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近代日本における商工業界による実業教育施策の展開

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近代日本における商工業界による実業教育施策の展開
〔論 文〕
弘前大学経済研究 第 38 号 38-53 頁
2015年12月25日
近代日本における商工業界による実業教育施策の展開
竹 村 俊 哉
それによると,明治期における私立工業各種学
1 はじめに
校は学校というよりも私塾的性格が濃く,製図
や機関学などの特定の内容が教授された。本格
筆者はこれまで,近代日本において実業学校
的な学校が登場するのは第一次世界大戦期であ
がその所在する地域の経済活動に及ぼした影響
るとし,住友私立職工養成所及び大阪工業専修
について考察してきた。例えば大正期に青森県
学校について詳しく検討している。前者は「大
立工業学校が現職者を対象に実施した「工業伝
阪市及び其付近に於ける家計困難なる者の子弟
習」事業は,地域の商工業界の要望を取り入れ
に,職工として必須なる知識及び技能を授け,
ながら実施され,受講者の中からは指導者とし
且その品性を陶冶し以て善良着実なる職工を養
て活躍する者も現れた 1 )。
成する」ことに成功し,後者についてはキャリ
1
このように商工業界は実業学校に対して大き
な期待を寄せる一方で,商工業界自らが実業教
アの上昇を志向する意欲的な勤労者には貴重な
存在であったと分析した。
育に関係する諸施策に着手する動きも見られ
そこで本稿では,商工業界が学校設立をはじ
た。このうち,商工業界による実業学校設立に
めとする実業教育に関わる施策を通してどのよ
関する先行研究としては,沢井(2007年)によ
うな人材を育てようとしたのか,言い換えれば
る戦前・戦中期の大阪の私立工業各種学校を取
当時の商工業界が抱いた労働者像について考察
り上げ,どのような教育サービスを提供したの
するものである。なお,実業家個人による学校
か,多くが夜間課程の学校として出発した私立
設立をはじめとする実業教育に取り組んだ例を
工業各種学校に対して勤労学生が期待したもの
扱うとすれば,その人物の経済思想を分析する
は何であったのかを分析したものがある 2 )。
ことが求められるが,それは次の機会に譲るこ
2
1 )拙稿「大正期における実業学校の地域経済への寄与
に関する考察 ─ 青森県立工業学校の「工業伝習」の事例か
ら ─ 」弘前大学大学院地域社会研究科『弘前大学大学院地
域社会研究科年報』第 8 号,2011年
同様に青森市立工芸学校の工業講習会については,拙稿
「大正期青森県における実業学校の地域経済への関わりに
ついて ─ 青森市立工芸学校を中心に ─ 」弘前大学國史研究
会『弘前大学國史研究』第135号,2013年
地域経済における工業学校教員の寄与については,拙稿
「近代日本における工業学校と実業界との関わりについて
─ 青森県立工業学校の事例を中心に ─ 」弘前大学経済学会
『弘前大学経済研究』第34号,2011年
2 )沢井実「戦前・戦中期大阪の工業各種学校」大阪大
ととし,ここでは商業会議所のような組織によ
る施策についてのみ考察対象とする。
商業会議所の前身は,明治初期に設立された
商法会議所である。不平等条約の改正交渉が
1876(明治 9 )年に外務卿寺島宗則のもとで着
手され,関税自主権の回復に主眼がおかれた。
政府は,商工業界に対して諮問する機関が無い
学『大阪大学経済学』第57巻第 1 号,2007年
38
- -
近代日本における商工業界による実業教育施策の展開
ため,商工業界の輿論を提示する根拠を得るこ
2 商業会議所による実業教育事業
とができないことは国際談判上大いに不利であ
ると判断し,まず東京財界の有力者等に商法会
議所の設立を勧奨した。そして渋沢栄一・福地
1924(大正13)年に商業会議所連合会は,皇
源一郎・益田孝等が中心となって準備が進めら
太子御成婚の記念として,全国の各商業会議所
れ,1878(明治11)年 3 月に東京商法会議所の
から記録を収集して『日本商業会議所之過去及
設立が認可された。また同年 8 月には五代友
現在』を刊行した。第一編総論に続き第二編各
厚・広瀬宰平・中野梧一等の働きによって大阪
論では各商業会議所の「起源」「沿革」「現在に
商法会議所の設立が認可された。翌年には横
於ける最も主なる事業」「現在における役員,
浜・福岡・長崎・熊本・釜山等,1880(明治
議員,特別議員,及び書記長の氏名」の 4 項目
13)年には徳島・富山・赤間関(現下関)に次々
について記述されている。このうち「現在に於
と設立され,1881年までに全国で34の商法会議
ける最も主なる事業」から当時の各商業会議所
所が組織された。各地の商法会議所は,私設団
によって実施されていた実業教育に関係する事
体として政府或いは地方官庁の諮問に応じた
業を拾うと概ね,商業学力検定試験,講演会,
り,その地方の商工業の調査及び改良に従事し
講習会,図書館,視察,珠算競技会,表彰及び
た。
奨励の 8 事業に分類できる。
ところで,1890(明治23)年 9 月に法律第
なお,旭川,姫路,新潟,長岡,直江津,高
八十一号をもって発布された商業会議所条例及
崎,水戸,四日市,静岡,浜松,山形,秋田,
び1902(明治35)年 3 月に法律第三十一号をもっ
敦賀,金沢,富山,久留米,佐賀の各商業会議
て発布された商業会議所法にはいずれも実業教
所については実業教育に関係する事業の記載は
育の振興については直接には触れられていな
なかった。
い。会議所の事務権限から推察すれば,前者で
また,大泊,豊原(以上樺太),京城,仁川,
は第 4 条第 1 項の「商業ノ発達ヲ図リ若クハ其
大邱,釜山,平壌,元山(以上朝鮮),大連,
衰退ヲ防クニ必要ノ方策ヲ議定スルコト」,後
安東,鉄嶺,上海,天津の各商業会議所につい
者では第 7 条第 8 項の「農商務大臣ノ認可ヲ受
ては割愛した。
したがって,ここで対象とするのは47箇所の
ケ商工業ニ関スル営造物ヲ設立シ又ハ管理シ其
ノ他商工業ノ発達ヲ図ルニ必要ナル施設ヲ為ス
商業会議所である。
事」がその根拠となるであろう。商業会議所に
関わる実業教育に触れた事項の初見は,1905(明
3
(1)商業学力検定試験
治38)年10月に日本商業会議所連合会 3 ) が政
この検定試験は,正規の学校教育を受けるこ
府に対して建議した26ヵ条に亘る日露戦争の戦
とができなかった商業従事者及び従事予定者を
後経営策で,産業に関する項目として「工業学
対象に,東京,京都,大阪,神戸,名古屋,札
校商業学校の増設並に徒弟学校設立の奨励保
幌,小樽,函館,豊橋,仙台,福島,高岡,岡
4
4)
護」 という文言である。
山,広島,尾道,下関,松山,高知,門司の17
箇所の商業会議所によって実施されたものであ
3 )商業会議所の全国的連合組織で,関西の 5 会議所の
呼びかけで1892(明治25)年 9 月に京都において第 1 回の
商業会議所連合会が開催された。
4 )商業会議所連合会『日本商業会議所之過去及現在』
p.80 1924年
る。
このうち,大阪での実施経緯を見てみると,
1915(大正 4 )年10月,大阪商業会議所は大阪
府知事の諮問に対して実業補習教育の改善に関
39
- -
する意見を開陳した。その中で,中等学校卒業
演会),岐阜(講演会),大垣(商工業に関する
者と同程度の学力を有する者に必要な補習教育
講話会),長野(経済講演会),松本(講演会),
の機関を増設することを希望していたところ,
青森(商工業に関する各種講演会),岡山(経
正規の学校教育を経ていない者に対して甲種商
済講座),広島(商業従業員定例講演会),和歌
業学校卒業と同じ程度の学力検定の実施が具体
山(商工業に関する講演会)
,博多(商工の実務,
化し,1919(大正 8 )年 5 月以降毎年実施され
修養)
,門司(実業講話会)
,熊本(実業講演会)
,
ることになった。
鹿児島(商工業の発達を図るために必要な知識
各商業会議所における検定試験の実施に踏み
普及)の 18箇所の商業会議所で実施された。
出した理由や目的を見ると,「其の学力を証明
「商工業の発展に資する」(松本),「商工業の
し,以て就職上の便宜を図る為め」
(東京),
「立
発達を図るに必要なる知識普及」(鹿児島)を
身向上の機会を与ふる趣旨」
(京都),
「其の学力
目的として,
「商工従業員」
(広島),
「職工,店員」
を社会的に証明するの途を開くは,単に青年を
(博多)を対象者として,
「名士又は専門家」
(知
して向上の意気を旺ならしむるのみならず,傭
多),
「学術経験ある名士」
(大垣)を聘して開催
者に対しても亦多大の利便を与ふべき緊要なる
された。その内容は概ね商工業に関することで
社会施設」
(大阪)
,
「修学向上の気風を振起し,
「小売商店経営並に繁栄方法」
(津),
「実業奨励,
実業上の進展に資せんが為め」
(小樽),
「其の進
経済思想涵養の方法」,「実業に関する有益なる
路を開きて自立自助の精神を振起せしむると共
講演」
(大津)であった。
に,勉学向上の美風を涵養する」
(岡崎),
「一般
商工子弟の地位向上」(岡山)と様々であるが,
(3)講習会
札幌(商業講習会),函館(商業簿記講習会),
概ね,その学力を社会的に証明することで,就
八王子(講習会),長崎(商工講座:支那語講
職や立身を有利にすることであった。
根拠法令としては,商業会議所法第 7 条第 8
習会),宇都宮(法律経済の学術講習会),栃木
号の商工業に関する施設であり,商業会議所法
(実業に関する講習会),津(商業講話:経営法
施行規則第14条により農商務大臣の認可を得て
並びに店頭装飾術に関する講習会),豊橋(各
実施された。
種講習会),一宮(常設商工講座),甲府(徒弟
当該検定試験の水準は,
「甲種商業学校卒業
講習会),大垣(商業算術,商業帳簿の改善,
程度」
(京都)
「中等商業学校卒業程度」
,
(岡山),
商店経営),長野(実業講習会),青森(商業夜
「四年制商業学校卒業程度」(下関)と,中等商
学会),弘前(店員修養会),酒田(商業簿記学
講習会),松江(珠算講習会),下関(実業講習
業教育機関であった。
実施回数は年 1 回がほとんどで,下関商業会
議所のみ年 2 回実施した。
会),和歌山(商工業に関する講習会),高松(経
済講習会)の19箇所の商業会議所で実施された。
試験委員は,京都商業会議所において「本市
宇都宮,津,大垣,高松の各商業会議所の講
各商業学校長」が務めたほかは詳らかでない。
習は主に経営者向けであり,甲府,弘前,酒田,
合格者には合格証(検定証)が付与された。
松江の講習会は従業員を対象としていたと言え
よう。
(2)
講演会
講師には,
「商工業に関する専門家及学者」
(下
東京(商工従業員修養会)
,八王子(講演会)
,
関)が招聘された。
栃木(実業に関する講演会),津(講話会),知
また,長崎商業会議所の支那語講習会開催の
多(実業奨励,経済思想涵養),大津(実業講
背景としては,当該会議所が政府に対して請願
40
- -
近代日本における商工業界による実業教育施策の展開
していた日華連絡船の航路開設が1921(大正
(5)視察
10)年に認められ,1923年から長崎・上海航路
博多(近県の商店及び工場),門司(店員職
の運航が開始されたという事実が考えられる。
工実地見学),鹿児島(県外視察)で実施され
ており,「一般の公休日を利用して,本所主催
(4)図書館
の下に百名内外の見学団を組織し,県下及近県
図書館及び図書室を設置する例としては,横
の商店若くは工場を視察せしめ,以て実務上の
浜(蚕糸図書館),大津(商工業者に必要な図
知識を啓発すると共に,忠実勤勉の美風を養成
書閲覧)
,岐阜(簡易商工図書館),弘前(図書
しつゝあり」
(博多),
「毎年一回若くは二回,附
室公開)
,松江(図書室),岡山(商工図書館)
近工場其の他を視察せしむ」
(門司),
「毎年各種
の 6 箇所の商業会議所があった。
工業当事者に費用の一部を補助し,事務員と共
その内容は,
「商工業者に必要なる図書を備
え付け,一般の縦覧に供す」
(大津),
「本所二階
に県外実地視察を為さしむ」(鹿児島)という
内容であった。
の一部を割きて通俗図書館を経営し,主として
商工業に関するものを蒐集し,併せて一般図書
(6)珠算競技会
の簡易なるものを購入して縦覧に供す」
(岐阜),
「大正十二,十三の両年度に亘り,継続事業と
して本会議所構内に商工図書館を建設し,商工
門司(珠算競技会)及び福島(珠算研究競技
会)で実施されており,門司は毎年一回実施し
た。
業に必要なる各種の図書を備へ付け,商工当業
者に随意閲覧せしむると共に,一部に広告図案
(7)表彰及び奨励
表彰及び奨励は 5 箇所で実施されており,そ
室を設け,内外各地の進歩せる広告図案を取揃
へて一般の参考に供せんとし,既に本年度の予
の目的は以下のとおりである。
算に若干の経費を計上せり」
(岡山)とあり,
八王子:府立商業学校生徒中,品行方正・学
商業会議所建物内に図書閲覧施設を設置するも
力優秀であるが資力に乏しく成業が困難な者に
のであった。
学資を補給する。
この中で特徴的なものは,横浜商業会議所の
蚕糸図書館である。『日本商業会議所之過去及
青森:市内商工業学校の優等生に賞品を授与
して奨励する。
現在』には「蚕糸に関する調査研究に当る者の
高岡:商工補習教育奨励規則の制定→成規の
為め,蚕糸に関するあらゆる知識を涵養せしめ,
商業教育を受けていない者で,業務の余暇に商
あらゆる資料を供給するを得べき蚕糸図書館の
工補習学校において所定の教育を受ける子弟に
企図しつゝあり」と記載されている。『横浜商
対し,修学を奨励する。
工会議所百年史』所収の年表では1912(明治
徳島:実業教育奨励→県立商業学校及工業学
45)年 7 月 4 日に「図書室用貸間一室を借受け,
校の優等卒業生に対して奨学金,品を授与する。
その前に当業者へ通報用の掲示場を設けること
博多:実業教育奨励→産業の堅実な発達は実
を決定する」とあることから,図書室の施設は
業教育の普及に待つものが多いことに鑑み,市
既に存在していたことがわかる。当時,生糸は
立実業補修学校と連絡を図り,同校生徒の為め
日本からの主要貿易品として横浜港から輸出さ
に時々実業に関する講演会を開き,或は成績優
れていた。
良な生徒に対して修業式挙行の都度褒賞を授与
する。
以上の施策は,成績優良生徒に対する学資補
41
- -
5
助や賞品授与することが主であるが,徳島商業
通夫が就任した 5 )。また,庁立函館商業学校
会議所のように商業学校及び工業学校の優等卒
第 5 代校長の神山和雄を招聘して校長事務取扱
業生に対して奨学金を授与する例も見られた。
を嘱託した 6 )。彼は1903(明治36)年 4 月15日,
6
個人で北海道庁から函館商業学校の校舎の一部
(8)
その他
を借り受けて,尋常小学校卒業後,家庭の事情
上記の事業のほかに,次のような独自の事業
等で進学を断念し,商家の徒弟として働いてい
る者に対して夜間補習教育を施す私立函館商業
も見られた。
長崎商業会議所は1922(大正11)年に実業補
習教育に係る長期講習会の開設が認可され,翌
7
補習学校を開設しており 7 ),その実績が買わ
れたのであろう。
年 3 月には第 1 回修了証書授与式を挙行し,引
き続き第 2 回講習会を開いた。
同校は,外国語に熟達し貿易実務に適する者
を養成するため,英語,中国語,ロシア語,マ
松本商業会議所は「店員教育」と称して,実
レーシア語,ドイツ語,フランス語,スペイン
業組合連合会と協同し,義務教育を終えていな
語,インド語,タイ語を教授するとともに,商
い店員を小学校に通学させ,義務教育を終え高
業関係の科目を開講した。
また,夜間課程の専修科を設けて昼間の就業
等小学校卒業程度には至らない者は補習学校に
入学させ,高等小学校卒業程度以上の者で商工
者を受け入れた。
業に必要な研究を望んでいる者のために講習所
1916(大正 5 )年 3 月,専修科第 1 回卒業式
を設け, 6 ヶ月を一期とし, 3 期に分けて教育
を挙行し,同年 5 月には阪神電鉄専務で大阪商
を施した。
業会議所副会頭今西林三郎が理事長に就任,翌
年 3 月に本科第 1 回卒業式を挙行し,商店や会
8
3 商工業界による実業教育機関の設置
社に卒業生を送り出した 8 )。
1923(大正12)年 1 月,陸軍省文部省告示第
ここでは,商工業界によって設立された実業
教育機関について 4 つの例を取り上げて,その
1 号及び文部省告示第 2 号によって中学校と同
程度以上の学校として認定された。
1925(大正14)年 7 月には「大阪貿易学校」
設置事情を中心に考察する。
と改称し,貿易実務に専念する中等商業学校と
(1)
社団法人大阪貿易語学校(現開明中学校高
なった。
「創立以来昭和十六年までの本校卒業生は総
等学校)
同校は1914(大正 3 )年12月 1 日に創立され
て一千九百三十二名,主として貿易業者の店に
9
入り其の大部は海外に活躍」した 9 )。
た。設立経緯は以下のとおりである。
当時,貿易交渉は中国語やロシア語等によっ
また,1917(大正 6 )年 8 月に大阪商業会議
て行われていたが,貿易都市であった大阪市に
所は,一般商業教育に関する大阪府知事からの
は外国語学校がなかったため,通信に不便を感
諮問に答えている。その主要な意見は,甲種商
じた各商店では大阪商業会議所に翻訳を依頼し
ていた。そこで,同会議所では貿易実務とりわ
け外国語を教授する学校を設立することとな
り,1914(大正 3 )年 9 月15日に文部大臣から
設立が認可された。
初代理事長には,大阪商業会議所会頭の土居
5 )学校法人大阪貿易学院開明中学校・高等学校『創立
90周年記念誌』p.29,2004年
6 )大阪商工会議所『大阪商工会議所史』pp.138‒139,
1941年
7 )函商百年史編集委員会『函商百年史』北海道函館商
業高等学校創立百周年記念協賛会 pp.671‒674 1989年
8 )前掲『大阪商工会議所史』p.139
9 )前掲『大阪商工会議所史』p.141
42
- -
近代日本における商工業界による実業教育施策の展開
【資料 1 】
大阪商業会議所主管
社団法人私立大阪貿易語学校規則(大正四年三月十二日文部大臣認可)
第一章 総則
第一条 本校ハ外国語ニ熟達シ貿易実務ニ適スベキ者ヲ養成スルガ為メ主トシテ東洋及欧州ノ
近世語ヲ教授スルヲ以テ目的トス
第二条 学科ヲ分チテ英語,支那語,露語,馬来語,独語,仏語,西語,英領印度語,暹羅語ノ
九科トス
第三条 修業年限ハ三ヶ年トス
第四条 生徒定員ハ三百名トス
第五条 本校ニ専修科ヲ置ク其規定ハ別ニ之ヲ定ム
第二章 学科課程
第六条 各語学科ニ於テハ語学ヲ除キ其他ノ学科目及其程度ハ同一トス左ノ如シ
学科目概要
学年
科目
修身
国語,作文
毎週授
業時数
一
二
算術
三
簿記
地理
商事要項
商品
法律
経済
商業実践
英語
語学
体操
合計
二
二
二
第一学年
道徳ノ要旨
国語
商業作文
商業算術
珠算
商業簿記
内外商業地理
毎週授
業時数
一
毎週授
業時数
一
第三学年
同左
二
同左
一
同左
二
二
二
二
同左
同左
同左
一
一
珠算
英文簿記
一
二
一五
一
三〇
第二学年
同左
二
一五
一
三〇
一
二
二
二
二
一六
一
三〇
外国商業実践
但前表第三学年ニ於テタイプライターヲ適宜課スルコトアルベシ
英語学科ノ語学時間数ハ語学ノ時間数ニ英語ノ時間数ヲ加ヘタルモノトス
第七条 生徒ハ学校長ノ許可ヲ経テ其所修語学以外ノ専修科ヲ兼修スルコトヲ得
(中略)
専修科規則
第一条 専修科ハ速成ヲ旨トシ本校所定ノ語学中数個ノ語学ヲ夜間ニ教授スルモノトス
第二条 修業年限ハ二箇年トス
第三条 授業時数ハ一週十二時間トス
第四条 入学期ハ学年ノ始トス但時宜ニ依リ臨時入学ヲ許スコトアルベシ
(後略)
43
- -
業学校の増設,市立大阪高等商業学校の規模拡
関する大阪府知事への回答のなかに「女子商業
張,高等並びに甲種程度の商業夜間部の既設学
教育機関の設置」があり,また女子事務員養成
校内への設置,中等学校卒業生に対する短期商
科仮規則書の入学願書の様式には,年月日が大
業教育機関の設置,完備した貿易語学校及び女
正となっているので,大正期後半であると推測
子商業教育機関の設置であった。
できる。
ところで,同校では高等女学校 2 年修了また
同科はタイプライター及び商務を教授し,
「実
はそれと同等以上の学力を持つ女子を対象にし
業ニ従事スル事務員」を養成することを目的と
た女子事務員養成科を設置している。設置年が
した。
わかる資料はないが,1917年の一般商業教育に
入学資格を「高等女学校二年修了又ハ之ト同
【資料 2 】
女子事務員養成科仮規則書
一、女子ニタイプライター及商務ヲ教授シ実業ニ従事スル事務員ヲ養成ス
二、入学資格ハ高等女学校二年修了又ハ之ト同等以上ノ学力アル者トス
入学志願者数募集人員ニ超過スルトキハ左ノ学科ニ就キ入学試験ヲ行フコトアルベシ其際
ニハ受検料トシテ金壱円納付セシム
国語、算術、英語、以上
三、修業期間ハ四ヶ月間トス
四、入学ヲ許可セラレタルモノハ入学金トシテ金一円納付スベシ
五、授業料ハ一ヶ月金一円五十銭トシ毎月三日迄ニ納付セシム
但シ入学ノ際ハ入学許可ト同時ニ納付スベシ
六、タイプライターハ之ヲ貸与ス
七、授業ハ毎日午後三時ヨリ五時迄二時間トシ其余ノ時間ニ於テタイプライターノ各自練習ヲナ
サシム
八、入学志願者ハ左ノ書式ニヨリ入学願書ヲ指定ノ期日内ニ本校ニ差出スベシ
入学願書(用紙美の紙)
現住所 何府県市何郡何町何番地何某方
族 籍 何府県士族 平民
氏 名
生年月日
一、学業何年何月何日何官公立(私立)何学校何年修了又ハ卒業
右御校女子事務員養成科ヘ入学致度保証人連署ノ上此段御願ニ及候也
大正 年 月 日
右 氏 名 印
現住所
保証人 氏 名 印
生年月日
大阪貿易語学校長 殿
44
- -
近代日本における商工業界による実業教育施策の展開
等以上ノ学力アル者」と定めた理由を考える際
10
運動などであった10)。
に,次の新聞記事が有益な情報を与えてくれる。
すなわち,1920(大正 9 )年 3 月29日付け時
ここで,北越興商会設立のメンバーについて
11
触れておこう11)。
事新報には,
「役所では本官に,会社では正社
鈴木長蔵は,1846(弘化 3 )年に代々廻船問
員としての待遇を与へよと決議したタイピスト
屋を営む旧家に生まれ,1872(明治 5 )年に家
組合の設立総会」という見出しで,東京大手町
督を継いで戸長になった。27歳のとき日本郵船
における発会式の模様を報じている。そのなか
に投資して汽船成明丸を借り受けて東京・新潟
で「荒くれ男の職業と異って大部分は若くハイ
間の航路を開き,以後新潟・長岡間航路や北海
カラな婦人の事とて集まった千人の会衆の八分
道航路にも乗り出した。さらに後に銀行(後の
迄は若い婦人十八九から廿四五が最も多いから
新潟銀行)の設立,新潟新聞の経営,米会所(後
近々流行の何々組合の集会よりも余程和か味と
の新潟米穀株式取引所)の設立に携わり,新潟
美し味が漂よって居る」と記している。この記
物産株式会社設立の際には支配人に就任しウラ
事から類推できることは,当時は組合が設立さ
ジオストクとの貿易にあたった。政界にも進出
れるほどタイピストの需要が多かったことがわ
し1879(明治12)年の県会副議長,1889年の市
かり,タイピストに就くのは女性がほとんどで
会議長を経て1891年には新潟市長に当選して 8
あったことから,修業半ばの高等女学校の生徒
年間在職した。
を実社会へ引き込もうとする意図があったと考
1896(明治29)年には新潟商業会議所会員に
えられる。それは,入学願書の様式中「学業何
当選し,会頭に推された。その後,北越鉄道会
年何月何日何官公立(私立)何学校何年修了又
社(現信越本線)の設立に尽力したほか,新潟
ハ卒業」の「何年修了」と書かれていることか
県治水会会長,新潟県農工銀行頭取等を歴任後,
らも明らかである。
1902(明治35)年には衆議院議員に当選した。
また,「役員の選挙をして邦文部十六名,欧
文部十四名を選出」していることから,同校に
設立メンバーの一人である荒川太二とは問屋会
所の運営や博覧会の開催において協同した。
鍵富三作は,旧制新潟中学校卒業後の1908
おいてもおそらく和文及び英文の両方のタイプ
(明治41)年に家業を継ぎ,鍵三合資会社理事
ライターを教授したのであろう。
を皮切りに日本硫曹,新潟鉄工所,東京動産火
(2)北越興商会附属新潟商業学校(現県立新潟
災保険,九千醤油,新潟製紙の各取締役,新潟
土地興業,新潟劇場の各社長,第四銀行,越後
商業高等学校)
福沢諭吉門下で彼の推薦で「新潟新聞」の主
鉄道,東海火災保険,粟津木材乾餾の各監査
筆となった尾崎行雄は,商事思想の普及と経済
役,新潟港湾倉庫相談役,新潟商工会議所顧問
振興を図るため,1881(明治14)年 5 月に「北
等を歴任した。
山際七司は代々庄屋を務めた家に生まれた。
越興商会」を設立した。発起人には新潟新聞の
創立者の一人鈴木長蔵や新潟の豪商鍵富三作を
1872(明治 5 )年に社会啓蒙のため新潟におい
はじめ,新潟の有力商人や政治家等70名余りが
て同士を集めて自立社を立ち上げた。1879年に
名を連ねた。会員は山際七司,鈴木長蔵,加藤
は県会議員となって県当局の失政を糾弾して名
勝弥,荒川太二,山口権三郎ら県内の各界に及
んでいた。会のおもな事業は機関誌「北越興商
会報告」の発行,附属新潟商業学校の設立(現
在の県立新潟商業高校の前身),新潟港の修築
10)野島出版編集部『新潟県県民百科事典』野島出版 p.913 1977年
11)牧田利平編『越佐人物誌 上巻』野島出版 1972年
に依った。
45
- -
声を得た。また,国会開設運動がひろがりをみ
として開校した。修業年限 1 ヶ年半として 3 学
せる中,山際も越佐の代表者となって元老院に
期に分けた。翌年10月には簡易科を設置し,商
建白した。さらに,1881(明治14)年に西園寺
家の徒弟に対して夜学を開いた。
公望,松田正久,柏田盛文,中江篤介(兆民)
初代校長には東京商法講習所(現一橋大学)
らと東京において「東洋自由新聞」を創刊した。
出身の斎藤軍八郎が就任,教員 1 名,生徒16名
翌年には北辰自由党を結成しその総理に就任し
の体制で始まった。
たが,政府転覆を企てたとして新潟地方の自由
北越興商会は1886(明治19)年,内部の政治
党員が一斉検挙された高田事件で120日間の獄
的対立,新潟商人中心の会運営などに反発した
中生活を送った。1885(明治18)年の自由党左
地方会員のあいつぐ脱退で「新潟興商会」と改
派による朝鮮独立運動支援と日本の内政改革を
称,新潟商人を対象とした組織に変わり,商業
企てた大阪事件にも関係して禁錮 2 年となっ
学校は存続の危機に陥ったが,1887(明治20)
た。1890(明治23)年の第 1 回衆議院議員選挙
年に新潟区(後の新潟市)に移管されて公立学
に当選した。
校となった。
山口権三郎は1838(天保 9 )年に越後国刈羽
1896(明治29)年には商業会議所条例の制定
郡小国の旧家に生まれた。明治初期には新潟県
により,北越興商会の保存書類一切が新潟商業
における改進党の中心人物として政界に活躍し
会議所に引き継がれて興商会は消滅した。
た。1880(明治13)年に第 2 代新潟県会議長と
1910(明治43)年 4 月,商船科を設けて「新潟
なり,以後 4 , 5 , 6 代議長を務めた。1888年
県立新潟商業商船学校」と改称し,同年 8 月には
には刈羽郡荒浜出身の牧口荘三郎とともに刈羽
2 週間に亘って生徒39名が参加したウラジオス
郡石地に有限責任日本石油会社(現新日本石油)
トクへの修学旅行が実施された。北越興商会が
を創立したほか,北越水力電気会社を組織した。
どのような人材を輩出しようとして学校設立に
ところで,設立の同じ年の 9 月15日に発行さ
及んだかについて知り得る資料はないが,学校
れた「北越興商会報告第二号」の会中記事の欄
設立から27年後に実施された修学旅行は,鈴木
では 9 月の月次小会の概要を報じており,その
長蔵が手がけたウラジオストク貿易を担ってい
中に「尚ほ清水氏の説に今日の如く遷延し置け
く人材の養成が念頭にあったことがうかがえる。
ハ到底学校を設立する期なかるべし 依てハ前
会にも相談ありし醵金の議を確定し会員外と雖
(3)大阪工業夜学校
1914(大正 3 )年ごろから,商業・紡績業関
ども篤志の人より出金を頼み是非早く学校を新
築して子弟を盛んに教養したし左なくば別に策
係者中心の大阪商業会議所に対して,工業家の
の施すべきなしと述らる 荒川鈴長棚橋横山等
団体を組織しようという機運が高まり,1914(大
諸氏之を賛成しいよいよ此議行はれ翌四日午後
正 3 )年 7 月に発起人総会が開かれた。創設を
より鈴長横山荒川清水の諸氏相会してその手配
計画した13名の内訳は技術家 5 名,官吏 3 名 等を協議することに決定せり」という記載がみ
その他 5 名である12)。その他 5 名の中には,元
られる。ここでは商業学校と限定はしていない
八幡製鉄所技術官で大阪高等工業学校長の安永
が,学校設立の件は北越興商会の発足当初から
義章と大阪府立今宮職工学校長の長尾薫が含ま
の懸案事項であったことがわかる。
れていることから,大阪工業会の設立理念の中
1883(明治16)年,会員の寄附により「北越
12
には「実業教育」の重視が盛り込まれていたこ
興商会附属新潟商業学校」が,東京,神戸,岡
山,大阪,横浜についで全国 6 番目の商業学校
46
- -
12)大阪工業会『大阪工業会六十年史』p.2,1974年
近代日本における商工業界による実業教育施策の展開
発起人のメンバーである栗本勇之助(弁護士,
とがうかがえる。
実業界と教育関係者との連携についての事例
栗本鉄工所主)は1921(大正10)年 3 月から
1923年12月まで,同じく片岡安(元日本銀行技
は他にも認められる。
1926(大正15)年,弘前商業会議所内に事務
師,辰野・片岡工務所長)は1940(昭和15)年
局をおく弘前商工会によって『弘前商工雑誌』
11月から1943年 9 月まで,それぞれ大阪商工会
が創刊された。現存するものは,青森県立図書
議所の副会頭または会長として活躍しているこ
館が所蔵する第 2 号及び第 8 号のみである。
とから,大阪工業会と大阪商工会議所は協調的
第 2 号の発行日は大正15年 5 月10日で毎月 1
関係にあったことがわかる。
1914(大正 3 )年11月 3 日,大阪工業会は第
回10日の発行とされた。グラビアページには青
森県立工業学校長大竹巽,青森県工業試験場長
1 回定時総会を開催し,国産奨励に関する調査,
発知神太郎,弘前商工会副会長長谷川與助の 3
工業独立に関する調査,工業所有権に関する現
氏の肖像写真が掲載されている。創刊号が現存
制度の調査,大阪府市工業諸法規に関する調査
しないため,発刊の趣旨は不明であるが,工業
の 4 議題を提出した。これら調査議題は委員付
学校,工業試験場,商工会の 3 者の連携があっ
託となり,翌年 1 月の臨時総会で審議された。
たことが推察される。また,同誌に押印されて
このうち,「国産奨励調査案」は生産の振興・
いる青森商業高等学校から県立図書館に寄贈さ
内国品使用の奨励・海外の販路拡張の 3 本柱を
れたことを示すゴム印は,同誌が実業学校にも
その目的とし,生産の振興では14項目が列挙さ
配布されていたことを示すものであり,実業学
れ,筆頭の「工業研究所の設立」に次いで「工
校の教員が地域社会の現状を把握しながら教育
業教育の振興普及」が掲げられた。
そして同年 7 月には,その試みとして「工業
活動を実践することにより,地域経済が抱える
課題を解決することができる人材を輩出するこ
14
教育振興普及案」を建議した14)。
第一は,「工業進歩ノ趨勢ニ鑑ミ」府立中学
とを目指していたとも言えよう。
第 2 号には青森県立工業学校教諭橋本良雄の
校を夜間開放して,「現ニ工業ニ従事シ若シク
「図案家と実業家との関係」及び青森県工業試
ハ従事セントスルモノ」のために工業補習教育
験場長発知神太郎の「品質の見分に就いて」と
を実施することを大阪府知事に要望すること,
題した文が掲載された。
第二は大阪市長に対して,同じ趣旨により「工
また,第 8 号には弘前商業専修学校の和島行
業ニ従事セントスルモノ」のために市内の小学
雄が「日銀利下と金融関係」,弘前商業補習学
校の夜間開放を要望すること,第三には大阪工
校の岩谷光雄が「第三回商店員講座広告に就て」
業会自らが昼間に工業に従事する者のために,
と題して寄稿している。
夜間においてその業務に必須となる知識技能を
さて,大阪工業会の会則の第 3 条では「本会
授けるべく,大阪高等工業学校の校舎を一部使
ハ会員相互ノ親睦ト智識ノ交換ヲ図リ,併テ工
用して中等及高等程度の工科学校を設置するこ
業上ノ諸問題ヲ解決シ,斯界ノ発達ヲ期スルモ
とであった。
ノトス」とその目的がうたわれ,第 4 条ではそ
まず大阪府知事への建議案は,既に実業学校
の会員構成を「本会ハ大阪ニ於ケル工業家又ハ
及び小学校等の一部を利用して行われている補
特ニ工業上ノ智識経験アル者及工業会社其ノ他
習教育が相当の成績を挙げてはいるものの,未
13
13)
工業団体ノ代表者」 と定めた。
だその普及は満足するまでには至っていないと
13)同掲書 p.8
14)同掲書 pp.21‒22
47
- -
いう理由から,
「府立中学校ヲ夜間開放シ其壮
大ナル建物ト豊富ナル設備ヲ利用シ其校ノ教職
員ニ依頼シテ補習教育ヲ実施スルヲ得バ少額ノ
給費ニテ教育上多大ノ効果ヲ挙ゲ得」るという
ものであった。
大阪市長への建議案においても,既に一部の
小学校では職工や徒弟に対する補習教育が実施
されているが,その普及率や内容に関しては遺
憾であり,実施上も学制における学区の関係で
支障が多いという理由で,「是等ハ市当局者ニ
於テ何等カノ方法ヲ以テ画一シタル教育行政ノ
下ニ統一セランレンコトヲ望」んでいる。
大阪工業会自身に対する建議では,「工業進
歩ノ趨勢ハ職工徒弟ノ向学心ヲ煽リ夜学校其他
ノ方法ニヨリテ競テ智徳ノ修養ニ勉ムルノ傾
15
向」15) があるにも拘わらず,現状は市内の各
実業学校及び小学校の一部に附設された極めて
低度の補習学校しか存在しないと捉えている。
そこで,
①実業学校及び中学校入学志願者中,
不合格者や半途退学者を工場の徒弟として収容
し,昼間に労働する傍ら夜間に制規の工業教育
を授け漸次中等高等の学業も修業させる,②中
学校卒業生をも夜間に工業教育を授けることに
より多数の無職青年を救済する,③工業学校及
び職工学校卒業生にも夜間修学の便宜を与える
ことにより,工業界の知識階級者の増加を来た
して工業の振興発展に著大な効果をもたらす,
という 3 点を企図した。そしてこれらの教育施
策はすべて政府当局や府県郡市当事者に一任す
ることを通例として雇う側の工業家は関与しな
いという態度は,雇用者に対しては徳義上及び
社会政策上喜べないという理由から,大阪工業
会が自ら中等及び高等の工業教育機関を設ける
ことが,温情ある工業家が全うすべき最善の義
務に他ならないと考えた。
15)同掲書 p.9
【資料 3 】16)
大阪工業会附属工業教育部規則
第一条 大阪工業会々則第三条ニヨリ工
業ノ発達ヲ期スルカ為メニ本会ニ工業
教育部ヲ置ク
第二条 工業教育部ハ高等及中等程度ノ
工業夜学校ヲ経営スルモノトス
第三条 大阪工業夜学校ハ現ニ工業ニ従
事シ若ハ将来工業ニ従事セントスルモ
ノヽタメニ夜間其業務ニ必須ナル知識
技能ヲ授クルヲ目的トス
第四条 工業夜学校ノ校舎ハ大阪高等工
業学校及大阪府立中学校々舎ヲ夜間使
用スルモノトス
第 五 条 本 部 ニ 部 長 一 人, 副 部 長 一 人,
主事若干名,書記若干名及商議員若干
名ヲ置ク
第六条 部長ハ本部ニ於ケル教育及事務
ヲ総理シ工業夜学校ノ校長トナル
第七条 副部長ハ部長ヲ補佐シ部長事故
アルトキハ之ヲ代理ス
第八条 主事ハ部長ノ命ヲ受ケ本部ニ於
ケル教育及事務ヲ掌理ス
第九条 書記ハ主事ノ命ヲ受ケ本部ノ事
務ヲ分担掌理ス
第十条 商議員ハ本部経営上ノ事ニ関シ
大阪工業会々長又ハ本部々長ヨリノ商
議ニ預リ且本部ノ予算議シ会計事務ヲ
監督スルモノトス
第十一条 部長副部長及商議員ハ大阪工
業会々員中ヨリ総会ニ於テ之ヲ選挙シ
任期ハ一ヶ年トス但シ再選スルコトヲ
得
第十二条 主事及書記ハ部長之ヲ任命ス
第十三条 本部ニ要スル経費ハ工業夜学
校生徒ノ月謝ヨリノ収入及大阪市ノ補
助金ヲ除クノ外ハ大阪工業会ノ負担ト
シテ全部特志家ノ寄附金ニ仰クモノト
ス
第十四条 本部ノ会計事務ハ之ヲ大阪工
業会ノ会計事務ヨリ分離シ,全ク特別
会計トシテ取扱フモノトス
16)大阪工業専修学校『二十年史』pp.15‒16
48
- -
近代日本における商工業界による実業教育施策の展開
語,数学,物理学,化学,設計及び製図という
寄付金募集規定
第一条 大阪工業会附属工業教育部規則
第十三条ニヨリ大阪工業夜学校ノ経
費ニ充ツルガ為メニ有志者ヨリ寄付
金ヲ募集スルモノトス
第二条 前条ノ寄附金事務ハ之ヲ大阪工
業会ノ会計事務ヨリ分離シ,全ク特
別会計トシテ取扱フモノトス
基礎科目の履修が主で, 2 学年で基礎科目に加
えて応用力学,機械工作法などの専門科目を若
干履修することになる。高等部では 1 学年の基
礎科目から国語・英語・化学が消えて,しかも
1 学年のみの履修となって専門科目のウェイト
が高くなり, 2 学年では専門科目数が増えると
18
いう教科課程であった18)。
在学生のうちで就業している者の割合を昭和
19
商議員と同じメンバーが工業教育部への出資
11年度において見ると19),高等部では機械科 1
者として名を連ねている17)。すなわち,岩井勝
学年367名中229名で62,4%,機械科 2 学年129
治郎(岩井商会主)
,新田長次郎(新田調帯製
名中81名で62.8%,電気科 1 学年259名中192名
造所長),
東洋紡績株式会社,大阪電燈株式会社,
74.1%,電気科 2 学年105名中80名で76.2%,応
大阪合同紡績株式会社,大阪鉄工所,大阪晒粉
用化学科 1 学年124名中79名63.7%,応用化学
会社,宇治川電気株式会社,久原鉱業株式会社,
科第 2 学年56名中38名で67.9%であった。
17
一方,中等部では,機械科 1 学年432名中318
藤田組,汽車製造株式会社,摂津紡績株式会社
名で73.6%,機械科第 2 学年242名中125名で
である。
こうしてまず,1916(大正 5 )年 5 月には大
51.7%,電気科 1 学年214名中130名で60.7%,
阪高等工業学校の校舎を利用して大阪工業夜学
電気科 2 学年132名中84名で63.6%,応用化学
校として開設され,高等部が開かれた。入学資
科 1 学年60名中46名で76.7%,応用化学科 2 学
格は中学校・工業学校または本校中等部卒業,
年47名中22名で46.8%であった。
修業年限 2 年,機械科,電気科,採鉱冶金科,
このように,学科や学年によって若干のばら
紡織科の 4 学科でスタートした。さらに翌年に
つきはあるが,概ね 6 ~ 7 割の生徒が就業しな
は府立西野田職工学校の校舎を夜間に無料で借
がら学業に励んだ。
りて,入学資格は高等小学校卒業,修業年限 2
同窓会の支部名に会社名や事業所名を冠して
年, 4 学科の中等部が開設された。1918(大正
いるものがあり,これは生徒の主な就業先とし
7 )年 4 月に校名を大阪工業専修学校に改称し
て判断できる。すなわち,陸軍造兵廠大阪工廠
(大阪工廠支部),南海鉄道株式会社(南海支
た。
中等部と高等部の違いは入学資格及び教科課
部),住友電線製造所(住友電線支部),住友金
程にある。中等部の入学資格は年齢満14歳以上
属工業株式会社製鋼所(井鋼会支部),汽車製
で,高等小学校卒業者またはこれと同等以上の
造株式会社(汽車会社支部),泉工会支部(造
学力がある者,高等部では,年齢満16歳以上で,
幣局),阪神電気鉄道株式会社(阪神電鉄支部),
同校の中等部卒業者,中学校卒業者,工業学校
大阪瓦斯会社(大阪瓦斯支部),大同電力株式
卒業者またはこれらと同等以上の学力があるも
会社(大同支部)の各社(事業所)である。
中等部卒業生の出身府県別について第 1 回か
のとされた。
また,教科課程表に基づいて例えば機械科で
ら第18回卒業生の合計数でみると,47都道府県
比較すると,中等部の 1 学年は修身,国語,英
18)同掲書 p.68
19)同掲書所収の名簿に依った。
17)同掲書 pp.17‒18
49
- -
あまねく卒業生が認められ,大阪府が952名と
の埋立,曰く,対露貿易会社の設立,曰く商業
突出し,以下兵庫県325名,広島県163名,愛媛
学校の設立なり。(中略)本県に於て弘前及び
県162名,岡山県142名,三重県129名,鹿児島県
八戸に中学校を設置して中等教育を授け,其の
125名,香川県98名と続く。西日本の出身者が多
需要に応じつつあるも青森町は本県庁下にして
いなかで,鹿児島県出身者が多いのが特異であ
斯かる中学校なきは,蓋し遺憾にして青森町に
る。また,中等部卒業生の最年長者は36歳,最
実に之に比すべき学校を設置すべき権利を有
年少者17歳で,平均して19歳 9 ヶ月であった 。
す。県費を以て,而して青森の必要を促し居れ
20
20)
ところで,大阪工業会長が開校式において述
る中等教育は商業学校にあり。若し此際対露貿
べた式辞の中に,当該学校の設立目的及びその
易に関して必要なる露国語を編入するが如き
意義が端的に込められている。すなわち,工業
に,最も急務なりと信ず」21)
21
の発展及び国産の振興のための幾多の方策があ
このように,青森町における商業学校の設立
る中で,工業教育の振興普及が根本方策となる
は対露貿易の促進との関連で提唱されたので
ことと判断したことから,大阪工業会が事業の
あった。
一つとして工業教育部を設けることになった。
1902(明治35)年に第 2 代青森市長に就任し
そして,夜間を利用してやや低い高等工業程度
た笹森儀助 22) は,旧弘前藩士である。彼は,
の教育を施すことにより,工業に志を持つ者に
弘前市に比べて商業が活発であった青森市のさ
対して昼間各方面の業務に従事しながらもなお
らなる商業発展のためには,商業知識の普及発
一層修学に志を得させてますます向上発展の素
達が必要であると考えた。当時の青森市は,北
地を与えることができるものとしては,わが国
海道へ移出する米の集散地であり,北陸地方向
におけるこの種の教育の嚆矢である。つまり,
けの津軽半島及び下北半島産のヒバ材の集荷地
工業従事者の裾野を拡げることを目論んだと言
でもあった。また,北海道や樺太で漁獲された
えよう。
鮮魚は運搬船で青森港に持ち込まれ,当地から
なお,当時の工業補習教育界の重鎮である東
京高等工業学校長手島精一も開校式に臨んでい
22
東北線及び奥羽線の鉄路で東北地方をはじめ,
関東・関西方面に移出されていたのである。
前市長時代の1900(明治33)年に県立中学校
ることからも,この学校の設立は斯界の注目を
が当市に創立したばかりの状況において,さら
集めていたことが推察される。
に県立の商業学校も同市に新設することは困難
(4)
私立青森商業補習夜学校の創立
であったため,市立の商工補習学校が計画され
1893(明治26)年 8 月に乾物商の藤林忠兵衛,
た。しかし,当時の市の財政事情では学校設立
和洋小間物商の樋口喜輔,呉服商の淡谷清蔵ら
が設立した青森商業倶楽部(青森商業会議所の
前身)の創立趣意書にはウラジオストク港との
交易について触れられている。
東奥日報社主筆の成田鉄四郎は,青森商業倶
楽部の総会において次のように述べた。
「青森港今後の急務とは何ぞや,蓋し種々あ
りと雖も次の三者は其一端ならんか,曰く海岸
20)同掲書 p.121
21)青森商工会議所『青森商工会議所六十五年史』pp.31‒32
1960年
22)笹森儀助は,1882(明治15)年に士族授産のために
岩木山麓に農牧社を設立して畜産・畑作・林業に従事した。
1891年に農牧社社長を辞し,全国各地の篤農家の意見を聞
く旅に出た。翌年には軍艦「磐城」に便乗して 4 ヶ月に亘っ
て北海道と千島列島の調査に加わった。1893年には琉球の
50あまりの島々の習俗や風土病に苦しむ民情を調査し,こ
の南島探験の功で奄美大島の島司に迎えられ開拓事業を推
進した。この間,40日間に亘り台湾各地を巡回した。島司
を全うした後,東亜同文会の委嘱で朝鮮へ渡航,同地に日
本語学校を設立した。その後,朝鮮半島の利権を狙うロシ
ア,とりわけシベリア方面の状況を把握するためウラジオ
ストク及びハバロフスクまで足を伸ばした。
50
- -
近代日本における商工業界による実業教育施策の展開
は無理であったことから,結局, 5 名の有力者
を引率した。
の後援を得て,私立青森商業補習夜学校(現在
23
このウラジオストクへの修学旅行は,一度限
25
23)
の青森県立青森商業高等学校)が設立された 。
りであったが 25),1911(明治44)年 4 月に認
後援者のうち 3 名は当時の青森商業会議所の役
可された校規改正にともないロシア語が選択科
員であった。すなわち,会頭の大坂金助(大地
目に加えられたことで,当校の設立動機に沿っ
主,金融業)
,副会頭の樋口喜輔,常議員の村
た教育活動が継続されることになった。
本喜四郎(味噌製造業,製材業)である。また,
4 商議員
創立当時は青森市助役を務め,1904(明治37)
年 9 月に同会議所書記長に任用された川田水穂
24
も後援者の 1 人であった24)。
商議員については,実業学校に係る諸法令で
設立資金は,初代校長となった笹森市長の俸
規定されたものであるから,本来は商工業界側
給を割いて充て,学校経費は市からの補助金
の施策とは言えないが,商工業界の意向が実業
400円のほかは市内の有力者の寄付で賄うこと
教育に反映される場の一つであったと言えよ
となった。
う。
対象となる主な生徒は,市内の商店に奉公す
商議員について規定した法令を挙げると,実
る徒弟や銀行,会社に勤務する見習い生であっ
業補習学校規程(明治二十六年十一月二十二日
たため,夜間授業として,既存の小学校校舎の
文部省令第十六号)第13条「市町村立実業補習
一部を借り受けて授業を行った。授業は市内の
学校ニ於テハ実業又ハ教育ニ経歴アル者及其ノ
小学校教員が当たり,修身,国語,算術,簿記,
学校ノ設立維持ニ功労アル者ヲ以テ商議員トシ
商業の各科目が教授された。笹森自身も毎晩早
其ノ学校ニ関スル事件ヲ商議セシムルコトヲ
くから出勤し,講師の欠勤や遅刻の場合は自ら
得 」, 簡 易 農 学 校 規 程( 明 治 二 十 七 年 七 月
教壇に立った。また,後援者の村本と樋口も毎
二十五日文部省令第十九号)第 5 条「簡易農学
晩交替で学校に出向いて生徒を督励したという。
校ニ於テハ農業者又ハ農事ニ篤志ナル者ヲ以テ
1905(明治38)年 4 月,市に移管となり青森
商議員トナシ其ノ学校ニ関スル事件ヲ商議セシ
市立商業補習学校,1907年 3 月には組織変更し
ムルコトヲ得」,徒弟学校規程(明治二十七年
て乙種の青森市立商業学校の設立が認可された。
七月二十五日文部省令第二十号)第13条「市町
1909(明治42)年に,青森市内の共一舎鈴木
村立徒弟学校ニ於テハ実業又ハ教育ニ経歴アル
友吉回漕店が主催した浦塩観光団に応募するか
者及其ノ学校ノ設立維持ニ功労アル者ヲ以テ商
たちで,ウラジオストクへの修学旅行が実施さ
議員トシ其ノ学校ニ関スル事件ヲ商議セシムル
れた。1906年に青森港は特別輸出港として許可
コトヲ得」と定められている。実業補習学校規
され,当時は特産物のリンゴがウラジオストク
程及び徒弟学校規程では,「市町村立」の実業
港に輸出されており,将来において実業家とし
学校において「実業又ハ教育ニ経歴アル者及其
ての活躍が期待される青年が在学中にウラジオ
ノ学校ノ設立維持ニ功労アル者」を商議員とし,
ストク港を視察する必要性を学校及び保護者が
彼らが「其ノ学校ニ関スル事件」に関して評議
認識していた。校長及び教諭 1 名が 4 名の生徒
する諮問機関と定めている。すなわち,公立の
実業学校の運営に実業界(民間)が関与するし
23)肴倉弥八『青森県立青森商業高等学校六十年史』青
商高六十周年記念事業協賛会 pp.44-51 1966年
24)青森商工会議所『青森商工会議所六十五年史』p.324
1960年
くみであった。
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25)前掲『青森県立青森商業高等学校六十年史』pp.84‒97
しかし,実業学校令(明治三十二年二月七日
第四条 本会ハ市長之ヲ招集ス
勅令第二十九号)には商議員を定めた条文はな
い。ただし,勅令案段階では第17条として「公
工業徒弟学校の商議員のメンバーは,三上三
立実業学校ニ於テハ実業又ハ教育ニ経歴アル者
吉(酒造業,市会議員),藤林源右ェ門(回漕業,
ヲ以テ商議員トナシ,其学校ニ関スル重要ノ事
市会議員),村本良助(村本喜四郎の養子,市
項を商議セシムルコトヲ得 前項ノ商議員ハ地
会議員),樋口喜輔,小舘善兵衛(木材商),卜
26
26)
方長官之ヲ命シ又ハ嘱託ス」 と定めており,
部吾六,鎌田重吉(藁工品販売)で,樋口は青
商議員が想定されていた。
森市立商業学校の商議員も兼ねている。
27
内田(1972年) は,「公立の実業学校の運
ここで注目したいのは,会則第 3 条 2 項及び
27)
営に地域社会の代表や産業界の人物を加えて現
3 項である。既述の実業補習学校及び徒弟学校
場の意見を反映させようという試みは,制度上
の規程では,商議の対象を「其ノ学校ニ関スル
この時からなくなる」と述べた上で,実際には
事件」とのみ定めており,「工業調査及ビ製品
実業学校令公布以後にも,商議員に関する条項
販売ニ関スルコト」及び「「卒業生ノ従業又ハ
を存続している例が多いことを指摘している。
就職ニ関スルコト」には触れてない。
第 4 条では商議員会を招集するのは学校長で
では,なぜ存続し たの だろ うか。例 えば,
1911(明治44)年 1 月,青森市立商業学校は諮
はなく市長であることを定めていることから,
問機関として商議員を委嘱している。メンバー
学校の商議員会ではあるものの,その商議対象
は,樋口喜輔,大坂金助,田中勇三,淡谷忠蔵,
は学校の枠にとどまらず,市としての商工政策
上田幸兵衛,北谷竹次郎,長谷川茂吉,小林安
に資する「工業調査及ビ製品販売ニ関スルコト」
太郎,鎌田重吉,渡辺佐助のいずれも市内の有
にまで及んだのであろう。
力者である。同校の商議員に関する規定の内容
また,商議員が多岐にわたる工業関係者で占
は判然としないが,1913(大正 2 )年に開校し
められていることからも明らかなように,学校
た青森市立工業徒弟学校の商議員会則(1915(大
側としては,その運営に関わる事項の評議もさ
正 4 )年11月 2 日制定) の内容は次の通りで
ることながら,学校側の商議員会への期待とし
ある。
ては卒業生の就職斡旋ということが大きなウェ
28
28)
第一条 本会ハ工業徒弟学校ノ改善発達ヲ図
ルト共ニ実業界トノ連絡ヲ計ルモノトス
イトを占めていたのではないだろうか。商議員
会制が存続した理由の一端は,以上のようなこ
第二条 商議員ハ定員ヲ七名以内トシ市長之
とに求められよう。
ヲ嘱託ス
5 おわりに
第三条 商議員ハ左ニ揚クル事項ニ就キ市長
又ハ校長ノ諮問ニ応答ス
以上,近代日本における商工業界による実業
一 設備又ハ経費予算ノ調製ニ関スルコト
教育に関わる事業について概観した。
二 工業調査及ビ製品販売ニ関スルコト
商業会議所による実業教育に関わる施策は,
三 卒業生ノ従業又ハ就職ニ関スルコト
地域社会における就業者の実務能力の向上を目
26)開発社『教育時論』第487号 p.22 1898年
27)内田糺「実業学校令の成立に関する一考察」日本教
育学会『教育学研究』第39巻第1号,1972年
28)青森県立青森工業高等学校創立百周年記念事業協賛
会記念誌編集部『青工百年史』青森県立青森工業高等学校
創立百周年記念事業協賛会 p.160 2013年
指すものであったが,商業学力検定試験のよう
に正規の学校教育を受けることができないまま
就業した者或いは就業予定者を対象として甲種
商業学校卒業と同じ程度の学力検定を実施し,
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近代日本における商工業界による実業教育施策の展開
その学力を社会的に証明することにより,彼ら
大の利便を与ふべき緊要なる社会施設」や,小
の就職やキャリア向上を有利にするという社会
樽商業会議所の「修学向上の気風を振起し,実
事業的な性格も帯びていた。
業上の進展に資せんが為め」及び岡崎商業会議
また,商工業界による実業学校の設立は,大
所の「其の進路を開きて自立自助の精神を振起
阪貿易語学校や私立青森商業補習夜学校のよう
せしむると共に,勉学向上の美風を涵養する」
に,その所在する地域の経済活動を特色づける
とあるように,商工業界の進展にとっては,自
事情が抱える課題を解決することを目的とした
立自助の精神や向上心を持ち,勉学意欲の旺盛
と言えよう。なかには大阪工業夜学校のように,
な労働者を育成することが必要不可欠であると
その入学生の出身地からも明らかなように,全
いう考えがあったことがわかる。
国的に影響を及ぼした例も見られた。同校はそ
このように,商工業界が実業教育施策を展開
の設立動機として「実業学校及び中学校入学志
する上で抱いた労働者像とは,実業教育で得ら
願者中,不合格者や半途退学者を工場の徒弟と
れた商工業に関する知識技能を着実に地域経済
して収容し,昼間に労働する傍ら夜間に制規の
に還元することができる一方で,常に新しい知
工業教育を授け漸次中等高等の学業も修業させ
識技能を習得することによって地域経済の進展
る」ことを含んでおり,ここでも社会事業的な
に寄与できる労働者であったと言えよう。
性格を読み取ることができる。
今後の課題については,勅令案段階では規定
以上の考察から,商工業界が抱いた労働者像
があった商議員が,実業学校令において削除さ
を描き出すとすれば,
『北越興商会報告』の記
れた理由について明らかにすることである。実
事中に見られた「子弟を盛んに教養」すること
際にはそれ以後も商議員が存続した例が多いこ
や,何らかの理由で公教育を受けられなかった
とから,法令上,実業学校の運営から商工業界
就業者に対して教育を施すことにより陶冶され
の関与を排除した意義について考察すること
る高い資質や勤労意識を地域経済へ還元する
は,当時の実業学校と商工業界との関係を考え
「善良着実なる職工」であったと言えよう。
る上で,有益な視点を得ることができると考え
さらに,各地の商業会議所が商業学力検定試
る。
験を実施した理由のなかにも,商工業界が抱い
た労働者像を読み取ることができる。すなわち,
〔補記〕
大阪商業会議所の「その学力を社会的に証明す
本稿は,
中等教育史研究会第58回研究会(2015
るの途を開くは,単に青年をして向上の意気を
年 9 月25日,於宮城教育大学)において報告し
旺ならしむるのみならず,傭者に対しても亦多
た内容をもとに成稿したものである。
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