが
らない。
そんなわけで、他の担当者もさくっと決まった。
まず、<大公位争奪戦>の担当は自薦のとおり、ベイルフォウス。
<音楽会>という名の乱痴気騒ぎを、アリネーゼ。
世界を駆けめぐる<競竜>の指揮に、デイセントローズ。
<美男美女コンテスト>の運営は、サーリスヴォルフ。
<爵位争奪戦>を監督する役に、プート。
<恩賞会>の担当が、ウィストベル。
そして、全日を通して行われる<パレード>を管理するのが、俺、
ジャーイルだ。
どうだろう。俺って健気じゃないか?
と、いうのも、恩賞会は魔王城で行われるし、それを与えるのは
魔王様自身だ。だから責任者はその間中、ずっと魔王様の側にいな
ければいけないのだ。いや、いけないということはないかもしれな
いが、普通に考えると、たぶん、いるだろう。
そこへ敢えてウィストベルを推した俺。
魔王様は、俺にもうちょっと優しくしてもいいと思う。
あと、美男美女コンテストとパレードの発案者はアリネーゼだが、
コンテストの方は責任者当人が一位だと、色々大変だろうと思った
から外した。そしてパレードを俺が引き受けたのは、道順を決めた
かったからだ。
529
イーディスにああ言った手前、少しは人間の町にも気をつけてあ
げたいと思っている。
﹁よし、じゃあ、そういうわけでこれが大公位争奪戦の日程表な!﹂
争奪戦を言い出した本人なんだから、構想はもとからあったんだ
ろう。ベイルフォウスは自ら大公位争奪戦の日程や取り組みまでち
ゃんと考えてきたらしい。
早速、全員にその概容が書かれた紙を配って⋮⋮いや、配下に配
らせている。
ほんとにやる気満々だな。
﹁全部で十一日だ。対戦順は表の通り。一日に基本は二戦ずつ、最
終日のみ、俺とプートの一戦で締める。ちなみに、すべての日程に
おいて、大公位への挑戦を受けつける。ただし、挑戦できる相手は、
当日の戦いに不参加の三名に対してのみだ。だが十一日だけは、全
員に対しての挑戦を受け付けることとする。せいぜい好きな日、好
きな相手に挑戦しろ﹂
ただでさえ常から好戦的な顔つきなのに、この場のすべてが挑戦
者であるかのように睨みをきかせながら、ベイルフォウスはそう説
明した。
おかげで、委員たちの間に緊張感が走る。
﹁この件に関して、異論・反論はあるか?﹂
あの、ベイルフォウス君。
そんな絶対反論なんて許さない、って顔で見回したらね、そりゃ
あ誰も発言できないと思うんだけど?
﹁ジャーイル。お前はどうだ?﹂
﹁いや、特に異議はない。日程も⋮⋮不都合はないしな﹂
むしろ一日目に俺とウィストベルの戦いが組まれているのを確認
できて、ホッとしてるところだ。
530
万が一、ウィストベルがあの鏡を本当に使ったとしたら、彼女が
最初に勝負に負ける相手は俺、ということになるからな。その感触
によって、次の使用を決定するだろう。
まあ⋮⋮ウィストベルを相手に戦うというだけでドキドキして、
本気を出せない可能性もない訳じゃ、ない。でも、さすがにそうだ
としても、百分の一のウィストベルには、負ける気がしないんだよ
な⋮⋮。
ちなみに、俺とベイルフォウスの対戦は⋮⋮十日目だ。少なくと
もそれまでには、ベイルフォウスの魔力も戻してやらないといけな
いだろう。でないと僅かな減少とはいえ、不公平だろう。俺は万全
なのに、ベイルフォウスは以前より減っている、というのは。
俺からも反対がないと知って、ベイルフォウスは満足げにうなず
いた。
﹁じゃあ、そういう訳で、俺は退席する﹂
は?
今、ベイルフォウス君は、なんと言いましたか?
気のせいかな。気のせいじゃなかったら、殴っていいかな?
﹁すまん、聞き逃した。もう一度﹂
﹁ああ、別にたいしたことは言ってない。会議を抜ける、といった
だけだ﹂
気のせいじゃないようだった。
﹁理由を聞いてもいいかな?﹂
俺は念のため、笑顔で拳を握りしめた。
531
47.終わりよければすべてよし
﹁後は適当に決めてくれ﹂
いやいやいや。
お兄ちゃんのための大祭だぞ!
がっつり関わるんじゃなかったのか!?
全員好き勝手に騒げ
﹁おい、ベイルフォウス! なにを勝手な﹂
﹁大会方針についてなら、
意見いっときゃいいってもんじゃないからね!
手を抜いたら殺す、って言っていたのは誰だ?
が俺の意見だ﹂
﹁バカいうな。ちゃんと最後まで参加していけ!﹂
﹁だがな、ジャーイル﹂
ベイルフォウスは立ち上がり、俺の側までやってきて、小声で言
った。
﹁実際、俺とお前⋮⋮二人も大公がいる状況だぞ? 参加者の顔を
見てみろ。萎縮しきって、さっきからほとんど誰も発言しないじゃ
ないか。だから、な?﹂
いや、﹁な?﹂じゃないから!
そんなのわかりきってて、それでも君は参加してきたわけだろう
が?
だいたい、萎縮しているのは君と君のところの公爵たちのせいだ
からね?
俺は関係ないからね?
﹁大丈夫。この失敗を考慮して、次回からは代理を立てる﹂
会議には来ないが、副祭主の座は確保したままってことか。
こいつ、わざとだろ。
532
﹁お前⋮⋮いくらなんでも、それは勝手すぎだろ﹂
﹁だったら﹂
ベイルフォウスはため息をついた。
いや、つきたいのはこっちなんだけど?
﹁毎回、会議の終盤あたりには出席する。これでも俺なりに、気を
使ってるんだぜ?﹂
なら最初から、委員に名を連ねようとするなよ!
﹁それに、どうしてもお前が絶対参加しろ、っていう時は、必ず最
初からいるようにする。それでいいだろ?﹂
そんな、自分が折れたみたいな雰囲気を醸し出されても!
だが⋮⋮一理あることはあるんだよな。
ベイルフォウスの奴は俺には気安いが、実は大多数の魔族からは
色欲と残虐性が原因で、かなり恐れられていたりする。気が短いの
も、知れ渡っているし。
それに俺と違って、外見からして好戦的で挑発的で嗜虐的だから、
余計だ。
こいつがいない方が、議論は活発になるだろうと予想はできるが
⋮⋮。
﹁わかった⋮⋮とりあえず、それで妥協しよう。だが、会議の重要
な決議には参加すること。俺が要望したときは、最初からいること﹂
﹁ああ、必ずそうする﹂
﹁それから、遠からずまた大公を集めての会議を招集する予定だ。
そのつもりでいてくれ﹂
﹁承知した﹂
ベイルフォウスは俺の肩を二度ほど軽く叩くと、ほかの誰に挨拶
をすることもなく、部屋から出ていった。
533
そして、それからの議論はどうなったのか、といえば⋮⋮。
﹁パレードに参加の者は薄着かつ肉欲的であるべきだと、我が領主
はおっしゃっておいででした!﹂
声高にそう主張するのはアリネーゼの配下の公爵だ。
﹁いいや。我が主におかれましては、公序良俗を鑑み、大祭にふさ
わしい重厚な衣装を身にまとって、威厳を持って行進すべきだと仰
せであり⋮⋮﹂
プート麾下の副司令官が、低い声でそう主張する。
さっきまでとはうって変わって、大変活発に意見交換がなされて
いる。
ベイルフォウスが退室した途端、あきらかに会議場の雰囲気が緩
んだのだ。
ベイルフォウス配下の公爵ですらそうなのだから、どれだけあい
つが怖がられてるかわかるというものだ。
⋮⋮ちょっと、同じ立場の者としては、複雑な気分にならざるを
得ない。
しかし、プートのところの副司令官はやっぱりごついな⋮⋮どう
みても、ごついな⋮⋮。
こんな奴が六人、一斉に襲いかかって来たわけか⋮⋮。
﹁ジャーイル大公閣下﹂
﹁あ、はい﹂
なに?
じっと見てたのがバレたのか?
それとも俺を同僚の敵と知って、恨んでる⋮⋮ないな。
真相についての手紙を書いたのは昨日で、出したのは今日だ。今
頃プートの手元にくらいには届いているかもしれないが、その部下
534
がその内容を知っているはずはない。それに簒奪が日常的、かつ個
人主義の魔族で、簒奪者を恨むなんて、家族かよほど親しい間柄の
ものでないとあり得ない。
﹁閣下はどう思われます? ⋮⋮パレードの、衣装についてですが﹂
プート麾下の副司令官が、俺に四角い目を向けてくる。
﹁まあ、俺は⋮⋮どちらかといえば、プート⋮⋮いや、君の方に賛
成かな﹂
﹁ですが、発案者は我が主君、麗しのアリネーゼ様です。せっかく
かんばせ
ご自身がそのお楽しみのためにパレードを提案なさったというのに、
そのお望みの光景を目にできないとあっては、あの花の顔に悲しみ
の影が落ちてしまうやもしれません。それでもよいと、みなさまは
申されるか?﹂
行進者が薄着でないと、発案者が悲しむからと言われても、意味
不明で困るんだけど。
パレードは魔王様の為に行われるんだけれども。
﹁いやいやどうして。困ったアリネーゼ大公も、よいかもしれんの
に﹂
﹁ああ、それはそれで、そそるかもしれません﹂
デヴィル族の男性委員の間で、ひそひそと交わされる言葉。
それに、アリネーゼ配下の公爵は、ピクリと反応した。
結局、プートとその副司令官である公爵に、アリネーゼの配下の
公爵が折れる形で意見の決着がついたようだ。
おそらくさっきのささやきで、多少の心境の変化があったのだろ
う。
﹁では次に、美男美女を選ぶ大会についてだが﹂
﹁それについては千年ごとの例を踏襲する、ということでよろしい
535
のではないかと﹂
公爵の一人が声をあげる。
﹁その千年ごとの例を、俺はいまいち詳しく知らないんだ。説明し
てもらってもいいかな?﹂
疑問に思ったのは俺だけで、他の者はほとんど知っているようだ。
まあそうだな。前回行われたのは三百年ほど前だというし、今回
選出された者たちは千歳以上の者が多いようだから、当然の反応な
のだろう。
﹁では、大公閣下のためにご説明いたします。何か誤りや記憶違い
があれば、どなたでも訂正していただきたい﹂
プートの配下は、口調も主君に似て固い。
﹁まず、投票についてですが、魔王城の前地に巨大な石の投票箱を
設置します。これは、開票するその時に割られるまで、決して中を
のぞかれることはありません﹂
なら、巨大な石箱の建設からはじめるわけか。しかし城を建てる
のとは違って、それくらいなら一瞬でできそうだが。
﹁票を得たいがため、宣伝に力を入れるものもおります。ですが、
基本は誰が誰に投票してもよいとの決まり通り、対象者は成人した
全魔族であり、とくに立候補するための枠があるわけでもございま
せん﹂
子供に投票権はない、と。
﹁締め切った後集計をし、五十位より上位について発表があります
が、千位までは名鑑が作られ、各公文書館に配布されます。デヴィ
ル族、デーモン族、それぞれと、それから総合版を男女別でとなり
ますので、合計六冊となります﹂
俺が見たのは総合版だな。アリネーゼとウィストベル、マストヴ
ォーゼとベイルフォウスが一緒に載っていたから。
﹁五十位より二位までには、それぞれの地位に応じた名声と褒賞が
536
与えられます﹂
ん? 二位まで?
﹁一位は?﹂
﹁一位はむしろ奉仕しなければなりません﹂
二位までは褒美をもらえるのに、一位だけは奉仕?
なにそれ、どういうこと? 初耳なんだけど。
﹁投票は、基本的に一人一票、無記名で行われます。が、その際に
自分の名前を敢えて書いて投票した者には、特別の賞が与えられる
ことがあるのです。それが、第一位の奉仕です﹂
え? ごめん、さっぱり意味がわからないんだけど?
﹁第一位になった者に対して、自分の名を明かして投票したものの
中から無作為に一名が選ばれ、第一位よりの奉仕が﹂
﹁ちょっと、その奉仕の具体的な内容を聞いてもいいかな?﹂
奉仕奉仕って言われても!
﹁まずは第一に、肖像画を描かせる権利です﹂
はい?
﹁名前まで明かして投票してくれているというのは、本気で好意を
抱いてくれているからこそです。ですので、一位の者は投票相手に
対して、感謝の気持ちを表さねばなりません。お礼に自分の肖像画
を一枚、贈るのです﹂
﹁⋮⋮へえ⋮⋮⋮⋮﹂
ですので、に繋がる意味がわからないけど、とりあえず相づち打
っておこう。
﹁裸体ですと、大変喜ばれるでしょうね﹂
今の発言、誰かな。
537
﹁第二に、一昼夜の権利です﹂
はい?
﹁投票してくれた相手というのは﹂
好意はもうわかったから!
﹁ですので、その相手のところに一泊する義務が生じるのです﹂
﹁は?﹂
思わず声がでてしまった。
なぜ、自分に対して投票してもらったからといって、一泊する義
務が生じるのか⋮⋮俺にはちっとも理解できないのだが?
﹁もちろん、招待する方は自分のできる限りの範囲で、饗応しなけ
ればなりません﹂
﹁要するにこの際だ、あわよくばやっちまえってことですよ!﹂
誰だ、今の下品な発言!
さっきと同じ奴か?
﹁気に入れば相手をそのまま手込めにするもよし、というか、既婚
者にとってはまたとないチャンスですからね﹂
公然と浮気できるチャンスって意味か?
というか、今のは完全に女性の声だったんだけど!
﹁そうそう、これを機に交際につながり、結婚するケースもありま
すしね!﹂
﹁そのまま監禁コースもたまにあるけどな! ハッハッハ﹂
なにさらっと明るくとんでもないこと言ってるの?
なんでみんな、和気藹々な感じになってるの?
﹁そうそう、相手が好みのタイプだったりしたら、むしろごちそう
さまという﹂
﹁今から愉しみでたまりませんね!﹂
っていうか、なんでお前等、一位の気分で話してるんだよ!
538
それにいいことばっかり想像してるが、逆のパターンは考えない
のだろうか。
仮に一位になったとしよう?
名前を書いてくれた中から抽選、ということは、全く面識のない
相手のところに泊まる可能性大ってわけだ。相手が弱ければ、別に
なんということもないが、相手がもし自分より強ければ⋮⋮襲われ
る可能性はこっちにあるんだけど?
俺の疑問に、誰かがこう答えた。
﹁だからなんです! 一夜くらい、誰が相手でも楽しめばよいでは
ありませんか!﹂
⋮⋮もういいや。
今までずっとこうしてきたんだ。ああ、魔族ってのは、そういう
もんだよな。
だいたい俺には関係ない話なんだから、気にしないでおこう。
しかし、ということは⋮⋮前回の第一位はデーモン族はウィスト
ベルとベイルフォウス、デヴィル族はアリネーゼとマストヴォーゼ
だったわけだけど。
まあ、全員大公だしな⋮⋮誰も関係を強制なんてできなかったろ
うし、そもそも誘われて困るのは愛妻家のマストヴォーゼくらいだ
ろう。
いや、娘たちの年齢からいって、マストヴォーゼだってその頃は
独身だった可能性が高い。それに、もしかすると大公でさえなかっ
たかもしれない。
となると、むしろ四人とも喜んで応じたという可能性のほうが、
高い気がしてきた。
そして今度も三人はそのままだろうし、うん、心配いらないな。
539
会議はそんな調子で、他の行事についても意見が交わされていっ
た。
こまごまとした方針なんかが着々と決定されていき、第二回目の
会議を十五日後と定め、魔王様への報告書をきれいにまとめて、初
回の運営会議は閉会したのだった。
540
48.子育て本を読むべき時が、きたのかもしれません
﹁うふっ。うふふふふふ﹂
なんだろう。
変な笑い声が聞こえる⋮⋮。
﹁ふふふふ。お兄さま、可愛い﹂
俺は飛び起きた。
﹁マーミル!?﹂
﹁はい?﹂
妹がにんまり顔で、俺の寝台に頬杖をついていた。
﹁⋮⋮この間、お兄さまがなんといったか、覚えているか?﹂
ため息とともに頭を抱える。
﹁もちろん、覚えていますわ。だから、添い寝はしてませんわ﹂
ぐっ⋮⋮。そういえば、添い寝はだめだ、としか言わなかった⋮
⋮のか。
﹁そうか、わかった⋮⋮﹂
今後、寝る前には扉が外から開かないように、封印を施すことに
しよう。そうしよう。
﹁お兄さま、今日からは朝食をご一緒できるんでしょう? もう、
お忙しいのは終わったのでしょう?﹂
マーミルが期待のこもった目でみつめてくる。
そういえばこのところ、食事を一緒にとる時間もほとんどなかっ
541
たからな。
﹁むしろ、仕事は以前より忙しくなりそうだが、まあ、今日は朝食
くらいなら一緒に食べられるだろう﹂
そう言って頭を撫でてやると、妹は紅玉のような瞳を、いっそう
キラキラと輝かせた。
﹁たまには二人っきりでお食事したいわ! いいでしょう、お兄さ
ま?﹂
二人っきりで?
スメルスフォたちを抜いて、ということか。
﹁それはかまわないが⋮⋮﹂
﹁じゃあ、一階のテラスでお食事しましょう! お庭に咲いた百合
が、それは見事なの。用意ができたらいらしてね。私、エンディオ
ンに伝えてきますわ!﹂
そう言って、マーミルはぴょんぴょん跳ねながら、俺の部屋から
出ていった。
***
さて、昼前には大祭実行委員会がこの城で開かれる。
運営委員会の翌日に、その結果を受けて自領での運営を話し合っ
たり、独自の催しを企画したり、確認したりする重要な会議だ。
が、俺は不参加で、結果の報告を受けるのみ⋮⋮つまり、魔王城
での運営会議における、魔王様みたいな立場ってことだ。
そうなると会議を総轄する者が必要になるわけで、それを副司令
官に︱︱具体的に名をあげると、フェオレスに、と思っている訳だ
が。
﹁⋮⋮にいさま、聞いてらっしゃる? お兄さまってば!﹂
﹁あ、悪い。なんだって?﹂
542
考え事をしていたら、マーミルの話を聞き流していたらしい。
妹は生クリームの乗ったプリンに、デザートナイフで切り込みを
入れた状態で、頬を膨らませている。
﹁この縁がほんのりピンクに色づいた百合ですわ! とても綺麗ね
って!﹂
なんだ、そんなことか。
﹁いま、そんなことかと思ったでしょう﹂
だって本当にそんなことだからな。
﹁私の紋章にどうかしらってお話ですのに!﹂
マーミルの紋章?
﹁お父さまもお母さまも、お花だったと聞いていますわ。お兄さま
も薔薇ですし。私の紋章も、お花から選ぼうかと思って﹂
﹁ちょっと待て﹂
俺は右手を挙げた。
﹁なんですの?﹂
﹁お前⋮⋮いくらなんでも、それは気が早すぎだろう。紋章を決め
るようになるまで、まだ四、五十年くらいはあるだろうに﹂
身長だってまだ伸びきっていない子供の時分から、紋章の話とは
⋮⋮。女の子ってのは早熟なのか?
﹁あら。こういうのは早めに決めておいた方がいいって聞きました
わ。お兄さまは紋章官がやって来てから、お考えになったそうです
けど﹂
やって来てから考えたっていうか⋮⋮うん、むしろ考えもしない
で、目の前にあるものを適当に描いただけなんだけど。
﹁なににするのがいいのか、早くから決めておけば、それだけ練習
する時間も長くとれますもの!﹂
ああ、自分で描くつもりなんだ?
﹁と、いうわけで、私、絵画を習いたいですわ﹂
543
⋮⋮なるほど。そうきたか。
﹁今度は三人でそういう話になったわけか。もちろん、スメルスフ
ォも賛成なんだろうな﹂
さすがにもう俺も、ちょっとわかってきたぞ。
﹁あら⋮⋮いいえ⋮⋮﹂
マーミルが、珍しく複雑そうな表情を浮かべる。
﹁絵画は⋮⋮私、一人の意見ですわ⋮⋮双子は関係ありません﹂
なんだろう⋮⋮妹にいつもの元気がない?
﹁私、先生にはデーモン族の方がいいですわ。男の方でも女の方で
もかまいませんけど、そこだけはお願いします﹂
いや、絵を習わせると決めた訳じゃないんだけど。
だが、種族の指定?
今までマーミルはデヴィル族とかデーモン族とか、区別なく接し
ていたと思うんだが⋮⋮何かあったのか?
﹁どうした。双子と喧嘩でもしたのか?﹂
そう言えば、以前ほど一緒にいるところを見かけないと思ってい
たんだった。
それに食事中にも、彼女たちとどうしたこうした、という話はほ
とんど出てこなかったし。
﹁喧嘩なんて⋮⋮してませんわ⋮⋮﹂
ずいぶん、含みのある言い方だなあ。
俺は自分のスプーンにプリンをすくい、マーミルに差し出した。
﹁ほら、あーん﹂
妹は気落ちした表情から一転、笑顔で円卓に身を乗り出すように
してそれを頬張る。
﹁もう一回、もう一回!﹂
﹁ん﹂
544
要望に応えてもう一度プリンをすくってやると、今度はゆっくり
と食らいついてきた。
﹁お兄さまの方が少なくなりましたわ! お返しに私も、はい、あ
ーん!﹂
マーミルが綺麗に切り分けられたプリンを差し出してくる。
﹁いや、お兄さまはいい。全部お食べ﹂
﹁えー﹂
なぜそこでぶーたれる? 喜ぶところだと思うのだが。子供は甘
いものが好きだから、食べられる量が増えたら嬉しいんじゃないの
か?
﹁お兄さまのけちー﹂
え? なぜそこで﹁けち﹂?
プリンをあげてるのになぜ﹁けち﹂?
納得いかないんだけど⋮⋮。
まあ、子供というのは理不尽なものだ。考えても仕方ないだろう。
﹁で、双子たちは一緒に習わなくていいのか?﹂
﹁そりゃあ、あの子たちが習いたいというなら、一緒でもいいです
けど⋮⋮どうだか知りませんわ﹂
ネネネセ呼びでもなく、あの子たち、か。
﹁どうしたんだ。あんなに仲良くしてたのに⋮⋮﹂
﹁別に仲が悪くなったわけじゃありませんわ。ただ⋮⋮私と双子は、
本当の姉妹ではないんですもの。それにデーモン族とデヴィル族で
すし。ずっとべったり、できるわけありませんわ﹂
喧嘩はしてないけど、仲良くもしていないのか?
将来は三人で男爵に就いて、近くの領地をもらって、お茶会やら
お泊まり会やらをしあって楽しむのだと言っていたじゃないか。
もしかしてこの言い方だと、妹もついにデーモン族とデヴィル族
の間に横たわる、価値観の違いに溝を感じてしまったのだろうか。
545
後でアレスディアにでも探りをいれてみるか。
﹁それより、お兄さま! そろそろ、筆頭侍従は決まりそうですの
?﹂
あからさまに話題を変えてきたな。そもそも自分から絵の件を出
してきたというのに。
﹁いや、まだだ。だが、早急に決めないと、とは思っている﹂
﹁前にも言いましたけど、ぜひ未婚の娘も妹もいない、まじめなデ
ーモン族の青年をお選びくださいね!﹂
なにその限定的な条件。
﹁約束はできないな﹂
そう言うと、妹はまた口をとがらせた。
﹁お兄さまのけちー﹂
二回目だ。
もしかして、反抗期か。これが反抗期というものなのだろうか。
子育てについて、スメルスフォとかに相談した方がいいのだろう
か。
﹁旦那様、お嬢様。お食事中、失礼いたします﹂
声をかけてきたのはエンディオンだ。
﹁いや、もう食事も終わるところだ。かまわないよ﹂
妹は口をとがらせたままだが。
﹁何か問題でも?﹂
この家令が食事中に話しかけてくるのは珍しい。急ぎの用なのだ
ろうか。
エンディオンは俺の傍らに立つと、長い身体を折り曲げて、耳元
でささやいた。
﹁来客がございまして﹂
﹁誰だ?﹂
546
﹁セルク子爵でございます﹂
セルク?
﹁こんな早くから、何の用だ﹂
﹁それが、用件は旦那様に直接お話ししたいと、申しております。
謁見の時間にやってくるよう伝えましたが、一刻の猶予もない、と
必死に訴えるものでございますから。いかがいたしましょう。やは
り謁見までは待つよう、申しつけましょうか﹂
一刻の猶予もない?
なんだ。
今度は自分が下位の挑戦でも受けて、爵位を剥奪されたか?
しかし、あいつ結構地力はあったからな。
﹁いや、会おう。ただし、時間はそう取れないが﹂
俺はスプーンを置き、立ち上がった。
﹁お兄さま。もう? あと少しくらい⋮⋮﹂
マーミルは口元をとがらせたまま、名残惜しそうに見上げてくる。
﹁夕食も一緒に食べるから、そんな顔をするな﹂
﹁本当ですの?﹂
﹁ああ、本当だ﹂
頷いてみせると、ようやく妹は口元をほころばせた。
﹁じゃあ、仕方ありませんわね。勘弁してあげますわ﹂
﹁許してもらえて、光栄だよ﹂
そうして俺は妹の頭を撫でると、朝食の席から立ち去った。
547
49.大祭が始まる前に、決めておきたいこと
エンディオンだけ先に執務室に向かってもらって、俺はいったん
自室に戻った。
これから必要になるものがあるからだ。
というのも、今日はジブライールと公式に顔を合わせる機会があ
るのだ。
そのついでに、魔力を返してしまいたい。
そう、必要なものとは、例の四十枚の手鏡のことだった。
それと医療班からの分厚い報告書。さすがに合間にでも読み進め
ていかないと不味いだろ。
そんなわけで大きな鞄にその二つをつめこみ、自室を出る。
そうして住居棟から本棟へと向かっていたら、途中でイースに出
くわした。
﹁旦那様。お荷物、お運びいたしましょうか?﹂
この申し出を受けるのは、イースで十人目だ。
ありがたいが中身が中身だけに、渡すわけには⋮⋮いや、イース
ならいいか。
大きな鞄を持って登場、というのも格好がつかないし、ここはイ
ースに甘えることにしよう。
﹁そうしてくれると助かる。実は今、来客があってな。客人はセル
ク子爵なんだが、彼が帰ってから、執務室に届けにきてくれるか?﹂
﹁お任せください!﹂
俺が鞄を渡すと、イースは嬉しそうな表情で受け取った。
﹁中はお前も知ってる四十枚の鏡だ。割れないように保護はしてあ
548
るが、扱いには気をつけてくれ﹂
﹁はい、旦那様﹂
そう言うと、イースは鞄を大事そうに抱きかかえた。
そうして俺はセルクの待つ応接室へと、手ぶらで向かったのだっ
た。
***
﹁このような早朝からお邪魔し、無理を申して閣下の貴重なお時間
をいただいてしまい、申し訳ありません!﹂
部屋に入るなり、セルクの頭頂部を見せつけられた。
禿げてはいないようだ。
﹁まあ、構わない。そう気にするな﹂
エンディオンに目をやると、家令は執務机の横に控えたまま苦笑
を浮かべている。
俺が執務椅子に座ると、セルクは顔をあげて机の前で直立した。
﹁それで? 火急の用ってのは、一体なんだ?﹂
﹁閣下。噂を耳にしました﹂
セルクは歩み寄ってくると、机の上に両手をついた。
﹁筆頭侍従を公募なさると⋮⋮なぜですか?﹂
ああ、まあその件か。
﹁なぜ? どういう意味だ?﹂
﹁先日の面談で、私の採用をきめていただいたのだと⋮⋮﹂
﹁そんな話題は全く出なかったはずだが﹂
本当はそんな考えもあったんだが、ジブライールとの噂に気を取
られて、それどころじゃなくなったからな。
﹁まさかワイプキーの地位を奪ったからと言って、役職まで自然に
549
引き継げると思っていたわけじゃないだろう?﹂
﹁ええ、はい⋮⋮それはまあ⋮⋮さすがにそこまでは⋮⋮﹂
思ってないのに、文句を言ってくるのもおかしなもんだが。
﹁ワイプキーに何か言われたか?﹂
あの親父、ちょいちょい勘違いで事をすすめようとするからな。
﹁小父さん⋮⋮ワイプキー殿がおっしゃるには、お前は閣下に気に
入られただろうから、遠からず筆頭侍従としてお召しがあるだろう、
と﹂
いや、別に嫌な奴だと思いもしなかったけど、とりたてて気に入
ったという態度をみせた覚えもないんだけど。
﹁そう思った根拠は?﹂
﹁何度も感心したように、頷いていらした、と﹂
ああ⋮⋮。
﹁確かに感心はしたな。エミリーに対する思いの強さに﹂
セルクは眉根を寄せた。
だがこの間のように、俺に対して邪推しているとか、怒りを感じ
ているというわけではないようだ。
﹁くそ、またか! あの妄想親父め!﹂
エミリーの妄想に対しては<夢見がち>という表現だったのに、
その父親に対しての認識は容赦ないんだな。
だが、﹁またか﹂というほど何度も迷惑を被ってるんなら、簡単
に信じるなよ、と言ってやりたい。
﹁ですが⋮⋮ですが、閣下﹂
セルクはふんぎりをつけたように頷くと、まっすぐに俺と視線を
あわせてきた。
﹁勘違いがあったとはいえ、私は閣下との面談以来、ワイプキー殿
550
の指導の元、筆頭侍従としていつでもお役に立てるよう、訓練に励
んでまいりました。どうかお願いです閣下! ごく短い期間で結構
です。せめてその成果を、お試しいただけませんでしょうか!﹂
セルクは力強くそう言うと、数歩あとじさって床に片膝をついた。
﹁その結果、閣下が不採用と判断なさるなら、それについて決して
不服は申しません。ですからどうぞ、機会をお与えください﹂
軽く、頭をさげる。
セルクの動作には、隙がない。無駄を排除した動きで、優雅を極
めたようなフェオレスの対極にあるようなキビキビした印象を受け
る。
副司令官の中ではジブライールに一番近いかな。
当然、印象は悪くない。
それにワイプキーの指導、か。
まああの親父、性格はともかくとして、仕事自体はきちんとこな
していたからな⋮⋮。
﹁そうだな⋮⋮﹂
エンディオンを一瞥してみるが、どう思っているにせよ、家令か
らの反応は全くない。
少しくらいは参考にしたかったんだが、まあ仕方ないか。
と、すると⋮⋮。
﹁そこまでいうのなら、試用期間をもうけてやろう。短ければ数日、
長くても十日間ということで、どうだ?﹂
﹁ほ⋮⋮本当ですか!?﹂
実際の働きを試してみるのも悪い手ではない。
公募したところでエンディオンに匹敵するほどの人材なんて、簡
単には見つからないだろうし。
551
﹁いつから始めれば、よろしいでしょうか﹂
﹁もちろん、今日からだ﹂
﹁本日、これからですか?﹂
﹁何か問題でも?﹂
﹁いえ、誠心誠意、勤めさせていただきます!﹂
セルクは深々と、頭を下げた。
どうやら、本当にやる気はあるようだ。
﹁エンディオン、指導してやってくれ﹂
﹁かしこまりました﹂
やはり家令の表情には、可も否も浮かんではいない。ただ、俺に
対する全幅の信頼が確認できるだけだ。
﹁では一度失礼して、手続きにまいります﹂
﹁ああ、頼む﹂
エンディオンはセルクを連れて、執務室を出て行った。
二人が戻ってきたのは、謁見の始まる頃だ。
魔力が減少して以降、時間を短縮しはしたが、行事自体は取りや
めていない。
やってくる顔ぶれはいつもとほとんど同じ、そして話題もいつも
と同じ、平凡なものだが⋮⋮。
まあ、たまに重要な情報ももたらされるからな。
﹁お初にお目にかかります、ジャーイル大公閣下﹂
どうしたことか、この台詞を言ったのは彼で五人目だ。
その挨拶に続いて、たいていは自分がどこの誰かという自己紹介
が始まる。
彼らの共通項は三つあった。
まずは、誰もが子爵であるということ。
552
二つ目に、現在、または以前、それなりの屋敷で侍従かそれに近
しい役を勤めていた経験があるということ。
そして、三っつ目に、その侍従としての能力が、いかに優秀であ
るか、ということだ。
ああ、この状況には覚えがある。
以前は独身女性ばかりだったが、今はそうとは限らない⋮⋮五人
は全てあのときと同じくデーモン族。そして、そのうちの二人はや
はり女性でもあったが、あのときとは目的が違う。
そう、彼らは一様に、筆頭執事としての価値をアピールしにきて
いるのだ。
公募の発表前に、少しでも印象づけたい、あわよくば⋮⋮という
ことなのだろう。
セルクだって知っていたんだ。他にも漏れていないはずはなかっ
た。
﹁明日はもっと多くなるでしょうね﹂
﹁やっぱりそう思うか﹂
エンディオンの言葉に、思わずため息が漏れてしまう。
公募すると決めてはいたものの、実際にこう⋮⋮立て続けにガン
ガンこられるのは、結構疲れる。
﹁とはいえ、本日の五人の印象は、いかがでした?﹂
﹁まあ、悪くはないが、とりたててこれぞという特徴もなかったし
な⋮⋮決め手に欠ける﹂
特別気の合いそうな者もいなかったし。
彼らはみんな、同じように自分がいかに優秀であるかをアピール
してきたが、その内容に大きな差は認められなかった。
一人残らず俺より年上ではあったが、さすがにエンディオンほど
長命な者もいない。五百歳が一番上、だったかな。
553
この状況に不安そうな顔でもしているかとセルクを見たが、案外
肝が据わっているのか、少なくとも表面上は平然としている。
﹁もしかして、君が謁見の時間まで待たなかったのは、この状況を
察していたからか?﹂
﹁否定はいたしません﹂
なるほど。彼らに混ざって印象が薄くなることを危惧して、先ん
じようとしたわけか。そうして今のところ、セルクの作戦勝ちとい
った状況なわけだ。
まあ、抜け目がない性格は、嫌いじゃない。
﹁とりあえず、セルクが侍従見習いについていることを公式に発表
して、明日からその目的で謁見に来るのは禁じてくれ﹂
﹁かしこまりました﹂
﹁ありがとうございます、旦那様﹂
さすがにセルクも、少しはほっとしたようだ。
やれやれと立ち上がると、すかさずセルクから声がかかった。
﹁軍団副司令官四名、執務室にて旦那様のお戻りをお待ちでいらっ
しゃいます﹂
どうやらエンディオンは、初日からセルクにきちんと仕事をさせ
るつもりらしい。
﹁ああ、なら執務室に向かうか﹂
俺はそう告げ、謁見室から執務室へと移動したのだった。
554
50.副司令官たちの役割分担
﹁納得いきません! 大祭の実行委員長といえば、大公城にあって、
領内の行事の運行すべてを預かる大事な立場! 閣下が不在のおり
にはその代行を務めるはず。それをなぜ、フェオレスのような若輩
に一任されるのか⋮⋮﹂
唾をとばしながら怒り狂っているのは、雀だ。
だがリスの方も強くうなずいているところを見ると、同意見なの
だろう。
ヤティーンが本気で怒っているのはその口調の激しさでよくわか
るのだが、どうしても外見の可愛さのせいで緊張感が沸かない。
ちなみに、ジブライールはいつも通りの無表情だ。いいや、いつ
も以上にも見える。
正直、何を考えているのか、今日はいつも以上に読み解けない。
ちなみに、エンディオンとセルクには席を外してもらっている。
部屋には俺と副司令官四人がいるだけだ。
彼らは向かって右からウォクナン、ジブライール、ヤティーン、
フェオレスと並んでいる。いつも同じなので、どういう法則なのか
と聞いてみたら、公爵についた順、だそうだ。もっとも、ジブライ
ールとヤティーンは、ほとんど同時期ではあるらしい。
そういえば、幼なじみだとも言っていたか?
今日この後、大祭に際して自領で行う行事や運営を話し合う会合、
実行委員会が開かれる。
四人の副司令官や運営委員の五人もこの会議に調整役として参加
はするが、実行委員には数えられない。
555
彼ら九人を抜いた実行委員の数は、総勢五十名。
そのメンバーは運営会議とは違い、公爵をはじめとした高位の者
と、二十五人の軍団長で占められている。
ところが運営会議に不参加だった魔王様同様、俺は実行委員会に
は不参加で、報告を受けて裁可を出す立場にある。
となると、実行委員長を任せられるのは副司令官をおいて他にい
るはずがない。
それでその任を、副司令官の中では常に冷静で当たりのよい印象
の、フェオレスに任せるつもりでそう発表したところ、ヤティーン
の抗議が始まったのだ。
﹁年のことを言うなら、俺はどうなる。フェオレスよりまだ下だぞ﹂
と、いうか、この五人の中では一番年下だ。なんだったら、ヤテ
ィーンが俺の父親だって、年齢的にはおかしくない。
魔族の成人は百歳だからな。
﹁閣下は大公じゃないですか。同位の者とはまた、違います!﹂
まあそれはそうかもしれないが。
﹁今回の役目については向き不向きを考慮して、担当を決めたつも
りだ﹂
﹁じゃ、フェオレスが閣下の代理にふさわしいと、そういう考えな
んですね?﹂
今日のヤティーンは、いつになくしつこいな。
そんなに実行委員長をやりたかったのか?
﹁別に実行委員長一人が俺の代理を務めるわけではない。確かに今
回は大祭主についてしまったから、不在であることは多いだろう。
その間の大公城の管理はフェオレスに一任することになる。だが、
重要性や権威に関しては、ほかの副司令官だって同じくらいの役を
割り振ったつもりなんだが﹂
﹁え、俺にも何か役目がっ!?﹂
556
﹁もちろんだ。副司令官全員に、仕事をまかせるつもりでいる。魔
王様の在位を祝う大祭だぞ、大役が一つであるはずはない。当然だ
ろう?﹂
俺が肯定すると、雀はつぶらな瞳を輝かせだした。
前置きなく実行委員長を一番に発表したのが、不味かったらしい。
それで今回の重要な役目はそれだけだと、勘違いしたようだ。
すすんで仕事を欲するだなんて、意外にもうちの副司令官たちは
仕事熱心だな。
﹁ヤティーンには領内全域の、治安維持に力を貸してもらいたいと
思っていたんだが、不服か?﹂
﹁治安維持! しかも全域の!? 不服なんてとんでもない! 大
歓迎です!!﹂
雀は勢いよく右手を天高く掲げた。
どさくさに紛れて、思う存分暴れられそうだ、と思ったに違いな
い。
お見通しなんだよ!
だから暴走しすぎないよう、補佐役には適度に固い軍団長をつけ
るつもりだ。
だが、俺だって無慈悲じゃない。
稀なお祭りなんだ。副司令官だってただの魔族の子。多少はハメ
を外してもかまわない、と、思っている。
だからこその、この人選だ。
﹁では、閣下。私は閣下の背後に⋮⋮いえ、お側に立ってあれやこ
れや補佐する役ですかな?﹂
リスめ⋮⋮今、背後に、といったな?
それからハアハアいいながら、涎をふくのはやめろ。変態くさい。
557
﹁つまり、行事の運営などにとどまらず、閣下がご不在の時には全
体を把握して、全領民に号令をかけ、すべてを取り仕切る⋮⋮﹂
﹁いや。そうじゃなくて⋮⋮﹂
それ、実行委員長とどう違うんだ。
﹁<大公会議>で大祭主行事が七つに定められたのは、知っての通
りだ。運営会議で全大公がそれぞれ一行事を主導することに決まっ
てな。俺の担当は、パレード⋮⋮世界中を、各領百人ずつ選出した
美男美女を引き連れて、行進しなければならない。俺がそれを率い
るわけにはいかないから、ウォクナンにその運営をお願いしたい、
というわけだ﹂
﹁パレード⋮⋮美男、美女⋮⋮美女⋮⋮!! 数百人の美女!!!﹂
とたんにリスは口の端から涎を滝のように垂らしだした。
ぬぐえ。せめてぬぐえ。
﹁単純に考えても⋮⋮二百⋮⋮二百の美女をはべらかせて!﹂
はべらかせるわけじゃないから!
だいたいウォクナンって、既婚者だったよな?
﹁では、残った私のお役目は⋮⋮﹂
ジブライールが、厳しい目つきでこちらを見てくる。
さすがに、噂話を耳にしたか? それで怒ってるのかな?
俺がジブライールを寵姫に選んだという、あの噂だけれども。
きっと聞いたよね⋮⋮あれからだいぶ経ったもんね。さすがに、
もう本人の耳にも入ってるよね⋮⋮。
﹁閣下の護衛、ということでよろしいのですね!?﹂
え?
﹁いや、俺は大公だから⋮⋮護衛?﹂
あれ?
強者に護衛なんてつかないだろう。どうしてそんな妙なことを言
558
い出すんだ、ジブライール。
﹁では、相談役ですか?﹂
相談役? ってなに?
護衛よりさらにわからないんだけど。
どちらにせよ、俺の側にいる役目ってことだけは間違いないみた
いだ。
なぜジブライールがリスみたいなことを?
ウォクナンが俺の側にいたい、と言うのは、俺の頭を後ろからか
じりつくタイミングを計ってのことに決まってるが、どうしてジブ
ライールまで⋮⋮。
まさか、ジブライール⋮⋮俺の弱体化に気付いてた?
しかもそれがまだ治ってないと思って、護ってくれる気でいる、
とか⋮⋮。
いや。そんなハズはない。あのベイルフォウスだって、気付かな
かったんだ。
真意はわからないが、今はとにかく話をすすめよう。
﹁実はルデルフォウス陛下より、今回の大祭にあわせて新しい魔王
城を築城せよ、とのご命令があった。ジブライールには、その現場
監督を頼もうと思ってるんだが﹂
この役をジブライールにあてたのは、自領での役割だと頻繁に顔
を合わせることになって、気まずい思いを多くしなければいけない
から、とかいう情けない理由では決してない!
むしろ、魔王様の新居城だ。俺が現場を放っておけるはずはない
のだから、逆に顔をあわせる機会は、誰より多いかもしれないと思
っているくらいだ。
だからなんだというのだ。
559
俺だって蹴られたこととか、噂のこととか、そんなささいなこと
をいつまでもいつまでも気にするような小さい男では⋮⋮⋮⋮ない。
ない! のだ。そうとも!
新魔王城の築城には全大公を巻き込むつもりでいる。その監督と
なると他領の実力者にも魔力で劣らず、常に沈着冷静な対応のでき
るジブライールが適任だろう。
そう、適材適所の精神で、人事を決めているのだ!!
﹁魔王城築城の現場監督⋮⋮﹂
ジブライールは目を見開いた。
よかった。少なくとも不満そうではない。
﹁そうだ。フェオレスが大祭実行委員長、ヤティーンが治安維持部
隊長、ウォクナンがパレード運営責任者、ジブライールが新魔王城
現場監督。どれも等しく重要な役割だと、心得てほしい﹂
四人の副司令官は、一応は全員が満足げに頷いているように見え
た。
﹁そんなわけで急で申し訳ないが、このあと開かれる大祭実行委員
会に、副司令官全員で参加してもらいたい。俺は不参加だが、大祭
の詳細については、運営会議に参加した五人の運営委員より説明さ
せる。司会進行は、実行委員長であるフェオレスに一任する。よろ
しく頼む﹂
﹁は﹂
俺の言葉に反応して、副司令官が揃って敬礼の姿をとる。
四人でやられると壮観だ。一人ならなんとか我慢できるが、四人
揃って﹁いやん、こないで﹂をされたのでは、笑いをこらえられる
はずがない。
ちょっと吹き出してしまった。
560
﹁閣下?﹂
﹁あーごほん。いや、なんでもない﹂
とっさに口を覆ってごまかす。
苦笑しているところをみると、フェオレスにはバレているのかも
しれない。まあいいけど。
﹁では、会議の時間まで解散とする﹂
俺の号令で、副司令官たちは敬礼をといた。
左端のフェオレスから順に執務室を出て行こうとする。
﹁あ、ジブライール﹂
呼んだ相手は一人だけなのだが、なぜか四人全員が振り返った。
﹁はい﹂
﹁少しいいかな? 話があるんだが⋮⋮﹂
そう言うと、葵色の瞳がキラリと光った気がした。
なんだろう⋮⋮ちょっと、怖い。
﹁他の者はさがっていいぞ﹂
俺の言葉を聞いて、素直に退室したのはフェオレスだけだ。たぶ
ん会議までの間、アディリーゼと過ごすのだろう。
ところがリスと雀は、顔を見合わせて動かない。
それどころか。
﹁あ、私も閣下にお話がー﹂
棒読みがわざとらしいぞ、リスめ。
﹁なんだ、言ってみろ﹂
﹁いやあ、今はちょっと⋮⋮ジブライールのお話がすんだあとで結
構です。私はここで、大人しく待っておりますので﹂
そう言って、誰も許可していないのに、長椅子にちょこんと腰掛
561
けたではないか。
﹁ずるいぞ、ウォクナン。だったら俺も!﹂
張り合うように雀までその隣に腰を下ろす。
﹁今すぐ話さないのなら、後にしろ。俺は忙しい﹂
﹁えー﹂
雀とリスが不満声をあげる。
﹁じゃあ、ジブライールだって⋮⋮﹂
﹁ジブライールには、俺の方から用事があると言っているだろうが﹂
﹁ジブライールだけずるい﹂
﹁全くですよ!﹂
さっきから﹁ずるい﹂﹁ずるい﹂と。子供か!
これが四百歳を優に越えた、しかも公爵という高位にある者の言
葉とは、思いたくもない。
﹁よしわかった。そこまで言うんだ。それはもう重要で、急を要す
る用件なんだろう。二人とも、ジブライールの後で順番に時間をつ
くってやろうな。ただし、話があるといって俺の貴重な時間をさか
せておいて、万が一つまらない用件だったときは⋮⋮⋮⋮わかって
るな?﹂
笑みを消してなるだけ低い声を出し、二人を順にねめつける。
こういうときは、脅すに限るのだ。でないと、だんだん調子にの
ってくるからな。
﹁あ、じゃあ俺、いいです﹂
﹁私も。命が惜しいです﹂
あっさりと二人とも撤回した。
だが、くそ⋮⋮こいつら性格は憎たらしいが、顔だけ見れば雀と
リスで、並ぶと余計に可愛さが強調されるじゃないか。
そんな感想を抱いてしまうのがもうなんか、悔しくて嫌だ。
562
﹁なら出て行け。今すぐに、だ﹂
﹁はーい﹂
ブーたれ、つぶらな二対の瞳を向けてくる小動物たち︱︱ただし、
顔だけ︱︱は、俺とジブライールを執務室に残して、退室したのだ
った。
563
51.誤解とか早とちりは阻止したいですね!
﹁あの、閣下⋮⋮私にお話とは⋮⋮﹂
ジブライールは、どこか⋮⋮困惑気味だ。
そう、困惑気味に見える。間違っても、迷惑そうではない、と思
いたい。
﹁話というのは他でもない、先日の件で⋮⋮﹂
﹁先日?﹂
イースのやつ、預けた鞄をどこに置いてくれてるんだろう。
少なくとも目に付くところにはない。
俺は執務室の引き出しや、部屋に備え付けられた戸棚を開いてみ
る。
﹁何かお探しですか?﹂
﹁ああ、うん⋮⋮鞄をちょっと、な⋮⋮﹂
だが、ない。
なぜ?
確かにイースに手鏡の入った鞄を預けて、後で届けてくれと⋮⋮
はっ!
あれか。もしかして、セルクが帰ってから、と言ったのが不味か
ったのか?
試用期間を今日からにしたせいで、結局まだいるからな、セルク。
それで届けに来ないんだろうか?
⋮⋮そうかもしれない。
俺はエンディオンを呼び、イースを探して届け物をしてくれるよ
564
うにと伝言を頼んだ。
実行委員会が始まるまでに、間に合えばいいんだが。
﹁悪い、手違いがあった。とりあえず、座って待とうか﹂
手鏡が届くまで黙って突っ立っているのもなんだし、ジブライー
ルには他に話したいこともある。
それで執務机ではなく、その前の応接セット⋮⋮この間、不覚に
も俺が眠り込んでしまった長椅子に深く腰掛け、ジブライールにそ
の正面をすすめた。
よし、もう大丈夫。
二人きりで近くにいても、内股になったりしてないぞ、俺!
だが、彼女は椅子に腰掛けようとはせず、俺に向かって深々と腰
を折る。
﹁まずは、魔王陛下の新居城の築城現場監督⋮⋮そのような大役を
この私にお与えいただきましたこと、心の底より感謝申し上げます﹂
相変わらず真面目で堅いな。
﹁いや、正直、一番面倒な仕事を割り当ててしまったかなと思った
りもするんだ。礼なんてされると、かえってこちらが恐縮してしま
う。だから、顔をあげてくれ、ジブライール﹂
﹁面倒だなどと、とんでもございません!﹂
ジブライールは勢いよく頭を上げた。その両手はぐっと胸の前で
握りしめられ、葵色の瞳は明るく輝いている。
﹁他の大公閣下を差し置いて、魔王城の築城を一任されるなど、い
かに閣下が魔王陛下の寵を得ておいでか、下々にもわかろうという
ものです﹂
うん、まあ、確かに俺、魔王様の寵臣だけどね!
﹁その大事なお仕事の、現場監督を私におまかせいただける。これ
565
ほどの栄誉はありません。なぜなら、それは閣下の⋮⋮わ、私に対
する⋮⋮ち、ちょ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮信頼の証、ではないかと⋮⋮う、
自惚れ⋮⋮でしょうか﹂
﹁いや、自惚れではないけど⋮⋮﹂
確かに信頼はしている。誰とは言わないが、まあ小動物二匹より、
その性格に対しては。
が、割り当てた役割の重要度については、どれも同じだと思うん
だが。
まあ、せっかく喜んでくれているんだから、水を差すのはやめて
おくか。
﹁それより、ジブライール。最近、何か変わったことはないか?﹂
﹁変わったこと⋮⋮ですか?﹂
あ。失敗した。変な聞き方をしてしまった。
さっきまでちょっと嬉しそうだったジブライールの表情が、また
怪訝さでいっぱいになっているではないか。
﹁たとえばその⋮⋮変な噂話を聞いた、とか⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
なんだろう。沈黙が怖い。
あと、目が据わってきている気がする⋮⋮。
その状態で見下ろされているのは、あまり好ましくない。
﹁とりあえず、座ってくれないかな? 立っていられると、どうも
落ち着かないというか⋮⋮﹂
﹁も⋮⋮申し訳ありません! 閣下を上から見下ろす、など⋮⋮﹂
ジブライールは、ようやく俺の正面に腰を降ろしてくれた。
﹁それで、あの⋮⋮﹂
﹁閣下に関する噂話であれば、耳にしました﹂
ジブライールの声はいつにも増して固い。
566
﹁俺に関する⋮⋮﹂
﹁はい﹂
短い肯定は、深いため息と共に吐き出された。
﹁近頃、ジャーイル閣下が特定の女性と公私にわたって親しくして
いる⋮⋮という噂話でございます﹂
やっぱり、か。それで怒っているわけだ、ジブライールは。
ここはさっさと謝ってしまうべきか。
﹁正直に申しますと⋮⋮そのお話を聞いた時は、ショックでした﹂
膝の上で固く握られた手が、ぶるぶると震えている。
そこからは、怒りしか感じない。
そりゃあジブライールにとっては、迷惑千万な話、だもんね⋮⋮。
﹁まさか、ジャーイル閣下がベイルフォウス閣下と同じせい⋮⋮⋮
⋮ご趣味をお持ちだなんて⋮⋮﹂
⋮⋮ん?
なぜ目をそらす、ジブライール。しかもなんか、気まずそうに⋮
⋮。
それにベイルフォウスと同じって、どういう意味だ?
﹁はっきり言ってくれ。ベイルフォウスと同じという、意味がわか
らないんだが﹂
ジブライールはやや逡巡を見せた後、意を決したように、俺を見
つめてきた。
﹁ジャーイル閣下が⋮⋮花葉色の髪をした幼い少女のもとを、頻繁
に訪れているばかりか⋮⋮⋮⋮﹂
え?
花葉色?
え?
567
それってミディリース?
それでベイルフォウスと一緒ってことは、まさか。
﹁先日などは⋮⋮ウィ⋮⋮ウィストベル大公と、三人で⋮⋮一晩を
あかされ、朝食をご一緒なされた⋮⋮と⋮⋮﹂
なに、ちょっと待って。頭がついていかない。
なぜかジブライールは涙目だ。
だがそんな噂が本当に流れているのなら、俺のほうこそ泣きたい
くらいなんだが!
﹁確かにウィストベルは一泊したが、彼女はその花葉色の髪の女性
と一晩中、二人きりだったはずだ。俺はその間、執務室にこもって
いただけで、もちろん彼女たちとは一緒じゃなかった。翌日の朝食
を客人⋮⋮それも、同盟者であるウィストベルととるのは当然だろ
う。それに、ミディリースは幼い少女じゃない。ただ背が低くて、
童顔なだけだ。あと、別に通ってない。会ったのもまだ三度ほどだ
し、顔を見たのなんて、この間が初めてと言っていい。朝食に同席
したのも、ウィストベルと彼女が知り合いだったからだし、他意は
ない﹂
一気にまくしたてた。
﹁では、そのような事実はなかったと⋮⋮﹂
﹁当然だ! あるわけがない!﹂
思わず肘掛けを叩いてしまう。
この長椅子の上でのできごとが頭をよぎったが、瞬時に忘れるこ
とにした。
﹁今の噂、誰から聞いた? 誰がそんなことを言っていた? そん
な風に、はっきり言っている奴がいたのか? この城の中で? ジ
568
ブライールはそのでたらめを、信じたのか?﹂
俺の詰問口調に、ジブライールはとまどいを見せている。
だがこれは看過できない問題だ。
なぜって、俺がちょっと女性と部屋で二人きりでいるだけで、妙
な噂がたつというのでは困るからだ。
まして、ベイルフォウスと同じ趣味とされては⋮⋮好みの女性と
知り合う機会が、よけい遠のいてしまうじゃないか!
﹁でたらめ⋮⋮﹂
﹁当然だ。はっきり言うが、俺はこの城に移って以降、そういう風
に女性と親しくしたことは一度もない﹂
一度もない。
一度もない⋮⋮。
一度もない⋮⋮⋮⋮!
あれ?
なんだろう。
ものすごく⋮⋮ものすごく、グサリときたぞ。
自分で言った事ながら、ダメージがハンパないぞ。 ちょっと泣きたくなってきたぞ。
﹁誰かがそう断言しているのを聞いたわけではないのです。閣下が
それほど強く否定なさるのですから、私はそれを信じます﹂
⋮⋮とても複雑な心境だが、まあ、信じてもらえたことに関して
は喜ぶべきかな。
﹁今回は、私が断片的な噂話を勝手につなぎ合わせて、早とちりを
してしまったまでのこと⋮⋮。申し訳ございません﹂
気のせいだろうか。謝っているはずのジブライールは、なぜか嬉
569
しそうに見える。
彼女があくまで早とちりだと主張するのなら、それでもいいが。
﹁ついでにいっそ、もう一つ言っておく。この間から俺が気にして
いる噂ってのは、俺とジブライールに関するものなんだ﹂
やっぱりきちんと話しておかないからダメなんだ。噂話だけが耳
に入っても、また誤解するだけだろうから。
﹁私と、閣下⋮⋮ですか?﹂
俺との間に噂がたっているだなんて、想像したこともないのだろ
う。ジブライールはキョトンとしている。
﹁前にも言ったが、発端は俺の不注意からだ。それに関しては、本
当に申し訳なかったと思っている﹂
﹁そんな、閣下⋮⋮﹂
﹁その噂って言うのは、俺が⋮⋮その、君を⋮⋮﹂
﹁閣下が⋮⋮私を?﹂
﹁⋮⋮なにを聞いても、驚かないでほしいんだけど﹂
俺が言いよどんだ瞬間、ジブライールは長い息を吐いた。
﹁はい、お約束いたします﹂
そう言って両手をしっかりと膝の上で握りしめる。
ジブライールが緊張しているのがわかって、俺も余計に気が張っ
てしまう。
﹁俺が君を⋮⋮ジブライールを、寵姫に選んだのだ、と﹂
沈黙が返ってくる。
そうだろうとも。そんな話、現実味がなさすぎて、理解するのも
難しいだろう。
570
﹁⋮⋮もう一度、おっしゃっていただいて、よろしいですか?﹂
いや、理解以前の問題らしい。
聞き取りやすいように、ゆっくり言ってみよう。
﹁俺が、ジブライールを、寵姫として、迎えることに、決め﹂
﹁本当ですか!?﹂
本当ですか?
噂が広まってることが本当かって?
﹁うん、本当らしい﹂
俺がうなずくと、ジブライールは見る間に顔を赤くさせた。
さっきまではほんのり頬が色づいていただけなのに、今は首もと
から額の生え際まで、全部朱く染まっている。
それだけじゃない。葵色の瞳は今にも大粒の涙がこぼれそうなほ
ど、潤んでいる。
﹁あ、あの⋮⋮私⋮⋮﹂
しかも、恥ずかしそうにもじもじと指を合わせてたりする。
何この反応。予想外なんだけど。
と、いうか⋮⋮あれ?
ちょっと待てよ。これはまさか⋮⋮。
﹁ふ⋮⋮ふつつかものですが﹂
困惑する俺の前で、ジブライールはおもむろに長椅子を立つと、
床に両膝をついた。
﹁ひたむきに、閣下におつかえさせていただきたいと⋮⋮﹂
は!?
﹁ちょっと待った、ジブライール! 違う、そうじゃない!﹂
俺は床に指までつきかけたジブライールに慌てて駆け寄り、その
571
手を取る。
﹁落ち着け、ジブライール。いくらなんでも、そんなわけないだろ
う?﹂
﹁え?﹂
今の流れで、なんで誤解した?
早とちりといったって、ほどがあるだろう!
﹁俺がそう決めたとは言っていない。そういう噂が、一部で流れて
いる、という話なだけで⋮⋮﹂
﹁え⋮⋮﹂
葵色の瞳が、大きく見開かれる。
﹁うわ⋮⋮さ⋮⋮﹂
﹁うん、噂だ。事実じゃない﹂
葵色の瞳が急にあちこちに動きだした。視点が定まらない。
必死に考えを整理しているのだろう。
﹁ジブライール。俺が、あんなことぐらいで﹂
蹴られたこと、だ。
﹁責任をとってもらおうなんて、考えるわけがないだろう﹂
いや、なんか⋮⋮我ながら、変な表現だと思うけれども。
責任をとってもらうって⋮⋮乙女か! 俺は乙女なのか!
﹁だいたい俺がそのつもりだとしても、ジブライールはちゃんと断
っていいんだ。責任を感じて、言いなりになる必要はない。俺がそ
れを強制をするような男に見えるなら、話は別だが﹂
無茶な言い分だとはわかってるんだ。
大公が望めば、公爵といえど簡単にその誘いを断る事はできない
だろう。それこそ、拒絶には命を懸ける覚悟が必要だ。
だからこそ、ジブライールも無理を受け入れる方向で結論づけた
572
んだろうし。
﹁ち、ちが⋮⋮わた、し⋮⋮私、は⋮⋮責任とか⋮⋮そんな⋮⋮﹂
普段が冷静だから、しどろもどろなジブライールはとても珍しい。
⋮⋮とか、言ってる間に、待て。
頼む、涙目になるのはやめてくれないだろうか。
﹁⋮⋮っ⋮⋮﹂
﹁ちょ、ちょっと待った、ジブライール﹂
泣かれるのはやばい。子供ならまだしも、成人女性に泣かれるの
はやばい。
というか、俺が泣かせたことになるよな、これ。
﹁⋮⋮馬鹿⋮⋮﹂
ああ、ごめん。俺は本当に馬鹿です。
﹁私の⋮⋮馬鹿!!﹂
頭を机に向かって振り下ろしたので、つっぷして泣き出すのかと
思ったら違った。
なにを思ったか、ジブライールは頭を机に激しく打ち付けだした
のだ。
﹁ちょ、待て!﹂
頭がっ!
額が大変だ!!
一度目で赤く腫れ、二度目で傷が生じる。
三度目が当たる前に俺は彼女の両肩をつかんで、なんとか額が机
に激突するのを押し止めた。
たぶん、そのままいってたら、ジブライールの額も机も逝ってた。
机は別にいいんだが。
それにしても、抵抗する力がすごい。こんな華奢だというのに、
573
さすがは公爵。
﹁誤解することくらい、誰にだってある! 早とちりとか、俺なん
てしょっちゅうだ! だから、そんな気にすることはない﹂
俺の言葉にも、ジブライールは力を緩めようとはしない。それど
ころか。
﹁手を離してください! 私なんか⋮⋮私なんか、もう⋮⋮!!﹂
やむを得ん。
﹁ちょっと落ち着け、ジブライール!﹂
俺は彼女を前から抱きすくめた。
こうするより他に、彼女の勢いを止める方法が思いつかなかった
のだ。
﹁大丈夫、わかってる、迷惑な噂話だってのは、よくわかってるか
ら。だからちょっと誤解したくらいで、そんな風に自分を痛めつけ
るのはやめてくれ。当然、ジブライールが望むなら、公式に否定す
る声明を出してもいい。なんなら、今後一切、その話題を口にする
のは禁止にして、破った者は俺が直々に手を下してもいい。俺がい
いたかったのはそれだけで、誰も無理強いなんて⋮⋮﹂
もう俺も焦りすぎて、自分がなにをいっているのかよくわからな
い。
とにかく、抱きしめる腕に力を込める。
その瞬間、ジブライールはビクッと体を震わせたかと思うと、い
っさいの抵抗をやめた。
その結果、俺の力が余り。
﹁うお﹂
俺たちはそろって床に倒れてしまった。
俺がジブライールに覆い被さって、押し倒したような感じだ。
﹁悪い﹂
574
慌てて両手を床につき、上半身を持ち上げる。
そこで⋮⋮。
脂汗がどっと吹き出した。
だって⋮⋮ほら、この状況。
思い出さない?
思い出さない?
下をみれば涙目の上目遣いで見上げてくる、ジブライール。
そこへのしかかる、俺。
次にやってくるのは、下半身への衝撃⋮⋮。
﹁うわああああああ﹂
俺は恐怖を感じて飛び退いた。
叫び声からして情けなかったのは、自覚してる。
だけど、だけど、わかるはずだ!
男にならわかってもらえるはずだ!
あの恐怖の再来を、恐れる俺の気持ちが!!!
﹁か⋮⋮閣下⋮⋮﹂
呼びかけられてビクッとしてしまったことについては、我ながら
反省すべきだとは思う。
すでにもう十分、醜態をさらしているとしても。
俺はおそるおそる、侮蔑の色を浮かべているであろうジブライー
ルを振り返った。
が、どうしたことか、身体を起こした彼女は、俺の醜態になぞ気
づいた風もない。
575
それどころか、なんというか⋮⋮。
押し倒したせいで⋮⋮いや違う、そうじゃない。
うっかり倒れたせいで、いつもはきっちりまとまった銀色の髪が、
乱れて華奢な肩や背中にかかっている。その様が、妙に婀娜っぽい。
﹁あの⋮⋮閣下、わ、私⋮⋮私は⋮⋮﹂
そのまま潤んだ目で四つん這いになって、近づいてこられてみろ!
勘違いしても仕方ないよな?
これは、勘違いしても仕方ないよな!?
だが。
﹁あーおほん﹂
可愛い咳払いが、俺たちの耳に届く。
執務室の入り口を見上げると、そこには可愛い二匹の小動物がい
た。
リスと、雀だ。
﹁失礼いたします、閣下。そろそろ、大祭実行委員会の時間かなぁ
∼なんて、思ったものですから⋮⋮﹂
リスがニヤつきながら、そう言った。
576
52.試用期間と現地検分
どこから見てたんだろう。
どこから見られてたんだろう。
俺が情けない悲鳴をあげたところとか、絶対見られてるよな。
くそ、なんてこった。
こうなったら、あの小動物たちの口をふさいで⋮⋮。
﹁旦那様。いかがなさいました?﹂
セルクの掛け声で、我に返る。
しまった。ちょっと物騒な考えになっていたか。
﹁いや、なんでもない。それでええと、今いるのはどこだって?﹂
俺は今、セルクと外出中だった。
普段はどこへ行くにも供なんてつけないのだが、今日は特別だ。
というのも、ただでさえ今は忙しい時期だ。いつまでも筆頭侍従
の件をひっぱりたくない。
使えるか、使えないか、結論はさっさと出してしまいたい。その
ためにはなるべく一緒にいるべきだろう。そう考えてのことだ。
﹁地図でいいますと、このあたりです。一度竜を降りて検分なさい
ますか?﹂
セルクは振り返り、俺と彼の間に広げた地図を指さした。
﹁そうだな。降りてみてくれ﹂
﹁かしこまりました﹂
セルクはそう言うと、ゆったりと円を描くようにして竜を下降さ
せた。
577
普段はマーミルぐらいとしか、相乗りなんてしない。だが今はセ
ルクに手綱を任せて、俺は流れる景色をゆっくり眺めているだけ。
別に、今日に限って手を抜いたわけじゃない。セルクの操竜技術
をチェックしたかったというだけの事だ。
今のところ、特別うまいと思えるところもないが、とりたてて下
手でもないという感じかな。乗ってても気持ち悪くならないし。
たまにいるんだよな。がくんがくんなって吐き気をもよおさせる
ような、下手なやつ。
この下降の滑らかさだと、むしろかなりいい点を与えてもいいか
もしれない。
いや、別に点数とか、つけてないんだけどね。
ついでに、着地も静かだ。
操竜技術に関しては、なにも問題はなさそうだな。
なんだったら今度、マーミルたちに習わせてみるか。
﹁広さは問題ないようだな﹂
俺は竜から降り立ち、周囲をぐるりと見回した。
南にそびえる山は、遠すぎて地平線とほとんど一体化している。
東にかけて森があるが、竜で飛んでも一瞬で到達するのはとても
無理なほど、遠い。
西はずっと平地だし、北は小さな沼地があるだけ。
多少の起伏があるのはやむを得ないが、ほぼ見渡す限りの平原だ。
ここは魔王領。
そしてさっきセルクが示した地図は、その領地の細かな地形や配
分までが記された、詳細なものだった。
新魔王城の候補地の選定に必要だからと、魔王城の役所に申請し
てもらったものだ。
578
そう。俺とセルクは、新魔王城の候補地を探すべく、竜で各地を
飛び回っているのだ。
なぜ、そんな事までしなければならないか、というと、魔王様が
わがままだからに違いない。
魔王領のことを一番よく知っているのは、他ならぬ魔王様だ。
だから俺は初回の運営会議の帰り、魔王城の建設候補地や、建造
にあたって譲れない条件なんかを問い合わせる質問状を置いて帰っ
た。
そして今日、魔王城を訪れて、その回答をもらったんだが⋮⋮。
﹃全てお前に一任する。ちなみに、他の大公を関わらせることは、
許さん。特に、ウィストベルには披露する当日まで現場を見せるな﹄
そ れ だ け だ っ た。
回答、それだけ。
それだけだけど、ものすごく破壊力のある返事だ。
他の大公を関わらせるなって、これだけの大事業を、俺と俺の配
下だけで請け負えってことだよね?
秘密裏に行えってことだよね?
いや、築城自体を隠すことは無理でも、配置図とか間取りとか、
いっさい他言するなってことだよね?
せっかく<大公会議>を開いて、みんなに配分しようと思ってた
のに。
⋮⋮いや、待て。
﹃大公﹄はダメでも、﹃魔王様﹄はダメとは書いていないじゃな
いか。
よし、魔王領の人員を集めることにしよう。
579
﹁地盤も問題ないようですね﹂
セルクはしゃがみこんで地面に手をついている。
空気がよどんでいるということもないし、呪詛の気配もない。
﹁第三候補地にしておいてくれ﹂
呼びだったのだが、どのタイミングからか、
になっている。エンディオンに指導されたのだろう。
大公閣下
﹁はい、旦那様﹂
最初は
旦那様
﹁しかし、城を建てるというのは、想像するだけでもわくわくしま
すね﹂
そうか?
﹁ちなみに、今のところ三つの候補地の中で、セルクはどこが一番
気に入った?﹂
﹁私は⋮⋮そうですね。こちらもよろしいですが、二番目、でしょ
うか﹂
二番目というと。
﹁山か﹂
一番目は海の端だった。
紺碧の海を眼下に望む切り立った崖。
海風が気持ちいいだろうが、ここに建てると横に長い城になって、
臣下の移動が大変だろうと思われた。
それに、前地を確保しようと思ったら、森を相当切り開かねばな
らない。
二番目は山の上だ。
もともとかなり平らな部分が多い、高い山。
その頂上から山腹に及んで、段々に降りていく感じだ。
緑の濃い山で景観もすばらしく、麓はなだらかな平地になってい
580
て、前地としても十分利用できそうだった。
そしてこの三番目の平地。
魔族の城を建てるには、もっとも一般的と考えられる用地だ。
どれも長所と短所があり、選びがたい。
それこそ魔王様が自分の好みで選んでくれればいいのに、と、つ
い思ってしまう。
いくつか候補をあげて、最終的にはその中から魔王様に選んでも
らおう。そうしよう。
﹁やれやれ⋮⋮﹂
﹁お疲れでしたら、続きはまた明日にいたしましょうか?﹂
ため息を聞きのがさず、セルクが声をかけてくる。
﹁ああ、いや。問題ない。むしろ、できれば今日中に候補地をあげ
てしまいたい。次にいこう﹂
﹁かしこまりました﹂
魔王城候補地の検分に、筆頭侍従候補の試用。
どっちも早く結論を出してしまいたいからな。 俺が竜の背にしっかり腰をおろしたのを確認して、セルクは竜を
飛翔させた。
﹁築城をお任せになるのは、ジブライール公爵なのですよね?﹂
﹁ああ、そうだ﹂
﹁お連れにならなくて、よろしかったのですか?﹂
﹁用地が決まってからで問題ない。それに、今日は他の副司令官同
様、実行委員会に参加しているし﹂
結局、手鏡の魔力をジブライールに返すことはできなかった。
もう委員会も終わっているだろうか。自分の屋敷に帰ってしまっ
581
たかな?
まあ、今日はもう⋮⋮なんか顔をあわせづらい心境だから、いい
けど。
﹁さようですか。しかし、なんというかその⋮⋮﹂
セルクは前を向いたまま、首を右に傾けた。
﹁初めて間近でお会いしましたが、おきれいな方ですね﹂
おっと。
﹁いいのか。エミリー以外の女性を褒めて﹂
﹁今ここにはおりませんし、それに事実は事実ですから﹂
まあ、確かに美人だからな。残念美人だけど!
﹁けれど⋮⋮こう言ってはなんですが、無表情すぎて雰囲気もどこ
か冷たく感じられて⋮⋮冷静と表現すればよいのかもしれませんが、
情が感じられないと言うか⋮⋮﹂
長くつきあってると、少しは微妙な変化を読めるようになってく
るんだけどなぁ。それに⋮⋮今日みたいに、表情豊かな時もちょい
ちょいあるし。
でも確かに最初は、無表情で冷たい風に感じるのかもしれない。
﹁あの方がエミリーと、旦那様を争っただなんて、とても信じられ
ません﹂
﹁⋮⋮なに?﹂
﹁いえ、ですから、エミリーとジブライール公爵閣下が、旦那様を
情熱的に取り合ったとはとても思えないものですから﹂
誰と誰が誰を取り合ったって?
﹁それともあれが、選ばれた者の余裕というものでしょうか﹂
﹁セルク。君はものすごい勘違いをしている﹂
ジブライールに対する噂は、誤解だとわかったんじゃないのか!
582
﹁俺がジブライールを寵姫に選んだ、という噂は⋮⋮でたらめだと
言わなかったか?﹂
﹁え? 聞いておりませんが﹂
え?
﹁初対面の時、否定⋮⋮﹂
﹁否定されたのは、エミリーとの関係だけだったと記憶しておりま
すが﹂
え?
⋮⋮そうだっけ? あれ?
﹁まさか、とは思うんだけど⋮⋮だからって、ジブライールとの噂
を⋮⋮流したりは⋮⋮してない、よな?﹂
﹁まさか! 私がそんなことをするとお思いですか?﹂
いや、俺、君の性格をまだよく知らないから、なんとも。
まあ、いきなり疑ったのは悪かったかな。
﹁ただ⋮⋮﹂
ただ?
﹁ワイプキー殿とエミリーは、事あるごとに下働きの者やお客人に
吹聴していたようですが﹂
あ の お や じ !
もとい、あの父娘め!!
全ての元凶とまではさすがに思わないが、それでも半分くらいは
あの父娘のせいに違いない!
俺はため息をついた。
﹁セルク、頼みがあるんだが⋮⋮﹂
583
﹁旦那様に言われるまでもありません。今後はあの二人が暴走しな
いよう、私がしっかり手綱を握ることをお約束いたしましょう﹂
セルクは振り返り、言葉通り手綱を強く握りしめた。
﹁ああ、よろしく頼むよ﹂
そうして俺たちは魔王領の東西南北を飛び回り、候補地をいくつ
かあげ、ようやく<断末魔轟き怨嗟満つる城>への帰路についたの
だった。
***
城に帰りついた頃には、日が暮れかけていた。
さすがに魔王領は広い。
﹁お帰りなさいませ、旦那様﹂
﹁ただいま﹂
エンディオンの出迎えにホッとする。
﹁お仕事はうまくいかれましたか?﹂
﹁ああ、セルクが手助けしてくれたからな﹂
﹁光栄でございます﹂
緊張はしていないつもりでも、やっぱり慣れていない相手と長く
いるのは、心理的な負担があるのだろう。俺でもそうなのだから、
セルクの方はよけいにそうだろう。
だが、彼はそんなことを感じさせないさわやかな笑顔を浮かべ、
頷いた。
とりあえず、今日一日、一緒にいた間は、初対面の時のように暴
走することもなく、その態度にひっかかるところもなかった。
エミリーに関わること以外では、割と冷静に振る舞えるようだ、
584
というのが俺の感想だ。
﹁セルクも今日はこれであがっていいぞ。ご苦労様﹂
﹁あの⋮⋮今日は、と、おっしゃいますと⋮⋮﹂
﹁明日も頼む。試用期間は⋮⋮とりあえず、十日、でどうだ?﹂
﹁よろしいかと存じます﹂
俺とエンディオンの会話を聞いて、セルクの表情に笑みが広がっ
ていく。
﹁ありがとうございます! 明日もまた、誠心誠意、勤めさせてい
ただきます!!﹂
﹁ああ、よろしく頼む﹂
俺はセルクを玄関先で解放した。
まあ、このままなにもなければ採用、かな。
﹁城の方はどうだ? 何か変わったことはなかったか? 運営委員
会はもう終わっているだろうが⋮⋮﹂
﹁はい、報告書が届いております。ですが、旦那様。その席で、ジ
ブライール公爵閣下がお怪我を負われたとのことです。現在、医療
棟にて治療を受けておいでですが﹂
ジブライールが怪我?
運営委員会で?
﹁どういうことだ? 会議で怪我って﹂
﹁それが、どうやらヤティーン様と対決なさったようでして﹂
あの二人がライバル関係なのは知っているが⋮⋮喧嘩で一方が怪
我?
それほど実力の差はないだろう。
﹁まさか、物理的に殴り合った訳じゃないだろう?﹂
585
﹁はい、魔術でのことのようです﹂
大演習でのやりとりをみる限り、魔術のぶつけ合いなんてお互い
やり慣れているだろう。
それなのに、一方が治療が必要なほどの怪我をしただって?
加減を間違ったのか?
それともまさか、本気でやりあった?
いや、待てよ⋮⋮。
ジブライールには結局、魔力を返せていない。まさか、そのせい
で調整に失敗して⋮⋮。
﹁イースは見つかったか?﹂
﹁はい、旦那様。鞄でしたら、執務室に届いております﹂
﹁悪いが、報告書と鞄を医療棟へ届けてくれ。俺もこのまま執務室
ではなく、医療棟へ向かう﹂
﹁かしこまりました﹂
俺はエンディオンに荷物を頼んで、ジブライールの元へ向かった。
586
53.医療棟でのあれやこれや
医療棟に向かった俺を、玄関で出迎えてくれたのはウサギ顔と声
量の可愛いファクトリーだ。
﹁⋮⋮よく⋮⋮で⋮⋮﹂
なに? なんだって?
声が小さすぎて、なんと言っているのだか聞こえない。
﹁こちら⋮⋮﹂
なんだかよく判らないが、とにかくついて行こう。
廊下はどこも掃除が行き届いていて、埃一つ落ちていない。
リーヴは相変わらず、真面目に働いているようだな。
感心しながらファクトリーについていくと、長い廊下にいくつも
並んだ、簡素な扉の前まで案内された。
﹁ですから、私が熱をとってさしあげると⋮⋮﹂
﹁いらん! 熱などないと、さっきから言っているだろう!﹂
中から、サンドリミンとジブライールの声が聞こえる。
﹁ない訳がないでしょう。そんな真っ赤な顔をなさって!﹂
﹁真っ赤になってなんか⋮⋮﹂
なんだ。なんか不穏な感じだな。
首から下はマッチョなファクトリーは、顔に不似合いなたくまし
い拳を握りしめ、扉に叩きつけた。
声は小さいのに、ノックはダイナミックだ。
木がゴンゴンミシミシいっている。
﹁⋮⋮が⋮⋮です⋮⋮﹂
587
発声も、もうちょっと頑張ろうよ!
中の話し声がぴたりと止まった。
﹁ファクトリーか。入りなさい﹂
﹁⋮⋮します﹂
サンドリミン、よくこのファクトリーのボソボソ声で、誰がやっ
てきたのかわかったな!
いや、逆にこんな小声で話すものなんて魔族には珍しいだろうか
ら、よけい誰かわかりやすいのかもしれない。
ファクトリーは扉を開けたが、外からドアノブを押さえたまま、
俺に部屋の中を示す。
そうして俺が入室してしまうと、自分は入らずに扉を外から閉め
た。
中はふつうの診察室のようだ。
壁際には資料や器具の置かれた小さな本棚があり、窓際には細長
い診察台が、その前には背もたれの高い診察椅子と丸椅子が置いて
ある。
今は背もたれのある診察椅子にサンドリミンが腰掛け、ジブライ
ールは診察台の縁に足を降ろして座っていた。
﹁これは、旦那様﹂
振り向いて俺に気づいたサンドリミンが、診察椅子から立ち上が
った。
﹁⋮⋮閣下!﹂
ジブライールまで肩にひっかけた長いコートを手で押さえながら、
慌てた様子で診察台から降りようとする。
俺は手をあげてその行動を制止したが、ジブライールは結局診察
台から降りて、俺に敬礼をしてきた。
588
﹁怪我をしたんだって? 大丈夫か?﹂
﹁そんな⋮⋮わざわざ閣下にご心配いただくほどのことではありま
せん﹂
まあ、魔族の怪我なんて、よほどの事でもない限り医療班がちょ
ちょいと治してしまえるからな。だから正直、怪我の状態について
はあまり心配していない。
だいたい、なんといっても相手は幼なじみでもあるヤティーンだ。
さすがに本気でやり合うわけがない。
﹁私は自分の城に帰るといったのですが、ヤティーンが取り乱して
しまって、それでここに⋮⋮﹂
﹁ヤティーンも驚いたんだろう。君とはいつも、対等にやりあって
るから。だろ?﹂
﹁はい、そうだと思います⋮⋮﹂
ジブライールとは、さっきから普通に会話はできる。
が、視線はあわせてくれない。
俺の方なんて見たくもないと言わんばかりに、思いっきり目をそ
らされている。
執務室では多少は好意みたいなものを感じたと思ったんだが⋮⋮
やはり、勘違いだったようだ。
俺とジブライールってちょくちょくこんな風に、気まずい思いを
することが多いような気がする。
もしかして、とことん相性が悪いのだろうか。
﹁どうぞお掛けください﹂
﹁いや、こっちでいい﹂
サンドリミンが自分の椅子を譲ろうとしたが、俺は丸椅子の方に
589
腰掛けた。
二人にも座るように手で指示すると、サンドリミンは素直に、ジ
ブライールはためらいながらも元の場所に腰を下ろす。
﹁それで、怪我の具合はどうだ?﹂
﹁怪我といっても、肩を少しかすっただけですので、大したことは
ございません﹂
ジブライールの返答はそっけない。
﹁肉をごっそりえぐって、骨が粉砕された状態を、少しかすっただ
けとはいいません。会議室は血みどろになったと言うじゃないです
か﹂
肉をえぐって⋮⋮なるほど、それじゃあヤティーンも驚くはずだ。
予想より酷い怪我だったようで、俺だって驚いた。
﹁大丈夫なのか?﹂
﹁もちろん、旦那様!﹂
俺の質問に応じたのは、ジブライール本人ではなくサンドリミン
だ。
﹁我々、医療班の手に掛かれば、内臓がはみ出ようと、頭蓋骨が割
れようと、生きている限りは治せぬ症例などございません!﹂
サンドリミンの言葉は力強い。
まったくもってその通りだから、俺は頷くしかない。
﹁では、実例をごらんください!!﹂
そう叫ぶや、サンドリミンは突然ガバッとジブライールのコート
を剥いだのだ。
その下から現れたのは、華奢な肩。
﹁どうです、よく見てください! このきれいな右肩を!! 傷な
590
ど一つも残っておりません!﹂
肉をえぐり、骨を粉砕したという魔術のせいだろう。
ジブライールの右肩から胸のあたりにかけて、着ていた衣服がほ
とんど残っていない状態だ。
つまりそう、コートの下から現れたのは、紛れもなくジブライー
ルの素肌⋮⋮。
呆然とする、俺とジブライール。
﹁きゃああああああ!﹂
﹁うおおおお﹂
ジブライールの悲鳴と共に、サンドリミンの象手は勢いよく吹っ
飛ばされた。
いいや、言い直そう。
サンドリミン自身が吹っ飛ばされた。
壁に激突する前に受け止めてやらなければ、次に全身の骨が粉砕
していたのはサンドリミンだったろう。
﹁おい、大丈夫かサンドリミン﹂
﹁お⋮⋮驚きましたが、大丈夫です﹂
青ざめるサンドリミンを、床に降ろしてやった。
その間にもジブライールは、俺たちに背を向けてコートに素早く
腕を通し、しっかりと前をかきあわせている。
その背中は怒りのせいで、ぷるぷると震えていた。
﹁⋮⋮見えてはないから、な﹂
どこが、とは言わないが、一応言っておこう。
﹁言わないでください!﹂
﹁ごめん!﹂
591
はっ!
反射的に謝ってしまった。
﹁もう、やだ⋮⋮﹂
ジブライールの口から、珍しく弱々しい声が漏れる。
それを聞いて、なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
今のつぶやきは、執務室での出来事もあってのことだろう。
だがここは、聞こえなかったフリをしよう。
俺は咳払いを一つした。
﹁コートを羽織っているとはいえ、そのまま帰ったら屋敷の者が心
配するだろう。衣装部屋で着替えていくといい﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます﹂
声は暗い。
﹁ほら、まただ!﹂
サンドリミンはジブライールの正面になるよう診察台の足下に回
り込むと、彼女を責めるように叫んだ。
今しがた、殴られて青ざめていたというのに、ものすごく強気だ。
その上相手が落ち込んでいようとも、気にもとめていない。
その空気の読めなさ、見事。
﹁旦那様からも、説得してください! またこんな真っ赤になって
⋮⋮熱があがってきたんですよ、熱が! なのに、解熱治療を受け
るのを、拒否するのです!! 意味がわかりません!﹂
﹁だから、熱なんかじゃないとさっきから﹂
﹁熱?﹂
俺もサンドリミンの隣に回りこんで、ジブライールを観察してみ
る。
592
確かにジブライールの頬は赤い。
だが、これはあれだろ。照れているだけだろう。
ジブライールは真面目だから、ウィストベルやアリネーゼみたい
な露出の多い格好はほとんどしない。
それを、さっきみたいに不意打ちで肩をむき出しにされたんだ。
羞恥心でいっぱいになっていても、不思議ではない。
そう思うのだが、片やサンドリミンも医療長官だ。
さすがに誤診などしないか?
成人した魔族が、発熱することなんてほとんどないのは誰よりも
知っているはずだ。それでも熱だと言い張るのだから⋮⋮。
﹁どれ⋮⋮﹂
念のため、ジブライールの額に手を当ててみる。
﹁本人の言うとおり、特別熱いとも感じないが⋮⋮﹂
﹁⋮⋮か⋮⋮閣下⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
あれ? いや、若干熱くなってきた⋮⋮気がする?
﹁もう無理!﹂
ジブライールはそう叫ぶと、突然診察台に身体を沈めた。
俺はまた彼女が、今度は診察台に頭を打ち付けるのではないかと
心配になって身構える。
だがジブライールは枕に顔を沈めるようにして、そのまま突っ伏
してしまった。
﹁ごめんなさい、強がってました。本当に熱があるみたいです。ち
ゃんと治療を受けます、受けますので⋮⋮⋮⋮閣下は席を外してく
ださい!﹂
え?
でも、俺はジブライールに魔力を返しにきたわけで、まだそれを
593
果たしていない以上⋮⋮。
﹁お願いします、早く出て行ってください! 今日はもうこれ以上、
閣下のお側にいるのは無理です! 私の身がもちません!!﹂
えっ!
ええ?
﹁旦那様﹂
サンドリミンが扉にむかって顎をクイッとやる。
えええ⋮⋮。
顎クイッて。クイッて!
一応俺、この城の支配者なんだけども。
魔族にたった七人しかいない、大公なんだけども。
もうちょっと丁寧に扱ってくれてもいいと思うんだけど、どうだ
ろう?
いや、出て行くけど、出て行くけどさ⋮⋮。
そうして俺は、診察室から追い出されたのだった。
594
54.解決したこと、していないこと
﹁旦那様?﹂
俺がしょんぼり廊下に立っていると、鞄と報告書を手に、エンデ
ィオンがやってきた。
﹁どうなさいました? ジブライール公爵は⋮⋮﹂
﹁ありがとう。中でまだ治療中なんだ﹂
﹁さようでございますか﹂
﹁俺は⋮⋮まだジブライールに用事があるから、ここで待ってるよ。
エンディオンは仕事に戻ってくれ﹂
たとえ、顔を見たくないと言われたとしても、魔力を返さないで
すませる訳にはいかない。
このままではまたいつ何時、こんな事態が引き起こされるかわか
らないからだ。
﹁では、お部屋を用意させましょう。廊下では、さすがに⋮⋮﹂
﹁いや、かまわない。そうだな⋮⋮椅子でも持ってきてもらえれば、
ありがたいが﹂
﹁手配いたします﹂
そう言って、エンディオンは帰って行った。
それからすぐにテーブルと椅子が運ばれてきたので、俺は席につ
く。
まずは今日の運営委員会の報告書に目を通しながら、彼女の治療
が終わるのを待つことにした。
提出された報告書は、薄いものと分厚いものの、二種類ある。
分厚い方が参加者すべての意見が記された議事録で、薄い方はそ
595
のうちの決定事項だけを抜き出した簡素なものだ。
とりあえず、薄い方から見ていくことにする。
まずは、運営委員会での役割分担について。
同じく、各副司令官が担当する組織の運営について。
それから、主行事の参加者の募集方法や、告知時期について。
次いで、自領で開催する催しの第一案。
その他、諸々。
自領で独自に行われる催しについては、様々な種類の行事が提案
されたようだ。
舞踏会は⋮⋮まあ、<大公会議>で決まったことでもあるし、大
公城を開放して行うのは当然として。
ところで大公城の開放というのは、城主一家やその他住人の暮ら
す居住区、それから医療棟や宝物庫のような専門棟以外は、ほとん
どがその対象となっている。
となると、あちこちで馬鹿騒ぎが行われるのが心配の種だったの
だが、どうやらこの報告を見る限りでは、フェオレスがうまく意見
をまとめてくれたようだ。
すべての棟が舞踏会場とそれに準じた施設として開放されるので
はなく、絵画展や宝石展なんかの静かに観覧する催しも多く並んで
いる。
まあ、絵画の展示は、もともと俺からのリクエストだったんだが、
それをヒントにうまく立案してくれたんだろう。
絵画をリクエストしたのは⋮⋮まあ、マーミルの要望を考慮して
のことだ。どうせ指導者にするなら、うまい方がいいと思うのは自
然なことだろう。
絵画展を開くことで、その人員を選定しやすくなるというわけだ。
未成年者のためだけの会場も提案してくれているのは、これもや
596
はりマーミルやスメルスフォの娘たちの愉しみも考えてのことか。
実行委員長をフェオレスにしたのは、やはり正解だったようだ。
それから、自領を仮装して回るミニパレード。
もちろん主行事のように全日程で行うわけではないし、規模もも
っと小さい。それぞれの地域で行う小規模なものだ。
これにも未成年の参加を許しているから、卑猥なものは極力避け
られるだろう。
その他、主行事に関する案もいくつもある。
音楽祭に関連する演奏会や芝居の興行、ウォクナンが率いるパレ
ードがやってきたときの対応、爵位争奪戦を観戦する団体旅行の企
画、競竜に参加する竜と乗り手の候補一覧。
俺が考えていたより、ものすごく詳細で真面目な検討がなされた
ようだ。
これだと会議の時間もかかったことだろう。
それにしても、どれもこれも一魔族として参加するのだったら、
ものすごく楽しそうだ。
いや、魔王様の在位祭なんて、そうそう経験できるものじゃない。
俺もあんまり難しいことは考えずに、期間中は無心で楽しむよう心
がけよう。
そうしてちょうど薄い方を一通り読み終わった頃、診察室からサ
ンドリミンが出てきた。
顎クイッ
で俺を追い出したのに、治療が終わって満
﹁旦那様。このようなところでお待ちいただいていたとは⋮⋮﹂
さっきは
足したからか?
サンドリミンがとても申し訳なさそうだ。
597
俺は資料を机に置いて、立ち上がった。
﹁ジブライールは?﹂
いただいて
おります?
﹁ぐっすり眠っていただいております﹂
眠って
なに、今の強制的に眠らせた、といわんばかりのその言い方。
﹁なにせ、旦那様が出て行かれてしばらくすると、また治療を拒否
されましてね。混乱した様子で、窓から逃走しようとなさったので、
やむをえません。医療魔術で寝ていただきました﹂
⋮⋮⋮⋮。
ジブライール。なにしてるんだ。
﹁そのかいあって、治療も無事終わりましたので、ご心配なく﹂
﹁やっぱり熱があったのか?﹂
﹁まあそこら辺はその⋮⋮複雑な事情を察していただいて﹂
複雑な事情?
﹁医療魔術で眠らせた、というのはつまり⋮⋮ごほっ。察していた
だいて﹂
⋮⋮よくわからないが、とにかく言いたくはないと。
魔族が熱を出すなんて、よっぽどのことだ。
これも魔力の減少に関係あるのだとしたら問題だが、少なくとも
マーミルにその兆候はなかったしな。
﹁とにかく治療をほどこし、解熱を成し得ました、とだけ、ご報告
申し上げます﹂
﹁まあ、治ったんなら、それはそれでいいが。で、俺は部屋に入っ
てもいいのかな?﹂
﹁なんのためにですか?﹂
﹁なんのためって⋮⋮﹂
当然、決まっている。
598
手鏡が奪ったジブライールの魔力を、返すためだ。
ジブライールが眠ってくれているのは、逆に都合がいい。
本当は事情を全部説明して、魔力を返してしまうつもりだった。
だが説明するまでになぜか毎回話がそれて、結局今の時点でも手
鏡の件を言い出す事ができずにいるわけだし。
こうなったらもう、寝ている間にこっそりと返してしまうのがい
いだろう。
説明は、後でもできるわけだし。
それに、事が終わればこの手鏡は全て砕いてしまうつもりでいる。
なるだけこんなものがあることは、誰にも知られたくはない。悪い
が、サンドリミンにもだ。
魔道具について、医療班が研究しているというならまだしも、範
疇外だと言っていたし。
﹁まあ、旦那様でしたら、寝ている御婦人を前にしても不埒なこと
などでき⋮⋮なさらないでしょうが﹂
﹁当たり前だ!﹂
まさかそんな心配をされていたとは、心外だ!
だが、なぜ下半身を見た、サンドリミン。
できない、と言い掛けたように聞こえたが、気のせいだろうか、
サンドリミン!
その視線にはどういう意味が込められているんだ、サンドリミン。
まさか、機能的にできるはずがないという意味⋮⋮そうなのか、
サンドリミン!?
﹁ただ私としましては、ジブライール閣下が旦那様に寝顔を見られ
てどう思われるか、などということに対してまでは、想像が及びま
せんので。夫婦や恋人関係にあるというならともかく、無防備な寝
599
顔を見られて喜ぶ御婦人はおりませんでしょう﹂
うわ⋮⋮。そんな言い方されたら、さすがに俺だってためらって
しまうではないか。
だいたい、自分だって寝顔をじっくり見たくせに、よくそんなこ
とを言えたもんだ。
デヴィル族がどうとか、デーモン族がどうとか、そういう問題じ
ゃないだろ、今の理屈だと!
﹁もっとも、旦那様と私が黙っておけば、ジブライール閣下はその
事実を知ることはないわけです﹂
﹁その通りだ、サンドリミン﹂
俺はサンドリミンと握手した。
﹁用が済みしだい、すぐに出てくる。それまでこの報告書を頼む﹂
サンドリミンを廊下に残し、俺は鞄を手に、診察室に入った。
サンドリミンが妙なことをいうから、ちょっと意識してしまうじ
ゃないか。それでなくとも、午前中にあんなことがあったっていう
のに⋮⋮。
診察台には仰向けに眠るジブライール。
すやすやと静かな寝息をたてるその様子は安らかで、顔色も落ち
着いて健康そのものだ。
少し微笑んでいるようにも見えて、むしろ起きている時より雰囲
気は柔らかい。
セルクだって、こういうジブライールを見れば、無表情だなんだ
と言い出さないと思うんだがな。
おっと、見ほれている場合ではない。それこそ無礼千万だと非礼
を追求されても、何一つ反論できないじゃないか。
600
俺は鏡を鞄から取り出すと、マーミルにやったようにジブライー
ルの身体と平行に空中で固定して、儀式を行った。
当然、今度もさくっと成功だ。
一応、ジブライールの魔力が戻ったのを目で確認してから手鏡を
しまい、物音をたてないよう気をつけながら部屋を出た。
﹁お早いですね﹂
﹁ああ、まあな。ところで、ジブライールはいつ目覚める?﹂
﹁それほど時間はかからないと思いますが。なんでしたら、無理に
でも起こしましょうか?﹂
﹁いや、いい。起きたら本棟に寄って、好きな服に着替えて帰るよ
う、伝えてくれ﹂
﹁かしこまりました﹂
何はともあれ、ジブライールに魔力を返せてよかった。
あとはベイルフォウスが残るのみだ。
今回のジブライールのようなことになってはいけない。あいつに
も早く返してやらないと。
まあ、割合的にみても、実際の分量をみても、ベイルフォウスの
減少はごくわずかだ。
だいたい、あいつが魔術の発動を失敗したとところで、それにつ
け込んで勝つことができる相手なんて⋮⋮それこそ、限られている。
例えば俺、とか。
そんなことよりも⋮⋮。
今度ちゃんと診てもらおう。
そう固く決意しながら、俺は医療棟を後にした。
601
55.僕にとってはそれはもう衝撃的事実だったのです
幾度もの運営会議と実行委員会を繰り返し、大祭の準備は着々と
進んでいった。
多少の問題はあったが︱︱ベイルフォウスが最初の約束を破って
会議に顔をださなかったり、ベイルフォウスがあらかじめ告げてお
いたにもかかわらず、大事な議決をすっぽかしたり︱︱、大きな問
題はおきなかった。
他の大公それぞれに任せた主行事の計画も、とっくに詳細な報告
があげられている。
内容に不審な点も、不備も見あたらない。
少なくとも、書類上は。
もっとも、書類通りにうまく運営されるはずがないのは、あるて
いど想定済みだ。
なんといったって、俺たち魔族は脳筋なのだから。
自領での催しの準備も、同様に順調だ。
﹁と、まあこんな風な配置にしようと思っているんですが﹂
今は執務室でヤティーンの報告を受けている。
﹁随分、警備拠点がすくないな。これで大丈夫か?﹂
﹁大公城は大人しい催しが多いですし、常にはフェオレスが目を光
らせてるんで、それほど警備が必要とも思えません﹂
フェオレスが実行委員長と発表した時には不満そうだったのに、
いざとなるとこの信頼に満ちた言葉。これだからヤティーンは憎め
ないんだよな。
602
﹁他の場所でも、要注意なところはもともと上位の魔族をおいてま
すし、それにあんまり締め付けが多くてもね。せっかくのお祭りな
んですから、楽しくやりたいじゃないですか﹂
楽しくやりたい、か。まあそれもそうだな。
俺はヤティーンに頷いてみせた。
﹁言い分はもっともだ。では、許可する﹂
計画を正式に認めたという証に、報告書の最後に紋章を焼き付け
た。
﹁ありがとうございます﹂
ヤティーンは書類を受け取ると、くるりと踵を返す。
が、途中で何か思い出したのだろう。百八十度回って止まらずに、
さらに百八十度回転して俺の方に向き直ってきた。
﹁ところで、閣下。お聞きしたいことがあるんですけど﹂
﹁なに?﹂
﹁ぶっちゃけ閣下って、ジブライールのこと、どう思ってるんです
か?﹂
﹁ジブライール?﹂
﹁そう、ジブライールです﹂
どうって言われても⋮⋮。
﹁優秀な副司令官⋮⋮あと、残念美人?﹂
俺は正直に答えた。
だが、ヤティーンは腑に落ちないといった表情を目に浮かべてい
る。
﹁俺はジブライールとは幼なじみってやつでして﹂
﹁知ってる﹂
﹁仲がいいとかではなくて、まあ喧嘩友達みたいなもんなんですけ
603
ど﹂
それも知ってる。
﹁ぶっちゃけ、種族も違うし⋮⋮あいつのこと、女だと思ったこと
ないんですよね。だって、気は強いし力も強いし、魔力も強いし。
結果、どこもかしこも強いですからね﹂
⋮⋮まあ、公爵になってるくらいだしな。
﹁性格は真面目すぎて堅苦しいけど、割と単純だしやっぱり脳筋だ
し。成人するまでには、とっくに女に興味津々だった俺と違って、
あいつ、割ともてるらしいのに、デーモン族の男の誘いにも見向き
もしないようすだったんですよね。むしろ、色恋沙汰より俺と喧嘩
する時のほうが生き生きしてる感じで。だから、ほんとに女だと思
ったことないんですよね﹂
二度も言うなんて、大切なことだったんだな。
﹁⋮⋮なんで、俺にそんな話を⋮⋮﹂
﹁この間のジブライールの怪我﹂
右肩をえぐって骨を砕いたっていう、あれか。
﹁あのときも、ジブライールはおかしかった。いつものような瞬時
の反応がなくて、まともに俺の魔術が直撃して⋮⋮結局あんなこと
に。あれだって、閣下のせいだと思うんです﹂
﹁えっ﹂
いや、確かに俺のせいといえばせいだな。
なにせ、あの時点で魔力を返すことができてなかったんだから。
そのせいで反応が遅れたのだろうし。
だが、ヤティーンは手鏡のことは知らない。
ということは、別の意味で俺のせいだと言っている?
﹁その根拠は?﹂
604
﹁だってこの間、閣下ってばジブライールを抱き寄せて押し倒して
たじゃないですか?﹂
!!
﹁ち、ちが⋮⋮⋮⋮押し倒してなんて⋮⋮あれは、事故で⋮⋮﹂
あれ以降、別にジブライールとの噂が前より広まった様子はなか
った。
てっきりヤティーンもウォクナンも、事故だとわかって口をつぐ
んでくれているのだと思っていたのに!
なに盛大に誤解してくれてるんだ!
﹁頭ではわかってるんですよ。ジブライールも女なんだって﹂
﹁ヤティーン、あれは本当に事故なんだからな! 抱き寄せたのは
まあ否定しないが、でも﹂
﹁まあ前からジブライールが閣下の前でしおらしい感じなのは気づ
いてて、ちょっと気持ち悪かったんですけど﹂
﹁あの時はああでもしないと、ジブライールを止められなかったか
らで﹂
﹁んでもって、閣下がものすごい男前だってのは、雰囲気でわかる
んですよ。そんな閣下に押し倒されたりしたら、そりゃあ女だった
ら誰でも動揺するとは思うんです﹂
﹁断じて押し倒したりなんて、してないからな! あれは事故だ﹂
﹁でもなんだろう、わかってもらえます? ジブライールにはそう
であって欲しくなかった! いつまでも、変わらないで欲しかった
んです!!﹂
﹁わかって欲しいのはこっちなんだけど! 俺の話聞いてる?﹂
﹁わかってますよ。俺だって、自分がわがままいってるってのは!
でも、幼なじみが急にいなくなったみたいで寂しいんですよ! 閣下だってわかってくださいよ!!﹂
いや⋮⋮わかってないのはお前だろ!!
605
それからヤティーンは、俺の言葉には一つも耳を貸さずに、最後
に﹁閣下のムッツリー﹂という捨て台詞を残して出て行った。
全くもって、納得しかねる。
そもそも意味が分からない。
いったいヤティーンは、なにが気にくわなかったって言うんだ?
俺がジブライールを好きだと思ったってことか?
それとも、両思いだと思われたのか?
あるいは、俺が一方的に襲ったと見えてその理不尽さに怒りを覚
えているのか?
だいたい、なんだムッツリって!!
俺のどこがムッツリだというんだ!
﹁旦那様、よろしいでしょうか﹂
一人、悶々としていると、ノックがあってセルクが入ってくる。
セルクは十日間、みっちり試用させてもらったが、特に問題はな
かった。そのまま正式に、筆頭侍従としてついてもらっている。
ワイプキーの時もそうだったし、家令であるエンディオンもそう
なのだが、基本的に城勤めの家臣には、城内に住居や部屋を用意し
てある。
が、セルクは子爵になりたてということもあり、エミリーとも大
事な時期だろうしと思って、暫くは通いでの勤務を許可している。
⋮⋮のだが、責任感からだろう。結局、セルクは城の部屋で寝泊
まりしているようだ。
﹁⋮⋮お加減でもお悪いのですか?﹂
﹁いや、特には⋮⋮なんで?﹂
﹁眉間に皺がよってらっしゃるのが珍しいので⋮⋮﹂
﹁ああ、これは⋮⋮不当な評価に悶々としてたからだな﹂
606
俺は人差し指で眉間の間をこすった。
﹁で、それは?﹂
セルクは両手で盆を持っている。
その上には、白い封筒が見えた。
また手紙か。嫌な予感しかしない。
﹁ルデルフォウス陛下からでございます﹂
﹁魔王様か!﹂
なら、嫌なことなんてあるわけがないな。
新魔王城の候補地を四つに絞って、決定権をゆだねていたのだが、
たぶんその返事だろうか。
俺は手紙をひったくるように受け取り、封を開ける。
中から用紙を取りだし開いてみると、予想した通り魔王城の決定
通知だった。
それはいいのだが⋮⋮。
﹁たった一行って。ほんとに魔王様は愛想ないんだから﹂
やれやれだ。
ミディリースと文通をしていると、だんだんあの長文に慣れてし
まって、素っ気ない文章に物足りなさを感じてしまう。
と、いうことはまさか、俺の書く文章も長々なっているのだろう
か?
今度自分の手紙を見直してみよう。
﹁候補地の決定通知だ。間違いない﹂
俺はセルクに手紙を見せた。
﹁では、ジブライール公爵をお呼びいたしましょうか?﹂
ジブライール。
その名前を聞いて、思わず眉がぴくりと反応してしまう。
607
﹁ああ⋮⋮いや、どうだろう⋮⋮﹂
﹁どう、とは⋮⋮? ジブライール公爵が、魔王城の築城を担当な
さるのでは⋮⋮﹂
﹁そうなんだけど、もうこんな時間だしな﹂
﹁まだお昼を少し、すぎたところですが﹂
﹁いや。できれば関係者全員、一度に現地で顔合わせしたい。そう
だな、魔王領の設計士や職人にも声をかけることになるから、明日
の方がいいだろう。時間の無駄を省きたいから、現地集合というこ
とで﹂
﹁かしこまりました。では、そのように手配いたします﹂
セルクは軽く頭を下げると、執務室から立ち去った。
今から召集のための手紙を書記係に書かせるのだろう。
その後で俺が内容を確認して紋章を焼き付け、該当者に届けられ
ることになる。
さて、では俺はセルクが帰ってくるまでに、ヒンダリスに関する
新しい報告書について、検討することにするか。
医療班からの解剖結果をあわせて、資料を机の上に並べる。
だが、読み進めても特に目新しい情報はない。
以前からわかっていた家族の元へ、証言を取りにいったようだが、
それで新事実がわかったということもないようだ。
曰く、ヒンダリスは家族への情が薄く、成人するや実家に寄りつ
きもせず、兄弟と親愛を交わすこともなかった。特にヴォーグリム
大公へ仕えてから、それはよりいっそう顕著で、我々家族は彼が何
の役柄についていたのか、察することはできても知らせてもらった
ことすら一度もない。故に、情の深い我々に彼の存在は耐えられず、
最初からいなかったものとして扱うことにした、と。
608
つまり、ヒンダリスは血のつながった家族からは、縁を切られて
いたということだ。
ちなみに両親はプートの領内で住んでおり、その他の独立した兄
弟も、ほとんどがその近辺にいるらしい。
プート、といえば、この間の六公爵も、結局プートの配下だった
わけだが。
その、六公爵不明の件については、俺が挑戦を受けて倒してしま
った者と紋章が一致した、という手紙を送った後に、﹁そうか、了
承した。知らせに感謝する﹂という返事をもらっている。
まあ、簒奪は魔族の習いだから、大公の返事としてはこんなもん
だろうが、こう重なると何らかの意図を感じずにはいられない。
そんなことを考えながら、医療班からの報告書にも目を通してい
ると⋮⋮。
以上の事実とリーヴの申告により、彼の特殊魔術は﹃呪詛を受け
て肉体は腐肉と化すが、間もなく完全に再生する﹄ものであり、本
人にとって激しい苦痛を伴うものの、その後は以前以上の能力を得
るものである。特に体内に呪詛を得た後は、再生後にその魔力の増
幅を認めた。
待て。
呪詛を受けて肉体が腐り、前より高い能力を持って再生する、だ
と?
しかも、魔力の増幅。これは⋮⋮。
俺はその資料を手に、医療棟へ向かった。
***
609
﹁つまりお前の能力は、他の呪詛を受けてただれ腐り、悪臭をまき
散らしながら溶解し、そののち激痛を伴ってゆっくり再生する。そ
して、そうなった後は、例えば手に外部から呪詛を受けて腐り、再
生すれば手先が器用になっているし、それが足なら走るのが早く、
上腕なら力持ちに、という感じなんだな?﹂
﹁はい。そうです﹂
俺は今、医療棟の応接室にいた。
目の前にいるのは、当然リーヴだ。
本来はそもそもが報告書から発覚した件なのだし、サンドリミン
にも医療棟の責任者として同席してもらうべきなのだろうが、今回
は外してもらっている。
﹁そして、体内に呪詛を取り入れると、全身が爛れて溶け⋮⋮魔力
が増える?﹂
﹁はい⋮⋮﹂
リーヴは小声でそう言って、身体を震わせた。
そうして俯きながら、小さく頷く。
﹁実際にそれをやってみたのはたったの二度なんですが⋮⋮﹂
なるほど。確かによく見れば、リーヴの魔力は微増している。
もともとが大した量でもないので、うっかりすると見逃しそうだ
が、間違いない。
﹁もしかして、他にも能力があるんじゃないか?﹂
﹁他⋮⋮ですか?﹂
﹁他の者に触れるだけで、その触れたところから相手に呪詛を移す
ことができる、とか﹂
﹁呪詛を⋮⋮移す?﹂
リーヴはキョトンとしている。
610
﹁すみません、そちらはわかりません﹂
﹁そうか﹂
どうやら、そちらの能力については把握していないのか、そもそ
もそんな能力ではないのか⋮⋮。
だとすると、デイセントローズとは別の能力か?
﹁それにしても、珍しい能力だな。特殊魔術辞典でも読んだことが
ない。よほど数が少なくて、今まで確認されていないか、君のみの
能力か﹂
ちなみに、俺の赤金の瞳も載っていない。
こんな能力が載っていたら大変だ。
⋮⋮いや、逆に公になっていたほうが、安全だったりするかもし
れないか?
﹁ええ⋮⋮でもあの⋮⋮﹂
リーヴはいつにもまして、オドオドと口ごもらせている。
﹁でも⋮⋮なに?﹂
﹁あの、できれば内緒にしていただきたいんですが。その⋮⋮こん
な能力がバレたらと思うと⋮⋮僕、恐ろしくて⋮⋮﹂
そりゃあ確実に、しかも簡単に強くなる方法を特殊魔術として持
っているとしれば、たいていの者は相手を驚異に思うだろう。もっ
とも、本人たちにとってその方法は、簡単どころか苦痛以外のなに
ものでもないのだろうが。
﹁それに、こんなことを閣下に話したなんて、もし母に知れたら⋮
⋮﹂
リーヴは随分、母親のことを恐れているようだ。
まあ、実力もないのを自覚しているのに、俺を殺せと言われて逆
らえない時点でお察しだが。
611
﹁大丈夫。ここでのことは、話すつもりはないよ。サンドリミンさ
え同席していないことで、信頼してもらえないか?﹂
まあ、そうはいっても、医療班はとっくにリーヴの能力を把握し
ているんですけどね。
﹁この能力を持っているのは、僕、だけじゃ⋮⋮ない、んです﹂
思い切ったように、そう語り出すリーヴ。
ああ、そうだろうな。もしこれが俺の思っているのと同じ能力な
ら、少なくとも現在、二人がそれを保持していることになる。
﹁母も⋮⋮そうでしたし⋮⋮﹂
⋮⋮え?
﹁母の双子の姉も⋮⋮﹂
⋮⋮ちょっと、待て。
﹁まさか、血統隠術だっていうのか?﹂
俺の質問に、リーヴはためらいながらも頷いた。
血統隠術だって?
だが、そうとすれば特殊魔術辞典に載っていないのも頷ける。
血統隠術は、特定の血族で脈々と受け継がれている特殊魔術だ。
しかも魔力を強くするための特殊魔術なら、秘されて当然、むし
ろ公にするようなことは極力避けるだろう。
しかし、だとすればデイセントローズのあれは⋮⋮。
﹁お、怒らないで聞いてくださいますか?﹂
﹁ああ、約束する﹂
﹁実は、母と叔母以外にももう一人、少なくとも僕と同じ⋮⋮体質
の者が、いて⋮⋮﹂
まさか、リーヴ⋮⋮!
612
﹁お前、まさか⋮⋮デイセントローズとは⋮⋮﹂
﹁い⋮⋮従兄弟、なんです⋮⋮﹂
な ん だ と !?
613
56.従兄弟といっても、会ったこともないみたいです
﹁ちょっと待て。なんだって? 今、なんて言った!?﹂
自分の耳が信じられなかった。
確かに今の話の流れだと、そういう事実が判明してもおかしくは
ない。
というか、そうであるとしか思えない。
だが、実際に無爵で気弱なこのネズミ顔のリーヴと、若いながら
も一気に大公にまで登り詰めた慇懃無礼なあのデイセントローズの
血がつながっているとは、どうしても信じられなかったのだ。
﹁本当に、お前とデイセントローズは従兄弟なのか? 正真正銘、
血のつながった?﹂
﹁ご、ごめんなさい!!﹂
俺が怒っていると思ったのだろう。
リーヴはさめざめと泣き出してしまった。
﹁ああ、もう! 俺は別にお前に怒っているんじゃない! だから
泣くな!!﹂
﹁は、はい!﹂
ぐすぐす言いながらも、リーヴは一生懸命泣きやもうと服の裾で
涙を拭いている。
とにかく、リーヴが落ち着くのを待つしかないと判断した俺は、
暖かい飲み物を持ってきてくれるよう医療員に頼むことにした。
さすがというべきだろう。その医療員は、鎮静効果のあるという
茶を持ってきてくれた。
俺とリーヴは黙って茶を飲む。
リーヴだけじゃなく、自分自身も飲んだのは、逸る気持ちを落ち
614
着けたいと思ったからだ。⋮⋮が。
なんだこれ。
さっぱりして、飲みやすい。
味もほどよい甘さがあって、おいしい⋮⋮。
気がつけば、俺は三杯目を飲み干していた。
そして、気分は⋮⋮。
うん、まったりだ。
まったぁりぃ⋮⋮。
やばい。眠くなってきた。
だめだ、ちゃんとリーヴの話を⋮⋮。って!!
リーヴの奴、寝てるではないか!!!
俺は椅子から立ち上がると、自分の頬を思いっきりひっぱたいた。
痛い。だが、完全に目は覚めない。
もう一度、医療員に飲み物を頼む。
今度は、目の覚める飲み物を。
そうして届けられた、吐きそうになるほど苦くてまずい茶を飲ん
で、ようやく覚醒する。
リーヴにも無理矢理飲ませて⋮⋮。
﹁ごほっ! ごほげぼっっ!!﹂
うわっ!
﹁ああっ!! すみません!!﹂
せっかく一旦気分は落ちついたはずなのに、今度は俺に向かって
嘔吐したという理由で涙目になっている。
﹁大丈夫だ。たいしてかかってない﹂
ちょっと太股が冷たいだけだ。
ちょっと⋮⋮な。
615
それにしても、魔族に効く毒なんかもほとんどないってのに、鎮
静剤ってのはすごいものだな。
まれに効く薬ってのは、逆に効果が強いのかもしれない。
﹁それより、さっきの続きだ。君がデイセントローズの従兄弟だと
いうのは事実か? 初耳だが﹂
﹁は⋮⋮恥ずかしくて⋮⋮デイセントローズは僕より年下で⋮⋮な
のに、もう大公で⋮⋮対する僕は爵位すら得られず、大公閣下を卑
怯にも暗殺しようとして、失敗して⋮⋮それで、お情けまでいただ
いて⋮⋮﹂
﹁別に、お情けで助けたわけじゃない﹂
⋮⋮まあ、そんな感情が全くなかったとは言わないが。
﹁つまり、そのさっき言っていた君の母上の双子の姉、というのが、
デイセントローズの母親なわけだな?﹂
﹁はい。母と伯母は、仲が悪くて⋮⋮ほとんど付き合いもなくて。
従兄弟がいるのは知っていたんですが、一度も会ったこともなくて
⋮⋮﹂
﹁ちなみに、母上の外見は⋮⋮﹂
﹁顔は⋮⋮ラマです。あと、身体は﹂
﹁いや、顔だけでいい﹂
それ以外聞いても混乱するだけだ。
﹁まさかとは思うが、父親が一緒ってことはないんだろうな?﹂
﹁いいえ。違います。叔母は⋮⋮この領地にはやって来たこともな
いはずです。それに⋮⋮それだと従兄弟じゃなくて、兄弟になって
しまいます⋮⋮﹂
﹁そうだな﹂
616
兄弟だろうが、俺は驚かないが。
リーヴが父親似、デイセントローズが母親似、ということもある
だろう。
それに、もしもデイセントローズがヴォーグリムの息子なのだと
したら、あいつの俺に対する態度も少しは理解できようというもの
だ。
丁寧なのは表面だけ。その実、常にこちらの様子を虎視眈々とう
かがっているような、あの油断ならない態度。
﹁じゃあ、あいつの父親は誰だ?﹂
案外、本人に聞いてみればすんなり話すのかもしれない。あいに
くと今までは興味がなかったので、あいつの両親のことは何も知ら
ない。
紋章録はさすがに自領の領民ではない、どころか同位の大公なの
で、魔王様が閲覧を許してくれたとしても、本人の許可がなくば見
ることはできないだろうし。常時は。
﹁知りません⋮⋮でも、本当にヴォーグリム大公じゃないのは確か
です。母はヴォーグリム大公に捨てられた後も、ずっとその寵姫の
ことはチェックしていましたし、それに伯母から子供ができたと、
領外から張り合うような手紙が届いたって⋮⋮随分腹をたてていた
ようですから﹂
﹁張り合うような手紙?﹂
﹁僕⋮⋮その手紙を⋮⋮あの⋮⋮見せてもらったわけじゃなくて⋮
⋮だから、内容については⋮⋮あんまり⋮⋮﹂
﹁知っていることだけでいい﹂
リーヴは罪悪感に満ちた表情を浮かべながらも、ぽつぽつと話し
てくれた。
手紙が届いたのはリーヴが今のマーミルほどの年の頃だったそう
617
だ。
伯母はその中で、デイセントローズという大変晴れがましい子供
を得たこと、それからその子が自分たちの血統隠術を受け継いで、
それを活用することを恐れず、リーヴよりまだ年若であるのにもう
爵位をえられるほど強くなっていること、末は大公につけるつもり
であって、その後ろ盾も得ていることを列記し、自分の妹の息子︱
︱つまり、リーヴの実力はどれほどのものか、と尋ねてきたそうだ。
﹁その手紙が届いてからなんです。母が、僕にあの粉薬を飲むよう
に言ってきたのは⋮⋮﹂
このままでは双子の姉に合わせる顔がない。だから自分の息子も
大公になれるほど強くして、甥︱︱デイセントローズに張り合わせ
ようとしたわけか。
﹁でも、僕⋮⋮痛いのほんとに嫌いで⋮⋮それで、薬は飲まなくて
⋮⋮﹂
両膝に置いた手が、ぷるぷると震えている。
当時の苦痛を思い出して恐怖心までぶり返したのか、それとも従
兄弟に対する劣等感にさいなまれてのことか。
⋮⋮まあ、前者だろうな。
﹁デイセントローズのことで、他に何か知っていることはあるか?﹂
﹁⋮⋮閣下は⋮⋮あの、デイセントローズのことを⋮⋮﹂
さすがに従兄弟同士ともなれば、会ったことはなくとも気にかか
るのかもしれない。
﹁⋮⋮マーミルが発熱した一件を知っているか?﹂
あのとき、まだリーヴは医療棟では働いていなかったが、資料を
整理している関係上、全く知らないではないだろう。
﹁あの⋮⋮はい、少し、は⋮⋮呪詛を受けて、発熱なさったとか⋮
618
⋮﹂
﹁そうだ。結局、サンドリミンたち医療班の尽力あって、妹の体調
は元に戻った訳だが、実は妹に呪詛をかけたのが﹂
﹁デ⋮⋮デイセントローズ、なのです⋮⋮か?﹂
さっき俺が問いかけた、呪詛を他の者に移す⋮⋮云々の話でピン
ときたのだろう。
俺が頷くと、ただでさえ灰色の顔が余計どす黒く曇ったようにみ
えた。
﹁⋮⋮それで、旦那様はデイセントローズを警戒なさって⋮⋮﹂
﹁まあ、な﹂
閣下呼びと旦那様呼びにする時の差がわからない。
いや、そんなことはどうでもいいんだけど。
﹁でも、もしもまた、そんなことがあったら⋮⋮今度はお前がなん
とかしてくれるんだろ?﹂
﹁も、もちろん⋮⋮です。やってみたことがないので、できるかど
うかはわかりませんが⋮⋮僕にできることは、なんでも⋮⋮!﹂
デイセントローズと従兄弟と聞いて、一瞬はその思想を疑ったが、
やはりリーヴはリーヴ。
どう見ても、やっぱりこいつは心底気弱で小心者、でも裏のない
正直者、臣下として信頼に値する者のようだ。
﹁よく正直に言ってくれたな。おかげで現状把握が一歩も二歩も、
進みそうだ﹂
﹁いえ、そんな⋮⋮﹂
黙っていたことで罪悪感を感じていたのかも知れない。
ねぎらう言葉に、ようやくリーヴはホッとしたような微笑を浮か
べた。
619
﹁ああ、それから念のため聞くが⋮⋮ヒンダリス、という名に聞き
覚えはあるか?﹂
もしかすると、俺が考えるよりリーヴはいろいろなことを知って
いるのかもしれない。本人が、その情報を重要だと自覚しているか
どうかは別として。
﹁ヒンダリス⋮⋮さん? 宝物庫に勤めてる人、ですよね?﹂
﹁そうだ。知っているのか?﹂
問題は、いつ知り合ったか、だが。
﹁ええ、母が大公城で侍女をしていたときからのお知り合いだそう
で⋮⋮城を出た後も、おつきあいがあったみたいです。そういえば
ご家族
とは、やは
⋮⋮あの、粉薬⋮⋮あれを持ってきたのも、もしかすると⋮⋮﹂
と、いうことは、ヒンダリスの言っていた
リーヴとリーヴの母のことだろうな。
﹁今でもお勤めですか? ご挨拶に行った方がいいかな⋮⋮﹂
また、リーヴの表情が曇る。
どうやら息子の方は、本当に付き合いがないようだ。しかも、苦
手なのだろう。
だが、母の方は?
﹁いや、もうヒンダリスはこの城にはいない﹂
﹁そうですか﹂
リーヴはホッと胸をなで下ろした。
まあ真実を告げる必要はないだろう。今はまだ。
﹁ところでリーヴ。お前の母上だが⋮⋮本当に、居場所のあてはな
いのか? 例えばその、双子の姉のところに身を寄せているだろう、
とか⋮⋮﹂
デイセントローズなら、事情を知っても匿いそうだからな。
﹁いいえ。それはないと思います。もしそんな可能性があるんなら、
620
僕だってもっと早くに言ってました。母と伯母は、本当に仲が悪い
ようでしたから⋮⋮すみません﹂
暗殺を教唆した罪では罰しないと言ってあるし、リーヴも俺のそ
の言葉には信頼を置いているだろう。
だから本当に、母の居場所に心当たりがないのだろうとは思うの
だが。
﹁長々と邪魔をして悪かったな﹂
俺は席をたった。
今はこれ以上、聞くべき事はないと判断してのことだ。
ああ、だがそうだ。
﹁君の苦痛は承知の上で、頼みがある。できれば一度、俺の目の前
で呪詛を受けてみてくれ﹂
一回の甦りで、どれほどの魔力が増えるのか⋮⋮見てみたい。
一度といったが、本当なら数度でも。
俺の要望に、リーヴは小刻みに耳を動かした。
﹁が⋮⋮頑張ります﹂
﹁ああ。急がないから、決意ができたらぜひ頼む﹂
俺はリーヴの肩を軽く叩き、その応接室を後にした。
リーヴの母親のことは、今までと違って自領にいないからと放置
しておくわけにもいかなくなったようだ。
こうなると面倒だと思っていたが、大祭主の任についたのは不幸
中の幸いだったな。
その立場上、他の大公のところへ顔を出す機会も多いから、それ
となく探ってみよう。
なんにせよ、リーヴには今まで以上に注意を払う必要がありそう
621
だ。
俺は道々その対策を考えながら、執務室へと戻っていった。
622
57.リスくんがあんまり熱意をもって訴えるので
今日、執務室へとやってきて切々と訴えかけてきているのは、ウ
ォクナンだ。
﹁もちろん、アレスディア殿がマーミル姫の大切な侍女どのである
ことは承知しています! が、考えてもみてください、閣下。あの
方がパレードに参加できないなどということになれば、どれほどの
領民が絶望することか!﹂
アレスディアは無爵だし、ただの侍女なのだが、ウォクナンの彼
女に対する態度は熱心な崇拝者のそれである。
最初は、ウォクナンもパレードに美男美女をそろえられるとあっ
て︱︱特に、デヴィル族の女性の選定にひとかたならぬ意欲をみせ
ていたようだ。
だがそのうち、選んだ顔ぶれに物足りなさを感じたらしい。
よくよく考えてみれば、それは大公アリネーゼに比肩するとも思
える美女を、構成員に加えられないというその理不尽が原因に違い
ない。そう判明してしまっては、とても今の構成員に納得などでき
たものではない。考えるうち我慢ができなくなって、ついに俺の所
へ直談判にやってきてしまった、というのだ。
﹁気持ちはわかるがな⋮⋮﹂
アレスディアが絶世の美女だというのは、理解できなくとも知っ
てはいる。
パレードには美男美女を百人と言われているのだから、そりゃあ
彼女を入れることは、誰でも思いつくだろう。
だが、忘れてはいけない。
623
パレードは百日間もあるのだ!
彼女がそれに参加してしまったら、その間、うちの妹の世話は誰
がするというんだ?
﹁子供は親なんていなくても育つものです!!﹂
うーん。まあ、なぁ⋮⋮。
結局、俺はウォクナンに押しまけて、本人の意思を確認すること
にした。
﹁ぜひ、参加させていただきとうございます﹂
晴れ晴れとした表情で立つアレスディア。
その左右を挟んだ者たちの表情は、対照的だ。
右に立つマーミルが驚きのあまり目を見開き、口をぽかんと開く
といった感じなのに対し、ウォクナンは歓喜のあまり今にも泣き出
しそうな、複雑な笑みを浮かべている。
﹁アレスディア、パレードなんかに参加したら、みんなにいっぱい
見られて恥ずかしいし、それに⋮⋮それに⋮⋮﹂
マーミルはくいくいと、侍女の腕を引っ張っている。
﹁あら、お嬢様。私ほどの美女であれば、見られることには慣れて
おりますよ。それどころか、今の状況では賞賛の眼差しが足りない
と感じるほどですわ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
妹はしゅんとなって、侍女から手を離した。
﹁そうでしょうとも、そうでしょうとも﹂
逆に勢いづいたのはウォクナンだ。
リスはごついその両手でアレスディアの小さな手をそっと包み込
624
む。そう、まるで繊細な宝物にでもふれるように。
なでる手つきがなんかイヤラシく見える。
﹁貴女ほどの美女が、一大公城の、それも大公の妹姫の侍女として
城の奥でくすぶっていらっしゃるなど、言ってみれば世界の損害で
しかありません! その美しさ、その気高さ、その愛らしさ⋮⋮私
などは、ご尊顔を拝するだけでも脳髄までとろけそうになっており
ます﹂
悪かったな、一大公の妹の侍女で!
本当に脳がとろけてるんじゃないのか。
その口から流れ出ているのは、脳そのものなんじゃないのか?
それにしても、よくもまあべらべらと、誉め言葉が出てくるもの
だ。
言われているアレスディアはまんざらでもないどころか、当然と
いう顔つきだが、それに比例して我が妹の眉根がよっていくのがお
もしろい。
﹁もしも当代の魔王陛下がデヴィル族であったなら、貴女はその寵
姫と望まれて当然のお方⋮⋮ぜひともその美貌を下々の者にも顕現
なさって、当然あるべき賞賛をお受けいただきくが大道と、こう私
は思うのです﹂
当代の魔王陛下がデヴィル族であったなら、か。
ウォクナンからすれば悪気なく言ったんだろうから、いちいちつ
っこみもしないが。
﹁マーミルも、いいな?﹂
﹁⋮⋮﹂
妹は、ぷっくりと口先をとがらせたまま、かすかに頷いた。
625
﹁では、私はその間のことを、旦那様とお話しせねばなりません﹂
アレスディアはそう言って、リスの手をそっと放した。
﹁お嬢様も副司令官閣下も、とっとと出て行ってくださいまし﹂
﹁私、も?﹂
マーミルが不満顔で侍女を見上げる。
﹁もちろんですよ、お嬢様。お子ちゃまが参加していいお話ではあ
りませんからね﹂
﹁私に関係あることなのに⋮⋮﹂
妹はそうぶつぶつ言いながらも、執務室から出て行った。
﹁僕、も?﹂
おい。気持ち悪いから妹の真似をするな、このぶりっこリスめ!
口元にあてたごつい指をへし折るぞ!
﹁もちろんです、副司令官閣下。ご家族以外が参加していいお話で
はありませんからね﹂
﹁はあーい﹂
リスは気持ち悪い声を出しながら、執務室から上機嫌で出て行っ
た。
﹁折り入ってお願いがございます、旦那様﹂
﹁なんだ?﹂
アレスディアはいつになく真剣だ。
﹁私がパレードに参加している間のことですが、お嬢様にはぜひ、
デーモン族の侍女をおつけいただきたいのです﹂
アレスディアまでデヴィルやらデーモンやら、言い出すとは。
﹁お嬢様はこのところ、デヴィル族に不満をお持ちのようでして⋮
⋮ああ、もちろん、生まれた時から一緒である私をのぞいて、です
が﹂
626
﹁不満? どういうことだ?﹂
侍女はデヴィル族だし、親友たちだって、デヴィル族ではないか。
﹁簡単なことですわ。お嬢様の周りにいるデヴィル族は、美形が多
いのです。この絶世の美女たる私は当然として、あの双子姫もけっ
こう人目を引くのです。感覚的には理解できなくとも、絶世の美男
子と言われたお父さまに似ているという事実で、納得はしていただ
けるでしょうか?﹂
﹁そうなのだろうな、とは思っていた。だが、アレスディアやネネ
ネセ、その姉妹が美人ぞろいだからといって、それがマーミルの不
満にどうつながるっていうんだ?﹂
﹁このお城に勤めている者は、ただでさえ前大公の影響でデヴィル
族が大部分を占めるのですよ? そう言ってもおわかりになりませ
んか?﹂
いや⋮⋮まったく⋮⋮。
俺が顔を左右に振ると、アレスディアは大きなため息をついた。
﹁お嬢様は思春期なのです。旦那様。大人なら気にしない些細なこ
とも、気になるお年頃なのです﹂
何を言いたいのか、全くわからない。
﹁⋮⋮はっきり言ってくれ﹂
またため息をつかれた。
なんだよ。俺が悪いのか?
﹁つまり、周囲に数多いる男性たちの賞賛が、お嬢様だけをすり抜
けて、その近辺に注がれている、ということです。おわかりですか、
旦那様。﹃マーミル姫さまの御親友のお嬢様がたは、どなたも目を
見張るほど美しい方々ばかりですね﹄と、自分を無視して浴びせら
れる賛辞⋮⋮それを聞き続けるむなしさに﹂
いや⋮⋮全く理解できない。
自分の身に置き換えても、さっぱりわからない。
627
俺はべつに、ベイルフォウスが隣にいても全く気にならないんだ
が。
﹁まあ、考え方はわかった⋮⋮それで最近、デーモン族の家臣が増
えればいいのに、という考えになっているんだな。そうなったとこ
ろで、自分が賞賛されるとは限らないのにな﹂
﹁⋮⋮﹂
なぜだか沈黙で返されてしまった。
というか、この目は⋮⋮まさか、呆れているのか、俺に?
﹁旦那様に女性の影がない理由が、わかったような気がします﹂
なっ⋮⋮!
失礼な!!
これでもいろいろ、噂はされてるんだぞ!!
どれも実のない噂ばかりだがな⋮⋮。
﹁とにかく、今、お嬢様はデヴィル族に対して非常に危うげな価値
観を抱きつつあります。私のことは、それこそ生まれたときからの
つき合いですので、変わらず慕ってくださってますが⋮⋮。けれど
も、私はこれをいい機会だと考えております。ですから結果はどう
あれ、マーミル姫のお世話にデーモン族の方を、と、申し上げまし
た﹂
﹁なるほど、わかった﹂
正直、理解できない。でもまあ、わかったと言っておこう。
なにせマーミルの側にずっといるアレスディアがそう言うのだか
ら、それでいいのだろう。
﹁だが、俺は侍女のことはよく知らない。その代役はアレスディア。
君が選んでくれるか?﹂
﹁願ってもございません﹂
628
妹のことになると、ほんとに頼りになるな。アレスディアは。
﹁ありがとう。いつも感謝している﹂
﹁あら。とんでもない。私も常日頃から、旦那様には感謝いたして
おりますわ。ただ、今回のことでは一つだけ、心配事があるにはあ
るのですが﹂
何だろう。妹のことだろうか。
﹁私のこの美しさが、世の男性に知れ渡り⋮⋮美男美女コンテスト
でアリネーゼ閣下を上回ってしまうのではと考えると、申し訳ない
やら恐ろしいやらで。それに一位になったら、どなたかのお家に宿
泊しなければならないのでしょう? この清らかな身が心配ですわ﹂
⋮⋮さすがだ、アレスディア。
俺は苦笑いで応じるしかなかった。
629
58.魔王城を新築するにあたって必要な人員
新魔王城の建設場所も魔王様自身の英断で決定し、現地で作業に
従事する者たちの顔合わせもすんだ。
それどころか、もうすでにジブライールの監督のもと、基礎工事
が始まっている。
当然、そんなわけだから、ジブライールとも何度も顔をあわせて
いる。もっとも、二人きりで会っているわけではなし、特になんの
問題もない。
ちょっと視線をそらされることが多くなっただけだ。
そう、時々何かに耐えているように、ぷいっと余所を向かれるこ
とが多くなっただけのこと⋮⋮。
別に、気にしてなど⋮⋮いない。
そんなことより、新魔王城建設だ。
他の大公には詳細を内密にせよ、という魔王様の指示があるため
に、かなりの広範囲に及んで結界を張る必要があった。
しかも、たとえウィストベルでも容易には破れないだろうという
ほどの結界だ。
なにせ、百式五陣を何度も何度も展開させて、念入りに作ったも
のなのだから。
それだけのものを展開させるとなると、さすがに疲れた。
その日は一日、城に帰るなり寝込んでしまったくらいだ。
ちなみに、作業に関わっている者の体には、一時的な魔術印を施
してある。結界の術式と、その魔術印が干渉しあって、ようやく結
630
界内への扉が開かれるのだ。
だから、魔術印を施していない者が、作業員と一緒に入ろうとし
ても、結界がその者だけはじくようになっている。
我ながら、よくできた術式だ。
だが、それでも不安なので、ミディリースを動員することにした。
彼女の特殊魔術である、隠蔽魔術を期待してのことだ。
なにせ、結界があることは外からみれば一目瞭然なわけだ。いや、
一目瞭然というのはちょっと違うかな。
だが俺のように魔力が目に見えなくとも、そばによればそこに魔
力による障害がある、ということには誰であろうがわかるはず。そ
れをわからなくするのが、隠蔽魔術だ。
魔王様は場所まで内緒にしろ、とは言われなかったが、念には念
を入れるに越したことはない。
とはいえ、当然あの引きこもりが簡単に自室から出てきてくれる
わけがない。俺は手紙に依頼を書いて送ったが、それに対する返事
は﹁否﹂だった。
曰く、自分のささやかな魔術でそんな大それたことができるはず
はない。だから遠慮したい、というのだ。
当然、俺の意志も否だ。
そう、今回ばかりはミディリースに奉仕を強制するつもりでいる。
なんといっても、ことは魔王城の新築。本来ならば、全魔族の力を
結集して取りかからねばならないほどの大事業だ!
それを、他の大公の力を借りられないのなら、せめて自領にある
力はすべて費やしてでも成し遂げる、という気概がなくてどうする!
と、言うわけで、俺は今ジブライールと図書館にきている。
ちなみに、結界内の出入りは自由ではない。
631
完全に閉じてしまってもよかったが、さすがに大祭をこもって全
く経験できないというのではかわいそうなので、届け出をすれば出
入りできるようにした。
なぜジブライールを同伴したか、というと、同じ女性が監督官と
いうことで少しでも安心してもらいたい、というのが一つ。そして
もう一つは、誰も見ていないにしても、さすがに男の俺が自室に押
し入る訳にはいかないからだ。
今日は出てこなければ、そこまでするつもりなのだから!
﹁ミディリース。聞こえてるよな? こちらはジブライール。俺の
俺の
⋮⋮﹂
副司令官だ﹂
﹁
無表情で呟くジブライール。
しまった、発言には気をつけないとな!
﹁あ、ごめん。訂正する。我が軍の、副司令官!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
新魔王城建設現場への協力要請
について、
﹁ミディリース。今日俺たちがきたのは、例の件で話し合いたいか
らだ。手紙に書いた
だ﹂
﹁手紙⋮⋮﹂
隣でジブライールが呟いているが、もう反応は気にせずいこう。
どのみち無表情だから、どういう意味なのか測れない。
じっくり観察すればわかるだろうが、今はそんな時間もない。
﹁とにかく、一度出てきてくれないかな?﹂
俺の呼びかけもむなしく、反応はない。
予想範囲内だ。
﹁ウィストベルに何か言われたか? 格好のことなら、気にしなく
632
てもいい。この間の、黒づくめに仮面でもいいから﹂
だが、やはりどこにも人影はない。
聞いてはいると思うんだが、出てくる気にはならないようだ。
﹁ミディリース。今回ばかりは俺も簡単に引く気はないんだ。なん
といったって、新魔王城だぞ? それに関わることができるなんて、
光栄なことだと思わないか? とりあえず、出てきて話だけでも聞
いてみてくれないかな﹂
もっとも、俺も正直、ちょっと面倒くさいと思っている。
さらに言葉を重ねようと口を開きかけたとき、隣でジブライール
が足をダンッと踏みならした。
ビクッとする俺。
だが大丈夫。隣だから、見られていないはずだ。
﹁閣下がここまで優しく語らいかけていらっしゃるというのに、ま
だ姿を見せないとは何事か!﹂
当然、ジブライールの叱咤にも応じる姿はない。
というか、そんな風に脅したら、よけいに引きこもってしまうの
ではなかろうか。
﹁この期に及んで、まだ無言を貫くというなら、よかろう。この隅
々を焼き尽くして、灰の中からその骸を見つけだしてやることにし
よう﹂
﹁ちょ⋮⋮ジブライール!!﹂
俺もやった手だが、大きな違いが一つある。
それは、俺は脅しだけだったが、ジブライールなら本気でやりか
ねない、ということだ。
冷静なように見えるが、ジブライールは無表情なだけで、存外短
気なのだから。
633
青ざめてジブライールの腕を取る俺。
﹁落ち着こう。そこまでしなくていい﹂
﹁ですが、閣下。これは立派な反逆罪です! 閣下のお言葉を、無
視するなど、許してはおけません﹂
ほら、本気だった!
﹁いや、許してあげよう? ちょっとミディリースは引っ込み思案
なんだ。ちょっと気が弱いんだよ。許してあげよう?﹂
と、いうか、本を許してあげて欲しい。
﹁閣下!﹂
﹁はい﹂
﹁腕を、離してください﹂
﹁あ、ごめん﹂
﹁いいえ⋮⋮﹂
俺はジブライールの腕から手を離した。
ちょ⋮⋮そんな、さすらなくても⋮⋮俺、そんなに強く握った?
﹁とにかく、ミディリース。本を焼くというのは冗談でも﹂
ガタッという音が背後から聞こえる。
さっきの脅しで、我慢できなくなったらしい。さすがに図書館内
には出てきたようだ。だが、それには気づいていないふりをしよう。
﹁五秒以内に出てきてくれなければ、ジブライールに自室まで突入
してもらうから、そのつもりで。いーち、にー﹂
﹁ああああああ﹂
低い、くぐもった声が近づいてくる。
俺とジブライールは、後ろを振り返った。
﹁うわっ﹂
634
花葉色の髪を振り乱し、一心不乱に近づいてくる小さな固まり。
軽く引くほど不気味だ。
だがそう思ったのは俺だけのようだ。
ジブライールはその固まりに近づいていくと、がっしりと両肩を
鷲掴みにした。
﹁あなたが噂のミディリースか。是非一度、会ってみたかった﹂
ミディリースの足がとまったとみるや、せっかく顔を覆わせてい
た髪をばっさりと後ろへ振り分け、彼女の顔を白日の下にさらす。
ウィストベルといい、ジブライールといい⋮⋮容赦がなくて怖い。
﹁なんでも、閣下と文を交わす仲だとか。ぜひ、私ともそれほど仲
良くなっていただきたいものだ﹂
あれ? さっきの怒った感じは、演技だったのか?
ずいぶんと、友好的な申し出じゃないか。
だが、どうしたことか、笑いかけられているはずのミディリース
は、目を見開きながらガタガタ震えている。
相変わらずの人見知りの激しさだ。
まあとにかく、ミディリースは出てきてくれた。良しとしよう。
さて、ここからは話し合い、などと悠長なことは言っていられな
い。
詳しい説明は手紙でしてあるから、不明な点はないはずだ。
ジブライールがミディリースの気を引いてくれているのをこれ幸
いと、俺は司書の後ろに回り込んで、彼女を抱き上げた。
いわゆるお姫様だっこ、ではなく、マーミルを抱き上げる時のよ
うに太股に手を回してそのまま持ち上げる方法だ。
635
﹁ひい!﹂
叫びをあげ、俺の肩にしがみつくミディリース。
﹁強引で悪いが、ミディリース。このまま現地に連れて行く﹂
﹁はああああ!?﹂
ん?
野太い怒声に重なって、悲鳴が聞こえたような⋮⋮気のせいか。
ミディリースは俺の肩に手をおいて、必死に逃れようとがんばっ
ている。
﹁暴れると、ここからさらにお姫様だっこに移行するぞ。それでも
いいのか?﹂
そう言うと、ミディリースは体を硬直させ、静かになったのだっ
た。
***
﹁閣下⋮⋮最低⋮⋮最低⋮⋮﹂
現状、竜の上だ。
いつもは座って乗るのだが、今日はミディリースを抱き上げてい
る都合上、立ったまま騎乗している。
﹁耳元でささやかないでくれ。こそばゆい﹂
﹁さ⋮⋮最低!!﹂
﹁ミディリースはさっきから最低、しか言わないな﹂
﹁ううう⋮⋮だって⋮⋮恥ずかしい⋮⋮怖い、し⋮⋮﹂
高いところが怖いのか?
﹁しっかり持ってるから、落としたりはしないぞ﹂
﹁やだ⋮⋮降ろして⋮⋮ほし、です⋮⋮﹂
﹁逃げないか?﹂
﹁逃げない⋮⋮怖い⋮⋮﹂
636
まあ、デヴィル族みたいに背に翼も生えていないんだ。さすがに
高速で飛ぶ竜から、降下したりはしないか。
俺なら翼の有無など関係なく飛び降りるが、なにせ相手は無爵の
ミディリースだ。
飛び降りたらふつうに死ぬかもしれない。
俺は彼女を竜の背に降ろした。
だが、ストンと降ろしてしまうと、小ささがより際だつ。妹より
少し高い程度じゃないか?
しかもうつむいてるから、立って見下ろした状態だと、頭頂部し
か見えないんだけども。
﹁閣下⋮⋮強引すぎる⋮⋮あの、副⋮⋮司令官も、怖い⋮⋮﹂
そう言って、ミディリースは進行方向に背を向ける形で、竜の背
に座った。
俺も彼女に向かい合うようにあぐらをかく。
これで顔を見て会話ができるというものだ。
﹁なんだ。ウィストベルより怖いと思ってそうだな﹂
俺の言葉に、ミディリースは頷いた。
ちなみに、当のジブライールは、俺に追従する形で後ろを飛んで
いる。
並べばいいのに、うちの真面目で謙虚な副司令官は決して併走し
ようとしない。
﹁暁の⋮⋮ウィストベル大公は、強引だけど、そんな怖くなかった﹂
いやいや。ウィストベル以上に怖い人なんて、いませんから。
自分だって、ガタガタ震えていたくせに。
魔力が見えないと、こんなものなのか?
637
それともやはり、長年の文通で少しは気心が知れていると感じる
からなのだろうか。
﹁用事終わったら⋮⋮すぐ、帰って、いい⋮⋮です?﹂
そういって、上目遣いでこちらを見上げてくる。
﹁隠蔽魔術の継続は、離れていても可能なのか?﹂
﹁もちろん⋮⋮!﹂
﹁なら、かまわないが⋮⋮﹂
﹁あ、あと、一つ!﹂
ミディリースが座ったまま、何度かぴょんぴょんと弾けるように
腰を浮かせる。
﹁隠蔽魔術の定着に、現地で三日ほど必要⋮⋮閣下、その間一緒に
いてほしい! ⋮⋮です﹂
﹁三日、か﹂
人見知りの激しいミディリースのことだ。ついていてはやりたい
が⋮⋮。
﹁他の用事もあるからなぁ。毎日、顔を出すようにはするから、あ
とはジブライールに⋮⋮﹂
﹁いや⋮⋮怖い⋮⋮﹂
ミディリースはぶるんぶるんと顔をふる。
何がそんなに怖いっていうんだ。
⋮⋮ああ、そうか。俺がウィストベルを怖いと感じるように、あ
んまりにも魔力に差がありすぎると、やはり本能的な恐怖が⋮⋮あ
れ?
待て。それだとなんで俺は怖くないのか、という疑問が生じる。
そういえば、さっきからずいぶん饒舌じゃないか?
つまりこれは⋮⋮俺とも文通するうち、慣れてきた、ということ
なのだろうか?
638
今の申し出は、俺なら側にいても怖くない、ってことだもんな。
俺はついに、六百年の引きこもり娘の信頼を勝ち得た、ってこと
か?
﹁よし、じゃあこうしよう。三日間、現地でミディリースの側にい
る。代わりにミディリースは、帰ったら俺の仕事を手伝ってくれ。
もちろん、無茶なことは頼まない。これでどうだ?﹂
一瞬ためらったあと、ミディリースはこくりと頷いた。
よし、やっぱり俺は一定の信頼を得られているようだ!
⋮⋮今回でそれが水の泡にならなければいいが。
とにかく俺たちは、なんとか作業員たちの待つ新魔王城の建設現
場へと、たどり着いたのだった。
639
59.魔王城を新築するにあたって必要な処置
今は準備期間中だが、大祭に突入したとして、魔王城の建設に携
わる作業員たちは、自分の作業が終わらないうちにはこの建築予定
地でほとんどの時間を過ごすことになる。
その総数は、自領・魔王領の技術者・職人を集めて約千五百ほど。
大人数だ。
とはいえ、建てるのは魔王城だ。そんな数でいいのか、と聞いた
ほどではあるのだが。
そして、職人たちの代表による答えは、﹁十分です﹂だった。
となると当然、それだけの人数を収容するための、宿泊施設が必
要になってくる。
だから彼らがまず取りかかったのは、その仮居住区の建設からだ
った。
さすがに人員も千を越えるとなれば、建物も一つ二つですむわけ
がない。
仮住まいだから普段の住居ほど贅沢はできないものの、身分に応
じて多少は部屋も少しは広くしたり豪華にしたりもしなければいけ
ない。
だが、彼らはその仮居住区を、あっという間に整えてしまった。
おそらく一日もかかっていないだろう。
その結果、現地ではいくつもの大小さまざまな建物が、広い通路
を挟んで整然と並んでいた。
一見したところ、人間の町にも似ている。
﹁うわ⋮⋮まるで⋮⋮﹂
おそらく、俺と同じ感想を抱いたのだろうミディリースは、俺の
640
マントを握りしめ、俺の影に隠れるようにして後ろをついてくる。
まあ⋮⋮慣れてくれたのは嬉しいが、これはこれで⋮⋮ちょっと
鬱陶しいな。
当然、結界の中に入る前にミディリースにも魔術印を施しておい
た。
その作業を見守るジブライールの視線が厳しかったのは、もしか
してその時に使った術式を、解読しよう試みていたからなのだろう
か。
その後ため息をついていたから、無理だったのかな?
それはともかくとして、ミディリースもこの仮居住区が気に入っ
たらしい。目がキラキラと輝いている。知り合ってから、始めて目
にする喜びの表情だ。
もっとも、まれに作業員たちとすれ違うたび、その視線におびえ
たように俺の後ろで縮こまるのだけれど。
﹁とにかく、部屋を決めてしまうか。それから作業に入ろう。でな
いと、落ち着かないだろう﹂
俺の言葉に、何度も頷くミディリース。
人目のつかないところに、早く行きたいのだろう。
﹁あ、ジブライールは仕事に戻ってくれていいから。忙しいのに、
つきあってもらって悪かった﹂
﹁えっ。いえ、しかし⋮⋮﹂
﹁部屋は適当に決めておくし、何度か来てるから、食堂とかトイレ
や風呂の場所はわかってる。心配いらない﹂
しつこいが、ここは簡易の仮住まいだ。そんなわけで、水回りは
共同になっている。
それはどれほど高位のものでも変わらない。
もしも魔王様が視察に来られたとしても、共同トイレを使用して
641
もらう。
﹁ですが⋮⋮それでは、その⋮⋮閣下とミディリースが⋮⋮﹂
何が気になるのか、いつもの歯切れのよさがない。
俺とミディリースが?
⋮⋮そうか。
﹁大丈夫。俺もここで処理できそうな書類を持ってきてるから、無
駄に二人でうろちょろして、ジブライールの仕事の邪魔をしたりは
しないよ。だから俺たちのことは気にせず、安心して仕事に励んで
くれ﹂
そうとも。
まさかミディリースがずっと一緒にいてくれと言い出すとは、思
っていなかった。数日かかるようなら、俺だけ先に帰るつもりだっ
たのだ。
だが最初から、ある程度は見届けて帰るつもりではいた。
その時間つぶしのために、少しの書類と、例の医療班からの報告
書はもっていたのだ。
俺が満面の笑みでジブライールにそう言うと、なぜか彼女は俺の
背後に視線をやった。
それを受けて、ミディリースがビクッとしたのが、背中越しに伝
わってくる。
﹁閣下がそうおっしゃるのであらば⋮⋮ですが、夕食はぜひご一緒
したいと思います。よろしいでしょうか?﹂
﹁ああ、もちろん構わない。君が宿舎に帰ってくるまで、待ってい
ることにしよう﹂
﹁ありがとうございます。急ぎ仕事を終わらせて、閣下の元へ参り
ます﹂
642
いや、急がなくてもいいんだけど⋮⋮。
﹁では、失礼いたします﹂
ジブライールはビシッと敬礼をすると踵を返し、颯爽と俺たちか
ら離れていった。
﹁怖いけど⋮⋮ちょっと、かっこいい⋮⋮﹂
えっ!
あの敬礼がかっこいいって!?
あの、﹁いやん、来ないデー﹂が!?
そういう訳じゃないよな。ジブライール自身がかっこいい、って
ことだよな。
﹁そう思うなら、ジブライールにお願いして友達になってもらった
らどうだ? 向こうも仲良くなりたいと言っていただろ?﹂
﹁閣下、わかってない⋮⋮あれ、本心じゃない⋮⋮﹂
俺がジブライールをわかってない?
いや、六百年引きこもってた君よりは、さすがにわかってると思
うんだけど。
なのにため息までつかれるとか、なんかプライド傷つくんだけど!
まあいい。
とにかく、ミディリースの作業を始めないとな。三日しかないん
だ。
開始が遅れたせいで、帰宅も四日、五日と延びてはたまらない。
俺は仮居住区の管理役に確認し、隣り合って空いている二部屋に
ミディリースと入った。
幅の狭いベッドと衣装ダンス、それから書き物机があるだけの、
質素で狭い部屋だ。
643
俺だけならば、もっと広い部屋を用意できると言われたのだが、
隣り合ってとなるとここしかなかったらしい。
まあ、予備の部屋なんてそんなに用意してないのだろうから、仕
方ない。
それに、別に俺はどこでも構わない。なんだったら、みんなの集
まる談話室の、ソファの上で寝たっていいくらいだ。
なんにせよ、部屋に入ったからといって、何か用があるわけでも
ない。
荷物と言えば、俺の書類だけ。
二人とも着の身着のままで飛び出してきたから、着替えの一つす
らないのだ。
明日、着替える服どころか、今日の寝間着さえない。
仕方ない、誰かに借りるとしよう。
ミディリースの分はまあ⋮⋮ジブライールに頼むかな。
サイズが違うだろうが、寝間着なら問題ないだろう。
だが、日中は⋮⋮うん、体格の似た子の一人や二人、いるだろう。
いなければ、魔王様のところにでもいって、借りてくるか。
最悪、魔術で洗って乾かせば、たった三日同じ服を着るくらいか
まわないだろう。
俺は当然だが、これまでのことを鑑みると、ミディリースだって
頓着ないと思う。
とにかくそんな細かいことはどうでもいい。
俺は書類を書き物机に置くと、部屋を出た。
隣のミディリースの部屋の扉をノックする。
だが、返事がない。
気味が悪いほど、静まりかえっている。
まさか、ミディリース! 逃走したか!?
644
﹁入るぞ﹂
俺が慌てて部屋に入ると、そこにはベッドに俯いて寝転がる、ミ
ディリースの姿があった。
﹁⋮⋮まさか、寝てるのか?﹂
返事がない。ただの就寝者のようだ。
﹁って、おい、ミディリース!﹂
俺は失礼を承知で、部屋にずかずかと入っていき、すやすやと寝
息をたてる彼女の肩をゆすった。
﹁術には三日もかかるんだろ!? 寝ている場合じゃないぞ。滞在
期間が三日から四日に延びてもいいのか?﹂
ミディリースは一刻も早く、この場での用事をすませて帰りたい
はず⋮⋮なんといっても、こじらせた引きこもりだからな!
そう思っていたのに、まさか寝ているとは!
﹁ふ⋮⋮はへ?﹂
司書は目をそろそろとあけ、ぼんやりとした表情で大欠伸をして
みせた。
それからゆっくりと体を起こし、だらしなく座ったまま拳でごし
ごしと目をこする。
﹁ねむい⋮⋮﹂
自由すぎるだろ!!
ここにいるのが魔王様だったら、頭を割られてるぞ。
﹁閣下が、無茶なことをするから、疲れた⋮⋮﹂
別に眠くて夢うつつということもないようだ。ちゃんと、現状把
握はできてるらしい。
だが、だとしたら、一気に打ち解けすぎだろ!
寝てるところを踏み入られても怒らないって、どれだけ気を許し
てるんだ。俺には君の距離感がわからないよ、ミディリース。
645
﹁まあでも、約束だから魔術する。えっと⋮⋮﹂
のそのそと立ち上がり、部屋を横切ろうとする。
が、それこそ半分寝ていたのだろう。
二歩歩いて椅子につまづき、派手にこけた。
﹁ぎゃ﹂
﹁おい、大丈夫か。ミディリース﹂
﹁だいじょぶ⋮⋮でも、鼻、痛い⋮⋮﹂
床の上に体をおこすと、真っ赤になった鼻をすりすりと撫でてい
る。
あと、関係ないが、慣れてもカタコトは変わりないんだな、ミデ
ィリース。
﹁とにかく、隠蔽魔術、実行する⋮⋮ます﹂
﹁何か手伝うことはあるか?﹂
﹁ない⋮⋮です。どちらかといえば、一人にしてほしい。範囲が広
すぎるから、集中、したい⋮⋮です﹂
﹁この部屋でできるのか?﹂
俺の質問に、ミディリースはこくりと頷いた。
﹁範囲、広いから⋮⋮今日はここの辺り一帯。明日、あちこちいく。
たぶん、あと三カ所。それから、今日かけたところの二度目の上書
きをする。明後日は、三カ所を二度目⋮⋮それで、全部隠れる。え
っと、わかります⋮⋮か?﹂
この広い範囲を全域隠蔽するのに、たった四分割でいけるのか。
なにが自分にはできない、だ。
でも⋮⋮待てよ。
﹁なら、今日四カ所とも回れば、明日には終了するんじゃないのか
646
? 三日目は必要ないだろう﹂
だが、ミディリースは眉を寄せながら、顔を左右に振った。
﹁無理⋮⋮です。わたし、竜苦手⋮⋮外出するの、もっと苦手⋮⋮
今日はもう疲れました。しんどくて、とても無理﹂
ちゃんと、自分の体力を把握しての三日必要発言だったというわ
けか。
自分自身に対する評価の、なんと正確なことか。
仕方がないので、俺はミディリースを彼女の望み通り一人にして、
自分の部屋に戻ることにした。
マントをベッドの上に脱ぎ捨て、肘掛けもない固い背の椅子に腰
掛ける。
そうして俺自身は自分の書類と格闘しながら、その日の夕暮れを
迎えたのだった。
647
60.待つということも、大切ですね
手元の書類の文字が見えにくくなったので、ふと顔を上げてみれ
ば、窓の外にはいつの間にか紫紺の空が広がっていた。
部屋が簡素なせいで、かえって仕事に集中できたのだろう。こん
な時間になるまで、全く気づかなかった。
ジブライールはまだ仕事が終わらないのだろうか。
ミディリースはどうしているだろう?
隠蔽魔術の施行はもう終わっただろうか?
俺は書類の上に医療班の報告書を置き、ペン立てにペンをさして
立ち上がった。
ミディリースの様子をうかがうべく、廊下に出て彼女の部屋の扉
をノックする。
﹁ミディリース? また、寝てるのか?﹂
返事はない。
まあ、寝てるのだろう。
だが寝ているということは、魔術が無事に終わったということだ。
⋮⋮たぶん。
結果は、俺は中にいるからわからないけど⋮⋮だいたい、隠蔽魔
術って隠すための魔術だよな。どう判別するんだ?
あ、待てよ。俺のこの目で見ればわかるのかな?
結界なんかでも誰がかけたものか一目瞭然だし、隠蔽魔術も判別
できるかもしれない。
そう思って、廊下の窓から外に身を乗り出し、空を仰いでみたが
⋮⋮。
わからなかった。
648
これは隠蔽魔術だから、隠されているという事だろうか。
それとも、中から見ているからわからないのか?
まさか、まだ魔術が終わっていない、ということはないよな?
そういえば、ウィストベルはどうやってミディリースが隠蔽魔術
の使い手だと知ったんだ?
文通するうちにミディリースの方から明かしたのか。
それとも、二人きりの時に逃走しようとしたミディリースが⋮⋮
あ、変な想像をしてしまった。やめておこう。
﹁あ、閣下⋮⋮﹂
扉の開く音がしたので振り返ると、ミディリースがとても眠たそ
うに目をこすりながら立っていた。
やはり、寝ていたようだ。
﹁ご苦労様。隠蔽魔術は⋮⋮﹂
ミディリースはぶるんぶるんと顔を左右に振る。
﹁やってない﹂
え?
は?
﹁それはどういう⋮⋮﹂
ミディリースは難しそうな顔をして、ことんと首を傾げる。
﹁考えてみた⋮⋮です。⋮⋮中に隠蔽施しても、意味がない⋮⋮外
からかけないと⋮⋮﹂
え⋮⋮いや⋮⋮え?
いや、そうなの?
そうなのかもしれないけど、え?
﹁でもこの間、開かずの間を隠すときには中からやっていただろう
?﹂
俺の魔力を取り戻した、あのときだ。
649
そうだ。確か、そうだった。
別にミディリースは、いちいち部屋の外に出なかったはずだ。
﹁あのときは、閣下の結界、先になかった。今は、ある⋮⋮です。
隠蔽魔術、結界の外には出られない⋮⋮です﹂
あ、そうなんだ。
でも、そうとわかってたのなら、もっと早くに言ってきてくれた
らよかったのに!
なんで今まで寝てたの?
﹁ミディリース⋮⋮﹂
﹁だって⋮⋮疲れた⋮⋮起きたら言おうと⋮⋮今、言ったですよ?﹂
いや、今更言われても!
﹁じゃあ、今から結界外に出てやるか?﹂
少し、意地悪な質問をしてみる。
﹁⋮⋮明日、でも⋮⋮いいです? よっつまとめて⋮⋮﹂
上目遣いで見てくるミディリース。
俺はため息をついた。
﹁仕方ない。明日四箇所できる体力があるのなら、結果は同じだし、
まあいいだろう﹂
無理矢理つれてきた、っていう事情もあるから、ここは許してや
ることにしよう。
﹁あ、ありがと⋮⋮ございます﹂
ミディリースはぺこりと頭をさげた。
六百年も引きこもってたくせに、意外にふてぶてしいと感じるの
は俺だけだろうか。それともこれが年の功というものなのだろうか。
﹁俺はそろそろ食堂に行こうかと思うんだが⋮⋮ミディリースも行
くだろ?﹂
650
﹁しょ⋮⋮食堂⋮⋮人、多いですよね⋮⋮?﹂
﹁まあ、そりゃあ多いな﹂
ぶるぶると顔を振るミディリース。
﹁みんな仕事に来てるんだから、この部屋に食事を持ってきてほし
いとかいうわがままを聞くのは無理だぞ﹂
﹁そんなこと⋮⋮言わない﹂
しゅんと顔を伏せている。
﹁ちょっと待ってろ﹂
俺は自分の部屋からマントを取ってくると、それでミディリース
の頭からすっぽり覆ってやった。
まあ、無理矢理つれてきたんだから、これくらいは気を使わない
と。
﹁これで少しはましだろ? 歩くときは俺の後ろに隠れていいから﹂
﹁じゃ、じゃあ⋮⋮﹂
ミディリースは右手でマントの首元を一掴みに絞り、左手で俺の
上着の裾を握りしめた。
﹁これで⋮⋮﹂
⋮⋮ミディリースの両親は、さぞかし大変だったろうな。
呆れつつも、俺は彼女と食堂に向かった。
ジブライールは俺のところへやってくると言っていたが、来なか
った。まだ仕事が終わっていないのだろう。
食堂にいると伝言をやって、待つことにした。
それから結構経つのだが、まだこない。
さすがに何も食べないで、食卓に居座るのもなぁ。
千五百人の賄いを一手に引き受けているというだけあって、かな
りの敷地面積を占めた三階建て、まるまる一棟が、食堂に充てられ
651
ている。
長い工事期間中になるべく味があきないように、と、三階とも趣
向を変えている。
一階は、八百人を収容できる大食堂。一人の料理人が主体となっ
て数人に指示をだし、量に重点を置いた種類豊富な料理を提供して
いる。
二階はゆったりとした時間が流れている。三人の個性的な代表料
理人がいて、五から三十人くらいまでが収容できるさまざまな広さ
の個室が、合計で百室ほどある。食べながら仕事の打ち合わせをし
たり、内輪だけで盛り上がるにはもってこいだ。
そして三階も一階と同じ大食堂なのだが、なぜかこちらは大人数
で利用することが多いらしい。食事時になると、歌い出したり踊り
出したりする者たちで大騒ぎが始まる。
最終的には料理人たちも歌い出すのだから、まあ、賑やかな場所
だ。
内装はどこも簡素だが、出てくる料理は一級品。
一日の終わりに疲れを癒やす場になるのだからと、こだわってみ
た。食事をしている者たちの笑顔をみていると、正解だったと思え
てくる。
ちなみに俺とミディリースは一階の大食堂の、隅っこの四人席に
腰をおろしていた。
﹁あ、ジャーイル閣下。いらしてたんですね、こんばんわ﹂
﹁ほんとだ、閣下だー﹂
何度か現場に足を運ぶうち、話をするようになった幾人かが、挨
拶をしてくる。
そのたびに壁を向いて座ったミディリースが、体を震わせるのが
実はちょっとツボだったりする。
652
﹁なんでそんな壁際に座ってるんですか? もっと、真ん中の方に
いらっしゃればいいのに﹂
﹁いや、ジブライールを待っているんでな⋮⋮わかりやすい位置の
方がいいかと思って﹂
﹁へえ﹂
誰も不思議そうな反応を返すが、マントをすっぽりと被った小さ
な人物のことには触れようとしない。
ちらちらと視線を送ってくる者もいるが、俺に対する遠慮がある
からか、これは何だとは聞いてこなかった。
そうでなければミディリースの隠蔽魔術の成果なのかもしれない。
﹁か⋮⋮閣下⋮⋮。まだ、ですか?﹂
さすがに半べそかいてるミディリースが可哀想になってきた。
﹁そうだな、ミディリースだけ先に食べてていいぞ。俺はジブライ
ールを待つから﹂
約束したんだから、先に食べるわけにはいかないだろう。
﹁でも⋮⋮﹂
﹁大丈夫。食べ終わったら、ちゃんと部屋まで送ってやる﹂
そう保証してやると、ミディリースは決心したようにうなずき、
俺を通して給仕に注文をしだした。
それからゆっくりと食事をしたのだが、それでもジブライールは
まだ来ない。
俺は給仕にジブライールがやってきたら、ここで待っているよう
にと伝言をして、それからミディリースを部屋まで送っていった。
そうして再び食堂に戻ったのだが、それでもジブライールの姿は
ない。
653
何かトラブルでも起きたのか?
食堂へやってくる者たちの表情は、平和そのものなのだが。
俺は作業現場の方へ、副司令官を探しにいくことにした。
探す、とはいっても、監督官であるジブライールの居場所は常に
現場事務所が把握している。だから先に居場所を確認してから、彼
女の元へ向かった。
食堂にいったり、ミディリースを送っていったりしている間に、
すっかり日も落ちてしまった。
だがそんな中でもジブライールの居るであろう場所だけは、煌々
とした明かりによって、昼間の明るさが再現されている。
そこは魔王様の私室が置かれる予定の、居住棟の一角だ。
今は土台と少しの壁だけができあがった状態の、その広い場所の
真ん中に、ぽつんと大きな机が置かれてある。
その机をジブライールと十人ほどが取り囲んで、喧々囂々やりあ
っている。
十人の内訳は、デーモン族三人、デヴィル族が七人。全員が男性、
そして建築士だった。
だが、全員が別々の現場を担当しているはずだ。なぜ集まってい
るのだろう。
﹁違う。わしが納得いかんといってるのは、そこではない。確かに
陛下ご自身が、その場を見られることはほとんどないかもしれん。
だが、皆無とは言えぬではないか。であらば、造形には最大の努力
を尽くして美を追求し、施工するが道理。それに、陛下がご覧にな
られぬからといって、手を抜くなどあり得ぬ。細部にまで気を張っ
て、意匠をこらすことこそ、陛下に対する忠誠の証ともなるのでは
ないか﹂
﹁その通り!﹂
654
わし
と言っているのは黒豹顔したデヴィル族だ。
頭には五つに枝分かれした立派な鹿の角が生えている。その角は、
やっぱり一年ごとにぽろりと落ちるのだろうか?
賛同者はデーモン族一人と、デヴィル族三人。
確か彼が、この居住棟の担当者であるはずだ。
﹁その考え方がもう、古いというんですよ。見た目にばかりこだわ
って、機能をおろそかにすることほど、使用者に不便を強いること
はありません。主役は扉ではないんです。あまりその存在を主張す
るようなデザインにするのも、いかがなものかと思われるのですが。
これは決して手を抜くとか、そういう話ではないのです﹂
﹁そうだそうだ﹂
反論したものやはりデヴィル族で、首の長いキリン顔だ。
もっとも、そのキリンの下唇からは、野太い猪の角が天に向いて
延びていた。
彼はかなり高い位置から他を見下ろすようにして、熱く語ってい
る。
⋮⋮のはいいのだが、唾が飛び散るのはなんとかならないのだろ
うか?
みんな気にならないの?
机の図面が水分でしわしわになったりしないのだろうか。
彼の賛同者は、残りの四人らしい。
内容はなんだかよくわからないが、何かについての意見が二分し
ているようだ。
その調整のために、ジブライールはここを動けなかったのだろう。
﹁問題が起きたなら、俺を呼んでくれればいいのに﹂
﹁閣下!﹂
双方の間で難しい顔をしていたジブライールが、ハッと顔をあげ
655
て俺を見た。
﹁ジャーイル大公!﹂
﹁これは、大公閣下﹂
ジブライールをのぞく全員が、そろって敬礼をしてくる。
しまった。敬礼禁止法とか出しとけばよかった!
﹁閣下。なぜ、こちらに﹂
﹁なぜって⋮⋮夕食を一緒に、と、約束してたろ? だから迎えに
きたんだが⋮⋮﹂
﹁わざわざそんな⋮⋮﹂
そこまでいって、ジブライールは周囲の暗さに気がついたようだ。
﹁申し訳ありません。まさかこんな時間になっているとは⋮⋮﹂
彼女だけではなく周囲の十人も、仕事を終える時間がとっくに過
ぎているということに、ようやく気づいたらしい。
強烈な明かりがあるせいで、時間がわからなかったのだろう。み
んなで驚いているのだからおもしろい。
﹁夢中になってましたからね﹂
﹁そうですな﹂
﹁楽しいですね﹂
﹁全くですね﹂
﹁いや、実に楽しい仕事ですな﹂
楽しいんだ! あんなもめてた風なのに、楽しいんだ!
﹁続きは明日にして、みんなで食事にいきますか!﹂
そう言いながら、イタチ顔の設計士が図面をくるくると巻いてい
る。
切り替え早いな!
656
﹁閣下もご一緒されるでしょ?﹂
大勢でわいわいか。
大公になってからと言うもの、格式張った会食︱︱ただし、途中
で喧嘩が始まる︱︱が多かったからな。
たまには気軽な雰囲気を楽しむのも、ありだろう。
﹁ああ、せっかくだし、お邪魔しようか。ジブライールもいいだろ
?﹂
﹁ですが、あの⋮⋮ミディリースは⋮⋮﹂
極度の人見知りである司書のことを、心配してくれているようだ。
﹁悪いが彼女だけ先に食事はすませた。今頃、部屋でぐっすりと、
眠ってるだろ﹂
﹁⋮⋮眠ってる?﹂
﹁よし、じゃあ参りましょうか! 大公閣下!!﹂
キリンが俺の肩に狼の手を置き、長い首を輪をかくように曲げて、
顔を近づけてくる。
近い。
と、思った次の瞬間には、ぐいっと首をもたげて宣言した。
﹁今日の禍根は明日に残さず! 明日は明日で、また楽しみましょ
う!!﹂
﹁おー﹂
ずいぶんと、和気藹々とした連中だ。
そうして俺たちは、食堂へと揃って繰り出した。
657
61.本当は、食事中に仕事の話をするのはあまり好きじゃあり
ません︵前書き︶
658
61.本当は、食事中に仕事の話をするのはあまり好きじゃあり
ません
俺とジブライール、それから建築士が十人の、合計十二人で落ち
着いたのは三階の一室だ。
メインに肉を扱った、食前酒に始まって、食後酒で締めるコース
料理を誰かが頼んだようだ。
気が短いと、とてもじゃないが我慢できないスタイルだろう。
食卓は長方形で長辺に五席ずつが向かい合い、短辺に一席ずつ置
かれている。
俺が奥のお誕生席で、正面は黒豹だ。左手にはジブライールが、
キリンが右手に座っていた。
キリンは⋮⋮遠い方がよかったな。遠近感が狂う。
﹁で、何かもめてたみたいだったけど、なんだったんだ? なにか
問題でもあったのか? せっかく俺がいるんだから、疑問点があれ
ば聞いてくれたらいいんだぞ。まあ当然、技術的なことはわからな
いが﹂
俺がそういうと、建築士たちは顔を見合わせ、それから頷きあっ
た。
﹁問題というほどでもないのですが﹂
黒豹は図面ケースから居住棟の図面をとりだすと、俺の左手まで
やってきた。そうして図面を広げる。
﹁あ、キリンくん。そっちの端を頼む﹂
キリンくん?
名前で呼んであげないの? 確かフェンダーフューというんじゃ
なかったっけ。まさか知らない訳じゃないよね。
659
いや、俺も面倒だから心の中ではデヴィル族は顔の特徴で呼んで
ることが多いけど。リスとか雀とかハエリーダーとか、今もキリン
とか黒豹って呼んでたけど、さすがに口に出しては⋮⋮。
キリンくん︱︱フェンダーフュー︱︱は、黒豹氏︱︱ちなみにカ
セルム︱︱に言われた通り、図面の端を握った。
俺の目の前に、魔王様の居住棟の設計図が展開される。
﹁ここ、ここなのです。大公閣下﹂
﹁どこ?﹂
どうでもいいことだが、黒豹・カセルム氏は魔王様の、そしてキ
リン・フェンダーフューくんは俺の配下だ。爵位はどちらも男爵。
実は男爵なのは彼らだけではない。今ここにいる他の八人もそう
だった。
別にそろえたわけではない。偶然だ。
黒豹氏の手は顔と同じ黒豹。他の体の部分は、長いローブを着て
いて露出していないので知らない。ちなみに、しっぽは生えていな
い。一本も、だ。
﹁この⋮⋮魔王様の居室に隣接する衣装部屋⋮⋮この回廊部分のこ
となのですがね﹂
一般的な衣装部屋は、寝室に隣り合って造られているが、魔王城
では違った。
なにせ、平服用の部屋、公式行事服用の部屋、儀式服用の部屋、
外出着用の部屋と、四部屋もあるのだ。それにさらに靴やアクセサ
リーといった付属品用の小部屋が、それぞれに付随して存在するあ
りさまだ。
部屋にはそれぞれ専門の管理者のもと、デザイナーと針子が数人
ずついて、彼らと近従が相談して、魔王様の当日の衣装を数点用意
するらしい。それを毎朝、魔王様の元まで運んで行って、最終的に
660
は陛下自身が当日の服を決める。そんなことが毎日行われているら
しい。
まあ、とにかく簡単に言うと、その近従をはじめとした衣装係た
ちの希望により、衣装部屋の配置を少し変えることになったのだ。
四つに独立しているのはそのままだが、いきなり廊下につながるの
ではなく、上下に分けて二部屋ずつ配置し、間に回廊を造って吹き
抜けの一階に共同の展示室を設けることになった。そこで各責任者
が集まり、衣装の打ち合わせをしたり、実物を展示しあって上下左
右をチェックし、調整するそうだ。
魔王様も衣装係も大変だ。
ちなみに、俺の衣装部屋はそのうちの一つほどの広さもない。お
そらく他の大公城でも同じだと思う。
服を選ぶ係がいるかどうかもその城主によると思うが、少なくと
も俺は毎日自分が着る服は自分で決めている。
その日の気分で着替えるだけだ。
もちろん、特別な行事の時には相談して決めることもあるし、時
と所と場合は考慮している。今まで誰にも文句を言われたり、衣装
係をつけましょうかと進言されたこともないので、ちゃんと適切な
判断ができているのだと思いたい。
﹁で、この何が問題なんだ? 壁の色も、扉の色も、選んでもらっ
ただろう?﹂
﹁ええ、確かに色は選んでいただきましたが、その扉の意匠で、キ
リンくんたちと意見が分かれておりましてな!﹂
﹁⋮⋮担当はカセルム。君だよな?﹂
﹁その通りでございます。閣下﹂
黒豹氏が頷く。
﹁なら、君に決定権があるだろう﹂
661
一カ所に付き、担当者は一人のはずだ。それを扉のデザイン一つ
でいちいちもめていたのでは、作業がちっとも進まないのではない
のだろうか。
﹁そうなのではございますが、閣下⋮⋮﹂
黒豹氏の吐くため息が、耳にかかってこそばゆい。
﹁もちろん我らとて任された仕事については、一人一人責任をもっ
てあたらせていただいております。しかし、なにせ相手は魔王城で
す。この世の支配者であられる魔王陛下がお住まいになるところで
ございます。ですので我らは皆で協力し、知恵を出し合って、少し
でもよいものを造りたいと、そう考えるのでございます。それにい
くら別々の建物とはいっても、多少は方向性を統一させた方が、よ
ろしいかと考えまして﹂
﹁ああ、なるほど﹂
﹁あの⋮⋮もしかして、皆で相談するのはまずかったですかね?﹂
キリンくんが心配そうに尋ねてくる。
最初に考えていた秘密の通路だとか秘密の部屋だとかは、魔王様
に却下されたのでなくなってしまった。そうなると別に、担当一人
一人の胸にだけしまっておかねばならないことなど存在しない。
まあ、一つまるで隠されているかのような場所が存在するが、厳
密には違うしな。
だいたい、本当は魔王城の間取りなんて知りたいと思えば無爵の
者にだって解放される情報だ。なにせ、魔王位を狙うときにも正々
堂々正面から、というのが我ら魔族の良識なのだから。
﹁七人寄れば大公の知恵、ともいうしな。その方がいい案がでる、
というのなら相談するのはかまわない。ただし、工期に影響のない
範囲で頼む﹂
そもそも現場総監督であるジブライールが混ざっているというこ
662
とは、彼女は問題なしと判断したということだ。それを俺が禁止し
た、というのでは、ジブライールの立つ瀬もないだろう。
﹁ありがとうございます。全力を尽くすと、一同お約束いたします﹂
黒豹氏は、くるくると設計図を丸めた。
﹁あともう一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?﹂
﹁どうぞ﹂
﹁魔王陛下の私室についてなのですが、居室付きの寝室が二つござ
いますよね?﹂
﹁ああ⋮⋮あるな﹂
﹁どちらも、魔王陛下がご使用になるのですよね?﹂
﹁間違いない﹂
たぶん、その日の気分によって、寝る部屋を変更するのだろう。
別に珍しいことじゃない。
﹁この片方の寝室なのですが、もう一つ、奥に寝室がございますよ
ね? 直接通路に出られるようになっている、この小部屋のことで
すが⋮⋮﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
まるで隠されたような場所、というのはその小さな寝室と、通路
のことだ。
つまり結局魔王様が自身のために寝台を置く部屋は、三部屋ある
ことになる。
﹁よろしいのですか?﹂
﹁何が?﹂
﹁寝室の隣がいきなり通路では、そこを通る者に中の音が漏れ聞こ
えることになるのではないかと心配いたしまして。しかも、この奥
の寝室は狭うございます。よけいに、音が漏れやすいのではないで
しょうか。ですからその部屋から別の方向に出る必要があると仰せ
663
であれば、遮音のためにもそちらにも小さな居室を設けられてはい
かがでしょう﹂
別に居室は、寝室の音を廊下に漏れさせないためにあるのではな
いだろうに。
﹁いや、大丈夫。そちらの通路は見てもらえばわかるが、他の廊下
に合流する場所に扉を設けている。それも、その扉には通常外の廊
下からはおいそれと開けれないような術式が施されることになって
いる。だからこの通路を通る者は寝室から出てきたその者だけ、し
かも一方通行になるから、音の漏れなど心配する必要はない。それ
にこの小寝室と廊下は、いざというときのためにつくってあるだけ
だから﹂
﹁いざというときの?﹂
黒豹は腑に落ちない、という風に眉をひそめた。
まあ実際の所、何のためにあるかというとたぶん、黒豹氏の想像
から大きく外れてはいないと思う。隔離された通路に隣り合った小
さな寝室は、女性が自分以外のお相手とすれ違わないように出て行
ったり、休んだりするための部屋なのだ。
魔王様は通常一度に一人しかお相手されないそうだが、それでも
たまには一日に複数のお相手をされることもあるのだろう。そうな
った場合、女性たちがお互いの事情を察するにしても、やはり直接
顔を合わせるのはなんとかかんとか⋮⋮。
⋮⋮いいや、違う。俺が考えたんじゃない。魔王様のご要望を聞
き入れただけなんだ!
まあなんだ⋮⋮魔王様もけっこうお好きなようだから。弟ほどで
はないにしても。
それ以外の特殊な場合のことは、俺たちが深く考える必要もない
ことだ。そうとも。
664
﹁まあ⋮⋮あんまり深く突っ込んでくれるな﹂
﹁ハッ! まさか、閣下!!﹂
黒豹氏は、俺の返答に何を思ったのか、急に丸い目をよりいっそ
うカッと見開くと、よろよろと二、三歩後ずさった。
﹁誰かに見られては、まずい状況⋮⋮そんな⋮⋮大公閣下ともあろ
うお方が、まさかそんな⋮⋮﹂
俺?
なぜそこで俺?
おい、今何を想像した?
まさか俺がその奥の通路を逆に通って魔王様の寝室に忍び込み、
寝込みをおそうなんていう卑怯な手を企てている、とか考えたんじ
ゃないだろうな。
﹁お前の想像は、はずれてる。絶対だ﹂
﹁そ、そうですよね⋮⋮ただ、閣下が魔王様の元を頻繁にご訪問な
さっていることは魔王領の臣民一同、存じ上げております﹂
そりゃあそうだ。俺は寵臣だからな!
まさかそれが、魔王様の隙を探るための行動だと思われてるのか?
﹁ですからその小部屋がまさか、大公閣下ご専用のお部屋、などと
いうことはございませんよね。あちらのご趣味がおありだなどと、
陛下と閣下に限って⋮⋮﹂
﹁だいたい、この間取りは陛下のご指示だぞ。俺の独断でつくった
わけじゃ⋮⋮何? 今、なんていった?﹂
ちょっと待って。
卑怯者だと疑われたのかと思ったのだが、あちらのご趣味⋮⋮?
⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮。
665
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
ちょ!!
﹁今の言葉の意味、詳しく聞かせてくれるか、カセルム﹂
﹁いえ、なにせ、ジャーイル大公閣下が、ウィストベル大公閣下に
言い寄られていらっしゃるというのは、周知の事実。独り身であら
れるのは特別おかしくはないとしても、大公になられて二年もの間、
デーモン族一の美女にお応えにならないばかりか、他の女性を侍ら
せることすらなさらぬというのでは、どこかお悪いか、あるいは⋮
⋮﹂
﹁不敬罪という言葉を知ってるかな? 黒豹君﹂
俺は立ち上がり、レイヴレイズの柄に手をおいた。
﹁疑っておりません! ひとかけらも、疑ってなどおりません!!﹂
一目散に自分の席に逃げ去る黒豹。
﹁ほう、これはうまそうなシチューですな! さあ、冷めないうち
にいただきましょう!﹂
追いかけて一発殴ってやろうかとも思ったが、慌てて熱々の液体
を口に含んだあげくに﹁あつぅ!﹂とか叫んで涎を垂らし、スプー
ンを落としたので、その滑稽さに免じて溜飲を下げてやることにし
た。
俺は全員の顔を見回す。
まさか、この場の全員がそんな風に疑っているわけじゃないだろ
うな?
⋮⋮ちょっと待て。
なぜみんな目を逸らすんだ。
ジブライールまで⋮⋮って。
666
あれ?
そもそもジブライールの様子、変じゃないか?
上の空というか⋮⋮スプーンを持った手を空中にとどめ、すくっ
たスープの一点を凝視して動かない。
いつからこうだった?
思い返してみれば、迎えに行って以降、彼女が口をきいていると
ころをほとんど見ていない気がする。
特に、この席についてからなんてずっと無言じゃないか?
いくら普段から無駄話をする方ではないといえ⋮⋮。
﹁ジブライール?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ジブライール、おい⋮⋮﹂
スプーンと顔の間に手を入れて上下に振ってみたが、それでも反
応がなかった。
﹁横から殴ってみますか?﹂
やってみるがいい。半殺しにされるのは君だ、イタチ君。
相手がぼうっとしてるからって、すぐ殴るという発想になるとか、
君はヤティーンか。
ちなみに、ヤティーンとジブライールといえば、怪我をした一件
の後、すぐに仲直りしたようだ。
ライバル関係といっても、プートとベイルフォウス、それからウ
ィストベルとアリネーゼのように、本気で殴り合う関係ではないか
らだろう。
⋮⋮って、そんなことは今はどうでもいい。
﹁ジブ⋮⋮﹂
667
﹁閣下は!﹂
ジブライールは急にこちらを向いたかと思うと、手に持ったスプ
ーンをがしゃんと投げ捨てるようにスープの中に差し入れた。
﹁あー行儀悪い⋮⋮﹂
イタチ君。机にこぼれたスープをぺろぺろしているお前が言うな。
﹁なぜ、ご存じなのですか!?﹂
ご存じ?
﹁⋮⋮なにを?﹂
﹁ミディリースが眠っていることを、なぜご存じなのですか!?﹂
は?
ミディリース? なんで急にミディリース?
﹁ご確認されたのですか? 部屋にお入りになったのですか? 寝
ているところをごらんになられたのですか!?﹂
ジブライールは立ち上がり、俺の傍らまでやってきて、そう一気
にまくしたてた。
﹁え? なにが⋮⋮いや、確認はしてないけど﹂
﹁では、なぜそうだとお思いになったのですか? その根拠は、い
ったいどこにあるのですか!?﹂
完全に詰問口調なんだけども。
﹁根拠って言うか⋮⋮ほら、満腹になった後って、眠たくなったり
するだろ? ミディリースはもとから欠伸してたし、荷物なんて何
も持たずにつれてきたから、他に何もすることもないだろうし。そ
れに確か、本人が寝るって言ってたような気が⋮⋮ああ、そうだ、
そういえば言ってたなぁ﹂
本当は言ってないけど!
でもここで、さっきは見ていないけど、その前に寝ているところ
668
をみたからです、と正直に話しては駄目だ。
絶対に口にしてはいけないという思いだけは、本能からわき上が
ってくる。
そんなことを言ったが最後、俺は女性の許可もなく寝ている部屋
に勝手に入り込んで、寝顔を堪能している変態だと思われてしまう
じゃないか!
そうなると、この間、医療棟でジブライールの寝顔を見たことだ
って、芋蔓式にばれてしまう可能性も出てくるじゃないか!
﹁ジブライール、どうした? 何怒ってるんだ。みんなびっくりし
てるぞ?﹂
﹁怒ってなんていません!﹂
いや、絶対に怒ってるだろう。
急にどうしちゃったんだ、うちの副司令官どのは!
669
62.隠蔽魔術の実装も終わり、さて帰りましょう︵前書き︶
9月22日 2/2
670
62.隠蔽魔術の実装も終わり、さて帰りましょう
﹁ミディリースって誰だ?﹂
﹁さあ⋮⋮﹂
建築士たちがこそこそと話している。
それに、反応するジブライール。
﹁ミディリースというのは!﹂
彼女は大声を張り上げ、彼らを振り返った。
﹁閣下が近頃、特別に目をお掛けになられている家臣だ!﹂
えっ! 衝撃の事実!
俺、ミディリースに目を掛けてたの!?
というか、少なくともジブライールはそう思っているということ
か。
﹁小さくて可愛らしい女子で、まるで小動物のような﹂
﹁デヴィル族ですか?﹂
小動物のような、という言葉に反応するんじゃない、イタチくん!
﹁デーモン族だ!﹂
なんでそんな激しい口調なの、ジブライール。
それじゃあ、まるで⋮⋮。
﹁さっきだって、まるでマーミル姫を抱き上げるように、なんのた
めらいもなく彼女を抱き上げられて⋮⋮ミディリースの方も、ずっ
と閣下のマントを握りしめてくっついたまま!﹂
怖い。
目の前でぷるぷると震えている握り拳が、いつ俺の方へ向かって
くるのかと思うと怖くてたまらない。
671
﹁なんだか申し訳ありません、閣下。やはり誤解だったのですね﹂
おい!
やはり誤解って、結局さっきは疑ったままだったんじゃないか!
﹁ミディリースはものすごい人見知りなんだ。なんたって、六百年
も引きこもって誰とも話さなかったくらいだから﹂
﹁ではなぜ、閣下にはあんなに懐いているのですか!?﹂
﹁それはたぶん、文通するうちに徐々に親しみをもってくれ﹂
﹁だいたい、なぜ文通なぞなさってるのですか!? 同じ城に住ん
でいる間柄で、なぜ文通なぞする必要があるのですか?﹂
﹁なぜって、成り行き上というか、会いに行ったところで出てきて
くれないから、せめて文章でやりとりを⋮⋮﹂
﹁会いに⋮⋮! 会いに!﹂
ちょっと待って。なんで俺、こんな責められてる感じなの?
何か悪いことしてるっけ?
してないよな?
あと、なんで他のみんなはそろそろと席を立ってるの?
どこへ行こうとしてるのかな?
そーっと一人ずつ部屋から出て行こうとしてるように見えるのは、
気のせいかな?
﹁閣下も大変っすねー。さーせん、失礼しまーす﹂
さっきから癇に障るイタチめ!
なんだそのひょいと挙げた手は?
あ、ちょっと待って!
行くな、俺とジブライールの二人きりにしないでくれ!
﹁ミディリースに対して怒ってるのか? それとも、俺に対して?﹂
672
﹁別に、怒ってなど⋮⋮﹂
﹁どう見ても怒ってるだろ。どうしたんだ、最近情緒不安定すぎな
いか﹂
これ以上刺激しないよう、できるだけ優しい口調で語りかける。
内容は、君、おかしい、だけどもな!
﹁わ⋮⋮私は、おかしくなんて!﹂
ジブライールは吐き出すように言ってから、突然何かに気づいた
ようにハッとした表情を浮かべた。
﹁おかしく⋮⋮﹂
よろよろと、テーブルに両手をつく。
﹁なって⋮⋮いましたか?﹂
﹁⋮⋮うん。ちょっと、な﹂
﹁ああああ﹂
ジブライールは悲鳴のような声をあげながら、崩れ落ちるように
テーブルにつっぷした。
﹁⋮⋮大丈夫?﹂
俺の問いかけに、無言で頷くジブライール。
とても、大丈夫には見えない。
いつものジブライールらしくないじゃないか。
そういえばこの間、体調を崩していたよな。
﹁まさかまた、熱でもあるんじゃないのか?﹂
今度は首を横に振る。
﹁本当に大丈夫なら、顔をあげてくれ﹂
いつもなら俺の言うことは聞いてくれるのだが、今回は反応がな
い。
﹁ジブライール?﹂
こんな強情なジブライールは初めてだ。まるでマーミルを相手に
してるようじゃないか。
673
⋮⋮マーミル、か。
妹が相手ならこういうときはどうするかな?
まず、機嫌を取るためにすることは⋮⋮。
俺はジブライールの頭にそっと手を置き、少し撫でてみる。
すると、彼女の体がビクリと震えた。
﹁あ、ごめん﹂
さすがに子供扱いしすぎたか?
﹁も⋮⋮もう、一回⋮⋮﹂
﹁え?﹂
﹁もう一回⋮⋮その⋮⋮今のを、してくださったら⋮⋮顔をあげま
す﹂
これは撫でろってことだよな?
今のって、それしかないよな?
俺はもう一度、ジブライールの頭に手を置き、さっきより長めに
頭を撫でてみる。
もういいだろうと思ってやめたが、すぐには反応がない。
ややたってジブライールはそろそろと顔をあげた。
﹁顔が赤いようだぞ。念のため、今から医療班のところへでもいっ
て、診てもらったらどうだ﹂
また、無言で左右に首を振るジブライール。
俺に対面するように、今は膝をついている。
いつもなら背筋もシャキっと伸びているのに今日は丸まっている
し、顔をあげても視線はうつむき加減だ。
﹁⋮⋮大丈夫です。なんともありません﹂
小声ではあったが、ようやく口をきいてくれた。
﹁この間もそう言っていたけど、結局サンドリミンが解熱したわけ
674
だし、やっぱり調子が悪いんじゃないのか?﹂
﹁違うんです。ただその⋮⋮少し、興奮してしまったので⋮⋮頬が
赤いのは、そのせいです﹂
あくまでジブライールは平気だと言い張るようだ。
﹁よし、わかった。じゃあこういうのはどうだ﹂
顔はあげたが、いつもの心臓を射抜くような眼力がない。
﹁俺とミディリースは明後日までいる。だから、俺が明日からミデ
ィリースの仕事が終わるまでの二日間だけ、ジブライールの代わり
に現場監督をする﹂
正直、どうやって隠蔽魔術が行われるのかこの目で見てみたかっ
たのだが、仕方ない。
﹁ジブライールは、俺の代わりにミディリースの面倒をみてやって
くれ。といっても、彼女が指定する地点まで案内してくれるだけで
いい﹂
簡単な仕事だ。これなら少しは気も体も休まるだろう。
﹁つまり⋮⋮明日と明後日⋮⋮彼女のそばにいるのは、閣下ではな
く私だと⋮⋮﹂
﹁俺も、書類ばかり眺めているのはおもしろくないし、ぜひそうし
てくれると助かるんだが、どうだろう?﹂
そもそも、なんといってもここは魔王城建設地だ。
ジブライールは俺の代理でいるのだから、足を運んだときくらい
は自分で監督をやったっていいはずだ。と、いうか、やるべきだろ
う。
﹁異存ございません﹂
よかった。
そう的外れな提案でもなかったということか。
ジブライールの瞳に、生気が戻ってきている。
675
ミディリースは嫌がるだろうが、ジブライールは彼女に興味があ
るようだし、一緒にいるうちに慣れるだろう。
⋮⋮たぶん。
﹁じゃあ、そういうことで⋮⋮ところで、どうする? みんななぜ
か、出て行ってしまったんだが⋮⋮呼び戻して、もう一度食事を再
開するか?﹂
﹁いえ。彼らならもうきっと、別のところで騒ぎ直しをしているこ
とでしょう﹂
建築士たちについて言及するジブライールの口調は、冷たい。
うん、いつものジブライールのようだ。
﹁ですが、よろしければ⋮⋮私はこちらで、最後までお食事をいた
だきたいと⋮⋮﹂
﹁ああそうだな。まだスープしか飲んでないからな﹂
というか、あいつらがいなくなったのはわかるが、なぜ誰も次の
料理を持ってこないんだ?
空気を読んで、給仕を止めているのか?
まあいいか。食事を再開したとわかれば、そのうち向こうも次の
料理を運んでくるだろう。
﹁ところでその⋮⋮閣下は、さきほどのようなことをミディ⋮⋮誰
にでもなさるのですか?﹂
﹁さきほどのようなこと?﹂
﹁⋮⋮頭を、撫でる⋮⋮というような⋮⋮ことを⋮⋮﹂
誰にでもはしないけど、ミディリースにならしたかもな⋮⋮どう
だったろう。
彼女は成人しているのが信じられないような子供じみた外見と性
格だから、マーミルを扱うようなつもりで、頭くらいは撫でたこと
があるかもしれない。
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だが、ジブライールにはやはりまずかったか。
彼女はどこからどう見ても、大人だもんな。残念美人でたまにテ
ンパるけど、基本は立派な淑女だもんな!
﹁いや、ごめん。つい反射的に、マーミルのような扱いをしてしま
って﹂
﹁マーミル様扱い⋮⋮﹂
さすがにだだっ子みたいだったから、子供扱いしてしまった、と
は口が裂けても言えない。まあ結局マーミルの名前出してる時点で、
そう言ってるのと同じだが。
﹁あ、あの⋮⋮試しにもう一つ、よろしいですか?﹂
﹁なにを?﹂
﹁その⋮⋮マーミル様になさるように、今ここでもう一度、なさっ
ていただきたいのですが﹂
何それ。なんかの罰ゲーム?
いつもの冷静すぎる口調だから、命令されているようにも聞こえ
る。
﹁それやって、何か意味があるのか?﹂
﹁私の気が晴れます﹂
えっ!
なに、どういうこと⋮⋮?
﹁俺がマーミルを扱うようにジブライールを扱えば、ジブライール
の気が晴れるの?﹂
﹁はい﹂
え?
俺、あんまりマーミルに優しくないよな?
なのに、マーミル扱い希望?
ジブライールって、Mなの?
677
それとも、俺の困るところを見て気が晴れるってことなの?
むしろ、Sなの?
﹁それをやったら、ジブライールの機嫌は直るんだな?﹂
﹁はい。間違いなく﹂
﹁わかった﹂
ジブライールの考えがどうであれ、観念するしかないだろう。そ
れで機嫌を直してくれるというのなら。
俺は自分のスプーンでスープをすくい、ジブライールに差し出し
た。
﹁なんですか?﹂
目がキョトンとなっている。
﹁なにって、マーミルみたいに、だろ? だからほら、あーん﹂
﹁⋮⋮﹂
やばい。ジブライールが固まってる。
さっき子供扱いを謝っておいて、さすがにこれはなかったか?
でも、ジブライールの希望だしな。
食事の席でマーミルだけにすること、といったらこれくらいしか
思い浮かばなかったんだから、仕方ない。
だがいつまでもジブライールはぷるぷる震えるばかりで動こうと
しない。さすがにスプーンを引っ込めようとすると。
﹁あっ﹂
腕をがっしりと掴まれた。
次の瞬間、思い切ったように俺のスプーンに食らいつく、ジブラ
イール。
上目遣いで、スプーンを口に含み、スープをすするジブライール。
腕を掴まれた時にこぼれたスープが、ちょっと口元を濡らして⋮
678
⋮。
なにこれ。子供扱いどころか、ちょっとエロく感じるのは俺だけ?
やばい。
これはやばい。
なんで俺、こんなところで二人きりになってるんだ。
いや、こんなところでって、ここはただの食堂なんだけれども!
むしろなんで食堂で、こんなことになってるんだ!
﹁ジ⋮⋮ジブライール⋮⋮﹂
ジブライールはスプーンを名残惜しそうに口から解放した後も、
じっと潤んだ目で俺のことを見つめてくる。
ちょっと待って。
まさか、ジブライール。
﹁ジブライール、腕⋮⋮﹂
俺の言葉で我に返ったように、ジブライールは手元に視線を落と
した。
それから慌てて自分の手をゆるめ、俺の腕を解放する。
﹁あの、ジブライール⋮⋮もしかして、君は⋮⋮えっと⋮⋮﹂
どう切り出せばいい?
﹁き⋮⋮﹂
﹁えっ!?﹂
﹁きゃあああああ﹂
急に叫び声を張り上げながら、ジブライールは部屋から走り去っ
てしまった。
ただあの⋮⋮その時、スプーン奪われたんだけど、これはその⋮
⋮どう解釈していいものだろうか⋮⋮。
679
それからえっと⋮⋮⋮⋮食事は?
結局俺は十二人も座れるテーブルで、暫く混乱しながらも、ポツ
ンと一人寂しく食事をとり、一人寂しく部屋に帰っていったのだっ
た。
給仕も再開されたのだが、その時の視線がもう⋮⋮腫れ物をみる
ような感じでいたたまれず⋮⋮。
ちょっと泣きたくなった。
そうして次の日。
ジブライールと役目を交代することになった、とミディリースに
言ったら、﹁一緒に⋮⋮約束⋮⋮!﹂と、恨みがましい目で見られ
たが、無理もない。
ただ、心配していたほど怖くはなかったようで、夕食で合流した
ときには、﹁面白⋮⋮かった⋮⋮﹂と言っていた。何が面白かった
のか、内容は教えてくれなかったが。
もっとも、それで俺の約束反故も許されたかと思ったが、そうで
はなかった。結局ミディリースは、帰ってから俺の仕事を手伝う、
という約束をなかったことにすることで、あいことしたようだった。
ジブライールには、避けられた。
いつも以上の無表情さと明らかな拒絶反応を示された上に、逃げ
るようにミディリースを連れ去り、とりつく島もなかった。昨日の
態度が嘘のようだ。
昼食も夕食も、現場に出なかったから部下たちととるといって別
だったし、どう考えても機嫌が直っているようには思えなかった。
マーミル扱いをと言ってきたのはジブライールの方なのだが、や
はりやりすぎたか。
680
そうとも、俺だって昨日あれから反省したのだ。
さすがに大人相手に食べさせる、だなんて、いくらなんでも失礼
なことをした。ジブライールも一口は応じたけれど、プライドが許
せなかったに違いない。だから逃げたに決まってる。
そうとも、本人に何も確認してないうちから、変に妄想するのは
やめよう。そのうち、落ち着いて話ができるようになったら、タイ
ミングをみて聞いてみることにしよう。
ちなみに、昨日こっそり部屋を抜け出した十人の建築士たちは、
今日はそれぞれの持ち場に戻って自分の仕事に励んでいるらしい。
結局、黒豹とキリンの意見の相違は、現場責任者である黒豹氏の意
見に寄ったデザインでいくと決着がついたそうだ。
そして三日目、現場事務所で本棟の現場主任と工程をチェックし
ていた俺の元に、ジブライールとミディリースが戻ってきた。
﹁閣下⋮⋮!﹂
ミディリースは、俺をみるなりピョンと跳んだ。確かに、動作が
小動物みたいだ。
﹁終わったのか?﹂
﹁終わ⋮⋮りました!﹂
﹁はい、とどこおりなく﹂
ミディリースがぐっと両拳を胸の前で弾ませていい、それにジブ
ライールが冷静に同意を与える。
﹁ご苦労⋮⋮だったな﹂
思わずミディリースの頭に手をおきかけて、なんとかとどめた。
一昨日、それでジブライールをよけい怒らせたことを忘れてはい
けない。いや、現在進行形で、怒っているかもしれないことを、忘
681
れてはいけない。
もっとも、ミディリースは気にしなさそうだが。
﹁ジブライールも、二日間つきあわせて悪かった﹂
﹁いえ。閣下こそ、お疲れさまです﹂
すごくそっけない。
やはりあの晩感じたものは、俺の勘違いか?
﹁しかし、早かったな。もっと遅くまでかかるかと思っていたのに﹂
昨日がそうだったから、夕暮れまでかかるかと思っていたのに、
まだ昼を少しすぎたばかりだ。
﹁二度目は⋮⋮だいぶ、楽。それに⋮⋮﹂
ミディリースはちらりとジブライールの方を一瞥したようだ。
﹁早く、自分の部屋に⋮⋮帰りたいです﹂
﹁ああ、そうだな。あと少しで、こちらも区切りがつく。少し待っ
ていてくれ。それとも部屋に戻っているか?﹂
﹁だ、だだ、大丈夫!!﹂
ミディリースは慌てたように飛び上がった。
﹁ここで、います⋮⋮私、隠蔽魔術⋮⋮ある⋮⋮大丈夫⋮⋮です﹂
まあそうなのだろうが⋮⋮なら、びくびくしなきゃいいのに。
ちなみに、今はその魔術も使っていないようだ。現場主任も彼女
を認識しているようだ。
ちなみに彼は、魔王様の配下でデーモン族の伯爵だ。灰色の髪を
した、目つきの鋭い青年だった。
まあ、この場には俺たち三人以外は彼一人がいるだけだから、部
屋に戻る道中に複数の中を一人で歩くよりは、まだ我慢できる状況
なのだろう。
﹁なら、適当に座って待っててくれ﹂
682
﹁はい⋮⋮﹂
ミディリースは頷くと、壁際に置かれた椅子の一つにちょこんと
腰掛けた。
背が低いからか、やや足がぷらんぷらんしている。
﹁あの方が、閣下のご高名な妹君ですか?﹂
ああ、そうか。さすがに魔王領まで妹を連れてきたことはないか
ら、そう勘違いされても仕方ないか。
それに、ミディリースは今はすっぽりとマントを被っている。顔
がほとんど見えない状態だから、背丈だけで判断されたのだろう。
﹁いや、違う。内部には関係ないから紹介しなかったが、俺の配下
だ。今回、急遽協力が必要になって連れてきた。その作業も、終わ
ったようだが﹂
﹁はあ、そうですか。そうですよね、雰囲気が全く似てらっしゃら
ないと思いました﹂
﹁いや⋮⋮うちの妹も、別に似ているというわけでは⋮⋮﹂
妹は俺とそっくりだと事あるごとに主張しているが、俺は同意し
かねる。俺は母親似だけど、妹は父親似だし。
エンディオンなんかもよく似てらっしゃる、などと時々わけのわ
からないことをいうが、そもそもエンディオンはデヴィル族だし。
しかし、ご高名な?
うちの妹、なんかしたか?
﹁すみません、いくらなんでも、あんな子供っぽい方に、あのベイ
ルフォウス様が興味を持たれるとは思えなかったもので﹂
えっ。どういうこと?
うちの妹は、むしろミディリースより小さいし子供っぽいんだけ
ど、っていうか、完全に正真正銘子供なんだけど⋮⋮魔王様の配下
683
まで、そんな認識なの?
そろそろベイルフォウス、ふざけてないで本気で対処した方がい
いんじゃないのか?
まあとにかくそれからは話も仕事のことに戻り、一区切りついた
ところで俺とミディリースは城に帰ることにした。三日ぶりに魔王
城の外へでて、我が城への帰路につく。
そうそう、外から見た現場がどんなだったかというと、全く何も
なかった。
そう、何も感じなかったのだ。
通常は結界を張った場には、それが誰のものなのか、勘のいいも
のなら俺と同じ目を持っていなくてもわかるだろう。そうでなくと
も、ここに行く手を阻む何かがあるとわかるし、その上を竜で飛ん
だとしても、地上に違和感を感じるだろう。
そして、その結界の先を見ようとしても靄がかかったようで果た
せない、という結果に陥る。
だが、その違和感が完全にない。
俺が見ても、そこにはただ、工事に入る以前の地形がそのまま広
がっているだけ⋮⋮。
しかも、ミディリースの魔力の欠片も見つけられない。
これは本当に隠蔽魔術というのか?
むしろ、超強力な幻術を施されているような気さえする。
使用法によっては、よほど恐ろしい魔術じゃないのか、これは⋮
⋮。
俺は竜の背の上で帰城に喜ぶミディリースの小さな背中を眺めな
がら、そんな危機感にも似た気持ちを抱いていたのだった。
684
63.さあ、<魔王ルデルフォウス大祝祭>を始めよう!
大祭の準備期間は五十日。
その間に魔王城ができあがっていくそのスピードの速さといった
ら、目を見張るものがあった。
そもそもが、仕事大好き魔族たちの集まりだ。その上、今回の仕
事はただの仕事ではない。
全世界の王がこの先数百年、あるいは数千年過ごすことになる、
その住居を新築するという大事業だ。それに関われるということで、
この上ない栄誉を感じているのだということが、熱意となってヒシ
ヒシと伝わってくる。
だから彼らは城を造るのは楽しくてたまらないらしいのだが、そ
れはそれとして、やはり大祭も愉しみたい、という気持ちがあるよ
うだ。
だから一刻も早く仕上げて︱︱もちろん、手は一ミリも抜かず︱
︱、大祭に途中参加したいのだという。
そんな熱意に不満があるはずはない。
そんな彼らの監督であるジブライールも、自己申告の通り体調に
不安はないようだ。部下ともども、その熱中っぷりはすばらしい。
この大事業が終わった暁には、ぜひ盛大な宴を彼らのために開い
てやりたいと思っている。
その他の副司令官たちが関わっている仕事も、もちろん順調だ。
ウォクナンはアレスディアが参加すると決まってからは、それは
もう毎日ウキウキした表情で行程の確認や衣装替えのタイミング、
685
隊列の配置なんかを実に楽しそうに考えている。
もっとも行程には俺の意志がかなり反映されたのは、言うまでも
ない。俺は大祭主なばかりでなく、パレードの責任者でもあるのだ
から。
ヤティーンは補佐につけた副官のお小言を聞き流しながら、うま
く治安維持部隊を編成して訓練に明け暮れている。
号令をかけるのが楽しいらしく、いつも元気だが近頃はいっそう
生き生きして見える。
だが、俺との関係は未だ微妙だ。
言いたいだけ言ったくせに、まだちょっと怒っているような態度
で接してくる。
むしろその理不尽さに、気分を害していいのはこちらだと思うの
だが。
フェオレスは相変わらずそつがない。各展示会の出展者も順調に
集まっているようだし、四人の中では若輩とは言え、うまく他の副
司令官ともバランスをとっているようだ。
アディリーゼとの逢瀬でうまく息抜きできているのだろう。
そんなこんながありつつ、俺たちは、いよいよ大祭の前夜を迎え
ていた。
日をまたいだ瞬間に魔王様を祝おうというので、七大大公は魔王
城に召集されている。
もっとも、この談話室にいるのはまだ六人。アリネーゼの姿だけ
は、まだない。
だがなにも、魔王城へと集まってきているのは大公だけではない。
常から開放されている前庭園は、俺たちと同様の想いを抱く魔族
686
たちで、足の踏み場もないほど賑わいでいた。
﹁わくわくするわね。お祭りというのは、やはり楽しいものだわ。
それも、こんな大きなものなら、なおさら﹂
今日のサーリスヴォルフは女性らしい。
細身のグラスを片手に、さっきからずっと酒をあおりまくってい
る。
時々、給仕役に流し目を向けているが、見ない振りをするのが正
解だろう。
﹁本当ですね。私などは、ほかの小さな祭りもまだほとんど経験が
ないもので、それはもう楽しみで楽しみで⋮⋮﹂
デイセントローズはいつもの﹁僕、何事も未経験なんです﹂アピ
ールで忙しいようだ。
﹁あいつら、いつの間にああいう関係になったんだ?﹂
他人のつきあいにはあまり関心をもたないベイルフォウスが、珍
しく二人を見て眉をひそめている。
﹁ああいう関係ってなんだよ﹂
﹁ああいうってのは、膝をなで回されてお互い意味ありげにニヤつ
いているような関係ってことだよ。品がないったらなあ﹂
確かに今、デイセントローズは、サーリスヴォルフの隣に座り、
じっとりと膝を撫でられていた。
だが、さすがに見境ないお前が言うな、って言われないか? ベ
イルフォウスよ。
﹁主がそれをいうか﹂
俺の心中を代弁するような台詞は、もちろんウィストベルだ。
﹁俺だから、言うのさ﹂
ベイルフォウスは意味ありげに笑って、いつものようにウィスト
687
ベルの白い髪に口づけをする。
正直、最初はひいたが、もう見慣れた。
ベイルフォウスのやることに、いちいち反応していたのでは神経
がもたない。
﹁ウィストベル。先日はありがとうございました﹂
魔王様のわがままのせいで、結局俺が主導の<大公会議>の開催
はあきらめていたから、ウィストベルに会うのも俺の魔力が戻った
あの日以来だ。
﹁我が同盟者殿は、ずいぶんと忙しかったようじゃの﹂
ええ、そりゃあもう、忙しすぎて⋮⋮またちょっと寝不足ですよ。
﹁ああ、誰かさんのおかげで、ね﹂
俺はじろりと親友を睨みつけた。
﹁俺はあれだ⋮⋮ほら、やっぱり考え直してみたわけだ。どこかの
うるさい誰かさんが﹂
そう言ってベイルフォウスは、遠くのソファに一人で座る、プー
トを一瞥する。
﹁俺の運営会議への参加に異を唱えてきてな﹂
﹁嘘つけ﹂
そんな話、ちっとも聞こえてこなかったけど?
﹁本当だ。お前を通さず、俺に直接文句いってきてよ。争奪戦まで
楽しみはとっておきたいから、折れてやることにしたんだよ﹂
また、適当なことを。
﹁そなたたちの会話は理解できぬが、まあよいではないか。もう間
もなく、大祭が始まる。明日からの百日間を楽しみに、仲良くして
はどうじゃ?﹂
﹁俺はもちろん、異存ないぜ﹂
﹁俺だって別に﹂
688
五十日の間にあきらめたからな。
ベイルフォウスに期待するのは馬鹿だと、悟ったからな。
﹁おっと、アリネーゼのお出ましだ。ちょっと挨拶してくるぜ﹂
ウィストベルを前にしてもひるまず、アリネーゼに歩み寄ってい
く。
ベイルフォウスのやつ、ほんとに女性に関してはマメだな。
ウィストベルも⋮⋮。うん、特別気分を害してはいないようだ。
彼女の方が俺よりよっぽどベイルフォウスとは付き合いも長い。
今更、アリネーゼと親しげにするのを気にしたりはしないか。
だが、どこか変だ。
なにがどうという訳ではないが、ウィストベルの雰囲気が、いつ
こ
もと違う気がする。
こ
﹁ところで、あの娘は元気かの?﹂
あの娘⋮⋮⋮⋮。
ああ、ミディリースか。
﹁まあ、元気ですよ。とはいえ、俺もこのところは顔をみていませ
んが⋮⋮﹂
魔王城への隠蔽工作が終わった後は、会っていない。
わずかな時間だったとはいえ、図書館に何度か足を運んだが、姿
を現してはくれなかった。かなり心を許してくれたのかと思ったの
だが、違ったようだ。これだから、女性の考えることは理解できな
い。
さすがに部屋の場所を知っているからといっても、ずかずかと入
っていくわけにもいかないしな。
だが、文通は続いている。さすがに毎日ではないものの。
﹁まだ引きこもっておるのか。あれほど言ってやったというに﹂
ウィストベルは呆れたようにため息をついた。
689
様子がおかしいと思ったのは、気のせいか?
ミディリースのことを語るウィストベルは、どこか楽しそうだ。
﹁また私が行って、引きずり出してやるかのう﹂
ウィストベルはずいぶん、うちの司書が気に入ったみたいだ。
うん、なによりだな。ミディリースがどう受け止めているかは、
別として。
﹁ところで、ジャーイル﹂
﹁はい﹂
ウィストベルがぐっと顔を近づけてくる。
﹁ちょ⋮⋮﹂
﹁ベイルフォウスに力を返してやらぬのは、わざとか?﹂
ささやくような声だったが、ずしりと腹に響いた。
﹁わざと、と言うわけでは⋮⋮﹂
﹁そうか。てっきり争奪戦が終わるまで、このままを維持するのか
と思ったが?﹂
﹁まさか﹂
本当にその気はない。
単に忙しくて、その機会がなかっただけだ。
俺の城に誘おうにも、あいつもちっとも会議にこなかったし。
﹁そんな微妙な工作をして、ベイルフォウスに勝ったところで、な
んの意味もないでしょう﹂
俺が断言すると、ウィストベルはにんまりと笑って、俺から顔を
離した。
﹁そう、思っているならよい﹂
思っているとも。心の底から、な。
今回はさすがに俺も覚悟を決めた。
690
大公位争奪戦を、本気で戦う覚悟だ。
さすがに手を抜いては、生き残ることさえ難しいだろう。
もちろん全員が相手の時ではない。何人かが相手の時は、だ。
そしてその何人かに、ベイルフォウスはもちろん含まれる。
﹁せいぜい、期待しておるぞ﹂
ウィストベルは右手を俺の頬にあて、親指で唇を撫でてきた。
その仕草の艶めかしいことといったら⋮⋮。
そんなことをされたら、あの長椅子で目覚めた時のことを思い出
してしまうじゃないか。
あの時の、あの甘い味の正体は⋮⋮。
﹁ほんに楽しみじゃの。色々と﹂
俺はなんだかちょっと、その妖艶な笑みが逆に怖くなってきまし
た。
そのとき扉が開き、魔王様の近従が姿を見せた。
赤い鶏冠が印象的な彼は、俺たちに向かって恭しく頭をさげる。
﹁では、みなさま﹂
ウィストベルの手が頬から離れ、ホッと息をついた。
﹁用意が整いましてございます。どうか、我らが魔王、ルデルフォ
ウス陛下の御為に、御一同、露台へとお越しくださいませ﹂
近従に促され、グラスを持っていたものはそれをテーブルに置き、
席に座っていたものは厳かに立ち上がる。
そうして七大大公そろって談話室を後にし、魔王様の元へと向か
った。
最上階の広い露台。その手前の狭い部屋に、我らが魔王の姿がす
でにある。
691
今日もバッチリ金をまぶした黒の衣装に重厚なマントを纏い、黒
の剛剣に両手を置いた姿で、一分の隙もない。
そうして天井を突く背もたれの椅子にしっかりと腰掛ける姿は、
いつものように威厳に満ちていた。
﹁ようやく揃ったようだな﹂
あれ。もしかして、七大大公待ちだったりした?
まさかの、魔王様の方が先にご準備できてました、だったりした?
魔王様は椅子からゆったりと立ち上がり、黒いマントを翻す。
﹁では、参ろうか﹂
俺たち七大大公を引き連れて、露台へと一歩を踏み出した。
魔王様が露台に姿を現し、手すりに手を置いた瞬間、大地を震わ
すほどの歓声がわき上がる。
魔王城の前庭ばかりか、その先の荒れ地を覆い尽くすほどの、臣
民たち。その勢いは、どこか大演習の開催を思いおこさせた。
﹁魔王様、ばんざーい!﹂
﹁在位三百年、おめでとうございます!﹂
﹁魔王様、大スキー!﹂
﹁きゃー! ダ・イ・テー!﹂
さすがは魔王様。男性魔族にも女性魔族にも絶大な人気だ。
俺たち七大大公は、現在の順位順に、魔王様の背後に並び⋮⋮。
﹁なんで君まで並ぶの。ほら、前行って!﹂
サーリスヴォルフに尻を軽く叩かれる。
そうだった。大祭主は魔王様に並ぶんだった。
俺は前に出て、魔王様の左隣を占めた。
692
﹁ぎゃーーーー! ジャーイル様ーーーー!﹂
おお、なんか、気を使ってもらってありがとう!
まさか俺の名まで叫んでもらえるとは。
存外、魔族にも気遣いのできるものがいるんだな。
ベイルフォウスならここで﹁待たせたな!﹂とか言って、ウイン
クなり投げキッスなりして場を盛り上げるんだろう。たぶん今も、
振り向けばやっているのだろうし。
だが、もちろん俺にはそんな芸当はできない。真面目にやらせて
もらおう。
まずは発声練習。
﹁あーあーんー﹂
それから、咳払いして、と。
﹁今現在、この地上に生ある者は幸いである﹂
ノリのいい同族たちは手を振り上げ、いっそう声を轟かせて、俺
の言葉に賛同してくれる。
﹁なぜといって、我らが魔王陛下の治世を三百年に及んで経験し﹂
﹁うおおおおおお!﹂
﹁また、これからもその支配を享受できるからだ﹂
﹁うおおおおおお!﹂
﹁これほどの栄誉があろうか﹂
﹁うおおおおおお!﹂
﹁ルデルフォウス陛下の御代を永久に願うか?﹂
﹁うおおおおおお!﹂
﹁ならば、持てる力を尽くして、忠誠を表し、陛下に感謝の意を示
すがいい!﹂
﹁うおおおおおお!﹂
693
応じる声にうっかり陶酔しかけていたら、隣で魔王様が咳払いす
る声が耳に届いた。
﹁そろそろ、止めておけ﹂
あ、はい。
左手をあげると、ぴたりと喧噪が止んだ。
自分でやっといてなんだが、練習でもしたのか、こいつら。
﹁では、静粛に。今より、我らが魔王、ルデルフォウス陛下より御
言葉を賜る﹂
そう宣言して、一歩退いた。
﹁皆の者、我が為によくぞ集まってくれた。此度の祭は、予の在位
を祝うためとはいえ、それは即ち臣民の忠誠に感謝するための大祭
でもある。そなたら臣民の喜びをこそ、我がものとするために、お
のおの、百日間を精一杯楽しむがよい﹂
魔王様の声が、朗々と響く。
眼下を見回せば、誰もが玉音に反応したくて、ウズウズしている
のが伝わってきた。
地平からはすでに、薄明かりが漏れてきている。
よし、もう頃合いだろ。
﹁ここに、<魔王ルデルフォウス大祝祭>の開催を宣言する! 日
の出と共に、騒げ、同胞よ!!﹂
﹁うおおおおおお!﹂
俺の開催宣言と共に、空には数万発の花火があがり、地上ではそ
れに負けじと音楽がかき鳴らされる。
世界は狂ったような叫びで満たされた。
694
さあいよいよ、<魔王ルデルフォウス大祝祭>の始まりだ!
695
64.まずはそう、パレードから始めましょう!
﹁誰だ、脳筋どもを煽ったの﹂
あ、俺か。
俺だった。
バカバカ!
数時間前の俺のバカ!
放っておいても騒ぐ魔族を煽るなんて、お前はなんて間抜けなん
だ!
おかげで魔王城の一室に設けられた、<運営委員会本部>に詰め
っぱなしで一歩も外に出られない羽目に陥っているではないか!!
﹁閣下、東の沼地で、下位の者が上位の者に挑戦し、戦いが始まっ
たと⋮⋮﹂
﹁やめさせろ! なんのために爵位争奪戦を開催すると思ってるん
だ。そのまま会場まで引っ張っていけ!﹂
﹁外れの平地で、娘をかけて竜を戦わせる事案が発生し⋮⋮﹂
﹁本人たちに戦わせろ! 竜は取り上げて、保護してこい!﹂
﹁あちこちで、催淫剤を使用したと思われる、酒池肉林⋮⋮﹂
﹁治安維持部隊を向かわせるか、音楽祭の弊害だとでもこじつけて、
アリネーゼに対処してもらえ!﹂
﹁親とはぐれた子供が、多数おりまして⋮⋮﹂
﹁なんのために迷子保護所を作った! そんなことまでいちいち聞
きにくるな!﹂
696
﹁ジャーイル様に会わせてぇん、⋮⋮という、一部の御婦人が﹂
﹁追い返せ!!﹂
ひっきりなしに問題を持ってこられるんだけれども、なんなんだ
よ!
もうちょっと⋮⋮せめてもうちょっと、ゆっくりできると思った
のに⋮⋮。
だいたい、会議にも碌に出席しなかった誰かさんが、こういうと
きこそ頑張ってくれてもいいんじゃないのか!?
﹁ベイルフォウスはどこだ!? 誰か捜し出して、首根っこ引きず
ってこい!﹂
﹁そんな無茶なぁ⋮⋮﹂
﹁情けない声を出すな!﹂
﹁ジャーイル大公閣下、閣下にお会いしたいと﹂
﹁だから、追い返せって!﹂
﹁ほう﹂
空気を震わす重低音が響き、俺はおそるおそる振り返った。
﹁プート大公閣下が⋮⋮﹂
おどおどと、隣を見上げる運営委員と。
﹁パレードの開始に間に合うよう、出迎えに参ったのだが﹂
燃えさかる太陽のようなタテガミを逆立てた、プートが立ってい
た。
***
﹁そろそろ我が領に向かおうと竜舎に向かってみれば、ジャーイル。
そなたの竜がまだあるではないか。であれば共にと考え、しばしそ
697
の場で待っていたのだが、一向にそなたがやってくる気配がない。
まさかパレードを見送るという役目を忘れているのではと思い、迎
えに参った次第だが﹂
あ⋮⋮ええ、はい⋮⋮。
忘れていた訳ではないんですが、時間を気にする余裕がなかった
と言いますか⋮⋮。
すみません、言い訳はいたしません。
大祭主である俺は、すべての主行事の開始に立ち会わなければな
らない。
それでなくとも、一番最初に開催されるパレードは俺の担当だ。
出発場所はプートの居城である<竜の生まれし窖城>。
そもそもの予定では、露台での開催宣言が終わった直後に、俺は
魔王城を出発することになっていた。その前にちょっと本部の様子
をみておくか、と軽い気持ちで立ち寄ったのが悪かった。
プートが迎えに来てくれたおかげでこうして出てこられたが、そ
うでなければ本当に、パレードには間に合わなかったかもしれない。
﹁いや、実に面目ない﹂
そんな訳で、俺とプートは彼の城である<竜の生まれし窖城>に
向けて、竜の轡を並べているわけだ。
﹁そなたは配下に甘すぎるのではないだろうか。少し様子を見てい
たが、あのように些末なことまで、いちいち大祭主が判断を下さね
ばならぬはずはない。なんのために祭司がいるのか。なんのために
末端組織があるのか﹂
あ、やっぱり?
いくらなんでも、迷子の扱いまで聞いてくるとかおかしいよね?
﹁我にデーモン族の美醜はわからぬが、噂で聞くところによると、
698
そなたは随分甘い顔だちなのだとか。軽々しく扱われる原因は、そ
こにあるのかもしれぬ。そこで提案なのだが、貫禄を出すためにひ
とつ、顔に傷でも付けてみてはどうか? よければ協力するが﹂
﹁またそんな冗談を﹂
﹁冗談ではない。本気だ﹂
いや⋮⋮意味がわかりません。
傷なんて、普通は医療班がささっと治してくれるものじゃないで
すか?
それをわざわざそのままにするとかって⋮⋮それも、顔に?
それって自分の顔に、医療班でも治すことのできない大けがを負
いましたって、それもう相手に大敗したと宣言することに他ならな
いよね?
貫禄どころか、逆にものすごい間抜けと思われるんじゃないでし
ょうか。
もしかして、これはあれか⋮⋮。
この間の六公爵の襲撃事件。
なんとも思ってないような返事をしてきたくせに、実は恨みに思
っているのか?
向こうからの挑戦を受けて対戦したわけだから、正式な戦いだ。
︱︱例え、俺の記憶がないにしても。
その結果、挑戦者が害されたところで、他者がいちいち気にする
はずはない。それが魔族の習わしだからだ。
もし、気にかけているとしたらそれは家族であるか、それとも俺
への挑戦に何らかの関わりがあるからか⋮⋮。
﹁幸い、大祭の最後には大公位争奪戦が予定されておる。私がそな
たの顔をねらって攻撃し、二目と見られぬ傷をつけてはどうか。眉
間がよいかな? それとも、こめかみから口の端にわたって続く、
699
長い傷を﹂
﹁遠慮しておきます! お断りします!!﹂
二目と見られぬ傷って!
どんだけ本気なんだよ、プート!
まさか本当に六公爵の中に、特別目をかけた相手がいたんじゃな
いだろうな?
そうでないというなら、なぜそんなにしつこく俺の顔に傷をつけ
たがるんだ。
俺の返答に、プートはわざとらしくも大きなため息をついた。
いや、ため息つきたいのはこっちだから。
﹁そなたのためを思っての意見だというのに﹂
竜さんたち、早く飛んでください。どうか早く、<竜の生まれし
窖城>に着いてください。
こんな不毛な会話、打ち切らせてください!
俺の祈りが通じたのか、追い風が吹いたせいか。竜たちの速度は
スピードを増し、俺が必死に次の話題を探している間に、<竜の生
まれし窖城>が見えてきたのだった。
普段ならプートの城では広大な前庭に竜を降ろすのだが、今は出
発を控えているパレードの参加者たち、大小さまざまな約八百の魔
族が、所狭しとひしめている状況だ。とても巨大な竜を降ろすスペ
ースはない。
そうでなくともひっきりなしに出入りする魔族の群で、今日はど
の城でも竜は竜舎から直接飛び立たせ、直接降りるしかない。
その竜舎の上空も、順番待ちの竜が多数滑空し、城付近の空は渋
滞していた。
もっとも、さすがに大公は優先される。
俺とプートはすんなりと竜を降ろし、前庭へと足を向けた。
700
﹁ジャーイル閣下、遅いですよ!!﹂ 俺の顔を見るなり、リスが頬袋を膨らませながら文句を言ってく
る。
そして、口からリンゴがぽろり。頬袋ちょっとしぼむ。
﹁ああ悪かった。ところでリンゴ、落ちたぞ﹂
地面に落ちる前にと途中でキャッチしたのだが、ものすごくベタ
ベタネトネトして気持ち悪い。
拾わなければよかった。
﹁あ、これはどうも﹂
俺からリンゴを受け取る間に、今度はバナナがこぼれたが、もう
無視しておこう。
そんなウォクナンの後ろにはパレードに参加する八百を数える魔
族が、それぞれきらびやかな衣装を身にまとって、行進の始まりを
今か今かと待ち望んでいる。
もちろん、百日間ぶっ通しで行進するのは、さすがの魔族といっ
ても大変だ。だからいくつか派手な乗り物も用意されている。
時々そこで交互に足を休ませながらの行進になるそうだ。
もちろん、百日を着の身着のままですごす訳もないのだから、着
替えも必要だ。一応は拠点拠点で衣装を用意しておいて、行進をと
ぎれさせることのないよう、順番に着替えることになっている。
その衣装は、プートの領地にいる間は比較的厚着で重厚なものが
用意されているようだ。
まあ、とにかく大変なパレードには違いない。
それを百日間に及んで率いるのは、我が副司令官ウォクナン。
﹁ウォクナン、頼んだぞ﹂
﹁どんとおまかせください!!﹂
701
ウォクナンはたくましいゴリラの胸を張り、ウホウホと叩き出し
た。
おかげでリス顔がかもしだす可愛さが台無しじゃないか。
が、俺の横に立っているプートは、自分と同じゴリラ胸にご満悦
のようだ。応じるように叩き出す。
そろそろ止めた方がいいかな、と思った瞬間、二人は腕をおろし
た。
﹁それから、閣下。出発の前に、アレスディア殿が閣下にご挨拶を
と⋮⋮﹂
ああ、城を出るときに会っている暇はなかったからな。
﹁旦那様﹂
蛇顔をかたどるように金のサークレットをかましたヴェールをか
ぶり、犬の乳が見えるぎりぎりの位置まで開いた、きわどい衣装を
着たアレスディアが前に進み出てくる。
デヴィル族の男たちがざわめきだしたところをみると、相当な美
人に仕上がっているのだろう。
四本の腕を身体に絡ませた様子が、俺から見てもちょっと卑猥だ。
リスなんてはふはふ興奮しすぎて、口に含んだものを全部こぼす
し!
しかしこの衣装だと、露出が多すぎるとプートが怒りだすんじゃ
ないか?
他の者に比べると、その違いは明らかだ。
なんだこのけしからん衣装は、とか不機嫌になるんじゃないの?
そう思ってちらりと隣を見てみれば、彼は牙の鋭い口をぽかんと
開けて、アレスディアを凝視していた。
あまりに破廉恥すぎて、あっけに取られているのだろうか?
702
﹁旦那様、私のパレードへの参加に、快く許可をくだすって、あり
がとうございます﹂
﹁美男美女を百人というのに、我が領でもっとも美しいと言われる
君を、妹の世話を理由に出さないでは、俺が領民たちに怒られてし
まうだろうからな﹂
その通りです、と言わんばかりにウォクナンが頷いている。
﹁マーミル様のお世話ができないのは、私も気がかりですが、代わ
りの侍女には信頼できるものを二人、選出してございます。最初は
とまどうかもしれませんが⋮⋮﹂
﹁まあ、せっかくのお祭りだ。こんな時くらい妹のことは忘れて、
君は君で楽しんでくれ﹂
﹁ありがとうございます﹂
アレスディアは軽く頭を下げると、しずしずと列に戻っていった。
彼女が動くのにあわせて、男たちの視線も動く。
俺は見慣れているし、それ以前にデヴィル族の美醜が理解できな
いから忘れがちだが、どうやら我が妹の侍女殿は本当に飛び抜けて
美しいとみなされるようだ。
その証拠に。
﹁ジャーイル大公﹂
プートが気の抜けたような声で話しかけてきた。
﹁私は彼女に一票を投じてもよろしいか。もちろん、我が名を書い
て﹂
え?
一票って⋮⋮コンテスト、か?
美男美女コンテスト?
名前を書いてって⋮⋮。
プートって、既婚者じゃなかったっけ?
703
﹁それはまあ⋮⋮それでそちらに不都合がないのであれば﹂
誰が誰に投票しようと、自由だ。俺にそれをどうこういう権利は
ない。
俺の答えに、プートはアレスディアを見つめたまま頷いた。
﹁ぜひ、そうさせていただこう﹂
そうして何を思ったか、ずいずいとパレードの構成員たちの前に
進み出る。
﹁我はここに宣言する。我が心は今、アレスディア殿によって射抜
かれた! 故に、我は我が名を記し、彼女に一票を投じることとす
る! 我と争う気概を持つものだけが、名を書いて彼女に投票する
がよい!!﹂
⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
えええええ。
なに突然叫びだしてるの、プート!!
なにそれ、なにその宣言、なにみんなを牽制しようとしてるのプ
ート!
あり? それってありなのか!?
あと、そんなこと堂々と宣言して、奥方とこの後もめたりしない
のか!?
﹁俺も⋮⋮俺も、アレスディア殿に一票を投じるぞーーーー!!!
!﹂
一人が思い切ったように叫んだのを皮切りに、﹁俺も﹂﹁俺も﹂
という声があちこちからあがる。
ちょ⋮⋮君たち、行進しに集まったんですよね?
704
なに騒ぎ出してるの!?
ふと、騒ぎの元である我が侍女に目をやれば、彼女は照れも焦り
も見せずに、涼しい顔をしているではないか。
それどころか、﹁まあ、おほほ﹂と喜んでいそうだ。
デヴィル族の男たちがそうやって騒ぐ一方で、残りの女性陣と半
数を占めるデーモン族の男女たちは、冷めた目でその光景を⋮⋮。
﹁じゃあ、私はジャーイル閣下に投票するわ!!﹂
﹁私も!﹂
﹁あら、私だって負けないんだから!!!﹂
﹁望むところだ!﹂
えええええ。
なに波及してるの!
なにつられてるの!!
あと、なんでたまに男の声が混じってるの!?
⋮⋮いや、たぶんあれはアレスディア⋮⋮アレスディアへの叫び
のはず!
﹁静粛に!!﹂
俺はたまらず叫びをあげた。
だが、興奮した魔族たちは俺の声など耳に入らないようで、全く
勢いは収まらない。
﹁くそ⋮⋮百式でもお見舞いしてやるか﹂
イラッとして、ボソッといったその途端。
<竜の生まれし窖城>の前庭は、水を打ったように静かになった。
⋮⋮まさか、今の独り言、聞こえた? ⋮⋮のか?
﹁そう早まるな。短気は損気だぞ﹂
705
プートに肩を叩かれ、そう言われた。まるで、諭されるように⋮
⋮。
納得いかない。
だが、まあいい。
とにかく、こんな風に一騒動ありながらも、無事、ウォクナンの
指揮のもと、パレードは厳かに出発したのであった。
706
65.パレードの次は、爵位争奪戦です
大祭主は全ての主行事の開始を、担当大公と共に見守らねばなら
ない。となると、最も忙しいのは初日の今日だ。
大祭の開始と共に始まったのが音楽祭と無数の舞踏会。
次にこの<竜の生まれし窖城>から出発したパレード。
パレードは本来なら俺一人の担当だが、出発地が自分の領地だか
らということで、プートは一緒に見送ってくれたのだった。
そして今度こそプートの担当で、開始のかけ声を待っているのが
爵位争奪戦。
これが今日の午前中に始まる主行事だ。
さらに午後からは、デイセントローズの城を出発地点とした、競
竜が開催される。
それが終われば次の主行事の開催日は、美男美女コンテストの投
票が始まる四十日後、場所はサーリスヴォルフの領地でということ
になる。
本来なら、魔王様の在位を祝うために行われる行事なのだから、
魔王様本人が出席すべきなのだろう。が、それこそ初日からあちこ
ちかけずり回るような大変な思いを、我らが王にさせるわけにはい
かない。だから臣下から大祭主を立てて、その者が代わりに面倒を
引き受ける。有り体に言うとそういうことだ。
一方の魔王様は、少し落ち着いてから順番に大公領を回られ、各
地で饗応を受けることになっている。
何を行うにも上位からだから、これもプートの城から始まる。そ
うなると本来はデイセントローズの城が最後のはずだが、そこはそ
れ。こういう時は、大祭主の城が最後に回されるらしい。
707
つまり、まずプートから始まって、ベイルフォウス、アリネーゼ、
ウィストベル、サーリスヴォルフ、デイセントローズの城を訪ね、
最後に我が城へ長めの滞在をなさって大祭主の労をねぎらわれるの
だ。
そう、俺の苦労をやっとねぎらってもらえるのだ。
そうして俺は魔王様の帰城に同行し、七大大公を招いての大魔王
舞踏会に参加することになる。その滞在中にパレードが魔王領へ到
着、美男美女コンテストの発表があり、競竜に決着がつく。それら
すべての表彰も含めた恩賞会を経て、なし崩し的に大公位争奪戦に
移行し、七大大公の順位が改まって、<魔王ルデルフォウス大祝祭
>は終了となるわけだ。
まあそんな訳だから、俺とプートは次に開催される爵位争奪戦の
会場に場を移した。
とはいえ、単に<竜の生まれし窖城>の荒れ地⋮⋮前地に移動し
ただけなんだけども。
そもそも、前地というのはどこも領民の全員参加が義務づけられ
ている、大演習会が開けるほど広い。その広大な地で爵位争奪戦が
行われるのだが、そのための設備といっても用意されるのは物見台
だけ。
かなり遠くまでを見渡せるよう、高く設置された円形の塔の頂上
に、椅子は八つ。
魔王様や大公がやって来たときに座るための、背もたれの高い椅
子だ。とはいえ全員がこの場に揃うことは、まあないだろう。
今は俺とプートが、その中央の二つに並んで座っている。
ちなみに、その下の階は医務室になっているらしい。
あとはただ広い平原が続くだけ。
公爵以下の者のための観客席もないし、戦うスペースさえ区切ら
708
れてはいない。
各組審判者一名をもって、戦いは自由に行われるのだ。
そんなわけで混戦は必至、見学者も場合によっては巻き込まれる
こともあるだろう。
だが、これが担当者であるプートの定めたルールなのだから、仕
方がない。
開催の挨拶は、その主行事の担当者であるプートが運営責任者に
と選んだ彼の副司令官、マッチョデヴィル君だ。
﹁七大大公の筆頭であられる誉れ高き我が主、プート大公閣下。同
じく、七大大公にその名を連ねられ、この<魔王ルデルフォウス大
祝祭>においては大祭主という重責を名誉と共に負われたジャーイ
ル大公閣下﹂
マッチョデヴィル君は、俺たちに向かってうやうやしく頭をさげ
た。
それから延々と続く、芝居がかったお世辞の数々。その大半は、
プートのみに向けられたものだ。
長台詞に辟易としてはいたが、担当のプートがご満悦なので急く
こともできない。
俺のため息が五度目を数えたところで、ようやくマッチョデヴィ
ル君も一区切りついたらしい。
ついに﹁それではご挨拶はこの辺にして﹂という言葉を口にして
くれた!
﹁これより爵位争奪戦を開始いたします。挑戦者、応戦者ともに全
力を尽くして爵位を争いなさい!﹂
簡単な宣言が終わると同時に、またも大地を響かせる野太い雄叫
び。
こんな叫び声を、今日だけでもどれだけ聞くことになるんだろう。
709
長々としたおべっかを聞いた後だから、今は心地よく感じるが⋮
⋮。
ただ一点の気がかりは︱︱俺の耳は、大丈夫だろうか。
なにせ、参加者は挑戦者・応戦者あわせて千を超えたそうだ。
その全員が今この場に揃っているわけではないが、観戦者も多い
から、この場にいる者の数はパレードの参加者数を、遙かに超えて
いる。
それを挑戦者の爵位順で日程を組み、期間は四十日を数える。
最上位の応戦者はもちろん公爵。
幸いにも、うちの副司令官への挑戦者は現れなかった。
だからといって、安心はできない。爵位への挑戦は、開始から二
十日の間は毎日受け付けているからだ。
﹁暫くともに観戦を楽しもうではないか、ジャーイル大公﹂
プートが威厳たっぷりに、前地を睥睨しながらそうのたまった。
いいよな、他の大公は。プートなんか爵位争奪戦が始まった後は、
もうどこへ行って何をしようと、自由だもんな。だが俺は違う。そ
うはいかないのだ。
﹁お誘いはありがたいが、この後デイセントローズの領地へ行かね
ばならない。あそこでも競竜が始まるので、立ち会わないといけな
んだ﹂
﹁ああ、確かにそうであったな﹂
けれどせっかくだから、聞くべき事は聞いておこう。
﹁デイセントローズといえば、確か大公へと挑戦する前は、こちら
の領民であったと聞いたが﹂
今更すぎる質問だというのはわかっている。そんなのは、あいつ
が大公になったその時から判明していたことなのだから。
710
﹁確かに﹂
﹁プートは知っていたのか? その、将来有望な若者のことを、彼
が台頭する以前から﹂
﹁⋮⋮その存在を認識していたのか、という問いであらば、否定は
せぬな﹂
なんだかいやに意味ありげな言い方だな。
だが、知っていたのか。デイセントローズが大公として名を馳せ
る以前から、その名と存在を。
﹁もっとも、実際に会ったことはなかったし、それほどの実力を持
っているとは考えてもいなかった﹂
会ったこともないのに、勇名を馳せたでもない無爵の相手を知っ
ていた?
そんなことあり得るか?
﹁憶測で質問して申し訳ないが⋮⋮まさか、あなたがあいつの父親、
というのではないだろうな?﹂
俺の質問にプートはカッと目を見開き、こちらを凝視してきた。
﹁私が、デイセントローズの父親、だと?﹂
直球すぎて、どうやら気分を害したようだ。獅子の瞳が剣呑と光
る。
﹁あれの母親を知った上での問いか?﹂
どういう意味だ?
﹁いや⋮⋮﹂
俺の返答に、プートは鼻をならした。
﹁ならば、非礼は不問としよう。今後はそのような愚かな問いを口
にするものではない﹂
⋮⋮いや、ほんとにどういう意味?
母親を知っていれば、そんな質問をするはずがない、とでも言っ
ているかのように聞こえるんだが?
711
とりあえずは、否定だよな。
もう少し、つっこんでみようと思ったその時。
俺は参加者の中に、知った顔を見つけてしまったのだ!
まさかそんなところにいるとは思ってもみなかった人物だ!!
彼女を群衆の中に認めた瞬間、プートとデイセントローズのこと
など、記憶の彼方に追いやってしまった。
﹁やあ、ジャーイル!﹂
こちらの視線を察したのだろう。
犬の顔をしたその伯爵は、俺のいる物見台へと大きく手を振りな
がら近づいてきた。
俺は物見台を飛び降り、彼女に駆け寄る。
﹁ティムレ伯。まさか、あなたが上位に挑戦を?﹂
﹁バカなこというなよ∼! 平和主義者のあたしが、挑戦なんてす
る訳ないだろ∼。挑戦されたんだよ!﹂
な ん だ と !?
ティムレ伯に挑戦するなんて、どこのどいつだ!
﹁領内の者ですか?﹂
﹁うん、そう﹂
﹁誰です!? 男爵ですか、それとも子爵!?﹂
﹁どっちでもないよ﹂
無爵の者、だと!?
爵位争奪戦は挑戦者の序列下位から順に行うことになっている。
ということは、彼女の試合は今日これからのはずだ。
見たい!
712
ティムレ伯の戦いを⋮⋮無事を、見届けていきたい!
だが俺はこれからデイセントローズの領地へ行かねばならない。
二つの領地の間には広大な魔王領が横たわっている。だからあま
り時間に猶予はないのだ。本当なら今すぐにでも出発しなければな
らないんだが⋮⋮。
﹁てことは、今日これから戦うってことですよね。どこのどいつで
す?﹂
相手が無爵だからといって、安心はできない。デイセントローズ
の例もあるからな。
せめて、実力をこの目で確かめて安心したい。
﹁大丈夫、相手はまだ子供だからね!﹂
﹁子供? ⋮⋮でも、成人した者しか爵位には挑戦できないはずじ
ゃ⋮⋮﹂
﹁いや、もちろん一応成人はしてるよ﹂
﹁一応は? お知り合いなんですか?﹂
﹁よーく知ってるよ。なんたって、フェオレスの弟だもん﹂
フェオレスの!
え? なんで、フェオレスの弟?
﹁だから大丈夫。あたしにしたって弟みたいなもんさ。相手の性格
も、実力も、誰よりよく知ってる。けちょんけちょんにやっつけて
やるよ!﹂
そういって、ティムレ伯は犬手を握りしめた。
﹁なんならさ、景気付けにセクハラさせてくれる?﹂
﹁お断りです!﹂
それとこれとは話が別だ。
俺は三歩、後じさる。
713
﹁そんなことより、君は今から競竜見にいくんだろ?﹂
いや、見にっていうか、開会式に強制参加させられるというか。
﹁いいよなぁ。あたしも行きたかったんだけど⋮⋮﹂
﹁だったら、さっさと戦いに勝っていらっしゃればいいじゃないで
すか﹂
﹁まあ、それもそうだな﹂
しかし、フェオレスの弟か。ということは、見た目はやはり猫な
のだろうか。
あと、やっぱり強いんじゃないんだろうか。なにせ公爵どころか
副司令官まで務めている者の、弟だぞ?
⋮⋮いや、落ち着け俺。
個人の強さは遺伝しない! しないのだ!
マーミルをみてみろ! それ以前に、父だって槍の腕はよかった
が、魔力はそれほどでもなかった! 母なんて無爵だ。
⋮⋮だが。
﹁一緒に行きますか? 待ってましょうか、ティムレ伯が圧勝する
のを!!﹂
﹁なに言ってんのさ。早くいきなよ。競竜はデイセントローズ大公
領だろ? 君がいかないといつまでたっても始まらないんじゃない
の?﹂
確かにそうだ。そうなんだけれども。
猫⋮⋮猫⋮⋮ネコ⋮⋮ねこ⋮⋮。
あ、あいつか?
いや、その隣も⋮⋮。
あっちにも猫?
こっちもネコか。
714
ねこ多いな!!
だが、兄弟だからと言って、顔が同じ種とは限らないだろ。
でもマストヴォーゼの娘たちを見るに⋮⋮。
﹁心配してくれるのはありがたいけど、あんまりあたしを見くびる
なよ﹂
ティムレ伯は片目をつむり、俺の胸を軽く叩いた。
﹁それに、そんなに気をかけられたらさ⋮⋮ちょっと⋮⋮怖いじゃ
ん?﹂
急に辺りをキョロキョロと見回すティムレ伯。
なにか探しているのだろうか?
﹁ジャーイル大公﹂
プートも物見台から降りてきたようだ。こちらへゆったりとした
足取りで近づいてくる。
ティムレ伯の背筋がぴしゃりと伸びた。余所の大公を前に、緊張
しているのだろう。
﹁あ、じゃああたし⋮⋮これで失礼するよ⋮⋮じゃなくて、失礼い
たします﹂
ティムレ伯は珍しく敬礼をして、そそくさと立ち去っていった。
﹁そなたの親しい配下か﹂
﹁ええ、まあ⋮⋮﹂
﹁結果が気になるのであらば、報告させようが﹂
﹁いや⋮⋮本人も大丈夫だと言っているので、問題はないだろう。
ご配慮には、感謝する﹂
城に帰ったら、フェオレスにも弟について確認しておこう。
そうしよう。
715
﹁遠慮はするな。私とそなたの仲ではないか﹂
は? 俺とプートの仲?
とりたてて、強調するような間柄ではないが。
俺は改めてプートを見た。
いつもは厳格そのもののプート。だが、今はその表情も、どこか
緩んでいるような印象をうける。
﹁どうかな? そなたに異存なければ、私は同盟を結んでもよいと
思っておるのだが?﹂
おい⋮⋮どういうことだ。
このタイミングで同盟、だと?
﹁俺はこの間、あなたの配下の公爵を六人、倒したはずだが⋮⋮﹂
﹁それは気にせぬと伝えてあるはず。それに、我は弱き者には興味
はない﹂
待て。
俺に負けた六人は、プートにすれば弱かったと一蹴できるのだろ
うし、同盟者に迎えるための条件をいっているのなら、俺は確かに
弱くはない。
だがこの先大公位争奪戦も控えているというのに、大祭の始まっ
たこのタイミングで同盟を言い出す利はどこにある?
﹁もちろんそうなれば、そなたにはたびたびの饗応をお願いするや
もしれぬ。その暁には、ぜひアレスディアどのにぜひ、ご歓待いた
だきたいものだ﹂
⋮⋮おい、まさか。
まさか、アレスディアのせいなのか?
嘘だろう。
いつもの威厳はどこにいったんだ!
なにその緊張感ない顔!!
716
﹁悪いが、今のところ誰かと新たに同盟を組むことは考えていない
んだ﹂
﹁そうか。では、ただの友人として⋮⋮﹂
﹁申し訳ない、もう時間だ。そろそろデイセントローズのところへ
いかないと、競竜が始まらない。そうなると、俺が観客に恨まれて
しまう﹂
俺はそそくさと、その場から逃げるように立ち去った。
くそ、もっとデイセントローズのこと聞きたかったのに!
ラマ母のこととかも聞きたかったのに!
いろいろ、聞きたいことがあったのに!
何より、ティムレ伯の勝負の行方を見ていきたかったのに!!
知りたくなかった⋮⋮こんなプート、知りたくなかった⋮⋮。
717
66.デイセントローズくんと、愉快に過ごしましょう!
魔王城や<竜の生まれし窖城>の騒ぎもすごかったが、<死して
甦りし城>の賑わいも、先の二つに負けていない。
城内が解放されているせいで、敷地のあちこちに人影がある。
それが飲み物のグラスを片手に、または食べ物を口に含ませなが
ら歌えや踊れやの大騒ぎだ。
珍しく静かだな、と思ったところには、めざといもので不埒な行
為に及んでいる者が必ずいる。
俺の城もこうなっていたら、どうしよう。
マーミルが見なくてもいいものを、目撃してしまわないだろうか?
アレスディアも双子も側にいない今、それが心配でたまらない。
代理の侍女が、しっかりしていればいいんだが⋮⋮。
周囲の喧噪にそんな不安をいだきつつ、<死して甦りし城>の敷
地を足早に抜けた。
﹁ようこそおいでくださいました、ジャーイル大公!﹂
城の正門を抜けるなり、両手を広げてやってくるラマ。
俺は万が一の抱擁を避けるべく、数歩手前で立ち止まった。
﹁すまないな。少し遅れてしまったようだが﹂
﹁かまいませんとも! 楽しみは多少じらされたほうが、いっそ興
も深まるというもの﹂
デイセントローズは自分の胸の前で、両手を大げさに組み合わせ
た。
その口元に、不気味な笑みが浮かぶ。
718
なんなのだろう。
デイセントローズなんて大公の中では大して強くもない。だとい
うのに、いつも得体の知れぬ気味の悪さを感じてしまう。その特殊
能力を脅威に捉えているからだろうか。
だが、同じ能力であるはずのリーヴには、こんな感覚は一度とし
て抱いたことがないしな⋮⋮。
﹁それで、いかがでした? パレードに爵位争奪戦の方は﹂
﹁問題ない。滞りなく開始された﹂
﹁そうですか。楽しみですね。見目麗しいパレードが我が領地にや
ってくる日もですが、私はこの機会にできる限り、みなさまの領地
を回って、せっかくのお祭りをご一緒したいと思っているのですよ﹂
こいつときたら、いつも他の大公領に行きたがってるような気が
する。
﹁ところで、ジャーイル大公もどの竜かにお賭けになられますか?﹂
﹁いいや、やめておく。実際にレースを観戦している暇はないだろ
う﹂
竜と一口にいっても種類があり、体格や大きさが異なる。
レースはほとんどが体重別で階級分けされ、長距離や短距離など
の様々な内容で競われる。
だが初日の今日、始まるのは予選だ。
それに勝ち抜いた竜が本戦に進み、最終の五日間で決勝を戦い抜
き、それぞれのレースで優勝竜が決まるのだ。
その間、観戦者は出場竜とその乗り手を選んで、賭けに興じる。
もっとも、人間たちと違って我々、魔族には通貨というものがな
い。
賭けるのは、自領や持ち物や自分自身の奉仕活動に限られる。
719
そして勝ったからといって、手に入ったものが嬉しいものとも限
らないわけで⋮⋮。
うん、参加する意義を見いだせないな。
﹁ですが、ジャーイル大公。直接観戦できないとしても、大公が自
分や竜に賭けてくれていると領民が知れば、大いに勇気づけられる
のではないでしょうか﹂
結果はどうあれ、自領の竜に賭けてはどうか、ということか。
まあ、確かにデイセントローズの主張にも一理あるが⋮⋮。
﹁それだと自領の全参加者に賭けなければならなくなりそうだ。そ
れに、うちの領民の場合、もし負けたら大げさな反応をしそうだし
な⋮⋮。今日のところはやめておこう。まあ、決勝戦までには考え
ておくよ﹂
再度断ると、デイセントローズはあからさまにがっかりしてみせ
た。
自分の担当する主行事を盛り上げたいという気持ちはわかるが、
遠慮のないことだ。
﹁そうですか。プート大公やベイルフォウス大公は予選からすでに
参加なさっておいでなのですがね﹂
あの二人⋮⋮仲は悪い癖に、やることは一緒とか。
意外に考え方は似ているんじゃないのか?
アレスディアに対するプートの態度を見て、俺の彼に対する評価
は揺らいできているのだ。
﹁そんなことより、競竜をはじめよう。これ以上待たせては、それ
こそ観戦者たちが暴動をおこしかねないだろう﹂
賭事に夢中になる者ってのは、いつでも興奮の度がすぎるものだ
から。
720
俺はデイセントローズを促して、競竜競技の開始地点へと向かっ
た。
ここでもまた、出発は前地からだ。
整然と並んでいるのは、今度は大小さまざまな数百の竜たちとそ
の乗り手たち。
戦闘場所を区切られていなかった爵位争奪戦とちがって、竜一頭
に枠が一つ設けられている。
それが長距離戦、短距離戦、障害戦︱︱ちなみに、障害は妨害係
による乗り手への攻撃だったり、幻術だったりする︱︱などの内容
によって、きちんと区切りがついていた。
そしてその周囲を手に賭け札を持った魔族がぐるりと取り囲んで
いる。その誰も彼もが口々にひいきの竜の名を呼び、騎手を励まし
ているのだ。
その熱気たるや、すさまじい。
まるでもうレースが始まっているかのような狂乱っぷりだ。
俺とデイセントローズが前地に姿を見せたことで、その声はいっ
そう大きくなった。
早く始めろ、という怒声にも似た要請の言葉が、いくつも聞かれ
る。競竜の観戦者は、荒々しい者が多いようだ。
﹁待たせたな! 野郎ども!! やっと大公方のお出ましだ!!﹂
そしてデイセントローズが進行役に選んだデーモン族の副司令官
も、やや口が悪いようだ。
﹁みんな賭ける竜は決まったか!? 俺は決まった!﹂
本来は座るためのはずの椅子に片足を乗せ、手に持った自分の賭
け札を高速で振り回している。
721
﹁待ち遠しいか? 開始の宣言が、待ち遠しいかー!! 俺は待ち
遠しい!!﹂
﹁早くしろ!﹂
﹁お前の話なんてどうでもいい!﹂
﹁このウスノロ!﹂
﹁黙れ貴様ら、殺すぞー!!!﹂
落ち着けよ。
どっちも落ち着けよ。
﹁命を懸けて空を駆け抜けろ! さあ出発の合図をならせ、くそっ
たれ!!﹂
無駄に荒々しいやりとりが続いた後、ようやくラッパの音が鳴り
響く。
続いて聞こえた太鼓の音で、一斉にスタートが切られた。
竜が足を踏みならし、空に飛び立つ衝撃で、大地と空は大いに震
えたのだった。
***
とにかく、これで今日開始の主行事は終わりだ。
魔王様のところへ報告にいけば、とりあえず今日の俺の仕事も終
わる。
その後でようやく自領へ戻れるというわけだ。
いくら大祭主といっても、ずっと本部につめていなければいけな
い訳ではないからな。
それこそ、なんのための祭司か、ということになる。
主行事が滞りなく運営されているのを見届けるのも役目だが、そ
ればかりにかまけて自領の統制が乱れては意味がない。
722
もっとも、主導者はフェオレスだ。抜かりはないと思うが⋮⋮。
﹁ジャーイル大公、これで大祭主としての見届け業務は終わられた
つど
のでしょう? ならばぜひとも我が城でごゆるりとお楽しみいただ
きたいのですが。城にはデーモン族の美女もたくさん集っておりま
すし﹂
誰がお前の誘いにのるか、と、思わず本心を言いたくなってしま
う。が、いつもと違って今は魔王様の在位祭だ。今日は、めでたい
お祭りの始まりの日なのだ。
せめてこの百日間くらいは、誰に対しても機嫌よく振る舞おうじ
ゃないか。
それに、今の俺は以前とは違って、デイセントローズに興味津々
だ。確認したいこともある。
﹁なににもまして、我が母をご紹介させていただきたいのです﹂
おっと。これは願ってもない申し出ではないか。
プートがあれほど反応した母君だ。本人と対面できるのなら、こ
れ以上のことはない。
﹁母は貴方にお会いできる日がやってくるのを、それはもう楽しみ
にしていたのです。ええ、指折り⋮⋮。ですからどうか、ご紹介さ
せてください!﹂
その態度からはいつもの慇懃無礼さは少しも認められず、ただ必
死な様子だけが伝わってくる。
﹁そうだな、後は魔王様への報告が残っているが、少しお邪魔する
くらいならかまわないだろう。ぜひその申し出を、受けたいと思う
のだが﹂
そう言うと、デイセントローズは見たこともないような明るい笑
みを浮かべた。
﹁ありがとうございます、ジャーイル大公。これで母の機嫌を損ね
723
ずにすむというもの⋮⋮﹂
母の機嫌?
まさか、従兄弟そろって恐母家、とでもいうんじゃないだろうな。
俺とデイセントローズは再び城門をくぐって、<死して甦りし城
>のメイン舞踏会場へと向かった。
本棟一階の大広間の一つだ。
部屋の中程にそれぞれ百を越す楽員を擁する管弦楽団が二楽団、
左右わかれて壁際にあり、交互に、時には協力して一つの音楽を奏
でている。
その音楽にあわせて舞踏を楽しむ者は中央へと歩み出、会話を楽
しむ者はその周囲に雑然と立ち、あるいは座っている、という具合
だ。
この会場内に限れば、賑やかではあるのだが、品位は保っている
といえよう。
まあ、いくら魔族とはいえ、さすがにどこもかしこも即狂乱にと
はならないだろうが。
会場には、この大公城の主であるデイセントローズの固定席が用
意されているようだ。
プートでも三人並んで座れそうな幅の広い椅子が大広間の奥、お
飾り程度の低い段の上に用意されている。
背もたれには虹色に輝く薄いガラス、縁取りの枠には色とりどり
の宝石がはめ込まれ、肘掛けは妙な曲線を描いている上に、そもそ
も手をおける位置についていない。
見た目は美しいが、随分と座りごこちの悪そうな椅子だ。
﹁どうぞ、ジャーイル大公﹂
﹁えっ﹂
﹁おかけください﹂
724
﹁えっ。ここに?﹂
まさか、俺が⋮⋮というか、二人で一緒に並んで座るのか?
見回しても近辺に他の椅子はない。
﹁どうぞ。ご遠慮なさらず。並んで腰掛けても、窮屈ではございま
すまい。そのために、こうして広くつくってあるのですから﹂
﹁いや、長居するつもりはない。立ったままで結構だ﹂
ラマと同じ椅子に座ったところで、そりゃあ広いし身体が触れる
わけでもないけど、なんか抵抗がある。
しかし、今の言い分だとわざわざ作ったのか?
この日のために?
こんな奇妙で座りにくい椅子を?
﹁触れるだけで呪詛を与えられる我が能力を、警戒していらっしゃ
るのでしょうか?﹂
﹁いいや。いかにその力があるとはいえ、相手も時も所もかまわず
しかけてくるほど愚かとは思っていないさ﹂
﹁そうですか﹂
俺の言葉に、デイセントローズは実にいやらしい笑みを浮かべな
がら、頷いた。
﹁では、別に席をご用意させましょう﹂
﹁いや、わざわざ手間をかける必要はない。さっきも言ったとおり、
それほど時間に余裕があるわけでも⋮⋮﹂
﹁そんなつれないことを仰らずに、どうかゆっくりなさっていって
ください。ジャーイル大公閣下﹂
いやにねばついた声が、耳を打つ。
声のした方向に目をやると、そこには女装をしたデイセントロー
ズ⋮⋮もとい、ラマ顔の女性が立っていた。
725
67.この息子にしてこの母あり
結局、俺たちは大広間を出て談話室の一室へ向かった。
ここも開放された一角だが、大公二人とその母一人という顔ぶれ
に遠慮してか、今は俺たちの他に誰もいない。
俺とデイセントローズがほとんど一直線上に並び、ラマ女性がど
ちらからも等間隔をあけて、その正面に座っている。簡単に言うと、
母親を頂点とした二等辺三角形を描いている、という感じだ。
﹁ジャーイル大公。こちらが我が母です。母上。大公閣下にご挨拶
を﹂
﹁わたくし、デイセントローズの母で、ペリーシャと申します﹂
腰から脛にかけて長いレースを垂らせた裾の短いスケスケパンツ
をはき、サラサラの毛が生えた足をむき出しにしたそのラマは、い
ったん立ち上がると優雅に腰をおってみせた。
これがデイセントローズの母親⋮⋮そして、リーヴの伯母という
わけか。
正直、顔だけをみれば、デイセントローズと驚くほど似ている。
もっとも、俺はデヴィル族を見分けるのが苦手だから、そう思える
だけなのかもしれない。
⋮⋮よくよく見れば、母親の方が睫毛が長いかな?
ちなみにマストヴォーゼとその娘たちのように、身体まですべて
同じという訳ではないので、顔以外を観察すればその違いは一目瞭
然だ。
デイセントローズは露出している手足は人のそれだし、尻からは
トカゲの尾が、背には羽虫の翅が生えていて、身体は細いものの嵩
726
高い。
が、母親の方は首から下はやせこけた山羊のようで、頭に角も生
えていなければ、背に翼もなく、しっぽも山羊のもの一本だけだ。
自称・ブス
のティムレ
ペリーシャは息子に比べても、あきらかに混合具合が低い。
ラマと山羊、たった二種類というのは
伯よりまだ少ないのだ。
ということはもしかすると、これはデヴィル族基準でいうところ
の不美人なのではないだろうか?
リーヴの母とは双子といっていたし、同じ容貌なのか?
だとすると、リーヴの母親が一時でもヴォーグリムの目に止まっ
たのが不思議に思えてくる。なにせ、あのネズミ大公はアレスディ
アをさらったくらいだ。当然、面食いだろうと思っていた。
面食いと言えば、プートのあの反応。ペリーシャが不美人と知っ
ていたからこその、あの反応だったのだろうか。
そうなると⋮⋮それこそ面食いであるらしいプートがデイセント
ローズの父親、ということはあの態度からもあり得ない?
﹁お噂はかねがね⋮⋮わたくし、閣下には随分前から御面識を得た
いと願っておりましたのよ﹂
ペリーシャは癖、なのだろうか。いやに媚びたような、卑屈に響
く声音で話す。
少なくとも俺はそういう喋り方は好きではないので、思わず眉を
ひそめてしまいそうになる。
﹁俺もお会いしたいと思っていたところだ﹂
思ったのは、つい最近だがな。
﹁まああああ﹂
対するペリーシャの反応は異常だった。
727
立ち上がり、頬を染めながら俺の方へ駆け寄ってくる。そうして、
足下に身を投げ出すように跪いて、俺のマントの裾をそっと握りし
めたのだ。
﹁わたくしなどにご興味を持っていただけるとは、光栄の至りです
わ! まあ、どうしましょう⋮⋮! 嬉しくて失禁してしまいそう
⋮⋮!!﹂
俺、どん引き。
ひと
思わず椅子の上でたじろいでしまう。
なにこの女性。
変態? 変態なの?
﹁母上⋮⋮!!﹂
さすがのデイセントローズも苦々しい表情で立ち上がり、母親の
手を俺の裾からひきはがしにかかった。
それはそうだろう。仮にも大公の母親が他の大公へ取り縋るだな
んて、臣下に示しがつかない。
それも⋮⋮驚きの、失禁発言ですよ。
﹁どうしてわたくしのことをお知りになったの? どなたかにお聞
きになって? だとすれば、それはどなたなのでしょう! それと
も、閣下自身がデイセントローズにひとかたならぬ興味をお持ちに
なって、その結果わたくしの存在にたどり着き、尋常でない欲にか
られて、わたくしのことを﹂
怒濤のように始まった口撃は、それはもう恐ろしいものだった。
尋常でない欲ってなんだよ!?
変に誤解されてはたまらない。真実をきちんと伝えなければ!
﹁いや、興味といっても、実は、あなたが俺の領民と親類関係にあ
ると知ったのがきっかけなのだが﹂
﹁りょう⋮⋮みん⋮⋮﹂
728
息子に抱き抱えられるようにして、元の椅子に座り直したペリー
シャの表情は、一転して険しく強ばる。
﹁まさか⋮⋮その、領民というのは⋮⋮﹂
﹁母上⋮⋮﹂
どうやら母子とも、察しはついているようだ。
﹁我が城に勤めている者で、名をリーヴという。彼からあなたが彼
の母の姉妹であり、デイセントローズは従兄弟であると聞いたもの
でな﹂
﹁リーヴが⋮⋮あの女の息子が、閣下のお城に?﹂
俺がリーヴの名を出した途端、ペリーシャは隠しきれない殺気を
その身にまとった。白い顔は青ざめ、はれぼったい目が飛びださん
ばかりに見開かれ、手すりに置かれた山羊の蹄は小刻みに震えてい
る。小さな口からのぞく少し黄ばんだ歯が、震えにあわせてカチカ
チと音をたてていた。
﹁実は、リーヴの母親が行方不明でな⋮⋮息子のためにも探してや
りたいと思っている。姉君ならば、何かご存じではないかと思い、
お尋ねするのだが﹂
﹁まさか!!﹂
ペリーシャはぎりり、と奥歯をかみしめた。
蹄を何度も肘掛けにたたきつけている。
﹁知っていれば⋮⋮もし、知っていれば、絶対に閣下へ差し出して
おりますわ!﹂
﹁差し出す⋮⋮とは、穏やかじゃないな﹂
とは言ってみたものの、リーヴが俺を暗殺しようとしたのは大演
習会の時のことだ。
あれほど目立つ場所での事件だから、他の大公たちにもその事実
が知られていたところで不思議はない。
729
﹁あの浅慮な女のことですもの! 罪を犯して逃亡したに違いあり
ません!﹂
ニタリ、とペリーシャは口元を歪ませた。
﹁いつもの淫売の手ですわ。色目をつかって、権力のある相手にす
がって⋮⋮﹂
実の姉妹に対して、随分な言いようだ。
﹁でもごらんなさい。結果はどう? 容姿を誇って、ヴォーグリム
大公をたぶらかしたあの女は、一年もたたないうちに捨てられ、こ
っそりと生んだ子もたかが無爵のできそこない。でも私の子は違う。
デイセントローズ。あなたはあの方とわたくしとの間に愛をもって
生まれ、今は大公にまで登り詰めた⋮⋮ええ、そう。そうですとも﹂
ひと
なにこの女性、怖い。
ペリーシャは急に低い声でぶつぶつ言い出したかと思うと、話す
うちに気分が高揚したのだろう。急にはしゃぐような態度をみせた。
まるで周囲には誰一人いないかのようなその独白。瞳に宿るのは、
見紛うことなき狂気だ。
それは自害する直前のヒンダリスの姿を、俺に思い起こさせた。
その狂気の瞳が俺に向けられる。
﹁あの女、どこにいるのでしょうねえええ。けれど、お約束いたし
ますわああ。見つけだしたら、必ず両手両足、首に胴、枷をつけ、
重りで自由を奪って、必ず瀕死の一歩手前の状態でええええ、ひひ
っ、閣下の元へ、檻に入れておとどけいたしますわあああああ。ふ
ふははははは﹂
ぞおおおお。
怖いんだけど、この人ちょっと怖いんだけど!!
730
﹁ところで、デイセントローズ。お父上には紹介していただけない
のかな?﹂
あの方
とやらに、ぜひ会ってみたいものだ。
空気を変えるため、別の話題をふってみる。
ペリーシャのいう
そしてどういう趣味ならば、この女性に手を出せるのかと聞いて
みたい。
﹁あら、ジャーイル大公。ふふふ、そんな他人行儀な﹂
﹁母上!﹂
ペリーシャの言葉を、きつい口調で遮るデイセントローズ。
﹁あら、ごめんなさい。そうね、まだダメだったわねええええ﹂
息子と視線をあわせ、ふふふ、とペリーシャは笑った。
なにその意味ありげな言葉⋮⋮。
他人行儀って、だって他人だもの。
え?
﹁念のため、確認させていただくが⋮⋮あなたとは、初対面だよな
?﹂
会ったことがあるとか、いわないよね。
いくら俺がデヴィル族を見分けるのが不得意とはいえ、こんな個
性的な女性が印象に残らないはずはないし!
﹁あら⋮⋮⋮⋮あらあら、どうしましょう。初対面ですって! そ
うでしたかしら? わたくしは勿論、閣下のことを存じ上げており
ましたわ。ええ、よおく知っておりますわああ! そのお美しい容
貌も含めて!!﹂
俺の背筋に冷たいものが走る。
なに、その返事!
まさか、デイセントローズが俺の息子だとか、冗談でも言い出さ
731
ないだろうな!
デヴィル族とどうこうした記憶は、生まれてこのかた一度もない。
大丈夫だ!
お願いだから、そんな意味ありげな言い方しないで、きっぱり否
定してくれないだろうか。
﹁申し訳ありません、ジャーイル大公﹂
デイセントローズがいつもの表面的な笑みを浮かべてそういった。
﹁我が父とは、この城で同居してはいないのです。ご紹介について
は、いずれまた⋮⋮その機会が参りましたら、ぜひ、ということで﹂
﹁ああ⋮⋮そうだな⋮⋮﹂
なんだろう。もう父親の正体とか、どうでもいい気がしてきた。
むしろ聞くのが怖い。
というか、もうこの母子とは一秒だって同じ空間にいたくない。
一人ずつならまだしも⋮⋮いや、デイセントローズだけならまだし
も、ペリーシャは彼女一人でも無理だ。一言発せられる言葉を聞く
だけで、ぞっとする。
プートが彼女と直接接したことがある、というのなら、あの態度
も少しは理解できるというものだ。
﹁そろそろ、お暇することにしよう。ペリーシャ。お会いできて光
栄だった﹂
俺は立ち上がった。
だが、触れたくないので握手は求めない。
﹁あら、あらまあ⋮⋮﹂
ペリーシャは名残惜しそうな表情を浮かべたが、その態度にも不
快さが増すばかりだ。
﹁もう、ですか。ジャーイル大公を歓待するために、美しいと評判
732
のデーモン族をそろえておいたのですが﹂
デイセントローズがパチンと指を鳴らすと、どこからともなく着
飾った娘たちがゾロゾロと出てきて、俺たちの前に整列する。
うん、ああ⋮⋮。なるほどね。
大人しげな娘、活発そうな娘、色気がにじみ出た娘、いろいろな
タイプがいるが、全員に共通していることがある。
それは⋮⋮。
﹁胸の大きな娘がお好みだと、お聞きしましたので﹂
ヤ メ ロ。
確かに、メリハリのある女性は好きだが、だからってそんなあか
らさまに⋮⋮。
﹁まああああ。胸の大きな娘がぁぁ?﹂
そういって、自分の胸部らしきあたりを見下ろすペリーシャ。
やめて⋮⋮そんな残念そうな顔で反応してこないで⋮⋮。
﹁いや、次々歓待を受けていたのでは、キリがなくなる。万が一、
魔王陛下へのご報告が日暮れを迎えてからになっては申し訳がたた
ない。せっかくのお誘いだが、今日のところは目の保養だけにとど
めさせていただこう﹂
俺が視線を向けると、幾人かの娘は頬を赤らめて恥じらった姿を
見せた。
デイセントローズの領民でなければな。
﹁そうですか。では、お楽しみは次回、いらっしゃる時まで残して
おきましょう。そのときはどの娘でも、お望みのままになさいませ﹂
どの娘でもお望みのままって!
733
うわあ⋮⋮なに、その本人たちの気持ちは無視したような、発言。
お前の考えに俺はどん引きだわ。
そうして俺は、その母子に対する悪印象を新たにし、<死して甦
りし城>を後にしたのだった。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
正直に言おう。
⋮⋮⋮⋮。
怖かった。
734
68.魔王様に報告を!
﹁と、言うわけで、ですね。プートは突然叫び出すし、デイセント
ローズの母親はかなり変態っぽいし、ものすごく疲れたんです。わ
かってもらえます? この俺の苦労﹂
俺のため息にも、魔王様は無言だ。
少しくらい反応してくれてもいいのに。
﹁それというのも、魔王様の弟君が大祭主の仕事を全く手伝ってく
れなかったせいで﹂
﹁関係ないだろ。ベイルフォウスは関係ないだろ﹂
あ、反応があった。
弟をかばうあたり、魔王様もやっぱり。
﹁なんだかんだ言って、魔王様も結局ブラコンなんですね﹂
しまった!
口に出してしまった。心の中だけで思っておくつもりだったのに。
俺は頭への衝撃を覚悟したが、意外なことに魔王様は舌打ちを一
つしただけで、何もしてこなかった。
さすがに今日くらいは、忙しい俺の身を案じてくれているのかも
知れない。
そう。俺は今、ようやく魔王城のここ︱︱執務室で、魔王様に初
日の成果を報告するというところまでたどり着いたのだ。
魔王城のほとんどの場所が開放されるとはいっても、さすがにこ
の部屋のある一角への立ち入りは、ごく一部の者にしか許可されて
いない。
当然、大祭主であり大公である俺は、その一部に含まれる。
⋮⋮まあ、どのみちいつも勝手に入ってる場所だけどね。
735
﹁大祭主としての役割、ご苦労であった。それで報告は終わりか?
他にないのなら、辞してよいぞ。疲れておるのだろう? 自分の
城でゆっくり休むのだな﹂
冷たい。魔王様が冷たい。頭への攻撃の代わりか。
﹁ほんとに愛想なしですね﹂
﹁何か言ったか?﹂
﹁いえ、何でもないです﹂
まあいいや。今日は本当に疲れた。余計なことをいって攻撃を受
けないよう気をつけなければ。
﹁まあ、急いで帰る必要もないというなら、どこか空いてる部屋で
でも休んでいくがいい。必要なら、案内させるが?﹂
あれ? やっぱりなんかいつもより優しくないか?
やはりあれか⋮⋮これは、大祭主という役目が関係あるのだろう
か。
一応、魔王様の代理としてあれやこれややっているんだもんな。
だけど、ゆっくりはしていけない。
自分の城でいろいろ気になることがあるからだ。
﹁お心遣いには感謝しますが、やっぱり自分の領地の様子が気にな
るので、このまま帰ります﹂
魔王様はそれ以上引き留めようともせず、頷いた。
﹁ところで、そなたに任せている魔王城の方だが、進み具合はどう
だ? 最終日には公表くらいはできそうか?﹂
﹁公表どころか! ご存知の通り、みんなやる気満々ですからね。
特に魔王様が視察に来てくださった日から、それはもう作業が進ん
で進んで﹂
736
隠蔽魔術を施してすぐのことだ。魔王様が直々にその効果を確認
したいとおっしゃったので、俺が結界内まで案内した。
現場を見られた魔王様は隠蔽は完璧で、作業員の誰かが口を割ら
ない限り、誰が見ても結界があることにすら気づかないだろう、と
判断されたようだ。それで魔王城を新築するという事実は、完全に
秘されることになった。
つまり、他の大公であっても⋮⋮それが例え弟のベイルフォウス
であろうが、新魔王城の件は口外してはいけないという命令が下さ
れたのだ。
現場の者たちにも魔王様が直々に釘をさされた。
それだけじゃない。念を入れるため、休みの日には行き先を告げ
れば外出は許可されていたが、それも禁止となった。
その扱いは、副司令官のジブライールであっても例外ではない。
その上その家族や家臣たちには、なんと期間限定ではあるが記憶
操作の術を施すほどの念の入れようだ。
ただ、俺と魔王様だけが自由に出入りできる状況となっている。
だから俺はせめてと考え、三日に一度は現場を訪れている。
今のところ誰からも不満はでていないが、大祭が始まったとなる
とどうなのだろう。
まあ不満があったとしても魔王様に逆らう気概のある者なんて、
いるはずもないが。
それほど魔王様はこの事業を他の者に⋮⋮はっきりいうと、ウィ
ストベルに知られたくないらしい。
本来、この大祭は彼女のために行われるべきだった。真の魔王は
彼女なのだから、とは魔王様の言だ。
それでなぜ城のことを秘密にすることにつながるのかは、ちょっ
と俺には理解できない。どうやら当日に披露して、驚かせたいらし
い。
737
﹁この分だと、竣工までにあと五十日もかからないんじゃないです
かね﹂
﹁それは、思った以上だな﹂
千人を超す作業員たちは、そもそもそれまでも目を輝かせながら
意欲的に作業にあたっていたが、魔王様の視察があってからは休日
も返上して頑張っている。
なにせ⋮⋮。
﹁なんでも、やはり美男美女コンテストには参加したい、という者
が多くて﹂
﹁ほう﹂
通常は千年に一度しか行われないことだから、みんなぜひとも自
分の思いを反映させたい、と思うものらしい。
もちろん自分の名を書いた上で、投票した相手が一位になること
を期待している者もいるのだろう。
﹁それで、そなたは誰に投票するつもりなのだ? ウィストベルか
?﹂
﹁あー﹂
美男美女を決めるコンテストなのだから、別に投票相手に好意の
有無は関係ない。投票用紙は一人に一枚、そこに書いていいのは一
名の名だ。
思いつく異性がいなければ、別に同性の名を書いてもいいわけだ。
まあそこで、自分の名前も書いてしまえばちょっと意味は変わって
くると思うけど⋮⋮。
しかし普通は異性に投票するものだと思うし、俺もそうしたいと
は思っている。だとするならば、そりゃあデーモン一の美女といっ
て思いつくのはやはりウィストベルということになるわけだが。
738
ここで果たして、﹁ウィストベルが一番綺麗なので投票しようと
思います﹂と魔王様に言ったらどうなるのだろう。
俺の頭は無事でいられるのだろうか。いや、頭だけですむのだろ
うか。
﹁ウィストベルなのだな? まさか、自分の名を記して投票するつ
もりではあるまいな?﹂
﹁いや、それはないです!﹂
そんなことをする意味がない。少なくとも、俺にとっては。
﹁魔王様はウィストベルに投票なさるんでしょうね﹂
﹁愚問だな﹂
﹁自分の名前を書いて?﹂
﹁そうしたいところだが⋮⋮ウィストベルは知れば怒るだろうな﹂
魔王様の方はやっぱり公表したいのだろうか。
それはそうだろうな。
﹁ルデルフォウス? ここにおるのか? 主役が初日から部屋にこ
もってばかりいては⋮⋮﹂
突然ノックもなく入ってきたのは一人の女性。
そんなことを許されているのは、彼女ただ一人と決まっている。
ウィストベルだ。
なんというタイミング!
噂をすれば、だな。
魔王城の下りから投票の件まで、話をしている最中だったらやば
かった。
俺が焦る一方、魔王様は余裕の表情を浮かべている。
いや、余裕どころか⋮⋮一気に表情が優しげに和らいだではない
か。
739
だが、当の女王様は魔王様の元までいかずに、俺のところで歩み
を止めた。
さらに肩に手を置かれ、ぐっと引かれる。
いつもながらの謎怪力で、俺は彼女の方へ向き直らされた。
後頭部に突き刺さるような視線が痛い。
﹁ジャーイルではないか。どうした、そのように疲れた顔をして。
大祭主としてあちこちに足を運んで、気疲れしたか?﹂
﹁気疲れ⋮⋮そうですね。そんな感じです﹂
﹁そうか。疲れておるのか。ならば休息が必要じゃの。どれ、私が
介抱してやろう﹂
しかもこともあろうに、腕まで絡ませてくる!
﹁ちょ⋮⋮ウィストベル、魔王様の御前ですよ!﹂
﹁おお、そうか。ルデルフォウスの前では遠慮が勝つと申すか。な
らば、さあ、早うこちらへ﹂
やばい!
せっかく今日は珍しく優しい魔王様なのに、これ以上は今度こそ
殺されかけない!
俺はウィストベルの気に障らないよう気をつけながら、彼女の腕
を優しくふりほどいた。
﹁申し訳ありません。大祭主としての役割続きで、自分の領地の様
子を一度も確認していないのです。急いで帰宅しないと﹂
﹁そんなもの、私とて確認などしておらぬ。ずっと魔王城におる故
な。祭りは百日もあるのじゃぞ? 自領には代理もおろう? 配下
にまかせておけばよいのじゃ。それとも、主は自ら選んだ者を信じ
るに値せぬと申すか?﹂
﹁いや、確かに⋮⋮フェオレスは頼りになりますが、マーミルの様
子も気になりますし﹂
740
﹁相変わらず妹に甘いの。だが、あまりしつこく構い過ぎると嫌わ
れてしまうぞ?﹂
﹁ウィストベル﹂
ここで魔王様の助け船だ!
よかった、怒りが俺に向かずにすみそうだ。
﹁今の台詞を、自分にも言い聞かせてみてはどうか?﹂
魔王様! ちょっとその言葉はどうなんですかね?
ウィストベルは気分を害したようで、その強い瞳で魔王様をにら
みつけている。
﹁私がジャーイルに対してしつこくしていると?﹂
﹁本人が喜んでいるように見えるなら、私は口をつぐんでいようか
らな﹂
魔王様は時々、ウィストベルが怒るようなことを平気でいう。
今もウィストベルの怒気がチリチリと肌を焼くようだ。
全く勘弁してほしい!
魔王様はMだからいいかもしれませんが、俺にまでとばっちりが
こないとは限らないんですよ!
これはあれだ。
とっとと退散するに越したことはない!
それが賢明な判断というものだ。
﹁あ、じゃあ、俺、そういうわけなんで失礼します﹂
俺はさりげなくそう言い、こっそり執務室を抜け出そうとした。
⋮⋮のだが、そううまくいくはずはない。
がっちりと、ウィストベルに腕をつかまれてしまう。
だが。
741
﹁今日はルデルフォウスに免じて見逃してやる。が、次の機会には
私の相手をするのだぞ、ジャーイル﹂
﹁もちろんです! お約束します﹂
よかった!
どうやら今回はとにかく解放してもらえるようだ。
さすがは魔王様!
にらみ合う魔王様とウィストベルをその場に残して、俺はそそく
さと執務室を立ち去ったのだった。
742
69.一旦おうちに帰ろうと思いますがその前に⋮⋮
廊下に出て、自分が出てきたばかりの部屋を振り返る。
一触即発、といった雰囲気だったが、どうせあれだ⋮⋮俺がいな
くなった後は、いつものように二人で趣味にいそしむのだろうから、
きっと心配はいらない。
そのまま自分の城に帰ってもよかったが、念のため本部を覗きに
行くことにする。
だが、今度はずるずると居続けたりはしない。
そうだとも、ぴしっと言ってやる。
迷子は迷子保護所に!!
固い決意を抱いて、俺は<運営委員会本部>に赴いた。
﹁お帰りなさいませ、大祭主様﹂
﹁お帰りなさいませ﹂
祭司たちが出迎えてくれる。
が、なんだろう⋮⋮俺が出て行った時ほど騒がしくない。
発言も遠慮がちだ。
時間も経って、少しは状況も落ち着いたのだろうか?
いや、むしろこう⋮⋮部屋の空気がピリピリしている気がする。
﹁おう、ジャーイル。帰ってきたか﹂
耳朶を叩くのは、聞き慣れた声。
奥の椅子でふんぞり返って出迎えてくれたのは、誰あろうベイル
フォウスだった。もちろん、膝の上には美女のおまけ付きだ。
743
﹁まさか本当に、ベイルフォウスを引っ張ってこれた奴がいるのか
!? 誰だ、表彰してもいいぞ!﹂
感動の声を挙げる俺に、困ったような笑みを返してくる祭司たち。
﹁お前な、副祭主としての義務を果たすべく、自らこうして足を運
んできた親友を相手に、その評価はないんじゃないか?﹂
なに?
ベイルフォウスが自分からやってきたって?
﹁ジャーイル大公閣下﹂
ベイルフォウスの膝に横座りしていたプラチナブロンドの美女が、
そこからすっと降りて俺の方へ歩み寄ってきた。
﹁ベイルフォウス閣下は、ジャーイル閣下がお出かけになってすぐ
に、こちらにおいでになられました。それからは真面目になさって
おいでですわ﹂
真面目? 美女を膝に乗せてご満悦の奴の、どこが?
その美女の声はやや低め。
ベイルフォウスの周りで今まで見たことのない女性だ。もっとも
まあ、こいつの場合周囲の顔ぶれが全く一緒だったことなんて、ほ
とんどないが。
だが、なんていうんだろう⋮⋮。
あまりベイルフォウスの近くでみないタイプ、といえばいいだろ
うか。
確かに美人だしスタイルも抜群にいい。けれど淫靡なところが一
つもない、というか⋮⋮。その態度はどこか毅然として、媚びとは
無縁という感じだ。
歩き方からして姿勢正しく歩みはまっすぐで、堂に入っている。
744
﹁君は?﹂
俺が尋ねると、その女性は優雅に笑った。
﹁侯爵の地位を拝しております、リリアニースタと申します。リリ
ーと呼んでいただいても結構ですが﹂
いや、呼ばないけど。
しかし、侯爵か。確かに、その地位に過不足ない魔力の保持者の
ようだ。貫禄があるのは、そのせいか?
それにどういう訳か⋮⋮どこかで見かけたことがあるような気が
する。気のせいだろうか。
﹁それではわたくしは失礼いたします。ベイルフォウス閣下、お約
束を忘れないでくださいね﹂
﹁いいのか? ジャーイルを待ってたんだろ?﹂
﹁ご尊顔を拝したかっただけですから﹂
そういって彼女が優美に歩み去るのを、俺は黙って見送った。
﹁おい、見惚れてるんじゃねえよ﹂
いつの間にやら隣に来ていた親友に、肩を小突かれる。
﹁別に、見惚れてない﹂
﹁⋮⋮ああいう感じがタイプか?﹂
﹁は? いや、だから違うって﹂
確かに気にはなるが、それはタイプ云々の話ではない。
俺の好みは、どちらかというとこう⋮⋮可愛らしい、守ってあげ
たくなるような感じで。
﹁嘘吐け。ガン見してたくせに﹂
﹁それは⋮⋮﹂
確かに失礼なほどじっと見てしまった。だがそれは別の理由から
だ。
745
﹁彼女とは初対面だと思うんだが⋮⋮なんだろう、どこかで会った
ような気がする、というか⋮⋮﹂
﹁⋮⋮お前、それ完全に口説く時の常套句だからな﹂
﹁だから、そんなんじゃないって。だいたい、本人に言ってないだ
ろ﹂
俺はため息をつきながら、頭をかいた。
﹁それにしても、ずいぶん静かだな。特に問題もなかったか?﹂
﹁問題? あるわけがない。最初からこんなんだ﹂
﹁へえ⋮⋮﹂
俺は黙って動き回る祭司たちを見回した。
その瞬間、ぴくりと何人かが肩を震わせる。
おい、まさか⋮⋮。
ベイルフォウスだからって、俺の時より遠慮してるわけじゃない
よな?
ないよな? な?
﹁誰かがもめたとか⋮⋮﹂
﹁治安維持部隊がなんとかするだろ﹂
﹁あちこちで酒池肉林⋮⋮﹂
﹁平常運転だ﹂
﹁迷子とか⋮⋮﹂
﹁は? 迷子の話なんか、こんなところまで持ってくる奴がいるか﹂
なるほど、そうか。
﹁なにひきつってるんだよ﹂
﹁配下に甘すぎる、と言われた言葉をかみしめてる﹂
﹁今更か?﹂
う る さ い。
746
﹁まあそんなわけで、俺としては珍しくお前の代わりを果たしてや
っていたわけだが、特に何もすることがなくてな⋮⋮退屈していた
ところだ﹂
﹁それで美女を膝の上にのせてたって訳か﹂
﹁それくらい役得だろう。だいたい、あれは俺が連れてきたわけじ
ゃない。ここに来たときにはとっくにいたんだ。もっとも、中に入
れたのは俺だが。門前払いを食らっていたからな﹂
そういや、さっきも俺を待っていたとか言っていたな。
﹁俺に何の用だったんだ?﹂
﹁さあな。それは次の機会に本人から直接、聞くんだな﹂
そんな機会はもう二度とないかもしれないのに?
いや、俺に用があるというなら、また向こうから近づいてくるだ
ろう。
その用件が爵位の挑戦でないことを祈ろう。美人を痛めつけるの
も殺すのも、俺の趣味じゃない。
﹁さて、それじゃあそろそろ俺は一度自分の領地へ帰るか。ジャー
イル、お前は?﹂
﹁俺も自分の城へ帰るよ。とりあえず、俺がいないといけないほど
の大事件は起こらないだろうし、領地の様子も気になる﹂
﹁そうか、なら一緒にでるか﹂
﹁ああ、いや⋮⋮﹂
俺の領地は東南東。
新魔王城の建築現場は、ここからやや西北西。方向的にはベイル
フォウスの領地へ近づくことになる。つまり真逆だ。
ベイルフォウスに新魔王城のことがばれてはいけない以上、一緒
に出るとなるといったん自分の方へ向かって、時間がたってからま
747
た逆方向へ転換せねばならない。
それはさすがに面倒だしな⋮⋮。
﹁やっぱり少し、様子をみてからいくことにするよ﹂
﹁兄貴への報告は終わったんだろ? なんの様子をみるんだよ﹂
﹁なんのって⋮⋮まあ、ここで問題がないか少し様子をみていたり、
城内を見回ったり﹂
﹁城内を見回るんなら、俺も一緒に行くが?﹂
えー。
なんで今日に限って、そんな付き合いのいいこというの?
ベイルフォウスめ!
﹁いや⋮⋮﹂
言葉通り城内を見回るわけにはいかない。
自分の領地に帰るといって出てきたのに、万が一途中でウィスト
ベルに見つかってしまったらと考えると⋮⋮。
まあ、しばらく大丈夫だとは思うけど、それでも気をつけるにこ
したことはないからな。
﹁やっぱりそうだな⋮⋮今日はやめておくか。あちこち回って疲れ
たし、それにマーミルの様子も気がかりだしな﹂
﹁マーミルの? どういうことだ﹂
﹁いや⋮⋮大したことじゃないんだが、側仕えの侍女がパレードに
参加するってんで、このところあまり機嫌がよくなくてな⋮⋮﹂
﹁侍女? アレスディアか?﹂
⋮⋮なぜ妹の侍女まで知っている、ベイルフォウス。
﹁なんだよ、その顔﹂
﹁まさかお前⋮⋮アレスディアにまで手を出してるんじゃないだろ
うな﹂
748
﹁は?﹂
﹁妹の侍女の名まで知っているなんて⋮⋮﹂
﹁いや⋮⋮いつもマーミルと一緒にいるんだから、そりゃあ知って
るだろう。まあもっとも、俺は種族に拘わらず、女なら一目で覚え
て死ぬまで忘れないが﹂
そりゃあそうか。ベイルフォウスだもんな。
﹁しかし、そうか⋮⋮それならマーミルはさぞかし寂しい想いをし
ていることだろう﹂
﹁まあな﹂
俺の同意なぞ聞かぬ風に、ベイルフォウスは頷く。
﹁よし、なら俺がマーミルのご機嫌伺いにいってやろう﹂
は?
﹁え、今から?﹂
﹁いや。今日は野暮用で帰らないといけなくてな。さすがに明日だ
な﹂
﹁明日?﹂
いやいや。
明日は俺、新魔王城の現場に⋮⋮。
﹁別にジャーイル、お前がいる必要はないぞ﹂
﹁そうはいかないだろう﹂
﹁なんでだよ﹂
﹁なんでって⋮⋮﹂
今はアレスディアも双子も、妹の側にはいないのだ。
それにアレスディアが選んだ侍女にもまだ会っていない。
さすがにベイルフォウスが子供に手を出すとは思っていないが、
その侍女にはどうかわからないじゃないか!
いや、別に侍女とベイルフォウスがどうこうなろうが、それはい
749
いんだ。大人同士なんだから。
ただ、マーミルの前でどうこうされては困る。
ベイルフォウスが妹の侍女にまで興味を示していたと知った以上、
まずは代理の侍女の人となりを確かめないと⋮⋮。
﹁まあ好きにすればいい。とにかく、明日はお前の城に行くから﹂
﹁⋮⋮わかった。マーミルにもそう伝えておく﹂
そうして俺とベイルフォウスはそれぞれの領地へと、ひとまず帰
ることにしたのだった。
750
70.さすがに僕も、泣いた妹には弱いのです
﹁おにいさまあああああああ!!﹂
居住棟に着くなり、腹に頭突きを食らった。
﹁げほっ⋮⋮どう、した、マーミル﹂
そうして勢いよくあげられた顔をみて、息が止まるかと思うほど
驚愕する。
﹁なんだ、その顔⋮⋮﹂
そのぐちゃぐちゃ加減に!
目の周りは真っ黒だし、肌は灰色だ。どぎつい真っ赤の口紅は唇
をはみ出しているし、目から顎にかけて、黒い筋がいくつも伸びて
いる。
服も⋮⋮これはどういう時に着るものだ?
光沢のあるド派手なピンクの布地に、蛍光色の黄色がアクセント
として混じり、俺の目を攻撃してくる。頭上には覆い被さるような
大きな紫色のリボン、腕にもなぜか内側の方にじゃまな大きさのリ
ボンの羅列。
いつもはふんわりしたスカートをはいていることが多いのに、今
日は太股のあたりがカボチャみたいにふくらんだ変なズボンだし、
しかも色は発色のいい緑だ。
﹁仮装大会でもしてるのか?﹂
化け物の仮装?
そんな趣向もあったかな?
﹁うぐ⋮⋮﹂
俺の言葉にふるふると、手を震わせる妹。その小さな指の先には、
751
鋭い鋼鉄の鉤爪がはめられている。
﹁いや、泣いてるのか、マーミル﹂
俺はしゃがみ込み、妹に視線を合わせた。赤い瞳から流れ落ちる
黒い滴を、手でふき取る。指先が薄墨を撫でたようになった。
﹁な、泣いてなんか⋮⋮うええええ﹂
再びしがみついてくるマーミル。
指の爪が背に刺さって地味に痛い。
﹁おい、どうしたマーミル﹂
妹の背中を撫でてやる。
ベイルフォウスが一緒でなくてよかった。泣いているマーミルを
みたら、さぞうざかったことだろう。
﹁旦那様、お嬢様は数時間前からこのご様子でして﹂
エンディオンが珍しく困ったような声を出す。
﹁なんでまた⋮⋮﹂
あんまりにも自分の格好がひどいので、悲しくなったとか?
﹁どうやら、アレスディア殿がいないという状況に、耐え難い苦痛
を感じていらっしゃるようでして⋮⋮﹂
エンディオンが困惑気味にそう教えてくれた。
﹁ち⋮⋮違うもん⋮⋮ううう⋮⋮﹂
おいおい。本気か?
アレスディアがいないからって、そんな⋮⋮。
侍女はパレードの準備のため、昨日から留守にしているはず。
ということは、一晩。たった一晩だ、まだ。
それでこれ?
ちょっと待て。これは不味いんじゃないか。
俺は妹を抱き上げた。
﹁そんなにアレスディアが恋しいのか﹂
752
﹁ち⋮⋮違うもん、アレスディアが、いないからじゃ、ないもん﹂
ぐすぐすいいながらも口では強がり、俺の肩にぐりぐりと顔をこ
すりつけてくる。服越しでも冷たい。
これは⋮⋮俺も着替えないとな。
とにかく、ひくつく小さな背を撫でながら、妹の部屋へ向かった。
確か寝室はどん引き内装だったが、居室は普通だったはず⋮⋮。
だが辿り着いてみれば、そこは普通とは言い難い状態に陥ってい
た。
いいや、内装は普通だ。普通だったんだ。
壁紙はクリーム色で、家具は栗色。いくつかあるソファに張られ
た布も、薄いピンクだから目に突き刺さってはこない。
が。
﹁うう⋮⋮うっ⋮⋮うおううう⋮⋮﹂
なぜか、中に泣き崩れる侍女の姿があったのだ。
﹁⋮⋮えっと⋮⋮あの?﹂
とまどう俺の言葉に、びくりと肩を震わせ顔を上げる侍女。
﹁あ⋮⋮だ、旦那、さま⋮⋮ぐずっ﹂
そのデーモン族の侍女の顔は、マーミルと似たような状況になっ
ていた。
濃い化粧が涙で流れて、見るも無惨な有様だ。
﹁ぶ⋮⋮あ、ごめん﹂
しまった。思わず反射的に吹き出してしまった。
﹁お⋮⋮おじょうさまぁ∼∼!!﹂
753
だがその侍女は俺のことなど目に入らないようで、マーミルに突
進して抱きついてきた。
若干俺が重い。
だがそんな俺のことなどおかまいなく、その侍女と妹は、暫くめ
いめい泣き続けたのだった。
***
﹁落ち着いたか? 二人とも﹂
なぜか俺が侍女と妹に、お茶を出している。
いや、それは別にいいんだけど。
とりあえず、二人には顔を洗わせ、すっきりさせた。
尤もそうした後も二人は長椅子に並んで座りながら、まだぐすぐ
すやっている。
いったい、なんだっていうんだ。
﹁マーミルが泣いている理由はわかるが、君⋮⋮ええと⋮⋮﹂
デーモン族の侍女は、真っ赤な目をあげた。
﹁わ、私は、ぐすっ⋮⋮ユリアーナと、申します⋮⋮旦那様﹂
白いタオルは目元に当てられたままだ。
だが、少し下でてかてか光る水も拭いた方がいいんじゃないかな。
まあいいけど。
﹁アレスディアの代わりにマーミル様のお世話を⋮⋮ずびびびび﹂
まあここにいるということは、そういうことなのだろう。
だがアレスディア。君はいっていなかっただろうか?
信頼できる侍女を、二人つけたと。
﹁アーレースーディーアーーーー!!!﹂
﹁マーミルさまああああーーうおうううおおおお﹂
754
⋮⋮。
やばい。なにこの二人。
アレスディアの名が出たとたん号泣する妹と、その小さな体にし
がみつくようにして泣き出す侍女。
どうしたらいいのかわからない。
﹁マーミル。なにもアレスディアは出て行ったわけじゃない。そん
なに泣かなくても⋮⋮﹂
﹁だ、だって⋮⋮お兄さま⋮⋮﹂
膝を叩いてみせると、妹は飛びつくように乗ってきた。
﹁アレスディアが、アレスディアがいなかったの、なんて⋮⋮﹂
ひっくひっくいう妹の背を撫でてやる。
ちなみに、凶器のような爪もとっくに外しておいた。
﹁ああ、そうか⋮⋮あの時以来か﹂
思えば、アレスディアはマーミルが生まれる前から父に仕えてい
て、妹が生まれた後はずっと世話を焼いてくれていたのだった。
彼女自身の家族はもうなかったから、里帰りでマーミルから離れ
たことすらない。
そんな彼女が一度だけ、妹と引き離されたことがある。
先代の大公ヴォーグリムに拐かされた、あの時だ。
マーミルは俺に取り戻すよう泣きついてきたが、無事に連れ帰れ
るとは思っていなかったのかも知れない。なにせ相手は世界にたっ
た七人しかいない大公で、俺はその時ただの男爵だったのだから。
状況が全く違うとはいえ、妹はあの時の不安な気持ちを思い起こ
してしまうのかもしれない。
﹁本当に、帰ってくる?﹂
﹁もちろんだ。あの時だって、ちゃんと帰ってきただろ?﹂ 755
こくり、と頷くマーミルの涙を、ハンカチで拭ってやった。
が、そういう俺も不安にかられてくる。
アレスディア、帰ってくるかな。大丈夫だよな。
想いをこじらせたプートがヴォーグリムと同じように彼女を拐か
したとしよう。その場合は腕の一本くらいは覚悟しても、アレスデ
ィアを取り戻してみせる。だが、万が一⋮⋮パレードの間に誰ぞと
いい雰囲気になって、そいつと結婚するからマーミルの世話なんて
見ていられません、とか言われでもしたら⋮⋮。
さすがに本人の意思を尊重しないわけにはいかないからな。
そうなったら今でさえこれなのに、俺はどうしたらいいんだ。
﹁お兄さま?﹂
背を撫で、涙を拭いている間に、どうやら気持ちも落ち着いてき
たようだ。
﹁大丈夫だ。そんなに寂しいのなら、今日は一緒に寝てやるから⋮
⋮﹂
﹁ほんとに?﹂
妹の瞳がキラキラと輝く。
﹁ほんとだ。ただし、今日だけだぞ?﹂
﹁⋮⋮うん!﹂
今日は珍しく、殊勝な﹁うん﹂だな。
﹁百日もいないんだから、慣れないとな﹂
﹁⋮⋮うん⋮⋮﹂
あ、せっかく持ち直しかけたのに、百日を強調するのは不味かっ
たか?
﹁今はこの先いつあるかわからない⋮⋮いや、もう二度とないかも
しれない大祭の最中だ。マーミルも泣いてばかりいるより、楽しま
ないと損じゃないか?﹂
756
﹁⋮⋮はい﹂
﹁明日はベイルフォウスがお前の顔を見に来るとも言っていたし﹂
﹁へえ⋮⋮﹂
やはり、ベイルフォウスで浮上は無理か。
﹁そうだ! フェオレスが子供用の社交会場も用意してくれている
から、そっちに行ってみたらどうだ? きっと楽しいぞ﹂
﹁⋮⋮でも⋮⋮一人で行っても⋮⋮﹂
元気づけるどころか、逆に落ち込んだ気がする。
しまった。そういえば、双子とは最近しっくりきていないんだっ
たか。
どうする俺。そ知らぬそぶりで双子を誘ってはと言ってみるか?
それとも俺が一緒に出かけてやるか?
﹁⋮⋮なら、城外の催しでも見に、お兄さまと出かけてみるか?﹂
その途端、マーミルの機嫌はさっき以上に持ち直した。
﹁本当に? 本当に、お兄さまと一緒に遊びにいけるんですの?﹂
﹁ああ﹂
﹁うれしい! 大好き、お兄さま﹂
力一杯俺の首に抱きついてくる妹の背を、ぽんぽんと叩く。
まあ、こんなに喜んでいるんだ。たまには妹の気の済むまで付き
合ってやるのもいいだろう。
その時、居室の扉が控えめにコンコンとノックされた。
﹁あの⋮⋮マーミル、いるかしら⋮⋮﹂
この声はネネリーゼ?
俺が頷いてみせると侍女は鼻を噛んだタオルをその場に置いて、
扉を開けにいく。
妹は俺に抱きついていた腕をほどいて膝から降り、そそくさと正
757
面の席に戻っていった。心なしか表情も、澄ましてみえる。
これはあれか、俺に甘えているところを友達に見られたくないと
かいう見栄的な。
子供なのに⋮⋮いや、子供だからこそ、か。
扉が開いて、ネネネセが姿をみせる。
なんだか顔を見るのは久しぶりだ。暫く俺は、晩餐もみんなとは
別だったから。
﹁まあマーミル。どうしたんですの、そんな泣きはらした顔をして
⋮⋮﹂
ネセルスフォが驚いたように妹に駆け寄り、ネネリーゼがそれに
続いた。
ツンとしていた妹だったが、優しい言葉を掛けられたのがきっか
けになったかのように、くしゃくしゃと顔を歪ませたかと思うと。
﹁ネセルスフォ、ネネリーゼーーーー!!﹂
二人に抱きついて、また泣き出した。
﹁アレスディアがいなくて、寂しいのね﹂
﹁可哀想に⋮⋮でも、いつまでもそれでは駄目よ。せっかくの大祭
なのに、もったいないわ。私たちと一緒に楽しみましょう。ね?﹂
俺と同じ論法だな。
﹁でも⋮⋮私最近、二人にひどい態度を⋮⋮﹂
﹁何を言っているの、マーミル。私たちは友達でしょう? これか
ら先は長いのよ。そりゃあ、その間に喧嘩をすることだってあるわ
よ﹂
﹁そうよ。私とネセルスフォだって、言い合いをして口をきかない
でいることだって、しょっちゅうあったわ。それに、ちょっとツン
ツンしているマーミルも、おちびちゃんたちみたいで可愛らしかっ
758
たもの﹂
マーミルは真っ赤になりながら、うつむいた。
﹁あの、じゃあ⋮⋮一緒に、いてくれる?﹂
⋮⋮。
﹁もちろんよ! そのために、私たち今ここにいるんですわ﹂
﹁フェオレス様が用意してくださった、私たち向けの社交会場に行
きましょうよ。苺の飾りがとても可愛くて、いろんな人がいて、と
っても楽しいんですのよ。さすがフェオレス様だわ。でもマーミル
がいなければその楽しみも半減してしまうわ﹂
﹁ただ、そのままじゃ駄目ね。そのお洋服も可愛いけれど、ちゃん
とした可愛いドレスに着替えて、それから目の腫れを隠すのに、ち
ょっとだけお化粧しましょうか﹂
﹁うん! ありがとう!﹂
そうして妹は双子とわいわいやりながら、三人で寝室に入ってい
った。
残された俺、置いてけぼり感、ハンパない。
あ、俺だけじゃなかった。
侍女もポカンとしている。
﹁あーごほん。えーと⋮⋮ユリアーナ?﹂
﹁は、はい!﹂
侍女は直立不動の姿勢をとる。
マーミルの機嫌がなおったせいか、彼女の涙もすっかり乾いてい
る。
が、これまでによほど泣いたのだろう。目は血走っているし、目
はぱんぱんに腫れていた。
﹁アレスディアの代わりについた侍女、だよな?﹂
759
﹁はい。ユリアーナと申します!﹂
侍女は大きく頭を振りかぶり、九十度よりまだ深く頭を下げると。
﹁あっ⋮⋮﹂
そのままヘタリと座り込んでしまった。どうやら勢いをつけすぎ
て目が回ったようだ。
﹁おい、大丈夫か?﹂
﹁だ、大丈夫⋮⋮れす﹂
右手で頭を押さえながら、ふらふら揺れている。
﹁そう緊張しなくていいから⋮⋮自己紹介、二度目だし﹂
﹁す、すみません⋮⋮﹂
俺は彼女の腕をとって、できるだけそっと椅子に座らせた。
﹁で、君はなんで妹と一緒に泣いてたんだ?﹂
﹁それは⋮⋮その⋮⋮﹂
うつむき、もじもじと手をあわせる侍女。
﹁アレスディアがいない寂しさから、泣いてばかりのお嬢様が可哀
想だったことと⋮⋮それを私で埋めることができない悔しさ、とい
いますか⋮⋮﹂
﹁⋮⋮他には?﹂
﹁え? 他はとくに⋮⋮それだけですけど﹂
そんなことで?
俺はまたマーミルに﹁あなたじゃ嫌よ、実力不足だわ。もう二度
と私の前に姿を見せないでちょうだい﹂とでも言われて、ハンカチ
を投げつけられでもしたかと思ったじゃないか。
﹁普通になだめるとか﹂
﹁最初はそうしてたんですが、お嬢様があんまり泣きやまないので
つい私も悲しくなって⋮⋮﹂
760
﹁気持ちはわからないでもない。だがだからといって、子供と一緒
に泣いていられても困るんだが﹂
﹁すみません⋮⋮引きずられすぎた自覚はありますし、反省してま
す﹂
﹁⋮⋮いや、まあ、元々は俺が考えなしにアレスディアに全部任せ
すぎていたのが原因かもしれないが﹂
﹁そうですね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あ、すみません! そんなこと思ってません﹂
侍女は、見るからにシュンとしてしまっている。
少しきつく言い過ぎたかもしれない。
まあ、妹がわがままなのは俺のせいもあるわけだし⋮⋮。
﹁何か困ったことがあれば、いつでも俺に相談してくれればいいか
ら﹂
﹁はい﹂
﹁君が一人で全部しょいこむ必要はない。妹のことなら、なおさら
だ。俺がいないときは、エンディオンにも気にかけてくれるよう頼
んでおく﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます﹂
﹁よっぽど困った時は、外出時でも報せをだしてくれればいいし﹂
﹁あの、もしかして旦那様は⋮⋮﹂
ちらり、と上目遣いで見てくる侍女。
﹁なに?﹂
﹁私に気がおありで?﹂
﹁は?﹂
突然、何を言い出すんだ。この侍女は。
﹁だって急に優しくなったから⋮⋮私の魅力に参ったのかと⋮⋮⋮
761
⋮勘違い、ですかね?﹂
﹁そうだな、勘違いだな﹂
﹁ですよねー﹂
⋮⋮アレスディアはまた、個性的な侍女を代理に選んだものだな。
﹁とにかく、妹も少しは持ち直したようだし、今後はよろしく頼む
よ﹂
﹁あ、旦那様!﹂
居室を出ていこうとしたが、侍女に呼び止められた。
﹁あの、枕は二つ並べておいた方がよろしいですか? 掛布団は、
二枚必要ですか?﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
﹁今晩はお嬢様とご一緒にお休みになられるのですよね? その場
合、ええっと⋮⋮お着替えとかは⋮⋮﹂
﹁心配しなくても、あの調子なら今日は俺とではなく、双子と一緒
に眠ることになるだろう﹂
﹁え⋮⋮じゃあ、お布団は三枚必要? 枕は⋮⋮﹂
ぶつぶつ言いだした侍女を置いて、俺は妹の部屋を出た。
762
71.フェオレスくんのおかげで、城外でもいろいろ健全な催し
が開かれているのです
一旦自分の部屋に戻って、上の服だけ着替える。
マーミルのことは双子に任せるとして、まずはフェオレスだ。
なにせ俺の留守を預かってもらっているのだし、それに何より確
認しておきたいことがある。
猫顔の副司令官の姿は、本棟から正門を臨む広い露台ですぐに見
つかった。
﹁フェオレス﹂
﹁これは大公閣下。お帰りなさいませ。お出迎えもいたしませんで﹂
胸に手を当て、優雅に腰を折るフェオレス。
いつだって彼の仕草は完璧だ。
﹁いいや。それより、運営は順調なようだな。正直、他の城の様子
を見て、帰ってくるのが恐ろしかったんだが、さすがはフェオレス
だ。君に任せて正解だったよ﹂
﹁恐れ入ります﹂
本当にその通りだ。
俺の城は、他に比べるとそれはもう落ち着いていて、品があって、
不道徳なところは一つも見あたらない。
こうして庭を見下ろしてみても、茂みでうごめく影は一つとして
ない。
いや、全くないことはない。だがその半分はゆったり散歩を楽し
んでいるだけだし、残りは子供たちがかくれんぼをして遊んでいる
だけだ。
つまりフェオレスは、仕事も完璧だ。
763
﹁マーミルも双子たちと一緒に、君の用意してくれた子供向けの社
交会場へ行くそうだ。後で少し覗いてみようかと思うんだが、大人
が足を踏み入れてもいいもんかな?﹂
﹁大公閣下を厭う者など、子供のうちにとておりませんでしょう﹂
本当に、フェオレスは受け答えまでそつがない。
﹁まあ、あまり気づかれないように、隙間からこっそり覗くことに
するさ﹂
フェオレスは微笑を浮かべた。
﹁⋮⋮ところで⋮⋮なあ、フェオレス﹂
﹁はい﹂
俺は彼に向き直る。
﹁君には兄弟がいるんだよな?﹂
﹁はい。それは⋮⋮ええ、おりますが。兄と弟が、あわせて六人ほ
ど﹂
﹁全員成人してるのかな?﹂
我ながらわざとらしい。声がうわずってしまったような気がする。
﹁ええ、この間、一番下の弟が⋮⋮もしや閣下﹂
フェオレスの瞳がキラリと光った気がした。
﹁ベレウスのことをお聞きになりたいのですか?﹂
﹁ベレウス?﹂
﹁その成人したばかりの弟です。もしや、爵位争奪戦でお会いにな
った?﹂
勘が鋭いな。
﹁いや、会ってはいない﹂
﹁では、お会いになられたのは、ティムレ伯爵ですか﹂
そこまでわかるのか、フェオレス。
764
﹁察しているようだから、ズバリ聞くが⋮⋮どちらが勝ったと思う
? ティムレ伯は、絶対の自信があるようだったが﹂
もうとっくに決着はついているだろう。なにせ争奪戦は、挑戦者
の身分が低い順に行われるのだから。
そして当然、その結果は所属している領地へ知らされるのだが、
そのタイミングは翌日まとめてだ。
そんなの、待っていられるはずがないじゃないか。
﹁閣下﹂
フェオレスは俺を安心させようという心遣いからか、力強くうな
ずいてくれる。
﹁ティムレの申すことは真実でしょう。我が弟は、能力的にみても
せいぜい男爵位程度。まだまだ性格も子供じみておりますし、それ
以上に経験が足りません。ティムレを倒すほどの力も幸運も、万に
一つも持ってはいないでしょう﹂
兄で公爵であるフェオレスが断言するのだから、そうなのだろう。
﹁ご安心いただけましたか?﹂
﹁君の保証付きならそりゃあね﹂
ああ、そうだとも。フェオレスは俺を安心させるためだけに、嘘
をつくような男ではない。
﹁それにしても、まさか閣下がそこまでティムレに親しみを抱いて
おいでとは﹂
﹁まあ男爵になりたての頃に、公私ともに世話になったからな。そ
れからもずっと、親しくしてもらって⋮⋮あの人はなんていうか⋮
⋮ほら、あんまり上下関係に厳しくないから﹂
俺は息をついた。
﹁ああ、わかります﹂
765
フェオレスと話をしている間に、ずいぶん気持ちも落ち着いてき
た。
そうなると、今度は男爵位ほどの実力しかないという、フェオレ
スの弟の身が心配になってくる。
だが相手はあのティムレ伯爵だ。
まさか幼なじみの弟を、死に追いやることはないだろう。
それにちゃんと医療班もいたようだし、よほどのことでもない限
りは大丈夫か。
﹁そういえば、なんで君の弟はティムレ伯に挑戦を? 仲が悪いの
か?﹂
﹁ああ、いえ。その反対です。むしろ弟は、幼い頃からティムレに
べったり懐いておりまして⋮⋮﹂
ならなんで挑戦するんだ?
ちょっと意味がわからない。
﹁弟がティムレに申しましたのは、閣下。こういうことです。﹃俺
が勝ったら、嫁に来い﹄と﹂
⋮⋮。
﹁なに?﹂
﹁つまり閣下、うちの弟は、ティムレのことが大好きなのですよ﹂
え⋮⋮。
﹁えええええ!?﹂
***
いや、別におかしいことじゃない。
ティムレ伯爵は俺より年上だ。
とっくに大人だ。
俺と知り合った頃にすでに既婚者であったって、別におかしくな
766
い。
そうなんだけど、そうなんだけど⋮⋮。
自分でさんざん﹁ブス、ブス﹂と言っていたのを聞きまくってい
たからか、彼女が誰かを伴侶に選ぶ、ということが全く想像できな
い。
想像でき無いどころか⋮⋮。
﹁俺、今ならヤティーンの気持ちが分かる気がする﹂
﹁は?﹂
声に怪訝な色を込めて応じてきたのは、どこにいても目立つ赤髪
の親友だ。
そう。約束通り、ベイルフォウスは朝も早くから妹の顔を見にや
ってきたのだった。
そして俺も、昨日の妹との約束を果たしているところだ。
つまり、三人で城外の催しを見るために、竜で移動している最中
だったりする。
魔族は外壁がくっつくほど並んで家を建て、固まって暮らす、と
いうことをしない。
移動には高位の者は竜を使うし、下位の者でも遠出をするときに
は足の速い魔獣くらい使う。
それに、デヴィル族となると背に翼の生えた者も多いし、そもそ
も脚力があるので一領内の範囲であれば、距離はあまり問題とされ
ない。
そんなわけで、外に催しを見に行くといっても、開催場所はそれ
ぞれかなり離れている。というか、割とその場所そのものが広く利
用されている催しも多い。
たとえば芝居。
767
かつての大公の人生を題材にしたものは、空いている公爵城の一
つをまるごと使って演じられる。冒険譚は見渡す限りの野山が舞台
だ。湖のほとりに建つ邸宅では恋愛ものが、平原では武闘が演じら
れている。
俳優たちが場所を移動するにあわせて、観客たちも移動し、ある
いは魔術で別の場所に映して楽しむのだ。
だが、俺とマーミルが芝居を見ることはないだろう。
なぜならば興行はたいてい数日がかりだし、それになんといって
もそのほとんどの芝居には、濡れ場が存在するからだ!
俺一人ならともかく、マーミルが一緒にいる今の状況で、そんな
芝居を見に行けるはずがない。しかもわざわざ泊まりがけで!
﹁別に目の前で実演するわけじゃなし⋮⋮いや、ないとは言わない
が、あったところで近くでじっくり見学するわけじゃなし、そこま
で気にしなくてもいいだろう﹂
とは、芝居を見に行きたいらしいベイルフォウスの意見だ。
﹁俺なんて、マーミルよりもっと小さな頃から親父とお袋がしてる
ところを見てきたし、兄貴が隣の部屋に女を連れ込んで一晩中﹂
﹁黙れ。それ以上口を開くと、蹴り落とすぞ﹂
お前の異常な環境と一緒にするな!
ベイルフォウスは自分の竜でついてくればいいものを、ちゃっか
り俺とマーミルに同乗しているのだから図々しい。
今も俺が竜の手綱をとる後ろで、妹の髪をいじってご満悦だ。
そして、ベイルフォウスの髪結いを気に入っているらしい妹も、
ご満悦だ。
昨日双子たちと久しぶりに仲良く過ごせたことも、上機嫌の一因
を担っているのかもしれない。
768
﹁なに? ベイルフォウスさまのご両親、なにをしてらっしゃった
の?﹂
ほら、いわんこっちゃない!
マーミルが興味を持ってしまったじゃないか。
﹁マーミル。ベイルフォウスのいうことを真剣に聞くのは、もうち
ょっと大人になってからで⋮⋮いや、大人になっても聞かなくてい
い﹂
﹁お前⋮⋮今日は本当にひどいな﹂
うるさい。蹴ってくるな。
﹁だいたい、なんでお前がついて来るんだ﹂
俺はベイルフォウスが放ってくる蹴りをさばきつつ、質問する。
てっきり外出なんて面倒くさがって、帰るか城で女性といちゃつ
くかしてると思ったのに!
﹁なんでって、俺はマーミルのご機嫌伺いにやってきたんだぞ。一
緒に行くのは当たり前だろ。それも昨日はひどく泣いてたそうじゃ
ないか。可愛いマーミルが落ち込んでいるのを、放っておけるわけ
がない。むしろ昨日のうちに、何を置いてもお前に同行するんだっ
たと悔やんでいるところだ﹂
﹁可愛らしい? 私、可愛らしい?﹂
そんなに可愛いという讃辞に飢えているのか、マーミル。ベイル
フォウスの言葉にまで反応するなんて!
﹁ああ、可愛らしい、可愛らしい﹂
俺の二つ返事に、マーミルは頬を膨らませる。
﹁本当に思っていることは、二回も続けて言わないんですのよ!﹂
誰だ。また面倒なことを吹き込んだのは。
ベイルフォウスめか。
769
﹁ほら、見えてきたぞ﹂
﹁お兄さまったら、すぐごまかす!﹂
だが妹は視線を前に転じると、すぐにまた上機嫌になった。
眼前に迫ってきた賑わいに心を奪われたのだろう。
平地に設営されたそこは、古物市だ。
何重にも並んだ広い机の上に、各々の家から不要になったものが
並んでいる。
確か、俺の城からも何点か出しているはずだ。
ちなみに市とは言ってみたが、その品物を持ち主から譲渡される
のに対価は必要ない。ただ、出品者が拒否をすれば、どれだけ望ん
でも得ることはできないという決まりになっている。
地位に左右されず譲り手の意志が反映されるように、という配慮
から、治安維持部隊が常駐しているのだ。
もっとも、この大祭が終わった後のことまで責任はもてないが。
﹁来るまでは不要品なんてガラクタばかりかと思っていたが、案外
こうして見て回ると楽しいもんだな﹂
﹁ああ、まったくだ﹂
意外にも食いついたのはベイルフォウスだ。
﹁私から見れば、ガラクタばかりに思えますけど﹂
逆に、マーミルは少々つまらなそうな顔をしている。
と、いうのも。
﹁ここにあるものといったら、ナイフ、剣、斧、弓矢、槍⋮⋮。武
器しかありませんわ﹂
マーミルは大きく息を吐いた。
﹁何言ってるんだマーミル。ここは武器市だ。当然だろう﹂
﹁えっ﹂
﹁それより、見てごらん。この短剣の造形の見事なことを。謁見室
770
に飾っておいてもいいくらいだ﹂
なぜだ。マーミルが白い目で見てくる。
まさか俺の言っていることが理解できないのか?
そうか、どこがどう見事なのか、知らないからこその反応なんだ
な。
﹁いいか、マーミル。これはただの剣じゃなくて、フォインという
種類の短剣で、ほら、この柄に覆い被さるような護拳の部分が特徴
的だろ﹂
﹁お兄さま﹂
﹁人間たちはここを盾代わりに使って、相手の攻撃を受け流したり
するんだ。いってみれば刃の次に衝撃を受ける場所なわけだ! な
のに施された彫刻の、繊細さには目を見張るばかりじゃないか? 思うにこれは﹂
﹁お兄さま、お兄さま!!﹂
﹁なに? どうしたんだ、大声出して﹂
﹁詳しい説明は結構ですわ! 私、武器にはまったく興味がありま
せんの!﹂
なん⋮⋮だと?
﹁今、武器に興味がないって言ったのか?﹂
﹁ええ、そう言いましたわ﹂
﹁ほんとに? いや、でも、少しくらいは⋮⋮﹂
﹁全くありませんの!﹂
﹁まあ、普通はそうだろうな﹂
ベイルフォウスが当然という風に同調してみせる。
なんてことだ!
確かに、魔族で武器に興味を持つ者は少ない。強くなるために必
要なのは、魔力であって武器ではないからだ。
771
だが好きな者だって、全くいない訳じゃない。実際に俺は興味津
々だし、ベイルフォウスだってそうだ。
だというのに、俺の妹が全く興味を示さない、だと?
﹁ちょっと待て。何かで試し斬りをして、みせてやろう。それを見
れば、お前だって﹂
﹁結構です! そんなもの、みたくもありませんわ!﹂
おお、なんてこった!!
﹁マーミルにはこっちだろう﹂
ベイルフォウスは妹の前にしゃがみこみ、その手に持った色とり
どりに塗られた小花飾りのある銀の簪を、マーミルの髪に滑り込ま
せた。
﹁武器市なのに、簪?﹂
マーミルが怪訝な表情を浮かべている。
﹁これはこう花飾りの先の部分を押しながら、上に引く﹂
ベイルフォウスはもう一度、今差したばかりの簪を引き抜いた。
すると土台だけが髪に残り、尖った針が現れる。
﹁つまりこれは、可愛い私の身が危険にさらされ、身を守ってくれ
る人も物も、何もないときに使うものですのね﹂
﹁まあそうだ﹂
﹁飾りがとってもキレイ。とてもそんな物騒なものとは思えません
わね﹂
﹁気に入ったか?﹂
マーミルは簪を受け取り、ベイルフォウスを見上げてにこりと笑
ってみせた。
﹁気に入りましたわ!﹂
﹁そうか。なら、これをもらおう。いいよな?﹂
772
ベイルフォウスは立ち上がり、その出品者に声をかける。
﹁もちろんどうぞ。大公閣下のお目に止めていただけるとは、まこ
とに光栄の至り。お嬢様、よくお似合いですよ﹂
カワウソの顔したデヴィルくんは、ほくほく顔だ。
だがちょっと待って欲しい。
ここで﹁俺もこのフォインもらっていいかな﹂とか言い出しにく
い雰囲気なんだけど。
いや、気にしなくてもいいかもしれないが、親友が妹の物を選ん
でるって言うのに、俺が自分のものだけって⋮⋮。
﹁お返しに、ベイルフォウスさまにも私がなにか一つ、選んで差し
上げますわ。でも武器はわかりませんから、別の品物をね﹂
﹁それは楽しみだな。ならとっとと別の市にいくか﹂
﹁ねえ、また竜の上でこの簪があうように髪をいじってくださる?﹂
﹁ああ、喜んで﹂
くそ⋮⋮なにその弛緩しきった顔。
言っておくがベイルフォウス。マーミルの感性は少々、独特だか
らな!
変な物をプレゼントされても、がっかりするなよ!
﹁おい、行くぞジャーイル﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
俺はフォインに心を残したまま、上機嫌の妹と親友にせかされる
ようにしてその武器市を後にした。
そうして別の雑貨市へ向かったのだが。
﹁ベイルフォウスさまの赤に合うのは、やっぱりこういう色だと思
うの﹂
773
そう言って、妹は大きな新緑の翡翠玉が飾られた銀のブローチを
手に取り、ベイルフォウスにあてている。
デザインは⋮⋮しごくマトモだ。
そしてなんだろう、さっきから感じるこの疎外感。
﹁あら、ジャーイル閣下。そちらをお選びですか?﹂
﹁え?﹂
ふと、堅く冷たい感触を覚えて手を見てみると、いつの間にか俺
は一本の腕輪を握りしめていたようだ。
綺麗な真円の紫水晶を、金の金具で継いだ腕輪だ。
﹁よくお似合いですよ﹂
﹁ああ、いや⋮⋮﹂
俺は手の平の上でその腕輪を転がしてみる。
﹁確かに綺麗だが、俺の腕には少し細すぎるようだ﹂
そもそも装飾をじゃらじゃらつける趣味はない。腕輪なんてはめ
たら、無意識に引きちぎってしまうかもしれない。
﹁では、妹君に?﹂
﹁いや⋮⋮﹂
確かにマーミルの腕なら入るだろうが、ベイルフォウスと張り合
っているように見られてもなぁ。
でも、まったく何も選んでやらないというのもそれはそれで⋮⋮。
﹁けれど気に入ってはおいでなのでしょう? 随分、長く手にして
おいでですから﹂
ちらり、と出品者であるデーモン族の女性を見てみると、期待で
目をキラキラと輝かせているではないか。
もう今更、無意識にいじっていただけだとは言えない雰囲気だ。
まあ、代償もなくくれるというのだから、素直にもらっておけば
774
いいのだとは思うが⋮⋮。
﹁何か彫ってあるな﹂
紫水晶にうっすらと線が入っているので傷かと思ったが、どうや
ら違うようだ。
﹁花?﹂
﹁葵の花ですよ、閣下﹂
﹁葵⋮⋮﹂
葵、か。葵と言えば⋮⋮。
そう言えばこの紫水晶の色、どこかジブライールの瞳の色に似て
いる気がする。
そうだな、昨日も新魔王城の様子を見にいけなかったし、今日も
結局無理そうだし⋮⋮現場のみんなに大祭を感じられるような土産
を見繕うってのもありか。
でも千人⋮⋮千人か。
⋮⋮とりあえず、ジブライールだけでもいいかな。
そのかわり、恩賞会では全員に褒美を奮発してもらえるよう、俺
からも何か賞品を出しておこう。
﹁じゃあ、これをいただくよ﹂
俺がそう言うと、女性は満面の笑みで頷いた。
﹁ええ、どうぞどうぞ、お持ちください! たとえ一品でも大公閣
下に求められたとあれば、他の物にも箔がつくというものです﹂
不要なものを無料で出しているはずなのに、なぜそんなに喜ぶの
か、と不思議だったのだが、後で聞いたところによると品物の消化
率によって順位を定め、上位には報償が出るようになっていたらし
い。
775
そう言えば、そんなことが計画書にあった気もする。
フェオレスが、健全な催しが盛り上がるようにと、いろいろ考え
てくれたようだ。
そうして俺たちは他にいくつかの市を回って気に入った品を手に
入れ、即席技芸団のテントに足を運んでその芸を楽しみ、大河の河
川敷で行われている水獣の曲芸に感嘆し、道を行く音楽隊の旋律に
うっとりと耳を傾け、見知らぬ屋敷で陽気な領民に混じって饗応に
あずかったりしながら、その日中を楽しく過ごしたのだった。
776
72.別に戦った訳でもないのに、どっと疲れたのですが︵前書
き︶
1/2話目
777
72.別に戦った訳でもないのに、どっと疲れたのですが
三人で各地の催しを回って城に帰り着いた頃には、すっかり夕暮
れが迫っていた。
竜舎に降り立ち、手綱を竜番に預ける。
﹁ベイルフォウス、この後どうする?﹂
﹁せっかくだし、もうこの時間だからな。泊まっていこうかと思う
が﹂
﹁ぜひそうしてくれ﹂
頷いてみせると、ベイルフォウスは怪訝な表情を浮かべた。
﹁なんだよ、その顔﹂
﹁いや⋮⋮お前が嫌がらないなんて、珍しいと思って﹂
人聞きの悪い!
﹁別に嫌がったことなんてないだろ。あ、ただし、マーミルと一緒
に寝させろ、とかいうのは絶対に無理だから﹂
﹁今日はお兄さまが一緒に寝てくださるんですものね!﹂
﹁俺が?﹂
﹁だって、本当は昨日一緒にってお約束だったわ。でも、ネネネセ
と一晩中一緒だったから、お約束は今日に持ち越されたのよ!﹂
えっ。そうなの?
しかし妹はこのところないほどの上機嫌だ。外出がよほど楽しか
ったのだろう。そんな様子を見ていると⋮⋮まあ、仕方ないかな、
という気になってくる。
﹁マーミルはまたネネネセと野いちご館か?﹂
778
﹁ええ、帰ったら遊びに行く約束をしているの!﹂
まあそれなら安心だな。
﹁お兄さまはベイルフォウス様と舞踏会に顔を出すのでしょ?﹂
﹁そのつもりだが⋮⋮一度、執務室に戻ってくる。セルクがいるよ
うなら、帰してやらないとな﹂
というか、帰ってもらわないと困る。
ベイルフォウスが残るのを歓迎したのは、この機会に魔力を返し
てしまいたいからだ。そして鏡は、執務室に保管してあった。
エンディオンと違ってセルクには邪鏡の話はしていない。だから
魔力を返す現場を見られたくないのだ。
もちろん、結界を張ればいい話だ。だが、俺がベイルフォウスと
二人きりで執務室にこもって、他者の出入りを制限するなんておか
しな話じゃないか?
﹁そんなわけだ、ベイルフォウス。着替えたら舞踏会場に顔を出す
前に、俺の執務室へ寄ってくれ﹂
﹁俺まで? なんでだよ?﹂
﹁ちょっと用事があってな﹂
﹁用事って?﹂
﹁後で説明する。どちらかというと、お前のためになることだから﹂
﹁⋮⋮まあ、いいけど﹂
はっきりしない説明に、ベイルフォウスが不信感を抱いているの
がありありとわかった。
そうして俺は本棟の執務室に、マーミルは居住棟の自室に、ベイ
ルフォウスは貴賓室の客室に、それぞれ足を運んだのだった。
***
779
俺の執務室から広い廊下を挟んで、すぐ前に目立たない扉がある。
そこが筆頭侍従の専用の部屋で、主人である大公の動きをすぐ察
せるように、常に扉は開いてあった。
誰かいるときは半開き。誰もいないときは全開。
もっとも、室内に幅の広く背の高いついたてがあるし、結界を張
る自由はあるので、気配はわかるがある程度のプライバシーは守れ
るようになっている。
今、扉は半開きになっている。中にセルクがいるという証拠だ。
俺は礼儀上、扉をノックして⋮⋮。
﹁勝手気儘もいい加減にしなさい!﹂
えっ!
﹁自分の立場を利用して、何が悪いのよ!﹂
女性? この聞き覚えのある声は⋮⋮。
﹁悪いに決まっているだろう。君はそんなこともわからないのか?﹂
﹁なによ! どうしてそんなに怒るの!? いつものセルクなら、
こんなことくらいで⋮⋮﹂
﹁それだけ君のしたことは、度が過ぎているということだ。そんな
こともわからないのか?﹂
﹁わからないわよ! だいたい、無理矢理私を婚約者にしたあなた
に、どうのこうの言われたくない!﹂
その金切り声に、俺は黙って回れ右をしたのだが。
﹁あ! ジャーイル様!!﹂
しまった、見つかった!!
ついたての向こうから顔を出したその女性が誰かなど、確認する
までもない。
エミリーだ。
﹁ご無沙汰しております、ジャーイル様!﹂
780
セルクと言い争っていた声とは全く違う。これぞ猫なで声、だ。
﹁ああ、久しぶりだな。だが、ここで何を?﹂
﹁エミリー。いい加減にしなさい!﹂
エミリーの背後からセルクが現れ、俺の方へ駆け寄りかけた彼女
の腕を掴んだ。
﹁痛い、そんなに強く掴んだら痛いってば!﹂
エミリーがセルクの腕をふりほどく。
そんなにきつく掴んでいたようには見えないが。
﹁申し訳ありません。部外者を入れていい場所でないのは重々承知
しております﹂
セルクが深々と頭を下げる。
﹁私は筆頭執事たるあなたの婚約者なのよ? 部外者じゃないでし
ょう。ねえ、ジャーイル様。そうでしょう?﹂
セルクに話しかけるときの冷たい口調と、俺へ視線を向けたとき
のぶりっこ口調との差がひどすぎる。
﹁部外者に決まっているだろう。それとも君はワイプキーどのが筆
頭侍従の折り、娘という立場を利用してこの場に来たことがあると
でもいうのか?﹂
﹁ここはないけど﹂
そうしてエミリーは、流し目をよこしてきた。
﹁もっと深いところにはお邪魔してよ。ねえ、ジャーイル様。寝室
でお会いして以来ですわね?﹂
また、誤解を招く言い方を⋮⋮懲りてないのか? この娘は。
﹁その勝手を俺が罰したはずだが﹂
エミリーにそう応じながら、セルクの顔色をうかがってみる。
彼はどこまで詳細に知っているのだろう。
ワイプキーの停職と、エミリーの謹慎の理由を。
781
顔色一つ変えていないところをみると、すべて承知の上のことな
のかもしれない。
⋮⋮そうだな、筆頭侍従についたからには、前任者の記録にも目
を通すだろう。だとすれば、初対面の時はともかくとしても、今は
正確にその理由を把握していても、おかしくはない。
﹁でも、聞いてください、ジャーイル様。私がセルクの婚約者にな
ったいきさつをお聞きになれば、ジャーイル様だってきっと私をか
わいそうだと思ってくださるわ!﹂
ええっと⋮⋮﹁でも﹂って何。
論点がすり変わったことについて、つっこんではいけないのだろ
うか。
﹁旦那様はご承知だ﹂
﹁あら、どうかしら! あなたが強引に私との婚約を迫ったことは
知ってらしても、私がそれを拒んでいることはご存知ないのじゃな
い?﹂
勝ち誇ったようにセルクを見るエミリー。
﹁まあ私的なことだから、詳細は知らないが、エミリー、君の性格
を知っていればそうであっても驚きはしないな。だが、何もセルク
は君に関係を強いている訳ではないんだろう?﹂
﹁それは⋮⋮でも、婚約者としての立場は、強制されていますわ。
それを拒むなら、屋敷を出て行けと⋮⋮こうですもの! ひどいと
思いますわ!﹂
その立場を利用して、今現在ここにいることも、つっこんではい
けないのだろうか。
﹁本来、爵位を簒奪された者は、本人が存命ならば家族ともどもそ
れまでに住んでいた屋敷や城を出て、簒奪した者にすべて明け渡す
782
のが慣例だ。ワイプキーには同居に抵抗があるというなら、退職祝
い代わりの男爵位と屋敷は用意するとも伝えてあった。広い屋敷と
使用人の有無にこだわらず、家族だけで暮らすつもりなら、いくら
でも引っ越し先はあるだろう。それでもなお、生家を出たくないと
いうのなら、条件を飲むのはやむを得ない話じゃないのか?﹂
冷たいようだが、本来なら爵位の簒奪に伴うのは命のやりとりだ。
相手が幼なじみのセルクでなければ、エミリーはワイプキーが爵
位を失ったと同時に父親を失い、家を追われるか、もしくは強引に
愛妾にされていてもおかしくはない。
セルクがワイプキー一家に示している条件は、力こそすべての魔
族にしては、優しい処遇ともいえるだろう。
﹁それは⋮⋮でも、そんな⋮⋮﹂
﹁それとも自分一人ででも今の屋敷を出たい、というのなら﹂
一応、セルクの表情を窺ってみる。だが彼は俺の言葉に否定的な
表情も見せず、こくりと頷いた。
﹁住み込みでどこかの屋敷か城で下働きとして勤めるという手もあ
る。その気があるというのなら、どこか紹介してもいいが。どうだ
?﹂
エミリーの実力的に爵位を得るのは無理だ。それで今の家を出た
い、と思えば自分でこぢんまりとした家を探すか、住み込みで働き
に出るしか方法はない。
﹁こちらで、ジャーイル様付きの侍女として雇ってくださるなら、
喜んで!﹂
﹁以前にも断ったはずだ。俺に専属の侍女は必要ない﹂
﹁私、閣下にまだお礼をいただいてませんわ!﹂
﹁エミリー﹂
俺はため息をついた。
783
﹁薬の実験のことなら、君の無礼と相殺だと言ったはずだ。それで
もまだなお、大公の私室に侵入した者に対する処置としては、緩い
と思うのだが?﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
﹁旦那様、ありがとうございます﹂
ん? なぜセルクに礼を言われるのだろう。
﹁エミリー。旦那様のおっしゃるとおりだ。君は今現在でも大公閣
下に対して非礼がすぎるということを、自覚すべきだよ。今だって、
本来なら問答無用でつまみ出されてもおかしくない立場だ。旦那様
が許しても、これ以上の無礼は私が筆頭執事としての権限を行使せ
ねばならなくなる﹂
﹁な⋮⋮何よ、どうするつもり⋮⋮?﹂
本当、セルクはどうするつもりなのだろう?
﹁君の態度を不敬罪に値するとみなせば、拘束の上悪くて公開処刑、
良くても公開百叩きの刑だ﹂
えっ。ちょ⋮⋮いや、セルクさん、いくらなんでもそこまで⋮⋮!
﹁⋮⋮ひどい⋮⋮﹂
見る間にエミリーの瞳が潤み、涙の粒があふれ出して頬を流れ落
ちた。
﹁よくそんなこと、冗談でも言えるわね。ひどいわ⋮⋮﹂
そのまま両手で顔を覆い、泣き出してしまう。
﹁エミリー﹂
セルクは彼女の細い肩を抱きしめ、優しげに頭を撫でだした。
﹁もちろん、冗談ではない。でも、僕が君に対してそんなことを望
むはずもないことは、わかっているだろう? 本当なら、屋敷に閉
じこめて、一歩だって外に出したくないくらいなのに。かわいい君。
いい加減僕を困らせて惑わせるのは、やめにしておくれ。君を痛い
784
目や危険な目にあわせたくないからこそ、こうして心を竜の鱗のよ
うにして、言いたくもないことを言っているんじゃないか。それと
いうのも、君が愛らしすぎて僕の心を不安にさせるから⋮⋮﹂
えっと⋮⋮あの⋮⋮俺、もう席を外していいかな?
それとも、いちゃつくなら俺の目の前じゃなくて、城の外に出て
からやりやがれ、って、放り出してもいいかな!?
﹁あーおほん﹂
俺はわざとらしく咳払いをしてみせる。
エミリーはセルクの胸に顔を埋めたままだが、セルクの方はこち
らに視線をよこしてきた。
﹁今日のところは不問にするが、今後このようなことのないように、
とだけ言い渡しておく。次は容赦するつもりはない。それだけは、
肝に銘じておいてくれ﹂
﹁お約束いたします。今後は決して、私の身内という立場を利用す
る者など現れないことを﹂
真剣に誓うセルクに、俺は頷いてみせた。
﹁まあ、ワイプキーへの申し出はまだ有効だ。納得がいかないとい
うのなら、帰って両親とよく相談してみるんだな﹂
﹁エミリー。そうしよう﹂
優しい口調で語るセルクの瞳には、さっきまでの怒りはもう跡形
もない。それどころか、今はエミリーに対する深い情愛でいっぱい
だ。
逆に俺の心はささくれだっていく気がする。気のせいだろうか。
﹁まあそうはいっても今は大祭の最中だ。俺も今日は一日ベイルフ
ォウスと約束があって、仕事には戻れそうもない。セルクもこれで
あがって、エミリーと一緒に祭りを楽しんでくるといい。いい気晴
785
らしになるだろう。城外の催しも多種多様で楽しいぞ。二人で芝居
でも見に行ってきたらどうだ?﹂
﹁ありがとうございます。ぜひ、そうさせていただきます﹂
エミリーの背を優しく撫でながら柔らかい笑みを浮かべるセルク
に、なぜか敗北感を感じたのは内緒だ。
そうして俺は執務室へ駆け込み、ベイルフォウスがやってくるの
をむなしい気持ちでじっと待ったのだった。
786
72.別に戦った訳でもないのに、どっと疲れたのですが︵後書
き︶
朝9時以降、もう一話投稿します
787
73.ベイルフォウスくんを殴りたくなるのは、いつものことで
すね!︵前書き︶
2/2話目
788
73.ベイルフォウスくんを殴りたくなるのは、いつものことで
すね!
ベイルフォウスが来ない。
いくら待っても、ベイルフォウスがやって来ない。
セルクとエミリーだって、とっくに侍従室から出て行ったという
のに、ベイルフォウスがまったく姿を見せない。
あ い つ !
まさかもう美女を自分の部屋に連れ込んで⋮⋮なんてことになっ
てないだろうな!
もういっそ、魔力なんて返さないでいてやろうか!
俺は別にそれでもいいんだ。むしろ困るのはベイルフォウスの方
で⋮⋮。
いいや、だが、そういう訳にはいかない。
このまま爵位争奪戦を迎えてしまったら、ウィストベルに誤解さ
れてしまうではないか。
俺は執務室を出て、ベイルフォウスの捜索にのりだした。
が、居場所はすぐにわかった。
なんといっても、我が親友は目立つのだ。
赤を基調とした盛装の、胸元に飾られた新緑のブローチについて
は言及しない!
いつものように真っ赤な酒の入ったグラスを手に、長椅子にだら
しなく寝転がっている。
いや、言い直そう。長椅子に、じゃない。
789
美女の太股の上に頭を乗せている、だ!
ここは舞踏会の行われている大広間の一室。
中の広いスペースでは管弦楽団の音楽に合わせて舞踏が行われて
いるし、壁際では立って、あるいは所々に設置された椅子に腰掛け
て、会話を楽しむ者たちで賑わいでいる。
ちなみに俺がこの大広間にやってきたときには、ベイルフォウス
の周りにはデーモン族・デヴィル族問わず、女性が二十人ほどいた。
左右頭上足下膝の上、まあ場所を問わず囲まれ、触れられ、触れ
ている感じだ。もう一つ付け加えておくと、そのうちの一人と口移
しで酒を飲んでいた。
俺が近づくと、ベイルフォウスは一人を残して全員を追い払った
が、だからといって誉める気にはならない。
﹁お前まだそんな格好なのか? とっとと着替えてこいよ﹂
呑気な言葉に、俺のこめかみがぴくりとひくつく。
﹁お前こそ、なんでここにいるんだ。俺は執務室で待つといったは
ずだよな?﹂
﹁ああ⋮⋮そうだっけな﹂
こ い つ ⋮⋮!
魔王様、貴方の弟、本気で殴っていいですか?
いいですよね、いいに決まってますよね!?
﹁それより、マーミルはどうした?﹂
どうしようか。言ってやるか、それとも放っておくか。
まあ、一度は注意しておくか。
﹁お前、そろそろ公の場所でマーミルに興味津々、みたいな発言を
するのは、控えた方がいいんじゃないのか。もうシャレにならない
790
レベルで本物のロリコンだと噂されるぞ?﹂
お前の大事な兄上の領地では、ベイルフォウスが興味を持ってい
るのだから、逆に俺の妹が大人っぽいのだろうと思われているくら
いだ。妹を見たとき、彼らはきっとドン引きすることだろう。
マジで子供じゃないですか、何してるんですか、ベイルフォウス
閣下、と。
﹁言いたい奴には好きに言わせておけばいいだろう。そんな噂があ
ろうがなかろうが、俺が女に不自由することはないからな﹂
撫でるな。太股を撫でるな。
あと、撫でられてる方もうっとりしない。
もうちょっと慎みというものを覚えなさい!
﹁お前、ちょっとこっち来い﹂
いやらしく動いていたベイルフォウスの腕を取り、そのまま強引
に引き起こす。
﹁なんだよ﹂
﹁ついて来い。用事があるっていったろ﹂
﹁だからなんだよ、改まって用事って﹂
﹁いいから。あ、女性の同伴は許可しないからな﹂
女性の腰に手を回したままついてこようとしたので、釘をさす。
﹁はあ? クソ真面目か﹂
ベイルフォウスは不承不承、手に持ったグラスを給仕に預け、美
女の腰から手を離して、俺の後をぶつぶついいながらついてきた。
﹁頼むから、あんまりどこででも卑猥なことをしてくれるなよ﹂
﹁お前な⋮⋮俺をなんだと思ってるんだ﹂
歩く猥褻物?
﹁いや、口にするな。なんとなくわかった﹂
舌打ちするベイルフォウス。
791
﹁言っておくが、魔族の基準だと、むしろ俺よりお前の方がおかし
いんだからな。誘ってくる女が山といるのに、手を出さないなんて
どうかしてる﹂
﹁山といるか? 俺はあまり覚えがないんだが﹂
﹁⋮⋮お前、それを俺以外の前で言うなよ﹂
なぜため息。だって本当にそうだろう。
確かに、近づいてくる女性は少なくはない。こういう舞踏会なら、
なおさらだ。
だが、それだって俺が大公だからで、他の理由からではない。
﹁で、マーミルは?﹂
﹁子供用の社交会場があるから、双子と一緒にそっちへ遊びにいく
そうだ﹂
﹁ああ、さっき言ってた野いちご館とやらか。子供専用の社交場だ
なんて、変わったことしてるな、お前のところ﹂
﹁この統制がとれた健全な感じが、素晴らしいだろ﹂
﹁つまらない﹂
言ってろ!
だが、こんなくだらない話をするために、俺はベイルフォウスを
美女から引き離した訳じゃない。魔力を返すためだ。
そのまま、まっすぐ執務室へ向かう。
﹁おい、まさかこんな日にまで仕事か?﹂
﹁いいや﹂
﹁だったらなんで、執務室なんだ?﹂
﹁お前に魔力を返すためだよ﹂
﹁魔力を? 俺、お前にそんなもの取られた覚えないんだけど﹂
792
部屋に入るなり長椅子に座ると、ベイルフォウスは両足を机の上
に投げ出した。
﹁俺じゃなくて、鏡だ﹂
俺は戸棚から手鏡の入った袋を取り出す。
最初はこっそり魔力を返そうと考えていたが、対象者の姿を鏡に
映さないといけない時点で、それは不可能だとあきらめた。
いや、鏡を全部並べて継ぎ目を見えないようにして、とか工作す
ればなんと秘密でできたのかもしれないが、そこまでする意味もな
いだろう。
ベイルフォウスの足を払いのけ、机の上に手鏡を並べる。
﹁これは⋮⋮あれか。マーミルの魔力を奪った鏡。だがその件はも
う、解決したんだろ?﹂
﹁ああ、解決はした。マーミルも元通り⋮⋮﹂
あ、そういえばまだ完全には返してなかったっけ。
あの時はミディリースのところにあった鏡だけ、不足していたは
ず。
﹁ジブライールにも返した。後はお前だけだ﹂
﹁俺? 俺は別に⋮⋮魔力が減ったなんて気はまったくしないんだ
けど?﹂
﹁お前の魔力量が膨大すぎて、気づかない程度だ。それでも、減少
は減少だ﹂
﹁感じない程度ってなら、そんなのどうでもいいけどな﹂
﹁この先、大公位争奪戦があるのに余裕だな。お前がそれでいいっ
てのなら、俺だって別にかまわない。ただ、後でグダグダ言うなよ
?﹂
面倒くさそうに応じていたベイルフォウスだが、俺の挑発的な言
葉に剣呑な表情が浮かぶ。
793
﹁つまり、それはあれか⋮⋮俺にそのわずかな量が戻らないと、確
実にお前にとって有利な状況になる、ってことか﹂
さすがに、俺を相手に勝つの負けるのという話になると、﹁どう
でもいい﹂ではすまないらしい。
﹁ふうん⋮⋮バカ正直だな、ジャーイル﹂
﹁誉め言葉と受け取っておこう﹂
ベイルフォウスはニヤリ、と口角をあげた。
﹁どう取ってもいいけど、お前さ⋮⋮そう告げることで、別の事実
も明白なんだが、いいのか?﹂
それほど些細な魔力の増減を知る能力があることを、白状してい
るようなものだと言いたいのだろう。
だが正確に俺の特殊魔術の在処や能力が知れた訳でもないのだか
ら、それはそれでかまわない。どうせ相手はベイルフォウスだ。
﹁何のことかな。俺は何も言っていないはずだ。それこそお前が何
をどう取ろうと﹂
﹁ふん、まあいいさ。それじゃあせっかくだから、返してもらおう
か。立てばいいのか?﹂
﹁ああ、そうだな。その方がいい﹂
ベイルフォウスはすらりと立ち上がる。
俺はマーミルやジブライールの時のように、ベイルフォウスの姿
を手鏡に映し、呪文を唱えた。
先の二度と同じく、変哲もない鏡に見えたその本体から魔力の筋
が延びて、ベイルフォウスの纏うそれに同化していく。
ただ⋮⋮⋮⋮。
794
﹁お前⋮⋮あれ?﹂
﹁なんだよ﹂
﹁え⋮⋮いや、うん⋮⋮いや⋮⋮﹂
﹁なんだよ。グダグダ言ってないで、はっきり言え﹂
﹁いや⋮⋮なんでもない。なんでも⋮⋮﹂
ベイルフォウスの魔力総量って、こんな感じだったっけ?
あれ?
俺と比較して⋮⋮あれ?
でも鏡はちゃんと、四十枚あるし⋮⋮。
﹁なあ、ところでこの手鏡。もらって帰っていいか?﹂
﹁え?﹂
﹁だから、この手鏡だよ。いいだろ?﹂
⋮⋮なにその悪そうな笑顔。
﹁お前、まさかプートに使おうとか思ってるんじゃないだろうな﹂
ぴくり、と微かにこめかみが動く。
やめとけ。この鏡程度なら、プート相手に使用しても結果は同じ
だぞ︱︱そう忠告してやろうかとも思ったが、わざとらしかったと
はいえ、自分の能力についてごまかした後だ。余計なことは言わな
いでおこう。
﹁好きにしろ、といいたいところだが、駄目だ。もうずっと前から
決めてたんでな。こうすることは﹂
俺は術式を展開し、裸の一枚を残した三十九枚の鏡をその装飾ご
とすべて砕いた。わずかな塵も残らないほど、粉々に。
もっとも、こんなことをしたところで、人間達の町に行けばいく
らでも鏡は手に入るのだろうが。
一枚残したのはミディリースに預けていた分。もちろんマーミル
のためだ。
795
﹁まあいいさ。魔族が人間の造ったものなんかに頼って相手を負か
す訳にはいかんしな﹂
カラリと笑って、ベイルフォウスは頭を掻く。
まあそうだろう。いくらなんでも、ベイルフォウスが本気でそん
な手に頼るとは思っちゃいない。
﹁さて、じゃあ俺は舞踏会場へ戻るか﹂
﹁ああ、俺も着替えてくるよ﹂
﹁お前が戻ってくるまで俺が残っているとは限らないが、今回はそ
こら辺も許してもらえるんだろ?﹂
そこら辺、ってのはあれか。女性を自室へ連れ込んでも、という
ことか。
﹁まあ、今回はさすがにな⋮⋮ただし、場所は選べよ﹂
﹁もちろん、自室の外では自粛する﹂
ほう⋮⋮女性のあちこちを撫で回したり、飲み物を口移しで飲ん
でいるのが、自粛している状態なのか。
⋮⋮まあ、そうはいってもベイルフォウスだしな。
そうして俺たちは、その夜はそれで別れたのだった。
796
74.そりゃあ僕だって、なるべく個性は尊重したいと思うので
すが
﹁あら、お兄さま﹂
舞踏会にふさわしい盛装に着替えるため、自室へと戻る途中の廊
下で、双子と楽しそうに歩くマーミルとすれ違った。
﹁これから野いちご館か?﹂
﹁そうですわ!﹂
子供たちのために用意された社交会場は、今のこの間だけは<野
いちご館>と呼ばれている。あちこちが苺模様で飾られているから
だ。少女趣味に偏っている気がしてならないのだが、マーミルの好
みにはあっていたらしい。
俺が同年代であったなら決して足を踏み入れないが、意外にも男
子の参加者も多いと聞く。
﹁お兄さまはこれからベイルフォウス様とお楽しみなのでしょう?
私が見ていないからって、不道徳なことはなさらないでね!﹂
﹁俺がいつそんなことを⋮⋮﹂
ベイルフォウスに呆れられるほど、女性との接触には気をつけて
いるというのに!
﹁本当なら私たちが衣装を見立てて差し上げたいのだけど⋮⋮ねえ、
ネネネセ﹂
結局、妹は初日以来、また以前のように双子と一緒に行動するよ
うになったらしい。アレスディアがいない寂しさの前に、双子への
些細なこだわりは消え去ったようだ。
というか、まあもとから意味のわからない理由で疎遠になってい
たからな。
797
﹁お兄さまのことはいいから、早く行っておいで﹂
﹁ああ、そうだ。ユリアーナがまだいたわ。彼女にお願いしましょ。
お兄さま、ちょっと待ってらしてね﹂
﹁ユリアーナ?﹂
⋮⋮ああ、例の勘違い侍女か。
マーミルの発言に、双子は顔を見合わせている。
﹁見立ててもらう必要はないから、わざわざ呼ばなくても構わない
よ﹂
﹁あら、駄目よ。だってお兄さまがお選びになる服って、いつも地
味なんですもの。せっかくの大祭なんだから、もうちょっとおしゃ
れになさった方がいいわ﹂
えっ。
﹁たまには若い女性の意見も取り入れるべきなのよ﹂
えっ。
﹁⋮⋮地味?﹂
﹁いえ、私たちは特にそうは⋮⋮﹂
ちらり、と双子を見ると、彼女たちは困ったように顔を見合わせ
た。
﹁あら、ちょうどユリアーナが来たわ!﹂
件の侍女が、ちょうどマーミルの部屋から出てこちらへやってく
るところだった。
その顔を見て、俺はあっけに取られる。
﹁ユリアーナ。お願いがあるのだけど、いいかしら﹂
兄の気も知らぬまま、妹は侍女の腕を引いてやってくる。
﹁なんでしょう、お嬢様。⋮⋮あ、旦那様﹂
俺に気づいて、軽く腰を折るユリアーナ。
798
だが俺は、それに反応するどころじゃない。視線はその顔に釘付
けだ。
﹁お兄さまがこれから舞踏会にお出になるの。それで、ぜひその衣
装をあなたに選んでもらいたいと思って!﹂
﹁ええ、そんな! 私ごときが、そんなめっそうもない!﹂
﹁そんなことないわ。あなたのその、独特の感性が、今まさに求め
られているのよ!﹂
えっ。
﹁マーミル、ちょっとこっち来なさい﹂
﹁痛い痛い痛いっ!﹂
俺は妹の耳を引っ張って、双子と侍女から離れた。
﹁ひどいわ、お兄さま!﹂
﹁ひどいのはどっちだ。人のことをバカにするなんて﹂
﹁バカに? 私がいつ、誰にそんなことをしましたの?﹂
俺の言葉に、妹は真剣に憤慨しているようだ。
﹁いつって、たった今しただろ。ユリアーナの感性を、バカに⋮⋮﹂
﹁あら、独特の、というのは別に人を貶める言葉ではありませんわ
! 個性的だ、と認めているだけですのよ!﹂
個性的?
俺は改めて侍女に視線を向けた。
目の上の不自然な二重のつけまつげがとても重そうだ。なんのた
めに入れているのかわからない目の周りの黒く厚い縁取りは、化粧
と言うより入れ墨でも彫っているかのように黒々しい。せっかくふ
っくらとした頬をしているのに、ぐりぐりとはっきり描かれた真っ
赤な円が台無しにしているし、黒い線が頬骨と鼻筋に伸びていて、
汚れと見まがうほどだ。そして、唇から大きくはみ出したどぎつい
赤の口紅。
799
なんというか⋮⋮全体的に派手派手しく、バランスが悪い。少な
くとも、素顔は柔らかい印象だっただけに、このドギツい化粧は彼
女には似合っていないように思える。
いいや、これが似合うデーモン族なんて、この世にいるのか?
﹁バカにしているのではない、と?﹂
﹁してませんわ。どうしてそんなこと!﹂
﹁なら、彼女の化粧についてどう思う?﹂
妹は振り返り、侍女を確認してから俺に向き直った。
﹁目がぱっちりしてて印象的だし、とてもお顔だちがはっきり立体
的になって、素敵ですわ。それになんといっても頬を赤く塗ってい
るのが、とても可愛らしいと思いません? 唇も大きくてとても魅
力的ね! あれならきっと、初対面のデヴィル族の方にも、一目で
覚えていただけると思うの﹂
目が真剣だ。どうやら冗談ではなく、本気の言葉のようだ。
﹁私、本当は同じようにお化粧してもらいたいのよ。でもネネネセ
が、私たちは若いから何もしなくていいって⋮⋮﹂
双子、後で何かお礼をしような!
﹁だから初日だけですの。お化粧してもらえたのは。それも、お兄
さまが帰ってきた頃にはとれてましたけど⋮⋮﹂
ああ⋮⋮それであの、化け物顔⋮⋮。
﹁もしかして、あの日の衣装も彼女に見立ててもらっていたのか?﹂
﹁もちろん、そうですわ﹂
なるほど、あのド派手で奇抜なのが、侍女の感性とやらか。
﹁それでね、お兄さま。ユリアーナのすごいところは、それだけじ
ゃないの! 彼女、絵もとってもお上手なのよ!﹂
まさか⋮⋮。
﹁本当に、誰も見たこともないような絵を描くの! 私、できれば
800
絵も彼女に教えてもらいたいわ。そうすれば、アレスディアが帰っ
てきてからも、あの感性にいい影響を受け続け﹂
﹁マーミル!﹂
俺はしゃがみ込み、妹の肩をがっしりと掴んだ。
﹁お前の考えはよくわかった。その熱意に免じて、ちゃんと彼女に
相談するから、お前は安心してネネネセと一緒に<野いちご館>に
行っておいで﹂
俺がそういうと、妹は嬉しそうににっこりと笑った。
﹁ええ、そうしますわ。でもお兄さま、今日はあまり遅くならない
でね! 私と一緒に寝るお約束を、忘れないでくださいね!﹂
それから妹は侍女にお兄さまを頼むわね、と言い残して、双子と
一緒に去っていった。
さて、問題は。
﹁あ、あの⋮⋮本当に私なんかが旦那様のお衣装を⋮⋮﹂
﹁⋮⋮とりあえず、俺の部屋に行こう﹂
﹁あ、はい。よろしくお願いします﹂
いや、お願いしないから!
俺は廊下に続く扉を少し開けておいて、それから居室に侍女を通
す。
基本的に俺の私室には、マーミルの他はエンディオンと掃除の担
当者と奥侍女・近従の数名しか立ち入らないことになっている。
妹の侍女とはいえ、正式にその立場にあるわけではないし、デー
モン族である彼女と二人きりでこもったなんて噂がたっては面倒だ。
どうやら俺の配下たちは、俺に対してありもしない色恋沙汰を発
生させることに、喜びを見いだしているようだからな。
﹁できればなんだが、顔を洗ってその化粧を落としてはもらえない
801
だろうか?﹂
﹁だ、旦那様⋮⋮いくらなんでも、それは⋮⋮っ﹂
俺の言葉に、顔を真っ赤にして狼狽えたように後ずさる侍女。
﹁ひどいです! いくら大公閣下といったって、こんな⋮⋮こんな
無体がまかり通るなんて⋮⋮﹂
それほど素顔を見られるのが恥ずかしいのだろうか。
まあ、そうだな⋮⋮これだけ厚化粧を施しているのだから、当人
の意識としてはそんなものかもしれない。
﹁心配しなくても、素顔ならこの間見て﹂
﹁駄目です! 私、初めては好きな人と決めてるんですっ!! そ
りゃあ旦那様はこの上なく上等な部類ですが、だからって女なら誰
でもなびくと思ったら、大間違いです!!﹂
⋮⋮⋮⋮は?
﹁ちょっと待て。どういう意味だ?﹂
なぜ体を掻き抱く感じで、俺に背を向けてるのかな?
﹁どういうって⋮⋮そりゃあ、化粧を落とせってことは、君のすべ
てが見たい、ということでしょう?﹂
﹁⋮⋮すべてが見たい?﹂
﹁つまり、生まれたままの姿になって、同衾しろという意味だと⋮
⋮﹂
⋮⋮⋮⋮は?
﹁ちょっと待て。それじゃあ君は、俺が嫌がる君に乱暴を働くとで
も?﹂
﹁そうでしょう? 所詮男なんてケダモノよ! 嫌がる女を力尽く
で征服するのがたまらないとか言って⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
802
﹁⋮⋮あれ? ちょっと待って。これ、私また勘違いしたっぽい?﹂
ユリアーナは横を向いてそう呟いた。
﹁そのようだな﹂
俺は腹の底から、ため息を絞り出した。
﹁だ⋮⋮だとしても、お断りです! だいたいなぜ、そんなことを
しないといけないんですか? 理由もなく、いきなり化粧を落とせ
だなんて⋮⋮勘違いしても仕方ないと思います!﹂
ユリアーナは真っ赤になりながらも、目をつり上げて抗議してき
た。
まあ、説明を省いたのは確かに俺の怠慢かもな。
﹁俺の考えはこうだ。君の個性はもちろん尊重したいが、ここは職
場だ。君のその派手⋮⋮個性的な化粧では、他の侍女たちからあま
りにも浮きすぎてしまうだろう。プライベートな時間までどうこう
いうつもりはない。だから頼む。せめて勤務中は、もう少し化粧を
薄くしてもらえないだろうか﹂
﹁薄く? ⋮⋮本気で言ってるんですか?﹂
﹁もちろんだ﹂
なんだったら、理不尽と言われようと命令したいくらいなのだか
ら。
﹁旦那様は私の素顔を知らないから⋮⋮だからそんなひどいことを
言えるんです﹂
ふん、と鼻をならされた気がした。
﹁ひどいって⋮⋮さっきも言ったけど、化粧を落とした顔ならこの
間一度見てる。そんな気にしなくてもいいと思うんだが﹂
むしろ、今のこの道化を思わせる化粧より、素顔の方が絶対にい
いと思うんだが。
803
﹁旦那様にはわかりませんよ⋮⋮ええ、わかるもんですか。そんな
お顔をなさって⋮⋮魔族には美男美女が多いとはいえ、そんな生ま
れた時からキラキラしてます、と言わんばかりの方が、私みたいな
もっさりした顔の者の気持ちなど、永遠に理解できるはずがないん
です﹂
こ
もっさり? それって素朴、という風にでも解釈すればいいのか
な?
これはまた⋮⋮ミディリースとは違う方向で面倒くさい娘だな。
﹁でもそこまでおっしゃるのなら、水だけですべて落ちるかどうか
はわかりませんが、やってみましょう。洗面器をお借りしても?﹂
﹁ああ、どうぞ﹂
すぐ隣に洗面所があるのだから、そこで洗ってきてくれればいい
と思うのだが、なぜか洗面器をご所望だ。
俺はいつも自分が洗顔するのに使用している陶器の洗面器に水を
張り、ユリアーナに渡す。すると彼女は俺の目の前で、ばしゃばし
ゃとやりはじめた。見る間に洗面器の水がどす黒く濁っていく。
陶器に色移りしないかと心配になるほどの濁り水だ。こんな色を
出すものを顔に塗って、本当に大丈夫なのかと心配になってしまう。
そうして底が見えないほど水が濁りきってやっと、ユリアーナは
洗顔を止めてタオルを顔に当てた。
その白いタオルまで、灰色に汚れていく。
﹁これを見ても、そういえますか!?﹂
そういって彼女は勢いよくタオルを取り除いた。
水だけで落ちるのかと本人も心配していたが、どうやらそれは大
丈夫だったようだ。
自称・もっさりした顔を、俺の前に披露してくれた。
確かに、目の大きさはさっきの半分ほどに見えるかな?
804
でもわざわざ頬を真っ赤に塗らなくても血色はいいし、別に唇だ
って大きく見せる必要のない、普通の大きさじゃないか。灰色に塗
りたくって鼻筋に黒い線をつけるより、ずっと健康的で印象がいい。
﹁やっぱりその素顔の方が、さっきより遙かにいいと思うんだが﹂
﹁!? 素顔の方がいい⋮⋮ですって?﹂
﹁ああ。ずっとな﹂
﹁⋮⋮ちょっと待って、ユリアーナ。これって口説かれて﹂
﹁ない﹂
﹁⋮⋮ですよね﹂
とにかく俺と侍女はその後も話し合いを続け、とりあえず色彩を
抑えた化粧を心がけてもらうことで、一応は双方、妥協しあったの
だった。
⋮⋮なんだか疲れた。
俺の舞踏用の衣装?
もちろん、自分で選んだに決まっている。
805
75.ダンスを申し込むには、手順があるのです
舞踏会場にはそれはもう大勢の女性がいる。
全方位からの視線をずっと感じるほどだ。
だが誰も声をかけてこないのは、決まりごとがあるせいだろう。
舞踏会に限っての約束事⋮⋮それは、よほど親しい間柄でもなけれ
ば、下位から上位へダンスの相手を申し込むことはできない、とい
うことだ。
つまり俺が踊りたいと思ったら、自分から相手に声をかけないと
いけないのである。しかも、最初の相手はなるべく近い身分の方が
いいときてる。
だが今日はジブライールもいないし、さて、いったい誰に声をか
けたものか⋮⋮。
ちなみに女性との交友関係は、この二年間ほとんど広がっていな
い。
こういう時にアドバイスをもらえそうなベイルフォウスも、もう
この会場にはいない。
﹁あら﹂
﹁⋮⋮君は﹂
あまりキョロキョロしているように見えないように気をつけなが
ら、それでも相手を探して周囲を見回していたら、一人の女性と目
があった。
大きく巻かれたプラチナブロンドと、鋼でも入っているかのよう
に正しいその姿勢。ごく最近、見知った相手だ。
﹁確か⋮⋮リリアーナ⋮⋮﹂
﹁リリアニースタ、ですわ。ジャーイル閣下﹂
806
しまった。ユリアーナと混ざって覚えていたようだ。
﹁ですから、リリーでよいと申しました﹂
リリアニースタは苦笑を浮かべている。
﹁すまない﹂
﹁構いません。覚えにくい名だとは自覚しております。でも、名前
は間違われても、顔は一度で覚えていただけますのよ﹂
ああ、そうでしょうとも。
自信満々な表情がよく似合う、艶やかな容貌をしているもんな。
﹁それで、閣下は名を間違えたお詫びに、ダンスにでも誘ってくだ
さるのかしら?﹂
確か彼女は侯爵だったはず。なら最初の相手としてはむしろ願っ
たりか。
﹁姫君、今宵最初の栄誉を、お与えいただけますか?﹂
﹁若君、光栄に存じます﹂
俺はリリアニースタに向かって手を差しだし、彼女は毅然と微笑
んで、それに応じた。
そうして俺たちは、広間へと踊り出る。
﹁君とここで会えるとは、思ってもみなかったよ﹂
﹁あら。私はこれでも、閣下の領民ですよ﹂
﹁俺の?﹂
ベイルフォウスのじゃなかったのか?
今もてっきり、あいつに同行してここにいるのかと思ったのに。
﹁ええ。第五軍団に所属しておりますわ﹂
第五軍団、といえば軍団長は公爵か。
﹁本当に? でも、今まで会ったことはないよな⋮⋮﹂
﹁それはまあ。私は半分ほど隠居している身で、舞踏会にもほとん
807
ど不参加で通しております。軍団でも役にはついておりませんし、
さすがに大演習会の中にあってまで目立つ容貌だとまでは、自惚れ
ていません﹂
隠居⋮⋮侯爵なのに?
﹁けれど今は魔王大祭ですもの。この機会を逃せば生きている間に
次回があるか、わからないのですから、外を出歩きたくなるのも当
然でしょう﹂
確かにその通りだ。
だというのに、約一名頑として引きこもって出てこない娘がいる。
そのうち誘いにでもいってやろう。
﹁そうだな。そんなに楽しんでくれているというのなら、準備を頑
張ったかいもあるというものだ﹂
﹁それは大祭主として、ですか?﹂
﹁ああ﹂
リリアニースタは勝ち気な笑みを浮かべる。
﹁本当に真面目でらっしゃるのね﹂
真面目⋮⋮そりゃあ、他の大公の仕事っぷりに比べれば、遙かに
真面目だろう。
﹁その閣下は、大祭を楽しんでいらっしゃる?﹂
﹁ほどほどには。⋮⋮ああ、もちろん、今はこの上なく﹂
﹁まあ、お上手ね﹂
﹁上手なのは君のダンスの腕前の方だろう。それだけ動いて、よく
息一つ乱れないもんだ﹂
今、演奏されているのは、男はほぼ突っ立っているだけだが、女
性はかなり頑張って舞わないといけない激しい曲だ。
さすがに体力勝負の魔族であっても、他の女性陣は彼女ほど悠長
にしている暇はないようだ。
だが、リリアニースタは踊るときも芯が通っているようにその姿
808
勢はぶれず、これだけ話しているというのに息一つあがっていない。
﹁わたくし、ダンスは大好きですの。なんなら、一晩中踊っていら
れるわ。つき合っていただける殿方がいないのが残念ね。でも﹂
くるくる回っていた彼女を引き寄せ、体を密着させる。
いや、俺の意志じゃなくてそういう踊りなのだ。
﹁相手が大公閣下なら、どうかしら?﹂
耳に熱い息がかかり、背筋が震えた。
﹁俺でも力不足じゃないかな﹂
﹁そうですの? 残念ね﹂
やばい。なんかやばい気がする。
これ、俺が一番苦手なタイプじゃないか? ガンガン来る系には
いい思い出がない。
﹁じゃあ、一曲で解放してさしあげるわ﹂
曲が終わる頃にそう宣言されて、俺は残念に思うよりホッとした
のだった。
﹁ただ、一つだけ答えてくださいます? ジャーイル大公閣下﹂
﹁なにを?﹂
﹁お祭りの中盤には、いよいよ美男美女コンテストが始まりますわ
ね﹂
﹁そうだな﹂
投票場所は魔王城の前地。そこへ巨大な石の投票箱が造られるの
は、周知の通りだ。
担当の大公はサーリスヴォルフ。もちろん、投票開始日には俺も
同席しなければいけない。
﹁閣下にわたくしの名を書いていただける可能性は、今どのくらい
かしら?﹂
809
俺は苦笑を浮かべる。
﹁知り合ったばかりなのに?﹂
﹁あら⋮⋮恋に落ちるのに、時間は関係ありません﹂
確かにそうだ。そうだが⋮⋮。
断言できる。彼女は俺のことなんか、好きじゃない。好意的では
あるかもしれないが、恋に落ちている者の目では、絶対にない。
さすがに俺だって、それくらいはわかるのだ。
﹁だが、俺が君の名前を書いたところで、喜んでもらえるとは思わ
ないが。君は別に、俺のことを好きなんかじゃないだろ?﹂
﹁興味があるのは真実です﹂
興味、ね。
﹁だから逆にわたくしが閣下のお名前を書いて投票しても、不思議
にはお思いにならないでね﹂
曲が終わり、俺たちは対面で礼を交わしあう。
﹁閣下を我が城にご招待できる日を、楽しみにお待ちしております﹂
そうささやくように言って、リリアニースタは雑踏の中に消えて
いったのだった。
この短時間、会話をしただけでも、彼女が随分な自信家なのだろ
うということがよく知れた。女王然とはしているが、ウィストベル
とはまた違うタイプだな。
それにしたって、俺の名前を書いて投票するって?
⋮⋮⋮⋮まあ、冗談だろう。
﹁いやー、お見事、お見事!﹂
聞き慣れた声と拍手の音に、俺は笑顔で振り向く。
﹁なんだったら、一曲お相手しましょうか!﹂
そこには見慣れた白い犬⋮⋮ティムレ伯爵が、珍しく淡い琥珀色
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のドレスを着て立っていた。
﹁勘弁してくれよ。あたしが踊るの苦手なのは、知ってるだろ? だいたいさ、いつもこんなスースーしたものだって着ないってのに﹂
そういって、ティムレ伯爵はふわりと広がるスカートを叩いた。
本人の発言通り、ティムレ伯爵が舞踏会に参加する時は、たいて
いきっちりしたパンツスーツか軍服が基本だ。そして、踊っている
ところは一度も見たことがない。
﹁珍しいですね﹂
﹁仕方ないさ。泣いて止まないだだっ子を宥めるのに、これしかな
かったんだから﹂
だだっ子?
﹁俺はだだっ子じゃない!﹂
ティムレ伯爵の後ろから、怒ったような声が聞こえる。
﹁だだっ子だろうが﹂
彼女は後ろに手を回し、そこにあった三角の耳をつかむと、大き
く手を前に動かした。
﹁痛い痛い、姉ちゃん痛いって!!﹂
引きずられるように現れたのは、真っ黒な猫顔の青年。
猫顔⋮⋮猫⋮⋮!
まさか!
﹁あたしに負けて情けなくピーピー泣いて、踊ってやると約束する
まで立ちもしなかったのは誰だ? お前だろ?﹂
﹁ピーピーなんて泣いてない! あれは男泣きと﹂
﹁ピーピーだよ﹂
ティムレ伯は投げ捨てるようにその黒い猫耳を放した。
﹁ティムレ伯⋮⋮彼は?﹂
811
﹁ほら、ベレウス。ちゃんとしな。大公閣下の御前だよ﹂
﹁た、大公閣下!?﹂
その猫顔の青年は、あわてたように背筋をただした。
﹁ベレウス⋮⋮君がフェオレスの弟か﹂
﹁はい、大公閣下!﹂
俺に向かって敬礼をしてくる。
が、これがティムレ伯に嫁になってくれと言った相手か、と思う
といつものような笑いもこみあがってこない。
﹁⋮⋮爵位争奪戦で、ティムレ伯爵に挑戦したという⋮⋮﹂
﹁そうです! でも負けました!﹂
知ってる。それも、こてんぱんにやられたということを知ってる。
その日、爵位争奪戦の見学に行っていたという配下から、対戦の様
子を事細かに聞き出したのだから。
﹁なんでも、勝ったときの条件があったんだって?﹂
﹁えっ。知ってるの?﹂
ティムレ伯が焦った表情を浮かべる。
﹁勘弁してくれよ⋮⋮。猫公爵だな? 君にいらないことをいった
のは﹂
いらないことじゃないですよ! むしろティムレ伯から教えても
らいたかったです、と言いたかったが、ベレウスがいるのでぐっと
我慢だ。
﹁今回は負けましたけど、今度は勝ちます!﹂
﹁今度っていつだよ。しばらく全く、負ける気がしないよ﹂
﹁そんなこと言ってられるのは今のうちだ! 俺はすぐに強くなる
! フェオレス兄貴だって、いつか倒してしまえるほどに!﹂
﹁それは無理だろ。だってあいつ、公爵だよ?﹂
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ベレウスは兄に似ず熱血漢のようだ。
対するティムレ伯のつっこみは、実に冷静だ。
﹁とりあえず、子供ですね﹂
﹁だろ? 言ったとおりだろ?﹂
﹁こっ子供なんかじゃ!﹂
黒い顔でもわかるほど、真っ赤になって怒るベレウス。
うん、子供だ。これはしばらく大丈夫そうだな。
﹁それじゃあ、さっさと踊ってくるよ﹂
﹁痛い、痛いって姉ちゃん!!﹂
黒い耳をつまみながら離れていく二人を見送って、俺はホッとし
ていた。
⋮⋮いや、違う。別に俺は、ティムレ伯の幸せを願っていないと
いうわけじゃないんだ。
でもなんだろう⋮⋮心の準備がしたい。いつか誰かとそうなるに
しても、心の準備をしておきたいんだ!
しかし、ティムレ伯でこうなら⋮⋮マーミルだとどうなるんだろ
う。
マーミルに、もし恋人でもできたら⋮⋮いや、早く独り立ちして
もらいたいとは思っているが、それとこれとは話が別で⋮⋮。
それも、万が一チャラい男なんて連れてきた日には⋮⋮。
赤毛に蒼銀の瞳の魔族一チャラい男なんて連れてきた日には、お
兄さまは寝込んでしまう!
﹁お兄さま、お兄さま﹂
ひそかな呼び声に、俺は振り返る。
露台に続く扉の向こうから、こっそりと顔を出すマーミルの姿が
813
あった。
﹁どうした。双子と野いちご館じゃなかったのか?﹂
俺は妹に駆け寄り、その前にしゃがんで目線を合わせた。
まさか、ユリアーナの特異な感性の結果をチェックしに来たんじ
ゃあるまいな!
彼女の意見をきかなかったのは一目瞭然だろう。今日の俺の盛装
は、珍しく黒を基調にしたもので、毒々しい色彩のものは一切身に
まとっていないからだ。
だが妹は、俺の外見については全く気にした風もない。
むしろどこかボウッとして、元気がないように見えるくらいだ。
﹁そうなんですけど⋮⋮あのね、私ちょっと今日はもう疲れてしま
って⋮⋮﹂
小さな手を口にあてながら、欠伸を噛みしめている。
外の催しに興奮して、随分はしゃいでいたから疲れが出たのかも
しれない。
﹁もうお休みしようと思うの。それで、お兄さまはまだお楽しみだ
ろうと思って、お断りしにきたの⋮⋮﹂
真っ赤な目をこする妹を、ゆっくりと抱き上げる。
﹁いや、お兄さまももう十分楽しんだ。今日はこれで、部屋にひき
あげることにしよう﹂
本当はあと何曲か踊るつもりだったが、どうも気が削がれてしま
った。
﹁本当に?﹂
妹は驚いたのだろう。眠そうだった目をぱちくり開けている。
﹁でも、まだこんなに早い時間ですわ。子供だって、誰一人おうち
には帰らないくらいの⋮⋮﹂
﹁まあ、今日はお前と寝る約束だからな。たまにはあわせて早寝を
814
するのもいいだろう﹂
そう言うと、マーミルははち切れんばかりの笑顔を向けてきた。
﹁お兄さま大好き!﹂
短い腕を首に回して、しっかりと抱きついてくる。
だがやはり眠気には勝てなかったのだろう。
体から徐々に力が抜け、ぐったりともたれかかってきた。
﹁そのまま寝ていいぞ。ちゃんとベッドまで運んでやるから﹂
﹁うん⋮⋮はい⋮⋮﹂
その返事を最後に、マーミルは俺の肩に小さな頭を乗せて、規則
正しい寝息をたてはじめた。
妹の小さな体を抱きしめながら、彼女の健全な婚姻のために努力
することを、俺はこのとき初めて決意したのだった。
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76.いつも配下の要望には、できる限り応えたいと思っていま
す
大祭を司る役目についている、とはいっても、なにも毎日魔王城
に通わなければいけない訳ではない。
それでも一日おきに魔王城へ参内し、朝から昼を挟んで六時間ほ
どは本部にいることにしている。
各主行事の詳細な報告書が毎日山と届けられるので、それを確認
したり他の突発的な問題に対処している感じだ。
ちなみに、ベイルフォウスは魔王城のあちこちで姿を見かけるが、
本部にはたまにしか顔を見せない。
だというのに奴がやってくるだけで、司祭たちの間に緊張が走る
のが解せない。
それでも初日のように、些細なもめ事の裁可までゆだねられずに
すんでいるのは、なんだかんだ言ってもベイルフォウスのおかげな
のかもしれない。
俺が本部に寄らない日は、毎日<断末魔轟き怨嗟満つる城>まで
分厚い報告書が届けられている。
本部からの帰りは新魔王城の建築現場に短時間でも寄ることにし
ているし、十日に一度ほどは、朝から夕方近くまで滞在することに
もしている。
残りの日は、基本は自分の領地で過ごしているが、別に休んでい
る訳ではなく、自領での仕事を淡々とこなしているという感じだ。
そこへ計画的、あるいは突発的な他の用事が入り、それに対応し
ている。
夜はできるだけ城内・城外問わず、どこかの催しに顔を出すこと
にしている。
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おかげで随分たくさんの領民と知り合うことができた。
俺の<魔王ルデルフォウス大祝祭>での役割といったら、概ねこ
んな感じだ。
ゆっくりできたのは、マーミルたちと出かけたあの一日だけ。
だが副司令官以下、役目についているものは、俺以上に忙しくし
ている者も多い。
揉め事が勃発しない日はないので、治安維持部隊は頻繁に出動を
要請されており、ヤティーンは休む暇もない。もっとも、相変わら
ず嬉々としているので、本人にも不満はないようだ。むしろ出動に
かこつけてあちこち赴けるので、いい気分転換になっているふしが
ある。 俺が不在なことが多いせいで、領内の出来事を総括してもらって
いるフェオレスも同様に休暇を取っている様子はない。それでも彼
の優雅さは崩れない。俺の城には恋人もいるので、息抜きはできて
いるのだろう。時々二人で一緒にいるところをみかける。
全日程でパレードを引率しているウォクナンに休日などないのは
言うまでもないが、自身は疲れれば一番前でふんぞり返って座って
いればいいだけだし、むしろ美女に囲まれてあちこち見て回れるの
だから、不満を口にするはずもない。
そんなわけで副司令官で鬱憤が溜まっている者がいるとすれば、
それはジブライールだと思う。なにせ、本来なら自由であった結界
外への外出が禁じられたおかげで、大祭の空気をいっさい肌で感じ
ることができないでいるのだから。
そんな状況を考えれば、自分がゆっくりできないからといって、
嘆く訳にもいかない。
付け加えておくと、他の大公はとても優雅に過ごしているように
817
見えるがな!
ベイルフォウスとウィストベルは言うに及ばず、他の大公の姿も
魔王城で割とよく見かける。
彼らはいつ見ても歌い、踊り、宴に興じている。役目があるかな
いかで、これだけ差がでるのはいかがなものだろうか。
もしも今後、○年祝祭とかの催しがあれば、その時はもっと役割
が平等に負担されるような案を提案してみることにしよう。
もっとも、これは<魔王ルデルフォウス大祝祭>。
魔王様を祝う祭りなのだから、彼らがもてなしによってその主役
を愉しませようと努力するのは、間違っているとは言えない。
つまり。
﹁いいな、みんな暇そうで﹂
﹁ははは。冗談がきついや、閣下。俺たちからすれば、閣下でもう
らやましいですよ。あっちこっち行って、そりゃあ大祭を楽しんで
らっしゃるんでしょうから!﹂
﹁悪い。失言だった﹂
本棟の設計を一手に担っているのは、イタチ顔をした建築士のニ
ールセンだ。その笑い声は乾き、笑顔はひきつっている。
そうとも。彼らの前で口にしていいことではなかった。
なにせこの新魔王城の建築に携わっている者はみんな、ジブライ
ール同様遊ぶどころか仕事が終わるまで、この区域から一歩も出る
ことすらできないのだから。
﹁そうはいっても、この大事業はやりがいがありますよ。まあそれ
に、閣下が各地の様子を転写魔術ででっかく食堂に流してくれたり、
競竜の掛札を買ってきてくれたり︱︱あ、ちなみにこの間の券、当
818
たりましてね!﹂
﹁おお、すごいな!﹂
﹁商品も高級食卓だってんで、家族に手紙で知らせたら、嫁も娘た
ちも大喜びしましてね!﹂
こんなに落ち着かないやつなのに妻帯者なのか、ニールセン。
﹁まあ、結論としては、俺たちもそこそこ楽しんでる、ってことで
す﹂
﹁それならよかった。君らが喜んでくれているというのなら、工夫
したかいもあるというものだ。それに、恩賞会では報償を奮発して
もらえるように頼んであるから、そっちも期待してくれ﹂
﹁それなんですが、閣下。魔王様からの報償より、俺はその⋮⋮﹂
ニールセン、なぜか急にデヘデヘといやらしい笑顔を浮かべる。
﹁閣下のお城にご招待されたいなぁ⋮⋮なんて﹂
俺の城に招待?
千人全員を、か?
できないことはない。というより、物量的には実現可能だろうが。
﹁舞踏会を開くと言うことか? そんなことでいいのなら﹂
﹁いや、閣下。舞踏会じゃなくて、食事会がいいです!﹂
﹁食事?﹂
﹁そうっす﹂
イタチ、こくりと頷く。
現状の食堂でわいわいやるのと、どう違うのだろう。確かに千人
一同をというのは今の食堂では無理だが、そんな事にこだわってい
る訳ではなさそうだ。
大公城という場所の問題か?
さっき高級食卓に大喜びしていたところをみると、高級志向が強
いのだろうか。
819
﹁ああ、いいですね﹂
同意の声をあげたのは、本棟の現場主任を任せている青年で、名
をオリンズフォルトという。灰色の髪に薄氷色のきつい瞳が特徴的
な、魔王様配下の伯爵だ。
俺は二人と完工間近の一室を、設計図片手に確認している途中だ
った。
魔王様へ報告した通り、工事は急ピッチで進んでいる。本棟でさ
えもう外装はほとんどしあがって、あとは細かい装飾と内装を残す
のみとなっている。
大祭が始まって二十日ほど経ったとは言え、本棟といえばこの魔
王城で最も広大な建築物だ。部屋の数も大小あわせて千はくだらな
い。しかも、ちょっと複雑な形になっているし⋮⋮。
それを準備期間あわせて七十日ほどでこの状態とは、驚異的なス
ピードだ。
ちなみに、今いるのは執務室になる予定の部屋だ。
えっと⋮⋮俺があそこから入ってきて、となると、魔王様の執務
机はあっちだろうから、長椅子はここに置かれて、俺が座るのは⋮
⋮。
﹁私は伯爵ですが、以前のジャーイル大公閣下の新任お披露目舞踏
会には同行を許可されませんでした。お許しいただけるのであらば、
閣下の城へ一度、ご招待いただきたいものです﹂
﹁そんで、ぜひ﹂
妄想にふける俺の耳に、二人の力強い声が届く。
﹁アレスディア殿の歓待を﹂
﹁ミディリース殿の接待を﹂
820
⋮⋮。
ん?
なに?
今、なんて言った?
﹁アレスディア?﹂
﹁はい! 閣下の侍女どのがえらい美人だって噂は、この現場まで
届いてきてるんですよ! すごいと思いませんか? 出入りなんて
魔王様と閣下しかしてないのに!﹂
ああ、パレードに参加しているせいで、噂になっているのだった
か。
しかし、ニールセンめ。さっきは愛妻家だと言わんばかりだった
くせに、結局そうなのか!
まあ魔族は所詮、本能に従うものだ。しかもこいつ、欲望に素直
そうだし。
そっちはわからないでもない。だが。
﹁ミディリース?﹂
﹁ええ﹂
にっこりと微笑むオリンズフォルト。
だが、目が笑っているように見えない。
彼の癖なのかもしれないが、そのせいで冷たい印象に感じること
がしばしばあった。
﹁なぜ、ミディリース⋮⋮﹂
彼女と会ったのは、たったの一度だけのはずだ。
しかも、あの時のミディリースはフードを目深に被っていた。
そうでなくとも俺の妹かと疑ったほど幼く見えるあの娘に、まさ
821
か彼は興味を持ったというのだろうか。
﹁もしかして⋮⋮君はいわゆる⋮⋮﹂
ベイルフォウス的な。
﹁ロリ﹂
﹁ここだけの話にしていただけますか?﹂
オリンズフォルトは細く長い指を、そっと自分の唇に立てかける。
﹁特にミディリースには、絶対に明かさないでいただきたいのです
が﹂
随分、意味深だな。
﹁内容による﹂
俺の返答にオリンズフォルトは苦笑を浮かべた。
﹁ごもっともですね。実は⋮⋮﹂
そう繋げはしたものの、理由を言うかどうか逡巡しているようだ。
少したって、彼はようやく思い切ったように口を開いた。
﹁私は彼女とは顔見知りでして﹂
﹁知り合い? だが、ミディリースの方は⋮⋮﹂
オリンズフォルトに反応していなかったようだが。
だいたいオリンズフォルトだって、知り合いとわかったのならな
ぜあのとき声をかけなかったのだろう。
﹁私がミディリースに出会ったのは、子供の頃のことなのです。彼
女はそのままの姿なのでわかりましたが、それでも不安でしたので、
閣下に妹君ですか、とお尋ねしました﹂
﹁ああ﹂
確かに、そうだった。
﹁一方で私は大人になって外見も声音も随分変わってしまったので、
彼女がそうと気付けなくても、無理はありません。この六百年、居
822
場所がつかめなかったので、閣下に同行している姿を見たときには、
正直驚きました﹂
﹁幼なじみ、というやつか﹂
﹁ええ。まあ⋮⋮﹂
そう言ってから、オリンズフォルトは首をかしげた。
﹁いえ、正確には血縁者です。私の祖父と、彼女の祖父が兄弟でし
て。まあ、魔族にしては遠縁なので、それほど親しい間柄でもなか
ったのですが﹂
血縁者?
祖父同士が兄弟ということは、又従兄弟になるわけか。
しかし全く似ていないな。
まあそうだな、従兄弟であるデイセントローズとリーヴでもあれ
だけ違うんだ。
デーモン族だからって似るとは限らないか。
﹁ですので、できれば自分の口から素性を伝え、驚く顔を見ること
ができればと思いまして﹂
なるほど。
一見冷たく見えるが、少しはお茶目な面もあるようだ。
﹁まあ、そうだな。君たち二人の要望は考慮しておこう。他にも同
様に望む者がいれば﹂
﹁もちろん閣下! デヴィル族の男なら誰だって、アレスディア殿
にもてなしてもらいたいに決まってます!﹂
わかった。わかったから、がっしりと腕を掴んで爪をたてるのは
やめろ。
﹁俺の一存で決めるわけにもいかないしなぁ。魔王様に相談してみ
るよ﹂
﹁絶対っすよ!﹂
823
﹁ご招待いただけることを、期待しております﹂
そうして俺たちは、その後は特に雑談で盛り上がることもなく、
淡々と部屋の点検をこなしていったのだった。
824
77.ジブライールさんは僕のことなんて、ちっとも⋮⋮
それにしても、アレスディアの噂はここまで届いているのか。
まあプートでさえ、あれほど興奮したんだもんな。
もともと、アリネーゼに負けず劣らずの美貌、とは言われていた。
その彼女がこれでもかと着飾って各地を練り歩いているんだ。それ
はもう、すごい騒ぎになっているのだろう。
いや、そういう報告はもちろんあがっているんだ。アレスディア
を間近でみた男性が今日は何人倒れたとか、何人から求婚を受けた、
とか。
ただどうもデヴィル族のことなのでピンとこないというか⋮⋮。
俺の領地に来るのはまだまだ先だが、一度様子を見にいってみる
か。今ならベイルフォウスの領地を通っているはずだ。マーミルを
一緒につれて⋮⋮。
﹁閣下。ご一緒して、よろしいでしょうか?﹂
﹁ん?﹂
ふとかけられた声に顔をあげると、ジブライールが畏まった表情
で立っていた。
両手に食事の皿が乗った盆を握りしめている。
ここは一階の大食堂だ。
上に登る階段下の四人席が、初日以来の俺の指定席となっている。
暗黙の了解的な感じで。
﹁あの、お邪魔だったでしょうか? でしたら、私は別の席に⋮⋮﹂
﹁いいや。邪魔であるはずがない。なんでそんなことを?﹂
﹁お一人でお食事なさっておいでなのは、珍しかったもので⋮⋮﹂
825
﹁ああ⋮⋮さっきまでニールセンとオリンズフォルトがいたんだ﹂
﹁そうでしたか。では、失礼いたします﹂
ジブライールはホッとしたように俺の正面に腰掛けた。
ジブライールと食卓を囲むのは久しぶりだ。
いや、久しぶりどころか⋮⋮なんだかテンパって逃げられたあの
日以来だ。俺はあれからも割と頻繁に現場を訪れているのだが、彼
女とはとことんタイミングがあわなくて、しっかり顔を見るのも久
しぶりだった。
おかげでせっかく手に入れた紫水晶の腕輪も未だ渡せずにいる。
今もまさか食堂で一緒になるとは思っていなかったので、部屋に置
いてきてしまって手元にはない。
だが、避けられているのでないのなら、大丈夫だ。後で時間をつ
くってもらえばいいのだから。
今日まで姿をみかけなかったのだって、仕事の都合のせいだと信
じたい。
ああ、そうに違いない!
今だって、向こうから近づいてきてくれたじゃないか!
﹁まさか昼食はこれだけか?﹂
ふと、ジブライールの食事に目をやって、その量の少なさに驚い
た。
中皿に小さな丸いパンが一つと、カップスープが一杯だけだ。
﹁はい。こんなものですが﹂
﹁少なすぎるだろう。こんなもんじゃ、出るもんも出ないぞ﹂
あっ。しまった、食事の席で下品だった。
ジブライールの顔色をうかがってみたが、彼女はうつむきながら、
﹁出るところが出ない⋮⋮﹂とぶつぶつ言っている。
﹁待ってろ、何か取ってくる﹂
826
そう言って立ち上がったのは、自分の発言をごまかす為じゃない。
ないとも。
そうしてカウンターに並ぶたくさんの料理の中からパンを五個、
串刺し肉を数本と色彩豊かなサラダをたっぷり、それぞれ皿に盛り、
煮豆を小皿に入れ、ガラスのグラスに何種類かの飲み物を用意して、
ジブライールの隣に戻る。
﹁えっ﹂
﹁え?﹂
﹁あ、いえ⋮⋮量が多いなと⋮⋮﹂
びっくりした。隣に座ったら駄目なのかと思ったじゃないか。
﹁大丈夫、俺の分もある﹂
俺は食卓に用意された取り分け皿にパンを一つ、サラダをたっぷ
りと肉を二本乗せ、それから煮豆の小皿と飲み物を一緒にジブライ
ールの前に置いた。
﹁せめてこれくらいは食べられるよな?﹂
﹁あの⋮⋮はい⋮⋮﹂
多すぎたのだろうか。
﹁無理だったら残してもいいから⋮⋮俺が食べるし﹂
﹁えっ⋮⋮いえ、だ、大丈夫です﹂
ジブライールはサラダを口に運ぶ。
﹁それにしたって、普段からそんなに小食なのか?﹂
前に一緒に食べたときはどうだったっけ?
⋮⋮ああ、スープだけ飲んで逃走したんだった。
その前は?
正直、一緒に食卓についた記憶はほとんどない。
﹁あ、いえ、特に小食という訳ではないのですが⋮⋮今はその⋮⋮
ダ⋮⋮﹂
827
﹁ダ?﹂
﹁ダイエット中⋮⋮で、して⋮⋮﹂
﹁えっ。なんで﹂
俺は少し離れて彼女の体に視線を這わした。
﹁痩せなきゃいけないところなんて、どこもないよな?﹂
出るところは一応出てるし、締まるべきところは締まっている。
足だってすらりとして、背が高いせいもあってか、むしろ華奢に
見えるくらいなんだけど。俺の好みからいうと、もう少し肉がつい
ててもいいくらいなんだけど。
﹁か、閣下!﹂
ジブライールはこちらに背を向けた。
﹁あの、あまり見ないでください!﹂
﹁あ、ごめん! 失礼した﹂
しまった! 女性の体型をチェックするなんて、確かに不躾だっ
た。
俺は慌ててジブライールから顔を背ける。
﹁やっぱり、前に座るよ﹂
横に座ったから、間近にじろじろ見るようなことになってしまっ
たんだ。
正面だったら机が邪魔して、少なくとも体型をじろじろ見るなん
てことは避けられる。それならジブライールも気にしないでいてく
れるはず。
俺が正面に座り直すと、ジブライールもこちらに向き直った。
﹁いや、それにしてもさっきもカセルムたちと話してたんだけど、
本当にみんな仕事熱心で⋮⋮﹂
話題の転換が、わざとらしかっただろうか。
大丈夫、そんなはずない。
828
俺は串焼き肉を手に取り、続けた。
﹁まさかこの規模のものが七十日ほどでここまで出来上がるだなん
て、予想を遙かに大きく上回る結果に驚いてるよ。しかもこんなち
ょっと変わった建て方なのに﹂
﹁魔族にとって家とは﹂
ジブライールが、咳払いをして応じてくれる。
﹁一度建ててしまえば、その後は数百年、簡単な手入れでもつもの
です。よって新しい建物を建造することなどほとんどなく、その才
のある者はいつも仕事に飢えております。久しぶりに一から建設に
関われる、それもこのような大事業の一員として、となれば、張り
切るのも無理はありません﹂
﹁それに、百年に一度のコンテストにもちゃんと参加したいし、だ
な。まさか大祭自体より、そっちが原動力になるとは思わなかった﹂
ジブライールはぴくりと眉を震わせた。
﹁閣下は⋮⋮どなたへ投票なさるか、もうお決まりですか?﹂
﹁あー。魔王様にも聞かれたんだけどな⋮⋮﹂
﹁あ、いえ! 実名は言っていただかなくて結構です!﹂
ジブライールは慌てたように手の平を突きだしてきた。
そんな⋮⋮食事の席の軽い雑談で、興味の一欠片もないと言わん
ばかりの態度を取らなくてもいいのに⋮⋮。そう思うのは俺だけだ
ろうか。
﹁ち⋮⋮ちなみに、私は決まっています!﹂
﹁へえ⋮⋮﹂
でもここで誰に、とか続けちゃいけないんだろうな。
﹁閣下に投票するつもりです!﹂
⋮⋮。
へ?
829
閣下って言ったか?
この場合、閣下って言うのはつまり⋮⋮。
﹁え、俺?﹂
﹁ご、誤解しないでいただきたいんですが!﹂
﹁はい!﹂
ジブライールは机をバンと勢いよく叩いて立ち上がった。
串焼き肉が皿からころりと転げ落ちる。
誤解も何も、まだ﹁俺?﹂と、聞き返してみただけなのだが、な
ぜそんなにご立腹なのかわからない。
﹁私が自分の名を書いて投票するのは、決して閣下のことが⋮⋮す
⋮⋮す、す⋮⋮﹂
しかもジブライールの名前を書いてなんだ。
﹁好きだから、とかじゃなくて!! ただ、閣下に投票する者が多
いと推測できますので!!﹂
﹁え? そうかな⋮⋮﹂
﹁閣下がそんな誰ともわからぬ女性の元へ、奉仕に行かねばならぬ
という事態に陥るのを、私が一票投じることによって、少しでも可
能性を減らすべく⋮⋮だから、決して好きだからとかじゃなくて!
好きだからとかじゃないんです!! 本当に、断じて、好きなん
かじゃないんです!!! 間違っても、好きなんかじゃ!! むし
ろ、それが唯一の女性副官としての務めであると思う一心からなの
です!!!﹂
そんな怒りで顔を真っ赤にしながら、何度も否定しなくても⋮⋮。
義務感からなんだよね。わかったよ。
ぐさりとくるんだけど、結構ぐさりと突き刺さってるんだけども。
何これ⋮⋮公開処刑?
ものすごく周囲の目を集めていることに、ジブライールさんは気
830
づいているのだろうか。
ここが大食堂だと忘れているのではないだろうか?
たとえ昼食の時間には少し遅く、三十人ほどしかいないとはいえ。
﹁あの⋮⋮ジブライール。別に好きでもなんでもない俺のことなん
て、そんな気にしてくれなくていいから⋮⋮﹂
俺は頭を抱えるようにして、食卓に肘をついた。
ちょっと泣きたい気分になってしまったから、顔を隠した、とか
いう訳ではない。本当に違うから。
﹁な⋮⋮なんでもないわけではありません! 私は、部下として⋮
⋮閣下の副官として、ただその、義務を果たすべく!﹂
﹁ああ、うん⋮⋮副司令官として気を使ってくれてるんだよね、あ
りがとう﹂
あああ、心臓が痛い。
﹁でも副司令官であろうと、上司の私生活にまで気を使ってくれる
必要はない。それ以前の話として、奉仕するのは一位になった者だ
けなんだ。俺が選ばれる可能性なんてない。だからジブライールは
ちゃんと、自分の入れたい相手に投票し﹂
﹁一位に決まってます!!﹂
またもやジブライールさんのバンが炸裂!
煮豆もドン!
﹁え、いや⋮⋮ベイルフォウスとか、魔王様とか、ほかにも美形の
魔族なら⋮⋮﹂
﹁誰よりも、閣下が一番素敵です!!﹂
えっ!
今のは誉められたんだよな?
怒られたんじゃないんだよな?
﹁あ、ありがとう﹂
831
いや、それよりも⋮⋮。
﹁ジブライール﹂
﹁なんでしょうか!﹂
そんな﹁どうぞご命令を﹂、みたいな強いノリで叫ばれても。
﹁人目、が⋮⋮﹂
俺の言葉に、ようやくジブライールは周囲の状況に気がついてく
れたようだ。
そう、あんなに賑やかだった食堂が静まりかえり、目立たないは
ずのこの隅の席に全員の視線が集まっているという、この状況に。
しかもその大多数が、ニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべてい
るという、この状況に!
ジブライールは周囲を見回した後、半ば放心したような表情で俺
を見つめてきた。
﹁私⋮⋮今、何か、く⋮⋮口走り⋮⋮ました⋮⋮か?﹂
閣下が一番素敵です!
ひゅーひゅー﹂
﹁俺のことなんて好きじゃ﹂
﹁
ベイルフォウス閣下や魔王陛下なんて、目じゃありません
﹂
俺の言葉を遮るように、ちゃかすような声が背後から挙がる。
﹁
捏造するな!!
やめろ、誰か知らないけどやめろ!
いたたまれないだろうが!!
﹁ひゅーひゅー﹂
﹁ひゅーひゅー﹂
口笛を吹く輩、口で言う輩、バカどもが後ろで騒がしい。
おかげでジブライールの顔が真っ赤に染まり、その手がプルプル
832
と震え出したではないか!
﹁ち、違うんです。私はべつに、そういう特別な意味でいった訳で
は⋮⋮﹂
いつもの毅然としたジブライールからは、想像もつかない弱々し
い声が漏れる。
﹁いや、俺は誤解してないから。今のはあれ⋮⋮客観的に見て、誉
めてくれたんだよな? わかってるから、俺は⋮⋮﹂
その前にさんざん好きじゃないって宣言されたしな。否定されま
くったもんな。
﹁閣下は⋮⋮﹂
ジブライールの声は震えていた。
﹁閣下は何もわかってません!!﹂
そうして三度目のバンを披露して、ジブライールは食堂から走り
去った。
えっ。
俺が悪いの?
今の、俺が悪かったの?
えー?
﹁全く、閣下も隅におけませんなぁ﹂
背後からにやついた声があがる。
俺は口を開いた。
﹁今⋮⋮見たことを、おもしろおかしく誰かに話したり、いいや、
そうでなくとも一言でも誰かに漏らしたりしたら﹂
殺気を込めて、背後を振り返る。
﹁命はないものと思え﹂
喧噪はピタリと止んだ。
833
﹁沈黙を誓えない奴は、今すぐ前に出ろ。この場でその命を終わら
せてやる﹂
じりじり、と、俺から距離を取ろうと後退る三十人。
﹁ジブライールに恥ずかしい想いをさせても同罪だ﹂
俺はぐるりとこの場にいる全員の顔を見回し、一人残らず脳裏に
叩き込んだ。
﹁今すぐ忘れろ。記憶の彼方に追いやれ。でないと⋮⋮わかるな?﹂
三十人全員が、俺の言葉に一斉に頷く。
そうして俺は、結局その日もジブライールに腕輪を渡し損ねたの
だった。
ジブライール⋮⋮俺のことなんか、好き⋮⋮じゃ、ないんだよ⋮
⋮な?
834
78.今日のウィストベルには我が目を疑いました
毎日挙がってくる主行事の報告書の中で、もっとも面倒な処理が
必要なのは爵位争奪戦に関するものだ。
誰と誰が戦い、どちらが勝ったのか。
勝者が応戦者であれば何も問題はない。恩賞会の受賞者一覧にそ
の名を載せるだけのことだ。だが、挑戦者が勝った場合には、いろ
いろと煩雑な手続きが生じる。
普段なら爵位をかけての戦いがあった場合は、応戦者本人かその
家人、あるいは家臣なりが所属する大公に届け出ればいい話だが、
今回はそれではすまない。
なにせ数も多いし、応戦者は自分の領地で挑戦に応じている訳で
はないからだ。
一応、各領地から紋章管理士や書記官が派遣されているが、その
情報は一旦大会運営本部にあげられ、そこから魔王城の紋章管理官
を通して正式な手続きが踏まれることになっている。
なにせ、もともと届け出ていたものだけでも、千を越えていたほ
どだ。それも日を追うごとに飛び入りが増えているらしく、毎日あ
がってくる数たるや、すさまじい量になっている。
﹁恩賞会が大変だな﹂
爵位争奪戦の勝者、競竜の勝者、音楽会で特に演奏の見事だった
者、舞踏の優れた者、パレードに参加の全員、美男美女コンテスト
の上位入賞者、主行事だけでもこれだけの者に報償が与えられる。
そこへ新魔王城の建築に関わっている千人が加わり、その他にも
大祭において特に活躍したもの、普段の地道な努力の成果を表彰さ
れる者、その他諸々。そのすべての受賞者に、魔王様手ずから報償
835
や目録を与えられるのだ。
﹁そりゃあ、いくらかは代表に目録を渡すだけとはいっても、二十
日はいるわけだ。魔王様も大変だな﹂
﹁主が慮る相手はルデルフォウスだけか?﹂
耳元で、妖艶な声が響く。
﹁! ⋮⋮ウィストベル!?﹂
横を向くと、白皙の美貌が間近に迫っていた。
近い!
なんで俺は気配に気づかないんだっ!
⋮⋮て、あれ?
後ろにのけぞり、目をこする。
やっぱり俺の目、ちょっとおかしいのか?
この間のベイルフォウスの魔力だって⋮⋮。
ごしごしやっていると、腕を取られた。
﹁見間違いではないぞ。主の目は正常じゃ﹂
ウィストベルは上機嫌だ。
だが、その身に纏う魔力は︱︱。
﹁邪鏡ボダスを使ったんですね﹂
百分の一になっていた。
﹁さすがに私とて、いきなり本番に使うには不安があるのでな﹂
そりゃあそうだろうが。
﹁大丈夫ですか? その⋮⋮﹂
﹁何がじゃ?﹂
そうですよね。百分の一と言ったって、大公にとどまっていられ
る程の実力はお持ちですもんね。侯爵程度に落ちた俺とは違います
よね。
836
﹁私はそれほど物足りぬか? そうじゃの。今の主から見れば、そ
うかもしれぬの﹂
いや、物足りないっていうか⋮⋮。
どうしたことだ、これは!
ウィストベルなのに⋮⋮。
ウィストベルなのに!
怖 く な い !
怖くないんだ!
むしろ、頼りなげに見えて⋮⋮。
やばい。
これは駄目だ。やばいだろう。
﹁鏡は持ってきましたか?﹂
﹁いいや﹂
﹁えっ! じゃあ、まさか自分の城からこのまま!?﹂
﹁もちろんそうじゃ﹂
ウィストベルはこくりと頷いた。
﹁だっ⋮⋮何してるんですか! 万が一のことがあったらどうする
んですか!? もっと気をつけないと!﹂
﹁万が一とは何じゃ?﹂
﹁いや、万が一って言うのは⋮⋮﹂
待て。落ち着け、俺。
大丈夫だ。
今のままでもウィストベルは十分強い。
837
大公が相手でもなければ敵わない程には!
⋮⋮いや、待て。でもほら、万が一⋮⋮万が一、こんな時に限っ
て卑怯な輩が沸いて⋮⋮俺にしてきたように、公爵が数人がかりで
やってきたりしたら。
﹁予定は?﹂
﹁何のじゃ?﹂
﹁これから今日はどうされる予定なんです? 魔王様のところへお
いでですよね?﹂
そうだと言ってくれ。なら俺も安心できる。
魔王様が守ってくれるだろうから。
﹁いいや、少し舞踏会に顔を出して﹂
﹁なら、お供します!﹂
俺は立ち上がった。
こんな状態のウィストベルを、一人で放っておけるか。
﹁もちろん、そのつもりじゃ﹂
ウィストベルは艶やかに笑った。
***
﹁お願いだから、大公位争奪戦で使うにしても、戦う直前に魔力を
減らすようにしてください﹂
ウィストベルの腰に手を当て、踊りながらそう言うと、彼女は表
情をほころばせた。
﹁どうかの⋮⋮むしろたまにはこうして弱くなってみせるというの
も、良いのではないかと思っているところじゃが﹂
﹁なんでそんな⋮⋮やめてください。こちらがハラハラします﹂
﹁ふふ⋮⋮﹂
いや、俺は本気で心配してるんだけど。なんでそんなに楽しそう
なの、ウィストベル。
838
﹁存外心配性じゃの。が、しているのはハラハラだけか?﹂
﹁⋮⋮﹂
いや、白状すると、ドキドキもしている。
だってそりゃあそうだろう!
怖くないウィストベルなんて、ただの絶世の美女なんだから!
この上なく妖艶な、絶世の美女なんだから!!
今日だって背中のざっくりあいた、深いスリットの入った黒のド
レスで、扇情的なことこの上ない。
しかも髪をあげているから、こう⋮⋮踊るのに抱きしめていると、
うなじからくっきり浮いた肩胛骨が丸見えで、くびれた腰のせいで
なんならその下の割れ目も⋮⋮いや、なんでもない。
華奢な首に輝くダイヤモンドの首輪が重そうなのがまた⋮⋮だか
ら、なんでもないって!!
だがウィストベルにそう正直に告白する訳にはいかない。
今後の事を鑑みても。
⋮⋮。
もっとも、バレているような気はする。
﹁少し、休むか?﹂
三曲続けて踊ったところで、ウィストベルに手を引かれた。
﹁あ、はい⋮⋮﹂
休むってそうじゃないから!
踊りを一時中断するって意味だから!
勘違いするな、俺!
俺とウィストベルは給仕から飲み物を受け取り、壁際に置かれた
一人掛けのソファに並んで座る。
839
間に丸テーブルを挟んで、軽食や飲み物を愉しみながら踊りを観
覧できるように配置してあった。
﹁ベイルフォウスに魔力を返したようじゃの﹂
ああ、ほら。やっぱりちゃんとチェックしてる。
いやまあ、俺たちの目だと一目瞭然なんだけども。
﹁返すには返したんですが⋮⋮なんかちょっと⋮⋮気持ち悪い結果
になったというか⋮⋮﹂
﹁というと?﹂
﹁いや⋮⋮ベイルフォウスの魔力って、あのくらいでした?﹂
﹁心配せずとも、あの程度じゃ﹂
ウィストベルにしたら、俺もベイルフォウスもそんな程度、か。
﹁なんじゃ? 違ったというのか?﹂
﹁いや⋮⋮もうちょっとあったような気がするんですよね﹂
﹁主はもしや、相手の魔力を自分の魔力との比較で測っておるので
はなかろうな?﹂
﹁そうですが﹂
いちいち、相手の魔力の量を細かく覚えていられるはずがない。
俺の魔力は子供の時から増減していないのだから、それを基準と
するのは当然だろう。
ウィストベルは違うのだろうか?
﹁なるほどの。それで、か﹂
それでか?
ウィストベルはなにやら意味ありげな視線を寄越してくる。
﹁どういう意味ですか?﹂
﹁主はこう考えぬのか? ベイルフォウスの魔力が減ったのではな
い。自分の魔力が増えたのだ、と﹂
840
﹁そんなバカな﹂
重ねて言うが、俺の魔力は子供時分から微動だにしていない。
なぜならもっとも平穏に暮らせるのは男爵であり、そうしてその
地位を維持するに、すでに十分すぎる魔力を有していると幼少の頃
に悟ったからだ。その時点で、魔力を増幅させるための努力はいっ
さい放棄した。
結果、ちょっとしたトラブルで大公の地位についてしまったが、
だからといって現状維持の方針を変えようとは思わない。
﹁あり得ません。俺はなにもしてませんし、そんな急に増えたら⋮
⋮﹂
そう。俺はなにもしていない。
急増すれば気づくはずだ。
だが、増えたとしても不自然に感じない機会がなかったわけでは
ない。
俺は一度、魔力を失った。それが戻るタイミングで増えたのなら
ば、その事実を見逃してしまったとしてもおかしくはない⋮⋮のか
もしれない。
ならばあの邪鏡ボダスに増幅の能力が備わっていた?
それとも⋮⋮。
﹁ウィストベル。あのとき俺に、何かしましたか?﹂
﹁あの時とは、いったい何時のことかの?﹂
ウィストベルは嘯いてみせる。
あの時というのはもちろん、俺の魔力が戻ってきたその時だ。
側にいたのはウィストベルとミディリース。
間違っても、ミディリースにそんな能力があるとは思えない。
それにウィストベルは俺の魔力を引き上げる方法がある、と言っ
ていたじゃないか。
841
﹁したやもしれぬし、しなかったやもしれぬ。主が強くなったのは、
邪鏡のせいかもしれぬし、そうでないかもしれぬ。あるいはミディ
リースの能力、という可能性もあるぞ?﹂
はぐらかすようにいって、ウィストベルは嫣然と微笑む。
したな。確実に何かしただろ。
だがどのタイミングで? どうやって?
﹁魔力が増える、といえば、あ奴はどうじゃ?﹂
ウィストベルの瞳が、すっと細まる。
﹁あ奴⋮⋮デイセントローズ、ですか?﹂
奴はともかく、その母親は衝撃だった。もうこのところのデイセ
ントローズといったら、それしか印象にないくらいだ。
﹁そうじゃ。今のところ、この城でみかける分には魔力も変わって
おらぬようじゃが⋮⋮﹂
﹁ええ、俺にもそうみえます﹂
そう。別にラマの魔力は増えていない。
﹁だが、今後もそうとは限るまい。注意しておく必要があるとは思
わぬか?﹂
﹁大公位争奪戦に向けて、ですか?﹂
それは俺も考えていたところだ。
いくらでも強くなれると知って、上位への野心を抱かぬ魔族はい
ないだろう。
⋮⋮いや、俺は考えてないし、デイセントローズと同じ能力を持
つリーヴにもその気はなさそうだが。
﹁奴がこのままでいると思うか? 私はそうは思わぬ。必ず、魔力
を増強してくるはずじゃ﹂
﹁そうですね⋮⋮俺も、それは思います﹂
﹁注意しておく必要があるじゃろうな﹂
842
だが、能力を知っているからと言っても、それを阻止できる訳で
もないからな。
もっとも、ウィストベルはデイセントローズを脅威に感じた時点
で、抹殺するつもりでいるのかもしれないが⋮⋮。
﹁せめて、一度に増える魔力の量がわかればの⋮⋮予想もつくのじ
ゃが﹂
一度に強くなる量、か。
そろそろリーヴにお願いしてみるべきかな⋮⋮。辛いとは思うが、
俺の目の前で呪詛を受けてみてくれないか、と。
もちろん、リーヴとデイセントローズが同じように成長するとは
限らないが、それでも多少の指標にはなるだろう。
﹁ところで、のう、ジャーイル﹂
どうしたことか、急に声に艶を混ぜてくるウィストベル。そして
丸テーブルの上でグラスに当てた手をほどかれ、ぎゅっと握られる、
俺。
﹁強がってはみたが、こんな話をしているくらいじゃ⋮⋮やはり私
もいろいろ不安での。今日のところは、我が城まで送ってもらえる
と嬉しいのじゃが⋮⋮﹂
ここにきてこの上目遣いだ!
やばい、なんなんだ今日のウィストベル。
なんでいつもみたいに強引な感じで迫ってくれないの。
せめてそれなら拒めるのに⋮⋮少しは拒めるのに!!
⋮⋮いや、本当に不安だからなのかもしれない!
だから、すまない妹よ。でもお兄さまだって男なんだ⋮⋮男なん
だよ。
﹁もちろん、城までお送りします﹂
843
﹁できれば、魔力を返すそのときまで、一緒にいて欲しいのじゃが
⋮⋮﹂
ウィストベルは立ち上がり、俺の手を握ったまま俺の前に立ちは
だかった。そうして、残る一本の手で俺の手を握りしめ⋮⋮。
﹁これでも私は、主を頼りにしておるのじゃ﹂
そんな間近で前屈みにならないでください!
俺の理性を試しているのか?
試されているのか、俺は!
﹁ジャーイル閣下、こちらにおいででしたか!﹂
慌てたような声に意識がそれる。
ウィストベルは舌打ちをし、その闖入者を振り返った。
﹁何じゃ。騒がしい!﹂
﹁ひ⋮⋮ウィストベル閣下⋮⋮﹂
﹁まったく、いいところで邪魔をしてくれる﹂
さっきまでの甘い雰囲気はどこへやら、ウィストベルの全身から
殺気が立ちのぼる。
相手が萎縮したのが、一目瞭然だった。
だが⋮⋮怖くない。
俺はちっとも怖くない。
いや、怒ってるってのはわかるし、そういう意味で気は使うが⋮
⋮いつもの本能的なヒュンっていうのが全くないのだ!
なんだろう、これ。ものすごく新鮮だ。
感動すら覚えるではないか。
もしかして、魔王様やベイルフォウスから見るウィストベルって、
いつもこんな感じなのだろうか。
だとすれば、あの兄弟の彼女への執着にも理解が及ぶというもの
だ。
844
それともあれか。これがギャップ萌え、ってやつか?
﹁まあまあ、ウィストベル﹂
余裕の俺。ご機嫌でウィストベルをなだめる。
﹁急ぎのようですし、とにかく話を聞いてみましょう﹂
どうせ大した事でもないだろう。
﹁で、何があっ﹂
﹁閣下、マーミル様の一大事です! すぐに城にお戻りください!
!﹂
ほらね、そんな大したことでも⋮⋮。
⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
なんだと!?
845
79.妹の一大事は二度目どころではない気がします
﹁その、マーミル様が大きくなられて⋮⋮今はベイルフォウス様が
抑えてらっしゃいますが﹂
使者の説明は、全く要領を得ない。
マーミルが大きくなった?
ベイルフォウスが抑えてる?
なにそれ。巨大化したとでもいうのか?
そういえば昔読んだ人間の本に、魔術師が作った秘薬で巨大化し
た主人公が、町を襲ってくる竜と取っ組み合いの戦いを繰り広げる、
という、子供向けの絵本があったな。主人公の巨大化は三分が限度
で、毎度きわどいところで竜を撃退するのだが、そのたびに肝心の
町の上で暴れてしまうので、建物はつぶれ、けが人が続出し⋮⋮。
最初はそれでも感謝されていたのだが、結局は憎まれて町を追い
出されるという、読後感の微妙な話だったのを覚えている。
⋮⋮って、そんなことはどうでもいいんだ!
とにかく俺は、ウィストベルを送り届けることを断念し、我が<
断末魔轟き怨嗟満つる城>へと竜を飛ばした。
居城へ着くなり、マーミルのいる居住棟へと駆け込む。
﹁お帰りなさいませ、旦那様﹂
いつもは冷静なエンディオンの声にも、焦りがにじんでいる。
﹁意味がわからないんだが、マーミルがどうなったって?﹂
﹁それが、よからぬ物を口にされたらしく、とても興奮しておいで
846
でして﹂
﹁大きくなったってなんのことだ? 巨大化でもしたのか?﹂
﹁それは⋮⋮実際に、ご覧いただいた方が、理解が早いと思われま
す﹂
俺とエンディオンは、とにかく妹の部屋に急いだ。
﹁わかった。わかったから、落ち着け、マーミル!﹂
部屋に近づくにつれ、ベイルフォウスの声が聞こえてくる。
奴のこんな慌てた声を聞いたのは、知り合って以来初めてといっ
ていい。
それに続いて甲高い笑い声が響いた。
マーミルの声ではない、もっと大人の女性の声だ。
まさかあのユリアーナか?
﹁マーミル﹂
俺が妹の名を呼んで部屋に入ったとたん。
﹁お兄さまだぁ!﹂
けたけた笑うその声が近づいてきた。
声の主は女性?
この顔だちには見覚えが⋮⋮。
母⋮⋮上⋮⋮?
そんなはずはない。それにどこか、母とは雰囲気が⋮⋮。
その母に似た誰かは、ためらいもなく俺に抱きつく。
﹁うふふふふ。お兄さま、いつもよりなんだか小さいー﹂
ちょっと待て!
ちょっと待て!!
俺は彼女の両肩に手をおき、その体を引き離した。
847
確かにどこか母の面影がある。例えば俺と同じ赤金色の髪、たま
ご型の顔立ち。けれど、この父にそっくりの鮮やかな赤のこの瞳は
︱︱。
﹁マーミル!?﹂
﹁大当たり∼!﹂
そう言ってその女性︱︱妹は、再び俺に抱きついてきた。
***
﹁説明してもらおうか!﹂
貧乏揺すりがうっとおしい?
知るか!
俺は今、マーミルに抱きつかれながら、居室の長椅子に腰掛けて、
足をダンダンと床に打ち付けている。
この状況で平静でいられるか!
見るがいい、我が妹の姿を!
せいぜい俺の腹のあたりまでしかなかったその頭頂部が、今は顎
に届くほどの高さにある。
細い手足もすらりと伸びて、少しばかりぷにぷにしていたお腹か
らはすっかり贅肉がとれ、均整のとれた成人女性のそれに⋮⋮あ、
肝心なところだけは、母に似て平らだが。
つまり妹は、大人の女性の姿に成長しているのだ。
そして、その態度は奇妙極まりない。
さっきからずっと上機嫌でにこにこしているし、時々奇声みたい
な笑い声をあげる。
これってあれか?
848
思春期ってやつか?
いや、違う。絶対に違う。
目の前には珍しく、両手で頭を抱えるようにして座るベイルフォ
ウス。どこからどう見ても、落ち込んでいる。
だが、そんなこと知るか!
﹁なんだこれは。どうしてこんなことになっている! いったい何
を飲ませた? 魔族に効く薬なんてそうそうないはずだ。しかも、
こんなおかしな効力のあるものなんて⋮⋮﹂
﹁うふふふふ﹂
目が合うと、マーミルは何が楽しいのか笑ってみせた。
﹁いや⋮⋮薬っていうか⋮⋮つまり⋮⋮﹂
ベイルフォウスが顔をあげる。
その表情には苦悩の色が濃い。
﹁催淫剤⋮⋮﹂
その言葉を耳にした瞬間、どう動いたのか自分でも覚えていない。
ただ、気がついたら俺はベイルフォウスを殴り倒していた。
﹁見損なったぞ、ベイルフォウス。よくもそんなものをマーミルに
飲ませてくれたな!﹂
本気でロリコンだなんて疑っていなかったってのに!
いや、ロリコンてのは少女の姿のままがいいということだから、
大人の姿に変えるというのはつまりロリコンではないことに⋮⋮っ
て、そんなこと考えてる場合か、俺!!
﹁⋮⋮悪い﹂
口の端についた血を拭いながら俺を見上げるベイルフォウスには、
849
いつもの挑発的な態度はみじんも見られない。
反省しているのは黙って殴られたことでわかる。だが、だからと
いってマーミルに催淫剤なんぞというものを飲ませた事実が消える
訳ではない。
﹁お兄さま、違うわー。ベイルフォウス様にもらったんじゃないわ、
私が勝手に飲んだんですのよ﹂
﹁なんだって?﹂
こんな緊迫した状況でも、マーミルの陽気さは変わらない。いつ
もならもっと、涙目になったりオロオロしたりすると思うのだが。
これは催淫剤の効果なのか?
﹁だってぇー、あんまり綺麗で美味しそうだったからー。ふふふ。
きっと何か特別なお菓子だとおもったのー。それにそう⋮⋮お菓子
が言ったのよー。食べてー。僕を食べてーって﹂
﹁こうなるとわかっていて、わざと飲ませた訳ではないんだな?﹂
﹁それはない。兄貴の名に誓って。だが、俺がうかつだったことに
は違いないんだ。落としたことに気づきもしなかったんだからな﹂
俺は真剣そのもののベイルフォウスに頷いてみせる。
ベイルフォウスは催淫剤を持ってはいたが、なにも今日俺の城で
自分が使おうとしてのことではなかったのだという。むしろ魔王様
の城で使った後で、その残りがポケットに入っていたのだとか。
そうして誰も頼んでいないというのに、余った分を俺にくれよう
と思いついたそうだ。以前から、不能に効く薬がどうとか言ってい
たが、その催淫剤がその強精剤なのだという。
よけいなお世話だ!!
別に俺は不能でもなんでもない!
そうして<断末魔轟き怨嗟満つる城>にやってきてみれば、結局
850
俺とは入れ違い。
それでベイルフォウスは、俺が帰ってくるまでマーミルの相手で
もしていようと考えた。
ちょうど野いちご館に行きかけていた双子とマーミルを呼び止め、
庭園の四阿で四人で茶を飲んで楽しんでいたようだ。
だが顔見知りの女性を見つけて中座した。そうして女性の元から
四阿に帰ってみると、暑いと言ってぐったりとするマーミルと、そ
れに慌てる双子の姿があった、と。
何があったのかと問いただすベイルフォウスに、双子はこう説明
した。
ベイルフォウスの座っていた場所に、丁寧に包装された宝石のよ
うに綺麗な赤いあめ玉が落ちていたのだという。
そう、それが催淫剤なのだった。
大きさは小豆大で弾力があり、口に含むと甘ずっぱい味がするの
でそのまま舐めて飲むことが多いらしい。水溶性で水に溶かせば赤
く濁るらしいのだが︱︱おい、いつもお前が飲んでいる赤い飲み物
は、のはそれなんじゃないだろうな、と問いかけると、ベイルフォ
ウスは首を左右に振った。
﹁いいや、俺には必要ない。ただ、複数じゃなくて一人の相手と朝
から晩までやろうと思ったら、途中で相手の体力が﹂
﹁わかった。もういい﹂
内容についてうかつに質問するのはやめておこう。
とにかく双子によると、それを見つけたマーミルがお菓子と勘違
いして食べた途端、急に暑いと言い出し胸を押さえて苦しみだした
らしい。
そうして双子とベイルフォウスの見守る中で、マーミルの姿は徐
々に体積を増していき、最終的に俺に抱きついている今のこの姿に
851
変化して止まった。
この姿になってからは、苦しいのは引いたようで、代わりにこの
奇妙に陽気なマーミルができあがった、というわけだ。
拾い食いなんていう行儀の悪いことをしたマーミルにも、非がな
いわけではないということか。正気に戻ったら、懇々と言い聞かせ
る必要がありそうだ。
﹁それでなぜ、その催淫剤が原因だと判断したんだ? 他の物のせ
いかもしれないだろう? それとも何か、おまえは普段から年端も
いかない子供にそいつを飲ませては、大人にして⋮⋮﹂
それ以上は口に出すのもはばかられた。
﹁まさか! 確かに女なら誰でもいいのは認めるが、それは相手が
成人している場合に限ってだ。だいたい、子供を大人にしなきゃい
けないほど、相手に不自由していない﹂
だ、そうだ。
まあ、それはそうだろう。
﹁催淫剤が原因だと思ったのは、単純にそいつを口にした途端の変
化だったということがまず一点。それに、大人が飲んでも最初は暑
く感じるものだし、胸が締め付けられるようになるのも共通した症
状だからな﹂
﹁それで、なぜ医療棟でなくマーミルの私室に?﹂
﹁とにかくそのままだと服が小さすぎた。窮屈そうなのを解消した
かったのと、あまりにもマーミルが陽気すぎてな⋮⋮いったん、人
目を避けた方が無難だと思ったんだ。それでたまたま現場を目撃し
ていた従僕にお前を呼びにやらせて、エンディオンに頼んでこの私
室に案内してもらったというわけだ。それに俺は、お前と医療班と
の関係も知らないからな。あ。もちろんだが、着替えは侍女にやら
せた﹂
852
俺と医療員との関係。
俺の弱点にもなりかねないマーミルの異常事態を、知らせていい
相手は限られるだろう、ということか。
するとなにか⋮⋮ベイルフォウスの所では、医療班は警戒すべき
組織なのだろうか?
﹁配慮には感謝するが、医療員たちとの関係は良好だ。それでその
催淫剤とやらは、まだ残ってるのか?﹂
﹁いや⋮⋮残ってた分は、医療班に回した。マーミルを診せていい
かはお前の判断を仰ぐべきと思ったが、催淫剤なら問題ないだろう。
無理かもしれんが、マーミルの状態は伏せて、分析と対処薬の作成
を命じてある﹂
やるべきことはやった訳か。
﹁で、これからマーミルはどうなる? そもそもなぜ、大人になっ
ているんだ﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁私が大人? 本当に?﹂
そういって、マーミルは俺に抱きつくのをやめて、自分の体を見
下ろした。
﹁あははは。本当だ、大人になってるー﹂
ソファの上でぴょんぴょん跳ねる。
俺もつられて体が弾む。
﹁おい、催淫剤ってのはこんなに陽気になるものなのか?﹂
﹁確かに、この薬のことはよく知ってる。だがそれは大人に使用し
た場合のことだ。正直言って、子供が飲んだ場合のことは、全く予
想がつかない。⋮⋮すまん﹂
﹁大人だと、どうなるんだ? さっきの症状の後は⋮⋮﹂
853
﹁お前にも想像つくとは思うが、誰を見ても欲じょ⋮⋮いや、淫ら
⋮⋮⋮⋮体中のあちこちが敏感になって、血が沸騰する感じがいつ
までも続いて、何度やっ⋮⋮⋮⋮気がくるっ⋮⋮いや。つまり、だ
な⋮⋮﹂
マーミルに配慮してだろう。ベイルフォウスは言葉を詰まらせた。
﹁その説明で十分だ﹂
俺はため息をついた。
﹁マーミルがそんな風になってないのは一目瞭然だ。⋮⋮興奮ぎみ
ではあるが﹂
ベイルフォウスがじっとマーミルを見つめる。その目には、他の
成人女性に向けられる時のような淫靡な色はない。あくまで、子供
であるマーミルに向けるのと同じ視線だ。
﹁通常なら効果は一日もつかどうか、という程度だが⋮⋮﹂
さっき自分で言ったとおり、子供に使ったことがないので全くど
うなるか予想を立てられないのだろう。
﹁自然に抜けるのかもしれんが、このまま放っておくという訳には
いかない。とにかく一度、医療班の診察を受けさせてみよう﹂
俺は妹の手を取って、彼女を立たせた。
﹁どこへ行くんですの? もしかして、また一緒にお出かけしてく
ださるの? だったら私、今度は大人の舞踏会に参加してみたいわ
! せっかくこんな姿になってるんですもの、素敵な男性と華麗に
踊るの!﹂
マーミルは無邪気に手を合わせた。
﹁駄目だ﹂
俺とベイルフォウスの制止する声が重なる。
二人からきつい口調で言われたマーミルは、びっくりしたような
表情を浮かべ、それからウルウルと、赤い瞳をにじませた。
854
﹁そんな、二人して怒らなくても⋮⋮﹂
﹁怒ってない。怒ってないから⋮⋮﹂
俺は妹の目からこぼれかけた涙を拭う。
﹁俺がつれてく﹂
妹の頭を撫でていると、横からベイルフォウスがやってきて、妹
を横抱きに抱き上げた。
﹁うふふふふ。たのしーーい! ベイルフォウス様、回ってー﹂
﹁ああ、後でいくらでも回ってやるから﹂
さっき泣いたと思ったら、もう笑っている。
もともと感情の起伏は激しい方だとは思うが、それにしたってこ
の反応は⋮⋮。
やはり薬のせいで情緒不安定になっているのだろうか。
そうして俺とベイルフォウスは、ふたたびけたけた笑い出した妹
を連れて、医療棟へ向かったのだった。
855
80.うちの医療班は、とても優秀なのだと思います
﹁なるほど、そういう事情でしたか﹂
俺の説明を聞いて、サンドリミンは頷いている。
ここは医療棟の診察室の一室だ。
大人になったマーミルの診察をしてもらい、今はその結果につい
て話し合っていた。
俺とサンドリミンが話をしているあいだ、マーミルはベイルフォ
ウスに任せてある。
さっきまでは妹も診察のためこの部屋にいたのだが、サンドリミ
ンの象手をひたすらツンツンつつき、﹁しわしわーしわしわー﹂と
うるさかったので、待合いに出したのだ。
姿は大人だが、精神は退行している気がする。
いいや、もっと小さいときだって、こんな病的に陽気ではなかっ
た。
﹁おい、ちょ⋮⋮マーミル、待て! 投げちゃだめだ。一旦、それ
は椅子の上にでも置こう﹂
何をしているのかはわからないが、ひたすらマーミルが上機嫌で、
ベイルフォウスが慌てまくっているような声ばかりが聞こえてくる。
﹁それでやはり体が成長しているのも、その催淫剤のせいだとおも
うか?﹂
﹁むしろそれが主たる影響かと考えます。お嬢様の体内を探ってみ
たところ、以前の熱と同様に、催淫剤がまんべんなく体内に浸透し
ているようでした。それが大人であれば催淫効果を引き起こすので
すが、マーミル様は未だ幼い故にその基礎となる感情が見あたりま
せん。それで催淫剤はその前段階として体を成長させるという方向
856
に作用したのでしょう﹂
サンドリミンの説明を聞いていると、まるで催淫剤に意志がある
ようではないか。
﹁対処薬の処方には、すでにあたっております。同時に、解毒の要
領でマーミル様の体内から催淫剤の効果を取り除けないか試してみ
ます。もちろん誠心誠意、治療にはあたらせていただきますが、対
処の効果を発揮できるまでどれほど時間がかかるか予想がつきませ
ん﹂
サンドリミンは淡々と告げてきた。
﹁ああ﹂
それは仕方ないだろう。
実物の効果に詳しいベイルフォウスですら、その対処法を知らな
いんだ。
﹁ただ、催淫剤の効果は大人でも一日ほどのものです。マーミル様
への影響も、期限付きではあるでしょう﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
﹁詳しく調べた上でのことではないので、あくまで私の私見ではあ
りますが﹂
ずっとこのままではないだろう、とは思っていたが、それでもや
はり私見とはいえ専門家に後押ししてもらえるとホッとする。
﹁とにかく、頼む﹂
﹁はい。ただ、その⋮⋮あの状態のマーミル様を、押さえていられ
るか⋮⋮﹂
﹁うふふふふふ﹂
待合いからは、マーミルの楽しそうな笑い声が響いてくる。
﹁お嬢様は俗に言う酩酊状態、というやつですな。魔族にはほとん
857
ど見られない症状ですが、これも薬さえ抜ければ元に戻るでしょう﹂
﹁ああなるほど。酒に酔えばこうなるのか﹂
頭がどうかなったのかと心配になってしまった。
﹁サティファスの葉でなら、体質によって酩酊する者もいると聞き
ますが。⋮⋮まてよ。ということは、もしかして成分に⋮⋮それを
あの薬と混合させて⋮⋮となると、あの軟膏ももしかしてこの薬を
元に⋮⋮﹂
サンドリミンは何か思いついたらしい。急にぶつぶつ言い出すと、
すごい早さで紙に文字を書き出した。
サティファスの葉、というのは高山の頂上付近に群生している赤
銅色の草だ。魔族の中にはそれを燻して煙を吸い、その鼻を突く独
特の臭いを楽しむ者がいた。
俺も若い頃一度だけ試してみたが、俺自身はただケムいばかりで
何がいいのか全く理解できなかったし、一緒に試した相手が酷いこ
とになって懲りてから、二度とやっていない。
確かに今のマーミルは、その時の相手を思い出さないわけではな
い。
﹁そうだ! そうに違いない!﹂
サンドリミンは鼻息も荒く、椅子から勢いよく立ち上がる。
﹁閣下、失礼します! すぐに戻って参りますので!﹂
﹁え、あ、解毒⋮⋮は⋮⋮﹂
説明を求める間もなく、サンドリミンはあっという間に奥の扉の
向こうへと姿を消してしまった。
一瞬、あっけに取られたが、何かよい考えがひらめいたのだろう
から、仕方ない。
彼が帰ってくるまでは大人しく待っていることにしよう。
そうとも、大人しく︱︱。
そういえば、さっきから随分隣が静かだな。
858
マーミルのけたたましい笑い声が聞こえてこないが⋮⋮。
﹁マーミル? ベイルフォウ⋮⋮﹂
待合いへと続く扉を開いた瞬間、俺は凍り付いた。
なぜならば、そこにはとてもおぞましい光景が繰り広げられよう
としていたからだ。
そう、ベイルフォウスが長椅子に俺の妹を押し倒して︱︱。
﹁ベイルフォウス⋮⋮貴様⋮⋮﹂
﹁⋮⋮違う。落ち着け﹂
落ち着け?
﹁何がどう違う﹂
﹁勝手に判断したのは悪かったが、お前が考えているようなことを
したんじゃない。だから﹂
﹁そんな目で言われて、俺が信用できると思うのか!?﹂
ああ、そうとも。少なくともお前がさっきまでのように、マーミ
ルに対して冷静な表情を向けていれば、俺だって落ち着けたかもし
れない。
せめてマーミルの目が開いていれば、まだ落ち着けたかもしれな
い。
だが、見たことがあるか?
陶然としたような遠い目をしているばかりか、柄にもなく頬を少
し赤らめているベイルフォウスなんて、見たことあるか!?
そして、さっきまであんなにはしゃいでいた妹が、長椅子に横た
わって目も開けないのを見て、俺が落ち着いていられると思うか!?
問答無用、俺は百式をぶっ放した。
待合いが半壊したのは言うまでもない。
859
***
﹁まったく、何を考えているんですか! こんな狭いところで、百
式ですと!? 私たちを全員殺す気ですかっ!﹂
﹁すまん﹂
﹁ちっ﹂
俺とベイルフォウスは今、絶賛怒られ中だ。
ズタボロに崩れた壁を背に、二人並んで正座させられ、サンドリ
ミンのお説教を聞いている。
﹁⋮⋮なんで俺まで⋮⋮﹂
﹁元はといえば、お前が悪い。黙って怒られてろ﹂
﹁二人とも、本当に反省してるんですか!? それとも本気で医療
員全員、殺す気だったとでもいうんですか!?﹂
サンドリミンが象手を振り上げた。
﹁いや、そんなつもりは⋮⋮﹂
﹁負い目があるから大人しくしてたが、いい加減限界だぞ﹂
﹁あ、おい、ベイルフォウス!﹂
不満顔ながらも黙って聞いていたベイルフォウスが、ゆらりと立
ち上がる。
﹁ジャーイルが百式を展開して、この程度ですんでるのは俺のおか
げだろうが。これ以上グダグダいうなら、本気でこの棟の住人ごと
塵に化してやろうか﹂
ベイルフォウスはサンドリミンの胸ぐらをつかみ、そうすごんだ。
それほど身長のない医療長官は、長身のベイルフォウスに持ち上
げられて、足がプランプラン浮いている。
﹁ひいいいい、ジャーイルさまぁぁぁ﹂
860
涙目で助けを求めてくるサンドリミン。
ああ、もう⋮⋮。
﹁騒ぐな、ベイルフォウス。マーミルが起きるだろ﹂
俺は親友の腕を押さえ、サンドリミンを降ろさせる。
﹁⋮⋮ちっ﹂
ベイルフォウスが結界を張ったせいで、長椅子に横たわるマーミ
ルは無事だった。
いや、違う。別に俺だって、マーミルを狙った訳じゃない。だか
ら、ベイルフォウスが妹を守らなくても無事だった⋮⋮いいや。
本当は、サンドリミンの言うとおりだ。俺は我を失いすぎていた。
あのままでは建物は全壊し、マーミルもただではすまなかったかも
しれない。
ベイルフォウスが対抗して、俺の百式を押さえる魔術を展開しな
ければ。
以前に一度、解除方法を教えたときには意味が分からないと覚え
るのを放棄したくせに、無効の魔術をさらりと使ってくるあたり、
やはりベイルフォウスは侮れない。
俺が思うに、こいつは天才肌、というやつだ。
だが、おかげで冷静になれた。
結論からいうと、ベイルフォウスはマーミルを襲っていたわけで
はなかった。
とにかくマーミルの気分を落ち着かせようと、鎮静効果のある茶
を医療員に頼んで持ってきてもらったらしい。それを飲ませたら、
妹はそのまま眠ってしまったのだそうだ。それほど劇的に効くとは、
俺も飲んだことのあるあの茶かもしれない。
俺が目撃したのは、ちょうど座ったまま眠ったマーミルを、長椅
子に横たえているところだったらしく⋮⋮。
861
﹁でもお前、あんなウットリした顔してたらそりゃあ俺だって⋮⋮﹂
﹁ああ、あれは⋮⋮マーミルが直前にちょっと⋮⋮俺に言った言葉
が⋮⋮﹂
﹁マーミルになんて言われたんだ?﹂
﹁⋮⋮﹂
目をそらされた。
ん?
なにこいつ⋮⋮やっぱりちょっと、照れてないか?
⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮。
ちょ⋮⋮。
﹁なあ、マーミルに何言われたんだよ。教えてくれ、ベイルフォウ
ス!﹂
やばい、照れてるベイルフォウスとか、ものすごく楽しいんだけ
ど!
いつも飄々としてるか怒ってるかイヤラシイかの三択だからな。
冷静になれば、慌てたり他人に追いつめられてたり、ましてや照
れたりするベイルフォウスなんて、面白くないはずがない!
﹁⋮⋮なあ、ジャーイル﹂
﹁ん?﹂
﹁マーミルが万が一このままだったら、俺が責任を取ってやるよ﹂
⋮⋮え?
﹁どういう意味だ?﹂
だが、ベイルフォウスは俺の質問に返答してこない。ただじっと、
マーミルを見つめているばかりだ。
862
え?
なに?
なんでそんな目で妹を見てるんだよ、ベイルフォウス。
お前はロリコンじゃないはずだろ、ベイルフォウス!
いや、確かに今は子供の姿じゃないけど⋮⋮ないけど、ベイルフ
ォウス!!
﹁⋮⋮お前、ほんとにマーミルに何言われたんだよ﹂
俺は我に返って、真剣にそう問いかけた。
863
81.とにかく妹が無事なら、兄は一安心なのです
結局あれからすぐに、我が優秀なる医療班は対処薬を完成させて
くれた。
以前、マーミルが呪詛を受けた時に、その参考とするため使用し
た軟膏。全く同じではないものの、催淫剤はあれと共通する要素が
多かったらしい。そこで対処薬の作成にあたって、その解除薬を基
礎にできたため、素早い対応が可能になったのだという。
﹁最近は、呪詛の研究も始めておりまして﹂とはサンドリミンの言
葉だ。
とにかくその対処薬を眠っている妹に飲ませたところ、俺たちの
見守る前でその体は徐々に縮んでいったのだ。そして元のマーミル
の姿にまで戻るのは、あっという間だった。
ちなみにその薬は液薬だった。ベイルフォウスが口移しで飲ませ
るとかほざいたので、また殺意から殴りそうになったことを付け加
えておく。
そうして俺が、今後は妹をうかつにベイルフォウスに近づけない
と強く決意したことも。
﹁冗談だ﹂といっていたが、なんだか信用できない。
結局、マーミルに何を言われたのかだって、まったく教えてくれ
ないしな!
﹁マーミル! お兄さまがわかるか?﹂
うっすらと目をあけた妹に、俺は問いかける。
﹁お兄⋮⋮さま?﹂
﹁マーミル⋮⋮よかった﹂
俺は汗でべっとりの妹の額に口づけた。
864
﹁ベイルフォウス様⋮⋮サンドリミンも⋮⋮? なぁに?﹂
ぼんやりとした表情で、自分を取り囲む面々を見回すマーミル。
そうしてゆっくりと、体を起こす。
﹁ん⋮⋮﹂
目をこすろうとして、ふと、自分の手をじっと見つめる。
﹁あれぇ? ⋮⋮ええと⋮⋮私⋮⋮﹂
キョトンとした表情で、手を開いたり閉じたりを繰り返している。
そうして、自分の着ているドレスが不自然に大きいことが気にな
ったようだ。
﹁大人の体に⋮⋮あれは⋮⋮夢? それとも⋮⋮﹂
俺は妹のふっくらとした頬に手をやる。
﹁どこか気になるところはあるか? 頭が痛いとか、体が痛いとか
⋮⋮気持ちが悪いとか、何かおかしなところはないか?﹂
﹁どこも、なにも。でも⋮⋮﹂
﹁おっと﹂
こらえきれない、というように大欠伸をして後ろに倒れかける妹。
その背を支え、ゆっくりと横たえる。
﹁とっても眠たくて⋮⋮﹂
小さな声で呟くように言うと、またすやすやと寝息をたてだした。
﹁どうだ?﹂
サンドリミンに所見を尋ねる。
象の手から、以前見たようなもやが出て、妹の体を包み込んだ。
﹁はい﹂
もやを引っ込めると、サンドリミンは頷いてみせる。
﹁異常は認められません。催淫剤は少なくとも身体的からは抜けき
ったようです。眠気が酷いのは、身体の急激な変化にともなう疲労
と、鎮静薬の影響のためでしょう﹂
865
﹁そうか⋮⋮﹂
俺はホッと息をついた。
﹁ですが、しばらくは経過を観察した方がよろしいでしょう。なに
せ初めて確認された症例ですので、念を入れるにこしたことはない
かと⋮⋮﹂
﹁そうだな。悪いが、しばらくマーミルの部屋へ通ってくれるか?﹂
﹁はい。そのように﹂
そう同意してから、サンドリミンはがっかりしたようにため息を
ついた。
﹁なんだ?﹂
﹁いえ⋮⋮こんな時に限って、お側にアレスディア殿がいらっしゃ
らないのが残念で⋮⋮﹂
こいつもか!
いや、そうだった。サンドリミンは以前から、アレスディアに興
味津々なのだった。
まったく、どいつもこいつも。奥方に言いつけるぞ。
﹁とにかく、再度お目覚めになるまでは、こちらでご様子を看てお
いて、覚醒後に診察を経て無事を再確認してから、お部屋に戻って
いただくことにいたしましょう。それでよろしゅうございますか?﹂
﹁ああ。頼む。着替えと侍女をこちらに寄越すよう、手配しておこ
う。⋮⋮アレスディアでなくて悪いが﹂
﹁いいえ、そんなめっそうもない﹂
わざとらしいわ。
﹁じゃあ、少しはずす。万が一、俺が戻るまでにマーミルが目覚め
たら、連絡をくれ﹂
﹁承知いたしました﹂
﹁行くぞ、ベイルフォウス﹂
866
﹁は? いや、俺もマーミルの目が覚めるまで﹂
ふざけるな。誰がそれを許すか。
﹁駄目だ。今日はとっとと帰れ。竜舎まで送る﹂
俺はマーミルとベイルフォウスの間に立ちふさがった。
﹁わかった﹂
ベイルフォウスはうんざりしたように眉尻を下げてみせる。
﹁見張るようにわざわざ竜舎までついてこなくても、ちゃんと帰る。
⋮⋮ただ、ジャーイル。誤解はするなよ?﹂
﹁それはこれからのお前の行動による﹂
﹁⋮⋮なら、お前の許可があるまではマーミルには近づかない。な
んなら暫く、この城にも足を踏み入れない。それでいいだろ﹂
ベイルフォウスはため息をつき、気だるそうに頭を掻いた。
それからしぶしぶ部屋を出て行きかけて、ふとサンドリミンを振
り返る。
﹁ところでさっきの対処薬⋮⋮少し、もらってもいいか?﹂
﹁なんに使うんだ?﹂
﹁もしもの時のために、だ。まあ、正直なところ、俺より選り好み
するお前の方が、常備しておくべきだとは思うが﹂
選り好みなんてとんでもない。
単にお前が見境いないだけだろう。
﹁持って帰るのはいいが、この件は⋮⋮﹂
﹁もちろん、口は噤む。催淫剤を子供に飲ませるなんて、普通の魔
族なら考えもしないことだが、悪用する者がでないとも限らないか
らな。ただ、兄貴にだけは報告しておく。いいだろ?﹂
﹁ああ、頼む﹂
俺はベイルフォウスに頷いた。
﹁だがベイルフォウス、二度と俺の城内にあんな薬を持ち込むなよ﹂
867
﹁誓って約束する。だが、気をつけろ。あの薬はなにも俺の専売特
許じゃないし、お前がいくらマーミルを無垢なままおいておきたい
にしても、限度があるってことは忘れるな﹂
そうしてサンドリミンから対処薬を受け取ると、ベイルフォウス
は医療棟から出て行った。
確かにベイルフォウスの言うことにも一理ある。
だがそんなことは置いといて、とりあえず今日も妹と寝てやろう。
俺はそう決意したのだった。
***
ところで、ここからは余談である。
やってきた侍女にマーミルを任せて、俺はサンドリミンと二人き
りで向かい合っていた。
﹁なるほど⋮⋮つまり、閣下は﹂
﹁いや、一応ね。ほら、大丈夫だとは思うんだけど、一応結構な衝
撃だったからさ⋮⋮身体的にも、精神的にも!﹂
﹁それは、お気の毒に﹂
同情的な表情で頷くサンドリミン。
俺はサーリスヴォルフの双子の成人式典であった、ジブライール
との一件を彼に明かしたのだ。そして、あのものすごい脚力によっ
てダメージを負った場所について、異常がないかどうかという相談
を、思い切ってサンドリミンにしているところだった。
﹁問題ないとは思うんだよ? もちろん、問題ない。でもほら、俺
も色々最近はご無沙汰で⋮⋮ちょっと、いざという時の為に一応⋮
868
⋮一応な?﹂
別にウィストベルにぐっと来たからではない。ないとも!
﹁確かに。その時に役立たねば、男の面子も立ちませんからね﹂
⋮⋮。
なんだろう。﹁たつ﹂を否定的に語られると、結構えぐられるな。
﹁では、異常がないかどうか検査いたしましょう﹂
﹁よろしく頼む﹂
﹁では、まず下を脱いでください﹂
⋮⋮。
﹁え?﹂
﹁ですから、ズボンをおろしてください﹂
﹁えっ⋮⋮着衣のまま診察するんじゃ﹂
﹁そのものに異常があるかどうか調べるんですよ? 熱や異物を取
り除くのとは違います。患部を看ないでどう判断しろとおっしゃる
のです﹂
﹁いや⋮⋮そうかもしれないけど、でも⋮⋮﹂
﹁恥ずかしがる年でもないでしょうに!﹂
﹁年とか、そういう問題じゃな﹂
﹁すっぽんぽんになっていただいてもかまわないんですよ!﹂
﹁なんでだよ!?﹂
﹁なんですか、それとも女性が相手でなければいけないとでもいう
んですか? なら、美人と評判のデーモン族の医療員でもつれて参
りましょうか!?﹂
﹁ちょまっ⋮⋮わかった⋮⋮わかったよ⋮⋮﹂
その後のことは、正直思い出したくない。
869
もつれてこられたし、
結果は良好だったが、この検査によって受けた心理的なダメージ
美人と評判のデーモン族の医療員
が計り知れないからだ。
結局、
彼女も含めてあれやこれや色々されたりさせられたりしたその経験
は、繊細な俺の心に深い傷を残した。
その羞恥と恥辱にまみれた検査結果の破棄と、記憶の忘却をサン
ドリミンと女性医療員に約束させ、医療棟なんて全壊させてしまえ
ばよかったと呟きながら、俺は一人、さめざめと枕を濡らしたのだ
った。
870
81.5.もう二度と、拾い食いはしません
体がだるい。だるい、だるい、だるい⋮⋮とってもだるい、の。
﹁だからだるいって言ってるでしょう!!﹂
私はその自分の大声に驚いて、目をさましました。
横にはビックリしたみたいに目をまん丸にする、お兄さまのお顔。
﹁あら⋮⋮?﹂
私は上半身を起こしました。
なんだか体のあちこちが固まって、ミシミシいう気がします。
﹁⋮⋮マーミル。よかった﹂
ホッとしたように息をついて、手を伸ばしてくるお兄さま。
その暖かい手が私の頬を優しくなでてくれます。
﹁どこか痛いところはあるか? 気分はどうだ? 頭は大丈夫か?﹂
﹁背中がちょっと痛いですわ、お兄さま﹂
﹁おい、サンドリミン!﹂
お兄さまは慌てたように後ろを振り返ります。
﹁丸二日も眠ってらしたのです。そりゃあ、背中だってどこだって、
多少は痛くなりますよ﹂
あら。ハエの顔をした医療班長の姿があるではありませんか。
彼は今なんと言いました?
﹁私⋮⋮二日も寝てたの? お兄さま、私、また熱でも出しました
の?﹂
サンドリミンの治療を受けるだなんて、それ以外に理由が考えら
れません。
﹁覚えていないのか?﹂
871
兄の手が、今度は額に置かれます。
そういえば、あれ⋮⋮?
私、どうして寝てるんでしょう。
いつ、自分のベッドに横になったんでしょう。
確かネネネセと一緒に野いちご館に行こうとして⋮⋮そう、途中
でベイルフォウスが来たんだわ。
それから四人でお庭に出て、お茶を飲んで⋮⋮。
﹁おい、サンドリミン!﹂
またお兄さまの慌てた声。
﹁酩酊した時の記憶というのは、忘れがちなものです﹂
﹁大丈夫なんだな﹂
﹁そう思います﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
サンドリミンの平坦な対応に、お兄さまも落ち着きを取り戻した
ようです。
でも、私は逆に不安になってきました。
お兄さまがそんなに私のことを気にかけてくださるだなんて、何
があったのでしょう。
めいてい、ってなに?
覚えているのはそう、ベイルフォウスが鼻の下を伸ばして綺麗な
女の人めがけて突進していったところまでで⋮⋮あら、違うわ。そ
の後確か、私はアメを⋮⋮とってもキレイなアメを見つけて⋮⋮。
﹁そうだ。あのアメを食べてからの記憶がないんだわ﹂
私が手を叩いてそう叫ぶと、お兄さまは大きなため息をつきまし
た。
﹁まったく⋮⋮。お前ってやつは﹂
872
そうして両手を私のほっぺに当てて、びよんと引っ張ります。
﹁いはい、おにいはま﹂
﹁拾い食いなんてした罰だ﹂
﹁おめんなはい﹂
そう言うと、お兄さまは私のほっぺから手を離してくれました。
﹁だって、別に地面に落ちていたものじゃないからいいと思ったの﹂
﹁ネネネセは止めたと言っていたぞ﹂
確かに。お行儀悪いって言われたわ⋮⋮。
﹁だって、とってもキレイで⋮⋮食べてって飴が⋮⋮﹂
﹁飴は喋りません﹂
でも聞こえたような気がしたんだもの⋮⋮。
﹁だって、ベイルフォウス様の持っていたものだから、変なものだ
とは思わなかったのよ⋮⋮﹂
﹁今後は一番、怪しみなさい﹂
今までだって、たまにお菓子をくれたもの。だからその飴も、私
にくれるために持ってきたものだと思ったのよ⋮⋮。
﹁⋮⋮ごめんなさい。もう二度と、拾い食いなんてはしたない真似
はしませんわ﹂
﹁当然だ﹂
お兄さまは長いため息をつきました。
﹁アディリーゼのように大人しくなれとは言わない。だが頼むから、
あまり不用意なことをしてお兄さまを心配させないでくれ。お前は
たった一人の家族なんだから⋮⋮﹂
﹁はい、ごめんなさい⋮⋮﹂
なにがあったのだかよく覚えてないけど、お兄さまがとても心配
していることはわかるから、とにかく謝っておこう。
あのアメを食べてからの記憶がないということは、私はとたんに
熱を出したとか気を失ったとかで、お兄さまを心配させたに違いな
873
いのだもの。
そう、記憶がない⋮⋮あれ?
何かしら⋮⋮今、何かがよぎった気がする。
﹁それで、ベイルフォウス様は?﹂
私がそう聞くと、お兄さまは変な顔をしました。
﹁お前は二日も眠ってたんだぞ。ベイルフォウスがいるわけがない
だろう。なんであんな奴のことを気にするんだ。まさか、まさかお
前⋮⋮やっぱり奴に何かされたんじゃ⋮⋮﹂
﹁?? 何かって?﹂
﹁旦那様、落ち着いてください!﹂
サンドリミンが慌てた様子で兄の側にやってきて、その象手でお
兄さまの腕を器用につかみます。
﹁何もされてません! マーミル様は無事です、旦那様! ベイル
フォウス大公閣下もおっしゃっていたではありませんか。何もして
いない、と。お願いですから、興奮して百式なんて展開しないでく
ださいよ!﹂
﹁離せ! お前は俺をなんだと思ってるんだ。ぶっ放すわけないだ
ろ、百式なんて!﹂
そうですとも。お兄さまはそんな短気ではありません。
ベイルフォウスならともかく!
﹁お兄さま、お兄さま﹂
私はベッドから降りて、兄の服の裾をつんつん引っ張りました。
﹁私なんだかちょっと気分がだるいのよ﹂
﹁さっきから言ってるな。大丈夫か?﹂
兄はしゃがみ込んで、私に視線を合わせてくれます。
﹁でも、お兄さまがぎゅってしてくれたら、きっと治りますわ﹂
874
そう言って両手を差し出すと︱︱。
お兄さまは苦笑を浮かべた後、私の体をぎゅっと力強く抱きしめ
てくれました。
﹁無事でよかった、マーミル。後でネネネセにも謝っておくんだぞ。
ずいぶん、心配をかけただろうから﹂
﹁はぁい⋮⋮﹂
そうして私の背をやさしく撫でてくれる手に心地よさを感じなが
ら、私はまた眠りについたのでした。
875
82.そろそろ美男美女コンテストの準備をしないといけません
魔王城では連日、正午には数百人が一堂に会する大昼餐会が開か
れている。
百人ほどが向かい合って座れる長方形のテーブルが、魔王様の座
る長テーブルに直角に配置されていて、席順は珍しく身分に左右さ
れず自由と決められている。
その会食には、魔王様は必ず毎日参加される訳でもない。だから
というか、いらっしゃる日にはここぞとばかりに近隣席の静かな奪
い合いが始まる。
だが結局下位は上位に遠慮せざるを得ず、魔王様の周囲はいつも
同じ顔ぶれになってしまう。
だから俺は、せめて自分が参加する時にはなるべく端っこの席に
座るよう、気をつけることにしていた。だが、なぜか⋮⋮特に女性
陣から、魔王様の近くに行くよう勧められることが多い。
﹁それはそうだろう。デーモン族の中でも相当の美形である二人が
並べば、見ている者の目も心も潤おうというものだろうからね﹂
まあ、俺だってたまに見た目を褒められるから、悪くはないんだ
ろうが。
﹁だったらベイルフォウスの方がいいんじゃないかと思うんだが﹂
﹁まあ、ベイルフォウスは今更隣にいてもそう珍しいものでもない
からね。なんといったって、彼は陛下の弟君だ。それに比べると、
ジャーイル。君は二人とは全くタイプが違うし、私たちなら君と陛
下が並んでいるのを見慣れていても、下位の者たちにとってはまだ
物珍しく感じるのだろう﹂
そう説明してくれたのは、サーリスヴォルフだ。
876
彼は︱︱今日は男性︱︱俺の姿を見つけるや、わざわざこの隅っ
こまでやってきて右隣に座ったのだ。
ちなみに、逆の左隣には彼の恋人であるらしいデヴィル族の女性
魔族が座っている。恋人同士に挟まれて、正直居心地はよくない。
もっとも二人は俺を無視して話し込むというようなことはしなか
ったし、そもそもその女性ははにかんだような微笑を浮かべて、た
まに口を開いても、サーリスヴォルフに優しく同意するばかりだ。
彼女がデーモン族であったなら、俺はとても興味を抱いていたか
もしれない、と思えるような慎ましやかな女性のようだった。
対面に座っているのはデーモン族の女性だが、両脇を知人らしき
男性に囲まれ、その二人と楽しそうに会話に興じている。だからそ
ちらはあまり気にしないでもいいだろう。
﹁ところで美形、というとパレードだけど、随分と噂になっている
ね。君のところの侍女﹂
﹁そのようだな﹂
サーリスヴォルフもやはり興味をもつか。ベイルフォウスみたい
に女性なら︱︱いいや、デヴィル族限定で、男女どちらであっても
見境なさそうだもんな。
﹁なんでもアリネーゼに遜色ないほどの美女だそうだね。一部には、
彼女よりなお美しい、と誉め讃える者もいると聞く。なんでも、<
アレスディア様の美貌を堪能するために可能な限り尽力する会>と
かいうものまで出来てるんだって?﹂
﹁それは⋮⋮初耳だ﹂
なんだよ、可能な限り尽力するって、何するんだよ。
﹁君へ近づいてこようとするデヴィル族男性が増えていないかい?﹂
そういえば最近、視線を感じることが多くなった。その主を捜し
当てると、確かにデヴィル族の男性で、物言いたげに俺をじっと見
ているのだ。一度なんかは﹁何だ﹂と聞くと、﹁ジャーイル閣下と
877
ぜひ、お近づきになれれば、と思い﹂とか、もじもじして言うので
ゾッとしたんだが、あれはその先にアレスディアを見越してのこと
だったのか。
特殊性癖の持ち主かと思って、思わず逃げてしまったではないか。
﹁おかげで、美男美女コンテストは大波乱の幕開けとなるかもね。
なにせ、その噂を聞いたアリネーゼがかなり苛立っているようだか
ら﹂
﹁そういえば⋮⋮魔王城でもこのところ彼女を見かけないな﹂
﹁露出を減らして欲望を煽る作戦か、アレスディアに対決するその
時のために、美貌を磨いているのか⋮⋮彼女の城でも姿を見せる機
会は減ったようだよ﹂
どんだけ本気なの。たかが美男美女コンテストに、みんなどれだ
け本気になってるんだよ。
だが実はこのところ見かけないのはアリネーゼだけじゃない。実
は、ウィストベルもだ。
魔族最高の美女二人が、揃って不在というのが不思議だったのだ
が、ウィストベルも美男美女コンテストに向けて作戦を練っている
のか?
まさか⋮⋮もしそうだったら、魔王様が気の毒すぎる。
いつもは隠れてしかいちゃいちゃできないウィストベルを、大祭
中は堂々と側に置いておける又とない好機だというのに。
﹁まったく甲斐のない話さ。こっちはあの美貌で目を肥やしたいの
もあって、頻繁に魔王城に足を運んでいるというのに﹂
いいのか、恋人が聞いてるぞ。しかもアリネーゼとは同性、女性
の恋人だぞ。
当然というか、サーリスヴォルフはデーモン族であるウィストベ
ルの不在までは気にならないようだ。
878
﹁そうなると、パレードの見学をアリネーゼにお願いしようと思っ
ていたんだが、やめておいた方が無難だな﹂
最初はベイルフォウスに頼もうと考えていたんだが、あの事件の
後では訪領を言い出せる機会もないままに、パレードはベイルフォ
ウスの領地を出てしまった。
今はアリネーゼの領内にいるから、マーミルを連れて見学を申し
込もうと思っていたのだが、ライバルの身内みたいな俺たちが行っ
ては、とばっちりを受けないとも限るまい。俺だけならいいが、妹
がその被害に合うのはな⋮⋮。
ちなみに、アリネーゼの領地を逃すと、次はデイセントローズの
領地になってしまう。地方を練り歩いているうちに訪ればいいだけ
の話だが、俺が行くと言えば、ラマがあの母親を連れてその場所ま
でやってくる可能性も否定できない。
マーミルに悪影響を及ぼしそうなものは、できるだけ排除したい
俺としては、彼らと妹を引き合わせたくはなかったのだった。特に、
あの母親には絶対に会わせたくない。
﹁そうだねぇ⋮⋮そもそも、ウィストベルと仲のいい君のことを、
アリネーゼは快く思っていないからねぇ﹂
えっ。快く思われてないの!?
﹁うちの領地が先だったなら、妹君とそろって招待したんだけどね
ぇ。むしろうちは君の後だし。まあ単純に遊びにだけなら、その時
に限らずいつでも来てくれればいいけど﹂
﹁ああ、ありがとう﹂
﹁そういえば、君さ。ベイルフォウスとは仲違いでもしたのかい?
最近、あまり一緒にいるところをみないけど﹂
めざといな、サーリスヴォルフ。
別に俺は公の場所で、ベイルフォウスと特によくつるんでいたと
879
いうつもりはない。
とはいえ実は、催淫剤の一件以来、ベイルフォウスとは不自然な
ほど顔を合わせていなかった。本部には時々顔を出しているようだ
が鉢合わせすらしないし、舞踏会場や食事時に遠くで見かけたと思
っても、すぐにいなくなる。
俺の方は特に意識していないから、ベイルフォウスの方が避けて
いるのかもしれない。
﹁いや、別に喧嘩なんてしていないよ。ただ⋮⋮まあ、少し距離は
置いてるかな﹂
﹁へえ⋮⋮また、なんで? 大公位争奪戦に向けて、本気で戦うた
めのけじめだったりするのかな?﹂
サーリスヴォルフの瞳がキラリと光ったように見えた。
﹁いいや、そんなつもりじゃない。もちろん争奪戦では相手が誰で
あろうが本気で戦うが。ただ、ちょっと色々あって﹂
﹁色々、ね﹂
サーリスヴォルフは興味津々のようだったが、身内のピンチを軽
々しく語る必要はないだろう。
﹁これはあくまで噂なんだけど﹂
サーリスヴォルフはにこりと笑った。
﹁仲のよい二人の大公が、一人の女性をめぐって仲違いをしたのだ
と⋮⋮﹂
仲のよい大公? 女性をめぐって?
﹁まさかそれが俺とベイルフォウスのことだっていうのか?﹂
仲のよい、が大公に限定されているからには、俺とベイルフォウ
スのことなのだろう。なにせ、他の大公たちは当たり障りなく付き
合っているようには見えるが、とても仲がよいようには見えないか
らだ。
だが、女性をめぐって、と続くとなると?
880
一人の女性というのはウィストベル⋮⋮いや、もしかして⋮⋮。
﹁心当たりがあるようだね。相手はなんでも天真爛漫な、金髪のス
レンダー美女らしいじゃないか﹂
天真爛漫⋮⋮金髪⋮⋮スレンダー!
やっぱりこの間、催淫剤のせいで大人になったマーミルのことか!
医療棟までなるべく人通りの少ないところを通るように気をつけ
たとはいえ、目撃者を無くすことはできなかった。ただでさえ、あ
の時のマーミルは騒ぎっぱなしで人目をひいたからな⋮⋮。
だがだからといって、なんで俺とベイルフォウスが妹を取り合っ
たことになってるんだ。
しかしものは言いようだな、スレンダーとは!
﹁いや、違う。あれはその⋮⋮俺の身内であって、ベイルフォウス
と取り合った事実はない﹂
待てよ。どうせ真実からほど遠い噂話だ。
下手に誤解を解こうとするより、このまま放っておく方が無難か
も知れない。どうせベイルフォウスと疎遠になっていることの理由
や、スレンダー美女の説明はできないんだ。
﹁へえ、君の身内⋮⋮﹂
サーリスヴォルフが興味を抱いてしまったようだ。万が一紹介し
ろと言われる前に、話題を変えないと。
﹁そんなことより、コンテストの投票箱の設営についてなんだが、
そろそろ取りかかった方がいいんじゃないのか﹂
美男美女コンテストはあと十日後に迫っていた。魔王城の前に投
票箱が置かれるのだが、成人魔族全員が投票権をもっているから、
そのすべての用紙が投じられる箱となると、巨大なものを造らなけ
ればいけない。
ちなみに、その石の投票箱を用意するのは大工たちではない。大
881
公︱︱この場合、俺かサーリスヴォルフかが、魔術でその切れ目の
ない厚さ一m、縦横二十m、高さ十mの頑丈な石の箱を造るのだ。
疑問に思って、聞いてみたことがある。
もっと小さい箱をいくつも作って、満杯になった箱からその都度、
もしくは一日ごとに集計をすればよいのではないかと。その方が手
間を考えても賢いやり方だと思えたからだ。
だが主行事を話し合った運営委員たちから返ってきた答えはこう
だ。
そんな誰でも持ち運びできるような箱をいくつも作って、紛失し
たり、不正が行われたらどうするのか。いいや、不正はないとして
も、万が一箱が破損して中の投票用紙まで影響を及ぼしたらどうな
ると思うのか。
美男美女を決めるこのコンテストは、魔族にとっては一大事であ
り、少しの危険も冒すことなどできないのである。
故に、石の箱は魔王か大公が責任をもって建造し、階段を登った
上部に設けられたたった一つの投票口から、用紙は投函されねばな
らないのである。
その躯体には麗しい我が魔族を讃える文字と絵が彫られ、見るも
のを驚嘆させ、かつ激情を思い起こさせねばならぬ。そう、選ばれ
し彫刻家たちは、箱の装飾に命を賭けて臨まねばならぬのだ!
また、投票箱には魔王あるいは大公自らあらゆる魔術、あらゆる
衝撃を防ぐ防御魔術を施し、その強度を保証しなければならない、
と。
どんだけ⋮⋮どんだけ、美男美女コンテストに本気なんだ!
ちなみに、今回投票箱に防御を施す役は、その担当者であるサー
リスヴォルフが引き受けることになっている。
882
そのタイミングは彫刻家たちが装飾を終えた日だから、投票開始
日の前日となるだろう。
﹁そうだね。箱の彫刻には時間がかかるだろうから、そろそろ始め
た方がいいかもしれないね。さっそく陛下の許可をいただいて、今
日から始めようか?﹂
よかった。話題転換に乗ってくれた。
俺が言い出さずとも、サーリスヴォルフもそろそろと思っていた
のだろうか。
﹁彫刻家たちを連れてきているのか?﹂
石箱を飾る彫刻家たちの選出は、担当であるサーリスヴォルフに
一任されていた。
﹁いいや。でも、選んではあるからね。今からすぐに来るよう申し
伝えれば、飛んでくるだろう﹂
﹁待機を命じてあるとか?﹂
俺の質問を不思議に思ったのだろう。サーリスヴォルフは怪訝な
表情で、﹁いいや﹂と否定した。
﹁だったら明日でいいんじゃないかな⋮⋮ほら、色々用意もあるだ
ろうし、都合だって⋮⋮﹂
﹁用意なんて、できていて当然だろう。都合はつけるものだし﹂
何を言ってるんだ、という顔で見られた。
そうか、俺がおかしいのか。なるほど。
﹁わかった。任せるよ﹂
哀れ、サーリスヴォルフの配下たち。でもいつもこうだというの
なら、彼らだってきっと慣れているはずだ。
﹁では早速、陛下のところへご報告かたがた、許可をいただきに行
こうか。それとも、君はまだ食べたりないかな?﹂
883
﹁いいや、大丈夫だ﹂
俺はナプキンを置いて立ち上がった。
﹁我々は行くが、貴女はゆっくりしていきなさい﹂
﹁はい、我が君﹂
サーリスヴォルフと彼の恋人は、優しく言葉を交わして微笑みあ
っている。
さっきから、なにこの理想的な感じ。なんてうらやましいんだ、
サーリスヴォルフ。
﹁ところでジャーイル。君、気づいてたかい?﹂
﹁なにが? サーリスヴォルフと彼女の仲睦まじさなら、もちろん﹂
今この時にも、見せつけられているからな。
魔王様のところへ向かう途中で、サーリスヴォルフは立ち止まっ
ては席を振り返り、恋人に手を振っているのだ。
﹁違うよ﹂
サーリスヴォルフは意味ありげな微笑を浮かべた。
﹁君の前の彼女⋮⋮随分もの欲しそうに君を見ていたよね。話しか
けてもらいたかったんじゃないのかな?﹂
前の彼女って、両脇を男性に囲まれていた女性だよな?
俺を見ていたって?
﹁なんだろう⋮⋮用事でもあったのかな? だったら自分から話し
かけてくればいいのに﹂
舞踏会以外では、特に下位から上位に話しかけてはいけないとい
う決まりはなかったはずだ。
﹁君は⋮⋮いっそベイルフォウスに師事した方がいいんじゃないの
? 本気で相手を見つけたいならさ﹂
﹁またそんな。あの女たらしに、何を教えてもらうって?﹂
てっきり軽い冗談を言われただけだと思って笑って返したら、真
884
面目にため息をつかれた。
その台詞が本気で口をついてくるだなんて、まったく解せない。
885
83.大公としての役割
魔王様に石箱の設置許可をもらってすぐ、黒の制服に身を包んだ
四人の近衛兵を引き連れ、俺とサーリスヴォルフは魔王城の前地に
赴いた。
なんと、彫刻家たちも一緒だ。
サーリスヴォルフが彫刻家を召集する旨を配下に伝えてすぐに、
彼らは飛ぶようにやってきた。その内訳は、デーモン族デヴィル族
がそれぞれ五人ずつ。
どちらの絵姿も彫らねばならぬとあって、公平を期すために人数
も同じにしているという。
ちなみに彫刻家たちに召集に応じた早さの理由を尋ねてみると、
そろそろ連絡が入るかと思って連日魔王城に詰めていた、というの
である。
俺ならなんてよくできた配下だと褒めるたたえるところだが、サ
ーリスヴォルフは当然だというように頷いただけだ。
この大祭が終わったら、俺も臣下とのつきあいについて色々考え
直してみるべきかもしれない。
だがとにかく今は、石の巨大投票箱を造ることに集中しよう。
広大な前地は、竜を陸地に降ろして知人と歓談している者、輪を
作って座り込んでいる集団、踊りを披露する一団、魔王城へ向かお
うとしている者、城門から出てきた者、種々様々な者でごった返し
ている。
だが箱の四隅となるべき位置にはあらかじめ目印となるよう、一
m四方の青い石柱を建ててあるから、どこに設置すべきか迷う必要
はない。
886
その石柱は、昼間はただの青い石だが、夜が更けるにつれほんの
りと発光する夜光石だ。ちなみに、今のところは待ち合わせ場所の
目印としても利用されているらしい。
夜にはその幻想的な姿から、柱の周りは恋人たちのデートスポッ
トになっているらしい。そう聞いてからこの日を迎えるまで、俺が
この石柱には近づかないと固く決意し、それを守っているのは言う
までもない。
とにかく、まずはその内側から一人残らず退去させなければなら
ない。
﹁用地の確保をしないとな。往来を制限するのを、近衛兵にも手伝
ってもらうか﹂
﹁まさか君、柱の内側にいる者たち一人一人に、移動しろと言って
回るつもりじゃないだろうね﹂
サーリスヴォルフは呆れ顔だ。
﹁そんな労力をさく必要はないよ。我らは大公だ。ただ退けと命令
すればいいだけの話さ﹂
そんな乱暴な。
﹁あ、君いま、私の意見を乱暴だと思ったろ﹂
サーリスヴォルフは本当に鋭い。
いや、まさか⋮⋮俺が分かりやすかったりするのか?
﹁いいかい、ジャーイル。我らは大公なんだよ。あくせく働く必要
などない。だが、かといってその権威は大人しく座っているだけで
認められるものでもない。時には尊大な態度を示して立場を明らか
にしてみせるのも、言ってみれば高位魔族の義務みたいなもんさ。
それでいらぬ反逆心が押さえられることもあるのだからね﹂
﹁そんなものかな⋮⋮﹂
まあ、そういわれれば大公なんてそんなものなのかもな。偉そう
に命令するだけで、全員が従う。それだけの地位であるわけだ。
887
なにせ、魔族の中でもたった七人しかいないわけだし。
﹁そんなわけで、君、試しにみんなを退かしてごらん。ついでにそ
のまま、投票箱も造ってくれればいいよ﹂
⋮⋮まあ、仕方ないか。後の処理はサーリスヴォルフに任せるわ
けだしな。
どうせ俺たちが門から出た段階で、目の前には空白地ができてい
る。大公が歩く前方を遮らないよう、魔族たちは道を譲るのだ。
そして高位魔族の動向は、常に注目の的となっている。
となると、大した混乱もなく命令は行き届くのかもしれない。
俺は大きく息を吸った。
﹁今よりこの地に美男美女コンテストの投票のための石箱を出現さ
せる。青い四柱の内側にいる者は、ただちに退去せよ﹂
サーリスヴォルフの言うとおりだ。少し声を張るだけで、魔族た
ちは俊敏に俺の命に従おうとする。みんな随分協力的だ。
というか、コンテストと聞いてテンションがあがったのだろう。
あちこちで拍手や歓声が起こった。
投票箱を造るだけでもこれだ。
ホントに魔族ってのはどれだけ⋮⋮。︵以下略︶
四柱の中に残るのは、あっという間に俺とサーリスヴォルフと彫
刻家たちだけとなった。
近衛兵たちは、それぞれ四柱の外側を守るように待機している。
正直にいうと、地面から空に向かって突き上げる形で石箱を出現
させるだけだから、その場に何人いても影響などない。ただ地面が
盛り上がるのと一緒に、範囲内にいる者たちも上昇するだけのこと
だ。
だが一応、投票開始日までは投票箱に触れていいのは、彫刻家の
みと決まっている。それは俺とサーリスヴォルフでさえ例外ではな
888
い。ここから降りた後は投票開始の宣言をするために再び登るその
日まで、決して段上に足を踏み入れることも、壁面に手を触れるこ
とさえ許されないのだ。
結界までは張らないが、それでも正直、そこまで制限する意味は
よくわからない。
ちなみに、投票に関しても身分にかかわらず公平で、たとえ魔王
様であっても投票口にたどりつくまでは列に並ばねばならない決ま
りになっている。
とはいえあくまで決まりだけだから、たぶん魔王様が投票しにき
たらみんな場所を譲ることだろう。
ちなみに投票日以降は公正投票管理委員会なるものが開始日当日
に組織され、その委員たちが連日、投票口を見張ることになってい
る。締め切って後は開票作業に携わることになる、面倒くさい役だ。
その人員をあらかじめ決めておかないのも、不正をする隙を与えな
いようにとの配慮かららしい。
ホントに、なんでそこまで⋮⋮まあいいけど。
﹁よし、じゃあいくぞ﹂
石を出現させるくらいの単純な術式なら、マーミルだって頑張れ
ば展開出来るだろう。ただ、投票箱ほどの大きさのものをとなると、
そこそこの魔力が必要だ。
そんなわけで俺は、石柱いっぱいに三層四枚六十五式を展開し、
頑丈な石の箱を出現させた。
色は黒で、これは魔王様の希望だ。もっとも、どうせ全面に彫刻
されたうえ彩色が施されるので、背景くらいにしかその色は残らな
いだろうけど。
最初に建てた目印の青い石柱はそのまま上昇して、今も箱の四隅
にそびえ立っている。
だがさすがに、デートスポットの役目は今日で終わりだ!
889
今は二十m四方の盤面の上にあるのは、俺とサーリスヴォルフ、
それから十人の彫刻家の他には、その青い四柱と真ん中にぽっこり
盛り上がった投票口を表す石柱だけとなっていた。
だが地上から見ればただの黒い四角い塊が出現しただけで、なん
の面白味もないに違いない。
だというのに、石柱を囲む四方からはさらなる歓声があがってい
る。 ﹁随分と丈夫なものを造ったようだね﹂
確かにそのつもりだし、補強のない今でも多少の魔術では崩れも
しないだろう。だからってそんな力一杯、ガンガン踏みつけるのは
やめてくれ、サーリスヴォルフ。
ちなみに俺が造ったただの四角い箱へ、最終日に取りつけられる
階段を作成するのは石工たちの役目だ。今はこの場にいないが、作
業にはもう取り掛かっていることだろう。
﹁仕上がりが楽しみだねぇ﹂
﹁そうかな⋮⋮いや、そうだな﹂
俺が否定しかけたのには事情がある。なぜって、その<麗しい我
が魔族を讃える文字と絵>には、現役の七大大公の偉業が含まれる
からだ。資料を確認したところでは俺の<偉業>を表す場所には、
ネズミ大公と奴の配下を倒したその時のことが、彫られるらしい。
あれは俺にとっては黒歴史みたいなものだ。それを大々的に発表
されるなんて、ものすごく恥ずかしい。
だからその場面はやめてくれと頼んでみた。そうしたら他には、
デーモン族一の美女であるウィストベルを袖にする場面しかないが、
それでもいいかと確認されて慌てて前案を了承したのである。
戦って相手に勝つか、異性にモテるかのどちらかじゃないと、<
890
偉業>としては認められないらしい。いくら真面目に謁見を行って
領地を治めていても、そんなことにはなんの価値も認められないの
だ。
なんだろうな、この胸に去来する虚無感は。
ちなみに、プートの<偉業>は他の大公を打ち負かして大公位一
位になった場面で、ベイルフォウスは女性を山ほどはべらせている
様子らしい。アリネーゼは全魔族一番の美女に選ばれたその瞬間で、
ウィストベルもデーモン族一の美女に選ばれたその時だそうだ。サ
ーリスヴォルフも男女の恋人をはべらせている場面で、俺と同じく
大公になってからの歴史が浅いデイセントローズは、やはりマスト
ヴォーゼを打ち負かしたその瞬間のことが彫られるということだっ
た。
スメルスフォやマストヴォーゼと彼女の娘たちが、その彫刻に傷
つかねばよいのだが。もっとも、娘たちは誰一人として成人はして
いないのだから、わざわざこの投票箱に近づく必要もないわけだが。
﹁後は任せていいかな、サーリスヴォルフ﹂
﹁ああ。終わったら報告にこいと、陛下に呼ばれていたんだったね。
かまわないよ﹂
そうなのだ。
魔王様に、今から投票箱を造りたいのですがいいですか、と許可
をもらいにいったところ、それはすんなり許してもらえたのだが、
終わったらすぐに報告に来るようにと申しつけられていたのだ。そ
れも、俺一人をご指名で、場所は執務室を指定して、だ。
さすがにそれで、単なる報告だけを求められているとは思わない。
だって、箱が出来ました、で終わることだもんな。
どう考えても、何か別の目的があるのだろう。
⋮⋮あれだろうか。例の催淫剤が子供に及ぼす影響の件。
891
とっくにベイルフォウスから報告が入っているだろう。
あれからマーミルは丸二日間、眠り続けて目覚めなかった。その
間、どれだけ心配したかしれない。
だが幸いなことに、目覚めた妹の記憶が曖昧だった他には、身体
的にも精神的にも異常は見られなかった。それに記憶に関しても、
酩酊状態というのは一般的にその間のことを忘れがちだというサン
ドリミンの言葉もあって、とにもかくにも俺は一安心したのだ。
それに関する報告書も見解書も作成してはいないが、問われれば
一応の報告はできる。
それとも、新魔王城の施工日程についての最終確認だろうか。
城は内装があと少し残っているだけの状態だ。本棟なんかは、あ
とは家具や荷物を運び入れるだけの段階まで完了している。もっと
も、それは引っ越し作業に入るので、魔王様の最終視察を経て全魔
族に公開された後のことになるだろう。
その視察の日程を、どうにかこうにか都合出来たのだろうか。コ
ンテストまでに終わらせたいと死にものぐるいで頑張ったみんなを、
一刻も早く解放してやりたいのだが。
そんなことを考えながら、魔王様の執務室へ赴いたところ。
﹁そなた最近、ウィストベルを見たか﹂
予想は大きくはずれた。
まさか催淫剤のことでもなく、新魔王城の施工具合でもなく、大
祭のことですらないだなんて。
しかし、ウィストベルか。
具体的には⋮⋮そう、あのマーミルの事件があったあの日⋮⋮ウ
ィストベルの魔力が邪鏡ボダスで百分の一になっていたあの日から、
892
会っていない。
もちろん、俺の方から避けているのではない。
むしろあれ以来、俺はウィストベルがまた魔力を減少させてそこ
ら辺をウロウロしているのではないかと心配して、気がつけば彼女
を探しているような状態だ。
いや⋮⋮あの続きを期待してるわけじゃない。断じて違う。下心
があるとか、そういうことはなくて⋮⋮。
とにかく、やはり見かけないと思ったのは、俺のタイミングが悪
かっただけではないようだ。
﹁で、どうなのだ。見たのか、見ていないのか﹂
やばい。魔王様は何か感じたのではないだろうな。いや、下心な
んてないけれど!
﹁十日前に魔王城でお会いしましたが、それ以降はお見かけしてい
ませんね﹂
﹁私がウィストベルを見かけたのは十二日前のことだ。それ以来、
会ってすらいない﹂
えっ。
ウィストベル、まさかあの日は魔王様に会わずに帰ったのか?
嘘だと言ってくれ。
﹁いや⋮⋮俺も、十日ほど前⋮⋮っていうくらいで⋮⋮あ、もしか
してあれは十二日前だったかな⋮⋮﹂
﹁ごまかさずともよい。そなたとウィストベルが十日前に、この魔
王城でダンスを楽しんでいたことは、もちろん予の耳にも入ってお
る﹂
ちょ⋮⋮人が悪すぎるだろ、魔王様!
﹁そこで、だ﹂
なに!? もしかして、お詫びに頭を差し出せ、とか言う訳じゃ
ないよな?
893
俺はじりりと後じさった。
こと、ウィストベルに関しては、魔王様の怒りはシャレにならな
い。最近は優しくなってきていたというのに、久々に頭蓋骨の粉砕
を覚悟しなければいけないだろうか。
﹁そなた、<暁に血塗られた地獄城>へ様子を見に行って参れ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
今、魔王様はなんて言った?
<暁に血塗られた地獄城>へウィストベルの様子を見に行けと言
ったように聞こえたのだが?
いや、まさか。
ウィストベルに関しては嫉妬深いことこの上ない魔王様が、俺に
そんなことを言うわけがない。よりによって、この俺に。
﹁なにを惚けておる。ウィストベルの様子を見に、<暁に血塗られ
た地獄城>へ赴くのだ。こんな気の悪い命令を、二度も言わせるな﹂
眉を顰めて舌打ちする様子は、弟とそっくりだ。
﹁よろしいのですか?﹂
﹁よろしくはない。が、予がこの城を出てウィストベルの饗応を受
けることができる日は、まだまだ先だ。つい先日、ようやくプート
の城を訪れたばかりだからな。だがウィストベルの城へ訪れるまで
に、彼女に何かあっては大祭どころの騒ぎではなくなる。故に、そ
なたが無事を確認してくるのだ﹂
﹁無事を、ですか?﹂
何かあってはって、あのウィストベルに何があるっていうんだ。
彼女は紛れもなく魔族一の魔力を誇る強者であり、俺たち七大大公
が束になっても敵わない、真の魔王なのだ。
そう、あの邪鏡ボダスを使った状態でなければ⋮⋮。
894
待てよ。
まさか、あの後何か⋮⋮例えばウィストベルに懸想する公爵なり
が徒党を組んで、彼女を拉致監禁して、あんなことやこんなことを
⋮⋮。
いや、それならその不在が噂にならないはずはない。だが、ウィ
ストベルの噂話なんて、今日まで耳にしたこともない。となると⋮
⋮。
﹁本来ならこんな話はしたくなかったが、止むを得ん﹂
俺がよほど腑に落ちないという顔をしていたからだろう。魔王様
は重々しい調子で口を開いた。
﹁ウィストベルには大祭を厭う理由があってな﹂
大祭を厭う理由⋮⋮。
まさか、本来なら自分が魔王として祝われるはずなのにルデルフ
ォウスはずるい、とかいう子供っぽい発想からじゃ⋮⋮ないな。魔
王様が魔王位に就いて今日の日を迎えられたのは、他ならぬウィス
トベルの意志に従ってのことなのだから。
﹁詳細を予の口からは伝えるわけにはいかぬ。ウィストベルにして
も誰彼と知られていいことではなかろうからな。故にそなたは予の
名代として⋮⋮とはいえ、周囲には何か別の用事があったように見
せかけて、そうとは知られぬように、ウィストベルを見舞ってくる
のだ﹂
見舞う?
﹁場合によっては、新しく築いている魔王城のことを話しても、現
地へ案内しても、かまわん。それでウィストベルの心が安まるとお
前が判断したのであれば﹂
えっ!
新魔王城の件は、ウィストベルに知られたくない、その一心で他
895
のすべてにも秘することになったはずだ。
なのにそれを明かしてもいいって⋮⋮。
それほどのことなのか?
﹁どうなのだ。行くのか、行かないのか﹂
やばい。魔王様がイライラしている。
﹁もちろん、行きます。行かせていただきます! もうぜひ喜んで
!﹂
﹁喜んで、だと!?﹂
えっ!
そこに反応するの!?
﹁貴様まさか、この時とばかりにウィストベルの弱みにつけこんで、
彼女をその毒牙にかけようと⋮⋮!﹂
﹁まさかそんなわけな﹂
釈明は一言も聞いてもらえず、俺の頭は久しぶりに魔王様の理不
尽な怒りを受けることになったのだった。
896
84.ウィストベルの不調
﹁我が主は、ただいまお休みになられておいでです。わざわざお越
しいただいたというのに、申し訳ございませんが﹂
俺はいま、<暁に血塗られた地獄城>でウィストベル配下の副司
令官と、応接室で顔を合わせている。光栄なことに、四人全員そろ
っての歓待だ。
ああ、そりゃあもう盛大な歓迎を受けているとも。昨日魔王様に
殴られてズルムケかけた頭皮が、ぴりぴりするほどの嫉妬心たっぷ
りな視線を浴びているのだからな!
ウィストベルのデヴィル嫌いを反映してのことか、副司令官たち
は四人共にデーモン族だ。その全員が男性で、漏れなく彼女に私的
な好意を抱いているのがありありとわかるのだから、たまらない。
ここがウィストベルとベイルフォウスの大きく違うところだ。あ
の女たらしのところの副司令官や軍団長は男女半々くらいだが、い
かにも実力で選びましたといわんばかりの顔ぶれで、そこにはお互
いの私的な感情は一切見受けられない。
もちろんウィストベルも実力で選んだのかもしれない。それが四
人ともたまたま男性だったおかげで、結果的に好意を向けられてし
まっている、というだけの可能性だってある。なにせウィストベル
は絶世の美女なのだから。
﹁先触れもなくやってきたのはこちらだ。お目覚めまで大人しく待
っているさ﹂
俺の言葉に対して、黒髪の副司令官が四人を代表するように口を
開いた。
﹁口幅ったいことを申しますが、仰るとおり先触れをいただけてお
897
りましたら、我らとしてももう少し心を尽くしたもてなしをご用意
できたのですが﹂
嘘つけこの黒髪。嫌味言いたかっただけだろ。
ちなみに四人の内訳は、黒髪、茶髪、紫髪、ハゲ、だ。
﹁いいや、これ以上の歓待は必要ない。我が城の副司令官たちなぞ、
大公がやってきても対応できるのはせいぜいただの一人。他はそも
そも、大公城に呼び寄せることすらできん。それほど忙しいはずの
副司令官を四人勢ぞろいさせているというのに、これ以上のもてな
しなどあり得ようか﹂
嫌味には嫌味だ。
﹁少々大祭の運営に支障が出たところで、止むを得ません。主の名
を貶めぬためには大祭の運営をおいてでも、大公閣下をご歓待あそ
ばすのが臣下としてのあるべき正道。それも弁えぬようでは、主に
対する忠誠を疑われるというものです﹂
なんだと紫め。
俺の副司令官をも貶めるような発言には、温厚な俺もさすがにイ
ラッとしてきたぞ。
﹁大祭をおろそかにして魔王陛下の御不興を買うのが忠誠心とはお
それいる﹂
﹁さすがにそこまで愚鈍なものは、一人としておりません﹂
ニヤニヤ笑うな、ハゲめ。
ああ言えばこう言う!
だいたいなんだ。一人が口を開くたびに、他の三人で頷きやがっ
て。お前等は仲良しこよしか!
なんなんだよ、ウィストベルの配下たちは。
これ以上こんな不愉快な面子と対面していては、さすがに俺の我
慢も限界を迎えることだろう。
898
﹁とにかく、ウィストベルが目覚めて俺の手紙を読むまでは、この
まま待たせてもらう。それがたとえ明日になろうとも構わん﹂
﹁先ほどから何度も申しあげておりますが﹂
わざとらしいため息を差し込むな、茶髪め。余計イラつくだろう。
﹁主はこの数日体調を崩しておられ、誰の面会も謝絶しております。
魔王陛下以外に例外はございません。お預かりした書簡は、間違い
なく我が主の元へお届けいたしましたので、ジャーイル大公閣下に
おかれましては、このままお引き取り願いたく⋮⋮﹂
くそ。魔王様の命令で、俺はここにきてるんだぞ、と言ってやり
たい!
だができない⋮⋮こっそり見舞ってこいと言われたからには、真
実を明かすことなどできないのだ。こんな奴らには余計にな!
そう。魔王様が心配していた通り、ウィストベルは体調を崩して
いるのだという。
もっともそう本人の口から聞いたわけでもないし、ここに通され
るまではそんな噂話も聞こえてこなかった。要はこいつらがそう主
張しているだけなのだが、かといって全くの嘘だとも思えない。
なぜって、いつものウィストベルならば、副司令官がここまで勝
手をするのを許すとも思えないからだ。だから俺としては、医療員
の診察を受けるまでではないにしても、なにかしらウィストベルに
不調の原因があって、部屋にこもっているのだろう、という結論に
恩賞会の運営について相談したいことがあるので、
達したのだった。
そこで俺は
という旨を紙に書
直接お会いしたい。お加減が悪いのなら出直すので、日にちを指定
して欲しい。お返事があるまで待っているから
いて、副司令官に手渡した。
彼らのうちの一人がそれを侍女に渡すところは見たが、言付けの
内容は聞こえてこなかった。侍女に破り捨てろと命令していたとし
899
ても、俺は驚かない。
﹁お前たちは帰れと言うが、それは誰の判断だ。俺が来たことをウ
ィストベルに伝えた上で、彼女からの命令があったというのなら、
そう言え。だがもしも、お前たちが勝手な判断で大公を追い返そう
としているのならば、覚悟してもらうがいいか﹂
温厚な俺の我慢もそろそろ限界だ。穏便に対応している間に、態
度を改めればよかったものを。
﹁我らはそのような⋮⋮﹂
俺の殺気に気付いたのか、尊大だった副司令官たちの態度にもと
まどいが混じり出す。
﹁では俺がさっき渡した手紙に対する返答がウィストベルからあっ
たのか? なんと言っていた? それを聞いたなら帰ろう﹂
四人は困ったように顔を見合わせている。
それはそうだろう。侍女に手紙を渡して以降、この部屋には俺と
副司令官たち以外には誰も入ってきてはいないのだから。
やっちゃっていいかな。
ウィストベルには後で謝ればいいよな。
やっちゃってもいいよな。
処罰理由は大公に対する反逆罪、でいいかな。
よし、やろう。
そう思ったその瞬間。
﹁ジャーイルが来ておるとの報告が、我に参らぬのはいかなる理由
でか﹂
扉が開くと同時に、辺りを凍えさせる女王様のお言葉が、その部
900
屋に響いたのである。
***
やばい。怖い。
いつも以上に怖く感じる。
なぜだ?
この間、百分の一の魔力になったウィストベルを体験した反動か?
いや、違うと思う。
今日のウィストベルは何というか本当に⋮⋮いつもは少しくらい
笑顔を見せてくれるのに、今日は嘲笑すら口の端にのせてくれない
からだ。
それともあれか。あれが怖かったのか。
彼女が副司令官たちを追い払った時の、最後の一言。
﹁誰が我が怒りを受けるのか、話し合って決めておくがよい﹂
俺が言われた当人だったとしたら、もう絶対命はないものと覚悟
しただろう。
つまり今日のウィストベルは、かつてないほど不機嫌で、故にか
つてないほど恐ろしいのだった。
﹁ジャーイル﹂
﹁はい!﹂
いつもよりわずかに低い声に、思わず背筋が伸びる俺。
﹁我が配下の無礼は詫びよう。すまなかった。大公を相手に、あの
ような態度にでるとは許し難い。大祭中ゆえ、とりあえずの処罰は
一人に対してのみに限ることを、許してくれるか?﹂
その一人は何をされるんだろう。とりあえず、命がないのは確定
かな。
﹁許すもなにも⋮⋮確かに俺は、手紙には恩賞会について打ち合わ
901
せをしたい、と書きましたが﹂
﹁手紙? なんのことじゃ﹂
ウィストベルは長いすに横たわるようにして座り、肘掛けに上半
身を預けるようにしてもたれ掛かっていたのだが、俺の言葉でゆる
りと身を起こす。
その緩慢な動作も、もうなんか怖い。
﹁あの副司令官たちがあんまり帰れ、としか言わないので、恩賞会
のことで打ち合わせしたいことがあるから、今日お会いするのが無
理であれば、再訪するので日にちを指定して欲しい、と紙に書いて、
届けてくれるよう頼んだんです﹂
言い切った!
俺、どもらずに長い台詞を言いきったよ!
﹁届いておらぬ﹂
やばい。達成感に浸っている場合ではない。
ウィストベルの雰囲気が、ますます怖いものになってしまったで
はないか。
﹁我が許しもなく主を追い返そうとしたばかりか、手紙まで隠蔽し
ようとしたか﹂
ウィストベルに宛てた手紙がなくなるのは、これで二回目だ。
一度目は俺が弱体化している時に、ウィストベルに魔道具の知識
を問う手紙を送った時。あのときも手紙は届いておらず、ウィスト
ベルは直接会うまで俺の状態を知らなかった。
だがまさか同じ奴の仕業でもないだろう。
あのときのことは一応、解決している。俺の方はきっちりと伝令
が<暁に血塗られた地獄城>へ届けていたことを確認できたし、ウ
ィストベルの方も犯人が分かったので厳罰に処した、ということだ
ったはずだ。
902
﹁情けないことじゃ。処罰の前例がある中で、それほどにこの私が
軽んじられようとはの⋮⋮八つ裂き程度では、ぬるかったとみえる﹂
ウィストベルの表情に、この時初めて笑みが浮かんだ。だがそれ
は、見る者を凍り付かせるような笑みだ。
﹁のう、ジャーイルよ﹂
﹁はい!﹂
寒暖など気にならない魔族の俺でさえ、この部屋にいると寒気を
感じてしまう。この間、人間の町を覆ったベイルフォウスの氷結魔
術でさえ、今のウィストベルに比べたら子供魔族の雪遊びのような
ものではないか。
またも長い足がスリットからはみ出している?
そんなこと気にしている余裕もないんだからね!
﹁大祭が終了して後には残りの三人も、この世からその存在を抹消
してみせると約束しよう。主が望むなら、一族郎党とて容赦はせぬ
が、どうじゃ?﹂
﹁や⋮⋮いや、ウィストベル!﹂
確かに俺も、こいつらやっちゃっていいかなとか思ったし、実際
にウィストベルが入ってこなければそうしたかもしれない。けれど、
女王様の怒気にあてられて冷静になった今となっては、あいつらに
対する同情心すら沸き起こっている。
﹁さすがに⋮⋮ただの公爵とかなら、それでもいいと思うんですが
⋮⋮ほら、なんといっても四人は副司令官でしょう? そんな重要
な地位にある者を、全員殺すというのは⋮⋮。俺なら、ウィストベ
ルが代わりに怒ってくれたので、もうそれで気が済んだというか⋮
⋮。せいぜい罷免くらいが妥当かな、と思うんですが﹂
﹁相変わらず、甘いことをいうの。そんなことだから他領の副司令
官ごときに舐められるのではないのか? あんな対応をされたのが
ベイルフォウスであったなら、今頃この応接は血の海であったろう﹂
903
ベイルフォウスなら先日、俺と一緒にうちの医療班長に正座させ
られてました!
そう言ってやりたいが、言えない。
ホントやばいくらい怖い。
ヒュンヒュンしすぎて内股になりそうなくらい怖い。
どうしよう、俺。
﹁副司令官など、大した地位ではない。代わりはいくらでもおると
いうのに。それともジャーイル。主にとってはそうではないと申す
か?﹂
﹁それは⋮⋮もちろん、副司令官はとても大事な存在ですから﹂
特に二名!
優秀な二名は何者にも代え難い!
﹁たとえその者が、他の大公⋮⋮私に無礼を働いたと知っても、罰
せぬほどにか?﹂
﹁うちの副司令官に、そのような不届き者はおりません﹂
正直なところ、半分は大丈夫だろうが、半分には疑問が残る。が、
ここは言い切っておかないとだめだ。
﹁そもそもジャーイル。主の副司令官どもは、先の大公⋮⋮あの卑
しいネズミめが選んだのであろう。そんな者どもを、よく信頼でき
るものじゃ﹂
デヴィル族嫌いのウィストベルにとって、あのネズミ大公は嫌悪
の対象だったのだろう。当時を見ていなくとも、今のウィストベル
を目にしただけでそう断言できる。それほどの憎悪を感じることが
できた。
﹁確かに、ヴォーグリムは最低の大公でしたが、だからといって、
彼の配下すべてが同じように下劣とは限りません。そもそも俺だっ
904
て広義には奴の配下だったわけですし﹂
ウィストベルはぴくりと頬をひきつらせた。
もう嫌だ。こんな不毛な会話、一刻も早く打ち切りたい。なのに
なんで俺はいちいち、ウィストベル相手に詭弁を弄してるんだ!
だいたい今の話の流れだと、わざわざ自分で副司令官を選んだは
ずなのに、貴女見る目ないですね、と言ってるのと同義と思われて
も仕方ないぞ!
そんな誤解されたら、もう生きては帰れないぞ、俺!
﹁そんなことより、ウィストベル﹂
俺はこの上なく優しい声音を出すよう努めてみる。少しはウィス
トベルの雰囲気にも影響しないだろうか、と考えて。
﹁あの副司令官たちは貴女のお加減が悪いと言っていました。冗談
ならよかったんですが、今の貴女をみる限りそうとも思えません。
もし辛いなら、休んでいてください。実際、顔色も悪いじゃないで
すか﹂
﹁⋮⋮確かに、よくはない。だが加減が悪いといっても、体調が悪
いわけではない。どちらかといえば、気分が悪いのじゃ﹂
⋮⋮だよな。
どちらかといえば、機嫌が悪いんだよな。
もう空気がピリピリしてるもんね。
﹁さっきもいいかけましたが、俺がここにやってきた本当の目的は、
恩賞会の打ち合わせなんかじゃないんです﹂
﹁では⋮⋮いったい何をしにきたというのじゃ?﹂
﹁魔王様が⋮⋮﹂
﹁ルデルフォウスが?﹂
﹁ウィストベルが体調を崩しているかもしれないから、自分の代わ
りに見舞ってこいと⋮⋮﹂
905
﹁ルデルフォウスが、主を寄越したじゃと? 私を気遣って、ベイ
ルフォウスでなく、主を?﹂
﹁はい﹂
新魔王城のことがなければベイルフォウスでもよかったんだろう
が、魔王様は弟にも築城の件は内緒にしてるからなぁ。
﹁そうか⋮⋮ルデルフォウスが、主をか⋮⋮﹂
あら、どうしたことでしょう!
これは魔王様効果なのだろうか?
さっきまでの冷たい態度と声音はどこへやら、ウィストベルは春
の兆しのような暖かい笑みを浮かべたではないか!
﹁つまり、ジャーイル。主はルデルフォウスから我に捧げられた、
見舞いの品というわけじゃな?﹂
はい?
あれ?
あれれ?
ウィストベルがいつも通りだ!
いつも通りだよ!?
ものすごい悦に入ったような笑みを浮かべて、俺のほうへやって
こようとするよ?
さっきまではあんなに動きも緩慢だったのに、今はまるでその背
に羽根が生えているかのように軽やかだよ?
目が怖いよ? 獲物を見つけた猛獣のそれだよ。
﹁いや、そういうアレじゃなくて⋮⋮魔王様は、まさかそんなつも
りで俺を寄越した訳では⋮⋮!﹂
﹁では、どういうつもりなのじゃ?﹂
ゆっくりと歩を進めてくるウィストベルを前に俺は椅子から立ち
906
上がり、彼女が進むだけ後退してみせる。
﹁それはつまり、その⋮⋮﹂
﹁ルデルフォウスはこう申しておらぬだか? ウィストベルに望ま
れたら、その身を捧げよと﹂
﹁一言も!﹂
俺は激しく顔を左右に振りつつ、大声で叫びをあげた。
どこの残虐な魔族と生け贄の生娘の話ですか、それは!
907
85.美人が悩む姿には、そそられるものがあるといいますが
﹁だいたい、お加減が悪いんじゃなかったんですか!?﹂
﹁ああ、悪いとも。部屋にこもりっきりで配下の勝手を見逃すほど
にな。じゃが、主が共寝をしてくれればそれもたちまち解決じゃ﹂
﹁そんな馬鹿な﹂
﹁なんじゃ。相変わらず肝の据わらぬ対応じゃな。今の我では食指
が動かぬというのなら、この間のようにか弱い状態になってやって
も、よ⋮⋮い⋮⋮﹂
やばい、もう後じさる床がない!
固い壁を背中に、柔らかい手の平を胸に感じながら、観念しかけ
たその時だった。
何かを思い起こしたように、ウィストベルはピタリとその歩みを
止めたのだ。
﹁弱い⋮⋮私?﹂
ウィストベルの表情が、見る間に青ざめていく。
ただ白いだけじゃない。今度は本当に、青ざめていったのだ。
﹁大丈夫ですか、ウィストベル﹂
俺はとっさに彼女の腕を支えた。
一瞬、そのままふらりと倒れこむのではないかと錯覚したからだ。
だが、ウィストベルはニヤリと口の端をあげると、俺の背に腕を
回してきた。
﹁もちろん、大丈夫じゃ。こうして主が抱きしめてくれればの﹂
﹁ウィストベル⋮⋮﹂
いいや、違う。いつもとはやっぱり違う。
908
軽口だけ聞いているといつものウィストベルのようだが、普段の
覇気が感じられない。
俺に抱きついているのだって、誘惑するためじゃない。それは、
全身に伝わる震えで知れる。
ウィストベルは何かに怯えているのだ。
でも何に?
この世にウィストベルが怖れる必要のあるものなど、一切ないと
いうのに。
だが、この場でその問いを口にするほど、俺も無神経ではない。
とにかく彼女が落ち着く助けになればと思い、俺はその華奢な体
を抱き返した。
共寝はさすがにできないが、抱きしめるくらいなら大丈夫だろう。
どうせもうウィストベルからは密着されているんだ。俺が自分の腕
をその背中に回したところで、何ほどの違いがあろうか。そう、魔
王様にばれさえしなければ問題ない。
ばれさえしなければな!
そのままゆっくりと、絹糸のようになめらかな髪を撫でつける。
瞬間、ウィストベルは驚いたような表情を浮かべたが、すぐにほ
っとしたように目尻をゆるめると、抱きしめる腕にいっそう力を込
め返してきた。
﹁ルデルフォウスのために、少しでも魔王城へ行ってやりたいとは
思っておるのじゃ﹂
ひたすら頭をなでていると、ようやく気分も少しは落ち着いてき
たのだろう。ウィストベルはポツリポツリと口を開き始めた。
﹁けれど、他ならぬ三百年の大祭とあっては⋮⋮﹂
震えは止まったはずが、ぶるり、と悪寒が走ったように背が震え
909
る。
﹁もうこんな感情は忘れたと思っていた。克服したと思っておった。
実際、大公についてからのこの三百年間⋮⋮魔王城で恐怖を感じた
ことなどなかったというのに⋮⋮﹂
恐怖? このウィストベルが?
魔王城でいったい何に恐怖を感じたというのだろう。
彼女より強い魔族が魔王城にいたとでもいうのだろうか。いいや、
まさかそんなことはあり得ない。
だがあの日⋮⋮邪鏡ボダスを使って魔力が百分の一になったウィ
ストベルと比べるなら、それに勝る魔族がいたとしても不思議では
ない。
実際、大公の何人かはあのときのウィストベルに勝っていた。
まさかそのうちの誰かに、恐怖を感じた?
﹁あの後⋮⋮俺と別れたあの後、何かあったんですか? 誰かに何
か嫌なことを言われたとか、乱暴されたとか﹂
﹁いいや。誰にも、何も、されてはおらぬ。ただ、視ただけじゃ﹂
みた?
﹁いったい何を見たんです?﹂
﹁おかしいであろう⋮⋮私は真実、誰より強い。今となっては、間
違いなくそうなのじゃ⋮⋮だというのにあの日⋮⋮主と別れたあと、
私は自分の弱さに耐えられなかった⋮⋮﹂
やはり邪鏡ボダスによって弱体化したあの日、何かがあったのだ。
ウィストベルに恐怖を抱かせる、何かが。
﹁わかっておる⋮⋮わかっておるのじゃ。もうエルフォウンストは
あの城にはおらぬ。今はルデルフォウスがあの城の主なのじゃ。頭
ではそうわかっていても﹂
﹁エルフォウンスト?﹂
確か先の魔王がそんな名だったはず。
910
﹁そうじゃ⋮⋮もうおらぬ。あの下種は他ならぬ私のこの手で葬っ
たではないか﹂
ウィストベルは俺の背に回した腕をほどき、両手の平をじっと見
つめた。
それからよろよろとした足取りで長椅子にたどり着くと、崩れ落
ちるようにその身を沈める。
﹁葬ったって⋮⋮﹂
先の魔王をウィストベルが?
いや、なんとなくそうじゃないかと予想はしていた。
そのエルフォウンストという魔王を見たことがないので、その正
確な強さは知らない。だが倒した者は不明とされていたし、実際に
ルデルフォウス陛下がウィストベルによって魔王の座に就いている
のを知れば、自ずと正解は導き出されるというものだ。
だが本人の口から聞くと、こう⋮⋮腹にズシリとくるものがある
ではないか。
しかし、なぜ今更︱︱三百年も経った今になって、ウィストベル
は先の魔王のことなんて言いだすんだ。
そう言えばさっき、﹁みた﹂と言っていたが、たとえばエルフォ
ウンストとかつて深い関係のあった臣下や愛妾を魔王城で見かけで
もしたのだろうか。そして嫌な思い出が蘇ってきたとか?
それともまさか、ウィストベルは魔王城で自分が殺したはずの先
の魔王、エルフォウンストの亡霊を視たとでもいうのか。
﹁ウィストベル﹂
俺は彼女の横に腰掛け、今度はその華奢な肩にそっと手を置いた。
﹁奴が⋮⋮エルフォウンストが私を見つけたのは、奴の三百年大祭
⋮⋮その時だったのじゃ。沿道にたって魔王を見送る私⋮⋮。隣に
両親と兄がいたのを覚えている⋮⋮。ああ、だがあの日、この目の
911
前で彼らは⋮⋮﹂
紡がれなかった言葉が﹁惨殺された﹂という事実に結びつくのは
容易に想像できた。
﹁それから七百年間、私は囚われ続けた。あの魔王城の暗くて狭い
⋮⋮血の臭いに満ちた部屋の中で﹂
七百年も囚われ続けた?
魔王城の一室で?
まさかそんな⋮⋮このウィストベルが?
﹁その間、我を知るものはほとんどおらず、成人を迎えても紋章す
ら与えられず、私は⋮⋮﹂
つまり、囚われたのは幼いころ、ということか。それなら納得で
きる。ウィストベルは弱かったのだろう。他の魔族の幼少期がそう
であるように。
﹁だから⋮⋮だから、殺してやったのだ。力を蓄え⋮⋮圧倒的な力
を得て、末にあの下種を⋮⋮なのに、なぜ⋮⋮﹂
ウィストベルは俺に背をむけたまま、肘掛けにすがりついている。
俺を拒絶して、独白してるようだ。
﹁なぜ、今さらこれほどに恐怖を感じねばならぬ。しかもあれはエ
ルフォウンストではない⋮⋮黒獅子など、もういないのじゃ。そう
であろう?﹂
ウィストベルは振り返り、震える手で俺につかみかかってきた。
﹁ええ、そうです。エルフォウンストはもういません。この世のど
こにも﹂
俺は出来る限り強い口調で彼女に同意した。
一時、ホッとしたようにその目尻がゆるむ。
﹁その通りじゃ⋮⋮そう、おらぬのじゃ。なのに⋮⋮行けぬ。こん
な恐れを抱いたままで、魔王城には行けぬのじゃ。行きたくても足
912
が⋮⋮いうことを聞かぬ﹂
こんなウィストベルは初めてだ。
彼女は強い。これほどの魔力を所持している者など、かつて見た
ことがない。その実力は、彼女を除く七大大公が全員で一斉にかか
っても敵わないほどなのだ。
そのウィストベルの背が、まるでただのか弱い女性のように小刻
みに震えている。
﹁貴女より強い者などこの世にはおりません。大丈夫、もう何も起
こりませんよ﹂
俺は彼女の背をゆっくりと撫でた。
だが、震えが収まる様子は一向にない。
﹁ルデルフォウスをこの城に迎えるその日には、全身全霊を尽くし
て歓待すると誓おう。だが、魔王城には行けぬ。悪いが、ルデルフ
ォウスには主の口からそう伝えてくれぬか﹂
もちろん、それがウィストベルから魔王様への返答だというのな
ら、伝えはする。
だが﹁そうですか﹂といって、このまま帰る訳にはいかない。
ああ、魔王様が心配したはずだ。
今のウィストベルは痛々しくて見ていられない。
魔王城へ足を運んでもらうまでは無理でも、多少なりとも元気は
取り戻してもらわないと。
現状、把握している事実といえば、ウィストベルが現魔王城に対
して先代魔王がらみの恐怖心を抱いており、足を踏み入れることは
おろか近づくことさえ拒否している、ということだ。
ただでさえ心の弱っているウィストベルに、これ以上根掘り葉掘
りその理由を尋ねるわけにもいかないし⋮⋮。
﹁いっそ⋮⋮いっそ、デヴィル族を滅ぼしてしまうか﹂
913
それは地の底から響いてくるような暗い声だった。
魔族が本能的に怖れるものがあるとするなら、それはきっと今の
ウィストベルだ。誰もが感じ取ることだろう。彼女が本気になれば、
その恐ろしい台詞の実現も不可能ではないと。
﹁そうじゃ⋮⋮もっと早くにそうしているべきだったのかもしれぬ。
デヴィル族など⋮⋮デヴィル族など、この世から抹消して⋮⋮﹂
俺はウィストベルの手を反射的に握った。
手のひらに食い込みかけていた指を、それ以上の自傷に向けさせ
ないように優しくほどく。
﹁ウィストベル﹂
こうなった場合、俺ができることはただの一つだ。
いいや。俺が、というか、実際には魔王様の秘策、というべきか。
事ここに至っては、事情をつぶさに知るだろう魔王様の判断に賭
けるしかないではないか。
﹁ご案内したいところがあるんですが﹂
***
ジャーイル閣下がいらっしゃったようだ、と連絡が入るのは、も
ちろん珍しいことではない。
閣下は魔王城を築城するという大事業への責任感はもちろんの事、
さらに結界の外に出られぬ我らのことを思いやるお気持ちから︱︱
少なくとも、私はそう信じている︱︱、三日と日を開けず様子を窺
いにきてくださるからだ。
だが、作業の手を止めてまで、結界近くまで誰かが送迎に行くこ
とはない。
他の大公であればいざ知らず、我が大公閣下はそのように仰々し
914
い扱いを受けられるのを、好まれていないというのも理由の一つだ。
けれど今日はいつもとは事情が違う。
なぜならば、工事もほとんど終えてしまっており、近頃ではたい
ていの者が暇を持て余しているからだ。
それでどうせなら手の空いているみんなでお出迎えしようという
ことになり、私を先頭に数十人ほどで閣下のいらっしゃる場所まで
やってきたのだが︱︱。
﹁あのぉ⋮⋮ジブライール閣下。大丈夫ですか?﹂
私を気遣う声に、意識が引き戻される。
いけない。現実逃避してしまっていた⋮⋮。
﹁だ⋮⋮大丈夫、とは、なんのことだ﹂
﹁なんのことって⋮⋮﹂
その男は自分が悪いわけでもないのに、申し訳なさそうな顔で私
を見ている。
いいや、その男だけではない。気遣わしげに見てくるのは、デー
モン族の男女を問わず、だ。その気遣いがかえって心を抉るとは思
ってもみないのだろう。
﹁べ⋮⋮別に私は、ジャーイル閣下が誰とこちらにいらっしゃろう
と、それをただお迎えするだけであって⋮⋮別に⋮⋮そう、別に何
も⋮⋮﹂
結界のこちらの様子を外から見るのは不可能だが、こちらから外
は丸見えなのである。
そして、そう⋮⋮今私たちの目の前には、結界外でウィストベル
閣下を大事そうに抱き上げるジャーイル閣下のお姿が⋮⋮。
私は思わず目の前の事実から、反射的に目をそらしてしまった。
﹁なんでとっとと入ってらっしゃらないんでしょうね﹂
915
なぜか閣下とウィストベル大公は、結界の外で長らく立ち止まっ
ている。まるで私に、その仲睦まじい様子を見せつけるように。
﹁うわ。閣下がウィストベル閣下の生足にさわったぜ。手つきがい
やらしすぎんだろ! え、まさか内股まで?﹂
﹁あー羨ましい。俺もさわりてー﹂
﹁ばか、お前!﹂
!!!
﹁解散!﹂
﹁え?﹂
数人の声が重なる。
﹁ジブライール閣下?﹂
﹁聞こえなかったのか? 解散だ。ジャーイル閣下をお迎えするの
は中止する﹂
﹁え? そんな急に。ここまできたってのに⋮⋮﹂
﹁とにかく私はここに来ていないし、何も見ていないんだから!!﹂
﹁あ、ちょジブライール閣下!﹂
閣下のあの、ウィストベル大公に向けられる優しい瞳︱︱。
こんな光景をずっと目にしなければならないなんて、我慢ができ
ない!
私は衝動的にその場から走り去り、行き当たった太い木の幹に隠
れた。
だというのに。
﹁うわ。降ろしたと思ったら今度は首筋だよ。まさかこんなところ
でおっぱじめるつもりじゃないだろうな、ジャーイル閣下﹂
実況とか勘弁して!
﹁それにしても、さすがにデーモン族一の美女。たまらないな⋮⋮
916
あの、うなじ。あの至近距離であの色気を浴びちまったらもう、俺
なんて人目も気にせずかぶりついちゃうね﹂
﹁私だってあんな風にジャーイル閣下にふれられたら、もうその場
で腰砕けになっちゃうわ﹂
もう聞きたくない!
なんで私はこんな近くで隠れてしまったのだろう。もっと遠くま
で走り去るべきだったのだ。
今のうちに、あの洞穴まで⋮⋮。
﹁あ、おい、入ってくるぞ。散れ﹂
慌てて木陰に身を潜める。
﹁うわっ﹂
ジャーイル閣下の驚いたような声が響いた。
ああ、どんなお声でも、本当に、なんて⋮⋮。
﹁なんだよ、お前たち⋮⋮﹂
﹁いや、別に⋮⋮﹂
解散といったのに、かなりの人数が残っていたのだろう。いつも
こんなことはしないから、閣下が驚かれるのも理解できる。
お迎えしようとした意図が、ばれてしまわないだろうか。
﹁俺たちは何も見てませんよ。ええ、見ていませんとも﹂
何そのわざとらしいごまかし方!
余計なことは言わなくていいから!!
﹁おかしな奴らだな⋮⋮﹂
ジャーイル閣下が鈍か⋮⋮いや、純真な方でよかった。
﹁まあ、いいや。ここにいるってことは、仕事は終わってるんだろ
? なら誰か、竜を頼む﹂
結界の出入りを禁じられている私たちは、作業の終わるその日ま
で竜すら手許においていない。だからこの結界をくぐれる竜は、ジ
917
ャーイル閣下が術印を刻まれたご自身の竜と、魔王陛下の竜の二頭
だけなのだ。
ああ、本当なら今すぐにでも出て行って、その手綱を直接受け取
りたかった!
けれど今さら、出て行く訳には⋮⋮。
私はジャーイル閣下の足音が通り過ぎるまでその場にひっそりと
身を沈め、通り過ぎた後はウィストベル大公を大事に抱きながら歩
み去る閣下のお背中を、物陰からじっと見送ったのだった。
今は一人になりたい。
とりあえず、部屋に帰ろう。
そう思って物陰から出ようとしたが、配下たちが集団でやってく
る足音にまた、反射的に身を潜ませてしまう。
﹁かわいそうになぁ、ジブライール公爵も﹂
何? 私!?
﹁ああ。あれだけ周囲にはバレバレなのに、肝心の本人には全く通
じてないからな﹂
え⋮⋮バレバレって何が!?
まさか⋮⋮まさか⋮⋮!
﹁そうは言っても、まさかジャーイル閣下だって、ジブライール公
爵に嫌われてると思いこんでる訳でもないだろ。だったら、あれだ
けの美人だぞ。オレが大公閣下の立場なら、絶対いくね。今だって
駄目もとで攻めてみるかと考えてるところだ﹂
!?
﹁あーやめとけ。あの方もあの方で、本当にジャーイル閣下しか目
918
に入ってないから、まず気付かれないぞ。オレがいい例だ。何度も
おきれいですね、とか、恋人は作らないんですか、とか、オレもフ
リーなんですよね、とか、散々アピールしてるのに、世間話だと思
われて終わりだ。いつまでたっても、ただの部下としかみてもらえ
ない。出会ったのは俺の方が先なのに!!﹂
この声には聞き覚えがある。
確かそう、私の直属の部下で⋮⋮よく話しかけてくる⋮⋮名前は
⋮⋮。
なに⋮⋮いったい彼は、なんの話を⋮⋮。
﹁あー。お前、結構頑張ってたよな、そういえば﹂
﹁まったくだよ。でもまだあきらめた訳じゃないけどな!﹂
﹁人にはやめとけといいながら、それかよ﹂
なぜ彼らは陽気に笑っているのだろう。
駄目だ、絶対にもう出ていけない。
私はいっそう身を固くして、彼らが通り過ぎるのを待った。
﹁それにしても、問題はジャーイル閣下だよな。なんであんな鈍い
んだ。もしかしてあの噂は本当なのか?﹂
﹁噂?﹂
﹁実はジャーイル閣下は女性に興味が無く、フォウスご兄弟と仲が
いいのもあっちの気がおありで⋮⋮﹂
な⋮⋮なんだと!?
そんなフザケた事を言う馬鹿どもは、どこのどいつだ!
ジャーイル閣下が女性に興味がないなんてとんでもない!
今だって、見ろ! あんなにウィストベル大公を大事そうに抱え
て⋮⋮。
大事そうに⋮⋮抱いて⋮⋮。
大事⋮⋮抱く⋮⋮。
919
ああ、地面と同化してしまいたい。
﹁それはないと思うがなぁ⋮⋮﹂
﹁そういえば、お前は昔、閣下と同じ軍団にいたんだっけ?﹂
﹁ああ。閣下が男爵になりたての頃にな。あの容姿だからな。当時
は結構モテてたし、割ととっかえひっかえ遊んでたはずだぜ? そ
れで何度かもめて⋮⋮確か、最終的にはティムレ伯爵までかり出さ
れて、仲裁役をつとめてた記憶がある﹂
﹁詳しいな﹂
﹁当時の俺の彼女も、ジャーイル閣下に鞍替えしやがったからな⋮
⋮忘れられんさ﹂
﹁まあ、なんというか⋮⋮頑張れ﹂
﹁⋮⋮おう⋮⋮﹂
﹁だけど、それだったらよ⋮⋮﹂
⋮⋮。
とっかえひっかえ⋮⋮何度ももめた⋮⋮。
⋮⋮。
そ、そりゃあ閣下はあれだけす⋮⋮⋮⋮す、す、素敵⋮⋮なんだ
から、女性は放っておかないだろう、とは思っていた。
思ってはいたけど⋮⋮とっかえひっかえ⋮⋮。
ああ、地面の冷たさが心地いい⋮⋮。
920
86.予定外のひととき
﹁ここで降ろします﹂
新魔王城の本棟が見渡せる場所で、俺はウィストベルを地面に降
ろした。
<暁に血塗られた地獄城>からここまで、彼女を抱き上げてきた
のには理由がある。新魔王城の説明をしたとしても、あのままのウ
ィストベルでは魔王城はおろか魔王領へ踏み入るのも拒絶されそう
な雰囲気があったからだ。
それでどうせなら俺は魔王様がウィストベルを驚かせたいと思っ
ていた気持ちも汲むことにして、案内する間、目を閉じていて欲し
い、とお願いしてみることにした。
するとウィストベルは目的地に着くその時まで、俺が彼女を抱き
上げて運ぶのならば、という条件付きでこの提案に応じてくれたの
だ。
それでずっと竜を飛ばすその瞬間から、俺はウィストベルの背と
太股の裏に手をおいていたわけだ。いや、正確にいうなら竜に乗っ
ていたときは俺も座っていたので、膝の上にウィストベルが座って
いたということで、背中と太股に手をやったのは立ち上がるそのと
きで⋮⋮。
とにかく、<暁に血塗られた地獄城>にいた者は当然のこと、大
祭のせいで空もいつもより竜の往来が多い。俺たちが飛び立つ瞬間
の姿を、誰にも見られていないはずはない。となると、魔王様にこ
の様子が知られないですむとは思えない。
なにせベイルフォウスがマーミルを居住棟から医療棟へ横抱きに
して運んだだけでも、変な噂がたっているくらいだ。
921
さらに、飛行中に結界を通るための術印を刻んでおけばよかった
ものを、うっかり忘れてしまったのもまずかった。それも思い出し
たのが結界のすぐ外で、ようやくだ。それでウィストベルが内腿に
つけろだとか、首筋にしろとかいうのを拒否したりして、ぐずぐず
していたところを⋮⋮なぜか集まっていた作業員たちに、ばっちり
目撃されていたようなのだ。
あいつらだって、俺とウィストベルの関係を誤解していないとも
かぎらない。
忘れてはいけない。
その半数は俺の部下だからまだいいが、残りの半数は魔王様の忠
臣なのだ!
そんな俺の心配は、ただ一つ。
噂を鵜呑みにした魔王様に、今度こそ本当に殺されるのではない
か、ということだけだ。
考えただけで頭が痛い。
とりあえず、頭蓋骨粉砕は覚悟しておこう。
それはともかくとして、俺はその赤金の瞳が魔王城をとらえる瞬
間の表情をつぶさに観察することにした。
本来ならウィストベルの隣にいるのは魔王様で、他ならぬその反
応を一番の楽しみにしていたのも魔王様なのだから。
俺はきっちりと見届けて、委細もらさず報告しなければならない。
﹁ウィストベル。着きました。もう、目を開けていただいて大丈夫
ですよ﹂
俺の言葉に、地上を指していた長い睫毛が天空に向けられる。
﹁いったいどこへ︱︱﹂
922
ウィストベルは言葉の途中で口を開いたまま静止した。
その赤みがかった金色に輝く瞳の中に、目の前の威容ある姿をい
っぱいに写して。
雲一つない濃紺の穹窿を背に、黒々とそびえ立つ魔王城。
昼には陽光を浴びて内側から燦然たる輝きを放ち、夜には月光を
浴びて闇の中に浮かび上がる、幽遠な美しさを誇る黒曜石の荘厳な
城だ。
そこに至るまでの道のりも、緑と水によって幻想的に彩られてい
る。
﹁なんじゃ⋮⋮この城は⋮⋮﹂
その声音に込められているのはばら色の驚愕。
﹁魔王城です。ウィストベルへ、魔王様からのプレゼントですよ﹂
俺は身をかがめてウィストベルの耳元にささやいてみせる。
大きな声を出してしまっては、せっかくの繊細な雰囲気が台無し
になるような気がしたからだ。
新魔王城の築城に関する魔王様の対応を最初から思い出してみる
に、その表現は的外れではないはずだ。
魔王様はウィストベルが現魔王城になんらかの心的外傷が抱いて
いることを知っていて、しかもこの<魔王ルデルフォウス大祝祭>
の折りにそれが発症してしまう予想をたてていた。だからこその新
魔王城の築城なのであり、彼女に内緒にしたのはもちろんミディリ
ースの隠蔽魔術があってこそだが、その理由はかつて言っていた通
り、急に明かして驚き喜ぶ顔を見たかったためだろう。
ああ、本当に。
意中の相手がこれほどに感極まった表情を見せてくれるのだとし
たら、俺だってそうしたと思う。
923
﹁ルデルフォウスが⋮⋮魔王城を新たに⋮⋮﹂
肉感的な唇から紡ぎ出される声は震えていた。
だが、さっきまでの恐怖の震えとは全く性質の違う震えだ。
恐怖に染まり、青白い顔をさせていたのが嘘のように、今、彼女
の頬はほんのりと薔薇色に染まり、濁りのない赤金の瞳は星の輝き
にもにて煌めく。その表情は今にも泣き出しそうにも見えるし、明
るい声をあげて笑い出すかにも見えた。
幸せを感じる表情、というのがあるのなら、今のウィストベルが
そうだろう。
俺はこれまでこんなに喜んだ女性を見たことがなかったし、これ
からもないだろうとさえ思えた。
﹁本当ならもう少し離れたところから見た方が全容が見えていいん
ですが、結界を張ってあるので今はこの正面だけで勘弁してくださ
い﹂
ウィストベルは今度は恐れからではなく、喜びから立っていられ
ないとでもいうように、俺の腕にもたれかかってきた。
﹁これは現実か? いつからこんな⋮⋮﹂
﹁以前から計画はたてておいでだったんでしょう。俺が大祭主にな
ってすぐにお話しがありましたから﹂
﹁では、たった百日にも満たぬ間に、これほどのものを造り上げた
というのか﹂
ウィストベルはそう言って、四方をざっと見渡した。
この城の正面は南に向かって建っている。
四方それぞれに役割をもたせているが、今俺たちの後ろに延びて
いるのは、なだらかだが降りるのに多少の時間を要する<大階段>
だ。
﹁それはこの城の築城に関わった、全作業員たちの頑張りがあって
924
のことです。恩賞会では彼らにも褒美が与えられることになってい
ますから、ぜひ魔王様と共にねぎらってやってください﹂
ああ、本当に。彼らのあの熱意がなければ、城はこれほど早くそ
の姿を現してはいなかっただろう。
﹁しかも、魔王城というならここは魔王領なのであろう? こんな
ものを造っていたとあっては、結界の規模からいっても噂に上りそ
うなものじゃ。なのにどうやって秘したというのか﹂
こ
﹁そこはミディリースに協力してもらいました﹂
﹁隠蔽魔術か。では、ぜひあの娘にも恩賞会には参加してもらわね
ばならぬの﹂
⋮⋮そうなるのか!
大丈夫かな、ミディリース。いや、無理だろ。さすがに恩賞会へ
の出席は不可能じゃないか?
﹁ルデルフォウスがこれを造ったのは、私のため、か?﹂
﹁ええ、ウィストベルのためです﹂
俺はもう一度断言した。魔王様の考えを聞いたわけではないが、
今となってはそう確信できる。
なぜならば、あんなにも彼女の全身を支配していた恐怖が、この
美しい魔王城を目にした途端、霧散したからだ。
﹁中に入られますか? 外だけでなく中もかなり凝っているんです
が﹂
﹁⋮⋮いいや﹂
え? 入らないの?
﹁では他の箇所をご覧になります? 見所はたくさんあるんですよ。
例えば東は︱︱﹂
ウィストベルは細い人差し指を立てると、俺の唇をふさぐように
あててきた。
925
﹁それも遠慮しておこう﹂
ウィストベルの表情は、今まで見たこともないくらいに穏やかだ。
﹁ルデルフォウスが何を考えて、この城を我に秘していたのか理解
できるゆえな。これ以上はルデルフォウスと共に見て回るべきじゃ
わか
ろう。今はここからこうして、眺めているだけで⋮⋮十分じゃ﹂
おっと、それもそうか。
よかったね、魔王様!
ウィストベルはちゃんと、魔王様の愛を理解っているようですよ!
﹁⋮⋮のう、ジャーイル﹂
ウィストベルはしばしの沈黙の後、俺の腕に手を回し、艶やかな
微笑みを浮かべて見上げてきた。
﹁なんです?﹂
ちょ⋮⋮なにこの足。
なんでその細い生足を俺の両足の間に差し込んでくるの?
なんでぐいぐいくるの?
いや、ちょ⋮⋮あの⋮⋮。
﹁全員に対する感謝を、今ここで代表の主を押し倒す、という形で
表現してもよいか?﹂
﹁絶 対 駄 目 で す !﹂
甘ったるい声に間髪入れず返答をし、俺はウィストベルの体を引
き離した。
***
とにもかくにも新しい魔王城に対する歓喜の念は、現魔王城に対
するウィストベルの心的外傷をも完全に上回ったようだ。今すぐ魔
926
王様に会いにいく、と言い出したのだから、そう判断していいだろ
う。
よかったね、魔王様!
俺とウィストベルに関してどんな噂話を聞いても、この功績を認
めて不問にしてもらえればいいんだが!
そうして、よかったね、俺!
さすがにあれ以上刺激されると、やばいところだったね!!
問答無用で魔王様に瞬殺されてたね!
俺は自分の竜を彼女に貸すことにした。
なにせ、そもそもウィストベルの竜どころか他の騎竜もここには
いない。すぐ近くの山やその麓で野生のものなら見つけられるだろ
うが、ウィストベルにはここがどこだか正確にわかっていないだろ
う。それを捕まえて魔王城へ駆っていくのも不可能ではないかもし
れないが、効率が悪すぎる。なにせ、彼女は今すぐにでも魔王様に
会いたいだろうから。
その点、俺の竜ならもちろん魔王城への道は把握しているし、飛
行速度も優秀なので急ぎの用にはうってつけだ。
﹁俺も明日、ご報告にうかがいますと、魔王様にお伝えください﹂
﹁承知した﹂
俺は力強く竜の手綱を取り意気揚々と出発したウィストベルを見
送ると、再び結界内に戻った。
もともと今日は魔王城に来る予定にはしていなかった日だ。でも
せっかくやってきたのだから、どうせなら少し見回って帰るのがい
いだろう。
ただ、なんだろう⋮⋮。
あちこち見回っていると、さっきからどうも視線が突き刺さる。
927
あれか?
まさかここにも<アレスディア様の美貌を堪能するために可能な
限り尽力する会>のメンバーがいるとでもいうのか?
いいや、まさか。外の様子を多少見られるようにしているとはい
っても、そんな会が存在することを知れるはずはない。
それに、こちらを見ているのはデヴィル族に限っていない。とい
うか、むしろ主にデーモン族の男性から視線を向けられている気が
する。それも⋮⋮非難めいた⋮⋮。
ちょっと待て。
これはもしかして、ウィストベルを抱き上げてきた影響か?
﹁違うからな﹂
﹁は?﹂
一緒に本棟を見回っていた、現場主任のオリンズフォルトが怪訝
な声をあげた。
﹁別に俺とウィストベルは、そういう関係じゃないからな⋮⋮﹂
﹁そういう関係、とは何のことです?﹂
﹁いや、だから⋮⋮抱き上げてきたのはウィストベルに目をつぶっ
ていてもらう必要があったからなんだ。まさか目を閉じたまま歩け
とは言えなかったし、だからああするしか選択肢がなかったからで
あって、決して俺とウィストベルが特別な関係にあるからとか、そ
ういうことじゃなくて⋮⋮﹂
﹁⋮⋮誰かに言い訳してるように聞こえますが、閣下﹂
﹁⋮⋮﹂
だってお前、魔王様の配下じゃん。噂が耳に入る可能性を考える
だけでも恐ろしいのに、それを﹁ああ、とてもいい雰囲気でしたね﹂
とか同意されても困るじゃん。
﹁わかりました。万が一どなたかに意見を求められるようなことが
あった時には、今の閣下のお言葉をよく考慮しつつ話題に乗ること
928
にします﹂
君が話のわかるやつでよかったよ、オリンズフォルト!
⋮⋮ん?
いや、待てよ。
そもそも話題に乗らないでいてくれた方がいいんじゃないのか?
﹁ところで話は変わりますが、我々は閣下の居城にご招待いただけ
ることになりそうでしょうか?﹂
﹁ん? ああ、その件な﹂
そう言えば魔王様には確認していたんだったが、まだみんなには
伝えていなかったな。
﹁恩賞会での報償の一つとして発表されることになった。招待でき
るのは<魔王ルデルフォウス大祝祭>が終わった後になると思うが﹂
﹁ではその日を心待ちにいたしましょう﹂
﹁だが、ミディリースとならその前に会う機会はあると思うぞ?﹂
﹁と、申されますと?﹂
﹁恩賞会にはミディリースも受賞者として招待されるだろうからな。
君たちほどの報償はもらえないにしても﹂
﹁それは⋮⋮かわいそうですね﹂
かわいそう?
果たした役割の分量的に、不公平とは言えないはずだが。
﹁なぜ?﹂
﹁この間見かけた時の印象が正しければ、彼女はまだひどい人見知
りを克服できていないように見かけられましたので﹂
幼なじみとして、引きこもり性格は把握済みということか。
﹁それに隠蔽魔術のことは、あまり明らかにしない方がいいのでは
ないでしょうか。彼女自身が弱いのが心配の種です。便利な力では
あるので利用しようと思う者がいるかもしれません﹂
929
それは確かに俺も考えたことだ。だが、俺の目とは違って隠蔽魔
術はもともとその存在を秘されてはいない。それでもミディリース
のような弱い者がその使い手だというのは、オリンズフォルトのい
うとおり公表しない方がいいのかもしれない。
﹁そうだな。どうせ本人も拒否するだろうし、そこら辺は一考して
みるよ﹂
﹁ありがとうございます﹂
おっと珍しい。どちらかといえば無表情なオリンズフォルトが、
満面の笑みを浮かべたではないか。
ミディリースの身をそれほど案じているのだろう。魔族の感覚と
しては遠縁になるといっても、一応は血縁者だ。身内としてその身
を思いやっているのだろうと考えると、何とも微笑ましい。
﹁ところで、ジブライールはどこにいるか知らないか? 今後の打
ち合わせをしたいんだが﹂
﹁ジブライール閣下ですか﹂
オリンズフォルトは怪訝そうに眉をひそめた。
﹁私などより閣下の方がご存じでは?﹂
﹁⋮⋮なんで俺が?﹂
﹁なぜって⋮⋮閣下がいらしたという連絡が入ったので、ジブライ
ール公爵は手の空いている者たちを引き連れて、閣下をお迎えにあ
がったはずですが⋮⋮お会いになられませんでしたか?﹂
﹁会って⋮⋮ない、が﹂
ジブライールが俺を迎えに?
それで結界に入った途端、大勢の作業員に出迎えられたわけか。
だがその中にジブライールはいなかったよな? そうとも。いれ
ば気付かないはずはない。
﹁では、途中で何か用事ができて外されたのかもしれませんね﹂
930
﹁ああ、そう⋮⋮だな﹂
オリンズフォルトの声の調子にひっかかりを感じながらも頷くと、
なぜかため息をつかれた。
﹁無礼を承知で申しますが、閣下はもしかしてよく鈍感と言われた
りしませんか?﹂
﹁は?﹂
本当に無礼だな、オリンズフォルト!
俺じゃなかったら、きっと大激怒していたところだぞ!
﹁いや。言われたことはない⋮⋮あんまり﹂
そりゃあ、たまにはある。たまには言われる。
でも、たまにだ!!
﹁では、どうされます?﹂
﹁なにが?﹂
﹁今頃、ジブライール閣下はどこか隅のほうで一人、膝をかかえて
泣いているかもしれませんが、それを探し出して閣下の前まで引き
ずり出してきますか?﹂
﹁は?﹂
なんでジブライールが泣いてるんだ。
﹁大丈夫か、オリンズフォルト。言動に脈絡がなさすぎるぞ﹂
本気で心配してやったというのに、オリンズフォルトのやつ!
またも俺は理不尽なため息を浴びせられたのだった。
931
87.まさかこんな日がくるなんて
その日の魔王城は、魔王様とウィストベルに関する噂話でもちき
りだった。
というのも、昨日俺の竜を駆って魔王城に乗り付けたウィストベ
ルは、たまたま中庭にいた魔王様︱︱俺が思うに、絶対ウィストベ
夢見るような瞳
で魔王様の手を取ると、その甲に口づけた
ルを迎えるために出ていたと思うのだが︱︱を見つけるや駆け寄っ
て、
というのだ。
あの、魔王様とウィストベルが公衆の面前で、だぞ?
そりゃあ俺は二人がそういう関係だと知っている。見ちゃったか
らね!
大公になった初日に目撃しちゃったからね!
だがそのことを知っているのは俺だけ。弟のベイルフォウスでさ
え、二人の関係については知らないはずだ。
魔王城の、特に近衛あたりはさすがに察しているかもしれないが、
それでも魔王様が自ら明かしたこともないと思う。あの二人が密会
しているときは、一応、人払いされているからな。
それもこれも、ウィストベルの意志が反映されてのことであるは
ず。
だというのに、手の甲にちゅーですよ!
⋮⋮いいや、噂話を聞くところによると、それどころじゃない。
その後衆目の見守るなか、二人は魔王様の居住棟に消えていったと
いうのだ!
そうしてそれ以後、二人の姿を見た者はないという。
つまりこれは、誰が聞いても魔王様がウィストベルを私室に通し
たということを意味するに他ならず⋮⋮。
932
そう、たぶん側近を除いて今日、魔王様に会うのは俺が初めてな
のではないだろうか。
﹁よくやった。ジャーイル﹂
かつてこんな上機嫌な魔王様を見たことがあるか?
いや、ない。
﹁この功績に免じて、これまでの失態は帳消しにしてやろう﹂
かつてこんなに浮かれていた魔王様を見たことがあるか?
いいや、なーーーーい!
だいたい、俺の失態ってなに?
何もした覚えがないんですけど?
別に何もやらかしてないのに、何を許されたんだかよくわからな
い!
﹁もちろん、お前が昨日、ウィストベルをずっと抱き上げて過ごし
たことや、手を握り、太股や首筋を撫で回したこと、つまり公然の
場所で密着して鼻の下を伸ばしていたことも不問にしてやる﹂
ちょ⋮⋮おい、誰だよ!
俺はどこも撫で回したりしてないし、鼻の下を伸ばしたりなんて
していない!
犯人はウィストベルだな⋮⋮昨日の今日で魔王様にこんな内容を
伝えられる者なんて、他にいるはずがないではないか。説明するの
はいいが、せめて誤解されないように伝えて欲しかった!!
933
﹁なぜだか聞きたいか?﹂
いや、もう結構です。
だって今まさに、魔王様の鼻の下が伸びきっているからです!
俺はごめんだぞ。絶対に二人がいちゃいちゃした話なんて聞かな
いからな!!
﹁なぜなら、ウィストベルがようやく我が想いを公表してもよいと、
つまり二人の関係を公にしてもよいと、そう告げてくれたからだ﹂
あーあーあーーーーー!!
聞こえなーーーーい!!
俺の耳には何も聞こえないぞー!
何が悲しくて朝っぱらから魔王様の惚気話を聞かなきゃいけない
んだ。
﹁つまり、ウィストベルは﹂
﹁魔王様!!﹂
こうなったら、死んでもこの話の続きは阻止してやる!
﹁なんだ、改まって﹂
いつもは穏和な俺の、せっぱ詰まった顔をみたからだろう。
魔王様は弛緩した表情を、やっと、ほんとにやっと、ほんの少し
引き締めてくれたのだ。
﹁俺は、魔王様とウィストベルの関係がこれまで以上に強い絆で結
ばれつつあることに、臣下の一人として祝意を表させていただきま
934
す!﹂
﹁うむ⋮⋮そうか﹂
﹁ですが、であればこそ、その助けとなった者たち⋮⋮つまりは、
新魔王城の築城に関わった者たちの、その功績をいち早く公表いた
だき、彼らを一日も早くその不自由な環境から解放してやって欲し
いのです﹂
﹁ああ、そうだな⋮⋮﹂
﹁彼らがこれほど必死になったのも、元はといえば魔王様がウィス
トベルに完全に秘密にするために、作業員を一人として外に出さな
いとお決めになったからで﹂
﹁⋮⋮確かに﹂
﹁けれど彼らとしては、美男美女コンテストには絶対に参加したい
という熱い思いがあって、これほど迅速に作業を遂行しつつあるの
です! そのコンテストの投票箱も、彫刻の仕上がりはまだですが、
投票開始日まではあとわずかとなりました﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
﹁もうウィストベルにもバラしてしまったんですし、完工も間近。
いいえ、今こうしている間にも最後の仕上げにかかっているかもし
れません!﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
﹁ぜひ、彼らの忠誠に報いるためにも、一刻もお早い公表と解放を、
お約束いただけませんか!?﹂
公表するなら私的な恋人関係の方はどうでもいいから、公的な事
業の方をお願いします!!
俺のその気持ちが通じたのか。
魔王様はいつものきりりとした表情を浮かべ、重々しく頷いた。
﹁わかった。確かにそなたの申すその通りだ。ウィストベルの不調
935
が回復したのも、予に対する態度が軟化したのもすべて、築城のた
めに尽力してくれた者たちの存在があってのこと。自分の幸せに浮
かれるばかりでその功績を見逃しては、物の価値のわからぬ男にな
るところであった﹂
あ、いや⋮⋮そこまで真剣に応えてくれなくてもいいんだけど⋮
⋮。
﹁よかろう、では明日、新しい魔王城をみなに公表する﹂
﹁え!? 明日、ですか!?﹂
そんないきなり!?
﹁発表の前に隠蔽魔術を解き、結界だけの状態にしておけ。その後、
まずは七大大公そろっての内覧会を行い、正式に転居を開始するこ
ととする﹂
﹁え? あの⋮⋮﹂
ちょっと急すぎて、ついていけないんだけど。
内覧会ってなに?
新しい魔王城の隅々まで、俺が案内したりする会だったりするの
!?
﹁そうだな⋮⋮荷物を移動させるのには、十日もあれば十分か。よ
かろう、キリのよいところで五十日目を正式に我が遷移の日と定め
よう﹂
は・いーーーー!?
﹁あの、もうまもなく美男美女コンテストがこの前地で始まります
が⋮⋮﹂
コンテストの実施場所が魔王城の前地というのは、伝統に則って
いるとかなんとか⋮⋮。
投票箱も造っちゃったしね!
﹁問題ない。コンテストはここで執り行い、最終発表のみ新しい魔
936
王城で行えばよい﹂
﹁じゃあ、恩賞会は⋮⋮﹂
﹁もちろん、新しい魔王城で授与する﹂
﹁大公位争奪戦は⋮⋮﹂
﹁ふむ⋮⋮どうせならいっそのこと、この魔王城を会場にして、破
壊の限りを尽くしてはどうだ?﹂
まおうさまーーーー!
誰かーーーー!
魔王様がご乱心だーーーー!!
顔だけだ! 冷静になってるのは、表情だけだ!
冷静になってる振りだ!
絶対内心はしゃいじゃってるよ、魔王様!
いや、別にいいんだよ。そりゃあ、もう使わない予定の城なんて、
壊してしまってもいいとは思うんだよ。
でもなんだろうね⋮⋮出て行ったすぐ後に壊さなくても⋮⋮とか
思ってしまうのは、俺が城を造るという作業がどれだけ大変なこと
か、ということを知ってしまったからだろうか。
﹁そういえば一日目はそなたとウィストベルからだったな。ウィス
トベルは喜んでそうするだろう﹂
ええ、そうでしょうとも。あれだけ魔王城に因縁がありそうなウ
ィストベルのことだ。それはもう、嬉々として壊すんでしょうよ!
一日目の一試合目に、この城は全壊するんでしょうよ!
﹁まあ、そこら辺は⋮⋮最終的には、争奪戦の担当者であるベイル
フォウスの判断も必要になってくるとは思いますが﹂
とはいえ、あのブラコンが兄の提案を却下するわけがない。
937
魔王城崩壊予定、と。
﹁そうだな。他にも競竜やパレードのゴール地点の件もある。それ
ぞれの担当者と話し合って、いいように決めるがいい。その決定に、
予は口をださん﹂
いやもう、どうでもいいんですよね?
そんな細かいこと、どうでもいいと思ってるんですよね?
仕方ない。とりあえず、七大大公を召集して会議をひらくか。
日時は⋮⋮うん、七大大公揃っての内覧会を明日開くとか言って
るし、その後でいいだろう。ウィストベルももうこの魔王城にくる
のに抵抗もなさそうだし⋮⋮。
っていうか、たぶんね、あれだよね⋮⋮ウィストベル、今も魔王
様の部屋にいるよね?
お泊まりしてるよね!
だって帰った様子がないもんね!!!
俺の竜もまだ魔王城の竜舎にいたもんね!!!!!
﹁ああ、そうだ。ウィストベルはお前の竜を借りたそうだが﹂
魔王様、俺の心の中よみましたか?
﹁乗って帰ってよいぞ﹂
﹁あ、はい⋮⋮﹂
﹁それから、ジャーイル﹂
魔王様は急に顔の前で手をがっしりと組み、低い声で俺の名を呼
んだ。
﹁なんでしょう⋮⋮﹂
﹁これはそなたへの特別の配慮だ﹂
なんだろう。急にテンション下がってるんだけど。
嫌な予感しかしない。
938
﹁美男美女コンテスト、だが⋮⋮ウィストベルに投票するのに、そ
なたの名を書くことを許可する﹂
⋮⋮は?
﹁⋮⋮えっと⋮⋮﹂
なに言い出すんだ、魔王様は。
﹁世界一美しいのはウィストベルだ。そうだな?﹂
﹁⋮⋮はい⋮⋮﹂
確かに、それには同意する。
﹁となれば、意中の相手がいないそなたの投票する相手はウィスト
ベルであろう﹂
え⋮⋮魔王様と恋バナとかしたことないんだけど、なんで勝手に
好きな相手がいないことになってるの?
⋮⋮いや、いないけどさ⋮⋮。
﹁これまでは、万が一そなたが自分の名を書いてウィストベルに投
票し、万が一その奉仕を受ける幸運を得た場合には、その日を迎え
るまでに必ずそなたの息の根を止めてみせると誓っていた﹂
やばい。俺、殺されるところだった!
いや、というかそもそも、ウィストベルに投票⋮⋮は、まあ、し
たかもしれない。したかもしれないけど、名前を書こうとか考えて
もみなかったんですけど!
﹁だが、今回に限っては許してやる。例え奉仕される相手としてそ
なたの名が読み上げられることがあっても、一度だけは不問にして
やる﹂
﹁いや、あの、魔王様?﹂
﹁だが一度だけだ。見逃すのは、この一度だけだぞ﹂
⋮⋮。
939
駄目だこりゃ。
今はきっと何をいっても聞く耳もたないに違いない。
まあ魔王様にすればウィストベルとの関係を公言にする、という
ことは三百年の悲願であったのだろうし、浮かれるのも無理はない。
そう生暖かい気持ちで受け止めるようにしよう。
大人だな、俺!!
﹁⋮⋮その件はともかく﹂
俺は心底からわき上がってくる失望感が声にあふれ出るのを、こ
の時ばかりは止められなかった。
﹁明日のお披露目となれば、七大大公にも連絡をださなければなり
ませんし、現地での用意もあります。急ぎその手配にかかるため、
今日のところはこれで失礼いたします﹂
﹁⋮⋮まあ、やむを得んな。ウィストベルがかの城を見てどう反応
したという報告は、今後の愉しみにおいておこう﹂
いや、もういいじゃん!
俺の報告なんて、もういいじゃん!
本人からどう思ったかを長々聞けば、それでいいじゃん!
﹁では、失礼いたします⋮⋮﹂
俺は魔王様の執務室からとっとと退出し、廊下で深いため息をつ
いたのだった。
ああ、魔王様を相手にこんなに肩を落とす日がくるだなんて⋮⋮。
俺は悲しいですよ、魔王様!
940
88.最近みんなが情緒不安定なのは、大祭のせいですか?
﹁と、言うわけで、急遽この城は明日、全魔族に向けてその存在を
公表されることになった﹂
俺はジブライールをはじめ、各施設の建築士や現場主任なんかの
主だった面々を事務所に集め、事情を説明した。
とはいっても、魔王様とウィストベルのことまでは伝えていない。
みんなの仕事が思った以上に早かったので、公開も前倒しになっ
た、という風に説明して、手順や大ざっぱな配置なんかの打ち合わ
せをすませた。
一応、各施設には現場主任やその下の主だった者たち、それから
担当建築士を待機させ、施設内を回るようであれば同行してもらう。
あちこち引率するのは俺とジブライールで十分だろう。さすがに
魔王城の中を、その主の許しも得ずに勝手に歩き回るものはいない
だろうから。
﹁結界もそのときに解除なさるのですか?﹂
オリンズフォルトから質問があがる。
﹁そうなると思う﹂
﹁いよいよ我々も大手を振って、大祭に参加できるわけですね!﹂
一人が喜びの声を発した途端、緊張感にあふれていた空気が和ん
だ。
﹁そうだな。君らにも我慢を強いたが、解放後は存分に楽しんでく
れ。一応、今この場に集まってもらっている者たちには、遷城が完
了するまでは残ってもらうつもりだが、現場での作業が終わってい
る者たちには明後日から帰宅を許可する﹂
941
﹁美男美女コンテストの開催は⋮⋮﹂
誰からともなく質問の声があがった。やはり気になるのはそれら
しい。
﹁もう間もなくだ。先日投票箱の設置も終わった。あとは壁面彫刻
の完成を待つだけとなっている﹂
﹁開催に間にあったか!﹂
歓声で室内が沸く。
そのためにあれだけ頑張ったんだもんな。そりゃあ喜びもひとし
おだろう。
﹁それから、君らの方から要望のあった、我が城での食事会にも許
可が出た。大祭が終了した後のことになるが、全員に直接招待状を
送るから、それも楽しみにしておいてくれ﹂
﹁おお、これで噂のアレスディア殿を生で拝めるというわけだな﹂
﹁ああ! 待ち遠しいな﹂
俺が思った以上に、デヴィル族の男性諸君には喜んでもらえるこ
とのようだ。却下しないでよかった。
⋮⋮アレスディアとマーミルに話をするのはこれからだが。
﹁まあ、あくまで俺が大公位争奪戦で無事だった後の話だがな。万
が一、大公の座を追われるなり、死ぬなりしたら諦めてくれ﹂
﹁またまたご冗談を﹂
うん。確かに、ご冗談だ。
﹁では、急な話で悪いが明日は対応を頼む。これで解散とする﹂
﹁はっ﹂
全員揃っての笑っちゃう敬礼の後、彼らはばらばらと事務所を出
て行った。
﹁大公閣下からの招待状だってよ!﹂
942
﹁いい記念になるわね﹂
﹁閣下の紋章入りの、よ。子供たちに見せたらきっと喜ぶわ﹂
作業員たちのほとんどは、無爵の者だ。有爵者は全体の五%にも
満たず、その彼らでもほとんどは下位に属している。それは現場主
任であっても例外ではない。
だからただ大公から直接招待状が届く、というだけでもこれほど
喜んでもらえるのだろう。
俺だって下位の男爵だった頃には、大公の紋章入りの招待状なん
て一度ももらったことはない。まあ、あのネズミの紋章なんて、手
許に届いたところで嬉しくもなんともなかっただろうけど。
﹁あ、ジブライール。悪いが残って⋮⋮くれ⋮⋮﹂
結界の解放の前に、しなければいけないことがある。隠蔽魔術の
解除だ。
だから俺は、魔王城へ直行するわけにもいかない。一度ここによ
って、ミディリースを降ろしていかないといけない。
解除する間、俺がついていてやれればいいんだが、そうもいかな
いだろう。だから、誰かに彼女の保護を頼まねばならない。それが
可能なのは、この間一緒にいて少し慣れたジブライールか、親戚で
あるオリンズフォルトに限られる。
もっとも、オリンズフォルトはまだその存在をミディリースに明
かしていないし、どうやらそれを食事会の時までひっぱりたいらし
い。
となると、ジブライールしかいないわけだ。
そう思って声をかけたのだが、なんだろう。
名前を呼んだ瞬間、妙にビクつかれた気がする⋮⋮。
﹁⋮⋮はい﹂
返事にいつもの切れがないし、それに⋮⋮。そういえばさっきか
943
らずっとうつむき加減で、まともに顔をみていない気がする。
﹁どうした?﹂
そういえば昨日、オリンズフォルトが妙なことを言っていたじゃ
ないか。
まさかウィストベルに続いてジブライールまで、体調不良に陥る
ようなトラウマが発動したわけでもあるまいが。
﹁⋮⋮ご用の向きはなんでしょうか?﹂
あれ?
ほんとうになんだか様子がおかしくないか?
全員が部屋からはけてしまってから、俺は彼女に歩み寄る。
﹁ジブライール?﹂
それでもこちらに顔を向けてくれない。
業を煮やした俺は、手を伸ばして彼女の顎をつかみ、ひきあげた。
﹁!﹂
﹁目が赤いな﹂
隅で泣いているとかなんとか⋮⋮オリンズフォルトの冗談だと思
っていたのだが、本当にそうなのか?
手の平で頬を包み込み、親指で目の下を撫でてみる。
濡れてはいないから、今泣いていたのではないのだろう。
﹁なにか眠れないことでもあったのか?﹂
﹁⋮⋮そんな、ことは⋮⋮﹂
言いながらジブライールは俺の手から逃れるように、二、三歩あ
とじさった。
﹁悩み事があるのなら、俺でよければ聞くが﹂
部下の安定は、自領の平和にもつながる。話を聞いて気の済むこ
944
ともあるだろうし、そうでなくとも出来ることなら何でもするつも
りだ。
﹁私的なことです。閣下には⋮⋮関係ありません﹂
ぶっきらぼうに言われて、また目をそらされた。
好意からの言葉のつもりだったのだが、どうやらジブライールの
気に障ったようだ。
﹁⋮⋮そうか、悪かった﹂
もう余計なことは言わないことにしよう。
⋮⋮別に落ち込んでなんていない。
とっとと本題をすませてしまおう。
﹁では、明日の件だが、隠蔽魔術の解除に際してミディリースの﹂
少し距離をとろうと、歩きだそうとした瞬間、手許に抵抗を感じ
る。
﹁ん?﹂
見ると、ジブライールの手が俺の服の袖をつかんでいるではない
か。
﹁も、もしも⋮⋮﹂
⋮⋮もしも?
﹁もしも閣下に一途に想うお方がいたとして﹂
最初からつまずくたとえ話だな!
だが相談してくれる気になったようだし、つっこみは控えておこ
う。
﹁そのお方が別の方とご懇意になさっている、としたらどうなさい
ます、か?﹂
つまり、自分の好きな相手に恋人がいたらどうするか、というこ
とか。
これはあれか⋮⋮もしもと言いながら、実際にジブライールは自
分の置かれている状況を語ってたりするのだろうか。
945
ジブライールの好きな相手、か。それは確かに私的な悩みに違い
ない。
﹁そうだな、もしも俺の想い人に恋人がいたとしたら⋮⋮﹂
仮にウィストベルが想い人だとすると、魔王様のいる今がちょう
どそんな状況というわけだ。
⋮⋮⋮⋮。
別になんということはないな。
もちろんそれは、ウィストベルが現実には俺の想い人でないから
で⋮⋮逆にこう想像してみよう。俺の恋人に、別の想い人ができた
という状況なら⋮⋮。
いた⋮⋮あいたたたた。ちょっと待て。胸が痛い。心が抉られる。
﹁そのお相手の方はとても強くて誰よりお美しく﹂
その相手は筋肉隆々の、顔立ちだって男から見ても男前、と呼べ
る堂々とした偉丈夫で。
﹁身分も自分より高くて、美男美女のお二人は端から見てもとても
お似合いで⋮⋮﹂
身分も俺より高くて、どちらも貫禄があるという点ではお似合い
の⋮⋮ん?
﹁⋮⋮ジブライールより身分が高い相手?﹂
俺の指摘に、ジブライールはハッと目を見開く。
﹁ち⋮⋮ちが⋮⋮違います! もしも⋮⋮もしもの話で、私のこと
を言っているのではありません!!﹂
あ、しまった。そういう体で話すんだったか。
だがこの様子では本当に自分のことなんだろうな。
まさかジブライールにそんな相手がいたとは⋮⋮。
946
しかし、ジブライールより身分が高くて美しくて強いとなると⋮
⋮まさか本当にウィストベル?
待てよ。
となると、もしかしてジブライールの想い人というのは︱︱。
﹁魔王様か!﹂
﹁え?﹂
﹁ああ、いや、なんでもない。ジブライールのことじゃないもんな﹂
﹁は、はい! もちろんです!﹂
絶対に自分の話だと認めたくないようだから、ここはウィストベ
ルと魔王様で正解だと、心中で勝手に仮定しておこう。ジブライー
ルより身分が上の男女となると、その可能性は限りなく高い気がす
る。
だとすると、魔王様はウィストベルにそりゃあもう本気だ。それ
はそうだが、だからといって他の女性に手を出さないと言うわけで
はない。もしもウィストベルに一途だというのなら、そもそもあん
な別通路をもつ部屋をつくるはずなどないし、実際にいつも誰かし
らお相手がいるとは聞く。
だが、お相手に選ばれているのはあくまで魔王様の配下にある女
性魔族。
﹁強引に迫れば、関係を結ぶのは可能かもしれない。だが俺がもし
相手に片思いをしている立場なら⋮⋮﹂
ジブライールは美人だし、気だてだっていい。そんな相手から真
剣に迫られれば、男なら誰だって嫌だとは言えないはずだ。
俺だってジブライールに迫られてみろ。我慢できる自信はない。
魔王様だってきっと︱︱。
ただ、ジブライールは現状俺の部下だ。その状態で魔王様のとこ
947
ろへ通うのは容易ではない。
ではジブライールを副司令官から外して領地を移動させるか、と
いうと、そんなことは考えたくもない。魔王様だって、ウィストベ
ルという本命がいて公にできるようになった今、他の女性に言い寄
られたとしてもそこまで手間はかけないだろう。
となると、たった一夜の情事で終わってしまうのではないだろう
か。
﹁関係の継続を望めないと判断したなら、すっぱりあきらめるかな﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁たぶんその想い人というのは、その恋人のことがとても好きなん
だと思うんだ。それはもう生涯、誰の手であっても引き離せないほ
どの愛情を、お互い抱いていると思うんだ。そうなると強引に想い
を遂げたところで、自分はどう頑張っても二番目以降にしかならな
い訳だ。それどころか、その一度きりで終わってしまう可能性が高
いんじゃないかな﹂
ジブライールにそんな想いをさせる訳にはいかない。
かわいそうだが、諦める方向へ誘導するしか⋮⋮。
﹁そんなに⋮⋮望みは薄いのでしょうか﹂
﹁ああ。たぶんな﹂
魔王様は言うに及ばず、昨日のウィストベルの様子を見ていると、
彼女の魔王様に対する想いも結構なものがあるとは思うんだよな。
﹁もちろん本人がそれでもというのなら止める権利は誰にもない。
でもせっかくこんなに美人なんだから、相手のいる男のことなんて
忘れて、自分を一番に想ってくれる相手を見つけないともったいな
⋮⋮﹂
あ、しまった。ジブライールのことじゃない話、なんだった。
しかもやばい。
948
葵色の瞳がウルウルと滲んでいるではないか!
﹁いや、違う。つまりそういうことじゃなくて⋮⋮﹂
余計なことを言うんじゃなかった!
﹁まあ、その⋮⋮。実在しないたとえ話はおいといて、だ﹂
こういうときはあれ⋮⋮こういうときこそあれだ!
俺は右手をズボンのポケットにつっこみ、冷たい固まりを握りし
める。
﹁ジブライール、手を出してくれないか﹂
﹁え⋮⋮﹂
追い打ちをかけられたように、不安げな顔で見上げてくるジブラ
イール。
俺ってイマイチ信用されていないのだろうか?
﹁右でも左でもいいから、好きなほう。大丈夫、変なものじゃない﹂
そう保証してみせると、ようやくソロソロと左手を差し出してく
れた。
その細い手首に、ポケットから取り出したそれをくぐらせる。
﹁⋮⋮閣下、あの⋮⋮これは⋮⋮﹂
ジブライールの手首に通したのは、もちろん雑貨市で譲り受けた
紫水晶の腕輪だ。
﹁ジブライールに似合うと思って、大祭が始まってすぐに雑貨市で
手に入れていたんだ。けどなかなか渡す機会がなくてな⋮⋮こんな
遅くになってしまった﹂
まあ、ちょっといいように脚色したかもしれないが、事実に反し
てはいないはず。
だがいきなり手首に装着してみせるのはマズかったか⋮⋮。手の
平に置くくらいでよかったかもしれない。
ジブライールのこのとまどいを見ると、押しつけがましい奴と思
949
われている可能性もある気がする。
﹁わ⋮⋮私、に?﹂
あ、ちょっと好感触?
﹁ほら、水晶の色が君の瞳と似ているだろ? それに彫刻の花が葵
の花らしくてな。ジブライールにピッタリだと思って。確か紋章は
葵の花だったよな?﹂
ジブライールはその潤んだ瞳を俺に向けてきた。
﹁覚えて⋮⋮くださってるん、ですか?﹂
﹁そりゃあまあ、副司令官の紋章くらいは当然﹂
ちなみに、俺のお気に入りはヤティーンの紋章だ。なぜって、ど
こからどう見ても可愛い雀が虚勢を張っているさまが、それはそれ
は愛らしいからだ。
﹁⋮⋮﹂
ジブライールはぎゅっと、左の手首を握りしめた。
まさか、気にくわないからいきなり砕くとかじゃないよね?
お願いだから、目の前ではやめて欲しい。やるなら後で、俺の見
ていないところでしてください。お願いしますジブライールさん。
﹁こんな⋮⋮﹂
こんな?
﹁こんなことをなさるから⋮⋮﹂
ああ⋮⋮。やっぱり喜んではもらえなかったか。
﹁閣下は⋮⋮ひどい、です⋮⋮﹂
えっ!?
ちょ⋮⋮え!?
なんで泣くの、なんで泣くの、ジブライール!!
そんなに嫌だった? そんなに俺からのプレゼントは迷惑だった
のか!?
950
﹁ごめん⋮⋮君の好みもあるだろうに、強引に押しつけてしまって
! 本当に悪かった。返してくれ。この腕輪は俺がひきとって、ま
た後日別のものを⋮⋮﹂
目の前で砕かれるとさすがに傷つくから、返してもらおう。
﹁嫌です! これがいいです!﹂
ジブライールは手首を握りしめ、それを庇うようにして俺に背を
向けた。
あれ?
いいの? その腕輪でいいの?
俺からのプレゼントが嫌で泣いたのかと思ったのに、違うらしい!
ならいったいなぜ泣いている?
なぜこんなことになってるんだ?
なぜ泣きやまない?
やばい、俺はどうしたらいいんだ?
﹁あー﹂
とりあえず、ジブライールの頭に手を置く。
泣いたり落ち込んだりしている子供への対処法しか、今は思いつ
かない。
そう、つまり、頭を撫でてやるのだ!
ウィストベルだって、抱きしめて髪を撫でつけている間に落ち着
いたではないか。
そうとも、この方法は間違っていないはず⋮⋮。
﹁ジブライール、頼むから泣きやんでくれ。どうすれば泣きやんで
くれる?﹂
﹁⋮⋮ぎゅ⋮⋮﹂
⋮⋮ぎゅ?
951
頭をぎゅっとか意味わからないし⋮⋮髪の毛をぎゅっと握る? 余計意味不明だよな。
﹁閣下が⋮⋮だ⋮⋮抱きしめて、くだされ⋮⋮ば⋮⋮﹂
そういうジブライールの耳は赤い。
自分でも子供っぽいと思いつつ、言ってるんだろうなぁ。
俺はジブライールを背中から抱きしめた。
﹁これでいいのか?﹂
﹁あ、あの⋮⋮﹂
腕の中で、ジブライールが身じろぎする。
うつむいたままくるりと体を回して、正面からもたれかかってき
た。
腕は握りしめたままだ。
﹁あともう一度、頭を撫でていただいて⋮⋮﹂
まるっきり、昨日のウィストベルと一緒だな。
俺は彼女の要望に従って、髪の毛をゆっくりと撫でてやる。
﹁泣きやんだ?﹂
﹁⋮⋮まだです﹂
ホントだろうか? もう鼻声じゃないんだけどな⋮⋮。
﹁もうそろそろ⋮⋮﹂
﹁まだです!﹂
えっと⋮⋮むしろ、元気な声に聞こえるんだけどな⋮⋮。
仕方がないので俺はジブライールがいいというまで、ずっと彼女
を抱きしめながらその頭をなで続けていたのだった。
ミディリースのことを頼みたかっただけなのに、どうしてこうな
った。
952
89.さあ、みんなで揃ってお出かけしましょう!
﹁よお、久しぶり﹂
手をあげて近づいてきたのは、ベイルフォウスだ。
確かに、こうして間近で話すのは久しぶりだ。マーミルのあの一
件以来、避けられていたようだし。
だが今日は新魔王城の内覧会。
七大大公が公式に揃う日だ。しかも、主催は俺と魔王様ときてい
る。
その席で俺を避けるわけにもいかないだろう。
﹁ずいぶん急な話だな。何かあったのか?﹂
﹁ああ、まあな﹂
大公を現魔王城に緊急召集しはしたが、内容は伝えていない。
せっかくここまで内緒にしてきたのだから、せめて魔王様が公言
なさる瞬間までは、その秘密性を保ったままにしたいと思うのは当
然だろう。
結局昨日はあの後、ずいぶん時間はかかったが、ジブライールは
機嫌をなおしてミディリースの付き添いを引き受けてくれた。
それで俺は安心して今朝のうちにミディリースを現地に送り届け、
それからこうして魔王城へやってきたというわけだ。
ミディリース自身は、俺が側にいないと知ってずいぶん不安そう
な顔をしていたので、やや後ろ髪を引かれたが仕方がない。
帰ったらまた本でも贈ってやることにしよう。
﹁悪い話ではなさそうだな﹂
953
﹁ああ。心配ない﹂
﹁会議をすると聞いたけどね。なぜ会議室での集合ではなく、社交
室なのかな?﹂
林檎酒を手に近づいてきたのはサーリスヴォルフだ。
今、室内にいるのはまだこの三人だけ。
魔王様はもちろん最後に登場だろうし、おそらくウィストベルも
一緒だろう。
﹁まさかとは思うけど、陛下は御婚姻の発表をなさるわけじゃない
だろうね? 君たち、あの二人の関係、知ってたの?﹂
﹁いいや、全く⋮⋮﹂
サーリスヴォルフの問いかけに、ベイルフォウスがぴくりと頬を
ひきつらせる。
もしかして、ちょっとは気にしてたりするのだろうか。
軽薄に見えるとはいえ、一応ウィストベルへの想いを公言しては
いたしなぁ。それに片方は他ならぬ、最愛の兄であるわけだし。
﹁へぇ⋮⋮実の弟でも知らないことを、ジャーイルは知っていたわ
けだ﹂
なぜばれた!
俺は今、素知らぬ顔をしていたはずだ。
やはりサーリスヴォルフは勘が鋭いらしい。
﹁なんでお前が知ってるんだよ﹂
ほら、すぐにブラコンが反応する。
﹁いや、知っていたとは言ってない﹂
とりあえず、しらばっくれてみよう。
﹁どう見ても知ってたって顔つきだったろうが!﹂
え!?
まさか⋮⋮俺がわかりやすい!?
954
﹁ウィストベルから直接聞いたのか?﹂
いくらなんでも殺気立つ必要はないだろう、ベイルフォウス君。
大人げないぞ、ベイルフォウス君。
﹁誰からも聞いてない。ただ⋮⋮その、目撃してしまっただけで⋮
⋮﹂
﹁目撃? お前、兄貴とウィストベルがやってるところを見たのか﹂
﹁いや、さすがにそんな直接的な場面なわけないだろう!﹂
﹁じゃあ、何を見たんだよ?﹂
﹁何を見たのかなー﹂
サーリスヴォルフまで!
だが言えない。
魔王様がウィストベルの生足にすがりついて恍惚としていただな
んて、口が裂けても言えるわけがない。
そうとも、魔王様の名誉のために!
﹁まあ⋮⋮いちゃいちゃしてるところ⋮⋮?﹂
﹁いちゃいちゃ⋮⋮あの二人が、か。想像つかん﹂
え? かなりお似合いの二人だと思うんだが、みんなの認識は違
うのか?
﹁どっちが上かでもめそうな気がするがな⋮⋮﹂
﹁確かにねー﹂
﹁兄貴が組み敷かれてるところなんて想像つかんし、ウィストベル
が他の女みたいに言いなりになってるところもちょっとな⋮⋮﹂
﹁どっちも主導権を主張しそうだしね﹂
﹁そうか⋮⋮一度にどっちも体験できて、二度おいしい、みたいな
ところなのかもしれん﹂
﹁ああ、そういうのもいいね﹂
もう嫌だこいつら。
955
﹁だいたい、それをいうならベイルフォウスはウィストベルをどう
扱うつもりだったんだよ。君だって、女性上位に甘んじるタイプじ
ゃないだろう?﹂
﹁いや、俺は相手が心底望むことなら、どんなことでも対処してみ
せる。それがウィストベルというなら尚更だ。それに相手の違う一
面を、自分の力で引き出してみせるのも楽しいもんだろ﹂
俺はなんでこんなやつと親友ってことになってるんだったっけ?
ましてや何を学べって? サーリスヴォルフ。
マーミルがいれば二人とも問答無用で叩き出すところだ。
﹁もうそれくらいにしとけ、二人とも。プートのお出ましだ。あん
まり下品なことを言ってると、空気が悪くなる﹂
俺はため息をついた。
その後、示し合わせたかのようにデイセントローズとアリネーゼ
が僅差で姿を現せた。
ちなみに、サーリスヴォルフが意味ありげに俺を見て、﹁ほらね、
予想通りだったろ﹂と言ってきたのだが、なんと答えていいかわか
らなかった。なんとなくアリネーゼの毛づやがよくなっているよう
には感じたので、たぶん﹃引きこもって美貌を磨いているのかもし
れない﹄と言っていたことを指しているのだろうと思う。
ウィストベルはそれから少し間をおいて、最後にやってきた。
魔王様と一緒に登場するかと思っていたのに、意外だ。
今日は血色もよく肌もいつも以上につやつやとして艶めかしく、
それこそ美貌を磨いていたのはウィストベルではないのかと思える
ほど。
一昨日、あんなに青ざめて不機嫌だったのが嘘のようだ。
あれだけ興味津々だったベイルフォウスとサーリスヴォルフが、
魔王様とのことを問いただしにでもいくかと思ったが、二人とも意
外に大人しくしていた。
956
というか、いつも通りだ。
サーリスヴォルフはそつなく挨拶を交わしただけだし、ベイルフ
ォウスはいつものように平気で口説きにかかっている。
一方でウィストベルも相変わらず自分からデヴィル族の方へよっ
ていかないどころか、プートとアリネーゼの存在はあからさまに無
視している。
まあとにかく、後は魔王様の訪れを待つばかり、となっていたの
だが。
﹁魔王陛下、並びに大公閣下方にご報告申し上げます。ただいま魔
王城の北北西に、巨大な結界が出現いたしました﹂
慌てた様子で魔王様麾下の侯爵が飛び込んできた。
﹁巨大な結界? どういうことだ﹂
いち早く反応したのはプートだ。
ウィストベルがこちらに一瞥をくれる。
﹁ルデルフォウス陛下はこちらにおいででは﹂
﹁まだだ。だが、もう間もなくいらっしゃるであろう﹂
﹁では、陛下のおいでを待ちます﹂
真面目な魔王様の部下もやっぱり真面目なのだろうか。
﹁かまわぬ。続けよ。規模はどれほどのものじゃ?﹂
ウィストベルの凛とした声が響く。
﹁ですが⋮⋮﹂
頑張れ、侯爵。魔王様は君の忠誠を信じているぞ。
﹁私がかまわぬ、と申しておる﹂
女王様はその侯爵の肩に手をかけ、耳元に囁きかけた。
いろんな意味でそのデーモン族の侯爵は硬直している。
まあ仕方ないよな。この場合は仕方ない。
957
﹁直径およそ十キロメートル、高さおよそ二百mの円形の結界が﹂
声が掠れただけですんでよかったな、侯爵!
ただ魔王様が来る前に、その真っ赤な顔はなんとかしておいた方
がいいぞ。あれで君の主は結構、嫉妬深いからな。
﹁平原に突然現れた、というのですが﹂
ああ、ミディリースが隠蔽魔術を解いたんだな。
俺とウィストベルはそのからくりを知っているので平然としてい
るが、他の大公たちはそうではない。魔王様の配下である侯爵も同
様だ。何も知らされていない彼らの間には、一種の緊張感のような
ものが漂っている。
﹁そうとうでかい結界だな。誰が張った?﹂
さすがにそれだけの規模の結界となれば、ベイルフォウスも無視
はしていられないようだ。
﹁それが、不明でして。私はそれが出現した瞬間を目撃したのです
が、あれはその場で誰かが張ったというより、まるで以前からそこ
にあったものが突然現れたようにしかみえなかったのです﹂
うん、実際に張ったのは九十日ほど前のことだからね。
﹁馬鹿な。そんなものが以前からあったというのならば、今まで誰
も気付かない訳がない﹂
ミディリースの隠蔽魔術がなければそうだったろうな。
よし。ここら辺で種明かしをしてみるか。
﹁実は﹂
﹁そうなのです。あまりに不気味なので攻撃を試みたのですが、全
て跳ね返されてしまいました﹂
﹁えっ! おい、攻撃した!? いきなりそれはないんじゃないの
か?﹂
958
なんでこう魔族ってのは短絡的に反応するんだ。
いくら不審な結界があったからって、いきなり攻撃するか!?
いや、大丈夫だ。ウィストベルとか魔王様ならやばかったが、俺
の結界は侯爵の攻撃なら耐えるはずだ。ああ、余裕でな。
だけど想像してみろ。
中のみんながどれだけビックリしたことか⋮⋮。いいや、ビック
リしただけならいい。万一ジブライールとかがキレてたらどうする?
最近の彼女は情緒不安定ぎみなんだぞ!
昨日だって、急に泣き出してなだめるのが大変だったんだぞ!
﹁なに焦ってる、ジャーイル﹂
﹁いやだって⋮⋮﹂
﹁心配するのもやむを得まい。ジャーイルはその結界がどうしてそ
こにあるのか、何のためにあるのか、誰より知っているのだからな﹂
社交室によく通る声が響く。
﹁魔王陛下﹂
侯爵はほっとしたような表情を浮かべて敬礼した。
﹁ジャーイルが? てことは、結界は兄貴の命令でお前が張ったの
か?﹂
﹁その通りだ﹂
俺が肯定すると、ベイルフォウスは納得いったように頷いた。
﹁も⋮⋮申し訳ありません! 私は閣下の結界に攻撃を⋮⋮﹂
やはり魔王様麾下の侯爵は、真面目な人柄のようだ。
そう言うや、俺に向かって深々と頭をさげる。
﹁俺の張った結界は当然無事だし、問題はない。ただ⋮⋮﹂
今後はもう少し慎重な対応を、と言いたかったのだが、ウィスト
ベルの言葉によって俺のお小言は遮られる。
﹁ではその見事な結界を見に、現地へ参ろうではないか。のう、陛
下? そのための召集なのであろう?﹂
959
事情を知るウィストベルが魔王様に微笑みかける。
﹁いかにも。ウィストベルの申すとおりだ﹂
今までは公式な場所で、ウィストベルと魔王様がこんな柔らかい
笑みを交わすことはなかった。噂を耳にしているとはいっても、そ
の変化を目撃しつつある大公たちの反応は様々だ。
プートとアリネーゼは苦虫を噛み潰したような顔をしているし、
サーリスヴォルフは好奇心から興味津々であるという表情を隠しも
しない。デイセントローズはいつもの不気味な笑みを浮かべ、そう
してベイルフォウスは眉を顰めて複雑そうな顔をしていた。
﹁では一同。予と大公ジャーイルの配下、千にも及ぶ者たちの見事
な手業を味わいに、そろって結界へ赴くことにいたそう﹂
魔王様の声が朗々と響いた。
960
90.踊り場とは言ってみたものの、距離にして五十mはあるん
ですけどね!
魔王様と七大大公、それから魔王城に勤める者の代表だけを引率
し、今はもう結界の側だ。円形の結界全体が目に収まる場所で竜を
降りて、揃って北を向いている。
﹁本当に、不自然な光景だね﹂
サーリスヴォルフがぽつりと言った。
確かにそうだろう。
北のわずか後方にこんもりとした小さな森や湖がある他は、誰の
住居も城もなく、大祭中であってもなんの催しも開催されていない、
静かな平原。
その穏やかな風景の中に、もやのかかった不自然に大きな結界の
存在だけが浮きあがっている。
本来ならこの光景は建築の始まった時からずっと、見受けられた
ものであったはずだ。ミディリースの隠蔽魔術がなければ、中が見
えないのを承知で見学にやってくる魔族が大祭中、列をなしたこと
だろう。
だが今はまだ、ウィストベルを除くと大公たちでさえその中身を
知らない。
﹁一体、こんな場所に、何を用意なさったんです? もちろん、こ
の大祭のための趣向なのでしょう? 我々七大大公にまで内緒にさ
れるとは、よほどのものなのでしょうね﹂
デイセントローズが期待に満ちた表情で俺を見つめてくる。
そういう質問なら、俺じゃなくて魔王様にしろと言ってやりたい。
﹁人間の町でもあったのかしら? やはり、虐殺を楽しむことにし
た、とか?﹂
961
さらりと言ったのはアリネーゼだ。
いやいや、それは無しになったじゃん。そういえばそもそもその
案にしつこいこだわりを見せていたのは彼女だったか。
﹁ジャーイル﹂
魔王様がゆっくり頷かれる。
俺は一同から進み出て、結界解除の術式をその天頂に展開した。
もやのかかった円形の境界が術式近くから徐々に薄まり、中の存
在を露わにしていく。
それにつれて内部に無知な大勢の息をのむ様子が、顔を見ない状
態でも伝わってきた。
﹁陛下⋮⋮こちらは⋮⋮﹂
いつもはどこか冷たく感じるプートの低い声でさえ、熱を帯びて
いるようだった。
魔王様は改めて同行した数十人に悠然と向きなおる。
﹁予が今後移り住む、新しい城だ﹂
﹁では⋮⋮﹂
さっきまでは不機嫌に、しぶしぶここまでやってきていたという
体だったアリネーゼの瞳も、今は興味でキラキラと輝いている。
﹁ここは魔王城⋮⋮ですのね。それにしても、まあなんて巨大な⋮
⋮﹂
それはそうだろう。
一度は城の正面近くに立ったウィストベルの表情でさえ、全容を
目にして再び驚愕に彩られている。
ここは周囲を見てわかるように、もともと何もない平原だった。
そこへ直径およそ十キロに及ぶ円形の丘を築き、頂上を標高百五
十mに定めて北寄りに東西約九キロ、南北約七キロをならして平地
を造った。その平地へ魔王城の本棟である<御殿>を初めとする、
962
公的・私的な建物を東西南北に配置したのだ。
﹁一同、ご覧いただきたい。
南を真正面に捉え、最前列に見えるのは王座が置かれる<御殿>。
ルデルフォウス陛下麾下のイタチ顔、ニールセンが設計した政務を
執り行うためのこの城は、はるかに広大な敷地のほんの一部を占め
るにすぎないが、みっつの尖塔を配し、世に存在する全ての光を欲
して幽玄に輝くその姿は、剛剣を手に世界を睥睨するルデルフォウ
ス陛下さながらの威容を誇って見えるのではないだろうか。遠方よ
り眺めては重厚さに勝るその壁面は、実は微細な彫刻で飾られてお
り、見る方向によって様々な場面を表現している。またその凹凸に
よって光の加減も変化する、繊細な趣も持ち合わせているのだ。
その向かって右後方、東にずれて<御殿>よりやや屋根の低い建
物は、ニールセン同様に陛下に属する黒豹男爵・カセルムが設計し
た私室の置かれる<東の宮>だ。左右は後方に延びて内庭を含んで
おり、内装には魔王様の趣味が反映されて華美というよりは重厚だ
が、細工が微に入っている。いかに外装が黒一色とはいえ、中は落
ち着いた象牙色が主だって採用されており、統一感をかもしだして
いる。
逆の向かって左後方である西に見えるのは、俺たちのような大公
を初めとする高位魔族が滞在するための<西の宮>だ。ここを担当
したのは我が配下であるキリン顔のフェンダーヒュー。一階の広間
の数々こそ豪奢だが、その他は彼の趣味を反映してか、先の二つの
建物に比べてあっさりとしている。もっとも、配下にもいろんな趣
味の者がいるから、誰にとっても不快に感じないように、という配
慮もあってのことだ。
北にあたる場所にも同じように屋敷が造られているが、こちらは
正面から見ることはできないし、規模ももっとも小さい。一階は全
て厨房と食堂になっており、魔王城に供給されるすべての食事が、
そこでつくられる。二階以上を利用するのは主に城で上級の役職に
963
あるものたちで、それぞれの身分に応じて部屋を割り当てられてい
る。この建物を<裏屋敷>と呼び、四棟を総称して<魔王城>と呼
ぶ。
平地にならした頂上に、これ以外の大規模な建物はなく、四棟は
空中回廊を備えて行き来できるようになっている。もっとも、その
出入り口には近衛が立ち、使用できる者は限られていはするが。こ
のように、四つの棟は近くでみればそれぞれ独立しているのだが、
遠くから見ると一つのまとまった建物のようにも見えるのがわかっ
ていただけるだろうか。中庭と、そのぐるりを囲む空地には、趣の
異なる庭園がいくつも造られているが、統一感はもたせてあるので
雑然とした感じを受けることはないはずだ﹂
﹁ジャーイル﹂
魔王様のため息ともつかない声で、俺の熱弁は中断された。
﹁まさかこの場で魔王城の隅々まで語り尽くすつもりではないだろ
うな﹂
⋮⋮はっ!
今まで誰にも喋れなかった分、語るのがあんまり楽し過ぎてそう
してしまうところだった!
っていうか、語りたい!!
これから⋮⋮これからなんだ、まだ。
物語でいうと、こんなのは序章の一行目くらいに過ぎない。
だが魔王様も大公たちも⋮⋮この時点で辟易としてみえる。
ベイルフォウスなんて欠伸してやがる!
だが俺は逆に問いたい。これほどの城を目の前にして、なぜそん
な平然とした態度をとれるのか、と。
一方で実際にこの城で働くことになる面々は、あふれ出る好奇心
を押さえられない、といった表情をしている。
964
ああ、君たちだけでいい。大公とかもうどうでもいいから、君た
ちにこの城の隅々まで案内して回りたい! いいか、見えてるとこ
ろばかりじゃないんだ、と説明して君たちの驚く顔が見たい!!
だが⋮⋮。
﹁では、説明は案内しながらおいおい、ということで⋮⋮﹂
﹁そうしてくれ﹂
俺が心の声を押し込めそう言うと、ベイルフォウスがうんざり顔
で同調した。
仕方ない。説明が長引くことで、じっと待つはめになるのはなに
も魔王様や七大大公だけではない。
﹁この正面の<大階段>で、我らを歓迎してくれているのが今回の
功労者たちだ﹂
この新魔王城の築城に関わったおよそ千人、その全てがこの正面
の階段に整列している。
蹴上げ十五cm、踏み面三十五cmのこのゆったりした階段の段
数はおよそ千。左右に別れて一人ずつ立ったのでは、列は途中で終
わってしまう。だから一段おきに左右たがいちがいに立つことで、
最下段から最上段まで人員を途切れず配しているのだ。
ジブライールだけは階段下で待ってもらっている。一緒に頂上ま
で登ってもらう予定だ。
いつものように姿勢正しく直立する彼女の表情は、どこか固い。
侯爵に攻撃された件で、イラッときているからだろうか。それとも、
単に魔王・大公を迎えて緊張しているからか。
俺は<大階段>に歩み寄ろうと一歩を踏み出し︱︱かけたところ
で、アリネーゼに肩をつかまれ、その足を止めた。
﹁お待ちなさい。まさか、この階段を一段ずつ歩いてあがれという
965
のではないでしょうね?﹂
﹁そうだが⋮⋮何か問題でも?﹂
え? ここでなんでその質問?
こんな階段、頂上まであがるくらい、なんでもないよね?
いくらアリネーゼが女性だからといったって、この程度なら登り
切るのに十五分もかからないよね?
﹁大した段数でもなかろう﹂
﹁そうですとも。一段ずつゆっくり登って周囲の景色を楽しむ⋮⋮
そういう趣向と楽しめばよいのでは?﹂
筋肉が自慢のプートと、発言の真意を疑われるデイセントローズ
の賛同を得られても、なぜか素直に喜べない。そこら辺が、俺の器
の限界なのかもしれない。
﹁心配しなくても魔王城は大きく三層に別れていて、この<大階段
>も途中で大きな踊り場を二つもうけてある。そこには簡易の施設
もあって足を休めたり茶を飲んだりできるようになっている。万一
疲れたならば、そこで休憩しながらあがればいいだろう﹂
そう提案してみるが、アリネーゼの表情は晴れない。
﹁ジャーイル、まさか本気で? 私もこうして全容を眺めた後は、
当然竜で頂上まで行くと思ってたんだけど﹂
サーリスヴォルフまでアリネーゼに同意らしい。
﹁わざわざそんな非効率なことをして、無駄に時間を費やすなど⋮
⋮これが若さというものなのかしらね﹂
二人はやれやれ、といった表情で顔を見合わせている。
﹁ジャーイル、主⋮⋮﹂
ウィストベルが他の大公から進み出て、俺の前に立つ。
俺の味方をしてくれるんだろうか!
﹁先日、やってきた時にも私を抱いてここを登ったのか? そのよ
966
うに何段もあがった気はせぬだが﹂
ちょ⋮⋮ウィストベル!
そんなみんなに聞こえるような声で﹁抱いて﹂とか言わないで!
﹁なんだって? 今、聞き捨てならない台詞が聞こえた気がするが﹂
反応したのはベイルフォウスだが、むしろ俺は無言でいる魔王様
が怖い。
魔王様は俺がウィストベルを抱き上げて移動したことは知ってい
た。そしてそれさえも、水に流すと言ってくれたはず。
なのにこの肌をピリピリと焼く殺気はなんだ?
﹁いやいやいや。違うから! 誤解するなよ、ベイルフォウス﹂
弟に弁解すると見せかけて、聞いて欲しいのは兄の方だったりす
る。
﹁誤解ってなんだよ﹂
﹁別に特別な意図があってのことじゃないんだ。つまり﹂
﹁そうじゃとも。私を大切に思うたあまりのことなのじゃ。他に特
別な意図はない﹂
ウィストベル!!
いや、そりゃあ大切ではあります。でもはっきり言って、俺は自
分の命が一番大事なのです!
うかつなことは言わないでください⋮⋮お願い。
﹁ベイルフォウスがひっかかったのはそこなのかな? 私が聞きた
いのは別のことだけどね﹂
サーリスヴォルフが意味ありげに笑う。
﹁今の発言によると、ジャーイル。君は我々には内緒にしていたこ
の城のことを、ウィストベルにだけは明かしていた⋮⋮ということ
になるよね?﹂
あ、そっち?
967
﹁それは⋮⋮﹂
﹁まあ、いやらしい! そうやって目に入る男性なら全員たぶらか
すのかしら? とんでもないやり手だこと﹂
アリネーゼの矛先がウィストベルに向かう。その言葉が暗に示し
ているのは、魔王様との噂のことなのだろう。
誰も本人たちの前でその話題にふれないので安心していたという
のに、こんなところでやめてくれ! せっかく機嫌の持ち直したウ
ィストベルが、また﹁デヴィル族など滅ぼして﹂とか言い出したら
どうするんだ。
だが魔王様はいつもの通り、二人の間に割ってはいるつもりはな
いようだ。
﹁これはこれは。主のお家芸をとって悪かったかの? それとも主
にはなびかぬ者がおる故、嫉妬しておるのか?﹂
よかった。ウィストベルは今のところ上機嫌だ。
⋮⋮いや、落ち着け俺。よくはない。
あきらかに喧嘩が勃発する一秒前ではないか! 思いっきり、売
り言葉に買い言葉ではないか!
﹁おお、そういえばこのところ、主のご高名はかすんでおるようじ
ゃの。なんと申したか⋮⋮ジャーイルのところの侍女とやら。ずい
ぶんな美女らしいではないか﹂
その侍女がアレスディアのことを指すのは、名を言われなくても
わかる。
アリネーゼも同様なのだろう。いつもは気だるげに伏し目しがち
な犀の瞳を大きく見開き、たくましい歯がギリギリと音を立てるほ
ど強くかみしめている。
サーリスヴォルフの予想通り、アリネーゼはアレスディアの噂を
耳にして、その名声を無視できない心境になっているようだ。
だが侍女という単語に反応を示したのはアリネーゼだけではない。
968
さっきまでの厳しい顔はどこへやら、その後ろでニヤついた笑み
を浮かべた獅子顔に、俺は苛立ちを感じた。
仕方ない。
﹁わかりました、こうしましょう!﹂
険悪さの一掃を図って両手を打つ。
﹁右手を見てください。東の丘陵はこんもりと木々が生えて、森の
ように見えるでしょう? あそこがご希望の竜の着陸地点です。さ
あ、各自竜に乗って、あそこまで一気に行くことにしましょう﹂
ウィストベルとアリネーゼの喧嘩が本格的なものに移行する前に、
そうしてプートが興奮してアレスディアのことを話し出す前に、俺
は大慌てでそう提案した。
それから階段下のジブライールに計画変更の指示を出してから、
大公全員を引き離してそれぞれの竜へと向かわせたのだった。
969
91.正直僕は、会議よりあちこち案内して回りたいです
南の正面から見て向かって右側、東にあたる丘陵には土台を岩肌
に見えるよう造形して土や草で装飾し、木を植えてある。
同じ調子でゆるやかな階段が続く南と違って、切り立った崖や小
さな池があり小川も流れている、というように、東側はかなり起伏
のある地形に設計してあった。
規則的な印象をもたない程度には植木も間隔をばらけさせてあり、
一見したところでは年月を経た自然豊かな丘の斜面のように見える
だろう。
この東には、竜の離着陸地点と竜舎としての役目が与えられてい
る。
いざその斜面の空地に降りてみると、上空からは木の陰に隠れて
見えなかった洞穴の入り口がいくつも目に入る。その内部は広く、
壁や地面は野生の竜の巣穴に似せて、苔とツタで装飾されていた。
もっとも極めて自然を模したとはいっても、上質な藁を積み上げ
てならされた寝床は、清潔さを第一に数日おきに取り替えられる。
糞尿は取り払われ、竜自身も鱗を磨き、歯を磨き、腹を磨かれる。
つまり竜の世話をする竜番は、当然のように置かれるわけだ。た
だ檻も柵もつくっていないというだけで、竜たちが管理・飼育され
ることに変わりはない。
そんな竜穴が地上から頂上付近までのあちこちに存在している。
今はまだ、竜も竜番もどの穴にもいないが、そのうち魔王城で飼
育される竜穴と来客用の竜穴には外から見てわかるよう、区別が付
けられることだろう。
場所の高低に身分の上下を紐付けることは考えていなかったが、
970
おそらくさっきの大公たちの反応を見るに、<大階段>をあがって
くる上位者はほとんどいないのだろう。竜穴の上部は彼らの竜で埋
まるのかもしれない。
まあそこら辺は、実際の管理担当者が運営を決めればいい話だ。
﹁しかし、なんというか⋮⋮無駄に凝ったな﹂
身も蓋も無いことを言うのはベイルフォウスだ。
﹁む⋮⋮無駄とはなんだ、無駄とは! 言っておくが、お前の兄上
がいくつかある案の中から、この形式を選ばれたんだぞ!﹂
﹁全体図のことを言ってるんじゃねえよ。竜舎を東に作る事に対し
て許可を与えたにしても、巣穴みたいに、だなんて兄貴が要望する
訳がない。ここら辺はむしろお前の趣味が反映されてるんだろうと
俺は睨んでるんだが﹂
なぜバレた。
いいじゃないか、最終的には魔王様だって賛成してくれたんだか
ら。
﹁だいたい、何でお前がこの仕事を任されたんだ。しかも、他には
内緒にして⋮⋮ウィストベルのことといい、なんで俺にまで⋮⋮﹂
ブラコンにとっては、やはりその点がひっかかるらしい。
﹁大祭主がたまたま俺だったからだろ。お前がそうだったら、お前
に任せたはずだ﹂
﹁⋮⋮そうかな﹂
﹁そうに決まってる。疑うなら、魔王様に直接聞け。どのみち俺で
は答えられん﹂
﹁⋮⋮そうだな⋮⋮﹂
おい、ちょっと待て。落ち込んでるんじゃないよな?
お兄さまにちょっと内緒にされたからって、落ち込んでるんじゃ
ないよな?
971
お前はそんな繊細じゃないよな、ベイルフォウス。
﹁それで、ここからはどうやっていくんだ?﹂
今、俺たちがいるのは竜穴のさらに奥を穿った通路の中だ。
さすがに竜は通れないが、それでも平均サイズの魔族であれば、
窮屈さを感じない程度の広さには造ってある。
﹁本当はせっかくだからここからでも外の斜面をあがるか、階段ま
で出たかったんだが﹂
せっかく<大階段>にも色々用意したのだから、見てもらいたい
という欲求はある。途中の施設とか、噴水とか、花壇とか⋮⋮。
もっともここからではほとんど階下に見下ろすだけになるし、ど
うせまた反対にあうだろう。それに、こちらはこちらで披露したい
ものもある。
﹁この廊下に階段があるから、通常はそこを使うんだが、今回は⋮
⋮ああ、ちょっと待て。みんな出て来たようだ﹂
通路に魔王様と他の大公が姿を見せる。
この最上部につながる竜穴に竜を降ろしたのは、魔王様と七大大
公だけだった。
他の者は遠慮したらしく、それ以下の階層にそれぞれ降りたよう
だ。
ちなみに、俺たちは一人一頭で竜を駆ってきたが、使用人たちの
中には自分では竜に乗れない者も多いから、十人ずつくらいまとま
って一頭に乗ってきている。
ジブライールには指示を出したから、彼らのところには適当に人
員を配してくれているだろう。
やはりこういう時に信頼できる部下がいるというのは心強い。
俺は魔王様と七大大公を通路の中央に案内した。
各階の左右行き止まりには、上下階に移動するための階段や坂を
972
造ってある。中央も同様なのだが、そこにだけは更にもう一つの機
能を用意してあった。
つまり更に奥に五m四方、高さ三mの空間を穿ち、その床には仕
掛けを施してあるのだ。
﹁なにこの平面的な術式﹂
そう、術式だ!
床にはめいっぱいに術式を描いてある。まるで教本のように!
﹁ふっふっふ。よくぞ聞いてくれた、サーリスヴォルフ! これは﹂
﹁ジャーイル。説明は手短に、かつ簡潔にな﹂
⋮⋮ひどい、魔王様。俺の力作なのに!
﹁⋮⋮転移術式だ。新しい魔王城は上下に広いから、移動に不便か
と思ってあちこちに用意した。以上だ﹂
どうだ、簡潔に言ったもんね!
﹁転移術式? なんだ、それ﹂
食いついてきたのは我が友、ベイルフォウスくんだ。
そうだよな、やっぱり聞きたいよな、その話!
だって今までにはなかった魔術だもん! 俺が考えたんだもん!
⋮⋮正直にいうと、文様を考えるのに多少ミディリースに手伝っ
てはもらったが。
﹁俺はこれを、<転移陣>と名付けた。どういうものかというと﹂
﹁ジャーイルが創作した新式魔術だ。この術式は床に定着してあり、
何度使用しても消えない、というわけだ。効果は別の場所への転移。
ここからは魔王城正面の庭の、決まった地点へ移動する。詳細を聞
きたいのであれば、後で個別に尋ねるか、公文書館に追加される資
料を待て﹂
⋮⋮魔王様⋮⋮。
973
魔王様に促されて俺たちは転移術式に足を踏み入れ、発動に伴っ
て発光するはずの光の色を判別する間もなく、魔王城の前庭へと瞬
時に移動した。
移動先は<大階段>から<御殿>までまっすぐ延びた広い道を、
わずかに東へ移動した庭園の中に設けた四阿の内。
﹁なるほど。対になっている術式に、一瞬にして跳ぶという訳か。
便利だな。しかも、全く違和感も不愉快さもない﹂
﹁確かにそうだね⋮⋮にしても、不思議な経験だね。一瞬にして、
別の光景が目の前に広がっているだなんて﹂
ベイルフォウスとサーリスヴォルフが、珍しく感心したように頷
いている。
二人は言葉どおり違和感を感じていないようだが、白状するとこ
の転移術式は発動のために、その使用者の魔力を少し奪っているの
だ。マーミルだったとしても支障が出ないほどの、ほんのわずかな
量ではあるのだが。
﹁それにしてもなんとも複雑な文様ですな。私も是非後ほどジャー
イル大公のご教示賜りたいものです﹂
複雑なのは当然だ。
床に描いているために一層に見えるかもしれないが、実はこの術
式は四層四枚八十五式一陣、つまり百式に近い術式なのだから!
問われるなら事細かに教えてやりたいが、相手がデイセントロー
ズとなると抵抗感でいっぱいになるのはなぜだろう。
それはともかくとして、今言ったように四阿の床いっぱいには竜
穴と同様に術式が描いてある。今日はたまたま人数が少なかったの
で術式の上に移動したが、もっと人数が多い場合には四阿の周辺に
も転移されるようになっている。なにせ、竜舎の全ての階に同じよ
うな転移陣が用意してあるのだから。
974
つまり、移動するには術式の上に乗らなければいけないが、移動
先は術式の付近も含まれるわけだ。もっとも一度乗ってしまうと、
二十秒ほどで強制的に転移されるので、この四阿はその目的のため
だけにしか利用できない。ここら辺は改良の余地があると自分でも
思っている。
﹁閣下﹂
外で待ち構えてくれていたのはジブライールだ。
﹁各階に人員を配し、随行員たちも同様にこちらに案内しておりま
す﹂
その言葉通り、今も前庭には続々と別の階に竜を停めた随員たち
がわずかな光と共に姿を現していた。
﹁悪かったな。急な変更で﹂
﹁いえ、ある程度は予想して、あらかじめ配備も決めておりました
ので﹂
なんということでしょう!
ジブライールは<大階段>をあがるという計画が覆されると思っ
ていたようだ!
俺がみんなに計画を語った時には誰も何も言ってくれなかったけ
ど、裏でこっそりフォローするつもりで話し合ってくれていたのか
⋮⋮。
そうか⋮⋮そうなのか。そんな簡単に予想できるほど、非常識な
計画だったのか⋮⋮。たかが階段を登るだけのことが⋮⋮。
まあいい。落ち込むのは後だ。今はむしろジブライール以下、配
下の有能さを喜ぼうではないか。
俺は一同を振り返った。
﹁では<御殿>に入る前に、まずは残りの西面と北面の機能と役割
について案内と説明を﹂
975
﹁ジャーイル。日が暮れる﹂
⋮⋮さっきから、魔王様が冷たい。
﹁今日のところは会議も控えている。故に我らは<御殿>に入城し、
我が家臣のみ案内させるがよかろう﹂
まあ魔王城の一部の家臣を連れてきたのは、自身たちの職場を実
地確認させるためなのだから仕方ない。
﹁⋮⋮では、そのように﹂
俺ががっくりきていると、ベイルフォウスが慰めるように肩を叩
いてきた。
﹁後で俺が付き合ってやるよ。飽きるまでだけどな﹂
どうせすぐに飽きるだろ!!
﹁すまないがジブライール。魔王様と大公は会議のため、<御殿>
に入城する。後を頼む﹂
﹁かしこまりました﹂
本当は俺もそっちに行きたい。そっちに参加したくてたまらない。
せっかく⋮⋮せっかくやっと色々説明できるのを愉しみにしてい
たのに。
﹁⋮⋮ところで、ミディリースは?﹂
こっそりとジブライールに尋ねる。
忘れてならないのは引きこもり司書だ。<大階段>には彼女の姿
だけはなかったのだから。
﹁どうしても人前に出たくない、と申しましたので、部屋に閉じこ
⋮⋮⋮⋮控えさせてございます﹂
﹁そうか。苦労かけるな﹂
まあ大勢といるよりは一人で閉じこもっているほうがミディリー
スも気が楽だろう。
976
そうして俺たちは近くで見るといっそう荘厳な美しさを放つ<魔
王御殿>に、少数の侍従を引き連れて入城したのだった。
977
︳︶
91.正直僕は、会議よりあちこち案内して回りたいです︵後書
き︶
本年は、拙作をおよみいただきありがとうございましたm︵︳
m
こんな稚拙な文章にお付き合いいただき、感謝の念に絶えません。
感謝しているといいつつ、お願いがございます。
アンケートなるものを作ってみました。
︳︶
︳︶m
お気が向かれた方は、よろしければご回答くださいませm︵︳
m
次回は明日に投稿できればと思っております。
本年もお世話になりました。
また来年もできましたらよろしくお願いいたしますm︵︳
978
92.紙で確認することの、何が楽しいというのでしょう
入ってすぐの広いホールで待機してくれていたのは、本棟の建築
士ニールセンと現場主任のオリンズフォルトだ。
二人に侍従たちの案内をまかせ、魔王様と俺たち大公は三階の会
議室へ向かう。そうして場内を見て回る代わりに円卓の上に広げら
れたのは、大きな見取り図一枚。
ちなみに席次は慣例通り。魔王様を起点に上位から左右に分かれ
たいつもの順番だ。
これも大公位争奪戦が開催されて、どう変わるのか⋮⋮そもそも、
この面子のまま大祭の終了を迎えられるのだろうか。
﹁つまり、この魔王城は大きくは5つの区域に分割されるわけです
ね。頂上の平地に四つの城を配置した<王区>、そこへ至るまでの
南正面に<大階段>、東には今我々が利用した<竜舎>、西に役所
や公文書館などの公的機関と中位以下の住居が集まった<官僚区>﹂
そんなあっさり⋮⋮確かに簡単に言うとそういうことだが、もっ
と詳細な説明をさせて欲しい。
たとえば、<官僚区>を例にとって言うと、<西の宮>の下に造
られているが、だからといって地下に穴を掘ったような窮屈で暗い
造りにはなっていない。
地上からこの頂上まではどこも大きく三層に別れており、最下層
は確かに土台の役目もあるから、四方全てが横穴によってつながっ
てはいる。だが天井は高くとってあるし、密室よりは出入りの激し
い役所を多く造ってあるから一室の面積は広く、それほど窮屈な思
いはしないはずだ。階層は平均して十二階。竜舎同様、あちこちに
転移術式が置かれてあるが、そのほとんどは内部を移動する目的の
979
ものだ。
二層からは一層の土台と三層との境目の間、つまり東西約四km、
南北約五km、高さ五十mにくり抜いた広大な空間が穿たれてある。
千に及ぶ作業員たちの宿場や食堂といった建物がつくられたのが、
実はここだ。彼らが退去した後も、まるで人間の町のように造られ
た建物は、そのまま利用されることになっている。
他にも平屋から最高十二階建ての塔が緑豊かな大地に似せた平地
に整然と並んでおり、植物を植え水場を配したその風景は、一見地
上となんら変わりない。
三層も二層と同様の様式を持たせてあるが、こちらは魔王城に常
時勤める者たちの住居や倉庫などが中心となっていた。
そうしてその二層三層の広大な空間に光を届けるため、採用され
たのが西一面を飾る<大瀑布>と光を通す壁面だ。
外からは轟音をもって流れる滝と魔術によって視界を遮られ、中
の様子は見えないが、中からは外を遮るものなどないかのように、
西以外の三方の風景と空が透けて見えるのだ。とはいっても、二層
から三層の建物が遮蔽物として見えることはないし、三層の地面を
見つめたからといって、二層の建物群が見えることはない。
特殊な魔術で構築したこの魔王城の土台は、その用途用途によっ
て見た目を変化させる。
もちろんこの土台を築いたのは俺の魔術ではなく、それこそ作業
に当たった者たちが各自の持ち場に全力を尽くした結果だ。
﹁北はなにかしら? 縦横に通路と穴ばかり⋮⋮まるで蟻の巣ね﹂
アリネーゼの感想は尤もだ。他は魔王城として必要な機能に重点
を置いたが、北だけは半分は新しい試みのためで、半分は遊びとし
ての一面をもたせてある。
﹁<修練所>だ﹂
﹁修練所?﹂
980
俺はちらりと魔王様を見た。説明させてもらえるのかどうか、測
るためだ。
﹁簡単にな﹂
簡単って⋮⋮難しいな。
﹁この修練所は地上から<王区>のある頂上付近まで、三つの入り
口で上部も縦に完全に別れており、それぞれ五十層を数える。主な
目的は二つ。一つは魔族としての能力の維持、強化するための訓練
をここで行うこと。もう一つは、爵位の判定を容易にすることだ。﹂
﹁維持と強化?﹂
﹁つまり、十ごとにそれまでの階を統括する者を置き、挑戦者はそ
の統括者の張り巡らせた罠や配下たちの挑戦を受けて自己を鍛錬し、
あるいは統括者に挑戦して爵位を得るのが目的だ。階をあがるごと、
また左のダンジョンに行くごとに難易度があがる仕様にする。一番
右の塔は、子供からでも遊びながら挑戦し、自己の鍛錬ができるよ
うにする予定で、成人時に最上階にいる統括者を倒せば、男爵位を
与えられるようにと考えている﹂
﹁ほう⋮⋮また、変わったことを考えたな﹂
真っ先に感心したような声をあげたのはプートだった。
﹁つまり今までは爵位を持っている相手から奪うか、上位者から実
力を認められて授爵されるかしかなかったところを、この修練所で
その爵位を持つ統括者に勝てば、その実力があると認められ、自動
的に城と爵位を与えられるわけか﹂
﹁そうだ。もちろん、空きが無いときは無理だが﹂
﹁挑戦者にとっては簡単でいいわね﹂
﹁しかし、そうなると与えられる爵位は魔王領だけということにな
るのか? それとも挑戦者がいちいち、どこの領地を得たいと希望
を伝えるのか﹂
また面倒くさいとかいう顔をされるかと思ったのに、意外にも今
981
度はみんな興味津々だ。やはりあれか⋮⋮﹁強くなる﹂という言葉
に直結する話に限って、魔族は好印象を持つのかもしれない。
なんといったって、脳筋だからな!
﹁その仕組みに関連して、運営についての提案があるんですが﹂
いけるかもしれない。みんなが興味津々の今ならば。
﹁なんだ。申してみよ﹂
﹁陛下と七大大公で、その役を持ち回りにしてはどうかと思うんで
す。そうすれば挑戦者は望む領主の番に挑戦をすればいいし、領地
の管理面でも簡単です。それに挑戦者も運営側も、定期的に内容を
変えた方が単調さを感じずにすむと思いますし、また運営側の鍛錬
にも役立つと考えます﹂
などといってはみたものの、その実、領地による地位の不公平さ
をなくすため、というのが一番の目的だったりする。
今はとにかく持っている者から奪うのが主流だ。だがたとえば以
前の俺のように男爵位にあっても実力もその通りとは限らないこと
もあるわけで、現状はその相手の実力によって難易度が違いすぎる。
それを能力の強弱を段階的に明らかにさせることで、公平さを期す
のが目的の一つだ。そうすることで、各領地ごとの爵位の実力も視
覚化され、均衡をとりやすいのではないか、という目論見もある。
そうなれば、無駄な牽制と争いも減るのではないだろうか。
ちなみに、今初めてする提案のように装っているが、魔王様とは
とっくに協議済みだ。俺の考えを伝えると、魔王様も賛成してくだ
さった。
あとは他の大公たちがどんな反応を示すかだが。
﹁楽しそうではないか。私はジャーイルの案に賛成だ﹂
﹁私もです。他の領地からの挑戦者を受けやすくなりますからね﹂
982
なんだろう。今日はいやにプートとデイセントローズからの後押
しを感じる。
デイセントローズはともかくとして、以前のプートからの賛同な
ら純粋に喜べたかもしれないが、今はついつい邪念の存在を疑って
しまうのが辛い。
さすがに二人で何か企んでいるとは思わないが。
﹁⋮⋮まあ、やってみてもいいが﹂
逆にベイルフォウスは手放しに賛成、とは言い難いようだ。
﹁面倒じゃの⋮⋮﹂
不満の声を上げたのはウィストベルだ。だが大丈夫。ウィストベ
ルには﹁面倒なことは配下にまかせればいいんですよ﹂と言えば、
たぶん強固に反対はしない。
﹁そうだね。他の大公たちの勢力を知る機会をもてるという意味で
も、いいかもしれないね﹂
抜け目のない意見を出したのは、サーリスヴォルフだ。
もっとも、口に出すか出さないかだけの違いで、おそらく他の大
公たちも近い考えはもっていることだろう。
﹁他に反対がないのであれば、私もわざわざ否定はしませんわ。ど
なたかと違って﹂
ウィストベルに対して挑戦的な視線を送るアリネーゼの同意も得
て、修練所の運営についてはそのように決定した。
その議題を最後に、会議は一度中断された。
魔王様は南正面のほぼ一面に造った幅広い露台、今後は高覧台と
呼ばれることになるその場所に立って前庭を見下ろし、俺たち七大
大公はいつもの通りその少し後方で控える。
集まっているのは作業員およそ千人と、今回魔王城より引き連れ
てきた一部の者たちだ。どの顔も、生き生きと輝いている。
983
作業員たちは久しぶりに自分たち以外の者たちと会えた上に、自
分の作業場所を案内できて承認欲求が満たされたのだろうし、魔王
城の人員たちは今後自分たちが住み、働くことになる新しい城を好
意的に捉えてくれているようだ。
﹁まずはこの城の築城に従事した者共に、感謝を。また、この日を
もって、そなたたちには自由を確約しよう。無理を強いたが、それ
に応えてよくぞこれだけの城を築いてくれた。そなたたちの尽力な
くしては、史上もっとも美しく、雄大なこの城は、こうも早く完成
の日の目を迎えなかったであろう﹂
ねぎらいの気持ちを伝える声音は、いつもの数割増しで優しく響
く。
幾人かがその言葉を受けて、胸を張ったようにも見えた。
﹁この偉業は城が世に存在する限り、魔族の記憶から褪せることは
ないであろう。恩賞会では言葉だけではなく、相応の褒賞をもって
そなたたちに報いるつもりだ。楽しみにしておるがよい﹂
言葉にならない期待感で、聴衆が色めきだつ。
﹁そうして我に頭を垂れるすべての者ども。聞くがよい。予はここ
に宣言する﹂
魔王様はこの場にいる者だけにではなく、全魔族に対するかのよ
うに、浪々と語る。
﹁<魔王ルデルフォウス大祝祭>のちょうど五十日目。その日をも
って以後、我が生涯の終えるその日まで、我はこの栄えある城を我
が居城とし、ここより全ての魔族を慈しみ続けるであろう。これを
もって、<遷城の儀>を開始する﹂
作業員たちはこれまでの苦労が報われたような笑顔を見せて飛び、
踊り、歓声をあげ、魔王城の使用人たちはこれからの生活に期待す
るかのような希望に満ちた表情で城を見上げ、そうしてその熱気を
984
全土に広げていったのだった。
***
この宣言を期に、魔王様は会議を外された。
自ら配下を指揮して、引っ越し作業にあたるそうだ。
いつも通りの冷静で理知的な雰囲気を醸し出してはいたが、内心
気分はウキウキなのだろう、きっと。
だが、俺たち七大大公はそうはいかない。まだ今後の主行事の変
更事項について、話し合っていないからだ。それでもせっかくなの
で、休憩を挟むことになった。
なにせウィストベルを除けば、新魔王城への遷城を知ったのはた
った今だ。それぞれに自領へ第一報と指示を出す必要がある。
その後の話し合いは長引きそうだと思ったので、俺もミディリー
スの様子を見るために席を立った。
そうして彼女の閉じこもっているという部屋を尋ねたのだが。
﹁や⋮⋮です﹂
予想通りの答えが返ってきた。
会議が終わりそうにもないので、作業員たちと一緒に帰ってはど
うか、と提案してみたのだが。
ちなみに、今日を境に自由の身になる作業員たちの帰宅手順は、
すでに昨日のうちに簡単に打ち合わせ済みだ。
いきなり全員が移動するわけにはいかないから、魔王様の引っ越
し作業と反比例するように、人員を退かせていくことになっている。
すでに移動は始まっているようで、二層はいつもより雑然として
いる。
この中を帰るのは、人見知りの激しいミディリースなら嫌がるか
もしれないと、思っていた。
985
﹁ああ、やっぱりか。なら、俺の会議が終わるまで、時間はかかる
と思うが待って﹂
﹁いや、です⋮⋮﹂
ミディリースは眉をひそめながら、ぶるんぶるんと顔を左右に振
った。
﹁帰る⋮⋮り、ます⋮⋮今、すぐ﹂
ん?
嫌って俺を待つのが嫌ってことなのか?
﹁え、なら作業員たちと一緒に⋮⋮﹂
﹁や﹂
⋮⋮では、どうしろと。
﹁ここ⋮⋮嫌⋮⋮今すぐ、帰りたい、です﹂
﹁隠蔽魔術の解除の時に、何かあったのか?﹂
﹁⋮⋮あ⋮⋮あうう⋮⋮﹂
ミディリースは目を何度も瞬かせると、困惑した表情で首を傾げ
た。
﹁ない⋮⋮かった、です⋮⋮けど⋮⋮でも、あの⋮⋮﹂
特別何もなかったらしい。だからだろう。うまく自分の気持ちを
言葉で説明できないらしく、あうあう言っている。
不思議だ。手紙はあんなにくどいのに、なぜ喋るとなるとカタコ
トになるんだろう。かといって、あの手紙もそれほど時間をかけて
書いているとも思えないんだけどな。
仕方ない。
﹁けどすぐ帰りたいと言ったって、俺も待てない、というのなら、
ジブライールに任せることになるが、それでいいな?﹂
ミディリースは俺を見上げてきた。
986
最近は、ようやく慣れたようでちゃんと視線をあわせてくれる。
﹁いい、です﹂
﹁そうか、わかった。なら、ジブライールに頼んでやる﹂
俺がミディリースの頭をぽんぽんと叩いてやると、ようやく彼女
はホッとしたように目尻を緩ませた。
そうして俺は、ミディリースの護送をジブライールに頼んでから、
再び会議の場に戻ったのだった。
987
93.会議が終わったと思ったら、また一つ心配事が⋮⋮
思ったほど会議は長引かなかった。再開の後、魔王城の引っ越し
に関して大祭行事の変更点を確認しあったのだが、俺の案に誰から
も反対がなかったことが大きい。いいや、大公間でもめ出さなかっ
たことが、すんなりいった一番の理由かな。
そんなわけで、今後の主行事の開催についてはこのように決定し
た。
まず、あと数日で投票が始まる美男美女コンテスト。
これはつい先日、投票箱の設置が終わったばかりなので、そのま
ま旧魔王城の前地で行われることになった。
なお、開票はその場で行われるが、発表は新魔王城からに変更さ
れた。
競竜の一部の決勝ゴールも魔王城に定められていたが、これは新
魔王城に変更された。
パレードの終着点も同様だ。魔王様のいないところに到着しても
意味がないのだから、当然だろう。
同様の理由で、恩賞会も新魔王城で行われることになった。
大音楽祭や舞踏会に至っては、わざわざ話し合う必要もない。
そして、大公位争奪戦。
魔王様の旧魔王城を舞台にしてもよい、という言葉を伝えると、
破壊の魅力に抗えなかったのだろう。反対が出ないどころか、多少
の思いの差はあれ、全員が瞳を輝かせた。
おかしい。別に大公位争奪戦は、城を壊すのが目的ではないはず
なのだが。そして、どうせ一日目の一戦目で、粉塵に帰すると思う
のだが。
988
見るがいい、ウィストベルのあの微笑みを!
ひゅんひゅんしてたまらなかった!
俺の明日はどっちだ!?
なにはともあれ会議は無事終了し、解散となったのだ。
﹁そう拗ねるな。少しは見て回るのに付き合ってやるから﹂
ホッとため息をつく俺に、声をかけてきたのはベイルフォウスだ。
﹁別に拗ねてない。子供じゃあるまいし⋮⋮﹂
俺をなんだと思ってるんだ、ベイルフォウスの奴。
﹁ただ、今までのみんなの苦労を考えると⋮⋮せめてもうちょっと
丁寧に案内したかったという思いがだな⋮⋮﹂
そうとも、拗ねてなどいないとも!
この城を造るのにどこへも行けず、ひたすら作業に日々を費やし
た皆の努力の証を、もっとじっくり見て欲しかったと思っているだ
けだとも!
﹁その苦労を、一日で見て回ってわかった気になるんじゃ、それこ
そ勿体ないだろ。そう思っておけよ﹂
﹁まあ、そうだな⋮⋮それは確かにそうだが⋮⋮﹂
﹁なんだよ、その微妙な顔﹂
﹁いや⋮⋮﹂
なんかベイルフォウスに気を遣われてるなんて気持ちが悪いなと
思って、とは口が裂けてもいえない。
﹁私もお話のお仲間に、加えていただいてよろしいでしょうか﹂
近づいてきたのはデイセントローズだ。
いつも通り笑顔がうさんくさい。
﹁あの素晴らしい転移術式⋮⋮転移陣について、ぜひご教授いただ
きたいものですが﹂
989
ああ、そういえばなんかそんなことを言っていたな。
﹁魔王様が言ってたろ、詳細は公文書に資料が追加されるから、そ
れを見ろ。その上で疑問があったなら、応えてやる﹂
大人げないかな?
大人げないかな、俺。
しかしどうしてもデイセントローズに素直に何かを教えてやる気
にはなれないんだよ!
﹁承知いたしました。しかし、今からベイルフォウスと城を回られ
るのには、同行してもかまいますまい?﹂
俺とベイルフォウスは顔を見合わせた。
蒼銀の瞳には、はっきりと拒否感が浮かんでいる。
俺が断ろうと口を開いたそのときだ。
﹁お邪魔して悪いのだけれども、ジャーイル。行ってしまう前に、
少しお時間よろしいかしら?﹂
その突然のかけ声に驚いたのは俺だけではないだろう。
直前までその声の主と話していたはずのプートも、険しい表情で
こちらを窺っている。
ちなみにウィストベルは会議が終わるや一番に退席したし、サー
リスヴォルフも今はもうこの部屋にはいない。
﹁アリネーゼ、珍しいな。こいつに何か用か?﹂
﹁ベイルフォウス。お友達の語らいをお邪魔して申し訳ないのだけ
れど﹂
﹁かまわんさ。くだらない話をしていただけだ﹂
ベイルフォウスはアリネーゼにその場を譲るように、二歩後じさ
った。
﹁時間はとらせませんわ。ただ、ご招待したいだけですから﹂
990
﹁招待? 俺を?﹂
一体なにに?
アリネーゼは優美さの見本のような笑みを浮かべた。だがその笑
顔と裏腹に、俺が彼女に感じたのは剣呑さだ。
﹁貴方もご存じのように、パレードは現在我が領地を回っておりま
す﹂
待て。パレード?
﹁けれどそれも明日で終わり⋮⋮明後日にはデイセントローズの領
地へ移動してしまいますわ﹂
﹁その通りです。今か今かと、領民とともに待ちかまえております
よ﹂
デイセントローズが口を挟んでくるが、アリネーゼは彼を一瞥す
らしない。
﹁パレードに選ばれた千人は誰も彼も、目を見張るほどの美男美女
ばかり。その麗しい身姿で我が領民の心まで潤してくれました。そ
れで私考えましたの。せめてものお礼をと﹂
嫌な予感しかしない。
﹁明日、領境付近で酒宴を張ることにしました。その席にぜひジャ
ーイル。貴方と⋮⋮そう、妹君をご招待したいと思っていますのよ﹂
﹁酒宴⋮⋮?﹂
ちょっと待てちょっと待て。
俺だけでなくマーミルまで招待?
これはあれだよな。おそらくあれだな。
﹁パレードの酒宴⋮⋮! アリネーゼ、ぜひ我も⋮⋮﹂
﹁今回ジャーイルをお招きするのは、彼がパレードの担当だからで
すわ。他の方にはご遠慮いただきます﹂
下心丸見えのプートの要望は、アリネーゼの容赦ない一言によっ
991
て却下された。
﹁では、妹もご遠慮しよう。あれは担当どころか、成人すらしてい
ない、未熟な身なのだから﹂
嫌な予感しかしないどころか、もう絶対に嫌なことにしかならな
いのが明白だ! なぜって、おそらくその酒宴の目的は⋮⋮。
﹁あら⋮⋮私は何も、妹君をバカ騒ぎに巻き込もうというのではあ
りません。これは純粋な好意なのですよ、ジャーイル。なぜって、
ほら⋮⋮なんと言ったかしら? 平凡なお名前なので、忘れてしま
いましたけれど﹂
アリネーゼのくぐもった笑い声が、妙に癇にさわった。
﹁なんとかいうマーミル姫の侍女が、参加しているらしいではない
? 平凡な侍女ごときが栄えあるパレードの一員に選ばれるなど、
生涯に一度あるかないかの栄誉でしょう。その者もきっとその晴れ
姿を、主たる妹君に見てもらいたいのではないのかと思ってのこと
なのよ﹂
やっぱり。
やっぱりアレスディア絡みだった!
﹁お気遣いはありがたいが、デイセントローズの領地の次はもう我
が領だ。それほど遠い先のことでもない。だが、せっかくのお誘い
だ。俺はぜひご招待にあずかりたいと思う。しかし、妹は遠慮させ
ていただく﹂
どうせ遷城に関した道程の変更を、ウォクナンと打ち合わせない
ととは思っていたんだ。いい機会だから、その日を利用させてもら
おう。
だが妹はダメだ。
女の争いに、うちのマーミルを巻き込んでたまるか!
﹁あら、そう⋮⋮でもごめんなさい。お断りされるとは思っていな
992
かったので、もう妹君に招待状を出してしまいましたわ。今頃、お
手元に届いているのじゃないかしら?﹂
﹁!﹂
な ん だ と !?
﹁アリネーゼ⋮⋮!﹂
﹁あら、怖いお顔﹂
⋮⋮ショックなんて受けてないぞ。
デヴィル族に怖い顔といわれたからって、ショックを受けたりは
していない。本当だ。
﹁では、返事を出す手間を省かせていただこう。妹は欠席だ。二言
はない﹂
アリネーゼはわざとらしくため息をついてみせた。
﹁貴方も意外に頑固なのね。まあよいでしょう。けれど貴方は必ず
いらしていただきますよ。まさかこれ以上、私の顔に泥を塗るよう
なことはなさらないでね﹂
アリネーゼは威嚇するようにその犀の角をことさら上に挙げてみ
せると、胸を張りながら会議室を出ていった。
﹁と、言うわけだデイセントローズ。今のこともあるし、俺は帰る
ことにする﹂
﹁ええ。仕方ありませんね。今回はあきらめることといたしましょ
う﹂
なんだかホントに慇懃無礼さが鼻につくやつだな。
﹁それでは失礼。またの機会を楽しみにしております﹂
いや、またの機会とかないからね!
とにもかくにも、デイセントローズが離れていってくれて、俺は
ホッとしたのだった。
﹁お前も悪いな、ベイルフォウス。せっかく付き合ってくれる気だ
993
ったのに﹂
﹁俺は別にかまわんさ。兄貴の城なんだから、興味があれば勝手に
見て回るし﹂
まあ、そうだな。
でもほら⋮⋮俺から聞きたくないのだろうか、詳しい説明を!
いくらでも話してやるぞ!!
﹁そんなことより、女の嫉妬ってのは怖いな﹂
ベイルフォウスも、アリネーゼの意図を把握しているらしい。
﹁まあせいぜい、アレスディアの身に気をつけてやれ。美人なだけ
ならいいが、口が悪すぎるのが心配だ。マーミルを悲しませるよう
なことだけにはならないようにな﹂
﹁お前に言われるまでもない﹂
招待状を手に喜ぶマーミルの姿を想像しながら、俺はため息をつ
いたのだった。
994
94.最近の僕はどうも妹に甘すぎる気がします
城に帰ると案の定、アリネーゼからの招待状を手に瞳を輝かせる
妹に出迎えられた。
よほど嬉しかったのだろう、竜舎までの出迎えだ。従っているの
はユリアーナ一人。
﹁お兄さま! お兄さま、これ!!﹂
花を背景に散らしたアリネーゼの自画像が焼き付けられた封筒を、
ヒラヒラと振り回している。
ちなみに、その焼き付けがアリネーゼの紋章だ。デヴィル族の紋
章はデーモン族に比べて遙かに自画像である率が高いと感じる。ど
れだけ自己愛が強いのかと感心するほどだ。
﹁アリネーゼ大公からの招待状ですわ! パレードを見にいらっし
ゃいって! すぐに出席のお返事をしないと﹂
ぴょんぴょん飛び上がりながら喜ぶ妹を見ると、反比例して俺の
心は重くなる。
よかったな、と言って頭を撫でてやる訳にはいかないからだ。
﹁返事ならもうしてきた。欠席する、とな﹂
﹁そう、欠席のお返事を⋮⋮⋮⋮今、なんておっしゃったの?﹂
妹は跳ねるのをピタリと止め、ただでさえ大きな目をいっぱいに
見開いて俺を振り返った。
﹁欠席⋮⋮?﹂
﹁もちろん、欠席だ﹂
﹁嘘でしょう、お兄さま! だって、パレードよ? パレードを見
られるのよ? アレスディアに⋮⋮﹂
995
﹁すぐにうちの領地へ回ってくる。そうしたら毎日見に行けばいい
だろう﹂
そうとも。この領内でなら、何も問題はない。一人二人、護衛を
つけさえすれば、どこへ行くのだって許可してやる。
﹁いや! せっかく招待状をもらったのに、どうしてそんな意地悪
をおっしゃるの!?﹂
﹁意地悪じゃない。お前の為を思ってのことだ。とにかく、ここで
話すことじゃない。おいで﹂
﹁お嬢様⋮⋮﹂
ひっきりなしに出入りのある竜舎でこんな風にもめていては、ま
た注目を浴びてしまう。すでに数人が、何事かとこちらに視線を送
ってきているではないか。
俺はマーミルの手を取って歩き出した。
妹はしばらく大人しくついてきていたが、竜舎を出たところで突
然俺の手をはじいて立ち止まる。
﹁⋮⋮いや。アリネーゼ大公のパーティーに、私も出席する﹂
﹁マーミル⋮⋮わがままを言うんじゃない﹂
俺はしゃがみ込んで妹に視線を合わせた。
﹁明日の酒宴は、お前が思っているような楽しいものじゃないんだ﹂
﹁そんなの関係ない。私はただ、アレスディアに会いたいだけだも
の。それだけでいいんだもの﹂
うつむく妹の瞳が、だんだんとにじんでくる。
﹁もうずっと、会ってないんだもの。アレスディアに⋮⋮アレスデ
ィアに⋮⋮﹂
ぽろぽろと大粒の涙で頬を濡らす妹を、俺は抱き上げた。
﹁マーミル。お兄さまだって、お前の気持ちはわかってるつもりだ。
996
だが、明日は本当に⋮⋮﹂
﹁一目⋮⋮ぐすっ、一目で、いい⋮⋮アレスディアに会ったらすぐ、
帰る⋮⋮顔を見るだけで⋮⋮ひっく⋮⋮遠くからでもいいから⋮⋮
!﹂
﹁旦那様! お嬢様がかわいそうです!! マーミル様はそれはも
う、毎日毎日アレスディアに会いたい気持ちをぐっとこらえて、健
気にも元気に過ごしていらっしゃるのです! その気持ちを汲んで
あげてください! ユリアーナからもお願いします! 明日は連れ
て行ってあげてください!!! うわああああああん!!﹂
ま た か !
マーミルが泣くのはわかる。仕方ない。
でもなんだってこの侍女は、マーミルにつられて毎度、本人以上
に号泣し出すんだ。ほんと勘弁してくれ。
﹁明日は私がとびっきり可愛いお洋服を選んで差し上げますから!
うわああああああん!!!﹂
ますます勘弁してくれ!!!
﹁お兄さま、お願い⋮⋮。私、いい子にしてるから⋮⋮。ひっく。
お兄さまの言いつけに、逆らったりしないから。ぐす﹂
だめだ、俺。ほだされるな。
嫉妬にかられたアリネーゼが、アレスディアに対してどんな態度
にでるかもわからないのに、そんな様子を妹に見せるわけには。
﹁なんだったら、私もついて行ってあげますからああああああ!﹂
ユリアーナ、お前は黙ってろ!
あああ、衆人の突き刺さる視線が痛い。
とにかく移動しよう。俺はマーミルを抱き上げたまま、竜舎から
離れた。
997
﹁お兄さま⋮⋮ひっく⋮⋮お願い。お願い﹂
ささやくような声で繰り返す妹。
﹁旦那様あああああ﹂
大音響でイラッとさせる侍女。
﹁毎日ちゃんと、お勉強もします。お行儀もよくするし、魔術の練
習も体技の練習も、さぼったりしないわ。ひっく。竜も一人でうま
く乗れるようになるし、強くなります。だから、お願い、お兄さま
⋮⋮﹂
将来どうとかいう問題じゃなくて、今のお前が子供過ぎるのが問
題だというのに。
ああああ、もう!!
﹁マーミル﹂
俺は妹の腕をほどいて首元から離し、潤んだ赤い瞳を見つめる。 ﹁明日は絶対に、お兄さまから離れないこと。アレスディアに挨拶
したら、すぐに帰ること。誰彼かまわず、話しかけたり近寄ってい
ったりしないこと。約束できるか?﹂
一瞬、妹はキョトンとしていたが、俺の言わんとするところを理
解したのだろう。その表情に徐々に笑みが広がっていった。
﹁約束、できますわ! お兄さま、大好き!!﹂
ユリアーナは怪訝な表情のまま、俺と妹を見比べている。
しばらくして、ようやく理解したのだろう。音を立てて両手を合
わせると、妹の背に抱きついてきた。
﹁よかったですねえええ! お嬢様!﹂
やめろ、俺に体重かけるな!
っていうか、拭け!
その鼻の下でキラキラ光る液体を拭け!!
侍女の重みを減らすべく移動しつつ、妹の小さな唇を何度も頬に
998
受けながら、俺はぼんやりと護衛を誰にするか検討していたのだっ
た。
***
阻止してやった!
阻止してやったぞ!!
何をって、もちろんマーミルの衣装をユリアーナに選ばすことを、
だ!!
代わりに俺がつきっきりでドレスを選んでやらないといけなかっ
たので、朝は忙しいことこの上なかった!
まず、朝早く自分の服を着替える。これは当然早かった。一瞬だ。
次に、マーミルが起きる前に部屋にいって、神経が不安になるよ
うな甘ったるい寝室で眠る妹を起こし、それから一緒にドレスを選
んでやる。
ここからが大変だった。
女性の着替えというのは、子供でも時間がかかるものなのである。
ちょっとアレスディアに会ったらすぐ帰るんだから、おかしくさ
えなければ何でもいいじゃないか⋮⋮そう口にしたら怒られた。
その結果、色を決めるだけでも数十分、ドレスを数点選ぶのにま
た同じだけの時間。そこから一つに絞って、それに合う靴を選び小
物を選び、髪を整え鞄を選び⋮⋮とにかく長かった!
やっと用意ができた頃にはもうヘトヘトだ。
もちろん、妹ではなく俺が!
﹁待たせてすまない﹂
﹁や、俺も今きたところです﹂
999
竜の巨体を背景に、まるでデートの待ち合わせのような台詞を口
にしたのは、誰あろうヤティーンだ。
結局俺は、マーミルの護衛を彼に頼むことにした。
ヤティーンは治安維持部隊の隊長だ。治安を維持するんだから、
妹の安全を維持してもいいはず⋮⋮。
ああ、今回ばかりははっきり認めよう!
俺はマーミルの安全を第一に考えたのだ。副司令官くらいでない
と、俺に先だって他領から帰城する妹を、任せる気にはならない!
﹁ヤティーン公爵。今日はよろしくお願いします﹂
マーミルはヤティーンに向かってちょこんと膝を折った。
それを目にした雀の瞳に、柔らかい光が浮かぶ。
﹁今日も小さくて可愛いですね、マーミル様﹂
﹁まあ、ありがとうございます!﹂
ヤティーンお前、お世辞なんていえたのか! ちょっと驚きだ。
だが、お前にはわかるまいが、今日のマーミルは本当にそこそこ
無難に可愛らしい。それもこれも、俺が衣装を選ぶのを手伝ったか
らに相違ない。
あのまま侍女に任せていたとしたら、デヴィル族の美的感覚をも
ってしても、今頃眉間に深い皺が刻まれる結果になっていたことだ
ろう。
間違いない!
﹁とりあえず、マーミル様は俺の運転に慣れるために、行きからご
一緒されちゃどうですかね?﹂
わざわざ慣れさせなきゃいけないほど、酷い操竜技術だってのか?
俺はいつも先頭を飛んでるから、副司令官たちの腕がどうだかよ
くわからない。
﹁お兄さま﹂
1000
マーミルが俺の意志をうかがうように、見上げてくる。
﹁そんな心配そうな顔しないでください、閣下。失礼だな⋮⋮﹂
﹁だって、お前が慣れるとかいうから⋮⋮﹂
﹁誰にだって、多少の癖はあるもんですよ。でも、俺は副司令官で
なければ、競竜に出てもいいくらいの腕を持ってると自負してます
! なんならアリネーゼ様の領地まで、競争しますか?﹂
いや、しないからね。
﹁わかった。マーミルは任せよう。これ以上ない安全運転で頼む﹂
﹁承知しました! さあ、行きましょうか、マーミル様!﹂
﹁はい、ヤティーン公爵﹂
なぜだろう。マーミルよりむしろヤティーンの方が楽しそうだ。
こいつも子供好きなのか?
いや。普通に考えると、アレスディアとアリネーゼという二大美
女と一度に会えるから、テンションがあがっているとか?
ウォクナンと違って、ヤティーンがアレスディアに執着していた
覚えはないが、美女を嫌いな男なんていないだろうしな。
﹁さあさ、行きますよ、ジャーイル閣下﹂
﹁お兄さま、早く!﹂
上機嫌の副司令官と妹に促され、俺は自分の竜の手綱を取ったの
だった。
1001
95.さあ、酒宴の始まりです!
﹁帰りに新しい魔王城を見に行ってもかまいません、お兄さま?﹂
竜から降りるなり、マーミルが駆け寄ってきてそう言った。
﹁とってもきれいなお城なんでしょ? それも、色々な仕掛けがし
てあるのだとか! せっかくだから、少し寄り道して見て帰っても
いいでしょう?﹂
俺はヤティーンを見る。
即座に目を逸らされた。
﹁お兄さまったら、みんなに気づかれないようにお城を建てていた
のですってね!? それって、すごいことよね! しかも魔王城だ
なんて⋮⋮魔王様のちょ⋮⋮ちょ⋮⋮?﹂
﹁寵臣﹂
小声のつもりだろうが、ばっちり聞こえてるぞ、雀め!
﹁そう、寵臣! よくわからないけど、それなんでしょう!? そ
んなお兄さまのだい⋮⋮大⋮⋮﹂
﹁偉業﹂
﹁大偉業を、私も妹として目にしておかないと!﹂
雀め! 慣れるためだなんて言い出すのはおかしいと思ったんだ。
魔王様が引っ越すことになった、と伝えたって、﹁ふーん、へー﹂
だった妹が、急にこんな食いつくだなんて、どう考えてもおかしい
! いいように乗せられたからに違いない。
雀め! お前が新しい魔王城を見に行きたいんだろう! そうだ
ろう!?
それはむしろ喜ばしいことだ。新魔王城は、それはもう工夫を凝
らしたものだからだ。雀といわず、全魔族に興味をもってもらいた
1002
い。
なんだったら俺がヤティーンを案内したいくらいだ。
ただ、妹をだしに使うのは感心しない。
﹁今はまだだめだ。あちこちから見学者が行ったのでは、転居作業
の邪魔になってしまう。魔王様の遷城が終わるまでは待て﹂
俺は妹ではなくヤティーンを見たままそう言った。
いずれは妹にも、魔王城の全景を見せてやりたいとは思っている。
だがそれは俺が同行してのことだ。いかに場所が魔王領で、護衛
が副司令官とはいえ、寄り道なんぞ許すわけがない。
﹁降りませんて⋮⋮どうせ城に帰るまでには、魔王領か他の大公領
を通らないわけにはいかないんですから﹂
﹁ばかいうな。魔王領までいく必要がどこにある。一刻も早く帰ら
せたいから護送を頼んだってのに、あり得ないことを言うのはやめ
てくれ﹂
ちなみに、今いる地点からまっすぐ我が城に向かうとなると、デ
イセントローズ領を横断するのが最短だ。今もその上を飛んできた。
﹁ちょっとくらい寄り道したって⋮⋮﹂
﹁倍近い行程は、ちょっととは言わん﹂
﹁ちぇ⋮⋮ケチ﹂
﹁⋮⋮けち﹂
マーミル!! いちいちヤティーンの真似をするんじゃありませ
ん!
人選を誤ったか?
しかし、他の副司令官では同行は無理だったし、仕方ない。
とにもかくにも、もうここはアリネーゼがパレードの歓待のため
に開いた酒宴会場だ。
1003
デイセントローズ領との境界線近くの草原。そこへ刺繍の見事な
オレンジ色のテーブルクロスがひかれた十人掛けの食卓が、整然と
並んでいる。
その参加者の人数はおよそ八百人。そこへアリネーゼを初めとす
る彼女の配下の面々も幾人かは酒宴に参加しているようで、単純に
考えても机の数は八十をくだらない。
すでに酒宴は始まっているようだ。
食卓の中程に料理が盛られ、飲み物の瓶やグラスがいくつも並び、
給仕があちこちをかけずり回る中、杯を合わせる甲高い音が鳴り響
く。
アリネーゼの席は南に張られた金幕を背に、他の食卓より一段高
く設置された横長の食卓の中央だ。
その金幕には紋章がでかでかと刺繍されているのは言うまでもな
い。
アリネーゼの左に四脚並ぶ席を埋めている顔ぶれには見覚えがあ
る。彼女の副司令官たちだ。右横すぐに二つ空席があるが、そこが
俺とマーミルの席なのだろう。
その向こうの二脚には、顔だけは可愛いリスと、その面々に並ぶ
には違和感のあるアレスディアの姿。
もう嫌な予感しかしない。
俺は竜を係りの者に任せると、マーミルの手を引きアリネーゼを
目指して歩き出した。
﹁ようこそ、ジャーイル。ご免なさいね、あなたを待たないで始め
てしまって﹂
彼女はこちらの姿を認めると、椅子から立ち上がって歩み寄って
きた。
ちなみにリスはアレスディアに夢中らしく、こちらにはちっとも
気づかない。
1004
﹁けれど、パレードの者たちをあまり待たせるのも可哀想でしょう
?﹂
﹁ああ、そう思う。気にしないでくれ﹂
俺に向かって両腕を広げてみせるが、これは威嚇に近いものであ
って、飛び込んでこい、という合図ではないはずだ。
﹁おおお、エロいですね、アリネーゼ様!﹂
黙れ雀! と反射的に口にしそうになったが、その呟きを耳にし
たアリネーゼはご満悦だ。俺が下品だと感じても、言われた本人に
とってはそうでもないらしい。
しかし確かにデーモン族の立場になって考えてみれば、思わず反
応してしまうのも無理はないのかもしれない。
その上半身を覆うのは服というより紐とでも呼んだ方がいいよう
な、細い布をクロスにさせたものだけ。ぷにぷに⋮⋮失礼、柔らか
そうなバラに⋮⋮⋮⋮いいや、腹のほとんどははみ出しているし、
竜の蹄につながる雌牛の後ろ足も、恥部を覆う短いパンツから見せ
つけるように伸びている。
万一ウィストベルが同じ格好をしていたとしたら、扇情的なこと
この上ないではないか。だって胸もなんてもう、辛うじて先が隠れ
る面積しかないし、腰から下だってきわどいところまでほとんどが
露出しているんだぞ!
というか、もしデーモン族がこの格好をしていたら、その女性は
変態としか思えない。俺は即座に妹の視界を覆っただろう。
確かにアリネーゼもウィストベルに劣らず普段から露出の多い方
だが、それでもこれほどというのは記憶がない。
アリネーゼが大きな扇をゆっくりと動かすたびに微風がおこり、
クロスした紐がゆらゆらと揺らいで隙間からチラチラ素肌が⋮⋮。
上から重しの代わりになっている宝飾類がなければ、紐は飛んで
1005
いってしまったのではないかとさえ思える。
大丈夫だろうか、俺の笑顔はひきつっていないだろうか。
﹁マーミル姫ね。こんにちは。あまりお話したことはないけど、覚
えてくれているかしら?﹂
﹁もちろんです、アリネーゼ大公閣下﹂
妹は俺の手を離し、スカートをちょこんとつまみながら軽く膝を
折った。
俺なんかより、よほどアリネーゼの格好に対して動揺が少ないよ
うな気がする。まさか、異常を感じていないわけではないよな?
それどころか﹁素敵だわ﹂とか思っていないだろうな!?
﹁本日は兄ばかりでなく、私までお招きくださったこと、感謝して
おります﹂
アリネーゼが満足そうに顔を上下に振ると、宝石を垂らした金鎖
が角とこすれ、軽い音を立てた。
﹁昨日、ジャーイルに断られたから、今日はもうお顔を見られない
かと思ったわ﹂
﹁急な変更で、申し訳なかった﹂
﹁あら、構わないのよ。こちらが誘ったのだって、昨日なんですも
の。それにむしろ、今日ご招待したかったのはジャーイル、あなた
ではなくて妹姫のほうだったのだから﹂
わかってる。だから余計阻止したかったんだ、本当は。
﹁それで、そちらの殿方は?﹂
長い睫毛に縁取られたアリネーゼの瞳が、妹の背後に立つ雀顔に
向く。
﹁俺の副司令官でヤティーンだ。今回は、マーミルの送迎役として
ついてきてもらっている﹂
﹁ああ、ヴォーグリムの選んだ副司令官ね。どうりで見覚えがある
1006
と思ったわ﹂
ネズミ大公の名前が出た途端に、妹が体を固くしたのがわかった。
﹁アリネーゼ﹂
﹁あら、他意はないのよ。先代からの副司令官なのだから、見覚え
があるのも当然ね、ということを言いたかっただけ。なにせうちの
副司令官たちは、入れ替わりが激しくて﹂
そう言いつつアリネーゼは自分に並ぶ四人に視線を巡らせた。
ここもやはり、ウィストベルのところと同じなのだろうか。
四人は全員がデヴィル族の男性で、アリネーゼに好色そうな視線
を向けている。しかもアリネーゼの方もそれを厭うどころか、喜ん
でいるようだ。
入れ替わりが激しいというのは、その座を狙って挑戦が頻繁に行
われているからなのか、それともアリネーゼが飽きるたびに副司令
官の首をすげ替えるからか⋮⋮。
いや、さすがに邪推がすぎるな。
それにそんなことより不思議なことがある。
なんで他所の副司令官は、四人揃って突発的な行事に参加できる
余裕があるんだ?
﹁さあさ、立ち話もなんですから、ともかくこちらへ﹂
そう言って、アリネーゼは俺と妹を席へと案内してくれた。
思った通りアリネーゼの右隣に俺、その横にマーミル、ウォクナ
ンを挟んでアレスディア、という配置だ。
﹁アレスディア!﹂
妹の瞳は間にリスなど挟んでいないかのように、一心に侍女に向
けられている。
侍女の方も同様に妹を見つめ返しているが、その瞳は心なしかい
つもより柔らかく感じられた。
1007
だが二人が会話を交わすより早く、金幕の両脇に設置された銅鑼
が大音量で打ち鳴らされる。
それを合図に喧噪は止み、酒宴を楽しむパレード員の視線が俺た
ちに集中した。
マーミルもびくりと背を正すと、アレスディアから視線を外して
前を向く。
﹁さあ、みなさん。もう一度杯を手に起立なさいな。そうして私の
招待に応じてこの場に駆けつけてくださった大公ジャーイルとその
妹姫に、乾杯を捧げましょう!﹂
俺とマーミルの手にも透明な液体の入ったグラスが配られ、アリ
ネーゼの呼びかけに応じて全員が杯を手に立ち上がった。
﹁準備はよろしいかしら? では、乾杯!﹂
﹁乾杯!﹂
﹁大公閣下方と姫君に!﹂
﹁麗しの御身に!﹂
アリネーゼの音頭にあわせて、様々な声があがり、無数の手が空
を彩った。
俺はぐいっと酒をあおる。
甘い。これならマーミルも大丈夫だろう。
俺が頷くと、マーミルもゆっくりと杯を傾けた。
﹁甘くておいしいですわ! ものすごく、おいしい!﹂
そういって嬉しそうに何度も口をつける妹。
﹁お口にあったようでよかったわ。ベイルフォウスに好みの味を聞
いておいて正解だったわね﹂
﹁ベイルフォウスに?﹂
1008
なぜ妹のことを、他人である奴に聞く。どうせなら俺に聞いてく
れ!
﹁遠慮なくお代わりしてちょうだいね﹂
﹁ありがとうございます!﹂
﹁マーミル、ほどほどにな﹂
いくら魔族は酒に酔わないと言っても、子供のうちから他所で遠
慮なく飲み続けるのは礼儀の点で誉められたものではないだろう。
﹁閣下、マーミル姫! お久しぶりですな! でははい、乾杯!﹂
タイミングを計っていたのだろうか。リスがぐいぐいと杯を近づ
けてくる。
それからそのつぶらな瞳を、同じくつぶらな双眸を持つ同僚に向
けた。
﹁ヤティーン、お前も招かれたのか?﹂
﹁いや、俺はマーミル姫の送迎役だ。ちなみに、帰りには新しい魔
王城を見に⋮⋮は、いかないが﹂
俺が視線を向けると、ヤティーンは慌てて発言を翻した。
﹁そんなに魔王城が見たいなら、休みを取って好きな時に一人で勝
手に行け。私的な時間の使い方まで、口を出すつもりはない﹂
マーミルに聞こえないように伝えると、ヤティーンは嘴を大きく
開いた。
﹁おお、新しい魔王城の話はパレードのうちにも届いておりますぞ
! またどえらい規模のものらしいですな! なんでも、今の魔王
城より大きいとか⋮⋮﹂
﹁ふふん。まあな﹂
やはり、ウォクナンも城には興味があるらしい。
ああ。この二人ほどの情熱が、昨日の大公たちにもあればなぁ。
﹁それで、パレードの道程も少し変わってな。今日はその件もあっ
1009
て、この酒宴への招待に応じさせていただいたんだが﹂
﹁確かに、主役のいない場所にたどり着いても、むなしいですしな。
なんのためのパレードか、ということになる﹂
うん⋮⋮主役がいないどころか、パレードが旧魔王城についた頃
には、とっくに城は粉塵と化しているだろうからね。
なぜならば、パレードが魔王城へ到着するのは百日目だが、大公
位争奪戦は八十九日目から十一日間に及んで行われるからだ。
﹁あらあら。男性方は新しいお城の話で盛り上がりたいご様子ね。
なら、こうしましょう。男性は男性で、女性は女性でお話をする、
ということに!﹂
アリネーゼが両手をパンパンと叩き合わせ、俺たちの注目を集め
た。
﹁席を交代しましょうか。それとも侍女﹂
睫毛の長い犀の瞳がすうっと細められ、侮蔑とも殺意ともつかな
い視線が、俺の後方へと向けられた。
﹁お前が自らの身分を慮って自分の席をヤティーン公爵に譲り、自
分はマーミル姫の後ろに立って我々の給仕をする、というのなら、
誰も止めはしませんよ﹂
﹁! アリ﹂
﹁お兄さま、お兄さま!﹂
アレスディアに対するあんまりな態度に、俺が一言アリネーゼに
物申そうとしたその時だ。
妹が俺の服の裾をつんつんと引っ張ってきた。
﹁なんだ、妹よ﹂
﹁どうしましょう、お兄さま! アリネーゼ大公は勘違いなさって
いるわ!﹂
⋮⋮ん?
1010
﹁だってお兄さま! 侍女は給仕なんてしないわ。アリネーゼ大公
はご存じないのかしら? 給仕は給仕係がするのにね! 間違いを
指摘してあげるべき? もしも誤解したままで他所でも同じような
ことをおっしゃったら、大っ恥をかきますものね!﹂
﹁まっ⋮⋮!﹂
マーミル⋮⋮内緒話のつもりかもしれないが、ぜんぜんそうなっ
てないからね。アリネーゼに丸聞こえだからね!
だが今回は許そう。お前は親切のつもりで言ったのだろうが、ア
リネーゼには皮肉として通じたようだから。
これは俺が直接注意するより、よほど彼女には効いただろう。
長い睫毛はプルプルと震え、皮の分厚そうな灰色の肌が、怒りの
ためかほんのり赤らんでいる。
やばい。笑ってしまいそうだ。
﹁ダメですよ、お嬢様。アリネーゼ大公はお育ちまで高貴すぎて、
下々のことなどまるでご存じないのでしょう。とんだ世間知らずだ
ということは、我々の胸だけにしまっておいてあげるべきですよ﹂
ちょっと待て、アレスディア。マーミルのは許容範囲だが、お前
のはダメだ。わかっていてその言葉はないだろう。自重しろ!
﹁お心遣いはありがたいが、席はそのままで結構だ﹂
とりあえず、俺はアリネーゼの発言だけを認識した体で返答する
ことにした。
ギリギリと歯ぎしりの音が聞こえてくるような気がするが、無視
しよう。
﹁今回の宴はむしろ、パレードの参加者を労うためのものであるは
ずだ。だろう?﹂
﹁ええ、まあ﹂
アリネーゼの声は低い。
1011
﹁なら、その一員であるアレスディアが席をたつ必要は全くない。
それに妹をつれて来はしたが、長居させるつもりも全くない。ヤテ
ィーンにしてもその護衛だ。酒宴に参加させるために連れたわけで
はないのだから、席など必要ない﹂
﹁全く、その通りですよ、アリネーゼ大公閣下﹂
雀は意外にも、不満顔も見せずに俺に同意する。
﹁俺に対するご配慮には、感謝します。だが今日は治安維持部隊の
隊長としての︱︱あ、はいそうなんです。実はこの大祭で俺は治安
維持部隊の隊長を申しつかってましてね。治安維持部隊ですよ。文
字通り、領内の治安を維持することを、一手に引き受けている役な
んですけどね!﹂
雀は胸を張っている。
本当に好きなんだな⋮⋮治安維持部隊を率いるのが。
﹁つまり、領内を大公閣下に替わって睥睨するわけですから、それ
はもう副司令官でも一番の実力者でないと、任せられない重要な役
目な訳ですよ。もう忙しいのなんのって! だからのんびりしてい
る暇も、気を抜いている暇もないんです。そんなわけでお心遣いだ
け、いただいておきます﹂
雀はなぜか、俺に向かってドヤ顔を向けてきた。
誉めてほしいのか? アリネーゼの誘いをよくかわしたと、誉め
てほしいのか?
まあいい。今の言い分だと、寄り道なんてしている暇はないとい
うことだしな。
﹁そう⋮⋮そこまで固辞されるのであれば、私とて無理にとは言い
ませんよ﹂
アリネーゼは不機嫌さを隠そうともせず、俺たちからぷいと顔を
逸らしてしまった。
1012
﹁とにかく座ろう。俺たちが立っていたら、みんなだっていつまで
も腰掛けることができない﹂
乾杯は終わったものの、上位者である俺とアリネーゼが立ったま
まなので、みんなも座ることができずに立ち尽くしたままでいるの
だ。
それどころか上座の雰囲気が怪しいとみて、不安そうな顔をして
いる者までいる。
﹁みんなの座った後なら、アレスディアの側に行ってもいい? お
兄さま﹂
こっそりと尋ねてくる妹の瞳は、すでに少し潤んでいる。
今すぐに駆け寄りたいところを、ぐっとこらえているのだろう。
﹁ああもちろんだ。だがアレスディアと話をしたら、すぐ帰るんだ
ぞ﹂
﹁わかってますわ、お兄さま﹂
そうして俺たちは自分に割り当てられた席につき、ヤティーンは
銅鑼の横に胸を張って立ったのだった。
1013
96.どうも僕には信じ難い展開になっているような気がするの
ですが
﹁アレスディア!﹂
酒宴が再開されて、十分後。
ようやく妹は侍女の元に駆け寄って、その細い膝にしっかと抱き
ついた。
﹁まあまあ、なんですお嬢様。まるで子豚のように顔をくしゃくし
ゃにして﹂
﹁うわーーーーん! この失礼な侍女ーーーー!﹂
アレスディアの方はいつもの毒舌を控えようともしない。それで
もキラキラと輝くドレスのスカートが、妹の涙と鼻水で汚れるのを
一向に構いもせず、妹の背と頭を四本の手で優しくなでている。
ああ、いつもの風景だ。
﹁あら、ご機嫌ね、ジャーイル﹂
低い声に、俺は自分の左を振り返る。
﹁アリネーゼ⋮⋮?﹂
なんだ⋮⋮目を半眼のようにしているのはいつもの通りだが、雰
囲気が少し違う気がする。
アレスディアに対する嫉妬心が、態度に影響しているのだろうか。
﹁まさかあなた⋮⋮あなたもベイルフォウスと同じ趣味なんじゃな
いでしょうねぇ? あんな侍女なんかを見て、ニヤついたりして⋮
⋮﹂
﹁ベイルフォウスと同じ趣味?﹂
どういう意味だ?
﹁つまり、こういうことよ⋮⋮﹂
アリネーゼはこちらへ椅子を近づけ、紐をひらひらさせただけの
1014
足を妙に妖艶な動作で組んだ。
それからその組んで上になった左足を、俺の左足の太股の上に⋮
⋮。
﹁ちょ⋮⋮アリネーゼ!?﹂
え、なに?
なんで俺の太股に自分の足を乗せてくるの!?
なにこれ、なにこの感触!
爛れてぐちゃぐちゃした内股の感触が、服ごしにでも伝わってき
てちょっと気持ち悪いんだけど!!
あとなに、なんでその竜の蹄で俺の右足のふくらはぎをつついて
くるの!?
極めつけに俺の左腕を撫でる雄牛の前脚⋮⋮。
﹁あなたもどちらもいけるの? ってこと﹂
ぞおおおおおお。
﹁いやいやいや﹂
俺は反射的に立ち上がった。
﹁あっ⋮⋮ん⋮⋮﹂
いやいやいや。
﹁俺は違う。俺は無理。俺は絶対不可能!﹂
思わず両手で体を掻き抱き、高速で擦ってしまっているが許して
ほしい!
だって背中がゾワゾワしたんだもの!
いいや、今現在も悪寒が止まらないんだもの!
﹁アリネーゼもだろ? 君もデーモン族はダメだろ?﹂
そうだよな、まさかいけるとか言わないよな?
1015
デーモン族は嫌いなんだろ?
そうだと頷いてくれ。
サーリスヴォルフだってそう言っていた。
俺のこと快く思っていないって!
﹁ふん⋮⋮当たり前じゃないの﹂
アリネーゼはまたも態度を豹変させた。
﹁冗談に決まっているでしょう、全く⋮⋮﹂
これほど誰かの言葉にホッとしたことはなかったかもしれない。
アリネーゼは椅子を元通り俺から離すと、姿勢を正して食卓のグ
ラスを取り、ぐいっとあおる。
俺は妹が相変わらずアレスディアに夢中になっていることを確認
し︱︱アレスディアからは冷たい目を向けられていたが︱︱、自分
も椅子をなおして腰掛けた。
あああ⋮⋮ズボンが⋮⋮白なんて履いてくるんじゃなかった。
ドロドログチョグチョしたもので濡れてる上に、見た目も悲惨な
ことになってしまっている。なにより、冷たい感触が太股に残って
気持ち悪い⋮⋮。
やばい。テンションだだ下がりだ。
﹁なんと勿体ない⋮⋮私ならあのままあの細い脚を挟み込んで離さ
ないのに﹂
ウォクナン、お前はデヴィル族だからそうだろうよ。
でも俺はデーモン族なんだ。しかも、我が親友と違ってマトモな
性癖のな!!
これがデーモン族の女性だってなら、俺だってどれだけ嬉しかっ
たかしれない。
﹁全く⋮⋮デーモン族というのは、これだから⋮⋮きっとあなたな
1016
んて私とあの侍女との美しさの違いもわからないのでしょうね!﹂
鼻で笑われた!
なんかショックだ。
﹁閣下、閣下。せめてあとでそのズボン、私にくれませんか?﹂
気持ち悪い⋮⋮ウォクナン、気持ち悪いぞ!
あと、後ろでハアハアいって、後頭部に風を送ってくるのは止め
ろ!
前歯折ってやろうか⋮⋮。
﹁じゅるり⋮⋮﹂
こいつ⋮⋮まさかまた、いつもみたいに俺の頭を狙っているんじ
ゃなかろうな。
﹁前門の犀、後門のリス﹂
﹁なんですって?﹂
﹁いえ、なんでも⋮⋮﹂
俺もマーミルと一緒に帰ろうかな。
﹁一つ、尋ねてもいいかな、アリネーゼ﹂
﹁ふふ、なぁに?﹂
このコロコロと変わる態度⋮⋮。
女心が変わりやすいのは知っているが、それにしたって情緒不安
定なのじゃないかと疑うほどだ。
﹁なぜ、アレスディアをこの並びに⋮⋮﹂
﹁あら、決まってますわ。そんなの﹂
犀が口角をあげる。まさにニヤリ、というのがピッタリな笑い顔
だ。
﹁彼女がこの参加者の中で、最も美しいからです﹂
⋮⋮まあ、デヴィル族の中では、だ。
あくまでデヴィル族の中では、だ。
しかしそこははっきり認めるんだな、アリネーゼ。
1017
﹁美しい者には、美しい者の義務があります。それは、自分の美し
さを磨き、維持し、高めること。そうしてその結果を、常に大衆に
示すことです﹂
⋮⋮へ、へえー。
﹁私がこうして大公としての地位を得ることができたのもまた、美
しさ故なのです。私はこの美しさを保ち、誰にも手出しさせないた
めに、こうして強くなったのです。その努力がいかほどのものか⋮
⋮あなたにわかるかしら?﹂
﹁⋮⋮いや﹂
だが、正直感心はする。
美しさの維持のために強くなる、だなんて、言うほど簡単なこと
ではないからだ。もちろん強くなる素地はあったのだろうが、本人
の言うとおり努力はしたのだろう。しかもその結果が大公位なのだ
から。
﹁私の美しさは、競ってこそ伸びるのです。どこかの誰かのように、
のうのうと大事に守られて維持してきたものとは性質が違います。
⋮⋮まあ、理解は求めませんわ﹂
守られてというのはアレスディアのことなんだろうが⋮⋮。
しかし、俺は少しアリネーゼを誤解していたようだ。
今日だってウィストベルとやりあうような態度で始終アレスディ
アに接するのではないかと心配していたが、まあ一度で気も済んだ
ようだし。
並んでいるのも自分を高めるため、美しい者としての矜持を示し
たというだけで、他意は︱︱。
﹁ふふふ⋮⋮表面の美しさだけに目をくらませている者たちは思い
出すことでしょうよ。あの娘がドレスを汚されて内心憤っていても、
それを出すことも許されないただの侍女だということをね!﹂
1018
前言撤回。
嫉妬って怖いな⋮⋮。
俺はヤティーンに合図を出す。もちろんそろそろマーミルを連れ
て帰れ、という合図だ。
雀はこくりと頷き、アレスディアにすがりつくマーミルの元へ近
づいた。
﹁マーミル様、そろそろお時間ですよ。帰りましょう﹂
﹁え⋮⋮でも﹂
マーミルはアレスディアの膝から顔を上げ、こちらを見てきた。
俺は妹に頷いてみせる。
﹁⋮⋮わかりましたわ﹂
おお! マーミルの聞き分けがいい!
さすがに号泣しつつ約束した言葉は、忘れていないようだ。
﹁マーミル様、ほら、しっかりと立ってください﹂
そういいつつ、アレスディアは自分の袖でマーミルの顔中を拭い
た。
その動作には一片の躊躇いも淀みもない。
﹁ふん﹂
﹁私に会いたい一心で、ここまでいらしたことには誉めてあげます
よ、お嬢様。だから今度は私がお城まで会いに行って差し上げまし
ょう﹂
言葉は高慢だが、口調は優しい。
﹁せいぜい私の名前の書いた旗でも振って、後ろをちろちろと子豚
のようについていらっしゃいまし﹂
﹁う∼∼。また上から目線∼∼﹂
妹もまた、言葉は不満げだが、表情は笑顔だ。
1019
﹁お兄さま﹂
﹁アリネーゼにご挨拶をしてな﹂
﹁はい﹂
妹はアレスディアに髪を直してもらってから、アリネーゼの側ま
でトコトコやってきてぴょこんと膝を折る。
﹁アリネーゼ大公。本日はお招きいただきまして、ありがとうござ
いました﹂
﹁まあ⋮⋮ええ、いいえ。そんなことより、もっとゆっくりしてい
らっしゃいな?﹂
﹁いいえ﹂
アリネーゼの誘惑にも負けず、妹は首を左右に振る。
どうやら本当に、俺の言うことをよく聞くいい子になったようだ。
少なくとも、今この時は。
﹁私、本当にとてもとても、大公閣下に感謝しています。アレスデ
ィアに会える機会を作っていただいて、どれだけ嬉しかったか⋮⋮。
本当にありがとうございました﹂
﹁あら。よろしいのよ﹂
アリネーゼは右の口角だけをあげた。
﹁それでは、失礼いたします﹂
マーミルはもう一度膝を折った。
﹁気をつけてな﹂
俺はその興奮して赤らんだ頬を撫でた。
﹁はい、お兄さま。でもお兄さまも⋮⋮﹂
妹は俺の耳元に口を近づけ、そっとささやいた。
﹁美女ばかりがいるからって、羽目を外しすぎないで、なるべく早
く帰ってきてね﹂
!
1020
おい、誰だ!
妹に妙なことを吹き込んだ奴!
絶対にいるはずだ、でなければまだこんなに幼いマーミルが、そ
んなことを思いつくわけがない!
﹁じゃあ、参りましょうか、マーミル様﹂
﹁おい、ヤティーン。ホントに寄り道せず、帰るんだぞ﹂
﹁やだなぁ。俺だって子供じゃないんだ。そんなしつこく自分の楽
しみを貫こうとはしませんよ。ただホントに、ホンットに、がっか
りしてるだけですよ!﹂
まあこれでもヤティーンは正直な奴だから、大丈夫だろう。
そうして妹はヤティーンに手を引かれ、大人しく城へと帰って行
ったのだった。
1021
97.ヤティーンは顔は雀だけど、チュンとは鳴きません
﹁チュンチュンチュンチュン、うるさいぞヤティーン! お前は雀
か!﹂
あ、ヤティーンは雀だっけ。そういえば。
でも顔が雀なだけで⋮⋮実際にはチュンとか鳴かないよな?
なのに何でこんなに雀の声が聞こえるんだ。
しかもなんか⋮⋮。
頭が痛い。
がんがん痛い。
なにこれなんだこれ⋮⋮。
魔王様に頭を割られた時とも違う。
かつて味わったことのない痛みなんだけど。
あと、なんか気持ち悪いんだけど。
胃がムカムカして気持ち悪いんだけど。
こんなのも初めてなんだけど。
俺の知識を総動員して、この症状に値すると思われる状態の名を
引っ張り出してくる。
正直、一つしか思い浮かばない。
そしてそう、それなら俺が経験したことのないという事実にも、
納得することができる。
でもまさか⋮⋮そんなことってあるだろうか?
にわかには信じられない。
1022
それでも浮かぶ言葉はただ一つ。
二日酔い。
だが待て。魔族は酒には酔わない。
俺だってそうだ。
試しに度数の強いといわれる酒を、浴びるほど飲んでみたことも
ある。結果、平常と全く変わらなかった。
そうとも。
酔うはずなんてないんだ、酒になんて。
それに、頭痛がして気分が悪い︱︱それだけじゃない。
俺、寝てた?
チュンチュン言ってるのはヤティーンじゃなくて本物の雀か。
だとしたら今は朝?
っていうか、そもそもここは⋮⋮⋮⋮どこだ?
俺はなぜ、こんな見覚えのないところにいる?
なぜ俺はこんな見覚えのないベッドで寝ているんだ?
それからどうして。
隣に︱︱。
長い睫毛に岩みたいな色した固そうな肌の持ち主が⋮⋮。
1023
﹁あら⋮⋮起きたのね、ジャーイル﹂
この睫毛はあれか。天然ものかと思っていたのだが、いわゆる付
け睫毛か。
なるほど、こんなに盛っているから、重さでいつも目が半眼に︱
︱。
もとい。
なんで隣にアリネーゼがーーーー!!
﹁⋮⋮いやね、そんな顔をしないでちょうだい。まるでこの世に存
在しない獣でも見るみたいに⋮⋮﹂
﹁いや、すまない。そういうつもりじゃ⋮⋮﹂
ひいいいいいい。
何もなかったよな?
何もなかったよな?
何もなかったよな?
嘘だと言ってくれ。
お願い、誰か嘘だと言ってくれ!
アリネーゼは俺の目の前で、気だるそうに上半身を起こした。
彼女は妖艶な仕草で寝台に腰掛ける。
その上半身を彩る紐はねじれ、昨日より細くなっている。服とし
てなんの機能も果たしていないように見えるのだが、気のせいだろ
うか。
一方の俺は、ピクリとも動けない。
あまりのショックに体が硬直して、指の一本すら動かすことがで
きないでいる。
1024
﹁あの⋮⋮ここは⋮⋮﹂
﹁私の領内にある配下の城よ﹂
⋮⋮なんだって!?
﹁なぜそんなところに﹂
﹁昨日のことを覚えていないの? 酒宴を張ったでしょう﹂
それは覚えている。もちろん、覚えている。
妹を送り出してから、ウォクナンとパレードの道順を確認したこ
とも覚えている。
だけど、その後の記憶がない。
全くない。
完全にない。
﹁本当に、酷い目にあったわ﹂
えっ!
体内からさあっと血の引いていく音が聞こえてくるようだ。
﹁やはりあんな席であのお酒を置いておくのではなかったわ。たと
え、自分の分だけのつもりだったとしても。おかげであなたが、あ
んなことに﹂
あ ん な こ と !?
俺はあわてて自分の全身を確認した。
大丈夫、服はちゃんと着ている!
昨日のままだ。
乱れはあるが、たぶん寝ていたからだろう。
体のあちこちにも異常はない。
頭と胃以外はどこも痛くないし、気持ち悪さも感じない。
1025
そして、アソコに違和感もない!
ただ⋮⋮気だるい⋮⋮。
あああああああ!!
﹁⋮⋮やめてくださらない、まるで私があなたを襲ったかのような、
その顔、態度﹂
え⋮⋮。
﹁私たちの間に何かあるはずがないでしょう!? デーモン族にな
んて、なんの興味もないどころか、普段なら触れるのも嫌だわよ!
ただ、ここで二人とも力つきてしまったから、やむを得ず隣で眠
っていたというだけ﹂
ええっとあの⋮⋮よくわからないけど、よくわからないけど、と
りあえず。
﹁つまり⋮⋮何もなかった⋮⋮?﹂
﹁だからそう言ってるでしょ!﹂
⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
ありがとう!
誰か知らないけど、ありがとう!
俺を守ってくれてありがとう!!
﹁とりあえず、風呂を借りてもいいかな? なんかベタベタして気
持ち悪くて﹂
アリネーゼの皮膚から爛れた汁が、とは言っちゃいけない。俺だ
ってそれくらいの気は使えるのだ。
﹁⋮⋮なんだかあなたって、思っていたより腹の立つ男ね。勝手に
1026
しなさい﹂
アリネーゼはため息をつきながら部屋を出て行き、それから俺は
その部屋に備え付けられた風呂に入って、さっぱりとしたのだった。
***
一体何があったのか⋮⋮聞いたところでは、こうだ。
昨日、アリネーゼは酒を飲んでいた。
もちろん、俺もみんなも飲んでいた。だが、アリネーゼの飲んで
いた酒というのが、魔族が飲んでも酔いを感じる特殊な酒だったそ
うなのだ。
確かにそういうものが存在する、というのは聞いたことがある。
魔族に効く毒があるのと同じで、稀に魔族が酔う酒があるのだ、と。
そしてその酒をアリネーゼは好物としているそうだ。だからそれ
は<水面に爆ぜる肉塊城>に常備されていて、何か催しがあるごと
に蔵から出されるのだという。
昨日のアリネーゼのテンションがおかしかったのは、その酒のせ
いで少し酩酊していたかららしい。
もちろん、その酒は全員に振る舞われたわけではない。俺が飲ん
でいたのも、その酒ではない。
その場ではアリネーゼ一人が飲んでいたのだ。
けれど。
﹁あなたが間違えて、私のお酒を飲んだのよ。ウォクナン公爵との
話に夢中になりすぎたのね﹂
風呂を借り、服も借りてさっぱりした俺に、同じくさっぱりした
が睫毛は長いまま、そして常識的な布の量の服を着たアリネーゼが、
あきれたように説明する。
1027
﹁まあ私もいけなかったとは思うわ。あなたの反応がよかったんで、
いける口なのね、なんて一緒に飲むことにしたのだから﹂
そこからすでに覚えていない。
え。ってことは、もうすでに一杯目で記憶が飛んだってことか?
﹁杯を重ねるごとにだんだんとあなた、みたこともないほど陽気に
なっていって﹂
⋮⋮いたた。
﹁私から杯を奪っただけではすまず、給仕から瓶を強奪しラッパ飲
み。それだけならまだしも、私にもどんどん強引に飲ませてくるし﹂
あいたた。
﹁挙げ句の果てに下々の席に降りていって、飲めや歌えやの大騒ぎ﹂
あいたたたたた!!
﹁感謝してほしいものね! 私が力尽くで止めていなければ、あな
たは酒宴から娘を一人二人強奪していきかねない勢いだったのだか
ら!﹂
ごめんなさい、やめてもう聞きたくない!
俺が自分のしでかしたことを聞いていられたのは、そこまでだ。
それ以上詳細な内容を耳にすることなど、どうしてできようか。
少なくとも今の俺には無理だ。
﹁もう少し時間をください⋮⋮あと、この件は内緒にしておいてくだ
さい﹂
﹁当たり前でしょ! こんな恥ずかしいこと、他の誰にいえますか
!﹂
ですよねー。
﹁この屋敷の持ち主に、挨拶をしておいた方がいいだろうか⋮⋮﹂
1028
なんて言おう。
酔っぱらいを泊めてくれてありがとう!
迷惑かけてごめんね。
でも泊まったことは内緒にしてね?
﹁いいえ、必要ないわ﹂
アリネーゼにきっぱりと断られる。
﹁いいから早くお帰りなさい。マーミル姫が首を長くして待ってい
るわよ﹂
﹁すまない﹂
とにもかくにも、俺たちは今日のこの件︱︱少なくとも、俺たち
が一緒に朝を迎えた件︱︱を口外しないと約束し、気まずい雰囲気
のまま別れたのだった。
そうして、ガンガン痛む頭を抱えながら竜に乗り、自分の城に帰
ってきて︱︱。
﹁信じられませんわ! 朝帰りだなんて!﹂
今度は両目に燃えるような怒りをたぎらせた妹の出迎えを、竜舎
で受けているのである。
背後に軽蔑するような侍女の目線付きで。
﹁マーミル、頼むから大きな声は⋮⋮﹂
吐き気は収まったが、頭はまだ痛い。
特に高い音がいやに響く。
﹁私、昨日お兄さまにいいましたよね? 羽目を外しすぎないでっ
て! なのに朝帰り!? 他の大公の領地で気が抜けた!? お洋
服だって昨日着ていったものとは全く違いますわ! どこで借りて
らっしゃったの!?﹂
1029
ああああ、キンキン声が頭に響く⋮⋮。
くそ、やっぱりマーミルを酒宴になんぞ連れて行くんじゃなかっ
た。
この元気が久しぶりにアレスディアに会ったせいだというのなら!
﹁文句なら後で聞く﹂
﹁お兄さま!﹂
俺は金切り声をあげる妹をその場において、自分の部屋を一心不
乱に目指し、奥までたどり着くや自分の寝台に倒れ込んだのだった。
あああ、ウォクナンはどこまで知ってるんだろう。
どちらにせよ、アレスディアからは氷のような視線を向けられる
に違いない。
考えただけで辛い。
マーミルが素直に帰ったから気が抜けた?
パレードの道順を確認するのに夢中になりすぎた? いいや、言い訳を探すのはよそう。
どう考えても、俺の不注意だ。
今更悔いても仕方ないが、やはり俺も帰るべきだったのだ、あの
時、マーミルと一緒に。
悔いても遅いがな!
俺の領地にパレードが到着したら⋮⋮。
うん、みんなには謝ろう。
﹁旦那様。よろしゅうございますか?﹂
寝室の扉をノックする音。もちろん、エンディオンだ。
﹁お加減はいかがでしょう。サンドリミン殿を呼んで参りましょう
か?﹂
1030
たかが二日酔いで、いちいち医療班にかかるだなんて恥ずかしす
ぎる。
それに、酒に酔った魔族だなんて珍しいだろう。治療と称してど
んな検査をされるかわかったもんじゃない。
いや、サンドリミンには常々感謝しているし、その知的探求心に
は感心するばかりだが。
俺は寝台から降りて扉を開け、横に控えていた家令を感謝の瞳で
見上げる。
﹁いや、大丈夫だ。少し休めば治ると思う。ありがとう﹂
﹁承知いたしました﹂
それでエンディオンは引き下がったが、よく気のつく彼のことだ。
暫く人払いをしてくれていることだろう。なにせ今も、帰ってすぐ
に部屋に駆け込んだ俺の様子をどこからか見て、具合が悪いと察す
るくらいなのだから。
ああ、だがマーミルが強引に来ようとしても阻止してくれ、とは
言っておくべきだったかな。
いいや、あの家令に妹が逆らえるはずはない。
俺にしたところで慣れた今だって、あの嘴を見上げるとそら恐ろ
しい気分になるのだから。
そうして俺はその日の残りの時間を、自己嫌悪と頭痛にさいなま
れながら過ごしたのだった。
1031
98.いよいよ全魔族が注視する中、始まるのはそうもちろん!
今俺は、魔王城にいる。
いや、より正確に言うならば、数日後には旧魔王城と呼ばれる現
魔王城の、前地に設置された投票箱の上に立っている、ということ
になる。
新魔王城の存在が発表され、遷城のための作業が始まってからと
いうもの、暫く魔王城での舞踏会や音楽会といった催しは中止とな
った。
代わりに、新魔王城への遷城が終わった後には、落成記念大舞踏
会が開催されることが決定し、大公たちも数日間日替わりでの参加
を義務づけられている。
まあそんなわけで、この数日は︿魔王ルデルフォウス大祝祭﹀で
あるにも拘わらず、この周囲は大祭が開始して以来の閑散とした状
況だったわけだ。
だが今日は違う。
この数日で巨大な石の壁面には、ノミによって刻まれ、筆によっ
て彩られた躍動感あふれた彫刻が踊り、石工によって頑丈に造られ
た幅広の階段が設置されていた。
いいや、階段はただ設置されただけではない。
今その踏み面は、頂上の盤面に隣接するその場所まで、魔族の靴
底に占拠されていない箇所はないだろう。
広い投票箱の中央からは、かなり離れた場所しか見渡せないとい
うのに、それでも地上に空地を見つけることもできない。それほど
遠くまで列をなした魔族が、大地を埋め尽くしているのだ。
1032
そう。
全魔族が注目し、その開催を望んでいた美男美女コンテスト。
その開催日に間に合わせる一心から、魔王城の完成をも早めた美
男美女コンテスト。
ようやく本日、その投票開始日を迎えることになったのだから。
ちなみに列の先頭が、鼻息荒い頑強な黄金の獅子頭だということ
は付け加えておこう。
まるで今にもこちらに飛びかからんばかりの殺気を全身から立ち
わか
昇らせた、黒づくめのゴリラマッチョ大公、といえば誰のことだか
理解ってもらえるだろうか。
俺はそのマッチョ大公から目をそらし、隣に立つ別の大公に頷い
た。
今日の俺の役目はただコンテストの開催を、大祭主として見守る
だけ。開催の挨拶や進行は、担当者であるサーリスヴォルフ︱︱今
日は男︱︱の仕事だ。
﹁いよいよ、全魔族が待ち望んだ瞬間がやってきた。どれだけ君ら
が喜んでいるのだか、初日のこの賑わいを見ればよくわかるという
ものだね﹂
サーリスヴォルフは大勢の前に立っても、俺のようには声を張ら
ない。けれど常に陽気さを含んだ彼の言葉は、よく遠くまで届いた。
﹁だから私も無駄に長話をして、君らの怒りを受けることはすまい
よ。すぐにも最後の仕上げといこうじゃないか﹂
サーリスヴォルフがそう言って手を挙げる。
それを合図に、巨大な投票箱の天面にぽっかりと突き出たただ一
つの台︱︱そこへ列を作った十人の彫刻家の先頭の一人が、手に握
りしめたノミをあてた。
1033
デヴィル族であるにもかかわらず、五本指を備えた白いサーリス
ヴォルフの手。それが振り下ろされると同時に、木と木がうち当た
り、石を削る甲高い音が鳴り響く。
彫刻家たちは一人一刀、ノミをふるって石を削る。
大勢の見守る中で、最後の一人が一際甲高い音を響かせ、投票口
を完成させた。貫通した破片が投票箱の石床を打ち、その反響が完
全に止んでようやく、サーリスヴォルフは再度口を開く。
﹁まずはこの投票箱をその見事な手技で彩った彫刻家たちに、票を
投じる権利を与えよう! そうしてこのサーリスヴォルフの一票が、
正式な開催の合図だ。さあそうなればいよいよ、皆の番だ﹂
﹁うおおおおおおお!﹂
耳が痛い。
まるで勝ちどきのような獅子の咆哮は、魔王領全てを震わせたの
ではないだろうか。つられたようにどよめき、吠え、足を踏みなら
しだした魔族たちの見守る中、彫刻家たちは緊張の面もちで一票を
投じる。
彼らの投票が終わると、サーリスヴォルフは二つ折りに握りしめ
た白い紙を高々と頭上に掲げた。
見守る者たちは一転して口をつぐみ、水を打ったような静寂であ
たりは満たされる。その無数の目が見守る中で、再び振り降ろされ
た白い腕によって、もどかしいほどに仰々しく投入された一枚の紙。
それが底に達するより早く、サーリスヴォルフは天に向かって両手
を挙げた。
﹁美男美女コンテストの始まりだ!﹂
その合図を皮切りに、その投票箱には膨大な量の名前が投じられ
ることになったのだった。
***
1034
﹁正気の沙汰じゃない﹂
俺はため息とともに感想を吐き出す。
なんに対する感想かって、そんなの美男美女コンテストの投票に
関してに決まってる。
﹁なんなんだ、あの熱気は。危うくもみくちゃになるところだった﹂
階段の最上段で一応は大人しく開始の合図を待ちかまえていた魔
族たちだったが、サーリスヴォルフの一票が投じられたと見るや、
目を血走らせて投票口に殺到してきたのだ。
特に先頭の獅子の迫力たるや、コンテストだと知っていてもなお、
殺戮の場に踊り出たのかと感じたほどのものだった。
俺は慌ててその場から脱出し、こうして城壁上の通路で一息つい
ていた。
﹁だからほら、言ったじゃないか。私と一緒に入れるようにと﹂
隣に並んで、投票の様子を見守っているサーリスヴォルフの返答
は、淡々としている。
そう、サーリスヴォルフは自分の一票と同時に俺にも投票をする
ようにすすめてくれていたのだ。それを断ったことを今は少々後悔
している。
なぜならば、急いで投票台を降りたために、未だ自分の投票を済
ませることが出来なかったからだ。
この美男美女コンテストにおいて、投票は身分に拘わらず自分自
身で行わなければならない。魔王様であろうが例外はなく、自分の
足で投票口に至る階段を登って、自分の手で一票を投じなければな
らないのだ。
﹁⋮⋮まあ、いいさ。投票日は今日から二十日間もあるんだ。今は
始まったばかりだからこの調子だが、そのうち空くだろうし﹂
﹁まあ最終日ともなればね﹂
1035
ちなみに︿投票しない﹀という選択肢はない。白紙であろうが、
成人魔族には参加が義務づけられている。
だが、考えてもみてほしい。
魔王様やウィストベル︱︱それに、他の七大大公がこの列に並ぶ
と思うか?
並ぶはずがない!
いったいどうするつもりなのか、今度誰かに会ったら聞いてみよ
う。
しかし大公の誰かに、とはいえ、今は会いたくない相手が一人だ
けいる。
﹁そういえばこの間のアリネーゼのところの酒宴はどうだったの?﹂
心臓が止まるかと思った。
なぜって、今一番聞きたくない名が耳朶を打ったからだ。
﹁ああいや。どう、だった⋮⋮かな⋮⋮﹂
﹁噂では、アリネーゼとアレスディアとが並んで酒杯をあげていて、
参加者はそれはもう眼福だったとか﹂
﹁並んでというか⋮⋮まあそうだな⋮⋮近い席ではあった﹂
﹁なんだい、えらく歯切れが悪いね﹂
ドキリ。
﹁なにかもめ事でもあったのかな?﹂
サーリスヴォルフは意外に抜け目がない。うかつなことは言わな
いようにしないと⋮⋮。
俺は内心冷や汗をかきながら、サーリスヴォルフに笑みを向けた。
目をそらしても、怪しまれるだけだろうと思ったからだ。
﹁いや、特になにも﹂
﹁ふぅん?﹂
1036
探るような視線を向けられ、一気に居心地が悪くなる。
笑ったのは失敗だったか。我ながら頬がひきつっている気がして
ならない。
そうして頭から足まで視線を巡らされたあげくに、意味ありげな
視線とともに肩を叩かれた。
﹁目をそらさなかったのは誉めてあげるけど、君はもう少しごまか
し方を覚えた方がいいね。それじゃあ何かあったと白状してるのと
同じだ﹂
言い訳しちゃだめだぞ、俺。
ぐっとこらえるんだ。
墓穴を掘るな、俺。
﹁生きていればいつだって、多少のことはあるものだ。だが、大抵
は大したことじゃない﹂
本当は今すぐ頭を打ち砕きたくなるような事実だとしても、そう
言うしかないではないか。
﹁心配しなくても、無理に聞き出そうとはしないよ﹂
サーリスヴォルフは苦笑を浮かべている。
聞かないだけで、調べはするのだろう、きっと。
﹁ところで、彼⋮⋮君に用事でもあるのかな?﹂
﹁彼?﹂
俺はサーリスヴォルフの視線を追って、背後を振り返る。
城壁通路から城塔へ至る扉の前、そこに見覚えのあるデヴィル族
の男性魔族が立っていた。
シマウマの顔をしたデヴィルは、こちらに向かって軽く目礼する。
その視線は俺を捉えて離さない。
﹁アリネーゼのところの副司令官だよね﹂
1037
サーリスヴォルフの声が遠くで聞こえる。
嫌な予感しかしなかった。
***
﹁私は大公位争奪戦で、閣下に挑戦するつもりでおります﹂
シマウマ副司令官は、双眸に挑むような光を湛えて俺にそう告げ
てきた。
サーリスヴォルフには外してもらったが、正解だったようだ。
こんな宣言を聞かれたら、興味を煽るだけではすまないだろう。
﹁わざわざ宣言しにきてくれたのだから俺も正直に言うが、とても
歓迎はできないな。俺に勝てる算段が君にあるのだとしても﹂
﹁私は、私が閣下に勝利できるとまで自惚れてはおりません。です
が、これは一種のけじめなのです﹂
理由はやはり、先日の酒宴での俺の態度なのだろうか。
というか、それ以外にあるはずがない。
﹁ジャーイル閣下はご興味はないでしょうが、我が大公閣下は、デ
ヴィル族で最も美しいお方です﹂
﹁それはもちろん、知ってるが﹂
理解はできないまでも。
﹁あのように、視線一つで男を陥落させておしまいにはなるが、そ
れでもご自身はとても身持ちの固いお方なのです﹂
そうなんだ。
﹁夫として迎えておられるのはたったの三人。彼らと婚姻関係を結
ばれてからというもの、他の者と褥をともになさった話など、一度
として耳にしたことはございません﹂
三人はたったなのか。なるほど。
1038
﹁先日のことを知るのはその城の主である私一人⋮⋮﹂
あれはこのシマウマくんの城だったのか!
﹁それは、先日は多大な迷惑をかけてしまって申し訳なかった﹂
﹁本来ならば、大公閣下にご宿泊いただいたという事実は、誇るべ
きもの。そのようにご謙遜いただく必要はございません、と申し上
げたいところですが⋮⋮私にはできません。アリネーゼ様と我が城
で同衾なさったという事実を⋮⋮どうしても許すことができないの
です﹂
﹁魔王陛下の名にかけて、断じて誓う。俺とアリネーゼの間には何
もなかった!﹂
まさか、俺たちの間を疑った末に挑戦を選んだというのだろうか!
もしそうなら誤解さえ解けば考えなおしてくれるかもしれない。
そう思ったのだが、甘かったようだ。
﹁閣下。何があった、なかったという話ではございません。事実と
して、お二人が同じ部屋で一晩、あのように酔った状態で一緒にお
られたこと⋮⋮。しかも、他ならぬ私の城で⋮⋮それが問題なので
す﹂
ああ⋮⋮自分の失敗が突き刺さる。
﹁アリネーゼ様はお許しになったのでしょう。ですが、これは私の
気持ちの問題なのです、閣下。故に、私は大公位争奪戦において、
閣下に挑戦させていただきます。勝敗はこの際、問題ではございま
せん。例えそれで命を落とすことになったとしても、そうせざるを
得ないのです﹂
俺に対する嫉妬心からの挑戦、という動機はマーリンヴァイール
と同じなんだが、なぜだか彼には好感を覚える。
惜しいなぁ。こういう男は嫌いじゃないんだが。
﹁名前を聞いておいてもいいか?﹂
1039
﹁コルテシムス、と申します。大公閣下﹂
﹁わかった。覚えておこう﹂
シマウマ副司令官は凛々しい顔立ちで敬礼をすると踵を返し、城
塔の中に姿を消した。
1040
99.獅子が無茶ぶりしてくるんですけど
魔王様の前地から場所を移したここは︿竜の生まれし窖城﹀の前
地だ。
コンテストの開始を午前中にすませた俺は、午後はプートの城に
やってきていた。
というのも、四十日目である今日はコンテストの開始日であると
同時に、爵位争奪戦の最終日でもあるからだ。
とはいっても俺がすることは何もない。ただ、開始日に開催の宣
言を見守ったのと同様、今回も閉会の宣言を見守るだけの役目だ。
四十日間に及んで行われた爵位争奪戦の参加者は挑戦者・応戦者
を合わせて千四百八十二人。対戦は八百二十八戦に及ぶそうだ。
戦闘数が参加人数より多いのは、複数人が複数回に及んで挑戦・
応戦したからに他ならない。
例えばある無爵の者は、初日に男爵位に挑戦し、あっさりと勝っ
てしまったがために、一つずつ爵位をあげて参加し、最終的に侯爵
の地位を勝ち取ったという。また、上位であったにも関わらず挑戦
者に敗れた者は、再度別の者に挑戦して以前の地位を再び得たとい
う。
死者は九十九名。対戦数の多さの割に死者が百に満たなかったの
は、医療班の優秀さを褒めたたえるべきか。なにせ、爵位の争奪は、
いかに試合形式を取っているとは言っても、熾烈を極めるからだ。
俺とプートは円形の物見台に並べられた八つの椅子に、間に二つ
の空席を置くように並んで腰掛けている。
ついにこの席に魔王さまと大公が並ぶことはなかったが、一応ウ
1041
ィストベルとベイルフォウス以外はこの場に観戦にやってきたそう
だ。
とにもかくにも、そうして四十日に及んで激戦が繰り広げられた
前地では、今、最後の戦いが始まろうとしていた。
俺たちの見下ろす前地で、こちらに向かって敬礼を捧げているの
は一組の対戦者。挑戦者はどこかの侯爵、そうして応戦者はプート
配下の公爵。
︱︱そう、この爵位争奪戦の担当者である副司令官のマッチョデ
ヴィル君だった。
﹁七大大公の筆頭であられる誉れ高き我が主、プート大公閣下。同
じく、七大大公にその名を連ねられ、この︿魔王ルデルフォウス大
祝祭﹀においては大祭主という重責を名誉と共に負われたジャーイ
ル大公閣下﹂
開会の時と同じ台詞を口にして、マッチョ副司令官はまたも恭し
く頭を下げた。
﹁我が戦いが、挑戦者・応戦者ともに死力を尽くした爵位争奪戦の、
最後のものとなります! 私に対する挑戦のこの結果を、それがい
かなるものであれ、御両人に献上いたしますことを、ここに誓約い
たします﹂
﹁うむ﹂
プートは仰々しく頷くとその場を立ち上がり、逞しい右手を挙げ
た。最後の戦いの火蓋を切るために。
彼ら二人を囲む大観衆も、今は息を呑んでその瞬間を待ちかまえ
ている。
二人の対戦者が向かい合い、プートの豪腕が振り下ろされるや否
や︱︱最後の戦いが始まった。
﹁なに? では結局そなたは投票をすませなかったというのか﹂
1042
轟く歓声を縫って、プートの呆れたような声が耳に届く。
最後の戦いを見守る観衆は、口々に手を打ち、歓声をあげ、双方
を応援している。
だがさすがに実力重視主義者らしいプートの選んだ副司令官だ。
マッチョな体はお飾りではないらしく、魔術一方の相手の攻撃に対
して片刃の剣を振るって隙を誘い、そこに魔術での攻撃を加える。
相手はかわす間もなく、その餌食となって着衣ばかりか身を削り続
けていた。
どうやら四十日に及んだ爵位争奪戦の最後を飾るとあって、副司
令官のほうが少しでも観衆を楽しませようと、戦いをわざと長引か
せているように見える。
﹁投票口のあれほど近くにいて、なぜそんな手抜かりを? それと
もまだ誰に投票するか決めかねていて、吟味中だとでもいうのか?﹂
プートは結果の分かり切った勝負に興味はないのだろう。一応視
線は試合に向けているが、一度としてその内容に触れようとはしな
い。
﹁まあね⋮⋮﹂
さすがに先頭に立つ獅子の迫力にビビって逃げました、とは口が
裂けても言えない。
﹁我が誰に投票したかはもちろん、言うまでもなくわかっていると
思うが﹂
﹁それにしても、あなたの配下はなかなかのものだな﹂
俺はプートの言葉を遮った。
アレスディアに対する想いをつらつらと語りたいのだろうが、こ
ちらに聞く気はさらさらない。
﹁魔術の腕はもちろんだが、剣の方も得意と見える﹂
1043
﹁さもありなん。我が副司令官を務める者には魔術の強力なことは
もちろんのこと、それが万一封じられた場でも、相手に劣らぬ腕を
もっているかどうか、という点も重視しておる故な﹂
そう語るプートはどこか誇らしげだ。
﹁だが、それでもそなたには敵うまいな。サーリスヴォルフの城で
見た、そなたの剣の腕を思い起こせば﹂
﹁まあね。確かにその通りではある﹂
ここで謙遜なんぞはしない。
いかに豪腕の副司令官が相手とは言え、武具をもっての戦いでは
負ける気なんて全くしないのに、否定しても白々しいだけだろう。
そんな会話を楽しんでいるうちに、ほとんど一方的に見える戦い
にも決着がつきかけていた。挑戦者である侯爵は戦意を喪失したよ
うに、地に伏している。
いいや。喪失したのは戦意だけではない。意識と肉体のほとんど
も、だ。
審判者の勝利判定とほとんど同時に医療班が駆けつけたが、あれ
だけやられていては虫の息だろう。実際に、侯爵の魔力はほとんど
もう身体から消えかけていた。
敗者が運び出される光景を背に、まごうことなき勝者であるマッ
チョ副司令官はこちらに向き直り、誇らしげに胸を張る。
﹁七大大公の筆頭であられる誉れ高き我が主、プート大公閣下。同
じく、七大大公にその名を連ねられ、この︿魔王ルデルフォウス大
祝祭﹀においては大祭主という重責を名誉と共に負われたジャーイ
ル大公閣下﹂
優雅に腰を折るまでが、どうやら彼の中でのお決まりになってい
るようだ。
﹁我が勝利を大公閣下がた︱︱とりわけ、我が主にして偉大なる大
公の筆頭であられるプート閣下に︱︱﹂
1044
それからまた、長々と主への賛辞が続くかと思ったのだが、意外
にもそれを制止したのは他ならぬプートだった。
﹁皆も知っての通り、この爵位争奪戦で勝利した挑戦者には、数日
後の叙爵に加え、大恩賞会において魔王陛下よりの報償が与えられ
る﹂
いきなりどうした、プート。
﹁だが、我としては我が副司令官が最後に見せた、殊更見事な戦い
に、今この場で褒美を与えてやりたいと思う。そなたを選んだ我が
目の確かさを、その実力をもって証明せしめたそなたにな﹂
﹁これは⋮⋮なんと光栄な﹂
観衆が期待にどよめき、マッチョ副司令官は突然の幸運に頬を紅
潮させた。
急に褒美だなんて、一体なにを与えるつもりなんだ、プート。そ
んなものを用意していた様子はなかったのだが。
腰に佩した剣でも下賜するつもりだろうか。
﹁その褒美とはつまり﹂
え? 何?
何でこっち見てるのかな?
え? まさか⋮⋮。
﹁レイブレイズはダメ︱︱﹂
俺が自分の腰の剣をしっかりと握りしめた時だった。
﹁このジャーイル大公に挑戦する権利を与えよう﹂
⋮⋮。
⋮⋮は?
待て。
今、なんて言った?
1045
﹁とはいえ、もちろん大公位争奪戦が先に控えている以上、爵位を
賭けての挑戦ではあり得ない。故に今回は魔術を禁じ、武具をもっ
ての戦いに限り、勝敗の結果よりもその内容を重んじ、命のやりと
りはないものとする︱︱さて、ジャーイル大公。我はこのように、
そなたの胸を借りたいと願うのだが、いかがか?﹂
何が﹁いかがか﹂だ!
ここで俺が断ったら、さっきはあんなに自信満々に負けないと断
言しておいて、と言ってくるのだろう、どうせ。
当のマッチョ副司令官はというと、自信があるのだろう。俺に向
けられた瞳は挑戦的な色を秘めて爛々と輝いている。
﹁我が副司令官への労いのためにも、我が意をぜひ、お受けいただ
きたい﹂
労いが目的なら、自分で報いてやれよ!
﹁そのためであらば、この大公位の頂点に燦然と君臨する、この我
の鬣を切り取って、そなたに捧げてもよい﹂
獅子の鬣を切る、だと?
たかが一部下のためにそこまですると言われてしまえば、俺が否
と拒絶できるはずもない。
﹁よかろう。その意を汲んで、この申し出を許諾する﹂
それまで息を呑むように成り行きを見守っていた観衆は、俺の返
答に天まで届く大歓声をあげた。
﹁ただ、挑戦を受けるにあたって、一つ頼みがあるんだが﹂
俺は立ち上がり、プートに向き直る。
﹁なんなりと﹂
﹁剣をお借りしたい﹂
プートは、おや、という表情で俺の佩剣に視線を置いた。
﹁これは強力な魔剣だ。そのせいで勝ったのだと言われたのでは、
1046
俺としても立つ瀬がない。武芸を競っての勝負だというのなら、尚
更﹂
﹁これは、潔い。よかろう、剣はこちらで用意しよう。誰か、この
場にジャーイル大公にただの剣を差しだそうという者はおらぬか?﹂
プートがニヤリと微笑み、聴衆に声をかける。すぐに一人のデー
モン族の青年が進み出て、大地に膝をついた。
﹁我が剣は、魔剣の類ではございませんが、その身の頑丈なこと、
切れ味のよいことについては他に並ぶもののないものと自負してお
ります﹂
彼はやや上擦ったような高い、けれど堂々とした声音で断言する。
﹁手入れを怠ったこともなく、また、我が手にあって以後は一度と
して他の者に貸与したこともございません。どうか、お使いくださ
い﹂
その青年は剣帯を外すと、頭はさげたまま、剣を両手に掲げ持っ
た。
その仕草をやや仰々しくは感じたが、とにかく俺は物見台から飛
び降りてその青年に近づき、剣を手に取った。
黒地に白で縁取りとトネリコの木が彫られた鞘は、細かい傷はあ
るものの、まるで新品のような輝きを放っており、本人の手入れの
良さを物語っていた。
対して柄は黒一色、唯一柄頭にはめ込んだ碧玉が、明るい色彩で
存在感を主張している。握りは俺の手にちょうど良い太さで、不思
議と手に馴染む。
鞘から抜くと、これまた今鍛えたばかりのように磨かれた頑強な
諸刃の、荒々しくも雄々しい姿に素直に感嘆を覚えた。
﹁いい剣だ。借りよう﹂
鞘を青年の手に返すと、彼は一度も顔をあげることなく、そのま
ま空鞘を胸に掻き抱くようにして後退した。
1047
諸刃の剣を右手に、振り返る。
そこには同じく手に剣を握りしめたマッチョ副司令官の、覇気に
あふれた姿があった。
先ほどの侯爵との戦いでは右手に握った細身の長剣、その一本し
か使用していなかったようだが、今は左手にもフォインを握りしめ
ている。どうやら二刀剣法のようだ。もっとも、両腰に剣を吊して
いたことから、ある程度は予想していた。
﹁魔族でフォインを使う者がいるとは思わなかった。珍しいな﹂
俺が心からの感嘆を述べると、相手はニヤリと笑った。
﹁二剣目を出すことは、ほとんどございません。実戦で使用するの
は、五十年ぶりでございます﹂
どうやら、俺を不足のない相手として認めてあげたよ、と言いた
いようだ。
﹁では、始めようか﹂
1048
100.脳筋がすぎるのも困ったものです
こんな状況を誰が想像しただろう。
朝にはアリネーゼの副司令官の挑戦を受け、昼にはプートの副司
令官と実際に刃を交えている。
今日の俺には副官難の相でも表れているのだろうか?
それはともかくとして、マッチョ副司令官の剣の腕は、大口を叩
くだけのことはあるようだ。彼は両手に持った武器を、見事に使い
こなしていた。
左に握ったフォインで俺の剣を受け流し、絡め取るようにして動
きを封じてから、右の長剣を振るって身を削ごうとする。
ただし、いつもであればそれも上手くいくのだろうが、今日は勝
手が違うようで、その眉間には深い皺が刻まれている。フォインで
受けるまではいいが思うように相手の︱︱つまりは俺の剣を操れな
いのだから仕方ない。
マッチョ副司令官は、確かに魔族においては二刀剣法の達人と言
えるかもしれない。少なくとも魔術を封じて戦えば、ほとんどの相
手を苦もなく翻弄できるのだろう。
だからといって倒すのに苦労するほどの腕ではないし、長々と訓
練代わりに相手をしてやる価値も必要も感じない。
実際に、その剣技はベイルフォウスとは比べるべくもないのだか
ら。
それに後日、大公位争奪戦が控えている以上、剣のみの戦いとは
いえ、こうしていることはプートに対して手札を披露してやってい
るのと大差ない。
1049
そう思いついて物見台を見上げてみれば、獅子の食い入るような
視線とかち合った。
⋮⋮まさかとは思うが、それが狙いか?
ならば歯ぎしりしているマッチョ副司令官には気の毒だが、余計
とっとと終わらせるべきだろう。
小手先を狙ってふるわれた長剣を弾き、反撃に出る。
それを察して、マッチョ副司令官はフォインを握りしめた左手を
構えた。
刃を護拳で受けて滑らせ、手首を翻して俺の剣を封じるつもりな
のだろう。
実際に打ち込んでみれば反応は悪くない。定石だが達人が使えば
これほどか、というほどの見事な剣捌きだ。
だがマッチョ副司令官にとって不幸だったのは、相手がその上を
いく技量を持っていたという事実だ。
それに、なまじ力があるせいだろう。技巧より力に頼りすぎてい
る。
俺は逆に護拳の内側に切っ先を入れて、副司令官のフォインを絡
め取り、そのまま右に回転して右の長剣を弾いた。
両手を空にさせたマッチョ副司令官は、理解が及ばぬという表情
を浮かべている。俺の左手に握られたフォインを瞳に捉え、長剣が
地に刺さる鈍い音を聞き、空の両手に素早く視線をやり、喉元に突
きつけられた切っ先を認めてようやく、絶望の色を浮かべる。
﹁参り⋮⋮ました⋮⋮﹂
敗北を認めるかすれた声が、耳に届く。
俺は剣を下げた。
その途端、大地を轟かせる歓声が、四方から沸き起こった。
1050
その反応を見るに、短い勝負、しかも魔術のないものだったとは
いえ、観衆には楽しんでもらえたようだ。
俺は観衆に向き直り、剣を地面と平行に差し出した。
﹁鞘を﹂
先程の青年が膝を折って観衆から進み出、鞘を捧げ持つ。どうも
さっきから、芝居がかっていけない。
とにかく俺は彼から鞘を受け取って、抜き身の剣を納めた。
﹁いい剣だった﹂
そのまま持ち主に返そうとするが。
﹁ではどうか、お納めください﹂
青年はガンとして顔もあげず、そう申し出る。
﹁いや、剣なら俺にはこのレイブレイズが︱︱﹂
﹁魔剣では、大公位争奪戦へ帯剣できません。ですからどうか、こ
の剣をお供になさってください。どうしてもとおっしゃるなら、ご
返却はその後に﹂
確かにその通りだ。
彼の言うとおり、爵位争奪戦と同様、大公位争奪戦には魔をまと
った武具や道具の類を携帯することは許されない。
その道具の力で、勝負の行方が左右されることすらあるからだ。
しかし、だからといって剣を借りねばならぬほど、俺だって武器
には不自由していない。なにせ大公城の宝物庫には、一日ではとて
も見て回れないほどの武具が納められているのだから。
それでも。
﹁では申し出はありがたく受け、大祭の間は借りることとしよう。
俺が大公位争奪戦でこの剣を折られたり、他の大公に敗れて死んだ
りしない限りは、その後返却する。そのときは受け取りにくるがい
い﹂
1051
まあ本当にいい剣だったから、借りていよう。俺が持って大公位
争奪戦を戦い抜いた後に返せば、剣にも箔がついて、そのこと自体
が借り賃にも相当するだろう。
﹁ありがたき幸せ﹂
ようやく彼は顔をあげた。
その顔を見て、俺はようやくその相手がまだ幼さを残した少年で
あることに気づく。
﹁子供、か﹂
マーミルほど幼くはないものの、成人はまだだろう。そんな相手
がこれほどの名剣を所持していることに、やや驚きを感じた。
﹁子供などでは⋮⋮﹂
少年は、気を悪くしたように頬を赤らめ、眉を顰めた。しかしそ
れも一瞬のことで、すぐに神妙な顔つきに戻ってみせる。
﹁十年もたてば、成人します﹂
ならやっぱりまだ子供じゃないか、とは言えなかった。
プートの大音声が、大地を震わせたからである。
﹁双方、見事な戦いぶりであった!﹂
プートは物見台の椅子から立ち上がり、両手を大きく広げていた。
その口元には不適な笑みが広がり、その瞳はこの場からでも爛々と
輝いて見えた。
﹁ああ、ジャーイル大公よ。だが我は、このような戦いを企画する
べきではなかったのやもしれぬ!﹂
なにを今更、という内容の台詞に、俺は眉を顰める。
﹁血がたぎるのを抑えるのが至難であるが故に! 今すぐそなたと
対戦したい気持ちを抑えることが、容易ではない故に!﹂
おい⋮⋮なに言い出すんだ、この獅子。気は確かか?
1052
﹁ああ、今日ばかりは感謝をいたそう。あの、ベイルフォウスにな
! そなたと戦う機会を、図らずも与えてくれることとなった、あ
のベイルフォウスにな!﹂
え、ちょ⋮⋮いやいやいや。
なに吠えてんの、なに大声で獣の咆哮あげてんの、プートさん。
落ち着こう。ちょっと落ち着こうよ。
ほら、観衆もポカーンとしちゃって︱︱。
﹁うおおおおおお! プート大公の宣戦布告だー!!!﹂
は?
﹁プート! プート! プート! プート!﹂
﹁ジャーイル! ジャーイル! ジャーイル! ジャーイル!﹂
いやいやいや。君たち、なんで名前を連呼し出すの?
﹁これをもって爵位争奪戦は終結を迎えるが、全魔族は刮目せよ!
後の日に控えし大公位争奪戦は、魔族の歴史に残る名勝負でもっ
て、諸君等の目と心を大いに沸き立たせるであろう!﹂
﹁うおおおおおおおお!!﹂
はああああ?
大地を揺らす聴衆の興奮とは反比例して、俺の心はしぼんでいく
のだった。
***
ところでこれは、余談である。
新魔王城の発表からすでに七日がたった。
遷城作業は滞りなく進んでいるようだ。
旧魔王城から運び出される荷物の列は途切れがなく、それを見学
する者たちも日に日に増えている。引っ越しが、一つの主行事のよ
うに迎え入れられているのだ。
1053
途切れがないといえば、コンテストも開催からまだ二日目を数え
るばかりだが、投票のための列はこちらも一向に減る様子をみせな
いそうで。
﹁どうする? 全員参加だぞ﹂
﹁どうする、といわれても⋮⋮﹂
ただいま俺は、ミディリースと図書館で作戦会議中なのである。
議題は、いつ、どのタイミングで投票に行くか、だ。
﹁私、別に、参加しなくても⋮⋮いい。どうせ、罰せられない⋮⋮
でしょう?﹂
﹁まあそれはそうなんだが⋮⋮そうかな? だよな﹂
﹁私はいい。でも、閣下はダメ﹂
﹁え? なんで?﹂
﹁大公が参加しないなんて、バレる⋮⋮決まってる﹂
﹁そう、思うか?﹂
﹁当然。絶対、バレる﹂
ミディリースめ、なんだその笑顔。
人前ではオドオドしてるくせに、なんだってそんなしてやったり
な顔で俺を見る。
﹁恩賞会に出すぞ﹂
ボソリ、というと、彼女はビクリと肩を震わせた。
﹁ウィストベルが是非にと望んでいるしな。魔王様だって、君の隠
蔽魔術に報いたいそうだ。恩賞会には作業員に混じって﹂
﹁エンディオン!﹂
﹁ん?﹂
﹁エンディオンならいい相談相手になるはず! 前の投票の時、ネ
1054
下々
に混じる訳はないか。
ズミ大公は列、並ばなかった! と、思う!﹂
⋮⋮確かに、あの高慢なネズミが
それに確かに頼るなら、誰よりエンディオンだ。
いや、もちろん最終的に相談するつもりではあったのだが。
﹁⋮⋮恩賞会、出たくない。別に、報いてくれなくていい、です。
むしろ⋮⋮恩賞をくれるというなら⋮⋮ここから出なくていい権利、
が、ほしい⋮⋮﹂
じっと一点を見つめ、右指で机に丸を描きだしたその態度に、思
わず苦笑が漏れる。
﹁ちなみに、もし投票するなら誰に入れる?﹂
﹁もちろん、閣下﹂
まあ、ミディリースが接している相手なんて俺だけだし。当然そ
うだろうと思っていた。
﹁と、なると、俺は自票を増やす努力をするべきかな?﹂
﹁えー﹂
ニヤリと笑うと、ミディリースは眉を八の字に下げて抗議の声を
あげる。
﹁冗談だ。なんとか不参加でいけるよう、考えてみる﹂
そういうと、ミディリースはホッとしたように歯を見せて笑った。
﹁が、その代わりといってはなんだが﹂
一転して、警戒した表情が浮かぶ。
﹁︿魔王ルデルフォウス大祝祭﹀が終わった後、作業員たちを俺の
城に招いて食事会を開くことになっている。その席に、少しでいい
から顔を出してほしい﹂
﹁え⋮⋮で、でも⋮⋮﹂
作業員の数を思い出して尻込みしているのだろう。目が宙を泳い
でいる。
1055
﹁大丈夫、俺の側にいればいい。なんなら乾杯の間だけの、ほんの
少しの間だけでいいんだ﹂
﹁むー﹂
ミディリースはあちこちの本棚に視線を巡らせている。
恩賞会と食事会、どちらの心理的負担が大きいのか、比べている
のかもしれない。
﹁わかりました⋮⋮﹂
どうやら魔王様の領地で千人に混じった上に、見物客までいるだ
ろう恩賞会よりは、慣れた自分の領域で、わずかの間千人を迎える
方がましだと判断したようだ。
﹁そしたら投票も⋮⋮本当にいかなくて、いい⋮⋮?﹂
さらにそう来たか。
﹁まあ、行くも行かないも⋮⋮俺はこれでも大公だ。とても領民一
人一人の動向を、把握などできん。⋮⋮本人が口を滑らせでもしな
い限り、はな﹂
そういうと、ミディリースは両手で口をふさいで、神妙な顔で何
度も頷いた。
図書館を出てから、以前の投票の時はどうしたのかを聞きそびれ
たことを思い出して、俺は少し残念に思ったのだった。
1056
101.いよいよ、僕の領地にアレがやってくる時がきました
俺はいつになく、朝からドキドキしている。
何故かって? 愚問だ。
今日はパレードが俺の領地に到着する日なのだから。
その道程はもちろん決めてあるが、人間たちの住む辺りのような
整地された道がどこもかしこもにあるわけではないので、割とおお
ざっぱだ。パレードは平原を、丘を、山を、森を、湖を越えてやっ
てくるのだ。
もちろん領地の境界にしても、ここがそうであると明確に指し示
す目印などはない。
それでも支配者によって、領地を覆う空気は大いに変わる。結界
を張っているわけではないのだが、そこを越えた途端に魔族なら誰
もがかすかな空気の違いを感じるのだ。
今もそうなのだろう。不自然に群衆が集まっている場所がある。
そこがアリネーゼ領と俺の領地の境で、向こうにはパレードの最
後を見送りにきたアリネーゼの領民たちが集い、こちらには歓迎の
ための観衆が集っている、という具合だ。
俺はその領民たちに混じることにした。
大きな顔で存在を主張しないのは、領主だからという理由でこの
場に来たわけではないからだ。
プートは出発地点が城だったから不問だが、ベイルフォウスだっ
てアリネーゼだって、それからデイセントローズでさえ、わざわざ
パレードを領境まで迎えに行ったりはしていない。
だが俺はそうはいかない。
1057
パレードの担当である、というのが万が一理由を問われた場合の
表向きの理由。だがここにやってきている本当の理由は、説明せず
ともわかっているだろう。
なにせそう、俺が彼らに会うのはあれ以来︱︱アリネーゼ大公領
での酒宴の日以来なのだから!
だからこそ、観衆にこっそり混じって、リスを待っているのであ
る。ふつうなら大公が混ざればたちまち目立ってしまうかと思うが、
そこは俺。ここで得意の隠密技術を発動だ。
もっとも、ミディリースのような隠蔽魔術を使ってのことではな
いから、誰からも完全に見られないようにするのは不可能だ。ちら
ちらと、こちらを窺ってくる者たちも数人いる。
だがそれでも騒がれないところをみると、一応気配を消すことに
は成功しているようだ。
やがて、パレードの先頭が見えてきた。
煌びやかな衣装は、プートの領地で出発を見送った時に比べて、
ずいぶん露出の多いものになっている。
さすがにこの間のアリネーゼの紐ほどひどいのはないが、それで
もずいぶん際どい衣装が多い。
それが女性だけなら俺としてもまあ眼福だが、男性までそうなの
だからちょっと辟易としてしまう。別に相手がどんな男前でも、た
いして筋肉もついていない肉体なんぞ、見ても仕方がない。
後でウォクナンには、俺の領地では露出を少し控えてくれるよう、
言っておこう。
デーモン族とデヴィル族の美男美女たちは、ある程度は種族ごと
に別れて行進しているらしい。衣装にも、そのまとまりごとに共通
のデザインであることが多く、その違いを見るだけでもおもしろか
った。
1058
それに彼らは単に歩いているばかりではない。
花をまき散らし、宙を舞い踊り、音楽を奏で、詩を吟じたりしな
がら、それでも隊列を大きく崩すことなく歩んでゆく。なんとも華
やかで、美しい行進だ。
その様子をその場に立って行進を見送っているだけでも、かなり
心が浮き立つのを感じた。
だが、そうしてリスの姿が見えるまで、と、観衆に混じってパレ
ードを見送っていたら︱︱
﹁あら、ジャーイル様。この間はずいぶんすてきな思いをさせてい
ただきましたこと。近々ぜひ、あの続きを﹂
知らないデーモン族の美女から通りざまに、ウインクやら投げキ
ッスやらをされた時の俺の気持ちがわかるか?
見覚えもない相手からうっとりとしたような視線を向けられたり、
頬を撫でられそうになったり、しっとりした手つきで腕に触れられ
たりした、俺の気持ちがわかるか?
わかるはずがない!
気配を隠していてもこれだ。そうでなければ、どうなっていたこ
とか⋮⋮。
あああ、俺はいったい何をしたんだ!?
穴があったら入りたい!
その後も数人のデーモン族の女性から色つやめいた視線を向けら
れ、じっと立って待っていることに耐えられなくなった俺は、自ら
リスの姿を求めてパレードを逆走した。
﹁ジャーイル閣下じゃないか?﹂とかいう呟きが、何度か聞こえて
きたが無視だ。
1059
﹁ウォクナンは⋮⋮﹂
﹁ウォクナン公爵でしたら、最後尾ですよ﹂
逆に男性からは呆れたような嫉妬したような感服したような視線
を向けられた、俺のこの気持ちが⋮⋮。
いいや、大丈夫。自分を信じろ、俺。
俺はベイルフォウスじゃない。
記憶を失っているからといって、衆人環視の中でそんな破廉恥な
ことをするわけがないではないか!
***
﹁ジャーイル閣下もちゃんと男だったのですな!﹂
リスが親指を立ててくる。
折っていいかな、折っていいかな。
﹁アレスディア⋮⋮﹂
俺は不安にかられて、この場では誰よりも付き合いの長い相手に
助けを求めることにした。
このパレードで広く絶世の美貌と詠われることになった侍女は、
目指すリスと共に最後尾にいた。赤い角を生やした、騾馬ほどの大
きさの魔獣二頭がひく、豪奢に飾った六輪車の、まるで玉座のよう
な幅広で背もたれの立派な椅子に、堂々と腰掛けていたのだ。
むしろその後ろの席にこじんまりと腰掛けるウォクナンの方が、
彼女に付き従う下僕のようでさえあった。始終息を荒げ、前屈みに
浅く腰掛けるその姿からは、副司令官の威厳などは全く感じられな
い。ただのスケベリスだ。
だが、今この場に至っては、そのリスに向けられる視線より、俺
に向けられたアレスディアの瞳の方が冷ややかであることを、認め
ねばなるまい。
1060
﹁左手に女性を抱き抱え、別の方と右手でしっかり指を絡ませて寄
りかかられ、嬉しそうに鼻の下を伸ばしておいででした﹂
﹁冗談、だろ?﹂
﹁誰と朝日を一緒に見ようか、とか、二人でも三人でも、とかいう
台詞も聞こえたような気もしますが、いかがでしたか? ウォクナ
ン公爵﹂
ごめんなさい!! 朝日ならアリネーゼと見ました!
だから冗談だと言ってくださいお願いします!
﹁何度も耳にしましたな﹂
あああ、頭が痛い。
それより心が痛い。
ついでに胃も痛い。
﹁けれどまあ、あんまり気にしないことです。アリネーゼ大公以外
は、たいていみんな喜んでおりましたよ。迷惑などと、とんでもな
い。男女問わず、身分によらず、親しげに声をかけていただいて、
嬉しかった、と﹂
まさかリスに慰められるなんて!
﹁ええ、喜んでいましたとも。デーモン族の女性たちが特に!﹂
一方でアレスディアは容赦がない。
﹁あのまま放っておいてもよかったのでしょう。私などではとうて
い旦那様に刃向かうことなどできませんし。ただ旦那様が、翌日知
らない女性の隣で目覚めるだけのことですものね﹂
本当に容赦がない。
﹁けれどこのままではさすがにマーミル様に合わせる顔がなくなる
だろうと、旦那様の制止をアリネーゼ大公にお願いすることにした
のですわ﹂
1061
﹁そうか⋮⋮本当に、迷惑をかけて⋮⋮申し訳なかった﹂
﹁それはアリネーゼ大公におっしゃいませ。あんな態度をとられた
のですから﹂
⋮⋮ん?
アリネーゼに⋮⋮あんな、態度?
﹁まさか、そのままアリネーゼにまで迫ったとかいわないよな?﹂
﹁さすがにそれは⋮⋮けれど、もっと失礼な扱いをされてらっしゃ
いましたけど﹂
﹁えっ⋮⋮それは、どういう⋮⋮﹂
﹁ご本人からはお聞きではないので?﹂
﹁いや、あまり⋮⋮詳しくは⋮⋮﹂
さんざん苦労した、ということは聞いたが、具体的にどうはっち
ゃけたのか、とても聞く勇気はなかった。
アレスディアとウォクナンは、意味ありげに顔を見合わせている。
その間が怖い。
﹁可愛い犀だな、とかいいながらアリネーゼ大公の角を撫で﹂
﹁うわあああああ﹂
俺は頭を抱えてその場に突っ伏した。
今度アリネーゼに会ったら土下座しよう。
土下座して、誠心誠意謝ろう。
﹁あの⋮⋮できればこの件は⋮⋮飲酒の事実を含めて、せめてマー
ミルには内緒に⋮⋮﹂
さすがに八百が参加するパレードだ。三十人やそこらと違って、
箝口令を敷けるとは思っていない。
だが、せめて妹には⋮⋮。いつかはバレるかもしれないが、とり
あえず妹には⋮⋮。
1062
﹁旦那様。とにかくお立ちください。そんな風に地面に膝をついて
いては、旦那様まで私の美貌にメロメロで、まさか求婚でもしてい
るのかと疑われかねません﹂
俺は慌てて立ち上がった。
これ以上の醜聞は、なんとしても避けねばならない。
﹁マーミル様といえば、代わりの侍女とはうまくやっておりますか
?﹂
俺をさげすむような視線から一転、アレスディアの双眸に慈悲の
色が宿る。
﹁まあ、マーミル本人は⋮⋮﹂
俺はとても平静ではいられないがな、あの個性的な方の侍女には!
﹁それでそのご本人はどうなさったのです? てっきり喜び勇んで
駆けつけてくるかと思ったのですが﹂
﹁ああ、いや⋮⋮﹂
もちろん妹は一緒に来ると言っていたとも。
だがこんなことになると予想できるのに、俺が連れてくるはずは
ない。そして思った以上の惨状に、隙をみて置いてきて正解だった
と思っている。
今頃は︱︱。
﹁おにいさまああああ!﹂
轟く甲高い声。
噂の主の登場だ。
﹁ひどいわ、お兄さま! なぜ私を置いていったんですの!?﹂
ふと前方を見ると、沿道の見物客に混じって両手を天に向かって
振り回し、わめく妹の姿が⋮⋮。
﹁いいな、約束だぞ﹂
俺は六輪車から飛び降り、妹の元へ駆け寄った。
1063
﹁マーミル、来たのか﹂
﹁まあ、来たのかってなに!? 当然来るに決まっているでしょう
!﹂
確かに。
﹁ひどいですー旦那様。旦那様が置いていかれるから、私が魔獣の
手綱をとるはめに! しんどかったですー﹂
ちょうどいい。ユリアーナも一緒か。
この実例を見せれば、アレスディアも自らの人選の失敗を悟るだ
ろう。
俺は妹を抱き上げた。
﹁アレスディア!﹂
マーミルは身を乗り出すようにして、車上の侍女に手を振ってい
る。
それまで女王然としていたアレスディアが、妹に向かってにこり
と微笑み、手を振り返すと、それだけで見物客からどよめきがあが
った。
﹁見ろ、あのアレスディア様の優雅で慈愛にあふれた振る舞いを!
!﹂
興奮しながら叫ぶのは、例の︿アレスディア様の美貌を堪能する
ために可能な限り尽力する会﹀のメンバーだろうか。
というか、この最後尾にずっと歩を合わせるようにしてついて行
っている数十人の男連中が、全員そうなのだろうな。
﹁お兄さま、もっと近くに行きたい!﹂
﹁ダメだ。お前にそれを許したら、みんなも同じようにしたくなる
だろ?﹂
﹁お兄さまはさっきアレスディアの側にいたじゃない!﹂
﹁お兄さまはあれだ⋮⋮大祭主だし、このパレードの担当者だから
1064
⋮⋮﹂
﹁ずるいー!﹂
ずるくない! ずるくないとも!
﹁マーミル様!﹂
アレスディアが車上の上から声を張り上げる。
﹁兄上様に我が侭を言ってはいけませんよ。後で時間をつくってあ
げますから、よちよちついていらっしゃい!﹂
相変わらずものすごい上から目線だな。一応、妹は君の主なのだ
が。
﹁偉そうに言うんじゃないわよ、このどくぜつじじょー﹂
そして文句を言いながらも絶対ついて行くんだろうな、この妹は。
﹁お兄さまは帰るが⋮⋮﹂
俺は妹を降ろした。
﹁もう? 今日はずっと見ていかないの?﹂
﹁ちゃんと領内にたどり着いたのを確認できたので十分だ。お前も
ついて回るのはいいが、あまり遅くはなるなよ﹂
そう言うと、ジトっとした目で見られた。
﹁この間のお兄さまみたいに、朝帰りなんてしませんわ。ちゃんと、
晩ご飯までには帰りますとも﹂
うっ⋮⋮。
﹁ユリアーナ、妹を頼むぞ﹂
﹁言われるまでもありません!﹂
代理侍女は鼻を膨らませ、胸を叩いてみせた。それでも全く頼り
がいは感じない。逆に不安が増した。驚きの効果だ。
ちなみに化粧については話し合って以降、彼女は以前よりだいぶ
薄化粧にしてくれているようだった。でも、ビンビンに天を向いた
つけまつげだけは、どうしても譲れないポイントらしい。
﹁旦那様。頼りないですが、私もおります。それに、フェオレス公
1065
爵が付けてくださったみなさまも﹂
﹁ん?﹂
ふと声のした方をみると、ユリアーナの背後にはイースの姿があ
るではないか。どうやら、彼だけではなく、魔術の教師と、それか
ら数人の爵位持ちの護衛もいるようだ。
フェオレスがマーミルが侍女と出かけると聞いて、気を回してく
れたのだろう。
これなら一安心だ。
﹁ああ、悪いが頼む﹂
俺は彼らに妹のことを任せ、城に帰ったのだった。
ただ、帰りがけに念を押すつもりでウォクナンとアレスディアに
視線を送ったのだが、それに気がつかなかったのかシレッとした顔
で視線を外された一時だけが気にかかったのだった。
1066
102.儀式はたいてい面倒ですが、今日ばかりは違います
魔王城の遷城が発表されて、十五日が経った。
城内に入っても誰もおらず、何もなく、がらんとしていたかつて
とは今はもう違う。どこをみても豪華絢爛な家具や調度品の数々が、
デザインも仕立ても真新しい制服に身を包んだ家臣団が、来訪者を
心からの歓迎の意を示して迎えてくれる。
そう、今日は︿魔王ルデルフォウス大祝祭﹀が開催されて、五十
日目にあたる日なのだ。
つまりいよいよ、魔王様自身が正式に新魔王城へと居を移される
日だ。
それを祝した落成記念大舞踏会が、大祭の終了する百日目まで催
されることになっている、その始まりの日なのである。
まあなんのことはない。
魔王城でもともと行われていた大舞踏会に、遷城を祝う意味が追
加されただけのこと。行事の内容に変わりはない。
もちろんみんなのテンションはあがるだろうし、そうなると参加
人数も増えて、より一層盛大な会になりはするだろうが。
そしてそれに伴って、俺たち七大大公には今までにはなかった役
割が追加された。
その落成記念大舞踏会に、日替わりで参加をしなければならなく
なったのである。もっとも、遷城初日である今日は、一人とは言わ
ず当然のように七大大公全員がそろっている。
だが、今︱︱現在の俺は、新魔王城の一室でアリネーゼと二人き
りで顔を突き合わせていた。
1067
彼女と会うのはあの朝以来だ。
あの朝︱︱
﹁申し訳ありませんでした!﹂
俺はかねての決意通り正座して、床に額をこすりつけた。いわゆ
るあれだ⋮⋮土下座、というやつだ。
﹁ちょっと。なんなの、一体!﹂
アリネーゼの声は不審な驚きに満ちている。
﹁本当にすみませんでした。気の済むまで殴るなり、蹴るなり⋮⋮﹂
﹁やめてちょうだい! 気持ち悪い⋮⋮一体なんだというの!? とにかく、顔を上げてちょうだい﹂
﹁その⋮⋮﹂
俺は上半身を起こした。だが、アリネーゼのことは直視できない。
﹁君の角を⋮⋮撫でてしまったとか﹂
いや、実際は撫でたことより、そのとき口にした台詞の方が問題
なのはわかっている。
﹁可愛い犀だな﹂﹁可愛い犀だな﹂﹁可愛い犀だな﹂
ああああああ!!!
﹁ああ⋮⋮そういえば、撫でられたかもしれないわね﹂
﹁!?﹂
うろ覚え!? アリネーゼもうろ覚えなのか!?
彼女も俺ほどではないとはいえ、酒に酔っていたようだし。それ
に、今の言い方だと、角に触れるくらいは大して気にしない? た
だの動物扱いしたことさえ、バレなければ⋮⋮。
﹁そういえば、コルテシムスが、あなたに挑戦を宣言したのですっ
てね﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
角のことは大した問題ではないのだろうか。
1068
﹁うちの副司令官は、みな私に忠実なのよ﹂
﹁もちろん、そうなのだろう﹂
﹁だから許してやってちょうだいね。私があなたを許したように﹂
⋮⋮どういう意味だ?
﹁素面の時なら角に触れるだなんて、私だってもちろん許しなどし
ないのだけれど、あのときは酔っていたのだし、少しの無礼は仕方
ないわ﹂
﹁アリネーゼ﹂
俺が彼女の寛大さに感動しかけた時だった。
﹁けれどまあ、お互い酔ってはいたと言っても、あなたの素行の方
がひどかったのだし、それを申し訳ないと本気で思う気持ちがある
のなら﹂
右の口角だけが、ひきつったように上がる。
﹁誠意は大公位争奪戦で示してくれればよいのではなくて、という
ことよ﹂
﹁大公位争奪戦で?﹂
⋮⋮今のはあれか。
﹁まさか戦いの場で手加減しろ、と言う意味ではないよな?﹂
そのコルテシムスを相手に? それとも、アリネーゼ自身も含ん
でのことか?
﹁解釈はあなたの誠実さ次第ね﹂
﹁アリネーゼ!﹂
﹁あら、怖い顔﹂
人を食ったような笑い声が、耳障りで仕方ない。
俺が彼女の発言について、追求を深めようとしたときだ。魔王城
の全域に轟くほどのラッパの音が鳴り響き、続いて堂々とした大音
声が木霊した。
﹁魔王ルデルフォウス陛下、まもなくご到着! 魔王ルデルフォウ
1069
ス陛下、まもなくご到着!﹂
﹁ここでお喋りしている暇はないようよ﹂
アリネーゼが立ち上がる。
その報せの通り、魔王様が旧魔王城からこの新魔王城へ、正式に
移ってこられるのだ。
七大大公はこれを揃って出迎えねばならない。
﹁では話はまた﹂
﹁ああ、それから言っておくけど、私はこれ以後は二度と︱︱少な
くとも、大公位争奪戦が終わるまでは、あなたと二人きりになる機
会を持つつもりもないからそのつもりで﹂
あとはすべて含めて自分で判断しろ、ということか。いいだろう。
﹁︱︱承知した﹂
そうして俺とアリネーゼは、他の大公の集まる場所へと向かった
のだった。
***
ちょうど十五日前に、作業員と一部の配下を前にした高覧台。そ
こへ俺たち七大大公は、あの日と同じように並んでいる。
そうして西の空を見上げると、そこには雲一つない青空が広がっ
ているに違いないというのに、今は竜によって日の光が遮られ、そ
の真下はまるで夜の帳が訪れたかのよう。その喩えが大げさでない
ほどの、竜の大群が西からやってくるのだ。
率いるのはもちろん、魔王ルデルフォウス陛下。
我らが魔王陛下が旧臣を数多引き連れ、王城を移すために空を駆
ってこられたのである。
群の中でも一際大きな体躯を誇る、青みがかった灰色の竜が、四
棟を備える魔王城の上空で見事な空中停止を披露する。それに従う
1070
竜たちは、決して四棟の上にその身がかからないように、距離をと
って輪を描くよう、旋回し出した。
﹁俺はこういう、勿体ぶった演出はあまり好きじゃないんだが﹂
ベイルフォウスがポツリと口にする。
﹁それでもあの中央にいるのが己の兄貴だと思うと、誇らしげな気
持ちが沸いてくるから不思議だな﹂
ブラコンでなくともその気持ちはわかる。
なんといっても今日は魔族にとっての特別な日なのだ。
なにせこの新しい城は、今後数千年に及んで魔王の居城であり続
けるのだから。たとえ今の魔王様がお倒れになっても、その後も魔
族の歴史が続く限り、または次の新しい城が築城されない限り、こ
の城はすべての魔族の統率者を、その身の内に抱き続けるのだ。
脈々と続く歴史の第一歩が始まる場所にいて、興奮を覚えない者
はいないだろう。
﹁早く終わらぬかの﹂
⋮⋮ウィストベル以外には。
﹁けれどまあ、眼下の風景には既視感を感じますわね﹂
続いてボソリと呟いたのはアリネーゼだ。もちろん、ウィストベ
ルに話しかけたのではない。
﹁ああ、まあそうだね﹂
答えたのはサーリスヴォルフ。
なんだろうこの温度差。女性はこういう儀式に、興奮を覚えない
のだろうか⋮⋮。
彼らの感じる既視感というのは、おそらく先にお披露目会があっ
た故のことだろう。
だが今この露台に立ち上ってくる熱気は、あの時とは比べようも
1071
ない。なにせそもそも、集まっている人数が絶対的に違う。
四つの棟に至る平坦な庭は言うに及ばず、竜舎のある東の着陸場、
大階段の最上段から遙かに見渡す前地まで、視認できる限りの大地
を、魔族たちが埋め尽くしているのだから。それはもう、美男美女
コンテストでさえ及ばぬほどの、臣民があつまっているのだ。
だいたい、君らからすると似た状況に見えても、俺にとっては大
いに違う。
なぜならあの時ここにいたのは築城に関わっていた者たちがほと
んどで、その意識は魔王様の挙動のみに注がれていたのだから。だ
が、今はそうとばかりも言えない。
ああ、聞くがいい、この声を!
﹁それにしても、大したお城ね! ここに登りつくまでの階段の立
派なこと﹂
﹁階段から来たのか。なら、あちこちにある転移陣、とやらを見て
いないんじゃないか? 一瞬で別の場所に移動できるんだぜ﹂
﹁ああ、竜舎から瞬きする間もなく、この場に移動したのにはたま
げたよ﹂
﹁それより、西の大瀑布を見た? あちこちに虹がかかって、それ
は美しかったわ﹂
ふふふふふ。
もっと言って!!
もっと褒め讃えて!!
⋮⋮ああ、もちろん俺のことじゃない。作業員たちの仕事を、だ!
﹁なにニヤついてるんだ、気持ち悪い﹂
ひたっていると、ベイルフォウスにそんな言葉を吐かれた。
﹁失礼だな﹂
1072
﹁いいから、もうちょっとは表情に気を使え。大公の威厳が台無し
だ﹂
なんだよ、その言い方。まるで人がアホ面をさらしているかのよ
うに。
だが、さすがに気を抜きすぎたか。
魔王様の到着は、気を引き締めて迎えないと。
広い前庭に居並ぶ音楽隊が、喇叭を吹き鳴らし、太鼓を叩いて聴
衆の感情をより盛り上げる。
音楽が最高潮に達したところで、魔王様は竜の背からその姿を現
し、それからゆったりと空中に踊り出られた。
その身はデーモン族であるにも拘わらず、その背にまるで翼でも
生えているかのよう。そう錯覚するほど、降下のスピードはごく遅
い。おそらく浮遊魔術を使ってのことなのだろう。
そうして左の腰には黒の剛剣を帯び、きらきらと輝く黒い衣装に
身を包んだ我らが黒髪の魔王陛下は、比すべき者のない威厳をその
身に纏いつつ、俺たち七大大公の待つこの高覧台までゆっくりと降
りてこられたのだ。
﹁我が親愛なる臣民たちよ﹂
朗々とした声が胸に響く。
﹁いよいよ︿魔王ルデルフォウス大祝祭﹀も今日で五十日目を迎え
た。かつての宣言通り、予は我が生涯の終えるその日まで、この栄
えある城を我が居城とし、ここより全ての魔族に慈しみを与え続け
るであろう。これをもって、︿遷城の儀﹀は終結を迎え、今よりは
︿落成記念大舞踏会﹀を開催いたす。今宵は無礼講だ。存分に楽し
むがよい﹂
﹁新魔王城、ばんざーーい!﹂
﹁魔王様ーーーー!﹂
﹁おーーーー! 無礼講、無礼講だってよ!! 飲むぞ、歌うぞ!
1073
!﹂
魔王様の演説の終了と共に、耳をつんざく叫声があがった。天に
は色鮮やかな花火があがり、新しい魔王城はさながら︿魔王ルデル
フォウス大祝祭﹀の初日を再現したかのような賑わいで満たされた
のだった。
1074
間話.残念美人に犬の手を
﹁軍団副司令官ジブライール公爵閣下がお待ちです﹂
城に帰るなり、デーモン族の執事からそんな台詞を聞いたときの、
あたしの気持ちがわかるだろうか。
くつろげるはずの我が家が、まるで断罪の場に変わったかのよう
に感じたあたしのこの気持ちが。
﹁な⋮⋮ななななな、なんで!? なんで、ジブライール公爵が?
? あたしなんかしたっけ、あたしなんかしたっけ!?﹂
﹁さあ。家の中でのことならともかく、お嬢が外でやらかしたこと
までは、俺にはちょっと⋮⋮﹂
﹁やらかしてないよ! なにもやらかしてないよ!﹂
﹁さあ、どうだか﹂
執事とは思えないような口をきいてくるのは、こいつ︱︱モーデ
ッドが、フェオレス同様あたしの幼なじみであるからだ。
﹁おい、どこ行くんだよ﹂
とりあえず逃げよう。そう決意したあたしの肩に、褐色の五本指
が置かれる。
﹁あ⋮⋮あたしは、お前の主人だぞ。その主人が逃走すると言って
るんだから、執事としては黙って見逃すのが筋ってもんじゃ⋮⋮﹂
﹁お戯れは困ります、ティムレ伯爵﹂
偉そうに言ったことに対する反撃だろう。モーデッドは急に丁寧
な口調になって、にっこりと笑った。
﹁今いらしているのは公爵閣下です。しかも、この大公領において
は軍団副司令官、という、大公閣下の右腕とも言えるお立場の方。
いかに主人とはいえ、伯爵を見逃したことが知られでもしたら、責
1075
はこちらにも追求されましょう。そうとわかっていてまさか伯爵は、
我らを罪人になさるおつもりか﹂
﹁大げさだよ! 大丈夫、そんなヒドいことにはならないって!﹂
﹁適当なこというな! 相手はあのジブライール公爵だぞ!?﹂
﹁だからこそ、こうして逃げ﹂
﹁誰から?﹂
血の隅々までをも一瞬で凍えさせるその声に、あたしとモーデッ
ドは文字通り凍り付いた。
どちらも一歩も動かない。というより、動けない。
あたしは逃げようと半身を捻ったまま、モーデッドはあたしの肩
に手を置いたまま。
二人で﹁お前が先に動け﹂﹁いや、お前が反応しろよ﹂と、目で
会話するのが精一杯だ。
﹁逃げる、という単語が聞こえた気がするが、いったい誰から逃げ
るというのか、聞かせてもらいたいものだが﹂
階段を降りてくる靴音が、玄関ホールに響く。まるで死刑執行の
秒読みが鳴り響いているかのように。
ジブライール公爵を目にしているはずの、モーデッドの表情がだ
んだん強ばっていくのが地味にプレッシャーを増加させる。
二十歩、十歩⋮⋮五歩、あと、三歩!
そして、ついに。
モーデッドが肩から手をのけたその瞬間。
入れ替わるように、別の手が。
﹁ティムレ伯爵﹂
﹁ひゃ、ひゃっい!!﹂
舌まで噛んだ! さんざんだ!!
あたしは目をつむり、えいっと覚悟を決めて振り返る。
1076
﹁なにもしてません!﹂
﹁⋮⋮﹂
沈黙だ!
あたしの弁解に対して、絶対零度の沈黙だ!!
﹁本当です、何もしてません!﹂
﹁なんのことだか、よくわからないが⋮⋮とりあえず、目を開いて
きっちりこちらを向いてはどうか?﹂
おお、なんてこったい!
こんな身近でその怖い目を直視しろというのか!
これって新手の拷問?
﹁こんな近距離で、ジブライール閣下の美貌を目にするのは恐れ多
いです!﹂
オヤジか!
あたしはデーモン族のオヤジか!
﹁⋮⋮﹂
また沈黙だ!!
怖い⋮⋮地味に怖い。
﹁それを、あなたがいうのか﹂
え?
そのらしからぬ気弱な声に、思わず目を見開いてしまう。だが。
﹁ジャーイル閣下のあれだけ近くにいて、平気でいられるあなたが、
デーモン族の美醜をわかるというのか﹂
うわああああ。
やっぱりだ。やっぱり、どう考えてもこの御仁がやってきた原因
はジャーイルだ!!
ああ、わかっていたとも!
だってそれ以外に、軍団副司令官がたかが伯爵の軍団長のところ
に来る理由なんて、他にないじゃないかーーーー!
あたしは観念した。
1077
****
﹁は? 今、なんとおっしゃいました?﹂
なんか聞き間違えたかな。それとも、幻聴でも聞こえたのかな?
﹁だから⋮⋮その⋮⋮﹂
今見てるのも幻かなにかかな?
恐怖に対するプレッシャーで、脳内が現実とは違う風景をみせて
くれているのかな?
だって、今あたしの目の前にいるジブライール閣下ときたら︱︱。
まるで乙女のように顔を真っ赤に恥じらいながら、応接室のソフ
ァの上でこじんまりと座っているのだ。
まるで乙女のように!
﹁ジャ⋮⋮ジャーイル閣下の、昔の話を⋮⋮ち、違う。そうじゃな
くて、これは個人的な興味からじゃなくて、決してそうじゃないん
だけれども﹂
いや、完全に個人的な興味ですよね。そんなにもじもじして。
だいたい、あなたがジャーイルのことを好きなのはバレバレなの
で、隠されても今更なんですけど⋮⋮。
﹁今はこういう時期だから⋮⋮閣下も大祭主として、大勢と接する
機会が多いわけだから⋮⋮だからその、昔の話を聞くことで、お側
にお仕えする私が、閣下の意図を少しでも汲んで、その対処を⋮⋮
つまりそういうことで⋮⋮﹂
うん。たぶん自分でも何をいってるのか、わかっていないと思う。
とりあえず、ジャーイルの昔の話が聞きたいということしか、伝わ
ってこない。むしろ、その気持ちは痛いほど伝わってくる。
﹁えっと⋮⋮なぜ、あたし⋮⋮いや、自分に聞いてらっしゃるんで
1078
す? それならもっと、かつての同僚とか、部下とか⋮⋮男同士の
仲間の方がいいんじゃないかと思うんですが﹂
﹁なぜって﹂
さっきまでの乙女はどこへやら。顔をあげ、あたしを見つめるそ
の目には、うっすらと殺気のようなものが滲んでいた。
﹁あなたはこの間も舞踏会で光栄にもジャーイル閣下からダンスに
誘われたとか﹂
﹁は?﹂
え? そんなことあったっけ?
﹁そんな大公閣下のお誘いを、すげなく断ったと聞いた。他の者で
はとうていそんな態度はとれまい。よほど親しい仲でもなくば﹂
ジャーイルにダンスなんて⋮⋮⋮⋮あっ!
もしかして、あのときか。ベレウスの相手でやむを得ず舞踏会に
参加したときの。
あんなの、社交辞令を断っただけじゃないか。
﹁それに聞いたところによると、閣下の女性関係のもつれを仲裁し
に入ったこともあるとか﹂
﹁なんでそんなことまでっ﹂
反射的に言ってから、しまったと後悔した。ジブライール公爵か
ら立ち上る殺気が、しゃれにならないレベルになっている。
﹁﹃そんなことまで﹄? ⋮⋮つまり、それは真実だと?﹂
﹁あ、いやぁ⋮⋮いえ⋮⋮﹂
しまった⋮⋮しまったぞ、あたし。
どうするあたし。どうごまかす、あたし。
﹁ぜひ、その辺りの話を聞かせてもらおうではないか﹂
なんだってその場にいなかったはずの舞踏会でのささいなやり取
りばかりか、かなり昔のエピソードまで聞き及んでるんだ、この人!
なんなの? ジャーイル誕生からずっと調査でもしてるの!?
1079
﹁で、本当のところはどう⋮⋮なのだ﹂
少し勢いが抜け、殺気が消えた。
過去を知りたいという気持ちは強いけれど、題材が題材だけに、
聞いてしまうのも怖い、というところなのかな。
﹁閣下が女性と⋮⋮かなり⋮⋮女性を、とっかえひっかえ⋮⋮とか﹂
ここは慎重に返事をしないとダメだ。本能が、そう囁いている。
間違えるな、ティムレ。なんとしても、無事にこの試練を乗り切
るのだ。
﹁いやー。どうだったかなー。まあ、モテてたのは確かですが⋮⋮
とっかえひっかえは、どうだったかなー﹂
本当のことを言っていいのだろうか?
ちらり、とジブライール公爵を盗み見てみれば、すがるような瞳
でこちらを見ているではないか。
ダメだ。これはダメだ。
﹁確かに、モテてました﹂
そこは誤魔化しても仕方ない。
﹁それで?﹂
﹁いやでも⋮⋮ほら、本人あのとおりですし﹂
まあ本当のところ、昔は今とはちょっと違った。とっかえひっか
えは、さすがに語弊があると思うが、来る者は拒まずなところはあ
った。なんだったら一度は年上の肉感的な肉食美女と、婚約までし
ていた。
あの傷心事件が起こるまでは、ジャーイルだってもうちょっとは
色恋沙汰に積極的だったのだ。
実際にジャーイルを巡っての殴り合いとか魔術対決とかもあった
りした。しかもどう考えても、あれはジャーイルが悪かった。
1080
あたしは本人にデリカシーがなさすぎたのが、争いを大きくした
理由と信じて疑わない。まあ本人にも自覚はあるんだろう。今の彼
を見ていると、その時の反省が大きすぎてああなっているようにし
か見えない。
なんにつけ、ちょっと加減がわからない子なんだよなぁ。極端に
走りすぎる、というか。
でもたぶん、その話はしちゃダメだ。あたしの本能がそう言って
いる。
﹁どっちかというと、ジャーイルは⋮⋮そう! どっちかというと、
私の耳とかの方が好きですからね!﹂
﹁⋮⋮﹂
しまった⋮⋮。
しまったぞ、あたし。
いくらごまかすったって、なにも自分を犠牲にする必要はないじ
ゃないか!
耳が熱い。
ジブライール公爵の視線には、熱光線が含まれているんじゃない
のだろうか。あたしの耳は、燃え出すんじゃないだろうか。
﹁いや、耳っていうか、肉球っていうか⋮⋮﹂
あああああ!
墓穴掘ったー!
死んだ⋮⋮あたしはもう死んだ。
﹁さ⋮⋮さ⋮⋮﹂
さ?
⋮⋮殺害させろ!?
﹁触らせてもらっても?﹂
1081
⋮⋮はい?
聞き間違えたかな。今、ジブライール公爵が、あたしに触りたい
とか言ったような気がするんだけど。
﹁えっと⋮⋮あの?﹂
﹁耳を、触らせてもらっても⋮⋮いいだろうか?﹂
いやいやいや。よくないでしょ。
何言い出すの、この人。どうしたの、ジブライール公爵。
あたしの怪訝な表情に気がついたのだろう。ジブライール公爵は、
急に咳払いを一つして、いつものようにきりりと表情を引き締めた。
﹁ジャーイル大公閣下の配下として、閣下の嗜好を理解する必要が
ある﹂
いやいや。ないでしょ。
意味がわからないんですけども。
今更表情引き締めても、もう手遅れな感じなんですけど!
﹁それで、耳は触らせてもらえるのか、もらえないのか﹂
ちょ⋮⋮逆ギレ?
逆ギレですか、ジブライール公爵。
﹁さすがに耳は⋮⋮でも、その⋮⋮握手、くらいなら⋮⋮ひっ﹂
おそるおそる手を差し出すと、食いつかれるような勢いで握られ
た。
﹁なるほど⋮⋮これが⋮⋮﹂
手の甲を撫でられ、肉球を撫でられる。ぷにぷにと押され、肉球
と肉球の間の筋をまさぐられる。
ぞわぞわする。正直気持ち悪い。
あたしは今すぐジブライール公爵の手を弾きたい衝動にかられた。
でもダメだ。我慢しないと。
1082
そんなことをしたら最後、腕を一本持って行かれかねない!
﹁た⋮⋮確かに、気持ちいい⋮⋮﹂
ジブライール公爵はあたしの手をさんざんもて遊んだ末に、よう
やく離してくれた。
﹁なるほど⋮⋮つまり閣下は肉球がお好き、と。女性よりもむしろ、
肉球が⋮⋮﹂
いや、それはどうだろう。
さすがにそれだと、ジャーイルがおかしすぎるだろう。でも否定
しないでおこう。怖いから。
ジブライール公爵は、自分の手をじっと見つめだした。
﹁肉球⋮⋮肉球⋮⋮私の手にも肉球ができれば⋮⋮﹂
大丈夫か、この人。
その後もジブライール公爵は一心不乱に自分の手を見続け、そう
して﹁肉球、肉球﹂とブツブツ呟きながら帰って行った。
それ以上のことはなかったのでホッとしたが、逆にあたしは副司
令官のことが心配になった。
その数日後のことである。
大公城でジブライール公爵発案の仮装舞踏会が催されるという報
せが我が家に届いてきた。
面白そうだとは思ったが、たまたま用事があってあたしは参加で
きなかった。
だが、その舞踏会にジブライール公爵自身が、精巧に造られた犬
耳・犬尾・犬手を付けて参加したと聞き及ぶに至って、あたしは参
加しなくてよかったと、ホッと胸をなで下ろしたのだった。
1083
103.後半戦を迎えて僕はドキドキです
﹁じゃあ、お兄さま! 行って参りますわ﹂
﹁あー。今日も元気にいってらっしゃい﹂
今にもぴょんぴょん跳ね出しそうな妹を、俺は居住棟の玄関で力
なく見送った。
元気な妹とは対照的に足取りも重く、本棟へと向かう。
パレードがこの領地にやってきてからというもの、妹は毎日毎日、
その後を追いかけに行っている。パレードを⋮⋮というか、まあ、
正確にはアレスディアの後を、だ。
一方で俺は、あれ以来わざわざパレードに近づきはしないが、そ
れでも心にダメージが蓄積される一方だ。
記憶がない間にやらかしてしまったらしいことへの自責の念が、
日に日に強くなっていっているのだ。
どうしよう⋮⋮ある日突然、あなたの子供です、とか言って赤ん
坊を連れてくる女性がいたりしたら⋮⋮。
いやいやいや。いくらなんでもそんなバカな。
さすがに公衆の面前で、そこまではやっていないはず⋮⋮だよな。
せいぜい膝に乗せただけだよな?
そりゃあ太股とか、もしかすると撫でたりしたかもしれないけど、
それくらいだよな?
大丈夫だよな、俺。信じていいよな、俺。
一応、アリネーゼが止めてくれたって言ってるし、朝はその彼女
と迎えたんだ。
﹁せめて記憶があれば⋮⋮記憶さえあれば、何をしでかしたとして
も覚悟できるのに!﹂
1084
俺は執務室の戸を打ち付けた。
﹁旦那様﹂
背中にかかる、優しい声。
セルクだ。
﹁そこまで御心配されずとも、いかに酩酊しておられたとはいえ、
旦那様がそのような不祥事を起こされるはずもございません﹂
酒宴の件はわざわざ言いふらしたりはしていないが、もちろん全
幅の信頼を寄せる家令と、それから近頃親身な筆頭侍従には、業務
上の理由もあって詳細を伝えてある。
だからセルクは俺の心配も全て知った上で、それでもこの信頼あ
る言葉を寄せてくれているのだ。
﹁そうかな⋮⋮でも、酒に酔うと本能が勝るっていうから⋮⋮﹂
俺だって、魔族にしては少し固いかもしれないが、一応は普通の
男なのだ。
女性のことは大好きだし、いい出会いがないものかと常々思って
いるし、いずれは結婚だってしたいと考えている。
だから心配でたまらない。大丈夫、自分を信じろと鼓舞しても、
どうしても本能に対する不安が湧き出てくる。
﹁常々心配になるほど奥手な旦那様のことです﹂
﹁えっ﹂
﹁むしろそれでお手つきなさるのなら、私は喜んでその酒を手に入
れ、後でどんなお叱りを受けることになろうとも、こっそり差しだ
しましょう!﹂
﹁えっ!﹂
﹁なにせ、昨晩の舞踏会でのご様子を思い出してみましても⋮⋮﹂
ため息をつき、憂い顔で首を左右に振るセルク。
1085
そんな態度を取られるほどのことを、俺がしたというのだろうか。
昨晩⋮⋮?
昨晩なら、仮装舞踏会に参加していた。珍しくジブライールが発
案してくれた舞踏会で、参加者はそれぞれ思い思いの仮装をして参
加するのだ。
正直、虫の交尾中、とか、犀の発情期、とか、盛った猫、とか、
とんでもない格好をしてくる者が多いのではないかと心配だったが、
それは杞憂に終わった。
みんな確かに奇抜ではあった。それはもう、ユリアーナばりの奇
抜さだったと断言しよう。
だが肌の露出は少なかったし、少なくとも下品な装いは、俺の見
たところでは一つとして見受けられなかった。
俺自身はせっかく変装できるのだからと、髪を魔王様ばりに黒く
染めて長髪の付け毛をつけ、目に硝子玉のはめ込まれた仮面で顔全
体を覆い、肉襦袢を着込んでプートなみのマッチョになってやった!
ふふふ⋮⋮正直、見破られた気がしない。
﹁完璧な変装だったと思うが⋮⋮﹂
﹁特別賛同もいたしかねますが、今は変装の出来について申してい
るのではありません﹂
ちなみに肉襦袢がバレてはいけないのであまり踊らず、男性諸君
とばかり話していた。さすがに密着しては、本物の筋肉でないこと
がバレてしまうかと思ったからだ。
仮装して参加しているのだからバレても気まずいことはないが、
男のプライド的な問題で、やはり歓迎できるものではない。
︱︱ああ、だからか。
男とばかり話していたから、それで呆れられてるのか。
1086
﹁仮装舞踏会なんてめったにないし、いつもはもっとちゃんと女性
と踊ってるよ?﹂
﹁⋮⋮旦那様﹂
またもため息。
﹁昨夜はどなたと踊っておいででしたか?﹂
どなたと?
﹁ジブライール﹂
さすがに副司令官である彼女には、正体を隠し通すことはできな
かった。というか、驚くことに一目で見破られたのである。
そんなわけで肉襦袢を気にすることもなく、踊っていられたのが
ジブライールというわけだ。
しかし、踊る時にむしろ気になったのが手だ。
俺の手に重ねられた手の、その肉球の柔らかさときたら⋮⋮。
そう、仮装大会の発案者であるジブライールは、頭の上にピンと
立った犬の耳をつけ、手にはまるでもとからそうであったかと思わ
れるような犬の手のグローブをはめ、体の線を隠さないスカートの
後背に長くてふさふさの犬の尻尾をつけていたのだ。
それでつい、その手をにぎにぎしてしまい、舞踏を終えた後も何
度も感触を確かめさせてもらった。なんというか、とても覚えのあ
る︱︱具体的にいうと、ティムレ伯の肉球を触っているかのような
感触だったからだ。
あとはあの耳⋮⋮毛並みがよくて、ふんわりさわさわだった。
それから尻尾。ティムレ伯の尾は蠍の尾なので、触りたいとも思
わなかったが、犬の長いふさふさ尻尾なら大歓迎である。ついつい
触りまくってしまい⋮⋮。
これか!
1087
﹁ああ⋮⋮ジブライールには申し訳なかった﹂
﹁まったくでございます﹂
執務室への扉を開けながら、セルクは深く頷いている。
﹁触りまくられて、さぞや鬱陶しかったことだろう﹂
﹁⋮⋮旦那様﹂
なんだよ、その可愛そうな子を見るような目!
しかもなんだよ、その深いため息!
さっきの俺に対する無償の信頼感は、どこへ行ったんだよ!!
﹁そんなことよりも、だ﹂
筆頭侍従にそんな目を向けられて傷心の俺は、咳払いを一つしつ
つ執務椅子に座った。
キリがいいので話題転換をはかる。
﹁問題はパレードだ。幸い今のところ、俺の失態はそれほど噂には
なっていない。むしろ、臣下と親しげに語っていたと、好意的に捉
えられているくらいだ﹂
﹁⋮⋮さようでございますね﹂
﹁だが、ここに一つの要望書がある︱︱﹂
俺は一枚の紙を持ち上げた。
裏面にぶりっこしたリスが描かれた紋章︱︱ウォクナンの手によ
る要望書だ。
﹁ここにはこう書いてある。﹃アリネーゼ大公領での酒宴に続き、
デイセントローズ大公領では大公城の前地で、歓迎のための祝宴が
張られました。荘厳な音楽がかき鳴らされ、艶やかな踊り手が舞い
踊り、舌鼓を打つほど美味しい料理と、口に含めば天にも昇る心地
よさのよい酒が振る舞われました。パレードの従事者たちは、この
ことを殊の外喜び、慣習となればよいのにと望みを語っております。
故に、閣下は単なる一大公としてではなく、大祭主としてでもなく、
1088
パレードの担当大公であられるということから生ずる責任のために、
先のお二方に倣われ、更にそれを上回る催しをなさることが肝要か
と存じます。つまり﹄﹂
俺はため息をついた。
﹁﹃祝宴を開いてください! それも、一番豪華なの!!﹄だ、そ
うだ﹂
くそ、あのラマめ!
今度はアリネーゼの真似か!
なんでも先輩大公に倣えばいいってものでもないだろうに!
リスもリスだ!
アリネーゼの酒宴のところに朱い波線引きやがって!
これはあれか⋮⋮俺を暗に脅しているのか?
言うこと聞いてくれないと、あの時のことをマーミルにばらしち
ゃうぞ、とか言うつもりじゃないだろうな!
﹁それで、旦那様はいかがなさるおつもりで?﹂
﹁いかがしよう⋮⋮﹂
俺はため息をついた。
俺のところにはあの酒はないが、だからといって安心できるもの
ではない。
誰にどうしたかもわからないのに、あの日の続きだとか、約束を
しただとかいって迫ってこられたら⋮⋮どう反応すればいい?
そんな者が一人二人ならなんとか躱すこともできるだろうが、そ
れ以上いたとしたら?
﹁とにかく、俺は参加したくない﹂
﹁それでは祝宴は開いて、旦那様は不参加となさればいかがです?﹂
﹁いや、たぶんそれは無理だと思う。祝宴を開くとなると⋮⋮マー
1089
ミルが絶対参加したい、と言い出すだろう。俺が出ないのに、妹を
出すのはおかしい。そうなると、アリネーゼのところで参加できた
のに、俺の領地でできないだなんておかしい、とかなんとか言われ
たら、どう反論していいものか﹂
﹁むしろ、旦那様はご多忙故に、マーミル姫を名代となされた、と
いう形でご出席をお許しになってはいかがですか?﹂
﹁いや⋮⋮。マーミル一人で参加させて、いらないことを耳にされ
るのはもっと怖い﹂
﹁では、拒否なさいますか?﹂
﹁正直、拒否したい。だが⋮⋮﹂
朱線が気になる。
﹁ではいっそ、魔族の特性を利用なさってはいかがでしょう?﹂
﹁魔族の特性?﹂
﹁パレードに参加している者たちは、それこそずっと実家にも帰れ
ず、おそらくは家族や恋人とも長らく会えていないはず。ですので、
祝宴に彼らの親しい相手を招待する、という形をとってはいかがで
しょう。さすがに配偶者や恋人、子供の前ではたいていの者は穏や
かに傾くし、他の者のことなど構いますまい﹂
自分とエミリーの関係を思い起こしながら言っているのだろうが、
確かにその通りだ。淡泊な俺だって、やっぱりマーミルがいるとい
ないとでは色々と対応が違ってくるのだから、セルクの意見には納
得がいく。
﹁だが⋮⋮今からその手配をするには、時間が足りなさすぎないか
? ええっと、名簿を頼りに家族を訪ねて⋮⋮それも全国に散らば
っているのを、八百件も回るのはなぁ﹂
﹁旦那様﹂
筆頭侍従は力強い口調で呼びかけてきた。
﹁常々思っておりましたが﹂
1090
えっ。
今度はなに?
女性関係の次は、何を心配されてるの!?
﹁旦那様は大公の権限を甘く見ておいでです。それはお心の御優し
さ故なのでしょうが、時には配下に強く結果だけをお求めになって
も、よいと存じます﹂
つまり⋮⋮望みを伝えてどうにかしろ、と、命令するだけでいい
ってこと?
﹁確かに⋮⋮ネズ⋮⋮ヴォーグリムが大公の時には、俺の辺りまで
しょっちゅう無茶な命令が下ってきてた気はする﹂
セルクがこくりと頷く。
﹁つまり、俺にもそれをやれと﹂
﹁普段はなさらない旦那様であればこそ、です﹂
確かに同じ大公の連中から、﹁甘い甘い﹂と言われて、最近は配
下との付き合い方も見直さないといけないかな、と思うことはあっ
たりもした。
そうだな⋮⋮たまには試しにやってみるかな。
﹁では悪いがセルク。ジブライールを呼んでくれるか?﹂
﹁心得ました﹂
筆頭侍従は優雅に一礼し、執務室を出て行った。
1091
104.僕まで情緒不安定になりそうです
﹁あの⋮⋮本日は、その⋮⋮頭でしょうか、手でしょうか、それと
もおし⋮⋮おし⋮⋮﹂
はい?
ジブライールさんが、今日もちょっとおかしい。
うつむき加減でもじもじと手を合わせたと思ったら、なんだか﹁
くっ﹂とか急に言い出して振り返り、扉に頭を打ち付けだした。
﹁ちょ、ちょちょ⋮⋮! ジブライール、落ち着いて、ジブライー
ル!﹂
何があった、ジブライール!
俺は慌てて彼女の肩を掴もうと。
﹁きゃあああああ!!﹂
えっ!
﹁あ、ごめん!﹂
何!?
俺、何かしたか!?
変なところ触ったか?
いやいや、肩に触れただけだよな? しかも、ほんの指先がっ!
何その反応、なんで悲鳴?
﹁失礼いたします!﹂
突然、ジブライールの背を打つ勢いで、扉が開く。
だがそこは公爵。彼女は間一髪、とびすさって直撃を回避した。
同時に中に駆けこんで来たのは、もちろんセルクだ。
1092
﹁旦那様!? 今の悲鳴は一体︱︱﹂
セルクは俺を見、ジブライールに視線をやる。
﹁ああ⋮⋮なんか、すみません⋮⋮余計な気を回してしまったよう
で。失礼いたしました﹂
妙に気の抜けたような表情で、執務室を退室しかけ︱︱﹁ああ、
旦那様。一つ、ご忠告を﹂
閉めかけた扉の隙間から、顔だけを差し込んできた。
﹁時と場合によっては、きちんと結界を張ってください。その方が、
配下としてもいらぬ心配をしないですむ、というものです﹂
﹁は!? おい、それはどういう意味︱︱﹂
俺の質問はきれいに無視された。
いや、それどころか⋮⋮。
おい、今!
セルクの奴、出て行くときに鼻で笑ったよな?
鼻で笑ったよな!?
なにこの対応。
解せぬ。
だがそれは後で追求するとしても、今はジブライールだ。
今にも泣き出しそうな表情の︱︱あれ?
さっきまで泣き出しそうな顔してたんだけど、今はすっかりいつ
もの無表情に戻っている。
﹁申し訳ありませんでした。本題をどうぞ﹂
彼女は咳払いを一つすると、何事もなかったかのように姿勢を正
した。
﹁頭は大丈夫か? もしあれなら一度、うちの医療班に診てもらっ
たらどうだ?﹂
当たり障りないようにいったが、もちろん俺の発言の意味すると
1093
ころは外傷を、ではない。
﹁大丈夫です。問題ありません﹂
﹁え、でも⋮⋮﹂
どう考えても、情緒不安定すぎて大丈夫じゃないと思うんだけど。
﹁大丈夫です! 問題ありません!﹂
﹁あ、はい。すみません﹂
何で謝った、俺!
情けないぞ、俺!
⋮⋮とりあえず、咳払いでごまかそう。
﹁えー、じゃあ本題に入るが︱︱実はジブライールに一つ、やって
もらいたい仕事があって﹂
﹁⋮⋮仕事、ですか﹂
あからさまにガッカリされた。
いや、仕事じゃなければ、なんでこんな大祭中に執務室に呼び出
したと思ったんだろう?
ジブライールを選択したのは、他の副司令官たちは任務の継続中
だが、彼女だけは魔王城が解放されたため、これといった役目につ
いていないからだし。
﹁ええ、そうですよね。仕事ですよね﹂
⋮⋮なに、不満なの? もうこの時点で不満なの?
だがジブライールはすぐに表情をいつものように、凛々しく引き
締めた。
この切り替えの早さは誉めておくべきだろうか。
﹁とはいえ実は、私の方からお願いにあがるつもりでした。魔王城
の現場担当者としての役目も終え、副司令官の中では私だけがこれ
といった分担もないとあっては、さすがに不公平さを感じかねませ
ん﹂
とりあえず、いつもの冷静なジブライールさんに戻ってくれたよ
1094
うだ。
﹁では、お命じください、閣下﹂
今日もビシッと決まる敬礼。表情と格好のギャップがほんとにヒ
ドい。
﹁実は、ウォクナンからパレードへの要望があって﹂
かっこよくビシッと命令できないところが、俺のダメなところだ。
うん。自分でもよくわかっている。
﹁要望! ウォクナンめ⋮⋮閣下に対して、要望などと⋮⋮﹂
えっ。いきなりそこが引っかかるの?
確かにリスは常にイラッとする筆頭だけど、内容も聞かないうち
は許してあげようよ。
﹁前地に到着した日に、労いの祝宴を開いて欲しいそうだ。アリネ
ーゼの領内で酒宴が催された後、デイセントローズも彼らを歓待し
たそうでな。俺はパレードの担当者なのだから、それ以上で報いて
ほしいと⋮⋮﹂
﹁なるほど。つまり閣下は、ウォクナンの代わりに私をパレードの
担当者になさろうと﹂
﹁⋮⋮なぜそうなった?﹂
﹁ウォクナンの思い上がりを糺すために、役割を取り上げ罰する、
ということでは﹂
﹁違う﹂
﹁違うのですか!﹂
そんなにびっくりしなくても。たぶん﹁罰する﹂の内容は物騒な
ものだと思うから、聞かないでおこう。
﹁では、一体⋮⋮﹂
﹁要望は叶えようと思っているんだ。だけど、多少俺の参加に不安
1095
があって⋮⋮﹂
﹁祝宴に参加されることに、御不安が?﹂
﹁いや、まあ⋮⋮そこはつっこまないで欲しいんだけど、とにかく
祝宴を盛大に開催するにあたって、いっそそれならばパレードの参
加者の家族や恋人を招待しようと思いついたんだ。ほら、魔族は身
内に甘いから、その方が品のいい祝宴になるかな、と考えたわけだ﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
ジブライールさんは不審顔だ。
だが事細かに説明する訳にはいかない。やぶ蛇になる前に、押し
切らせてもらおう。
﹁それで、そのパレードの家族や身内を、どうにかして四日後、前
地に集合させたい。ということで、ジブライールへ頼みたい仕事、
というのはそれを何とかしてもらえるかなって事なんだけど。⋮⋮
いや、面倒なのはわかってる﹂
﹁面倒などと、とんでもありません﹂
ジブライールはかぶりを振った。
﹁パレードの参加者名簿さえいただければ、四日と言わず、二日で
任務を完遂してみせます﹂
おお、頼もしい。
もちろん、配下を総動員してのことだろうが、正直助かる。
﹁それじゃあ、セルクを呼ぶから待ってくれ﹂
﹁かしこまりました﹂
俺は壁際に垂れた筆頭執事の部屋につながる呼び鈴の紐をひき、
ジブライールを振り返った。
﹁あの⋮⋮閣下。この際ですので、お聞きしてもよろしいでしょう
か﹂
﹁なに?﹂
1096
﹁その役目の後のことなのですが⋮⋮それが終わった次は、私は一
体なにを成せばよいのでしょう﹂
確かに、今の仕事は一時的なものだ。何か仕事をと自ら尋ねてく
れようとしていたほどだから、次のことが気になるのだろう。
﹁そうだな⋮⋮。他の副司令官の補佐を、という風には考えていた
んだが、他に案があるようなら言ってみてくれ﹂
﹁あの⋮⋮例えば、ですが﹂
ジブライールは両手を胸の前で組み、俺の方に歩み寄ってきた。
﹁閣下の⋮⋮大祭主としての閣下の補佐、というのはいかがでしょ
う!﹂
大祭主としての俺?
﹁えっと⋮⋮つまり?﹂
﹁ですから、魔王城へのご出仕や行事への参加に随行したり、一緒
に会議に参加したり、舞踏会でお相手を務めたり、という補佐役で
す!﹂
随行はともかく、舞踏会の相手を務めるのが大祭主の補佐の役目?
﹁いや⋮⋮大祭主としての補佐なら、副祭主とかいう役を無理矢理
に用意したベイルフォウスがするべきだし、実際に役目は果たして
いる。それに、祭司たちもよく働いてくれているから、今のところ
更なる補佐は必要でもないんだが﹂
﹁あ⋮⋮そう、ですよね⋮⋮﹂
﹁そうだな﹂
やはりジブライールは上昇志向が強いのだろうか。上司の補佐な
んて面倒臭いことを望むのだから、同僚の補佐では物足りないのか
もしれない。
だからといって。
1097
﹁さすがに俺の代わりにコンテストの投票の列に並んでくれ、とか
いう用事を言いつけるわけにはいかないしな﹂
﹁!﹂
初日に投票のタイミングを逃した俺は、エンディオンに上位魔族
の投票について聞いてみたのだ。
すると彼はこう言った。
﹁たいてい、投票台の下までは代理人を派遣いたしますね。大公閣
下に限らず、上位のみなさまはそうなさっておいでと考えます。代
理人を申しつかった下位の者は、誰の代理人かわかるように名札を
つけるなり、似せて変装するなりして列に並ぶのです﹂
本人風に変装? と、驚いたものだ。
だが、代理に立つのはあくまで下位魔族。
ジブライールはむしろ代理人を選ぶべき立場にある上位魔族だ。
自分の投票でわざわざ並ぶかも怪しいのに、俺の代理だなんて頼ん
でいいはずがない。
そう思ったのだが。返ってきたのは意外な言葉だった。
﹁それでもかまいません。その間、投票用紙を預けていただけるの
であれば﹂
まさかの乗り気である。
﹁いやいや、さすがにジブライールにそんなことを頼むのは失礼だ
ろう﹂
﹁そのようなご心配は⋮⋮﹂
﹁いや、今のは冗談だし、忘れてくれ﹂
残念そうな表情に見えるのは、気のせいだよな?
﹁ところで、ジブライール自身は、もう投票には行ってきたのか?﹂
﹁!﹂
1098
あ、しまった!
以前、彼女は言っていたではないか!
確か俺の身を守るために、自分の名前を書いて俺に入れる、とか
宣言していたのではなかったか。
今の質問、俺に入れてくれたのかって意味に取られてないだろう
か!?
﹁行って参りました。投票して参りました﹂
そう応える彼女は、どこか恥ずかしそうだ。とたんに俺から目を
逸らしてしまったし、頬も少し赤みがかっている。
と、いうことは⋮⋮まさか本当に俺に投票したのか?
さすがに義理投票だとしても、照れるものらしい。
﹁それはあれか? もしかして、列に並んだ? それとも、代理人
をたてていた?﹂
とりあえず、誰に入れたとか聞かないことにしよう。単に自分の
本命に入れて、恥ずかしがっているだけかもしれないし。
﹁もちろん、階段の下までは代理をたてました﹂
ああ、やっぱりエンディオンの言ったとおりじゃないか。なおさ
ら、ジブライールを俺の代理にするわけにはいかない。
﹁⋮⋮けれど、お名前はきちんと自分の手で一字一句、心を込めて
書きましたし、投票するときにも思いの丈を込めて投入しました!﹂
思いの丈って、上司の身の安全を慮るために投票するような時に
は使わないよな? と、いうことはやはり本命に投票したのだろう。
うん、この話題はここでやめておいた方がいいようだ。
俺に入れる、と言っていたことは、忘れているのかもしれない。
下手なことは言うまい。
﹁あー、とにかく﹂
1099
俺は一つ、咳払いをした。
﹁先の任務が終了した後のことは考えておくよ﹂
あれ。眉が下がった?
シュンとしたように見えるのは気のせいだろうか。
もしかして、結局誰に入れたのか、とか聞いた方がよかった?
まさか俺と恋バナしたいわけじゃないよな?
まさかな!
だいたい、あんまり私的なことに踏み込むのもどうだろう。
これがヤティーンやウォクナンなら尋ねるのに躊躇はしないんだ
が、なにせジブライールは副司令官といっても女性だからな。
さすがに俺だって、少しは遠慮をするのだ。
﹁とにかく、悪いな。頼りにしてる﹂
﹁⋮⋮はい﹂
一瞬だけジブライールの表情に、朱がさした気がした。
﹁必ずや、ご期待に添えてみせます﹂
そう言うと、ジブライールは敬礼を披露する。
﹁ああ、それ、着けてくれてるんだ﹂
勢いよく胸の前で交差させた左の手首に、キラリと光るものを見
つけてついつい反応してしまう。
もちろん俺がジブライールにプレゼントした、紫水晶の腕輪だ。
﹁も⋮⋮もちろん、です!﹂
ジブライールはその腕輪を包み込むように、右手で触れた。
﹁入浴中も寝るときも、一日数秒たりとも外さずおります!﹂
﹁えっ。まさか、それ、呪いの腕輪とかだった?﹂
一度はめたら外せない、的な?
﹁え?﹂
1100
﹁だって外れないんだろ? ごめん、気づかなくて⋮⋮﹂
しかし俺の目で見ても、呪詛がかかっているようには見えない。
ということは、別の呪いか。ごく単純で、純粋な︱︱
﹁閣下⋮⋮外れないのではありません﹂
ジブライールが困惑顔を浮かべている。
ん?
外れないのではないけど、外さない? ということは?
﹁私は⋮⋮私、は︱︱﹂
ジブライールは腕輪を握りしめたまま、俺の方に二、三歩距離を
詰めてきた。
そうして︱︱
﹁失礼いたします、旦那様。名簿を︱︱﹂
セルクが執務室の戸を開けて、入ってきた。
﹁⋮⋮﹂
﹁いやいやいや。ちょっと待て。なんで今、出て行こうとした?﹂
俺は慌てて扉に駆け寄り、筆頭執事の腕をつかんだ。
さっきから、なんなんだ一体!
﹁紐に当たって、うっかり引いてしまわれたのかと﹂
﹁は? そんな訳ないだろう﹂
一瞬彼は、ふと考えるような表情をしてから、一つ頷いた。
﹁すみません、思い違いでした﹂
さっきから随分思い違いが多いね!
俺はセルクの腕を放し、執務机の前に戻る。
ジブライールが身を引いた。さっきまでの砕けた雰囲気はどこへ
やら、それどころかむしろ苛立っているような緊張感を醸し出して
いる。
1101
﹁名簿はジブライールに渡してくれ﹂
﹁はい。こちらに︱︱﹂
セルクは名簿の束をジブライールに差し出しかけたが、彼女がそ
れを掴む前に、手首を翻す。
﹁あ、申し訳ありません。そういえば、さっき点検していた時に抜
けていた頁を見つけたんでした﹂
そう言って、彼はパラパラと名簿をめくった。
﹁と、言うわけで、すみませんジブライール閣下。ご足労をおかけ
いたしますが、侍従室までお越しいただけませんか?﹂
﹁では後ほど﹂
﹁いえ、今すぐにお願いいたします。私も予定が立て込んでおりま
して。それに、すぐすみますので﹂
愛想良く笑いながらとはいえ、公爵であるジブライール︱︱しか
もどこか不機嫌に見える彼女に、よくそんな強引な口が利けるな、
セルク。そういえば、俺と初対面の時も結構失礼な感じだったっけ。
いや、っていうか、割といつも遠慮ないよな。
どう考えても図太い性格をしているのだろう。まあ、こう言っち
ゃゃなんだが、エミリーをあんな風に評価するくらいだしな⋮⋮。
ジブライールは無表情だが、その右頬がピクリと微かにひきつっ
たのを、俺は見逃さなかった。
やはり今の言い様は、お気に召さなかったらしい。
俺が取りなしの必要性を感じたその時だ。セルクがジブライール
に近づいて、何かを囁いたとみるや、たちまち彼女から不機嫌さが
霧散したのだ。
﹁なに? どうかしたのか?﹂
﹁いえ、特に何も﹂
セルクの作り笑顔に裏打ちされた言葉に、ジブライールがこくり
と頷いて同意を示す。
1102
え、何。俺に内緒ってこと?
⋮⋮。
いやまあいいや。二人がモメないんだったらいいんだけど⋮⋮。
疎外感ハンパない。
﹁では閣下。失礼いたします。私は名簿を急ぎ手に入れ、すぐさま
仕事にかからせていただきます﹂
ジブライールはいつもの凛々しさの勝る表情で俺に敬礼した。
そうしてセルクと共に、颯爽と退室したのだった。
1103
105.饗宴であって、狂宴でも叫宴でもないのです
昨日のことだ。
魔王様から呼び出しがあった。
公的な用件で呼び出しがかかることは今までにもあったが、私的
な用件で呼びつけられるのは初めてのことだ。
そう、私的な用件︱︱
大祭中、魔王様は大公城を順に訪れ、二泊三日の日程で当主から
歓待を受けている。その順番はいつものように上位者から。
プートから始まって、ベイルフォウス、アリネーゼの城で順調に
饗応を受け、昨日はその次の順位者の元を訪れる前日だったのだ。
︱︱ここまで言えばわかるだろう。
俺は、
魔王様の、
ウキウキ話を
聞かされるため、
呼び出されたのだ!!
ウィストベルの城へのお泊まりを、翌日に控えた魔王様にな!
ねえ、わかる?
どれだけ辟易としたか、わかる?
ああ、俺だって理解はしてるよ?
魔王様が魔王位に就いて以来、ウィストベルの居城である︿暁に
血濡れた地獄城﹀を訪れたことが、一度としてないっていうことは
知ってるよ?
1104
だから嬉しい気持ちも理解できるよ?
本当なら、一の寵臣として、一緒に喜んであげたいよ?
でも、一言だけ言わせてください。
うざかった⋮⋮超うざかった!!
と、いうわけで、昨日はとっても疲れたのだ。
精神的にな!
途中で見知らぬ女性に逃げた位だ。
俺だって、今日は大変なのに︱︱
そう。
今日はいよいよ、パレードが大公城の前地にやってくる日、ウォ
クナンの要望に応じて饗宴を開く日なのだ。
つまり今日は今日で、昨日とはまた別の相手からウザい思いをさ
せられること必定の日、というわけだ。
前地に用意した円卓は、全て埋まっている。パレードが到着し、
既に宴会が始まっているのだ。その卓数は五百を優に超えており、
騒々しいという言葉では言い表せられない様相を呈していた。
もちろん、その全員がパレードの参加者というのではない。彼ら
は総数で八百にしかならないのだから。
俺の無茶ぶりに、見事に応えてくれたのはジブライール。彼女が
集めてくれた、パレード参加者たちの家族や恋人たちをも含めた数
なのだった。
そして、その喧噪の中︱︱俺は一人。
一人寂しく料理を食している。
ぽつり、と一人。
1105
魔王様よろしく、高い壇上に置かれた広い広いテーブルを前に、
ただ一人、座面の余る背もたれの高い椅子に座っている。
壇上の左右端から地面に向かって延びる階段は、十六段下ったと
ころに広面が設けられており、そこにもテーブルが置かれ、二十九
の席が並んでいた。
そこへ腰掛けているのは、ドヤ顔のリスを中心にマーミルとアレ
スディア、そしてスメルスフォと彼女の娘たち二十五人だ。
つまりこのパレードの指揮者と俺の身内が並んでいる、という構
図になる。
そうしてさらに十六段を降りてようやく円卓の並ぶ地面に到着す
る。
ここにセルクがいないのが残念だ。
いたとしたら、なぜこんな配置にしたのか、と問いただしてやる
のに!
そう。この会場の設営と当日の運営を、俺は酒以外の料理の手配
を含め、セルクに一任したのだった。
壇上から見ると花のように配置された円卓は目に華やかだ。会話
の邪魔にならない程度に場を賑わす緩いテンポの曲が、管弦楽団に
よって奏でられている。
杯が空けば給仕がどこからともなく飛んできてグラスを満たすし、
料理が途切れることもない。
セルクの設計は、完璧だ。
そう。俺のこの配置以外は!
なぜ?
なぜこんなことに?
いや、確かに心配したさ。
1106
この間手を出しそうになってしまったらしい数人の女性たちが、
今回またその続きを求めてこないかと心配していたさ。
だから家族を呼ぶことにした。そうとも。
だけどまさか、こんな壇上の上、ポツンと一人にしなくたって⋮
⋮。
きついな、これ。
このまま数時間、みんながワイワイ楽しそうにやってるのを、こ
こから黙って見ていなければならないというのだろうか。
見てくれ、この楽しそうな風景!
せめてマーミルくらい、俺の横に置いていてくれたらよかったの
に。
今ならウザいリスが隣だって喜ぶのに。
魔王様もいつもこんな思いをしてるのかな。
昨日もうちょっと、優しくしてあげたらよかった⋮⋮。
そんなことをツラツラ考えていたら、深いため息が漏れた。
﹁どうかなさいましたか、閣下﹂
﹁いや、何でもない。大丈夫だ﹂
ああ、そうだった。
正確には俺はたった一人でいるのではない。
背後にはなぜか自分の身長を遙かに超える大弓を携え、眼下を睥
睨するジブライールさんの存在があったのだから。
﹁ジブライール、今日この場にみんなを集めてくれたことには感謝
する。その件をもって、酒宴には普通に参加してくれればいいと思
うんだが、なぜそこに⋮⋮﹂
﹁私のことは、お気になさらないでください﹂
いや、そう言われても。
1107
﹁言ってみれば、私は前回アリネーゼ閣下の酒宴に付き添ったヤテ
ィーンです。ですので、お気遣いは無用です﹂
ヤティーンはマーミルの帰宅時のための護衛兼付き添いだったん
だが⋮⋮。
ん?
ということは?
﹁もしも護衛のつもりなら、俺には必要ないんだが﹂
なにせ俺は、これでも世界にたった七人しかいない大公、八人の
上位者のうちの一人なのだ。
自分で言うのもなんだが、そこそこ強い。
当然誰にも護ってもらう必要なんて、ない。
﹁もちろんです、閣下。そこまで自惚れてはおりません﹂
でもあの⋮⋮ものすごく、周囲を威嚇してますよね?
気のせいじゃないですよね?
ハッ!
俺のためじゃないとしたら、自分のためか?
まさか⋮⋮まさか、ジブライール。副司令官である地位に不安を
覚えている、とか?
誰かに挑戦されたりした、とか、挑戦者の噂を聞いた、とか。そ
れでこの場を利用して、自分の威を示している、とか?
⋮⋮どうせ、聞いたところで教えてはくれないだろう。なかなか
どうして、ジブライールは頑固だ。
だいたい、最近俺は疑問に思っている。
彼女はもしかすると、自分でも自分自身について理解していない
んじゃないのか、と。
だって結構な情緒不安定っぷりだもん。
とにかく今は、あまり気にしないでおこう。
1108
会話の相手になってくれるならともかく、あまりそれも期待でき
そうにないようだし。
俺は再び漏れそうになったため息を紛らわすため、グラスに手を
伸ばした。
その途端。
細い腕が伸びて、グラスをひったくる。
ジブライールが、なぜか俺の飲もうとした酒を横から奪ったのだ。
それだけならまだしも、俺の見ている前でジブライールはその酒
の匂いを嗅ぎ、その中身を高く掲げ、厳しい目で透かして見たと思
ったら、クイッとグラスを傾けたのだ。
当然、その白い液体は、ジブライールさんの喉を潤したことだろ
う。
俺が呆然としたのも無理はない。
満足そうに頷くジブライール。
そうしてドヤ顔で、俺にグラスを返してくる。
﹁え? いや、あの⋮⋮﹂
﹁大丈夫です。どうぞ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁あっ、すみません﹂
急にハッとしたように、自分が口をつけた場所を懐から出したハ
ンカチで拭くジブライール。
うん、素晴らしいお気遣いですね、ありがとう⋮⋮って、誉める
と思うか!?
﹁そんなに喉が渇いてたのか?﹂
だとしても、普通上司から奪うか?
﹁いえ、そういう訳では⋮⋮﹂
1109
﹁くださいって言ってくれたら普通にあげるのに⋮⋮。一口と言わ
ず、一本でも、二本でも!﹂
﹁いりません﹂
﹁ならなぜ飲んだ? しかも、ちょっとだけ﹂
﹁⋮⋮﹂
ジブライールさん、困ったら黙るのやめませんか?
っていうか、やめてくださいお願いします。
﹁まさか⋮⋮セルクに何か聞いたのか?﹂
﹁⋮⋮いえ、何も﹂
なにそのわざとらしい目の逸らし方。
﹁ただ、その⋮⋮例の⋮⋮⋮⋮軟膏の件もありますから⋮⋮念には
念を入れて、と言いますか⋮⋮﹂
うん。後でセルクを問いただすことにしよう。
配置の件も含めて!
﹁ジブライールが念を入れる必要はない。ここは他領ではなく、俺
の領地だ。料理人たちだって、大公城に勤める者たちだし、酒を選
んだのは他ならぬエンディオンだ﹂
そう!
他の者ならいざ知らず、最も信頼する家令の選んだ酒だ。
銘柄については信頼できぬはずもないし、呪詛が関わっているな
ら俺の目でわからぬ道理もない!
﹁とりあえず、これはもうジブライールが飲んでしまっていいから﹂
俺は少し減ったグラスを机に置き、別の空いているグラスに酒を
注ぎ直した。
﹁えっ﹂
なにそのショックと言わんばかりの顔。
だが、その表情は豹変する。
1110
ジブライールは両目に殺気を湛え、いきなり弓を構えたと思った
ら、矢をつがえたのだ。
なに?
新しいグラスを用意したのがそんなに気にくわなかった!?
﹁何の用だ!﹂
俺の背後に向けられた、厳しい口調と視線。
その先にいたのは︱︱
﹁閣下! なぜ私が同僚からこんな仕打ちを受けなければならない
んですか!? ただ、閣下にご挨拶にあがっただけなのに⋮⋮﹂
大きな瞳をうるうるさせた、顔だけは可愛いリスゴリラだった。
﹁よし、やれ︱︱じゃなくて、やめろ、ジブライール﹂
おっと危ない。本音が漏れてしまった。
﹁ですが閣下、ウォクナンはロクなことをしません﹂
いや、それには俺も概ね同意するが、今はまだ何もしてない訳だ
し。
﹁今回も、このような酒宴を閣下に強要するなどと、副司令官にあ
らざる無礼極まりない要望をあげた報いを、私のこの矢で︱︱﹂
﹁そんなことだから、ヤティーンなんぞに脳筋と言われるんだぞ、
ジブライール﹂
煽っておいて、俺を盾に隠れるな、リスめ。
﹁閣下から離れろ、ウォクナン﹂
﹁お前がその矢を降ろしたらな!﹂
﹁なんだと!?﹂
﹁まあ、落ち着け、ジブライール。それとも、まさかこの衆人環視
のなかで決闘するつもりでもないんだろう﹂
俺だって心情的にはジブライールを応援したい。だが、見てみろ。
1111
あんなにワイワイ賑やかだった眼下が、壇上の騒ぎに気を取られて
シンとなってしまっているではないか。
下位魔族が多いこの中で、副司令官同士が殺気をほとばしらせて
対峙して、目立たないはずはない。
ジブライールもその様子に気づくと、渋々、といった感じではあ
ったが、腕をおろしてくれた。 俺はグラスを片手に立ち上がる。
仕方ない、予定ではもうちょっとだったんだが、白けてしまうの
もなんだしな。
﹁親しい者との久しぶりの再会で、気分も最高潮に達しているだろ
う諸君に、ここで俺から贈り物をしたいと思う﹂
宣言しただけで、いくらかの歓声があがった。
魔族のこういうノリの良さはありがたい。
﹁まず一つ。もちろん各所で衣装は用意してあるが、そこへさらに
一万着を加える。それらが少しでも君らの発揮する魅力の手助けと
なることを期待して﹂
煌びやかな衣装はいくらあっても困るものではないだろう。こと
に今回選ばれた参加者たちは、それぞれ自分の容姿に自信のある者
たちがほとんどのはず。身を着飾ることを喜びこそすれ、面倒とは
思うまい。
実際、歓声を聞く限りでは歓迎されているようだ。
﹁次に、パレードも中盤だ。君らも疲れ知らずの魔族とはいえ、時
には休みたいこともあるだろう。そこで、獣車を五十台、騎獣を百
頭追加する﹂
さっきよりも沸いた。さすがに交代で休んでいるとはいえ、やは
り他者の視線にさらされた状態で、歩き通しというのは疲れるのだ
ろう。
1112
﹁最後に、これはパレードが終わった後のことだが、参加者全員に
賞状と楯、銘の入ったグラスを与える﹂
まあ記念品だ。正直、魔王様の恩賞会でも褒美を授かるんだから、
俺は何も用意しないでもいいかなとも思っていたんだが、全日程を
通して大祭を盛り上げてる連中だもんな。記念品くらい用意しても、
やりすぎってことはないだろう。
一応、俺の贈り物は歓迎されているようで、さっきまで息を飲む
静けさをみせていた前地は、今また賑わいを取り戻していた。
俺は左手に持ったグラスを、高らかに掲げる。
﹁では、改めて︱︱残りの行程が、君らにとっても楽しいものとな
るよう願って、乾杯﹂
﹁者どもー! ジャーイル大公閣下に祝杯を捧げよー!!﹂
耳元で怒鳴るなよ、リス!
せっかくキメてたのに、ちょっとだけビクッとしちゃっただろ!!
まあ、みんなこちらのことは気にせず杯を合わせてるから、いい
としてやるが。
俺はウォクナンに調子に乗るなと釘をさし、ジブライールとの衝
突を回避させて、以後は比較的平和に︱︱俺が退屈のあまり途中退
席しようかと思った以外は︱︱宴は続けられたのだった。
1113
106.大祭主は忙しいんだから、舞踏会免除にして欲しいです
ね
俺は今日もまた、魔王城にやってきている。
呼び出されたからではない。
以前決定したように、連日新魔王城で行われている落成大舞踏会
には、必ず一人以上の大公が参加しなければならない。
今日はそれが俺の番だったというわけだ。
だが、正直に言おう。
今日は来たくなかった。
だって、これだもの。
﹁で、そのときウィストベルが私の腕に自分の腕を絡めてきたわけ
だ。わかるか、ジャーイル。他の者がいる前で、だぞ?﹂
この態度でお察しいただけるだろう。
魔王様は今日の午後に︿暁に血濡れた地獄城﹀の滞在を終え、魔
王城に帰城されたのだ。
明日ならよかったのに!
﹁あーはい、わかります。わかりますよー。よかったですねー﹂
もう俺じゃなくて、ベイルフォウスにでも話してくれないかな。
あの兄バカなら、どんな話でも喜んで聞いてくれるだろう。
なんだったら、プートでもいいかもしれない。二人でニヤケなが
ら、恋バナでもなんでもすればいい、と思う。イメージが崩れよう
が、知ったことではない。
いやいや、我慢しろ、俺。
ついこの間、こう思ったばかりじゃないか。
魔王様は孤独なのだ。優しくしてあげよう、って。
1114
だが、そんな決意も空しく霧散してしまうほど、今日の魔王様は
︱︱
うざい。
幸いここは舞踏会場だ。
この間みたいにとっととダンスに逃げるに限る。
知り合いでなくともかまわない。近位のものですらなくてもいい。
とにかく、誰でもいいから相手を捜さないと。
だが、俺は魔王様と並んで座っている。祝宴時の席ほどの高さは
ないものの、それでも皆が踊っている場所とは区別された壇上だ。
その上、今日はなんだか遠巻きに見られるばかりで、誰一人近寄っ
てこようとしない。
それどころか、相手になりそうな女性を捜して視線を合わせよう
とすると、瞬時に顔ごと逸らされる始末。
なにこの隔絶感⋮⋮。
さすがにこの状態で魔王様から離れてダンスを申し込んじゃ、逃
げたのがバレバレだ。
お願い!
誰でもいい。七大大公の誰か︱︱この際アリネーゼでもいい。
近づいてきて!!
﹁相変わらず、仲がよいのぅ﹂
やばい。
誰でもいいとか言ってすみませんでした。やってきたのはウィス
トベルだ!
いや、待てよ。
魔王様は二人きりになりたいはず。そうとも、俺がいなくなるの
1115
を歓迎するはずだ。
これはチャンスか?
﹁今ちょうど、ジャーイルにそなたの城での宿泊体験を話し始めた
ところだ﹂
もうさわりだけでお腹一杯ですけどね!
魔王様はウィストベルにも上機嫌だ。だが一方の女王様の表情は、
なぜか険しい。
﹁⋮⋮ルデルフォウス﹂
﹁何だ?﹂
﹁私はこの間から思っていたのだが︱︱﹂
彼女はむき出しの肩を、大きく上下させた。
﹁主は、存外︱︱面倒くさいの﹂
﹁!?﹂
ちょ、ウィストベル!
面倒くさいけど!
魔王様は面倒くさいけど!!!
そんなハッキリ⋮⋮。
俺はおそるおそる、魔王様の表情を窺った。
⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
固まってる。
﹁魔王様? 魔王様?? ま・お・う・さ・まー!﹂
ダメだ。返事がない。
それどころか目に光もない。
俺の声すらも、届いていないような⋮⋮。
1116
﹁ジャーイル。主は私の相手を務めよ﹂
﹁けれど、ウィストベル。魔王様が︱︱﹂
﹁若君、今宵最初の栄誉を、お与えいただけますか?﹂
ウィストベルからの正式な口上︱︱初めて聞いたのではないだろ
うか。いつも誘え、という無言の圧力に負けて、俺の方から言葉を
かけてばかりだったから。
これは、断れない。断ることなどできない。
すみません、魔王様。
﹁姫君、光栄に存じます﹂
そう応えた途端、引きずられるように舞踏場へと連れ出された。
曲の途中で参加したものだから、気を使われたのだろう。
交響楽団は演奏をやめ、舞踏者たちは足を止めた。
ウィストベルは堂々とした態度で輪の中心に陣取り、俺の手を取
る。
周囲の舞踏者たちが位置関係を計るように移動して再度手を取り
合うと、音楽も再開された。
﹁本当にいいんですか、魔王様を放っておいて﹂
﹁かまわぬ。ルデルフォウスときたら︱︱﹂
珍しく、ウィストベルがため息をつく。憂いを帯びて伏せられた
長い睫毛が、グッとこなくも︱︱なんでもない。
﹁私との関係を公表してからというもの、いくらなんでも浮かれす
ぎじゃ。私に関わることだけ、とはいえ、あのニヤケた顔を配下に
いつまでも晒していては、魔王の沽券に関わる﹂
おっと。ただ冷たいだけではなかったようだ。
確かに話がウィストベルに及んだ時の、最近の魔王様の浮かれ具
合ったら、この寵臣たる俺が辟易とするほどだもんな。
なるほど、ウィストベルは魔王様を更正させようと、わざと冷た
1117
い言葉で突き放し、俺をダンスに誘って︱︱
﹁主はこの城を知り尽くしておろう? なにせ築城を請け負ったの
じゃから﹂
﹁ええ、まあ、それなりに﹂
﹁ならば、誰にも邪魔されない場所についても、心当たりはある訳
じゃな?﹂
⋮⋮。
いつものウィストベルでした!
なにその獰猛な目付き!
﹁ウィストベル、ちょ、まっ﹂
﹁主はまだ美男美女コンテストに投票していないそうではないか?
明日が最終日であろう。まさか、この期に及んで、誰に入れるか
まだ迷っておるのか?﹂
﹁いや、そんなことは⋮⋮﹂
なんでみんな、俺の投票に興味持つんだよ!
単に列に並ぶ時間がなかっただけだから。出し惜しみしているわ
けでも、対象が多すぎて悩んでいる訳でもないから!
明日、締める直前に投票できるよう、サーリスヴォルフに話を通
してある。それを待ってるだけだから!
お願いだから、プレッシャーかけないで。
﹁まだ誰の名も書いておらぬというなら、私が相談に乗ってやろう﹂
﹁いや、それには及びません!﹂
﹁ほう。つまりそれは、誰かの名を書いた、ということじゃな?﹂
﹁言いませんよ。誰の名を︱︱例え、ウィストベルの名を書いてい
たとしても、言いませんから﹂
白状したら自分の名を書かずに投票する意味がなくなるだろ。
1118
ウィストベルの名前を書いたけどね。
ティムレ伯とどっちにするか迷ったけど、可愛いコンテストじゃ
なくて美男美女を選ぶコンテストだから。やっぱりデーモン的視点
でいくと、どうしてもなぁ。
﹁まあ⋮⋮今の返答は悪くはない。それで満足しておくことにしよ
う﹂
よかった! 許されたようだ。
にこりと微笑むウィストベルは、ドキリとするほど艶やかだった。
﹁のう、ジャーイル﹂
﹁はい﹂
﹁聞いておるか? 存外主と私は、良い評判じゃの﹂
評判?
﹁魔王陛下でもいいけれど、やっぱりウィストベル大公閣下とジャ
ーイル大公閣下もお似合いよね﹂
﹁美男美女ですものねぇ。絵になるわ﹂
マジか!
俺とウィストベルってそんな風に見えるのか!
心配になって、魔王様の様子を窺ってみる。
まだ放心している、大丈夫だ。噂話なぞ聞こえていないはず。
だが、噂話が聞こえて不味かったのは、魔王様ではなかったよう
だ。
﹁あら。瞳の色が同じで、恋人というよりは姉弟のようにも見えま
せん?﹂
その発言が耳に届いた途端、ウィストベルの瞳がすっと細まった
のだ。当然のように、殺気を含んで。
﹁姉弟に見える、じゃと⋮⋮﹂
1119
﹁実状を知らない者の噂話に反応するのはよしましょう。意味もあ
りませんよ﹂
そうとも。噂話なんて、ろくなものがない。ただ無責任なだけだ。
いちいち真剣に聞いていたら、キリがない。
﹁⋮⋮確かに、主の言は正しい﹂
よかった。ウィストベルも冷静だ。
﹁じゃが、聞こえてくるものは仕方ない。ここはやはり、周囲と隔
絶した場所を探して︱︱﹂
﹁そんな場所はありません。あったとしても、いきません﹂
ウィストベルはやっぱり相変わらずだった。
ウィストベルの相手を暫く務めることにはなったが、結果的には
それ以上のことはなく、俺は平和的に解放された。
そうして露台で一人、ホッと息をついていたのだが。
﹁あら、閣下。こんな暗がりで、何を物思いに耽っておいでですの
?﹂
﹁いや、そう言う訳では﹂
公式の舞踏会場で俺に声をかけてくる相手は珍しい。いかに場所
が、人目のない露台の隅といえど。
なにせ舞踏会の会場では、親しい間柄でもなければ下位の者から
上位の者に声をかけることも難しい。
もっとも、そうはっきり決まり事としてあるわけではないから、
実際には近位の知人であれば割と遠慮なく、近位でなくともそれ以
上に親しければ周りの雰囲気を伺いながらではあるが、話しかけて
くる。
だが、声をかけるならもうちょっと早くにお願いしたかった。
こうして一人で休憩している時じゃなくて、魔王様の話に辟易と
1120
していたときとか、ウィストベルに捕まっていたときとかに!
﹁では、疲れて休憩中なのかしら?﹂
﹁まあ、そんなところかな﹂
疲れている、どころじゃない。疲れ切っている、といっていい。
﹁勿体ない。閣下のように高位で見た目も麗しく、決まったお相手
もいない殿方は、こういう場所では身を粉にしてでも世の未婚女性
を楽しませてあげるべきですわ﹂
ハハハ。なんですか、その女性上位な発言。
﹁君こそ、こんなところにやってこないで、明るい場所で世の紳士
諸君を悦ばせてやってきたらどうかな﹂
﹁あら﹂
リリアニースタは相変わらず艶やかだ。大きく巻いたプラチナブ
ロンドと、豊満な肢体を包むドレスに藤の花をあしらった装いは、
華やかつ上品だ。流し目を多用した視線運びも、男たちの目を存分
にひくだろう。
少し切れ長の眼の周囲と、ふっくらとした唇は、新鮮な血を塗っ
たように赤く彩られている。
ユリアーナの濃い化粧は奇抜としか言いようがないが、リリアニ
ースタの場合は元がはっきりした目鼻立ちなのもあってか、素材を
引き立てているといった感じだ。
﹁申し上げませんでした? 私、愛妻家の夫がおりますのよ﹂
夫が?
﹁初耳だ﹂
まあそれはいいが、表現の仕方がひっかかる。
﹁ガッカリしていただけたのかしら?﹂
﹁いや、別に﹂
眉を顰めたのは、配偶者の存在を憂えてのことではない。夫がい
1121
るのにベイルフォウスの膝に乗っていたのか、と思ったのがつい態
度に出てしまったのだ。
魔族の感覚でいうと、その程度ならなんの問題もないのだろうが。
﹁ジャーイル大公閣下﹂
リリアニースタは小さなため息をついた。
﹁こういう場合は心にはなくとも、残念だ、くらいはお愛想に言う
ものですわ﹂
⋮⋮また、面倒くさいことを。
今日は何。女難の相でも出てるのだろうか。
いや、待てよ⋮⋮いつもな気がしてきた。
﹁あ。今、面倒だと思ったでしょう。そんなことだから、朴念仁と
いわれるのだわ﹂
﹁そんな風に評された覚えはない﹂
存外失礼だな、リリアニースタ! ﹁あら。それは失礼しました﹂
ぜんぜん悪いと思っていないのが、ありありと知れる笑顔だ。
﹁しかし、それならやっぱりこの間の件は冗談だったんだな﹂
﹁この間の件?﹂
﹁いや、なんでもない﹂
自分の名前を書いて俺に投票するとかなんとか言っていた、あれ。
やはり冗談だったようだ。覚えていないくらいだし。
﹁美男美女コンテストのことでしたら﹂
覚えてるのかよ!
﹁宣言通り閣下に投票いたしましたわ。もちろん、私自身の名を記
して﹂
﹁は?﹂
1122
今さっき、まるで夫に誠実な貞淑な妻であるかのような言い方を
していなかったか?
いや、夫が愛妻家だと言ったのか。
﹁ジャーイル閣下。コンテストに投票するからといって、誰もが相
手に対して一途であるとはお考えにならない方がよろしいですよ﹂
つまりそれは⋮⋮俺のこと、好きでもないけど投票したってこと
? まあ、確かに美男美女コンテストであって、自分の好きな相手
を告白する大会、ではないが。
それに、彼女が名を書いて投票したからといって、奉仕される相
手に選ばれるとも限らないし。
﹁こんなに鈍いのに、どうしてそういう思考方向だけは、男性の欲
から外れないのかしら﹂
おい!
小声のつもりかもしれないが、ばっちり聞こえてるぞ!
ほんとに失礼だな、リリアニースタ!!
﹁あら。そんな怖い顔なさらないで。私はただ、閣下の純真無垢さ
に驚いているだけ。年寄りが勝手に若さに感じ入っているだけなの
ですから﹂
﹁ああ、君はどうやら長寿なようだから、三百歳を越したばかりの
俺なんて、頼りない子供みたい思えるんだろう﹂
﹁すねないでくださいな。本当に子供みたいですよ。実際、閣下は
うちの娘よりもまだ、かなり下なんですし﹂
リリアニースタは軽やかに微笑んだ。
随分失礼な態度だと感じているにも拘わらず、本気で怒る気にな
らないのは、相手の貫禄を認めているからか?
それともこの間から感じている、どこかで会ったような既視感の
せいだろうか。
1123
いや、たぶん疲れきって、怒る気力が沸かないだけだな。
﹁それで、休憩はもう終わられまして?﹂
すっと差しのばされる手。それの意味するところは、一つだ。
俺はその手を取るのをためらった。
なぜなら彼女の手を取ると言うことは、舞踏会場に戻る、という
ことと同義であり、そうなるとまたウィストベルに見つかるという
可能性が︱︱
﹁ウィストベル大公閣下でしたら、もうお帰りになられましたわ﹂
﹁⋮⋮見てたのか﹂
﹁そりゃあ、あの会場にいて、お二人に気づかない者はおりません﹂
ですよね。
なら余計に助けてほしかった!
﹁ウィストベル閣下でなければ不服なのかしら? それとも、私も
正式に口上を口にしなければお相手いただけませんの?﹂
﹁いや。もちろん、そんなことはない。喜んで相手役を務めさせて
いただくよ﹂
俺はリリアニースタの手を自分の腕に導き、揃って広間へ戻って
いった。
だが、一歩を踏み入れた、その途端。
﹁おい⋮⋮あれ!﹂
なぜかこちらに注目する数人のデーモン族たち。
なんだ? と不審に思う間もなく、囁くような声が耳に届く。
﹁ジャーイル大公のお相手、リリアニースタ侯爵じゃないか?﹂
﹁あら、本当。まあ、まだご存命だったのね。お顔を拝見するのは
︱︱随分、久しぶりじゃなくて?﹂
1124
﹁確かに。五百年ぶりほどじゃないかな?﹂
どうやら、リリアニースタはそこそこ有名らしい。自領で噂され
るならともかく、魔王城でこの扱いなのだから。
それも、五百年ぶりだとか︱︱どこかの引きこもり娘を思い出す。
﹁君は以前は魔王領にでもいたのか?﹂
爵位の争奪のたびに領地を変わる者は、珍しくない。属する領地
の変更は、なかなか認められないからだ。だから、奪爵をいい機会
と考える者は、むしろ多い。
リリアニースタもそうかと思ったのだが。
﹁いいえ、魔王領には一度も。なぜです?﹂
﹁結構注目されているようだが﹂
﹁まあ、それは⋮⋮一応、私が前回の美男美女コンテストで、五位
までに入賞しているからでしょうね﹂
えっ!
前回の美男美女コンテストの上位入賞者?
そうか︱︱そう言われれば、納得はできる。
ウィストベルを見慣れると、つい基準が厳しくなりがちだが、確
かに彼女は結構な美人だ。それも艶やかで、目を惹くタイプの。加
えて、スタイルもいい。
﹁そこで黙り込むのは無粋ですよ﹂
﹁いや、心中でさもあらんと頷いていたところだ﹂
﹁なら口に出してくださればよろしいのに。そういう細やかな配慮
に、女性はグッとくるものなのですから﹂
なんだろう。彼女の口調とこの態度。
どうも︿女性に対しての正しい態度について﹀とかいう講義でも
受けている気分にさせられる。
いや、それか。これはあれだ︱︱﹃お母さん﹄だ。
1125
母親が、小さな息子に女性を大切にしろ、と言い聞かせてるよう
な感じだ。
あなたは俺のお母さんですか?
もうなんていうか⋮⋮美人なのにもったいない。ちょっと遠慮し
て口をつぐめばいいのに。そうすれば、きっとモテるだろうに。
まあ当人にはとっくに夫がいるわけだから、他の者から恋愛対象
として見られなくても問題ないのかもしれないが。
俺の表情から心中を察したのか、リリアニースタは曲が終わると
ダンスの足を止め、俺の腕を掴んで壁際へ退いた。
それから実に優雅な手つきで給仕係の盆から飲み物を二つとり、
一つを俺に渡して曰く。
﹁本当にお疲れのようですから、これで解放してさしあげますわ、
ジャーイル大公閣下。どうせいずれ一晩、お付き合いいただくこと
になるのですから。その時にはじっくり、指導してさしあげましょ
う﹂
俺も言っていいだろうか。我が妹が時々やるように。
うげええ、と。
﹁さあ、そうなることを俺も願ってるよ﹂
我ながら白々しい。だがこれが大人の対応というものだろう。
ため息をつきながら、俺は社交辞令を口にしたのだった。
1126
107.さてさて、いよいよアレを締める時がきたのです
俺は二日連続で、魔王城へ足を運んでいる。
ああ、大丈夫。魔王様に呼び出されて、その話を聞くため、では
ない。
昨日、ウィストベルの厳しい言葉を受けて以降、魔王様は気を引
き締め直したようだ。あの後、俺に惚気てくることはなかったのだ
から。
⋮⋮単にまだ落ち込んでただけかもしれないけど。
うん、本当のことを言おう。がっくりと肩を落としてる様子が、
ちょっと可哀想だった。それでも精一杯、虚勢を張ってる感じが、
もうなんかいたたまれなかったけど。
それはともかくとして、今日はいよいよ、美男美女コンテストの
投票最終日なのだ。
開始の日と同様、締めるその日にいるのも、俺とサーリスヴォル
フ。
さすがに最終日とあって、列に並んでいる者も少ない。もう昨日
までにあらかたの者は、投票してしまったのだろう。
っていうか、俺からすればあの勢いで初日から並んでるのに、ま
だ最終日にも列が出来てるのかよ! と言いたい位だ。
俺とサーリスヴォルフは初日以来初めて、投票箱の上に並んで立
って投票を見守っていた。
あと、百。
あと、五十。
あと、二十。
あと、十。
1127
五、四、三、二、一⋮⋮⋮⋮別に、最後に叫んだりはしない。断
じてな。
最後を飾る女性が、もったいぶった仕草でこちらをチラチラと見、
それからようやく投票用紙から手を離した。暫く余韻を楽しむよう
に投票口を見ていた後、ほっとしたように息を吐いて俺たちに⋮⋮
というか、俺にねっとりとした視線をなげかけ、階段を降りていく。
﹁全員投票したね?﹂
ああたぶん、うちの引きこもり娘以外はな。
結局、ミディリースは頑として投票にこようとはしなかった。俺
のついでに今日投票したらどうだ、と言ってみたのだが、激しく拒
否られた。
まあたった一人、投票していないからといって、バレたりはしな
いだろう。
隣に立つサーリスヴォルフは、ぐるりと周囲を見回すように視線
を巡らせている。いつも気安い彼だが、こうして大勢の配下を前に
したときに立ち上る威厳は、さすが大公と賞賛したくなるほどだ。
﹁では、いよいよジャーイル大公に締めてもらおう! さあ、ジャ
ーイル。最後の一票を!﹂
ああ、そうだ。正確にはさっきの彼女が最後の一人じゃない。
俺の投票がまだだったのだから。
投票の列に並んでいる魔族は確かに少なかった。だが、地上には
開始のその日に劣らぬくらいの見物客が押し合いへし合い、じっと
この瞬間を見守っている。
さすが魔王城の築城日程をすら、半分に縮めた美男美女コンテス
ト!
1128
ああ、俺だってここまできたら、さすがに認めざるを得ないさ。
この行事がいかに魔族の心根をがっしり掴んで離さない、重要行事
であるかということを。
熱を帯びた視線の束にさらされながら、自分の投票用紙を懐から
取り出す。
直前の女性のように、少しもったいぶった方がいいのだろうか?
一瞬、そんな考えが脳裏をかすめたが、よぎっただけに終わった。
二つ折りにした用紙を半分、穴に滑らせ手を離す。用紙はあっと
いう間に投票口からその姿を消した。
みんな、息を飲む暇もなかっただろう。
俺は両手の平を胸の位置で左右に広げ、聴衆に示す。
そのまま投票台に両手をつき、術式を作動させて投票口を塞いだ。
﹁さあ、これで全て投票は締め切った。今より集計期間に入る﹂
どこからともなく、拍手がおこる。
続いてサーリスヴォルフは左手に持った立派な孔雀羽の扇子を広
げて頭上に掲げ、高らかに宣言した。
﹁発表は二十日の後︱︱ここではなく、現魔王城の前地で行われる。
上位入賞者は魔王陛下より褒賞を授けられ、一位の発表時には同時
にその奉仕先も公表されることだろう。その瞬間を、黙して待つが
よい!﹂
場内は期待に満ちた歓声で沸く。
それだけ自分の名を書いた者が多いのか、それとも単に興味あっ
てのことか。
それはともかく、奉仕先という言葉が卑猥に感じられるのは俺だ
けだろうか。⋮⋮あ、俺だけですか。すみません。
俺とサーリスヴォルフが壇上を降りると、次にはこの二十日間天
面に魔族を運び続けた階段が、投票箱の側面から離される。
1129
そうしてサーリスヴォルフが初日に投票箱へかけた強化の魔術を
解き、それを巨大な石の固まりに戻す。最後に彼は、開票のために
選ばれた十数人だけを中に残して、結界を周囲に張り巡らせた。
この後、開票日を迎えるまで決して解かれることのない強固な結
界だ。
もちろんこれも不正を防ぐための手段なのは、説明するまでもな
いだろう。
とにかくこうして、美男美女コンテストの投票最終日の行事は、
無事に終了したのだった。
﹁さて、私はこれで後は発表日と大公位争奪戦を待つだけか︱︱あ
あ、いや。それからまだ一つ、陛下のご訪問があったね﹂
﹁競竜の決勝もこれからだな﹂
﹁結構あるねぇ﹂
﹁あともう一つ。パレードも明日からそっちだろう﹂
俺の領地の後は、隣接するサーリスヴォルフ領へ移動する。
つまり、我が領にパレードがいるのは今日が最後︱︱妹は、もち
ろんあの宴以降もアレスディアの許へ日参していた。
五日ほど前からは、今日のことを考えずにはいられなかったのだ
ろう。
時々元気がないようだ。
﹁そういえば、そうだね︱︱というか、あれは強制なの?﹂
﹁あれって?﹂
﹁なんでもアリネーゼに続いて、君とデイセントローズまで続けて
パレードを歓迎する宴を開いたそうじゃない﹂
ああ、アリネーゼが美しさの誇示のために企画し、デイセントロ
ーズがそれに追従し、俺が脅されて開いたあの宴な!
﹁いや。もちろん別に強制ではないよ﹂
﹁けれど、君のところの副司令官︱︱ウォクナン公爵から手紙が届
1130
いてね﹂
えっ!
﹁アリネーゼに始まって、デイセントローズ、それから君の領地で
と、それはもう盛大に祝ってもらったと︱︱﹂
﹁まさか、それでサーリスヴォルフにも同じようにして欲しいと、
要望してきたわけじゃないだろう?﹂
ないと言って! お願いだ!
﹁してきたよ﹂
こんな時はいつもの愛想の良さがかえって怖いぜ、サーリスヴォ
ルフ。
﹁別に、可愛くお願いされるだけならよかったんだけどね。なんだ
ろう⋮⋮まるでこう、こちらに開催を強要するような、強引な文章
がちょっと気にくわなくてね﹂
あのリス野郎!
ジブライールを止めるんじゃなかった。
﹁いや⋮⋮申し訳ない。当然、無視してくれてかまわない。俺はパ
レードの担当だったから、やむを得ず宴を開いたが、君がそれに倣
う必要はまったくないさ﹂
﹁そう、よかった。じゃあ、もし次また催促されたら︱︱﹂
サーリスヴォルフは極上の笑みを浮かべた。
﹁ちょっと思い知らせておくことにするよ﹂
どう思い知らせるの!?
ウォクナンをどんな目に遭わせるの!?
﹁悪い、急用を思い出した。俺はこれで失礼する﹂
﹁え? もう? せっかくだから、晩餐まで一緒にと思ったんだけ
どねぇ﹂
﹁次の機会にはぜひ︱︱﹂
1131
サーリスヴォルフの許を急いで離れた俺が、どこへ向かったのか、
もちろん察していただけるだろう。
ウォクナンの許へ行き、サーリスヴォルフに要らぬ要望を出した
ことを注意して、二度とするなと脅し︱︱厳命したことは、むしろ
部下思いの上司だと誉めてもらいたいくらいだ。俺の命令を無視し
たが最後、痛い目に遭うのは他ならぬリスゴリラなのだからな。
サーリスヴォルフならまだいい。
思い知らせる、といってもそれほど酷いことはしないだろう。⋮
⋮多分。
まあ、せいぜい瀕死の重傷を負う程度だろう。少なくとも、命を
奪われることはないはずだ。
だが、その先にはウィストベルの領地が待っているのだ!
デヴィル嫌いの彼女が万が一、調子こいたリスの無礼な手紙を受
け取ってみろ!
パレードの参加者たちまで巻き込まれかねない。
その結果は、想像するだに恐ろしい。
そうして俺は、相変わらずパレードの後を追いかけに来ていた妹
をその場で保護し、また暫くアレスディアに会えないと嘆くのを宥
めながら、自分の城へと帰って行ったのだった。
1132
108.お兄ちゃんを迎える準備をしていたら、なぜか弟がやっ
てきました
ねえ、言っていい?
こっそり言っていいかな。
魔王様って結構行き当たりばったりだよね!
無計画にもほどがあるよね!
だってそうだろ?
みんな忘れてるかもしれないけど、新魔王城の築城なんて話は、
最初は全く計画になかったことだからね!
急に言われて、さすがの俺もビックリだったからね!
それも、最終日あたりに遷城するはずが、早くできたから引っ越
しも早くしてしまおうって、これがもう行き当たりばったりでなけ
ればなんだというのか。
結果、しわ寄せは今こうしてやってきている。
というのも本来ならとっくに終わっていたはずの、︿魔犬群れな
す城﹀と︿死して甦りし城﹀への魔王様の滞在が、未だ実現されて
いないからだ。
最初に何度も︱︱何度も何度も何度も会議をして決定した日程で
は、その二カ所への魔王様のお泊まりは、本来なら遷城作業に充て
ていた期間に予定されていた。その場合、今の時点で残っていたの
は我が城への滞在のみだったのだ。
だが現状はどうだ。︿断末魔轟き怨嗟満つる城﹀への滞在を含め
て、三カ所が残ってしまっている。
かといって、恩賞会の始まる大祭七十一日目から八十五日までの
十五日間に、魔王様が魔王城を離れる訳にはいかない。褒賞を授け
るのは主行事担当のウィストベルではなく、魔王様自身の役目だか
1133
らだ。
それが終わると、八十九日から最終日の百日まではいよいよ大公
位争奪戦が開催される。この間に他の城に呑気に泊まりにいける訳
がないのも、自明だろう。
そんなわけで、急遽サーリスヴォルフ以下の大公城への滞在を、
連続で行うことになったのだ。
魔王様は︿魔犬群れなす城﹀、︿死して甦りし城﹀と連泊し、明
日、デイセントローズ領を後にしたその足で、我が城へと参られる。
それはいい。お泊まりは最初から予定にあったことだし、連泊で
予想外に疲れる者があるとすれば、それは魔王様自身だからだ。
けど本来なら︱︱いいですか、ここ重要なんですけど、大祭主で
ある俺のところへの滞在は、他の大公たちの城に比べてかなり長め
になる予定だったのだ。ねぎらいの意味を込めて。
俺に対するねぎらいの意味を込めて、だ!
だが、実際には他の大公のところに比べて一日増えただけ︱︱二
泊三日が三泊四日になっただけにとどまった。
何がいいたいって?
いや、別に⋮⋮。ただ、残念だなと⋮⋮。
とにかくその前準備でこの二、三日というもの、我が城は大忙し
だ。
なにせこの︿魔王ルデルフォウス大祝祭﹀の主役である魔王様の
滞在だ。ハンパなもてなしではすまされない。
迎賓館も普段よりいっそう、設備を調えねばならないし、行事も
当日は特別の対応をしなければならない。
そんなわけで、来訪者はともかく裏方ではバタバタと、準備が進
められていたわけだ。
そう、なぜか妹までも︱︱
1134
﹁一日目の晩餐のドレスはこれでいいかしら? 二日目の昼餐はこ
っち! お茶の時間はこれで、晩餐はこのドレス。三日目の朝食は
これで︱︱﹂
そんなもの、どうでもいいと言ってやりたい。お兄さまは忙しい
のだ。ドレスくらい好きに選ぶがいい、と。
だが言えない事情がある。差し出されたドレスが、どうでもよく
ないものばかりだったからだ!
そもそも、俺の感覚ではそれらはドレスとは到底呼べない代物ば
かりだったのだ。
派手すぎる奇抜な色目︱︱それだけではない。デザインまでもが
おかしい!
なにそのごつい肩パッドから無数に飛び出すトゲ。そこに必要な
のかな!?
なにその腰からぶら下がる無数の目玉。汁が出てるけど、なんの
汁なのかな!?
なにその足首から垂れて大地に音を立てて吸いつく軟体動物みた
いな吸盤。絶対に歩きにくいよね!?
俺の感想はこうだ。
き が く る っ て る 。
﹁いや、待て⋮⋮ちょっと待て、マーミル! まさか本気じゃない
よな?﹂
も
?
﹁お兄さまも気に入りません?﹂
お兄さま
よかった! マーミルもどうやら本心ではこの奇妙な衣装を受け
入れてはいないようだ。
1135
そうだよな! やっぱり、そうだよな!
俺の妹が、まさかそんな変なセンスをしているはずはないよな。
この間までの反応は、気の迷いで本当は︱︱
﹁やっぱり地味すぎますわよね。もっとこう、緑とか黄色の蛍光色
を加えて︱︱﹂
誰かーー!
無難なドレスを喜んで選んでいた頃の、可愛い妹を返してくださ
ーーーーい!!
﹁ユリアーナ、ちょっといいか﹂
俺は元凶であること間違いない侍女を、別室に誘おうとする。も
ちろん、きっちり話をつけるためだ。
だというのにこの侍女は︱︱
﹁えっ、そんなっ。マーミル様の見ている前で、そんな破廉恥な⋮
⋮いたたたたたたたっ!!﹂
はっ!
しまった。
反射的に目の前のこめかみをグリグリしてしまった!
マーミルが見ている前だというのにっ。
頬を染めて恥じらう侍女が、あまりにもウザかったものだからっ!
とにかくそんな一悶着はあったが、なんとか妹に無難なドレスを
選ばせることに成功し、俺は居住棟を後にした。
﹁悪いな。ずいぶん時間をとってしまった﹂
﹁ご心配なく、旦那様。魔王ルデルフォウス陛下をお迎えする準備
は、滞りなく進んでおります﹂
ああ、そうだろうとも。
エンディオン、君が主導してくれているのだから、手抜かりなぞ
あるはずがない。むしろ俺なんて、いても邪魔になるくらいだ。
1136
ちなみにセルクには、この期間中はフェオレスの補佐に回っても
らっている。
﹁あとは迎賓館を旦那様に点検していただき、それで完了となりま
す﹂
そこだってわざわざ俺が点検などせずともいいだろう。全幅の信
頼を寄せている、と言いたいところだが、さすがにそれでは無責任
すぎるだろう。
俺はエンディオンと共に迎賓館が完璧に仕立て上げられているこ
とを確認し、それで明日の実地検分は完了したのだった。
そうしてエンディオンとセルク、フェオレスを執務室に召集し、
最後の打ち合わせだ。
魔王様がまた我が侭を言った場合にも対応できるような形で、一
応四日分の緩い予定は立ててある。
﹁さて、みんなご苦労だった。あとは当日を迎えるばかりだ。一応
は、この予定通りにすすめるから、そのつもりでいてくれ﹂
全員が予定表を見ながら頷く。
そこへ︱︱。
﹁予定? またそんな無駄なことしてるのか﹂
呆れたような言葉を口にし、現れたのは目に痛い赤。
﹁兄貴が気まぐれなのは、お前だってそろそろ気づいてるだろ。な
兄貴
などと呼べる者は、この世にただ一人しかいな
のに予定まで立ててるとか︱︱無駄になるだけとは考えないのか?﹂
魔王様を
い。
﹁ベイルフォウス⋮⋮また、この忙しい時に⋮⋮﹂
最近はご無沙汰だったってのに、どうしてわざわざこのタイミン
1137
グでやってくるんだ、この男は。
よく気のつく三人は、打ち合わせが終わっていたこともあるのだ
ろう。黙礼しつつ退室した。もちろん、ベイルフォウスが彼らを気
にかけることは決してない。一瞥することさえ、な。
﹁準備は終わったんだろ? だったらちょっと付き合えよ﹂
﹁どこへ?﹂
﹁なに。遠くまで行こうってんじゃない。この城の敷地内だ﹂
敷地内?
断ってもよかったが、そうなるとこの男はいつまでも居座るだろ
う。それで俺は親友に付き合うことにしたのだが、連れて行かれた
のは確かに我が︿断末魔轟き怨嗟満つる城﹀の敷地内︱︱それも俺
がこの大祭中、もっとも心を寄せている場所だった。
そう、つまり武具展の開催されている、その棟、そのフロアだっ
たのだ!
武具展は︱︱大祭の主行事としても提案したが、誰一人として賛
成してくれなかった催しだ。もちろん、ベイルフォウスも例外では
ない。
だから結局俺は、自分の領内での開催を強行せざるを得なかった
というのに!
宝物庫からこれぞという武具を自ら選び出し、こうしてかなり広
い部屋をいくつも使用して配置に気を配り、悦に入っていたのは俺
だ。
だから連日、迷い込んだ者以外、ほとんど誰も訪れないという事
実も承知している。
だが今、俺を強引にこの場へつれてきた男は、無関心どころか見
たこともないほど瞳を輝かせながら、その展示品に魅入っている。
こんなベイルフォウスを見たことがあるか?
1138
俺は、ない。
﹁おい、これはどういうことだ﹂
﹁どういうことって、なにが⋮⋮﹂
﹁とぼけるな。これだよ、これ﹂
そう言って、ベイルフォウスは蒼銀の瞳を武具から俺に向けた。
﹁槍だけど?﹂
﹁そう、槍だ。だが、ただの槍じゃない﹂
確かにベイルフォウスの言うとおりだ。その展示品は、ただ見た
目に美しい、というだけではない。
武具に全く興味を示さない魔族の気を、少しでも引くためにと考
えた結果、展示品は全て魔術を帯びた武具ばかりを選んだ。
だが、結果はさっきも言った通りだ。そもそも誰も、足を運んで
こない。
まあそれはいい。
つまり、ベイルフォウスが示したこの展示物はただの槍ではなく、
魔槍だということだ。しかも︱︱。
﹁ヴェストリプスだ!﹂
そう、その通り!
魔槍ヴェストリプス。
我が城の宝物庫が所蔵する物の中で、俺の選んだこの魔剣レイブ
レイズに並ぶ逸品である。
魔槍ヴェストリプスはその先端に三つの役割を持つ長槍だ。
柄からまっすぐ伸びる穂先で突き、横に突き出た斧で斬り、逆側
で引っかける。便利なように思えるが、使いこなすにはある程度の
器用さが必要だ。
この槍以後、こうした形態を分類して、ヴェストヴェルトとその
1139
名を冠して呼ばれることになったほどの、稀代の名具である。
一見したところも、正直格好いい。
その柄は純白。まるで今造られたかのように、疵一つなく真珠の
ような輝きを放っている。柄とは対照的に、闇のように黒い魔石を
鍛え上げて造られた三つの攻撃部の側面には、装飾性の高い彫刻が
施されている。
﹁知ってるのか﹂
﹁知ってるも何も︱︱こいつは世にある槍の中で、もっとも優れた
名槍だ。槍使いでヴェストリプスの名を知らぬ者などいない﹂
再度槍に向けられた視線も、語る声も、熱を帯びている。
そう言えば、ベイルフォウスの第一の武器は槍だったか。まだ俺
は、剣を持ったこいつとしか刃を交えたことはないが。
﹁どうしてこれが、お前のところにある﹂
﹁以前聞いた話では、先々代の大公が先代の魔王から下賜されたも
のらしいが﹂
そう語ってくれた管理人は、もうこの世にない。
﹁先々代の大公と先代の魔王⋮⋮ってことは、俺が最後にみたのは
子供の時だから、六百年ほどこの場所にあったかもってことか。な
るほどな﹂
ベイルフォウスは腕を組み、頷いた。その間も視線は槍を外れる
ことはない。
﹁いくら探しても見つからない訳だ。大公の宝物庫に仕舞い込んで
あったってなら﹂
どうやらベイルフォウスはこの槍を探していたようだ。と、なる
と。
﹁なあ、親友よ。これを俺にくれ﹂
1140
そうくるよな。
﹁初めて見たとき、一目惚れした。俺はこいつを使いこなすため、
武器に槍を選んだ。魔術の訓練をする時間を削って、槍の鍛錬をし
たんだ﹂
おいおい、それでこの地位かよ。フォウス兄弟ったら、その潜在
能力たるや恐ろしいな。
﹁俺にとってこの槍は、何にも得難いものだ。どの女より、ずっと
な。探し続けたが、どこにあるのかわからなかった。もし見つかれ
ば、その時は﹂
ベイルフォウスはようやく槍から視線を外し、俺をじっと見つめ
てきた。
﹁持ち主を殺してでも奪い取る︱︱﹂
おい!
﹁つもりだったが、お前だというのなら話は早い。くれ﹂
まあ、俺はどうせ使わないしな。
それにこれほどの槍が、倉庫に眠ったままというのは惜しい。せ
っかく名工の技をもってこの世に顕現したんだ。それに相応しい技
量の持ち主がいるのなら、その者が使ってこそ意味もあるというも
のだろう。
ただ、実はこの槍にはほんのちょっぴり、思い入れがある。俺の
父が、こいつの模造品と思われるものを持っていたからだ。とはい
え、そうと知っても倉庫に置いておいたままだったのも事実だし。
﹁わかっている。もちろん、タダでとは言わない。対価は支払う﹂
別に拒否するつもりで黙っていたのではないのだが、ベイルフォ
ウスはそうは思わなかったようだ。
﹁何が欲しい。同等の価値を持つ、他の武器か? それならいい弓
を持ってる。珍しい短剣もある。鉄扇が欲しけりゃくれてやるし、
ウィストベル同様、本が欲しいというのなら世界中隅々を探してで
1141
も見つけ出してお前にやる。あるいは極上の美女か? 何人でも世
話してやる。拷問道具、珍しい食材、酒、絵、楽器、宝石︱︱なん
だって手に入れてやる。だから、なあ、親友﹂
そう言って、ベイルフォウスは絹の敷布を架けた設置台の上に、
穂先を天井に向けて斜めに置かれたその槍︱︱ヴェストリプスの柄
に、手を置いた。
見たこともないほど丁寧な、優しい手つきで。
﹁俺にこれをくれ﹂
﹁大公位争奪戦では使えないぞ﹂
﹁もちろん、わかってる。だからくれるのは大祭が終わってからで
いい。誰もせっかくの展示会場から、この超目玉品をなくそうとは
思わないさ。お前もその間に、対価を考えておけばいい﹂
正直、俺個人としては対価などいらない。だが相手が欲しがった
からと言って気軽に持ち出していいものか。なんといっても、大公
の宝物庫だ。色々問題があるかもしれないので、一度エンディオン
に相談してみることにしよう。
﹁わかった。そこまで言われて、駄目とは言えないな﹂
﹁きっと頷いてくれると思ってたぜ﹂
本当は、一度は拒否してみようかとも思ったんだ。だが今日ばか
りは冗談が通じそうにない。嫌だといえば本気で殺しにかかってき
そうな目つきだったから、止めておいた。
たぶん俺の判断は正しい。
ベイルフォウスは本当に嬉しいのだろう。珍しく無邪気な笑みを
浮かべてている。
ただ、なんだろう。
何かが気にかかる。
別に大公に限らず魔族が魔槍を持ったところで、問題なぞあるわ
1142
けがない。俺だって魔剣を所持してるし、他にもいくつもの魔力を
帯びた武具を持っている。ベイルフォウスだっていくつも魔道具は
所蔵しているだろう。おそらく他の魔槍だって、何本も。
だが︱︱
大公ベイルフォウスと魔槍ヴェストリプス。
何かがひっかかる。いや、引っかかるというか⋮⋮なんだか嫌な
予感がする。
ああ、そうとも。根拠はない。ただの勘だ。
きっと気のせいだろう。そうに決まっている。そもそも俺は、勘
の鋭い方ではないのだし。
﹁そうと決まれば俺は帰ったほうがいいだろう﹂
﹁えっ?﹂
このタイミングで来たのは、てっきり魔王様の滞在に前乗りして
居座るつもりだと思ってたのに!
﹁本当は兄貴と一緒にいるつもりだったが﹂
予想、当たってた!
﹁大祭が終わるまで待つとは言ったが、同じ城内にこの槍があると
わかって、俺が我慢できるはずがない。約束を守るためにも、とっ
とと帰ることにする﹂
つまり我慢できなくて、今にも奪って帰っちゃいそうだ、と。
うん、実に脳筋の君らしいね。ベイルフォウスくん。
そうしてベイルフォウスは魔槍に未練の残る瞳を向けながらも、
自分の城へと帰って行ったのだった。
1143
109.僕は言いましたね? 魔王様ってホント、行き当たりば
ったりだって!
魔王様を我が城に迎えるその日の朝のことだった。
久しぶりにマーミルやスメルスフォと彼女の娘たちと落ち着いて
朝食をとっていた俺のもとへ、家令から驚く報がもたらされたのは。
﹁⋮⋮もう一度⋮⋮⋮⋮。聞き違いをしたかもしれない。もう一度
言ってくれ、エンディオン﹂
家令は謹厳そのものの表情を浮かべながら、再度こう言った。
﹁先ほど、魔王ルデルフォウス陛下の騎竜が、領内にお入りになら
れたそうです﹂
⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
だから魔王様は行き当たりばったっりだっていったんだ!
いいか?
俺は、こう聞かされていた。
サーリスヴォルフの城に午後から二泊して、三日目の朝食を︿魔
犬群れなす城﹀でとり出発。領地の配置の関係上、一端魔王城に帰
城して昼食をすませ、デイセントローズ領には晩餐前に到着。同様
に二泊。
デイセントローズ領と俺の領地は隣同士だから、三日目は︿死し
て甦りし城﹀で昼餐まで御馳走になり、俺の城に到着するのは夕日
が地平線に落ちる頃になるだろう、と。
今は何時だ?
1144
あれは夕日か?
いや、違う! 朝日だ!!
夕日と見紛う登りたてではないものの、それでもまだ天の中腹に
たどり着くには十分なに余裕のある時間帯だ!
なのに、領内に入った?
領内に魔王様の竜が姿を見せた、だって?
﹁聞いての通りだ。申し訳ないが、中座する﹂
﹁お兄さま。私たちにも何かお手伝いできることが?﹂
﹁いや、大丈夫だ。お前たちはこのまま食事を続けていなさい﹂
俺は妹たちに断って、席を立った。
それからは大変だった。
領内に入ったということは、妹たちは食事をする時間はあるだろ
うが、俺には全くないということだ。
執務室にエンディオンとセルク、フェオレスに集合してもらい、
大ざっぱに打ち合わせをする。
ちなみに、朝食をとるような時間なのにフェオレスが既に城内い
たことで、俺は下種な想像をしてしまったのだが、それは内緒にし
ておきたい。
とにかく全方位に指示を出しつつ細部の点検をし、なんとか魔王
様の到着前に対応をし終えた。
今は城内のあちこちで夜通し行われている舞踏会や催しを中断し、
使用人・来訪者の区別なく前庭に集合させている。
他の者ならこの大祭中は竜舎に直接竜を降下させるのだが、なに
せ相手は魔王様である。
魔王様の在位を祝う大祭で、しかも我が城に歓待する目的でこら
1145
れるのに、不便を強いるはずがない。
俺がマーミルと並んで立つ玄関前から城門まで続く直線は、魔王
様の巨大な竜が降下できる幅が確保してあった。
だがその他は、大地の色も見えないほどの魔族で埋まっている。
そうして万全で魔王様を待ち受けていると、ぐんぐんと西の空か
ら近づいてくる黒い影。
もちろん魔王様の騎竜である。
ちなみに、単身でのご来城だ。重臣によるお付きの随員などは、
一人もいない。
なぜならば魔王というのは紛れもなく並ぶ者のない絶対的強者︱
︱本来ならば︱︱であり、強者は自らの誇りにかけて、他者の力に
なぞ頼ることはしないからだ。
そうとも、本来魔族というのは強ければ強いほど、単身での行動
を好むものなのだ。何度も言ってるけどね。
﹁お兄さま! あれがそう? 魔王様の黒竜よね!?﹂
隣に立つ妹の声は、おかしいほど上擦っている。
﹁魔王様がこの城にやって来られるのは初めてという訳でもないん
だから、そんなに身構えなくたって﹂
﹁前はだって、少しいらしただけですもの。その時にだって、デイ
セントローズ大公のお披露目式でだって、私はご挨拶だけでお話は
していないし。でも今度は三晩もうちで過ごされるのよ! 緊張し
ない方がどうかしてるわ! けほっ!﹂
緊張しすぎて、喉がカラカラらしい。それでいて、実際に本人を
目の前にすると平気で失礼なことでも口にするのだから、神経が細
いのだかず太いのだか、わかりはしない。
しかし呆れた風に言ってみたものの、妹の主張はもっともだと思
う。俺だってマーミルくらいの年の頃に、魔王様が父の住む城に泊
1146
まりがけでやってくると知れば、我を失ったに違いない。
本当なら妹は、俺の横でぴょんぴょんしたいのだろう。だが、さ
すがにぐっとこらえているようだ。
ただ時々、肩は弾んでいる。以前なら実際に跳ね出しただろうか
ら、外聞を少しは気にするようになっただけ、大人に近づいたとい
うことなのかもしれない。
﹁お前なら大丈夫だ。いつものように振る舞えばいい﹂
正直なところ、妹の振る舞いに対してはまだ不安を抱いているが、
たまの機会に自信を与えてやるのも兄としての務めだろう。ワタワ
タしたままよりは、どっしり落ち着けた方が、せめて失敗は減るは
ずだ。
﹁お兄さま﹂
だが俺の本心なぞ知らない妹は、信頼の言葉を真に受けてキラキ
ラと瞳を輝かせている。可愛らしいものである。
やがて魔王様の騎竜が城門上にさしかかるや、歓迎の喇叭が、銅
鑼が吹き鳴らされ、続いて雄々しい音楽が奏でられる。
そうして前庭一杯に集まった魔族たちのあげる歓声のまっただ中
に、魔王様の竜が着陸︱︱︱︱したところを、俺は見逃した。
なぜならば。
﹁おい、なんだあれは!﹂
降下中の竜の背から空中に身を踊らせ、すぐ近くに降り立った魔
王様が、俺の胸ぐらを掴んで視界を塞いだからだ。
﹁⋮⋮は?﹂
﹁だから、あれは何だと聞いている!﹂
あれってなんだ?
いいや、何でもいい!
1147
なぜ、こんなにも真摯に対応しているというのに、責められなけ
ればならないのだろう!
いきなり訳もわからない理由で。
﹁魔王様、ちょっと落ち着いてください。みんな急な変更でも、こ
うして快く待ってくれてるっていうのに。一体どうしたんですか?
何か不手際がありましたか? ここに来るまでに、誰か魔王様に
挑戦でもしました? そうでないなら、理由から説明してくださら
ないと﹂
訳のわからない言動の魔王様に比べて、俺の態度のなんと冷静な
こと、対応の適切なことか!
エンディオンが小さく頷いたのが、悠然とした態度の正当性を認
めてくれている証拠だった。
ただ⋮⋮その後に小さなため息をつかれたのが気になる。言葉遣
いが不合格だった、とかだろうか。
﹁だいいち、礼式を重んじる魔王様らしくないですよ。まずはちゃ
んと挨拶しまよう。ね?﹂
俺の冷静さは魔王様にも伝播したようだ。
一つ、舌打ちをすると、黒い瞳はそれで満足したように平静さを
取り戻した。そうして前庭に向き直り、苛立った態度など一瞬たり
とも表に出さなかったと言わんばかりの何食わぬ表情と声で、こう
言い放ったのだ。
﹁出迎え、大儀である。また、今回の滞在において、大公ジャーイ
ルとその配下の厚意に信頼を寄せておる。余の存在のためにそなた
たちの喜びが過剰に奪われず、いっそうの愉悦に満たされるよう︱
︱﹂
魔王様は歓声に応じるように手をあげると、再び俺に向き直る。
1148
﹁ようこそお出でくださいました、魔王ルデルフォウス陛下。陛下
の玉体を再びこの城にお迎えできる幸いを、一同噛みしめておりま
す﹂
俺は胸に手を当てて軽く一礼した。ちなみに、こういうときは敬
礼でもいい︱︱というよりは、その方がより形式ばっていると言え
るが、俺はしない。断じて、な。
﹁うむ。招待に応じて参った﹂
実際には行事としての決まり事でやってきてるから、招待状の一
枚も出してませんけどね!
﹁皆も知っての通り、本日より魔王陛下は我が城にご滞在あそばさ
れる。わずか四日の間だが、常々我らがどれほど陛下に敬愛の念を
抱いているか、この機会に全身全霊をもって示そうではないか﹂
打ち合わせもしていないのに、俺の誘い文句に応じて手を挙げて
くれる観衆たち。
ほんと、こいつらノリのいい奴らだよな。
だがここで一旦、魔王様は彼らの前からは退場だ。
歓声に手を振って応えつつ、俺たちは屋内に入っていった。
そうしてごく近しい者だけになったところで、﹁あの、魔王様っ
! 本日はお日柄もよく!﹂と妹がガチガチの挨拶を披露し、魔王
様の笑みを誘う。
﹁ベイルフォウスに対するほど砕けよ、とは申さぬが、それほど予
に畏まる必要はない、マーミル姫﹂
﹁!﹂
妹は、何か返事をしたかったのだろうが、言葉が出てこないらし
い。顔中を真っ赤にして魚のように口をぱくぱくやりだした。
それを助けるように、かつての大公妃として面識を持っていたス
メルスフォが魔王様に挨拶をし、なごやかな雰囲気で会話を紡ぎ出
1149
す。そうして実に見事な流れで、彼女は妹ともども娘たちをつれて
その場を辞していった。
こういうタイミングの計り方は、さすがに元大公妃というべきか。
﹁ところで、この時間です。もしも食事がまだであれば、ご一緒に
いかがです?﹂
正直、俺は腹が減っていた。急な対応でバタバタして、朝食を食
い損ねたからな!
多分魔王様もまだのはずだ。デイセントローズの城とこの城の距
離を考えると、夜明け前にあちらを出立してきたのだろうから。
﹁⋮⋮今朝は朝食も喉を通らぬと思っていたが、脅威の去った今は、
ありがたく饗応を受けよう﹂
脅威? 魔王様に脅威?
食事が喉が通らないほどの?
﹁それはどういう﹂
尋ねかけて、ハッとした。
今朝まで魔王様がどこにいたのか、それを改めて思い返してみれ
ば、その脅威についても理解できる気がしたからだ。
そう、それは︱︱
﹁怖かったんですね﹂
おそらく俺と同じ思いを味わったに違いない。
大祭初日に味わった、あの恐怖を︱︱
﹁こわ⋮⋮馬鹿者、魔王たる者が他者に恐怖を抱くなどと、そんな
ことがあるか!﹂
いやいや。さっき脅威って言ったじゃん。はっきり言ってたよね?
﹁⋮⋮⋮⋮ただ⋮⋮⋮⋮﹂
急に声の調子が下がった。
1150
﹁気持ち悪かっただけだ﹂
﹁⋮⋮わかります﹂
今この瞬間、俺たちの思い浮かべる相手はきっと同じだ。
そう、デイセントローズの母︱︱ペリーシャ。
なるほどな。なんだってこんな急に予定を早めて慌ててやって来
たのかと思っていたが、今理解した。そうして同情もしたのだ。
あのペリーシャと同じ屋根の下で二日も過ごし、えも知れぬ恐怖
を味わっただろう魔王様に。
どうしても今日の昼間まで、同じ城にいるのが我慢できなかった
に違いない。
﹁温かいご飯でも一緒にどうです?﹂
俺は魔王様の肩を、慰めるように叩いた。
そうして俺たちは魔王様が滞在することになる、迎賓館に向かっ
た。
この間、ウィストベルがやってきた時にも準備したが、彼女は図
書館で一泊していったために、使われなかった屋敷だ。
その装飾も細かい豪奢な建物に、いくつかある食事部屋の一室で、
俺と魔王様は差し向かいで食事をとっていた。
﹁それでまさか、夜這いされた訳でもないんでしょう?﹂
ものすごい顔で睨まれた。表情が凍り付いている。
ああ、そうか⋮⋮そうなのか⋮⋮。
﹁大丈夫⋮⋮ウィストベルには言いません﹂
﹁やめろ! 何もなかった!﹂
でも、夜這いはされたんだ。そこは否定しなかったもんな。
怖い者知らずだな、あの母親⋮⋮。
﹁心中お察しします﹂
1151
﹁やめろ⋮⋮﹂
魔王様の返答は、弱々しかった。
なんだろう。
スープの味がしない。
俺は猫舌なのに、熱いスープで舌を火傷するどころか、体の芯か
ら冷えていくような気さえする。
好奇心はあっさりと、得体の知れない恐怖の前に白旗を揚げた。
﹁この話題、やめておきましょうか⋮⋮﹂
俺の提案に、魔王様は黙って頷いた。
1152
110.魔王だってたまには癒されたいのです
久しぶりに落ち着いた気分だ。
こんなにホッとしたのは、何日ぶりだろうか。もう数十日もなか
ったような気がする。
︿魔犬群れなす城﹀では適度な緊張を強いられた。
私は魔王だ。ウィストベルには敵わないとしても、その他の者に
劣ることなどあり得ない。
例えサーリスヴォルフが熟睡している時に襲ってきたとしても、
傷一つつけられず抹殺する自信はある。自分がそれほどの強者であ
ることを信じて疑わないし、それは事実だ。
もっとも寝込みを襲うなど、大公でなくとも魔族であれば、取る
はずもない卑怯な手段だ。正々堂々、正面からぶつかって雌雄を決
する、それも一対一で、が、何においても基本なのだから。
だから別に緊張感といっても、それは自分自身に課せられた魔王
という立場を貶めぬための、心地よいものでしかなかった。いつも
と同じでな。
そう、サーリスヴォルフの城ではいつも通りで、何一つ異常な事
態は起こらなかった。
目の前で他の魔族がナニしているところを見せつけられたりはし
たが、そんなものはどこででも見かける風景だ。
つい先日、成人を祝った双子による、食事時の下品な会話に眉を
顰めたりもたりもしたが、まあそれもかまわない。
問題は、その後︱︱
あれほどのおぞましい体験をさせられると、誰が予想し得ただろ
1153
うか。
そうとも。数十日に思えるほどの体験を、たかが二泊の滞在で味
わうことになるとは、さすがに私だって思わない。
﹁我が母でございます﹂
そうデイセントローズに紹介された瞬間から、本能が警告を発し
ているのを感じた。
差し出された手を握るのも、躊躇われたほどに。実際に、その骨
ばった山羊の手を握ったその瞬間、全身に震えが走ったほどに。
ああ、ジャーイルには強がってみせたが、私がその時感じたのは
紛れもない恐怖だった。
この世で私に勝る魔力を持つのは、今のところウィストベルのみ
だ。だが彼女に対して恐怖なぞ感じたことは、一度としてない。
ああ、そうとも。彼女に感じるのは恍惚とした愛だけなのだから。
一方で、デイセントローズの母︱︱ペリーシャは、魔族としては
小物と評するのも足りない存在だ。
いくら無爵とはいっても、その能力の無さや、幼い子供にも劣る
ほど。それほどの微弱な魔力しか感じず、身体能力すら平均にさえ
届かないであろう、と一目で知れた。
最小の魔術でも、灰にしてしまえるほどの、取るに足らない存在。
そう頭では理解できるというのに。
息子が外せない用件で席を立った間、私の相手を買って出たのは
他ならぬあの母親だった。
だがあの手つき、目つき⋮⋮恐らく艶めかしさを演出しているつ
もりなのだろうが、おぞましさしか感じなかった。
遠くに座れば、椅子の距離を詰めてくる。やたらに体に触れたが
り、にじり寄ってきた。おかげで珍しく、人前で作法について注意
1154
してしまったくらいだ。
騒ぎを聞きつけたデイセントローズがその場をとりなし、母親を
遠ざけたが、そうでなければ私はそこが大公の城であることも、自
分を祝う大祭の最中であることも、また、相手が大公の身内であっ
たことも忘れて、殺戮の本能に従っていたかもしれない。
その上、一日目の夜はまだよかった。デイセントローズが気をき
かせて迎賓館に遣わしたのは、デーモン族の女性数人だったからだ。
だが、二日目の夜。
﹁ル、ルデルフォウス陛下︱︱陛下とぜひ、お近づきに︱︱﹂
荒い息の合間に、啜りあげられる涎の音。
それは月明かりにボウっと浮かぶ、血走ったラマの目︱︱
ラマには黒目しかあるまい?
ああ、そうだ。だが、確かにあの目は血走っていた。
そのくすんだ白い手が延ばされ、その膝が衣服の間を割って進み、
床をきしませるのを見た、その瞬間︱︱
いや、やめよう。もう過ぎたことだ。
こんな記憶は、一刻も早く忘れ去ってしまうに限る。でないと、
思い出すたびにこみ上げてくるものを、こらえなければならないか
らな。
﹁魔王様、魔王様? 大丈夫ですの?﹂
幸いにも、忘れるには最適な状況だ。
大祭の喧噪から離れて私は今、植物に囲まれた静かなサンルーム
でゆったりと紅茶を飲んでいた。
見事な金髪を巻き毛にした、小さなデーモン族の少女を前にして。
1155
﹁ああ⋮⋮すまない、マーミル姫。少しぼんやりしてしまったな﹂
﹁あら、魔王様。ただのマーミルで結構ですわ﹂
ジャーイルが所用で席を外している間、お茶の相手をしてくれて
いるのは、その妹だ。
同じく大公の身内だというのに、昨日とは雲泥の差ではないか。
﹁魔王様はお疲れがたまってらっしゃるのね。無理もありませんわ。
お兄さまみたいに、真面目なお方だと聞いてますもの﹂
反射的に否定を口にしそうになったが、なんとかこらえた。
なにも兄思いの妹の幻想を、私の手で打ち砕く必要もあるまい。
﹁この城に御滞在の間はお仕事は一つもないんですもの。きっとお
心もお身体も、ごゆっくりできるはずだわ﹂
マーミルは自分の席を立つと、私の空いたカップに紅茶を注ぎな
おしてくれた。
彼女の言うことは正確ではないが、子供からすれば歓待されるだ
けの身は遊んでいるように見えるのだろう。
それに事実、昨日までと違って、今このときは休息できているに
違いない。
マーミルも滞在初日である昨日は、傍目から見ても明らかなほど、
緊張を覚えていたようだった。だが、子供だけに変化に慣れるのに
も早いのだろう。今はすっかり、私にも自然な態度をみせている。
﹁そうだ、よければ後で野いちご館にご一緒しません?﹂
﹁野いちご館?﹂
﹁子供専用の社交会場ですわ。フェオレス先生が、用意してくださ
ったんですの﹂
﹁ジャーイルの副司令官の一人だったか。だが、先生?﹂
﹁騎竜を教えてくださってるんですの! だから、先生ですわ﹂
1156
なるほど。
﹁しかし、子供専用なら大人の予は参加できまい。それとも、給仕
としてでも、この身を御所望かな?﹂
﹁あら! 魔王様も冗談をおっしゃるのね!﹂
マーミルは明るい笑い声をあげ、それからハッとしたように口元
を抑えた。
﹁内緒にしてくださる?﹂
﹁なにを?﹂
﹁今、口元に手を当てないで大声で笑ってしまったことですわ﹂
彼女はキョロキョロと、怯えたように周囲を探った。誰かを警戒
しているようだ。
だがいるのはマーミルの後ろで百面相をしている彼女付きの侍女
と、給仕のために無表情で立っている家扶だけだ。もっとも、お代
わりは令嬢が手ずから注いでくれたが。
﹁エンディオンに知られたら、また怒られちゃう﹂
なるほど。対象は有能な家令か。
目の前の魔王より、しつけに五月蝿い家令に怯えるその子供らし
い無邪気な様子に、我知らず笑みがこぼれる。
﹁ああ、約束しよう。言いつけたりはしない﹂
﹁よかった。魔王様が弟君と違って意地悪じゃなくて! ベイルフ
ォウス様ならきっと、ニヤニヤしながら、どうしようかなっておっ
しゃるわ!﹂
確かに、弟ならそういう態度を取りそうだ。
ベイルフォウスは特に子供好きでもない。というより、一度とし
て子供に優しくしているところなぞ、見たことがない。
その弟ですら構いたくなる、というのも、こうして本人と話をし
1157
てみると理解できるような気がしてくる。
なるほど。妹が欲しいなどと妙なことを言い出したのも、無理か
らぬことかもしれない。たまにはこうして裏も毒もない会話を楽し
めるのが、その特典だというのなら。
そうして妹姫としばらく会話を楽しんでいたところへ、ようやく
城主が戻ってきた。
﹁お待たせしてすみません、魔王様﹂
﹁かまわん﹂
﹁妹が何か失礼をしませんでしたか?﹂
﹁あら、お兄さま! 失礼なのはお兄さまよ!﹂
マーミルは兄に対してツンと横を向いてみせる。
﹁全くだ。マーミルはむしろお前よりずっと、気の利く相手だとい
うのに﹂
私は立ち上がった。
﹁またまた魔王様。冗談がお好きなんですから﹂
なんだろう、拳を握る力が沸いてきたようだ。
﹁なんなら今日は一日、お前の代わりをしてもらいたいくらいだ﹂
私がそう言うと、ジャーイルの表情は強ばり凍り付いた。
﹁そんな⋮⋮兄弟揃って、そんなまさか⋮⋮﹂
覚束ない足取りでテーブルに近づいて来たと思ったら、肩を落と
して両手をつくジャーイル。
﹁魔王様までそんな﹂
毎度のことだが、芝居がかっている様がなんともウザい。もうホ
ント、ウザい。
かと思うと、ジャーイルは決然と顔をあげた。強い意志を瞳に込
め、そうして︱︱。
1158
﹁みんなーーーー聞いてくださーーーーい!
魔王様が、魔王様が
弟と同じ
ロ リ コ ︱︱﹂
私がどう対応したか、などということは、わざわざ語る必要もな
いだろう。
ジャーイルが頭を抑えながら医療棟を訪れるはめになった、とい
う、当然の結末も。
1159
111.いよいよ主行事も、開始を残すのはあと少しです
魔王様の滞在期間は、あっという間に過ぎ去った。
俺は毎食時を供にし、あちこちの催しに案内し、舞踏会に同席し、
時々どうしても外せない用事がある時以外は、魔王様をつきっきり
で歓待し続けた。きっと満足してもらえたと思う。ああ、それはも
う。
ちなみに、一度は仮装舞踏会も開催した。魔王様もその催しをい
たく気に入られ、その夜だけは女性を迎賓館に同行されたことを、
一応記録として残しておきたい。
だが、ずっと一緒にいた俺より、床を供にした女性より、誰より
魔王様との親交を深めた者がいる。
誰あろう、我が妹マーミルだ。
なんということであろう!
まさか魔王様が、弟と同じ趣味だったなんてー!
なんてーなんてーなんてー!
﹁おい、貴様⋮⋮今、またよからぬことを考えていたであろう﹂
おっと。魔王様の得意技が発動された!
その名も読心術だ。
やばい⋮⋮一昨日うっかりした時に砕かれた頭が、じんじん疼く
ではないか。
﹁いや、まったく、全然、何一つ、よからぬことなんて考えてませ
ん﹂
俺は素知らぬ顔でうそぶく。
﹁⋮⋮まあよかろう。今日までの歓待に免じて、誤魔化されておい
てやる﹂
1160
魔王様は今朝早く、我が︿断末魔轟き怨嗟満つる城﹀を出立され
た。
俺が魔王城までこうして随行してきたのは、なにも世界最強︱︱
対外的には︱︱の魔王様の護衛を買って出たからではない。
今日、この日に始まる主行事があるのだ。つまり今までと同様、
大祭主として開始を見届けねばならない、というわけだ。
そうでなければ俺も魔王様も、昼食をすませてお別れしたことだ
ろう。
ここは魔王城の︿大階段﹀を登りきったその先にある、全ての魔
族の中心的な建物、︿御殿﹀の西翼一階に位置する大広間だ。
東西南の三方をぐるりと広い回廊が囲む、天井の高い、南北に長
い大広間。北の壁を背に低い三段を登った壇上の中央には、天をつ
く背もたれの黄金の王座が置かれている。正面から見て左横にはそ
れに似た、けれど一回り小さな椅子が配置してあった。まるで王妃
が腰掛ける、その場所であるかのように。
そう思うのは、そこに誰が座るのか、知っているからだろうか。
二つの椅子の周囲には、素人目から見ても明らかに一級品と知れ
る宝飾品や家具・武具の数々が、その存在感を競い合うように並ん
でいた。これは何も、ただ展示してあるのではない。
今はがらんとした大広間を、もう数刻経てば一杯に満たすだろう
数多の魔族に、下賜するために用意された品々なのである。
そう。今日始まるのは恩賞会。魔王様と並ぶ席に腰掛けるのは、
その主行事の担当者である。
﹁ジャーイルの城の居心地がよすぎて、時間までに帰ってこぬので
はないかと怪しんでいたところじゃ﹂
妖艶さに満ちた声が、がらんとした大広間に木霊する。
1161
魔王様は回廊の西を仰ぎ見、その発言の主が南に向かって伸びる
階段上に見つけると、ゆったりとした足取りでその下まで迎えに行
った。
もちろんその相手が誰であるかなど、確認するまでもないだろう。
恩賞会の担当者、ウィストベルである。
﹁我が家臣は優秀だ。こうして準備万端に整えてくれている。それ
に予とジャーイルが少々時間に遅れたところで、そなたがいれば誰
一人として我らの不在など、気づかぬに違いない﹂
この間のウィストベルの注意が効いたのか、魔王様は穏やかに微
笑んではいるが、デレデレとはしていない。威厳は保ちつつ、優し
さのみが足された感じだ。
ウィストベルは自分に向けて差し出された魔王様の手を取る。
こうして改めて少し離れた場所から二人を見てみると、流れるよ
うなウィストベルの白髪と、頭髪から含めて黒で固めた魔王様との
対比は見事だ。
﹁上から全体の確認をしておった。確かに、主の配下は勤勉で、抜
かりないようじゃ﹂
﹁設営は問題なし、受賞者たちはいかがです?﹂
﹁すでに、別室で待機しておる。にぎやかしの家臣どもも同様じゃ。
いつなりと、恩賞会を始めることができよう﹂
魔王様は満足げに頷くと、彼女の手を自分の腕に絡ませ王座の元
へエスコートした。それだけでなく、そのままウィストベルをそこ
へ座らせる。
ちなみに壇上に俺の席はない。言っておくが、別に意地悪をされ
てのことではない。俺の役目は大祭主として開催を見届けるだけ。
行事の間中ずっとここにいる訳ではないからだ。
しかしさすがに主行事もここまで来ると、大祭も終盤という感が
1162
強い。あと開始を待つのは、大公位争奪戦を残すのみとなるからだ。
﹁本来ならば、ここにこうして座しているのは、そなたのはずだ。
ウィストベル﹂
おっと、魔王様。この場には俺たち三人しかいないとはいえ、大
胆だな。
﹁何を言う。本来もなにも、この三百年、実際に世を治めてきたの
は主じゃ。私であれば、こうも平穏な大祭を迎えることは叶わなか
ったじゃろう﹂
それには俺も同意だ。ウィストベルが魔王の座についていたとし
たら、きっと世は常にデヴィル族の血に濡れ、殺伐とした雰囲気に
支配されていたことだろう。
﹁私は何も、我に次ぐ力を持っていたという一時のみの理由から、
主を魔王の座につけたのではない。魔王として全魔族に君臨するに
相応しい力量を持つと、認めたからじゃ。それは私にはない、尊い
もの。でなくば、とっくにその命を奪ってもっと扱うに容易い者に
すげ替えていたであろう﹂
﹁ウィストベル﹂
﹁故に二度と、このようなことをしてはならぬ。魔王という地位は、
主にこそ相応しいのじゃから﹂
ウィストベルは立ち上がり、魔王様の頬を撫でた。
なにこの状況。
ちょっといいですか?
二人とも、俺がいるのを忘れてやしませんかね?
ちょっとは遠慮しようと思わないんですかね?
それとも、俺が黙って出て行け、ということですかね。
﹁ジャーイル﹂
1163
﹁あっ、はい!﹂
﹁何をボウッとしておる。そろそろ時間じゃ。ぐずぐずしていては、
とても二十日では足りぬほどの受賞者がおるのじゃ。とっとと動か
ぬか﹂
あーはいはい。わかりました、わかりましたよ。
働きます、働きますとも!
二人がそれぞれの正しい位置に座り直して、蟻が群がりそうな会
話を交わしている間に、俺はまずは別室で待つという儀仗兵を大広
間に配置し、重臣たちを順位順に整列させ、受賞者たちのチェック
をして、それから二人の元に戻ったのだった。
ちなみに褒賞の授与のための大広間は、その内部に見学者が入る
ことはできない。だが、映像は魔術であちこちに中継されているし、
東西にいくつもある扉は開放されて、そこから中を覗けるようには
なっている。
さあそうして一生懸命に働いて、ようやく準備が整った。ほとん
ど魔王様の配下が準備してくれていたので、俺は最後の点検と合図
を出しただけではあるが。
だがここで一つだけ、言わせて欲しい。小さい男だと思われても
構わない。
これは本来、主行事の担当者の仕事だったのだ、ということを。
ともかく恩賞会の始まりである。この宣言は、俺か担当者のウィ
ストベルがしなければならない。今までの主行事と同様に。
ちなみに打ち合わせはしていない。
当然、ウィストベルがそんな面倒を請け負うはずはないだろう。
そう判断して俺が口を開きかけたその瞬間、ウィストベルがすっく
と立ち上がったのだ。
1164
魔王様を間に挟んでやや前方に立っていた俺は、やや後退した。
だがそんな風に遠慮してみせなくても、ウィストベルの存在感は何
にも勝っている。
﹁今日より始まるのは恩賞会。数ある魔族の中で、魔王ルデルフォ
ウス陛下より褒美を受け取るに相応しい働きをしたものだけが、こ
の大広間に踏みいることを許される﹂
ウィストベルは両手を大きく、高く広げた。
今までの行事と違い、呼応するような歓声はおこらない。デヴィ
ル・デーモンの区別なく、誰もが瞬きを、息をするのを忘れてウィ
ストベルの美貌に魅入っているからだ。
いいや、全員が魅入っているという訳ではないのかもしれない。
恍惚としているというより、恐怖に強ばっている者も見受けられた
のだから。
わかる。わかるよ。
みんな! それは本能的な恐怖だ。君たちは、俺がいつもこの目
によって感じているものの片鱗を、感じたに違いない。
魔王様がさっき言ったように、今この瞬間は俺と魔王様の存在も、
忘れ去られているかのようだ。
﹁選ばれし者の名を呼べ。褒賞を受けるに相応しい者の名を。さあ、
恩賞会の幕開けじゃ﹂
妖美漂う女王様の宣言は、魔族にあらざる緊張と沈黙によって、
受け入れられたのだった。
1165
112.初日に褒賞を受けるのは、爵位争奪戦の勝者なのです
恩賞会は、六十八日から八十七日までの二十日間をかけて行われ
る。
褒賞を授与される者は、大祭主行事の勝者や成績優秀者、参加者
が主だ。具体的にいうと、爵位争奪戦の勝者、音楽会や舞踏会の演
奏者や特に評判の踊り手、美男美女コンテストの三十位までの入賞
者、競竜の五位までの入賞者、パレードに参加した全ての者、であ
る。
そのうち競竜の最終決勝戦と、美男美女コンテストは発表日は八
十日目に予定されているので、その発表後の授与となる。ちなみに、
コンテストの受賞該当者には前日に順位は知らされず、発表の場へ
の召集状だけが届けられるそうだ。
その他にも大祭で特に活躍が認められた者はもちろん、この際に
平時の働きが認められた者も表彰されることになっており、俺もこ
れにはサンドリミンを始めとする数人を推薦しておいた。
順序は主行事ならば音楽会をのぞいて、最終日を迎えた順番通り
で行われる。
つまり本来なら最後に受賞するのは、魔王城へと最終日に到着す
るパレードの参加者たちである。だがパレードが魔王城へ到着する
のは百日目。恩賞会が終わるのは、その二十日も前だ。
だから八百人のうちから八十人の代表者がやってきて、恩賞会の
最終日に目録を受け取ることになっている。ウォクナンはこれを率
いてやってくるが、彼自身はパレードに選ばれた参加者ではないの
で、褒賞は授与されない。
その後に大公位争奪戦が予定されているが、これに対する褒賞は
1166
ない。その地位が何よりの褒美だとでもいうように。もっとも、そ
う感じるのは序列の上がったものだけだろう。
誰がどう上がり、下がる者が誰かは︱︱俺はもちろん、ある程度
の予想をたてられる。誰にも言わないが。
まあとにかく、そんなふうに予定されている恩賞会だから、一日
目は爵位争奪戦の勝者への授与から始まる。
通常なら爵位の争奪をかけて戦った場合、手続きが終わり次第許
可が来て、その地位に就くものだが、今回ばかりは手順が違った。
奪爵に成功したものは、この授与式を終えて初めて新しい住まいへ
の転居が叶い、その地位を受けるのである。爵位争奪戦はとっくに
終わっているから、待たされた時間が長いだけ、感慨もひとしおだ
ろう。
その受賞者は、七百十九名。単純に参加者を割った数より減って
いるのは、一度は防衛したが、最終的に別の者に敗北したという者
が、多数認められたからだ。それは、他の者との戦いで相手の実力
を計った上で、改めて挑戦した者も多かったとということを示して
いた。
ところでその勝者の中にはもちろん、我が軍団長ティムレ伯爵も
含まれているのだった!
もっとも、彼女の場合は挑戦を受けて退けたのであって、上位に
上がった訳でもないから爵位も上がらないし、当然転居の必要もな
い。ただ、自分の地位を挑戦者からよく守ったね、と、表彰される
だけだ。
俺は当然、それを見届けてから帰るつもりだった。だというのに。
﹁えー。そんなわざわざいいよ。忙しいんだろ? 帰りなよ、今す
ぐ!﹂
ティムレ伯はそっけない。
1167
遠慮している、というより本当に迷惑そうだ。
ちなみに今日の犬伯爵は、魔王様の御前に出るからだろう。もの
すごく着飾っている。とはいえドレスを着ている訳ではなく、以前
大演習会で誂えた軍服を基礎に、宝飾やらリボンやらを足して華美
にしたような格好だ。
﹁⋮⋮俺、ティムレ伯に何かしました?﹂
﹁なんで?﹂
﹁この間から、冷たいですよね⋮⋮﹂
今だって﹁大きな声を出さないで!﹂とのたまうや、人通りの少
ない、暗くてじめじめした階段下に、俺を引き込んだのだから。ま
るで俺と話しているところを誰かに見られでもしたら恥ずかしい、
と言わんばかりの態度ではないか。
そのうえ話をしていても、ものすごく小声だし。
﹁あのさぁ、ジャーイル﹂
ティムレ伯も俺に負けじと大きなため息をつく。
﹁君はさ、もう大公なわけだよ。それなのに以前通りに接すること
なんて、できるはずないだろ?﹂
ぐ⋮⋮。
﹁考えてもみてごらんよ。あたしより遙かに上位の魔族でも、君に
はなかなか話しかけられないんだよ。なのに、その君があたしに親
しげにしてるのをジ⋮⋮⋮⋮⋮⋮、誰かに見られてみなよ。反感買
うのはこっちだからね。君だって、大公っていう地位の重みはわか
るだろ?﹂
確かに、そうかもしれない。しれない⋮⋮けど⋮⋮。
﹁じゃあ、俺はもうティムレ伯には自分から話しかけちゃいけない
んですか﹂
﹁できるだけね!﹂
1168
まさかの即答だ!
わずかのためらいもなかった⋮⋮。
﹁絶対とは言わないけど、話しかけるならせめてもうちょっと、固
い感じにしてくれない? ほら、さも軍務上の用事だ、みたいにさ。
あと、人目のあるところではもうちょっと遠慮してくれない?﹂
なにこれ。なにこの拒絶。
ものすごくグサグサくるんだけど。
やばい。繊細な俺は本気で落ち込みそうだ。
﹁君は知らないだろうけど、すでにあたしは多大な迷惑を被ってる
からね。この間だって、副司令官に屋敷まで押し掛けられて︱︱﹂
﹁副司令官が?﹂
ティムレ伯の屋敷に、副司令官の誰かが行ったって?
それでっても迷惑をかけている、だって?
﹁一体、どの副司令官が、何をしに?﹂
うっかり口が滑ったのだろう。ティムレ伯はしまった、という表
情で口を塞いだ。
﹁いや、なんでもない。今のは忘れてくれ﹂
﹁そういう訳にはいかないでしょう。迷惑をかけているってなら、
尚更﹂
﹁迷惑じゃない! 表現を間違っただけだよ! 迷惑じゃないって
!﹂
﹁⋮⋮まさか、内緒にしろと脅されでもしましたか?﹂
﹁違う違う! そんなんじゃないって!!﹂
焦る様子がとても怪しい。
しかし、俺の件でティムレ伯の屋敷に行くかもしれない副司令官、
となると。
﹁ヤティーンですか?﹂
1169
﹁誰がとか、そんなことは問題じゃないんだよ。わかるよね? そ
ういうのはよくない! 犯人探しみたいなのは、よくないよね! お願いだから、察してよ!﹂
そこまで言われては、強引に聞き出すのも気が引ける。
俺が無理を通して、ティムレ伯を追いつめては本末転倒だ。
﹁わかりました。でも、本当にこれはひどすぎる、と感じたら、絶
対に訴えてきてくださいね﹂
﹁ああ、ありがとう。そうするよ。⋮⋮っていうか、なんでヤティ
ーン隊長﹂
そう、隊長だ。ヤティーンは現在治安維持部隊の隊長なのだ。
なぜそのヤティーンか?
なぜならば、俺とティムレ伯が親しくすることで、いざこざが起
こるとする。今ならそれを平定するのは、ヤティーンの仕事のはず
だ。それであらかじめ釘を刺しにでもいったのかと思ったのだが。
﹁だいたいさ、あたしの受賞を待つって、前に何人いるかわかって
言ってるの?﹂
﹁⋮⋮いや、正確には﹂
﹁だろ? 爵位を護った者から、それも上位者からの表彰とはいえ、
伯爵なんて中途半端な地位じゃ、今日中には呼ばれないかもしれな
いのに﹂
ティムレ伯がそういうのも、当然七百余名への受賞を一日で終え
ることなどできはしないからだ。なにせほぼ同じ規模のパレードと
違って、爵位争奪戦の受賞者は代表者にではなく、全員がきっちり
表彰されるのだから。
いちいち名前を呼ばれて長い広間を誇らしげに縦断し、魔王様の
前に跪く。そうすると係の者が一人一人の名と概要、褒賞の目録を
読み上げる。その後に魔王様が王座から立ち上がって、褒賞そのも
のか目録を手ずから授与される。
1170
ウィストベルは、担当者としてそれを横で見ているだけに留まる
はず。もっとも、踏んで下さいと特別にお願いしたら、叶えてもら
えたりはするかもしれない。
﹁君は大公のうえ、大祭主だろ? こんなところで一配下の、いつ
になるかわからない受賞の瞬間を待っている暇なんて、ないはずだ。
わかったら、誰かに見られる前に帰りな﹂
﹁⋮⋮はい⋮⋮﹂
なんて正論だ。ぐうの音も出ない。
﹁あたしももう行くから! じゃあね﹂
俺の肩を叩きながらそう言うや、ティムレ伯は言葉通りにあっさ
りと行ってしまったのだった。
ちょっとだけ⋮⋮ちょっとだけ、しゃがみ込んでいじけていいか
な。
俺がしゃがみ込もうと、壁に手をついたその時。
﹁誰かに見られる前に、ね⋮⋮﹂
聞き覚えのある声が背後からかかる。
﹁見ちゃったけどね﹂
振り向くと、そこにはあふれる好奇の目を隠そうともしない、一
人の大公の姿があった。
﹁サーリスヴォルフ。なぜここに⋮⋮﹂
﹁君さ、もしかしてデヴィル族専門なの?﹂
は? なにその質問。
どうしよう、意味がわからない。
﹁ウィストベルから迫られても、ちっとも応じないし、デーモン族
の女性との噂はたまに聞こえてくるけど、実態はないみたいだし﹂
聞き捨てならないな! ウィストベルは怖いだけだし、怖くない
ウィストベルから迫られれば、俺だってぐっとくるんだが!
1171
まあさすがにそうでも、魔王様に遠慮くらいはするけど。
他のデーモン族の女性との噂だって⋮⋮確かに実体はないかもし
れないが⋮⋮。
でもそれは仕方ないじゃないか。今は仕事が忙しくて、そっちに
まで気を回せないだけで、これでも普通に願望はあるんだ!
﹁陛下になれなれしいから、男色を疑ってみたこともあるんだけど
ね。まあ、そういう訳でもなさそうだし、不思議に思ってたんだよ
ね﹂
﹁冗談でも気持ち悪い﹂
背筋を冷たいものが走った。いくら魔王様の寵臣とはいっても、
そういう関係となると話は別だ。
それにしても、なれなれしい⋮⋮。
ちょっとショックだなぁ。そんな風に思われていたとは。
﹁でもそうか、異種好きとなれば、納得はできるよ。今の犬の彼女
に対する態度を見れば、ね。珍しくベイルフォウスと気が合うのも、
そのせいかな? 茨の道かもしれないが、まあがんばって。応援す
るから﹂
サーリスヴォルフは訳知り顔で頷いている。
﹁納得するな! 確かにティムレ伯は好きだが、そういうつもりは
全くない﹂
なにが嫌って、ベイルフォウスと同じ趣味だと思われるのが何よ
り嫌だ。
﹁ならもしかして、あのアレスディアとかいう侍女が本命かな? あれほどの美女だものね。それになんでも君の可愛い妹御が、ずい
ぶん慕っているそうじゃないか。それも愛する兄上の大切な人であ
るからと考えれば﹂
﹁バカなことを言うな。彼女はそれこそ、マーミルの母親代わりだ。
1172
俺とは関係ない﹂
﹁へえ﹂
アレスディアがデーモン族だったなら、年も近いことだし、俺だ
ってどうなっていたかわからない。だが実際に彼女はデヴィル族。
もうその時点で、完全に対象外だ。
だいたい、サーリスヴォルフは常に相手をからかうような態度を
とるから、どこまで本気の発言なのか正直怪しい。そんな相手のペ
ースに付き合っていては、こちらが不利になるばかりだ。
こういう時は、話題を変えるに限る。
﹁そう言えば、パレードは今そちらだったな﹂
適当な話題を振ったのではない。サーリスヴォルフに会ったら、
聞きたいと思っていたことだ。
あれ以降、宴についてサーリスヴォルフからの言及はない。念を
押したかいあって、ウォクナンも自重したのだろう。
﹁実際に目にしたけど、驚くほどの美貌だったよ。まさかアリネー
ゼと張る美貌の主が、この世に存在するだなんて。しかもまた彼女
とは違う魅力があって、ゾクゾクしたよ﹂
さすがサーリスヴォルフ。デヴィル族が相手なら、男女の見境は
ないらしい。
﹁あれほどの美女でなければ、食指は動かないとか?﹂
結局話はそこに戻るのか。
まあ、ぜんぜん関係ない話題を振らなかった時点で、俺の失敗か。
﹁俺にはデヴィル族の美醜はわからない。もちろん、アレスディア
が本命だなんてことは、断じてない﹂
﹁つまり相手にこだわりはないと? なら、私が遊び相手になって
みようか。なにせ体の大部分は君たちと変わらない。色々やりやす
1173
いと思うけど?﹂
﹁冗談はその辺でやめてくれ!﹂
今までと違う触れ方をされて、背筋が凍った。慌ててその手を弾
く。
﹁その反応⋮⋮やはり、犬の彼女が特別なのかな? それとも完全
に動物体でなければいけないとか﹂
﹁バカ言うな。違うと言っているだろう﹂
ホント、なんなのこの人!
しつこいんだけど!
﹁からかうのもいい加減にしてくれ、サーリスヴォルフ。もしも俺
の忍耐力を試しているのなら、そろそろ限界だ﹂
﹁はは。なら、止めておこうかね﹂
おい⋮⋮おい!
﹁君がデーモン族しか受け付けないらしいことは、よくわかってい
るよ。この間、リリアニースタと踊っていただろう?﹂
﹁サーリスヴォルフも彼女を知っているのか﹂
っていうか、あの時近くにいたのかよ。なら助けてくれてもよか
ったのに!
﹁リリーのことは、一定以上の年齢の者なら、知らない者はいない
だろうね﹂
ああ、前回の美男美女コンテストで入賞したんだもんな。
﹁成人してそれほど時間も経ずに侯爵位まで駆け上った実力と、そ
の美貌で目立っていたからね。加えてすさまじい自信家で⋮⋮私も
当時は同位だったが、喧嘩を売られた覚えがあるよ﹂
⋮⋮武闘派か。相当の武闘派なんだな。そうでもなけりゃ、同位
相手にもめないよね、普通。
うん、彼女にはあまり近づかない方がよさそうだ。
1174
その勝負の勝敗はどうなったのか、とかも聞かないでおこう。
﹁それが正式に一人を選んで結婚したとたんに姿を見なくなって⋮
⋮もうとっくに死んだものだと思っていたよ。彼女、随分丸くなっ
たもんだね﹂
へえ⋮⋮あれで丸くなってるのか。
﹁そんな彼女が出てくるくらいだ。そっちが君の本命だったのかと
も疑っているんだよね﹂
﹁それもない。⋮⋮っていうか、俺の恋愛ごとなんて、気にして楽
しいか?﹂
サーリスヴォルフの俺に対する興味と言えば、色恋沙汰に関わる
ものばかりな気がする。俺自身のこともそうだが、マーミルに及ぶ
まで。
﹁そりゃあ﹂
満面の笑顔で頷かれた。
﹁君の反応が楽しい﹂
ちくしょう!
動じないぞ、もう今後一切動じないぞ!
もういい。今だって、こんな話をいつまでも続けていたら、余計
サーリスヴォルフを楽しませるだけじゃないか。
﹁それで、今日は何をしに魔王城へ? 記念舞踏会に出席する日だ
ったのか?﹂
俺はため息をついた。
﹁ああ、いいや。そっちの今日の担当は、プートさ。私は別の用事
⋮⋮美男美女コンテストの結果が出たので、魔王陛下にご報告に、
ね﹂
サーリスヴォルフは懐から、結果が書かれているのだろう紙の束
を取り出した。
1175
そうか、集計が終わったのか!
﹁で、一位は誰に⋮⋮﹂
﹁おや、さんざん知らんぷりしておいて、結局は興味があるんだね﹂
まあそりゃあね! なんのかんの言ったけど、やっぱり単純な興
味は沸いちゃうよね!
﹁んーでもなぁ。いかに大祭主といえど、陛下より先に教えてあげ
るわけにはいかないなぁ﹂
ああ、そりゃあそうだよな。
﹁大祭行事の締めとして、どうせ発表の時には君にも同席してもら
うんだ。いっそ、それまで愉しみにしているといいよ﹂
なるほど。俺が知れるのは当日か。
いや、違うよ?
別に前日に知らせがくるだろう︱︱つまり、上位に入れるだろう、
なんて自惚れてた訳じゃない。本当だ。
全魔族のうちでデーモン族に限るとはいっても、三十人のうちに
入れるとはさすがに思っていない。
大祭主だから、先に教えてもらえるかな⋮⋮と考えていただけな
んだ。
﹁そういえば、君⋮⋮何か知らないかな?﹂
﹁何かって、何を﹂
また色恋沙汰の話か?
﹁コンテストの投票数がね⋮⋮﹂
えっ。
﹁ほら、普通は成人魔族は全員投票することになってるだろ? で
もどうも、投票用紙を取りに来ていない者がいるようでね﹂
しまった!
通常は取りにいくんだっけ? 俺には係の者が届けてくれたから、
1176
うっかりしてた。
﹁知らない間に、亡くなってたとか﹂
﹁それはないね。紋章管理官が発行してるんだよ? その紋章符の
有無に基づいて﹂
ですよねー。
紋章符は死ねば自然と消滅する。つまり、投票用紙を作成した時
点では、必ずその者は生存しているのだ。
﹁なら、帰る途中とかにうっかり投票用紙をなくしてしまったとか
?﹂
﹁そもそも取りにきていないのに?﹂
そうだった!
﹁いや、取りに行く途中で何かあったのかな? ほら、大怪我をし
たとか、そもそも取りに行くのを忘れてしまっている、とか⋮⋮﹂
作成後に亡くなったとか、とは冗談でも言いたくない。
﹁君⋮⋮﹂
サーリスヴォルフは苦笑を浮かべた。
﹁まるで庇っているみたいだよ? 誰とも知らぬはずなのにねぇ﹂
ぎく。
﹁まあ万が一君の知り合いだったとしても、誰も罰則を与えるとは
言ってないんだから安心して﹂
思わず弁解しそうになってしまったが、逆効果だと悟った俺は、
それ以降は口を噤むことにした。
結局さんざん俺のことをからかったあげく、サーリスヴォルフは
紙の束を見せつけるように振りながら行ってしまったのだった。
1177
113.心配事は、ある日突然訪れるのです
今日、パレードはいよいよウィストベルの領地に入る。
ウォクナンがいらぬ要望を出したのではないかと心配だったので、
ウィストベルにそれとなく尋ねてみた。
だがさすがに念を押しただけあって、今回はリスゴリラも自重し
たとみえる。︿暁に血濡れた地獄城﹀に、おかしな手紙などは届い
ていないようだった。
もっとも酒宴を開けといったって、肝心のウィストベルはしばら
く毎日、恩賞会で魔王城に日参していて、不可能ではある。
とにかく俺は、ウォクナンが余計なことをしていないということ
を確認できただけでも、心の平安を得ることができたのだ。
だがどういう訳か、俺の身近に悩みを抱えた者がいるようだ。
﹁はあ⋮⋮ふう、⋮⋮⋮⋮はあ⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮。
﹁どうした、マーミル。ぼんやりして﹂
いつもうるさい妹が、どうしたことかさっきからため息ばかりつ
いている。朝食のパンケーキにナイフは入れるものの、細切れにす
るばかりで一欠片も減っていないのだ。
しかも。
﹁マーミル?﹂
返事すらない。いつもなら、瞳をキラキラさせながら、ガン見し
てくるのに。
アレスディアが行ってしまって悲しいのはわかる。だが俺の領地
でさんざんついて回った後は、最初の頃よりは落ち着いてきていた
1178
のだが。
日にちがたって、悲しみがぶり返したのだろうか。
いいや、これはそういう感じではない。
﹁大丈夫ですわ、ジャーイル閣下﹂
ネセルスフォが言った。
今朝はスメルスフォたち全員とでなく、俺と妹の他は双子のみが
同席している。俺が長方形の食卓の短辺に当主らしく一人で座り、
右手の長辺に妹が、左手に双子が座っているという配置だ。
﹁ええ、マーミルは患っているだけですもの﹂
ネネリーゼが姉妹と顔を見合わせ、頷き合っている。
二人はどう見ても、冷静だった。
﹁患っている?﹂
それって、病気の時に使う単語だよな?
﹁まさか⋮⋮また熱でもあるんじゃないだろうな? サンドリミン
には診せたのか?﹂
俺は席を立ち、妹に歩み寄った。
その狭い額に手を当てる。確かに熱い。だがいつもの妹の体温だ。
異様な熱さは感じない。
そこまで近づいて、赤い瞳はようやく俺を捉えた。
﹁あら、お兄さま﹂
一応こちらを見てはいるし、認識はしているようなのだが、それ
でも視点が定まっていない感じだ。
﹁まさか、また赤い飴を食べたとか言いださないだろうな。拾い食
いは止めろとあれほど⋮⋮﹂
﹁ジャーイル閣下。違いますわ﹂
双子のどちらかが、ため息をついた。
﹁マーミルが患っているのは⋮⋮﹂
1179
それに続いて双子から語られた話に、俺は呆然とする他なかった
のだった。
***
﹁はあ⋮⋮ふう、⋮⋮⋮⋮はあ⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮閣下、どうした、の?﹂
そう。
今ため息をついていたのは、マーミルではない。俺だ。
﹁なにか、悩みごと?﹂
数冊の分厚い本を胸元に抱き、ちょこんと花葉色の頭を傾げて聞
いてくるのは、大祭が始まっているというのに相変わらず図書館に
引きこもっている我が城の司書だ。
最近ミディリースは、俺が図書館に出向くと、いちいち名前を呼
ばなくても姿を見せてくれるようになった。最初の頃よりずっと、
心を開いてくれているようだ、と勝手に解釈している。
ところでここにやって来たのには、もちろん理由がある。ただ息
抜きのために来たわけではない。
﹁聞いてくれるか、ミディリース﹂
﹁⋮⋮聞くだけなら﹂
俺は隣の椅子の背もたれを叩き、着席を促す。ちょっとだけ嫌そ
うな顔をされたが、それでも一応そこに腰かけてくれた。
⋮⋮少しだけ、距離を離されはしたが。
﹁実は、俺には妹がいてな﹂
﹁⋮⋮さすがに、知ってる﹂
1180
ああ、知ってたか。世の中のことは、領主が変わったくらいしか
認識していないのかと思っていた。
﹁その妹が⋮⋮妹が、だな⋮⋮﹂
﹁うん﹂
﹁⋮⋮妹が⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
俺は左手を額にあて、読書机の上に肘をついた。
﹁まだ小さいのに⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
聞いてくれと言ったものの、この先を口にするのは躊躇われた。
心情的に抵抗が⋮⋮。
﹁妹姫、好きな人でも、できた?﹂
﹁!﹂
まさか!
妹のことを直接見知っている訳でもないミディリースが、事実を
言い当てるなんて!
﹁読心術⋮⋮?﹂
ミディリースはぶるんぶるんと首を左右に振る。
﹁閣下、お父さんみたいだった﹂
ミディリースは抱えていた本の束を机の上に置き、中から薄い本
を一冊引き出して、ぱらぱらとページをめくった。
そうして目当ての箇所を見つけたらしく、そこを開いて内容を示
してくる。
﹃か、母さん⋮⋮本当なのか。ティアがあの若造を⋮⋮あの若造
とっ﹄
﹃レルフォのこと? ええ、二人は恋人同士なのよ、あなた。と
っくにね﹄
﹃な、なんだってー! 許さん、許さんぞーーーー!﹄
1181
﹃あなた、落ち着いてあなた!﹄
﹃あの若造めっ! 両手両足を引きちぎり、五臓六腑を尻の穴か
らかきだし、○○○をちょんぎってやるーーーー!!﹄
﹃きゃああなたやめてー誰かー誰かー﹄
⋮⋮いや、なんでこれ見せてきた、ミディリース。
別に俺の状況と被ってないだろ。
っていうか、なんだよこの駄文。もうなんか、文字を目で追うの
も恥ずかしい出来なんだけど。こんなものが製本されて世に出てい
るっていうのは、由々しき事態︱︱おっと。今はそういう話をして
いたんじゃないな。
﹁とにかく﹂
俺はその本を閉じた。
﹁まあそういう感じだ。ああ、本のことじゃなくて﹂
もちろん、本に同意はしていない。あんなおかしな内容と、俺を
同一視しないでもらいたい。
ただ、ミディリースの言葉を反復するのには抵抗があったのだ。
﹁マーミル姫に、好きな人が﹂
﹁名前も知っているのか。そう、マーミルというんだ。見たことは
あるか? 俺と同じ髪の色で、目は︱︱﹂
﹁閣下、現実逃避、よくない﹂
⋮⋮くそっ!
くそ、くそっ!
俺は頭を抱え、机に突っ伏した。
小さな手が、肩をぽんぽんと叩いてくる。
﹁誰しも、通る道﹂
﹁⋮⋮野いちご館というところで、子供専用の舞踏会を開いている
1182
んだが﹂
﹁それも、知ってる﹂
大祭の行事も把握してはいるのか。しかしどうやって?
エンディオンにでも確認したのか?
﹁どうやらそこで、会う相手らしい﹂
なんか相手って表現するのも、特別な意味があるように思えて嫌
なんだけど。
﹁マーミルよりは年上の⋮⋮らしくて⋮⋮﹂
双子がざっくりと特徴を教えてくれた。
髪は薄茶、琥珀色の双眸をした、上背のある少年だとか。
見ない顔だと思っていたら、つい先日、父親が恩賞会を経て俺の
領地に移動になったということらしい。つまり、今回の爵位争奪戦
の勝者として、爵位を得て俺の配下に加わったということだ。
⋮⋮ああ、もちろんデーモン族だ。それも随分と紳士的な振る舞
いをする少年らしく︱︱子供なのに、子供なのに!
将来に甘い夢は抱いているが、実際に男子と話すのには慣れてい
ないマーミルは、ちょっと優しくされてキュンキュン︱︱双子がこ
う言ったんだ︱︱してしまったらしい。
﹁子供だと思っていたのに⋮⋮!﹂
ベイルフォウスでなければまあいいか、とか思っていた自分を殴
ってやりたい!
まさか妹の初恋を実際に耳にしただけで、こんなにもショックを
受けるだなんて⋮⋮!
違う。そうじゃない、ショックなんて受けていないとも! そう
とも。だからこそ、俺はここにいる。
﹁閣下。気を、落とさないで﹂
俺の頭を撫でてくる、ミディリース。
1183
﹁ありがとう、ミディリース。でも俺はなにも、君に慰めてもらう
ためにここに来たんじゃないんだ﹂
そうとも、泣いてもいないからな!
﹁実は⋮⋮﹂
﹁嫌﹂
まだ何も言ってないのに!
こんな時だけ勘が鋭いだなんて、理不尽じゃないか?
﹁妹の﹂
﹁駄目﹂
﹁様子を﹂
﹁行かない﹂
﹁相手の﹂
﹁無理﹂
﹁人物を﹂
﹁探らない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁野いちご﹂
﹁嫌い﹂
﹁子供専用の﹂
﹁子供じゃない﹂
﹁ミディリースなら﹂
﹁無理﹂
﹁潜入﹂
﹁嫌!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁頼むから、野いちご館に行ってマーミルとその相手の様子をみて
1184
きてくれっ﹂
﹁無理無理無理無理!﹂
﹁ミディリースじゃないとできないんだっ! 大丈夫、君なら子供
に見えるっ!﹂
﹁無茶無茶無茶無茶!!﹂
﹁頼むっ! 本ならいくらでも入れてやる! 今後はもう無理も無
茶もいわない!﹂
﹁駄目駄目駄目だ⋮⋮⋮⋮ほんと、に?﹂
おっと!
ようやく、絶対拒否の姿勢が崩れかけてきたか。
﹁ほんとだ。約束する。この約束以後の件で、この図書館から君を
無理矢理引きずり出そうとはしない。⋮⋮この約束以後に無茶を言
うことも、以後の件で強要することも、しないと誓う﹂
正直に言おう。俺は今、ずるい言い方をしている。
ミディリースに気づかれないように、ずるい言い方を。
﹁図書館に⋮⋮こもってて、いい?﹂
﹁いい。なんなら、もっと引きこもりやすいように設備を増やして
やってもいい。私室に何が足りないのか、言ってくれればその通り
にしよう。そうだ、以前から増築を考えていたんだ。そのついでに、
君の部屋を広げるってのはどうだ?﹂
まあ、そんなこと言っても俺は、ミディリースの部屋にお邪魔し
たことはないから、正確にはどこにどのくらいの規模でどんな設備
が存在しているのか、全く見当もつかないのだが。
ミディリースは腕を組んで暫く考え込んでいたが、ようやく思い
切ったように腕を解き、まっすぐ俺に視線を合わせてきた。
﹁いい。見てきて、あげる⋮⋮﹂
﹁本当かっ!﹂
1185
﹁ただし、うまくできるか⋮⋮わからない⋮⋮﹂
﹁ああ、かまわない。できる範囲で見て、教えてくれ。ありがとう
な!﹂
俺はミディリースの頭をがしがしと撫でた。
﹁ちょ⋮⋮荒い、荒い!﹂
﹁おっと、ごめん﹂
手を離すと、ミディリースは口を尖らせながら、髪を整えだした。
なんかつい、ミディリースには犬猫相手みたいな対応をしてしま
う。だがしかし、よく考えてみよう。相手はむしろ、俺より年上の
お姉さんだ。
ちょっと反省しよう。
﹁じゃあ頼んだ。ドレスが入り用なら、エンディオンに言ってくれ。
必要なものは、なんでも用意させる。結果はまた、後日聞きにくる
から﹂
そうして俺は、図書館を出た。
そのまま足取りも軽やかに、執務室に向かう。
わかってもらえただろうか?
そうとも、ショックを受けているように見えたのは、実はフリだ。
作戦⋮⋮これは、作戦の一環なのだ!
そう、ミディリースにも大祭を味あわせてあげよう作戦、のな!
何かいい手はないかと考えていたところへ、マーミルの件だ。幸
い、ミディリースはかなりの童顔。それを利用できないか、と思っ
てこういう手を取っただけのこと。ミディリース自身だって、大人
相手より子供相手の方が、まだ気が楽に違いない。
そうとも⋮⋮胃がキリキリ痛むこともない。こんなのは気のせい
だ。
マーミルが⋮⋮妹が、俺の妹が⋮⋮。
1186
いいや。ミディリースの言ったとおり、こんなことはよくあるこ
と。ああ、誰にだってある。俺にだって覚えのある話じゃないか。
だからいちいち、ショックなんて受けない。受けるはずがない。
妹の理想が甘ったるいのは、普段から聞かされて承知しているし
な。
そうとも⋮⋮。
﹁旦那様? いかがなされました。どこか具合でもお悪いのですか
?﹂
背中ごしにかかる、優しいエンディオンの声。
でもちょっと放っておいて。落ち込んでなんてないけど、放って
おいて。
﹁立てますか、旦那様。よろしければ、椅子をお持ちしましょうか
?﹂
立ってるよ。立ってるから、放っておいて。
マーミルが、マーミルに、す⋮⋮す⋮⋮す︱︱相手が、だなんて、
そんなこと位で。そんなことを気にしたりなんて、するはずがない
じゃないか。
その後、ミディリースの身を張った調査の結果を俺が聞きにいけ
たのは、十日も後のこと︱︱コンテストの発表も、競竜の決勝も終
わった、その後のことだった。
1187
114.なんでも端から拒否せず、楽しんでみるべきかもしれま
せんね
﹁はあ⋮⋮ふう、⋮⋮⋮⋮はあ⋮⋮⋮⋮﹂
﹁どうかなさいましたか、ジャーイル大公﹂
おっとしまった。気を抜いてはいけない相手の前でまで、ため息
なんぞついてしまった。
﹁いや、なんでもない。それより、そろそろか?﹂
﹁そうですね﹂
隣に立っているのはデイセントローズ。ここは魔王城の︿大階段
﹀を登り切ったその地点に、三百mの幅と百mの高さと十mの厚さ
を保って造られた、立派な石門の上だった。
今日この一日、主行事のためだけに造られ、明日には崩される門
だ。
そうしてここから見渡せる限りの場所には、この大祭中何度も目
にした光景が広がっていた。
大地を揺るがす歓声を、かけらも惜しまぬ大観衆の姿である。
その目的は、目にも留まらぬスピードで飛び込んでくる竜の勇姿
を見るためかもしれなかったし、ここから読み上げられる百二十に
も及ぶ名を、聞きもらさずにいるためかもしれなかった。
そう。
今日は︿魔王ルデルフォウス大祝祭﹀の八十日目。
午前には競竜のすべてのレースに決着がつき、午後には美男美女
コンテストの三十位以内に入賞した者の、発表がある日なのだ。恩
賞会もこの日ばかりは、この勝者と上位入賞者の発表を待って、そ
れらの者にだけ褒賞が授与される。
俺はそのどちらをも、大祭主として魔王様とともに見届けるため
1188
にここにいる。
今は魔王様も俺たちの後ろに王座を置いて、レースを観戦してい
るし、ウィストベルは城内のどこかで休憩中だ。彼女も競竜には興
味があって、レースにも賭けているかもしれない。けれどラマが担
当者である限り、この場にはやって来ないだろう。
サーリスヴォルフも午後の担当だから、すでに魔王城のどこかに
は来ているに違いない。
﹁結局、ジャーイル大公は、どの竜にもお賭けになりませんでした
ね﹂
﹁他の者が楽しんでいるのを見ているだけで、満足してしまってな﹂
賭札だけは、幾枚も目にした。築城作業員たちのかなりの者が、
競竜に参加していたからだ。
﹁プート大公とベイルフォウス大公は、随分札をお求めでしたよ。
代理の者が毎日、来ておりましたから。もしかすると、今もどちら
かでご覧になっておいでかもしれません﹂
そう言えば二人とも、予選の初日から賭けてるっていってたっけ。
これ以上、大公城に物を増やしてどうするつもりだ。
﹁しかしプート大公はともかく、ベイルフォウス大公は負け越して
いたようですが﹂
﹁へえ。あいつ、負けたのか。それならさぞ、みんなにいいものが
配られただろうな﹂
だったら参加して、却ってよかったのかもしれない。
﹁女性に対し、ご自身を支払いにあてられたようです。さすがです
ね﹂
なにがさすがだ。聞くんじゃなかった。
﹁魔王様はどうなんです? 賭けられたんですか?﹂
1189
いつまでもデイセントローズと二人きりで話していても、全く楽
しくない。ここは魔王様を巻き込むに限る。
﹁ああ。︿死して甦りし城﹀に滞在したときに︱︱賭札を少しな﹂
その時何を思い出したのか、平時には氷にも例えられるその双眸
が、苦痛を感じたように揺らめいた。もっとも一瞬だが。
﹁先日は、母が大変な失礼をいたしまして﹂
﹁ああ﹂
デイセントローズ、一応母親の失礼には気づいているのか!
それにしても魔王様の配下の謝罪に対する返答が、短くとはいえ
肯定とは珍しい。いつもなら﹁かまわぬ﹂とか言いそうなのに。
よっぽどだったのか⋮⋮何をしたんだろう、あのラマ母。
⋮⋮いや、夜這いだってのは聞いてるから、むしろ詳細は知りた
くもないが。
﹁そのお詫びの意味も兼ねて、またぜひいらして下さいと、母も申
しておりました﹂
厚顔とも言える申し出のせいで、今度ははっきりと表情に歪みが
定着する。
苦痛どころか明らかな嫌悪感が、その顔全体を覆ったのだ。心情
はお察しする。
空耳でなければ、歯ぎしりの音も聞こえたと思う。
﹁あー、おほん。魔王様、うちの妹も、ご滞在に対して感謝を申し
ておりました﹂
ここは仕方がない。俺がその場をとりなすしかないではないか。
デイセントローズの為ではない。魔王様の、名誉と威厳を守るた
めだ。ほら、俺って忠臣だから!
﹁ああ。予からも同様の思いであると、妹御に伝えておいてくれ﹂
だが自分で言っておきながらなんだが、今度は俺の表情が曇る。
1190
なぜかは察してもらえると思う。
俺はまだ、ミディリースのところにさえ、その結果︱︱はっきり
言いたくない︱︱を聞きにいけていないのだから。
﹁なんだ、その顔は﹂
﹁⋮⋮いえ、なんでも⋮⋮。お言葉ありがたく、妹に伝えておきま
す﹂
﹁ちょっと待て。まさかお前、また弟と同じ扱いをする訳ではない
だろうな﹂
﹁魔王様のことなんて、全然関係ないですよ﹂
﹁⋮⋮ことなんて?﹂
あれ? なにか間違ったか?
魔王様のこめかみがひきつってて地味に怖い。
﹁そろそろ、先頭が見えるようですよ! ほら歓声も大きくなって
きた﹂
こういうときは、ごまかすに限る。
それに実際、東の空にはすでに小さな点がいくつも見える。しか
もそれは、あっという間に大きさを増したではないか。
乗り手をその背に乗せた竜たちが、まっすぐこちらを目指して飛
んでくるのだ。
ああ、それはそうだろう。俺たちの立つこの門の下が、その決着
地点なのだから!
まずやってくるのは単純な長距離走の決勝竜。
デイセントローズの城を今朝出発し、まっすぐこの魔王城へたど
り着く。
だが見よ。
普段はその背に乗り、操るばかりの竜が、目をギラつかせ、牙を
1191
むき出しにし、殺気を漲らせて眼前へと迫ってくる。
なるほど、皆が夢中になるわけだ。これほど興奮する出来事があ
ろうか?
猛き者の殺気を浴びて、血湧き肉踊らぬ魔族など、この世にいる
はずがない。
﹁おい、この馬鹿者!﹂
肩を強くつかまれ、我に返った。
﹁お前が興奮してどうする。竜たちが脅えて門を抜けられなくなる
ぞ!﹂
振り返るといつの間にだか王座を立って、俺の肩を掴む、呆れた
ような魔王様の姿があった。逆に後退したらしいデイセントローズ
の瞳には、かすかな怯えが浮かんでいる。
どうやら俺自身も興奮のあまり、無意識に門上の端まで前進して
しまっていたらしい。
まあ存外俺も、脳筋だということだ。魔族の例に漏れず、な。
⋮⋮誰だ今、存外でもないと言ったのは。
﹁見て下さい、お二人とも! いよいよ第一の勝負に決着がつきま
すよ!﹂
デイセントローズが後方から、少しかすれた声でそう叫んだ。
﹁よし! ラグナ=ネールだ!! 来い⋮⋮来い、来い!﹂
自分で賭けた乗り手なのだろうか。さっきまでの怯えた様子はど
こへやら、俺の隣まで滑るようにやってきて、拳を振り上げ、唾を
まき散らしている。
心なしか、俺の肩に置かれた手にも力がこもった気がする。まさ
か、魔王様もこのレースに賭けているのか?
肩の骨を砕かれる前に、そっと外しておこうっと。
僅差で先頭を競いあっていた三頭が、もつれ合うように門をくぐ
1192
った。
豪風が吹き上げ、マントが翻る。
﹁どいつだ!? ラグナ=ネールか!?﹂
いつの間にかデイセントローズは、竜を追うように逆の端まで駆
け抜けていったようだ。さんざん唾をまき散らせながら。
門を抜けた三頭は、そのスピードをにわかには緩められず、︿御
殿﹀の屋根をかすめて上空を滑空し続けている。
その鋭い牙の間から、耳をつんざく咆哮をあげながら。
﹁ただ今の勝者︱︱﹂
門の出口で待ちかまえていた判定人が、竜に負けじと大声で呼ば
わった。
﹁メイヴェル=リンク!﹂
﹁なんだって!? 畜生! おい判定人! 貴様の目が腐ってるん
じゃないのか!? ラグナ=ネールだろうがっ! そうだったはず
だ!! 畜生がっ﹂
ラマは拳を振り回し、血管をはち切れんばかりに浮き上がらせ、
顔を真っ赤にして泡を吹いている。
その下にいる判定人は、迫り来る水滴を避けるのに必死だ。
全く迷惑な。賭事で性格が変わるタイプらしい。いいや、本性が
出るのか。
やはりラマの奴、ロクなもんじゃないな。
一方で、魔王様は俺がそっと放した手をぐっと握りしめている。
こちらはどうやら、メイヴェル=リンクに賭けていたようだ。
ちなみにどうでもいい情報だが、競竜の出場名は選手名=竜名と
いった感じで発表される。例えばメイヴェル=リンクならメイヴェ
ルが乗り手の名前、リンクが竜の名だ。
﹁うおおおおお!﹂
1193
空を走る一頭の上から、雄叫びがあがった。メイヴェルが勝ち鬨
をあげたのだろう。
随分野太い声だったが⋮⋮メイヴェルというのは女性の名だ。確
かそうだ。
少し経って、残りの竜が門をくぐった。
それが合図のように︱︱
以後、いくつもの競争を戦う竜たちが次々と姿を見せ、決勝門を
くぐった。
短距離走、障害物競走、魔術競争、等々。
時にはもつれ合い、時には圧倒的な単独飛行を見せて。
ある者は勝利に酔って勝ち鬨をあげ、ある者は悲嘆にくれた声を
あげた。
最後のゴールを果たしたのは、全てのうちでもっとも飛距離の長
い競争を戦い抜いた竜と乗り手だった。
決勝の始まった日に、デイセントローズ領からスタートを切った
のが始まりだ。すべての大公領を回り、夜はいずれかで歓待を受け
て鋭気を養い、最後の日に魔王領に入領してゴールを目指す。それ
は四夜を越える、長い戦いだった。
その最後の結末を迎え、決勝戦を勝ち抜いた全ての勝者たちと、
とりあえずの祝杯をあげつつ、競竜は幕を閉じたのだった。
俺は見くびっていた。確かにこれは、楽しい催しだ。
いままで全く興味のなかった俺でも、最後には大観衆とともに叫
び出したい気分になったのだから。そうしないですんだのは、賭札
を手にしていなかったからかもしれないし、側にあきれるほど興奮
した男がいたからかもしれない。
おかげでレースが終わる頃には、着ているものを興奮のあまりボ
ロボロに引きちぎったラマと違って、醜態を晒す羽目には陥らなか
1194
った。
当然だが、競竜の担当者であるはずのラマは、興奮のあまりか茫
然自失として、ほとんど役に立たなかったことだけは、大事なこと
なので明言しておきたい。
1195
115.一旦、休憩を挟みましょう
競竜が終わると、俺たちは一旦、休憩を挟む。次の会場準備が、
あれこれあるからだ。
そこで俺は魔王様と共に、連日開催されている、大昼餐会に参加
することにした。
デイセントローズもてっきりそのつもりだと思ったのだが、ラマ
は食堂には姿を見せなかった。放心状態から立ち直れなかったのか
もしれない。
それでその日の大昼餐会には、大公としては俺とウィストベル、
それからサーリスヴォルフが参加することとなった。
ウィストベルはこのところ、毎日、昼餐会には参加しているはず
だ。今日以外、恩賞会は午前から夕刻近くまで、一日中行われてい
るのだから。
もっともウィストベルも、今日は別の主行事のために、早くから
来ているのかもしれない。だがそこは追求せずに、後の愉しみとし
ておくことにしよう。
他は、今日に限っては俺は言うに及ばずだし、サーリスヴォルフ
は午後からのコンテストの担当者としてやってきている。
それからプートもきっと、城のどこかにはいると推測する。この
場には姿を見せていなくとも。
あとは、そう。ウィストベルと同じ理由で、そろそろベイルフォ
ウスもやってきているだろう。もちろんアリネーゼもだ。
大昼餐会の会場配置は、旧魔王城と全く同じだ。
前面に王座を中心とした長い食卓が置かれ、それに垂直になるよ
う、いくつものテーブルが並んでいる。
1196
大祭もあと少し、とあって、俺もこのごろは昼食会に参加しても
あまり隅の方には座らず、魔王様の隣だか、中央の列あたりを選ぶ
ことにしている。
今日も大公が魔王様を挟んで、並んでいる感じだ。
正面向かって左から、俺、ウィストベル、魔王様、サーリスヴォ
ルフ。その両脇を、地位の高い上位魔族が占めていた。
﹁それで、どうであった?﹂
ウィストベルが俺に話しかけてきたのは、魔王様とサーリスヴォ
ルフが、コンテストについて話し込んでいた時だった。
﹁どうって、なにがです?﹂
﹁決まっておる。主は今日、会ったであろう。あの男に﹂
あの、男?
全くピンとこない風なのが、ウィストベルの気に障ったようだ。
じろり、と睨まれた。
結果、久しぶりにヒュンとなったのは内緒だ。女王様は相変わら
ず、迫力満点なのだから仕方ない。
そして今日もいつものごとく、露出度は高い。もっとも肩から覆
う、ぶ厚いマントのおかげで背中や二の腕は隠れているし、スリッ
トからのぞく生足も、テーブルクロスの下だから前からは見えない
だろう。
隣の席でなくば、胸の谷間以外はそれほど気にならないはずだ。
﹁私にデヴィル族の名などを、言わせるつもりか?﹂
俺がデヴィル族で午前中に会った、といえる相手。当然、我が城
の配下を指すはずはない。
となると、デイセントローズか。
﹁ラマが、なんです?﹂
﹁主は⋮⋮相変わらず、危機感がないのぅ﹂
1197
ウィストベルは小さくため息をついた。
﹁だが、そんなに呑気にしていられるというのであれば、逆に変化
はなかったと思うべきなのじゃろうな﹂
ああ、そういうことか。
﹁ラマの魔力でしたら、特には﹂
なるほど。確かに俺には危機感が足りないのかもしれない。
ラマの特殊能力で、その魔力の増強ができる、というのは俺とウ
ィストベルの間の予想だ。だとすればウィストベルのように、その
魔力の推移を気にしておくべきだったのかもしれない。
ことにこの後、大公位争奪戦が控えているとあっては。
﹁まあしかし、奴が用心深ければ、今日の時点ではまだ何もしてお
らずとも当然かもしれぬ。我らの予想が正しければ、奴は魔力をあ
っけなく増やせるはずじゃからな。他の者の能力がわからぬ以上、
それに気づかれる危険性を犯す必要はないわけじゃ﹂
﹁そうですね﹂
もっとも、呪詛を受けて魔力が増えるという方法は、ウィストベ
ルの言う通りあっけなく、でもないだろう。なにせ本人には、地獄
の苦しみがつきまとうのだそうだから。
だとするなら、どうだ?
仮にラマが今日から大公位争奪戦が始まるまでに、魔力の増強を
計ったとしよう。
大公位争奪戦は、あと九日後に始まる。その苦痛がどれほどのも
のだかわからないから、一日に一回が限界だと仮定する。
実際の効果を見たわけではないから、半年で一マーミル増えてい
た、以前を参考に考えるとしよう。もし一日でその効果を得られる
1198
のだとすれば、今の奴の状態から九日後には九マーミル増えている
訳だ。全くたいしたことないな。
そうではなくて、一回ごとに一マーミル、二マーミル、と増える
とする。それだとだいたい、初めて会った時の倍ほどの強さになる
わけか。
しかしそれでは最下位から一つほど順位があがるか、という程度
だ。
もちろん公爵以下にとっては、恐ろしいほどの変化だろうが、俺
にとってはなんでもない。
﹁まあ、今のところは増強したとしても、あまり気にすることもな
さそうですが﹂
だいたい、相手の魔力が増えたことに気づいたところで、それを
力尽くで阻止しにいくわけにもいかない。少なくとも、この大祭の
うちは。
となると、放っておくしかないだろう。
﹁主は⋮⋮剛胆なのか、考えが足らぬのか、どちらなのじゃ﹂
﹁俺は逆に、なぜウィストベルが今の時点でそれほどラマの能力を
気にするのか、よくわかりませんが﹂
﹁それは⋮⋮﹂
ウィストベルは何かを語りかけて、すぐに口を閉ざした。
もちろん、長期的にはラマの推移を警戒し続ける必要はあるだろ
う。自分たちの保身のためには。
だがいかにラマの特殊魔術が魔力の増強を叶えるのだとしても、
この短期間にウィストベルの魔力を越えるなど、ほとんど不可能に
思える。
だいたい、以前の一マーミル増加にしたって、一日の効果ではな
いかもしれないのだ。
1199
それとも、ウィストベルには心当たりがあるのか? 一夜にして
脅威となりうるほどの魔力を得る、そんな特殊魔術に。
もちろん、ラマの能力がそうだというのではない。なにせ彼女は、
呪詛を受けて甦る能力については、何一つ知らなかったのだから。
﹁まあ、よい。確かに私の警戒しすぎかもしれぬ。そのような能力
が、この世にいくつもあるはずはないのじゃ⋮⋮﹂
いくつも?
﹁ということはつまり、一つはある訳だ。ぞっとする話ですね﹂
俺の返答に、ウィストベルは嘲笑にも似た笑みを浮かべた。
﹁知らぬ、というのは幸せじゃの﹂
﹁そりゃあ、そんなに危ない能力、本にだって載っているはずあり
ませんからね。知らなくて当然でしょう﹂
﹁⋮⋮そういうことにしておくか。今は、の﹂
なんだろう。ものすごくひっかかる言い方だ。
もしかして、その能力を持っている者が、実際に俺の近くにいる、
とか?
だとしたら誰だ?
魔王様がそうだというのなら、むしろ俺は安心だ。今でも十分強
いが、例えウィストベルと並ぶほどになったとしても、たぶん怖く
ない。意味なく俺の命が危険にさらされることは、まあないだろう
と思うからだ。
だがそれがベイルフォウスだというのなら、話は別だ。たぶん本
人も気づいてないだろうから、俺も顔や態度に出ないですむよう、
何も知らないでいる方がいいだろう。今でも時々、こいつ本気で俺
のこと殺そうとするだろうな、と感じるってのに。これ以上強くな
られては、シャレにならん。万一の時にも防ぎきれない。
1200
それはプートや他の大公が、その能力の持ち主だとしても同じだ。
それ以外だと、妹を除いた誰であっても、俺だって警戒はする。
どちらにしても、本人がその能力に気づいてあっという間に強く
でもならない限り、別にかまいはしない。
そもそも魔族が強くなるのに、特殊魔術を利用して何が悪い。強
者が生き残り、弱者が死に滅ぶのは自然の摂理だ。
だがウィストベル自身がそうなのだとすると、話は変わってくる。
やばい。これ以上はだめだ。いろんな意味で、これ以上知るのは
まずい。たぶん、しゃれにならない。
深く追求してしまえば、後悔するのは自分のような気がする。少
なくとも、今日これ以上、尋ねるのはやめておこう。
俺が悩んでいるのを知ってか知らずか︱︱いいや、理解している
に決まっている。あの嬉しそうな顔はどうだ。俺の反応を見て、楽
しんでいるとしか思えない。
﹁サーリスヴォルフといい、なんだってこう魔族ってのは⋮⋮﹂
﹁なにか申したか?﹂
﹁いや、なにも﹂
俺は慌てて首を左右に振った。
﹁まあ、よいじゃろう。今日のところは、解放してやろう。愉しみ
は、先にとっておくものじゃ﹂
ウィストベルは細いグラスの中身を飲み干してから、優美に立ち
上がった。
﹁ゆくのか、ウィストベル﹂
さすが魔王様だ。
つい今の今までサーリスヴォルフと熱心に話をしていたのに、ウ
ィストベルが立った瞬間、彼女を振り返ったのだから。
1201
﹁陛下。今日は色々と、私も忙しいのじゃ﹂
何で忙しいんですか、とかどちらへ、とかは聞かないことにしよ
う。次の用意に決まっているからだ。
﹁もちろん、知っている﹂
魔王様はウィストベルの手を優しく掴むと、その甲にそっと口づ
けた。
なんかもう、最近ほんと堂々といちゃつくよね!
ちょっとは周囲のことも考えるべきじゃないかな?
だって我慢しない魔王様なんて、ベイルフォウスと変わらないと
思うんだよ!
おっと、危ない。魔王様はまた鋭い勘を発揮したらしい。睨まれ
てしまった。
﹁大公ウィストベルの退席だ﹂
サーリスヴォルフが食堂によく通る声を響かせる。
魔王様をのぞく全ての者が立ち上がり、女王に敬意を表し、その
退出を見守った。
ちなみにこれは彼女にだけ向けられた、特別の待遇ではない。正
面席に大公が座ると、いつもこの騒ぎだ。
俺がなぜ、この時期まで魔王様の周辺の席を避けていたか、よく
わかるというものだろう。
1202
116.野郎ども、待ちこがれた発表だぞ!
大食堂での昼食を終えれば、次はいよいよ美男美女コンテストの
結果発表だ。
午前とうって変わり、︿大階段﹀の先に造られた門上で、俺の隣
に立つのはサーリスヴォルフ。背後には、同じく王座に腰掛けた魔
王様。
そして、竜の滑空のために空けられていた︿大階段﹀も前庭も、
今はいつものように聴衆で満たされている。ついでにその顔ぶれも、
競竜の時とはいくらか入れ替わっているようだ。
血走った熱気は少なくとも上品を装ったものに、野太い歓声はそ
のいくらかが甲高い歓声に置き換わった。わずかばかり男性より、
女性の割合が増えたように見受けられる。
﹁受賞者たちは?﹂
﹁昨日のうちに召集をかけてあるからね。今はほら、そこ︱︱﹂
サーリスヴォルフは振り返って、左右の端に造られた、門の上の
小屋を指した。小屋といっても、ただ小さな建物、という意味だけ
で、俺たちが昼食をとっている間に造られた、石造りの立派なもの
だ。
その間を、金色に輝く毛足の長い絨毯が貫いている。
その出入り口には花冠が飾られ、そこから幾重にも垂れた瑞々し
いツタや花々が、中への視線を遮るカーテンの代わりを果たしてい
る。そうしてその両脇を、無骨な制服で身を固めた儀仗兵が守って
いるのだ。どちらの小屋も、向かって右がデヴィル族で左がデーモ
ン族の担当となっている。
だが左の小屋を守るのは男性で、右の小屋を守るのは女性だった。
1203
中はその逆で、左に各々上位三十名、すなわちデーモン・デヴィ
ルを合わせた美女六十名が、そうして右に美男六十名が待機してい
るのだという。
ということは、左にはウィストベルやアリネーゼ、右にはベイル
フォウスがいるというわけか。男女じゃなく、デーモンデヴィルで
分けた方がよかったのではなかろうか、といらぬ心配をしてしまう。
ちなみに受賞者たちは召集状では順位は知らされず、小屋の中で
聞かされるのらしい。
ところで俺はまだ、彼らの名と順位を知らされていない。ここま
で来たら、聴衆と臨場感を共に楽しむべきだろう、とか言われて、
最後まで教えてもらえなかった。
⋮⋮そういえば、リリアニースタも前回には上位に選ばれたと言
っていたっけ。もしかしてリリーが隠居生活から抜け出してきたの
は、再び上位への入賞を目論んでのことだったりするのだろうか。
そんな邪推が脳裏をかすめた。
﹁そろそろ始めよう﹂
サーリスヴォルフが俺に向いてそう言い、魔王様を振り返ってそ
の首肯を得、聴衆の前に進み出る。
彼は両手を大きく開いた。
﹁我らが同胞︱︱君らがどれほどこの日を待ち望んでいたか、もち
ろん私は知っているよ。なぜかって? もちろん、私もその心を同
じくする者だからだ﹂
いつもと同じ、抑揚はあるが、どこか呑気に響く声だ。
﹁そんな君らを、長々とした前口上で焦らすことはすまい。そう、
黒装束をまとわずその場に立っているという事実だけで、打ちひし
がれている者も、中にはいるだろうからね﹂
おお、という悲嘆の声が漏れる。
1204
﹁では心して、聞くがいい。栄誉ある三十名に選ばれし、それぞれ
の名を。刮目するがいい、百二十名のうちに選ばれし、それぞれの
美貌を﹂
サーリスヴォルフが手をおろし、俺がその隣に進み出ると、周囲
は水を打ったように静まりかえった。
サーリスヴォルフの視線が再び俺、魔王様の上を儀礼的に通過し、
右の小屋を守る兵の上で静止する。そうして厳かに頷いてみせると、
女性儀仗兵らはその手に持った杖を高々と掲げ、石突で三度、石床
を叩いた。
ついに左手を護るデーモン族の女性儀仗兵が、大きく口を開き︱︱
﹁デヴィル族男性の三十位﹂
その大音声に応えて、蔦のカーテンが左右に開かれた。そこに立
つのは、全身を黒装束で被った男性魔族。顔すらも目元が薄い網の
ようになっているだけで、外からははっきりと確認できない。
彼は胸を張りつつ堂々と、左右を渡って敷かれた黄金の絨毯の上
を行進し、俺とサーリスヴォルフの間に立った。
﹁この者が誰かわかる者はいるかな? 三十位に選ばれるほどの色
男だ。わからないはずはないね。さあ、デヴィル族の女は喉の調子
を整えるがいい﹂
その者の名が唱えられ、黒装束が自身の手によって乱暴に取り払
われる。彼はそれを、観客席に向かって放り投げた。
デヴィル族の女性からは歓声が、その他の者からは感嘆の声があ
がった。
黒装束は女性たちの手によって大小こもごもに引き裂かれ、息も
荒いそれぞれの手に収まっている。
なんとも魔族らしい反応ではないか。
1205
彼はひとしきり歓声に応えると今度は向かって左側、出てきたの
とは逆の小屋の近くまで歩いてゆき、王座の延長線上にその身を留
める。
そこまで進んで初めて、次の発表に移る、という手順だった。
二番手として呼ばれたのはデヴィル族、女性の三十位。こちらは
さっきとは逆の、左側の小屋に立つ男性の儀仗兵に呼ばれ、そこか
ら出て挨拶をし、右の小屋近くに並んだ。
そんな風に、デーモン族三十位の男女、と、発表は続いていく。
黒装束はその都度聴衆に向かって脱ぎ捨てられ、散り散りになる。
順位があがるごとにその熱狂は、ますます増していった。
選ばれた者のほとんどは、誇らしげにしていたが、中には順位に
納得できないとでもいうように、憮然とした者や泣き出しそうな者
もいた。
しかし彼らは紛う事なき美男美女だ。
ここで思い出して欲しい。美男美女が集まる催しが、もう一つあ
ったことを。
そう、パレードだ。
つまりそのほとんどは、授賞式のためにパレードを抜け出してき
ている者たちなのだった。
そしてパレードといえば、俺の担当だ。だから正直を言うと、順
位は知らされていなかったものの、今日抜ける者の名は知らされて
いたから、その小屋の中にいる概ねの名は知っていたりする。
つまりアレスディアがあの中にいることも、もちろんわかってい
たのだった。
発表は、すでに三位まで進んでいた。つまり、残っているのは一
位と二位だけだ。だがうちの侍女は、まだその姿をみせてはいない。
デヴィル族で残るのは、アリネーゼとアレスディアの二名。
1206
デヴィル族の男は予想できないから省くとして、デーモン族では
ベイルフォウスとウィストベルが未登場だった。
ちなみに、俺の予想は外れ、リリアニースタの名も読み上げられ
なかった。みんなの前に姿を見せるのが、少しばかり遅すぎたのか
もしれない。
あるいは⋮⋮まさか、二位?
確かに彼女は目をひく美人だ。だが、さすがに現役でもない身で、
それ程の票を集めることはないだろう。だいたい、それを言うなら
俺には不満がある。なんだって、うちの現役まっただなかの副司令
官の名が読まれないんだ?
問題は無表情さか? それとも︱︱
﹁デヴィル族女性の第二位﹂
おっと。ようやくアレスディアの登場か!
蔦が開かれ、腰をくねらせて一人の女性が前に進み出る。その振
る舞いは堂々と、女王然として見えた。
あれ?
アレスディアって、あんな歩き方したっけ?
もうちょっと静かっていうか、謙虚な感じだったと思うんだけど。
パレードに適応したのだろうか。
いや、というよりこの歩き方は︱︱
彼女がサーリスヴォルフと俺の間に立ち、黒装束が振り払われる
や、動揺に満ちたどよめきがその場を支配する。
そうして、その名が高らかに宣言された。
﹁大公アリネーゼ!﹂
まさかそんな⋮⋮。
1207
え?
一位⋮⋮じゃなくて、まだ二位だよね?
ちょっと待って。ってことは、一位は⋮⋮。
一旦、どよめきが落ち着くと、あたりは息をのんだような静けさ
に包まれた。
今までの受賞者は、歓声に応えて手を挙げるなり悲しむなりはし
ながらも、聴衆に向けての挨拶や咆哮があった。
観衆も受賞者の気分などおかまいなしに、野太い声や黄色い声を
あげていたし、全体的に明るい雰囲気に包まれていたのだ。
それなのに今、こうしてこの場を支配する空気の、凍りついたよ
うな冷え冷えとした静けさはどうだ。
っていうか、まず隣が怖いんだけど。
なにこの殺気みたいなの。
横を見る勇気が出ないんだけど。
なんで黙ってるの? 手も振らず一言も話さず、なぜ隣の人は彫
像のように黙って立っているのですか?
﹁この結果を︱︱﹂
地の底から響くような低い声が、その犀の口から漏れ出した。ま
るで冷気と共に放たれたように。
﹁真摯に受け入れよう﹂
ちょ⋮⋮えっ、なんで?
なんで俺の肩に手を置いたの、アリネーゼ!
ちょ⋮⋮! 蹄がっ蹄がっ!
﹁身内の栄誉に、さぞや浮かれているのでしょうね﹂
なにその呪いの言葉みたいな囁き!
﹁ばかな⋮⋮とんでもない、俺は別に︱︱﹂
1208
否定したのに、なぜか肩を掴む蹄に力が込められた。
﹁さあ、では続けよう﹂
サーリスヴォルフが手を叩いて空気を震わせる。
その瞬間、アリネーゼの蹄から俺の肩は解放され、それと同時に
重々しさも振り払われたように感じて、俺はホッと息をついた。
空気を呼んでくれたサーリスヴォルフには、心の中でそっと感謝
しよう。
デヴィル族の女王は肩をそびやかせ、堂々と後ろに下がり、受賞
者の列にその身を置いた。
彼らは今、魔王様の王座を挟んで男女ごとに左右に別れ、その登
場した順から外側になるよう並んでいる。今はデヴィル族二位に選
ばれた男性が、魔王様の正面向かって左手、もっとも近くに立って
いる。当然右手には、二位のアリネーゼが怒りを露わにその身を置
いているのだ。
だが見ろ。
魔王様は平常心だ。さすがじゃないか。
もっとも結果はとっくに聞いていたはずだから、すでに心づもり
をしてあったのだろう。
だが俺もこれは知りたかった︱︱これだけは、先に知らせていて
欲しかった。それならもっと、俺の立ち位置について意見を出せた
のに!
そうすれば少なくとも、肩を掴まれ耳元で囁かれるような位置か
らは遠ざかれたはずだ!
そうさ。遠ざかってみせたとも。大祭主の権限を、最大限に活用
してな!
俺はその考えに夢中になりすぎて、意識がそれてしまっていた。
1209
だから隣に誰かが立ったことを、その者が黒装束をはぎ取るまで、
全く気づかなかったのだ。
その目に痛い派手な髪色が、脳裏を無理矢理かすめて俺の意識を
覚醒させるまで。
途端に耳をつんざく黄色い声。
﹁ぼうっとしすぎだろ、親友﹂
見ればデーモン族もデヴィル族も関係なく、女性たちが飛び上が
っている。
黒装束はとっくに細切れになり、失神した者まで現れるありさま
だ。
﹁ベイルフォウス⋮⋮﹂
もう一位の発表か。俺、そんなにボウッとしていたっけ。アリネ
ーゼに囁かれたくらいで?
⋮⋮いや、違う。これがデーモン族の一位の発表だとしたら、先
にアレスディアが出てきているはずだ。さすがにそれに気づかない
はずはない。
隣では手を振るだけでは飽き足らず、あちこちに投げキスをして
︱︱待て、今怖気が走った︱︱秋波を送りまくっている男の姿。
今日も相変わらず、足首まで届きそうな真っ赤な長いコートを羽
織っている。だが、その胸元にはどこかで見たような、キラリと光
る翡翠のブローチが。
間違いない。どう見ても、やっぱりベイルフォウスだ。
魔王様に並ぶ二位の列を振り返ってみたって、デヴィル族の二位
の隣にデーモン族の二位の姿はない。
ということは?
﹁お前が二位!? 嘘だろ、だったら一位は誰だっていうんだ﹂
1210
﹁順位を聞いてないのか﹂
﹁ああ、聞いていない﹂
﹁へえ﹂
ベイルフォウスは流し目のついでのように、俺を一瞥した。
﹁ならどうせ次だ。愉しみに待ってろよ﹂
﹁知ってるのか、お前⋮⋮﹂
﹁当然だろ﹂
そりゃそうか。中で一位とは顔を合わせているはずだもんな。
⋮⋮いや、待てよ。
ベイルフォウス以上の美男子なんて存在するか?
もしや世界中をくまなく探せば、どこかには存在するのかもしれ
ない。だが、少なくとも俺は聞いたことがない。そんな無名の者が、
この場で選ばれるだろうか?
となると︱︱。
よく考えてみろ、俺。
これは、千年に一度行われている美男美女コンテストだ。その時
期は特別に早められたものの、主行事として今回限りで企画された
催しではないのだ。
だが、同時にあくまでこれは、︿魔王ルデルフォウス大祝祭﹀の
主行事の一つでもある。
と、すればつまり︱︱
俺は背後を振り返る。
その主役に花を持たそうと考える者が多数いたとしても、当然で
はないか!
ベイルフォウスが平然としているのも、相手が兄だと察している
からなのかもしれない。
なるほどな。
1211
そうこう考えている間に、デーモン族の女性の二位が発表された。
彼女もパレードに参加している女性で⋮⋮ああ、ちょっと待て。
なんか見覚えがある⋮⋮見覚えがあるぞ。
やばい⋮⋮いつだ?
いや、いつでもいい。そりゃあ俺はパレードの担当者だから? 見覚えがあってもおかしくはないのだ。そうだとも。
その女性がやたらとお色気むんむんの視線を送ってきたことや、
後ろに下がるときに俺の耳元に息を吹きかけてぞっとさせていった
ことにも、大した意味はないのだ︱︱きっと。
﹁デヴィル族男性、第一位﹂
いよいよ最後の者たちの名が、読み上げられる。
黒装束をまとったその男は、見るからに筋骨隆々だった。その外
見だけを見て、もしやプートかとも思ったが、違った。黒装束を脱
いだその男は、灰色象の長い鼻を振り上げ雄叫びをあげたのだ。
﹁ぱおーーーーん!﹂
そうして象の両手を挙げ、豹の両手で甲虫のテカテカ光る胸を叩
き、馬の後ろ足を踏みならして俺たちの間から前進しつつ、犬の尾
を誇らしげに振り、鮫の牙の奥から唾をまき散らした。
そのべとついた液体を、デヴィル族の女性は競うようにその身に
浴び、肌にこすりつける。
俺、どん引き。
﹁彼はね、前回マストヴォーゼに敗北して一位になれなかった男さ。
地位は低いが、閨の技術で女性から重宝されている﹂
ああ、そうですか⋮⋮別にいらない知識だったな。
感動でちゃんとした言葉にならないのか、男はぱおんぱおん、と
吠えるばかりで、唾を噴水のようにまき散らせている。そうして一
1212
位の定位置である、サーリスヴォルフの右横に移動した。
﹁デヴィル族女性、第一位﹂
その呼び声があがると、一度は収まっていたアリネーゼの殺気が、
再び背後から立ちのぼるのを感じた。
蔦の奥からほっそりとした影が進み出る。
そのしずしずとした歩き方を見るまでもなく︱︱
﹁アレスディア!﹂
侍女の名が読み上げられるや、滑らかな手つきで彼女は黒装束を
脱ぎ捨てる。
その瞬間、よく見知った蛇の顔が、白日の下に現れた。
ああ。いつも艶々とした彼女の顔面が、日の光を受けて今日はい
っそう輝いてみえるではないか。
﹁アレスディアどのおおおおおおお!﹂
声を揃えたきれいな大合唱が聞こえる。
たぶんあれだ⋮⋮︿アレスディア様の美貌を堪能するために可能
な限り尽力する会﹀の連中だろう。
いいや、それだけじゃない⋮⋮魔王城の奥から⋮⋮咆哮が⋮⋮獅
子の咆哮のようなものが聞こえるのは⋮⋮うん、たぶん空耳だな。
そういうことにしておこう。
マーミルもこの場面を見たかったことだろうって? 心配はいら
ない。現地に来ずとも、この映像は全大公城に中継されている。主
行事の中でもこれほどの扱いを受けるのは、このコンテストだけの
ことだ。
だから妹もきっと今頃は、ネネネセと共にキャアキャア言いなが
ら観覧していることだろう。
⋮⋮そうであると思いたい。さすがに、アレスディアに対する関
1213
心だけは、近頃の別の相手に対する関心よりも上だと⋮⋮そう信じ
たい。信じていいはずだ。
アレスディアは暫く野太い歓声に応えると、珍しくも謙虚な言葉
で感謝の言葉を述べ、それから優雅な足取りでサーリスヴォルフと
象男の間に身を置いたのだった。
1214
117.一位に選ばれたのは、もちろん! 魔王⋮⋮様⋮⋮?
さあ、次はいよいよ、デーモン族の番だ。
﹁デーモン族女性、第一位﹂
﹁えっ!?﹂
なんで女性?
今までの順番で言うと、ここは男性のはず⋮⋮。
俺は魔王様を振り返る。
ああ、そうか。
一位は魔王様だもんな。さすがに最後に回したのか!
しかし、ということは⋮⋮。
蔦が開かれ、堂々とした黒装束の女性が現れる。
もっとも、そんな衣装もその正体を隠すには力不足だ。そもそも
この期に及んで一位が誰か、わからぬ者があろうか。
﹁ウィストベル?﹂
俺が思わずそう呟いてしまったのには、理由がある。
蔦の間に姿を見せはしたものの、彼女はそこから一歩だって出て
こようとはしなかったからである。
﹁一位の者は前に﹂
サーリスヴォルフの催促を受けて、ようやく彼女は身体を動かし
た。しかし、足を前に踏み出したのではない。手を︱︱その白い、
陶器のようになめらかで華奢な手を、すっと前に差し出したのだ。
﹁ジャーイル﹂
サーリスヴォルフがため息をつきつつ、俺の名を呼んだ。何を請
1215
われているかはわかっている。
振り返る瞳に、魔王様の首肯を認めた。ついでにいうと、舌打ち
した親友の姿も、だ。
俺は小屋に歩み寄り、伸ばされた手を取る。そうして満足そうに
頷く彼女を中央まで導き、それから手を放した。
﹁ふん⋮⋮相変わらずの我が侭放題、好き放題﹂
ボソリと呟いたのが誰であるのか、振り返って確認するまでもな
いだろう。
一位に選ばれた彼女は、俺とサーリスヴォルフの間に立つと、黒
装束を脱ぎ捨てた。
頭から肩、艶やかな細い白髪と戯れるように、衣服に覆われた背
中をなめらかに滑る黒い布。勿体ぶったように腰でためらい、丘陵
を撫でるようにして足下に落ちたその動きを、扇状的に感じたのは
俺だけではないはずだ。
﹁あああああ﹂
言葉にならない叫びには、女性の声も混じっている。想像を絶す
る美貌に、性別は関係ないらしい。
﹁大公、ウィストベル!﹂
デヴィル族の男性儀仗兵が、その名を高々と呼ばわった。
女王様は今日も堂々と、全ての視線を受け止めている。いいやむ
しろ、常より勝ち誇った表情で。
ドレスも大昼餐会から着替えたのだろう。いつもより遙かに露出
の少ない、身体の線もわかりにくいふわりとした服を着ている。そ
れが却って惜しげに姿を現す足首を、より淫靡に思わせた。
﹁今回のコンテストの結果は、前回よりずっとよいの﹂
呟かれた挑発に、背後の気配が反応する。
1216
﹁ふん︱︱せいぜい好きに言っているがよいわ﹂
衣類をそよがす鼻息混じりで。
ウィストベルは嗜虐性の混じった笑みをくまなく周囲に配り終え
ると、俺の外隣に移動した。
﹁デーモン族の︱︱﹂
右の兵がそのまま最後の呼ばわりを始めかけたその時、サーリス
ヴォルフが手をあげてそれを制止する。
﹁その名は、私が呼ぼう﹂
サーリスヴォルフは意味ありげに俺を見やった。
まあそうだな。﹁魔王ルデルフォウス﹂とか、その名を儀仗兵に
呼ばせるわけにはいかないもんな。
﹁デーモン族の男性、第一位﹂
サーリスヴォルフが改めて、そう口にする。
蔦のカーテンを確認すると、予想と違って左右に開かれている。
だが、その中から誰かが姿を現す気配はない。
やはりそれは形式的なもので、実際にその栄誉を受ける者は他に
いるからだろう。
﹁大公﹂
⋮⋮ん?
大公?
魔王じゃなくて、大公?
﹁ジャーイル﹂
⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
﹁ん?﹂
1217
﹁⋮⋮いや、ん? じゃなくて。一位は君だよ、ジャーイル﹂
サーリスヴォルフがいつもの笑みを向けてくる。と、いうことは、
何か聞き間違いをしたか?
﹁一位は魔王様じゃ︱︱﹂
﹁何言ってるんだい。君だってば﹂
﹁は?﹂
いやいやいや。
﹁俺をからかってるのか?﹂
﹁まさか﹂
これは冗談か? サーリスヴォルフなら、それもあり得るだろう。
サーリスヴォルフは観衆たちに向き直る。
﹁実はジャーイルには、入賞したことを知らせていなくてね。この
場での発表を聞いても、まだ今一つ、得心がいかないらしい。そこ
で、君ら⋮⋮ことにデーモン族の女性たちに問おう﹂
腕を引かれ、中央に立たされた。
﹁この結果に納得のいかないものはあるか?﹂
﹁ないわ! 私はジャーイル閣下に投票したもの!﹂
誰かが叫んだ。
﹁私もよ!﹂
それを皮切りに、あちこちから悲鳴にも似た声があがる。
﹁わたくしはベイルフォウス閣下だけど、異論はないわ!﹂
ずいぶん近くからも声が飛んできた。
ウィストベルがじろり、と魔王様の隣に立つ二位の女性を一瞥す
る。それだけで、少し温度が下がった気がした。
いや、そんなことより。
﹁ホントに俺?﹂
﹁そう言っているだろ﹂
1218
﹁おい、謙遜も過ぎると嫌味だぞ、ジャーイル! 心配するな。ど
うせ今回限りだ。次はまた、俺が一位だろうよ﹂
ベイルフォウスは、どうやらまだあと千年も健在のつもりらしい。
﹁ほら、いつまでも突っ立ってないで。みんなに何かないの? せ
めて手を振るとかさ﹂
サーリスヴォルフに促されて、観衆を見回した。
その歓迎ぶりからいっても、みんなもそれほどこの結果を異常な
ものとは思っていないようだ。
俺だって別に自分の容貌が悪いとは思っていないが、さすがに一
位はないだろう。
とするとそうか。
これはもしかして、俺への褒美の代わりか。大祭主、お疲れさま
⋮⋮とかいう感じの!
そう考えれば納得はいく。なんと気の利く同胞たちであろう。
俺は感謝の気持ちを込めて手をあげた。
﹁ありがとう。君たちの心遣いに感謝する﹂
ベイルフォウスへの歓声に、負けない大声をあげてくれる女性た
ち。
だが、そうだとしても一位か!
考えてみれば、こうしてはっきりと何かで一番になるのは、生ま
れて初めてではないだろうか?
しかもお愛想だとしても、こんなに大勢の女性たちから好意的な
声をあげられて、悪い気はしない。
⋮⋮いや、正直にいうと、結構嬉しい。秋波を送りまくるベイル
フォウスの気持ちも、多少はわかるというものではないか。
﹁鼻の下が伸びきっておるぞ。よほど奉仕が愉しみと見える﹂
ウィストベルに注意されて、気がついた。
1219
そうだ⋮⋮!
うっかり忘れていたが、一位になったということは、抽選で決ま
った誰かのところに一晩の奉仕を︱︱
いや、大丈夫! 奉仕ってそういう意味じゃないから!!
﹁待たせたね、みんな。本番はここからだ! そうだろう?﹂
ひときわ大きく、サーリスヴォルフが観衆を煽った。その途端に
わき起こった大歓声で、空気が音を立てて震える。
﹁今から一位の奉仕先を、魔王様に選んでいただく﹂
えっ。魔王様が選ぶの!? サーリスヴォルフとか、本人が抽選
するんじゃなくて?
ところが驚いたのは俺だけではなかったようだ。魔王様もまるで
初耳だと言わんばかりに、眉を寄せているのだから。
﹁ちなみに、当然一位に選ばれるような美男美女だ。あまりにも記
名投票が多かったので、五十名までには絞ってある!﹂
えっ。そうなの?
つまりそれぞれ五十名以上の記名投票があったってことなのか。
俺に⋮⋮名前を書いて投票した者が⋮⋮五十名以上も⋮⋮。
そういえば、約二名から宣言されて、そのうち一名からは実際に
投票したことも聞かされているが⋮⋮彼女たちの名も、その投票箱
のなかに入っているのだろうか。
そうこう考えている間に、恭しく青い箱を捧げ持った黒装束の四
人が、それぞれ一位の背後に整列した。
青い箱は投票台の四隅を照らしていた夜行石をくり抜いて造った
もの、黒装束の四人は投票作業にも携わった公正投票管理委員会の
委員の代表だ。
﹁さあ、ルデルフォウス陛下﹂
1220
サーリスヴォルフの要請に応じて立ち上がった魔王様の表情から
は、もうさっきの苛立ちは消えていた。とりあえず、拒否せず受け
入れることにしたようだ。
だが⋮⋮心中は察してあまりある。
一位の奉仕先を選ぶと言うことは、ウィストベルが一泊する場所
を、自分の手で選ぶということなのだから。
いや。他人を思いやる余裕が、この俺にあるとでもいうのか。
﹁では、まずデヴィル族の男性一位からお願いいたします﹂
ぱおんの背後に立つ黒装束が、きびきびとした動作で魔王様の前
に進み出て跪き、天面に布を貼った穴のある箱を恭しく捧げた。
ぱおんがハアハア言いながら見守る中、魔王様は特になんの感慨
もないように手を入れ、あっけなく一枚の紙を引き上げる。
そうして折られたそれの中を確認することもなく、サーリスヴォ
ルフに差し出した。
﹁おや、これは⋮⋮﹂
サーリスヴォルフは書かれた名前に覚えでもあるのか、ニヤリと
笑ってぐるりと観衆を見渡し、一人の女性名を読み上げる。
きゃあああ、という喜びを含んだ叫びが、遠くから響いてきた。
そうか。名を書いた者の大多数は、この場に結果を見守りに来て
いるのかもしれない。
﹁次はデヴィル族女性の一位、アレスディアの抽選﹂
どうやら、発表と同じ順番で抽選も行われるようだ。
しかし、そうか! アレスディアも一位ということは、奉仕先に
一泊せねばならぬわけで⋮⋮これは、何らかの手を考えておかない
といけなくなりそうだ。
主に、マーミル的な要因で。
1221
魔王様はまたも投票用紙を選び取ると、そのままサーリスヴォル
フに渡す。
﹁おっと。次の名は、みんなも知っているんじゃないかな?﹂
なんだって? まさか、プートじゃないだろうな!?
﹁ランヌス⋮⋮画聖ランヌスだ﹂
その途端、またも魔王城の中から轟く猛獣の咆哮。今度ははっき
り、怒りを含んでいる。自分の名が読み上げられなかったからって、
不満をあげるのは止めようぜ、プート⋮⋮。
同時にランヌスが喜びの声をあげていたとしても、その咆哮によ
ってかき消されていることだろう。
画聖ランヌス。
確かにサーリスヴォルフの言った通りだ。俺でさえ、絵の天才と
名高い彼のことは知っていた。
我が大公城で行われている絵画展にも、彼の絵が数点出品されて
あったはずだ。
そういえばその中からマーミルの絵の師匠を選んで、お願いしよ
うと思っていたんだった。ランヌスが⋮⋮もし、変な輩で条件から
外れていなければ、彼に頼むという手もあるな。
﹁ではデーモン族の﹂
﹁ジャーイルからだ﹂
サーリスヴォルフの言葉を遮って、魔王様がきっぱりと断言した。
俺のお隣で、女王様が嗜虐的な笑みを浮かべたのが、見なくても
感じられた。
﹁大公ジャーイルの抽選が先だ﹂
もう一度、低い声でそうのたもうた。
冷静なのはやはり振りだけで、心中穏やかでないらしい。
わずかでもウィストベルの奉仕先を選ぶのを、遅らせたいのだろ
1222
う。
サーリスヴォルフに否やを言えるはずがない。なかなか強引に意
見を通そうとしない魔王様が、これだけはっきりと望んだのだから。
俺の後ろの黒装束が、その箱を魔王様に差しだし︱︱
ああ、ちょっと待って、魔王様!
もうちょっと丁寧に選んでくださいよ!
魔王様は先の二人と同様に、俺の相手もあっさりと選んだ。
だがそのままサーリスヴォルフには渡さず、今度は折られたその
投票用紙の、中身をしっかりと開いて確認したのだ。
﹁ほう⋮⋮﹂
なに魔王様!
なんでそんな意地悪そうに笑ってこっち見るんですか!?
うわ、なんか胃が痛くなってきた⋮⋮。
﹁おや、これは︱︱﹂
サーリスヴォルフまでもが意味ありげに言葉を止める。
なんだよ、二人とも!
そんな態度とられたら、気になるだろ!
﹁大公ジャーイルのお相手は︱︱﹂
お相手っていうな!
﹁侯爵、リリアニースタ!﹂
⋮⋮。
マジか。
マジなのか。
﹃どうせいずれ一晩、お付き合いいただくことになるのですから。
その時にはじっくり、指導してさしあげましょう﹄
最後に会った時の自信満々な表情と声が、俺の脳裏に甦った。ど
1223
うせ彼女はこの場にもいないのだろうな、という確信と共に。
1224
118.長かった一日も、ようやく終わりです
その後は酷かった。
いや、俺がじゃない。
魔王様が、だ。
リリアニースタの名が呼ばれた後の手順を、あろうことか一部省
略しようとしたのだから。
魔王公認・魔界一の美男
つまりウィストベルの抽選を無かったことにして、デヴィル族と
の発表に移ろうとしたのだ。
デーモン族を合わせた上での第一位︱︱
美女
さすがにその場の大公全員から突っ込みが入った。ウィストベル
はもちろん、ベイルフォウスまで﹁兄貴、往生際が悪すぎるぜ﹂と
言ったくらいだからな。
その後も、平静な素振りで渋々抽選箱に手を入れたはいいが、一
枚を選ぶのにさんざん時間をかけた。ウィストベルが魔王様の腕を
掴んで引き上げなければ、日が暮れていたことだろう。
ちなみにその際、﹁ルデルフォウス、ルデルフォウス﹂とぶつぶ
つ自分の名前を呟いていたのを、残念ながら俺は聞いてしまった。
投票開始日は遷城の後だったから、魔王様も堂々と自分の名を書
いて用紙を投票したのかもしれない。
ちょっと、いろんな意味で涙が出そうになった。こんなことで俺
の寵臣としての忠誠心は揺らがないぞ、と自分自身に言い聞かせた
くらいだ。
当然というか、引き上げた投票用紙に魔王様の名はなかった。記
された名を、その場の誰も知らないようだったから、それほど上位
1225
の者でもないのだろう。
大体いくら魔王様が祈りを込めたといったって、そんな都合のい
い魔術などないわけで、そうそう上手く選ばれるはずもない。リリ
ーのような例が稀だ。
それにしたってその後の魔王様から漂う脱力感といったら、なか
った。
表情だけはキリリといつものように引き締めていたが、目が死ん
でいた。
明日からの魔王様の威光が心配だ。
それはともかく、最後にはデーモン・デヴィルをあわせた上での、
最高得票数獲得者の発表があった。
男性は、ぱおん。
サーリスヴォルフの解説によると、彼個人の得票数は前回のマス
トヴォーゼを大きく下回っていたそうだ。もしベイルフォウスが前
回ほどの票数を得ていたら、ぱおんに上回っていたのだとか。
だが今回は、俺とベイルフォウスはほぼ同数に近い票数を得てい
た。つまりデーモン族の女性からの票が、大きく二分されたという
ことらしい。
それで結局、男性部門はデーモン族がデヴィル族の多数に勝るこ
とが、今回もできなかったのだという。
一方で、女性の方はその逆のパターンに陥っていた。
つまり、デーモン族のウィストベルが圧倒的多数を一人で得てい
魔王公認・魔界一の絶世の美女
に選
たのに対し、デヴィル族の方はアレスディアとアリネーゼに大きく
割れたのだ。
そのために、なんと!
もうわかるだろう?
ウィストベルが今回の、
ばれたのである!
1226
その時ばかりは、魔王様も嬉しそうだった。なにせ
というその部分は、真実なのだから。
魔王公認
そういう風に美男美女コンテストの発表は終わり、俺たちは恩賞
会の会場に移動することとなった。
ちなみに後でこっそり聞いた話だが、そのせいでデーモン族の二
位以下から五十位ほどまでの得票数に差はほとんどなく、うちの現
役副司令官は一票の差で三十位に入れなかったのだという。
恩賞会では順番から言えば、競竜の優勝者が先に表彰されるべき
ではあった。
だが、コンテストの上位者のほとんどが、パレードに参加してい
るという事実を鑑みられ、先にそちらの表彰から行われることにな
ったのだ。
以前にも言ったように、三十位から二位までにはそれぞれ褒美が
与えられ、一位はむしろ奉仕しなければならない。だがそれは、コ
ンテストの中でのことだ。
恩賞会では別だった。
一位も三十位までと同様に、褒賞を与えられる対象となるのだ。
もっとも、コンテスト独自の方で豪華な品物を得られるせいか、
恩賞会でもらえたのは順位と名前の刻まれた楯とカップ、それから
旗の三点セットだったが。
その旗というのがまた⋮⋮。
大公城では俺の紋章旗があちこちで毎日翻っているが、それと並
べても遜色のないほど大きなもので⋮⋮。そこに順位と名前がでか
でかと、描かれているのだ。
旗は⋮⋮うん。倉庫にしまっておこう。
そうしてその日の行事を全て終え、大公城に帰りついた頃にはす
1227
っかり夜も更けていたのだが︱︱
﹁ううええええええ﹂
私室に向かう途中の廊下で、泣きわめくマーミルに進路を遮られ
た。妹は髪を振り乱し、鼻頭を真っ赤にしながら両腕で必死に流れ
落ちる涙を拭っている。
近頃上の空ばかりだったマーミルが、以前の調子を取り戻したよ
うじゃないか!
﹁旦那様。なんだってお嬢様がこんなに泣いてらっしゃるってのに
⋮⋮ぐすっ。そんな嬉しそうなんですっ⋮⋮ぶびび⋮⋮酷いですっ、
冷血漢っ﹂
毎回付き合って鼻水を垂らしている侍女にも、もう慣れた。
﹁どうした、マーミル。なぜ泣いてる?﹂
と、質問してから自分の迂闊さに気がついた。俺は一つの可能性
に気がついたからだ!
まさかマーミルが泣いているのは⋮⋮例の子供にふ⋮⋮ふ⋮⋮ふ
ら、れた⋮⋮のが、原因、とか⋮⋮。
﹁おじいだまぼ⋮⋮アレスディアも⋮⋮﹂
ちょっと待て。なんで俺だけお祖父さまみたいになってるんだ。
﹁いぢい⋮⋮いぢい⋮⋮﹂
とりあえず、よかった! 振られたとか、そういう理由ではなさ
そうだ。
﹁そうか、喜んでくれてるのか。お兄さまたちが一位になって﹂
そう言って頭を撫でたら、手を弾かれた上にすごい形相で睨まれ
た。
﹁おじいだまのばか!!﹂
だから何で、お祖父さま⋮⋮。
1228
﹁奉仕なんて⋮⋮奉仕先だなんて⋮⋮﹂
﹁いや、奉仕先といっても、別にそういう意味じゃ⋮⋮﹂
っていうか、妹は﹁奉仕﹂という言葉をどう捉えているのだろう。
まさか⋮⋮卑猥な意味を感じ取っているわけじゃないよな? そん
なこと、まだ考えつく年じゃないよな?
もしかしてあれかもしれない! 例えばいつも自分の世話だけを
してくれているアレスディアが、ほかの人の小間使いみたいに使わ
れるのがイヤだ、とか、大公という地位にある俺が、奉仕先で執事
みたいなことをさせられるのでは、と、危惧しているだけなのかも
しれない!
いや、きっとそうだ。
﹁大丈夫。いくらその一日は、招待先に出向いてその相手に尽くさ
ねばならないと言っても、アレスディアが侍女としてこき使われた
り、俺がその相手に跪いたりすることはないから、安心しておいで﹂
そうとも。ここはずるいと思われても、俺は自分とアレスディア
の身の安全のために、大公としての権限を惜しみなく行使するつも
りだ。つまり、相手を脅してでも︱︱ごほんごほん。いや、なんで
もない。
ちなみに、その実行日は︿魔王ルデルフォウス大祝祭﹀が終了し
て後のことだ。抽選で選ばれた相手から所定の招待状が届いて初め
て、指定された日に決行、ということになるらしい。
﹁でも、ア、アレスディアはっ、裸にされて、絵に描かれたり⋮⋮
ひっく、お兄さまは、相手の女性と一緒に、寝るんでしょう! 私
と、寝るみたいに! うええええん!!﹂
なんだと!?
﹁バカを言うな﹂
1229
いや、まあ自分と寝るように、という風にしかまだ考えつかない
のには、ある意味安心した。が。
それにしたって、いったい誰がそんな話を妹に聞かせたんだ。
ベイルフォウスはあれ以来全くこの城に来ていないし、一応マー
ミルには配慮してくれていると思う。
俺はいつものように、マーミルの裾にすがりついている侍女に疑
いの目を向けた。
﹁お前というやつは﹂
﹁いはいいはいいはい!! ひはいまふっ、わはひははいですほぅ
!! うわはっ! おひょうはまはうわはをおひひになっへ﹂
﹁本当か﹂
﹁本当ですよっ。事実確認する前からほっぺをぎゅうするだなんて、
酷すぎます。いくら大公様でも横暴にすぎます! 傲慢にも程があ
ります! 嫁入り前の大事な顔に、傷がついたらどうするんですか
!? 痣になったら、責任とって大公妃にしてくれるんですかっ!
?﹂
﹁す、すまん﹂
しまった、迂闊だった。今度からはこめかみグリグリにしよう。
だがちょっと待て。念のために。
﹁ユリアーナ。参考までに聞くが、君は投票に︱︱﹂
﹁もちろん、行きましたよ。あ、でも旦那様には入れてませんから、
自惚れないでくださいね!﹂
なんだろう⋮⋮別に悔しくはないが、ムカついた。
いや、そんなことより。
﹁マーミル。誰がそんなことを言ったんだか知らないが、大丈夫だ。
お兄さまが約束する。アレスディアは絵には描かれるかもしれない
が﹂
1230
一応、相手は天才画伯だしな。美女に創作意欲を刺激されての、
記名投票という可能性も大いにある。むしろこの機会に自画像を描
いてもらえるなら、光栄だと思う者の方が多いのではないだろうか。
﹁嫌がっているのに裸にされることはないし﹂
本人が許可した場合のことまでは、さすがに俺の関与するところ
ではない。
﹁俺だってリリー⋮⋮その、相手の女性と、お前と寝るみたいに一
緒に寝ることなんて、決してないと誓うよ﹂
まあ⋮⋮相手は愛妻家の旦那もちだし、俺もどちらかというと彼
女は苦手なタイプだ。いくら美人だからって、明らかに俺のことを
何とも思っていないとわかっている相手だ。間違いなんぞは起こら
んだろう。
昔ならいざ知らず、今はそこまで軽くはないと、自分を信じてい
る。
普通に侯爵城に招待されて、終わるに決まっている。
⋮⋮いや、むしろ説教だか指導だかで一晩中圧力をかけられそう
な、そんなイヤな予感がしなくもない。
﹁本当⋮⋮に?﹂
﹁ああ。本当だ。お兄さまが今までお前との約束を破ったことはあ
るか?﹂
またも妹は、俺の不履行の事実を忘れて、顔を左右に振る。
そうしてようやく顔をあげた妹の涙を、俺は手でふき取った。
それを黙って見ていたユリアーナが横からハンカチを取りだし、
それをマーミルの鼻に当てる。
﹁はあ。全く、旦那様は﹂
なぜか不満気味にため息をつかれた。
﹁お嬢様、はい、ちーん﹂
1231
マーミルが大人しく従って鼻をかむと、侍女は再びハンカチを懐
にしまい、俺に厳しい目を向ける。
﹁駄目ですね、旦那様。五十点です。ベイルフォウス様ならここま
でなさいますよ﹂
いらっっとしたので、無視しよう。
﹁わかったか、マーミル。お前が泣くことなんて、何一つない﹂
俺は妹を抱き上げた。その瞳には、まだ不安げな光が揺れている。
こういうときは、すかさず気分転換を図るに限る。
﹁そうだ、その一位の賞品を見るか?﹂
﹁賞品?﹂
﹁ああ。魔王様にいただいた。楯とカップと旗だ﹂
恩賞会でもらった品物は、俺が帰るより早く大公城に届けられ、
部屋へと運ばれているはずだ。
﹁⋮⋮見る﹂
目元をごしごしとこすろうとした妹の手を止めて、代わりに頬を
撫でてやる。
そうしてすっかり気分の落ち着いて穏やかな顔つきになった妹を
抱いて、俺は自室に戻っていった。
***
﹁わあ、すごい! 大きい﹂
妹は鼻声であることを除けば、すっかり元通りだ。
居室のテーブルに整然と並べられた、三つの賞品。
その楯を持ち上げては重さに驚き、カップに顔をつっこんでは︱
︱今日だけは許してやろう︱︱﹁あー、あー﹂と声を出してその反
響を楽しんでいる。
﹁すごいわね、ユリアーナ! ここにゼリーを作ったら、マストレ
1232
ーナと食べてもまだ余るんじゃないかしら﹂
﹁さようでございますね﹂
﹁マストレーナ?﹂
マストヴォーゼの娘たち
初めて聞く名だ。新しい友達か?
﹁ネネネセたち姉妹のことよ。
意味になるんですって﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
という
確かに、マストヴォーゼ、あるいはスメルスフォの二十五人の娘
たち、だなんて毎回言いにくいもんな。
⋮⋮言ったこともないけど。
﹁ん?﹂
妹が大きな旗をユリアーナと協力して広げたために、部屋の端の
書き物机に寄らざるを得なかった俺は、その机上に見慣れない箱が
あるのに気がついた。
それは金箔で俺の紋章が描かれた、三十cm四方の漆塗りの箱。
その厚さは十五cmほどだろうか?
﹁なんだ、これ⋮⋮﹂
見覚えはなかったが、なにせ俺の紋章が入っている。エンディオ
ンかセルクが、新しい書類入れでも作ったのかと蓋を開けてみると、
そこには︱︱
﹁記名済みの、投票用紙⋮⋮か⋮⋮﹂
そこには抽選で選ばれたリリアニースタの投票用紙を一番上にし
て、高く積まれた折り目のある数千の投票用紙が詰め込まれていた
のだ。
﹁本人には公開⋮⋮されるのか⋮⋮﹂
知らなかった⋮⋮。
よかった。どうせ選ばれないだろうと、冗談で名前を書いたりし
ないで。
1233
椅子に座って、いくつかを取り出してみる。
いや、でも待てよ。万が一、これで知り合いの名とか見つけてし
まったら⋮⋮今後、気まずくなったりしないか? 俺が!
一瞬ためらったが、ふと目をおろした瞬間に、早速知った名を見
つけてしまう。
そこには俺と共にデーモン族の第一位になった女性の名が、はっ
きりと書かれていた。コメントと共に!
︹これで私が選ばれれば、今度は拒ませぬ。覚悟するのじゃな︺
うわあ⋮⋮よかった。これが選ばれなくて、ほんとよかった。
万が一、魔王様がこれを選択して中身を見たとすると⋮⋮今日が
俺の命日となっていたことだろう。
チラチラと他の用紙にも目を通してみると、やはりほとんどがウ
ィストベルのように一言を書いてくれている。
ちなみに、リリアニースタの分には俺と彼女自身の名が、流れる
ような達筆で書かれているだけだ。俺に対して、なんの一言もなか
ったらしい。
中には︹ベイルフォウス様にはいつでもお相手いただけるので、
閣下との機会のために賭けてみました。うふん︺とかいうこちらの
反応に困るものも、結構な数で見受けられた。
それどころかまるで男性であるかのような名も、いくつか混じっ
ていた。きっと親がわざと娘に男性名をつけたのだろう、と、思い
こむことにした。その中には知っている名もみた気がしたが、たま
たま同名なだけだろう。
だがこうして書かれたコメントを読んでいくと、さすがに俺でも
胸が熱くなる。割とみんな、真面目に投票してくれたようだ。
そうしてまた知った名を一つ、見つけてしまう。
1234
︹違うんですっ。私は別に、好きとかそういう理由じゃなくて、閣
下の身を、閣下の身を守るために、閣下の貞操を守るために、こう
して名を書いて投票しただけなんです! 誤解しないでくださいっ︺
なにも、投票用紙にまでそんなこと書かなくったって⋮⋮。
﹁ジブライール⋮⋮﹂
俺はその女性の名を呟き、大きなため息を一つ落とした。
1235
119.調査を依頼したからには、結果の報告も受けねばなりま
せん
妹は、少し落ち着いた。
まだ多少、不安はあるようで、俺をじっと見てきたり、気の抜け
たように惚けたりはしているが、それでも十日前よりずっと妹らし
くなってきている。
もう大丈夫だ。
だから今だ。
ミディリースの所へ調査結果を聞きにいくのは、今なのだ!
﹁閣下⋮⋮もう来ないかと思った﹂
なんだ、その半眼。
やめてくれ。責めるように見ないでくれ。
﹁すまんな。もっと早くにくるつもりではあったんだが、忙しくて
⋮⋮﹂
﹁言い訳はいい﹂
ぐっ⋮⋮。
﹁野いちご館は楽しめたか? 踊ったり、誰かと話したりしたのか
?﹂
ミディリースは大きくため息をつくと、分厚い本を閉じ、その上
に小さな両手を置いた。
﹁私のことは、いい。それよりようやく、現実と向き合う気になっ
た?﹂
いつも頼りないミディリースが、今日はなんだかしっかりして見
える。とてもお姉さんっぽい。
﹁ふっ⋮⋮いいだろう。聞こうじゃないか﹂
俺は彼女の正面に座り、腕を組んだ。
1236
そうとも。俺がたかが妹の恋愛話に、動揺などするはずもない。
先日のマーミルを見てみろ。
私と寝るように、だぞ? まだまだ子供だ!
﹁マーミル姫、可愛らしかった。顔を真っ赤にして、相手の子にも
遠慮してしか近寄れないみたいで、恥じらう口元とか、キラキラ光
る上目遣いの目元とか、あれはどう見ても恋する少女﹂
﹁うわあああああ!!﹂
やめろ、想像しちゃったじゃないか!!!
なんでいつもたどたどしい語りのくせに、今日だけそんな淀みな
いんだよ!
﹁⋮⋮閣下⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁耳を塞ぐと、何も聞こえない﹂
ミディリースが立ち上がり、机の向こうから俺の腕を握って、引
っ張り外そうとする。
だが、か弱い女性の力で、男の腕力に敵うはずもないではないか。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺が腕を耳から離そうとしないでいると、ミディリースは何を思
ったのか、机を回り込んで俺の横にやってきた。
そうして⋮⋮。
俺の見守る中、少しうつむき加減になって、背を丸め、内股で足
先でトントンと床を叩きながら、前にくんだ手をもじもじし始め、
頬を少し赤らめて口元をきゅっと結び、潤んだ目で上目遣いに︱︱
﹁わかった! もうわかったから! 実践しなくていいから、頼む
!﹂
俺はミディリースの肩をつかむ。
1237
なんだよ、普段はあんなに恥ずかしがり屋なくせに! なんでこ
んな時には思いっきり恥ずかしい演技を平気でするんだよ!!
ちょ⋮⋮今、ふっって笑ったろ!
ミディリース⋮⋮まさか隠れドSなのか?
﹁マ⋮⋮マーミルの様子はいい。それより、その⋮⋮相手の子供、
だが﹂
﹁相手の男の子、ね﹂
ミディリースは俺の正面席に座り直した。
﹁どうだった⋮⋮﹂
﹁どうって?﹂
﹁真面目そうだとか⋮⋮ベイルフォウスみたいだ、とか⋮⋮﹂
﹁ベイル閣下⋮⋮つまり、女たらしっ、てこと?﹂
引きこもりでも、奴の悪行は知っているらしい。
﹁まあ、そうだ﹂
﹁子供なのに⋮⋮﹂
﹁でもほら⋮⋮あるだろ? 子供だろうと、女性に不誠実そうだと
か、そういうのは。将来女性を泣かせそうだな、とか。ベイルフォ
ウスだって、きっと子供の頃からあんな感じだったんだろうし﹂
﹁そこは⋮⋮子供の頃から、あんなではないだろう、じゃ⋮⋮﹂
いいや。あいつは絶対、子供の頃からあんなだ。間違いない。確
信をもって断言する!
﹁まあでも、あの子も子供、といっても、マーミル姫よりは、だい
ぶ上⋮⋮﹂
﹁えっ﹂
同い年くらいだと思っていたのに。
﹁たぶん、成人近いと思う⋮⋮﹂
なんだと!?
1238
確かに、双子も背は高いように言っていたか。
﹁真面目そうな、子、だった﹂
ミディリースは、意外にもしっかりとした報告をしてくれた。
見た目は誠実そうで、受け答えははきはきとして礼儀を守り、か
といって卑屈でもなく、可愛い女子にも、浮ついた態度をみせるこ
とはないのだとか。
領地を移動したばかりで知り合いもいないだろうに、すでに同性
の友人も数人、できているらしい。
妹に対しても、大公の身内だからと特別扱いをするでもない。そ
れでも人付き合いの苦手そうなマーミルを思いやって、歓談の輪に
誘ってくれたり、ダンスの相手を申し出てくれたりと、とにかく気
の使い方にそつがないのだとか。
年長の子供たちの中でも魔力も突出している方らしく、かつ身体
能力も高そうで、もちろん竜の操作も手慣れたものである、と。
⋮⋮。
⋮⋮なにそれ。
なに、その嫌味なほど完璧にできたお子さま!
俺がその年頃なら、間違いなく可愛い女子にはデレデレするだろ
うし、同性の友人とか絶対すんなりできないし!
っていうか、実際には女子とも男子とも仲良くなれず、ぼっちだ
ったんだが!!
なにこの差⋮⋮胸が痛い。
﹁あれは、マーミル姫でなくとも、同世代の子なら惚れる。実際モ
テてた﹂
﹁えっ。まさか、ミディリース⋮⋮君も?﹂
﹁閣下。私、同年代、違う﹂
﹁あ、すまん﹂
1239
どうやら惚れたのではないようだ。
俺の言葉にムッとしたように、唇をとがらせている。
そうだよな。いくら見た目は子供のようだといっても、実際には
俺よりお姉さんなんだもんな。
⋮⋮話していても、子供みたいに感じるときが多いけど。
﹁まあ、心配いらない。少なくとも、相手に問題はない。むしろ、
初恋の相手としては、上々﹂
ミディリースは分厚い本を胸に抱きしめ、椅子から軽やかに飛び
降りる。
﹁報告、以上。では﹂
﹁ああ、ありがとう﹂
彼女はこくりと頷くと、花葉色の髪を翻し、小走りに行ってしま
った。
ミディリース。
野いちご館には渋々行ったはずなのに、あんなにしっかり調べて
くれるだなんて。
妹の初恋相手の人となりと同時に、俺はミディリースの誠実さを
知ることになったのだった。
***
﹁閣下、よろしいでしょうか﹂
﹁ん?﹂
ためらいがちな声に顔をあげると、三人の見知らぬ女性が、手を
そわそわ組み合わせながら立っていた。
﹁あの⋮⋮私たちのことなど、もちろんご存じないのはわかってい
1240
ますが、どうしても閣下に一言、お伝えしたくて﹂
﹁そうなんです。どうか、ご無礼をお許しください﹂
二人がそう話し、一人がこくりと頷いた。
﹁ああ、かまわない。ここは舞踏会場ではないし﹂
ダンスを踊るのなら、上位から下位への声がけが通例となってい
るが、ここは談話室の一つだ。とはいえ、どちらかというと、なだ
らかな曲調の生演奏を背景に、静かな語らいを楽しむ部屋ではある
が。
⋮⋮お前はなんでそんなところに一人でいるかって?
別にいいだろ!
ミディリースの話がショックだったから、ちょっと静かな音楽を
聞きながら、物思いに耽りたかったとか、そんなことは決してない
のだ!
﹁コ、コンテストの第一位、おめでとうございます!﹂
﹁おめでとうございます﹂
三人が、そろって頭をさげる。
﹁ああ、ありがとう﹂
﹁私たち、みんな閣下に投票したんです!﹂
真ん中の娘が顔を真っ赤にしながら、そう言った。
﹁ああ⋮⋮うん、ありがとう﹂
他になんと言えというのか。サーリスヴォルフなら、気の利いた
言葉を口にするのかもしれないが、俺には礼を言うことしかできな
い。
﹁私はティレニアです﹂
﹁ヒーズリーです﹂
﹁スーディーともうします﹂
三人は名乗りをあげて、こちらをじっと見つめてくる。
1241
それきり、何か期待するように瞳を輝かせるばかりで、続きの言
葉がないのだった。
えっと⋮⋮。
もう一回、ありがとうって言うべきか?
それを待たれているのだろうか?
でも、口を開けば礼ばかり、というのもな⋮⋮。
﹁私たち、みんな名前を書いたんです﹂
さっき聞いた。やはり﹁ありがとう﹂の催促なのか?
﹁名前を、というのは、もちろん自分たちの名前を、という意味で
︱︱﹂
ああ、記名投票をしたということか。
﹁それでつまり︱︱﹂
三人の娘は、少し困ったように顔を見合わせている。魔力の弱さ
と雰囲気からしても、たぶん無爵の女性たちなのだろう。
彼女たちも俺に声をかけてみたものの、これ以上はなんと会話を
続けていいのかわからないのかもしれない。有爵者との会話には、
それほど慣れてもいないだろうし。
ティムレ伯の言った通り、下位の魔族にとって上位の魔族という
のは、舞踏会場でなくとも話かけにくいものなのだ。
なにせ上位には、力こそ全て、を体現した乱暴者も多い。それを
警戒しなかったとしても、歴然たる魔力の差というものは、俺のよ
うにその事実をはっきりと見て取る目がなくとも、本能的な恐怖と
して肌で感じるものだったりするからだ。
真ん中の娘が両脇からつつかれ、声を絞り出すように口を開いた。
﹁ざ⋮⋮残念でした﹂
1242
﹁ああ⋮⋮残念だった﹂
何がかはわからないが、ひとまず同意しておく。
﹁でも、私たちいつでも︱︱﹂
三人は思い切ったように、顔を見合わせて頷き合う。
﹁閣下にお仕えする覚悟はできております﹂
﹁⋮⋮﹂
ちょっと待て。残念って、自分が選ばれなくて残念ってことか。
名前を書いた方の感想としては、そうなるのかもしれないが⋮⋮。
もしも、この発言がもっと知った相手からのものなら、俺は﹁女
性がそんな慎みのないことを言うんじゃありません。こっちが誤解
したらどうするんですか﹂と、額に手刀でも浴びせて説教したこと
だろう。
ちなみに言ったのが万が一にも、マーミルであったとしよう。俺
は妹が自分のうかつさとはしたなさに気付くまで、部屋から出さな
いと誓う!
だが相手は初対面の、しかもか弱い女性たちだ。
﹁その気持ちだけいただいて︱︱いや﹂
にっこり笑ってすませようと思ったが、途中で気が変わった。
三人は成人間もない若さに見える。それで、今後の彼女たちの貞
節のことも思いやって、少しお灸を据えることにしたのだった。
一人の腕を引き、膝の上に座らせる。
﹁きゃあ﹂
﹁いいだろう。なら言葉通り、今ここでお仕えいただこうか?﹂
﹁閣下、そ、そんな⋮⋮﹂
選んだ娘は顔を真っ赤にして、伏し目がちにうつむく。
非常にいい反応だ。むしろ女性はみんなこうであって欲しい、と
1243
思うのは、俺のわがままだろうか。
これで止めてもよかったが、相手の反応に嗜虐心をそそられた。
その細い顎を掴んで、顔を引き寄せる。
残りの二人が、息をのんだのがわかった。
﹁いつでも覚悟はできている、といったのはそっちだろう﹂
﹁そ、そうですけど、で、でも、こんなところで⋮⋮﹂
初々しいね! 魔族といえども、若いとやっぱりまだ初々しさが
残ってるよね!
同年代だろうというのに、どこかの髭の娘とは大違いだね!
だがこれ以上いじめるのは、さすがに可哀相だな。俺もやりすぎ
てしまいそうだ。
彼女の顎から手を降ろし、顔を離した。
﹁ああ、悪かった。冗談だ﹂
﹁じょう⋮⋮だん﹂
﹁だが、うかつなことを言うと、こんな目に合うということがよく
わかっただろう? 今後はもう少し、発言は考えてするんだな﹂
俺、偉そう!!
でも魔族にだってもう少し、慎ましやかな女性が増えてもいいと
思うんだ。っていうか、増えて欲しいんだ!!
﹁⋮⋮どうした?﹂
膝の上に座った女性は、未だ照れた様子なのに、なぜか一向に立
ち上がろうとしない。こういう時って、そそくさと立ち去ってくれ
そうなものだと思うんだけど︱︱まさか、逆効果でやる気になった、
とかじゃないよね!?
それとも、さすがに悪ふざけがすぎて怒らせてしまったか。
﹁あの、閣下、申し訳ありません⋮⋮﹂
1244
彼女は少し、涙目で俺を見つめてきた。
﹁その⋮⋮腰が、抜けてしまって﹂
えっ。
﹁ああ、そうか⋮⋮なんていうか、その⋮⋮すまなかった﹂
彼女を椅子に降ろし、自分が立ち上がる。
﹁医療班を呼ぶか?﹂
﹁いえ、そこまでは︱︱﹂
﹁ならしばらくここで休んでいくといい。悪いな。友達をみてやっ
てくれ﹂
﹁は、はい﹂
罪悪感を感じつつ、残りの二人に彼女の世話をまかせると、俺は
その部屋から抜け出した。
しまった。色々ちょっとたまってて、やりすぎてしまったようだ。
俺のバカ!!
でもいくら若いとはいえ、まさか魔族の娘がそこまでウブだとは、
思ってもみなかったんだ。
っていうか⋮⋮考えようによっては、これは本当に⋮⋮あれ?
もしかして、俺はよけいなことをして、自分で自分のチャンスを
握りつぶしたのではないだろうか。
あれ?
廊下に出て、扉の影から部屋に残してきた三人をこっそり見てみ
る。
こうして改めて見てみると、三人ともやや素朴で、軽薄な雰囲気
は全くない。
そりゃあそうだな。そもそも下位の者は上位の者に比べれば、誤
差範囲とはいえ遠慮がちな者も多い。彼女たちだってコンテストの
発表があった直後だから、がんばって勇気を振り絞ってみたのかも
1245
しれない。
⋮⋮しまったな。
﹁閣下﹂
罪悪感にさいなまれている最中に、凍えるような声音を浴びせら
れた。
確認までもなく、誰であるかは声でわかる。当然、無視する訳に
はいかない相手だ。
﹁お話しがあるのですが、よろしいでしょうか﹂
﹁ああ、もちろんだ。どうした?﹂
彼女から話し、というのだから、仕事の件に決まっている。
俺は頭の中を素早く切り替える。
そうして表情をできる限り引き締め、振り返ったのだが。
なぜかそこには、葵色の瞳に静かな怒りをたたえたジブライール
さんが、青ざめた表情で立っていたのだった。
1246
120.話し合いは落ち着いて
俺とジブライールは、別の談話室の一室にいた。
仕事の話だろうから執務室に行こう、と誘ったのだが、断られた。
こんな台詞付きで︱︱
﹁今閣下と二人きりになると、私はたぶん自分を抑えられません﹂
どう抑えられないんだろう、ジブライール。二人きりになったり
したら、殴りかかられるのだろうか。いや、蹴られるのか? 俺は
下を守ったほうがいいだろうか。
⋮⋮想像しただけで、ちょっと内股になりかけたのは内緒だ。
だってジブライール、超怒ってるもん。理由はわからないけど、
それだけは分かりたくもないのに分かるんだもん!!
そんなわけで俺は、今度は背景音楽もない、わいわいがやがや賑
やかな談話室で、いつものように軍服でかっちり決めたジブライー
ルと二人、周りから異様に浮いた様子で向かい合って座っていたの
だった。
﹁それで⋮⋮何か問題でもあったか?﹂
新しい魔王城への遷城も終了し、ジブライールはその現場監督の
役を放免となった。その後遊んでいるわけにもいかない、という本
人からの申し出で、それならばと新しい仕事を与えていたのだ。
それがこの際に移動となった魔族たちの、管理と把握である。
爵位争奪戦が行われ、恩賞会でその表彰も終わった現在、少なく
ない数の屋敷・城で転出・入居作業が行われている。
1247
常ならただ役所が対処すればいいだけのことだが、今回に限って
はなにせ数が多い。いつものような対応では、予想もしえなかった
問題が起こってくるだろう。
もともと、その一連の流れを把握し、問題があれば指示を与える
ようにと、監督を上位の軍団長に任せてあったのだが、今回その上
役として、ジブライールを据えたのだ。先々のことを考えても、人
員の把握は俺により近しい者が初期の段階でしてくれていた方がい
いだろう、と考えた末のことだった。
しかし、待てよ。そういえば例の子供も最近、奪爵した父親につ
いてきたのだったな。
もしかして、ジブライールも何か把握しているかも⋮⋮。
これは丁度いい機会かもしれない。
だがとにかく先に相手の話を聞かないと。
これだけ怒りを露わにしているのだから、なにか問題のある転居
者でもあったのだろう。
﹁ややこしそうな奴が、転居してきたか?﹂
﹁ややこしそうな⋮⋮とは、どういった者のことでございましょう﹂
え?
いや、それ、俺に聞かれても困るんだけど⋮⋮。
﹁今のところ、表だって問題はございません。少なくとも、明確な
敵意をもって入領したものは、おらぬと存じます﹂
だったらなんで、そんなに怒ってるんだよ。
﹁報告書は、いつもの通り筆頭侍従に預けてございます。現在は、
その帰りで﹂
﹁じゃあいったい、なんの話があって⋮⋮﹂
﹁それは⋮⋮﹂
ジブライールさんは、ここでようやくためらいを見せてくれた。
1248
キリッとつり上がった目尻が下がり、ほんの少し柔らかさを取り戻
す。
﹁あの⋮⋮﹂
﹁うん﹂
﹁お⋮⋮⋮⋮おめでとう、ございます﹂
﹁うん?﹂
﹁いえ、その⋮⋮だ、第一位に⋮⋮﹂
ああ、コンテストの結果か!
ジブライールまでそんなことを気にしてくれているとは。
⋮⋮いや、俺のこと好きでもないのに、記名投票してくれたくら
いだ。そりゃあそうかもな。ほんと、見上げた忠義だよ⋮⋮。
﹁わざわざそれを言いに?﹂
﹁いえ、と、いいますか⋮⋮その⋮⋮﹂
どうしたというのだろう。ジブライールさんは、急にしどろもど
ろし始めた。
まあ幸いにも、怒りは収まったみたいだから、よしとしよう。
﹁わ⋮⋮私も、閣下に⋮⋮その、投票を⋮⋮﹂
﹁ああ、そうみたいだな。大丈夫、ちゃんと手紙⋮⋮といっていい
のかな。コメントは読ませてもらったよ﹂
﹁読まれたのですか!?﹂
﹁え、うん⋮⋮届けられたからな﹂
﹁しまった! そうだった⋮⋮!!﹂
ジブライールは悔しそうに顔をゆがめると、握りしめた拳で右の
肘掛けを叩いた。
﹁知ってたのに⋮⋮届けられるのは知っていたのに、私ときたら⋮
⋮!﹂
1249
﹁いや、だからジブライール。俺は誤解なんてしてないから、そこ
は安心してくれていい﹂
ああ、そうだとも。あれほどしっかり否定の言葉を書かれていて
は、誤解のしようがないではないか。
﹁と、いうことは⋮⋮さっきの三人も、それを念頭において﹂
さっきの? ⋮⋮ああ、さっきの三人な。
﹁閣下は彼女たちのコメントも、全てご記憶の上、あのような態度
をとられたのでしょうか!?﹂
え?
﹁いや⋮⋮さすがに知らない相手のものまでは⋮⋮誰が誰かわから
ないし、知らない上ではコメントだって覚えられもしないというか﹂
しかしそうか。彼女たちはもしかして、名前を名乗れば俺が何か
覚えていて、反応を返すかもしれないと思ったのだろうか。
それで勇気を出してみた、と。
だとしたら、少し申し訳なかったな。
﹁では、誰かもわからない、相手が閣下のことをどう思っているか
も確と把握していない状態で、あのようなことを?﹂
﹁あのようなって⋮⋮﹂
﹁相手が腰砕けになるほど誘惑なさるだなんて!﹂
ジブライールさん、肘掛けがミシミシいってます。
ちょっと力を抜いてください。
﹁いや、誘惑なんて、そんな大それたことをしたつもりは⋮⋮﹂
﹁膝の上に成人女性を乗せるということが、大それた行為ではない
とおっしゃるのですか?﹂
﹁あの場合、そこまでではないかと⋮⋮﹂
そう思った上での対応だったが、彼女が腰を抜かしたところをみ
ると、実際はそこまでのことだったようです。すみません。
1250
でもそれをこの場で素直に認められるはずはないではないか。俺
にも一応、プライドというものがある。
それにしたって、なにこの状況。まるで俺、怒られてるみたいな
んですけど。どうして責めるような口調で、問いただされているの
だろうか。
問いただされてるよね?
責められてるよね、俺。
﹁ジブライール、ちょっと落ち着い﹂
﹁だったら!! 大したことではないとおっしゃるなら、今、ここ
で、私にも! 同じことができますかっ!?﹂
﹁は? ⋮⋮え、同じって⋮⋮つまり、ジブライールを膝の上にだ
き抱えろってことか?﹂
話の方向性がわからない。
だが、ジブライールも勢いで口走ってしまっただけなのだろう。
自分の発言の内容に気がつくと、ハッとした表情を浮かべ、慌て
たように両手を胸の前で振った。
﹁ち、違います、今のはその⋮⋮ついうっかり、心にも無いことを、
思わず言ってしまったというか! 別に私は、閣下の膝に座りたい
というわけではっ!﹂
⋮⋮だよね。
だとしても、だ。
﹁ジブライール。気をつけた方がいいぞ﹂
﹁な⋮⋮何をですか?﹂
﹁最初は冷静な性格だと思っていたが、実際は結構短気だよな﹂
ぴくり、とこめかみがひきつる。
また怒らせるかもしれないが、今日はもう覚悟して言ってしまお
1251
う。俺としては良い忠告のつもりなのだし。
﹁それで時々、思ってもないことを勢いで口走ってしまうだろ。俺
だからいいが、相手によっては変な誤解をすることもあるし、ジブ
ライール自身も引っ込みがつかなくなって、やりたくないこともや
らざるを得なくなるぞ。だから発言には、重々気をつけた方がいい﹂
﹁私が⋮⋮その場の勢いだけで、放言してしまっている、と﹂
﹁いや、そこまでは言わないけど⋮⋮でも今だって、本来の趣旨か
ら外れてないか? 仕事の話があったんだろ?﹂
﹁違います! 私は別に、全く心にもない態度をとったり言ったり
なんて、していません!﹂
いや、実際に今勢いで口走ってるだろ。
あとなんか、ちょっとずつ話の本筋がかみ合わなくなってきてい
る気がする。
﹁閣下こそ、大したことじゃないと言いながら、本当はたぶらかせ
た自覚がおありになるので、ごまかそうとなさっているのではあり
ませんか?﹂
は?
﹁どうなんですか、そうじゃないと言うのなら、私にも同じように
してくださったらどうなんです!?﹂
意味がわからない。いやもう、ほんと意味が分からないよ、ジブ
ライール!
さっきは心にもないことを、うっかり言ってしまっただけだと認
めたじゃないか。
支離滅裂だとしか思えないんだけど、これはあれか、癇癪か?
俺はため息をついた。このままでは話にもならない。
どちらにしても、俺の対応がまずかったんだ。よかれと思っても、
怒っている相手にする忠告ではなかったのだ。
1252
﹁わかった。膝の上でもどこでも、好きにしてくれ﹂
そう諦めたように膝を叩きながら言ったら、ジブライールは正面
の席を立ち上がって、俺の傍らにやってきた。
けれどそのまま膝には座ってこようとせず、腕を差し出される。
﹁なに?﹂
﹁さっきは閣下が彼女の腕を強引に引いて、自分の膝に座らせられ
たではありませんか。同じようにやっていただかないと﹂
え?
なに、そのこだわり。
﹁全く同じようにすればいいのか?﹂
こくり、と頷くジブライールさん。
ほんともう、俺には理解不能だ。
だが仕方ない。とにかく、ジブライールには落ち着いてもらわな
ければ。そのためには彼女が納得するまで、つき合うしかない。
俺は彼女の腕を引き、さっき別の女性にやったように、自分の膝
に座らせた。
﹁!﹂
そうしてジブライールの顎を持ち上げ、顔を近づけて、こうささ
やく。
﹁いつでも覚悟はできている、といったのはそっちだろう﹂
﹁きゃあああああ!!!﹂
だっ!
うおっ!!
ちょ⋮⋮ちょ⋮⋮!
ちょっと待て!
ちょっと待て、ジブライール!!
1253
頭突かれた!!
思いっきり頭突かれたんだけど!!
しかもその後、椅子ごと突き飛ばされたんだけど!
結構な重量感ある椅子の、下敷きになってるんだけど、俺!!
﹁ちょ、ジブ⋮⋮﹂
頭を押さえながら、転んだ椅子の座席を支えに起きあがる。
﹁誰もっ、台詞付きでだなんて、言ってません!﹂
えええええ⋮⋮。
なにそれ、だってあの娘にやった通りやれって言ったじゃないか
⋮⋮。
見上げるジブライールは、真っ赤になった頬を両手で挟み込みな
がら、涙目で俺を見下ろしている。
ちょっと待て。
なにその反応。
え?
どう⋮⋮え?
いや、俺はこの状況をどう捉えたらいいの?
﹁閣下なんて、もう⋮⋮﹂
え?
﹁もう、大嫌いですっ!!!﹂
ええええええ!!
そうしてあろうことか大惨事の俺を置いて、ジブライールさんは
走り去ってしまったのだった。
おーーーーい!
話はどうしたー?
1254
なんの話だったんだ。せめてそれくらい聞きたかった。
あと、例の子供について⋮⋮できればちょっとでも情報を得たか
った、のに。
***
この話し合いは、たいそう人目のある談話室で行われた。
故にその後、こういう噂が囁かれたのだという。
﹁ジャーイル閣下とジブライール副司令官が、公衆の面前でいちゃ
ついていた﹂、と。
1255
121.彼らと会うのも、随分久しぶりです
さて、今日、俺は再び恩賞会に顔を出している。
だがしかし、今回も自分の表彰のためではない。
今日表彰されるのは、この魔王城の築城作業に関わった、千に及
ぶ作業員たちなのだ。
責任者は俺なのだが、褒賞を受けるのは作業期間中、ずっと現場
に詰めていた者たちだけなのである。
と、いうことは?
もちろん、その筆頭はジブライールだ。
正直⋮⋮あんなことがあった後だ。心配している。ジブライール
は今日は大丈夫だろうか、と。
﹁先日は、申し訳ありませんでした﹂
待合いで目が合うなり、頭を九十度に下げられた。
﹁私としたことが、あろうことか閣下を突き飛ばすだなどという、
乱暴を︱︱どんな罰でも受ける覚悟でございます﹂
確かに突き飛ばされた。あのときの俺は、傍目からみてもものす
ごく不格好だったことだろう。だが。
﹁いや、気にするな。俺もまあ︱︱気が回らなくて悪かった﹂
正直、なにがどうしてああなったのかはよくわからないが、そう
謝っておいた。というのも、フェオレスが一部始終をどこかからか
見ていたらしいのだ。そうして訳知り顔で、アドバイスをしてくれ
た。
とにかく俺が自分の非を認めて謝れば、話は丸く収まるのだ、と。
正直、納得はいっていない。
1256
一体どこをどう、気を利かせればよかったというのか。
フェオレスは具体的に事実を把握しているらしいが、頼んでも説
明はしてくれなかった。しかしなにせ、いつの間にやらアディリー
ゼといい仲になっていたり、外見はデヴィル族の基準からいうとそ
れほどでもないはずなのに、モテていたりするフェオレスの言うこ
とだ。黙って聞いておいた方がいいに決まっている。
俺はそう判断したのだった。
今回はジブライールも先日のティムレ伯と同様に、大演習会に繕
った軍服を飾りたてた服装だ。
もちろん、軍服を着ているのはジブライールだけじゃない。今回
参加する千人全てが、各々の所属する軍団の軍服をその身にまとっ
ていた。
俺のところの作業員は、もちろん黒。今後はこれが、我が軍団の
正式な軍服となるだろう。そして、意外にも魔王様のところの作業
員たちは、黄土色の軍服だ。
だがこれは逆に、魔王様の黒が目立つように、という意味で選ば
れた色かもしれない。俺の白と⋮⋮同じ意味でな。
ああ、そう。俺は白だ、一人だけ。
とても⋮⋮目立つ。
﹁本当は、先日、お伺いしたのは︱︱﹂
ジブライールは顔を上げたが、伏し目がちだった。
﹁閣下の︱︱お相手に選ばれた、その、女性のことで⋮⋮﹂
﹁ああ、リリーか﹂
﹁! ご存じなのですか、彼女を!?﹂
﹁ああ、まあ⋮⋮﹂
ジブライールの表情が一変する。双眸に険しい光が宿り、俺をま
っすぐ貫いた。
1257
﹁いつから、ですか?﹂
﹁いつから⋮⋮ええと⋮⋮﹂
あれはいつだった?
ベイルフォウスの膝の上に座っていたのが初めてだから⋮⋮。
﹁たぶん大祭の初日からだ﹂
﹁そんな前から!?﹂
どうしたのだろう、ジブライールは。ずいぶんショックを受けて
いるようだった。
もしかして、彼女と知り合いなのだろうか。サーリスヴォルフ同
様、喧嘩をふっかけられた一人だとか⋮⋮。
いや、少し年があわない。いくらなんでも、ジブライールはサー
リスヴォルフやリリアニースタと同じ年代ではないだろう。
﹁それで、閣下は、あの、彼女のことを、どう︱︱﹂
﹁お久しぶりでございます、閣下﹂
遙か向こうからその俊足を大いに発揮して、黒豹が駆け寄ってく
る。
そのまま空気を読まず、俺とジブライールの間に割り込んだ。
﹁ああ、カセルムか。久しぶりだな﹂
黒豹男爵カセルムは魔王様の配下だから、来ているのは黄土色の
軍服だ。重厚さにこだわる彼らしく、装飾は重そうな徽章に限られ
た。
背筋をただし、胸を張って敬礼を披露してくれる。
﹁いよいよ我らの業績が、形として認められる日がやって参りまし
たな!﹂
﹁そうだな﹂
﹁ジャーイル閣下、ジブライール閣下!﹂
カセルムを皮切りに、かつての作業員たちが次々と俺の周りにや
1258
ってきた。
それでジブライールとの会話は中断されたが、まあ仕方がない。
彼女とはいつでも話ができるのだし。
﹁閣下。相変わらずご健勝でなによりです﹂
そう言うのは、オリンズフォルトだ。
爽やかに微笑む彼が身にまとっているのは、確かに前回俺の領地
で支給した、その黒の軍服と同じものに違いない。
だが、彼もカセルム同様に、魔王様の配下であったはず。
﹁オリンズフォルト⋮⋮その、軍服は︱︱﹂
﹁ああ。この日のために、急遽あつらえまして︱︱以前のものでも
よいかとも思ったのですが﹂
﹁と、いうことは﹂
﹁はい。今回の爵位争奪戦への参加に間に合いまして、先日より閣
下の配下に属することとなりました﹂
ちょっと待て。
俺の配下になったということは、もともと伯爵だったわけだから、
今は侯爵にあがったということか?
﹁そう、だったのか⋮⋮。しかし、よく間に合ったな﹂
魔王城が公開されたのは、まだ爵位争奪戦が終わる前だが、彼は
現場主任の一人として、遷城作業の間も数日残って関わっていたは
ず。それでよく、爵位争奪戦に参加する気力と暇があったものだ。
最初からそうと決めていたのだろうか。
﹁以後、閣下の許でよき臣となれるよう、精進して参ります。どう
ぞお見知り置きください﹂
彼は薄く笑い、頭を下げた。
﹁ああ。そういうことなら、こちらこそよろしく頼む﹂
1259
﹁それで⋮⋮﹂
オリンズフォルトは顔を上げると、周囲を探るように見回した。
﹁ミディリースは結局、いかがなさいました?﹂
さすがに、従姉のことが気になるらしい。
﹁ああ、大丈夫だ。今回は不参加ということで、ウィストベルには
承知してもらった﹂
﹁ウィストベル閣下、ですか?﹂
ああ、そうか。ミディリースにも褒賞を、と言ったのを、オリン
ズフォルトは魔王様だと思っているのだな。確かに、二人の間柄を
知らなければ、そう考えるのは当然だ。
﹁ウィストベルとミディリースは、なんというか⋮⋮知り合いなん
だ。いや、友人、かな﹂
﹁ウィストベル閣下とミディリースが、ですか?﹂
平静なイメージの強いオリンズフォルトが、目を見開いて驚いて
いる。
確かにあの引きこもりっぷりを知っていれば、驚くのも無理はな
いだろう。
﹁彼女にも褒賞をと望んだのは、ウィストベルの方でな﹂
﹁そうですか、それはまた⋮⋮﹂
﹁オリンズフォルト?﹂
﹁いえ、それは大変ようございました。人見知りの激しい彼女が友
人関係を築けるとは、ウィストベル閣下は思ったよりお優しいかた
なのでしょうね﹂
思ったより優しいってなんだ。
俺はその発言には返事しないぞ。あらゆる意味で、自衛に走らせ
てもらう。
﹁閣下。そろそろ整列した方がよかろうと存じますが﹂
1260
﹁ああ、そうだな﹂
ジブライールの忠言に従って、会話は中断した。
それから俺の見守る中でジブライールが指揮し、主だった役割に
ついていた者たちが、それぞれかつての部下を整列させる。
そうして綺麗に並び終わったところで待合いの扉が開き、儀仗兵
が入場を催促してきた。
俺は千の作業員を従えその南北に長い広間へ、入り口からの二度
目の入場を果たす。正面に堂々と腰掛ける魔王様と、まるで王妃の
ように傍らを占めるウィストベルの足下までたどり着くと、その場
で一礼した。
︱︱断じて、敬礼ではない。
﹁魔王陛下。この史上稀なる荘厳な魔王城の、築城に関わった者共
をお連れいたしました。私はその現場の総指揮を預かったものとし
て、また、閣下の寵臣の一人として、特別にこの者共を直接讃える
式に加わりたいと存じます﹂
言っておくが、もちろんとっさに思いついたことではない。こう
いう手順を踏むと、あらかじめ決めてあるのだ。
つまり、こう申し出た俺に魔王様が頷いて許可を与える。すると
それを受けて俺は壇上にあがり、呼ばわり役の兵士から名簿を受け
取って、一人一人の名をその功績と共に読み上げ、最初から最後ま
でこの場で表彰を見守るのである。
あーあーあー。
うむ、大丈夫。
この日のために、昨日はずいぶん蜂蜜酒を飲んだのだから。
﹁では︱︱﹂
そうして俺は、栄えある建築士たちの名から初めて、最後に現場
1261
監督を勤めたジブライールに至るまでの千人の名と業績を、声を張
り上げて語ったのだった。
ちなみに城に帰ってから医療棟を訪ね、念のために喉を診てもら
ったことは、ここだけの話にしてほしい。
さすがに千人の名乗りを終える頃には、少し声がかすれていたの
だから。
1262
122.偶然は必然と申しまして
その再会は、偶然としかいいようがなかった。
なぜならば今日は恩賞会の最終日。
俺はもちろん大祭主として、閉会式に参加せねばならない。だが
今までの主行事と違って、一日中開催されるその行事に顔を出すの
は、午後からでよかったのだ。
つまりその午前中の数時間だけが、たまたま空いた時間だったと
いう訳だ。
それで俺は、自分の心の平穏のために、武具展を訪れていた。近
頃精神が乱れることはあっても、その逆であることなどなかなか無
かったのだから。
そうして展示品を一つ一つ、じっくりと鑑賞していたら、その少
年がやってきたのだ。
﹁ジャーイル閣下!﹂
俺を見つけたその少年は、薄茶の瞳を輝かせながら、俺の許に駆
け寄ってきた。
﹁君は⋮⋮﹂
俺はその少年を知っていた。そこそこの魔力に背丈もあったので、
一度は成人かと誤解した相手だ。
そう。彼と初めて会ったのは、爵位争奪戦の最終日。
プートの領地でかの副司令官からその最後の戦いを受けたときに、
自分の愛剣を貸してくれた、その少年だった。
﹁迷い込んだのか?﹂
﹁まさか! どうしてです?﹂
﹁どうしてって⋮⋮見ての通り、ここにすき好んでやってくる者な
1263
ど、なかなかいないからな﹂
俺は周囲を見回した。
もちろんこの場に動く者は、俺と彼だけだ。
﹁こんなにすごい魔力を帯びた武器が、色々あるのに、ですか?﹂
ん?
﹁じゃあ君は、本当にこの展示を見るために、ここへ?﹂
﹁それ以外に理由はありません﹂
おお、なんてことだ! すばらしい!
そういえば俺が借りている剣も、魔剣ではなかったものの、手入
れは行き届いていた。
痛めば修理もせず捨てて、別のものを手に入れる。それが当然と
信じて疑わない魔族にしては、珍しい。
他の者だって魔剣の類であれば多少は丁寧に扱うかもしれないが、
それでもベイルフォウスみたいにこだわる者は、そうそういないだ
ろう。
つまりこの少年は、貴重な同好の士となる可能性が非常に高い少
年、ということではないのか!
﹁どれもすばらしいです。魔剣ロギダーム、正剣ストラヴァス、王
剣ガンドヌルブ、朱のマドヴァス、黄金の棘、死をもたらす幸い、
岩薙﹂
どうやら特に剣に興味があるらしい。彼が口にしたのは、全てこ
の場を飾る魔剣の名だったからだ。
そうだ。いいことを思いついた。
﹁それほど剣が好きだというなら、大祭が終わった後には、宝物庫
の魔剣を一本をくれてやろう。この間借りた剣の代わりにな。それ
でどうだ?﹂
1264
﹁⋮⋮もとは、剣を返していただくはずでしたが、よろしいのです
か?﹂
ああ、それはそうか。あれほどしっかり手入れをしていた剣だ。
さぞ愛着があるに違いない。
﹁そうだな、いらんことを言った。大事な剣を取り上げるようなこ
とを言って悪かった。忘れてくれ﹂
﹁いえ! そういう意味ではないのです﹂
少年は初めて会った時のように、床に膝をついてみせる。
﹁あれは確かに手をかけた剣ですが、閣下に代わりを選んでいただ
けるとあっては、それに勝る栄誉はございません﹂
この間も思ったんだが、子供だってのにいちいち芝居がかった子
だな。
まあ結論としては、魔剣の方でいいわけだ。
だがまだこの年では、魔剣を自ら判じて選ぶのは無理だろう。下
手をすると、不相応な剣を選んだあげくに、その魔力に引きずられ
て自滅しないとも限らない。
﹁そうか。ならその時は、俺が剣を選んでやろう﹂
﹁ありがとうございます。光栄です﹂
少年は紅顔をあげた。
若々しさにあふれた瞳は、輝かんばかりではないか。
俺もこのくらいの年の頃は、こんなにも純粋だったのだろうか。
⋮⋮いや、ないな。
俺はもっとこう⋮⋮冷めていた気がする。色々なことに。
﹁そういえば、まだ名を聞いていなかったな。なんという?﹂
﹁はい、閣下。ケルヴィス、と申します﹂
﹁そうか。じゃあケルヴィス、そろそろ立ってくれ。俺を相手にい
1265
つまでも、そう畏まっているのはやめてくれないか﹂
﹁ですが︱︱﹂
﹁でないと、さっきの剣をやる話はなしにしてしまうぞ﹂
そう脅してやると、少年︱︱ケルヴィスは、あわてて立ち上がっ
た。
この素直さはホントに見習うべきだな。できればこのまま育って
欲しいものだ。
﹁閣下。一つ、ご質問をよろしいでしょうか﹂
﹁そう固くなるな。答えられることは、出し惜しみしたりはしない﹂
﹁では、爵位の争奪についてお聞きしたいのですが︱︱﹂
ああ。確か成人まではあと十年ほどだと言っていたな。だとすれ
ば、そのあたりのことが気になるのも無理はない。そしてこの少年
ならば、今のままでも男爵位くらいはすぐに手に入れることだろう。
﹁実は、今後、その仕組みが変わると耳にしました。今までのよう
に、奪うだけではなくなるのだと︱︱﹂
実際には、上位の者から叙爵される、という方法もある。俺がそ
うだったように。
だが一般的に、その手を取る者は遙かに少なく、奪うのが当然と
思っている者が大半であるのは、間違いがなかった。
﹁︿修練所﹀のことだな。確かにそうだ。今後は爵位を得るのに、
従来の奪うという方法以外にも、その力をもって挑み、勝利すれば、
相手を殺って奪わずとも爵位を認められる、という方法が新たに加
わる﹂
もちろん別の方法が加わるからといって、従来の方法が禁止され
ることはない。
﹁つまり、こういうことだ﹂
1266
俺はケルヴィスに、︿修練所﹀の詳しい仕組みを説明した。
これから自分に大いに関係することだからだろう。彼は今まで俺
が話した誰よりも、真剣かつ興味深く話を聞いてくれたのだ。
あのエンディオンでさえ、途中で目が死んでいたというのに!
﹁では、爵位を得られる年になる以前に、同じその場所の別の棟で、
自分の実力をある程度把握しつつ、効率的な鍛錬もできるというわ
けですね﹂
﹁そういうことだ﹂
﹁そうして、早晩僕が成人し、ジャーイル閣下の配下にと望んだと
きは、閣下がその運営を担当なさっているときに、判定係に勝てば
よい、ということで、あっていますか?﹂
﹁ああ。正しく理解してる﹂
なんだろう、この子。割とこっちの説明心をくすぐってくるよね。
ちゃんと興味をもって聞いてもらえる相手がいるというだけのこ
とが、こんなに嬉しいものだとはな!
﹁では僕は、この大祭が終わって︿修練所﹀の運営が始まったらす
ぐに、鍛錬に向かうことにいたします。そうして一刻も早く、閣下
の配下に加わらせていただきたいものです﹂
子供なのに、なんて気の回る子だ。さすがの俺も、例え世辞であ
ったとしても、そうまで言ってくれる相手を嫌うことなどできない
ではないか。
﹁それにしても、俺の他にもこうして武具展に興味を持つ者がいて
くれたとはな。その展示品の名をそらんじているほど、見に来てい
るものがいるとは聞いたことがなかったが⋮⋮﹂
それにこれほど目端の利く少年がいたなら、俺だって今日までに
気付きそうなものだ。
1267
だが聞いた限りでも見た限りでも、ベイルフォウスをのぞけばこ
の武具展にやってくるものは、ほとんどが時間つぶしにやってきた
り、間違って迷い込んだり、という風なものばかりだったのに。
﹁はい。僕は最近、こちらの領地に引っ越してきたのです。ですが
それからは、二日に一度はこちらにお邪魔して、剣を鑑賞させてい
ただいているのです﹂
ん?
ちょっと待て。
最近、引っ越してきたって⋮⋮そう言ったのか?
﹁爵位争奪戦で?﹂
﹁そうです。父が、伯爵位を得ました﹂
どこかで聞いた話ではないか?
俺は改めて少年を見てみる。
真面目そうで成人間近の、魔力もそこそこある、薄茶色の髪に琥
珀色の双眸の少年︱︱
﹁あっ!﹂
﹁はい﹂
﹁もしかして、君か﹂
﹁僕が⋮⋮なんでしょう?﹂
少年は初めて、不安そうに瞳を曇らせた。その、琥珀色の瞳を。
﹁いや⋮⋮いや、なんでもない﹂
そうか、この子供か。マーミルの⋮⋮。
どうしよう。さすがにこんな誠実そうな子を相手に、うちの妹を
たぶらかせやがって、と食ってかかる訳にはいかないではないか。
妹と仲良くしてくれて、ありがとう、とでも言ってみるか?
⋮⋮いいや、止めよう。余計なことをいうのは止めよう。
1268
﹁旦那様。よろしいでしょうか?﹂
セルクがタイミングよく呼びにきてくれたことを、今は感謝しよ
う。
﹁そろそろ、魔王城へ出立なさるお時間が迫っておりますが﹂
﹁ああ、今いく。ではケルヴィス。また後日、会おう﹂
﹁はい、閣下﹂
少年は姿勢を正し、俺を見送ってくれた。
確かにミディリースの言うとおりだ。相手がこの子なら、大丈夫
だろう。
もっとも、だからといって、俺の気が休まるわけではない。それ
ばかりはどうしようもない、事実だった。
***
その後、俺は魔王城へ赴き昼餐会に参加してから、初日のように
魔王様とウィストベルと同じ壇上に並んで、パレードの代表者たち
の受賞を見守った。
ちなみにアレスディアは代表者の中にはいない。
彼女だけにはとどまらず、この間のコンテストの受賞のために一
度パレードを抜けている者は、今回の代表者からはわざとはずされ
ている。
そうしてすべての者へ褒賞がすっかり配られて、豪華な品に溢れ
ていた壇上ががらんとなるのを見届け、ウィストベルの閉会宣言を
魔王様と共に拝聴し、会場の大広間を後にしたのだった。
﹁ジャーイル閣下!! この間のコンテスト!! みましたか、ア
レスディア殿の燦然と輝く美貌を!﹂
実は珍しく少しばかり感慨深い気持ちだったのだが、リスにまく
1269
し立てられて、そんな気持ちもしぼんでしまっている。
﹁ああああ、しかし寂しいですなぁ。私がアレスディア殿と堂々と
隣にいられるのも、あとわずか⋮⋮この時ばかりは、自分の強さが
恨めしいではありませんか﹂
そう、あとわずかなのだ。大祭の終了まで。
なにせこの恩賞会が終った今となっては、常時各地で開催されて
いる大音楽会は別として、主行事で終了を残すのはもうあとパレー
ドだけ。
そして、開催を待つのはいよいよ大公位争奪戦だけとなる。
﹁この大祭が終われば私は力ある公爵、それも誉れ高き副司令官で
す。けれどアレスディア殿はただの大公の侍女。本来ならば、地位
の違いは甚だしく、慎ましやかなあの御方であれば、私に声をかけ
るのもためらわれるでありましょう。そのお気持ちは、重々わかり
ます﹂
おい。なんかリスがおかしなことを語り出したぞ。
アレスディアが声をかけないのだとしたら、それはお前があんま
りウザいからだろうに。
﹁ですが私は、そんなことは気にしない、と彼女に伝えるつもりで
あります。ですから閣下。どうか無粋なことをおっしゃって、彼女
の勇気をくじかれることのないよう、先にお願いしておきますぞ!﹂
こいつ⋮⋮前歯折っていいかな。
﹁はあ。なんならもう少し、大祭は延長されないものですかな﹂
﹁されるか。いいからとっとと、パレードに戻れ﹂
﹁そうだ! 閣下、大公位争奪戦の第一戦目でしたよね!﹂
﹁ああ。そうだが?﹂
﹁どうですか、一つ、医療班も手に負えない、しばらく戦いが不可
1270
能なほどの痛手を負ってみる、というのは! きっと大祭が延長さ
れますよ!﹂
﹁よし! 今すぐお前をそんな目にあわせてやろう﹂
リスは逃げるように去っていった。
全く、冗談じゃない。
⋮⋮いや、ホントに冗談ではすまないかもしれない。
リスが言った通り、俺は大公位争奪戦の第一戦目に充てられてい
た。
しかもその相手は、そう⋮⋮ウィストベルだ。
女王様が本気を出せば、リスの言葉は現実のものとなるだろう。
だがそうならなければ︱︱もし、彼女が以前に言っていた通り、
あの鏡を︱︱邪鏡ボダスを再び使用して、俺との戦いの場に臨んで
きたとしたら。
俺はどうすべきなのだろうか?
それは考えるだけで、頭の痛い問題なのだった。
1271
間話6.魔族大公と五人の奥方
七大大公の序列一位であるプートの朝は早い。と、いうか、彼は
そもそもあまり眠らない。
魔族にとって、睡眠は必ずしも毎日必要なものではないが、それ
でもずっと起きていても仕方がないと思う者が多いからか、それと
もなんとなくの習慣からか、夜はきちりと寝室にこもる者も多い。
もっとも大半は一人で就寝につくのではなく、その配偶者や恋人、
あるいは一夜限りの相手と同衾するために、寝室にこもるのだ。
謹厳に見えるプートだが、彼もその例に漏れていなかった。現時
点でも五名の妻がおり、成人前の子は八を数える。
もっとも、二千近い時を過ごした彼の妻子が、それだけの数です
むわけはない。
死別や関係を絶った過去の相手も含めると、妻であった女性の名
は数十に及び、子も成人している者を生死含まず数えると、百をゆ
うに越えた。
それだけいればすでに亡い者も複数いたが、生き残っている中に
は親子の関係を清算して、臣下として仕えている者もいる。他の領
地に旅立って、爵位を得て独り立ちしている者も多かった。
そんな彼のことだ。毎夜順に妻の元を訪れ、あるいは自室に妻を
呼びつけ、精力的に励んでいる。
いや、いた。
︿魔王ルデルフォウス大祝祭﹀が始まるその日までは。
﹁あの日以来、旦那様は私のお部屋にも来てくれないし、旦那様の
お部屋にも呼んでくださらないのよ! 次は、私の、番、だった、
1272
のに!!﹂
興奮したその女性が熊の手でバンバンと机を叩くたびに、円卓に
置かれた食器が浮き上がり、甲高い音を奏でた。
﹁その次は私だったわ!﹂
モグラ顔の女性がワナワナと、しきりに大判のスカーフで目元を
押さえながら叫ぶ。
﹁あなたは子供が二人いるからいいじゃない! 私はまだ、一人し
か産んでいないのよ!﹂
金切り声をあげたのは、アライグマの顔に立派な鹿の角を生やし
た女性だ。
﹁それをいうなら、私なんて一人もまだだ﹂
ヒヒの顔をした女性が、男かと聞き紛う低い声で言った。
﹁まあ、落ち着きなさい。原因はわかっているのよ﹂
どっしりと構えた、豊満な肉体を誇る猪顔の女性が、立派な牙に
ついた汚れを拭き取りながら、他の四名を見回す。
彼女たちこそが、プートの現在の妻である、その五名の女性たち
であった。
猪顔のマディリーンは、成人した者も含めると、プートに二十近
い子を産んだ古株だ。
熊手のラミリアは、五年前に婚姻を結んだ一番の新顔だった。
モグラ顔のガガワーラはマディリーンの姪で、鹿角のココレース
は一番の美女だ。
そしてヒヒのモラーシアは、その実力から副司令官の一角も占め
ていた。
﹁原因って、それはいったい⋮⋮﹂
ラミリアが狐の顔をしかめる。
﹁あら、貴女以外はみんなわかりきってるわ。聞こえなかったの、
あの一日目の旦那様の雄々しい咆哮が﹂
1273
﹁ああ、素敵だったわね。ゾクゾクきちゃった!﹂
﹁本当にね。あれが私の名を呼ぶ声だったなら、どれだけ嬉しかっ
たかしれないわ﹂
奥方たちは、それぞれ想像を巡らせたのだろう。うっとりとした
表情で、ホウッと息をついた。
﹁じゃあつまり、みんなは旦那様の御渡りがないのは、あのどこの
卑しい娘かもわからない、アレスディアとかいう侍女のせいだと思
っているのね﹂
ラミリアの言葉に、ココレースが失笑を漏らす。
﹁なによ、ココレース!﹂
﹁あら、ごめんなさい。貴女が侍女を卑しい娘とののしるのが、お
かしくて。なにせほら、私たちはモラーシア公爵の外は、みんな爵
位を持たぬ身でしょう?﹂
美女の挑発的な言葉に、ラミリアは顔を真っ赤にしたまま、けれ
ど反論もなく黙り込んでしまう。
﹁だからといって、それを卑下する必要はありませんよ。そのか弱
い身だからこそ、旦那様に守っていただく喜びも、いっそう深く感
ぜられるというものなのだから﹂
マディリーンが二人の諍いを終わらせるように、ため息をついた。
﹁それより、アレスディアという侍女のことです。旦那様は、彼女
を六番目の妻にと望んでいるようです。その願いが叶うか、完全に
砕かれるかするまでは、私たちへの御渡りは諦めねばならないでし
ょうね﹂
﹁そんな!﹂
年若いラミリアが、悲痛な叫びをあげた。けれど、残りの四人は
それに冷ややかだ。
﹁貴女のときだって、そうだったのよラミリア。旦那様はいつだっ
1274
て、相手に恋をした最初は、その相手だけを誠実に見つめていらっ
しゃるのだから。それがすめば、また平等に愛してくださるのだか
ら、心の中で不満があっても、私たちはこうして集まって不平を言
うだけで、すまさなければならないわ﹂
﹁そんなの、冗談じゃ、ないわ!﹂
ラミリアは机を叩きながら立ち上がると、マディリーンを炎の宿
る目でにらみつけた。
﹁私は情けない貴女たちとは違う! 黙って待ってなんていないん
だから! 見てなさい!﹂
そうして唾を円卓にまき散らすや、ドタドタと騒がしくいってし
まったのだった。
﹁若いわね﹂
ぽつり、と、誰かが言った。
﹁ええ、若いわね﹂
ふふ、と、誰かが笑った。
***
ラミリアは奥方のお茶会を飛び出して、プートの姿を探し、︿竜
の生まれし窖城﹀を駆け抜ける。
常日頃は、なるべく本棟には足を踏み入れてはいけないと言われ
ていたが、幸いにも今は魔王大祭の最中で、彼女どころか領民は誰
でも、一部を除いてどこもが無礼講だ。
今日も他の妻たちと競い勝つようにとの思いから、装いにも全く
手を抜いていない。むしろいつでも旦那様のお呼びがかかってもい
いようにと、彼の好む上品で重厚なドレスできっちりと身を包んで
いる。
﹁旦那様を見なかった? プート大公はどちら?﹂
1275
そうしてあちこち探し回って、ようやくパレードの中継が行われ
ている大広間へ、彼女は足を向けた。その会場にはいないことを願
って。
だが。
魔術を使って映像が転写されたその画面にもっとも近い最前列に、
どっしりとした席を用意させ、そこにいつもの雄々しい胸をはだけ
てどっかりと座るプートの姿があった。
﹁旦那様!﹂
彼女は声を限りに叫んだが、プートの反応はない。彼はどこか熱
に浮かれたような瞳で、画面をじっと見つめている。
ラミリアは息を整え、彼の傍らに近づいていくと、そのたくまし
い左腕にそっとふれる。
﹁旦那様。こちらにいらしたのですね﹂
﹁ラミリアか。どうした﹂
上腕をなでると、やっとプートはラミリアをその目にとらえてく
れた。
だがそれも一瞥しただけで、視線はすぐ画面の上に戻ってしまう。
ラミリアは自分を見てくれと叫びたくなる気持ちをぐっとこらえ
て、その足下に跪き、今度は太い太股を撫でた。
﹁旦那様。最近、ちっともかまってくださらなくて⋮⋮私、寂しく
て、気がどうにかなりそうですわ﹂
なるべく気弱な感じを演出したが、それでもプートからの反応は
なかった。
﹁旦那様。旦那様、聞いてらっしゃいますの?﹂
苛立ちが声に出てしまっている。彼女は元来、我慢のよい方では
なかった。何かあるとすぐ感情を露わに、むくれてしまう。
そしてその他の妃にはない幼さ、素直さが、プートに愛された長
所でもあると、自分では思っている。
1276
だから彼女は深慮という言葉を、知りはしてもほとんど重視して
はいなかった。
﹁旦那様! たまにはこちらも向いてくださいまし! 私は貴女の
最愛の妻でしょう?﹂
プートの膝をつねってみると、ようやく彼は視線をラミリアの上
に留めた。
﹁どうした妻よ。そなたの申すとおり、我はそなたら五の妃を同様
に愛しておる﹂
同様に、という言葉がひっかかったが、ラミリアはぐっとこらえ
てプートの膝に這い登る。
興味が自分に向いた今が、チャンスだと思ったのだ。
﹁旦那様。もちろん、私は旦那様の愛を疑ってはおりません。けれ
ど、このところ全く寝所に来てくださらなくって⋮⋮おわかりでし
ょう? 旦那様に触れられない日が五日以上も空いてしまっては、
私が我慢なんてできるはずがないということが﹂
ラミリアはプートの黒い髭を両手にしっかりとつかむと、とがっ
た口から細い舌を出し、獅子の口元をぺろりと舐めた。
﹁ねえ、旦那様﹂
続いて深い口づけを求めようとしたラミリアを、プートが立ち上
がって床に打ち捨てる。
妻は突然の乱暴に驚いて、夫を信じ難い思いで降り仰いだ。
﹁何とはしたない振る舞いをするのだ、我が妻よ。このように公的
な場所で、好き勝手に振る舞ってよいと、我がそう申したか? そ
れともそなたが判断したのか?﹂
﹁だ、旦那様⋮⋮﹂
ラミリアは、プートが鬣を逆立てて怒るその姿を初めて目にして、
1277
すっかり脅えてしまっている。
﹁それが序列第一位という、輝かしい地位にある夫の、貞淑な妻の
とる態度であると、そう判断したのかと聞いておる﹂
﹁申し訳ございません。私はなにもそんな⋮⋮そんな、大それたこ
とをしたつもりは⋮⋮﹂
﹁そなたの無邪気さは、確かに愛すべきものだ。だがそのせいで節
度を越えるようであれば、我としてもそなたの処遇を、考えなおさ
ねばなるまい﹂
﹁そんな⋮⋮お許しください、旦那様!﹂
ラミリアはプートの膝にすがって許しを乞うた。
彼女としては、寝室でいつもやるとおり、甘えてみせただけのつ
もりだった。
その身内となって未だ五年しかたたず、公的な場で堂々とした振
る舞いを好む彼が、妻に公の場で公私を混同して振る舞うことを嫌
っているとは、考えてもみたこともなかったのだ。
ましてやそのことで、たった一度の失敗で、自分の大公妃として
の身分まで危ういものになるとは。
﹁そのくらいでご寛恕願えませんでしょうか、旦那様﹂
やんわりとした声が、二人の耳を打つ。
猪顔のマディリーンが、こうなることを憂いて様子を見にやって
きたのだった。
﹁古き妻よ﹂
これはプートなりの、マディリーンへの尊敬と信頼を込めた呼び
かけだった。
﹁そなたは許せと言うが、ラミリアの態度は大公の尊厳を著しく損
ねるものである。それをなかったことにせよと申すのか﹂
﹁さようです、旦那様。たった一度、かわいい妻が愛情から態度を
誤ったからと言って、ただちに処罰を考えられるとは、あまりにも
1278
情がないではありませんか。罰ならば、今でも我々は受けているも
同然の身の上なのです。それを今一度、御考慮なさって、どうか、
寛大なお心を、この愚妻ばかりでなく、臣下にもお示し遊ばして、
旦那様へのいっそうの賞賛と引き替えになさいませ﹂
長い付き合いの妻から出た恩情を願う言葉は、プートの心情を揺
り動かしたようだった。
彼は寛大な顔つきになって、膝にすがる五番目の妻を見下ろし、
常の厳しくもあるが愛情のこもった声でこう言ったのだ。
﹁そなたの今の振る舞いについては、それが我に対する愛情からの
ものであると理解して、不問にいたそう。だがそなたはこれに増長
することなく、マディリーンに深く感謝し、今後はその指導を仰い
で身を慎むことを覚えるがよい﹂
﹁恐れ入ります﹂
マディリーンはプートの膝から熊の手をほどくと、彼女を支える
ようにその身を抱えた。
﹁では、失礼いたします、旦那様﹂
﹁うむ﹂
プートが再び席につき、自分たちからすっかり興味を失ってしま
うのを確認して、マディリーンはラミリアをつれてその場を辞した。
画面の上で輝くばかりの美貌を誇る、蛇顔の女に冷たい目線を与
えながら︱︱
﹁マディリーン、私⋮⋮私﹂
先ほどまでの勢いはどこへやら、ラミリアは青ざめ、脅えた様子
から回復しない。
﹁大丈夫ですよ、ラミリア。旦那様は許すとおっしゃったでしょう。
あの方は、一度おっしゃったことを、覆したりはなさいませんよ﹂
﹁でも、あの女がやってきたら、私のことなんて、もう見向きもし
1279
てくれないんじゃ⋮⋮﹂
﹁それも、大丈夫ですよ﹂
マディリーンは目を細め、すっかり気弱になったラミリアに微笑
みを与える。
﹁本人が望みでもしない限り、ジャーイル大公が彼女を自分の城か
ら出すはずはありませんもの﹂
﹁そんなの⋮⋮﹂
﹁本当よ。信じてらっしゃい、ラミリア。私はだてに、無爵の身で
プート大公の第一の妃として、千年を過ごしてきたわけではないの
だから﹂
そう語るマディリーンに、初めてラミリアはプートに対してでは
なく、彼女自身に対する畏怖を込めた目を向けた。
その視線の意味をしっかりと把握しながら、マディリーンは今後
はラミリアも御しやすくなりそうだ、と、心中でほくそ笑んでいる
のだった。
1280
間話7.たまにはまったり勝負をするのもよいものです
﹁<奪爵>! んっふっふっふ。どうします? あきらめちゃどう
ですか? これ以上どう粘ったところで、俺の勝利は覆らないんで
すから﹂
﹁く⋮⋮主に本気で怒りを感じたのは、今日が初めてじゃ﹂
若干ムカつく表情で笑う相手を悔しそうに見上げるのは、誰あろ
う、魔族の真の女王であるウィストベルだ。
相手に対してすごむ表情はデーモン族一の美女にふさわしく、背
筋が凍るのも忘れるほどに美しい。
もっとも、言われたバカは美に対する敬虔な心より、恐怖心の方
が勝るようで、鼻白んだような顔つきをしている。
調子に乗るからだ。いい気味である。
現在は魔王大祭の最中で、この部屋は新魔王城の一角にもうけた
遊技場の一室だった。部屋には一本脚の真四角の卓がいくつも並べ
られ、その卓上には長方形の分厚い盤が置かれてある。七×八、五
十六マスのその盤は、<奪爵>と名の付いたゲームを戦う舞台だ。
七マスを勝負をする両者に向けて置き、大公・公爵・侯爵・伯爵・
子爵に見立てた各一個の駒、男爵に見立てた二個の駒、無爵に見立
てた七個の駒を、手前二列に配置する。そうしてそれぞれの駒を決
められた挙動に従って一手ずつ動かし、大公を取って勝敗を決する
ゲームである。
ちなみに魔王の駒も存在するが、あまりに強力なため、一定の条
件がそろわないと出現しないことになっている。
ウィストベルはジャーイルを相手にその<奪爵>ゲームをしてお
り、そろそろ彼女の負けで勝負が決しようとしていた。
1281
彼女らの勝負は九戦目を数えるが、ウィストベルの戦歴は0勝九
敗だ。そのすべてが二十手以下で勝敗が決しており、ジャーイルは
そのうち七戦で魔王の駒を出現させていた。正直、圧倒的な実力差
があることは否めない。
ウィストベルもそれは十分わかっているだろうし、負けて悔しい
のだから途中でやめればいいものを、勝負の手を止めようとしない
ので負けはかさむばかりだ。
﹁ルデルフォウス⋮⋮陛下﹂
﹁うん?﹂
私の名を、彼女が呼んだ。
敬称がとってつけたようなのは、ジャーイルとの勝負に夢中にな
るあまり、他にも観衆がいることを、忘れかけていたためだろう。
大公同士の戦いとあっては、注目を浴びぬ方がおかしいのだから。
﹁私の仇を、とってはいただけぬか?﹂
やや上目遣いにこちらを見てくる。
私にそれを、すげなく断ることなどできようか。いいや、できな
い。なんならこのまま、彼女を抱き上げて寝室に駆け込みたい位だ。
﹁よかろう﹂
私は二人の勝負を見守るように両者の間に置かれた椅子から立ち
あがる。そうしてウィストベルに代わって、彼女が腰掛けていた椅
子に腰を下ろした。
ウィストベルは体温が低い方だと思うのだが、よほど夢中になっ
たのだろう。肘掛けにも座面にも、ほんのりと温もりが残っている。
だが背もたれが冷たいままなのは、前のめりでいたからなのだろう。
﹁陛下。期待しても?﹂
私は彼女の問いかけに、意図して応えなかった。
正直に言おう。あまり自信はない。
1282
もちろん私もウィストベルが相手であれば、勝利は確信できただ
ろう。
だが、どう考えても相手が悪い。意外にもジャーイルはこのゲー
ムが得意であるようだ。ウィストベルが弱すぎるだけだ、というば
かりでないのは、その手を見ていればわかるのだから。
﹁魔王様、強そうだなー﹂
いつもながら、発言に重みがない。
だが口調の軽さは置いても、その真剣な眼差しで、ジャーイルが
私を相手でも全く手を抜く気がないのは見て取れた。
私の見守る前で、ジャーイルの手は優雅に動き、盤上の駒を整え
ていく。
﹁じゃあ、やりますか? ただし、二戦目からは駒は自分で並べて
くださいよ﹂
その、一戦目から自分の勝利を疑わないという自信満々の言葉に、
苛立ちを感じた。
﹁先手は︱︱﹂
﹁もちろん、魔王様からでいいですよ﹂
いつもの胡散臭い笑顔が、余計癪に障った。
なにせ盤上のゲームは、たいてい先手が有利であるとされている
からだ。つまりジャーイルは、私に負ける気などないのだ。さっき
の発言と併せて考えても、ただの一度も。
﹁後で吠え面かくなよ﹂
思わずそう口をつきそうになったが、ぐっと堪えた。情けないこ
とに、今回ばかりは確実な勝利の予感がなかったからだ。
私は黙って上部をくびれさせた無爵の駒を二マス進めた。通常は
前方に一マスずつ進むにとどまるのだが、それぞれの初手だけは二
マス進むことができるのだ。
1283
それに対してジャーイルは、槍を持たせた伯爵の駒を自陣の無爵
の駒を飛び越えさせて、前方二マス、右に一マスの場所に進めてき
た。魔王を除けば唯一この駒だけが、前方を敵味方の駒が塞いであ
っても、それを飛び越えて自分の着地に移動できる駒なのだ。
ちなみに、盤上の配置は次の通りである。
七マスの中央に大公の駒を置き、両脇を男爵で囲む。その外側、
遊技者の向かって右に伯爵を、左に子爵を、右の端には公爵、左端
に侯爵が、というぐあいだ。
だがこれ以上、ゲームの内容については解説すまい。お互いがど
う駒を動かしたか、ということより重要なことは︱︱
﹁陛下⋮⋮もうそろそろ、手をひいてはいかがか?﹂
ウィストベルの声が耳に響く。
﹁そうですよ。もうそろそろ、おしまいにしましょうよ? ほら、
ちょうどお腹もすいてきたころだし⋮⋮﹂
﹁軟弱なことを言うな。もう一度だ!﹂
私はジャーイルを叱責し、勝敗の決した駒をもう一度きれいに並
べ直した。奴の分までもをだ!
最初の頃は、ウィストベルも憤りを感じていた。自分の席を立っ
て私の隣に立ち、さらには肘掛けに座って身体を預け、あれやこれ
やと助言をくれたりしたのだ。正直、意見は全く参考にならなかっ
たが。
﹁二対一じゃ﹂と、ジャーイルに挑戦的に宣言した言葉にもやや興
奮した。実際には、全く加勢にならなかったが。
だが途中から彼女の口数さえ少なくなり、今ではほとんど耳にし
たこともないような気弱な声で、私に勝負を引くように告げてくる
のだ。
ああ、わかっている。それが同情に満ちた声であることは、私が
一番よく理解している。
1284
四十九戦して四十九連敗した今の状況では、誤解しようもないで
はないか!
魔王と大公が盤上とはいえ戦うとあって、熱気を感じるほど集ま
っていた観衆さえ、今は一人として存在しない。それどころか、他
の卓でゲームをしていた者まで含め、いつの間にか誰一人として認
められないのだ。この部屋に存在するのは私とジャーイル、それか
らウィストベルの三人のみ。
﹁もうとても見ていられません﹂という、我が侍従長の震えた声を
最後に、他の者の気配も声も、物音は何一つ聞こえてこなくなった
のだから。
ただ、盤上を叩く駒の音をのぞいては⋮⋮。
﹁もう少し⋮⋮もう少しで、何かがつかめそうなのだ﹂
﹁勘弁してください。さっきからそれ言うの、何回目ですか﹂
ジャーイルの言葉が心に突き刺さる。
﹁今度、暇なときに教えてあげますから、今日はもうこれでおしま
いです﹂
ジャーイルは珍しく強気に宣言すると、席を立ち上がった。
﹁あと一回⋮⋮あと一回やれば、それで五十戦目だ! ちょうどい
いだろうが!﹂
﹁⋮⋮はぁ﹂
今回ばかりは、ため息をつかれても仕方がない。自分でも、どう
して引けないのかと思うが⋮⋮。
﹁わかりました。本当にあと一回だけですよ?﹂
渋々あきらめた、といった感じでジャーイルは正面の席にもう一
度腰掛けた。
そうして︱︱結果は改めて聞かないでほしい。
﹁さて、ウィストベルには九勝、魔王様には五十勝か﹂
1285
勝者だけが手にできる、敗者の名と紋章が書かれた札を数え、ジ
ャーイルが一人ごちる。
﹁勝負の前には何をかけるか決めてませんでしたしね。どうしよう
かな⋮⋮﹂
私とウィストベルにそれに対して差し込む言葉はみつからない。
敗者はただ、勝者に従うが魔族のルールである。たとえそれが、ゲ
ームの上の勝敗であっても、だ。
﹁ウィストベルには︱︱﹂
﹁私の寝室を好きな時に好きなだけ、訪れてもよい、ということで
どうじゃ?﹂
なん⋮⋮だと?
﹁まさか! 遠慮します﹂
ジャーイルが断ったからよいものの、そうでなくば私は我を忘れ
ていたかもしれん。
﹁逆にそうですね︱︱じゃあ、うちに泊まりに来てください﹂
なん⋮⋮だと!?
ウィストベルの申し出を断ったとほっとしていたら、それか!
﹁貴様⋮⋮﹂
﹁あ、うちにといっても、もちろん俺の寝室にって意味じゃありま
せんからね! そうじゃなくて、ミディリースとまた、仲良くして
やってほしいということで!﹂
﹁ほう、あの引きこもりとか﹂
そう応じるウィストベルの声は、弾んで聞こえた。
ミディリース? どこかで聞いた名だ。
⋮⋮ああ、そういえば、この魔王城を建てる時に隠蔽魔術を施し
たという、ジャーイルの配下だったか。ウィストベルが珍しく気に
入っている娘だということは、知っている。恩賞会からその者の名
が抜けていると、わざわざ声をあげたくらいだからな。
1286
だが。
﹁それを信じろというのか?﹂
表向きはどうであれ、実際にウィストベルが宿泊しにいけば、ど
ういう対応をするのかはわからないではないか。
﹁ルデルフォウス﹂
他に誰もいないからだろう。ウィストベルが私を親しげにそう呼
んだ。
﹁我らは敗者じゃ。この上、見苦しい真似を重ねるでない﹂
そっと手を握ってくるウィストベルは、この申し出を心から喜ん
でいるようだ。もちろん、私だってわかっている。敗者は勝者の命
令に、ただ黙って︱︱
﹁わかった。だが、その話は予の前でしてくれるな。今後一切﹂
くそ。ジャーイルとウィストベルの勝負なぞ、始まる前に止めて
やるのだった。
﹁わかりました。詳細は、二人で︱︱﹂
﹁いや、待て。やはり予も参加しよう﹂
そうしよう。そうして、ウィストベルが滞在中のすべての時間を、
それこそ細切れの予定で埋めてやるのだ! もちろん、夜中に至る
までな!
﹁⋮⋮じゃあ、それはそれとして、魔王様の方ですが﹂
﹁お前の城になんぞ、泊まりにいかんぞ﹂
寵姫と認識されつつあるウィストベルの城ならともかく、他の大
公の城にだけ逗留するとあっては、公平を欠く。
﹁そんなこといいませんよ。それよりみんなには内緒で、というこ
とで、一つお願いが﹂
公にできない願い、だと!?
﹁もちろん誰にも見られないところで、一度でいいので、お相手を
頼みます﹂
1287
﹁待て、その気はない﹂
どういうことだ。まさか、いやに馴れ馴れしいと思っていたら、
こいつまさか︱︱
﹁え? でも、ベイルフォウスが魔王様はベイルフォウスより上だ
って︱︱﹂
なんだと!? うちの弟が、私の方が上手だと⋮⋮⋮⋮うん? ベイルフォウスが?
﹁﹃俺より兄貴の方が、剣に関しては﹄上だって、言ってたんです
が﹂
こいつ⋮⋮! なんて紛らわしい言い方を!!
変な汗をかいたじゃないか!
﹁ルデルフォウス⋮⋮主はいったい、どんな勘違いをしたのじゃ﹂
そういうウィストベルの目には、軽蔑したような色が浮かんでい
るではないか。
私は咳払いをし、こう切り出した。
﹁よかろう。お前も相当な使い手とは聞く。今度一度、相手をして
やろうではないか﹂
﹁愉しみです。五十戦してもらいますからね﹂
﹁ご⋮⋮﹂
そう言って、ジャーイルはいつもの胡散臭い笑顔を浮かべたのだ
った。
﹁しかし、なぜ誰もいない場所で、なのだ?﹂
そんな変なことをいうから、こっちだって誤解してしまったので
はないか。
﹁えー。だって、ゲームでもこれなのに、剣を交えて魔王様が敗北
するところだなんて、みんなに見せられ﹂
﹁よかろう、貴様。今すぐ外に出ろ!﹂
こいつ、いい度胸ではないか! ベイルフォウスより私の方が上
1288
だと聞いて、この態度とはな!
確かにジャーイルの剣の腕は知っている。たいした物だ。いいや、
ハッキリ言って、そうそう勝てる相手はいないだろう、という感想
を抱いた程だ。
だが、だからといって、こうまで言われて引き下がれるか! 敗
北を重ねた後はなおさらだ。
脳みそまで砕ききってやるからな!
﹁えー。やですよ。魔王様と剣での全力の勝負なんて、それはもう
楽しいに決まってますけど、今日は本当にもうそろそろ帰らないと。
また今度にしましょう﹂
﹁あ、おい!﹂
﹁ルデルフォウス﹂
去るジャーイルを追いかけようと立ち上がりかけた私の手を、ウ
ィストベルが撫でてとどめる。
﹁私はもう疲れた。主もそうであろう?﹂
確かに精神的疲労を感じてはいる。
﹁幸いにも、誰もおらぬの?﹂
小首をかしげる仕草は可憐というより、妖艶そのものだ。
私はジャーイルへの怒りは忘れ、彼女の誘いに乗ることにした。
こうして我ら二人、ウィストベルと私は、一方はジャーイルの城
への宿泊︱︱だが、断じてジャーイルと親交を深めるために行くの
ではない︱︱の約束を、もう一方は奴と剣だけによる仕合の約束を
もって、その敗北を受け入れたのだった。
1289
間話8.パレードの一幕
まあまあ可愛らしいところもあるマーミルお嬢様と離れて、今日
で二十日が経ちました。あの子豚ちゃんのように愛らしいお姿の代
わりに、近頃私の視界を遮るものといったら⋮⋮。
﹁アレスディアどの! これっほれ、この果物もうまいですぞっ!﹂
そう言って、今日も下品に自分の頬袋から、涎でべたべたになっ
たバナナを取りだしてくるリスです。
正直に言いましょう。大変不快です。
﹁結構です。何度申したら、わかっていただけるのでしょうか、ウ
ォクナン公爵閣下。たいがいにしないと、いくら公爵でもその向こ
う臑に青あざを刻み込みますよ﹂
﹁むぶほぉっほっふぉ。相変わらず、怒ったお顔も可愛らしいです
なっ﹂
そう言って口の端から粘液をボタボタと、きれいに磨かれた水晶
の床をめがけて垂らします。ことあるごとに滝のように流れる粘液
のおかげで、茶色い髭はいつ見てもしっとりと濡れておりますし、
色も初日に比べて薄まっていっているようです。
それが床に広がって、川のようになっているのだから、たまりま
せん。あといくらかたてば、きっと泉と見紛う様相を呈するに違い
ありません。
そうしてそこから立ち上ってくる汚臭。それはなにも、あちこち
に漂っている果物のカスが醸し出しているものばかりではないでし
ょう。
けれどそのことについて不満を言うわけにはいきません。本来、
1290
私は身分から言えば、こうして公爵と並んで六頭立ての魔獣車に乗
ることなどできない身の上。
もっともこれは美男美女を集めたパレード。
その美しさによって、魔獣車への乗車が認められるというのなら
ば、私ほどこの席にふさわしいものはいないでしょう。
ただ、こうしていつもふんぞり返っているのでは、当然他の方々
︱︱男性はともかくとして、女性の妬みを受けてしまいます。だか
ら私は時々は魔獣車を降りて、歩くことにしていたのでした。
﹁ウォクナン公爵閣下。そろそろ、今日も下へ参ろうかと存じます
が﹂
﹁おお。またですか?﹂
ウォクナン公爵は、途端に表情を曇らせます。
いかに私に向かって涎を垂らしたいからと言って、さすがに魔獣
車を降りて徒歩での移動を受け入れる気にはならないようです。
﹁お寂しいですなぁ。できるだけ早く、帰ってきてくだされよ﹂
ウォクナン公爵は側に置いた杖を取り、魔獣車の床をコンコンと
叩きました。
私たちの座っている場所の下が、御者の座席になっています。ウ
ォクナン公爵の杖の一打で発進、二打で停止、三打で加速、四打で
減速と、決まっているのです。
魔獣車が停まると私は出来うる限り水たまりを避け、魔獣車の後
ろから伸びた階段の、繊細な金細工が施された手すりを伝って大地
に降り立ちます。
私が無事魔獣車から離れるのを見ても、ウォクナン公爵は魔獣車
を発進させようとはしません。私が前を歩くのを、待っているので
す。
そうなのです。降りるのはよいのですが、その間は近くにいない
というだけで、公爵からの視線を感じ続けなければならないという
1291
状況に、代わりはないのでした。
﹁こちらへいらっしゃいよ、アレスディア﹂
そんな中、声をかけてくれたのは、手に持った大きな日傘をくる
くると回しているルメールです。彼女はほとんど毎日、私の行進に
つきあってくれるのです。
それもその大きな日傘を持っている日は、必ずその中に入れてく
れます。そのときばかりはウォクナン公爵の視線も遮られ、私はほ
っと息をつくことができるのでした。
﹁あなたも大変ね、アレスディア﹂
﹁仕方ありません。これも美しく生まれついてしまった者の、宿命
です﹂
ルメールの頬が少しだけひきつったのを、私は見逃しませんでし
た。
彼女が善意だけで私を誘ってくれている、と信じられるほど、私
自身も善良ではありません。彼女が一度、ウォクナン公爵のお手つ
きになったという事実を知った今では、なおさらのこと。
﹁ねえ、今日はこの方をご紹介しようと思っていたのよ﹂
そういってルメールは、彼女が左手絡ませて歩く男性を、顎で指
しました。
﹁こんにちは、アレスディアどの﹂
モグラ顔の男性が、爽やかな笑みをこちらに向けてきます。
﹁御機嫌よう﹂
ルメールの日傘に入ると、ウォクナン公爵からの視線は遮れて大
変よいのですが、こうして決まって男性を紹介されます。それは独
身の相手だけにはとどまってはおりません。
﹁この方が、あなたを十七番目の妻に迎えたいとおっしゃるのよ﹂
どうやら、今回も既婚者のご紹介のようです。しかも十七番目と
は!
1292
﹁有力な侯爵でいらっしゃるから、今よりもずっといい暮らしがで
きるはずよ。ねえ、いい加減決めてしまいなさいな。いいお相手の
はずよ。あなたもそろそろ、デーモン族の子供の面倒なんて、見飽
きたでしょうから﹂
あらあら⋮⋮これは聞き捨てなりません。
今まで彼女は、こんな暴言を口にしてはこなかったというのに、
いったいどうしたことでしょう。毎回断る私に対して、そろそろ我
慢も限界を迎えたのでしょうか。
だとしても︱︱だとしても、今の発言は許し難いものです。私が
子豚ちゃん扱いするのは許せますが、いくらまだ力のない子供であ
るとはいえ、マーミル様はそんな風に侮蔑を含んで語られるべきお
子さまではないからです。
﹁あなたもそうお思いですか、侯爵閣下﹂
﹁まさか! 君を見飽きるはずもない。もしも君が望むなら、私は
他の十六人の妻を全て離縁してもよい﹂
どうやらこちらの方は、他人の話を聞かないタイプの方ようです。
﹁申し訳ありませんが、侯爵閣下。私自身にその気持ちはございま
せん﹂
﹁私は侯爵であるのだが?﹂
名も知らぬ侯爵閣下は、私を威嚇するように、歯をむかれました。
﹁ウォクナン閣下は公爵閣下でございます、侯爵閣下。ですが、そ
のように私の意志を強制しようとなさったことは、ございません﹂
﹁む⋮⋮﹂
さすがの侯爵も、圧倒的な上位者である副司令官の名を出されて
は歯ぎしりするより他ないようです。
こういうとき、副司令官という高位の方が無理矢理を好む方でな
かったのは幸いでした。引き合いに出してやんわりお断りできるか
1293
らです。
もっとも、ウォクナン公爵が力にお任せにならないのは、私の主
である旦那様をはばかっての事かもしれませんが。
﹁そんな風に男性につれなくするものではなくてよ、アレスディア﹂
まるでダメな子豚ちゃんでも見るように、ルメールは私に対して
ため息をつきます。
﹁この方は、強制なんてされてないでしょう? 命令なんてしなか
ったわ﹂
﹁上位の脅迫が強制に入らぬのであれば、よけいお断りしても問題
ないでしょう﹂
﹁いいから、落ち着いて聞きなさいな。他の妻を捨ててもいいとお
っしゃっているのに、それをお断りするなんて、愚かもいいところ
よ﹂
捨てるとはまた、事実ですが容赦のない言いよう。ルメールの本
性がかいま見れるというものでしょう。
今まではこんな乱暴な口の効き方はしなかったのですが、さすが
に私に対する我慢が限度を迎えたのかもしれません。
私が無視していると、ルメールは日傘で周囲からの視線を遮断し、
侯爵の腕をはなして逆の手で私の手首をつかんできます。
﹁私はあなたの為を思っていっているのよ? そのくらい、わから
ないはずはないでしょう? 美しさでもてはやされているのも今の
うち︱︱どうせ後少しでコンテストの発表があって、あなたはアリ
ネーゼ大公に大差をつけて負けるのだから! そうなればもう、誰
もあなたの事なんて︱︱﹂
﹁私も一つ、忠告しておきましょう。あなたの為を思ってです﹂
私はルメールの手を払い、彼女を冷え冷えとした思いを込めて見
つめました。相手が本性を現したのであれば、こちらも当たり障り
1294
のない風を装う必要はありませんから。
﹁私をどなたかに無理矢理にでも嫁がせたいと思っておいでのよう
ですが、そのお話を正式にすすめたいのであれば、ジャーイル大公
閣下にお話をお通しなさるよう、ご忠告申し上げます。ただその際
は、間違っても﹃デーモン族の子供の世話に飽きたであろうから﹄
などとはおっしゃいませんよう。旦那様は、あなたが思っているよ
りずっと、妹君のことを大切になさっておいでなのですから﹂
﹁私、そんなこと⋮⋮﹂
私の言葉を聞いて、ルメールは自分の発言の不用意さに気づいた
ようでした。
﹁まさか⋮⋮告げ口したりしないわよね?﹂
﹁どうでしょう﹂
当然私は告げ口などいたしません。けれど、わざわざしませんよ
と言って、相手を安心させてあげる義理もないではないですか。
それに本当のところ、旦那様は誰かにマーミル様のことを﹁デー
モン族の子供﹂と言われただけでは、お怒りにはならないでしょう。
言い方に険さえなければ、それは真実だからです。
もっとも彼女が口にするのであれば、険がこもらずにすむはずは
ありません。
﹁侯爵閣下におかれましても、同様でございます。私のことを、真
実お気に入りで奥様方と別れても、とおっしゃるのであれば、私自
身にではなくジャーイル大公閣下にそうお話ください。私は所詮、
大公城の侍女にすぎません。その去就の決定権は、かの大公閣下に
あるのですから﹂
﹁いや、そこまでは⋮⋮﹂
さすがに七大大公の名を出されては、侯爵といえど余計に畏れる
気持ちがわき上がるのでしょう。
1295
さっきの強気な態度はどこへやら、モグラ顔には焦りが浮かび、
彼はそれとなく私たちから距離を取り出しました。
ある意味賢明な方です。
旦那様はネズミ大公からの奪爵時の噂話で、近しいもの以外には
割に恐れられているのですから。
それに本当に、怒ると怖いですしね。
ただ実際には、私の縁談の話などもってこられても、旦那様はお
困りになられるだけでしょう。たいそうご迷惑極まりない話である
と思います。私はマーミル様の侍女であって、家族でもなんでもな
いのですから。
けれどここは勘弁していただきたいものです。
私にはすでに頼る家族もなく、自分の身を口先だけで守るために
は、旦那様のご威光にすがるほかはないのですから。
その日を境に、私はどうせ恨まれ絡まれるならと開き直り、魔獣
車を降りて行進しようとは考えないようになったのでした。
1296
間話9.結果を一番に知れるのは、担当者の特権なのです
﹁サーリスヴォルフ大公⋮⋮。おい、サーリスヴォルフ閣下がいら
したぞ﹂
﹁それじゃあ、今日、いよいよ⋮⋮﹂
﹁コンテストの結果がっ!﹂
一人が私の存在に気づき、名を呼ばわったことで、わずかな見学
者たちの間に緊張と喜びが走る。
ジャーイルが三層四枚六十五式をもって出現させた、二十m四方
の黒い大きな石の箱。そこに私が結界を張り、すべての者の出入り
を封じたのはもう五日も以前のこと。
今日はその結界を解くために、こうして改めて旧魔王城の前地に
やってきたのだった。
つい先日まで、ここは世界中でもっとも注目を浴びた場所だった
が、今は閑散としている。
魔王が城を出て以後は、ただコンテストの結果を愉しみにする者
たちが、周囲をうろつくばかり。あるいは、石に彫られた魔族の︿
偉業﹀を、観に来ている者たちか。どちらにせよ、その数は決して
多くない。
そんな場所に私が足を運んだ理由は、ただ一つだ。
その見学者の一人が言った通り、いよいよ美男美女コンテストの
集計が終わったのだ。今日はその結果を受け取りに来たんだよね。
私は投票箱にかけてある結界を解いた。そうしなければ、私自身
であっても箱には手を触れることもできなかったからだ。
なにせ髪の毛一筋でも触れれば、誰彼の区別なく、たちまち全身
1297
を黒こげに焼く結界を施してあったのだからね。
そうして私は投票がすべて終わったその瞬間より、その箱の中に
閉じこめられることになった十数人の︿公正投票管理委員会﹀の者
たちの安否と、彼らの出した結果を確認すべく、天面に穿った入り
口より中に降りていったのだった。
﹁サーリスヴォルフ大公閣下。お待ち申し上げておりました﹂
監理委員たちはもういくらも前から待っていたのだろう。
全員がその広大な空間の中央で整然と列をつくり、その場に倒れ
込むようにひれ伏している。
もしかして、そのうちの数人が眠っていたとしても、おかしくは
ないかな。彼らは寝食も忘れて、ただ開票作業にあたってきたのだ
からね。
﹁どうやら、ちゃんと間に合ったようだね﹂
﹁は﹂
私が立ち、委員たちがひれ伏すこの空間の四方は、どこを見回し
ても紙の山が積まれてある。それは天井高すれすれまでのものもあ
れば、寂しく一枚きりがまるで誤って置かれたかのように、並べら
れている場所もあった。
﹁全投票結果のリストでございます﹂
﹁なんと!﹂
監理委員のまとめ役が恭しく差し出した紙の束を、一枚めくった
その瞬間に、我知らず声が漏れた。
表紙のすぐ下には、デヴィル族・デーモン族、それぞれ男女の一
位に輝いた、その者の名だけが得票数と共に記されてあったのだ。
それは、驚くべき結果だった。
デヴィル族の男性は、マストヴォーゼが亡くなって以降は予想で
きた名であったし、デーモン族の一位であるウィストベルについて
1298
も同様だ。
デーモン族の美醜については、私自身は真の意味で理解が及ぶと
はいえないが、男性に限らず女性に及ぶまでのウィストベルに対す
る反応を考えれば、その結果は当然のものとわかる。
問題は、デーモン族の男性とデヴィル族の女性だった。
そこにあったのは、ジャーイルとアレスディアの名だったのだ。
ジャーイルに関しては、確かに驚きはしたがベイルフォウスと並
び称されている声も聞くことだし、デーモン族たちの実際の反応を
見ても、目が飛び出るほどの驚愕は覚えない。
けれど、本人はどうやら自分の容姿に無頓着で、まさかそんな結
果を予想してもいないだろうから、知らせればきっと驚くだろう。
通常は該当者には発表式の前日に知らせて、それなりの心構えを
持って式に臨んでもらうんだけど⋮⋮さて、どうしようかな。
ジャーイルは大祭主だ。
その姿が発表の日の公の場にないというのもあまりよろしくない。
それに、絶対に当日、いきなり発表した方が面白いと思うんだよね
⋮⋮。
よし、これに関しては魔王に相談してみることにしよう。
ベイルフォウスは⋮⋮二位になったところで、そんなに心配はい
らないかな。
彼はそんなことを気にする性格でもないからね。
問題はデヴィル族の女性の結果だ。
デヴィル族の女性の一位︱︱その場所から、あの気位の高いデヴ
ィルの女王が陥落してしまうとは︱︱
いいや。確かにアレスディアは美しかった。一位を取ったとして、
何の不思議もない美貌だ。
一人は女王然として、一人は楚々として。私からすれば二人の美
1299
しさは趣が違うだけで、甲乙つけ難い。今回は愛人の一人に投票し
たが、そういう相手がいなければ、彼女たちのどちらかに入れただ
ろう。
だが、まさかアレスディアが一位になるとしても、こうも圧倒的
な票差がつくとは︱︱
なにせ二人の得票数は、一桁違っていたのだから。
おそらくこれは、パレードの効果による新鮮な驚きの表れなのだ
ろう。
その得票数が本人たちに直接あかされないことを、せめてもの幸
いと思うしかないだろうねぇ。
もっとも、後でその情報まで記されまとめられたものが、製本さ
れ公文書館に置かれるのだから、完全に秘するのはどだい無理だ。
﹁アリネーゼが荒れなければいいがね﹂
私の発言の意味を、まとめ役が理解したのが雰囲気で知れた。
﹁それで、それぞれの記名者の投票用紙だが、まさか無記名投票に
混ぜてはいないだろうね?﹂
﹁もちろん、別にしております﹂
まとめ役が立ち上がり、私をその山に誘った。
その他の者はさっきからぴくりともしないし、気配もほとんどな
いから、本当に寝ているのじゃないかな。そうであっても今回はさ
すがにこの箱の中で、着の身着のまま暮らして疲弊しているだろう
から、許してあげることにしよう。
﹁なにこれ。どういう現象?﹂
今度驚いた原因は、ジャーイルだ。
一位は誰も、記名者の投票が他に比べて圧倒的だが、それにした
ってジャーイルのところは⋮⋮。
四人のうちで最も得票数の多かったウィストベルでさえ、記名投
1300
票の用紙は五百枚にも届かない。アリネーゼに勝利した、アレスデ
ィアでさえそれほどない。だというのにジャーイルに集まった記名
投票の数たるや千を越しているではないか。
﹁ふふ⋮⋮考えるまでもありません﹂
くぐもった声が、地の底から響いた。ひれ伏したうちの誰かが発
言したようだ。
﹁ベイルフォウス大公と違って、旦那様⋮⋮ジャーイル大公がその
地位についてからというもの、かの寝室を汚した女が一人もいない
のは周知の事実﹂
発言しているのはどうやら、デーモン族の娘のようだ。しかも、
﹁旦那様﹂と言ったところをみると、彼の城の勤め人なのかな?
﹁であれば、この機会に希望を抱く者、あるいは本当のところを確
認したいという好奇心を抱く者が多数現れるのも、当然のことでは
ございませんか﹂
﹁ふむ⋮⋮そういうからには、君もジャーイル大公に投票したのか
な?﹂
﹁ふふ⋮⋮当然です﹂
はしたなくも、じゅるり、とすすり上げる音がした。
ジャーイルもバカだなぁ。適度に手を出さないから、おかしな連
中を引きつけてしまうんじゃないか?
寿命の短い動物や人間じゃあるまいし、誰でもいいから何人かと
遊べばいいのに。
﹁しかしこれはいくらなんでも突出して多すぎるね⋮⋮他の者と均
整がとれない。彼の分だけ箱を変えるのもおかしいし、彼のに合わ
せると他の者の分がすかすかになりすぎるねぇ。であれば、いっそ
全員の分を絞るか﹂
1301
﹁絞る⋮⋮のですか?﹂
﹁記名のある投票用紙は、こちらにまとめてあるだけだね?﹂
﹁はい﹂
そう確認したのは、記名のある用紙だけは、記念として当人に配
布をされるからだ。つまり翻って、他の無記名のものは集計が終わ
った今となっては、不要なものということになる。
私は山と積まれたその無駄紙を、一気に燃やした。
﹁あっ﹂
熱波を感じてか数人がようやく顔をあげ、驚きの声をあげた。
それが終わると今度は、天面に立つ夜光石の一本を折って引き寄
せ、そこから四つ立方体を切り出す。その一面に大きな穴を開け、
中をくり抜いた。
一位の記名票を山から五十枚のみ、つかみあげ、雑然とその箱に
放り込んでいく。だが、ジャーイルのところで手が止まった。
残った山の一番上に、見たことのある名が現れたからだ。
﹁リリアニースタ、だって? ⋮⋮ふむ﹂
私は手持ちのうちから一枚をはずし、その知った名の記された用
紙と入れ替えた。
﹁あっ﹂
コンテストの担当が私でなくば。
また、掴んだ紙の下からその名が出ていなければ。
あるいは、私が面白がって一枚と入れ替えなければ︱︱
リリアニースタの投票用紙は、埋もれてしまったことだろう。
だがこうして私が確認し、わざわざ夜光石の箱に混ぜ入れたから
には、彼女の名の書かれたそれ︱︱その用紙がたったの一枚として
取り上げられ、その名が読み上げられるに違いない。意味のある一
枚だからこそ、目に飛び込んできたのだ。
なぜならば彼女は強運の持ち主。それも、ただ何となくついてい
1302
る、とかいう程度のものではない。
本人の望まぬことを避け、望むことを引き寄せる能力を、確かに
持っているのだから。
﹁これは楽しいことが待っている、という予感なのかな?﹂
だとすれば、その結果までをできれば知りたいものだ。
床にひれ伏したうちの一人の上に、私は視線を置いた。
1303
123.いよいよ、大公位争奪戦が始まろうとしています︵前書
き︶
いつも拙作をお読みくださり、ありがとうございます。
︳︶
今回の大公位争奪戦につきましては、珍しくちょっとだけご注意が
ありますので、よろしければ活動報告をご覧くださいm︵︳
m
1304
123.いよいよ、大公位争奪戦が始まろうとしています
﹁お兄さま、実は折り入ってご相談がありますの⋮⋮﹂
妹が、常にはない殊勝な態度でそう切り出したのは、昨日のこと
だ。
ものすごく、嫌な予感がした。
﹁悪いがマーミル。お兄さまは明日から始まる大公位争奪戦のこと
で、いろいろと忙しく︱︱﹂
﹁その大公位争奪戦のことですわ!﹂
なに? 大公位争奪戦の話?
もしかして、俺の身が心配でたまらない、とか、そういうことか?
まあマーミルはお兄さん子だからな!
﹁お兄さまのことなら、心配はいらない。大公位争奪戦の間でいく
らか怪我は負うかもしれないが、死ぬようなことは﹂
﹁魔王城の前地に、身内の座る席が用意されるでしょう?﹂
ん? あれ?
﹁今のところ、私とスメルスフォとマストレーナが座ってもいいこ
とになっているでしょう?﹂
ちょっと待て。
あれ?
俺の心配は?
﹁そ⋮⋮そこに⋮⋮もう一人⋮⋮﹂
待て。なぜそんな頬を赤らめてうつむく。
﹁ご⋮⋮ご招待、したい、方が⋮⋮⋮⋮いるの⋮⋮﹂
しまった。胸が痛い。
1305
﹁あの⋮⋮最近、お友達になったのだけど⋮⋮﹂
健気な風に見上げてくるのはやめろ。
この間までのあざとい上目遣いのほうが、今となってはどれほど
よかったか!
﹁⋮⋮ただの友達を、家族席に招待するわけにはいかない。悪いが、
あきらめろ﹂
言っておくが別にこれは意地悪じゃない。
大公位争奪戦の舞台は、広大な旧魔王城そのものだ。
その観客席は安全を期して、周囲を囲む前地にいくらかの空き地
を緩衝地帯として配され、設置される。
まあ設置、といっても、ただ簡単に旧魔王城を取り囲むように階
段がつくられるだけのこと。北に設置された魔王様と大公のための
席以外は、ちゃんとした椅子すら用意されない。
座りたくば観戦者たちは、その段に直接腰かけるしかないだろう。
だが例外として、対戦中の大公の身内のための席︱︱いわゆる家
族席が、特別に用意されることになっている。
東西に一つずつ、それ自体が結界の役割を果たす低い天幕が張ら
れ、そこへいくらかの座席が設置されるのだ。
そこには家族席というくらいなのだから、実際の血縁者と本人の
配偶者や婚約者の他は、せいぜい同居の庇護者くらいまでしか着席
を認められないことになっている。
つまり大公の序列の上下が、自分の生活にも直接大いに関わって
くる、そういう者たちのための席なのだ。⋮⋮一応は。
その建前を、他の大公が守るかどうかまでは知らないが。
﹁じゃ、じゃあ⋮⋮お兄さまの従僕、という形ではどうかしら? それならいいでしょう? お世話のための家臣は、天幕にいてもい
1306
いことになっているんですもの!﹂
マーミル⋮⋮そんなに必死に食い下がってくるなんて。
﹁なんだったら、本当に従僕になさったらいかがかしら? きっと
彼も喜ぶと思うわ! だって、お兄さまのこと、大好きですもの!﹂
はっきりとした﹁彼﹂という言葉のせいで、従僕とは言い間違い
をしただけで、もしかして妹が言うのは同性のお友達ではないのか、
という俺の一縷の望みは、完全に絶たれた。
間違いない。その彼というのは、きっとケルヴィスのことだ。
そりゃあ俺だって、彼のことはとても感じのいい少年だと思って
いる。貴重な同好の士でもあるわけだし。
だがマーミルが絡むとなっては、話が違ってくるではないか。
ああ、かまわないさ。小さい男だと言われようが、かまうものか。
﹁彼? 余計に駄目だ。同性の友達ならまだしも、異性の友達だな
んて、お前の将来に影響が︱︱﹂
﹁だったら、同性のお友達ならいいんですのね?﹂
⋮⋮なに?
﹁そうなんでしょう、お兄さま﹂
﹁⋮⋮いや、同性の友達なら、単に目立たないかなと言う意味であ
って﹂
﹁なら私、ご本人と相談してみますわ! 女装してみないかって!﹂
﹁は? なに?﹂
なんと言った、うちの妹は。女装?
﹁お兄さま、ありがとう! だから大好きですわ!﹂
﹁え? いや、ちょっと待て、マーミル!! そういう意味じゃ⋮
⋮﹂
だがうちの妹は俺の制止も聞かずに、まるで疾風のように去って
いったのだった。
1307
⋮⋮いや、まあ。
いくらまだ子供だといったって、さすがに女装しろ、とか言われ
たら、きっとケルヴィスだって拒否するに違いない。
そうとも。あんなにしっかりとした子だ。
逆に﹁なんて侮辱を﹂とか怒り出して、それきりマーミルとは疎
遠になるかもしれない。可能性として、ない訳じゃない。
マーミルには気の毒だが、初恋なんてそんなものだろう。
妹が大泣きしていたら、慰めてやろうじゃないか。
俺はそう決意したのだ。
それが昨日の話である。
そして、なぜか今日⋮⋮。
そう、大公位争奪戦の初日である、今日。
俺の家族席の真ん中には、もちろん実妹であるマーミルの姿。そ
の左手にはネネネセが並び、右端にはシーナリーゼの姿。スメルス
フォは遠慮してきたし、他の姉妹も不参加らしい。
それはいい。だが⋮⋮。
なぜか妹のすぐ右手に座る、姿勢正しく凛々しい顔立ちの、デー
モン族の少女の姿が⋮⋮。
なんてこった。
いったいどうなってるんだ?
なぜ拒否しない、ケルヴィス! 女装を受け入れるだなんて、ま
さかその趣味があるのか!?
しかもなに。マーミルの、あの微妙にはにかんだ様子!
いや、ちょっと待て、俺。
もしかすると勘違いかもしれない。
1308
あれはケルヴィスではなく、本当にマーミルの友達の女の子なの
かもしれない!
目元なんてもうケルヴィスにソックリだが、彼の妹かもしれない
じゃないか!
俺はとりあえず、柵と天幕で区別された、その家族席に向かった。
﹁マーミル﹂
﹁お兄さま!﹂
俺が近づくと、妹と、ケルヴィス︱︱に、似たその子は、席から
立ち上がった。
彼女らはこちらをじっと見つめてくる。
マーミルは不安感に満ちた沈んだ双眸で、一方の少⋮⋮⋮⋮女、
は、信頼感に満ちた輝く双眸で。
俺は腰を折って妹の目線に合わせ、金髪が守る小さな頭をなでた。
﹁お兄さまはこれから戦いに向かうが、あまり心配するな。多少の
怪我をしたとしても、診てくれるのは優秀であること、間違いのな
い魔王城の医療班だ。死ぬことはないさ﹂
﹁はい⋮⋮﹂
どうやら妹は、相手がウィストベルであるということに、いっそ
う不安を抱いているらしい。
きっと、心優しい俺が女性に手など挙げられないのではと、心配
しているのだろう。
だが妹よ。実際不安なのは、その点ではないのだがな。
俺は妹の頭上に手を置いたまま、ネネネセを見、それから︱︱
﹁閣下﹂
つけまつげをつけてなお凛々しい少女が、軽く目礼してくる。声
は︱︱低い。
﹁格別のご配慮に対するお礼は、また後ほどとさせていただきます。
1309
今はとにかく、御武運を信じて勝利をお祈り申し上げております!﹂
⋮⋮やっぱりケルヴィスだった。
自分の格好をわかっているのか、少年!
なんでそんな嬉しそうなんだ!
まさか女装に興奮しているのか!?
﹁ケルヴィス⋮⋮﹂
﹁はい﹂
﹁後で話し合おう⋮⋮﹂
﹁⋮⋮はい!!﹂
こんな時までそんなきらきらした目を⋮⋮。
﹁とにかく今は、マーミルを頼む⋮⋮ネネネセに、シーナリーゼも﹂
﹁心得ておりますわ﹂
シーナリーゼが姉妹を代表して、力強く頷いた。
彼女たちの瞳が少し揺らいで見えるのは、マストヴォーゼの最後
を思い出すからだろうか。
﹁ヤティーン﹂
俺は続いて、もう一人に声をかけた。
家族席は結界で守られているから魔術は通さないとはいえ、その
天幕の中への侵入を拒むものではない。
そうなるとどうしたって中を守る者を置いておきたいわけで、俺
はそれをまたも治安維持部隊の隊長であるヤティーンに任せること
にしたのだ。
﹁みんなを頼むぞ﹂
﹁もちろんっす。閣下の戦いもそりゃあ目は離せませんが、だから
って護衛をおろそかにしたりはしませんよ!﹂
雀はなぜか得意げだ。
返答の軽さが不安を呼び起こすが、その実力には信頼を置いてい
る。
1310
﹁じゃあ、お兄さまは行ってくるよ﹂
﹁ご無事で!﹂
最後に妹の頭を一撫ですると、俺は天幕を後にした。
ここで現在の序列について、確認をしておこう。
大公第一位がプート、二位がベイルフォウス、三位がアリネーゼ、
四位はウィストベル、そして五位がサーリスヴォルフで、六位がこ
の俺、ジャーイル、最後の七位にデイセントローズだ。
この順位の数字を並べて、戦いを言い表したりもする。
たとえばプートとベイルフォウスの戦いだと、その順位を上位か
ら表して﹁一二戦﹂と呼ぶことになる。
︱︱さて。
旧魔王城を舞台に、これから始まるのは大公位争奪戦の第一戦。
他ならぬ俺とウィストベルの戦い︱︱つまり﹁四六戦﹂だ。
旧魔王城を間に挟んで、東西対極にもうけられた家族席。
北には魔王様と大公の席があり、そこを空席にしている者はいな
い。
その外側を数多の見物客が取り囲んでいたが、今はまるで誰もが
息を潜めているかのような静寂が、世界を支配していた。
俺は四方から突き刺さる視線だけを感じながら、まだ健在である
強固な城門をくぐり、以前は人々がひしめき合い、竜が着地した、
麗しく整えられた見事な前庭に足を踏み入れる。
そうして、この世の者とも思えない美しい微笑を浮かべたウィス
トベルの、その正面に、しっかりと立ちはだかったのだ。
1311
124.相手が誰であれ、今日からの戦いには常に本気で臨みた
いと思います
﹁これより大公位争奪戦を始める﹂
いつものような、平和的な主行事開始宣言は、今回はない。
大公位争奪戦の担当であるベイルフォウスが緊迫した雰囲気の中、
戦いの開始を宣言をするだけだ。
戦いの場となるのは旧魔王城。一辺が二十キロにも及ぶ広大なそ
の敷地、すべてである。
戦いが始まると、ベイルフォウスは一般観戦席と対戦場の間に緩
衝地帯として定められた前地にあって、常時審判を務める。もっと
も、審判といっても戦いの内容に口を出す訳ではない。
どうしても決着のつかないときや、誰が見ても明らかに勝敗がつ
いた状態であるのに、一方の大公が我を忘れたように破壊を目論む
ときにだけ、強引な判定を下す必要がある程度だ。
だが現在のこの大公の顔ぶれで、勝負のつかない戦いなど一、二
戦あるかどうかだろう。やりすぎる方はもっといるかもしれないが
⋮⋮。
ちなみにベイルフォウスが戦うときは大祭主として、その任を俺
が代わる。そして俺たち二人が対戦するときは、魔王様ご自身がそ
の役を果たされるのだ。
﹁第一日、第一戦目、ウィストベル対ジャーイル。双方、用意はい
いか?﹂
﹁先に行っておくぞ、ジャーイル。手は抜かぬでもよい。私もそう
するつもりじゃ﹂
﹁⋮⋮本気でこの状態でやるつもりですか?﹂
1312
俺がそう問うたのも当然だ。
ウィストベルがその身にまとう魔力は、いつもの︱︱そうだな、
だいたい十分の一くらいになっていたからだ。だが、十分の一?
邪鏡ボダスを使用したなら、もっと減っているはず。少なくとも、
ちから
前回の彼女の魔力は、これより遙かに少なかった。なにせあの鏡は、
対象者の百の魔力のうち、九十九を奪うのだから。
ウィストベルがもし百分の一の状態であれば、さすがに大公とし
ての地位は保持できても、実力的には他の六名のほとんどに劣るも
のとなっていただろう。
だが今は︱︱
﹁当然じゃ。主が何を思っておるのか、察することはできるが、今
は答えぬぞ。そのような時間はあるまい?﹂
ウィストベルはベイルフォウスを見上げた。
﹁私はよい﹂
いつも以上に嗜虐的な色を双眸に煌めかせた親友は、急かすよう
に俺を見下ろしてくる。
﹁⋮⋮ああ、俺もかまわない﹂
仕方ない。今更どうすることもできないではないか。
俺としては相手が大公という実力者である以上、誰であろうが全
力でやるだけだ。今回ばかりは、そう覚悟を決めたのだから。
﹁では、始め!﹂
開始の言葉とほぼ同時にベイルフォウスが城門から緩衝地帯に退
くと、ウィストベルがすかさず天高くその身を舞い上がらせた。
次に何が行われるか察した俺は、上空に巨大な術式が現れるのを
待つまでもなく、地上を離れる。
天上に黒光りする百式の展開から、発動までは、わずかの間もな
い。
1313
﹁いきなりこの量かよ!﹂
予想はしていた。
ウィストベルのことだから、開始早々、魔王城の破壊をもくろん
でくるだろうとは予想してた!
だがまさか、こんな避ける隙間もないほどの攻撃を、いきなり仕
掛けてくるとは。
上空を仰ぐ暇すらない。天空をすっかり覆い隠して、辺りを闇に
陥らせたほどの量の岩石が、すさまじい速さで大地に落下し始めた
のだ。
その一石一石の大きさたるや、小さな竜ほどもある。
それが無慈悲にも旧魔王城の本棟に別棟、あちこちにある塔、屋
敷、庭のすみずみにまで降り注ぎ、あっという間にすべてを砕いて
いったのだった。
どうやら女王様は、一度で魔王城を壊滅させるおつもりらしい。
俺はどうしても避けられないものだけを砕き、なんとか無傷でや
り過ごした。
瞬く間に、かつて世界にあまねく威容を誇った魔王城は、自らを
砕いた岩石と混じりあい、ただの瓦礫の山と化す。
残っているのは、そのぐるりを囲む城壁だけである。
﹁また、見晴らしのいいことで﹂
小さな塔の一つ、部屋の一室の残骸すら認められない。本当に見
事な破壊っぷりだ。
瓦礫は中央がなだらかに盛り上がり、小高い丘を形成している。
俺はそこへ着地した。
﹁あとは城壁さえなくしてしまえば、みなも我らの戦いを、直接そ
の目で見られるであろう。言ってみれば、彼らに向けた気遣いじゃ
な。それに、これで終わらせるつもりはない﹂
1314
城門の上に降り立ち、女王様はその赤金の瞳に憎しみをみなぎら
せながらそう言った。
どうやら俺との戦いよりも、城の粉砕に気が向いているようだ。
彼女のこの城に対する恨みは、それほど根深いということか。
さて、俺は相手の出方を待つべきか。それとも全力でいくと決め
たからには、こちらから仕掛けるべきか?
十分の一といっても、ウィストベルは十分強い。百分の一なら一
瞬で片は付いただろうが、今はちょっと器用なことをされると、手
こずりそうだ。
さらに手を抜いたりすれば、こちらがうっかりやられかねない。
﹁遠慮はいらぬと言ったであろう﹂
背後で声が聞こえたと思うや、視界を細い生足がかすめる。
﹁ちっ﹂
自分の甘さを実感した。
とっさにあげた手にすさまじい衝撃が叩きつけられ、体が宙を舞
う。
﹁お兄さま!﹂
マーミルの叫びが聞こえた気がした。
空中で身体をひねって両脚で城壁を蹴り、衝撃を吸収する。
そこから翻って城門の上に着地したが、ぼやぼや次の手を考えて
いられる余裕などあるはずがない。
いかに魔力が減ったとはいえ、相手はあのウィストベルだ。頭へ
の直撃は避けたが、蹴りを受け止めた手は痺れているではないか。
﹁まったく、いったいその細い体のどこに、そんな力があるんです
かね﹂
1315
俺は城門を飛び上がり、腰の剣を抜く。ケルヴィスより借り受け
ている、その剣だ。
黒い柄はしっくりと手になじむ。レイブレイズに比べれば軽いが、
振るうのに頼りないほどではない。
だが俺の力任せの斬撃を、ウィストベルはあっさりと交わした。
避けざまの空中で、魔術で出現させた弓を引く。一本の矢が放たれ
たとみるや、それはたちまち途中で分裂し、数十本の火矢が一斉に
襲いかかってきた。
そのいくらかを剣で弾いて、今度はこちらも術式を展開する。
いいだろう。少しウィストベルに協力してやるとしよう。
百式二陣を出現させたその魔術は、炎をまとった七つの竜巻だ。
その竜のごとき姿が蹂躙した後は、巻き込んだ全ての物体が灰燼に
帰す。
ウィストベルは薄い笑みを浮かべながら、竜巻を余裕の体で避け
ていた。城壁の上を、まるでダンスでも踊っているような、軽い足
取りで優雅に跳ねる。
あっという間に、残っていた城壁が塵と失せた。
﹁また、派手じゃの﹂
肉感的な唇には、微笑が浮かんでいる。だが、その余裕もこれま
でだ。
俺はさらに百式を追加する。
竜巻に続き、今度は稲妻がその隙を埋めるように踊り狂う。
俺の攻勢にウィストベルの表情が徐々に変化していく。
余裕の笑みはその美しい顔からいつしか消え去り、苛立ちが取っ
て代わった。
それというのも、ウィストベルが俺の魔術に無効化するその速度
1316
以上の速さで、俺が百式を追加していくからだ。
解除に気を取られている今の彼女には、攻撃のための魔術を展開
する余裕など全くないはず。
ああ、そうだとも。はっきり言おう。
今の状態では、俺の方が強い。だからこの戦いを、ウダウダと長
引かせるつもりはないのだ。
だってそうだろう?
長引けば長引くほど、ウィストベルを痛めつける場面を多くつく
らなければいけない、ということになる。
わざと負ける? そんな選択肢は元よりない。ウィストベルが自
分の力を下げてきたと言うことは、俺に勝てと言っているというこ
となのだから。
そうであれば、むしろこれ以上痛めつけると、逆に後が怖い。そ
れに不必要に手を抜けば、数人はそれに気づくだろう。
﹁これで終わりだ﹂
俺は最後にいままでの中で、最も大きな百式を追加した。
それはベイルフォウスがかつて人間の町で見せたものを、模して
より強力にしたものだ。
一瞬︱︱たったの一瞬で、全ての物体・事象が凍り付く。
それは俺自身の魔術でさえ、例外ではない。竜巻も雷も、瓦礫の
塵、広大な大地の隅々まで︱︱当然、そこに立つ、ウィストベルの
身体すら。
彼女は何かを言おうと軽く唇を開いたその瞬間に、凍り付いた。
まるでこの世にあるのが奇跡であるような、美しすぎる氷像。
だが見惚れている場合ではない。
間髪を容れず、俺は手に持った剣を振り上げた。
そうして一気に距離をつめ、ウィストベルめがけてその切っ先を
1317
︱︱
﹁待て、それまでだ﹂
ベイルフォウスの制止の声で、俺は剣を止めた。
もっともあいつが声を上げなくたって、俺はそこでやめていただ
ろう。
ウィストベルの全身を覆う氷には、斬撃による亀裂が入っている。
あと少し力を込めれば、それはウィストベルの体をさえ浸食してい
ただろう。それほどの力加減だ。
観戦者たちからは、ベイルフォウスの制止がなくば、俺の剣が氷
像を砕いていたとさえ見えたはずだ。
﹁くっ﹂
次の瞬間、氷像はそう呻きつつ、生身の美女に変わった。
俺の剣や魔術が氷結を解いたのではない。ウィストベルが自力で
溶かしたのだ。
だが、遅い。誰が見てもそれは明らかだった。
氷の溶けた今、俺の剣の切っ先は、ウィストベルの首にそのまま
当てられているのだから。
勝者は俺だった。それも圧倒的な勝利だ。
﹁見事じゃ、ジャーイル﹂
俺が剣をひくと、その場に膝から崩れ落ちつつ、ウィストベルが
声をあげる。そうしてギラギラと光る瞳で、俺を下から睨めつけた。
﹁ご期待に添えましたか?﹂
﹁期待以上じゃ。まさか主が、私を相手にそこまでやってくるとは
思わなかった﹂
えっ!?
え、ちょ⋮⋮ちょっと待って。
1318
まさか怒ってないよな?
だって自分から弱くなってきたんだもん。それは俺に勝てという
ことだろう?
それに手を抜くなっていったよな?
ズタボロにして勝つこともできる戦いで、なるべく傷もつけない
ような方法で、けど圧倒的な勝利を見せつけた、俺の判断が間違っ
ていたとか言わないよな?
﹁勝者、ジャーイル﹂
﹁おおおおおおおおおおお!﹂
﹁六位のジャーイル大公が、四位のウィストベル大公を撃破なさっ
たぞ!﹂
﹁きゃああああ! ジャーイルさまーーーー!﹂
ベイルフォウスが俺の勝利を宣言すると、始まりから戦いの様子
を静かに見守っていた観衆たちは、この時初めて歓声をあげた。
﹁ウィストベル⋮⋮怒ってます?﹂
ウィストベルに右手を差しのべると、彼女は微笑を浮かべて自分
の手を重ねてきた。
﹁まさか。確かに最中は苛立ったが、今はむしろようやったと誉め
てやりたいくらいじゃ⋮⋮私はの﹂
ウィストベルは俺を支えに立ち上がると、耳元でこう囁いた。
﹁だが、しばらくはルデルフォウスに近づかぬ方が賢明じゃろうの﹂
もちろんですとも。
言われるまでもなく、近寄るもんか。
開始当初からずっと一点から発せられる殺気が、俺の頭をもう圧
迫しているのだから。
とにかくこうして俺はめでたくも、一戦目を己の勝利で飾ったの
だった。
1319
125.あとはゆっくり、観戦席に紛れましょう
結界を張って特別に用意されたその席を、家族が利用できるのは、
身内の大公が対戦するその戦いの間のみに限られる。
今は俺とウィストベルの対戦が終わったので、マーミルは家族席
を出なければならないというわけだ。
だからということもないが、俺は戦いの終わった後、まっすぐ妹
の元へ向かった。
﹁お兄さま! ご無事でよかった!﹂
妹が涙目になりながら、抱きついてくる。
あきらかに俺の圧倒的勝利で終わったはずだが、さすがにたった
一人の兄の戦いとあっては、平静ではいられなかったのかもしれな
い。
﹁閣下、お見事でございました﹂
対照的に、興奮したように頬を赤らめ、きらきらと輝く琥珀色の
瞳をまっすぐ向けてくるのはケルヴィスだ。
﹁いやーよかったっす、閣下が無事で。っていうか、無事すぎない
ですか? 相手も大公閣下だってのに、あんなあっさり勝たれちゃ
俺の付け入るスキが⋮⋮いや、なんでもありません﹂
ヤティーンは軽い。軽すぎないか?
だいたい、付け入る隙ってなんだよ!
そういえばこの雀は、リスとはまた違った意味で俺を狙っている
感じだったっけ。
人選を誤ったかな? 護衛については一考するか。
﹁午後からはプートとアリネーゼの対戦だが、どうする? 帰るか、
1320
それとも﹂
﹁見ていきます!﹂
お前には聞いてない、雀。今回もマーミルの護衛なんだから、妹
が帰ると言えばお前も帰るのだ。
﹁お兄さまが一緒にいてくださるなら、私もぜひ今後の参考に見て
いきたいですわ﹂
マーミル⋮⋮そんなちらちらと、ケルヴィスを見たりして⋮⋮。
﹁そうだな⋮⋮﹂
俺は魔王・大公席を振り返った。
今は第一戦目があっさり終わったとあって、誰もその席には残っ
ていないが、あそこに他の大公たちと⋮⋮もとい、ちょっと苛つい
ている魔王様の近くに座るのは勘弁願いたい。
かといって、プートとアリネーゼの戦いを見ないという選択肢も
ない。
そしていずれは爵位をと望んでいる妹にだって、なるべく戦いの
場面は多くみせておいてやりたい。
と、なると。
﹁いいだろう。では、最後までいて、俺と一緒に帰るか。だがその
前に、腹ごしらえをしておくとしよう﹂
俺は妹に手を伸ばした。だが⋮⋮。
ちょっと待て。もう一度言う。
俺は妹を抱き上げようと、手を伸ばした。いつもやるように。
でも⋮⋮ちょっと聞いて。あろうことか、マーミルは拒否の姿勢
を示してきたのだ!
そんなバカな! いつもなら俺が嫌がってもくっついてくるくせ
に!?
さっきだって、抱きついてきたじゃないか!
これはいよいよ、反抗期、というやつか⋮⋮。
1321
﹁え、じゃあ、俺はお役御免ってことでいいですか?﹂
﹁⋮⋮シーナリーゼたちはどうする?﹂
俺はヤティーンを無視して、姉妹たちに声をかける。
﹁私たち、帰城いたしますわ。ジャーイル閣下がご無事であれば、
それで十分ですもの﹂
三人は顔を見合わせて頷いている。
﹁ならヤティーン、三人を送ってやってくれ﹂
﹁えー。俺もこの後の戦いを見たいっすよー﹂
﹁そういわず、お願いしますわ、ヤティーン様﹂
﹁仕方ねぇなぁ﹂
俺の命令には不服声をあげておきながら、シーナリーゼに微笑ま
こ
れたとたんに鼻の下を伸ばすって、どういうことだヤティーンめ!
﹁では、閣下。僕もこれで失礼します﹂
ケルヴィス⋮⋮その格好で僕っていうのはよさないか? 僕っ娘
に見えてしまうぞ。
とにかく今日のことは特別だ、と伝えておかないと。今後もまた、
その格好をしてさえくれば家族席に座れると思われたのでは、具合
が悪い。
﹁ケルヴィス、今回のことは⋮⋮﹂
﹁今回は無理を言って、こんな大切な席にまでずかずかとお邪魔し
てしまい、申し訳ありませんでした﹂
少年が深々と頭を下げたおかげで、俺は出鼻をくじかれる。
﹁ですが僕が女装をすることで、家族席に部外者が入る違和感を少
しでもなくそうとしてくださった閣下のお気遣い⋮⋮身に染みまし
た﹂
え、ちょっと待って。まさか俺が女装をすすめたことになってる
1322
のか?
やめろ、また変な噂がたったらどうするんだ!
﹁その上⋮⋮剣まであんな風に、ご使用いただけて⋮⋮光栄の至り
です。今回のことは⋮⋮本当に⋮⋮﹂
少年は感極まったように言葉をつまらせている。
﹁こうして閣下の戦いを、間近で拝見できたことは⋮⋮僕にとって
は何より得難い、幸せな経験でした。この記憶を励みに、成人まで
のあと十年、自らを律してまいりたいと思います。そして一刻も早
く閣下の良き配下となれるよう、精進いたします!﹂
どうやらケルヴィスは、今後も家族席には居座るつもりもなく、
女装をするのもこの一度きりと決めているようだ。
さすがにこんな状態の相手に苦言を浴びせるほど、俺は辛辣でも
冷たくもない。
それはそうとしてもこの少年、大丈夫だろうか。ちょっと思いこ
みが激しすぎるのではないだろうか。
精進するのはかまわないが、もうちょっと気を抜いた方がよいの
ではないだろうか。
いっそヤティーンの弟子にでもなったらどうだろう。
﹁お兄さま﹂
妹が袖をつんつん引っ張ってくる。瞳に相当な期待の色を込めて。
⋮⋮わからないフリをしてやろうかな。
﹁ケルヴィス⋮⋮もし、もしも、だ。無理にとは言わない。無理に
とはな⋮⋮。だが、もし、そう急く用事がなければ、この後も俺た
ちと一緒に観戦していったらどうだ?﹂
結局、俺は折れた。
﹁よ⋮⋮よろしいのですか?﹂
1323
﹁どうせ大公席でなく、一般観戦席に混ざるんだ。隣に誰が座ろう
が、かまわん﹂
﹁ありがとうございます!﹂
﹁ただ、少し早めに席をとっておいてくれたら、助かりはするな﹂
﹁もちろんです!﹂
席云々は、さすがに昼食まではご一緒しないぞ、という俺の固い
意志の表れだ。
だが純真無垢な瞳と、嬉しそうに弾む返答に、少し心が痛んだ。
﹁あと、一つだけ条件がある。その女装を解いて︱︱﹂
﹁いますぐに着替えて参ります!﹂
ケルヴィスは見本のように切れのある敬礼を披露すると、スカー
トをまくしあげ、ものすごい勢いで去っていった。
本当に大丈夫か、あの少年。ちゃんと普通の魔族に育つのかな⋮
⋮。
それはさておき、初日の第二戦目はプートとアリネーゼの対戦だ。
第一戦が午前に始まり、二戦目は午後からと、一応は大ざっぱに
時間が決まっている。よほど戦いが長引かねば、ふつうは昼食を取
ってゆっくり休むくらいの時間はもうけられているのだ。
家族席の入れ替えもその間に行われるし、万が一戦いが終わった
後の会場に支障があれば、その間に改善されることにもなっている。
今回の初戦はあっさりと終わったが、俺が最後にすべてを凍らせ
た部分はそのままだ。つまり竜巻や雷を閉じこめた氷柱が残ってい
る状態だった。
それを均す必要はあるだろう。
だが俺自身については、今回ばかりは大祭主であるからといって、
特別果たさなければならない役割はない。
そんなわけで俺は妹と対戦場からも離れた平原のただ中で、侍従
1324
たちが用意してくれた食卓について、ゆっくりと昼食を楽しんだの
だった。
そうして観戦席に戻ってみると、ちゃんと少年に見えるよう着替
えたケルヴィスが、俺の言いつけ通り三人分の席を確保してくれて
いるではないか。
﹁楽しみです。大公位一位のプート閣下と三位のアリネーゼ閣下の
戦い。さぞ、迫力のある戦いになるのでしょうね!﹂
目下、ケルヴィスは俺の右隣で瞳を輝かせている。我が妹はとい
えば、その向こうではなく、俺の左隣を占めていた。
この並びを決めたのは、マーミルだ。
てっきりケルヴィスの横に座りたがるかと思ったのだが、そうは
主張してこなかった。むしろ⋮⋮ああ、むしろ、俺を見るふりをし
て、その実ケルヴィスを見ているようなのがなんとも⋮⋮。
﹁閣下はどちらが勝利なさると思います?﹂
この繊細な兄の気持ちなぞ、わかるはずもないケルヴィスは、無
邪気に話しかけてくる。
いいや、俺もいちいち、胃の痛くなるようなことは考えまい。
だいいちマーミルにとっては可哀想なほど、ケルヴィスは妹の想
いに全く気づいていないようなのだから。鈍いって、ある意味罪だ
な。
﹁そうだな⋮⋮﹂
俺に言わせれば、プートとアリネーゼの勝敗のゆくえについては、
疑うところがない。
序列で見ると二人にはそれほど差がなさそうに思えるが、実際の
実力差はおそらく一般の予想するより遙かに隔たりが大きい。
二位のベイルフォウスと一位のプートでさえ、明らかな差が認め
られるのだ。それより断然劣るアリネーゼでは、プートを相手に善
1325
戦することさえ難しいだろう。
﹁君はどうみる?﹂
﹁僕は、プート閣下が勝利されると思います﹂
質問に質問で返したというのに、ケルヴィスは嬉しそうだ。しか
も返答には迷いがない。
﹁マーミルは?﹂
﹁わ、私もそう思いますわ! だってプート大公は、とってもお強
そうですもの!﹂
確かにな!
あの筋肉獅子を見て、弱そうと表現する者はいないだろう。
﹁それで、お兄さまはどう予想いたしますの?﹂
﹁ああ、俺も異論はない﹂
大公席では間違ってもこんなことはいえないが、俺とウィストベ
ルの時以上にあっけなく、勝敗は決するだろう。
当の二人はすでに準備万端という風に、旧魔王城の跡地で対峙し
ている。
てっきり氷柱は砕かれ均されるかと思ったのだが、そのまま残さ
れている。おそらくプートかアリネーゼのどちらかが、そう望んだ
ためだろう。
⋮⋮いいや、どちらの希望かは、すぐにわかった。
ベイルフォウスが開始を宣言するや、プートがすさまじい魔力を
放出したのだ。この俺ですら、一瞬しか把握できない速さで術式を
展開し、業火をもってすべての氷柱を灰燼と帰したのである。
つまりプートは、俺の残した広大な魔力の痕を瞬時に砕くことで、
自分の実力を派手に見せつけたわけだ。
そればかりではない。
1326
その業火が砕いたのは、俺の氷柱だけではなかった。アリネーゼ
の全身をも、覆い尽くしたのである。
そう。その一瞬で、勝負さえ決したのだった。
残ったのは一言の悲鳴すらあげられずに倒れる、アリネーゼの焼
け焦げた姿。
﹁これほど容赦がないとはな﹂
奪爵をかけての戦いならわかる。俺だって実際にウィストベルの
ところのなんたら公爵を、同じような目に遭わせたことがあるのだ
から。
だが、大公の中での序列をかけた戦いで、ここまでやるとは︱︱
いいや。俺の考えが甘すぎるのか。
﹁勝者、プート!﹂
心なしかベイルフォウスの声にも苦々しさが混じって聞こえるで
はないか。
結果を叫ぶタイミングが遅れたように感じたのは呆然としていた
ためか、それともその名を呼ぶのに躊躇を感じたためか。
⋮⋮後者かもしれないな。あの凶悪な表情を見れば。
第一戦の時と大きく違ったのは、観衆の反応だ。俺たちの戦いの
決着後は、興奮に満ちた喜びの歓声が多かった。だが今回は違う。
落胆や悲鳴のような声が多い。だがそれも少し抑えめに聞こえる
のは、プートの発する威圧感に押されてのことか。
始まる前には期待に瞳を輝かせていたケルヴィスも、今は硬い表
情でじっと押し黙っている。
マーミルなんか、俺の服を掴む手が小刻みに震えているではない
か。
﹁では、第一日目の戦いは、これで終了する。これより後は、今回
1327
不戦の三名に対しての挑戦を受け付ける。この機会に大公位を奪わ
んという志を持つ者はいるか?﹂
その問いかけに、会場は沸くどころかシンと静まりかえってしま
った。
今俺たちの目前では、医療班によって運び出されようとするアリ
ネーゼの姿が見せつけられている。プートに挑戦する訳ではないと
はいえ、大公一位の強さをこうもまざまざと見せつけられた後では、
さすがに奮い立つ者もいないらしい。
圧倒的な強者の実力を前に、魔族といえど恐怖を感じずにはいら
れないのだろう。俺が普段のウィストベルを前にすると、ひゅんひ
ゅんなるのと同じだ。
﹁どうした。まさか気後れしたんじゃないだろうな? 世界の支配
者たる魔族の一員が? 誰か、覇気のある者はいないのか? 俺が
相手をしてやる﹂
よほど苛立ったのだろう。ベイルフォウスが挑戦的に言い放つ。
だがそれに応える声は、やはりない。
⋮⋮ちょっと待て、なんでこっち見てくるんだ。
﹁ジャーイル、ちょっとつき合え﹂
バカなのかな、こいつ。
知ってたけど、バカなのかな、こいつ。
なんで俺を誘うんだよ?
﹁冗談はよせ、ベイルフォウス。俺はさっき、戦ったばかりだぞ?
一日に二人の大公を相手にする余力はない﹂
﹁ちょっと遊ぶだけだ﹂
そんな好戦的な目をして、何をいうかベイルフォウスめ。
プートがかつて、俺と彼の副司令官の戦いを見て血をたぎらせた
ように、ベイルフォウスも興奮しているのだろう。それがわかるか
1328
らといって、俺がその相手をしなければならない道理はない。
﹁それですむわけがあるか。だいたい、俺たちの対戦は十日目に用
意されてるだろうが﹂
﹁そうよ、ベイルフォウス様! お兄さまを巻き込まないで﹂
マーミルが青ざめた顔で、がっしりと俺の腕にしがみついてくる。
その様子を見て、ベイルフォウスは頬をぴくりとひきつらせた。
﹁もちろん、冗談だ﹂
ベイルフォウスはこちらに背を向け、右手を軽く挙げる。
﹁大公への挑戦者がいないようであれば、初日の大公位争奪戦を終
える。明日はこの俺、ベイルフォウスとサーリスヴォルフ、それか
らウィストベルとデイセントローズの戦いが予定されている。せい
ぜい、血をたぎらせて待つがいい﹂
そうして大公位争奪戦の第一日目は、静かに渦巻く熱気と興奮を
はらんだまま、終了したのだった。
1329
126.二日目は、僕も審判を務めねばなりません
二日目の二五戦、つまりベイルフォウスとサーリスヴォルフの戦
いは、俺にとっては意外な展開を見せた。
プートとアリネーゼの時ほどではないものの、二人の実力差も明
らかである。
当然、ベイルフォウスのことだから、開始早々派手にしかけると
思っていたのだ。
だが、違った。
﹁俺がお前の特殊魔術を、警戒しないと思うなよ?﹂
﹁そう言わないで、お手柔らかに頼むよ﹂
二人の会話が聞けたのは、俺がベイルフォウスの代わりに審判を
務めていたからだろう。
﹁第二日、第一戦目、ベイルフォウス対サーリスヴォルフ﹂
俺が名を読み上げると、ベイルフォウスは躊躇もみせず剣を抜い
てサーリスヴォルフに襲いかかった。
そう、剣だ。
あれほど魔槍ヴェストリプスに執着していたというのに、使用す
るのは剣なのだ。そもそも俺は未だ、ベイルフォウスが槍を使うと
ころを見たことがない。
それはともかくとして、攻撃を避けるサーリスヴォルフには、当
初は余裕のようなものさえ感じられた。彼は腕につけた籠手で刃を
受け止め、武具で応戦する代わりに魔術を披露する。近距離で展開
される術式に焦ることもなく、ベイルフォウスは真っ向から相反す
る魔術をぶつけて押し勝とうとした。
ところがそれを見越したように、サーリスヴォルフが更に術式を
1330
追加、次いでそれを看破したベイルフォウスがまた別の魔術をぶつ
けて︱︱というように、瞬く間に術式が展開されていく。
もっとも二人とも百式は使用せず、範囲も威力も限られたような
魔術ばかりをくり出している。おかげで戦いは、小競り合いのよう
な様相を呈していた。
それにもどかしさを感じるのはお互いが全力を出しきらず、相手
の力をはかるように小手先の魔術を使用しているのがわかるからだ
ろう。
サーリスヴォルフはともかく、こんな戦い方はベイルフォウスら
しくない。それともこれが、本来好むやり方なのか?
もっとも不満があるのは俺だけなのかもしれない。
魔王様やほかの大公は、無表情を気取っているのでわからないが、
観衆は昨日よりはずっと沸いている。
小技ばかりでも数が多いため、派手さは演出されているからだろ
う。
二人の実力差を把握できないとなると、競っているようにさえ見
えるのかもしれなかった。
五十も術式を数えた頃、ようやく二人は動きを止めて対峙する。
サーリスヴォルフはいつものふてぶてしい笑みを隠そうとしなか
ったが、ベイルフォウスは逆にひどく冷静な表情を浮かべて立って
いた。
﹁やってみるか﹂
ベイルフォウスはサーリスヴォルフに向かいながら、小さな術式
を剣の先に展開する。一陣ずつ現れては瞬時に剣にまとわりつき、
を繰り返す、術式だ。
その展開があまりに速すぎて、何が起こっているのか理解できな
1331
い者が大半だろう。だがそれは間違いなく、百式魔術だった。一つ
一つどれもが相当、強力なものに違いない。それが剣に⋮⋮まとわ
りついている?
いや、まるで吸いついているようだ。
俺も始めてみる魔術だった。
サーリスヴォルフは後ろに飛びすさり、今までと同様、籠手をか
ざして剣を受け止めようとする。その直前に防御の術式を張ったの
は、さすが大公の勘というべきか。
だが術式をまとったベイルフォウスの剣は、それでは防ぎきれな
かった。確固として展開されていた防御魔術を粉砕し、籠手を貫き、
あっという間にサーリスヴォルフの腕を押し切ったのだ。
束の間呆然としたサーリスヴォルフ。その隙を、大公位第二位に
ある男が見逃すはずはない。ベイルフォウスは頭上に青光りする百
式を展開した。
俺が昨日、発動させた魔術と同種のものだ。
あれはそもそもが、ベイルフォウスが人間の町を標的にして構築
したものだった。だが今回の魔術はそれより範囲は狭く、威力は俺
のものを上回るようだった。
サーリスヴォルフの全身からわずかの空間を残し、そこから半径
五メートルに及ぶまでが、地表から一mほどの氷の山を築いて凍り
付いたのである。
大地をめがけて落下しかけたサーリスヴォルフの腕が、空中で凍
り付いてしまうほどのわずかな間。その一瞬で、ベイルフォウスは
発動までを終えたのだった。
それだけではない。それとほとんど同時に、手に持った剣はサー
リスヴォルフの首筋に当てられている。俺のように紙一重で止める
つもりもなかったらしく、切っ先はサーリスヴォルフの首の薄皮一
枚を裂き、血を滴らせていた。
1332
﹁俺の勝ちだ。文句はあるまい?﹂
氷山からサーリスヴォルフを見下ろし勝ち誇った表情で。
﹁もちろん、異存はないよ﹂
命すら危うい状況だというのに、サーリスヴォルフはここでも薄
ら笑いを浮かべていた。
そこはさすがというべきか。
﹁勝者、ベイルフォウス﹂
俺は声高に宣言した。
ベイルフォウスが剣をひくと同時に、待機していた医療班が飛び
出してくる。
昨日のアリネーゼといい、二戦続けて片方の大公は重傷を負って
しまったわけだ。
俺が思っていたより、大公位争奪戦というのは血みどろの戦いで
あるらしい。もっともお互いの地位を考えれば、それで当然ともい
えるが。
どんな感想を抱いたのかは知らないが、魔王様やほかの大公は、
今回も平然とした表情でこの結果を迎え、格別な反応はみせずに席
を立っていった。
﹁ジャーイル﹂
ベイルフォウスも敗者のことなど目に入らぬといいたげに、俺の
ところへ歩み寄ってくる。そうして手に持った剣を、こちらへ投げ
てよこした。
サーリスヴォルフの血で塗れたそれは、やはりその剣身に魔術の
痕跡をまとわせている。
俺はその剣を、ベイルフォウスが築いた氷山にふるう。
魔力を帯びた剣は、さっきサーリスヴォルフの魔術と腕をそうし
たように、氷をも貫いた。次に術式を展開して剣を当ててみると、
1333
今度はまるで堅い盾にあたったかのように、その剣身が砕け散る。
さすがにレイブレイズのように術式そのものを消すことはできな
いが、相手の魔術の強弱によって、その現象を打ち消したり弾いた
りすることができる、ということのようだ。
﹁まるで魔剣だな﹂
﹁ああ、その通りだ。いってみれば即席の魔剣だな。だが、元はた
だの剣なんだから、今回の規定にはひっかからんだろう?﹂
大公位争奪戦において魔剣や魔槍なんかの魔武具が禁止されたの
は、これが大祭行事の一つであり、自身以外の力を頼って序列をあ
がることのないよう、考慮されたからだ。
だから今回のベイルフォウスのように、ただの剣を自分の魔術を
駆使して魔剣と同様の効果を持たせた場合は、他の力を頼ったこと
にはならない。あくまで自分の能力内の効果しか発せられないのだ
から。
もっとも、本来の序列をかけた戦いには武器の制限などない。む
しろその制約がある分、今回の争奪戦はほぼ魔力の強弱通りの結果
にしかならないというわけで︱︱ウィストベルを除いては︱︱その
点では魔力の劣るものにとっては、ある意味不利な戦いの場である
といえた。
﹁それにしても、器用なことをする⋮⋮﹂
﹁なに、お前の応用だ﹂
俺の?
﹁転移術式。あれを応用した﹂
なるほど。確かに床に魔術を定着できるのだから、剣や他の媒体
で試してみてもいいわけか。
結局ベイルフォウスに説明する時間はなかったが、解説書はすで
に公文書館の書物に追加されているはずだから、それを見たのだろ
う。
1334
とはいえすぐさま実戦に生かしてくるところが、ベイルフォウス
らしいといえばらしい。
﹁だが見ての通り、耐久性はない。お前との戦いには、使えないな﹂
さらりと言うが、それを信じるほど俺もバカじゃない。
ベイルフォウスのことだ。八日後にはさらに改良を加えたものを
出してくるかもしれないじゃないか。
だいたい、この戦いで氷を使ったのだって、俺にあてつけてきた
のに違いない。
﹁そういやお前、サーリスヴォルフに特殊魔術がどうとかいってい
たが﹂
﹁ああ﹂
﹁結局、それは使っていたのか?﹂
俺の目は、個人の魔力は判別するが、特殊魔術の有無や効果まで
は見切れない。
戦いを視ていても、ベイルフォウスが過剰にサーリスヴォルフを
警戒しているようにしか思えなかったし、その運びをみても結局そ
の効果があったのかどうか、判別すらできなかった。
﹁あいつの能力に、気づいてないのか?﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
あれ? そんなわかりやすい能力なの?
﹁なら、内緒だ。他人の特殊魔術を勝手に明かすなんてのは、いい
趣味じゃないからな﹂
⋮⋮まあ、そうだけども。
﹁注意深くしてりゃ、そのうちわかるだろうよ﹂
なんだかんだで、ベイルフォウスは結構肝心なところは何も教え
てくれないよな。
1335
﹁ところで、今日はマーミルは来ていないようだが﹂
﹁ああ、俺の戦いじゃないからな﹂
﹁昨日、お前と同席していた小僧は誰だ? あいつは今日も来てい
るようだが、親戚か何かか?﹂
ケルヴィスのことだろうが、目ざといな。顔を知っている俺でも、
この大観衆の中では見つけられなかったというのに。
⋮⋮まあ、別に探してもないけど。
﹁いや。あれは将来有望な、同好の士だよ﹂
﹁じゃあ血のつながりもないのに家族席にいたのか。何の同好だか
しらないが、それほど気に入ったってのか﹂
女装してた姿もちゃんとわかるのか。もっとも、ベイルフォウス
のことだ。女性じゃないと反応しないから、とかいう理由で判別で
きるとしても、驚かないが。
﹁まあ、あまりそれ以上はつっこまないでくれ⋮⋮デリケートな問
題なんだ﹂
﹁ほう?﹂
ベイルフォウスの瞳がキラリと光った気がした。
﹁ますます聞き捨てならん。飯でもゆっくり食いながら、じっくり
聞かせてもらおうじゃないか﹂
﹁お前、家族席にはいかなくていいのか?﹂
サーリスヴォルフの家族席には彼の愛人たちだろう者の姿が、ベ
イルフォウスの家族席にはベイルフォウスを柔和にした感じの薄着
のものすごい美女と、魔王様をやや軽薄にした感じの︱︱失礼︱︱
男性が座っていたのだ。
どう見てもベイルフォウスの両親だろう。ということはつまり、
魔王様のご両親でもあるということだから、挨拶に行った方がいい
のだろうか?
1336
﹁かまわん。どうせもういない。そこらの物陰にしけ込んでるだろ
うよ﹂
確かに。すでに二人の姿はなかった。
それで結局俺はベイルフォウスと、その後の昼食を共にすること
になった。
親友はケルヴィスのことをつっこんで尋ねてきたが、俺ははっき
りとした経緯は説明しなかった。
そうだとも。彼はマーミルの初恋の相手で、妹に強く請われて断
りきれなかったとか、まあ実際にはちょっと違うが、とにかく間違
っても口にはしたくなかったからだ。
だが誘導尋問を受けたような形になり、結局ベイルフォウスはた
ぶん、おそらく⋮⋮事実に近い状況を、俺の態度から把握したよう
だった。
そんな風に休憩時間を過ごし、午後の観戦に戻る。
二日目にして俺は初めて、大公席に着いた。
階段状の頂点に魔王様の席が、その下に七大大公の席が並んでい
る大層な空間だ。大公席は全員の分、きっちり七席用意されてはい
るが、そこが埋まることはない。
常に二人は戦い、一人はその審判をつとめて前地の緩衝地帯にい
るからだ。
その七席の席順は、珍しく決まっていない。
俺はまだちょっぴり魔王様の雰囲気が怖かったので、一番遠い端
の席につくことにしておいた。
ところが。
﹁ジャーイル﹂
すぐ下の席を示された。
魔王様直々に、だ。
1337
どうして俺に、断ることができただろう。
﹁いや、でも⋮⋮﹂
とはいえ実際には抵抗しかけてみせたが、眉がぴくりとひきつっ
たので仕方ない。おとなしくそこに腰掛けることにした。
だが特に何も話しかけてはこられないので、ともかく視線を争奪
戦に移そう。もうとっくに、戦いは始まっているのだから。
二戦目は、ウィストベル対デイセントローズ。三七戦だ。
今回も昨日と同じく、ウィストベルの魔力は十分の一に減ったま
まである。だがこれはもちろん、俺に対したのと同じく、デイセン
トローズにも勝たせてやるつもりが彼女にあるからではない。ラマ
が相手では、減力した状態でもウィストベルの魔力の方が勝ってい
るのだから。
俺が考えるに、いつものそのままでだと圧倒的すぎて、プートと
アリネーゼどころではすまない結果に陥ることを、一応は危惧して
のことだと思う。
ところでアリネーゼといえば、昨日のプートとの対戦後、まだ姿
をみせていない。
無理もない。全身大火傷を負っていたからな⋮⋮。今日もまだ治
療中なのかもしれない。明日は俺との対戦なのだが、それまでに回
復は間に合うのだろうか?
間に合わなければ、棄権と言うことになるのか?
その場合、序列の判断はどうなるんだろう。
さっきベイルフォウスに腕を落とされたばかりのサーリスヴォル
フも、まだ治療中なのだろう。姿はなかった。
故に大公として席に着いているのはプートと俺だけだったが、獅
子は俺が座ろうとしたのとは反対側の、端席に腰掛けている。
ちなみに家族席のことについても、一応言及しておこう。
1338
ウィストベルの家族席は、昨日同様空席だ。それもそうだろう。
彼女の家族はもうないようだし、さすがに恋人がいたとしても、魔
王様に遠慮するだろう。
だがデイセントローズの方は⋮⋮もちろん誰の姿があるか、察し
ていただけるであろう。
狭い椅子の上でしきりに身悶え、目を血走らせたやせ細った雌ラ
マの姿。その鼻息の荒さは、側にいなくとも伝わってくる。
ちょっと待て。
ちょっと、待って。
あれなに?
椅子の下のあれ⋮⋮キラキラ光るあれ⋮⋮。
あの水たまり、なに?
まさか、興奮のあまりしっき⋮⋮。
⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮。
よし、見なかったことにしよう。
ともかく、眼下に視線をおとせば、片方の圧巻の感が強い戦いが
繰り広げられている。もちろん、ウィストベルの圧倒的有利な展開
だ。
昨日俺にしかけてきたような魔術を使えば、瞬時に決着はついた
だろうに、いたぶるのを楽しんでいるのかもしれない。
⋮⋮まさか、昨日の俺に対するうっぷんを、デイセントローズで
晴らしているとか?
﹁おい、どうだ﹂
唐突に身体が揺れた。魔王様が足癖悪く、椅子の背を蹴ってきた
のだ。
1339
﹁どうって、何がです?﹂
﹁増えているか?﹂
⋮⋮ああ、なるほど。
っていうか、魔王様! 俺は一応、自分の特殊魔術は内緒にして
いるんですが!
魔王様にだって、言ったことないはずですが!
なんで俺にデイセントローズの魔力の増減をしれっと聞いてくる
んですか?
だが魔王様を相手にとぼけても仕方ない。俺は素直に答えること
にした。
﹁やや増です﹂
だがほんの少しだ。例えるなら、わずか二十マーミルほどなのだ
から。
ウィストベルは余裕の体で術式を展開しており、じりじりとデイ
セントローズを追いつめていく。
ラマの全身をまとう布は切り刻まれ、身体のいたるところに裂傷
が見られたが、致命傷はまだ負っていない。
ちなみに、その衣服が裂かれるたびに女性の黄色い声があがると
ころは、さすが魔族というべきか。
戦いはこのまま、デイセントローズの疲労と魔力の消耗で終わる
かと思われた。
そのときだ。
ウィストベルが珍しく魔術ではなく腰に差した細身の剣を抜いて、
デイセントローズの足をめがけて切りつけたと思った、その瞬間。
﹁ぎゃあああああああ﹂
1340
大地を揺るがす絶叫が、大気を震わせたのである。
1341
127.デイセントローズくんが、ずいぶん苦しそうです
砂塵の山と化した魔王城の跡地で、目を血走らせ腐肉をまき散ら
せ、のたうち回るのはデイセントローズである。
その足の肉はドロリと爛れ、臭気を漂わせる煙が立ち昇っている。
その箇所を押さえる手までが、伝染したように朽ちていった。
さらには全身の穴という穴から、ドロリとした汁が噴き出してい
る。
﹁ああああああ!﹂
﹁デイセントローズ!﹂
取り乱したペリーシャが家族席から飛び出したが、戦いの会場に
たどり着く前にベイルフォウスにとどめられた。
﹁これは⋮⋮﹂
間違いない。デイセントローズはその身に呪詛を受けたのだ。ウ
ィストベルの手によって。
察するところ、剣に何かの呪詛が刻まれていたか、刃先に例の軟
膏でも塗られていたか⋮⋮。
どういう方法をとったにせよ、ウィストベルの考えは明らかだ。
彼女はこの場で検証することにしたわけだ、デイセントローズの死
して甦る能力を。
確かに、禁止されているのは魔道具だけだ。呪詛などそもそも、
誰の意識上にものぼるまい。
さらにいうと、デイセントローズ自身がその能力の解説をするわ
けはないし、魔を帯びた道具や武具と違い、魔族にはそれを感じる
こともできなければ判別する道具も一般的ではない。だからウィス
1342
トベルはラマが苦しんでいる原因を、観衆が怪しみもしないと判断
したのだろう。
とはいえなんとも大胆すぎる仕業ではないか。
巧妙なのはウィストベルは剣での攻撃と同時に、ちゃんと魔術も
しかけていたことだ。
観戦者たちはデイセントローズの苦痛は、ウィストベルの魔術に
よる負傷のせいだと信じていることだろう。
見るがいい。
デイセントローズを見下ろすウィストベルの、あの表情。その赤
金の瞳には、一片の感情も表れてはいない。
無表情さがその美貌と相まって、まるで完璧な彫像のようにも見
えるではないか。
魔王様はゾクゾクするかもしれないが、俺も別の意味でゾクゾク
している。
だが注目すべきはデイセントローズだ。
なにはともあれ、せっかくの機会が訪れたのだ。俺も奴の状態の
推移を、見逃すわけにはいかない。
ラマの身体に表れた腐敗は、徐々にその範囲を広げていく。
足から手へ、手から腹へ、肩へ、胸へ⋮⋮そうして感染したよう
な腐乱は、あっという間にその全身を覆ってしまった。
どろどろに溶けていく肉体、眼球や内蔵までもが混じり合い、あ
っという間に骨だけが残る。
代わりに漂うのは、ひどい腐臭だ。
﹁デイセントローズ! 私の、私たちの息子がっ!﹂
気が狂ったように叫んでいるのは、ペリーシャ一人だ。
﹁勝者︱︱﹂
1343
﹁待って⋮⋮待ってください、まだ私の息子は戦える⋮⋮戦えるん
です!﹂
ベイルフォウスの勝利宣言を、ペリーシャが遮る。
﹁無理だ、あきらめろ﹂
ベイルフォウスはペリーシャを家族席に退がらせ、デイセントロ
ーズの腐臭体とウィストベルの間に歩を進めた。
﹁勝者、ウィストベル!﹂
その宣言を聞いて、初めてウィストベルは視線をデイセントロー
ズからベイルフォウスに移す。
﹁私の勝利に異存はない。が、撤収は少し待ってもらおうか﹂
﹁なぜだ。何を待つ必要がある?﹂
ウィストベルの言葉を聞いて、ベイルフォウスは彼女に疑念の瞳
を向けた。
だがウィストベルは返答を与えることもなく、再びデイセントロ
ーズに視線を戻す。
﹁大公が亡くなった!﹂
﹁ウィストベル閣下がデイセントローズ閣下を⋮⋮﹂
﹁え? ってことは、どうなるの? 大公が一人不在になるってこ
とでしょ﹂
﹁それはもちろん、挑戦者が現れれば⋮⋮﹂
﹁俺にもチャンスが!﹂
﹁いや、その場合は魔王様が新たな大公を任命なさるんだろう﹂
﹁だがもちろん、大公へ挑戦して勝つ者がいれば⋮⋮﹂
哀れだな、デイセントローズ。
その生存を心配されるどころか、死んだものと決めつけた観衆の
関心は、次に座すべき大公の話題に移っている。薄情なものだ。
1344
それにしても、身体の構築には時間がかかるようだ。
てっきりすぐにでも甦るのかと思ったのに、いまだ腐肉は散らば
ったままで、骨にまとわりつこうとはしない。
さすがに、まさか本当に死んでしまったのだろうか、と疑いはじ
めた時だった。
腐った色で爛れ落ちたドロドロの肉片が、発酵しだしたようにグ
ツグツと泡立ち始めたのだ。
肉
が⋮⋮﹂
ウィストベルの眉根が寄ったのは、強くなった腐臭に耐えかねて
のことかもしれなかった。
﹁なに、あれ!?﹂
﹁デイセントローズ閣下の
内心辟易としたのは、俺だけではないはずだ。
泡沫がはじけるや、そこからキラキラと煌めく粉が次々と飛び出
したのである。粉は蠢く肉片に落ちて吸収され、その色を変じてい
く。
綺麗なものと醜いものが混じって、なんと表現すればいいのかよ
くわからない異様で奇怪な様相を呈している。とりあえず、目にも
神経にも優しいものではないな。
ざわめく観衆の見守る中、それはどす黒い腐った色から、健康的
な肌色へ、さらに火を噴くような赤色へと変じていった。そうして
徐々に固さと弾力を取り戻しつつ盛り上がった肉片は、しっかりと
結びつきあって骨を覆い始める。
﹁がああああああ!﹂
肉体が戻るとともに、悲鳴もが甦る。
再生の時には苦痛が伴う、といっていたのはどうやら真実らしい。
響きわたる苦痛の呻きは、絶望と恐怖に彩られていた。
ペリーシャが息子はまだ戦えると言っていたが、ウィストベルが
1345
例え慈悲深くその復活を待ってやっていたとしても、この状態のデ
イセントローズに戦闘が可能だとはとても思えない。
肌色が収まるとともに、声量も収まっていく。絶叫のようだった
声は、徐々にただの荒い息へと変じていった。
ついにデイセントローズの肉体は、俺たちの見守る中で完全にそ
の形を再生させた。
もちろんそれだけではない。肝心の纏う魔力︱︱その増量を伴っ
て。
やはり、復活に伴って魔力が再構築され、増強されるという俺の
予想は正しかったようだ。
具体的に言うと、三マーミルの増加が認められた。
そこまで見てとると、ようやくウィストベルは笑みを浮かべる。
しごく残虐で彩られた笑みを。
﹁十分じゃ﹂
彼女はきびすを返し、デイセントローズに背を向けた。おそらく、
相手が立ちあがる前にその場を去ってしまいたかったのだろう。
だって、裸だもの! 今のデイセントローズ、真っ裸だからね!!
そんなもの俺だって見たくないわ!
﹁無様だな、デイセントローズ。観衆の前で己の特殊魔術を明らか
にされるとは﹂
ベイルフォウスが吐き捨てるように言った。
確かに死んだところまではウィストベルの力と勘違いされたとし
ても、甦ったその能力については、それが奴特有の特殊魔術である
と気づかない者はほとんどいないだろう。
たいていの者はそれを不死と捉えるのではないだろうか。そして
それは、脅威に映るはずだ。
1346
﹁では、聞こう。今回不戦の三名に対しての挑戦を目論む者はいる
か?﹂
ベイルフォウスの容赦ない呼びかけに、声をあげるものはいない。
俺に挑戦すると宣言していたアリネーゼの副司令官も、主に付き
添っているのか今日は名乗り出てこなかった。
ちなみに苦痛に耐えるデイセントローズはまだその場に残ったま
まだ。勝手に再生する身体を前に、医療班もかけつけるかどうか悩
んでいるようだった。
﹁誰もいないなら、二日目の大公位争奪戦を終える。明日の一戦目
はジャーイルとアリネーゼ。二戦目はプートとデイセントローズだ。
もっともどちらも一方は︱︱﹂
ベイルフォウスはデイセントローズを冷たい目で見下ろす。
﹁戦いの場に出てこられるのだかどうだか、明日にならんとわから
んがな﹂
つまりデイセントローズだけに限らず、アリネーゼも昨日から回
復していないということか?
俺がウィストベルの副司令官を同じように炭化したときも、その
回復には時間を要するだろうと言っていた。そこまでの状態では一
日二日で全快するものではないのかもしれない。
それでも、万一俺がそんな状態になった場合には、うちの医療班
ならなんとかしてくれそうな気はする。
とにかく、大公位争奪戦の二日目は、こうして幕を閉じたのだっ
た。
1347
128.これでも常々、女性には多少優しくしているつもりなの
です
三日目の第一戦。アリネーゼは俺との戦いの場に、姿を現した。
少なくとも見た目の負傷は完全に治っていたが、それでも全身か
ら漂う倦怠感は隠せるものではない。
観戦者たちも多少はそれを感じるのだろう。それでも逆に色気が
増している、と声をあげる男性諸君には感心するばかりだ。
﹁わかっているのでしょうね。この間の、こと﹂
例の朝チュン事件のことを指すのだとは気づいたが、負い目があ
るからといって手を抜く気がないのは、決意の通りだ。だから俺は
こう答えておいた。
﹁わかってる。長引かせるつもりはない﹂
ウィストベルの時と同様、さっさと、そしてできればなるべく相
手の軽傷で終わらせるつもりだ。その方が、アリネーゼも早く休め
ていいだろう。
ベイルフォウスの宣言の後、俺は瞬時にしかけた。
初日に灰燼と化した旧魔王城の残骸を、固めて鎖に変じ、アリネ
ーゼの身体の自由を奪ったのである。
アリネーゼは魔術を駆使して拘束を解こうとしたが、その実力で
は俺の魔術を打ち破れるだけの効果を発現することはできない。
やがて自分の解放は諦めたように、俺への攻撃に転じようと術式
を展開する。だがそれも、すべて防御魔術で防いでみせた。
その間にも、アリネーゼを縛る鎖の数は増えていく。そうしてが
んじがらめにした上で、俺は剣を抜いた。昨日のベイルフォウスの
技︱︱普通の剣に百式を定着させて魔剣もどきに変化させる、例の
魔術を展開させたのだ。
1348
もちろん、今日はケルヴィスの剣は使っていない。
ベイルフォウスが耐久性がないといっていたし、俺も試してみた
ところ、何本もの剣を無駄にしてしまったからだ。そうやって使え
ば砕けてしまうとわかっているものを、さすがに借りた剣で実行し
ようとは思わない。
︱︱ああ、ちなみにあの少年は、今日は女装して家族席に混ざっ
たりもしていない。ちゃんと一般観戦席に座っているようだった。
もし要望があったとしても断るつもりだったが、マーミルも最初
のような無茶をいってこなかったのだ。
我が妹は、一日目の戦いを目の前で、それから二日目を中継で見
て、観戦についての考えを改めたようだった。自分の思っていたよ
ひと
りずっと、大公位争奪戦が熾烈であることに気がついたのだろう。
⋮⋮まあ、その点は俺も他人のことはいえない。
とにかく今日も心配することしきりだったので、その不安を軽く
してやるだけでも苦労した。今はフェオレスに守られながら、ネネ
ネセたちと手を握りあって戦いを見守っている。
ちなみに毎回護衛はヤティーンで行こうと思っていたが、気が変
わった。俺の戦いは六戦。だからパレードに参加中のウォクナンを
のぞいた三名の副司令官に、二度ずつ役目を受け持ってもらうこと
にしたのである。
ところでその妹たちの状態で、気になることが一つだけある。
なぜならその天幕は⋮⋮昨日あの、ペリーシャが使用していた方
だったのだ!
いや、大丈夫だろう。掃除は行き届いているはず! っていうか、
ちゃんと椅子ごと変えられているはず!
でなければ絶対許せない。
1349
とにかく俺は即席魔剣を、犀の角めがけて振り下ろした。
昨日腕を落とされたサーリスヴォルフだって、今日はそれを元通
りに取り付けて、大公席でプートと歓談している。たかが角の一本
くらい、どうってことはないだろう。
太くそそり立った角は、刃をいれるとあっさり分断できた。
だが︱︱
﹁きゃあああああ!﹂
アリネーゼの叫びが、地上に鳴り轟く。
白状しよう。俺が思っていた以上の反応だったため、ちょっとビ
クッとなってしまったことを。
だって、そうだろう? まさかそんな、間近で鼓膜を破るような
叫声が発せられるとは、俺でなくとも思うまい。
犀の角なんて毛みたいなもんだろ!?
血も通ってなければ、神経も走っていないと聞く。当然痛みだっ
てないはずだ。
でも⋮⋮あれ?
ちょっと待って⋮⋮?
血が⋮⋮血が、でてる⋮⋮?
まさか魔族だけに、動物を基準に考えてはいけないって⋮⋮そう
いうことだったりする!?
それとも見かけは犀の角なのに、構造は牛の角同様だったりとか
⋮⋮そんなことがあったり⋮⋮?
﹁うがああああ!﹂
その叫びには、こめかみを少し動かしただけの反応で抑えられた。
アリネーゼは怒り心頭なのだろう。つい今までの魔術とは比べも
のにならない威力の攻撃を発揮する。
常には聞いたことのない野太い雄叫びをあげ、口元から唾液をま
1350
き散らせながら、自分の身が傷つくのもいとわず、鎖を定点攻撃し
て弱らせたのだ。
﹁ぬがあああ!﹂
ついに彼女は全身に力をみなぎらせ、鎖をひきちぎった。
そのままの勢いでこちらに向かってくるかと警戒したが、予想と
反して彼女は無惨に地上に転がった自分の角に手を伸ばす。
﹁私の角、角がああああ!!!﹂
絶望に彩られた声が漏れる。
大事そうに角を持った両手は、ぶるぶると震えていた。
だが悪いな、アリネーゼ。
その動向を待てば、狂ったような怒りが向けられるだけだと察し
た俺は、すかさず彼女の首筋に一撃を食らわせる。
そうして意識を手放して、膝から崩れ落ちるその身を受け止めた
のだった。
⋮⋮うわぁ、手がねちょっとする⋮⋮気持ち悪い。
﹁勝者、ジャーイル﹂
ベイルフォウスの冷静な声に続いて、観衆のざわめきが耳に届く。
﹁ひでえ⋮⋮角をばっさりだ﹂
﹁ああ、アリネーゼ閣下の立派な角が⋮⋮﹂
﹁いくらなんでも、角を切るだなんて⋮⋮容赦がなさすぎる⋮⋮﹂
⋮⋮あれ?
あれ?
いや、ちょっと待って。
あれ?
プートはアリネーゼに全身大火傷を負わせたんだぞ?
1351
昨日のサーリスヴォルフはベイルフォウスに腕を落とされたんだ
ぞ?
それよりはさすがに軽い⋮⋮よな?
俺は動揺を隠しつつ、アリネーゼの身をそっと大地に横たえた。
すかさず駆け寄ってきた医療班に後をまかせ、妹の元に向かう。
﹁お兄さま、私はわかっていますわ。大公位争奪戦ですもの。御自
分の身を守るためには、容赦なんてしていられないってこと!﹂
あれ?
何この反応。
何この、私だけは味方だと言わんばかりの反応。
俺の対応って、プートよりは優しいよね? ベイルフォウスより
手ぬるいよね? そうだよね?
失神させるのだって、ホントなら顎からいってもよかったのに、
後ろからにしたんだよ?
なのになんなの、その反応。
あと、どうして大公席のウィストベルはあんな嗜虐心あふれる笑
みを浮かべているのだろう。
﹁そんな容赦のないところも素敵ですわ、ジャーイル閣下!﹂
﹁ゾクゾクしちゃう! 私のこともいたぶって!﹂
え? なにその歓声。
俺が思い描いていたのと違う⋮⋮。
﹁フェオレス⋮⋮﹂
俺は頼りになる副司令官に視線をやった。フェオレスなら、フェ
オレスならきっと⋮⋮。
だが、彼は心得たように頷くと、静かにこう言ったのだ。
﹁もとより我々臣下は⋮⋮少なくとも私は、閣下のなさりようはす
1352
べて黙して受け入れる決意でおります﹂
どうにも腑に落ちない慰めのような言葉が返ってきたのだった。
まあいい。
気を取り直して、午後からは一七戦だ。
こちらもちゃんと、デイセントローズは姿を現した。
それどころか奴は午前中も大公席にいた。昨日の醜態を一つも気
にしていないような、いつもの慇懃無礼な態度を崩そうともしない
で⋮⋮。
しかもその魔力は、昨日の戦いの後よりさらに増えている。
﹁つまりあの後また、あいつは死んで甦ったということか﹂
本人からは聞いていたが、実際の滅びと再生には俺の想像以上の
苦痛が伴うようだった。あれを一日に何度も繰り返す気になるだな
んて⋮⋮。
デイセントローズのやつ、やっぱりマゾなのかな?
ちなみに、今は昨日に比べて七マーミル増えている。
増量には法則性があるのか、ないのか⋮⋮それとも条件によって
変わるのか。
それを解明するには、やはり経緯と増加の瞬間を何度か目にしな
いと無理だが、この先その機会はそうそうないだろう。今後はデイ
セントローズも、いっそう用心するはずだ。
﹁ジャーイル閣下?﹂
俺の呟きを聞きつけたのは、今日も一般観戦席で俺の隣に座るケ
ルヴィスだ。
初日と同様、マーミルがいるからには俺が大公席にいかないと踏
んだのだろう。またも少年は、座席を確保してくれていた。だから
今日も俺は、妹とケルヴィスに挟まれている。
もしかして⋮⋮大公位争奪戦の間はずっとこうなのだろうか。そ
1353
れはそれで、なんか嫌だ。
今日はシーナリーゼは不参加で、ネネネセはマーミルと一緒に残
っている。つまり俺たち三人の後ろに、双子とフェオレスが並んで
座っているのだ。
こうなると、もうフェオレスに任せて大公席に行ってもよかった
んじゃないだろうか、と思ってしまう。そうしていたらデイセント
ローズの魔力について、ウィストベルと多少は意見を交換すること
もできたのでは⋮⋮。
言っておくが、そんな風に思ったのは、周囲を占めるデヴィル族
から向けられる視線がことのほか冷たく、いたたまれない気分にな
ったから、という訳ではない。ああ、断じてな。
それはとにかく、その後の展開には特筆すべきことは何もなかっ
た。
たかが七マーミル増えたからといって、何ほどのことはない。相
手がプートであればよけいに、二人の実力差は誤差の範囲を出ない
些細なものでしかない。
決着は、やはりあっさりとついた。
とはいえプートも二度も続けて一瞬で終わらせては、観衆に対す
るサービスが足りないとでも考えたのか、デイセントローズの攻撃
をいくらかいなした上での反撃による勝利を演出していたが。
あと歓声は、野太い雄叫びのようなものが多かった、とだけ付け
加えておこう。
敗北したデイセントローズは、今日も血を吐き大地に伏せたが、
外見上の欠損は見受けられなかった。
後はベイルフォウスがラマの戦闘不能と判断して、プートの勝利
を宣言し、それで終わりだ。
対ウィストベル戦の時と違い、デイセントローズの特殊魔術が披
1354
露される機会はなかったからか、息子が負けたとはいえペリーシャ
も昨日のようには取り乱さなかった。
もっとも⋮⋮やはり足下の大地はキラキラ水で満たされていたし、
目を血走らせ、涎を垂らし、鼻息荒く身悶えする様子は相変わらず
だったが、つまりそれはこちらが見てしまったことを後悔する程度
の平常運転だ。
続いて、大公位に挑戦する者がいないかの問いかけがなされたが、
二日目までと同様、誰も名乗りでなかった。
さて、大公位争奪戦はこんな風に毎日開催されていたが、だから
といって大祭行事がすべて終了している訳ではない。
相変わらずパレードは魔王城の領地を練り歩き、行く先々で注目
を浴びていたし、舞踏会はあちこちの城で毎夜毎朝開催され、狂騒
が世を満たしていた。
大公位争奪戦より大がかりな芝居を好むものも大勢いたし、俺の
領地で開催されている独自の催しもすべて盛況だ。
ああ、武具展以外はどれもな⋮⋮。
いや、違う。そんなことを問題にしたいのではない。そこはもう
諦めている。
要は今まで通り、他の大祭行事も進行中である、ということを言
いたいだけだ。
そうして大公位争奪戦を終えて領地に戻った俺は、その晩、独自
行事の一つである絵画展のその会場で、一人の人物と会う約束をし
ていたのだった。
﹁お初にお目にかかります、ジャーイル大公閣下﹂
見事な裸婦︱︱ただしデヴィル族なので、まったく興味がわかな
い︱︱の絵の前で、男が固い敬礼をみせる。
もっさりとした裾の長い服を着ているので、顔がカワウソで手が
1355
猫科の肉食獣のものであるとしかわからないが、彼が絵を描いた本
人であるのには間違いないだろう。
そう、今日はあの画聖ランヌスと、彼の絵の前で会う約束をして
いたのだった。
﹁君が当代一と名高い、絵師ランヌスか﹂
﹁誉れ高き大公閣下より、そのように呼んでいただけるとは、恐れ
多いことでございます﹂
﹁わざわざここまで呼びつけて悪かった。長旅で疲れただろう﹂
そうねぎらったのは彼が俺の領民ではなく、サーリスヴォルフ領
に属した身であるからだ。
竜を出して迎えにやったが、ランヌスは無爵者なのでその背には
あまり乗り慣れていないに違いない。
﹁いえ、とんでもございません。大公閣下の御許であれば、どちら
であろうとすぐさま駆けつけます。どうぞ、ごひいきに﹂
抜かりない言葉でアピールしてみせるが、実は領民の移動は、居
を移すという大事ではなくとも、それほど簡単なことではない。も
ちろん、高位のものであればある程度は自分の好き勝手にあちこち
出向いていけるが、さすがに訪ねる相手が他所の大公の城となると、
奪爵に向かう以外の理由ではひどく警戒された。
もっとも今は大祭中だ。常日頃よりは移動も制限されず、怪しま
れもせず容易に行える。でなければ各地の行事を見て回ることなど、
とてもできないだろう。
そうはいっても彼を招くにあたって、一応サーリスヴォルフに話
は通してある。
﹁なぜ、呼んだのかはだいたい察してもらえるだろうが⋮⋮﹂
カワウソ画伯は心得たように頷く。
﹁コンテストの一位の奉仕の件、ですかな?﹂
1356
﹁まあ、一つはそうだ﹂
そうなのだ。
デヴィル族第一の美女に選ばれた、我が城の侍女アレスディアの、
一夜の奉仕相手がこのランヌスだった。
こういったことは、家族でもいればその者が気にするのだろうが、
アレスディアは天涯孤独だ。
言ってみれば妹が最も近しい、それこそ娘や妹のようでもあるわ
けだし、そうなるとその兄である俺も家族同様の間柄として、その
身を案じるのは当然といえた。
﹁まずは、肖像画のことを確認しておきたい﹂
﹁肖像画、と申されるのは一位の副賞としてその方の肖像画を得ら
れる権利、のことを申されておいでですか?﹂
﹁ああ。君は画家だから、他の者が描いた肖像画を欲しいものだろ
うかと、疑問に思ってな⋮⋮﹂
肖像画を得る権利には、画家を選ぶ権利も付随する。つまり俺の
場合はその相手に選ばれたリリアニースタが、肖像画の大きさとそ
れを描く画家を指名し、派遣してくることになっているのだ。その
権利を守るため、こちらに拒否権はない。
もっとも構図に対するリクエストは、ある程度無視してもいいこ
とになっているらしい。たとえば全裸で開脚をしろ、といわれて断
れないようでは、あまりにもひどすぎるからな。
だがもちろん、俺が彼を呼んだ真の目的はそこにはない。そんな
些細な事なら手紙での確認ですむし、配下を派遣して問わせてもよ
かったことだ。
だいたい、こちらからせっつかなくても、いずれ画伯の方から申
し出てきただろう。
それをわざわざこの城に招いたのは、一応大公である俺が後ろ盾
なのだから、アレスディアには下手に手を出すなよ、という念押し
1357
のためだ。
﹁お気遣い、ありがとうございます﹂
俺の本意を知ってか知らずか、ランヌスはにこやかに微笑んでい
る。
﹁確かにおっしゃるとおりです。私がアレスディアどのに投票した
目的は、実はそこにあるのです。あれほどの美貌⋮⋮市井の画家な
らば誰もがあの美貌に挑戦したいと思うものでしょう。パレードの
一幕としてなら、いくらでも勝手にスケッチをしているものはおり
ますし、実際私もいたしました。そうして、その結果の絵姿は、巷
にあふれかえっております﹂
そうなのか⋮⋮いつの間にそんなことに。
なら今度マーミルのために、一枚所望してやるかな。
﹁あの素晴らしい肌のテカリ具合、ほんのり冷たさを感じさせる蛇
眼、思わず抱きしめたくなる華奢ななで肩の肩、手を触れたくなる
ほど肌理の細かい四本の腕⋮⋮彼女ほど、創作意欲を刺激される素
材は、そうそうおりませぬ!﹂
声調はあくまでも冷静を装っているが、その瞳に宿るのは邪のな
い熱意だ。
﹁その彼女をモデルとして、じっくり向き合って最高の一枚を完成
させる⋮⋮その機会を、みすみす見逃すことなど、志ある画家であ
ればできるはずもございません! ああ、感謝いたします魔王ルデ
ルフォウス陛下! 私をその御手で選んでくださったことを!﹂
ランヌスはついに感極まったようにその場に突っ伏した。どうや
らこの場にいない魔王様を夢想して、祈りを捧げているようだ。
その目には、もはや俺の存在すら認めてはいないようだった。
よかったな、マーミル。この画家はどうやら下種なタイプではな
いようだぞ。
1358
むしろ芸術家特有のちょっと変わった人物で、絵を描く意欲にま
みれているようだ。
これならもう一件も、頼んでみてもいいかもしれない。
﹁浸ってるところ悪いが、ランヌス﹂
俺はしゃがみ込み、画家の肩に手をかけて、その身体を起こさせ
た。
﹁実はもう一つ、頼みがある﹂
﹁なんでございましょう? もしや、閣下の肖像画も任せていただ
けるので?﹂
﹁いや⋮⋮それは相手の権利だから﹂
﹁ではいったい⋮⋮﹂
﹁実は妹が⋮⋮ああ、俺には妹がいるのだが﹂
﹁魔族でそれを知らぬ者はおりますまい﹂
そうか。まあ、大公位争奪戦で家族席に座っているしな。
﹁その妹が、絵を習いたいと言い出してな。教師を捜しているんだ
が、君は引き受けてくれる気にならないか?﹂
ランヌスの絵の一部は特定人物の肖像画だが、大部分は美しい風
景の中に人物を配したものだ。その作風は明るく、色優しい。どこ
かの、目を攻撃してくるかのような派手派手しく毒々しい感覚の持
ち主とは、明らかに違う。
﹁それは大変光栄なのですが、閣下﹂
画家は俺の申し出に戸惑っているようだった。
﹁私はサーリスヴォルフ閣下の臣民ですので⋮⋮﹂
﹁サーリスヴォルフには俺が話をつける。教師をしてくれるという
のなら、その間はこの城にとどまってくれればいい。家族がいるな
ら、一緒に来てもかまわない。どうだろう?﹂
﹁⋮⋮﹂
ランヌスはすぐには返答しなかった。さすがにひっかかるのはサ
1359
ーリスヴォルフのことだけではないだろう。
﹁すぐに答えをくれとはいわない。まあ考えておいてくれ﹂
﹁かしこまりました﹂
﹁せっかくこうしてご足労願ったんだ。今日のところはこの城でゆ
っくりしていってくれればいい。たまには別の領地の大祭行事を楽
しむのも、いいものだろう﹂
﹁お気遣いありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきま
す﹂
実際には妹との相性も気になるところだろうから、後でマーミル
にランヌスと話をしておくようにいっておこう。
そうしてその夜も更けてゆき、大公位争奪戦は四日目を迎えよう
としていた。
1360
129.ベイルフォウスくんはもうちょっと、周囲のことを考え
るがいいと思います
大公席からものすごい殺気が、俺に向かって吹き付けてくる。
誰からのものかは、説明しなくてもわかるだろう。角に包帯を巻
いたアリネーゼからだ。
腕を落とされても翌日にはケロリとしていたサーリスヴォルフと
違って、彼女の角は一日では完全にくっつかなかったらしい。⋮⋮
なぜだろう。
とにかく俺は、せめてその席に並ばずにいられた幸運を、喜ぶべ
きかもしれない。
今日の第一戦は二四戦⋮⋮つまりベイルフォウス対ウィストベル
だ。故にベイルフォウスの代わりに、今日も俺がその判定役を務め
ねばならない日なのだった。
ウィストベルは通算三戦目の今日も、相も変わらず魔力を落とし
てきている。
俺の時にそうしたのだから、ベイルフォウスが相手でもそうする
のが当然といえば当然ではあった。
﹁では、四日目の第一戦を始める。ベイルフォウス、ウィストベル、
用意はいいか?﹂
﹁かまわぬ﹂
﹁さっさとしろ!﹂
魔王様、ベイルフォウスが乱暴です!
﹁では、始め!﹂
次の瞬間、誰もが目を剥いたに違いない。
ベイルフォウスがウィストベルを一撃で葬ったから? いいや!
1361
確かに我が親友は、即座に対戦相手に踏み込んでいった。
そして俺がアリネーゼを魔術で拘束したように︱︱いいや、ベイ
ルフォウスは、ウィストベルを実際に抱き留めて拘束したのだ。そ
の腕で。
次に何を仕掛けたかって?
言いたくもないが仕方ない、説明しよう。
ベイルフォウスの奴は、ウィストベルを抱きしめるといきなりそ
の艶めいた唇を、自分のそれで塞いだのだ!!
これってあれだよね?
大公位争奪戦だったよね?
俺の認識が間違ってるわけじゃないよね?
途中で手を出したらいけないのはわかっている。でもあの見境な
い阿呆を殴りたくて仕方ないんだけど、どうしたらいいだろうか。
っていうか、なぜウィストベルも抵抗しないで受け入れてるんだ!
アリネーゼのものが可愛いほどに思える殺気が、対戦場を満たし
つつあることには気づいているはずだろう!?
せめて魔王様のために抵抗してあげて! もうホント、確認する
までもなく絶対に両目は血走っているに違いない!
マーミルがいなくてホントよかった!
中継で見てしまっているのは仕方ないとしても、あんながっつり
舌まで入れてるような生々しいもの、目の前では見せたくない!
﹁いい加減にしろ、ベイルフォウス!﹂
通常は明らかに勝負が付いたと判断するまで、審判は口を挟まな
い。目の前で何が行われようと、だ。
だが責めるように叫ぶくらいは許して欲しい。あの野郎ときたら、
ウィストベルを離す気配を微塵もみせないのだから!
1362
こうなったら止めようか。
戦いを一度、強引にでも止めてやろうか!
だがベイルフォウスは俺の注意のたまものか、ようやくウィスト
ベルに口付けるのをやめた。もっともその腕は、彼女の華奢な腰を
抱いたままだ。
﹁悪くはなかっただろ?﹂
﹁まあ、そうじゃの﹂
ウィストベルの瞳には、残酷な光が浮かんでいる。
﹁だが主の口づけには、兄と違って愛が足りぬ﹂
その瞬間、彼女は術式を発動させた。
五層百式一陣。
天から一筋に伸びた稲妻が、二人の間を裂く。
﹁まったく、兄貴が羨ましいぜ﹂
口ではそういいながら、ベイルフォウスも容赦なく反撃する。
百式二陣。
なぜかここでもまた、氷の魔術だ。恐ろしいほど尖ったプートの
腕ほども太さのある氷柱が、天いっぱいに現れたと思った瞬間、一
斉に対戦相手に襲いかかる。
だがウィストベルが黙ってそれを受けるわけはない。彼女は炎の
魔術を展開し、見事に氷解してみせた。
そこからは、大公らしい百式魔術の応酬戦だ。
サーリスヴォルフとの対戦の時と似ているが、規模が違う。
だがまだベイルフォウスは本気を出していない。あいつと今のウ
ィストベルなら、当然ベイルフォウスが上回るからだ。俺があっけ
なく勝利したように、あいつもそう振る舞うことができるはずだっ
た。
1363
﹁なぜ手を抜くのじゃ、ベイルフォウス﹂
﹁そりゃあ、お前を押し倒す隙をねらってるからさ﹂
⋮⋮実行されたら、今度こそ乱入しよう。そして卑怯だと言われ
ようがなんと言われようが、後ろから殴ってベイルフォウスの意識
を奪ってやろう。そうしよう。
大祭主の権限として、きっと認められるはずだ。そうとも。
っていうか、もういいだろう。
ここからは先の展開を、詳細に知りたい者などいないはずだ。
ベイルフォウスは結局、ウィストベルに勝利した。
どうやってかとか、勝負の内容とか、もうそんなことは誰も聞き
たくないはずだ。
俺はそう信じている。
要するに結果が分かればいいのだ。
ベイルフォウスはウィストベルに勝った。
それだけのことだった。
***
たぶん、ベイルフォウスは魔王様に殴られたのだと思う。いいや
絶対に。
だって午後に姿を見せたとき、明らかに口の端が切れてたからね。
なんだったらちょっと頬も青くなってたからね!
医療班にかかるのを禁止されたか、それとも自ら多少は反省して
そのままにしておいたのだかは知らないが、どちらであろうがどう
でもいい。奴の自業自得だ。
とにかく今は、目の前で始まろうとしている次の戦いに注視すべ
きだろう。
﹁では、二戦目始め!﹂
1364
アリネーゼ対サーリスヴォルフ。その戦いの火蓋が、切られたの
である。
俺はサーリスヴォルフの特殊能力、それがなんなのか、今度の戦
いで見極めようと決意していたのだが。
﹁のう、主もあのように、私にしかけてきてもよいのじゃぞ?﹂
ここは大公席。隣に座っているのがウィストベルであるのは、説
明の必要もないだろう。
ちなみに、プートはまた端の席にいるし、その隣をデイセントロ
ーズが占めており、しきりにこの間の自分たちの戦いについて相手
を持ち上げた感想を述べているようだった。
﹁なんなら、私がこの場で同じように振る舞ってやろうか?﹂
やばい⋮⋮後頭部に殺気がつきささる。
すぐ後ではないものの、後列に腰掛けているのは当然魔王様だ。
今日は第一戦目以来、機嫌がよろしくない。それもこれも、自分の
弟のせいで!
﹁あの、ウィストベル⋮⋮申し訳ありませんが、目の前の戦いに集
中させてください﹂
明日からはマーミルがいないときでも一般観戦席に座ることにし
ようか。あまりにも、この席は居心地が悪い。
﹁のう、ジャーイル。そろそろそれくらいは、なんとかならぬか?﹂
それ? ⋮⋮って、なんだ?
﹁その口調じゃ。主は私に勝ったのじゃから、そろそろ敬語はやめ
ぬか?﹂
いや、勝ったっていっても実際には減力したウィストベルにだし
⋮⋮。
﹁他の大公には、すでに改まってもそのような口調では話しておる
まい。私にだけですます調、というのは、陛下と私の関係を考慮し
1365
て、と今は思われていても、続けばいずれ不自然に思う者もでよう﹂
﹁そういえば⋮⋮﹂
プートにもアリネーゼにも、いつからか敬語で話してはいないな。
しかし、急にウィストベルにタメ口で話せと言われても⋮⋮。
﹁矯正する、今がよい機会だとは思わぬか?﹂
まあ、一理ある。
﹁善処します﹂
﹁そうじゃ、今から改めることにして、主が敬語を使うごとに私が
罰としてその唇を塞いでやることにしようか?﹂
俺を殺したいのだろうか、ウィストベルは。
椅子がさっきから、がんがん動いてるんだけど。足癖の悪い誰か
さんが、怒りにまかせて蹴ってくるんですけど。
俺は悪くないのに!
もしかして、これはあれか?
俺を困らせて楽しむ、というのと、魔王様に嫉妬させて喜ぶ、と
いう、ウィストベルの二重のドSプレイなのだろうか。
勘弁してくれないだろうか。そういうお楽しみは二人だけでやっ
て欲しい。俺を巻き込まないで欲しい。
そんなことよりウィストベルとは、デイセントローズの魔力につ
いて話し合いたいというのに。だが本人がすぐ近くにいる状況で、
さすがにその名を口の端に乗せることはできない。
それにこの大公位争奪戦が行われている間は、戦いの内容につい
て︱︱つまりお互いの能力や対応、思惑と対策についての見解を話
し合うことは、暗黙の了解として慎まれているようだった。
で、あるなら余計にそれぞれの戦いはじっくり観戦したい。
ああ、ほら!
1366
ごちゃごちゃやってる間にアリネーゼとサーリスヴォルフの勝負
の決着が、つこうとしているではないか!
どうやらアリネーゼはサーリスヴォルフに翻弄されて疲労し、そ
の場に立つこともできないようだ。
﹁アリネーゼは戦意なしと判断する。勝者、サーリスヴォルフ﹂
ベイルフォウスが淡々と宣言し、俺がサーリスヴォルフの特殊魔
術の考察もできないうちに、勝負は終わりを迎えたのだった。
﹁サーリスヴォルフ様って強かったんだな﹂
﹁まさか三位のアリネーゼ大公を倒されるとは﹂
この結果は、観衆に新鮮な驚きをもたらせたようだった。
なぜって、アリネーゼは三位、それに対してサーリスヴォルフは
五位だ。それも俺が大公に就く以前は六位でしかなく、五位になっ
たのだって結局は下が追加されたから押し上げられただけにすぎな
い。
そのサーリスヴォルフが、力でのし上がったアリネーゼを下した
のだから。
本人が普段飄々としていることも、より意外性を強めた一因とな
っているのだろう。
まあ俺に言わせれば、今の順位などプートとベイルフォウス以外
は全くあてにならない。だが今回の大公位争奪戦の結果で、全員そ
の実力通りの地位に収まるだろう。
︱︱いや、ウィストベルを除いて、だが。
これが大公位争奪戦で下位が上位を下した初めての戦い︱︱いや、
違うな。俺が昨日、やはりアリネーゼを倒している。
⋮⋮ってことは、俺も昨日はこんな風に盛大に、驚かれたり感心
1367
されたりしたのだろうか。
﹁別に、主の勝利に関しては、誰も驚いてはおらぬかったぞ﹂
ん?
﹁ヴォーグリムを倒して大公位について以降、主は恐れられておる
でな﹂
⋮⋮ん?
﹁納得されただけじゃ﹂
⋮⋮んん?
⋮⋮まあ、いい⋮⋮か。
1368
130.本当はラマなどサクッと殺ってしまいたいのです
俺は忘れた訳ではないのだ。マーミルを利用しようと、その小さ
な身体に無茶を強いた奴の無礼を。
﹁手加減はいっさいしない。覚悟しろ﹂
﹁もとより、できております﹂
五日目の第一戦は六七戦、俺とデイセントローズの戦いだった。
さんざん長めにいたぶってもよかったが、そんなことをしても鬱
憤は晴れないし、見ているマーミル自身も喜ばないだろう。それで
俺は、とにかく奴をサクッと死ぬ手前まで追いつめてやることにし
た。
炎をまとった九頭竜を形作り、一斉に襲わせる。
その体躯に触れれば魔族といえど生身の肉は焼けただれ、その口
から放出される雷撃を受けては瞬時に壊疽を引き起こす。それを四
体で襲いかからせれば、デイセントローズには防御魔術以外を使う
暇がない。
後はただ、わずかな隙を塞いで逃げ道を完全になくしてやるだけ。
それだけで、戦いの決着はついた。
それで完全に溜飲が降りたかといえば、そうともいえないし、今
後一切奴を信頼することはない。だが一応のけじめとはしてやって
もいいだろう。
戦いが終了した後のデイセントローズの姿は、ウィストベルによ
って呪詛を浴びた時にみせた、初期段階に似たような姿と苦痛を味
わうことにはなったのだから。
それよりむしろ、その日の問題は次の一四戦にあった。
1369
プートとウィストベルの戦いである。
大公席に座るのは、サーリスヴォルフとアリネーゼ。デイセント
ローズは俺との戦いの負傷を、治療中とのことだ。
一方の俺は、今回もマーミルたちと一般観戦席にいる。
俺とマーミル、ケルヴィスについては初日と同じ座席位置だ。そ
して今回も居残っているネネネセと並ぶのは、護衛を命じたジブラ
イールだった。
いっておくが、アリネーゼの反応が心配だったので同席を避けた
という訳ではない。
ちなみに彼女には、座る時に遠くからじろりと睨まれただけで、
今日は特に殺気を放たれることもなかった。一日経って大公位争奪
戦とはそういうものだと諦めてくれたのかもしれない。とにかく俺
に対して関心を向けず、目の前の戦いに注目しているようだ。
自分がそうであったように、ウィストベルもプートを相手では瞬
時に負けるだろうから、それを見逃すまい、と、目を血走らせてい
るのかもしれない。
なにせ今までの序列では、アリネーゼは大公第三位⋮⋮ウィスト
ベルよりは上位に位置していたのだから。
だが、結果はデヴィルの女王の望み通りにはならないだろう。
これまでの戦いに、ウィストベルは十分の一の魔力で臨んでいた。
今回も確かに、元のままの魔力ではない。
だがそれは過去三回の戦いよりは多い魔力量︱︱約六分の一に収
まっていたのだ。
減少量をいじることができるらしいのはどうやら確定のようだが、
今回に限ってそうする理由はわからない。
ただ今までのつきあいで知り得た情報から推測するに、前の魔王
1370
が黒獅子であったこと︱︱その因縁が関わっての判断であることに
は間違いないだろう。プートもまた、その鬣の色は違うとはいえ、
頭部は獅子なのだから。
それにそのくらいの実力を保っていなければ、開始早々、一方的
に敗北したアリネーゼの二の舞になりかねないと判断してのことか。
さすがにそれは、ウィストベルの自尊心が許さないのかもしれない。
とにかく、プートとウィストベルの魔力の差は、俺とウィストベ
ルが対峙した時ほどではない。
﹁今日もやっぱり、プート大公が一瞬で終わらせておしまいになる
のかしら。でも、ウィストベル大公があんな目にあわれるのは、見
たくありませんわ﹂
妹も俺の同盟相手で、しかもデーモン族でもあるウィストベルと
なると、あまり深い付き合いはなくとも他の相手より心配になった
りするのだろうか。
﹁結果については異論ありませんが、ジャーイル閣下との対戦を見
ても、ウィストベル閣下が一瞬で敗北するとは、僕にはとても思え
ません﹂
左右を挟むお子さまたちは、毎回こうして次の戦いの意見を交換
しあっている。
意外にも、というと失礼かもしれないが、ケルヴィスの見立ては
割といい線をいっている。
﹁副司令官閣下はどうご覧になります?﹂
前回もケルヴィスはフェオレスに意見を求めていた。少年なりに
上位者に気を使って話をふっているのか、それとも本当に好奇心が
勝って参考意見を欲しているだけなのかは知らないが。
﹁私は今までの戦いを目の前で見ていた訳でも、中継ですべて見た
訳でもないので、断言はできないのだが﹂
1371
ジブライールがいつもの調子で、淡々と答える。
役割を果たしながらだから、そりゃあ見逃した戦いもあるだろう。
﹁ジャーイル閣下の戦いは、すべてかじりつくようにして見ている。
それから判断するに、私も君と同意見だ﹂
そうか。かじりつきながら見てくれているのか。やはり主たる大
公の序列は、それに属する副司令官にとっても大事らしい。
いや、まさかあれか⋮⋮ヤティーンみたいに俺に付け入る隙があ
りそうかどうか、じっくり観察しているってんじゃないだろうな。
ジブライールに限ってそんな⋮⋮。
﹁ところで君はケルダーのところのご子息か?﹂
﹁あ、ご挨拶が遅れて申し訳ありません、ジブライール副司令官閣
下!﹂
ジブライールの指摘に対してケルヴィスは背筋を正して立ち上が
り、深々と頭を下げた。
﹁長男のケルヴィスと申します。父がいつもお世話になっています﹂
ん?
﹁ケルヴィスの父上の奪爵先は、ジブライールの元配下だったとい
うことか?﹂
﹁はい。我が軍の大隊長でした。それを倒したのですから、なかな
か実力のある伯爵でございます﹂
﹁そんな⋮⋮ありがとうございます﹂
年上美人に褒められて、ケルヴィスは素直に嬉しそうだ。
そういえば、俺は少年とはよく会うが、その父親とはまだ顔を合
わせていないな。
もっともいくら有爵者であっても、俺の身近な場所にいるか、そ
うでなくば副司令官か軍団長でもないと、いちいち挨拶もなければ
1372
顔も覚えたりはしない。
﹁目元が父上によく似ている。彼は風の魔術が得意と聞いたが、君
もそうなのか?﹂
﹁いえ、僕はできるだけ、どれにとこだわらずに均等に鍛えている
つもりです。尊敬する御方が、そうでらっしゃるように思われます
ので⋮⋮﹂
﹁そうか。私もそのような方を知っているが、それが可能であれば
素晴らしいことであると思う。だが、明らかな向き不向きがある状
態で、無理に得意な魔術の成長を抑える必要はない﹂
﹁はい。ご助言、ありがとうございます﹂
どれも中途半端でモノになってない奴なら多いだろうが、全部を
使いこなしている奴なんて、なかなかいないだろ。
相当器用なベイルフォウスだって、それでも火が得意なくらいな
んだぞ?
どんだけ器用な奴だよ、そいつ。
まあ、二人が同じ相手のことをいっていることはあるまい。ジブ
ライールはともかく、ケルヴィスから見て均等に使いこなして見え
るだけ、ということならそれほど不思議でもないか。
それにしてもケルヴィスと話すときのジブライールは、きりりと
して頼りになるお姉さん、という感じだ。
俺もこんなお姉さんが欲しか⋮⋮⋮⋮いや、なんでもない。
しかし二人は結構話が合うようだし、意外にもケルヴィスが成長
したら、ジブライールといい感じになったりして⋮⋮。
まさかな⋮⋮。
﹁で、お兄さま!﹂
﹁ん?﹂
1373
﹁お兄さまはどう思いますの!?﹂
妹はちょっとムクレているようだ。
まさか、マーミルも俺と同じように二人の相性が良さそうだと感
じて、嫉妬してるんじゃないだろうな。
いや、もういちいち考えまい。年長者として、暖かい気持ちで見
守ろうではないか。
なにせケルヴィスは鈍い。その鈍い相手を想っているというだけ
でも、妹のことがちょっと不憫に感じられるのだから。
﹁俺の予想を聞く暇はないぞ。ほら、もう始まる﹂
開始の合図の後に、プートは一言、ウィストベルに向かって口を
開く。それを受けてウィストベルは殺気をたぎらせた。
審判でもやっていれば二人のやりとりも聞こえたのだろうが、あ
いにくと声は観戦席までは届かない。
そんな状況で戦いが始まった。
それは、熾烈を極めた。
今までの戦いは、魔術の応酬はあってもどちらかといえば片方が
一方的に勝っていたため、一方は無傷、一方は負傷しての決着、と
いうことが多かった。
いや、サーリスヴォルフとアリネーゼの戦いだけは、まだこれに
似て競った戦いだったか。
だが今回はとにかく規模が違う。
大公位一位のプートと、四位であるはずのウィストベルの戦い。
それは俺とウィストベル、あるいはベイルフォウスとウィストベ
ルの戦いよりも、もっと激しいものとなったのだ。
理由は簡単である。ウィストベルから発せられる殺気が、彼女の
先の二戦よりも遙かに勝ったものだったからだ。
ウィストベルが発した竜巻が、まっすぐプートに向かう。それを
1374
同じ魔術でプートが迎え撃つ。嵐はぶつかり合い、観戦席まで届く
爆風を残して消滅した。
烈風が衣服と肌を切り裂き、プートの鬣をかすめ、ウィストベル
の白い髪をかすめて数本の毛が宙に舞う。
炎が狂い踊って大気を舐め、焼けた空気は喉を焼き、観覧席にま
で息苦しさを蔓延させた。
ただ魔力の純粋なぶつけ合いでは、ウィストベルの力はプートに
劣っている。それを彼女は、いくつかの補助的な魔術を使用するこ
とで、総合的に押し負けないような術式を構築していったのだ。
それはおそらく、千年を越すうちに身につけたすべてだったのだ
ろう。
プートも思ったような戦いを描けない苛立ちに満たされていった
ようだった。それまでの悠然とした態度は崩れ、焦燥感に駆られ、
苛立ったように牙をむく。
そうさせたウィストベルは見事だった。他の誰がプートと戦った
として、こうも善戦することはできなかっただろう。
だが結局、ウィストベルの体力と魔力の限界がやってきた。
彼女の疲労が隠しきれないものとなると、魔術を展開させる速度
が鈍り、やがてプートに押し負けるにつけ、その美しい身体に刻ま
れる傷が増えていく。
耐えきれず膝から崩れたその瞬間に、プートが抜いた剣を彼女の
首筋にふるい、勝負は決した。
首の代わりになくなったのは、ウィストベルの美しい白髪だ。あ
れほど長かった髪が、肩口でざんばらに切り落とされてしまってい
る。
﹁さすがに、見事であった︱︱﹂
1375
プートの讃える言葉が、今度は俺の耳にも届いた。
だがこの期に及んで、ウィストベルの殺気は沈んではいなかった。
勝者を下からギロリと睨めつけ、奥歯をかみしめたのだ。
プートはそれに対し、一瞬憐れみを感じさせる視線を向けると、
剣を収めて彼女の前から立ち去った。
﹁おい、ウィストベル。立てるか?﹂
ベイルフォウスがウィストベルに歩み寄る。
だが、その時魔王様が動いた。
この時︱︱俺がちょっとビクッとしたことについては、目をつぶ
っていて欲しい。
とにかく魔王様は王座を立つと、重厚な足取りで前地に降り立ち、
ウィストベルの元に歩を進めたのだ。
そうしてその動向を見守る俺たちの前で、彼女を大事そうに抱き
上げると、そのまま去っていったのだった。
1376
131.宣言あったうえなので、ちゃんと心構えはできているの
です
六日目の一戦目は二七戦︱︱つまり片方がベイルフォウスなため
に、再び俺が審判を務めることになった。
相変わらずベイルフォウスは男相手に容赦がなく、デイセントロ
ーズは今戦も死に目にあい、その母親は⋮⋮。
息子の危機に、ペリーシャは再び家族席を飛び出そうとした。ベ
イルフォウスのように接触して止める気には、とてもじゃないがな
れなかった俺は、家族席の前に厚い氷を造形して進路を塞ぐことで、
その暴走を止めるのに成功したのだ。
土壁だったら視界を遮られるからと、気をつかって氷にしたのだ
から、そこは評価してほしい。
続く二戦目は、四五戦。
今度もまた十分の一に力を落としたウィストベルは、ベイルフォ
ウスのように時間はかけず、あっさりとサーリスヴォルフをその地
に沈めた。
おかげで見ていればわかるらしい彼の特殊能力とやらについては、
またも分からず仕舞いだ。
それよりも身近な問題は、アリネーゼの俺に対する態度だった。
もちろん元からかなり距離を置いたつきあいではあったが、それ
が彼女自身との戦いの後には怒りにとって代わったようだ。手加減
せずにやると決めた結果なのだから仕方ないとはいえ、平穏が少し
遠のいたように感じて、ちょっと複雑な気持ちになった。
ともかく六日目は、こうして終わ︱︱るかと思ったのだが、実は
そうはいかなかった。
1377
ベイルフォウスが今日の挑戦者を問うたその時、名乗りを挙げる
者が現れたからだ。
﹁ぜひ、ジャーイル大公に挑戦いたしたい﹂
アリネーゼ配下のシマウマ副司令官︱︱コルテシムスが、かねて
の宣言通りに俺に挑戦してきたのだった。
***
﹁本来の大公位に対する︱︱いいや、爵位に対する挑戦は、魔武具
の使用を禁止していない。故に、大公位の奪爵をもくろむ戦いの場
だけは、双方にその使用を許可するものである﹂
ベイルフォウスが大公席を立って、大公位奪爵の趣旨を述べる。
そうなのだ。
大公位争奪戦の、大公同士の序列をかけての戦いには魔武具が禁
止されたのに、その地位に対しての下位からの挑戦にあたっては、
禁止条項は撤廃されるのだ。
つまり俺は愛剣レイブレイズを使用してもよいし、相手のコルテ
シムスも何を使ってもいいということだった。
今、魔王様をはじめ、大公席には治療を受けているデイセントロ
ーズを除く、すべての大公がそろっている。
下位からの奪爵戦に審判は不在のため、俺とコルテシムスの戦い
を、ベイルフォウスも着席して観戦するのだ。
そんな彼らの見守る中、相手が出してきたのがニングと呼ばれる
種類の武器である。
全長二メートルのその先に、刺突用の穂先と細かいトゲの生えた
鉄球がついており、それに続く刃先は鎌のように大きく半円形に湾
曲し、対象物をその内に捉えて切断する、という数ある武器の中で
1378
も扱いの面倒な一品だ。
しかも︱︱
﹁まさかそれは竜伐か﹂
﹁よくご存じで﹂
となるとそれはただのニングではない。
その切れ味で竜の脚を何本も落としたという逸話の存在する、竜
伐シェアミットと名の付いた魔武具だった。
また、面倒くさいものを出してきたな⋮⋮。
﹁この戦いを、結果はどうあれ、我が主アリネーゼ大公閣下に捧げ
ます﹂
コルテシムスはアリネーゼに向かって片膝をつくと、シェアミッ
トを掲げもって恭しく一礼する。
デヴィル族の女王は、それを高慢に満ちた頷きで受け入れた。
それからコルテシムスは俺の方に向き直ると、重そうなその武具
を軽々と片手で振り回してみせる。
﹁準備万端、整ってございます﹂
﹁俺もかまわない﹂
こちらも剣を抜く。
だが今日佩しているのは、レイブレイズではない。武具展に展示
している魔剣のうちの一つ、魔剣ロギダームだ。
コルテシムスがいつか挑戦してくるのはわかっていた。それを迎
えるために選んだ一本だった。
なぜレイブレイズでないのか? 答えは簡単だ。
あれは強力すぎる。
1379
催しの一つではなく、本気で大公の一人とやりあう状況にでもな
れば、俺だって当然あの剣に頼るに決まっている。そうでなくとも
常日頃の奪爵なら、自然レイブレイズで相手をすることになるだろ
う。普段の俺はいつだって、あの剣を佩びているのだし。
だが相手は相当の格下とわかっている状態で持ち出すには、あま
りにもその能力が大きすぎる。
しかもコルテシムスはけじめのために、敗北を覚悟の上で挑戦し
てきている。それなりに、相手をしてやりたいではないか。
だいいち、魔剣ロギダームだって相当な剣には違いない。
なにせほら、聞くがいい。鞘から抜いた途端に現れた剣身からは、
たちまち歌声が流れ出したではないか︱︱だみ声⋮⋮の⋮⋮。
﹃詠えや詠え∼ロギダーム様のお出ましだ∼俺様ちょーカッコいい
∼! カッコよすぎてしびれちゃう∼﹄
しまった⋮⋮どうやら選ぶ剣を間違えたようだ。これ、ただのし
ゃべるうるさい剣だ。
﹃世の中の女はみんな俺のもの∼俺の雄々しい<ピー>で<ピー>
を<ピー>してやんよ∼﹄
マーミルが中継で見ているだろうに、なんてことをいいやがる、
この剣め!
俺は怒りを覚えつつ、すぐさま剣を鞘に収めた。
﹁ふざけてるんですかっ!﹂
疾風怒濤の速さでシェアミットが振るわれる。
飛びすさって避けながら、その半円形の中に腰の剣を放り込もう
かとも考えたが、ぐっとこらえてみせた。
剣が悪いのではない。ちゃんと確認せず選んだ俺が悪いのだ。
もっとも。
1380
﹁ユリアーナ、今の、<ピー>﹂
﹁マーミル様! 子女がそんなお言葉を口にしてはいけません!﹂
﹁じゃあ、さっきの言葉はどういう意味ですの?﹂
﹁え、いえ⋮⋮その⋮⋮あの⋮⋮﹂
マーミルとユリアーナによって、そんな会話が交わされていたこ
とを知っていたら、俺は迷わずその剣をシェアミットに捧げたこと
だろう。
だが剣にとっては幸いなことに、遠い自領の我が城で交わされる
言葉が、対戦場まで届くはずもないのだ。
﹁魔獣招来!﹂
コルテシムスは続いて召喚魔術を発動する。
大岩をも砕く、一メートルにも及ぶ牙を持つ四足歩行の岩狼獣が、
五十頭現れた。
﹁へえ﹂
召喚の技を使う魔族はほとんどいない。だがその理由は、召喚の
ための術式が難しいからではない。
なにせ魔族と言えば、そのほとんどは自分の力を信じ頼る脳筋ば
かり。だからそもそも、他の強力な者を招いて味方とするという考
えがない。
そんな訳で召喚魔術の使い手どころか、そんな魔術が存在するこ
とを知る者すらほとんどいないありさまだった。
それに所詮、魔獣など召喚したところで、大した戦力とはなりえ
ない。無爵者が五十人いても役に立たないのと同じだ。
だが珍しいには違いない。それで思わず感嘆が漏れた。
﹁強力な武器とはならなくとも、気を散らすことはできる!﹂
岩狼獣に一斉に襲わせて、その間に強力な魔術を構築し、俺の隙
を見て発動させる。
1381
それが彼の作戦のようだ。
確かに数を頼りに次々と襲ってくる魔獣の牙を避けるのは面倒だ。
本来なら高位魔族を相手に、魔獣たちが襲いかかってくるような
ことはない。本能で強者を悟るためだ。
だが召喚された獣たちは、何より召喚主の意志に第一に従うよう
に術で縛られている。
魔術で一気に殲滅させてもよかったが、あいにくとこの種は魔力
耐性が高い。それが五十頭もいるとなると、常よりその完遂には時
間がかかるだろう。となると、剣を抜いて応じるしかないが、あい
にくと今俺の手元にある剣は︱︱
いや、せっかく目の前でいい例を示してもらったじゃないか。
﹁魔剣招来!﹂
普段なら絶対に、俺が技名だとか効果だとかを叫ぶことはない。
だが今回は同じように叫ぶことで、参考にさせてもらったという事
実を認め、敬意の表れとすることにしたのだ。
一斉に襲いかかってくる岩狼獣。はじめに届いた十頭の牙を避け
る間に、天に掲げた俺の手には一本の魔剣が握られていた。
ロギダームと同じく武具展にその身を飾る、<死をもたらす幸い
>である。
俺は白い鞘から剣を抜いたが、今度は歌声は聞こえてこない。
その代わりといってはなんだ。刃にびっしりと滴った露が、あっ
という間に剣の半径百メートルに及ぶ一面を、霧の中に招き入れた。
たちまちあちこちで、獣の悲鳴があがる。
<死をもたらす幸い>の刀身から放たれた霧には、いくつもの小
さな泡が混じっている。それが固体に触れるたびに弾けるのだ。そ
の爆発は派手だが、実は殺傷能力はそれほど高くもない。
1382
だが爆発がもたらすものはかすり傷だけではなかった。毒の入っ
た粉末が、傷口を侵し身体を痺れさせるという効力をもっている。
岩狼獣がいくら魔力耐性は高いといっても、さすがに毒への耐性
はもっていない。
俺?
当然、当たらないように自分の周囲には空気の層を作っている。
もっともたとえ粉末に侵されたとしても、毒など効きはしないが
な。
だが肌の上で爆発が起これば、やはり煩わしいし、たとえ一瞬で
あってもそちらに気をとられる。そうとわかって自爆するような労
力の無駄は、省くにきまっている。
だが今回はその行動が、裏目に出たらしい。
霧を裂いて、シェアミットの刃が現れる。
爆音のしない場所に俺がいると踏んでのことだろう。その狙いは
定かだ。
<死をもたらす幸い>で防いだが、シェアミットは正確に俺の腹
の位置を捉えていたのだから。
遅れて爆発が、あちこちで起こる。
その武器の振られる速度に、泡の反応が追いついていないのだっ
た。
﹁いいところにきてくれた﹂
半円形の刃に剣を滑らせ、鉄球に絡める。
そうしてやると、コルテシムスは俺の剣を折ろうと力を入れたが、
すぐに無理を悟ってシェアミットを引いた。乗ってくれれば逆にこ
ちらが奴の武器を奪取できたろうから、その素早い判断は誉めても
いい。
この難しい武器を選ぶだけあって、彼は力だけに頼る脳筋バカで
1383
もないようだった。
コルテシムスがシェアミットで空中を薙ぐ。
一気に残った泡が弾け、風圧で霧が晴れた。
案の定、地上には身を痙攣させる五十頭の岩狼獣の体躯が山と横
たわっている。
そこへすかさずの八十五式。
大地が回転しつつ盛り上がり、先端を尖らせて襲いかかってくる。
数体の魔獣が巻き込まれ、絶命の叫びをあげた。
それを防御魔術で防ぎつつ、コルテシムスが展開していく術式を
解除していく。
今までの大公位争奪戦ではこの手は使わずに、力同士のぶつかり
合いで雌雄を決するよう心がけてきた。だがこの戦いは、いわゆる
正式な奪爵戦だ。選ぶ手を制限する必要はないだろう。
その一方で、召喚された魔獣を別の場所に転移させる。
どこからやってきたのだか分からないから場所は適当だが、この
場に動けもせずとどまって巻き込まれるよりはいいに違いない。
<死をもたらす幸い>からは相変わらず露は滲みでているが、も
う霧は生じない。一度使って失敗した手を、継続する気はないとい
う俺の意志を、剣がくんだ結果だろう。
魔剣もまた魔獣と同様、強者の意志には諾々と従うのだ。
﹁さすがです。ですがっ、今度はっ﹂
よりいっそうコルテシムスが竜伐を握る手に力を込めると、その
魔力が刀身を覆っていく。
これはベイルフォウスの使った即席魔剣の術とは違う。魔族が全
力をもって魔剣をふるうとき、その剣の魔力と混じり合って能力や
強度が強化されることは、よくある現象だった。
1384
鎌のように振られたシェアミットをまたも<死をもたらす幸い>
で受け止める。だが俺の手にある剣は、今度はその強撃を受けきれ
なかった。刃の交わったその箇所でぱっきりと、二つに折れたので
ある。
﹁やってくれるじゃないか﹂
素直に感嘆が漏れた。
この強度こそが、竜伐の竜伐たる所以だろう。
次の斬撃を防壁魔術で弾く。魔族が魔剣であろうとあまり武器を
重視しない理由の一端が、ここにある。
その者の強さと魔武具の強度や能力にもよりはするが、たいてい
の者は自分の魔力を使用した方が、魔道具なんぞ使うより遙かに強
力な攻撃を発動できるからだ。
だいたい、ここまで相手をすればもう十分だろう。
アリネーゼの件で遺恨を晴らしたいだろうコルテシムスには不本
意だろうが、俺もずいぶん楽しませてもらった。
﹁ネズミと戦った時の百式でもって、その心意気に報いよう﹂
俺は天空に一匹の獣を描き出した。いつものお気に入りの、造獣
魔術だ。
右手に氷を生じさせ、左手からは雷を放ち、鋭い牙ののぞくその
口からは、大地を干上がらせる炎を吐く。尾は魔族をもしびれさせ
る毒を持ち、後ろ脚の一蹴りで竜の骨をも砕く大猫だ。
コルテシムスは繰り出す度に魔術を無効化されると悟って、その
猫への対応をシェアミット一本に絞ったようだった。
だが大猫の脚の二蹴りで、魔武具は粉々に砕け散る。
﹁まさかっ﹂
牙を縫って口から吐かれた炎を、コルテシムスはすんでのところ
で展開した防御魔術で防いだが、それで精一杯のようだった。背後
1385
から音もなく現れた尾の刺突を、避けきれなかったのである。
持ち上げられ、捨てられたように大地に叩きつけられるコルテシ
ムスの身体。
痙攣を起こしたその身体を最後に容赦なく踏みつけ、猫は勝利の
雄叫びをあげた後、煙のように姿を消した。
それで幕切れだった。
﹁む⋮⋮無念、です⋮⋮﹂
自分でも覚悟していたとはいえ、そう呻かずにはいられなかった
のだろう。
コルテシムスはその双眸から血の涙を流しながら、意識を失った。
﹁勝負あったな﹂
ベイルフォウスが大公席を立ち上がる。
その隣で、アリネーゼが歯ぎしりする様子が見て取れた。
﹁公爵コルテシムスの奪爵は、失敗に終わった。だが一戦終えた今
のジャーイルが相手なら、少しは勝率があがるかもしれんぞ。コル
テシムスの勇姿に続かんとする者はいるか?﹂
黙れ、ベイルフォウス。脳筋どもを無駄にあおるな。
だが結局、その挑発に乗る者はいなかった。
俺にも他の大公に対しても挑戦を言い出す者はおらず、その日は
それでようやく終了を迎えたのだった。
1386
132.戦う綺麗なお姉さんたちは、スキですか?
妹のマーミルは、大公位争奪戦が始まってからというもの、その
心中は毎日複雑そうだ。
戦いが重ねられるほど俺の身が案じられるらしく、日々、心細げ
に見上げてくる。かと思えば魔族の子女らしく、俺の勝利した様子
を嬉しそうに語りもするのだった。
ケルヴィスとの交友さえも、控えているようだ。もっとも少年は
大公位争奪戦を毎日必ず観戦しにきているようなので、対戦場以外
では会う機会がないだけかもしれないが。
とにかく不安な気持ちが多くを占めているようで、城に帰るとや
たらベタベタとくっついてくる。それが今晩は、いっそう顕著なよ
うだった。
今も夕食を終えた談話室で、随分甘えた様子で膝の上に座りにく
る。
まあ気持ちはわからなくもない。明日、俺が誰と戦うのかを考え
れば︱︱
﹁ねえ、お兄さま⋮⋮﹂
﹁うん?﹂
﹁プート大公は、お兄さまより強いんですの⋮⋮?﹂
⋮⋮さて、なんと答えよう。
不安でいっぱいの大きな瞳で見つめてくる妹に、真実を余すとこ
ろなく伝えるべきか。それとも、せめて今日のところは安心させて
やるべきか。いいや。
﹁⋮⋮強いな﹂
どうせ明日には目の前に突きつけられる事実だ。隠していても、
1387
仕方あるまい。
﹁⋮⋮! プート大公は⋮⋮お兄さまも、あんな風に⋮⋮﹂
赤い瞳がじわじわと潤みだす。妹の脳裏にあるのは、初日のアリ
ネーゼの姿かもしれない。
﹁いや、あんな風には⋮⋮さすがにならないだろ﹂
せめてウィストベルくらい善戦すると、思っておいて欲しい。彼
女があの魔力であそこまでやったんだ。
もっともあのときはプートも全力とは言い難かった。それにプー
トに対して、俺がウィストベルほどの殺気を出すというのも無理だ。
だが、それなりに戦う姿をみせねば、男が廃ると言うものだろう。
﹁そこまで心配しないでも、お兄さまも⋮⋮まあ、強い。そこそこ
な。一方的にやられるだけの結果にはならないさ﹂
﹁⋮⋮この間﹂
妹はうつむき、小さな手で俺の服の裾をぎゅっと掴んだ。
﹁デイセントローズ大公が死んでしまったかと思いましたわ⋮⋮﹂
ウィストベルとの対戦のことを言っているのだろう。あのときは
マーミルに限らず、奴の能力を知らない者は皆、その死を覚悟した
だろうから。
﹁少なくとも大公同士の戦いでは、誰一人として命までは落とさな
いさ﹂
大祭が終わった後に改めて戦いを挑み、挑まれたりでもすれば、
その時には生死をかける大公戦になるだろうが、今回に限っては一
人として命まで懸けてはいない。
もっとも後まで残る傷を負わないかどうかまでは、分かったもん
じゃない。なにせ魔族の医療班がどれだけ優秀だとしても、治らな
い傷や症状というのはどうしてもあるものなのだ。
⋮⋮いや、俺のアソコは大丈夫だ。心配はいらない。
1388
ともかく気休めの言葉でも、少しは妹の気分を変えられたようだ。
﹁大公位争奪戦を提案したのは、ベイルフォウス様なのでしょう?﹂
﹁ああ﹂
﹁今度会ったら、あっかんべーしても⋮⋮いい?﹂
思わず苦笑が浮かんだ。
﹁ああ、許そう﹂
まさか許可されるとは思っていなかったのか、マーミルは顔をあ
げると別の期待に満ちた目を向けてくる。
﹁じゃあ、今日は一緒に寝てくれる?﹂
﹁遠慮しておく﹂
﹁即答!﹂
妹は大げさに叫んで、自分の頭を両手で覆ったのだった。 ***
そうこうしているうちに夜は更け、七日目の朝がやってきた。
今日の俺の戦いは、午後だ。妹はその時間に間に合うようにやっ
てくればいいと思っていたのだが、本人がそうは思わなかったらし
い。ネネネセともども、早朝に出る俺に同行したのだった。
正直をいうと、今から始まる戦いはできれば妹に見せたくはなか
った。なぜなら第一戦目は三四戦︱︱つまり、アリネーゼとウィス
トベルとの女の戦いなのだから。
いや、別にいいんだよ。二人だって大公どうしだ。今までの他の
戦いと、何ら意味合いが変わるところはない。
ただいつもの口げんかを見ているせいで、感情的な言い争いがメ
インにならないか、ついいらぬ心配をしてしまう。
だけどまさか大公位争奪戦でまで、あのやりとりを披露するわけ
はないだろう。
いくらアリネーゼが全戦全敗であったとして、いくらウィストベ
1389
ルが自慢の美髪を無惨に切られた直後だとして。
﹁ところでマーミル。もう俺とくっつくのは、やめたんじゃなかっ
たのか? 今日はまるで小さな子どもに逆戻りしたみたいだぞ﹂
この間、抱きかかえようとして断られたことは記憶に新しい。と
いうのに、今日はケルヴィスの前でも俺の手を握ったまま離そうと
しないのだ。
﹁だって、もしかしたらお兄さまとこうしていられるのも⋮⋮﹂
え?
いや、ちょっと待て妹よ。もしかしたらなんだというのだ。なぜ
涙目になっている。
こうしていられるのも何だって?
まさかお前、今日がお兄さまの命日だとか考えてるわけじゃない
だろうな!?
俺は昨日大丈夫だといったはずだよね? お前も納得したはずだ
よね?
とにかくそんなわけで、またも俺は一般観戦席に座っている。
席順はこの間と全く同じだ。
ちなみに今回の護衛も前回に引き続き、ジブライールだ。おそら
く次はフェオレスで、最後にヤティーンなのだろう。
まあ、順番などどうでもいい。
﹁それより、予想をしましょう! 今までの序列的には、アリネー
ゼ閣下の方が上⋮⋮大公三位でしたわよね。やっぱり今度の結果も、
そうなるのかしら﹂
﹁ウィストベル閣下より後に大公になられて、アリネーゼ閣下はそ
の地位にあったわけですから、普通なら今回もその通りの結果にな
るかと予想されがちですね。けれど今までの戦いの様子をみる限り、
1390
ウィストベル閣下がアリネーゼ閣下に下されるとは、とても僕には
思えないのですが﹂
今日もまた、お子さまたちは俺を挟んで予想を交わしあっている。
もういいから、隣同士に座ればいいのに。なんだったら俺も、ジ
ブライールに任せて大公席に座るんだった。
﹁閣下はどちらを応援なさいますか?﹂
俺にそう聞いてきたのは、ケルヴィスではなくジブライールだ。
﹁俺?﹂
﹁やはり、同盟者たるウィストベル閣下を応援なさるのでしょうか。
それとも⋮⋮﹂
﹁まあ、そうだな⋮⋮﹂
そりゃあウィストベルだろ、とは即答せず会話は立ち消えにした。
どちらが勝つのかという単純な予想なら、答えてもよかった。十
分の一にしても、ウィストベルの方が強いに決まっているのだから。
だがどちらを﹁応援﹂するのか、と問われると、簡単に片方の名
をあげるわけにはいかない。
なにせ、俺たちが交わす言葉を、同行者たちしか聞いていないと
いう訳でもないだろう。周囲を取り囲む同胞の大勢は、いつだって
こちらの会話に耳を傾けているのだ。
そうなると女同士の戦いでどちらに味方しただとか、いちいち噂
になるような危険はなるべく避けたいではないか。
それでなくともこの間のアリネーゼとの戦いの結果で、不本意な
がらも俺のやりようはずいぶん非難を浴びている。
しかしそこは、ウィストベルの髪を切ったプートも同様だがな!
⋮⋮俺の方がより非道いと言われていたとしても⋮⋮。
ちなみに、ウィストベルの髪は綺麗に切りそろえられているし、
さすがに今日はもう、アリネーゼの角にも包帯は巻かれていない。
1391
それにほら、すでに眼下ではウィストベルとアリネーゼがやる気
をみなぎらせながら対峙している。
俺の心配などいらぬ世話だったようで、双方の表情にはいつもの
感情的な色はない。
ベイルフォウスの呼びかけに対して、二人の女王は無言で視線を
交わしあった後、許可を与えるように高慢に頷いた。
﹁よし、では始め!﹂
ベイルフォウスの声が響き渡る。
そのとたん、両者の百式と怒声がぶつかりあった。
﹁あら、あのうっとおしい髪を切ったのね! 残念だわ、陰気でと
てもあなたに似合っていたのに!﹂
﹁主こそ角は無くしたままにすればよかったのではないか!? 目
の間にそんなものが生えていては、邪魔であろうに!﹂
⋮⋮うん、二人とも。
口激戦はともかく、今までのアリネーゼの戦いは、ほぼ彼女の一
方的な惨敗に終わっている。
それでも今回は、本来ならケルヴィスの言ったとおり、後で上位
にあがったアリネーゼの方が一般的には実力は上であると推測され
るはずだ。
だが、実際の実力も、それから目の前で披露される状況も、それ
とは違う結果をはじき出そうとしていた。
ウィストベルもまた、容赦をしなかったのだ。それどころか今ま
でのどの戦いより残虐な笑みを浮かべたまま︱︱
ウィストベルの放出したカマイタチをアリネーゼの防御魔術がは
じき、アリネーゼの放った怒濤のような水流をウィストベルの魔術
1392
が消滅させる。
最初の一手は、互角と見えたことだろう。
だが、次でその差がはっきりと表れた。
ウィストベルは俺との初戦の時のように、空中を隙間無く覆う岩
石を、地上に向かって一斉に降下させた。
それだけならアリネーゼだって、俺が避けたようにその攻撃を避
けられたことだろう。だがウィストベルは自らも地に残り、剣を手
にとってアリネーゼに襲いかかったのだ。
ベイルフォウスが考え、俺も利用した例の即席魔剣を手に︱︱
俺ほどの速度はないとはいえ、ウィストベルの殺気のこもった突
きは、アリネーゼの右腕をかすめるに至った。
そこへ、岩石が天から降り注ぐ。
ウィストベルは瞬時に防御魔術を展開したが、アリネーゼはかす
り傷に気をとられたためか、わずかに怪我を負ったようだった。
その猛攻が終わったとみるや、すかさずウィストベルが再度剣を
手に踏み込む。
だがアリネーゼも大公である。同じ手をそう何度もくらうほど、
単純ではない。ふるわれた剣は、今度は彼女の背に生えた鬣のみを
切り捨て、その身には届かず終わった。ところが。
﹁ふん、あなたたちデーモン族は、お互いの魔術ばかりを真似しあ
ってばかり。少しは︱︱﹂
アリネーゼは挑発の言葉を吐きかけたが、声に乗せられたのはそ
こまでだった。
避けたその先に、次の罠がしかけられていたからである。
爛れた脚の先にある竜の蹄が、後方のある地点へと着地した瞬間、
その魔術は発動した。
1393
﹁ぎゃああああ!﹂
大地からまばゆい光の柱が伸び、そこに踏み込んだアリネーゼの
脚を瞬時に消し去る。
そう、アリネーゼの脚はサーリスヴォルフの腕のように切られた
のではない。この世から、消滅させられたのだ。
﹁む⋮⋮﹂
二つ向こうの席から、プートが驚きの混じった声をあげた。
おそらく彼も、いつその魔術が仕掛けられたのかを気づかなかっ
たのだろう。俺と同様に。
もしくはアリネーゼの身を案じてのことか。
なぜなら今までの対戦のどの結果とも違って、今度の彼女の傷は
ほとんど修復不可能であるからだ。単なる部位の切断と違い、その
攻撃を受けた肉体自体が消滅してしまったためである。
いかに優秀な医療班が揃っている状態だとしても、無くなったも
のを出現させるのは不可能に近いだろう。
﹁ああっ!﹂
片足を失い、バランスを欠いたアリネーゼは、とっさに魔術を展
開することもできずに地に手をつく。
﹁まったく、身の爛れた女など、不愉快極まりない。美女として第
一の座を譲ったのじゃから、大公としての座もそろそろ他に譲って
やるがよい﹂
ウィストベルの魔剣が、再びアリネーゼの残った片足をめがけて
振り下ろされる。
容赦のないその一撃を、しかし止めた者がいた。
審判者である、ベイルフォウスだ。
﹁やめろ、ウィストベル。勝負はあったも同然だ﹂
ベイルフォウスは刃を手で掴み、ウィストベルの残虐を阻んだ。
1394
﹁主が止めるのか⋮⋮﹂
﹁俺だから、止める。これはただの大公位をかけた争いではない。
兄貴の在位を祝うための戦いだ。これ以上のことは、大祭が終わっ
てから個人的にやれ﹂
ウィストベルの殺気のみなぎった視線にも負けず、ベイルフォウ
スの言葉は力強かった。兄への想いがこもってのことだろう。
﹁ベイルフォウス! 余計な手出しを! 私はまだっ、まだ負けて
はいないっ!﹂
だが、異を唱えたのはウィストベルだけではなかった。アリネー
ゼ自身も殺気のこもった目で二人を睨みつけるや、魔術でその身を
高く浮き上がらせたのである。
﹁無益なことはやめろ、アリネーゼ!﹂
﹁どけ、ベイルフォウス! 邪魔をするならお前ごとっ!﹂
アリネーゼの背後から、二人の大公を標的に千の矢が放たれた。
だがそのすべてが、迎え撃つように打ち上がったウィストベルの
火の玉によって焼かれ、溶かされる。
﹁無駄じゃ。主の力では私に及ばぬ﹂
ウィストベルがさらに反撃のための魔術を展開した、その時だっ
た。
すべての時間が、凍り付いたように静止したのである。
いいや︱︱止まったのは術式の形成だけだ。時間が止まったわけ
ではなかった。
だが戦う二人が途中で発動を止めたのでもない。どちらも強制的
に、止められたのだ。
﹁そこまでだ。双方退くがよい﹂
立ち上がったのは、魔王様だった。
1395
﹁たかが大祭の一行事で、大公の数を減らすのは本意ではない。だ
がそなたらがどうしても退かぬというのであれば、以後は予が相手
をしよう。二人まとめてな﹂
久しぶりにみる、威厳のある魔王様︱︱あ、いや。何でもない。
﹁ルデルフォウス⋮⋮陛下⋮⋮﹂
ウィストベルは眉を顰めながらも、その場に膝をついた。そうし
て、恭しく頭をさげる。
﹁魔王である御身をはばかろう﹂
長かった時と違い、肩の上で切りそろえられた髪は、ウィストベ
ルの憤怒に彩られた表情を隠すのには足りない。
一方でアリネーゼも大地に降り立ち、葛藤の渦巻く表情を浮かべ
て応じる。
﹁血を飲む想いで今回は退きましょう。同じく御身を重んじるが故
に﹂
ウィストベルを憎悪に満ちた目で睨みつけながら。
とにもかくにも女同士の戦いは、無理矢理にでも決着をつけられ
たのだった。
1396
133.たまには息抜きも必要ですよね
空気が重い。
午前の戦いが終わって迎えた、マーミルとの食事時間。
今日はネネネセもいるし、ジブライールもいる。ついでに、ケル
ヴィスも招待している。
そんな風に大勢いるというのに、誰一人として明るい声をあげよ
うとしない。
ジブライールはともかくとして、年頃の女子が三名もいるのだか
ら、もっと姦しくていいはずだと思うし、いつもは実際にそうだ。
だというのに今日は全員が口を噤んで、食器の音しかしない。
先の戦いの結末があれだったせいで、場が沈んでいるのだ。
なんというか⋮⋮息苦しくて仕方ない。
やむを得まい。
﹁ケルヴィス。うちの料理はどうだ? 口に合うといいんだが﹂
少年、責務を果たしたまえ。俺が君をこうして同席させたのは何
のためだと思う?
こういう雰囲気を避けるために、頑張ってもらいたかったからだ!
﹁あっ、はい、とてもおいしいです!﹂
うん?
どうやら少年は、少女たちとは違う意味で沈黙していたらしい。
その表情はいつものようにキラキラと輝いており、沈んだところ
は一つもない。
ということはそうか。料理がおいしすぎて、無口になっていたの
か。
まあ、そうであっても無理はない。さぞ空腹だったろうから。
それというのも。
1397
﹁まさかいつも昼食を抜いているとは思わなかった。知っていたら、
前回までも誘うんだったな﹂
﹁いえ、そんな⋮⋮恐れ多いです﹂
成人に近いといっても一応は未成年だ。姿を見ないだけで、伯爵
家の付き人がいるのかと思っていたのだが、少年はいつも本当に一
人で魔王領まできているらしい。
まあ、今すぐにでも爵位に手が届きそうなケルヴィスのことだ。
本人も周囲も、一人で出歩くに不安などないのだろう。竜の操作も
手慣れたものだと、ミディリースも言っていたことだし。
それにしたって弁当でも持たせてもらえばいいのに、何ももたず
にやってきて、俺たちが昼食をとっている間には席を確保したまま、
午前中の対戦を反芻していたのだとか。
ちょっと変わった子だ。
﹁君の父上は伯爵だと言ったな。やっぱり君も、そのくらいを目指
しているのか?﹂
﹁いえ、まさか﹂
ケルヴィスは殊勝な様子で首を左右に振った。
﹁僕が目指しているのは、子爵です﹂
﹁子爵﹂
まだまだ伸びしろはありそうなのに、目標はそう高くはないらし
い。意外だ。
もっとも、魔族の大多数は爵位を得ることなどできないのだから、
そこに手が届くと思っていると信じて疑わない時点で、謙虚とも言
えないのかもしれない。
﹁あの⋮⋮お聞きしてもいいですか?﹂
﹁なんだ。もちろんかまわない﹂
っていうか、どんどん話題をふってこの雰囲気を変えてくれ!
1398
﹁閣下は成人されてすぐに、男爵位につかれていたとのことですが﹂
俺のことか? いいだろう。大好きなお兄さまのことなら、妹も
食いついてくるはず。
﹁それなら、大公位を奪爵されるまで、二百年近くありますよね?
どうしてそれまでずっと、男爵位に甘んじていらしたのですか?﹂
﹁私もそれは不思議でした。閣下のお力をみた後では、せめて公爵
位に登り詰めていらしても⋮⋮いえ、むしろそうでない方が不自然
です﹂
ジブライールが同調する。
まあ二人の疑問はわからないでもない。俺だって力があるくせに
高位を望まない魔族なんて、自分を除いて他にいるとは思えない。
﹁まあ⋮⋮﹂
俺は黙りこくったままの妹に、視線を向けた。
﹁マーミルの世話で忙しかったから、かな﹂
﹁目に浮かぶようです。きっとかいがいしく、お世話なさっていた
のでしょうね﹂
いや、ジブライールさん。そんな本気にしたりしないでください。
ああ、そうだとも。白状しよう。
妹の世話を焼いたことなど、実はほとんどないと言っていい。
弟の靴下まではかせてたどこぞのお兄ちゃんと違って、つきっき
りで世話をした記憶なんて、一片すらない。
男爵位についてすぐは、まだマーミルは生まれていなかったし、
別に生まれたからといっていそいそと世話を焼きに帰ったりもしな
かった。
一緒に暮らすようになったのはたかだかこの二、三十年だし、そ
の間だって今よりずっと家で顔を合わせる機会は多かったが、こと
さら相手をしてやった覚えさえない。
1399
もっとも引き取ってしばらくは、夜の添い寝くらいはしてやって
いた。
なにせ父が奪爵されて亡くなり、母がその後を追った時、妹はま
だ俺のことも﹁にいしゃま﹂としか呼べないくらい、幼かったから
だ。
しかし、たかが一緒に寝ていただけでは、世話をしていたとは言
えんだろう。マーミルだって、そうは思っていまい。
ならばなぜ、そんな嘘をついた、と?
決まっている。冗談でも言って、場の空気を変えたかったからだ。
当然、マーミル本人からのツッコミがあるだろうと期待してのこと
だ。
だというのに、いつまで待っても妹は静かに口を噤んだままだ。
こちらの会話などいっさい耳に届いていないかのように、難しい顔
で何事かを考え込んでいる。
﹁私は一人娘なので、閣下のような兄上様がおいでのマーミル様が
うらやましいです﹂
まずい⋮⋮ジブライールが本気にしている。このままでは、俺は
ただの嘘つきになってしまう。ここは冗談に冗談を重ねて、空気を
読んでもらうしかない!
﹁ジブライールと俺が兄妹に、か。まあ、そうなると年齢的には俺
が弟になるかな﹂
冗談どころか、本気できれいなお姉さんが欲しいんだろう、とか
いう下世話なツッコミはやめて欲しい。
﹁閣下﹂
だがジブライールは﹁信じられない﹂といいたげに、表情を強ば
らせてこちらを見てきた。
﹁断じてお断りします!﹂
1400
⋮⋮うん、すみません。
やはり女性に年のことを持ち出すのは失敗だったようだ。
それにしたって、なにもそんな泣きそうな顔をして嫌がらなくて
も⋮⋮。
﹁イヤよ、そんなのヒドすぎる!﹂
突然、マーミルが食卓を勢いよく叩いて立ち上がる。
ジブライールに怒られるという失敗はあったが、その甲斐あって、
ようやく妹が反応してくれた。しかしいきなりの否定とは。なにが
嫌だというのだろう。
まさかジブライールをお姉さんに、という俺の妄想を、気持ち悪
いとか、そういう意味の⋮⋮ぽろりとこぼした俺の言葉が酷すぎる
⋮⋮じゃあるまいな!?
だが妹よ。男とはそういうものだ。きっとケルヴィスだって、同
意してくれるはず。
﹁でも、例えそうなっても⋮⋮お兄さまの片足がもしなくなってし
まったとしても、私が杖となって支えますわ!﹂
ぐっと拳を握りしめ、目尻をつり上げて、俺に力強く頷いてくれ
る妹。
﹁⋮⋮え?﹂
しかし、俺が片足に? って、今の会話についての反応じゃなく
て、もしかしてさっきのアリネーゼを俺に、ウィストベルをプート
に置き換えての言葉か。
﹁そんなことを心配して、黙りこくっていたのか﹂
まあ、昨晩のように泣き出しそうになるよりは、今みたいに力強
い決意表明をしてくれる方が、ずっといいには違いない。なにより
魔族の子供らしいではないか。
﹁まあ、せいぜいそんな迷惑をかけないですむよう、がんばるよ﹂
1401
苦笑を浮かべつつ、妹の頭をくしゃりと撫でると、彼女は任せて
と言わんばかりに頼もしげに頷き、握った拳で自分の胸を叩いた。
﹁わ、私もっ﹂
ジブライールが妹に続くように、席を立ち上がる。
﹁私も今までと同様、閣下がどうなられても、誠心誠意お仕えを⋮
⋮いえ、閣下のことですから、もちろんそのようなことはないと信
じてはおりますが!﹂
﹁あ、うん、ありがとう⋮⋮﹂
今のジブライールの発言は、つまり俺が一時弱体化したとしても、
奪爵を企んだりはしないぞ、って誓いだと思ってもいいんだよな?
いいよな、な?
しかしマーミルよりよっぽど物のわかっているジブライールにま
で、そんな風に心配されると、俺自身もちょっと不安になってきち
ゃうじゃないか。
﹁なら、私たちはジャーイル閣下を支えるマーミルを支えますわ﹂
双子が顔を見合わせて、頷きあっている。
﹁えっと、僕は⋮⋮﹂
いや、ケルヴィス。別に無理矢理参加しなくていいから。
﹁僕は、閣下の勝利を信じています!﹂
えっ。さすがにプートを相手に勝利まで信じられると、それはそ
れで困るんだけど。
重苦しい空気で始まった昼食会は、最後にはそんな風に賑やかに
締めくくられた。そのおかげで、俺の緊張も程良くほぐれたのだっ
た。
さて、気合いを入れ直そうか。
なにせ今から戦う相手は、あのプートだ。大公第一位の地位に、
1402
三百年のあいだ君臨する、紛れもない実力者なのだから。
そう思っていたら。
﹁おい、ジャーイル﹂
対戦場に足を踏み入れる直前、珍しくベイルフォウスから声をか
けられた。
大公位争奪戦が始まって以降、大公同士ではベイルフォウスとい
えど、あまり交流はしていない。
﹁俺は審判の間は双方に公平にしなきゃならん。だから先に言って
おく﹂
改まって、なんだというのだろう。
ベイルフォウスは蒼銀の瞳に紛う事なき覇気を溢れさせ、俺の肩
を叩いた。
﹁勝てよ﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
﹁なんだよ、その腑抜けた顔は。覇気が足りねえ。ここは﹃おう、
もちろんだ!﹄だろ!﹂
なにそれ。無茶ぶりしてくるなよ、親友。
﹁そして俺も、最終日にはもちろんあいつに勝つ。そうなると、前
日の俺とお前の勝った方が、大公第一位だ。美男美女コンテスト同
様、二人で一位と二位を占めるぞ!﹂
我が親友は、いつもは残虐で知られるその名にふさわしく嗜虐で
彩られた瞳に、今日は少年のような純粋に輝く光を浮かべて、顔の
横でぐっと拳を握りしめた。
うん⋮⋮。なに、このノリ。正直、ついていけない。
﹁だからなんだよ、そのしらけた顔は! そんなことじゃ勝てる勝
負も勝てないぞ!﹂
1403
そもそも冷静に判断したら、最初から勝てる勝負でもないと思う
んだけど。
﹁まあいい、とにかく勝て。少なくとも、その気でいけ﹂
なんだろう、このみなぎる指導員感。
﹁返事はどうした?﹂
﹁あ、はい﹂
俺の返事に、ベイルフォウスは眉根を寄せた。
﹁前から思ってたが、お前のノリの悪さは致命的だぞ﹂
﹁いや⋮⋮﹂
そんなこと言われても。むしろこっちからすれば、今日のお前の
不自然なノリにツッコミを入れたい。逆に拍子抜けして、入れた気
合いがしぼみそうなんだけど。
まあベイルフォウスには珍しく、プートを相手に俺が緊張しすぎ
ないようにとでも気を使ってくれた結果なのかもしれない。そう好
意的に捉えておくことにしよう。空回ってる感が強いが。
﹁とにかく、結果はどうあれ全力で挑むよ﹂
﹁ああ、そうしろ。せいぜいお互い奮闘して、俺に手の内を見せて
くれ﹂
ベイルフォウスは最後に本音を漏らし、いつもの底意地の悪そう
な笑みを浮かべたのだった。
1404
134.筋肉バカな相手とは、できれば戦いたくありません
心安い時間も終わって、いよいよプートとの対戦だ。
目の前にはいつものように張り出したゴリラ胸を露出させ、その
前で逞しい両腕を組み、魔王立ちする金獅子の姿。その瞳にみなぎ
っているのは、燃えるような闘志だ。
﹁では、はじ﹂
﹁この日を待ち望んでいたぞ、ジャーイル! 受けるがよい、我が
渾身の一撃をっ!﹂
開始の声をかき消すほどの大音声をあげながら、突進してくる獅
子。
俺が思わず逃げるようにとびすさってしまったとして、誰に責め
られようか。
﹁うぬ、なぜ避ける!﹂
なぜって、その鉄の棒で殴打されたら、間違いなく死ぬからだよ!
なんだよあのトゲの生えた金棒!
長さが俺の胸のあたりまであるんだけど?
太さが俺の手でも握りきれないほどあるんだけど!
持ち手の部分を除いて、びっしりと長くて鋭いトゲが生えてるん
だけど!?
しかもそれを振るうあの腕のごつさをみろ! 当たらなかったってのに、音がぐわん、って鳴ったからね!
離れたのに風圧で、盾にした腕にかすり傷を負ったんだからね!
しかもプートの野郎、明らかに顔面狙ってきたからね!
﹁これはそなたに貫禄を付与する為の、いわば我が純然たる好意の
1405
表れなのだ! 以前そう申したであろう。大人しく、傷を刻まれる
がよい!﹂
バカなの、ねえプートっておバカなの?
その金棒で何本、傷をつけるつもりだよ!
だいたい、誰が賛成した? 俺の顔に傷を付けるって意見に、俺
が一度でも賛同したか!?
実際にあの攻撃が俺に当たってたとしたら、どうなったと思う?
傷どころか絶対、脳味噌飛び散るよね!
﹁いい加減にしろ! それですむ攻撃かっ!﹂
俺はケルヴィスの剣を腰から引き抜き、金棒のトゲ部にかすめて
その軌道を逸らさせた。
いくらなんでもあの重量感溢れる鉄の塊とまともに打ち合っては、
魔剣でもなくば勝ち目はあるまい。っていうか、折れる未来しか予
測できない。
さすがに他人から借り受けた剣を、︿死をもたらす幸い﹀と同じ
運命に遭わせるわけにはいかない。と、なれば、対処方法は一つ。
魔術で早々に砕いてしまうに限る。
いくら見た目は持ち主同様ごついとはいえ、所詮、竜伐と違って
ただの金棒だ。
むしろ問題は、そうする隙をプートが与えてくれるかどうか、と
いうこと。
なにせプートからの攻撃は、殴打だけにはとどまっていないのだ。
金棒が空振りをしたとみるや、その勢いで次は空を裂く蹴りが放
たれる。それを避けたと思ったら、今度は左右から襲いかかる二本
の尻尾だ。
重量感を感じさせる攻撃は、しかし今まで相手にした誰よりも速
く、息をつく間も与えてくれない。
魔術なしの戦いで、これほどの攻撃力を誇るとは、さすが大公位
1406
第一位と言わざるを得ないではないか。
﹁どうしたジャーイルよ! 大公ともあろう者が、そのように避け
るだけとは情けない! それでは魔王陛下はおろか、観衆すら楽し
めぬぞ! それとも、そなたはこの程度の男なのか!?﹂
おい、今日のプートはどうしたんだ。今まで対戦中に、そんなベ
ラベラ相手を挑発したりしなかったろ?
﹁ウィストベルの方が、よほど手強い相手であったわ。しかるに今
のそなたは、情けなくも我が攻撃から逃れる一方!﹂
ホントに、プートの奴。なんだって俺を煽ってくる。
だがどんなに癪に障っても、俺の短気を誘いたのだろうその作戦
にはのらんぞ。
﹁自慢の剣技を披露してはどうだ? それとも﹂
ほんっとにグダグダグダグダと! だがその手にはのらん︱︱
﹁相手が格下でなくば、反撃すらできぬ臆病者であったか﹂
⋮⋮。その手には︱︱
﹁あるいは弱者をいたぶるのはよいが、強者には立ち向かう勇気も
ない軟弱者であるのか。これからは逃げ腰のジャーイルと﹂
﹁うるっさいわ!!!﹂
迫り来る金棒を剣ではじいて勢いを殺し、すかさず二度目の斬撃
で天辺のトゲを絡めて引き下ろす。
﹁ぬ﹂
だがさすがはプート。体勢を金棒に持って行かれる前に、その得
物を惜しげもなく手放し、すかさず左の拳を打ち込んでくる。
いいや。金棒を振るうより、むしろ嬉々として。
まともに腹にでも食らえば肋骨が折れるだけではすまないだろう
その豪腕を、斜め下から蹴り上げて軌道をそらす。だが空を切るは
ずのそれは、わずかに軌道を違えて俺の握る剣の切っ先をかすめた。
1407
﹁ちっ!﹂
手から離れたケルヴィスの剣は、大きく弧を描いて後方の大地に
突き刺さる。
そのやりとりの一時でもひるまないのが、プートの大公第一位た
る所以なのだろう。
金棒にも劣らぬ脚囲の太股が、息をつく間もなく目の前に迫って
くる。
上体をそらして避け、降下したついでに地に手をついて足払いを
しかける。鋼鉄のごとき感触の足はぐらついたが、それでも空足を
踏むにとどまった。
さらに立ち上がった俺に、体勢を立て直したプートがまたも拳を
打ち込んでくる。
﹁うなれ、剛拳!﹂
ちょ⋮⋮とりあえず、叫ぶの止めない?
俺は反動を狙って懐に潜り込み、毛むくじゃらの顎を狙う。が、
背後に迫り来る気配を感じて、またも地面にしゃがみ込んだ。
間一髪、蛇とトカゲの尻尾が頭上でぶつかり合う。
デヴィル族との肉弾戦、特にプートのような筋肉バカが相手では
なおさら、相手の手数が多いだけこちらが不利だと判断した俺は、
術式を描く。
もちろん最初から百式、それも二陣だ。
金剛の強度を誇る土が、牢となるべくプートに襲いかかる。つい
でにそいつで金棒を貫かせ、粉砕してやった。
﹁そうくるか! だが﹂
プートは拳に術式をまとわせ、俺の土牢攻撃を叩き砕いた。確か
にそれは魔術による撃破だったのだが、あの肉体と豪腕を目にした
ものなら、腕力で解いたと納得しかねない。それだけの説得力が、
1408
あの肉体にはある。
﹁地の魔術は、むしろ我の得意ともするところ! 目して味わうが
よい!﹂
突如、足下が割れたかと思うと、轟音をたてて左右から二本の柱
が立ち上がる。亀裂を避けるために跳びあがった俺を、柔軟さを得
た柱がうねり、その先端を五本指の手に変えて襲いかかってきた。
﹁ばっ﹂
指の数本を蹴りで砕く間に降下に転じ、ふと俯瞰すると、遙か眼
下にあったはずの亀裂が盛り上がって迫り、今にも俺を飲み込もう
としているではないか。
﹁噛み砕け!﹂
﹁ちょ、まっ﹂
土塊傀儡か!
亀裂に捉えられたとみるや、上下左右から黒い壁が迫ってくる。
とっさに防御魔術を張ったが、それでも押しつぶされそうなほど
の第一波に耐えねばならなかった。あえて第一波、と表現したのは、
一旦力がわずかにゆるんだ後、再びの重圧がかかる、ということが
数度繰り返されたためだ。
おそらくここは、土塊でできた傀儡人形の口中︱︱つまり今の俺
は、さながら巨大生物に飲み込まれて、咀嚼されるにも似た状況を
味わっているのだ。⋮⋮いや、何かに食べられた経験はないけど。
それでもただごとではない生理的嫌悪感がこみ上げてくるのは、
魔族が捕食者であって、その逆ではないからだろう。
俺は防御魔術を解き、拳に鋼鉄の魔術をまとわせ、迫り来る土壁
を思いの限りぶっ叩いた。他方向からの圧迫を受ける前に百式を追
加し、全方位に衝撃波を放ち、内側から食い破るようにして外へ脱
出する。
1409
がらがらと傀儡は音を立てて崩れ落ちるが、かすかに被った頭上
の土塊を払う間もなく、造形の再構築が始まる。さらに頭部の復活
を待つでもなく、両脇からは無骨な土色の手が伸びてきた。
﹁いちいち相手にしてられるか!﹂
造形魔術には造形魔術だ。
プートが土魔術が得意だというなら、俺は素材が何であれ、造形
魔術全般を得意としている。
百式三陣。
傀儡人形の相手をさせるべく、俺は天を震わす吼え声をあげる、
黄金の虎を九頭出現させた。
その体躯は土塊に比べれば遙かに小さいが、四肢は疾風のような
速さで空を自由に駆けめぐる。前脚の一振りと鋭い牙を駆使して、
俺への攻撃に転じる暇を与えない。
﹁やってくれるではないか﹂
プートがゴリラ胸の前で、金剛石をも砕きそうな両手をがっちり
と合わせた。
﹁だが、そうでなくてはな!﹂
耳をつんざく獅子の一吼え、自らの腕に術式をまとわせ、殴り合
いを望むように拳を打ち込んでくる。
こちらも防御魔術で全身を覆い、強打に耐えつつ、術式をまとわ
せた蹴りや殴打で反撃だ。
結果、俺とプートの戦いは、少なくとも見た目には肉弾戦の様相
を呈してきていた。
﹁ぬはははは! そなたとの戦いは、期待した以上に楽しいぞ!﹂
余裕で笑うなよ、筋肉バカめ!
なにが楽しいもんか、こっちはテンション上げられても迷惑だっ
1410
ての!
なんとか致命傷は防いでいるものの、それでも防御魔術ではプー
トの魔術で強化された腕力と脚力、それに二本の尻尾を駆使しての
攻撃の威力を無効にすることなどできず、俺はじりじりとかすり傷
を負ってきている。
対するプートの損傷具合は不明だ。俺の攻撃もまったくの無力で
はないだろうが、少なくとも恍惚とした奴からは、痛手を感じてい
る様子は見受けられないのだから。
さすがにこれほど手強い相手と、全力をもって対峙した経験はな
い。
だが魔力では劣っているはずなのに、それでも恐怖を感じないの
は、相手にも俺にも殺気がないからか。紛れもなく全力でぶつかり
あって、命はかかっているとしても。
いいや、それどころか︱︱
はっ!
ちょっと待て、俺。今まさか、﹁楽しい﹂と思いかけたんじゃな
いだろうな?
ああ、やばい。脳筋バカが移りでもしたか。
︱︱いいだろう。
後には優秀な医療班が控えている。それを信頼して、いっちょう
仕掛けてみようじゃないか。
1411
135.どちらもこれから戦う相手なので、じっくり観察したい
と思います
あの獅子野郎と知り合って、おそらく四百年以上にはなるだろう
が、奴があんなに楽しそうに戦う姿を見るのは初めてだ。
デーモン族嫌いで通っているくせに、ジャーイルのことはそう気
に食わないでもないらしい。まあ、気持ちはわからないでもない。
あいつの相手がまともにできるのは、兄貴を除けばここ数百年では
この俺︱︱ベイルフォウスただ一人だったのだから。
それも、俺たちの戦いでは双方もっと殺気立ってはいるが、逆に
魔術にはお互い抑制と配慮が見られ、結局つまらんぶつかり合いに
終わる。
一方で親友の方は、実力の近しい相手と戦った経験はあまりない
のだろう。
次々と繰り出される魔術にだけなら対処もしきれようが、デヴィ
ル族の特性をいかした肉体まで使った戦い方に、どちらかといえば
翻弄されている感が強い。
だが、術式の組立はさすがだ。文様の配置にまったく隙がない。
最小の魔力で最大の効果が出るような術式を組んでいる。
これは⋮⋮期待よりずっと、見応えのある戦いになりそうだ。そ
れに︱︱
﹁お兄さま!﹂
﹁ジャーイル閣下!﹂
マーミルとジブライールの悲鳴が背後で上がったのは、親友の姿
が土から盛り上がった巨大な傀儡に飲み込まれた、そのときだ。そ
れまでも、何度も息をのむような雰囲気は伝わってきていたが、叫
ぶのは我慢していたに違いなかった。
1412
だが心配などする暇もない。十秒も数えないうちに、ジャーイル
は内側から傀儡の壁を砕いて外に飛び出してきたのだから。砕かれ
た頭部はただちに自己修復していったが、そのスピードに劣らぬ速
さでジャーイルも百式を構築し、黄金に輝く虎を出現させる。
造形魔術には造形魔術を、ということらしい。
片や土の傀儡人形、片や虎。
その魔術同士がぶつかりあう横で、当人たちも自身に術式をまと
わせての肉弾戦だ。ずいぶん泥臭い戦いが、繰り広げられている。
獅子野郎が嬉々としていたのは最初からだが、このあたりになる
とようやく慣れたせいか、ジャーイルの瞳も愉悦を覚えてでもいる
かのように、輝いて見える。
だがその時、空気が一変した。
プートの蹴りで二人が分かたれ、接近戦から魔術のみが中心とな
った、距離をとっての遠隔戦に移行しようという時。
ジャーイルが一度手放した剣を再び手にし、その鞘に差し直した、
その時だ。
﹁ほう﹂
俺が思わず感嘆の声をあげたほどに、めまぐるしい勢いで百式が
展開されていく。
二陣、三陣、四陣⋮⋮いったいいくつの術式が構築されているの
か、現れては瞬時に消えるすべてを、目で追うのは俺でも面倒だ。
足下に出現した泥沼にぐらついたプートの巨躯を、大地から伸び
た植物の根がからめ取り、全方位から光のトゲが襲いかかる。かと
思えば根は燃え上がってその衣服を焼き、虹の霧にふれれば電撃が
走り、山をも揺らすほどの威力を持った暴風雨が、ただ一人をめが
けて吹き荒れた。
1413
なるほどこの勢いであのヴォーグリムの野郎を倒したってんなら、
そりゃあ見ていた者はぞっとしたことだろう。
魔族ってのはたいてい、魔術に対して得意不得意があるもんだ。
だというのにジャーイルの奴は、どんな種類の魔術でも気持ち悪い
ほど器用にものにしていやがる。
白状すると、それが特別なことだと自覚していないようなあいつ
に、苛立たないでもない。むしろ、天才というのは本当にタチが悪
いと思い知らされることもしばしばだ。
なんとか防御魔術を操り、耐えられたのも、プートであればこそ
だろう。とはいえほぼ同時に発動された多種多様な攻撃のすべてを
防ぎきることは、さすがの大公第一位にも不可能だったようだ。
無理もない。
獅子野郎の魔力は確かに強いが、魔術の発動は筋肉同様、力押し
に頼るばかり。効率のよい術式の構築など、突き詰めて考えたこと
もないだろう。だから破壊力の大きな魔術を順に発動させることは
できても、ジャーイルの見せたように多種多様な魔術を、同時に十
数陣も発現させることなど、できるはずもない。
故に対処においても一つ一つに丁寧に、効果的な防御や対抗魔術
を施せるわけもなく、確実に負傷は増えていっている。
そう︱︱
あのプートが、大地に片膝をついているのだ。
それを見たときの、俺の気持ちがわかるか?
幾度となく、プートとは拳を交え、魔術を交わしてきた。だが今
の今まで、兄貴以外を相手に膝をついたあの男の姿など、この目に
したこともない。
﹁化け物か!﹂
1414
﹁その言葉、そのまま返させてもらう!﹂
それでも倒れないプートに辟易としたのだろう、しかしこの場に
は軽すぎる口調のジャーイルに、かすかに焦燥が混じったようなプ
ートの声が応じる。
たちまち対峙する二人を、結界とも見紛う球形の土が覆い尽くし
た。
おそらく範囲を限定させて、威力の効果を高めるためのプートの
策だろう。中で防御魔術が張られたのを、肌で感じた。
だがこれでは視界を奪われ、審判たる俺にだって、勝負の判定が
できない。
いかに大公同士の戦いで、口を挟む必要はほとんどないとはいえ
︱︱
﹁陛下、これでは︱︱﹂
兄貴の判断を仰ごうとした、その時だ。
すさまじい魔力の発動と轟音に、球形に意識を奪われる。
次の瞬間身の内に走った感覚を、なんと表現すればいいのか俺に
はわからない。
この数百年︱︱感じたこともないような、嫌な予感が全身を覆っ
たのだ。
﹁いかん︱︱﹂
そういって立ち上がったのは、兄貴ではなくウィストベルだった。
﹁ベイルフォウス﹂
兄貴が小さく頷く。それだけで、意図を知るには十分だった。
俺は、魔力の充満を感じさせる球形を破壊すべく、百式を展開さ
せた。
本来はこんな風に大公同士の戦いに、水を差すようなことはすべ
1415
きではない。だが、何かがおかしい。あの土壁の中から発せられて
いる魔術には、何か異常なものを感じる。
だが俺が魔術を発動させる前に、ひときわ大きな、それも絹を裂
くような悲鳴にも似た、あるいは硝子を引っかくような、不快な音
が鳴り響いたとみるや︱︱目の前の土壁が、たちまち消え失せたの
だ。
轟音は止み、土壁は泥のようになだれ落ち、防御魔術は解かれ、
攻撃魔術の気配もない。
充満した土埃の他に、視界を遮るものは何もない。静寂が辺りを
支配していた。そんな中︱︱
徐々に姿を現したのは、ただ二つの影。
片や地に伏せ、片や地に立つ、その姿。
その二つは影であっても見紛うはずもない。
地面に分厚い胸板を押しつけるように倒れているのは、黄金の獅
子。
そうしてその傍らには、飄々とした様子で剣を手にした、我が友
の姿︱︱
プートが倒れ、ジャーイルが立っているのだった。
ジャーイルは、右手に握った剣を天高く掲げる。
いつもとは違って、どこか冷たさを感じさせるその瞳が標的と捉
えているのは、もちろん対戦者の姿だ。
だが、プートは地に伏せたまま、その指の一本すらピクリとも動
かない。どうやら完全に気を失っているようだ。
だというのに、まさかその剣を振り下ろす気ではないだろうな?
止めるべきか? だが、昨日のデイセントローズのようなことを、
我が親友がするとは思えない。
もっとも︱︱
1416
﹁ルデルフォウス! 観戦席に結界を張るのじゃ!﹂
ウィストベルがそう叫びながら、大公席から俺の立つ緩衝地帯に
飛び降りてきた。
﹁おい、ウィストベル。まだ戦いの最中︱︱﹂
﹁争奪戦での大公同士の戦いにおいて、魔剣の使用は禁じられてい
る。すでにこれは、正当な対戦ではない﹂
魔剣、だと?
﹁ベイルフォウス、私が動きを封じる。主はあの剣を奪え! ジャ
ーイルを正気に戻すのじゃ!﹂
﹁なに?﹂
ウィストベルが叫びつつ百式を発動させ、天を埋め尽くす隕石を
ジャーイルめがけて落下させる。
しかしそれも、あいつが手にした剣の一閃であえなく霧散した。
だがおかげで、プートは無事だ。
蒼光りする剣身︱︱ああ、確かにあれは、ウィストベルの言うと
おり、魔剣に違いない。それも︱︱あいつがこのところ気にいって
常佩している魔剣じゃないか。
﹁魔剣の使用は御法度だぞ! 知らん訳じゃあるまいっ!﹂
まずはジャーイルの良識に訴えかける作戦だ。だが親友は、返答
してこなかった。
それどころじゃない。いつもはどちらかといえば思想をうかがい
やすい赤金の瞳には、俺の言葉への反応どころか、他の一切の感情
が認められない。
確かに正気ではない︱︱というか、情をすべて排除したような冷
酷無比なその男は、ジャーイルですらないようにも見える。
﹁お兄さま!﹂
1417
マーミルの呼びかけで、俺は自分の考えを即座に否定した。
彼女が最愛の兄を、その本質を、見紛うはずはない。
﹁ゆけ、ベイルフォウス﹂
ウィストベルが再び百式を出現させる。地から蔦が伸びてジャー
イルの全身や腕をからめとり、せり出すように大地を凍らせせつつ
出現した氷が、そのつま先からを徐々に凍らせていく。
それをまた、魔剣の一振りで無駄に砕かれる前に、俺は腰から引
き抜いた自身の魔剣を大きく振りかぶった。
二振りの魔剣が、激しくぶつかり合う。
﹁やべえ、分が悪い﹂
一度の合わせで悟った。
双方魔剣とはいえ、そもそもの性能に差がある。しかも、それを
操る者の技量にも︱︱
ちくしょう、ここに魔槍ヴェストリプスがあれば! 俺も転移魔
術を覚えておくんだった!
いいや、そんなことを言っても仕方がない。今は必ずしも相手に
打ち勝つ必要はないのだ。
ウィストベルの言葉を信じるなら、剣を奪えばいい。
とはいえ俺が打ち込んでも、ジャーイルの奴は顔色一つ変えず、
それどころか軽々と剣を受け流し、弾いてくる。さらに防御と同時
に魔術を打ち込んでくるが、その対処には問題ない。
それに幸いにも、こちらにはウィストベルの援護がある。仕掛け
られた魔術のいくつかは無効にされながらも、それでもじわじわと
彼女の魔術は、ジャーイルの身体の自由を奪っていっている。
蔦が剣を握る右手首に巻き付いた、その一瞬を逃さず、俺はジャ
ーイルの魔剣を大きく薙払った。
さすがに不自由な手の握力だけでは、ジャーイルも強打に耐える
1418
ことはできなかったとみえる。蒼光りする剣は、ようやくその主の
元を離れた。大きく宙に弧を描き、音を立てて大地に突き刺さる。
﹁これでいいのか?﹂
﹁あとは︱︱﹂
ウィストベルが口をつぐむ。彼女もまた、ゾッとしたためだろう。
俺がそうだったように︱︱
ジャーイルの直下を中心に、気配もなく展開されていた巨大な百
式︱︱
見たこともないような文様を描く、その黒い術式に気づいた瞬間、
本能が警告を発したのだ。
おい、待て。これはダメだ。
理由はわからない、根拠もないが、本能がそう告げている。
﹁やめて、お兄さま!﹂
マーミルの悲痛な叫びで、我に返った。
俺は考える暇もなく、ジャーイルの懐に飛び込む。
﹁ジャーイル、おまえ、いい加減にしろ!﹂
そうしてとっさに、その顎をめがけて、力の限り拳を打ち込んだ
のだ。
﹁入った!?﹂
殴った俺が、一番驚愕していたに違いない。
まさか魔術でもない、単に振り上げただけの拳が、今のジャーイ
ルに届くとは思っていなかったのだから。
だが︱︱
拳は間違いなく、ジャーイルの顎を強打した。
おそらく、ただ当たったというだけでなく、効果も十二分にあっ
1419
たのだろう。その証拠に、ジャーイルは俺の拳にあわせてぐらりと
身体を傾かせ︱︱ゆっくりと、地に膝をついたのだ。
﹁⋮⋮いた⋮⋮⋮⋮﹂
俯いたジャーイルから、ぽつり、と、いつもの暢気な声が漏れる。
それと同時に、張りつめていた空気がゆるむのを感じた。
ふと足下をみると、さっきの不気味な術式もすでにない。
﹁なん、で⋮⋮ひど⋮⋮⋮⋮﹂
そう一言、ジャーイルは大地に腹這いに倒れ込んだ。
1420
136.えっと⋮⋮誰か、説明してください
腹が痛い⋮⋮腹って言うか、いや、腹も痛いんだけど、胸も痛い。
なんだっけ⋮⋮ああ、そうだ。プートに思いっきり蹴られたんだ。
ひどいよな、これ⋮⋮絶対、肋骨折れてる⋮⋮上に、どこか内臓に
刺さってるよね?
それに、顎も痛い⋮⋮顎⋮⋮?
ああ、そうだ。こっちはベイルフォウスに殴られたんだっけ。あ
いつはいつだって容赦がない。本当に俺のこと、親友だと思ってい
るのか!?
っていうか⋮⋮あれ、なんでベイルフォウスが?
俺、ベイルフォウスとも戦ったんだっけ? え、ってことはもう
十日目?
それに、重い。
でもこの重みは覚えがある。またマーミルが抱きついてきてるん
だろう。あれだけ寝込みを襲うなと、言い聞かせたというのに、全
く⋮⋮⋮⋮ほら、声も聞こえる。泣いている声だ。
頭を撫でてやろうと、右手を動かそうとして⋮⋮あれ? 動かな
い?
左手は⋮⋮動く。なんで右手だけ⋮⋮痛くはないよな? うん、
痛くはない。でも動かない。それに⋮⋮なんだか、冷たくないか?
まるで縛られてるような⋮⋮えっ、まさかあれか?
その部位を失っているというのに、ある時と同じような錯覚を感
じているだけ、とかいう⋮⋮。
﹁俺の右手っ!!﹂
1421
力を込めて、右手を持ち上げてみると︱︱
﹁! お兄さま! よかった!!﹂
﹁閣下!﹂
目を開けると、すぐ間近には泣き濡れたマーミルの顔、その奥に
今にも泣き出しそうな表情を浮かべるジブライールの姿があった。
﹁マーミル⋮⋮俺の、右手は⋮⋮﹂
持ち上がった感覚は、ちゃんとあった。だが、自由に動かすこと
ができない。何故だ?
﹁あ、申し訳ありません!﹂
ジブライールが慌てて俺の右手を手放すのが見えた。不自由を感
じたはずだ。ジブライールが手を握っていたのか⋮⋮。
まあ、欠損したのではないと知って、ホッとした。
っていうか⋮⋮。
﹁ここ⋮⋮どこだ?﹂
﹁ようやく目が覚めたか﹂
﹁おい、ベイルフォウス、お前⋮⋮つっ﹂
頭上から聞こえたベイルフォウスの怒ったような声に、顎の文句
を一言いってやろうと身体を起こしかけた瞬間、胸に痛みが走った。
そうだった。骨が内臓に刺さってるんだっけ⋮⋮。
﹁あまり動かれませんよう。まだ治療は、完了してはいないのです﹂
聞き覚えのないその声に従って、大人しく身を横たえておくこと
にした。
どうやら俺は治療台に寝ているようだ。まあ怪我が酷いし、今ま
で気を失っていたようだから、さもありなんといったところか。
息をついて、自分の周囲をよく見回してみる。右手には妹、その
奥にジブライール、頭上にベイルフォウス、そして左手に見知らぬ
1422
顔が二つほどあった。その手から俺に向かって魔力が伸びていると
ころをみると、彼らが魔王城の医療班に違いない。
あたりはすでに暗く、見渡す限り星空が広がっている。視界を遮
るものは何もない。
ということは、場所だってやっぱり旧魔王城の対戦場であるはず
だ。
﹁で⋮⋮今日は、何日目だ?﹂
問う声がかすれた。
﹁医療員の方々、お兄さまの頭も診て!﹂
﹁しかし、全身をくまなく診察いたしましたが、頭部に異常は⋮⋮﹂
﹁でも、今日が何日かもわからないのよ!? やっぱり頭を強く
打って、おかしくなっているんだわ!﹂
いや、ちょっと待て妹よ。やっぱりおかしくってなんだ。
﹁閣下。今日は大公戦の七日目⋮⋮プート大公閣下との戦いの後で
す﹂
ぎゃあぎゃあわめく妹とは対照的に、ジブライールが冷静な答え
をくれる。
﹁⋮⋮ならなんで、ベイルフォウスに殴られたんだ?﹂
俺は別にもう痛くもない顎を、さすってみせる。
﹁なんで、じゃねえよ。自分のしたこと考えりゃ、当然だろうが!﹂
自分のしたこと?
﹁プートに腹を蹴られて、土壁までふっとばされて、ムカついたか
ら剣を抜いて⋮⋮﹂
﹁ほう。ムカついたから、魔剣を召喚したのか﹂
﹁は?﹂
魔剣? 召喚?
1423
﹁何いってんだ、ベイルフォウス、お前︱︱﹂
俺はほとんど痛みのひいた上半身をもちあげた。
そうしてその場に居並ぶ面々を認め、口をつぐむ。
少し離れた壇上︱︱魔王席と大公席に、アリネーゼを除く面々が
勢ぞろいしていたのだ。
﹁大公同士の戦いで魔剣を禁じていたのを、お前も知らないはずは
ないだろう﹂
そういって、ベイルフォウスは一点を指さした。その先にあった
のは︱︱
﹁レイブレイズ! なぜ、ここに﹂
俺たちのいる場所からいくらか離れたその大地に、俺の愛剣が深
々と突き刺さっていたのである。
﹁なぜ、じゃねえ。それはこっちのせりふだ。俺とウィストベルが
止めなければ、お前はその剣で気を失ったプートを殺すところだっ
たじゃねぇか﹂
はい? 俺がレイブレイズを持ち出して、プートを斬ろうとした?
﹁⋮⋮ちょっと言ってる意味がわからないんだけど﹂
﹁意味がわからんのはこっちだ。きっちり説明してもらおうか﹂
﹁いや、説明と言われても、俺が抜いたのはただの剣で⋮⋮﹂
﹁そのとおりだ﹂
向こうの治療台に座ったプートが、助け船を出すように、低い声
をあげる。ちなみに彼の方は、奥方などの付き添いもないようだ。
﹁その時ジャーイルが抜いたのは、腰に差していた、ただの剣であ
った﹂
ああ、そうだとも。俺が抜いたのはケルヴィスの剣だ。少年に悪
いとは思いながらも、件の剣を即席魔剣にし、そいつでプートに斬
1424
りかかりつつ、魔術を展開したのだ。
﹁我々は、魔術と肉体をもって戦いを繰り広げた。決着は、すぐに
ついた。そう、思われた。我が魔術と拳が、ジャーイルを打ち破り、
彼は地に伏せたのだから﹂
マーミルが俺の二の腕を、心細げに掴んできた。
だが真実だ。あー、負けた。やっぱりプートは強いな、と思いつ
つ気を失った覚えがある。
﹁だが我が土壁を取り払い、勝利を宣言しようとしたその時のこと。
ジャーイルが、再び立ち上がったのだ。それも、負傷など何一つな
いような動作で﹂
﹁立ち上がった?﹂
俺とベイルフォウスの声が重なる。
﹁いや、なんでお前が驚くんだよ﹂
ベイルフォウスからツッコミが入るが、そうは言われてもそんな
覚えがないのだから仕方ない。
俺の記憶は、気を失ったその時点で途切れている。次に覚えてい
るのは、ベイルフォウスに殴られた瞬間の記憶だ。
﹁そして、あの黒い魔術を⋮⋮﹂
プートの表情が、かすかに曇る。その時のことを思い出して、苦
痛か︱︱まるで恐怖でも感じているかのように。
﹁黒いのって、プート、君がいつも使うようなやつ?﹂
サーリスヴォルフの質問に、プートは首を左右に振った。
﹁いいや、本質からして全く違う。あれは⋮⋮あんな魔術は、未だ
かつて目にしたことがない。我は結界や防御魔術を幾重にも施した
が、それでも完全に防ぐのは難しかった﹂
え、なにそれ。怖い。
﹁もたぬと思った瞬間、攻撃も止んだゆえに、死を免れただけのこ
1425
と。そうして我は意識を喪失した。以後のことは知らぬ。しかしあ
れは︱︱まるで生きた闇が襲いかかってくるようであった。あの魔
術は一体⋮⋮﹂
プートが疑問を示すと一斉に、視線が俺に向けられる。
だが、困った。さっきも言ったが、そんな記憶は全くない。そん
な訳の分からない説明をされても⋮⋮まして、説明を求められても
⋮⋮。
﹁いや、実は俺も、そのプートに気絶させられた時点で記憶が途切
れてて⋮⋮ですね﹂
﹁は? ふざけるなよ、ジャーイル﹂
﹁ふざけてはいない。俺はプートに負けたはずだ。当然、黒い魔術
なんて知らないし、体中痛くって、立ち上がるなんてとても無理だ
った。それで気を失ったんだ。説明しろと言われても、本当に何の
ことだかさっぱり︱︱﹂
見回すうちに視界に飛び込んでくる、みんなの顔が怖い。
特に、ウィストベル。視線があうたびに、心臓が止まりそうなほ
ど怖い。
﹁つまり、どういうことでしょう? 夢遊病状態のジャーイル大公
が無意識に魔剣を召喚し、プート大公を殺しかけた、ということで
しょうか?﹂
﹁いいや﹂
またも否定したのはプートだ。事情を語ることのできない俺は、
口を噤んでいるしかない。
﹁最終的にはそうなりかけたのかもしれんが、あの魔術を展開した
時、ジャーイルはまだ魔剣を手にしていなかった。故にあれを召喚
した、というのなら︱︱﹂
プートがレイブレイズを顎で示す。
1426
﹁我があの魔術を耐えて、気を失って以降のことであろう﹂
﹁どうなんだ、ジャーイル﹂
どうって言われてもなぁ⋮⋮。
﹁本当に、覚えていないのか?﹂
魔王様が詰問というよりは、ただの事実確認というように淡々と
問うてきた。
﹁覚えていません。負けた、と思った以降のことは﹂
﹁⋮⋮まあ確かに、間近でみた俺の感想を言わせてもらえば、あの
時のジャーイルはまるで別人のようだった。それに本人の意識があ
ったとするなら、気を失った相手に剣を振り上げることもないだろ
う﹂
別人ってなんだ、ベイルフォウス。怖いことを言ってくれるな。
だが、俺が倒れた相手を痛めつけるような男ではない、と断言し
てくれることには感謝する。
しかし話を聞いていると、ベイルフォウスは暴走した俺を止める
ために、判定人としての務めを果たしたわけだ。なら、殴られたこ
とも仕方ない。
もっとも、魔術で優しく止めてくれればよかったのに、と思わな
いでもないが。
﹁本当に本当に覚えてないの? うっすらとでも記憶はないの? 冗談でも、嘘でもなく?﹂
﹁我が主は嘘などつかれる方ではございません! 覚えてないとお
っしゃるなら、そうに間違いありません!﹂
勘繰るサーリスヴォルフに﹁しつこいぞ﹂と口を開く前に、ジブ
ライールが間髪入れず、援護をくれる。
ジブライール⋮⋮そんな風に思ってくれていたなんて。今までた
まに、奪爵を疑ったりして悪かった。反省するよ。
1427
﹁寝ぼけてたのだかなんだか自分でもわからんが、とにかく本当に
覚えていない。魔王陛下に誓おう﹂
俺は両手を軽くあげた。 ﹁ジャーイル本人がこれでは、これ以上の追求は無理そうだね︱︱
どう決着つけます、ルデルフォウス陛下?﹂
サーリスヴォルフが肩をすくめつつ、魔王様に判断を仰ぐ。
魔王様はこくりと一つ頷き、王座を立ち上がる。そうして俺とプ
ートを交互に見ながら、こう宣言した。
﹁今回の決着は、プートの勝利とする﹂
まあ⋮⋮だろうな。
﹁理由はプートが勝利を確信し、ジャーイルが負けを自覚して、確
かに気を失ったこと。その後については、自ら意識した上での行動
ではなく、決定的な使用はないといっても魔剣を持ち出したことも
含め︱︱勝負はジャーイルが気を失った、それまでとする﹂
自身の負けを自覚していた俺は結果に納得したが、プートは微妙
な表情を浮かべている。
﹁付け加えるならばもちろん、これは大祭の一行事としてという側
面もあるが故の判断である。二人が大公位争奪戦と関わりなく勝負
をして、この結果を得たというのなら︱︱﹂
魔王様は射抜くような瞳で俺を見つめてきた。
﹁勝者はジャーイルであったろう﹂
⋮⋮あ、はい。
まあ試合形式をとらなければ、結果が全てですもんね。
﹁じゃあ、まあ、そういうことで、公式には明日の対戦前に俺が一
応発表するか﹂
やや複雑そうな表情で、ベイルフォウスが頭をかいた。
1428
﹁では、判定のための話し合いはここまでとする﹂
魔王様がそう宣言し、一応会議にも似せたその場は解散となった。
﹁勝敗も決定したことであるし、私も失礼させてもらおう﹂
魔王様に続いて、プートが意外なほどあっさりと帰路に就く。
もっと戦いの内容について︱︱俺の状態について、つっこんでく
るかと思ったのに。まあ、こちらは聞かれたところで何も答えられ
ないんだから、ありがたいが。
﹁それにしても、ホントになんだったんだろうね、あのジャーイル。
いつもと全く別人のようだったよね﹂
サーリスヴォルフまで、別人とか言わないでくれ。
﹁ええ、私などはゾクゾクしてしまいました。見るもの全てを凍え
させるような、冷たいあの視線︱︱ふふふ﹂
デイセントローズ、お前の発言のせいで、俺は逆にゾクゾクする。
﹁おい、ジャーイル。お前、一度頭の中、ちゃんと調べた方がいい
んじゃないか?﹂
﹁なんですって! 失礼ですわ!﹂
﹁お前だってさっきそう言ってたろ﹂
﹁私はいいんですのよ、妹なんだから!﹂
ベイルフォウスは余計な一言をいって、マーミルの怒りを買って
いる。というか、二人ともちょっと俺に対して失礼ではないだろう
か。
そんな風にみんなが興味深げな視線を向けてくるなか、気になっ
たのはウィストベルだ。
彼女は話し合いの間、一度も口を開かなかった。ただ鋭い瞳で、
俺のことを見つめていただけだ。
そしてプートがいなくなって間もなく、彼女もまた無言でその場
1429
を立ち去ったのだった。
正直、いろんな意味で気が気じゃなかった。
しかし、ベイルフォウスの言葉は冗談ではすまないかもしれない。
意識を失って、その︱︱黒い、魔術? とやらを使用したと思われ
るのは、今回が初めてではない。
以前力を失っていた俺が、プート麾下の六公爵を葬ったというそ
の時にも、黒い魔術を使っていたらしいし。
あの時にはもしかして、レイブレイズが助けになったのかとも思
ったし、見たことのない魔術といっても、所詮無爵のイースの言葉
だし、と軽く考えていたのだが。
うーん⋮⋮その、意識のない間の俺ってどんなだったんだろう。
単に半分寝てる状態とか、本当に夢遊病の気がある、とかなら、普
段の生活には支障もないだろうし、まあいいだろうが⋮⋮。
とにかく、一度落ち着いたらサンドリミンに相談してみるか。
﹁閣下がご無事で、何よりでした﹂
喧噪を背に、ジブライールがぽつり、と言った。
まあ怪我はしても欠損はないから、無事、といっていいかもな。
﹁あ、うん、ありがとう。心配かけてすまなかったな﹂
俺が倒れている間、まるで家族のように手を握ってくれていたこ
とだし、ここは礼を伝えておくべきだろう。
﹁いえ、そんな︱︱配下として、主君の身を案じるのは、当然のこ
とです﹂
なんという、魔族にはあり得ないほど主君に忠実な副司令官であ
ろうか!
ちゃんと誓おう。今後は二度と、奪爵の意志を疑ったりはしない
よ!
﹁ところで、ネネネセはどうした?﹂
1430
双子は今日も来ていたはずなのに、姿がない。
﹁観戦に来ていた部下と、ケルヴィスに帰城を任せましたが︱︱い
けなかったでしょうか?﹂
﹁ああ、いや。ならいいんだ﹂
そうか。マーミルの面倒をみるために、ジブライールは残ってく
れたのか。
﹁じゃあそろそろ、俺たちも帰るか﹂
これ以上いたって、答えられもしない質問と好奇の目が向けられ
続けるだけだろう。動けるようにはなったし、とっとと帰るに限る。
﹁閣下、まだ治療が完了してはおりませんが﹂
医療員が気遣うような声をかけてくれるが、俺は治療台から降り
たった。
﹁ここまで回復すれば、あとはかすり傷みたいなもんだ。勝手に治
る。問題ない﹂
﹁お兄さま! そんなの駄目よ、ちゃんと治してもらって!﹂
ベイルフォウスにからかわれていた妹だが、俺の発言は聞き逃さ
なかったらしい。
﹁全くだ。ちゃんと治してもらえ。俺との戦いがまだ控えてるのに、
負けの理由をかすり傷のせいにされちゃたまらん﹂
おいベイルフォウス! ちゃっかり勝利宣言してるんじゃない。
だが、言い分には一理ある。
﹁わかった、わかった。これ以上の治療は、帰ってからちゃんと受
ける。心配するな﹂
俺は抜き身のレイブレイズを大地から引き抜いた。
剣はその身だけで召喚されたのだろう。どこを見回しても、鞘は
ない。
代わりに粉々になった、ケルヴィスの剣の残骸を認めた。
1431
借りものだから、無事に返すつもりだったというのに、叶わなか
ったか。少年には、よほどいい剣を与えてやることにしよう。
空いた腰のその鞘に、レイブレイズを一部でも納められるか試し
てみる。だがやはり、魔剣を差すには鞘の大きさが不足していた。
万が一のことがあってはいけないと考えた俺は、魔剣をマントで
くるみ、それからさらに念のため、マーミルをジブライールの竜に
同乗させて、自分の城へと帰城したのだった。
1432
137.気分を入れ替えて、さて今日からも頑張りましょう
結局俺は城に帰って後、医療棟には寄らなかった。帰城したのも
夜中で、抜き身のレイブレイズをもって訪れるわけにもいかなかっ
たからだ。
魔王城の医療員は治療はまだ終わっていないとは言っていたが、
明らかに調子が悪いと自覚するような部位はなかったし、それに何
より疲れていた。
レイブレイズを寝室の剣置きに残っていた空鞘に仕舞うと、すぐ
に眠りについてしまったのだった。
もっとも、八日目の相手はサーリスヴォルフだ。ベイルフォウス
との対戦は十日目だから、不戦の九日目に念のため医療棟を訪ねよ
うとは思っている。
別にサーリスヴォルフを舐めていたわけではない。ただ、かすり
傷くらい治さなかったとしても、勝敗には何の影響もないことは確
信できたからだ。俺とサーリスヴォルフには、それだけの魔力の差
がある。
﹁昨日の一六戦の勝者はプートとする﹂
ベイルフォウスが開始前に、昨晩話し合った結論を発表した。理
由が続くのかと思いきや、説明は一切なしだ。ただし、友は一言、
こう付け加えた。
﹁詳細が知りたきゃ、公文書館の会議録でも見ろ﹂
ああ、昨日のあれ、一応会議だったんだ。そういや、何か書き込
んでるのがいたなぁ。
聴衆がそれで納得したかどうか、知らない。とにかく結果につい
ての感想がガヤガヤと聞かれる中、俺とサーリスヴォルフの戦いは
1433
始まったのだった。
﹁昨日みたいなのは御免だからね。最後まで正気でいておくれよ?﹂
いつものように軽い口調のサーリスヴォルフが、先制攻撃をしか
けてくる。
そんなの俺だって御免だ。内心で思いながら、烈風を避けた。
その俺の動きを見越したように、間髪入れず鎌鼬が襲ってくる。
それも派手に何十本もまっすぐ飛ばしてきたのは囮で、地面すれす
れに湾曲し、背後を襲ってきたのが本命だ。危うく、一発もらうと
ころだった。
空を切り裂く風、一帯を巻き込む竜巻、あらがう者を許さない暴
風雨。どうやらサーリスヴォルフは、風の魔術が得意なようだ。
それにしても単調すぎる。大げさな魔術で意識を引いておいて、
影に罠を張る、という手ばかりなのだから。
それともそういう作戦か? 単調さで俺の油断を誘う、というよ
うな。
だがいくら魔力の差が圧倒的とはいえ、ベイルフォウスが警戒す
る相手を前に、その特殊能力もわからないうちから油断などするは
ずがない。
サーリスヴォルフは最初の一言以降は無駄口を利かなかったし、
表情はいつものように飄々として捕らえ所がない。全力なのか、そ
れとも手を抜いているのかさえ、測りがたかった。
俺の目は魔力の強さは知れても、相手の術式に対する造詣の深さ
や、戦略について察する能力はないのだから。
もっとも、こちらの動きを見越したような発動のタイミングは見
事だ。もしも俺の反応が、その魔術の速さを上回っていなければ、
痛手は少ないにしても何度か攻撃をくらっていただろう。
1434
一方でこちらからの攻撃を、サーリスヴォルフも紙一重で交わし
てみせる。日常のフェオレスのようなそつも無駄もない動きに、感
心さえ覚えた。
俺は一気に勝負をつけるべく、百式二陣を描く。
様子をみるのもここまでだ。もうちまちま仕掛けたりはしない。
サーリスヴォルフが放った空気弾と、俺の放った衝撃波が中央で
ぶつかり合う。ついでその下をくぐって間近に迫った烈風を防御魔
術ではじき返し、攻撃のだめ押しに加えた。
衝撃波は押し勝ち、敗れた空気弾が空中で派手に弾ける。さらに
は彼の防御魔術を切り崩し、その全身に襲いかかった。
結果、サーリスヴォルフは俺に敗北した。
別に威力の減った一撃をくらったからといって、それで彼が戦え
ない状態となったわけではない。
だが背から地に打ち付けられた後、サーリスヴォルフは手をあげ
て自ら敗北を宣言したのだ。まるで失ったのは、戦意だ、とでもい
うように。それはすんなりと、判定人にも観戦者たちにも受け入れ
られた。
だが、そんなことはどうでもいい。
﹁おい⋮⋮どうした、ジャーイル﹂
勝利宣言を受けても立ち尽くしたままの俺を、ベイルフォウスが
不審に思ったのだろう。近づいてきて、背中をどんと叩く。
その瞬間。
﹁うっ⋮⋮﹂
俺は︱︱吐いた。
1435
うん、ごめん。こんなこと、聞きたくないよね。
俺だって言いたくない。格好悪いもん!
だけど事実だし、その上、目撃者が数多いるのだから隠しようも
ない。
残念ながら、比喩で言ったのでもない。
それまでなんとか吐き気を我慢していたのだが、ベイルフォウス
から与えられた衝撃に耐えることはできなかった。
俺はその場に両手をつき、地面に向かって胃の中のものを吐瀉し
てしまったのだ。
﹁げ、お前⋮⋮﹂
ベイルフォウスが無慈悲にも飛び退いたのを、気配で察した。
﹁お兄さま!?﹂
﹁やめとけ、マーミル。対戦場には入るな﹂
﹁はなして、ベイルフォウス様!﹂
妹を止めてくれたのには感謝しよう。なぜなら俺の周囲には⋮⋮。
﹁勝利のお祝いになったかな?﹂
顔をあげると、たった一発、攻撃を受けただけで軽傷のサーリス
ヴォルフが、俺の前に立ちはだかっていた。
﹁うーん。こうしてみると、まるで私が勝って、君が負けたようだ
ね﹂
﹁サーリスヴォルフ⋮⋮なんてもの、仕込みやがる⋮⋮こんなの⋮
⋮うぷ⋮⋮﹂
俺の恨み言を受けるその顔には、意地悪い笑みが浮かんでいる。
あっさりと負けたのは、わざととしか思えない!
﹁あれー? 私は君の大好物だと聞いて、むしろ喜んでもらえると
思って仕込んだんだけど。これは好意だよ、好意﹂
1436
そうして彼は高らかに笑いながら、自身がそう言ったように、ま
るで勝者のような態度で立ち去っていったのだった。
何が仕込まれていたか?
俺が過去にただ一度、トチ狂った、あの、酒!
サーリスヴォルフの放った空気弾︱︱その中に、アリネーゼの所
領でかつて俺が酩酊したあの酒が、たっぷり仕込まれていたに違い
なかった。炸裂するや液体が辺りに飛び散り、対戦場にそのニオイ
が充満したのだから。
液体は、そうとは知らず、防御魔術で防いだ。だがニオイはどう
しようもないじゃないか。
一口飲んだだけで自意識を失った強烈な酒だ。今日はニオイを嗅
いだだけで、気分が悪くなった。
こんなことなら畜生! 一滴でも口に含むんだった!
いっそ酩酊してサーリスヴォルフにちょっかい出した方が⋮⋮い
やいやいや、俺。混乱したにしても、なんてことを考える!
とりあえず、それから二度ほど吐いて多少は気分のスッキリした
俺は、対戦場一帯を火の海で消毒した。
空気を察した観衆たちが、いつもより早くに昼の休憩のために静
かに立ち去ってから、ようやく俺もその場を後にしたのだった。
ちなみに、いつもの食卓についた後のことも、少しだけ付け加え
ておきたい。
子供たちは、昼食もとらずに帰路についた。その護衛として、当
然ながらフェオレスも⋮⋮。
別れ際の、あの腫れ物にでも触れるようなマーミルの態度が、脳
裏に焼き付いて消えない。
﹁大丈夫、どんなお兄さまも私は大好きですわ! でも、気分が優
1437
れないので、今日は私たち、これで失礼しますわ!﹂
近寄ってもこないで言われたその言葉が、逆に俺の羞恥心をえぐ
った。
そうして極めつけに、サーリスヴォルフから差し入れの酒が、届
けられたのだ。三本も︱︱そう、あの酒瓶が三本も︱︱。すぐさま
割ってしまいたい衝動に駆られたのを、なんとかぐっと堪え、俺は
一人寂しい食事を終えてしまったのだった。
***
午前は午前、午後は午後。
気分を切り替えようではないか。
幸いにも、ベイルフォウスが戦うので俺は緩衝地帯で判定人を務
めねばならない。もちろん、先に消毒をしたので、酒臭さも⋮⋮⋮
⋮えーおっほん、とにかく何臭さも残っていない。
いっておくが、俺だってちゃんと食事前に何度もうがいしたから
な!
食事後には、念入りに歯も磨いたからな!
だというのに、なんだ、ベイルフォウス。そのしかめっつらはヤ
メロ。
親友を汚物のような目で見るのはヤメロ。
俺が傷つくではないか。
とにかく、二戦目はベイルフォウスとアリネーゼの戦いだった。
彼女の参加は、午前中も観戦に来ていなかったこともあって、実
は危ぶまれていた。なにせウィストベルによって片脚を失ったのは、
つい昨日のことだったからだ。
ところが今日、現れた彼女には、ちゃんと両足がついていたのだ。
1438
いや⋮⋮正確には二本の脚でちゃんと立っていた、というべきか。
いつもはウィストベル同様、その爛れた牛脚を見せつけるような
スカートばかりだったのが、今回はゆったりとしたズボンでの参戦
だったからだ。しかも足首で絞られた布の先には、がっちりと竜の
蹄を覆い隠す靴まで履いている。
まるで我々、デーモン族のように。
顔色もどこか、青ざめて見えるのは気のせいだろうか。
相手が自分たちより遙かに強い大公であっても、やはり美貌を誇
るアリネーゼの被った運命に同情を覚えた者たちがおおいのか、戦
いはいつもより静かに聴衆が見守る中で始まった。
ベイルフォウスは、ウィストベルが相手の時のように、いらぬち
ょっかいを出したりはしなかった。ただ淡々と、ここでもやはり氷
の魔術を使ってアリネーゼの逃げ場を封じ、挙動を封じ、彼女の魔
術を封じて勝利した。
そのせいもあってか、二人の戦いはかつてないほど静かな印象を、
観戦者たちに与えたことだろう。
アリネーゼは今日はたいした負傷もなく、さらに一言も口を利く
こともなく、その場を離れていった。
大公席で見守るウィストベルと、いつものように火花を散らすこ
とすらなかったのだ。
逆に彼女を労る信望者たちの熱い涙にまみれた嗚咽が、その退場
に花を添えることとなった。
その後、俺はいつものおきまりのように名乗りを募ったが、やは
りこの日も誰一人、挑戦者は現れず、八日目が終わったのだった。
1439
137.気分を入れ替えて、さて今日からも頑張りましょう︵後
書き︶
1440
138.誰か癒しをください!
﹁お帰りなさいませ、旦那様﹂
意気消沈しながら帰城した俺を、エンディオンがいつもと変わら
ない暖かい態度で迎えてくれる。それだけのことで、傷心が和らい
だ。
﹁お体の具合はいかがですか?﹂
今日初めて、優しい言葉をかけられた気がする!
やばい、ちょっと泣きそうだ。
﹁ああ、うん、大丈夫。別になんともない。念のため、医療棟には
行こうと思ってるが﹂
﹁それがよろしゅうございますね﹂
いつまでもずっと、エンディオンがこの城にいてくれますように。
よそ
俺の家令でいてくれますように!
よし。万が一、他城で働きたい、とか言われたら、土下座してで
も思いとどまってもらえるよう頑張ろう!
俺は家令に外套を預け、医療棟へ向かった。
﹁お待ちしておりました、旦那様﹂
サンドリミンが玄関ホールで迎えてくれる。
昨日今日の俺の対戦を見て、きっと診察を受けにくるだろうと予
想してのことか。これはこれで、ありがたい。
﹁昨日のプート大公との戦いは、さすがでございましたね。お二人
の対戦の、そのあまりの恐ろしさに、医療員一同、転写幕の前でぶ
るぶる震えておりましたよ! 中には旦那様の奪爵の時のなさりよ
うを思い出して、吐いた者もいるような次第で﹂
1441
俺に対する恐怖など微塵も感じていないような明るい態度で、ハ
エリーダーがそうのたまった。
﹁吐いたと言えば、気分はどうです? 今日はどうしてまた、勝っ
ておきながらあんな醜態を?﹂
し⋮⋮しゅう⋮⋮態⋮⋮。いや、そうだけど! そうだけども!
サンドリミン⋮⋮君って、そんなに思いやりのない質問をなげか
けてくる奴だったっけ?
﹁まあ、立ち話もなんです。ささ、診察室へどうぞ﹂
答えないでいると、さすがに空気を読んだのか、サンドリミンは
ようやく診察室へ案内してくれた。
俺はひとまず、前日のプートとの戦いのあらましを、彼に話した
のだった。
﹁ほう⋮⋮。では旦那様は、昨日のあの恐怖の所行を、覚えていら
っしゃらない、と﹂
ちょっとひっかかる言いぐさだが、とりあえず頷いておこう。
﹁それも実は、その状態になったのは初めてじゃないんだ⋮⋮﹂
﹁え? 今までにもあるのですか? まさか、朝目が覚めたら知ら
ない女性が裸で隣にいた、とか?﹂
﹁いや、それはないが⋮⋮﹂
嘘ではない。アリネーゼは知らない女性でないし! 裸でもなか
ったし! それにあれは酒のせいだし!
俺は過ぎし日のこととして、プート配下の六公爵との間に起きた
であろう一件を、サンドリミンに説明した。
とはいえもちろん、魔力が減っていた云々は伏せて。
﹁なるほど⋮⋮そうですね。ではプート大公との一戦で傷ついたお
体の治療もまだ残っているとのことですし、まずは全身をさぐって
1442
まいりましょうか﹂
﹁頼む﹂
医療班長は例の象手から出るもやのようなもので俺の全身を触診
する。そうして多少の怪我や体内の異常部を見つけると、それに見
合った能力を持つ医療員の手を借りつつも、治療を完了してくれた
のだった。
だが、結局対戦による負傷の他に、異常な点は認められなかった
らしい。
﹁夢遊病のたぐいでしょうかね。だとすると、我らの関与するとこ
ろでもないですしね⋮⋮﹂
うーん。まあ魔族の医療班だからな。熱や明らかな負傷・異常に
しか対応できないのは仕方がない。
人間たちには性格だとか精神だとか、もっとあいまいな部分を診
る役割の医療員たちもいるようだが、まさか魔族の大公がそんなの
に頼るわけにもいかないし⋮⋮。
﹁たとえば、ですが、その⋮⋮閣下があのとき握ってらしたという
魔剣⋮⋮あれが原因、ということはないのでしょうか?﹂
﹁レイブレイズか? 俺も無意識にあれの力を最大限引き出したの
か、とも勘ぐったが、どうもそれも違うらしい﹂
﹁いえ、引き出すというか⋮⋮逆に剣が旦那様の身を操るというか
⋮⋮﹂
﹁は? 剣が俺を操る?﹂
思わず素で驚いてしまった。
サンドリミンともあろう者が、また突拍子もないことを思いつく
ものだ。
﹁それはない。魔術の発動時には、俺はまだ魔剣を召喚していなか
1443
ったそうだし﹂
もちろん冗談なのだろうが、一応は否定してみせる。
﹁だいたい、仮にその時レイブレイズ持っていたとしても、だ。魔
剣が魔族を操れる訳はないだろう。魔族が魔剣を操るというのに﹂
たとえその黒い魔術とやらの発動時に魔剣を握っていたとして、
それが俺の行動を主導できるはずもない。
いくら意識がない状態とはいえ、弱者が強者に影響を及ぼせるは
ずなどないからだ。人間が、魔族の寝首をかこうとしてできないの
と同様に。
﹁いえ、まあ⋮⋮⋮⋮ええ、旦那様でしたらそうなのかもしれませ
ん﹂
まるで弱ければ魔族でも魔剣に操られることがあるかのような反
応だな。
⋮⋮いや、弱ければあるのか?
そういや無爵の者の中にはあまりに弱すぎて、人間の魔術師にも
劣る者すらいるんだっけ。森で襲われたシルムスだって、相手が複
数とはいえ、危機一髪だったしな。
それにやはりサンドリミン同様、伯爵であったかつての宝物庫管
理人のヒンダリスも、やはりレイブレイズを恐れていたではないか。
伯爵ぐらいまでだと、そんなものなのか?
⋮⋮正直、俺はそんな微弱な魔力であったことがないからわから
ない。
﹁まあとにかく医療班からみて、今の俺には異常がもはやない、と
いうことだな﹂
﹁はい。それは間違いなく﹂
ふむ。ならきっかけは、極度の疲労なのかもしれないな。それと
も俺の本能が、自身の危機に反して内なる力を目覚めさす⋮⋮とか!
⋮⋮⋮⋮いや、忘れてほしい。言った後でなんだが、ちょっと恥
1444
ずかしい思想だった。
しかしこの場で解決しないのなら、うだうだ考えていても仕方な
い。また今度ああなったら、その時、なんとかするようにしよう。
⋮⋮いや、自分ではどうにもできないかもしれないが。
とりあえず俺が意識を失ったりした時は、容易に近づかないよう
に、と、マーミルに厳命しておくようにしよう。
﹁それにしても、まさか今日の旦那様の醜態が、あの美酒のせいで
あったとは﹂
あれが美酒⋮⋮だと?
いや、今回は一滴も口に含んでないし、以前は飲んだ瞬間に意識
が飛んだから、味は覚えてないんだけど。
﹁まさかサンドリミンはあの酒を飲んでも、なんともないのか?﹂
﹁ええ、ほろ酔い⋮⋮といいますか、少し気分がよくなる程度でご
ざいますね﹂
待て⋮⋮まさか俺って、魔族に利く酒には弱いほうだったりする
のか? そういえばアリネーゼだって、少し陽気ではあったが、我
を失ったりはしていなかったな⋮⋮。
ちょっと待って。酒に弱いなんて、割とショックなんだけど。
﹁これが、勝者の気分⋮⋮まさか旦那様より、私の方が強いものが
あるとは⋮⋮ふっふっふ﹂
いや、サンドリミン。なに浸ってんの。
別に俺は悔しくないからな!
雲行きが怪しくなってきたので、俺はさっさと医療棟を後にした
のだった。
その、自室に向かう途中で。
﹁あ、旦那様﹂
1445
マーミルの部屋から出てきたのであろうユリアーナと、ばったり
廊下で出くわした。
あろうことか、侍女はその場から三、四歩、後退ったのである。
ちょっと待て、その反応。俺が傷つくとは考えないのか。
﹁あ、別に、そういう意味じゃありませんよ﹂
﹁そういう意味ってどういう意味だ﹂
﹁いや、別に、旦那様が臭うとか、そうじゃなくて⋮⋮ほらこれは
あの、恐れ多い気持ちが⋮⋮ですね﹂
﹁今更か!﹂
﹁いえいえいえ、今までももちろん、抱いておりましたけれども、
けいあ⋮⋮けいあ⋮⋮けい⋮⋮けい⋮⋮け⋮⋮け⋮⋮﹂
いや別にそんな無理矢理、敬愛とか言おうとしなくていいから!
っていうか、その絶対口にしたくないと言わんばかりの態度で、
余計傷つくから!
﹁とにかく、旦那様もお疲れでしょ! さあ、ここでお見送りいた
しますので、どうぞどうぞ、ご自分のお部屋に!﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
不審に思いながらもユリアーナの前を過ぎ去った後だ。
背後で霧吹きを吹くような音が聞こえたのでキッと振り向くと、
ユリアーナが慌てて何かを背後に隠すのが見えた。満面の笑顔が胡
散臭い。
﹁いえいえいえ。何でもありません﹂
追求すれば余計傷つくのがわかっていた俺は、そのまま彼女を無
視して自室に戻り︱︱それから一人、枕を濡らしたのだった。
1446
139.大公位争奪戦も、いよいよあと僅かです︵前書き︶
本日2回目の更新です
1447
139.大公位争奪戦も、いよいよあと僅かです
大公位争奪戦も九日目、今日を過ぎれば後は二日、たった三戦を
残すのみ。
そこまでくるとさすがに強さの予測も容易になるとみえ、中盤あ
たりからは勝者予想も大多数が正解を導き出すようになっていた。
そもそも今日の一戦目は一五戦だ。プートの強さは圧倒的だから、
その勝利には疑問を挟む余地もないだろう。
実際にプートはそれまでの戦い︱︱俺との戦いをのぞく、すべて
でそうであったように、圧倒的強さを見せつけてサーリスヴォルフ
に勝利した。
ちなみに、プートはやはり叫ばなかったし、サーリスヴォルフも
酒を振りまいたりしなかった。
一体二人とも、どういうつもりなのだろうか。
ともかく︱︱波乱を呼んだのは、二戦目の三七戦だった。
今までの序列的には、アリネーゼの順位はベイルフォウスに続い
て三位なのだ。
それでも遠慮なく事実を言うと、アリネーゼはこの大公位争奪戦
の間、活躍の場が一つもなかったと言っていい。
プートには瞬殺されたし、俺にも角を切られた。サーリスヴォル
フには翻弄され、最大のライバルと目されていたウィストベルに片
足を奪われ、結果、ベイルフォウスには情けをかけられた。少なく
とも、そう見えた。
だがさすがに相手は新参のデイセントローズ。経験不足もあり、
今度こそアリネーゼが勝ちを得るか、という予想が多数を占めてい
たのだ。
1448
ところが︱︱
﹁申し訳ありません、アリネーゼ。ですが私も、新参だからといっ
て手を抜いてはいられない立場なのです﹂
ひきつった嫌らしい笑みを浮かべてそう宣言したデイセントロー
ズの魔力の餌食となり、アリネーゼは切り刻まれ、気を失って大地
に伏せた。
蓋を開けてみれば、大方の予想に反して結果はデイセントローズ
の圧倒的勝利に終わった。
ああ、もちろん俺には理由がわかっている。
デイセントローズの奴は、あれからまた魔力を増強してきたのだ。
昨日はこれほどではなかった。
もっとも、争奪戦前でもわずかにアリネーゼよりは上回っていた
のだが、増力に増力を重ねた今では、確とした差がついている。
あの苦しみを一晩で何度も経験したのか、あるいは増量される魔
力量は全くの運任せなのか、条件である程度操作が可能なのか︱︱
仕組みはわからないが、とにかくかなり強くなっていた。
具体的にいうと、百マーミルほどだ。
それで勝つのはよいとしても、その後が悪かった。
ただデイセントローズが勝利した、というだけならば、意外だ、
天晴れだとは囁かれても、反感は買わずにすんだだろう。
だが奴は倒れるアリネーゼの衣服︱︱その、ただでさえぼろ切れ
のように切り刻まれ、素肌をのぞかせていた下半身の衣服を、乱暴
に引きちぎるという暴挙に出たのだ。
つまりアリネーゼが失ったはずの左脚の部分を、観衆の前に無慈
悲にも暴いてみせたのだった。
﹁ほう、これは興味深い︱︱別の脚をつけておいでなのですね﹂
1449
確かに、結果は奴の言ったとおりだった。
かつて爛れた雌牛の脚があったその部分には、すらりと伸びた別
の脚がついていたのである。だが、それは以前のように爛れてはい
なかったし、その蹄は竜のものでもない。左右で太さは違ったし、
医療魔術でつけたのだろうが、接続面はなめらかでもなかった。
それでも、牛の脚には違いない。
だが、いったい誰が、そんな風に敗者の意志も問わず、秘部を暴
くことを快しとしただろう。魔族が残虐なのは確かだが、それは相
手に負傷を負わせ、殺すことに躊躇がないというだけのことだ。
デイセントローズのやり方は、一部の性的嗜好者にはたまらない
かもしれないが、多くにとっては眉を顰める行為であったろう。
実際俺も気分が悪かったし、嗜虐的傾向の強いベイルフォウスで
さえ︱︱もっとも友は相手が女性だったために、そういう反応だっ
たのかもしれない︱︱、不愉快でたまらないといった表情を隠そう
ともしなかった。
その行動には観衆たちも一気にざわつき、非難めいた空気を醸し
出したのだ。
﹁勝負のついた後にまで、相手を貶めるようなことはするんじゃね
えよ﹂
ベイルフォウスは自分のマントを脱ぎ、アリネーゼの脚を覆い隠
す。
﹁これは⋮⋮失礼いたしました﹂
デイセントローズは薄く笑うと、魔王様に向かって一礼をし、対
戦場からさっさと退いていった。
この日以後、公の場でしばらくアリネーゼの姿を見た者はいなか
った。
大祭の終了するそのときにも、彼女は姿を見せなかったのだ。
1450
***
翌日の対戦は、五七戦︱︱サーリスヴォルフとデイセントローズ
の戦いから始まった。
昨日のことがあるからだろう、会場はいつもより更にざわめきが
大きい。
﹁今日はずいぶん、サーリスヴォルフ閣下を応援する声が大きいよ
うですね﹂
﹁そりゃあそうだろうよ。いくら大公様といったって、あれはねー
わ。さすがの俺もどん引きだったわ﹂
ヤティーンとケルヴィスが、昨日の対戦について感想を交わしあ
っている。
﹁あんな風に相手を辱めるくらいなら、サクッとヤっちゃうべきだ
と思うね、俺は。一応、相手の命を取ることは禁止されてないんだ
しな﹂
﹁えっ!﹂
ヤティーンのいらぬ言葉に、マーミルが驚きの声をあげる。
﹁お兄さま。今のヤティーン公爵のお話、本当ですの?﹂
﹁そうだな、敗者をいたぶるようなことはいけないな﹂
﹁そうじゃなくて、命を奪ってもいいって⋮⋮﹂
﹁まあ確かに、相手を殺してはいけないと、決められているわけで
はない﹂
魔道具の使用ははっきりと禁止されているが、実はそれ以外の項
目はわりと不問だ。
﹁だが少なくとも今回は、誰も相手を殺そうとまではしないさ。心
1451
配するな。ヤティーンは結果そうなったからといって、責められる
ことはない、と言いたいんだろう。そうだよな、ヤティーン?﹂
﹁や、まあ、そうっす﹂
﹁だが、魔王様も言っていただろう? 今回の大祭行事で、大公を
減らすつもりはない、と。その御意志を大公のみんなもよく知って
いるから、勢い余らないい限り、そんなことにはならないよ﹂
﹁⋮⋮ベイルフォウス様は勢いあまったりしないタイプですの?﹂
﹁心配するな。それこそあいつが一番、兄上の意志には添おうとす
るだろう﹂
﹁よけい心配になってきましたわ﹂
ベイルフォウス。お前結構、信頼されて無いぞ。
うん⋮⋮正直なところをいうと、俺にもここぞというところでは、
あいつのことはよくわからない。
でもまあ、どうせ俺を殺そうとするなら、せっかくだから魔槍ヴ
ェストリプスが手に入ってからにするだろう。
﹁だって、ベイルフォウス様はお強いでしょう? お兄さまと⋮⋮
同じくらい﹂
ん? あれ?
﹁だったらそのつもりはなくっても、何が起こるかわかりませんわ
よね?﹂
さすがに付き合いも長くなると、相手の実力も少しは推し量れる
ようになってくるということだろうか。関係性も含めて。
﹁大丈夫だ。どっちもそんなに間抜けじゃない。そうだろう?﹂
﹁そうかしら﹂
⋮⋮おい!
なに? 女の子って、好きな相手ができると、大好きなお兄さま
にも冷たくなるの?
1452
﹁それで、ヤティーン﹂
俺は話題を変えることにした。
﹁なんすか﹂
﹁お前は五七戦をどうみる?﹂
﹁そりゃあ、サーリスヴォルフ閣下の勝ちでしょう。ってか、そう
でないと嫌ですよ﹂
﹁心情的にか﹂
﹁その通りっす﹂
その前方で、ケルヴィスも深く頷いている。どうやら少年も、同
意見らしい。
昨日一日で、デイセントローズはずいぶん同胞の反感を買ったよ
うだ。
だがどうだろう?
デイセントローズはまたも、少し魔力を増やしてきていた。昨日
ほどではないにしても。
増幅される量は、やはり運任せなのだろうか。日々こうマチマチ
だと、その可能性が高い気がする。
結果、デイセントローズはこの時点で実はサーリスヴォルフより
強くなっているのだが、まだ圧倒的な差がついているという程では
ない。
そうなると、経験値の差で勝負をひっくり返すことも、サーリス
ヴォルフになら不可能ではないはずだ。どの戦いをみても、デイセ
ントローズの戦い方は大ざっぱで未熟すぎる。
あとはサーリスヴォルフの特殊能力次第か。 ﹁で、閣下はどうなんです。どっちに賭けます?﹂
﹁そうだな︱︱俺もサーリスヴォルフに賭けようか﹂
﹁それは︱︱心情的に、っすか?﹂
﹁そういうことにしておこう﹂
1453
俺はヤティーンに笑いかけた。ところが、だ。
﹁⋮⋮なんか企んでそうで不気味です﹂
殴っていいかな、この雀、殴っていいかな!
とにもかくにも、五七戦が始まった。
意外なことに、デイセントローズの攻撃は精彩を欠いた。
もしかすると、自分の方が相手を上回っているという確信がもて
ないことからくる不振なのかもしれない。それも考えてみれば当然
か︱︱俺とウィストベルの赤金の瞳でもなければ、そうそう魔力の
強さなど、はっきりわかるはずもないのだ。
それに加えて、サーリスヴォルフには特殊能力がある。いや、デ
イセントローズがそれを知らないとしても、まあ疑って警戒くらい
はするだろう。
自身がご大層な特殊魔術を持っていて、それを防がれたことがあ
るからにはよけいに︱︱
そうして実はここにきて、俺はようやく気づいたことがある。
サーリスヴォルフの動きについてだ。
俺の時もそうだったが、サーリスヴォルフは相手の攻撃を紙一重
ほどのギリギリで交わすことが多い。あるいは一瞬前に、対抗策を
講じているか、だ。
こうして実力の近い相手との戦いだからこそ顕著に見えたのかも
しれないが、それはまるであらかじめ予想ができているかのような
︱︱
﹁ヤティーン﹂
﹁なんすか﹂
面倒くさそうに答えるなよ。俺は上司なんだぞ!
もっと丁寧にしろよ。傷つくだろ! 意外に繊細なんだから!
ただでさえ、このところは傷つきっぱなしだというのに⋮⋮。
1454
﹁サーリスヴォルフの戦い方についてどう思う?﹂
﹁面倒くさそうっすねー。ジャーイル閣下は隙がなさすぎて、って
いうか、全方位得意な感じでソツがなさすぎてホント嫌な感じです
し、強すぎてやってられないっすけど、サーリスヴォルフ閣下はサ
ーリスヴォルフ閣下で、面倒ですね﹂
さらっと俺も非難するんじゃない。
それにしても、面倒、か。
﹁それは先手を読まれるからか?﹂
﹁そうっす﹂
やはりそういうことか。昨日もやたら、ギリギリに避けられてる
と思ったんだよな。
どうやらサーリスヴォルフは相手の動きをよむことに長けている
らしい。
⋮⋮まさか⋮⋮確かに今までも、ちょっと勘がいいな、と思って
はいたんだけど⋮⋮まさか、まさか、だよ?
心の中は読めたりしないよな!?
俺が常日頃、あんなことやこんなことを考えているとか、そんな
ことまではまさかわからないよな!?
いや、ちょっと待て俺。
それがサーリスヴォルフの特殊魔術と決まった訳じゃないぞ。
ホントに単に、勘がいいだけかもしれない!
相手の動きを読めるわけではないかもしれない!
ましてや、心の中をだなんて⋮⋮!
でも⋮⋮万が一そうだったらどうしよう⋮⋮。
今度から彼に接する時は、心に壁をつくろう︱︱そう決意した俺
1455
なのだった。
ところで、勝負はサーリスヴォルフが勝利した。
やはり、経験の少ないデイセントローズでは、年長者の妙手には
対応しきれなかったのだ。
サーリスヴォルフは決して魔力同士を直接ぶつけあうようなこと
はせず、俺にそうしたように小細工を弄してデイセントローズを翻
弄したのだった。
それが今度は覿面に利いた。
結果、デイセントローズは昨日アリネーゼにしたことを、今度は
逆にされたようなボロボロの姿で地に伏せた。
もっとも、サーリスヴォルフも無傷ではなかったし、危うい戦い
ではあったのだが。
とにかく魔力の差をものともせず、サーリスヴォルフはその戦闘
に勝利したのだった。
1456
140.やはり、友とは名ばかりの関係かもしれません
ベイルフォウスくんの機嫌が悪い。
﹁おい、あれはなんだよ﹂
いきなりあれってなんだ。
昨日、アリネーゼをひどい目に合わせたのは、俺じゃないぞ。あ
と、その報いは、きっちり、午前のサーリスヴォルフがとってくれ
たぞ。
﹁なぜ、俺がマーミルにあんな態度をとられなきゃならん﹂
﹁あんな態度って?﹂
﹁目が合っただけで、舌を出された。俺は近頃、全くなにもしてな
いってのに﹂
え、あ、そうなの?
マーミル⋮⋮よっぽどベイルフォウスが大公位争奪戦を言い出し
たのが、気にくわなかったんだな。ほんとにやるとは。
﹁それともあれか? 寂しくてすねてるのか? そろそろ構ってほ
しいって合図か?﹂
ベイルフォウスくん、気持ち悪い。
﹁プートと戦って、俺がひどい目にあったからだろう﹂
﹁それが俺と何の関係がある﹂
﹁お前が大公位争奪戦を言い出したからだろう﹂
﹁それで、か?﹂
﹁それで、だ﹂
﹁そんなことで⋮⋮﹂
﹁子どもなんてそんなもんだ﹂
﹁そうか。⋮⋮なら、仕方ないな﹂
1457
マーミルに対する懐の深さを、俺にも示してくれないだろうか。
友だというのならば。
﹁あーオホン﹂
魔王様が俺とベイルフォウスの間で、あきれたように咳払いをし
た。
﹁対戦前の会話は控えるべきではなかったのか?﹂
先日、くっちゃべるのは対戦が終わってからにしろ、といった本
人は、敬愛するお兄さんに注意を向けられて、おとなしく口をつぐ
む。
ゆっくり昼食をとっている間に、気づけばもう午後だ。
つまりいよいよ、俺は親友との対戦の時を迎えたのである。
大公位争奪戦の担当者であるベイルフォウスと、大祭主である俺
が戦う今日の審判をつとめるのは、誰あろう魔王様だ。
マーミルはもちろん家族席にいるし、ベイルフォウスの方の席は
いつかと同じ、両親の姿があるようだった。
もっとも、あまりこっちに注意が向いていないようなのだが⋮⋮
できればマーミルには、そちらを見るなと注意しにいきたいが、ダ
メだろうか。ダメだろうな。
まあ間に俺たちを挟むんだから、妹からあんな遠くまで見えるわ
けはないか!
﹁それでは、始め!﹂
魔王様の合図のもと、俺たちはすぐさまそれぞれ百式を展開した。
先に発動したのはベイルフォウスの炎熱魔術だ。大地から何本も
の火柱が渦を巻いて立ちのぼり、まるで蛇のようにうねりながら俺
に向かってくる。
﹁氷はやめたのか?﹂
﹁お前との戦いに、得意でもない魔術を持ち出すほどバカじゃない﹂
1458
﹁過大な評価をどうも!﹂
反撃とばかりに、俺は氷結魔術を発現させた。ベイルフォウスの
火柱にまとわりつき、氷柱に変えようとする。
だが炎は、表面を撫でられたように一旦は凍り付くのだが、それ
が中心まで届く前にまたいっそう強く燃え始め、氷を溶かしてしま
うのだ。そうかと思えば氷の方もすべて溶かされきる前にまた勢い
を戻し、さらに温度を下げて炎を捕らえようとする。
俺とベイルフォウスの魔力が、それだけ拮抗しているということ
だろう。
それはいずれ勢力の衰えるまで放っておくとして、次の百式にと
りかかる。
光とと光がぶつかり合い、爆風が大気を薙いだ。
まずは小手調べ、の感が強いためか、お互いの魔術はまだ相手の
身には届かない。
﹁なあ、提案があるんだが!﹂
轟音に混じってベイルフォウスの声が届く。
﹁なんだよ!?﹂
﹁今しばらく、得物でやらないか!?﹂
願ってもない提案だ。強い相手と強い武器を握って戦えるのは、
純粋に楽しい。
﹁いいだろう。受けて立つ﹂
俺とベイルフォウスは剣を引き抜いた。
しばらく俺たちは、大地を蹂躙していたお互いの魔術が自然と消
滅するまで待った。
その間にはもちろん、双方自分の剣に百式をまとわせている。
当然、魔術をぶつけ合う戦いをやめても、大公位争奪戦をただの
武器だけで戦うほど、俺もベイルフォウスも無粋ではない。
1459
風が収まったのが合図だった。
百式で魔力を漂わせた剣戟は、それだけで火花を散らせ、爆風を
巻き起こす。
ベイルフォウスがその風に乗るように回転し、速度の増した一撃
を叩きつけてきた。その剣身を、溶かさんばかりの焔をまとわせて。
受ける俺の剣がほとばしらせているのは、触れれば脳天を貫く雷
だ。
鋭い刃と刃がぶつかり合い、すさまじい金属音と爆発音が鼓膜を
麻痺させる。
﹁このつもりなら、なぜ槍にしなかった?﹂
打ち合いながら、俺はベイルフォウスに問う。
﹁決まってる。不公平だからだ﹂
そう言って、親友は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
﹁剣では槍に勝てん﹂
﹁まるで槍なら俺に勝てたような言いぐさだな!﹂
そう強がってはみたものの、全く、ベイルフォウスの主張は正し
い。
確かに間合いが長い分、打ち合いで圧倒的に有利なのは槍だ。
だがそれはあくまで力の無い者が、普通の剣と槍で戦った、通常
の戦いのこと。
﹁だが、大祭が終わって俺があの槍を手に入れたら、そのときは︱
︱﹂
魔槍ヴェストリプスのことか。
﹁お前はあの魔剣をもって、手合わせしよう﹂
﹁ああ、そうだな!﹂
1460
否と答える訳がない。
剣だけの戦いなら、まだ魔王様との約束も残っている。だが、魔
槍ヴェストリプスを持ったベイルフォウスと、魔剣レイブレイズを
持った俺。一度、本気で斬り合わせてみたいとは思っていたのだ。
ベイルフォウスが剣を振るうたび、そこから放たれた炎が黒い大
地の上を舐め、一帯を炎の池に変える。
俺が剣を振るうたび、天空には稲光が横切り、地上を二つに分か
った。
﹁うるせえ剣だな!﹂
﹁お互いさまだ!﹂
剣合わせの何度目かで飛びすさり、間合いを計る。
今日はサーリスヴォルフの庭でそうしたように、軽い運動ですま
せたりはしない。
これは大公位争奪戦。プートの時の二の舞になるのはごめんだ。
殺しあいではないとしても、ベイルフォウスを相手に手を抜くとい
うのは、命を捨てたも同義なのだから。
﹁悪いが、槍使いに剣で負ける訳にはいかん﹂
﹁そうかよ!﹂
俺は遠慮なく、攻勢に出ることにした。
ベイルフォウスが横に薙ごうとするのを、下方に滑らせて弾き、
そこから瞬時に刃先を振り上げる。
﹁っ﹂
赤く長い髪が数本、風に漂って地に落ちた。
追撃するように空を裂いて振り下ろし、今度は前髪を切る。
1461
﹁ほんっとお前、時々容赦ねえよな!﹂
﹁無駄口たたく余裕があるんだから、言う程じゃないだろ!﹂
刃を合わせるごとに生じる烈風が、炎の海をかき消し雷を分断す
る。
炎が俺の皮膚を焼き、雷がベイルフォウスの肌を焦がした。
﹁くっそ、お前ホントに強いな! 普段でもやっぱ剣だと分が悪い
ぜ!﹂
俺の剣勢に、ベイルフォウスは後退しつつ奥歯をかみしめる。
ぶつかりあう魔術は互角でも、剣技で俺に軍配があがりそうだっ
た。
﹁前言撤回。悪いな﹂
ベイルフォウスは大きく飛びすさり、左手一閃、術式を展開させ
る。
突如として前方に現れた岩壁を、俺は即席魔剣で打ち砕いた。
が、視界が開けたそこに待っていたのは、無数に蠢く蜘蛛の姿だ。
着地したその足下から、ぶちぶちと、嫌な音がした。
﹁げ﹂
足裏から頭頂まで、震えが走る。生理的な反応ばかりは、なんと
も止めようがない。踏みつぶしたものが召喚された生身の生物では
ない、という事実がわかるからといって、慰められるものでもない。
蜘蛛はベイルフォウスの魔術を顕現させた、造形魔術だった。だ
というのにそれらは、一部の尊い犠牲を無駄にはしないと決意を固
めたように、その口から糸を吐き出してくる。鋼鉄と紛う強度の糸
が、俺をからめ取ろうと四方八方から襲いかかってきた。
一瞬みせた躊躇のために危うく捕らえかけられたが、足に傷を負
い、即席魔剣を欠けさせながらもなんとか防いでみせる。
1462
それと同時に、百式三陣を展開。ベイルフォウスの魔術に応えて、
こちらは棘ある蔓に生えた黄金の薔薇を顕現させる。
そう。俺の紋章だ。
そうというのも、巣を張る蜘蛛は、親友の紋章だったのだから。
薔薇の蔓は蜘蛛を棘で刺し、蜘蛛は薔薇を鋼鉄の糸で縛って、お
互いの攻撃力を削り合っている。蔦はわずかにベイルフォウスの頬
を撫でただけで終わり、糸は俺を取り逃がした。
奪い奪われするその状況から、どちらの魔術が上回っているかを
判断するのは難しい。
﹁嫌な予感はしてたが、やっぱりか﹂
ベイルフォウスが吐き捨てるように言う。
﹁力が拮抗しすぎて、消耗戦にしかならねえ!﹂
﹁だから剣で勝負をつければ、話が早いだろ?﹂
俺は再び間合いを詰め、欠けた剣で襲いかかる。
﹁俺に三位になれってか﹂
面白い、と言わんばかりにベイルフォウスが勝ち気な笑みを浮か
べた。
﹁断る!﹂
だよね!
親友は俺の斬撃を受け止めつつ、だがやはりまともな打ち合いに
は応じようとしない。
﹁いいだろう、ならどちらかの体力が尽きるまで続けるまでのこと
だ!﹂
本 当 に そ う な っ た。
俺もベイルフォウスも、今回はいっさい手を抜かなかったおかげ
1463
で、本当にそうなった。
俺たちは魔術をぶつけ合い、相手を出し抜き出し抜かれてお互い
に傷つきあい、そうして結局、息も絶え絶えに、どちらもボロボロ
になった剣を杖にしてようやく対峙している有様だ。
﹁も⋮⋮もう、いい、加減に、諦めろ、よ!﹂
﹁お、お前こそ⋮⋮っ﹂
応えながら、ベイルフォウスの体がぐらりとつんのめる。
そのまま大地に伏せるかと思ったが、かろうじて片膝だけをつい
た状態でもちこたえた。
だが、俺だって似たようなもんだ。少しでも気を抜けば、もう立
ってもいられない。
﹁くそ⋮⋮﹂
ベイルフォウスは剣の柄を握りしめ、なんとか立ってみせた。
本来ならその間にしかければよかったが、今は俺の体力も気力も、
それから魔力ですら、もう一滴だって絞り出せない。
﹁もう、よいのでは?﹂
﹁陛下、どうぞ決着を﹂
﹁ルデルフォウス陛下﹂
裁定を求める観衆のささやきが、やけに大きく響いて聞こえた。
それに応えた、という訳でもないだろうが、魔王様が対戦場に進
み出る。
そうして火花だけを散らし合う俺とベイルフォウスの間に立って、
穏やかな表情でこう宣言したのだ。
﹁双方よく戦った。この対戦は、ここまだ﹂
正直助かった⋮⋮もしこのまま死ぬまで続けろ、といわれたら、
その瞬間、俺は膝から崩れ落ちていただろう。
1464
﹁大公ベイルフォウスと大公ジャーイルの勝負は、引き分けと判定
する︱︱﹂
﹁は⋮⋮なんだよ、それ⋮⋮ふざけん、な⋮⋮﹂
ベイルフォウスが珍しく兄の決定に異を唱えながら、今度こそ力
が抜けたように前のめりに倒れ込んだ。
俺が意識を失ったのも、それから一瞬後のことだった。
1465
141.えーーっと⋮⋮なんだ、これ
ベイルフォウスくんの機嫌がやっぱり悪い。
﹁気に食わねえ。引き分け、だと!?﹂
医療班の治療を受けながら、俺を正面から睨みつけてくる。
一方の俺も、もちろん同様に治療を受けていた。
すでに日は暮れ、地平線には紫雲が垂れ込めている。
今日も治療に少し時間がかかりそうだったため、マーミルたちは
ヤティーンの護衛の元、先に帰してある。
﹁ぷーーーーーーくすくす! ベイルったら負けてやんのーー﹂
﹁負けてねえよ! 殺すぞ貴様﹂
﹁だめよ、ユーくん。ベールちゃんは貴方に厳しいんだから、本当
に殺されちゃうわ!﹂
ベイルフォウスの治療台の横で、妙に明るい笑い声をあげている
のは、魔王様に似た軽薄そうな男性。それをやたら可愛さを狙った
仕草で諫めているのは、ベイルフォウスに似た赤毛美女だ。
ベイルフォウス⋮⋮お前の両親って⋮⋮。
﹁っていうか、ベールちゃん⋮⋮﹂
﹁うるせえ、忘れろ。っていうか、聞かなかったことにしろ﹂
ベイルフォウスは俺にそう言うと、両親に向き直った。
﹁親父もお袋も、いてもイラッとするだけだから、とっとといちゃ
つきに家に帰れよ﹂
﹁まあ、ひどいっ。ベールちゃんがこんな乱暴な口を効くのも、も
とはといえばルー﹂
1466
﹁母上!﹂
夕暮れの中、どこからともなく魔王様がやってきて、赤毛美女の
口を背後から塞ぐ。
なんだろう。まさか魔王様も、弟のようにルールーくんとでも呼
ばれているのだろうか。
だとしたら、一度聞いてみたい。
﹁ベイルフォウスのことは私に任せて、どうぞご帰城ください﹂
﹁あらーん。そう?﹂
﹁はい、ぜひとも!﹂
﹁そうねぇ﹂
赤毛美女は長男に頷きながらも、俺の方に視線を向けてくる。
﹁じゃあ、最後にご挨拶をしてからね!﹂
そう言うや腰をフリフリ、俺のところへやってきたのだ。
そうして︱︱
﹁よくもうちの可愛いベールちゃんを、ヒドい目にあわせてくれた
わねーー。お仕置きよ、えーーい﹂
ぎゅっと握った小さな拳を、俺の肩口に軽く当ててきたのだ。 そのときの俺の心境を言い表してもいいだろうか。
なんだこれ。
なんだこの美女。
ベイルフォウス、お前の母上って⋮⋮。
﹁やめろ、なんで俺だけそんなかわいそうな目で見るんだ。見るな
ら兄貴を見ろ﹂
だって母上はお前に似てるじゃないか。激似じゃないか。
1467
﹁でもホント、さすがにベールちゃんを抜かして、一位に選ばれる
だけあるわね。近くでみてもきれいなお顔﹂
﹁貴女こそ、とてもお綺麗です﹂
珍しく、お世辞を言ってみる。いや、本当のことではあるが、ベ
イルフォウスに似すぎてて、残念なことにそれ以上の感想は沸いて
こない。
もっとも言っておくが、いくら本当でも、普段なら俺はこんなほ
め言葉はめったに口にしない。
マーミルがいないことが、クサイ台詞を口にできた最大の理由。
お兄さまが軽い、だなんて、妹には思って欲しくない。
理由はもう一つ。なんといっても、彼女はベイルフォウスの母で
あると同時に、魔王様の母上なのだから!
ご機嫌はとっておいたほうがいいだろう。
だが失敗したかもしれない。なぜというに︱︱
﹁まあ、嬉しい﹂
﹁え、ちょ⋮⋮﹂
うっとりとした表情で、赤毛美女が俺の頬に唇を押しつけてきた
からだ。
いいや、避けなければ頬ではなく、口を塞がれていたに違いない。
﹁ああああああ!!!!!﹂
﹁母上!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ファルファル! おのれ、大公とはいえ、ファルファルを誘惑す
るとは許せん! 剣の錆にしてくれる!!!﹂
魔王様似の父上が、腰の剣を引き抜いて、俺をめがけて突進して
きた。
﹁父上、落ち着いてください!﹂
1468
﹁ええい放せ、ルデルフォウス!﹂
﹁兄貴、ほうっておけよ。それこそジャーイルに、痛い目あわせて
もらえばいい﹂
兄弟の反応は対照的だった。
魔王様はいつもの冷静さをかなぐり捨てて、俺にとびかかろうと
する父親をあわてた様子で羽交い締めにしているし、ベイルフォウ
スは飄々としたもので、父親の運命に冷たい判断を下す。
だがその事態を引き起こしたのが母親なら、見事、収めたのも母
親だった。
﹁嫉妬してくれて、嬉しい。やっぱりユーくんは、私一筋ねっ!﹂
フォウス兄弟の母上︱︱ファルファルさんは、感極まったように
魔王様似のユーくんに飛びついたのだ。そうしてあろうことか。
﹁もちろんだとも、ファルファル! 君さえいてくれれば、僕の人
生はいつだって薔薇色だ!﹂
俺たちのことなどおかまいなしに、二人は熱烈に包容しあい、口
づけを交わしだしたのだった。
ほんっと、マーミルを帰していてよかった。
﹁だから言ってるだろ、兄貴。ほうっておけって﹂
俺とほぼ同時に治療の終わったベイルフォウスが、台から降りて
兄の傍らに立ち、その肩を叩く。
だが魔王様は弟にはかまわず、殺気だった様子で周囲を睥睨した。
﹁治療は終わったようだな。ではとっとと帰るがいい﹂
地の底から届いたような、低い声が響く。
どうやら魔王様は、両親をこの場から追い出すのは諦め、俺たち
の方を追い払うことに決めたようだ。
﹁今見たことはすべて忘れろ。そして、とっととこの場から去れ。
1469
命が惜しくば、決して振り返るな﹂
大丈夫。内緒にしてあげますからね、今日のことは。
俺はフォウス兄弟に若干の同情心を覚えながら、その場から立ち
去ることにしたのだった。
***
一夜明け、気分は妙にすっきりとしている。なんというか、久し
ぶりに落ち着いた心持ちだ。
これもそれも、俺の戦いが昨日で終わったから︱︱そうして、大
祭が今日で終わりを迎えるからかもしれない。
﹁百日も続いた大祭が、いよいよ最終日を迎えると考えますと、感
慨深いものがございますね﹂
最後の衣装を一緒に選んでくれているエンディオンの表情も、ど
こか穏やかだ。
﹁ほんとになー。俺もようやく、大祭主の役目から解放されると思
うと、ホッとするよ﹂
﹁ええ、本当に。我々︿断末魔轟き怨嗟満つる城﹀の家臣と致しま
しても、旦那様の戦いが昨日ですべて無事に終了されたという事実
に、安堵いたしております﹂
どうも大公位争奪戦が始まってからというもの、城内の空気はピ
リピリとしていたらしい。
﹁なにより、公明正大なフェオレス公爵にはもちろん不満などござ
いませんが、やはり旦那様が城にいらっしゃる日常を取り戻せると
いうことが、家臣としてはもっとも喜ばしい事実でございましょう﹂
エンディオン⋮⋮君が女性だったら、俺は惚れていたかもしれな
い。
1470
﹁しかし、これで旦那様の序列は、大きくあがりましたね﹂
感服したようにいいながら、家令は蒼いマントを羽織らせてくれ
た。
﹁まあ、まだ一二戦が残ってるから、何位とまではっきり決まった
訳じゃないけどな⋮⋮﹂
そう答えてはみたが、結果はもう見えたようなものだ。
俺の勝敗は、今のところ四勝一敗一分け。ベイルフォウスとプー
トの戦いも、おそらく今の序列のままの結果をはじき出すだろう。
そうなるとプートは全勝、ベイルフォウスは俺と同じ、ということ
になる。
いいや。まだ大公位争奪戦は終わったわけじゃない。ベイルフォ
ウスが俺の予想を裏切って、プートに勝利しないとも限らないでは
ないか。
それに、仮に大公位争奪戦が終わったといっても、大祭までもが
それですぐ終了、となるわけじゃない。
自分の戦いがすべて終わったからって、気を抜いたらダメだぞ。
あと少し、緊張感を保って行こうじゃないか。
﹁よし!﹂
俺は最後の仕上げに、レイブレイズを腰に挿した。
万が一、一二戦が終わった後に誰かが挑戦してきたとしたら、そ
いつには気の毒だと言うほかない。今日はこの魔剣で相手をするこ
とになるだろうから。
エンディオンや妹に見送られながら、俺は今日も大公城を後にし
たのだった。
最後の戦いは、プート対ベイルフォウスだ。
1471
これが午前の間に行われ、それからいつものように大公への最後
の挑戦を受け付けた後、魔王様と俺たち大公は旧魔王城の跡地を出
て、現魔王城へ向かうことになる。
そうしてそこでパレードを出迎え、ひとしきり騒いだその後、い
よいよ俺と魔王様の宣言で長かった︿魔王ルデルフォウス大祝祭﹀
は終了を迎えるのだ。
ちなみに、百日間と決めてはじまった大祭は、実は今日の時点で
もう百一日目を数えている。さらにいうと終了宣言がなされるのは
明日の明け方、ということになるので、百二日をもって終了という
ことになるのだった。
最初の予定からずれてしまったのだが、まあ魔族なんだからそん
なもんだろう。
さて、最後の戦いの判定人をつとめるのは、もちろんこの俺だ。
﹁全力で戦うのはいいが、この後まだ行事があるのを忘れるなよ﹂
俺はプートとベイルフォウスの間に立って、二人にそう注意を促
した。
もちろん口だけだ。結果は期待していない。
大公同士の戦いで︱︱それもこの二人が、適度に手を抜いてやり
合えるわけがない。どちらも医療班の長い治療が必要な状態になっ
たというのなら、無慈悲に置き捨てて移動するまでだ。
そして十中八九、そうなるだろう。なぜって二人とも、俺の方な
んて一瞥もせずにらみ合っているのだから。
﹁では、はじ︱︱﹂
最後まで言い終わる前に、ベイルフォウスの手元から火矢が放た
れた。
それは俺の鼻先を掠め、まっすぐプートに向かっていく。
後で覚えているがいい、ベイルフォウスめ!
1472
熱くなった鼻面を抑えながら、俺は緩衝地帯に飛び退いた。
1473
142.戦いの結果が出そろい、順位もやっと決まりました
プート対ベイルフォウス。
二人の戦い方は、どちらも俺とやったときとは全く様子が異なっ
ていた。
まず一つ目。会話が全くないのだ。
ベイルフォウスがプートを相手に無駄口を叩かないのはまだわか
るとしても、プートにはこう言いたい。
俺と対戦したときの、数々のあの恥ずかしい叫びはなんだったん
だ!!
と。
そして二つ目。
二人とも、肉弾戦をしかけようとしない。
ベイルフォウスとプートは、いつも会議の席でそうであるように、
お互いギラギラとした目でにらみ合い、ただ力の限り魔術をぶつけ
合っているだけだ。
その魔術も、たとえばベイルフォウスは俺とやるときには技巧を
凝らしていたと思うのだが、今は本当にただの力押しだった。
大きいことはよいこと、とばかりに大爆発があちこちで誘発する
が、天を目指して盛り上がった土壁がその威力を阻んでしまう。
渦を巻いた炎がプートに襲いかかれば、それを突き破ってうねっ
た大地がベイルフォウスを叩こうとする。
防御と攻撃のためにベイルフォウスが炎赤竜を顕現させれば、プ
ートは土傀儡を顕現させる。
目の前ではそんな風に、ベイルフォウスが火炎の魔術を発動すれ
ば、プートは大地の魔術で迎え撃つ、という戦いが繰り広げられて
1474
いた。
確かに双方派手ではあるが⋮⋮なんか、物足りない。殺気だけは
確かに強いが、魔術がおおざっぱすぎる。
まさか二人とも、本気を出していないんじゃないだろうな?
おい、ベイルフォウス! お前、俺にさんざん勝つ気でいけとか、
自分は勝つとか言っておいて!
いいや、手を抜いている、という感じではない。だが明らかに戦
い方が、俺の時とは全く違う。
ああ、なんかこの気持ちを誰かと語り合いたい!
俺はちらりと魔王様を見た。
魔王様はすぐにこちらの視線に気がついたが、苦虫を噛み潰した
ような表情を浮かべ、目の前の戦いに集中しろ、とでも言わんばか
りに顎をクイッとやった。冷たい。
はいはいはい。わかりましたよ。
ちなみにウィストベルのことは、いろんな意味で最近怖いのであ
んまり見たくない。
とにかく二人の戦いは、意外にも予想より早く決着がつこうとし
ていた。
双方傷は負っているが、プートのは浅く、ベイルフォウスのは深
い。
俺の時と同じようにプートが考えた訳でもないだろうが、ベイル
フォウスの頬にはざっくりと創傷が刻まれている。
﹁ちっ! 相変わらず、ビクともしねえでかわいげのねぇ奴!﹂
﹁お前こそ﹂
それが二人の、唯一交わした言葉だった。
1475
ベイルフォウスが最後の挑戦とばかりに、即席魔剣に炎をまとわ
せて斬りかかる。プートは武具など使わずに、やはり自分の肉体に
防御魔術をまとわせてそれを受け止め反撃した。
戦う二人の背後で、土傀儡が火炎竜を消し潰す。
同時にプートがベイルフォウスの剣を砕き、とっさにガードした
その両手をも砕ききった。
ベイルフォウスの敗北で、勝負はついた。
その後、大公への挑戦者を募ったが、やはり今回も名乗りを上げ
る者は一人としていなかった。
結局大公位争奪戦の全日程を通して、挑戦されたのは俺一人、挑
戦したのはコルテシムスの一人で終わったのだ。
治療を終えたベイルフォウスが全ての戦いの終結を宣言し、十一
日に及んだ大公位争奪戦はこうして幕を下ろしたのだった。
***
現魔王城の露台にそろって移動して、まず行われたのは魔王様に
よる新たな大公位の発表だ。
ただ一人、アリネーゼの姿はないままに。
﹁大公位争奪戦の結果を得て、新たな大公位が決定した。では発表
する﹂
眼下を埋め尽くす臣民が、我が同胞たちが、興奮の声をあげる。
﹁まずは七位。アリネーゼ﹂
一瞬、歓声が止む。本人がこの場にいないことに加えて、その結
果を迎えることとなった戦いの数々を思い出すと、さすがの魔族も
悲壮感を漂わさずにはいられないのかもしれない。
1476
﹁六位、デイセントローズ﹂
順当だ。だがこの発表も、一部が沸くだけであまり歓迎されたよ
うには感じられなかった。
﹁五位、サーリスヴォルフ。四位、ウィストベル﹂
この辺りになると、ようやく観衆も元気を取り戻す。ウィストベ
ルのアリネーゼに対する所行に眉をひそめた者もいるかもしれない
が、表だっては聞こえてこない。
さて、問題はここからだ。大公位争奪戦の結果、俺とベイルフォ
ウスは同成績だが︱︱
﹁三位︱︱ベイルフォウス。二位がジャーイルだ﹂
一つ向こうから、友の舌打ちが聞こえてきた。
﹁これは疑問に思う者もあるかもしれん。両者は引き分けたのだか
らな﹂
公式記録に投げっぱなしの弟と違って、兄は説明をするようだ。
まあもしかすると、観衆に、ではなく、弟に対して、なのかもしれ
ないが。
﹁確かに二名の実力は、拮抗していた。だが、終了宣言の後、わず
かにベイルフォウスの方が先に倒れたこと、それに加えてプートと
の対戦の内容を考慮し、今回の順位を決定した﹂
おお、あの引き分けの判定の後の態度も考慮されてたのか。確か
に俺の方が一瞬後に気を失ったっけ。
﹁まあいいさ。気に食わなきゃ、もう一回やりゃあいいことだしな﹂
ベイルフォウスがため息混じりで呟く。
その時は、魔剣レイブレイズと魔槍ヴェストリプスで戦うことに
なるんだろう。
1477
⋮⋮あれ? そういや、再戦の約束はとっくにしてたっけ⋮⋮。
﹁当然一位はプートだ。これを、大公位争奪戦の結果とする﹂
﹁うおおおおおおおお!!!﹂
﹁大公閣下、万歳!! 魔王陛下、万々歳!!!﹂
アリネーゼ不在の影響か、やや精彩は欠くものの、その結果は観
衆たちの歓声によって迎えられたのだった。
さて、次は俺の番かな。
すでに平原の向こうは、数多の煌めく頭部で埋め尽くされている。
その大人数が近づくにつれ、大地も微震するようで、その一団が移
動するにあわせて、歓声もいや増す。
百日︱︱いいや、百一日前に旧魔王城を出た八百余名が、ようや
くこの新魔王城へと、今日、たどり着くのである。
ほとんど休みもなく、歩き詰めだった彼らには、盛大な歓迎こそ
ふさわしい。
﹁さあ、彼方を見るがいい﹂
俺は露台を進み出て、観衆に背後の南方を指し示す。
﹁いよいよ大祭主行事の最後の締めくくり︱︱パレードの到着だ。
大祭の間、我々の心をその麗しい姿で満たしてくれた彼らには、最
大の賛辞と歓待こそふさわしい。そうではないか、同胞よ﹂
﹁おおおおおおおお!﹂
観衆たちは手を挙げ声を上げ、祝意を表した。
毎回思うが本当、魔族のこのノリの良さはたまらないな。
﹁道をあけて手を叩け! 足を踏みならせ! 飛べる者は飛んで歓
迎の心尽くしを見せてやれ! さあ、パレードの到着だ!﹂
魔王城のきざはし︱︱︿大階段﹀に最初の一歩がかかる。
ここまではそれぞれ魔獣に乗り、車に乗っていた者たちも、魔王
1478
城の下に広がる平原で下車し、徒歩で上がってくる。
さすがに大人数のパレード。あの千段に及ぶ︿大階段﹀でさえ、
すぐに彼らの頭部で埋め尽くされてしまった。
︿大階段﹀の両端には彼らを歓迎し、炎を吹き出す者、花火を挙
げる者、水芸を披露する者、色鮮やかな花をまき散らす者、魔術と
歓声での歓迎を惜しむ者はない。
そんな賑やかな楽しい光景の中。
﹁ウォーホッホッホ! ウォーホッホッホ! ウォーホッホ⋮⋮ブ
フォ!﹂
⋮⋮なんだ、この徐々に近づいてくる変な笑い声。
ちょっとだけ、嫌な気がした。
﹁ご 一 同 、お 待 た せ い た し ま ゴ ボ ォ !!﹂
おいウォクナン! いや、確かに先頭きってくる資格はあるけど
⋮⋮あるけどさ!
こんな時くらい口の中はスッキリあけたまま来いよ! 口の中の
もの、きっちり吐き出して来いよ!
なんでこの場でも、リンゴとかバナナとか、ポロポロこぼしなが
ら上がってくるんだよ!
せっかくの空気が台無しだろ!!
とにもかくにもパレードの面々が無事に全員魔王城の前庭に勢ぞ
ろいすると、その参加者、観衆たち、この場にいる全員に酒を満た
した杯が配られ、そうしてこの大祭最後の乾杯の音頭が魔王様によ
って取られたのだった。
⋮⋮ちなみに酒は、もちろんあれではない。
1479
﹁ジャーイル閣下! みましたぞ!﹂
乾杯の後は、パレードの面々を労う目的で、そうしてその他の同
胞たちとも最後のバカ騒ぎをするため、魔王様も大公も、露台から
降りて前庭のあちこちで酒を酌み交わしている。
主役である魔王様はウィストベルと一緒にあちこちで歓迎されて
いるし、サーリスヴォルフはここぞとばかりに男女の区別なく声を
かけているようだ。プートも美女に囲まれてご満悦だし、ベイルフ
ォウスは言わずもがな。あろうことか、盛大に反感を買ったであろ
うあのデイセントローズさえ、デヴィル族の女性の歓待に鼻の下を
伸ばしているではないか。
だというのに、何故、俺だけこんな口からポロポロ食べ物をこぼ
すおっさんとの歓談なのだ。
﹁閣下? どうしました、また吐きますか?﹂
﹁ただの酒で、吐くか。っていうか、なぜあの件を知ってる﹂
﹁そりゃあ、パレードの最中とはいっても、私は別に愛想を振りま
かないといけない立場でもありませんからね。あの日はちょうど、
アレスディア殿も近くにはいなかったし、暇つぶしに閣下の戦いを
みていたんですよ!﹂
暇つぶしかよ! 上司の戦いを見るのが、暇つぶしかよ!
﹁まあとにかく、大公位争奪戦を戦いきって、何はともあれ序列を
駆け上がられた閣下を祝して、この忠実なる臣下より﹂
ウォクナンは頬袋の奥から、唾液まみれのサクランボを取りだし
た。
﹁その手に持ったグラスに、この熟した深い味わいを捧げましょう﹂
おお、なんと器用な舌だ! つるがハートの形に⋮⋮って、うる
さいわ!
なにが忠実なる臣下だ!
1480
もう一度言う。なぜ俺だけがこんなおっさんを相手にしなければ
いけないのだ。
1481
143.我らが主は、いつだって気まぐれなのです!
祝宴は夜更けまで続き、顔ぶれは種々様々に入り乱れ、入り交じ
る。
中にはそっと手を取り合って闇の中に消えゆく恋人たちもいれば、
火花を散らして殴り合う者たちもいる。
月と明かりは煌々と輝き、あちこちで術式が発動され、不夜城と
呼ぶに相応しいその賑わいは、魔族たちの体力同様、永遠に続くか
と思われた。
だが、何事にも終わりはやってくるのだ。
俺は美女といちゃついていたベイルフォウスを引っ掴まえて、と
ある場所を訪れていた。
そう、︿運営委員会本部﹀だ。
﹁君たちがよくやってくれたおかげで、この︿魔王ルデルフォウス
大祝祭﹀も、大事なく今日の日を迎えることができた。今日まで本
当に、ご苦労様﹂
頑張った運営委員たちを前に、最後の挨拶だ。
気になってはいたものの、種々の用事でいろいろと忙しく、当初
の予定ほど本部に顔は出せなかった。
﹁まあ、あれだ。せっかく顔を出したんだから、俺からもよくやっ
たと誉めてやろう﹂
ベイルフォウスはふんぞり返ってそう言った訳ではなかったが、
それでも十分に偉そうだ。まあ、本当に大公だから偉いんだけどね!
それに。
1482
﹁ベイルフォウスも、お前が最初副祭主だとかいい出したときは、
正直こいつ阿呆かと思ったが、本当に助かったよ﹂
﹁別に、お前のためじゃねえよ。兄貴の大祭だからな。不手際があ
っちゃ困るだろ。だが、阿呆は余計だ﹂
意外ではあったが、自分から存在しない役を買って出たベイルフ
ォウスが、本当に意外にも、しつこいが意外にも、俺が忙しくて捕
まらないときには、副祭主としてあれやこれや相談事を引き受けて
くれていたらしい。
だというのに挨拶なんていい、というから、強引に引っ張ってき
てやった。
最初はベイルフォウスを迎えるたびに恐怖の面もちだった委員た
ちも、今では緊張はしてもその中には親しみも混じっている。
え? 俺を迎えるときはどうだったかって⋮⋮?
⋮⋮聞かないでくれ。
﹁恩賞会では君たちへの授与はなかったが、大祭が終わった後には
魔王様と俺とベイルフォウス、それぞれから褒賞を送ることになっ
ている。ぜひ、快く受け取って欲しい﹂
まあ、大したものではない。それぞれの家庭に一流料理人を派遣
しての晩餐だとか、礼服一式だとか、勲章だとか、そういうものだ。
﹁では、あと少し、気を抜かずに頑張ってくれ﹂
そう激励をして、本部を去ろうとしたときだった。
﹁少しよろしいでしょうか、閣下﹂
委員会の一人が代表して、前に進み出てくる。
﹁なにか?﹂
﹁我々からも閣下方に一言よろしいでしょうか﹂
改まってなんだというのだろう。
﹁私どもがこんなことを言うのもおこがましいのですが、大祭主が
ジャーイル閣下であられたこと、それからベイルフォウス閣下が副
1483
祭主として尽力くだすったこと、お二方がそろって運営委員を率い
られたことが、この大祭の成功の何よりの要素であったと思われま
す。お忙しいなか、本当にご苦労様でした。これは、我々のつたな
い技で用意したものですが、よろしければお納めください﹂
そう言って、委員の二人が俺とベイルフォウスに歩み寄る。そう
して感謝の気持ちを彫り込んだ、楯を贈呈されたのだ。
ぱちぱちと、拍手が沸く。こんな形でまさか委員たちから労われ
るとは思っていなかった俺は面食らったが、これほど嬉しいことも
ない。
今日が最後ということも相まって、ちょっと感動してしまった。
﹁あの、最後にっ、もし許されるならっ、だ、だ、だ﹂
﹁頑張って!﹂
﹁抱きついていいですかっ!﹂
女性委員たちが集団で、目を見開きながら歩み出てくるというお
まけはあったが。
ついでに、ベイルフォウスが許可を出していたことも付け加えて
おこう。
え、俺?
俺がそんな軽い男だと思われたのならショックだ!
そんな予想外の嬉しい出来事を挟みつつ、いよいよ大祭の締めだ。
おそらくほとんど同時刻の我が城では、魔王城の様子を写した転
写幕を背景に、フェオレスがこの大祭の終了を宣言しにかかってい
るだろう。
俺とベイルフォウスは楯をいったん別の場所に預け、魔王城本棟
の露台へと再び足を向けた。
すでに手前の控え室には、魔王様を始めとして他の四名の大公が
そろっている。
1484
ちなみに大公位争奪戦の後、プートとベイルフォウスは当然、負
傷を治療済みだ。のみならず、ちゃんと装いも改めている。
プートはまたも分厚いゴリラ胸をはだけて野性味を放ちまくって
いるし、ベイルフォウスは相変わらず真っ赤で目が痛い。
ついでに他についても言及しておくと、ウィストベルは戦いの間
にざっくり切った髪のせいで、豊満な肢体から漂う色気がいつもよ
り強調されて見えるし、デイセントローズは背中の羽を七色の飾り
のついた派手な衣装をまとって誇らしげだ。
ちなみに俺はというと、エンディオンと選んだ白い礼服に、蒼い
マントを羽織り、きちんと髪もなでつけている。
だが、どれだけみんなが宝飾をちりばめて着飾り、サーリスヴォ
ルフが女性の格好で参加していると言っても、一方の女王の姿がな
いぶん、全体の雰囲気はどこか華やかさに欠けている気がした。
﹁やはり、最後までアリネーゼは来ないか﹂
気だるそうに前髪をかきあげながら、ベイルフォウスがぽつり、
と言った。
﹁体調が回復しないそうだ。魔王様には丁寧な詫び状が届いたらし
いが⋮⋮﹂
﹁まあ体調のせいというよりは、気分が乗らないんだろうがな﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
ベイルフォウスがラマを非難じみた目で一瞥する。だが本人は、
眼下の興奮にあてられているのか上機嫌だ。
﹁いいからほら、とっとと締めちまえ。大祭主としての、最後の役
目だろ﹂
俺はベイルフォウスに背を押され、一人露台に躍り出た。
っていうか、押すなよ! もっと格好よく登場したかったのに!
1485
﹁きゃあああああ! ジャーイル様あああああ!﹂
﹁ぎゃああああ! ジャーイルざばあああああ!﹂
愛想とノリのよい女性たちが、またも歓声をあげてくれる。
野太い声はきっと幻聴に違いない。
よし、最後だし、ちょっと悪のりしてみるか。
いや、やっぱり駄目だ。最後だからこそ、ちゃんとしないと!
﹁この百余日の間、諸君らは史上最も幸いなる自身を発見したこと
だろう﹂
﹁うおおおおおお!﹂
﹁なぜというにこの大祭は、我らが魔王、ルデルフォウス陛下の治
世に生を受けたその幸運を、いつもに増して気づかせてくれたに違
いないからだ!﹂
﹁うおおおおおお!﹂
﹁これを至上の幸福といわず、なんと言い表す!﹂
﹁うおおおおおお!﹂
﹁ルデルフォウス陛下の御代を永久に願うか?﹂
﹁うおおおおおお!﹂
﹁ならば、魔王陛下を歓喜の声で呼べ!﹂
﹁うおおおおおお! ルデルフォウス陛下ーーー!﹂
﹁きゃあああああ! 魔王様ーーーー!﹂
俺としてはとてもいい前フリだったつもりなのだが、なぜか隣に
立った魔王様には静かで深いため息をつかれた。
せーの、は、ぐっと我慢したというのに。
大公たちも出揃ったところで手をあげると、やはり観衆たちはピ
タリと叫びを止める。
どう考えても裏で練習してるだろ、こいつら⋮⋮。
﹁では今より、我らが魔王、ルデルフォウス陛下よりこの大祭最後
1486
の御言葉を賜る﹂
そう宣言して、一歩退いた。
﹁我が臣民よ、よくぞこの百余日を盛り立ててくれた。我が在位を
祝うための大祭を、生き残った者は誰も心より楽しんでくれたもの
と信じている﹂
生き残った者⋮⋮確かに実際、死んだ者もいるよな、そういえば。
奪爵とかもめ事とかで!
﹁そなたらが幸いを得たように、余もそなたらの歓待を目にし、心
底より有頂天外の喜びを感じた。故にそなたらは、今後の三百年も
等しく我が治世を享受する資格を有するであろう﹂
魔王様。もっとこう、素直に﹁嬉しかったよ、ありがとう、みん
な長生きしてね!﹂って砕いて言ってもいいんじゃないでしょうか。
まあなんにしても、これでお終いだ!
俺は始めた時と同じく、今度は終わらせる宣言をするために、口
を開きかけた。
だがその時、魔王様から待ったがかかったのだ。
﹁だが、まだこの︿魔王ルデルフォウス大祝祭﹀は終わりではない﹂
⋮⋮ん?
終わりではない?
パレードは出迎えたし、大公の新しい順位も決まった。なのに、
終わりではない?
まさか、アリネーゼが来るまで待つ、七大大公が揃わないとダメ、
とか、そういうことじゃないよね?
まさか、楽しいから延長する、とか、そういうことじゃないよね?
﹁臣民たちにはさらに、この時において格別の計らいを与えること
とする﹂
1487
え? なに、格別の計らいって?
俺は他の大公を振り返る。
大公位第一位のプートも、実の弟であるベイルフォウスも、勘の
鋭いらしいサーリスヴォルフであっても、一様に首を傾げている。
ただ一人、ウィストベルだけがなにもかも心得たというように、
微笑んでいた。
﹁ジャーイル﹂
え? なんで俺を名指し?
あっ! もしかして、あれか!
大祭主お疲れさま! ご苦労様! 君には特別褒美があるよ、と
か、そういう⋮⋮。
﹁約束があったな。今、果たしてやろう﹂
やく⋮⋮そく⋮⋮? って、まさか⋮⋮。
﹁この大祭中に魔王位への挑戦者が現れるものであろうと期待した
が、一人としてなかった﹂
や、確かにそれはそうですが⋮⋮。
﹁しかも最後には、大公たちが見事な戦いを披露したというのに、
その頂点に立つ我が力量を測れぬのでは、臣民もいっそ哀れであろ
う﹂
えっと⋮⋮あの⋮⋮つまり⋮⋮。
﹁一人でこいとは言わん﹂
魔王様はそう言って、実弟に視線を向ける。
﹁俺!?﹂
本気で驚くベイルフォウスは珍しい。だが、俺だって負けないほ
ど驚いている。
ちょっと待って。だって、どう考えてもこれって⋮⋮。
1488
﹁二人でかかってくるがよい。お前たちの戴く者の実力を、思い知
らせてやろう﹂
いやいやいや、魔王様!
俺はちゃんといつもいつも、この目で思い知ってますからー!
1489
144.︿魔王ルデルフォウス大祝祭﹀の主役は魔王様なのだか
ら、無茶ぶりも仕方ありません!
俺はレイブレイズ、ベイルフォウスが持っているのも別の魔剣。
そうして俺たちの前に立ちはだかる魔王様は、金の儀式剣ではな
く、愛用の黒の魔剣を手にしている。
俺とベイルフォウスは魔王城の︿大階段﹀を降りた前地、そこで
我らが主と対峙していた。
観衆は大きく輪を描くように離れ、今は戦いの火蓋が切られるの
を、固唾をのんで見守っている。
二対一とはいえ、これではまるで魔王奪位の戦いのようだ。
﹁おい、やるからには本気でいくぞ﹂
ベイルフォウスが大好きなお兄さんを獣の目で捉えながら、舌な
めずりしている。
﹁足手まといにはなるなよ﹂
﹁まあ、せいぜい頑張るよ﹂
勘弁して欲しい⋮⋮。本心をいうと、勘弁して欲しい。魔王様と
戦うだなんて!
ウィストベルの魔力の強大さに目がくらみそうになるが、それで
も魔王様だってやっぱり強いのだ。俺なんかでは敵わないくらいに、
ものすごく強いのだ。
約束は、ただの剣の相手だけだったのに︱︱
﹁判定人は︱︱﹂
﹁いらねえ﹂
﹁いらぬ﹂
1490
兄弟の返答が重なる。さすが、気の合うことだ。
﹁では︱︱﹂
﹁お前たちの思うときに、いつでもかかってくるがいい﹂
魔王様は強者の余裕たっぷり、これぞ魔王立ちの見本、という風
にどっしり構えている。
﹁おい、ジャーイル﹂
ベイルフォウスが視線で合図を寄越してくる。
俺は親友に頷いて、鞘から愛剣、レイブレイズを引き抜いた。
そのまま正面からは向かわず、背後に回って打ちかかる。
もちろん、相手の隙を狙ってのことではない。
だが、魔王様がこちらを向くのは視認しても、剣を抜いたその瞬
間は、俺でも捉えることはできなかった。
蒼光りする剣身と、闇のように黒い剣身が、火花を散らしてぶつ
かり合う。その衝撃音は、剣たちの咆哮にも聞こえた。
上下左右から剣を繰り出し、数十度、刃を合わせる。そのたび、
今までの相手からは感じたことのない重さで、手がしびれた。
腹の底がゾクゾクする。血が沸き立つ音を聞いた気がした。
目的を忘れ、力尽きるまでこうしていたくなる。
その誘惑を振り切り、何度目かに打ち込むフリをして、次の瞬間、
その場から跳躍する。
そこへ、ベイルフォウスの放った炎が、間髪入れず伸びてきた。
その業火の中に、魔王様の姿が飲み込まれたかに見えたのは、一
瞬のこと。
炎は黒の魔剣によって勢いもそのままに、大山に当たって分かた
1491
れた大河のごとく分断される。
その隙を狙って再び打ちかかろうした俺は、しかし天から降り注
いだ光の針を相手に、尽力しなければならなかった。
だが、それだけで手一杯になるわけにはいかない。ベイルフォウ
スはすでに次の手を打っている。炎と子供たちを吐く巨大な蜘蛛、
それから火矢だ。
援護となるよう俺は雷を轟かせ、氷結魔術を展開する。
だが魔王様は俺たちの攻撃を全てその魔剣と魔術で打ち砕いた。
蜘蛛は一閃され、氷は粉砕、雷撃は霧散し、火矢は消滅した。
﹁おい、ベイル!﹂
ベイルフォウスが俺を一瞥する。
次の瞬間、二人で一度に打ちかかった。
そうして︱︱
俺たちは二人共に、魔王様の剣と魔術で、彼方に吹き飛ばされた
のだ。
***
﹁我が兄貴ながら、ハンパない﹂
一日に二度目と数える負傷を受けながらも、そう語ったベイルフ
ォウスは嬉しそうだった。
命をかける戦いでもなし、順位を巡る戦いでもなし、ただ魔王様
が大公二人がかりでもビクともしない強さを示せればそれでいい︱
1492
︱まあ、そういうことだろう。
勝負は、俺たちが打つ手なく吹き飛ばされた段階で、終わりを迎
えた。
さすがに二人とも、ボロボロにはなっていない。
いっておくが、だからといって別に手も抜いた訳でもない。俺も
ベイルフォウスも。
そうして大公二人を相手に余裕たっぷり勝利した魔王様は、その
後サクッと︿魔王ルデルフォウス大祝祭﹀の終了を自ら宣言したの
だった。
観衆が興奮の渦に包まれたのは、言うまでもないだろう。
我らが強大な魔王を讃える叫声と熱気は、その姿が魔王城の奥に
消えた後も三日間の間、空と大地を蹂躙し続けたのだから。
こうして、長く続いた︿魔王ルデルフォウス大祝祭﹀は、終幕を
迎えたのである。
1493
144.︿魔王ルデルフォウス大祝祭﹀の主役は魔王様なのだか
ら、無茶ぶりも仕方ありません!︵後書き︶
魔王大祭編、終わりはサクッとしすぎたかもしれませんが、これに
て一応終幕です
︳︶m
1年以上長らくお付き合いいただき、ありがとうございましたm︵
︳
1494
間話10.少年よ、理性を抱け
大祭の始まる前って、どんな生活してたんだっけ?
もう思い出せない。
終了から一夜明けたら、いきなり普通の仕事が待っているだなん
て⋮⋮。
それでもまあ、午前の謁見は楽しかった。領民から大祭の感想と
か、興奮気味に聞けたりして。
けれどそれが終わると後は執務室での書類整理だけだなんて⋮⋮。
俺はただ紋章を焼くだけの人形になっている。
﹁すっかり気が抜けてしまわれましたね。無理もございませんが﹂
セルクが苦笑を浮かべている。
﹁なんていうかな⋮⋮わかってるんだよ、まだ色々、やり残してる
こととかあるってのは⋮⋮でもなんだろう、こう⋮⋮やる気がでな
い⋮⋮﹂
﹁盛大な大祭でしたからね。この城の静寂さも、これが通常通りと
はいえ、寂しくさえ感じられますしね﹂
﹁そうなんだよ﹂
大祭中は、あちこちであんなに賑やかだったというのに。その最
中はうるさいと感じることもあったが、終わってしまうと何か物足
りない。これが喪失感というやつか。
いいや、そうも言っていられない。
城のみんながよく働いてくれたおかげで、我が大公城もすっかり
大祭前の落ち着きを取り戻している。
もちろん片づけがすべて終わった訳ではないが、部外者がいない
だけでこれだけ静かになるとはな⋮⋮。
1495
﹁では旦那様、少し気分転換をなさいますか? 本日、武具展の解
体が始まるとのことですので、最後にそちらを見学されてきてはい
かがです?﹂
武具展! ぜひ、見に行きたい!
﹁⋮⋮いいのか?﹂
﹁至急の案件もございませんし、どうぞ﹂
わーい!
俺は年甲斐もなく、浮かれた気持ちで武具展の会場に向かった。
解体は、まだ始まっていなかった。
個々の運搬のための道具が運び込まれ、あちこちに積まれてはい
たが、作業員はまだ一人もいない。
俺は隅から隅までを、じっくりと見回る。
そうしてこの武具展の目玉でもあった、魔槍ヴェストリプスの前
で足を止めた。
ベイルフォウスにやる約束をしたのだから、すぐにでも取りにや
って来るだろう。こうしてじっくり見られるのも、あとわずかだろ
うから、この際よく鑑賞しておこう。
魔槍を改めて見てみると、やはり見れば見るほど見事だ。力強さ
を体現した刃に、繊細さを感じさせる模様が浮き出ており、全体を
ほんのり覆う魔力には癖も曇りもない。ただ、揺るぎない強さを醸
し出しているだけ。
この槍を見ていると、やはり父を思い出す。
多少、らしくない感傷に浸った後、次の展示に移動した。
武具展は、そのほとんどが初日に展示したそのままの姿を保って
いたが、唯一、ぽっかりと開いた空間がある。
1496
大公位争奪戦が始まるまで、︿死をもたらす幸い﹀を展示してい
たその場所だ。
そうしてその横には︱︱
超一流の佇まいを演出する、赤地に金の鋲と装飾の施された見か
けだけはビリッとカッコいい魔剣。その鞘をも越えてにじみ出す魔
力は、この剣が決して他の武具に劣らない一品であることを思わせ
る。だがそれも、見た目だけだ。見た目だけ⋮⋮。
なぜならば、これをひとたび鞘から抜いた日には、その饒舌さに
持ち手はウンザリすること請け合いなのだから。
かの魔剣の名は、ロギダーム。
いや、確かにロギダームも魔剣としては超一流なんだ。力はある。
でもなぁ⋮⋮。
その剣を鞘ごと手にとったところで、背後からの視線を感じた。
﹁なんだ、ケルヴィスか﹂
振り向いたそこには、少々中身が風変わりに思える、しかし一途
なのであろう少年の姿があったのだ。
﹁あっ。すみません、黙って見ていたりして﹂
え、黙って見てたの?
今、来たとかじゃないの?
俺に遠慮したのか?
﹁ああ、いや⋮⋮どうした?﹂
﹁すみません、武具展の解体が今日だとお聞きしたものですから、
せめて最後にと⋮⋮父に無理をいって、大公城への入場許可をいた
だきました﹂
﹁そうか﹂
そうだな。この少年がおそらく、大祭中はもっともこの武具展に
1497
足を運んでいてくれていたのだろうしな。
﹁そういえば、君の愛用の剣のことは悪かったな。結局折れてしま
って︱︱﹂
﹁いえ、とんでもないです。もとより、献上したものですし﹂
﹁ちょうどいい。魔剣を代わりにやる約束だったな。この展示の中
で、何か欲しいものはあるか? もしくは宝物庫の中から選んでく
れてもいいが﹂
﹁本当に、よろしいのですか?﹂
少年の頬は、ほんのり赤く染まっている。やはり剣好きとあって
は、魔剣に興奮を覚えるのだろう。俺だって、成人前に誰かから魔
剣をもらえたなら、小躍りしただろうし。
﹁では、その剣を︱︱﹂
﹁ん? その剣って、どの剣だ?﹂
﹁あの⋮⋮今、閣下がお手にされている⋮⋮﹂
﹁えっ! これ!?﹂
ロギダーム!? 魔剣ロギダーム、なのか?
﹁ちょっと待て、ケルヴィス! 本気か!?﹂
﹁あ、やはり⋮⋮望みすぎたでしょうか。僕なんかがその剣を手に
する実力も、資格もないままに︱︱﹂
俺の剣幕にケルヴィスは罪悪感を覚えたように、うつむいてみせ
た。
﹁いや、違う。そういう意味じゃない。これが本当に欲しいという
なら、喜んでくれてやる。だが⋮⋮本当にこれでいいのか? これ
だぞ? 魔剣ロギダームだぞ?﹂
俺は剣を鞘から引き抜いた。
その途端に、またも部屋中に轟き渡るダミ声の歌︱︱
1498
﹁へ∼∼い、知ってるかぁーい! 俺様は魔剣ロギダーム! 世界
一強いかは知らないが∼あっ、世界一カッコいい∼∼!!﹂
俺は剣を素早く鞘に戻した。
﹁これだぞ?﹂
実物を近くに見たら、感想も変わるかと思ったのだが、少年は変
わらず瞳をキラキラと輝かせている。
﹁さすが、名剣百選に選ばれる剣ですね。個性的で、その実力に見
合った自信が素敵です﹂
そうか。ケルヴィスはちょっと変わった子だったか。
﹁⋮⋮やはり、駄目でしょうか?﹂
俺の無言の対応に、ケルヴィスはうなだれる。どうやら少年は、
本気でこの剣が望みらしい。
﹁本当にいいんだな?﹂
念を押すと、少年は瞳を輝かせながら顔を上げた。
﹁⋮⋮はい!﹂
﹁わかった。なら、これをやろう﹂
まあ、ロギダームも見かけだけなら見惚れるほど格好いい。使わ
ずとも蒐集品としてなら、十分その役を果たすだろう。
﹁では、有り難く頂戴いたします﹂
お、おう⋮⋮。
俺は剣を普通に差し出したのだが、少年はその場に片足立てて跪
き、それから剣を両手で大事そうに受け取ると、捧げ持つように頭
を下げたのだ。
そういえば、剣を借りた時にもこんな風に芝居がかっていたっけ。
﹁ケルヴィス⋮⋮? 大丈夫か?﹂
問いかけたのは、少年があんまりにもうつむいたまま、顔を上げ
1499
ようとしなかったからだ。しかもなんか、手もぷるぷる震えている
し。
俺が心配な気持ちで見守る中、ケルヴィスはようやく顔をあげた。
ちょっと目が潤んでいる。
まさか、さっそく後悔しているんじゃないだろうな!?
﹁この剣を、生涯の友といたします﹂
﹁え!? ロギダームだぞ!?﹂
俺の叫びは、素直な気持ちを表現していたに違いない。
誰だって思うよな? ﹁こんな変な剣と友達になれるのか!?﹂、
と。
﹁はい。ロギダームはすばらしい魔剣です。閣下を目指して、とい
うのはおこがましいですが、せめて僕も成人するまでにはこの剣を
使いこなしていられるよう、鍛錬に励むことをここに誓います﹂
そうしてケルヴィスは見事な敬礼を披露し、俺をさらに心配にさ
せたのだった。
だが、このときの俺は予想だにしていなかったのだ。
このとき手放したこの魔剣ロギダームが、後々あのすばらしい騒
動を人間と魔族の間に巻き起こすことになるだなんて未来を︱︱
⋮⋮なーんてな!
もちろん、冗談だ。
1500
間話11.約束が色々ありすぎて、なにから対処すればよいのや
ら、です
﹁閣下、何してる⋮⋮の⋮⋮?﹂
﹁ああ、ミディリース。いいところに来た。これ、二つ折りにして
封筒に入れてってくれ﹂
﹁⋮⋮なに、これ?﹂
ミディリースは隣の席に座ると、俺が手渡したその用紙をじっと
見つめ︱︱そうしてそこに書かれた内容を理解するや、息を呑んで
青ざめだした。
﹁か⋮⋮閣下⋮⋮これ⋮⋮﹂
﹁ん﹂
﹁ん、⋮⋮じゃない⋮⋮これ⋮⋮これ⋮⋮﹂
﹁もちろん、ミディリースへの分もあるぞ。はい﹂
俺は正式な紋章入り封筒に封入済みの一通を、ミディリースへ差
し出す。
そう。それは魔王城の建築に関わった作業員たち、そのすべてを
我が昼餐回に招くための、招待状だったのだ。
本当のところ、図書館で作業をしているのだから、いいところに
来たも何もない。なにせ最近のミディリースは、俺が図書館にいる
と高確率で姿を見せに出てきてくれるのだから。
だがそもそも紋章の焼き付けなんて、普段なら執務室でする作業
ではないのか、だと? 確かにその通りだ。
なのになぜ、こんなところでやっているのか?
決まっている。ミディリースへの自覚を促すため⋮⋮それと、無
かったことになったミディリースのお手伝い、を、こっそり復活さ
せるため、だ。
1501
まあ、あとは⋮⋮俺の気分転換?
大祭ではあちこち飛び回っていたってのに、急に執務室にこもっ
て仕事しろっていわれても⋮⋮な。
﹁ほんとに⋮⋮出ないと、だめ⋮⋮?﹂
﹁駄目。約束したろ﹂
上目遣いに見上げてくるミディリースの頭を、ポンポンと叩く。
﹁でも⋮⋮閣下、もう、無茶も無理も言わないっていった⋮⋮﹂
ミディリースが勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
だが、しかーし。
﹁昼餐会の約束は、その前だったろ﹂
﹁えっ!?﹂
﹁ほら、あのときはこう言ったろ? ﹃この約束以後の件で、無理
矢理引きずり出そうとはしない。以後の件で、強要することもしな
い﹄と。つまり、それ以前の約束は有効だ﹂
俺は彼女に微笑んでみせた。
﹁うーーーむーーー? なんか、ずるい⋮⋮﹂
ああ、ずるいとも。知ってる。俺はずるい。
だが、今回はずるいままいかせてもらおう。ミディリースだって、
親戚との再会が待っていると知ったら、喜んで参加してくれたに違
いないのだから。⋮⋮たぶん。
﹁そんなに嫌なら、ほんとに乾杯の時だけでいいから﹂
いや、なんなら当日はオリンズフォルトとは別室で会って、会食
には不参加でもいい。
とにかく、大事なのはミディリースを喜ばせることだ。
﹁むー。⋮⋮わかった⋮⋮です⋮⋮﹂
1502
そうしてミディリースは、諦めたように小さな手で招待状をせっ
せと二つ折りにする作業に精を出しはじめた。
しばらく図書館には、カサカサした乾いた音だけが響き︱︱
﹁ところで⋮⋮﹂
﹁うん?﹂
﹁おめでと、ございます﹂
﹁何が?﹂
﹁コンテストの一位⋮⋮﹂
﹁ああ﹂
サーリスヴォルフから投票人数が一人少ないとつっこまれたこと
は、本人には内緒にしておこう。変に気にしても可哀想だし。
﹁奉仕⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁相手⋮⋮すごい、美人⋮⋮前回の⋮⋮入賞者⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮まあな﹂
なんで相手まで知ってるんだ。
ほんと引きこもってる割に、ミディリースは色々よく知ってるよ
な!
﹁閣下⋮⋮でれでれ? 待ち遠しい?﹂
無邪気に小首を傾げながら、聞いてこないでくれ。
﹁まさか! それはない。絶対ない。断じてない﹂
だって相手はあのリリーだぞ? リリアニースタだぞ?
確かに彼女は美人だ。立っているだけで目を引くレベルの美女だ。
しかも、男を惑わす色気だってある。それは間違いない。
だが、彼女のあの俺に対する無関心さ⋮⋮。いや、無関心ってい
うか、関心がないわけじゃないんだろうけど、男として見られてな
いのはヒシヒシと感じるわけだ。それで何かあると期待する方が、
1503
どうかしてないか?
むしろ一晩中、女性との付き合い方について、指導される未来し
か浮かばない。それはもう、指導員のように⋮⋮。
指導⋮⋮。
⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮それともあれか。⋮⋮お⋮⋮お姉さんが、教えてあげる⋮⋮
的な、展開に⋮⋮。
﹁いやいやいや。それはない、ホントない!﹂
我に返ったところで、隣からの鋭い視線に気づいた。それもなぜ
か、軽蔑をはらんでいるように感じるではないか。
いや、気のせいだろう。俺は無実だ。
とにかくそれから俺とミディリースが無言で手を動かし続けたお
かげで、招待状の封入は予想より短時間に終了したのだった。
そうしてなぜか微妙な空気のままミディリースと別れ、できあが
った招待状をセルクに預けに執務室に戻ると︱︱
﹁よう、どこ行ってたんだよ﹂
ベイルフォウスが待ちかまえていたのである。
﹁ああ、来たのか﹂
﹁なぜ来たのか、理由は説明するまでもないだろう?﹂
もちろんだ。むしろ、大祭の終わったすぐ次の日にやってこなか
ったことを、意外に思っていたほどなのだから。
セルクに招待状の束を預け、親友と向かうのは当然、宝物庫だ。
ベイルフォウスがやってきた理由が、魔槍ヴェストリプス以外の
理由であるはずがない。
1504
﹁で、対価は決めたか?﹂
﹁ああ、それだが、任せるからヴェストリプスに値すると思う宝物
を何か適当に送ってくれないか?﹂
エンディオンに相談したところ、宝物庫の数を減らすのだから、
やはり引き替えるのも宝物がいいだろう、という結論に至った。
だが、こちらはベイルフォウスの所蔵品を知らない。とはいえ他
ならぬ親友のことだ。信頼して任せてもよいだろう、ということに
なったのだった。
﹁ある訳ないだろう﹂
﹁え?﹂
﹁お前、魔槍ヴェストリプスに値するものなんて、この世にあると
思うのか? 魔槍ヴェストリプスだぞ?﹂
﹁この間はなんでもやるって言ってたじゃないか﹂
﹁もちろん、何でもやる。お前に望む物があるのならな。俺が言っ
てるのは、同等の物などこの世にはない、という真実だ。わかるよ
な?﹂
いや、わからないけども。っていうか、確かにヴェストリプスは
大した槍だが、同じ程度の価値のものならこの世にいくつかはある
だろう。たとえば俺のレイブレイズとか。
﹁なら、お前が合計して足りると判断した分だけ、送ってくれれば
いいが﹂
反論するのも面倒だから、とにかく丸投げしよう。
ベイルフォウスがこの調子なら、まあ損をすることはないだろう。
﹁そうだな⋮⋮では、俺の城の宝物庫から、百ほど武具を見繕って
届けるか﹂
いやいやいや。いくらなんでもそんなにいらないから。
﹁それとも半分はエロい女の方がいいか?﹂
いやいやいや。物扱いだなんて、女性に失礼だとは思わないのか。
1505
こいつ、魔槍が絡むと極端だな。任せるのも却って面倒か。
﹁じゃあ⋮⋮せいぜい、二つくらいでいいよ。そうだな、お前のと
ころにいい弓があると言ってたよな。それでどうだ?﹂
﹁ああ。魔弓シュザリーだな﹂
﹁それと⋮⋮うん、将来マーミルに持たせるのに良さそうな剣とか、
まあ何か﹂
﹁マーミルにか⋮⋮﹂
ベイルフォウスは束の間、真剣な表情を浮かべて黙りこくった。
﹁わかった。そうしよう﹂
対価についてはそれで話し合いがついたのはいいが、問題なのは
宝物庫についたその後だ。
いいだろうか。
大前提として、ここは我が城の宝物庫だ。そして主である大公の
俺だって、それほど頻繁には訪れない場所だ。
もちろん、どこに何があるのか、宝物庫に勤める職員にでも聞か
ないとわからない。
だというのにベイルフォウスは⋮⋮誰に案内されるでもなく、一
階の武具置き場を真っ直ぐ進み、魔槍ヴェストリプスの元へとたど
りついたのである。
ヴェストリプスは割と奥の壁際に、しかもベイルフォウスに贈る
ことを考えて、棺のような大層な箱に仕舞い込んで立て掛けてあっ
たというのに。ベイルフォウスはまるでその声が聞こえた、とでも
いわんばかりに迷いもなく足早に近づいて、絶対の確信を持ってそ
の蓋を開いたのだから。
﹁なあ、まさか下見にでも来てたのか? それとも誰かに場所を聞
いていた、とか?﹂
思わずそう、聞いてしまったくらいだ。
1506
﹁下見なぞせんでも、誰に聞かずとも、わかる。俺を呼ぶ気配がし
た﹂
やだー。
ベルフォウスくん、気持ち悪い。
なにこの魔槍オタク。
ヴェストリプスはロギダームと違って、喋りはしないというのに。
俺、どん引き。
しかもベイルフォウスは箱を開いたはいいが、前にじっと立ち尽
くして動きもしない。
﹁⋮⋮で、なにしてる?﹂
まさか見惚れている、とでもいうんじゃないだろうな。
﹁見てみろよ。見事じゃないか? 触れるのも躊躇われる、この美
しさ⋮⋮﹂
ホントに見惚れてた!
女性を口説く時よりまだいっそう艶めいた声を出すベイルフォウ
ス。
おいおい本気か。そこまでなのか、ベイルフォウス。
まさか持って帰って一緒に寝るとか、そんな気持ち悪いことまで
言いださないだろうな?
﹁ずっとこうして愛でていたい気分になるな⋮⋮﹂
ずっと見てていいよ。俺はとりあえず、お暇するから。
そうして俺は、陶然と魔槍に見惚れる親友をおいて、宝物庫を抜
け出したのだった。
しかし、ちょっと待ってくれ。ケルヴィスといい、ベイルフォウ
スといい⋮⋮。
もしかして武具好きって変なやつばっかりなのかな?
⋮⋮俺は大丈夫だと思うけど、気をつけることにしよう。
1507
その後、ベイルフォウスはもちろん魔槍を持ち帰ったのだろうが、
それが何時間たった後だったのか、俺の知るところではないのだっ
た。
1508
145.本来ならば、事後処理やなんかで忙しいと思うのですが
﹁はあ⋮⋮疲れた﹂
⋮⋮⋮⋮。
﹁誰かさんが最後まで無茶なことおっしゃるんで、本当に疲れまし
たよ﹂
⋮⋮⋮⋮。
﹁そもそも、思えば最初から無茶でしたよね。急に城を造れ、とか
言い出すし﹂
⋮⋮⋮⋮。
﹁途中で嬉しいことがあったからって浮かれちゃって、色々予定を
変更しまくるし﹂
⋮⋮⋮⋮。
﹁全く、こっちの迷惑はおかまいなしですよね! そりゃあ、そう
いう立場ですけど!﹂
⋮⋮⋮⋮。
﹁それに結局、百日では終わらなかったし! なのに最後はあんな
⋮⋮ちょ、ちょ! ハゲるハゲるハゲる!! 手ぇ放して!﹂
余計なことばかり言うのだから、自業自得だ、このバカが。ちょ
っとは学習しろ!
大祭から数日経った今も、この執務室には時々、外からの歓声が
残響のように届く。大祭の終了を惜しむ臣民が、まだいくらかいる
のだろう。
一方でジャーイルも今日はもう、魔王城に用はないはずだが、﹁
やれやれ、やっと終わった﹂とブツブツ言いながら、なぜかまたや
ってきている。
1509
そうして執務机で通常業務に勤しんでいる私をよそに、許可もな
く長椅子に座り込んで、茶をすすっているのだ。
ウザい。
実の弟でも、私の多忙さに遠慮しているであろうに⋮⋮。
やはり執務室に、応接セットなど置くことを許すのではなかった。
いくらそれが慣例とはいえ。
座る場所があるから、こいつは座る。くつろぐ場所があるから、
長居になるのだ。
よし、すぐにでも片づけさせよう。
そう決意しながら、私はジャーイルの髪から手を離し、執務机に
戻った。
うわ。髪が指に⋮⋮気持ち悪い。焼いてしまえ。
﹁ひどいですよ、魔王様! 俺がハゲたらどうするんです? ハゲ
は医療班でも治せないっていうのに!﹂
﹁黙れ。だいたい、いかに大祭が終了したとはいえ、領内の事後処
理で忙しいだろうに、なぜ、こんなところで油を売る暇がある﹂
﹁魔王様。こんなところって﹂
やれやれ、といった風に、奴はため息をつく。
その仕草がシャクに障る。
﹁ここは魔族の王が住む魔王城ですよ。こんなところじゃないです
よ﹂
うるさいわ。
﹁しかも新築! みんなで大変な思いをして造った、できたばかり
の立派で豪奢で大層な城だっていうのに!﹂
建築員たちの苦労を軽々しく捉えているつもりはない。お前の苦
労とかはどうでもいいがな!
﹁あ、下の階とか見に行きました? 綺麗だったでしょ? とても
1510
この下の、地下にある場所だと思えないでしょ? 仰げば空が透け
て見えるし、林や丘もあって、小川なんかも流れてたりして﹂
﹁で、お前はその城の出来映えを、今日もこうしてただぷらぷらと
見に来たというのか﹂
黙って聞いていれば、また長々と城のことを語りかねない。ここ
は私のための城で、お前の城ではないというのに。
﹁っていうか⋮⋮ほら、うちの家臣はみんな優しいので、大祭の疲
れも残ってるだろうから、今日は休んでいいよって言ってくれたん
です﹂
なぜ自慢げに言う。
ジャーイルの家臣たちは、随分主に甘いようだ。こんな奴は寝る
間もないほど、こき使ってやればいいのに。
せめて我が城にやって来られないほどには、酷使して欲しい。
だいたい、一日の休日に、なぜ我が城にくる。
﹁まさかと思うが、お前は休日の暇つぶしにやって来ている、とい
うんじゃないだろうな﹂
﹁まさかそんな﹂
ジャーイルはギョッとしたような表情を浮かべ、顔の前で手を激
しく振る。
嘘だろおい。こいつ⋮⋮図星、なのか?
﹁違いますよー。俺は忠臣として、︿魔王ルデルフォウス大祝祭﹀
の大祭主を務めた身として、やっぱり終わった後も気を抜かず、ご
機嫌伺とか、後々不備がなかったかとか、ちゃんと確認したりしと
いた方がいいかなー、と﹂
﹁問題なぞ一つもない。すべて順調だ。伺候も不要だ。むしろ、仕
事の邪魔をするな。予にはお前のような休日はないのだからな﹂
﹁あぁ⋮⋮﹂
1511
やめろ。まるで私が家臣に恵まれてでもいないかのような、憐れ
みの視線を向けてくるのはやめろ。
私が休むといえば、反対する家臣なぞ一人もいない。ただ別に、
お前のように休んでブラブラしたいと思わないだけだ。
だいたい、家臣に許しをもらって休みをとっている自分の方が異
端なのだと思い知れ。
﹁もうよい、お前の気持ちはよくわかった。ならば︿修練所﹀でも
視察してきたらどうだ。そのうち持ち回りにはなるとはいえ、しば
らくは我が配下が運営を担う。今もその担当に決まった者たちが、
施設内部を回って打ち合わせ中だ。暇なのだろう? 建築の責任者
として、施設の提案者として、相談にのってやってこい﹂
﹁あー。そうですねー。︿修練所﹀かぁ﹂
仕事だと思ってだるそうに返答するな。こっちの気分まで萎える
わ!
﹁見取り図があるとはいえ、発案者でもあり、実際に現場を見てい
たお前の意見が加わる方が、打ち合わせもはかどろう﹂
﹁んー、ま、そうですね。じゃあ、ちょっとだけ行ってくるかなぁ﹂
ジャーイルは気だるそうに執務室を出て行った。
現場を見た者の話によると、ジャーイルの奴はあんなに面倒そう
に向かったくせに、担当の者たちとわいわい楽しそうに盛り上がっ
て大騒ぎをし、最終的には鼻歌交じりで帰城したそう⋮⋮だ。
私の執務室を出てから、十時間も後に。
︻現場を見た者の証言︼
みんなまるで遊び盛りの少年・少女のように瞳をキラキラ輝かせ
ながら、あっちにはこんな仕掛けを、こっちではこんな戦いを、と、
それはもう楽しそうでした。
1512
⋮⋮正直、混ざりたかったです。
1513
146.この面々が一堂に会するのも、ずいぶん久しぶりです
魔王様に言われたように、大祭は終わったといえど、その期間に
あった様々な出来事の後始末が色々と残っている。
大祭中に決定した順にいうと、まずは魔王城の建築作業員たちと
の会食。次に美男美女コンテストの一位である、俺とアレスディア
の奉仕。そして奪爵ゲームで敗北したウィストベルを、我が城に招
待する約束、他にも諸々⋮⋮。
魔王様との立ち合いは、あの最後の一戦で終わり、みたいな流れ
だったよな。三十回相手してもらうつもりだったのに⋮⋮まあ、魔
術込みとはいえ、やばいくらい強かったし、しばらくはいいか。
たまに手合わせを頼めば、気が向いたときくらい付き合ってくれ
るだろう。
コンテスト第一位の奉仕は、その権利を有する相手が指定してき
て初めて、日程が決まるそうだ。今のところ、アレスディアのとこ
ろにランヌスからの誘いはないようだし、俺の方もリリアニースタ
からまだ何の連絡もない。
だからそちらはおいておくとして、まずは作業員たちとの昼餐会
にとりかかることにした。
数日前に用意した招待状はとっくに各人に届けられている。︱︱
というか、届いていなければ困る。
今日はもう、すでにその昼餐会の日なのだから。
珍しくマーミルが、自分はどうして参加できないのか、と言って
こないのは、大人たちばかりの会食に飽きたからだろうか。
それとも、以前ほど俺に固執してこなくなったことも含めて、少
しは成長しつつあるのかもしれない。⋮⋮言っておくが、別に寂し
1514
くなんぞない。本当だ。俺は別に、シスコンでもないしな!
﹁旦那様﹂
セルクが執務室にやってきた。
﹁どんな具合だ? ちらほら、集まってきているか?﹂
﹁ええ。魔王領から中位の者たちは大方、それから自領の者たちも
ある程度は揃っております。加えて、迎えに出した一行もまもなく
到着するようです﹂
﹁そうか。なら俺も、そろそろ顔を出すか﹂
高位の魔族にとって、長距離を移動するのは特別なことではない
し、通常は竜に乗ってのことだから苦でもない。だが爵位はあって
も男爵や、下位の者たちにとっては自身の属する領地を端から端ま
で移動することも稀だろう。大演習ぐらいしか、その機会をもてな
い者も多いのだから。
今回の魔王城の築城に関わった者の大半は、そういう下位の魔族
がほとんどだ。それで魔王領から自身で来られそうにない者たちの
ために、迎えに竜を数十頭出していた。
その一団が到着するというので、俺は執務室を出て前室の役割に
解放した、広間へと向かった。
いくら下位の者が多いとはいえ、俺は彼らを歓待する側だ。もち
ろん、マント込みの盛装でビシッと決めている。
ユリアーナみたいな感性の持ち主でもなければ、この格好には誰
もつっこんで来ないだろう。
広間で既に到着していた数人の挨拶を受けている間に、魔王領か
らの一団も到着したようだ。
﹁あ、閣下! 閣下だー!!﹂
その集団の先頭をきって、イタチが疾走してくる。あれは確か⋮
⋮ニールセンではないか。相変わらず、落ち着きのない奴だ。
1515
﹁一瞬、知らない人が立っているのかと思いましたよ! いつもは
ボサボサなのに、今日に限ってそんな魔王様みたいに整えてるから﹂
⋮⋮おい!
ちょっと待て。いつもボサボサってなんだよ!
別に前髪おろしてるか、あげてるかの違いだけで、別にボサボサ
じゃないだろ!
まさか服装ではなく、髪型につっこまれるとは⋮⋮しかも、デヴ
ィル族に!
﹁そういうお前だってテカテカぬめってるじゃないか﹂
﹁何言ってるんですか。綺麗に毛繕いしてあるでしょ、俺は!﹂
自分のことはそれですませる気か。
﹁そんなことより閣下、聞いて下さいよ! 競竜の景品の高級食卓
が届いたんですけどね、家に入れてみたら大きすぎたんですよ! だから家をください、立派な家を!﹂
⋮⋮会うなり、なに意味不明なことを言ってくるんだ、こいつ。
これが妻帯者だなんて、世の中ずいぶん理不尽じゃないか。
﹁お前は魔王麾下だろうが。家をねだるなら、魔王様にしろ﹂
﹁そんな恐れ多い!﹂
おい、待て。
デコピンくらいならお見舞いしてもいいかな? 頭蓋骨は割れて、
身体は向こうの壁まで吹っ飛ぶとは思うけど!
﹁ジャーイル大公閣下、お招きに預かり、魔王領より一同、図々し
くもまかり越しました﹂
黒豹男爵が年長者らしく︱︱実際はどうだか知らない︱︱、イタ
チを押しのけて一同の音頭をとり、敬礼する。
さすがは形式にこだわるカセルム。とは思うが、口に出して誉め
てはやらんぞ。俺に男色疑惑をかけてくれたことは、未だに忘れて
1516
ないからな。
﹁遠路はるばるご苦労だった。みんな揃うまでは、ここでゆっくり
食前酒でも飲んでいてくれ﹂
そう言う間にも、続々と広間には招待客が到着していく。そのた
びに簡単な挨拶を受けていると︱︱
﹁閣下。ようやくこの日を迎えられ、感無量でございます。この度
は我が望みをお聞き届けいただき、感謝の言葉もございません﹂
オリンズフォルトがやってきた。
しかし俺は、その姿を目にした瞬間、しばし絶句してしまったの
だ。
﹁⋮⋮⋮⋮よく、来てくれた﹂
だって⋮⋮だって、だよ?
オリンズフォルトの衣装ときたら⋮⋮! いや、ちゃんとサイズ
は合っている。そこは問題じゃない。それに、こういう会食の場に
もふさわしい、繻子の盛装には違いない。なんならたぶん、この会
のためにわざわざ仕立てたのだろう。一目でおろしたてとわかる艶
を放っている。
だけど⋮⋮だけど、だよ?
ちょっと待て、オリンズフォルトくん。君はそれでいいのか?
半ズボンはないんじゃないかな! デヴィル族なら許容範囲だが、
デーモン族の成人魔族が、半ズボンはないんじゃないかな!
毛深い足を寒々しく出した上、ふくらはぎからの白い靴下って!
なぜそんな、魔族の子供が着るようなデザインなんだ!?
子供なら許せるけど、大人はだめだろ!
しかも、色も鮮やかすぎる緑で、どこかの侍女の感性を思い出す
んだけど!
1517
﹁それで、彼女はどちらに︱︱﹂
自分の服装の奇異さなど、全く認めてもいないウキウキした様子
で周囲を見回すオリンズフォルト。
﹁︱︱ああ⋮⋮。ミディリースの参加は食卓についてからだ。君と
隣の席に配置してある﹂
今頃きっと、司書もぶつぶつ言いながら、着飾っていることだろ
う。
だが、血縁者のこの姿を見て、何をどう思うだろう。喜ぶだろう
と期待していたのに、これではドン引きするのではないだろうか。
﹁そうですかっ。ありがとうございます! きっと驚くでしょうね
⋮⋮想像するだけでもう⋮⋮ふふ⋮⋮﹂
うん、たぶん驚くよね! 君が思っているのとは別の意味で!
﹁楽しみだなぁ﹂
オリンズフォルトは無邪気にそう呟くと、雑踏に紛れていった。
⋮⋮本当に、あれでいい、のか⋮⋮な?
彼には個別にお願いしたいこともあったというのに、出鼻をくじ
かれてしまったではないか。
⋮⋮。
まあ、なんなら後日でもかまわない。いくらでも時間的猶予はあ
る。すでにオリンズフォルトは俺の配下なのだから。
次に声をかけてきたのは、ジブライールだ。
﹁私も饗応におあずかりして、本当によいのでしょうか?﹂
﹁もちろんだ。ジブライールは俺の代わりに立派に現場の指揮を取
ってくれたんだから、招待しない方がおかしいだろう。なぜ、そん
なことを?﹂
﹁閣下の代わりなどと、とても勤められていたとは思えませんが﹂
﹁いや、むしろジブライールでなければあの役は任せられなかった
1518
と思っている﹂
本当、工期の間、一歩も外に出られない、大祭を肌身に感じられ
ない、だなんて立場、他の副司令官だと途中で暴れ出しかねなかっ
ただろう。⋮⋮いや、フェオレスならやってくれたとは思うが。
まあそこはそれ、だ。
﹁そんな⋮⋮身に余るお言葉です。ありがとうございます﹂
ジブライールはきりり、というよりは、照れの勝ったような表情
を浮かべている。
最近ちょいちょい、以前に比べて態度が柔らかくなったと感じる
のは、彼女がようやく俺に慣れてくれたという証しなのだろうか。
﹁ただ、会食とはいえ、労をねぎらう会だと考えましたので、この
ような格好で来てしまいました⋮⋮間違えたようです﹂
参加者のほとんどが、女性は特に煌びやかな盛装で参加している
中、彼女は儀式用とはいえ、軍服での参加だった。まあジブライー
ルらしいといえば、ジブライールらしい。
﹁まあむしろ正装ではあるし、いいんじゃないのかな。ジブライー
ルが気になるようなら、城にあるドレスに着替えてくれてもいいが﹂
﹁あ、いえ。そこまでは⋮⋮このままで結構です﹂
はにかんだように退いたジブライールは、なんだかいつもと様子
が違って見えた。
﹁旦那様。参加者全員、揃ったようです﹂
総勢約千人。さすがに、誰がどこにいるか、探し出すのも大変な
有様だ。
﹁では、順に部屋を移動するよう案内を頼む。全員が着席したとこ
ろで、俺も参加するから﹂
﹁かしこまりました﹂
1519
後の手配をセルクに任せ、ミディリースを迎えに行くことにした。
彼女との待ち合わせは、相も変わらず図書館の中だ。
ちなみに重度の引きこもりである司書と違って、アレスディアは
当然一人で堂々と登場の予定だった。
﹁ミディリース。用意はできたか?﹂
﹁ん∼できた、ですけど⋮⋮﹂
彼女はおそるおそる、といった様子で、本棚の影から姿を現した。
ドレスは俺の手配で用意したが、本人の意向を汲んで装飾も少な
い目立たない灰色の生地を選んだ。
意外にも自分でまとめたのか、いつも流しっぱなしの髪は、綺麗
に編み込まれてまとめられている。
スッピンしか見たことのない幼い顔にも、今日はほんのり化粧を
施しているようだ。
﹁よく似合ってるじゃないか﹂
﹁うう⋮⋮。ホントに、私も⋮⋮参加しないと、駄目? ⋮⋮です
?﹂
半泣きの目で見上げてくる。
﹁ああ。約束だろ?﹂
﹁でも⋮⋮でも、別に⋮⋮私、魔王城を建てた訳じゃないし⋮⋮﹂
﹁君の隠蔽魔術がなければ、魔王様のウィストベルを驚かせようと
いう企ては、うまくいかなかっただろう。すると、魔王様はあれほ
ど喜ぶ結果を手に入れられなかったに違いない。それに⋮⋮﹂
おっと。うっかりしてしまうところだった。
オリンズフォルトのことは、まだ内緒だ。本人が明かすまで、ミ
ディリースにはその存在のことも伝えないでくれ、と言われている
のだから。
1520
﹁まあ、とにかく︱︱ここまで来て、往生際の悪いことを言わない
でくれ。素直に来ないと、またいつぞやみたいに抱きかかえて運ぶ
ぞ?﹂
﹁⋮⋮! そんな恐ろしい!﹂
照れてくれるかと思ったのに、なぜか青ざめガタガタ震えられた。
⋮⋮どういう意味なのだろうか、これは。うん、あまり深く考え
ないほうがいいみたいだ。
ただ⋮⋮一位になったからって、調子に乗らないように自戒しよ
う。うん。
とにかく俺は、約千人の集まる食卓へと、彼女を伴って向かった
のだった。
***
﹁私の席は⋮⋮﹂
俺とミディリースは、控えの間にかかるカーテンの向こうから、
大宴会場となる食卓の置かれた広間をのぞき込んでいる。
﹁あそこだ。一つ、空いている席があるだろう? 一番、向こうの
⋮⋮﹂
俺は遙か先の席を指し示した。
食卓は、二十人掛けの円卓ばかりを約五十卓、並べてある。俺の
席はこのカーテンのすぐ近くだが、ミディリースの席はその遙か向
こう︱︱部屋の端に位置する円卓に用意してあった。
﹁えっ! 閣下の隣じゃ⋮⋮ない、です!?﹂
﹁むしろ俺の隣でいいのか? きっとものすごく目立つぞ。比べて
あそこなら、乾杯が終わればどさくさ紛れに出て行くのも楽だろう﹂
﹁た、確かにそれは⋮⋮﹂
俺の意見には納得できるものの、眉根が寄るのは止められないよ
うだ。
1521
﹁じゃ、ホントに、乾杯が終わったら、すぐに出てく、ので⋮⋮﹂
﹁うん﹂
まあ、実際にはオリンズフォルトとの再会を経て、昔話に花が咲
くことを願っているが。
﹁じゃあ、私は後ろから︱︱﹂
﹁いや、登場は俺と一緒でいい﹂
﹁そんな、それこそ目立つ︱︱!﹂
﹁大丈夫だ。ほら︱︱﹂
瞬間、広間を照らしていた明かりが一斉に落ちる。窓のないそこ
は、束の間完全な闇に包まれた。
ほどなくしてミディリースの席に近い、ただ一つの扉にすべての
照明が集められる。そんな中、大きな音をたてておごそかにその扉
は開かれた。 その一点に浮き上がった姿を見て、デヴィル族の男
たちが歓声をあげる。
アレスディアの登場だ。
彼女がすべての視線を一身に集めてくれているこの隙に、俺とミ
ディリースはカーテンの影から抜け出して、それぞれ自分の席につ
く、というわけだ。
﹁ほら、いくぞ。アレスディアは右からやってくる。ミディリース
は左から、席に向かえ。足下に気をつけて、途中でつまずくんじゃ
ないぞ﹂
おっといけない。また子供扱いしてしまった。相手は俺より、ず
いぶんお姉さんだというのに。
だがミディリースは俺の無礼を気にした様子もなく、小走りに自
分の席を目指す。
アレスディアは部屋の向かって右側を、ゆったりとした足取りで
こちらを目指してやってくる。ミディリースはその逆を、彼女の隠
1522
蔽魔術も発揮して︱︱たぶん︱︱駆け抜けた。
アレスディアが俺の隣へたどり着く頃にはとっくに、ミディリー
スも自身の席に無事たどり着いたようだ。誰にも︱︱オリンズフォ
ルト以外には、そうと気取られず。
さて、次は俺の番だ。
照明は、今はもう部屋の隅々を照らして、興奮に支配されつつあ
る参加者たちの顔を明らかにしていた。
﹁諸君、今日はよく集まってくれた。こうして魔王城の建築に携わ
った者たちが一堂に会すのは、城が解放されて以来になる。さぞ、
懐かしい思いもあるだろう。とりあえず、席次は決めてはいるが、
しばらく後には自由に立って移動し、好きな相手と歓談してくれ。
デヴィル族の男性陣はアレスディアの存在で、より楽しみが増え、
不公平だと思われる向きもあるかもしれんが、その他の者には︱︱﹂
酒の並々と注がれたグラスを右手に持つ。
﹁この俺が、誠心誠意、相手をつとめさせていただく﹂
﹁きゃああああ﹂
割合としては少ないデーモン族の女性陣が、黄色い声をあげ、﹁
お覚悟を! 今夜は眠らせませんぞ!﹂
話好きの男性陣は陽気な声をあげる。その中で。
﹁では、乾杯﹂
俺は高々と、盃を掲げてみせたのだった。
1523
147.普通、魔族は下の世代は多少気にしても、上の世代は気
にしないものなのです
なんてこったい。予想以上に囲まれてる。
俺はもしかして、人気者だったのか! 思わずそう、勘違いして
しまいそうだ。
いや、だから調子に乗るなって。
アレスディアを囲みにきたものの、その輪に弾かれた男性陣が、
こちらに混ざっているに違いないのだから。
﹁だから閣下、さっきの話の続きですけど、家をですね!﹂
弾かれたこと確定のニールセンは、無視でいいだろう。
﹁閣下、私は閣下に投票しましたわ!﹂
そう言ってくれる何名かの女性には、礼を言っておこう。
﹁俺もです﹂
照れたような野太い声は、きっと空耳だ。
﹁閣下、閣下の大公城も、この機会に建て直しませんか? 私が素
敵に設計しますよ!﹂
頭上から、唾と共に大層な提案が降ってきた。
その気になったらな、とは答えたが、もちろん今のところそんな
大事業の予定はない。
もっとも、実は一部の改築は計画している。
それがオリンズフォルトに現場監督を任せようと考えている、図
書館の改築⋮⋮というか、増築だ。
ミディリースの希望に応えて増えた分に、俺の持ち込んだり蒐集
したりした本をあわせると、今のままでは本棚に納まりきらず、す
でにいくらかは読書机の上に置いてある状態なのだから。
1524
もとより利用者も少ないし、と、いっそ机の数を減らし、本棚の
配置を狭めて数を増やしてもいいが、どうせ一時しのぎにしかなら
ないだろう。それでいっそのこと、増築することにしたのだった。
その話は、後でゆっくりオリンズフォルトにするとして。
﹁閣下はご存じだったんですか? ほら、あの、魔王陛下とウィス
トベル閣下の仲が、あんな風だったこと﹂
うーん。これはまた、答えにくい話題だな。
﹁で、実際のところ、閣下は女性より男性の方がお好き⋮⋮ぐぶっ﹂
とりあえず、殴っておいた。
﹁あれはどうだったんです? あの中⋮⋮争奪戦でのプート大公と
の戦い、あの黒幕の中は︱︱﹂
覚えてない、としか言いようがない。
とにかく、移動を許可した途端にこんな風に次から次へと寄って
こられ、質問を浴びせられたおかげで、俺は気づいていなかったの
だ。ミディリースがいつ、広間から出て行ったのかを。
だからジブライールが深刻そうな表情で近づいて来たときも、俺
はそれほど大事に捉えたりはしなかった。
﹁閣下。よろしいでしょうか﹂
﹁ああジブライール。楽しんでいるか?﹂
だが相変わらず我が副司令官殿は、生真面目を絵に描いたような
表情を浮かべている。
﹁ミディリースの姿が、ないのですが⋮⋮﹂
ジブライールには、司書の参加はあらかじめ知らせてあった。副
司令官で、しかも顔見知りだからな。とはいえまさか、気にかけて
くれているとは。
﹁そればかりかずいぶん長い間、戻ってきておりません﹂
1525
そう言われて席を見てみれば、確かにミディリースがいない。
しかしオリンズフォルトの姿もなかったことから、てっきり親戚
と明かして気心がしれ、どこか別の場所で昔話でもしているのだろ
う、と、軽く考えたのだった。
それに、一度退室したのなら、もう戻っては来ないだろう。中座
するからこその、あの座席位置でもあったのだし。
﹁心配ない。部屋に戻ったか⋮⋮まあ、オリンズフォルトと話でも
しているんだろ﹂
﹁ええ、おそらく。彼は彼女の後を追うように、部屋を出ていきま
したから﹂
﹁なら大丈夫だ。実は二人は︱︱﹂
﹁その、オリンズフォルトなのですが﹂
ジブライールは眉を顰める。
﹁家族歴に気になることがあるのです﹂
家族歴? 家族歴ってなんだ。両親のことか?
そんなもの、魔族がいちいち気になんてしないだろうに︱︱
﹁それに、二人が話をしている時の雰囲気にも、引っかかるものが
ございました。よろしければ、彼らの様子を見にいかせていただき
たいのですが﹂
どうしたというんだろう。特にミディリースと親しい、というわ
けでもないジブライールが、様子が気になるほどの何かがあったと
いうのか?
﹁閣下、家!﹂
相変わらず外野がうるさい。
﹁閣下の大公城も、なかなか素敵ですね。後であちこち見て回って
もよろしいですか? この機会に!﹂
キリンの唾が辺りを水浸しにする。
1526
これではゆっくり話ができない。
﹁悪い、ちょっとジブライールと話がある﹂
俺は席を立ち、ジブライールを控えの間に誘う。
﹁まず、オリンズフォルトの気になる家族歴というのはどういうこ
とだ?﹂
﹁⋮⋮私は後半、新参を管理する任につきましたので﹂
﹁そうだったな﹂
﹁オリンズフォルトの親⋮⋮いえ、父方の祖父が、あの悪名高いボ
ッサフォルトであることを、偶然知ったのです﹂
ボッサフォルト? 誰だ?
普通は親でも稀だが、祖父母だなんて余計に気になどしない。
しかし、魔族で悪名高い、とまで言われるような者は珍しい。少
なくとも、俺の認識ではネズミ大公以外には、当代では二、三名し
か心当たりがない。
ちなみに、女たらしの残虐大公と評されているベイルフォウスは、
そのうちには入っていない。残念ながら。
つまり、女性をめぐって相手の男を殺すくらいはするだろうベイ
ルフォウスでも許容されているというのに、それ以上の悪名を轟か
せているものが他にいる、ということなのだ。
﹁ご存じありませんか?﹂
﹁無知ですまんが⋮⋮﹂
ジブライールは一つ、頷く。
﹁そういえば、彼が悪名を轟かせたのは七百年ほど昔のことらしい
ので、私が子供のころには半ば過去の話の一つとして、風化しかけ
ていたのかもしれません。そのころ閣下はまだ、お生まれにもなっ
ていらっしゃらない頃ですし、ご存じなくとも無理はありません。
未だ存命のはずですが、最近はその名もちっとも耳にしませんし︱
1527
︱けれど今思い起こすだけでも十分、気分の悪い話ではございます﹂
七百年? 七百⋮⋮か。微妙にひっかかる年数ではないか。
﹁で、その悪名ってのは?﹂
﹁ここより西︱︱今はアリネーゼ大公の領地に、ボッサフォルトと
いう侯爵が住んでいたそうです﹂
当時はもちろん、支配する大公の名は違ったのだろう。
﹁その配下の伯爵の妻に、彼好みの女性がいたらしいのです。ボッ
サフォルトは伯爵を殺してその妻を拐かし、幽閉し、強引に自分の
ものとしたとか︱︱﹂
﹁それほど、珍しい話とも思えないが﹂
それだけのことで悪名とはなるまい。
強者が弱者に理不尽を強いるのは、魔族ではままあることだ。無
理難題を押しつけ、配下を殺して︱︱または殺しもせず、その家族
を奪うということは、頻繁にはないかもしれないが、全くないこと
でもない。
実際に俺が大公に就くきっかけとなったのだって、ネズミ大公が
アレスディアを拐かしたからだし、異を唱えて殺されなかったのは、
単に俺の方が強かったからに他ならないのだから。
﹁ええ、それだけなら⋮⋮噂になった理由というのが実は、彼はい
わゆるその⋮⋮少女が好きな成人男性だからでして⋮⋮﹂
⋮⋮何だって?
﹁それまでも彼は領地の、これは本当に未成年の少女︱︱ちょうど、
今のマーミル様くらいの年代だったようですが、そういう少女を集
めて⋮⋮ひどいことをしていたそうなのです﹂
ジブライールが言いにくそうに口ごもった。
そりゃあ、想像だにしたくないだろう。マーミルと同じくらいの
少女に乱暴を⋮⋮と思っただけで、腸が煮えくりかえりそうになる。
1528
﹁それが秘されていたのは、それまで虐げられていた者が全員、弱
すぎる立場の者たちであったからといいます。ですが、有爵者︱︱
それも中位の伯爵を相手に無体を強いたとなると、その伯爵が激怒
して侯爵に挑戦したこともあり、隠し通すこともできず、彼の性癖
は明るみに出ることになったというのです﹂
しかしその侯爵が存命中という事は、その妻を奪われた伯爵は、
結局返り討ちにあったということか。
﹁ただ単に、配下を殺して妻を奪ったとなるとそれほど珍しいこと
でなくとも、子供をばかり相手にしているとなると、魔族では悪名
として囁かれるのも無理はないことです﹂
確かに。あのベイルフォウスでさえ、成人女性でなくば食指は伸
びないらしいからな。
﹁その伯爵の妻であった女性︱︱彼がさらった女性の名こそが、ロ
リーリースといい、これがいわゆるロリコンという言葉の基となっ
た事件なのです﹂
﹁それが、七百年ほど⋮⋮前?﹂
﹁はい、そう聞いております﹂
ちょっと待て。
オリンズフォルトはボッサフォルトではない。その祖父と、全く
同じ性癖の持ち主であるとも限らない。その拐かされたという女性
の名だって、ミディリースではない。だが、ロリーリースとミディ
リース⋮⋮。
名前の近似もそうだが、七百年前⋮⋮ミディリースがこの城にき
て、司書として採用され、以来ひきこもっていたのは六百年だとい
うから、百年ほどの違いはあるが⋮⋮それくらい以前では、百年の
違いなんて誤差だろう。
とはいえこんな僅かな、しかも噂話だけを基盤にしては、判断を
1529
過つ可能性が高いのは憂慮するところだが⋮⋮。それでももし、オ
リンズフォルトが祖父と同じ性癖の持ち主で、彼の祖父が彼女の祖
母にしたように、ミディリースを扱おうとしているなら︱︱
だが待て。
﹁オリンズフォルトはミディリースと自分、二人の祖父同士が兄弟
なのだと言っていたんだが﹂
今の話だと、実際には二人の祖父は兄弟同士、ではなく、同じだ
という可能性もあるということか?
ミディリースがボッサフォルトの孫、だという⋮⋮。
だがそうならそこで嘘をつく意味はない気がする。
﹁ボッサフォルトには妹はいたようですが、それも子供の頃に亡く
なっており⋮⋮男の兄弟はいないはずです。⋮⋮それに、さっきの
話にはまた、別の噂もあり⋮⋮つまり、ボッサフォルトはロリーリ
ースの娘も同様に拐かし、その祖母と同じように扱った、と﹂
ちょっと待て。
まさか、孫どころか娘という可能性も?
﹁この部屋を出ていく直前、ミディリースの表情には不安が色濃く
感じられました。そうして、それを追うように嬉々として出て行っ
たオリンズフォルト⋮⋮﹂
なぜ、彼女が引きこもっていたのかという理由を、俺は知らない。
だが⋮⋮。
﹁杞憂かもしれません。ですが閣下。彼らを捜しに行ってもよいで
しょうか?﹂
﹁いいや、俺が行こう。よく気づいてくれた﹂
もう、嫌な予感しかしなかった。
1530
148.我が城の中でこんな事件が起こるとは、誰が予想したで
しょう
会食をセルクとジブライールに任せ、俺は城の中を二人を捜して
回った。人通りの少なそうなところを重点的に。
﹁誰か、ミディリース⋮⋮﹂
いいや。
﹁半ズボンをはいた、目に痛い緑の仕立て下ろしを着た、灰色の髪
に薄氷色の目つきの悪い、すね毛の濃い侯爵を見なかったか?﹂
ミディリースの姿は、彼女が隠蔽魔術を使えば人の目には留まら
ないだろう。
そうなると、オリンズフォルトがあの目立つ格好をしてくれてい
たのは幸いだった。
もっとも、ミディリースの隠蔽魔術がオリンズフォルトにまで効
いていた場合は、全く意味がなくなるが。
﹁旦那様、どうなさいました?﹂
エンディオンがただならぬ気配に気づいたのだろう。珍しく駆け
寄ってくる。
﹁ミディリースを知らないか? オリンズフォルトが一緒のはずな
んだが⋮⋮﹂
﹁オリンズフォルトとは、旦那様がおっしゃっておられた、魔王城
の現場監督でミディリースの又従姉弟だという﹂
誰にも話すなと言われたが、エンディオンとセルクには打ち明け
てある。だいたいエンディオンに限って言えば、俺が彼にも内緒に
していることなんて、医療棟で自分の下半身に何をされたか、とい
うことぐらいだ。
﹁それが、どうもそうではないらしい﹂
1531
ボッサフォルトの孫、という言葉だけで、エンディオンは何かを
察したようだ。
﹁わかりました。城中の者に彼らを捜させましょう﹂
﹁頼む。ただ、何かが起こったというわけではないから、あまり深
刻にはしないでくれ﹂
﹁心得ております﹂
だよな! エンディオンだもん!
﹁しかし旦那様。そういう理由であれば、むしろ一番怪しいのはミ
ディリースの部屋のように思われます﹂
﹁ミディリースの?﹂
﹁彼女の部屋は、それ自体が隠されておりますから﹂
確かにそうだ! 焦りすぎて一番怪しい場所を見逃すところだっ
た。
俺は図書館に向かった。
***
図書館の中は、いつものようにひっそりとしている。
道々、すれ違う相手にミディリースかオリンズフォルトを見なか
ったか、と尋ねてみたが、本当に通らなかったのか、それともミデ
ィリースの隠蔽魔術のせいか、みんな首を横に振った。
﹁ミディリース? オリンズフォルト? いるのか?﹂
情報の間違いやこちらの猜疑しすぎで、オリンズフォルトが本当
に彼の言ったようにミディリースの血縁者であり、二人は楽しく再
会を喜んでいるという可能性だってないわけではない。それなら喜
ばしいことだし、俺が呼べば二人だって出てくるだろう。
だが、答える声はない。
ここにはいないのか?
1532
ざっと図書館を見回り、誰もいないのを確認して資料室に入る。
狭く細長い部屋には、天井に届く棚が奥に向かって何列か備え付
けられている。
この奥︱︱室内のどこかから、ミディリースの部屋につながって
いるはずだ。壁か? だが突き当たりの壁の向こうはもう外だし、
左右は棚でふさがっている。となると、床だろうか。地下に彼女の
部屋がある?
しかし、それらしき跡は見えない。
気配を探る。
だが、ミディリースの隠蔽魔術のせいか、何一つ感じない。
ただでさえ俺は、殺気以外の気配には鈍いんだ。こんなことにな
るなら、遠慮せずにちゃんと、部屋の入り口を聞いておくんだった
︱︱
最悪の場合を考えると、時間に余裕はない。
何でもなかった場合は、後でいくらでも謝ろう。
﹁ミディリース、いたら答えろ!﹂
彼女の部屋は秘されていても、こちらの気配は遮断していないは
ずだ。でなければ、普段からうっかり誰かがいるところに遭遇しか
ねないだろう。
そう信じて、声をあげた。
念のため、もう一度呼ぼうと口を開いた瞬間。
かすかに︱︱
コン、と何かを叩く音が階下から響く。
ネズミや小動物の可能性も考えたが、万が一の危機を優先させた。
百式を展開させる。かすかな魔術の抵抗を感じたが、それも一瞬
のこと。
1533
床が大きく揺れ、亀裂が入る。
﹁やはり、地下か!﹂
分断した分厚い床石の下から現れたのは、土ではなく広い空間だ
った。
﹁いやっ! 閣下!!﹂
絹を裂くような悲鳴が、鼓膜を刺す。
落ちる瓦礫の合間に、求める二人の姿を見つけた。
おざなりな防御魔術で守られた、円形の空間。その中心から俺に
向かって伸ばされた手が、震えている。
そうはさせまいと、邪魔するかのように小さな体に覆い被さる、
派手な緑色した男の背中︱︱脇から見えた幼さを感じさせる顔は泣
き濡れ、綺麗にまとめられていた髪は解れて乱れ、ドレスは引き裂
かれ︱︱
﹁オリンズフォルト、貴様!﹂
俺はレイブレイズを抜いた。だがすんでのところで、防御魔術を
裂いた切っ先はその背中を取り逃がす。
オリンズフォルトはミディリースを抱えたまま、俺と瓦礫を避け
て飛び退いた。
﹁邪魔をするなああああ!﹂
振り向きざま叫びと共に烈風を放ってくるオリンズフォルト。
﹁二度は逃がさん﹂
それをレイブレイズで一閃し、返す剣で邪魔な瓦礫ごと身に突き
立てる。
﹁ぐあああっ!﹂
石の塊は消滅し、剣は男の左肩を貫いて、壁にその姿を張り留め
た。それでも右手には、しっかりとミディリースを抱きしめたまま
1534
︱︱
がっしりと男らしかった体躯が、魔剣の刺さったその場所から、
生命を吸い取られたように見る間にやせ細っていく。
すべてを消滅させるというその剣が、敵の生命力と魔力を削って
いっているのだ。
魔術で男の腕を絶ち、落ちてくるミディリースを受け止めると、
そのとたん、彼女は俺の首に抱きついてきた。
﹁閣下! 閣下!!﹂
必死にしがみついてくるその小さな体を抱き留め、レイブレイズ
を男から引き抜く。
﹁うっ⋮⋮﹂
単に刺されただけにとどまらない苦痛の色を浮かべ、オリンズフ
ォルトの体が床を打った。
反撃する気力をさえ殺がれたのかもしれない。魔術を発する意志
さえ見えなかった。
蒼光りする魔剣レイブレイズを、横たわる体躯に向け︱︱
﹁待って、待って!﹂
ミディリースの叫びに、額を裂く前に剣を止める。
﹁なぜだ﹂
﹁待って、お願い、閣下、待って! かあっ、母さん、がっ﹂
ガタガタと震え、オリンズフォルトを一瞥もできないほど恐れな
がら、それでも俺を制止する必死な声を、無視することはできない。
とっくに意識を失った、骨と皮だけの骸になったようなオリンズ
フォルトの身体を見下ろし、剣を鞘に収めた。
殺すのは一旦止めたとしても、相手が弱っているからといって、
倒れたままで放っておくわけにはいかない。
ヒンダリスの例もある。そのやせ細った全身を、氷漬けにした。
そうしてミディリースにわかりやすく安全確保を示した上で、図
1535
書館全体に結界を張る。
なにせこんな狭い場所でまともに百式を展開してしまったのだ。
資料棚は床と一緒に崩れ落ち、地下の部屋にあっただろう家具も、
ほとんどが倒れ崩れ、その下敷きとなっている。外壁と天井が無事
だったのが、奇跡的な状況だ。
もっとも、今回は俺だって理性をなくしたわけではない。この程
度で収まるように、調整はした。でなければ図書館自体にも被害が
及んでいただろう。
それでも二人を捜すように命じてあることも手伝って、この騒ぎ
が家臣たちの注意を引かぬはずがない。
実際に図書館の入り口の外からは、ガヤガヤと興奮した声が響い
てくる。ドアノブを回して開かないとみて、こちらに無事を問いか
ける声もある。
だがミディリースのことを考えれば、この場の様子を誰彼と見せ
るわけにもいかないだろう。
﹁ミディリース。もう大丈夫だ⋮⋮﹂
そう囁いて背中を撫でてやるが、彼女の嗚咽も震えも、治まりそ
うにない。よほど恐ろしい思いをしたのだろう。
それもそうか。
ただでさえ、オリンズフォルトは侯爵位を得るような強者、それ
に比べてミディリースは真実、無爵の力しか持たない、魔力も腕力
も遙かに劣る弱者だ。
強者に力ずくで組み敷かれるだけでも恐ろしいだろうに、その上
ミディリースには、彼をより嫌悪する事情もありそうなのだから。
引っかけていたマントをミディリースの肩からかけ、暫く黙って
撫でていると、ようやく震えが治まってきた。
﹁旦那様、人払いをいたしました﹂
1536
廊下に続く扉の向こうから、エンディオンの声がする。
さすがは我が家令だ。指示しなくとも、俺の考えをちゃんと察し
てくれる。
今行くと答えて、とにかく彼女を連れて瓦礫から出ようとした時。
﹁ミディリース! ミディリース、大丈夫なの!?﹂
崩れた天井が堆く積まれた瓦礫の向こうから、女性の声がした。
よく見ると、ミディリースの部屋であったこの空間には、小さな
明かりとりの窓が二つと、どこかにつながるのだろう木の扉がつい
ている。
声は、その扉の向こうから響いているようだった。
﹁ねえ、ミディリース! いないの? 平気なの? すごい音がし
たわよ!?﹂
その親しげな声を信頼し、俺は扉を開ける。
するとそこには天井の低い、暗く細い廊下が延びており、戸口に
はよく見知った侍女の姿があった。
﹁だ⋮⋮旦那様!﹂
彼女は俺の出現など予想していなかったのだろう。驚愕の次には
しまった、というような表情を束の間、浮かべる。だが、すぐに俺
にしがみつくミディリースに気づいて、血相を変えて部屋に踏み込
んできた。
﹁ミディリース! どうしたの、あなた!﹂
﹁うう⋮⋮﹂
ようやく司書は俺の首から顔を離し、侍女の姿を力なく振り返る。
﹁あ⋮⋮ナティ⋮⋮﹂
ミディリースもちゃんと侍女を知っているようだ。
﹁そうか⋮⋮それもそうか。いくら引きこもっているといったって
1537
⋮⋮﹂
食事や衣服、身の回りのこともある。たった一人で、六百年を無
事過ごせるはずがない。
いかにエンディオンが勤め人の頂点に立つといえど、すべてを把
握している訳でもないだろう。もっとも、ある程度は把握していて、
ただ、彼女の姿を自分では見たことがなかった、というだけかもし
れない。
ミディリースがどこかホッとしたような、甘えたような表情を浮
かべたことも鑑みて、侍女は親しい相手に違いない。
その証拠に床におろしてやると、今度はその侍女に飛びつくよう
に抱きついたのだから。
﹁まさか旦那様が、そんな⋮⋮﹂
⋮⋮なに。
ちょ⋮⋮え?
今、俺が疑われた!?
まさか、城勤めの者たちからでも、そんなに信頼がないのか?
いや、そんな訳がないじゃないか。
とにかく今は、彼女にミディリースを任せてみよう。
殺すなと願ったとはいえ、氷漬けのオリンズフォルトと一緒には
いたくはないだろう。
﹁頼んでいいか? 落ち着かせてやってくれ﹂
﹁ええ、はい⋮⋮﹂
いや、違うよな? 俺が乱暴したとか、疑ってないよな?
目を合わせてくれないのは、別の理由からだよな?
﹁ミディリース。歩けるか?﹂
俺の問いかけに、ミディリースはコクリコクリと何度も頷く。そ
うして小さな手で、俺のマントをぎゅっと掻き合わせた。
1538
﹁なるべく秘密裏に、頼む﹂
﹁それはもちろん﹂
﹁どの客室を使ってくれてもいい。誰かに居場所を言付けてくれ﹂
﹁はい。かしこまりました﹂
侍女はようやく、まっすぐ俺を見上げてきた。
ほら大丈夫! 疑惑なんて認められない、信頼に満ちた綺麗な目
だ!
﹁閣下、ごめっ⋮⋮ごめんな、さい⋮⋮﹂
消えるような声でそう言うと、ミディリースは侍女に抱えられる
ようにして部屋を出て行ったのだった。
1539
149.ミディリースと彼女の家庭事情
図書館と地下には結界と封印を施し、氷漬けのオリンズフォルト
は開かずの間に一時的な結界を張って放り込んでおいてくれるよう、
エンディオンに頼んだ。そうして俺自身は、いったん会食場に戻る。
幸いにも陽気な千人たちには、階下の騒ぎは届いていないようだ。
相変わらず、楽しそうにわいわいとやっている。
俺は控えの間にセルクとジブライールを呼び寄せた。
﹁閣下。なにか、騒ぎがあったようですが﹂
ジブライールが事件を察しているのは、ミディリースの様子を気
にしていたこともあるだろうが、さすがは副司令官というべきか。
﹁筆頭侍従であるセルクには、適宜報告がいくだろうから、説明は
彼に受けてくれ。その上悪いが、引き続き二人で一緒に会をもり立
ててくれるか? もしかすると俺はこの後戻ってこれないかもしれ
ないが、中止にはしたくはない﹂
話の途中でミディリースの居場所を知らせる伝言が届いたため、
俺はすぐに控えの間を出てしまった。
その後は閉会には間に合ったものの、ほとんど会食には参加でき
なかった。相手をするといったくせに、という不満声も聞かれたが、
急な仕事が入ったのでと謝ると、理解を示してくれた。
そもそもアレスディアを囲んでいるデヴィル族の男性陣には、不
満のあるはずもない。他の連中だって、本当のところは高位の俺な
どいない方が、遠慮なくバカ騒ぎができて楽しかったに違いない。
とにかくこのときには詳しい説明もなく、ジブライールとセルク
はただ﹁承知しました﹂と頷いてくれたのだった。
1540
そうして伝言のあった客室に向かい、その扉をノックして中に入
ると。
﹁ちょっと、信じられない! いくらなんでも遠慮ってものがなさ
すぎじゃないですか!?﹂
いらっ。
そこにはなぜか、ユリアーナがいたのだ。
﹁お前に言われたくない。っていうか、なぜここに⋮⋮﹂
もう彼女に対しては、ぞんざいな感想しか沸かない。
だいたい、アレスディアが帰ってきてもう二度と︱︱は、さすが
に大げさにしても、暫く会うこともないだろうと思っていたのに。
﹁なぜって、それまた失礼ですね。どういう意味です?﹂
こ
﹁さっきの侍女はどこにいった﹂
﹁彼女なら、あの娘をお風呂に入れてますよ。わかります? 入・
浴・中です﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁急に黙ったりして! まさか、覗こうとか企んでるんじゃないで
しょうね! むっつりいやらしいことを考えてるんじゃないでしょ
うね!﹂
﹁お前は俺をなんだと思っているんだ﹂
﹁男はみんな、ケダモノよっ﹂
やばい。ほっぺたムニるくらい、許してもらえるだろうか?
とき
そのまま時間が流れていれば、我慢できずにやっていただろう。
だが間一髪、部屋の奥から件の侍女が顔を出したのだ。
﹁ユリアーナ。旦那様がいらしたの?﹂
﹁大丈夫、安心して! 私がここで食い止めてるから!﹂
ユリアーナが大声をあげる。
﹁いくら旦那様だからって、覗かせたりはしないわ! あなたたち
の貞操は、この私が守ってみせる! あひっ!﹂
1541
しまった。結局、我慢できなかった。
﹁ちょっとぉ! 痣になったらどうするんです!? 責任とっても
らいますよ! でも旦那様はお断りですから、とっても優しくて頼
りがいのある、素敵な人を紹介してくださいね!﹂
﹁バカなこといってないで、ユリアーナ。お茶を用意してちょうだ
い。申し訳ありません、旦那様﹂
よかった。せめて一方がまともでよかった。
同僚にたしなめられたユリアーナは、ぶつぶつ言いながら入り口
を塞ぐのを止め、お茶の用意を始めた。
俺は居室の長椅子に腰掛け、ミディリースが出てくるのを待った。
﹁あ、顔にはこだわりません。むしろ平凡な方がいいです。逆に多
少ぶさいくでも、愛嬌さえあれば⋮⋮﹂
﹁黙れ﹂
﹁早く飲まないとせっかくのお茶が冷めますよ。まさか妄想に忙し
くて、喉も通らないとか? 最低だわ⋮⋮﹂
﹁うるさい、妄想で語ってるのはお前だ。俺は猫舌だ﹂
﹁えぇ⋮⋮せっかく入れたのに⋮⋮﹂
いくらお前がガッカリしてみせたって、絶対熱いうちは無理に口
をつけたりしないからな!
だいたいなんだ、さっきからのそのロクデナシ像は。ベイルフォ
ウスでもあるまいし。
そんな風に暫く、俺は忍耐力を試される羽目に陥ったのだった。
***
﹁少しは落ち着いたか?﹂
茶を一口飲み、息を吐いたミディリースに声をかける。
侍女たちには席を外してもらい、俺とミディリースはテーブルを
1542
挟んで向かい合わせに座っていた。
風呂で身体が暖まったせいか、それとも温かい茶のせいか、色を
失っていた頬には赤味が戻りつつある。
﹁閣下。あの⋮⋮ほんとに、ごめんなさい⋮⋮﹂
うつむいた睫毛が、かすかに震える。
﹁いいや。ちゃんと二人の関係性を確認もせず、ただオリンズフォ
ルトの言うことだけを信じて、ミディリースを危ない目に遭わせた
⋮⋮謝るのは俺の方だ﹂
﹁違う、閣下⋮⋮悪く、ない。私⋮⋮誰にも言ってなかったもの⋮
⋮﹂
﹁今だって、無理に言わなくていいぞ﹂
本当は事情を知りたい。でなければ、対処のしようもないしな。
だが、強要はすまい。
ミディリースはやや逡巡を見せたあと、強く決意したように顔を
あげ、すがるような瞳を向けてきた。
﹁閣下⋮⋮お願い。無茶で、自分が身の程知らずなことを言おうと
してるのは、わかってる⋮⋮でも⋮⋮お願い⋮⋮助けて⋮⋮くださ
い﹂
彼女はそう、訴えかけてきたのだった。
﹁ボッサフォルトは、今はアリネーゼ大公の麾下⋮⋮オリンズフォ
ルトは、その孫⋮⋮﹂
ミディリースは、ぽつり、ぽつりと語り出す。
さっきジブライールに聞きかじったことを、さらに詳細に、生々
しく。それはもう、聞くだけで気分の悪くなる真実を。
つまりそのボッサフォルトという侯爵が、領民である無爵の親た
ちから幼い少女を奪って、二度と生きては還さなかったことや、実
1543
際にその少女たちに行った、とてもまともな成人魔族がするとは思
えないような所業の数々を。そんな侯爵に、成人しても少女のよう
な外見であった自分の祖母、ロリーリースが目をつけられてしまっ
たこと。
その後の展開は、アレスディアの時と同じような流れだ。
伯爵の妻ロリーリースは彼女の娘と外出中に、ボッサフォルトに
拐かされたのだという。夫であり父である伯爵は、抗議のために侯
爵の城を訪れた。俺の時と違うのは、その伯爵には侯爵を下す力が
なく、自身が殺されて妻子はそのまま奪われて帰らなかったという
ことだ。
その時、祖母と一緒にさらわれたという彼女の娘が、ミディリー
スの母ダァルリースであり、その時すでに彼女のお腹の中にはミデ
ィリースがいたのだそうだ。ちなみにその母ダァルリースも、やは
り祖母やミディリースのように、外見は幼いらしい。
ダァルリースの夫は伯爵の屋敷で働いていた下僕の一人で、抗議
さえできなかったのだろう、というのが祖母と母の見解だった、と
はミディリースの言だ。
つまり、ボッサフォルトはミディリースの祖父でも父でもなく、
ミディリースとオリンズフォルトは奴が言ったような血縁関係には
全くないのだった。
おそらく自身との縁の薄さをごまかすために、嘘をついたのだろ
う。
だが、とにかくミディリースは侯爵城で生まれ、育てられた。
祖母も母も、ボッサフォルトの愛妾として、囚われの身となって
いた。当然、ミディリースもそう扱われるだろうと、誰もが思って
いた。
だが、実際にはボッサフォルトはミディリースが幼いときばかり
1544
か、大して成長しない姿のまま成人しても、全く手を出さなかった
そうだ。
ただいやらしい視線には、常日頃からさらされていたという。
周囲は不思議に思ったが、それにはもちろん、理由があった。
ボッサフォルトには、母親が誰だかわからない子供が数人いたら
しい。まあ、その子供たちが被った仕打ちもひどいものだったらし
いが、この際それは直接関係のない話なのでやめておこう。
とにかく、オリンズフォルトはその子供のうちの誰かが産んだ、
高尚な趣味
にい
ボッサフォルトの孫なのだという。それも、侯爵の血をひく中で、
唯一彼にその性癖の似た︱︱
つまりボッサフォルトは、幼い時分から彼の
取っておいた
というのである。
たく共感をみせたオリンズフォルトというその孫を、殊の外可愛が
り、ミディリースを彼のために
それを知った母と祖母が、可愛い我が娘を、孫を、その毒牙から
守るため、逃がそうと考えたのも当然ではないか。
﹁オリンズフォルトは、今の自分は、昔の自分ではないって⋮⋮子
供の頃は、祖父が怖かったから、あんな自分を演じていただけだっ
て、言った⋮⋮母さんを、一緒に助けようって⋮⋮自分が力になる
からって﹂
﹁それをそのまま、信じたのか?﹂
﹁信じ⋮⋮たかった⋮⋮⋮⋮でも﹂
ぶるり、と、その小さな肩が震える。
﹁そうじゃなかった⋮⋮図書館に入ったら、豹変して⋮⋮気持ち⋮
⋮悪かった。オリンズフォルトは、外見はそのままでも⋮⋮中身は、
最後に会った子供の時のまま⋮⋮﹂
⋮⋮茶々を入れる訳じゃないが、たぶん、子供の時のままだった
のは服装もじゃないかな?
1545
﹁なぜ、部屋に戻る前に、俺に相談しなかった﹂
﹁だ⋮⋮だって、今回のことも⋮⋮内緒だったから⋮⋮﹂
見上げるミディリースの瞳は、潤んでいる。
﹁オリンズフォルトが、閣下には、すべて、伝えてあるって⋮⋮ボ
ッサフォルトのことも⋮⋮お母さんのことも⋮⋮﹂
﹁そうか⋮⋮そうだな﹂
確かに動機は喜ばせようとしたことだとはいえ、俺はミディリー
スにオリンズフォルトのことを伝えなかった。話は通してあるのだ
と言われれば、信じるしかなかったのかもしれない。
﹁責めるように言って悪かった﹂
ミディリースはうつむきながら、首を左右に振った。
﹁私、逃げようとした。でも、捕まって⋮⋮力も、魔力も、強くて
⋮⋮﹂
せっかく元に戻りかけていた顔色が、見る間に青ざめていく。
﹁抵抗できなかっ⋮⋮﹂
声がかすれ、とぎれた。
﹁大丈夫。もう二度と、あんな目にはあわせない。約束するよ﹂
本当なら胸を貸してやりたかったが、あんなことがあった後だ。
男に必要以上に触れられるのは、嫌かもしれない。だから隣に座っ
て、頭を撫でてやることにした。
﹁おばあちゃん⋮⋮死んだって⋮⋮﹂
スカートを握りしめる小さな手が、かすかに震えている。ぽつり、
ぽつりと、堪えきれない落涙が、その甲を白く滲ませた。
﹁私を、助けたせいで⋮⋮折檻されて⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ミディリース、もういい﹂
残虐は世の習いだ。
弱者が強者に虐げられるのは、魔族の間ではとりたてて問題とな
1546
ることではない。ボッサフォルトの件も、子供を相手としたのでな
ければ、それほど悪名としては囁かれなかっただろう。
もっともそれは強者の言い分で、虐げられた者の辛さは、いつの
時代もどんな立場でも変わらない。
俺はミディリースの手を取って目前にしゃがみ、その瞳をのぞき
込む。
﹁俺に望むことを言ってみろ﹂
始めに﹁助けて﹂と言ったミディリースも、事情を話すうちに気
持ちが揺れたのか、こちらを見ない瞳にはためらいが揺れている。
﹁やっぱり、駄目⋮⋮閣下にそんなこと⋮⋮自分で何ともできない
ことを、頼める相手じゃない⋮⋮﹂
﹁俺では頼りにならない、ということか?﹂
﹁違う、そうじゃなく⋮⋮﹂
ミディリースはまたも顔を左右に振った。
﹁そんな、立場じゃない⋮⋮。だって、閣下は大公で、支配者で、
偉い人⋮⋮私はその、お城に勤める、ただの司書⋮⋮無爵で、力の
ない⋮⋮閣下とは⋮⋮赤の、他人﹂
堪えるように、ミディリースは瞳を閉じる。それはわき上がる望
みを、断ち切るかのような仕草だった。
﹁そう、俺は支配者だ。その通り、魔族の強者に違いない。だから、
自分の我が儘を通してもいいはずだろ?﹂
ミディリースは震える瞼を開き、俺にすがるような瞳を向けてく
る。
﹁それに、ミディリースはただの司書じゃない。魔族で本に興味を
持つものなんて、どれだけいる? 君は、俺にとって大事な同士だ
よ﹂
﹁で⋮⋮でも⋮⋮、ボッサフォルトは閣下の配下じゃなくて、アリ
1547
ネーゼ大公の⋮⋮﹂
確かに、俺の配下ならもっと簡単な話だったんだが、他の大公の
麾下となると、俺自身が直接の無礼を蒙ったわけでもない現状、相
手を一方的にどうこうするわけにもいかないだろう。だが、それを
ミディリースに言ってどうなる。
﹁心配するな。大公には大公同士の、付き合い方というものがある﹂
1548
150.そう、大公には大公の、やり方というものがあるのです
その二日後、俺は︿水面に爆ぜる肉塊城﹀の一室で、影だけがう
っすらと見えるカーテン越しに、アリネーゼと対面していた。
もちろんボッサフォルトの件で、だ。
なにせ敵はアリネーゼの配下。それも侯爵という高位に位置する
相手だ。どう考えても俺が一方的に侯爵城を訪れて、勝手に振る舞
うわけにはいかない。
どうしても一度、アリネーゼに話を通しておく必要があった。
ボッサフォルトはアリネーゼの配下とはいえ、デヴィル族ではな
い。調査の結果でも、少なくとも寵臣ではないこともわかっている。
であればアリネーゼも彼にこだわりなど見せないだろうと判断し、
事実をありのまま伝えて理解と協力を願うことにしたのだ。
﹁ごめんなさいね。今日はあまり化粧のノリがよくないのよ。美し
い私を知っているあなたに、完璧な姿以外を見られるわけにはいか
ないから﹂
いつものように口調は気怠くも艶めかしいが、その芯には隠しき
れない疲労感が漂っていた。
だが、カーテンで姿を隠しているということは、そんな心情を思
いやられるのも御免なのだろう。そう考えて不調には気づかないフ
リをし、俺は自分の用件を語った。
﹁つまりあなたは、私の配下の一人を、自分には直接関係のない罪
で罰したいというのね。たかが無爵の、なんの価値もない配下のた
めに﹂
﹁ああ﹂
1549
相変わらず、弱いものには容赦がない。
﹁ふぅん。ボッサフォルト、ね。確かに昔話で聞いた名だわね。そ
れも、ひどい噂。そんな男が私の配下にいただなんて⋮⋮ね。あな
たに聞くまで、忘れていたわ﹂
配下に身持ちが堅いと評されるアリネーゼのことだ。きっとボッ
サフォルトのことも快く思わないだろうから、協力も得やすいはず
⋮⋮と予想をつけていたが、声にはやはり嫌悪感が表れている。
﹁それにしても、ただの気まぐれ? それともあなたにとって、そ
大切な相手
に込められた意味は、そういう意味だ
の娘はそれだけ大切な相手だというの?﹂
この場合の
よな。
﹁君が思っているような、ではないかもしれないが、大切には違い
ない﹂
﹁あなたが私に借りをつくるほど? 高くつくわよ﹂
やっぱり、そうくるよね。
﹁言っておくけど、今度は下手にごまかされないわ。それでも?﹂
ごまかすってのは⋮⋮争奪戦の時に手を抜かなかったこととか、
そういうことを含めて、だろう。
﹁いずれ借りは返すよ﹂
﹁そう⋮⋮﹂
それきり、アリネーゼは暫く黙りこくった。よくよく思案してい
るのだろう。
﹁⋮⋮なら、いいわ。丁度お願いしたいことがあって、誰に頼もう
か迷っていたことがあるのよ。あなたに、とは考えていなかったん
だけど、案外いいかもしれないわ﹂
﹁お願いしたいこと? どんな?﹂
﹁今は止めておくわ。この用件が片づいてから⋮⋮時期をみてあな
1550
たの城へ伺うから、その時には私の願いを聞いてもらうわよ﹂
なんだろう。今教えてもらえない用件⋮⋮しかも、デーモン族嫌
いのアリネーゼがわざわざ俺の城に来る、だなんて、ちょっと怖い
じゃないか。
だが、その条件を呑まない訳にもいかない。
﹁君が、今回の件に協力してくれるというなら、俺もその時は喜ん
で君の力になろう﹂
カーテンの向こうで、笑みのこぼれた気配がした。
早まっただろうか?
﹁いいでしょう。協力するわ。⋮⋮でも、そうね。事は大事だし、
口約束だけでは心許ないことだから、誓約書をしたためましょう。
どうかしら?﹂
﹁ああ、願ってもない。実は、そう考えて用意してきたんだ﹂
俺は懐から、黄味がかった一枚の紙を取り出す。
こうして、ちゃんと用紙も持ってきているくらいだ。彼女が言い
出さねば、俺が提案していた。
魔族の間で交わされる誓約書というのは、特殊な手法で作られた
用紙に、釣り合いのとれた決まり事を記し、お互いの紋章を刻み付
けて同意を交わす形式のものだ。そこに書かれた事柄が万が一些細
なことであっても、破るかまたは義務を放棄しようとすれば、誓約
書の力で呪いがかかるようになっている。
その呪いは中身の軽重に比例して、自動的に決まる。呪いがかか
ったことは、相手の紋章が身体のどこかに現れることで確認できる。
そうして、誓約書が罪を十分償ったと判断したとき、それは解かれ
るのだ。
この誓約書が使用されることは、ほとんどないといっていい。
なにせ魔族は脳筋だ。わざわざ窮屈な決まり事をたてて、紙にそ
1551
れを記して誓う、だなんて地味なことを、好む訳がない。どちらか
というと力の限り、本能の赴くまま暴虐を働くのが我ら魔族という
ものだからだ。
今回、俺の立場にいたのがヴォーグリムであったなら、アリネー
ゼにはそもそも話も通さず、思うままボッサフォルトを蹂躙したこ
とだろう。
もっともあのネズミが誰かのために動くだなんてことは、天地が
ひっくり返ってもなかっただろうが。
﹁貸して頂戴。私から誓うわ﹂
侍女に用紙を渡すと、彼女がそれをカーテンの向こうに持って行
った。
少しして、アリネーゼが誓約を紡ぎだす。
﹁我、大公アリネーゼは、ここに宣言する。大公ジャーイルが行う、
麾下の侯爵ボッサフォルトに対する、いかなる仕打ちにも異を唱え
ず、むしろその目的の完遂のために、望まれたことはすべて遂行す
ることを誓う﹂
さっきの侍女が、アリネーゼの発した言葉そのままが記された誓
約書を持ち帰ってくる。
﹁我、大公ジャーイルは、ここに宣言する。大公アリネーゼの尽力
に報うため、彼女が以後、初めて我が城に赴いて望んだ事柄に対し、
可能な限り尽力することを誓う﹂
要求の内容がわからないので、言えることはせいぜいこのくらい
だ。一応、無理難題だといけないと思って﹁可能な限り﹂という防
御線は張っておいた。
だってまさか、ないとは思うけど、ウィストベルに戦いを挑んで
殺せ、とか言われても、それは無理な話だからね!
もっとも、そんな望みは俺の望みとは釣り合いがとれずに、誓約
1552
に当たるモノとしては認められもしないだろう。
俺が手にとって口にしたそのままの言葉が、自動的に紙面に浮き
上がってくる。
全く便利な用紙だ。それだけに、効力も侮れないという一面はあ
るのだが。
俺とアリネーゼの誓約が並ぶ。後は二人で同時に紋章を焼き付け
るだけだが⋮⋮。
﹁アリネーゼ。いいか?﹂
﹁もう少し、端の方に近づいて頂戴﹂
アリネーゼが向かって左端の向こうにいるのを察し、俺もそちら
に近づく。
カーテンが少し開いて、そこからアリネーゼの右手が伸び、誓約
書に触れた。
﹁いいかしら?﹂
﹁ああ﹂
俺も手を当て、同時に紋章を刻み付ける。
自身を模したアリネーゼの紋章と、俺の薔薇の紋章が、箔を押し
たように記される。
書式が整った状態で誓約書を四つに折りたたみ、決められた呪文
を唱えながら三回振ると、用紙は二枚に増殖した。
その一枚をアリネーゼが、一枚を俺が保持する。
﹁さあ、では詳しく聞かせて頂戴。あなたは私に、何を望むのかを﹂
﹁⋮⋮実は⋮⋮﹂
俺は昨日、ミディリースやエンディオン、セルクと考えたその作
戦を、アリネーゼに明かした。
1553
﹁あなた⋮⋮もともと疑ってはいたけど、バカなの?﹂
アリネーゼ! その感想はないんじゃないか?
だいたい、疑ってたってどういうことだ!
⋮⋮⋮⋮ひどい。
﹁だってそうでしょう? 無爵の相手のために、私と誓約を交わす
だけでも十分驚愕に値するのに、その上まだ、自分の身を犠牲にす
るつもり?﹂
﹁犠牲って⋮⋮大げさだな﹂
﹁そうかしら。あなたは今でも、結構いろいろと言われているとい
うのに﹂
いろいろって何?
俺、なに言われてるの?
いや、ある程度は耳に入ってもくるが。
﹁いろいろ言われるのなんて、どうせ新任のうちだけのことだろう。
百年も経てば、どんな事だって噂にも上らなくなるさ﹂
ボッサフォルトのしたことですら、すでにただの昔話となってい
るのだから。
﹁いいわ。あなたにそれだけの覚悟があるのなら、お望みの通りに
しましょう﹂
それだけの覚悟って⋮⋮。そこまで言われると、俺だってちょっ
と不安になってくるじゃないか。
いや、そりゃあ確かに、エンディオンもミディリースもセルクも
⋮⋮俺が考えを話したときは、ちょっと﹁え? いいの?﹂みたい
な反応ではあった。なんだったらセルクなんて、﹁本当によろしい
のですか? もっと他にやりようもあると思うのですが﹂とか後で
確認してきたりもした。
でも、最終的には同意してくれた作戦だ。そんなまずいことのは
ずがない。⋮⋮だよな、三人とも!
1554
とにかくそんな風に俺はアリネーゼと約束を交わし、自分の城へ
と帰ったのだった。
***
そうしてさらに二十日ほど後のことだ。
俺とミディリースは、開かずの間に足を運んでいた。
オリンズフォルトの氷結は数日前に解いていたが、その身は当然
ながら自由にしてはいない。
氷漬けを解いて最初の頃は、以前のヒンダリスへの対処の失敗を
思い出して、猿轡をかませたりしていた。でも、途中で俺は気づい
たのだ。
オリンズフォルトは、強要されても自死などする輩ではない、と。
﹁俺がこんなに想っているのが、なぜわからない? 俺はお祖父さ
まとは違う。君を大切にするよ。ああ、そうだとも! むせび泣く
ほどの快楽を約束してやるってのに! ひひひ﹂
顔以外の自由を魔術で奪っていても、こうした下品な言葉をわめ
き出す。もっとも今は、右手も自由な状態だ。
﹁くそおおおお! 全く興味のない建築の仕事を選んだのだって、
ミディリースを見つけるためだったのに!!!﹂
魔王城はみんなで楽しく、力を尽くして建てたと思っていたのだ
が、こいつはそうではなかったらしい。
建築の仕事に就いたのは、ミディリースが隠れられそうな屋敷を
捜し当てやすいように。
魔王領を選んだのは、他領のことであっても情報収集がしやすい
と考えたから。
築城に立候補したのは、意外に厳しかった公文書の閲覧許可を、
1555
立場を強化して得やすくするため、らしい。
﹁あああああ。羨ましい! ほんとに羨ましい!!!﹂
レイブレイズによって一時は骨と皮だけになっていた身体は、情
けばかりに出した食事がうますぎたのか、ただのやせすぎの男、と
いったところまで回復している。
ちなみに服装はあの、緑の半ズボンだ。⋮⋮いや、別に着替えく
らいやってもよかったんだが、なんか嫌だったんだよな。
本人にどうしてその衣装なのか、と思い切って聞いてみたところ、
ミディリースと最後に会った服装を再現した、とのことだった。意
味がわからない。
そのオリンズフォルトは、酒の木箱を逆さにした台の上でペンを
走らせながら、ちらちら俺とミディリースを見てはうるさくわめく
のだ。
﹁コンテストの一位をとるほどの男なんて、死ねばいいのに! 俺
があんたみたいな立場と容姿なら、ミディリースだって絶対受け入
れてくれたはずなのに!﹂
﹁だ、誰がっ!﹂
最初はただ恐怖におびえていたミディリースも、このうるさい様
子を数日見るうちに慣れたのか、俺から離れようとはしないが、そ
れでももう青ざめて震えたりはしないようになっていた。
﹁閣下、不敬罪で今すぐ殺してもいいと思う!﹂
ミディリース、その気持ちはわかる。俺だってそうしたいのは山
々だ。
﹁まあ、役目が終わるまでは待ってやろう。な?﹂
俺が頭頂部をポンポンと叩くと、オリンズフォルトは大きなため
息をついた。
﹁あああああ! ちくしょう、イケメンなんて呪われろ! それは
1556
ホントは俺のものだったのに! その身体の隅々まで、俺一人のも
のだったのにいい!﹂
﹁ひいいいいっ!﹂
歯ぎしりをし、口の端から涎を垂らすその様は、まるで野獣だ。
その上、身体のあちこちを舐め回すような粘ついた視線を向けら
れては、ミディリースが悲鳴を上げて隠れるのも無理はない。
こいつに比べれば、やはりウォクナンはかわいらし⋮⋮待て、俺。
そもそも比べるのが間違ってないか?
﹁ミディリースをいやらしい目つきで見ている暇があったら、とっ
ととそれを完成させろ﹂
オリンズフォルトに手紙を書かせているのは、もちろん俺だ。
﹁痛い目には遭いたくないだろ?﹂
刺されてよほど苦しい思いをしたのだろう。レイブレイズをちら
つかせるだけで、オリンズフォルトはこちらの指示におとなしく従
った。
﹁わかってないな! まったく、この顔だけボンクラ大公は、何も
わかってない!﹂
⋮⋮口だけは悪いが。
﹁こういう手紙は、書く者の気持ちが大事なんだっていってるだろ
! 俺がいい気持ちで書ききれないで、真実味なんて出るもんか。
嘘くさいところが一つでもあってみろ。あの祖父さんをだますなん
て、到底無理だぜ。すべておじゃんになってもいいのか?﹂
鼻息は荒いし、目は血走っている。
⋮⋮せめて殴りたい。だが、殴ると殺しかねない。
今少しの辛抱だ。
﹁あああああ、ホントたまらないなぁ! そのスカートの下は、ど
1557
うなってるのかなぁぁぁぁぁ!﹂
﹁ひいいいいい﹂
﹁とりあえず、文通からはじめようかぁ! 仕方ないから折れてあ
げるよ! ミディリースは好きだったよね、長い手紙! 俺だって
練習したんだ、ほらこんなに書ける!!!﹂
涎をまき散らせながらも、ペンはまるで魔術がかかったかのよう
に紙面を走る。その手紙はすでに七枚目を数えようとしていた。
さすがにもう、十分だろう。うるさいし。
俺は﹁せっかく筆がのってるのにぃぃぃぃぃ!﹂とわめき散らす
オリンズフォルトに無理矢理締めの言葉を書かせ、身体を魔術で雁
字搦めに縛って、その手紙を取り上げた。
もちろんボッサフォルトに届ける前に、内容を吟味する必要があ
る。
それでミディリースと二人、その手紙を検閲したのだが⋮⋮。
﹁うわぁ⋮⋮﹂
﹁気持ち悪い⋮⋮﹂
飛び散った唾のせいで紙面がところどころふやけていることに対
する感想ではない。いや、そっちももちろん気持ち悪いんだが。
俺たちがドン引きしたのはその内容だ。
そこには念願のミディリースを見つけ、自分のものにしたこと︱
︱毎日その彼女にどんなことをしているか、というようなひどい妄
想話ばかりが、九割に及んで記されてあったのだから。
﹁ほんとにこうなってた可能性があるかと思うと⋮⋮﹂
﹁げへへ⋮⋮その顔がまた、そそるじゃないか⋮⋮﹂
ミディリースがブルリと身体を震わせると、オリンズフォルトが
下卑た笑いをあげた。
そのまま芋虫のような仕草で床を這ってきて、なにをするのかと
1558
思えばミディリースのスカートの下に顔を差し込もうとし。
﹁ぎゃああああ!!!﹂
﹁ぐっ! ぐげっ﹂
ミディリースに顔面を蹴られているのに、どこか嬉しそうだ。ま
さかロリコンの上に、ドMの気もあるのか?
とりあえず、レイブレイズでサクッと刺して、喋れない状態まで
消耗させておくか。
ところで、手紙はこう続いていた。
そのミディリースを正式な妻の座に迎えるため挙式を行うから、
祖父を招待したい。そうしてその場で彼女を堪能できるこの喜びを、
祖父にも共有してもらいたい。さらには同じ趣味の俺が︱︱ちょっ
とつっこみは待とう︱︱、やはりその喜びを共に語り合いたい、と
言っていること。
もちろんミディリースの母、ダァルリースを連れてきてくれと願
うのも、忘れてはいない。
しかし、汚い字だな⋮⋮内容と字面のひどさに耐えかね、目が拒
絶感で滑る。だが、中身はちゃんと点検しておかないと。企てが無
駄になっては、こいつを生かしておいた意味がない。
それにしても、真の変態というのはこういうものか。手紙を一読
しただけでもこんなに気持ち悪いだなんて︱︱
と
魔王様⋮⋮今度から俺は、魔王様のことは軽い変態、と思うにと
どめるようにします。
同じ趣味のジャーイル大公が
﹁ホントに⋮⋮いいの? 閣下⋮⋮﹂
﹁⋮⋮何がだ﹂
﹁これ⋮⋮﹂
ミディリースが指したのは、
1559
いう一節。
﹁⋮⋮﹂
﹁ホントに、いいの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺だってそりゃあこんな奴らと同類だなんて、一時でも思われた
くないさ!
思われたくない⋮⋮でも、もう今更⋮⋮。
そう
だという噂が流れ広
この手紙だけの問題じゃない。この内容に信憑性を持たせるため
に、すでにアリネーゼの領地では俺が
まっているはずなのだ。
そう、アリネーゼにいいのか、と確認されたのも、この点だった。
俺が成人女性に手を出さないのは、実はロリコン趣味があったか
らなのだ、という噂話。それを、アリネーゼに流してもらうよう、
頼んだのだった。
もちろんおおっぴらにではない。こっそりと、ここだけの話、と
いう体で、だ。しかもでなければ急にそんな噂が聞こえてきたって、
信憑性がなさすぎるだろう。
⋮⋮だよな?
そして本当に申し訳のない話なのだが、その噂話の裏付けに、マ
ストレーナの存在も利用させてもらった。つまり、ジャーイル大公
は幼い少女であれば、デーモン族に限らずデヴィル族までも⋮⋮⋮
⋮。
いや、ホントにこれでよかったのかな、俺!
冷静に考えれば、他にもっといい方法があったんじゃないのかな?
だが後悔しても、すでに遅い。
いかにこの件が終わった後、訂正の噂を流してもらうことになっ
ていたとしても⋮⋮。
1560
﹁気に、するな⋮⋮こんなの、百年も経てば⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
そう、いつの間にかなかったことになるさ。
ミディリースの小さな手が、俺を励ますように、肩に置かれた。
1561
151.侯爵ボッサフォルトとその孫の運命
﹁おお、我が孫よ、見違えたではないか! そのようにやせ細って、
ひ弱で小さな妻の負担を減らすために、減量でもしたか? 相変わ
らず、甘く優しい男だな!﹂
豪快な声が、高い空にこだまする。
ボッサフォルトの外見は、想像とはずいぶん印象が違っていた。
てっきり孫に似た、冷たそうな切れ長の、中肉中背のすね毛ボウボ
ウ男だと思っていたのに。
手紙を出して、さらに五日後のことだ。
オリンズフォルトの侯爵邸に竜を駆って現れたのは、黒々と蓄え
た髭、それから眉も胸板も腕も脚も声までも、すべてが太い。衣装
もアリネーゼ領で採用されている紫の軍服に、章やらひも飾りやら
で装飾した華美なもので、重厚なマントを羽織っており、ズボンだ
って半ズボンではない。
要するにその男はまるで、プートをデーモン族にしたかのような、
脳筋脳天気にも見える巨漢だったのだ。
だが、その印象はすぐに、オリンズフォルトと同様の雰囲気に塗
り替えられる。
﹁で、肝心のミディリースはどこなのだ﹂
その薄墨色の瞳に浮かんだ、ナメクジを思わす色によって。
さすがはロリコンという名称の祖になった男、と誉めてもいいも
のか。大公である俺の存在を無視して、まずはミディリースの所在
を尋ねるとは。
﹁別れたときの、あのままの姿なのであろうなぁ。会えなんだ時期
1562
が長い分、その姿を目にするのが愉しみでならん。この腕に捉えて、
蹂躙するのはもっとのぅ﹂
やばい。すでに不愉快だ。
﹁お祖父さま。ふふ⋮⋮愉しみはとっておいてください。後でじっ
くり、お披露目しますよ。その時は、もちろん二人で⋮⋮﹂
﹁ほう、そうかそうか﹂
祖父と孫は、下卑た笑いを交わしあっている。
たが、もちろんミディリースと奴を会わせるつもりなど毛頭ない。
ここに連れてきてもいないのだから。
﹁それより、ダァルリースはどこです? 俺はて⋮⋮てっきり、ふ
⋮⋮ツ、ツインテールに、下着が見えるほどの短いスカートをはい
た、彼女の姿が⋮⋮ぐふっ、おがめるかと⋮⋮へ⋮⋮へへへ⋮⋮﹂
なに興奮して語ってるんだよ。あと、下を握るな。その願いばか
りか、口調や態度までもが下品極まりない。
﹁あれを我が城から出すとでも思っているのか? いかに可愛いお
前の願いだとて、そればかりは聞いてやるわけにはいかん。ちなみ
に昨夜の姿はな⋮⋮﹂
孫の問いかけを、祖父は一笑する。
やはり連れてこなかったか。その可能性も、考えてはいた。そう
そうそこまでうまくいかないだろう。当人が他領にノコノコやって
きただけでも、上出来なのだから。
今回、俺が相手の城を訪れず、こちらに呼んだのには訳がある。
そもそも大公同士での行き来も、同盟者以外では稀な状況だ。そ
れなのに、俺がたかが他領の一侯爵を訪れるだなんて、よっぽどの
理由でもなければ不自然だ。
なんとか理由をつけて訪問しても、自領内でボッサフォルトが俺
1563
に無礼など働くはずもない。
だがこちらの領内でのことならば⋮⋮多少強引な手を使って無礼
な態度を引き出し、それを咎めることも可能というものだ。
だが、この男がそうそう迂闊な性格でないことは、その性癖を数
百年に及んで隠し通し仰せた事実が物語っている。図らずも悪名を
轟かせた後は、見かけはどうであれ成人女性を相手にしているとい
う状況を盾に、なりを潜めて批判をやり過ごしたことからも、その
狡猾さが窺える。
そんな男が、いくら可愛い孫の挙式のためとはいえ、それだけの
ために他領へと赴くことなどあり得ないだろう。ミディリースを手
に入れたというならば、オリンズフォルトの方から妻を伴って訪ね
てくればいいだけなのだから。
ボッサフォルトがこちらにやってくるためには、強力なもう一押
しが必要だった。
まあそれがつまり、俺がみんなに﹁いいの?﹂と確認されたこと
だったわけだが⋮⋮。
ちなみに今回の企みがうまくいかない場合も、次の手は打つつも
りでいた。ダァルリースが生きてさえいれば、あとは何とでもなる。
最悪、ベイルフォウスならこうしただろう、という手を使うことに
なっただろう。
まあともかく、相手が招待に応じてくれた時点で、うまくいった
も同然。
っていうか、俺はいつまで無視されるんだろう。こうしてお前の
孫の後ろに立ってる姿が、見えないわけはないよな?
だって大公だよ? 俺、世界でたった七人しかいない大公だよ?
その大公が、わざわざ玄関口まで迎えに出てるんだけど。
それともまさか、俺の顔を知らないのかな? 少女以外の顔は、
1564
覚える気もないということなのかな?
どういう理由で無視されているのであれ、とにかく変態二人の会
話は聞くに堪えない。
﹁あー、おほん﹂
わざとらしく咳払いをしてみせた。
﹁ああ、お祖父さま。紹介します。こちらが我が主、ジャーイル大
公閣下です﹂
強要しておいてなんだが、オリンズフォルトがなぜこんなに協力
的なのかが謎だ。
自分の祖父を前にすれば、すぐにも反逆の態度をとるかと思った
が、意外に芝居を続けるもんだな。
俺には到底敵わないからと、観念するような男にも見えないのだ
が。
元から気を抜くつもりは毛頭ないが、強く警戒はしておくべきだ
ろう。
﹁おお、大公閣下でしたか。てっきり孫の近従ででもあるのかと。
申し訳ござらん。七大大公とは思えぬその佇まいゆえ、無礼を働き
ました﹂
こいつ⋮⋮見た目通り、いい度胸しているじゃないか。目的がな
ければ、温厚な俺でもキレてるところだぞ。
﹁なんでしたかな⋮⋮ほれ、例の。プート大公閣下と対戦なさった
ときの、あの剣も挿しておられぬようですので、余計にわかりかね
た次第﹂
確かに今日は、レイブレイズは帯剣していない。一応、挙式の招
待客という設定であるからと、装飾の派手な金の儀式剣をお飾りに
持ってきているのだ。
ちなみに、儀式剣は魔剣ではないが、なまくらでもない。
1565
﹁アリネーゼ大公麾下、侯爵ボッサフォルトでござる。同好の士と
して、以後、お見知り置きを﹂
ボッサフォルトは大仰にマントを跳ね上げ、床に片足をついてみ
せた。
礼をとっているにも拘わらず、その態度はむしろ堂々として見え
る。
やはり一見しただけでは、こいつがとんでもない変態であるとは、
誰も気づかないだろう。だからこそ、何百年も性癖を隠しておけた
のだ。
もっとも、孫と話すたびにダダ漏れだがな!
﹁よく来てくれた。今日という日が待ち遠しかったぞ、ボッサフォ
ルト﹂
うわぁ⋮⋮我ながら白々しい。蕁麻疹出てないかな。
﹁それにしても大公閣下の覚えめでたく、直々に挙式においでいた
だけるとは、天晴れな孫でござる﹂
立ち上がる動作すら威圧的だ。加えて俺にはまともに返礼もせず、
孫を誉めるところがもうね!
ここまでの態度でも十分、不敬罪に問うてもいいような気さえし
てきた。
﹁それで閣下。ミディリースは閣下の城勤めであったとのことです
が、もちろん孫に下賜される前に、味見はなさったのでしょうな?﹂
ミディリースは物扱いか。
やばい。俺、こんな不快な質問に我慢して答えないといけないの
か?
口元がひきつらないようするのでも、努力を強いられる。
﹁こんな軒先でするような話でもないだろう。せっかく中に、ゆっ
くりできる場所を設けてあるんだ。そこでじっくり、語り合うこと
1566
にしようじゃないか﹂
なんとか嫌悪感を出さないよう気をつけて、室内に誘う。
﹁ごもっともですな﹂
この祖父と孫の会話には、長く付き合っていられそうにない。こ
の僅かの間でも、すでにそう確信していた。
だが、その悩みは杞憂に終わる。理由は簡単だ。
それらしく花がふんだんに散らされた玄関と階段を抜け、控え室
にと用意した応接に入ったとたん、二人が俺に襲いかかってきたか
らに違いない。
﹁油断したな、ジャーイル大公!﹂
孫が攻撃魔術で俺の気をひいている間に、祖父が結界を張る。そ
の中に俺だけが閉じこめられたと思った瞬間、足下がぐらりと揺ら
いだ。
大地の魔術か、と構えたが、そうでもないようだ。
なぜならば、おかしいのは床だけではなかったからだ。足下も天
井も四方を囲むはずの壁も、すべてが歪み、姿を変えている。
結界が作用している、というわけでもないようだ。
足下は確かにしっかりとしたものを踏んでいるが、平らかといえ
ばそうではない。ざらりとする感触から、石床というよりは自然の
岩に土が薄く乗っているような感触だ。
なぜ、こんなに曖昧にしか感想を述べられないかというと、足下
どころかどこを見回しても、まったき闇しか存在しないからだった。
自分の手ですら、顔の前に持ってきても見えないほどの暗闇の中。
どうやら結界を張ったのかと思えたその魔術には、まったく別の
効果があるらしい。
﹁ふはははは! さすがの大公でも、そこでは何もできまい﹂
1567
続いて孫よりは押さえた笑みを含んだ祖父の声が続く。
﹁貴様は今日という日が待ち遠しかったといったが、それはこちら
の台詞だ。孫をその場で殺しておけばよかったものを、くだらん小
細工を講じたその矮小さが、今の苦境を招いたのだと知るがいい﹂
あの場でオリンズフォルトを殺しておけば、か。ということは。
﹁教えてくれ。いつ、打ち合わせた? オリンズフォルトが俺の領
地に来る前か?﹂
オリンズフォルトの単独かと思っていたが、ミディリースが大公
城にいると知った段階で、ある程度祖父とも最悪の場合を考え、備
えていたのだろうか?
﹁この結果は貴様が小細工を講じた故の失態と、申したであろう。
儂は孫が魔王領からこの大公領に移ったことも、手紙をもらうまで
は知らなんだのだ﹂
﹁ではあの手紙に、暗号が仕掛けられていた、ということか﹂
﹁そうだ。だが、文字による暗号などではない。ただの単純な決ま
り事だ。孫の字が汚かったのを見て、儂は気づいたのだ。この手紙
は、左手で書いたのだな、と。つまり︱︱﹂
﹁あ、やっぱりいい﹂
﹁⋮⋮なに?﹂
﹁説明は不要だ。よく考えたら、そんな些細な事情、どうでもいい
わ。とりあえず、お前たちが俺と同じ場所にいるのかどうかだけ、
教えてくれ﹂
いるならば、全方位に魔術を放出して、二人を殺ってしまえばい
いだけの話だ。
﹁バカがっ! このバカがっ!﹂
オリンズフォルトは本当に感情豊かなようだ。というより、中身
が子供のまま成長していないのではないだろうか。
1568
台詞がどうにも直情的すぎる。
﹁ふん。儂の特殊魔術は、空間魔術。お前がいるのはすでに、我々
の世界ではないのだ﹂
つまり、祖父と孫の声は聞こえるが、同じ空間にはいないらしい。
なるほど。秘されていた特殊魔術であったわけか。
では、明かりをつけても標的にされることはないわけだ。そう判
断して、周囲にいくつかの小さな炎を燃え上がらせる。いつもより、
発動に時間がかかった気がしたが、それでも魔術はちゃんと使える
ようだ。
その光が浮き上がらせたのは、天高い岩の天井と、赤い砂を敷い
た岩床だった。前方を少しいった場所には、水際が見える。湖でも
あるのかもしれない。
壁は遠いのか、少なくとも炎が照らし出した範囲に果ては見えな
い。
かなり広い洞窟のようだ。どうりで、さっきからいやに声が反響
すると思った。
﹁どうだ、お祖父さまの魔術はすごいだろう! まともに戦っては
勝ち目のない相手でも、こうして別の空間に送り、入り口を閉じる
ことで、その存在を亡きものと同様にできるのだ! ふはははは!﹂
ご丁寧に解説してくれるのは孫だ。正直、うるさい。
﹁なに、心配するな。もちろん、大公の座はこのボッサフォルトが
引き継いでやろう。ああ、喜んでな﹂
﹁そうして、俺が副司令官だ! 誰を殺してその後釜に座ろうかな
ぁ⋮⋮﹂
気の合うことで、孫と祖父は同時に哄笑した。顔を見合わせて、
仲良く声をあげているのかもしれない。
しかし、これで謎が解けた。
1569
俺の目で見たボッサフォルトは、孫にも劣る魔力しか持っていな
かったからだ。プートと違って強そうなのは外見だけ。実際には、
伯爵ほどの実力しかない。
もちろんまともに戦っては、俺の副司令官たちが相手だってどう
こうできるはずがない。
それでも今の地位を得られたのは、特殊魔術を知らない相手に不
意に襲いかかり、こうして相手を自力では帰還できない異空間に閉
じこめる、というからくりがあったからこそだろう。
だがそれでもこの状況には疑問が一つ残る。ただ相手を異空間に
追いやるだけでは、単なる行方不明と見なされるだけで、紋章はボ
ッサフォルトの元には下らないのではないだろうか。
だがその疑問も、すぐに解けた。
﹁こいつはでかいな﹂
水を裂く音がして、目の前に黒い塊︱︱俺の世界では見たことの
ない、山のように巨大な生物が現れたからだ。湖面から、天井すれ
すれに伸び上がってもまだ足りないらしい。
びっしりと太い毛の隙間からは、赤く光る数多の目が、殺気を漂
わせてこちらを凝視している。
だが大丈夫。大公になってからというもの、俺は他者の視線にさ
らされることに慣れてしまったのだ。注目を浴びても、照れや居心
地の悪さを感じることはない。
﹁どうやら明かりをつけたようだな。これで万が一にも、貴様の生
き残れる確率はついえたぞ! その巨大な化け物の、馳走となって
やるがいい!﹂
なるほど︱︱この世界に送られた魔族は、正確にはこいつに殺さ
れたわけか。ということは、紋章を持たない相手に殺された者の紋
章は、そのきっかけを作った相手に吸収されるということか?
だとしたら、これは盲点だな。それとも紋章管理官は認識してい
1570
るのだろうか?
帰ったら魔王様にでも確認してみることにしよう。
﹁はっはは! そいつには、大公でも敵うまい! 俺とお祖父さま
だって、命からがら逃げ出したんだからな!﹂
﹁口が過ぎるぞ、オリンズフォルト!﹂
聞いてもいない失態を自ら口にし、祖父に怒られる孫。なんかだ
んだん、俺を笑わす為に頑張ってでもいるのかと思えてきた。
﹁それにしても、あの剣まで律儀においてくるとは⋮⋮愚かにもほ
どがある。あの恐ろしい剣ならば、その化け物にも対抗できたかも
しれないというのに!﹂
レイブレイズを置いてきたことを、これほど強調されるとは⋮⋮。
つまり俺は、剣の助けなしには生き残れない、と目されているわけ
か。
魔剣がどれほどの能力を持っていたとして、俺の力を上回るとで
も?
大公という地位も、ずいぶん舐められたものだ。
所詮、侯爵という地位も借り物でしかないボッサフォルトには、
相手を畏れ知る能力はないということなのだろう。
いいだろう、この化け物には恨みはないが︱︱いや、今までここ
に送られ、こいつに殺された同胞の敵、ということに︱︱でもそれ
も、あり得ない考え方だしなぁ。
﹁ああ、それから︱︱﹂
入り口を閉じたといったくせに、うざったい声だけはいつまでも
届いてくる。それともまだ、閉じられていないのか?
だとすれば、とっととこの目の前のでかいのを倒して、その入り
口を探ればいい。
1571
簡単なことだ。俺の目は魔力の跡を見逃しはしないのだから。
﹁妹君のことは心配に及ばん。もちろん、儂がたっぷり可愛がって
やろう。本物の少女を︱︱それも、可憐な美少女を相手にするのは、
どれだけ久しぶりか︱︱だが、大公ともなれば、今後は誰にはばか
ることもない。おお、初々しいその脅える姿︱︱考えただけでも胸
が躍るわい﹂
言ってはならないことを言ったのだとボッサフォルトが後悔する
まで、それほど時間は必要ではなかった。
ああ⋮⋮。
いいや、訂正しよう。
後悔する暇があったかどうか、俺は知らない。
1572
152.終わってみれば最悪の事態を免れ得たことを、ひしひし
と感じます
﹁⋮⋮って、知ってました? 魔王様﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それって結構、ずるい手ですよね。自分で倒した相手じゃなくて
も、自分に下るとしたら⋮⋮﹂
﹁しかしお前はその事実を確認する前に、相手を倒してしまったの
だろう?﹂
﹁いや、確認するって、俺が死んでたら俺は確認できないですしね
!﹂
なに言ってるんだろう、魔王様。大丈夫かな。仕事のしすぎで頭
が疲れてるんじゃないだろう。
ミディリースの一件がようやく片づいたので、俺はボッサフォル
トの示した紋章の不正の事実を、魔王様に確認しにきていたのだっ
た。
報告も兼ねて、だから、珍しく正式に手順を踏んで、応接室での
対面だ。
それにしても今の返答だと、やはり魔王様も直接手を下したわけ
でもない特異な奪爵がどう影響するのかについては、知らなかった
ということなのだろうか。
﹁なにも⋮⋮お前が殺されて確認しろ、とは言っておらん。ボッサ
フォルトを生かしておいて、問いただすという手もとれただろう、
と言っておるのだ。だが結果はその孫どころか、侯爵邸そのものの
塵すらも残っていない状態と聞いているが﹂
﹁問いただして正直に話すような奴かなぁ。っていうか、そもそも
口にする言葉がすべて許容範囲を超えていたので、正直あれ以上我
1573
慢なんてしたくなかったんです﹂
﹁⋮⋮﹂
なぜため息をつくんだろう、魔王様。
制御できないほどキレる可能性がほんのわずかにでもあるかな、
とは自分でも考えていたが、実際には⋮⋮うん、思ってた以上にキ
レてしまったのだから仕方ない。
あの異空間で毛と目だらけの巨大生物を倒し、無理矢理空間を繋
いで︱︱ちなみにこれは、いちかばちか召還魔術の応用でやってみ
たら、割と簡単だった︱︱、還った瞬間そこにあるすべてを破壊し
たことを、生々しいほど記憶している。
二人ともまとめて一撃で滅ぼした。というか、屋敷ごとすべて消
滅してやった。
一瞬で。
僅かの間、オリンズフォルトの侯爵邸と覚えられていた場所には、
今はただ瓦礫も残らない荒野が広がっているだけだ。
あそこもまた、俺の荒れ地の一つとして数えられるのだろうか⋮⋮
もっとも、それでもやりすぎたとは思っていない。
ボッサフォルトが最後に吐いた台詞は、今思い出しても腸が煮え
くり返りそうになるほどの内容だったのだから。
﹁いや、でもね、考えてもみてください。魔王様だって、自分が死
んだあとに弟のベイルフォウスを好きにするとか言われたら⋮⋮⋮
⋮すみません、あり得ない話でした﹂
﹁ああ、そうだな﹂
いくらなんでも例えが悪かった。これで共感を得られるはずがな
い。
﹁まあとにかく、あの祖父と孫は気持ち悪かったんです。とてつも
なく﹂
1574
二度目のため息だ。⋮⋮いや、五度目くらいだったかな?
﹁あ、そうだ。その気持ち悪さを言い表すのに、いい例がありまし
たよ。つまりあの二人はペリーシャを﹂
﹁その名を口にするな!!﹂
可哀想に⋮⋮。こめかみに青筋たてて、よっぽど怖かったんだな
⋮⋮夜這い。
﹁で、その侯爵邸に囚われていた女性というのを、お前は無事保護
したわけなんだな?﹂
﹁ああ、ええ、はい⋮⋮まあ⋮⋮﹂
﹁なぜそこで口ごもる。なにか拙いことでもあったのか﹂
﹁いや、別にそういう訳じゃないですけど⋮⋮保護っていうか⋮⋮﹂
そうとも。あの二人を滅ぼした後、俺はすぐにアリネーゼに渡り
をつけて、ボッサフォルトの侯爵邸に向かった。
そうしてミディリースの母、ダァルリースをその虜囚の身から、
解き放ったのだ。
いいや、正確にはちょっと違う。確かに俺はボッサフォルトの軛
を無くしはした。
そのまま母娘ともども、異論がなければ俺の城で働いてもらおう
と思っていたのだが︱︱
﹁それでは、ジャーイル大公閣下。大恩ある閣下に対し、衆人が誤
解をしかねません﹂
迎えにいった侯爵城で対面したミディリースの母は、きりりとし
た様子で俺にそう言ったのだ。
それまで俺はダァルリースを、ミディリースに似た感じで想像し
ていた。つまり引っ込み思案で気が弱く、ボッサフォルトの仕打ち
に震えながら涙をのんで従っている、可憐な少女像を、だ。
1575
確かに、見た目でいうならダァルリースは、ミディリースよりま
だ幼い容貌をしていた。二人で並んでいると、母娘というよりは姉
妹にしか見えない。しかも、ミディリースの方がまだお姉さんに見
える、という具合だ。
だが話した印象は、全く違ったのだ。
彼女は言った。
﹁いかに娘が閣下の城で司書の任にあるといえど、無爵の母親の身
を他領から引き取るなどということになれば、閣下と娘の間になに
か特別な愛情があると、疑うものが出ましょう。それではかえって、
恩を徒で返すようなもの。せっかくのアリネーゼ大公閣下のご助力
も、無駄になるやもしれません﹂
確かに属する領地の移動は、簡単なことではない。軽々しく行わ
れることでもない。たとえばその相手が特別な才能があって、どう
しても一方の大公が欲する場合は、所属する大公との話し合いが必
要だ。そうしてその許可がなければ、紋章を移すことなどできない。
あくまで平和的に解決するならば、の話しだが。
俺が妹のためにランヌスの移領を申し出ず、とりあえずはただ一
時的な招聘だけと決めているのもそのせいだった。
だが逆をいえば、彼女︱︱ダァルリースは当代ではランヌスほど
有名ではないし、噂になったことがあるとはいえすでに過去の人だ。
それにミディリースと同様、隠蔽魔術の使い手でもあるのだろうか
ら、アリネーゼとの合意もとれていることだし、そう目立たずに領
地を移動できるだろう、と軽く考えていたのだが。
﹁私にはなにも、誇るべき才能がございません。ですから、閣下の
領地で奪爵させていただきます﹂
ダァルリースは気高い様子で、俺に男爵位への挑戦を訴えてきた
のだった。
1576
曰く、ボッサフォルトには敵わずこの数百年辛酸を舐めたが、今
後はもう以前のような失態はおかさない。そのためにまずは男爵位
を手始めとして、︿修練所﹀に通って自らを鍛え律し、いつの日か
誰にも手が出せないほど強くなってみせる、と。
それこそ、美貌のために強くなったアリネーゼを思わせる様子で。
実際、侯爵であるボッサフォルトには敵わなかったとはいえ、ダ
ァルリースは男爵にはつけるくらいの魔力は持ち合わせていたのだ
から。
もとから図書館の地下の部屋はあの有様だったんで、母娘のため
に改めて城内に部屋を用意するつもりだった。
しかしダァルリースがそんな調子で、翌日にはあっという間に俺
の領地で男爵位を得てしまったのだ。それでうちの司書は母親と一
緒に、その男爵邸に引っ越すことになった。とはいえ、別に仕事は
辞めたわけじゃない。席はあるが、図書館も増築がすむまでは閉館
の予定なので、しばらくは母娘水入らずの生活を満喫するだろう。
ただ、急展開についていけないという感じで、ミディリースが始
終おろおろしっぱなしだったことは明言しておきたい。
うん⋮⋮なんていうか、か弱い少女なんてどこにもいなかったよ。
むしろ、肝っ玉母さんだったよ。
今回のことは、大まかにはそんな風に決着がついたのだった。
﹁まあ、結果は上々ではないか。変に片がついては、そなたはロリ
コンはともかく、人妻好きで確定してもおかしくはなかったのだか
らな﹂
﹁え⋮⋮どういう意味です?﹂
﹁一部にそういう噂が流れているのを知らないか?﹂
ちょっと待って。そういう噂って⋮⋮。
1577
﹁俺が人妻好きだと、まさかそんな噂が流れているとでもいうんで
すか?﹂
﹁独り身の美女に言い寄られても全くなびいた様子もみせないのに、
いくら同盟者の家族であったとはいえスメルスフォには親切に世話
を焼き、舞踏会では私のウィストベルや、リリアニースタと親しげ
に踊ってみせる。謁見でも、もっぱら人妻と長話をしているようで
はないか?﹂
いや、謁見では長話をしてるっていうか、長話を聞かされてるだ
けなんだけど! 確かにそういわれてみれば、人妻と呼ばれる部類
の女性たちは、話が長い気はするけど!
﹁その上、一司書の母親までをも城に呼び寄せたとあっては、その
外見がどうであれ⋮⋮な﹂
いやいやいや。スメルスフォもって、デヴィル族なのにかよ!
っていうか、ウィストベルのことさらっと人妻に混ぜましたね、
魔王様。気持ちは分かるけど!
﹁なんでそんな変な噂ばっかり⋮⋮﹂
ロリコンを回避したと思ったら、まさかの人妻とは!
﹁お前が一向に相手を決めないからだろうが。別に結婚しろとはい
わん。一人と付き合えともいわん。だが変な噂を立てられたくなけ
れば、せめて数人の相手を見繕ったらどうなのだ?﹂
﹁そんなこといえる、魔王様が羨ましい⋮⋮﹂
﹁なに?﹂
﹁だって、本命のウィストベルがいるってのに、相も変わらずなに
も気にせずあっちこっちの女性に手を出して⋮⋮貞操観念とか、ど
こに置いてきたのか教えてほしいって感じじゃないですか?﹂
﹁黙れ。っていうか、だいたい、なぜ予がお前ごときの恋愛に親身
になってやらねばならん! 身の程を知れ!﹂
1578
俺はなぜかそこでキレた魔王様の不可解な一撃を、久々に頭に受
ける羽目になったのだった。
報告にいったはずなのに、どうしてこうなった。
***
そうして頭を負傷したまま、我が城に帰ってみれば。
﹁お兄さま、どうなさったの!? 目の上が切れていますわ﹂
ちょうど前庭でネネネセたちと遊んでいた妹に、見つかってしま
ったのだ。
﹁まったく理不尽な仕打ちを受けたが、心配するな。ちょっとかす
っただけだから、医療棟ですぐ治してもらってくるよ﹂
外傷だけだと大したことはないように見えるだろう。実際には、
頭蓋骨にヒビが入っているとしてもな!
﹁それより三人とも、そろそろ屋敷に戻った方がいいんじゃないか
? 遊びに夢中で夕食に遅れたら、一食抜かれるぞ﹂
﹁大丈夫よ! アレスディアはそんなミスはおかさないわ﹂
確かに一時と違って、今はもう頼りになる侍女が側にいるのだか
ら、時間の心配などいらないか。
﹁その今日の夕食は、お兄さまもご一緒できるんでしょう?﹂
﹁ああ、そのつもりだ﹂
仕事が立て込んでいるときは一緒に食事もできないことが多いん
だから、休みの日くらいはみんな揃って食べるべきだろう。
﹁なら、やっぱりそろそろ戻っていますわ。ねえ、ネネネセ﹂
﹁そうね﹂
双子が声をそろえて答える。いつもながら、見事な同調だ。
﹁あ、お兄さまも医療棟にいくからって、遅れてはいけませんわよ。
一食抜きにされるんだから!﹂
1579
﹁大丈夫。ちゃんと時間は守るよ﹂
俺が笑って応じると、妹は楽しそうに﹁約束ですわよ﹂と言いな
がら、ぴょんぴょんと跳ねた。
そのテンションのまま、きゃあきゃあ騒いで居住棟に戻る三人を
見送りながら、俺は心底からの安堵を感じていた。
一時はオリンズフォルトに図書館の増築を任せようと考えていた
のだ。本人に話を通す前に白紙となったが、おかげでマーミルは奴
とは一度も対面せずにすんだ。
増築どころか一部崩壊したので、別の現場監督を手配しなければ
いけないが、なに、別に人材に乏しいわけでもない。
そんなことより万が一、ミディリースに語ったような妄想を、俺
の妹にまで奴が聞かせていたとしたら⋮⋮そうしてあの祖父と孫が、
実際に俺の妹に指一本でも触れていたとしたら。
無くなっていたのはこの大公城であったかもしれないのだから。
1580
153.できればそろそろ、心休まる出来事でもあって欲しいも
のです
﹁旦那様、ランヌス殿から招待状が参りました﹂
アレスディアがそういって、俺の執務室にやってきたある日のこ
と。
﹁ああ。一位の奉仕か﹂
﹁はい。こうして連絡が来たからには、相手のところへ赴かねばな
らないと思うのですが﹂
﹁そうだな。マーミルのことなら心配するな。迎えがきたら、行き
帰りの竜は俺が出す﹂
﹁ありがとうございます。ぜひ、お願いいたします﹂
通常は、幸運にも選ばれた相手が招待状を出し、なんらかの迎え
を寄越して一晩自分の元に招き、それから翌日相手を送り届けるの
だという。
そうなると迎えにいく相手との距離があれば、それを一日二日で
こなせるのは、少なくとも竜を自由に使える有爵者に限る。
だが、奉仕の相手は地位で選ばれる訳ではない。全くの運だ。
そうなると、有爵者ばかりが選ばれるとは限らない。
逆に、一位に選ばれるような者はたいてい高位の者が多かった。
やはり、目立つから、というのがその理由らしい。
その結果、一位の者の方が時間を無為に過ごすことをよしとせず、
結局は自身で移動手段を整えることが多いのだそうだ。
実際、ランヌスは無爵だ。魔獣くらいは飼っているかもしれない
が、竜など所有していないだろう。となると、迎えにくるだけでも
数日かかるはず。それに任せていたのでは、アレスディアの不在は
一日二日ではすまなくなる。
1581
パレードの時ほどいなくなるわけではないし、別にそれくらいい
いといえばいいのだが⋮⋮。
ちなみに、俺の方にはまだリリアニースタから何の連絡もない。
肖像画の件すら、連絡がないのだ。
⋮⋮まあ、実際いらないんだろうけど。
﹁で、いつくるって?﹂
﹁予定では明日、とのことです。ご自身がいらっしゃるとか﹂
﹁そうか。それは助かった。先日の件を、そろそろ決めてしまいた
いと思っていたことだしな﹂
﹁先日の件、ですか?﹂
アレスディアが小首を傾げる。
ああ、彼女は大祭の間中、パレードに参加していなかったから、
俺がランヌスにマーミルの絵の指導を頼んだことを知らないのだろ
う。
だからそれを伝えると。
﹁それは⋮⋮なくなったお話であると、聞いておりますが﹂
うん? なくなった話⋮⋮?
﹁お話がうまくまとまらなかったと⋮⋮違っておりますか?﹂
﹁⋮⋮聞いてないが﹂
マーミルとランヌスには直接会っておくように、と言っておいた
はずだ。当然、話はまとまったものだと思っていた。別にどちらも、
あんな人には教わりたくありません、とか、あんなわがままな子ど
もは御免です、とか、言ってこなかったからだ。
なのに、なくなったって?
俺はマーミルを呼び出した。
1582
﹁あら⋮⋮私はてっきり、画伯がお兄さまに伝えてくれているもの
と⋮⋮﹂
﹁じゃあ、本当になくなったのか? お前の方から断ったのか?﹂
﹁お兄さま、だって私は言ったはずですわ! 教師にはデーモン族
の方をお願いって!!﹂
﹁⋮⋮そうだっけ?﹂
﹁そうですわよ!﹂
見事なほど、覚えてない。
そういえば、一時やたらデーモン族にこだわっていたのは思い出
せる。
しかし今は双子とも以前通りだし、そんなことを言っていたのも
忘れていた。
それともランヌスと会ったあの時はまだ、そういう気分だったと
いうことなのだろうか。いや、あれは大公位争奪戦のさなかだった
から、とっくに双子とも仲直りしてたよな?
﹁だがマーミル。ランヌスといえば当代一と讃えられる画家だぞ。
それをデヴィル族という理由だけで断るだなんて⋮⋮﹂
ついでに、そろそろ兄の体面とか考えるように注意してみるとし
よう。
﹁けれどお兄さま、私の方から嫌だといった訳じゃありませんのよ
?﹂
﹁なに?﹂
﹁お兄さまが私の要望を覚えてらっしゃらなくて、画伯を先生にと
頼まれたことについては、後で文句は言おうと思ってましたわ!﹂
あ、うん。
﹁でも私だってさすがに、大公であるお兄さまの立場のことを考え
て、私のことを思って頼んでいただいた先生を、バカにされたりし
た訳でもないのに、すげなくお断りはいたしませんわよ﹂
1583
そこら辺は考えてくれるようになってきている訳か。
﹁じゃあどうして︱︱﹂
﹁ランヌス画伯が、ご辞退なさったのですわ﹂
﹁辞退⋮⋮なんでまた﹂
﹁それはもちろん、私の側にご自身をも上回る才能を発見され、こ
のような方がいらっしゃるのでは自分の出る幕はないと︱︱﹂
﹁ちょっと待て﹂
嫌な予感しかしない。
いや、ほんとに。つい先日の事件で感じたそれを遙かに上回る、
半ば確信に似た嫌な予感だ。
﹁まさかその、お前の側にいるランヌスを上回る才能ってのは︱︱﹂
なぜか妹は、小さな胸をいっぱいに張り、まるで自分自身の手柄
を誇るような表情で、俺がなるべく関わりたくないと思っている人
物の名を口にしたのだった。
***
﹁俺は非常に不本意なのだが⋮⋮﹂
翌日、アレスディアを迎えに来たランヌスを城内に招き入れ、俺
は彼と応接室で対面していた。
﹁申し訳ありません、大公閣下。妹姫様からもお聞きでなかったと
は︱︱﹂
目の前ではカワウソが、しきりに自分の猫手で頬のあたりを撫で
つけ、立ったり座ったりを繰り返している。おそらく非常に驚き、
焦っているのだろう。
﹁私はあの時、非常にショックを受けており⋮⋮いえ、言い訳は申
しますまい。直接お断りも申し上げず、帰宅いたしましたこと、こ
1584
うしてお詫び申し上げます。どうか、平にご容赦を﹂
とうとうカワウソ君は椅子から立ち上がり、正座して床に額をこ
すりつけた。
﹁いや、ランヌス。そこまでしなくていいから﹂
﹁で、ですが、永きにわたり、閣下を結果的にたばかったことにな
るようでは、この命は︱︱﹂
おい、ちょっと待て!
ランヌスの脅えっぷりが異常だぞ!?
ガタガタ震えて、涙まで流しだしたではないか。
大げさすぎだろ。なに、たばかったって。誰もそんなこと、思い
はしないんだけど。
﹁いくらなんでも多少の行き違いがあっただけで、俺が命まで要求
するわけないだろ﹂
﹁は、はい⋮⋮それは、閣下がこのような無爵の︱︱いわばたかが
路傍の石の失態一つで、そこまでなさるとは思っておりません。え
え、ですがこの、命より大事な腕を所望されるよりは、まだ命その
ものを奪われた方がどれだけ︱︱﹂
﹁別にマーミルの絵の指導を断ったからって、腕を寄越せとも要求
しない。ただ、残念だと伝えただけだ。不本意という言葉が悪かっ
たのなら謝るから、そんな脅えないでくれ︱︱﹂
俺がランヌスを立たせようと近づくと、カワウソ君は自ら大きく
のけぞって、叫びながら部屋の隅に飛び退いた。
なにこれ。なにこの反応。
今までも多少は何かやらかした相手から脅えられたりしたけど、
こんな些細なことでここまで怖がられたことなんてないんだが︱︱
サーリスヴォルフ、いつも領民にどんな態度で接してるんだ。
1585
﹁どうか、どうか⋮⋮腕だけは︱︱この、腕だけは︱︱﹂
﹁いや、だから、別に腕をどうこうしろとか言わないって。それと
もなにか、サーリスヴォルフはそこまで要求するのか?﹂
﹁まさか⋮⋮! それは、大公閣下ですので、容赦のないところも
たびたびありはしますが、それでもあの方は、慈悲深いお方でござ
います!﹂
⋮⋮うん?
ううん?
いや、ちょっと待て。
サーリスヴォルフの配下への対応が恐ろしいから、俺のことも怖
いと勘違いして過剰に反応しているのではないのか⋮⋮?
﹁私には地位も城も何もございません! つつましい我が家と、た
だこの腕が一本あるだけ︱︱︿無情大公﹀と称され、数々の魔族を
その強大なお力で滅ぼし、広大な城屋敷までも塵となさる閣下とは
存じておりますが、なにとぞ、なにとぞ、ご容赦を﹂
﹁ちょっと待て、ランヌス。何か誤解があるようだ﹂
まさかこの俺自身が怖がられているとは!!!
結局、その後は話にならなかった。どんなになだめても、カワウ
ソ君は俺を怖がって、立ち直れなかったからだ。
仕方ないので話はやめにして、少し落ち着いてからアレスディア
ともども竜で送り出した。
一晩の間に侍女が誤解を解いてくれることを、密かに願っていよ
う⋮⋮。
﹁なあ、セルク⋮⋮知ってた? 俺って、︿無情大公﹀って呼ばれ
てるんだって⋮⋮﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
1586
その反応は、知っていたのか?
知ってたっぽい!
﹁他領の者にはあんなに怖がられてるのかな⋮⋮ちょっとショック
なんだけど﹂
﹁確かにものすごい怖がりようでしたね。でも、他領の者が、とい
うか⋮⋮﹂
他領の者というか!?
﹁旦那様のことを直接知らない者たちの中には、大公閣下と聞いた
だけで、懼れおののく者もおりますからね﹂
﹁まあ⋮⋮確かにな﹂
ああ、びっくりした! 俺だから、じゃないよな?
﹁そうでなくとも旦那様は、あの恐るべきヴォーグリム大公を、あ
り得ないほど見事に滅ぼされたのです﹂
そういや、ネズミも結構領民からは恐れられてたっけ。わがまま
だったもんな、あいつ。
﹁その軍団長多数を道連れに﹂
﹁⋮⋮﹂
言葉もない。
﹁その時の逸話だけでも十分ですが、旦那様は大公位争奪戦でもそ
の強さを示されました。あのベイルフォウス閣下の上位に食い込み、
プート大公の命まで奪いかけたのですから︱︱その上、ついこの間
のボッサフォルト侯爵城の消滅⋮⋮それを耳にしたとあっては、過
剰に恐れる者もおりましょう﹂
そうハッキリ事例をあげられると、確かに納得できるものはある。
だいたい、うっかりキレてしまった結果ばかりなのが、自分でも
本当にどうかと思うし。
1587
﹁今後は、いっそう行動には気をつけるよ⋮⋮﹂
簡単にキレない大人になろう、俺。
﹁しかし一方で、領民はむしろ強い大公を敬愛することもあります。
あまり無益な悩みに、気を取られませんよう﹂
﹁ああ、そうだな。ありがとう﹂
セルクも近頃は余裕が出てきたのか、ちょいちょいフォローして
くれて、ほんとありがたい。
家令と筆頭侍従。なんやかんやあったが、今の組み合わせが俺的
には一番いいのではないだろうか。
そんな感想を抱きながら、俺はその一日を過ごしたのだった。
そうして翌日。
夕暮れ時、竜と共にアレスディアを送り届けてきたランヌスは、
昨日に比べれば随分落ち着いていた。
もっとも俺が直接出迎えなかったからだけのことかもしれないが。
結局、俺はランヌスをあきらめた。本当は、考え直してマーミル
の絵の指導を、とお願いしたかったが、そうすると彼には脅迫に感
じられただろう。脅えながら応じ、またさらに俺が怖いだなんて噂
が流れかねない。
だから俺は、彼が落ち着いた頃を見計らって庭に出て行き、距離
を保ちながらこういうにとどめた。
﹁絵画教室でも開くときには、連絡をくれ。マーミルを通わせるか
ら﹂と。
ランヌスは﹁機会があれば、必ず﹂と畏まり、なにをかわからな
いが俺に感謝しつつ、魔獣に乗って帰路についた。
一度もこちらを振り返ることさえなく。
﹁ねえ、大丈夫だった? アレスディア﹂
1588
マーミルが侍女の袖を引いている。
﹁大丈夫とは、何がでしょう﹂
﹁綺麗に描いてもらった?﹂
﹁私を描くのですよ、お嬢様。綺麗にならない訳はありません﹂
さすがの返答だ、アレスディア。
俺もそんな風に自信満々に、言ってみたいものだ。
﹁まさか裸なんてことは⋮⋮﹂
﹁ほほほ、どうでしょうね﹂
﹁えっ!!﹂
高笑いのアレスディア。
青ざめながら、どうなのよ、ねえどうなのよ、とまとわりつく妹。
賑やかに去る二人を見つめながら、この平穏な風景でとりあえず
はよしとするか、と俺は納得することにしたのだった。
1589
154.そういえばそんな約束も、していた気がします
図書館の修理を含めた増築工事は、ようやく昨日始まったばかり
で、当然終了していない。この際、敷地面積を倍にすることにした
からだ。
設計をキリンくんに頼んだら、唾をまき散らしながら感激してく
れた。数日前から我が城に泊まり込みで、ああでもないこうでもな
いと設計図をひいてくれていたのだ。
そんなキリンくんを、マーミルがなぜか気に入ったようだ。長い
首に乗せてもらっているのを何度かみかけた。
あんまり邪魔になっているようだったら、遠慮せず追い払ってく
れと言っておこう。
とにもかくにもそんな風に本棟の一部が改築中では、ウィストベ
ルを招く訳にもいかない。まあ特にせっつかれてもいないのだが、
一応急にこられたりしても困るから、俺は新しい図書館を披露した
いので、暫く招待できないという事情をウィストベルに手紙で伝え
た。それから本人から聞いているかも知れないが、と前置きして、
ミディリースが実母と暮らすことになったことも付け加えておいた
のだ。
そうしたところ、昨日返事があったのだが⋮⋮。
いや、もちろん了承の返答だ。しかしそれとは別に、その手紙に
は彼女からの希望も載っていたのだった。
曰く、ミディリースの暮らしぶりを実際に確認したい。
曰く、ダァルリースと話をしてみたい。
⋮⋮とりあえず、ミディリースには手紙を出しておくか。
1590
司書が我が城を出てもう暫くたつが、その間も俺たちは何度か手
紙をやりとりしている。相変わらず、文通は続けているのだ。
もっとも、ミディリースとウィストベルはもっと以前からの文通
友達なのだから、すでに直接要望を伝えてあるのかもしれないし。
そうして手紙を書いていた時に、親友の来訪があったのだった。
﹁ちょっと待ってくれ。あと少しで書き上がるから﹂
﹁かまわん。厳密にいうと、今日のメインはお前じゃないんだ﹂
うん?
﹁マーミルはどこだ?﹂
俺は便せんから視線を上げた。
﹁マーミル? ああ、剣の修行か﹂
﹁今日は違う。言っていただろ? ヴェストリプスの代わりに、マ
ーミルの武器を選んでやるって﹂
そういえば、そんな話になってたっけ。
ベイルフォウスは右の肩に短弓をかけていた。
妹が今でもなんなく引けそうな、コンパクトな弓だ。
﹁その弓がそうか?﹂
﹁あ? いいや、これはマーミルにじゃなくて、約束していたもう
一つの魔弓だ﹂
サイズ的にマーミルへかと思ったのに、違うのか。
だがそうと言う割に、あとは他に武具など持っていないように見
える。
と、いうことは、なにか質量の小さいものを選んだってことか?
針とか、チェインとか?
それとも小刀とか?
﹁何を選んだんだ?﹂
1591
﹁後で一緒に見せてやるよ﹂
﹁え、なんで?﹂
﹁こんな武器はダメだとか、うるさいことを言われても嫌だからな﹂
どういう意味だよ、ベイルフォウス。俺はそこまで妹のことにあ
れやこれや、うるさく口出ししないぞ。
いや、待てよ。
﹁お前まさか、なにか卑猥なものを⋮⋮﹂
﹁卑猥な武器ってなんだよ。そんなものがあるんなら、是非教えて
くれ。使いこなしてみせるから﹂
逆に呆れたような表情で見られてしまった。
﹁あー、ごほん﹂
咳払いを一つ。
﹁マーミルは出かけているはずだ。確か⋮⋮ケルヴィスのところで
お茶会があるとか言っていたから、今日は夕方近くまで帰らないん
じゃないかな﹂
﹁ケルヴィス⋮⋮? あああの、親族でもないのに女装までして、
お前の家族席にいた子供か﹂
﹁覚えてるのか﹂
﹁そりゃあな﹂
ベイルフォウスの奴、記憶力はいいらしい。他所の、関わりのな
い無爵の子供の名前と顔まで覚えているなんて!
しかも相手は男なのに!
自慢じゃないが、俺だったら忘れてるぞ、絶対。
﹁ところでお前、ロリコン伯をやったんだってな﹂
﹁ボッサフォルトのことか?﹂
﹁他に誰がいる。いいタイミングだった。誉めてやろう﹂
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﹁⋮⋮どういう意味だ?﹂
無駄に偉そうなのは、いつものことだからおいといてやろう。
﹁例の⋮⋮催淫剤を子供が飲むとどうなるか。覚えているだろう?﹂
﹁忘れるわけはないだろう﹂
﹁だよな﹂
一応まだ気にしているらしく、ベイルフォウスが珍しくばつの悪
そうな顔をする。
﹁あんなことが本物のロリコンに知られてみろ。悪用されかねない﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
もちろん、ロリコンなのに大人にさせても意味はないのだから、
対外的な利用のことを言っているのだろう。たとえばさらった子供
を家族が探しに来ても、大人に姿を変えてごまかすというようなこ
とを。
﹁だがそうか、マーミルは遅いのか。なら、今日は夕餉をごちそう
になって、ついでに明日の朝、帰ることにしよう﹂
﹁え? 泊まるってこと?﹂
﹁たまにはいいだろう。武器の使い方も教えてやりたいし、子供の
いない間にしかできない話ってのもあるだろう?﹂
子供のいない間にする話?
うん、一瞬、深刻な話かと思った俺がバカだった。
ベイルフォウスが話し始めたのは、ほとんど猥談だったからだ。
ただ、いいだろうか。
その時の話し手の九割はベイルフォウスだった。俺はほとんど、
聞き役に徹していたのだ。
だというのに、たまたまセルクがやってきたときに話していた内
容が、女性のどういう部分に魅力を感じるか、という話題で、たま
たま、ほんとにたまたま俺が話していた時に彼がやってきたものだ
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から、後でぽつりと﹁旦那様もそういう話をなさるんですね﹂と言
われたのが、ちょっとなんていうか⋮⋮いや、別にいいんだけど!
まあとにかく俺は手紙への集中を欠き、続きは明日にでもとその
便せんを執務机の引き出しにしまいこむことになったのだった。
***
夕食後に移った談話室で、その武器はベイルフォウスからマーミ
ルに進呈された。
見た目はせいぜい二十センチあるかどうかというような、小さな
筒のようなものだ。
赤い下地に金と銀で、鋭い針を持った蜂が背景の花と共に描かれ
てある。それを水晶で象った物が、筒の片端に飾られていた。
﹁なんですの、これ﹂
マーミルはその筒をいろんな角度から見ながら、首を傾げている。
俺の方に視線をよこすが、俺もわからない。
﹁鞭だ﹂
﹁ムチ?﹂
﹁そう。魔武具の一つでな。こうして、ここをひねれば﹂
水晶蜂を左にひねると、逆の端から細長い紐が飛び出した。
﹁おお﹂
マーミルが本気で驚いたからだろう。まるで小さいおっさんのよ
うな低い声をあげた。
それにしても、ベイルフォウスはよくよく仕込み武器が好きとみ
える。
以前武器市でマーミルに選んでいたのも、やっぱり針の仕込まれ
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た髪飾りであったはずだ。
﹁これなら目立たず持っていられるし、スカートの下にでも忍ばせ
れば、舞踏会でだって携帯できる﹂
﹁舞踏会に携帯して、どうするんですの?﹂
﹁それはお前、お前に不埒なことをしようとする相手をこれで舐め
てやればいいのさ﹂
﹁可愛いって罪ね﹂
⋮⋮この間のミディリースの件がなくば冗談かと思うところだが、
世の中ほんとにおこちゃまにも手を出す変態がいるらしいから笑い
飛ばせない。
﹁まあ、今はまだ必要ないだろうが、いずれそうなるときのために、
今から練習しておくといい﹂
そうだな。それでいずれ、くれた相手を一番に叩くってわけだな。
﹁難しそうだわ﹂
﹁センスはいるだろうな。だが基礎は俺が教えてやるから、心配す
るな﹂
ベイルフォウス! お前、槍や剣だけじゃなくて鞭も得意なのか?
握り手も紐も、はるかに長い鞭を振り回すベイルフォウス⋮⋮。
⋮⋮うわ。なんか似合うのが嫌だ。
ちなみに俺は、鞭の扱いには慣れていない。持って振り回したこ
とはあるが、あんまり興味が沸かなかったのと、やっぱり⋮⋮似合
わないだろ?
だからって、妹にこんな武器はダメだとは言わない。さっき見せ
てくれてもよかったのに。
﹁しかし、それは魔武具だよな?﹂
ほんのり魔力を漂わせている。間違いないはずだ。
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﹁そうだが、なぜだ?﹂
ならば、ただの鞭ではないはず。
﹁どんな能力がある?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
ベイルフォウスはふと思い立ったように、言いよどんだ。
﹁⋮⋮内緒だ﹂
﹁⋮⋮なんで?﹂
﹁なにもかも明かしてばっかりじゃ、おもしろくないだろ。だいた
い、使う本人がその能力をものにする前に、他に知られちゃつまら
んだろう﹂
お前がいつ、俺になにもかも明かしてくれたっていうんだ?
むしろ﹁内緒だ﹂ばっかり聞いてる気がするんだけど?
﹁別に私、気にしませんわ。お兄さまだもの﹂
ベイルフォウスは妹をなだめるように、頭をぽんぽんとたたいた。
﹁まあ、どうしても知りたきゃ自分で調べろ。割と珍しい魔武具だ
から、お前の好きだって言う本にでも、載っているだろうさ﹂
⋮⋮そこまで言われると、わざわざ調べるのもなんかしゃくだ。
だいたい今は図書館も閉鎖中だし。
まあそのうち⋮⋮本を読んでいてそれらしいものが出てきたら、
覚えておくことにしよう。
﹁いいなぁ、マーミル﹂
遠くで姉妹たちと座っていた小さいマストレーナが、ぽつりと呟
いた声が耳に届く。
武器に興味津々な子がいるのか、それとも単に贈り物がうらやま
しいのか。
素直な感想は、しかし姉によって窘められる原因となったようだ。
そういえば、この子らは以前は大公の娘だったのだ。そのころは
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配下からなにか贈り物をもらったりということがあったのかもしれ
ない。
そうでなくとも考えてみれば父親はあのマストヴォーゼだ。妻や
娘を喜ばせるのに、いろいろな贈り物をしたり、催しを企画したり
していたのかもしれない。なにせ、御前会議より家族との団らん、
といった考えさえ透けていたしな。
そういう意味では、俺は仕事ばかりで愛想のあるほうではない。
よし、今度なにか子どもたちが喜びそうな催しでも考えてみるか。
結局、ベイルフォウスはそれから三泊もしていって、みっちりマ
ーミルに鞭の扱い方の基礎を教え込んでから帰って行ったのだった。
あいつと俺、同盟も結んでないんだけど、どう考えても一番頻繁
に遊びに来てるよな⋮⋮。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n0520cm/
魔族大公の平穏な日常
2017年3月27日06時25分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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