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ゼロの焦点
せずには帰れない 電脳版 1 双葉社 せずには帰れない 島村洋子 Illustration /メグ・ホソキ ゼロの焦点。 日に日に衰えていくのは体だけではなく、脳のほうだったりするので ある。 昔はいろんなことが覚えられたなあ、年号とか、電話番号とか、人の 名前とか。 このあいだ、酒場で、古くからやっているバーテンダーが、 ﹁私の名前のタクヤは昔はあんまりなかったんですが、キムタクのおか げなんですかね、スーパーとか行くと、お母さんたちが﹃タクヤ!﹄な んてこどもを呼んでいてどっきりします﹂ 2 という。 しかし彼の名前は卓矢と書く。 私は﹃骨まで愛して﹄の城卓矢を思い出す。 若かりし頃の関口宏が﹃マキちゃん日記﹄とかいうドラマでいつも酔 って階段あがってくるシーンを覚えているが、私も酔ったらたまに歌う ね。そしてたまにどっちかに先立たれた夫婦が﹁連れ合いの骨をかじっ てみました﹂とか言ってるのを聞き、そういうのもあるかなあ、と思う。 うちの夫は﹁骨を混ぜてみますか﹂という私の提案に困ってるみたい なので、私は違うところに勝手に埋まってみる。 ﹁この卓矢はもちろん城卓矢より早いんですよ。私のバーテンダーデビ ューが昭和 三 十 五 年 ﹂ という話を聞きながら、私は﹁かおるちゃん、遅くなってごめんね﹂ の男は誰だったか、と考え続ける。誰だろう。 私の前の恋人は似てたんだけどな、眼が細くて。 せずには帰れない 3 横 の 男 も 思 い 出 せ な い︵ こ の 人 は い つ も 何 も 思 い 出 せ な い。 請 求 書 が届くたびに私に﹁∼って店、行ったっけ?﹂とか一緒に食事したホス テスの顔も忘れ、店の場所も忘れている。そのうち体中、メモを貼り付 けるようになるだろう。いっそ私の顔も忘れてくれれば私は颯爽と現れ て、一からアプローチするのになと思う。すぐに忘れられてもいいから ↑我ながらしつこい︶。 私はいろんなところに電話した。 みんな、うーん、とうなったがカラオケ本のあるところから返事があ り、 ﹁美樹克彦 ﹂ と聞いて ほ っ と す る 。 老化なのか、過度の飲酒のせいなのか、惚れた私が悪いのか、迷わす おまえが悪いのか、西条八十にお尋ねしたい。 4 そして今を去ること何年か前のこと、あるバーのママが、 ﹁ちょっと ち ょ っ と こ れ ﹂ とこそこそと私に写真を見せた。 ﹁店を閉めて気付いたんだけど、カウンターの下に﹃写るんです﹄が落 ちてあって、どなたのかわからなかったから、プリントしたのよね、私。 そうすると ﹂ よくわからなかったが、その写真は多分、編集者と作家の取材旅行の 様子だった 。 ﹁ああ、多分、これあの人だよ。私が渡しておく﹂ と私は私と一緒にこの店に来た人だ、と気付いた。 しかし、最後の一枚が、どうみても恋人との旅行の写真で、その恋人 というのが私も顔を見たことのある女の子だった。そこまではべつにい いんだが。 困ったことにその男は今、他の女の人と結婚することになっているの せずには帰れない 5 だよ。 ﹁よし、ここで見たことは誰にもしゃべらないってことで﹂ と私たち は 誓 い 合 っ た 。 私はパーティ会場でその写真をこっそり渡した。 べつに詳しいことは聞こうと思わなかったし、その二人の女の人たち とどうなったかもよくわからない。 優秀編集者である彼もよくわからないと思うが、時間がたてばわかる のだろうと 思 っ た 。 そして最 近 の こ と で あ る 。 またもや酒場で思い出せないことが続く。 ﹁ほら、﹃点と線﹄ではなくて、二重生活していた女の話でホラ、社長 の妻になっていたが昔は売春婦だったという、あの松本清張の本、なん だっけ、う ー っ ﹂ 6 私はボケボケの頭を振りながら、そうだ彼なら知っている、とくだん の優秀編集 者 に 電 話 し た 。 彼は厳か に 、 ﹁﹃ゼロの焦点﹄でしょうか﹂ と言った 。 私は膝を打ち、クーッ、そのとおり、と思いながら、この男こそ﹃ゼ ロの焦点﹄だった、とそのときわかったのだ。 私は響の水割りを飲み干し、 ﹁禎子の目を烈風がたたいた。 ﹂ と名作の最後の一行を思い出した。 せずには帰れない 7 ︻著者略歴︼ 島村洋子︵しまむら ようこ︶ 1964年、大阪市生まれ。帝塚山学院短期大学を卒業後、証券会社勤務などを経て、 1985年にコバルト・ノベル大賞を受賞し、小説家としてデビュー。 ﹃せずには帰れない﹄﹃家ではしたくない﹄ ﹃へるもんじゃなし﹄等のエッセイの他、 ﹃王 子様、いただきっ!﹄﹃ポルノ﹄﹃てなもんやシェークスピア﹄﹃色ざんげ﹄など多数。 また﹃恋愛のすべて。﹄﹃メロメロ﹄﹃ブスの壁﹄ ﹃ザ・ピルグリム﹄が絶賛発売中。 8