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あなたはわたしを愛しますか - church.ne.jp
2014/5/4 門戸聖書教会 礼拝説教 ヨハネの福音書講解 81 ヨハネ 21:1-17 あなたはわたしを愛しますか 1.私は漁に行く 何 度 かお証 ししたことですが、私 が献 身 をし、牧 師 になるきっかけとなったのは、援 助 の仕 事 で赴 任していたアフリカで病気をしたことでした。数か月の間に、5,6 回マラリアに罹り、あっという間に体 重が 10 キロ以上減って、49 キロまで落ちてしまいました。それでも連日休日出 勤の激務は続き、つ いに燃 え尽き、「死 にたい、死 にたい」と周 囲 に漏 らすようになり、あえなく強 制 帰 国ということになっ たわけです。 帰 国 後は、北 九 州の出 先 機 関で比 較 的のんびり過ごすことになりました。 当 時 通っていた教 会で も、客員であることをいいことに、これといった奉仕をせず、ただ礼 拝に出ていただけだったのですが、 ある時、教 会 学 校の校 長 先 生 から呼び止 められました。今 度、教 会 学 校 の子 どもたちのキャンプで お話しをしてほしい、聖書の箇所は、ここからお願いします。そう言われたのが、マタイ 4:18-20 のみ ことばでした。 マタイ 4:18 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄 弟、ペテロと呼ばれるシ モンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。 4:19 イエスは彼らに言 われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあ げよう。」4:20 彼らはすぐに網を捨てて従った。 私 はこのみことばに非 常 に心 探 られたのですね。特 に「彼 らはすぐに網 を捨てて従 った」 というとこ ろにです。漁師 にとって「網」は命。その「網」を置くという決 断の大きさ。今まで自 分が大切にしてい た全てを捨ててでも、この方に従って行 こうという決 心。ペテロたちのその思いに心 揺さぶられました。 私 にとって「網」とは何 だろう。それが何 であるにせよ、全てを捨てて、主 に従 っていこう。そう決 心し て、仕事を辞め、神学校に入ったわけです。 そういう経 験をした私からすれば、今日 、お読みした聖書 の箇所 の最初 に出てくる、ペテロの発 言 は、すっと素通りすることのできないものです。 ヨハネ 21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現さ れた次第はこうであった。21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、 ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。 21:3 シモン・ペテロが彼 らに言った。「私 は漁 に行 く。」彼らは言 った。「私たちもいっしょに行 きま しょう。」 ペテロは、「私 は漁 に行 く」と言 った。ペテロも、他 の弟 子 たち の多 くも元 はといえば漁 師 です。食 べ物がなければ漁に行っても何らおかしくはありません。 1 しかし、一度、「網を置いて」主イエスに従 っていくと決 心した彼が、「漁に行く」というのは、それは 軽い発 言ではないでしょう。まだはっきりそうと決断したわけではなかったかもしれないけれども、それ は、もう主 イエスの弟 子として福 音 を伝 える働きはやめよう、もう一 度 、昔 の生 活 に戻 ろうという、そう いう思いがあったのではないでしょうか。 この時、弟子たちは既に 2 度(トマスは 1 度ですが)、20 章に記されていたとおり、よみがえられた イエス様 と出 会 っています。復 活 のイエス様 が姿 を現 してくださったのを見 て、弟 子 たちは歓 喜 し、 主を礼 拝したのです。しかし、その喜びは長く続かなかった。主はずっと姿を現してくださっていたの ではなく、また姿 が見 えなくなってしまった。弟子たちは、主イエスが命じられたとおりに(マタイ 28: 10 他)、かつて共に過ごしたガリラヤにやってきました。けれども、待てど暮らせど主 イエスが現れて くださる気 配 はない。ただ過 ぎてゆく時 間 の重さに耐 えかねたのか、ペテロが口を開 いたわけです。 「私は漁に行く」と。 2.さあ、来て朝の食事をしなさい 本 当 に、復 活 の信 仰 に生きるということは、どういうことなのだろうかと思 います。私たちは、使 徒 た ちは既に主イエスの復活を実際に目撃しているわけだから、復活の証人となるのは、当然だと思うか もしれない。しかし、そうではないということが、この箇所からはわかります。 弟子たちは夜 通し漁をしました。しかし、「その夜は何もとれなかった」 自分の働 きの虚しさ、自分 の小ささ、ペテロたちは、改めてかみしめたことでしょう。 しかし、「夜が明けそめた時 」-岸部に立つ人影がありました。イエス様でした。 ヨハネ 21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエス であることがわからなかった。 復 活のイエス様が現 れてくださった時 の弟 子たちの反応 は、ほとんどそうでした。マグダラのマリヤ も、イエス様を「園の管理人」だと思いました(ヨハネ 20:15)、エマオ途上でイエス様と出会った二人 の弟子たちも、いっしょに歩いているのに、それがイエス様 だと気づきませんでした(ルカ 24:16)。イ エス様がそこにいてくださる。彼らの悩み悲しみも、じっと見ておられる。それほど、すぐ近 くにおられ るのに、「それがイエスであることがわからない」。 この時もそうです。イエス様は彼らに聞かれていますね。 ヨハネ 21:5 「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」 「食べる物がありませんね」-これも不思 議な言葉ですね。普通なら「釣れましたか」と聞くのではな いでしょうか。イエス様は知っておられるわけです。夜通しの漁が、全く何の成 果ももたらさなかったこ とを。それだけでなくて、彼 らの疲 れや空 腹、今 朝 食 べる物 も用 意していないこと、深 い徒 労 感 と心 の中の失 望-その全てを知っておられる言葉ですね。その上で聞いておられるわけです。弟 子たち は情けなくも認めなければなりません。 「はい。ありません」-でもこの言葉が大 切でもあるわけです。自分の無力さ、小ささを認める言葉。 主の前に正 直に、主よ、私 には何もないのですと告 白する心。そういう心に主の語 りかけは聞 こえて 2 くるのです。 ヨハネ 21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そ こで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。 この時、「イエスの愛された弟子」、恐らくヨハネでしょう、彼が気づいた。そして、ペテロに言った。 「主です。」 ヨハネ 21:7 すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛 び込んだ。 もちろん、これは合理 的な行動ではありません。舟に乗っているのだから、そのまま行けばいいもの を、湖に飛び込むなら裸のままでいいものを。しかし、ペテロはそうせずにおれなかった。 飛び込まず におれなかった。主 の前 に裸で出 るということは考 えられなかった。ペテロの真 情 から出 た行 動 だと 思います。 岸に上がった彼らを待っていたのは、既 に暖かくおこされた炭火と、香ばしく焼けた魚、そしてパン でした。主は「あなたがたの今とった魚を幾匹か持ってきなさい」と言われた。網を上げると 153 匹の 考 えられない大 漁 であった。普 通 なら網 が破 れてもおかしくないくらいだけれども、網 は破 れなかっ た。 ヨハネ 21:12 「さあ来て、朝の食事をしなさい」 復 活 のイエス・キリストが弟 子 たちの前 に、現 れてくださった時、なさったのは、難 しい神 学 論 議 で はありませんでした。「朝 の食 事」をするということだったのです。食べるというごく日 常 的なこと。共 に 炭 火を囲んで、食 事をとりながらなされる親しい交 わり。その溢れる愛の交 わりの中 に、よみがえりの 主はご自身を現された。 ヨハネ 21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子 たちは主であるこ とを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。 21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。 21:14 イエスが、死 人 の中 からよみがえってから、弟 子 たちにご自 分 を現 されたのは、すでにこれ で三度目である。 3.なぜテベリヤの湖畔で それにしても、なぜイエス様は、このテベリヤの湖 畔、すなわちガリラヤ湖で復活 のお姿を現された のでしょうか。お気づきかと思いますが、20 章で、マグダラのマリヤや弟子たちに現 れなさったのは、 エルサレムとその近 郊でした。そして、この後、またエルサレムに戻ってきて、弟子 たちは復活 のイエ ス様から「エルサレムから離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい」(使徒 1:4)と最後のみ ことばをいただきます。つまり、弟 子 たちは短 い期 間 に、エルサレムとガリラヤを往 復 しているわけで す。そうまでして、なぜ主イエスは、弟子たちをガリラヤに呼ばれたのか。 それは、やはり、ひとことで言うなら、主は弟子たちを信仰の原 点に立ち返らされたということではな いでしょうか。 3 弟子たちがイエス様と出会った場所、それがガリラヤでした。かつて漁師だったペテロが、イエス様 と出会った時、この 21 章に記されていることと、そっくりな出来事があったわけです。(ルカ 5:1-11) 岸 部 で群 衆 に話 をしておられる時、あ まりにも多 くの群 衆 が押 し迫るので、イエス様 はちょうどそこ にいて網 を洗っていたペテロに、舟 を出 してくれと頼 まれるのですね。話 が終 わったあと、 今 度 はペ テロに、「深 みに漕 ぎ出 して、網 をおろして魚 をとりなさい」 と言 われた。ペテロは、「夜 通 し働 いても 何 一 つ取れませんでした。でも、おことばどおり、網をおろしてみましょう」 と言って、そのとおりにした。 すると、網 がはちきれそうになるくらい、たくさんの魚 が捕れた。ペテロは思わず、ひれ伏します。 「主 よ。私のような者から離 れてください。私 は罪深 い人間ですから」(ルカ 4:8)と。そのペテロにイエス 様は「わたしについて来なさい」と言われたのです。 それは、まさしく、ペテロの信 仰の原 点、献 身の原 点となる場 所でした。そこに、イエス様 は弟 子た ちを呼ばれた。そうしてただ黙って、パンを焼き、魚を焼き、弟子たちにふるまわれたのです。 4.あなたはわたしを愛しますか 食事が終わった時、恐らくは湖畔を歩きながら、イエス様はペテロに尋ねられます。 ヨハネ 21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。 あなたは、この人 たち以 上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私 があ なたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」 この時 のペテロの答 え方が微 妙ですね。以 前のペテロなら、「もちろん、主 よ、私 はこの中 の誰 より も一 番 あなたを愛 しています」と答 えていたでしょう。しかし、この時 のペテロは、そんな自 信 満 々の 答 えなど全 くできなかった。それは、そうです。「愛する」どころか、「わたしはそんな人 は知 りません」 「会ったこともありません」「神かけて、見たことも聞いたこともありません」と三度も誓ったのですか ら。 でも、イエス様のことを、嫌 いになったわけではない。もちろん、愛したいと思う、従 いたいと思 う、し かし、「愛します」「従 います」と言ったところで、その言 葉を自 分 自 身 がいつ裏 切ってしまうかわから ない。そんな弱 い、罪 深 い、情 けない自 分 であることを思 い知 らされている。だから、 「私 があなたを 愛することは、あなたがご存じです」-あなたは知っておられますとしか言えない。 しかし、主はなおペテロに尋ねられます。 ヨハネ 21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペ テロはイエスに言 った。「はい。主 よ。私 があなたを愛 することは、あなたがご存 じです。」イエスは彼 に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」 さらに、主イエスはとどめのように、「愛する」という動詞を、無 条 件の「愛」を意味する「アガパオー」 から友情を意味する「フィレオー」にやや格下げして、問われた。 ヨハネ 21:17 イエスは三 度 ペテロに言 われた。「ヨハネの子 シモン。あなたはわたしを愛 します か。」 ペテロは主 が三 度 「あなたはわたしを愛 しますか」と言 われたので、心 を痛 めた。 それはもちろん、 ペテロが自分の罪を指摘されていることに気づいているからです。しかし、それは、責められているの 4 ではない。それならもう少 し心は痛 まなかったでしょう。「主 を知らない」と三 度 言 った自 分 に、なお、 イエス様は、「あなたはわたしを愛しますか」と、愛を示す機 会を与 えてくださっている。もうとっくの昔 に見 放 され、見 捨 てられて、破 門 されてもおかしくないのに、 そのような自 分 に、なお三 度 、回 復 の 機会を与えてくださっている。その愛のあまりの大きさに、胸痛め、心痛めているのです。 5.わたしの羊を飼いなさい しかし、主イエスは、かつての自信 満々のペテロにではなく、弱く、小さく、謙らされ、砕かれたペテ ロに、やはり三度こう言われているのです。 「わたしの羊を飼いなさい」 以前、恩師の舟 喜信先 生から、何のことであったかお電話をいただいた時に、こう尋ねられたこと があります。 「牧会は楽しいでしょ?」 私 は、その言 葉 に、すぐ「はい」ということができずに、絶 句 してしまったのです。「牧 会 は大 変 でし ょ」とか、「牧 会 は難 しいでしょ」と言 われたら、きっとすぐにでも、「はい、本 当 に大 変 です!」とお答 えしていたと思うのです。しかし、あの時、自 分はすぐに答 えることができませんで した。そして、答え ることができないで絶句してしまった自分 自身に非常に心探られたのです。 それから、時々こういうことを聞かれるのですね。 「先生、牧師を辞めたいと思ったことはありますか?」 なかなか答えにくい質 問ですよね。たいがい、その手 の質 問 は、答 えないように、適 当のお茶 を濁 していることが多 いかもしれません。そんなに辞 めたそうな顔 しているのかなあと思 い、申し訳ないな あとも思わされます。実際に、本当に答えるのは難しい、自分でもよくわからないことです。 「辞めたいと思ったこと」があるかないかと言われたら、それは、あるかないかという問題ですらなく、 当 然、このような重い責 任を降 ろせるものなら降 ろしたいと思うわけです。他のどんな仕事でもそうで しょうが、もちろん楽な仕 事などはないわけです。それがまして、人の心と魂 を扱う、永 遠 のいのちを 扱うことですから、当 然、大 変なわけです。それで当たり前。むしろ、本 当に自 分 のような者がこのよ うな仕事をさせていただいていいのかと思わされるのです。 ペテロが「わたしは漁 に行 く」と言ったのも、やはりそういう気 持ちであったのではと思 います。復 活 の主 イエスと出 会 った。それは大 いなる驚 きであ り、喜 びであった。でも、三 度 も主 を否 んだ自 分 に 資格があるのか、その任 にふさわしいものなのかと思う。 しかし、主が、なお、私のようなものに、「あなたはわたしを愛しますか」と問いかけてこられる。自 信 を持って答 えられるものは、自分 の中には何もない。これまで、どれだけ、主 を知 らないと言ってきた のか。主 の喜 ばれることではなく、罪 を選 んできてしまったのか。とてもではないけれども、自 分 には ふさわしくないと思う。けれども、なお、三 度 拒 んだものには三 度、七 度 拒 んだ者 には七 度。七 の七 十倍拒んだ者には、七を七十倍するまで、主は聞いてこられる。 「あなたはわたしを愛しますか」と。 5 そして、「わたしの羊を飼いなさい」と、ご自身の羊をゆだねてくださる。 主は、単に「群れを牧しなさい」とか、「羊を飼 いなさい」と言われているのではない。「わたしの羊を 飼 いなさい」と言 われるのです。わたしが、いのちをかけて愛 した羊 、十 字 架 の上 に、血 を流 して買 い取った、わたしの羊、天地万 物よりも大事な、わたしの小羊、その「わたしの羊を飼いなさい」と、私 のようなものを信頼して、ゆだねてくださった。 これ以 上 の光 栄 があるだろうか。これ以 上 の信 頼 があるだろうか。そのことを思 う時 に、「私 が辞 め たい」とか「辞めたくない」とかはもはや、関 係がない。自分がやりたいとかやりたくないとか、そういうこ とはもはやどうでもいい。ただ、この主の愛 の委託 に答 えたい、主の信 頼に、全身 全 霊を持って答え るものでありたいと願わされるのです。 そして、私が信じていることは、復 活の主は、みなさんお一 人びとりに、語りかけられておられるとい うことです。「あなたはわたしを愛しますか」と。あなたの罪のために死んでくださった方が、そのように 問いかけておられるのです。そして、「わたしの羊を飼いなさい」と、一人 一人 にしかできないこと、一 人一 人 にあなたにしかできない使命 を委 ねておられるのです。私たちが職 場で、家庭で、教会で神 の国を建てあげてゆくということ。互いに仕 えてゆくということ。復活のキリストと共に生 きてゆくというこ と。そのことへ主が、一人 一人を召しておられると信じるのです。その召しに答えていく。そこにしか、 復活の信仰はないのです。 どうか私たちが、この大いなる主の愛の委託に答えていけますように。 祈ります。 6