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碧の青春【改訂版】 - タテ書き小説ネット

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碧の青春【改訂版】 - タテ書き小説ネット
碧の青春【改訂版】
遠野ましろ
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
碧の青春︻改訂版︼
︻Nコード︼
N0187Q
︻作者名︼
遠野ましろ
︻あらすじ︼
アムラーが世を席巻する1997年。東京で生まれ育った都倉真
咲は、家庭の事情で突如母の郷里に引っ越す。転校先で出会ったの
は、のちにかけがえのない仲間となる美少年︵複数︶や眼鏡男子。
つまらないと思っていたはずの田舎での高校生活が、ほのかな恋に
よって輝きだして⋮⋮!? 胸焦がす恋情、一度っきりの青春。苦
しくて切なくて流した涙も必ず糧となる日が来る。改訂前verは
コチラから↓<http://nanos.jp/sunnysu
1
nday/novel/8/>
■2016.07∼一部修正。内容に大幅な変更はありません。
■処女小説ではありませんが処女フィク小説です。
2
︵1︶
遠くに山々は連なり、その地肌は生い茂る若葉に隠されている。
山の麓から一続きに田畑が広がり、一面、緑の絨毯を敷いたかのよ
うな田園風景を形成していた。何十キロと続く平地を、ひたすらに
濃淡の緑が埋め尽くす。
電車に乗って一時間。延々とこの風景を眺めている。
風は、ない。田んぼの表面を波立たせるものは何もなく。
一枚の静止画のようにただそこに存在していた。
黄色味がかった若緑の色合いは真夏ならではだろう、灼熱の太陽
によって磨き抜かれた明度が見る者の目に迫る。
旅で来ていたら感動するのかもしれない。
頬杖をつく手のひらがぬるつく。頬からその手を離すと、今度は
窓枠に預けていた右の肘が痛かった。顎の下を拭うと手の甲は汗に
濡れた。腕の外側は明るく照らされている。顔も明日には赤くなっ
ているだろう。カーテンもブラインドもないガラス窓を通して、直
射日光を浴び続けているのだから。
それでも、私は思う。
日に焼けることなんてちっぽけなことだ。
これからの生活に比べたら。
再び頬杖をつく。それ以外にすることがない。例えば本を読む気
にもなれない。これからを空想する気分でもない。
レールは田畑の間を縫い走る。多少のカーブを交えつつも続く、
あてどもない一本道。この平坦な地は本当に丸い地球の一部なのだ
3
ろうか。坂など皆無だ。神奈川も奥地に入れば山は多いけれどもっ
と丘陵がきつかった。
集落らしきものも見当たらない。
異邦人の感覚に囚われる。
私はどこに、迷い込んでしまったのか。
仮にここが誰も住まぬ土地なのだと言われても私は信じるが、忘
れた頃に日本家屋が現れた。いやに大きい。向こうで言う二、三軒
分が一軒に相当しそうだ。遠目に見ても敷地面積が二百平米は超え
る。古き良き戦後映画に出てくるような木造の長屋で、縁側から続
く和室には誰の姿もなかった。
それから少し過ぎて、田んぼの間を縫う畦道に、朱色のトラクタ
ーが置き忘れのように置かれていた。
きっと、空気は澄んでいることだろう。
車もない、歩く人もない。コンクリートで舗装された道路もなく、
大地を足の裏で味わえて。
そうだ、自然は最高だ。
⋮⋮と、人は言う。芸能人が田舎に泊まる番組は需要があってか
年中放映されている。一部の中高年サラリーマンは、日々靴の踵を
減らしつつ、リタイア後に田舎に引っ込んでスローライフを送るこ
とを夢に描くという。
されど、いざ農業をやってみると、上手くいかない熟年夫婦も。
熟年離婚自体も。元々住まわぬ、友人知人も居ない環境に馴染めず
都会のマンションに舞い戻る夫婦も存在することを、忘れてはなら
ない。
︱︱熟年、離婚。
タイムリーな単語に自嘲の笑みを漏らす。窓の緑のスケッチブッ
4
クには、輪郭すら掴めない自分の顔が薄く笑んでいる。
何が、可笑しいのか。
地の果てへと。この広大な緑の海へと、手放すためにやってきて。
色んな、未来を。
東京に残っていたら手の中にあったはずの全てを。
足元に置いたボストンバッグの中には、クラスメイトからの寄せ
書きが入っている。写真付きの色紙だ。今という現実が待つことを
知らない自分が、笑顔で写っている。
せめて、高校は向こうで卒業したかった。
ため息をつくのは堪えた。ため息をつけば幸せが逃げていく⋮⋮
気休めであろうと守らなければ負けな気がした。
認めたくなかった。一体何に対して抗いたいのか掴み切れない、
言い知れぬ焦燥が胸の内に込み上げる。ため息を深くこぼす自分の
姿に対して、やっぱりね、と納得されるのも、哀れみの目を向けら
れるのも、望んでいなかった。
網膜に刺さる外の景色から頑なに視線を譲らないのは、私なりの
意地なのだと思う。
はたなか
東京を離れて七時間。陽が沈むのが遅い真夏のこと、空は未だ明
るい。新幹線と電車を乗り継ぎ、県内で最も栄えている畑中市まで
来ると、今度は旅番組に登場しそうなこの二両ばかりの電車にまた
も乗り換えて、北へ、北へと進む。天井から備え付けの錆びた扇風
機が緩やかに風を送る程度の、素晴らしい冷房設備だ。座席の表地
がベルベット素材なのも、体熱の放散を妨げてくれる。膝の裏の汗
は薄手のスカートを通して確実に染み込んでいる。シャツワンピー
スの貼り付く背中は、背もたれに預けずに過ごす。となると肘をつ
く前傾姿勢となる。
乗客は、私達二人のみ。
海に突き出た半島の、先端へと向かう。
人の気配は遠のき、逆に緑の割合は増大する。無人島に向かうの
でも、山奥に向かうはずでもなかったはずだ、私達は。
5
私は根負けした。あまりの眩しさに、捻っていた首を戻すと、一
変した薄暗い車内のコントラストに一瞬目眩を覚え、目元を押さえ
た。幸い、目の前の彼女は本を読むことに没入しているから、この
幼稚な強がりを気付かれずに済んだ。
私は口を開く。
﹁あと、どのくらいで着くの﹂
この二両電車に乗って言葉を発した初めてだった。声を出したと
き、喉の奥が乾きに張り付いていることに気づいた。
おおよそ読書の捗らない環境にも関わらず、母は吉本ばななを読
む。﹃キッチン﹄。私の世代にこそ相応しいチョイスだ。母はよほ
ど物語の世界に取り込まれていたのか、めくる手を止めるまでに間
があった。
母は顔を起こすと、首筋を伝う汗の筋をそのままに、腕時計で時
間を確かめ、なんてことのないように言う。
﹁一時間足らずね。もうすぐよ﹂
矛盾した二つのセンテンス。六十分弱のどこが﹁すぐ﹂なのだろ
う。
改めて見ると、よく似ている。その丸顔も、年齢よりも必ず幼く
見られる童顔も、みんな母譲りだ。実際の体重よりも太っていると
思われるから、私は丸顔が嫌いだった。
ところが私が実際に目にしているのは、母の削げた頬だった。元
々はふっくらしていたはずが、痩せた男の人みたいに。多忙が続い
たせいだろう。厚めに塗ったファンデが汗に白浮きしている。
こうして向き合うことを避けていたのにはれっきとした理由があ
る。
ほぼ一ヶ月ぶりに向き合ってくれる娘に対し母は穏やかに目を細
めるけれど、私の目は今度は、何本も刻まれた目尻の皺に引き寄せ
られる。
6
自分が老いた姿を見せつけられているようだった。
﹁そんなに嫌な顔しなくっても⋮⋮﹂母は、微笑んだ。困ってる子
どもを見るように。困っている自分を隠すかのように。﹁もう少し
の辛抱よ﹂
﹁辛抱って、どのくらい?﹂
声が尖る。上がっていた母の口の端が、わずかに強張る。
﹁戻ってもどうせ出戻りとか言われるだけでしょう。それに、⋮⋮﹂
私は窓のほうを向き、口の中で呟いた。
﹁これから、ずっと我慢ってことでしょう﹂
母にはもう、見向きもしなかった。
* * *
ベルトコンベアーみたいに流れる映像の中に、東京と同じものを
見つけられない。神奈川や千葉の田舎を走る電車でさえも、これよ
りも都会を提供してくれていた。
線路沿いにある、知らない、聞いたこともない名前の看板が目に
付く。きりこ。ゆべし。みずもと。マルエー。⋮⋮ゆべしは食べ物
だったろうか。柚子の絵がある。
お神輿みたいなものが描かれた看板には、毛筆体で、
﹃いらっしゃい、能登へ﹄
出迎えはサイレントだった。
耳にはまだ、別れの言葉がこびりついている。
﹃元気でな﹄
父は、最後まで言葉少なだった。
JR町田駅のだだ広い改札前にて。
私は振り向いたけれど、父の姿はもうそこにはなかった。人ごみ
の中に消えていた。消えて、見えなくなっていた。
7
期待もろとも塵芥と化した。
もし、泣いていてくれたりしたならば、今という未来は変わって
いただろうか。
現実とは、物語ほどには上手く行かない。
二度と、声を聞くこともない。思えば、父と電話で会話をしたの
も数えるほどだ。以後も、関わることなどないのだろう。
自分と母が消えたあの広めの一軒家を頭に描いてみる。一人暮ら
しをするには寂しいかもしれない⋮⋮けど、父はもともと、家に寄
り付かない人だった。同じ市内で、両親と小さな商社を経営してい
て。手伝いから主導する形に変わったのは、私が生まれる以前だっ
たという。帳簿と、パソコンとに向き合ってばかりいた、口下手で
冗談も言えない人で。私が小さかった頃は微笑みかけてくれた記憶
もあるけれど、いつからか。私がこんなにも冷めた娘だからか。自
発的に避けられるのを受け入れるように、父も私に関わらなくなっ
た。父親と仲が芳しくない思春期を過ごすのは周りのみんなの話を
聞く限りはむしろ正常だけれど、私と父の間には何か⋮⋮薄い、見
えない壁のようなものがあって、上手く踏み込めなかった。
踏み込めないままに終わった。
決断の経緯は知らない。聞こうとも思わない。聞いた所で、何か
抗える手腕を私は持たない。結末は変わらない。
離婚というエンドが待つ一大舞台において、私は主役ではない、
されど動員される、三文役者以下なのだった。
もし、私が大人だったら。
父から母からも離れ、一人で働いて暮らしていけるのだったら︱
︱考えたことはある。家を出てみるとか。
実際は、部屋に閉じこもるだけが私に出来るせいぜいのことだっ
た。
私は勉強が好きだ。普通に、高校を卒業したい。学歴社会がどん
なだかを何となくは知っている。中卒に厳しい。
向こうでは割りと裕福な暮らしをしていた。親が片親となり、私
8
のこれからの生活レベルが落ちるのは訊くまでもない。
電車に乗せられて辿るレールの道筋、私の人生もきっと同じ。
もしかしたら、今までがそうであって、私が単に気付いていなか
っただけなのかもしれない。終点も途中経過駅も知れない、一本道
を進むだけの。
私は昔っから現実的な子だった。小学校の頃の夢はパン屋さんで
もお嫁さんでもなく、跡継ぎ。祖父母の家に遊びに行っても、孫達
を溺愛する祖父母に唯一可愛がられない子どもだった。
みんなは、子どもらしいということがどんなだかを無意識に知っ
ている。振る舞える。わざと困らせて怒らせたり、大泣きしてみた
り、すがりついたりして。明るい笑い声を立てて、似た子同士でつ
るむ。
私は、違った。
一人で過ごす方が好きだった。読書が趣味。大人が望む行動がど
んなだかを分かっていたし、反発したい気持ちもあった。やがては
反発も面倒になって静観しておく。
このように成長した子どもに対して、大人は失望を隠さない。
﹃子どもらしくないわね﹄
私は従う。抗いもせず。望むままに。
それが、私がこれから選ぶ、私の人生史上で最も﹃子どもらしい﹄
ことなのだろう。
人々の意志のなき所に、運命は存在している。
当たり前のことを、こんな美しい緑を眺めながら思うことになる
とはまさか、思わなかった。
固く目を閉ざしても、その色は消えやしなかった。
* * *
光が、飛んでくる。ちかちかと眩しい。黒い視界に赤、白の点が
混ざりだす。なにか潮の香りがする。
9
私は顔を左に傾けた。常に進行方向を向いて座るようにしている。
私は乗り物酔いしやすい。
瞼を上げる。
長いトンネルを抜けるとそこは海だった。
右手が緑に侵食されているのは変わらない。逆側に道路が並走し
ていて、その奥。ハンドル操作を誤れば列車ごと落ちてしまいそう
なガードレールのすぐ傍から、︱︱海。
海が、広がっていた。
誰か鏡でも嫌がらせで持っているのだろうか、健やかな空を乱反
射するまばゆさが寝起きの目に辛い。私は瞬きをした。目が、良く
なるかもしれない。アフリカの人の視力は5.0だとか驚異的な数
値らしいから。
裸眼で1.5あるから、別段良くなる必要もないのだけれど。
﹁あら。目が覚めたんね﹂
未だ読書をしている母は、私に気付いた。
眠っていた訳ではないけども、頷く。
﹁ほんと、こっからもうすぐやから﹂
どうだろな、と思いつつ再び瞼を下ろす。今度は群青色が焼き付
いた。
向こうでは標準語を話していた母の方言を、幼い頃以来に聞いた。
﹃すぐ﹄と形容するには微妙な二十分後に、目的地に着く。降りた
のは二人きり。乗客が私達だけなのだから当然だ。乗り込む人はな
く、ホームは無人だった。
降り立ってすぐに頭の上を押さえた。熱い。虫眼鏡でも上にある
のか。天を仰いで後悔した。太陽をもろに見た。眩しい。とんだ目
攻めに熱攻めだ。屋根なしのホームなんて、帽子くらい持ってくれ
ば良かった。私は帽子がことごとく似合わない。
﹁あっついわねえ﹂
ハンカチで首元を拭く母の目の先に、水飲み台。ぎらついたシル
バーの代物。︱︱あんなの、とても飲めたものじゃない。車両二つ
10
を受け入れるがやっとのこのこじんまりとしたホーム全体が、直射
日光の餌食となっている。私も急がねばバーベキューにされそうだ。
奥には今どき珍しい有人改札。改札上には建物と繋がる屋根があ
り、こちらより明らかに涼しげに見える影の中から駅員がこっちを
見ていた。
不公平な、と一瞬思うけれど考えを改めた。
駅員は、ご高齢だ。
私は歩くのが遅い。サンダルで来たのを後悔する。一歩を進める
度に、素足の指に熱気がまとわりつく。足元サウナだ。思い通りに
進まないのだから蟻地獄にも等しい。
息が上がるのを感じつつも、ポケットから切符を出す。H九.八.
一〇⋮⋮文字が滲んでいた挙句端っこが折れていた。どうせ、手渡
すだけだから構わないだろう。ピンポン鳴らして後ろに迷惑かける
ことも起こりえない。
人一人通れる程度の狭い改札に先に辿り着いていた母は、駅員と
何か喋っていた。
切符を渡すと、値踏みするような目をよこす。
露骨な目。
好奇に満ちた目。
こんなにもじろじろと見られることは滅多にない。私の上から下
までを眺めると、ほぉおー、とよく分からぬ感嘆の混ざったしゃが
れた声を上げて二、三度頷く。金歯が覗いた。全体に歯は黄色い。
差し歯で凌いでいるのだろう。
﹁この、小さなお嬢さんは?﹂
この、小さな、という連体詞と形容動詞が失礼に当たるとは、こ
の図体の大きなご老人は生涯気づくまい。
まさき
﹁娘です﹂母は笑った。何故だか誇らしげに声を張り。笑顔を口に
とくら
収めると、母は母の顔をして娘に命じた。﹁真咲、挨拶なさい﹂
﹁都倉、⋮⋮真咲です﹂
ご老人に不敬を働く主義にはない。
11
みゆき
頭を下げた私の耳に、がっはは、と豪快な笑いが飛び込む。
﹁わーっしも年とるもんやべのう。美雪ちゃんにくぉんないっちゃ
けなお嬢さんがおるたぁ﹂
帽子の鍔にかける手、腕も半袖のラインまで綺麗に日焼けしてい
て年寄り特有の染みが目立つ。上半身は汗だくで、もはやシースル
ーと化したワイシャツの下にはきっとステテコパンツ。帰宅すれば
山下清みたいな格好をしている。
私は訝しげな顔をしていたように思う。ときに、デリカシーのな
しんぞう
い人間は他人の快不快に鈍感だ。駅員は再度けたたましく笑うと、
母に向き直り、諭す始末だった。
﹁孫たちがきょーう帰ってくるげってなぁ、新造もえっらい楽しみ
にしとってんぞ。店閉めとっさけ、はよ帰ったれや﹂
︱︱余計なお世話だ。
喉元から出かかった声を押し込める。
母はありがとうとか何とか挨拶して頭を下げるけれど、得体のし
れないむかつきが胃の中を蝕み始める。
どうしてあのご老人が祖父の店が閉まっていることを知っている。
風が吹けば噂が流れるとでもいうのか?
︱︱娘。そんなの見れば分かるじゃないか。孫たちと言っていた。
どうせうちの事情も全部分かっている。何故知っていることをわざ
わざ訊くのだ? 人の神経を逆撫でする行為にほかならない。
ため息をつく。
カウンターアタックで田舎者の悪い部分を見せつけられた気がし
た。
駅を出て歩き始めても、あの粘っこい目線が背に張り付いていた。
12
︵2︶
歳月は人を裏切らない。
﹁おかえりなさい。真咲ちゃんも遠い所をよう来たね﹂
祖父母は私のなかに残る記憶よりも年齢を重ねていた。老けたお
じちゃんおばちゃんではなく、呼び名通りのおじいちゃんおばあち
ゃん。祖父の髪は総白髪で、割烹着を羽織る小柄な祖母の背骨はか
なり曲がってしまっている。
﹁ただいま。電車えらい空いとったんに遅なってもうて。横山さん
とすこし喋ってんけどお店、休みにしてんて? 表の看板消えとる
こ
しびっくりしたわ。わたしらそんな帰ってくるだけなげし、わざわ
ざ閉めんかて⋮⋮﹂
﹁こんなあっつい日にお客さんなんか来んわいね﹂祖母は額の汗を
拭い明るく応じる。﹁歩いて来てんろ? タクシー迎えさせば良か
ったかねえ。近いさけ、やーがられてもほんに暑くてかなわんのや
さけ、気にせんでええんわいね。昼間、三十五度まで上がったんや
って、さっきテレビでゆうとったわ。ほんに、あんたおった頃はこ
んな暑なかったがにねえ﹂一息に喋ると、祖母は我々に手招きをす
る。﹁なーんもそんなとこぼうっと突っ立っとらんと、はよ入りま
しね。わたしまで日に焼けてまうわ﹂
﹁ほんなら、お邪魔します﹂
母に続き私も頭を下げる。﹁お邪魔します﹂
三和土に全員の靴が十足足らず、それだけで玄関がほぼいっぱい
だ。私が履けばぶかぶかだろうでっかい便所サンダル、高島屋一階
で老女が買い求める感じの、小さくて丸いフォルムの靴は、甲をマ
13
ジックテープで留めるタイプ。どこで履くのか不明な真新しい白の
ナースシューズなどなど。母がパンプスのかかとに手を添えてやや
屈んだので、私が後ろに身を引くと、母の背中越しに祖母と目が合
った。﹁真咲ちゃんな。これからはお邪魔しますやのうてただいま
でいいんよ。ここは真咲ちゃんのお家なげし﹂
純粋な好意に触れると私が悪いことをした気分になる。
曖昧なうす笑いで逃れた先の玄関ドア、勝手に閉まらないのは建
てつけが悪いのだろう、さっき母が開いた時にギィーイと不吉な音
を立てた。鍵をかけない無用心さだけれど泥棒が来たとて即バレそ
うだ。いやに低いドアノブの位置だがこれでも幼かった私には届か
なかった。ジャンプして掴もうとしたら母に、そんなことしたら壊
れるやろ、と叱られたのだった。
初めて握ったドアノブは冷たくて回転が少し鈍い。
留め具の錆びた音が再度ギィと鳴り響くと、鋭い日光から遮られ、
私は外の世界から遮断された。
ここが、⋮⋮私の家。
天井の木目が迫る近さ、玄関の上り口だって気を抜けば足を引っ
掛ける低さ。明かり取りの窓から入る光がこの家のぼろっちさを酷
薄にも暴きだす。閉めてみたらスライド式のガラスドアががたつい
たのだって壁面の収納に工具が野ざらしにされてるのだって。平面
積が相当広い割に全体に背が低い、こじんまりとした印象を拭えな
い。外壁も内装も飴色の板で統一されているけれどログハウスとい
う語感はどうにも相応しくなく、⋮⋮そうだ。ニュースに出てくる
崖崩れでぺっしゃんこにされた家、あの雰囲気に近い。建てられた
のは曽祖父の代だと聞く。
祖母経由で母から渡されたのは便所スリッパだった。友達を呼ぶ
時もこれなのかと思うとげんなりする。
14
呼ぶ友達など今後一切現れないだろうことにももっとげんなりす
るのだけれど。
二人並ぶには幅の狭い廊下ゆえ、蟻みたく縦一列になって進んで
いく。蟻というより最後尾から見て囚人だ。事実私は囚われの身な
のだ、人生を質札にとられて。舵を取る祖父は昔の人にしては長身
で、上からぶら下がる傘が頭にくっつきそうな正しい背筋をしてい
る。角刈りの白髪に古い丸い電球独特の色が当てられている。窓を
あちこち開け放してあるのだろう、風の通り抜ける田舎の家、汗が
少しずつ引いて涼しさを覚え始める。私は幾度も唾液を飲み込みつ
つ、沈黙する私達がみしみしと立てる床の響きに比べて、自分の素
足がビニールスリッパにくっついては離れてを繰り返す音を耳障り
だなと感じていた。
﹁さあさ、座って座って。二人とも疲れとるやろ﹂
入り口に立つ祖母の身振りで居間に通されて、祖父は右の奥に、
母は対面する席に、私は下座である母の左隣にかけた。決断を下す
のは祖父で、フォローするのは祖母の役割なのかと何となしに思う。
﹁すぐ冷たい麦茶持ってくるさけ。あんたら来るからやかんにいぃ
ぱい作っといてんよ﹂
﹁ああお母さん、用意するんやったらわたしが⋮⋮﹂腰を浮かせた
母を、いいんよあんたは、と祖母は制す。制した手の甲で汗の光る
額を拭うと、何かを思ったのか、ややそぐわない苦い笑いを浮かべ
る。﹁そや。そやった⋮⋮うち年寄りしかおらんさけハイカラな飲
みもんちぃとも置いとらんげわ。若い子は麦茶なんか飲まんやろ?
こ
あれやったらお祖母ちゃん、そこのきよかわで炭酸かオレンジジ
ュース買うてくるさけ﹂
﹁いえ⋮⋮平気、です﹂きよかわが何だかは知らないが、私はこの
炎天下に祖母を使いに出させる非道な人間ではない。それよりもキ
ンキンに冷えた麦茶を一刻も早く飲みたい。
15
﹁なーんも遠慮せんかていいげよ? 好きなもん何でも買うたるさ
け。お祖母ちゃんな、真咲ちゃんの好き嫌い分からんげし、食べれ
んもんあったらちゃあんとゆうてくれんけ﹂総入れ歯ではない、黄
ばんだ歯と金歯を覗かせた祖母は朗らかさから一変、母を睨む。﹁
美雪はな。お母さんやのうてわたしんことお祖母ちゃんてちゃーん
と呼ばな駄目やろ。さっきからなんべんもお祖母ちゃんゆうとるが
にちぃとも気の利かん子なんやからあんたは﹂
母が滅多に実家に帰らなかった理由の一つが、この、母方の祖母
が孫を溺愛するあまりだ。
二つ目、娘に対して祖母は厳しい。私が受け答えの一つもロクに
返せなかったのに、母なんてお茶を用意しようとした結果、気が利
かない認定までされた。
よく喋る人は部屋を明るくする。
ムードメーカーの祖母が廊下に消える。
明るい空気も失われた。
残されたのは、腕を組み、瞼を閉じた渋面の祖父と︱︱
生家に戻ってきたにも関わらずどこか所在なさげな、見るにやつ
れた母。
異性の親を相手に喋りづらいのは、母だって同じなのだろう。
二人の気まずい様子に私は気づかないふりを貫き、浅い記憶を辿
ってみる。五歳だったろうか、私は父が運転する車に乗せられて来
た。オートマの軽のハンドルしか握れず地図も読めない母は、助手
席に座ってるだけ。長野らへんの山がきつくって、車のすれ違いも
適わない細い山道だったり、アップダウンの激しい泥道を走ったり
で、息止めても続かない長いトンネルだらけで息が詰まりそうだっ
た。車酔いする体質の私は東京を出る前に酔い止めを飲んでなるべ
く目をつぶり、ほとんどを眠るよう務めた。眠るのが嫌いな私は赤
ちゃんの頃から寝付きが悪くって母の安眠を妨げていた。だから、
後ろで一人で座れるって意地を張った。助手席で母はちょっと寝て
た。一日かけてやっと着いた頃には体が重たくてしんどくて、母の
16
腕に抱かれて二階に上がった。この家を歩いた感触をあまり記憶し
ていない。
ちきのうなってんろ、と初秋の日に奥から扇風機を引っ張り出し
ながら祖母は言い、母は、私をやわらかいお布団に横たえながら、
次は飛行機で来ようね、体が楽やから、と囁いた。
前よりも体は楽だったけれど、荒っぽい運転をする父はこの場に
いない。
こんな形での帰郷をどう思っているのか︱︱母の横顔をちらと窺
えば、テーブルに視線を落とす。きまり悪そうに。床より一段と色
の濃い、年季の入った六人がけのダイニングテーブル。白い傷がい
くつも走り、シールを剥がした跡も残っている。この家で長年使わ
れ続ける︱︱ひょっとしたら祖父が子どもの頃からの品かもしれな
い。私もだけれど母にきょうだいはいない。
冷房はかかってはいない。エアコンがそこの入り口の上にあるけ
れど、田舎のお年寄りは使いたがらないと聞く。それでも灼熱の屋
外に比べれば天国だ。静かだ。うすら明るくて昼を過ぎても照明要
らず。遠くで不快でない程度に蝉が鳴く。母の右でそよぐ白いカー
テン越しに、緑か土かの匂いの混ざった自然な風が届く。祖父のす
こし後方で扇風機の青い羽根がくるくると回る。銭湯でしか見ない
旧式のお座敷扇、あの首が短い版をその昔祖母が用意してくれたの
だった。二間続きを開け放して縦に十二畳ほどのこの部屋、向こう
の和室は絨毯を敷いて、ぶ厚いテレビと革張りのソファーを配置し
た洋風のアレンジ。町田の家もそういえば居間に炬燵は置かなかっ
た。最奥の砂壁に不自然に小窓があるのは、キッチンに通じる窓だ
ったと思う。祖母と思われる影が動いた。
﹁これから、どうするつもりや。生活は。仕事は、どうする﹂
びくっと私の体が揺れる。静寂を破る、父より低い、お腹に響く
声。自分が話しかけられたのではないと分かっていても、私は背筋
17
を正して座り直す。
﹁ここで、働きながら暮らしていきます﹂
祖父が目を開く。鷹の射すくめる眼差しを未だ視線を落とす母に
注ぐ。
﹁ばあさんから大体は聞いとるが。真咲のことはどうする﹂
﹁緑川高校に通わせます﹂
﹁真咲はそれでいいんか﹂
唐突に話を振られても。
︱︱そもそも私に選択の余地はない。
凄みのある目が押し黙る私に向けられ、それはまた母に戻った。
﹁ちぃさい頃から向こうに馴染んだもんに緑川はしんどいやろう。
美雪、お前は生まれ育ったもんやから分からんかもしらんが、お前
かてそれで出てったんやから考えてみい。緑川はなんもない、わし
らのような年寄りしか根付かん町や﹂
﹁真咲は私と暮らしたいって﹂
﹁そう言うしかなかったんやろが﹂
︱︱意外にも。
十二年ぶりに再会する祖父と祖母が、私を理解してくれていて。
十七年間育ててくれた母が、今、私を理解しないでくれている。
皮肉で複雑過ぎる現実に、胸の内が狭まる思いがする。
﹁親のエゴや﹂と祖父は小さく吐き捨てた。﹁いっぱしに親やった
ら、自分の都合で子どもを振り回しとることを自覚しい﹂
﹁なしてお父さんは、真咲のおるとこでそんな話するん。場所考え
てま﹂
﹁またお前は。真咲の前やからするんやぞっ﹂
祖父が声を荒げる。たちまち険悪な空気が流れかけた所を、
﹁おじいさんったらもう、そんくらいにしたって? 美雪かて疲れ
とるげし﹂
18
驚くほどのんきな声が割って入った。麦茶入りのグラスが人数分、
それとやかんが乗ったお盆を手にした祖母だった。
﹁乗りもん乗っとると体しんどなるやろ? 知らんうちに喉からっ
からに渇くもんなげよ﹂美雪は昔っから飲みもん飲みたがらん子や
ったから、と言い足して手渡していく。渡されると全員が口をつけ
た。ごと、ごと、ごと、とグラスを置く音が順に続く。飲み終えて
見れば全部、空だった。
私が気づいたのに気づいた祖母は微笑すると、やかんに続いてお
盆を置き、祖父のグラスから注ぎに入る。﹁気ぃ立っとる時にああ
しようこうしようゆうたってうまくゆくはずないがね。喧嘩なるだ
けやわ。お茶でも飲んでゆーっくり疲れとってからみぃんなで考え
けばいいがやよ。ほんに、おじいさんも最初っからがみがみゆわん
といてくださいね。歳なげさけ大きい声出すと血圧あがってまうわ﹂
また目をつぶり腕を組む祖父。⋮⋮こんなに強面のビジュアルだ
ったろうか。幼い頃はお祖父ちゃーんと私だって飛びついた気がす
るのだが。やけに眼光の鋭い、任侠映画に出演しても馴染む風貌。
いまはポロシャツにチノパン姿だけれどスーツにグラサンかければ
完全にヤのつく人だ。頬に傷なんかなくて良かった。緋村剣心みた
く長髪で美形ならば話は別だけれど。
﹁⋮⋮お父さん、お世話になります﹂
﹁うむ。来たからにゃあしっかり働け﹂
親分に対して母は関西人の語尾の上げ方で礼を言う。﹁ありがと
う﹂
﹁真咲ちゃんな、お祖母ちゃんうちんなか案内したげるわ。二階の
奥が空いとるさけそこ使って。美雪は昔、あんたが使うとった部屋
でいいやろ。そのままにしとるさけ﹂
﹁あたしはどこやって構わんのよ﹂
方言だと母は﹃あたし﹄呼称になるようだ。
﹁ほんなら行こかね﹂と茶を熱茶でも飲むみたく音をすする祖母。
言い出しといてまるきり急ぐ気配がない。﹁なんやら荷物いぃぱい
19
届いとったがね。足の踏み場もなかったさけおじいさんみぃんなう
え運んだげよ? 真咲ちゃんなぁ、お祖父ちゃんこんな顔しとって
もほんに怖い人やないんよ。運ぶが向かいの吉野さんに手伝うても
ろうたらってわたしがゆうても﹃一人で出来るわいっ﹄て意地にな
ってもうて。そんで腰痛めてん。まだ痛いがやて。きんのの夜やっ
てあんたらが来るさけよーう眠れんでねえ。このひと口に出してゆ
わんけど本音では楽しみにしとるんよ。どうしたんか首、寝違えて
しもうて。やから顔あんま動かせんの﹂
私に﹃目だけ向ける﹄理由が解せた。
素直に母は机に手をついて頭を下げる。﹁お父さん、⋮⋮申し訳
ないわ。苦労かけます﹂
﹁ばあさんは喋り過ぎや、はよ上いったれ﹂
怒ったような調子はいつものことなのだろう。腕組みを崩さない
強面の祖父を、はいはい、といなすとようやく祖母は腰を上げた。
20
︵3︶
割と、不自由のない暮らしをしていたと思う。
通うのはエスカレーター式の私立だった。制服だって、キャメル
のブレザーに青と茶のプリーツスカート。地元では可愛いって有名
で、他校の子がわざわざ振り返って見てくることだってあった。私
は行かないけど合コンで男の子受けするんだとか。毎日袖を通すの
が密かなる私の楽しみだった。ルーズソックスは履かずに上品に、
学校指定の紺のハイソックスと黒のローファーで仕上げる組み合わ
せが好きだった。
欲しいお洋服や習い事一つだってねだって親に断られたことはな
かった、⋮⋮というより私は本以外あんまり欲しがらない、平均的
な女の子よりも偏屈な子どもだから。
それだって、夢見ることもある。
見目かたちのいいお嬢様になって、天蓋付きのふかふかのベッド
に眠りたい。出窓にレースのカーテン、天井まで届く窓もあったり。
弾かないけれど白いグランドピアノだって置かれたりして。お紅茶
の似合う、広々とした白床の高貴な空間。が、自分の部屋だったら
いいなって。
現状を目の当たりにして思う。
町田の家のほうが夢に近かった。
︱︱通された二階の奥の部屋は、元の私の部屋の半分以下だろう
21
か。六畳あるかないか。しかも和室。色褪せてすり切れた畳は見る
に張替えどき。抹茶色の砂壁は漆喰だろうか、こすったら表面のざ
らっざらが剥がれ落ちてしまいそう。学習机炬燵扇風機たんす石油
ストーブ本棚カラーボックス衣装箱で既に目いっぱいで、家具の家
具の間と、残った手前のスペースに段ボールが五段十段積み上がっ
ている。満員電車の車内みたく足の踏み場もない、入り口近くで三
人立つのがぎりぎり。この家で不要な家具を運び入れて何十年と放
置した廃屋に近しい物置にとりあえず段ボールを突っ込みました、
というのが結論。油性マジックで﹃母﹄と書いた段ボールまで何故
かこちらに集合している。家具が一つ二つの母の部屋に、段ボール
は一箱もなかった。
鼻から息を吸う。⋮⋮胸が悪くなりそう。換気したほうがいいと
思ったけれど、窓の所に行くには、薄いほこりを被った家具を踏ん
で段ボールの形を潰さなきゃ無理そうだ。勉強机と背の高い本棚の
間から西日が射す。障子窓の和紙は日焼けして穴が空いたまんま。
つと頭上を見上げてぞっとした。
蜘蛛の巣が張っている。
﹃おかえりなさい。真咲ちゃんも遠い所をよう来たね﹄
震えながら壁に身を寄せて思い起こす祖母の言葉。
とんだ、歓迎だ。
﹁お祖母ちゃん、こんなんやったら布団も敷けんがいね。あたしら
どうやって寝ればいいが﹂
流石の母も咎める口調となる。
﹁すまんかったねえ﹂と言うものの、祖母に悪びれる様子はない。
﹁片付けとる暇なかったんよ。お祖父さんちっとも動けんげしわた
しかて年寄りやしなんもできんげ。若い人やないとこういうときに
役に立たんもんやねえ。ああ、使わん家具あったら向かいの部屋放
っといて。あすこも物置になっとるし﹂
たぶんほとんどの家具を使わない。
﹁したってこんなん、荷物開く前に大掃除せなならんやろが。昨日
22
今日帰ってくるってあたしゆうたんやないげよ。それにな、お引越
しの業者さんやって二階まで運んだり仕分けくらいしてくれるって
ちゃんと伝えといたがいね﹂
﹁ごめんねえ。お祖母ちゃん、ご飯の支度があるさけ、それまで二
人でやっとって﹂
祖母は、逃げるように去った。いや、どう見ても逃げていった。
雑然のなかに取り残され愕然とする。暑い。クーラーはある、け
れどリモコンはどこだろう?
頭のなかで展開を組み立てる。先ずは段ボールを全て運び出し、
使わない沢山の家具も廊下に、向かいの物置に入れて箱をまた戻し
て⋮⋮って今日のうちに終わるのか。終わらない。吊り下げの四角
い照明を見てもほこりがひどいし拭き掃除も必要だ。非力な女二人
と、老人二人が居たって︵というより祖母は手伝う意欲がなさそう
だし︶東京で荷物を運んでくれた筋肉隆々の引越し業者みたく上手
くは行かない。
﹃真咲ちゃんの部屋っていいなー広くって綺麗で﹄
唐突に、部屋に友達を呼んだときの反応が思い出される。羨まし
い、とみんなが言ってくれた。なんのこともなしに恵まれた生活を
過ごしていた日々。
東京に、全部置き去りにしてきたということなのだろう。この部
屋を整理整頓しても、出てくるのはあれよりも狭い、いいなって誰
にも言われない部屋なのだ、間違いなく。
﹁⋮⋮お母さん﹂
﹁なあに? 真咲﹂
現実への準備を整えた母は段ボールの一つに手をかける。
私は、整わない。お城から独居房へ動かされたかの急激な変化に、
追いつけていない。
﹁ほんとにここで?﹂
23
潤ったはずの喉がいやに乾きを覚える。
﹁うん?﹂
﹁ほんとにここで私たち、ずっと暮らすっていうこと?﹂
﹁そうやねえ﹂母は笑う。やや苦いものの混じった笑みで。﹁先ず
は真咲の部屋片付けなならんね。安心したって。お母さん頑張るさ
け﹂
︱︱こんな部屋は、いやだ。
出かかった言葉は飲み込んだ。母は既に、うーいしょ、と言いな
がら一つを下ろしてガムテープを剥がし始める。
私は、動けない。
動いて開けばもう、認めたことになってしまう。
仕立てのいい紺色のブラウス、グレーのタイトスカートにストッ
キング。引越しに向かない服装で母は小柄な体を懸命に動かす。私
だって結構気に入ったワンピースを着てきてしまった。父と会える
のは最後だったから。車内でいっぱい汗をかいた。お風呂だって入
りたい。
夢で描いた童話で例えればこれは灰かぶりシンデレラに近いのか
もしれなかった。
24
︵1︶
みやもと
﹁ごめんね。宮本先生には真咲のことちゃんとゆうといたから﹂
私は鮭の骨を取り除けていた。この地方の焼き魚は全般に、塩が
強い。
﹁二十人ですんで明日はよろしゅう頼んます、⋮⋮やって。予約八
名やったんにお母さん聞き違えたかと思うたわ﹂冷茶を含み母は一
息つく。飲むものも飲んでなかったのだろう。まだ暗い目の覚めな
いうちから、かちゃかちゃと階下の台所で働く、商売をする家独特
の気配が起こった。私はそれを、薄い掛け布団に丸まりながら感じ
た。﹁お役所のひとなんに急なことゆうもんなげね。事前に連絡あ
るだけましやっておじいちゃんはゆうとるけど仕入れも仕込みもあ
んねし。ほんに、三人で回せるかやって分からんわいね﹂
でも断れないのが客商売の悲しいところ。学校と役所関係は主要
な得意先。
私の調理の腕前を知る母は、手伝うように言わない。
転入する緑川高校に挨拶に行くといっても顔を出す程度のこと。
今朝方電話を入れたところ、こちらの慌ただしさを察してか、担任
の先生は﹁私は毎日来とります。お忙しいようでしたら別の日でも
構いませんよ﹂と気さくに仰ったんだとか。
せっかくですから娘さんだけ一度来てみませんか。転校する先が
どんなんやか実際見てみんと不安もあることでしょう。盆でちょう
ど生徒ははけとりますんで、校内自由に見て回るんにはいいかもし
れませんね。
25
﹁⋮⋮えらい気ぃつく先生やったわ﹂ずいぶん若い感じなんに、と
母は感心した様子。﹁それやってもやっぱし、真咲だけやと心細い
やろか?﹂私はお味噌汁の椀から口を離し、ううん、と首を振った。
ここで一人じゃやだって駄々を言うほど私はお子様じゃないし、
人様の好意を無下にするほどにひねくれてもいない。
担任の先生に声をかけるだけのミッションならばはじめてのおつ
かいよりも簡単だ。
母が詫びるべき部分はもっとずっと違うところにあると思うけれ
ど、それは言わずに置く。
場所は聞いた通り。
うちの二つ前の国道を道なりに駅まで進むとバスロータリーで左
に折れて直進。ローカルな銀行の角を曲がってすぐそこだ。
母の手書きの地図を一旦ポケットにしまう。
ドラマで見る刑務所を彷彿させる長い塀を回り、影を縫い、建物
の概要を確かめる。東京ドーム一個分は固い。三階建てで塀とお揃
いの薄灰色で、同じ時期に建てられたのだろうか。教室らしい窓が
いっぱいくっついているのは全て閉ざされて人影もなく、昼間で電
気も点いてない。一見廃校。⋮⋮よく見れば壁掛け時計の下にひび
が入っている。大丈夫なのか。
﹃転校する先がどんなんやか実際見てみんと不安もあることでしょ
う﹄
︱︱現時点で既に不安だ。私の通っていた私立よりひどく見劣り
する。レンガ造りの洒落た外観で硬式テニス用のクレーコートも完
備されてた。ここ、ラクロス部なんて絶対ない。玄関前の広大な駐
車場に停められた車はたった三台。白いバンとカローラと誰が乗る
のか、白の軽トラ。
26
鉄の門扉は開かせて警備員の姿もない。セキュリティ的にどうな
のだろう。
突っ立ってると日光がシャツの背を滲ませる。日よけの場所がな
いのだ。日射しから逃れ逃れ無人の駐車場を突っ切り、なかへ入る。
﹁すずしー⋮⋮﹂
胸元を掴んで風を送る。行儀悪いけど本当に誰もいない。日陰。
花瓶。石の床、開け放たれた空間の涼しさ。それでも何か、⋮⋮臭
う。腕を嗅ぐ。私じゃない。玄関臭と、なにか古本屋に迷い込んだ
妙な匂い。左手に下駄箱がある、あそこからだろうか。フタのつい
ていない、正方形に組まれた、簡素な下駄箱。入っている靴はスニ
ーカーが主で数える程度。こんな時期に誰も来ない。したがって来
客用のスリッパなど並べられておらず、空いている箱にランダムに
突っ込まれてる。この、土足と内履きを同じ箱に無造作に入れるや
り方がなんとなく気に障る。案の定、すのこの上などじゃりっじゃ
りだ。私はなるべく汚れてないのを選ぶ。うちのと同じ茶色い便所
スリッパ。床の硬さがもろに伝わる、ずっと履いてるとかかとが痛
くなるタイプ。今日は靴下を履いてきた。
正面のパネルによれば、校舎の角に位置するのがこの職員玄関。
右の廊下をずっと進んで左。ずっと進んで左。
左からパネルを覗く奇妙な体勢になりながら復唱する。地図の読
めない方向音痴はこんな風に苦労する。視点を地図に合わせられな
いのだ。地図をくるくる回してるひとを見かけるとああ仲間だと密
かに思う。
壁に手を触れながら歩くさまは、青い鳥でも探しに来た子ども。
はたまたヘレン・ケラーを演じた北島マヤ。ハタから見ればさぞ奇
妙に映ることだろう。ついでに窓からの直射日光も避けられるとい
うか。
幸い、職員室までは一本道。やがて、白い表示が見えてきた。
ガラスばかりで開けていたこの学校、初めて開けてない場所に突
き当たる。
27
ノックをすると、すぐ返事が返ってきた。
﹁失礼します﹂
どこだって職員室の風景は変わらない。整然と並んだ灰色の机に
雑然と積み上がった書類の束。この学校が違うのは⋮⋮私が後ろに
した壁と並行するあちらの壁は一面が、緑いっぱいの腰高窓だとい
うこと。壁面絵画の開放感。この学校が誇れるのは唯一、あの庭だ
ろう。遠目にもきちんと手入れされてる。
一見誰の姿も見えない。そんなはずはなく。右にひっそりと来客
用のスペース。小さく、ぱたぱた。耳をすませば扇風機の音も混ざ
って聞こえる。
仕切戸の向こうに回ってみる。
やっぱり、おじさんだった。
いかにも校長室に置かれてそうな黒い皮のソファーにでっぷりと
腰掛ける、横柄な感じのそのおじさんは、私が寄ろうとも新聞で顔
を隠したままだった。レトロな扇風機が送る風にふさふさの髪をな
びかせるままに、片手うちわで自身をあおぐ。足元は本当のこれが
便所サンダル。
気づかない様子。
﹁あの。すみません。宮本先生は⋮⋮﹂
﹁んん?﹂驚かない辺り単に返事が面倒だっただけのようだ。﹁宮
本先生か? おらんかったら生物室やろ﹂
生物室と言われても。
戸惑う気配を感じてか、新聞を下げてじろりと目をよこす。
﹁えーっとどちらさん?﹂
﹁九月からこちらに転校する、都倉真咲といいます﹂
お世話になります、ってちゃんと頭下げたのに。
新聞畳んで上から下まで眺める。おじさんの、値踏みする目線は
毎回なんなのだろう。あんまり、いい気はしない。
その値踏みとやらが終わると、そか、そやったか、と口の中でつ
ぶやく。ボタンを掛け違えたようなどこか腑に落ちない面持ち。
28
服が⋮⋮いけなかっただろうか。白地にピンクのギンガムチェッ
クのワンピース。改めて見るとノースリがお子様な感じ。制服くら
い着てくればよかった。でもできあがりが間に合わなかった。ウエ
スト辺り祖母の手縫いで調整が必要だし。私はいまだに小学生と間
違われる背の低さで、アトラクションの年齢制限だってたまに引っ
かかる。
内田先生と名乗ったその先生は、﹁生物室やったら、こっから渡
り廊下で向こうの校舎行って、三階の奥やぞ﹂と教えてくれた。
渡り廊下、と向こうの校舎。分からない単語が二つ。無事にたど
り着く自信はないけれど、玄関に戻ってパネルで確認すればどうに
かなるだろう。お礼を言って、職員室を辞す。
玄関への道をすこし戻ると、がさ、と紙袋が柱のでっぱりにこす
れた。
︱︱忘れてた。
母から鳩サブレを渡すようことづかっていた。かさばるこんなの
を何故忘れていた。きっと緊張していたんだ。
スリッパ音がやけに廊下を響くのを気にしつつ急ぎ、職員室に戻
る。ドアの前に立つと今度は自動で、開いた。
自動のはずがない。
そこからの動きはすべてスローモーションだった。
あるはずの場所にないもの、確かめようとする手が虚しく空を切
る。
前傾する自分。視界が白く変化する。なにが起きたか分からない
うちにぶつかる。
痛い。
固い。
29
ポロシャツの胸だった。
鼻から思いきし激突、バウンドして後ろによろめく。
転ぶとき女の子は顔かばって両手をつきなさいと親から教わった。
後ろにすっ転ぶときはどうしたらいいのだろう。
などと迷っているうちに尻餅をつく。後ろ手をつく暇もなかった。
﹁あいった﹂
舌を噛みかける。腰骨に響く鈍い痛み。持っていた紙袋は消えた。
⋮⋮ああ。そこに転がってる。なかがおじゃんだ。
ぶつかってきた、いや、ぶつかられた男の人は動かない。使い込
んだ白と青のズック。紺のツータックパンツは明らかにここの制服。
生徒だ、何年生だろうか。
なにげなく上に目をやると、
息が、止まりそうになった。
こんな綺麗な人、見たことがない。
冷たい、深い黒の瞳に見据えられて、素直に鼓動が認める。眼鏡
がすごく似合う。細身の銀縁。斜めに流したアシンメトリーな前髪
が理知的な印象を増幅させる。
例え不快げに眉を歪ませていても、相手を恍惚とさせるに十分な
威力だった。
小さく開いた﹃あ﹄のかたちで固まっている、薄く紅のさす唇の
色、⋮⋮白肌とのコントラストが歌舞伎俳優みたい。
とその口が、動く。
﹁なんだ。中学生か?﹂
﹁ちょ﹂
慌てて裾を払い立ち上がる。前と後ろ。紙袋も勿論拾う。
﹁中学生って﹂
何か言ってやるつもりで正面に立つと、首の角度がえらいことに
30
なった。
︱︱祖父より背が高い。
﹁違うのか﹂
このひと、声もすごく綺麗。低くって涼やかな。
一瞬聴覚までも魅了されるが、気を強く持つ。
﹁違います﹂
ぶつかられたら自分が悪い悪くないに限らず、謝るってのが筋と
いうもの。︵私はタイミングを逸した︶しかも中学生呼ばわりって。
拳を固め、﹁あ。あのね⋮⋮﹂と言いかけたところを。
邪魔が入った。
ううん、邪魔というか。
もう一度後ろに転げたっておかしくはなかった。
戸口に手をかけ、ひょいと顔を覗かせる存在に。
なにこの子。目がびっくりするくらい大きい。瞳孔の周りの虹彩
が琥珀。まつげ長い。肌きれい。日本人? 精巧に作られた西洋人
形みたい。ウェーブがかった髪がロングだったら完璧なのに。
私の姿を認めると、その子は口角を弓なりにあげる。ただの口の
動き一つに釘づけの自分がいる。
こんな反応もまとめるみたいに、ふふ、と息をこぼす。
﹁鼻、真っ赤になってるけどキミ、このうどの大木とぶつかった?﹂
︱︱男の子だ。
あんまりにも美人で女の子だと思った。よくよく見れば喉仏が男
の子のそれだ。
うどとは余計だ、と不快げに言う黒髪のほうに向き直る彼の、私
は喉仏を凝視してしまう。﹁マキってばさあ、無駄にでっかいんだ
31
からちゃーんと気をつけなきゃ駄目じゃん﹂
﹁無駄とはなんだ。だいたい、前も見ねえで突っ込んできたのはこ
の中学生だぞ﹂
私のなかに苛立ちめいたものが生まれる前に。
美少年は職員室から身を出す。彼と完全同じ制服だ。もう一度私
の目を覗き込むと、首をかしげる。
りょっこう
﹁中学生、⋮⋮うにゃ、小学生?﹂
﹁知るか﹂
﹁かわいそうに。緑高に来たばっかりにね﹂
ふっと瞳を細める。目線の高さを合わせるおまけつきで。
﹁ごめんね、怖がらせちゃって。キミ、会いに来たんでしょ﹂色々
と違うんだけど。思わず頷きかける説得力。﹁お兄さんかなーお姉
さんかなー名前。教えて? 三年生? よかったら教室連れてって
あげるよ﹂ ﹁知ってんのか。誰の妹だ﹂
ううん、と首を振り、しなやかな伸びをする動きが猫っぽい。﹁
いいよねー、兄妹って。僕も妹が欲しかったなー﹂
﹁いたらロリコンだったろうがな﹂
﹁ロリコンじゃなくてシスコンね﹂動きを止め、マキって時々単語
に弱いよね、とちょっと呆れ顔をする。﹁んでもし。仮にいたらさ
ぁ、美少女姉妹とか言われんだ絶対に。それも嫌だ﹂
﹁普通自分で言わねえよ、美少女って﹂
﹁たまに間違われるからね。いまだに﹂
﹁女装似合うんじゃねえのか。学祭のネタとして一つどうだ﹂
﹁勘弁してよ﹂
黒髪の彼は眉間にしわが寄りっぱのくせに、意外にも二人の間で
テンポよく会話が成立している。
ところで私は完全に突っ込むタイミングを見失った。
これ以上続いたらどうしようと思った頃合いに、
﹁おいお前ら、なーにをそこで騒いでおる。職員室やぞっ﹂
32
黒髪の彼が道を退く。さっきの恰幅のいい先生だ。私を見つける
と、おお、と声をあげる。
﹁ちょーどよかった。転校生やぞ。お前ら一緒のクラスなんのやか
ら仲良くしたれや﹂
黒髪はやや眉を歪めた程度だが、茶髪は喉の奥を丸見えにして大
きく口を開いた。
そんな彼らに対し。
﹁二年四組に編入する都倉真咲です。よろしくお願いします﹂
こんな笑顔が出るのかと恐ろしくなるくらいの営業スマイルで私
はニッコリと微笑んだ。
33
︵2︶
かずき
まきた かずおみ
さくらい
黒髪の歌舞伎俳優っぽいほうが蒔田一臣で、茶髪の美少年が桜井
和貴。二人はそう名乗ってくれた。
﹁え。なーんだあ生物室に用だったの? 僕たちもちょうど行くと
こ。んじゃ一緒しよっか?﹂
茶髪の彼の笑い方はにっこり、という形容がふさわしい。声も甲
高く、丸っこい瞳をもっと丸くする。
柔らかい印象。
なのに、見つめられると率直に、固まってしまう。
﹁⋮⋮お願い、します﹂
ふはっ、と綺麗な顔を崩し笑う。くしゃっと猫みたく。﹁そーん
な緊張しなくていいってば真咲さん。同じクラスなんだからさ。仲
良くしよ?﹂
いきなり下の名前で呼ばれた。
ため息をついた黒髪の彼は既に、私たちを置いて歩き始めていた。
この階段を上がりきって廊下の突き当たり、にあるんだとか。
茶髪の彼はよく喋る。黒髪の彼、蒔田一臣に対して。あっついね
ーとか数Aの問題集あんなの終わんないよーとかたわいもない話。
話しかけられる彼は、ああ、とかそうだな、とか一言二言返すばか
り。一方的と言っても過言ではないやり取り。だが茶髪の彼はなん
だか嬉しそうだ。
階段は日陰で。外よりだいぶ涼しくって、初めてこの町に来た日
ほど暑くはないんだけど⋮⋮身長が違うと足の長さも違うのか。私
は遅れた。特に階段。そしてうっかり近寄ると、すこし貼りついた
ポロシャツ、の奥に控える広いたくましい背中の感じ。ちょっと引
34
くと、半袖から覗く、幾度となく前後する、肘から先の、むだ毛処
理されてない素肌の二の腕。縦に筋が入っては盛り上がる男の子の
筋肉の動き。細い、ベルトのウエストから腰に続く直線、⋮⋮と目
の行き場に困ってしまうから、階段の半分くらいは空けて。ズック
の動きを眺める辺りがちょうどいいのだと分かった。
﹁ぅおぉーいまさーきさーん。ついてこれてる?﹂
茶髪くんは手をかざし窓から射す光を気にしながらに微笑みかけ
る。踊り場にて。素直な光を集め髪の色を乱反射させる、王子様が
実在するとしたらきっとこんな感じ。頷きつつ目が眩むのを感じた。
﹁ってか、言ってくれればよかったのに。人が悪いなあ真咲さんっ
てば﹂
﹁⋮⋮お前がべらべら喋ってたからだろ﹂
﹁マキもだよ﹂
﹁予想はついてた﹂
﹁はっ?﹂歩きかけた足を止める。習って私も停止。﹁なに。転入
生だって分かってたの? なのにすっとぼけてたってわけ?﹂
﹁お前で遊んだ﹂
﹁うわあひっどい。僕のことからかったんだ? なーんかマキって
ば最近性格歪んでない?﹂
お前っていうか、私も含めてだと思う。真っ先に中学生認定され
たんだし。
﹁俺もそう思う﹂
﹁じっぶんで認めちゃってどーすんだよ。⋮⋮まーね、そーゆーの
がマキのウリだと思うんだけどね。クールで黙りっぱでぶすーっと
してて⋮⋮﹂
﹁売った覚えはない﹂
﹁そーゆー意味じゃなくってさ﹂
もーどうしようねこのひと? とちらと視線投げて肩をすくめる。
35
⋮⋮男の子同士の会話に熱中しているようで実はときどき後ろを確
かめてる。
一方、黒髪の彼は、
﹁あれが、生物室﹂
段を上り終えていた。
⋮⋮たぶん、私に言ってくれたのだと思う。茶髪くんは場所を知
ってるはずだし。
﹁やーひっさしぶりだなーみやもっちゃんに会えんのー﹂何故か茶
髪くんはストレッチを始める。内腿の筋、続いてアキレス腱を伸ば
す。
と、
﹁ほんじゃーおさきっ﹂
えっ。
後ろに晴れやかなスマイルを投げる。
余韻消えきらぬうちにもう、消えていた。
もどかしくスリッパぱたぱたいわせながら残りの段を置き去りに
する、と。
桜井和貴の走りを私の目は捕らえた。
蹴り返しが弧を描く。紺のゴム底が何度だって見える、タイヤみ
たいな回転速度。腕を細かく振る、ピンと上体の立った、すごく綺
麗なフォーム。
運動神経のいい人特有の。
猫っぽい可愛らしさが、豹の。すばしっこいしなやかさに変貌す
る。
白い、背中があんなにも遠く。
羽根でも生えてるのだろうか。
からだを軽くするズックなのだろうか。
天使みたいに、
36
軽やかで。
私の足元といったら便所スリッパで。⋮⋮なんだかなおさらみず
ぼらしく重たく感じる。
隣は、
待ってはくれていたみたい。
けど。
ずっとこのひとは仏頂面だし、こっちを見ない。喋るときは茶髪
くんのほうを向く。
無視、されてるのかな。
女の子と直接喋りたがらない男の子はいる。単に照れ屋ってタイ
プもいるけれどなんとなく、彼は誰に対しても関心を持たない、そ
んな印象を私は持った。
一歩二歩。
スリッパの立てる落ち着きのない響き。
ズックのついては離れるリズム。
重なる。ずれる。
いたたまれない。
黙ってる空気だけ所有し合うこの感じ。
﹁⋮⋮出身は﹂
ぼそっと、声。
聞き違いかと思ったが、唇は薄く開いている。
﹁えっと。わ。私の?﹂
横顔で頷く。
﹁どうして。⋮⋮こっちの人じゃないって分かったの?﹂
彼は、知らないのだろうか。
あの老齢の駅員さんは確実に。恰幅のいい先生だってきっと知っ
ている。
私がどこの出身でどういう事情で飛ばされたかを。
光る君さながらの都落ち。源氏は再度都に戻り栄華を極めるが、
⋮⋮私が東京に戻り住むことは起こり得ない。片親の郷里に身を寄
37
せるのが金銭的にどういう意味を伴うのか、多少は分かっているつ
もりだ。
﹁訛ってねえから﹂
舌打ち混じりで、眉だって歪む。
首がすこし痛くなる角度が必要なのに。
それでも、この横顔から目を離せない。
﹁俺も生まれはこっちじゃねえ⋮⋮和貴もだ﹂前をきつく睨み据え
て彼は言う。﹁あいつは、無理に標準語を喋ろうとはしてるんだが、
じいさんは俺にも分からねえくらいの方言でな。移りたくねえって
しょっちゅうぼやいてやがる﹂
なんとなく想像できてしまい、口許が自然ほころぶ。
﹁だが、じいちゃん子でな。たまに真似しやがる﹂
﹁どっちなのよ﹂
﹁両刀使いなんだ。器用な奴だよ﹂
その単語一つで私の脳は湯沸かし器と化した。
﹁ちょっとそれはあの、あんまり外では言わない方が⋮⋮﹂茶髪く
んの名誉のためにも。
﹁何をだ﹂
﹁⋮⋮その﹂
﹁あいつには親がいねえんだ﹂
流れを無視して黒髪は呟いた。
﹁仲がいいんだね﹂
なにげなく放った一言。コンパスが違いゆえに軽く開いた距離。
それが。
縮まる。
ガン見、される。
﹁何故。そう、来る﹂
﹁だ。だって﹂このひと白眼が大きくなる。小学生だったら泣いて
る。なんでこんな不機嫌なのか。﹁寡黙そうなのに彼の話になると
饒舌だから。き。きっと﹂
38
片眉だけがひょいとあがる。やっと、眼光が緩んだ。
﹁優しい人なんだろうね﹂
﹁俺がか?﹂
今度は目を丸くするものだから。
口許を押さえて笑ってしまった。
﹁違う。彼のほう﹂
﹁⋮⋮高校からの付き合いなんだが﹂
﹁昔っからの友達に見える。なんとなくだけど﹂
すでに向こうの生物室のドアにタッチする彼は、こちらに気づく
とおーい! と両手を大きく振る。
見ているだけで、見る者のこころを明るくするキャラクター。
彼は、生来かもしれない。
私だってそんな風を演じたい時期がちょっとだけあった。家庭の
事情に話が及ぶと全然平気! って言える自分を作ったりする。暗
くなられるのは重たいから、明るい世界を作るんだ。
﹁⋮⋮私も父親はいないから。人前で明るく振る舞う気持ちはよく
分かる﹂
﹁お前は母親と住んでんのか﹂
﹁母と、母方の祖父母と﹂
このひとは。
かわいそうって顔をしない。
気まずいって表情もしない。
聞いてなかったかのように、違う話を振る。
踏み込んだ話だというのに、眉ひとつ動かさない。
真っ直ぐで曇りのない、けど沼の底を思わせる深い色の瞳に。な
んだか、私は言い知れない、安心感のようなものを覚えた。
﹁なんか。事情話すたびに人から可哀想って言われるの、私は苦手
で⋮⋮﹂言葉がオルゴールの回転のようにするすると流れていく。
﹁彼も同じかもしれないと思って。だから私、そういう話されたと
きは人と違う反応するようにしてる﹂
39
相槌打たず。
それでも足は止まっている。
確かに聞いてもらっている、それだけでこころのどこかが弾む、
不思議な感覚を与えられている。
ところ
﹁確かに、聞いた人からすれば不幸な話かもしれないけれど。なに
か彼のいい性格を形どってるとしたら、それは不幸なことじゃない﹂
環境は性格に影響は与えど決定打ではない︱︱そんなことは心理
学説でとっくに証明されている。
言い終えるのを待ってか、再び動き始める彼はつまんなさそうに、
﹁理屈くせえやつだな。本ばっか読んでそうだ﹂
﹁うん。図書館大好きだし﹂図星だ。﹁最近読んだのは、エリクソ
ンの﹃アイデンティティ﹄。でもね。正直、⋮⋮こっちの図書館に
はあんまり期待していない﹂
田舎だもん。
恋しい町田の図書館。天井の高い白い要塞。なかでDVDだって
見れるし漫画もなんだって揃っている。本ばかり読んでて何日入り
浸っても飽きない。
﹁そう言うなよサイコ野郎が﹂
野郎って。
軽く睨もうとしたのが。
眉をあげて喉の奥で笑う。
このひと。
笑うとこんな顔、するんだ。
ずっとしかめっ面だったくせに。薄い赤い唇緩ませて。目尻にし
わだって寄せて、すごく。
無防備な。
40
うぉおーい! もー二人ともおーそいって! 三往復しちゃうよ
僕ぅ!
茶髪くんのBGMが遠く聞こえた。
41
︵3︶
﹁担任の宮本です。よろしくな。都倉さん﹂
生物室にて。
白衣を羽織った眼鏡のおじさんと向かい合っている。
都倉、という響きにも慣れてしまった。こっちに来てからの、母
の旧姓に。
よろしくお願いします、と私が頭を下げると、宮本先生は親指で
くいっと私の背後の彼のほうを指し、
﹁なーんかあったらこいつらに聞いてな﹂
﹁まっ、かせといてみやもっちゃん﹂胸を張るけど四往復で息を切
らした茶髪くん。前髪がまだ汗に濡れている。
﹁⋮⋮子守は一人で十分なんだが﹂机に寄りかかる黒髪の彼はよそ
を向く。
﹁失礼な人がいるんですがどうにかなりませんか﹂私は悲しくなる。
はっは、と宮本先生は声を立てて笑う。茶髪くんばりに声のトー
ンが高いんだこの先生。母なんて赴任そこそこの若い先生だと思い
込んでる。
﹁桜井も蒔田も、面倒見はいいぞ?﹂
実際には七三分けの神経質なサラリーマン。四十手前の気難しい、
電車で女子高生を不快に思ってるおじさんの年頃。でも見た目より
も話してみるとずっと、優しそう。
その優しそうな宮本先生は、
﹁特に、子どものな﹂
42
前言撤回。
全員が爆笑する。ひどい。黒髪の彼までしかめっ面なのに口許ぴ
くぴくしてるし。
腹を立ててるのは私だけだ。手短に説明聞き終えて足早に生物室
を去る、つもりが。
﹁あ﹂
また、忘れそうになった。
﹁み、やもとせんせい。あの。これ、うちの母からなんですけど、
よかったら⋮⋮﹂
ひらり、白衣を翻しかけた宮本先生が、おー? おれにか? と
振り向いた。分解しただろう鳩サブレは避け、予備に入れたという
バウムクーヘン。ユーハイムの缶を渡す。
﹁先生って甘いものは平気ですか﹂
﹁おお。好き好き﹂
きっとこの先生、嫌いでもこんな風に受け取ってくれる。
﹁けどなあ都倉。気ぃ遣わんでいいんやぞ? これはもろうとく。
ありがとう。お母さんにもよろしく伝えといてなー﹂
母の名を口にしても顔を曇らせることのない。
初めての大人だった。
* * *
﹁職員玄関から来たんだったよね。ここ出てずーっと行くと運動場。
つってもこっちのはあんまり使わない。体育んとき僕らが使う体育
館とグラウンドはねえ、あっち。三年の校舎から回ったほうが早い
よ﹂
宮本先生から言いつかった二人は、校内を隅々まで案内してくれ
た。二年四組に最も近いお手洗いの位置まで私は密かに把握した。
43
﹃お前らどうせ暇やろ? 暇しとんのやったら都倉に緑高のなか見
したってくれんか?﹄︱︱宮本先生は忙しくはなさそうだった。山
積みのプリントを採点してたけど。きっと、
︱︱気を遣ってくれたんだと思う。
案内といっても説明するのは茶髪くんで、黒髪の彼は口を開かず
茶髪くんの隣歩いてるだけだが。
﹁俺、寄るとこあっから。じゃ﹂
あっさり、廊下の暗がりへと消えていく。まさにいま私たちが来
た方向へと。
﹁あ⋮⋮﹂私のこの声は遮られた。
﹁マキーっ﹂
明日も学校来なよーっ。
九時に開くから遅刻すんなよーっ。
僕図書室おるからねーっ。
⋮⋮ドラマのお別れ場面じゃあるまいし、大げさな。内田先生が
職員室から注意して飛び出してきそうな声量だ。大きく手を振るの
はどうやら彼の癖なのだろう。
⋮⋮黒髪の彼にお礼を言いたかったんだけど。
ま、いっか。
﹁真咲さんは? 帰る?﹂
ひと通り叫び終えると、元通りの声でこちらに首を捻る。
さっきとは違う角度で、玄関からの夕陽が注ぎ、髪が瞳が、きら
めき、うっすらとオレンジを帯びる、頬の影。
肩越しのまなざし。
切り取られた一瞬が、どうしてこんなに綺麗なんだろう。
見惚れる自覚と共に逸らす。﹁わ、私は﹂
44
にち、とズックの摩擦音。
﹁送ってく﹂
﹁⋮⋮どうして﹂
﹁理由なんかないよ?﹂アヒル口をちょっととがらせ、ポケットに
片手を突っ込む。
そんな所作も、可愛らしいなと思う。
視覚的にペースに飲まれている。
私は、冷静に務める。
﹁理由はあったほうがいいよ。なんに対しても﹂
すると彼は。
唐突に、唇を引き結んだ真顔へと変わり、心持ち俯き。
声だってやや低く抑え、
﹁キミともうすこし一緒に居たいから﹂
上目遣いで見つめられた瞬間に、心臓がけたたましく壁を叩いた。
頬だって、熱い。
﹁⋮⋮なーんてね?﹂
いたずらに赤い舌を覗かす。全てを帳消しにさせる種の笑みをの
せて。でも単なるいたずらっ子と違うのは、彼、この効果を分かっ
ててやってる、そんな余裕がどこか感じられる。
それであっても、私は、
﹁僕、図書室に荷物置きっぱだから取ってくる。ちょっとだけここ
で待ってて?﹂
くるりと反転、再びあのフォームで走りだす。
見送るのがやっとで。
断る反応を返すこともままならなかった。
* * *
45
夕焼けが町全体を茜に染めていく。
歩道を歩く姿はほかに、ない。車も少なく。たまに通る軽トラが
田舎を象徴している。
すこし先を行くポロシャツの、肩甲骨の間がちょっと滲んだ背中
も。夕陽の色をそのままに映し出す。
初めてこの地に降りた日。同じように先を歩く母の後ろを追った。
影を縫い辿るだけだった。いたずらな運命に従って続く私の道筋に。
自分がどうなっていくのか見えなくって、ただただ不安だった。
見知らぬ町、田舎の風景。固く舗装された道であっても、足元がお
ぼつかない感じで。
いまは、どうかといえば。
﹃そう言うなよサイコ野郎が﹄
突然に再生される。
目を閉じ唇を薄く開いた。ガード固そうなひとが無防備に晒した、
あのあどけない、笑み。
どうして。
胸の奥が収縮するのはなんなのだろう。
思わず首を振った。
振ると、
﹁なに。どしたの?﹂
現実には茶髪くんのドアップ。近い、近すぎる、ガムのミントだ
って香る、信じられない近さに。
現実に足元が崩れた。
足首になにか巻き込まれる。缶。柔らかくて固いアルミの。後ろ
向きに、転ぶ。どうしよう、
固く目をつぶった。
来たるべき感触を待った、のが。
﹁あ、れ﹂
代わりになにか、温かい感じに救われた。
がっちりと、素肌の肩を掴まれている。逆の手が、背に。背中に
46
添えられている。
大きな手のひら。私の知る種の女の子の手ではなく、熱い、大き
な。皮膚の厚い、しっかりした感じの。
布越しの手のひらと、手のひらの素肌を認識したときに脈が著し
く乱れた。
息を殺しても鼻腔に男の子独特の汗の匂いが入り込んでる。ほの
かな花のデオドラント。
抱き込むような、筋張った腕の感触だって。
薄目を開けば、顔だって近い。
こちらが物凄く動揺するのに対し、彼は、丸い、無垢な子どもの
目をしていた。
﹁だいじょーぶ?﹂
﹁へ。へいき﹂
正直平気ではない。
腕が、からだが、離れた。
離れた途端に、目の前の。顔は女の子。見た感じ健やかな少年ぽ
いのに実は、筋肉質で。
何度も前後した二の腕の質感。
美しく駆けるあのイメージと重なって、急速に意識してしまう。
鼓動が速まって顔だって、ううん、つま先まで全身赤くなっている。
私を素通りすると彼は、落ちていた空き缶を拾い、
﹁難しい顔してんなーと思ったらいきなしニヤけるし。ぶんぶん首
振ったと思ったらタコみたく真っ赤になるし。⋮⋮まったく、忙し
い子だね﹂
かこん、とゴミ箱にシュートする。
穴があったら入りたい。
﹁真咲さんってホント面白い﹂
﹁別に﹂逃げたい。﹁あの。家もうそこだから﹂
助かった。建物の隙間からちょうどうちの白い看板が見えた。電
気は点いてる。
47
﹁よかったら、明日も学校においで?﹂
タイミングを逸した。
﹁⋮⋮なんで﹂
﹁理由を聞くのが好きだねキミは﹂露骨にこちらが残念な顔をした
せいか、困ったように頭をかく。﹁みやもっちゃんから宿題いっぱ
い出されたでしょ?﹂
見られていたようだ。沢山頂戴した。直視せずトートバッグに手
続き書類もろもろまとめて突っ込んだ。﹁でも。先生は全部終わら
せなくっていいって⋮⋮﹂
﹁しょっぱなっからそんなんでどーすんの。何事も最初が肝心だよ
?﹂
興味深いの意味で面白いのはこのひとのほうだ。
くるくるめまぐるしく表情を変える。子どもをあやす口調になっ
たと思えば、ニキビ予防洗顔料のCMにふさわしい爽やかさで微笑
んだりする。夕陽を背負い、髪をそして彼自身をいくらでも輝かせ
ながら。
﹁僕は、九時には来て五時くらいまでいる﹂さっき行った二階の図
書室ね? と指で宙を指す。﹁入っていちばん奥の席に座っとるか
ら﹂
いやいや結構です。
と言おうとしたのに、﹁んじゃ、まったねー﹂と走り去ってしま
う。最後まで人の話を聞かない。今度はぶんぶん手を振りながら。
⋮⋮参ったなぁ。
残された私は、断ろうと伸ばしかけた手で無意味に頭をかいた。
48
︵1︶
自分でも嫌になる。
この、ぐずぐずうじうじとした性格。
あんな風に茶髪の彼から声をかけられても、おいそれと応じられ
ないし。
実際どんなひとか知らない。分からない。気軽になんて飛び込ん
で行けない。腰が重い人間だと、我ながら思う。
嫌だったなら断ればよかったのに、言えなかったし。
なのに時折悶々と考えてみるだけで。
ああすればよかった、こうすればよかった。
思ってるだけじゃなにも動かせない。世界はちっとも変わらない。
というのも分かりきっているんだけど。
こんな性格だから、神奈川の高校でもごく少数とそこそこ仲良く
するだけで。大多数とはつかず離れず、表面上の付き合いばかりし
ていた。
互いに電話をかける間柄の友達はいない。無論来たばかりの田舎
にもない。
⋮⋮私の人物を知るのは母と祖父母くらいのものだ。兄や姉どこ
ろか弟も妹もおらず。
そんなわけで。
高校二年の、夏。
寂しい人間にふさわしく一人部屋に閉じこもる、暗い孤独な夏休
みを私は過ごしていた。
49
いたずらに蝉ばかりがうるさかった。
* * *
﹃よかったら、明日も学校においで?﹄
緑川高校︱︱通称、緑高を訪れた日からちょうど一週間が経過し
た。
﹁外食する人多なってこっからが正念場なんよ﹂母は冷やし中華を
すする。﹁親戚じゅう集まってみぃんな寿司とか店屋もん取るもん
なげ。うちかて出前もするから仕込みもせんと﹂食べ終えてずず、
と汁までを飲み干す。
お盆から八月三十一日にかけて店は繁忙を極める。普段はこの地
に住まない人々がこぞって帰省をし、親戚みんなで集まって寿司を
食べるのが通例なんだとか。お盆よりも以降が忙しいのがこの地方
の特色。
﹁真咲はゆっくりしとったっていいから﹂と器を手に母は慌ただし
く消える。
相変わらず手伝うようには言われなかった。どう見ても暇なのに。
暇人。といっても、料理スキル皆無の私がうろついても何の役にも
立たず。実際、台所に入ろうとすると﹁入るな!﹂と祖父に叱られ
る。食器下げるのだって廊下から祖母にお盆を手渡す有様だ。
店は子どもが立ち入る領域じゃないとのこと。この調子だと私の
料理の腕はゼロどころかマイナスだ。せっかく小料理屋に越してき
たというのに。
居間にはミニ冷蔵庫と食器棚が買い足された。私がいつでも冷た
い麦茶を飲めるように。
﹃数Aの問題集あんなの終わんないよー﹄
茶髪の彼の言うことは正しく、分厚くてそして厄介だった。向こ
うで使ってた数学の教科書が役に立つ。公式を開き、さあ150問
50
目を取り掛かろうとしたときに。
﹁真咲ぃーっあんたの友達ゆう子が来とるよー﹂
階下からの大声に私は危うく茶を噴きかけた。
友達。
心当たりなど皆無。緑川に来て出会った人間といえば祖父母の知
り合いのみ、のはずだが︱︱。
眉間にしわが寄るのを感じつつ、昼間でも薄暗い階段を降りると。
﹁こんちはー﹂
まさか。
うちのみずぼらしい玄関にあの。
茶髪の彼が、笑って。
大きくこっちに手を振ってるだなんて。
目を疑う。転ばぬよう気をつけて下りる。このスリッパ、滑る。
私が近づくのを見て母は右後ろにずれた。二人並び立てない、狭
い玄関だ。
﹁ひっさしぶりだねえ真っ咲さん。元気してたぁー?﹂
あの。友達って。﹁えっと⋮⋮だ。誰でしたっけ﹂
口から出たのが何故かこれだった。
見るに分かるほど茶髪くんは肩を落とした。気の毒なくらい前屈
みに⋮⋮毛先の感じ。ワックスで遊ばせてる。
そんな髪をわしゃわしゃとかき回して、
﹁こないだ会ったばっかじゃんよー桜井和貴だよー﹂
久しぶりって言ってたじゃん。
でもそんな半ベソされると胸が苦しく⋮⋮もとい、こっちが悪い
ことした気になる。
﹁ま。こんなのは放っといて﹂
51
開きっぱなしの玄関戸に手がかかる。女の子の。ピンクのマニキ
ュアが塗られた指先が。
長い、艶のある髪をなびかせ、その子が颯爽と現れたときに、
︱︱新しい風が吹き込んだ。
太陽をいっぱい浴びて育った、健康的な肌の色をしている。それ
だって髪の光沢といったら、シャンプーの銘柄をお聞きしたい。ア
ーモンド型の目がちょっときつそう。だけれど、厚い前髪の下の瞳
みやざわ さゆ
がきらきら見開かれていて、私に対する無邪気な好意が見てとれた。
﹁あたし、宮沢紗優。よろしくなー真咲ぃ﹂
アメリカンに握手を求められる。⋮⋮いい香り。薔薇の匂いがす
る。近くで見るとどきどきするくらい華やかな顔立ちだし﹁あたし
のことは紗優って呼んで?﹂って言われれば尻尾振って頷いてしま
う。香り眼力含めてなんて魔力。しっとりとなめらかな手の感触。
最後に握手したのはいつだったろう。
﹁和貴くんも紗優ちゃんも。こんな狭いとこやとなんやさけあがっ
てって?﹂
﹁いえ、お母さんお構いなく﹂凛、と彼女は答える。﹁今日お邪魔
したのはですね。真咲さんにこのへんのこと案内したげようと思っ
て来たんです﹂
振り返ると驚いた目と目で通じ合った。当然だ。私が出歩いたの
はこないだの一度こっきり。遊び友達なんているとは思わない。
ふふ、とこちらの驚きひっくるめるみたく彼女は笑う。思いのほ
か不敵な感じで。
﹁ほんなら行こ、真咲? あたしなー真咲に会えるんずぅーっと楽
しみにしとってん。外、出て待っておるから﹂
﹁でも。えっと。あの⋮⋮﹂
自分でも嫌になる。
この、ぐずぐずうじうじとした性格が。
52
﹁遅うなってもお母さんちっとも構わんけど。向こうの親御さんに
迷惑はかけんよう、日付が変わる頃には帰るんよ﹂
母はお小遣いを三千円くれた。一体何時間遊ぶと思ってんだろう。
知り合って間もない子たちと。さっき冷やし中華食べたばかりなの
に。
﹁おーきたきた﹂
美男美女のお二人に対面し、私は身なりを後悔する。
邪魔な前髪はちょんまげで顔はすっぴん。白いコットンのノース
リのワンピはほぼ部屋着で着倒してヨレヨレだし。ビルケン・シュ
トックのサンダルってああ小花柄のも持ってたのになんでこれを突
っ掛けた。
対して茶髪くんはヒップバッグ肩がけしてカーゴパンツに迷彩柄
のコンバース。ミリタリーと小奇麗さの合わさった似合いすぎるス
タイルだし。
紗優は白のちびTにデニムのミニ。足元はサンダルで一見シンプ
ルだけれど⋮⋮伸びやかな素足を見せつける攻撃性。サラツヤのス
トレートロングが最高のアクセント。
結局顔がいい人はなにを着ても似合うのだ。
お二人に対して身なりどころか存在自体を後悔しそうな勢い。
ちょっと羨望の息混じりでドアを閉めると、
﹁の。わっ﹂
お二人ではなかった。
裏に、もうお一方。
黒髪の、彼がいた。
閉まるドアの残像。暗がりから明るさへ変わるそこに。姿を現す
存在に釘付けとなる。
襟付きのシャツ、やや開かせた胸元の素肌にごつい鈍いシルバー
のネックレス。全身が黒。この真夏に。でもすごく似合う。
53
けどあの。
⋮⋮
睨まれてる?
眉間にしわは寄ってない。なんだかあんまし表情が掴めない。ひ
かるガラス一枚に阻まれて。
レンズを凝視する自分は惚けているように思う。
奥の、瞳に。
漆黒の色。憂いを帯びた、正体の掴めない目つきに。
引きこまれている。
いつまでも見ていたくなる。
奇妙な、感覚。
なんでただ見ているんだろう。
舌打ちとか無視とかすればいいのに。
意味が、分からない。
動けなる意味がもっと分からない。
瞳だけで拘束する呪縛。
思考が乾いてなにも、言えなくなる。
これ以上耐えられない、と思った頃、
﹁⋮⋮ういっす﹂
そっぽ向かれた。
﹁やっと出たのがそれかいね﹂
﹁へへ。マキ来てると思わなかったでしょーびっくりした?﹂
頷くこともままならず。
解放されたみたくほっと息を取り戻すと、門を出て彼は歩きだし
ていた。
* * *
﹁紗優はうちの近所に住んでてね。小学校からの幼なじみ﹂彼女と
はクラスが別で二年一組なんだとか。﹁僕とばっかつるんどるから
54
女の子の友達まるきしおらんの。嫌じゃなかったら仲良くしたげて
?﹂
ひっどー、と思い切り頬を膨らます。うちの母に対して丁寧だっ
たけど、素の彼女はもっとフランクな感じがする。
﹁けどなー、うちら付き合っとるん? ってよう訊かれんよ。やっ
ぱ男女が一緒おると目立つんかねー﹂
ビジュアルも関係していると思う。
とは言わず一つ問うておく。﹁違うの?﹂
ちっがーう、と整った髪をかき乱す⋮⋮本当に違うようだ。念の
ため確認だったんだけど。
もし、紗優の彼氏なら。
近づいてはいけない。
友達の彼氏とったとられたってそれこそ、嫌だもん。
﹁ただの友達なんにぃ﹂と紗優は強調する。﹁男女間で友情成り立
たんて誰がゆうたがやろ? ほんっ、と、に、迷惑しとんの。だい
たいあたしにはな。ちゃーんとつき合っとる彼氏が。彼氏がおっ⋮
⋮﹂
﹁別れたばっかなの﹂言いよどむ紗優のあとを茶髪くんが引き取る。
﹁なんよそーなんよ。⋮⋮てなしてわざわざゆうん。まだ乙女の傷
口が癒えとらんがに﹂
﹁話振ったのは紗優のほうだよ﹂
﹁ろくに彼女作ったことない和貴になんか言われたないわ﹂
うそ。意外。
﹁僕、結構人気あるんですけど﹂
⋮⋮作った経験がない、のではなくて、特定を作らない、と受け
取るのが妥当だ。
﹁あんたってみんなから男として見られとらんもん。かっこいーっ
てゆわれるよりキャーかわいーってゆわれるほうが多いやろ﹂
得意げに言い放つ紗優に対し。
ずっとにこやかに喋っていた茶髪くんが珍しくも。
55
怒ったように向こうを向く。
否定はしなかった。
* * *
﹁うーみー!﹂
紗優。走りだすと。堤防あがっちゃうとパンツが見える。
いたたまれず後方を向く。
私の居る世界は、知らない間にこんなにも綺麗だった。
平凡な通りを一本隔てたそこに、海。ジグソーパズルで見るかの
景色。海沿いの道があてどもなく続く。堤防のすぐ下。すぐそこの
紺碧がまっさらな太陽を含んで、波もろともきらめいてる。空の色
もはるか澄んだこの明度。海とつながる悠久を自適に舞うかもめ、
を追うと︱︱
一つの黒い存在。
私たちと離れて歩く彼は 茫、と眺めている。
空を、だろうか。
立ち姿一つも画になる。彼含めて絵画になりそう。
﹁ひょっとして、惚れた?﹂
遮られる、違う、茶髪くんのどアップ。
ちか、近いって。
もつれても転ばずにすんだのは単に、後ろに堤防があったからか。
なのにこのひとはずいずい接近する。﹁んーとねーちょっと訊き
たい﹂小顔だ。顔のパーツが大きい。間近に見ると宇宙人みたいだ。
﹁真咲さんはさー、彼氏。いないでしょ?﹂
い。いない。けど、﹁⋮⋮それがどうかしたの﹂
バレバレだなんて。そしてなにこの答え方。はぐらかす感じが我
ながら嫌だ。
56
こちらの思惑知らず、彼はきひ、と笑った。
﹁ちょーどいいかもしんないなー﹂
途端彼が身を引く。綺麗な顔を彼から見て左に向ける。私がさっ
きまで見ていた黒髪の彼のほうを。
そこには。
いつの間にあんなとこに移動したのか。
からだを宙に浮かせ。
地と水平な右足、そのサンダルの足先を彼の脇腹にめり込ませ。
飛び蹴りを食らわす瞬間を目撃する。
もろとも、くずれた。
だ、
﹁大丈夫っ?﹂
身を起こすのは紗優が先だった。怪我は、ないだろうか。素足な
のになんて無茶を。
一方。
先方がスカートであることを気にするどころか、ずれた眼鏡をか
け直す彼からは青い怒りの炎が立ちのぼる。
﹁てめ、なにしやがる﹂
﹁あんた起きとるんか寝とるんかよー分からんもん﹂べーっと舌を
出す。内容には不覚にも同意。
膝を払う彼は、黒のパンツがちょっと白くなってるのを気にして
る。﹁俺なら起きてるが﹂
﹁たましいが抜けとる﹂
デニムの裾をぱぱっと払って立つ。
そんな紗優に彼は舌打ちをする。不快感を隠す気がない。膝頭に
手をかけ、起き上がろうとすると、
﹁あ﹂
私と声が重なる。紗優のほうが実際動いた。
けども、右足を崩しかけた彼は、差し伸べられた手を借りず、軸
57
にした足でぐっと踏ん張る。
冷たく見返す。﹁気を遣うくれえなら乱暴すんじゃねえ﹂
﹁⋮⋮ごめん﹂すまなさそうに俯く紗優との間に﹁まあまあ﹂と茶
髪くんが入る。﹁悪気はなかったんだよ。紗優は、単にね。マキに
かまって欲しかったんだよ﹂
﹁そやよ。年寄りやないんになにをぬぼーっとしとんの。せっかく
みんなで来とるんに。あんたいったい、なにを見とったん﹂
﹁かもめ﹂
私と、同じだ。
﹁遠くのかもめよりも近くの僕たちに集中してちょーだい﹂
他人だけどさ。
苦笑い混じりの彼の手を払うと不意に、目をくれる。
黒い瞳、涼しげな面差し。
視線が絡んだと思えたのはごく一瞬で、彼は、私の姿など透けて
るかのように、遠くを見やった。
﹁向こうで祭がある﹂
祭り?
顎をしゃくる先は、⋮⋮砂浜だろうか。この道からまっすぐ続く
白い広い砂浜。手前に駐車場と掘っ立て小屋が目につく。
﹁神輿は見たことあるか?﹂
﹁テレビでなら﹂
﹁ほんもの見たことないん﹂語尾を上がらす紗優。素足で飛び蹴り
などしたものだから所々擦れてる。﹁あたしらはもー毎年ゼッタイ
行く。夏はそれしかないもん﹂
真夏の大事なイベントだよね、と茶髪くんは紗優と顔を見合わせ
る。﹁だから。真咲さんにも見てもらおうと思って﹂
もろに食らった。
星が飛ぶウインク。
すごい、破壊力。
思わず胸を押さえたほどだ。
58
﹁⋮⋮ちょっと時間が早かったね。なんも店あいとらんけど。海。
あっちの海、行ってみようか﹂
腕時計を確かめ、最後には子どもに語りかけるトーンで彼は言っ
てくれる。
小学生よりまともな返事がならなかった。
59
︵2︶
強い風が吹き荒れ、日本海の波は荒れ狂うと聞く。
だが、そこにある海は不規則なリズムの波音を周囲に漂わせる一
方、寸時、聞くものの鼓膜にすうと溶け込む静けさをも保つ。群青
色を白に飛沫に、変えながら。寝そべって麦わら帽子を日除けに顔
に乗せたら気持ちよく眠れてしまいそう。
泳ぐ者はない。向こう岸にヨットの輪郭がちらほら。
誰の姿もない。私たちを除いて。
波打ち際を走るシルエットは金に近い髪をきらめかせ、半島の緑
に紛れていく。ひかる点の残像を残しつつ。せっかく似合いのカー
ゴパンツが泥に海水にまみれ。あとのことなんか気にしない、無邪
気な少年。
対して。
じっと座る影。砂浜に流れ着いた大木に。老人のように達観した
後ろ姿がなにを眺めているかは、分からない。
砂浜と国道との間を繋ぐ白い、奥行きのある階段。砂浜を見守る
ゆるいカーブの真ん中に腰掛けている。江ノ島にもこんな段々があ
ったな、と思う。
﹁海泳がれるんは盆までなんよ。盆過ぎるとくらげが出てもうて﹂
冬は極寒の地と聞き及ぶが、現在、真夏の白んだ日射しが照りつ
ける。
﹁そうなんだ。くらげなんて見たことないな﹂
あたしもないなー、と立てた膝を払う紗優。さりげに気にしてる。
﹁刺されるとすっごいいったい。ちっちゃい頃にいっぺんあってな。
背中ぶすーってきてすぐいったーってなんの。⋮⋮くらげ出て泳げ
んくなるとあー、夏が終わるって思う。きゅーに町が静かなって寂
60
しくなんの﹂
﹁残るは宿題だけってとこ?﹂
﹁よう分かったな﹂払う手を止めてにたり。意地悪っぽい笑みも彼
女には似合う。﹁そのとーりやわ﹂
ふと、直線を戻り走る茶髪くんを見やったと思えば、
﹁なあ。聞いてもいい?﹂
膝頭に手を添え顎を預ける。黒目がちな瞳に私は頷く。ふっくら
とした涙道は芸能人みたいで、強運の持ち主であることも示してい
る。
﹁東京ってどんなところ?﹂
﹁どうって⋮⋮全然違うよ。なかにはこういうのどかな場所もある
けれど﹂
それだって江ノ島の海はここよりも大幅に都会だ。
﹁それに。あんまり出歩いてないから分からないよ、この町のこと
は﹂
そっか、と頬杖をつく。﹁でもなー安心したって? うちらがつ
いとるから大船に乗ったつもりで﹂どーんと胸を叩くけどえぇえ?
﹁どういうこと?﹂
﹁和貴もな。親がおらんの﹂
﹁うん。聞いてる﹂
何の気もなしに形のいい唇の動きを追うと、
﹁あいつ、小学三年のときにな。お父さんとお母さんを事故で、亡
くしてしもうて。⋮⋮トラックにぶつかられて即死やってんて﹂
まさか。
⋮⋮事故死だとは思わなかった。
﹁ああ、和貴は無事やったよ? 車に乗っとらんでおうちで留守番
しとってん﹂懸念の色を見てか紗優は安心させるように言い添える。
﹁当時まだちっさかった和貴が誰と暮らしてくっつったら、近い親
戚が向こうおらんもんでな。こっち越してきたんよ﹂育ちは名古屋。
一番親等の近い方がどうやら﹁お母さん方のお祖父ちゃんな。うち
61
から歩いて30秒のとこ住んどんの。むかしっからうちの親と交流
あってあたしもよー可愛がってもろーた。孫が遠いぶん実の孫みた
かってんろうなあ。遊びに行くたび50円アイスにふ菓子かんなら
ず用意してくれとったもん。おばあちゃんが甘いもんばっか与えち
ゃいけないでしょうつってもこっそりおじいちゃんがなあ、50円
渡してくれんね。ばーさんに見つからんようになってほんでまたお
じいちゃん怒られんね。祖父ちゃんより優しいおじいちゃんやわ。
⋮⋮和貴には厳しいんやよね。男の子やからやろな。⋮⋮とにかく
ま。そーゆー事情で和貴はお祖父ちゃんと二人暮らししとるんよ﹂
茶髪くんの発言に引っかかりを覚えていた。
﹃紗優はうちの近所に住んでてね。小学校からの幼なじみ﹄
ところ
理解した。
いい性格を形作る、そんな簡単に語れない事情だということも。
彼は、⋮⋮お祖母ちゃんも失っている。
喪っているのかもしれない。
﹁やし、背丈こんなんやった頃から知っとんやがけど⋮⋮あいっつ﹂
なにか思い出し肩を揺らす。﹁和貴な。来た頃全っ然馴染めんくっ
て﹂
よほど私が深刻な顔をしているのか、紗優はわざと明るく語るよ
うに思えた。
﹁そんな風に見えないけどね。人懐っこそうだし﹂
やろ? と紗優は同意する。﹁けどなー小学校の頃なんてみんな
ガキやろ? 喋る言葉違うだけやのうてどっからどー見ても女の子
やったもん﹂あんな隠れマッチョやのうてな、と笑って前髪の流れ
を整える。﹁髪キンキンやさけ、ガーイジーン! って特になあ男
子からがひどかった。カズコとかオトコオンナとかゆわれて、いじ
められとってん﹂
髪って。﹁彼。⋮⋮地毛なの?﹂
私もかなり茶色いほうだけど彼は数段上を行く。見た感じオレン
ジのブリーチ。光の加減でさっきみたく金髪にもなるし。
62
身を乗り出す私に紗優は含み笑いで応じる。艶やかに、風になび
く横髪を手で押さえ。
また、彼女に見惚れてしまった。
﹁あれで純日本人﹂ハーフでもクオーターでもないよ? と念を押
す。﹁移り住んでしばらくは借りてきた猫みたく大人しゅうしとっ
てん。やのに中学入ったらもーヤケになったんか反動でも来たんか。
取っ替え引っ替え女と遊ぶようになってもうて﹂
﹁うっそ﹂あんなあどけない風貌からは想像もつかない。
﹁ホントホント。⋮⋮やし、誰かからあいつの過去のネタ聞いても
引かんといてね。高校入ってすっぱり手ぇ引いたっぽいし﹂
引くって。﹁はあ﹂
﹁昨日な、うちに和貴が来て﹂目線を追う。その彼が、座る黒髪の
彼の腕を引っ張っている。先入観も入ってか、父親に絡む子どもに
見えてくる。﹁玄関先でさーゆー、て大声で呼ぶんよ。なにかと思
ったわ。ちっさい頃そー呼びに来ることあったがやけど高校入って
からそんなんちぃともなかったし。降りてってどしたん? てあた
しが訊いたら、﹃あした。同じ時間に来るから必ずあけといてー﹄
それだけ言って走って出てった。⋮⋮意味分からんやろ?﹂
やっぱり最後まで聞かないんだ。
そんな茶髪くん、波際に引っ張り込んだはいいものの、ぶしゃっ
と波、黒髪くんにかけられてた。なにすんだよーって顔ぶるぶる振
ってる。洗いたての子犬があんな仕草をする。
﹁ほんで今日になったらいきなし蒔田も連れてやってきて。あたし
朝も食べとらんがに。真咲さんち行くからーてそのまま行ったんよ﹂
﹁そう。⋮⋮だったの﹂彼の発案だったんだ。﹃あたしなー真咲に
会えるんずぅーっと楽しみにしとってん﹄⋮⋮あの言葉も、合わせ
てくれたのかもしれない。
﹁きっと和貴はなあ、ちっさい頃の自分と重ねとんの。やから真咲
のことほっとけんのよ﹂髪を片耳にかけ、どこか嬉々として語る。
﹁聞いたよ? 学校で会うてんて? 真咲んち行く途中もなんかず
63
ーっと一人でぶつぶつゆうとったわ。僕失礼なことゆーてしもたと
かよう分からんことを⋮⋮﹂
小学生だとか言ったことね。
びっしゃびしゃだよ僕洗ってくるーって走る彼にちょっと冷たい
目をくれ隣を向くと。
愛しいものだけに注ぐ眼差し。
誰かが誰かを思う気持ちが、なんて美しくって。
ただ誰かを大切に思うことが、こんなにも綺麗なことなんだと。
胸の内側からあたたかくなる感覚と共に、私は、知った。
すこし雲がかる太陽を眺めた。かもめだって自由に空を泳ぐよう
に思う。髪を耳にかけてみた。視界は広まる。見えていなかったも
のが見えてくる。潮騒も強くなる。
︱︱ずっと。
閉じこもってばかりいてとげとげした私の心が、ここに来て初め
て。
解き放たれたように思えた。
﹁あいつはなーあーやってなんも考えずガキくさくのほほんしとる
よーに見えっけど、全然気ぃ遣い。あたしのこともマキのことも気
にしすぎなんよ。和貴は﹂
﹁付き合っちゃえばいいのに﹂
﹁ない。それは、ない﹂
二度否定。
愛情めいたものを垣間見たからこそ言ってみた。自覚せず恋に落
ちるって私のよく読む漫画のお約束なんだけど。
目で私の疑問を悟ってか、
﹁近すぎるんよ﹂言い飽きてるのだろう、ため息深々。﹁⋮⋮さっ
きもゆーたやろ、男として見られん。好きとか付き合いたいとかま
64
ったく思わんの。弟と同じやね。仮に。二十世紀の終わりに世界に
二人きりになったって。和貴とだけは寝ん自信あるわ﹂
そこまで断言されると逆に気の毒になる。﹁⋮⋮彼。ちょっと、
猫とか﹂ううん、あの髪のオレンジっぽさと無垢な瞳は、﹁子リス
に似てるよね﹂
﹁そやねー目がくりっくりしとるし。蒔田はなんやと思う?﹂
﹁オランウータンかな﹂私は片手でスカートの膝の下を覆う。﹁見
た目は黒豹だけど﹂
ぶはっ、と紗優が吹き出した。﹁なんやのそれ?﹂
当の彼は、私たちの数段下に寝そべってる。長い足を組んで自由
気ままに。気持ちよさそう⋮⋮。﹁テレビで観たことあるの。だだ
っ広い森に一人で住んでて独りを好むんだって。あと。絶滅の危機
にあるらしいし﹂
﹁絶滅関係ないやん﹂紗優の口許が笑いをこらえきれてない。
﹁ある意味希少価値があると思って。私あんな無口な人、他に見た
ことがない﹂
﹁やろねえ﹂立ち上がる紗優。パンツ。見えるから。逆を向く。と、
﹁ねえーっ子リスにオランウータン! ぼさっとしとらんとそろそ
ろ行くよぉーっ!﹂
広い海も驚きの声量で叫ぶ。
むくっと起き上がった黒髪。
こちらにガン飛ばしてくる。
青白い炎のオーラが見える。
がっくりと私はうなだれた。
65
︵3︶
いつも朝市が開かれている、神社へ続く道。
港から走る国道とT字型に連結する約二十メートルの朝市通りは、
観光客向けの土産物屋や民宿、和食の食事処などが軒を連ねる。ふ
だんは朝市が終わる正午までと、唯一、お祭りの時期だけは終日車
が通れない歩行者天国となって屋台がずらり並ぶ。夜などは明かり
の列が滔々と続いて、闇のなかに浮かぶさまは圧巻。
⋮⋮なのだそうだ。茶髪くんの言うところによると。
現在圧巻というよりは舞台裏を見ちゃってる感じ。たこにキャベ
ツや紅しょうがの入ったトレイを並べるたこ焼き屋さんや、景品の
セッティングを調整する射的屋さん。二三人で骨組みを作り始めた
ばかりで、なにを出すのかまるで分からない屋台も。
ほど近い海からの潮風に乗せられて、色んな匂いが混ざり合う。
カステラ焼きたての甘ったるさ、ヨーヨーのゴム臭さ。麺とキャベ
ツを汗かき混ぜ込むいかついお兄さん、首にかけたタオルで額を拭
う口紅青みピンクのおばさん。匂いに紛れてるようでも人々の期待
は隠しきれず、なにか、いまにも爆発しそうな熱気が漂っている。
紗優もチョコバナナクレープ。茶髪くんは鈴カステラを口のなか
に運ぶ。⋮⋮割りと、早食いっぽい。映画館でポップコーン食べる
スピードに近い。
﹁ふぁべる?﹂
﹁要らね﹂また舌打ち。﹁んな甘いもんよく食えるな。見ているだ
けで吐き気を催す﹂
離れて彼は私と紗優のほうも眺め回した。
﹁人生損してるよマキって﹂いっぱいのほっぺのなかを消費すると
66
がさ、と手を突っ込む。﹁屋台来て鈴カステラ食べないなんて残念
すぎる。祭りの醍醐味だよ﹂
﹁してねえ﹂
﹁もう。なんとか言ってやってよ真咲さん﹂
眉は困りに歪めていても、アーチを描く口のかたち。彼、いつも
口角があがってる。
そして、気になった。﹁ついてるよ﹂
﹁こっち?﹂
﹁違う。右のここ﹂
いつも思うのだが、私は相手の側に合わせ、向こうから見て右で
ある自分の左を指す。けどこれで正解された試しがない。最初っか
ら逆の右を指したら指したでどっち? と聞き返されるのだ。なに
かいい指示手段はないものか。
﹁ありがと。取れた?﹂
近づく癖があるみたいだ、このひと。
まじまじと見てしまうと。
すこしばかりの苛々など消失させられる。
整った、顔立ち。
後ずさる私にくすり、と笑う口許の余裕。
見惚れられることを自覚する男の子の人種。
﹃取っ替え引っ替え女と遊ぶようになってもうて﹄⋮⋮素養はある
と思う。いまだって、黒髪の横を歩いていたのがナチュラルに私の
そばに回ってるし。
食べるときはそりゃ黙ってる。無心に放り込んでぱくぱく。ちょ
っと俯き加減。足運びからして転びはしなさそう、だけど。⋮⋮な
にか見たことある感じ。なんだっけ。冬眠でもないのにこんないっ
ぱいお腹に詰め込んで、って。
子リスだ。
冬眠前の子リス。
動物番組で見る、どんぐりを口のなかにぱんぱんに詰め込む冬眠
67
前の子リス。
﹁⋮⋮ふっ﹂
駄目だ、完全に重なった。尻尾だって見えるもん。必死についば
むあの感じ。
﹁いま。笑ったれひょ。僕のこと?﹂
だから頬がぱんぱんって。あんな無垢な目をしないで。
﹁⋮⋮別に﹂
﹁そやなーよー見っとほんに子リスっぽいかもしらんなー﹂
察した紗優が子リスくんを見える位置に動く。
﹁俺はオランウータンだがな﹂
誰かと思った。
能面の表情のなさで、こめかみに筋を浮かせて私たちを一瞥し。
再び、動き出す。
一同フリーズ。
⋮⋮
﹁ぶ﹂
子リスくんが噴いたのを皮切りに、爆笑の渦が起こる。黒髪の彼
の無関心な背中に私たちの笑いが降り注ぐ。
﹁あーもーおっかしー﹂紗優なんてお腹押さえてひーひー言ってる。
﹁蒔田が自分ネタにするん初めて見た﹂
﹁わ、たし。あの。謝ったほうがいいよね、彼に﹂
スタスタ歩き去ってるし。神社着きそうな勢いだし。
﹁ぜーんぜん。僕なんかしょっちゅうマキからかって遊んでる﹂い
やそれはそれで問題が。てか明らかにマキくんはあなたを大切な友
達認定してる。﹁けどね。ああ見えて優しいやつだから。気にしな
くていいんだよ?﹂
うぉおい、足、早すぎ! と早足の彼は駆ける。も、待ってえな、
と紗優が追う。
68
早いのはどっちだろう。
全員食べ終えてた。
私は取り残される。アイス溶けてぬちゃっとしたぬるいクレープ。
食べるのが遅いとこんなふうに損をする。思い返せば小学校の、給
食の時間は。規律を仕込みたがる教師の格好の餌食だった。
﹁真咲さーん。はやくーっこっちおいでー﹂
気がついた茶髪くんが手を振ってくれる。
けど。
私は振り返すのがためらわれて、何故かできなかった。
塩川神社、と刻字された石壁の門を横目に、赤い鳥居をくぐると、
冷えた、おごそかな境内の空気が出迎える。されど足元から伝わる
熱気。サンダルの素足にまとわりつく砂利、止まっては足首振って
はして進む。
お参りでもするのかと思った。
一行は素通り。
境内を抜けて背後に門と朝市通りを残し、神社を正面に見て右手
に回ると、暗い影が落ちる場所。囲う鬱蒼とした木々が作り出すそ
の影のなかに。
︱︱お神輿。
ほとんどが金色。少々の赤と、黒とで彩られた塊が紺色の布の上
に佇む。鎮座、という表現が正しい。荘厳で、歴史の重たさを感じ
させる鈍い輝きが、薄闇のなかでちらり、放たれる。
すこし大人が遠巻きに見守り、怖いもの知らずの子どもたちはわ
ーと取り巻く。うち一人の女の子が突然にねーおにーちゃーんって
彼に駆け寄る。⋮⋮意外にも応じる。本当に意外だ。日焼けした子
で顔は似てない。初恋を覚えたてのお年頃の子の必死な話しかけに
対して、仏頂面だけれど無視はしてない。和やかで、色にするなら
やわらかい黄色いオーラが彼らを包む。
注意を神輿に移す。
69
存外、大きい。
どっしり構えた博物館の展示物の迫力。重そう。いったい何十キ
ロあるんだろう?
﹁これ、何人で担ぐの﹂
﹁んー十人くらいやろか﹂
﹁神社のは展示用だから特にでっかいの﹂茶髪くんが補足する。﹁
担ぎ手はまだいたい二十人かな⋮⋮数えたことないけどね。町によ
って神輿のでかさも変わる。これとあんま大きさ変わんないのを野
郎五人で担ぐとこもあるんだよ? 血の気っぱやいやつらだけどさ﹂
﹁へええ⋮⋮﹂ふんどし姿とかテレビで観たことある、あんな感じ
なのかな。神輿を支える棒が縦と横方向に走っていて、柱並みの太
さ。オランウータンみたく子どもがぶらさがってても倒れない重量
感。うっかりしてるとお腹ぶつけちゃいそうだ。回りこむときに気
を遣う。
はなぼう
縦に前に突き出てるとこが激戦区、と茶髪くんはガイドする。そ
の花棒に触れ、ナチュラルに女の子の頭を撫でると、
﹁ほら。正面から見てごらん?﹂
初めて知った。⋮⋮鳥居が、あるんだ。小さい神社を模してるの
か。さっき見たような朱の、鳥居。奥に金の鳥居、家紋の入った賽
銭箱に似た箱へと繋がって⋮⋮名前の分からない飾りだってあって
たくさん。全部が、金。水戸黄門みたいな家紋だって色んなものに
入っている。丸い飾りのついたすだれがしゃらしゃら揺れる。
きらびやかで。
絢爛豪華。
元禄文化。
江戸の華、⋮⋮色んな単語が頭のなかに飛び交う。大河ドラマの
オープニングがオーバーラップする。
﹁緑川って人口三万も行かない、小さい市なんだけどさ。三十三の
ちっさい町に分かれていてね﹂と大都市育ちの彼は語る。﹁祭りの
ときはその町ごとに神輿出すんだ。町対抗って感じですごく盛り上
70
がる。町じゅうみーんな騒いで練り歩いてね、さっきの砂浜にぜー
んぶ集合すんだ﹂
﹁めっ、ちゃくちゃ綺麗なんよー。お神輿いっぱいでピカピカなっ
て﹂
三十以上のお神輿が海に集まる姿。暗い波に映えてきっと壮観な
ことだろう。
﹁まね。僕たちが用のあるのはこのお神輿じゃないんだけど﹂ポケ
ットに片手を突っ込む。﹁行こ? マキ﹂
あれ。
思いのほかあっさり。
みんな行っちゃうの。
私神輿間近に見るの初めてだった。
もっと。
じっくり眺めたかったのに⋮⋮。
後ろを従い、サンダルに入る砂利を気にしていると。
﹁こんなんで満足しちゃあいけないよ?﹂
ポケットに手を入れたまま、肩だけで振り向いた彼は、
﹁もっと面白いもん、見したげる﹂
熱が出そうだった。
彼らの世界は、めまぐるしい。新しい環境に飛び込むってこうい
うことなのか。
そこからすこし歩いて今度は、宮川町商工会議所、という場所に
連れ込まれた。︵古めかしい看板が立てかけてあったから分かった︶
東京だと畑の隣にありそうな。おじさんおばさんがたむろう、畳ば
かりの狭い小屋のなかを。慣れた様子で茶髪くんと紗優は進む。お
71
ーありがとー。おじちゃん頼むねーって応じつつ。
﹁ママ﹂
最奥にて。
そうだここが目的地だったのか。お父さんお母さん⋮⋮と弟さん
かな? が集まるところへ走り寄る。
お父さん親戚じゅうからんなべっぴんさんよう捕まえたなぁって
突っ込まれたと思う。
﹁あれ。頼んだやつ持ってきてくれた? サイズ合うかちょっと心
配しとんけど﹂
﹁袖まくれば調整できるから大丈夫やわいね。あらあ、︱︱﹂
膝を立てて座ってたお母さん。腰を浮かすときに膝を気にする所
作。
お着物だ。
えんじ色の。⋮⋮女優さんみたい。この辺のおばちゃんって大阪
のパーマかけたおばちゃんなのに。綺麗に年を重ねた女性の、割烹
着まで似合うはんなりとした美しさ。
紗優と目のかたちが同じだ。
﹁真咲ちゃん、やよね?﹂うっふふと笑う、思いのほか露わな笑い
方も。﹁紗優がお世話かけとります。あーら、ほんに、いちゃけな
顔しとるがいね。うちの紗優はきかんおてんばやさけ羨ましいわ﹂
うがっ。
﹁とっ。とんでもないっ、おおお邪魔してますっ﹂
直立してお辞儀をすると、後ろで茶髪くんが笑った。
だってこんな綺麗なお母さんにまじまじと見られて﹁かわいい顔
してる﹂なんて言われたら私どうしたらいいか。
﹁ねーちゃーん。ねーちゃんばっかずるいて。僕やって担ぎたい﹂
スカートを引っ張る少年。⋮⋮彼もお母さん似だ。
紗優は弟の頭を撫でると、しゃがんで、姉の顔をして微笑む。﹁
れお
だーめ。身長足りんもん。⋮⋮そや。入り口に田中くんおったよ。
怜生のこと探しとった﹂
72
えーどこどこー、と釣られる。まだ幼いお年頃。
その走りかけた弟くんが、私の前でぴたっと止まり。
﹁じゃーねーまさき﹂
姉より目が丸っこい。茶髪くんを小さくして髪黒くした感じ⋮⋮
てああ。
なんか心臓がいくつあっても足りない。
﹁ママね、手伝いせなならんさけ行くわ。あんたんこと待っとって
んけど﹂この地方ではあんた、と呼ぶのが普通っぽい。うちの母だ
って私をときどきそう呼ぶし。﹁はい。忘れんうちにこれ。カズく
んとマキちゃんのぶんも入っとるから。ほんなら⋮⋮真咲ちゃんも
マキちゃんも今度、うちに遊びに来てくださいね﹂
微笑んで奥の台所に消える。
疑問が一点。
マキ、ちゃんて。
振り仰いだ。たぶんちょっとニタついた。
それがいけなかったのか。
鋭く睨まれる。だからなんでこのひとこんな敵意むき出しなの。
はいはーいと配っていく紗優。なんだろう、⋮⋮服っぽいけど。
邪魔にならないよう私は避けると、
﹁はいこれー真咲も﹂
⋮⋮
反射的に差し出し、両手に乗っかった。
赤い。綿でできた、白い太い襟のラインが入ってる。家紋っぽい
のがあるのは⋮⋮胸元に位置するのか。
固まった私の反応を晴れがましく紗優は笑う。なにをぼさっとし
とるん、と。
﹁はっぴ。真咲のぶんやよ﹂
73
﹁⋮⋮なんですと?﹂
74
︵4︶
﹁あとはこれ履いて。ちゃんと洗ってあるから。サイズ合わんかっ
たら靴下も一枚借りてこな⋮⋮あ。ぴったし! 歩いてみて平気や
ったら⋮⋮うん。つま先んとこ余っとらんよね?﹂
﹁へ、平気﹂
﹁先行ってるよー﹂
通りすぎる茶髪くん。と無言でついてく黒髪の彼を見送る。
⋮⋮顔が、熱くなる。
その場で即着替えた。黒のシャツ脱いでタンクトップになってぱ
ぱっと法被を羽織るだけの動き。だけどそのとき。色白なのに筋が
盛り上がる腕の感じ、まっ平らなお腹とか見えて⋮⋮しまった。
息を吐いて残像を振り払い、ウエストの位置の紐を縛る。﹁法被
なんて。着るの初めて﹂素肌に当たるしゃりっとした感覚が新鮮。
﹁うっそお﹂上り口に座ってサンダルに片足を入れる紗優が宇宙人
でも見る目をよこしてくる。﹁着たことないが? 人生で一度も?﹂
うん、まあ。
﹁あーっと荷物。邪魔なるよ。ママに預けてくる。貸して?﹂
いえ、結構です。
とは言えない雰囲気だ。私のような人間でも流石に空気は読める。
小走りで戻りつつ﹁靴紐固く二重結びにしといてやっ。トイレも
行っときーしばらく行けんなるからー﹂と教えておくのも忘れずに。
なんか。
知らないうちに巻き込まれてる。こんな受け身に流されてていい
のか私って。
と惑いつつも、会議所の玄関口に繋がる個室のトイレに入ってお
く。と。
﹁⋮⋮あれ﹂
75
誰もいない。さっきまで色んな人が行き違ってたのに。おじさん
がおにぎり食べたりお酒飲んだりしてたお座敷もトレイとお膳の残
骸が残るだけ。割烹着のおばさんが何人かで後片付けしてる。
なんだか騒がしい⋮⋮みんな、外にいるっぽい。
建物を出ると声の大きさが増す。出ても知らないひとばっかりで、
騒がしい右手を回ってみると。
黒山の人だかり。といっても都会でいうようなものではなく、二
三十人程度の。
人々が取り囲むのは、
お神輿だった。
そうだ。
﹃祭りのときはその町ごとに神輿出すんだ﹄
宮川町、から出すお神輿なんだきっと。でこの神輿を血の気っぱ
やい人々が町じゅう騒ぎながら海の、砂浜へと運んでいく。のだっ
たか。
商工会議所のなかのまったりとした空気から一変。集うのはほと
んどが若い衆って呼ばれるタイプのひとたち。むん、と汗臭さが強
まる。頭にハチマキして短パンに足袋。ワイルドに上は裸で法被羽
織ってる。上半身裸のひとも多く、正直目のやり場に困る。ザ・男
の世界。なんとなく、これ以上は近寄れない。
﹁あ。真咲ぃーっ、どこおったん! こっちこっち!﹂
⋮⋮見つかってしまった。
タバコ吸ってるマッチョなお兄さんたちの間を、す、すいません
と頭下げて抜ける。
﹁ここーっ。空けといたからーっ﹂
でっかい声。なんか注目集めてる。既に神輿の横スタンバってる。
後ろの持ち手ペチペチ叩いてる。てか私みたいなのが、場違いじゃ
ない?
﹁や。私は⋮⋮いい﹂
﹁なにゆーとるの。担がないったいなにしに来たん﹂
76
いえ、あの。
右も左もわからないうちに連れてこられたんですけど。
特に強い目線が。紗優の隣に立つ黒髪の彼からだ。
なにもたもたしてやがる。
って顔に書いてある。
怖い。
怖すぎる。
たまらず俯いたところを、
﹁やってみ?﹂
肩に伝わる、手の感触。
茶髪くんだった。
なんかすごく、救われた感じがする。けど。
﹁でも私、こんな⋮⋮小さいし﹂
乗り物制限だって引っかかるんだよ。なのに。
ふはっ、と破顔一笑。なんてことないように彼は言う。﹁真咲さ
んくらいの背丈の子やって担いどるからへーき。僕やってデビュー
は中学一年やし。いまよりちっちゃくってホント、こんくらいだっ
たんだからさ﹂
身長確かめるみたく手をスライドする。⋮⋮左利きだ。いま気が
ついた。
﹁でも﹂
茶髪くんは男の子。紗優は背が160cm以上はあると見た。そ
れに、茶髪くんは私みたく無様に転んだりなんかしない。あの走り
方を見る限り。
﹁怖い?﹂
﹁⋮⋮ちょっと﹂
﹁そっか﹂ふふ、と笑う。頭ごなしに否定しないひとだ。﹁でもね。
すっごく面白いから僕、真咲さんにもやってみて欲しいなって思っ
77
ただけなんだ。なんにも言わず連れてきたのは悪かったかもしんな
いね﹂と私を挟んで神輿の外側に回る。﹁ここ。ちゃーんとついて
てあげるから。怖くないよ? 僕はやく夏が来ないかなーって毎年
思ってるくらいなんだからさ。紗優もなんだ。それでももし、万一。
なにかあったとしたら⋮⋮﹂
明るく言ってたのが一転。顔色を曇らせる。
なに。
なに。
口ごもる。
たっぷり間を溜め、
﹁僕が、責任を取る﹂
花開くみたくふわり、笑う。
実に華やかに。
天性のものだと思う。このひとの挙動は。
そのタイミングで、おーい、担ぐもん揃ったかーっ、と誰かおじ
さんが叫ぶ。
こっそりと。
﹁いいから、楽しんじゃえよ?﹂
後ろから耳元に囁かれた時点でもう、ノックアウトされたのに近
かった。
怖くっても分からなくっても、頭から飛び込まなきゃならないと
きは、ある。
いまがそのときなんだろうか。
遊びごとなのに結構きっちりしてる。五六人の中年のおじさんが
主に仕切ってて、陣頭指揮取る人がもう一人いて、人員配置を指示
する。神輿の周りぐるっと回ってバランスをチェック。ここ一人足
りんぞー。おまえとここ入れ替えれ。映画でいえば製作総指揮を担
うスピルバーグ。気合入ったヤンキー通り越してちょっと迫力を残
した、浅黒い肌をしたひと。
78
終わるのを待っていて、気づいた。
茶髪くんと黒髪の彼は、私と紗優とをかばって外側に立っている
んだ。
目が合う。と、にっこり、と微笑み返された。
なんかことごとく思考が読まれてる気がする。
茶髪くんは比較的小柄。それだって私よりは大きいし、神輿なん
てもっと長身だから視界は狭まる。人影の間を縫い私の興味は広が
る。他人の気配は感じられるから。楽しみに見守るみんなの期待が。
担ぎ手の興奮が空気に具現化して、肌の表面を痛いほどに刺激する。
﹁うおっしゃーばりばりやっぞー﹂なんてどっかから聞こえてちょ
っと笑う。まだ割烹着姿のおばさんたち、片付け終わったのかな。
背丈の足りない幼子がお父さんに肩車してもらってる。横笛吹く小
学生、練習したのかな、ぴーひゃら上手。見たこともない大きな真
っ赤なうちわ掲げる人。ずばり、祭、って白抜きで描かれてる。長
ーい棒の先の提灯、火が消えないのが不思議。
腰を降ろすときもその丸い明かりを網膜に残したまま。準備態勢。
﹁せーの。でみんな担ぐぞー。せぇーのぉおっ!﹂
ぅおいしょぉおっ、
唸る人々の響き、重たい声低い声。自分からも出た。釣られた。
⋮⋮重い? 重くない。だって私肩に届いてないよ。こんなんで
いいの? 黒髪くん背が高すぎ。向こうの左はじも背の高い人入れ
てた、理解した。持ち方そういえば聞いてない。両の手を前後挟む
みたく肩のところに回しこむ、こんな風でいいの? 分っかんない
よ。てか茶髪くん。
重くない?
様子覗えば。
笑みを、こぼす。
なにも言ってないのに。
﹁そーれっ﹂
辺りの歓声に埋もれながら。
79
口のかたちがこう、告げた。
だいじょーぶ。
どっからこんな声が出せるんだろう。男の人の野太い、どすの聞
いた響き。わっしょーいわっしょーいって言語。三回続けてせいや
っ、と高く高く持ち上げる。肩にどしん、と下ろす。痛い重い。酸
ね
素薄い。頭ひとつくらい周りに、埋もれて。
頼る笛の音。人々の猛り。声。ちゃんちきが鳴らされ。お囃子。
言語化不能な歓声。ねえ誰がなんて言ってるの。確かなのは前後右
のわーっしょーいってリズム。おだんごに髪を結った紗優の紺色の
背中。時折おじさんの注意する呼びかけ。
ここ電柱あるから気ぃつけーい。
うちっかわのもんは待つんやぞ。そとのもん回りきんの待て。お
い、ゆっくり。ゆっくりーっ。
曲がり角。逆やぞ。逆ーっ。止まれーっ。慌てんでいいさけゆっ
くりなー。
ぴぃいーっと笛吹くひとが誘導する。サッカーの主審っぽい。し
ゃがれ。かすれ。ぶつかる。さっきから誰の足に私ぶつかってんだ
ろう。自分の? 紗優の? 茶髪くんの? 後ろのマッチョなお兄
さんの? 酔っぱらいみたいだ、おっかし。足元見ようとしても見
えないんだもん。なにこれ。
酸素が薄い。苦しいのに笑ってる。手が汗で滑る。だから等間隔
にタオル巻いてあるんだ。
なのに。
気持ち、い。
なんでだろう。なんで?
しゃらん、と鈴が鳴る。お神輿の。ああきれい。空。いつの間に
こんな暗く、なった。
思考が色んなところをループする、あてどもなく。喉が、枯れる、
80
私叫んでる。だって茶髪くん必死だもん。紗優だって声高いからよ
く聞こえる。
コンクリートの道ばっかだと楽なのに狭い道とか。
下り。
怖い。
足がずいずい進んで危ない。だからつま先気にしたんだ、紗優。
私この道通ったっけ? 覚えてない。あさっき黒髪の彼に声かけ
てた子、ひまわりの色したワンピース。また会ったね。
過疎の町だって誰が言ったの。バーゲンみたく一帯ぎゅうぎゅう。
酸素供給を脳が訴えるしどこからかワキガくっさいし興奮の臭い混
ざって自分だってだんらだんらなのに。
上げる。下げる。叫ぶ。
人々が作り出す炎熱のリズム。
加速させる、太鼓。ちゃんちき。歌声。ちっちゃな子の、わーっ
お神輿ーって喜び。二階の窓から眺めてるおじいちゃんおばあちゃ
ん。浴衣着てる観光客がベランダで優雅に涼んでる。
流れる走馬灯に似た景色とそれまでの映像が合わさって、酩酊。
恍惚。
私酔ってる。
夜が空から子どもはお布団で寝る時間だよって諭してきたって、
熱気なんか冷めようがない。
﹁おーい、止まっぞ。一旦停止ーっ﹂
お神輿同士が行き違う。
待つこちら。
向こうの、声量がクレッシェンドする。
こっちだって負けてられない。
うわぁあ、と叫びが入り混ざる。合戦ってもしかしたらこんな感
じ。
でもみんな、楽しんでる。
整備されてる。
81
煽る。
煽られてる。力こぶ。笑顔。うぉおーっと向こうの紺の法被着た
集団が拳突き上げて。
私たちは左右にじぐざぐ揺らす。
神輿が波打ってる。
しゃんらしゃんら響いてお囃子だって盛り上がる。
揺れる。ゆれる。
船底にいるみたく中枢揺さぶられてる。
﹁すーぐ砂浜入るさけーっ、足元気ぃつけーい﹂
製作総指揮のおじさんはさっきからゆっくりーっゆっくりーっば
かり言ってる。見た目より慎重派。けどほんと、歩幅小さくしない
と危ない。と思ったらやっぱりぶつかる。誰に。って神輿だった。
右からぎゅうぎゅう押されてる。なんかどさくさに紛れて違う人持
ってるし。アルコールがこっちまで漂う。も、みんな酔ってるよう
なもんだし。離れーってすかさずおじさんが追っ払った。もうめち
ゃくちゃだ。
﹁あっは﹂
すごく近くに見た。
吊り橋効果だ。
額から汗を垂らす子リスくんが精悍な男の人に思えたのは。
戻り一瞬まぶたを下ろす。
ずぶ、と足が砂に沈む感覚。
あ、歩きにく。ずぶずぶ、と足取られる。進まない。亀行進。
﹁ゆっくりーっ﹂
﹁そーれぃ﹂
﹁うわっしょーいうわっしょーい﹂
笑えてきた。
どのみちゆっくりしか進めない。
笑いながら、叫んで。周りを見る余裕がちょっと出てきた。右肩
82
は重たくなってきた。
昼間を紗優と過ごした階段があんなところに。国道は交通規制が
かかってる。ロープ張ってある。⋮⋮そうだ車通ったら危ない。来
るときも一切見なかった。警備の警官さん、こんなときにパトロー
ルなんて気分乗らなさそう。神輿に近づきすぎないでくださーい危
ないですからーって黄色くひかる誘導棒を手に叫んでる。
私が踏み込んだ砂浜は緑高の駐車場より混雑。むしろ大渋滞。日
中どこに隠れてたんだろう、蟻みたいに人が沸いて、浮かぶ人魂に
似た灯り。集中する神輿の黄金色のかがやきをぬって、揺らめく炎。
遠い海に︱︱たいまつ。
左に海。
暗く揺れる黒い波を人々の輝きが、照らす。
この世の幻を見る。
色と影に。
うたかたの。
束の間の、命のともしび。
どうしてだか、胸が、切なくなる。
頭っからシャワー浴びたみたく汗だく。口の筋肉だって上がりっ
ぱで疲れてきたのに。
﹁おぉーい。みやがわのもんはこっち。こっちやぞぉー﹂
砂浜を奥に進むと、深緑色の法被姿の頭の禿げたおじさんが誘導
する。指揮のおじさんを先頭についていく。余裕。なんか喋ってる。
真っ直ぐ進んで置き場所があるみたいだった。左回りだと私は待つ
だけだから楽。
﹁うぉおーいみんな止まれーっ。ここやぞここーっ﹂
びっくりしたみたくわらわらのひとが避ける。神輿一つ置けそう
なスペースが確保される。ぴぃー、ぴぃー、と白い笛に従って、ス
トップ。
ああやっと解放される。
83
寂しさとすこしの切なさを覚えながら足を揃える。
﹁んなぁ行くぞ、そーれ、さっさ﹂
指揮者が空に丸を描く。
え、なに。
と思ったときには既に視界は展開していた。走る。動く。なにこ
れ。走ってる。すごいスピード。回って、るんだ。神輿を中心に旋
回している。
﹁いやあぁあ﹂
助けて誰か。私転ぶ。転びそうだよ。足が浮く、無理。目が回る。
酔う、酔う。
泣きそうな限界を迎える頃、救いの笛がようやくぴぃいーっと鳴
った。もう⋮⋮自分が何回転したかすら分からない。
指揮者が手を掲げておーっし止まれーと言うのに従い、紺色の布
の所にスライドする。今度こそ終了。私もうやりたくないよ。
﹁近くおるもんは手伝えー。しっかりー、落とすなよー、ゆっくり
となー、せぇーえのおぉっ﹂
担ぐときと同じ唸りをあげて、一斉に下ろした。
うわぁあーっとひときわ高い歓声。なんか、担いでないひとも喜
んでる。男の人同士抱き合ってるし。
﹁真咲ぃいーっおつかれっ﹂
﹁わふっ﹂
正面から抱きつかれた。強く薔薇が香る。薫の君みたい。
離されると。おそらく彼のほうが薫大将に近い彼が、話しかけて
くる。
﹁どだった? 初めてのお神輿﹂
﹁最後の、いったいなんなの。死ぬかと思った﹂
一瞬目を丸くすると開かせてぶはっと吹き出した。彼、笑ってば
かりいる。笑い屈むって相当だよ。
下がった視線が。
止まる。
84
﹁脱げてる﹂
﹁えっ?﹂
言われて足元を見る。あ、ない。左のスニーカーだけ。なんで。
気づかなかった。やだどこに行ったんだろう。
﹁落ちてたぞ﹂
いつの間に。離れて立ってた黒髪の彼が投げてくる。弧を描く。
茶髪くん避ける。
きっと彼のコントロールは正確だった。
私こういうのやられるといつも自分の運動神経のなさに悲しくな
る。
手元を滑ってぼすん、落ちた。
暗目にも砂が舞い上がる。
﹁⋮⋮どんくせ﹂
それだけ言って黒髪の彼は人ごみに消える。
茶髪くんは小刻みに肩を震わせてる。
﹁ちょっと。笑い過ぎじゃない﹂
私と出会っていったい何度彼は笑っている。
﹁だ。だってさ。最後に回ったとき﹃いやあーっ﹄て聞こえたんだ
けど。靴、そんとき脱げ﹂ぶ、っと吹いた。汗の粒が飛んだ。﹁ご
めんちょっと無理﹂
腰を曲げて本格的に笑い崩れる。
なにこのひと。笑い上戸?
そんな茶髪くんに心のなかで別れを告げ、私は靴を拾い、紗優に
向き直る。
﹁ごめん。こんな砂だらけにしちゃって﹂上下逆さにしてもまだざ
ーざー出てくる。
﹁いいんよ。そのために持ってきてんから。初心者はサンダルなん
かじゃ担げんよ﹂
⋮⋮今更だが紗優はサンダル。それが玄人というものか。
﹁言い忘れてたけど、もちょっとしたらたいまつのイベントがあん
85
の。終わったらこれ担いで帰るから﹂
⋮⋮終わった気でいたんだけど。
暗闇にも涙目を光らせる茶髪くんに私は問いかける。﹁他に聞い
とくことはあるかな﹂
﹁明日絶対筋肉痛。残念ながらアザも出来てる﹂
﹁うっそ﹂全然痛くない。強くぶつけた感じもないのに。
﹁ホントホント。帰ったら足ようく洗っておいて。それと湿布も用
意しとくこと﹂
指を立てて諭す茶髪くんの助言はリアリティを伴わず。
達成感とほのかなカタルシスに包まれているだけだったけど。
翌朝それを後悔する。
﹁うわっ、なにこれ﹂
起きがけの眠気など吹っ飛んだ。
ショートパンツの両足の至る所どころか腕の裏にまで青あざが出
来ていた。
86
︵1︶
ずーっとこっちにおるつもりなが。大変やねえ。娘さんおんのや
ったけ。一人? ほいでまだ、高校生なんやて? 難しい年頃やわ
ねえ⋮⋮気ぃつけてみとらな。こんなことあんまゆいたくないんが
ね、離婚したうちの子ってどーしてもぐれたり、非行に走ってまう
んやて。親の愛がないて寂しゅうて。うちのやてあんな甲斐性なし
やさけ、だいすけが外でほんにどんな子やか分からんもんやわいね、
最近なにゆうても無視するがね。ほんにあの子、生意気になっても
うて困ったもんやよ。
ほんで美雪ちゃん、身ぃ固めるつもりないんが? なにゆうとん
が、まだまだこれからやがいね。わっかいんやさけ、その気あんね
やったらいいひとおらんかわたし、探したるわいね。
︱︱まただ。
気分が悪くなる。
よこしまな好奇心。人々の下卑た笑い。あけっぴろげた興味の在
り方。
本当に心配する人間が、あんな風に。働いてる母に。他のお客さ
んの面前で、訊く?
聞かなければいいのに、小さな窓越しのお店から聞こえる会話の
内容によって私は、凍りつく。
静かに冷蔵庫の戸を閉めて、静かに背を向けて、足音を消して気
配を消して、冷たい麦茶のガラスボトルを胸に抱え、居間を、出る。
ガラス戸は開いたまま、階段だって静かにのぼる。
音を、立てず。
息を、殺して。
87
心を、潰して。
部屋に入って扉を閉めると、やっと、肺に酸素が通じる。
一階の居間に冷茶を取りに行くと決まってあんな会話を耳にする。
大人たちが口にする内容は判で押したように同じ。離婚した母への
関心、非行に走らないか、娘への懸念。心配を装った勘ぐり。
さっきみたいに再婚しないのか、あけすけに問いかける大人だっ
ている。
信じ、られない。
繭にくるまり私を守る自室に戻ったって、
窓から射す淡い日射しに暴かれてる感じがする。
逃れられない。
隠れようとする自分からは。
出ようとしない自身からも。
祖父が、店に私を入れたがらないのが幸いした。私は晒されずに
済んでる。
いまのところ。
先のことは分からない。こんな風に部屋にこもってばかり、いら
れない。
登校拒否なんかして親を困らせるつもりはない。
けどすこしだけ。
もうちょっとだけ慣れる時間が、欲しい。
モラトリアム
夏休みが終わるまで残り一週間。この一週間だけは、子どもでい
よう。移行するための猶予期間にしよう、と私は決めた。
勉強机へ、移動する。グラスにお茶を注いで、端に置く。下が濡
れるのでコースターを一枚ずつ。南西向きの窓は夕方から日射しが
厳しい。遮光カーテンなんて欲しいのは贅沢なんだろう。障子の和
紙は新品に張り替えられた。本をズラリ並べて日よけにしている。
時間を潰せるものがあるのはいいことだ。
苦手な数学とか化学は避け、好きな分野の本ばかり読みふけって
88
いたいんだけど、本当は。
白紙に自分の文字を埋めていく。白いエリアが黒に変わる。オセ
ルール
ロとパズル。埋まっていくことへの達成感。難しいことに向かう緊
張感。入っていく文字と数字の羅列。数列と化して意味を成す。頭
の引き出しに情報を整備していく。
漢文古文を終えて乗ったところで例の数Aの問題集の登場。残り
三分の一。九月一日には間に合いそうだ。
︱︱彼は、終わったのだろうか。
シャープペンを握る手が、不意に止まる。
﹃こんなんで満足しちゃあいけないよ? キミにもっと面白いもん、
見したげる﹄
午後六時。勉強を始めて三時間が経つ。椅子を立ち、手を上に伸
ばし、ストレッチ。連日長時間座っていて関節が固くなってる。
姿見に自分が映る。
うーん、と大きく伸びをするあのしなやかさとは、重ならない。
﹃ここ。ちゃーんとついててあげるから。怖くないよ?﹄
障子窓を、そっと開く。
薄暗い雲がかかった、真夏よりも大人しい、秋への変化を帯びた
空。コバルトブルーが強度を増す。空の色は誰のこころよりも素直
な色をしている。あのなかに溶け込んで海が実在する。目に見える
ものが全てでない。街灯は少ない。駅前とは違ってひと気のない町
田の奥の住宅街だって、もっと明るさを提供してくれていた。夜中
になると目をつぶってるのが分からない真暗闇は先ず、東京では拝
めない全体だ。面白いほどに瓦屋根で統一されていて、緑化運動な
ど今更に不要な緑の豊かさ。うちの二つ前の国道の、肌色のコンク
リートの民宿の丸くくり抜かれた窓。あすこから明かりがこぼれる
以外はなんだか無人島。流れ着いた先にこんな静けさと闇が、あっ
た。そう、この町は静かなんだ。
からからと窓を開けてみたって、例えば渋谷みたいな喧騒は訪れ
ない。網戸越しに細かく訪れる微風は湿気を帯びて、ちょっと冷た
89
くなってきた。ほのかに潮の、薫り。
目を閉じれば、自然と。
再生してしまう。
あの夜の、興奮を。
あれは、一夜限りのまぼろしだったのかとすら思えてくる。
真夏の夜の夢。
あざが消えるのが、惜しく思えたくらいだ。
楽しかった記憶の、証明だったから。
⋮⋮楽しかったんだ。
私は。
﹃怖い?﹄
世の中は怖いことばっかりだ。
窓を閉めた。障子を閉めた。
私はそんなに分かりやすい人間じゃない。
会いたいな、とか。
嬉しかったな、とか。
思わないというならそれは嘘になる。
紗優とあの二人に会うことはない。私、この町の道筋がどんなだ
か、記憶してない。
流されるまま辿るだけだったのに、恋しくなっちゃってる。︱︱
矛盾してる。
寂しくなったとき。みんなは電話で通じてた。でも私誰の連絡先
も知らない。
ポケベルだって持ってない。父が持たせてくれなかった。どのみ
ち打ち合う友達もいないし。
椅子を引いてゆっくりと、座った。回転させる。足を机の下に滑
らせる。足と足を揃える。靴下一枚越しの畳の感触。ノートをめく
る、紙と紙との重なる余韻までも響く、静寂のただなか。
私のいる世界は。
耳をすませば、車の怒ったクラクション、電車の走るレール、開
90
かずの踏切のかんかんとした響きが届くはずだったのに。
この違和感は、ヘッドホンで大音量で再生した直後の音のなさに
似ている。残響。やがては消えてしまうのだろう。
冷茶で乾いた喉を満たす。
意識をまっさらにし、その手触りを確かめる。
平静と平穏。
ペン先をノートの余白に押しつけ、一旦引っ込め、数回振る、ド
クターグリップ。
夜がこんな長くて静かだなんて知らなかった。
朝は基本、食べない派。けどこの町に来て、変わった。
祖父が朝食をとるのは朝の五時。母と祖母は支度の落ち着いた十
時すぎ。私は七時。祖父母と母はお店の状況によって若干前後する
けれど、私はそうしなきゃと定義付けられてるみたいだった。
戦争を知る世代の祖父は残さず食べろと言う。朝からご飯一膳は
重たい。ので半分にしてもらってる。祖母が祖父の見ない隙を見計
らってよそう。珍しく焼き海苔がついてた。お醤油をつけて食べる。
テレビもない、台所でみんなが働いてる空気だけは伝わる。私だけ
のダイニングテーブル。
今朝がいつもと違うのは、私がこれから出かけなきゃならないっ
てこと。
﹁ごちそうさまです﹂
置いといていいから、という祖母の言葉に甘えてそのままにして
二階に。洗面所とトイレが部屋と同じ階にあるのはありがたい。前
の家に比べて唯一のメリット。母もこんな風に過ごしたんだろうか。
少女時代を。鏡の前で歯を磨いて、海苔がついてないかとか気にし
たり。
新調した制服に袖を通すのは二度目。試着して以来だ。あの気に
いってた制服と比べるとのりがきいてぱりっとしてる。一年半も着
91
てちょっとくたびれてたんだ。そういうのは新しく変えてみないこ
とには気づかない。
男子のボトムは無地の紺で、女子は小洒落たつもりか紺と深緑の
チェックの柄。紺のブレザーは⋮⋮一応着てったら、と親に言われ
た。しっかりした印象に見られるから。
全身鏡のなか。
頼れるなにかを求めて見たのに、胸を張れない、頼りない自分が
いる。
一式揃えたのに、どこか不揃いで。着慣れない体は、新入生。
プリーツスカートの丈もうちょっと詰めないとバランス取れない、
背の低さ。見た目の幼さ。⋮⋮なにもできない子どもだって思われ
るのがいつも、いやだった。同級生のなかでも弱っこいって解釈さ
れる。事実からだは弱い。ほっといてもかまわれたり知らないうち
に庇われることだってあった。私を嫌うのは大概は強い感じの女子
だった。
本当の私はそんな弱くはない。違わない。弱くなんかないって思
いたいのに。
内面で気が強いくせにアンバランスに幼い外見は、私の劣等コン
プレックスだった。
目の下にくまができている。⋮⋮あんまりよく、眠れてない。ダ
イアナ妃の事故のニュースに釘付けだった。布団に入りながらもな
かなか寝つけなかった。
派手なクラッシュ。大破した車の映像が蘇る。
一人の、彼のことが思い浮かんだ。
頬を、叩いた。
しっかり、しろ。
スタンダードな黒の学生かばんを手に取る。こちらも新品。シー
ルなんて勿論貼っつけてない。もう一度なか確かめて金具閉じて、
姿見で後ろ姿に糸くずとかついてないかチェック。いざ。
﹁行こう﹂
92
玄関でローファー履きつつそれでも出てきたくないなあって願望
が潜んでた。引きこもりの後遺症。家を出るのはそうだ、彼がうち
に来てくれて以来。
﹁真咲ぃーあんたおべんと忘れとる。ほら﹂
⋮⋮ランチバッグに入れてくれたお弁当はどう見てもビッグサイ
ズ。
母が手作りの弁当こしらえてくれるのって体育祭とかイベントの
とき限定だった。こういうところまで田舎仕様になるのか。
感慨は湧かず、行ってらっしゃい、の響きに背を押されて扉を開
く。
朝の光。
陽の光が真新しくギラついていて一瞬躊躇したけど、後ろに引か
ず、光のうずへ飛び込んだ。
モラトリアムよさらばと胸の内で唱えながら。
﹁えー東京から来た皆さんの新しい仲間を紹介します。クラスは二
年四組、⋮⋮﹂
なにかの罰ゲームだろうか。
現在私は壇上に立っている。卒業式のときくらいだステージあが
るなんて。みんな、見てる。こっちを。
︱︱登校初日は職員玄関から入ってと母づてに聞いた。皆さんに
紹介するからって。けど皆さんって。
全校生徒。
職員室で宮本先生から説明受けてたらいきなりおじさんに連れら
れてこれだ、このざまだ。全校生徒数一ケタの離島の転校生ならま
だ分かる。
けどこの緑川高等学校、そこまで規模は小さくない。四十人かけ
る四クラスかけるの三学年、先生は入れて五百は固い。人口三万人
も行かない町だと聞く、町の人間の六十分の一がこの体育館に集結
していると考えたら⋮⋮とんだ、晒し者だ。
93
なにをそんなに話すことがあるのか、中身のないことを学年主任
がずっと喋り続けてる。えーとかーあーとか交えて汗ふきふき。み
んなダルそう。私もダルい。スラックスってかパンタロンは学校以
外ではお見かけしない。おじさんってこういうズボン好きだよね。
﹁ほんなら都倉さん、み⋮⋮みなさんにご挨拶を﹂
﹁は?﹂
うそ。
なに譲ってんですか学年主任の先生。汗拭きたいのはこっちのほ
うだよ。え、なに。
﹁マイクの前へッ﹂
わ。
ハウリングして響いた。手で促されたらこんなの逃げられない。
とりあえず、⋮⋮進む。
テレビとかであがって噛むひとをだっさーとか笑うもんだけど。
実際。
二十四どころか一千の瞳の矛先が自分に集中するって感覚。これ、
味わった人間じゃないと分っかんないよ。
なにこれ。
金縛りにあったみたい。
けど震えてる。うわ緊張してんだ。
よりによって、こういうとき聞かないでぷいーっとそっぽ向いて
るヤンキー出てくればいいのに長すぎる朝礼に貧血起こす子現れて
くれないのか。
みんな、きちーんと起立してる。髪染めてる子一人も居ない⋮⋮
真面目だ⋮⋮。
⋮⋮マイク。高すぎる。ずらす。汗に、滑る、落としそうになる。
きゅきゅっと止める。
﹁し、しっかりせいや、都倉っ﹂
そんなこと言われても。
私なにを言えばいいの。
94
ステージってさりげに高くって見下ろすと喉の奥が気持ち悪くな
るもうなんか眩暈が起きそ、
﹁と﹂
声、出た。よしこのまま、
﹁ぐらまさきでず﹂
噛んだ。
⋮⋮痛い。
猛烈に痛い。
舌が。
おでこが。
俯いたまま顔起こせない。
薄目開くと前髪に遭遇。はっ、とみんなが息を殺す気配。た、に
んから自分どんなふうに見えてるだろう。想像するのすら恐ろしい。
マイクにおでこ突撃⋮⋮もう自分イタすぎる二重の意味で。
﹁以後お見知りおきを⋮⋮﹂擦りながらようやく言ったのに。
﹁ぶ﹂
ぴくり、肩が動く。
そっから、大爆笑。
爆笑のうちをもう誰のなにも見れないでステージから逃れた。も
うやだ。
でも唯一、見逃さなかった。
黒髪だらけの生徒の中でひときわ明るい髪をした子が、お腹押さ
えて笑ってた。
95
︵2︶
東京のどこにおったん? なに、まちだってどこ? せたがやっ
て近いん? ニッポン武道館は?
芸能人見たことある? そのへんふつーに歩いとるってほんま?
標準語ってどんなんなん。なあなんか喋ってみて?
あっちで部活なにしとったが。あたし? ソフトやっとるがよ。
入る気ある? 抜けがけしとらんわいね、ちゃんとみんなの前でゆ
うとるがにあんたなに? 漫研なんて入るわけないやろオタクは黙
っとき!
都倉さんっておうちあの小料理屋さんやよね。じーちゃんばーち
ゃんと住んどるが?
こーゆーこと聞くんもあれなんやけど⋮⋮彼氏おる? やーだっ
てみんな絶対気になっとるやろ?
疲れた。
私は、疲れた。
アイムエグゾーステッド。
答えるとまた新たな質問が飛来する。疑問を与えるだけで避雷に
なんら役立たない。
頬の筋肉がひきつってきた。
笑顔も。
マスコミにがつがつインタビューされる芸能人の心境ってこんな
感じ?
彼らはテレビに出ることでお金をもらってる。
私は、なに。
トイレ行くにも遠巻きにひそひそ。私は珍獣か。見せものか。お
でこ、って聞こえた。おでこはもう大丈夫です痛くありません。
96
始業式後に速攻実力テスト。結果は見ずとも分かる。よくは、な
い。
集中力不足。
テスト中にも視線感じるって尋常じゃない。
この学校はよっぽど案内や紹介の類が好きなのか、クラスの壇上
で再度私は紹介された。黒板に都倉真咲って書かれるアレ。で拍手。
男子が口笛吹くとか本当⋮⋮やめて欲しい。帰りのホームルームで
は流石に触れられず。見込んで荷物はさっさと詰めておいた、よし
終わった瞬間ダッシュ。
⋮⋮のはずが。
﹁都倉さーん、どこ行くがー﹂
にっこり。
邪気のない、サラサラなおかっぱスタイルの五人組に微笑みかけ
られ。
﹁帰るんやったら一緒に、帰ろ?﹂
断る選択肢がないのだと私は悟った。
﹁ぜんっぜんできんかったわ。さいっあく﹂
﹁勉強する気ぜんぜん起きんなー。あんた見る? あれ﹂
﹁あれって﹂
﹁ビーチボーイズ﹂
﹁うっわー! わっすれとったあたし! そーや放送今日やったや
ん! あーもー思い出してよかったんか悪かったんか⋮⋮﹂
﹁見んで勉強せなヤバいやろあんたは。赤点取ると大会出れんなる
げよ﹂
りか
﹁あたしの竹野内がぁ﹂
﹁里香って男の好みおかしない? ふっつー、反町やろが﹂
月9はまるで見ない。
番宣くらいは見るから、概要は分かるけど。教室から玄関のルー
97
ト、その子たち五人組に一応は追従する。見てるドラマが被らない
とこういう会話に乗れない。きゃっきゃ言ってる輪の後ろからとぼ
とぼって⋮⋮既視感を覚える光景だ。
違うや。
いつものことだった。
﹁都倉さんは、ドラマ見んが﹂
うち一人が。
玄関の柱に、私を待つ感じで寄りかかっていた。
﹁全然。大河くらい﹂
﹁しっぶいなー﹂
目が細い。笑うともっと目が細くなる。体育会系部活やってます
って感じの、ちょっと吹き出物が目立つオイリー肌。
こざわ まりな
﹁いっぺんにゆわれて名前よう分からんなっとるやろ。あたしは、
小澤茉莉奈﹂
彼女の名前ならば記憶している。
新しい環境においては、人間関係、というより、権力の構図を私
は第一に把握するようにしている。
私の予感が正しければ、彼女は。
トップオブザトップ。
﹁なーあんたら待ったってぇな。んなはよ行かんとー﹂
この一声でみんなピタッと止まってわらわらと駆け寄るあたり。
他の子四人が従順なのかそれとも彼女が牛耳る力をお持ちなのか。
﹁都倉さんにお店教えたげんか? あたしらがいつも寄っとるとこ﹂
げ。
テスト大変だっていま話してたばっかりじゃん。ねえみんな﹃ビ
ーチボーイズ﹄の予約は終えた?
えーやだーくらい言うのかと思いきや、全員、素直に、
﹁うん。いいよ﹂
﹁いこー﹂
﹁や、でも。テスト期間中でしょう? 悪いよ﹂
98
﹁帰るついでやしへーきやもん。試験中かてあたしらやって寄り道
するし﹂
五分十分を惜しんで勉強するのが成績アップへの近道なのだ。
など言える雰囲気でない。予備校の先生並みに浮く。
﹁ほんなら﹃みずもと﹄行こか﹂
みずもと。﹁ってなに?﹂橋田ドラマに出てきそうな語感ですけ
ど。あそうだ祖母が言ってた。私が来た初日に。
﹁スーパーやよ﹂と小澤さんは腕を組む。﹁⋮⋮て東京にもあると
こで例えな分かりにくいか。ダイエーみたいなもん﹂
ダイエー。
スーパー。
ローカルな響きむんむんですけどまさかそれが女子高生の寄り道
ルートだとか言わないで神様。
⋮⋮ジーサス。
彼女たちについてくと確かに私は十分後。
ダイエーに訴えられそうな看板掲げたスーパーの前に立っていた。
入り口にショッピングカート。お花、⋮⋮売ってる。お盆でもな
いのに彼岸花ちっくな菊とか。焼き芋屋さんの匂い。⋮⋮ボックス
カーで焼き芋売ってる。ママーって子どもがねだってる。非、自動
ドア。ガラスに緑とオレンジのラインが入ってる扉を押さえてもら
って続けて入れば、レトロなオレンジのプラスチックフロア。掃除
のおじさんがモップかけてて濡れてる。いいとこを陣取るのがクリ
ーニング屋さんと写真屋さんて。泣けてくる。
マルキューとの違いに泣けてくる。
これが、遊ぶ場所⋮⋮
﹁うちらはいつもここ寄っとるんよ﹂
げっ。
オンボロ社食もどきスペースを指された。いわゆるフードコート
99
いやそんな洒落たもんじゃない。広いんだか狭いんだか中途半端。
通りざまさくっと数えたところテーブルが十七セット。本当に半端。
半円状の円周にソフトクリームや焼きそばにホットドッグなどなど
店の名称は全て知らない、個人経営のオールレンチンの雰囲気。な
んかヒマそうでやる気ない店員、よぼよぼのおじいさんと手帳開い
てる茶髪ギャルだけって。お客は一人。毛玉ぼつぼつのニット帽被
ったおじさんが隅っこでテレビ見てる。手酌で瓶ビールのおつまみ
は巨人戦。テレビは昭和の初期に買ったと言われても私は信じる。
白黒じゃないのが奇跡だ。
﹁寄り道ほんとは駄目ってゆわれとるんやけどねー﹂
ある意味駄目だ。ほんとの意味で駄目だここ。
悪趣味な婦人服と怪しげな健康食品の店の間を抜けて別の出口か
らみずもとを出る。開けた国道沿いにお店がぽつぽつ。
朝市通りより閑散としてて人ゼロ。車びゅんびゅん通ってますけ
ど、
⋮⋮ここが、メインストリート?
﹁道挟んで向かいのあそこな、ナポリタンが美味しいんよ﹂
﹁卒業式んときはいーつもこの花屋。もいっこあるんは遠いからみ
んな使わんの﹂
﹁たい焼きの店やけど奥でビリヤードやれんのよ。男子がよく寄っ
とる﹂
口々に教えてくれるものの、寄り道の定番が欠けてる。﹁ゲーセ
ンってないの﹂
いっちゅう
﹁ないなぁ﹂上を向く。﹁山中町のほうならあっけど﹂
﹁やまなかちょうって?﹂
﹁いっちゅう⋮⋮あ、緑川の一中。坂の上にあってなあ、この道ず
ーっと左行ったさき。公園もあってきれいなんよ﹂
﹁遠くね? 坂しんどいしあんなんあたし全然行かん。そもそもチ
ャリで行けんし﹂
⋮⋮、
100
﹁じゃ、カラオケは﹂
﹁ちょーどそこ﹂
きよかわ、という看板。
じゃなくて目ん玉飛び出るかと思った。いかがわしいなにかの間
違いかと。
﹃一時間一部屋三千五百円﹄
高過ぎ。一人百円単位が普通でしょ、オールだって二千円もしな
いよ。
﹁⋮⋮みんなが行くカラオケは大体がここなの?﹂
﹁やねー﹂みんなうんうん頷く。﹁いっちゃん安いんがここやし﹂
かん
うそぼったくりだよこんなの。ねえせめて郊外だってビッグエコ
ーやカラ館、せめてシダックスはあるでしょ。
﹁も。モスは﹂
﹁それが。ないんやよねえ。近所に欲しいんに﹂
それ﹃が﹄ではなくてそれ﹃も﹄の間違いだよ。明日の現国は大
丈夫?
﹁あたし、お父さんが畑中行くときにいぃつも買ってきてもろとる。
焼肉ライスバーガーとモスシェイク。超、美味くない?﹂
できたてを食べるに勝る美味はない。嬉々と語る彼女が次第に憐
れに思えてきた。
﹁じゃあ、マックは﹂
目を丸くされる。通じなかった。方言からしてここ関西圏だった
か。
﹁マクドナルド﹂事を急いて正式名称を口にする。全員が顔を見合
わせてあぁあーと息をつく。
﹁⋮⋮畑中市?﹂
﹁ビンゴ﹂
オーメン。全国における普及率ナンバーワンのあのチェーン店が
存在しないなんてドナルド。
﹁こ、コンビニは?﹂
101
﹁市内中心にはないんよ。車で行かな﹂
﹁ってどんくらいかかるの﹂
﹁うーん、二三十分かなー﹂
コンビニが車で行くものだとは。それじゃショッピングだ。
﹁念の為訊くけど、それってファミマやエーピーじゃなくって﹂
揃って不可思議な表情をされる。略称がいろいろと通じない。
﹁ファミリーマート﹂
﹁あ!﹂CMで聞いたことあるーって嬉しそうに言われる。いや嬉
しそうに言われても。あのフレーズを全員で大合唱されても。
﹁⋮⋮で緑川にあるんはサークルK﹂合唱終えると落ち着いて小澤
さんが言う。赤い看板は電車からも見えました。他にあるのかって
意図だったんだけど。
﹁みんな、買い物するときはどこに行くの﹂
斜め前の民芸店を指された。⋮⋮買い物ってそういうんじゃなく
って109とかジョルナとか丸井の類いなんだけどああ。﹁洋服は
どこで買ってるの﹂
﹁畑中﹂
来た。来ると踏んでたよもう。
﹁通販も結構使うよー? Voiとか﹂
﹁セシール﹂
﹁フェリシモ﹂
﹁ベルメゾン﹂
信じ、られない。
驚きを通り越して呆れた。
なにこの僻地。
本当になにも、ないんだ。
あると思っていたものがなにもない。
全校生徒の前でだって我慢したのに、私はいますぐにでも。
頭を抱え込みたくなった。
102
︵3︶
この、小さなガラスのコップが私の器だとして。
周りから被せられる言葉。
好奇に満ちた視線。
こんな人間だろうなという目測。
それらを受けて縮こまる私自身。
環境の違いに落胆する、気持ち。
色んなことが水となって、私のなかを埋めていく。
片親はまともに育たない。
誰が、そんなことを言いだしたのだろう。離婚した子どもの犯罪
率の高さ?
私は、犯罪なんてものに興味は惹かれない。心理学という観点で
は別として。
けど、大人からは色眼鏡で見られる。
あのうちの子ども。
親が離婚したとこの可哀想な子ども。
気の毒だって、同情目線。
水は都会の味に比べて美味しいとは言われる。でも味の違いは私
の舌では分からない。思えば私が家で飲むのは水か麦茶ばっかりだ。
選択肢が少ない。
一人、居間で喉をうるおす。お客さんがいない日だからたまには。
空となったグラスを爪で、はじく。
きぃん、と響いた。
風鈴に似た透明な響き。
からっぽに、なってみたい。
半分だけ、注いでみる。こぽこぽと音を立てて、注がれる。照明、
103
陽の反射を受けてきらきら。傾けてかがやきを確かめる。ビー玉み
たい。透明感。
現実的には、きれい。
ビジネス本ではよく、水とコップの組み合わせが、ポジティブな
例えに用いられる。
半分だけ入った水を、
まだこれだけ残ってる、とみなすか。
これだけしか残ってない、と嘆くか。
当然前者が推奨される。
私は、どちらとも思わない。
満たされて苦しいと思う。
喉をうるおす。一息に飲んでしまった。なんだかこっちに来てか
らやたら喉が渇く。どうしてだろう?
自分のなかの汚濁めいたものをすべて空にして、綺麗なものでい
っぱいにしたい。
透き通ったこころを保ちたい、と願うのに。
時折、どうしようもない苛立ちに見舞われる。
真夏の夕立に似た激しさ。
長く降り続く雨に似た虚しさ。
行き場がない、この感じ。
息が詰まる。
人生で私がどうにかできることは少ない。できないことを見つけ
てしまった。
もし、私の許容量がコップだったとすれば。
超えたらいったい、どうなるのだろう。
もろもろの気持ちは、どこに消えていくのだろうか。
新しいなにかで埋まる?
違うなにかが見えたり、するのだろうか。
いつか来るだろうと私が想定するよりも早く。
104
オーバーフローする瞬間は間もなくしてやってきた。
* * *
囲む人数は次第に減ってきている。歓迎だ。動物園のチンパンジ
ーみたいな扱いは勘弁して欲しかったし。
私、という人間への関心ではなく。
遠くから来た、ちょっと特殊な家庭の、転校生。違う人種だとい
うことが単に、面白いのだ。
みんなは。
大人は。
⋮⋮茶髪くんと、黒髪の彼と話すことはなかった。彼らと目が合
う機会もなく。人とひとの隙間の向こうにああいる、そんな感じ。
紗優もいまだ学校で見かけてない。来ているんだろうとは、思う。
そういえば。
いろいろとよくしてもらったのに。
ありがとうの一言も私、言ってない。
でも。
お礼言うために近づくのってなんだか、⋮⋮やましい感じがする。
楽しい思い出へのおこぼれ、それをまた求めてるみたいで。
仮に近づくんだったらもっと純粋な思いで接したい。
興味本位ではなく、純粋な彼らへの好奇心で。
﹁でねえ、⋮⋮都倉さん。とくらさぁーん?﹂
肩を叩かれた。
﹁んもう、ちゃんと聞いとるん?﹂
聞いてなかった。この子たち含む五人組がいつも輪の中心にいる。
私はこちらの彼女の苗字を聞き逃したままだ。
﹁あのさーずっと聞きたかったんやけど﹂
と、小澤さんが顔を寄せる。
105
なに? と何気なく返す。
すると耳のなかに、
﹁お父さんおらんくなるってどんな感じ﹂
頬に、火が走る。
これは、怒りの種だ。
自分でも分かった。
気の毒そうな目線をこちらに向けてくる。
彼女の親切心とやらが私の導火線にちりりと火を点けた。
きじま
﹁都倉さんて、前の苗字はなんやったん﹂
﹁木島、だけど﹂
机に手を置いていた彼女は、なにごともなかったように姿勢を戻
す。
私の脈は乱れた。
聞き違い、などではない。
﹁ふつーの名前やね﹂
﹁小澤やてふっつーやんか。どこにでもおる名前やがいね﹂
﹁別れる、てどんな感じなんやろ? あたしにはよう分からん﹂
﹁彼氏もおらんがにあんたなーにをゆうとるが﹂
﹁理解できんよ﹂と首を振る。思い詰めた表情で、﹁一度は好きに
なった相手なんやろ? なして嫌いになるが。そいで離れて暮らす
たって﹂
一拍置く。と、
﹁都倉さんがかわいそうや﹂
﹁⋮⋮もしかして、私の家のことを言ってる?﹂
自説を繰り広げる彼女を見返す。
周りの子が戸惑いに目を見合わせる。
106
でも彼女は、譲らない。
私の胃のなかがなにか、膨れ上がる。
﹁だってな。親が別れた子っちゅうんは大概ぐれるんよ? 寂しゅ
うなって﹂
︱︱また、それか。
いつもそうだ。いつも大人はそう言う。
﹁あたしらの知らん都会から遠くこんな辺鄙な田舎来てんし。寂し
い思いしとるやろから仲良くしたれって、﹂
お父さん、が。
この一言が決定打だった。
机を叩き席を立つ。
あまりの音の大きさに周囲の目が集まる。
だが構ってなどいられない。
﹁あなたの独善的な話にもお父さんの話にもキョーミない。放って
おいてくれる?﹂
瞬時に、彼女の顔が朱に染まる。
それがどういう種の感情だか分かっている。
が、興味が湧かない。
静まり返った教室のなかで、私の出ていく音だけが残された。
107
︵1︶
﹁次、クラス対抗リレーの順番決めー。全員参加やぞー夏休みの間
に忘れましたゆうなよー﹂
去りゆく八月を蝉が惜しみ、命を枯らして狂い鳴く。この学校は
緑も多い、必然蝉の数も多い。渡り廊下に散らばる抜け殻を危うく
踏みかけたことだってある。
去りゆく日々を惜しむのはなにも蝉に限られない。
授業でもない限り四十人が一様に座るこの室内は息苦しく感じる。
私という人間の縛りを取っ払わないよう組織化された空間。テキス
トなり内職なり、他に向ける対象があればこの息詰まる感じは軽減
されるんだけど。
宮本先生は割りとみんなのことを見てる。さっきだって後ろ向い
て喋る男子を笑って注意するものだったし。
誇らしげに椿が花をつける中庭でも拝められれば気が紛れるだろ
うに、生憎、逆側だ。廊下を向く窓と窓が重なる枠にセロテープで
ピンクのチラシが貼りつけられてる。雑に手書きで済ませただけの、
緑高体育祭の文字。今月の二十一日に催される。
チラシの程度で学校のレベルが知れる。
どうせ、内輪向けの瑣末なイベントだ。
今頃はリーディングのはずだったのに。
全ては体育祭の、ため。
一人頬杖をつく。廊下の二つ窓越しに見える一車線の車道。別段、
騒々しくも壮観でもない。これといった特徴もない。
やることなしによそを向いてるだけなのに、ふてくされてるよう
に見られるかもしれない。あれ以降、そういう居心地の悪さがつき
まとう。
クラスメイトの一部に囲われることは、自分を好奇の目にじかに
108
晒すことだった。
いなくなってみると、皮肉にももっと晒されることに私は気づい
た。風に揺れる一本の木を気にする全体の目線。私を囲う人間は、
以外の人間から私を覆い隠す、防風林の役割を果たしていたのだっ
た。
気を遣われていたとは思う。
特にあの五人組からは。
移動教室のたびに痛感する。都倉さーんて必ず、笑顔で声をかけ
てくれてた。それがいまはない。女の子は基本、移動は二人以上で
するもの。一人って定義が存在しない。ぼっちなのはよっぽどわが
ままな子かいじめられてる子か自分から距離を置きたがる偏屈な子
か。
私はクラスメイトの目でどれに分類されてるんだろう。
全部か。
穴蔵を覗くように、自分のなかの深い井戸を注視してみると、周
囲を気にする社会性を、汲み上げるバケツの水の一部に残しつつも、
残る大部分の泉が投げやりだった。
﹃お父さんおらんくなるってどんな感じ﹄
いくら取り繕ってもあれがみんなの本音。聞きたいことの集大成。
なら面と向かって訊けばいいじゃん。寂しいでしょ苦しいでしょ
友達いなくって辛いでしょって。
それすらせず遠巻きにひそひそっていったいあんたたちなんなの。
⋮⋮思考すら放棄したい。
卵が先か鶏が先か。自分からハブられにかかってるのかハブられ
たのか知らない。けど高校生にもなってこんなプチいじめなことす
るなんて馬鹿らしい。村八分っていう田舎者の卑屈な根性だ。
こんな私にできることとは。
109
学校に通い続けること。
クラスの決めごとに従う体裁を整えること。
それから。
連れてきた親を心深く奥で恨む、その感情に目を向けること。
フタをしようと抑制する本能は働いていた。内面が満たされてい
ればこんな嫌悪は表出しない。掘られない地下水のごとく潜んでい
るだけだ。祭りの日を思い返せばそれは顕著だった。不幸だから、
恨みたくなる。
けど。
誰かから不幸って覆いを被せられるのもまっぴらだし。
動物園の檻の中の珍獣を演じるのももうたくさんだった。
﹁とーくら。うぉおーいとーくら。聞いとるかおーい﹂
頬杖を外す。壇上の宮本先生がこっちを見ていた。
ぶんぶん手を振ったりはしないけど。
クラスみんなの目を感じつつ、﹁はい﹂と答えた。正直まるっき
り聞いてない。
﹁おれ二回も書かんからみんなも覚えとけー終わったら全部消すぞ
ー﹂と、黒板を手の甲で二三度ノック。たちまちノートを開く動き
やシャープペンノックする音が巻き起こる。﹁都倉。きみのクラス
対抗リレーの順は最後から二番目。出る競技は騎馬戦にー、綱引き。
借り物競争もか⋮⋮えーと三人四脚それと⋮⋮﹂
先生。
なんか多くないですか。て運動部ばりの活躍求められてる悪い予
感が。
自慢じゃないけど私、運動なんて得意じゃない。
唯一マシなのは五十メートル走、ギリで七秒台⋮⋮だけど短距離
関係ないし。聞いた競技むしろスタミナいるし。
110
数えてみれば二種目しか出ない子だっているのに。なにこの不公
平。これさ絶対、夏休み前とかに決めといたんだ。転校生のぶん空
けとくって名目で負担逃れしたんだよ。
大きく肩で息をすると。
斜め前に座る小澤茉莉奈とガッチリ目線が絡まった。
ふん、と鼻を鳴らす彼女の細い白い目が言っていた。
せいぜいやんなよ、と。
手厚い歓迎をどうも。
と軽く睨み返しつつ、私は宮本先生の神経質そうな右肩上がりの
文字を書き写すほかなかった。
* * *
新しい環境で仲間がいないというのは、地図も持たずRPGの冒
険の旅に出る。
のに等しいのかもしれない。
﹃四時から委員会﹄
宮本先生の字でびっしりだったのが全て消され、学級委員の男子
のお世辞でも綺麗とは言えない字で大きく書かれている。
ざわめきと放課後ならではの開放感に満ちた教室を出ていく。な
るべく気配を消して足音消して。って誰もそんな注意払うはずがな
いのに、馬鹿みたいだ私。
知らない間に図書委員になっていた。
スルーできればよかったのだが宮本先生が去り際に念を押した。
押さなくっていいのに。六時間目で終わったのに、七時間目まで授
業を持つ三年生に合わせて一時間の待ち時間、さてどう潰す。
サボる勇気もなく。
一人あの教室に過ごすにはいたたまれない。
111
目的持たず歩いてると陸上着姿の女子とすれ違う。あ、部活動っ
て手もあるんだ。連れ立って教室出てった子もいたし。
部活。
私誘われてないや。
一人自嘲的な笑みを漏らす。
こんな私が向かう先。
冒険の旅の行き先は一つしか思い当たらなかった。
一二年生はあまり用もない三年生の別棟。戦後の頃は教室が足り
ないくらいだったのに現在過疎化で生徒が減り、三階の教室はほぼ
りょっこうせい
未使用なんだとか。
﹃品行方正な緑高生なら、この先は行っちゃダメ﹄
この三階をあがりかけて茶髪くんは意味ありげに笑った。あの夏
の日、私が初めてこの学校にやってきた日。
彼の意図するところは分からないけれど、誰にも見られず過ごせ
るのだから万々歳だ。中庭挟んだ別棟に、生物室などたまに人の通
る教室があるから、見えないようやや腰を低くすることはある。
もっとありがたいのはこの先。
誰の目も気にせず、
鳥みたいに、
一人っきりになれる場所がある。
そのことを思うと私の足は弾んだ。念のため腰を曲げたおじいち
ゃん姿勢であっても。
宮本先生に発覚することだけが私の懸念材料だった。⋮⋮結構気
にかけてくれているから。
窓が終わると気にせず進める。背筋伸ばしサクサクと。プラスチ
ックの青緑の板が張られた階段。オレンジのところどころ錆びた扉
を開けばオープンセサミ。
誰もいない、荒涼としたゴールが広がってる。
112
はずが。
先客がいた。声出さず﹁げっ﹂と叫んだ。扉開いて真っ正面。入
り口に背を向けて堂々と煙草吸う輩がいるだなんて思わないもん普
通。
男子生徒の制服の後ろ姿で人を見分けるのは難しい。
けども、小一時間後ろをついて回ったから流石に記憶している。
サイドがやや短めの黒髪、広い肩幅、左に重心かけがちな立ち方。
なにより、その長身。
煙草。意外だ。リンクしない、いや、する。
とにもかくにも見てはいけないものを見てしまった。音立てず後
退り元通り閉じる。
﹁逃げてばっかだな﹂
つもりが。
目を上げて見てみれば、彼はいまだこっちを向いておらず。
なのに、誰だか確信した響きがあった。
べー、とあっかんべーをしてみる。
ふ、と白い煙を吐く。﹁くっだらねえ﹂
うそこのひと、後ろに目でもついてるの。
吐き出した白い煙が、舞い上がって細い線を描き、上空へと溶け
ていく。
不覚にも、流れる雲に似てそれはきれいだった。
足が段を降りる。
彼が立つ位置は金網に向かう、扉の真っ正面で。隠れて過ごすに
しても誰か来たら確実に見つかる、私は決して負わないリスク。
それを背負い、私が近づけなかった領域で堂々とする後ろ姿に。
夢遊病にかかったように吸い寄せられていた。
金網に手をかける。網と網の間から眺める空のいろ。自分が檻に
閉じこめられた鳥のような。自由と閉塞を同時に感じさせる。
113
屋上とは私にとってそういう場所。
逃げついて漂流した先。
と、流れきた煙に、生理的な咳が出る。
﹁吸ったことねえのか﹂
﹁当たり前でしょ﹂
しっしと手で払う。
﹁それより。なにか用なの﹂
煙草を口に含み、息を吐く。流れるような所作。初めての、ある
いは吸って数回の人間が見せられる動作ではない。
無視されてる。
睨まれれば多少の動揺を相手は見せる。頬の筋肉がかすかに動く
なりするはずなのに。視線を集めることに慣れてる人種。か気にも
留めない人種。
鼻、⋮⋮高いな。
見惚れてどうする。
呼び止めた風なのは彼のほうだった。
なのにこちらから寄って流される。⋮⋮こういう、相手に合わせ
るところが私の欠点でもある。
流されやすいんだ。
近寄らなければ、流されることはない。
金網から強く手を離し、なにも言わず、Uターン。オレンジの出
口を視界にとらえ、突き進むだけが。
﹁あれも嫌い。これも嫌い﹂
後ろから追ってくる抑揚のない声。
一瞬、私の内部が、彼を借りて表出しているのかと思った。
心臓をえぐる。
﹁全部うぜえって顔してやがる﹂
﹁だったらなんなのよ﹂
言い返すと今度こそ彼は、私のことを見ていた。金網に背を凭れ、
右の指先で煙草の灰を落とす。青白い炎をまとう威圧が目視できる
114
ようで、ひるみそうになる。
﹁私がどうしようと、あなたには関係ないでしょう﹂
﹁関係ねえさ﹂
﹁だったら、︱︱﹂
﹁放っておいてくれ、とまた言うのか﹂
口ごもる。
遮られたのに。
ポケットから携帯灰皿を取り出す。不良みたいに証拠を残すなん
て愚行はしないのか。彼は優雅に火を消し、しまうと、
﹁ここには卒業まで通うのか﹂
﹁⋮⋮当たり前でしょ﹂
﹁フルシカトして過ごす気か﹂
﹁してないわよ。してるつもりなんかないし﹂
﹁つもりで済むなら訳ねえな﹂
﹁なにが言いたいの﹂
新しいのを一本出して、火を点けた彼が、くわえて、顔を起こす
と、ふーっと息をつく。﹁苛々すんだよ﹂
﹁苛々って﹂こっちが苛々する。﹁勝手にしてればいいでしょう。
あなたの気持ちの問題なんか知らないし﹂
﹁そうも行かね。大体、あ⋮⋮﹂
突然に。
白眼を開くと、口を噤んだ。
吸うためではなく、誤魔化すために煙草を唇に運ぶ。
なにか言いかけたこと、それが彼の不都合になることを隠せない
ぎこちなさ。
﹁なによ﹂
﹁なんでもない﹂
ポーカーフェイスが常で。達観してるのが。珍しく視線を彷徨わ
せる。
﹁今日は饒舌じゃない。彼が居なくっても喋れるんだ﹂
115
桜井和貴は、クラスみんなと分け隔てなく話せるけども、目の前
の彼は違う。
一人でいるか。
桜井和貴と居るか。
ここが彼の急所。
﹁逃げてるのは自分だって同じじゃない﹂
﹁何が、言いたい﹂
攻守が切り替わる。
わけ
﹁なにがあったか知らないけどそれで壁作ってる? それとも元々
がそういう性格なの?﹂
無言のまま。
静観する。
ならばこちらから揺さぶる。
﹁右足になにがあったか知らないけど。だから何したっていい理由
にはならないでしょう﹂
私が言い切ったときに。
彼の右の手が動いた。
火を得たばかりの。
律儀に灰皿にしまっていたのが、
勢い良く床に叩きつけられた。
スライド。飛ぶ、火の粉。
押されて、私は動けなかった。
事故を目撃したかの恐怖、が忍び寄る。
﹁饒舌なのはてめえのほうだろ﹂
鋭利な、敵意を含んだ目で見据えられる。
明確な意志だった。
116
いままでのが意志を持たない眼差しだったと今頃になって気づか
されるほどに。
﹁本当なら自分のいるところじゃねえって見下してんだろ。顔に出
てんだよ﹂
黒髪が、牙を剥く。
﹁親や同級生を恨むのは筋違いだろが﹂
どうしてだか、私は後ずさる。
彼は微動だにしていないっていうのに。
﹁そんなに嫌なら出てきゃあいいだろ。んな勇気もねえくせにふて
腐れた顔しやがって﹂
私は踏んでしまったらしい。
﹁甘ったれてんじゃねえ﹂
彼の、地雷を。
﹃お父さんおらんくなるってどんな感じ﹄
言ってはならないことを持つのはなにも、私だけに限られない。
誰だってそんなことの一つや二つは持つのだ。
死ね、ウザい、とか抽象的で普遍的な言葉群ではなく。
その人間だけを痛烈に刺す、無二の一言が。
117
﹁お前は全部が嫌いなんだろうが、︱︱俺もお前が嫌いだ。変える
努力もしねえくせに文句垂れてるお前が﹂
そのあとどんな言葉が続く予定だったか知らない。
私は逃げ去った。
118
︵2︶
﹁真咲ぃーご飯よぉー﹂
返事だけは一丁前に。はーい、と答えないと昔かたぎの祖父の機
嫌を損ねる。
気分は鉛の重たさ。枷となり足が進まない。のろのろと階段を降
りたところで祖母と鉢合わせする。
﹁今夜は真咲の好きなハンバーグにしたさけ。これ、運んでってく
れんけ﹂
デミグラスの好きな味なのに。
潰れた風船の残骸に似た平らな気持ち。
祖父はダイニングで新聞を読んでいた。年より若く見える祖父だ
けれど、分厚い眼鏡をかけ、顔から新聞を遠く離す辺りは相応だと
思う。
テーブルに並ぶ夕飯は、白いご飯、漬物、わかめの味噌汁、鱈の
西京焼き、お刺身にハンバーグ。
メインは変えても基本は魚料理。お刺身は連日だ。
﹁夜のお客さんおらんさけ久しぶりにみんなでゆっくり食べれるわ﹂
エプロンを外した母と祖母が連れ立ってやってきても、喜びめい
たものは起こらず。
いつも夜八時、夕食は独りが常。七時に全員が食卓を囲む貴重な
団欒。そこで繰り広げられる会話はなんとなく、入りにくい種のも
の。祖父母と母は共通のテーマを持つ。
お店という。
お隣の誰それがああとか今度の予約のお客さんがどんなとかうん
いいねこの味で作ってみよかとか、⋮⋮三対一、隔てられたボーダ
ーライン。代名詞のオンパレで話が通じる辺りが。
家族は三人から四人に増えた。
119
なのに、目に見えない透明な膜を感じる。あたたかいはずの家族
揃う食卓が。私はそんな悲観的な意識からなるだけ目を背け、お漬
物から箸をつけ、咀嚼しテイスティングに集中する。
たまにご飯一緒したときの父も、こんなだった。目を合わせず黙
々と口に運ぶ。いただきますとごちそうさまはちゃんと言う。
こんな気持ち、⋮⋮だったのかな。
﹁そんで学校はどうなん、真咲は﹂
間近にする母の笑み。いつもお店の手伝いで忙しくって、働いて
て、私が学校通い始めてから顔合わせるくらいになって、久々に見
る母は。
すこし頬に肉がついた。
はりと、つや。
化粧薄くなってくまが出来てたって、充実した疲労から得られる、
自活する女性に特有の自信めいたものがにじみ出ていて。
父の一歩後ろに隠れてた頃の心もとなさが消え失せていた。
父の影も、含めて。
私は、裏切られた気持ちになった。
﹁別に﹂箸を置く。麦茶を喉に流し入れる。
﹁友達は、できたが?﹂
それを飲むと、
着火したごとく。
空洞だった腹の底にいらだちが沸き起こる。
そんな、呑気な響き。
母は、郷里に戻っただけなのだ。
羽根広げた安息。
私にとっては異国の地だというのに。
どんなところも分からない、僻地に連行されて、せせこましい思
いをしていることなど知らずに、やわらかく包みこむ問いかけ。そ
120
れこそが私の内面を激しく波立たせた。
﹁できるわけないでしょう﹂
コップを叩きつける。瞬時にみんなの目が集まる。
﹁そんな簡単に馴染めるとでも思ってるの。東京から来た片親のよ
そ者なんだよ私は。みんなからどう思われてるか知ってる? お父
さんがいないのってどんな感じ、ってクラスの子に笑われたんだよ
?﹂
﹁ま、さき⋮⋮﹂
動揺に揺れる瞳孔、震わせる言葉。
無理もない。
私が激情をぶつけるのは初めてのことだ。こと離婚に関し。
﹁お母さんはいいよね。元々自分が住んでるとこなんだから。気楽
に過ごせて。でも私はこんなところ、来たくなかった﹂
目をつむり、腕を組む祖父が視界の隅に映る。気遣うよう祖母が
席を立つのだって、阻むなにものにもならない。
﹁こんな⋮⋮なにもない田舎なんて大っ嫌い。勝手に自分の都合で
連れてきたっていうのにお母さんはなんなの。自分だけ楽しそうに
してて。私の気持ちとか考えたこと、ある?﹂
﹁いっつも考えとるよ﹂
からだこっちに向けて、膝を揃えて座られたって、
﹁嘘だ﹂
憐れむ、気遣うような目で今更そんな、見られたくない。
同情なんかするくらいなら私、あのままの生活がよかった。
﹁どうとでも言えるでしょ口だけなら。私のことなんて見てもない
くせに﹂
﹁本当やって。真咲のためにお母さん﹂
﹁気づいてた? 最初っから方言喋ってたの。帰ってくるのお母さ
んだけこっそり楽しみにしてたんでしょ。お父さんのこと嫌いだっ
たんなら最初っから結婚なんかしなきゃよかったのに。わ、たしな
んか⋮⋮生まれてこないほうがよかったんでしょ。そのほうがお母
121
さんっ﹂
そこまでしか言えなかった。
ばしん、と強烈な音を近くに吹っ飛んだ。
﹁真咲ぃっ﹂
椅子ごと崩れた。奇妙に床をつく、手をつく体勢に。
母の支えが入る。からだを起こそうとする。
そんな私を見下ろし、祖父は声を怒りに押し殺す。
﹁⋮⋮親を侮辱するんも、大概にしろ﹂
頬じゃなくて全てが痛い、軋んで悲鳴をあげた。
﹁おじいちゃんにはわかんないよ、私の気持ちなんてっ!﹂
母を振り払う。どうにか立ち上がって、口のなかの血の味も厭わ
ず。入り口で出くわす祖母の見開いた眼も、追ってくる母の真咲っ
ていう叫びも何もかも無視して。私は。
﹃逃げてばかりだな﹄
一人の世界へと逃げ込んだ。
* * *
天候快晴。腹が立つくらいピーカン。
窓に映る私。
気分最悪。
鏡なんか見たくない。口切れてる。
ガラス越しにもまぶたが腫れてる。ぷよっぷよ。
⋮⋮行きたくない。
行きたくないよ。
でも顔洗って歯を磨くのは人間としての務め。
どんなに強く顔こすったって、腫れなど流れ落とせるものでもな
く。
122
あの学校ってみんな化粧をしない。厚化粧でもない女の先生が目
立っちゃう不思議現象。私だってそんなにしないけど、全員がこぞ
ってノーメイクなのは珍しい。
全くしないのには抵抗があるので、私は眉尻を描き足す程度に留
めている。
こんなときは、困る。あんまし塗りたくると浮く。しないと悲惨
なお岩さん。二者択一のチョイス、間をとってまぶたと口周辺にコ
ンシーラー叩き込み終了。傷口にちょっと染みたのが切ない。マス
クでもしようか、⋮⋮九月なのにな。目許ぱんぱんだからバレバレ
だし。
も、いいや。
まだ七時ちょっとだ。一階に降りて昨日のことはありませんでし
たーって朝ごはん食べれるほど私図太くないし。ハンバーグ食べそ
びれた。三時間目体育だからお昼前絶対ぐーぐーお腹鳴っちゃう。
なんか考えるのもやだ。早めに家出てしまおう。でもどこ行く? 屋上で彼と鉢合わせしたら気まずいし、教室も居心地悪いし。図書
室は⋮⋮あ。
委員会サボった。
どうしよう。
ますます行きたくない。
﹁⋮⋮あれ?﹂
ドアを開いたところでお盆が。
いつもの、赤と白の市松模様の風呂敷はお弁当。白いお皿の上に
おにぎりが二個。⋮⋮よく見れば短冊の手紙がついてる。
﹃真咲へ。よかったら食べてください。昨日のハンバーグ、美味し
くできたからお弁当に入れておきました﹄
具は、私の好きなたらことツナマヨ。
部屋で独り、しょっぱいおにぎりを頂いた。
視線を集めてるなんて思うのは被害妄想だろうか。監獄。刑が終
123
わるのを待つ囚人⋮⋮環境が変わって以降、自分とは違う色んな立
場の人間のことを想像している。いいことなのか。
こっち見て秘密の話をする面子のなかに小澤茉莉奈が必ずいる。
︱︱こんな顔してるからって、なによ。
誰に迷惑かけてるんじゃないんだから、
﹃放っておいてくれ、とまた言うのか﹄
放っておいて。
黒髪の彼以上の仏頂面に務める。表情筋を使わないのって存外楽
だ。
仮面を被ってるのに等しい。
傷つくことから自分を保護するための。
それでも、いつも以上に見られてる意識は絶えずつきまとい。そ
の意識こそがいつも以上に私を居心地悪くさせていた。放課後が待
ち遠しく。ホームルーム終わってさあ帰ろうと思ったときに。
﹁ぜんいーん、体操着着替えてグラウンドしゅーごーっ﹂
無常にも体育委員の声が響く。⋮⋮ああ、全員リレーの練習があ
るんだった。もう一度泣きたい。
喋ってても寝てても色んな子が集って声かけあってスポーツバッ
グ持って体育館に向かう。
残暑きつい九月の容赦なき紫外線を浴びるはずだ。日焼け止めは
忘れた。
教室の戸を閉めるのは私が最後だった。
﹁受け取る時は後ろ見んと手ぇ。手ぇだけだして﹂
と懸命に練習するわずかなクラスメイトを尻目に、喋ってる子た
124
ちがほとんど。来た意味がない。日陰に入りたい。立ってるだけで
砂埃すごいし。
広いグラウンドの片隅にて。トラックの近く。
くっちゃべってるグループの群れにもあぶれ。練習組にも入れず。
時間を、持て余す。こういうのって誰か仕切んないとうまくいか
ない。小澤さんは⋮⋮五人組の輪でまたドラマの話だ。今度は﹃フ
ェイス﹄の最終回。non−noは愛読誌だからりょうさんのこと
は知ってた。
目が、合った。ばちっと、
﹁⋮⋮うぜえ﹂
や、私ではありません。
なんかすごくこっち睨んでくる彼女たちに泡を食いながら声の主
を振り返る。
﹁あ﹂
驚くと右の眉があがるのは彼の癖なのだろう。
白眼が、大きく。
表情崩さないひとが驚きを示した。
慌てて逸した。
こんなの。
こんなひっどい顔してんのあなたと関係ないですからって叫びた
い心境だった。
あんなやり取りごときで泣いたとか誤解、されたくない。そんな
弱くない。
左向けば睨んでる女の子たち、右向けば驚いた彼の残像。どちら
を見ることもできずまさに袋小路。前門の虎後門の狼とか言ったか
な。
125
いたたまれず深緑色のだっさいジャージの膝掴んで俯く。早く過
ぎ去れこのとき。
﹁みぃーんなぁー。ちょっと聞いてぇー﹂
見なくたって分かる。やや甲高い声は。
不規則に集う人間のなかを突っ切る、茶髪くん、
︱︱桜井和貴。
彼が動けば周りが道をあける。
見かけるたびに。
祭りの日を思い起こすたびに。
私は、思う。
行動原理は支配によるものではない。
﹃いいから、楽しんじゃえよ?﹄
⋮⋮あんな風に言う彼が、力を行使して誰かを従えるはずはなく。
周囲が思わず行う。魅せられてか求めてか、と考えるのが自然だ
った。彼の、人を動かす力の在り方は。
陽光を浴び、髪の色存在をかがやかせ、片手を挙げて進む桜井和
貴は、キリストのように空気を変えた。
﹁こんなんじゃーさーちっとも練習になんないよ﹂止まって半笑い。
苦笑いのようなものを浮かべる。私からは彼の表情がよく見える。
他のクラスメイトが自然と彼を囲う輪を作るのも。﹁なにやっても
だーめ。火曜日にしよ?﹂
伸びをする動き。しなやかな筋肉の質と、からだのやわらかさを
感じさせる。
﹁は。なにゆっとるが、なして火曜なんや。おれ今日部活休みにし
てんぞ﹂
﹁月曜は祝日。グダグダやってても意味ないじゃん。だからスパッ
と仕切り直し。三連休でリフレッシュしてさ。ま⋮⋮ホントはラン
ニングか筋トレして欲しいとこだけど﹂
126
﹁リフレッシュなんかするわけないやろっ﹂躍り出たのは小澤茉莉
奈。﹁休み中やてみんな部活しとんの。あんたなんかと一緒にせん
といて。半端な陸部とは違うげよ﹂
﹁だねえ。だよねえ﹂語感が茶髪くんを攻撃してるにも関わらず、
可笑しげな笑いをこぼす。﹁イラついたとこでなにやってもノんな
い。だから火曜。朝七時きっかり。このグラウンドに集合。一限目
体育だからちょーどいいや。ホームルームなしにしちゃってさあ。
みやもっちゃんには僕から言っとく﹂
﹁はあ?﹂別の男子が今度は、﹁桜井てめなにを勝手に仕切っとる
げ。大体お前はっ﹂
﹁お前が、︱︱なぁに?﹂
響きは穏やか。なのに目の色が一変。可愛らしい猫が凄む豹に変
わる様に背筋がぞくりとした。誰も気づいてないのか。
ふっ、と息を漏らすとまたあどけなさを取り戻す。
たしろ
彼独特の、いたずらっぽさのなかに、私は、手のなかの獲物を弄
ぶ攻撃性を垣間見た気がした。
振る舞う笑顔ですらも。
﹁一人でも欠けたら僕アンカーやんない。田代、僕のぶんも走って
みる?﹂
それは困る、と言われた男子の顔が叫んでた。困る、という意識
がたちまち伝染する。きっとこのクラスで一番足が速いんだ彼。
うそうそ冗談だよ、と笑ってても、夏の日の笑顔とは別種で。気
圧されて未だ青ざめてる男子の反応を味わうように茶髪くんは悠然
と、﹁んじゃー素敵な週末をー﹂と歩き出す。
アイドルのように手を振りながら。ゆったりと。
残された人々は立ち尽くす。
ただ二人。
なにも言わず逃げ去る私と、茶髪くんの後ろを黙って従う黒髪の
彼を除いて。
127
︵3︶
全員、七時きっかりにグラウンドに集合した。素直で従順なクラ
スメイトたちに対し、
﹁⋮⋮なにやってんの。こんなとこじゃやれないよ。はい更衣室で
内履きに履き替えて体育館にしゅーごー﹂
午前七時七分。
言い出した張本人が遅れて現れた。むしろ小動物の丸い目をして
驚いてた。
﹁⋮⋮なして体育館なが。こんなとこであんたリレーの練習やれっ
つうが? 走りづらいがいね﹂
体育館内はひときわ声が響く。揃って全員が白線の内側に集まっ
てしかもストレッチする辺りは生真面目だと思う。
お待たせー、と倉庫へなにか取りに行った桜井和貴は戻ると、白
いボール二つを手にしていた。
⋮⋮バレーボール?
﹁んと今日はね、みんなの役に立ちそーな練習をしようと思って﹂
﹁はん﹂小澤茉莉奈が鼻で嘲る。﹁あんたアホちゃうん。バレーな
んかしたって、︱︱﹂
﹁バレーじゃない﹂
示す。
白線を。
そこに一同の注目が集まるのを見て取ると、
﹁ドッジボールだよ﹂
きゅっと口角をあげて微笑んだ。
七時十四分。
128
﹁うわ、ちょ、あぶ﹂
な、とすら言えない。舌噛む。なにこれ、あっちのボール避けた
ら全っ然違うとこからやってくる。戦場だよ。
頭低くして凌ぐ歩兵。
ボールが二個のドッジボールなんて初めて。
ダブルドッジって、
地獄だ。
﹁うおりゃああ﹂
私の目の前で投げる、金曜に桜井和貴に突っかかってた男子。突
っかかってた割りにはやる気満々じゃないか。
ドッジボールで生き延びる秘訣は、上から三番目程度に勇敢な男
子を見っけて盾にしとくこと。
一二番は目立つ、ゆえに避けるが得策。
その三番手と俊敏な子にサンドイッチされればある程度は嵐をや
り過ごせる。
この法則は一応はダブルドッジでも適用可能のようだ。
女の子相手だと多少の手加減が入る、そこは逃さない。きゃ、怖
い、くらい私だって言う。本気で怖がってるように見える⋮⋮のは
私の演技力の賜物だ。
﹁アウト﹂
彼いい隠れ蓑だったのに。飛び出して取り損なうって典型的な言
動。により防風林がまた一つ減った。
おっと。
いつの間に男子ゼロ。
いやな流れだ。
女の子ってくっついてキャー逃げるだけで基本弱い。すかさず外
野からクロスボール放たれ、たと思ったらまたアウト。どこがどこ
だか、残像追うので精一杯。ばたばた。細かく運動靴の底が鳴らさ
129
れ。
気がつけば二人。
肩で荒い息するの一人。
﹁⋮⋮なんっであんたやの﹂
それはこっちの台詞だ。
小澤茉莉奈。
咳き込みつつ目で他の味方を探す。敵陣外側、⋮⋮入り切らない
くらいぎゅうぎゅうだ。遠い。
二対二十。
降参です。
諦めたからそれで試合終了でどうでしょう。先生私ドッジがやり
たくありません。
こういうときは花道みたく血気盛んな男子が登場して決めにかか
る、はずが、⋮⋮一同停止ボタンでも押されたごとく動かない。
コントロールする司令塔が。
︱︱居た、
桜井和貴。
こっちと敵陣を隔てるボーダーラインぎりぎりに立つ。
静粛に、と言いたげに。立てた人差し指を鼻から唇に当ててる。
片脇にボール抱え。
少々妖艶に。
見ている先は。
対角線上、私の真後ろ。坊主の青い男子がボール持ってる。野球
部かな彼誰だっけ。
ここで同時に放たれれば終了するストーリー。
何故なら私はボールをキャッチできない。因みに一度も投げてな
いし触れてもない。
130
勝負の決する瞬間を待つのみが。
﹁⋮⋮あんたは田辺のほう見とき﹂
諦めていないらしい。背中合わせに小澤茉莉奈が立つ。
﹁桜井。こら、⋮⋮桜井っ﹂
怒ったように呼ばれ返事をしない、なにしてんのかなと思ったら、
指一本でくるくるボールを回す、いや回そうとしてた。﹁うおあぶ
ねっ﹂とこっちの陣地に転がしかけて慌てて屈む。こら相手んボー
ルなっぞぉなにしとんがや和貴ぃと男子の声が次々あがる。ちょっ
と笑ってしまう。
﹁うちら女子だけなんやからあんた手加減しいや﹂
屈む動きがぴた、と止まる。
﹁あたしは構わんけどこのひと。運動神経ゼロや。見とれば分かる
やろ。逃げるしか脳があらへん﹂
⋮⋮なかなかに沸点に触れるお言葉だが事実は事実だ。鼻を鳴ら
すのも少々余計な演出だが。しかし彼女の言い分に頷ける、何故な
ら組んだ腕の筋が盛り上がってる。喧嘩するなら腕相撲以外がよさ
そう。ソフト部だと聞いたがライトかキャッチャーやってそう。後
で誰かに確かめよう。
﹁それは、できない相談だね﹂すこし間をおいて桜井和貴が身を起
こす。﹁僕はね。勝負ごとで負けるのが嫌いなんだ﹂
肩の前に片手でボールを据える、ボーリングで投げる直前のポー
ズで四方をゆったりと眺め回す。
誰がどこにいるか頭に入れてる。
︱︱彼は。
戯れる猫だ。淡い瞳の奥でなにか計算を働かせながら、他方積極
的に愉しむ。口の端がゆるみ。楽しみを前にして爛々と瞳輝かせて
る。
﹁弱点があれば狙うのは当たり前⋮⋮あ﹂目が合う。﹁誤解のない
よう言っておくと、僕一応フェミニストだからね﹂
花を開かせるような笑顔。
131
あの微笑みに何人の女子がやられたのだろう。
﹁そんじゃ行くよー﹂
唄うような調子で。
ところがスピーディーに、再戦の火蓋が切られた。
空を飛ぶ、ボールの高さ。
ジャンプしても届かない。拾えない。どのみち私には拾えない。
ワンバウンド。してどこへ、ってさっきのボール持ってた男子の
方向へ。
﹁こらあんたっ﹂すごい勢いで体操着の背中を引っ張られる。﹁あ
んっなチャンスボール取らんてあんたほんにやる気あるんかっ!﹂
﹁だ。だって怖いっ怖いんだもんっ﹂
﹁たーなべぇー! あんたあたしにかつけたらどーなるかよう覚え
ときぃっ﹂
⋮⋮田辺くんは。
ボール二つ片手ずつに持って、戸惑ったご様子。ちょっと色が白
い。
首かしげる。
投げた。
判断、委ねたって感じ。今度は左右に振り分け。
﹁えーとどっち見たら﹂
﹁右っ﹂
右。
﹁違う右右右ぃっ﹂
⋮⋮あ。
背中合わせなの忘れててつい。
逆向いた。
ら、
ニカッと茶髪くん笑ってた。
無邪気な子どものスマイル、
132
されど同時に獲物をゲットする勝者の確信。
﹁ぎゃ﹂
私は後退った。
顔をカバー。
目までつぶった。
ばちん、と平手打ちに似た強烈な響き。こないだの祖父のビンタ
よりもよっぽどすごい。
静寂。
恐る恐る開くと。
逃げずに挑んだ小澤茉莉奈のたくましい背中。
⋮⋮腰低くしてキャッチしてる。足首と足首の隙間からボールが
見えてる。
もう確信した絶対キャッチャーだよ小澤茉莉奈。
﹁⋮⋮こんなんが﹂怒りでわなわなと声震わす小澤茉莉奈。﹁こん
なんがあたしに通用するとでも思っとるんかぁっ!﹂
二度言った。振りかぶった。すごい、大リーグの投手みたいに大
きく振りかぶって。むしろ私避ける。
back﹂
それなのに桜井和貴、笑顔。
危ない、危ないって。
のに、
腕組みほどかず、
your
顎をしゃくる。
﹁Watch
英語。何故。
て思ったときに私。
失念していた。
もう一個のボールがどこにあるはず?
﹃後ろにご注意を﹄
133
目が、合った。
割りと近くで。
前のめり。
重心ブレない、
甲子園の投手のフォーム。
貴公子らしき、彼が。
美しく攻撃の矢を放ち終えた瞬間だった。
撃つ。
背中。
誰の。
決まってるじゃん、
あぶな。
﹁いっ﹂
⋮⋮と思ったときにはもう。
顔面にすごい衝撃を食らった後だった。
* * *
﹁アホか。あんったほんまにどんくさ。顔面ブロックなんか初めて
見たわ。バレーでなら分かるたまにある、スピードあっからな。せ
やけどドッジで普通やらんやろ。百キロも出とらんもん⋮⋮避けれ
たやろがいね﹂
返す言葉もなく冷たいタオル当てて俯くしか脳がありません。
﹁小澤さんもほんにきついことゆわんと。都倉さん、気分わるない
? ベッドどれでもつこうて休んどっていいから﹂
﹁⋮⋮はい﹂
気分は別段悪くはないが。
羞恥で燃えてしまいそうです。
手当てをして頂いた丸椅子からベッドに移動する。三つあるうち
の窓際に。
134
ベッドまでついてきた小澤茉莉奈は、寝そべる私を見下ろし、心
底呆れた息をついた。
﹁⋮⋮しゃーないから宮本先生にはあたしからゆうとく。寝てな﹂
乱暴に布団被せて小澤茉莉奈は消えた。
ああ。
⋮⋮恥ずかしい。
顔面にボールを受けた直後。クラスメイトみんなが駆け寄ってき
た。大丈夫!? 痛くない!? ほ、ほ、保健室。担架っ。
⋮⋮担架て。
全然歩けるし。特に女子がものすごく心配そうな目をしていた。
なまじっか鼻が痛い程度ってのが情けなかった。深刻なら心配され
る価値があるんだけど。でも鼻血出てないのが不幸中の幸い。
これでつー、と垂らしてたら新たな転校生伝説誕生だ。これ以上
恥を晒してどうする。
濡れタオルをどうしようか、置くとサイドテーブルの木目に染み
こんじゃうし。ベッドを降りようとしたところを先を読んで田中先
生が来てくれた。﹁も、冷やさんで平気?﹂
﹁平気です﹂
タオルを受け取り一旦間仕切りカーテンの向こうに消えると、戻
って、私の頭の下の枕の位置を整えてくれる。
首を浮かす。
顔のすぐ傍を通る白い腕。女の人のお化粧の匂い。
⋮⋮お母さんみたい。
缶詰の白桃なんか食べたい。学校を休んだら母が必ず部屋まで運
んでくれた。熱が出ても私それが楽しみだった。治りきるまでの間、
けだるい感覚を持て余しながら、お母さんにいくらでも甘えていら
れる。糖度の強いシロップと、お休みしてるほんのりとした甘みの
組み合わせが私は好きだった。背中にぶ厚いマットレス、この感じ
も久しぶり。せんべい布団と寝心地が違う。向こうとは違う、消毒
液臭い保健室、どこかかび臭さがあっても。
135
なんとなく、気持ちがいいのかもしれない。
ここにいていい、って言われたからかも。
白い二重カーテン越しに伝わる陽の光。
顔を傾ける。
淡い光の方角へと。
⋮⋮あれ。
変だな。あくび止まんない。まだちょっとひりひりしてるのに。
そういえば私、
︱︱すごく。
睡眠不足だった。
最近三四時間しか寝てない。
﹁眠そな顔しとるねえ﹂
顔ほころばす田中先生。ころころしてて観音様みたい。宮本先生
とおそろの白衣であっても服装は真逆。甘い蜜を求むミツバチだっ
て選ばなさそうな毒々しいお花の柄のカットソー。どこでそんな色
の服を買うのだろう。
﹁⋮⋮眠っても、構わないですか﹂
肩のとこまで布団をかけてくれる。﹁どのみち寝るがいね。いく
らでも寝とったって先生、構わんのよ﹂
一限目なんだったっけ。ノートどうしようか。
もう、
⋮⋮いいや。思考放棄。
﹁あり、がとう、ございます﹂
考えたくない。
楽で気持ちいい。
とろとろとした誘惑に身を任せてみたい。
﹁眠れ、なくて、本、ばっか読んでます⋮⋮﹂
﹁なにを読んどるん?﹂
シャッ、とカーテンを閉める気配。
﹁河合隼雄の、カウンセリングを考える、です。⋮⋮私ユング派じ
136
ゃないんですけど⋮⋮日本の社会に根ざした心理学を﹂
﹁悪かった﹂
︱︱密かに寒かったんだ。
お布団から出してる手が。
肘の下から手の甲、空気が表面を刺す。
動くとまどろみが消えちゃう。
から動かせなかったの。
手首を持たれ、
入れられる。
被せられる。
残される。
皮膚のぬくもり。
低い響き⋮⋮お父さんみたいだ。
でもちょっと感触が違う。
お父さんの手のひらはもっと皮がぶ厚い。指が太い。手が小さく
って私と大きさあんま変わんないの。お父さんのお誕生日に手袋買
うときに知った。頭オーデコロンぷんぷんだもん。お母さんとシー
ツまとめ洗いしてるときね、枕くさーって笑ってたんだ。
マリンノートをほのかに。
こんな風につけるなんて知ったら。
お母さん、お父さんの浮気疑っちゃうよ。
眠っこい誘惑振り払って私確かめたかったのに、
ねえお父さん。
いつも消えちゃう。
いつも私、気づくのが遅いんだ。
後悔先に立たずってことわざでいつもお父さんのこと思い出す。
ねえお父さん。
たまには私のこと思い出してくれてる?
137
138
︵4︶
スコップで掘って掘り返す。土を。掘っても掘っても得られない。
私なにを求めて同じこと繰り返す? 飽きちゃったよ。つまんない。
遊んでくれる子誰もいないんだもん。小花柄のピンクのワンピース。
おしゃれしてこうねってお母さんが買ってくれたばかりの。初めて
着るの。やっぱり泥ついちゃった。分かってるんだけどね、やるこ
とがないの。
集まるとみんないつもむつかしい顔してる。
おばあちゃんとおじいちゃんのおうち。
私ここで待ってなさいって言われるの。
縁側からあがっちゃ駄目って。
でも、暇だもん。
やることないもん。
みいちゃんきいちゃんにね、このおうちの脇に連れてかれたの。
知らないでしょ。バケツ逆さにしてざざーっと頭っからかけられた。
最初ね、遊んでくれてるのかと思った。でも違った。だって私だけ
だった。バケツ私がひっくり返したんじゃなかったんだよ。靴のな
かにも砂入っちゃって悲しかったの。
おばさんに言ってもね。
真咲ちゃんが悪いことしたのよ、てゆうから私ね。
大人しくするの。
誰にも言わない。
信じてくれるひとに言わないと、真実はややこしくなる。
お母さんにもないしょ。
⋮⋮お母さん。
こないだ泣いてたでしょ。私知ってる。お手洗いから出てきたと
きうさぎさんの目をしてた。
139
お父さんには言わない。お父さんお母さんのこと心配しちゃう。
大切なことは大切なひとに言わないと。大切さが逃げていく。
あったかく包んで、守るの。
わたしいい子にしてる。
おばあちゃんとおじいちゃんとお父さんとお母さんが、畳のお部
屋でね、大切な、おはなししてる。
お庭から見てるのあんまり好きじゃないんだ。
怖い顔してるもんみんな。
怖い話してるもんみんな。
︱︱もう一人。
どうしたら。
こんなことに。
責任。
てなに?
聞いちゃいけないってみんなの目が言ってるから私、聞かないよ。
盗み聞きするの悪い子がすることでしょ。だからね私ね。おばあち
ゃんが大切にしてる花壇。この一角だけ掘り返していいって言って
くれた。掘って。埋めて。こっそり種蒔いたらどんなことになるか
な。春が来てお花咲いておばあちゃん喜んでくれるかな。私、おば
あちゃんの喜んでる顔見たい。そうだ、お水汲んでこよう。私も喉
渇くもん。みみずさんだっててんとう虫さんだってお花さんになる
前のお花さんだってきっとそうだよ。ピンクのじょうろだけで足り
るかな。裏手に回ったら蛇口がある。この細い道で私泥かけられる
の、大人は見えないでしょ? だからあんまり通りたくない。けど
みんな喉乾いてるんだもん。我慢しなきゃ。走れば平気。うん平気。
ホース、⋮⋮抜いたら駄目だよね。シャワーのみず面白くって私遊
びたくなる。壁、濡らしちゃ駄目だよって怒られるんだけどね。
さっき固めてみたの。足でいっぱい踏んづけて。お花さん痛くな
いよね。我慢してね。ゆるゆるだとあったかくならないの。ここに。
お水を。
140
ほら。
見て。
一人でできたよ。
ピンクのマーブルのとこにピンクのお花。
きいろのマーブルのところはひまわりさん。
シロツメクサで囲ってみた。
すごいでしょ。
ねえお母さん。
⋮⋮
お母さん?
手で顔隠してる。
にらめっこ?
違う泣いてるんだ。
おじいちゃん。
なんで。
なんでそんなに怒ってるの。
声が、怖いよ。
顔が、真っ赤だよ。
お母さんなんか悪いことした?
だったら私がごめんなさいする。
お母さんね、私知らないと思ってるだろうけどね、私のことで色
んなひとに謝ってるの。
おばあちゃんにもお父さんにも。
真咲のことお母さんが守るってゆってくれたの。
だから私だってお母さんのこと守るの。
﹁お母さんっ﹂
通せんぼしないで。
お父さん。
服濡れてる?
そんなのいいタオルなんかいらない。
141
私お母さんのところに行きたい。
だって。
泣いてるもん。
泣いてるときね、お母さんだったら私のこと抱き締めてくれるの。
私だってそうしたいもん。
邪魔しないで。
いやだいやだ。
お母さんは大丈夫だからって言われても私信じないよ。
ねえお父さん。
あなたに抱きついたのはいつが最後だったでしょうか。
お父さん。
ふくらはぎが、太くてぶよぶよで、お腹もちょっと出てて、授業
参観のときに汗ふきふきして恥ずかしい感じの。見目形のいいお父
さんじゃなくっても。
私にとってたった一人のお父さんだったんだ。
だから私。
本当はね。
離れて暮らすのなんて嫌だったんだ。
言えなかったの。
誰にも。
お母さん私のために泣いてる。
あんなのもう。
私見たくなかったから。
142
﹁元気でな﹂
どうしてそんな風に言えるの。
言わないで。
離れないで。
いやだ私お父さん離したくない。
苦しくたっていい。
首が締め付けられる。
絞られる。
絞られたっていい。
これ離したら二度と、会えなくなるよ。
﹁真咲さん、真咲さんってば﹂
揺さぶられる。
肩を。
私。
︱︱この感じ。
知ってる。
はっ、と息をついたときに。
覗き込む琥珀色の瞳を知る。
驚きとか、心配とか、に満ちた。
真っ直ぐ垂れ下がる前髪。同じ色した眉毛。肌、白めの。長い、
まつ毛の影の憂い。⋮⋮ぽつぽつ水玉の穴の開いた、白い低い天井
の染み。取り替えの時期の近いまたたく蛍光灯。⋮⋮不可思議に私
の視界は歪んで膜が張っている。
千千に乱れ、胸が肺が、苦しい。
﹁どったの真咲さん。夢でも見てた?﹂
143
すこし浮いていた背中が。
肩を支えられ戻される。
掴む力に反して。
穏やかな問いかけだった。
私が認識するのを認識すると、柔らかい笑みを与える。
﹁べ、つに⋮⋮﹂
喉が、詰まった。顔を振るとこぼれた。背けて、拭う。
会いた、かった。
二度と会えない。
顔すら出してくれなかった。
押し潰されそうな重みを抱きながらそっと堪える。精神の整理を
試みる。みっともなさとか見られたこと含めて。
茶髪くんが、ベッドから離れて、外っかわのカーテン向いててく
れるのが。
ありがたかった。
﹁⋮⋮いま、何時だか知ってる?﹂
﹁う。ううん﹂ティッシュで鼻を拭う。
﹁開けてい?﹂
﹁⋮⋮うん﹂と呼吸を整える。彼が片手をかけて開くカーテンの隙
間から見る壁の丸い時計は、
﹁うそっ﹂十二時? ﹁そんなに寝てたの私﹂
﹁もーぐっすり﹂両手をポケットに入れて可笑しげに肩を揺らし、
ポロシャツの背中が波打つ。﹁ばっちり見ちゃった、真咲さんの寝
顔。気持ちよさそーにすーすー﹂
嘘つき。
うなされてたのを。
呼び戻してくれたくせに。
明るくそらされたらどう返せばいいか、分からない。
﹁田中先生は?﹂
﹁あ、﹂彼がカーテンを引いた、その開きに滑りこむタイミングで
144
田中先生の姿が入り口に現れた。桜井くんお留守番ありがとーって。
赤のヘビ柄のポーチは生理用⋮⋮ではなくお化粧用みたいだ。田中
先生のもち肌、お粉はたいて白くなってる。
﹁都倉さん。目ぇ覚めたんね。よう寝とったけど具合はどう?﹂
﹁平気です﹂上体を起こす。
と田中先生は私の額に手を当てる。﹁熱もないし大丈夫そうやね、
赤みもないし⋮⋮そんでも無理せんと。おうち帰ったっていいんや
よ﹂
うんうん、と茶髪くんは同意する。﹁田中ちゃん。僕もそう思う。
早退万歳﹂
そんな、あっさり。
ボールかすった程度で。四時間強眠れてみんなよりむしろ元気だ
よ。
﹁それと。真咲さんには見舞いが来とるから。んじゃ田中ちゃんお
昼買いにいこーっ﹂
なんか追い出したい意図を持ってか、戻ってきたばかりであ、ち
ょっとと戸惑う田中先生の背を押して出ていく。
入れ違いで現れたのは、
﹁これ。あんたの荷物﹂
小澤茉莉奈だった。
﹁更衣室に置いとった着替え、こっちが教室の荷物。机んなかのも
のとりあえずぜんぶ詰めといた﹂なんか渋い面して片手ずつに持っ
てる。﹁これ持ってさっさと帰りぃや﹂
意外な行動に目を見張る。
でも相手が誰であれ、お礼は言うべきだろう。
﹁あ。ありがとう﹂
ベッドから抜けてズックを履く。靴下ぶ厚くて履きにくい。靴べ
145
らが欲しい。小澤茉莉奈を待たせてる感じが私を落ち着かせない。
私の目は赤くないだろうか?
Tシャツの裾のしわを伸ばしてると、
﹁これで借りはチャラやからね﹂
﹁⋮⋮借り?﹂私が受け取るとどこかきまり悪そうに目線を足元に
外し、
﹁あんた。あたしんこと庇ってんろ。蒔田が投げたボール。⋮⋮桜
井が教えてくれた﹂
⋮⋮ああ。
﹁それとな。他にも。あたしがあんたにどういうことをしておった
のか⋮⋮﹂
彼女の喋りは、人を操作したがる人間の強い調子を持つ。いまは
弱々しく歯切れが悪い。もじもじと指絡ませてる。
お昼どきってのもあって保健室前の廊下を抜けるひとが増えてき
た。購買がこの先にあるから。
そんな人目を気にせず。
勢いよく、
﹁すまんかったっ﹂
小澤茉莉奈は頭を下げた。九十度近く。
寝ぼけた頭では一瞬なんだかわけが分からなかった。
﹁いっ﹂下げたままの彼女。髪、逆さ。動かない。﹁いいよ別に。
気にしないで﹂
手を振ろうとしたらかばん持っててできない。とにかく顔上げて
と言うと、小澤茉莉奈は殊勝にぽつぽつ語り始める。﹁⋮⋮あたし
な。離婚しとるとこのうちっていい加減やと思うとって。中学んと
きな。あたしめっさデブで。ごっついじめられとってんよ。いじめ
とるやつらな、みぃんな山中町住んどる連中でみーんな親離婚しと
るんよ。そいつら馬鹿ばっかやし絶対緑高行けんがは分かっとった。
146
そやさけあたしむっちゃ勉強してん。一緒になりたなかったし、必
死やったわいね。中学のあたし知っとるやつもおるけど知らんやつ
もいぃぱいおる。やっと解放されたー思ったんに。あんた見たとき
﹃またか﹄思うてん﹂
﹁またか、って﹂
﹁女のきつい田中ってやつにあんためっさ似とる。顔やのうて雰囲
気がな。ちっさいんに一人ツンツンすまして気取っとるとこがまる
きしかぶっとる。そいつみたくあんた、地味な振りして裏番張っと
るんやないかって﹂
﹁⋮⋮謝ってるかけなしてるかどっちなの﹂
﹁せやけど桜井は言うんよ。都倉さんはそんなひとやないて﹂
﹁⋮⋮彼が﹂またも彼。﹁なんて言ってたの私のこと﹂
﹁玄関まで送ったる﹂
肩透かしを食らいつつも。
肩を並べて無人の保健室を出る。
手のふさがった私に代わって小澤茉莉奈は扉の開け閉めをしてく
れた。
顔を赤くして俯きながらも。
人間の第一印象ってあてにならない。
⋮⋮コントロールしたいタイプの人間だと思ってた。桜井和貴と
は違うかたちで。
この世のものが全て白か黒かに分けられると思っていて、そのあ
る種の信念に基づいて迷い子は助けてあげる。
歯向かうものには容赦せず。
そんな分かりやすい、決断力と正義感の持ち主、というのが彼女
への印象だった。
いまの彼女。
自分からふっかけて大喧嘩してそのあと生まれて初めて友達に謝
る小学生の女の子そのもの、だった。
繊細。
147
壊れやすい。
男子に強いこと言えて。
速球ひるまずキャッチできるたくましさを持っていても。
⋮⋮ああ。
見た目で判断されるのが嫌なくせに。
︱︱私こそが見た目で判断しているんだ。
黙りこくって。
私の歩く速度に合わせてくれてる。
関わってみなければ人間なんて分からない。
話してみなければ本当のところなんて掴めない。
﹃お父さんおらんくなるってどんな感じ﹄
あの言葉だって。
悪意によるものなのか。
単に聞いてみたかっただけなのか。関心。好奇心。
⋮⋮あれ。
心配してくれてるだけだったという可能性を見落としてる。
その方式が私の望むものと違うだけであって。
﹁⋮⋮ふ﹂
ぐにゃぐにゃ考えてるうちに可笑しくなった。
だって。もし、そうだったら、私⋮⋮。
﹁なーにを一人で笑とるの。きもちわる﹂
殊勝さはどこへ。
いつもの強気に戻っていた。
可能性の一つ。
﹁変わらない﹂胸を張って私は答えてみる。﹁違うと思えば違いは
ある。寂しいと感じることもあるけれど﹂
それだって、ひとをいじめる動機づけにはならない。
私だってだ。
148
小澤茉莉奈だって。
﹁変わらない。一緒と思えば一緒だよ﹂
﹁あんたがなに言いたいんかさっぱり分からん﹂
でも彼女、笑った。
重かった石を取り除いた、あけっぴろげた笑いだった。
笑う背後に、中庭。
の向こうの職員室。
人影。
眩しいなかに。
︱︱宮本先生。
こっち見て微笑んでるように見えるのは、目の錯覚?
止まって、目を凝らす。
隆盛な緑が焦点をずらさせる。
﹁ボサっとしとらんとはよ、帰るんか帰らんがか。あたし昼まだな
んやからねっ﹂
自分から送るって言ったくせに。
でも、怒ってるの見てほっとした。
駆け出しながらちらともう一度光の行方を確かめたときには既に、
跡形もなく消え去っていた。
149
︵5︶
﹁学校から電話あってんよ。真咲あんた、大丈夫ながっ?﹂
帰ってくるなり慌ただしくスリッパが響く。廊下は走らないもの
と幼い頃からしつけてきた母が。
肩を上下させて息を、乱している。
その瞳を覗く。
不安とか心配がないまぜに、
真実のいろに、
震えていて。
﹃いっつも考えとるよ﹄
目を合わす、
あの日以来の。
︱︱気まずさと。
すぐ駆け寄ってくれた心強さと。
夢のなかで表象された母への思い。
私はそれらを現実世界で表現できず、最低限だけ述べて階段を選
んだ。
﹁⋮⋮別に。平気。かすっただけ﹂
﹁真咲。真咲起きとる?﹂
今度は祖母だ。部屋着のシャツワンピースを頭っからかぶりなが
ら﹁はーい﹂と答える。
﹁お昼まだ食べとらんやろ? おかゆ持ってきてん。お弁当のおか
ず油っぽかったさけ取り替えたげるわ﹂
スカートの裾を下まで引っ張り、半日履いてた靴下に指をかける。
﹁ううん。へーき﹂
﹁重いさけとにかく開けてくれんか。お祖母ちゃん持っとられん﹂
150
外開きのドアを気をつけてゆっくりと開く。一リットルのガラス
ボトルの麦茶。私こんなに飲まないよ。でも湯気が立つおかゆはち
ょっと、食欲をそそられる。
ちゃぶ台の上に並べてくれた。ちょっとした豪華な昼食。
白粥以外に白菜のお味噌汁。湯豆腐。かぼちゃのサラダ。それで
も常備のお刺身。
珍しくデザートも一つ。
ガラスの丸い器に、シロップ漬けの白桃。
お母さん⋮⋮。
﹁食べ終わったら下まで持ってこんでええさけ、廊下置いといて。
ゆっくり休みぃ﹂こっそり目許を拭い、祖母に交換でお弁当を手渡
す。﹁忙しいのに。悪いね﹂
表を通った感じでは盛況だった。忙しい合間を縫って祖母も母も
私の様子を見に来ている。
﹁子どもがなーにをあんた気ぃつこうとる。うちの大事な一人娘や
わいね﹂
﹁孫でしょう﹂と私は笑った。
去り際に祖母は言い残す。
﹁⋮⋮おじいちゃんな。学校からあんた、熱あるボールぶつかった
先生から聞いたら顔真っ青なって茶碗落っことしてもうて。ほんに、
あんな慌てたおじいさん初めて見たわ。真咲に見せてあげたかった
わいね﹂
薄味を好む祖父手製のおかゆは塩味が利いてしまった。
* * *
ちょっと注目を集めた。おはようって言う者もない。誰の声もか
からない。いつものことだ。
静かに席に着く。⋮⋮なかにプリント入ってる。覗き見る。泳い
で、ひらり、落ちた。
151
拾う。
﹁おい﹂
ごん、とぶつけた。机の下に頭の後ろが直撃。
﹁痛ったあ﹂
誰よ。運動神経悪い人間に声かけるときは気をつけてよ。
涙目の怒り混じりで床に手をついた姿勢から立て直す。
あなおそろしや。
黒い城壁みたいな蒔田一臣が私の机の前に立っていた。
見下ろしてくる、その⋮⋮迫力。
彼常に悪いものでも食べたような顔してる。
﹁お前がフけてた授業のノートだ。やる﹂
ぞんざいに投げ落とす。
机のうえに。
﹁フけてなんかないけど。人聞きの悪い﹂
ふいっと横向いて、去る。
言うだけ言って。
またお礼言いそびれた。
ノートを手に取ってみる、表紙も裏もなにも書いてない。⋮⋮新
品?
﹁頭と顔はそれ以上ぶつけるな。馬鹿になる﹂
聞こえよがしにでっかい声。
でかい図体の広い背中が。
窓際の彼の席に戻ってく。
⋮⋮いったいなんなんだ。
聞いてた周りからさざめく笑いが起こる。
私ちょっと恥ずかしいやら。失礼な態度に腹が立つやら。
﹁あたしも貸すつもりあってんけど。要らんか。蒔田頭いいもんな
152
あ﹂
げっ。
﹁⋮⋮小澤茉莉奈﹂
﹁あんたその呼び方やめてくれん?﹂背後から前に回り込んで眉を
ひそめる。左の毛先がちょっとハネてる。のをいじって気にしてる。
﹁小澤か茉莉奈でえーよ﹂
﹁それじゃ。小澤さん。貸りてもいい? 今日使わない分だけでい
いんだけど﹂
﹁なして﹂私の机にどん、とかばん置くとがさごそ。痛む後頭部を
さすってる私にちらと怪訝な目をよこす。
﹁見比べたいから。同じ授業でもノートの取り方って人によって違
うし。それ見るいい機会かと思って﹂
﹁はん﹂鼻鳴らす。﹁あんた変わっとるね。あたしなんか頼まれた
って借りたないわ﹂
怒ったようにコピーを突きつけて彼女、去り際に小声を残した。
﹁なんにせよ元気そーでよかったわ﹂
昨日の敵は今日の友?
急に優しくなって。そっちこそ。
きもちわる。
でも、嬉しかった。
くすぐったいな。
いまなら、靴紐がほどけて転んでも、笑ってる。
﹁ぅおーいみんな席つけー﹂
くすぐったい気持ちをこころのなかで転がしてるうちにホームル
ーム。起立礼着席。四十人の立てる椅子の摩擦が消え切らないうち
153
に宮本先生は教卓に手をかけて、
﹁お。都倉。顔は平気そうやな﹂
どっとクラスが沸く。宮本先生やめてくださいのか弱い声なんぞ
かき消される。
あの先生、ちょっと黒髪の彼に似てる。
* * *
吸血鬼の如く直射日光は避け、左手の日陰を。
屋上ワンフロア貸し切り。
壁に背を預け、足を投げ出して座る。右にお弁当。左に、⋮⋮小
澤さんがくれたコピーの上に黒髪の彼からのノート。飛ばないよう
重ねてる。お行儀悪いけど誰もこないから、いいや。
孤独ではない冒険の旅。
お弁当のフタ開く。唐揚げと春巻き⋮⋮油っこいなあ。でも食べ
るけど。
がん、とどこかからなにか響いた。
なに。
ぱたぱたと走りまわる、靴底が弾んでる。
﹁真咲ぃーっ!﹂
紗優だ。
驚きのあまりタコさんウィンナーを箸から落っことした。
一直線。すごいスピード。スカート手をやって素早く屈む、座る。
﹁聞いたよー。小澤にいびられとったんやって? 大丈夫やった?
あいつ四組の裏ボスやからな。表ボスやよ実際。真咲お昼どこお
るかあたし知らんかってん、まっさかここやと思わんかった。あた
しもおべんと持ってきたから一緒食べよ? あ。そーれかわいー。
154
真咲ピンク好きやよなあ。プライベートレーベルのやつー?﹂
﹁ちょ。紗優、落ち着いて﹂お気に入りの腕時計を見せつつお弁当
を一旦膝からどかす。風呂敷もちょっとずらす。すると紗優、私と
の間にお弁当を置いて広げる。赤。巾着袋もお弁当箱もキッチュな
赤。
つ
﹁どうしてここが分かったの﹂
﹁尾けてきた﹂
タコさんを挟む箸が止まる。
ストーカーですか。
﹁だーって。気になったんやもん真咲のこと﹂
プチトマトから食べ始める。私のまなざし、ちょっと冷ややかな
ものとなる。﹁⋮⋮学校で顔合わせなかったよね。関わりたくない
のかと思ってた﹂
﹁ごめん。ごめんなあ﹂箸置くとぱちん! と手を合わす。﹁落ち
着いたら行こ思っとって。真咲にあたしが失敗したことさしたない
と思っとってん﹂
﹁⋮⋮失敗って﹂どんな顔しても美人は美人だと思いながら私はブ
ロッコリーを。
﹁あたしな。違うクラスなっても和貴んとこばっか遊びに行っとっ
て。やしいぃつも女の友達、同じクラスに作れんの。友達、そばに
おらんと大変やろ?﹂
﹁確かに﹂
町田で顔色ばかり覗ってた頃を思い返す。移動や行事のとき、面
倒はあったけれど直近の孤独よりはよかった。
﹁あたし小澤に嫌われとるの。やし下手にあたしうろついたら真咲
まで印象わろなってしまうと思って。真咲、小澤のグループとずぅ
っとおったやろ? ほんで﹂人参のグラッセを口に放り、﹁和貴か
らも止められとってなあ。最初の二週間はね、友達作る大切な期間
だから、邪魔しちゃ駄目だよ? て﹂
﹁はは﹂その期間に思いきし浮いてましたよ。
155
﹁マキもな。ホントは心配だったみたい﹂
片っぽの頬をグラッセに膨らませた紗優に、嘘でしょ、と言いか
けたのが。
背後で紙の音、吹いた風にはためている。
重しのっけなかったからだ。横着しちゃうとこうなる。
めくれるノートの中身に、
押さえかけた手が、︱︱止まる。
﹁真咲のことずっと気にしとってんよ。ちらちら見とるし。気づか
んかった? 放っといていいのかって訊かれて和貴もちゃーんと考
えとるってゆうとるんに。⋮⋮困っとったみたいやな。どっちも﹂
新品だった。
表に裏に名前すら書かれてない。
お弁当を膝からどかし、広げてみる。
これ⋮⋮。
﹁あんな? 金曜のガッコ終わってからな、和貴がうちに来てん。
﹃なーんかみんなで楽しめて安全で一体感があって結束力が持てる
遊びってないかなあ﹄てよー意味の分からんこと言うとった。んで
な、ちょーどそんとき怜生が帰ってきてな。体育部でドッジやって
きたとこやってん。怜生、クラスのなか悪い子と一緒にダブルドッ
ジやったら仲良くなってしもて。遊んだって遅なってん。それ聞い
たら和貴の目の色変わって。いっぱいルールとか聞いとったよ﹂
一時間目の体育を除く、二時間目から六時間目まで順番に。
授業の切り替わりには付箋。
急いで書いたような、されど読みやすい、大人の男の人みたいな
字体。
ペンは三色使用。蛍光ペンは一色。
一行間隔空けて書き写す主義。
自分のコメントはインデント。
重要なとこは左矢印を。
ページの切り替わりに教科書の何ページに対応するか必ず走り書
156
きされ。
インデントのなかにあるのは。説明しなかった授業もあるのだろ
う。
次回の習う範囲。予定。
今回の授業のポイント。覚えとくべきこと。
課された宿題。次、誰の列から当たるのか。
﹁和貴なーあいつ、顔出さんよう頑張っとったけどバレバレやった
わ。小澤見る度に目がキレとった。マキはムカついたから当てにい
ってんよ。まっさか、真咲がかぼうて顔面キャッチするなんて思わ
んかったやろな、あはは﹂
担当教師の名前と。
移動教室の場所まで書いてあるのは。
明らかに︱︱
﹃苛々すんだよ﹄
なにげなく流してたけど。これ。
わざわざカラーコピーしたのを新品のノートに貼りつけてる。
素朴に。
こんな几帳面なノートとれてるひとが、なんでノートに貼り直す
なんてことをしているのか。
無意味で、
不器用で、
意味不明。
だけれど、
157
﹁真咲。あんたさっきからあたしのはなし聞いとる?﹂
﹁ぜんぜん⋮⋮﹂
コピー。ノート。コピーを胸に抱いてみる。んもーっ、と紗優が
ふくれっ面してる。
私のこころはなにか独り占めしたいものに満ちていた。
こんな私たちの間をすこし強い風が駆け抜ける。
いい気持ち。
﹁和貴にずぅっと任せっぱで黙っておったけどもういい。こっから
あたし、遠慮なんかせんよ﹂
既におべんと食べ終えた紗優に。
﹃僕とばっかつるんどるから女の子の友達まるっきしおらんの。嫌
じゃなかったら仲良くしたげて?﹄
あの笑みを思い起こし、
左の手であたたかな紙を抱いたまま、
私は自然とこぼれおちる笑みと共に、
今度は自分から握手を求めてみた。
﹁こちらこそ。よろしくね、紗優﹂
158
︵1︶
﹁えー台風の影響も心配されましたがー無事に今日という日を迎え
られましたのはですねーひとえに。皆、さん、の、この日に向けた
けいてんあいじん
精一杯の努力が実ったわけでしてえー校長先生は誇らしい気持ちで
一杯です。えー我らが緑川高等学校の校訓、敬天愛人とはですねー
えー、⋮⋮﹂
空はとおい、曇り空。
強い大型の台風は九州地方へ遠ざかったものの、太陽を覆う雲の
厚い絨毯が名残を感じさせる。能登に台風が訪れることはめったに
ないんだとか。だから沖縄みたいな建物は少なく、瓦屋根の木造住
宅ばかり。台風一過と呼べるほど清々しくもなく、土埃が入るから
口から息はしない、鼻から息をしても苦しくない、暑すぎないこの
くらいの天候がちょうどいい。気温三十度を超えては体調を崩す生
徒が続出する、私もそんな生徒の一人だから。
西郷隆盛のことまでたっぷり弁舌を振るった校長先生の挨拶と簡
潔な選手宣誓が終わればラジオ体操開始。スピーカーが壊滅的な音
質なのはどこの学校も同じか。肩をぐるんぐるん。ぴょんぴょん飛
び跳ねるとジャージと湿っぽい空気とどこか、潮の薫りがまとわり
つく。くん、と肩の辺りを嗅いでみても柔軟剤の香りしかせず。焼
肉屋で食事をするのと同じ理屈かもしれない、元から住まう子たち
は気にならないのか、終えた後に男子の誰かが﹁すげ。なんか頭す
ごくすっきりした﹂と言っていた。確かにそうかも。
各クラスの持ち場に椅子を置かない。教室を往復して足の泥を拭
く手間をはしょってか。お花見のときに見かける青いビニールシー
トを敷いてる。グラウンドのトラックを外周するさまは遠目に見れ
とんび
ばミステリーサークル。人間たちなんでこんなことやってんだろう、
と鳶なら不思議に思うかもしれない。
159
﹁ぼさっとしとらんであんたはこっち﹂
肩を強く引かれる。痛い。というか押しやられる。
﹁や、別にいいよ﹂
﹁ちっこいんしあんた後ろやとなんも見えんやろが。つかえとるん
やからはよ座りいっ﹂
そんなちっこいとかでっかい声で言わないでよ。みんなに印象付
けられちゃう。
そんでそこまで参加意欲ないんですけど。
流れで真ん前に進み、どうぞと譲って角を選ぶ。隅っこが私は落
ち着く。座って眺めてみると、トラックで転ぶ走者がいればとばっ
ちりが来そうな臨場感。おべんと食べるとき砂混ざりそうだ。⋮⋮
お昼って教室戻って食べるのか、それともこの場所だろうか。
﹁都倉さん体育祭初めてやよな。分からんことあったらなんやって
訊いて?﹂
お隣のなにがし里香さんはありがたいことを言ってくれる。﹁や
ねえ。宮本先生なんも説明せんかったもんなぁ⋮⋮書き写せーって
だけしか﹂とポニーテールを結わえつつみどりさん。
﹁赤軍と白軍に別れとるがは知っとる?﹂
正座して私、ぶんぶん。
その。
あなたの名前も覚えてないの⋮⋮。
はーっと聞こえよがしのため息が真後ろから。﹁あんった赤のハ
チマキなにしにしとると思ったが? そこのロープも赤。袖つけと
るリボンも赤。じぶんが赤軍なん見とりゃあ分かるやろが。ったく
ー﹂確かにそうですね。どうせならシートも赤白に分ける徹底っぷ
りが欲しかったですね。で﹃軍﹄って呼称もちょっと気にかかる。
バトル的な雰囲気じゃないことを願う。
﹁ほいで偶数の組が赤。奇数が白。二つに別れて総合点が高いのが
勝ち。毎っ年なしてか白が勝つんよ﹂
紅白体育合戦ってとこか。この例えに私自身で納得した。
160
﹁茉莉奈去年も赤やったもんなあ。気合入っとる﹂
﹁おーあたし今年こそ勝つぞー﹂
ノンプレッシャーでどうぞ。ところで私の代わりに競技に出る気
はありませんかね。
﹁私、出る順番覚えてないや⋮⋮﹂メモっとけと宮本先生が言って
いた。
﹁大丈夫やよ? ちゃんと放送で案内かかるし﹂と里香さん。五人
のなかで一番マイルドで話しやすい。﹁タイムテーブルあっちにあ
るんがよ。次の終わったら見に行こ﹂
﹁うん。ありがと﹂
テントを張った大会本部、の奥のホワイトボードを指してくれた
けど私は、一様に扇子を扇ぐ年配の先生方が気にかかった。麦茶飲
んでる中田先生、首からかけたタオルで額ふきふき。始まってもな
いのにあの調子では先が思いやられる。
﹁あ。出てきたよ。始まる﹂
グラウンドの長辺を向かい合わせに二つ設置された本部、近い側
に動きがあった模様。中腰で立つ男子に釣られ、左を向く。
学ラン姿の男子が。
入退場口のほうから、﹁⋮⋮応援団?﹂随分丈の長いハチマキし
てる。
﹁あんた。騎馬戦でもすると思うんか。あの人数で。あの格好で﹂
いちいち嫌味だなあ。
む、と後ろを睨みかけたのが、
﹁あ、れ。⋮⋮て?﹂
赤い細いロープ摘まんで二度見した。
まさかの人物が。
はせがわ
驚きを察してか里香さんは笑って指す。﹁応援団な、クラスから
必ず二人出さなならんの。うちのクラスからは長谷川と﹂
161
︱︱黒髪の彼、蒔田一臣が。
グラウンドの中心に、整列する十二人。の端に立つ。
もっと遠ければ黒のマッチ棒だったろうけど、幸いにしてこの距
離は。
彼がどんな表情をして着こなしているかを把握できる近さにもあ
る。
腰の後ろに両手を組み胸を張り、遠方を睨む態度がどこか反抗的
で。されど統制された美、でもある。肌の白さに対する黒髪のコン
トラスト。
この学校の生徒はみんな似たりよったりの地毛であっても、ほの
かに茶や緑がかるなりオリジナルの色味を持つ。
彼は、青だ。
黒を通り越して青みがかってる。光の具合でそれが分かる。ビジ
ュアル系に憧れる男の子が羨む髪の色合い。
アスリート的な締まった体躯に黒衣を纏うさま。孤高の黒豹︱︱
そんな表現がふさわしい。
﹁⋮⋮こういうの、しなさそうに思えるんだけど﹂
﹁あれ出れば他のん免除になるんよ﹂リレーはあるけどな、とみど
りさん。﹁体育委員決まったって時点で長谷川は決まりやったし。
蒔田はまだ足がなぁ⋮⋮﹂
﹁足?﹂声が大きかったのが自分でも分かる。﹁彼、足がどうかし
たの﹂
﹁しーっ黙れや都倉﹂
諌められる。直後に、どんどん、と太鼓が二回。
いつの間に。
男子の列に正対して台の上に和太鼓が設置されていた。バチを持
つ、私たちと同じジャージ姿が二名。学ランの全員が、せいや、と
拳を天に突き上げ、演舞を開始する。
162
太鼓のリズムに合わせて自適に。
機敏に。
規律を感じさす俊敏さで。
屈んで大地を右の拳で殴りつけ。ひらり、敵から身をかわす動き
で宙を蹴り、からだをひねり後ろ向きに着地。陸上選手のスタート
を切るポーズから立ち上がりざま、気合を発して左の拳を突き出す。
目で追えない、覚えきれないほどの行動が展開され。画一化され
整備された動作。うすい砂の嵐を纏いながらも自らを鼓舞し示すこ
とにおいては不動であり事実、躍動する。からだが。叫び。うなり。
様々な動きを。⋮⋮男の子ってすごいんだなとなんだか感動した。
こういうことって女の子だとさまにならない。一二日で完成できる
ものでもないだろう、他のを免除させるだけの労苦は伴う。
なかでも。
︱︱彼が。
似合いすぎる異質の存在。
眼鏡外れてる。裸眼なのかコンタクトなのか、素を晒す、漆黒の
瞳。真顔で黙々と没頭するひたむさ。開く唇の度合いに何故かどき
りとする。足首まで届く赤い長いハチマキが彼の動きに沿い流麗な
線を描く。彼自身が放つ燃え盛る炎のようでもあり。冷静にくべる
秘めた情熱を肉眼視しているかの錯覚。白い額、散る汗の粒がひか
る彩るエッセンスとなる。
祭りの夜の男たちの、汗にまみれた力強さの美、あれに通じるも
のがある。
⋮⋮歓声のなかでも女の子の声が妙に大きい。どうやら両脇の白
の陣地からもだ。
それが。
止まった。
演者は静止。太鼓の奏者も。
見惚れていた私は夢から叩き起こされた気分になる。
あっちのテントからなにか、⋮⋮出てくる。
163
サンタクロース?
周囲がどよめく。
この、灼熱を過ぎたとはいえこの晩夏に。赤白のだるだるの上下
であごひげは見るに暑苦しい。本当に今日酷暑じゃなくてよかった
よと彼のためにも思う。しかもすごい走ってる、走りにくそうだし。
後方からやってきたサンタさんは、回り込んで和太鼓と和太鼓の
間、つまりは学ラン男子の真ん中の正面に立つ。
しょってたプレゼント袋を下ろす。
⋮⋮あり。
ラジカセだ。
おいちょっと待て、と和太鼓男子が近づくも、辺り見回してスイ
ッチ、オン。
ほわん、ほわん、ほわん、ほわん。
とサンタさん手を挙げて手拍子。和太鼓男子にも身振りでやれと。
仕方ねえなと手拍子。サンタさん観客指す、して手拍子。はい私も
やりました。学ラン男子も怪訝に顔見合わせながら手拍子。
全員始めたのを見て取るとサンタさん大きなマル作ってダッシュ
でGO。⋮⋮いなくなるのかよ。
なんの曲かと思えばウルフルズの﹃ガッツだぜ!!﹄、やっけに
前奏が長かった。
和太鼓男子は既に配置戻り、曲に合わせて太鼓叩いてる。なんと
なくやっぱり上手いと思う。カカカッとサビに合わせて縁を小気味
良く鳴らす。
学ラン男子は、⋮⋮うそ。
ヒゲダンスしてる。
髭つけてる。
蒔田一臣髭ダンスしてる。
横一列になって。
からだくねらせて広げた両手上下さすペンギン歩きのアレ。BG
Mてけてーててーてーんじゃなくても合わせられるんだ。ステップ
164
からして4分の4拍子なら可能なのか。どわははは、と男子を中心
に笑いが巻き起こる。﹁おいなんやあれー﹂志村けんのロン毛のヅ
ラ被って自分を汚さない辺りは流石、蒔田一臣。けどバカ殿が一人。
⋮⋮トータス松本のつもりかも、面長だし。アフロはあれは⋮⋮加
藤茶役? 黒だからカミナリ様ではなさそう。ああアイーンやって
る。もうどうしよう。
みんな大笑いしてるのに私一人いたたまれない気持ちになってた。
蒔田一臣、無駄に動きにキレがある。サビ来ると﹃ガッツだぜ﹄に
合わせて全員が拳二回振るう。曲選はこの理由か。
と、くねくね踊り歩いていたのがカクカクジェンガ。足上げライ
ンダンス始めちゃうし、た、宝塚みたいな。⋮⋮もはやコンセプト
が不明だ。前半部分の華麗さは私のなかで消失した。
ラストは二列に並んでクラッカーパン! と鳴らして終了。マイ
クが近くてちょっと私の心臓に悪かった。
﹁はーい赤軍の応援団のみなさんでしたーお疲れ様でしたー﹂
サンタが再びやってきて髭学ラン男子と袋にゴミ回収して撤収。
⋮⋮最後までシュールだった。
﹁⋮⋮男子の応援っていつもあんな感じなの?﹂
﹁全っ然。去年はもっとちゃーんとキリッと応援しとったよぉ﹂声
色は不満気だが里香さん涙目。彼女爆笑してた。
﹁長谷川くん、だったっけ。彼どこにいたの﹂
﹁サンタ﹂
私が驚く前にみどりさんがけらけら笑い出す。﹁まじ似合いすぎ
やろ。誰やんあの役決めたがは﹂
﹁⋮⋮応援やる男子なーみんな夏休み中もめーっさ練習しとったが
にあいっつは。あれで他のん帳消しっておかしいやんか﹂
似合い過ぎと言われる根拠も分からず。
何故か怒って腕を組む小澤さんにも、長谷川くんって誰? とい
くらなんでも質問できる空気じゃなかったのが。
165
その日のうちに彼を記憶することとなる。
﹁ぼさっとしとらんとほれあんたも応援せんか﹂
ぼさっとしていた私、学ランの演舞を脳内再生していたのがトラ
ックに意識を戻すと、
桜井和貴。
F1みたく顔びゅんと振れる速さかも。ぶっちぎりの一位。
小動物みたく腕を細かく振るフォームは癖があって。
でもあの足のきれいな蹴り返し⋮⋮タイヤみたい。
あんな走りができるひとを羨ましく思う。
顔を上気させて歯を食いしばっても、彼、どこかしなやかで飄々
としていて。一位の列続くときにシャツの胸掴んでぱたぱた﹁あっ
ちー﹂って言ってるのがこっちまで聞こえた。
﹁⋮⋮勿体ないよね。桜井ってせっかく陸上部ながに﹂
﹁え?﹂何故か里香さんの横顔が暗いような。﹁彼陸上部でしょう
? 勿体ないってどういう、﹂
﹁田代ぉーっあんたぁ一位取らんかったらこっちの陣地入れんから
なぁっ﹂
いきなり立ち上がって小澤さん叫ぶ。
﹁応援ってかそれ応援なの⋮⋮﹂恐喝ってか脅迫に近い。
﹁あっ都倉あんたもっ﹂肘掴まれる、立ち上がらされる、痛い。﹁
声出して応援すんねよあんたっあんたがしたほうが効果あんねやか
らっ﹂
なんでそんな気合入ってるか分からないけど。
スタート切る直前の田代くん。こないだドッジボールの隠れ蓑に
したお詫びもかねて私大きく声を張る。
﹁田代くーん頑張ってーっ﹂
彼。
こっち見たと思ったら。
こけた。
166
﹁ほんっとにあいつふっがいないやつやな﹂
小澤さんぶちぶち。徐々に私のなかで彼女のイメージが固まって
きた。ジャイアンの女版ってか和田アキ子だ。田代くん戻ってこな
いし。
﹁女子だーれも一位取っとらんがてどーなっとるがおかしいやろ﹂
⋮⋮次の次の競技で私の出番⋮⋮さて私お昼を気持ちよく食べれる
のか⋮⋮。
﹁一位取ってた子ってみんな運動部なの?﹂
てさりげに顔と名前を一致させる機会を伺っている。
﹁でもないなー﹂
﹁宮沢さんなんて美術部やろ。あの子すっごい短距離速いんよ。一
年ときタイム計るやん、確か七秒四やった﹂
白組の紗優は一位取ってた。カモシカの脚って呼ばれる脚ってあ
あいう足だと思う。夏に見た素足、細くて締まっててほどよく筋肉
がついてて。
でもその感じは黒髪の彼のとは違う、
⋮⋮
ここまで思い至ってなんだか自分で恥ずかしくなった。
﹁あいつかてなにっしに美術部入っとるが。作品も出さんし。部活
真面目にやらんやつあたしは好かんっ﹂
ふんっ、と鼻鳴らす小澤さん。の横で私顔赤くして咳払いする。
﹁あー宮沢さんまっじでかーわいーおれあのハチマキになりてえー﹂
おっと。
沸点に触れそうな台詞が。
誰。
﹁たーなべぇええっ﹂
ほら案の定鬼の形相ですよ。
﹁足はええしかわえーしどっかのうるせーババアとおーちがいー﹂
﹁ぬわんやとぉっ。あんっな軽い女のどこがいいんっ﹂
167
﹁真咲ぃー遊びに来たよぉーっ﹂
このタイミングで。
私だけじゃなくって田辺くん小澤さん戻ってきた田代くんまでも
凝固。
﹁さ、紗優⋮⋮﹂
改めて見ると紗優って。
顔すっぴんで頭ちょんまげにしててジャージの裾七分丈に折りあ
げててTシャツの表に﹃宮沢﹄ってでっかく名札のついたダサいジ
ャージ姿であっても。
美少女アイドルのコスプレ以上に美しかった。
肩落としてビニールシート出てく田辺くん。座る、⋮⋮小澤さん。
﹁ここ座っていい?﹂﹁えーよ﹂と空けてあげてる。
譲られたスペースに横座りすると紗優、
﹁軽いっつうんは言い過ぎ。あたしはいつでも真剣なんやから﹂
怒ったりなじったりではなく、色っぽく微笑する。⋮⋮私が男子
なら骨抜きだ。
さかづき
﹁あんたの真剣は一生のうちに何回あるんや﹂で小澤さんそのあぐ
らかいて片膝立てて肘つく座り方。戦国武将だよ。杯置いてたら完
全だよ。そんなポーズに釣られてか紗優、﹁光源氏やていつでも真
剣やってんよ﹂
⋮⋮架空の人物の名を出す。
﹁それに、好きになれるうちが女の華。小澤ていま恋しとらんの?﹂
紗優、声でっかい。ところで私グラウンドに背を向けてる。
﹁あんたアホか。ったくつき合っとられんわ﹂
そう言いつつも小澤さん。応援忘れて対話する意欲があるらしい。
とうこう
訊いてもええか、と断った上で声を潜める。﹁⋮⋮どこがよかった
ん。東工の香川。手癖悪いって有名やったがいねあいつ﹂
東工とはこの近くの工業高校。馬鹿ばっかとクラスの誰かが言っ
ていた。
﹁んーあたしの信念は、終わった恋にも誇りを持つことやからなー﹂
168
誇り? とおうむ返しする小澤さんを見て前髪を流し、
﹁だって。別れたからって嫌いになろうとは思わん。好きやからつ
き合うんよ。元彼をボロクソ言うんは選んだ自分を蔑むことやわ。
女として恥ずかしい﹂
⋮⋮紗優。
どこでそんな恋愛哲学を。
なんせ私はそこまでの深い経験をしていない。嫌うほどに関わっ
たことがない。小澤さんも同感なのかはあ、と気の抜けた声を出す。
﹁誰やっていいとこも悪いとこもあるやろ? 要はどこを見るかな
んよ﹂紗優が私に気づいて目だけで微笑む。﹁小澤やて好みでもな
い男に惚れたことないん? タイプやなくってもきっかけさえあれ
ば惚れられるもんなんよ?﹂
﹃天国と地獄﹄をBGMにガールズトーク。どどどどっと足音がす
ごい。
﹁⋮⋮きっかけねえ﹂
﹁あんた一目惚れもしたことないん﹂
きぃん、と上空で飛行機が飛ぶ。
﹁ないわないない。あんたっていぃつもそんなことしか考えとらん
がか﹂
﹁でもないよ。やけど夢見るんは自由やろ。乙女の特権。⋮⋮なん
っかこんな話しとったら彼氏欲しなってきた。あードラマみたいな
恋したーい偶然重なりまくる恋がしたーい! もーさ、東工も緑高
も知っとる男ばっかでつまらんよ﹂
二人は、見ていない。
とおい雲に細い筋が走るのを。
ちら、ちら、となにかの合図みたく光る点。
太陽を求めるイカロス。
轟音も周囲の変化も忘れさす乙女たちの憧れ。
私だって。
誰かに攫われる恋とか、近づいて溶かされる想い。導線が焼き切
169
れる熱愛、︱︱できるものならばしてみたい。
﹁ドラマみたいってどういうん。街で見かけたかっこいいやつが同
じ学校の転校生でその後同じクラスで再会するとか? ほんでそい
つと同居するようなるってやつ?﹂
小澤さん絶対少女漫画読み込んでる。
﹁いいねーピンチになったとこ必ず助けに入る男。倒れたとこ介抱
するとかされてみたいわぁー﹂
なにげなくひかりと影の行方を追った、
つもりだった。
﹁人一倍頑丈やからあたしそういうんないんよ。いっぺんでも集会
倒れるんしてみたいんけど﹂
﹁あたしもー。お互い辛いなあー。この場で一番それ近いっつうた
ら、﹂
一点をとらえて。
逃せなくなった。
﹁ちょっと。ごめん私トイレ行ってくるっ﹂
スニーカー履ききらないままに駆け出す。
え、なに、って戸惑った紗優、あんたこのあと騎馬戦あんねやか
らとっとと戻ってきいやって小澤さんが叫ぶのを置いてきぼりにし
て。
170
︵2︶
走る。
ひた走る。
さっきの百メートル走より全速力でこの中距離を。段に足をかけ
る度に、あとでがくがくするだろうなって意識は働いたけれど私。
このときを逃したくなかった。
廊下の暗い奥へ突進して右に折れた段駆けのぼりオレンジの扉を
力任せに叩く。
そこに。
﹁い、⋮⋮たっ⋮⋮﹂
息があがるからだが跳び箱されるように折れ曲がる膝を支える手
だっていまだ震えている。
けど。
目に、線の鮮やかさは残っている。
それと、詰襟の制服。
飛行機を追いかけて一瞬、見えた気がした。
赤い線を、この屋上に。
肺を押さえ身を起こす。息が、⋮⋮ままならない。激しい開閉音
にも突然の来訪者の荒い呼吸にも黒い背中は動じない。
風になされるがまま。
赤い線が空を泳ぐ。舞に纏わるよりも自然なリズムで。
降りかけて私、気づいた。
靴下だった。
内履きを履く間も惜しかった。
⋮⋮私は。
気になってしまうなんておかしいのかもしれない。
近づこうとする気持ちが変なのかもしれない。
171
でも。
以前とは違い煙草は吸わない彼の横に、以前と同じように近づい
て、みる。
勇気を伴う。
付け髭は外されてる。
︱︱眼鏡も。
素顔を晒すその端正な横顔は、
﹁⋮⋮何しに来た﹂
声色も内容も突き放すものだった。﹁あの。お詫びと。⋮⋮お礼
を。言いに﹂
私ノートのこととかなんにもお礼、言ってない。
彼はいつも椅子の音が消えきらないうちに教室を後にする。教室
だと近寄るなオーラを漂わす。いじれるのって桜井和貴だけな感じ
だ。
﹁礼など言われる筋合いがない﹂
﹁この前⋮⋮酷いこと、言ったと思って﹂
﹁俺の足のことでも聞いたのか?﹂嘲る種の息を吐く。﹁同情され
んのは嫌いなんだろ。だったら、﹂
﹁誰も。何にも言ってないっ﹂
﹁だったら﹂金網から手を離し初めて向き直る。
﹁んな顔すんじゃねえ﹂
責められてるようで。
眼光が鋭い。
私は。
まともに目を合わせられず。
学ランの正面素通りして自分の手元を頼る。﹁⋮⋮足。気にして
たから。夏に学校で会ったとき、庇ってる感じがして⋮⋮段上がる
ときこう、引きずってたし﹂
なんでこんなしどろもどろなのだろう。
﹁みんな、一言も言わないわけじゃなかったけど、言いかけたひと
172
を止めたりしてた﹂あの小澤さんですらも二回。﹁触れちゃいけな
いって空気は感じた。だから、こっそり誰かに聞き直したりもした
くなかった﹂
言い訳じみてる。
弱々しい。
自己嫌悪を味わう、が。
﹁よく、⋮⋮見てんだな﹂
感心したトーン。
それだけで私のなかに、嬉しい、って気持ちが沸いた。
息を吸う、肺のなかにその空気が満ちる気がした。緑の、におい。
下からだ。さっきまで彼が眺めていただろう眼下の景色。群集する
瓦屋根、真下の小体育館、右にからだ捻れば体育祭に湧くグラウン
ド。⋮⋮このなかのどれを選んでいたのだろう。
﹁こんな風に。見てるのが私、好きだったの﹂
﹁⋮⋮あ?﹂
まぶたを下ろせばすぐにも再生できる。
﹁マックの二階からいつも眺めてたの﹂人の流れとか動きを私は。
﹁ガラス窓で百八十度くらいは見えて。正面のジーンズ屋さんに銀
行が二つもある大通りを、色んなひとが行き交ってて。同じ高校生
でも制服の着方、ギャルやオタクみたく露骨じゃなくっても、趣味
嗜好に絡んで違いが出るし。合コン行く直前の大学生は口紅が濃い
し、食材買い足しに走るコックさん。あのお店のひと結構な比率で
見かけるなあとか。いつも同じ時間にATM寄るスーツのおじさん、
不倫しててお札入れ切る前に銀行出てきょろきょろしてるの、周り
の視線がよっぽど気になるんだなあ、って思ったり。そういうのず
っと眺めてて⋮⋮こんな人生歩んでるのかなってのを想像した﹂
彼の手が金網に触れ、かしゃん、と動いた。
﹁色んなひとが動いて。働いてて。みんな、懸命に生きてるって気
づける⋮⋮私だけじゃないって思えるから。なんとなく好きだった
んだよね﹂
173
蟻みたいな人混みの傍観。
この町で叶わないことだけれど。
自嘲的な意味合いを込めて視線を横に流した、つもりが。
笑っていた。
彼が、私を見て。
ほのかに口の端があがる程度。
かすかに息を吐く程度が。
それが。
苦しい鼓動が心臓を叩く。
さっきの和太鼓よりもよっぽど。
やばい。
やばい。
風穴でも開いたのだろうかそれとも心臓病か?
﹁夏会った日、学校に退部届を出しに来ていた﹂胸を押さえる挙動
不審な女から顔を戻し、笑みを口許に仕舞うと、
﹁サッカー部のだ﹂
彼は、彼を語る。
他人を語るにも自分のことであっても彼、表情が変わらない。
﹁六月の総体で怪我して選手としては使い物にならない。同じ所を
何度もやっているからな﹂
淡々と事実を述べる。
その口調がかえって、私には悲しみを助長して聞こえた。
ふっと下をみやると、﹁障害物。女子が始まってる。おまえ次、
出番だろ?﹂
﹁やっば﹂
小澤さんの怒る姿が容易に想像できる。すっかり忘れてた。
﹁私行くね﹂
﹁ああ﹂
174
走りだす。
けど。
引っかかるものがあって。
胸の奥に小さな小さなしこり。
彼、手を軽く振る、またもとの姿勢に戻る。
独り離れて違うものを眺めるだけの。
自由でもあり孤独な後ろ姿。
﹃やってみ?﹄
ちょっと前までの自分と重なって見えた。
⋮⋮でも。
彼、選んでるのだし。
でも。私。
気にかかってしまうのだし。
頭のなかで、放っておけ、と叫ぶ共感性と、なにか声かけてあげ
たら、と諭す優等生が喧嘩をする。悩んでる時間も惜しいほど時間
がない、すぐ行かなきゃ間に合わないのに。
結論、前者が負けた。
ドアノブを掴んだところで思い切って叫んだ。
﹁こんなとこに引きこもってないで下でみんなと見なよっ﹂
﹁誰が、引きこもりだ﹂
睨まれてる思いっきし。青い冷徹なオーラが見える気がする。
と顔引きつらせる私に対して、彼は思いのほか、真顔で、
﹁他に聞きたいことがあれば、和貴に聞け。
⋮⋮⋮⋮
それから競技﹂
以降の言葉はドアを閉めて駆け出した私に聞き取れなかった。
175
﹁ほんっとやる気ないんねあんたはっ遅れてきてしかもすぐ取られ
るってどーゆーつもりやがっ﹂
﹁もーあんた落ち着きぃや。都倉さんやて頑張っとってんから﹂
﹁あんたやて悔しゅうないんか、都倉担いで走っとったがやろっ﹂
﹁んーでもまあ⋮⋮﹂
おにぎりを食べる。
私も。
具は豚の角煮。
空気全般に砂が混じってる感じがする。口のなかがちょっとじゃ
り、という。
そんなことよりもちょっと気まずい。
惨敗だった。
出場ギリギリに入退場口に着いた私。走り寄ってぜーはー待機列
の前方に回り、﹁遅いわっ!﹂と一喝されつつ騎馬戦突入。
秒殺だった。
息整わないうちに三年生に背後とハチマキ取られた。たぶん最初
の敗者だった。﹁あっち、あっち﹂と方向音痴な私が闇雲な指示を
出しただけで終了。
足となるひとは状況が分からない、女子担ぐの大変なのに。頑張
ってた小澤さんが怒るのも無理はない。というわけでやはり気まず
いランチタイムとなった。
﹁ちょっとトイレ行ってくるね﹂
みんな食べ終わってないけど私一個だけ食べてビニールシートを
離れる。
﹁⋮⋮便所、小体育館の裏あっからな﹂
唐揚げばくつきながら小澤さん。
﹁うん﹂
なんだかんだで彼女親切だ。
冷たい蛇口。太陽の影にある小さい方の体育館。あんま使わない
176
よって茶髪くんが言ってた。頑張ってうえ向くと屋上がぎりぎり視
界に入る。
お昼前になって姿を現した。
保健室で寝てた、て単語だけ聞こえた。⋮⋮田中先生テントの下
で日傘差してますけど。
こんな。
違うこと考えてて競技に集中せずみんなに迷惑かけてる。
蛇口を上向きにして口をゆすぐ。思ったより冷たい。下に向けて
顔を強く洗う。叩くくらい、水が跳ねるくらい。
集中しろ。
しばらくそれしてるとこころのなかもすこし洗い流せた気がした。
ポケットからハンカチ出し、洗面台に背をつけて水滴を拭う。
﹁どったの?﹂
目を開く。
すんごいどアップ。
近すぎてピントが合わない。
グレムリンみたいな、
﹁ふごわっ﹂
鼻から息吐いてハンカチ浮いた。
くはっ、と目の前のひとは笑う。
驚かしといて愉しむ反応。水平にしてた顔の向きを戻すと、お腹
くつくつと押さえて彼、﹁普段落ち着いてんのにね、なんで変な擬
声語ばっか出すんだろうね﹂
﹁近いのよ﹂しっしと払う。
﹁そのうち病みつきになるよ﹂
顔に自信を持つひとならではの発言。
濡れた小さな水たまりを気にして後ずさりながら、
﹁暗い顔してるけどなんか、あった?﹂
177
笑顔のまま核心をついてきた。
浮かぶ、たった一人。
この後ろのはるか屋上に、残してきた。
気になるって気持ちを。
解消された。
疑問を。
聞いてしまった。
聞いてしまったけど⋮⋮よかったのだろうか。
﹃和貴に聞け﹄
あのひとの声がリフレインする。
⋮⋮私は。
﹁もっしもーし?﹂手が。揺れてる。すごく近くに。﹁どこ見てん
のかなー真咲さーん﹂
所在を確かめるべく振られる手だった。﹁まーたどっかトリップ
しとったよ﹂
私はまた行っていたらしい。
考えごとのできる迷いの森へ。
後ろ手に触れていた縁から離れ、泥で濡れた場所から離れてみる。
﹁なんか。悩んでるんなら相談してよ。僕、こう見えても広いよキ
ャパ﹂
学園を囲う鬱蒼とした木々。
後ろから子リスさんの甘い誘惑。
翠緑の立てる影が、蒼穹の作る光が、そんな妄想を駆り立てる。
手をかざし葉の間から漏れる太陽を頼ろうと答えは、見えてこな
い。
﹁紗優が来たとき元気そうにしとったんに。お昼ごはんにでも当た
った?﹂
﹁別に﹂豚の角煮は勿論火が通ってた。
﹁じゃーなんに。誰に当たったのかなあ?﹂
彼。私と木々の間に入ると思索にふける探偵みたく、うろうろと
178
往復する。
﹁紗優。小澤さん。と取り巻きちゃん。⋮⋮でもなかったらみやも
っちゃん?﹂
私の交友関係はなんと狭いのだ。
﹁じゃあ。マキかなあ?﹂
いきなり。
ずばり言われた。
肩がびくっと震えてしまった。
当たりだね? とその瞳が口が微笑む。なんて分かりやすいひと
なんだろう自分。
﹁その。彼から。怪我して、サッカー部辞めたって聞いたの﹂
あなたに学校のこと案内して貰った日。退部届出しに来てたって
⋮⋮。
ため息混じりで正直にこぼした。
﹁え。聞いたってそれ。マキから? 直接!?﹂
透き通る丸い瞳をさらに大きく見開かせてるけど、⋮⋮そんなに
驚くことなのだろうか。退部届のタイミングは別として怪我のこと
なら私以外の全員が知ってる。
﹁⋮⋮ふぅーん﹂と腕組みをしてちょっときつい目をすると。
﹁んーマキのことだから片言で全然分かんなかったでしょう。僕が
知ってる範囲でよければ。いくらでも彼のこと﹂
教えたげるよ。
笑いかけられたときに私は。
隠し持つ密かなものを看破された気がした。
無邪気な笑みを放つ彼が紡ぎ出す、仏頂面の彼の物語。
私は浮かび上がる動揺を押し抱くようにして、固唾を飲んで言葉
を待った。
179
︵3︶
ラインに指先をつき位置につきよーい。
鳴ったな、ってタイミングで地を蹴る。
正しいスタートの切り方は分からない。
けどこの競技、俊足でなくとも勝つ見込みはある。
ひた走って長机に直進する。三番手だ。箱に手を突っ込んで紙を
一枚引き出す。
⋮⋮
借り﹃物﹄競争だったよね?
すぐそこは三年生の白軍の陣地で。知り合いが少ないとこういう
とき不便かも。とせんぱーいって声かけてる女子横目に見つつ思う。
駆けながら探すのは、赤軍で知ってるひと、か声かけれる感じのひ
と。
﹁うぉーい都倉ぁー﹂
﹁紙なんやったー﹂
﹁見してみー﹂
助かった。
救援求めるみたく手を振る二年四組のクラスメイト。助かったの
は私のほうだった。
﹁あのっ眼鏡のひとっ。眼鏡かけてるひと誰かいないっ?﹂
駆け寄ってみると。あれ。
⋮⋮田舎ってみんな視力がいいのかな。
﹁長谷川は﹂
﹁あいつ。ゴール後の係りやっとる。参加できんがよ﹂
﹁おい蒔田。起きれや。おまえ眼鏡ぇ﹂
﹁⋮⋮教室置いてきた。かつけられっとあぶねーし﹂
体育座りで突っ伏してた彼が顔を起こすとノン眼鏡、あぁーっと
180
みんなが嘆きの声をあげた。おい取って来いっと無茶を言う男子も。
てかさりげに私への嫌味含まれてませんか。
眼鏡のひとは二年四組にもうお一方おられたらしい。
﹁ああっみやもっちゃんっ﹂
誰かが指さすと、﹁せえぇーのっ﹂
みやもっちゃーんっ!
五六人が揃って叫ぶ。田中先生と談笑しつつ通りがかった風の宮
本先生、はやく、はやくーっと引っ張りこまれながらにビニールシ
ート土足で踏みまくって最前線に追いやられる。
﹁宮本先生、私と一緒に来てください。お願いします﹂
ちょっと困ったように片方の肩をすくめ、
﹁私は足は速くないからな。期待するな﹂
﹁先生、偶然ですね。私もです﹂
ロープくぐりながら宮本先生笑った。
﹃中学、⋮⋮二年ときだったかな。靭帯切ったんだって。試合中相
手のスパイク入ってさ。このへん。傷残ってるから相当大きい怪我
だったんだろね。僕中学違うからあんま詳しくはない。そんでも、
巧いやつがおるってこっちでも噂になってたな。なんせあの外見し
ょ? 大会で当たったやつがね、隣の席の山田っつんだけどさ、ド
リブル仕掛けられてんけど目のフェイントであっさりヤられておれ
まるきし動けんかった、て言ってた。海野のカフーって呼ばれてた
んだよ? あ知らない。じゃ流していいやこの部分は﹄
借り物は手に持つか掴んでくださーいってアナウンスがかかる。
掴むポロシャツはすこし位置が高い。
﹃そんでま高校入ってからも続けてたのが、また怪我をした。今度
は自爆。そもそもが故障がちでさ、捻挫と半月板損傷とヒザに水溜
まってるとか色々重なったのがきたんだろうね。夏休みちょっと前
に入院してさ。医者に。軽い運動はいいけど。
181
サッカーみたいなスポーツは二度とできない。
したら今後いっさい歩く保証は持たない、⋮⋮て、言われたんだ
って。要するに死の宣告﹄
どこを選び走る。
私の足は。
正しく走れてる。
進めてるはず、なのに。
﹃マキがあーゆー黙りっぱなのは前々から。それでもま。直後は。
⋮⋮落ち込んでる節はあったな。そりゃそうだよ。必死に打ち込ん
でたこと諦めなきゃなんないなんてさ。祭りんときあいつの腕、見
たでしょ? 毎日やってないとあーゆー筋肉はつかない﹄
夏休みじゅうずっと私なにしてた?
落ち込んでるだけ。
嘆いてるだけで。
﹃あこんな話聞いたからって腫れ物触るよーな扱いはしないように
ね。あいつそーゆーのいっちゃん苦手だと思うし。見てて思ったん
だけどさー悩まずにどーんとぶつかってくのがいいよ? ぶすーっ
としてて怖ーいオランウータンだけんどあいつ、ホントいいやつだ
からさ。誰か蹴落とそーとか考えたことないんだろね。いまどき珍
しい純粋な性格してるよ。⋮⋮ま、真咲さんのことなら僕は心配し
てない。あいつの口割らせる女の子なんてそうはいないし﹄
なんだ。
本気出せばこんなに走れるんだ。
182
真実は重すぎてどう、受け止めたらいいのか分からない。
白いテープを切るのは生まれて初めてに思う。
﹁一位ですね、おめでとうございます。確認しますので借り物の書
かれた用紙を出して頂けますか﹂
ぼっさぼさの髪かきながらやってきた男子。青白く痩せてて青い
着物でも着てればナイーブな芥川か金田一っぽいはず、なんだけど。
おー頑張っとんなー長谷川ぁーと宮本先生がばしばし肩叩いてる。
彼が噂の、⋮⋮長谷川くん。
失礼ながら確かに演舞よりもカーネルサンダース風の服装が似合
いの体型だ。青いでっかいキングファイルのなかになんかメモ取っ
てる。ぶあつ。そして顔上げた。
牛乳瓶の底ばりに厚い眼鏡。ぶっとい黒縁の。
なんてかその。
立て続けに見目形のいい子二人を凝視しただけに違いが分かるっ
ていうか、お洒落男子からほど遠いのは髪型の感じで分かる。リン
スしてなさそ。私的にオタクに分類される。
目が合うと、ふっと和らぐ。その感じは意外にも紳士的だった。
﹁ああ⋮⋮貴女が転校生の都倉さんでしたね。どうでしょう、こち
らでの学校生活には慣れましたか?﹂
おいおい同じクラスだよ。
﹁⋮⋮きみが慣れさせる側だろ﹂﹁あっうふふ、そうでしたね。宮
本先生、いい走りでしたよ﹂﹁おれ明日確実に筋肉痛だ⋮⋮﹂
二人のマッタリした会話流して私ホワイトボードに向かう。だっ
て午後も出番目白押し。長谷川くんと果たしてどちらが忙しい。え
えとこの⋮⋮借り物競争が終わると白軍の応援が始まり、三人四脚、
部活対抗リレー、クラス対抗リレー⋮⋮
応援と部活対抗リレー以外の全部に出場する自分。
なにこの不公平。
二年四組の陣地に引き返す気分の重たさ。戻ってまた逆っかわの
183
入退場口に行くんだ。もうあそこ行きたくない、よう。はああ。
てか借り物競争のくせにマイケル・ジャクソンのスリラーってど
んな趣味? もちっと焦らせる曲選が定番なのにな。あまた曲変わ
った。
﹁まさきー﹂
一瞬。
自分が呼ばれたのかと思った。いやいや。男の子の名前でポピュ
ラーだし。将生とか。で男の子の場合は﹃ま﹄にアクセントをつけ
るけど私の場合は﹃さ﹄を強調するんだ。
﹁まさきさーん﹂
そそ。
うんいまのばっちし。
て、
うん!?
草ぼうぼうの地面から顔、あげる。右に目をやる。人だかり、さ
っきの入退場口から半周した辺り、まだ一年生のエリア。ビニール
シートとシートの隙間のスニーカー避け飛び石で前列に進む。白い
ロープ越しのグラウンドで。
﹁とくらまさきぃー﹂
仕舞いにはフルネームを呼び捨てだ。
⋮⋮彼。借り物競争にも出てるんだっけ。ミスチョイス。こうい
うときちょっと足のとろい子を配置する。
まるっきり逆方向叫んでたっぽい彼が、こちらを探すと。
止まる。
見つかってしまった。
名指しされてるし出ないわけに行かないと思う。
﹁うぉおーいまさきさぁーん﹂
また走るのか私。もうやだ⋮⋮。
いちお確認。自分を指してみる。ぶんぶん、縦に顔を振る。遠目
にも小動物だ彼。
184
で私を指す。
人差し指一本。⋮⋮You。
その場で足踏み、腕細かく振る。⋮⋮Run。
手のひら上にしてくいくい、とその指を彼は自分に向ける。⋮⋮
Come?
なんだか分からないけどとにかく来いってことね。
ちょっとコミカルなジェスチャーに笑いつつロープをくぐる。
と前方への注意が足らなかった。
勢いのいい男子とぶつかりそうになる。
というのも見られていたらしく、近寄るなり、
﹁もー危なっかしいなあ真咲さんてば。ほら﹂
手のひらをうえに差し出される。
ふわっふわの髪にハチマキを巻いた、八十年代のローラースケー
ト履いてくるくる回るアイドル的な容姿の彼が。
﹁んなっ﹂
全校生徒の前で手を繋ぐなんて。
あでも掴むって言われてたもん。
﹁えと﹂躊躇してる間に、
﹁いいから﹂
︱︱当たり前なんだけど男の子の手で。私よりも大きくってすこ
し、汗ばんでいて。熱くて、ぎゅう、と握られると心臓に痛い、く
らいで。
遊びを愉しむ猫の瞳が肩越しに振り返る。
﹁いま一位のやつゴールした﹂軽く息をつく。前に戻り冷静な背中
が、﹁︱︱本気で走るよ?﹂
﹁は、⋮⋮﹂
いいいいいいっ!
速い速い速すぎる無理無理無理、
繋いだ手伸びきってる、うそびよーんと伸びてるもうちぎれそう。
なにこれ同じ人間なの。足の回転速度が違い、すぎる。
185
﹃僕はね。勝負ごとで負けるのが嫌いなんだ﹄
さっき一位取って調子こいてました自分短距離ならいけるかもっ
て密かに思ってましたごめんなさい。
﹁ぎゃ、ぎゃ、も、ちょっ、落と、し、さく、ぎゃああ﹂
絶叫が響き渡った。
﹁⋮⋮はい、三位の方はこちらにお並びください。二年四組ですね。
おめでとうございます﹂
さきほどと同じく長谷川体育委員に出迎えられる⋮⋮なにがめで
たいのだろう、三位だよ? 小澤さん絶対切れてるよ。茶髪くん一
人だったら確実に一位取れてた。
⋮⋮彼が私を見つけるまで時間がかかったのと。あのあと彼がス
ピードを緩めてくれたのを考えれば結果は順当いやそれよりもだい
ぶマシだったのだけど。
﹁確認しますので借り物の用紙を出して頂けますか﹂
キングファイル開いてる長谷川くん。に茶髪くん渡す。で長谷川
くん広げる。
瞳孔が開く。
おや、とつぶやく。
目をあげる。
私をちらと見る。
再び紙に戻る。
鼻の穴が、膨らんだ。
﹁あの曲が入ったCDを貸したとき桜井くん、﹃チェリーコーラの
歌﹄なんて言って馬鹿にされてましたよね。その割りにはどうでし
ょう。ぴったりじゃないですか﹂
﹁⋮⋮なんの話?﹂
﹁都倉さんご存知ありませんでしたか、あの曲は﹂
186
言い切る前に茶髪くんがグーで長谷川くん叩いてた。
軽くとはいえ頭シバかれたら痛いはず。怒らない奇特な人種の長
谷川くんは笑みをキープしたまま、﹁それでは四位以下の確認に行
って参ります﹂と去ってしまった。⋮⋮話し方もやけにマイルドだ。
彼こそどこ出身なのだろう、訛りがないし。
一つ。
気になることが。
﹁お題、いったいなんだったの?﹂
髪わしゃわしゃっとかき回してる彼、下から覗き込んでみたら﹁
んのわっ﹂て彼こそ飛び跳ねた。驚きすぎなんだけど。
﹁紙になんて書かれてたの﹂
﹁う﹂茶色い、ガラス玉の瞳が迷いの孤を描いて。沈黙。沈黙。の
後に、
﹁転校生﹂
私は噴きだした。
珍しくも彼いたたまれないって感じでくるり背を向ける。
﹁全校生徒でたった一人じゃない。私がトイレとか行ってたらゴー
ルできなかったでしょ。それに、﹂
からかって驚かす心境ってこんなものなのだろう。
﹁嘘がつけないひとだね、桜井くん﹂
かかと浮かせたまま止まる右の足は。
動揺でだ。
﹁⋮⋮人間は、考えるときには右上を、嘘をつく場合には左上に目
線をやるものなの。瞳の動きを追ってれば大体分かるよ。逆側の脳
を使うとか聞いたことあるでしょう? いま、思いっきり左上を見
てた﹂
﹁僕、左利きだから﹂
左手がひらひらと泳ぐも、
﹁残念。利き手は関係ないの﹂
﹁覚えとく﹂
187
振り返った彼は、まだ頬に赤みを残していた。
﹁それから。真咲さんね﹂
真顔に切り替わる。
彼、表情の変化が多彩。
と思ってる合間にどんどん接近され、
ちか。
腕、回される。
やだうそっ、
目をつぶったときに。
頭の後ろに両手が添えられる気配。
砂っぽいなかに彼の汗のにおいと。かすかにフローラルの花。数
センチ越しの腕の、体温。
なにをされるのかと思った私はさておいてハチマキの後ろの結び
目を直してくれた。
けどその間。
細身だけれど鍛えられた感じの腕と腕に頭が挟まれていて、目の
前に、直接着たシャツの、胸板。顔、上げてみれば整った顔立ち。
どこ見ても逃れようがなく。
まぶた閉ざしても彼のにおいが入り込む。
どこ見ればどこから息吸えばいいか分からない。
たす、助けてください。
息絶え絶えの私に対し。
︱︱桜井くんじゃなくって、
﹁和貴でいいよ﹂
やっぱり花開くように微笑むんだ。
188
︵4︶
凛々しい剣道着の女子、走りに不向きな袴ながらも現在トップ。
次点は野球バットを持つ野球着の男子。追う、ラケットを手にした
卓球部員。テニススコートの女子から周回遅れでドンケツのチアリ
ーダーは吹奏楽部のマーチングのときの服装だそうだ。
赤いロープ一本隔てて向こうの世界。
異色の衣装で蠢く人々を眺めていた。
ちらと後ろ見る。さっきまで賑わっていたここはがらんどう。ス
ペース余らせてそれぞれが固まらずに座っている。
私の位置は変わらず。真ん中に長谷川くん。離れて右に和貴。後
方の対角線上に蒔田一臣。
﹁⋮⋮きみらは応援すらしないのか﹂
あっと。
宮本先生だった。靴脱いで、じゃりっじゃりなビニールシートを
進み、長谷川くんの横を選んで体育座りをする。
どかっと勢い任せに。
ちょっとご機嫌斜め。
﹁きみたち全員。グランド見てみろ。リレー出とらんがは自分らだ
けだぞ﹂
円を描くよう見回してみると、確かに。入退場口を除けば無人だ。
それとテント下で涼む先生方。
そして私気がついた。
小言を述べるために来たんだと。
﹁なあ長谷川。いい加減部活入らんか﹂
﹁結構です﹂
Noの意味に思う。﹁ったく。全校で部活入っとらんのはきみた
ちだけなんやぞ⋮⋮﹂
189
膝揃えた三角座りしてた和貴が、目が合うとふふっと笑った。
﹁みやもっちゃんねー管理不行き届きでコッテリ絞られてんの﹂で
なんで笑顔? ﹁職員会議のたんびにさー二年四組だけですよっ!
てガミガミ叱られんだよねー会議室こないだ通りかかったら廊下
まで響いてた。かっわいそーにぃ﹂
首から下げたハチマキ交互に引っ張ってアハハと和貴。
宮本先生の冷たく細まる目を私初めて見る。
﹁⋮⋮きみが幽霊部員というのを私が知らないとでも思っているの
か﹂
︱︱幽霊部員?
﹁おい蒔田。自分は例外と思っとるかもしれんが、文化部でもいい
からとにかくなんか入れ﹂
﹁はい﹂
答えるものの明後日の方向向いてる、いかにも口先だけ。
﹁都倉﹂あやっぱり来た。﹁きみも。前に入ってた部活を続ければ
いいじゃないか﹂
内申書見てないんですか。
﹁⋮⋮先生私帰宅部でした﹂
うずくまって見えなくなる。
そんな落ち込まなくっても。
﹁元気出してください宮本先生﹂頬杖ついてリレー眺めてた長谷川
くん、ふと隣に顔を傾け。
﹁ここにいる僕たちでパソコン部を作りますから﹂
はえ?
予想外の展開。和貴も目を丸くしてる。
だが鋭い眼光飛ばすのが一名いた。
190
⋮⋮蒔田一臣。
めちゃ、くちゃ、睨んでる。長谷川くんを睨む延長に位置する私、
もろに見てひやりとする。
だがそんな殺気をもろともせず、微笑絶やさずの勇敢な男がそこ
にはいた。
﹁僕は今回、体育委員をしていまして。裏方をして驚きました。全
てペーパー管理なのですね。名簿競技プログラム何から何まで。何
百人と人が動く所を手書きで行うのですから当然、ミスが出る。記
録集計を手動で行うだなんて致命的ですね。一太郎かエクセルでも
使えばかなり違うはずなのですが。⋮⋮かく言う僕もパソコン本体
は少々扱いますが、ソフトには疎いです。学校行事の手伝いや啓蒙
活動を通じて、パソコンの扱いに慣れ。情報処理能力を高められれ
ばいいのではないかと﹂
ソフトぉ? と和貴がせせら笑う。﹁エロゲー専のくせによくゆ
ーよ﹂
﹁⋮⋮桜井くん﹂後頭部で伝わるなんとなく威圧感。﹁ご自分の立
場をわきまえて頂けますか﹂
声色でも威圧してる。
静かな喋りこそが効果的なのを彼は、知ってる。
と。
なにか思い出したように。﹁ああ、都倉さん﹂上ずった声で顎を
つまみながら。﹁おそらく彼は最初から貴女のことを名前で呼んで
いたはずです。それはですね、﹂
素早く、
動く影があった。
﹁よっけーなことゆうなっ﹂
掴みかかる和貴を阻んだのは宮本先生、だった。
喧嘩、になりそうな騒ぎに私驚く。
いったいなにがあったの?
落ち着けーどーどー、と座らせる宮本先生。呑気な声で雰囲気和
191
げてるけれど和貴⋮⋮なんか怒ってる。激昂を黙ることで抑えてる
ような。
﹁おい。どういうつもりだ﹂
︱︱そうだ、
﹁蒔田くんもここに居合わせたからには強制参加ですよ? Noと
は言わせません﹂
彼は。
やらねえ、と断言するか、或いは無視決め込むかと思ったのに。
﹁部活はもう、⋮⋮たくさんだ﹂
乾いた声に、
抑えた瞳のいろ。
分かる、彼がなにを思っているのか。
私の胸の奥は痛んだ。
こんな彼を見れば。女子なら誰だってそう感じるだろうに、⋮⋮
男子だから違うのか。長谷川くんは同情の片鱗も浮かばせず。
﹁入ってくださらないと貴方が困ったことになりますよ?﹂
それ以上を言おうとするのを阻むように、
ゆっくりとした動きで立てた指二本を唇へと運び、
ふう、
と外す。
投げキッス。
違う。
悠然とスライドするあの動き、は︱︱
﹁た﹂
危うく言いかけた。目で確かめる宮本先生の位置を。幸いにして
和貴の頭よしよしと撫でてて気づかれなかった。
蒔田一臣の眉間のしわが深くなる。
長谷川くん。
192
こちらを見て微笑んだ。
うそ彼。
⋮⋮私が知ってることを知ってるのか。
それとも。
私含めてゆするネタにしようとしているのか。
にこにこしてる彼からは私、そのどちらなのか読み取れなかった。
怖い、人⋮⋮。
﹁部活を作るんがは構わん。しかしな、部員が最低五名。顧問と副
顧問一人ずつ揃わんと、正式な部活として認められん﹂
﹁顧問は宮本先生、お願いします。あ、負担はかからないよう考え
てあります。場所はパソコンルーム。放課後は空き教室でしょう?
部員の残り一人は、⋮⋮﹂
ここで、
謀ったように、足音が。
﹁あーっまっさきぃーっ!﹂
私のよく知る人物だった。
s
﹁なーなあたしの応援見てくれたぁー? あれめーっちゃ練習して
my
んよ大変やってんよ神輿担いだ後も実は練習しとってー﹂
うん格好良かったです。安室奈美恵の﹃You're
unshine﹄のセンター決めてた紗優はみんなのアイドルだっ
た。みんな総立ちでコンサートと化した。
この体育祭は白が大勝ちしてる。
﹁宮沢さん﹂割り込まれてちょっと嫌な顔をした紗優。﹁ここにい
る桜井くん蒔田くん、都倉さんと僕とでパソコン部を作ることにな
りました。宮沢さんも入りませんか﹂
﹁入るぅーっ!﹂
周囲もびっくりの大声で立ち上がった。ちょ、ちょっと待って。
﹁長谷川くん、私まだ入るだなんて﹂
﹁えーやんめっさ楽しそーやんあたし真咲がおるなら入るよぉー﹂
193
って手を引かれてフォークダンス始めるんだけど。
﹁ま。待ってストップストップ﹂息が。﹁も私、バテバテだから休
ませて⋮⋮﹂
﹁えそうなん?﹂
﹁このあとリレーがあるだなんて信じられないよ﹂
ちょこん、と座る。紗優は長谷川くんの隣に。で私もなんとなく。
﹁でも紗優、美術部なんだよね。掛け持ちして大丈夫?﹂
あー⋮⋮
小さく咳払い。恥ずかしげに。
小澤さん、紗優が部活真面目にしてないって言ってた。やっぱそ
ういう意味で聞いちゃいけないことだったのかな。新参者はそうい
うのが読めなくて周りを困らせてしまう。
﹁幽霊部員、なのですよね。美術部への助成金を増やすための⋮⋮﹂
﹁ん。何人おればいくら貰えるかってのは決まっとるから。名貸し
しとるだけ。紗優は﹂
男子二人のフォローに宮本先生、苦笑いしてる。おれのおるとこ
でんな話すんなよって。
で紗優が顔赤くしてるのはそれが理由ではなく。
﹁それにね。紗優は、絵のほうはあんまし、﹂
﹁こら和貴っ﹂
怒ってた風だったのがいつもの感じに戻った和貴は、よ、と長谷
川くんの横に腰を下ろし、
﹁こないだね。怜生のお絵かきにつき合ってたんだよ。お題、ワン
ピースのルフィ。怜生ってなかなか絵ぇうまいんだよね。けっこ似
てた。紗優のほうは。⋮⋮なんかニコちゃんマーク描いてた。カラ
スの三本足ついてる未確認歩行物体﹂
う。
﹁気持ち悪い黒いマントかなんか伸びててなにこれって聞いたらど
うやらね。⋮⋮彼のパンチなんやって。ゴムゴムのアレ﹂
長谷川くんが。
194
﹁宮沢さんっ﹂急に真剣な勢いで紗優に向き直る。﹁な、なんよ﹂
﹁誰にだって得意なことや不得意なことの一つや二つはあります。
ですからどうか、一緒に得意なことを増やしていきましょうっ﹂
今度は、策略でも意図でもなんでもなかった。
噴き出す和貴。釣られる私に、
目を丸くする長谷川くん。
ちょっとむくれてる紗優。
ちょっと離れて見守ってる宮本先生に。
加わらず明後日を向いた蒔田一臣。
一九九七年九月二十二日。
そんな私たちのパソコン部が産声を上げた。
195
︵1︶
同じクラスの、この子と行動しなきゃ完璧に浮く、って分かって
るから暗黙に仲良くする間柄の子とたまに寄り道をした。以外の子
に混ざる機会はイベントごとの直前に限られた。クラスなり班なり
の買いだしで帰りがけジョルナかハンズへ。私の放課後は基本が単
独行動だった。顔見知りに出くわしてあの子まーたぼっちなんだっ
て思われるのも快くないから、小田急から遠ざかり市の図書館にて
本の貸し借りを先ず済ます。席が埋まってればマック。ファッキン。
ケンタへGO。ハンズ傍のフードコートは穴場で。あの彼に語った
通り、大通りに面する二階建てのマックもお気に入りだった。
帰宅が七時を過ぎても勉強がきついからの一言で納得する。⋮⋮
していないのかもしれないがする素振りは見せてくれていた。塾に
通わせるよりも夜遅くならず安全だと踏んだのかもしれない。因み
に私は塾に通うなら二年の後半からだと思っていた。つまりは今頃
から。
場所は大学生や高校生で騒がしいファストフード店のほうが捗っ
た。ファミレスは二時間制限がかかるし店員さんの目線が痛いので
回避する。背水の陣、みんなが仲睦まじく集う場に敢えて身を置き、
ここでしなければいったい自分はいつ集中するのだと自己を追い込
むところに効果があったのだろう。上位食い込みたいんだ先生に気
に入られたいんだ、って同級の子の目線のほうが私には障壁だった。
ネタ
目的もなく勉強することが私たちのなかでいつから異教徒扱いさ
れる材料になったのだろう?
帰るとすぐご飯。母が用意してくれてる。いつも二人、疑似母子
家庭だった。たまに父と同席すると私、なにを話したらいいのか分
からない。幼かかったら、お父さん真咲ねー今日学校でねーなんて
甘ったれたことも言えた。
196
お父さん、と呼ぶことにも抵抗を持つ。パパと呼べるフレンドリ
ーさにもない。
そんな距離感を悟ってか父は黙々と、夕食は残さず平らげ、あと
にする。
食事後は長居せずお風呂に入って自室にこもる。ベッドに入るま
で勉強か漫画か読書かの一つ或いは二つ以上。
母と居間でドラマ見るなんてこともしなくなった、最後のほうは。
これらの、全てを失った私は。
逆に、手に入れたものがある。
﹁置いてくぞ﹂
小澤さんと机下げてると風が抜ける。颯爽と過ぎる彼の風が。
後ろ続く彼、目が合うと猫みたく口許緩める。おどけてピースな
んかしてくる。
鍵取ってきます、と追い抜いて教室を出てく彼。
と鉢合わせ、迎えに来たよーって入り口で手を振る彼女。
﹁あんたいぃつも行っとってよう飽きんな。パソコンいじっとるだ
けなんがやろ?﹂
﹁⋮⋮小澤さん、ソフト部続けてて飽きない?﹂
﹁飽きるっつうかつまらんなることはあるな。練習ばっかしとって
もーやりたないってとき。休みたなる。はよ帰って漫画読むかドラ
マ見るかしたなんねや。大会終わってそっから新入生入ってシマる
までがどーも、だらけてまうな﹂
﹁まだ練習に飽きる段階じゃないのと。大会がないからかもしれな
いね﹂
﹁⋮⋮あんたのゆーことよー分からん。ま、頑張りぃ﹂
﹁小澤さんもね。じゃーね。また明日﹂
197
小走りで紗優のとこへ向かう足が弾む。
ううん、私。
この世界を気に入っている。
﹁参考程度にプリントを作って来ました。お一人一枚ずつ⋮⋮起動
するまでの間に目を通して頂けますか﹂
あまり来ないはずの三年の別棟。私がお昼休みを寂しく過ごして
た棟。そこに連日、通いつめてる。先生役として教壇に立つのは長
谷川くん。下の名前が、
﹁長谷川、ゆうっていうの?﹂
たすく
配られたプリントの右上には几帳面にフルネームが綴られてる。
﹁いえ、祐と読みます﹂
﹁けっこ紛らわしんだよね﹂とパソコンとパソコンの間から顔覗か
せて和貴。﹁いっそタスクって呼んじゃう?﹂
﹁しよーそーしよー﹂諸手挙げて紗優は賛成する。﹁みーんな下の
名前で呼びあっとんのやし﹂
ええっとあの。
私は約一名を下の名で呼べませんけども。
﹁そんなことゆわんと。真咲やってマキのことマキって呼んでええ
んよ? マキとかあのひとやのうて﹂
心の声、口に出てましたか。
﹁俺は。どうでもいい﹂
﹁またまたー﹂伸びをすると手首が後ろの窓にくっつくやわらかさ。
ぎし、と背もたれを鳴らし、﹁けっこーむっつりだよねーマキって。
一臣って呼ばすの自分のカノジョ限定なんしょ?﹂
え。﹁そうなの﹂
だから。
そうなのって言っただけじゃんなんで睨むの。
﹁⋮⋮電源を入れて五分が経ちました。さて皆さん、ログオンせず
198
目を通さずいったいいつまでお喋りにうつつを抜かすおつもりです
か﹂
ぴしゃりと。
﹁ごめん﹂﹁すみませんでした﹂﹁⋮⋮﹂﹁堪忍なー﹂
一番怖いのはさりげに長谷川くんもといタスクだ。
﹁始まった時間も遅いですのでタイピングだけにしましょう﹂合唱
大会が迫り、ホームルーム後に毎日教室で練習してから部活にきて
いる。﹁ではログオンしたらソフトを立ち上げてください﹂
タイピング練習を主としたパソコン技術の習得。インターネット
やメールの基本的な操作に慣れることの他に、コンピューターや情
報処理への知識を深め、情報リテラシーを身につけること。
これが活動内容。活動日は月・水・金の週三回。
が、実際は毎日のように集まっている。
別段強制されてもない。けどなんとなく、クセになっている。
率直に言えば、暇だからだ。うん、みんなそうなのかも。こんな
風に私が部活動をするのは中学以来のこと。友達に誘われてノリで
入ったら運動音痴の私はまるでついていけず即脱落。中心メンバー
は切磋琢磨してたけど私は後輩にザクザク追いぬかれ、テニスの何
たるかを学ばずに終えた。ボールを足蹴にしない精神だけは身につ
いた。
だから、部活動と聞くと身構えてしまうのだが。
﹁指は。JとFの位置、このでっぱりに固定して、型を覚えこんじ
ゃいましょう。慣れればこのほうが楽ですよ﹂
長谷川くんは、置いてきぼりにはしない。
合わせてくれるひとだ。
﹁ええ。見ないでそんな感じに。慌てずゆっくり。速く打つよりも
ミスタッチをしないことを心がけて、集中してやってみましょう。
あ宮沢さん、Shiftキーはなるだけ逆の手で。⋮⋮うーんまあ
そちらの方が速いかもしれませんが、最初のうちは基本に忠実にし
199
てみませんか。アレンジは後からいくらでもできますから。⋮⋮蒔
田くん。椅子が合わないなら低く調整しましょうか。背中痛くなり
ません? 所で桜井くん。いまIEを開く必然はありませんよ? ログを取っていますから履歴キャッシュ消しても無駄です。情報処
理の授業中も同じですから気をつけてくださいね﹂
とこんな調子。
私と、隣席の紗優に目が行くのはまだしも、向かい合わせに座る
和貴と黒髪の彼のことまで把握してるのがおそろしい。ディスプレ
イ透視できるのか。なんかこのひとの前で悪事働けない。働く気は
ないんだけど。先生要らずなんじゃないかなって正直に思う。
私パソコン触るのは家でネットをする程度だった。物置で埃かぶ
ってるWindows95のPCを部屋に運び入れた。でっかい箱
型の。学校のはADSL回線で常時繋がってるけどうちのは勿論I
SDN。テレホーダイの時間はなかなか繋らないしピーヒョロロビ
コンビコンってあの連発にイラつかされる。通話料金気にしながら
LANケーブル抜き差ししてるのって私だけじゃないはず。
だからってパソコンルームでネットサーフィンしちゃ駄目なんだ
けどね。
﹁うあぁ﹂和貴だ。一番に終えたのは和貴だった。﹁んあーもーつ
っかれたぁー頭んなかウニになりそーだよぉ﹂私は僅差で次点。
長文タイプを終えると見るにやわらかい髪をわしゃわしゃっとか
き回す。けしてタイピングは速くない彼、さっき釘刺されたのが利
いたらしい。私﹃平家物語﹄のイントロは空で言えるのに。﹃sh
ogyoumujyou﹄がさりげに打ちづらい。﹃u﹄を入れず
に打って何度も赤が出た。
﹁タイピングって英語ではしないの?﹂というかタイピング練習っ
てローマ字表記が基本だと思ってた。入力はかな入力じゃなくロー
マ字入力だし。
﹁まあそのうちに。英語を使用する機会はあまりありませんし。そ
200
れと。英語アレルギーの方が約一名おられますので、とっかかりと
しては避けました﹂
﹁僕のことじゃないよね﹂
﹁タスクってさー教えるんうまいよね。部長するよりか顧問でええ
んちゃう。宮本先生に聞いてみる?﹂
﹁いえ。僕などまだまだです﹂と黒髪の彼に目を向ける。そう、全
員の行動に目を配る先生みたいなところがある、タスクって。﹁下
田先生が副顧問になってくださいました。今度教えに来て頂きまし
ょう。やはり、情報処理を専門とされる先生に教えて頂くのがベス
トです﹂
﹁下田先生って女子テニの顧問しとるやん﹂
﹁それゆったらみやもっちゃんやって卓球部⋮⋮﹂
﹁どちらも弱小部というのは否めません﹂苦いものを交えた笑みを
浮かべる。﹁忙しいのは六月だけです。兼任は快く引き受けて下さ
いました。⋮⋮もっとも。下田先生に依頼する前にそれとなく宮本
先生に伝えてはおきました﹂
外堀を埋めるというのですそれは。
下田先生こそ若手そこそこ。十歳以上年上の宮本先生になにか頼
まれたらきっと断れない。
﹁⋮⋮タスクってすごいんだね。ね、この学校って強い部活とかあ
るの?﹂
﹁剣道部の奴数名と吹奏楽部。⋮⋮それとサッカー部の奴の一部﹂
青白い顔してぼそり呟く。
地雷踏んじゃった。
だけど、言いたくないんだったら誰かに言わせればいいのに。
﹁それでは。ひと通り終わりましたので帰りましょうか﹂
なんか不味いものでも食べた風な彼を見ていたたまれなかった私
は、自動音声ソフトみたいなタスクの締めに救われた。
﹁皆さん。本日も一日お疲れ様でした﹂
201
︵2︶
帰りはキャーアハハと笑ってる女の子たちを尻目に歩く、ぼっち
だった。グループ加わると普段のノリについてけず逆に寂しくなる。
俯いて歩くとさみしい子オーラぷんぷんだから胸張った。習った授
業の内容を頭のなかで振り返る。街路樹の色の移り変わりだって押
さえてた。
それがいまは違う。
男の子二人が歩く後ろをとぼとぼ⋮⋮あんまり変わんないか。紗
優と和貴とは家が反対方向だから校門を出ると別れる。もう三十分
か一時間部活が長ければ運動部の子と鉢合わせするはず。勉強だけ
して帰るにもちょっと中途半端な時間、だからひとはまばらだ。
駅ルートの序盤にして一人が脱落する。﹁それでは僕はここで。
また明日お会いしましょう﹂と分かれ道に消えていく。
以降なんとなしに、斜め後ろのポジションを選ぶ。すぐ肩を並べ
るのはタスクいなくなるの待ってましたって感じで抵抗があるし、
1.5メートルキープしたままってのも不自然だし、でもちょっと
でも自発的に距離縮めたいって願望が言動として伝わるのも落ち着
かない。
同じ部活に属するものとしてクラスメイトとして。よく知らない
人間に好奇心を持つのは自然なことだ。
その片鱗でも表すことを躊躇う。
どうして私は彼に対してこんな過敏なのだろう。
こないだ聞いた限り私より34センチ背が高い。聞いたといって
も和貴経由でだ。ところで私パソコン部に入ってなかったら彼が電
車通学してることだって知らなかった。
ぶつかられても倒れない大木。
なのに。
202
私は繊細さを彼に見る。
気安く声かけられないオーラがあるし。ねえヒゲダンスまたやっ
てみてーって和貴にだったら私言える。でも彼には言えない。
タスクと別れてから駅までの九分間。
黙々と。
巡礼者のように歩く。
これが気まずくって、﹁わ、私こっちから帰れるからっ﹂て右に
抜けようとしたこともある。
﹁そっちは行き止まりだ﹂顔色変えずに彼は言う。
置き去りにして、でもつぶやいた一言は聞いた。
﹁⋮⋮この通りと国道以外は夜暗くて危ねえ。使うな﹂
意外だった。
私走って前に回りこんでみて、
﹁もしかして。私のこと心配してくれてるの?﹂
追いぬかれる。
無視。
けど。ちょっとずつスピードを落としてくれた。
私は歩くのが遅い。だから気を遣われるとすぐ、分かる。彼、普
段は肩で風を切って歩く。強風にも果敢に挑んでくそんな強さがあ
る。足のことだってよくよく注視しなくては分からない程度のもの
だった。
階段を登るとき、ちょっと右の甲を擦るようにする。
立ち姿のとき、左のつま先が外を向いてる。
膝頭に手をやるときは右だけ。左はない。
私は他にも知っている。
歩道の外側は一度だって歩かせない。
信号なり横断歩道のところでさりげに入れ替わる。
向こうから自転車の危なかっしいおじいさんが来たりすると庇う
盾となってくれる。
目をつぶって歩いてたって安全かもしれない。
203
背中にぶつかる可能性を除いては。
話しかけられればたまに無視するくせして駅着くと必ず、﹁じゃ
ーな﹂って言ってくれる。
いつしか、軽く手を挙げる後ろ姿が。
うちに着くまでの私の心強さとなった。
彼と別れてから授業の復習なんてしてない。
﹁うぉあーっまさきぃーっ男装しとんねや! すんげーかっこいい
ー﹂
いらっしゃいませ、とお声がけしたつもりが消えて、飛びついて
きた、怜生くん。褒められて悪い気はしないんだけど。その。
タキシード越しとはいえ胸のとこにぎゅんぎゅん顔押し付けられ
るのはちょっと。
⋮⋮勢いがやっぱ子どもというか。いえ姉やお母さんに甘えてる
感じなのかもしれない。心拍落ち着かせ小さい頭を撫でてみる。﹁
男装ていうかね、メインは和貴とマ﹂マキのあだ名知ってたっけ?
﹁うちのクラスの男子なの。女子が着てるのは単なるオマケで﹂
﹁いらっしゃーい怜生。迷わず来れた?﹂
﹁うんっ!﹂
⋮⋮和貴が剥がしてくれて助かった。がっしりしがみつかれたら
私だって動けない。
﹁ん。もー怜生ったらきゅーに走り出したら駄目やろが。あーっ真
咲ちゃーんカズくーん! ふったりとも凛々しいわぁーっ﹂
マキちゃんも褒めて頂きたいところだが生憎不在。後述。
緑高学園祭が開幕した。体育会系部活が屋台で肉の少ない焼きそ
ばを大量に作っては売りさばき、文化部は屋内で地味な成果なりを
展示する。一例を挙げれば生物部。ハムスターやリスなら子どもだ
って喜ぶのにスナネズミやゾウリムシ。人類進化図貼り出して新訳
204
版﹃種の起原﹄置く辺りとことんズレてる。﹃動物のお医者さん﹄
に替えるなりの機転は働かないものか。
パソコン部は検討する以前に部の創設が申請期限に間に合わず。
部活は必ず参加っぽいけどクラス単位ではするしないが半々。二
年四組の運命は、体育祭で不完全燃焼気味の小澤さんの一声で決定
した。
﹃タキシードカフェ﹄
⋮⋮なんのことはない、ただの喫茶店だがウェイターとウェイト
マスク
レスがタキシード姿だというだけだ。バトルに不適な超ミニのセー
ラー服を着ていたりどう考えても正体バレバレな仮面つけていたり
もしない。私が髪を里香さんみどりさんによってツインテールに結
われたのはどんな因果だか。
﹁いらっしゃいませ! タキシードカフェへようこそっ﹂
きりっと直立してきちっと手を添えてばしっと決めて案内する。
彼が浮かべるのは。
花のこぼれる優美な笑み。長い冬の雲の隙間から漏れる日射し、
どんな凍てつく強がりだって解かす類いの。
ほーっと見惚れる女の子のこころならば私は透視できる。
ところで和貴。
リスみたく尻尾見えてる、ぶんぶん振ってる。
演じる自分を楽しんでる。適材適所とはこういうことか。息切ら
しつつキッチン戻ると、そこに入り込んで小澤さんと喋る女子︵名
前知らない︶と出くわした。
﹁えーっ蒔田くんおらんのぉー?﹂
﹁全然見ぃへんねや。あんた。見っけたらツブすゆうといてくれっ
か﹂ぐわしゃっとコーヒーの袋ねじる。
引かせてどうするの。
女の子の目的はパンケーキでも紅茶でもなく、タキシードを着た
あの二人だ。実際に期待される以上よりもっともっとかっこいい。
学祭前に試着したとき。二人並んだ、この世の天国と見紛う姿にク
205
ラス全員が感嘆の息を漏らした。
和貴は和貴でふわっとした茶髪がまた、ちょっと軽薄な、裏路地
で呼びこみかける黒服の人に見えなくもないんだけど。真っ直ぐ誰
の目も逸らさない、心の奥まで覗く瞳の真実性と引き締めにかかる
黒の色が彼のいたずらな少年っぽさとアンバランスに絡まっていて。
マキは言うまでもない。あのひと似合わない服ないんじゃないか。
カフスボタン触れる仕草なんてオーケストラの世界で望まれる有能
な若手指揮者だ。オールバックで後ろ流してみて欲しい。
しかし彼、不在。
えーマキちゃんいつ戻ってくるがー見たいわいねタキシード着と
るーんっておばさん前半部分について私同感です、飲まず食わずト
イレ行かず三時間立ちっぱです。
因みに和貴。
笑顔作る以外には。
あんま仕事してない。
他の子がキッチンからトレンチもってひーひー運んでるとこを時
折﹁やるよ?﹂って言うけどあのひと。いいとこどりだ。
でもそのほうが女性客が明らかに喜ぶんだから。
私が運んできたときのがっかりした、表情。
ああ。
報われない。
そんなわけで和貴、くるくるテーブル回ってる。女の子に喋りか
けてる。入り口で。ホールで。ニーズだ。ニーズに呼応してる。
美形男子だけで全員固めればよかったのに。
無理か。いないもんそんなに。
﹁とっくらもーカウンター。溜まっとるから持ってってぇ﹂
﹁はーい。あ。田代くんごめん、私五番行くからこの。セット二つ
八番に持ってってくれる? ミルクティーが手前の女性﹂
﹁⋮⋮あ了解﹂
なんか彼ぼうっとしてるなあ。きびきび動けるひとがもうすこし
206
いないと回らない。キッチン入ったほうがしれないでもサバけるひ
とこの場の誰もいないからなあレジの佐藤さんテンパってるしワン
テーブル空いたけど待ち五組で23422⋮⋮三番がもうすぐあく
から四番とくっつけてお子さん連れの四名案内してじっくり選んで
もらうほうがいいかもなあ椅子、子供向けの椅子がないんだけどお
座布団どっかにあったかなー結構待たせるから和貴に入り口トーク
に回ってもらおっかなあえーと、
﹁まっさきさぁーん﹂
この。戦場のさなか。
のんきな。
あっかるーい。
ヴォイス。
そう彼お飲み物とか食事の仕分けとか仕事の振り分けとかしてな
い運んでないもん疲れてんの頬の筋肉だけでしょうっ。
﹁なによっ!﹂
﹁あ⋮⋮やー﹂視線彷徨わす、頭をかき、私の袖を持つとすごすご
と引いていく。﹁忙しいとこごめんね。⋮⋮僕のじーちゃん。真咲
さんに挨拶したいって﹂
見るに邪魔にならないよう気を遣って隅に立つご老人が、壁から
身を離す。お顔を確かめる前に、
いや。
なんか私頭下げられることにも縁がある。
従軍したことのある人特有の律した動き。
﹁あ、の。どうか﹂指先まできっちり揃ってる。﹁そんなお、恐れ
多いですそんな、あっ、し頭下げられる身分じゃありませんっ﹂
ふっ、とこぼす息を聞いた。和貴だ。真咲さん大河の見過ぎじゃ
ない? って口許を隠しつつおじいさんの腕に触れた。﹁じーちゃ
ん顔あげて﹂
︱︱似てる。
おじいさん。
207
背筋がしゃんとしてる。角刈りの白髪なのに根元のうねり。ぱっ
ちり二重瞼⋮⋮和貴がおじいさんの特徴を濃く受け継いでいるのは
見るに分かる。
相手の瞳の奥をまっすぐ覗き込み、気後れするほどの真摯さで挑
みつつ。
ふっと認め目の縁が緩まる、和らいだ親しみを与える。
そんな癖も。
タイムスリップしてうん十年後の和貴に出会えたらこんな感じな
のだろうか。
少年の透きとおった瞳と、叡智と年数に刻まれた皺の在り方。
⋮⋮場違いにも照れてしまう。
﹁新造さんとこのお孫さん、ですか﹂
﹁はい﹂
すこし渋い声をしている。かつては甲高さを経験したのだろうか。
和貴と比べ、違いを発見する度にこころが、弾んでしまう。
﹁孫がようけ話しとります﹂一歩、踏み出す。そう近づくのも同じ。
﹁ちんこいいちゃけな子やと。わしは、新造さんと戦地を共にした
仲んでな。だが大事な仲間を喪うて、新造さんとこに足が遠のいと
ったげ。んだども、まえさいったゆうに、ばげんせなかおうて。あ
じはおおしゅうすぎなみおうて新造さんに伝うといて下され。んで
⋮⋮﹂
﹁じーちゃん﹂ぽかんとした私を見て和貴が止めに入った。﹁それ
以上言われたって真咲さんには分かんないって﹂
﹁ああそう⋮⋮そう。やったな﹂
そっくり。
頭をかく仕草まで生き写しで。困ったときに曖昧に笑い、かすか
に首を傾げる感じも。
ううん。
和貴が、真似したんじゃないかな。意識的に、無意識にであれ。
幼い頃から慈しんで育ててくれたたった一人の、肉親の。
208
仕草を真似るのは最も分かりやすい親愛の証。
﹁和貴が人様に迷惑かけとらんか、わしは心配でな﹂
﹁じーちゃんもー変なこと﹂
﹁おじいさん。そんなことはありません﹂
なにか言いかけた和貴を私は遮った。
﹁和貴くんは面倒見がよくて、いつも沢山の友達に囲まれていて。
見ていて⋮⋮眩しいくらいです。転校したてで、誰とも仲よくなれ
なかった私のことまで気にかけてくれました﹂
﹁そうか、そうですか。話に聞いとった通りのお嬢さんですわ﹂
頭をかく仕草、笑みが同じであっても今度は照れが混ざっていて。
嬉しそうな感情を目にする。
それだけで私胸が痛くなった。
﹁都倉ちょっとぉーっ﹂おおっとすっかり忘れてた。キッチンてん
てこ舞いだったんだ。﹁すみません。私はこれで。おじいさん。ど
うか学園祭、楽しんでいってくださいね﹂
﹁ありがとう、お嬢さん﹂
祖父と同じ世代なのに和貴のおじいさんってジェントルマンでフ
ェミニスト。
微笑み返してくれた。
でも、ひとを呼びつけておいて和貴、何故か俯いて耳赤くしてた。
209
︵3︶
﹁あーんーたーはーっ﹂
般若だ。フライ返し両手に持って仁王立ちする、般若だ。
こんな彼女をかつていじめてた子がいただなんて信じ難い。
﹁いったいいぃーつまで油売っとるつもりなんやねあんた、ホール
やねんからきっちりホールで働きいやっあんたがおらんとホール回
らんがよっ﹂
いやいやいや。
私おじいさんと喋ってたの一分足らずだよそれより田代くんそれ
三番テーブル。指三本立てた、そ、三本。違う三番。
引き止められてるこの時間も惜しいのだが主張すべきところは主
張せねば。謙虚を美徳とする日本の国民性は時に自らの首を締める。
学園祭は明日もあるのだ。
﹁回んないのって私のせいじゃないし。それとね、和貴だって喋っ
てばっかじゃ﹂
﹁あいつは客寄せパンダ。分かっとるやろがっ﹂フライ返し。人に
向けては大変危険です。ええパンケーキ焼き続ける胸中お察ししま
す。﹁あいつがきっしょい笑顔振りまけば女がわんっさか群がんの。
じーさんや宮沢のおかんに優しゅうしとったら尚更いけすかんあい
つの好感度あがるっ﹂なんか聞いちゃいけない形容詞も混ざってた。
小澤さん、指揮棒だか凶器だかにしてたフライ返しをやっとカウ
ンターに置くと、﹁⋮⋮お陰で馬鹿忙しいから買い出し行って。紙
コップ。百個でも二百個でもなんぼでも買うてきたらええわ。職員
室前に売っとるさけ﹂
いいけど。﹁ホール一人足りないと思う。どうするの﹂
﹁貸しな。あんたのそれ﹂財布を私に渡すとエプロンの後ろ紐を解
き、﹁あたしが着て出る﹂
210
え!? ﹁でもこれ、かなり小さいけどサイズだいじょ﹂
⋮⋮
脱いで逃れる。
だってだって私のXSなんだよ小澤さんに合わないじゃん体格じ
ゃなくて身長の問題だよねえなんで本当のこと言おうとするとあん
なに睨むのっ。
ああ⋮⋮
走りすぎて突き当たりまで来ちゃった。あっちから回ったほうが
近道だったのに。午後働くスタミナも残ってないよ戻るのもめんど
いもういい、急がば回れだ回ってしまえ。
さて。
ここで一つ。
問題です。
喧騒から離れたこちらの狭い階段にて。
踊り場の小窓からぼんやりと遠方を眺め、お一人様を満喫する後
ろ姿は、
いったい。
誰でしょう。
さーみんなで考えよーう。
⋮⋮
考えるまでもありませんねウルトラクイズだったら一秒足らずで
即答ピコーンて優勝しちゃってるよ、
あの。
サボり魔っ。
必死こいてみんな働いてんのにあんなとこで煙草吸わないでなに
中途にぬぼーっとしてんの? ちょっと﹁マ︱︱﹂
﹁まっきたぁああああ!﹂
びくっとして私固まった。
赤い髪が怒涛の勢いで駆け上がってきてしかも後ろっからぐわし
っと抱きついた。
211
ま。
マキに。
﹁ずーっと探しとってんでーあっちこっちかけずり回ってんでーお
っまえ、四組にもおれへんかったのにこんなとこでなにしとんのや﹂
﹁離せ。気色悪い﹂
﹁いけずなこと言うなやーオレとおまえずびずびの仲やんか? な
ーなずーっとゆえへんかったがやけどオレな。蒔田のことごっつ好
っきやねん!﹂
﹁いいから離れろ。三度目はねえぞ﹂
すごい。
なんかいろいろと⋮⋮凄い。
凄まれても動じるどころかあの冷気漂う背中に顔埋めて顔こすっ
てるこすりつけてる。赤い髪が乱れる。
そのひと。
ちら、とこっち見たと思ったから私慌てて屈んだ。
あれ。
ていうか私別に隠れる必要なくない?
一旦引っ込むと引っ込むことに引っ込みがつかなくなる。階段の
手すりに手をかけて目まで出して確かめてみる。
やっぱり、男の子だ。ペンキみたいな赤、髪スプレーで染めてる
のかな。⋮⋮この秋口にやや寒い半袖のTシャツ。あんなラフな服
装は外部にしか見ない。顔は知らない、どのみち分からない。
マキが小窓から手を離す気配があったので私再び引っ込む。
﹁知っとっかーオレら今年もトリやんねぞ。見に来て見に来てー﹂
﹁行かね﹂
﹁あれつこうたゆうてもか?﹂
﹁あれとはなんだ﹂
﹁ノートにちゃっかり書いてくれとったやろ。やらね、ってゆうた
んになーオレのために詩ぃ作ったんさっすがオレの友達やわ持つべ
きもんはデキる友達やなー。もろうたもんは大切にせな音楽の神様
212
に怒られてまうがな。知っとるでー宿題やとちゃーんとちごうの出
しとってんなおまえ。⋮⋮オレにだけゆうてもええで?﹂
一息置くと、明るい調子を取り外し、深い部分に踏み入る重たさ
で彼は言う。
﹁稜子のことやろ、あれ﹂
﹁ふざっ、けんな﹂マキが語気乱すの珍しい。﹁てめ。勝手に曲に
したってのか? 著作権はどうなってやがる﹂
﹁なーなーオレ英語やっぱできひんし蒔田にこれからも書いてって
欲しいねん。うち専属でやる気あらへん? まじで﹂
﹁やらへん﹂
マキ釣られてる。
﹁うおっ。あかん一時回っとるやんかもーオレ行かな。学祭満喫す
るヒマちぃともないねやこっからウチ帰ってれんしゅれんしゅ。あ
ーこっそりフケるさけ誰に訊かれてもゆわんといてなー? したら
オレ、蒔田のこと待っとるからなーっぜってーこいやーっオレおま
えきぃひんと歌わんからなーっ﹂
なんぼでも女なかす羽目になっぞーっ。
わめいて慌ただしく駆け足が階下へ消えていく。
火の玉だった。
存在といい色といい。
残されたマキ、小さく嘆息。
私。
出てくタイミング見失った。
四つん這いにて段をそろそろと上がるところを。
﹁まさきぃーっまさきやろぉーっ﹂
めんたま飛び出るかと思った。
213
怜生くんだ。
んなとこでなにしとーんってええもうもう立ち聞きもとい座り聞
きですよ見て分かりませんかねこの隠れてる様子が!
腕広げられれば飛び込むべしとインプリンティングでもされてる
のか。
がっぷり。
山下真司みたく熱く抱擁もうやけくそだ。
いーにおいーって顔遠慮なく埋めてくるしもう受け止めるしかな
いじゃんこんなの頭なでこなでこしたげる。
しながら、
恐る恐る斜め後ろの踊り場に目を走らす。
長身に阻まれないひかりだけが取り残されていた。
* * *
﹁都倉。休憩入りな。長谷川あんたも﹂
⋮⋮二時を回っていた。お腹空いたを通りこして胃が変な感じ。
タスクは縦に長いカクテルグラスにチョコを搾り出していた。器
用なひとだ。
﹁皆さんに差し入れを買って行きましょうか。都倉さん、お腹は空
いていませんか?﹂
﹁タスクは?﹂
﹁あまり。甘いものばかり作っていますから、暫く甘いものは避け
たい所です﹂
﹁あはは。⋮⋮ねえ、外の屋台行ってみてもいいかな。すごくいい
天気﹂
﹁ええ、気持ちのいい日ですね﹂
インディアンサマーの陽気に誘われ、生徒玄関から履き替えずロ
214
ーファーのまま屋外へ。⋮⋮学祭終わったら廊下教室ぜんぶ拭き掃
除するんだろうな。ちょっと憂鬱。
ところでもしそこの、お嬢さん。
ちょいと私の見間違えでなければ。
﹁⋮⋮紗優?﹂
﹁ん。あっ、まっさきぃーっ﹂
うそ。やっぱり紗優だった。振り向いた紗優見て正直仰天。
ふりっふりのワンピ着てるもん。ピンクのミニ。フリルいっぱい
のブラウス。レースのカチューシャ。髪宝塚みたく縦ロール⋮⋮胸
の前に﹃二年一組メイド喫茶﹄って書かれた段ボール持ってる。
﹁一組って⋮⋮そういう趣向なんだ﹂
ビジュアルで商戦に走るのは二年四組に限られない。
呆れつつも紗優すごく似合う。紗優じゃないと着こなせない。下
品になるか色気不足で終わるかだ。
﹁そのタキシードよう似合っとんなあ。なんやろう、ピアノの発表
会出とる少年ぽい﹂
褒められてんだかどうだか。﹁紗優すごい可愛い。ねえ紗優が立
ってたら一組すごく混んでるんじゃない? 声かけられたりするで
しょ﹂
﹁どーやろなあ﹂髪をかき上げる。ぞんざいとも言える仕草がいや
に色っぽく見えた。﹁やっけに見られとる感じすんねや。落ち着か
ん。⋮⋮なあ明日。時間あったら一緒回らんか? あたしなー当番
いっぱい入っておっていま離れられんの﹂
私も同じ。なんせ誰かさんがサボってるから働き詰めだもん。﹁
うん。一緒にいっぱい回ろうね﹂
﹁よかったぁー﹂
胸押さえる紗優、いじらしい。本当に可愛い。こんな子が女の子
の友達できないって嘘みたい。
﹁紗優じゃねえかおい﹂
215
私すっかりタスクのことを忘れていた。
わけではなかった。
他校の制服だ。
思いきし着崩してる。ズボンの腰の位置下げてチェーンじゃらじ
ゃら。トランクス見えないのは単に、シャツの裾を出してるからだ、
緑高生なら先ず先生に注意される。
その男子、口閉じずガム噛みながらこちらに近づく。
香水、きつい。これエゴイストだきっと。
﹁けんちゃん⋮⋮﹂
﹁知り合い?﹂目と声が訝しげなものになるのが分かる。
﹁元カレだよなあ?﹂けたけたと笑う。気持ち悪い笑い方をする。
上から下までを舐め回すような目付きといい。﹁んなガラでもねえ
かっこしやがって。誰に色目使ってるつもりなんや、ああ?﹂
﹁⋮⋮やめてよ﹂
びっくりした。
紗優が怒りに声押し殺すのを初めて見た。
にも関わらず、彼は紗優の肩を荒っぽく抱き寄せる。
嫌がっている空気、眉をひそめかけたのが、
﹁もーけんちゃあーん、きゅーにおらんくならんといてよっアサミ
どーしたらいーんか分か⋮⋮あっ﹂
ギャル男の次はギャルがやってきた。
人工的な金髪。超ミニ。太い太もも、でルーズソックス引きずり
ながらえらい内股の小走りで。ローファーのかかと踏みつけて、ぱ
たぱた鳴らしてる。
﹁⋮⋮なにしとんがけんちゃん。つーかなんやこの女。誰ぇ?﹂
﹁なんっでもねえ﹂乱暴に払い、紗優がすこしよろめく。﹁おまえ
に関係ねーよ。つか誰にでも股開くあばずれなんかどーだっていい
だろ﹂
怒りを、覚えた。
216
こちらに目を向けず。
アイラインぶっといギャルの子の背中に手を回し、どっちが支え
られてるか分かんないべたつき度合いで去る。
つもりが。
﹁⋮⋮んだよ﹂
ついさっき掴んでいたはずの彼が。
今度は掴まれる側に回っている。
︱︱タスク。
引き止められて意外そうに開いた目が、紗優とタスクを交互に見
比べ、澱んでそして、﹁おっまえなあ﹂笑った。﹁もー乗り換えた
んか。相っ変わらず手ぇはええやつだなー? おいあんた気を付け
ろよ。こいつ誰にでも、﹂
消えた。
嘲笑っていた、彼が。
一瞬だった。
片手一本でタスクがなぎ倒していた。
引越しの荷物落とす、どすん、と耳慣れぬ奇妙な音が響く。
玄関のすのこの上に蟹みたくひっくり返っていた。
私、こわごわ、近づく。
だってタスク彼に、近すぎ。
周囲の注目が集まるのをびしびし背中で感じるし。
すのこ板の彼、頭を押さえ、視界にタスクが入ると、
︱︱やっぱり、
顔を憤怒に染めて、
﹁よっくもてめえっ﹂
身を起こすときに既に拳は固めていた。群集の誰もギャルも構わ
ない、タスクという一点の暴力を与えるべき対象しかその目に映ら
ない。やめてっ! と紗優が叫んで走り出る。
私、
信じられないものを見た。
217
タスクが微笑んでいた。
罠にかかる獲物を捉え。
瞳だけであざ笑うかの調子。
からだはそのゆったりとした調子とはまるで違う、俊敏さを選ぶ。
ふりかかる分かりやすい右ストレート。
余裕を持って躱す。数歩後ろに引く最小限の動きで。分かりやす
いといっても動体視力が悪くても反射神経が鈍くともあんな動きは
できない。無論私は避けられない。
前につんのめった彼は隙があった。
ぶつける対象を失った右の腕、逃さずタスクは掴む。腹に押し付
ける右の肘を支点にして、ぐん、とからだを背負い、上体を屈める。
地にたたき落とす。
一本。
白旗を挙げない審判員はいないだろう、見事な一本背負いだった。
ぐあ、と蛙の潰れたのに似た響きでまたも仰向けにすのこの上へ。
こちらの心得もあるのか、剣道の素早いすり足で蟹みたいな彼の
元へ。
痛みで動けないのか、顔をしかめながらも、や、ろ、⋮⋮となに
かつぶやいてる。
タスク。
おもむろに屈んで、耳元でなにか言う。
と。
蒼白に変わる人間の顔色。
膝に手を添えてゆっくりと立つと、タスクは聴衆の誰ともなく声
をかける。﹁すみません。彼、少し具合が悪いようですので、どな
たか保健室に、﹂
﹁いいいらんいらんっ!﹂バネみたく跳ねて彼。いらんいらんと何
度もわめきながら、ちょっと足を引きずりつつ、ギャルの女の子の
218
腕掴んで去っていった。
逃げたというべきか。
というわけでことの成り行きを見守ってた野次馬も散り散りに。
私それを見ながら、
﹁タスク⋮⋮柔道の心得あるだなんて意外だよ。正直パソコンオタ
クなだけだと思ってた。⋮⋮見直した﹂
﹁心得があるなどとは到底言えません﹂失礼なこと言われても微笑
絶やさず。でもこの微笑の種がさっきとは違うことを私分かってい
た。﹁体育の授業で習った程度です﹂
﹁でも。すごかった﹂
私は。
突っ立ってるだけで。
タスクのために叫ぶことも。
紗優のためにもなんにもできなかった。
﹁まぐれですよ﹂ふふ、と顎に指を添えて笑う。﹁彼、頭に血が上
ってました。右利きでしたので最初の一撃さえ避けられればなんと
かなると思いまして﹂
﹁なんとかなるじゃないよっ!﹂
のんびりした会話に紗優が声を荒らげた。
﹁あいつが誰か分かっとるん? 東工んなかでもいっちゃんガラ悪
いやつらのアタマなんよ。もし一人んとこ狙われてフクロにされた
ら﹂
﹁大丈夫です﹂
ふ、フクロって。そんなにやばい男の子だったんだ。
かしはら
とうこう
ぐれんかい
もどかしげに拳を握る紗優。﹁タスクはなんも分かっとらん! あいつが、﹂
﹁東工の香川の上の上にいる、柏原という男。現、永迂光愚蓮会の
総長である彼は、古くからの僕の友人でしてね。兄はもう抜けまし
たが、その縁で何度か掲示板を作ったことがあります﹂
219
﹃⋮⋮どこがよかったん。東工の香川。手癖悪いって有名やったが
いねあいつ﹄
あまりに冷静に語るタスクに驚く前に。
私はさっきの彼が小澤さんの語っていた人だということを、今頃
になって理解した。
﹁ここまで言えばお分かりですね。香川が僕たちに手を出すことは
ありません﹂
前半部分は紗優に、後半部分は私に向けて言った。
複数形だった。
﹁タスクっていったい、何者なの﹂
﹁ただのしがない高校生です﹂肩をすくめる仕草、和貴でなくとも
様になってる。
﹁もう、いい。分かったから。分かったけどあたしなんかのために
これ以上危ないことしないで﹂
﹁貴女なんかのためだからです。あんな顔をされていては、止める
のが道理というものでしょう﹂
でもタスク。
もっと泣きそうに歪ませちゃってるよ。
私が知る限り、タスクと紗優が二人で会話を持つのはこれが初め
てだ。
﹁タスクっていぃつも上からもの言っとる。はっきりゆえばいいや
ろ。あんなやつとつきおうてアホな女やって思っとるって﹂
﹁そんなことはありません。誰しも。人には色んな過去があります
から﹂
﹁ほらやっぱり⋮⋮﹂
﹁色んなことがあったからこそ、今の貴女があるのです﹂
⋮⋮どっかで聞いた台詞なのは気のせいか。
おおっと。
220
さっきからこの雰囲気、はよ気づけって話ですね。
見つめ合うお二方。
明らかにお邪魔虫じゃないですか私。
背を向けて退散退散。
﹁今の、魅力的な貴女が﹂
本気で思考も足も停止した。
﹁彼を見て貴女を見ていたら、体が勝手に動いてしまいました。無
意識下の言動ですので責任は僕の負う所です。何が言いたいかと言
うと。⋮⋮つまりは。僕は仲間として貴女のことを大切に思います﹂
最後に聞いたのはタスクのキザったらしい台詞。
お陰で差し入れ買い忘れて小澤さんに怒られてしまったではない
か。
どうしてくれる。
221
︵4︶
新しく誰かと関わるとき。
向こうが私を分別する。
適度な近距離を保つのか、遠く離しとくべきなのか。
敵か、味方か。
to⋮⋮服従するとい
必要なのか、別段絡む必然などないのか。
端的に言えば。
好きか、
嫌いか。
この二者択一。
私はジャッジに異議など唱えない。
承服するというよりは、subject
う表現が相応しい。
決定権は先方にあるのだから。
極端に嫌われたりすれば、不必要に接近せぬように。
稀に積極的な好意を示されれば、リードに任す。
自分の快不快を除けばそれは至極簡単だった。
一部の女子に嫌われれば迷う余地はなく。複数の選択肢のうちの、
一人で突っ張る、って一つに絞られる。求められるそのフォーメー
ションに応じれば済むだけの話だ。寂しいって感情をこっそりポッ
ケに忍ばせて。耐え切れないって思った頃合いに四次元ポケットが
登場、別のなにかで解消すればいい。それこそマックでの人間観察
など。
行動様式を頂戴して身を任す。
任せるだけで済むのだからコンビニに行くよりお手軽だ。
人間関係において。
222
この。
受身的なスタンスが誰かを寄せ付けないのも自覚していたし。
だからってそんな変える意志もなかった消極的な私はここに来て。
見直しの機会を頂戴している。
転がるダイス、明後日の行方は確率の分子にも知れない。
ましてや今日のことなど、誰が?
﹁ぬ、わーにをむっつかしー顔しとんのーほらぁーっ﹂
﹁むほわぁっ﹂
突っ込まれてる。クレープの皮だ、なかにいちご。いちごジャム
とポイップクリームのふわっとした味が広がる。
﹁ど? おいし?﹂
﹁おいふぃ﹂ごほん。カスタード飲み込んで﹁うん。美味しい﹂
﹁やろー? クレープはなー祭りでもかんなり外れのが多いんやけ
どなあ、家庭部が作っとるんは当たり。あっ、⋮⋮十時回っとるや
ん。これから中庭で食べよう思うとんのね? 早いけどお昼。美味
しいもん昼前に売り切れるさけさき買うてかな。カステラも人気や
しなーそれとお好み焼きもなーあっでも炭火焼の焼き鳥も捨てがた
いしー﹂
⋮⋮両手塞がってますのにまだ買うんですか。
﹁どうしよっかなあーもーっあたし選べんーっ⋮⋮ほんならなーい
まから言うんなかから真咲、二つだけ選んでぇな? りんご飴と広
島風お好み焼きと焼き鳥と朝市せんべいとイカ焼きと鈴カステラと
ー⋮⋮﹂
﹁日持ちしそうなのを先に買おう﹂と私は断定する。﹁それと、お
好み焼きと焼き鳥がいいな。⋮⋮てイカ焼き以外全部だね﹂
﹁なして。鈴カステラは入らんやろ﹂
もし余ってもね。﹁食べてくれそうなひとに心当たりあるでしょ
223
う?﹂
﹁⋮⋮あっ﹂
荷物持ちが楽しかったリチャード・ギアってこんな心境だったの
かもしれない。
可愛い子に分かりやすく男子はサービスつけてくれる。大盛り大
盛り。
両手が空いてなくたって。
なんとなく楽しい。
活気ある校内を。なんかね、それと、紗優って男の子の注目集め
てる。並んで歩くと分かる。うんちょっと優越感。きらきらのオー
ナメントで飾り立てられるクリスマスツリー、見てるだけでこころ
が弾む。
飾らない素の美しさ。
モデル体型の子って食事を我慢するのが当たり前なのに彼女、ヘ
ーキでがしがし買う。大丈夫なのかってくらい。三年生の先輩にま
ーた買いに来たんかぁ宮沢よー食うなって言われようとも、とかゆ
ーて先輩あたし来てくれて嬉しいんしょー? って先輩まんざらで
もないもはや冗談にならない。
好意のベクトルに応じず。
あやふやにしておく。
本音では、好かれると照れくさいのと。
いずれ飽きられるときが来るから。 私という人間の賞味期限が。
水っぽさが足らず口当たりもっそもそしてるやーっぱシュークリ
ームのがいいやーって離れられても。
追わないのが私のやり方だった。
224
﹁あーっあたし真咲にばっか持たしとるやん貸して貸してっ!﹂
﹁平気だよ﹂
﹁ほんなことゆわんと。ごめんなーあたし食べもんことなるとほか
んことなんも見えんくなってまうんよ。あーっとこれはい、最後の
一口ぃーっあぁーんっ﹂
超羨ましそうにそこの男子見てる。
私口を開いた。
応じてしまうのは。
同性の私から見ても可愛い子で。
しかも好意を示してくれるから。
なだけじゃなく。
関心があるってことなんだと思う。
同じだけ返してみたい好奇心のフラグを。
私のこころのなかは素直にそれを認めた。
舌に残る甘酸っぱいイチゴの風味と共に。
﹁食べよ食べよーっ﹂
ガーデンテーブルに所狭しと並んでまさに中華の円卓状態。これ
私たちだけで完食できる? あ。いった。一口大きい。ほら真咲も
あっついうちに、では私もいただきます。まずはお好み焼きから。
﹁あっふ﹂
湯気立ってるもん。﹁んおいふぃーほれふわっふわ﹂焼きあがる
の待ってた甲斐があった。
﹁やろー?﹂
てお好み焼き半分平らげてたこ焼きつまんでる。⋮⋮食べるの速
くないか。このすごい量、その細いからだのどこに消えて行くのか。
﹁⋮⋮タスクって。紗優と和貴とは同じ中学なの?﹂
﹁ううん。昔っからタスクのことは知っておったけど⋮⋮口利いた
のつい最近。有名やったしな。CDよう借りるってそんだけやった
225
わ﹂
CD? と訊く前に﹁永迂光愚蓮会。タスクが言うとったやろ?﹂
頬杖をついて得意げな目をよこす。﹁あの集まりあたし行ったこと
あるんよ。入会した彼氏おったときおもろそーやと思ってな、溜ま
り場についてってん﹂
﹁バイクぶんぶん走らせるやつ?﹂
冗談のつもりでハンドル握る仕草なんてしてみると、
﹁そ。そこで顔合わせてんよ﹂
意外な事実まで付け加わりお好み焼きを吹きそうになる。地味な
顔して裏番張ってるのはいったい誰だ。﹁あの、まー⋮⋮そんな風
に見えないよね﹂紳士的だし。﹁びっくりしたけど昨日のタスク。
すごく格好良かった﹂
﹁そやねー﹂頬を挟みふう、と息を吐く。﹁ほんにかっこよかった
⋮⋮王子様みたいやったわ⋮⋮﹂
んん?
﹁紗優。恋する乙女の顔してるよ﹂遠くを見る目がどこか陶然とし
てる。
﹁もお! からかわんといて! そんなんやないんやから﹂
﹁タイプ外でもきっかけさえあれば惚れられるんじゃなかったっけ
?﹂
じゃ紗優って実際どんな男の子がタイプなの?
私は訊かなかった。
﹃⋮⋮やめてよ﹄
思い出させてしまう。
焼き鳥のパックを紗優はパキパキ開きにかかる。たこ焼き三つ残
してるのは私のぶんか。﹁ほんならなーそーゆーあんたこそどうな
が?﹂
私ですか。進捗芳しくなくまだお好み焼き最中ですよ。
﹁そっちやのーて﹂呆れ目でコーラを喉に流しこむ。⋮⋮お好み焼
きと相性が悪そうに思うのだがお腹ヘーキなのかな。
226
﹁マキに、和貴﹂
どうして。
心臓に悪い。
そんな筋合いは、ない。
﹁⋮⋮普通に部活とクラスが同じなだけだよ﹂
﹁恋心が一パーセントもないなんてあんた、言わせんよ?﹂
紗優とは幾度も行動を共にしている。
夏祭りの夜。
体育祭のひととき。
部活動中も。
見惚れる私のことなど分かり切ってることだろう。でも私。﹁二
人って誰がどう見ても惚れ惚れするビジュアルだし。そのね、顔と
かだけじゃなくて魅力的だと思う。友達⋮⋮て呼べるほど親しくは
ないけど﹂
男の子との関係性の築き方がいまだ私には分からない。
どれだけ近づけばいいのかとか。
どれだけ離れるべきなのかとか。
﹁や、私がどうこうって言うより、二人がそういう目で見てないこ
とは確かだよ﹂
﹁そお? マキも和貴もいまは彼女おらんよ?﹂
和貴がよくしてくれるのは、迷い子を放っておけない大人と同じ。
紗優だって言ってた。緑川に来た頃の自分を重ねてるって。私だっ
て怜生くん飛びついてきたら可愛がったげるし。
近づいて驚かすのは、反応を面白がってるだけで。
自意識過剰になる必要など、どこにもない。
マキは、
﹁私とは全然喋らないし。嫌われてるかもって思う。ううん、冷た
いひとじゃないけど、壁作られてる感が⋮⋮﹂
227
やだ。
告げ口だこんなの。ますます気落ちする。私なんでこんなこと口
にしちゃったのだろう。新しい話題探さないと⋮⋮
﹁ほんなら。試してみる?﹂
いちご飴かじりながらにやり紗優。
なにかを企むように。
私の不安は杞憂に終わらず、三時間後に現実となる。
* * *
﹁さーさ、まずは自己紹介を女性陣のほうからどーぞ﹂
﹁都倉真咲です。趣味はパソコン部と読書です。最近読んだのは﹃
フロイトとユング﹄⋮⋮河合先生と小此木先生の対談に感激しまし
た。その道の先駆者の思想の交わりは含蓄に飛んでいて、読む者の
好奇心と知識欲を存分に満たしてくれま、⋮⋮﹂
あれ。
なんでこんな話してんだっけ。
他の子、もっと違うこと言ってる。テニス部です、料理が好き、
猫飼ってます、趣味ゲームです、弟いるんで面倒見いいほうです、
⋮⋮。
﹁そんじゃ男性陣のほーから質問のある方どーぞ。手ぇ挙げてくだ
さいねはいはーいっ﹂
裏門近くの特設ステージにて。
私とマキだけ動かない。
ビリヤード台に似た長方形のテーブルを挟み、男子五人に対し女
子が五人。合コンなら妥当、⋮⋮やちょっと多いかも。
公開見せしめ合コンだ。
228
こんなの、来たくなかった。いえ望んで来てなんかないもん。
午後の三時だった。迎えに来るねーって約束してたメイド紗優が
タキシードカフェ訪れたと思ったらごめんなーあたし抜けれんくっ
て手伝い戻らな。私は平気だよ一人で回れるからと伝えたのに、小
澤さんもマキに休憩入れと。労働基準法違反並みに働かせたことに
罪悪でもあるのか。押し出すように教室おんだされて気まずく階段
降りたらいきなし都倉さんと蒔田くんですねーって知らない三年に
がしっと拉致されていまに、至ります。
フィーリングカップルって看板に飾られた安っちい青とピンクの
お花もだけど、ステージに近い両脇をタキシードが固めてるのもど
うなの。この番号ついたバッジ、手抜きな手書きだ。
﹁女性から見てどきっとする男性の仕草ぁー。さーなんでしょーね
ぇ一番のあなたから言ってくれまっかー﹂
﹁座ってて足。組み替えるの﹂
﹁拳鳴らすバキバキ、あれヤバいです﹂
あしてる男子がいる、会場笑い。
﹁仕草っつーか。笑顔。笑顔っすね﹂
﹁車。片手でバックしとる人に憧れます。好み? 年上ですぅ﹂
みんな可愛く答えてんのに。
あ、あ、﹁ありません。フ、ロイトが顎を摘まむくらいしか﹂
会場静まる。
完、全、に、
⋮⋮場違いだ。
﹁ほんなら逆からいきましょか。一番のあなたから男性陣に質問タ
ーイムっ﹂
﹁んーほしたらな、女落とす口説き文句。教えてくださーいっ。と
っておきのやつ﹂
あれなんか今日可愛くない?
悪いけど惚れてます。
おれ、一番さんのこと好きになったら困りますか?
229
﹁ぼくの一番の人になってください﹂
被ってる。えーっと田辺くん、だったかな。同じクラスの。気づ
かなかったいまのいままで。あ、目が合う。坊主の頭かいてる。か
ゆいのかな。
﹁んなことここで言えっかばかやろう﹂
⋮⋮
客引いてます⋮⋮。
﹁渡哲也さんです。信長に鬼気迫るものがありました。降板された
ことがあっただけにあの役は必ずやり遂げるという信念を持って演
じたと聞き及びます。あの迫力。本能寺で炎に包まれ、辞世の句を
詠む最期は忘れられません﹂
﹁海似合う爽やかなひとーっ竹野内みたいなーっ﹂
﹁藤重政孝﹂
﹁尾崎﹂
﹁しぶいっすねーみんな。ましゃしか考えられんしょ。エロトーク
さいこー﹂
好みの芸能人訊かれればそういうこと言うんですね。もう終わり
にしませんか。誰も得しませんよこのゲーム。
﹁ほんならラストになりますよ。五番のあなた、なんでもどーぞー﹂
え私?
マイク向けられて咄嗟の一言は、
﹁自分を動物に例えるとしたらなんですか﹂
瞬間。
黒豹マキの鋭い眼光が飛ばされる。
⋮⋮帰りたい⋮⋮。
﹁ほんならどきどきタイムに入りまーっす。これだ! て思う番号
230
書いてくださいねー﹂
ペン。サインペンと白い画用紙とが配られる。
男性陣の誰かの番号書けってことだよね。
誰を書く。
誰。
だれ。
あの。
逃げさせてはくれませんでしょうか。
﹁五番の女性のかたーずいぶん迷っとるようですがばしっと心決め
てくださいねー﹂
笑われた。うるさいわ司会者。
﹁時間切りますよー残り十秒。九、八、七、⋮⋮﹂
うわわ。
どうしようどうしよう。
⋮⋮ええい。
ままよっ。
﹁ほんならせぇーので挙げてくださいねー客席のほう向けてーせぇ
ーのぉっ﹂
観客に向かって挙げただけなのに。
わあっと歓声が沸いた。
どしたんだろ。
﹁おおっ! フィーリングカップルの誕生でーすっ! 三番の男性
と五番の女性のかたーおめでとーございまーす! さーさこっち。
こっちおいでくださーい﹂
な。
な、
なんですと?
逃げ。
れない。どっからこんなスタッフ湧いてきたの。おいでっつうか
連行されてますよ囚人ですか私。うちのクラス回してくんないかな
231
こんなひと余剰なんだったら。
司会者挟んでステージの前面に立たされる。ああもうどんな状況
なの。見れないよ下が。
﹁彼女のどんなとこにあなた、惹かれましたか﹂
﹁目が、合いました。何回も﹂
いっぺんだけです。
﹁五番のあなたは?﹂
﹁⋮⋮なんとなく﹂絶対に自分の番号を書かないと思った男子の番
号を書いただけです。
やる気ない一言を横山やすしさん似せた司会者はスルー。いきな
し声張って、
﹁それでは皆さんお待たせしました、愛の儀式のコーナーです!﹂
おーまーかせ。
おーまーかせ。
スタッフのひとじゃんやらせじゃん。ステージ裏から聞こえるよ
手拍子してるし。
観客釣られちゃってる。
儀式、⋮⋮なんのことだろ。田辺くんも理解してないっぽい。つ
かこの元ネタってなに。
司会者が私にマイク向け、
﹁男性から女性にキスすることになっとんですが。どこがいいです
か﹂
⋮⋮は。
うそ。
嘘でしょう!?
自慢じゃないけどファーストキスなんてまだなんだからっ。
﹁あーそーですか。ほんならおまかせっちゅうことで三番さーんお
好きなとこ、どぞ﹂
言ってないそんなこと。
司会者、身を引いて、背を押す。
232
目の前に、田辺くん。
うそ。
肩、手を添えられる。
何故か、
和貴が思い出された。
やじゃなかった。
こんな風に触られても。
おまかせの声が増す。
騒がしい。口笛。
顔が、迫る。
やだ嫌すぎる。
知らない男子の、匂い。
こう面と向かって来られては顔を背けることも叶わず。
目を閉じて耐えようと思った。
鼻の頭に息がかかる。
拳を、強く、固め。
息を殺す。
死んだ気分になった。
﹁田辺、そりゃねーだろおまえ﹂
⋮⋮なに?
そろそろとまぶた上げてみると、
﹁俺のことはどうするつもりだ﹂
いつの間に。
私の隣に立っている存在が、
坊主頭を手荒に引き寄せ、
233
唇に唇を重ねた。
雷が落ちる騒ぎとなった。
特に女子の悲鳴すさまじく。
阿鼻叫喚と化す。
崩れ落ちた田辺くん。
ほ、放心状態。
寸止めだったのに。
どっちも⋮⋮
﹁なんっということでしょうか! ちょっと待ったコールですっ﹂
このなかで唯一声弾ませる司会者無視して、彼。
こちらに目をくれると、
﹁逃げるぞ。三秒数える。一、二の、﹂
三。
掴まれる。
引っ張られてる。
和貴とは違う感じの、彼の。
私︱︱
﹁なんということでしょうかぁあああっ﹂
声を置き去りし迫る絶叫を無視し群集をかき分け、段を駆け下り
る。足がもつれそうになりながらもついていった。
234
信じられる彼の。
見覚えのある背中だけを頼りに。
235
︵5︶
﹁どした真咲ぃー大丈夫やったがーっ﹂
息切らして急いだ様子で来られたってそんなの。
﹁大丈夫なんかじゃないよ。あの変なイベント申し込んだの紗優?
いったいなに考えてんのっ﹂
﹁ごめん。ごめんなーあんな騒ぎになるってまっさか思わんかって
んもん﹂
﹁んもうっ﹂
ぷいと背を向ける。
LOVE﹄。
﹁けどさーでもさー。⋮⋮悪いことだけじゃなかったんしょ?﹂
LOVE
口笛で吹き始める曲目は。
ドリカムの﹃LOVE
あながち。
外れじゃないとこが痛い。
同じ位置に立ってる。
こんな風に金網掴んでた。
ちょっと息吹いて笑った、体育祭の午前に。
左の手で。
利き手はノーマルに右。
咄嗟に出るのは、誰しもが利き手。
手のひらを見つめる。
びっくりするひとの波を。
236
知らない輪のなかを。
惑いなく突っ切って、
安全な世界に連れてきてくれた彼の。
感触が残されてる。
サッカーをしていたと聞いていたしあのぶっきらぼうな性格。が
っちりしたスポーツマンの手を連想していたのに。
肌の感じ、⋮⋮女の子に近かった。
柔らかくってピアノでも習ってそうな。
すこし冷たくって指先冷え性なのかな。
目を閉じてれば神経質なアーティストだと思ってた。
目をつぶっててもきっとここまで無事に来れた。
洗いたくないな。
本音を言えば。
一生、消えなきゃいいのに、この感触。
﹁⋮⋮あのな。嫌っとる相手に誰があんなことする? マキな、い
っそいで一組呼びに来たんよ。あいつ普段声でっかいがに。周り気
にしてちっさい声で﹂
都倉屋上に残してきた。
行ってやれ。
﹁それで。当のマキはどこに⋮⋮﹂ここで待ってろって屋上に連れ
られて以降、私はその後を知らない。
ステージを見てないはずの紗優がいま、騒ぎ、って言ってた。
237
﹁んー? 隠れとるよ。ちょっとなーいま出られん状況。ようあた
しんとこ来れたと思うわ。男子面白がってなー。いつからつきおう
とんのや? ゲイホモ属性いつからやーマキで童貞捨てとんのかー
てな、田辺、えっらい突き上げ食ろうとる。こっち来る途中にな、
蒔田さんがぁああって泣いとる女、いぃぱいおったわ。あっはは﹂
ちっとも笑えないよ。
﹁隠れてるってどこに﹂
﹁場所違う。隠れるって着ぐるみんなか。うちのクラスなーこんな
んの他にいっぱい用意しとるのん。それ借りる目的もあってんな。
マキは﹂
⋮⋮着ぐるみ。﹁変装ってこと?﹂
﹁選ばせてんけどあいつ。なんの着ぐるみ借りてったと思う?﹂
﹁さあ﹂
007とか?
﹁ピンクのくまさん﹂
⋮⋮
﹁ちょっ﹂
﹁あっははは。傑作やろあのマキにピンクっピンクやよっ一反もめ
んもヌリカベもドラミちゃんも無視していっちゃんかわいーの選ん
でってんよっ﹂
﹁も、ちょ、それ以上、﹂
もう涙が出てきた。紗優までけらけら笑ってる。
拭いつつ確かめたいことを。﹁あ、あのね。もひとつ訊きたいん
だけど﹂
﹁なんこやて構わんよ﹂
息を整える。どこかからバンドの演奏が聴こえる。体育館かな。
空気を吸い、
﹁マキっていつから田辺くんとつき合ってるの。私、気づかなくっ
て。⋮⋮田辺くんに私恋愛感情持ってないってやっぱ。伝えるべき
だよね。マキに﹂
238
口開けたまま紗優が私を見た。
﹁あ、言いにくい話だったら言わないで﹂立ち入ったこと訊いちゃ
いけない。﹁あのね。言っておくとね。別に男の子同士って変なこ
とじゃないよ。好きって思うのは人間にとって大切で自然な感情だ
から。フロイトが言うにはね、男も女も両方の性を愛する素質を持
っているの。同性愛者の実際は知らないんだけど、一人、前の学校
にいたっぽいし。普通の子だったよ。テレビで見るオカマ芸人じゃ
ない、誰とも変わらない。だからね、﹂
﹁待った!﹂挙手。﹁待った待った真咲あんた﹂
﹁どしたの﹂
あ、前屈。すごい肺活量だ、よく息が続くものだ。
﹁あんった。にっぶいんもたいがいにしいや。あいつらがデキとる
わけないやろ! 本人のためにゆうとくとな、マキは。ホモでもゲ
イでもない生粋のストレートやわねっ﹂
﹁ぜんぶ同じ意味だと思う﹂
あ。バイセクシュアルでもないんだ。
﹁なっしてマキがあんなん言うたがか分からんがか! じっぶん騒
ぎに巻き込んでまで。そんなん田辺が真咲にキ⋮⋮あほらし。なし
てあたしから言わなならんの。あんた。自分でマキに確かめいや。
なして私んこと連れ出してくれたんって目ぇ見てちゃんと訊きいや
っ!﹂
﹁そんな勇気あるわけないじゃん﹂
相手はあの仏頂面の朴念仁だよ。
﹁ね。これジュディマリだよね﹂タイトル知らないけど紗優なら分
かるかな。﹁ライブ。体育館でやってんだよね。見に行かない? 当番もう終わってるでしょ﹂
﹁終わっとらんでも一緒するわ。あんたんこともー黙って見とられ
ん⋮⋮﹂
なんだか肩を落とすのを励ますつもりで、この曲ってなんだっけ
って訊いてみる。
239
ME
DO!﹄。⋮⋮いまのあんたにぴったりやと
思いのほか冷めた目で紗優は返した。
﹁﹃LOVE
思うわ﹂
タキシード姿だと落ち着かず。また不必要に目立つ感じもあった
ので、二年四組に寄って着替えてから向かったところ、残り一曲と
なっていた。体育館足踏み入れるとラストですーってボーカルの子
が叫んでた。
なかなかにあの歌唱力を持つ歌手の曲を唄うのは厳しい。
けどあの子、上手いと思う。
この曲目ならば私でも分かる。
﹃小さな頃から﹄
すり切れたカセットテープみたく感じられたときに。
一人膝抱えてた部屋で励ましてくれたカセットテープ。
全ての窓を開け放った体育館は、音響悪く、ライブには不適で。
でも音はひかりとなって届く。誰の元にも。
後方の着席エリアに目もくれずざくざく進んでく紗優についてい
く。⋮⋮ほとんどの人が立ち見してる。パイプ椅子エリア、座って
るのは数えるほど、お年寄りだけかな。
﹁タスク。和貴。和貴ぃっ﹂
音楽を気にして紗優小さく叫ぶ。
﹁お。遅かったねえ。こっち入る?﹂
﹁都倉さん。見えないようでしたらそこの椅子、使われますか﹂
あ確かに。立ち見エリアの最後尾だからまるっきし、頭に隠れて
ステージが見えない。
自分の後ろ一直線上に誰もいないのを見計らい、そこの椅子を拝
借する。音を立てぬよう靴を脱ぐのだが。
がたがた。
なんか安定しないなあパイプ椅子。膝立ちのほうがいいかな⋮⋮
240
﹁よかったら僕の肩に捕まって﹂
﹁あ。⋮⋮ありがと﹂
ライブじゅうふらつき通しよりはいいかも。遠慮なくお借りする。
バンドがハケて次の準備に入る間、身を低くしてタスクの隣に回っ
た紗優がこっち見てにやにやしてたのには気づかないふりをした。
Red
and
The
Blac
﹁それではお待たせしましたー本日最後のバンドとなりました、皆
さんお待ちかね! ﹃The
k﹄の登場ですっ﹂
暗転。
あれ黒カーテン引かれてる。暗っ。
両端の上方からライトで照射されるステージ。
赤と、黒。
クロスするラインに、黒布が。
舞い上がる。
屈んでいた、⋮⋮三人が。
真ん中の彼が先ず目を引く。
赤い髪をした男子は、
﹃知っとっかーオレら今年もトリやんねぞ。見に来て見に来てー﹄
︱︱彼、だ。
﹁R&B!﹂
﹁R&B!﹂
人気なのか凝ったバンドなのか。両方だおそらく。ステージ上の
壁一面に赤と黒の旗が貼られてる。白抜きでバンド名のレタリング
の入った。なんせ観客の勢いがさっきとは段違い。バンド名だかが
しきりに叫ばれてる。最前列で女の子たちが必死に小旗振ってる。
あの旗、⋮⋮も手製かな。赤黒だし。
歓声のなかを黒い髪と金髪の彼は慌てず騒がずそれぞれ配置につ
241
く。なんか慣れてる。赤い髪の彼は、センター。マイクを手に。
﹁うぃーっす﹂
うぃーっす。
⋮⋮てなんじゃそりゃ。赤い彼、おどけて敬礼。﹁待たせたなー。
大人しくほかのやつらの聴いてたかー﹂
してませーんーっと高い声が響く。駄目じゃんそりゃ。
﹁てか気合足りてねーぞー。おれ一人に負けてどーするよてめーら。
もいっぺん言えーっ。うぃーっす﹂
マイクを台から外し、客席に向け、
うぃーっす。
キャーハルーこっち向いてーっ、て⋮⋮すご、いな。そんなにニ
ーズがあるんだ、彼。
﹁うんじゃ、気合ついでにいつものやつから行っとくぜーえぇっ!
来い! おらぁっ! ぅRed!﹂
﹁Red!﹂
拳を上に突き出す。
えっうそ、やんの?
﹁&!﹂
﹁&!﹂
今度は左の拳を。
﹁Blaaaaack!﹂
右拳をぐるぐる回して最後に天を指す。
まるきりついてけず私ポカーン。
マスゲーム⋮⋮みんなやれてて動き揃ってるのがすごい。
Like
Teen
Spirit﹄ぉーっ﹂
﹁うっしゃあ、おまえらついてこいよーっ一発目から飛ばすぜっ﹃
Smells
ギターリフと共に会場が、曲が、暴れだす。
すんごいノリノリ。みんな。からだ揺れてる。縦ノリ。メイド紗
優なんて腕上げて踊ってるもん。私に気を遣ってか和貴は動かない
ものの。果たしてお年寄りついていけるのだろうか。Jポップでギ
242
リなのに洋楽。サッパリ聴かない私置いてきぼり。
バンド名ってスタンダールからとったのかな。
R&Bって普通音楽のジャンルを指すんだと思うけど。
ライブ経験はないがテレビで見るくらいは。MCって演奏一曲は
終えてから入れるもん⋮⋮だよね。
狂気の渦と化してくみなさん、私疑問グルグルです。
巧いのは分かった。
マキと喋ってた男子と同一人物とはとても思えない。刹那的で、
攻撃的で、叫びながらもひりひりと焼けつく胸苦しさを与えるのが
不思議。クリアなハイトーン。しゃがれた、崩した、動物のように
低く唸った。しゃがんで飛んで跳ねてギター上げて下げて、変えて
も動いてもボーカル乱れない。ほんと⋮⋮楽器みたく扱えるんだ。
男性バンドってミスチル辺りしか聴けないのに私、それでも引き
込まれるものはあった。
彼ら。
トリじゃなきゃ成り立たない。
比べるとさっきのバンドが稚拙に思えたほどで。激しく荒々しく
昂ぶっていても空中分解せず。どこか調和と統制を損ねない。過去
の学園祭で聴いてきた内輪ノリのレベルより勿論、東京で耳にする
ストリートライブの類いよりも上だった。
私の感慨はさておいて、三曲。似たテイストの激しい曲を終える
と、真っ赤なギターを下ろし、背を向けて飲み物、飲んでる。体力
使うんだ。ドラムの男子の裸の上半身、汗でてらてら光ってるもん。
タオルで汗拭くとTシャツを着始める。
ライトが白っぽいスポットに変わり。
照らすのはステージの真ん中の。丸椅子が三つ。サイドにギター。
三人座ると。
広げた足の間に、椅子を掴んでボーカルが片手にマイクを寄せ、
﹁この曲で最後﹂
えぇえーっ!
243
また小旗揺れる。
﹁おれらにしてはめずらしくおっとなしー感じにしたんだわ。本日
初披露。聴いてください。ここにいるおまえらの全員に感謝を込め
title﹄
て。それと。ある男に捧げます﹂
﹃No
brightness
blinds
w
sh
the
and
thorough
着替えたドラムの彼が爪弾く静かな奏でにてそれは始まった。︱︱
The
indow
draw
door
ar
up
said
my
in
you
break
enough
should
is
words
myself
the
I
the
holding
down
ut
was
the
I
ms
me
we
that
Repeating
to
think
Darling,
I
f
wan
to
I
How
e
who
me
to
man
tell
how
the
be
not
to
are
you
You
ted
anyone
you
Could
orget
me
me
tell
pain
sees
me
anyone
the
ever
sees
Could
one
ever
ase
No
one
No
244
are
me
You
ved
are
the
one
who
who
have
really
lo
t
tight
could
hurt
one
anyone
the
than
holding
woman
on
y
ways
said;
like
women
another
is
find
coldness
more
You
me
The
ly
love
someday−on−day
Somesay,
o
met
street
I
the
me
have
separate
you
our
night
satisfied
never
other
did
But
ou
The
go
to
f
again
How
e
you
me
to
see
tell
how
wanna
should
never
We
I
anyone
you
Could
orget
me
lo
tell
me
anyone
pain
sees
Could
the
ever
ase
one
No
me
really
sees
who
ever
one
one
the
have
could⋮⋮
hurt
who
anyone
one
than
the
No
are
me
You
ved
are
more
You
me
245
︱︱
悲しみを堪える叫びが放たれる。
静かだった二台のアコースティックギターが音色を絡ませ、抑え
ていた静けさから、荒い。
感情を爆発させる鼓動へと。
昇華させていく。
歌詞のぜんぶは分からなかった。
でも、大体の単語は聞き取れた。
意味も取れた。
その曲の放つ激情は琴線に触れる。
痛い。
軋ませるほどに。
からだを、震わせ。
こころを、乱す。
熱いものが頬を伝う。
﹃あれつこうたゆうてもか?﹄
﹃ノートにちゃっかり書いてくれとったやろ﹄
﹃てめ。勝手に曲にしたってのか? 著作権はどうなってやがる﹄
残された痛みにもがき。
どうしたらあなたのことを忘れられるのかと。
既に自分の元を去った女性を失い、苦しみ。
それはひとつのことと重なった。
彼が失ったあることを。
246
ううん、
もう一つ。
﹃稜子のことやろ、あれ﹄
止まらない。
しゃくりあげるのをこらえる。
喉が、狭まる。
号泣だなんて。
みんな、大人しく聴けてるのに、⋮⋮気恥ずかしい。
小さく咳をして、顔を逸らす。
一人の存在に気づいた。
後方の入り口に、
開かれていた。
人二人程度の幅を、
ピンクのくまさんが立っていた。
理解するより先に流れ落ちた。
拭うときにはもっと理解していた。
247
︵6︶
墨を吹きつけた夕闇が若緑を変質させ。蛍に似た照明灯が小路沿
いの暗がりをぽつぽつ照らす。
走り抜ける女子のシルエットを浮かびあがらす。揺れる、スカー
トのプリーツ。
はしゃぐ声は二階のこちらまで届く。
ガラス窓に透ける自分は亡霊のようだ。
まぶたが腫れてるかもしれない。
再び濡れタオルを当てるも、それが冷やしてくれてるのか、生成
される涙を吸い取ってくれてるのかもはや、分からなかった。
帰る、と嘘をついてきた。
誰もいない、
静かな領域に。
天井に埋め込まれた小さな常夜灯が照らす程度の心もとなさ。真
っ暗な閉鎖は苦手だ。
一人になれる場所を選んできた。
こんな顔して帰ったら母と祖父母が心配する。
まだ、整理がつかない。
立てていた膝をまっすぐに伸ばす。読んでいた本の内容を反芻す
る。︱︱対人欲求とは。他者の反応・他者との関係性によって満た
される欲求であり、対人欲求に含まれる親和欲求とは、﹃興味のあ
る相手と親しくなりたい﹄という感情のことを言う。マズローの欲
求階層説から派生した学説だ。
口に出してみて、笑えた。
こんな話のいまどこが問題なのか。
248
深く貫かれた痛みをどうにかするのが先決だろうに。
﹃なんだ。中学生か?﹄初対面でからかわれた。
﹃俺がか?﹄勘違いした、目を丸くして。
﹃そう言うなよサイコ野郎が﹄初めて見せた笑顔だった。
﹃⋮⋮ういっす﹄長い沈黙溜めて顔逸らして言われた。
﹃お前は全部が嫌いなんだろうが、⋮⋮俺もお前が嫌いだ﹄初めて
ぶつけられた感情だった。
﹃夏会った日、学校に退部届を出しに来ていた﹄短いけれど、自分
の口で真実を語った。
﹃悪かった﹄
保健室で私の手に触れた。
夢なんかじゃない。
だって。
あんな繊細な男の人の手を私は彼にしか知らない。
欲求階層説なんかどうだっていい。
こんな感情を表すのは漢字一文字で足りてる。
﹃稜子のことやろ、あれ﹄
249
なのに。
認めるのが怖い。
だって彼には。
忘れられない人がいるのだから。
情けなく。
また止まらなくなる。
ぼっちで閉じこもっちゃう。
膝抱えるしか脳のない動物。
どんなに人を弱くする情動なのだろう。
濡れたスカートの裾に埋めてみても、逃れられやしない。
考えないようにするってこと自体が考えるってことなんだった。
それでも思考を閉ざし入り込もうとする。
深い深い,
未開の森の奥地へと。
閉ざしたまぶたに力を込め、
﹁︱︱おい。おい起きろ﹂
そうだった。
⋮⋮こんな香りだった。海を感じる爽やかな香り。周りの男の子
みたくどばどばつけないの。
肩を強く引かれ、
﹁んなとこでなに寝てんだおまえは﹂
覚醒した。
250
寝ぼけていたのだと理解する。
ピンクのクマさんが喋りかけている。
驚きに、声も出せない。
信じられない気持ちで、窓際の私、膝を前に伸ばすと、くまさん
は数歩後ずさる。
﹁な、んでまだその、格好⋮⋮﹂
﹁着替えてる暇がなかった﹂
被りもので声がこもってるけれど、紛れもなく彼だった。
外が、随分と暗くなってる。袖口から覗く腕時計に、
﹁う、そ﹂自分の時間が止まった感覚を覚える。
﹁六時過ぎてるっ﹂五時過ぎだったろうか私が来たの。ほぼ一時間
も眠っていた。
﹁⋮⋮閉会式はとっくに終わった。フケたのは俺とおまえだけだ﹂
﹁なんで、マキまで﹂からだの節々が痛い。板の上で変に寝てたせ
いだ。
﹁誰かさんを探していた﹂
そういう台詞を言わないで。
﹁⋮⋮探さなくっていいのに﹂
﹁おっまえ。帰ると抜かしたくせにかばんは置きっぱ。保健室と思
ったらいねえ。家電話してもいねえ。したら校内しか残んねえだろ
うが。この方向音痴が。ヘタにあいつらに言ったら騒ぎになると思
った。だから。伏せておいて、探し当てるしかないだろがっ﹂
﹁あそ、そ、そう、でしたか﹂
意外な剣幕に押される。
﹁とにかく。無事で、何よりだ﹂
﹁別にね、子どもじゃないんだから﹂
﹁泣いてただろ﹂
どきりと刺す。
251
いまを。
さっきを。
指してるのか。
﹁⋮⋮あ。歌ね。歌にすごく感動しちゃって﹂引きつってうまく笑
えない。被りもの越しにも直視を避けてしまう。﹁にしても。見つ
かるとは思わなかった﹂
﹁読書好きなんだろ。屋上いないならここだと思った。この格好、
俺だと悟られずに動くには最適なんだが、歩きづれえし遅くなった﹂
どうして彼は。
優しいんだろう。
残酷だこのひと。
なんで私を見つけてくれたのかって。
なんで私を連れ出してくれたのって。
⋮⋮訊けないよ。紗優。
﹁紗優も、みんなまだ、残ってるんでしょう﹂
眼下に小路を走る影が複数あった。
﹁ああ。後夜祭があるからな﹂
﹁戻りなよ。そっち。私まだここにいるから。もうすこし休んでる﹂
﹁駄目だ﹂
﹁いいから。放っておいてっ!﹂
駄目だこんなの。
膝抱えて俯くって。
典型的な迷惑な言動。
でも私。
これ以上、
⋮⋮考えたくないよ。
﹁⋮⋮おまえが来ねえと寂しがるやつがいる。いいから来い﹂
252
﹁誰が。和貴、タスク、それとも紗優が?﹂
﹁俺だ﹂
顔を起こす。
くまさんがまっすぐ見ていた。
その隙に腕を引かれ、すとんと、下ろされる。
両足着地。
そのまま引っ張られるも。
なにいまの。
違う。
駄々こねてる子どもを動かすための方便だ。
やだもう、
﹁だ。誰も行くなんて言ってない! か、帰るって私っ﹂
振り向かずくまさん。
﹁A.このまま歩く。B.荷物のように運ばれる。C.担架で運ば
れる。どれがいい。選べ﹂
﹁選べません⋮⋮全部嫌です﹂
半べそで答えたところ。
いきなし。
がばっと覆われたと思ったら、
背中と膝の裏に手を添えられ、
荷物運ぶみたく持ちあげられてた。
﹁⋮⋮ぎっ﹂
これいわゆる。
﹁ぎゃあっ下ろして下ろしてっ﹂
お姫様抱っこ。
両足が地につかない非人間的体勢が恥ずかしくって腕のなかでも
がいてみてもくまさん、びくともしない。
253
﹁無駄だ。俺を誰だと思っている﹂
﹁蒔田、⋮⋮一臣﹂
﹁毎日十キロ走る俺をおまえ程度が吹っ飛ばせるとでも思うか﹂
﹁十キロ!?﹂
﹁平均でだが﹂
﹁すご⋮⋮﹂
くまさんあの、か、か、顔はどこ向ければいいの。手は、どうし
たら。﹁軽いジョグにしている。一度身についた習慣はなかなか抜
けないもんだ。何故続けるのか俺にも分からねえ﹂
﹁こ。こういうときのためにとか﹂
﹁滅多にねえ。着ぐるみ着て女抱えるとはな﹂
くまさん、笑った。
ぶ厚い着ぐるみのお腹越しでも伝わる、震え。
それだけで。
胸の奥が焼き切れる。
こんなの。
﹁抱えるなら、⋮⋮相手が違うよ﹂
小さく呟いたつもりだった。
しかし。
くまさん、停止した。
重たそうな被りものが徐々に角度を、落とす。
﹁盗み聞きしてたな?﹂
うわあっ!
あのこここ故意じゃないんです偶然ですっ。
泡食った顔って被りもの越しに見えてるのかまた、息をつく。﹁
坂田は⋮⋮あの赤髪のやつとは中学が同じでな。前々からああいう
曲に夢中だった。⋮⋮俺もあの頃はよく聴いた﹂歩くペース、先ほ
どの速度を戻す。﹁好むのが洋楽のくせして英語が壊滅的に弱い。
254
発音がマシなのは聴覚の良さにある。理解が足らんから俺に翻訳し
ろだの歌詞訳せだの頼みに来やがる。⋮⋮後は聞いていた通りだ。
ライティングのノート貸したときに、詩を書けと宿題出たの以外に
色々書いておいたのをパクられただけの話だ﹂
﹁ふぅん﹂
﹁どうした﹂
階段を降り切って辿り着いた保健室前。中庭が近いのは、土と葉
のにおいが増したので分かった。
﹁寡黙なひとが急に喋りだすのは、やましいことがあるか、嘘をつ
いているかのどちらかなんだよね。心当たり、ある?﹂
﹁てめ。しばくぞ﹂
きっと睨まれている。
反動でくまさんは黙ってしまった。
本当はこんな憎まれ口を叩きたくなかった。
﹃他に聞きたいことがあれば、和貴に聞け﹄
嬉しかったのに。
話してくれて。
彼が彼のことを。
でも同時に。
聞けば聞くほどに。
本当のことを覆うための大切さが伝わる気がして。
支えられてる着ぐるみ越しに。
目を閉じて、胸のなかに迫り来る。
津波のような感情と一人戦っていた。
255
﹁真咲ぃーっあんた大丈夫やったが? 具合はっ﹂
あれ。
性懲りもなく私また寝てた。なんか家以外だと眠くなる体質なの
か。
﹁あの、へーき、ね、てただけ﹂
ゆっくりと下ろされる。荷物ならもっと乱暴に扱われるべきだ。
⋮⋮結局ABCのどれにも該当しなかった。
連れてこられたのはグラウンドだった。
周りに黒い人影がいっぱい。パチパチと燃えさかる、キャンプフ
ァイヤーの炎が立ってる。みんなの輪の真ん中に、神輿よりもでっ
かそうな。
﹁マキ。お疲れさん﹂背伸びして紗優がくまさんに小声で言うと、
くまさん、ぶんぶん否定してから走り去った。途中で女の子たちに
きゃーかわいーあたしも抱っこしてーって追いすがられながら。い
やくまさんがね。あの子たちは中身を知らない。
﹁見てあれ。まだ追いかけられてる﹂
﹁そんなんいいから前のほう、前行くよ。ついてきて﹂
﹁⋮⋮なんか始まるの﹂
﹁緑高名物フォークダンス。体育んとき踊り方習ったやろ?﹂
﹁それをいま、踊るの?﹂
手を繋いで掲げる、
向けてくる笑顔こそが、
私への紗優の答えだった。
壊滅的な音質のスピーカーが今宵は﹃オブラディ・オブラダ﹄を
奏でる。
細い下限の月がひかる。
星のまたたきがいっぱい。
刺激に空のいろが朱く染まり。
人間たちの肌を炎のいろで返す。
256
来るのが遅れた私、そとっかわにいたはずがどんどん輪の中心へ
と誘われる。隣にいたはずの紗優をとっくに見失った。
﹃青い山脈﹄を終えて三曲目、﹃おおシャンゼリゼ﹄のときにタス
クに再会した。
﹁都倉さん。どうですか、楽しんでますか﹂
﹁うんうん﹂
と答えてるまにまにさようなら。
﹃ジェンガ﹄でジャンプするとき。後ろのひとの肩を掴む握力が強
い痛い。振り返ったら小澤さんだった。あんたなにをわろうとるん
気色わるって言われたからまた笑った。
大体は知ってる曲だったんだけど、一個分かんない洋楽がかかっ
て焦った。伴奏の間みんなかかと上げ下げしてる。足、どう動かせ
ば、
﹁﹃オクラホマ・ミキサー﹄と同じ。適当に合わせてろ﹂
手を引かれたとき。
他の人よりやけに濡れた黒髪を認めたとき。
額から落ちる汗の筋の流れを目にしたとき。
すごく。
Electric﹄。聴いたことね
泣きたい気持ちに駆られた。
﹁oasisの﹃She's
えのか﹂
﹁ある、⋮⋮かも﹂
彼、だった。
やっぱり。
声の感じ、雰囲気、感触を。
一度記憶した神経が叫ぶ。
汗のなかに眠るときにほのかに漂った、海の香りが強くなる。
さっき抱えられてたときより、ずっと近いそばにいる。
257
背中に回された腕、その先が手首を掴んでる。
声が頭のてっぺんに落ちる、息がかかる感じに、
病気みたくなる。
﹃俺だ﹄
くまさんを剥いだマキは。
いつもより百倍増しで格好よかった。
お辞儀して他の男子に移るときには体育祭よりもよっぽど生存ぎ
りぎりのところにいた。
﹃マイムマイム﹄のクレッシェンドのところで、全員手をつなぎな
がら前へぎゅうぎゅう。足だって踏みつけちゃう。くっついて汗べ
たべた。近づける限界まで近寄ると今度は手がちぎれるくらい離れ
る。あ離れた。でも繋ぎ直す。
歓声にキャンプファイヤーの炎すらも勢いをくべられ加熱し。
うわぁーってみんながみんな叫んでる。
男子も女子も。働きまくった学祭委員も。生徒会の先輩男子女子
もお仕事そっちのけで。
中田先生も宮本先生も田中先生も本日もパンタロンの学年主任も
ほかの先生みんなも。
果てには頭つるっつるの校長先生まで一緒くたになって。
いっしょになって。
手をつないで。
炎の尽きる最後のひとときまでをも楽しんでいた。
258
︵1︶
﹁こんちはー﹂顔を覗かせるのは和貴だった。丸い目をしてきょろ
きょろ室内を見回す。﹁⋮⋮あっれえ真咲さんだけえ? 誰も来と
らんが?﹂
﹁うん。取りに行ったの私が最初で⋮⋮﹂ドアを後ろ手に閉める和
貴に向けて鍵を掲げる。﹁いつもタスクが行くじゃない? 下田先
生、珍しいなってちょっとびっくりしてた﹂
キーアクセサリーなしの鍵がそんな珍しいのか。
鍵のところで視線を止め、
どんどん私に近づく。
﹁⋮⋮ふぅん﹂
椅子を引いて、彼は座り、
﹁壁紙ポスペなんだね?﹂
急激に頬が熱くなった。
なんてことないただの一言なのに。
自意識過剰の結果だ、そしてこの意識こそが頬を熱くする勢いを
加速する。
喉の奥に溜まる唾を飲み干し、私は鍵を机に置く。が必要以上に
音を立てた。﹁う。うん。可愛いでしょ﹂平静を装いディスプレイ
に向かう。
﹁だねだねー﹂屈託なく隣の机に頬杖をつく彼は、⋮⋮知ってて言
ってるわけじゃない、よね。
パソコン部ではみんなが情報処理の授業で使うパソコンを使用し
ている。部に現時点でなにか購入するだけの予算は与えられておら
ず、したがって日々向かうのはこのディスプレイ。分厚くて見た目
259
が旧型テレビと相違ない。それに手垢のついたお揃いのキーボード
がセット。
お世辞にも豪華とは呼べない。
変えられる部分は各自鋭意工夫して変えている。
ログインIDは無論授業とは異なるし、ログオン後の壁紙やOu
tlookの設定などなど。
同じものを使いつつ細かなところで個性を出したがるのが私たち
学生の趣味嗜好といったところだ。
こないだ紗優が壁紙をGLAYの四人が並ぶ写真に新調した。﹁
なーなー真咲もなんかオシャレなんに変えようよー﹂私は別に変え
るつもりなどなかった。Windowsに初めっから搭載されてい
る﹃花見﹄がそこそこ気に入っていた。ピンクを背景に花弁が舞う
桜吹雪は女の子に人気がある。
私が考えを改めたのは、
白い背景にでっかく。
画面越しに微笑みかけるポストペットのくまさんに出会えたとき
だ。
これだ、と思った。
私はそれを口にしなかったのだが表情で伝わったらしく。意味深
な笑みを浮かべ手際よく紗優が設定してくれた。
その紗優といえば本日はお休みとのこと。滅多に学校を休まない
彼女だが11月ともなれば風邪が流行る、特に一組ですごい勢いら
しい。早く治って欲しいな、と思いつつ新着メールをチェック。僕
が遅れた時のために課題を、⋮⋮抜かりないなタスク。送信日付が
昨日だ。
くまさんに代わって、
茶色い瞳が視界に飛び込む。
なにが起きたのか理解が遅れた。
﹁⋮⋮近い。和貴﹂
260
現状を把握すると手で追い払う。和貴がディスプレイと私との間
に顔を突っ込んでた。ポスペ真似て手が招き猫のかたちをしていた。
ごめんごめんと口では言いつつも悪びれる様子はなく。自席に戻
らず、紗優の席に座る和貴を一瞥する。
ブレザーの間から覗く、赤いセーターの色。前を閉じるのが好き
じゃないみたいだ。アーガイル柄のVはベストだろうか。きっとそ
うだろう、セーターを重ねるともうちょっと腕の辺りがもこもこす
る。
学校指定のベストを着るのは模範的優等生くらいなものだ。着る
のは私たちの間でダサいこととされている。この地方が極端に寒い
せいだろうか生徒のインナーに学校は寛容で、私服が暗黙に許可さ
れている。男子なら黒やグレーのベストか長袖を選ぶのが普通なの
だが⋮⋮あんな郵便ポストめいた鮮やかな赤は彼以外に着れない。
彼だから着こなせる。
イギリスにこんな男の子がいそうなトラッドスタイルで。
ふわっふわの茶髪を遊ばせるように、
いつもからかうような笑みを口許に乗せ。
長い手足を持て余し前かがみで指回しなんかしてるさまは、性別
を超えた可愛らしさがある。
彼の倒錯的な魅力に囚われてるのは私だけでなく、あまたの女子
が彼を見る度にきゃあきゃあ騒ぐ。
桜井和貴の弱みといえば背がやや低いことだろうか。それでも、
ある女子がこのように語っていた。
﹃あのでっかい目がいいんよ。すごくキレーで吸い込まれそうにな
る﹄︱︱同じ目の高さで、或いは下から見つめられるのが彼女たち
にはプラスに作用する。和貴を嫌うひとなんているんだろうか? 彼、誰に対しても人当たりがいい。マキとは真逆だ。
⋮⋮マキは。
一見とっつきにくいくせして、︱︱優しい。
見た目通り親切で優しいのが、和貴だと思う。
261
隠れ和貴ファンの子に、ならパソコン部入ってみる? と持ちか
けてみたところ﹁やだやだいいっ﹂全力で拒否された。
やだって。
そんなに抵抗ありますかねパソコン部。部員募集のキレーなポス
ターにだーれも反応しない。あれさりげに凝ってるんだよね。ハン
ドライティング。私は色を足しただけでタスクの力作だ。
﹁まさーきさん。僕に見惚れすぎ﹂
確かに私は彼の方を向いていたが考えごとをしていた。はいはい
そうでしたね、と受け流す術も私は身につけた。言われ慣れてる。
ところで。
﹁その袖、なんか長くない?﹂
﹁ああ⋮⋮﹂私が自分の手首を持ち上げると和貴も鏡写しの動きを
する。袖をまくり手首の腕時計に触れて、﹁だよねえ。制服買うと
きじーちゃんと買いに行ってさ、そんときワンサイズおっきいのに
されたんだよ。ほら昔のひとって物大事にすんじゃん? 背ぇ伸び
っさけいまぴったしなん買っとくとかんならず買い直す羽目になっ
ぞーって口酸っぱくゆわれてさあ﹂
膝に添えるほうの袖口を見れば手首を完全に覆う丈だ、座ってて
これなら起立するともっと長く見えることだろう。
﹁高校生で背が伸びるひとなんているの﹂中学の三年で成長の止ま
った私がそう訊くと、
﹁僕は毎年、二センチずつ﹂なにか恥じらうように頭をかく。
﹁いま身長何センチだっけ﹂
﹁168﹂
﹁その調子で行くと⋮⋮32歳になる頃には二メートル超えだね。
ジャイアント馬場になっちゃうよ﹂
アポー。
⋮⋮なんで真似してんの。
うろうろしてる。
262
しかも。
似てる。
関根勤に。
﹁アポー。ん馬場チョぉーップ﹂
﹁ちょ、も﹂随分手加減したチョップを食らい私はそれを払った。
﹁できないじゃん課題。和貴も自分の席戻ってやんなよ﹂
﹁こんなおっそいほうが悪いっ﹂開き直った。顎しゃくれさせたま
んま。﹁いったいあいつら日直に何時間かけてんだよ。うし。迎え
に行こ﹂
﹁え私も?﹂
タイピング中途なんですが。
あ鍵掴んで出てく。
じゃあついてくしかないじゃん。
夏が終わると寂しくなるのが緑川の町、合唱コンクールまで終わ
ると寂しくなるのが緑高のこと。
目立った学校行事がしばらくなくなる。
校内に残るのは文化部員か受験生か。
運動部は冬に大会などもなく。目の上のたんこぶの先輩方が引退
し二三ヶ月も経てば二年生たちは築いた牙城に慣れ、気が緩んでし
まう。グラウンドを走る野球部の引き上げが早いのはそのためか。
小澤さんの所属する﹁女子ソフト部はこっちじゃなくて裏のほうで
練習してるんだよ﹂和貴いわく。
走りが軽やかな彼は、階段を降りるときはひょこひょこ。ランニ
ングとは異なるステップで一段飛ばし飛ばし。
跳ねながら降り。
遊ぶように歩く。
ちっちゃな頃は雨の日を、長靴履いてぱしゃぱしゃ、水たまりを
きっと楽しんでいた、そんな少年だったと想像がつく。
ちょっと猫背気味で。
263
ズックのつま先を見ていたり。
時折眩しそうに私の左手の窓を眺める。
影が落ちる廊下を踏みしめ。
誰かと歩けば私の内面に必ず誰かが表象される。
︱︱彼との違いを。
素敵だった学園祭の余韻を持ち越してるのは私だけだ。
彼は変わらない。
チャリのふらつくおじいちゃんが来れば庇うのも。あのおじいさ
ん道変えればいいのに。
⋮⋮沈黙して歩くのも、私の癖になっている。
目が合うと、すこし開かせて、微笑みに変える。
そういう癖が彼に身についてるんだろう。
﹁おい置いてくぞー﹂
﹁待ていや﹂
購買で残り物のパン買ってたっぽい男子の高い声が届いた。放課
後なのにまだ売ってるんだ、運動部なのかな。
それで向こうからやってくる五人組は、廊下の幅いっぱいに広が
り、私たちとすれ違うにも譲る気配がない。
和貴が、先を行く。
私は後ろに。
ちょっと⋮⋮苦手だった。男の子の集団のギャハハってふざけて
るノリが。シャッターを下ろしたばかりの購買と職員室の間の空き
空間に私は寄った。ここから中庭が見えることをたったいま知った。
﹁あいっかわらず女とばっかおるげな﹂
264
誰に言われたのかと思った。
中庭から目を戻す。
一人が、一人を向いて言う。その対象は、
﹁女みてーなツラしやがって。桜井、おめー走るよりちゃらちゃら
遊んどるほうが似合っとんなー﹂
はははっと彼らが揃って高笑いを浴びせる。
漫画みたいに統一された種の。
快不快で言えば、間違いなく不快にさせる質だった。
なにも返さず、
背筋を伸ばし、
先を歩く背中を見ていて、
我慢がならなくなった。
﹁ちょっと﹂
振り向きざま呼び止める。
﹁なにいまの。女と歩いててどこが悪いの。あなたたちみたいに人
が来ても道譲らないよりマシだよ﹂
﹁まさ、きさんっ﹂
素早く肘を引かれる。
止める彼の意志が伝わる。
でも、
彼らは、止まっていた。
笑いが収束する。
静止した時間が再び動き始めるとなんだこいつ、そんな目線が戻
ってくる。
が見た感じすごく真面目そうな彼らは、不良みたく唾を吐いたり
舌打ちしたりもせず。
265
誰が反応を返すか、なんとなく互いに目を見合すそんな気まずい
雰囲気が漂う。
一人を除いて。
唯一私から視線を外さなかった人物だった。
睨むに近かった面持ちを薄笑いに変え、ゆっくりと、進み出る。
ズックの底がにちにちと響く。その響きを愉しむような余裕をも
って。
角刈りのスポーツマンぽい彼はこの場合ガムでも噛んでれば様に
なりそうだった。
﹁⋮⋮四組の、転校生やったよなぁ﹂
尋ねるまでもないことを。全校集会に出席してないのか?
無視した私の睨みを気にせず彼は鼻を鳴らす。﹁なーんも知らん
のやろこいつんこと﹂顎で指した。私の後方を。﹁都倉さん、教え
たるわ。そいつはな、友達から女奪って遊んどるよーなやつや﹂
掴む、力が、緩んだ。
私は確かめる。
彼のことを。
いつもみたくおどけた反応を密かに期待していた。
私が自分のそんな期待感を正視したのは、いつもの笑みの消え失
せた、
例えるならば、
笑い方の知らない人形に似た表情に遭遇したからだった。
かず、き?
目を合わさない。
認めるように伏せている。
266
はたこう
﹁あんたとおんなじ苗字のやつが畑高におる。戸倉っつうんや﹂
︱︱ああ、都倉さん。
足元に視線を落とし、﹁おれの前の彼女﹂と彼はひどく自嘲的に
笑う。﹁遠距離の隙突いて手ぇ出しといてぇな。桜井はおれに、奪
うのが楽しいっつったんやぞ。嘘やと思うんやったら確かめてみい。
奪ったら奪ったで飽きたっつーてポイ捨てや。⋮⋮お陰で陸部には
おれんようになった。次期部長のおれに喧嘩売ってもうてんさけな﹂
幽霊部員だと宮本先生が言っていた里香さんが匂わせていた理由。
タスクの発言に、⋮⋮異常なほど怒りを露わにした。
︱︱おそらく彼は最初から貴女のことを名前で呼んでいたはずで
す。
初対面で真咲さんと呼んだ。
いま目の前にいる表情の失せた、和貴が。
裏付けを与えられても私は取り残されている。
同じように表情が失せていることだろう。
そんな私に、
﹁あんたも桜井の餌食にならんようせいぜい気をつけるこったな﹂
忠告めいたものを残し、彼は彼の所属する群れに戻り、消えてい
った。廊下の先を、私たちから見えなくなる先へと。
︱︱取っ替え引っ替え女と遊ぶようになってもうて。
︱︱高校入ってすっぱり手ぇ引いたっぽいし。
矛盾する混乱する。
いままで見てきたことのなにを。
267
どれを信じれば、いいのか。
掴まれる感触が失せていた。
彼の手は下ろされていた。
俯いて下唇を噛む彼の姿を。
私は認めたくなかった。
﹁あーあ。ばれちゃったらしょーがないね﹂
沈黙を破る。
耳を疑う台詞だった。
場違いに明るい響きを交え、顔を起こすと、
︱︱和貴は笑っていた。
口のかたちも声色もなにも。
なのに。
目だけが、違う。
屈託のなさ、おどけた感じ、からかうテイスト。
これまで見知ったなにもかもが失われている。
﹁本当、なんだ⋮⋮さっきのこと﹂
﹁どーしよーもないやつだから関わらないほうがよかったのにね?
水野くんの言った通りで、﹂
﹁やめて﹂
自らを嘲る人間の調子に気持ちが悪くなる。
﹁どして﹂
理由を訊くのを好きな私はいまみたいな和貴を知らない。
さっきの彼は︱︱
五人組でいるとき。
集団でいられるときこその強がりを表した。はははって大声で笑
った。
なのに。
彼女のことを話し、私に伝えるとき。
気づかなかったのだろうか和貴は。
268
どんな悲しい瞳をしていたのかを。
恋を失った人間の、痛みを。
知らなくっても、想像してみることはできる。
ましてや。
自分の行った行為のせいだったとしたら。
同意を求め私は彼を見つめたつもりだった。
冷たく、はじけた。
救いを欲する内心を見透かすような笑みが、
﹁⋮⋮聞きたくないの? さっきの話はぜんぶホント。僕はね、水
野くんの大切な大切にしてる戸倉さんをね、奪ってそんで一ヶ月も
経たないうちに捨てちゃったの﹂
﹁なんで。そんなこと﹂
﹁退屈しのぎに﹂
平然と肩をすくめる仕草を私は、なにかの見間違いであって欲し
いと願った。
知り合って間もないうちに、和貴は私によくしてくれた。
私の人間を分からない、逆に私が誰も信用していない頃に、うち
に来て、夏の夜に連れ出してくれた。
やってみ? って惑う私に面白いこと、見せてくれた。
﹁和貴は⋮⋮﹂絡みつく震えを振りきり私は断言した。﹁和貴は、
そんなひとじゃないよ﹂
﹁ふぅん。真咲さんの言うとこの僕って︱︱﹂
どんな人?
問う手が、
袖の長い手首が動き、
白い指先が、
269
私の頬に添えられていた。
あたたかいはずのそれは。
解体される弱者を見据える強者のエゴにも似た、
いままでに感じたことのない酷薄さを帯びていて、
背筋に鳥肌を覚えた。
驚いた私は、息をすることも、身動きすることも、叶わなかった。
ふぅ、と唇から息を漏らす。
喉仏が、鳴った。
冷たい皮膚が頬を沿い、
輪郭をなぞり、
馴れた手つきで、顎先を辿る。
指先に持ち上げられ。
傾けた顔が、
整った顔立ちが、
冷酷さが、近づいてくる。
目を閉じた、長いまつ毛の行き先に。
まばたきさえも許されなかった。
ふ、と息が吹きかかる。
止めた、至近距離が。
持ち上がったまぶたが、
いろが、私の動揺を見据え、
さきほどの彼らよりも妖艶に、あざ笑う。
﹁これが僕。キスくらいどうとも思わない﹂
270
透明な水晶に影を宿した彼の瞳は。
私を拒絶していた。
ずる、ずる、と震え、足が後退る。
それ以上を確かめることを私の全神経が拒否していた。
幾度も段に突っかかる。
どうしたのかと知らない生徒の目線を浴び、振り払い駆ける。
勢い止まらず、
パソコンルームに駆け込んだ。
無人の部屋にてひかるディスプレイが一台取り残されている。
ピンクのくまさんが私に微笑みかけていた。
惨めな思いで私は消え去った。
271
︵2︶
﹁病み上がりなのに本当に平気なの。もしぶり返しでもしたら⋮⋮﹂
﹁へーきへーき。あったかくしとるもん。見て! これなー頼んど
ったんが届いたばっかなんよぉ。いーやろ?﹂
マフラーの尻尾をひらひら見せドアノブに手を掛ける紗優に続く。
あの定位置に、
先客が。
﹁あんたまーたこそこそ煙草吸っとるんか。いーかげんやめいや﹂
同感。
ところで紗優も知ってるんだ。⋮⋮もしかして宮本先生以外みん
な知ってたり。
私たちが歩き寄ろうとも残り短い煙草をくゆらせる。
その態度に紗優はふんと鼻を鳴らした。
﹁宮本先生にチクったる﹂
﹁怖くねえ﹂
舐められてますよ先生。
外からが駄目なら内から揺さぶるべきか。﹁喫煙始めるのって若
ければ若いほど肺癌になる確率が高くなるんだってね。本当⋮⋮辞
めたほうがいいと思うよ。からだの健康のためにも﹂
﹁暇なんだよ﹂
そう来ましたか。
でねじ込む。
残存する白い煙に、火葬場の煙突からのぼる煙を彷彿する。
何度かこの屋上で会ったとき、私は彼の左に回るのが常だった。
いま紗優が立つ位置に。
272
いつもと違う、彼の右からは拡大して見える。ある場所の全体が。
サッカーグラウンド。
六月の県大会でベスト四に入ったと聞いた。緑高で稀に見る大躍
進だったんだとか。
﹃⋮⋮それとサッカー部の奴の一部﹄
自分が抜けたあとの仲間の活躍を、彼は、どんな気持ちで耳にし
ているのだろうか。
接する陸上トラックに目が行く。
胸のうちの痛みが、気まずさに、覆われる。
ほんの少しだけ、軽やかな彼の風に乗せられた体育祭がずいぶん、
遠く離れた出来事に思える。
私は、和貴を、避けている。
正直にどう接すればいいか分からない。彼、顔寄せてからかうの
は変わらず。
あのときは違った。
別人だった。
どうとも思わない、と言い切れる彼が、⋮⋮私は怖かった。
﹃怖い?﹄
こっちの気持ちに寄り添う態度が嘘だったと信じられるほどに。
私のなかで瓦解した。
それなのに彼の態度は、変わらない。目の当たりにしたあの表情、
言葉、彼の言動がなかったことのように。
なかったことではない。
現実と現実に挟まれ、
混沌としている。
私の内部。
﹁あのなー。あたし真咲と喋りに来たんに。も。聞いとるん?﹂
273
ませんでした。
考えごと始めると周りの一切が失せるこの集中力、どこか別のと
ころに活かせたらと思う。
﹁ごめん。なんの話だったっけ?﹂
間に喫煙者を挟んでるので金網の向こうに呼びかけてる状態とな
る。
﹁ほら来週マラソン大会あるやろ? なんか最近やったら寒いしウ
ィンドブレーカーとか用意しといたほうがいいかもしらんよ。ジャ
ージって重たいやんか、みんなうえTシャツにして走んねよ﹂
覚えてます。
建前では服装自由だけど学校の体操着をみんな着るんだと小澤さ
んから聞いたばかりです。上着と靴は私物可ってことも。
されど私、
なるべく思い出さぬよう記憶の底へと追いやった。
七キロを走り続けた経験など持たない。
私と異なる隣人は缶コーヒーをあおるように飲む。
﹁男子も七キロだっけ﹂
﹁十キロ﹂
奇遇ですね。
こともなげに言ってのけるマキが毎日走る距離と同じじゃないで
すか。余裕で完走ですよねマキなら。
﹁学祭終わったら行事がなくなるって﹂⋮⋮和貴。だった。これを
教えてくれたの。﹁本当なんだね。年内残ってる行事って期末試験
くらいでしょう﹂
﹁ん﹂と紗優は午後ティーのホットをすすり、﹁三年なっても変わ
らんよおー二年ときと違うんは修学旅行ないってだけえ﹂
嬉々と語る紗優とは対照的に、私は嫌気が差した。
三年にあがってもマラソン大会があるというのか。
⋮⋮受験対策で免除されないだろうか。や、むしろ学校側が推奨
しそうな行事だ。体力作りの一環とかうたって。
274
﹁修学旅行ってみんなどこに行ったの﹂
﹁京都と奈良。真咲は?﹂
﹁北海道だったみたい﹂
﹁みたい、とはどういう意味だ﹂
珍しくマキが私に直接問う。
﹁私は行ってないから﹂
ミルクティーで手のひらを温め、何気なく答える。
沈黙。
不自然に走る沈黙に顔をあげれば、
やや身を引かせたマキはBOSSのブラックに口をつけたまんま。
金網を掴んだ紗優は同様に白眼を大きくし、
私のことを見ていた。
世の中には知らないことだらけだ。
地方によって修学旅行の時期が異なることを私は緑川に来て初め
て知った。
私の前の学校だと二年の九月。ちょうど私がいなくなってからの
時期だ。
転入先の緑川高校では二年の五月。爽やかな新緑の季節に古都の
観光⋮⋮きっと楽しかったことだろう。
班決めも済んでた。転校したって一緒に来れればいいのにって言
ってくれた子もいた。
私曖昧に笑って誤魔化した。
まさか。
高校生活最大の楽しみと言われる修学旅行を自分が経験しないこ
とになるなんて、︱︱思わなかったもん。
﹁えーほしたら真咲行っとらんが? 修学旅行。⋮⋮かなしいなぁ﹂
﹁うん。まあ⋮⋮けど仕方ないよ﹂首を振る。
自分のことみたく顔を歪ませてる紗優には。
宮本先生から貰った学校行事表を見て失意に落ちたことは明かさ
275
ないでおく。
﹁四月なったらなー遠足あるがよ。そこの山見えるやろ、頂上まで
登るんよ。山登りつってもぜんぜんキツないしお菓子もいぃぱい持
ってくのん。途中でいぃつも桜咲いとるとこあってきっれーながよ。
私服オッケー。やさけなに着てくか考えるんが楽しいよ? なーな、
遠足んときあたしとのぼろうなあ?﹂
五ヶ月後の約束なんて気の早い。
でも、
﹁うん﹂
根底にある思いこそが私には嬉しかった。
間に立つマキは。
無関心に、振ってる。私のより小さなショート缶を。さっきから
黙々と口に運び続けてるもんそりゃ空だよ。
︱︱もうねえのかよ。
そんなつぶやきが聞こえるようで。
﹁なにが可笑しい﹂
﹁別に﹂
⋮⋮その。
缶飲むとき、すっごく。
小指、立ててた⋮⋮。
だってこのひとこんな端整な顔してるのになにあのオカマな飲み
方。なになにどーしたがって紗優に訊かれても答えられない。ツボ
にハマった。
﹁おまえら。いつまで喧嘩してるつもりだ﹂
私の笑いは消滅した。
﹁喧嘩なんか、してない﹂
﹁嘘つけ﹂空の缶を持て余す彼はからだを反転させる。かしゃん、
と預けた金網が鳴る。﹁おまえも和貴も態度に出し過ぎだ﹂
276
﹁なになに? 和貴と真咲がどしたん? 喧嘩って⋮⋮﹂
釣られて入り口を向く紗優にちらり、彼私を睨んで答える。
﹁こいつと和貴が口を利かねえ。やりづらくて仕方がねえ﹂
⋮⋮悪かったわね。
﹁うっそお。めっずらしいなー和貴がぁ? 異性相手にぃ? だー
ってあいつ。女の子は怒らせるんじゃなくって悦ばせる相手やーっ
てのがちっさい頃からのポリシーやよ?﹂
﹁宮沢一言いや二言余計だ﹂
あっ、と口を噤んだ紗優に。
眉間のしわを深めたマキに注目されようとも。
﹁あんな⋮⋮﹂
急に、腹が立ってきた。
﹃キスくらいどうとも思わない﹄
﹁あんっな女たらしだとは思わなかったっ!﹂
﹁⋮⋮真咲ぃ﹂
﹁おまえまさか妬いてんのか﹂
﹁違いますっ﹂
怒って言われようとポーカーフェイスが変わらない。本当に喜怒
哀楽を表さない人だ。
一方で哀のほうが強い紗優は、
﹁あんなぁ⋮⋮真咲。和貴はほんまに気立てのええ子やよ。親おら
んくて辛い思いもいっぱいしたはずなんにそんなん誰にかて言うた
こともない。そこらの男みたくグレもせん。ケーサツ引っ張られた
こともないんよ? こころの優しーおじいちゃん子やわいね。そり
ゃあ昔はな。ん。⋮⋮んーっといまももしかしたらちょっとは手癖
悪いかもしらんけど﹂
277
喋るほどに墓穴掘ってるよ紗優。
﹁親がいればいいというものでもないがな﹂
﹁まーた。あんたは、そんなことゆわんの﹂
﹁じゃ私、行くね﹂
ミルクティー飲み干して金網から背を離す。置いていたかばんを
手にする。
﹁なして? 来たばっかやん﹂
でも紗優。
いっぱい喋るつもりなんかなくって。
和貴のフォロー入ろうとしてる。
﹁送ってく﹂
﹁へーき。紗優のこと送ったげて﹂
変わらず無表情のマキと。
不安げな紗優の目線をびしびし感じつつ。
ドア開いたとこで私、彼らに笑いかけた。
﹁二人ともそんな心配しなくっても大丈夫だよ。そのうち普通に戻
るから﹂
翌朝。
﹁おはよー真咲さん﹂
﹁⋮⋮おはよ﹂
宣言して半日経たぬうちに目を逸らす。
私の嘘つき。
* * *
ピンクの文字盤を確かめる。約束の時間を十分過ぎていた。
すこし来るのが早かったかもしれない。
私は紗優の家の場所を聞いても分からないので中間地点である緑
川駅にて待ち合わせしている。
278
ボストンバッグ、ベンチに置いてしまおうかな、と判断が働いた
ときに﹁ごめんごめーん遅なって﹂と向こうのバス停のほうからや
ってきた。
ポニーテールの尻尾をなびかせ。
ミニスカートで素足を晒すのが常なのに滅多にないサブリナパン
ツ。
赤のスポーツバッグを肩に引っ掛け、﹁行こか﹂と切符売り場へ
直行。⋮⋮あれ。﹁紗優の家に行くんじゃ﹂
﹁まっさきぃ。あんた緑川出たことないんやろ? たまには出かけ
よ。な?﹂
切符代が四百円強。やはり、高い。町田からなら新宿まで余裕で
行ける。フロム緑川なら果たしてどこまで。
いつかと同じ白髪の駅員さん︵というより改札内の駅員さんをこ
ちらのご老人以外に見たことがない︶に切符を切ってもらい、ホー
ムへと。待たずに二両電車に乗れた。八時台と、学校へ行く並みに
早い時間のためか、貸切状態だ。
﹁行き先はどこ﹂
﹁ひっみつぅー﹂
指立てていたずらに笑う。
その動きに誰かを思い出す、⋮⋮思い至り私は複雑な気分になっ
た。
ドッジボールの日の、和貴だ。
滑りだす電車、東京のほどスムーズには行かない。振動が、大き
い。東海道ほど荒くはないものの。
久しぶりの電車に乗る感覚だった。
見慣れた建物を離れ、⋮⋮向かうのは畑中方面のようだ。初めて
この地に来た方向を逆に辿っている。
思えば私が緑川を離れるのは緑川の地を訪れて以来だ。
279
前回とは違い室内の気温は不快にさせるものではなく、むしろほ
んのすこし肌寒い程度だった。窓の外であれほど鮮やかに田舎を飾
り立てていた緑はなりを潜め、人生でいう中年期を迎えた円熟味を
私たちに示す。紅葉はとっくに過ぎている。
眼前には母に代わり紗優がいる。
﹁なんか、企んでるでしょう﹂
鼻膨らます癖があるのだ、紗優には。
﹁なーんも? ほらこれ。真咲の好きな午後ティーのミルク。飲む
?﹂
﹁ありがと﹂あ、まだあったかい。来る途中で買ってくれたんだろ
う。
﹁それとな。真咲が気になっとったCD﹂イヤホン取り出し、﹁か
たっぽやけど聴かん?﹂
SONG﹂
ジュディマリだ。﹁聴いたことあるなこれ。なんて曲?﹂
﹁BIRTHDAY
生まれたての愛を考えているうちに、視界に、海が、開ける。
気持ちのいい音に乗せられ。
道のりを振り返る不思議な、
ショートトリップ。
三ヶ月が経った。
東京を離れ。
この地にやってきて。
振り返ることもなかった。
必死だった。
色々なことがあった。
紗優に、出会えて。
タスクに関わって。
280
マキに、惹かれて。
和貴に⋮⋮。
和貴が最後に私に笑いかけてくれたのはいつだったろう。
違う一面を知る前の、少女のような。
閉じていた花が静かに、蕾を開かす。
音もないのに、ふわりと。
期待に満ちた瞬間を。
けばけばしさのない、薄い桃色をした、花びらのにおい。
目を閉じてみると、暗闇のなかにそれが浮かんだ。
華やぎと人生のはかなさを感じさせる。
芍薬の花に通じる。
和貴のイメージと重なってそれは綺麗だった。
﹃真咲さーん﹄
子どもと同じ素直さをもって相手に対する関心を表す。
和貴は、誰かに興味を持つことや。
好き、という感情を恥じない人だと思った。
大人を真似て自分を伏せることを覚え始めた私には、彼の、無防
備とも呼べるほどに晒す態度や。
反面、自分の見目形を自覚したうえでの余裕は。
魅力に映った。
隠し立てのない、明るい響きを最初から与えてくれていた。
猫じゃらしで猫が遊ぶ、胸踊る感じを。
恋を歌う歌に乗せられてか私の内面は締め付けられてしまった。
懐かしき電車の振動と。
失ったものを二度と戻せない予感とセンチメンタリズムに酔った
281
のかもしれない。
﹁ほら真咲ぃー、次。次で降りるから﹂
ブラックアウトした意識のなかでも花に手を伸ばしていた。
砂地で水を乞う感覚︱︱私のなかに残存していた。突っ伏した姿
勢のせいかおでこが痛い。赤くなってないか? 睡眠不足はからだ
に毒だ。こんな風に朝から眠たくなる。
耳に入っていたイヤホンは抜かれている。
のろのろと身を起こす。
﹁見てえ外。ほぉら﹂
海だった。
群青を濃くした海︱︱
緑川で見られるそれよりももっと深い、一色に形容しがたい、緑
や紺、複雑な配色を交えた海が、いつかと同じように。鏡でも誰か
持ってると疑うほどに太陽を吸い込んで乱反射する。驚くほどの電
車と海との近さ。海の中を突っ切ってる不可思議な錯覚。
窓越しの海面を、私はきれいだと、思った。
海なんて見慣れてるはずの紗優が童謡の﹃うみ﹄なんて歌っちゃ
ってる。
私も加わる。
﹁あっは。なんやら子どもみたいやなあ﹂
つけてるイヤホンが流すのはきっと違う曲だろう。
歌ってるうちに電車が減速していく。紗優はイヤホンをぐるぐる
にCDウォークマンに巻きつけるとスポーツバッグに突っ込み、机
に置いた缶の残りを通勤途中のサラリーマンみたいにぐいっと飲み
干す。
腕時計は、二十三分の経過を示していた。
改札を出ると更に驚くべきことが待っていた。
﹁おせーぞ﹂
282
私服だ。⋮⋮当たり前か、休日なんだから。
いえ休日の彼を見るのなんて当たり前ではない。あ、たまが、⋮
⋮こんがらがる。これ夢の続きかなんか?
学校のときよりハードにセットせぬラフな前髪、夢のなかでもこ
んなリアルなの?
﹁ごっめんなーあたしが準備に時間かかってしもうてな、一本遅れ
てん﹂
右の頬を引っ張ってると、視線がぶつかる。
﹁行くぞ﹂
せっかちな性格も、
そっけなさも変わらず。
私が動き出すのは、紗優に腕を絡められてからだった。﹁行こ行
こっ﹂
どこに。
なにが。
だれと。
後ろ姿を注視してしまう。⋮⋮そうだ、夏祭り以来だ。タイトな
ジーンズを好むのかな。足、細い。超長い。重ねたシャツに隠れて
ても腰の位置で分かる。ぜんぶ黒と思いきや、足元のスニーカーに
唯一細くピンクのラインが入ってて、その意外さが可愛らしかった。
黙々と進むマキにも、ジュディマリ歌ってる紗優に問うても機能
しなさそうなので私は駅を振り返る。
掘っ立て小屋みたいな駅の看板に、
海野駅、と書いてある。
ちょっと笑った。
駅前の寂れた商店街を抜けると、右手に広大な海と、道を挟んで、
風情ある木造の建物が続く。この二つを視野に入れて歩いて行く⋮
⋮観光気分。紗優の歌声をBGMに。
この道、緑川のよりちょっと細いし、車通りも少ないけど、青い
283
看板が立ってた。国道256号線。緑川の海近くを走る国道がここ
に繋がっている。
私の知らないところで世界は繋がっている。
旅館のなかでも特に老舗っぽい、でっかくて松の木が両脇から囲
う、明治に建てられたと言われても納得の一軒で立ち止まると、脇
道を突っ切り、裏手に回る。⋮⋮うちと同じ作りだ。でも規模が違
う。表から裏玄関に回るのに五分は掛かりそうだ。和風庭園が囲う
老舗旅館の雰囲気に内心で気圧される。
先導するのは黒ずくめの男。
まさか。
まさかとは思ったんだけど。
マキは、飛び石の庭をずんずん入り、木製の扉を一息に開く。
﹁ただいま﹂
またびっくりして声も出なかった。
半纏着た人懐っこそうなおじいさんがおぉー坊っちゃんお帰りな
さいませ。私たち見てさーさー裏口でなんですがお入りください。
女将さん呼んで来ますねえって言ってる。
女将さん。
呼ばれる前に、正面の廊下からやってきた。
私そのかたを見てようやく飲み込めた。
表の看板に﹃うみのの宿 なみのはな﹄って書いてあったけど⋮⋮
﹁遠いところをようお越しくださいました。自分のおうちやと思っ
て、くつろいでってくださいね﹂
マキの、お母さんだ。
切れ長の目がおんなじ。舞妓さんみたいにお綺麗で藤色の着物が
パーフェクトに似合う。紗優のお母さんは洋風美人だったけどマキ
のお母さんは和風で、涼やかな眼差しに惹きこまれる。あ、笑顔が
ほんとすてき。
マキが、笑ってるみたい⋮⋮。
﹁お邪魔します。急なことですみませんが、お世話になります。あ
284
のですね、こちらが都倉真咲さんで、あたし、宮沢紗優って言いま
す﹂
出遅れた私に比べて紗優はそういうところがしっかりしてる。
﹁⋮⋮息子のほうこそお世話になっております。常々みなさんのお
話は伺っております﹂
嘘でしょ。
女の子の話をお母さんにするなんてキャラに思えない。前に回っ
てマキを確かめられないのがつくづく惜しく思う。
女将さーん源造さんちょっと来てくださーい、と大きな声が奥か
らする。やんわり微笑んで、﹁ごめんなさいね、お部屋がまだ空い
とりませんで。二階のお部屋にお通ししてくださる?﹂
最後は半纏のおじいさんに向けたようだったが、
﹁いや、いい。俺が連れてく﹂
﹁⋮⋮そう。ほんなら失礼のないようにね﹂
二度呼ばれたおじいさん、さーさどーぞどーぞって言いつつ急い
で。女将さんは慌てず騒がず悠然と、おそらく旅館と宅を隔てる扉
に消えていった。
涼やかな風をそこに残して。
旅館の、裏手⋮⋮ここから通学してるんだろう、マキは。
毎日を過ごしてる。
マキの居住空間なんだ。
踏み込むのに緊張する。
うちと違う、においがする。
幅が広い。うちより狭い玄関なんてそうそうないもん。扉付きの
天井まで続く下駄箱に収まりきらないのか、おっきなおじさんぽい
サンダル、使い古したスニーカーが二三足。黒ばっかだ。⋮⋮マキ
の学校に履いてくる革靴発見、女物の靴は見当たらない。
チェストのうえに目が留まる。
彼の、活躍っぷりが、分かる。
すごいな⋮⋮。
285
賞状。トロフィー。写真立て。めいっぱい乗ってる、地震が来た
らえらいことになりそう。私、東京から賞状やトロフィー持ってき
たけどこれらに比べると断然少ない。ここには、小中学校時代のも、
もっと前のも置かれてるのだろう。ユニフォーム姿での全体写真や、
試合中なのかな。ボールを蹴り出す瞬間を捉えたものも。
集合写真でもすぐ彼を見つけられる。
目許が、まったく変わらない。きりっとした眼差しの色白な少年
は、後列ではなく意外にも最前列で中腰姿勢をとる。
いつ、あんなに背丈が伸びたのかな。
ミニチュアなマキが微笑ましい。⋮⋮こんなちっちゃな頃があっ
たんだマキにも。
﹁ねえこれ、全部マキ?﹂
ああ、とそっけない返事を予測していた。
階段を足をかけたマキは、そんな私を一瞥し、
﹁全部、兄貴だ﹂
捨てるように言い、段をのぼる。
サンダルを脱いだ紗優はスリッパに履き替えてる。
私は、動けなかった。
全部、お兄さんって?
お兄さんもサッカーをしてるの。
︱︱マキの。
マキのぶんは。
﹁早くしろ﹂
急かされ、様々な疑問を残したまま私は、初めての。
286
気になるひとの領域に踏み込んだ。
287
︵3︶
﹁ああ都倉さん。おはようございます。電車で来られたばかりです
よね。ご気分いかがですか?﹂
砂浜にて。ストレッチしてる和貴に、ネットの紐縛ってるタスク
︱︱きらめく海野の海を向こうに。
二人ともジャージで全員がハーフパンツを着用。私も着替えさせ
られたのだが。えっと。
﹁なにこれ、どういうこと﹂
﹁パソコン部の合宿ですよ﹂
﹁私、聞いてない⋮⋮﹂
紗優のおうちに泊まるって。
﹁言ってねえ﹂
おいおい。
﹁⋮⋮真咲さー修学旅行行っとらんがやろ?﹂ポニーテールをお団
子に結わえつつ紗優。﹁やから。あたしたちだけでなんか出来んか
なって計画してん。北海道はむつかしいなーってなってん、ほんで
も海野くらい近かったらパパもママもうちらだけで行っといでーっ
て。あ。おばさんにちゃんと許可もろうとるよ?﹂
道理でお小遣い八千円もくれたわけだ母は。
﹁蒔田くんのご実家は地元でも有名な旅館ですし、泊まれる機会は
滅多にありません。僕も楽しみにしていました﹂
﹁大した所じゃねえけどな﹂
﹁えっと。マキのおうちにみんなで泊まるのは分かった。それでい
まからなにするの?﹂
﹁決まってんだろが﹂
﹁ビーチバレーだよ﹂
ボールを手にしていた和貴が初めて口を開いた。口角をあげてニ
288
ッと微笑む。きらきら水面を映す彼のきれいな瞳のいろが、
︱︱ああ、なんかデジャヴ見てる。
ところで。
私が球技が大の苦手だということをそろそろどなたか覚えてくだ
さい。
﹁そぉーれぇっ﹂
見事なジャンピングサーブ、当たった、音が残った。すかさずタ
スク審判の笛が鳴る。
﹁ったいなもー。ボディ狙うんは反則反則ぅーっ﹂
﹁負けるのは嫌いだ。弱点を突くのは勝負として当たり前だろ﹂
前に誰かさんが言ったことを誰かさんがそっくり返す。
ちぇっ、と砂を払う和貴の。
顔が、止まった。
萎縮を感じる以前に、
ふっ、と和らいだ。
﹁つぎ。紗優のサーブやから後ろ、お願いね﹂
﹁あ、うん﹂
こんな風に話すのってすごく久々に思えた。
なんだ。
きっかけさえあれば簡単なんだ。
紗優、気を遣ってかアンダーにしてくれた。レシーブ。あ私にし
てはグッジョブ。教科書通りのキレーなトスを和貴があげる。
﹁真咲さん、まえっ﹂
﹁おっけ﹂
ネット際まで走り、ジャンプし、背中をムチのようにしならせ、
右の手を振り上げ。
スナップ利かせようと思った、
ここでようやく気づく。
289
スパイク打ったことないや。
タイミングが合わず空振り、無様に着地。砂地に落っこち、顔面
が埋もれる。挙句打ち損なったボールが後頭部にゴツンと落ちてき
た。
﹁真咲ぃーっ大丈夫ぅー﹂
﹁⋮⋮ブロック入るまでもなかったな﹂
﹁ドンマイです都倉さん。諦めなければいつかはチャンスがありま
すよー﹂
まともに心配してくれてるのは紗優だけだ。
惨めな気持ちで上体を立てると。
ぶぐっ、と吹き出しつつも。
もつれた髪をかき分け、砂を払ってくれるひとがいた。
﹁真咲さんてホント球技苦手なんだね。でもね、いまの走り。打つ
までのタイミング完璧だったよ。こんな砂地、ちゃーんと走れただ
けで、すごいことなんだよ?﹂
そんな、今更。
⋮⋮優しいこと言わないで、欲しい。
私にとって散々なビーチバレーの後は一旦宿に戻って着替えて船
乗り場に向かう。初秋の砂浜はほぼ無人だったけれどここは違う。
大きな白い遊覧船に、観光客の姿もちらほら見られる。
出航した船のデッキに出れば真新しく生成される風を浴びれる。
﹁気持ちいいね﹂
﹁緑川どこにあるか分かる? あれ。あそこやよ﹂
﹁どこどこ﹂
指さされても、お祭りを過ごした砂浜程度しか。一様に緑に紛れ
て判別しがたい。
普段住み慣れてる町が、離れれば、違った風に見える。
290
あらゆる事象がそうだ。
誰のことも。
⋮⋮私。
誰のこと思い浮かべてる。
﹁あーあっちっかわ行ったほうが見えるよー島、島があるんよ﹂
﹁えっどこどこ﹂
進行方向、船の左側面へと移動する。トビウオが海面を飛び跳ね
る。船の轟音に負けじと紗優は声を張る。
﹁岩っぽいんがあるやろ? あーれがいわじま。モアイの顔したよ
うなんが、つくしま。の隣。突き出とるんがただじま﹂
ガイドさん並みの詳しさに目を見張った。﹁すごいね。前に来た
ことあるの﹂遠足で行って覚えさせられたのだろうか。
うみのこじま
﹁何回かな。小学校の遠足でも⋮⋮﹂なにか思ったのか、ふと言葉
を止める。﹁これから行く海野小島ってなーこの辺でも人気あんね
や。近場の観光客も来るよう? ガラスの工芸で有名やしおっきな
公園もあってぇな。ちっさいとき怜生とよー連れてかれたわ﹂
島。﹁って結構大きいの? 緑川くらい?﹂
﹁全然。住んどるひと五千も行かんよ。ほんとにちっさい﹂ゆわい
た髪の尻尾を気にして横っ髪を押さえる。﹁学校一個しかないんよ。
中高一貫のな。どんどん減っとっし⋮⋮十年もせんうちに廃校にな
るかもしらんな﹂
過疎地に住む私たちにとっても他人事ではないのかもしれない。
やや陰る表情を見ていて思った。
﹁廃校になったら、その、海野小島に住んでる子たちは緑高か東工
に通うってこと?﹂
﹁島出身で緑川に下宿しとる子もおるよ。下の学年に一人おったな
⋮⋮それか、私立行けんねやったら畑高。あ、畑中高校のことね﹂
⋮⋮稜子さん、が通う学校の名だ。﹁畑中まで行けんねやったら選
択肢増えんねけど﹂
﹁か、県外とか?﹂石川って高校が少ないんだ。
291
﹁かもしらんなぁ﹂紗優、苦いものを交えて笑う。
﹁ぅおぉーいっ紗優ー真咲さぁーんっ﹂
どっから。
うえだ。
うえ。
二階の展望デッキからぶんぶん手を振ってる。
和貴が身を乗り出しすぎるのを案じてか、タスクが羽交い締めで
支えてる。
私たちは手を振り返す。
好意。嫌悪。
その全てを取り除いて客観的に見ようと思っても。
あんな風に、大声で大きく手を触れる和貴のことが、
﹁⋮⋮可愛いなあ﹂
ちょっと。
びっくりした。
自分の思ったことをずばり。
そして紗優がそれを言ったってことに。
﹁和貴が?﹂
﹁違う。タスクが⋮⋮﹂
えとこの場合和貴でしょ普通。
でもね。
つまり。
当人頑なに認めようとしないけど。
こちらの動揺に気づかず、頬ちょっと染めて小さく、乙女ちっく
に振り返す仕草に。
私は恋の萌芽を認めた。
﹁そこの。なかの。真ん中に階段があるやろ、降りてすぐやよ。え
ーっとこっから見えるあの階段なー﹂
292
カラオケボックスでも迷った経験を持つ私に、紗優は至極親切分
かりやすくお手洗いの場所を教えてくれた。
お陰でまるで迷わず。
遊覧船というだけあって、ほぼ全面が腰高の窓で、なかで座って
ても四方を眺められる作りとなっている。空と繋がる海を感じられ
る、開放的なエリア。
階段を上りきりさっきの位置を探す。
紗優と︱︱タスクを発見。あなんか二人きりにしたげたいな。う
ん。
右に。
⋮⋮どうしよう。
自分から近寄るのって、変かな。
頬杖をつき、
不味いものでも食べたような顔してどこか眺めてる。
⋮⋮私、
﹁まさーきさん﹂
後ろから、だった。
いつもみたく近づいて驚かしたりしない。
振り返れば、置き去りにした階段の途中から、和貴が。
私、
立ちすくんだ。
どうしてだろう。
真っ先に怖いという感情が走った。
笑顔なく、暗がりで無表情に近いからかもしれない。
そんなの。
マキだったらいつもむしろ仏頂面だというのに。
明るさに次第に表情を表す彼が、私の前に立つと、皮肉げに笑っ
た。
﹁⋮⋮そんなに警戒しないでよ﹂
﹁別に警戒なんて﹂
293
してない、の四文字が、言えなかった。
行動が伴わない。
意識せず後ずさりをしていた。
足を揃えると、腰に手をやり、ふう、と息を吐く。﹁ぼくがこう
いう人間だって知ってがっかりしたでしょ﹂
夢ではない、現実だった。
あんな風な和貴が。
﹁⋮⋮すこしね、驚いた﹂
﹁そっか﹂
笑みをこぼせる彼の神経を私は疑った。
私のことじゃなくって。
自分が奪って傷つけた女の子のことを。
大切にしていたひとを奪われて、悲しい目をしていた彼のことを
思うと。
︱︱胸が痛まないのだろうか。
攻撃意欲は。
それだけ、彼が。
傷ついたってことなんだよ?
﹁ひ。ひとの気持ちがどうでもいいって思ってる人だとは思わなか
った﹂
﹁相手によるね﹂
﹁誰かが大切に思ってる子でも平気でからかえるんだ﹂
﹁平気じゃないよ﹂
そう言ってるくせに焦りもせず、首をかしげる︱︱分からない。
誰を傷つけていいとか。
誰を守りたいとかをいったい和貴は、どういう基準で決めてるの?
なんでそんな、すこし悲しそうな。
それでも、余裕をちっとも失わないでいられるの。
﹁もう。⋮⋮いい﹂
私こんな和貴知らない。
294
知りたくない。
﹁外の風吸ってくる﹂
背を向けかける、
﹁都合が悪くなるとすぐそれだ﹂
突き刺さる。
尖った響きが。
逃げてばかりだな。
マキに指摘されたよりも、ずっと、深く︱︱
﹁⋮⋮真咲さん。僕こーゆー性格してんだけどね。慰めるだけなら
いつだってしたげる﹂
優しい響きでどうしてひとを傷つけることが言えるのか。
手は震えていた。胸を押さえていた。
これは、いつか︱︱
彼が強く引いてくれたほうの手だった。
明るいほうへ。
私の知らない陽だまりへと。
私は手を離し、拳を固める。
決別の、
意志を。
﹁和貴⋮⋮お願いがあるの﹂
慰めなんて、私は要らない。
不毛な会話など意味がない。
295
傷つけあうために、言葉を選ぶの?
こんなことのために私たち勉強してるの?
﹁みんなね、私たちのこと、喧嘩してるって心配してる﹂あのマキ
ですらも。﹁だから。部活やクラスのときは、普通に。前みたいに
振舞っていて⋮⋮﹂
誰に対してもこころを開かない彼の背中を。
すがるように。
強く、強く私は見ていた。
﹁それ以外は、私に関わらないで﹂
296
︵4︶
﹁うっひゃあめーっちゃ豪華。いいんですかぁこんなにぃ﹂
ひゃーっと驚く紗優にどうぞお召し上がりください、と優雅に仲
居さんは微笑む。藤を淡くしたお着物が似合いの。
浴衣に着替えて広間の大部屋に通され、会席料理に舌鼓を打つ。
ふぐのお刺身に白子だなんて。うちの小料理屋の食事よりゴージャ
スだ。
タスクがトイレに立ったときに私も席を立つ。
﹁あ都倉さん。女性用でしたらあちらから回られたほうが⋮⋮﹂
﹁わ、私お金もなにも払ってないのに。いいの。あんなに頂いちゃ
って﹂
﹁⋮⋮気にして箸が進んでなかったんですか﹂
﹁や、あの﹂
﹁いいんですよ。僕も当初、旅館に泊まらせて頂くのも申し訳ない
ですから自宅部分か、どなたか違う方の家にしようかなど検討した
のですが⋮⋮考えるほどに蒔田くんの旅館がベストでした。近くて、
遠い。修学旅行気分を味わえるとなると﹂
パソコン部の合宿です、てタスク、言ったのに。
﹁宿泊代のことは蒔田くんを通じてご両親に相談した所、⋮⋮お友
達のおうちに泊まるだけなのですから、気にせずどうか、楽しい時
間を僕らに過ごして欲しい、とのことでした。番頭さんなんて貴女
のご事情を知ってむせび泣いたそうですよ? ですので。蒔田くん
とご両親のご厚意に遠慮なく甘えてしまいましょう。⋮⋮言わずに
おいたのが裏目に出ましたね。至らず申し訳なかったです﹂
﹁え。えーっとそんな﹂
むしろ。そこまで考えててくれたなんて。
﹁僕らが成人してからじゃんじゃん泊まってくれれば元は取れる、
297
と仰ってました。女将さんが﹂
﹁え!?﹂
﹁嘘です。笑わせられないならジョークとしては失格ですね。さて。
戻りましょうか﹂
﹁え。タスクトイレ﹂
﹁⋮⋮貴女の様子が気にかかったので。振りです。戻って美味しい
お食事を、うんと平らげてしまいましょう﹂
﹁⋮⋮タスク﹂
﹁ええ﹂
﹁あの。見えないところで沢山考えててくれたんだね。ありがとう﹂
﹁どういたしまして。ですがね。動いたのは蒔田くんのほうです。
ゆえに蒔田くんにこそ受け取って欲しいですね、貴女の笑顔とその
台詞は。⋮⋮彼。自宅に誰かを呼ぶのは初めてだったようですよ﹂
すこしほぐれた気持ちで料理を完食し。
地下の卓球場で汗を流し、また温泉に浸かる。
今頃は寝っ転がってお菓子ばりぼり食べながら紗優とあてどのな
いガールズトークしてるはず、︱︱
だった。
紗優は寝顔もべっぴんさん。
私は。
眠れなかった。
お布団のなかで何回も寝返りを打つ。ぐるぐる。
同じなにかをさまよう。
廊下に出る。
静寂があった。
そこのだだ広い窓から、海が見え、砂浜が見える。
汽笛が、鳴る。
298
あんなにも海が、近い。
淡い月のかがやきに。
誘われ、足が動いた。
番頭さんが受付の席を外したのを見計らい。
からころ、下駄を鳴らし。
国道渡ってすぐに、海が。
通りは静かで。
車の走らない。
無人島に迷い込んだ錯覚を覚える。
いつも目にしてる光景とは異なる。
はるか海の、高潔と。
近い、船の汽笛に。
鼓膜に染みる、潮騒の気配。
遠く灯台が網膜に僅かなひかりを与える。
砂浜を進む自分の音が、ずぶずぶと、飲まれていくことさえ心地
良く思えた。
死の衝動はこんな風に起こるのかもしれない。
母なる海が手招きをする。
死者の境地を想像するのを打ち止めにして流木に腰を下ろす。ど
こにでもあるんだな、こういうでっかい木が。
流れ着く運命を予測していたのかな。
この木は。
静謐な闇が。
昼間とは違う姿をさらす。
表面のゆるやかな波が、怖くもあり。
太陽と人間の解釈で姿を変える。
そこに実在するのは変わらないのに。
見る気持ちの方向性が。
真実を、定義する。
299
﹁へっ、ぎちゅう﹂
上着くらい持ってくればよかった。
腕をさする。
十一月だもん。
肌寒いよ。
私、
⋮⋮
なにやってんだろ。
みんながお膳立てしてくれた旅行で一人ぼっちを選び。
こんなところに。
泣くために、
﹁おい﹂
出かけたものが引っ込んだ。
振り返れば、影が。
浴衣の、︱︱腰の位置の高い、
﹁何時だと思ってる﹂
彼だった。
乱暴にカーデを投げつけてくる。あ落とさずに済んだ。
﹁着ろ。風邪引くぞ﹂
﹁あ、りがと﹂
まさかくしゃみの失敗まで聞かれてたのか。
浴衣で袖は通せず、肩から背中にかける。﹁⋮⋮あったかい﹂
マキの、におい。
マリンノートの香りが、⋮⋮近い。
300
﹁寒いんなら戻って、寝ろ﹂
そうだね。
意味合いを込めて頷く。
﹁眠れないのか?﹂
またこくり。
﹁和貴のことでか﹂
動けず。
固まった。
﹁⋮⋮船んなかで言い争ってたろ﹂
ふるふると横に振る。
﹁うそつけ。和貴に聞いたぞ、嘘の見分け方ってやつを。いまのお
まえは左上を見ている﹂
うそつきは、どっちだよ。
ずっと海だけ見てて、
いま初めて乗り出したくせに。
目が、合ったときに、
マキが、歪んだ。
たまらず。
自分の膝に突っ伏した。
馬鹿みたいだ。
見られた。
喉が絞られるみたいに、苦しい。
色々なこと考えてわけわかんない。
もう。
和貴が。
なんで。
マキは。
誰にも無関心ってポーズ決めてるのに。
弱ってるときに限って優しいんだろう。
私のことなんか、気づかないで欲しい。
301
⋮⋮できるだけ、しゃくりあげないよう。
息を押さえ。
肩震わせないように。
静かに。
噴き出すものと向き合っていた。
マキは。
煙草好きなマキは。
実家の前だからか、
吸わず、
ただ、 なにも言わず。
それでも、いてくれた。
何度目か分からない汽笛を聞く。
嗚咽は収まり、胸の嵐が落ち着きを見せた。
﹁︱︱時々、夢に出る。天然芝のピッチで出来る日があってな﹂
彼は、口を開いた。
﹁湿度も気温も高え。ピッチ上の体感温度は47度超えだ、くそあ
ちい日だった。しかし気分も身体もキレキレだった。実際、よく動
いた。気持ちわりいほど動けた。思えば、⋮⋮前触れだったのかも
しれないな。調子こいてんなよって戒めだ。案の定だ。いつもより
長めの芝に足元すくわれた。いつものドリブル。相手の股下抜いた
つもりがな、スパイクが入るのは分かっていた。誘ったからだ。引
っ込めるタイミングがコンマ一秒だかずれた。それでも行けるって
感覚で動いた。結果、足の先が逆に曲がった。近くで見た奴が気味
悪がってたな。それが、﹂
流石のマキでも、間が、空く。
﹁最後の試合だ﹂
重い後悔と苦しみを乗せて。
﹁今でも悔やむことがある。怪我して辞める奴もいれば諦めずに戦
302
う奴もいる。俺は前者だ。尻尾振って逃げ出したじゃねえかとな﹂
﹁そんなこと、ない﹂
私は顔を起こした。
﹁私、怪我のこと詳しくない﹂和貴に聞いた程度しか﹁事情も知ら
ない。でも。あんな⋮⋮﹂
傷の残る膝を、
誰にも分からせないように、
歩いていたんだ。
夏休みの日だって。
隠すようなこっそりとした引きずり。
それこそが彼の、矜持、だった。
﹁あんな⋮⋮足引きずるくらい、ぼろぼろになるまで頑張ったんで
しょう。それまで頑張ってきたことは消えない。マキのなかに残っ
てるんだよ﹂
こちらを向いていたマキが。
見開いた白眼を、落ち着かせる。
頬の筋肉がわずかに緩んだ。
﹁⋮⋮腫れ物に触れる扱いが少し。遠巻きに見て気の毒がり関わら
ないようにする奴らが大半だった。動けない俺には周りがよく見え
ていた。退院してもベッドで眺めてる天井と世界は変わらなかった。
勿論、俺の空席なんかとっとと埋まっちまった。誰に顔を合わせる
のも嫌な日々が続いた。敗北を感じるからだ。周りの誰よりも、︱
︱俺が。俺自身に関わることにうんざりしていた。そんなときにな。
誰とも違うことを言ってきた奴が一人いる﹂
﹃とりあえず諦めちゃってさ。またやりたくなったらやればいいん
じゃない? 自然とやりたくなるときがくるからさ﹄
﹁あっけらかんと言いやがった。そいつを一発殴り倒した。一日足
りとも休まずてめえの持つ全てを注ぎ込んできた。他の何も俺には
303
見えていなかった。それを。簡単に言われてたまるかってな。⋮⋮
そいつは俺の拳を食らって吹っ飛んだ。この辺りが切れてたな。だ
がな。その切れたうまく喋れない口でいったいそいつが俺に何と言
ったか。分かるか?
︱︱良かった、と笑っていた﹂
﹃生きるの諦めとるような顔しとったけど、僕殴れるくらいなら全
然問題ないよ﹄
﹁それが、﹂
﹃僕は、キミより全然弱くて、挙げ句に悪人になる予定なんだ。ね、
高校生活どうでもいいって思ってんなら、こんな僕の友達になって
みない?﹄
﹁和貴⋮⋮﹂
マキは前方の海をきつく見据える。﹁あいつが何を企んでいたか
は知らねえ。しかし、当人が意図していたほど悪人扱いはされてい
ない。陸上部の一部を除いてはな﹂
購買の近くですれ違った五人組を思い返す。
﹁多少の噂が流れようとも大抵の奴は気にしない。和貴の人柄を知
っているからだ﹂
静かに、視線が、流れてくる。
﹁おまえの知る和貴も、︱︱同じじゃないのか﹂
私の知る、
⋮⋮和貴は。
﹃そーんな緊張しなくていいってば真咲さん。同じクラスなんだか
らさ。仲良くしよ?﹄
304
﹃でもね。すっごく面白いから僕、真咲さんにもやってみて欲しい
なって思っただけなんだ﹄
﹃なんか。悩んでるんなら相談してよ。僕、こう見えても広いよキ
ャパ﹄
いま私の様子を見守ってる、
もしかしたら怖そうだなって遠巻きに見てるだけに終わった、
彼がいなかったら関われなかった彼のことを。
彼が、どんな風に語っていたのか。
﹃誰か蹴落とそーとか考えたことないんだろね。いまどき珍しい純
粋な性格してるよ﹄
濡れた頬を拭い、
ようやく、
一つの結論を導き出す。
﹁初対面のくせして壁作らなくって⋮⋮優しい。自分のことじゃな
い、周りのこと、気にして、ばっかりで⋮⋮﹂
﹃見てて思ったんだけどさー悩まずにどーんとぶつかってくのがい
いよ?﹄
アドバイスまでしてくれていたんだ、和貴は。
﹁それが、和貴だ。誰かを守るためなら自己犠牲も厭わない﹂
﹁⋮⋮自己犠牲?﹂
﹁自分がいくら傷ついても構わないと考える奴だ﹂
自分のことも和貴のことも、感情のないトーンで話していたマキ
がふと。
305
﹁⋮⋮俺に遠慮してるのかもしれないな﹂
﹁なに、それ﹂
そっぽ向いてたマキが戻ると、珍しくも自分だけで笑った。﹁詳
しくは言えねえ﹂
私は相当ひどい顔をしているのか。差し出されるティッシュを受
け取りチーンと鼻をかむ。ついでにビニール袋にごみも入れてしま
う。
﹁あ。いいよ﹂私が持ってて。
﹁捨てる。どのみち俺んちだ﹂
あ、そうですが。
﹁あの。マキが和貴の話をしてくれるのは嬉しいけど、和貴が直接
私に言ったことが真実だから。そのね⋮⋮﹂
﹁ああ﹂
分かってるって口ぶりをする。
他人から又聞きする話は、気持ちの真実性を希釈してしまう。
だから。
﹁直接確かめるのも真実だけどね。いまの話を踏まえて﹂
くしゃり。
頭を掴まれる。
お父さんみたいな大きな手が、
なのに女の人のように繊細な彼の。
﹁︱︱戻るぞ。冷えてるから風呂入っとけ﹂
離れてくのが惜しいなんて私、どうかしてる。
どうしようもない。
﹁お風呂って24時間入れるんだね﹂
﹁ああ。夜中出歩く客もいるから玄関も開けている。周辺に少しだ
が飲み屋があるからな﹂
﹁番頭さんがいたよね。夜中も働いてるなんて、大変なんだね﹂
306
﹁仕事だからな﹂
マキは。
スピード、落としてる。
並んで歩くと身長差に驚くけど。
さっきは。
目の高さ、変わんなかった。
座高の高さもまるで違うのに。
背筋丸めて⋮⋮聞いてくれていた。
私、このカーデ。どうしよう。
⋮⋮脱ぎたくないな。
﹁坊っちゃーん、ようこそお戻りでっ﹂
玄関に入るなり、ひとのよさそうな顔の丸い、来るときに裏手で
出迎えてくれた半纏のおじいさんがマキに走り寄る。
涙目だ。
﹁お嬢さんもようご無事で。わしゃあ心配しましたんですよ﹂
﹁え、っと?﹂
両手わしゃっと握られてます。
﹁くぉんな夜更けにおっ嬢さんおひとりでふらふーら出てきますも
んでわしゃあ、なんかあったらあんさんの親御さんに顔向けできん
ですってわたしが追っかけようとしたんですが、坊っちゃんが⋮⋮
坊っちゃんがぁ﹂
﹁⋮⋮源造さん﹂
カーデが落ちてしまったのか、
マキが手渡してくれる。
のだけれど、目つきが鋭い。
﹁ご、めん﹂
受け取るにも、⋮⋮
﹁あっ﹂ぱっと手が離れた。﹁こりゃこりゃあすまんかったですん
な。すっかり冷えておいでです、さーさお風呂もいつでも沸いてお
りますんであったまってください﹂
307
﹁あ。あ、ありがとう。ございます﹂
ずいぶんフレンドリーなおじいさんだった。
マキの背中がちょっと怖いんだけど。
あれ。
そういえば、マキのさん付けって初めて耳にした。
呼び捨てが常だよね?
﹁おい。俺は寝るが、部屋の名前は覚えてるよな?﹂
私の方向音痴はマキも知っている。場所より名前忘れたら部屋に
戻れなくなる、マキらしい気遣いだった。
私は笑って答える。
﹁二階の藤壺﹂
源氏物語に登場する悲劇の女性の名前だ。
夫に真実を隠したまま源氏の、不義の子を生む。どんな心境だっ
たろうか。
話振っておいて聞かない。二階への階段をのぼるマキに、
﹁待って。これ﹂
﹁やる﹂
私、
その背中が名残惜しい。
﹁マキっ。あのね、あ﹂
︱︱ゆえに蒔田くんにこそ受け取って欲しいですね、貴女の笑顔
とその台詞は。
﹁ありがとうっ﹂
﹁いや。早く寝ろよ﹂
顔すら見ずにそっけなく。
でも。
礼を言われる筋合いはないって言われるよりは、進歩したかな⋮
⋮。
308
消えていくマキの姿を、私は、消えてしまっても。
胸にカーディガンを抱きながら。
ちょっと冷えたからだと、温かい気持ちをもってずっと、見守っ
ていた。
309
︵5︶
温泉に︱︱入るの四度目だ。いいんだろうかこんな入っちゃって。
朝の四時半に起こしちゃ悪いので足音立てずに部屋を出た。
結局一睡もしていない。
贅沢にも露天風呂が貸切状態だった。健やかな朝の空気に、若竹
の新鮮さが強く感じられるなかでそこはかとなく潮の、薫りが漂う。
湯けむりが澄み切って感じられる。
私のこころのなかも、
整理されたからなのだろう。
﹁女将さん。あの。すいません、ありがとうございました﹂
出たところで女将さんを見かけた。
﹁⋮⋮真咲ちゃん﹂やや白眼が大きい。﹁あとでお部屋に持って行
こうかと思っていたの。良かったら、使って?﹂
袖口からなにかを取り出す。
アイピロー。
ラベンダー色の。
ラベンダーの香り。
﹁い。いいんですか﹂頂いてしまって。
﹁ええ。眠れない夜にはいいわよ?﹂
くんくん犬のように嗅ぐ私を大人びた笑みで見つめる。
大人なんだ、この人は。
﹁⋮⋮なんだか落ち着かない場所だったかもしれないわね。ごめん
なさいね﹂
﹁と。とんでもないです。あのですね私、こんな素敵な旅館に泊め
て頂くの初めてでその、この喜びをいったいどう、表現したらいい
か⋮⋮﹂
310
なにこの変な私。
旅番組の阿藤快並みにすべってる。
女将さんちょっと笑った。
あ眉が。
眉歪めて笑う感じが、︱︱マキと重なる。
好きな人と重ねてどきどきしちゃってる。
あれ。
好きな人?
﹁そんな、気を遣わないでいいのよ。嬉しかったのよ私。大切な高
校時代の思い出作りにお役に立てるなら。せっかく来て頂いたのに
顔も出せなくってほんと、申し訳なかったわ﹂
﹁えっと申し訳ないのって私のほうです﹂タダ泊まりですし。
﹁うっふふ。お互いに申し訳ないって言ってても仕方ないわね。あ。
お食事。早いほうがいいでしょう? 七時頃に取れるようお支度し
てくるわね﹂
まだ空の暗い時間帯というのに女将さん、お忙しいのだろう。
でも私。
どうしても、気になることが。
﹁女将さん。あの。一つお伺いしたいのですが﹂
﹁おばさんでいいのよ。何かしら?﹂
言い方が他人行儀だったかもしれない。
いつき
﹁マ⋮⋮﹂それじゃフランクに過ぎる。﹁一臣さんにはお兄さんが
一人、いらっしゃるのですか﹂
﹁ええ﹂ぱっと顔を輝かせる。﹁樹というのよ。真咲ちゃん、うち
の樹を知っているの?﹂
﹁あいえ、直接お会いしたことは⋮⋮﹂やぶ蛇だ。﹁サッカー選手、
なのですか﹂
﹁ええ。あの子はうちの誇りよ﹂
311
輝かせた表情を収め、平常の笑みに戻る辺りは、職業柄かもしれ
ないが、マキと同じだと思った。
︱︱彼も。
仏頂面という仮面を被っている。
あの玄関は。
誇りと呼ぶべき、まさにそれだった。
でも。
﹁一臣さんのことは、どうなんですか﹂
仮面を貼りつけたままわずかに眉尻を下げる。
﹁朝食の支度がありますので私はこれで﹂
﹁おか、⋮⋮おばさんっ﹂
一礼をして去る。別人のような物言いで。青緑の着物の、黄色い
帯を締めた後ろ姿に呼びかけようとも、︱︱
答えが返ってくることはなかった。
﹃親がいればいいというものでもないがな﹄
急速にマキの言葉が再生される。
紗優がみずみずしい薔薇の花びら。和貴が咲きかけの芍薬だとす
ると、おばさんは百合の花。たおやかに凛と、完成された美しさ︱
︱そんなおばさんが明確に拒否した。
マキのことを誇りだと認めることを。
足を引きずるようにして二階にあがる。廊下の最奥へと。
あの海が、見たくなる。
どんなことがあっても、波音を響かせる海を。
変わらず、常に。
昨夜⋮⋮ううん、正確には今日の夜中に自分が座っていた流木を
312
見つけた。
走る、白い影も。
︱︱あれは。
つい三時間前に別れたばかりの彼だった。
黒じゃない、白の上下を着て砂の、地の感触を確かめ、ゆっくり
とからだを慣らす。
駆ける和貴の短距離の瞬発力ではなく。
長い距離を。
たゆまず努力し続けるひとの持久力だと思う。
スポーツに疎い私の目にも分かる。
慣れてる、足運びが。
﹃軽いジョグにしている。一度身についた習慣はなかなか抜けない
もんだ﹄
走ることに没頭して見えるけども彼は。
方向を。
行き先を持て余す若い翼だった。
﹃何故続けるのか俺にも分からねえ﹄
おばさんの拒絶を思い返し。
嘘でも。建前でも。
⋮⋮認められなかった彼を。
あれだけこころのうちを明かしてくれた彼を。
想いながら、見つめているだけで。
零れ落ちるものを止められやしなかった。
* * *
313
終わりがあるからこその楽しいひとときなのだと思う。
上限が設定されねば同時に貴重さが損なわれてしまう。
資源も。
命も。
感情も。
︱︱それでも。
泉のように湧く、知りたい、って気持ちこそ。
向き合いたいと思えることがひとつの答えではある。
⋮⋮マキは。
海野駅まで私たちを見送った。めんどくせーなとかぼやいてた、
でも冷たい振りしても無駄なんだよね。番頭さん泣いちゃってたも
ん。坊っちゃんをこれからも頼んますぅってこらもういいやめろっ
て。
︱︱動いたのは蒔田くんのほうです。
思い出し笑いを止めにし、私は。
ある決意をもって、移動する。
座って、
対面し、
ささやきかける。
なにも驚かすのは彼だけの特権ではないのだ。
﹁ねえ、⋮⋮起きてるのは分かってるよ。いま眼球がぐるって動い
た﹂
猫のように愛らしく。
頬杖をついて眠る演技をしている。
﹁⋮⋮二人きりだと、話さないんじゃなかったっけ﹂
﹁自己犠牲。誰かを守るためなら自分がいくら傷つこうと、構わな
い﹂
まぶたの下で眼球がぐるりと動く。
314
﹁人当たりがよくって優しい。子リスみたいに愛らしいくせしてと
きどき策略家でフレンドリーな笑い上戸さん。それが。私の知って
る桜井和貴なんだけど。悪いひと演じてるのは性に合わないんじゃ
ない? 肩凝りするでしょう﹂
︱︱僕は、キミより全然弱くて、挙げ句に悪人になる予定なんだ。
﹁なにか誤解してるね。僕はキミの思うような人間とは違う﹂
﹁あやだ、気づいてないの和貴? なんかね、焦ったときに右の耳
だけ微妙に動くの。今後のためにも覚えといたほうがいいよ、その
癖﹂
頬の筋肉がやや、震える。
固くドアを閉ざされたなら、叩く。
正攻法は、通用しない。
﹁⋮⋮最初のはマキの受け売りだったんだけどね。嫌いになろうと
思ったけど決めたんだ。和貴のこと信じてみるって。ドッジボール
のこと⋮⋮初めて学校に来た日も、私によくしてくれたし。私がど
んなひとだか知れないのに、和貴は、私を信用してくれた﹂
今度は、私が信じる番だと思った。
事情があると、好きな人は語った。
嫌われようとする言動にも事情があるのかもしれない。
私はそれに、賭けてみたい。
﹁そんなに簡単に人を嫌いになれるくらいなら誰も苦労しないよ。
それにね、耳の癖が可愛すぎて私、全然怖くないんだよ、和貴のこ
と。いちゃけって言うのかなあこういうの?﹂
﹁ちょっと⋮⋮違うね⋮⋮﹂薄目を、開いた。
その瞳は。
私のよく知る。
屈託の無い無邪気さがあらわれていて、私、こころの奥底からほ
っとした。
315
どころか、ふ、と軽薄に、両の肩をすくめる。
﹁いちゃけってのは、ウブウブで可愛い真咲さんのことを言うんだ。
女の子限定。男には適用しない﹂
な。
なんでこんなこと素で言えるの。
﹁ほーらキミ照れてる、いちゃけな顔してる﹂
﹁いわっ、言わないっ﹂
﹁耳の話は嘘だね。僕の口開かすためのテキトーな思いつき﹂指組
んだそこに顎を乗せて値踏みする目線で、﹁⋮⋮ところで真咲さん
こそ、嘘つくとき。⋮⋮つうか緊張するときね、右の髪だけいじる
癖がある。こんな風に。目ぇつぶっててもいじる気配感じれたから
あっ嘘だなーってまるきし分かった﹂
﹁やっだ﹂
攻めるどころか。
強烈な反撃見舞われてもう私。
顔向けできません。
﹁あ、もーねそんなへこまない。僕をからかいにかかるなんて百年
早い。でもねナイストライ。そーゆーのが真咲さんのいちゃけなと
こだと僕は思うな﹂
﹁も、それ言わないでぇ﹂
﹁どーゆー風の吹き回しかな。僕みたいなやつは遠巻きにしとくの
が安全策なのにさ。警告はした。水野くんの言うことは正しいよ?
女の子とばっかいるのはホント﹂
﹁そんなことないでしょ。まあ確かに⋮⋮紗優とは仲がいいなって
思うけど﹂
﹁紗優のことは幼馴染みとしか見てないっ!﹂
怒った。でも和貴、
⋮⋮紗優とまったく同じこと言ってる。
﹁その、ね。和貴って男女問わず誰とでも喋れるじゃない。特定の
子に決める感じじゃなくて。だから気にするほどでも⋮⋮﹂
316
﹁一線は引いてる。踏み込まれたら避けれる自信なんかないよ。⋮
⋮真咲さん﹂
急に真面目な顔に変わり、ずいずい、と顔を寄せる。
﹁後悔したって知らないよ?﹂
満開の笑みを存分に魅せつけてくれた。
久方ぶりの。
春を思わせる。
ノーガードでそんなの食らっちゃって、私、鼻が、息が、詰まっ
た、脳髄痺れるくらいの衝撃度。も、お⋮⋮
﹁ふんがっ﹂
ぶくっ、と和貴が吹いた。
﹁ちょ、ブタ鼻﹂
﹁言わな﹂顔を覆う。﹁見ないで見ないでもう﹂
﹁あっは。真咲さんさいこーなんでさーいつも期待以上の反応しち
ゃうわけえ﹂
﹁それ以上触れないでお願い﹂
﹁僕ね、変な顔選手権やったら優勝できる自信あるよ? ね、ほら
試してみる?﹂
﹁見せてよ﹂
﹁いくよ﹂
⋮⋮
﹁⋮⋮軽く。笑い過ぎだよ。真咲さん﹂
﹁だ。だってひ、ひまの、どーやったら。ふがっ﹂
﹁あっは。また鳴った﹂
和貴、
⋮⋮笑ってるよ。
お腹押さえるくらいに大きく。
私、
その笑顔を取り戻せてよかったと思う。
裏切られるなら、裏切られるまで信じてみる。
317
なにかが起こるリスクに怯え。
自分を信じたものを疑う人生を、送りたくは、ない。
﹃見てて思ったんだけどさー思ったまんまどーんとぶつかってくの
がいいよ?﹄
笑いの二重奏が相当やかましかったのか。﹁あんたらうっさいも
う寝れんがいね!﹂紗優からクレームが。﹁僕も丁度眠りかけた所
でした⋮⋮﹂﹁タスクのいびきチョーうるさいもんみんなの平和と
健康のために起きてて﹂﹁そんなに酷いの?﹂﹁ま移動中はそんな
でもない。でも昨日の夜僕全然眠れてない﹂﹁目の下クマできとる
もんなあ﹂﹁いびきって喉の気管が狭まるからなんだよね。首の後
ろを浮かすといいみたいよ﹂﹁⋮⋮色々試しました。どうにも上気
道が生来狭まっているので駄目なのです僕の場合は﹂﹁あそっかう
え向くとこう気道確保できるもんなあ。こーゆー椅子のヘッドレス
トって首んとこ高ない?﹂﹁議長! 以後パソ部で泊まり行くとき
は長谷川氏に一人部屋を確保することを桜井は嘆願します!﹂﹁⋮
⋮ねもうこの話題よそうよ。タスクに悪いよ﹂﹁あのねー真咲さん
そういうときはまるきしカンケーない話題を自分から振んの。その
直截的な言い回しは返ってタスクを傷つけると、﹂﹁桜井くん。都
倉さんと無事に仲直りされたようで。おめでとうございます。これ
で僕も枕を高くして眠れます﹂
﹁⋮⋮がっ﹂
胸を撃たれた振りして、がくん。
頭垂れる和貴にタスクも、紗優も、私も、笑った。
笑えてる。
初めて来た夏とは比べものにならない気持ちで。
電車は晩秋へと戻っていく。
私たちのホームヘ。
願わくば。
318
この輪に、いま。
あと一人いてくれたら︱︱
贅沢なことを胸に秘め、寝たふり続ける和貴を起こしにかかる紗
優を私は、頬杖ついて見上げてみた。
319
︵1︶
迫る足音に机のうえのプリントを慌てて隠す。
﹁あらあんたどしたが? 読むんやったら新聞、新しいんおじいち
ゃんところやわいね﹂
間一髪。
﹁ええーと韓国の大統領選挙がなになに⋮⋮合併新党であるハンナ
ラ党が、野党が勢力を伸ばす中でどこまで票を伸ばせるか⋮⋮﹂
しかめっ面でえへん、おほん。
ここまでする必要なかったみたいだ。
母、エプロンのポッケから出したものに夢中。
何食わぬ顔して私は昨日の新聞を畳み﹁お母さんそれ、ハマって
るね﹂注意をそらす。
﹁なんよ。休憩入るたんびになんやら気になってもうて⋮⋮﹂
今頃たまごっちにハマる人がいるとは。
私の周りでもかつて流行った。
画面のなかの無機な黒点よりも生身の人間を静観するほうが私は
面白かった。
﹁じゃ私出かけるね。帰り七時くらいになると思う﹂外のほうが集
中できるし。
﹁どこ行くが﹂
﹁学校の図書室﹂
﹁ほんに真咲は⋮⋮勉強熱心やわねえ﹂
﹁期末試験とパソコン検定が近いからね﹂
不自然じゃなかったかな、なんて気にしながら、締める扉の隙間
の母もしっかり眺めておく。
初めてゲーム買い与えられた子どもが居た。
⋮⋮無関心というかなんというか。
320
責めることはならない。
朝早く夜遅く、睡眠は四時間足らず。たまに夜中に階下の物音で
起こされるし。真咲起こしたらならんやろ、祖父に叱られたらしい
けど。これは祖母による情報。
起きてる時間の殆どを店のことに費やす。調理師免許の取得が当
面の目標だと言う。働く前後に祖父から調理のこと経営のこと諸々
を学ぶ。
夕食はお店のと別に私たちのぶん、毎日作ってくれてる。お洗濯
お掃除に手を抜かず。玄関の生け花が三日同じことはない。
昔っからこうなんだ。母は。
東京にいた頃も専業主婦なのに働いてばかりいた。PTA役員や
町内会の係りにボランティア。地元の図書館で本の朗読や点字翻訳
をしたり、病院で入院してるひとの介添えしたりで本当⋮⋮内気な
性格のくせして家でじっとしてられない性分なのだ。私とは逆で。
﹃いっつも考えとるよ﹄
それだから、父との溝も深まったのだと想像する。
事実父方の伯母や祖母からの風当たりも強かった。家業の手伝い
を暗黙に求めるくせしていざ手伝えばつまはじきにする。受けるス
トレスを母は以外の誰かの役に立つことで解消していたようだ。
﹃本当やって。真咲のためにお母さん、﹄
それは現在も変わらない。
ブランド品を身にまとう。授業参観にユキトリヰのスーツにハン
ティングワールドのバッグで来るプチブルジョアの部類に入ってい
たのがいまはさっぱり。自分のための買い物なんて一切してないし、
髪なんてこっちに来て一度切ったっきり。頻繁に飲んでいたヴィン
321
テージもののワインも断ち、飲むのは麦茶のみ。体重が落ちたと思
う。
東京では想像し得なかった質素倹約っぷり。
同時に、東京では金銭気にせぬ生活を送っていたのだと思い知る。
隔てるドアを閉め、凭れて新聞の内側に丸め込んでいたものを広
げ、
進路希望調査
名前以外空白のわらばんしを手に小さく肩を落とした。
* * *
﹁先月パソコン検定を受けた者は結果が届いとる。下田先生んとこ
取りに行くようになー﹂椅子ががたがた響く中で宮本先生は声を張
り、﹁あーっと都倉ぁ。ちょっと来てくれるかー﹂
﹁はい﹂
教室を出て、廊下から回ってきた先生と合流する。
﹁話がある。進路指導室で話そう﹂
﹁はい﹂
道中宮本先生はにこやかに話をしてくれた。
これから受け取るパソコン検定準四級合格のこと。部活のこと。
成績のこと。期末、随分頑張ったんだなって。
かようにして続く褒め言葉とは大概の場合が悪い話の前触れだ。
後に来る罪悪を褒めることで解消しようという人間のこころの働
き。ある意味で防衛機制だと思う。
﹁進路希望調査を見た。これは、ちゃんと考えた結果か?﹂
ほら来た。
ちょっと怖い顔してる宮本先生の後ろにうちの高校の年鑑が並ぶ。
赤、青、黄⋮⋮年代によって色変えてるっぽい。
322
﹁都倉の成績やったら私立いいとこ行けると思うんやけどな﹂私の
よそ見を咳払いでいなす。﹁国公立やったら文系だけっつうバラン
スどうにかせんと厳しいやろうが、⋮⋮選ばなければどこの大学や
って行ける力は持っとる﹂
宮本先生は私の担任であるだけでなく不得意な生物の担当教師で
もあるためバランスの悪さを重々承知だ。
自分でも思う。
﹃遺伝﹄でつまづくだなんて致命的だ。
﹁自分の将来のことなんやぞ。親御さんには相談したんか﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
一番目の質問に対する答え、ゆえに嘘はついてない。
﹁都倉は勉強好きやからてっきり進学志望やと思っとってんけどな
⋮⋮﹂右の髪に触れる私を見ず前髪をぼりぼりと掻く。プリントを
睨んだまま﹁大学を出とかんと就けん職業は世の中に沢山ある。例
えば教師になりたいんやったら四大出とかなならん。⋮⋮公立でも
私立でも奨学金貰えるとこはあんねぞ。ちょっとでも興味があるな
らどんなことやったって相談しなさい。先生が調べたる﹂
﹁はい﹂ありがとうございます。
﹁一月にもう一度調査をする。その結果を反映して、きみたちのク
ラスが分けられる。平たく言えば、三年の三四組が四大進学、一二
組が以外の就職短大専門のコースだ。⋮⋮なんか分からんことはあ
るか?﹂
﹁ありません。大丈夫です﹂
﹁そうか﹂
席を立つ。先生より先に。
寒空のもとに鮮やかな花をつけた中庭の椿はこころに華やぎを与
えない。
就職希望。かっこ家事手伝いかっこ閉じる。
これが私の生きる道。
323
生活に余裕がないのは分かっている。祖父母も母も特になにも言
わない。けど贅沢なんて全然しない。牛肉食べず豚か鳥ばっか。
老人二人でほそぼそと暮らしてたとこに母と私が割り込んだ。
私が住むだけで要らない負担をかけてる。
息をするのもお金をかけさせてる︱︱気詰まりに思うことすらあ
る。
緑川には大学がなく、最寄りで国立や私大が畑中にあるだけで、
自宅通いできる距離にない。
つまりは、進学を希望するということは、一人暮らしを望むとい
うこと。高い学費に加え、アパートの家賃に生活費。学費プラス月
に十万かかるとか聞いたことある。
駄々を言うつもりなどなかった。
元々あの家に住むべき人間ではなかった。よそ者の私は。
﹁ああ、⋮⋮来てるね合格通知。都倉さん。おめでとう﹂
合格の結果を頂き、寒椿の花を見てまた一つ嘆息をもらす。
町田にあのまま住んでいたら。
選ばずどこかの大学に入れた。
ますます気が塞いだ。
﹁マキって意外とパソコン得意なんだね﹂
背丈のみならず検定レベルも上の、タスクと同じ三級に合格した
彼は、︱︱あったかい教室でも零下の屋外でも表情が変わらない。
けど舌打ちして顔を背け、
﹁意外とは心外だ﹂
あっちゃ。
﹁ごめんごめん﹂
324
追いつきかけた足がずるり、
滑っ、
﹁うわっち﹂
両足を突っ張る。差してる傘を挙げてどうにかバランスを取れた。
はー危なかった。
くく、と目の高さの位置で喉が鳴る。
﹁おっまえ奇跡的だなその動き﹂
足がハの字になっちゃってる私。
そうですねちんちくりんなメリー・ポピンズですね。
差し出される手は。
⋮⋮受け取れない。
私だって照れ隠しをすることはある。
というよりお借りすると私は。
口走りかねない。
ありがとうだけじゃなくってそういう⋮⋮
マキは。
傘を持ち替える。
決まりの悪さもなく。
無表情に無口に進む。
さっきより速度を落とす。
ドリフのオチよりお約束な⋮⋮彼の言動。
﹁雪。今日もすごいね⋮⋮﹂
降りしきるサイレントスノウ。海が近いがためか、東京では見な
いこんな牡丹雪が、白めの空から次々再生される。
降っても降っても止まらない。
悲しいときの、涙みたいだ。
﹁⋮⋮毎年こんなだ。これでも俺が小さい頃よりは減った﹂小学校
ん頃は膝くらいまで積もったと彼は言う。
﹁それでよく電車が止まらないよね。東京だとほんの数ミリ積もっ
ただけで動かなくなるんだよ。雨が降ると必ず二三分遅れるの﹂バ
325
ス通学ならもっと悲惨なことになる。雨の日は三十分早く出るとク
ラスの子が言っていた。
﹁東京と比べて電車の本数が格段に少ない。一時間に一本程度だか
らな、凍結しないよう駅員がこまめに線路の雪かきをしている。俺
のように通学に使う奴もいるし、一応は観光地ではあるから、この
程度で止まっては話にならん﹂
﹁そっか﹂
﹁⋮⋮波の花﹂
いきなり、ストップする。
あ私、隣に来てしまった。
どうしよう。
﹁わざわざそれ目当てで来る奴もいる。聞いたことねえのか﹂
﹁⋮⋮ない﹂
それより。
ブルーの傘で淡く照射されるマキの、白い肌がすごく綺麗で⋮⋮
神様、もう少しだけ、見ていたい。
﹁残念な奴だ﹂
﹁そうですか﹂
可愛くない私の返答など気に留めずブーツの足先見ながらさくさ
く暗誦する。﹁日本海の荒波が繰り返し岩肌に叩きつけられ、海水
中の植物性プランクトンの粘性が白い泡状となる。その泡が風に煽
られ花のように舞うから﹃波の花﹄︱︱見られるのは低温でかつ海
水の綺麗な場所に限られる﹂
﹁詳しいね。私、初耳だよ﹂
﹁だから雪の中をろくに歩けねえんだ、これだから都会もんって奴
は﹂
﹁マキだって生まれは違うんでしょう﹂
﹁京都生まれってだけだ。生粋の海野育ちだが文句あっか﹂
﹁だったら海野弁か京都弁喋ってみなよ﹂
和貴はたまに喋るよ名古屋弁。
326
﹁海野弁なんかねえよ﹂
﹁じゃ京都弁。あでもマキのガラじゃないよね、おいでやすって言
われても気持ち悪い﹂
い。
言い過ぎた。
鋭い眼光が飛ばされる。
で、も。
﹁そ。そーやってなんだって睨んで解決するのはよくないっ。慣れ
れば全っ然怖くないもん。あのね、黙って睨んでばっかないで悔し
かったらなんか口で言い返してみ﹂
素早く動いた。
口ではない。
マ、キの、手が。
びっちりと私の、鼻を、口を、唇を覆い。
押さえつけてる。
手袋越しとはいえ。
か、
感触が⋮⋮!
﹁おいおまえ﹂
明日の、
放課後、
空けとけ。
やや屈んだマキ。
うすら青ざめたマキは、傘とかばんとで両手が塞がり呼吸もまま
ならず苦しみ悶える私を見据え、
一音一音を響かせてむしろ笑った。
327
﹁ぶっは﹂
﹁覚悟しとけよ﹂
息取り戻すこちらを見向きせず、手早く傘を畳み、改札の向こう
へと消えていく。
そんな彼のシルエット。
﹁ぼっ。暴力反対⋮⋮﹂
そんな程度で。
こんな程度で。
真冬のくせして耳も心臓もガンガン熱い。
季節外れの蚊の鳴く声しか出せなかった。
328
︵2︶
クリスマスイブはサンタさん不在で終業式と共にやってきた。
ウザい学校終わりみんなで騒ごーぜとばかりに学校周縁で地味に
遊ぶのがノーマルルート。残り数パーセントのレアな人々は部活に
励み、受験生は言わずもがな受験勉強に勤しむ。
遊ぶなら友達同士ってのが殆どだと聞く。カップル少なめの緑高、
寂しいよね。ま元々予定のなかった私が一番寂しいんだけど。
﹁あんたこっからどっか寄ってかんか?﹂
﹁あいえ私ちょっと野暮用でして﹂
﹁⋮⋮野暮用でってあんた、おっさんか。どんな言葉遣いしとんの﹂
﹁ふぅうーん。あたしせぇーっかく呼びに来たがになぁ⋮⋮仕っ方
ないねえ予定入っとんねやったら﹂
﹁宮沢あんたは?﹂
﹁行くぅーカラオケーカラオケがいー!﹂すかさず安室ちゃんの新
曲を口ずさみ﹁あほんならなぁ真咲ぃ明日また部活でー﹂
﹁は? あんたら休みやのに部活するがか? ⋮⋮なにすんが﹂
﹁いつもといっしょ﹂
けど。
違うの。
二週間の長いお休み中に。
平常なら会えないはずの。
誰にも言ってない。
隠れて、
これから、
過ごす彼に。
会え⋮⋮
329
﹁あーっ遠出すんねやったら風邪ひかんようになーっ﹂
唐突に言われ背中に悪い。紗優なんか、⋮⋮勘づいてる悪寒が。
﹁あうん。またね。小澤さんよいお年を﹂
﹁あんた餅ばっか食って腹壊さんようにな﹂
﹁かっは。餅食って壊すんおめえのほうじゃ⋮⋮がッ﹂
右手一本であしらわれうずくまる田辺くんにもお伝えした。
よいお年を。
﹁それでは僕はここで。蒔田くん都倉さん、ごきげんようまた明日﹂
いつもながらに挨拶のエレガントなタスクとお別れする。
⋮⋮あ。
和貴にバイバイって言ってないや。いつ帰ったんだろう。まいっ
か。明日また会えるし。
で私。
どうしよう。
まさか。
いつもお別れしてた駅の地点で。
マキと二人で。
改札を抜けられる日が来るなんて⋮⋮想像したこともなかったや。
駅員のおじいさんの視線が痛い。﹁あ。えーっと海野までって﹂
あれ目的地って海野だっけ?
﹁いい俺が買う﹂
﹁えいいよ﹂
﹁誘ったのは俺だ﹂
は!?
﹁⋮⋮置いてくぞ﹂
いえいまの。
サラッと言ってたけど。
330
さりげに心臓ダイナマイト。
私あなたに誘われて行きます日本海。
と。
隣に座るのも不自然だけど。
正面きって座るのが。
なんっで。
こんっな。
⋮⋮どきどきするの。
さ、紗優のときこんなに乱れ打ちしなかった。
斜めに吹きつける真冬の強風、
私の心臓あれよりも暴れてる。
もた、持たない。
﹁寝る。着いたら起こせ﹂
こちらの状況など知らず彼はダイナミックに突っ伏した。あ眼鏡
外すのね。いえ別に構わないんだけど。
顔伏せるでしょうよ普通。
顔を。
なんで起こしてるのようわあああ!
寝顔が。
寝顔がっ、
﹁ね。寝不足なの?﹂
﹁あー⋮⋮﹃三国志﹄やりこんでた。直江兼続がくそつえー、ん、
⋮⋮﹂
だ?
あれ。
うっそ眼球運動停止もしかしてもうノンレム睡眠入ってる?
﹁すう﹂
肩が揺れ、息を吸う。
331
すやすや。
⋮⋮
前髪、落ちてる。眉毛がちょっと伸びてる。まつ毛、すっごく長
い。瞑ってて分かる⋮⋮目の幅が⋮⋮おっきい。
ガード固い黒豹の安らかな眠り。
いっつも強面のくせしてCMの赤ちゃんみたいな寝顔が。
かわ、いい⋮⋮。
手に隠れた口許をもうすこし、見てみたい。
て私、変態か。
見てるだけで鼓動鳴り止まない。
なのにもっと見ていたくなる。
声も図体も大きい彼は、臆面もなくさらす。
隠すたぐいのことなど持たないかのように。
首が。
マフラーしてない首が見るに寒々しい。
私、してるピンクのマフラー外してそっと、かけた。
肌、白いよ⋮⋮首の後ろも同じ色してる。襟元の清らかさ。みな、
見ないようにそろそろと。
私こんな緊張しちゃって。
勿論眠れるはずもなく⋮⋮
﹁おい。起きろ﹂
あれあれ。
﹁おま、起こせと言ったろが⋮⋮﹂
おかしいですね。
寝てましたね私。
窓の外は日本海に吹きすさぶ雪雪雪。
れ。
首元が。
あったかい。
332
ピンクのマフラー。
マキ返してくれてた。
口許を拭ってみる。
よだれセーフ。
がしかし。
変な顔して寝てたまでは神のみぞ知る。
二度目の海野駅。以前は気に留めなかった駅前のバスロータリー
にて。こういうところのバスは本数が少ないはずだが思いのほかす
ぐにやってきた。
﹁こっからバスで三十分かかる。揺れるが、⋮⋮車酔いはするほう
か﹂
﹁前向いてれば平気﹂
﹁そうか﹂
タイヤのうえを避けて運転手さんの三席くらい後ろに座る。
窓際を譲ってくれた。
とな。
隣だそりゃそうだ、通路挟んで別々に座る理由などない。
えと嬉しいんだけど。
でも座席が。
ちか。
近いっ⋮⋮。
図体でかいし手足の長い彼、組んだ足が前の座席にくっつくせせ
こましさ。
なのにこのひと。
降りる停留所の名前を言うだけ言い、﹁着いたら起こせ﹂
考える人のポーズ決め、寝た。
口、開いてる⋮⋮。
指一本入るくらいの。
だらしないって表現は当てはまらず。
333
可愛らしいと思うのが私の心境だった。
心臓破りな現状を。
でもまた覗く、現状を破る私の言動。
見たら駄目って言われると見たくなる。
踏み絵で試す信仰心なんてものも彼には通用しない。
禁止は逆効果となる。
なんと、愚かなのだろう。
この病を発明したひとに是非お会いしてみたい。
﹁おまえは、いったい、どれだけ眠いんだ﹂
近っ!
﹁うぐぁ﹂
どごん。
﹁ったぁー⋮⋮﹂
﹁ちょうどいい。目が覚めたようだな。傘とかばんを忘れるなよ﹂
私窓に頭ぶつけて痛いやら。
マキのどアップ思い出して失神しそうやらで。
ああ。
吊り橋効果を感じる暇も、酔わないよう前を向き続ける集中力も
無かった。
﹁ほら降りるぞ。降りたら転ぶなよ。外雪がすげーから﹂
﹁あ﹂
うわすごい。フロントガラスの向こうが真っ白だ。
﹁⋮⋮二人分で。ありがとうございました﹂
﹁あ。りがと。ありがとうございました﹂
降りたのは私たちのみだった。
崖っぷち。
崖のうえに立つ。
334
演歌、ってこんなイメージだ。
そう崖にざばーんと日本海の荒波吹きつけて振袖の女性演歌歌手
が歌ってる舞台の。
実際は。
音が、すごい。
なんていうか、近くの車の走りなんぞ消し飛ぶ。
ど、どーんと。轟く。お腹の奥にものすごい響く。聴覚を蹴り破
る勢い、雷よりも耳慣れないぶん恐ろしい。
ひゅうひゅう吹きすさぶ風が耳を切る。
さむ、い。
傘。差してると逆に危ないかもしれない。
﹁降り、るぞ﹂
﹁ふえ?﹂
ふひゃ、開くと口のなかがさぶい。
﹁下、に﹂
マキですら喋りにくくする強風、
︱︱あれ喋らないのって元からか。
草むらのなかを続く、まるで細い畦道の急な段々を足元に気をつ
けて降りる。土が、凍りついてる。頼るのは強風に揺れる頼りなき
ロープの手すり一本、この真冬に肝試しに等しい。
先を行くマキは、いつもどおりの顔色でこちらを見あげ、
﹁転ぶなよ。転んだら俺がお陀仏だ﹂
などと言われれば尚更萎縮する。
傘など差せるはずなく。
あまりのとろさを見かね、舌打ちとともに私から傘とかばんとを
奪い去った。
三十分経過。
開けた原っぱにようやく辿り着く。崖にぶつかる轟きが増す。乱
335
暴に叩きつける波を目撃する。目の当たりにする自然界の脅威を。
自然界は手加減を知らない。
でも人間はもっとだ。
﹁こっからだとあんま見えねえな。砂浜のほうに行くぞ﹂
﹁あ、うん﹂
更に草いきれを抜け更に降りる。
砂浜を海を眺められる国道に。
緑川と異なるのは、砂浜が割りと小さくて、両脇を岩岩に挟まれ
てるということ。ポジティブに例えればプライベートビーチといっ
たところか。
階段を見つけたから降りようとすると﹁降りるな﹂とマキに腕を
掴まれた。
﹁あっちに防波堤があるだろ。たまにこんな時期に釣りする馬鹿が
いる。飲まれたらひとたまりもない﹂
平然と親指で指す向こう。海に突き出た防波堤にちゅっどーん、
と波が狂い荒れる。その波の高さが何メートルともつかぬ、防波堤
をはるかに超えた高さであって、こわ、怖すぎる。波にぶつかる波
がすべて白へ化身し、そこから海へと泡泡が、⋮⋮クリーム状の泡
が流れこむ。お洗濯を間違えた環境汚染じみた泡に見えなくもない
のだが自然の成せる技なのだ。真っ白ではない、なんとも言えない
濁りの混ざったいろをしている。
冬を除けばこの海はこんな白濁しておらず、クリアに透けた淡い
色の海で、夏には海水浴も楽しめるんだとか。
緑川から続く低めの堤防を隔てた向こうを、傘も差さず眺めてい
た。
白い世界を。
崖を左にし、置き残した草むらがそこに。
空気中を浮遊する泡が、淡雪のように緑の草にも流れ、重なり。
降りしきる雪ならばいろを調和させ、汚濁を残したままであっても
花にも似た、舞いを奏で。
336
命の死滅であるそれらは。
繰り返し、ぶつかることで再生する。
はこう
摩擦や軋轢は人間界では忌み嫌われ、回避される事象だ。
自然界においては。
暴力的な勢いが。
柔らかな浮遊を咲かす。
これが、波の花⋮⋮
﹁こんな綺麗に見られる日は珍しい。気温、風速、波高︱︱三つの
条件が揃わないと見られない。運が良かったな﹂
﹁日頃の行いがいいからね﹂
﹁どこがだよ﹂
堤防に触れる手袋が黒だ、彼は持ち物全般にその色を好む。﹁⋮
⋮通常は車で来る場所だ。途中に駐車場があったろ﹂
﹁あ。うん﹂
崖のうえにも。いまマキが見てる、半島の突き出た部分にも、目
的同じくする人々が見受けられる。手袋はめた手でオペラグラスを
持参したベンチコートの女性、⋮⋮用意がいいものだ。
﹁昔、兄貴とよく来た場所だ。ここ来んのは久しぶりだな⋮⋮﹂
﹁樹さんと?﹂
﹁よく知ってるな﹂なんだか懐しげな眼差しで短く息を吐く。白い
息のはずが空気中に紛れて見えなくなる。﹁この間うちに来た時に
でも聞いたのか﹂
﹁⋮⋮お母さんから﹂
﹁そうか﹂
私は冷えた指先をこすり合わせる。﹁お兄さんと似てるよね。写
真で見た感じだとすごく﹂
﹁小さい頃はよく双子と間違われた。というより見間違えられたな。
さっきまでそこおっただろと言われてそれ兄貴だろっていちいち説
明すんのがうぜえのなんの﹂
そんな嫌そうにしたって無駄だよ。
337
だって眉があがってる。
﹁なにがおかしい﹂
﹁ううん﹂言うだけが全てじゃない。﹁いまお兄さん、どこに住ん
でるの﹂プロだと言ってた。畑中か、もっと離れてることだろう。
﹁マキといくつ違いなの?﹂
﹁二つ上の学年。東京﹂
﹁会えなくって寂しい?﹂
ちょっとマキは絶句した。﹁⋮⋮なわけねえだろ﹂
﹁私ね、一人っ子だからきょうだいがいる感覚って分かんないの。
喧嘩したりする?﹂
﹁昔はな。呂布をどっちが使うかで殴り合いもした﹂
三国志大戦ですか。争うならサッカー兄弟らしくウイイレにして
くださいませんか。
私のしらけた顔を見てマキは違う角度でお兄さんの話を始める。
﹁物心ついた頃からサッカー漬けだった。兄貴が好きでその影響だ。
ボールに触らない生活など考えられなかった﹂足に触れるのはきっ
と無意識に。﹁兄貴がボランチで俺がサイドバック。二人で試合に
出るのが目標だったからポジションは自然と割れた。守備攻撃の練
習をするのに丁度良かった。兄貴は足元が巧い。俺は体格に恵まれ
ていた。天才兄弟と言われて調子こいてたな﹂
⋮⋮あの写真、やっぱりお兄さんだった。
決して恵まれた体格には見えなかった。マキのほうが成長が早か
ったんだ。
﹁兄貴が注目されだしたのは高校からだ。割りと遅咲きだった。オ
ファーは来なかったがセレクションで受かった﹂
﹁お兄さんと二人兄弟だっけ﹂
﹁そうだ。⋮⋮もう少し出来のいい息子がいれば違ったろうがな﹂
﹁そんな風に言うもんじゃないよ﹂
自嘲的な言い回しに。
お母さんが浮かんだ。
338
︱︱誇りだとは認めなかった。
マキのお母さんが。
﹁片やセミプロ片や出来損ない、比べないほうがおかしい﹂
違う。
﹁サッカーができるかできないかが全てじゃない。わ、たし﹂
風が邪魔をする、
でも私、
いま伝えないと絶対に後悔する。
﹁私、知ってるよ。マキがどういう人かって﹂
和貴のことを、
海を睨みつけながらも、
語った。
内容を。
言動で怖い風を装ってても、
﹁言葉遣い悪くしてたって﹂
放っておかなかった、
一人夜の海で泣こうとした私を、
﹁強面作ってたって、表面上で見えるよりも本当はずっと、や、さ
しいひと、だって⋮⋮!﹂
私の。
わた、
﹁び。いぃーっくしょいっ!﹂
マキの目が見開く。
私、
俯いて押さえるが精いっぱい⋮⋮です。
白波がど、ぱーん! と虚しく轟く。
無表情で彼、
﹁⋮⋮帰るぞ﹂
339
背を向ける。
⋮⋮ああ。
﹁ふぁい﹂
情けない。なんでここで加藤茶も顔負けのくしゃみが。
くしゃみが⋮⋮
﹁ひっぎぢっ﹂
﹁おっまえ﹂黒のコートが小刻みに震える。﹁どーゆーくしゃみだ
よ。きったねえな﹂
﹁うる、さ﹂はっ、﹁みっ、ぎじっ﹂
﹁ははは﹂
声立てて笑う、滅多に見ないマキが。
笑いをこらえ、崖を見あげる。
顎の角度の鋭角、喉仏に繋がるカーブを私は見あげる。
先を見据える挙動が多い。彼は。
その髪にも肩にも、自然界の雪が舞い降りる。
思い出も手伝ってか心なしか、優しい瞳をした。
穏やかに思えるマキを。
私は鼻をかみながら。
ひと一人分離れた後ろ姿だけであっても、
肩を並べる並ぶ勇気などなくっても、
いつまでも、
ずっと、
見つめていたかった。
︱︱次第に距離が狭まりつつあると信じていた。
願っていた。
彼が彼を語ることを。
誰に対しても構築した壁を取り払ってくれる日がいずれは来るだ
ろうと。
私に対しても。
340
仏頂面の仮面を取り払い、素の彼をもっと見せてくれるだろうと。
自覚せぬままに、密かに期待していた。
それが。
独りよがりの幻想に過ぎなかったのを知るのはもうすこし先の話
となる。
341
︵3︶
﹁都倉さんに、蒔田くん。お二人には特別に宿題を差し上げます﹂
冬休み部活の幕開きはこんなだった。
﹁タ、スク。勘弁してよ私、風邪引い、てたん、だか、は、ふ、﹂
びぎじっ。
紗優の差し出す箱ティッシュを拝借する。﹁治りきっとらんやん﹂
東京と違い平気で零下を記録する、この地方の寒さに慣れてない。
でもあの翌日。からだの芯から冷えたのもあるけれど、クリスマ
ス本番に熱を出したのはそれよりも気持ちの問題だった。
イブにデート。
男女が日時を定めて会うことが国語辞書で引いたとおりにデート
ならば一応は当てはまる。
帰りも緑川までつき合ってくれた。定期がきくとはいえ二往復を。
ふたりきりで夕方まで過ごした。
⋮⋮思い返すだけでぐんぐん顔が熱くなり、平熱やのになしてこ
んなあこなっとるんやろね、母が体温計手に首を捻ってた。
﹁パソコン部の忘年会も兼ねていたのですが⋮⋮残念です﹂
一昨昨日の部活は三人しか揃わず自然とお開きになったそうだ。
﹁んなの知るか﹂
ちょっとマキの声が枯れてる。彼も風邪引いてたんだろう。
私⋮⋮謝るべきなのか複雑な気持ち。
﹁まあまあ。タスクはね、心配してたんだよ。二人とも来ないから
なんかあったのかなあって﹂
こういうときに仲裁入るのっていつも和貴だ。
紗優といえば。
342
眼鏡外して拭き拭きするタスクを焦点の合わない目で眺めてるだ
け。駄目だこりゃ。
﹁んーと。そういうときの連絡簿かなんか必要だよねえ? 遅刻、
欠席、連絡用の。ま休み中に部活するとき限定かもだけど﹂
﹁連絡網ですね⋮⋮作りましょう。当面は僕の自宅で⋮⋮休み明け
に僕から下田先生に確認を取ります。代表の連絡先は隣の控え室が
いいですね。あ都倉さん。纏まったら名簿を作って頂けますか﹂
﹁はい﹂
タスクの目が笑ってない。
したがって断れない。
﹁では皆さん。席についてください﹂
肩を叩かれる。
なに?
声に出さず伝えると、歯を見せて笑い、ディスプレイを指す。
新着メールが一件。
﹃件名:真咲を見た! 投稿者・K澤M奈。
12月24日の夕方。
駅に向かって歩いていると、マキと連れ添うなななんと真咲を見
かけました∼。じゃ、じゃ、じゃじゃじゃん!
あたし慌てて隠れました。中々いい雰囲気に声をかけるのがえー
なんかお邪魔に思えましてですねー
クリスマスイブを過ごす二人はハタから見てま、さ、に、恋人同
士でした。さー真相はどうなっとんのでしょうか? 気になってあ
たし夜も眠れませーん。
番組特製ストラップぅ∼。
じゃなくて、よしののイチゴパフェよろww﹄
⋮⋮紗優。
343
語尾が2ちゃんねらーっぽいんですがいかがなさいましたか。
私は二秒で返信した。
﹃件名:却下です。
地味な内容のため番組では取り上げられませんでした。また来週﹄
﹁ひっどぉーいっ﹂
私が反応する前にいちはやくタスクが声を発した。﹁宮沢さん都
倉さん。いい度胸をしていますね。次、作業中に私用メールをする
ことがあればメールの使用自体を禁止します﹂
これには全員がブーイングをする。
﹁でしたらお二人とも、Outlookを閉じてくださいね﹂
﹁はい﹂﹁ごめん﹂
教卓のディスプレイから全端末の挙動が見られる、でもタスク見
てなかったのに。
なんで紗優と私がメールしてるのが分かったのか。
ともあれタスクの独裁政権含めこの部活はうまくまとまっていた。
﹁いっただきまぁーすっ﹂
どうぞどうぞ。
喜び勇んで顔より大きいパフェに紗優はスプーンを突っ込む。私
はミルクティをチョイス。
よしの、というのは、こじんまりとしたカフェレストランのこと
で。緑高から歩いて二十分近くかかるけど、学校帰りに立ち寄る緑
高生も割りといる。私も小澤さんたちと一度来たことがある。
外観はまさに軽井沢あたりで見かけるペンションで戸建ての一階
部分のほとんどをカフェにしている。かなり広い。特にこのカウン
ター席、正面にあるのは公園かな。壁のかなりをガラス窓にしてい
る。新緑の季節には庭園にいる感覚を味わえることだろう。
344
律儀におごる私はお人好しだ。
でも紗優はみんなの前でなにも言わなかったのだからそれなりに
恩義も感じる。
財布の、⋮⋮足りるよねお金。あ引き算すると残り千円足らず。
十二月の二十九日、お年玉くれる親戚もいなさそうだし。
大人しくがま口を閉じる。
吐息をもらす。
﹁一口食べてみんか? 美味しーよお?﹂
﹁いい﹂
この寒いのにパフェなんてがっつくのは紗優だけだ。
﹁そーゆわんとはい、あーんして?﹂
山盛りのスプーンを差し出される。
差し出されれば口を開くのが私の反射神経。
⋮⋮あれ。
﹁んのわっ。ほんとだ美味しいっ﹂
﹁やろやろー? ここのパフェなーブルーベリーにバナナチョコも
バリウマなんやけどぉいちごのな。甘酸っぱい感じがたまらんのー﹂
真冬のいちご。
濃厚なバニラアイスとコーンフレークのサクサク感が混ざり合っ
て、絶妙なハーモニーを奏でる。
あ、あとな。秋限定で出る抹茶あずきも最高やの。モンブランも
ーなんて言ってるし。
指折り数える食いしん坊っぷりに笑っていると、
﹁ねえ、初恋の味はどんな味? 僕に教えてよ真咲さん﹂
激しく咳き込んだ。
﹁だ。大丈夫?﹂
喉潤すもミルクティはまだ熱く。急ぎお冷を喉に流し込む。﹁い、
きなり変なこと、言わないでよ﹂
345
しっかも誰の真似よいまの。
﹁ごっめんごめん﹂背中さすってくれるものの開き直る。﹁やって
さあ。真咲マキが初恋っぽいからからかいとうなって﹂
初恋違うもん。それに﹁初恋くらい、あるよ﹂
﹁えいつ?﹂
咳払いして喉の調子を整える。
﹁幼稚園のとき。同じ組のてつやくん﹂
﹁どーせままごとみたいな恋やろ。そっからは?﹂
首傾げると、
﹁真咲の恋愛遍歴をあたしは訊いとるんがやけど﹂
ぶら下がる洒落たペンダントライトを見つめ。
冬を覚えた枯れ木を見つめ。
半分に減ったパフェに逃れ。
手元の白磁のカップソーサーに触れ。
間を置こうとも期待に満ちたきらきら瞬きは変わらず。
逃れる術がないことを、悟る。
﹁中学の⋮⋮卒業間際に告られてつき合ったことはある。それが初
めて﹂いつもは紗優の恋バナを聞くのが私の専門だ。﹁彼、高校外
部に行くからそれでなんとなく、自然消滅﹂
﹁ありがちやねー。高校入ってからはどうやったん﹂
﹁こっち来る直前に一人。夏休み前だったかな⋮⋮﹂あ終業式の日
だった。といっても、﹁外で一度会ったっきり﹂
自宅の電話番号も聞かずじまいだった。なんかミルクティの甘み
が足りない。お砂糖が底に溜まってる。
﹁あ。分かった﹂指をぱちん紗優は鳴らす。﹁離れるん分かっとっ
て告白されてんろー﹂
﹁当たり。そういうシチュエーションに弱い男の子っているんだね﹂
指パッチン、私それできないから軽く羨ましい。
﹁なあデートってどこに行くん。やっぱ初めてやとディズニーラン
ドみたいなとこでデートするもんなが?﹂
346
﹁ううん。近場の映画館で﹃もののけ姫﹄観た﹂
東急、席狭かったな。新百合にすればよかった。
﹁ふつー、⋮⋮デートやったら恋愛もんかアクション系選ばんか。
かー抱きつき目的でホラーか⋮⋮﹂
﹁最後に映画でもって言われて私が選んだの。いい映画だったよ?
人間の業と罪の深さを感じさせるっていうのかな。紗優は観た?﹂
﹁知っとるけどそーゆー問題やなくってあんた⋮⋮﹂
パフェ突っついてたのが、訝しげに顔寄せて紗優は、
﹁ひょっとして。真咲ってバージン?﹂
答える前に。
ミルクティをこくんと飲み一呼吸置く。
﹁生娘ですがそれがなにか﹂
﹁え。えーっ! やーっぱそーなんやぁっ!﹂
﹁しーっ声おっきいよ紗優っ﹂
離れた客の視線を感じた。聞こえたのがいまのだけならいいんだ
けど。
﹁ぜぇーんぶこれからなんね﹂椅子の背もたれに凭れ、﹁あーうら
やまし﹂
﹁羨ましく思うのはこっちのほうだよ﹂
﹁そお?﹂
なんていちごつまんでる。
経験したからこその余裕だと思う。
そういう話になると私いつもついていけずいつも沈黙を保つ。薄
笑いで傍観者と化す。
経験するのが当たり前ってなかで取り残されてる感じ、するし。
一言で言うなら、劣等感だ。
﹁んーでもなー焦って捨てたらいかんのは確かやよ。アレ経験する
と世界観が変わる﹂
﹁⋮⋮世界観が?﹂
かき混ぜるスプーンが止まる。
347
﹁そ。なんかそれまでと周りのもんぜぇーんぶ違って見えんの。大
したことないって思っとったもんがきらっきら輝いて見えるっつう
か。愛しいなんの。なんやろな、やっぱ母性刺激されるんやろね⋮
⋮﹂
﹁へえ⋮⋮すっごいねえ﹂
薬でもないのに麻薬的な。
想像できないままにぬるくなったミルクティを口に運ぶ。
﹁真咲やて経験してみれば分かるよぉ? マキとだか和貴だかは分
からんけど﹂
最後は盛大にむせた。
348
︵4︶
意識しないといったらそれは嘘つきの始まりだと思う。
夏服のとき、男女のシルエットの違いにこっそり驚く。
どきどきもする。
男の子以前にそもそもが人間慣れしてない私は、あらぬところに
ふと及びそうになると自分自身で恥じる。
顔を見ておくのが無難だ。
でも相手の目を見て話すのもすこし、苦手で、⋮⋮勇気が要ると
いうのかな、自分に自信がないと厳しい。
他人から見た自分ってどんなだか客観的に分からない。見られる
に値するのかって判断が働くから。
そういうためらいとは無縁のひとを一人、知っている。
男女関係なしに、じっと目を見て話す。
気持ちを読み取る穏やかさと、
自身の瞳の強さが相まって不思議な安心感を与える。
普段絡まないからこその威圧を与える彼とは対照的で。
警戒してるな、と思ったらふっと和らげる。
緩急を使い分けられるのだと思う。
なにか考えだすとこんな風に和貴に考えが及ぶ。私の判断基準に
奇妙なインパクトを与えている。
思春期に性に関心を持つのは、喉が乾けば水を飲むように自然な
ことで避けては通れない。
思考主体が男の子だったらばもっとだ。
机上の空論としてならば知っている。
でも現実と結びつかない。
349
和貴に指摘されたように、紗優に看破された通りで性的に無知な
私は。
先をゆく周りの情報や、
フィクションの漫画など、
或いは心理学書の提供するリアリティで触れる程度で、興味を持
つのが本当はどういうことなのかも実は、分からない。
お付き合いしたとは到底呼べない過去の男の子二人も、触れたこ
ともない。
嫌だったか? ︱︱想像してみようにも私あんまり思い出せない。
緊張したはずが。
どきどきの元をたどれば。
新しい記憶に上書きされている。
同性に向ける親愛の情と。
異性だからこそ沸く恋愛の情感。
この違いも、不定だ。
振り分ける明確な基準さえあれば惑わされずに済むというのに。
これこそが恋であり、そっちは友情で、最後に残るのが愛なんだ
と。
ごみのようには分別できない。
捨てるのとは違う、育むべき感情は、どこだか分からない浮遊点
⋮⋮そんなこころの中に実在する。
彼らのことが。
あれなんで複数形なんだろう。
﹁都倉さん、どうかなさいましたか。ご気分でも⋮⋮﹂
350
﹁や。えっと﹂近い。﹁う、ううん。考えごとしてただけ﹂
接近する度合いが近いと気づけば身を引くのがタスク。﹁風邪の
ほうは大丈夫ですか﹂
﹁うん。すっかり平気﹂
夏祭りに連れ出された塩川神社を再訪している。訪れるのはあれ
以来でつまりは二度目となる。
﹁タスクが毎年お参りするのってこの神社?﹂
﹁いえ。僕は初詣には行きません﹂
無宗教なのですよ、と彼はどこか悪巧みするように笑う。
﹁えじゃあどうして⋮⋮﹂
柄杓で口をゆすいだタスクが、私に譲ると教師のような顔をして
通りざま、
﹁部活のこと抜きにして会うのもいいのでは、と思いまして﹂
耳打ちを落とす。
︱︱だ、
誰の、
どんなことを指しているの。
待ちぼうけだったマキの肩に触れ、促すタスクは。
ああくびしてる。眠たそう。午後の一時過ぎにまさか、寝起きじ
ゃないよね。
元旦を外したものの参拝者はゼロでなく、並ぶひとの列が入り口
の鳥居まで続く。ピークは元旦午前までで家族連れが多いとのこと。
それでも明治神宮や鎌倉八幡宮並みにごった返すことはなさそうだ。
なんせ人口が断然違う。
﹁ん、のわぁっ﹂
靴に砂利が絡む、
ブラウンの瞳のアップのせいだった。
驚かしといて口に拳当てて笑う。このひとは。
﹁年が明けても変わんないね⋮⋮その笑い上戸って﹂
いつまで笑っているの。
351
真っ赤なダッフルコートが印象的な彼、自分に似合うのがなんだ
か分かってる。マキは寒色だけど彼は暖色。学校に着てこないのは
派手な色味を気にしてなのかな。
﹁冬休み中元気してた?﹂といっても休みはまだ明けていないが。
﹁あおじいさんも⋮⋮うちの祖父がね、和貴のお祖父さんのこと聞
いてすごく、懐かしがってたよ。ご飯食べにおいでって言ってた﹂
﹁風邪引いたんよ和貴は﹂
マキと喋ってた紗優が唐突に振り返る。
﹁えそうなの? いつ﹂
﹁ずっと。大晦日に遊び行ったら、怜生に移したらあかんやろて面
会謝絶。昨日も断られたばっかなんよ﹂
﹁今日来て⋮⋮大丈夫だったの?﹂
﹁熱出して寝込んどったっておじいちゃんゆうとった。ほんでも元
旦には下がってんて﹂
﹁詳しいね紗優﹂
﹁ん? 近所やしな﹂
この寒いのにミニスカで素足を晒す紗優は胸を張るものの。
拳当てたまま黙りこくる隣人のほうが気にかかる。
﹁ねえ和貴﹂
⋮⋮珍しい。
からだごとそっぽを向く。
自分から逃げるだなんて。
どうしてなにも言わないんだろう。そうだ私和貴喋ってるのまだ
聞いてない。
﹁和貴ってば。ねえ、もし具合悪いんだったら無理しな⋮⋮﹂
﹁ら﹂
らいじょーぶやがら。
⋮⋮ん?
352
﹁その声⋮⋮﹂
﹁がらがらになってしもーとるなあ﹂あっはと紗優は高らかに笑う。
一瞬誰が喋ったか分からなかった。
男の子にして甲高い和貴の声がハスキーに変質してる。
﹁え、なに。今日来ても平気だったの? すごい声してるよ﹂
﹁のどがぜだげやがらずぇんぜんへーぎ﹂
﹁ぜえったい真咲かマキの風邪もろてんろ。あんた風邪引いたんあ
のあとすぐ﹂
冗談でも手を挙げないフェミニストが女の子をはたく。
それを見て気づいた。
⋮⋮だったらバレないように来なければいいって話もあるけれど
⋮⋮紗優からどのみち明かされたことだろう。
言われて見れば、よそを向いて咳をする和貴の顔色が赤を着てる
のに心なしか青白い。﹁あの。⋮⋮私のせいだよね。ごめんなさい﹂
﹁ん? なにゆっでんの。ぼぐじーじゃんのもろうだだけやじ﹂
﹁おじいちゃんぴんぴんしとったやんか。あんた知らんやろ、うち
でおぜんざい二杯も平らげたんよ﹂
再び左手が動いたので私は笑ってしまった。
﹁宮沢。順番だぞ﹂マキが紗優を呼ぶ。
呼んでおいて待たず、鈴縄を掴み、がらんがらんと鳴らす、黒い
手袋の指先。長い、腕に目が行く。
あのしなやかさは彼の努力の結晶。
いま肉眼に見えなくとも。
見惚れていて順番が回ると私、なにをどうしたらいいのか分から
なくなり隣チラ見してひたすらに真似てた。
二拝二拍手一拝。︱︱年に一度は参拝するのにいまだこの儀式に
慣れない。
よっぽど具合が悪いのか、いつもだったら和貴はウィンクの一つ
もするのにずっと目を伏せていた。
祈ってるそのまつ毛なんてビューラー要らずのばっさばさ。女子
353
からすると相当羨ましい。
﹁ね。随分長く祈ってたけど⋮⋮なにお願いしたの?﹂
列外れたときに彼の足元を見ながら訊いてみる。
顔ごと逸らされた。
⋮⋮変なこと言ったかな。
﹁じーじゃんがながいぎするよーに。あるひとの願いががなうよー
に﹂
﹁⋮⋮自分の願いごとはしないの?﹂
石から砂利に移る足運びを注視する。⋮⋮なんで気づかなかった
んだろう。
軽やかに影踏みするステップが、重たい。
出会いたての頃のマキに対する違和感は、これだった。
﹁ぞんなごとないよ﹂
﹁私はね、みんなと家族の健康をお願いしたの。和貴の風邪も早く
治りますようにって﹂
止まった。
ホーキンスの編み上げブーツが。
和貴は。
顔を起こし。
ふわっと、
笑みをこぼす。
凍てつく空気、耳あてがないと凍りつく冷蔵庫に似た外気で、ほ
のかに開く。
松が雪を被る、境内の白い面積が多い冬景色のなかで彼は、花だ
った。
ダッフルコートが皮膚に色を添える。
私は。
春が恋しくなった。
﹁ありがど、まざぎざん﹂
354
たとえ言葉が濁っていようと、
気持ちまでは凍らせやしない。
誰かが、誰かに元気でいて欲しいという願いや。
誰かが、誰かに今日も笑顔でいて欲しいという希望も。
足元の雪が汚濁を覚え、
敬意なく踏みしめられ、
やがては溶けても。
溶けて消失しないものが私たちのなかにあると思っていた。
⋮⋮そうだった。
私は、この町の雪と同じく分かりやすく、影響されやすい人間だ
った。
それだって、気づけることがあるから、いい、と思っていた。
知らなかったことを覚え始める。
それは例えば。
細やかに行き届くタスクのこと。
私に対する素直な気持ちを示す紗優のこと。
気取らない実直さを備えつつも、からかい、惑わす和貴のこと。
⋮⋮無感動のポーズ決めてるくせに周囲の動向にいち早く気づき、
手を打つ、彼の性質にも。
関心を持っていた。
関心を持たれることが嬉しかったし。
気持ちを表したくなった。
そんな、自由であり、契機であり、居場所となっていた。
私が彼らと過ごすということは。
それなのに私は。
355
︱︱自分ですこしは敏感なつもりだったのに、
結局のところは、鈍かった。
見えてないことばかりだった。
気づけていなかった。
みんなの気持ちにも。
自分のことにでさえも。
タスクの見えない性質。
紗優の、切ないこころ。
和貴の秘められた内面。
マキの未だ隠された想い。
私の人には言えない、気持ちの問題を︱︱様々な想いを乗せ。
この時期に珍しく白雪が舞うこともなく、二度と訪れることのな
い、1998年という真新しい年が始まった。
356
︵1︶
お正月特番の抜けない頭で底冷えのする体育館にて校長の長々と
した挨拶を聞き流しストーブでぬくめられた教室に戻り休み明けの
試験を受ける。
ただし三年生は除外される。
今更に実力の確認は必要ない。選別目的の無慈悲なセンター試験
を翌週に控える、彼らの纏うぴりぴりとした空気が一二年生にいく
ばくかは伝染するもので。
﹁真咲なにがい? 午後ティーのミルク?﹂
﹁あうん。でも﹂
﹁こないだのお返し。おごったげる﹂
試験勉強の合間にコーヒーブレイク。といっても私はいつものミ
ルクティ。
﹁ありがと﹂
自販から取って手渡すと、私の後ろに目を注ぐ。
学校からほど近い図書館の玄関前を何人もの緑高生が通り過ぎる。
傘差し雪道を歩く、片時も赤本が手放せぬ彼らの深刻な真剣さに、
お疲れ様です、と内心で唱えた。
紗優に続いて缶を開く。缶の音に、壁に寄りかかった彼女が私に
視線を移した。﹁真咲は来年センター受けんがか﹂
﹁受けない。就職希望﹂
ガラス越しに見る雪の空が体感温度を落とす。確かに玄関は寒い
けども。
私は缶を両手に持ち温める。
﹁勿体ないなあ﹂
一口、すする。
喉を潤す、火傷しそうな熱。
357
試験の都度学年のトップ20まで貼り出されるので、私の成績を
紗優も知っている。
﹁⋮⋮宮本先生にも同じこと言われたな。でも今月の進路調査もそ
れで出す﹂
紗優の選んだのはBOSSのブラック。マキに当てられてか。
﹁真咲はハッキリしとっていいなあ。あたしまだ迷うとる。進学し
よっか就職しようか⋮⋮﹂
就職。﹁何の仕事がしたいの?﹂
﹁美容師。⋮⋮けどなーそれ決めたらばしっと決めなならんやろ。
他の仕事選ばん覚悟固まらんくってなあ﹂
﹁いいね。紗優に合ってると思うよ﹂
﹁ほんとっ?﹂
壁から背を浮かせ、ぱっと顔を輝かす。
その反応で分かる。
彼女が本当になりたいものが。
﹁うん。だって紗優、おしゃれ好きでしょう。ファッション雑誌い
つもチェックしてるし⋮⋮﹂前髪を自分で切ってる。ヘアアレンジ
も得意だし。﹁正直、こっちの子はみんな服のこと全般無頓着だよ
ね。タスクとか﹂
一言が余計だった。
ひと睨みが突き刺さる。
﹁とと。とにかく。好きなことがあるんだったらそれをそのまま仕
事にするのも手だよ﹂
うんうん、と縦に大きく頷く姿に思う。
いまの言葉は。
私にも当てはめられないのだろうか。
表層に浮かびかけた考えを首を振ることで打ち消す。﹁ね。みん
なの進路って決まってるの?﹂
﹁ん? あータスクは畑大⋮⋮畑中大学のことな。国立志望。んで
和貴はこっちで就職組﹂上を見て紗優は指折り数える、﹁あーっと
358
そんで⋮⋮﹂
あとは。
残りの一人は。
身を乗り出した私を。
﹁自分で聞きいや﹂
コーヒー香る息と共に紗優は笑顔でかわした。
﹁︱︱俺か?﹂
誰か。
あくる日に早速確かめた私を誰か褒めてください本日もしかめっ
面が怖いです。
﹁関東の大学で歴史を勉強しようと思っている﹂
﹁ふぅん。て東京?﹂
﹁出来ればな﹂
東京と名のつく大学は非常に多い。立地が埼玉や千葉神奈川であ
ろうと東京と名がつけばなんだっていいのだ。成城学園前と狛江く
らいにステイタスが違う。
そのなかでも彼は、場所が東京がいいと語る。自然と大学の偏差
値が高くなる、のだが。
見合った頭脳をお持ちだ。
サッカーはかなりのレベルだったと聞く。スポーツ全般を得意と
し、パソコン部でもタスクの次点に位置する。彼の言うことをすべ
て理解してるのってきっとマキだけだ。
のみならず。
日本史の成績がトップクラスだ。全国の模試でランキングに入っ
たことがあるらしい。
横山光輝の漫画もゲームの﹃三國志﹄﹃信長の野望﹄もみんな大
好きらしく。大河ドラマは勿論見てる。福島正則みたくなりたくは
ないと言っていた。私からすれば名前聞いたことあるな程度の人物
なのに。
359
それでその恵まれたビジュアル⋮⋮
神は、何物だってお与えになる。
もっとも。
本人が一番なりたいものになれないのならばそれらは意味を成さ
ないのだが。
﹁おまえは?﹂
興味はないけど一応。
といった感じで高い位置から声が降る。
私は、
﹁実家の手伝い、かな﹂
﹁そうか﹂
さくさく。
雪道を。
さくさく。
しぃん。
﹁いっ。意外だとか思わないの?﹂
これ明かすと私必ず言われる。
のに彼、しれっと。
﹁おまえが自分で考えて決めたことなんだろう。誰かに止めて欲し
いのか﹂
﹁⋮⋮痛いところを突くよね﹂
クールななりをして誰にも関心持たずのくせに。
そんなところに惹かれるんだけど。
﹁迷ってなんかないよ。ちゃんと自分で考えた結果なんだから。あ
⋮⋮﹂
雪だ。
雪。
足元の固められた白い雪道を。
360
空がグレイがかった白さ、いまにも落ちそうだったそれが、落ち
てくる。
手のひらをうえにして確かめる。
雪など見ず駅の屋根に入る。珍しくもないのだろうマキにとって
は。
﹁じゃあな﹂
﹁うん。バイバイ﹂
一年後に、東京へと旅立つ。
会えなくなる。
隔たれた向こうへ、もっとはるか遠くへ。
私はここに残るから。
残された時間を精いっぱい。
悔いの残らないよう、生きるのみ。
見慣れたはずの黒い背中を。
改札から消えてしまっても、私は逸らせなかった。
視界に入れられるだけでいい。
触れられなくても。
見てるだけでいいと思っていた。
こんなちっぽけな願いにも、限りがあるのだ。
足元から崩れ落ちてしまいたい。
悲しんで、海見ながらもう一度慰めてもらいたい。
あの日のように。
でも私がこれから生きるべき道は、それではなかった。
くずおれたい衝動をこらえ、私は彼の進む道をこの胸に刻み込ん
だ。
361
︵2︶
センター試験が終了すると校内は益々忙しなくなり、顔の青ざめ
た三年生が職員室と教室とをひっきりなしに行き来する。それから
一週間も経てばその人数はがくんと減る。
私大の入試が開始するからだ。
国公立を目指すうちの九割が県内に留まる。実質的に畑中大学の
一択だ。
私立ならば選択肢の少ない県を離れて関東へ。次に多いのが関西
方面なのは交通の便が比較的いいからだろう。
三年生の半分強が四大に進学し、残りは専門学校に短大に進む。
就職を希望するのは、家業を継ぐ者を入れても一桁程度。
﹁⋮⋮といったところだ。分かったか都倉﹂
﹁はい﹂
﹁就職つってもな﹂ファイルをめくるその表情は険しい。﹁うちか
らは厳しい。殆どが東工に取られるからな﹂
就職希望なら東工業高校、大学受験なら緑川高校に進むという棲
み分けがこの町ではなされている。
﹁⋮⋮見つからないようでしたら家業を継ぎます﹂
﹁そうか﹂
二度目の進路指導室に呼び出された。
考え直すよう諭すためだ。
⋮⋮分からなくもない。
東大や京大関関同立などの合格者は例年二十名を超す。それをも
っともっと増やしたい。東工と比べて優秀な県立高校のイメージを
保ちたい。生徒というより一部の先生方がそこにこだわりを持って
いるそうだ。
だけでなく。
362
私の将来を案じてくれているのもよく分かる。
宮本先生はエキサイトすると方言が強くなる。
﹁呼び出すんがはこれで最後やぞ﹂
念押しされ、失礼しましたと言って部屋を辞す。
あー疲れた⋮⋮。
肩を動かすとコキ、と鳴る。重たいブレザーは肩が凝る。その右
肩を見た先に、
﹁あ真咲さん﹂
お隣の職員室から和貴が出てきた。
やや三白眼の彼は、一瞬で理解して私の背後を見やる。
﹁呼び出し食らったんだね﹂
﹁ん、まあ⋮⋮﹂つられて進路指導室のプレートを仰ぐ。宮本先生
はまだ中にいる。
﹁みやもっちゃんのゆーことも一理あるんやからそんな顔、しない。
しなーい﹂
そんなにしかめっ面でもしていたのか。
眉間を縦になぞる。
皺が入っていたのだろう、指先のくせしてちょっと熱い。
その手が、今度は、自分の両頬を摘まみ、いーっとにらめっこの
顔したり。
﹁ぶはっ﹂
ブタ鼻を。
作ったり、⋮⋮する。
﹁真咲さんは考えこんどるとき、むつかしい顔ばっかりしとる﹂
追い抜いて肩越しに笑いかける。
爽やかな笑みで、
﹁笑顔のほうが似合うよ﹂
ブタ鼻でも様になるのは桜井和貴を除いてほかにない。
でもね。
﹁和貴だって就職組なんでしょう﹂職員室を進路指導室を離れる。
363
﹁なんて私ばっかり﹂
足音で自分の不機嫌さが分かる。
和貴はふっ、と目を留める。
﹁心配してんだよみやもっちゃんは。真咲さん来たばっかで慣れて
ないっしょ? クラスで浮いとったのも気にしとったし﹂
あ。
と中庭のほうへ顔を傾けたのが、
﹁⋮⋮言わんでいいこと言っちゃった﹂
肩を落とす。
追いついてもまだしょげてる。
﹁気にしないで。事実なんだから﹂
和貴はいつも困ると掻く。見るに柔らかい髪の毛を。強い、手の
甲の骨が動く。
﹁ね。和貴はなんの仕事に就きたいの?﹂
動きが止まる。
顔を起こす。
にかっ、と笑った。
ぶんぶん尻尾を振る子犬を彷彿する。
︱︱和貴は愛らしい。
﹁ホームヘルパーになりたいんだ﹂
思いもよらない答えが返ってきた。
階段に差し掛かると後ろを確かめ、首をすくませる。﹁緑川って
老人率高いの。だからね、そういう仕事がこれからますます必要に
なると思ってさ。うちに遊びに来るじーちゃんの友だちともね、喋
ってて結構楽しいんだ﹂
私たちの年頃なら親世代のことはおろか、老人のことならもっと
毛嫌いする。
﹁⋮⋮四大出て社会福祉士の資格とってから戻る道もあるのに﹂卒
364
業してすぐ就職じゃなくても。
﹁うちじーちゃんの年金と戦争の報奨金暮らしやからそんな余裕な
いよ﹂
なんてことないように首を振るけども、
それだけではないのを私は知っている。
紗優から聞いたんだ。
﹁緑高卒業したらね、⋮⋮うーん、できれば在学中にホームヘルパ
ー二級取得してさ、老人ホームで仕事するって決めてんだ﹂
小さい頃からの夢だったと彼は語る。
それは。
いつからの決意、なのだろう。
日の当たる領域に進む、確固たる足取りで。
迷いのない。
将来を見据える、凛としたその横顔は。
﹃⋮⋮和貴な、父方のおじいちゃんおばあちゃん亡くしとんの。叔
父さんもおじいちゃんもみぃんなガンでな。生き残っとるひとのが
少ないんよ。お父さんが典型的なガン家系やし僕も死ぬんやとした
らガンやろな、って笑うんやけど、⋮⋮笑いごとやないよね﹄
語ったときの紗優はいまにも泣きそうだった。
﹁僕、おじいちゃんおばあちゃん世代にもなんだかモテるし﹂
ポッケに両手を突っ込んで、飄々と語る。
彼なりの様式。
苦しかったこと悲しかったことを伏せ、明るいオブラートに包む
のが。
﹃まーこっち残るって決めたがは。和貴は、自分やなくておじいち
ゃんを心配しとるんよね。唯一の肉親が世界でたった一人なんやし。
もし、⋮⋮万が一。おじいちゃんが亡くなったら、和貴は天涯孤独
になってまう﹄
365
﹁僕がこの町でできること。なんかあるかなぁって考えたら、自然
とそうなった﹂
踊り場のカーブを進む。
そんな和貴の背は、
﹃僕を育ててくれたこの町に感謝しとるから恩返しがしたい⋮⋮や
って。あいつ、恥ずかしいなったんか冗談やて茶化してんけど、あ
れゼッタイ本音やわ﹄
とても大きく思えた。
にこやかに振り返る彼の穏やかな眸が、
見開き、揺らいだ。
回りこむと教師のように腰を屈める。
﹁僕が、みやもっちゃんに説教したげよっか﹂
﹁え?﹂
﹁真咲さんを泣かせるなんてさ﹂
触れられ、スイッチみたいに流れた。
意識が働く前に感じられる手のひらがあった。
﹁み、やもと先生は関係ないよ。最近泣き上戸で⋮⋮﹂
﹁いまの話のどこに泣くツボがあるんだよ﹂
﹃親や同級生を恨むのは筋違いだろが﹄
変えられた私は恨んで閉ざすだけで。
和貴は、⋮⋮変わったのだった。
語る表情にも、明かす口調にも、︱︱恨みがましさの一片も見当
たらない。
誰かが誰かを呪うのは、いつだって自分自身なのだろう。
与えられたことを悟り。
与え返すことまでも考えているなんて︱︱
隠された彼の本当が見えた気がして、こころが、震わされる。
﹁か。和貴は、すごいよ。もともと⋮⋮なりたいものとかなかった
366
の?﹂
﹁うーん⋮⋮陸上ハマとったよ? ほんでも僕程度やと職業にはで
きんし﹂
考えるとき腕組みしがちな彼は。
気づかないのだろうか。
あのね。﹁和貴。手が⋮⋮﹂
﹁うん﹂
﹁は、なしてくれる、かな﹂
頬に添えられたままだ。
あっは、と声を立てる。暗い喉の奥を見た。
﹁真咲さんが笑ってくれるなら﹂
﹁なにそれ﹂
実際、そうしてしまった。
自発的に誘導する拘束力に倣う。
目を細める和貴は、喉を鳴らす猫に似ている。
離れていく。
触れられた感触が。
︱︱熱い。
人間の肌の、
火傷のような熱さと、
︱︱淡い、目眩を感じる。
﹁ほぅら。笑ってるほうが合ってるよ、真咲さんには﹂
こく、と頷く、
左の目から雫が落ちる、
それよりも熱い肌に神経が集中し。
思わず押さえるほどで。
背を向けた彼の。
吐く息と共に壁の向こうへ。
小さな一言がうっすらと溶け込んだ。
367
﹁そーやって、いつも僕の心に入り込んでくるんだから﹂
368
︵3︶
﹁置いてくぞ﹂
後ろの出口から彼が出ようとしているところだった。
﹁あ⋮⋮部活、行けないの﹂ロッカーを閉める。﹁家の手伝いがあ
って﹂お昼に言おう言おうって思ってたのにすっかり忘れてた。紗
優とのお喋りに夢中になってた。﹁タスクに伝えといてくれる?﹂
ああ、と頷くマキがボタンを留める私の指を見ている。﹁送って
かなくて平気か﹂
襟を整えつつ少々面食らった。
﹁え、⋮⋮と平気だよ。まだお昼前だし﹂
うちの親よりも過保護な。
駅までって意味かな。
嬉しいけど。
さきに教室を出てくと、後ろから彼の声が届いた。
﹁んなに慌てておまえ、すっ転ぶなよ﹂
発言と表情が矛盾してる。
笑って、手を振り返した。﹁気をつける。じゃーね、マキ﹂
﹁ああ﹂
夕方に団体さんの予約が入っている。お皿並べてくれるだけでも
助かるわ、と祖母が言っていた。台所使えんやろから自分のぶんの
夕飯さきに用意しといてとも。保温のきく圧力鍋でカレーでも作っ
てみようか。かぼちゃを煮込んで甘い感じにしよう。
財布のガマ口をいざオープン。
﹁⋮⋮六百円ぽっち﹂
369
心もとない。
お使いのお代を多めに頂いて残りをせしめてしまおう。
むふふ、と悪巧みなどしたのがいけなかったのか。
校門を出て派手に滑った。
せっかく。
︱︱すっ転ぶなよ。
て忠告してくれたのにな、あーあ。
東京で買ったこのミドル丈のブーツ。気に入ってるけど靴底がツ
ルツルしてて、この町を歩くに向かない。この町の子のかなりが見
た目を捨て去りごっついだっさいやっすいブーツを選ぶ。ごっつい
だっさいのであろうがこんな風に転ぶよりかマシだ。
か、おしゃれな靴を選ぶのはその歩きを心得てる人に絞られる。
モデルさんがランウェイをポキッと折れそうなピンヒールで歩け
るのと同じ。
雪道を転ばずに歩ける、︱︱紗優みたいな。
幸いにしてどこも痛くはない。路面は硬いがちゃんと手をついた
のが幸いした。
こっそりせしめるよりかこの町仕様のブーツをおねだりするほう
が建設的だ。
さて私のかばんは、
﹁こーれ。こんなとこまで飛んでおったよ?﹂
知らない、子だった。
緑高生ではない。
東工でもない。
かばんに、エンブレム。校章だ。学校指定のかばんなんていかに
も私立校の好き好みそうなこと。⋮⋮畑高の女の子が何故、こんな
370
ところに。
驚いたことにこの雪の日に足元がローファーだ。
スケートリンクを滑る如く器用にこちらに進む。
﹁はいこれ﹂
﹁あ。りがとう﹂
畑中市の降雪は緑川市の半分以下と聞く。
出身、こっちなんだろうか。
観察癖のある私はさておき。
丁寧に雪を払って渡してくれた。
﹁どーいたしましてっ﹂
えくぼがくっきり浮かぶ。
ぱっつんとしたおかっぱ⋮⋮高校生じゃなければちびまる子ちゃ
んてあだ名で呼ばれてそうだ。
﹁ねえね。悪いんやけど、音楽室どこにあるか教えてくれんか? 場所よう分からんくって⋮⋮﹂
十二時半。
急いで帰って来いと口酸っぱく言われている。一時前に買い物ま
で済ますのが私のミッション。帰宅してこのブーツでみずもとへの
往復⋮⋮時間ぎりぎりだ。
﹁緑高来るんあたし初めてやの。このへんの道やてよう分からんで
駅員さんに地図書いて貰ってなーほら﹂ご老人は達筆でしかも毛筆
だった。﹁誰かに聞こう思うたんにみーんな見向きもせんもん。な
ーんか怖い顔しとるひとしかおらんし声、かけれんで⋮⋮﹂
すっ転ぶ私は三年生の興味の範疇外だった。
﹁あたしな。ブラバンの練習で来てんよ﹂ほら、と楽器ケースを見
せつける。肩から下げた小さく細長いのが二つ。﹁楽器忘れた後輩
がおってな、取りに行っとって遅れてん。したらだーれも駅で待っ
とらんくってもー⋮⋮緑高なしてこんな広いがやろ。どっから入っ
たらいいか分からん﹂
どこかで聞いたような台詞だった。
371
この学校に初めて来たとき、玄関がどこか先ず迷ったのは誰だっ
たか。
入るだけならば私の真後ろの生徒玄関からでも構わない。
けども。⋮⋮来客用のスリッパが用意されていない。
靴下の濡れてるに違いない足先で、ぺたぺた、廊下を歩かせるの
は⋮⋮
﹁すっごく急いどったんは分かる。せやけどお願い。人助けやと思
って。な﹂
押しに弱いのが私の性格だった。
﹁来客用の玄関はこっち﹂
ベージュのステンカラーのコートを脱いだ下は、ベージュのセー
ラーに紺色のプリーツスカート。
この制服だったら私喜んで着てたかも。
﹁でね、右に行って突き当たると渡り廊下から別棟に移るの﹂
しきりに周りを見回す。
好奇心が強そうな、ややも不安の入り混じった眼差しで。
かつで私を見かけたときの和貴も、こんな気持ちだったのだろう
か。
無意識にブレザーのポケットに手を入れていた。
これは彼がよくする仕草だ。﹁⋮⋮広いっていっても単純な作り
だよ。畑中高校のほうが規模が大きいんじゃないかな﹂
﹁おっきいけどどこやて変わらん。あたしなー二年やのにまーだ迷
子んなるんよ。ほんに道覚えるんが苦手で⋮⋮さっすがに音楽室な
ら覚えてんけど第三化学室とかヤっばい。どっこの教室もなしてあ
んな似とんのやろ。色変えるかなんかして欲しいわ。セクション練
習やてあたし誰かについてかんとゼッタイ一人で辿り着けんもん⋮
⋮﹂
語尾のあまりの弱々しさに笑ってしまった。
372
因みに緑高に化学室は一つだけだ。
咳払いをして違う質問をする。﹁楽器はなんの楽器を吹いてるの
?﹂
﹁あたしはピッコロ﹂
真っ先に緑色の大魔王が浮かぶ。
﹁フルート知っとるよね? あれ短こうして黒くした横笛﹂
今度は彼女が笑う番だった。
渡り廊下に出ると寒々しい空気に混ざって楽器の音を二つ三つ拾
う。すでにコートを脱いでいた彼女は身をすくませる。
本日は学校外で勉強するのだろう。血相を変えて滑る道を滑らぬ
よう進む三年生︱︱彼らをやや気の毒に思った。
﹁畑中市から三時間かかるんだよね。わざわざ来るなんて、行事か
なにかあるの?﹂
﹁演奏会あるやん。あれの全体練習﹂
と言われてもぴんと来ない。
あれ、行ったことないがん、と首を捻りつつ説明を加える。﹁毎
年三月にやっとるやろ? 緑高の定演。東工も混ざって三高でしと
るんよ。おんなじクラスにブラバンの子おらんか? 来月になった
らタダチケがばらまかれるはずやよ﹂
別棟に移ると着実に音量が増す。パソコン部の活動もどうやら⋮
⋮捗らなさそうだ。
﹁音楽室はね、この階段のぼって突き当たりの三階に、⋮⋮れ﹂
踊り場に、
人影が。
﹁マキ?﹂
動かない。
彼の。
白眼を大きくした、
一点を凝視した瞳は、
﹁どしたのこんなとこで。部活は⋮⋮﹂
373
私ではない。
後ろを、
捉えたまま、
﹁か、ずおみ﹂
楽器の音に埋もれかねない呟きだった。
独り言だったのかもしれない。
振り返る。
同じように、
驚いて、
開いた口を動揺を手で覆い隠す、
︱︱彼女を。
﹁えっと。知り合い?﹂
笑いかけた。
それは無意味で。
場繋ぎもなさない、
問いかけだった。
何故なら、答える人間はこの場に誰もいなかった。
虚しく、余韻が失せる。
透けて見えない存在を通り越し、
彼の、口が、
喉が意志が、
耐え切れず、
紡いだのは、
﹁︱︱稜子⋮⋮﹂
374
続いて響いたのは、
どんな楽器の音量でもなく、
なにげない、
部活が始まった頃の、
和貴とのやり取りだった。
けっこーむっつりだよねーマキって
一臣って呼ばすの自分のカノジョ限定なんしょ?
375
︵1︶
﹁なーな蒔田どこおるか知らん?﹂
いきなり。
裏を取られて正直にびびった。
﹁あ⋮⋮職員室、じゃないかなまだ﹂扉の枠に手をかけてずずい、
と屈む。﹁宮本先生に頼まれて教科書の束運んでた。かばんそこ置
きっぱだし、きょ、教室にまた戻ってくると思う﹂
噛んだ。
こちらを瞬きもせず見ている。
和貴ばりに顔が近いん、だけど。
妙に真面目くさった顔で聞いていたのが、
ふにゃり。
﹁おおきに。都倉さん﹂
人懐っこい、猫みたいに細い目を細める。
友達にでも喋りかけるトーンで言われるものの。
誰だっけ。
私の間の抜けた表情が面白いのか、ほなまたな、と笑い、手を挙
げて教室を出ていく。
香水きつかった。
ガラス越しに見る、レイヤーの入った顎ラインの長さ、緑高であ
んな長髪はアリなんだろうか。まるでギャル男だ。の割にはすごく
フレンドリーな感じがしたけど⋮⋮
﹁あんた。あいつ誰か分かっとって喋ったがか?﹂
今度は左サイドバックから話しかけられる。
うおわっ、と奇声など慣れっこでもはや小澤さんは流す。
376
﹁う、ううん。知らない﹂
﹁やーっぱな﹂お決まりの嘆息。﹁一組の有名人知らんて転校して
からどこおったが。緑川一のタラシやで? あんま関わっと妊娠さ
せられるわいね﹂
﹁にっ!?﹂
のもスルーして小澤さん、﹁せっかくやし見したる﹂
Red
and
The
Blaaaaack﹂
私のかばん退けて腕まくりするってやる気満々じゃん。
﹁The
右手を挙げ。
続いて左手を。
右手をぐるぐる回して天を指す。
その振り付け、は⋮⋮
﹃坂田は⋮⋮あの赤髪のやつとは中学が同じでな﹄
﹁あっ、と﹂かばんの持ち手を掴んだ。﹁私帰る。ありがとね小澤
さん﹂
﹁パフェ食ってこーってあたしゆうたやんか。限定もんのいちごぉ
っ﹂
﹁ごめん野暮用あったの忘れてたっ﹂
﹁くぉらあっ、﹂
待たず聞かず駆け出す逃げ出す。
廊下に出るも。
影も形もない。
一組で紗優スマイルを向けられあどっか寄ってこーって私ごめん
またねってまた去る。
377
どこに。
待ってるはずだ、
彼のことを。
放課後の廊下ってどうして、もどかしい。
横一列に歩く男子がとんだ障害物となる。
隙間を縫いようやく抜けたはいいものの。
勢いで曲がりきれず、
﹁ほなまたな、てちゃんとゆうたやんか⋮⋮都倉さん﹂
角の先に、は︱︱
んな慌てんでもオレ、逃げも隠れもせえへんで?
壁に寄りかかる彼は、
顔を起こし、
かっは、と笑った。
﹃稜子のことやろ、あれ﹄
学園祭の日に、
あの彼に気さくに話しかけた、
︱︱彼が。
* * *
﹁オレプリンアラモードにする。都倉さんはなにがええ?﹂
378
﹁み、ミルクティーで﹂
遠慮せんで好きなもん頼みぃオレのおごりやしって言われたって
しないわけには行かない。
あまおうパフェを頼むなんてもってのほか。
紗優とかけたカウンター席ではなく、入って左の半個室にて。
壁で完全に仕切らない理由はこのダイニングテーブルがおそらく
の要因。部屋の半分以上を占め、やや圧迫感をもたらす、これこそ
が本物のアンティークだと思う。格調高く、うちのとは大違いの。
以前に来たときには知らなかった、ついたてに仕切られたひっそ
りとした場所に通され、ついたてを背にテーブルを挟んで坂田くん
と差し向かいで座る。
んーあんま時間ないねんけど話あんねやったらここやとなんやし。
⋮⋮言われてのこのこついてきた。
に、妊娠がどうのってのは引っかかったし、誰の目にも隠れた場
所が落ち着かないんだけど。
杞憂だった。
ウェイトレスさんが頻繁に訪れる、これで五人目だ。
しかもウェイトレスさんが来る度に軽く腰を浮かせ秘密の話して
る。頼むわ。内緒でな。耳に息吹きかけてあひゃって変な声出させ
てけたけた笑ってる。それも五人目。
人選ミスだったかも⋮⋮。
﹁堪忍な。オレに訊きたいことあってんろ?﹂
﹁えと﹂
私の白い眼に気づいた。
手を組み、肘をつき、受けに回る。
ええっとですね。
379
学園祭であなたとマキの話を盗み聞きしまして。
あなたがたのお話に登場した稜子さんというかたにこないだ偶然
にお会いしまして。
マキとどういう関係なのか知りたいだけなんですよ。
あなたを追ったのは発作的なものでして。
なんせ、気になって仕方なくってもう夜も眠れないんです。
⋮⋮なんて。
言えるわけないでしょうが。
本音が私の内面で主張をし始める。
と視線を感じた。
監視、されているかの。
見返すとへらっ、と彼は音が出るくらいに笑った。
その顔には黒縁眼鏡が。
校門を出ると彼は、タスクがかけてるのに似た変装にでも使うそ
れをかけた。
﹁伊達なの?﹂
﹁なにがや﹂
﹁それ、変装のつもり?﹂私が眼鏡の縁に触れる仕草をするとああ、
と意外にも露骨に顔をしかめた。﹁オレやて騒がれたないときもあ
んねや。あたらしー女連れ回しとるってバレっとのちのちめんどー
なことになっし﹂
と言われても。
どのみち騒ぎにならないと思う、失礼ながら。
誰も見向きもしないだろうし道中誰も見向きしなかった、赤髪の
ボーカルと同一人物を疑う地味地味っぷりが⋮⋮
﹁あ納得行かへんて顔しとる。うし、論より証拠や﹂
ゆうとっけど惚れんなや?
380
と念を押したうえで、眼鏡をカチューシャ代わりにおでこを見せ
つける。生え際が四角い。
斜めに顔を傾けてビジュアルバンドのボーカルよろしく、キツい
眼差しを作った。
一連を慣れたように終えると気抜けた元の雰囲気に戻し、
﹁これで化粧するとまるきし変わるで﹂
﹁なるほどね﹂
第一印象というのも当てにならない。
ところで彼の心配は杞憂だった。
ウェイトレスさんがミルクティーとプリンアラモードを運んでく
る。カップソーサーが細かく震える。手が、震えている⋮⋮盗み見
る目に憧れの要素を見た。彼女は、いまの彼を通して、ステージ上
でまばゆいひかりを放つ彼を見ているのだろう。
﹁バンドっていつからしてるの。中学の頃から?﹂
六人目には耳打ちせず。
口の周りに生クリームつけてる。ほが、と頷いて紙ナプキンで拭
うもののまた周りを生クリームだらけにする。﹁準備なら六つんと
きに始めた。せやけどなっかなか面子固まらんでな⋮⋮﹂口に入れ
たスプーンをぐりぐりと、唇で拭う小学生の男の子みたいな食べ方
をしている、それが原因だ。﹁緑高入ってよーやく、よーやくや。
構想十年余。実現するまでがえっらい長かった﹂
苦労話が始まることを密かに懸念しつつ、角砂糖を落とす。波立
てぬよう。
赤茶色のなかを、ゆらり。
溶解する糖分を見る。
私の聴覚が、︱︱
疑問の氷解を求めている。
﹁赤と黒いうがはな、男と女をイメージしたんや。思い通りにいか
ん恋にどーにも止まらん情熱。裏切りとうない、せやけど時に抗え
ん、背徳の影やらなんやら﹂
381
﹁ジュリヤン・ソレルの選択には共感する?﹂
﹁できひん。惚れた女撃つてあいつアホか﹂
気色ばむ坂田くんに私は吹き出した。
スタンダールを読むタイプにも思えなかった。
にこりともせず肩肘をついてまたスプーンを山盛りにする。﹁男
と女が一体ずつ揃えば必ずなんかが生まれる。おんなじ性が二人で
もあかん。できること限られっししたいこともあるからなーそこん
とこはフィクションでも現実でもおんなじや。何故ならフィクショ
ンは人間の生身が作るもんやかんな﹂
﹁⋮⋮不可避の恋に関心があるんだね坂田くんは﹂道徳心が強いの
か。さっきから抗えないなにかの話をしている。﹁男女間の友情は
信じない?﹂
﹁でもない﹂あーんと上を向いてさくらんぼを放る。種をぺっと器
に吐き、﹁柴村が例外﹂
私は目を伏せた。﹁しばむら?﹂
﹁稜子の苗字やで﹂
かき混ぜるスプーンが、
役割を忘れる。
さざなみから目を移す。
餌に食いついた私に。
してやったりの笑みがくべられた。
意図的に封じていた彼の語りはそこから流暢だった。﹁稜子と蒔
田とは中三ときおんなじクラスになってな、よー三人でつるんどっ
た。とにかく気が合うたな。オレら共通点探すほうが難しいんにな
んでか音楽の好みだけがドンピシャやってん。⋮⋮いまでこそあの
系聴くやつはそこそこおる。いっとっけど緑高で洋楽愛好家が多い
んはオレの努力の賜物やで? 中坊で洋楽聴くやつなんか滅多にお
らんし、聴いてもビートルズにクラプトンがせいぜいやった。ハー
ドメタルにグランジで縦ノリやれるやつちぃともおらんさっぶい氷
河期を過ごしたわけや。せやからオレ、あいつらがおって心強かっ
382
たんかもしらんな。稜子なんかあんときいっちゃん好きやったんが
マリマン。大人しゅうてそんなん聴くタイプにはとても見えへんの
になあ﹂
思い出話が続くと思えば、彼は一瞬、私の内心を読んだかのよう
に企み笑う。﹁⋮⋮蒔田、中学んときもあんなんやったで?﹂
そう、私はそれも知りたかった。
﹁愛想もへったくれもないんは変わらんな。校庭のトーテムポール
のがまーだ表情豊かやった。腹抱えて笑うん月にいっぺんもなかっ
たわ。せやけどそういうんが女の人気集めんねや。そいでサッカー
もうまいっちゅうのがなおさらな。あいつ存在自体がひっきょーや
んか。⋮⋮関わってみっと存外面白いやつやった。んにゃあいつお
もろいやろ? ウラ天然やしほんっに不器用で決めたこといっこし
か出来ひん。用足しながら歯磨きも出来んのやて、オレの親父より
ひどいわ。⋮⋮んや実際ジジイやってんてあだ名が。蒔田っつった
らなーもいっこあんねや。蒔田に声かけたんはオレのほうからやっ
た。オレライブ人口増やしたいから手当たり次第CD貸しまくっと
ってな、あいつんことよう知らんうちに押しつけてみてん。す、好
きですッ! って声裏っ返してむかーしの女子中学生がラブレター
手渡すみたく顔真っ赤にしてだーっと逃げた。したら次の日。あい
つ、ずかずかオレんとこ来てなにゆうたと思う? ﹃俺も好きだ﹄
⋮⋮そんっときの周りで聞いとった連中の反応がまた傑作やった﹂
思い返しくつくつと肩を震わせる。
私の知らない中学時代を知る彼は、
﹁ライブやったら必ず来てくれんねや蒔田は。稜子もなあ時間合う
ときは。⋮⋮稜子だけ高校別れてしもうた。せやけどオレら、それ
ぞれの道で気張るって決めてん﹂
﹁坂田くんはバンドを。稜子さんは吹奏楽を。マキは⋮⋮サッカー
を﹂
﹁そや。春彦でええよ﹂
﹁二人は想い合っていたの﹂
383
器用にプリンと生クリームを半々で盛ったスプーンを口に運びか
けたのが。
﹁知りたいんがはそこやな﹂
譲らない。
核心に触れる。
私の知らない彼の事実を握る彼は、
ふ、と和貴がするように息を吐く。
目の縁をわずかに緩ませ、
﹁⋮⋮去年、別れてん﹂
﹃そお? マキも和貴もいまは彼女おらんよ?﹄
﹁⋮⋮そう﹂
勘づかないほうが嘘だった。
彼と彼女の物語なのだった。
期待していた答えを得られた。
こころに、穴が開いたような。
受け入れるに時間がかかる。
受け入れ難い種であればあるほど。
﹁都倉さんあんさん、難しい男選んでもうたなあ﹂
﹁誤解してるよ。選んだとか﹂
﹁気になるいうんは立派な恋なんちゃう﹂
優しい、目をする人だ。﹁坂田くんもさ⋮⋮﹂
﹁春彦でええて﹂
384
﹁稜子さんが好きだったの?﹂
動いた。
紅茶に吸われる甘い汁よりも、明確に。
口のなかを消費すると、きひ、と動物的な声を立てる。マントヒ
ヒを連想した。﹁なぜに。そう思うんや﹂
﹁坂田くんてうちのクラスにあまり顔出さないよね﹂さっきの話と
食い違うというか。﹁それって、稜子さんと別れたマキに腹が立っ
たのかな、と思って﹂
﹁おかしいことゆうなあ? 仮にオレが惚れとったとしたら、稜子
フリーになってもうて万々歳やんか。いっくらでも手ぇ出す﹂
もうて、という言い回しに彼の心情が表れている。
﹁稜子さんのことと変わらない︱︱ううん﹂踊り場で抱きついた彼
からは信頼の情が見るに伝わった。﹁稜子さんのこと以上にマキの
ことを、大切に思ってるんだよね? じゃなきゃ、私にわざわざ話
してくれる理由にはならないよ﹂
﹁オレなんべんも四組に来とったで? あかんなー見とるようで蒔
田んことちぃとも見えとらん。都倉さんが気づかんかっただけや﹂
疑問文をスルーされた。
﹁影が薄くて気づかなかったよ﹂
﹁はっは。自分おもろいなあ。都倉さんいじり倒したいんはやまや
まやが︱︱残念なことに時間切れや﹂
す、と席を立つ。私から視線を外さず、腰の後ろに手を回し、折
り畳まれた千円札をテーブルに置く。
和貴だったらさぞ様になる動作だろう。
﹁蒔田目当てでオレに近づく女なら腐るほどおった。目的変える女
もなあ? せやけど、オレんことから掘るんはあんたが初めてやっ
た﹂
﹁⋮⋮部活?﹂
385
﹁いんや。バンドの練習﹂
﹁千円は多いよ﹂
﹁誘ったんはオレや﹂
⋮⋮ああ。
﹃誘ったのは俺だ﹄
マキの、友達だ。
強い香水漂わせ私の横を過ぎた彼は、
ついたてに手をかけ、
﹁オレも宮沢さんとおんなじ、隠れ美術部員やねん﹂
初対面のときと同じ、笑みで姿を消す。
カウベルが鳴った。
平らげたプリンアラモード。
ガラスの器の根元に。
千円札が、⋮⋮二枚も。
﹁あ﹂
幾度か口にした。
﹃オレが﹄
︱︱マキが。
稜子さんのことを、
いまもむかしも
386
﹁そうだ彼⋮⋮一言も⋮⋮言ってない⋮⋮﹂
結論を導くための問いかけ。誘導。揺さぶり。
一つ一つ思い返す。
かからなかった。
彼が自分もだと認めたのは、たった、最後の一度だった。
オレも
気づいた頃には、カップの紅茶があたたかみを忘れ去っていた。
387
︵2︶
あんったあたしとよしの行くって約束したがいね、ぬぁーにを、
抜け駆けしとんがっ!
︱︱て友達怒らせたらどうすればいいのだろう。
関わり合いとはむつかしい。
案外おはよ小澤さんって言えばあーおはよってふっつーに返して
くれるかもしれない。
でも私嘘つきの都倉真咲。良心の呵責感じるっていうか。
悶々としつつさて教室。おはよーって言えばそこらからおはよー
って返事が来る。
コート脱ぎ後方のロッカーへ。
げっ。
超怒ってる顔してる小澤さん発見。
うっわ、覚悟決めよう隠れよう俯き加減でハンガーかけ⋮⋮
﹁真咲さん﹂
﹁る、とわあっ、びっくりしたあっ﹂
肩の向こうに、眉を潜めた小澤さんが物言いたげに立っている。
でもそれより。
にこりともせず、
真顔の、和貴が、
388
﹁ちょっと。来て﹂
手首を引かれ、
開きっぱのロッカーを空いてる手で急いで閉め、
教室外へ。
にかって笑ったら小澤さんふんって鼻鳴らしてた。
あまおうパフェ一緒に食べよ。
って言ったら許してくれるかな。
﹃すまんかったっ﹄
素直にぶつかることも私、覚えてみよう。
ところで和貴。
なんとなく、乱れたステップ。足音が、
︱︱怒ってる?
なにを。
廊下、で誰もおはよーって言っても無言。無視?
後頭部だけで感情は読解できない。
直進し、角で曲がった。
あ昨日、
坂田くんが私待ち伏せしてた場所だ。
﹁あのね、和貴、ちょっと﹂力が。﹁いた、い﹂
﹁うわごめんっ﹂
焦って離す感じはいつもの和貴、だったけれど。
こっち向いた、瞳が。
子リスでも猫でもない。
怒ったような怖いオーラを感じる。
389
﹁⋮⋮坂田と帰ったんだってね。昨日。放課後﹂
あもうバレてる。あの変装無意味じゃん。﹁うん。すごく面白い
人だよね彼﹂
やけに低い声で言われたし。
場を和ますつもりで明るく言った。
つもりが。
﹁坂田には近づくなっ!﹂
強く叩いた。
私のすぐ横の、壁を。
響くと、
残る、
音の残骸と、
わずかな、恐怖。
が消えると、
怒りが、湧いてきた。
雀のさえずり。
に似た、通りすがる男子たちの会話が余韻と重なる。
こちらを、注目している。
のを和貴の腕越しに見た。
﹁あ、⋮⋮いつは、遊び人だから⋮⋮か、んたんについてっちゃあ
ダメだよ﹂
焦ってか言い直す。
しどろもどろだけど。
けど。
390
﹁⋮⋮いい人だったよ。すごく⋮⋮よくしてくれた﹂
﹁は!?﹂
﹁私。目的があって近づいたの。でもそれも見越して、優しく、丁
寧に、教えてくれた。私の、知らなかったいろんなこと⋮⋮﹂
﹁な、なに言ってんのっちょっと待ってっ﹂
﹁なんでそんなびっくり⋮⋮﹂
声裏っかえした真っ赤な和貴が。
連想したことを、たぶん理解した。
ショックだった。
﹁⋮⋮どうしてそういう色眼鏡で見るの。人のことを﹂
﹁なっ⋮⋮真咲さんが意味深な言い方するからだよっ﹂
﹁逆切れ? 近づいちゃ駄目って、変だよ﹂
︱︱僕みたいなやつは遠く離しとくのが安全策なのにさ。
﹁あっ、ぶなっかしいんだよ真咲さんは。誰彼構わず信用してほい
ほいついてくっしょ!?﹂
﹁しな、いよ﹂
私和貴のことも、
なんとなくだけど、
信じていい人なのかなってそう思って︱︱
﹁あーっなんて言えばいいのかなーもーあいつは悪の手先っ通称エ
ネミーオブバージン性の権化っ。学校じゃあ地味なダサ男装っとる
けど、﹂
﹁聞きたくない﹂
和貴の口から聞きたくない。
誰かが悪く言ったからぼくも悪く言う、
391
そういうの、
それこそ和貴には似合わない。
﹁んじゃ一つだけ忠告。坂田春彦と会うなら公共の場所で、ふたり
きりには決してならないこと﹂
二つじゃん。
﹁それじゃ。和貴は、なんなの﹂
﹁︱︱ん?﹂
﹁和貴だって中学の頃はいっぱい女の子遊びしてたんでしょ。だっ
たら坂田くんのことそんな風に︱︱﹂
詰まった。
胸が。
そうだ、
彼には、
女の子を取っ替え引っ替えしてた過去がある。
﹁言、⋮⋮える道理なんかないじゃん。よくも知らない人のことを
伝聞で決めるの? 関わってもないのに。危ない相手かもってだけ
で遠ざけるのならそしたら和貴のことだって⋮⋮わ、たし近づいち
ゃあいけないんじゃんっ!﹂
﹁な、んでここで話すりかえんだよっいまは僕じゃない、坂田の話
してんのっ﹂
﹁痛いところ突かれたからって話逸らさないでよっ本当のことなん
でしょうっ﹂
﹁がっ、⋮⋮してないっ!﹂
﹁してるっ! じゃあ私、公共の場所で二人になっても和貴と口利
かないっ﹂
﹁ちがっ屁理屈言うなやっ﹂
﹁ゆってんのそっち!﹂
﹁言ってな、んああもう﹂
﹁⋮⋮えらいお取り込みちゅうのとこすまんがこれ、渡しといてく
392
れんか﹂
素早く右を向く。
遅れて私も。
壁に寄りかかる坂田春彦は。
昨日と同じ、ポジション取りだった。
﹁リーディングのノート。あいついつ来るか分からへんし﹂
﹁あ⋮⋮わ、かった﹂
流石の和貴にも動揺が見られる。
利き手とは逆の手で受け取る。
りょくちゅう
かはっ、と坂田くん、沈黙のなかで笑った。嘲りやからかいが混
ざった種の笑いだった。
﹁てめえさしおいてよおもゆえたもんや。緑中で名ぁ轟かせたこの
百人斬りがー﹂
﹁黙っとけ海野が産んだ赤髪のジゴロ﹂
﹁ねえね和貴くぅーん普段は都倉さーんて苗字呼ばわりするのにア
ノときだけあたしの名前呼んでくれるってほんまぁ? ああん、真
咲? ⋮⋮やらしーな﹂
ちょ、
﹁おまえが呼ぶなあああっ!﹂
﹁逆上してがなるしかできひんて悲しいなおまえ。論破、してみい
や﹂
﹁うっさい! その伊達眼鏡オサレと思ってんのかよ。ライブとの
ギャップ作って酔いしれんなよナルシスト﹂
﹁その切り口で攻めるん印象わろなるだけやで﹂
393
﹁知るか﹂
﹁因みに。思っとる﹂
﹁うがぁっ、と、鳥肌がぁっ﹂
﹁あのー﹂
﹁なにっ﹂
﹁なんやね﹂
﹁⋮⋮どいてもらえませんか﹂
後ろに冷えた壁があり、
右にはついたままの和貴の腕に阻まれ正面に本体、左に坂田くん
が存在する。
そろそろ解放して頂きたかった。
形勢不利の和貴なんてめったに拝めるものではないけれど、なん
となく⋮⋮面白くなかった。
和貴が楽しそうじゃなかった。
﹁ご、めん﹂
﹁堪忍な﹂
後退りする動作は図ったように同じで。
あそうか。
ところどころで和貴を重ねていた。
やや淡い色の瞳と。
元タラシなとこ。
﹁坂田くんと和貴は似てるね﹂
394
﹁似てないっ!﹂
﹁せやから春彦やて﹂
同時に返される。
﹁やーあんさんわろうとらんと頼むわ。オレこいつと逆で日頃は名
前で呼ばれんと落ち着かへんのや﹂
﹁だーから違うっての﹂
﹁︱︱過去になにがあっても﹂
そうだ。
﹁和貴は和貴だよ。なにも変わらない﹂
私はこれが言いたかった。
二人を、後ろに。
﹁そいつぁ蒔田もおんなじやで﹂
引き留める声がする。
﹁せやけどどーしようもなく気になってまうそれが恋ちゅう、﹂
私が振り返るのと、丸めたノートで坂田くんが叩かれるのがおそ
らく同時だった。
﹁ってーななにすんねんおまえしばくぞ﹂
﹁みろよっ! いいかそれ以上よっけーなことゆうたら﹂
﹁どーでもこーでもなんでんかんでんしてみぃやあ出るとこ出ても
かまへんでオレはっ﹂
﹁いっちいちなっげーんだよおまえっ言いたいこと手短にまとめて
みろよっ﹂
﹁おーおーゆーたるわーくぉんの、女男ぉっ!﹂
﹁昭和のしょうゆ顔っ﹂
395
﹁はっ⋮⋮ひ、と、が気にしとることをおんまえっ﹂
﹁してんのかよ﹂
﹁⋮⋮つき合ってられない﹂
ひとりごち、
ホームルーム開始の時間を気にしつつ退散する。
彼らの言い合いは宮本先生が来る直前まで続いていたようだ。
一時間目が始まるぎりぎりに、頼まれたそれを慌てて渡す彼に対
し、口の悪い彼がぶっころす、と言い放った。
言われた彼は困ったように頭を掻いた。
396
︵3︶
﹁茉莉奈ぁーあ都倉さんもこれえ、忘れんうちに渡しとくぅ﹂
私が首ひねる一方で感慨深げに小澤さんは﹁もーこんな時期なん
やな⋮⋮あんたからこれ受け取っと一年の終わりて感じするわ﹂
﹃おんなじクラスにブラバンの子おらんか? 来月になったらタダ
チケがばらまかれるはずやよ﹄
︱︱あ。
タダやから、って渡される演奏会のチケットのことを教えてくれ
たのは彼の、
﹃︱︱稜子⋮⋮﹄
元恋人。
すごくすごく気になりつつも、でも私それ以上見れないって気持
ちで、家に、帰った。
練習があるって言ってたし、二人で長々過ごしたとも思えない、
けど⋮⋮
ファーストネームで呼び合う親密度を保つ。
過去の。
いまの、二人は、
﹃⋮⋮去年、別れてん﹄
397
考える度に、考えたくなくなる。
マキの言動に別段、変化は見られない。
噂に聞く限りにもだ。
寡黙で冷静な彼が見るに驚きを露わにしたのが嘘だったみたいに。
﹃稜子さんが好きだったの?﹄
直接じゃなく、外から掘ろうとする。
弱虫な自分。
﹁十四日、なんやな﹂
やや驚いた風の小澤さんに意識を戻す。
﹁そうそ。ホワイトデーって覚えれば忘れんやろー﹂大富豪みたく
里香さん他のチケをひらっひらさせてる。
﹁⋮⋮この、三校合同の演奏会って毎年開いてるの?﹂
﹁合同つうかメインはウチやわいね。東工と畑高はただのゲスト﹂
﹁事実上の主役は畑高やろ﹂
﹁そーゆーことゆわんといてぇや﹂
理解せぬ顔色に気づいて小澤さん、﹁畑高てむっちゃ上手い。全
国出とる強豪校ながよ﹂とフォローしてくれる。﹁あたしかて音楽
詳しゅうないんけどそんやてちっさい頃から聴いとれば分かるわ。
緑高東工と比べたら大人と子どもくらい違う。プロとアマやわ﹂
﹁そこっまでいわんかてええやろ。﹃緑高﹄の演奏会なんし﹂
﹁聴けば分かるもん隠したってしゃーない。あんまなご演奏されっ
と食われかねんな﹂
きっついなーと苦笑いする里香さんに、﹁吉原さんは楽器、なに
を担当しているの?﹂
﹁フルート﹂
398
﹁てピッコロの白っぽい感じの?﹂
﹁ピッコロのがマイナーやろ﹂
﹁白っつうかシルバー。金のフルート吹きなら神ってゆわれとるの
がおる。あの子ウチ来てくれたらだいぶ違ったんにな⋮⋮﹂
﹁来るわけないがいね。柴村ってプロ志望なんろ﹂
まさか。
ここで。
﹁柴村って、柴村、稜子、さ⋮⋮﹂
﹁うわまじで? 都倉さんなして知っとんの? まっさか東京でも
有名なんかいねあの子﹂
﹁ううんあの、こないだ緑高で合同練習があったんでしょう? そ
れでたまたま、場所を訊かれ﹂
﹁あ迷子﹂みなまで聞かず里香さん。﹁どーせ音楽室来るだけなが
に迷ってんろ。あの子すんごい道迷うんよ﹂
﹁都倉とどっちが酷い﹂
﹁僅差で柴村﹂
﹁ちょっとぉ﹂
かはは、と小澤さん肘で小突く。て痛い。
﹁ぼけぼけーっとしとんがにフルート手にしたら眼の色変わんの。
金狼モード﹂と呼ばれてるんだとか。﹁あれやよ一年ときにな、引
退間近の三年からピッコロの座ぁ奪いとったもん実力で。初心者な
んかコンクール出れんで荷物持ちと席取りやらされんのがふっつー
ながに﹂
﹁あんたかて出とらんやろ? あたし一年ときから先発やわいね﹂
﹁えーあたしの記憶が正しければソフト部は一回戦コールド負けや
ったかとぉー﹂
やぶ蛇の小澤さんお決まりの﹁うっさい﹂登場。
﹁⋮⋮あの年のコンクールすごかったなぁ﹂眉間に当てていた指先
399
を離すと吉原さんが思い返すように。﹁あんなソロ吹けたらあたし
かて楽しいわ。演奏終わった瞬間ブラボーって波みたく沸いてぇな、
小編成であんなん二度と聞けん⋮⋮あたしもあーゆー伝説作ってみ
たいな。柴村稜子伝説﹂
﹁恐ろしい子⋮⋮!﹂
私吹き出した。
﹁⋮⋮なーにをツボはまっとんのや﹂だって小澤さん白眼剥いてた。
﹁ほら混む前に行っとくで便所。あ里香。当日な、都倉が絶叫フラ
イングスタンディングオベーションしてくれるて。良かったな﹂
﹁なんっで私っ﹂しかもハードルめっさ高っ。
﹁いい、⋮⋮やらせやのうて。自然と抑えられんで出るんが筋やも
ん﹂
しんみりとした吉原さん。
自然と抑えられずに出るものを伝えてみる。
﹁頑張ってね演奏会。見に行くよ﹂
﹁あんがとなぁ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮なぁーにをちらっちらこっち見とんが。どきぃ。邪魔やっ﹂
﹁やが、ぐはっ﹂
二発田辺くんに見舞う、たくましい背中に従う。
頑張った人間にこそスポットライトが当たる。
そんな、世界を望みつつ。
* * *
﹁義理チョコって渡す? よねあの、パソコン部のみんなに⋮⋮﹂
﹁ん、あ?﹂鏡見て唇ぱっぱと合わせる紗優、﹁あーやるやる﹂と
袖口に目をやる。﹁今年休みなんやね⋮⋮バレンタインて。したら
渡すん金曜やろな﹂
﹁あそっか﹂曜日と日付の見えるデジタル時計ってこういうときに
400
便利だ。黄ばんでない白のBaby−G。
色つきのリップをごく薄く塗る。
唇の乾燥が、気になる。
﹁うちのがっこで一番人気て誰か知っとる?﹂
て貰うチョコの数だよね。﹁知らない。誰?﹂
慣れてないから口角にはみ出してしまった。
ティッシュで拭う。
﹁三年の高木先輩。⋮⋮体育祭んとき太鼓叩いとった先輩ね﹂と言
われても記憶してない。
﹁次がな。和貴﹂
え、
﹁第三位がマキ﹂
﹁うっそ﹂
かっこいいとはいえ。
渡そうものなら拒絶されるものなのに。
その疑問を問う前に紗優が明かす。﹁でっかい袋に﹃蒔田先輩へ﹄
って紙有志が貼っつけといて下駄箱んとこ置いとくがよ。⋮⋮入り
きらんかってんろうな、下駄箱開いたらどばどばーって雪崩みたく
落ちてきたっつうウワサ﹂
鼻歌交じりで髪に櫛を通す。
一方で鏡のなかに戻れば。
なんだか。
⋮⋮
面白くない顔をした人物がいる。
そこを、
ふふん、と髪を払い、過ぎる。
スマイル。
うっふ、と。
楽しんでる。
401
私は、追っかけた。
そういつも追う立場なのだ私って。
﹁タスクとマキと和貴には渡す?﹂
﹁チョコ? もっちろん﹂
ブレザーのポケットに入れたハンカチがぐじゃってたのを出して、
畳みつつ。﹁前日になったらさ、帰り買いに行こうよ。材料とか。
⋮⋮紗優って手作りする派?﹂
﹁しとるよぉー。つってもこだわりぜんぜんないんよ。溶かして型
に流すだけぇ﹂
クラスの、部活の、誰にどこまで。
どれくらい注力するのかは環境により異なる。
例えば私の前の高校では義理なんて渡さないのが普通だった。
﹁いちおあたしはなあ、彼氏以外はみぃんな同じのんやっとるんよ﹂
﹁へえ⋮⋮タスクのだけハート型にしたりしないの﹂
女子トイレの戸を開き、紗優はキッと睨む。
﹁誤解せんといてや。タスクんことはそんなんやない﹂
﹁半年以上彼氏がいないのは新記録だって自分で言ってたじゃん﹂
﹁単に。飽きただけやよ。⋮⋮なんやろなあ、男って付き合ってお
んなじことの繰り返しやん﹂
飽きる以前の私にそんなことを言う。
﹁じゃ違うことが起こりそうな人と付き合ってみれば? タスクと
か﹂
﹁あんなあ。さっきからタスクタスクってなんなん。タイプ違うゆ
うとるやん﹂
だって。
明らかに紗優はタスクを︱︱
﹁意固地だねえ。素直になろうよ﹂
﹁なっとらんがは真咲のほうやん。あたしなあ。この際やからはっ
402
きりゆうとく﹂
足が、早い。
﹁ああいう優等生で誰にでも優しい男なんか好きになるわけないや
ん。あたしは、あたしだけ見てくれる人がいいのっ。だいだいな、
ぽっちゃり系でオタクって時点で問題外や、﹂
取り返しのつかないことが世の中にはある。
例えば、
こんな誰でも通る廊下でこんな恋バナをする危険性だとか。
ウワサ好きな誰かに聞かれて嫌な風に広まる可能性や。
もっと悪いことを。
当人に聞かれてしまう、不測の事態を。
﹁タ、スク﹂
︱︱紗優は、
段をあがり、後方の私を睨みながらだったので、
角から出てきた彼に気づくのが遅れた。
紗優が正しい位置に顔をあげるより、
薄暗い影を帯びたタスクが微笑するのが早かった。
﹁上田先生を呼びに行く所でして︱︱都倉さん。教卓の上にあるプ
リントを皆さんに配っておいて頂けますか﹂
﹁う、うん。分かった﹂
なんて動揺しているの、
私の声は。
403
﹁それでは、行ってきます﹂
﹁タ、スクあんなぁあ、たし⋮⋮﹂
誰の、どんな小さな声でも拾う。
博愛精神の固まりみたいな彼が。
聞こえているはずの、
それを、
無視した。
私からはすでに彼の顔は見えず。
通り抜ける彼を、呆然と見送ることしかできず。
穏やかな気質の彼の、
残す、生暖かい、
冷たい、空気を。
私たちは無言で共有するしかならなかった。
404
︵1︶
﹁ねえ真咲さん、包装のいろが違うのってなんか意味があるの﹂
甘ったるい外見にそぐわず取り立てて甘党でもない。飲むのがス
ポーツドリンクなのは陸上部だった名残なのか。冬は時々ホットチ
ョコレートをチョイスする。
タスクはお茶派だ。なんでも食べ、好き嫌いを持たない。
マキは糖分が大の苦手でコーヒーのブラック以外はNG。彼流に
言えばミルクと砂糖はコーヒーを冒涜している。
自販でなんの飲み物を選ぶかで趣味嗜好のほどは大方掴める。
タスクがミルクで和貴のはキャラメル、マキへはビター。渡し違
えのないよう包装紙を緑とオレンジと青とで分けた。
﹁ううん。家にあったのを使っただけで﹂
ふぅん、と逆の手に彼が持つのはマーブルチョコの筒︱︱路線変
更をした紗優が渡したチョコだ。
バレンタインじゃなくても買えるチョコ。裸ではいっと手渡した。
﹁あり。手作りやないんや﹂と珍しがる和貴に﹁このほうが食べや
すいやん﹂あっけらかんと答える声に胸が、痛んだ。
私のせいだ。
二人の関係性を変えた。
いつも、エヴァを語るのが常だったのに。
慣れは、慣れ合いへと変化する。どんな環境でも。
そこのところを最もケアしていたのがタスクだった。
仲間内で延々雑談でもしかねない空気を、彼が、仕切ることで。
405
先生、部長、憎まれ役。
規律を実践することで成り立っていた。
半年近くも経てば、気づかないうちに汚れるブレザーのように、
慣れや、緊張感の喪失が浸透するもので。
タスクもちょっとはおしゃべりに加わる余裕も出てきた。
時に、意識的にそれを抑える節も見られた。
四組に紗優が迎えに来てそのまま、漫画談義しながらふたり職員
室に行くこともあった。
休み時間にならいくらでも喋れた。
共に。
まったく、見られなくなった。
私が余計なこと言ったせいで⋮⋮本当、ごめん。
伝えても、紗優はううんぜんぜん気にせんで、と首を振り。
逆に笑みを作りこちらを気遣うばかりだった。
悲しい紗優を見るのが、私は悲しかった。
あんたのせいやよって責められれば良心の呵責は解消する。
こんなことに気づくことで更に自己嫌悪が深まる。
この罪悪と引き換えに二人の関係が解消されればいいのに。
行きどころが無かった。
﹁今年も大人気ですね蒔田くんは﹂
406
帰り道の雪道は。
紙袋で両手が塞がるマキを見てますます気が塞いだ。
﹁全部ほんとにチョコなんだよね。こんなに沢山、一人で食べれる
の?﹂
やけっぱちでなかを覗いてみると⋮⋮冗談じゃなく大量で。
見なければよかった。
気の利く子がいたもので、片方の袋は缶コーヒーでいっぱいだっ
た。だからなおのこと、重たそうだった。
日頃は黒を纏う彼が。
GODIVAの袋とピンクの丈夫そうな袋をのっそり持つのは、
あまりに不似合いで。
見ようによってはコミカルでもある。
笑ってる場合でも気分でもないんだけど。
﹁それでは僕はここで。また来週お会いしましょう﹂
クイズ番組のエンディングめいた挨拶で去るタスクの。
ブラックコートを見送り、ため息がこぼれる。
来週お会いするときに事態が改善していないか。
そんなことを毎週のように私、望んでいる。
望むだけで変わるなら誰も苦労などしない。
世界も、
思いのたけも、
気持ちのほども。
﹁置いてくぞ﹂
407
﹁︱︱あ、うん﹂
道に張る氷は春に向けて厚さを失い。
走って追いつこうにも支障はない。
けど彼は、止まり。
﹁んな顔したところで、なんにもならねえ﹂
ピンクの袋の中身が、震えた。
﹁当人同士の問題だ。他人がいくら気を揉んでもなるようにしかな
らん﹂
驚くほど見ている。
傍観者決め込んでるくせに。
タスクのこと。
紗優のこと。
気落ちする私のことだって。
﹁他人、⋮⋮って言い方は寂しいと思う。友達なんだし﹂
﹁友達だろうがなんだろうが、力になれねえことだってある。あい
つらの気持ちをコントロールできるとでも思ってるのか﹂
混ぜ物を嫌う彼は言葉もストレートだ。
﹁和貴⋮⋮と私がぎくしゃくしてたとき、紗優たちこんな気持ちだ
ったんだね。なんかもう、⋮⋮やるせない﹂
﹁一枚かんでんだな?﹂
う。
く、と息を吐いたマキとまともに目がかち合う。
﹁だーから落ち込んでるってか。分かりやすいやつだな﹂
﹁わ、るかったわね﹂
﹁宮沢が怒らない程度のおまえの行為でこじれるのならそれまでの
408
話だ。誰が言わずともいずれは壊れている﹂
気にするなって意味なのかな。
明確な達観主義に基づき運命論者じみた発言をする。
それだったら。
夜の海で和貴の話をしてくれたことと。
自分の、過去を明かしたことは。
どうにかしたい。
意志がひどく強かったのかなんて、
⋮⋮期待したくもなる。
そんな仏頂面が睨みを利かせて私を諭す。
﹁⋮⋮おまえが望むようなことにならなかったとしても、タスクを
恨むんじゃねえぞ﹂
﹁分かってるって﹂言われなくても。
睨みを緩めると、道の行き先を見やり、
﹁時間が解決してくれることもある﹂
まだすこし遠い、駅の改札を見ている。
待つのも信じることのうちの一つだ。
と発言内容とは裏腹に。
ひどく、自嘲的に。
それは、
だれのことを言っている?
409
マキの内側に棲まうのは、きっと︱︱
﹁ねえ。マキ﹂
肘を引いた。私はこの場にない、彼の気持ちを引き留めたかった。
﹁うぜえな。離せよ﹂
⋮⋮そんなもんよね。
我ながら、大木にしがみつくコアラだと思った。
しかも拒否られて。かっこわる。
それでも。
﹁あのねマキ。心配してくれてありがとう﹂
伝えるべきことは伝えておきたい。
﹁︱︱あ?﹂
﹁私のことを﹂
﹁してねえよ。行くぞ﹂
突き放しておきながら、
頭をわしゃっと掴んでくる、から私は、⋮⋮離れられなくなる。
手加減した優しさと。
紗優と私からのチョコはその紙袋に放らず、学生かばんの内側に
大切そうに仕舞ってたのも、知ってる。
嫌いになれる方法があるのなら知りたい。
バレンタインは、ほろ苦い夜を過ごした。
410
︵2︶
それから一ヶ月が経ちホワイトデーには、みんなで緑高ブラバン
の演奏会に行くことになっていた。
というのも、パソコン部でお手伝いをしたからだ。
パンフレット作成の。
印刷は専門の業者に依頼した。ただし表紙のイラストの配置にレ
イアウトやページ配分。吹奏楽部やパート紹介の文章などなどすべ
て、パソコン部で考えた。時間の制約もあり去年のものをある程度
は援用した。で部員との打ち合わせや交渉はタスク一人が受け持つ
かたちではあるものの、文章の打ち込みとかはみんなで行った。
パソコン部での記念すべき初仕事︱︱といってもご依頼頂いたの
でなく、自らの手で掴みとったものだった。
練習忙しゅうてパンフんことまで手ぇ回らん、とこぼす吉原さん
にじゃあ僕たちでしましょうか、とタスクが助け舟を出し。
結果、五人全員がフル稼働。
業者に出す締め切りに原稿を間に合わせない部員もいたりして、
私たちや吹奏楽部の幹部を泣かせていた。因みに吉原里香さんは会
計係をしている。
昨日と一昨日とで、業者からあがってきたパンフ500部を工場
の作業員のようにひたすらに折り返しホチキス止めしそれを繰り返
し。
追い込みで忙しい部員に代わり、作業をこなした。
﹁あ。なんか去年と違う⋮⋮かっこいいねえ﹂
自分が映ってる写真を探してきゃあきゃあ部員たちが言ってるな
かで。
女の部長さんがそう言ってくれたのが特に嬉しかった。
411
演奏会の行われる文化ホールは、緑高から歩いて五分、駅からも
五分程度の距離にある。
一旦駅にタスクとマキとで待ち合わせ、緑高前で紗優と和貴を拾
い、現地に向かう。
パソコン部で行動するときはこのパターンが多い。
タスクは約束の十分前に来ていた。
待ち合わせって、⋮⋮性格が出る。
俺様なマキは一本早い電車など選びやしない。登校も時間ぎりぎ
りだし。
三月も半ばとなると、コートは押入れの奥に仕舞いこまれ、ライ
トジャケットも要らないあたたかな陽気となる。厳しい冬を越えて
気持ちが穏やかになる。
そんな春の気配と共にやってきたマキは、やっぱり全身黒だった。
てか。演奏会ってめかしこむものとばっかり⋮⋮。
タスクは先細りのジーパンにネルシャツをインしてベルトまで締
めてる、正直秋葉原うろついてるオタク。
マキは。
どうして眠そうなの。かっちり、というより、だらん、て感じ。
羽織ってるのがライダースジャケットじゃなかったら寝起きなのか
なって雰囲気で。それでもラフな髪のセットは寝起きとは違うし。
お休みの日限定のシルバーのごついアクセに胸がときめくというか。
﹁うす﹂
片手挙げて登場。手ぶらで、逆の手をポケットに突っ込み。財布
持ち物を持たず手ぶらを好む。将来的には都会の男の人みたく煙草
も後ろポッケに入れてチェーンジャラジャラするのかもしれない。
私釣られて﹁うす﹂と返す。
とマキ。
伏せていた目を上げる。
上から下までを眺めてまじまじと。
﹁⋮⋮なによ﹂
412
にこりともせず言い放つ。
﹁お遊戯会みてえだ、ガキの﹂
む、
きいっ、
言い返そうと思ったのが対象者はすでに歩を進めていて、この手
は虚しく空を掻くだけだった。
タスクはこんな私を見て普段通り穏やかに微笑んでいた。
﹁おーあんたもやっぱ来てんね﹂
会場に続く列の最後尾に小澤さんを発見した。
﹁仕事なもんですから﹂それに、約束しましたし。
﹁ふぅん。あんた私服っていっつもそんなんやったか?﹂
てへっと押さえかけた手で違う、と頭を抱えた。
なにさもう。
めっちゃかわいーって紗優に抱きつかれたさ。でもその表現、紗
優のほうにこそ相応しい。
Gジャンにミニのデニスカで赤青黄といろんないろ振り分けてて
もそのバランスがすっごい可愛い。アメリカのドラマにまんま登場
しても違和感ゼロ。顔立ちといい。
元が可愛いからなにを来ても可愛いんだ。
来る途中も演奏会行きますって感じのひとをたくさん見かけた。
でどういうのがスタンダードだか把握した。
教えてくれればよかったのに、母。
制服の子もちらほら見かけるし、汚れたつなぎの作業服の上下や、
もんぺ来て農作業の途中ぽいおじいちゃんおばあちゃんまで見かけ
たさ。着飾らず気取らず普段着で。
私ですか。
超浮いてる。
413
別にキテレツな格好してるわけじゃなしに⋮⋮
黒のワンピにレースの白ボレロ。ストラップ靴。なにを間違えた
かパールのネックレスにイヤリング。でカチューシャまでしてきて
しまった。
だって、演奏会、って聞くとそういうの。N響行きますなスタイ
ルじゃないと失礼なのかと思っていた。
ここ緑川でした。
﹁こんばんはーっチケットはこちらでお預かりしますぅーっこちら
がパンフレットでーすっ﹂
同級生の子たちが笑顔振りまく後ろに山積みの段ボール。あの段
ボールに詰めるところまでやったんだよね。ただの紙切れがこんな
風に形を成すだなんて⋮⋮感慨深い。
製本されたそれは私たちが作った証だった。
誰かのためになにかをする。
頂いたそれを即見るのもなんだか失礼な気がして、小脇に挟んで
いたら、こういう場所って友だちとの再会の宝庫らしく。
久しぶりーってみんな呼ばれて散り散りになる。
中学とか小学校の友達、なんだろな。
ぽつねんとホールを見回してみる。やっぱり高校生が多い。でそ
の両親にきょうだい。ちっちゃな子が走りまわってたり。おじいち
ゃんおばあちゃん世代も割りと見かける。
想像していた演奏会とは違うけれど、町の人間総出で聴きに来る。
このアットホームな感じは、この地ならではだと思った。
ひとたび演奏会ともなれば町中にポスターが貼られる。商店街に
べったべた。
勿論、うちの店にだって。
414
声をかけられない寂しい私は。
同じくそうだろうと見込んだ後ろを振り返る。
﹁あり?﹂
どこに。
あ、
いた。
左手の大階段。片足だけ段に引っ掛けてるのはかっこつけてるわ
けではなく、のぼりかけたところをうえから声かけられた様相。段
差があっても頭の位置が変わらないのがすごい。
それも、
畑高のセーラー服。
女の子の友達なんていたんだ。
少々驚きを隠せない。
﹁きゃあっ﹂
なにが起きたのかと思った。
たぶんほとんどの人間がそこを見た。
逆っかわの壁沿いに女の子たちがわらわらとたむろってる。
中心にいる彼を見て更に驚いた。
⋮⋮和貴だ。
なんか、⋮⋮なにか配ってる。チラシ配るやる気のないお兄さん
とは別種のスイートなスマイルで。⋮⋮おっきな紙袋をなにしに持
ってきたのかと思いきや。
きゃーありがとーおめでとーってなにがさ。
ドラマでしか見たことないんだけど結婚披露宴後のお見送りって
あんな感じ?
415
﹁アレはほうっといてさき、なか入ろっか﹂
肩を叩くのは紗優だった。いつの間に、隣にタスクも。
﹁お待たせしてすみませんでした。⋮⋮指定席ではありませんし、
席を確保しておきましょう﹂
﹁⋮⋮マキと和貴は﹂
言い難いことを言うように眉尻が下がる。﹁僕たちと一緒に座れ
るとは限りませんから⋮⋮お誘いもあるでしょうし﹂
なるほど。
やや複雑な気持ちでホール内に入る。えんじのビロードに覆われ
た客席と、前方に松竹のオープニングみたいな幕が出迎える。
﹁左右のどちらかに寄っても大丈夫でしょうか。中央は主に関係者
が座るようですし﹂
﹁うん﹂
タスクは目を見て確かめる。こういうところで人間できてるなあ
って思う。
レディーファーストをナチュラルに行える彼に応じ、中列の左端
を選ぶ。扉に近い方から私、タスク、紗優の順に。
や、この席順は⋮⋮と思っていたら、紗優のほうから﹁ちょっと
友達んとこ行ってくる﹂と席を離れた。
離れられてもタスクはさほど顔色も変えず。
例えばタスクって誰かに嫌われたり無視されたりしても、こんな
風に変わらない人なのかもしれない。
ホールとか演奏会の話をしてくれるタスクの変わらない黒縁眼鏡
を見つめ半ば聞き流しながら私そんなことを思っていた。
﹁桜井くんと蒔田くんはあちらに座ったようですね﹂
話の落ち着いたところで後方を仰ぐ。中央列の最後尾に座る長身
を見つけた。
﹁⋮⋮彼はいつも後方の席を選ぶんです。自分の後ろに座る方が現
れたら見えないでしょうから、ああ見えて気を遣っているんですね﹂
なるほど。
416
さりげないところでできる男が蒔田一臣だ。
それからほどなくして紗優が席に戻り、演奏会の幕が上がった。
クラシックコンサートは初めての私。︵これがクラシックコンサ
ートに分類されるのかも定かではないのだが︶
マイクを通さずとも大音量が届くし、客席から見る限りライトア
ップされたステージ上が非常に眩しい。奏者は目が眩まないのだろ
うか。夏は暑そうだ。
歌のない曲にどう身を寄せたらいいのか全く分からず。
棒っ切れのように無感動に過ごしてしまった。
そんな私が、身を乗り出したのは、
第二部の、畑中高校の出番だった。
﹁続いては﹃五月の風﹄をお届けします。昨年度のコンクールでの
課題曲だったのですよね。畑中高校の皆さんにとって、県大会一位
の成績を収め、全国大会への切符を掴んだ思い出深い曲でもありま
す。審査員全員がA評価をつけたということでも話題になった⋮⋮﹂
そこまで言う必要ないんじゃ。
と思っていたらあの司会者、学園祭のフィーリングカップルのと
きの学生司会者だ。随分若いなと思った。
⋮⋮思わぬ人物に思わぬ出来事を思い返しているうちに、タイト
ル通りに清々しく爽やかな演奏が始まった。
本日の演奏会で誰が一番印象に残りましたかと百人に聞きました
ら第一位の回答は決まりきっていると思う。
指揮者のすぐ左にて。奏者の最前列で、譜面台に向かって大魔王
⋮⋮ならぬピッコロを鳴り響かす彼女のことを。
︱︱稜子さん。
見た目は凡人で、むしろ天然寄りなのに。肩幅よりも小さな楽器
を高らかに響かす姿はなにかが乗り移ったかのようで。
圧巻だったのは次の曲、吹奏楽のための叙情的﹁祭﹂。
417
冒頭は緊張感のある細かい和音が続く。中盤でがらりと曲調が変
わり、伴奏が音を落とす中で稜子さんが雄大なメロディーを奏でる。
夕焼け小焼けのように切なく、胸苦しい旋律を。
オレンジのライトが照らす幻想的な空間で彼女は時折、金のフル
ートに持ち替えながら世界を紡いでいく。
幼き頃に母の背中で聞いた夕焼けの唄と温もり。
それをそのまま目の前で再生されているようでじぃん、と胸が熱
くなる。
感動の余波の消えないうちに今度はテンポが急変し、嵐のような、
神輿を担いだ時に似た素早い旋律を繰り広げ。
あの夏の興奮をまさに彼女たちは体現していた。
演奏が終わると野太いブラボーの声が上がった。スタオベ。⋮⋮
身内だ、畑高生だ。
﹁流石は名門校の演奏でしたね。これから大会で演奏する予定の曲
というのに、完成度が非常に高いです﹂
拍手をしながら感心してタスクは何度も頷く。
﹁てさっきの曲? その前のは去年の大会の曲、だよね﹂
﹁そうです。まだ五ヶ月ありますからね⋮⋮一曲通すだけで精一杯
でもおかしくはない段階ですのに、既に咀嚼の域に達した感があり
ますね﹂
﹁やっぱりすごく上手いんだ。最後は鳥肌立ったよ﹂
﹁あまり大きな声では言えませんが﹂悪いことを明かすように声を
ひそめる。﹁東工業高校と聴き比べるとよく分かります﹂
﹁タスクって音楽のことに詳しいんだね﹂
﹁でもないです﹂と舞台袖に消えていく畑高生を目で見送る。ホー
ル内にはいまだ彼らの余韻が残っている。﹁元々ジャンル問わず音
楽は聴くのですがね。吹奏楽絡みのことを調べたのはここ最近です。
⋮⋮プログラムを作るのに少しばかりは役に立つのではないのかと﹂
﹁尊敬しちゃうなあ、タスクのそういうところ﹂
418
﹁そうですか?﹂とタスクはとぼけるけども。
二月の末には期末テストがあった。個人的な成果をきっちり上げ
た。それでいて私たちには見えないところで業者や部員たちとの打
ち合わせもこなし、他方私みたいな初心者にも分かりやすく仕事を
噛み砕いてくれた。
思えばタスクの喜怒哀楽もあんまり見たことがない。烈火のごと
く怒る姿など想像もできない。
いつも物腰が柔らかく、東工の香川を投げ飛ばした時ですら微笑
を絶やさなかった。
そんな長谷川祐に感心しながら耳を傾けると、残酷なくらい私の
耳はレベルの差を聴き分けてしまった。
419
︵3︶
また頭が揺れる。意識が落っこちそうになる。これでいったい何
度目だろう、眠気が充満して自分が目を開けているのかそうでない
のかすら分からない。
休憩を終えた頃からこうした長い演奏会が初めての私は眠気を抑
えられず。
一曲目の﹃世界まる見え特捜部﹄のテーマの頃はまだ意識がハッ
キリしていた。
⋮⋮少し、外の風に当たって休まれるといいですよ。
とタスクに助言頂くのが申し訳なく。
身を低くして客席を出る。
入り口のテーブル付近でパンフを片してる子たちを見かけた。一
年生だろう。⋮⋮面識のない子に再入場をお願いするのにも抵抗を
感じ、すこし、建物内を見て回ることにした。
音楽ホールの大体が似たりよったりの構造なのか、二階まで吹き
抜けで、私から見て左手の、正面玄関から見えるほとんどがガラス
張りだ。そのせいか建物はかなり大きく感じられるけれども実際は
さほどでもない。天井が高い。二階建てだけれど実質三階の高さは
ありそうだ。空は、来るときよりも薄暗さを増していた。そのせい
でやや影を帯びた螺旋階段⋮⋮さっきマキが女の子たちに話しかけ
られてた階段をのぼっていく。
二階にあがっても代わり映えのない光景が広がっている。
けども。
頬に、風を感じる。
︱︱どこか。
窓が開いている。
やわらかく撫でる程度の。
420
その風に吸い寄せられ足が、動く。
左を窓に右を客席に通ずる扉とした細い通路の先へ。
突き当たりの小窓が開いていたのだった。換気のことも考えると
このままがいいのかもしれない。伸びをするとうぅーんと声が出る。
ずっと座椅子に座ってる姿勢は思いのほか疲れる。
こちら側は裏手に当たるのだろう、建物を囲うように木立が広が
り、虫のさえずりが聞こえる。濃緑の匂いが強すぎて臭いくらいだ。
新鮮な空気を吸おうと、窓枠に手をかけ、顔だけを出したときだっ
た。
見間違いかと思って瞬きをする。
︱︱否。
後ろ姿でも分かる。
時折、強く吹く風に。木々に向かって堂々と立つ姿は、
﹁マ、﹂
呼びかけたそれは叶わなかった。
私が振り向いた彼の名を口にする前に。
建物の死角となっていた、
私がもう少し身を乗り出していれば気づいたはずの存在に、
⋮⋮気づいたからだった。
畑高のセーラー服を着ている、
本日一番輝いていた、彼女に。
二人の間の、開かれていた距離が。
会話をするにあたって自然な距離を作りなおす。
こんな。
覗き見めいたことなどやめようと思ったのに、足が、命令を拒否
する。
421
見たい聞きたいという好奇心は、私のこころの殆どを覆う恐怖心
のようなものに打ち勝ってしまった。
薄闇に紛れて彼の表情は掴めない。元から掴めないひとであるに
しても。
風の立てる不吉な葉ずれが聞こえるなかで。
なにか、⋮⋮深刻そうな話をする空気だけが伝わる。
二人の会話がここからじゃあよく聞こえない。
夜闇でも赤だと分かる袋を彼女が差し出すのはプレゼントだろう
か。
首を横に振る彼は、傍観者になど、気づかない、
彼女しか見ていない、彼の口元を、凝視しても。
たった一つ。
私に聞き取れたのは。
﹁一臣っ!﹂
引き裂かれる、
悲痛な、叫びだった。
くずおれる、
飛び込む、
その胸に。
⋮⋮震えている。
きっと、泣いている。泣いているんだ。
私が、自分のからだの震えを覚え始めたときに、そして、私は︱
︱見た。
稜子さんに答える、私の知らない彼の手を。
﹃うぜえな。離せよ﹄
422
︱︱からだに力が、入らない。
自分のなかのなにかが崩れていく。
不可思議と。
窓枠にかけた手は剥がれずにその位置に留まっている。
腰が抜けたみたいだ。
奇妙にしゃがんだ状態で、ずるりと膝頭を滑るプリーツスカート
の裾と、白壁を視野に入れたまま、頭のなかを大音響で心拍が響く。
うまく、呼吸が、⋮⋮取れない。
﹁︱︱さ、︱︱ん?﹂
聞き取れなかった。
それでも、
自分が呼ばれたのだと分かった。
顔をわずかに左に傾けるだけでひどい労力を要した。
底抜けに明るい調子で、
ステップを踏むような足音がホールの床を鳴らす。
﹁どったの真咲さん、気分でも悪いの?﹂
一方でホールの内部からときどき、どん、となにかが響く。なん
の曲を演奏しているのだろうか。
反応の悪い私に対して、
素早く。
気遣う感じで、踊り場からこちらにやってきた彼が、
つと窓の外を、見やる。
間違いなく彼が見ようとしてる、その先は︱︱
﹁駄、﹂
﹁うわっ﹂
423
いろんなものが落ちる音がした。
私のどこにこんな力があったのか。
もろとも、後ろのぶ厚い扉にぶつかった。
そこで、和貴は止まっていた。
けどそれは、
なんの妨げにもならなかった。
﹁見ちゃった﹂
頭のすぐうえで、
可笑しげに、こぼす息を聞いた。
動けない。
なにをどう整理したらいいのかが分からない。
もう一度、てっぺんに吹きかかる息を感じた、
﹁真咲さん。大胆だよね、こんなとこで﹂
顔を起こせば。
人二人入れる程度の閉鎖的な、埋め込み式の扉に押し付けたまま
の。
異常に近い、接近値にて。
タックルした状態の私は、
自分がなにをしているのかに気づいた。
慌てて、離れようと、思考が働く。
その前に、肩を、支えられていた。
こちらの目を見透かすように覗き込み。
おどけた感じを取り除いた、
424
どこか真剣な眼差しをして、
けどもいつもと同じ、
くすぐったい、
遊ぶような口調で彼は、言った。
﹁泣いてもいいよ﹂
﹁泣いてません﹂
私はうまく笑えなかったらしい。
男の子は体温が高いのか、すごく熱い。
ジャケット越しでも伝わる、締まった筋肉の感じが。
息が、苦しい。
触れる、私の至るところが熱を持つ。
強く押し付けられておでこで感じる首筋の体温であったって。
頭の後ろを撫でつける手のひらの感じも。
なのに。
痛くて痛くてたまらない。
飛び込んだそのときに。
彼女を抱きしめる彼が頭を過ぎったのはどんな因果だろうか。
耐えられないほどの、
こころの鏡が割られた痛みに。
抱きしめられているはずの私は、
熱を知ると共に、震え続けていた。
425
︱︱和貴が、私のために買ってくれたミルクココアと。
マキとタスクとで買ってくれた、バレンタインデーのお返しのマ
ウスパッド、
その二つに傍観されながら。
* * *
﹁なんでさー金曜さーなんもゆわんで帰ったが。あんた戻ってくる
んタスクとずぅーっと待っとってんよ﹂
翌月曜、かばんを自席に置く私を紗優が廊下に呼びつけた。
ごめんごめん、と詫びつつも、
﹁帰りはマキも別だったの?﹂
ここが気になっていた。
﹁ん。途中で席立ったってタスクが気づいとったし⋮⋮やっぱ先帰
ったんかねえ。電車の時間へーきやったと思うんやけどなあ﹂
客席に戻らず、紗優たちとも合流せずあのまま、稜子さんと過ご
したのだろうか。
目線が下へ下へ落ちる。
こめかみがうずく。
﹁あおっはよー和貴ぃ﹂
だから、近くにまで来ていた和貴に気づくのが遅れた。
⋮⋮今日は顔を、覗き込まないんだ。
﹁おはよ﹂
﹁おはよう﹂
一日ぶりに見る和貴は、頭に手をやりながら、いつもどおりに花
のこぼれるような笑みを浮かべていた。
あの大きめのブレザーに隠された精悍な肉体に抱きしめられたの
426
だと。
思い返すだけで顔から発火しそう。
﹁なんか真咲、顔あこない?﹂
﹁ぜんぜん﹂
顔を振ると頭痛が酷くなる。
﹁⋮⋮さき教室入ってるね。んじゃガールズトーク楽しんで﹂
入ってく和貴をやや腑に落ちない表情で紗優は見送る。
﹁和貴が入ってこんのって珍しいなあ﹂
﹁そう?﹂でも正直私は助かっていた。
﹁頭よお掻くやろあいつ。あれ困ったときのクセ﹂
知ってる。
なんだか紗優の観察眼を感じるから話を変える。﹁紗優も二人で
帰ったんだよね。タスクとなにか話した?﹂
﹁うーん特には。エヴァ語ったくらいかなあ⋮⋮﹂
十分です。
これは、元通りになるのも時間の問題ではないだろうか。
﹁それよか紗優﹃も﹄ってどういう意味なが。あんたこそ和貴と二
人で帰ったんか?﹂
鋭い。﹁や、うんあのほら、タスクと紗優を二人にしたげたほう
がいいかなって思って⋮⋮﹂
嘘などついていないのに。
こんなしどろもどろになるのは。
︱︱タスクと紗優、二人っきりにしたげよっか。
あの彼の労るような優しい響きを。
振動の伝わる、腕のなかで直接的に聞いたからだ。
﹁ふぅん? なんやら匂うなあ。なぁんか隠しとるやろあんた﹂
う。
427
﹁や、ぜんぜん、別に﹂
﹁ちょー言ってみぃやこんのぉー﹂
﹁いひゃ、﹂頬、引っ張られちゃあ。﹁いひゃいいひゃいひゃゆ﹂
﹁⋮⋮何やってんだおまえら﹂
﹁あ! おっはよーマキ。あんなー真咲がなーなんか隠しとるよー
やから白状さしたろ思って﹂
よ、けいなこと、言わないで⋮⋮。
細かく首を振る。
﹁都倉、顔色悪くねえか﹂
﹁そお? 照れて赤いだけやんか?﹂
あやっと離れた。
﹁へーき。それよりそろそろ教室戻ったほうが﹂
﹁行くぞ﹂
﹁ふえ?﹂
﹁保健室。⋮⋮宮沢、こいつ早退するかもしれねえから長谷川にで
も言っておいてくれ﹂
あ、うん、という曖昧な声を腕を引かれながらに聞いた。
﹁あの。マキ、私別に⋮⋮﹂
﹁熱あんだろ。いいから体温測ってとっとと休め﹂
驚いた感じで道をあける人々が目に映る。
それも、視野が段々狭まり、一メートルくらいを入れるのが精一
杯になってきて、
﹁あらあら都倉さんどしたが。顔真っ赤やないの﹂
﹁は、い、⋮⋮ちょっと気分が﹂
ターコイズブルーに赤紫の花があしらわれた強烈な柄を目にする
と益々脳が熱くなった。
熱は八度三分あったそうだ。
それから寝不足をすこし補充し、結局、マキの予言通りに早退し
た。
428
具合悪いんなら無理して学校来んと、休んで構わんがよ。
かばん、蒔田くんが持ってきてくれてんよ。なんかよう気ぃ利く
子やわねえあの子。
うっとりとした田中先生の響き。
稜子さんをマキが抱きしめる姿。
私を受け止めた、和貴の力強さ。
いろんなできごとが頭のなかを回り続け、
家の玄関に着くなり倒れこんだ。
その日を含め私は三日間学校を休むこととなった。
429
︵4︶
﹁真咲ぃ入っても構わんか﹂
﹁かぎ開いてるよ﹂
﹁おっ見舞いに来たよぉーっじゃっじゃーんっこれタカノのマドレ
ーヌっ﹂
驚いた私はベッドのうえで本を手に固まった。
﹁あ、どぞ。こんなとこでなんですが⋮⋮﹂
﹁お邪魔しまーす﹂
﹁いまお茶持ってくるさけね。あ真咲。こちら頂いてんからあんた
からも紗優ちゃんにお礼ゆうときなさいね﹂
﹁おばさんどーかお気遣いなくぅ﹂
ありがとう、と礼を言い、﹁⋮⋮座ってそこ﹂
﹁ああ無理せんと寝とっていいよお。⋮⋮これが真咲の部屋かあー
ずいぶん可愛くしとんねや﹂
﹁そう?﹂でもないと思う。
ポスター一枚も貼られてない。
ふすまには淡い桃色の和紙を貼ったし、ふとんカバーはすべて同
じトーンで揃えている。砂壁のダサさは変わらずなものの、一見し
た雰囲気を重視している。
丸椅子に座った紗優はそれが面白くってか何度も回っていたけど
母が来てからお行儀よくしてまた、椅子に座って遊んだ。
﹁ああこれこれーパソコン部有志からな。のど飴冷えピタうがい薬
にポカリの粉末そんでハイレモン﹂
そ、そんなに沢山を、手品師みたいにひょいひょいと。﹁ありが
と。なんか、⋮⋮悪いね﹂
﹁机んとこ置いとくよー。なかに三日分のノートも入っとるから﹂
マキとタスクからだそうだ。﹁和貴のぶんは持ってこんかった。あ
430
いつ、僕んじゃ役に立たんやろーって自主規制した﹂
﹁あはは﹂
お世辞にも和貴は達筆とは言えない。書くときは拳で握るみたく
ぐりぐりと。あれでよく字が書けるものだと思う。
﹁風邪、⋮⋮具合はどうなん? さっきおばさんから熱下がったっ
て聞いてんけど﹂
﹁うん、もう平気。でも二日も寝てると体力が落ちちゃって⋮⋮大
事を取って休んでたの﹂
﹁本なんか読んどらんと。ちゃんと寝とかな駄目やろ﹂
手のなかの本を取り上げられる。エリクソンの﹃自我同一性 ア
イデンティティとライフ・サイクル﹄⋮⋮一九七三年の第二版がよ
くも市の図書館になど置いてあったものだ。
なかをぱらぱら見て理解できない、といった風に肩をすくめて紗
優は勉強机に置いた。
﹁ほんで。大丈夫なんか、気持ちのほうは﹂
いきなり。
核心を突かれる感じに、私は平静を装い顔を横に振る。﹁⋮⋮平
気だよ﹂
﹁あんなあ真咲﹂
ベッドにかける、紗優の重みで沈む。
膝の上に置いていた手を、順に、包まれた。
紗優の手は、柔らかくて、しっとりとしていた。
﹁真咲は一人で抱え込みすぎや。なんやってゆうてぇや。あたした
ち、親友やろ?﹂
︱︱親友。
真新しくて耳慣れない、こそばゆい響きだった。
第一、そんな風に思ってくれていたなんて⋮⋮。
私が見つめ返すのを受けて照れたように紗優の頬が染まった。﹁
こーんな何日も寝こむくらいやからなんかあってんろ? 言ってみ
? 誰にも言わんから。タスクにマキに和貴に⋮⋮んーとこの先彼
431
氏ができたって絶対にゆわん。まだ彼氏なんかできる気配ないんけ
どなー。あっは﹂
弾けるように笑い、鼻の頭を掻く紗優が、
﹁紗、⋮⋮﹂
﹁真咲﹂
私の目に滲んだ紗優が、微笑んで、両手を広げた。
﹁紗優ぅっ﹂
臨界点に達したこころが悲鳴をあげていた。
なんて弱いんだろう。
こんな風に頼った、流された、すがりついた。
彼のことを。
私は、
﹁なにがどうなっとるのか、分からん、のよ﹂
﹁うんうん﹂
﹁いちいちショック受ける自分も嫌いやし、妬む⋮⋮自分が、嫌で、
仕方ない﹂
﹁分かる分かる﹂
﹁ぐっちゃぐちゃで整理がつかんの。なんでこんな、フラッフラし
とるんか⋮⋮和貴が、気になってしまうんかも、分からんくって﹂
﹁せやな﹂
方言混じりで泣き言を吐く私を紗優は肯定する。
﹁一つだけ言えるんは﹂
ひっく、と泣きじゃくりをあげた。
432
﹁マキが好き⋮⋮﹂
吐きだす私を紗優は受け止めてくれた。
母の運んできたアップルティーが冷めるまでそれは続いた。
* * *
﹁なして人は人を好きになるんやろなあ⋮⋮﹂
センチメンタルに紗優はこぼす。
彼女のポロシャツは私の涙と鼻水にまみれてしまった。
いいんよ、と紗優は言うけれど、三顧の礼でようやくポロシャツ
の替えを受け取ってくれた。
背を向けて着替え終わるのを待ちながら私は、
﹁そうだね。人なんて好きにならないほうが⋮⋮感情なんてないほ
うが楽なのかもしれないね﹂
まぶたはすごく腫れてしまった。
思ってる全てを明かし、こころのうちはすっきりしていた。
﹁せやけど感情のうなってしもうたらつまらんやん﹂
﹁苦しむことも悲しむことも人間ならではの情動だからこそ。それ
こそが生きてる証なんだろうね﹂
﹁真咲は哲学的やなあ﹂あいいよもうこっち向いて、と促され、﹁
あんなあ、あたしも重大発表あんねや﹂
﹁なぁに﹂
﹁タスクに振られてもうた﹂
⋮⋮はっ?
﹁い。い、いつ?﹂
﹁ついさっき。真咲んとこ来る前に告ってきた﹂
平然とポロシャツの裾を整えるものの、
﹁振られたってどうして⋮⋮﹂
﹁そーゆー対象としては見られん。ってな。いっちゃんゆっちゃあ
433
ならん答え方やよねえ。⋮⋮嘘でもいいから。ほかに好きな人おる
でもなんでも、違う理由作って欲しかったもんやわ﹂
明るく言うけれど曇らせた顔色が。
紗優の本音だと思った。
﹁そんでもな。あたし。諦めんよっ!﹂
パン、と膝を叩き顔を起こす。
﹁対象として見られんのやったらそーなるまで頑張るだけやわ﹂
﹁強いね、紗優は﹂
私はそんな風に切り替えられるか、と言われたらたぶん。
できない。
﹁もーちょっとで二年も終わりやんか。したらそっから一年なんか
あっちゅうまやもん﹂
卒業まで一年とわずか。
残された時間はあまりにも短い。
﹁真咲はもうちょっと自分の気持ちに正直にならな﹂
意志の強い瞳が私に向けられる。
﹁マキが好きならいい、和貴が気になるやって構わん。自分のここ
ろんなかで思うんだけやったら自由なんよ。そこ認めんかったらど
ーにもならんやんか﹂
﹁や⋮⋮でも。二人同時に好きになるのってどうかと﹂
﹁同時につき合ったら駄目っつう法律があるわけでもないんし﹂
﹁法律って﹂ははっと笑ってしまう。﹁けど確かに⋮⋮両価的な感
情があっても敢えて意識しないようにしてたから⋮⋮もうすこし冷
静に捉えることにするよ﹂
﹁あーもーむっずかしい言い方すんなやっ﹂髪をわしゃわしゃに掻
く紗優は、
﹁好きでもなんでもいい、素直になりいっ﹂
﹁いったっ﹂
背中を思いきり叩かれた。
小澤さんよりも強い。
434
﹁約束。真咲は自分の気持ちに素直になる。あたしも頑張る。ほん
なら指きりげんまん﹂
何年ぶりかにこんなことをする。
恋をして、友達を思いやり、励ませる親友は輝いている。
ありがとう、紗優。
* * *
﹁あーんたちゃんと飯食うとるんか? そんなんやから倒れてまう
んや﹂
入るなりコピーを手渡してくれた小澤さん。
ありがと、と答える私は久方ぶりに味わう爽快な気分に包まれて
いた。
気の持ちようが日常を変える。
﹁あー都倉さんおはよ。風邪大丈夫?﹂
﹁ん﹂
けど吉原さん。
なんか言いたいことがある、みたいで⋮⋮
﹁どしたの?﹂
﹁あの。あんな⋮⋮都倉さん柴村と仲よかったんやよなあ﹂
一度会っただけ、なんだけど。
明かす代わりに、黙秘をする。
肯定と捉えたのか、
﹁柴村ていつから蒔田くんとヨリ戻したん?﹂
気持ちに素直になると決めたのに。
マキのことが好きだとやっと、認めることができたのに。
435
受け入れ難い現実が待ち受けていた。
436
︵1︶
春休みのうきうき感が半減してしまった。
会えなくなるから。
好きな人ができると価値観が変わる。
卒業式は先週終えた。三年生がいなくなり尚更広々として感じら
れる体育館にて簡素な式を済ませ、続いて各自教室にてホームルー
ムを済ませ今学期が終了する。終わるなりやはり先生に呼び出され
た。今度は廊下に。
進路希望調査の紙は本当は水曜日に提出せねばならなかった。欠
席が続いた私は提出が遅れていた。
朝出せばよかったのに。出さなかったのは諦めの悪さが残ってい
たからかもしれない。
感情を交えず手短に要件を述べる辺りは流石に先生で、エモーシ
ョナルなところと事務的なところの切り替えがしっかりしている。
﹁私は一年間きみたちの担任をできて嬉しかった﹂なんて感慨深げ
に述べて小澤さんの涙を誘っていたのに。
それでも、遅れてすみませんでした、と用意しておいて即座に提
出する私もそこそこに大人の仲間入りを果たしたと思う。
宮本先生はもうなにも言わない。
ただ曖昧に笑い、
﹁進学組でないんなら私はきみの担任になるかもしれないな﹂
と言い残して。
﹁まっさきぃーなーこんあと空いとるーよな? なあなどっか行か
437
んかっ?﹂
心なしか寂しげな後ろ姿を見送ってるところに紗優がやってきた。
思うに、うちのホームルームはよそに比べて長い。
﹁いいけど、⋮⋮みんなは?﹂
戻ると教室内は音量のつまみを間違えたかの騒がしさだった。や
かましいと呼ぶべきか。終わったーっていう開放感に満ち満ちてい
ろんな話に盛り上がる面々。のなかでいちはやく気づいたのは小澤
さんだった。
﹁まーたあんたか。真咲真咲て毎日うろついてよおも飽きんもんや
わ﹂
ホームルーム後にちょくでやってきた紗優に露骨に嫌そうな顔を
する。
毛嫌いされているのを読んで紗優は、
﹁心配せんだっても、あたしとあんたがおんなじクラスになること
はないよ?﹂
﹁私もね﹂
﹁せやな⋮⋮﹂目がまだ充血している小澤さん、彼女はタスクと同
じく畑中大学への進学を志望している。﹁なんやろな、あんたと違
うクラス振り分けられっと思ったらきゅーに寂しゅうなってきた﹂
﹁私いじめが愉しみだったもんね﹂
﹁そや。三年なったら誰いびり倒しゃあいいんか﹂
﹁ちょっと。そこ否定しなよ﹂
﹁あっはは﹂紗優が笑った。
﹁なあな。カラオケ、宮沢さんと都倉さんも行くやろ?﹂吉原さん
きりのいいとこまで終わるの待ってたっぽい。
﹁和貴とタスクと、んーとマキも誘わんか?﹂
﹁蒔田くんならさっき帰ったよ﹂
えうそ。
私、⋮⋮マキと今日、一言も喋ってないよ。
これで学校が再び始まるまでの二週間を会えないだなんて。
438
この春休みは部活がお休みで、海野住まいの彼と奇遇にもこの町
で偶然会える機会なんてのも、ない。
⋮⋮ああ。
ちょっと前の私だったら学校がないほうが嬉しかった。
やなテストとかも含めても、だったら、毎日マキに会えるほうを
私は選ぶ。
﹁えっらい急いで出てったもんなあ﹂隣の子が意味有りげに笑い、
畑高て休み入っとんのやて。会いに行ったんじゃん?
こういう台詞で都度顔を強張らせないようにしている。
私にできるのは薄笑いが、せいぜいだ。
マキが、稜子さんと付き合い始めたのはあの、演奏会の日だった。
私が目撃した場面は恋人同士として的確だったということだ。
畑高生は皆で集まってバスで帰る。そのバスの発着所までマキは
見送りに来た。稜子さんと二人過ごしたことを隠さず、周囲の注目
を集めようとも見られていないかの振る舞いだったそうだ。
そう彼はいつも恥じることも隠すことも持たない。堂々とした人
間だった。
私が熱を出して早引けした月曜日は朝からその噂で持ちきりだっ
たらしく。
なんのことはない。あのとき注目を集めたように感じたのは、噂
の的であるマキが一緒だったせいだ。
単に、それだけの理由で。
﹁なんっか。大事にされとって羨ましいなーしっかもあの蒔田にや
ろ?﹂
﹁⋮⋮そーか? あいつ、いぃつも機嫌悪いしめんどくさいだけや
んか。あれやと仏像とおるほうがマシやわ﹂
﹁なーんも分かっとらんなあ茉莉奈は? みんなの前でクールにし
439
とんのに自分にだけに優しい、そーゆーんが女の子は嬉しいんよ﹂
﹁あたしかて女の子やわいねっ﹂
﹁つか蒔田ってさりげにかんなり優しいよ? こないだな、ダンボ
ール運ばされたときさ、⋮⋮北川てあいつ、うちらパシリに使うや
んかしょっちゅう﹂私に向けて補足を加えた。男子の体育の先生で
⋮⋮サッカー部の顧問もしているのは知ってる。﹁つーかでっかい
ダンボール運んどる女子がおんのにみんなけっこームシすんのね。
階段の前でさーこれ三階までかって思うとちょーブルーはいってさ、
置くとなんかやんなったの。したらさ、んな往来で邪魔だ。⋮⋮つ
って、持ってってくれたんよ。次の授業遅れたとき、腹壊しました、
てでっかい声で言ったが、⋮⋮あたしのせいながよ﹂
﹁なんや。腹壊した発言でちょっつ引いてんけど⋮⋮そやったんね﹂
﹁蒔田くんつうたらなあ、調理実習で味付けひっどいことになった
んに、残さんと平らげてくれた。同じ班の子みぃんな残しとったん
に﹂
﹁肉じゃがやろ。あんっなしょっぱいんよぉーも食えたなー﹂
﹁後で謝ったんよ。したらな、詫びなどされる筋合いはない。それ
に、美味かったぞ、やってさ⋮⋮﹂
﹁うわあ⋮⋮いかんやろそれ﹂
他の子が次々に頬を染め出すのに。
私は一人、頭を殴られたかの衝撃を受けていた。
なんだ。
﹃⋮⋮おまえが来ねえと寂しがるやつがいる。いいから来い﹄
なにを思い上がっていたのだろう。
私にだけだと思っていた。
私だけだと思い込んでいただなんて。
440
彼には好きなひとが、いる。
大切な彼女が、いる。
表層的な態度では伝わりにくい、仮面の裏に隠された彼の本当を
見抜いていたのは、私だけじゃなかったのだ。
バレンタインは、二つの袋にいっぱいにチョコを貰った。お返し
は一切しない。それでも、彼の悪口を言う子なんて噂レベルでも一
人も現れなかった。
﹁げっ。桜井も呼びに行ったがかあいつは﹂
﹁田辺も連れてくりゃあいいがに﹂
含み笑いをしたみどりさんは私の怪訝な顔色を見て、怒ったよう
に小澤さんに向き直った。﹁あんた。なして都倉さんに隠しとるが。
⋮⋮茉莉奈な、田辺とつき合っとるんよ? 付き合いたてほやほや
ながよー﹂
﹁ひゅーひゅーだねーあっついねー﹂
﹁仏像よりも蒔田くんよりもたーなべくんが好き好きぃー﹂
﹁ちょいっ、やめいやっ﹂
意外、だった。
ひょろっとして頼りない田辺くんを、強気な小澤さんが好むよう
には思えなかったから。
じゃあ、﹁田辺くんも呼ぼうか?﹂まだ教室のなかにいるから彼。
﹁野球部は⋮⋮練習あっから。邪魔したあない。春と夏が本番なん
やよ。ゆわんといて⋮⋮くれんか。頼むわ﹂
この場の全員が呆然とした。
思ってもみない小澤さんの乙女な一面に。
ただし、
例外があっけらかんと場の空気を変えた。
﹁へっえー健気じゃん小澤さん。田辺っち大事にされてんねえアッ
ハ﹂
441
﹁うっさいわぼけっあんたは黙っとけっ﹂
﹁あーあー僕にも春が来ないかなあ。独りもんは寂しいよねえ紗優﹂
ここでそれを言うか和貴。後ろでタスクが苦笑いをしているでは
ないか。
﹁もーいい。みんな揃ったとこやしはよ行かんか﹂見回して目立た
ぬよう出てきたいっぽい小澤さん。﹁あんま遅なっと部屋埋まって
まうやん﹂
﹁きよかわにする?﹂
﹁あすこ東工生もおりそうやしわたなべにせんか﹂
いずれにしても個人経営のマイナーなカラオケ屋さんか。何度か
行ったことはあるので一部屋三千から三千五百円の一時間をみんな
で割り勘する感覚にも慣れてきた。大勢だとマイクが回ってこない
し少なすぎると割高になる、だからこのくらいの、十人弱がベスト
な人数なのだ。
嬉々として出ていくみんなを待ち、教室を出る。
後ろ髪を引かれる感じがあった。
来たばかりの頃に一人寂しく座ってた自席がすぐそこに。体育祭
の張り紙のされてた壁⋮⋮最初はいがみあってた小澤さんの席。遠
かった宮本先生の教卓に、窓際でいつもくっちゃべってる男子の存
在。
でかい図体してるのにいつも寝てばかりいたあの彼の、席と。
もうみんなの荷物が残っていない、ロッカーが。
懐かしいとも思えるこの教室に、半数ほどが残って喋っている。
立って座ってそれぞれが、去りゆく時間を惜しむように。
これが、
二年四組という最後の空間だった。
例え同じ学校に通っていても、同じメンバーで揃うことは二度と
無い。小澤さんとも違うクラスになることだし、
マキとも、勿論⋮⋮。
こういう、ひとつひとつのステップを乗り越えていくのが大人に
442
なるということなのだろう。
幾つもの出会いと別れが必然となる。
気づいて手を振ってくれた男子に手を振り返しながら、私は独り、
感傷的な気持ちに駆られた。
そこに。
私の肩を、叩く、手があった。
顔を傾けると頬に、プニと人差し指が当たる。
﹁古い。和貴﹂
見えなくても分かってる。
こんなこと誰にも言えないけど、骨っぽい彼の手の感触は⋮⋮私
の感覚に刻まれている。
﹁引っかかる真咲さんも古いよ﹂
ぶくくっ、と腰を曲げて笑う。
始まった。和貴の笑い上戸。
目を細めて冷たく睨みをきかせるとますます煽るのか。涙目とな
った目許を拭う有り様で。
﹁そんな顔しない、しなーい。ほぉら。笑って?﹂
﹁笑える原因をちょうだいよ﹂
一旦微笑みを口許に仕舞い、和貴は咳払いをする。
﹁ほしたらこれ言ってみて。ピザピザピザ⋮⋮﹂
十回十回クイズですか。
﹁古い。本当に古すぎるよ。正解はヒザね﹂
﹁違うよ真咲さん。答えはヒジだよ?﹂
真顔で自分の肘を指す和貴。
﹁あっ⋮⋮﹂
得意げに言い放った私って。
しばしの沈黙ののち。
どちらからともなく吹き出した。
443
腰を折り曲げる和貴を見て、
私もお腹を押さえた。
﹁あんったらなーにを笑とるが。置いてくよっ!﹂
四組のボスと呼ばれる小澤さんのドスの利いた声が廊下を響いて
も、私たちの笑いはすぐには止められなかった。
* * *
﹁雑誌、返すね。これありがとう﹂
小澤さんが今井美樹の﹃PRIDE﹄を熱唱するさなか、私はこ
っそりと紗優に差し出した。
﹁あーれー? あげたつもりやからよかったんに﹂
お見舞いグッズのうちの一つを、ませっかく持ってきてくれてん
し、と紗優は受け取ってくれた。
﹁紗優って欲しい物に赤く丸、つけるんだね﹂
﹁あ、あ⋮⋮﹂和貴みたく頭に手が伸びる。﹁恥ずかしいなあ。買
えんがについつけてまうんよ。なんでやろ⋮⋮﹂
競馬をするおじさんのような癖につい、笑ってしまう。
﹁春休みってどうするの。どっか行く?﹂
からだを捻りかばんに仕舞いつつ紗優。﹁んー暇やね。家族で旅
行するくらいかな﹂
﹁へえ。どこに行くの?﹂
﹁飛騨高山。パパがドライブ好きやしあの辺にいぃつも車で行くん
よ。去年軽井沢やった﹂
いいなあ。﹁うち絶対旅行なんて行かないよ。お店があるから。
一度でも行けるだけ羨ましい﹂
﹁ん⋮⋮﹂
空いてるならいっぺん遊ぼうよ。私んちでも紗優んちでもいいか
444
らさ。
気軽に誘おうと思ったのに、
憂いを帯びた眼差しになにも、言えなくなった。
彼女は彼女のなかに思考を閉ざしている。
俯き、指を絡ませ、ぽつり。
﹁春休みなんて、嫌いや﹂
紗優⋮⋮?
﹁くおーらそっこ! 人が歌っとんがにくっちゃべっとんな!﹂
マイク越しに叫ばれ、揃って背筋を正した。
以後お喋りにうつつを抜かせず。
その曲が終わるのを待って部屋を出ると入れ違いで和貴に出くわ
した。
から訊いてみた。
﹁紗優って春休みが好きじゃなさそうなんだけど、なにか理由でも
あるの?﹂
上を向いて顎を摘まむ。
迷っているようだ。
あそうか。言えない事情があるって場合もある、でそこのとこを
和貴に負わせることになっちゃう。
こういう気が回らないところが私の至らなさなのだと思う。私に
とって以上に和貴には紗優が大切な友達なのだ。
﹁あの。いまのは気にしないで。じゃ私お手洗いに﹂
﹁いや﹂
和貴はおそらく反射的に私の肘を掴んだ。
﹁あ。ごめ、ん﹂
445
すごく顔が赤くなるのが分かった。
どうしても、私、⋮⋮
その腕のなかに、
抱きしめられたことを意識してしまう。
見ぬいてなのか、軽く微笑んで和貴は壁にからだを預ける。倣っ
て壁に寄りかかる私に顔を傾け、
﹁紗優の誕生日っていつだか知ってる?﹂
﹁知らない。そういえば⋮⋮﹂
﹁三月の二十八日。て必ず春休み中っしょ? 昔っからそれやだっ
たみたいでさあ。学校あんなら友達におめでとーって言われんじゃ
ん。女の子って誕生日会? ての? そーゆーのやりたがるよねえ
ちっちゃい頃から。そーゆーんも自分が行くだけで一度もされたこ
とないが寂しがっててさー。女の子の友達少ないんも隠れて悩んで
るし﹂
いつも明るく振舞おうとも、内面まで明るく振舞えているとは限
らない。
誰だってそう。
悩みのない人間なんてこの世に存在しない。
﹁去年なんてさー怜生が熱出しちゃってさ、おばさんにも忘れられ
てたんだよ。まだまだ手ぇかかんからね怜生は。僕がね、じーちゃ
んからのお使いで買ったケーキとお花持ってったらおばさん、ああ
っ忘れとった! ってすんごい驚いてたや﹂
思い出したようにくすくす笑う。
﹁今年は大丈夫だといいんだけどさ﹂
﹁じゃあ﹂
私は和貴に向き直る。
﹁私たちでお祝いしようよ﹂
透き通る瞳が、大きくなる。
﹁だって。紗優にはいっぱいお世話になってるし、なんかお返しし
たげないなあって思って。一年に一度しかない大切な日なんだよ?
446
楽しく過ごして欲しいよ﹂
嫌いや、だなんて。
あんな悲しいこと呟かせるんじゃなくって。
﹁⋮⋮そだね﹂
﹁誰からも祝って貰えない誕生日なんて寂しすぎるよ。自分が生ま
れた意味を失うような、まさにアイデンティティ・クライシスなん
だよ﹂
﹁なに、それ?﹂
和貴は吹き出すけれど、彼も同じような孤独を知っているはずだ。
私の誕生日は。
物心ついた頃から、父が祝ってくれることは無かった。
母が手作りケーキを用意してくれるのは嬉しかった。でもケーキ
なんて既成品でも⋮⋮ううん、無くたって構わなかったから、一度
でも。
父と母の揃った、あたたかな誕生日を経験したかった。
それは二度と叶わぬ、夢。
去年の夏の私の誕生日は、離婚の手続きで慌ただしい母に忘れら
れていた。
あんな思いを、紗優にはして欲しくない。
﹁なんか、⋮⋮紗優が喜ぶことしてあげたいな。食べ物絡みならよ
しののパフェがダントツなんだけど﹂
どうしたんだろう。
黙って聞いていた和貴が、途端に苦々しく息を吐く。﹁⋮⋮坂田
に訊いてみるよ﹂
﹁どうして坂田くん?﹂
﹁よしのってあいつのおうちなの。知らなかった?﹂
﹁うっそ﹂
447
﹁カウンターのなかでコーヒー淹れてる腕ムッキムキで似合わない
薄ピンクのエプロン着てるリーゼントのおじさんあれ、坂田のお父
さん﹂
﹁いたっけ?﹂
﹁僕的にヅラかぶった海坊主﹂
それを覚えている限り人違いはしなさそうだ。
吹き出すのをこらえ話を戻す。﹁じゃ、プレゼント。なにがいい
かな﹂花束なんていいだろうか。﹁悦ばせるのは和貴の得意分野で
しょう?﹂
軽い皮肉のつもりが。
大きく肩を落とす。
﹁あのごめん、冗談だったのに⋮⋮ね。私紗優の好みってそんなに
詳しくないから、教えてくれるかな﹂
こんな風に和貴と話しながら紗優のお誕生日会のプランが作られ
ていった。
よかったね、紗優。
ただひとつ、残念だったのは。
マキが、用事があるからと言って来られないことだった。
言われなくても分かる。
稜子さんと会うためなのだと。
こんな、胸の奥が焦げる想いがいったいいつまで続くのか。
終わりが見えなかった。
448
︵2︶
三月の二十八日という日は、私たちの希望を反映したような、す
こぶるの晴天だった。
天候に恵まれて気分は良好。
﹁おっはよ真咲ぃ。⋮⋮可愛いかっこしとんなあ﹂
うちに迎えに来た紗優には勿論内緒にしていた。
主役に相応しいミニスカート姿だった。
よしのでパフェ食べようよと事前に言っておいた。小澤さんも好
きなあまおうパフェ食べに行こうよって。でも食べることになるの
はあまおうの誕生日ケーキだってことをいまだ紗優は知らない。
道中、私は旅行の土産ばなしに相槌を打ちつつ、複雑な気持ちを
噛み締めていた。
楽しみという思いとほんの少しの寂しさと。
告白すれば、後者のほうが強かった。
﹃真咲は一人で抱え込みすぎや。なんやってゆうてぇや。あたした
ち、親友やろ?﹄
打ち明けてくれても、⋮⋮よかったのにな。
実はね今日あたしの誕生日なんだよーって。
そしたら秘密なんて全部吹き飛ばして紗優が主役なんだよって私
あけっぴろげて張り切っちゃうのに。
だから、
内面の葛藤を隠して明るく飛騨のマスコットのキーホルダーなん
て手渡してくれる紗優のことが、本当はもどかしかった。
449
水くさいな、なんて。
つまりは。
私のなかで紗優のことは、なんでも打ち明けてほしいなって友達
に思える、そんな間柄にいつの間にかなっていたのだった。
﹁あり? 和貴やよなーあれ。⋮⋮めっずらし﹂
内心ですこし驚いた。うーんと不自然なことして勘づかれるとサ
ブライズにならない。
私たちに気づき、腕時計から視線をあげた。﹁タスク見なかった
?﹂
﹁ううん﹂答えたのは紗優だ。
﹁十時に来いつっといたんに﹂
﹁あんたらさびしなあ。男二人で甘いもん食うがか?﹂
﹁僕は坂田に用はない、あるのはタスクだ。⋮⋮中けっこー混んで
るし席確保したほうがいいよ﹂
﹁ん。あんがと。じゃね和貴﹂
私も紗優に続くと和貴はこっそりウィンクしてくれた。
後で聞いたところによると、彼は入り口で案内していたらしい。
今日はお祝いしたい人だけの貸し切りだよって。
﹁⋮⋮模様替えでもしたんかいな﹂
入ると二十畳ほどの開かれた空間が広がってるはずが。
前方が背の高い間仕切りに隠されてなにも、見えない。
﹁あこちらへどうぞ﹂顔に見覚えのあるウェイトレスさんが案内し
てくれたのは入って左手の、︱︱
かつて坂田くんが、稜子さんのことを語った場所だった。
Song﹄⋮⋮あれ。聞い
私が坂田くんの座った椅子に、紗優がいつかの私と同じ位置に座
る。
Johnの﹃Your
歌が、流れだした。
Elton
450
てない。
私が頼んだのってケーキを用意してもらうってだけなんだけど。
﹁この曲あたし好き。生歌やんか⋮⋮﹂
お喋り好きな紗優が黙って頬杖をついてうっとり。
聴きいるのを見ていると、予定外だなんてことなんかどうだって
よくなってしまった。
洋楽に詳しい緑川の人々なら誰もが知ってるかもしれない。私が
知ったのは菅野美穂目的で観ていた﹃イグアナの娘﹄の主題歌でだ。
お花畑で微笑む天使と、
包むこむような男性の優しい歌声。
映像と想像の混合に揺さぶられていると、
一部で悲鳴が起きた。
いや私もだ。
なんの前触れもなく、
室内のすべての照明が、落ちた。
素早く、カーテンが引かれる。
真っ暗だ。お昼前なのに。
お店の人たちが、紗優の後ろの仕切りを外していく。
現れるのは、
布を被せられた円卓のテーブル。座ってる人々。全テーブルにキ
ャンドルがともされる。
暗闇を煌々と炎が揺らめく、幻想的な雰囲気で。
人々の影ですらアクセントとなる。
そう、人の多さにも私は驚いた。全卓が埋まってる。見知った顔
もちらほらと。
よくよく目を凝らせば、入り口から見て右の、私から遠い部屋の
隅になにかいつもと違うものが置かれている。黒い箱のような。
私がそれがなんのためかと理解したのは、伴奏が始まってからの
ことだった。
451
赤い髪が箱の上から覗き、
誰でも知っているあの曲のイントロを奏でる。
この場に集う、何十人もの人間が声を揃え、たったひとりのため
に歌う。
ハッピバースディトゥーユー。
﹁なにこれっ﹂
席を立ちかけた紗優が私を驚きの眼差しで問いかける。
私は笑顔で歌うことで応える、それが答えだから。
ディアさーゆー。
とまで言われれば流石に分かったみたいで、うそおっと叫んで顔
を押さえた。
喜びのどっきりにかけられた反応が微笑ましい。
﹁うぃーっす。みんなーサンキュなー今日はーオレらのー紗優が誕
生日っつーからなースペシャルに祝ってやろーぜー﹂
箱型のピアノの前からこちら側を向いた背面に移動する彼はやは
り、坂田くんだった。
髪だけでなく服装も赤と黒の彼のなりをしている。
﹁なんながこれ、あたし、聞いとらんよ。真咲が仕組んだがか?﹂
私は、彼女の背後を見ていた。
この室内で立っているのは、前方のバンドのメンバーと紗優を除
けば。
﹁お誕生日おめでとうございます、宮沢さん。⋮⋮向こうまでご案
内しますよ﹂
452
タスクだけだった。
狐につままれた顔してるのをさておき、肘を、差し出す。女性を
エスコートしていく紳士なタスク。
なんと。
背中にさりげなく手まで添えてる。
気づいた私、恥、⋮⋮ずかしくなった。いや私が照れても仕方な
いんだけど。
おめでとーなんて言われてる。口笛もどっかから飛ぶ。なんかも
うこれ⋮⋮恋人同士じゃん。結婚式じゃん。
前方にワゴンが運び込まれ、うえに乗ってるのはどうやらケーキ
のようだ。
﹁ケーキ入刀っ!﹂
冷やかすギャラリーにタスク苦笑いしつつも、結局⋮⋮してた。
写真撮ってる子まで現われた。あ田辺くんだでっかいカメラ持って
るの。
﹁なあプレゼントがあんだよなあタスク?﹂
﹁ええ﹂
いまだ暗い室内に細く光が射しこむ。
全員が注目をする。
開け放たれた扉から弾丸のごとく飛び込むのは、
﹁ねーちゃーんっ!﹂
怜生くんだった。
テーブルとテーブルの間を縫って走り、勢い余って坂田くんにダ
イビング。完全に、倒された。鈍いマイクの音がゴンと。⋮⋮この
手のマイクの音はすこし私にはトラウマだ。
﹁ってえなクソガキ﹂
性格までも赤と黒モードなのだろう⋮⋮坂田くん。タスクがマイ
クを引き離すものの彼のつぶやきはしっかりマイクが拾っていた。
453
クソガキ呼ばわりされても気に留めぬ怜生くんは、
﹁これえ。真咲と和貴と長谷川とマキからあ。ほんでえ、こっちは
ー﹂
手に持つひとつひとつを無垢な意志を持って説明していく。うん
うんあんがとお、とひとつひとつ頷き頭を撫でてる姉の紗優。最後
に差し出したのは家族の似顔絵だ。たまらず、といった感じでひし
と紗優が弟を抱きしめる。拍手が起こる。
こころあたたまる光景だ。
ところが、抱きしめられてる怜生くんを妬ましげに見てる男子に
気づいて出かけた私の涙は引っ込んだ。
やれやれ、と入り口のほうを見たときに。
様子をうかがうおじさんとおばさんを発見する。
⋮⋮なんだ、紗優。
忘れられてない。ちゃんと大事にされてるよ。
﹁ところでおまえら、足りてねえんじゃねえのか?﹂
マイクがオンになってる。
どうしたのかと思ったらタスクと、怜生くんの肩を持つ紗優が端
に移動する。
﹁バースデーライブといこーぜ! 来い! てっめーら﹂
カーテンが開く。
全部の窓だけでなく坂田くんの背後の。
なんと、赤と黒の弾幕が貼られたステージがお目見えする。
テーブルのキャンドルも店員に客に一斉に吹き消され、わらわら
席を立つ観客は前方へ。
﹁行くぜ。せぇーのっ。Red!﹂
﹁Red!﹂
﹁&!﹂
454
﹁&!﹂
﹁Blaaaaack!﹂
﹁じゃー、ついてこいっ。Nirvanaの﹃Breed﹄ぉおお
お!﹂
今回も付いて行けなかった私は思った。
坂田くん。
あなた、ライブがしたかっただけなんて言わないでよ。
* * *
﹁ありがとうね坂田くん。いろいろしてくれて⋮⋮﹂
お手洗いの前で待ちぶせた。
悪趣味かと思ったが、でなければ常に仲間に囲まれてる彼が一人
になりそうな機会など生涯見当たらない。ホールを出たここは細い
廊下の突き当たりに男女のお手洗いがあって、幸い、人目につかな
い。
﹁礼なんか言わんでええて。オレ宮沢さんのためにしたんやで﹂
当の紗優はステージでマイク離さずいま﹃未来予想図﹄歌ってる
のがこっちまで聴こえる。タスクがピアノ弾いてるし赤と黒関係な
いし、もう、めちゃくちゃだ。
﹁和貴と二人で考えてくれたんだよね。大変だったでしょう﹂
他校の制服の子も出入りしてる。五十人どころか百人近い人間が
老若男女問わず入れ代わり立ち代わり。友達がいないなんて誰が言
ったのだったか。
呼びかけて秘密を保つだけでもさぞ骨が折れたことだろう。
﹁オレ。バンドの奴らに声かけただけやで。桜井がツテ当たってく
れてんし﹂
﹁でも。こんなに盛大にしてくれるなんて、思ってなかった﹂
455
﹁頼まれてんて﹂
後ろの洗面台に寄りかかり、尖った革靴の先を見ていた顔を起こ
す。
勿体ぶった言動と取れた。
﹁蒔田にな﹂
それが、
得意げな眼差しと共に彼の名を明かされたときに、
私の胸のうちに嬉しさと驚きが入り交ざったものが到来した。
﹁だってマキは、﹂それが言葉とともに充満していく。﹁きょ、今
日来れないって⋮⋮﹂
﹁ほんでも友達にいい思いして欲しいちゅうんは都倉さんとおんな
じやで? 来れんでもなんだってもな﹂鼻の下を人差し指でこする。
﹁宮沢さんの好きな曲っつうてもオレ、クラプトンなんかふだん歌
わへんし。せやから楽譜来栖に借りてな、えっらい練習したんやで。
あんなホモ男の歌なんかどこがいいんかまったく分からんわ。オレ
にしとけっちゅうねん﹂
⋮⋮プロと比べるのも。それはさておき、﹁やっぱり坂田くんの
生歌だったんだ⋮⋮いつもと歌い方が違うから最初分っかんなかっ
たよ﹂
﹁宮沢さんも気づかへんかったらオレ泣くで﹂
おいおいと泣き真似なんかするから。
仕方なしによしよしと頭を撫でる。⋮⋮振りだよねこれ。
﹁せやからオレゆうたやろ。厄介な男やて﹂
前髪と前髪の隙間から、ちらり、射すくめるかの瞳を覗かせる。
﹁あー⋮⋮まそですね﹂ぽりぽりと頬を掻く。
456
﹁おお自覚してんなおめでとさん。赤飯炊かんと﹂
拍手なんかされたって﹁めでたくなんかないよ。自覚したところ
で一方通行なんだし﹂
﹁そんなんゆうたら、誰も恋できひん﹂
息を吐き、顎をしゃくった坂田くん。
その動きに気を取られ。
頭の後ろを引かれ。
引き寄せられたのだと理解したのは、
額に、感触が加わったあとのこと、だった。
﹁な。にすっ⋮⋮﹂
おそろしく間近をキープしときながら、
彼は、
眉を下げ、思いのほか、
演じる彼の余裕を消し去り、
こころのどこかが痛むそれを押し隠すかの痛ましさで、悲しげに
笑う。
﹁オレもおんなじ立場になりかけとる。似たもん同士これからもな
かようしよな﹂
だ、れが⋮⋮
突っ立ったままの私を坂田くんは肩で避ける。
私は俯き前髪を払った。なんだか熱くって、彼の、か、感触が残
ってる感じがしたから。
今後人の目につかない場所で彼に近づくのはよそう。髪を払いな
がら私はそう思った。
それが。
ある誰かを炊きつけるための言動だとはつゆほどに知らなかった。
457
︵1︶
クリーニングから戻ってきたての制服に袖を通すと身の引き締ま
る思いがする。
成人したわけでもなしに。
本日四月六日から特別なイベントが開始するのでもなしに。
自動的に進級したという現実が待つだけだ。
この事実に、変わらなければならないという必然を覚える。
それは例えば。
階下から母に呼び起こされる前に自力で目を覚ますとか。
寝ぐせのひどい頭で学校に行かない、とかそういうたぐいのこと
を。
生憎の雨だった。
せっかく花をつけたばかりの桜もまもなくして散ることだろう。
海風に手伝われ。
されど、雨に濡れそぼる桜を眺めるのも悪くはない。
桜の花弁が雨粒と共に舞う風雅を網膜に刻みつつ、学校へ続く大
通りを歩く。たくさんのビニール傘の花が咲き、そしてブレザーを
脱いだ男子生徒のポロシャツの白が光って浮いて見えた。湿度を封
じ込めたかの蒸し蒸しとした、まるでビニールハウス内の暑さのさ
なか、長袖に上着を羽織れというのも酷というものだろう。
それだって校門に着く辺りで再び着用することとなる。竹刀を持
った体育教師が門番の役割を務めている。
東京でバス通学なり電車通学をする人間のかなりがそうするよう
に、天候の悪いと予想のつく日には早めに家を出る。
到着が普段より早かろうとも、生徒玄関は傘立てに傘を立てる生
458
徒でごった返していた。人と人の隙間を縫ってたどり着くまでに時
間を要す。傘を持ったまま混雑に突入し誰かを濡らすのは気が引け
る。みんな同じに考えているのだろう。
やや強引に道を切り開く男子の黒子になって前方に躍り出る。
後ろで見ている人々が気になり身を低くする。
自分の名前を探すことと。
素早く交友関係を確かめることとに専念する。
三年、一組。
担任は宮本先生だった。
見るべき最小限を確かめたので腰を屈めて群れを抜ける。
﹁おっはよー真咲ぃ﹂
同じく、一組となった紗優に出くわした。
﹁おはよ。私たち同じ一組だよ、よろしくね﹂
﹁そーなん!? やーん超うれしーっ!﹂
飛び跳ねるくらい喜んで貰えて私も嬉しい。
紗優は抜かりなくジャンプのついでに自分の名前を確かめた。⋮
⋮背が高めだと言い方はなんだがこういうときに便利だと思う。
﹁おはよ。元気そうだね。紗優、真咲さん﹂
﹁あ﹂和貴だ。﹁おはよう。みんな同じ一組だね。一年間よろしく
ね﹂
紗優に言ったことと同じことを言ったところ何故だか和貴は﹁う
っ﹂と口を押さえて横を向いた。
﹁あ。タスクこっちこっち! おっはよー﹂
好きな人を見つけることは反射的なものだ。
和貴は同じ方角を見ていたはず。
459
それが、紗優のほうが反応は速かった。
傘を畳んで傘立てに立て、タスクは背筋を伸ばしたずいぶん姿勢
のいい歩き方で私たちのところにやってきた。
﹁お久しぶりですねみなさん。お休み中はいかがお過ごしでしたか﹂
﹁⋮⋮こないだ会ったばっかやんか。なんやのその他人行儀な言い
方﹂
肘でタスクの脇腹をつつく紗優は﹁わ。やわかいタスクのお腹ぁ﹂
﹁ぶよぶよ?﹂なんて笑って和貴が加勢すると⋮⋮二人ともくすぐ
り始める。
最初は子どもの言動を好きにさせる、保父さんぽい余裕を保って
いたタスクが、﹁ちょ、ちょっとや、めてくださいぃィ﹂
らしからぬ奇声を上げ始めた頃に、
﹁⋮⋮なにやってんだおまえら﹂
威圧感を伴う低音を聞く。
確かめずとも分かるこの存在感。長身の成す影の長さといい。
止まったかの鼓動のあとに早打ちを始める、これが私の反射能力
だと思う。
確かめるのに緊張を伴う⋮⋮
﹁おっはよぉーマキ﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
髪。
切ったんだ⋮⋮。
春休み前よりも前髪のジグザグが全体に短くなってる。銀縁眼鏡
にかかって邪魔そうだったのがかかるかかからないかの長さになっ
てる。
二週間ぶりに目にする私の好きな人は。
460
あまりにも格好良くって、⋮⋮胸が潰れそうになる。
﹁長谷川は四組だ。おまえら三人は一組﹂
﹁マキは何組なん?﹂
どうでもよさそうに、
﹁三組だ﹂
︱︱ああ。
彼の口から、彼が違う場所に向かうことを聞きたくはなかった。
分かってはいても。
でも。同じ部活なんだからそれだけでいいじゃない。
意識下から追い出せない私はそう思うようにした。
あれから。
誰にも、紗優にだって自分の気持ちを明かしてはいない。
図々しいことに、もっと早くこの恋を自覚していたら︱︱告白し
ていたらいまは違ったのだろうかと想像することだってある。
私はそれをしなかったのだから、考えなおすのも栓のない話だ。
こんな感情の一切を。
普通ごみのようにまとめて片付けられないのならば、時が来るの
を待つのみ。
花をつけた桜がやがては散る︱︱かような自然の摂理と同じく、
流れゆく水のごとく傍観する⋮⋮自分の恋であるはずなのに、外的
要因に任せるだけの、私は。
アウトサイダーなのだった。
片思いとは、個性を埋没させる努力なのかもしれない。
461
二年のときと比べて生徒玄関から教室が近くなった。もっとも近
いのが一組、それから二組三組四組と順に続く。
﹁じゃあな﹂
名残惜しさを微塵も感じさせず、消えていく彼のことを見送る。
大きな図体を突っ伏して授業中に居眠りするのを。
起きてあくび噛み殺す、きつい眼差しが和らぐ涙目を。
﹁やる﹂私が欠席をした翌日にノートを突き渡す、あの言動を。
二度と、同じ教室で眺められない。
York﹄⋮⋮一日遅れたのでご立腹かもしれま
Unplugged
思い返し、それが思い出と化すことにも寂しさを噛み締めた。
﹁なしてタスクも一組来んの﹂
New
﹁坂田くんにCDを借りてまして。﹃MTV
in
せんね﹂
私に分からない単語で紗優にタスクが含み笑いで答えると、先頭
を切った和貴が﹁げッ﹂と声をあげた。
﹁朝っぱらから桜井見てしもた。最っ悪や﹂
︱︱当の、坂田くんだ。
教室の入り口を塞ぐように立っている。
ものの、表情がやけに険しいというか⋮⋮
﹁それはこっちの台詞だよ。新学期早々こーんなやつに遭遇するな
んて気分が悪いっ悪すぎるっ﹂
462
この二人、いつの間にこんな仲が悪くなったのか。
﹁んなっ﹂紗優を発見すると一変、坂田くんは嬉々として﹁みっや
ざわさーん! オレらおんなじクラスなん運命ちゃうんか? さー
さー入って入ってー﹂
﹁も、あんたっ、痛いっ引っ張らんといてやっ﹂
⋮⋮強引だ。
少々嫌がられようと彼女をそのまま教室へ引っ張りこんだ。
CD返すタイミングも見失ったみたい。
タスクは私を見て微苦笑すると、教室に入っていった。
﹁⋮⋮んだよくそ﹂
ちょっとビビる。
低い声で不快を露わにする。
まさに、悪い人モードの和貴再び。
﹁どうしたの? 紗優の誕生日のとき、二人で協力して⋮⋮たんで
しょ。その、﹂
﹁あいつとは別行動だった﹂
ポケットに両手突っ込む彼が、焼き餅焼いてる小学生の男の子に
重なって見えた。
﹁和貴に嫌いな人なんているんだ?﹂
﹁そりゃあ。いるよ﹂
ますます機嫌悪くさせそうだからなんだか、なにも言えず。
そこを、
﹁う。あーっ! 犯人はおっまえやったんかぁあー長谷川ぁああ!
一枚足りひん思うとってんや﹂
﹁どしたの?﹂私と和貴が駆けつけると、信じられないと頭を抱え
463
てわめく坂田くんの代わりにタスクが答える。﹁坂田くんは、毎年
カート・コバーンの命日に、﹃Nirvana﹄の全CDを並べて
黙祷するそうでしてね。僕が借りていたのでそれができなかったの
ですよ﹂
カート・コバーン。﹁て誰?﹂
周りにいる何人かの視線が私に集まる。
﹁⋮⋮﹃Nirvana﹄のボーカルです。退廃的な曲調を魅力と
した、九十年代前半にかけて一世を風靡した伝説的なバンドですね。
ボーカルの彼が自殺した日が四月五日でして、命日をいまだ多くの
ファンが偲びます。坂田くんもそのうちの一人だったようですね﹂
﹁死ぬことへの恐怖よりも現世を生き続ける苦痛が勝るだなんて﹂
and
Th
死への衝動は誰しもが持つとはいえ、﹁よっぽど苦しいことがあっ
たんだろうね﹂
Red
Black﹄のファンの前で言うたらいかんよ。熱狂的ファン
﹁⋮⋮真咲あんた。知らんなんて﹃The
e
は坂田だけやなくてカート・コバーンも好いとんのやし﹂
﹁はあ。そうなんだ﹂
﹁なぜに、一枚足りひんのを気づかんかってんやぁあ﹂と絶叫を続
ける彼のどこが魅力なのか、私には皆目理解できず。
のんびりした、新学期初日を迎える三年一組の教室に。
進級することへのほのかな緊張感と、新しいクラスメートと迎え
る、真新しい空気が満ちる。
談笑してる子たちばかりのなかで︱︱
先ず。
タスクがからだの向きを変えた。
坂田くんのほうを向いて微笑んでいたのがやや眉を寄せ。
入り口のほうから、
464
なにか急報でも知らせる、けたたましい足音がする。入り口近く
の何人かも異変に気づいたようだ。
窓ガラスにシルエットが浮かぶ。
轟音と呼ぶに相応しい、
蹴破るようにドアを開いた存在に、
文字通り私たちの平穏な空気は破られた。
﹁桜井はおるか!?﹂
血相を変えた男子︱︱彼は。
﹃都倉さん、教えたるわ。そいつはな、友達から女奪って遊んどる
よーなやつや﹄
⋮⋮和貴が豹変するきっかけを与えた男の子だ。
﹁僕ならここにおるけど? 見てのとーり。どったの? こっわい
顔してさー般若みたい﹂
先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った教室で、思いのほか
和貴は呑気に言う。
入り口から、
私の隣から、
進む、彼と彼とが、
教卓の前で合流する。
と、
﹁おっまえふざけんな! 知っとったんか、あいつのこと。あいつ
がっ⋮⋮﹂
胸ぐらを掴む。
465
一触即発。
なのになおも和貴は声を立てて笑う。﹁あっれえもー聞いちゃっ
たのお? 情報早いねーさっすがアシの早い陸部部長なだけのこと
はあんねえ﹂
見開いた人間の瞳が、
理性をかなぐり捨てる動きで、
掴んでいた胸ぐらを放り出す。
拳で、
振りかぶり、
力任せに、
和貴の、
ことを、︱︱殴りつけた。
叫ぶ間も、驚く間も、与えられなかった。
後ろから倒れこむ。
ブレザーの背中が床にこすれ、滑り、勢いあまって坂田くんの足
元へ届く勢いだった。
︱︱またも、
反応が遅れた私は、周りの子が絶叫するのにようやく、追いつけ
る始末だった。
なにが起きているのかを。
﹁いったいなあー﹂
なのに、和貴は。
﹁暴力でなんでも解決しようとするのはよくないよ。僕が喧嘩して
466
も水野くんには勝てないって﹂
殴られたはずなのに。
痛むこともない調子で、底抜けに明るく、そう言うのだった。
私からは後ろしか確かめられない。茶髪の髪が揺れる。口許を拭
うのが分かった。
確かめられるのは、それを受けて、いまだ青ざめ、⋮⋮怒りに震
える行動主体だった。
被害者ではなく、
加害者だった。彼は。
﹁⋮⋮水野くん﹂
﹁あ?﹂
キレているひとの瞳に捉えられる。
﹁なにがあったか知らないけど。いきなり人の教室来て、事情もき
かず一方的に殴るなんて、失礼じゃない﹂
私のほうから接近する。
落ち着いて諭すようにと脳が命令を下したけれど、下げていた彼
の拳を見て、
胃の底が煮えたぎる思いがした。
和貴を殴った拳に和貴の血がついていた。
口が切れるほどの一撃を見舞った。
彼を殴り倒したい︱︱そういう、強烈な衝動が内側から湧くのを
感じた。
467
﹁部外者はすっこんでろ! 俺は桜井に話しとんのやっ﹂
顔に唾が飛ぶ。
我を失う人間を目の当たりにしようとも、
私はまったく怖さを感じなかった。
何故なら、彼よりも抑えがたい怒りに駆られている。
和貴を隠す位置を意識する。
からだじゅうから震えるほどの白い、冷静な熱を感じる。
拳を強く固めねば自制を保てないほどだった。
﹁どけ﹂
﹁嫌だ﹂
誰も守れなかった。
紗優のことも見てるだけでなんにもできなかった。
今度こそは、守りたかった。
﹁それに。部外者じゃない。私は和貴のともだ、﹂
こういう状況で正義漢を気取るのが、
相手の怒りを煽ることを。
すこしは分かっていた、
でも守れるんなら、
矛先を、逸らせるのなら、
それでいいと、
私は、思った。
避けるつもりが無かったのか、
いや私の反射神経がかなり鈍いだけだったのだろう。
振り払う手がどんどん大きくなり、
こんな風にどこか遠巻きに、
他人ごとのように見ていた。
468
傍の机と椅子と。
倒れた椅子だかに足を取られ、
いくつ巻き込んだんだろう。
受け身を取れなかった香川の残像が自分と重なる。
ああ私もそういう、状況だ。
重力加速度に任せるしか脳のない、埃が鼻を刺激する、自分がな
にを見ているか分からず。
最低限に頭をかばい、目をつぶる。
静寂が︱︱訪れる。
遅れて、痛みが湧く。当たった机のへりからパイプから非人間の
冷たい硬さが。
痛いといってもどこが明確に痛いのかよく分からない。自分がど
んな体勢をしているかもいまひとつ。スカートめくれてたりしない
だろうか。
おかしなことに、暗闇を小蝿に似た星がちらつく。
﹁や、だ、⋮⋮あああ!﹂
紗優だった。
﹁やだねえ、ちょっと! しっかりしてえ真咲っ!﹂
絹の引き裂かれるような、叫びだった。
駆けつける紗優に、抱えられ、上体を起こされる。浜に打ち上げ
られるセイウチかなにかを不覚にも連想した。内心でも笑える元気
があるから平気なのだろう。
二度頷く。
ヘーキだよって笑うつもりが、頭がふらついて、まだできなかっ
た。
もう一つ、足音が動いた。
その主体は、なにか、机だろうか、すごい勢いで蹴り飛ばす。唾
469
棄する。
そしてこっちに向かう、
違う、
﹁水野てめえっ﹂
対象は、
﹁やっ⋮⋮﹂
怒りが次から次にウイルスのごとく感染する。
私はそれが、︱︱
彼が振るうこと自体が、怖かった。
止めたのは、
﹁桜井くん、︱︱落ち着いてください﹂
﹁タスクは黙ってろ! 人が下手に出ればいい気になりやがってて
めえ、ふざけんな! 真咲の分を殴らせろっ﹂
離せえ、と彼が絶叫するのを。
愛らしい小動物で一見平和主義者な、彼の。
いまにも暴走しかねないエネルギーを、
さっきの坂田くんよりもわめく彼をまた、誰かが止める気配が加
わる。
⋮⋮こんなに憤る和貴を初めて知った。
私は大丈夫だから。
水野くんがあっ、と声を発した。振り払った彼が罪悪と驚きと後
悔とに駆られるのを、私はこの目にしかと捉えた。
伝えたかったのに、私は目の前の星を落ち着かせるのに精一杯で。
もう一度瞼に力を込める。うっすらすこしずつ、開いた。
470
水野くんを守るように立つタスクのほかには。
後ろから羽交い絞めにする坂田くんを見た。
それでも振りほどこうとする和貴に、なにか耳打ちすると、
動きが、止まった。
それを受けてかタスクが周りを見回して口を開いた。
﹁宮沢さんは都倉さんを。坂田くんは桜井くんを、僕は水野くんを
保健室へ連れて行きます。すみませんが、そこの机は直しておいて
頂けませんか。騒ぎにしたくはありませんので皆さん、いま見たこ
とに聞いたことは先生方に黙っておいて頂けますか﹂
﹁⋮⋮なに仕切ってやがんだてめ﹂
水野くんの声は、消耗し尽くしたようで力がなかった。
﹁僕に従って頂きますよ。推薦狙いが暴力沙汰を起こすのはまずい
でしょう? それとここにいる全員もですね。もし不満があるよう
でしたら。或いは余計な口を滑らすようでしたらいつでも﹃永迂光
愚蓮会﹄が挨拶に参りますよ﹂
タスクは冷酷な笑みと共にパキパキと拳を鳴らした。
以降のことはあまり、記憶していない。
紗優の支えを借りて保健室の敷居をまたぎ、気がつけばベッドの
うえだった。
471
︵2︶
傷つくのを見るよりは、傷つくほうがましだった。
別段犠牲精神の旺盛な人間だとは思わないけども、もしあの行動
で阻止できるのなら、それでよかった。
血など流しておらず。擦り傷と軽い打撲程度だ。
なんやら都倉さんは災難が続いとるねえ、と田中先生に苦笑いさ
れるだけで済むのだし。
という気持ちを誰にも言えないで、校庭の雨を桜を、⋮⋮眺めて
いる。
やや風がつよく吹く。窓を開けられないのが残念だ。
霧雨に肌を濡らす、自傷的なあの感じも嫌いではないから。
始業式と入学式のどちらが先に始まるんだったっけ。
どちらでも構わないや。
どちらも出ないことになったし。
蛍光イエローにパンジーの紫がでかでかとプリントされたお約束
通りの色合いのツーピースでキメた田中先生が、宮本先生に伝えて
下さったそうだ。
事情を察してか深く追求せずにいてくれた。
のを利用して病人のように横になっている。
すこし、眠い。
好きな人に会える前日は、緊張か興奮か分からない事情で寝不足
となる。
どこかしら薬品臭いベッドが誘う本当のまどろみに、
意識を落としかけたときに、
472
﹁先生。⋮⋮ちょっと、外してくれんか。桜井に話があんねや﹂
本日の、二つの式に出ないのは四名。和貴と私とに加えて、
﹁⋮⋮見なかったことにしとくわ、その拳。手当てしてあげたいん
やけどね、先生すこし、腹が立っとるの﹂
﹁ツバつけとけばヘーキっす﹂
﹁雑菌が入るからやめときなさい。⋮⋮机のうえにマキロン置いと
くから﹂
出ていく気配と入れ違いに、隣のカーテンがシャッと開く。
顔を傾けて私はシルエットに目を凝らす。
右頬で触れる枕のシーツは薄手で気持ちがよかった。
﹁すまんかった。桜井。この通りや﹂
﹁⋮⋮僕より真咲さんに謝ってね。いま寝てるけど﹂
寝てない!
内心で焦りつつも寝息を偽装する。鼻からすーすー心持ちうるさ
いくらいに。
かつ会話を聞き取れる程度に。
﹁そうか。⋮⋮すこし話せるか?﹂
横になっていたのだろう、和貴がからだを起こす。丸椅子がから
からと動く。男子がする乱暴な感じで水野くんは腰掛けた。
シルエットもそれを示していた。
﹁万由が転校したのは聞いとった。やけどまっさか⋮⋮妊娠しとる
とは思わんかったぞ﹂
﹁そりゃそーだよ﹂
﹁いつから知っとったんや。おい。ま、さかっ﹂はっ、と息を呑む。
﹁本当はおまえの子どもやとかゆうなよ﹂
思わず寝息が止まる。
﹁あるわけないじゃん﹂
473
嘘のない響きで和貴が笑い飛ばしたから、⋮⋮胸をなでおろす。
や、別にいいじゃん。学生がどうのって事情をさしおいても、和
貴がその万由さんてひとが好きでくっつくんだったら、⋮⋮
なんでこんな嫌な気持ちになるんだろう。
﹁僕は、初めっから知ってた。全部ね﹂
﹁まじかよ。はよゆえや﹂
﹁万由は⋮⋮県外に住んでるし、バレないだろなーって見込んでた。
できるだけ長く、願わくば卒業まで持たしたかったんだけどね、僕
の読みが甘かった。キミたちの情報網をナメてたよ﹂
きっと和貴は頭を掻いている。
﹁伏せたのは、⋮⋮万由にとって水野は最初に好きになった人だか
りょうすけ
らだよ。こんなこと彼女口では言わなかったけどさあ、早くあたし
いいばし
のことなんて忘れて幸せになってよ亮介! ⋮⋮つう乙女心が根底
にあったんだと思うよ。分かる?﹂
﹁⋮⋮分からん。どーせばれんのやぞ相手が飯橋ちゅうことは。な
にを隠すことがある﹂
﹁僕が提案した﹂
丸椅子が震えた。
水野くんの驚きによってだ。
﹁修旅で会ったのはホントに偶然。狙ってなんか無かったんだよ?
うちのじーちゃんが法然院かんならず行っとけって薦めてさー、
彼女もばーちゃんにオススメされたんだって。そんでもってまるき
し同じ時間に遭遇するたぁなーんか運命的なもん感じるよねえ?﹂
﹁馬鹿言え﹂
﹁万由にはとても⋮⋮返しきれない借りがあるからさ。僕とつき合
ってることにしろって言った。ぶっちゃけた話するとさ、いっちゃ
ん怖いのは水野がうああてヤケクソになって陸上辞めること、だっ
たんだよ。だから矛先は飯橋さんから逸らす必要があった。僕なん
か適任しょ? ほんでもってあの子、嘘つき通せるタイプじゃない
じゃん。⋮⋮嘘つき続けるのも負担かかんだよ、つかれるよりかつ
474
くほうがキツいってのが僕の持論。幸いにしてつき続ける相手は彼
女の近くにはいない。万一のときは日本語の特性を生かして彼って
主語を僕に置き換えれば済むから保険かけといただけ。﹃つき合っ
てる﹄ってのはウソにはならない。⋮⋮ひとまず彼女周縁の事情は
彼女自身でどうにかしてもらうとして、こっちでは誰かさん一発殴
らせるくらい激怒さしといて噂バラまけばどーにかカモフラになる
だろと判断した。そんなわけで⋮⋮水野には悪いことしたね。謝る
のは僕のほうだ﹂
布団をまくり、
和貴が、言葉通りの動きをしている。
﹁桜井⋮⋮﹂
また動くと和貴は無邪気な声をあげて笑った。﹁めでたく結婚し
たのも知ってるでしょ。よかったよね? 彼女孕ましといて逃げる
ようなやつだったら僕がブン殴りに行こうって思ってた﹂
﹁アホかお、ま⋮⋮﹂
丸椅子が揺れる。
声を詰まらす、⋮⋮水野くん。
﹁あっちゃあ⋮⋮女の子以外を抱く趣味はないんだけどさーよけれ
ば胸くらい貸すよ?﹂
﹁ふざ、けんなやてめ﹂
結局。
水野くんは和貴の胸を借りたようだ。
そういうシルエットが生成されている。
﹁⋮⋮黙ってようか迷ったんだけどね。万由のきれいなとこを水野
には知ってて欲しかった﹂
怜生くんに語るのと、同じ。
初対面の私に対してしたような優しい語りかけで彼は、
嗚咽する水野くんの頭を、撫でる。
一拍置くと、和貴はそれを口にした。
475
﹁万由は、水野のことが本当に好きだったんだよ﹂
﹁おせ、えよ、⋮⋮ばっきゃろ﹂
﹁ところで万由は、無事に出産したんだね? よかった⋮⋮﹂
﹁な、んでおめえが知らねんだ。双子だぞ。ちき、しょ⋮⋮っ﹂
﹁こら痛い叩くなって﹂
安堵した和貴に対し、
何故か怒ったように、それでも、感情を震わす水野くんの嗚咽を
聞きながら。
よかった、と私も思った。
二人の⋮⋮ううん、三人の事情や関係は知らない。
私は部外者だ。
けど和貴が、水野くんのために、きっと自分を犠牲にしたのだろ
う。
誰かのために。
なにかを守るために。
そんな和貴の本当が伝わって︱︱よかった。
安心して瞼を下ろした。
﹁ま、さーきさーん﹂
夢の続きかと思った。
だってこんなに近い、
透き通る無垢な瞳が。
﹁むがあっ!﹂
蟹だ。
476
彼から見ればたぶん蟹のようにうえに逃れた。
逃れた先が悪かった。
﹁あっ⋮⋮ぐっ﹂
声にならない痛みが私を襲う。
ベッドのパイプだかに頭をぶつけた。
ぶつけたばかりだというのに。
﹁ご、めん真咲さんっ﹂和貴の手が伸びてくる。﹁痛いの痛いのと
んでけっ﹂
﹁近い、てば和貴﹂
なんの気もなく呻いたつもりが。
自分の発言にて状況を悟る。
つまりは。
さする頭に熱い彼の手が添えられ、至近距離に彼の顔があり、
ほぼ、全体重で伸し掛かられてる。目の隅に映る和貴の足がベッ
ドから浮いていた。
私が顔を埋めてさえいればいつかと同じく抱きしめられてる状況、
それよりも事態は深刻でベッドのうえだった。
とんでもなく頬が染まったと思う。
無言で降りる和貴の耳も赤かった。
﹁そろそろ⋮⋮入っても構わんか﹂
今度は廊下から田中先生の大きな声が届く。
赤くなったり痛くなったり驚かされたりで、本日の私のからだは
忙しい。
477
﹁お昼で解散ねんしもーホームルーム終わっとんのよ。帰っていい
って宮本先生ゆうとたっわ。遊んだりせんと二人とも自重してまっ
すぐ帰るんよ。特に都倉さん。あなたはからだ弱いんさけ無茶せん
ようにせな駄目やろ﹂
﹁はい、分かりました⋮⋮﹂
スカートの裾を整え、ハンガーを手に取る。
ブレザーを着ていると見るに怒ってた田中先生の表情がちょっと
和らいだ。
﹁宮沢さんが一度様子見に来てんけどね、起こしたらあかんやろて
カーテン開けんかってんよ﹂
私の安息の地は保健室にあるらしい。
家ではなく。
届けてくれたかばんを受け取り、保健室を辞す。そのまま左に向
かいかけたのが、
﹁ちょ、真咲さん!﹂肘を掴まれる。﹁どこ行こうとしてんの﹂
﹁だってみんな心配してるだろうし、顔だけでも出そうと思って。
紗優にかばんのお礼も言ってないし﹂
﹁いいんだよそんなんしなくてっ﹂
﹁でも、﹂
﹁行くよ帰るよ? ひょっとしたらこの会話を聞いてるかもな田中
ちゃんに後でドツかれても知らないよ?﹂
﹁田中先生は私に乱暴なことなんかしないもん﹂
﹁んじゃ僕が、﹂
突然に顔を背け。
咳払いをした。
⋮⋮なんとなく、
なにも言えなくなった。
先をずんずん歩く、
和貴の赤い耳を見ていると。
478
それと、やっぱり。
ただの肘を掴まれる、それがブレザー越しであっても、
和貴だと知覚できるのだった。
例えば、マキとはまるで違う。
左手だからってわけじゃなくて、
⋮⋮非常に、熱くなる。
三年生にあがってから彼と下駄箱の位置が近くなった。内履きに
指をかけ、戻し入れる。
﹁真咲さん、さっきの話聞いとったでしょ?﹂
黙りっぱだった和貴が不意に扉越しに笑う。
﹁や全然﹂
扉を閉める手に必要以上に力が入った。
﹁目が、泳いどる﹂
﹁泳いでない左上も見てない髪も触ってない! ほかになんかある
?﹂
﹁ないよ? ほんでも真咲さん、⋮⋮右を振り返ってみようか。彼
はキミに用があるみたいだよ﹂
和貴が見あげる私の背後には、
ずぶ濡れの水野くんが立っていた。
﹁申し訳ありませんでした﹂
頭を下げると、濡れた短髪からまた水が滴る。額から前髪から何
本も雨の筋が走る。
﹁い。いいよ全然。気にしなくって﹂
それよりも雨に濡れた彼の全身が気になる。⋮⋮駅伝選手っぽい
ショートパンツにタンクトップ。風邪引きそうだけど、練習中なの
だろうか?
﹁真咲さんて体重軽いしまっさかあんな飛ぶとは思わなかったしょ
479
? びっくりだよね。足、浮いてたっけ?﹂
﹁正直な。⋮⋮あんま力入れたつもりなかったんけどな﹂
まじまじと水野くんが自分の手を見つめる。
私は鳥か紙飛行機かなんなのでしょう。
﹁どっか、痛むとこはあるか﹂
﹁ぜんぜん﹂
﹁なんかあったら。いや⋮⋮なくっても、いつでも行ってくれ。病
院とか行かんかっても、﹂
﹁本当に、平気だから。でもありがとう。水野くん﹂
彼の立つ位置に水たまりができてる。﹁⋮⋮半日で帰れるのに。
練習して行くんだね﹂しかもこの雨のなかを。
﹁一日でも欠かすとからだが鈍る﹂
﹁水野は練習熱心だかんね。僕とは違って﹂
水野くんと一斉に和貴を振り返った。
﹁⋮⋮なんだよ﹂
私たちの目線を集めて和貴は戸惑う。
﹁女にうつつ抜かしとっとああなる。都倉、気ぃつけいや﹂
﹁ありがとう水野くん。あんなひとはほうっておいて、陸上部の練
習、頑張ってね﹂
ぬわにぉおっ、と叫ぶ和貴に対して、
水野くんは初めて目にする笑みを乗せて、雨の降りしきる屋外へ
戻っていった。
和貴とはまた違う綺麗な走りを、あたたかいような気持ちで見送
る。
さっきまでとは違う気持ちだった。
﹁わっ、急に触らないでよ﹂
出し抜けに後頭部に触れる手があった。
﹁頭ぼさぼさじゃん。⋮⋮結構いろんなとこぶつけたんしょ? ち
480
ゃんと水野に言わなきゃ駄目だよ。痛かったんだって﹂
﹁ううん、いいのそんなの﹂
﹁いいのって⋮⋮よくはない﹂
それよりも私。
じぃっと見つめてると和貴はまた、目の丸い、子リスに似た顔を
する。
﹁な、に? 僕の顔になんかついとる?﹂
﹁目と鼻と口が。じゃ帰ろ﹂
気にしてか頬をなぞる和貴を背に、
こっそり、含み笑いをする。
他人行儀に、水野くんって呼んでたのが、いつの間にか水野、に
戻ってる。
友達だった頃は、そう呼べる間柄だったんだろうね。
和貴は基本男子を呼び捨てで呼ぶから。
振り返ると和貴はまだほっぺたを気にしてた。
目が合うと、ブタ鼻を作る。
それであの奇跡的な表情。
お腹を押さえて笑う。
﹁真咲ぃー! あんた大丈夫やったかーっ﹂
でっかい声がする。
下駄箱のほうから紗優がやってきた。
ズックなのに水野くんの残した水たまりを踏みつけ、
私にハグ。
﹁あんもー心配してんよ。痛いとこないが?﹂
﹁へーき﹂
頭のぼさぼさがそんなに酷いのか。紗優が美容師みたく素早くポ
ケットから櫛を出して整えてくれた。
481
﹁宮本先生にだけは唯一隠し通せませんでしたが。穏便に処理して
くださいました。安心してください﹂
﹁頭をそれ以上ぶつけるな。馬鹿になる。いや方向音痴が治るかも
しれねえな﹂
タスクに、マキも⋮⋮。
土足厳禁関係なしに。
﹁あそうだ紗優。かばん、ありがとう﹂
﹁そんなのいーて! でもなんか顔見たら⋮⋮元気そで安心した﹂
﹁私意外と丈夫なんだよ﹂
﹁自分で意外とか言わねえだろ。病弱ぶってんじゃねえぞ﹂
﹁れ。部活どーしたのそういや。全員お揃いで﹂
﹁趣向を変えてたまには課外授業と行きましょう。目的地はきよか
わです﹂
﹁⋮⋮カラオケ?﹂
﹁遊びやていいなや﹂
ええ?
私と和貴は病気で早退扱いですよ?
というのに。
傘を差し肩を並べ歩き出す。
目的地を共に。
ここが、私の居場所だ。
あたたかくって大好きな。
そして永遠に続くものではなく。
こんな私たちを、散りかけた春の桜と、やや強い風に煽られる雨
とが、送り出してくれた。
482
︵1︶
﹁部長を務めます三年四組の、長谷川祐です。おそらく殆どの方が
初めましてですね。本日はパソコン部の部活紹介にお越し下さり、
ありがとうございます。⋮⋮と、堅苦しい挨拶はここまでとして。
部活見学は本日から三日間。三日もあるなーなんて思っていると光
陰矢のごとし、すぐ終わってしまいますよ。そして初めのうちに言
っておきましょう。うちの部活紹介に関しては出はいりはご自由に。
僕の話を聞いていて何か違うな、他の所が見てみたいな、と感じた
ら欲望のままにどうぞ、席をお立ちください。途中からご覧になら
れるのも全く構いません。好きに見て回り迷うのはこの時期限定の、
貴方がたの特権です。遠慮などしてる場合ではありませんよ? 中
には⋮⋮いったん説明を始めたらば離席を禁止する部活もあるよう
ですが、本来彼らがそのような権限を持たぬことをご承知おきくだ
さい。彼らが貴方がたのその後の高校生活に責任の一切を負うわけ
で無いことも。なお。パソコン部については説明が十分の質疑を五
分、休憩が五分のサイクルを日に三四回行う予定です。あ、そこの
貴女。ええそうです、本当にお好きにされてください。⋮⋮注目を
集めさせて逆効果ですね。申し訳ない﹂
途端に笑いが起こる、消えぬうちにすかさず、﹁そちらの貴女、
早くからいらしてたようですしどうぞおかけください。⋮⋮初めの
うちは気がついたらお声がけしますがそのうち勝手にされてくださ
いね。席があけばとっととお座りなさい。くれぐれもイス取りゲー
ムなどなさらぬように﹂
格段に人数を落とし数名が笑った。
それにしてもなんとまあ、⋮⋮見学者の多いこと。普段の部活動
が五人。なだけに現在非常にせせこましく感じられる。満席のうえ
に壁沿いに立ち見するひともいるうえに入りきらず廊下から顔を覗
483
き入れる子もいるほどだ。
このぶんだと広い会議室でも借りるほうがよかった。
﹁では︱︱本題に入ります。入る前に。現在パソコン部員は僕と僕
の後ろにいる彼らの計五名、全員が三年生です。募集は若干名。ス
クリーンにもある通りで、本当に数名です。五名以下とみなしてく
ださい。五名の所に新しく十名を加えては、引き継ぎの意味で問題
がありますし、すぐ脱退者が出るどこかのアイドルグループと同じ
現象がたちまち巻き起こることでしょう。⋮⋮ということで。大人
数で和気あいあいと楽しみたいなー、と希望をお持ちの方の期待に
は添えられません、ご了承ください。活動内容も地味です﹂
何人かが席を立つ。
タスクが手招きをし、座ろうかまごついてる子を誘導する。
﹁部の創設は昨年の九月。方向性がまだまだ固まっておらず、赤ち
ゃんの歩き始めの段階です。活動は週に三回。以外の日に集まるこ
とも多いのですが、⋮⋮この辺りに関してはこれから入部される方
の都合含めて決めていきたい所ですね。この件だけでなく以外の部
分でも、おかしな所は変えるなりして頂きたいと思っています。僕
もあと一年と在籍しておりませんので。先輩に顎で使われ、パシリ
に走らされるよりかなにか、新しいことでもしてみたいなあ、学業
優先で、そこそこに打ち込める部活が欲しいなあ、という方にうっ
てつけと思います﹂
パワポと資料は用意してあるんだけど、⋮⋮タスクほとんど使っ
ていないや。
そのぶんみんなが集中して聞き入る。
一部を除いては。
﹁さて活動内容。お配りしたプリントの三頁目ですね﹂ようやく権
利を得たかの一同が慌ただしくプリントをめくる。﹁一言で言いま
しょう、パソコンを使うことならなんでも、です。大まかに分ける
と活動は主に三つ。第一が、学校行事に関する資料のデータ化です。
去年ですと文化祭に体育祭、行事からやや外れますが吹奏楽部の演
484
奏会のパンフレット原案作成も行いました。⋮⋮僕ら生徒が扱える
データは限られています。過去のテストの点数などいくら気になろ
うとも盗み見ることは出来ません﹂そのタイミングで席を立つ男子
が現われ、どこかからか失笑じみた笑いがさざめく。﹁第二が、僕
たち自身の、パソコン関連の知識の底上げです﹂タスクの調子に変
わりはない。﹁パソコン検定二級レベルの知識を身につけること。
Office⋮⋮Word
将来的に仕事で使用するであろうソフトの操作に慣れること、です
ね。扱うのは主にMicrosoft
やExcel、それに一太郎も時々。大学に入ればレポートや論文
の作成でWordを使いますので、操作に慣れておいて損はないと
思います﹂
メモを取る子の姿も見られる。
﹁第三が、不確定要素。つまりは、この部活になにが足りないのか
を僕たち自身で考え、動く、ということです。繰り返しになります
が、部員は現在三年生のみ。引退後は残りの貴方がたでこれからの
部を動かしていくことになるのです。好きなようにやってみたい、
こういうことをしてみたい︱︱そんな、希望や夢をお持ちの方はお
られませんかね? なお、活動時間は六時半まで。六時で終わる日
もあります。それ以上続けてもいまのところは仕方がありませんの
で、短時間で集中して行うよう務めています。部を離れれば部員同
士で遊びに出かけることもありますね。遊ぶ部分と以外のメリハリ
をつけること。何事も楽しんで行うというのが僕たちのモットーで
す。さて。共感された方や興味をお持ちの方、貴方の入部を心より
お待ちしております﹂
お辞儀するタスクに拍手が起こる。
﹁では、質疑応答に入ります。ご質問のある方は挙手を︱︱﹂
紗優が席を立ち、電気を点ける。
真っ暗から室内が一変。この眩しさに瞳孔が収縮するのは全員の
はずだ。
否。
485
寝息立ててる例外の彼の椅子を私は蹴った。
* * *
﹁大変だったでしょう。タスク、お疲れ様﹂
その日だけで五回もプレゼンを行った彼に声をかけた。
﹁いえ﹂ノートパソコンの電源を落とし、やんわり微笑む。﹁僕は
喋ってるだけです、大したことはしていません﹂
いやいやいや。
座ってるほうが楽ですよ私なんにもしてませんし。
部員のくせして熟睡してる人もいたくらいですもん。
﹁けどですね⋮⋮すこし、やり方を変えたほうがいいかもしれませ
んね。二回連続で聞く方もいました。やはり、座って聞くだけでは
退屈します。明日辺り人数が許せばパソコンの操作をさせるなどし
てイメージを掴んで欲しい所ですが⋮⋮﹂
﹁それなんだけど﹂持っていた椅子を床に置いた。﹁気になること
があるんだよね﹂
﹁なんなりとどうぞ﹂
タスクはノートパソコンを閉じると教卓に寄りかかり、私に向き
直る。
﹁そのね。部活っていうより、違う、⋮⋮目的の子がいると、思え
て。気がかり、なんだよね﹂
文化部なんて日の当たらない地味な部活だ。⋮⋮かなりの女の子
がそうみなす。
通常は。
教室前方にあんな美男子を二人も並ばすのがいけなかったのか。
ひそひそ話をしてる女の子たちや、タスクに見向きせず彼らを鑑賞
しにきた子も現われた。
あんまり態度が露骨な場合には子リススマイルが穏便に教室外に
連れだしたけれど。
486
紗優によると二年の女子も紛れ込んでいたらしい。
﹁⋮⋮つまりは、貴女は冷やかしで入部される方が出てこないかを
懸念されているわけですね﹂
ずばり要約する、タスクの笑みに別段、意外さや驚きも見当たら
ず。
穏やかさ成分百パーセント。
なので私は。
自分が変な言いがかりでもつけているようで、急に、恥ずかしく
思えてきて、﹁でもま⋮⋮そういう目的があっても、いいんだけど
ね。その、部活をしてみたいって気持ちが大事なんだし﹂
私だって当初、ハッキリとした意志など持たなかった。
流されるなかでこの場所をいつの間に気に入っていた、それだけ
だったし。
と自己を顧みると果たして彼ら目当ての子たちを責める権利など
あるのか?
いやない。
だっていまだ彼らに見惚れることが、あるし⋮⋮そんなこと言い
出したらタスクのエリートっぷりに惚れ惚れすることもあるし不意
に紗優の顔の整いっぷりに感動することだって、⋮⋮
﹁選別をするつもりです﹂
﹁えっ?﹂
非情な言い回しとは対照的に、タスクは紳士的に目を細める。﹁
入部に際しては簡単なテストをするか、志望動機を書いて提出させ
るか、あの人数が殺到するようでしたら先生か僕らで面接をするか
⋮⋮手は色々とあります。具体的にどんな手を打つかはみんなで決
めましょう﹂
487
﹁気づいてたんだ⋮⋮﹂
﹁目を見れば分かりますよ﹂と中指で眼鏡を押し上げる。﹁僕の話
に興味を持てているのか或いは別の何かに心を奪われているのか。
例え二人でお喋りなど分かりやすい言動を取らずともね? 僕の見
積もりではどうやら前者は一割弱。残りの方々は全員ここにインプ
ット済みです﹂こめかみを指先でつつく。﹁⋮⋮これほどの人数が
訪れるとは少々予想外ではありましたが﹂
長谷川先生。
私めの心配は杞憂にございました。
﹁それよりもですね都倉さん﹂椅子を持つ。私が別室に運ぼうとし
た椅子をだ。
﹁あ、それは﹂
﹁先程あの方々の話をされたときにもし、罪悪を感じたのでしたら
それは、⋮⋮﹂
貴女自身がそのような想いを多少なりとも抱いておられるからや
もしれませんね。
含み笑いと共に出ていく。
余裕が似合いのタスクが。
私はなんのことだか分からず。
十秒。
二十秒。
﹁あ。⋮⋮ああっ!﹂
三十秒経過した頃にようやくタスクの意図を理解した。
﹁ちょっとタス、む、﹂
ぐぅ、
と変な感じで声が飲まれる。
痛い。ポロシャツの固いからだに、
出会い頭にぶつかった。
488
弾け飛んだ。
いや尻もちはつかなかった。
以前にもこんなことがあった。
というより、
おんなじ、相手だった。
﹁てんめ⋮⋮﹂
直撃された胸の辺りを押さえている。
そんな。乙女チックな仕草、
に見えるはずが、
﹁前に忠告しただろが。もう少し周り見とけと﹂
あるわけがない。
﹁いったい同じことを何度言わせる⋮⋮﹂
ケ○シロウばりの強面で拳を鳴らし、こっちにやってくる。
ひでぶー! てやられる悪役が脳内に急速に再生される。
おがあさんだずげで。
﹁ごめっ。ごめん﹂
てかなんでそんな怒ってんの。
当たった。
かかとが教壇の段に。
逃げ場を無くし。
489
水野くんより断然怖い。
顔面蒼白の、そら恐ろしい彼が目前に。
すぐそこに︱︱
﹁ひぎゃあ﹂
かばうべきは頭だ。
﹁︱︱油を売るのも結構ですが、蒔田くん。こちらの部屋の椅子を
全て運び終えてからにしてくださいね﹂
どうやら、⋮⋮タスクに救われた。
頭を抱えていた体勢から戻ると、マキは冷静に﹁ああ﹂と頷いて
いた。
まとう青っぽいオーラも同時に収束したようだ。
﹁片付けが終わったらみんなで話し合いの時間を持ちましょう。三
十分ほどで。今日の反省会プラス明日の方針固めです。視聴覚室を
片付けている桜井くんと宮沢さんには既に伝えてあります。そこで、
蒔田くんには議事録をお願いできますか? せっかくですのでWo
rdで新しいフォーマットを作ってみましょう。使い勝手は僕も気
になっていましたし。提出期限は木曜の朝イチでお願いしますよ﹂
﹁てんめ﹂
おそらくマキが怒りの形相でタスクに向かう。
タスクは頭を抱え込むどころかそれどころか、
﹁⋮⋮口ではなく手を動かしましょうね⋮⋮﹂
眼鏡の縁に触れる余裕をもってして、サディスティックとも見て
取れる笑みを浮かべる。
﹁第一蒔田くんあなた、眠気覚ましに運動が必要なのではありませ
んか?﹂
490
それを聞くと。
舌打ちしてマキが教室後方へと方向転換。散らばってる椅子を重
ねにかかる。
タスクが彼を見やり片方の肩をすくめる。
私はタスクと顔を見合わせて小さく笑った。
﹁おっまえら、んなとこ突っ立ってねえでとっとと片付けっぞ!﹂
強がるマキの叫びが響いてまたひとつマキが愛しくなった。
491
︵2︶
﹁それでは石井さんから順に、自己紹介をして頂けますか﹂
倍率がとんでもないことになったために結局書類選考となった。
入部希望者が書いたのは、パソコン部を志望する動機と入ってした
いこと、この二点。
選考は主にタスクが行った。私たちも最初はチェックしたものの
⋮⋮
仏頂面な彼は﹁何を基準にすりゃあいいか分からん﹂と投げ気味
だし、
フェミニストな彼にいたっては﹁僕女の子を振り分ける趣味なん
かないしタスクに任すよ﹂と更に投げ気味だし、
タスクはタスクで﹁ではその間に、このテキストの課題をマスタ
ーして頂けますか、二週間で﹂とちょっとした課題をふっかけるし。
それでも私たちは二十頁余の課題を選んだ。
ふるい落とすことへの恐怖心があったのかもしれない。
タスク一人に押し付けることにこそ罪悪を感じなくもないのだが、
一方、絶えず微笑を浮かべる長谷川祐の胸中は彼にしか分からない。
さて宮本先生と下田先生を迎え、いざ部員のお披露目ときたもの
なのだが。
﹁石井ななみでぇーすぅいまちょープリクラハマっとんのぉーこな
いださー美白モードで撮ってみてんてー完全鈴木その子でさーあっ
れ、マッジですげくね? つかもーすぐ三千枚なんよーセンパイさ
ーあまっとんのあったらくれる?﹂
ガングロギャルです。
センター街うろついてそうな感じむしろ私懐かしいです。
492
和貴ばりのキンキンですけれど緑川高校は染髪禁止ですよね宮本
先生、いいんですか。
金に近い巻き髪を指先で弄ぶ。コテみたくくるくる巻いてる。流
石に手鏡は持っていないけども、
⋮⋮一体何を書類に書いたのだろう⋮⋮。
かわしま
しゅうさく
﹁あ。川島です﹂出番に気づくのに遅れた、プリクラ何枚持ってる
か頭のなかでカウントしてたのかもしれない。﹁川島秀作です。二
年です。えとパソコン詳しくないんすけどおれ頑張ります。よろし
くお願いします﹂
いがぐり頭の彼は、
言ってもいいですか。
寿司屋さんです。
頭にハチマキ巻いたら完璧に板さん。もみあげの短さと剃り残し
の青さ加減といい。
目が合う。細い目を細める人のいい笑顔を返された。へい! ら
っしゃい! い、⋮⋮いかんいかんこれでは。
ひろゆき
﹁一年四組の安田裕幸です。よろしくお願いします﹂
簡潔に最低限を述べた彼は、部活見学の際に私が応対したので記
憶している。
部活で覚えた操作を駆使したつもりが彼のほうが千倍早くて逆に
恥をかいた気分だった。
タイピング技術で彼が周囲の女の子の注目を引いたわけではなく。
要するに、かっこいい。
つり目のややキツい目元が適度にとっつきにくく、レイヤーの入
った前髪が散らされてるのがまた似合ってる。JUNON辺りの街
493
頭スナップで捕まりそう、前の学校にこんな感じの子がまさに載っ
ていたのを思い出す。
凝視するのが私の悪癖であり、
視線がかち合った。
綺麗なアーチに整えられた眉が寄る。
深い皺が刻まれ、⋮⋮顔ごと逸らされた。
﹁以上が今年の新入部員です。では、先生方から何かありましたら
お願いします﹂
タスクがやや身を浮かせ宮本先生のほうを窺うと、
﹁うむ。部活のことはすべて長谷川に任せきりでおれにはなんも分
からん。せいぜいみんなで頑張ってくれ﹂
一同ずっこける。
﹁み。宮本先生それはあの⋮⋮﹂本当に椅子から落ちた下田先生が
立ち上がると、満足気に宮本先生は肩を揺らす。﹁私にパソコンの
知識はないからな。その方面で頼るんならこちらの下田先生が適任
だ。⋮⋮部長の長谷川から聞いとるやろが﹂正面を向いて座り直す。
﹁うちの学校にパソコン部は無かったんだ。言うなればきみたちよ
り半年だけ先輩っつうぴっかぴかの二年生や。なにをやろうかって
のにおれらは一切口出しはしとらん。データ管理すべきとこがあれ
ばしますよ、つって先生たちの仕事手伝うが考案したんも彼らや。
おれがしたんがは首を縦に振るか横に振るかだけやったな。ほんで
も、⋮⋮立派にようやれたもんや。いままでに前例の無いことに、
ここにおる先輩たちは果敢にトライしている。石井、川島、安田。
きみたち新入生も先輩方の姿から学んで、やがては追いぬくことを
意識してほしい﹂
三人が背筋を正して﹁はい﹂と答えた。
494
困り笑いをするひとがただ一人、
﹁⋮⋮そこまで言われてしまうと僕の言うことがありませんよ﹂
がははとまた宮本先生が笑い飛ばした。
眼鏡の縁に触れ、下田先生は授業をする時の顔へと切り替える。
﹁副顧問の下田です。⋮⋮知っての通り情報処理の授業を受け持っ
ています。分からないことがあれば何でも聞いてください。授業の
こと以外でも部活や学園生活のこと、⋮⋮何だって構いません。つ
まらない疑問だともし思えたとしてもそれを持つことが大切です。
何故、と疑問を持つ所から科学はスタートしたのですから。⋮⋮時
々皆さんの様子を見に来ます。その時は気軽に話しかけてください
ね﹂
緑高の先生のなかでもかなり若い。二十七八歳だろうか。
いつも淡いグレー系のスーツを着ていて、長身。メタルフレーム
の眼鏡が似合いだ。女子生徒に最も人気のある先生だと思う。
下田先生のそんな理知的な微笑を見ていると、⋮⋮マキも将来こ
んな感じになるのかなと、他の子とは違う意味でどぎまぎしてしま
う。
﹁宮本先生。下田先生。ありがとうございました﹂顧問を兼任とい
うことで他の部で似たり寄ったりの行事があるらしく、先生方は足
早にパソコンルームを出ていく。
出ていくのを見送り、タスクは小さく息を吐く。﹁さて。するこ
とが山積みですね。連絡網や名簿の作成。座席決めにIDの取得⋮
⋮﹂
楽しげとも憂鬱とも取れるため息だった。
振り返ると、彼は教壇にせせこましく座る新入部員に気づいて微
笑みかけた。
﹁先ずは席割りを決める所から始めましょう﹂
︱︱新しい座席は。
495
私と紗優の間に寿司屋な川島くんで、私の左隣につり目の安田く
んとなり。
私の向かいがマキというのは変わらないけれど、その後彼は和貴
との間に座るギャルな石井さんにかかりきりとなり。
離席率が高くなり、彼を視野に入れられるチャンスが減った。
帰り道は、川島くんと石井さんとは和貴たちと同じ方向だから校
門で別れるけれど、タスクと⋮⋮やがてはマキと二人きりだった駅
までの道が。
三人となった。
斜め後ろではなく私は海野在住の安田くんを尾行るように歩いた。
新しい子たちの入部は嬉しかった。
野菜室に新鮮な野菜が加わる。新しい空気が持ち込まれ、周囲を
リフレッシュする。
この気持ちのいい空気をみんなが楽しんでるのは分かってたし、
タスクの負担もちょっとは減るかなと、ううんしごきに磨きがかか
ってる節も見られた。
好奇心に瞳を輝かす子たちに教えるのにもやりがいを感じた。
一方で。
マキと過ごせる時間が激減した。
そのことに対し、苛立ちを感じる自分が存在した。
私は、彼の、何者でもない。
大切にしているひとがいるそれは分かっている。恋心を押し付け
る腹心など持たない。
単なる同じ部活の部員で⋮⋮友達と呼べる親しさなどなくっとも、
ガラスケースの向こうの決して、この手に触れてはならないまば
ゆさを眺めているだけの。
496
ひとときさえあれば、それで十分だった。
みんなの前で彼を好きな言動を取ってはならないし。
唯一、彼と二人になれるときが⋮⋮すこしは。
共通項を持つ間柄としてかすかな、素直さを出せる瞬間だった。
自分だけを見てくれ、話しかけてくれ、たまに笑いかけてくれる。
その感情が私とは異なる種の仲間意識であっても、
滅多に顔を出さぬ満月のひかりのように、
それを浴びれるのがほのかな私の幸せだった。
︱︱
この考えに至る度に私は自分を嫌悪する。
二面性。二重性。本音と建前。罪と正義。天使と悪魔そして裏の
顔を。
みんなが勉強目的で臨んでるさなかに私は別種のやましさを持ち
込んでいる。
本音の志望動機を書かされれば私は先ずここに居られないことだ
ろう。
和貴やマキ目当てで入部志望した子たちのほうがよっぽど正直だ。
好きな人と一緒にいたい。
こんな、誰にも言えないものを隠し持つ。
この隠し持つ罪悪を、積極的な他者への親切なりに転換すること
で解消しているのではないのかと。
自分さえも疑えるようになった。
これは例えば、紗優が積極的な好意を表して私が応えていた、そ
してすこしずつ彼女に興味を持ち始めた段階とは違う。
私の意識を変えた要因は、他者の実在だ。
つまりは、︱︱
497
マキに彼女さえいなければ。
新しく入ってきた子たちさえいなければ。
いままでどおり、私は彼を好きでいられる。
ここまで考え至り、自分が恐ろしくなった。
誰かから私は存在を否定されれば苦痛を感じる。小澤さんのこと
がなくっともそんなのは分かっている、なのに。
私はこころのどこかで誰かにそれを強要している。
だから、どう振る舞えばいいのか分からなくなる。
彼と。
彼の関わるところに居る、すべてのひとに対して。
偽善の仮面を被った、自分の醜さに気づいた私は。
こんな葛藤など。
誰にも打ち明けられるはずがなかった。
498
︵3︶
﹁うす﹂
息が、止まる。
伏せていた目をあげ、預けていた背を壁から離し、組ませていた
長い足をほどく。
﹁長谷川からこいつを預かってる﹂彼は鍵を空に泳がす。﹁下田と
の打ち合わせが長引きそうだから、部室開けておけとな。おまえ、
いまから行くのか﹂
先生を呼び捨てにしてる。
明らかに出待ちしてたのに。
そんなのより問題なのは、
﹁あ。うん⋮⋮和貴と紗優は居残りがあるから、先に行っててって﹂
﹁そうか﹂
なんの意識も持たずに進む背中を。
こんなにも意識する。
二人で歩く、なんて︱︱最後にこんなことがあったの、
いつだったっけ。
心臓が早鐘を鳴らすなんて、異常だ。
それどころか振り返りざまに笑いかけられる。
﹁︱︱来週。二年の連中が修学旅行に行くのは知ってるか? ゴー
ルデンウィークから続いて連休に入んだ。まったく、フザけてるよ
な﹂
フザけてるのは私のほうだ。
緊張する収縮するこんな、
話しかけられるだけで顔が、
﹁どうした﹂
赤くなる見られたくない気づかれたくない、
499
﹁熱でもあんのかおまえ﹂
﹁やっ、﹂
屈んで、覗き込まれるのが怖くて、
伸びてくる手を振り払ったそれは、
思いのほか派手な音を立てた。
周りの注意を引くのが分かった。
﹁ご、めん⋮⋮本当。なんでもないから⋮⋮﹂
﹁そうか﹂
すり抜けていく彼は。
ああ。
手のなかに鈍い痛みが残される。
なにをしたいのかが分からない。
離れられると、近づきたくなる。
近づかれると、遠ざけたくなる。
肩を並べることなど選べず。
突き進む彼の勇気を私は、眺めるだけとなる。
透明で分厚い壁が私と彼の間にそびえている。
﹁⋮⋮どうやら入れ違いだったようですね。蒔田先輩﹂
﹁どけ。いま開ける﹂
悪びれもせず、言葉通り安田くんを手で退けて鍵をドアを開いた。
﹁川島くんて今日お休みなんだっけ﹂
話しかけたつもりが、
﹁修学旅行の準備とか、あるんだろうね。⋮⋮懐かしいなあ﹂
彼はディスプレイから視線を譲らない。
500
﹁私ね、中学のときは北海道に行ったの。安田くんは行き先どこだ
った?﹂
﹁知りません﹂
﹁そっ⋮⋮﹂
パソコンルーム一室に現在三名が入室。隣の安田くんはおろかお
向かいさんも超沈黙者だしとどのつまり、気まずい。
タスクから話しかけられれば嬉しそうにするのに、
私からだと不服げで、無視されることもしばし。
で更に話しかけるのも、自分が対小学生に道徳をとくとくと説く
ヒスな女教師に思えてくるというか⋮⋮
ため息を押し殺す。
各自黙々と打つ。
会話ゼロ。
空気が重たく感じるのは私の気持ちのせいだろうか。
﹁ねえ安田くん。サーバに議事録が二つあるんだけど、どっちか消
していいよね。紛らわしいし⋮⋮﹂
﹁バージョン2のほうです﹂
﹁分かった﹂
⋮⋮タイピングで有能の程度が掴める気がする。
例えば隣の彼はピアノを奏でているようで。
耳を澄ませても︱︱綺麗なものだ。スピードと精度といい、タッ
チそのものが。
不器用な自分と比べるとことさら。
感心しつつよそ見を止めにする。
﹁ちがっ﹂出し抜けに黙っていた彼が叫んだ。﹁違います消すの、
1のほうですっ﹂
うわ、﹁ごめん、もう消しちゃった⋮⋮﹂
﹁はあっ!?﹂
慌ててこっちに来てどんな操作をされても時既に遅し。
﹁しっかもこれ。更新かけたばっかなんでバックアップ取れてませ
501
んよ。なんてことしてくれてるんですか﹂
しっかもShiftDelete同時押しをした。ごみ箱にも残
っていない。
﹁ごめん、なさい⋮⋮﹂
﹁もういいです﹂
私のパソコンを諦めて安田くんは自席に戻る。
そのまま画面に戻るのが常だけれど、
﹁なんであなたのようなひとがこの部にいるんですかね﹂
敵意を含んだ、一瞥だった。
え? とか間の抜けた言葉だかを返したと思う。
﹁長谷川先輩はソフトとハード両方に詳しい。プログラミングも組
めるんですよね。教えるのもそこらの教師よりも上手です。それに
ひきかえ、⋮⋮あなたといったら知識も言動も素人以下。完全に足
手まといですよ﹂
⋮⋮
タスクの凄さは知ってる。
でも。
あのレベルに追いつけなくっても、頑張ってみようとか、ここに
いたいって気持ちだけじゃあ、⋮⋮駄目なのかな。
﹁それとも﹂
なめらかなタッチで打ち続ける安田くんがふと、
﹁色目でも使っているつもりですか﹂
全身の血が逆流するかと思った。
﹁⋮⋮待って、なに言って⋮⋮﹂
﹁感情が透けて見えるようなんですよ﹂
画面から目を離さず、タイプ音を奏で、
なにをこのひとは言おうとしているのだろう。
502
﹁分かりやすい人だねって言われることはありません? 桜井先輩
辺りにでも、からかいながら⋮⋮﹂
動く口が嫌だ、
見てるだけの自分が嫌だ、
それ以上は、
﹁教えてあげましょうか、僕が確信していることを。あなたは︱︱﹂
彼のいる前で、
﹁うるせえっ!﹂
耳を塞いだ私には、
別の怒号が響いた。
﹁⋮⋮くそ。いい所まで行ったんだがな⋮⋮間違えて隣クリックし
ちまった﹂
恐る恐る声の正体を確かめる。
﹁てめえらがぎゃーぎゃー騒ぐからだぞ。俺の﹃マインスイーパ﹄
初勝利がお預けだ⋮⋮﹂
⋮⋮マキ。
そんなに好きなんですかマインスイーパ。
顔覆って項垂れてるしそんな、大げさな。
﹁おい安田﹂
瞬間的に寒気を覚えた。
指の隙間から覗く瞳の威圧に。
背筋が冷えるほどの迫力をもろに向けられ、安田くんの顔色が変
503
わる。
﹁いまのはおまえの指示ミスだろ。てめえさしおいてなに勝手にキ
レてやがる﹂
﹁だって蒔田先輩っ。こ、このひとっ﹂
﹁⋮⋮言い訳を聞くのは嫌いなんだ。他を当たってくれ﹂
背もたれに背を預けふんぞり返る。
禍々しさを放つマキから視線を外せず、安田くんが生唾を飲む音
をいやに大きく聞いた。
﹁蒔田先輩は、⋮⋮い。いつからそんなになったんですか﹂
﹁ああ?﹂
気圧されていたかに見えた。
が彼は、震えを克服し、きっぱりと言い切った。
﹁サッカー辞めて桜井先輩と。このひととつるむようになってから、
なんにも夢中になれないただの腑抜けになったんじゃないですかっ
!﹂
﹁ちょっと﹂
言っていいことと悪いことがある。安田くんを殴りたい。
﹁⋮⋮俺の話が関係あんのか﹂椅子を立ちかけた私をマキの静かな
声が制した。﹁なあ安田。部活見学んときにプリント撒かれただろ。
あれに、部の四箇条が載ってるのは知ってるか?﹂
四箇条? ってああ、なんかタスクがモットー作りましょうって
言って作ってた。私は賛成した。
﹁内容は覚えていませんけども、プリントは手元に⋮⋮﹂
てか。
プレゼンマキは寝てたくせによく言うよ。
﹁パソコン部のモットーはこの四つ﹂
かばんから探る安田くんの様子を確かめながらマキは言う。
清く
正しく
504
美しく
思いやりを
﹁あれはな、俺ら四人のことを指してんだ﹂
ここで。
前かがみに座り直すマキが、私に︱︱微笑みかけていた。
得意げに片方の眉をあげて、口の端をわずかに緩めるあの表情で。
﹁清くは俺﹂と親指で自身を指す。﹁正しくが和貴で美しくは宮沢。
三つじゃ一つ足りねえから長谷川は足した﹂
美しくだなんて、紗優に教えてあげたら喜ぶかな。
﹁長谷川が都倉のことを考えた時に、真っ先に浮かんだのが思いや
りという言葉だったそうだ﹂
それってどういう⋮⋮。
私が首かしげる一方でマキは安田くんに話しかけている。
﹁おまえがこいつをシカトしていたのは知っている。だが一つ訊く。
一度でもこいつのほうからおまえをシカトしたことがあったか﹂
安田くんに目が行く。
プリントを手にしたまま、動けない︱︱
さっきまでの、
追求されたときの、
思考の停止した自分を見ている。
﹁てめ。あったのかって訊いてんだろっ﹂
その勢いが、
空気を振動させ、
震えが肘に伝染し、守るように両の肘を抱え込んだ。
椅子が蹴り飛ばされる。
言動を確かめる前に気配が私の背後を駆け抜ける。
505
﹁待てこら﹂
彼の声を振り切り、
けたたましくドアを開き、
足音が廊下へ逃れていった。
な、
⋮⋮にを固まっていたのか私は。
﹁や、すだくん、待ってっ﹂
﹁放っとけ﹂
﹁でも! 追いかけたほうが⋮⋮﹂
﹁頭冷やさねえと駄目だろあれは﹂
さっきまでとは一変。
落ち着き払い、マウスパチパチいじってるけども私は、⋮⋮あん
な剣幕を目の当たりにしていまだ動悸が収まらない。
一つ、息を吐いて足元を見る。
﹁けど安田くんね、かばん置いてってる。あとからここに戻ってく
るの、⋮⋮相当気まずいよ﹂
出ていくときにもろとも蹴り飛ばしたのだろう。
かばんと。なかから飛び出した⋮⋮下敷きプリント教科書ノート
ペンケースがそこらじゅうに散乱してる。
気の毒な状態を膝をついてひとつずつ拾っていく。
﹁⋮⋮これって﹂
﹁どうした﹂
いいのかと迷いが働いた。
けど。これは。
なんだかんだ言いつつも拾い集める、被写体である彼に私はそれ
を見せた。
﹁⋮⋮俺か?﹂
﹁俺だね﹂
私の手にする写真には。
ゴールに背を向けてヘディングをする少年が写る。中学生の頃と
506
見た。
深緑のユニフォームの胸に海野と五番の文字が入っている。
﹁お兄さんじゃないのは見れば分かる⋮⋮五番はディフェンダーの
背番号だよね。ペナルティエリアのこんな深い位置でクリアするの
ってボランチよりかディフェンダーのほうが率は高いでしょう﹂
第一身長が高い。
﹁おまえ、詳しいな﹂
﹁フランスワールドカップに向けて付け焼刃の知識身につけようと
してるのって私だけじゃないと思うよ﹂
舌を巻くマキを見てみたいなって期待がうずいた。
こんな小さな写真一枚を二人で覗くことがどれほどの接近値を伴
うのかを気づくべきだった。
なんの気もなく目線をあげる。
細い、顎先が私の額にくっつきそうだった。ひげの剃ったのが分
かる。
そして眉間の辺りに彼の呼吸を感じた。
熱く、湿った。
唇に目が移る。薄い、ほのかな紅をまとった、
すこし、縦にひびが入っている。
咄嗟に、身を引く。
やや驚いたように開いた、
眼鏡越しの黒い、宝石みたいな双眸が私を捉えていて、
冷たくて美しい彼の輪郭を捉えられる。
ガラスケースの向こうではない、
いますぐにでも触れられる距離にそれはある。
触れ、たい。
507
﹁おまえ、﹂
手を伸ばせば、
欲しいものも、
どうしようもなく焦がれる正体も。
ほんのちょっとの勇気さえ許されれば、
それだけで︱︱
﹁安田くんは写真が趣味のようですね﹂
額だか喉だかにしたたかおでこをぶつけた。
でっかい声が、⋮⋮誰って、⋮⋮
﹁い。いいい、つからそこに﹂
﹁﹃四箇条﹄の辺りからです﹂優艶に笑む彼はいつの間に、私の手
中から消えた写真を拾い、おやまあ蒔田くん可愛いですねえなんて
呑気に言っちゃってる。
痛ってーなーと顎だかさすってるのを後ろに聞きながら、泡を食
った私は尻もちから抜けだせず。
﹁突然ですみませんけども、本日の部活はお休みにしました﹂
﹁え、なんで﹂
﹁僕の都合に加えてもう一つの事情がありまして⋮⋮﹂原因は同一
なのですがね、と私の頭上からマキへと手渡す。﹁パソコンが使え
ないと中々調べものに時間を要します⋮⋮個人情報を明かすのも主
義ではありませんが、最低限に留めましょう。さて﹂
片膝を払い、教卓に進んでパソコンの電源を入れる。
マキに続いて私も傍に寄るが、⋮⋮何桁あるんだろう。
パスワードが読み取れないスピードだ。
﹁僕は、安田くんの行き先に心当たりがあります。おそらくここで
しょうという場所が﹂
508
Enter。
マウスは使わない主義だ、音もミュート。
﹁蒔田くんがお持ちのその安田くんのかばんを、僕から手渡すべき
か。蒔田くんから安田くんのご実家に届けて頂くかそれとも⋮⋮﹂
﹁決まってる!﹂
マキからかばんを奪い取った。
﹁私から渡す! 安田くんには言いたいことがあるから!﹂
驚きに瞳孔が開いた。
それでもまたいつもの微笑みを戻し、マキのほうを見やりタスク
はワンワードを口にする。
﹁屋上です﹂
509
︵4︶
西の山の端に夕陽が沈みかけている。
いまだ赤い丸のかたちを保つそれは、沈みきる最後までいのちを
燃やし尽くす、線香花火の玉に似ていた。
置き残した真昼が東の空に明るかった。そこは、ぎらつく灼光に
比べ平穏そのものだった。二つの世界をつなぐ、橙から紫、淡い水
色へのグラデーションに染まりうろこ雲が流れている。
同じ雲を見ているのだろうか。
あの彼の定位置を選ぶ、彼は。
﹁︱︱僕は生まれつき、腎臓が弱くて⋮⋮﹂
来るのが誰だかを知っている。
前を向いたまま彼は口を開いた。
﹁二年、留年しているんです。⋮⋮中学一年の時に、蒔田先輩も千
羽鶴を折ってくれたはずですよ、入院中の僕のために﹂
﹁ちょっとマキっ﹂
︱︱当の本人は、やや顔をしかめ西の方角を見ている。
これがまるで他人ごとのように、
まさに聞こえてないかのように。
﹁どういうこと。安田くんのこと知ってたんでしょうっ﹂
﹁知らん。覚えてねえ﹂
私はがくっと項垂れた。
︱︱頭に相当血がのぼってたのか。
胸ぐらを掴んだその手首を一本一本、外される。
510
﹁ずっと、憧れだったんです。太陽の下を自由に動き回れる人間が。
⋮⋮今はこの通りですが、子供の頃、日の暮れるまで泥んこ遊びし
た経験が僕にはありません﹂と言って片方の手をポケットに差し入
れる。﹁動けない代わりに、動ける人間を写真に収めるのがいつし
か、僕の楽しみとなりました。中でも印象に残ったのは⋮⋮﹂
金網を掴む手がかすかに震え、
﹁蒔田くんのことでした﹂
かごのなかの鳥が彼に重なる。
﹁⋮⋮入りたての一年が、それもディフェンダーが四試合で四得点
⋮⋮注目を集めたのは、見てくれも関係していたと思います。僕は
サッカーを見るのが好きでした。といってもテレビで海外の試合を
観るのがです。同級生の試合なんかに関心は無かったのですが⋮⋮﹂
誘われて仕方なく、と彼はつけ足す。﹁準決勝の、第一試合⋮⋮予
選を勝ち抜けたのは相手が弱かったからだと後で聞きました。今度
こそ相手が悪かった、というより結果は順当でしたね。優勝校です
し。︱︱ピッチに立つ全員が諦めてるのが伝わりました。僕を誘っ
たクラスメイトなんてほっぽいてほかの試合観に行ってました。応
援団も呼ばれて来てましたが、⋮⋮本気で勝ちを信じる人間がどれ
だけいたのか、火を見るより明らかでした。写真ばっか撮ってる女
子もいましたよ。僕も同種だと思われるのが嫌だったんで下ろそう
としたとき、
⋮⋮ヘディングを見ました。
片腕でふっ飛ばされそうな相手に一体どうやったのか、競り勝っ
た。そこから見てれば⋮⋮そいつに何度も倒されるわ審判の見えな
い所で削られるわ。せっかくパス出しても守り入られて前がかりの
511
裏を突かれ、カウンター一本で失点。⋮⋮つくづくサッカーは一人
じゃ勝てないスポーツだと思いました。結果の見え切った試合でし
た。しかし、彼だけは最後まで、⋮⋮諦めなかった。逆転不可能な
ビハインドを負い、ロスタイムに突入してもボールを全速力で追い
続けた﹂
馬鹿だと思いましたよ。
と彼は言う。﹁負け確定なのにあんな必死になってなんの⋮⋮意
味があるんだと。試合終了後にくずおれてピッチを殴りつけた彼が
あんまりにも悔しそうで、僕は羨ましいを通り越して呆れましたよ。
けれど。⋮⋮どうしてでしょうかね。入院した先のベッドに一人、
潜り込んだときに⋮⋮何故か思い浮かぶのが、⋮⋮僕が緑川を離れ
る前に最後に見た最大の馬鹿の気迫でした﹂
﹁安田くん⋮⋮﹂
﹁緑高に入ったのは元々入ろうと目指していたからですよ。勘違い
しないでください﹂
背後に迫った私を強く、睨みつける。
逆光でも分かる反発、それが、︱︱視線とともに、足元へと沈む。
﹁諦めれば楽になれる、と思うこともありました。でもあの姿を思
い出せば負けたくない、とも思いました。︱︱下手なお守りよりも
効き目がありましたね。思い返すだけで、どんなきつい治療にも耐
えられた。僕を奮い立たせた、あの人間のその後に興味が湧きまし
た。もう一度戦う姿を目にできる日を待ち望んでいた、それが、⋮
⋮﹂
︱︱その日が訪れることは無かった。
タスクが見せてくれたのは安田くんの略歴だった。
512
︱︱﹁安田くんは蒔田くんに並々ならぬ好意をお持ちのようです
ね。⋮⋮変な意味ではなく。尊敬、憧れ。敬愛といった意味合いで
です﹂
海野中学に入学後半年足らずで東京に移り、通信制の中学を卒業
した。
おそらく、入院か通院を続けながらだろうと。
﹁⋮⋮海野中学から緑川高校に進学するのは例年二三名程度。しか
しゼロではありません。もし行った先の高校で、早々に中学を去っ
た自分を知る人間が現われたとしたら、⋮⋮果たして嬉しいですか
ね。僕はそうは思いません。転校は不本意だった。空白の二年を語
るのが好きなら、とっとと僕らに明かすかしているでしょう。彼を
⋮⋮知ってる人がいても黙っていたと考えるのが妥当です。彼自身
も積極的に明かしはしない﹂
中学の修学旅行を﹃知らない﹄のは当たり前だった。
彼は、︱︱行っていない。
﹁たったの十二三歳という︱︱ぬくぬくと親元にて甘え育つ時期に
郷里を離れ、四年あまりの間を孤独に耐えぬく闘病生活を過ごした。
そんなタフな人間なら⋮⋮そのまま勝手を知る東京の地で暮らすほ
うが快適ではないですかね。親元で住まう温かさと引き換えに、い
っぱしの大人扱いと自由を得られる。僕ら高校生には中々にエキサ
イティングな街ですよ東京は。あくまで現在見た限りでは健康な体
を手に入れた。⋮⋮これ以上の言及は避けます。しかし僕が思うの
は﹂
﹃教えてあげましょうか、僕が確信していることを。あなたは︱︱﹄
513
﹁⋮⋮知らずに戻ってきたんじゃないですかね﹂
とだけ口にした。
﹁辞めた蒔田くんには心底失望しました。僕のような人間にとって
⋮⋮希望の星だったというのに﹂
彼の見る先には、
白んだ月が浮かび上がる。
﹁⋮⋮僕は。諦めが悪いのか、⋮⋮いえ諦めの悪さを身につけまし
た﹂
彼はマキを見ていない。
﹁退院したのは昨年の六月。暫くの間松葉杖をついて登校した。ち
ょくちょく人の目を盗んで屋上に来ていた。声が、⋮⋮出なくなっ
た。出そうと思っても出せなくなった﹂
︱︱足元のぐらつく感覚があった。
﹃退院してもベッドで眺めてる天井と世界は変わらなかった﹄
﹁失声症、というより自閉症に近かった。教師も暗黙に了解し、授
業でも当てられる機会は激減した。元々寡黙を貫いていた彼ですか
らさほど支障は無かったようですが︱︱変化が見られたのは夏休み
があけてから。人懐こい一人の人間と関わるようになってからです
ね﹂
他の誰とも違うことを言ってきた人間が一人だけいる︱︱彼はそ
514
う語ったではなかったか。
﹁表情の一切を封印した彼が少しずつ、笑みを見せるようになった。
一見する言動では伝わりにくいけども、友達を作り、仲間のことを
労るようになった。目立った行動で示さないのは︱︱彼自身が、恐
れているからですね。つまりは、﹂
﹁もう、やめて。それ以上は︱︱﹂
﹁緑高で彼が一番気にかけてるのは他の誰でもない、あなたですよ﹂
躍り出た私を見た、
認めた彼の表情に同情︱︱いや呆れの色が混ざる。﹁その剣幕だ
と、⋮⋮知らなかったようですね。噂になってましたよ。だから彼
が他の子と、となったときに一部で騒ぎ立てられた﹂
﹁安田くんがパソコン部に入ったのはどうして﹂彼の発言を私は無
視した。﹁色々知ってるのは情報を、それだけ集めたんでしょう。
やっぱり、マキを近くで見たかったから?﹂
﹁違います﹂断言し、自身を守るように腕組みをする。﹁僕は写真
が趣味です、ですけど写真部がありませんでした。写真とパソコン
は切り離せません。データ化や管理など⋮⋮趣味としても役に立つ
のではないかと思ってのことです。もっとも。
直に確かめてみてあなたにも、蒔田くんにもがっかり︱︱させら
れましたが﹂
﹁ふざけんな﹂
いまのいままで。
馬鹿呼ばわりされても一言も発さなかった彼が。
515
﹁なにが憧れだ。お前は人のことを勝手に言っていればいい。所詮
は他人だからな。だが俺は、俺の人生を生きていかなきゃならない。
︱︱この意味が分かるか﹂
怒鳴るのではないのに、
静謐な一喝が私を背中から貫く。
﹁言うだけならまだしも、おまえは、⋮⋮﹂
言葉を止める。
後ろを見ずとも怒りかなにかに彼が戦慄くのが空気で伝わる。
︱︱思いつめた顔をし、腕組みをほどき、安田くんがあとを引き
取った。﹁かばんをわざわざ届けて下さり、ありがとうございまし
た。⋮⋮僕はこれで﹂頭を下げる。
﹁さよなら﹂
儀礼的な笑みを乗せ、
無言で渡されるかばんを脇に抱え、後ろ向かずに進んでいく。
別れの言葉にしかいまのは聞こえなかった。
﹁待ってよ。安田くん﹂
届かない。
私は︱︱
これを逃したら彼が消えてしまうのではないかと、
そんなどうしようもない予感に駆られていた。
516
﹁パソコン部、辞めるなんて言わないでよっ!﹂
わななくと彼は、︱︱なんてことないかのように。
そのつもりですが? と。
私の顔色をまともに見据えて口許だけで卑屈に笑う。﹁僕は、︱
︱あなたの想いを踏みにじろうとした人間です。嫌われてるのも分
かっているでしょう。だったら︱︱﹂
﹁逃げるの?﹂
間髪入れずに問いかける。
﹁逃げる、と。⋮⋮僕がですか?﹂
﹁そう。私に、マキに失望したとか言うわりに安田くんは自分から
逃げてる。思ってたのと現実は違ってた、だからごみ箱にごみ捨て
るみたく捨てる。そんな風にすぐ割り切れるの? ずっと⋮⋮何年
も⋮⋮気になってたんでしょう﹂
どうしてここで、
どうしようもないあの彼の、
花に似た笑みが、浮かぶのだろう。
断ち切ろうとしても断ち切れなかったあの想い。
﹁いまの話聞いてマキがどう思ったのか。確かめなきゃそんなの分
かんないじゃん。言うだけ言ってそれで終わり? 安田くんそれで
517
満足? 私は、ぜ、﹂
︱︱全然納得してない!
﹁⋮⋮いえ。あなたが納得してるかどうかなんて僕には関係ないん
ですけども﹂
戸惑ったような安田くん、じゃあ、
﹁マキは︱︱辛かったことも全部、受け止めてる﹂
じゃなきゃ自分の口で話せない。
傷ついても走り続ける、
私はそんな彼のことが、
﹁私も逃げてなんかない、この気持ちと毎日向き合ってる!﹂
︱︱し。
しまった。
空気が凍りつく。
なんてことを絶叫してしまった。
つまりこれ、
ほぼ告白じゃ⋮⋮
﹁え。えっと⋮⋮﹂気まずい空気を自ら破った。﹁タスクは⋮⋮パ
ソコンに詳しい人が入部して喜んでる。そういうつもりで⋮⋮自分
の後を引き取る人目的で安田くんに入部して欲しかったんだと思う。
だから、
518
︱︱辞めるんなら私が辞める﹂
白眼を大きくしてマキが私を見た。
﹁部活にいてプラスになるのって安田くんのほうだし。あの。嫌い
な人が隣にいて苛々するのってきっとからだに良くないよ。安田く
ん、まだ一年だもん。始まったばかりの高校生活を楽しまなきゃ損
だよ。みんなね、すごく親切で優しいからきっと楽しいとおも⋮⋮﹂
﹁結構です﹂
私が作った笑顔を無視し、彼は扉に手をかける。
﹁そこまで言われてしまっては、⋮⋮すぐには辞められません﹂
︱︱彼の開いた扉が閉まった。
日の陰る屋上に、マキと二人取り残しつつ。
︱︱どうしよう。
夕陽よりも強烈な感じを背に浴びてる。
鋭い彼の眼差しが︱︱
﹁か。帰ろうか。まだ明るいし、私一人で平気だよ﹂
﹁暗くなってるぞ﹂
﹁あ﹂すっかりとっぷり。﹁よ、⋮⋮かったよね。安田くん、考え
なおしてくれたみたいで。ふへへ﹂
︱︱見れるわけがない。
519
まともに見れるはずがない。
﹁タスクきっと喜ぶよ。私も嬉しい。しょ、正直、パソコン部って
私の生活の一部になってたから、辞めるはめにならなくて、よかっ
たなあって。口は災いの元って言うけど本当⋮⋮その通りだよね﹂
︱︱喋れば喋るほどに墓穴を掘る一方だ。
素早くドアノブを引きにかかった。
のだが︱︱
﹁待て﹂
手が、添えられていた。
私の手よりも大きな手が、包み込むように。
︱︱彼の感触はいつも繊細で、冷たい。
前方のドアと背後の彼に挟まれ、身動きが取れなかった。
︱︱確かめることへの恐れを感じながらすこしずつ、
首を捻り、高い、彼のことを、見上げようと、すると︱︱
呼び止めていたのに。
なにか考えこむような、見たこともない怖い顔をしている。
︱︱すまない。
と私の視線を受けて、彼が詫びた。
﹁︱︱え?﹂
彼から初めて耳にする四文字だった。
520
苦悩か苦痛かでひどく傷んでいるようで、そんなマキを見ると胸
が苦しかった。彼が、苦しげに息を止め。喉の奥から絞りだし、紡
ぐ言葉は︱︱
﹁おまえの気持ちに薄々気づいていたのに、気づかない振りをして
いたのかもしれない﹂
︱︱衝撃が胸のうちを走る。
これが現実なのか。
けどこんなのよりも、
﹁都倉。俺は、︱︱﹂
もっと、ずっと、苦しませている。
︱︱目の前の人間を救いたかった。
﹁言わなくていいよ﹂
︱︱作れているだろうか。
﹁全部、言わなくても分かってる。だから、大丈夫だよ。どんなか
たちでも傍にいられれば、それだけで︱︱﹂
︱︱安堵させられる笑みを、
彼を安心させられる声色を。
ひとりで大丈夫だと。
521
﹁⋮⋮おまえは、﹂
あなたを苦しませるくらいなら、
私が、笑顔の仮面をかぶろう。
﹁友達で十分。マキが幸せでいてくれれば﹂
からだを衝撃が走る。
さっきとは違う、強い、重い、物理的な痛覚だった。
︱︱触れている、
近くに香る。
恋焦がれるブルーノートの香り。
広くていかつい肩と、力強い二の腕の感じと、
⋮⋮見た目よりずっと柔らかな、漆黒の色をした髪の毛を。
﹁⋮⋮かじゃねえのか、おま⋮⋮﹂
︱︱ごめんね、マキ。
いまだけは、
こんなわがままを許して欲しい。
肩口に熱い息がかかる。
つま先立ちで手を伸ばす。
自分から触れる最初で最後だとこころに決めた。
腕のなかでこんなにも震えている。
私よりもずっと大きくてたくましい彼は、弱々しかった。
弱々しくさせているのは私のせいなのだった。
522
精一杯で、
散らばる集合体を、
かき集めて胸に抱いた。
静かに陽を落とす屋上には、
風に混ざり時折からすの鳴く声と、
すすり泣く彼の声だけが響いていた。
523
︵1︶
﹁久しぶりやんか﹂
あくる朝に三年四組を訪ねる。
戸口に顔を見せるなりやってきたのは小澤さんだった。﹁あんた
な、もーちょっとこっち顔出さんかいや﹂
﹁タスク知らない?﹂そういう意味ではないと知りつつも彼女の後
ろから顔を覗かせる。彼の席はあの辺りだったかと。
﹁長谷川やったら⋮⋮﹂だるそうに首の後ろをぼりぼりと掻く。﹁
一度かばん置いてって、図書室で勉強しとるがよ。⋮⋮いぃつも七
時には来とるな﹂
﹁七時!?﹂大きな声が出た。﹁すごいんだねタスクって⋮⋮﹂気
にして声を落とす。
後ろの教室内を気にせず小澤さんはふん、と鼻を鳴らす。﹁家で
やるか学校でやるんかそんだけの違いやろ。すごいでもなんでもあ
らへん﹂
関西弁の使い方がちょっと変な気はするが。﹁小澤さんも朝早く
から来てそんな勉強してんだ⋮⋮﹂
﹁あんた。あたしが勉強するんがそーんなおかしいんか?﹂
やっば。
軽くおべっか言ったつもりが教室の子の視線がちらつくし小澤さ
ん怒らせるし逆効果だ、
﹁ありがと。またカラオケ行こうね小澤さん。じゃっ﹂
退散退散。
あんった。今度はちゃーんと人の歌聞きなやっ!
と勉強してる人への迷惑を顧みない圧力に背を押された。
524
⋮⋮やれやれ。
中庭は葉桜の季節を迎えていた。椿の花はいまが見頃なのか、新
緑を基色に、白に淡いピンクのいろが咲き乱れる。
廊下からこの庭を眺められるのはいいことかもしれない。
受験生の焦燥をいくぶんかは癒してくれるだろうから。
三年の教室の一つうえの階にある図書室前の廊下には、窓を向い
て長机が三つ並べられている。
手前の端っこに座る彼は無論中庭など鑑賞しておらず。
彼以外に誰もいない。教室で勉強しそのままホームルームに突入
するのが大方なのだろう。
机に突っ伏して学習する体勢は遠目には寝ているように見えなく
もない。
真剣なのにも関わらず。
パソコンルームだと、着席した私が周回する彼にやや高い位置か
ら教わるのが常だ。
つむじを見下ろせる高さがなんだか新鮮で、なんだか笑みの止め
られないままに彼に呼びかけた。
﹁タスク、おはよ﹂
傍に寄るまでも気づかず。
反応は珍しくも遅れた。
﹁と。⋮⋮くらさん、おはよう、ございます﹂
そして戸惑いを目にするのも、切れ切れの言葉を聞けるのもこれ
またレアだった。
525
ところが、彼の向かう対象を確かめると⋮⋮自分の口許から笑み
が消滅する。
﹁勉強してるのそれ、⋮⋮物理?﹂
私にはまったく分からない化学記号と数式の羅列。⋮⋮目眩が起
きそうだ。
﹁ええ﹂
﹁昨日ね、ちゃんと安田くんと話せたの。だから、伝えておこうと
思って来たんだ﹂
﹁そうですか﹂
驚きもしないタスクに拍子抜けする。
まるで﹁おはよう﹂とでも言われたかの、⋮⋮さっき私が現われ
たときのほうがよっぽど驚いていた。
﹁⋮⋮お二人に任せておけばうまくいくと信じていたからです﹂
私のこころを読んだ彼の口許がニヤリと笑う。
瞳が、窓からの朝の日差しを受けてややオリーブがかって見えた。
﹁あ、のね。それだけだったの。じゃあ、また﹂手短に去ろうと思
った。勉強を邪魔するのもなんだから。
﹁言い出しっぺは僕でした。どうやら、説明不足でしたね﹂
独り言なのか、
それとも私を呼んでのことなのか。
躊躇いながらに確かめれば、タスクは窓を見上げそして、
左の手でペン回しをしていた。
それも回しにくい、軸の太いドクターグリップを。
526
タスクの利き手は右だ。
引き寄せられるように近づいていた。
机に手をつくと視線を受けて彼は、目配せをして微笑んだ。
﹁信じてみる。任せる。⋮⋮といった言動も、これまでの僕には起
こりえなかったことです﹂笑みを消す。ノートに肘をつき、指と指
を絡ませる。﹁自己責任が蜜の味でした。失敗しようが上手く行こ
うが、一人でするほうが気楽でした。他人の分を負うのは重たい。
⋮⋮パソコンを扱うだけの目的ならば何も、集う必要はありません。
部屋にこもって一人キーボードを叩いていればいいだけのこと﹂
組ませた手に額を預け、
まるで神に祈るかの、
あるいは懺悔とも呼べる姿勢を作る。
﹁︱︱関わることによって気づかされた部分は多々あります。僕は
未熟です、なのに。自分の力を過信していた。⋮⋮人前で立つのも
似合わないと思い込んでいました。裏で動くのが性に合っていると。
⋮⋮誰かと関わることと、表立って振る舞うことは、いままでにな
い、別種の感情を与えてくれました。教えているように見えて実際、
教わっているのは僕のほうです。新しい発見が重なり、⋮⋮日々が
輝いている﹂
話の方向性がつかめない。
﹁レベルが違うなどとも思いません。レベルを規定するのはあくま
で主体であり、言うなれば恣意的な基準です。その人が何に重きを
置くかで基準は変わる﹂
527
けど傾聴することにした。
﹁決して大会など目指す大それた部活ではありません。それと比べ
れば競争心の程は劣る。だが、みんなが目標を持って、フラットに
動ける場所であること。⋮⋮あくまで僕の理想論ですがね。扱うの
は0と1のみで示される、無感情で無機質な世界ですが、関わる中
でお互いを尊重できる。それが、︱︱﹂
﹁思いやり?﹂
私は声に出して伝えた。
不意を突かれたのか、
いままでに見ない独白を続けたタスクが顔を上げ、
破顔し、
子どものような無邪気な声を立てて笑った。
﹁なるほど確かにそうですね﹂と。
理性や理知を取っ払った笑顔だった。
﹁気分転換に本でも読みます。︱︱都倉さん、またあとで﹂
﹁うん﹂
いつもとは違うタスクの様子が気がかりで、
図書室に消えるのを見送って私は去るつもりだった。
ところが戸に手をかけたまま一旦、止まる。
思考を一巡させ、
528
或いはなにかを忘れたのか、
すらすらとされど呆れたように肩をすくめる。
﹁︱︱マインスイーパなんてくそつまらねえとぼやいてたくせに。
⋮⋮もっと、僕を騙せる言い訳は浮かばなかったのでしょうかね、
彼は﹂
彼って﹁なんの話?﹂
誰のどんな呟きも拾い上げるタスクが、
微笑んだ気配を残し、室内へと消えていく。
消えきると私はハッと口を押さえた。
︱︱四箇条の辺りから、なんて嘘だ。
﹃なんであなたのようなひとがこの部にいるんですかね﹄
全部を聞いていたに違いない。
いまさらに気づいても、
彼を追うのも、ならず。
右の肩口に健やかなる朝日を浴びながら、彼の残した暗号のよう
な記号を目で追うだけでますます、混迷と焦りめいたものが深まる
ばかりとなった。
529
︵2︶
﹁失礼しまーす﹂あれ、来てるのは﹁⋮⋮二人だけ?﹂
﹁先輩こんちわっす﹂
﹁タスクせんぱいなぁーきょー来れんかもっつっとたよぉ? 四時
半から面談があるんやてぇー﹂
﹁そっか。了解﹂
私もたったいま渋い顔の宮本先生と面談してきたところだ。
和貴と紗優は教室で順番待ちをしている。
自席で作業する石井さんを、後ろの窓に寄りかかって川島くんが
教えてる様子で。﹁⋮⋮そっから潰すとあとで困っぞ。ほれ言わん
こっちゃない﹂
﹁さっきからうっさいんですけどぉーちょーMMぅー﹂
﹁だーから違うっての。黒に黒は乗せられんがやて。おんまルール
知らねえのかよ﹂
﹁知らねー﹂
﹁こぅらマウス乱暴に扱うなや。タスク先輩に怒られっぞ﹂
﹁怖くないしぃー﹂
⋮⋮中々に度胸の据わった石井さんがなにをしてるのかとディス
プレイを覗けば。
ソリティアだった。
スペードの2にクローバーのエースを重ねようとしてるのには苦
笑いを漏らす。エースが精一杯に抵抗している。
パソコンにハマるひとの誰もが一度はこういう初期装備のゲーム
に一度はハマるんだろうな。
530
あれ。
マインスイーパにハマらない人を一人知っている。
思い返し一人顔を赤らめる。
﹁あ都倉先輩来てたんですね、こんにちは﹂
安田くんが続いて現われた。
けれど、
いったい。
﹁その髪型⋮⋮どうしたの﹂
挨拶を失念する衝撃度だった。
昨日までのおしゃれなヘアスタイルが一変。
坊主頭だった。
﹁⋮⋮暑いからです﹂
淀みなくタイプをし出すことからして、お手洗いなりで席を外し
ていただけだったようだ。
﹁なんか一休さんぽくね?﹂角刈りに近い坊主を川島くんがなぞり、
﹁⋮⋮もーちょい短くすっかな﹂
﹁はー? 川島まであんなチョベリバなボーズしたらあたし部活来
たのぅなるわ。ぶっちゃけ、マジ、ムリ﹂
ねめつける安田くん。
を指さしてます。
531
﹁すっげ。チョベリバって久しぶりに聞いた。死語じゃね?﹂
﹁ワザと使うんマイブームなんよぉウチラみんなチョーハマっとん
のぉー﹂
そういえば石井さんからすれば川島くんも川島先輩なのだが。
川島くんはそこのところを気づかない。
﹁⋮⋮誰だよウチラって﹂
﹁んーとぉ一組のぜーいーん、ほんでアキとーエリとぉー﹂
﹁二人とも。静かにしてくれませんか﹂
そしてまじまじと見てくる、私に眉をひそめた。
﹁⋮⋮なんですか﹂
﹁や。あのね、似合ってると思って﹂雑誌で見たスキンヘッドのス
ーパーモデルを思い出す。﹁感動した。安田くんて顔が整ってるか
ら⋮⋮どんな髪型でも似合うんだね﹂
目鼻立ちの美しさに頭のかたちのよさが際立つ。
頭皮の青々としたのが切ないものの。
﹁べ! 別に褒めてもなんっにも出てきやしませんよっ﹂
﹁⋮⋮期待してもないよ﹂
﹁先輩おれ坊主似合ってると思います?﹂
真顔で訊く川島くんに答える前にけたたましい笑い声が起きた。
石井おんまえ笑いすぎじゃねーか! と顔真っ赤にする川島くんに
対して私﹁似合ってるよぉーチョベリグー﹂などとも言えず安田く
んのほう見れば、ふいっと目を逸らされる。
やっぱり嫌われてるなあ。
と一人引きつり笑いをしていると、
﹁ケジメです﹂
とだけ呟いた。
﹁あー!﹂意外にも石井さんが食いついた。﹁まさかまさかの草刈
532
正雄! ズバリ! あなたは失恋したんですねそうでしょう安田さ
ん!﹂
意味も分からず私が吹き出し、﹁おいそーゆーこと本人のおると
こで言うなやっ﹂と川島くんには気の毒がられ、﹁違いますっ!﹂
と席を立ち。
そのあとやってきた和貴と紗優の餌食になっていた。
﹁気っ持ちええなあ、あァんすべっすべー﹂
﹁なして安田デレデレしとんがぁーキんモぉーい﹂
﹁デレてませんっ!﹂
﹁ホントつるっつるだね。しばらくのあいだシャンプー要らないん
じゃないかな﹂
﹁すぐ伸びて僕みたくチクチクしますよ。帽子被っときびみょーに
出てハズいんす﹂
⋮⋮正確には四名の餌食と化した安田くんを置いてパソコンルー
ムを出る。
﹁あ。都倉さん、こんにちは﹂
出会い頭にタスクと遭遇する。
これまでの教訓を生かし飛び出すのは控えている。
﹁来れないかもって聞いてた⋮⋮どうしたの﹂まだ四時を回ってい
ない。私の腕時計に狂いはなさそうだ。
﹁伝言がありましてね。⋮⋮都倉さん﹂
微笑を消した真顔に戻り、
﹁蒔田くんですが、先に帰られました。用事があるとのことで﹂
表情筋が凍りつく。
⋮⋮昨日の今日だもの、避けられるのも仕方がない。
笑ったつもりだったけれど、一瞬の硬直をタスクは見逃さなかっ
たらしく。
533
頭をひと撫でし、一言を落としてから、安田くんをいじり倒す群
れに加わっていった。
彼らを遠巻きに見て、触れられた髪に触れる。残されたそれはタ
スクのぬくもりを残して、あたたかかった。
﹃日頃口を動かさないくせしてあんな無茶をするから︱︱疲れたの
でしょうよ﹄
廊下に出ても、彼の響きと、
いつになく饒舌だった彼のことを思い返して笑みをこぼす。
一連のやり取りをどんな想いで紗優が見ていたかも知らず。
思いと思いが交錯する、迷い道を歩いていることも知らず。
* * *
お休みを翌日に控えてこころが弾む。小学校の頃の遠足前夜の楽
しみと同じで。学校のしがらみから解放され、胸いっぱい空気を吸
いたくなる。
なにしろ今年は五日も続くのだ。
いったい何時まで寝ていよう、ときにはお昼すぎまでぐうたらし
てみたい。
毎日なにをして過ごそう、日頃は見られない﹃笑っていいとも﹄
それに昼ドラを見てみたいな。
家族旅行なんてダルいけどなにを着てくか考えるのだけは楽しみ。
みんなが悩む最後の一つとは無縁の私。
連休中は部活がお休みで紗優と会う以外に予定はない。それでも、
浮き足立った感覚に囚われる。
534
ベッドに寝っ転び少女漫画を読んでみる。ただいまーと玄関から
母の声が届いた。
部屋が二階に移ってからというものの、迫る物音に過敏となった。
特に、ぎしぎしとした階段ののぼる足音などには。
自室で服を着替えるのとでも思えば、母はいきなり私の部屋のド
アを開いた。
﹁真咲っ﹂
﹁わ﹂片肘をついて入り口を向く。﹁びっくりしたなあもう。ノッ
クくらいしてよ﹂
たかが保護者報告会のために、
いっちょうらのスーツを引っ張りだしてきた母は、
息を震わせ、⋮⋮正確にはわなわなと身を震わせている。
﹁本気でゆっとるんか。大学行かんて﹂
とうとう、
︱︱来た。
秘密はいつかは割れる。
割れるために秘密は存在する。
﹁本気だよ。前から決めてたんだ﹂
﹁前からて⋮⋮あんた私大に行きたいってゆうとったがいね﹂
﹁あっ﹂
手の中の少女漫画を奪われる。
﹁ひどい。いまいいとこだったのに、銀太が告白し、﹂
﹁宮本先生から聞いて初めて知ってんよ!﹂
青ざめた顔色で叫ばれても。
私もあなたの声をしばらく聞いていないと思うだけだった。
行きどころのない両手を使ってようやくからだを起こす。
母は勉強机のうえにコミックスを置く。
535
﹁大学進学を希望されないのですね、って言われてお母さん、恥ず
かしいなって⋮⋮顔から火が出るかと思うたわ﹂
実際に頬を押さえるのを冷めた目で見ていた。
﹃ええ、あの子はうちの誇りよ﹄
︱︱私のことが恥ずかしいのだ、母は。
ぼさぼさとなった後頭部を撫でつける。﹁だろうね。大学行った
ほうが聞こえがいいもんね。特に、バツイチとか都落ちとか裏で言
われてるいまの状況だと﹂
﹁なにを、言っておるん。お母さんのことなんかいいんよ。お母さ
んは真咲のためを思って⋮⋮﹂
﹁はっきり認めなよ。そういう私のためって言い方で逃げないでさ。
世間体のほうが大事なんでしょう?﹂
母は、言葉を失った。
私のことなど理解できず、
自分のお腹を痛めて産んだ子とは信じがたい、
信じられないほど冷たい人間だと思うことだろう。
一定の咀嚼をした後で、
母はおそらく︱︱
お母さん困らせんといて! とヒステリックに叫ぶか、
なにも言わず諦念と共にこの場を去るか、
その二択だと予想した。
でも違った。
﹁⋮⋮夕食食べたらおじいちゃんおばあちゃんも入れて家族会議や。
店は閉める﹂
536
閉めるって﹁ちょっとお母さんっ﹂
私の言葉など無視し、部屋を出ていく。
⋮⋮そう来ましたか。
一人だと解決できない問題で誰かに頼る。おおよそ母らしいやり
方だ。
このように。
私は学校で八方美人を気取る一方で時折母に辛く当たった。
私は別に母に学校の話などしていない。
男の子の話などは無論のこと。
けどこの町に学校に馴染んでるのは言動で伝わっているらしく。
とんだ、誤解だ。
そんなことでこの陸の孤島に連れてきた罪が消えるとでも思った
ら大間違いだ。
ベッドに倒れ込む。
何故染みがついているのか分からないけども染みの付いた木目の
天井を眺めると、夢見る少女の夢心地も、休日への楽しみも、空気
の抜けた風船のごとくぺっしゃんこになってしまった。
まぶたを下ろす。
﹃こっちはゴールデンウィーク中に模試だぞちきしょう﹄
パソコンルームで修学旅行の話をして盛り上がってた川島くんを
見て、どう見ても怒ってるように見えない能面みたいな顔してこっ
そり機嫌を悪くした。
笑えてくる。
537
なにしてるのかな。
今頃黙々と部屋で勉強してるだろうか。
ご飯食べてるか、お風呂入ってたりするかとか。
紺碧の海にほど近いあの家で。
あの旅館で彼の部屋がどこに位置するかを知らない。海に対面す
る窓があってそこで勉強できたりするのかな。自室で私が国道を見
られるのと同じで。
声が、⋮⋮聞きたい。
つい二時間前に聞いたばかりなのに、
マキが足りない。
会うことのならない五日間をどう過ごしたらいいのだろう。
お休みが楽しみだと思っても、彼のことに関しては絶対的に楽し
みが失せる。
痛ましく顔をしかめるのを目にした、
涙を見せる⋮⋮震える彼に接してから。
もっと、ほかの一面を見せて欲しいと思っている。
分かっている。彼が私に友達以上の感情を持たないことくらい。
屋上での言動はなにより、答えられない相手への憐憫を見せたに、
ほかならない。
上体を再び起こすと︱︱机のうえの単行本を視野に捉えられた。
ママレードボーイ。
両想いになって苦しむ恋もあるけれども片想いはそれ以前の問題
だ。
なにより気持ちが通じていないし、︱︱自分で解決するべき一方
538
通行の感情なのだ、それに振り回されるだけの。
知られれば相手に迷惑を被らせるだけの。
この時期は彼も含め、連日受験勉強で忙しい。
高校三年生にしては平凡ないや高校生らしい平和な悩みに思い巡
らせると階下から真咲ご飯よぉーと普段通りに呼ぶ母の声を聞いた。
私はベッドから離れた。
539
︵3︶
﹁大学に行け﹂
お通夜のような夕食時間を終え祖父が口火を切った。﹁わしは高
等学校までしか出とらん。ほんでも仕事は手に余るほどに仰山やっ
た。職にありつけんもんは誰一人としておらんかったもんなが⋮⋮
今の世の中は変わった。大学出とかな何にもなれんやろが﹂
宮本先生と同じ意図を匂わせる祖父に少々失望した。
﹁⋮⋮大学に行かない子だって普通にいるよ。同級生でも、⋮⋮緑
高には少ないけど東工には沢山⋮⋮﹂聞きかじりをネタにする自分
の自信の無さ。﹁うちのクラスなんて殆どの子がそうだし﹂自信の
無さが当然声音に表れる。
それに比べて祖父はしっかりしたものだ。
﹁働くちゅうもんはそう覚悟を決めたもんや。緑川に生まれ育ち、
親がどんな仕事しとっか幼い頃から見てきて知っておる。緑川つう
土地に愛着も持っておる﹂
台所にて食器を洗い流す祖母の存在をかすかに聞く。祖父の背景
の遠く小窓で陽炎のようにシルエットが揺れている。
﹁⋮⋮お前は違うやろが﹂
老練した眼光がさし向けられ、
説得にかかる、祖父の声音に、
私は明言された気がした。
みんなとは違う人間なのだと。
﹁大学に行く気はないんか﹂
右向けば押し黙る隣人。⋮⋮パトロン任せか。
540
﹁行、きたく⋮⋮﹂
詰まる。一つ息を継ぐ。﹁行きたくないと思ったら嘘になる。で
もそんなの。目的もなしに行くものでもないでしょう。余計なお金
もかかる。うち、⋮⋮貧乏なんだよね。だったら。行かせられない
っていうんだったら最初っから期待なんかさせないでよ。この家の
こと将来どうするの。せっかくお母さん帰って⋮⋮お店切り盛りし
てるのに。誰も、継がないの、したら私しかいないじゃん。だった
ら私出てくことないし、他のことに目を向ける必要なんか全然ない
んじゃ、﹂
﹁真咲あんたは﹂
肩を抱かれる。母だ。
﹁なにを要らん心配しとんの。⋮⋮こんな小さい肩して。目的なん
かな、⋮⋮いくらでも探したっていいんよ。夢探すんも、大学通い
ながらでちっとも構わんの。真咲のためにかけるお金に余計なお金
なんてひとっつも無い。お母さんたちが働くんはあんたをこの家に
縛り付けて諦めさせるためやない。あんたに好きなことして欲しい
⋮⋮お母さんたちそのために一生懸命なんやから⋮⋮﹂
﹁お、母さん⋮⋮﹂
そんなことを打ち明けてくれたことは無かった。
母は自分の生活を守るために、⋮⋮祖父母は生きていく道だから
こそだと、思っていた。
私の目を覗きこむ母の潤ませた瞳に嘘偽りがあるとは思えなかっ
た。
﹁ばあさん、あれ﹂
﹁はいはい﹂
台所から戻ってきた祖母がお茶を乗せたお盆を持っている。とこ
ろが熱茶を配らず一旦お盆をテーブルに置くと、やや手垢の目立つ
エプロンのポケットからなにか取り出す。
通帳だ。
そっと目の前に置かれる。
541
私は無言で顔をあげた。
﹁見なさい﹂祖母は微笑んだ。
昔ばなしを絵に描いた、慎ましき老人夫婦の生活。
それに合わせて私たちもそういう質素倹約を務めていた。
大きな買い物など滅多にしない。直近で一番大きな買い物といえ
ば私のベッドで、それも新品ではなく中古だった。
物欲にまみれたショッピングを趣味とするカルチャーに慣れた私
にはカルチャーショックだった。
﹁こ、れ⋮⋮﹂
予想外の桁数に目を見張る。
﹁いつか役に立つんかと思ってずぅっとおじいちゃんと貯めてきて
んよ。これを見せるんがは真咲が嫁入りする頃にでもと思っとった
んやがねえ﹂顔をほころばせ祖母は椅子にかける。
﹁わしらは老い先短いさけ、先のあるもんに遣うて欲しいと思うと
る。⋮⋮好きなようにしい。長男が家を継がなならんかったわしら
の時代とは違うんやさけ﹂
定期的なサイクルで振り込む個人を見つけた。
キジマヨシオ
﹁⋮⋮お母さん、慰謝料なんて貰ってたんだ﹂
﹁払わんほうが今日び当たり前やがになあ、ほんに律儀な人で⋮⋮﹂
そう語る母の声には、別れた夫に対してとは思えないほどに情感が
込められていた。﹁お父さん⋮⋮義男さん、木島のおばさんたちに
黙って振り込んどるんよ。ほかに子どももおらんし真咲に期待かけ
とるんかもしれんね。まだあんたが小さい頃から将来大学に通わす
こと考えておったわ⋮⋮ほらお父さん高校卒業してすぅぐ会社継い
でんさけ⋮⋮お父さんの世代は大学を浪人してぷらぷらしとるひと
もいぃぱいおった。大学生活送れるんが羨ましかってんろうね﹂
542
そんなことも、知らなかった。
父がいまだに私のことを気にかけてるなんて。
私はごみのように捨てられたとばかり⋮⋮。
たまらず胸元を押さえた。
母の手が離れる。湯のみを私の傍から離す。
﹁いまからでも遅くはないんろ? 都倉の血筋はちぃとも賢うない
さけ医者は無理やろがなあ⋮⋮そんだってあんた。ばあちゃんより
賢い子なんやさけ。勉強したいっつうもんの一つでも二つでもある
やろが。あんたの読んどる本でもなんでも構わんがよ。探してみぃ﹂
いつの間に頭に祖母の手が添えられていた。
﹁分、かっ⋮⋮た﹂
そう答えるのがやっとだった。
初めて自分が認められたと感じた瞬間だった。
ずっと、疎外感でいっぱいだった。
日々同じ仕事をして切磋琢磨する母と祖父母、彼らの領域には入
れないし、⋮⋮実際台所に立てない。
食事のときに顔を合わせる程度で、他の一般的な子どもみたいに
甘えたりもしない。今日学校でなにがあったのか明るい話題を逐一
振りまいたりもしない。
そんな可愛げのない子だから、要らない子だって木島から突き返
されたんだ。
お父さんにも要らない存在、だと思っていた。
なのに⋮⋮
﹁こぅれ鼻拭きなさい﹂ティッシュを突き渡され、
﹁ほんに頑固やねえこの子は。跡継ぎ気にしとるなんてゆうたこと
なかったんに一人で悩んで⋮⋮﹂
﹁美雪を嫁に出した時点で都倉の家は消滅しておる﹂
祖父は唯一熱茶を飲み干す。
543
﹁お、じいちゃん⋮⋮﹂
﹁なんや﹂
﹁ありがとう、私⋮⋮﹂
﹁当たり前のことをゆうただけや﹂
にべもなく居間を去る。
私は久しぶりに見た祖父の背中に、好きな人を重ねた。
行きたいとは思っていた。
興味があった。
でもその気持ちを無視していた。
伝える前からずっと諦める癖が出来ていた。
逃げているのは私のほうだった。
﹁わ、たし⋮⋮見つけるよ、やりたいこと必ず、好きな、ことも、﹂
しゃくりあげながらも母と祖母に決意を伝えた。
﹁頑張る﹂
* * *
﹁⋮⋮和貴? だよね﹂
﹁真咲さん﹂
人違いかもという不安を吹き飛ばす笑顔がお目見えする。
初夏の鋭い紫外線が髪をも焼くのだろう。
片膝をついて熱心に本棚を見ていた彼の、髪の色はもはや金色に
近い。
﹁珍しいねこんなとこで﹂近寄って気がついた。
544
福祉のコーナーだここは。介護や福祉の本と思いきやホスピスと
名のつく本を二冊⋮⋮そういう知識も要るのだろうか。
﹁真咲さんこそどして制服?﹂
本を脇に抱えると彼のポロシャツがラルフだと分かった。
﹁あ。これはね⋮⋮﹂
模試があるから宮本先生も来てるだろうと見込んで、進路変更を
伝えてきたところだ。
場所を図書館の玄関に移してこのことを明かすと、やっぱりね、
と笑って彼はプルトップを引いた。乾いた音に満足げに、
﹁僕もこーなると予想してた﹂
﹁へえ。どうして?﹂
答えずスポーツドリンクを嚥下していく、上下する喉仏をまとも
に見た。
ただの動きなのに妙にセクシャルに私の目に映った。
﹁真咲さんて心理学の本ばっか読んどるもん。やしそっち方面進む
やろなあって思っとった﹂
﹁そ。そお?﹂うす赤い頬を缶で冷やす。﹁私、⋮⋮進むなら文学
部か英文科辺り考えてた﹂
﹁真咲さんてバリ文系だもんねえ。国語や英語が得意ならそれ突き
進めるのもいいだろうけど﹂勢いよく飲み過ぎたのか、けふ、と喉
を鳴らす。
例えばね、と前置くと指一本立てる。
﹁心理カウンセラーは?﹂
仕事って意味でだよね。﹁⋮⋮思ってもみなかったな。すごく難
しい職業だし⋮⋮﹂
臨床心理士という職業を聞いたことはあるものの、難度の高さに
ハナから諦めにかかってた。
そういうのが駄目だとつい三日前に決意を固めたばかりなのに。
﹁んー心理学が好きやから心理カウンセラーてのも単純すぎるかな。
545
けどま、真咲さんそーゆーの得意そうだし。だーれも来ることのな
いカビ生えた研究棟の片隅でしかめっ面してぶあつい本もさもさ読
むよりかさー対ヒト。こんな風にダイレクトに誰かの話聞くこと、
性格分析に人間観察⋮⋮大人しそーに見えてヒトとの接触がさりげ
に好きなんだよね。ジャンルは置いておいて、仕事でなにするかっ
て考えたらそういうのが合ってそうだなと思ってた﹂
否定はしない。
和貴は他人のことをよく見ている。
﹁考えてみる。⋮⋮ねえ、紗優は?﹂
﹁ん?﹂白い壁から背中を浮かす。既に空となった缶の縁を上から
持ってる。
﹁⋮⋮風邪引いたって聞いてたんだけど大丈夫かな﹂キャンセルさ
れたのもあって今日は図書館に来てみたんだけど。
えっ、と小さく漏らしたのを私は聞き逃さなかった。
﹁家で寝てる﹂
和貴が右手で頭を掻いたからたぶん嘘だと思った。
その和貴の嘘と、
﹃心理カウンセラーは?﹄
この言葉が引っかかり、やっぱり、このセミのうるさい真夏を感
じさせる暑い夜も受験生にふさわしくよく眠れなかった。
546
︵1︶
カーステレオから流れるのは﹃やさしさに包まれたなら﹄。
鼻歌程度に口ずさんでいた紗優に石井さんが加わればそれは大合
唱となり。
熟読していた﹃八代将軍吉宗﹄のハードカバーから顔をあげおま
えらうっせえぞっとマキががなるも。
至って気にせずタスクはウォークマンでなにかを聴く⋮⋮また私
には分からない、坂田くんに分かるであろう洋楽に違いない。
﹁この体勢、いつまで続くんですか﹂とせせこましく三角座りをす
る安田くんがこぼすも、聞こえなかったらしく和貴は﹁⋮⋮けっこ
ー飛ばすんですね、下田先生て﹂と前方を見て眉を上げ、﹁運転は
性格出っからなー﹂と宮本先生が豪快に笑う。
スピードをぎりぎりまで落とさない。赤信号にて、フロントミラ
ーに映る、ちらっと後方を確かめる怜悧な眼差し。
を追えば、⋮⋮口開けて川島くんが寝ていた。
全窓が開け放たれている。ステレオ全開、通気性重視。田舎道を
飛ばすバイク音が耳をつんざこうが私たちのお喋りなど止められや
せず、いわんやこの熱気をや。
パソコン部員と引率教師たちを乗せたこの空調の悪いワゴン車が
一路向かうのは、畑中高校の合宿所︱︱
547
きっかけは。
ゴールデンウィークが明けて早々の、石井さんの発言だった。
﹁えーっなして合宿行かんがぁーやって、アキもエリもみぃんな行
くんよぉー行きたい行きたいーないんねやったら今年から恒例にし
よーよー﹂
⋮⋮なお。石井さんの言葉遣い以前にタメ口については。
慣れっこのタスクは﹁そういう部活ではありませんから﹂と悠然
とかぶりを振り、
﹁ま個性的でいんじゃない?﹂とフェミニストはやはり笑う。
礼節にうるさい彼が﹁いい加減にその口の利き方をどうにかしや
がれっ﹂と怒鳴ろうが、髪をくるくる指に巻きつける当人から﹁や
っだぁーマキ先輩てばこっわぁーいアハハ﹂とあしらわれる始末で
要するに、諦めた。
マキは同じ注意を二度できない。
二度するのがめんどくさいから。
私は幼い頃から木島の家に行く度に遠まわしに直接的に注意を受
けた。口の聞き方目上の人間に対する態度諸々をだ。えーっやだや
だーと駄々をこねる従姉妹が猫っかわいがりされるのに対し、同じ
ことを言ってみると伯母上から卑しい子ね、と聞こえよがしに言わ
れた。
大人たちのものの見方は子どもたちの社会にリフレクトする。
集まる年齢一桁の子どもたちは、ちょうど、手下や目下の者を作
り、威張ってみたいお年頃だったので、大人からなんだか冷たい目
548
線を受け、年齢がもっとも低く、ついでに言えば身長も一番低い私
など最適の人材だった。
階層社会の最下層に位置させるための。
むかつくーなんて言葉使う子なんか木島の血統とは違うってお母
さんがゆっとったもん︱︱こう私に伝えてきた従姉妹については先
ず自分の身内に関してへりくだる言い回しを使うところからスター
トすべきだと思うのだが。
色々苦心した末に気づいたのは、
都倉の血が、いけなかったのだ。
彼らにとって。
要は、言葉が良かろうが悪かろうがなんにせよ嫌うための材料に
されただけのことだ。最終的な料理の出来栄えは変わらない。それ
がたまたま田舎の方言に向けられたという。
上京して十余年経とうがなかなかに方言の与うる特有のイントネ
ーションから解放されきれなかった母が気づいていたかは定かでは
ない。
ただし、私には影響した。
私の話し言葉がやや同じ年代の子たちと異なるのは、なにも読書
好きだったことの恩恵のみでなく、木島の人々の与うる教育の賜物
でもあった。
自分の体験から察するに、なにかタスクもそういう経験をしたの
ではないかと思うことがある。
誰かの前で、丁寧な言葉遣いをしなければならない必然があった
のではないかと。
話を元に戻そう。
549
﹁合宿ですか⋮⋮ありませんね。昨年の秋に僕たち三年生で蒔田く
んのお宿にお邪魔したのですけども、あれは正式な部活動としてで
はありませんでしたから﹂
﹁えー三年だけで行ったん!? ず、るーいそんなんっなーな和貴
やって行きたいやろぉー﹂
﹁⋮⋮僕は別に。ま、受験組に支障が出ない時期ならいいんじゃな
い﹂
﹁したら六月! 来月行こなー和貴﹂
⋮⋮だから。
なんで和貴だけ呼び捨て?
すごくむかつくんですけど。
ともあれ、なかなかの行動力の持ち主の彼女がしたことといえば、
タスクリスペクトを解除し和貴フレンドリーモードを稼働するに留
まらず。そこから近辺の宿を探し出し宮本先生に下田先生を説得し、
然るべき宿が無さそう、なら空いている畑中高校の合宿所を借りる
交渉をさせるところまでの威力を発揮した。
発言から一ヶ月も経っていない。
あれだけアクティブに動けたら私の人生もちょっとは変わったの
かもしれない。
﹁あーっほらあれあれーっあれやよねーっ﹂
緑川から車ではや三十分。緑の中を走り抜けてく真っ白いバンに
乗せられれば白亜の建物が見えてくる。合宿所というよりは鬱蒼と
した森に潜むなんとか少年自然の家といった外観だ。ブルーの屋根
の色や、丸くくり抜かれた各窓の子供っぽさといい。事実、元は自
然の家だったのを畑中高校が買い取ったのだそうだ。
遠く見えていたペンションのようなそれが見る間に大きくなり、
550
﹁着きました﹂
やや急なブレーキに、荷物のどさどさ崩れるのに紛れて﹁わっび
っくりしたっ﹂川島くんのくぐもった声が聞こえた。
﹁マキ。荷物下ろすよ。安田たちあのままじゃあ動けない﹂
﹁ああ﹂
後方の荷物室を気にする和貴と前後を入れ替わり、助手席の宮本
先生と話し込む⋮⋮なにか、真剣な様子だ。部長は大変だ。
宿決めのところまでは石井さんがしたけれど、それ以降は殆どが
彼の仕事となる。
﹁⋮⋮都倉、おい﹂
﹁まさーきさん、降りてえ﹂
綺麗な顔二つに覗きこまれていた。
驚いて後ろに逃れる。
仰け反る。
には至難な車内では頭をヘッドレストにぶつけるのが関の山だが、
⋮⋮
﹁せめえ場所で驚かすんじゃねえ﹂
ったく、とこぼし、ぶつける結果を阻止した、
彼の手が、ホールドしている。
ボールでも掴むみたいに。
ボールでない人間である私は、
髪の毛越しに感じる彼の手の感触と、
伝導する熱に、
顔が究極に熱くなる。
551
﹁ごめんごめん﹂
やや間を置いて彼は謝るけども、⋮⋮本気で悪いなどと思ってや
しない。
和貴は私をからかって遊んでいる。
ところで、
﹁⋮⋮マキ。そこに居られると車から降りられない﹂
﹁あ?﹂
こちらを向いたマキの眼光は。
ぞんざいな言い方をするけれども認識していないのか、
つまりは頭の後ろを押さえられたままで、
和貴よりはよっぽど遠くてもそれでも、普段の彼に対する距離よ
りは断然近いわけで、
耐性のない私の心臓をバクつかせるには十分だった。
ブレザーの下に隠れる上腕二頭筋の細く締まった感じや、⋮⋮思
いのほか筋肉のついた太い首一つとっても。
﹁おい。とっとと降りろ﹂と前列の紗優たちを急かす彼を見ている
と、
ふっ、と鼻で笑う息を聞く。
﹁⋮⋮なによ﹂
﹁なんでもない﹂
むぅとむくれるも、この頬が熱い。
泣いてよいいよと和貴は言った。
感情が透けて見えるようなんですよと別の彼は言い当てた。
とどのつまりは、周囲からすれば私は非常に分かりやすい人間で
あって、
もしこんな私の想いがマキに迷惑をかけるのみならず、部活中に
みんなにも気を遣わせているのだったら、
⋮⋮それだけはなるべく避けなければならない。
552
と足元だけを注視しながら、彼に続いてバンを降りた。
﹁遠い所をよーうおいでなすった﹂
荷物を下ろしている私たちのところに、横手の森から老夫婦が出
迎えにきた。建物を挟んでこの駐車場のちょうど裏手に管理人小屋
があり、そこに住まわれているそうだ。ひとを疑うことを知らない、
田舎のひと独特の笑顔で彼らは語る。訛りが強くないことから、リ
タイヤしてから移り住んだのかもしれない。
﹁お世話になりますっ﹂
タスクの呼びかけて横一列に並び、一同礼をする。⋮⋮パソコン
部って文化部のくせしてこういうところが体育系だと思う。
﹁ほしたらなんか用でもあったら遠慮なくゆってくだされ﹂宮本先
生に宿の説明をすると、思いのほかアッサリと裏の庭へと消えて行
く。
年寄りはとかく立ち話を好む。
﹁あったしいちばんのりぃー﹂
﹁待ていや﹂
駆け出す石井さんと川島くんに続いて安田くんも、ぼ、ぼくが先
ですよおなどと叫びつつ先を争って建物の入口へ。⋮⋮安田くんが
加わるのは少々意外だ。
さて荷物は、
⋮⋮マキと和貴が運んでる。というより入り口の前までほぼ運び
終えてた。一度に三つ四つ持てる男の子の力ってすごいと思う。和
貴は目が合うと笑顔で首を振る。両手で手を合わせるジェスチャー
をすると上腕二頭筋を強調する感じで肩をすくめた。下田先生なん
て車停め直しに行ったと思ったらぷかぷか煙草吸ってるし。泊まる
のは私たちだけなのだから車の位置なんて気にしなくていいのに。
だだ広い駐車場の隅に黄色の軽トラが留められているのは管理人ご
夫婦のものだろう。
こういうのが気になってしまう辺りも、私は体育会系の気質なの
553
かもしれない。
荷物運びに関しては手を出さなかったタスクはまさに教師の落ち
着きっぷりで、子どもみたく走り回る新入部員を見守り、
﹁⋮⋮若いですね﹂
﹁なに言ってんの。タスクは安田くんと同い年でしょう﹂
最も近い位置にいる宮本先生と紗優を気にしながら控えめに言う
と、
﹁⋮⋮そうでしたね﹂
すっかり忘れていたのか、頭を掻くタスクに私は笑った。
緑に囲まれるここは、鼻から吸い込むとなにか独特の、土の腐っ
たような、新しい果実のようなそれらが混ざり合った表現しがたい
匂いがする。それでも私の五感は、気持ちよく刺激されていた。緑
川とは違い、潮の薫りがしないのも私には新鮮だった。
ぐっすり眠れそうだな、そんなことを期待した。
また寝苦しい一夜を過ごすことになるとも知らず。
554
︵2︶
﹁んっもータスク先輩てば速すぎ速すぎぃー﹂
勝手の違う、パソコンルームというより講演会会場と呼ぶにふさ
わしいパソコンルームにて。
タイピングを最後に終えて石井さんがぶぅと頬を膨らます。
午前中はこの会場で下田先生のインターネットとセキュリティに
関する講義を受け、いまは、実習にかかっている。
二時間も続ければ頭が煮詰まってくるので気分転換に、みんなで
タイピングのスピード対決に入った。一位が誰なのかは言わずもが
な。二位は予想通りにマキで、私はビリの石井さんに続いて後ろか
ら二番目だった。
﹁僕だけ持ち込みのノートパソコンですので有利でしたね﹂
﹁けど長谷川先輩、ノーパソって打ちづらくないですか? 間隔狭
すぎて僕、慣れてても打てませんよ⋮⋮﹂
﹃ご宿泊の皆様。夕食の準備が整いましたので一階の食堂までお越
しください﹄
合宿所なのにホテルみたいなアナウンスがかかり、各自が腰をあ
げた。ジャージに着替えているせいか見た目にもフランクな感じで
お喋りに興じ、みんなが出ていく。
一人、机に向かう彼が目に留まる。
﹁⋮⋮なんだか学校みたいだよね﹂
記録をつけているのだろう彼に声をかけた。部長は大変だ。
﹁ええ﹂パスワードロック。きちんとノーパソを閉じたタスクは、
﹁⋮⋮都倉さん、プログラミングをされるのは初めてでしたか﹂
﹁うん、そうだけど⋮⋮﹂
離席する際に机の下に丸椅子をきっちり入れる。そうだ和貴のと
ころなんてだしっぱだ、だから石井さん足で蹴ってどかしてた。
555
﹁理解が早いですよね。アルゴリズム⋮⋮いえ、フローチャートの
辺りで大体は躓くものですが﹂
﹁YesNo分岐って日常生活でも誰でもしてるし﹂下田先生が入
り口で私たちを待つ。﹁雑誌の占いでフローチャートって必ず出て
くるじゃない、だからあんまり抵抗感は無かったよ﹂おそらく紗優
も同じだ。
プログラミングをするのは初めてだった。
私たちの様子を見守りつつ鍵をかける下田先生に、タスクは目で
会釈をする。
﹁それよりもね﹂
﹁なんでしょう﹂
と言うタスクの語感が私は結構好きだったりする。
﹁全部一人でしてて、⋮⋮疲れない? そのうちタスクがハゲたり
しそうで心配﹂
前を歩く下田先生が小さく息を吹いた。
﹁振り分ける所までまだ至っていませんから。船頭が五人いては辿
り着ける場所へも辿り着けません⋮⋮けども。おっしゃる通りです
ね。少々肩に力が入っています﹂
肩をとんとん拳で叩くタスクは言葉よりも余裕たっぷりで。
受験生特有の焦燥感とは無縁だ。私なんて焦りだらけなのに。
タスクって慌てたりテンパったりするんだろうか。少なくとも私
が見る限りではそんなタスクにいまだかつて出くわしたことがない。
階段を下りながらタスクは歌うように言う。﹁⋮⋮こう見えても
人を使う所では使っていますよ。お気づきですよね、僕は荷物運び
など一切しておりません﹂
同級生のことを﹁使う﹂と語るタスクの言葉を下田先生はどんな
気持ちで聞くのか。
﹁頭を使うのが部長の役目なんだね﹂
﹁見てくれにかどかわされてはいけませんよ都倉さん。見方を変え
れば、僕はみんなのしたいことを独占しているのです﹂私が口を挟
556
む前に、タスクは指を一本立てる。﹁⋮⋮よくですね、﹃客観的に
見て﹄などと言う方がおられますが、あれは反対尋問をするための
前置きです。要は、発言者に対する異論を唱えるための誤用だと言
うことです。歴史を少しでも紐解けば、﹃客観的な事実﹄など存在
せぬことは瞭然ですのにね。⋮⋮僕たちは主観的にしか物事を見る
ことができません﹂
なにかに気づいたのか。
手を下ろし、階段を降りてすぐのところの食堂を見ている。やや
暗い廊下に比べてぴかぴかと明るい。
﹁僕の主観に見ても、彼は無邪気ですね﹂
下瞼をわずかに震わす、
タスクの捉える先には、
椅子から腰を浮かせ、
ぶんぶん手を振る存在があった。
おーい真咲さーんおいでー。
﹁あ、﹂
﹁ごめん﹂
ほぼ同時に謝った。
左利きの彼の肘が私の右肘にぶつかったくらいで、
だからいちいち赤くなるなって私。
﹁川島くんは⋮⋮パソコンに興味があったの? 部活に入ったのは﹂
あ僕っすか? と言いながらほっぺたを肉じゃがでいっぱいにし
ている。私はその間に利き手とは逆の手で湯のみを口に運ぶ。﹁で
もないっすね。二年から入るやつって僕しかおらんですしね。僕あ
れです、タスク先輩がしとった部活紹介には行っとらんのですよ、
557
ほらあのパソコンルームでしとったやつ﹂
﹁え、あそうなの?﹂
和貴のまっすぐな頬は動かない。目を輝かせてひとの話に聞き入
る習性を持つ彼にしては珍しく。
私を挟んで逆っかわの隣に座るタスクは涼しい顔をして味噌汁の
椀に口をつける。
﹁体育館での部活紹介のときは来てたんだよね﹂全校集会に似た一
年生向けのイベントがあった。前に出て三年が部活紹介をしていた。
﹁勿論すよ。僕あれで決めたんすから﹂
﹁あれ、超短くなかった?﹂冷奴を箸で分ける和貴が不思議がって
問いかける。
﹁かえって印象に残ったんすよ﹂川島くんは奈良漬に箸を伸ばす。
ぱり、ぽり、と思い返しながら咀嚼している。
﹃パソコン部の部長の長谷川です。パソコンの知識を深めるだけで
はなく、部員同士で切磋琢磨されたい方。入部をお待ちしておりま
す。⋮⋮以上です﹄
﹁他の部が内輪のノリでだらだらやっとるがにタスク先輩、一人で
出てきてパシッとゆうたじゃないっすか。かっこよかったっす。お
れ⋮⋮﹂三角食べをして残るはその漬物だけ。男の子ってどうして
こんなに早食いなんだろう。﹁学校から帰ったら店のこと手伝うと
るんです。せやけど親父に、学生なんやさけ部活もちゃんとしいや
てきつうゆわれっし、ほんで、困っとたんです⋮⋮おれ絵ぇカラキ
シ駄目やし。時間割かれる運動部は入れんなて。いまさらなんか始
めるんもあれやがなーと思うとったとき、タスク先輩のあれ聞いて
なんか⋮⋮迷いが晴れたつうか。真面目にやってみようかて思うた
んです﹂
一年の頃は非活動的な美術部員だったそうだ。因みに紗優とは面
識が無かった。
558
﹁そっかあタスクのあれは大して面白くもなかったのに効果があっ
たんだね﹂
﹁⋮⋮笑わせるのが目的ではありません。選別はあの時点で始まっ
ていました﹂
今だからこそ言えることですが、と箸の持ち方をエレガントにタ
スクはサラダに箸をつける。食事なのに科学実験のような印象を何
故だか受けた。和貴はテーブルに付いていた肘を離すと、小学生の
ような食べ方でご飯をかきこむ。すかさず奈良漬もぱりぽり。
﹁でもさーなんにだって笑いは不可欠じゃない? 笑かすことのひ
とつもできないとさー話聞いてくれないことだってあんじゃん﹂
﹁実演をどうぞ﹂
やけに食いつく和貴に、急須で自分の湯のみに熱茶を注ぎタスク
はそう命ずる。あ私のにもだ。﹁ありがと﹂
和貴は空にしたご飯茶碗を置く。
大胆不敵とも見える横顔が、
ちらっと視線を私に投げた。
﹁川島んちって寿司屋なんだよねー。お父さんの仕事手伝うなんて
えっらいなあー﹂
芝居がかった大きな声は、
明らかに私を意識したものだったそして、効果的だった。
﹁か﹂咳払いをする。お茶を一口。熱い。﹁川島くんのお家ってそ
うなんだ。将来はお父さんのあとを継ぐの﹂
﹁そのつもりっす。仕込みの仕方教わったり店出たりもしとるんで
すよ。あ先輩らやったらいつでも歓迎しますよ﹂
﹁おれは呼んでいないということか﹂
それまで会話に加わらなかった下田先生が唐突に。
今度こそ私は本格的にむせた。タスクの手が背中をとんとんさす
ってくれた。
559
こんなことを言う先生だとは知らなかった。みんな笑ってる。冗
談を言った下田先生でさえも。⋮⋮最終的に、食事があまり喉を通
らなかった私はほとんどを和貴に差し上げた。失礼ながら、タスク
は見かけに反して存外に少食なのだ。
二人分の奈良漬は塩分過多かも。でもご飯と合わせてすごいスピ
ードで食べていく。男の子の速度ならず食事の量にも驚かされる。
冬眠前の子リスみたくほっぺたに詰め込んでかつ消費していく和貴
は、一息をつくとこっちを見て呆れる。
﹁こんな残しとるから真咲さんちっさいんだよ。ちゃーんと食べな
いと﹂
﹁和貴は人のこと言えるの?﹂
しまった。
と思ったときには和貴は音を立てずに湯のみを置く。
その湯のみを包んだまま。
一旦戻した顔を再びこちらに傾け、じっくり、ゆっくりと、私の
反応を確かめながら魅惑的に微笑んだ。
﹁僕の売りは、そこじゃなくて違うところにありますから﹂
桜井和貴になにを言っても無駄だと悟った。
* * *
﹁うっはあ気っ持ちいー﹂
七時までの自由時間を、私は貸し切りのお風呂で過ごした。うち
のお風呂の何十倍だろう、さすが合宿所というだけあって広い。下
手な温泉旅館に勝る。大きく開けた窓は外からは柵と竹林とで目隠
しされ、その向こうに新緑を感じられる。⋮⋮こっち側に森と管理
人小屋があるんだろうな。柵と壁で仕切られて男子風呂があるよう
だけど、みんなは部屋で喋ってるんだろう。誰もいない、静かな快
560
適さを味わっていた。
﹁うちのお風呂もこのくらい広かったらな⋮⋮﹂
やわらかなお湯を手ですくう。家の浴槽は私の身長で足を伸ばし
てぎりぎり。昔のひとにしては長身で、身長が百八十センチを超す
祖父には特に狭苦しいことだろう。
旅行も行けたらいいのに、うちの家族にはそんな余裕はない。
大人になって働くようになったら、家族を温泉旅行に連れてって
あげたいな。でもそんなの、⋮⋮いつの未来のことだろう。都倉の
血筋は祖母曰くしぶといから、八十過ぎても祖父母は元気に過ごし
てくれそうだけど。
入り口で、物音がした。曇りガラス越しに影が動く。⋮⋮紗優か
な。
紗優だった。
白く立つ湯気に隠れるも彼女のメリハリのある身体を直視できず。
同性だからなおさらこういうのは恥ずかしい。⋮⋮でも結局は見て
しまった。ウエストが細いのにしっかり胸のある体型が羨ましかっ
た。
洗い場でからだを流し、紗優は私から離れて隅でちょこんと湯に
浸かる。
﹁お父さん、元気だった?﹂
お風呂行こうよと声をかけたが、さきうちに電話してくるから、
と紗優は断った。
﹁うん﹂
﹁怜生くんも。おばさんも元気してた?﹂
﹁うん﹂
わんわん響いた私の声が消える。
消え去る。
⋮⋮
いつも。紗優となに喋ってたっけ。
561
部活のこと。紗優の過去の恋バナ、かなり具体的な行為について。
処女の私に﹁こんな足開くがよ﹂ふぎゃーっと言わせてアハハと笑
った。男の子のこういうところがかっこいいと思える瞬間。私はあ
んまり見ないけど、テレビに出てる芸能人のこと。ジャニタレ。雑
誌。non−noは唯一チェックする私に分かるりょうさんや小雪
さんのこと、綺麗だねーって目を輝かす。
この沈黙が、気まずい種のものなのか、
仲がいい同士に訪れる自然な性質なのか、
私にはいまひとつ判断ができない。
でも紗優は無口だった。
と思うのは、⋮⋮いつも、紗優が私に色んな話を振ってくれるか
らだった。
﹁⋮⋮あんま入っとっとのぼせるから気ぃつけいや﹂
二分も浸からず。
乾かす手間を考えてか、髪を流さずに紗優は風呂場を出ていった。
元気のない声色に、
もし逆の立場だったら、紗優は﹁真咲どしたーん元気ないねー﹂
って声をかけてくれるのに。
私の主観で見ても、
そういうことに思い至らないのが私という人間の鈍さだった。
562
︵3︶
﹁私たちはもう寝ますが⋮⋮きみたちもほどほどにして休みなさい。
明日の朝起きれないなんてことのないように﹂
宮本先生にあくびが頻発しているのを見かねてか、或いは気を遣
ってなのだろう、ここに来て最初に下田先生が腰を浮かせた。
九時に実習を終えて私たちは、入り口傍の小上がりにて思い思い
に手を伸ばし足を伸ばし、疲れたからだを畳のうえで休めながら雑
談をしていた。合宿の醍醐味ってこういうひとときにこそあると思
うし。 監視役の先生たちがいなくなるのは好ましくないこととは思うの
だが。
去り際に下田先生は目を光らせ、
﹁念の為に言っておきますと、不純異性交遊をした者は退学となり
ます。くれぐれも自重してくださいね﹂
いまにも寝ちゃいそうな宮本先生に代わり、抜からず私たちに釘
を刺す。⋮⋮温和な先生だと思っていたのに次第にダークな一面が
見えてきた。人当たりのいいひとほど内面は冷徹なのかもしれない、
タスク然り。
下田先生に続き、マキも座布団を離れる。
﹁寝るの?﹂
﹁便所﹂
玄関から真正面の壁に突き当たり、モネの睡蓮のレプリカの前で
先生たち二人と左右二手に別れた。部屋まで行かずあっちのトイレ
に行くのか。
﹁ぜぇったいリョウコに電話やよぉー﹂
思いもしない。
台詞が飛んできた。
563
﹁休憩はいるたんびにマキせんぱい電話しとんもんもーさー電話、
使えんなるしさりげに迷惑なんよねー﹂
﹁石井やてポケベルばっかやんか﹂いまもだ。ピピピと着信。﹁お
まえ彼氏おんの?﹂
川島くんが喋っている間に、私はこわばった頬の筋肉をやわらげ
るよう努力した。
おるよぉ? と石井さん、先生たちがいないのをいいことに堂々
と操作しながら﹁遠恋なんよーカレシ名古屋おんのー三ヶ月続いと
んのまじすげくない? けどさーでもさーチャットとポケベルだけ
やとなんかチョーさみしいっつうかー﹂
﹁⋮⋮公衆電話なら地下にもあるよ﹂
﹁げっまじでっ?﹂
﹁さっき地下行ったとき見なかったのかよ。トレーニングルームあ
るなんてマジすげえだの騒いでただろ、あの奥だよ﹂
ややぞんざいな言い方でジャージをまくりお腹にブスリと注射器
を刺す安田くん。彼は一日に二回自己注射を打たなければならない。
普段は気が強いくらいなんだけれど、こういったところで元は病状
だったさまが窺える。
日焼けした顔や腕に比べてお腹は病的に白かった。
﹁⋮⋮どこやったっけ﹂
﹁回り込んだとこだからちょっと分かりづらかったと思う。案内す
るよ﹂
﹁⋮⋮ミイラ取りがミイラにならないよーにね、真咲さん﹂
﹁大丈夫だってば﹂
突き当たりの階段を降りて一本道を進むだけだ。迷いやすい癖は
こういうところで徐々に克服していかなければ。
暗い場所が苦手だという性質も。
後ろを歩く気配はあった。
紗優のときとは違い私たちの間に会話はない。系統は違うけども
564
きれいめな女の子である紗優をリスペクトしていてかつ好きなのだ。
彼女、手鏡で自分の顔をしょっちゅう気にしてる。でポケベルいじ
ってる。⋮⋮ポケベルの仕組みは知らないがそんなにも眺めていた
い大量の情報が残っているのか。
おそらく否だろう。
﹁つーかさ。真咲せんぱいてちょおニブくない?﹂
ぱっと振り返る。
階段の途中に座っていた。
目のやり場を困らせることなく、膝頭らへんをくっつけるハの字
の座り方。渋谷の女子高生を私よりか知らないはずなのに、同じ座
り方をしている。
鈍い。
﹁⋮⋮そうかな。そんなつもりは無いんだけど。たまに言われる﹂
﹁やよねーだよねーつーか、﹂
紗優せんぱいの気持ち、考えたことあるぅ?
せわしく櫛で髪を梳かしそんなことを言う。
﹁いっくらダチでもさー好きなひととベタベタされるんいややよぉ﹂
﹁ベタベタなんて﹂声が大きくなる。
彼女は鏡のなかの自分しか見ていない。ラインストーンのびっし
りついた手鏡をだ。元が何色なのか分からない。
﹁ダチとか友達っつてもーショセンは男と女やもん。なにがあるか
なんて分からんやろぉー? アキもさーこないださートモダチに男
とられたばっかでさーそんなつもりなかったつうげよ、まじ、ウザ
くない? ゼッコウせんでトモダチ続けるってゆーてなーアキちょ
ーケナゲえっつうかーあたしやったらまっじでムリっ﹂
髪の毛をくるくる指に巻き付ける。
﹁紗優せんぱいていま、ちょーツラい立場じゃーん、真咲せんぱい
565
もさートモダチならさーどーしたら紗優せんぱいツラくさせんかさ
ーもーちょっと考えたげてねー? はなしはそんだけ。ほんじゃー
あたしヒデに電話してこよっとぉー﹂
私の横をすり抜け、
嬉々としたステップで階段を降りる。
その場に立ち尽くしたまま私は動けなかった。
* * *
﹁痛ったあ﹂
鈍く頬骨に痛みが走る。鼻に当たらなくて良かった。いったいど
うやってそんな寝方になるのだろう。枕の位置にかかとがあって見
事なかかと落としを見舞われた。
本人は掛け布団を抱いて熟睡中。なにかうわ言を言っているのは
彼氏のことでも考えているのか。
もう小一時間すれば百八十度回転して元の位置に戻るのだろうか。
布団から出て彼女を見下ろす。⋮⋮フルメイクだ。このひとはお
風呂前後でも化粧を落とさず、眠るときも勿論のこと。肌は大丈夫
なのだろうか。したがって誰一人彼女のノーメイクを目にしていな
い。アイラインなどもしかしたら油性マジックで描いてたりするの
かもしれない。寝てても落ちないしまつげ長いし。
﹁眠れない﹂
誰にも拾われぬつぶやきを吐いて女子部屋を出た。安眠中の紗優
のお布団から石井さんの布団を引き離すことも忘れずに。
見知らぬ建物の深夜は怖いものがある。特に廊下などは肝試しの
レベル。合宿所であろうが旅館であろうが要は、お化け屋敷と変わ
らない。
566
東京の家でも実は引っ越してきてからでも夜中に一人でトイレに
行くのが怖かった。
唯一、怖くなかったのは⋮⋮マキのおうちだけだった。夜中でも
ひとの働く存在を感じられたし、入り口に宿直さんが居た。なによ
りも。
マキが住んでいる場所というだけで、好奇心が勝る。
こういうかたちで人間は自分の気持ちを確認できるのかもしれな
い。
いまの状況も。時間が午前の一時をちょっと過ぎただけでみんな
が二つの部屋で就寝しているのと思えば日中と同じだ。夜中が怖い、
お化けが出るかも、なんてのは気の持ちようだ、迷信だ。地球の裏
っかわだったら真昼間の日差しをサンサン謳歌してる時間帯だ。
森高千里の歌を頭の中で口ずさみ階段を降りる。こうやって現実
逃避を図っている。本音では、怖いのだ。⋮⋮暗闇の廊下を淡く照
射する天井からの豆電球の心もとない感じ、カーペット地でちょっ
と染みの目立つフロアに、同じくうっすらと黄ばんだ壁⋮⋮階段の
左手に非常口の緑のライトが不吉にちらつく。
こういうところの必要なものは一箇所に集中している。マキが長
電話をしていたであろう公衆電話の隣の、男女のトイレの角を曲が
ると即自動販売機がある。手前に水飲み場があったもののそういう
水が美味しかった試しはない。
といって結局私が買ったのはミネラルウォーターだった。
ペットボトルの蓋が開かない。裾で水分を拭いリトライ、袖を使
って三度四度回すとどうにか開いた。
人間は眠る間にコップ一杯の水分を失うという。単に横になって
るだけでもそのくらい消費するのだろうか。一息で500ミリリッ
トルを飲み干してしまった。プハーッと口を拭い、⋮⋮腰に手をや
る自分に気がついて思った。
567
この部活に入ってからどんどん男子化してないか私。
ハンカチで手を拭かぬワイルドさといい。
誰もいないのに咳払いをする。
﹁おっさんくせえ﹂
暗闇を浮遊するかの一言が。
こんなところであんな声が聞こえるはずない。どうやら私は好き
すぎて脳がイカレちまったようだ。⋮⋮てこの言葉遣いも結構に問
題だ。木島の平屋でこんな発言してたら頭シバかれてるはず、てあ
あ。
︱︱背中に。
生物の動く気配を感じた。いくら鈍感でもそういう気配は感じら
れる。
病院のクローズした待合室みたいな長椅子から、
にゅっ、と白い細い手が浮かび上がった。
なまめかしい女のような、
﹁ひ、ぃ﹂
即座に髪の長い女が再生される。首の奥が狭まり、然るべき、締
め付けられるかの声が出る。背中を自動販売機に強く打った。がら
んがらんと空のペットボトルが転がる。いやいま私が見てるのって、
﹁お化、け⋮⋮っ﹂
﹁ちげえ。俺だ﹂
⋮⋮
恐怖を作り出すのはやはり先入観なのだろう。
568
すこし落ち着きを取り戻した私はペットボトルを拾い、ごみ箱に
捨ててから長椅子に膝で座った。この青のビニールの長椅子と背中
合わせに、もう一つおそろいのが置かれている。手を添え、私は逆
側を覗きこんだ。
﹁脅かさないでよ⋮⋮もう﹂
死角となっていた側の長椅子に、彼は寝そべっていた。
﹁こんなところでなにしてんの﹂
﹁寝てる﹂
見れば分かるって。
眼鏡をかけたまままぶたをあげないマキ。お腹の上に組ませた両
手を添え、膝は三角に立てている⋮⋮もうすこし椅子の座高が低け
れば彼の長い足が見えていたはず。
﹁⋮⋮安田と和貴がうるさい。部屋だと寝れねえんだ﹂
﹁あの二人仲がいいんだね﹂
﹁いいも何も。ただの下ネタだぞ﹂
﹁あ、そう⋮⋮﹂
呆れた。
高校生男子ながらそういう話するのってむしろ当たり前だけれど、
同室の友達の睡眠を妨げるようなのをしかもこの時間にするなんて。
﹁川島くんは?﹂
﹁もう一つの障害を含め、ものともせず寝ている。あいつは大物だ。
地震が来ても目を覚まさないタイプだな﹂
マキの示唆する意味に小さく笑った。タスクは訊くまでもないと
いうことか。
ここで。
569
マキが目を開いてぐっと上体を起こした。腹筋が鍛えられている
のか、手の一切を使わずに。
高い位置からマキを拝める機会など生涯私には訪れることはなか
った、しかもまるで寝顔に近い彼の安らかな表情を。だからその行
動は、私を期待から遠ざけるものだったのだが、それどころか。
ち、かづいてくる。
背もたれに手をかけ、私の、⋮⋮頬らへんを、息のかかりそうな
くらい、注視している。
実際、息がかかっている。
﹁頬が⋮⋮赤くなっている。どうした?﹂
そ、れどころじゃない。
玄関のライトが頼りなくてよかった。
﹁これはね、ちょっと、蹴られて﹂
﹁誰にだ﹂
﹁ね、寝てるとこにたまたまだよ﹂
声色にも眼光にも、怒りめいたものが浮かび上がる。
けど私は、︱︱期待しちゃいけない。
彼の博愛精神は、仲間にこそ向けられるものなのだ。
分かっていても、
﹁もしかして、私のこと心配してくれてる?﹂
彼は舌打ちをした。
﹁なわけねえだろ﹂
失敗した。
背もたれにかけた手もろとも背を向けられる。
こうしてまた殻に閉じこもってしまう。
開いたと思ったらすぐ閉じる。近づけたと思ったらただの誤解だ
570
と認識する。こんな風に気難しいマキのこころを射止めた稜子さん
って本当にすごいひとだと思う。
気落ちしたまま、うつむいた顔を起こし、彼の、後ろ髪をふと見
やる。
﹁⋮⋮おまえがそうであるように、俺もおまえに幸せであって欲し
いだけだ﹂
こんな風にときどき、マキは私を突き放す。
可能性の一片も無いのだと言いたげに。
そのたびに、悲しんだり泣いたりなんかしないってめたんだ。
ただそこに感情が横たわる。変わりなく佇む、私が見てきた海︱
︱時折激しく暴れ狂い、波の花を散らす真冬の海のように。或いは、
初秋の静けさを帯びた清潔で清廉な海野の海のように。
﹁ねえ。電話してたんだよね。稜子さん、元気してた?﹂
﹁おまえにそれを言うべきか﹂
﹁⋮⋮確かに﹂自嘲めいた笑いが漏れる。﹁でもマキが上手くいっ
てないと踏ん切りつかないよ﹂
﹁上手く、行ってる﹂
﹁そっか。よかったね﹂
ふふっと笑ったつもりだった。
それが。
彼の上半身がずるずると前方に倒れていく。
驚いて私は彼の側に回り込んだ。
﹁マキ﹂
前かがみの姿勢の表情を確かめられない。﹁具合でも悪いの﹂
膝に顔を伏せた状態で彼は首を振る。
自分のした酷いことを認識して私はいちはやくここから消えるべ
きだった。
571
﹁ごめん⋮⋮私。酷いこと言った。あの。寝るからもう行くね。お
やすみなさい﹂
素早く、
影も形もなく消え去るべき、なのが。
﹁待て﹂
腕を掴まれていた。
顔を伏せたまま、いったい私の腕の位置をどう把握したのか。
彼の反射神経に驚かされるままに、隣に、座らされる。大人しく
座る。彼の、⋮⋮寝ていたあったかさが椅子に残っている。
手を離すと彼は顔を傾けてこう言った。
﹁おまえの、⋮⋮話をしてくれないか﹂
眼鏡のレンズが邪魔して表情が分からない。後ろからの自動販売
機のほのかな光を浴びつつ。
﹁私のって。なんで、この夜中にそんな話⋮⋮﹂
﹁眠れねえんだ﹂
最初っからそう言えばいいのに。
怒ったようにそういう彼に思わず小さな笑いをこぼすと、よく見
えないレンズ越しで睨まれたのが空気で分かった。
眠りにふさわしい昔ばなしは持たない。
眠れない悩みは持っている、それでは、
﹁私の生い立ちのはなしでもしましょうか﹂
572
︵4︶
︱︱私は生まれも育ちも町田で。
生まれたときにからだが小さくて⋮⋮父と母はすごく心配をした。
病弱な割には夜泣きもしない、手のかかるのかかからないのか分か
らない子どもだった。
木島の祖父母のおうちが歩いても行ける距離にあってね、しょっ
ちゅう連れてかれたの。
⋮⋮あんまり、歓迎されてる感じは無かったけどね。
お父さんみたくゲジゲジの眉毛じゃなかった時点でいちゃけな孫
候補から脱落したのかも、あれ木島の特徴だから。あとみんな色黒
なの。私母に似て色が白いし⋮⋮肌の色で差別される側の気持ちが
すこしは分かったな。こっちに来るのも引き止められる様子はなか
ったし。直系の孫なのにね。
祖父母が住んでるのは、駅前の雑踏から離れた、⋮⋮そうだな、
こっちで見かけるのとあんまり変わらない、平屋の一軒家だった。
前はね、会社にくっついてる母屋で生活しててそこで父を育てたん
だけど⋮⋮父に仕事の殆どを任せてからはそっちに移り住むように
なった。周りは畑がいっぱいでさ、二人きりには寂しい広さなんだ
よね、だから親戚からなにから呼ぶのが好きだったみたい。うちに
は庭がついてなかったし、芝刈り機で手入れが必要なバックヤード
が羨ましかった⋮⋮はずなんだけど。裏で泥を頭っからかけられる
の。バケツとかで。堀ちえみみたいなどん臭さが従姉妹たちの気に
触ったのかもね。年少だし一対二以上だと先ず勝てない。⋮⋮周り
の大人たちに訴えると、真咲ちゃんがドジっただけえってあどけな
い子どもの顔して言うの。だから女の子の集団はいまだに苦手なん
だ。あの裏表が。
せっせとあのおうちに通う母のことがちょっと恨めしかったりも
573
した。
なんか、暗い話になっちゃったね。
箱根って行ったことある? 両親と一度ね、ロープウェイで行け
る山奥の旅館に泊まったんだ。すごく、静かだった⋮⋮小涌谷だっ
たかな。あのときの温泉のお湯が熱くて。あと仲居さんが写真撮っ
てくれたのも覚えてる。家族三人で映ってる貴重な一枚をこっちに
来るときに捨てちゃったのは⋮⋮後悔してる。⋮⋮母の気持ちも考
えると、お父さんの写真ないのーって訊くのいまさらだし。
なんで、
﹁母にもできないような話してんだろ私﹂
ねマキ。
聞いてる?
﹁て、わ⋮⋮﹂
肩に、伸し掛かる。全身が、
﹁ちょっとマキ重い、﹂
支えようか戻そうか、判断を迷ったのがいけなかったのか。
反射的に身をよじらせてしまった。
左の手で支えようとする前に、私のからだの前面を滑り落ちてい
く。素早く手を回すも追いつけず私の膝の上で二三度バウンドした。
小さく、うめいた。
けども、すうと息を吸い、
﹁⋮⋮寝てる?﹂
それでも起きない。
うそみたいこのひと。
574
眼鏡いつ外したんだろう。
﹁ねえ。こんなとこで寝たら風邪引く⋮⋮﹂
言えなくなった。
揺さぶりかけた手がそれ以上を揺さぶれなかった。
眼球の動きは睡眠に至るものだった。
私の膝のうえに、そんな眠りこける彼が居る。
レンズをまとわない、一切の警戒心を削いだ素の、彼が。
寝顔は誰のだって安らかで、
好きなひとのならどんななんだって愛しい。
無垢に、息を吸い、息を吐く。
生命として必要最低限の呼吸を保つ彼を見て、
心臓が膝に乗り移ったみたいかの鼓動を打つ。
苦しくて、彼の寝息の立てる微動よりか私の震えのほうが大きい
ほどだった。
こんなマキを見られるのならば、たとえどんななにを失ったって
構わない、私はそう思った。
眼鏡が、⋮⋮右の手で不安定に持ったままだった。膝を動かさぬ
よう上体を右に傾け、どうにか手に取る。と、彼の手のひらは開い
て閉じる動きをする。がぱたりと閉じて収まった。
危ないからぶつからないように、彼の頭より離れたソファーの左
隅に置いた。
顎先のひげが、⋮⋮何本か、剃り残しが分かる。カーブが剃りに
くいのだろう。口がほんのすこし開いて、鼻と共に、安定した呼吸
音を導き出している。
⋮⋮トイレにも行けないや。
腰を浮かすこともならない。
ソファのビニールに散らばる、漆黒の髪のきらめき⋮⋮薄暗くて
も綺麗だと思った。
触れたくなった。
触れていた。
575
たまに、馬鹿にするようにうえからぽんぽん叩く、あのつよい感
じではなく、そっと。
柔らかくて、冷たかった。
寝れないと言っていたのに。
﹁マキが、眠れてよかった⋮⋮﹂
もう一度撫でたときに我に返った。
寝る顔をガン見して頭撫でてるなんてこれじゃあ、変質者だ。
慌ててたたき起こすなり離れるなりすればいいのに、
私はそれをできなかった。
欲動が震えるのを感じた。
独り占めしたかった。
駄目だと思うのに、大切で大切な彼のことを、眺めていたかった。
マキの、白い頬に、数滴落ちる。
これ以上汚さないよう目元を拭うけども、手の甲だけで拭いきれ
ず、後ろポケットのハンカチも取り出せず、うえを向いて天井のラ
イトを睨んでこらえようとする。
我慢しようという働きは逆の効果を生む、
泣かなくて手のかからなかった子どもの私は、
﹃真咲せんぱいもさートモダチだったらどーしたら紗優せんぱいツ
ラくさせんかとかさーもーちょっと考えたげてねー?﹄
明日、紗優に謝らないと。
﹃⋮⋮おまえがそうであるように、俺もおまえに幸せであって欲し
いだけだ﹄
576
気持ちは、押し殺さなきゃ。
いろんなことをいっぺんに考えて整理のつかない脳を、自動販売
機のブゥンという音がすこし、冷やしてくれる。
︱︱マキ。
苦悩を知らない、穏やかさで眠り続けている。
愛しいひと。
二度と言わない。
眠ってるうちでいいから、せめて。
﹁⋮⋮大好きだったよ﹂
どこかから時計がカチリと鳴り、二時を迎えたことを知らせた。
* * *
まぶたをあげても不自然に視界が黒かった。なにこれ、タオル?
耳に入るのは小鳥のさえずり。朝だ、朝を迎えたんだ。
こっちに入り来る直射日光を阻むために乗っけたのだったか、ア
イピローはラベンダーの香りがする。これを落っことさずに寝れる
なんて私はなかなかに寝相がいいほうだ。
おかしなことに、窓際にハンガーで私の制服が吊るされている。
砂壁のいろがなんかいつもと違う。てか寝てるの布団だし。
と気づいたときに頭のそば枕を認識し、私の部屋じゃないことを
思い出せた。そうだ合宿に来ている。
577
昨日の夜は、
自販に水を買いに行って、マキが居て、そっから。
あれ。
そっからどうしたんだっけ。
以降の記憶がすっぽり抜け落ちている。私⋮⋮一緒に眠ってしま
ったのか? マキを膝に、乗せたまま!?
﹁起きたぁ真咲ぃ?﹂畳をべちべち裸足で踏む足音がする。﹁どし
たがあんた、なんかテンパっとるやろ?﹂
頭をかき回した状態でからだを右に捻る。
﹁おはよ、紗優﹂
﹁おはよー真咲ぃ。よー眠れたぁ?﹂
﹁⋮⋮いつ寝たか覚えてないや﹂
芸術は爆発だのポーズから手を下ろした私のそばに片膝からつい
て座る。﹁あたしが起きたときあんたすーすー寝息立てとったよ﹂
私のお布団とは布団二つ分ほど離れた、部屋の隅で石井さんは寝
ている。寝息のほうは大人しいが寝相は相変わらずワイルドだ。掛
け布団を抱き枕みたく抱きしめて、寝返りを向こう向いて打った。
痛いと思う。
それよりも。
﹁わ、たし⋮⋮紗優に謝らないと﹂
お布団から脱出し同じく正座をする。
目の前にする紗優は、
﹁なにをやの﹂
首からかけたタオルで、おそらく洗顔のせいで濡れた前髪を拭い、
いつも通りの晴れやかな笑顔を見せてくれたから。
私は泣きそうになった。
﹁その、⋮⋮私、紗優の好きなひとと必要以上に近づきすぎていた、
と思う。あの。正直、⋮⋮マキや和貴と接するのが怖かった。逃げ
578
る代わりにタスクに目が行ったっていうか、と。友達って意識は変
わらないんだけどその、紗優に対するのとおんなじで。⋮⋮嫌だっ
たよね。ごめんなさい﹂
﹁ごちゃごちゃしとってよう分からんわ﹂眉をひそめながらも明る
い種の笑いをこぼす。﹁むつかしーこと考えすぎて混乱しとんのや
ろ。考えすぎやて﹂
﹁だって。避けてたじゃない私のこと﹂
私がむくれると紗優は、私の寝ていた掛け布団に触れ、ジィーと
チャックを引く。﹁ちょっとな⋮⋮妬けてん。タスクって真咲によ
う触るやろ? えっらい、優しいし⋮⋮﹂
驚いた。﹁誰に対してもタスクはそうでしょう?﹂
﹁そやけど﹂
なにか言いたげだけれど、言わずに作業にかかる。私も習い、枕
カバーから外しにかかった。石井さんのほうをつと見て紗優は、
﹁真咲やって、マキが女の子と喋っとるん見たら面白くないやろ?﹂
﹁ううん﹂即答。むしろ掛け布団とを結ぶ紐が硬くて解けない。﹁
なんとも思わないよ。ただ⋮⋮和貴は別かな。石井さんと和貴が仲
良くしてるのを見るとなんか、⋮⋮もやもやする﹂
﹁なしてっ!?﹂
﹁や⋮⋮﹂白眼を開いて紗優。﹁マキは彼女持ちだから割り切って
るし﹂
喜びを満面に。
一瞬にやけたと思ったらなにか思いだしたことでもあるのか、あ
あ、と呻きながら頭を垂れる。
背を丸め、外し終わったシーツをガバと頭っからかぶると、
﹁ややこしなってきた⋮⋮﹂
白装束姿でため息を吐いた。
579
﹁どういう意味?﹂
この言葉と。
畳を蹴り飛ばす盛大な音とが重なった。
紗優に視線を追従させると、⋮⋮それまで抱きしめていた掛け布
団を大きくエリア外に蹴りだし、ばたんばたんエイリアンに取り憑
かれたみたいに畳を打つ彼女の姿が。
﹁う、うーん、ヒデぇ﹂
それでも彼女は夢のなか。
紗優と目を見合わせて笑った。﹁ひっどいなあれ。いっくらなん
でも﹂
﹁起こしたほうがいいかな⋮⋮﹂
﹁まだ五時半やよ﹂
本来の起床時間までは一時間。﹁それじゃ、布団畳んで朝風呂と
行きますか﹂
﹁さんせーい﹂
ここで。
紗優の表情の変化に気づいて追求すれば事態は変わったのだろう
か。
過去への希求は無意味だと知っていても、それでも辞められない
のが人間という、私という人間の習性なのかもしれない。
* * *
﹁忘れもんないかもいっぺん見てきてー﹂
はいはーいと挙手して素早く建物のなかに消えていくのは紗優だ。
マキの腕も引っ張って。
580
⋮⋮確かに。マキと女の子の接触を平静な気持ちで見ている。学
校で他の子からマキの彼女の話が出るほうがよっぽど動揺している。
﹁あ私、管理人さんたちにもう一度挨拶してきます﹂
リストと突き合わせてチェックするタスクたち、下田先生に湿布
貰ってる石井さんを見ているだけで別段することも無いので。
裏の森に入ると蝉の声が強くなる。この時期に蝉なんているんだ、
やっぱり緑川とは違う。
みんなと過ごした一泊二日が終わる。課題をしたり寝食を共にし、
眠たそうな友達や気だるそうな彼のことをいくら見ても飽きなかっ
た、二日間が終わる。
木立のなかを赤土が覗く一本道を。
たどればいいだけなのに何故か振り返ったのは。
名残惜しかったのか。
動くなにかを感じたからなのか。
円形にくり抜かれた窓に惹きつけられる。
二階だ⋮⋮女子部屋の前だったろうか。部屋のチェックなら廊下
なんて歩き抜けるのが普通なのに、向き合う構図が奇妙に映った。
彼女は彼に歩み寄り、
右手を振り上げ、
乾いた音がこちらまで届くかと思った。
代わりに私から声が漏れた。
それどころか紗優は、マキに掴みかかる。
違う。夏に見た飛び蹴りとは明らかに様相が違う。形相も違う。
怒っている⋮⋮マキは掴みかかられてもされるがまま、端正な横顔
は変わらず。読唇術でもあれば読み取れるだろうに、なにかあった
のか。どうしよう、間に合わないのに、駆けつけるべきか、迷いが
蠢いたときに、
581
﹁まさーきさーん﹂
茂みががさがさと動いて更に私を驚かせた。森の子リスならぬ、
﹁迷子なられると困るし様子見に来た。も終えた?﹂けろりと和貴
は言う。
﹁う。うん終わった! 行こ和貴っ﹂
﹁声裏っかえってるよ。どーしたの? なんかあっちに﹂
和貴の背を押し、
和貴が建物を見上げるその目線を追う。
丸い窓には痕跡の一つも無かった。
帰りのバンに乗り込むときには紗優とタスクが乗るのを確かめて
からにした。行きとは違う二列目で、﹁まさーきさんおいで﹂と和
貴は隣の席をぺちぺち叩くけれど、三人がけの真ん中しか選択肢は
無かった。
狭い席に長身の彼を座らせるわけには行かないし。
赤い頬は左側に座らせてみんなの目から隠したほうがいいし。
﹁それでは出発しますよ﹂
﹁せんせーお願いしまーす﹂
みんな元気に下田先生に答えていたのに。
五分も経たぬうちにおのおのが熟睡なり爆睡に突入した。⋮⋮う
ん、からだに疲れを感じる。変な姿勢で寝てたプラシーボ効果が肩
の凝りを感じさせるというか。
うすらぼんやりとした頭で車内を見回す。
運転する先生を除けば起きてるのは彼だけだ。窓枠の下方に頬杖
をつき、組ませた膝の上に本を広げ。繊細な指先で紙を時折めくる。
授業を受けるよりも深刻な眼差しで。
真面目なときほど貧乏ゆすりをする。
﹁それもう⋮⋮読み終わり?﹂
582
﹁大体な。二周目だ﹂
ゲームみたく何回もやりこむところが物語を読む楽しみなのか。
私が読む本は専門書の類いが主だからその辺は分からない。
﹁﹃吉宗﹄って西田敏行のやつだよね。見てたよ。あの家重の役者
さんの演技すごかったよね。本当の痴呆みたいで。名前忘れちゃっ
たけど⋮⋮﹂
﹁中村梅雀﹂
コンマ一秒のスピードで応える。
早押しクイズでもびっくりだ。
﹁よく、⋮⋮覚えてるね﹂
﹁俺を誰だと思っている﹂
まためくる。一度に二つ以上のことを彼はこなしている。
その証拠にスニーカーの足先が揺れている。
﹁⋮⋮車のなかで本なんか読んでよく酔わないよね。私は無理。中
学のときね、屈んで靴紐直してるだけで酔っちゃったの。それで懲
りた﹂
ぱたん、とハードカバーを閉じる。
俯いて眉間のあたりを摘まむ、頭痛薬のコマーシャルの動作で息
を吸い、息を吐く。
つと左の、通りすがるパーキングエリアを眺めたと思えば、
﹁だから。控えている﹂
えっと? ﹁それで控えてるつもりなの? あ合宿所着いたとき
顔色悪かったの、もしかして車に酔ってた?﹂
立てた二本指が小刻みに揺れる。ヤニが恋しいのか。
﹁⋮⋮そうだ同じ過ちを二度繰り返す馬鹿だとおまえは言いたい訳
だな﹂
﹁い、や?﹂
そこで顔を傾けたのは。
行きよりも蒼白な顔をした能面が。
行きはよいよいってまさにこのことだ。
583
起きてタスク。
と私の内心が叫んだがタスクこそ石井さんのエルボー食らっても
起きないだなんて。
﹁な、んで、怒ってるの﹂
﹁怒って見られるのは常だ﹂
﹁損だね﹂
﹁気持ちの持ちようだ﹂
ふうと前に戻る。組ませた足を戻す。膝を、見てしまった。
黒髪に目が、行く。
その髪をつい今朝方︱︱
﹁どうした﹂
﹁ううん。酔い止めの薬持ってるけど、飲む?﹂
昨日、いつ目を覚ましたの。
﹁酔い﹃止め﹄だろ。今更飲んでも効果は無え﹂
膝枕したの、知ってる?
﹁私、いつ寝たか、⋮⋮知ってる?﹂
﹁イドが、﹂膝の上の手のひらが拳を固めた。﹁超自我がどうとか
言って部屋に戻って行ったぞ﹂
言ってる単語は確かに私っぽい。
夢遊病なのだろうか。
下田先生の目もあるから具体的な単語も質問も選べない。黙る私
に気づいてか彼は、先生のような諭す口調でこう言う。
﹁おい。他の連中みたくいまのうちに休んでおけよ。あとからねみ
ーなんて言ってもおせえからな。学校戻ったら荷物運びがあっから。
すぐに終わるが、⋮⋮、﹂
落ち着いた彼の低音は、
どんな昔ばなしよりも効果があった。
さざなみのような眠気に誘われながら、口をつぐんでくれるのも
分かった。
584
移動中の睡眠は、熟睡することもあるけれども、この場合は。
彼が隣に居るという緊張感を伴い、例えばうえ向いてよだれ垂ら
して寝たら彼以前に先ず自分が幻滅するだろうなと。
下を向く。口が開きがちな私は閉じる。⋮⋮この寝覚めと浅い没
入を繰り返す。
からだが右に左に揺れるのも感じた。山道でも下田先生の運転は
なかなかのもので。左手がしきりに動く。ギアを握る男の人の左手
が。
やけに近いと思った。やや性急なブレーキ。
自然な物理運動に従えば、もしかしたらぶつかったかもしれない、
そこを。
肩から引き寄せられた。
ぐっと肩に肩を押し付けてくる。頭を傾け、その肩に寄りかから
せる。制汗剤と、⋮⋮やわらかな香水を嗅ぐ。
安心して寄りかかられる、たくましさだと思った。
私はそれを知っている。
道路脇を走る緑の残像。走る赤いスポーツカー。のBGMのやか
ましさ。黒とシルバーのぴかぴかバイクが轟音で追い越していく。
不確かな眠気のなかで、ただ右に預けるからだがリアルで。
和貴⋮⋮。
私の意識はそこまでで、あとは緑川に着くまでの道のりをひたす
らに眠り続けた。
着くやいなや﹁まさーきさん﹂と彼が驚かしにかかり﹁ぬほわぁ
っ﹂と奇声をあげて頭をぶつけるすんでで﹁同じことを二度繰り返
すな。おまえも、おまえもだ!﹂と手で庇ってくれた彼を感じると
これはデジャヴなのか夢なのか本気で分からなくなり。
585
そしてこの二人の間で文字通り揺れ動く私のこころは、二日ぶり
に拝む緑川の空ほど晴れやかには行かなかった。
586
︵1︶
﹁ごめん。今日も部活お休みするってタスクに伝えといてくれる?﹂
出くわした彼から逃れるようにそう伝える。
﹁まさーきさん。期末前だからお休みだよどのみち﹂
おっと。
そんなことも失念していた。
バツが悪いままに顔を上げる。
平らなポロシャツの胸が、浅い呼吸に上下している。
﹁⋮⋮あんまり、寝れてないでしょう﹂
睡眠時間は短いほうだけどここ最近は特に。
なのでかぶりを振ることも首肯することもままならず。
ポロシャツのボタンが全開なのは⋮⋮留め忘れているのだろう。
一番上だけ敢えて留めないのが私たちのなかで流行っている。私は
彼に訊こうと思ったけれど、首から繋がる皮膚のいろに目が行く。
地肌のいろが薄いのに首からにかけてが健康的に日焼けしている。
そう認識し、なんとなく⋮⋮切り出せなくなってしまった。
この間の私の逡巡を彼は、私自身の持つ疚しさに依るものとみな
してか。そっか、と納得した調子で言った。
でもね。
と意を得たかのように。そして、よく利くまじないのような語感
を伴って以降の台詞を口にする。
︱︱頑張ってるんだからそのうちいいことがあるよ? すっごく
いいことが。いまは大変だろうけどもね、真咲さん、少なくとも僕
は︱︱
587
校門を出て左へ進み、住宅街を抜ける曲がりくねった裏道を通じ
て目的地へ向かう。
図書館へ行くには校門を右に自分の帰宅する道途中で交差点を左
折し、大通りを道なりに行くのがしごく一般的なルートなのだけれ
ど。
本日も一軒家を守るゴールデンレトリバーに吠えられ、芝生の庭
にてホースで遊ぶ兄妹の水しぶきを眺め、玄関口に停められた水色
のとピンクの三輪車をちらと見て私は歩いて行く。
父親を見かけるのは初めてだった。子どもたちの水遊びに加わる
新参者に洗礼を下そうと兄妹がタッグを組んで容赦無くずぶ濡れに
する。子どもの遊び方に限度を作るのは大人の役目だ。こらあと叱
りつつも父親はまんざらでもなさそう。リビングの窓から複数枚タ
オルを手に、微笑ましげに見守るエプロン姿の母親が印象的だ。
それはまぶしすぎる家族の肖像であり、私に手の届かない現象だ
った。
﹃︱︱僕は、応援してる。どんな、なにがあっても、キミのことを﹄
教室で聞くには、⋮⋮考えようによっては情熱的な台詞だった。
なんであんな臆面もなく歯の浮く台詞をすらすらと言えるのか、生
粋の日本人なのに。⋮⋮と赤面する暇があるなら英単語の一つでも
叩きこむ状況だった私は。咄嗟に浮かぶのは、supercali
fragilisticexpialidociousが最長の英
単語だなんて試験に役立たない情報だった。
思うに受験勉強を阻む最大の障壁とは、ヒトとモノと繋がりたい
自身の欲求なのだと思う。受験とは孤独な戦いだ。流行りのテレビ
ドラマと。雑誌に載ってるファッションと。みんなが持ってるアイ
テムをチェックすることと。好きな漫画にアニメと⋮⋮それらのす
べてを心内において出入り禁止にさせる。するにもなにかしらの罪
588
悪を伴う。そもそもが遊び歩く場と時間の恐ろしく制約された緑川
においては、流行りモノと手近な色恋沙汰の収集にみんな御執着だ。
隙間なく互いを埋め合う女の子グループの友情を持たない私は、
一人のことに従事できる。⋮⋮自分のことばかり考えている。考え
る時間はもっと欲しいのだが、答えの出ない問いを延々巡らせてい
ても仕方がない。二十四時間受験モードオンにしたところでさして
能率も上がらないので、この図書館に向かう五分程度の道のりだけ
は、自由に。思うがままに水面下で自分を解き放つようにしている。
議題は。
部活のこと。マキのこと。将来の願望のこと、とか。
部活に合宿以来ひと月ほど顔を出していない。和貴を避けにかか
ったのは自分の後ろめたさゆえだった。
タスクに一度会った。欠席が続くことを詫びると﹁僕も二週間に
一度出るのがせいぜいです﹂と受験生の共通のややむくんだ顔であ
くびを噛み殺し彼はそう言った。
紗優いわく、週に一度は顔を出してすこしずつ川島くんに引き継
ぎをしている。
マキはまったく見ていない。タスクとほぼ同じ頻度で部活に出て
いるらしいが。
学校の図書室に比べると、市の図書館の学習ルームは冷房がキン
と利いていて頭が冴える。賢くなったかの錯覚を得られる。学習机
に向かい、然るノートやテキストを広げれば充実感もますます。
では駄目なのだ。
学校が終わってすぐでないとこの窓際の隅の席は得られない。わ
たし的には私の定位置となっている。この時間はまだ、司法試験か
なにか狙ってる風ないい年したいつもチェックのネルシャツ着てる
おじさんや、日経の朝刊か司馬遼太郎辺りのハードカバーのいずれ
かを背筋を正し読むご老人がいるばかりで空席が目立つ。ものの、
三十分もすればかなりが埋まる。
589
図書室でなく敢えて図書館を選ぶ理由は緑高生以外の学ぶ環境で
気を引き締めたい、という目的以外には。⋮⋮帰りにみんなと鉢合
わせるのが気まずいからだ⋮⋮この気持ちがかなりを占める。誰に
言われるまでもなく、私は部になんの貢献もしていない、のに不参
加を選ぶ。登校拒否をする子の決まりの悪さがよく分かる。
誰も咎めたりしない。会えばみんな久しぶりーって言ってくれる
のに、マキ以外は。こんな風に先読みしてかかる心理は、フロイト
の抑圧理論がもろに当てはまる。思い悩むことの裏には直視を避け
たい、感情なり、欲望なりが潜んでいる。私の場合は。
部活に行ってみんなと喋ってたい。
これだ。
腕時計を確かめれば五分どころか十分を費やしていた。ご褒美に
しては頂きすぎだ。机のうえの準備は既に整えている、さて。
煩悩を捨てよう。
数学の数列から取り掛かる。︱︱得意なはずの国語も英語も、選
り好みの勉強しかして来なかったツケが段々見えてきた。英語なら
長文読解は得意だが、発音記号などの小問でつまづく。国語なら古
文。現代文と漢文は比較的みんなが点を取れる分野だからそこを押
さえつつ、苦手を克服する必要がある。
数学は、⋮⋮というより大問題なのは日本史Bと生物IBだ。こ
んなので国公立を目指せるのかと我ながら嘆きたくなるレベルで。
いまから地歴公民の選択科目を現社か倫理に変えたいくらいだ。そ
の手もあるけれど、みんながほぼ満点を取れる科目をゼロからやり
直すこととなる。既にやり直すことの満載な私はその道を避けた。
私が目指す心理学部或いは心理学科の入試は五教科方式のところ
がほとんどだ。三教科方式の私大も二三は受けるものの、⋮⋮最も
行きたい大学の方式に対応できねば意味が無い。
走っても走っても追いつけない目的地。
590
阻む手付かずの瓦礫を目の前にした気分だ。
要するに現状は、厳しい。
要するに私はひどく焦っている。
ひと通り宿題を終えたところで休憩がてら大学案内の資料を取り
出す。大本命の学校含め昨日郵便で届いたのをまだ確認していなか
った。家のペーパーナイフで開封だけはしてきた。私が最後尾の席
を選ぶのは後ろを気にせずこういうことができるからでもある。私
立大学のほうが学費が高いだけあって資料は充実しすぎるほどに充
実している。学校案内というよりは書籍ばりの分厚さに驚いた。比
較すると国公立のほうが資料は薄く、オープンキャンパスの日程も
絞られている。少人数は別として大体が事前申込みも不要なようだ
︱︱とひと通り目を通しているうちに。
あちゃあと声を出しそうになった。
﹃七月二十六日 特別講義 フロイト入門﹄︱︱よりによって講師
はあの教授だ、絶対に観に行きたい。しかし。この日は私が受ける
模試の二日目でもある。
からだが二つあったらいいのにと直感的に思った。
夏休みのうちに一度上京する予定だった。祖父母と母も了承して
いる。でせっかく行くのなら大学を二三見学しようと思っていたの
だが、︱︱この大学のこの特別講義は一度こっきり。オープンキャ
ンパス自体も一度こっきり。これだから国立は融通がきかないとい
うか。さてどうしよう、参加できなかったからといって入学の意志
が揺らぐとは思わないが、⋮⋮というより私自身が入学に至る実力
に満たないことが先ず問題だ。
先送りして解決できる問題から取り掛かろう。
と気持ちを切り替えたときに。
591
本当に、音が鳴った。
勉強に集中していたら聞き逃す程度の。ガラスをこつこつ小骨で
叩くかの。︱︱緑川には公園が多く、この図書館周縁も例外ではな
く、はしゃぎ回る子どもの声がときに聞こえる、それとガラスをど
しんどしん叩く子が現れたりも。誰にも関心を持たない気難しそう
なご老人が一喝したのが印象的だった。子どもならばもっとべちん
べちん手のひらの形や指紋をなすりつけるような叩き方に遊び方を
する。
頭のなかに生まれた隙間を鳴らす小さな奇妙なノイズに。このタ
イミングでなければ気づかなかったことと思う。
なにげなく流し目で確かめかかる。
驚きすぎて私は椅子と机を大袈裟に震わせた。
いつからそこに。
というより、なにしに。
最も会いたくてたまらない人間が薄っぺらい窓ガラス一枚隔てた
向こうに存在した。
こちらを睨みつけ、
ノックした拳をそのまま上げたままで。
全体的な前髪の感じも、⋮⋮サイドの髪も長くなってる。一ヶ月
程度で人は人をこれだけ変えるのか。
変わらないのは私の心臓に対するショックだ。こんなのを繰り返
していては将来的に心臓を悪くして死ぬ日もそう遠くない。
表面にうっすら汗を帯びた白磁の肌、鼻のあたりがテカってる、
おさなごを大泣きさせそうな眼力その迫力。睨んでいるつもりは無
592
いんだろうに睨んでいるようにしか思えない。
矛先は、私だ。
というのを、薄々分かっていても理性が拒否をする。私は期待し
てはならない。与えられてはならない人間だから。
睨まれ続けてもなにも返さない人間にしびれを切らしたのか。
眉がぐっと中央に寄る。
薄い唇が動く。
はやくしろ。
くいくい、と人差し指が彼を示す。
私は釘付けとなったまま、なんとか机に椅子を落ち着かせながら
どうにか、立ち上がった。
窓を飛び越えて合流するわけに行かず。正面玄関に私より先にた
どり着いていた彼は、自動ドアを塞いでいたのを気にしてすこし、
左に、私から見て手前にずれた。
﹁どしたの、こんなとこに﹂
勉強をするのは学校の図書室だと聞いている。彼はこめかみから
つつ、と伝う汗を拭いもせず、
﹁手を出せ﹂
﹁⋮⋮こう?﹂両手で水を掬う、或いは物を乞うかのポーズ。あ。
お財布席に置いてきちゃった。
学生かばんを足元に置く彼は、実は大きな紙袋を持っていた。で
その白い紙袋からなにかを取り出す。
﹁こいつは長谷川から﹂
私に与えられたのは水でも物でもなく﹁⋮⋮お守り?﹂
神社で貰う種の薄い紙に透けて見える。赤の地に金の刺繍で﹃学
業成就﹄。
593
﹁これが宮沢﹂
なにか小物でも入ってる風なキティちゃんの小ぶりな包装。アク
セサリーとかヘアゴムが入るサイズの。
﹁安田からで、こいつは川島から﹂
黄色いビタミンCの錠剤におでこ用アイスノンの箱、⋮⋮いくら
なんでも両手に収まらなくなってきた。るろ剣四冊に至っては和貴
からと言って出して見せるだけだった。
﹁最後に石井。⋮⋮こいつも石井だな﹂
つけまつげの入った透明なケースが裸でそのまんま。誰からって
言われずとも分かる、で残念ながら私は使わなさそうな。くっつい
てたピンクのキラッキラなメモ用紙にまさにギャルの丸っこい文字
で、
☆☆☆真咲せんぱーい☆☆☆
こないだ言いすぎちゃってまぢでごめん︵−人−︶
つかせんぱいおらんとさりげにチョー寂しいよ︵T︳T︶
笑ってしまった。
で手が塞がった状態から一つずつマキはまた袋に戻していく。そ
の丁寧な手つきを見て思うのは。
あの。なにがしたかったんでしょう。
結局元通りに戻ったその袋を渡し、﹁持て﹂と命ずる。
私がそれを受け取ると用事は終わったと言いたげに、自動ドアを
開かせる、から。
﹁待ってよ。これ全部私に?﹂
﹁見れば分かるだろが﹂
振り向きざま怒ったように。
引き止められたのがめんどくさいってもろに出てるけど、そんな
594
⋮⋮
顔しなくたっていいじゃん。
すこし傷ついたけど私は笑顔を作った。
﹁わざわざありがとう。じゃあね﹂
彼より先に。
来た道を戻ろうとする。学習ルームのほうが涼しいだろう、玄関
は外の風が入ってちょっと蒸し暑い。
自動ドアの開閉音を後ろに残し。
自分の紙袋のなかが揺れる音を聞く。
それらに混じって。
なにかを聞いた気がした。
反射的に振り返る。
ガラス越しに、マキが私を見ていた。
その彼の口許に、目が引き寄せられる。
聞き取れないけども、それは︱︱
﹁うそっ﹂
紙袋を落としそうになるほど驚いた。事実落としかけて持ち直し
た。
それを、彼はいつものように小さく笑い、背を向け、未だ気温の
高い屋外へ戻って行こうとする。
私は、
追いかけた。
自動ドアが開くのを待ちきれずからだを滑りこませ。
595
走っているわけではないのにもう、階段に差し掛かっている、普
段の歩きを合わせてくれていたのがいまさらに思い出され、胸の奥
が絞られる切なさを覚えた。
﹁マキっ!﹂
やや白眼を大きくして振り返る。
私はその、驚いた顔が大好きだった。
いま私が伝えるべきなのは、
﹁ありがとうっ﹂
もっと見開くと、
小さく、納得したように首を振る。
片手をポケットに突っ込んだまんま。
そして彼は、笑みを消した仏頂面に戻ると、薄暗さを覚え始めた
夕方の街に消えていった。
﹃たんじょうびおめでとう﹄
︱︱なんで。
知ってるの。
わざわざ、用もない図書館に来てくれたの。
疑問はいっぱいある。
でも、
⋮⋮充分だった。
七夕から一日遅れた中途半端な日、期末試験の前日という日。面
白くもないイベントもない平凡な一日が、たった一つの言動で塗り
替わる。
一年に一度の逢瀬を待ち望む織姫と彦星の恋焦がれに重なり、一
596
ヶ月ぶりに見かけるマキが、どこまでも私のなかで愛おしかった。
彼はアイテムの幾つかを取り出さなかった。
そのうちの一つが、
海のように深い色をした青のお守りだった。
それは、ある一人とのイメージと重なった。
お守りにしては珍しい色で、赤い文字で﹃合格祈願﹄の刺繍が施
されている。
言われないでも、海野神社の捺印がされた袋にそれを確信した。
このことを思い起こすたびに思うのは何故か、いつも、彼のまじ
ないのような、或いは予言めいた、確信の混ざった語感だった。
︱︱頑張ってるんだからそのうちいいことがあるよ? すっごく
いいことが。
597
︵2︶
﹁文学部志望てゆうとるからてっきり⋮⋮三島由紀夫かシェークス
ピアでも学びたいんがやと思うとったわ﹂
﹁違うよお母さん。国公立だと学部じゃなくて学科になるの。教育
学部心理学科とかね﹂
﹁教育学部ゆうたら先生になるもんかと思うがいね﹂
﹁でもないよ﹂
夏休みを翌日に控えた七月の二十四日。実質突入したと呼べるの
だが、明日から休む間もなく二日間の外部模試が始まり、終わると
夏期講習と模試と講習のサンドイッチでカレンダーのすべての日付
が埋まる。
まさに、受験の夏となる。
三者面談を済ませた帰りだった。判断材料にされていた、こない
だの模試の結果は⋮⋮
喜ばしくないアルファベットでぜんぶだ。
﹃国公立は生物と日本史がネックかもしれませんね。見方を変えれ
ば、底上げ出来ればかなりのところを目指せるとは思いますが。⋮
⋮ここと。この学校は二教科や三教科ですけども、私大の入試はこ
ういったセンター試験を意識した模試とは違い、学校ごとにかなり、
クセがあります﹄
宮本先生の言うとおりでだから赤本なるものが売れる。
﹃センター利用の私大を選ぶにしても、対策が必要ですから、私大
は三つ程度に絞ったほうがいいですね⋮⋮それと、滑り止め候補も
考えておこうな都倉﹄
第三志望の私立はC評価だが、現時点でE評価の国公立。
合格は、厳しい。
﹁こんな風に一覧になっとるなんて感心やわねえ。お母さんときと
598
だいぶ違うわ﹂
私がよほど険しい表情をして沈黙していたのか。母はわざと作る
ような明るい声で、私の手のなかの、コンピュータのはじき出した
結果を取る。
﹁お母さん。それより喉が渇いた。麦茶が飲みたい﹂
﹁はいはい﹂母は紙を机に戻し腰を浮かす。
壁掛け時計が四時を知らせる。
ひぐらしが鳴く以外は蝉も鳴かない、夕暮れ方のひとときだった。
白昼の灼熱が徐々に冷めていくのを母不在の右から吹く風に体感す
る。その風が私を通し、廊下へと抜けていく。小窓の向こうの台所
にて祖父母の働く気配を感じられ、食器を洗い流すリズムを聞く。
﹁無理せんでいいがよ。真咲﹂
冷蔵庫を前に屈んだ母は不意に言う。﹁うちのこと気にして学費
安いとこせんだっても、あんたが入りたい学校で構わんがよ。⋮⋮
ここんとこ毎晩毎晩あんたが根詰めとるん見ると心配になるわ。お
母さんたちな、私立やてどこやったっていいってさっき宮本先生に
もゆうた通りなげし、⋮⋮﹂
﹁違うの。そうじゃなくって⋮⋮﹂
冷蔵庫の扉に隠れて見えなかった母は、麦茶の一リットル強が入
るグラスボトルを取り出し、一旦それを肩くらいの高さの食器棚の
うえに置いた。母の視線が私に流れる、私はそれを待って言った。
﹁志望する大学がたまたま国公立なんだよ﹂
﹁そうなが?﹂
またしゃがんで食器棚の下方を覗く。⋮⋮お茶飲むだけならグラ
スなんて選り好みしなくたっていいのに。それよりもはやく乾いた
喉を潤したい。
﹁私が学びたいのは心理学なんだけど⋮⋮心理学と一口に言っても
色んなジャンルがあるんだよ。犯罪心理学、児童心理学に発達心理
学﹂偏ってるな。まいいや。﹁で一番興味があるのが臨床心理学な
の。ひとのこころを治療するための学問ね。それにも学派が色々あ
599
って⋮⋮有名どころだと、というよりいまアツいのがユングかな。
Xファイルの影響だね﹂
母のこころは決まった。
海のような青をした切子ガラスを手に取る。
﹁学術論文以外に一般のひと向けに分かりやすい書籍を出してる大
学教授もいるから、それで私は気になる学派や教授をチェックして
たんだよ。⋮⋮学派なら私はフロイト派かな。カウンセリングか講
師一本の先生もいるけれど、臨床も講義もバリバリ現役の先生もい
る。そういった先生から直接教えを乞えるチャンスなんて、この時
代に生まれてこそだもん、逃したくないんだよね。特にね、東京心
理大学の柏木慎一郎先生が気になっていて⋮⋮著書でしか知らない
けど、すごく、人に向ける目が優しい感じが﹂
言葉を止めさせられる。
どこで見失ったのか。
グラスが滑る。
母の手を離れ、
下へ下へと青が落ちる、
パリィンと音を立てて粒子が散る色が舞う。不覚にもそれは身を
引いた母のスーツを背景にきらめく、コバルトブルーに彩られた花
火の美麗さだった。
﹁大丈夫お母さんっ﹂
答えは無い。
顔を両手で覆う母の様子が気にかかるものの、急いで廊下の荷物
入れからほうきとちり取りを取りに行く。
﹁怪我は? してない?﹂
顔を振る。
幸いにして淡いグレーのスーツにかかった様子もなさそうだ。
﹁危ないからちょっと。どいて﹂
押しのけて周辺を払う。青いちらちらが無くなるように、粒子が
消え去るように。裸足を好む祖父がうっかり踏んづけたら大変だ。
600
あとでもう一度掃除機をかけたほうがいいと思う。
ビニール袋を二重にし、外側の袋に後で書いたゆえに汚い字で割
れ物と書いて玄関横の割れ物置き場に置く。
そこまでして戻ってきても母は、座り込んでいた。
前のめりに床に手をついてまさに慟哭するかのその姿に、私は面
食らった。
﹁⋮⋮そんなに大切だったの? あのグラス﹂確かに私の中学の修
学旅行のお土産だったけれど。﹁また買えるよ。北海道行く機会あ
ったら買ってきたげるからそんな﹂
いつか働いてお母さんを北海道旅行に連れてってあげたい。
そんな連想までしていたのだ、私は。
私を育ててくれた母のそばに跪き、
私を産んだ母のからだを支えながら。
︱︱昔のひとはよう言うたもんや。蛙の子は蛙⋮⋮。
呪印でも唱えるかの低い響きに怖気がついた。母は私を見ていな
い。焦点の合わない眼差しで私の助けを借りず、自力でからだを起
こして自己を支えると、母は、まさか、こんなことが、あるなんて、
と一語一語を肺を絞られるような声で呻く。
﹁どうしたのお母さん。しっかりして、﹂
﹁真咲が﹂
遮る、
母の目からしずくが落ちる。
そのひかる筋の残る面差しで母は、
覚悟を固める人間の意志を持って、
されど、わずかに躊躇いを彷徨わせる震えを持ってして、
601
﹁真咲が、うちを出るときに言おうと思っとったんやけど︱︱﹂
﹁な、にを﹂
私の言葉は躓いた。
それ以上を聞くのが、怖い。
なにかとんでもないことを明かされる予感が、いや予感などでは
ない。確実な鍵を手にしかけるその不気味な手触りまでも感じられ
た。
知れば正気を保てなくなる、母のように瞬時我を失うかもしれな
い、そんな予知までも感じられるのに、それでも、私の言葉が声が
口が、駆り立てられる。
知りたいという、方向へ。
私は母を見つめ返した。
なるべく期待値を削いだ、透明な眼差しで。
寸時押し黙っていた母は、涙を止めた瞳で、
理解してか。
かすかに微笑み、曖昧な風に首をかしげる、
私と母に共通の、困ったときのあの仕草で︱︱
﹁真咲はお父さん⋮⋮義男さんの本当の子じゃないんよ。血が繋が
っとらん﹂
真実の扉を開いた。
* * *
昼間が夜闇に変わりきる前のひとときが私は好きだった。変化し
602
切る直前の危うさが美しい。夏の夜は長い。髪を軋ませる日差しの
へんげ
凶暴性が山々に喪失させられ、炎色反応の実験で見たことのある強
烈なオレンジに変化し、それもまた落ちて、海の青へと還っていく。
その変化の終わりまでを見届けられる気がする。
このままここに居れば。
うっすら明るい群青というのか。この空も紺へ、やがては眠る前
のまぶたの裏に似た漆黒へと明度を落とすことだろう。一日の始ま
りから終わりにかけては人間の一生に似ている。
アウトサイダーとして眺めるだけの。
それもまた、同じだ。
腰が、痛んだ。いったい何時間座っているのだろう。時間という
概念が消失していた。
初めて訪れたときはこの深くベンチのところまでは至らなかった。
入学式の次の日に︱︱早退してカラオケにしけこんだ翌日⋮⋮川島
くんたちは当時まだ入部していなかった。ほんの三ヶ月ちょっと前
のことがずいぶん遠い出来事に思える。
みんなでお花見と称してこの公園にやって来た。広大な敷地をな
るだけ自然なかたちで残そうという意志の伝わる、坂の上の肥沃な
大地に。坂がやや急で歩きでは二三十分かかる立地が関係し、また
直近の雨で芝生に土もぬかるんでいるに違いないから花見客は下校
途中の中学生が通りすがる程度だった。お目当ての桜のほとんどが
散っていてもまだ残るたくましい生命力をそこかしらに感じられる。
緑高の中庭よりも種類が豊富で樹齢百年は越そうという松の大木も
見受けられた。
口許に絆創膏を貼った和貴が走り回り、紗優が鬼ごっこの鬼のご
とく追う。私も習おうとしたらタスクにおよしなさいと言われた。
日の当たるところを熟知しているのですよ彼らは。貴女の制服が
汚れるのを僕は見たくありません。
なんだか顔を赤くしながらどもありがとうとお伝えした。
一方、無関心な彼がどこにいるのかと目で探せば。
603
水たまりの向こうに。
この町でもっとも歴史を重ねた巨木の下に。
迷惑なことに煙草を吸う。
なくせに迷惑な顔をし、俺はこんなとこ来るつもりはねえんだ風
に。
けれども。うたかたの白煙と。
何故か彼のところに流れ来る、死した桜の花弁が散り吹かれ。
例え疎ましく自分の周囲を舞おうとも、なすがままなされるがま
ま。
桜が彼を愛でているように思えて。
真新しいブレザーに、綺麗に揃えられた漆黒の髪。淡くまとわる
桜吹雪のいろと不快気な眼差しとのコントラストに。
私は飽くることのなき魅惑を覚えたものだった。
季節は変わり、いまは夏。あのときよりもいっそう輝きを、︱︱
暴力的なまでの生存を魅せつける新緑のまばゆさに。覚醒させられ
る。眠る、隠そうとする意識を揺さぶる輝きの度合いだった。
︱︱お母さんが東京におるときに、⋮⋮つきおうとるひとがおっ
たの。
このベンチの斜め前に一本、物言わず針葉樹が立つ。根っこの傍
らに雀が一匹。もう一匹と。
﹁あのひととお母さんとは家柄も釣り合わん、⋮⋮将来を約束され
とるひとやった。結婚する相手も、学校を卒業したらどの道に進む
かも、決まっておった﹂
木の実か誰かの残したパンのかけらだろうか、点々と落ちるなに
かをついばむ。争わず干渉せずお互いが。
604
﹁親の望む道とあのひとの進みたい道は違うておった。夢を叶える、
才能も実力も持っておるひとやった。それやのに、お母さんのせい
でその夢を諦めようとしとって、それで、⋮⋮お母さんから一方的
に別れを告げてん。あのひとはアメリカに旅立っていった。その後
の人生に関わりを持たんつもりやった。やけど。そのあとに気がつ
いてん⋮⋮﹂
お腹の中に命が宿っておることに。
上空で烏が鳴いたせいで雀たちの平和が破られた。
一斉に飛び立っていく。
私はまた、見るものを失ってしまった。
こころばかりの仲間を失ってしまった。
﹁それから、実家に戻ろうか迷うておるうちに⋮⋮義男さんに、結
婚を前提につき合ってくださいてゆわれて⋮⋮お母さんはすべての
ことを話したの。会社も辞めるつもりやったんに、お父さんは⋮⋮
分かった上で、すべてを、受け入れてくれて⋮⋮﹂
そのひとが私の父親だという確証はあるの。
そのひとは私のことを知っているの。
まるで他人ごとのように口が動いた。
お母さんの血液型はB型。義男さんの⋮⋮本当の血液型はAやの
うてO型。B型とO型からは、⋮⋮A型の子は生まれんのよ。
生物を選択科目とする私は母の弁を一応は理解した。
605
︱︱落ち着いて聞いて。真咲。⋮⋮あなたの父親は柏木慎一郎。
⋮⋮あのひとはあなたのことを知らない。お母さんが言うてないか
ら。
﹁いい加減にしてよっ!﹂
絶叫した。
母を見下した。
いまのいままで裏切り続けてきた、
こんなものを隠し持ってきた、母を。
﹁親の勝手で離婚、挙句父親は違いました。⋮⋮お母さんはいった
い私をなんだと思っているの。木島の人間も親戚もみんなみんな︱
︱﹃知っていた﹄のね﹂
私が幼い頃から受けてきた仕打ちに関しても合点がいくものだっ
た。
泣き崩れるのが母の答えだった。
それ以上に不整合な不正解など見当たりやしない。
一瞥して家を飛び出した。
いったいどうなにをどうやって辿り着いたのか。
記憶含めて喪失している。頭のなかが真白いばかりで足を木の枝
だかにところどころ切っている。肺が苦しかったし足の筋肉が変な
感じに痛かった。手ぶらだ。制服だ。だから、緑川を出るのは不可
能だった。無意識下で回避したということか。ならば、海。砂浜は
︱︱いまの時期は海水浴をする家族連れが多くいて目の毒だ、いく
ら海を眺めるのが好きでも私は行かない。
頼れる先はほかに無かったのか、誰か︱︱
⋮⋮紗優は、
606
﹁あ旅行だっけ﹂
いまごろ軽井沢行きの高速に乗ってる。まーた行き先が軽井沢な
んよもーソフトクリーム食べたくなるしぃと嘆いていた。でも私は
嘆くほどの飽きる旅行を知らないし、
いま私が最も嘆きたいのはそういう種のレベルではない。
どのみち彼女のことは選ばなかった。
残念な人種だと思った。友達のことも、こんな風に︱︱家族の揃
った温かい家庭を目にしたくないという理由で、割りきれてしまう。
これが私の人間性なのだ。
意識せぬうちに。誰も来ない。誰の目も届かない。こういう、孤
独な場所を。選ぶように。私という人間とはそのようにして生成さ
れている。
︱︱親の勝手で離婚、挙句父親は違いました。
身が切り刻まれる思いがするというのにお飾りの涙も出やしない。
私の存在って、なに?
生まれてこなければよかった? ⋮⋮そうしたら、お母さんはも
っと幸せな人生を歩んでいた。木島にいびられることも無かった。
お父さんと、或いは違う誰かと違う人生を送っていたことだろう。
お父さんも他人の子を抱く苦しみなど知らなかった。
笑える。
なにが、お父さん︱︱だ。
木島義男は血も繋がっておらずもはや戸籍上も他人。他人である
彼を、彼の周囲を巡る軌道から私を外した彼を何故、私が心配する
607
というのか。
二度と会うことの叶わない存在だというのに。
私は彼の役には立たない。
私は私の人生に役立っている?
それどころか︱︱
からだを起こしているのも面倒になる。膝に突っ伏した。
ままならない。思考もままならない。
考えること自体が煩わしい。
にも関わらず、止められない。
思い至った答えに吐き気がするほどの戦慄と絶望を覚えた。
それは。
父と母の離婚の原因は私の存在一つにしか考えられないではない
か。
信じられなかった。自分のことがどれだけ迷惑を及ぼすのかをま
ざまざと見せつけられた気がした。
私さえ、︱︱いなければ。
恐ろしい考えが意識表層に浮かびあがる、
その手触りを認識するより早く。
知った声に、呼ばれた。
迷妄がたちまち現実に還る。
震える、たちまちからだじゅうから発汗する。
足元をタップするようなリズム、︱︱この歩き方、は、
608
﹁やーっぱ真咲さんだ。どしたのこんなとこで?﹂
嘘だと思ったこんなのは。
現実と思考の狭間を行き交いつつ、精一杯の力を入れて膝を押し、
上体を起こす。
制服ではなかった。
一度家に帰ったのか、スカイブルーの襟付きのシャツに、黒いニ
ットのネクタイ、下はチノパン。
彼は、
爽やかに爽やか過ぎるスタイルでここ、座るよ? と隣にかける。
近い。
﹁ここねえ僕のお気に入りスポットなんだよ。可愛くないこのベン
チ? ほんで、こっから大好きな町並みを一望できる﹂
この座った状態でも、緑に挟まれた夕陽の沈む海を捉えられる。
絵葉書にでもなりそうな光景が広がる。海に沈みかけた陽はお椀を
逆さにした薄い半月のかたちをしていた。
﹁このすぐ裏にね、中学があんだけど、こんな奥まではあんま誰も
来ないんだ。むかーし砂かけばばあが出るかもっつわれたのも関係
してるかもね? 静かに、落ち着いて、自分のことを振り返られる
︱︱﹂
ふっと自らを嘲るように笑い、
﹁ここに来ると愚かな自分を思い出す。そのために来てるのかもし
れないなあ﹂
609
膝に肘をつき、両の指を組み合わせる。
いつかタスクが自分を語ったのを彷彿する姿勢で。
ひとが祈るときには誰しも、この祈りの手を組む。
﹁⋮⋮突っ込むとこなんだけどここ。気になったりしない?﹂
肘をついたまま、
苦いものの混ざったような、照れの類いなのか、笑いとも苦笑と
もつかぬ複雑なものを交え、こちらに顔を向ける。
私は。
さっきから彼を傍観している。
なんの、いっさいも、入って行かない。
空虚に。
からだの内部ががらんどうになったかの虚無に、満たされている。
それを別の言葉群で表すなら、
存在不定と、
孤独だった。
﹁よしっ﹂
だしぬけに膝を叩いて和貴はベンチを立った。
﹁行こう真咲さん﹂立ち上がらされ、腕を引かれたと気づいたとき
に自分は歩き始めていた。借り物競争のときはあんなにもスリリン
グだったのに、彼の皮膚を体感するいまの私は、マリオネットじみ
た自分を知覚するのみだった。
来た道とはおそらく途中で別れ、坂道沿いの一本の歩道を塞いで
610
停めてあった赤い、本当に真っ赤なポスト色の、折りたたみ式の車
輪が小さい自転車の前で止まった。
それが人形劇の終幕だった。
﹁乗って?﹂
生きた、人間の、発言だった。
意識がレンズを曇らせるのか。普段ほどには魅力的に彼は映らな
い。
﹁後ろ、乗って?﹂
二度言われなければ言うことがきけない。なにを言われたのか耳
には入るけれども理解にひどく、時間を要す。愚鈍な私はスカート
の裾を気にしながらまたいだ。膝を露出したのでスカートで隠す。
⋮⋮冷たい。さらに冷たい、前の座席の根元のシルバーを掴む。
﹁そんなんじゃーあぶないっ﹂
⋮⋮当たり前なのだが。
誰が運転するかと思ったらそりゃ彼に決まってる。
そんなことにも思い至らなかった。
彼は、その前方座席に座ると、シルバーを掴んだ私の手を順に剥
がし、
﹁はい。捕まって﹂
ぴったりと彼のお腹に添えられると、
初めて頭に血流が通いだす感覚があった。
こんなの。
﹁か、⋮⋮﹂
611
後ろから抱きつくのと変わらない⋮⋮!
彼のお腹が、波打つように震える。その固い振動を手とからだの
前面とで私は受け止めていた。
面白がる風に振り返る。
﹁なによ﹂
笑いをこらえ彼はハンドルを握る。﹁足、浮かせて? ほんじゃ
ー出発ぅーしんこー﹂
﹁は、い、お願いしま、﹂
二人乗りいつ以来だっけ、お腹に回す手に力がこもる、締まった
お腹は指なんか食い込まない、
だん、だん、と歩道の段を降りる。お尻の下に、続いて尾てい骨
に響く。
と。
﹁や、なんか、速く、な、﹂
こんな高い声を出せるのかと思うような高い悲鳴が漏れた。
坂道を転がるように繰り出すスピード。
荒いバスの運転で段差を降りるときにお腹にぞくぞく寒気を覚え
る、
あんなものの比ではない。
つよい風が頬をかすめる。
足をついて止まりたいのに自由が利かない。
頼れるものが一つしかない。
背中にお腹に必死にしがみつく小心者っぷりを運転手は笑い飛ば
す。
612
﹁あっはは。そんな怖いぃ?﹂
﹁後ろっ後ろなんか見ないでえっ和貴っ﹂
うずめていた顔をあげて私は即座に後悔をする。
真横を轟音でトラックが通り抜け私の髪がなびく。自転車が大き
く左に振られたその先には、蓋もガードレールもついてない深いド
ブが。
曲芸師のごとく白いラインとその縁との間ぎりぎりを走り抜ける、
幅は手のひらの幅ほども無い。
ハンドル操作をちょっとでも誤ればこの速度のまま急降下。
またも悲鳴が漏れた。
いったいぜんたいこんな恐怖がこの世にあるものか。
ジェットコースターに乗れない体質の私、それだってあれはプロ
が一応は監査してから通している。
こちらは和貴。
彼頼みだすべて。
なんど叫んだか分からない、
逆車線で車を運転する大人が笑ってるのも拝見した、
でこの坂道を下るのはほんの五分程度のことだったそうだ。
恐怖に時間は関係無い。
613
︵3︶
﹁ああ死、ぬかと思った⋮⋮﹂
いまだ肩で息をする私にひきかえ、涼しい顔をして和貴は挽き肉
のパックを手に取る。
坂道を降りてすぐのところのスーパーへ来ている。
﹁ハンバーグでいい?﹂
﹁うんっ﹂思わず頷いたけど。﹁てなにが﹂
﹁僕んちでお夕飯食べてきな。うち帰ったらじーちゃんから真咲さ
んちに電話して貰うからさ﹂
﹁や⋮⋮﹂なに言ってるのだろう。﹁いいよ別に。それに明日は模
試が、﹂
手を顔を横に振っているうちに、
別の陳列棚へ。
フリーズしていた私、小走りで彼を追う。⋮⋮カート押してるく
せにやっぱり足が速い。私が異様に遅いのか、パソコン部の男子が
極端に速いのか。亀の主観では判断しがたい。
パン粉の裏書きを何故だか熟読する、そんなに読むべき情報があ
るとは思わないが。片膝をついた従者の座り方が実にエレガントだ。
それが。
私に気がつくとにっこり、という形容にふさわしい笑みに変わる。
可愛い八重歯が覗いた。
﹁ソースも買わないとね﹂
そうっすね。
じゃなくて﹁⋮⋮和貴って料理したことあるの﹂
腰をあげてまたカートを動かすその方向性が、あっち行ったりこ
っち行ったりで不安定だ。かごの一つが野菜にお玉などの調理道具
とで満杯だし、もう一つのかごに入ってるサラダ油に塩コショウに
614
マヨネーズにケチャップに小麦粉⋮⋮見る限りはさしすせその砂糖
以外も宅に揃ってないご様相だ。
うえを向き顎に人差し指を添える和貴は、
﹁んー家庭科でちょっとやったくらいかな﹂
それは私も同じで。
五人家族並みのお買い物の締めにスポーツドリンクの粉末を二箱
乗せてレジに進んだ。
﹁四三一五円です﹂
げ高い。
﹁あ﹂お金。
私がポケットに手を入れかけるとこれ先に運んどいてくれる? とカートを押して促す。お会計の姿を女の子に見せないスマートな
男のひとになりそうだ。
どのみち私は財布を持たない、持っていたとしても千円足らずだ
った。
レジのお姉さんはバーコードに商品を通し手際よく重たいものを
下にする、買う側はそれらを取り出して同じオーダーを繰り返す。
難しいことはなにもないのだが、かご二つをいっぱいにする量を
買ったことがない。
なのでいまひとつ手際が悪く、ビニール袋を余分に取ったと思え
ばまた足らずにゲットしたり。和貴も似たり寄ったりでえらい時間
がかかった。
そうやって丁寧に詰め終えたレジ袋は、いびつで歪んだかたちに
なってしまった。ダイエットに失敗したこんぺいとうといったとこ
ろ。
﹁持たなくていいよ真咲さん。僕カート置いてくるから自転車の鍵、
あけておいて﹂
渡される鍵に和貴の趣味とは思えない般若のキーホルダーがつい
ていた。ウェーブヘアの般若⋮⋮かつて頭にわかめつけて太鼓叩い
て上杉謙信の軍を追い払ったというあの御陣乗太鼓だろう。ご丁寧
615
にも二つの般若の面の間にそう明朝体かで記してある。
日陰に停めてあった赤い自転車の前に和貴がやってくると私は愕
然とした。
後ろに私が乗るとして、前かごがママチャリとは違う、針金の細
いようなスカスカのが一つだけ。
筋の浮く腕が持つのは膨らみきったレジ袋が三つも。
﹁どうやって帰るの﹂
﹁考えとらんかった﹂
ずっこけそうになった。
﹁とにかくま。後ろ乗って。⋮⋮鍵あけてくれる?﹂あ差し込んだ
ままであけていなかった。和貴はそういうところもちゃんと見てい
る。私が内腿らへんに触れる冷たさに戻っている間に自転車のベル
が鳴った。ハンドル部分に一袋を通し、もう一つも右側のハンドル
に通す。
﹁⋮⋮それじゃあブレーキかけられないんじゃない﹂
﹁僕を誰だとお思いですか真咲さん。このドライビングテクニック
を舐めて貰っちゃあ困るよ﹂
不敵な余裕を交えて後ろに笑いかける。
どこかで聞いたことのある言い方だ︱︱これを言ったのはああ。
﹃俺を誰だと思っている﹄
あの彼の、口癖だ。
﹁しっかり捕まって。出すよお﹂
意識を戻す。また彼に言われる前にお腹に手を添えていた。捕ま
ってないと二人乗りは危ない。うおいしょお、と漕ぎだすも。
616
ドライビングテクをお披露目するどころかこれでは歩くのと変わ
らない。
みしみしと異様な音を自転車が立てる。レジ袋が自転車の本体に
揺れてぶつかる、どう考えても、
﹁あの。降りるよ私﹂
私でも足をつける鈍速だった。自転車を押して歩いて行けばいい。
と彼から身を離しかけたのを、
﹁いいから﹂
瞬間的に沸騰しそうになった。
ぐっと力強い手のひらが重ねられている。
押し付ける力を持った、
汗ばんだ、
手のひらの皮膚がやや厚い、
﹁いい、降りなくていいから⋮⋮﹂
男の子はどこかしら意地となる。
意地となると止められない生物なのかもしれない。
滲んでいく背中にからだを寄せながらそんなことを思っていた。
到着までの約二十分間を、
彼らしいからかいも飛ばさず黙って自転車を漕ぎ続けた。
弱音も吐かず。
617
なんのいっさいも下ろさず。
顎先から汗を滴らせながら。
* * *
写真のなかの男女はその後の未来を知らず微笑んでいる。ピント
がややずれていようともその仲睦まじい雰囲気は充分に伝わる。
和貴は見るに母親似だった。丸っこい瞳に人一倍明るい色をした
髪がウェーブがかっていて⋮⋮桜井家は三代続くくせっ毛の血筋だ
と分かった。
妻に寄り添い、肩を抱く夫に手を添える夫婦の幸せを名残惜しく
思いつつ、蝋燭の火を消した。
﹁よう。⋮⋮来て下さいました。お嬢さん﹂
﹁いえ。こちらこそ急にお邪魔してすみません﹂
座布団からずれて和貴のお祖父さんに向き直り、私は頭を下げた。
﹁僕、⋮⋮シャワー浴びてくんね。汗いっぱいかいちゃったし﹂
所在なさげに和室の柱に寄りかかっていた和貴が出ていく。
背中の一部淡い色が点々と、濃い青に変色していた。
ひとの死に慣れることなどできない。
喪うことも。
失うことにも。
私は後者ならばよく知っている。
足音が消えきるのを待ってという風に、和貴を目で見送ったお祖
618
父さんは、間を置いて口を開いた。﹁⋮⋮毎年のこの時期は塞ぎが
ちなもんでな。あいつは口には出さんでも友達が来てくれて内心で
喜んどりますわ﹂
塞ぎがち︱︱和貴にもっとも似つかわしくない言い回しだが。
私は疑問を声に出さずお祖父さんを見つめた。
うちの祖父とは違い、温和で温厚そうなお祖父さんが、ややも困
ったように、
﹁春子と洋一さんの命日が八月なんですわ﹂
はっ、と息を呑んだ。
﹁⋮⋮緑川第一公園てのがありますやろ﹂さっきまで私と和貴が居
た場所だ。﹁あすこによう、一人で行っとるんですわ。まだ二人と
もが生きておる頃に、緑川を訪れるたんびに連れてかれた思い出の
詰まっとる場所なんですわ、それにな⋮⋮うちの墓が見えるもんで
な﹂
私にこの町のことを案内した小澤さんたちは、あの坂の上のこと
を、遠い場所で誰も行かない、自転車でなど行けない、と語ってい
た。
彼が行く理由が、解せた。
﹁愛知ではなく、⋮⋮こちらにおられるんですね﹂
﹁春子だけやのうて洋一さんもこの土地をよう好いておった。両親
はすでに他界されておる。⋮⋮親戚がたも名古屋には住んどらんも
んで。世話をするもんのおらん土地に眠らせるのも、和貴が物心つ
かんうちから離れ離れにするのも、忍びのうてな﹂
﹃⋮⋮突っ込むとこなんだけどここ。気になったりしない?﹄
町を一望できる景色のなかで海の手前に、寺とお墓が広がってい
619
た。︱︱あの場所だ。和貴のご両親が永眠するのは。
後ろにした仏壇の写真に意識が及ぶ。
生きていたら⋮⋮可愛がったことだろう。
頭を撫でたり。
汗だくで自転車を漕いだ彼の濡れた髪をぐしゃぐしゃにかき回し
たり。
彼の浴びるシャワーの音を遠く降りしきる雨のように聞く。
それは私のこころを静かに流れていった。
﹁わしは出かけてきますんで、ゆっくりしとってくだされ﹂
唐突にお祖父さんは膝を立てて手を添える。
私は焦りながらも腰を浮かせ、﹁出かけられるんですか。それじ
ゃあ、私は、⋮⋮﹂
和貴とこの家に二人きりになってしまう。
言わずとも焦りきった表情で分かったのか。
お祖父さんは孫がするようにふっと目を細め、
けだし彼には無い諭すような老人のしゃがれた声色で、
﹁わしに会わせたお嬢さんは宮沢さんとこのお嬢さんを除けばあん
たが初めてじゃ。わしは和貴を信用しておる。⋮⋮ちぃと遅なるか
もしれんさけ、夕飯はさきに食べとってくだされ﹂
玄関戸を閉める際にお祖父さんは孫よりは控えめに手を振った。
私は残された玄関で、お祖父さんの離れていく気配と、いつの間
に停止したシャワーの音と。
和貴の皮膚と汗の感じが残った手のひらを見つめた。
620
お祖父さんの、優しい嘘を。
初めてなどではなく本当は二人目だということを。
そして、お祖父さんが会いに行くのが私の祖父である都倉新造だ
ということも知らずに。
* * *
レジ袋が袋のままダイニングテーブルに置きっぱなしだった。お
肉は冷やさなくていいんだろうか。勝手に台所入って作業するのも、
⋮⋮
﹁あ真咲さん。悪いね﹂
﹁ううん﹂
ひとまずはぜんぶ袋から出すこととした。﹁冷蔵庫に入れないも
のってなにかある?﹂
﹁ハンバーグの材料。と、豆腐一丁とにんじん以外かなあ﹂
﹁分かった﹂
流しで手を洗う和貴は風呂あがりらしく首からタオルを下げてる。
ドライヤーをかけないひとなのだろう、ふわっふわな髪が濡れねず
みみたくへたってる。ラフなピンクのTシャツにさっきとは違うジ
ーパンだった。
味噌の袋を手に冷蔵庫を開く。
﹁和貴って本当に普段⋮⋮自炊しないんだね﹂
空っぽだった。
まさかここまでとは。
621
扉の裏に麦茶のペットボトルとスポーツドリンクの容器が入って
る以外は、電気屋さんで見かける新品の冷蔵庫となんら変わりがな
い。
﹁んーと二人だけやしなんもする気せんで⋮⋮おばさんも時々おか
ず持ってきてくれるし﹂お米の袋をはさみで開きにかかる。これも
本日お買い上げのアイテムだ。
そういえば和貴がお弁当を持ってきてるのを見たことが無い。
うえの戸棚からボウルとザルを取り出した和貴は、お米から研ぎ
にかかる。私は、
﹁⋮⋮ほかの調味料も棚に仕舞っておいていい?﹂
﹁ん。助かる。適当でいいよ﹂
勝手が分からないおうちでの作業は戸惑う。そもそもが私はそう
いう家事らしき経験が欠けている。
私がダイニングテーブルの大体を片づけ終える頃には、和貴は野
菜を洗い終え、人参のグラッセ用の人参を切り分けていた。
包丁とまな板があればもう一セットずつあればこちらでもできる
んだけど。﹁無いからいいよ僕がやる﹂と彼は言った。フェミニス
トな彼は、ずいぶん台所に立つ姿が画になるというか。家庭的なさ
まが似合っていた。
その彼は現在玉ねぎに果敢に戦いを挑む。
﹁うわあ﹂﹁染みるぅ﹂時折天を仰ぎ、ひーと手の甲で目元を拭う。
こんなんゴーグルでもないと無理やてえとらしからぬ悲鳴めいたも
のをあげる。
息子を愛しく思う母親の気持ちがよく分かる。
﹁⋮⋮笑ったな﹂
不意に、後ろに首を捻る。その大きな瞳がまだ充血している。思
わず笑みを漏らす。拳で口許を隠す。
622
それを見て。
一瞬、真顔に戻った和貴が、ふわりと大きく、羽根を広げるよう
に微笑んだ。
﹁やっと︱︱笑った﹂
猫のように広角を緩めて。
涙の原因をまな板ごとこっちに持ってくる。
私の傍に来て和貴は、心なしか憂いを帯びた眼差しで、
﹁真咲さん⋮⋮この世の終わりみたいな顔しとるからどうしたのか
と思った。なにが、あったのかと⋮⋮﹂
胸が狭まる苦しさを覚えた。
﹁それで、⋮⋮連れてきてくれたの?﹂
﹁ん? まあ⋮⋮﹂
手で玉ねぎを挽き肉のボウルに入れる。流しに戻って手を洗うと
冷蔵庫にマグネット掛けで引っ掛けたタオルを取り、
﹁僕が、そうしたかったんもあるけど⋮⋮大事な﹂
︱︱友達だから。
胸の奥にちりっとした痛みが走る。
なんだろう。
和貴は私のことを友達としか見ていない。
それだけなのに。
手を拭いて和貴はなにも持たずにこっちに来る。
623
私の正面に立つ。
肩をすくめたと思えば、ピンクパンサーの柄をあらわに大手を広
げ、
﹁泣いてもいいよ﹂
﹁泣きません﹂
顔を背け、ケチャップの封を開きにかかる。
正直、⋮⋮飛び込みたいという衝動に駆られた。
けど。
友達には頼れない。あんな風には二度と。
﹁意固地だなあ。使えるもんなんだって使えばいいのに﹂
﹁使うだなんてそんな⋮⋮﹂
この話題はやぶ蛇だ。﹁ハンバーグの作り方って知ってる? 玉
ねぎって炒めてから入れるんじゃなかったっけ﹂
﹁んーどのみち焼くからヘーキっしょ﹂
露骨な話題転換にかかった私に背を向け今度はピーマンを切る。
⋮⋮私あんまり好きじゃないけどな。
﹁それに。料理は魂込めて作るもんだから。要はハートが大事﹂
﹁なにそれ﹂ちょっと吹き出した。自炊しないって言ってたのに。
﹁食べてくれるひとのことを思い浮かべながら︱︱お野菜やお肉に
食材を用意してくれたひとたちのことを想像しながら、分け与えて
くれた自然に感謝をして作る。それが、料理ってもんだよ﹂
﹁﹃料理の鉄人﹄にでも当てられたの和貴? 御託はいいんだけど
さっきからずっと手が止まってる﹂
大袈裟に呆れた息を吐き、冷たい言い方を意識して次々に封を開
く。
視界の隅にしょげた和貴が映り込む。
624
ああ、可愛い。
お互いに悪戦苦闘し、大幅に時間を費やしながらも、大量のハン
バーグと、余ったぶんでピーマンの肉詰めと、人参のグラッセと、
豆腐とわかめの味噌汁を作り終えた。
人参が甘くっても、ハンバーグの片面が真っ黒焦げでも、
和貴と対面して食べる夕食は格別に美味しかった。
昔っから私は一人の夕食が多かったから。
﹁よく食べるねえ小食なくせしてさー﹂
﹁すっごく美味しいもん﹂
﹁よかった﹂ふふと彼が笑う。﹁僕も、美味しい。あー幸せだあ⋮
⋮﹂
頬杖ついて微笑んでくれる彼がいるだけで。
見ているだけで、固くなったこころがほぐれていった。
625
︵4︶
﹁泊まってけってさ﹂
電話を終えた和貴が台所に戻るなりそう言ってくる。
﹁や、帰るよ、家に⋮⋮﹂
﹁帰りたくないんでしょう﹂
心臓にどきりときた。
透明でいろを持たない瞳に、すべて見透かされてるような気がし
て。
﹁⋮⋮じーちゃん、真咲さんのおじーちゃんと飲んでんの。スッカ
リ出来上がっちゃってるってさ。電話、真咲さんのおばーちゃんか
らだったよ﹂
一瞬威圧するかの真剣さが見間違えだったかのように。柔和な笑
みに彼は戻り、﹁一人でさせちゃってごめんね?﹂と隣に来た。
狭いシンクに並ぶと私の右腕と和貴の左腕がぶつかりそうだ。
﹁ううん。ごちそうになっちゃったの私だし。あそこの泡ついたの
流してくれる?﹂
﹁イエッサー﹂
おどけて敬礼なんかする。その肘を左に避ける。
私はすこし笑いながら彼に問いかける。﹁その意味って知ってる
?﹂
sir.を一つにした
﹁うんにゃ﹂蛇口を自分のほうに傾けながら和貴。
﹁Yessirだよ。言葉通りにYes,
単語で、軍隊の兵隊さんが上官に応えるときに使うの。確か、陸軍
だったかな⋮⋮﹂小皿の裏っかわにソースの汚れが。スポンジでご
しごし。﹁Sirって知らない男性に呼びかけるときにも使えるの。
男の人の敬称だからね﹂
その小皿を受け取り﹁知らんかった。ほんなら今度からアイアイ
626
サーにするよ﹂
sirはね⋮⋮﹂
話の中核を理解していない和貴に私は笑った。﹁だからAye,
aye,
﹁うん?﹂
こんな風にお喋りをしながらも、左から右への流れ作業が驚くほ
どに捗った。
お風呂まで頂き、﹁それじゃ寝られんでしょ﹂と和貴のだぶだぶ
なパジャマをお借りし、新品の歯磨きセットを頂戴し、二階の和貴
の隣の部屋に通される。
お布団を敷くのを手伝ってくれた。
なんだかいたせりつくせりで恐縮する。
ずいぶんと気が利くし。
敬意混じりの気持ちでちら見すると、
﹁もし一人で寝れんようやったら遠慮無く言って? 添い寝したげ
るから﹂
﹁ううんぜんぜん平気﹂
きっぱり言い切ったせいか。
和貴は頭に手をやりながら部屋を出ていった。﹁おやすみなさい﹂
﹁⋮⋮おやすみなさい。和貴﹂
ひとの家は自分の家とは違う匂いがする。⋮⋮すこし、埃っぽい。
締め切られた独特の押し入れに似た匂い。この畳の一室は、ひょっ
とすると元は和貴のお母さんが使っていた部屋だろうか。和貴の部
屋を知らないから不定だけれども。勉強机がある。以外に目立った
物の無い。ポスターを貼ったテープの跡が、シールを剥がした痕跡
が木枠に残る。
机のうえに目覚まし時計がある。時刻は、⋮⋮十時になりかけ。
627
いつもの私なら勉強をする時間帯だ。
道具も場所も揃っている、のに。
︱︱落ち着いて聞いて。真咲。⋮⋮あなたの父親は柏木慎一郎。
どう落ち着けというのだ。
母の言葉がめまぐるしく脳内を巡りだす。
リセットが必要だった。
換気をしよう、部屋も、こころも。
スリッパが用意されていた。ベランダの手すりが拭き掃除されて
いたのか、触っても綺麗だった。室内よりも外気のほうが涼しい。
見える緑川の町並みはうちと同じ種類だけれど交通量の多い道路が
無いので車の音がしない。
静けさだった。
高層ビルのたぐいも見当たらない。それはこの町のすべてにおい
てだった。一階建て二階建てがほとんど。まれに背の高い建物があ
っても五階程度の。
ネオンのけばけばしさとは無縁のこの町は、宇宙のきらめきを極
限まで浮かび上がらせ、見たこともない、手を伸ばせば届きそうな
満天の星空を与えてくれる。町田ではこのような空は先ず、拝めな
い。
私の悩みなど、宇宙を漂う星屑に比べればちっぽけなものだ。
一見するとゴーストタウンに見えなくもない住宅街、あのなかで
ひとが生きている。明かりの点いた窓は少なく、暗い窓の奥で人々
が休んでいる。
私の知らない沢山のひとが。
それぞれに悩みや苦しみ、痛みを抱えて。
628
そう思うとするも、私は、項垂れた。
自分が何者であるかも分からない。
本当の父親の顔すら知らないのだ。
﹁真咲さん⋮⋮﹂
すると声がした。公園で私を引き止めてくれたあの声が。
顔を傾ければ。
同じく音を立てぬようベランダに出たのだろう。和貴の部屋から
通じるベランダの端に、身を乗り出すようにして和貴が立っていた。
﹁眠れんのっ?﹂
普通の声量で和貴が訊くから私は慌てて右端に移動した。一般に
ご老人の就寝は早い。
心中を理解してか片方の肩だけをすくめる。﹁じーちゃんまだ帰
っとらんから気ぃ遣わんでいいんに﹂
﹁そうなの?﹂
﹁ん﹂
深く息を吸い、一メートルほどの空を隔てて向き合う和貴。
いつかの桜がマキを愛でていたというなら、今宵は月が彼を愛で
ている。
互いに部屋の大きな明かりを消したせいか。ほのかな月のひかり
のみが彼の存在を照射する。薄闇の中でも彼の髪をまたたかせ、少
女のような輪郭を浮かばせる。
こちらを向く彼の口許はわずかに緩み。長い、びっしりと生えた
まつげが影を作るもその奥の瞳は不可思議に星よりも瞬いていて。
目を逸らすことも、まばたきですらも、叶わなかった。
なにも言わずにこちらの一挙一動を見守る、
629
なんだかその眼差しにも沈黙の限りにもいたたまれなくなり、
﹁そ。そっちに行こうかとか言わないの?﹂
﹁前言撤回﹂一瞬くすりと笑うと笑みを消し去り、
﹁そっちに行くと自分を制御できるか自信が持てない﹂
﹁あ⋮⋮﹂
なんてことだ。
﹁な。夏休みはどうするの﹂胸を押さえ、話題の転換を試みる。す
ると和貴はすらすらと答えた。﹁ボランティアだね。緑川の老人ホ
ームに一週間。ちょっと遠いけど畑中市にも行ってくる。二週間泊
まり込みでね﹂
﹁二週間も?﹂
﹁じーちゃんの知り合いにツテがあってさ。がらあきのアパート一
室に一人っきりで生活すんの。⋮⋮行くまでの間に料理練習しとく
よ。材料いっぱい残っちゃったかんね﹂
確かに、大量の調味料やらが。
思い出し笑みを漏らす私に対して和貴はやや思いつめたように肘
を抱え、
﹁⋮⋮僕の好きなようにやらしといて諦めさす作戦なんだ。老人介
護がどこまで大変かってのを試させて早々に見切りつけさせるっつ
うのがも、ミエミエなんだよね。⋮⋮じーちゃんも苦労した昔のひ
とだからさー公務員とかそーゆーお固い規則正しい仕事に就いて欲
しいんだよ、本音ではね﹂
固く、低い声で語り、前方に突っ伏す。
⋮⋮和貴の家庭にもいろいろとあるんだ。
﹁でもさ。僕は、⋮⋮諦めたくないんだよね﹂と顔を起こす。彼は
私を見ていない。﹁3Kどころか7Kですごく大変だってよって大
630
人は簡単に言うけどさーそんなの、やってみなきゃ分かんないじゃ
んか。体力があるのは数少ない僕の取り柄だかんね、誰かのために
役立てたいって思う。こーゆー前向きな気持ちに、我慢なんかした
くないんだ﹂
自問する彼は、夢の矛先だけを見ている。
﹁うん、⋮⋮そうだね﹂
﹁ま論より証拠。夏休みの間はやるだけやってみるよ。だからボラ
ンティアの日程でいっぱいにしたんだ﹂
﹁そっか﹂大変だろうけども、﹁⋮⋮頑張って﹂
和貴の言う通りだと思った。
夢に邁進する推進力を、
ぶつかるかもしれない壁を乗り越えようとする意志を、
信じる気持ちを込めて伝えた。
私の言葉に和貴は、なにか、考えたのか、頬の筋肉をやや強張ら
せ、
﹁真咲さんも、頑張って﹂
開かせる、
淡い光のもとで花を開かせる笑みを。
私は彼の笑みを目の当たりにして、
︱︱こーゆー前向きな気持ちに、我慢なんかしたくないんだ。
答えが、
手の届くところに答えがあるのだと分かった。
直感ではなく痛感だった。
表層に浮かびかけたそれが明確な一つとなる。
非常に納得させるものであり、
迷妄した思考を、まとまらせるものだった。
631
分解した成分に近かった私が、こころに平穏を覚えたのは紛れも
なく、
彼の言動であり、
頑張ってという、エールだった。
誰しも戦う人生を過ごす。
思い通りにならないこともある、待って凌ぐこともある。
その知れない人生の辛苦のいくばくかを体感しながらも、
枕の違う、私はベッド派だというのに。十二時まで勉強したあと
にいままでにないくらいに深い、安眠を得られた。
一方で、和貴は違ったのか。
部屋の電気が点けっぱなしで廊下に漏れていた。
* * *
とはいえ、寝ているだろうから。
たたんだパジャマのうえに書き置きを残し、音を立てぬよう階段
を降りる。
襖戸の開いた和室には、
﹁おはようございます、お祖父さん。お世話にありました﹂
早朝から一人将棋指し。研ぎ澄まされた眼差しのままに。私に将
棋のことは分からないけれども積木くずしでは無いことは確かだ。
﹁また⋮⋮いつでも来てくだされ﹂腰を浮かせようとするから、﹁
あいえ、こちらで結構です。ご不在なのにお邪魔して、すみません
でした﹂
お祖父さんのいるかいないかのうちにお泊り。考えようによって
は非常識なのだった。しかしお祖父さん。
632
ちょっとお酒臭い。
﹁新造にもよう伝えといてくだされ﹂
会ってきたばっかなのに。
二日酔いを感じさせぬ柔和な笑みに呼応して桜井家をあとにする。
次に向かうのは︱︱
どうにも頭が寝ぼけている。電車の始発じゃ遅いからバス停に来
たここまではよかった。
財布が無いのを忘れていた。やはり︱︱戻らなければならない。
鍵が、あいていた。かなりのおうちがするように。緑川には、有
人で在宅なら鍵をかけるどころか玄関戸を開いていてもオッケーと
いう田舎独特の不可思議なカルチャーがある。うちはお店の表玄関
は閉めていると思うが。宅部分にひとの気配はない。忍び足で階段
をのぼる。︱︱今日のところは助かるけどもいくら玄関戸の開閉が
うるさいにしろ、このシステムはどうかと思う。私が泥棒だったら
どうするのか。
帰ったら鍵くらいかけるように言おう。
下着をポロシャツを替えたところでまた制服を着用する。⋮⋮本
当は夏服のスカートがもう一枚欲しい。夏を過ぎれば二度と着なく
HILFIGERのトリコロールのロゴ
なる。押し入れを開けたついでにボストンバッグを取り出す。薄い
ピンク地に、TOMMY
が入った小さめの。結構気に入ってるんだけど使う機会があまり無
かった。海野に行ったとき以来か。かばんは︱︱学生かばんにして
問題集を足して行こう。
勉強机に視線を走らせたときに違和感を覚えた。
白い、封筒だ。
昨日の朝までには無かった。以前おにぎりに添えられてたのとお
んなじ。表書きは、
633
﹃真咲へ﹄
なにかに使うことがあれば使ってください。
便箋と一万円札が五枚も。加えて宿泊同意書なる紙も入っていた。
はは、と自嘲の笑いを漏らす。
考えることなどお見通しということだ。
意を決した私は次の目的地へ突き進む。
﹁先生、おはようございます﹂
期待していなかったのだが。六時ジャストに来てるのなんて宮本
先生くらいのものだ。生物室でなく職員室にいる姿自体を私はあん
まり見たことが無かった。
﹁おー気合入っとんなあ都倉。⋮⋮どうしたその荷物は?﹂
自身を仰いでいた扇を止め、冗談めかして﹁まさか、旅に出るて
言うなや?﹂
﹁先生、偶然ですね。そう言おうと思っていたところです﹂
﹁こら。いいからそこ、座れや﹂
先生の表情が一変するものの私はたじろがなかった。
﹁すみません。今日と明日の模試には出られません﹂
﹁大事な時期やと分かっとるやろが﹂
﹁行かなければならない場所があるんです﹂
座ったままで見上げる宮本先生の眉がぴくりと動く。
﹁明日という日を逃したら私は一生後悔します。⋮⋮遊びに行くわ
けではないです。来月の模試は受けます。夏期講習も休みません﹂
﹁⋮⋮模試の払ったお金は戻ってこんぞ?﹂
宮本先生が言ったのはたぶん冗談でだった。﹁分かってます﹂
﹁わーった。⋮⋮遠出すんのやったら事前に知らせて欲しいがやけ
どな。ま見逃したる。怪我だけはするな。事故にだけは遭うなよ?
必ず、無事で戻って来い﹂
634
﹁気をつけます。先生、⋮⋮ありがとうございます﹂
﹁礼言われるよりかしあさって元気な顔見してくれるほうがおれは
嬉しいわ﹂
朝っぱらからなにをそんな作業することがあるのか、宮本先生は
デスクワークに戻る。授業絡みのことではなく本を読んでいるよう
だったが⋮⋮
シリアスに熟読する宮本先生を見ながら、入り口で頭を下げる。
戸口に手をかけると、
﹁都倉っ﹂
なにか、
飛んできた。
空を飛んだ物体は鈍い私にもキャッチできた。手のなかを確かめ
る。
ブルーベリー味の板ガムだ。
新品の、未開封のものだった。
﹁乗り物酔いだけはすんなよ?﹂
﹁だけはするな﹂と三度も繰り返した宮本先生は、しかめっ面を解
いた笑顔で面を上げた。
笑顔は私に伝染する。
ナーバスになりかけた私の精神をすこし落ち着かせるものだった。
﹁先生、ありがとう﹂
もうデスクに戻っていたけども、
勇気を頂いた意味を含めて礼を言った。
一息つけるのはバスの座席でだった。
635
半日かけて夕方の六時には着くはず。夜行バスならぬ早朝バスな
んて乗るのは初めての体験だった。⋮⋮模試代を無駄にしたことも
あるからあんまり、お金をかけたくなかった。飛行機なら畑中行き
バスと合わせて四時間、新幹線と電車とを組み合わせて六時間くら
いに短縮できる。
けど私の目的は明日だから、急ぐ必要は無かった。勉強時間のロ
スは痛いけども、頭のなかで復習したりはできる。⋮⋮寝てしまい
そうだけども。
制服の裾を整えて座り直し、あんまり噛まない主義のガムを噛む。
ポケットのなかのマキとタスクとからのお守りを意識し。
いつもマキを見送っていた駅を右に見据え、
まぶたを下ろす。
﹃真咲さんも、頑張って﹄
武者震いに気づき、膝の上の拳を固める。
but
I
I
sure
where
am
exactly
to,
this.
do
want
to
know
英語の単語からかかろうとする、するとひとつセンテンスが出て
not
I
going
do
きた。
I
am
that
思いを乗せてこのバスは一路向かう。
︱︱東京へ。
︱︱⋮⋮柏木慎一郎の住む街へと。
636
︵1︶
大学の食堂で昼食を摂るのも生まれて初めてだ。
夏休みのただなかに遊び盛りの大学生の姿は無く。緑高の体育館
が一つ入りそうな広さにまばらに座るのは私と同じくオープンキャ
ンパス参加組の生徒がほとんど。帰った子もいるのだろう、午前よ
りも大幅に減らした人数で高校生の二三人が大半、親と二人で来て
いる子が少数。ぼっちなのはさらにレア。制服自体も、⋮⋮見覚え
のあるデザインがちらほら。私服率が高い。かつ、極端な訛りが耳
に届かないことから近郊に住まう子が主だと推測する。
二八〇円のたぬき蕎麦は食べやすいはずがあまり喉を通らず。腕
時計と周りの様子ばかり気が行ってしまう。
ここは、東京心理大学。
例の如く東京とは名ばかりで埼玉の奥地に位置する。緑川を思わ
せる緑の多さに広大な敷地を活用する整った設備は、流石は国立大
学といったところ。敷地内に大学院も併設されている。
どうにか食べ終えた蕎麦の器を退け、何度も手持ちの資料で道順
を確認する。
このために、来たのだ。
志望大学の概説を聞いてみたいという欲動と。
そぞ
ほかのひととは異なる深刻な事情で。
実を言うと午前の説明会も気が漫ろだった。
こんなでは、いけない。
鏡の前で頬を叩いているとトイレの個室から出てきた女の子がび
637
っくりした顔をしていた。
以降の講義に出るのだと思う。
恥ずかしい気持ちを抱えて別棟に移った。
食堂の隣の棟の最奥の部屋⋮⋮外から見て、長細い直方体にくっ
ついた円柱がぽこんと突き出て見える部分、そこで講義が行われる。
こんな風に外部向けに使う会場なのかもしれない、建物群のなかで
ひときわ新しいという印象を受けた。通ずる廊下の磨かれた床の白
さは漂白されたような白さだった。厚い扉は廊下側に開かれていて
受付も無く。大人数での演奏会にも対応できそうな、しっかりとし
た場所だった。ステージを低くして後方に行くにつれ段々に位置を
高くし、扇形に広がる聴講席には、真ん中から後ろにかけて座る人
がぱらぱらと。私は入って奥の、ステージから見てやや左寄りの最
前列を選んだ。
背の高い人の頭に阻まれる心配のない。
そこを考慮してこの聴講席の勾配なのだが、備えあれば憂いなし。
パイプ椅子でも木の椅子でもないこの座席は表面の生地がベルベ
ットで触り心地が良かった。空調がほどよく効いている。いままで
に座った椅子で最も座り心地がいい。思うに飛行機の座席は背中の
カーブに問題がある。夜行バスのようだったら快適なのだろうけれ
どそうするとおそらく、どちらも採算が合わない。背もたれの角度
の調整は無論利かないものの、折りたたみで薄いテーブルが付いて
いる。
ところで、あの柏木慎一郎の講義というのに席が半分も埋まって
ない。
気にしつつも開講までのあいだに午前に貰った資料に再び目を通
す。他の子たちはみなお喋りをしていた。あの学校のオープンキャ
ンパスがどうだった、受験で別れたカップルがいるとかなんとか。
﹁こんにちは﹂
638
さっと室内に緊張が走る。
来たのだ。
助手らしき人が続いて扉を閉める。差し込む光が阻まれる。
カーペットの床を進み、ステージに続く段を迷いなく上がる。迷
うはずが無い。決して走ってはいないのに足運びが速やかだ、そし
て右利き。バッグを右の小脇に抱えている。
この初夏の陽気で、スーツの上下を、前ボタンまできっちり閉じ
て着込んでいる。⋮⋮不思議な、うぐいすとグレーの中間のライト
ないろをしている。それが彼の清潔感を助長させる。バッグを後方
の横長の机に置き、クリアファイルを手に教壇に進んだ。その間、
助手らしき人が離れてパイプ椅子にかける。
マイクを入れるとどん、とスイッチの入る特有の音が響く。
﹁特別講義を始めます。講師の柏木慎一郎です﹂
︱︱東京心理大学の准教授として臨床心理コースの講師を務めて
おり、外部のクリニックでカウンセリングも行なっている。
と自らを紹介する柏木慎一郎の声は、教えをする人独特の、張り
のある、大声を出さずともよく通る響きをしている。⋮⋮腹筋が、
鍛えられてるのかも。もしかしたら全身かもしれない。動きがずい
ぶんと機敏だったし、立ち方が綺麗だ。確か五十歳を目前にしてい
るというのに。
私は彼の左半身を注視する。
﹁さて﹂とマイクの向きを微妙に整える。﹁こちらにお越しの皆さ
んは、少なからず臨床心理学に興味をお持ちのはずだ。私が普段、
639
学生に講義をするような形で講義を進めたい﹂
それまで前方を見ながら穏やかに語っていた彼が、
言って微笑をし、聴講者をじっくりと見回す︱︱
その微細な動きを皮切りに。
たちまちノートを広げたりシャープペンをノックしたりの臨戦体
勢に駆られる。準備済みの私でも姿勢を正さざるを得ないなにかが
あった。
﹁︱︱ああ﹂思い出したように顎先をやや上げる。﹁飲み物は自由
に飲んでくれて構わない。トイレは、本来は事前に行っておくのが
筋だが今回に限り許可しよう。出はいりに断りは要らないよ。戻っ
てこなくとも僕はなにも言わない。ほかに行きたい場所があるのな
らどうか遠慮などせず、時間を有効に使おう﹂
戸惑いとも笑いともつかぬものに、周囲がさざめくけれども、私
は一人、
タスクと同じ発言に新鮮な驚きを覚えていた。
﹁質疑の時間は最後に二十分を用意している。僕の話を聞いていて
なにか疑問に思う点があれば、書き留めておくときみの役に立つだ
ろう。通常の講義なら二三分程度、この時間を取らない先生もおら
れる。⋮⋮鈴木くん﹂
最後の呼びかけはマイクを押さえていたけれども、
唇の動きを凝視している私には読み取れた。
こちらがわに首を捻る柏木慎一郎は、扉を開け放しておくよう助
手に頼んでいる。
640
﹁質問の際には手を挙げるように。右の手でも左の手でも構わない﹂
⋮⋮帽子ではなく手のほうがいいね、と前方で派手な帽子を挙げた
子に目配せをする。隣の子が白い歯を見せて肘で小突く。﹁いま、
下に降りている鈴木くんがマイクを持ってきみのところに来てくれ
る。講義中の私語は厳禁だ。喋りたいことがあれば一旦教室を出て、
お友達と山ほど喋ってから戻ってくるように﹂
もちろん、私語をたんまり慎まず戻った人間の質問は受け付けな
いことだろう。この微毒もタスクの差すものと共通している。
﹁⋮⋮前置きはこのくらいで構わないかな? 疑問があればどうぞ﹂
助手が席につくまでの時間稼ぎもあるのだろう。彼はステージ上に
戻らず、入り口にほど近い隅の席に座った。その様子を柏木慎一郎
はおそらくちらと見届けてから、
﹁それではこれから七十分間、きみたちの時間を頂戴する︱︱なる
べく、退屈の無いよう務めるつもりだ。退屈したら遠慮無く欠伸し
てくれたまえ﹂
誰かがしたのか。
﹁いまじゃないよ﹂
どっと笑いが起こる。
︱︱どんな人間かと思えば。
職務を全うする職業人だった。趣味嗜好性癖のほども見えない。
肌が白く、髪の色が中年男性にふさわしからず染めたようにやや明
るい⋮⋮母の言うことが本当ならば私は父の特徴を引き継いでいる。
641
もっと、底意地が悪いか、傲慢で不細工か。ハゲかデブだったら
よかったのに。
そして嫌いになったほうが私のこころは解放される。
そんな胸中を知るよしもない柏木慎一郎は、彼の職務を開始する。
︱︱わけもなくむかついたことはあるかい? 苛々してやり場の
ない気持ちを持て余す。むしゃくしゃして誰かに。物に。当たり散
らしたくなったことは。
気持ちの振れ幅が小さいほど心が健康な状態だときみたちは思う
だろうか。
僕の考えはすこし異なる。
ストレスという言葉が曲解され、一般に浸透している感があるけ
ども。ストレッサーは刺激という意味だ。決して悪い意味では無い
のだよ。︱︱退屈に対する僕たちの抵抗力は僕たちが自分で思うよ
りも実は弱い。
いま、きみたちは考えることでいっぱいだから︱︱こんな場所で
まで言うのは気が引けるがね、受験勉強でさぞ忙しいことと思う。
気を煩わされない、頭のなかを空っぽにさせる自由が欲しいことか
もしれない。けどもいざ、暇で仕方なくなったとすると。わけもな
く友達に電話をしてみたり、漫画を読んでみたり、音楽を聴いてみ
たりしないだろうか? 部屋の掃除をするはずが昔のアルバムに夢
中になったりなんかしてね。機会があれば数えてみると分かるけど
も︱︱これといった何かをせず過ごすのは日に数時間がいいところ
で、しかも、半日以上なにもしないなどという状態は一ヶ月や二ヶ
月と保てない。
642
このような退屈に抗う上で最も有効で手軽な手段とは、誰かと接
触するという行動だ。会うなり電話するなり約束して出かけるなり
ね。人と関わりあう度に、僕たちは様々な言葉で僕たちの関係を定
義する。血縁関係を持つ者以外ならば︱︱知人・知り合い・クラス
メイト・友人・友達・親友・恋人など︱︱その一連で僕たちが味わ
うのは、恋に落ちた初期の頃の、周りのものが輝いて見える心地良
さばかりでなく。怒りや、悲しみや、憤り︱︱目を背けたくなる、
嫌な気持ちも生まれるというものだ。とみに、快不快のどちらであ
るにしろ、自我がまだ定まらないきみたちの年頃なら、感情の振れ
幅が大きいことになんら不思議は無い。
僕が言いたいのはね。色んな感情が生まれるのはごく自然なこと
だ。恥じることは無い。むしろ、情動が感じられないことこそが心
身の不調を示す徴候でもある。さて、きみの味わう感情が自分にと
って都合がいいものか、悪いものか、判断基準のふるいにかけるま
えに。沸き起こる気持ちそのものを先ずは直視する、その勇気を持
って欲しい。
僕は冒頭で、わけもなくむかついたことがあるかきみたちに尋ね
たけれども。
わけもなく、というのが、異常なことだとみなされた時代がかつ
て、あった。PTSD︱︱外傷後ストレス障害︱︱については、阪
神淡路大震災後の報道で頻繁に耳にしたことだろう。衝撃的な出来
事を経験することで生じる神経症の一種だ。幾年が過ぎようとも突
然、その出来事がまるで今起きたばかりのように克明に思い出され
たりする。これは、どのような人がかかりやすいのか、かかる人が
弱い強いなどとは断定できない。誰にでも起こりうることだ。しか
し。先天的な要素に基づく突発的な疾患を患う患者は精神病院に隔
離して精神科医が治療すればいい︱︱という考えをおそらく今も持
つ人は居るだろうね。なお、日本の精神病院における在院患者数は
約三十三万人。十年前の一九八九年が三十四万人とやや減少傾向に
あるが、今後も極端な推移を見せることは無いだろう。一億二千万
643
人に占める0.2パーセントという割合を多いと感じるか少ないと
感じるかは人それぞれだ。
予防や啓発は大切なことなのだが、起きた事態を起きる以前に戻
せはしない。場合によっては、事態に対処するアフターケアが必要
となる。︱︱精神科医や臨床心理士は、そうした症状を訴えに来た
患者の、その人に不都合なことが一体何なのかを聞き出し、苦痛を
緩和し、その後の人生を精神的に自立して生きていけるよう、力添
えをする。⋮⋮きみたちも苦痛と思える経験をしたことかもしれな
い。思い出す度に生まれくる悔恨などについては、無理に抑えこむ
よりは、ひとまずは、自分がどんな状態にあるか把握してみること
だ。もしきみが友達に八つ当たりしそうならばこう伝えよう。
ちょっと苛々してるの、と。
八つ当たりはね、向けるべき怒りを対象に向けられないからこそ、
代わりのなにかにぶつけることで解消にかかろうという、代替手段
だ。もし対象にぶつけられていたならば怒りなりは一旦終息する。
本来、それがどこへ向かうべきだったのかを探ってみると、自分の
状態が掴めることだろう。友達から﹃おはよう﹄と挨拶された時に、
すごく自分の機嫌がいい場合と、あんまり良くない場合とではなん
だか自分の調子が違ったりしないかい? 誰かに何かをされた時に、
自分の反応がどれだけ変わりうるかは、自分の気持ちの状態を把握
する上での目安となる。して問題なのは、このような自覚を持てな
い場合だ。⋮⋮自分の行動を振り返ってみて、あの時何故あんな風
に思ったのか。こんなことをしたのかと、不可思議に思うことがあ
タネ
るだろうか。それは別段トリックのないマジックではなく、なにか
しらの原因があるというものだ。しかし、それを認めるのは時々困
難だ。八つ当たりの例で言えば、誰かに対して腹を立てた自分と、
別の人に怒りをぶつける自分とを中々認めたくないものだからね。
だから、人は、それらに蓋をする。無かったことにし、思い出さな
644
いよう務める。だが蓋をするにもスタミナを要する。⋮⋮こんな風
にね、蓋をし続ける姿勢をとってご覧、他のことができないし、だ
いたい疲れてしまうよ。恒久的なものではないんだ。それでは、抑
えこまれた感情が一体どこへ向かうのか? このメカニズムを解明
したのが、かの。
﹁ジグムント・フロイトだ﹂
重々しい響きをもって柏木慎一郎はその名を口にする。
﹁十九世紀終わりから二十世紀初頭にかけて︱︱フロイトはヒステ
リーという病を研究していた。ヒステリーとは、心理的なものが身
体の痛みや麻痺、痙攣に転換したことで起こる神経症だ︱︱検査を
してみても身体の器官には異常が無く、治療をしても改善しなかっ
た。心理的なものと僕は濁したが、いわゆるトラウマ︱︱心的外傷
だけでなく、受け入れがたい感情や客観的事実も含まれる。当時、
ヒステリーに有効な治療の一つに、催眠療法があった。⋮⋮きみた
ちのイメージする催眠とさほど遠からじといったところだ。つまり
は、痛みを訴える患者に、痛くないと暗示をかける。だが、痛みの
原因を取り除かないことには根本的な解決にはならないし、また、
患者が治療者に依存しすぎるきらいがある点でも問題があった。そ
れでは、代わる治療方法は無いのだろうか? フロイトは様々な症
状を患う患者の診察を重ねるうちに、心理的な原因そのものを患者
自らの口から語らせれば、痛みは二度と現れなくなる︱︱このこと
に気づいた。感情はエネルギー保存の法則が適用できる。感情を抑
え込んだらば滞ってしまう。身体に停留した莫大な心的エネルギー
を、語らせることで発散させればいいのではないかという、新しい
治療方法を編み出したのだね。なお、自分を守るために感情を抑制
する働きを、フロイトは防衛機制と命名している﹂
645
自分を守ろうとするからこそ、自分の身体を痛めてしまう。
一見矛盾したようなシステムを、柏木慎一郎は、解き明かしてい
く。
﹁感情というエネルギーを発散させる方法には、好ましくない形で
あれ、先ほど述べたヒステリーや、八つ当たり以外にも様々だ。昇
華と呼ばれるものがある。社会的に前向きな形で行動を起こすこと
だね。⋮⋮みんなに訊くけど。すごく好きな人がいて、その人が違
う誰かと結ばれてしまった時に、悲しい思いがして、部活に打ち込
んだ経験を持つ人は居ないかい? ⋮⋮挙手まで頂き、勇気ある告
白に感謝する。僕はきみたちよりも失恋経験がおそらく豊富だよ﹂
少しおどけた物言いをする演者に、少しの笑いが起きる。
以降も、皮肉と笑いのエッセンスを交え、私たちに卑近な例を挙
げながら、柏木慎一郎は講義を続けていった。
646
︵2︶
﹁⋮⋮私の話は以上だ。さて、質疑応答の時間に入ろう。質問のあ
る方には、挙手を願う﹂
こういうときには口を閉ざし様子伺いをするのが私という人間の
性分なのだが。
﹁そちらの︱︱そうだね、制服を着ているきみ。どうぞ﹂
信じられないことに手が挙がっていた。
彼の、声が聞きたいという気持ちを私は抑制できなかった。
助手の人がマイクを持ってこちらに来る。その間にテーブルをた
たみ、席を立つものの。
なんにも考えてやしなかった。
冷や汗が出る。脇の下から手の内側から。喉の奥が乾き、水分を
欲する。
︱︱﹃柏木慎一郎﹄が、私を見ている。
﹁⋮⋮都倉といいます、本日は貴重なお時間を下さり、ありがとう
ございます﹂頭を下げる。﹁ふ。フロイトが診察した患者の症例に、
⋮⋮焦げたプディングの話をした女性がいたと思います。その症例
につきまして是非、教授の口から説明賜りたいと⋮⋮﹂
﹁ルーシーのことだね﹂マイクが離れる。助手さんが変な目で私を
647
見てくる。﹁彼女のケースは、フロイトが催眠を放棄して自由連想
法を編み出す契機でもあった。⋮⋮うん、各症例の話が今回は足り
なかったね。きみ、座って構わないよ﹂
おとなしく座る。
それにしても。
賜るってなんだ。
変な質問で恥をかいた気分の私を含め、柏木慎一郎は聴衆に語り
始める。
﹁ルーシーとは﹂
フロイトが治療した患者として知られている女性だ。
彼女は住み込みで家庭教師の仕事をしている。雇い主は妻を亡く
した男性で、家族は女児が二人。一家の身の回りの世話をする人間
は彼女以外にもおり、彼女はその女性たちから爪弾きにされている
のではないかと悩んでいた。
そんな折に、遠方に住む実母から手紙が届く。封を開こうとする
彼女に、︱︱
﹁だめ、いま読んじゃだめえ﹂と子どもたちが飛びついて手紙を取
り上げる。
きっとお誕生日のお祝いの言葉だわ。手紙は誕生日までおあずけ
よ、と。
ルーシーの誕生日は二日後に迫っていた。
なんて、可愛い子どもたちなのだろう。
こんなにもなついてくれていることが、彼女には嬉しかった。
648
ちょうどその時、焦げた匂いが立ち込めた。子どもたちが焼いて
いたケーキが焦げてしまったのだ。
以来、その焦げた匂いが鼻について離れない。
︱︱あなたは、家の主人を愛しているのですね。
﹁フロイトは彼女の気持ちを見抜いた﹂
柏木慎一郎は資料も手元のなにも見ていない、聞く私たちだけを
じっくりと眺めている。﹁先ほどの理論に当てはめると︱︱子ども
たちが可愛いと思った時、ルーシーに、子どもたちの母親になりた
い、という気持ちが生まれた。押し込めていた彼が好きだという気
持ちも同時に。だがそんな気持ちは持ってはならないと、気づかぬ
うちに彼女はそれらの想いを抑え込んだ。⋮⋮抑制しようと思うほ
どに燃え上がるのが恋心というものだよ﹂
淡々とした声でどきりとする発言を挟む。
﹁相対する気持ちが結びついたのが、ケーキが焦げたその時だった。
言うなれば、ルーシーは彼が好きだと認めることへの苦しみを、鼻
の匂いに代替することで解消していたのだよ。⋮⋮治療については
いくつかの過程を経て収束を見たのだが。その後の彼女の話を知っ
ているかね﹂
﹁いいえ﹂マイクが既に離れていたけれどもつい声に出して答えた。
それを一瞥してから柏木慎一郎は前方に向き直る。
﹁最後の分析から二日後に、ルーシーはフロイトの元を訪れる。ま
るで別人だった。一切の悩みをなくしたように、晴れ晴れとした表
649
情をし、自信に満ち溢れていた。フロイトは思う。これはひょっと
して、家の主人との恋が成就したのではないかと思いきや、﹂
︱︱見込みはありません。それだからといって不幸ではないので
す。
﹁あなたはまだその父親を愛していますか、とフロイトが訊くと⋮
⋮﹂
︱︱ええ愛しています。でもただそれだけです。
自分ひとりで好きなことを考えたり感じたりするのは自由ですか
ら。
﹁ルーシーの言葉はとても印象的だ。心の重荷から解き放たれ、あ
るがままに現実を受け入れている。⋮⋮この話を読んだ時に、私は
なんとも清々しい思いがした。上手くいかない状況も、自分の気持
ちも、認められたからこその開放感を、彼女は得られたのだろう。
もしかしたら、﹂
風が吹き抜けるような心地よさだったかもしれないね。
柏木慎一郎が、私に向かって、微笑みかけていた。
そのときを思い返してだろうか、
涼やかな、風の抜けるような笑みで。
﹁⋮⋮さて、ほかになにか質問はあるかい? 心理学に関わらず、
この大学のこと全般でも構わないよ﹂
それは、ごくわずかな時間だった。
650
対象をほかに戻す。
そうだ彼は私ばかりを見るのが仕事ではない。
私のなかに聞きたいことは山ほど残っている。
それなのに。
分かっているのに︱︱
私の鼻をつく匂いはひとつもなかった。
あったらそれがもしかしたら離れなくなったかもしれない。
* * *
森のなかに赤いベンチがひとつ。
空を森を映す鏡の湖を間に置き。
対峙して向こう岸にもうひとつ。
緑と赤の色彩に歩を止めさせられた。
私はそのひとつに腰掛ける。
脱力感のほうが強かった。
いきなり現れ︱︱
私があなたの子です、
などと名乗れるはずもなく。
見てみたかった。
会いた、かった。
確かめたかった。
私の内的な問題がそれだけでは解消されるはずもなく。
651
己の手のひらを眺める。この薄い皮膚の裏に赤い血が流れる。俗
な言い方に頼れば﹃私には彼の血が流れている﹄。
しようとしたことは達成した。だが著しく無力だった。私が私で
あるという解法は得られず︱︱近頃、父が夢に出てくる。木島義男
に肩車をされて歩いた、高い所から拝んだ景色の断片がリプレイさ
れる。近所にあった公園、あのジャングルジムはいまもあるだろう
か。犬に吠えられ私を抱えお父さんが息切らせて走った、あの犬は
生きているだろうか。
知らぬ間に意識せぬうちに物事は流れていく。
既視できるかいかんに関わらず。
受け入れられるか否か、精神だけが問題なのだった。
トイレに行きたいときにトイレが夢に出てくるという。ならば父
の夢は、
私にとってなにを意味する。
ストレートに、
会いたいという、渇望を、
欲望を押し隠す精神をこそ?
そしてこれを直視するのが人間に必要な勇気だと語った。
私の、実父が。
私の知らない、私を知らない、父を父とみなすのはどうなのだろ
う。
父と呼ぶべき養育をしてくれたのは違う人間だった。
ここから町田まで二時間足らずで会いに行ける。
路線図を見上げ計算が働いた自分がつくづく嫌になった。
迷惑に決まっている。迷惑に︱︱
652
唐突にプリーツの膝が迫る、
私は頭を抱え込んでいた。
はっきりした意志を持ってきたのが。
なにを、こんなところで思い悩む。泊まったホテルから家に電話
をしたばかりだがまた、電話したほうがいいだろうか、
不安を感じているだろううちの家族は。
﹃まさーきさん﹄
どうしてだか猛烈に思い出される。
こんな風に思い悩む私のことを見つけてくれた、
あの彼のことが、
﹁きみ﹂
空想が現実と化すのを容易に認められない。
だが私の聴覚が拾うのは、
知っている、人物の、声だった、
正確には昨日の昨日まで知らなかった、厳密には私という遺伝子
を生み出した生命体が。
芝を踏みしめる、靴音は素早く、
こちらに、迫り、
﹁具合でも悪いのかい﹂
夢ではなく現実に、
現れでた、
使い込まれたでも手入れの行き届いた磨かれた革靴の先、プレス
653
のきいたパンツ、膝の頭に添えた右の手、シミひとつ許されなさそ
うな、ジャケット︱︱
﹁だっ、﹂
生まれいでた私は背中をしたたかぶつけた。
驚いたようにやや眉があがる、開いた瞳もろとも元の落ち着きを
戻し、
﹁⋮⋮その様子だと大丈夫そうだね。体調がすぐれないようなら医
務室に案内しようか﹂
﹁いえ、けッ、結構ですっ﹂
結構のけで声が裏返った。
泡を食ったこちらを認め。
口の端のみで微笑し、柏木慎一郎は私の右側に︱︱三日前に似た
行動をした彼とは違い、やや離れ、腰を下ろす。
﹁眺めのいい場所だろうここは。昼間を外せば音もしない、思索に
耽るには格好の場所でね︱︱僕もよく来るんだ﹂
言葉通り、私がいてもいなくても同じことをしただろう所作だっ
た。かばんをさりげなく右に置くのといい。
行動の一連を直視する勇気を持たない私は、視界の隅で動向を追
うだけで、正面から顔を動かせなかった。
本来は透明かもしれないが、湖底の水苔によりか森の映写により
か青緑色に規定された湖に鴨の群れが泳ぐ。水面にすすーっと線を
描く。後ろに小さな何匹もが続く。
親子だろう。
﹁⋮⋮柏木教授が臨床心理士を志されたのはどのような理由があっ
たのでしょうか﹂
﹁准教授だよ﹂ややも笑って柏木慎一郎は言う。﹁先生でいい、堅
苦しくなくて構わない﹂
654
微笑みを絶やさず、穏やかに映る横顔は、またも、重なって見え
た。
一つの場所を好きだと明かした彼に。
仮に。
柏木慎一郎にもうすこし早く会っていたとしたら、和貴を好きに
なった私はファザコンにあたるのだろうか。
︱︱和貴を好きに、なった?
自分から出た言葉に慄然とした。
﹁都倉さんといったね。関わる契機は人それぞれだ、どこに向かう
のかも将来的になにになるのかも。自分なりに興味が湧くものがあ
るというのなら、その気持ちを大切にするといい﹂
様子を伺う目的を持っての行為。
けれどもそれを感じさせない、落ち着いた︱︱迫力や強要とは無
縁の、花が開くのを自然に待つことのできる、大人の眼差しが私に
注がれる。
母はこのひとを愛していたのだ。
﹁僕の両親も親戚一同も医者一家でね﹂私がある程度知っているこ
とを見越してだろう、誘導する方向性が感じられる。﹁幼い頃から
外科医になるべくして育てられた﹂
私は彼の予想する質問をする。﹁反対されませんでしたか﹂
﹁想像通りだよ。⋮⋮向こうでドクターの資格を得たのちに僕は希
望を叶えた。⋮⋮日本では不思議と、最初から臨床心理士を目指す
人が殆どだね。米国などでは他の業種を経験してからその仕事に就
く人も多いのだが﹂
655
フロイトも元々は神経科医だ。
﹁いずれも必要である仕事には変わらないが、僕は目に見えないも
のを︱︱無意識という実態のないものを科学的に追うほうがどうや
ら性に合っている。形の無いものこそに関心がそそられるというの
かな⋮⋮解法も結論も様々ではあるから﹂
柏木慎一郎は医学部を卒業後にアメリカで精神科医の経験を積み、
それからして東京心理大学に入り直し、臨床心理を学んだ経歴の持
ち主だ。
﹃それが。お母さんのせいでその道を諦めようとしとって﹄︱︱こ
れは母の、言葉。
﹁夢の実現と引き換えに、失ったものはありませんでしたか﹂
向こう岸に目をやる。
対面する赤いベンチ︱︱さきほどまで誰もいなかったそこには男
女一組が座っている。私たちと異なるのは関係性だ。男性の身振り
手振りが大袈裟で、女性が口に手を添えて笑っている。
﹁無いといえば嘘になるな﹂
心なしか皮肉げに笑い、鼻から口の端にかけて筋が刻まれる。
その遠く見る眼差しは、過去を懐かしんでいるように思えて、
﹁柏木先生。わ、たしっ﹂
向き直ろうと座り直したのがいけなかったのか。
︱︱どうして、見てしまったのだろう。
656
﹁ご結婚、⋮⋮されているんですね﹂
勢いづいたものが削がれた。
代わりに浮かぶ失望を押し隠し、私はそう、口にした。
﹁ああ﹂視線に気づき、膝から軽く手を浮かせる。﹁授業の間やカ
ウンセリング中は外すようにしている。僕のパーソナルな情報は治
療の妨げになることもあるからね﹂
︱︱薬指に光る、家庭の証に。
﹁⋮⋮お子さんはおられるのですか﹂
﹁いや、いない﹂
私があなたの︱︱
言いたくなる衝動を抑え、膝に添える手に力を込めた。﹁柏木先
生、色々お聞かせくださりありがとうございました。電車の時間が
ありますので、私はこれで﹂
頭を下げる。
荷物を手に、その場を立つ。
あまり見ることはできなかった。
されどそれだけ確かめれば、充分だった。
彼の手は、恐ろしいほどに私のそれと似ていた。
細くて長めの指、第二関節がやや太い。扁平な男爪。スーツの袖
から覗いた、やや突き出た骨の感じといい。
657
﹁なあ。もしかしたらきみは︱︱﹂
私のこころが作り出した幻聴だったのか。
その声を背に私は進む。
後からあとから涙が頬を伝う。
声を大にして言えたら⋮⋮私があなたの子ですと。
また会えることがあるかは分かりませんが、どうか、お元気で。
振り返りもせず立ち止まりもせず、滲むキャンパスをあとにした。
658
︵3︶
﹁あー疲れたあ⋮⋮﹂
蛙でも踏み潰された声が出る。
昼夜バスに揺られ。畑中にて一時間半待ち合わせようやく緑川行
きのバスに乗れ、緑川に到着する頃には東京を出て半日が経過して
いた。この旅で総計二十四時間バスに乗った計算となる。
旅行では無いのだが。
丸一日だと思うと疲労感が増幅するというか、平衡感覚を失いそ
う。着崩したポロシャツと同じくよれよれでバスを降りる。
と、
﹁お、母さん⋮⋮?﹂
降りた先に発見する。ガラスの向こうで母は、急いで出るとすぐ
さま私のほうに駆け寄ってくる。
朝方帰ると伝えていた。何時とは伝えていなかった。畑中での乗
り換えが不便で、二三時間前後するだろうと。
それを。
いまかいまかと、待っていたというのか。私のいないバスを何台
も見送っては。
四日ぶりの再会だった。
母は、見るに心労のいろを濃くしていた。だが私の前に立つとそ
れを抑え、気丈にも笑みを作り、
﹁お帰りなさい、真咲。⋮⋮疲れとるやろ﹂
﹁⋮⋮ただいま。ぜんぜん﹂
659
それなのに、私は置き去りにし、歩き始めた。
﹁風呂、⋮⋮沸かしとるから。すぐ入るやろ﹂
﹁ん。そうする⋮⋮﹂
からだじゅうがべたべただった。
母の気配りに、
嬉しさのなかへ砂を噛む思いが混ざる。
汚れは洗い流せ、疲れは一晩休めば消える。
けれども消せない悩みが私のなかに組み込まれた。
そもそも母が早く言ってくれてたら、あんなにも苦しむことはな
かった。
いや。
時期がいつであろうと悩むのに変わりはない。
なんてことをしてくれたのかと母を恨んでも、私が生まれたとい
う事実は事実なのだし、︱︱場合によっては、私は生まれなかった
かもしれないのだ。
母の決断なくして私の生存は起こりえなかった。
柏木慎一郎の存在なくしても。
何故だろう。
仮に、母が身ごもったと聞き及んでいたとしても、柏木慎一郎が
それを受け入れないとは断じて思えなかった。
決して彼が、人間の心理に向き合うことを専門にしているからで
はなく。
あの穏やかな眼差しが、人間の存在を拒否するように思えなかっ
たのだ。
660
いつの間に抜かれた。考えごとをしているせいか。
黙る母の後ろを私は黙考してついていく。
この国道沿いの道を縦に並んで歩いたのは、︱︱この地に移り住
んだ夏の日。忘れもしない、昨年の八月十日。
あれから一年が経つ。
すこし強い風が私と母の間をすり抜ける。天候はいつかよりも涼
しい。
けども変わらず迎える潮の薫りが、私に、帰郷したことを感じさ
せた。
帰ってこられた、という望郷の念に等しい、安堵が私のなかを満
たしていった。
﹁会ってきたよ。私﹂
出し抜けに呼びかける。
﹁素敵な先生だったよ。ナイスミドルなおじさんって感じでね。声
が、落ち着いていて⋮⋮立ち振る舞いに品があって、なんていうの
かな。なんでも話したくなっちゃう。包容力のあるひとだね﹂
母は頷く。
最後に会った、青年だった頃の彼を思い返しているのだろう。
おじさんでは無かったに違いない。
﹁私のことはもちろん言ってないよ﹂すこし笑って私は口にする。
母の気にしているだろうことを。
﹁そうがなね﹂驚きも皆無の声色だった。
母こそも落ち着いていた。
甘えたいような、くすぐったい欲動が内部から湧いてくる。
﹁でもさ。髪とか私にそっくりなんだよね。まっすぐでバレッタ留
めたら落っこちそうな髪質もさ﹂母はゴム一つで結い上げることが
多い。私の場合バレッタをすれば滑り落ちる。﹁このね、手の感じ
661
なんか、信じられないくらいそっくりで⋮⋮﹂
あれ。
そこまで言うとしずくが落ちる。
この手の甲が、滲んで、震えて、
﹁あん、な、すごいひとが父親、なんて、私っ⋮⋮﹂
言葉になどできやしなかった。
喉の奥が狭まり、
母は︱︱
背中を震わせていた。
動じず、守り続けていた、母のつよい、背中が。
振り返らないよう人生をそう進むと覚悟を固めていた母の後ろ姿
を。
私は、
つながりを感じられる手を握りしめ、
しゃくりあげながらも、追い続けた。
家にたどり着き。扉を開きかけた母を私は呼び止めた。﹁お母さ
ん﹂
私に顔を傾ける。涙は浮かべていなかった。
﹁ひとつだけ訊かせて?﹂
﹁いくつでも構わんがに﹂
痛々しくも笑みを作り、首を傾げる母のことを、私は、それ以上
困らせるつもりは無かった。
﹁私は生まれてきて良かったの?﹂
662
母の顔が大きく歪んだ。
﹁当たり前やろが﹂
あたたかい腕に迎えられていた。
緊張感を保つピアノの線が切れたように、
声を殺して泣き続けていた私たちが、互いに大声をあげて泣いて
いた。
背丈が変わらない母。いつも︱︱気づかないうちに私を気遣って
くれた。私を産み、育てた母の、腕のなかに。
いつぶりから分からないくらいに包まれ、
私はただの赤子だった。
この私たちの様子を、薄い扉一枚隔てた向こうで見守っていたの
だろう。
ひとしきり泣き終えて開くと驚いた祖母が二三歩つんのめる。腕
を引き支える祖父を含め、︱︱赤い目をした全員にただいまと伝え
て招き入れられると、私は改めて、この家に受け入れられた気がし
た。
* * *
墓地は独特の匂いがする。
あの公園が近いからこその大地の、生い茂る緑の匂いたつ。お線
香の煙に混ざり腐った花の匂い。それ以上に、︱︱厳かな、人を悼
む思いが粒子となり集う場所にて。
蝉が大泣きするのに私の内面は水の静けさだった。
それこそは、柏木慎一郎と眺めた波立たぬ湖面の。
﹁⋮⋮随分長く祈ってたよね、真咲さん。なんて言ったの、僕の家
663
族に﹂
﹁和貴には教えない﹂
﹁⋮⋮僕にはって﹂寸時目を剥くもののの薄笑いを浮かべ、﹁なん
だいそりゃ。僕以外に教えるっつうニュアンスが引っかかんねえ。
紗優には言えんの?﹂
﹁それも教えない﹂
﹁⋮⋮どこでそんな意地悪を覚えたんだい﹂
﹁教えてくれるひとがいたの。すごく身近に﹂
﹁ふぅん。誰のことかな?﹂
﹁心当たりが無いなんて信じられない﹂
声を立てて楽しげに笑い、手桶の水を墓石にかける。水をかける
ときに頬がまっすぐに戻ったのに私は気づいた。彼の手つきは丁寧
だった。熱く熱を帯びた墓石に水をあげれば、眠る和貴の家族も、
快適に過ごせるのではないか︱︱そう、願っていた。
﹁あたし。桶返してくるな﹂
﹁ほんならわしは、住職さんとこ挨拶に行ってくるわ﹂
なにか話していた風な二人がほぼ同時に離れる。
灼熱を阻む木陰に取り残される。
﹁⋮⋮いこっか﹂
﹁うん﹂
影のなかでも彼のことがどうしようもなく眩しかった。
父よりも彩度の強い髪の色といい。
ポッケに両手を入れ、やや猫背で段を降りる。コンバースのハイ
カットが影をついては離れる。淡々と。
﹁⋮⋮いつから畑中市に行くんだっけ﹂
﹁明日﹂
今日を外しての選択だったのだろう。
八月一日は、和貴の両親の命日だ。
664
紗優に電話したときに行かんかと誘われ、私はお墓参りについて
きている。
会いたかったからだと言うと天罰が下るだろうか。
母同様に二人の間で揺れる私を人は責めるであろうか。親子揃っ
てだらしがないと。
東京の⋮⋮正確には埼玉の神社でお守りを求めた。買い物をする
時間は無かったもののみんなになにかを買って帰りたいなと。
真っ先に白いお守りを手にとった。
健康祈願をするものを。
白っぽい服を好んで着る、彼のことを思って。
もちろんみんなのぶんを買ったけれども、自分の自発的な行動に
驚いてしまった。
私は彼ほどに白のポロシャツが似合う男の子をほかに、知らない。
モノトーンのギンガムチェックの細身のパンツに、テイストを外
したかのピンクのコンバースのハイカット。
かばんを持ちたがらないのは男の子の特性なのか、ヒップバッグ
を肩から下げ、持て余す両手をポケットに入れては出してはの言動
が見受けられる。
様子伺いをやめにして私は段を降りるのに集中する。
二人並び歩けない狭い細い石の段々を、和貴は既に降りている。
降りきると、逆光にまぶしげに手をかざす。
丸い目を一瞬細め、
目が合うと、口許をほころばせた。
待たれていたのもなんだか嬉しい、という気持ちの輪郭を私が意
識するより早く、
﹁僕がおらんかったら、寂しい?﹂
665
﹁うん﹂
なにを。
言ってしまったのだろう。
本音をこぼした、⋮⋮気まぐれを起こした口を押さえる。和貴の
瞳も見開く。
どちらなのか自分でも分からない。
下ろした手をポケットに突っ込み。
足元が唯一動く。ピンクのハイカットが。
棒立ちの私のところへ、
左の肩が動き、
挙げた手が、
︱︱思わず私は目を瞑った。
﹁電話するよ、真咲さんち。⋮⋮お店の番号で平気だよね﹂
日差しに照射される灼熱から、
陽だまりのあたたかさに、満ちる。
触れられるだけのその行動に、鎖骨の間から苦しさがほとばしる。
どうかしている、震えてしまうなんて。
近い熱い半袖から覗く、顔の横に近い腕のこと。
汗と混ざったフローラルの香りと。
小刻みに頷くことしか、ならない。
﹁なー和貴ぃ﹂
呼ばれ、離れる手が。
去るその彼のことが、惜しく思えた。
後ろ姿に、戻ってきてと思った。
666
もっと、︱︱触れて欲しい。
なにを考えているのだろう。首を振って打ち消す。
いろいろあってこころが弱くなっている。
この晩は紗優の誘いを受けて宮沢家に泊まった。
* * *
﹁眠れんの?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
来客用の布団から眺める天井は。
白地にオレンジや赤のドットが入っている。暖色で彩られたポッ
プな部屋。大きさは私のとほぼ同じだが、洋室なのが羨ましい。
﹁そっか、⋮⋮当然やよなあ﹂
紗優は、出来事のすべてを明かせる、たった一人のひとだった。
﹁ね。やっぱり紗優は⋮⋮タスクのことが好きなの?﹂
﹁そやね。望み薄いけどなあ﹂
﹁無いなんてことは無いじゃない﹂
﹁真咲には分からんよ﹂
弱気な言葉に続き、強い口調。
﹁ごめん⋮⋮﹂
肘をつき、ベッドのうえから紗優はこちらを見下ろす。首を振る
代わりに私は質問をする。﹁ほかのひとのことは考えられないの?
667
紗優のことちゃんと見てる男の子だっているはずだよ。例えば﹂
﹁︱︱坂田?﹂
名を出すつもりは無かった。
教室で、紗優と和貴と坂田くんの三人は仲がいい。
和貴と坂田くんのいがみ合いは、子犬のじゃれあいといった様相
で。それを仲裁するのが紗優の役割化していた。
時折、坂田くんは気持ちを隠さない目をする。
恋してるのが分かる眼差し。ふざけてばかりの彼がそういう目を
よこすと⋮⋮紗優ならずともときめくものがある。
うまくいって欲しいな、と。
落ち込んでいるならば、私よりも早く気づき、からかうか怒らせ
るか。
受験のこともあって、休み時間を積極的に遊べなくなった私は、
彼に、自分の友達としての振る舞いを託している感もあった。
﹁⋮⋮なしてこう、片思いばっかなんやろな、うちらの周りは﹂
﹁だね﹂お互い、眠る姿勢に戻りつつ、﹁パソコン部で恋人がいる
のって石井さんだけだよ﹂
それを聞いて紗優が笑った。﹁ギャルのくせしてあの子がいちば
んしっかりしとるわ﹂
ギャル男とギャル同士で、出会いの場はチャット。それも遠距離
恋愛というのにおつき合いは半年以上続いているのだから。
紗優は背中を向ける。
﹁なあ、⋮⋮真咲﹂
寝返りを打っただけのようだ。声が眠気を帯びてきた。
﹁いま目ぇ閉じてみたら、⋮⋮誰のこと浮かぶ?﹂
言われるままに。
668
天井の暗がりよりも深い、瞼の裏に意識を這わす。
﹃無いといえば嘘になるな﹄
昔を懐かしむように思えた、言葉の響きと揺らがぬ静かな水面と
を。
﹁柏木慎一郎と⋮⋮﹂
﹃やーっぱ真咲さんだ。どしたのこんなとこで?﹄
人懐っこい声をしてそう笑った。
柏木慎一郎と同じように、私のことを見つけてくれた、すこし驚
いた彼の、表情が。
私はその名を明かす。
そっか、と紗優は嬉しそうな、でも小さい声で言った。﹁んー違
うひとやったら教えたげたいこと、あってん、けどな⋮⋮﹂
え。﹁なになに?﹂
﹁あんなあ⋮⋮﹂
私は続きを待った。
待っていたのだが続いて訪れるのは、安らかな寝息だった。
暗闇でも分かる、こちらに寝返りを打った天使の寝顔を認めてか
ら、私は布団を出た。
カーテンの、厚地を開き、レース越しの空を眺める。
遠く置いてきた東京に、柏木慎一郎は生きている。
いくども思い返した。帰り道に擦り切れそうなほどリピートした。
669
あの、穏やかな声と、語り方と、微笑とを。
その、すべてを。
︱︱見込みはありません。それだからといって不幸では無いので
す。
一人のことが浮かぶ。
片思いをして実らないと決まっている。
︱︱自分ひとりで好きなことを考えたり感じたりするのは自由で
すから。
これもまた、通じない思いのひとつだと思う。
﹁ええ愛しています。でもただそれだけです﹂
声に出すと、自然と目が行く。
彼の存在する方角に。
ここから徒歩で一分も立たぬところに住んでいる。
早くに両親を亡くした、
子リスのように愛らしくてあどけない瞳を持つ、彼は。
︱︱なんで、どうして父さんと母さんが⋮⋮嘘言うなや。僕を置
いてきぼりにするわけないだろ。じーちゃん、僕さ、うちで一人で
さ、ずっとずっと待ってたんだよ。ちっちゃいのに留守守れるん偉
いねーって母さんがさ、近所にも僕のこと自慢にしてたんだよ? こないだ糸こん入れ忘れたんちゃーんと入れたるからねって僕楽し
みにしてて⋮⋮父さんも。帰り遅いかんさあ、たまにゃー二人で入
670
ろーっつってさ、温泉の素。僕草津の緑ぃのがいいってゆったんだ。
指切りもしたんだ。約束したんだ。
頼むからじーちゃん。
父さんと母さんを嘘つきにしないでくれ。
星になったなんて綺麗事も僕は要らない。
こんな現実なんか要らない。
父さんと母さんを、返してくれよ。
︱︱願いごとなんて書きたくないや僕。だってさ、いくら願った
って一番の願いごとをお星様は叶えてなんかくれないんだ。
⋮⋮翌年の七夕に彼はこう、口にした。小学校のまだ四年生だっ
た。翌々年からは心配をかけない無難な願いごとを書くようになっ
た。足が長くなりますように、女の子にますますモテますように、
じーちゃんの白髪が減りますように⋮⋮これにはお祖父さんが怒っ
た。んなことねごーたらわしの髪のうなってまうがな! と。
お祖父さんの語る和貴と、
私の知る和貴には、相違がある。
幼い頃の和貴は悲しみの片鱗をこぼしたということ。
お祖父さんからすればいつからかそういう胸中を明かさなくなっ
たということ。
成長したなあて思う反面で寂しくも思う、その胸中を素直に明か
してくれた。
671
突然来ちゃって、ごめんね。
私、なんて言ったらいいか分かんないけれど、⋮⋮
ん? どしたの深刻な顔してさー。もー九年も経ってんだ。
割り切れてる。
と語る彼は、左上を見過ぎだった。
唯一和貴が本音を漏らしたのは、
︱︱電話するよ、真咲さんち。
ただの単語の羅列のはずが、彼が口にするというだけで甘い果実
に変貌する。
甘酸っぱいような、狂おしさが胸のうちを満たす。
触れてはいけない人物を知り、自ら離れる寂しさを感じる私には。
彼の、声を、言動を、繰り返すと、寂しさが乗りきれる、
魅惑的な誘惑だった。
自分の隙間を埋めるために誰かを利用してはならない。
この愚かさを、白い月が見下ろす。
その月に向かい、手を組み合わせる。
⋮⋮和貴が、
無事にボランティアをできますように。
夢を、叶えられますように。
672
どうか、これからの人生を幸せに生きて行けますように。
健やかに、長生きできますように。
笑顔でいられる日々が、続きますように。
こころあたたまらせる、救いの、あの笑顔を。
墓前で願ったことを再度願い、私はやや冷えた布団に入った。
表参道で、人ごみの中を颯爽と抜ける、あまり見ないいろのスー
ツ姿を見かけた。
目覚めたときにそれが夢であることが嫌になった。
後ろ姿でしか出会えないことに悔しさも覚えた。
でも。
信じられるだけ私は幸せだ。
そう思うよう努力し、部屋にも私のこころにも朝日が入り込むの
を確認し、薄く微笑みながら眠りに、戻った。
673
︵1︶
﹁おい﹂
呼ばれて顔を起こした。
声の主はこちらが答える前にかばんを置いていた。私の隣の席に、
﹁ここ、空いてるか﹂
﹁うん﹂私はすこし寄って声を潜めた。﹁⋮⋮珍しいね。マキが図
書館来るなんて﹂
あっちは埋まっててな、と彼は声量を落とさずに椅子を引く。椅
子を引く音量だけには周囲への気遣いが見て取れた。﹁いつもは長
谷川が俺のぶんも取っとくんだが生憎不在でな⋮⋮あいつがいねえ
と席が確保できん﹂
おいおい。
早く来て席くらい自力で確保しなよ。
呆れ目をよこすも、素知らぬ顔してかばんから勉強道具を取り出
す。汗をかいた自身を片手で器用に仰ぎながら。マキに不似合いな
真っ赤な団扇、ゴールドのスリーセブンが入っているのは⋮⋮パチ
ンコ屋さんの広告だ。まさか彼が行くとは思えないが。
パチスロしようとすると親の知り合いに顔が割れてて難しいんだ
そうだ、彼以外の男子から聞いた。補導されるのは東工に入りたて
のイキがってる一年男子くらいのもの。それを恐れて我慢するのも
含め、田舎ならではのお悩みだろう。
私はノートに戻る。
⋮⋮も、口許がほころんでしまう。
用意しておいて、良かった。
土曜日だったし。
674
念の為とは思った、学校に寄る予定はなかったし、
なのに、訪れた奇遇。
弾む気分を抑え、私は長文読解にかかった。
* * *
﹁帰るぞ。まだやってくか﹂
﹁ううん。私も帰る﹂
朝とは異なる空の表情が建物の外に待っていた。ダンガリーシャ
ツの色合いから淡いインディゴに滲む空の色。真夏ならではの分厚
い雲、流れないのは風が無いからか。風が吹けばもっと気持ちいい
だろうに、この町は絶えずねっとりとした湿気に包まれている。室
内の冷房に冷やされ、港町独特の湿度を纏う腕を擦った。寒いのか
暑いのか、自律神経がやや狂わされる感じがする。
﹁こんなに明るいのに、もう七時過ぎてんだね﹂
腕時計の文字盤がやや霞がかって見えた。視力がやっぱり落ちて
いる。
﹁⋮⋮随分集中してたな。こないだの模試サボった割には﹂
﹁サボってなんかないって。あれは、⋮⋮﹂
﹁どうした﹂
まともに直視されるとどうしたらいいか、分からなくなる。
切れ長の、鋭利な眼差しに刺されるようで。
﹁あのね。これを、⋮⋮渡そうと思っていて⋮⋮﹂
クラスも違う、勉強場所も違う。
会える機会が無いから、渡しそびれていた。
そのためにわざわざ学校に行くのも、負担かけるだけだと思った
し。
私の想いは、負担を与えるものなのだ。
675
﹁なんだ。お守りか?﹂
受け取ったそれを天にかざす。かざしてこちらを窺う彼に、私は
頷くことで返した。
﹁⋮⋮近頃貰うのは合格祈願のものばかりだな﹂
﹁だと思って、健康祈願をするものを選んだの﹂
﹁開けて構わないか﹂
尋ねておいて待たずに取り出す。
自分が貰ったのだから訊かなくてもいいのに。
せっかちなくせにどこか繊細な一面を持つ、図体の大きな彼が取
り出したのは。
黄色い、巾着のかたちをしたお守りだった。風水鑑定士が金運ア
ップにいいですよと太鼓判を押しそうないろの。
マキは私に視線を流し、
﹁⋮⋮サンキュ﹂
紐を指に絡ませ、胸ポケットに仕舞う。
そのポロシャツの背中に、私は伝えた。
﹁お誕生日、おめでとう。マキ﹂
八月八日︱︱奇しくも私のちょうど一ヶ月後が彼の誕生日だった。
聞こえなかったのだろうか。
信号でもないのに、チャリでよたつくおじいさんが来るのでもな
しに。
銀行の角で停止した、彼は。
﹁何故、知っている﹂
﹁⋮⋮和貴に聞いたの﹂
676
彼の前で彼の名を出すことが憚られる。
射すくめるような、生来強い彼の眼差しから、私は逃げるように
俯いた。
どうしてこんなにも後ろめたい。
﹁⋮⋮そうか﹂
前に戻るマキは、もう私のことを見やしなかった。
﹁お祝いっぽいこと、なにもできなくてごめんね﹂
追いついて言うと、﹁いや﹂と彼は顔を振る。
﹁稜子さんに電話するの?﹂
﹁ああ、そうだな﹂
同じクラスのブラバンの子からの情報と、以前にマキから聞いた
話とで総合すると、彼女は東京の音大を目指している。フルート奏
者になるのが夢なんだとか。⋮⋮一度会っただけの彼女にそこそこ
詳しくなってしまった。
さっきお昼を食べたときに遠距離卒業だね、と笑いかけたところ、
ああそうだな、と淡々と頷くばかりだった。
喜びも交えず。
うまく、行っていないのだろうか。
こんな考えが浮かぶのは、別れて欲しいというまさに自分の願望
を直視するようで嫌気が差す。
だから、なるべく考えないように務める。
代わりに、二人が幸せであって欲しいと思うよう努力する。
抑制する対象を正視できない、⋮⋮柏木慎一郎の講義の教訓がな
677
かなか生かせない。
ときに我慢をし、ときにおもむくままに。後者の割合が減ること
が社会的に成熟するということかもしれないし、自制的な大人にな
るということなのだろう。
﹁じゃあな﹂
足早で、言葉少なだった。
久々に会った彼は。
私と距離を置きたがっていると思える、そっけなさだった。
マキを見ていても、稜子さんの話を振ってみようとも、︱︱以前
ほど苦しくはならない。身を焦がす切なさが軽減されている。
これは、私に耐性ができたせいなのだろうか。
それとも⋮⋮
薄暗さに色彩を落としていく世界を切り裂き、ひかりが走る。三
両電車の窓際に、彼の姿を認めた。頬杖をついて参考書を読む、そ
の胸中は彼にしか計り知れない。
乗客は彼のみだった。
電車が去り、持て余すような感情と、ひかりの残像に草いきれの
薫り。︱︱盛夏の訪れを間近に控えた茫漠が、取り残された。
* * *
一九九八年という年は、次々と新しいOSが発売された、パソコ
ンを扱う者にとって激動の一年だった。Windows98がリリ
ースされて間もない本日、米国本国ではiMacが売り出されるん
だとか。
居間の電話が鳴り響き台所から真咲出てくれんかーと祖母が叫ぶ。
678
まさに、私の家族も激動の一日を過ごしている。⋮⋮昔でいえば
一家総出で家業に従事してもおかしくはない。川島くんだったら手
伝いしてるんだろう、きっといまも。私は勉強に集中できる環境を
与えられ、恵まれている。私をあの領域に立ち入らせないのは、自
宅外で自分の世界を構築せよという、祖父なりの意志表示なのかも
しれない。
さてのんびりとした思考をよしにし、昔ながらの黒電話の受話器
を取る。目覚まし時計の音にそういえば似ている。﹁都倉です﹂
一瞬、の間があく。
すうと息を呑む、かすかな呼吸が聞き取れた。
﹁⋮⋮真咲さん、だね﹂
私を真咲さんと呼ぶのは、この世でただ一人。
﹁か、ずき⋮⋮元気にしてる⋮⋮?﹂
胸が詰まる。うまく声が出せなかった。
﹁元気だよー僕居なさに寂しくって毎晩枕濡らしてない?﹂
﹁無い。無いよもう⋮⋮﹂
ちょっと甲高いけども確かに男の子だと分かる声。軽口を叩く彼
の個性。
︱︱電話するよ、真咲さんち。
あのときの彼の優しい響きが、私のなかに蘇る。
679
﹁まだ畑中、に居るんだよね﹂首を捻り、壁掛けカレンダーの日付
を確かめた。ちょうど二週間経ったところだった。﹁どんな感じな
の、ボランティアって。上手く行ってる?﹂
﹁いい経験させて貰っとるよ﹂
雑音の混ざらない、混じりけのない声が伝わる。随分と静かだ︱
︱電話ボックスからかけているのだろうか、或いはアパートの室内
からか。
うちの雑音は聞こえていることと思う。
受話器に手を添え、私は口許を押さえた。﹁いつ、戻ってくるの﹂
﹁二十日﹂
しあさってだ。﹁あれ、ちょっと伸びた?﹂
﹁もすこしこっちで修行しようと思ってさ﹂
ちょっとの疲労が感じられるけれども。
弾んだその声は、充実感に満ちている。
明るい、太陽のような笑みが目に浮かぶ。
﹁寂しい思いさせてごめんね。お祭りにはちゃんと間に合うから安
心して?﹂
﹁⋮⋮また、お神輿を担ぐの﹂
﹁あったりまえじゃん﹂あれなくしたら緑川に夏は来ないよっ、と
声を張り、﹁とーぜん真咲さんもだかんね﹂
﹁でも﹂
去年は靴が脱げた。神輿の回転についていけずきゃああと絶叫し
た。
和貴が吹き出した。私なにも言ってないのに。
﹁なによ﹂
﹁⋮⋮なんでもないよ﹂
680
﹁嘘。笑うの我慢してるでしょ。それともオランウータンのほう?﹂
﹁ちょ。ま、さきさんそれ以上は﹂
本格的に笑い始めた。彼は、
︱︱僕が、責任を取る。
⋮⋮とまで言ったのだ。発言がいちいちドストライクで困ってし
まった。あれから幾多もの月日が経過している。
感慨に耽るのは私だけではなかったらしく。
﹁なっつかしいよねえ。真咲さん、最初の頃さあ相当警戒してたっ
しょ﹂
﹁⋮⋮だっけ﹂
そうだ、うちを訪れた和貴をまったく信用していなかった。
﹁まさに、借りてきた猫だったよ﹂紗優も昔の和貴に対して同じ比
喩を用いていたと思う。﹁なーんかそれがかえって構いたくさせる
っつうか⋮⋮﹂
いやに、上機嫌だと思う、今夜の和貴は。
笑いが絶えない。
﹁記憶にないな⋮⋮自分がどんなかだったなんて﹂照れ隠しで私は
こうとぼけた。﹁いまはどんな風に見える?﹂
﹁馴染んで隙だらけだね﹂
おいおい。
﹁⋮⋮駄目じゃん﹂
﹁そんなことないよ﹂また笑う、彼のブレスが受話器越しに伝わる。
﹁知らないうちにいつの間にかすうっと入り込んでくる、それが真
咲さんだから﹂
﹁⋮⋮和貴もいつの間にかサイコロジストっぽくなったよね﹂
﹁言ってなかったっけ? 僕も真咲さんに影響されてちょっとずつ
681
心理学の本読んでんの﹂
﹁え。誰の?﹂
﹁ちっちゃい子どもに性欲がありますよーっつうフロイトせんせー
の説にはまじでびっくりした。あのおじさんすごいこと言うね﹂
﹁幼児のそれは大人のとは違うよ﹂私は否定した。﹁異性への関心
じゃなくて自分だけ満たされたいという自己完結的な、⋮⋮ある意
味でナルシストな欲求だね。考えてみれば、思春期になって唐突に
目覚めるっていうのもおかしな話じゃない? 食欲や睡眠欲は生ま
れた時からあるのにね。かたちが違うものであれ、潜在的に持って
いるって考えるほうが私にはしっくりくるよ﹂
﹁⋮⋮キミの意見こそなかなか刺激的だ。うん。詳しく聞かせてく
れるかな﹂
おかしなほど和貴は関心を示す。
どうってことのない私の話に。
不思議なほどに関心が湧く。
なんだか楽しげに相槌を打ちながらも、自分を語ってくれる和貴
に。
﹁⋮⋮うわ。ごめん﹂
楽しい時間の経過は恐ろしく早い。三十分程度と思っていたのが、
﹁⋮⋮二時間も邪魔しちゃって。しかも電話代、﹂
﹁いいんだそんなのは﹂早口で遮られる。﹁僕がずっと、真咲さん
の声を聞いていたかっただけなんだから﹂
さらっと言うけど。
首の筋から熱があがる。
682
不自然に沈黙が流れる。
きっと、和貴は頭を掻いている。
﹁あの。じゃあまた⋮⋮お祭りのときにね。おやすみなさい﹂こち
らから別れを切り出した。
﹁おやすみなさい、真咲さん。風邪引かないようにね﹂
こんな真夏の盛りなのに。﹁和貴こそね﹂
﹁うん。おやすみ﹂
﹁おやすみ、なさい⋮⋮﹂
電話を切る瞬間が惜しまれる。
繋がりが絶たれるようで。
そっと、置く気配が伝わった。
外ではなく、室内からかけているのが分かった。
受話器越しにまだ彼の所在が確かめられるようで。
﹁あんったまーだ電話しとったんかいや﹂
居間に戻ってきた祖母に呆れられるまでを。
私は長電話で熱くなった受話器よりも心臓の辺りから熱が高まる
のを感じながら、その余韻を噛み締めていた。
683
︵2︶
﹁まっさきぃー﹂
﹁うほわぁっ﹂
やっぱり飛びついてきた。
紗優のおうちのチャイムを鳴らせばこっちにまっしぐら。ドッグ
フードめがけるまるで忠犬の彼を私は抱きとめる。﹁⋮⋮怜生くん、
背が伸びたね﹂
頭の位置に変化がある。鎖骨のしたらへんまで来てる。
﹁分かるう? 前へならえの先頭じゃなくなったんだー。よしろう
とみひろちゃんの身長抜いたんだ、すごいでしょ?﹂
顔を起こす、明るさの率直さ。
私もこんな時分があったのかと⋮⋮うたぐってしまう。姉という
よりは親の心境だ。
私は笑って小学生の彼の髪を撫でる。犬みたいに柔らかな髪の毛
を。
﹁怜生くんも今年はお神輿担げるんじゃない?﹂
﹁まだ早いてねーちゃんが、⋮⋮言うんだ﹂
姉に似た赤い唇を尖らせ、
その両の唇をぶるぶるぶるーっと振動させる。
私はそれもできない。
それにしても何故毎度飛びつくのだろう。
私はラグビーの練習台か。
﹁あらあらあ真咲ちゃーん。いつも怜生がごめんなさいねー﹂
玄関からつっかけサンダルでおばさんがやってくる。
﹁いえ﹂首を振り、﹁私、一人っ子ですから、弟ができたみたいで
684
嬉しいんです﹂
﹁でもさ。弟じゃないんだから﹂
思いも寄らない、合いの手が入る。
﹁⋮⋮おばさん、怜生。こんにちは﹂
怜生くんのことを抱えながら恐る恐る、確かめに入る。
この心拍数。
﹁久しぶりだね、真咲さん﹂
そこには、
夕暮れを覚え始めた日差しに照らされる、なんてことのない街並
みを後ろにした、
花のこぼれんばかりの、笑みがあった。
確かめてみると抑えられるどころか加速する一方だった。
あらあカズくん久しぶりやねえとおばさんの声が遠く聞こえる。
なにも言わずに微笑する和貴も、どこか、遠くからやってきた少年
のようだった。
﹁ほんっにあの子は仕度に何時間かかっとるんかねえ。怜生、呼ん
できなさい﹂
﹁えー?﹂
首根っこを引っ張り、家のなかに戻っていく。
感覚が消えると、それはそれで落ち着かない。
お腹の辺りに触れながら、改めて、和貴のことを、盗み見た。
685
金に近いオレンジに髪を輝かせ。
肌が、全体にうっすら日焼けをしている⋮⋮鼻の頭が、頬の高い
部分が赤かった。運動会翌日の男の子みたいで、微笑ましい。
﹁焼けたね、和貴⋮⋮﹂
私は顔をほころばせるのを抑えられない。
﹁ほっとんど室内にいたんだけどさー西日が強いんだよ。あすこの
老人ホームは。窓際におるだけで日焼けすんの。そんで炎天下のな
かをバーベキューしてきたばっかだし﹂
﹁それって和貴の送別会?﹂
﹁うん﹂
と和貴は鼻を人差し指でこする。﹃ばっか﹄と言ったから、
﹁それから昨日、こっちに帰ってきたんだね﹂
﹁ん﹂今度は鼻の頭を親指でひっかく。彼はおそらく、老人ホーム
でも人気者で、周りから引き留められたのかもしれなかった。
帰ってくるのは一昨日の、二十日と聞いていた。
︱︱僕居なさに寂しくって枕濡らしてない?
不在を寂しがるもなにも、私は彼と頻繁に会う間柄には無い。紗
優とは違って。﹃久しぶり﹄という表現は間違っていなくもない。
だけれど、⋮⋮
﹁僕が、弟みたいなもんだったら﹂
コンバースのスニーカーが視界に入る。使い込まれた、和貴には
珍しくも、黒の。
足を揃えた彼は、身をやや屈める。
目線の高さを私に合わせ、いたずらに笑い、
686
﹁真咲さんに抱きついても構わない?﹂
﹁な、﹂
⋮⋮にを言っているのだろう。だって、
﹁か。和貴のことを弟みたいだなんて、考えたことも無い。むしろ、
﹂
﹁⋮⋮むしろ?﹂
透き通るガラス玉の瞳に囚われる。
なんだか、自分が汚れた人間のように思えてくる。
﹁なか、入ろっか﹂
困り果てた私の反応をふっと鼻で笑い、玄関口へと誘った。
このごろ、どんどん和貴に近づいている気がする。
からかっているだけには違いないのだけれど。
といつぞやの紗優をエスコートするタスクを思い出し、背中に添
えられる手を感じながらも、私は期待めいたものを排除するよう努
力した。
* * *
﹁え。あ来れないんだマキ﹂
﹁海野の祭り派なんやないがー? 安田がなーせぇーっかくウチラ
が誘ったんにさーあっちの祭り行くんやってえー﹂会話をしながら
もポケベルのチェックを欠かさず、﹁真咲せんぱい海野の祭り知っ
とるぅ? ふんどしで海ざぶざぶ飛び込むエグい男祭りながよ﹂
夏によくニュースで見るようなのかな。﹁タスクも?﹂
﹁知らん﹂
687
﹁⋮⋮そっか﹂彼を誘ったのかは知らない。
﹁あ﹂そや、とポケットから今度はインスタントカメラを取り出し、
﹁写真撮って撮ってえ! ヒデ喜ぶしぃー﹂
いまひとつ彼女の脈絡が掴めない。会話におけるリズムが。
手渡され、ファインダー越しにパシャリ。
レトロな宮川町商工会議所を背景に選んだ。彼氏は名古屋にお住
まいだと聞いている⋮⋮土地柄が伝わるものがいいかも。
﹁お神輿と撮ったほうがいいんじゃない?﹂石井さんを誘導にかか
ると、
﹁そんなん持っとったら危ない。ママに預からせるから貸して?﹂
仁王立ちで腰に手を添え。
去年と同じ言い方で紗優が現われた。
い。やーん! 紗優せんぱいちょーイケてるーヤバかわぁーねー
ねー撮って撮って紗優せんぱいとぉー。
て、
私に対する反応とまるで違うじゃないか。
とは言わずおとなしくカメラマンに徹する。紗優って足がしなや
かで超短いショートパンツも似合うんだよね。⋮⋮石井さんは去年
は不参加だったように思う。明るい髪の色でお化粧十二分なギャル
を見かければ記憶しているはずだ。
﹁カメラ。おばさんに預けてくればいいんだよね。私行ってくる﹂
﹁あ。そやな。頼むわ﹂
688
何故だか紗優に言われ、神輿の傍で仲良くお喋りに興じる二人を
残し、おばさんの居るだろう会議所へと向かう。彼女たちはファッ
ション関係のことに共通の話題があり、ときどきあんな風に夢中に
なる。
あちょっと焼きもち焼いてるな私。
結局、石井さんと一枚も撮らなかったや。
まいっか。
和貴の真似をして頭を掻きつつ去年もお見かけしたマッチョなお
兄さんの間を頭を下げて抜ける。あのひとたち会話するのになんで
あんな距離あけてるんだろう、煙草スパスパと。
﹁ま、さーきさんっ﹂
いきなし。
腕を掴まれる、後ろからだった。
驚きすぎて振り向いた姿勢のまま看板に接触した。
幸い、カメラは落とさずに済んだ。
ものの、
﹁ごめん。そ、んなびっくりせんだっても﹂
瞳孔を開かせた私の支えに入る。
整髪料のフローラルな香り、制汗剤スプレーの爽やかな匂い、
と、いうより看板に背を預け、
接近されてる状況で、
近すぎる。
﹁いっ﹂声が裏返る。﹁いつもと違うからびっくりしたのよ。正面
からわっ! て驚かすのが和貴のやり方でしょうっ﹂
689
鼻息荒くする私に対し、
瞳孔を開かせた、間近に見る和貴は、
不敵に目を細め。
ふてぶてしい笑みをうっすら口許に乗せ、
親指でつうと下唇を拭う仕草をする。
﹁これからいろんなパターンを混ぜてあげる。キミの期待に添えら
れるように﹂
添えなくていいよ。
と首を振るが、その隙に素早く手の内からカメラを抜き取られ、
﹁おばさんに預けてくるよ﹂と走り去られてしまう。
その俊足を見送りながら思う。
いったいぜんたいこの二週間でどんな色香を身につけたんだか。
690
︵3︶
昨年と同じ真夏の興奮と歓喜の渦に身を投じる。違うのは、彼が、
あの辺りに︱︱立っていた。
靴を無表情で投げつけて呆れ顔をしていた。
恋しく思う、砂を噛む想いには無視を決め込む。
﹁わ、たし。トイレ行ってくるね﹂
﹁場所どこか分かるぅ?﹂
﹁あっちの駐車場のほうだったよね﹂
﹁そ。ひといっぱいおるさけ、あーそれから屋台もなー危ないから
とにかくぶつからんよう気ぃつけてぇな﹂
母よりも保護者めいた発言をする紗優にふふ、と笑って答えた。
﹁ありがと﹂
砂地に落ちる人々の影を踏み、いまだ到着し続ける神輿を避けて
歩道の隅を選び、道途中に出くわす同級生と喋ったりしているうち
に、思いのほか時間を食ってしまった。
こういうところのトイレって綺麗だった試しがない、残念なこと
に。
入り口の電灯に羽虫が飛び交う、独特のアンモニア臭が漂う。床
は必要以上に水がまかれ濡れているし、個室の頭上の蛍光灯にもぶ
んぶん蝿が。
戦々恐々、としつつどうにか済ませて洗面台に立つ。鏡が公衆浴
場で見かけるずいぶん横長のもの。そこに映る自分が、
顔をしかめた。
691
痛み止めを飲んで来なかったのを後悔する。
あんまり、⋮⋮薬に頼るのは好きじゃなかった。普段だったら家
でおとなしくしてるだろうに私はどうしても今日という日を楽しみ
たかった。
濡れた手を拭くべく取り出したハンカチがひどく濡れていた。汗
でだ。頭っからシャワー浴びたかの汗だく。明るい場所だからこそ
露見する。⋮⋮こんなんであんまり誰に会いたくないな。
と思った矢先、
かん、と個室が開いた。
内心で身構える。
私よりあとに入ってさくっと出てきた、
通り過ぎる影が、やけに白かった。亡霊のような白さだった。
なにげなく目で誰なのか確かめにかかったとき、
心の臓が止まるかと思った。
たった一度きり、だ。
しかし私は彼女を覚えている、
一度だけ話した彼女を覚えきる理由を有する。
ぶしつけな私の凝視に気づかず、にこにこと、まるで生まれたて
の赤ちゃんの笑みのままに手を洗い、タオルハンカチで拭き、びち
ゃびちゃな床に顔をしかめたりなどせず、小走りで去る。
急いで会いたい。
待たせたくない、なにかが待つような。
ハンカチをポケットに押し込み、急ぎあとを追う。
692
追うほどの距離ではなかった。
そこを出てすぐの、電柱に寄りかかる︱︱
﹁お待たせえ﹂
そう伝え、腕を振り、懸命に駆ける。
親に向かう幼子に似た、
ううん、
恋慕の情に駆られての言動だった。
白のコットンワンピース。
清楚な彼女に似合いだったそれが、
彼のもとに向かう彼女という属性を象徴し、
言葉遣いよりも純粋な彼へと導いているように思えた。
法被の裾を掴む手に力がこもった⋮⋮Tシャツにジーパンの自分
がみずぼらしかった。汗まみれ砂に汚れた自分が。
こんな部外者の傍観など、雑踏以下なのだろう。
彼は、
彼女にだけ許す笑みをうっすらと頬に乗せ、
追いつくのを見届け、
ひとつふたつ、声をかけ、
人ごみへ紛れていく。
693
彼と彼女の世界へと。
絵になる、白と黒のシルエットだった。
その二つが一つに重なる合流を見届け、
︱︱私は、彼らとは違う方向へ駆け出した。
砂地に足を取られ、水中でももがく、もどかしい走り方をしてい
る。肺が、絞られる。息継ぎの仕方を忘れてしまったのだろうか。
足先がなにかに引っ掛かり、すっ転んだ。
からだが痛む。
違う、
痛いのはからだなんかじゃなかった。
払いながら身を起こす。⋮⋮せっかく借りた法被が砂で汚れてし
まった。膝が、若干に水気を含む泥に濡れた。見回しても誰もいな
い︱︱駐車場一本を隔てて正対するこちら側は、あちらの喧騒とは
裏腹に、波の音を聞き取れるだけの静けさに満ち、誰の姿もない︱
︱いまの私に似つかわしい暗がりだった。
膝の横で支える手が、砂を、拳のかたちに握りしめていた。
﹁なんっでいまさら⋮⋮﹂
私はそれを叩きつけた。
﹁なんでいまさらショックなんか受けるのよ!﹂
言葉もろとも。
694
こんな一人芝居を打つなんて。馬鹿じゃないのか。情けない。虚
しい。︱︱ひと通りの言葉を並びあげて攻め立ててこういう感情か
ら一刻も早く開放されたい。
にくみ。
そねみ。
喜ばしくない感情に満ち満ちた自分という性質を。
かんしゃくを起こし、すこしは落ち着きを戻せた。
松明が、⋮⋮漆黒の海にて煌々と所在を示す。いつも、紗優は私
が離れる度に場所分かる? と声をかける。ここじゃ時計も見えな
いがかなり時間が過ぎたことだろう。いまごろ心配をかけている⋮⋮
戻らなきゃ。
そう、判断が働いたときだった。
﹁お嬢ちゃん。ひとり?﹂
おそろしく近く耳元で声を聞く。
喉が、引きつる恐怖を覚えた。
恐怖を持つべきではなく、⋮⋮相手は人間、だった。
なにを連想しているのか。
しゃがんで手をついた奇妙な姿勢で首を捻っている間に、そのひ
とは、私の視線を置き去りにし、正面に回りこんでくる。
しゃがれた声。まったく顔が見えない。中年男性。法被は着てい
ない、そしてそういうひとにあんまり知り合いはいない。
私が誰なのかを確かめるためか、顔を接近させ、
﹁はぐれでもしたんかいな。いくつなが?﹂
695
酒臭い。
咄嗟に顔をそむける、
がそれはならなかった。
胸を掴まれていた。
信じられない事態にからだが、硬直する。
﹁や、だ、なにす⋮⋮﹂
﹁ちょっとくらい触らしてえな。減るもんやないんやし﹂
今度は尻もちをついた。
その手が離れず、追ってくる。
存在を確かめるように揉みしだく。
喉の奥から吐き気がこみあげる。
なにを、ぼうっと見ている。
動け。
叫べ。
打開しろと本能が水面下で叫び立てているのに、現実での自分は、
シャットダウン後のパソコンのように脳が無い。
はだけた法被を開かれ、Tシャツをまくられ、滑りこまれようと
しているのに。
﹁かたかた震えとって。かわいいなあ﹂
歯の根が合わない、
腹の皮膚を、触れようとしている。
見えなくても、下卑た笑いを浮かべているに違いない、捕食にか
696
かる人間を目の当たりにし、
ようやく、私の防衛本能が行動を伴った。
右の手に掴んだ砂を、私の胸元を覗くその顔に思い切り投げつけ
た。
﹁うわ、﹂ぺ、と唾を吐く。﹁なにすんねや﹂
顔を目をこする。直撃したはず。
その隙に、私は猛然と明かりのほうへと駆け出した。
待ってえな、怖いことせんから、など叫ばれても、
こんなときに待つ人間がこの世界のいったいどこに存在する。
なにもないところで何度も転んだ。バケツでもひっくり返したか
の目まぐるしさに、鼓動が破裂しそう。俊足でも持っていればよか
った。ホラー映画で逃げる人物なんか見るとなんであんなもたもた
してんだと思うけど自分があの愚鈍な人間そのものだった。息切ら
せ駆けているのにまるで世界が動かない。後ろなど確かめられるは
ずもない。それでも、どうにか、意志を、足を、働かせ。
やっと、ひとけのある、駐車場の辺りまで到達した。
こころもとない程度だが電灯の灯っている。
︱︱明るいということは。
顔を、見られかねない。
なによりも、
697
見たくもない。
再び、手綱を引いて走りだす。
浅い息遣いを耳の後ろで聞く。足がコンクリートを蹴るのは分か
る、どんな焦燥に駆られているのか、
走っても。
逃げても、
さっきのが追いかけてくる。
寄せては返す人の波を避け走り、
なにを目指せば解決するのだろう。
全速力も続かず、呼吸が限界を覚え始めた。
﹁ま、さきさん?﹂
よたついた、足が止まった。
﹁真咲さんっ!﹂
それを捉えたときに、
焦燥に駆られる走馬灯のような濁流が、収束した。
自分がどこに立っているのかも把握していなかった。
神社に続く、朝市通りだった。
698
上下とも白を纏う、
法被を脱いだ和貴が、
驚いたように、私のことを見ていた。
和貴を見たその瞬間に、
やっと、すべてのものにいろがついて見えた。幼子をおんぶする、
その子の手にするくるくると回る風車のそのいろが。通りを軒並み
飾り付ける屋台の華やかさが。彼の背にしている、おかめやキャラ
クターのお面の数々が。行き交う紺地の浴衣の、花開く鮮やかさが。
視界を彩る色彩と共に、私のなかからなにかが溢れだした。
﹁⋮⋮どしたの?﹂
怪訝な表情をそのままに、こちらに手を広げ、やってくる。
﹁なっかなか戻ってこないからその辺探してたんだよ。真咲さんの
ことだから間違えて朝市来ちゃった、とか、さ、っ﹂
﹁和貴っ﹂
いまごろ震えが、くる。
からだじゅうが信じられないほど震える。
遭難でもしたみたいに歯の根がかちかちと合わない。
震えとってかわいいなあ、あの言葉が再生される。
強く奥歯を噛む。
ぎゅっと目をつぶっても、
私はなにをされてなにを言われてたのかを記憶している。
指の毛の生えたあぶらっこい指先酒臭い息かわいいねと下品な口
調でいたぶりにかかる触られたそれらのすべてが、
津波となって襲い掛かってくる、現実に、たまらず拳を固める。
その手が泥や砂にまみれているのに気づき、
あれが事実なのだと、思い知る。
699
﹁ま、さきさん⋮⋮﹂
つむじの辺りに息を感じた。
私は見上げた。
男の人の手が。
私に、︱︱
﹁やっ﹂
大袈裟に反応した。
離れようと働いた、
﹁大丈夫だから。大丈夫⋮⋮﹂
髪の毛についているのだろう、砂を、丁寧に、払ってくれる。
私が目の前にしているのは、
さっきとは違う。
私のよく知る、和貴の手だった。
ぽんぽん、と背中を叩く、その触れ方も、
微笑みかけてくれる、その人の在り方も。彼の所在も。
和貴の存在を認め、やっと息が吸えるようになった。肺のなかか
ら呼吸ができる感覚が戻った。
700
﹁こわ、こわかったよ、私⋮⋮﹂
﹁大丈夫、もう平気だよ。ほら、真咲さんのよーく知ってる子リス
な和貴だよ。⋮⋮もう、離れたりしないから。安心して﹂
額の辺りに鎖骨を感じる。
首筋の匂いも、汗の匂いも混ざった香水の感じも、知っている。
頭の後ろを包む、やや皮膚の厚い手のひらも。
それなのに、またさっきのが蘇る。耳元で囁かれた、男の息遣い
が。
﹁大丈夫。大丈夫だから。僕が、ついてる﹂
和貴は何度も大丈夫だよと繰り返した。子どもをあやすように背
を叩き、髪をすき、安心させようという彼の意志が伝わった。
すこしずつ、震えが収まり、落ち着きを取り戻し始めるのを感じ
た。
呪文のように唱え続けられる彼の言葉は、私にとってそのとき、
薬よりも効力を持つ魔法だった。
701
︵4︶
﹁ごめん。見苦しいところを見せちゃって﹂
白い、Tシャツにチノパンが砂地で転んだ人のごとく汚れていた。
私のせいだ。
なーに言ってんの、とおどけて首をかしげるけども。
お祭りに戻れる心境でも状況でもなく、それを読んで⋮⋮家まで
見送ってくれた。
道途中は。
老人ホームでの苦労話とか。和貴のおうちのお向かいに住まう一
人暮らしのいじわるばーさんが、﹁おばーちゃんて呼ばれると聞こ
えない振りすんだよ、おばちゃんならギリ。お嬢さんなんて呼んだ
げると年甲斐もなくはーいって返事すんだ。にこにこしてさ﹂
違う話を振ってくれた。
⋮⋮気を遣われているのが、よく分かった。
ぎぃ、と鳴る玄関戸に手をかけ、じゃあまたね、と振り返ろうと
する。
異変を、感じた。
﹁ご、めん。ここでっ﹂
靴を脱ぐいとまも無かった。
こみあげる、間に合いそうにない。
玄関、を転ばずに駆け上がり最短のお風呂場へ。
702
洗面台に顔を突っ込み、
口を開くより先に出る、濁流に飲まれる感じに襲われる。
実際は飲むのではなく吐き出しているのだった。
形容しがたいし難い声が出た。蛇口を捻る。水を出す。⋮⋮
なに食べたっけ私。
午後の三時に焼きそば。以降はつまむ程度にしか食べていない。
ひく、と胃が引きつる。予兆。また喉の管から気持ち悪さがせりあ
がる。真夏なのに、素肌の腕にびっしりと鳥肌が立つ。
苦しい。
吐くのが苦手でいつも我慢したくなる。この抵抗感が、
﹁入るよ。真咲さん﹂
目の端に彼の残像が映り込む。
﹁待﹂
って、と言いかけた顎を捕まれていた。容赦なく指が突っ込まれ、
喉の奥をこじ開かれる。
洗面台に突っ込ませるように頭の後ろを押さえられ、
促されるがままに吐き出した。
鼻からもこぼれ涙が出てくる。
嘔吐しなければこの事態は解消されない、
でもなにも吐き出せない、吐き出せるものがなにもないのに、胃
が痙攣して、嘔吐感が、止まらない。
たまらず顔を歪めた。
﹁大丈夫、大丈夫だから﹂
703
もうすぐ終わるよ。終わったらずっと気分がよくなる。すっきり
するから、ね。
﹁もうちょっとだけ、頑張って﹂
肘先までを洗面台に入れて髪も冷たい水まみれになりながら声を
かけられ、
背中をとんとんと叩き、さする、
私は彼のことが。
かけられる励ましだけが救いだった。
﹁気持ち悪⋮⋮﹂
ようやく、終わった頃だと思い、そばの壁に倒れこんだ。
流水音が止まらないのは、和貴がどうにかしてくれた。
胃のなかがすっからかん、体力を絞り出したようで、猛烈にけだ
るい。鶏がらになった気分だ。
喉が、⋮⋮乾いた。
﹁待ってて。僕、飲み物持ってるから﹂
目を閉じるとまぶたの裏が白かった。風呂場一帯のいろを反映す
る、その白い世界に身を投じると、今度は生理痛が訪れた。
⋮⋮最悪だ。
﹁あーほら。飲む前にコップで口ゆすご?﹂
ぐったりとした私は、情けなくも膝でずりずりと歩き、洗面台に
誘導される有り様だった。
704
﹁うが﹂
なんか、引っかかった。
ガラガラとうがいをする。﹁元気だねえ真咲さん﹂と和貴が笑っ
た。
再び壁に戻るまでを支えられるのも、⋮⋮介護されてるひとみた
いだった。手渡されるペットボトルをがぶがぶと口に含む。
染み渡る水分が、すこしずつ、混乱と混濁を洗い流していく。
﹁⋮⋮落ち着いた?﹂
﹁うん﹂勢い良く飲み過ぎて口端から垂れてしまった。腰を浮かせ、
後ろポケットからハンカチを取り出して拭う。﹁ごめんね。更に見
苦しいところを見せちゃって⋮⋮﹂
和貴が首を振るのは気配で伝わった。
どころか、頭に手を添えられている。
﹁⋮⋮うん、お風呂入ったほうがいいのは確かだね。念のため訊い
ておくけどキミ、ひとりで入れる?﹂
くん、と大袈裟に鼻息を立てる。
﹁は、いれるに⋮⋮﹂
彼の声音は、からかう意図が明白だった。
﹁決まってるでしょうがっ﹂
投げつけた結果、こんな近くからにも関わらず、腹立たしいこと
に和貴はキッチリと攻撃を避けていた。ハンカチをしかも片手でキ
705
ャッチし。
﹁その元気があるならへーきそうだねえ﹂余裕にもハンカチをヒラ
ヒラさせ、﹁⋮⋮ここ。表のお店と繋がってんだよね。僕、真咲さ
んのお母さんに挨拶してくるよ﹂
﹁⋮⋮なんで。帰っていいのに﹂
絶やさなかった笑顔を突如消し、
真顔で、従者のように片膝をついた。
手のなかにハンカチを握らせる。
握らせた手の甲を二三度、とんとん、
﹁真咲さんが眠るまでついてる﹂
﹁ほ、えっ!?﹂
奇声を出させたことに策士は満足気に、いまだ匂いで満ちる風呂
場を出ていく。
⋮⋮どうしよう。
そもそも。
なにをしているの自分。明日は模試だというのにズタボロだ。だ
いたい、自分から抱きついておいて﹁いやっ﹂で叫ぶってなんなの。
嫌われたかも。
こんなくっさい嘔吐物まみれで悲惨な姿を見せつけて自己嫌悪こ
そを明日の普通ゴミに出したい。失態もろもろを焼却していただき
たい。
706
後悔さておき。
現状をどうにかするのが先決だった。汗やら嘔吐物やらにまみれ
た服を脱ぐ。お湯の温度は高めにし、頭っからシャワーを浴びる。
自分の肌に触れる。
不快な感触を思い出し、赤くなるまで擦っても落ち着かなかった。
風呂場に着替えは置いてなく⋮⋮さっきの下着を着用してバスタ
オルを巻き、誰もいないことを確かめ泥棒のように風呂場を出る。
戸は、閉めなかった。換気が必要だった。
と頭がすこしばかり働くいっぽうで大半が気を抜けば倒れ込みそ
う。
居間から明るい和貴と母の笑い声が聞こえる⋮⋮ますます足音は
立てられない。急いで部屋に入るつもりがこの階段。こんな急で、
しんどかったっけ。蛙みたく這いつくばって段をあがる。
二階にトイレがあって、よかった。往復なんてとても無理だった。
喉が、乾いた。
とにかく。部屋に戻らなければなにも始まらない。
トイレから戻るとベッドに、ダイブした。
ああ気持ちいい。
もう、起き上がりたくない⋮⋮。
けど髪、乾かさないと。
パジャマにちゃんと着替えないと。
脱力。しんどい。寝ちゃいたい。いろんな言葉を並び立ててその
まま眠りそうな自分を叱咤し、白眼剥きながらもタンスからパジャ
マを取り出す。目眩を起こす寸前だった。
707
母が二階にあがってきてたのにも気づかなかったくらいだ。
母は二回ドアをノックする。すこし沈黙。
声かけるのに珍しいなあ、
﹁お母さん。仕事あるんだから見にこなくっても平気なのに﹂
﹁僕はキミのお母さんじゃないんだけどな﹂
扉を開き顔を覗かせた彼の表情が驚きに変わる。
う、えからキャミソール着ようとしかかっていて下着のまま、女
の子座りしてる状態だった。
﹁ご、めんっ!﹂力強く扉が閉まった。﹁み、見てない僕はなんっ
にも見ていないっ!﹂
﹁ちょ、ちょっとだけ待ってて!﹂
へ、部屋に来るなんてきき、聞いてないよ。
焦りと動揺とで手が震える。ボタンを閉じるだけの行動が亀のよ
うなとろさ。もどかしい指先に苛立ちを感じながらも全身を、パジ
ャマに着替えた。
﹁⋮⋮いいよ、和貴﹂
﹁お邪魔します﹂
ペットボトルとコップを乗せたお盆を手にしていた。勉強机に直
行し、﹁こっち置いちゃうね﹂
ちゃぶだいではなくベッドの左手にある勉強机をチョイスするの
はそういえば紗優も同じだった。
そういえば私は双方ともベッドに横たわったままでお迎えしてい
708
る。
﹁あそだ。飲むでしょ﹂
私が答える前に彼は、ペットボトルの蓋を開く。⋮⋮あれをさら
りと開けられる男の子を羨ましく思う。特に、輸入もののミネラル
ウォーターの蓋は信じられない固さだ。開けられんーってか弱い女
の子アピールする子がときたまいるけど、私の場合は本当に苦手で、
だからミネラルウォーターなんて滅多に買わない。
最後に買ったのは、下手をすれば合宿の夜まで遡る。
﹁はい﹂
手渡され、一気に半分を飲んでしまった。喉が乾いていたのを思
い出した。トイレ、近くなっちゃうかも。
和貴は丸椅子でくるくる回ったりはせず、椅子を机のほうに戻し、
勉強机とベッドの間の壁に、よ、と言いながら寄りかかり、膝を立
てて座った。
こちらに目線を上げ、
﹁おやすみなさい?﹂
和貴こそ﹁帰っていいよ﹂
﹁まだ八時回ったとこだよ⋮⋮早すぎる﹂
膝に肘を乗せ、頬杖をつく。
窓からの淡い光が、息を吐く彼を照らしだしている。周りの子よ
りも高めな鼻、丸顔なのにちょっと削げた頬。と笑みを乗せた口許。
﹁⋮⋮去年も十時すぎまで遊んだんだっけ﹂
﹁だね。十二時で早いほう﹂すこし微笑む、頬の筋肉が震える。﹁
二時三時まで出歩くのがふつーだよ。大人はみんなへべれけだし、
709
だいたいこの時期しか出歩いても面白くはないからね﹂
親は、とは言わず、大人は、と言うところが和貴らしいなと思っ
た。
﹁これ、そっちに置いてもらっていい?﹂
﹁ん﹂
私は布団のなかに潜り込んだ。
和貴は、勉強机にペットボトルを置き、入り口に進み、部屋の照
明を、落とした。
戻ってくる途中でなにか、引っかかったのか。机に手を添えてか
かとを浮かせる。けっこー明るいんだなこの部屋、と呟いたのを聞
いた。
私はその一挙一動を注視する。
男の子のからだって、⋮⋮なんて美しいのだろう。
障子窓ごしのほのかなひかりがさっきとは違う手法で彼の存在を
浮かび上がらせ。薄暗いなかに光る髪の色。愛らしい女の子のビジ
ュアルといっても、和貴はまるで私とは違うからだをしている。樫
の木のようにまっすぐで、されどしなやかなムチのよう。Tシャツ
を着ていても分かる、背筋の動き。思いのほか肘からうえにかけて
が太い、二の腕の筋肉の動きも。
食い入るように後ろ姿を眺めていると、いきなり、彼は、振り返
った。
私は掛け布団をあげて隠れる。
絨毯にじわりじわり彼の足音が染みこむ。二歩、三歩。
﹁真咲さん。いま、⋮⋮僕のことを見てたでしょう﹂
﹁おやすみなさい﹂
﹁強烈な視線を感じたよ。逃げるんだ?﹂
声が大きくなる。うえで腰を屈む気配。
﹁逃げてません﹂
掛け布団を下ろすと、至近距離に彼の顔があった。
710
﹁私に、⋮⋮訊かないんだ。なにがあったか﹂
驚いたように彼の瞳は収縮する。
私は目を逸らさない。
変な男の人がいたことは、話さなかった。
ふ、と彼は頬を緩める。﹁女の子の口を割らせるっては、僕の主
義に反する。無粋ってもんだよ﹂
﹁そういえば和貴は、フェミニストだったね﹂
﹁そいつは、どうかな⋮⋮﹂
茶色いガラス玉が近づいてくる。
ベッドについた手が、スプレッドを軋ませる。
﹁怖くないの? 僕のことが﹂
﹁ぜんぜん。和貴は鳴かせるタイプでしょう、ホトトギスは﹂
﹁鳴くまで待つ派だね﹂
﹁⋮⋮意外﹂
﹁昔は鳴かせるほうだったけど転身したんだ﹂
笑顔の一切も浮かべずに語る彼に、私は笑顔で提案をした。﹁じ
ゃ。鳴いてあげる。ホー、ホケキョ﹂
﹁ま、さきさん。それウグイス﹂
﹁あ﹂
額を突き合わせて笑った。
お腹の底からはじけだす笑いだった。
すっからかんだった胃のなかから柔らかい、くすぐったい感情が
711
こみ上げてくる。
ひとしきり笑い合うと、和貴は隣に戻り、布団から出ていた私の
手をしっかりと包んでくれた。
なんにも問いたださない代わりに、見守ってくれる優しさに、私
は救われていた。
ひとの手のあたたかさが、ここちいい。
けど、なんとなくだけど、酸っぱい匂いがするような⋮⋮
﹁和貴こそ、うちのお風呂入ったほうがいいんじゃ﹂
﹁いいんだ、そんなのは。⋮⋮これね、キミのおじいちゃんから借
りた。気づかなかったの﹂
あ。ポロシャツだ、しかも白の。﹁サイズ、ちょうどみたいだね﹂
よく誤解されんだけどねーと彼は自分の肩口を掴んだ。だぶだぶ
の服を着た場合にはそこが合わない。﹁うえの服はけっこうサイズ
でかいんだよ僕は。肩幅あるから。MよりかL派だね﹂
﹁へえ。私は絶対Sだな﹂⋮⋮とそれよりも。﹁帰っていいよほん
とに﹂
雲の行き先を窺っていたような彼は、こちらに照準を合わせ、
﹁無茶言うな﹂
心臓に悪い。悪すぎる。
笑みの要素もなしでそんなこと言うなんて。
﹁へ。変な顔してても。よだれ垂らしていびきかいてたりしても、
笑わないでよ﹂
712
もっと違うことを言えばいいと分かっていた。なのに、
それ以上の無茶を言いたくなかった。
﹁⋮⋮真咲さんは﹂低い声で、彼は早口で言う。﹁夜寝るときすご
く静かだよ。寝てんのかって分かんないくらいだ﹂
一つ、引っかかる。
﹁夜、和貴のまえで眠ったことなんてあったっけ、私﹂
﹁なんとなく﹂
視線を落とす。左右に揺らす。
動揺が手のひら越しに伝わるようだった。何故だろう。
目を瞑るも、不可解な感じが残った。和貴と一緒にいたときに私
が眠ったのは、合宿に向かう車のなか。それと保健室のベッド。
いずれも、夜という条件は当てはまらない。
こちらの釈然としない様子が伝わったのか、違う話題を彼は切り
出す。
﹁タスクは鳴かせてみせる⋮⋮まさに秀吉だよね。本人あんま認め
たがらないけど、さりげに仕切り屋なんだよ﹂
自覚が芽生えたのを知っている。
けどそれには触れず。
﹁安田くんも同じだと思うな﹂
私は明るい声を出した。和貴を安心させるために。
﹁川島は鳴かせてみたいんに待っちゃうタイプ。ほんでホトトギス
は飛び立ってしまう﹂
笑いに誘われてしまった。
﹁それとは逆で、鳴くまで待つ耐性ゼロで自分から鳴いちゃうのは
紗優。⋮⋮石井さんも同類の匂いがすんなあ﹂
﹁マキは、殺してしまえだよね。いかにも信長派っていうか⋮⋮﹂
713
和貴は小さく息を吐く。
意外なため息に、私は言葉を止めさせられた。
低い声で、彼は静かに語りだす。
﹁そう見えるかもだけど、実は、待つタイプなんだよ﹂
﹁⋮⋮そ?﹂
私は半分夢のなかに落ちかけていた。あったかい言葉と響きと皮
膚のぬくもりに、自然と誘われていた。
﹁真咲さんの人間分析もまだまだだね﹂
私は、頷いたと思う。
微睡んでうんとか言ったのが最後だった。
﹁僕とマキは似ているんだ。ある一点において徹底的に﹂
以降の独白は月のみが知っている。
私は和貴の手を握りしめて眠った。彼が開放されたのは、翌朝の
五時だったという。覚醒してはいなかったが、離れていくのがなん
となく寂しかったのは覚えている。
年頃の男女がなにを、⋮⋮たわけが!
祖父が激高したのだが、おじいさんそれよりもあんた、記憶のう
なるまで一郎さんと呑んでおったがいね、孫責めるまえにあんたが
きちんとしなさい、と祖母にいなされ、
挙げかけた拳を仕舞いこんだ。
714
これら一連は翌朝には知らされず、出来の悪い模試を終え帰宅す
ると母から聞かされた。
715
︵1︶
受験というものを暫く経験していない。
高校は私立のエスカレーター式だった。
着崩した夏物に身を通すことなど無く、ハードな追い込みもかけ
なかった中学最後の夏と比較してみると、今年の夏は行動範囲が狭
かった。出かけたのは学校と図書館くらいのものか。
紗優のおうちと、⋮⋮桜井家のお墓にも行った。
秋冬物のスカートを引っ張りだし無理して着ているが率直に、暑
い。くたくたの夏物とどっちがましだったろう。女子生徒には夏物
でないことなどすぐ割れてしまう、色合いの濃さで。⋮⋮膝にこす
れるプリーツの裾が分厚かった。
いつの間に私は緑川高校に編入することになっていたが、他の選
択肢はなかったのだろうか。向こうと同じく私立を求めるとしたら、
畑高一本に絞られる。
畑高に行くこととはつまり、親元を離れ、寮生活をするというこ
と。⋮⋮工業高校である東工に通わせるのも考えにくいし、やはり、
緑高が最も無難な選択だったか。畑高は噂に聞く限り県内随一の厳
格な進学校で、スポーツの分野にも強く、野球部は甲子園の常連な
んだとか。吹奏楽も然り。⋮⋮全国大会に出場できる実力を持ちな
がらハードな勉強もこなす稜子さんはすごいひとだ。エリート校に
通う生徒だが、その手の学校に通う人が無意識のうちに誇示しがち
な自尊心や圧迫感とは無縁だった。
私は緑高の教室の扉を開いた。
みんな、日焼けしている。有意義な夏休みを過ごしたのだろう。
お受験の緊張を纏わぬ和やかな雰囲気のなか、近くの子に挨拶をし
ながら自分の席につく。
自分の機嫌が別段悪くもなく良くもないのが分かった。
716
﹁とっくらさぁ∼ん﹂
赤と黒な面子と窓際で固まっていて、こういう、猫撫で声で呼ぶ
のは紗優に限られている。
私が呼ばれるとは、意外だ。
かばんを置いて、顔をあげる。
と彼は、窓に寄りかかったまま、
﹁桜井とつきおうとるってホンマ?﹂
教室のお喋りが一斉にやんだ。
初対面のときと同じく、邪気のない、あけっぴろげた笑い方をし
ている。
けどもこれ、︱︱問題発言だ。
﹁祭りんとき見たんやて﹂
﹁や。ちょっと。しぃーって﹂
私が足を動かすも、
﹁桜井に抱きついたやろ?﹂
どこかからか女子の叫びがあがる。
﹁ちが。違うって!﹂
私の掴みかからん勢いを、彼は言葉もろともするりとかわす。﹁
717
オレ見てしもたもん。祭りんときなー、あんたらが屋台の横おるん﹂
つまりは、目撃されたということだ。
私と坂田くんを囲うように、ひとが集まってくる。
⋮⋮
引いたはずの汗が流れだす。
まったく違うとも言い切れないし、かといって、認めると、和貴
に、迷惑が、かかる。
そりゃそうなんだけど。あれを公衆の面前で認めることとはわけ
が違う。
なんで、こんなときに限って紗優と和貴はいないのか。
﹁あんさん、のーっぺりした顔しとんのに侮れんなあ? いつから
桜井とデキとんのや﹂
﹁いやだから﹂
﹁へー桜井にカノジョかー⋮⋮あいっつ高校入ってからカラキシや
ったもんなあ。めでたいめでたい﹂
﹁めでたくないってば﹂
﹁ちょっとお都倉さんっ。どっちから告ったが!﹂
﹁いやあのですからだから⋮⋮﹂
﹁なんやのっはっきりしいやっ﹂
あー
どうしようどうしよう。
魔女裁判だこんなの。
ざわつきが大きくなるし右の肩掴まれてるし女の子の圧力感じる
し、でもここで逃げたら事態がなおさら悪化する。
といって顔赤くなるまま俯くって肯定するのと同じだし、
﹁悪かった。都倉﹂
718
ただ一人。
落ち着いた声があがった。
戸口のほうから、みんなから頭一つ分抜けた影が動く。
ひとだかりが面白いくらい道をあける。
彼の動作に、何故だか自然と、周囲は従う傾向にある。
﹁なに。どしたの﹂
疑問いっぱいのこちらに対し、彼は無表情で周りを見回す。
﹁俺がジェイソンの面つけて追い回したら腰抜かしやがったんだこ
いつ。マジでびびってな﹂
﹁⋮⋮なんやあれ。おまえやったんかいな﹂
はい?
﹁走ってる都倉見たやつ居ねえのかよ。すげえ逃げざまだったぞ﹂
﹁見た見た。すごい形相でどしたんかと思った﹂
﹁⋮⋮脅かしたら脅かすだけびびんだぜこいつ。それが面白くてつ
いな、夢中になった﹂
﹁ひっど﹂誰か女子が言う。うっわーそらひでえ、と坂田くんがう
んうん頷き、﹁そらぁオレかて桜井でもなんでも抱きつきたぁなる
わ﹂
﹁おめーの場合は宮沢だろ﹂
﹁したら役得やがな﹂
﹁とにかく。悪かった。都倉﹂
話の腰を折り、
すまない、という表情を作って私の前に立つ。
仏頂面だったのが。
﹁おいこら。てめえ俺の机に置いておくなこんなもん。返すぞ﹂
と、一変して怒った声色で持っていた袋を投げる。本かなにか入
719
くるす
ってるみたい。ばしっと坂田くんが受け取るそれを、隣の来栖くん
が覗きこみ、
﹁新作?﹂
﹁そんなとこ﹂
﹁それさーひょっとして﹂近くの女子が引きつり笑いをしている。
﹁それだけだ。じゃな﹂
﹁あ﹂
⋮⋮っという間にマキが背を向け、一組の教室を出ていく。
ひとだかりも見る間に解体されていく。
私は、興味を失った彼らの間を、駆け出した。
ゆったりと歩く彼は二組の前に差し掛かったところだった。私は
ちらほら残る人目を気にしつつ、彼に追いついてから呼びかけた。
﹁待ってよ。⋮⋮さっきのなに。追っかけたってなんの話よ﹂
聞こえていないのか。
無視をして進む彼の、行く手を阻んだ。
﹁だいたい、祭りのときは会わなかったでしょう﹂
﹁見かけた﹂
乾いた声で言い、ようやく顔をあげたマキは⋮⋮
どうしてだか。
ひどく、悲しげに笑った。
それはどう見ても作り笑いというタイプの、こちらの胸を締め付
ける自嘲的な笑いだった。
﹁そういうことにしておけ﹂
720
くしゃっと髪をかき回し、彼は、⋮⋮自分の教室に消えていく。
呆然と見送る。わけが⋮⋮分からない。
ひとの気配を感知などしなかったのだが、
すぐ後ろで口笛があがった。
驚いた私はよろめいて結構本気で右の肩を壁にぶつけた。
﹁さ、かたくん⋮⋮酷いひとだね、あんな風に晒し者にするなんて。
教室であんな大声出したら、騒ぎになるに決まってるじゃない﹂と
いうより痛い。肩口を押さえ、にやにやしながらこちらの様子を窺
う彼を睨みつける。﹁困らせて楽しんでたんでしょう、私のこと﹂
﹁おもろかったんは確かや。⋮⋮せやけど都倉さん。あんさんはオ
レに感謝はすれど、恨む必要はあらへん﹂
﹁な⋮⋮﹂なに言ってるの。
口元が緩みっぱなしの彼は、室内でも無意味にかけていた眼鏡を
外した。こいつ汚れてきてもうたなーなんて言いつつ。
ふうーっと息を吹きかけ、
﹁桜井と都倉さんが噂になるんが、蒔田は嫌やってんな﹂
﹁え⋮⋮?﹂
眼鏡のレンズを白く曇らせる。胸ポケットから出した、眼鏡用に
は見えないタオルハンカチで荒っぽく擦る。
再びそれを装着し、
﹁もーちょいマシな嘘つけへんもんかね。都倉さんはオレより見込
みあるで。気張りぃ﹂
721
からから下駄のように笑いを転がし、彼も、去っていく。
廊下のリノリウムをズックがついては離れるリズム。
私の心拍はあれよりも動揺している。
⋮⋮マキは、
私と和貴が噂になるのが嫌だった︱︱?
﹃見かけた﹄
どの場面を彼は指した。稜子さんと待ち合わせるマキを私が目撃
したとき、
それとも、
和貴にすがりついたあのとき︱︱
苦しくなり、胸を押さえた。
ずるずるとしゃがみ込んだ。
だって、
彼の言葉が無かったらどうなっていた。
︱︱動揺と混乱は視野を狭くする。
自分から続く壁に手を添える、一つの存在に気がついていたら、
私の小さな世界の一つが、変わらずに済んだのかもしれない。
722
︵2︶
﹁あっ真咲せんぱぁーい﹂
﹁こんにちは﹂
窓に背を預けていた石井さんが真っ先に気づいた。やーんひさぶ
りーと手を振ってくる⋮⋮日焼けして見えるのは逆光のせいではな
さそう。川島くんは変わらず色白だし。お店にかかりきりの夏休み
を過ごしたのかもしれない。彼のおうちは出前もしているそうだ。
私は夏休みを隔てて部活には初顔出しとなる。
というわけで川島くんはちょっと驚いた様子。﹁先輩が来るん珍
しいっすね﹂
﹁⋮⋮そういうことばっか言うと先輩が来づらくなるじゃないです
か﹂
﹁あ﹂頭をかく。安田くんよりも短く刈り込んだ坊主頭を下げ、﹁
すんません﹂
ううん、と私は首を振った。﹁⋮⋮センターの申し込み行ってき
たところなの。職員室行ったらちょっと寄ってみたくなって。⋮⋮
どこ座ればいいかな﹂
﹁ここあいてますよ﹂
この部屋で唯一着席している安田くんが隣の席に視線を流す。
教卓に肘をついて談笑を続ける石井さんと川島くんを尻目に自分
の席に向かう。⋮⋮タスクの時代ならばあれは許されなかった。時
代は変わるものだ。
デスクトップの背景も、ログオンパスワードも変わりがない。
﹁私、全然来てないから席、詰めちゃっていいのに﹂
一クラス四十人を収容できる部屋に三人ぼっち。
一席ずつ間をあけて座るのも寂しい感じがする。
無視されるのは慣れっこなので、ほぼひとりごとのつもりで言っ
723
たのが、
﹁⋮⋮先輩方が卒業するまで席は死守します﹂
低い声でつぶやく安田くんに私は面食らった。﹁大袈裟な﹂
大きくそっぽを向かれた。首を痛めかねない体勢でも、タイピン
グは可能らしい。
私は席と席の間にある紙に手をかけた。向こうの窓を開けてある
ためか、飛ばないよう乗せられた文鎮を浮かせ、
﹁課題のプリントだよね。一枚貰っていい?﹂
﹁常に人数分用意してあります﹂
ようやく画面を正面に見据える。私はその滑らかな手つきを久し
ぶりに見ながら、
﹁ねえ安田くん﹂と一枚引っ張り出す。﹁私たちがあんまり顔出さ
なくなって実はすごく寂しいんじゃない?﹂
﹁だっ!﹂流れるような打鍵音が停止する。﹁誰がっ! 都倉先輩
が例え顔を出すのが二ヶ月ぶりであったって僕は寂しくも何ともあ
りませんっ!﹂
代わりに訪れたのは静寂ならぬ、
椅子を巻き込んで立ち上がる安田くんの騒がしさだった。
ばつが悪くなったのか、
押し黙って、彼は座った。
石井さんと川島くんはどうやらこちらを見てけらけら笑っている。
安田くんはキーポジションに両手を戻す。﹁どうして⋮⋮部活対
抗リレーに参加しなかったのですか。パソコン部員でしょう、都倉
先輩は﹂
﹁近くで応援してたよ。私が出たって戦力にはならないし﹂
パソコン部は可でもなく不可でもない、三位だった。タスクだっ
たら﹁おめでとうございます﹂と言うんだろうけれど。
﹁そういう問題ではなくてですね、⋮⋮﹂
﹁適材適所ってものがあるでしょう﹂
戦力にならない人間を除外すべきだと言っていた安田くんが腑に
724
落ちない顔をしている。なにかしらの執着心がこの部に関して芽生
えたのなら、それは喜ばしいことだと思った。
がっかりした、と彼は告白した。
せっかくこの高校を選んだのだから、ここならではの楽しみを見
つけて欲しかった。
私がそうしたように。
などとぼんやりしている場合でなく。すでに安田くんは自分の作
業を再開している。石井さんと川島くんも着席済みだ。タスクバー
の時刻を見る限り、本日の部活に参加する三年生はどうやら私だけ
のよう。
言ったんだけどな、⋮⋮部活寄ってくって。
三年生の部活参加は自由だ。引退時期はいまのところ設定されて
いない。
紗優は、専門の入試に備えて面接と小論文の準備を進めている。
入試の時期を間近に控えていまが最も忙しい。
マキとタスクは私同様に受験勉強の追い込みをかけている。順調
に卒業後の進路が決定したのは和貴だけだ。彼は、地元の老人ホー
ムに就職が内定している。市の郊外にあり車で通える距離にあるん
だとか。
帰ったのだろうか。
和貴は最近、市の図書館に顔を出さなくなった。必要が無くなっ
たからとはいえ、勉強熱心な彼は、ボランティアから戻ってきた夏
休み後半はずっと通い詰めだった。真咲さん今日も早いねって、自
分が先に来ているのに笑顔で。私は連日、あの彼の笑顔に密かに癒
されていた。
725
避けられてる?
まさか。教室では普通に喋るし。
いや。紗優と坂田くんたちと一緒にいるところに来ると、彼は黙
って席を立つ。最後にまともに和貴と会話をしたのは、いつだった
っけ︱︱
﹁都倉先輩﹂
遠慮した声量が充分に私の注意を引いた。
﹁⋮⋮エンターキー押しすぎです﹂
﹁うわっ﹂
画面のWordは改行だらけで最後に打ち込んだ文字が見えなく
なっていた。
﹁僕は︱︱﹂声を張り、石井さんと川島くんに宣言するように安田
くんは言う。﹁帰ります。都倉先輩も帰ります﹂
﹁えっとでも私⋮⋮﹂
無視して荷物をまとめ出す。寸時迷ったが私も習った。
久しぶりにお邪魔したのに考えごとばかりで全然集中できなかっ
た。ならば意味がない。
﹁真咲せんぱーいまた顔出してなー﹂
帰りも石井さんの大きな声を浴び、私は大きく二人に手を振った。
* * *
﹁最近、どうなんですか﹂
﹁髪伸びたよね安田くん﹂
﹁蒔田先輩⋮⋮放課後は図書室に篭りっきりですし、帰る時間も合
わないものですから、僕は全く見ていませんけれども﹂
726
﹁一度切りそろえたの? 短めの角刈りって感じだね。様になって
る﹂
﹁都倉先輩に褒められる筋合いが僕にはありません﹂
﹁褒めない筋合いも私には見つからないよ﹂
﹁うまく⋮⋮行っていないようですね、その様子だと﹂
﹁あ。始業式の日に会った。おはよって言ってくれた﹂
立ち止まって肩を落とす。安田くんの言動は、大袈裟にも思えた。
高校の前を直線に通る大通り。振り返れば山の端から夕陽が私た
ちを追いかけてくる。薄紫からオレンジの、反物のような淡いグラ
デーションにうろこ雲が染められている。
安田くんが過去を告白した放課後も、空はこんないろをしていた。
﹁口、開いてますよ﹂
おっと。
慌てて閉じると安田くんの呆れ目線とぶつかった。
ぶつかったと思えば逸らされる。彼の私に対する応対は、⋮⋮い
つもこんな風だ。人間的な関心も持たれたくないといった様相。例
えるならどじょうすくいをしている感覚。
捕まえられても外さないのは、相手がマキの場合に限られる。
紗優みたく可愛い女の子を見ても照れたりしないし、
﹃安田くんは蒔田くんに並々ならぬ好意をお持ちのようですね﹄
⋮⋮変な意味ではないとタスクも言っていたではないか。
変な考えを打ち消すとまた知らず口が開いていた。指摘される前
に閉じ、安田くんに歩調を合わせる。
追いついた私に彼はまた呆れ返った。ため息を大きく吐き、軽く
睨むように、﹁ぼけーっとうえ見ながらそれでも転ばずに歩いたり、
口を開いたり閉じたり⋮⋮全く、器用な人ですね﹂
﹁他のところに活かしたいんだけどね﹂
﹁僕も他人ごとながらそう思います﹂
727
﹁ちょっと﹂
滅多にないからかう姿をお披露目して思い切り笑う。やや細い目
を細くしてくしゃりと目尻に皺を寄せ。⋮⋮普段はキツそうなのに
笑ったときとのギャップが女の子の目を引く。彼は、特に三年の女
子に人気がある。年下で可愛い男の子、というのが彼女たちの評価
だった。
実際は同級生なんだけれどね。
﹁だいだい、みんなどうなのって訊くけど⋮⋮﹂真っ先に坂田くん
のへらへら笑いが思い浮かぶ。﹁マキにはちゃんとした彼女がいる
んだよ。どうしようもないじゃない﹂
交互に動く自分の足先を眺めている、後ろ向きな気分。
ちっとも前に進めている感じがしない。
﹁一度も見かけませんでした﹂
﹁え?﹂私は立ち止まった。
﹁蒔田くんと柴村さんですよ⋮⋮変ですね。二人とも海野に住んで
いるのに。向こうでデートなんかするとすぐ誰かに見つかるんです、
そして迷惑なことに広まるんです。海岸沿いか、海野に一つだけの
カフェか。互いの家を除けばデートスポットなんか片手で足りるほ
どしかないエリアですから、緑川よりも悲劇的ですよ﹂
私は安田くんを見た。悲劇的という表現もろもろ引っ掛かったが
︱︱自分が噂でも広められた経験を思い返すかのような嫌悪感も。
が、見据えられれば逸らすか嫌がるかする彼は、眉間に皺を寄せ、
深刻に、内面で、原因を追求している。
稜子さんのことも先輩づけしていなかった⋮⋮旧知の間柄なのだ
ろうか。
私は、マキと稜子さんがデートをしていたことを明かさず、代わ
りに笑って、打ち消しにかかった。﹁⋮⋮変じゃないよ。マキはこ
の夏図書室に入り浸りだったんでしょう? 稜子さんだって離れた
ところで寮生活してるんだし﹂
ところが、彼の表情は晴れない。
728
﹁部活が八月の早々に負けたので、柴村さんは夏休みいっぱいを地
元で過ごせた⋮⋮それが。長い間東京に行ってらしたようです。⋮
⋮遠距離恋愛をする二人が、逢瀬を重ねられる貴重な夏休みを何故、
離れ離れで過ごしたのでしょう﹂
東京の大学を見学にでも行ってたんじゃない? と言いかけた言
葉を飲み込んだ。
私は、部外者だ。
本人たちのいないところで勘ぐり囁き合うのを、下世話な噂話と
言う。
私が抵抗感を持つ一方で、彼は上を見て、彼の考えを継続する。
﹁ましてや彼女が傷心なのですから、男なら何だってできることは
するでしょう。気晴らしに海に連れ出して気分転換させるとか﹂
今年、畑高の吹奏楽部は全国大会への出場を逃した。全くの無名
校が駒を進めたのはちょっとした騒ぎとなった。新聞プラス同級生
のお喋りで私はそれを知った。
﹁安田くんて⋮⋮優しいんだね﹂
﹁ば、馬鹿言わないでくださいっ!﹂
上気したと思えばまた顎先を摘まみ、黙考に戻る。⋮⋮私はなん
となく、彼の黙考を妨げるのが悪いように思えたので、なにも話し
かけずにおいた。
駅の改札口に着く。
﹁じゃあね、安田くん。送ってくれてありがとう﹂
都倉先輩を送ったのはついでです、礼なんか言われる筋合いはあ
りませんくらい返されると予想した。
黙って去られるのももう一つの選択肢だった。
だから私はなにも言わずに見送る。
⋮⋮小さく手を挙げて返すマキの残像が重なった。何度も見送っ
たあの後ろ姿が。
それが、不意に立ち止まる。
729
﹁気になりますよね、二人のこと﹂
﹁う。ううん別に﹂
私の声色は嘘をつけなかった。それが、いけなかったのか。
安田くんは振り返った。
すこしずつ顎先をあげ、
唐突な笑顔へと変わる。
﹁すこし、調べてみます。あなたのために﹂
それは、
恋心を持たない私ですら射抜かれる微笑だった。
動悸を覚える筋合いもないというのに。
どきどきする胸を押さえ、ホームに消える彼を見送っていると、
例の駅員さんの粘っこい視線を感じた。どうもとか頭を下げてその
場を凌いだ。
⋮⋮安田くんは。
なにか企んだら怖いひとだと思う。情報収集に事欠かさない。タ
スクのパソコン部遺伝子を一番受け継いでいると思う。
そんな彼の続報を私が受けるより早く。
︱︱真実が白日の下に曝されることとなる。
730
︵3︶
﹁へー猫耳なんやぁーよーできとんなあ﹂
﹁あ、んまり引っ張らないで。ちゃっちい作りなんだから﹂
と声を抑えて行動主体にささやく。
その横を、和貴が通り過ぎる。
去年は、こうやって抱きつかれてるのを、引き剥がしてくれた⋮
⋮。素知らぬ顔してウェイターの仕事に従事している。
ええいもうヤケだ。
やけくそで怜生くんを強く抱きしめる。
﹁都倉さぁん、オレのこともぎゅーぎゅーしてえ﹂
そんな私たちに接近したのは坂田くんだった。伊達眼鏡をかけて
いる。
﹁⋮⋮よくもそういうことが言えるよね。好きでもない女の子相手
に﹂
﹁ほんまに好きな子やったらゆえへんもん。ひび割れたおはじきな
んやでぇオレのこーころは﹂
ビー玉でしょ。
﹁ちょ、あんさんなにをわろとんのや。こー見えてもほんまオレガ
ラスのハートなんやて。純情で一途まっしぐらなんやで﹂
﹁こー見えても、って自称する時点で自分がそうでないことを自覚
している﹂
ぬわにおぉっ、と頭を抱え込んだまま近くの男子をどつきにかか
る︱︱そんな坂田くんの発案だ。三年一組の猫カフェは。
猫カフェといっても。
731
猫好きを満足させるぬこさんがわらわらたむろうカフェではなく。
単に、猫耳をつけたウェイトレスにウェイターが応対するというだ
けだ。跪いてお帰りなさいませお嬢様と出迎えたりなどもしない。
窓にカーテンに似せたレースがかけられテーブルにはコットンレー
ス、使用する茶器は全てカフェで扱う白磁器⋮⋮少女趣味な感じで
インテリアが施され、女子は手持ちのパフスリーブのブラウスにウ
エストの位置の高い綿素材のスカートを各自身に着けている。男子
は制服にサスペンダーなんか足して。ふざけてひげなんか描かれた
男子もいるけど⋮⋮あれは油性ペンだったと思う。大丈夫だろうか。
猫耳のほかに猫らしさを示すのは肘先までの猫柄の手袋。指先は
布で覆われないタイプ、これ手作りなんだとか。あんまりかわいい
とは思えないが作り手側の、猫らしさを求める意志の問題だろう。
エプロンに尻尾も縫い付け、半端なミュージカルキャッツの劇団員
状態とも言える。さてこれがどう評価されているかは、ひとまず、
Red
and
the
Blac
客の入りを見る限り悪くはない。マキが一緒のクラスにいた去年ほ
どではないにしても。
なお、坂田くんに、The
kなテイストにしないのかを尋ねたところ、﹁んな野暮なことはし
たない﹂と一言で返された。
野暮がなにを意味するのかは分からないけれど、要はオレいろに
染めたないといったところなのだろう。
内装を見る限りこんなメルヘンチックな趣味があったとは予想外
だったのだが、彼は夏休み中はライブのしどおしだったらしい。緑
川のみならず畑中まで行ってきたのだとか。
本気で音楽の道を進みたいのかもしれない。
客の引き始める午後三時過ぎを見計らい、紗優と坂田くんに離れ
ることを伝え、私はもうひとつの持ち場に向かった。
一応は私も部員だから。
732
﹁あれ。⋮⋮結構繁盛してるんだね﹂
﹁あー都倉先輩ぃー手伝ってくださーい﹂
﹁うん﹂あ。エプロンをしたままだ。手袋も要らないか⋮⋮
﹁は、外さなくていいですそれはっ!﹂
外そうとしていたのを、自席でタイプ打ちしてる安田くんがすご
い剣幕で叫んだ。
⋮⋮どうしたんだろう。
﹁安田は都倉先輩の猫娘姿を見とりたんですよ。察してやってくだ
さい﹂
﹁よっけーなことゆわんといてくださいっ!﹂
ちょっと訛った。安田くんがゲームだかタイプ打ちだかを披露し
ているのか、スゲーと小学生男子が何人も取り囲む。
川島くんと石井さんは、パソコンを操作する子どもたちの周りを
巡回し、適宜、実演を交え操作方法の説明をしている。
後ろの入り口から入った私は、前方の教卓周辺に、見るからにマ
ニアックなオタク集団を発見した。細いジーパンをインにしリュッ
クを担ぐ眼鏡の同世代の男の子たち。⋮⋮タスクはともかくとして
マキも混ざっている。
一二年生だけでうまく回している。
託児所ってのはこの学祭にはないんだけど、半ばそんな扱いかも
しれない。ほっぽっておけばどこに行くのか分からない小学生の子
どもたちを、高校生の私たちが面倒を見ているのなら安心なのかも。
後方の、机を置いてないスペースで保護者である母親たちが談笑
している。
窓際を背にして待つ女の子たちは、退屈していた。何人かは机に
座って足をぶらぶらさせている。
暇を潰すアイテムがこの室内には見当たらないのだろう。
あちらを、どうにかするのが先決だと感じた。
733
彼女たちのほうへ近づいた。窓に向けて置かれた座席にノートパ
ソコンがぽつんと一つ。これは彼女たちの興味を引かなかったよう
だ。
﹁⋮⋮猫や﹂
﹁かわいー﹂
﹁えー変やて﹂
﹁手袋キモくない?﹂
﹁んなことないて﹂
﹁えーだっておばさんやよ﹂
ほう。
十八歳を捕まえておばさん呼ばわりとはいい度胸をしている。
私は彼女たちの視線を感じつつ、すぐそばの椅子に座った。
あるソフトを起動する。
一応はウォーミングアップ。手首をコキコキ、肩を鳴らしながら
いざ。
演奏する曲目は︱︱
猫ふんじゃった。
ディスプレイに映し出されるのは白と黒のキーボード。無機質で
感情のない、二階調の世界。白鍵に黒鍵のひとつひとつがキーボー
ドのキーに対応し、或る音を鳴らせば或る音が返す。
合宿期間中に作ったプログラムだった。
みんながインベーダーゲームに夢中になるなかで私はひとり、こ
れに夢中だった。
ピアノもろくに弾けない私が唯一弾ける曲。
裏方の部分を作り上げた達成感もろとも、鳴り響く度にそれを感
じられだから楽しかった。
734
﹁なんやこれ、どーなっとんの﹂
﹁なして鳴んが﹂
﹁このおねーさん尻尾がついとる﹂
黒目を大きくする女の子たちが周りに群がるのを感じながら、お
もむろに、猫のように口元を緩めて弾き鳴らす。
最後の二音は派手に叩いた。
途端に、
拍手が、起こった。
いや教室の、⋮⋮みんなだ。
教室前方でも、
座っていたはずのタスクが立ち上がって拍手なんかしている。
マキですら見ている、こっちを。
顔が火を噴くかと思った。
﹁えっと﹂大したことしてないのに、無意味に目立った。慌てて椅
子から腰を浮かしかけたところを、
﹁なーなーもいっぺん弾いてー﹂
腕を引っ張られ、戻される。他の子もわらわらまとわりついてく
る。
無垢な、黒い瞳を持つ女の子たちが。
⋮⋮可愛い。
私は一度腰を浮かせ、スカートを整えて座った。﹁⋮⋮言っとく
けどおねーさん、この曲しか弾けんがよ﹂
﹁駄目じゃん﹂
﹁レパートリー増やさな﹂
苦笑いしてしまう。事実その通りだった。ひとみ、なにを失礼な
735
ことゆうとるん、と遠巻きにお母さんが言っているが、大丈夫です、
と口パクでお伝えした。
おかっぱの、利発そうな女の子に声をかける。
﹁えーっとそしたらひとみちゃん。弾いてみる?﹂
﹁えーピアノあたし弾けんがに﹂
﹁大丈夫だよ。おねーさんが教えたげるから、やってみよ? ここ
座って﹂
すとんと、座った。座高がちょっと高くて床から足が浮いている。
台が要るほどでは無さそう。
﹁えーあたしも弾きたいてー﹂
﹁うんみんな順番にね。そしたらこっから時計回りでひとみちゃん
から順番やからね﹂
﹁待てんてえ﹂
﹁あたしエリーゼ弾けるがよ﹂
ベートーヴェンのか。﹁へえ。凄いねえ﹂
﹁おっねーさん早く早くぅ﹂
﹁はいはい﹂
﹁はいって一回しかゆったらならんがよっ。先生がゆうとった﹂
﹁⋮⋮はい。かしこまりました﹂
﹁かしこまらんでええて﹂
都倉真咲十八歳。
小学生に形無しです。
* * *
﹁おまえ方言喋れんだな﹂
ノーパソの電源を落としていると背後を取られ。
いきなり話しかけられるのは心臓に悪い。
736
ふへっと奇声を発した私を、和貴ならぶくくって笑い飛ばしてく
れるのに。
パソコンを閉じつつ、私はマキを振り仰いだ。﹁喋ろうと思えば
喋れるよ。⋮⋮けど突然緑川弁喋り出すのってなんか、抵抗があっ
て⋮⋮﹂
親を恨んでいたのに。
緑川弁を話し始めるというのは、この土地を認めるということ。
そんな自分をさらすということにも等しい。
ちっぽけな私のプライドがその邪魔をする。
壁を作った方が、人間付き合いは簡単だ。
こんな心境を⋮⋮仏頂面のこのひとは分かってくれるだろうか。
﹁かもしれねえな﹂
そんなはずがない。
エプロンをつけ、腰紐を結ぶ。マキは立ち去らずじっと私の行動
を見ている。⋮⋮調子が狂う。他人に関心を示さないはずの彼は、
時折こんな風に黙って人を凝視する。﹁一組が気になるから私、行
ってくるね﹂
だいぶ人がはけたからもう大丈夫だろう、ここは。
ああ、と答えるマキの横を抜ける。
﹁頑張れよ﹂
思いもよらぬ、応援を受けた。
言葉とは裏腹に、にこりともせぬ真顔で、⋮⋮やっぱり、彼の感
情のほどは読み取れない。
嬉しいんだけど﹁なんか、優しすぎて気持ち悪い﹂
﹁しばくぞこら﹂
737
そうこなくっちゃ。
奮然と言ってのけるマキに、私は笑った。
笑って彼を見たままドアを開いた私は、前方への注意が遅れた。
﹁ごめん、和貴﹂
﹁⋮⋮いや﹂
言葉だけは返されるものの、関心の一切は別のところにある。
表情のない瞳で向こうを見る、その目線は揺るがなかった。
生きている人間なのに凍りつかせる怜悧な冷たさが、そこには確
実に存在した。
水野くんの一件以来に見る、彼の顔だった。
すり抜け、後ろ姿を振り返るも、まるで遠い他人のように感じら
れた。
私は、嫌な予感を抑えられなかった。
和貴、
なにがあったの。
その背中に祈るように問いかけても返されることなどなく、無論
答えなども見当たらず、虚しさが募るばかりとなった。
738
︵4︶
あくる日の、学園祭の二日目は、三年一組猫カフェにかかりきり
となった。
というのも、⋮⋮
﹁ちょい、持ち場離れんといてえな。宮沢さんおらなぁ儲からんの
やで﹂
﹁⋮⋮しゃあないなあ。あとでパソコン部だけいかせてなー﹂
﹁オレやったらなんべんでも宮沢さんイカせられる﹂
﹁ばかあっ!﹂
と、紗優の鉄拳が坂田くんに下される。
︱︱そんなことばっかり言ってるから恋愛の対象に見られないの
よ。
このお二人がさりげに0.5人分の働きしかこなせていないので、
やや忙しいこの店を離れるのを自粛した。
︱︱紗優にしきりに話しかけ、甘えんぼの小学生みたくまとわり
つく坂田くんと、邪険に扱い、あーうっさい! と追い払う恋人っ
ていうか母子みたいなコンビを尻目に、黙々と隣のテーブルを和貴
は片す。
︱︱普段ならば。
﹃ったく働けよおまえも。アホの坂田はこれだから困んよ﹄
739
くらいの嫌味を言うのに。
⋮⋮分からない。
どうしてしまったのだろう、和貴は。
訝しむ気持ちを抑えつつ、廊下のほうにお客さんが来るのが見え
たため、私は出迎えに入った。︱︱午後の紅茶の時間を過ぎてもた
まにこうして来客があるから気が抜けない。﹁いらっしゃいませ﹂
﹁あ﹂
驚いた目と目が合った。
相手は、畑中高校のセーラー服。彼女はその胸元のスカーフに手
をやり、
﹁あ。あ。あれ、⋮⋮あんときの子やよねえ。あたしんこと覚えと
る?﹂
︱︱忘れるはずがない。
﹁覚えてます。あれだけ派手に転んだのは初めてでしたから⋮⋮﹂
﹁やーっ敬語なんか使わんでいいて!﹂
手も顔も大きく横に振る、まさに善人の成せる仕草だった。⋮⋮
彼と合流する姿に、私がどんな視線を注いでいたのかを知らない。
あのときと同じく、すこし冷えた気持ちが私のなかを流れだす。
﹁⋮⋮蒔田くんなら﹂
﹁おぉーい稜子ぉー﹂
740
私の低い声に男性の声が被さった。︱︱彼女に釣られ、思わず教
室から身を出すと、玄関のほうから手を振りながら、こちらにやっ
てくる男性の姿が見えた。
︱︱彼が周囲の注目を集めているのは、なにも大声を出している
のが原因ではなく。
︱︱長身。Tシャツに細身のジーパン。全身が鋼のように鍛えぬ
かれた身体。その肢体に似合うスポーツマンチックな短髪。
より近くで見れば更にその整った容貌が明らかとなる。︱︱面長
の顔に奥二重、双子と見間違う、涼し気な眼差し。
弟とは違う、日に焼けた肌をしていても、
︱︱どう見ても蒔田樹さんだった。
﹁きゅーにおらんなったら困るやんか。おっまえすぐ迷子になんの
やから﹂稜子さんが彼に話し掛けるより先にこちらに気づいた。﹁
あ。こんにちはっ﹂
私は小さく会釈で返した。
稜子さんはひとつ頷いて私の方を手で指し、
﹁︱︱樹、前にゆうたやろ? あたしが緑高来て道分からんなった
とき案内してくれたんよ。ほんでこちらはえぇーっと⋮⋮﹂
﹁都倉真咲です﹂そういえば彼女にも名乗っていなかった。﹁初め
まして﹂
樹さんに向けて言うと、
﹁いや、こちらこそ﹂頭の後ろに手をやり、そのまま大きく頭を下
げた。︱︱ひとのよさそうな感じだ。﹁うちの奴が世話になってま
す﹂
その様子を見て稜子さんが鼻を鳴らす。﹁なんっやら二人とも他
人行儀やねえ⋮⋮﹂
741
﹁坂田くん、こっちにいるんだっけ?﹂彼は、声のトーンもどこと
なく人懐っこい。﹁体育館のほう先に見てきたんだけど、すれ違っ
ちゃったかな。あいつらのステージってトリだったよね﹂
︱︱私がなにかを言う前に。
さかたぁああ! と絶叫が鼓膜に飛び込んだ。私が樹さんと向き
合う間に、稜子さんの姿が忽然と消え、室内に目を戻せば窓際にい
る坂田くんを発見。鬼ごっこみたく追い掛け回している。紗優なん
てびっくりして腰が引けてる。更には、坂田くんは捕まってばしば
し頭はたかれるままに⋮⋮
︱︱意外とアクティブな稜子さんに私は面食らった。
小さく、笑う息を聞いた。
教室の枠に肘で軽く寄りかかり、こめかみに指先を添えて、二人
の姿を、見守っている。
⋮⋮オセロの白と黒で言えば黒のほう。顔が瓜二つであっても色
が声が表情が違う。
マキはこんなふうに、険のない眼差しで誰かを見守ったりしない。
︱︱話すのはほぼ標準語。声の音程がもっと低い。口の中で貯めこ
むようにぼそぼそと喋る。
声を荒げる場面では大きく開くけども、︱︱そんな激情は滅多に
見せない。
陰と陽、表と裏、光と影。
マキも好むシンプルな濃色の上下を着ていても、蒔田樹さんは、
存在自体が明るいという印象だった。
保護者のように見守っていた樹さんが、こちらの露骨な目線に気
づいたようで、
742
一瞬白眼を広げ、口許だけで優雅に微笑んだ。
︱︱この一連の所作にも、私はものすごく動揺した。
マキが微笑みかけてくれる幻想を目の当たりにしている。
私の動揺を見て取り、鼻から息を抜けさせすうと笑う。︱︱余裕
だった。二つ違いと聞いている。喋り方はむしろマキより幼いのに、
なんだか、行動すべてに大人の余裕を感じる。
私は自分から話題を振った。﹁⋮⋮蒔田くんにはもう会いました
か。彼、二階のパソコンルームに居ると思います﹂
緊張で自分の声が上ずっている。
﹁あいつ。さっき行ったらちょうど休憩入ったばっかでさー。昔っ
からタイミング悪いんだよね。久しぶりに稜子と会わせてやりたか
ったのに⋮⋮﹂
﹁久しぶりってどういう⋮⋮﹂
疑問が思わず口をついて出た。
﹁⋮⋮あ。すみません﹂
﹁いいよ。そんな気を遣わないで? ⋮⋮都倉さんは、坂田くんと、
一臣とも親しくしてるんだよね。もしよかったらさ、稜子励ますの、
協力してくんない? ああ見えて彼女落ち込んでるんだよ、部活の
ことで﹂
﹁私にできることがあればなんでも⋮⋮﹂
そこで安田くんの言葉が思い出された。
︱︱男なら何だってできることはするでしょう。
します、と私は頷き、﹁⋮⋮その前に一つ、樹さんに訊いてもい
いですか﹂
﹁僕に? なんでもどーぞ﹂と胸筋のかたちの分かる胸を拳で叩く。
743
﹁ただし、どんくらい試合に出てるってのはナシでね。全然控えだ
から﹂
﹁そうじゃありません﹂
笑いを立ててこちらを見る樹さんに、
不自然な質問をするけれども、なるべく不自然な語調にならぬよ
う留意しながら、私は、核心に切り込んだ。
﹁稜子さんとお付き合いされてどのくらいになるのですか﹂
* * *
パソコンルームに駆け込む私の姿を認めるなり、顔色を変えた紗
優が椅子から降りた。﹁無駄やよっ! あたし、絶対一組なんか戻
らんからねっ! 坂田に言われて来てんろ。真咲がいっくらゆーて
も無駄やからっ﹂
﹁⋮⋮マキは﹂
紗優は拍子抜けして腕組みを解いた。
﹁マキ、どこにいるか知らないっ!?﹂
私は彼女の肩を掴んでいた。
︱︱自分でも冷静さを失っているのが分かった。
完全に頭に血が登った状態。︱︱紗優がどうやらそれを察し、
﹁⋮⋮部屋、出て話しよっか﹂
一般に、学祭は生徒玄関の近くに、そして一階に出す店が有利だ。
二階三階と上がるごとに客の入りは減る。
それでも、二階はまだ人の姿が目立ったし、⋮⋮マイナーな生物
744
室の控える三階の階段をあがりきり、廊下に数えるほどしかひとが
いないのを見計らい、私は、口を開いた。
﹁紗優は、知ってたの? マキが稜子さんと付き合ってないってこ
と⋮⋮﹂
︱︱紗優が驚きに見開いて振り返る。知らない、とその両の目が
明白に語るも、私はこぼれ落ちる言葉を止められやしなかった。
﹁三月から付き合い始めたのは、稜子さんと、マキのお兄さんの樹
さんなんだよ。⋮⋮マキじゃない﹂演奏会の夜の、マキが稜子さん
を抱きしめた映像を思い返しながら私は続けた。﹁彼は、相談に乗
ってただけで、ヨリなんか戻してなかったの﹂
︱︱発言者が樹さんだと明かす必要は無い。
何故か足元をややふらつかせたように見えた紗優は、窓のあるほ
うの壁に寄りかかった。
私は、言葉に出したからか、すこし落ち着きを戻し、彼女に並ん
で寄りかかる。︱︱背後からの初秋の日差しが生暖かい。﹁⋮⋮に
しても、なんでそんな噂広まったんだろうね。マキも、違うなら否
定したって良かったのに⋮⋮﹂確か︱︱演奏会の夜に、わざわざ稜
子さんをみんなの目につく場所へ見送りに行ったと聞いた。﹁なん
だか、自分から広げる目的でもあったみたいな⋮⋮紗優?﹂
︱︱紗優に、同意を求めて隣を見たところ、
驚愕かなにかを露わにし、口元を押さえたままだ。
﹁どうしたの。気分悪いなら保健室に⋮⋮﹂
﹁あんなあ真咲、⋮⋮落ち着いて聞いてな﹂
紗優が私の手を取り、まっすぐに見つめてくる。
745
﹁混乱させるだけやと思って⋮⋮あたし、ゆえんかってん。ごめん﹂
ただ頷いた。
︱︱焦って急かしてはならない。
こんなに顔色を悪くさせ、震えるほど、苦しむなにかがあったの
なら。
告白を待とうと思った。
﹁あたし、見てん。合宿の夜に︱︱﹂
決意を秘める、黒い開いた瞳がためらいを見せ一瞬泳いだ。
かたちのいい唇がなにを告げるのかを私は凝視する。
﹁マキが真咲にキスしとったんを﹂
746
︵5︶
勢い任せに扉を叩いた。
定位置にあの後ろ姿が、あった。
なんだって破壊しかねない、暴力的な気分だった。
﹁⋮⋮こんなところでなに、してんの﹂
答えは、無い。
休憩時間をどう過ごそうが俺の勝手だと言いたげに。
だが自由と勝手は、違う。
後者は誰かの意志をないがしろにしている。
﹁パソコン部に、戻りなよ﹂
ずんずん柵のほうへ突き進む。手をかざすまでもない。天候は曇
り。日差しはさきほどよりも若干弱まった。
﹁隠れて煙草なんか吸って、どういうつもり﹂
ただし、私の口調と足音はエスカレートするばかりだ。
道場破りのごとく現われた人間に見向きせず、彼は、彼なりの自
由を堪能している。
﹁稜子さんと付き合ってないって、どういうこと﹂
肩が、肉眼で分かるほどに大きく震えた。
﹁それから。わ、私にキスしたってどういうことっ﹂
﹁来るな﹂
知るかよ。
﹁⋮⋮なにすっか分かんねえぞ﹂
﹁望むところよ﹂
ふうと息を吐き、気だるげに空を仰ぐ。
私は止まること無くそのまま、彼の左に立つことを選んだ。
サッカーグラウンドは見えないほうがいいでしょう?
747
﹁その煙草、捨ててくれる? マキを殴りたいから﹂
律儀に煙草を携帯灰皿へと仕舞う。
その指先の動きになんの動揺も見られず。
こちらがわななくほどの怒りに駆られているのに、彼は、静止物
にでも向ける眼差しをよこしていた。
暗い深い沼の底のような瞳にはなんの情感も浮かばない。
眉一つ動かさないのも、⋮⋮腹立たしい。
﹁私のこと、⋮⋮からかってたの? 嫌いなら嫌いって最初っから
言えばいいじゃない。彼女がいるとか嘘ついて、⋮⋮なんなのっ!﹂
ありったけを吐き出した。
酸素が搾り取られ、苦しくて肺を押さえた。
それでも彼は︱︱傍目にも冷静沈着だった。
きっと、誰か大切な人間が目の前ですっ転んだとしても変わらな
い。情もない脈もない、下手をすれば心電図もP波もR波も無しの
一直線かもしれない。
あのお兄さんと大違いなマキは変わらない。
暖簾に腕を押すほうが手応えを感じられる。
爪の先から無力感が血となって駆け巡った。
﹁もう、いい﹂私は彼に別れを告げた。﹁⋮⋮さいあく。ファース
トキスを寝てる間に奪われるなんて﹂
﹁起きてるあいだならいいのか﹂
748
出入口を視界の端に捉えていた。
その視点が、急速に回転する。
事故に遭ったカメラのごとく。
強い力で肩を捕まれ、足を引きずられもつれさせ、﹁え﹂と言い
かけた私は、
抱きしめられていた。
違う、もっと酷い。
セカンドを奪われていた。
信じられないくらい近くに石膏像よりも美しい顔が実在する。
なにが起きているのかまったく理解できない私の脳を置き去りに
し、私の呼吸を貪り奪う。こんな獰猛な彼を知らない。乾いた湿っ
た感触が合わさり、温かい舌がするり、ねじこまれている。蛇のよ
うになまめかしく、蠱惑的に動き、深く、角度を変えてそれは幾度
と無く繰り返される。
熱い激情で心臓が突き破られる。
頭の導線が焼き焦げそう。
不可思議に頭の中が鮮血に染まり、目の前を淡い火花が散る。
息が、⋮⋮できない。
顔をそむけようとする自由が、頭のうしろをびっちり包む大きな
手に阻まれていた。背中に長い指のかたちが刻みつけられている。
私を掴む彼はあまりに強く。だがその力に比して、柔らかく、優
しいと誤認するほどの唇の感触。ほのかな煙草の香りが吐息に混ざ
り。
混乱の只中に投じられ、目眩を起こす。
いったいいつまで続く。
749
どこまで息が続くのかプールで蹴伸びで試すあの苦しさ︱︱私は、
身をよじらせて訴えた。もがいて腹の辺りだかを押した。ようやく
して彼が離れる。
瞬間。
私は持てるだけの力の全てを自分の利き手に注いだ。
﹁最っ低!﹂
彼は、避けなかった。
瞬間的に見た彼の顔が、ひどく悲しそうに見えたのはたぶん私の
願望でだ。
階段を降りる足がもつれた。転げ落ちないのが奇跡だった。倒れ
こんだ両膝が笑っていた。酸素不足のあまり肩でぜいぜい息をする。
だ、
﹁大っ嫌いっ!﹂
猫耳猫手袋を床にたたきつけた。
⋮⋮直後に自分の行動を後悔する。頑張って坂田くんたちが用意
してくれたものだ。物に罪は無い。
︱︱八つ当たりはね、向けるべき怒りを対象に向けられないから
こそ、代わりのなにかにぶつけることで解消にかかろうという、代
替手段だ。もし対象にぶつけられていたならば怒りなりは一旦終息
する。
﹁柏木慎一郎の、⋮⋮嘘つき﹂
750
ちっとも解消されない。
渋谷のスクランブル交差点に放り込まれた猫みたく大混乱のさな
かにいる。
︱︱結局。
気持ちの整理がつかなかった私は、一度保健室に立ち寄り、学園
祭を途中にして帰った。誰の目にも留まらないようにこっそりと。
⋮⋮田中先生が、宮本先生に伝えてくれ、そして全休にはならんよ
と気を回してくれたのも。⋮⋮中座してくれたのも、涙の居場所を
求める私には、ありがたかった。
トリのライブに盛り上がる校舎を去るのは散々な気持ちだった。
それでも、あのままあそこに居続けることのほうが私には惨めだ
った。
続いて、自室のベッドが私の逃げ込める場所だった。
それでも、大泣きすると、母に祖父母に心配をかけてしまう。
枕に顔を突っ伏し、息を殺す。
タガが外れたとはこういう状態なのか、どんどん濡れてしまう。
﹃僕居なさに寂しくって枕濡らしてない?﹄
⋮⋮タオルが必要だ。
ぼたぼた垂らしながらむくり、起き上がる。動作のひとつひとつ
が、鈍い。不覚にもゾンビを自分と重ねた。部屋いっぱいを満たす
日差しの場違いな明るさが鬱陶しい。窓の障子がすこし開いていた。
まだ日の高い太陽がこんな人間を見下ろして嘲笑う。
これが、青春の傷みと愚かさなのか。
ガラスに薄く映る、自分を捉えた。
その唇、知らずこの指が辿る。
751
﹁⋮⋮大っ嫌い﹂
吐き捨てて、すべての窓と感情の蓋をしてベッドに飛び込むも、
唇を腕で擦っても、こびりついた感触は消えやせず、そして中々寝
付けなかった。
752
︵1︶
これほどまで学校に行きたくなくなるのは、二年の頃のマラソン
大会以来となる。
会いたくない人間に出くわす率は平常ならば低いのだが、⋮⋮土
日を挟んだ十月十二日月曜日。
学園祭の後片付けが残っていた。
校舎の窓から何本も垂らされた垂れ幕がさっそく外されている。
玄関に学園祭の看板も跡形もなく。ガラス戸を飾りつけていたチー
プな紙の花飾りも、折り紙の輪っかつづりも。
全て、引き剥がし、焼却していく。
あの日々にかけて準備したすべてのものを。⋮⋮玄関脇に積み上
がったゴミの山を見て虚しさが積み上がった。ぜんぶ裏手の焼却炉
行きだ。
最後に捨てるためならばなんのために作ったのだろう。
思い出づくり、か。
玄関にほど近い三年一組に直行し、私は思い出の後始末に没頭し
た。
本日は授業がお休みで、自分の持ち場を片すのが主だ。
部員である私は、もう一つの持ち場に顔を出そうとも思ったのだ
が、
︱︱マキが居る可能性が高い。
受験熱心な三年三組と四組は催し物などをせず、従って部活のこ
とにかかりきりとなる。行けば間違いなく鉢合わせするだろう。
カーテンに見立てたレースの両面テーブを剥がし踏み台を降り、
室内の進み具合を目で確かめる︱︱お喋りがメインでかたちだけ作
753
業に勤しむみんなのなかに、和貴を見つけられなかった。
虚しいような、悲しいような気持ちに覆われる。
まだ今日は彼を見かけていない。
向こうにかかりきりなのかもしれない。
もう一人のパソコン部員の姿ならすぐに発見した。
﹁もっかい猫耳つけてえ。なーなーお願いぃ。こんだけ頼んでも駄
目ぇー?﹂
﹁うっさい! うるさい! しつこいっ!﹂
﹁んないけずなこた言わんといてぇな。ほんま宮沢さん似合うとっ
たで。猫の女神が降臨したかと思うたわオレ﹂
⋮⋮坂田くん。
ミュージシャン目指すのはいいけど作詞は誰かに任せたほうがい
いね。
猫の女神ってなんですか。
﹁あの。坂田くん⋮⋮猫耳どうしたらいいかな。回収するんならみ
んなのぶん集めるけど⋮⋮﹂
レースの布地を畳みながら私は猫耳をつけたままの坂田くんに近
寄った。
﹁やるわ。⋮⋮都倉さんもめっさ似合うとったで﹂
どうも。
﹁あ。そや﹂坂田くんはすばしっこく机に飛び乗る。土足だけど⋮
⋮誰の席だっけそこ。﹁みぃんな覚えとっかー? オレら週末にラ
イブやんのやでー十七日やでぇ。この猫娘セットぉ持ってきてぇな﹂
⋮⋮猫娘と断言した。
754
﹁あそなの?﹂
﹁オレ行ける﹂
﹁いいねえ学祭の打ち上げ兼ねてやろうかー﹂
クラスメイトが彼の下を集い出す。
ステージに見立てた机にて、彼らの中心となった坂田くんはかか
っと満足気に笑い、
﹁おっまえら行くぜえ!﹂
うぉーっと答える全員が職務を忘れたもはや観衆と化す。
坂田くん、⋮⋮いやボーカルのハルは外した眼鏡をマイク代わり
Red
and
The
Blaaaaak!﹂
にし﹁せぇえーのっ﹂と号令をかけ、
﹁The
片付けは終わっていない。ついたての向こうのミニキッチンなど
まったく手付かずだ⋮⋮そう認識するのは現在私のみ。ついさっき
まで坂田くんを嫌がってた紗優までも机をドラムに見立てて叩いて
る。
暫くはライブが続く。
私は布地を隅に置き、静かにこの場を辞す。
一瞬、通り過ぎかけて驚いた。
三年一組のプレートの真下に宮本先生が立っていた。淡い生成り
のポロシャツが壁と同化していた。
私の姿を認め、先生は片方の口許をニヒルに歪めた。彼らの盛大
な歌声は私たちの耳に無論、届いている。
﹁⋮⋮注意しないんですか﹂
755
ついと腕を挙げて確かめる。日焼けして腕の毛の色が猫っ毛の明
るさだった。﹁あと一分立ったらな﹂
﹁そうですか﹂
教師という職種は腕時計のみならず忍耐も必需品だ。
﹁あ、そや﹂紙袋を持つ手を持ち替えて私に渡す。﹁これな、ちょ
っと持ってってくれんか﹂私からは先生の左側に隠されて見えなか
った。
﹁はい﹂
持ち手で受け取ろうとしたがずっしり重たい。両手で持ちからだ
の正面に抱えた。開いた口から覗くのはVHSテープやケーブル、
もろもろ。
﹁下田先生のところにな。もしおらんかったら長谷川でも構わんさ
け。パソコンルームにおるやろから﹂
ジーサス⋮⋮。
神さま、私がどんな悪いことをしましたか。
* * *
﹁先生、これ宮本先生からです。では﹂
﹁あ、ありがとう﹂
準備室にいるのは運がよかった。日頃の行いがいいからだ。押し
付けられ戸惑ったふうな下田先生をろくに見もせず、とっとと退散
する。
パソコンルームがどんなだか気にかかった。
開け放された入り口から覗く限り、⋮⋮他のクラスと同じく作業
をしている様子。こんなん持てんてぇと石井さんの不満気な声が聞
き取れた。手伝いに入ろうかと足が動きかけた、
756
でも。
︱︱会いたくない。
足早に通りぬけ、罪悪に駆られながら階段を降りた。
下の踊り場に、立つ人影を見つけた。
かすかな驚きを見せつつも、冷笑と呼べる類の笑みを浮かべ、段
を、素早く駆け上がってくる。
﹁か、和貴﹂
聞こえてなくはない、
だが彼は通り過ぎた。
それがもどかしく、私は追うようにして、叫んだ。
﹁和貴っ﹂
﹁都倉﹂
後ろから同時に呼ばれていた。
私を呼ぶ人間の正体を、確かめにかかる。
︱︱彼は、
﹁悪かった﹂
目を、疑った。
いつだって超然憤然として、誰にだって横柄な振る舞いをする俺
様な彼が、私に向かって頭を下げてる。
757
けども。
私は奥歯を噛み締めた。
私の意志を置き去りにした行動だった。
﹁⋮⋮謝っても遅い。⋮⋮許さないから﹂
だから彼を置き去りにし、和貴のほうを向こうとしたのが、
﹁好きだ﹂
それが、できなかった。
﹁最初っから、惚れてたのかもしれない﹂
いまさら、なに、⋮⋮言ってるんだろう。
﹁おまえが他のやつと幸せになれんのなら、⋮⋮黙って身を引こう
と思った。だがそれも結局、出来なかった﹂
告白をする場面でもこのひとのポーカーフェイスは変わらない。
感情ってものは、あるの。
頭のうしろでひたひた歩き始める靴音を聞いた。
﹁和貴﹂
マキが引き留める。
﹁すまない。⋮⋮が。お互い茶番は終わりにしないか﹂
758
﹁なんのことだかさっぱり﹂
久しぶりに聞けた和貴の声は、おそろしく情のこもらない、無機
質なものだった。
私より、マキのほうが動揺していた。瞳の動きで分かる。
目の前まで来た彼は、慰めるように私の頭をぽんと叩く。
﹁大事な時期に、悩ませてすまんな。話はそれだけだ﹂
一瞬、びくついたのを見逃さなかったのか。
彼は、できる限りに自然に笑った。
というのが伝わる、ぎこちない、殊勝な笑い方だった。
話を終えた彼は、歩き始める。
私を基点に、和貴も反対方向へと進み出す。
私は、︱︱
迷う理由もなにも見当たらなかった。
﹁和貴っ﹂
どうして、応えないんだろう。
私は彼の正面に回り込んだ。
この行動を後悔させる、冷たさに遭遇していた。
彼の、口許が笑っているも、それは皮肉めいたものであって、
﹁よかったね﹂
759
﹁⋮⋮なにが﹂
﹁ずっと好きだったんでしょう、マキのこと。おめでとう﹂
刺すような痛みに襲われる。
完全に、和貴は私を拒絶していた。
﹁別に⋮⋮めでたくなんかないよ。和貴はそう、⋮⋮思ってるの﹂
﹁当ったり前じゃん﹂
﹁どうして⋮⋮私のこと避けてるの。嫌われるようなこと、私なに
かしたかな﹂
﹁避けてないよ﹂
﹁避けてるっ!﹂
廊下を通る私の大声。
和貴は顔色を変えず、いつもするように飄々と肩をすくめ、
﹁マキも大切な友達だから、二人がくっついてくれれば︱︱僕は、
嬉しいよ﹂
声の余波も消えぬうちに、私を肩で避け、
一音一音を響かせ、
手の届かない世界へ、消えていく。
﹁本当にそう︱︱思ってるのね﹂
私の震える声に、彼は、左手をひらひらと挙げて応えた。
お別れにも、言葉通りの応援にも見て、取れた。
ぐにゃり、地面が歪んだ。
760
地に手をつき、悟る。
あんなに恋焦がれていたマキの告白よりも、和貴が去っていくこ
とのほうが、こんなにも、︱︱
﹁おい、どうした﹂
肘から掴まれ、持ち上げられていた。間近に見る心配する人間の
顔色。大丈夫と問われて平気、とちゃんと答えたのに彼は、真に受
けてくれなかった。
周囲の目を集めつつお姫様抱っこで運ばれる、ある種女の子が誰
しも憧れる状況であっても、私の胸に訪れるのは、いつかの学園祭
の再現という喜びなどではなく。
喪失感、だった。
花のような彼の笑顔を、二度と取り戻せない予感と確信があった。
深くえぐられた胸の痛みは、いつも通り毒々しくて華やかな、黄
色と赤の花柄のワンピースの田中先生を見ることで、幾分かは癒さ
れた。
761
︵2︶
人は一人では生きられない、とはよく言ったものだ。
実際、誰とも関わりを持たずにこの社会を生き抜くことはできな
い。社会とは人間の集合体だ。蛇口を捻って出る水で口をゆすぐに
しても電源を指一本で入れられるパソコンを使うにしても、これら
の対象物には私の知らないところで様々な労力がかかっている。い
わばひとの労力を介した媒体だ。単に私が経路にプロセスを知らな
いだけであって。
与り知らぬところで人と人とが繋がっている。
間接的でなく直接的な接触という意味ではどうだろう。誰かと一
切関わらずに、例えば一言も会話をせずに生きていくのも、人里離
れた山奥に一人住まうのでも無ければ実現不可能に思う。店員さん
と会話をするのだって立派なコミュニケートだ。田舎に住まう老人
は、そこに流れるときが穏やかなせいか、のんびりした話し方をし、
穏やかにひとと接触する。おざなりにはしない。本屋やスーパーや
通りがかりの酒屋さんでの立ち話を見かける率は東京よりも断然高
い。
私は緑川と東京を比べてばかりいる。
二つ以上物事が揃えば比較するのが人間の性分に思う。
対象はなにも物質に絞られず︱︱人が二人以上集まれば、己と比
較するのは必定の理。
顔がいい、
頭がいい。
762
明るい、
人当たりがいい。
私のほうが。
あの人のほうが。
その対象範囲が、生まれて間もなき頃は養育者のみだが友人に知
人に広がることにより、素知らぬ他人を。情報社会の発展により見
も知らぬ芸能人などのことをあれこれと語る。
時には、さも自分が当事者かのように。
他人と比べることで成り立つ、自分が自分であるという感覚。他
者から与えられる、自分への評価。内省しつつ丹念に顧みる、自己
分析の結果。︱︱これら一連を咀嚼し、摺り合わせ、自分という人
間の特性を規定しながらに私たちは生きていく。なるほどこのよう
にして社会的アイデンティティは形成されるのだ。
﹁手が、⋮⋮止まってんぞ。どうした﹂
ここが図書館だという遠慮を知らぬ声量に、この場にふさわしか
らぬ黙考に囚われていた私はしいっと指を立てて注意を喚起する。
かすかに、しかし彼にしては十分なほどに微笑んだ。
右眉があがるのは愉快だというシグナル。
街路樹が秋の色を深める、十月も末のことだった。
マキと図書館に来ている。
女の子の目を引くマキに告白され、人気を集める和貴と一悶着を
起こした。
直後マキに抱きかかえられ、運ばれたという、⋮⋮妬ましがられ
763
る状況に陥った。
一連を目撃したひとは少なかったのだが、人の口に戸は立てられ
ない。
マキと、和貴のファンの両方を刺激した。
同学年だけでなく、違うクラスの、名前も知らない女の子に睨み
つけられるのも少なくはない。
私は、他者から見ればどういう人物なのかというと、
親が、離婚している。
この地に根付かないよそ者であり、
突然進学希望に変更した異端者でもある。
人気者でもべっぴんさんでも好感度の高い人物でもない。
この主観に見ても宜しくない要素で満載だ。だから、私をよく思
わない人間が多くてもなんら不思議はない。
私も、彼女たちに嫌われる以前に、二人の間で定まらない自分が
嫌いだ。
学園祭後間も無くして中間試験が開始した。紗優は推薦の準備も
重なり、連日寝不足でマニキュアを塗る暇も無い。なるべく、紗優
の前では明るく振舞った。
一組に受験生は数名おり、休み時間も勉強する雰囲気ができあが
っているのには助かっていた。授業と授業の間はそのようにして過
ごし、学校が終われば市の図書館に直行する。しようと思えば、見
も知らぬ人々からの評価など回避できるというものだ。
私の、他人の目に映る現状はなに一つとて変わらない。
ただ一点。
764
彼もついてくるようになったのを除けば。
﹁帰るぞ﹂
いつも、閉館のぎりぎりまで粘る。集中していると時間を忘れ、
彼の、一声で教室のうえを片付けることもしばしだ。出遅れた私は、
かばんにノートとテキストの端っこを曲げぬよう急いで詰め込んだ。
私たちが最後の退室者だった。
さっきまで座っていた窓際のシートに、後ろ髪を引かれる思いが
する。
季節を隔てて状況は変わった。マキの座る私の隣席は︱︱和貴の、
指定席だった。
﹃まさーきさん、おっはよー。今日も早いねえ﹄
誰のこころの奥底までも照らす、まばゆい笑顔だった。
屈託もない明るい、声がこの胸に響いた。
真夏のひまわりとともに消えた。
急かされる前に、私はこの感傷に別れを告げ、せっかちに出てい
く広い背中に追いついた。
﹁⋮⋮おまえ、生物で受験するのか﹂
紺色の画用紙に銀の粉を吹きつけたような夜空の下を並んで歩く。
ブレザーだけでは肌寒くなってきた。
﹁そう、だけど⋮⋮﹂
﹁あの点数はまずいな﹂
﹁⋮⋮分かってるよ﹂
貼りだされた模試の結果を彼は言っている。一教科だけでも上位
に食い込めば40を下回る日本史と生物の偏差値が丸裸にされるシ
ステム。どうにかして頂きたい。
765
一番どうにかしなければならないのは私の偏差値の下限だ。
﹁⋮⋮日本史は暗記が中心だからあまり力にはなれんが、生物なら
教えてやってもいいぞ﹂
﹁ほ、んと?﹂
ぱっと気持ちが明るくなる。救われた思いがした。
﹁ああ。不得意分野はなんだ﹂
﹁遺伝と細胞と⋮⋮あとは﹂
みなまで聞かず彼は眉を歪めて笑った。﹁一番抑えとかなきゃな
らん分野じゃないか﹂
﹁それも、分かってる。簡単なのはいいけど応用が駄目で⋮⋮いつ
も大問を落とすのが痛いよ﹂
﹁演習ありきだ。応用を落とすのは基礎がなっていないということ
と、時間を取られる焦りが関係している。点を取らなきゃならない
という苦手意識が、実力を出す際に足かせとなるんだな⋮⋮練習を
重ねることでこのような気持ちの問題はやがては解消できる。パタ
ーンを覚えこませることだ。慣れれば、表やグラフを見ただけでど
んな問いだかがひと目で分かるようになるさ﹂
勉強してもなかなか目立った進歩を得られず。
足踏みするようなもどかしさと、ときどき苛立ちが私の内面を支
配する。
私は口には出さないけれども、日頃の言動で悟ってか。
彼は、私の思考を先回りする。﹁⋮⋮焦ったところで効率はあが
らんぞ。時間が足りないのは事実だ、しかしできることなど限られ
ている。成果などすぐに現れるものではない。諦めずに続けていけ
ば、⋮⋮ある日、突然にな。分かった、と思える瞬間が来る。⋮⋮
自分を信じることだ﹂
自分のことでもないのに。
確信を持って言う彼に私は驚きを込めて伝えた。﹁すごい、⋮⋮
自信だよね﹂
766
﹁諦められないのなら信じるしかないだろ﹂
冷静な横顔を見せていた彼が、こちらに視線を流し、さらりと言
う。
勉強の話をしているのに、不覚にも心臓にときめきを覚えた。
そして何気なく緑川駅を通り過ぎた。そこで別れていたはずのマ
キはいつも、私の家まで見送る。別にいいのに、と言ったところ、
﹃文句は言わせん。俺の目的は果たせるし、おまえの安全も保証で
きる。一石二鳥じゃねえか﹄
駅員さんの視線を浴びつつ堂々と言ってのけるものだから従うほ
かなかった。
それ以上なんか噂にされたら、たまったもんじゃない。
﹁ここで大丈夫だから。⋮⋮ありがとう﹂
裏手から家に入ることは彼も知っているが、正面玄関に差し掛か
った辺りで私から声をかけた。
﹁ああ。じゃあな﹂
諦められないなら信じるしかない。
でも私は。
︱︱信じる価値など無い人間だ。
﹁マキ﹂
767
聞こえるか聞こえないかの声だけれど。
マキは即座に、止まった。
﹁あの。私は、⋮⋮マキが思ってるようなひとじゃない。酷い、人
間だからその⋮⋮関わらないほうがいいよ﹂
皮肉にも、以前に和貴が伝えた台詞がこぼれた。
彼は、どんな気持ちでこれを言ったのか。
どんな表情でこれを伝えたの、だろうか。
私の胸のうちを占めるのは、たった一人だと分かった。
それなのに、これを続けるのは、裏切り続ける行為だ。
自分も、相手をも。
友達とか仲間とか、⋮⋮好きだったひととか、そんな言葉で、コ
ンクリートで道路を舗装でもするようにならしてはならない。
慣れては、いけない。
振り返るマキは、なんの表情も浮かべず、待つ姿勢を。こちらの
話を訊く構えを⋮⋮接近しながら、示している。
﹁私は、マキの気持ちには応えられない。⋮⋮知ってる? 私がこ
れからどこに行くのか。だから、﹂
﹁だから、どうした﹂
目を細める彼の口調は、いままでにないほどに優しかった。
挙がった彼の手が、⋮⋮ブレザーの丈のちょうどな袖口が、手首
768
が。まっすぐ、頭頂部に降りてくる。
ぐちゃっと掴む。と思ったら、
﹁要らん気を回すな。こんの頭でっかちが﹂
﹁ちょっと髪ぃ﹂痛い。拳でぐりぐりと押さえつけられてる。﹁背
が、縮むってば﹂
﹁縮みゃあいいじゃねえか﹂
﹁ひっどい。ばかぁ﹂
﹁確かに。⋮⋮馬鹿以外の何者でもない﹂
押さえつけていた力が、ようやくして、抜かれる。
ものすごく乱れただろう髪のセットを、丁寧に、整えてくれる。
﹁好きなところへ行け。好きなやつのことを考えろ。⋮⋮自由を束
縛する趣味は俺には無い。干渉したがる趣味ならあるがな。つまり、
﹂
躊躇うように言葉を切る。
どうしたのだろうと顔をあげれば、切なげな眼差しと、かち合っ
た。
﹁おまえがそうするように、俺も選んでいるだけだ﹂
マキ⋮⋮。
ぺちん、と頬に手を添えられた。
﹁痛っ﹂軽い平手打ちだこんなの。
﹁ちいせえ脳みそで悩んでんじゃねえぞこの出遅れ受験生が。⋮⋮
勉強しろよ﹂
ひとの気にしてることを。﹁わ、かってるよっ﹂
いったいどんなひどい顔を作らせてるのか。
769
両手で挟み込んで喉の奥で笑った。
用を済ませれば即立ち去る。薄い闇を浮かび上がる彼のシルエッ
ト。
温められた頬を押さえてぼんやりと見送っている場合ではない。
ぬるい自分に喝を入れた。そして、正面玄関を開く。
以降の行動はマキも知らない、︱︱事実だ。
﹁いらっしゃ、あー⋮⋮真咲か﹂
﹁ただいま﹂
﹁おかえりなさい。寒かったやろ?﹂
﹁へーき。お弁当ちょうだい?﹂
﹁一郎によろしゅうな﹂
強面の祖父からカウンター越しに手渡される。大きな風呂敷は塾
通いのためだと思われてるのかも。店内のお客さんに頑張ってねえ
と声をかけられた。ありがとうございますごゆっくりぃくらい私も
愛想笑いをするようになった。
家の脇に置いた自転車が鈍くひかり、今宵も私を待っている。
ライトを点けると途端にペダルが重たくなる。私は勉強道具もも
ろもろ前かごに突っ込み、サドルをまたいだ。
これから行く先は、
︱︱和貴の家。
770
︵3︶
インターホンを押してすぐには出ない。約一分。脳裏にふと⋮⋮
坂田くんたちの騒ぎを廊下で待っていた宮本先生が思い浮かんだ。
来るのが分かっていれば、待つ行為は、マドレーヌが焼き上がる
までに似た楽しみと化す。
それまでの時間を、相手のことだけ思い巡らせ過ごせる。
﹁待たせてすまんのう﹂
﹁いえ﹂
許可を得ているので外から手を入れて簡単に開ける門扉だけは開
き、そこから玄関扉まで私はゆっくり歩くが、おじいさんが内側か
ら鍵を開けて合流するタイミングは私の到着よりも遅れる。
最初の頃はもっと時間がかかった。
脱いだローファーを揃え、来客用のスリッパに履き替える。ピン
クのチェックの可愛らしい趣味は⋮⋮女の子の来客を意識したもの
だろうか。
和貴のガールフレンド、とか。
おじいさんはスリッパを片方しか履けない。
﹁まだ、⋮⋮痛そうですね﹂
緑高の内履きがズックでなくスリッパだったら、マキの歩き方に
視覚でなく聴覚で気づけたと思う。
床をスリッパで歩くと思いのほか響く。
そして、痛ましい。
﹁だいぶよくなったげ。杖ものうなっとるし。ほれ﹂
﹁⋮⋮あんまり無茶しないでくださいね﹂
ダイニングテーブルに風呂敷包みを置き、このダイニングと二間
続きの和室に、スリッパを脱いであがった。
771
湿ったような、ほんのちょっとかび臭い畳の独特の匂いに、お線
香の煙が混ざる。
電気は点いていない。
死者を悼む、静謐な空間だった。
こちらに開かれたお仏壇に向かい、手を合わせる。
和貴の、⋮⋮お祖母さん。お父さん。お母さん。
お邪魔します。
風が、段々冷たくなってきましたが、いい天気でした。
今日も、緑川の町も緑高も平穏そのもので⋮⋮さっき、交番の前
通ったら、今月の死亡事故は0件だそうですよ。私の前に住んでい
たところじゃ考えられません。名古屋のほうも車の運転は荒いと聞
きます。
⋮⋮あんまり、触れるべき話題じゃなかったですね。失礼しまし
た。
和貴くんは、一番に教室をあとにしました。坂田くんが、ちょっ
つおまえ聞けいや、と言うのも無視して⋮⋮。
さて、と私は膝に手をつき、おじいさんを振り返った。﹁お腹す
きません? すぐご飯にしますね﹂
﹁いぃつもすまんのう﹂
シンクにて手を洗い、やかんに水を多めに注ぎ火をかけた。熱い、
お茶とお味噌汁にしよう。ご近所さんからの戴き物の、しじみのイ
ンスタントのお味噌汁が残っていたはず。
食器棚からお椀を二つ取り出す。傍で椅子を引いておじいさんが
座ろうとしていた。その動作は、ぎこちない。身を引いて私が手伝
いましょうかと目で訊くも、大丈夫なげと首を振る。
772
﹁このくらいのこたぁ自分でできなぁ、わしゃあ一人で暮らしてけ
んげな﹂
彼が、この地を離れない理由がひとつ掴めた。
気丈に振る舞うおじいさんを置いてどこかへ旅立とうとは、私な
ら思わない。
﹃こーゆー前向きな気持ちに、我慢なんかしたくないんだ﹄
彼は、月明かりの夜に、夢と共に思い入れを語った。
おじいさんはいつも、私の知らないいろんな話をしてくれる。将
棋仲間が緑川のあちこちにいて、おじいさんはわざわざカモられに
行く。時代劇の悪役みたいに必要役割だと思っているし、負けるの
が分かっていても楽しい趣味だから辞められないんだとか。賭け事
はしない。戦争に行っていたときにも指した。うちの祖父と、一度
手合わせをした。⋮⋮実は相当強い。
おじいさんの方言は緑川のひとのなかでもかなり強いほうだ。と
いうのを自覚してか、分かるようにゆっくりと発音してくれる。私
も多少ながら方言を織り交ぜて答える。
立場と年齢と言葉が違うものが二人。
けれども、こころさえあれば通じるものだ。
この世は、そうした歩み寄りによって成り立っている。
風呂敷の中身は私の夕食よりも気合が入っている。おせちのとき
しか出さない三段のお重に、俵型のおにぎりに、ブリの照り焼き。
鶏肉の野菜巻き、出し巻き玉子、筑前煮などなど⋮⋮豪華だなあと
いつも思う。
773
これを頂けるのだから役得です。
そう伝えると、すまなそうなおじいさんの表情が和らいだ。
そんな彼の孫の姿は、ここには無い。
合格するのがゴールではない、通過点なのだ。
⋮⋮とはよく言われる。
就職と受験において。
それを体現する多忙な日々を過ごすのが、和貴だ。
彼は、放課後と土日にホームヘルパー三級の講座を受講している。
以外の日には就職先の老人ホームに顔を出し、畑中市のボランティ
アに行っていた先まで彼は出かける。個人的に仲良くなったひとが
何人もいて、⋮⋮特に体調の優れない方のことが気がかりらしい。
そんな矢先に、和貴のおじいさんは足を骨折した。
幸いにして大事は無かったのだが、和貴は、予定の一切をキャン
セルし、始終おじいさんについていようかと伝えた。孫としては自
然な判断だったと思う。しかし、おじいさんは頑として聞き入れな
い。
﹁わしゃあ戦争を知っとる人間なやさけ、骨の一本二本折れたって
たいしたこたあらせん。ほんで、おまえにうろうろされたら落ち着
かんもんでわしゃあ治るもんも治らんわ﹂
﹁⋮⋮一郎のやつ。家のこたぁどうするつもりなげ﹂
和貴がそんな日々を過ごすことになるのを、私は彼からではなく
祖父の口から聞いて知った。正確には、心配した祖母が相談してい
るのを盗み聞きしたのだった。
﹁男の子と二人だけやからねえ、なにかと不自由なこともあるやろ。
ご飯だけでも持ってかんか﹂
﹁ほんやてばーさんやて店があるっちゅうに﹂
﹁じゃあ、私が行く﹂
774
よほど心配事で頭を支配されていたのか。私が台所に入っても祖
父は注意をしなかった。もしくは、買い物から母が帰ってきたと思
ったのかもしれない。
﹁具合悪うなって早引けしたもんが、ぬわーにを言うとる﹂
﹁みんなは仕事で忙しいんでしょう。私だってご飯は食べる。受験
生はからだが資本だもん。ついでに届けるくらいの、小一時間のあ
いだだったら平気だよ﹂
︱︱折しもマキから告白され、和貴からよかったねと告げられた
日に、
私は祖父母を説き伏せて和貴の家に通うことに決めた。
週に三回程度。
おじいさんと二人でお重の夕飯を食べ、日持ちするおかずを冷蔵
庫に入れ、台所周りを片付け⋮⋮取り立てて特別なことはしていな
い。一時間内には去る。万一、鉢合わせでもしたら大変だし。
土日はもう少し長居をし、全体に掃除をしている。手の届きにく
い水まわり⋮⋮トイレにお風呂などを重点的に。階段に掃除機をか
けたり、固く絞った雑巾で畳を水拭きしたり。
﹁和貴くんには私が来てること、内緒にして頂けますか﹂
﹁どしたげ﹂
﹁秘密にしたほうが楽しいからですよ。おじいさんが全部している
振りをして、︱︱和貴くんを驚かせちゃいましょうよ﹂
私が人差し指を口に当てると、おじいさんの笑みが花をつけた。
ああ、私の大好きな。
775
こんな私を愚かと言うなら言えばいい。
﹁ほんっと馬鹿やよあんたっ!﹂
推薦入試の終わった十一月を見計らい、紗優に打ち明けたところ、
⋮⋮案の定。馬鹿という単語が待っていた。
﹁和貴のおじいちゃんは知っとるが? 真咲がむつかしい大学受け
るて﹂
﹁言ってない。でも、それ以外の時間はちゃんと勉強してるよ﹂
﹁そやなくて、あんた。⋮⋮隠すっつうがは、自分でも後ろめたい
気持ちがあるがやろ﹂
うっ。
たまらず私はいちごミルクのストローをすすりにかかる。
一つの困難を乗り越え、こころもち大人に見える紗優は、大声か
ら一転、諭すように言って聞かせる。
﹁おじいちゃんは、⋮⋮あたしらよりも一回りも二回りも長く生き
とんの。あんたが思うとるよりもずぅっと大人なげよ。そら⋮⋮和
貴やて昔はいろいろあったけど、そんでもあのおじいちゃんはいっ
ぺん足りともキレんかった。仏の一郎ってうちのじーちゃんがゆう
とるくらいがなよ。その、おじいちゃんが﹂
息を詰まらせる彼女に、逃げようとしていた私の意識が向かう。
涙を浮かべる、切迫した表情を捉えた。
﹁おじいちゃんが、あんたに気ぃ遣われて喜ぶと思うか? 隠し事
されて嬉しがると思う? どーせ⋮⋮孫みたく可愛がられとんのや
ろ? ⋮⋮それにな。あんたがそんな大変なことなっとるんやった
らあたしに相談してくれたかて⋮⋮﹂
776
﹁自分でしたいって、思ったの。これは、私のわがままなの﹂
裾を掴む自分の手に力がこもった。
﹁⋮⋮真咲のおじいちゃんおばあちゃんも、あんたの気持ち汲んど
るんやろなあ。おばさんも⋮⋮﹂
紙パックの角を折り紗優は結論した。
私は喉元を過ぎる、紗優とは違ういちごの甘酸っぱい風味に甘え
た。紗優はピクニックのヨーグルト味が好物だ。
かさつく、葉ずれの音を聞いた。
風のせいでなく、中庭を突っ切る、⋮⋮一年生か二年生の女子で、
トータル三名。
差し向けられる感情というものに過敏で無ければ、もっと、世の
中は楽に生きられると思う。
﹁あのひとやよ、⋮⋮蒔田先輩が別れた原因作ったん﹂
﹁ふっつーじゃん﹂
﹁あんなブスのどこがいいがやろね﹂
いつも思うのだが。
女の子の、聞かせる目的と、肝心なところを聞かせない、でも刺
激する塩梅を心得たひそひそ話のバランス感覚は見事だと思う。
私の聴覚は目論見通りに引きつけられる。
こちらを睨み、ちょうど、円卓の近くを通り過ぎるとき、
はっきりとした声で、告げられた。
﹁和貴先輩にまで手ぇ出して、図々しい﹂
卓上に何気なく出されていたマニキュアの綺麗に施された指先が、
飲み物のパックを雑巾でも捻るごとく捻り潰した。
777
ゆらり、影絵のように揺らめき、彼女は、立ち上がった。
﹁あんたら全員、⋮⋮一年、やよなあ?﹂怖い。口許が笑っている
のが逆に怖い。﹁⋮⋮喧嘩売っとんのかコラ⋮⋮出るとこ出て、あ
たしは構わんがよ。んなアホな口、二度と叩けんように、成敗した
るわっ! そこへ! 一人ずつなおれぇっ!﹂
最初は抑えた声量だったのが、すごい勢いで叩きつけた。紙パッ
クをだ。
飛沫もろとも浴びた彼女たちは、小さく悲鳴をあげ、命からがら
といった様相で逃げていくのだが、待ていや、と紗優が追いかけに
かかる。
私は後ろから抱きついて止めにかかった。
﹁んもっ、邪魔せんといて! あんなん言われてあたし黙っておれ
んわ!﹂
﹁いいの。ああいうの気にしてたらきりがない、﹂
しまった。
咄嗟に彼女を離して後ずさった。
この行動が不自然だった。
今度は逆に、肩を、掴まれた。
深刻な目が私の隠しごとを覗きこむ。
﹁⋮⋮どういうことやの﹂
問うに落ちず語るに落ちるとはまさにこのことだ。
﹁⋮⋮あの子たちの名札見とけばよかった﹂紗優は理解した。芝生
に落ちたパックを拾い、﹁⋮⋮いつからあんなふうに言われとるん﹂
778
お互い、冷静になり元の椅子に戻った。
﹁学園祭のあとだね﹂
机に突っ伏して深々と長い、うめきに似た溜め息を漏らした。
彼女は動かなくなる。
﹁紗⋮⋮﹂
﹁なっして気づかんかってんろーあーっもぉーっ!﹂
びくっと触れかけた手が動いた。
セットの整ったロングヘアをわさわさとかき乱し、唐突にわめき
始める。
気でも触れたのかと私は思った。
﹁なして笑うとんの。あたし本気でムカついとるがよ。あんたかて、
﹂
机を叩いた紗優に同意を求められたが、﹁ぜんぜん﹂私は笑いを
噛み殺しながら答える。
﹁あたしは許せんよ。真咲があんなん言われたら悔しくてたまらん。
今晩眠れるかも分からんわ﹂
﹁⋮⋮ありがとう。その気持ちだけで充分に嬉しい﹂
私は、握り締めている彼女の拳に触れた。
和貴は、⋮⋮こういう優しさをもって私に触れてくれた。
マキに、彼女が居るのだと知って衝撃を受けたときも。
砂浜で恐怖に陥った私が彼を見つけたときも。
﹁誰がなんと言おうとも、私はしたいことをするって決めたの。そ
れにね、和貴のことが好きだってはっきり分かったから、この気持
ちを曲げるつもりは無い﹂
779
﹁ま、さきぃ⋮⋮﹂
固い拳が解け、私の手を握り返すものに、変わる。
春が訪れる前の雪解けに似た、こころのほぐれる瞬間を目の当た
りにしている。
力は、︱︱誰かを征服するためではなく、守るために扱う。
机を叩くことでぶつけるのでなく、この手は︱︱紗優のこの手は、
誰かの髪を素敵に整え、幸せな気持ちにさせるためにあるのかもし
れない。
その紗優の瞳に、じんわりと涙が浮かんだ。
ただの中庭が、美しい彼女に焦点に当てれば、まるで薔薇園に変
えてしまう。
胸が熱くなるのを感じながら、私は、両の手で包み込んだ。
その潤んだ、宝石のかがやきが。
大きく、見開いた。
振り返って驚愕した、あまりの近さに。
﹁タ、スク、いつ、いつからそこに⋮⋮﹂
座ったまま私は腰を抜かしそうになった。
﹁たった今です﹂私に寸時微笑む。微笑みを消すと紗優に向け、﹁
宮沢さん。上田先生が呼ばれていましたよ。パソコン検定を受けら
れるとかで⋮⋮﹂
﹁あ! 申込書やよな、忘れとったっ﹂
じゃあなぁーと乱れたセットを手で整え、紗優はさきほどの女の
子たちと同じ道を元気に駆け戻っていく。
残された私は、パックのいちご牛乳の残りを飲み干した。ストロ
ーの口を親指で押さえつつ畳む。ごぱっと音を立てるのは恥ずかし
いので若干余らせてしまった。
780
待つタスクからびしびしと伝わる。
絶対、聞いてた。
﹁お久しぶりですね、都倉さん。元気そうで安心しました﹂
﹁タスクこそ﹂
恥ずかしい顔を隠すようにし、置いていた学生かばんを膝に乗せ
た。私が立ち上がるとタスクは身を引き、自分のお腹の辺りのブレ
ザーのボタンを摘まんでおどけた。﹁猛勉強がたたって五キロも痩
せちゃいました。もうすこし落ちるくらいが丁度いいのかもしれま
せんが﹂
﹁⋮⋮ごめん。あんまし違いが分かんない﹂
その手で肉付きのいい頬を擦りタスクは笑った。
﹁全部、聞いてた?﹂
﹁ええまあ。⋮⋮すみません。中庭におられる貴女がたの姿が見え
まして。すぐにお声がけしなかったのは、僕の不徳と、好奇心に依
るものです﹂
突然の質問に、彼は今度は困り笑いをした。
でもこの彼が出遅れたからこそ、私は、私の本音を紗優に伝える
ことができた。
自分の気持ちも、改めて確認した。
タスクは、中庭を出入りするためのガラス扉を紳士的に押さえて
くれた。⋮⋮このようにタスクと二人過ごす姿を誰かに見られれば、
またあらぬ噂を立てられるかもしれない。
ちょっと鬱な気持ちになる。
自分の気持ちさえしっかりしていればいいんだけれども。
外からなかに入るときの明度の差に、いつも、立ちくらみに似た
ものを覚える。逆の場合は顔をしかめるだけで済むのに。タスクも
玄関のほうに行くみたいだ。すこし落ち着いてから私は口を開いた。
﹁⋮⋮好奇心なんてタスクに、あるんだ﹂
781
﹁どうも、僕をサイボーグかアンドロイドのようにお思いですよね
都倉さんは﹂話を引き戻す発言にタスクは微苦笑をする。中指で眼
鏡の縁を押し上げ、﹁感情を持たぬ人間なんておりませんよ﹂
私は通りざまにパックのごみをごみ箱に捨てた。﹁機械人間も感
情を持つんじゃなかったかな。ほらターミネーターのシュワちゃん
は親指立ててたじゃない。溶岩、⋮⋮﹂じゃないやなんだっけあれ。
﹁溶かされる前にさ。グッドラックって﹂
﹁映画ですよね。僕は観ていません﹂
﹁え!﹂あの名作を観ていないひとがいるなんて。﹁じゃ。サラ・
コナーもエドワード・ファーロングも知らないの?﹂
﹁耳馴染みのないラストネームですね。アメリカの方でしょうか﹂
﹁一人は役名だけれど⋮⋮彼のほうはテレビCMにも出てたよ。カ
ップラーメンの。すごくかっこいいんだよ﹂
﹁貴女の好奇心のほどを知れて僕は安心しました。⋮⋮実を言うと
ですね。彼以外に異性として関心を持つ相手は居ないのかと懸念を
していたのですよ﹂
﹁えっ、と﹂
言葉に詰まる。
俳優にミーハーな自分をほくそ笑むタスクに。
しかも、
想いをとっくに、看破されている。
﹁そ、んなに分かりやすいかな、私⋮⋮﹂
﹁大丈夫ですよ。その角度で持って物事を見なければ案外、気づか
ないものです。カメラのアングルを作るのと同じですね。⋮⋮彼が
気づく心配もありません。彼は、あなたが自分を好いてくれている
という角度で物事を見ようとはしていませんから。この観点で、あ
なたと彼は、非常に似ています。自分に対して向けられる好意にだ
けは、鈍い﹂
782
⋮⋮困ったもんだ。
﹁悪い意味ではありませんよ﹂とタスクはフォローする。﹁愛情の
形、表現は人それぞれです。⋮⋮同じでは何も面白くありませんか
ら。どう表現するかでそのひとの個性が現れますね﹂
﹁タスクはどういうタイプ?﹂
和貴が、秀吉タイプと形容したのを思い出しながら私は訊く。
﹁傍観者です﹂
瞬時に彼は答えた。術者や魔術師などと形容するのが的確に思え
たのだが。やっぱり、⋮⋮他者からの評価と自己分析には微妙に食
い違いが生じる。﹁輪のなかには参加せず、あたたかな人の輪を外
側から傍観する⋮⋮基本的にはそちらのほうが合っています。我を
忘れ、身を焦がす恋に溺れるのはどうも苦手というか﹂
寝ぐせでハネた髪を撫でる行動には、なんだか、抑制したいとい
う欲望がかいま見えるような。
私は率直に口にする。
﹁タスクって、好きな人が、いるの?﹂
﹁いますよ﹂
初耳だ。
﹁私の知ってるひと?﹂
﹁よくよくご存知のお相手です﹂
それってひょっとして、
紗優!
783
喜びに満ちた顔をあげると、彼は、静かに、首を振る。
﹁⋮⋮貴女の思い浮かべる方ではありませんよ﹂
﹁そっか⋮⋮﹂
思うようにいかない。
紗優とタスクが相思相愛になってくれればいいのにと思うことが
ある。
勿論、気持ちがどうにもなるものではないし、そのひとの想いこ
そが一番大切なのだと分かっている。
紗優を好きだという坂田くんの気持ちも。
けどもときどき。
あまりにすれ違う恋の行方に、叫びたくなることがある。
﹁どうやら、お迎えのようですね﹂タスクが足を止める。下駄箱の
傍に彼の姿を見つけた。﹁あれもまた、彼の愛情表現の一つですね。
都倉さんを目立たせるのも構わずに動く⋮⋮身を焼かれるイカロス
の翼が肉眼に見えるようです﹂
比喩を用いるタスクは、男子に手厳しい。特に、マキには。
﹁僕が、彼に言ってきましょうか﹂
﹁平気だよ﹂
膝に手を添えてやや屈んだ彼は、まぶたを動かし上品に微笑んだ。
牛乳瓶の底みたいな黒縁眼鏡と、寝グセの目立つ髪型がセットで
なければ、気品すら漂う仕草だった。
﹁⋮⋮僕はですね、都倉さん。貴女の幸せを願っています。⋮⋮ご
きげんよう﹂
大袈裟な。
と思いつつ別れの手を振り、マキの元へ駆け出した。
784
そして、桜井くんの幸せも。
タスクの小さなつぶやきは、おせーぞと呼ぶマキの大声に、そし
て周囲の雑踏へと吸い込まれていった。
785
︵4︶
﹁それでは、宮沢さんの合格を祝し、今後のご活躍を祈って﹂
﹁かんぱーい!﹂
真向かいに、右隣に斜め前に左隣に、ちょっと離れたひとのとこ
ろまでグラスを合わせに行く、⋮⋮ひとびとを、眺めている。
正面の和貴は私の目を見すらしなかった。
﹁みんな、ありがとー﹂
気鬱を拭うのは主賓の明るい声。
つい先日、紗優は、畑中にある美容師専門学校への合格を果たし
た。
そのお祝いにパソコン部全員で﹃よしの﹄に来ている。お日柄も
天候にも恵まれた土曜日となかなかお店は忙しそうだけれど、例の
半個室を用意して頂いた。パソコン部ではときどきこちらのスペー
スをお借りする。
坂田くんのご厚意によるものだ。
アイスクリームがこんもり盛られたクリームソーダも坂田くんの
好意によるものだ。置かれたそれに﹁ありがと﹂と言った紗優はふ
と思い当たったのか、長い髪を耳にかけつつ坂田くんのことを見あ
げた。﹁⋮⋮あんた。卒業したらどうするん﹂
そうするとアーモンド型の瞳が三白眼となり、ますます猫っぽい。
﹁ん。オレ?﹂自分を指すと、すかさずどこかから椅子を引き寄せ
て割って入り、﹁なんやねな宮沢さん。オレのこと気になってしゃ
786
ーない目ぇして。⋮⋮夜も眠れんで悩んどるのやったらそら治療せ
なあかんやろ﹂
﹁どーすっかって訊いとるだけっ。こっち残んが?﹂
苛立ってかストローを思いきし噛む紗優。
﹁いんや。東京﹂
口を、開いた。
予想外だったらしい。
﹁バンド続けるんは緑川では厳しいもんでな、⋮⋮いっときのもん
やと思うとったんかいな﹂大人びた声色で片目をすがめる。﹁オレ
の夢は東京ででっかくなるまで終わらん。終われんのや。せやけど、
宮沢さん⋮⋮、寂しゅなってまうなぁ、オレが傍におらんなると⋮
⋮﹂たっぷり間を置いて演者の悲しみから一転。底抜けに明るく胸
を叩き、﹁ほんでもモウマンタイ! 愛の力は世界を超えてみせる
ダイジョーブイ! オレ畑中でもライブはキッチリやってくさけ、
これからもずくっずくみっちみち骨の髄まで愛を確かめ合﹂
言葉が変なところで途切れた。
椅子の背に回された手を紗優がはたいていた。器を持ってその椅
子ごとずれて、Vサインを保つ坂田くんに白い目を注ぐ。
は、と息を吐いたのは和貴だ。
﹁つかおまえ、卒業できんのかよ﹂
﹁オレ? ⋮⋮聞くなや。追試受けんの確定﹂
﹁⋮⋮アホ﹂
何故だか椅子を引く。
﹁どこ行くんや﹂
﹁電話﹂
﹁おい。使うねやったら親父かおふくろにゆうて台所のん使えや。
公衆電話やと金かかってまうやんか﹂
﹁⋮⋮いい。借りは作りたくない﹂
﹁け! 十円百円がなんぼのもんじゃい。そんなもんで恩着せがま
しゅー振る舞うケツの小せえ男やないでオレは、⋮⋮うぉい、最後
787
まで聞けいや、桜井ぃっ﹂
シカトを決め込み和貴はこの場から消えていく。
私はその後ろ姿に目を、凝らした。
日頃は固い素材のブレザーに隠されているけれど、⋮⋮やっぱり。
夏よりも体重が落ちた。
グレーの長袖のロングTシャツがぶかぶか感を引き立てる。肩か
ら腰に繋がるシルエットがあまりにも、細い。
このところの和貴は、授業中のみならず休み時間も机に突っ伏し、
顔をあげればあくびも頻繁に。おじいさんの選んだ茶色いべっ甲眼
鏡をときどきかけて登校する。
毎日、忙しすぎるんじゃないかな。
いまのを見る限り、やつれている。
心配だ。
ついたての向こうに消えるのを見送りつつ、ストローを口に含む。
このアイスティーも坂田くん自ら運んできたものだった。
﹁ほな。オレはぼちぼち行くわ。ゆっくりしてってな﹂
思いのほかあっさりと打ち切られ、紗優の面食らった顔を私の目
は捉えた。
﹁坂田くん﹂彼が通り過ぎる際に声をかけた。﹁この部屋、とっと
いてくれてありがとね﹂
なーんも、と片目をつぶり、﹁なんやらこの部屋で都倉さんの顔
見たらライブしとなった﹂
聞き慣れてきたイントロを陽気に口ずさむ。
銀のトレンチをぶんぶん振り回しつつ。
あの赤と黒のポーズがしたいんだろうなあと私は笑った。
この町には、ファミレスが無い。
気の利いたファストフード店も無い。
私たち高校生が気軽に立ち寄れる洒落た場所は皆無といっても過
言では無く。洒落てない場所を挙げれば、例えば小澤さんたちが案
788
内したあのスーパーのなかなど。親や知り合いが行き交うど真ん中
のあのエリアは、くつろぎを公衆の面前で晒すようで私には抵抗が
ある。食べ物にもそそられない。
それか、個人で経営するレトロな喫茶店か。外観がスナックと変
わらないし敷居が高い。入るのは大人ばっかで煙草の煙がすごいん
だとか。
スタバどころかドトールもルノアールも皆無のこの町においては、
駅から徒歩三十分という立地ではあれど、﹃よしの﹄は私たちの求
める条件を満たす最上の場所だった。
立ち寄る場所を求める私たちだけでなく、洒落っ気を求めるこの
町の人びとにとっても。
忙しい土日にこの特等席を空けてくれた坂田くん。
マスターにもお礼を言わないと。
タスクに声をかけ、一旦私は離席した。
いつかとはテーブルの並びが違い、円卓がなにかの式場のように
配置され、席の八割方が埋まっている。お昼を外したにも関わらず。
高校生は少なく、しかも私の知らない顔ばかりで以外は主婦がほ
とんど。卓上を見る限りもランチタイムを過ぎて紅茶のお時間だ。
気軽にお茶をする場所が欲しいのは彼女たちも同じなのだろう。ベ
ビーカーを置くスペースがしっかり確保されているのは田舎ならで
はで。
その円卓のカーブの隙間をぶつからないよう、慎重に目的地へと
進む。
﹁こんにちは。マスター﹂
L字型の広いカウンター内にて、隅っこでぽつねんと新聞を読む
⋮⋮このひとこそ、坂田くんのお父さんである、この店のマスター
だ。
﹁忙しいときにすみません。お部屋、ありがとうございました﹂
﹁かまへんよ﹂
789
すこし私は動揺した。
風邪でも引いているのだろうか。
﹁その声、⋮⋮どうかされたんですか﹂
﹁なーんも﹂首を振りがさがさと新聞を畳みにかかる。ポマードに
固められ揺れない髪は近くだとすごくにおいそうだ。﹁なして、亡
くなってしもうてんろうなあ長治さんは。あのひとは神戸の星やっ
たぞ。あのひとがこの世にもうおらんと考えるだけで胸が、苦しゅ
うて、たまらんなるわ⋮⋮﹂
サヨナラおじさんとして名高い淀川長治さんはつい先日亡くなら
れたばかりだ。
胸が実際、痛むのか。
赤子の頭をすっぽり包めるサイズの手で胸元を押さえ、力なく、
丸椅子にて項垂れる。⋮⋮私なんかうっかりぶつかったらふっ飛ば
されそうながたいの良さ。筋肉隆々の二の腕が覗くぴちぴちの半袖
Tシャツにクリーンな水色のエプロンを合わせている、室内だとい
うのにサングラスをかけ。
第一印象は、
歌舞伎町辺りで主人公に肩をぶつけて﹁おいこらちょっと待てい
やねーちゃん﹂と悪態をつくチンピラ辺りを従えるヤのつくお仕事
をなされている大ボスならぬ中ボス辺り、
それが。
大の映画ファンで穏便にも洋楽好きと来たものだ。
﹁⋮⋮明日、追悼特集があるそうですね、日曜洋画劇場で⋮⋮私も
観るつもりです﹂ポケットをまさぐりティッシュを取り出す。﹁こ
ちら、よかったら⋮⋮﹂
﹁おおきに﹂
手を伸ばし、涙にむせぶ声色で受け取る。サングラスに隠された
790
目は真っ赤に違いない。
広い室内の隅で熊みたいな図体を小さく縮こまらせ、鼻をすする
その姿は、死を弔うという点を除けば微笑ましくもあった。
﹁あんった、いぃつまでめそっめそしとんの。男のくせしてみっと
もないっ﹂
場違いに強気な声が後方から起こった。
カウンターを隔ててマスターの斜め前に立つ私に気づくと、一変。
打って変わったよそゆきの笑顔を振る舞い、﹁あっらあ真咲ちゃん。
こんにちはー﹂
音程が一オクターブくらい上がった。
﹁お邪魔してます﹂
顔と声をいっちょうらのスーツと同じく使い分けるのは、どこの
主婦も変わらない。女性の習性といったところか。
﹁⋮⋮堪忍な、芳乃﹂
お店の名は奥様の名前に由来する。
マスターがグラサンをあげて太い腕でこっそり目元を拭うのにど
うやら芳乃さんは気づかず、食器でいっぱいのトレンチをカウンタ
ーに置き、私に微笑みかけた。﹁こんなせんまいところやけどゆっ
くりしてってね﹂
この土地のひとは一様にそう言う。自分たちの住む場所に誇りが
無いのか︱︱いや、むしろ大有りだ。
﹁紗優ちゃんは学校出たら専門学校に行くんがやろ﹂食器を手早く
下ろしこちらに芳乃さんは首を捻る。﹁真咲ちゃんはどうするが?﹂
﹁大学を目指して受験勉強に勤しむ身分です﹂
﹁あらあ、ちょーど大変な時期やがいね。ほぉら、こんなとこ立っ
ておらんと、座って座って﹂
背を押され高いスツールに腰掛ける。
﹁みんな緑川で勉強頑張っとるがにうちの子はついてけんで、万っ
年赤点ながよ。大学なんて狙えるとこにもおらんわ﹂
私の背に手を添えたまま、ホールを振り返り、
791
﹁あの通りやがいね⋮⋮﹂
赤い口をへの字に曲げる。
耳を澄ませば彼らの会話は私たちにも聞き取れる。
なあな、あんたら三人だけで来とんの? オレのこと知っとる?
知らなーい。
っかー。緑川でブイブイ言わしとる坂田春彦つったらオレのこと
やでえ。なーなーこのあと暇やったら、
あ! 桜井さんや!
やぁんかっこいー。
あたし近くで見てくる。
あたしもー。
⋮⋮空となった円卓の傍に残されたのはナンパを失敗し肩を落と
す姿、のみ。
﹁あいっつはほんに、懲りんやっちゃ。⋮⋮これな、よかったら﹂
ごとり、カウンターになにかが置かれた。ティーカップソーサー
だ。
﹁あ。すみません﹂
アップルティーのかぐわしい香りに包まれつつ、私は、坂田くん
の両親の話に耳を傾けた。
坂田くんは、緑川第一中学校⋮⋮和貴が墓地を眺めるあの丘の上
の公園に隣する中学に通っていた。
期間は、たったの半年。
バンド活動と女の子にうつつを抜かす坂田くんを見かねてマスタ
ーは、格段に離れた海野中学に転校させるという強硬手段に出た。
安田くんと入れ違いだったのかもしれない。
792
この町には私立校が無い。学区の違う学校に通うのは、いじめら
れてとかよっぽどの事情を除けば皆無。しかし坂田くんは順調に順
応した。
バンド活動と女性関係も含めて。
⋮⋮いまのを見る限り後者は空回りだったかもしれないが、とも
かく。
中学を卒業後は定時制か東工に通うかを考えていたのだが、バン
ドを続けるんなら緑高に入れとまたも条件を突きつけられ、無事、
坂田くんは入学を果たした。
火事場の馬鹿力はかなりのもの。
しかしコンスタントには続かない。
バンドのことを、除いては。
﹁あの子、なーにをさせても長続きせんがよ﹂芳乃さんの声には張
りがある。本当に希望を捨てた人間はそんな話し方をしない。﹁野
球もサッカーも習わしても三日坊主どころか半日で抜け出してもう
てなあ⋮⋮ほんっに、部屋でも外でも歌うてばーっかりでいったい
どこの馬の骨になるんか分からんもんやわ﹂頬の肉が薄い。よく動
く口に応じて目尻に頬に筋が入る。鮮やかなグリーンのブラウスに
きっちりしたまとめ髪が似合う。﹁小学校んときに遠足さぼったこ
ともあってんよ。学校から電話来てわたしら、攫われでもしたんか
と気が気でのうなって、あちこち、探して回ったんよ⋮⋮大人の気
も知らずあの子な、ひと、りで、海行ってずぅうーっと歌っておっ
たの。洞窟んなか自分の声よぉ響く、てな、けらけら笑っておって
⋮⋮怒る気力も失せたわ。あの調子やもんで、緑高行って真面目な
子と関わればちょっとは矯正されるかと思うたんに。⋮⋮いったい
なにになるつもりなんか、ねえ⋮⋮﹂
顎をしゃくって示す先を追えば、今度は主婦たちの輪に混ざり、
子どもたちの相手をしていた。⋮⋮全員女の子なのが気にかかるが。
793
光源氏狙いで無いことを願おう。
さてよく口を動かす芳乃さんだが、その手はグラスを磨き続ける。
既に十個完了。きびきびと指先を腕を動かす、長年身についた所作
が美しい。首から下が別の生き物のようだ。
マスターは奥で手持ち無沙汰だったのが急に、コーヒーを挽き始
めた。一瞬にしてカカオの薫りが匂い立つ。
私はカップを口に含み、手持ち無沙汰なマスターの行動を目で追
っていたのだが、
﹁真咲ちゃんが羨ましいわ。しっかりしとるうえに、可愛い恋人ま
でおって﹂
吹きそうになった。
﹁な。無いですから私⋮⋮いません﹂
﹁そうなが?﹂ひとつ、磨いたグラスの根元を人差し指と中指で挟
んで置き、またひとつ、手に取る。片目をつぶり、掲げたグラス越
しに向こうを見据え、﹁⋮⋮こっからお客さんのことがよーう見え
るんよ。和貴くんな、こっちずっとちらっちら見とんの⋮⋮わたし、
よぉっぽど真咲ちゃんのことが気になるんやと思ってな﹂笑ってウ
ィンクする。
期待など持たなかった。
まさか、と苦笑いを漏らし、打ち消しそうと思った事実を確かめ
られた、いっとき。
コーヒー豆を機械に入れるマスターの動きも、さっきの女の子た
ちが席に戻り談笑する姿も、坂田くんが女児をおんぶして歩きまわ
るのも、
︱︱背景にしかならなかった。
こちらからほど離れた、お店の入り口近くで。
緑色の公衆電話の受話器を耳に添える和貴は、紛れもなく、私の
ことを見ていた。
794
すこし驚いたように見開き、視線が静止する。
見つめ返す。私だけを見ている和貴を。
この一瞬。
時間が停止して感じられた。
逸らしたのは私が先だった。 スツールを降り、私はマスターと芳乃さんに声をかけ、気持ちの
向かう方向へと進んだ。
ガラス玉の透明さを真っ向から見据える。
こんなにも瞳が綺麗なひとを、私は知らなかった。
久しぶりの、ことだった。
私が近くに来ると和貴は受話器を置いた。小銭が、吐き出される。
﹁おうちに電話?﹂
﹁⋮⋮ん﹂やや屈んで小銭を取り出す、和貴の意識がそちらに集中
する。﹁帰り遅くなるってゆいたかったんに、なかなか出ないから
気になってさ⋮⋮﹂と後ろポケットに入れる。小銭を直接入れる派
みたい。
﹁将棋指しに行ってるんじゃないかな。土曜は大抵吉田さん家だよ﹂
﹁よく、⋮⋮知ってるね﹂
﹁和貴のお祖父さんの話をよくうちの祖父から聞くから﹂
作り笑いしてみるも内心は冷や汗だらだらだった。
自分から和貴のお祖父さんの話に触れるのはよそう。
なにか思いつめた和貴は、私の頭の上から見た遠くなにかを気づ
き、小さくため息をこぼした。
︱︱あの声は大きい。いろんなところに顔を出す彼のそれは。
茶色いついたてのまえに男女が二人。
795
彼は彼女の腕を引っ張った。素早く彼女に顔を近づけなにかを言
い、⋮⋮手加減の入ったビンタを食らった。
それでも追いかけてなかに、入る。
はたから見て健気な、諦めの悪い言動だ。
彼も、私の知る諦めの悪いエネルギーに駆られている。
私からは羨ましいと思えるほどだった。
けれども、和貴が気鬱になる理由は︱︱
﹁⋮⋮坂田くんに冷たくするのは、紗優を、盗られる気がするから
?﹂
私の口が動くのは無意識だった。
﹁違う﹂
低い声。憤りを持ちつつもそれを押し殺した、声。
それか、︱︱ひっそりと九月に合格を決めた和貴のときにはお祝
いをせず、紗優のときだけしているのだから、拗ねているのかもし
れない。
頑なな表情を貫く彼には、冗談でもそんな話ができなかった。
﹁そっか。⋮⋮ごめん、変なこと言って。さき戻ってるね﹂
﹁うん⋮⋮﹂
間近に見ると和貴の頬が削げていると分かった。
思いつめた目をしていた。
私は、坂田くんみたくビンタされる勇気を持たない。
頭っからダイブする勇気を。だって、
︱︱ずっと好きだったんでしょう、マキのこと。おめでとう。
拒まれるのが、怖い。
あの一件でできた壁をどうにも崩せない。
風が吹けば倒れるだろうこのついたてのように簡単に行けばいい
のに。
796
﹁パソコン部限定やのになっしてあんたが居座っておるが﹂
﹁やーって宮沢さん。オレが傍におれる時間は限られとるんよ? さびしゅーならんようずぅっとつきっきりでおるわ﹂
﹁おらんでいいっ﹂
﹁⋮⋮不毛ですね﹂
﹁ちょっつ、決めつけんなや長谷川っ!﹂
しかめっ面を作っていた紗優までもが、笑っている。
なんだかんだで坂田くんと一緒に居るのは、楽しいのだろう。
変な冗談を言うのは、坂田くんなりの愛情表現だった。
自分の好きなひとが片想いをしていることに、気づかないはずが
ない。
﹃愛情の形、表現は人それぞれです﹄
なにかに呆れたり、軽く怒るいっときは、一方通行の悲しみから
逃れられる。特に、怒りなどは効果がてきめんなのだ。
石井さんと川島くんの間に入ろうと思ったのに。
席を探す私に気づき、マキが隣の椅子を叩いた。
もともと座っていたそこに戻ると、安田くんと会話をしつつも椅
子の背を引いてくれた。
ぶっきらぼうでも伝わる、彼の愛情表現。
いつぞやとは逆の立場になったいまなら、よく分かる。
出会ったばかりの頃の、私に対するマキの気持ちが。
自分に対して好意を持つ相手を突き放すのは難しい。好意自体は
嬉しいものだし、相手と交友関係を保ちたいのなら尚更。
797
そういうのが気を持たせる態度に、繋がる。
うやむやを与える罪悪からか、時に、優しくしてしまう。
﹁ちがいねえ﹂
私の思考に合いの手を入れるタイミングでうっすらと笑う、マキ
はなんの話をしているのだろう。
たぶん私の考えていたのとは違うことだ。
﹁どうかしたか﹂
﹁ううん。なにも⋮⋮﹂
氷の溶けたアイスティーをストローでかき回す。
優しい眼差しを、⋮⋮恋心の灯る彼の目を受けて私は、分かった。
もし、彼が、
稜子さんを抱きしめる姿を目撃しても、
二人でデートしてる場面に遭遇しても、
きっと私はあれほど動揺は、しない。
一つの、恋心はいつの間に氷解していた。
それを感じながら私は無言で、希釈されたアイスティーを喉の奥
に流し入れた。
798
︵1︶
十一月二十七日金曜日。天候は忌々しくも、曇り。
一年で最も学校に行きたくなくなる日がやってきました。
﹁おい。都倉﹂
往生際悪く輪から遠のいてアキレス腱を伸ばしているとマキに呼
ばれた。水野くんも一緒だ。⋮⋮二人は同じ三年三組だった。
クラスが違うとそういう、交友関係がなかなか見えてこない。
﹁おはよ。なにか用?﹂
﹁用がねえとおまえに話しかけちゃならんのか﹂
ストレートな物言いに水野くんが顔を背け、苦笑いを漏らした。
﹁おまえ。今年はリタイアするなよ﹂
こちらに一歩を踏み込む、にこりともせぬ彼の真顔に、
腕を抱え込みストレッチをしかけていた私の動きが、止めさせら
れる。
﹁それが、用事だ。うし行くぞ﹂
﹁ちょっと!﹂終わったとばかりに背を向けるマキを私は引きとど
めた。﹁待ってよほんとにそれだけ言いに来たの? 嫌味じゃん完
全﹂
薄くて大きな背中が細かく震えている。ときどき、感情表現がこ
んなふうに豊かになる。
水野くんまでも白い歯を見せて。
799
そりゃあ、二人はいいよ。
マキは毎日十キロだか走りこんでるし水野くんは陸上部の看板エ
ースだったし。十キロ慣らしで走る程度なんて朝飯前だろう。
でも私は、違う。
去年は寝不足と内緒だけど生理痛もでバテて途中棄権した。
その古傷をわざわざ触れに来るのだから、意地が悪い。
﹁⋮⋮いつっまで笑ってるの⋮⋮本当に怒るよ﹂
﹁わり﹂
横を向き、収まらない笑いを手の甲で隠す。
フグみたくほっぺた膨らませすぎたせいか。
ぶほっ、
と指で空気を抜いてみると、彼は両膝に手をつき、抑えていた笑
いを開放させた。
﹁⋮⋮ぼちぼち時間やぞ﹂水野くんがマキに目配せをする。﹁さぁ
ーて。さくっと一位獲りに行くかぁ﹂
最後は自分に言ったつもりだったろうが。
それを許さない人間が、現われた。
﹁一位は俺だ﹂
あの。
このひと笑ってるけどさっきとはまるで違います目が本気です青
白い炎のオーラが見えます。
頭で警報が鳴り響くのだが、水野くんはいかにものんびりした調
子を保ち、
﹁なぁーにをゆうとるが﹂鼻で息を吐く。﹁おれいまも走りこみし
とるんやぜ。勝てるわけないやんか﹂
この発言は不遜なものではなく、市や奥能登の大会を勝ち進み、
個人で県大会にも出場したからこそ彼は言っている。
800
マラソンのエキスパートを相手に勝つなんて言うのもおこがまし
い。
なのに、マキは、私の顔色も水野くんのほうも余裕をもって見回
し。
悪魔も魅了されるほど瞳だけで艶やかに、微笑んだ。
﹁貴様は負ける覚悟をしておけ。去年の記録をぶち抜いてやる﹂
宣戦布告と共に、裏門の男子の輪のほうへ歩き出した。
置き去りにされたのも含め、水野くんは戸惑った様子。
﹁⋮⋮めっずらしいなあ、蒔田が本気になるん。いぃつも手抜きし
とんがに⋮⋮﹂
﹁そうなの?﹂
彼、なんでも本気で取り掛かりそうなのに。
本気でも完走は難しい私が意外さを込めてそう訊くと、水野くん
は指を一本立てて、﹁一位が、おれ﹂自分の胸を指す。﹁二位が桜
井。三位以下は似たり寄ったりや⋮⋮大体が陸部の誰かや。毎年こ
んなもん﹂ゆっくりと手を下ろし、マキのほうをきつく見据える。
﹁あいつは序盤に仕掛けといて途中からペースをむちゃくちゃ落と
す。嫌味な走り方をするんや。⋮⋮自爆ゆうやつもおるが、体力有
り余っとんがはおれの目に丸わかりや。マジで走れば結構いい順位
に行けるはずなんやが⋮⋮ま。あいつが本気だすんならちょーどい
い﹂
卒業する前にケリをつけられる。
と水野くんは負けず嫌いな一面を覗かせる。
そしてマキが校舎の向こうに消えても水野くんは動かない。男子
のスタートは女子よりも早かったはず。脚力に本当に自信があるよ
うだ。
彼が走る前に、私には聞きたいことがあった。
﹁和貴も足が速いんだね﹂
801
﹁中学んときは市でトップクラスやったからな﹂いまはどーか知ら
んが、と手のひらをうえに向けた。﹁あいつより足の速いやつはお
れしかおらんかった。続けておったらかなりの戦力になったはずな
んやが⋮⋮﹂
目をすがめて残念そうに水野くんは言う。
いつか和貴に突っかかったのは、期待の裏返しだったのかもしれ
ない。
拡声器で先生がなにか言ってる。女子の輪のほうが騒がしくなっ
てきた。
﹁私、そろそろ行くね﹂
﹁おれも﹂瞬く間に和貴とは異なるフォームで走りかけた水野くん
が﹁あ﹂と足を止めた。﹁今年は完走できるよう頑張ってな、都倉
さん﹂
応援されたのに苦笑いをしてしまう。
私の居る位置はほとほと彼らとは遠い。
* * *
﹁どーこ行っておったん、もう!﹂
⋮⋮や。
元居た木陰に戻ってこなかったのは紗優だよ。
腰に手を当てて仁王立ちしてる横には小澤さんが。トイレで出く
わしてお喋りしてた展開が読めた。
﹁なんか、⋮⋮久し振りだね、小澤さん﹂
き
彼女が鼻を鳴らすと二房に纏めた髪の束が、揺れた。
﹁あんた、たまには四組に来ぃや﹂
﹁⋮⋮そうだね﹂
802
和貴とマキのファンの総本山が居るから三年四組には近寄りがた
いのだが。
と思っていた矢先、小澤さんの斜め後ろの、二時の方向にまさに、
そのグループを発見した。
土地が変わっても女の子集団の行動パターンは変わらない。流行
の服みたくみんなが好んで着用する。
意図的に睨み、こちらの意識を波立たせたうえで外し、波立たせ
る話をする。聞こえるか聞こえないかの加減で。
私は気にしないよう、紗優のほうを向こうとした。
なにかが引っかかり、動けなかった。
ジャージの裾が後ろから引っ張られていたのだと気づいたのは、
﹁真っ咲せんぱぁい! おっひさぁ! ひさぶりぃー!﹂
陽気な挨拶をされた直後だった。﹁石井さん⋮⋮﹂
あはっと笑った彼女もまた気づいたのか。
舌打ちをし、︱︱
二時の方向に突き進む。
﹁おっめーら! さっきからこっちガン飛ばしてんじゃねえよ! しばくぞ!﹂
ドスの利いた声に私は呆気にとられた。
﹁い。石井さん⋮⋮﹂
先方も出遅れた。
自分たちにぶつけられているのだと認識するのに。
周囲の視線を集めるでっかい声で石井さんは畳み掛ける。﹁和貴
とマキ先輩モノにできん女のひがみやろ。だっせえ!﹂
﹁はあっ!?﹂
803
﹁なんやこの一年﹂
﹁喧嘩売っとんがか!﹂
⋮⋮流石に女子グループから次々怒りの声が湧く。総勢七名。反
応を見る限りにはこの全員が石井さんの一年或いは二年先輩。
相手にするのも分が悪い。
追いついて、石井さんを宥めにかかると︱︱彼女の腕が震えてい
ることに心底驚いた。歯の奥を噛み締める音まで聞こえる剣幕にも。
ひとまずは、連れ去るのが先だと判断した。
﹁ギャルはすっこんどけ﹂と私たちの背に追い打ちがかかる。
すると石井さんは奮然と私の手を払いのけ、
﹁その。ギャルやからって差別せんで面倒見てくれたんが真咲せん
ぱいや。あんたらこそ関係無いやろ。おばさん!﹂
⋮⋮石井さん。
接する当初、内側では様々な葛藤があったけれど、その言葉は素
直に嬉しかった。
この喋り方ができるのなら普段もすればいいのに。
私は笑って石井さんに話しかけた。﹁おばさんって言ったら私も
おばさんだよ﹂
﹁ほんっなことゆうとるんじゃないよぉー真咲せんぱいあたしぃー﹂
⋮⋮また元の喋りに戻り、金髪に近い毛束を指に巻きつける。不
思議なひとだ。
視界の端に捉えていた、心配して駆け寄ってくる紗優と小澤さん
が次第に大きくなる。﹁ストップ﹂とジェスチャーで伝え、私は、
彼女たちのほうへ、何事もなかったかのように戻ろうとした。
﹁⋮⋮そういうところがムカつくんよ。いぃつもわたし関係ありま
せんてスカしとるところが⋮⋮﹂
804
聞き取れるかきわどい呟きに、注意が引きつけられる。
小さく、眼前に火花が散った。
︱︱乗ってやる。
﹁じゃあ、どうしたら満足する?﹂
私は石井さんを残し、彼女たちの面前に向かった。
﹁私がマキとも和貴とも口を利かなければ満足? それともあなた
たちのうちの誰かがマキか和貴とつき合えればいい? ⋮⋮そんな
簡単じゃないよ。ひとの気持ちって﹂
一瞬、全員が声を失った。
しかし、顔を赤くした名前も知らない子が負けじと言い返す。﹁
まっ、マラソン大会も完走できんかったやつがなにを偉そうにゆう
とる﹂
関係無いけど。﹁⋮⋮そこ突かれると弱いんだよね﹂
﹁真咲せんぱぁい⋮⋮﹂寄ってきた今度は石井さんに引き留められ
る始末。
﹁そんでまた倒れて、蒔田くんに頼るんやろ。病弱な振りしてやる
ことが汚いんよ。だいたい、﹂
﹁完走するよ﹂私は遮った。
グループのメンバーを眺め回し、ひとつ、私は持ちかける。
﹁それじゃ、⋮⋮あなたたち全員より私が速く走れなかったら、今
後一切、私はマキとも和貴とも口を利かない。それで、いいかな?﹂
なっ、と叫んだのは石井さんだ。﹁落ち着きぃて真咲せんぱい!﹂
心配してくれるのは分かるけれども︱︱いい加減、
我慢の限界だ。
805
集団で動く彼女たちにも、浮ついたたった一人の自分にも。
未来のことを考えるので忙しい。
こんなことに煩わされてるヒマは無い。
ざわつく集団のなかから、髪の長い子が、ゆっくりと、前方に踊
り出る。
その子が口を開きかけたとき、
﹁そりゃあ無理でしょ﹂
肩透かしを食らった。
︱︱彼女の声ではない。
紗優のでも小澤さんのでもない、第三者の声だった。
続いて闊歩する足音が。
﹁強がるのはよくないよ、真咲さん﹂
声の主はぽんと私の頭に手を添える。
﹁か、ずき⋮⋮﹂
え。
どうしてここに?
周囲を見回す。左右と後ろにひとが集まり始めている。もともと
そこにいたひとたちが明らかにこちらを注視している。自分はその
中心に立ち、何故かそこに現れたのは、和貴。
﹁桜井くん⋮⋮﹂
初めて聞けた彼女の一言だった。
男子は裏門集合だから、この場に彼が現れるのは、彼女たちにも
806
意外だったらしい。
やや緊迫した空気に不似合いな、軽快な調子で彼は口を開いた。
﹁そーんな自分にプラスにならない条件出してどうすんの﹂
﹁口から出まかせで⋮⋮﹂
﹁普通はね。罰とご褒美の両方言うんだよ。ご褒美のこととか考え
てた?﹂
﹁ぜんぜん⋮⋮﹂
﹁まったく。相っ変わらずおんもしろいねえ真咲さんは。普通は勝
つために勝負を仕掛けるんだよ、負ける前提ってどういう﹂
小さく吹き出し、濡れた下唇を人差し指の関節で拭う。
﹁あの。桜井くん⋮⋮﹂
﹁ああごめん﹂ぱっと彼の手が離れた。
私は、こんな態度を示す和貴のことこそ久しぶりで、戸惑いと、
⋮⋮心臓にときめきを覚えていた。そんな状況でもないのに関わら
ず。
﹁じゃあさ。こういう条件でどうかなあ﹂いやに大きな声で和貴は
言う。私に寸時視線を投げ、﹁彼女。自分が勝った場合の条件考え
てなかったからさ。そしたら勝負になんないし、第一、吉田さんよ
りも運動が得意な女の子を、僕はほかに知らない﹂
前に出ていた女の子が顔を赤らめた。彼女が、吉田さんだ。
﹁始めっから勝ち確定の賭けなんかしたって面白くもないだろ﹂
﹁じゃ。じゃあ、どうするって言うの﹂
女の子らしい、可愛らしい声をしている。吉田さんは。
﹁僕が乗る﹂
少し歩いて彼女たちの注意を引く。あくまで条件を持ちかける側
だというのに、ふてぶてしく、勿体つけてから笑いかける。
それでも下品にならないのが。子どものようなあどけなさと、少
女の可憐さにくるまれた、桜井和貴という人間の真性だと思う。
﹁僕が。男子で一位を獲る。⋮⋮それが、条件﹂
チェックメイト。
807
水野くんと同じ仕草で、和貴は自分の胸を指した。
一語一語を丁寧に発音し。
﹁僕が負けたならそのままグラウンドを十周する。ほんで後日、⋮
⋮キミたち全員とデートするよ。キミたちが負けた場合はグラウン
ドを五周する。⋮⋮これで構わないかな? 秤にかけるまでもない
条件だと思うけれど⋮⋮﹂
吉田さんが口を開きかけた。
それはまたも、阻まれた。
第四の存在の登場によって。
﹁こぉら! おまえらなーにを集まっておるんや。列に戻れ! 桜
井、おまえは裏門集合やろがっ﹂
竹刀を持った体育教師の一声で、雲のごとく私たちが散り散りに
なっていく。
﹁じゃっ、そーゆーことでヨロシク﹂
ピースの形を作った手でおどけた敬礼をし、ウィンクと共に彼は
走っていった。
﹁意味わかめ。和貴ってば⋮⋮﹂
まさに狐につままれた石井さんの呟きを聞きつつ私は自分の持ち
場を目で探した。
808
︵2︶
高校を出た大通りを進み国道を過ぎてあの丘のある公園に隣する
坂をのぼる。女子のコースは坂を下るが男子はさらに向こうの山を
迂回して市街に戻ってくる。
それに比べたら負担は軽い。
私の足は、重い。
前に走っていた子たちがとうとう、坂道の頂点の向こうに消えて
見えなくなった。
真夏の炎天下でも無いのに路面上を逃げ水が流れ、蜃気楼の遠さ
だった。日に晒されたアスファルトを蹴っても蹴っても、靴底が砂
地に吸い込まれる負荷をただ私の足に与えるだけだった。
ドンケツだ。
ドンジリ。
紗優は運動部でも通用する運動神経の良さだし、ついぞ六月まで
現役だった小澤さんは言わずもがな。先に行ってと伝えたが、どの
みち待つに耐えない遅さだったろう。
﹁うあ。キツ、い﹂
心臓破りの坂をようやくくだりにかかる。その勢いに任せ直前を
走る子に追いついた。足を痛めやすいのが下りだと知ってはいるが
この速度では痛めるにまで至らない。
﹁やっだあ! 真咲せんぱいちょーバッテバテじゃーん﹂
﹁ま、ね⋮⋮﹂
ドベ2の石井さんにそう言われる有様だ。会話をする体力も惜し
い。ワーストスリー以降は離れて坂道の根元に及ぶ。頑張れば追い
つけるだろうか。
完走するので、やっとだ。
完走という単語に、さっきの和貴の発言が思い出される。
809
⋮⋮よく分からないけれど。
和貴は一位を獲れなければさっきのあの子たち全員とデートをす
る。
﹁男子、もーゴールしとる頃やろねえ﹂
遠い鉄塔あたりを視線でさらい石井さんはそう言う。この坂のう
えの一帯は団地が多いが車が無ければ厳しいエリアで、自転車を乗
るとしたら行きか帰りの片方が地獄だろう。
﹁やっだーせんぱいてばそぉんな顔せんとぉー﹂どんな顔をしてい
るのか、石井さんは私の顔を見てけらけら笑う。﹁和貴なら一位に
決まっておるってぇー。やって足ちょー速いもぉーん﹂
それは私も知っている、しかし。
緑高はおろか緑川一帯を見回してもライバルなど不在と言われる、
水野くんが居る。
﹃貴様は負ける覚悟をしておけ。去年の記録をぶち抜いてやる﹄
⋮⋮ああ言ったマキが手を抜くと思えない。
それにしても私がリタイアしてはお話にならない。
下り道の終盤にかけて、最後から三番目の子とどんどん引き離さ
れる。競歩のひとにも勝てないだろう。
これでも力の限りだった。
下田先生がストップウォッチを止める電子音を聞く。スタートか
ら一時間以上が経過。タイムなんて計る価値も無かったろうに。
テントのしたで団扇をあおいでいた宮本先生からお疲れとペット
ボトルを手渡されるも、すぐ口をつけられる状況に無く。脈拍が胸
郭を叩いて酸素不足を訴える。隣で喉を鳴らして実に、美味しそう
に石井さんがミネラルウォーターを飲んでいる。
テントの影でも油断すれば倒れ込みそう。
810
長机に手をつき、一旦は安定した呼吸を取り戻そうとした。ペッ
トボトルはその机に置く。
﹁あ﹂
それが、かっさらわれる。
抗議と驚き混じりで見あげたところ、ぱきぱきとペットボトルの
蓋を開いてくれていた。
無愛想に突きつけられる。
急ぎはや私は補給をする。
⋮⋮生き返る⋮⋮。
﹁ほんじゃー真っ咲せんぱぁーいおつかれんこーん! マキ先輩も
まったねぇー﹂
ぷっはーっと豪快に飲み終え元気に校舎へと駆け出していく。⋮
⋮走る余力を全然残してそうな。ひょっとして石井さん。
私に合わせてペースを落としてくれた?
﹁おせえから日が暮れるかと思ったぞ⋮⋮﹂
蓋まで閉めてくれるマキが、彼なりの心配を口にするも。
テントの影のなかでチープに光る、
その首にかけられたメダルの色が私は気になった。
﹁マキは、⋮⋮何着だったの﹂
震える声で訊くとマキは事も無げに言う。
﹁一着﹂
グラウンドまで続くこの道がどうしてこんなに長い。うまく動か
ない思考が、走りの進まないこの足が、もどかしい。
終わったら全員教室で待機してるはずなのに、グラウンドに近づ
くほどひとが増えるのが嫌な予感を駆り立てる。
校舎から身を出して見ているひともちらほらと。
811
人々の興味を引くなにかが、あの中心でいま、展開されている。
﹁おい。どうした﹂
﹁か。和貴が⋮⋮!﹂
﹁あれか?﹂
呼吸を乱さず私に並んだ彼が、ひときわ目立つ人だかりを指さし
た。
人垣をだ。
横に長くて肝心なところが見えない。ジャンプしても無意味だっ
た。
﹁すみません。ちょっと、通してください﹂
声を張っても敢え無く弾き返される。集団に一個人はあまりに無
力だった。
舌打ちを聞いた。
﹁どけ﹂
肩を押さえられ、片手でかき分ける彼についていく。
瞬く間に集団の先頭に出られた、そこには︱︱
ほかに走るひとは、居なかった。
彼を、除いて。
一見、居残りの罰でも受けているのかといった印象だが、砂埃に
まみれた世界に、天上の雲の切れ間からひかりが降り注ぐ。画家が
抽象画として描く類の、清廉で潔白な光景でもあった。
あまりにも異様だったのは。
いつもの、規則的な腕の動きがなりを潜め。
からだの軸が不安定だ。お年寄りの運転する自転車と変わらない。
言葉に態度に携える彼の軽快さが欠片もそこには無く。
まっすぐひとを見据えるクセを持つあの真摯な眼差しが跡形も無
い。足元しか見ていないのか。或いは見えないのか。時折顔を左右
に振る行動は、⋮⋮苦しみの只中にいる、自分を奮いたたせている。
﹁ちょっと﹂
812
左を向けばさっきの彼女たちが、最前列に居た。全員だ。
﹁止めて。もういい。私の負けでいい﹂
和貴は走れる状態なんかに無い。
それを。なにをこのひとたちは傍観しているのか。
﹁そりゃあ、和貴が言い出したことだけれど⋮⋮和貴がっ、﹂
胃の最も低いところから湧く、もどかしさを私は言葉にして放っ
た。
﹁あんまりご飯食べれてないってことくらい。やつれてることくら
いそんなの、見てれば分かるでしょうっ!﹂
⋮⋮ああ。
気まずげに視線を彷徨わせる彼女たちに訴えたところで、なんの
打開にもならない。
動くしかない。
動きかけたのがしかし、
強く、肘を引かれていた。
﹁⋮⋮タスク﹂
諭すように彼は顔を横に振る。
﹁責めないであげてください。⋮⋮吉田さんたちは止めたんです。
それでも、走るのは、彼の意志です﹂
やや険しいタスクの視線を追い、再び和貴に目を戻す。
顔面は蒼白。
滴る汗が目に入るのか、乱暴に腕で拭う。
あんなふらついた走りを私は知らない。
いつ、倒れてもおかしくない⋮⋮。
不安に胸が掻きむしられる。
﹁あと一周やで﹂
タスクの隣で、坂田くんが黒のG−shockで時間を確かめる。
さらに隣の水野くんにもいまさら気づいた。﹁タオルとか用意しと
いたほうがいいやろな。蒔田、いつでも出てけるよう用意しておけ
よ﹂
813
﹁ああ﹂マキの澄んだ声が頭上から降る。
おいここを通せっ、と水野くんが言えば野次馬は道を開く。⋮⋮
男の子の声のほうが効果的みたいだ。
感情的にならず彼らが対応する間に、私は息を整え、すこし落ち
着きを取り戻した。
タスクの握力の強い手が、離れていた。
﹁よく見ておいてくださいね。都倉さん⋮⋮﹂
和貴が大きく転んだ瞬間を私の目は捉える。
﹁あっ⋮⋮﹂
間に合わなくても。
彼の元に、行きたい。
痛々しい彼の、支えになりたい。
前のめりにからだが動いた。
﹁守りたいものがあるために何度でも立ち上がる彼の姿を﹂
この場に縛りつける一言だった。
和貴は、膝を立て、また顔を振り、決意を固めるように再び、走
りだす。
見守ることしか、できない。なんの力にも、なれない。
無力だった。
﹁⋮⋮タスク。すこし黙っておけ﹂
タスクが微笑するのを空気で感じた。
﹁あと、半周ですね﹂
タスクのカウントに、
震える手を私は組み合わせた。
814
﹁がんばって﹂
﹁がんばれえ﹂
見ていた観衆から次々声があがる。
この場が彼を応援する空気に変わっていく。
強く、祈った。
和貴。がんばって⋮⋮!
こころで叫んだそのとき。
確かに、和貴はこちらを見た。
汗をしたたらせ苦しげに顔を歪めていたのが、口許で花のように、
笑った。
力を取り戻したかのように、いままでの苦しみが嘘だったみたい
に、俊足を、見せつける。
私の知る和貴がそこには、居た。
ゴールまでを一直線に駆け抜ける。
﹁和貴っ!﹂
私が叫んだこの声は、通してくれっ、と戻ってきた水野くんの大
声と、湧き上がる歓声にかき消された。
﹁⋮⋮ったく。保健室直行やなあ。おい、歩けるか桜井﹂
ゴールするなり倒れこみかけたのを、支えたのは水野くんと坂田
くんだった。
両脇からマラソン選手みたいに抱えて歩かせている。
校舎から様子伺いするひとびとは変わらずだが、周辺の見物客は、
減った。
マキは、隣に並ぶ私ごとタスクに右手で制されて、倒れこむ和貴
を支えることができなかった。
頭からタオルを被った状態の和貴は、喋るのも苦痛なのか。いま
815
だ肩で荒々しく息をし、坂田くんの問いに頷くことで返す。
﹁嘘つくな。足元ふらっふらやんかこのあほんだらが﹂
悪態をつく水野くんに返す体力も無いらしい。
周囲を見回す坂田くんの目線が、ふと私のところで止まった。あ
っちゃあ、と彼は顔をしかめた。﹁せっかくのべっぴんさんが、ど
えらいことになっとるやんか⋮⋮これつこうて﹂
﹁はりはと﹂
顔を背け目元を拭う。
後ろポケットから取り出されたポケットティッシュはちょっと生
温かった。
マスターにしたことを坂田くんを通してお返しされてるみたいだ
った。
﹁ら。らいじょうぶなのかずぎ﹂
﹁心配要らん﹂水野くんは和貴に顔を傾け、軽く睨んだ。﹁単なる
運動不足と体力不足。病気でもなんでもない。休んどけば落ち着く﹂
﹁ある種の病気かもしれませんがね⋮⋮﹂
正面に回ったタスクが、腕を二人の肩に回しているために自由の
きかない和貴を、タオルで美容師みたいに拭い、そして首にかけさ
せた。
いまだ顔色が青ざめている。こめかみから汗を二筋三筋垂らし、
肩を上下させる和貴が澄んだ眼差しで捉えるのは、
﹁桜井くん⋮⋮﹂
約束の相手が、待っていた。
﹁いっ、つに、⋮⋮する?﹂
自分から持ちかけ、顔を歪ませて笑う。
声が乾いて、かすれていた。さっきペットボトル一本を丸々飲み
干したはずが。
︱︱和貴が言うのは、デートのことだ。
想像するだけで胸が絞られる。
﹁桜井くん、あたしたち、な⋮⋮﹂
816
﹁あーなんかかっこわるっ!﹂
他の子が殊勝に言いかけたのを吉田さんが遮った。
ロングのストレートの黒髪を強く払い、和貴のほうに呆れ目線を
よこす。
﹁あんなんこっちから願い下げやわ。⋮⋮桜井くんにはがっかりし
た。あんっまりにも無様やもん。ファンなんか辞めるわ、ほんで蒔
ちづこ
田くん一本にする﹂
﹁どしたが千津子、あんた⋮⋮﹂
﹁これ以上つき合っとられん。二度とあたしたちには関わらんとい
て。じゃーね﹂
吉田さんがまた髪を払い、そう言い捨てると他の子たちも次々戸
惑いながらも追いかける。﹁待ってぇな千津子﹂﹁ちょっといまの
どういうことっ﹂と。
呆然と残された我々と彼女たちとの間に冷たい風が吹き抜ける。
﹁振られ、ちゃった⋮⋮﹂
か細い和貴の声にどっと笑いが起きた。
﹁おま。ほんまアホか﹂
﹁そう落ち込むなよ。最後までオレに勝てんかったんは気の毒なこ
った﹂
﹁聞きましたよ桜井くん。また啖呵を切ったんですってね﹂
﹁俺は⋮⋮﹂顎先を摘み、一人、なにか考え込んでいたマキが顔を
起こした。﹁宮本に報告してくる﹂
﹁あ。私も荷物取ってくる﹂輪から離れていたマキに私は近づき、
彼らのほうを振り仰いだ。﹁保健室行ってそのまま帰るでしょう、
和貴﹂
﹁いや﹂
唐突に額に温かさが加わった。
人間の皮膚だ。
そのまま私の前髪をかきあげる。前頭部のカーブを確かめる手が、
手首から続く肘が、前を向く私の視界を妨げていた。
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やや大胆な行動にも関わらず、彼は自分を嘲る感じで薄く、笑っ
た。
﹁⋮⋮おまえは来るな。保健室に行け﹂
否定的な言葉にくるまれた、解放の意図だった。
﹃好きなところへ行け。好きなやつのことを考えろ﹄
︱︱かつて彼の語った自由が私の脳内にオーバーラップする。
反対の手で私にペットボトルを返し、添えていた手で私の前髪を
二三回押さえつけて彼は、坂田くんを呼びつけた。﹁おい坂田。行
くぞ﹂
﹁はいよー﹂
早歩きのマキに、スキップしながら追いつき、なにか余計なこと
でも言ったのか。思いきし叩かれていた。いってえなおんまーと甲
高い声がこっちまで聞こえた。
﹁はーすっごい疲れた﹂背後の和貴に意識が吸い寄せられる。﹁⋮
⋮頭んなか白くなったよ﹂
﹁危ないこと言わないで﹂
笑いながらも表情に余裕が無い。私は持っていたペットボトルを
手渡す。
﹁サンキュ﹂
上下する喉仏を見て、失念していたことを思い出した。
もともと私が飲んでいた、つまりこれって間接︱︱
﹁ぷっはあ﹂飲み終えたひとの言うことはいつもこうだ。タスクの
右肩越しに、持って、という素振りを示し、タスクは左手で受け取
った。
私には返さなかった。
818
﹁それでは行きましょうか桜井くん。⋮⋮休まれたほうがいいです﹂
﹁へーきだってば﹂
﹁だいたいおまえ、体重落としすぎ。こんなんやとなにやっても持
たんぞ。ちったぁ長谷川に肉分けてもらえ﹂
﹁水野くん。面接では口を滑らせぬようご留意くださいね﹂
﹁そだタスク。ほんとにちょっと太ったんじゃない?﹂
二人に抱きかかえられた体勢のまま、和貴は、蒟蒻畑のCMみた
く脇腹あたりをちょいちょいリズミカルにつまむ動きをする。
くすぐったいのか。タスクは珍しく眉を歪めつつ、
﹁⋮⋮こんなことを彼は言っていますがね。都倉さん。彼が四位な
のは僕に負けたからですよ。いわば負け惜しみです﹂
言うねえ、と和貴が片目をすがめる。
三位以内はメダルが貰えるらしく、水野くんの首からは銀の。マ
キには金でタスクには銅のメダルがぶら下げられていた。
﹁文化部なのに全校で四位⋮⋮すごいねタスクって﹂
﹁あーあ。僕も女の子に褒められたいよ﹂私の率直な感想に対し、
和貴がわざとらしく頭を伏せる。﹁⋮⋮こんな野郎じゃなくって女
の子を両腕に抱えたい﹂
﹁⋮⋮タスク。和貴を蹴りたいんだけど、どうしたらいい?﹂
﹁どうぞご自由に﹂
唐突にタスクが和貴を離す。
﹁わ﹂
残っていたペットボトルの水を全て、体勢を崩した和貴に浴びせ
かける。
﹁なっにすんだよぉ﹂
洗いたての子犬みたく顔をぶるぶると振る。
どうやら一番被害を受けたのは和貴を支えていた、ジャージの上
半身に濃い色の染みを作った水野くん、らしく。
﹁こら長谷川ぁ﹂
追いかけにかかる。
819
悠然と、笑みを残しタスクは校舎のほうへと走る。
和貴も、僕もとばかりに追いかけにかかったのが、︱︱
胸元を押さえ、急に足を止めた。
頭から血の気が引いた。
﹁ちょっと和貴、大丈夫!?﹂
上半身を屈めていた彼の前に回り、支えに入ろうとした。
ふ、と笑いにこぼす息を感じた。
俯かせていた顔が、いたずらに赤い舌を、出した。
﹁⋮⋮からかっただけ﹂
﹁お。怒るよ本当に⋮⋮﹂
言葉とは裏腹に、泣いているひとの声になった。
どれだけ心配をかければ気が済むのだろう。
彼がいまにも倒れるのではないかと思うだけで、気を失いそうだ
った。
﹁真咲さん。ごめんね⋮⋮﹂
徐々に顔を起こす彼の瞳を覗けば、そこには。
久方ぶりに見る和貴のやわらかい笑みが、待っていた。
﹁変なことに巻き込んで。⋮⋮心配かけて、ごめん⋮⋮﹂
ああ。
和貴⋮⋮!
許されることならば抱きついていた。
もっとも私は怜生くんではないのだからそんなことが許されるは
ずもなく、ただ、気持ちを押さえこんで、彼の腕を支えた両手を離
すだけだった。
つと彼は校舎のほうを見やり、さきほどよりは落ち着いた足運び
を見せる。
私は、彼から離れた。
820
ガラス窓の校舎のなかから、水野くんとタスクが、こっちを見て
いる。
和貴は彼らを見つめ返したまま口を開いた。
﹁⋮⋮ホントにヤバいなって思ったときにね、⋮⋮聞こえた気がし
たんだ﹂
微笑を口許に乗せ、彼は振り返る。
﹁真咲さんの、声﹂
颯爽と中庭を突っ切る彼の、落ち着いた背中を見送りながら、私
は押さえ込んでいた涙腺を崩壊させた。
821
︵3︶
﹁こっからずぅっと様子見とってんけどもー。心配してんよー﹂
﹁あんった。自分からふっかけといて負けてんね。⋮⋮蒔田が賭け
りゃあよかったんに﹂
⋮⋮言われてみれば確かに⋮⋮。
﹁ちぇっ﹂掛け布団を引っ張りベッドに潜り込む。拗ねた和貴を見
下ろし、﹁桜井くんは体調よくなるまで休んでなさい﹂私たちに向
き直り、みんなはほらほら教室に帰った帰った! と手を叩いて私
たちを保健室外へと追い立てる。
その都度白い蜘蛛が揺れる。黒地のワンピースにたくさん張った
蜘蛛の巣をよくよく見れば何故だか淡い黄色いホタルが絡め取られ
ている。
ホタルが蜘蛛の巣を飛び交う世界観を目の当たりにし、⋮⋮田中
先生の私服の購入元先がそろそろ本気で気になってきた。
﹁あのっ。さ、桜井先輩は⋮⋮!﹂
廊下に出るなり知らない女子がやってきた。よく見れば瞳が心配
するあまりでだろうか、潤んでいる。
表情も切迫した、心配する人間そのもののものであり、
﹁大丈夫だよ。軽い貧血﹂なんてことのないように私は笑って言っ
た。﹁⋮⋮すこし休めば元気になるって﹂
﹁よ﹂かったぁー! と他の女の子たちが駆け寄り手を取り合って
喜ぶ。
﹁先輩いま寝とるんやから静かにしい!﹂
これまた知らないおそらく二年生の子が注意すると次々﹁⋮⋮は
い﹂﹁ごめんなさい﹂反省の弁が控えめに漏れる。
こんな子たちこそ、和貴にふさわしいのかもしれない。
822
廊下に並んで待っていた彼女たちの横を通り過ぎ。彼女らから離
れて紗優を待ち伏せしていた坂田くんがさっそく、紗優にはたかれ
ているのを見て思う。
躊躇いもなく。迷いもなく。
たったひとりを最初から最後まで思い貫く女の子こそが。
﹃マキも大切な友達だから、二人がくっついてくれれば︱︱僕は、
嬉しいよ﹄
二人のことで揺らいだ私は、真っ向から和貴を好きだと伝える資
格がなく。
彼にああ断言された私は、そもそも恋愛の対象として見られてす
らいない。
何度か気持ちが通い合ったように感じたのは、⋮⋮私が自意識過
剰だったのだろうか。
﹁痛ったあ﹂
痛みが背中を走る。
手形ついたんじゃないかいまの。
﹁⋮⋮ひどい。なにするの﹂
恨みがましく言ってみようとも、はたいた側の小澤さんは胸を張
る。
﹁どーせ。あんたのことやからくよっくよ悩んどるんやろ、そやろ
?﹂
図星です。
四組の前にさしかかり小澤さんはフンと息を吐く。﹁うちの弟も
あんたくらい悩んで欲しいもんやわ﹂
﹁弟さんが居るんだ。何人?﹂
﹁二人。弘樹と勇樹。いま中二﹂
二人ともなのだろう、そして四歳差。
小澤さんの姉御肌な性格が形成された事情を私はなんとなく理解
823
した。
﹁年の離れた弟が居るのってどう。可愛い?﹂
﹁くそ生意気﹂
一刀両断。
﹁全っ然言うこと聞かんがなった﹂言って彼女は廊下を見回す。和
貴の一件も関係してか、みんながお喋りにいそしむ無法地帯と化し
ている。帰りのホームルームはいつ行われるのだろう。﹁勇樹なん
か中学入ってそっこー彼女作ったんよ? ⋮⋮んで田辺連れてくる
とあいつ。とっ捕まえて野球見だすんよ必ず﹂
﹁へえ。田辺くんをおうちに連れてったり、するんだ⋮⋮﹂
両親に会わせたりもするのかな。
大輔、って甘えた声で呼ぶ小澤さんなんて︱︱想像もつかない。
私の密かな笑いに気づかず、小澤さんは自分の感情に気を取られ
ている。﹁三人揃うとうるさなってかなわんわ⋮⋮しゃあないさけ
あたし一人で巨人応援しとんの﹂
確かに、巨人を応援するほか仕方が無い。
しかし彼女の場合は事情がすこし異なる。
⋮⋮この地方で野球を応援する人のほとんどが巨人ファンだ。関
西での阪神ファンの割合並みに多いんだろう。テレビ局が限られ、
中継する試合のかなりが巨人戦だからだ。
テレビでも見れず応援にも行けない相手は応援したくてもできな
い。それこそ、ひっそりと想い続ける恋心のような形式でしか。
﹁昔はなーメイトーのアイス買ってきてぇゆうたらうんねーちゃん
! て素直にゆうたがに⋮⋮なにゆうても聞かんようなってもうた。
ねーちゃん黙っとって、て口答えするんよ。ぶっとばそ思た﹂
テレビ東京やテレ朝に当たるテレビチャンネルも、現在拳を固め
る小澤さんが小学生の頃にようやくしてできた。石川テレビがフジ
テレビのチャンネルに相当する。以外は観るものが無かったのだと
言う。
彼女の発言がやや関西弁寄りなのは、その8チャンネルの看板番
824
組のひとつである、﹃ごっつええ感じ﹄に影響されてのことだ。
憧れの対象を模倣することで私たちは学習する。
彼らとの、違いを。
野球の件も絡んで番組が終了して以降、小澤さんは緑川でメジャ
ーな、そして小澤家で唯一の、アンチスワローズファンとなった。
﹁﹃緑高野球部を全国連れてくぞー﹄﹃おー﹄ていまからゆうとん
の⋮⋮つくづく呆れるわ。二人揃って頭カラッポながに入る気だけ
は満々がなよね⋮⋮﹂
私は相槌を打ちつつ小澤さんに並び、壁に寄りかかった。
ところが、
﹁︱︱なにしとるん﹂
素早く小澤さんは右を向く。私の見ていた相手を見つけ、視線を
私に戻し、おそらく理解した。
顔色が変わり、
﹁あんたアホかっ﹂
﹁いだっ﹂
舌噛んだ。
﹁突っ込むのもいいけどちょっとは手加減してよ。いま大事な時期
なんだからさあ⋮⋮﹂完全に関西のツッコミのノリじゃん。
﹁なして吉田に頭なんかさげておるん!﹂
窓際にて友達と談笑していた吉田さんはもうこちらを見ておらず。
﹁や、だって。吉田さんがああ言ってくれなかったら⋮⋮和貴は意
地になってたし﹂
﹁あの女がなに言うたか知らんけど、あんたを睨んどったやつなん
よ。なして頭下げることなんかあるんっ﹂
﹁それとこれとは別だよ﹂
かっ、と目を見開いた小澤さんが、今度は違う攻撃に出た。
くすぐり地獄だ。
﹁あっ、ひゃあ﹂とか変な声が出るも小澤さん、容赦無い。両脇を
くすぐりまくる。正直、一部の子に睨まれたことよりいまのほうが
825
キツい。
﹁このアホ。お人好しも大概にしいやっ﹂
﹁うひゃ。だ、からさっ、﹂必死で彼女のことを押す。﹁こ、れで
遠慮無く喋れると、思って。あぎゃ、ひゃっ﹂
涙までこぼす有様にようやく小澤さんの攻撃の手が緩む。
そこで、
強い目線を感じた。
︱︱小澤さんの後ろと四組の間をすり抜ける、彼。
口パクでなにかを私に言い、自己満足でか、喉を鳴らして笑い、
いつものように颯爽と通り抜けていく。
﹁﹃あ﹄、⋮⋮﹃あ﹄ってなに?﹂
﹁ああ?﹂不満気に小澤さんが眉根を寄せる。
アホではない、ただでもない、となると︱︱
私は彼の発言を見ぬいた。
小澤さんの脇の下をかいくぐり、三組に差し掛かる彼を呼び止め
た。﹁マキ! 馬鹿ってなによ馬鹿ってっ﹂
﹁﹃馬鹿﹄ではない。﹃馬鹿が﹄、だぞ﹂
﹁どっちでもいい!﹂
﹁おいおまえら、いつまでそんなとこでしゃべっておるんや。教室
入れぇ。全員っ!﹂
このタイミングで保健室前に竹刀を持った体育教師の登場︱︱。
恨めしげな私の顔が相当可笑しかったのか。片眉をあげてまたも
上機嫌に笑い、屈んで私の耳に一言を残し、そして自分のクラスに
戻っていった。
奇しくも、これ以降私は女子に睨まれることが無くなり。
気まずかった和貴とも、挨拶程度ではあれどすこしずつ話せるよ
うになった。
このときはマキの発言のせいで、⋮⋮いや小澤さんに後頭部をは
たかれたせいで軽く、目眩がした。
826
﹃おまえをそう簡単に諦めるつもりは無い﹄
827
︵1︶
今年もクリスマスイブと終業式を同日に迎えた。
去年と同じく和貴は教室を一番にあとにする。急いでいたのは、
お向かいの今井さんが体調を崩したのでお世話をするがために、今
年は自分が講習を受けるために。いずれもお祖父さん情報だ。
去年と違うのは、学校帰りに遊ぶ同級生が全体の七割程度に減少
したということ。
私がマキと図書館に行かず、二番目に教室をあとにしたというこ
と。
﹁ただいま﹂
正面玄関から呼びかければ渋い表情をした祖父がさっそくデパー
トの丈夫な紙袋を手渡してくる。そとの気候を考慮してだろう、こ
の頃はお重をその袋に入れる。
﹁一郎によろしゅうゆうとけよ。ほんで。これが、最後やぞ﹂
祖父の声が不機嫌なのは、冷たい外気が店内に雪崩込んだせいで
は無い。
﹁うん。分かってる﹂
私は子供っぽさを意識した弾んだ声で答えるが、お年寄りは残念
ながら同じことを二三度言って聞かせる傾向にある。
相手を、得心させ。
自分自身が納得をするがために。
﹁おまえは自分のことに集中しい。もう、一郎の具合がようなった
んは分かっておる。受験は冬が本番なんやろが。ほかのもんにうつ
つを抜かとる時間は無いはずやぞ﹂
口を差し挟む余地も無かった。分かってる、と私はようやく言葉
にし、
828
﹁明日から学校でずっと冬期講習だし、年末年始も勉強漬けだよ﹂
カウンター内に戻りつつ祖父はこちらに一瞥をくれ、
﹁はよぅ帰るんやぞ﹂
﹁うん﹂私は嘘をついた。
手を洗い、清潔なふきんで拭いてから包丁に対峙する。
その眼差しは刃物よりも、鋭い。
﹁メリークリスマス﹂
妨げぬよう口のなかでひそかに呟き、暖房の入らぬ肌寒い店を出
た。
暖房は開店直前に入れる主義らしい。ぬるい気持ちで食材に向き
合いたくない⋮⋮祖母から聞いたときに、祖父らしい、ポリシーだ
と思った。
海からの水を吸い上げた大粒の雪が、音もなくこの町に降り続く。
クリスマスイブというだけで、ただの雪景色がこの日を祝福する、
幻想的なものに思えてくる。恋人同士が見るならロマンチックだと、
幼子が見ればサンタさんがやってくる、と。そう思うことだろう。
判断するのは常に、ひとびとの主観だった。景色のみならず、物
事の全般において。
自転車の椅子を拭いて濡れ度合いを確かめる。歩きにしようか迷
ったけれど、路面を見た上で自転車で行こうと判断した。薄い氷を
張ったどころか、白く凍結した路面であろうと構わずこの地方のひ
とは自転車に乗る。⋮⋮車を持たず乗れずの子どもたちが主に。北
海道でも似たようなものだと聞いたことがある。
タイヤはスタッドレスにし、豪雪の日にはチェーンを巻かないと
後続の車に大迷惑をかける。車種は無論4WD。だから、⋮⋮この
時期の大渋滞は、2WDの普通車なんか知らずに乗ってくる都会の
ひとびとの引き起こす、風物詩、だった。
買い出しの時間を外した、午後の一時半。大通りの車通りはいま
だ少ない。
この道をこんなふうに、滑らないよう気を遣い走るのも最後だと
829
思うと、外気にさらされた膝頭の皮膚が、感傷めいたものに震えた。
私は桜井家の鍵を持っていないので呼び鈴を鳴らす。
持っていても和貴の家族ならば、必ず、そうする。
﹁いらっしゃい、お嬢さん﹂
カウント三十秒。確かにおじいさんの足は良くなった。ドアの開
け閉めの所作に以前の、からくり機械に似たぎこちなさが消えてい
る。
私は人間のおじいさんに気取った挨拶をした。
﹁メリークリスマス、ですね﹂
玄関に入る前に肩の雪を落とす。
﹁正確にはクリスマスイブですので明日のぶんをお伝えします。メ
リークリスマス﹂
ドアの鍵をかけて室内に目を戻せば、おじいさんは密かに肩を震
わせていた。
なんだってすぐ笑うのも、和貴と、おんなじ。
また彼との共通点を私の無意識が見出そうとする。
恋心に基づく探究心というものは、尽きない。
私は、極寒のためかやや丸まった和貴のおじいさんの背中を目で
追いながら、先週、おじいさんから聞いたばかりの話を、思い返し
ていた。
和貴のお父さんは仕事が忙しく、帰宅が深夜に及ぶ時期があった。
﹁父さんが帰ってきよるまで僕起きて待っておるっ﹂
小学校に入りたての和貴はそう言ってきかない。どうして、とお
母さんが理由を訊くと、
﹁父さんがいっしょけんめー働いとるがに、帰ってきたら起きとる
が母さんだかやったら父さん、寂しいがや﹂
﹁あのね、⋮⋮和貴。あなたが遅くまで起きているほうが父さんは
心配するわ。子どもなんだからしっかり、寝なさい﹂
830
﹁僕は、父さんが寂しい思いするんが我慢ならんっ﹂
強情なのか健気なのか分からない主張をする。
もっとも和貴はお父さんが帰ってくるときまでにはぐっすりと眠
ってしまっていた。お母さんがいくらゆすっても起きず、ソファー
で眠りこけてお父さんに抱き上げられ子供部屋のベッドへと運ばれ
る。
そして翌朝必ず怒るのだ。
﹁なんっで起こしてくれんかったが!﹂
⋮⋮毎朝かんしゃくをおこされてはたまったものではない。お母
さんは、いっそ一度本気で和貴を叩き起こしてみようかと、本気で
悩んだそうだ。
ある晩、お父さんは呼び鈴を鳴らした。
ほんの、出来心だった。
父さんはちゃんと起こしたんだぞ、和貴が起きれなかったんだぞ、
と言ってきかせるがために。
しかし。和貴は、飛び起きた。丸い目を開いて玄関へと一目散。
お母さんが追いかけるのも間に合わなかった。
﹁どうして、⋮⋮父さんが帰ってくるって分かったんだ。和貴﹂
﹁んー?﹂父親の胸に顔をうずめて擦り付ける動きをする。﹁僕。
すごく耳がいいもん﹂へへ、と得意げに今度は指で鼻の下を擦り、
﹁あんま聞かん音が鳴ったらすぐ分かる。やから火事起こっても逃
げ遅れる心配ないよ。ほんで。⋮⋮んな時間に鳴らすお父さんしか
おらんがや﹂
以来、呼び鈴を鳴らすのがお父さんの帰宅の合図となった。
眠っていても必ず飛び起きる。凄い勢いで玄関まで駆ける。
﹁裸足でなぁ⋮⋮足音が階下のひとに迷惑やろに靴下も履かんで⋮
⋮ほんに。手のかかる子で困ったもんやよ。わたしが鳴らしても、
そうなげから⋮⋮﹂
お祖父さんにそうこぼしながらも、お母さんは口許をほころばせ
ていた。
831
パブロフの犬さながらに、呼び鈴が鳴れば父親か母親かと飛びつ
く。
尻尾を振る忠犬のような幼い和貴が目に浮かぶ。
真夏の激しい大雨が路面を叩きつく、嵐が訪れたかの夜だった。
和貴のお父さんとお母さんが亡くなられたのは。
マンションで和貴はお留守番をしていた。︱︱もし彼が後部座席
に乗っていたら、お祖父さんは大切な孫も、喪っていた。
遠い遠い親戚のかたが呼び鈴を鳴らす。
在宅者がいないのかと思える、静けさだったそうだ。
和貴は、好きな番組があるから、たまたま家でテレビを見ていた、
はずが。警察からの電話にも出ず。あまりに遅い両親の帰宅に彼は
なにかを予感し、一人震えていたのかもしれない。
些細な物音に敏感な和貴が、呼び鈴を鳴らしても出なかった。
訃報を知らせに来たひとは、何度も鳴らし、一旦帰ろうかと思っ
たときに、小さな、足音が動くのを感じた。
いやに幼い声が、告げた。
﹁どちらさん?﹂
魚眼レンズを覗かなくとも家族で無かったことを和貴は即座に認
識した。
病院に行っても、なにが起きたのかを分からない彼に、おじいさ
んは童話の比喩を用いて言って聞かせた。おまえのおとうさんとお
かあさんは星になった。手の届かないところに、行ってしもてんぞ、
と。
幼い彼に理解が及ぶはずもない。
長距離運転で疲弊したドライバーの運転するトラックに、両親の
車が正面衝突され、ほぼ、即死だったことなど。
和貴は幼児番組を見て笑っていた時間帯だった。
832
和貴のお祖父さんは車を持たない。この土地のひとにしては珍し
く。駐車するスペースは家の前にあるけれど。好んでのんびりと徒
歩で町中を歩く。どんな険しい丘の上だって。
季節を肌で感じるのが好きなのだそうだ。
家を明けることが多いが、帰宅時は呼び鈴を鳴らす。﹃わしが戻
ってきた﹄ことを。必ず戻ってくることを彼に伝えたいがために。
和貴も、約束したわけでもないのに必ず鳴らす。
それが、彼なりの愛情という、答えなのだろう。
* * *
平日は夜の八時過ぎになることもあるから、思い切りかけられな
い。そのぶん、昼間に来れる日は﹃強﹄にして思い切り。掃除機を
持って二階に上がり、せっかくだからあまり使わない客間もきっち
り掃除することにした。
最後だから。
迷ったけれど、和貴の部屋も。⋮⋮勝手に入るなんていけないか
な。でも掃除機をかけるくらいなら、と。
忍び寄る泥棒の心地で、されど掃除機のうるささとともに、自己
弁明をする。
ベッドの下に柄を入れるとエロ本が吸い込まれて出てきたのには
苦笑いを漏らす。
ベッドカバーは白黒の市松模様。カーテンが白。ミニカーペット
は黒。こと和室は、どのような色合いを用いるかで、そのひとの個
性が見える。好きな色に、好きなものが。
白と黒だ、和貴の場合は。
フェミニンな外見をし、衣服は白を好む彼からするとこのチェス
ボード風の、硬質な雰囲気が、意外な選択に思えた。
脱ぎ散らかしたTシャツに靴下がそのままだしクローゼットを開
いたまんま。
833
勉強机に、たまたまいまトイレにでも行っているかの臨場感で、
ノートとテキストと筆記用具とを置いている。シャープペンは無論
左側に。座ればすぐにでも勉強を再開できそう。
勉強机に備え付けの棚にも、黒いペンキに塗られた本棚にも、介
護関係の本がぎっしり。⋮⋮上下逆さに突っ込まれている本も。
知らない和貴を垣間見た気がして、頬が緩む。
床に散らかされた衣服を元通りに散らかし、私は彼の部屋を出た。
一階に降りると、驚いたことに。おじいさんが玄関の拭き掃除を
していた。短い脚立のうえでドアの上部を。足元には青いバケツが。
﹁どうしたんですか。急に掃除なんかして⋮⋮﹂
﹁ちと早いと思うたが、年末の大掃除始めようと思うたげ﹂
私は脚立がしっかりしているか目で確かめた。﹁まだ万全じゃな
いんですから、無理しないでくださいね﹂
﹁わーっとる﹂
一郎はこうと決めたらテコでも動かん。
⋮⋮と祖父が評した通りのひとだ、おじいさんは。あの意気を削
ぐのも無粋というもの。
私はすぐ近くのコンセントを入れ、掃除機の強のボタンを押し、
掃除機に負けない大声で歌い出した。調子はずれの私の歌声に笑い
ながらおじいさんが加わる。
曲目は﹃りんごの歌﹄、続いて﹃川の流れのように﹄。
いずれもおじいさんの好きなレパートリーだ。歌詞は自然と暗記
してしまった。
細い廊下をかけて一旦玄関に戻ってくるところで、まさに。
その玄関の呼び鈴が鳴った。
自分の心臓に急ブレーキがかかる。
慌てて掃除機のボタンを押して消す。こちらからは玄関に張り付
くスパイダーマンのように見えるおじいさんが対応した。
宅急便の、ひとだった。
834
なにを、⋮⋮期待していたのか。
和貴はまだ講習を受けている時間帯だ。帰宅するはずもない。
コンセントを引き抜き、ダイニングに掃除機を持ち込み、川の流
れのようにの続きから歌い始めた。
結局、私は三ヶ月の間を、和貴に知られることなく、桜井家に通
い続けた。
おじいさんの足がほぼ完治した以上。
私の受験が間もなくである以上。
和貴に私がこんな気持ちを抱いている以上、この家を訪れる大義
名分はもはや見つからない。せめて、⋮⋮家中を磨きあげてから帰
ろう。私が訪れた痕跡もろとも、髪の毛一本残さず消し去ってから、
去ることにしようと、そう決めた。
835
︵2︶
美味しいおやつの時間を過ぎた午後の、四時。
舌の甘みはいずれは消えては無くなる。
雪は溶けて水となり蒸発する。
夢ならば目覚める日が来る、或いは潰える日が。それとも叶える
日が。
シンデレラのガラスの靴はいつかは壊れる。
通い慣れた場所も、いずれは、去らねばならぬ時機が来る。
時間の流れを逆さまにすることはできない。
未来の私が過去に戻っても、同じ選択をしただろう。
コンセントを引き抜き、コードの巻きとりボタンを押しては引っ
張ってはし完全に収納してから、掃除機を階段下の物置に仕舞った。
普段開け閉めしないせいで埃っぽく、出入りするだけで汚れそうだ。
エプロンをしておけばよかった。制服に降りかかっただろう埃を払
うと、ポロシャツがからだに貼りつくくらい集中していたことに気
づいた。
自分のことだったらこんな一生懸命になれない。特に、掃除の類
は。
貼り付くポロシャツを掴んで背中の間に通気をしながら、私は風
呂場に足を踏み入れた。
風呂に入るためではない。
ガラス戸の向こうの、シャワー音が止まる。
﹁おじいさん。そろそろ、⋮⋮おいとまします﹂私は大きな声を意
識して呼びかけた。おおそうか、とおじいさんは湯船から顔を覗か
せた。ゴム靴をきゅっきゅ鳴らし冷水で手早く一帯を流す。私は飛
沫がかからないようかなり後退した。
﹁いえ、そのままで結構です﹂ゴム手袋を外しにかかるのを声で制
836
止した。﹁いままで⋮⋮ありがとうございました﹂
﹁おお﹂
来るのは今日が最後であることを、お仏壇に挨拶をしたときにお
じいさんにはお伝えしていた。
最後だから、すべてを焼きつけようと思うのか、
最後だから、なにも見ずに去ろうと思うのか︱︱今回は後者だっ
た。
私がいなくなれば、おじいさんは和貴と二人きりの生活に戻る⋮
⋮この家で生活する、私の知らない和貴のことを思った。振り返れ
ば、一度私が訪れたときなどは、元気づけるためにわざと陽気にふ
るまっていたように思えた。
おじいさんとだけだとどんななのだろう。
もっと、聞いておけばよかったな。⋮⋮おじいさんに。
未だ湿り気を帯びたポロシャツに制服のブレザーとコートとを順
に重ねる。屋外は極寒だ。コートに手袋をしないのは自殺行為に等
しい。
身支度を整えている間、べちべちと床を走る足音を聞いた。
その裸足の足音に、私は話に聞いた、お父さんの元へ駆けつける
幼い和貴を重ねた。
﹁まだ、⋮⋮走っちゃ駄目ですよ﹂後ろに首を捻り私は苦笑いを差
し向けた。﹁お医者さんからも止められてませんか?﹂
長袖長ズボンをいずれも七分丈までに巻き上げている。直すひま
もなかった性急さが見て取れる。
おじいさんは肩で息を整え、
﹁あんたに、⋮⋮渡さなならんもんがあってな﹂
白い、セロファンみたいな薄さの袋を手渡す。
私たち受験生には慣れっこの、あれをいれた紙の袋をだ。
断りを入れて中身を確かめる。
てっきり。
このへんの神社のものを予想していた。それが、
837
湯島天神のお守り⋮⋮。
﹁い。いつ、行かれたんですか﹂
それも、東京は文京区のものだ。ますます驚かされる。
﹁先週や﹂おじいさんは胸を張る。﹁あんさんには言うとらんかっ
たがなあ、わっしゃー旅にぷらっぷら出るんが趣味なんぞ。死ぬ前
に全国各地を回りたいと思うとる﹂
﹁だって。その足で⋮⋮﹂自由に歩き回れるはずが無いのに。
﹁お嬢さん﹂
おじいさんは、胸にお守りを押し当てる私に、歩み寄る。
目線を合わせて屈む。
思いの伝わる、真摯で、やわらかな笑顔を見せた。
﹁あんさんが希望する大学に入れるよう、わしも、願うておる﹂
﹁お、じいさん⋮⋮﹂
﹁どうした﹂
﹁泣いてもいいですか﹂
﹁もう泣いておるがや、このお嬢さんは﹂
和貴とまったく同じ笑い方をし。
まったく同じ手つきで、私の髪を、撫でるんだ、このおじいさん
は。
受験のことなんて言わなかったのに⋮⋮。
﹁もう一つ、渡したいものがあるんや﹂
クリスマスプレゼントには一日早いが、と言いながら、ひょこひ
ょことした足取りで、玄関脇に置いた、さっきの宅急便のひとが届
けた箱を取り上げた。
かなり、大きい。大勢に配る菓子箱サイズの。
重いのかと身構えて受け取ってみると、拍子抜けする軽さだった。
﹁開けてみんさい﹂
﹁いいんですか﹂頷くおじいさんにひとつ、伺いを立てる。﹁外国
の子どもみたく、びりっびりと開けてみて構いませんか。あれを一
度してみたくって。私⋮⋮﹂
838
﹁どんな開け方をしても中身は変わらん﹂
アメリカ映画でしばし、クリスマスプレゼントを無遠慮に開ける
子どもたちを目にする。ホーム・アローンにもそんな場面があった
かもしれない。
木島の祖父母の家で行儀が悪いと従姉妹が叱られていた。以来、
私は無遠慮を遠慮している。
包装紙に畑中で唯一の百貨店のロゴが入っている。無遠慮に破け
ば、上質な白の箱が現れ、箱の蓋を持ち上げれば、
﹁マフラーと、⋮⋮手袋、ですか﹂
クリスマスカラーの赤。和貴のコートとお揃いの色合い。
触れてみると絹の混ざった滑らかな手触りが伝わり、⋮⋮質感と
あたたかさに、戸惑いを覚える。
いいんだろうか。
﹁気に入らんかったか?﹂屈んで、おじいさんは心配そうに私の目
を覗く。この世代の男性にしては表情が豊かだと思う。
和貴も残す、人間の素朴で素直な部分を、削らずに生きてこれた
のだろう。
﹁素敵過ぎて恐縮してます。頂いていいのかなって⋮⋮﹂
﹁せんでええ。あんたは本当に⋮⋮ほれ。巻いたるからこっち向き
んしゃい﹂
空の箱に包装をおじいさんは床に置き、手早くハサミでタグを切
り、マフラーを、メダルを優勝者にかけるように、私の首に、かけ
てくれる。
風に飛ばされないよう、私がいつも前方で結う巻き方で、おじい
さんは仕上げてくれた。
近くに見ると皺が目立つ。染みも頬の頂点にちらほら。指先も、
皺だらけで。
おじいさんの存在は、私のこころの暗闇を照らす、灯台だった。
実の祖父が厳しい気質なぶん、私は、和貴のおじいさんに、甘え
たい感情を、抱いていた。事実、そうしていた。
839
父親に甘えられなかった代償を求めていたのかもしれない。
できたぞ、とおじいさんは喜ばしげに言うと、顔をほころばせる。
﹁向こうさ行っても使えるといいがね﹂
﹁は、い⋮⋮﹂
頷くと滴り落ち、赤よりも濃い染みが点々とできてしまった。
﹁あんれーお嬢さん。新品濡らしてどうしてまうがね﹂
鼻まで垂らす事態に、おじいさんは、玄関備え付けの箱ティッシ
ュを手渡してくる。みっともなく私は鼻を噛む。ごみ箱まで置いて
あるいたせりつくせり度合いだ。
﹁あんたが大変そうやったんに、長う引き止めてしもて、すまんか
った⋮⋮﹂
﹁私が来たくて来たんです﹂
﹁⋮⋮和貴も幸せもんやのう。こんないちゃけなお嬢さんに好いて
もらえて﹂
それを聞いて私はマフラー並みに赤くなった、と思う。
﹁や、あの、えと⋮⋮﹂
﹁分ーかっとるて。あいつにはゆわん﹂からからとおじいさんは笑
う。
﹁おじいさん﹂私は言い返す。﹁これを機に、もうすこしおうちの
家事を頑張ってくださいね。特にお掃除を。埃はからだに毒なんで
すから﹂
食生活における栄養不足といい、私は和貴のことが気になる。
き
強気な言葉に任せてみても、一旦、崩壊した涙腺は止まらず。
今度こそお別れを言わなくてはならない。
﹁お世話に、なりまじだ⋮⋮﹂噛んだ。
﹁今生の別れでもないんやから。またいつでも来んさい。今度は遊
びに⋮⋮﹂
孫にする気軽さで肩を叩く。でも。
︱︱今度は、無いんです、おじいさん。
私がこんな人間である以上、⋮⋮和貴が私のことを見ていない以
840
上、もう、そんな機会はありません。
あたたかいおじいさんとの交流も終わりかと思うと、引き裂かれ
る苦しさを感じた。けれど。
別れ方が出会いを振り返らせるのだと、私は、父のことから学習
した。
おじいさんとの日々は私にとって悲しいものではなかった。
濡れたまぶたをこすり、できる限りに、明るく、笑った。
﹁ありがとうございました。おじいさん、⋮⋮どうか、お元気で﹂
おじいさんはきっと痒くもない頭のうしろをすこし掻き、最後に
こう言った。
﹁あんたは笑とんのがよう似合うとる﹂
* * *
家を出たときよりも薄暗い。厚い雲が覆う世界はいまにも泣き出
しそうな色をしていた。
けれど、涙の結晶のような雪は降り止んだ。
だから、私も笑おうと思った。
美空ひばりを聴けば間違いなく涙が止まらなくなるから、宇多田
ヒカルの﹃Automatic﹄をプレーヤーにセット。通い慣れ
た帰り道は避け、回り道をする。
塩川神社へと向かい、この時間は無論無人の朝市通りを抜け、︱
︱海へ。
この頃には涙が乾いていた。
海は青。青という色を私に教えたのは誰だったろう。幼稚園の先
生か、お父さんだったか。
現実に見る緑川の海は、白だ。轟音を立てて吹き荒れる海。高波
が防波堤を暴力的に、叩きつく。テトラポットに降りるのも危険で、
攫われるのはまたたく間のことだろう。キャンプで川の増水から逃
841
げ遅れるのも残念ながらそのたぐいだ。
自然に対する、過信と無自覚。
近寄ってはならない領域が存在する。
﹃この時期に決まって海で釣りをする馬鹿がいる。⋮⋮自業自得だ﹄
とまで語った彼のことが、思い出される。
ちょうど一年前のことだった。
クリスマスイブ。
あのときの、切なげな。お兄さんを懐かしむマキの表情が、胸を
焦がす。
私はブレーキをかけた。耳からイヤホンを引き抜きぐるぐるにプ
レーヤーに巻きつけ、かばんに仕舞いこむ。
車は、無い。
こうすれば、轟音が唯一の音楽だった。
ほかのなにも一切を考えられないように。
波を煽る風の力。寒さを得て水分を得て増幅する荒々しい海風に、
私は自転車をがたつかせながらも、なにか意地になり、懸命に漕い
だ。
負荷をかけられても漕ぐのをやめなかったひとを知っている。
長いまっすぐな道の、分岐点の辺りに赤い点を見た。
それは、ひとのかたちをしてどんどん拡大する。
﹁和貴!﹂
急ブレーキをかけて私は叫んだ。
強風に足元の悪さというコンディションをものともしない。
私の自転車と和貴の走りは、どっこいどっこいといったところだ
ろう。
学校外で目にする和貴。朝と同じ、真っ赤なダッフルコートを着
ている。⋮⋮と思ったときに帰宅してるはずがない、と彼の家につ
いぞ立ち寄った私は、思考が鈍っていると実感した。
ポケットに入れっぱなしのキャラメルに等しい。
和貴は、頬の高いところが赤くて、ゆきんこの可愛らしさだった。
842
開いた口から白い息を吐き、珍しいものでも見たふうに瞳を開かせ、
私の下から上を眺め回している。﹁⋮⋮ケッタ乗っとんの、初めて
見た﹂
﹁けった?﹂私が蹴る仕草をすると、口許を笑みに変え、顔を振る。
﹁違う。自転車のこと。名古屋弁でね﹂
⋮⋮からだは、なんて正直なのか。
閉じ込めようとか、制止しようという本能の一切が、働かない。
現実に彼を見れば、この氷点下に近い気温のなかでも、心臓をあ
たたかな血が通いだす。
いつの間にこんなに和貴が好きになったのだろう。
﹁⋮⋮真咲さん﹂
笑いを消した彼が、何故か、近づいてくる。
両手でハンドルを持つ私は、身動きが取れない。
ストップ。
という距離も越え、
目のなかに目が、入りそう。
呼吸を忘れ鼓動だけになった私に、彼は、冷たい指を、私のまぶ
たに、走らせた。
片目をつぶった変な顔になりながらも、片方の目で彼を凝視する。
真顔のまま、透明で無垢な眼差しで彼は、
﹁どして、泣いたの﹂
﹁な。泣いてません﹂
﹁目が、真っ赤だよ﹂
ふ、と確信したように息を吐いて彼は離れる。
真っ赤なのは私の顔だと思う。
視線を下げると見るからに重たい紙袋が目についた。重心が左に
ずれるほどの。﹁⋮⋮講習会の帰り、なんだよね。今日で最後?﹂
﹁今年のぶんはね。また来年もあるから﹂
﹁大変なんだね⋮⋮﹂
﹁受験に比べればそうでもないよ﹂
843
働くことの厳しさを私は知らない。
どんな辛く苦しいことがあっても、学生である以上はやはり、親
の育てる温室に守られている。
という、後ろめたさと、自立を求める欲求が葛藤し、反抗期を生
む。
つまりは、反抗期は自活の欲求。
﹁あのね。真咲さん⋮⋮﹂手が、振られていた。視界をいっぱいに
占める彼の手が。﹁考えごともいいんだけどさ、この寒さのなかで
することじゃないよ。早く、帰りなさい。風邪でも引いたら大変だ
よ?﹂
保護者の口調で、されどあどけない幼い語感をもって、唇を尖ら
せる。
私は彼のアンバランスさが、好きだった。
この瞬間を切り取って永遠にしたい。
離れること無くこの場にとどまっていたい。
寒さなんか、どうだって、構わない。
破滅的なほどの恋心。その一片も口にできるはずもない私は、ハ
ンドルに力を込め、サドルに腰をかけた。
﹁うん。和貴、良いお年を⋮⋮﹂
﹁まだクリスマスだよ﹂
ペダルに足を乗せ、首を振った。だって。
会えない。
私は毎日学校へ行くけれど、和貴は行く用事も無い。
お休みの日に会う間柄でもない。電話もしない。
つまりは、それだけの関係でしか無い⋮⋮。
﹁ねーえ真咲さぁん﹂
答えず逆の足をペダルに乗せにかかった。期待してしまうと、あ
とが辛い。
﹁犯人だれやろな? 僕ぜったいキムタクやと思う﹂
軽い言い回しに、すこし吹き出して足を止めた。
844
笑わせることに成功したと見て、軽快なリズムでこちらにたたた
と走ってくる。私は彼の足元を見た。スニーカーの赤が濡れて一部
えんじ色に変わっている。﹁⋮⋮おじいさんじゃないかな。あのフ
ァンファン大佐やってたひと﹂
﹁ふっるいなあー﹂今度は眉を大きくしかめ、顔を軽く振る。和貴
は、いろんな笑い方をする。﹁岡田真澄でしょ? ⋮⋮今夜、拡大
版でやるって知ってる?﹂
﹁十時四分からだよね﹂
﹁気合入ってんね﹂
唇に手の甲を添え、可笑しげにからだ全体を震わせる。
私も和貴も﹃眠れる森﹄を観ている。クリスマスイブに合わせた
今日は最終回だった。
軽く握られていた拳が、開き、空を掻く。不可思議な動きに視線
が吸い寄せられる。放物線を描いて、私の、頬に︱︱
添えられていた。
すこし濡れた、かなり冷たい皮膚を私の全細胞が感じ取る。
﹁⋮⋮思いつめたような顔しとるから、﹂
目を伏せるまつげのつくる影。それは雪の粒に、濡れていた。
︱︱どうしたのかと思った。
なにが、あったのかと⋮⋮。
私の髪を耳にかける、外気を晒すものなのに熱を増す。
轟きなど、聞こえない。
彼のことしか見えない、見たくない。
添えられた、彼の右の手の尋常じゃない冷たさにも、なにかを悩
845
むように震える眼差しにも、切り取られて収斂する瞬間が、私のな
かで膨れあがる。
﹁か、﹂言葉を出すのに緊張した。﹁和貴のほうこそ、この寒いの
に手袋もしないで。風邪引いちゃうよ﹂
私は彼の手首を掴み、自転車を倒さないよう注意をしながら、そ
っと自分から離した。
手首の太さには、性別を隠せない。
﹁僕なりの罰なんだ﹂
﹁なにそれ﹂
答える代わりに和貴は左の肩をすくめる。
影のある、複雑で曖昧な笑みを浮かべ、沈黙した。
私は彼の瞳に、隠れた過去があるのだと、読み取った。
なにか言えない、自分を戒めるための理由を。
﹁いいから、早く帰ってお風呂入ってあったまってから見ようよ﹂
私は自分から切り上げた。﹁⋮⋮また来年ね。おやすみなさい﹂
﹁うん⋮⋮真咲さん、よいお年を。おやすみ﹂
﹁和貴も⋮⋮﹂
サドルをまたぎ自転車を漕いだ。
もう、振り返ることはできなかった。
膨れ上がったこの気持ちを止められやしない。
きっと、言ってしまう。
元気が無いのは、和貴のほうだった。
なにかを言いたげな、辛いことを思い出したかの、不安定に揺れ
る彼の目が焼き付いて離れない。
好きだと気づくことで行動が、不自然になる。気づかないうちは
楽だった。あの夏の頃のほうが和貴とはもっと、自然に話せた。
その不自然さを互いに分け与え、距離を、構築する。
一度開いた距離はなかなか元に戻せない。
割れたガラスが二度と前の美しさを取り戻せないのと同じで。
846
wil
tell﹄そう︱︱時間が解決してくれることも往々にして多
CDプレーヤーを出してB面をセットする。﹃time
l
い。
人間が定義付けた、逆らえない時間という概念こそが、彼らの問
題を解決する最大の治療薬であり、また、時間をかけて忘れ去るこ
とが、最大の、武器だった。
海風にさらされ、宅への道を辿りながら、そんなことを考えてい
た。
けれど、どちらにも頼るつもりはいまのところは、無かった。
847
︵3︶
申し訳程度に、テレビは点いている。
小窓の向こうからの笑い声に負けるボリュームで。チャンネルを
紅白に合わせると安室ちゃんが気になってしまうから、敢えて興味
のないバラエティ番組にしていた。それだと点けてる意味なんて無
いんだけど。
疲れた心身に年越し蕎麦の温かさがじわっとしみた。普段はこん
な夜中までお店を開けてはいないが、大晦日は特例で、近所のひと
にお蕎麦を振舞っている。
私はその恩恵にあやかる。
本当は胃もたれがするので夜食はしない主義だけど⋮⋮夜中まで
勉強して消化すればいい。とろろの汁まで飲み終え、器を置いたタ
イミングで、けたたましく家の電話が鳴った。
向こうの笑い声とどっちがけたたましいんだか。
すぐにとる気配を感じなかったので、私は急いで椅子を立ち、近
くの受話器を取った。﹁はい。小料理屋とくらです﹂
沈黙。
数秒。
直後、
かすかに笑う息を聞いた。﹁おまえか﹂
﹁まっ﹂
自分の声が裏返った。
﹁マキぃ!?﹂
かすかどころか声を立てて笑った。﹁そんなに驚くことか? お
ま⋮⋮﹂
﹁だって。だって、びっくりした。なんで? うちの電話⋮⋮﹂
﹁電話帳に載ってた。自宅のと店の番号がおんなじなんだな﹂
848
﹁うん。けど、珍しいね、マキから電話なんて⋮⋮﹂
珍しいどころかむしろ初めてだ。
受話器から繋がるコードを無意識に自分の指が絡ませている。
マキが、沈黙している。
呼吸音が聞き取れないほどの静寂を共有する。
けど私の鼓動のほうがうるさいかもしれない。
﹁勉強、頑張ってる?﹂
﹁ああ﹂
二日前に会ったばかりだった。連日彼と、学校と図書館とに行っ
ている。といっても、年末年始は流石に休みとなる。別れ際になん
と言っていただろう。
風邪引くなよ。おやすみ。
⋮⋮二言だけだった。
思い出して笑いそうになる。電話口でも彼は無口だった。
私は柱に背を預け、壁時計を見る。﹁にしても、こんな時間に電
話だなんて⋮⋮﹂十一時五十八分。テストのお陰で真っ先に長針を
確かめるクセがついた。﹁出たのが私じゃなかったらどうしてたの
?﹂
﹁丁重に頼むまでだ。夜分遅くに申し訳ございませんが大切なお孫
さんを電話口に呼び出して頂けませんか、とな﹂
私は吹き出した。﹁なにいまの言葉遣い。もういっぺん言ってみ
て?﹂
いつもより効力の弱い、てめ、しばくぞが聞こえてきた。
テレビのなかの芸人たちがカウントダウンを始める。アナウンサ
ーの声が金属的で耳障りだった。女優さんの振袖姿が、画面にいろ
を添えている。
﹁なにか、用事があったの、私に﹂
お店のほうでも、みんなが秒読みを開始する。彼がなにかを言っ
たが、いつもの抑えた声量ではとても聞き取れたものではなかった。
﹁なに。もう一回言って? 聞こえない﹂
849
﹁おまえの、﹂
十、
九、
﹁こえが﹂
六、
五、
﹁聞きたかった﹂
三、
﹁だけだっ﹂
耳元で叫ばれる、臨場感だった。
彼が言い放った瞬間に、新しい年があけた。
一九九九年。
ノストラダムスが人類の破滅を予言したという、不吉な年の始ま
り。
まずは、⋮⋮私の心臓が、爆発しそうだ。
﹁あ、の⋮⋮マキ﹂私は受話器越しでも頭を下げた。﹁あけまして、
おめでとう⋮⋮こ。今年もよろしくね﹂
﹁ああ。それだけだ。じゃあな﹂
言っておいて、一方的に切る。
爆弾を残しておいて。
おやすみなさい、を言う猶予もなかった。
受話器を置き、引いたままだった椅子に戻り、蕎麦の器をどかし、
机に、突っ伏した。
いますぐになにかで冷やしたかった。
頬が、熱い⋮⋮。
マキの言葉は確かに嬉しいのだけれど。けど、
けど、⋮⋮
850
﹃僕がずっと、真咲さんの声を聞いていたかっただけなんだから﹄
違う。
あれほどの破壊力を、持たなかった。
目を閉じれば、電話口の向こうで、困ったように頭を掻いている
だろう彼の動き。はにかんだ笑み。⋮⋮うすく赤らんだ、頬。
花の開いた瞬間を封じ込めた、優雅な笑顔。
喉仏からほとばしる、屈託のない笑い声。
一月一日、元旦。
新しい年の幕開けに、私は自覚した。
夢でもいいから、会いたかったのに。
初夢に出てきたのは、声を聞いたばかりのマキではなく、まして
や親愛なる情を抱く柏木慎一郎でもなく、想い焦がれる和貴でもな
く。
繰り返しリプレイされる木島家の光景に幼き頃の情景。
畳の部屋で母が慟哭する姿。
無力な自分。
幼き私を抱き上げる、いまは見ぬ父。
軽々と抱え上げ、肩車をする、あの残像だった。
851
︵1︶
これまた奇遇にも、去年と同じく一月八日に始業式を迎えた。
久々の再会にクラスメイトのほとんどが湧き立つが、私を含めた
一組の少数派の受験組は言葉少なに席につく。
なにしろ、センター試験が来週に迫る。
模試模試模試のオンパレードで爪の先まで試験漬けになったかの
この身体。
極寒の体育館にて校長の長話を延々聞かされるなどなにかの罰に
等しく、頭のなかでずっと私は英単語帳をめくっていた。他の子も
似たようなものだろう。コート以外にも三年生だけマフラーと手袋
の着用が許可されているのがありがたい。階段でホッカイロを落と
した子もあらわれた。ルーズソックスよりか何故かハイソックスの
ほうが緑高においてはお洒落偏差値が高いのだが、それらを捨てて
黒タイツを履く子もかなり、増えた。
風邪を引いては元も子もない。
﹁真咲ぃまた明日なー﹂
﹁ん。じゃあね﹂
ブーツから出るバランスを考えたハイソックス派の紗優は軽やか
に教室を出ていく。
あーマキ。うんじゃあなー。
⋮⋮と廊下から声を聞く。
気にせず手早く机のうえの準備を進めた。
﹁うす﹂
﹁三組で待ってればいいのに﹂私は顔を動かさず彼に伝えた。﹁始
まるまで二十分も残ってないんだし﹂
﹁十六分だ。時間の把握は正確にな﹂隣の机にテキスト一式を置く
ご様子。﹁たかが十六分されど十六分だ﹂
852
受験組は放課後に講習を受けるが、彼はその席で受けるのではな
い。
四組で受講するのだが始まるまでの時間を一組で過ごす。
﹁⋮⋮往復する約五分間が勿体無いとは思わないの﹂
﹁俺の足では四分。残りの十二分を至極充実させればいいだけの話
だ﹂
﹁一分経過﹂
料理の鉄人のアナウンスを意識した。
不毛なやり取りだが。
この頃には私もセッティングを終えている。前回の続きから教科
書とノートを。
﹁日清戦争が起きたのは何年﹂
教科書をぱらぱらめくり彼は言う。
﹁せ、一八九四年。縁起でもないけど﹃ひとは串刺し﹄で覚えてる﹂
﹁初代征夷大将軍は﹂
﹁坂上田村麻呂﹂
﹁初期荘園を整理することになった荘園整理令は﹂
﹁え、延久の荘園整理令﹂
﹁⋮⋮不正解﹂たぶん目ではまったく違う問題を追っている。﹁寄
進地系荘園が成立するきっかけとなった荘園整理令は﹂
﹁⋮⋮延喜の荘園整理令﹂
﹁逆だ﹂背中を丸めた座り方で椅子を引く彼は、いまだ教科書から
目を離さない。﹁おまえ。荘園舐めてると痛い目に遭うぞ﹂
﹁⋮⋮舐めてません。けど苦手です﹂
教科書を両手のあいだに閉じた。
背中がまっすぐに伸び、怜悧な視線が返ってくる。
﹁開き直っても試験は待ってはくれん﹂
マキは、厳しい。
自分に対しても、他人に対しても。
安田くんを一喝した件でよく分かったし、⋮⋮私が初めて叱られ
853
た件もそういうことだった。
甘ったれてんじゃねえ。
﹁さて、対策にかかるか。荘園制度を理解するには律令制だが、ま
ずおまえ。律令制をなんのことだか理解しているな﹂
教科書を机に置き、なにげなくこちらを確かめる。
私の顔を見たマキは白眼を大きくした。
﹁おい、まじかよ⋮⋮﹂
﹁や、勉強する時代は中世以降に絞ってるの。それ以前はひたすら
暗記で⋮⋮﹂
﹁暗記は必要だが、理解もしねえで頭に入るわけがねえだろ﹂
﹁⋮⋮はい﹂仰る通りです。
取り繕いはなんの意味も成さない。
彼の前では。
小さく息を吐き、マキはこちらを向いて座り直す。長い足を組み
合わせ、
﹁律は刑罰を定めた法律、令は政治の仕組みや規則を定めた法律、
だ﹂
どうやら講義を始めるらしい。
ちらと鋭利な目線をあげて、
﹁⋮⋮脅す言い方をしたがそんなにびびる必要は無い。律令法が日
本で初めて制定されたのは六八九年、飛鳥浄御原律令。持統天皇の
治世だな。ようやく確立したと言えるのが七○一年の大宝律令。⋮
⋮大化の改新から五十五年が経過してようやく、だ。蘇我と物部の
争いや、あいだに挟んだ壬申の乱に代表される通り、不毛な皇族間
や地方豪族同士の争いで治世が混乱するのも、当時力をつけつつあ
った地方豪族に好き勝手に土地を支配されるのも好ましくは無い、
と、大和政権は手を打ったんだ。唐というロールモデルをサンプル
にしてな。本格的な実施はいま言った通りでやや遅れるが、⋮⋮改
854
新の詔は覚えているか。例の四か条⋮⋮﹂
公地公民制、中央集権国家、班田制、新税制。
﹁⋮⋮うん。天皇を中心とした法治国家なるものをきっちり明文化
し、土台を作りあげること︱︱最終的に安定した中央集権国家を構
築するのが目的であり、残りの三つはその手段だ。そもそもがこの
お国の領土は天皇様様の収める領地にございまして我々はその土地
をお借りしている身分です︱︱お借りしているのだからお礼をしな
くては、という物語を、人々の天皇への崇拝心を絡めて作り上げた
んだ。政権を担う側には米が貴重な財源だからな。せっせと田を耕
す人民には口分田という借地を分け与えると同時に過多な税をフッ
かけた。つまり、土地と人とを紐付けて管理をし、安定した財源の
確保にかかった、これが班田収授法。⋮⋮元ネタの唐の制度との違
いは、戸籍・計帳のタイミングを一年ごとではなく六年ごとにした
こと。女と六歳以上の子供や、奴婢などの奴隷にも口分田を支給し
た点だ。支給された人間の年齢性別に関わらず、租・調・庸などの
負荷がどのみちかかるものだから人民の負担は膨大なものだった。
いまみたく道が整備されておらず物盗りもいるからな、貢ぎ物を届
けに行くにも一苦労どころか三も四も苦労したろうな。因みに地方
の人間が届けに行くのも実費負担だ。九州に飛ばされたら二度と妻
子の顔を拝めない、と言われていた。⋮⋮残された女子供は貴重な
働き手を奪われ、山上憶良でなくとも泣きたくなる時代の到来だ。
こんなもん、法を成立させる以前に崩壊が目に見えたもんだが⋮⋮﹂
ぶつぶつ言いながらまた別のテキストを引っ掴んだ。
﹁それで、逃げちゃう農民がいっぱい出てきたから今度は墾田を支
給したんだよね﹂
﹁支給したっつうかてめえで切り開け、っつう命令だ。⋮⋮三年で
返せとか、三世代で返せとか言われてもな、課役の負担は変わらな
い。課役から逃れようとまあ当然、年齢性別の詐称なんかして戸籍
を操作するやつも出てくるし︱︱話し始めるときりがないんだが、
人民と口分田のバランスが取れなくなったのも律令制崩壊の原因だ
855
な。人口の多い近畿地方では口分田がむしろ不足した。支給年齢を
十二歳に引き上げようだとかいろんな手を打つが、⋮⋮崩壊の流れ
を到底止められるものでもなかった。逃げ出した人民をうまい具合
に寄せ集めれば土地と、労働力が確保できる。力を持つ豪族がそこ
に目をつけた。⋮⋮ようやく初期荘園の話に差し掛かれるところだ
が、︱︱坂田﹂
唐突に言葉を切る。
﹁俺に何か用か﹂
テキストに視線を落としたまま。
﹁油断も隙もあらしゃいませんなあ﹂
かはは、と声を立てる彼は、こっそり、マキの後ろに回り、指を
二本、立てていた。
子どもじみたいたずらにマキは不快げに眉を寄せる。﹁失せろ﹂
﹁ここオレの席やで﹂
座高がずいぶんと低い。ゆえにマキの目の高さが低い。
﹁勉強しねえやつがなにしに残ってる。帰れっ﹂
﹁⋮⋮蒔田はんがあんまりにも楽しそうなもんでなあ﹂
テキスト二冊を畳み、マキは乱暴に机のうえに置いた。とうとう
坂田くんのほうを向きかけた動きを、私は、話しかけることで引き
留めた。﹁よく、喋るんだね﹂
﹁ああ?﹂
﹁坂田くんと居ると﹂
これには坂田くんがすかさず反応する。私とマキのあいだに入り、
﹁そ! こいつなーこんな態度取っとるけどほんまはごっつ好っき
やねん、オレのこと﹂
﹁稜子さんと三人で仲が良かったってきいたけど、こんな感じ?﹂
﹁ちゃうちゃうこんなもんやない﹂井戸端会議するおばさんみたく
坂田くんは手を横に大袈裟に振る。﹁ああ都倉さんは稜子のことは
知っておるな? なんやら学祭んとき喋ってんて?﹂
坂田くんの肩越しに見る冷たい目線が、一瞬、泳いだ。
856
﹁う、ん⋮⋮﹂
⋮⋮たぶん同じことを思い返している⋮⋮。
﹁こいつなーこんなダンマリやなかったで。高校入ってからクール
気取っておるけどなーなんの話しとるか思い出せんくらいにべらっ
べらとな﹂
﹁都倉⋮⋮残り八分だぞ﹂
普段よりも彼の声は弱い。
﹁なんちゅうか。稜子を見る蒔田の目がそらーそーゆー目ぇしとっ
てなーいぃくらオレでも邪魔ちゃうんかなって思えるええムードや
った。⋮⋮ほんでも入ってけるんがオレのいいとこなんやがな﹂
好き、だったのかな、やっぱり。
楽しそうに語る坂田くんの目に、ちらり、悲しい影が過ぎるのを
見逃さなかった。
﹁お﹂
目を見開いたマキが、私の後方を指さす。
﹁和貴﹂
瞬間的に立ち上がる。
後ろを、確かめる。
が、開いたままの扉からは誰の姿も、見えなかった⋮⋮。
気落ちして席に戻る。
何故か。
坂田くんがお腹を抑え、前かがみになっていた。
マキはしれっと足を組み替える。
﹁どうしたの。なにか⋮⋮﹂
﹁大有りや﹂
﹁どうもしねえよ﹂
857
正反対の声が返ってきた。いったいどちらを信じるべきか。
﹁⋮⋮ったく。手加減の知らんやっちゃ﹂
片方の手で黒縁眼鏡をかけ、しかめっ面で坂田くんは教室を出て
いった。
﹁⋮⋮続きは帰りにな﹂
彼を目で見送り、彼も席を立つ。
迎えにこなくていい、というのは愚問だから私はなにも言わない。
﹁なにかしたの? 坂田くんに⋮⋮﹂
﹁丁重にご案内したまでだ。お出口はあちらでございます、とな﹂
無表情に言う彼は、発言内容とは裏腹になにかしでかしたふうで。
周りの子の目撃情報によれば、目にも留まらぬスピードで肘鉄を
食らわせた。
⋮⋮慇懃無礼を絵に描いたような行動ではないか。
去り際にあんな艶やかな笑顔を浮かべておいて。
しかも、ひとの注意を、好きなひとという餌で他に引きつけてお
いて。
よくよく丁重に言って聞かせなくてはならない。
暴力はいけない、と。
858
︵2︶
みくづ
﹁ながれゆく我は水屑となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ︱
︱無罪を訴えようとしたが、宇多天皇に面会を拒否されたときに道
真が詠んだ歌だ。しがらみは﹃柵﹄の意味。落ちぶれていく自分を
水屑の儚さに重ねたのだな。⋮⋮菅原道真が太宰府への左遷を嘆き
悲しむこのような歌は数多く残る。⋮⋮休憩を入れるか﹂
﹁訊いてもいい?﹂
﹁なんだ﹂
﹁中学三年生の頃のこと⋮⋮﹂
﹁おまえ、俺の話を聞いていなかっただろう﹂
﹁聞いてたよちゃんと。道真を祭った太宰府のお守り、私も一つ持
ってるもん﹂
顎をつまみ、彼は考え始める。
きっと、話せる程度と話せない程度の思い出を、砂金さらいのよ
うに、選別している。
﹁私には肘鉄しないでよね﹂
こちらを向いた彼が。
無表情のまま、顔を傾けコキ、と首を鳴らした。﹁⋮⋮一組にい
たおまえ以外全員、シバくか﹂
﹁笑えない。本当やめて﹂
﹁おまえを笑わせるために言ったのではない﹂
﹁じゃあ安心させてよ。誰にも暴力は振るわないって﹂
﹁了解した⋮⋮﹂
浮かびかけた、青白い炎が終息するのを待って、私は二つ目の質
問をした。﹁ねえ、タスクとマキが喧嘩したらどちらが強い?﹂
﹁長谷川だ﹂
即答するから驚いた。
859
俺だ、くらい言うと思ったのに。
私の戸惑いを取り残し彼は暗誦するようにすらすらと言う。
﹁運動能力と喧嘩の強さを兼ね揃えてやがる。経験値も違う﹂
いつも温和で、平和的なタスクからは想像もつかないことを。
﹁タスクって、喧嘩なんて出来るの?﹂
横顔でも分かるほどにマキは深く眉間に皺を刻んだ。﹁⋮⋮世の
中には知らないほうがいいこともある﹂
﹁なによその言い方。逆に気になっちゃ﹂
最後まで言えなかった。
目を見開いた彼の残像。直後、一瞬にして視界が黒で埋め尽くさ
れる。
急接近した彼に支えられていた。
鼻歌と。自転車がきこきこと通り過ぎるメロディを聞く。
﹁⋮⋮あっぶねえな﹂
安全を確かめ、彼は私を離した。﹁あ。ありがと⋮⋮﹂
目をつぶっても平穏無事に歩けるかもしれない現状は変わらず。
涼しい顔をしているけれど、私は自分が涼しくない顔をしていな
いかが不安になった。
﹁もう一つ、訊いてもいい?﹂
﹁なんだ﹂
信号で止まる。
右折してくる軽のライトをまともに見てすこし、目が、くらんだ。
﹁ひとを好きになってまた、誰かを好きになる。⋮⋮これって、誰
にでもあることなのかな﹂
だから、マキの顔を見あげてみても、二つの虹彩でぼやけて見え
た。
﹁おまえ、自分のことを言っている? それとも、一つ目の質問の
変化球か﹂
私にも分からない。
ふとした疑問が頭をもたげた、ただ口から出た、それだけなのだ
860
った。
青信号を見上げ、マキは抑揚のない声で語り始める。﹁誰にでも
ある。生涯愛するのがたった一人だけだなんて人間はそう、いやし
ない。フィクションだけの綺麗事だ。⋮⋮さっき源氏物語を読んだ
だろう。見目形の美しい、亡き母と現・父の妻と生き写しな幼女を、
寺から即かっぱらい手をつけたロリコンの浮気性な野郎を執念深く
たまかずら
想い続けるファンタジックな紫の上よりも、俺には。意に添わぬ相
手と婚姻させられるが好きになろうと努力する、玉鬘のほうが現実
的に思えるがな﹂
こちらに一瞥をくれ、
﹁不遇に思えた新しい環境に流されず、新たな自分を開花させ、ひ
とと、心を通わせることに喜びを見出す⋮⋮﹂
そういう時代の話をしているんじゃないけど。
と私の疑問を読み取ったように、話題を引き戻す。
﹁俺の話をするならば﹂
情の一切を交えぬ声で、愛や恋や人々の悲劇を語れる、彼は。
私の顔色を確かめ、小さく、笑った。
﹁そんなに聞きてえんなら最初っから言えよ﹂
⋮⋮相当興味津々な目をしていたらしい。
﹁ある人を見ていたはずが、いつしか違う人を見ている自分に気付
く。⋮⋮兄貴と付き合い始めたのを見て、分かった﹂
稜子さんのことを指している。
﹁嫌じゃ、なかったの⋮⋮﹂
自分の元彼女が自分の兄と付き合い始める。
平常心ではいられないはずだ。
﹁兄貴からの相談に喜んで乗った﹂私の同情混じりの声にも彼は、
動じない。﹁⋮⋮罪滅ぼしかもしれねえな。稜子には幸せになって
欲しいんだ。俺が出来なかった分、兄貴とな﹂
優しく微笑む彼と、
お兄さんのイメージとがここで初めて、私のなかで重なった。︱︱
861
﹃⋮⋮ちょっと抜けられるかな。中庭にでも行かない? 風が気持
ちよさそうだし⋮⋮﹄
いつから、という答えを得られればそれで終了する話だった。
間の抜けた顔をする私に対し、柔らかく笑みながらも、蒔田樹さ
んの目は真剣だった。
﹃きみには、誤解のないように、うちの弟のことを話しておきたい﹄
去年の六月だった。あいつが怪我をしたのは。そっから間も無く
して稜子と別れたのは。
﹁タイミングが合わないことって誰にでもあるんだよね﹂
当時、音楽の世界で切磋琢磨していた稜子さんにとって、マキの、
辞めるという決断は信じがたいものだった。
﹁やってみんと分からんやろが︱︱つい口に出したこの一言を、稜
子はいまでも後悔している。⋮⋮取り返しのつかない一言だとね。
人前では破天荒なところもあるけれども、音楽やってるだけあって
ね、あれで結構ナイーブなんだよ。それは弟についても同じだね。
互いを思いやろうとするあまり、息苦しく感じられてしまう⋮⋮そ
ういう時期に差し掛かってしまったんだ﹂
知っての通り、うちの弟もそういうのをぺらぺら喋るタイプじゃ
ないし。
あいつがサッカーを辞めて、自分から稜子にも別れを告げて、苦
しい状況にあるってことを⋮⋮僕は彼女から聞いて初めて知ったん
だ。
﹁恥ずかしながら、うちの家族に聞いても一向にあいつの状況が掴
めなくってね。⋮⋮それどころじゃなかったのかもしれないね。電
話代わってって言っても全然出なかったから⋮⋮﹂
失声症の時期があったと聞いている。
樹さんは、知らないようだった。
﹁それで、僕は稜子と連絡を取るようになった。まあ自分を責める
862
彼女の様子も気になったし⋮⋮﹂
稜子さんを励ましているうちに、いつしか、自分が励まされてい
ることにに気がついた。
声だけのやり取りだった。
それが、屈託なく話せ、互いが素直になれる︱︱そんな居心地の
良さを感じ始めた。電話線たった一本を介して。
東京に住まう樹さんを、全国大会が東京で行われるのを利用して
一度尋ねた。
再会したときに、二人は確信した。
それからバレンタインの日に、樹さんは稜子さんに告白したのだ
が⋮⋮事前にマキには相談していた。
﹃当人同士の問題だ。他人がいくら気を揉んでもなるようにしかな
らん﹄
︱︱あんなことを言っておいて、自分は、樹さんと稜子さんのあ
いだに入り、二人の仲を取り持っていたのだった。
なあ兄貴。⋮⋮俺が兄貴に遠慮されて喜ぶと思うか。
認めるが、俺は稜子が好きだった。過去の話だ。
かつて好きだった女がみすみす不幸を選ぶのも、望んじゃいない。
もし弟のことを思うんだったら、自分の気持ちに正直になること
だ。
⋮⋮私が、紗優とタスクの関係を悪くするきっかけを作ったとき
に。
もしかしたら、マキは自分に言い聞かせていたのかもしれない。
︱︱時間が解決してくれることもある︱︱
一ヶ月後のホワイトデーの演奏会には、必ず行く、と樹さんは約
束した。
863
急な試合でそれができなくなった。
行き場のない気持ちを稜子さんはマキにぶつけ、直接渡せなかっ
た、想いを込めたチョコをぶつけ︱︱
私が目撃した場面へと繋がっていく。
﹁⋮⋮緑高では、彼と稜子さんが付き合っていることになっていま
す﹂
中庭にてゆうに二十分。
そこまで彼のことを話してくれた樹さんに、私は率直に現状を伝
えた。
﹁そうなの?﹂言葉よりも驚きが見られない。﹁ふぅん。変だね。
⋮⋮どうしてだろう﹂
聞く限りでは、人前で目立つ行為をしたのはマキだった。
そして否定しなかったのも。
言いはしないが、ここで、彼への疑念が生まれた。
﹁ですので、⋮⋮驚きました﹂
﹁あいつ、変わってんよね? ⋮⋮家でもああなんだ。不器用な奴
で自分の気持ちを押し殺してばっかりでさ。僕以外には一言も口を
利かないんだ⋮⋮あ源造さんも別かな﹂
樹は誇り、と語ったあのお母さんが思い出される。
彼の居場所はあの家には無いのだろうか。
﹁まったく我が弟ながら何を考えているか掴めないところがあるよ。
まああいつのことだから⋮⋮なにか考えがあってのことだろうね。
成功してるかは分かんないけど﹂
﹁私。一臣くんを探してきます﹂
﹁気は遣わないで都倉さん。きみが東京に来るのを楽しみにしてい
るよ。美味しいものでもご馳走するから。一臣や稜子と一緒に﹂
浮かしかけた私の腰が止まった。﹁私が東京に行くのをどうして
⋮⋮﹂
﹁東京の大学を目指してるんだってね。⋮⋮僕と同じ現象があいつ
864
にも起きていることを、電話口で声を聞くだけで、理解したんだ﹂
樹さんは、疑問を浮かべる私の視線を受け止めて、微笑んだ。
﹁あいつが話すのはいつもきみのことばかりだよ﹂
﹁自分から話振っといて聞かねえのな﹂
手加減なしに、
頭を掴む手に、我に返った。﹁痛った﹂
﹁中三の頃の話も道真公の話も終了し、その後、羊が二百三十五匹
現われた﹂
よくもそこまでカウントできたものだ。
﹁あ。ありがとう﹂
﹁どういたしまして﹂
しかし、彼の手は離れない。
﹁なあ都倉。⋮⋮おまえの言う通り、永久不動の愛情などこの世に
は存在しないのかもしれん。愛情自体がある種の幻想だ。だが刹那
的な感情であれ、それに身を焦がすのは存外、悪くはない﹂
ぼんやりと、また樹さんの余韻の残った頭を起こせば、
お兄さんと重なる顔で、彼は、笑った。
﹁俺のようにな﹂
ぼさぼさの髪をそのままに、呆然とした私を取り残し、迷いなく
自分の道を突き進む背中。
ふと振り返り、唇のかたちが動く。
勉強しろよ。
見惚れていた自分に気づき、またも私は両頬を叩き、一目散。
いま自分が浸るべき、受験勉強の世界へと還った。
865
︵3︶
大学入試センター試験が十五日、二日間の日程で始まりました。
とはこの時期お決まりのニュースだ。
県内には畑中市以外に大学が無いために試験を受ける会場が必然、
同市に絞られる。遠方に住まう受験生は前日に市内に入り、二泊を
する必要があるので、早い段階でビジネスホテルを押さえておく。
駅周辺にホテルは多いが上限がある。緑高では告知のうえ団体行動
で現地までの移動もろもろを行うが︱︱他の学校も似たようなもの
だろう。道中、貸切バスを何台も見かけた。もし向こうに親戚知人
がいるならばそのおうちに泊まり、試験会場まで車で送迎して貰う。
以外の大多数は駅前から市内バスで向かう。
私は大多数だ。
私が試験を受ける会場は、畑中大学︱︱タスクや小澤さんなど国
公立狙いのひとのほとんどが受験する国立大学︱︱だった。駅の南
西に位置する、周辺にぽつぽつとファミレスを取り揃えた程度の、
昔はなにもない山だったに違いない、観光や喧騒とも隔てられた場
所だ。学生は大学の近くに住むのが一般的で、彼らはバスか原付か
で移動をする。裕福ならば車でも。繁華街が大学から駅周辺からも
離れて立地されたことを含め、一極集中型の都市に慣れた私の目に
は、畑中の風土が物珍しく映った。
会場に向かうバスに乗るなり、事前に手荷物を何度も確認したに
も関わらず、忘れものをしていないか私は不安に駆られた。
﹁落ち着け。受験票さえ忘れてなければどうにかなる﹂
私の指はその紙を引き当てた。
なので、かばんの金具を閉じた。
﹁万一忘れたとしても、俺が取りに帰ってやる。⋮⋮安心しろ﹂
耳元でそう言われ、挙動が落ち着くと同時に、静かな車内で注目
866
を集めてしまい、タスクが咳払いをした。
緑川から出る長距離バスでも、この市内バスでも、会場でも見知
った顔をちらほら見かけた。座席の前後左右が緑高生だった。
でも、ここからはひとりきりの戦いとなる。
安心感と孤独と緊張感とに包まれた二日間を過ごした。
私は緑川に来た当初、この地を僻地と表現した。
交通手段と気候の面においてもそれは間違いでは無い。
第一に交通の便が悪い。畑中までバスで三時間弱。同市は他県と
は違い、新幹線を通しておらず、長野や新潟などで乗り換えが必要
となるのでそこから電車と新幹線の乗車時間だけで四時間、乗り換
えを入れれば半日。飛行機ならば、中継点の畑中で一時間近く待た
され、そこから一時間のバスに揺られ、県内唯一の空港へと。羽田
まで五十分程度だが緑川からその空港までだけでゆうに五時間を要
す。
しかも、飛行機の場合、特に一月二月は日本海上空の大気が乱れ
るため、定刻通りに到着しないこともしばしだ。新幹線と比べても、
東京に行くのはどっちもどっち。強く効率的なほうを推し難い。
降雪量は、温暖化が進み、マキが小さかった頃のように膝まで積
もることはないにしても、東京に比べると段違いに多い。畑中大学
への坂道が白く凍結しているのは例年なのだそうだ。だからみんな
早め早めの行動を心がける。幸いにして、降雪量は少なくさほどの
支障は無かったのだが︱︱関東地方で大幅に交通機関が乱れたと報
道された。
会っていないとはいえ、前の学校の同級生がみな無事に受験でき
たかが、気になった。
確かめる手段が無いにしても、願うしか、無かった。
柏木慎一郎が教鞭をとる東京心理大学に入学するには、センター
試験で高得点を取らなくてはならない。最近の模試ではB評価にあ
がったが、肝心のセンターで取れなくてはなんの意味もない。
867
すべては、この日にこそ。
気の引き締まる二日間を終えれば、移動時間を利用した、長くて
短い休息が訪れる。畑中から緑川に戻るバスの車内にて、運転手以
外の全員が熟睡していた。
行きと同じく、こちらにからだを預けにかかるマキを窓際に押し
のけ、
行きとは違い、英語を流すイヤホンを外し、私もうたたねをする。
私はおおよその結果を悟った。
休息を含めた、覚悟を固める時間だった。
私立大学を三校受験することとなる。
当初の予定通り。
一月十八日は、それまでの鬱憤を晴らすかの快晴だった。路面の
氷が溶けて水浸しとなる。ブーツを避けて長靴のほうがよかった。
一組での挨拶もそこそこに、私は二組のいつも座る後ろの隅の席
で赤本を読み始める。立ち上がって談笑する者は誰も居ない。
早く採点したいと誰もが思っている。
先生が教室に入ってくると、待ってましたとばかりに自己採点を
開始する。
センター試験から持ち帰った自分の回答と正答とを突き合わせ、
その結果が︱︱学校内だけでなく予備校や然るべき組織に流れ、数
値化しデータ化し、展開される。受験生はそれを利用して自分の立
ち位置を把握し、今後の対策を練る。
採点後の教室は悲喜こもごもの寸劇と化した。
途中からやったあと飛び跳ねる男子。よかったなーと声をかける
その友人。
なんとも言えない顔で頭を掻く優等生。肩を落とし、⋮⋮静かに
涙を流す女子の姿も見られた。
私はどちらかといえば、後者の立場に近かった。
868
宮本先生と話をし、職員室を出たところで、扉に降りかかる影を
感じた。
冬の柔らかな逆光にて暗く染まる、壁によりかかるシルエットを
凝視する。日が落ちるのが早くなった。
﹁どしたの。⋮⋮職員室に﹂
﹁入らない﹂
﹁行く?﹂
﹁行く﹂
コートとかばんを装備済み。万端な彼は、普段通りに先を進む。
コートのボタンを片手で留めながらその背中に、続く。
︱︱待っていたのかな。
一組の前じゃなくてこの職員室の廊下で。
結構、順番がつかえてたから、⋮⋮時間かかったと思うんだけど。
縁起を担ぐわけではないが、歩くときに足元に気を遣う。傘は開
かなくても平気だった。外の風が朝よりも強く感じられ、玄関先で
マフラーを結い直す。
おじいさんからもらった、真っ赤なマフラーが風になびいた。
﹃あんさんが希望する大学に入れるよう、わしも、願うておる﹄
ああ言ってくれたおじいさんの期待にも、応えられなかった⋮⋮。
虚しくてやるせなかったけれど、後悔してもどうしようもない。
校門を出て細い道に差し掛かったところで、私は切り出した。
﹁私ね。私立に絞ることにした。⋮⋮生物と日本史が、駄目で⋮⋮﹂
869
駄目。
の一言を言うときが情けなかった。声色もそういう女々しいもの
になった。
﹁生物なんて六十八点だよ。平均以下だもん。終わってるよね﹂
図書館へと続くいつもの道。
目をつぶってても歩けるかもしれない、濡れた道を辿る。
﹁せっかく⋮⋮教えてくれたのに。ごめんね﹂
彼の背中がずいぶん遠く広く感じる。
冷たい風に、揺るがない。
泣き言にも動じないあの彼は、こんな女々しさと無縁なのかもし
れない。
﹁やっぱり、⋮⋮始めるのも遅かったし、足りなかったんだと思う﹂
知能も努力も。﹁⋮⋮けど英語とかは結構良かったから、私立の滑
り止めは確保できた感じだよ﹂
切り替えなくてはならない。
間を置かず戦いが、待つ。
こういう感傷の置き場所も、含めて。
後悔を捨て去り、悔恨をバネにし、新たな目標を設定しそして、
挑むのだ。
五分経過。時間を大切にするマキは一言も口を利かない。
角を曲がったのを利用し、私は彼の様子を窺った。﹁どうしたの。
黙りこくって⋮⋮結果、マキはどうだったの?﹂
870
顔を下方に伏せていた。
押し殺した低音が、その薄い唇からゆっくりと、紡がれる。
﹁⋮⋮俺は。そんなに信用ならないか﹂
﹁︱︱へ?﹂
間抜けた声を出す間に、腕を、掴まれていた。
強い。
﹁昨日の帰りも作り笑いしやがって⋮⋮﹂
震えている。どうしてだか。
﹁ぺらっぺら口先だけで喋りやがって⋮⋮﹂
怒りにで、だろうか。
﹁俺は取り繕うおまえになんざ興味が無え。つれえんなら正直に言
えばいいだろが。なにを隠すことがある﹂
﹁⋮⋮言ったところでどうなるって言うのよ﹂
﹁聞いてやる﹂
白い眼光が飛ばされ、私のからだがすくんだ。
﹁それで? マキに話したところでなにかが変わる? 私がセンタ
ーでコケたことに変わりはないじゃない﹂
私を掴むマキの力は強くないのに、私はそれを振りほどけない。
縛り付けていたようだった彼のひかりが、ここで、減じた。
まつげにかかりそうな髪の成す影に、暗く、目を、細める。
﹁ろくすっぱ手付かずだった二教科三年分を、九ヶ月で取り組んだ。
⋮⋮おまえはよくやった﹂
同情。
精神論。
慰め。
まさか彼からそんなものが吐き出されるとは思わなかった。
失望が喉元をせり上がる。
﹁違う。結果が出なきゃなんの意味もないよっ!﹂
﹁ちげえのはおめえだ﹂
上気する私に対して、マキは、顔色を変えず断言した。
871
そういう意志の強さを持ちながらも、傷口でも触れるかの痛みを
交え、顔をゆがめ︱︱
﹁それだけじゃねえと、言ったのは、⋮⋮誰だった?﹂
つと視線を落とす。
私を掴む自身の手にではなく、もっとしたの︱︱
﹁あ⋮⋮﹂
理解した。
傷つき痛みを残す彼の、潰えた夢の正体を。
伏せた顔を起こしたときに、見る者の胸を締めつけられる彼の目
線に、絡め取られていた。
﹁無駄なことなんか一つもねえんだ。おまえがやってきたことに。
⋮⋮仮に今、おまえを慰められるのなら、足の一本くらい安いもん
だ。なにしろまだ歩けんだからな﹂
作り笑いをするマキが、滲んで見えた。
噛み締めた奥歯が震える。
彼が舌打ちをするのを聞いた。次の瞬間、
﹁我慢なんかすんじゃねえ﹂
荒っぽく引き寄せる、その腕のなかに自分がいた。
シャリシャリしたダウンコートのナイロン生地。冷蔵庫に保管さ
れたかの冷たさが、すぐに、潤いを帯びてしまう。
﹁コート、汚れちゃうよお⋮⋮﹂
﹁⋮⋮かたちあるものは全て汚すためにある。少し、黙っておけ﹂
彼の手は誰かの頭を押さえつけるためにあるのか。
きついほど抱きしめられますます苦しい。
目から鼻から口から溢れる激情に息も、できない。
﹁俺は、おまえの事情を知らん﹂
彼の力が、緩んだ。
頭の輪郭を大きな手で、支配する。
それなのに彼の追及は、どうしても優しい。
﹁あの大学に入りてえ理由が、あったんだろ。あんなに躍起になる
872
とは⋮⋮﹂
柏木、慎一郎の居る大学に、入りたかったの、私は。
心理学者として尊敬しているけれど、それだけじゃなくて、もう
一度会って、確かめたかった⋮⋮。
﹁和貴のじーさんの世話もしながら、よくやったとは思わねえか﹂
誰が、マキに、言ったの。
紗優かな⋮⋮。
﹁この強情っぱりが﹂
髪をかき回す彼の手が、吐き出せと誘発している。
コートを媒介として彼の胸に全てをぶつけた気分だった。
喉の奥が狭まり、泣きじゃくりを立てる。二三度、荒っぽく頭を
叩かれた。﹁まったく⋮⋮俺の前で強がるなと言ってなかったか﹂
﹁言っでだい﹂
﹁ひでー鼻声﹂
首根っこを引っ張られ、
目を剥いたマキと遭遇した。
﹁⋮⋮鼻水出てんぞ﹂
見られた羞恥と離して欲しいという願望が噴出した。
﹁こら。動くな﹂
丁寧にティッシュなんか拭かれてどうしたらいいのか。
目も、鼻も。
待つあいだの気まずさといったら。
背中の後ろにも腕が回されているというのも。⋮⋮かばん。落と
したんだろうか。私もだろうか。持っているんだろうか。私にはそ
れも分からない。
﹁も、⋮⋮止まっだがらだいじょうぶ。離じで﹂
﹁いや、もうすこしこうさせてくれ﹂
せっかく拭いて頂いたのに、涙と鼻水の再歓迎だ。
感情が崩壊したのか、恋をしたせいか。
歓迎されるとまた遠慮しなくていいんだよとばかりに、涙が止ま
873
らなくなる。
しゃくりあげる私に、彼は、勿体つけて解き明かす。﹁ひとつ、
いいことを教えてやろう﹂
私は頷いた。
﹁下旬からもれなく俺と私大受験ツアーに出られっぞ。どうだ。喜
べ﹂
⋮⋮
もしかして。
私は顔をあげた。ひどい状態だが構わず。
﹁泣きたいのはマキのほうだったりして﹂
﹁ちげえ。俺は元から私大一本だ﹂
﹁センター利用の私大も狙ってるって言ってたじゃん⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そうだ。その通りだ。悪いかっ﹂
開き直る。
珍しいマキの姿を見て、ようやく笑みが漏れた。
しかし。
腕の拘束力は強まるばかりで︱︱
自分がだるまかハムになったみたいだ。
﹁そ。そろそろ離してもらって、いいかな﹂
﹁困ったな。右手がいうことをきかん﹂
⋮⋮マキってこんな冗談言えるひとだっけ。
彼は上体を離し、私の両肩を抱え、︱︱いつかと同じ体勢で。
でも、愛おしむような眼差しで、不敵に微笑む。
﹁おい﹂
背中を屈め、こんな近くに存在する。
やだ、
874
﹁︱︱三度目の正直があると思うか﹂
心臓が爆発するかと思った。
﹁い︱︱﹂
流される。
こんなのはいけない。
私の、前髪を掻き分けるマキから、
︱︱逃げなくては、
私が、好きなのは、
﹁ヒューヒューだねーアッツイねー﹂
懐かしのフレーズに、飛び退いて、離れた。
子どもの声だ。
私たちが後ろにしていた、白の門扉の向こうに子どもたちが三人
四人、⋮⋮いや五人。
﹁よっ! お熱いねーお二人さーん﹂
﹁チューすんのぉ?﹂
﹁するやろ﹂
﹁えーだって女の人嫌がっとるやーん﹂
﹁まんざらでもなさそー﹂
この場には不似合いな、ぼきぼき指を鳴らす音が響いた。
というより地雷でも踏まれた、剣幕が。
﹁て、めえら⋮⋮いてこますぞ﹂
875
﹁うっわーこわー﹂
﹁ケンシロウみたーい﹂
﹁そんなんやから片想いなんやよ﹂
かっ、と目を見開いた。
﹁うるせえっ!﹂
門を壊して飛びかからんばかりの肩を両手で引っ張った。﹁さ。
騒がしくてごめんね。マキ。早く行かないと席埋まっちゃうよ。行
こうよ﹂
﹁くそが⋮⋮﹂
悪態をつきつつ、転がった自分のかばんを拾い、そして私のかば
んも拾った。
﹁おねーさんまたねー﹂
﹁うんじゃあねー﹂
手を振り返す私を﹁馬鹿馬鹿しい﹂の一言で一蹴する。
その彼に追いつき私は疑問を口にした。﹁ねえ。いつも言ってる
﹃いてこますぞ﹄ってどういう意味?﹂
﹁⋮⋮しばくぞ﹂
さきほどとは打って変わった厳しい目で私をチラと見る。
﹁子ども相手だから、分からないような言葉わざと選んでるんでし
ょう﹂
リレーのときみたく、後ろ手に差し出されるかばんを私は受け取
った。
﹁うるせえ﹂
﹁⋮⋮それしか言えないんだよねマキって。ボキャ増やしなよ﹂
﹁うる﹂
﹁せー?﹂
876
背中が、震えた。
私はその背をパンと叩いた。
ありがとうとごめんねの意味を込めて。
関わるほど、私の思いは相違点を吐き出すものとなること。
関わるほど、彼への思いが強くなってしまうことに。
﹃真咲さーん﹄
まだ明るく白んだ空に、真夏に置き残した大好きな彼の笑顔が、
浮かんでは消えていった。
877
︵1︶
一途に、最初から最後まで一人の人間を想い続けること。
これぞ、人間の美徳だと思う。
見返りを求めぬほどに美徳の精度は増す。自己犠牲というかたち
となって。
心変わりをすることは恥ずかしいことで避けたいこと。
でも、その新しい気持ちを受け入れたい︱︱欲求が世間体や自身
の倫理観と相反する。そして認めないことから、葛藤が発生する。
認められればたちまち解消する。
人々の内面の問題はそのようなものだ。
志望校に関してはもうすこし現実的に捉える必要がある。
倫理観はさておいて、自分の目指したいところと、目指せるレベ
ルのぎりぎりを見極めて、選択する。
私は、第三希望だった私立大学を第一志望に変更した。
一月の下旬。
緑高から同校を受験するひとはおらず、私一人で東京に向かう。
なにげなく選んだつもりだった。奇遇にも大学名に﹃東京﹄が付
く。場所は埼玉だ。
東京心理大学よりは私の現実に見合った選択であり、そして入れ
るかもしれない、ぎりぎりのレベルだった。
二種指定だけれど臨床心理士の受験資格を得られる、大学院が敷
地内に併設されている。これらも私の希望を満たす条件だった。
敷地がいやに広いのも、⋮⋮レンガ造りで中庭に池があるのも、
⋮⋮柏木慎一郎のことを思い出させた。
︱︱自分なりに興味が湧くものがあるというのなら、その気持ち
878
を大切にするといい。
おじいさんからのマフラーの一房を握り。
ポケットのなかの三つのお守りを確かめ。
﹁⋮⋮行こう﹂
この扉が未来に続くことを願い、建物に踏み込む。
ナイフのように神経を、研ぎ澄ませる。
いままでにない、いい感覚で集中した。
* * *
ドアチェーンをかけるなり、立ちくらみがした。
一人行動で気を張っていたのだと思う。
靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、マフラーを外し、コートを脱ぎ、
ブレザーと、次々ハンガーにかける。
ビジネスホテルに泊まるのは、これが二度目だ。一度目は、夏の
オープンキャンパスに行ったとき︱︱柏木慎一郎に会って以来とな
る。
二年ぶりとはいえ、私はもともと東京に住んでいたから、他の子
みたいに地下鉄の路線図が分からず苦労することはない。親につい
てきてもらう必要も勿論。
が、見知らぬ街で慣れぬ部屋にひとり。
⋮⋮心細くもなる。
緑川の家にいるときは、ひとりで生きている気になっていた。し
かしこうして離れてみると、同じ建物内に家族が居ることがいかに
私を温めていたのか、それがよく分かる。
幸いにして大学やホテルの場所は分かったし、落とし物も忘れ物
879
もしなかった。が、なにかがあったときのために誰かがついている
と心強い。
肩こりのする制服から持参の部屋着に着替え、バスタブにお湯を
張る。コンビニで買っておいたおにぎりをその間に食べた。参考書
を片手に。
包装を袋にまとめてごみ箱に捨て、カーテンの隙間を開く。
緑川で目にしないたぐいの高層ビル群。明かりが灯る部屋の多さ。
マッチ棒サイズの光る車が高速を走る。時刻は夜の七時。⋮⋮ご丁
寧にも正面のライトアップされたビルがそれを伝える。
働くひとがいる。生きているひとがたくさんいる。
そう思えば、⋮⋮ひとりでいることの寂しさも乗り越えられるよ
うな気がしたけれども、どうしてだか。
開放感よりも孤独の強い夜だった。
右肩への圧迫で目が覚めた。痛い。軽く肩を回す。首も。
カーテンをすこし開かせたままで私はベッドに寝ていた。
何時だろう。
﹁⋮⋮げっ﹂
二時間経過。ベッドサイドの時計が嘘つきでなければ。
ご飯食べてお風呂に入って気持よくベッドで就寝。⋮⋮猛勉強を
するのが受験生の常なのに。まったく、いいご身分だ。
自分に呆れつつ、髪を撫でつける。
電話が目に留まった。
緑川を出てから家に連絡していない。到着したとも言ってないか
ら、心配してるかもしれない。
足に引っ掛けていたスリッパを落とし、ベッドに完全に乗っかっ
て受話器を手に取る。
⋮⋮出ない。
腕時計を見た。腕時計をし直した記憶は残っていないのに確かめ
る言動、これも受験生のサガだ。
880
うちの電話は留守録に変わらない。お店の番号に留守録がついた
らそれはそれで面倒だろう。
のんびりと三分経過。
今度こそ、本当に不安になった時分に、ようやくして向こうの受
話器があがった。
﹁お母さんっ。居間だけじゃなくってちゃんと台所につけたほうが
いいよ。私の部屋になんか要らないから⋮⋮﹂
電話に出るのは母と相場が決まっている。
勢いこんでそう伝えたところ、
﹁︱︱僕は、キミのお母さんじゃないんだけどな⋮⋮﹂
受話器を滑り落としそうになった。
いつかと同じ台詞、そしてその、甘やかな声色は。
くす、と笑う余裕のブレスを聞いた。﹁声、枯れてんけどだいじ
ょうぶ? 風邪、それとも寝起きなのかな⋮⋮﹂
﹁な! なんで和貴がそこにいるのよっ!﹂
耳がきぃんと鳴った。
驚きのあまり。寝起きで叫んだがために。
﹁⋮⋮じーちゃんとご飯食べに来てんの﹂私が叫ぶと見越して受話
器を耳から話したのだろう、間を置いて和貴は言う。﹁あんな美味
しいご飯毎日食べれて幸せだね、真咲さんは。⋮⋮うちに、ちょく
ちょく差し入れしに来てくれてたみたいで﹂
ゆったりとした調子だがその一言は。
︱︱地雷原だ。
﹁お礼に来たつもりが、まーたご馳走になっちゃって⋮⋮﹂
どうか、余計なことを祖父母が言っていませんように。
﹁新造さんとうちのじーちゃんがもーできあがっちゃって。⋮⋮あ
変な意味じゃないよ? 弱いくせにお酒好きなんだねあのふたり。
881
どっかからつっかえ棒持ってきてさーちゃんばら始めるし黒澤明語
りだすしも、めっちゃめちゃだよ⋮⋮﹂
神さま仏さまイエスキリストさまお願いします。
なんまんだぶなんまんだぶ。
﹁どしてお経唱えてんの?﹂
﹁や。なんとな、ぐ、は、はっ⋮⋮﹂
ぐじゅっ!
ちょっと真咲さん大丈夫!? と言う和貴の声を、一旦置いた受
話器から、鼻を噛みながら聞いた。
﹁ただのくしゃみ。髪、乾かさずに寝ちゃったからかな⋮⋮﹂
空いた手で後頭部を撫でつける。寝ぐせがついたのが目に見える。
﹁⋮⋮真咲さん、髪、伸びたよね﹂
その彼の台詞で首を後ろに捻る。
壁備え付けの大きな鏡に映る自分を見る限りは、確かに。
東京を離れた頃は肩までの長さだった、それが、胸元に届いてい
る。
﹁僕は一分で乾くんだ。天パだしテキトーだけどさあ、真咲さんく
らい長いと大変そうだよね⋮⋮﹂
﹁うん、まあ⋮⋮﹂
毛束を摘まむ。
父に似たこの髪を愛しいと思う。
﹁さらさらストレートで羨ましいよ。天使の輪があってさ、いつも
綺麗だよね﹂
一言一言が胸を突く。
和貴は、髪の流れを殺さないように撫でる。彼の穏やかな気質を
表すように。マキが上からぐしゃり、と撫でるのが多いのとは対照
的に。マキは破壊神だから。
和貴が褒めてくれるのならば、いくらでも髪の手入れをしよう。
﹁⋮⋮あ。おばさん来たみたい。代わるね﹂
﹁和貴⋮⋮﹂名残惜しさが言葉に出た。
882
﹁受験、お疲れさま。また学校でね﹂
﹁⋮⋮うん﹂
母には無事試験を終えたことを伝えた。
手短に電話を切り、夜中まで勉強をした。
ただし、
髪を再び洗い、念入りに乾かすという作業は怠らなかった。
883
︵2︶
二月に入ると、学校に来る三年生が半数以下となる。
私大の入試がいよいよ本格的に始まるため。
連日登校するのは主に、四つの立場の人間に限られる。第一に和
貴のように就職を決めたひと、第二に紗優と同じく専門学校への進
学を決めたひと。第三が水野くんと同じくスポーツ推薦などで穏便
に大学への進学を決めたひとか。
はたまた⋮⋮。
﹁都っ倉さんおっはよぉー﹂
私の隣に座る第四の少数派である、非・就職組、またの名をフリ
ーター組と呼ばれる、坂田くんを代表とするひとたちだ。
先日マキが座っていたのはその席であり、﹃失せろ﹄と言うべき
だったのは彼のほうだったかもしれない。
別段小柄でもないのに、尋常じゃなく低い椅子に彼は座る。たま
に彼の席に座るひとがいるとうわびっくりした! と腰を抜かしそ
うになる。イタズラとも思える自身の椅子の低さについて彼は、
こうせんと落ち着かへんのや。
⋮⋮いろんな意味で豪放磊落、しかし、好きなひとの動向に目ざ
とい。﹁みっ、やざっわさぁーん! おっはよぉーオレと過ごせる
素敵な朝がきょぉおーも来たでぇー!﹂
抱きつきにかかる彼を片手一本で華麗に薙ぎ払い、紗優は緊張の
面持ちでやってきた。﹁今日、⋮⋮やったよね﹂
﹁うん﹂
作ろうとしている笑顔が硬い。
﹁九時からなんだけどね、⋮⋮休み時間に聞くのも落ち着かないと
思って。昼休みに電話しようと思ってる﹂
﹁そうか。そうやよね⋮⋮﹂
884
長いまつげを伏せ、唇を引き結ぶ。
﹁なになに? なんの話ぃ?﹂
﹁あんったには関係無い﹂
﹁まあまあ⋮⋮﹂私を除いて三人だったらば宥めるのは和貴の役割
だ。
大して傷ついた様子もなく坂田くんが自席に座ると目線が同じ高
さとなった、伊達眼鏡のフレームに視線が行くのを意識しながらに、
私は彼に明かす。﹁私、こないだ私立受けに学校休んだでしょう?
その結果が出たの。電話で聞けるんだ﹂
﹁へー。紙で送ってこんのや﹂
﹁そう。受験票の番号を打ち込めばどこでも合否が分かる。便利な
んだけどちょっと⋮⋮怖いよね﹂
紗優の硬い表情を見て、なんてことのないよう明るく口にしてい
たが、実は緊張していた。笑ってみてそれが分かった。
﹁そこが、本命なんやな﹂
す、と伊達眼鏡を外し、ポケットに仕舞う。
あまり見せない、ステージ上の﹃ハル﹄に近い真顔だった。
﹁うん⋮⋮その通りだよ。よく分かったね﹂
﹁宮沢さんの顔色見てすぅぐ分かった。だっていぃつも宮沢さんの
ことばっか見とるもんオレ﹂
モーションをかける彼に一瞥もくれず、紗優は私だけに伝えた。
﹁じゃ、またお昼に来るから﹂
﹁まったなーみっやざわさぁーん﹂
不二子ちゃんに振られ続けるルパンのノリだ。
⋮⋮不毛だ。
手を振っていた坂田くんが、私に気づいて目を丸くした。﹁どし
たが。都倉さん顔赤うして。なんやらオレが好きでたまらんて目ぇ
しとる⋮⋮﹂
二番目のセンテンス以降は無視をする。
私は自習の準備を整えながらに訊いた。
885
﹁諦めようと思ったことって、無いの?﹂
紗優のこと、と早口で付け足す。
﹁オレが、なして?﹂彼は勉強の心づもりがないらしく、音楽雑誌
on﹄、後者は洋楽中心のほう。
を二冊、机に取り出しつつ、寸時こちらに首を捻る。﹃CROSS
BEAT﹄と﹃Rockin'
﹁言いにくいんだけど⋮⋮ぜんぜん相手にされてないよ﹂
紗優のほうを一瞬、見やった。既に席につき、シリアスに国語の
教科書を読んでいる。
﹁嫌よ嫌よも好きのうち。⋮⋮ああ見えてな。宮沢さんはオレのこ
とが気になってしゃーないんや﹂ニッカリ笑った坂田くんは内緒ば
なしをするように私に顔を寄せ、﹁そーゆー素直に口に出せへんと
こ含めてオレは好きなんや﹂
いえ、
どう見ても脈なしですが。
頬杖をつきつつ私は彼と距離を置く。﹁そういう⋮⋮自信過剰な
ところは和貴にそっくりだよね﹂
ち、ち、と舌打ちに合わせて人差し指を左右に振る。
﹁あっまいなあ都倉はん⋮⋮﹂
あんまり見ないなそのジェスチャー。
彼は、雑誌と教科書を合わせとんとん整える。
いや、雑誌持ってんのバレバレだし。整えても意味無いって。
﹁桜井はんは自信家なんかやあらしゃいませんでえ﹂
︱︱意外だ。
注意をたっぷり引きつけて企み笑う、このやり方も和貴と同じな
のに。
﹁蒔田はんも、⋮⋮お互いが気の遣い合いでお気の毒どす。心当た
りあらしゃいませんかぁ?﹂
常にふてぶてしく、俺様なマキと。
少女のように可憐で愛らしい、子リスな和貴が。
気の遣い合い⋮⋮?
886
そんな場面など想像もつかない。
坂田くんは解せない私の心理を読み取り、細い目を悠然と細める。
言葉遣いも手伝ってか、京都かそのあたりのひとに見えてきた。
﹁都倉はん。無意識は罪おますで。あんさんの好きなユングはんが
言うとりますやろ﹂
﹁⋮⋮どちらかといえば私はフロイト派なんだけど﹂
困惑しつつ肩をすくめる。
私の意識は坂田くんにだけ向かっていた。
再び、広げられる音楽雑誌にも。
﹁その、薄汚い京都弁をやめないか﹂
心臓を手で鷲掴みにされひやりとした。
そんな、凍てつかせる声色だった。
頬杖を外し、前を向く。
﹁和貴﹂
雰囲気に、気圧される。
青ざめた彼から静謐な怒りが伝わる。
いまの言葉を和貴が発したとはにわかに信じがたいが、この表情
を見る限りは納得できる。
そしてその矛先は︱︱坂田くん、だった。
彼のほうこそ、常日頃からの笑みを、絶やさず、ははん、と頬杖
をつく余裕を崩さず、
﹁オレは、ほんとのことゆうたまでやでぇ?﹂
冷や汗が吹き出た。
ことを荒立てかねない、のんきな方向性を感じたからだ。
私の視線に気づき、にっこり、微笑み返す有様だった。
﹁せぇーっかく都倉さんとええ感じでくっついて喋っておったがに、
ずけずけ入りよって。おまえにやめろゆわれる筋合いはないわ﹂
﹁︱︱僕の噂をしていたからだよ。廊下まで筒抜けでさ﹂
887
和貴はコートも脱いでいない。
真っ赤なダッフルコートは顔色を明るくする。
にも関わらず私の目は、彼の顔色を蒼白、と認めた。
﹁噂されるよーなことするほうが悪いんや。オレはなんぼ噂されて
もかまへんでぇ。後ろめたいことなんかなんもないからなぁ﹂
坂田くん。
どうしてこんな好戦的?
﹁いまは僕の話をしているんだけど﹂
﹁ほな。桜井の話をすっか⋮⋮﹂
うぅーんと猫みたく腕を伸ばす。
思いっきり。
はーっと肩に手を添えつつ、ぽきぽき鳴らし、
﹁はっきりせいや﹂
一喝、だった。
大声など出さずともひとを震わせられる。
﹁おっまえがぐだぐだやっとるせいでなあ、あっちこちに被害が出
とんじゃボケが﹂
迫力を持つマスターと、へらへらしてばかりの坂田くんとはちっ
ともリンクしなかった。
この瞬間に、強烈に結びついた。
横顔が笑っているが、まるで別人の声だ。和貴の勢いを削ぐほど
のものだった。
﹁アホの坂田になにが分かる﹂
珍しく和貴が声を荒げるも、横顔で見る限り実は坂田くんの笑み
は変わらない。
違うのは、︱︱声の出し方と発言内容の、たった二点。
888
﹁そや。⋮⋮アホや。せやけど気持ちにはしょーじきに生きておる
で﹂
﹁失うものも背負うものもないおまえになにが分かるっ﹂
﹁はん?﹂こき、と今度は逆の肩を鳴らした。﹁分かるわけないや
ろおまえのことなんか。いいか、オレこそおまえに分かるよーに教
えたる。耳の穴かっぽじって聞けいや。いまのおまえはなぁ、戦に
出るのもできひんでびびって小便ちびっとる兵隊さんとおんなじや﹂
﹁︱︱貴様﹂
かばんが落ちる。
振り落としたその和貴の手が、坂田くんの胸ぐらを掴んでいた。
力の限り自分の側に引き寄せる。
坂田くんのポロシャツが伸びてしまうほどに。
﹁和貴、ちょっと、落ち着いて﹂
小さく叫んだ。
が駄目だ。和貴は坂田くんしか見ていない。
﹁坂田くん。言い過ぎだよ﹂
坂田くんも同様。
それどころか笑みを作るカーブが角度を増す。
首を締められかねない体勢なのに。
﹁おんまえ、頭に血ぃのぼるとダメダメやなー? ⋮⋮水野んとき
から進歩ないわ﹂
つよく、和貴の瞳が見開かれた。
感情の動き、なにか思い出したのか。
それを掴み、荒っぽく、坂田くんを振り払った。
坂田くんは、座ったまま、それでも、変わらない笑顔を向け︱︱
こめかみの血管を浮かせた和貴は、歯を食いしばることでなにか
を堪えた。
﹁ちょっかいかけるのは紗優だけじゃ足りないんだね、坂田は﹂
889
せり上がる怒りをその押し殺しその一言だけに込め、彼は、かば
んを拾い、後方の自分の席へと向かった。出遅れて、おぉーい桜井
ぃーコートくらい脱げやぁーと教室に入ってきた宮本先生に言われ
ていた。はい、と殊勝に答える姿がいつもより小さく見えた。
私は、隣の、相っ変わらずへらへら笑う彼を睨みつけた。
内容は全然掴めなかったけれど、とにかく︱︱和貴を挑発した。
怒るのを分かっていて更に怒らせたのには違いない。
﹁⋮⋮いぃくらかっこいいかてあんまオレに見惚れんなや﹂
彼をいてこましたい衝動が噴きだしたが、すんでのところで堪え
た。
当の和貴が堪えたのに私が切れてどうする。
︱︱お陰で。
昼休みに紗優が迎えに来るまで、すっかり合否のことを忘れてい
られた。
890
︵3︶
受話器から吐き出される機械音声に、耳を疑う。
聞き違いではないかと受験票を確かめる。番号を見る。念のため
もう一度電話をする。同じ単語が聞き取れた。
小銭が、公衆電話に吸い込まれる。
﹁どうしよう、紗優⋮⋮﹂
後ろで待つ紗優にすがるような思いだった。
﹁そんな、泣きそうな顔、せんと。まだまだ次があるんがやろ? 気ぃ落とさんと。⋮⋮あたしまで泣きたくなるがいね﹂
﹁違う。違うの⋮⋮﹂
首を振る。
もしかして、と不安と悲しみに揺らいでいた瞳が、
﹁まさか﹂
﹁その、まさかだよ﹂
この四文字を得るためにどれほど頑張ってきたか。
﹁⋮⋮合格﹂
﹁い、﹂希望にその目が開いた。﹁やったぁああー!﹂
思い切り抱きしめられていた。
頬ずりされるのなんか人生、初かも。
﹁んもぉーあったし昨日寝れんかってんよぉーもー、心配で心配で
ぇ。ほんっと、よかったぁああもおもおもお!﹂
﹁あえっとちょっと苦し﹂
﹁やったやったダンス、しよか﹂
﹁なにそれ﹂
涙でまだ濡れた手で、紗優は私の両手を握った。
891
握ったまま、
﹁やったやったやったやった⋮⋮﹂
エンドレスでやったを連続。ジェンガみたく小刻みにぴょんぴょ
ん飛び跳ね、二人で小さな円を描く。
﹁なにこれ﹂普通に笑いが込みあげた。
﹁はい今度は時計回りぃー﹂
﹁やったやった⋮⋮﹂
素直に続けると一分もすれば、
﹁ストップ。普通に疲れてきた。なんか肺が﹂
しかし紗優は息乱さず、
﹁ばんざーい! ばんざーい! ばんざーぁぁい!﹂
盛大なる万歳三唱。
豪快なる行動に呆気にとられ、自分のことなのに加わる間もなか
った。通り過ぎた子がなんだろこの子って目で見てくるし。
﹁真咲もやろーよ﹂
﹁でも。受験これからの子に見られたくないし⋮⋮﹂
﹁ばんざーい!﹂
ち、と紗優が舌打ちをする。
廊下の向こうから、万歳三唱をしながら男子生徒がこっちにやっ
てくる。
﹁⋮⋮うざ。なしてあいつが⋮⋮﹂
それは坂田くんのよく通る声だった。
﹁合格やってんなー都倉さん。おめでとさん﹂
﹁⋮⋮ありがと﹂
坂田くんの人のいい笑みをまともに見られない。
あの感情が尾を引っ張っている。
つまり、
892
好きなひとをコケにされ猛烈に腹が立ったことだ。
こちらの胸中知らずに坂田くんは自分を指す。﹁オレも一緒にや
んでえ? 昼休み十五分も過ぎとるし、こっから通るひとあんまお
らんやろ﹂
紗優は左右を確かめて言う。﹁やね。購買もう閉まっておるし﹂
﹁ほんならみなさんご一緒に﹂
にかっと笑い何故か坂田くんに仕切られ。
三人でこれ以上出せない大声で万歳三唱。
終わると、誰ともなく笑い出した。﹁なんやのうちら﹂
﹁オレこれ以上おおきいこえ出せへん﹂
﹁なんか。お腹のなかがすっきりした﹂不快に積もったなにかも吐
き出せた感じ。
﹁せやろ﹂
坂田くんに笑いかけられ、
やっぱり、
﹁⋮⋮でもなんかむかむかしてきた﹂
﹁真咲もあたしに似てきたんじゃない?﹂と私の肩を叩いて笑う。
しかし坂田くんも笑うのに内心で仰天した。
⋮⋮自分がネタにされてるのに。
踏みつけられても痛みを感じない神経の太さをお持ちなのかそれ
とも、踏みつけられるほうに喜びを感じる自虐的な精神のあるじな
のか。
どちらか判別不可能だが、ひとしきり笑うと彼は踵を返す。﹁ほ
な、オレお昼買うてくるわ﹂
﹁え、まだ買ってなかったの?﹂
﹁やって、購買⋮⋮﹂
既にシャッターの降りた購買を親指で指す。
その指を掴み、自分のほうに向ける。
坂田くんの唐突な言動に、何故だか紗優の頬が急激に赤く染まっ
た。
893
﹁⋮⋮あんたのこころのベクトルが指すのはこっち﹂
残念ながら。
その発言は北極の寒気を私の背筋に覚えさせた。
要するに、寒い。
振りほどく紗優を見て坂田くんは動物的な声をかかかと立て、﹁
ファンの子が差し入れくれんねや。たまにはあやかろおもうて。⋮
⋮心配してくれてありがとお﹂
﹁しとらんわ! ⋮⋮ばっかばかし﹂
言い捨てて足音ずんずんと歩き出す。
なんだか、⋮⋮怒っている。
私は、そこに置いてあった紗優のお弁当と自分のを掴んで、追い
かけようとしたのが、
﹁わ﹂
﹁じぶん軽すぎちゃう? ちゃんと食べとんのか﹂
ポロシャツの首根っこを引っ張られていた。
怪訝な面差しが逆さにして注がれ、
ガムのミントが香る。
彼の長い髪が、頬に、刺さった。
﹁よ。余計なお世話よ。それより、離してくれる?﹂
﹁だぁめ。話聞いてくれるゆうまでオレ都倉さんのこと離さへん﹂
ブレザーごと引っ張られ、背中を坂田くんに預けてる、マリオネ
ットな体勢。
焦って私は早口で言った。﹁聞くからなんでも。いいから離して﹂
﹁お、そぉか。⋮⋮こっちのが効果的なんやな﹂
謎の発言をし、覗きこむのをやめにしてどうやら、正面を向いた。
その行動にようやく、一息を吐けた。
流石に⋮⋮バンドのボーカルをしているだけあって、間近に見れ
ば整っているのだと分かったからだ。夢を追う人間に特有の輝きを
間近に見ては、⋮⋮落ち着かない気持ちにさせられた。
平凡で地味かもしれない顔立ち。だが見るひとが見れば間違い無
894
く引きつけられる。
﹁放課後、屋上に来てくれんか﹂
﹁どうして﹂
つむじ辺りに彼の息を感じる。あの美声を紡ぎだす彼の。﹁⋮⋮
強いていうならオレからの合格祝い﹂
﹁はあ﹂
お腹すいた。
﹁四時ジャストに屋上な。⋮⋮よろしゅうたのんますわ﹂
ここでようやく開放された。
すかさず支えられてなかったら本当に頭のうしろから落ちていた
かもしれない。
そのくらい、私の運動神経は、鈍い。
堪忍な、なんて言われても。
誰が応じるものか。
和貴を怒らせるわ、私を人形扱いするわ、紗優にベクトルな発言
するわ⋮⋮えとベクトルが向くのは喜ばしいのだが。
︱︱喜ばしい?
ともかく。あのエセ関西人だか京都弁だかな彼の言うことなんか
素直に聞いて屋上になんか絶対に行くものか。
だ、れ、が。
895
︵4︶
﹁ほなこのはしごでうえまで登って? したらついたてついとるほ
う顔向けて座って? 顔出さんようになあこっちこっち﹂
﹁え、え、え?﹂
﹁たのんますわ﹂
四時ジャストどころか五分前に到着した。
受験生のサガだ。
想定の範囲内だったらしく﹁都倉はんおいでやすぅ﹂と無意味に
京のイントネーションで坂田くんが出迎えた。
出入口のついた立方体の建物をよじ登る。
上面にはドラマの殺人事件で見かける青いビニールシートが敷か
れていた。⋮⋮不吉な。
﹁どや、眺めは﹂
﹁陸上自衛隊の気分﹂私はうつ伏せた。
高い声で坂田くんは笑った。
屋上にくるのは、あれ以来だ。
思い出して顔を熱くするなんて⋮⋮どうかしている。
﹁ほな。こっから絶対に声だしたらあかんでぇ。お客さんが来るさ
かいに﹂
なんですと?
896
﹁坂田くん、いったいなに企んで﹂
﹁黙って見とき﹂
﹁あの﹂
﹁それ以上なんかゆうたらオレ都倉さんのこと死んでも離さへん﹂
沈黙。
﹁イッツショータイム﹂
カラスみたく動物的に笑った。
︱︱眠く、なってきた。
寝不足だったし。
あくびが漏れる。押さえても誰も見てないし意味ないんだけど。
コート教室に置いて来ちゃった。
このままここにいると風邪引いちゃう︱︱
﹁⋮⋮さっすが、時間通りやんか﹂
直下から伝わる衝撃で覚醒した。
誰か、︱︱来た。
ゴム底がコンクリートを踏みつける独特の摩擦。怒ったようなリ
ズムでそれを立てる、坂田くんが招待した相手とは︱︱
﹁僕になんの用だよ﹂
か︱︱
口に出しかけて慌てて押さえた。
897
﹁おいでやすぅー桜井はぁん﹂
和貴だ。
屋上で、坂田くんがあの彼の定位置に立つということは。
﹁質問に答えろよ。⋮⋮屋上に呼びつけられる趣味はないんだけど﹂
﹁屋上、つうところにこだわりがあるようどすなあ桜井はんは﹂
﹁⋮⋮いいから﹂
こころのどこかで、あの彼が来ることを期待していた。
﹁まーそーかりかりせんと。せっかくのべっぴんさんが台無しやで
え﹂
﹁誰がべっぴんだ! 女扱いすんなっ﹂
なにを、考えているのか。
いま東京で私大を受験している。
先ほどの連想も含めて、自分が恥ずかしい。
﹁はい深呼吸ぅーふかぁく息吸うてー落ち着きんしゃい。⋮⋮オレ
と桜井の仲やないの﹂
﹁は? どういう﹂
﹁ずくっずくの友達﹂
﹁⋮⋮信用ならないね。紗優にちょっかいかけたと思えば真咲さん
にキスしたり﹂
一瞬。
この屋上でのあれが思い出されたが︱︱そんなはずがない。
いつのことを言っている。坂田くんにキス。ああ⋮⋮
898
﹁ここ。⋮⋮は、外しておいたで。見とったんならはよゆえや﹂
﹁見せつけていたくせによく言うよ﹂
膝から上が寒くなった。
スカートがめくれあがっていた。強い風に煽られ。
急いで片手で押さえる。
﹁変な小細工ばっかするのなら︱︱ひとを振り回して楽しんでいる
のなら、僕はおまえを許さない﹂
﹁オレは愛の向くほうの味方やで﹂
﹁⋮⋮意味分かんないよ﹂
﹁もうちょいオレんこと信用しいや。敵やないで。どちらかっつう
と好意的に︱︱﹂
また風に吹かれる。
いい加減にして欲しいよと思いながら再び押さえる。
ずっと押さえっぱにしておけばよかったと後悔するのはこの数瞬
後。
﹁そいつは、どうかな︱︱﹂
足音が狭る。
こっちにだ。
数段の階段を上がる気配。
咄嗟に私は身を固くする。
﹁キミは、先客かな。それとも、坂田のお客さん? ︱︱スカート
二回も見えたから驚いたよ﹂
899
さっきよりも明るく大きくした声は、明らかにうえに潜む私に向
けられたものだった。
あっちゃあーと坂田くんの嘆かわしいと言わんばかりに額だかを
ぺちんと叩く。 私は、両手を使い、上体を起こした。客観的にオ
ットセイみたいな姿勢だと思った。
のだが︱︱
﹁え、ま、真咲さんっ!?﹂
私はすぐうつ伏せて彼の面食らった声を聞いた。
まずい。
﹁なにしてんのそんなとこで﹂
﹁や、ヤボ用で⋮⋮﹂声を出しても動悸がおさまらない。
﹁坂田に言われたん、だね﹂
﹁そんなとこ﹂
﹁おまえ、⋮⋮よりによってあの場所連れ込むなんて。変なことし
てないだろうな﹂
﹁えっなにぃっ、変なことぉー? いったいぜんたい変なことって
なぁーにぃ? ねぇねぇアタシに分かるようにおせーておせーて桜
井くぅーん﹂
﹁きっさまがあの場所に女連れ込んでることくらい知ってんだよっ﹂
﹁まそーかりかりせんと。腎臓に悪いでぇ﹂
﹁怒っても腎臓関係ないでしょ。だいたい誰から︱︱ああ紗優か﹂
﹁そや。おまえ小学校んとき﹂
﹁黙れ﹂
﹁あの︱︱﹂
900
二人の注意がこちらに引きつけられた。
しかし私は、
これ以上ないみっともない姿を晒すこととなった。
﹁これ。どうやって降りたらいいのぉ﹂
はしごの手前で座り込んでしまった。
腰に力が入らない。手にもだ。
たたん、と足音が動く。
﹁え。真咲さん、高いとこ駄目なの?﹂
駄目なの、の一言で背筋に悪寒が走る。
喉の奥が気持ち悪くなった。
身長一四八センチの私の、倍の高さはあった。
思考がまったく働かない。う、動けばいいのに動けない。
﹁待ってて︱︱いま行くから﹂
さっき、自分がのろのろとしていた行動を素早く彼がしている。
﹁ほら。おいでっ﹂
顔を覆う手を退けた。
和貴が、力いっぱい手を、伸ばしている。
私は腰が、引けた。
彼のしたの気持ち悪く世界は力いっぱい待っている。
﹁む、無理。ごめん。中高所恐怖症なの忘れてた⋮⋮ど。どうやっ
901
て行けばいいのぉ﹂
﹁僕を、信じて﹂
﹁和貴ぃ﹂
﹁真咲さん!﹂
剣幕に押され、すこしずつ、彼のほうへと動く。
ほかのことは見ないように彼のことだけを。
そうすると這いつくばったまま動くこととなり︱︱予言通りに自
衛隊の匍匐前進をすることとなった。
﹁そう、いい子だ︱︱おいで。ほら、捕まえた﹂
言葉通り震える手を包まれていた。彼の肩の向こうの地上が瞬時、
視界に入る。
目を伏せた。﹁怖い⋮⋮﹂
﹁大丈夫だよ、もう怖くない。僕がついてるから﹂
頭まで撫でてくる行動にいったいどうしたらいいのか。
﹁僕のことだけを見ていて﹂
顔をあげた。
まっすぐ、微笑んで、肩をわずかにすくめる。﹁僕のことが分か
るよね︱︱子リスの和貴だよ。真咲さんのよく知ってる﹂
私が吹き出すと、和貴は声を立てて笑った。
笑いの消えないうちに、
﹁そのね。こっちは見なくていいから。あっちのほう見ながらすこ
しずつ、僕のほうまたがって﹂
﹁で。できないよ﹂恥ずかしい。
﹁できる。⋮⋮いまだけ本当に着ぐるみの子リスだと思って。それ
か︱︱﹂
ピンクのくまさんでもいいから。
早口に彼は付け足した。
902
言われるとおりに、彼に背を向け、すこしずつ、コンクリートに
触れる自分の手を離さないようにしながら、動くと、すぽっと彼の
頭が股の間に入り、肩車状態となった。
﹁お、重くない?﹂
﹁ぜんぜん。すこしずつ動くから真咲さん、壁か、はしごか掴んで
てね﹂
﹁こう﹂
﹁うん﹂
和貴は器用に、私の背中や膝を押さえたりしつつ、はしごを降り
ていく。
ちょっと進んで、気が楽になった。﹁あの。ある程度の高さなら
平気だから﹂
後ろを確かめて後悔した。
まだ飛び降りられる高さになかった。
慌ててはしごを掴み直した。
﹁そっちは見なくていい︱︱﹂
壁だけを見ていて。
僕のことだけを考えていて。
はしごを掴んでは離しては思うのは、
ピンクのくまさんでも子リスでもなく、
大丈夫だから。もうちょっとだから。
と繰り返し安心させる言葉を紡ぎ続ける。
本当に和貴のことだけだった。
降ろされるなり後手をついた。腰が、⋮⋮抜けた。
﹁大丈夫?﹂
﹁へ、平気。時間置けばぜんぜん︱︱﹂
﹁顔が、真っ青だよ﹂
903
﹁それより、汚しちゃって、ごめん﹂
屈みこむ和貴の肩を目で示した。ブレザーの肩が私のズックのせ
いで汚れていた。
﹁ああ︱︱いいんだよこんなのは。どーせあと一ヶ月も着ちゃいな
い﹂
払いもしない彼の傍には、いつ脱いだのか。例の真っ赤なダッフ
ルコートが脱ぎ捨てられていた。
﹁堪忍な。都倉さん﹂
やわらかないろを浮かべていた双眼がつよくひかり、
怒りにまたたくのをこの目に見た。
﹁坂田ぁああっ﹂
﹁きょ、恐怖症なのを忘れてたの。あれ登り降りできるひとってす
ごいね﹂
動きかけた彼を手だけで引き止めた。
いくらやつれたといっても、彼の腕は男の子の太さだった。
﹁︱︱そこは褒めるとこじゃない。目的のためなら手段を選ばない
ってだけだ﹂
睨み据えた冷たい目で和貴はそのまま私を一瞥した。
﹁ほなお二人さん。ごゆっくりぃ﹂
後ろにした扉から笑顔で出ていく。
意表を突かれたのは和貴だ。
﹁坂田のやつ。︱︱なにがしたかったんだ﹂
﹁さあ﹂
ようやく。
力が戻った感じがしたので、ぺたんこ座りから膝を立てる体勢に
入る。
﹁血が出てる﹂
﹁あ︱︱﹂膝頭に擦り傷が。﹁こんなの大したことないよ。放って
おいても治るから﹂
﹁保健室行こ。傷口からばい菌でも入ったらどうするんだよ。早く﹂
904
背を向けて彼はしゃがんだ。
ん、と両手を上にして促す。
流石にそれは⋮⋮。
﹁い。いいよ別に。歩けるし﹂
﹁早くっ﹂
急かす彼の背中に、言われる通り、︱︱というよりおぼつかない
足取りで、倒れこんだ。膝がまだ笑っている。でくのぼうな自分に
気がついた。
﹁重くない?﹂
﹁いいから、行くよ﹂
声をかけて彼は立ち上がる。
⋮⋮こんな目立つ行動をして、
﹁また誰かになにか言われても知らないよ﹂
﹁かまうものか﹂
ダッフルコートと自分のかばんとをマラソンの給水のごとく引っ
掴み、彼は、ダッシュをかけた。
背中の彼を感じる。えりあしの下の白さ。目の前で揺れるやわら
かな、髪。
小さな、耳のかたち。
背中がすごく大きい。
肩が硬い。筋肉の張りだろうか、勉強で疲れてるせいだろうか。
彼が動くたびに彼の匂いとフローラルの微香が揺れる。
気持ち悪さが消え失せて、私は、⋮⋮彼の存在だけに気持ちを集
中させていた。
二度と触れることが、無い。
905
俊足なのに、階段一段とばしでかっとばいてるのに、きっと、揺
らさないよう気を遣っている。
保健室への到着はすごく早かった。私が自分で行く場合の半分以
下程度の時間で、
﹁田中ちゃんっ急患っ!﹂
﹁あらあら桜井くん大きな声出してここ⋮⋮保健室ながよ。︱︱都
倉さん?﹂
﹁⋮⋮大したことはないです﹂
屈んだ彼の背中に手を添えながら、私は床に降りた。
﹁どこ怪我したの?﹂
﹁膝をちょっと﹂すりむいただけなんですが。
のんびりした口調の田中先生が入り口にからだを向ける。ワンピ
ースのターコイズ地に赤い蟹が、白衣から透けて見える力強さだっ
た。
﹁そこ、座りなさい﹂
歩いてみると痛さなどより残存する悪寒のほうが強い。すぐに座
れるのは助かった。⋮⋮たぶん歩いてここに自力で来るとしたら、
三十分くらい時間を置いてからだった。
田中先生が治療道具一式を手にこちらに近づく。丸椅子ってこう
いうとき便利だ。いやこのためのものか。
﹁僕、真咲さんの荷物取ってくる。教室に置いてあるよね﹂
自分のコートを肘から下げた、かばんを片手で持つ和貴が訊いた。
突然彼の後ろの入り口が開き。
﹁とっくらさぁーん、おっとどけものでぇーすっ﹂
⋮⋮先見の明をお持ちの彼が現われた。
ち、と舌打ちをしたのはどちらか。⋮⋮和貴でなければいいんだ
けど。
﹁こっち置いとくなぁ。ほなっ﹂
906
﹁ありがとう坂田くん﹂
﹁礼なんか言うことないぜこいつに﹂
﹁けっ。オレは都倉さんと話しとんのや。入ってくんなバーカ﹂
﹁なんだと貴様っ﹂
﹁ふったりとも静かに、ぃ、いぃいい!﹂
焼け付くような痛みが走った。
膝頭だ。
ひとを叫ばせておいて平然と田中先生は治療を施していた。﹁⋮
⋮前にも塗ったやつやないの。そんな騒ぐほどのものじゃないわよ﹂
脱脂綿でやわらかなタッチで叩く。
どんな劇薬なんですかこれ、
﹁染み、染み、るぅ﹂
﹁あとにでも残ったら大変やからね、しっかり塗っておかんと﹂
思うに医者や保健室の先生、⋮⋮特に歯医者さんという人種は、
S要素が強い。
田中先生は最後に白くて大きな絆創膏を貼り、手際よく処置を完
了した。
﹁包帯巻かんでもいいわよね。二三日はマキロン塗って消毒してな﹂
﹁はい﹂
﹁都倉さんは受験生なんやから⋮⋮足元。気ぃつけなならんよ﹂
滑る、という言葉を回避した。
その気遣いに私は胸を張って答えた。
﹁先生、もう大丈夫です。大学には合格しました﹂
﹁ほんとっ?﹂
入り口で息を潜めていた和貴が反応した。
﹁良かったわねえ。おめでとう﹂
﹁はい﹂
頭を下げたときに、
急いで手で支えた。
座ったままぐらり目眩がした。ちょっと鼓動が⋮⋮落ち着かない。
907
ちょっと真咲さん大丈夫っ!? という声がやけに鼓膜に響いた。
﹁⋮⋮具合悪いんなら休んでから帰りなさい﹂
支えられ身を起こす。間近に見る和貴は、目を丸くし、
﹁田中ちゃんどっか行くの?﹂
﹁宮本先生のところへね﹂
﹁あ﹂
︱︱言ってなかった。
見越して田中先生は首を傾げ笑う。﹁その調子やと⋮⋮まだやろ
? 職員室に用事もあるから、行ってくるわ。お昼食べたときにな、
宮本先生、都倉さんのことずいぶん気にしておったし﹂
﹁先生。すみません﹂
微笑みで返すのは私の知らない大人の女性の余裕だった。
頭を下げるのは自粛した。
小さな音で戸を閉めて田中先生が出ていくと︱︱
﹁歩ける?﹂
背中から肩に手を回し、私の、利き腕を掴んでくれてる彼が無垢
な目で私を覗きこむ。
﹁あ、あ、歩けるっ﹂
顔から火を噴きそうになる。
その意識する自分の情けなさに。
﹁︱︱ブレザーちょうだい。ハンガーかけちゃうね﹂
通常は皺にならないようスカートを脱ぐのだが、この状況ではそ
うも行かない。
和貴は、入り口に置かれていた私のコートをブレザーに重ねて吊
り下げ、かばんをその下の机に置き、自分はベッドの傍に丸椅子を
908
寄せて座った。
﹁それで寝苦しくないの﹂
﹁いつもこういう寝方だから﹂
﹁あそ?﹂
頭まで掛け布団をかぶった。
じゃなきゃどうしようもない。
私は和貴探知機でもあるのか。
いつも、和貴を見つけるたびに鼓動が速まる。
しかもこんな、ふたりきりという状況下では強烈に。
苦しい。
苦しい胸を押さえ、窓のほうにからだを傾けた。
大学合格は確かに、喜ばしいことだった。
だがこの心臓に訊いてみると、⋮⋮答えは複雑だった。
四年間、この緑川を離れる。大学院にも行きたい、なら六年間。
就職が厳しい業界だ。
ていよくこの緑川にUターンできるとも限らない。
一方。
和貴はこの町で生きていくのが決定事項だ。大切な、たったひと
りの家族が居る。
つまりは。
私の生きる道は和貴の道と別れた。
卒業すれば、二度と、交わることが無い。
重苦しい息が漏れる。
﹁︱︱眠れない?﹂
頭上から声が降ってくる。
﹁和貴⋮⋮帰ってて平気だよ。そのうち田中先生が戻ってくるから﹂
﹁ひとりになんかさせらんないよっ﹂
子どもみたく甲高い声が場違いにも可愛らしかった。
私は笑みのままに、
909
﹁もしかして︱︱私のこと、心配してくれてる?﹂
布団をまくり、彼のことを振り仰いだ。
以前はマキにときどき言ったこと。
たちの悪い冗談。
彼ならば﹁そんなはずないじゃんよ﹂なんて流すと思っていた。
それか﹁その通りだよ﹂なんて余裕の華のある笑みをこぼすか。
なのに。
﹁当たり前、⋮⋮だよ﹂
胸を、突かれた。
不安げに揺れる瞳のかがやきに。
切迫する影を落とすその表情に。
息を吐き、顔を伏せ、和貴は膝を叩く動きを利用し腰を浮かせた。
﹁僕が、ここにいて邪魔だったら⋮⋮向こうに行ってる﹂
﹁待ってっ﹂
その腕を引き止めていた。
﹁居て⋮⋮欲しいの。和貴に⋮⋮﹂
咄嗟とはいえなんてことを言ってしまったのか。
嫌がってるからこそ、和貴も頭をぐしゃぐしゃにかき回している
じゃないか。
﹁ごめん。いまの無し⋮⋮﹂
﹁前にもこういうことが、あったね﹂
私の手を握り返しながら、彼は、再び座った。
お互いは右と左を入れ替えた位置だが、
﹁夏祭りの、日?﹂
﹁そ﹂
手が、重なる。私の手に。
激しい切なさが胸に去来する。
910
でもそれとは裏腹に、
﹁なんか⋮⋮和貴の顔見たら、眠く、なってきた﹂
まぶたの重たい世界で和貴は吹き出した。
﹁僕の、手には睡眠作用でもあるのかな﹂
﹁さ、ね⋮⋮﹂
﹁これ。手首も擦ったんだね。気づかなかったの﹂
和貴がくるりと私の手首を返す。
﹁ぜんぜん⋮⋮﹂
﹁屋上で、僕のとこ来るときにやっちゃったんだね。まったく⋮⋮﹂
﹁へーき﹂
﹁それしか言わないんだから﹂
和貴の声のリズムが好き。
安心感を与えるその抑揚が。
骨っぽくてほどよくあったかいその感じが。
私はまぶたをおろしていた。
﹁あそこのはしご、外したほうがいいよね。ま僕もたまにのぼんだ
けど﹂
﹁和貴も、⋮⋮誰か、女の子連れ込むの⋮⋮﹂
﹁なわけないじゃん。真咲さんにとって僕ってどういう位置づけな
んだよ。それにね、あそこは隠れ覗き見スポットなんだよ。下から
見えないけど上からは下の様子が見える﹂
位置づけ︱︱?
友達。
知り合い。
でも本当は︱︱
まあるい感覚を包み込む手触り。
現実感が、浮遊する。
ぱちぱちストーブの火が炊かれる音。
こころの底で燃え続ける炎を重ねた。
和貴の、皮膚。
911
声の、余韻。
骨のかたち。
あの笑顔。
私︱︱
﹁ねえ真咲さん。もし、僕が︱︱﹂
私は和貴のことが好き。
﹁もし、﹃見ていた﹄と言ったら、︱︱どうする﹂
湖面を揺さぶる声が響く。
誰の奥底までも届かなかった。
けぶる霧雨のなか、
ガラス窓に一筋のしずくが垂れる。
土に染みこむグラウンドの匂い。
離れない彼の感触、
消せない彼への、想い。
真実を聞く機会は、知らないうちにこうして雨と共に失われてい
った。
912
︵1︶
二月十二日金曜日。
明日は第二土曜日で学校がお休み⋮⋮去年と同じだったなあと思
いつつ教室へと。
午前七時二十二分。
注目を集めるのは気のせいではなく、窓際にたむろしている男子
の声が大きくてテンションが高くてこっちまで聞こえてくる。さっ
と本か教科書だかに目を戻す男子の挙動も不自然だし。
こういうときに男の子に生まれなくてよかったなあと痛感する。
貰えるか貰えないかを気にしつつ過ごすのは私の性分では無い。
コートをロッカーに仕舞いこの日にお約束のピンクの紙袋とかば
んとを机に置く。⋮⋮お隣さんは窓際でバンド仲間とつるまずに静
かに本、いや雑誌を読んでいる。そのタイトルは、
﹁⋮⋮﹃snoozer﹄?﹂
﹁うっほわ﹂鼻の穴が開いた、勢いで長い前髪が揺れた。﹁びぃっ
くりさせんといてやぁ都倉さぁん﹂
顔にかかるストレートヘアを払いのけ、そして入念にセットされ
ていたヘアスタイルを取り戻そうとする。
﹁ごめんごめん﹂
伊達眼鏡を外し忘れ彼が熟読するのはどうやら音楽雑誌だ。
試しに和貴みたく間近で驚かしてみたのだがこれまた、私の性に
合わない。
熟読する人間の驚きへの変化は興味深いものがあるが、顔を近づ
けることへの羞恥が勝る。驚かす側はこの羞恥に耐えうる心性の持
ち主なのだろう。
あるいは、楽しめるという。
私は紙袋から出した一つを坂田くんに手渡した。﹁⋮⋮すごい集
913
中力だったね。はい、これ﹂
おおきに、と片手で受け取り坂田くん。﹁どしたが都倉さん。オ
レに告白?﹂
目を丸くしてる坂田くんがすこし笑えた。﹁ううん。あのね、バ
レンタインだから⋮⋮告白すると義理﹂
﹁おあッ﹂しもた、と広げた雑誌を机に置いた。やっぱり、︱︱
﹁オレとしたことが、⋮⋮すっかり忘れとった﹂
貰えるかどうか終日気にして過ごすよりかそのほうが気楽だ。
﹁モテん男ってつく、づく、気の毒やわねー。和貴なんか朝から呼
び出されっぱなしなんよ? あんたなんかどーせ本命の一個も貰え
んがやろ﹂
敵意を含んだこの台詞は私のものではない。
﹁み、やざわ、さぁあ∼んっ!﹂
飛び上がって抱きつこうとする坂田くんに裏拳を見舞い、紗優は
挨拶もそこそこに﹁パソコンルーム行かんか﹂と私に持ちかけた。
﹁⋮⋮どうして﹂
パソコン部男子のぶんのチョコは私も紗優も用意している。が、
朝一でなくともよさそうなのに。
鼻を押さえてうずくまる坂田くんのダメージのほどを気にしつつ
訊くと、
﹁みんな⋮⋮つうか﹂紗優は気まずげに廊下側に視線を逸らし、鼻
の頭を親指の爪で引っ掻く。﹁タスクと安田と川島でな、たまーに
部室の片付けをしとるんよ。ほら、学祭やら体育祭やらで紙の資料
いっぱい打ち込んどったやろ? あれそのままにしとったもんで、
下田先生だけやなくって委員会からもクレーム来たんよ﹂
初耳だ。
﹁⋮⋮私も手伝わなくていいの﹂
﹁タスクがみんなに黙ってろって﹂紗優が舌を出す。舌苔が目立た
ず綺麗なピンク色をしている。﹁安田への引き継ぎ兼ねとるし、マ
キと真咲は受験本番やったから﹂
914
﹁だってタスクこそ⋮⋮﹂難関の国立大の受験生なのに。
﹁だーからたまにやて。そんな顔せんと﹂
もっと心配してるはずの紗優が気丈に振る舞うのに、私が曇らせ
てどうする。
﹁⋮⋮じゃ、差し入れもなんか買ってこうか。飲み物とかいいかも
ね﹂
﹁うんそーしよ!﹂
﹁あんのぉーみ、み、宮沢さぁん。オレには﹂
オレにはぁ⋮⋮。
うめきつつ手を伸ばす哀れな子羊に猫の女神は無視を貫いた。
﹁誰もおらんね。隣やろか﹂準備室に続く扉をおもむろに紗優が開
けば、途端に、埃が舞い上がる。肉眼で分かる量の。
﹁うっわ、埃っぽ﹂
手を横に振り、紗優が咳き込んだ。私も顔をそむけた。くしゃみ
が出た。
八畳もない部屋には床が見えないほど段ボールが山積みで。緑川
に来たての私の部屋ばりに悲惨だ。⋮⋮これでは下田先生が本当に
仕事をできない。
﹁あれ。こんちはー﹂
﹁どしたんすか﹂
全員がマスクをしているのはホコリ対策でか。
けだし川島くんの巻くハチマキにはなんの意味があるのだろう。
気合を入れるためか。⋮⋮少なくともこちらの笑いを誘うのに効果
的だった。
﹁じゃ、じゃーん! 差し入れでぇーっすっ!﹂
自由の女神みたく紗優が紙袋を掲げた。私と紗優からのチョコと
下で買った飲み物入りの。
﹁あ、⋮⋮りがとうございます﹂川島くんはぽりぽりと頬を掻く。
安田くんは俯いて顔を赤くする。一方で、
915
﹁⋮⋮休憩にしましょうか﹂
お久しぶりですね、宮沢さん、都倉さん。
と付け足すのも我らが部長はいつもどおりだった。
﹁あーいぎがえるぅー。ちょー美味いっす﹂
﹁よかった﹂
﹁宮沢先輩、都倉先輩、ありがとうございます﹂安田くんは律儀に
頭をさげる。
場所を隣のパソコンルームに移しティータイムにしている。
本来はこの部屋での飲食は厳禁なのだが、パックの飲み物を頂く
程度ならと、部長が臨機に許可をした。ただし、パソコンから離れ、
教卓を囲む、立ち飲みのかたちだ。教卓のうえのチョコのひとつに
手をかける川島くんをタスクが軽く睨むが彼は気に留めず。板チョ
コを食べるひと独自の小気味いいリズムが室内に満ちる。
私が手にするのは紗優と同じくいちご牛乳で、男子三人には麦茶
にした。甘いものには甘くないものが合う。⋮⋮私は、タスクと自
分以外の全員が勢い良く飲み終えたのを確かめ、どうやら紗優がタ
スクになにか話をしている様子を見、意識的に安田くんに話しかけ
た。﹁⋮⋮隣の荷物、あれどこから来たの。すごい量だね﹂
積極的な親友の行動を妨げぬよう。
﹁パソコン部っていろんな団体の文章打ち込んだじゃないですか。
打つだけ打ってほったらかしだったんです⋮⋮どっかの目立たない
部の部室や生徒会室の隣にごそっと。年度末ですし、分別しろ捨て
るもんは捨てろとお咎めが来ました。⋮⋮先輩、笑い事じゃないで
すよ。だって頼んだのは生徒会の連中なんですよ。委員会や部活の
打ち込みもやりましたが依頼を受けたのは全部生徒会経由です。な
のになんの礼もなく手のひら返したようにこれ仕分けしろ、ですよ。
⋮⋮体の良いパシリ扱いじゃないですか﹂
怒るということは、なにかを大切にすることの証。
パソコン部がそれだけ安田くんにとっての価値を持ったというこ
916
とだ。
﹁私ね、来週から部活に来れると思う。一緒にパシられに来るよ﹂
教卓に手をかけ、なにげなく体重を預けると蹴りそうになり、足
を後ろに引っ込めた。
﹁都倉先輩にそーゆー力仕事はさせられんです﹂
後ろで扉の音がする。紗優とタスクが出ていったようだ。
﹁どうして?﹂
﹁⋮⋮タスク先輩の言いつけっすから﹂指を舐める川島くんはおそ
らく気づいていない。
﹁私も同じパソコン部員なんだから、するべきだよ﹂
⋮⋮板挟みにさせちゃったかな。
困り顔で坊主頭を撫でる川島くんを見ていると、なんだか自分が
板さんにクレームをつける嫌な客に思えてくる。
﹁作業は主に三人でしているんだよね﹂話の力点をずらそうと思い、
安田くんを見た。﹁部活のあいだじゅう石井さんは、なにをしてる
の﹂
﹁記録係です。段ボールに中身を書いたり⋮⋮つっても﹂パックの
角を持つ安田くん。歯でストローを噛みつつフラットに畳み、﹁⋮
⋮意味なくプリクラ貼りだすわ字ぃ書くの馬鹿丁寧でおっそいわで、
ぶっちゃけ頭数に入りません﹂
﹁同意﹂川島くんがうんうん頷き、食べ終えた包装を両の手でぐし
ゃっと丸め、続いてチョコレートマフィンに手をかける。男の子は
つくづく、食べるのが早い。
私なんか牛丼屋に行ったら食べるのが遅すぎて、浮きそうだ。そ
んな連想が働く。
﹁でも、体育祭や学園祭のデータを纏めて電子化したんでしょう。
ほとんど三人だけで⋮⋮すごいよね﹂私も親指でストロー口を押さ
えつつパックを畳んだ。その親指を舐めようと思ったが、⋮⋮自粛
した。﹁タスクがパソコン部作ろうって言ったのも、元はといえば
体育祭がきっかけだったし﹂
917
⋮⋮懐かしいな。
ふと安田くんと川島くんを見たところ、揃って解せない顔色をし
ている。
﹁あれ。知らないんだっけ、タスクが部活を作ったいきさつ﹂
﹁知らんです﹂
﹁そっか﹂
﹁⋮⋮あの蒔田先輩をタスク先輩がどうやって取り込んだのかに僕
は興味がありますね﹂
そこは知らないんだ。﹁安田くん、知ってたっけ。マキの趣味⋮
⋮﹂指先に目が行く。それだけで安田くんは読み取ったようだ。﹁
勿論です﹂と勢い込んで返す。﹁けどですね、中学の時はあんなこ
としてなかったはずなんですが⋮⋮﹂
安田くんは自分の指先に目を落とす。人差し指と中指とをくっつ
けては離す。
﹁なんの話っすか﹂と川島くん。
﹁それをネタに先輩がゆすったってことですか。下田先生の前でと
か﹂
﹁惜しい。宮本先生だよ﹂
﹁だーからなんの話っすか﹂
私は明かした。
和貴の、戸倉さんがどうのって言われた話と、マキの、部活に絡
む悲しげな表情と、彼の、川島くんの知らない秘密の趣味を除いて。
ひとが増えることは秘密を増やす。
打ち明けることがときに接近に繋がる、
されど守るために私たちは時折隠す。大切なことを。
そこを外した打ち明け話に、﹁タスク先輩らしいっすね﹂と声を
立てて笑う川島くんや、﹁僕宮沢先輩が絵が下手なの前々から気に
なってたんですよ﹂と目尻に皺を寄せて語る安田くんを見ていて︱︱
みんながタスクの意志を継いでくれる。
918
﹃学校行事の手伝いや啓蒙活動を通じて、パソコンの扱いに慣れ。
情報処理能力を高められればいいのではないかと﹄
タスクのしたいことの半分もできたか分からない。人数も、時間
も、タスク以外の人間の技術力も不足していた。大会に無縁の文化
部であれば三年の五月にもなればひっそり引退するというものなの
に、タスクは二年の秋から部活を作り、土台を築いた。
そんな彼はいまも折を見て後輩の指導にあたる。
タスク先輩、と慕う彼らを見ていて︱︱
タスクの蒔いた種が根を張り、いつか地上へと芽を出し、いつか。
小さくてもいい。花となって咲いて欲しい。
そう願ってやまなかった。
919
︵2︶
﹁いいっすよ先輩、鍵おれが返してきますんで﹂
﹁あのね川島くん、ハチマキ⋮⋮﹂
﹁うわっち﹂
がたがたとドアの施錠を確かめつつ額をぺちんと叩いた。
午前八時五分。
紗優とタスクは戻って来なかった。
ホームルームまでたっぷり十五分残っているが、私たちは早めに
引けることとした。教室に戻る前に別棟の職員室に鍵を返さなきゃ
ならない。いつも鍵のことは男子がしてくれる。二年の川島くんな
ら再びこの棟に戻り三階まで駆け上がる。結構な手間だが、彼は、
鼻歌を歌いつつ、人差し指に引っ掛けちゃりちゃりと鍵を鳴らす。
その動きってなにかのドラマでキムタクがして流行ったと思う。
﹁また後でな﹂安田くんは一緒に行かないみたいだ。
﹁あ先輩、作業せんでも構わんので顔出してください﹂
﹁心がけます⋮⋮﹂
﹁石井が﹂
気落ちして頭を垂れたものの、
﹁石井が、先輩おらんと寂しいゆうて、⋮⋮うっさいんすよ﹂
邪気のない笑みを見せ、飛ぶような軽やかさで川島くんは走り去
った。
ハチマキをつけたまんま。
彼、あのまま職員室行くだろうけれど⋮⋮誰か注意するだろうか。
先生方が笑いを噛み殺しそうだ。黙殺されて教室戻るなりクラスメ
イトに出迎えられたりして。へいらっしゃい!
920
﹁⋮⋮なに笑ってるんですか。気色悪い﹂
私は川島くんの寿司屋シリーズにことごとく弱い。
﹁ううん別に﹂そして私は呆れられてばかりだ。気色悪い扱いだし、
最後まで先輩らしい頼もしい姿を見せられずじまいだった。
安田くんは窓の外だかを一瞥し、ブレザーのポケットに片手を入
れ、そこから拳を、親指を下にして突き出してくる。
ひょっとして喧嘩でも売られるのかと思ったらそうじゃなく。
﹁あげます﹂
﹁⋮⋮私に?﹂
ゆるやかに拳が開かれ、落とされたものが私の手のなかに収まっ
た。
チロルチョコが三粒。スタンダードな焦げ茶色のと牛っぽい白黒
の柄のとピンクの、ビスケットの模様が入っているのと。
安田くんはいつもどおり私の目を見るのを露骨に避ける。
ここ三階だけれど外になにがあるのか。ついと視線を外し手を下
ろす。﹁⋮⋮逆チョコです﹂
﹁そういうのがあるんだ? 知らなかった﹂
ところで安田くんこそ、女子が放っておかない。
髪がいい感じで伸びたし。
パソコンルームじゃ気づかなかったけれど、実は結構背が高くっ
て小顔だし。
﹁つくづく無知ですね。あなたというひとは﹂
﹁⋮⋮ごめんね﹂私は手のひらに包み込んで、呆れるのを通り越し
て怒った彼に笑いかけた。﹁でもまさか、安田くんから貰えるなん
て思ってもみなかった。嬉しい﹂
﹁⋮⋮あ、あなたというひとは﹂
二回言われた。顔赤くするくらい怒らせて逆効果だった。
踵を返す安田くん。尾行するみたいでどうかと思いつつもついて
こうと思ったとき、
﹁ちゃんと、あげてくださいね﹂
921
﹁うん?﹂
ズックの足が止まる。
肩越しに安田くんは冷徹な面差しで私を振り返り、
﹁本命に﹂
痛いところを突いた。
何度目か分からない回数でまたも視線がぶつかるのを避け、眉間
に皺を寄せ、細い知的な目を細める。﹁暖房に溶かされる前にちゃ
んと食べて下さいね。さきに、行ってます。⋮⋮お腹鳴ってるの聞
こえましたよ﹂
﹁安田くん﹂
﹁まだなにか﹂
﹁ううん、ありがとう﹂
﹁いえ﹂
﹁安田くんも、今日は本命さんを大切にするんだよ?﹂
ポケットに手を入れた安田くんが、一瞬、目を剥いた。
またため息をついた。つくづく、⋮⋮彼を不快にさせることしか
私は言えない。
呆れを口にした彼は、近くの階段に折れて見えなくなった。
私は見送りながら二個をポケットに滑らせ、牛の柄を意識した包
装を開いた。
﹁天然というのも罪ですね﹂
溶かされた甘い、ミルクチョコの味がした。
﹁お昼屋上で食べんか﹂
午後十二時二分。チャイムが鳴り終わるもそこそこに、お弁当と
922
紙袋を手に紗優がやってきた。
私は右のガラス窓と廊下のガラス窓の二枚越しに雲の様子を確か
める。﹁⋮⋮寒くない?﹂淡いブルーの曇り空。雪こそ降ってはな
いものの。
紗優は鼻の下をふくらませ得意げに笑った。
﹁その寒さがオツなんよ﹂
⋮⋮理解できない。
ともかく、提案や誘いの類を断れない主義の私は、乗った。
昼休みの廊下が騒がしいのが昼休みの常。⋮⋮なのだが、なんと
いうか本当に騒がしい。男の子が意識的に振る舞うのは分かるんだ
が、女の子のエーッウソーッて高い声を何度も聞いた。
私は校内の噂や情勢にことごとく疎い。得るのはいつもクラスの
女の子経由で、紗優と同じクラスになってからはこと紗優が唯一の
情報源となった。そして自分が噂のネタとなった時期以降はますま
す縁遠くなった。
なにか、あったんだろうな。
という疑問が頭をもたげるも、凛とした横顔になにも言えなかっ
た。
彼女が渡す数は結構多いし、もしかしたら撒く目的もあったのか
もしれない。彼女は艶やかな笑顔で、今年は手作りのチョコをしっ
かりと渡し、男の子たちの虚栄心を満たしそして彼らを一様に骨抜
きにしていた。
オレンジの扉を開くなり、私は飛び跳ねてうえに誰も居ないこと
を確かめる。ジャンプする動きが可笑しかったのか、紗優は笑い混
じりで出入口の裏側に回りこみ、そしてお弁当を広げるなり、衝撃
の事実を明かした。
﹁和貴なぁ、︱︱今年はチョコ貰わんのやて﹂
923
風呂敷に手をかける私の動きが止まった。
﹁つっても、⋮⋮貰わんのは本命チョコやよ。義理は貰うとる﹂私
の顔色を見て、落ち着かせるような声色で説明を加えた。﹁毎年誰
彼かまわず受け取る博愛主義者のくせして、本命は受け取らん。⋮
⋮なに考えとんのか分からんわ、あいつ﹂
膝の上に私は風呂敷とお弁当を置いた。落とさないように留意し
つつ、箸箱から箸を出し、﹁女子が騒いでたのってそのせい?﹂
﹁そやよ。⋮⋮なんやと思っとったん﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
卵焼きから行くか。ほうれん草とカニカマを巻いてあって、美味
しそう。私はそのかたちを崩さないよう持ち上げる。﹁⋮⋮紗優は
あれでもう全部?﹂
﹁なにが?﹂
﹁今日のノルマ。⋮⋮というか渡す義理チョコ﹂
﹁坂田以外全員﹂
﹁ふえっ﹂私は卵焼きを口のなかの右に寄せた。﹁マキと和貴にも
渡したの?﹂
﹁和貴は、ホームルーム始まる前に会うたし、マキにもな。さっき、
廊下で﹂
﹁そっか⋮⋮﹂
私はあの二人を残すのみだ。
一人で渡すのは心細い。
ちゃんと、渡すべきなのだ。
︱︱本命に。
ミートボールが私に勇気を与えてくれないだろうか。
あこれ、手作りだ。美味しい。
﹁︱︱真咲は和貴に渡さんが? 好きですぅ! て﹂
激しく咳き込んだ。
﹁ああ、⋮⋮あ、大丈夫? ほらこれ飲んで﹂
拳で胸を叩いた。紗優に渡される私のミルクティーは適温でなく、
924
買ったことを後悔した。落ち着いて、いろいろと飲み込んでから私
は自分から口を開いた。
﹁だって、⋮⋮本命は貰わないんでしょう﹂
﹁真咲﹂
﹁もう一ヶ月足らずでお別れなの﹂
なにに対して私は怒っているのか。
なにか言いたげな紗優が視界に映る。
﹁全然和貴に会えないし⋮⋮私は東京に行くんだよ。もう何回会え
るかも分かんない。なのに⋮⋮残り少ない時間。波風立てずに穏や
かに過ごしたいよ﹂
振られて悲しい気まずさを味わうんじゃなく。
なにに対し、私は言い訳してるんだろう。
二個目のミートボールを箸で持ち上げた。
﹁真咲はそれで後悔せんが﹂
﹁分からない﹂
味覚と感情は著しくリンクする。
さっきほどミートボールが美味しく感じられない。
﹁紗優のほうこそどうなの。⋮⋮さっき、タスクと話せた?﹂
﹁ん。まあ⋮⋮﹂
卵焼きを食べてるにしては浮かない顔をしている。彼女の食事の
ペースもこころなしか、いや、間違いなく遅い。
﹁なにか、あったの?﹂
二個のプチトマトをお弁当のなかでいじいじと箸で転がす。後ろ
向きな気分の正体は、
﹁⋮⋮迷うて言うとった真咲の気持ち、あたし、いまなら分かるわ
⋮⋮﹂
﹁タスクと誰とを?﹂
恋愛関係には特攻型の彼女が、ためらうように言いよどみ。
そこで目にする紗優は。
恥じらう、恋を覚えたての女の子そのものだった。
925
﹁あの、⋮⋮アホ﹂
︱︱坂田くん!
危うくお弁当をひっくり返しかけた。食欲減退なんぞ消し飛ぶ。
頬を染めた紗優は咄々と語り続ける。﹁やってあいつ、⋮⋮ひと
がいくら無視しても無下にしても追いかけてくるんよ。生粋のアホ
やわ。⋮⋮なんかもう、おらんと、落ち着かんなってもうて⋮⋮風
邪で休んだ日なんか調子狂って、パフェ食べに﹃よしの﹄行こうか
と思うた。気づけば、⋮⋮目で探すようになってもうたんよ。正直
にゆえば、あいつがおらん日は、寂しい⋮⋮﹂
九回の裏、逆転ホームランだ。
恋愛も野球も最後までなにが起きるか分かりやしない。
﹁今朝な、タスクと話したんよ。⋮⋮玉砕。⋮⋮宮沢さんの幸せを
願っています、なんて言うんよ。けどな、⋮⋮前ほどショックやな
かったんよ。そんで気持ちが逃げておるだけなんかもしらんけど⋮
⋮﹂
不屈の精神で紗優を追い続けた坂田くんを知っている。
誕生日の日にエスコートしたかったはずだ。でも彼は好きな人を
喜ばせる道を選んだ。
﹃オレもおんなじ立場になりかけとる﹄
そんな想いが、あの言葉に込められている。
﹁素直に、動いていいんじゃないかな、その気持ちに﹂俯いて胸を
押さえる紗優に私は素直な気持ちを伝えた。﹁気になるなんて立派
な恋のサインだよ。いつから?﹂
﹁⋮⋮誕生日んときかな﹂
私は微笑んだ。
きっとあの行動が紗優を動かした。
紗優がようやくプチトマトを摘まむのを見ながら、私は最後のミ
926
ートボールを食べにかかった。﹁相談してくれてもよかったのに。
⋮⋮水臭いなあ﹂
﹁やって真咲はお父さんと受験のことで手一杯やったやん﹂
﹁その通りだね﹂
気遣いありがとう。
目配せをする彼女に答え、お互いにお弁当の中身を空にする。
胸いっぱいながらも食べる時間が、幸福だった。
すこしの沈黙を切るのは、秘められた彼女の決意。
﹁︱︱ま﹂
放課後に坂田呼び出して、告白する。
⋮⋮本命のハート型、作ってきてもうたし。
﹁⋮⋮い﹂
やった。
ぽつりと落ちた言葉、
それが精一杯胸のなかに広がる。
抑え切れずお弁当を退けて飛び上がった。
﹁ぃやったあっ!﹂
金網のフェンスへと走りだす。やったやったと飛び跳ねる私に紗
優がちょっと呆れている。﹁急に、⋮⋮どしたが﹂
﹁だって! 嬉しいんだもん! だってだって﹂ああもう言葉にな
らない。﹁こういうときこそやったやったダンスでしょう! 紗優
も一緒にしようよっ﹂
﹁えー﹂
927
半笑いながらも、紗優が腰を浮かす。
﹁やったやったやったやったやった﹂
またしながら笑えてきた。﹁ああもうなにこれ、ああ﹂⋮⋮この
程度で肩を上下させるのが情けない。﹁おめでとう、紗優﹂
﹁分からんて。振られるかもしれん﹂
﹁坂田くんならこうするに決まってる﹂
喜び勇んでハグをした。
﹁せやと、いいなあ⋮⋮﹂
すごく近くで薔薇香る紗優の本音を耳にした。
安堵の息を漏らす。幸福に気持ちが満ちていく。
それなのに、私は。
フェンス越しに眼下を見やったのがいけなかった。
中高所恐怖症のせいではない。
体育館の裏手ではなく校舎側という、オーソドックスだかマイナ
ーだか分かんない場所に呼び出しただろう女の子が、ひとり、男の
子の元を走り去る。
振られた側の走り方って決まっている。一目散、という形容が正
しい。
受験でやや落ちた視力で、三階建ての屋上から眺めるという厳し
い条件であっても、見間違うはずがなかった。
﹁⋮⋮どしたが真咲﹂
身を固くしたのが伝わったみたい。なんてことのないように、な
んでもない、と返し彼女の手を引いてさっきの場所へと促した。﹁
どこで告白するか決めてる?﹂
﹁決めとらん。⋮⋮どこにしよ。屋上かなあ﹂
﹁思い切って教室でとか﹂
﹁⋮⋮ひとごとやと思って。そんなん晒し者やんか﹂
﹁目につかない場所がいいよね﹂
928
好きなひとの特徴を見間違うはずがなかった。
あの人一倍明るい、髪の色を。
929
︵3︶
親友の幸せな恋の行く末を見守りたいのはやまやまだが、ミッシ
ョンが残っている。
午後の四時五分。
休み時間にひっきりなしに女の子に呼び出されていた和貴には、
朝イチで渡した紗優が正解。紗優づてに講習会に行くと聞いていた
ので、彼を捕まえられず私は焦っていた。
不確定要素よりも確定要素を固めるのが先決。
⋮⋮と判断の働く自分をドライだと思う。
もし︱︱いつか殴られたのがマキだったとしたら私は激高しただ
ろうか。我を忘れて飛び出しただろうか。
恋心の正体を見抜くのは難しい。
視界に入らないと気になって仕方ない、その対象がスイッチした
自分の感性にも。
誰かに内面で優劣をつけたがる自分の醜さにも気がつく、それも
含めて。
これらに比べればノッポなターゲットを見つけるのはウォーリー
を探すよりも断然たやすい。
帰り仕度にひとのひしめくよそのクラスであろうと。
﹁⋮⋮おまえが三組に来るとは、珍しいな﹂
後ろのロッカーに向かいピーコートのボタンを留めていた。
ダウンコートはクリーニングに出しているのだろうか。私が泣き
ついた日以来、見ていない。
﹁図書館行くよね。⋮⋮あとで顔出すから﹂
﹁ああ﹂彼はロッカーに片手を添えて閉じた。まだ手袋はしていな
い。
合格してからというものの、彼と図書館に行っていない。手続き
930
もろもろで慌ただしく、⋮⋮手のひら返した自分の行動にもいまさ
ら気がつく。単純で現金な、合格した側の事情に依る気まずさなり
を感じつつあったが、⋮⋮彼は一向に気にしない様子。
マキは今日がなんの日だかも、どうでもよさそうだ。
もし女の子に告白されたとしてもこの無表情を貫くのだろう。
﹁じゃあね﹂
黒のピーコートもよく似合うと思った。
女の子相手なら単純に言えることも、彼には言えない。
異性間の距離を感じつつ私は距離を開いた。
﹁︱︱都倉﹂
彼ほどに涼やかで耳に心地のいい低音を出せるひとを知らない。
間を置く彼の余韻。名を呼ぶときの響きが気持ちいいほどで、何
度でも聞いていたい。
これも勿論、口に出せないたぐいのものだけれど︱︱
﹁なぁに﹂
横開きのドアに手をかけ、振り仰げば、彼は一ミリも笑わず、﹁
来週には合格通知が来る﹂
合格。﹁⋮⋮ってマキの?﹂
﹁ああ﹂
﹁すっごい自信だよね﹂落ちる不安って彼には無いんだろうか。
﹁ああ。俺もおまえと同じ東京行きだ﹂
﹁そう﹂
﹁︱︱嬉しくねえのか?﹂
隣を通る子がもろに私のことを見てきた。
⋮⋮だから。
そういうのをでっかい声で言わないでよ。
だんだん声が大きくなるタイプで、とんでもないことを臆面もな
く言える彼に、この場で渡さないのは、注目を集めたくないからこ
そなのに。
﹁そーゆーこと言ってると顔出さないから﹂ふくれっ面で言ってみ
931
るものの、
﹁⋮⋮望むところだ﹂口許で微笑する余裕をもって、﹁どうなるの
か覚悟しておくんだな﹂
指を組み合わせてばきぼきする、それ、怖いから。
逃れ逃れ廊下に出た。
まったくもう。
顔が見たいんなら素直に言えばいいのにね。
この町の気候は東京育ちの私に感じたことのない痛みをもたらす。
耳あては子どもっぽいので回避しているが、本当はしたほうがあっ
たかい。髪をかけて晒す耳も、スカートから出る膝頭も真っ赤にな
るし、つま先に雨や溶けた雪の染み込んだ場合は足の指がしもやけ
となる。雪国をサーバイブするにオロナイン軟膏が必須。
澄んだ清らかな空気を感じられるものの屋外は氷点下の寒さだ。
中庭の樹木に降り積もる雪が溶けていない。だから、
こんな時期にあんな場所に誰もいない、
︱︱はずが。
保健室の角を曲がり、渡り廊下に飛び出た。
開きっぱのドアの裏に身を隠す。
﹁先輩、どうしてっ⋮⋮﹂
切迫した女の子の声。よく聞こえる。下級生だろう、向こうの校
舎から渡り廊下をこっちにやってくる男の子たちが好奇の視線を投
げる。彼らのほうにも、私にも。
私は顔を伏せた。
その好奇は長続きするものでなく、笑い話に被さって溶けてしま
う。
しかし私のそれは違う。
﹁あたし、中学の頃から、先輩のこと、ずっと﹂
好きやったんです。
告白が胸を、突く。
私には決して声に出せない一言を。
932
﹁だから、どうしても、受け取って、欲し、く、って⋮⋮﹂
顔を確かめようとした、でもできなかった。切れ切れの言葉にど
れほどの勇気と想いが込められているのか。私は暗がりのなかで胸
元をかき合わせた。
﹁⋮⋮一年生?﹂
間違いない。
和貴の、声だ。
いっちゅう
﹁はい﹂
いっちゅう
﹁緑中だったの﹂
﹁一中です﹂
彼らの会話の示唆するところが分からない。
でも次の台詞の意図なら、私には掴めた。
﹁⋮⋮悪いことは言わない。ほかのひとを好きになったほうが、キ
ミのためだよ﹂
穏やかな口調がかえって残酷だった。
﹁なんで、ですか。やってあたし、ずっと、先輩が、っ⋮⋮﹂
もう、聞いていられない。
顔を伏せて建物に戻ろうとした、が。
﹁好きなひとがいるんだ﹂
その足が凍りついた。
息を奪われ、動けない。
好きなひと︱︱?
そんな可能性も、脳天気な私は考えてもいなかった。
﹁⋮⋮だからね、僕は受け取れない。ごめんね﹂
﹁桜井先輩。あのっ﹂
933
﹁話はそれだけ?﹂
﹁せ、んぱい⋮⋮﹂
声を絞り、泣くのをこらえる。差し迫る足音は、どっちのものか。
考えなくても、分かる。
胸に渡せない想いを抱えた彼女は、私という立ち聞きをした人間
を捉え、涙をいっぱいに貯めた目で、なにも考えられない様子で、
目の前を走り去った。
悲しみと激情が自分のなかに取り残された。
私は、︱︱動いていた。
ズックが濡れる。だから校舎からはあんまり出ない。
背中を向けた、︱︱中庭の緑を背景に赤いコートが映える。彼が、
立っていた。
﹁⋮⋮和貴﹂
﹁ま、さきさんっ?﹂
突然に現われた私に頓狂な声をあげるものの、私のこころには冷
たいものが流れた。
﹁どうして、受け取らなかったの﹂
理解が及んだのか。和貴の片方の口端が軽薄な感じに歪んだ。﹁
⋮⋮聞いてたんだ?﹂
﹁うん。その⋮⋮中庭に和貴がいるのが見えて⋮⋮﹂
﹁まー人目につくよねここは﹂
中庭を両側から挟む校舎を、首の体操でもする動きで見回す。
他人ごとのように言える彼が、怖く感じられた。
﹁ずっと、好きだったって言ってたじゃない。⋮⋮受け取ってあげ
たってよかったのに。なんで今年から? 去年は貰ってたんでしょ
う﹂
﹁心境の変化、かな﹂
ポケットを手を突っ込み、肩をすくめる彼に怒りを覚えた。
﹁そんな、いい加減な気持ちで振り回さないでよ。女の子たちのこ
と﹂
934
﹁︱︱いい加減?﹂
言葉尻に和貴が食いついた。
﹁いい加減はどっちだよ。僕のことをよく知りもしないのに、なん
となくみんながあげるからって。あの子たちが求めてるのは僕じゃ
ない。連れ回していいでしょうって友達に自慢できるビジュアルの、
適度に人当たりのいい、男の子、なんだ。常にニコニコしてアイド
ルみたく好き好きゆってくれるマスコットをね。そんなことも思い
至らずに、流行でも追いかける感覚でそれをやってんだ﹂
夢だと、幻想だと、見なす。
現実を伴わない、淡雪のようにライトで溶けやすい恋心を。
こうやって怒ることもある。突き放すこともある。
ニコニコ笑ってるばかりが、和貴じゃない。理想を満たすばかり
じゃない、本音の和貴を理解している子も、必ず居る。
絶対に。
﹁本当に和貴を好きだから渡す子もいるんだよ。なけなしの勇気を、
振り絞って⋮⋮﹂
さっきの女の子に自分を重ねていた。
もしかしたら自負していたかもしれない。
或いは告白に近かったのかもしれない。
自分がそうなのだと。
突き放されても追いかけたい、
理解者でありたい希望の一切を、
﹁僕は︱︱応えられない﹂
和貴は、拒んだ。
その拒否こそが私に差し向けられていた。
ゆるぎもしない、決意を宿した、瞳が告げた。
変えるつもりはないのだと。
変わるつもりもないのだと。
935
うちに秘めた恋心もろとも粉砕された気がした。
和貴はその眼差しのままに、こちらに踏みより、
﹁応えられないんなら、最初っから変な期待させないほうが、あの
子たちのためだよ﹂
和貴の言うことは分からなくもない。
けど。けど⋮⋮。
言葉にならないもどかしい想いが私のなかで波打つ。
ぎゅっと拳を固く握りしめた。﹁だからって、あんな言い方しな
くっても⋮⋮﹂
﹁じゃあ真咲さんは、どんな言い方で僕が断ればいいと思ってる?﹂
険を取り除いた、理解を示す口調で問いかけられ、絶句した。
︱︱分からない。
相手を傷つけずに拒む方法なんて、私にはちっとも分からない。
それこそ私が悩んでいることの、ひとつだった。
なにも応えられずの私を見、風に遊ばされる前髪をふと押さえ、
和貴は濡れてしまった内履きに目を落とした。﹁⋮⋮こんなとこで
油売ってないでさ、真咲さん。行ってきなよ﹂
校舎を顎で指す。
三年の教室のほうを。
なにを言いたいのか、理解しなかった。
﹁マキのとこに行くんでしょ﹂
﹁︱︱は?﹂
頭のなかが白く染まった。
反対に血流はどくどくとうるさい。
936
﹁どうして、⋮⋮ここでマキが出てくるの﹂
﹁だってさ﹂嘲るような笑い方をする。﹁いつもいつもべったりく
っついててさ、すっごく仲がいいじゃん﹂
﹁なにそれ。確かにマキと行動することは多いけど、放課後の、図
書館行くときくらいだよ。勉強するためだけだし﹂
﹁へえ、そう。ホントに?﹂
そんないかがわしい目で見られていたなんて。
日頃は綺麗なアーチを描く口を、への字に曲げる彼に、私のなに
かが切れた。
﹁あーそう。そう思いたいなら思ってればいいじゃん。ひとの気も
知らないで﹂
﹁真咲さん﹂
子リス和貴に戻ったのは分かるが私のなかでは遅かった。
﹁本命チョコは受け取らないんだよね。はい。これ義理だから安心
して﹂
﹁ま、さきさん⋮⋮﹂
押しつけられる袋に手を添え、交互に見て当惑している。
私は喉の奥が狭まるのを感じながらもその彼に伝えた。
﹁お、望みどおり、マキのところに行ってくる。⋮⋮じゃあね﹂
和貴はもう、⋮⋮なにも言わなかった。
ひた走って、自分の下駄箱に着いてようやく、呼吸が取り戻せた。
どうして、あんなかたちでしか言えないんだろう。
言えないからああいうかたちで八つ当たりする。⋮⋮和貴はちっ
とも悪くない。悪くないのに。下駄箱に泣きついたってなんの意味
もない。
⋮⋮私には和貴のことをどうこう言う筋合いも資格もない。
マフラーの鮮やかないろが滲んで見えた。私は、このいろが好き
だった。和貴を感じられるいろが好きだった。どんないろであって
も和貴が着こなせば好きになれた。
和貴のことが、好きだった。
937
息を整え、マフラーを巻き直す。混沌とした気持ちのまま、それ
でもたったひとつ。
こころの求める先へと向かった。
938
︵4︶
﹁よう来てくれたわい。元気しとったかね﹂
﹁⋮⋮はい﹂
午後四時四十五分。
玄関に通され曖昧に私は頷いた。
﹁⋮⋮んなこつお嬢さん。お通夜に行って来たよな顔しとるぞ﹂
﹁おじいさん﹂頬の筋肉がこわばっていて、笑おうとしてもぎこち
ないものになった。﹁挨拶させて頂いても宜しいでしょうか。お祖
母さんと、お父さんとお母さんに﹂
﹁あんたならいつでも歓迎やわ﹂
︱︱久々の桜井家。
懐かしさを私たちは嗅覚で記憶する。フロイトが言うには五感の
なかでも視覚の働きが一番大きいんだとか。玄関横の四角いごみ箱
も、大きなたぬきの置き物も変わらない。
一ヶ月二ヶ月で家がそんな変化をするはずがないのだ。
だが人間関係の破壊は、一秒足らずだ。
お仏壇の前に正座すると、吹き荒れた胸の嵐がすこしおさまるの
を感じた。
ろうそくに手を灯し、線香に火を点け、焼香台に添える。︱︱す
っかり慣れた動作だけれど、慣れた気持ちでなんか行いたくなかっ
た。
和貴の、
﹁お祖母さん。お父さん。お母さん⋮⋮﹂
︱︱僕は、応えられない。
939
﹁お邪魔します。今日は、天気がよくって、雪も降らない日で﹂
あの目が胸に刺さる。
合わせる手が、震える。彼は︱︱
私のことなんか、見ていない。
﹁︱︱ごめんなさい﹂
なんとお声をかけたらいいのか、いまの私には、分かりません⋮
⋮。
あの瞳を思い出すと一筋が頬を伝う。
﹁お嬢さん﹂
﹁はい﹂私は座布団から降りた。いつも傍で待っているおじいさん
は、なにか仕度をしていた様子。台所から流しの流水音を聞いた。
﹁茶ぁいれたさけ、こっちに来て飲みんしゃい﹂
膝のスカートを整えつつ手の甲で目許を拭った。﹁おじいさん、
お茶を淹れられるんですね。知りませんでした﹂
﹁たわけ。そんくらいできるわ﹂
強い言葉にぎょっとしつつも、そうですね、と頷いて立ち上がっ
た。
悲しみから解き放つにはときに強さが必要だった。
驚きや怒りの類は効果がある、だからわざとそれを与える︱︱
水野くんが一組に乗り込んだときも、
かつて私を、⋮⋮突き放したときも。
笑ってるのが合ってるよ、と優美な笑みで語れる彼を彷彿させる。
940
そんなところもお孫さんはしっかり引き継いでいます、おじいさ
ん。
台所にはポットが買い足されていた。それなりに日々が過ぎたこ
とを思い起こさせた。いつも、お湯をやかんで沸かしていた。
和貴は家でもスポーツドリンクばかりなのだろうか。
うまく回らない頭で、和貴が糖尿病にならないかが心配になった。
﹁︱︱あ﹂
お茶に合うものを持参していた。
私は隣の椅子に置いた袋から一個を取り出し、おじいさんの前に
置いた。﹁お茶受けにいかがでしょう﹂
﹁⋮⋮新造のぶんは残っておるんか﹂
﹁しばらく甘いものは見たくもないそうです。⋮⋮味見にさんざん
付き合わされたので﹂
そーかそーか、と顔を皺だらけにして笑ったと思えば、物珍しげ
に摘まみ、
﹁ばあさんはこんなハイカラなもん作らんかったぞ﹂
表と裏、上と下。
手に取ったどんなものでも、くるくる手首を返し確かめるおじい
さんの挙動は和貴そのもので︱︱私の胸をすこし痛くさせた。
﹁ありがとう。⋮⋮いただくわ﹂
大切なものを頂いたように、丁寧に開封するおじいさんを見てい
て、はやくマキの元へ行かなければと思う。
﹁もう、行くんか⋮⋮﹂
名残惜しそうにおじいさんが言う。
おじいさんが和貴だったらよかったのに。
身支度を整える間、おじいさんは終始無言だった。いつもなら朗
らかにご近所さんの話とかをするのに、顎先を摘み考えこんで、⋮
⋮こころあらずといった様相だった。
941
﹁突然お邪魔してすみませんでした﹂
意識して大きな声で私は頭をさげた。
虚を捉えていた瞳が動いた。﹁⋮⋮あんたならいつやって歓迎や
わ。それから、お嬢さん﹂
﹁はい﹂
気をつけの姿勢になった。
昔のひとの眼力は若人をすくませるなにかがある。
顎先から指を離すと、おじいさんはなにか瞳に憤りを燃え立たせ、
﹁わしゃあ、孫を殴りつけたほうがいいがか。そんだけ、教えてく
だされ﹂
泡を吹かせる一言を吐いた。
﹁いえ、これは和貴には関係ありません。単に、感傷的になっちゃ
っただけで⋮⋮﹂
﹁うむ﹂
まずい。
どう見ても納得していない。
﹁明日、⋮⋮母と東京に行くんです。一人暮らしする部屋を探しに
⋮⋮﹂
﹁元々住んでおったおうちには住まんがか﹂
﹁木島の家に私の居場所はありませんから﹂口にしてみると不思議
と割りきれていた。﹁既に関係の切れた私がうろつくのもどうかと
思うので、⋮⋮近辺は避けたんです﹂
受験する大学も西関東寄りにした。
何故だか、こういう母にも祖父母にも明かさない事実を、おじい
さんになら明かせる。
私よりも沈痛な面持ちのおじいさんは、本当のおじいさんみたい
だった。
ほかのひとにされるのは苦手なたぐいの踏み込まれた質問をされ
ても、嫌とは感じない。
特別な存在と感じつつ私は笑いかけた。﹁まだ寒い日が続きます
942
ね。⋮⋮お元気で﹂
﹁あんたも達者でな﹂
凍える外気に身を投じもう一度後ろを確かめる。
微笑んでくれた。
猫のようにわずかに目を細める、下瞼の動き方も、愛しいひとそ
のものだった。
真冬を燦然と照らす、おじいさんは太陽であり続けた。
私は小さく手を振り、限りないひかりに別れを告げた。
943
︵5︶
隣の椅子の背に黒のピーコートがかけられていた。
室内は暖かすぎるのか、長袖のポロシャツ姿だった。ブレザーは
自分の席の背もたれに。
﹁ここ、座っていい?﹂
反応は薄く、わずかに頷く程度。静かに椅子を引き、持っていた
コートを重ねがけし、座った。
腕時計を、確かめる。
五時を十五分過ぎた。残り四十五分。自習する彼が帰る様子は無
論、無い。生物の難問に取り掛かっている。⋮⋮私などに気を向け
ず集中する彼の、邪魔をしたくなかった。
受験を終え気抜けた私が机に出すのは、桐野夏生の﹃OUT﹄。
⋮⋮参考書以外を堂々と学習ルームで読むのもどうかと思ったけど、
一応はここの図書館で借りた本だから。
椅子と机のセットが常にフィットしない。背中を丸めて窮屈そう。
背筋をぴんと張って椅子に座る和貴とは大違いだ。
また、⋮⋮比べてしまう。
こんなふうにこっそりお隣を盗み見た。彼は常に気づいた。
どしたの。
あんま僕に見惚れてないで、集中しな?
素早く耳打ちをし、また人のことをからかう。
真夏の和貴が恋しい。
今日も早いねえ、真咲さん。︱︱と笑いかける彼を目にする機会
は失われた。だから、擦り切れたテープのごとく繰り返すしかなか
った。録音のクオリティが落ち、いずれ本当に切れる日が来る。
彼には、チョコを渡せば終了する。私が長居する必要は別段ない
のだけれど、彼とは。
944
自分が抜けたから即終了するとか、そんな関わり方をしたくなか
った。
︱︱彼は。
辛いときに私を助けてくれた。
こういう温情措置も、変な気を持たせるだけの、後に振り返れば
残酷さと弱さでしかない。
拒む自分を正視できぬ内的な弱さ。それを上っ面の優しさで解消
させる、逃げの姿勢。相手の想いを生殺しにする残酷さ。これら一
連から卒業する勇気を、一度でも想われたことのある人間は、持た
なければならない。
⋮⋮突き放す勇気を和貴は、持っていた。あの子たちにも。それ
から、
慰めるだけならいつだってしたげる。
私にそう言い放ったときにも。
私は、悪者にはなりきれない。
無自覚のうちになっている、それが真実だ。
迷妄の森を漂流し、行き着く先は常に和貴だった。
私は一度首を振り、両手のあいだの私の知らない世界に、没入し
た。
﹁帰るぞ﹂
すぐには現実が飲み込めない。そのくらい、没頭していた。左に
からだを捻ると、私のコートが手渡された。﹁ありがと﹂
﹁それ、上巻か﹂
﹁うん。読んだことあるの﹂
﹁前にな﹂
945
連れ立って部屋を出た。またも私たちが最後の退室者だった。途
中で図書館員のひとに出くわし、挨拶をした。﹁外、風強いから気
ぃつけてぇなー﹂
そのおじさんに言われた通りだった。
自動ドアでマキが開くなり、強風が舞い込む。
慌てて身を引き、マフラーの紐を結んだ。
マキは私の後ろに回り込み、尻尾を結いてくれた。
その間、私はまぶたを下ろした。たちまちまぶたの裏に残像が流
れ始める。﹁なんか、⋮⋮いい小説読んでると映像が浮かぶんだよ
ね。⋮⋮いま生きてる現実が色褪せて見える、境界がぼやけた感じ。
私まだ、パートのおばさん気分だよ﹂
﹁目覚めさせてやろうか﹂
目を開けば、後ろ手を差し出すマキが。
流石に、それは⋮⋮。
言わずともみなまで伝わったらしく、彼は、気まずい素振りも見
せず手をポケットに突っ込み、再び強風に対峙した。私は斜め後ろ
を歩いた。正直に、長身の彼で凌いでる。ごめんマキ。
﹁教えてやろうか﹂段の幅の広い階段に差し掛かり、出し抜けに彼
は振り向いた。﹁上下でかなり世界観が変わる。いいか、下巻では
なんと、な⋮⋮驚きの展開が﹂
﹁やだ。それ以上言わないで。これから読むの楽しみにしてるんだ
から﹂
前に戻る背中が、小さな笑いに震える。
その彼の手が引っ提げるのは不似合いなピンクの大きな紙袋。私
の持っている小ぶりなものの三倍はありそうな。
﹁今年も豊作なんだね﹂
﹁玄関先に名前入りで置いてあったんだ⋮⋮仕方ねえだろ﹂
何故だか奮然とあっちを向くマキ。
﹁あっ﹂
なんのために私は来たのか。目的をすっかり忘れていた。
946
階段を駆け下り、追いついて彼に手渡した。﹁遅れてごめん。あ
のね、⋮⋮﹂
﹁サンキュ﹂
胸のポケットに仕舞われた。
怒りめいたものが取り除かれたのは分かる。
けども喜びも嬉しさの一片も見当たらない。
⋮⋮こんなことを思うのは筋違いだけれど、せめてこころのなか
では自由にさせて欲しい。
﹁そんな顔して見んなよ﹂
読まれている。
もういいや、と思い、思ったことを言ってみた。﹁マキは、⋮⋮
思ったこと本当に顔に出さないよね﹂
﹁そうか? 確かめられないから俺には分からないが。他人の反応
を通して薄々感づく程度だ﹂
﹁出てないよ。羨ましい。⋮⋮私、分かりやすすぎてやんなっちゃ
うよ﹂
﹁顔にすぐ出すところがおまえは可愛い﹂
⋮⋮信じられない。
このひと、にこりともせずにどうしてこんなことが言えるの。
﹁ほら、それがだ﹂
どうして照れる。
などと浅く笑い、手加減したデコピンをされてしまっては、その
ペースに乗せられてしまう。私は顔を背けた。﹁あ。あのね、好き
なことに打ち込むときもそんな感じなの﹂
﹁俺が好きなのはおまえだ﹂
﹁ワールドカップ見てて思ったんだけど、サッカー選手ってすごく
ジェスチャーが大きいじゃない。普段落ち着いてるのは分かるんだ
けど、スポーツしててアドレナリンが出てても、感情爆発させたり
しないの? ⋮⋮味方に点が入ったら喜んだりも﹂
﹁しねえ﹂マキは言葉をかぶせてきた。﹁味方が喜んでるのを見る
947
と苛つく﹂
﹁どうして﹂
﹁さっさとポジション戻んねえと、得点直後に失点する率がたけー
んだぞサッカーは。端から端まで走るのは俺だ﹂
胸ポケットを押さえていた彼が、その場面を思い起こし不快げに
眉を歪める。
人間の感情で最も表出しやすいのは、やはり、怒りか。
照れ、の類は喜怒哀楽のどれにあたるのだろう。⋮⋮まずい。
いまさら額がものすごく熱くなってきた。
﹁兄貴は喜ぶタイプだがな﹂前髪を整えるこちらに気づかず空を仰
ぐ。オリオン座が遠い冬の空を。顎先から喉仏に繋がるラインが綺
麗だった。マキはマフラーをしていない。﹁味方が点取れば真っ先
に駆けつける。おまえの想像するオーバーアクションを取るやつだ﹂
樹さんとからだの輪郭が似ている。だが正反対の気質を持つ、こ
の違いは、︱︱
お母さんのことが、関係しているのだろうか。
﹁近頃のゴールパフォーマンスはこんなだ﹂
左手の薬指に口づけ、そして離す。
﹁⋮⋮樹さんって独身だよね﹂マキはわざわざかばんを左から右に
持ち替えた。
﹁まだ、だ。稜子が上京するのをあいつは待ち望んでいる﹂
稜子さんは東京の音大に進学を決めたそうだ。
﹁それって、︱︱﹂
思わず立ち止まった。
この分かりやすい反応に満足してか、彼は、片目をつぶり、
﹁そういうことだ。いずれ、な﹂
視界のなかに彼が広がる。
いままで見てきた、弟思いの樹さんに、天真爛漫な稜子さんの姿
が重なり、
﹁︱︱案ずるな。俺は喜んでいる﹂
948
﹁ああっ﹂
力任せに押さえつけられていた。﹁やめて。もー、照れ隠しにひ
とに当たるのやめてよ﹂
﹁兄貴がおまえに会いたいとしきりに言っている。⋮⋮上京したら、
試合観に行くか﹂
咄嗟に私は頭の防御に回った。
﹁⋮⋮どうした﹂
﹁また髪ぐしゃぐしゃにされるのかと思って﹂
﹁しねえよ﹂
マキは笑った。
﹁⋮⋮私がうん、って言ったらどうするつもりだったの﹂
観に行かない、って言った場合は指をばきぼき鳴らすだろう彼に
訊いてみる。
赤信号でもおじいさんが来たのでもないのに黒い背中が一時停止
をし、
﹁俺がおまえにしたいことを、あんまり、⋮⋮言わせるな﹂
反射的に口を押さえた。
振り返らない彼は同じことを考えている。その証拠に、
帰り道は風の音だけを聴いていた。
﹁送ってくれてありがとう﹂
﹁ああ﹂
正面を通り過ぎ脇道から裏手に向かう。
マキの声が聞こえた。
彼は、こちら側に歩いてきていた。
人二人すれ違えるかぎりぎりの道幅。
私は、後ずさった。
なおも彼はこちらに踏み込み、
949
﹁自分でうまく笑えてると思うか。
︱︱なにが、あった﹂
から元気も嘘も彼には通用しない。
薄暗いなかで彼の漆黒の瞳が光っていた。
﹁強がるなと言っただろが。それとも︱︱俺には言えねえことか。
だとしても﹂
心、配、御、無、用、だ。
と漢字の一つ一つを強調して手のひらを突き出す。
﹁やっぱマキも見てたんだね、﹃秀吉﹄。松たか子がすごく可愛か
ったよね。あのとき確か十九歳で﹂
﹁茶化すな。無理矢理吐かさねえと、言わねえのか﹂
無理矢理吐かせるってどういう。﹁そういう、⋮⋮絶対王政のよ
うなものを求めてないから﹂
﹁︱︱和貴か﹂
ゆれる。
私のこころもからだも。
強い瞳のいろに貫かれ、私は、胸元を押さえた。
彼を燦然とかがやく太陽に例えるなら、彼は、月のひかり。
どんな暗闇も暴く威力を放つ。静かで清廉な、︱︱光の輝度自体
は強くはないのに、照準をひとたび合わされれば逃れられやしない。
﹁マキは、⋮⋮不安になったり、しないの。気持ちを出すように、
950
なってから⋮⋮﹂
表情に表せないなら態度で示す。
それが彼のやり方だった。
﹁それ以上に、止まらないんだ﹂
距離を詰め意思を持つ手が、伸びてくる。
私の頭のてっぺんをとらえ、
さっきとは違う。
撫でつけるやり方で、
﹁愛しい気持ちが止まらねえんだ。⋮⋮こんなのは、初めてだ﹂
彼は彼を吐露する。
その瞳は誰が見てもこころときめかされるものだった。
ぐらつく私のあり方を揺さぶる。
﹁すまん﹂その手が離れる。髪をかき回したりデコピンしたりする
のにいまは、率直な感情の吐露を恥じるみたいに、﹁逆に困らせち
まったな。すまん﹂
じゃあな、ととってつけたように元の道を辿るマキ。
﹁おやすみなさい⋮⋮﹂
あの背中にすがりつけば。
きっと受け止めてくれる。
けれども︱︱
長方形に区切られた狭い夜空を見あげた。アンドロメダを救った
ペルセウスさながらに、勇敢で、立ち向かうことを知っている。
裏手の玄関は静かだった。かばんを置き、マフラーを外す。おじ
いさんと︱︱マキのあったかさが、残っている。
首元からぬくもりが消える。真っ赤なマフラーを折りたたんだ。
私の胸のうちに去来するのは、
951
﹃僕は、︱︱応えられない﹄
午後の六時二十分。
誰しもがそうであるように、和貴も、マキも︱︱私も、どうしよ
うもならない想いに。自己完結できない想いに身を、焦がすばかり
だった。
952
︵1︶
﹁疲れとらんか真咲﹂
﹁へーき。けど、⋮⋮飛行機乗るのなんてすごく久しぶり。修学旅
行以来かな﹂
エスカレーターを下るたびに怖い想像をしてしまう。
万一転げ落ちたらどうなるのだろう。エスカレーターの、二三階
を一息に降りる高低差がかなりのものだ。
身のすくむ感覚から逃れ逃れ途中階に目を留める。プリクラの機
械発見。﹁⋮⋮お母さん、帰りにプリクラ撮ってこうよ﹂
﹁いややわそんなん。だいたい、お母さんみたいなんが撮るん恥ず
かしいないが﹂
﹁⋮⋮単なる写真の一種だよ﹂手すりに捕まる手に力をこめつつ母
を振り仰ぐ。﹁みんな、手帳に貼ったり、交換してるし。紗優だっ
てどっか行ったときおばさんと一緒に撮ってるもん﹂枚数が石井さ
んに及ばないながらも私も少しは。
﹁そんやて、訳の分からん機械ながろ? なに押せばいいかよう分
からんもん﹂
﹁私が分かるから⋮⋮﹂
﹁ああとらやどこにあんねろ。忘れんと帰りおばあちゃんに羊羹買
うてかな﹂
﹁⋮⋮お母さん。まだ着いたばっかりだよ﹂
ぴかぴかに磨かれた白い床へのステップを踏む。
ようやくしてさざなみ立つ精神も落ち着く。
周囲を見回す余裕も出てくる。
空港には春休み中のせいか、スーツよりもカジュアルな服装が目
につく。男性が引く小さな子どもの一人でも入りそうな大きなスー
ツケースは海外行きだろう、それもアロハを着た家族四人で南の島
953
行き⋮⋮羨ましい限りだ。
血相を変えて走りこむビジネスマンにぶつかられかけ、母は飛び
退いて避けた。
私より東京在住歴が長いのに、おのぼりさんって丸わかりの挙動
にうっすら、幻滅する。
﹁そんなとこ突っ立ってないで、さっさと行くよ﹂
私はツアコンさながらに、いや、もっと突き放した口調で母を促
した。
母は、母の言う通りのひとだった。
﹁⋮⋮全然分からんわ﹂
切符売り場に来て呆然と立ち往生する。そんな母に私はちょっと
呆れつつ説明を加えた。﹁先ずね、上の路線図で行き先を探すんだ
よ。行き先が乗ってなければその駅になるだけ近い駅まで買うの。
乗り越したぶんは降りた駅か乗り換えの駅で精算できるから。⋮⋮
例えばね﹂路線図を目で追わせる。﹁上野まで行きたいんなら、浜
松町で山手線か京浜東北線に乗り換えるのは分かるでしょう。買う
ときはね、乗り換えのボタンを押して、そうそ⋮⋮﹂
パスネットもSuicaも無い時代。
乗り換えの都度精算はできるけれども、都度精算口に並ぶとタイ
ムロスをする。これからのことを考えると買える限り一枚に纏めて
買う感覚は養っておくべき。
母が今後一人で東京を訪れる機会などあるだろうから。
﹁⋮⋮お母さんって、町田を出たことが無いんだ?﹂
始発なのだから空いてるに決まってる電車に乗り込むのに躊躇す
る母をさておき、とっとと乗車し二人ぶんの席を確保した。母は、
ホームのひとを不安げに眺め眺めし、ハンドバッグを胸の前で抱え
やまと
ようやくして乗車する。﹁無いわ。⋮⋮電車なんかあんまり乗らん
かったもん。行っても大和くらいかねえ﹂
954
﹁⋮⋮全然近いね﹂小田急線で一本、大概は相模大野で各停に乗り
換え。
母は、どんなに疲れていてもそっと座る。例えるなら着物を着て
るひとの丁寧な所作で。男のひとの乱暴な座り方をしない。
どかっと坂田くんの席に座る彼のことを思い返す。合格通知が来
ると気丈に言ってはいたけども⋮⋮いまごろ、勉強しているだろう。
図書館の窓から二列目のあの席で一人、黙々と。
﹁荷物。邪魔ならうえに置いたら﹂
ボストンバッグを母が膝のうえに乗せたまんまなのが気にかかっ
た。
﹁からだから離したら忘れてまいそうやん。落ち着かんわ﹂
きたな
﹁じゃあ足元に置いたら﹂
﹁ほんでも、汚なるし﹂
﹁汚れるのがかばんの宿命だよ。洗えばいいじゃん﹂
私が強く言うと、納得の行かない面持ちながらも渋々とふくらは
HILFIGERのミニボストンバッグを膝に乗せたまま
ぎの後ろと座席の隙間にボストンバッグを置く。お気に入りのTO
MMY
の私は頬杖をつきつつ、頼りない隣人を横目で見やった。﹁そんな
んでどうするの。お母さん、一人で東京遊びに来れる?﹂
﹁真咲が一人暮らし始めたらお母さん、真咲のところ訪ねて構わん
がね﹂
それまではじめてのおつかいばりに不安げだった。
こちらを気恥ずかしくさせるほどに方言丸出しだった母が。
東京の地を踏み初めて口許をほころばせる。
﹁あ⋮⋮﹂
調子が狂う。
﹁ったり前でしょう﹂
言い捨てて窓の外に逃れる。
電車は既にスタートしていた。
腸のなかをたどっているかの細く長く暗いトンネルが続く。息を
955
止めていたら絶対に切れてしまう。地下を潜り続けている感覚だっ
たが実際は地上よりはるかうえを走るモノレール。ようやく見えて
きた外の世界は小学生の頃地理の教科書で見た、石油化学コンビナ
ートといった雰囲気に近く、殺風景な倉庫街が続く。遠くに吐き出
される煙、ひとの歩かない眼下の、宇宙の荒れた肌に箱型の建物と
緑と線を継ぎ足したような、生命感の漂わない、まるで模型でも見
てるかの境地を与える、
︱︱これが、東京。
帰ってきたという感慨など浮かばなかった。
当初緑川をあれほど憎み、待ち望んでいた場所に戻れるのにも関
わらず。感慨、といえば、柏木慎一郎を訪ねて緑川に戻ってきた日、
母の姿を見て安堵したあのときが一番感慨深かった。私にとっての
﹃ふるさと﹄がいつの間にシフトチェンジしていた。
この気持ちの輪郭を捉えたこのときが、緑川を出てもっとも感慨
深き一瞬だった。
一方で、隣が随分静かだと思えば、⋮⋮口を開けて、寝ていた。
私は静かに息を吐く。
母は、︱︱田舎の人になってしまった。
会話も方言丸出しだし、感覚的なものも、ぜんぶが。
都会のど真ん中でまごつかれては、切符売り場の前で途方に暮れ
られては、危なっかしくて仕方がない。
快速を避け普通にしたので、浜松町まで向かい合わせの座席は空
席と思いきや、そうも行かず。競馬場で乗ってきた長身の男が、私
の斜め向かいに座った。二人がけの席の真ん中に。手足が長く、私
は足を自分側に引いた。だぼだぼの腰で履くジーパンとミッキーマ
ウスみたいな大きいヘッドホンの組み合わせはウケ狙いなどではな
くファッションなのだろう。音漏れが、⋮⋮本人は難聴になるので
はないかというレヴェルで、出来れば移動して頂きたいのだが、彼
も、しばらく降りないだろう。
露骨な視線を差し向けられようがリズムを取り自分の世界に没入
956
している。
曲目は﹃eyes
on
me﹄⋮⋮マキが死ぬほどやりたいと
言っていたゲームの主題歌だ。テレビCMが激しく流されているか
ら私も知っている。紗優はプレステと抱き合わせで購入した。主人
公がGLAYの彼に見えるらしく。なーなーあれやったー? って
紗優に訊かれ、してねえと不服げに言い捨てていた。えーかんなり
面白いよーあれなー、と続けにかかる紗優をうるせえ、と制止して
いた。
ひとには長編小説のネタバレをしかけたくせに。
つくづく、俺様なのだ、彼は。
それでも、合格するまでゲーム断ちをするという、繊細な部分も
ある。
思い出し笑いを封じ込めつつまぶたを下ろす。
﹁︱︱これ真咲。起きんかいね﹂
驚いたことに駅の表示が浜松町。
一秒と思いきや、十五分が経過。
母に揺さぶられ、目を覚ました。
血は争えない。
そういうものだ。
* * *
﹁︱︱ほんで? このへんで探しておるんかいな﹂
バーコードリーダーを当ててみたら反応しかねないバーコード頭
をまともに見るのも失礼と思い、ちょび髭に目を移す。
そういった不自然な人々の目線の動きにおそらく慣れっこなのだ
ろう。
気にせず、といった感じで目をあげて母の反応を待つ。
957
﹁ええ。娘が大学に行くもんで、⋮⋮大学のある駅がいいかと思う
んですが﹂
﹁大学のある駅やのうて一駅二駅離れるんがベストやろなァ。あん
ま近すぎっと学生さんがたの溜まり場になるさけ﹂
﹁はあ﹂
気抜けた母をさておき、どさどさとキングファイルを取ってき、
物件を探すのはいいのだけれど、めくるときに唾を付けるのだけは
ご遠慮願いたい。
この日は、母と物件探しを開始した。
本当は到着した昨日の夕刻から探すつもりが、ビジネスホテルに
戻って仮眠を取ったところ私が爆睡し、見かねた母が寝かせて置い
てくれた。
寝付きの悪い私がなかなか起きないのだから、それなりに受験や
移動の疲れが溜まっていたのだと思う。
すっきり快眠を得た本日朝のうちに移動を開始し、ホテルから二
駅離れた、大学のある駅にて降車した。
駅前の安心感漂う大きな不動産屋には何故か入らず、裏道に裏道
を進み、結局迂回して駅の反対側に戻ってきてしまった。なにがし
たかったのだろう、母は。
いまどき木造でスライド式のがたつくガラス戸の、昭和というか
明治と言われても信じられる年季の入った小さな、田中不動産、と
力強い毛書体で書かれた看板のかかるそこを選んだ。
﹁こういうところのほうが、穴場の物件があるもんなげよ﹂
いやに自信ありげに母は断言した。
そしていまに至る。
辛気臭いというかかび臭いというか。来客の応対用に事務デスク
が二つ並べられているがそれ以上並べる需要が無いのだろう。昭和
の酒屋さんや庄屋さんてこんな雰囲気だったろうか。この手の古め
かしい不動産屋さんが揃って机に目盛り入りの緑色のカッターマッ
958
ト、それに透明のシートを重ねて置くのは何故なのだろう。スタイ
リッシュとは程遠い。所狭しと並べられた後ろのキャビネに、土地
名で分類されたキングファイルが整理されているのはいいが、それ
以外は雑然と、書類が縦に横に重ねられ、地震が来たらこのおじさ
んじゃなくて訪れた客が被害を被りそうだ、この臨場感。ピサの斜
塔ばりの斜めに積まれた不安定さ、これで崩れないのがすごい。
﹁この駅で大学つったら、⋮⋮東京学園大学か﹂
質問され私は突きかけた指を紙から離した。﹁東京心理大学です﹂
﹁おおそうか!﹂
⋮⋮少々心外だ。
偏差値を二十は下回る大学を真っ先に挙げられた。
へえ頭いいげなぁなどと禿頭を撫でおじさんはやや驚嘆しつつま
た次のキングファイルをひっくり返し唾を付け素早くめくる。製品
の製造工程を目の当たりにしてる感覚だ。﹁お母さんは⋮⋮家賃、
どんくらいまで出せそうなが?﹂
﹁はあ。十五万くらいで﹂
素早く母を凝視した。
高すぎやしないか?
途端、高い声でおじさんが笑った。ちょび髭を指でぼりぼりと掻
き、﹁ここらへんの相場は六七万や。オートロック付きの高層マン
ション住みたいんやったら話は別やけどなァ。このお嬢さんにはア
パートかハイツで十分やろ﹂
頭が悪い上に貧乏人認定までされてしまった。
少々立腹の私に比べ母は不安に囚われている様子で、﹁女の子や
もんで、⋮⋮防犯面が心配なもんですから﹂
﹁ほんなら。駅から徒歩でえーと多く見て十五分内の、ハイツかマ
ンションやろなあ。どやろ、ここなんか﹂
徒歩三分。1K。南向き、バス・トイレは、﹁⋮⋮出来れば別の
959
ところでお願いします﹂
一緒だとお風呂タイムが落ち着かないとかカビるとか聞いたこと
がある。
ははは、とおじさんは間取り図を指す私をなにが面白いのか笑っ
た。こちらの不動産屋に他にお客さんが居ない理由を理解した気が
するいろいろと。﹁条件はそんくらいかなァ、お嬢さん﹂
﹁はい。特にはありません﹂
﹁ほんやったらこれならどうや。駅から徒歩十二分。ちょっと離れ
とるがなァ、オートロック付き。築五年。大家さんが一階に住んで
おるから安心やろ。⋮⋮部屋空いておるか電話してみましょか﹂
﹁はい﹂今度は母が答えた。
慣れた人の慣れた仕事ぶりというのはめざましいものがある。
それから三十分もかからず、母と私は二言三言補足を入れる程度
で、さっそく物件を三件見に行く運びとなった。
﹁わしゃあ、表に車出して来ますんで﹂大きな声で私たちに言うと、
亀が顔を出すみたく首を伸ばし、﹁ミィちゃん、留守頼むわ﹂
﹁はい﹂
どこからだこの声。
と思うや否やおじさんの斜め後ろのキャビネが横にスライドし、
隠し部屋ならぬ隠れ机が現われた。こちらと同じグレーのデスク、
だが違うのは壁を向いて置かれていることと、そしてパソコンが乗
っかっていること、この二点。
こちらのおじさん自らがお茶を出しコピーもとったので、他に働
いているひとが居ないものだと思っていた。
存在感の希薄な、眼鏡をかけた、薄いグレー色のスーツを着てい
る、彼女。
髪の毛を低い位置で一つに結った、大人しいOLの典型だと思っ
た。
でもタイプ打ちをする手つきは、見事だった。
キャビネが防音壁の役割を果たしていたのか、控えめな、でも心
960
地の良いタイピング音が聞こえてくる。黒のデスクトップに向かう
座り姿が、ピアノを弾くエレガントなイメージとも重なる。
︱︱タスクより速そう。
凝視する私に気づき、こちらに顔を向け、わずかに、目配せをし
た。大人の仕草だと思った。私も大人になったらああいうの、して
みたい。
﹁待たせてもうたのぉ。お母さんとお嬢さんはうしろに乗ってくだ
され﹂
乗り込んだ車の後部座席から再び田中不動産を眺めると、変わら
ずミィちゃんは仕事を継続しており、もう一つの仕事は後回しにす
るのだろう、私たちが口をつけた湯のみがそのままテーブルに残さ
れていた。
961
︵2︶
﹁一つだけ見てこれーって決めるんがは危ないぞ。二三件見てよー
う比べるこっちゃ。ピンと来たら時期も時期なもんではよ決めたほ
うがいいと思うがなァ﹂
︱︱恋愛と同じなのかもしれない。
相手が売りだされもせず貸し出されてもいない違いと。
ワンバイワンにならないかもしれない違いとを除けば。
私がそんな不真面目な連想をする一方で母は至極真面目な面持ち
でおじさんに尋ねる。﹁田中さん⋮⋮は、ご出身は北陸でしょうか﹂
﹁埼玉県民なんですわ。大学だけ福井でなァ、家内とはそこで出会
うたんです﹂
以降の母とおじさんとの会話のあらましを聞き流し、うつりゆく
滅多に見ない車窓からの景色を眺め︱︱こちらのおじさんの奥様は
どちらにおられるのだろう、と疑問を持った。
緑川で自営業を営む場合は必ず夫婦が共に、大概は父方の親との
二世代で切り盛りをする。
ふとん屋、酒屋、みやげ物屋、文房具屋、ミシン屋︱︱過疎まっ
ただ中の緑川ですら様々なタイプの生業が成り立つが、店を構え、
家族を養い、子を育てるのは、つまりそういうことなのだ。一家総
出で働く必要が出てくる。川島くんみたく家の手伝いをするのはレ
アケースではない。私はレアケースだ。
だがおじさんの不動産屋にはあの事務員さんしかいなかった。
親子とは考えにくい。ましてや夫婦となど。この手の五十代前後
の男性は家内のことを﹁おい﹂﹁おまえ﹂と呼び娘のことは名前で
呼び捨てだ。
私も﹃真咲﹄呼ばわりだった。⋮⋮あんまり呼ばれることは無か
った。
962
﹃木島義男﹄とはなんら関係しない私の名前。ビューティフルスノ
ウたる母の名前にもだ。男の子であればお父さんから一字を継ぐな
んて場合があるけれど、私は私の名の由来を知らない。
真実の真に、花を咲かせるの咲、です︱︱と字面を訊かれるたび
に母はそう明かした。名前負けで恥ずかしいけれど便利だから私も
その言い回しを用いた。だから、電話口で男の子に間違われること
が無かった。年賀状で漢字を間違われることなんかもだ。
私と父に共通する一文字を探すとする。
それはもしかしたら︱︱
﹁着きましたえ。︱︱わたしは鍵開けてきますんで、降りて、待っ
ておってください﹂
私は動悸が激しかった。
そんな女々しいことを、するだろうか︱︱。母が。
センチメンタリズムとしか言いようが無い。
父のことを、選んだ理由。添い遂げられなかった理由が、
私には、分からない。
母が母になる前の顔を知らない。私にとって母は最初っから母だ
った。自分みたく恋焦がれる時分があったのかを︱︱どんな顔をし
て柏木慎一郎に焦がれていたのかを。いまは、やけに古めかしい、
なんだか入り口を見ただけで敬遠したくなる、マンションだけれど
アパートって呼称がふさわしく思える建物を眺め回す、私の母のこ
としか知らない。
﹁そんな︱︱心配な顔せんでも、いいとこ見つかるわいね。もし見
つからんでも、お母さんが、東京残って探したるわ﹂
私が探して欲しいのはもっと違うこと。
でもその疑問を押し留めて私は、
﹁残るんだったらお母さんじゃなくって私が残るよ。⋮⋮こっちで
いっぱい遊びたいもん﹂
﹁なぁーにをゆうとるが、あんたは﹂
一人で探せるはずないやろがね、と言われ事実その通りだった。
963
母がいるから心強いのだった。
強がるのも憎まれ口を叩くのも、対象がいればこそ。
私はこれから、対象のいない未来を切り開いていかなくては、な
らない。
まず目につくのは部屋の中心にどっしり据えられた棺桶サイズの
箱だった。後付けなのだろうか。公園や多摩川の河川敷で見る簡易
トイレがどうして学生向けマンションの一室などに⋮⋮
その箱のドアノブに手をかけた田中のおじさんは、笑顔でこちら
を窺い見、
﹁ここがトイレなんですわ。ほら﹂
げっ。
確かにバス・トイレ別だけど⋮⋮
無いなあと母で目で会話をしつつ、あまり見ずに二軒目に突入す
る。
結果、三軒目に決まった。
おじさんは分かりやすいやり方を用いた。ちょっとここは、と抵
抗を感じさせるところを見せておいて徐々にランクアップする。そ
うすると次に見るものが初めて見るものよりもよっぽど素晴らしい、
ベスト・オブ・ザ・ベストの印象を残す。挙句、人気の物件ですか
ら明日には埋まるかもと言われれば、時間の限られたこちらは尚更
駆り立てられる。
徒歩五分という立地ながら電車や車の音もせず。1Kで八畳の洋
室、⋮⋮私には十二分だった。
﹁わしにも娘がおりましてなァ。真知子ゆいますのや。この春で中
学の二年になります﹂
大家さんに挨拶を済ませ、穏便に契約が決まりそうなのも含めて
安堵の様子でおじさんはシートベルトを締めた。
964
﹁埼玉やゆうても福井や石川に比べたらだいぶ都会なもんでしょう。
ほんやけ、心配するお母さんの気持ちはよーう分かりますわ﹂身を
乗り出し、エンジンをかける。かけてからベルトを閉めたほうが動
きやすいのにと私は密かに思う。
﹁真知子が一人暮らしするぅゆうたらわたしゃ、気が気でのうなっ
てまいますわ。なんでまた一緒に暮さんげか、つって泣いてまうか
も分からん﹂
悲観的な調子にたまらず母が笑いの息を漏らす。
﹁お母さん、笑い事やありませんよ。うちの大っ事な一人娘なんや
さけ﹂
﹁うちも同じです﹂
﹁なら分かるやろ。宝物やいちゃけやーっつうて丹誠込めて育てた
んに離れるんがはあっちゅう間や。ついこないだまで赤ん坊や思う
とったがになァ⋮⋮﹂
親同士通じるところがあるのだろう。
これはおじさんの独白などではなく、母など同調して瞳を潤ませ
ている。
にしてもよく喋るものだから冷や冷やする。マニュアルのハンド
ルさばきは手馴れているものの。私は赤信号を待って、口を開いた。
﹁おじさん﹂
﹁うん、なんやね﹂
﹁真知子さんを大切に思っているのなら、奥様も大切にしてあげて
ください﹂
これ真咲、と咎める母には無視を貫く。﹁別居、されているんで
すよね。奥様と娘さんと⋮⋮﹂
母のブレスは、さきほどの笑い混じりのものではなく驚きに依る
もの。
﹁指輪をされていないのは、⋮⋮奥様が出ていったのをお腹立ちに
なり衝動的に、でしょうか。⋮⋮お店に奥様は居ませんでした。写
真立ての写真が随分と古く、おじさんの新婚時代のものや、娘さん
965
が幼い時分のものばかりで、近年のものは皆無だった。﹃なんでま
た一緒に暮さんげか﹄、ということは、現在一緒に暮らしていない
ということですね﹂
車は感情を持たず右折する。
おじさんの表情は私に分からない。
﹁憶測でものを申して申し訳ありませんが、なにか、確信のような
ものがあります。⋮⋮仕事以外で車を使われるのですね。落ちてま
したよ。これが﹂
再度赤信号を待ち、座席と座席のあいだから身を乗り出し、ピン
ク色の名刺をおじさんに手渡した。
シートにからだを戻すときに、左の歩道を歩く、父と子を見つけ
た。子供の性別は男だ、だが彼が持つのは女の子向けのピンク色の
風船だ。子どもの集中力のなさを不安に思ってか、父親が風船を代
わりに持とうとする。するなり子どもが飛びつく。そして︱︱風船
は空へと消えて行く。
風船に執着したのは何歳までだったろう。
大人になってもあの少年は風船を記憶しているのだろうか。
おじさんは喋らなくなった、シャットダウンしたパソコンみたく。
﹁⋮⋮娘さんを大切に思うのなら、もし︱︱手遅れでないようでし
たら、奥様と関係を修復することで、娘孝行して頂きたいですね﹂
両親の不仲を嘆かない子どもはいませんから。
⋮⋮別に母に向けたつもりは無かったが。
私の泣き虫と方向音痴は、ついでに弱虫は母譲りか。
しばらくの間ののち。
﹁お嬢さんには敵いませんなァ﹂
場違いにけたたましい笑いのうずが起こった。
966
笑われたことに私は無性に腹が立った。﹁笑いごとじゃないです
よ﹂
それでもおじさんは耳につく甲高い声で笑いつつ悠々とハンドル
を切る。フロントミラーの目がまだ笑っている。﹁キャバクラでお
ねえさんがたと息抜きされるのも結構ですが、息抜きで大事なもの
を失っては意味がありません。ひとは、等しく年をとります。若さ
はいずれ失われます。奥様がいらっしゃらなければ、真知子さんが
生まれることは無かったんですよ﹂
﹁わーったわーった。なァ、⋮⋮ぼちぼち降りてくだされんかなァ。
着きましたえ﹂
﹁あっ﹂
車はすでに田中不動産前に到着していた。
﹁⋮⋮ありがとうございました。娘が失礼を言い、申し訳ありませ
ん﹂
﹁とりあえずお母さんは鼻かんでくだされ﹂
ティッシュ箱を差し出されることに縁のある母娘だ。
と母を見ながら思う。
店先の植木鉢にじょうろでミィちゃんが水をあげていた。私たち
に気づき、微笑んで小さく会釈をする。おかえりなさいませ、とか
細い声を聞いた。彼女のスライドしてくれるドアのあいだから入り、
ガラス戸を通して空のいろを見れば、ホテルを出た頃には水彩画の
ような水色だったのが、灰色と藍色が混ざり合う微妙な色彩で、時
間の経過を伝えてきた。
日程が限られているため、その場で最低限必要な手続きを取り、
重要な書類は署名捺印後改めてお送りすること、また翌日に大家さ
んにご挨拶に伺うことを約束して田中不動産を出た。
ところが、
﹁お嬢さん﹂
私は振り返る。
967
見送りに出てきた田中のおじさんは、
﹁日付変わらんうちに家内に電話してみますわ﹂
ひげを掻くのは照れ隠しに思えた。
懐かしさも入り混じったような目線でテーブルの写真立てを捉え
ているから、二人の関係が修復可能であろうことを予感させた。
﹁そうですか。⋮⋮ところでおじさん、明日が何の日だかご存知で
すか﹂
﹁⋮⋮なんやったっけ﹂心当たらない様相。
﹁社長。⋮⋮毎年真知子ちゃんから頂いているじゃないですか﹂
ここで割って入ったのがミィちゃんだった。デスクに座ったまま
椅子をこちらに回転させる。
﹁わーっとる。⋮⋮ほんでも、こっちから連絡するんがは気ぃ進ま
んのや。⋮⋮催促しとるみたいやないかえ﹂
﹁社長は﹂
彼女は、なにを見ているかを理解した。
さっきまでおじさんが座っていたテーブルに突き進み、その写真
lov
3rd
I
立てを手に取る。﹁素直じゃないんですから。⋮⋮写真なんかより
実物にお伝えしてはいかがですか﹂
﹁あッ、ミィちゃん、そんなん﹂
おじさんを素通りして私に手渡される。
MICHIKO.
AKIO.
1983.﹄﹂
From
dearest
裏面に刻印された文字。
my
March
forever.
of
you
﹁﹃To
e
day
こちらを向く写真もあったけれど、裏面だけでなにかが分かった
のは、
愛のメッセージが込められていたからこそ。
﹁⋮⋮おじさん、キザなことしますね。結婚記念日のプレゼントで
すか?﹂
968
まだ髪がああなる前の、若かりし頃のおじさんと奥様が写ってい
た。
ウェディング姿とタキシードの。
おそらくまだ真知子ちゃんは誕生していない。
﹁勘弁してぇや﹂
ぺちん、とてかったおでこを叩くおじさんを見て、ミィちゃんと
目を合わせて微笑みながら、田中不動産を後にした。
スモークがかった空に淡い月が浮かんで見えた。
底冷えはまだしなけれど油断すれば風邪を引きそうに寒空が震え
る。
手袋をしてきてもよかった。手をこすり合わせながら私は母に声
をかけた。
﹁︱︱たまには、息抜きにワインでも飲んだら、お母さん﹂
﹁明日も早いげしそんなん駄目やわ﹂
白い息を吐き母は否定したが、一杯だけこの夜は頂戴した。
969
︵3︶
﹁十一時過ぎてまうかもしらんわ。もし遅なってもさき、休んでお
って。そんな、⋮⋮二泊もせんでいいわいね、店もあるげし。お店
のほうは大丈夫なが。なんか変わったことは⋮⋮うん。真咲のこと
なら帰ったら話すわ。電話口やとよう伝わらんさけ、うん、ほんな
らね。ああ保証人が要るからておじいちゃんにゆうといて。うんほ
んなら。はい。はいはい⋮⋮﹂
テレホンカードが吐き出される。
饒舌な祖母を振り切ったかに見えた母が﹁あ﹂と口を押さえる。
﹁どしたの﹂
﹁切ってしもた。真咲、おばあちゃんと話したかったやろか⋮⋮﹂
﹁いいよ。どうせ半日もしないで会えるんだから﹂
﹁まあ、そやけど﹂手早く財布をショルダーバッグに仕舞い、腕時
計を確かめる。文字盤を手の内側にしている。﹁四時の便なら間に
合うやろ。そろそろ行こか﹂
﹁とらやの羊羹忘れないようにね﹂
﹁あ﹂
次になにを言うのかが私には分かる。
﹁忘れとった⋮⋮﹂
ちょっと抜けてる母に苦笑いしつつ切符売り場に向かう。
私たちは十時にホテルのチェックアウトを済ませ、その足で田中
不動産に直行し、大家さんへの挨拶も終えた。
私たちが東京で成すべきことは一見全て終わったかに思える。
しかし、
﹁⋮⋮どしたが﹂
私は幼子がするように母の袖を引いた。
並ぶ列から引っ張り出す。
970
なにを言うのかを待っている。
でも母には予想もつかないことを、
﹁ここから東京心理大学には十分で行ける。⋮⋮会い、たくないの。
柏木慎一郎に﹂
彼の名を口にするだけで震える。
私の名に由来する、彼の存在を。
﹁カウンセリングは平日が主で、土日の午前中なら、大学のほうに
居ることも多いって、言ってた。すぐ行ける距離なんだから、⋮⋮
行ってみるだけでも、ねえ﹂
﹁真咲﹂
恐る恐る母を窺い見る。
動じない母の顔色。
秘め続けた願いを明かした結果が、それだ。
無力感に苛まれながらも言葉を探した。
﹁た。田中のおじさんの顔、見たでしょう。あれからすぐに奥さん
にも真知子ちゃんにも連絡取って、⋮⋮三人でお食事するって。嬉
しそうに。おじさんが、話してたじゃない。それが、どうしてお母
さんにはできないの⋮⋮!﹂
﹁真咲﹂
母が私をひと少ない壁のほうへと促す。
沸々と沸き立つ頭のなかで、ああ、あんなところに居ちゃ邪魔だ
⋮⋮と悟った。
肩を支えられ、壁に背を触れさす。
立ちはだかる母の後ろを、買い物帰りの母娘が通り過ぎる。エコ
バッグを肩から下げ今日のおかずはどうしようハンバーグがいいな
と嬉々と話している。その光景がまた、私を感傷的な気持ちにさせ
た。
971
﹁たった一言で田中のおじさんは動いた。なのに、お母さんは、﹂
﹁時間が経ちすぎとる﹂
﹁時間を理由にするの﹂
﹁それだけやない。お母さんとはもう、⋮⋮別々の道を歩んでおる
の。あのひとの家庭に要らんさざ波を立てるつもりなんか、無いん
よ﹂
激しい脈が、一拍を打つ。
﹁︱︱知って、いたの﹂
ずっと俯いていた私はようやくして顔を起こす。
母は思いのほか冷静だった。
既知だと母の両の目が語るも、私は母の言葉を待った。
﹁帰国後すぐに結婚したって⋮⋮人づてに聞いたげ。やから、⋮⋮
いまさら姿を現すつもりも無い﹂
﹁お母さんは、そうでも﹂喉が引き攣り、泣いている声色になって
しまう。﹁私という存在に、柏木慎一郎は責任があるんだよ。そう、
思わない?﹂
﹁お母さんがあのひとの意志を無視して決めたことや。⋮⋮確認も
せんでな。すっと、ある日突然、なにも言わんで姿を消したんよ。
きっと、お母さんのことを恨んでおることやろう。そんでももう、
過去の話や。いまさら掘り返してもどうにもならん。あんたは、お
母さんが育ててきた子ながよ﹂
決意の固い、頑固な母がこの目に滲んで見えた。
説得に導くなにをも私は持たない。
ただ会いたい、という、まっすぐな願望を除いて。
伝えたところで、変わらない。
私の頑固さは母譲りだった。本人の意志が伴わないなら、どうに
もならない。
﹁⋮⋮分かった。羽田、行こう﹂
972
流れ落ちる前に目の雫を拭い、実に手際よく二人分の切符を買う
母に続き、改札に入った。教育の成果があったものだと喜べる気分
でもなかった。
羽田に着くなり私たちは航空券を買い、うどんを昼食に頂いた。
醤油どばどばの味付けがまさに関西人が嫌う関東風で、と気づく時
点で味付けが関西寄りの向こうに馴染んでいたのだと悟る。そんな
ことを考えながら私はパソコン部の話をした。母は珍しくお店の話
などを。母の一言はずばり、﹁醤油濃いぃわねこのおうどん﹂、だ
った。
田中不動産や東京絡みの話になると湿っぽくなりそうだから、暗
黙のうちに互いが避けた。そういう気まずさを共有するという意味
でも、味覚が似ているという意味でも、この間、母との結束が強ま
った気がする。
とらやの羊羹と母が言ったのは正解だった。
出発まで大幅に時間が余ろうとも、ソニプラに寄る気分でも、赤
やピンクにハートで飾り付けられたお店に立ち寄るテンションなど
もあがらず。
苦かったバレンタインを、彷彿する。
気持ちをぶつけず、八つ当たりしてしまったことを。
︱︱悩んだら、寝るんよ。
と高校受験の際に、とある友だちが私に助言した。
とにかく、寝るんよ、と。
寝ていればそのうち答えが自然と見えてくる。
追い込みをかけた当時にはふさわしからぬアドバイスだったが、
受験を終えた私は存分に従い、飛行機でもバスでも乗り換えたバス
でも眠り続けた。かのフロイトは、夢のもとでひとびとは自分たち
の欲求を充足する、と語ったが、今回は顔が浮腫んだばかりで、あ
まりにも眠りすぎてなんの夢を見たかを記憶しなかった。
973
︵1︶
﹁卒業生の皆さんは廊下に出て、整列してください﹂
スピーカーから聞こえてくる抑揚のないアナウンスを合図に、各
自が席を立つ。
いつも仕切る宮本先生に代わってクラスの会長と副会長が私たち
を促す。これがクラス役員としての最後の仕事になるだろう。
三月三日の晴れの日に卒業式を迎えた。
紺のブレザーの胸元を飾り付けるこの芍薬のコサージュが、私た
ちの旅立ちに花を添える。大量生産のチープな造花であれど、見て
いて感傷的な気持ちになった。
ふわりと花開く瞬間を思わせる彼の笑い方は芍薬に似ている。
いくら教師に静かにしろと言われてもしたくないのが私たちの性
分で。高校にあがっても卒業間際になっても本質的なところはなん
ら変わらない。ましてや︱︱ゴールが間近で教師がいないと来た。
だから、普段の倍以上の喧騒に廊下は満ちていた。
私はお喋りに加わらずただ一点をじっと見ていた。
髪のいろを探せばすぐ見つけられる。
私の斜め前で彼は、いつもどおりに笑っている。
二月に入ってからほとんど学校に来ず、卒業式の予行演習ですら
欠席した。
聞いたところによると、ちょうどその日は畑中市で行われる葬儀
にはるばる出向いていた。末期がんで亡くなられたかたの。紗優は
勿論おじいさんもおそらく知らないかただろうと言っていた。
彼は、老人ホームのボランティアで知り合ったいろんなひとと個
人的に交流を持っていて、折を見て老人ホームやそのかたのお宅を
訪れていた。
葬儀の場では、和貴のことだからおそらく︱︱悲しい顔なんて見
974
せず、それと分からぬかたちで気配りをしていたのだと思う。悲し
みに沈むひとびとのこころを癒すべく。ときに、笑い話なんかした
りして。
思えば、和貴が辛そうなのをあんまり見たことがない。
マラソン大会のあと自ら走り込んでいたときや、こないだの保健
室のときくらいのものか。
物事に動じない鋼の精神の持ち主、と考えるよりも、顔に出さな
い性分だと思うほうがしっくり来た。坂田くんやマキと比べてみて
も。
﹁ちょ。こら。痛いっての﹂
甲高い彼の声を私の聴覚は捉えた。子どもみたく後ろから友達の
男子に小突かれ振り返りざま唇を尖らせる。彼は、トレードマーク
のふわふわな髪をばっさりと切った、マキよりも短髪となっていた。
前髪が眉毛よりも短く、サイドは勿論のこと、全体に三四センチ程
度と思われる。
なにか、削ぎ落としたかに見える彼からは、うちに秘める悲壮な
決意のほどが感じられた。
唯一、痩せぎすだった体型がやや元に戻った辺りが、私を安心さ
せた。
大きかったブレザーの袖丈もちょうどだ。卒業を前にしてようや
くだ。
とその袖が、動きを止め、歩く私は追いつくかたちとなる。
﹁真咲さん﹂
私はすぐに顔をあげられなかった。袖から出る骨の感じられる彼
の手を見ていたい。そもそも︱︱
﹁おはよ。髪、切ったんだね、和貴﹂
三週間ぶりに見れる、花の開く彼の笑顔をまともに受け止められ
やしなかったから。
﹁うん。仕事すんのにちょっと邪魔でさ﹂
照れたように頭を掻く癖は変わらず。
975
なんとなく、⋮⋮身長も伸びた気がする。
見上げているこの胸が痛くなる。
和貴は手を下ろし、﹁今日ってなに歌うんだっけ﹂ブレザーに片
手を入れ、私と並んで歩き出す。
いちだいめ
﹁﹃蛍の光﹄と、校歌だよ﹂
﹁⋮⋮歌詞覚えてないや。一題目ならなんとなく分かんだけど﹂
歌詞の一番、二番のことをこの地方では一題目、二題目と言う。
小澤さんに逆に驚かれ私は記憶した。﹁口パクでいいんじゃない?﹂
﹁真咲さん案外適当だね﹂
﹁他人事ですので﹂
﹁言うねえ﹂和貴の口元が笑う。
﹁知ってる? ︱︱蛍の光って、日本だと卒業式や閉店間際のデパ
ートで流れる曲だけど、外国だと違うんだよ﹂
﹁知らない。教えて?﹂
きょとんとした目で和貴が私を見てくる。
Lang
Syne
って言うの。日本とは
オールド・ラング・サイン
好奇心や興味をそのままに映す綺麗な瞳を横目に見、私は答えた。
﹁原曲はAuld
違って、旧友との再会と交流を懐かしむ歌詞なんだ。だから歌詞の
通りに、みんなで集まるパーティの最後に歌ったりするし、あとは、
大晦日のカウントダウン前にも流れるんだよ﹂
﹁⋮⋮詳しいね﹂
﹁ペンパルから聞いたの。⋮⋮昔ね、イギリスとアメリカの子と文
通しててね。二人ともマイケルって言うんだ。アメリカの子のほう
は、日本のアニメが大好きでいつか秋葉原に来たいって言ってたな
あ﹂
言いながら久しぶりに思い返した。
中学の頃の話だ。
初めの一二年は熱心にやり取りしてたけど三年目を過ぎた辺りか
らぽつぽつと途絶え、自然消滅してしまった。
住所が緑川に移り名前も変わったから、向こうから届いても私の
976
元に届かない。もしかしたら向こうの事情も、私みたく変わってい
るかもしれないけれど。
﹁なるほどねえ﹂
﹁うん?﹂
くい、と下唇を親指で引っ掻くようにする。
些細な仕草でも彼のそれは目を引く。
﹁ずっと、謎だったんだ。真咲さんが英語得意な理由。⋮⋮留学し
たんでも洋楽聴くんでも洋書読むんでもなしに﹂
薄いピンク色の口元を凝視してしまう。
ほころぶのは、花の開く瞬間に似ている。
こんなふうにやや得意げな和貴でなくとも、私には、和貴を嫌い
になれる瞬間など、見当たらない。
たとえその瞳が冷たく突き放したいろを浮かべようとも、いずれ
は、いまのようなあたたかいいろに変わるのだから。
彼は、私の凝視を受け止め、小さく鼻を鳴らして笑う。
﹁真咲さん最後のほうずっと一位取ってたでしょう。すごかったよ
ねえ﹂
﹁どして。和貴に、模試は関係ないのに﹂
﹁だって、そりゃあ﹂
息を呑み、その口を手で押さえた。
慌てたかに見えた彼は、﹁僕、相沢んとこ行ってくる。またね﹂
手を一度振り前方へ走った。
︱︱お、望みどおり、マキのところに行ってくる。⋮⋮じゃあね。
あんなことがあったのを気にするのは私だけだ。彼は、気にして
いない。数多い友だちとのやり取りのなかのひとつに過ぎない。
相手のことを想う率が片想いと両想いとでは絶対的に異なる。
気軽に話しかけられる彼を見て、私は、自分のほうが重たすぎる
ことを、実感した。
977
保健室前まで来たところで流石に、やかましいと注意が入った。
田中先生の注意はいつも効果的だ。女性教師に特有のヒステリック
な言い方をせず声が男の人みたく低いから。私たちがこれから入る
べき体育館は目と鼻の先なのだが、時間調整のためだろう、足止め
を食らった。いつもこの三年生が主に過ごす校舎の出入口と体育館
とは緑色のマットが敷かれているだけなのだが、今日はレッドカー
ペットが花道を彩る。この出入口から近い順で四組から順に動くほ
うが効率的だと思うが、一組から順に入るのはとにかく決まりごと
らしい。どこの学校でも。したがって、出入口から最も遠い私たち
一組が保健室前に並び、後ろに二組、⋮⋮と続くが四組はいまごろ
教室を出て最後尾に並ぶ様子。それでも二組の面子と喋りながらで
緊張感など見られない。
前方に目を戻せば、列の先頭にて。紗優の手が坂田くんの頭をヒ
ットする場面を目撃する。
二人は、︱︱恋人同士だ。
私が東京に行って住居を決めた翌々日に、紗優が恋の成就を明か
した。
彼女が彼への想いを私に打ち明けた日に彼女は告白し、無論、彼
は受け入れた。
のだけれど、︱︱
﹁あのアホ。あたしが告白して、なんてゆうたと思う﹂
﹁さあ?﹂この話の振り方は相手が明かしたい意志の表れだからと
ぼけた。
﹁﹃待っとったえ﹄⋮⋮やって。あいっつ。ひとが勇気振り絞っと
るんにへらっへら笑ってな、﹃宮沢さんがそーゆーてくれる日を首
なごうして待っとってんぞ。さ。さ。オレの胸に飛び込んでおいで
!﹄⋮⋮て。ったく﹂
﹁それで紗優は飛び込んだの﹂
﹁せんわ。むかついたから、はたいといた。グーで思いっきし﹂
ああ、やっぱり。
978
関西人ぽいくせに突っ込まれ役なのよね坂田くんて。
だがそれ以降紗優がどんなに坂田くんのことをあのアホ呼ばわり
しようが、⋮⋮想いを遂げられた者だけが見せられる表情をしてい
た。
嬉しいって気持ちなんて、隠しようがない。弾むボールのように。
私は、嬉しかった。
以降、彼らの言動に目立った変化は見られず、彼が彼女をからか
い、彼女が彼をはたく構図は変わらず。
でも、こちらの先入観が関係してか、
仲裁や介入すべき危なっかしさが消え、
夫婦漫才でも見てる安心感がただよう。
ちょ。待ていや。いーたいって。
⋮⋮などと坂田くんが頭を押さえてようが。なにしでかしたんだ
ろ坂田くん。
紗優が恋の成就を伝えきたその日に、もう一つ、私は幸せな報告
を受けた。
﹁合格した﹂
彼の言い方はいつも簡潔で明瞭だ。
﹁そうなんだ。おめでとう﹂
﹁ああ﹂
﹁ちっとも嬉しそうじゃないね﹂
﹁そんなことは無い。非常に、嬉しい﹂
﹁私ね、住むとこ決まったの。一昨日、母と上京して、決めてきた﹂
わらび
﹁どこに住むんだ﹂
﹁蕨﹂
﹁⋮⋮そうか。俺も決めねえとな﹂
﹁合格したら急に忙しくなるよね。⋮⋮どのへんに住むか、検討つ
けてる?﹂
979
﹁兄貴が川口だから、近距離にするつもりだ﹂
﹁あ。うちと近いじゃん﹂
﹁まあやつらが引っ越す可能性も高いんだがな。⋮⋮兄貴が借りて
る部屋は、とてもじゃないが二人では住めない﹂
﹁ああ、ねえ、⋮⋮いい不動産屋さん知ってるよ。紹介しようか?﹂
私がからかい口調で言ったのだが、彼の返答はそれを上回るもの
だった。
﹁おまえが薦めるものならなんだって俺は乗る﹂
⋮⋮冗談だ。そう間に受けるな。
とフォローまで付け加えて。
赤い絨毯を踏む心境はそんなものに染まってしまった。
私は、式のたぐいで滅多に涙しない。小学校も中学の卒業式も、
高校でクラスのみんなに色紙と花束を渡された場面でも、⋮⋮父と
お別れしたときも泣かなかった。
そういう、女の子が泣くのが風物詩で、なくてはならぬエッセン
スの場面でちゃんと泣ける女の子は、役割を果たしていると思うし、
自然にできる辺りが羨ましく思う。
なので面の皮の厚いまま式次第を終了するつもりが、
最後の最後。
大したセンスのない、愛着も沸かない、数えるほどしか歌ったこ
とのない、でも二回程度でどうにか覚えた緑川高等学校の校歌。
﹃清く正しく﹄なんてフレーズに、思い出の数々がこみ上げ、不覚
にも。
卒業生の女の子らしい声で歌ってしまった。
最後の最後で。
980
︵2︶
﹁私は、三年間、きみたちの姿を見てきた﹂
宮本先生の自分呼称はたまに﹃おれ﹄が出る。
真面目な場面は﹃私﹄。
﹁⋮⋮偶然にも三年間担任を受け持った者も居るな? こうして晴
れの日を迎えられることが出来て、先生は嬉しく思う。無事に卒業
を迎えられたのは、勿論、きみたちが三年間頑張ってきたお陰だが、
きみたちが学生生活を快適に過ごす裏では、いろんなひとがきみた
ちのために働いていたことを、こころに留めておいて欲しい。きみ
たちの成長を見守ってきた保護者のかた。毎日お弁当を作ってもら
った者がほとんどだろう。それと⋮⋮うちの学校は中学と違って掃
除をしないが、清掃員の木村さんに用務員の土屋さんが、落ちたご
みを拾うなど丁寧なケアをしてくれていた。お昼時にみんながお世
話になった、購買の三上さんや、恩を着せるつもりは無いんだが、
きみたちを指導した先生たちもな。⋮⋮いろんなところで、もしか
したらきみたちの知らないところでも、きみたちのために動いてく
れている﹂
宮本先生は、教壇に手をついて、私たちのことを見回す。
﹁忘れないで欲しい。これから、きみたちの道は別れるけれども、
決して一人で歩んでいるのではないことを。
忘れないで欲しい。この緑川高等学校で過ごした日々を。ここに
いるみんなと笑い、悲しみ、悩みを、分かち合った日々を﹂
教室は、静かだ。女子がすすり泣くのを除いて。
﹁きみたちは、⋮⋮私もだが。ひとに支えながらに生きている。就
職を決めた者もいるし緑川を離れる者も多い。いままで同じ学校に
行くことで繋がっていたみんなの道が別れ、それぞれの道にそれぞ
れが進むのだが、支えられるだけでなく、やがては誰かを支える立
981
場になることを、知ってほしい。⋮⋮卒業してもな、気軽に顔を出
してくれ。先生は生物室に常駐しておるからな。それから、⋮⋮﹂
先生は段を降り、左手前方へ進む。
﹁秋田﹂
先頭に座る彼に声をかける。﹁きみは、いつも教室を綺麗にして
くれていたな。日直じゃない日も、黒板をクリーナーで掃除してい
ただろう。黒板もぴっかぴかで、先生はいつも助かっていた。そう
いう、気配りのできるところは、どんな場面でも役に立つはずだ﹂
﹁はい、先生⋮⋮﹂彼は就職が決まっている。
﹁しっかりやれ﹂
肩に触れ、先生は彼の後ろの生徒に声をかける。﹁林。きみは、
⋮⋮﹂
右隅に座る私の視界に必ず坂田くんが入るのだが、彼。
号泣している。箱ティッシュを使い切る勢いだ。
﹁桜井﹂
その単語に意識が引っぱり出される。
先生が彼になにを伝えるのだろうかと。
﹁ひょうひょうとしているように見えて人一倍、クラスの雰囲気に
気を遣っていたな。細やかな性格をしているから⋮⋮老人ホームに
就職すると聞いて先生はなるほどと思った﹂
﹁はい、みやもっちゃ、﹂背筋を正して座り直し、宮本先生、と彼
は言い直した。﹁僕も、三年間、宮本先生が担任で嬉しかったです﹂
﹁最後の最後で休みまくって先生冷や冷やさせたがなあ。まるで、
手のかかる子どもやったわ﹂
親みたく彼の髪をぐしゃっと押さえる宮本先生に、自然と笑いが
誘われる。
出席日数がちょっと危うかったのはみんなが知っている。
﹁我慢も辛抱も必要やけど、時には吐き出せ。いつでも聞くぞ。近
くにおるからな﹂
彼は無言で頷いた。泣いているのかもしれない。
982
それから宮本先生は、クラスの縦でも横でも真ん中に位置する紗
優の席に来ると、
﹁美容師になる夢を聞いて、最初は驚いたが、先生は、宮沢になら
出来ると思った。技術と知識を身につける必要があるが、それ以外
に話術も求められる。おまえは素質を持っているのだから、とこと
ん活かせ﹂
﹁⋮⋮宮本先生﹂
﹁一般常識も会話の糸口として必要だ。新聞も読めよ。テレビ欄以
外もな﹂
and
the
black﹄の活
もぉーっと紗優がお約束通りに宮本先生を軽く叩き、笑って宮本
先生は次の生徒のところに向かう。
坂田くんには、
﹁泣きすぎだろ﹂
Red
腰に手をやり、ちょっと笑った。
﹁おれは、﹃The
躍を願っている。CDが出たら教えろよ。何十枚でもまとめ買いし
てやる﹂
﹁CDなんていつ出せるか分からんですわ﹂
﹁作詞も出来た方がいいな。気張れや﹂
すれ違いざまに先生は、
﹁最後に坂田。年寄りの戯言だと思って聞いてくれ。
︱︱遠距離恋愛に、携帯電話は不可欠だぞ﹂
途端に周囲が彼らを冷やかすものに変わる。
闇雲に投げた空のティッシュ箱を、和貴が無言でキャッチした。
﹁都倉﹂
宮本先生が声をかけるのは、私がこのクラスで最後となった。
﹁途中から緑川へ来て苦労したかもしれん。だが、ここで得たもの
983
はみな、きみの財産だ﹂
﹁はい﹂
﹁心理学という学問は奥が深い。どの分野に進むにしろ必要な知恵
が詰め込まれている﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮よう分からん小難しい本ばかり読んでおるやろ都倉は。たま
には恋愛小説でも読んだらどうだ﹂
﹁先生、偶然ですね﹂
意図が分からず宮本先生は首を傾げる。
﹁私もそう言おうと思っていました。⋮⋮先生は生物の図鑑やパソ
コンの参考書しか読まないですものね。パソコンの勉強なんて、い
つから開始したんですか﹂
﹁都倉、おまえ﹂
クラスのみんなを見渡して私は言った。
﹁パソコン検定準二級に合格されたそうですね。おめでとうござい
ます﹂
私が一礼をし手を叩くと、皆もそれに続く。
﹁それを誰から。誰にも言っとらんぞ﹂
焦ってか首を振り見回す宮本先生は、続いて、合点が行ったよう
だ。
﹁⋮⋮田中先生か﹂
小さく舌打ちをする。
鳴り響く拍手の渦の真ん中で。
こないだ保健室に行ったときに聞いたのだ。
﹃パソコン部の顧問やから、なんか役立つことせんとって言うとっ
たよ。宮本先生って、一見なあ、神経質で生真面目な先生やけど、
ほんに不器用で⋮⋮裏で努力するひとながよ﹄
事情をよく分からない人も居るだろうけど、皆の拍手が響くから
結果オーライだ。
︱︱そのとき。宮本先生に告白しないんですか、と私がからかっ
984
たことと、田中先生が赤く頬を染めたことは、誰に聞かれても言わ
ないでおこう。
幸い二人とも独身だ。脈が無いとは言えない。
﹁よっしゃああー﹂
拍手万雷のなかを突如坂田くんが起立した。
﹁いまっから卒業ライブすんぞ! みんな! 体育館集合や!﹂
﹁⋮⋮坂田。ホームルームはまだ終わっとらん﹂
﹁野暮言うなや。ほな行くでえー﹂
白い目を向ける宮本先生を意に介さず、坂田くんはあの振り付け
を始めた。
﹁Red!﹂
﹁Red!﹂
あ、やば。私も手が動く。
﹁&!﹂
﹁&!﹂
﹁﹁blaaaack!﹂﹂
﹁おまえら、ついてこーい﹂と坂田くんが拳を天に突き上げたまま
飛び出すのを皮切りに、みんな怒涛のごとく続いた。
砂埃が立ち、ほぼ無人の教室内。
﹁おまえら⋮⋮。おれ、良いこと言ったと思うんだが⋮⋮﹂
あっさり取り残された宮本先生が、教壇で一人肩を落とす。
いろいろと良いことを言ったのをすべて坂田くんに持ってかれた
かたちだ。
気の毒になり、歩み寄ろうとしたところを、
﹁わ﹂
﹁真咲さんも行くよ﹂
後ろから襟首を掴まれていた。
振り返れば、前方を見据える、尋常じゃないくらい近い位置に存
在する和貴の顔が。
慌てて顔を戻した。
985
からだじゅうから湯気が出そう。
後ろに感じられる彼の気配。
首根っこを掴まれたままどうやら教室外に誘導されそうで、
﹁桜井﹂
出入口にて、和貴が先生を振り返るも、私は真っ赤な頬を押さえ
ていた。だから宮本先生が何を言ったかを知らない。多分口パクだ。
﹁努力します﹂
とだけ答えて教室の外に出た。
986
︵3︶
三方の壁に張られた赤白の幕と、在校生徒に保護者用に並べられ
た数百はあろうパイプ椅子はそのままだったが、ステージ上の弾幕
が剥がされ代わりに赤と黒の幕が張られ、バンドセットも準備万端。
どうやらすぐにでもライブが始められそうな展開。
いくら宮本先生のホームルームが長くとも︵途中で打ち切られは
したが︶、式の終了後一時間と経っていない。
仕事の速さに舌を巻いた。
しかし結局パイプ椅子をどかして行うのか、腕章をつけた生徒会
の面々プラス有志のひとびとが慌ただしく片付けにかかろうとして
いるところで。見かねて手伝うひと、気に留めずお喋りをするひと、
⋮⋮とこういうところで人間の言動が様々に別れる。田舎の純朴な
高校生のイメージにふさわしく、親御さんと談笑する生徒もあちこ
ちに見受けられる。
ところで、
﹁そろそろ、離してくれる﹂
首根っこを掴まれて体育館にたどり着いたのはおそらく私ひとり
だ。
﹁うん。なにが﹂
﹁とぼけないでよ。ブレザー伸びちゃう﹂
﹁ああ? ごめんごめん﹂
屈託なく笑う彼は、絶対わざとやっている。そういえば、
﹁前に。坂田くんにも同じことされたなあ﹂
﹁って、あいつになにされたの。いつ﹂
歩く私の前に和貴が立ちふさがり、ステージの赤と黒の弾幕が隠
れる。
﹁合格したときに、こう、引っ張る感じで。⋮⋮だから、似てるな
987
って思ったの﹂
﹁一緒にしないで欲しいぜ﹂
同族嫌悪なる単語が浮かんだが、黙っておく。﹁あ﹂なにか目に
留まったようだった。彼が顎で指す。﹁おばさん発見。⋮⋮行く?﹂
紗優のお母さんかと思った。
うちの、母だった。
見違えたものだった。
ここぞという場面でのいっちょうらのグレーのスーツを着込んで、
⋮⋮化粧も普段よりもきっちりと、唇に鮮やかなルージュを引いて、
髪も結いあげたフォーマルな装いだった。
いつも、くすんだエプロンに作業しやすい服装だっただけに違い
が際立つ。
子どもの卒業式に顔を出す親は珍しく無いけれど、でも、高校生
ともなると流石に減る。
傍らに祖父母が不在。単身やってきた母と言葉を交わす者はいな
い。⋮⋮高校の二年という半端な時期に娘とやってきた、かつ、店
のことで忙しい母は、保護者間の付き合いを深められる暇など無か
った。
だから、来なくていいって言ったのに。
言葉通りに壁の花と化す母は、ステージのほうを見つめ、微笑ん
でいるようにも思えた。
﹁行くよ、真咲さん﹂
﹁⋮⋮うん﹂
出遅れた私にふっと笑いかける和貴を見て、
嬉しさを感じつつ、ついていく、つもりが、
背中に視線を浴びた。
やや怖気を覚えさせる、それは、後ろにした体育館の出入口のほ
うからだった。
入り来るひかりに紛れ、姿がよく見えなかったけど、たぶん、彼
だ。
988
彼が、
こっちに来るとなんとなく分かっていたが、私は、
好きなひとについていくのを選んだ。
無視に、近かった。
汚い人間なのかな、なんて思う。
避けたくなる自分に気がつくと。
でもそれが自分の内部から生まれる自然発生的なものなのだから、
どうしようも、ない。
﹁おばさん、綺麗です⋮⋮すごく﹂
﹁ありがとう桜井くん﹂
和貴がナチュラルにお世辞を言うのはさておいて。﹁お母さん。
卒業式なんて出てたの? もう終わっちゃってるよ﹂
﹁ちゃあんと最初から出たわいね。大事な一人娘の晴れ姿やもん、
見逃せんわ﹂
﹁そういうこと、⋮⋮言わないでよ﹂和貴をまともに見れない。気
恥ずかしい。﹁べっつに普段と着てるものもなんにも変わんないん
だし。店、抜け出して大丈夫なの﹂
﹁ちょっとくらいなら大丈夫やわいね。ほんに、心配性なんやから、
この子は⋮⋮﹂
﹁強がってますが、本当は嬉しいんだよね、真咲さんは。顔に出て
る﹂
いきなり突っ込まれ目を剥いた。
﹁しかも、感傷的になって泣いちゃった?﹂
﹁泣いてないってば﹂
横で鷹揚に微笑んでいる母を見て尚更、さっきとは別種の気恥ず
かしさに襲われた。からかい目線の和貴に私は別の質問を向けた。
﹁おじいさんは?﹂
﹁あの放蕩じーさんなら、いま福岡﹂
﹁⋮⋮あ﹂本当に旅行が趣味だったんだ、ジョークじゃなく。
湯島天神と来れば次の目的地は、北野天満宮か、いよいよ総本宮
989
たる太宰府天満宮だろうか。
世を憂い島流しにあった不遇の文人が、雷神として畏れられたの
ちに天神様と崇められ奉られ、受験生を主とするひとびとが信仰す
るのだから、人生分からないものだ。
もっとも、のちに偉人と称される者は時代の二歩三歩先をゆくも
のだから、当時の人間から疎ましがられるか奇異の眼差しで傍観さ
れるのが普通だ。
理解など遠く及ばないところに天才は居る。
彼は、⋮⋮菅原道真はじめ当時の人間に随分と同情的だった。
人民に兵役が課せられたのを重すぎると言い、﹁泣きたくなる時
代の到来だ﹂とまで語ったのだ。
情にもろいのか厚いのかいまだ掴めないが、そういったものを排
除するかに見える、孤高を感じさせる彼が。
現代を生きるひとよりも、過去のひとびとに興味があるのかもし
れない。
﹁俺のことでも考えているのか﹂
うんそうです、
と首肯しかけた、だがすんでのところで堪えた。
﹁ま、キ⋮⋮﹂
﹁驚くのを見る限り、図星のようだな﹂
不遜に鼻を鳴らす彼に、返す言葉が見つからない。右往左往した
ままに和貴と母を探した。
彼の後ろに見える、おばさん︱︱紗優のお母さんのそばで談笑し
ている。
となると、
﹁真咲ぃー﹂
990
お約束のタックルを受けた。
﹁ああ、ひ、さしぶりだね、怜生くん⋮⋮﹂
ぐりぐりと頭を押し付けてくるのも変わらず。
﹁背ぇ伸びたな。怜生﹂
﹁うーん﹂と曖昧に答える怜生くん。
マキとの身長差を着にしているのか。伸びたとはいっても私より
低い。
﹁紗優には。会った?﹂私は彼を離しつつ訊く。
ちょっと悲しげに項垂れる。﹁見つからんかった﹂
﹁あっちに居んぞ﹂
親指で指す。
人ごみに隠れて見えないのだが、おそらく、前方のほう。
彼氏のステージなら最前列で見たいものだろう。
怜生くんもマキも視力は相当のものなのか、怜生くんはまっすぐ
駆け出して行った。
﹁俺らも行くか﹂
﹁うん﹂
﹁と、そのまえに。おまえのお母さんに、挨拶しとかねえとな﹂
﹁え、と﹂彼の言葉遣いなら、﹃おばさん﹄か﹃おまえのおふくろ
さん﹄と言う場面じゃないだろうか。﹁挨拶。なんて?﹂
相変わらず早足だが私のペースを合わせる彼に追いついて見あげ
た。
彼は、無表情で振り返り、さも当たり前のことのように言う。
﹁そいつぁ内緒だ﹂
当たり前でないことを。
991
︵4︶
﹁探しましたよっ、都倉先輩っ⋮⋮﹂
息切らせ言われ少々面食らった。
以前に会ったときよりも伸びた髪が、風になびいている。
﹁どうしたの﹂
﹁どうしたもこうしたもないですよ。宮沢先輩と一緒にライブ観て
たと思えば急に居なくなるし⋮⋮﹂近寄る安田くんを意識してか、
マキは私と距離を離した。﹁この花束が目に入りませんか﹂
水戸黄門みたいな決め台詞で花束を突き渡される。
﹁⋮⋮私に?﹂
﹁ほかに誰が居るって言うんですか﹂
無言で隣を見上げてみる。
﹁言っておきますが、蒔田先輩のぶんなんか用意してませんよ﹂安
田くんは察したらしく、息巻いて言う。﹁パソコン部有志からお渡
しするのは、宮沢先輩と都倉先輩だけにですっ﹂
﹁ああ。男から貰っても嬉しくねえし﹂
小突いていいですかこの色男を。
噂によると、生徒玄関の一角には紙袋に入れられた盛大な花束が
三つ、置かれている。誰向けにかなど言わずもがな。
﹁本当に、⋮⋮いいの﹂
﹁しつっこいですね。いいから、貰ってくださいっ﹂
ピンクのチューリップが中心にこしらえられ、ふんだんな量のか
すみ草が取り巻く。白と淡いブルーの品のいい和紙のラッピング⋮
⋮卒業式の花束って赤やピンクの華やかなものが多いけれどもこれ
は、花嫁のサムシングフォーを思わせる、清楚な印象だった。私に
はそれも嬉しかった。受け取れば花のにおいが鼻腔をくすぐる。鼻
の頭に当たりそうな、大きさだった。
992
﹁⋮⋮嬉しい。まさか、安田くんから貰えるなんて、思わなかった。
ありがとう⋮⋮﹂
﹁だーから、パソコン部有志からだって言ってるじゃないですかっ﹂
﹁分かってるよ﹂
﹁ああそうだ﹂校門を背に歩き出すマキに、焦ってか安田くんがな
にかを手渡す。﹁蒔田先輩にはこれを﹂
見た感じ、ピンクの封筒に達筆な字で、蒔田先輩と書いてある。
表裏を確かめ、マキは平静に言ってのける。﹁すまん。⋮⋮俺に
は、こころに決めた相手が﹂
﹁ちっがいます! 写真です写真ですっ!﹂
大仰に頭を横に振る安田くんを見てもにこりともせず。せっかち
な彼がその場で開封しだすから私は隣から覗いた。﹁都倉先輩のぶ
んも勿論ありますよ﹂
﹁あ。ありがとう﹂花束を持ち替え片手で受け取った。
﹁全部、おまえが撮ったのか﹂
﹁そうです。僕が入部してからのものですから、数は少ないですけ
ど⋮⋮﹂
﹁十分じゃねえか。よく撮れてる﹂
マキが褒めるなんて珍しいな。
でも彼の持つ写真の分厚さは何十枚だろう、一センチはありそう。
それが安田くんが私たちと積み上げてきた時間の重み。
光沢のある写真に、いろんな私たちが撮影されている。マキは写
真を半分に分けうしろに回したところ、ちょうど合宿の場面だった。
みんなで行った合宿の車中、爆睡してるタスク。ジャージ姿でピー
スしてる紗優。口開けて寝てるはずが、手でカメラをブロックして
るかに見える、マキ。
渡す相手が映っているものを通常渡すものだが、マキが映ってい
ない写真も混ざっている。その法則に気づき、⋮⋮密かに赤面した。
集合写真に差し掛かれば、私の目は第一に好きなひとを探してし
まう。
993
﹁この猫娘は、完全におまえの趣味だろ﹂
﹁ちっがいますっ﹂
頭上でなにか会話を繰り広げているが、合宿所の前で、ピースし
てる彼に私は釘づけだった。白い歯を見せて笑っている。風が吹い
た瞬間だったろうか、寝癖みたくピンと髪が立っているのが、可愛
らしかった。
﹁サンキュ。⋮⋮悪かった、安田﹂
﹁いーえっ﹂
﹁奴らのライブ、まだ続いてんだろ。行くか﹂
﹁はい﹂
十枚程度を見ただろうか。マキが安田くんに言い、私たちは体育
館に戻る。
二人は、⋮⋮同じ中学の出身で、実は同級生だ。
私とマキがこのマイナーな裏門に来たのは、紗優ファミリーとう
ちの母を見送るためだ。あの盛況のライブを抜けたマキを追いかけ
てきた安田くん。
⋮⋮最後だろうし、
私はあんまり二人の話に加わらないでおこうと思った。
再び熱い会場に戻ることを想定してか、マキは、サラリーマンみ
たくブレザーを脱ぎ、小脇に抱える。
内履きが、運動場の土に汚れてしまったことに、ちょっと良心が
痛んだ。
校内の拭き掃除は在校生の仕事だ。私も去年、した。
﹁なあ、安田﹂
﹁なんですか﹂安田くんがマキを見上げる角度は私よりか緩い。
﹁おまえは、いまやらなくて後悔しないのか﹂
﹁なんの話ですか﹂
﹁とぼけるなよ。俺が気づかないとでも思ってるのか﹂
﹁いま、ここでするべき話じゃないでしょう﹂
﹁そう言っていると、後手後手に回り、しないだけに終わる﹂
994
﹁蒔田先輩のほうこそ、どうなんですか﹂
﹁後悔しないようには動いている。手も打った。⋮⋮おまえは時間
が限られているだろう。見るに見かねてな﹂
大仰に安田くんがため息を吐いた。私はなるべく舗装された歩道
のほうを歩くよう努めた。
﹁蒔田先輩がどういう立ち位置につきたいのか⋮⋮どのポジション
を望んでいるのかが、僕には、見えません﹂
﹁俺か? 俺にはサイドバックが合っているな。守備も攻撃もする﹂
﹁サッカーの話をしているんじゃないんですよ﹂
﹁俺こそ、サッカーの話なんざしていない﹂
﹁⋮⋮例えるなれば、僕は、観客です﹂
﹁つまんねーだろ。控えに甘んじているようだが、いつでも試合に
出て構わないんだぞ﹂
﹁どうしてそうやって炊きつけるんです。蒔田先輩は、いったい誰
の味方なんですか﹂
﹁決まってんだろが﹂
﹁あの、﹂
一斉に安田くんとマキが振り返る。
体育館はもう十メートル先だった。
﹁行ってきなよ。安田くん。紗優のぶんの花束と写真なら、預かっ
とくから﹂
安田くんは紗優向けの薔薇の花束を抱えている。
彼が振り返ると花束ががさついた。
﹁ちょうど紗優が歌ってるみたいだし。だからステージに上がれな
and
The
Blackと歌えるなんて羨ましい、
いんだよね。前に、安田くん、紗優の誕生日の話したとき、The
Red
って言ってた、じゃ⋮⋮﹂
そこでようやく気がついた。
目を見開いたまま凝固してる安田くんの横で、
マキも同じく白眼を大きくしていることに。
995
﹁い、まのって、そういう話じゃ、なかったの⋮⋮﹂
く。
とマキが息を吐き、片手で目を覆う。
それから、やや前傾姿勢で、笑いを漏らし始めた。
﹁ど、どうしたの﹂
声をかけても治まらず。
安田くんは顔を赤くして横を向くし。
要するに私が余計な一言いや二言以上を言ったのは分かった。
﹁あ、の、じゃ。紗優のとこ行ってる。花束、ありがとうね安田く
ん﹂
パソコン部有志からです、という安田くんの返事は無かった。
当てずっぽうで会話に入るとろくなことが無い。
996
︵5︶
﹁学校来るん最後やなんて、信じれんよ﹂
感慨深げに紗優が言う。
﹁僕はまた来ますがね﹂
﹁タスクは合格してるよ。⋮⋮頑張ってたんだし。あとね、神社行
ったとき祈願しといた﹂
﹁ありがとうございます。桜井くん﹂
卒業式が合格発表後であれば心置きなく迎えられただろうに。
国公立組は三月六日に合否を知る。
﹁じーちゃんもいまごろ太宰府天満宮で祈願しとるから﹂
﹁お気持ちは嬉しいのですが、桜井くん。合否の結果はすでに出て
いる頃です﹂
﹁あ、⋮⋮とぉ﹂頭をかく和貴が可愛くて、私は紗優と顔を見合わ
せて笑った。
﹁人事を尽くして天命を待つ﹂なにかを悟ったかの口調でマキが言
う。夕闇が降りてくる空を見あげ、﹁片ついたら和貴んちで合格祝
いでもすっか﹂
﹁え、えー?﹂驚いたのは紗優だ。マキが遊びの提案をするなんて
滅多に無い。
﹁蒔田くん、ノンプレッシャーでどうぞ。合格していない可能性も
ありますので、卒業祝いということでいかがでしょう﹂
﹁因みにね、うちのじーちゃん。博多からトンボ返りでまた愛知に
行くんだ。一度うちには寄るけど﹂
﹁知らんかった。なして﹂
﹁法事。⋮⋮遠い親戚なんだけどさあ、ま、⋮⋮昔世話になったひ
とだから﹂
歯切れの悪い彼の言い方に、和貴の両親の死を知らせたひとに関
997
わるものだと、私は直感した。
﹁来週? なして出なならんが。やって和貴⋮⋮﹂
﹁仕方ないよ。本当は僕が行くべきとこを、じーちゃんが出てくれ
んだから﹂
なにか紗優が言いたそうとするまえに、和貴は立ち止まり、後ろ
の校舎を見やる。﹁坂田。待たなくていいの?﹂
﹁しもた。忘れとった﹂
﹁忘れられちゃって坂田くん、可哀想に﹂
なにか喋ってるマキとタスクを視野に入れつつ、真ん中の紗優に
私は笑いかけた。
﹁んもっ。そーゆー言い方せんといて﹂
﹁じゃあね。紗優﹂
恋人たちは二人で帰るに決まっている。
だから笑って校門を向きかけたのが、
腕を引っ張られた。
﹁ま、さきぃ⋮⋮﹂
涙でいっぱいだ。
紗優の大きな目が。
ちょっと持っておって。
と和貴に断りを入れると、
﹁おふわっ﹂
私に飛びついてきた。
自由の女神さながらに私は花束を掲げた。上から抜き取ってくれ
たのは多分、マキだ。
紗優は顔を起こした。美麗な顔が、近い。﹁なしって、真咲はい
つもそー冷静なん。寂しいんないん? あたしたち卒業したんよ。
これでもー同じガッコで会えるん、最後ながよ﹂
﹁寂しいよ﹂
目の端から流れ涙一筋が頬を伝う。
﹁紗優とこうして会えなくなるのが、私は、寂しい﹂
998
う。
わぁーん!
と紗優が再び抱きついてきた。
高い位置の頭を撫でながら、思う。
いつも、
閉ざしがちな私のところに、飛び込んできてくれて、ありがとう。
紗優は、私の青春の日々を照射する、まっすぐな、ひかりだった。
影に隠れる私の正体を。
私に言えないことを言う。
私ができないことを、する。
素直に友達が好きだとか、力になりたいとか、いままでの私には、
言うことも言われる付き合いも皆無だった。
親友だと言ってくれる、最初で最後の存在だと思った。
一方で、押しつけれる紗優の柔らかさが心地よいと思えるのも、
残念ながら私の気持ちの真実だった。
* * *
﹁お待たせ、しました﹂
すこし離れたところで待つ三人に近寄るのは、大泣きした自分を
見られるようで、ちょっと気持ちに抵抗があった。
﹁行くか﹂
だから、花束を渡されぐしゃっと髪を撫でるマキの行動には、和
貴の前で嫌だなあって抵抗感よりも、助かったという気持ちのほう
が強かった。
私は、小走りで校門前に着くと、頭を、下げた。
通りがかった在校生がびっくりして見てくるのが分かった。
﹁なに︱︱してる﹂
﹁感謝を込めて緑高に御礼を。︱︱部活でこういうの、しなかった
999
?﹂
﹁剣道部や吹奏楽部ではしますね。練習場所は、使う人々にとって
神聖な場所ですので、使わせて頂く気持ちや御礼の気持ちを込めて、
出入りするたびに礼をするのです﹂
隣に並ぶタスクの革靴。彼の影が動いたから、彼も礼をしたのだ
ろう。
﹁陸部じゃやんないなあ。サッカー部はどうだった?﹂
﹁しねえ。⋮⋮敬意は仲間と対戦相手にこそ払えど、先ずは己の利
き足じゃねえのか﹂
と不服げに言いつつも、和貴に続いてマキが、タスクの隣に並ん
だ。
各自順に頭を下げた。
されど和貴は、
﹁一度顔あげよっか。バラバラだとカッコ悪い﹂
私の目を見てニィと口端をあげるなり、
通い慣れた校舎に向き直り、
﹁緑川高等学校殿!﹂
辺りをつんざく声量で叫んだ。
前後左右の注目を集めたし、なにごとかと窓から顔を出すひとも
見られた。
﹁三年間! ありがとうございましたっ!﹂
﹁ありがとうございました!﹂
私も続いた。⋮⋮正確には﹃り﹄のところからだけだったけれど。
膝に添えた手を離し、顔を起こす。
顔を見合わせ、誰ともなく、笑い始めた。
1000
揃って校舎を背に、再び校門に対峙する。知ってるひと知らない
ひとが目を丸くしてる。手を振ってくる子には手を振って返す。﹁
急に大声出して、びっくりしたよ、和貴﹂
﹁でもなんかスッキリしたでしょ﹂
﹁うん確かに﹂
﹁都倉さんは三年足らずの、一年半ですね﹂
﹁いいよタスクそんなの。気にしなくって﹂
﹁じゃあ。僕はここで﹂
いつの間に校門を出てしまっていた。
ここで道が別れる。
﹁⋮⋮あ。うん。元気でね、和貴﹂
﹁長谷川の合格祝い、忘れんなよ﹂
﹁不合格の場合には卒業祝いとご承知おきを。⋮⋮桜井くん。お元
気で﹂
﹁また、会えるよ。じゃねっ﹂
くるり背を向け、俊敏に立ち去る。
ブレザーのボタンがすべて女子に奪われ、走る彼に合わせて波打
つ。
私にとっての彼はいつもスピーディーで、笑顔だった。
過ごした日々のすべてがここで終了する。
一瞬の絵を、私はこころのシャッターに収めた。
そしてタスクとマキの制服の後ろ姿を見、
彼の両手を塞ぐ持ちにくそうな紙袋を見、私は、悟った。
これが、別れなのだった。
⋮⋮和貴は、携帯電話の番号を私には教えなかった。卒業を機に
持ち始める子が多く、だから、教えあうのが流行りだったし、卒業
式の日は勿論だった。持っていることが私たちのなかでステイタス
の高さだった。
1001
でも彼は、教えなかった。
聞きそびれたのもある、けど、聞いていいのか、⋮⋮躊躇した。
未練がましい自分を発見する気がして。
私は、携帯を、持っていない。⋮⋮いまのところ、持たない予定
だ。固定電話を引くのが結構お金がかかるので今後の成り行き次第
で、必要があれば、といったところ。
卒業してから、連絡を取り合う間柄でないと、判断されたのだろ
う。
教えてもらってもおそらく電話なんかしないだろう男子の番号も
ゲットした。
ひととの別れ際に、それまで同じ場所で日々を過ごしてきた仲間
に、惜しむやりとりを、なにかの儀式のように行う。
これからさき、そのひとが自分の傍にいない寂しさを惜しみ。
限れられていた日々の大切さをいまこそ実感する。
生きることとは、そんな体感を繰り返す工程だ。
後悔のないように、とひとは言う。彼も言った。
だが、後悔のない人生など存在しない。
常になにごとも全力投球、などできるはずもなく。
単三電池のように手軽に切れてしまう。
だから、全力投球できなかった部分の寂しさや後悔の念、まつわ
る情のもろもろを、泣き、嘆き、袖振り合うことなどで私たちは消
化にかかろうとする。
生きていればそのような場面に往々に出くわす。
諦めることに。
木島の父の経験から私は学習した。
もう一度、会いたい。もっと、一般的な娘らしく振る舞えばよか
った。素直で、甘えたがる、女の子らしい、性格になれればよかっ
た。
1002
覆水盆に返らず。
語源の通りに、父と母が復縁する可能性は、ゼロだ。互いに別の
道を歩んでおり、その道が交錯することは、無い。
子どもである私がいくら泣いてみたところで、この結論は、覆ら
ず。
生きていることが、このような諦めを積み重ねることなのかもし
れず。
たとえそのときは切り刻まれた痛みを感じたとしても、いずれ傷
は癒え、風化する。慣れてしまう。そしてその痛みの乗り越え方を
ひとは、編み出す。痛んだとて、べつのなにかに打ち込めばいっと
きは、忘れられる。
だから。
和貴のこともそのようなことの一種だと思えば、私のなかで解決
できる気がした。
そんな軽く考えるなんて、と自分の一部が抵抗するけれども、
それをも従えて、乗り越えること。
俗に言う、失恋の痛み。
世の中のひとはこのような痛みと平時から向き合っているのかと
思えば、⋮⋮驚愕はすれど、なんとかなる、と思えていた。
思い込むよう努力した。
和貴を、こころのなかから追い出すつもりは無い。
ただ、好きでいるだけ。
一旦整理をつけたかに見えた私の片鱗は。
思わぬひととの再会にて。
︱︱二度と会うことは無いと思っていたあのひととの再会にて、
再び、蘇ることとなる。
1003
︵1︶
障子窓を通り越して入り来る眩しさに目を覚ました。
日の出が早まり、日の高い時間が長くなる。人間は冬から春へ流
れ行く季節を体感し、温暖で過ごしやすい、快適な気候を待ち望む。
暑いなら暑いと言い、寒いなら寒いと不平を漏らす。私もその一
人だが︱︱
この町に来てからは、吹きすさぶ冬も悪くない。
去り際はどんなものであれ恋しく感じられるものだし、
自転車を漕いで桜井家に通いつめた日々を思うならば。
私は再び、雪が降るのが珍しい地域へ還る。
ベッドから出すと裸足の足が、うすら寒い。
けど窓際を彩るあの花たちはもっとだろう。
そう思い、いつまでもくるまっていたい名残惜しいベッドを後に
する。
﹁寒いだろうから、おひさま浴びないとね﹂
障子を開き、ガラス窓越しの直射日光であたためてあげようと思
った。窓に近づけば近づくほど冷気が増す。戸建は特に隙間風が強
く、三月とはいえ、朝晩は冷える。
窓から顔を出すなんてのは、元住んでいた家やこれから引っ越す
先ではおそらく出来ない。周りの目が気になるから、けどもここは
過疎地緑川だ。雀の鳴く、目覚めの時間。町が始動するまえの、日
常的な光景が待ち構えている︱︱
はずが。
﹁あれ﹂
1004
まぶたをこすった。
差し向かいの民宿、車通りのない国道、それより手前の民家。こ
こまでは変わり映えしないのだが、
⋮⋮
夢でも見ているのかもしれない。
休みじゅう人っ子ひとり通らないこの国道一本裏の道筋に。
だって、あのひとが、こんな辺鄙なところに来るなんて、起こり
得ない。
深層心理において和貴のことが相当堪えているのかもしれない。
お向かいの民家の前に立つ彼はあろうことか︱︱
微笑み返してくるではないか。
椅子に膝を乗せ、勉強机に身を乗り出してみた。凝視してもその
幻覚は消えない。
頬を、つねった。
痛いだけだ。
夢でも痛覚は生じうる。しかしならばここで目を覚ますのが夢と
いうもの。ならば、変だ。幻覚。⋮⋮幽霊。でもなければ、なんな
のだろう。
相当に私が挙動不審だったのか。
幻覚は、噴きだした。
お腹を押さえ、やや前かがみに、⋮⋮不可思議と和貴の笑い方に
似ている。
そもそもが、髪の色の明るさも。
その明るい髪が揺れる。笑う彼に合わせ。紫がかった淡い、品の
あるグレーのスーツに、使い込んだ皮のかばんと、先の尖った革靴
を合わせ、講演を行った場面と似たいでたちをしている。
﹁か⋮⋮﹂
﹁柏木慎一郎っ!?﹂
1005
窓を開くなり、入り来る風の冷たさを浴びた。
微笑みをそのままに柏木慎一郎がうちの玄関先に歩み寄ってくる。
﹁おはよう。⋮⋮危ないから、あまり顔は出さないで。万一、きみ
が落ちでもしてしまったら僕は、きみのお母さんに申し訳が立たな
い﹂
﹁ど、どうして、ここに、いらっしゃるんですか﹂
声が裏返り、上手く出ない。
慌てて思考の働かないこちらに比べ、悠然と柏木慎一郎は、ジュ
リエットを見上げるロミオさながらにこちらを見上げ、
﹁きみに、会いに来た﹂
柔和な笑みとともに断言した。
私は、倒すかもしれない花瓶を横にずらしながら、信じられない
気持ちに駆られた。
﹁きみの、お母さんにもね⋮⋮﹂
流し目で一方を見やる。
﹁慎一郎さん!﹂
その階下の玄関から、図ったようなタイミングで母が飛び出した。
後ろ姿でも動揺のほどは見て取れる。そもそもが、声が驚いてい
た。
弾む胸を押さえ、私は二人を眺め見る。
こうして並ぶと、月日が二人をいかに隔てていたのかがよく分か
る。
かたや、国立大学の助教授で、
かたや、一介の主婦だ。使い込んだ母のエプロンが、使い込んだ
1006
柏木慎一郎の持ち物に比べて、みずぼらしく感じられる。要するに、
アンティークと古着の差異だ。
と感じる自分の精神がこの場でもっともみずぼらしいのだと思う。
自分を育てた母をみずぼらしい、とみなす発想自体が。
二階からだと二人の声が聞き取れず、でも二言三言母と会話をし、
柏木慎一郎は、どうやら一階のお店のほうに通される。
私に気づいた母が、中に入ってなさい、と怒ったように伝える。
柏木慎一郎は入る前にゆったり、微笑んで私を眺めた。
その笑みになにか、ユニークなものでも目にした感じがあったの
だが、
︱︱窓を閉めてみて、理解した。
ガラス窓越しでも分かる、寝癖のついた頭にピンクの、パジャマ
姿だった。
顔も洗っておらず歯も磨いていない。
母をどうこう言う以前に、自分の身なりを整えなければならなか
った。
これ以上不可能なスピードで身支度を整え、けたたましい足音で
階段を降りる。十字に折れ、お店に、つまりは表玄関に通じる廊下
を駆ける。うるさいと祖父母に諌められると思ったが、
﹁やあ。久しぶりだね﹂
この田舎の民家に、洗練された彼はなんと似合わないのだろう。
開かれた戸を背にした彼は、後光のためか尚更輝かしく見えた。
あるいは、ひかりをも味方につける存在なのか。
のんきな口調で手を挙げるのだが、どう見ても柏木慎一郎、その
ひとだ。
1007
﹁お久しぶり、です⋮⋮﹂
久しぶりもなにも。
一度会ったのが最初で最後だと思い込んでいた。
嘘みたいだ。
柏木慎一郎が、ぎしぎし言ううちの廊下を、歩いている⋮⋮。
便所スリッパで。
﹁どうぞ、こちらへ﹂私を背にする母はダイニングへ柏木慎一郎を
促し、﹁真咲。あんたは部屋に入っておりなさい﹂ときつい目で見
る。
﹁いや﹂
入りかけた彼が視線をよこし、それを遮った。
﹁良ければ、彼女にも居てもらいたいのだが﹂
母はなにも言わなかった。
入り口から遠い上座に柏木慎一郎をかけさせ、差し向かいに母が
座る。私は、母の隣に。
柏木慎一郎を除けば私たちの座る位置が日頃と変わらない。
身を屈め、かばんを床に置き、柏木慎一郎はテーブルのうえに両
指を組み合わせる。
それを見て、私は出しかけた手を引っ込めた。
﹁こちらには、出張かなにかでいらっしゃったのですか﹂
母の声に険が含まれている。表情はさほどでもないが。
﹁なに、所用でね﹂
プライベートなのだろうか。
スーツの上下だけれども眼鏡が学校とは違う。シルバーフレーム
だがよく見ればハーフリム。レンズの下部分がフレームに囲まれて
いないタイプの、洒落たデザインが少々意外で、おしゃれだった。
袖口からさりげなく覗くカフスボタンも、遠目では薄い水色に見え
1008
た、白とブルーのピンストライプのワイシャツも。
﹁地元に戻っていたんだね。知らなかったよ﹂
﹁ええ。一年半前に。ですが、どうして。⋮⋮柏木さんは、木島を
ご存知なのですか﹂
﹁邪魔するわ﹂
理知的なレンズ越しの眼差しが私の左側に走る。
彼が回答するのを、廊下からやってきた祖母が割って入ったかた
ちだ。
⋮⋮使い古した、よりによって母と色違いの薄グリーンのエプロ
ンなんかして。そういえば、母は、外している。
茶を振る舞われ柏木慎一郎は頭を下げた。﹁朝早くからお邪魔し
てすみません﹂
﹁なーんも﹂これは田舎のひとの口癖だ。﹁遠いところをよう来て
くださいました﹂
柏木慎一郎の左の、窓とテーブルのあいだから回りこんで、祖母
は、私と母にお茶を出す。母が目前に置かれると私のほうに回した。
続いて置かれた湯のみを自分側に寄せる。⋮⋮一刻も早く祖母に出
ていって欲しい母の気持ちが見えた気がした。その母の意を汲んで
か、
私の後ろを通り最初の位置に戻った祖母は、柏木慎一郎に向けて、
秘書嬢のごとく、一礼する。
﹁狭いところですが、どうぞ、ゆっくりしてってくだされ﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁お、ばあちゃん﹂
﹁なんやの﹂
﹁ここに、居てくれないの⋮⋮?﹂
心細さが声に出た。
私は母とは違い、
この場に祖母が居るものと思っていた。
それがふさわしいと思っていた。
1009
だが祖母は長い袖を気にしそれを捲り、﹁昼からお客さん入っと
るからねえ﹂平然と言う。﹁⋮⋮美雪はゆっくりしとって構わんよ。
あのくらいやったら二人で回せるさけ。ほぅら、親子水入らずで話
したいこともあるやろから﹂
この土地のひとに一を訊くと五は返ってくる。
珍しく言葉少ない祖母だったが、いまのは十以上だ。
私は柏木慎一郎の顔色を見た。
青ざめて見えた。動揺を抑えるように、口元を押さえていた。
やっぱり、とその顔に書いてある。
﹁時間あったらおじいちゃん連れてくるわ。三人で朝市でも見てき
たらどうかねえ。美雪。柏木さんに緑川を案内して差し上げなさい﹂
言うだけ言い祖母は舞台を去る。
失言をしたことには気づかずに。
私は、再び柏木慎一郎を見た。
熱い茶など手をつけられるはずもない。
理解はしたのだが解釈に時間がかかるのか、情動に思考が追いつ
かないのか。
教授のときとは違った、動揺を私に晒していた。
どうしてだか、それが、初めて私に晒した、
父親らしい、姿だった。
天を仰ぎ、指輪をはめた手で一旦顔を覆う。すこしの間ののち柏
木慎一郎は意を決し、うちの母に向き直った。
﹁美雪さん﹂
母は、柏木慎一郎の変化に気づいていたが、理由まで読解してい
ない。
その母に、
﹁彼女は、僕の子、なんだね﹂
理解した真実を突きつけた。
1010
動揺が、母に、乗り移る。
十八年強隠し続けてきた事実が、その年数分隠し続けてきた相手
に、暴露されるのだから。
絶句する母に、柏木慎一郎が畳み掛ける。
﹁親子水入らずと仰ったのはきみのお母さんだよ。僕が居るのにも
関わらず﹂
あっ、と小さく母が呻いた。
首を振り、まだ熱い湯のみに手をやる。﹁母は、⋮⋮年だから、
言い違えたのよ﹂窓の外を見る不自然な挙動。愚鈍な私にも明らか
なのだから、柏木慎一郎の眼ならば、絶対だ。
彼は、その方面のプロフェッショナルなのだから。
ちょっとした言い違いやどもり、挙動、⋮⋮目配せ。閉じた口内
に潜む舌の微細な動き。まつげの揺れからも思考を読み取れる。閉
会を宣言します、と開会に先立ち高らかに宣言した議長の話は有名
だが、フロイトの挙げたその分かりやすい例でなくとも、潜伏する
欲動の現れる瞬間を、私たちはしばし目撃する。
﹁彼女に出会ったのは、去年の夏だ﹂
柏木慎一郎の声からは、すでに、動揺が消え去っている。
﹁オープンキャンパスに参加した学生のうちのひとりだ。それだけ
ならば、もしかしたら、僕の記憶に留まらなかったやもしれない﹂
テーブルのうえに指を組み合わせ、私と母を順に見据えるの挙動
は、カウンセリングを受けている錯覚を私に与えた。落ち着いた声
といい。
﹁しかしね、質疑の時間に真っ先に挙手をした。そして、その後学
内の公園で見かけた。⋮⋮思い出さないわけがないだろう?﹂
柏木慎一郎は、過去の恋人に語りかけている。
﹁二十年の時を経て、きみがタイムスリップしてきたかのようだっ
たよ﹂微笑みを維持したまま、やや近すぎた湯のみを置き直す。﹁
⋮⋮とはいえ、それだけできみと彼女が繋がるとは到底考えない﹂
﹁ならどうして﹂
1011
﹁見たんだ。駅前できみが彼女と居るのを﹂
結論を急かす母に対し、あくまで柏木慎一郎は冷静だ。
一方、私は心臓が早鐘を打つのを止められない。熱茶など喉を通
るはずもない。
﹁改札から離れ、向き合うきみたちを見た。親子だと直感した。深
刻に話していたから気づかなかっただろうけれど、僕は、きみの傍
を通ったんだんだよ﹂
いまは私に語りかけている。
﹁柏木慎一郎が責任がある︱︱きみの声が聞こえた。確かめようと
したが、改札のなかへ消えた。追いかければ良かったのだが、⋮⋮
すまない。生憎、カウンセリングの予約が入っていてね﹂
クライエントとの約束は絶対だ。
なにを置いても優先される。
﹁美雪さんがもし、東京で暮らしているのならば、⋮⋮僕の出る幕
は無いと思っていた。仮に、きみが入学し、僕が名乗りでるとした
ら、多大な迷惑をかけることになる。だが、﹂
私は受験しなかった。センター試験の成績が悪く。
不合格に等しいそれに柏木慎一郎は触れなかった。
﹁他にも、気になる点があった。きみの制服がこの辺りの、︱︱大
学の近辺の制服で無いことも。苗字が都倉姓というのも。⋮⋮そこ
で、僕は初めて分かったのだよ。美雪さんの出身が石川県という以
外、僕はなにも知らない。知らないで生きてこれたのだと。
﹃責任﹄がなにを意味するのか。きみの声が耳について離れなかっ
た。知る手がかりは、⋮⋮美雪さんが勤めていたという、木島商事
を頼る以外に方法が無かった﹂
﹁まあ﹂母は頬を押さえた。少女みたく。﹁やっぱり、行ったのね、
木島の宅へ。どうしましょう﹂
﹁きみと僕に共通の知り合いでもいれば話は違ったのだが﹂ちらり、
柏木慎一郎は母を一瞥する。﹁町田で学会があったのでね、その前
に立ち寄ったんだ。都倉さんをご存知ありませんかと尋ねたところ、
1012
⋮⋮﹃知りません﹄の一点張りだった﹂
茶を静かに飲む柏木慎一郎に対し、母の顔色は蒼白だ。
﹁なんてことをしてくれたの、柏木さん﹂
﹁会社はお休みのようだったから母屋に回ったんだが、⋮⋮まずか
ったかね﹂
知るはずもない。
木島と血の繋がらない子を産んで、母が二十年来冷遇されてきた
ことなど。
﹁そうか﹂母の顔色からなにかを読み取ったようだ。テーブルに手
をつき、
﹁すまない﹂
深々と頭を下げた。
﹁い、え。⋮⋮宅の事情です。柏木さんには関係がありませんから﹂
﹁どうやらブラックリストに入ったようだ﹂なにが可笑しいのか、
柏木慎一郎は笑う。﹁インターホン越しに話しかけても、電話をか
けてみても僕の名を出せば切られてしまう。梨の礫だったが、
誰が、きみたちのことを教えてくれたのか︱︱分かるかい﹂
あのときも、いまも。
答えを求める私は無言で首を振る。
母娘二人の反応を確かめ、やがて、柏木慎一郎は告げた。
﹁木島義男さんだよ﹂
意外過ぎる人物に、目を見張る。
﹁父が⋮⋮﹂
﹁玄関先から立ち去る僕を、追ってきたんだろう。息を切らしてね
⋮⋮。僕よりも慌てていた。木島義男さんが、教えてくれたんだ。
きみたちの住所と連絡先を﹂
お父さん⋮⋮。
1013
胸が潰されるようで、切なく、押さえた。
﹁それにしてもね。僕は木島さんに名刺をお渡しし、素性を明らか
にした。とはいえ、突然に現われた見ず知らずの者に対して、二人
の居所を喜んで明かすだろうか。娘を持つ父親なら、男性の訪問者
に特に過敏だ。⋮⋮僕が訪問者を装い嘘をつくことなど、いくらで
もできたのだからね。つまりは、⋮⋮思えば。木島義男さんは僕が
誰なのかを知っていたと見当がつくのだが、違うだろうか﹂
母が必死で首を振るのも、意味を成さない。
肯定しているように見えてならない。
詳しくはこちらも訊かなかったのだけれど、と前置くと、熱茶を
柏木慎一郎は一口口に含む。この場で唯一、お茶を口にしている。
﹁木島さんと美雪さんが連れ添ったのは分かった。ならば、木島姓
を名乗らないきみも美雪さんの郷里にいるのだと、確信した。
⋮⋮きみを思うと、ある予感が止められなかった﹂
身を乗り出す、柏木慎一郎は、
﹁手を、︱︱見せてはくれないか﹂
穏やかに語りかける。
母が血相を変える。﹁真咲っ﹂
私は母に従わず、
隠していた両の手を、父親に、晒した。
柏木慎一郎の手が、私に伸びてくる。
両の手を、震える、冷たさとあたたかさが介在するその皮膚で、
捉えられている。
手のひらをうえにしていたが、手の甲側に返し、確かめる。
﹁ああ⋮⋮﹂
両の手を包まれ、柏木慎一郎が顔を寄せる。
﹁どうしたって、似ている。まるで、同じ、﹂
言い切れず嗚咽する。
1014
熱い彼の激情と血脈が、肌を通して私に、雪崩れ込んでくる。
﹁どうして、僕は、嘘だと思わなかった、んだ。⋮⋮夢を追って欲
しいと、離れた、美、雪、さんのことを。⋮⋮とんだ、馬鹿だ。⋮
⋮隠し続けて、育ててくれたと、言うのに﹂
﹁泣か、ないで。泣かないでください、柏木さん﹂
私の震えよりも彼の震えが大きくなる。
隣の気丈な母を頼る、はずが。
もはや化粧総崩れで泣いている。
﹁ごめん、なさい。⋮⋮柏木さん﹂
母の言葉で、私の腕に雫が落ちる。
それが柏木慎一郎のものなのか、私のものなのか、もはや分から
なかった。
柏木慎一郎が首を振る。
髪に隠れて見えないが前髪が濡れている。
﹁泣か、ないで、ください。柏木さん。⋮⋮泣くような事態じゃ、
全然、ないんです﹂私が言うのは筋違いかもしれないけれど。
苦労したのは母だから、だが母は、口に消える状況には無い。
擦り切れるまで繰り返した彼の声。
思い返して涙した彼の存在。
笑顔。
穏やかな語りかけ。
理解してくれる、姿勢そのものが。
目の前に存在する。
﹁あ、会えるだけで、十分、なんです。⋮⋮二度と、会えないと思
って、いました。大学、落ちちゃいましたし。⋮⋮あ、ほかの大学
には受かりました﹂
笑おうとしても、壊れた機械みたく、笑えない。
柏木慎一郎の顔はあがらない。
﹁想像されてるより全然ハッピーなんです。だから、⋮⋮悲しまな
いで、ください。あんまり悲しんでばかりいると、私の存在が、悲
1015
しいことに、なってしまいます、から﹂
﹁真咲﹂
頭の後ろから抱かれ、
いつかぶりに母の胸で思い切り泣いた。
両手を、柏木慎一郎に守られながら。
1016
︵2︶
﹁お母さん鍵開いてるよ﹂
﹁失礼をする﹂
ドアを三度ノックするのが母だけでないと少しは学習すべきだっ
た。
振り返れば柏木慎一郎。
この事態に、全身の毛穴が開くかと思った。
﹁本が、多いね﹂脱いでいた背広を片手に持って部屋に入る。入り
口から見て真正面と、左手の本棚が目につくのだろう。﹁⋮⋮全部
自分で集めたのかい﹂
と言う柏木慎一郎の視線が室内を一巡する。
﹁ええと、そうです、一応﹂
あちらの本棚には手付かずだが、押し入れにこっそり仕舞い込ん
でいたぶんと勉強机の本だけは段ボールに詰め終え、部屋の隅に積
み上げている。
この午前中でプラス三箱うえに積んだ。トータルで六箱。
以外に、引越しの準備に目立った進展が無い。
﹁⋮⋮心理学に興味があったんだね﹂
﹁はい。小学生の頃から、小此木先生や河合先生の著書を読んでい
ました﹂彼が横目に通り過ぎる本棚には、赤本など大学入試の資料
を詰め込んだままの状態なので気恥ずかしさを感じるものの、私は
箱に向かう体勢から座り直した。﹁子どもにも分かるように、表現
を噛み砕いた解説本が多く出されていますし⋮⋮﹂
﹁恵まれているね僕らは﹂室内をL字に曲がる、柏木慎一郎の顔の
位置が高い。スーツのパンツに縦に綺麗なプレスが利いている。﹁
彼らの世代だったら、原著のハードカバーを読み込むものだったが
いまや和訳やペーパーバック版などが手に入る。フロイトの著作な
1017
んか特にね﹂
﹁はい。⋮⋮助かってます﹂
専門書の類は、一冊二三千円どころか五六千円のものもザラだ。
重さも極端だけれど値もかなり張る。こないだ買おうとしたのな
んか七千円もした。諦めた。
﹁これからもっと助かるだろうね。大学の図書館も有用だよ﹂
私の思い至ったところを推察し、柏木慎一郎が接近する。
思い切って言ってみた。
﹁柏木さん。いきなり部屋に入って来ないでくださいよ﹂
﹁断りを入れたつもりだったが﹂
頭に手をやり、あぐらを組んで座る。
まさか、柏木慎一郎と軽口を叩く日が来るとは。
胸の奥がつんと痛くなる。
﹁⋮⋮話し合いは終わったんですか﹂
﹁うん。昼のお客さんが落ち着いたら、美雪さんが呼びに来る﹂
壁掛け時計が十二時を示す。
五時間近くも、祖父母と母との話し合いが続いていたのだ。私は
その間、自室で荷物整理をしていた。無論、ちっとも捗らず。
柏木慎一郎の表情を伺い見ても、その内容が読み取れない。
私に関するものだったには違いないけど⋮⋮。
対面する柏木慎一郎が、こちらの興味関心に気づき、静かに見つ
め返す。
瞳に、濁りのないひとだと思う。
年齢を重ね積み重ねる経験から来る自信、驕り⋮⋮
それらとは無縁の、清廉なひかりをたたえた瞳の美しさを持って
いる。
よく見れば若干グレーがかった、異国の血を思わせるいろを交え
ている。
ときを止めて欲しいと願う、一瞬だったのだが。
私の腹の音がかき消した。
1018
よりによって、轟音に等しい。
﹁⋮⋮聞こえ、ました?﹂
柏木慎一郎がやわらかく笑む。
アウトだ。完全、ダウトだ。
﹁お腹が空く時間だね。下に、声をかけてこようか﹂
﹁いえ﹂腰を浮かしかけた柏木慎一郎を私は手を横に振り制した。
﹁空いてるってほどじゃないんです。いつも、学校だと十二時過ぎ
にはお昼を食べるからその、胃が生理的反応を示しただけで﹂
﹁朝ごはんちゃんと食べてる?﹂
﹁苦手なんですが、一応は⋮⋮﹂
﹁引越しの準備をしているところを邪魔してすまないね。手伝おう
か﹂
﹁いいえ、大丈夫です。⋮⋮この部屋、六畳なんです。住んでいた
のがほんの一年半なんですが、段ボール十箱じゃ足らないんです。
まだまだ、入りきらない荷物があって⋮⋮﹂
﹁箱詰めをしてみれば一人暮らしでも二十箱くらいゆうに超えるも
のだよ。特に、読書家のひとならね﹂
﹁どうしてだか、東京を離れたときよりも増えてしまいました﹂
﹁いい日々を過ごしたんだね、きみは﹂
﹁⋮⋮そのとおりです﹂
重たい荷物を背負ってしまった。
こころなしか、柏木慎一郎の眼差しが感慨深げに見える。私は彼
の視線を追い、部屋を見回した。生活感を残しつつも旅立ちの気配
を漂わせる、出会いと別れの狭間の雑然を。
来たときは廃屋同然だった。自分なりにやりくりし、家族の手を
借りベッドなどを買い入れたりして、⋮⋮住めば都。住みやすいよ
うに築いた、自分なりの城だった。
﹁捨てよう、と思い切れないものがあるなら、残しておくのも手だ
よ﹂
突然に言う柏木慎一郎の口許に皺が寄る。私はそれを見ながら答
1019
えた。﹁祖父との交渉次第ですね。この家のスペースに限りがあり
ますので﹂
含み笑いをそのままに、立てた指二本でそっと、顎の下をなぞる。
﹁このまま部屋を放置して引っ越してしまえば、二倍のスペースが
手に入る﹂
﹁悪いことを言いますね、柏木さん。悪い道に誘っているんですか﹂
﹁要らないものは買わないようにしましょう、使わないものなら捨
てるかリサイクルに出しましょう、⋮⋮﹂その片手を持ち上げ、お
どけて耳のほうを指す。﹁この手のことなら街頭でも叫ばれている
し耳に栓をしていても聞こえてくる。超自我が鍛えられた方だと見
込んでね﹂
﹁私の自我を懐柔されるおつもりでしたね﹂
﹁ああ⋮⋮﹂柏木慎一郎が膝を叩いた。﹁小学生の頃のきみにも、
会いたかった⋮⋮﹂
笑い混じりの言葉とは裏腹に、本音が。
巻き戻せない時間を嘆く人間の性が、あまりにも悲しく響いたも
のだから、
私は、押し入れの下段に入れていた段ボールを引っ張り出し、彼
と私との間に置いた。
﹁これなら会えますよ﹂
﹁テニス部に所属していたんだね﹂
﹁はい。⋮⋮万年補欠でした。運動が苦手ですし、日焼けすると肌
が悲惨で。色黒にならないで頬の、この辺が赤くなっちゃうんです。
かといって、日焼け止めもあまり強いものを使うと、かぶれちゃい
ますし⋮⋮﹂
﹁敏感肌か、お互い苦労するね﹂
同調を示し、またアルバムに目を戻す。
例えば友だちのお家で小さな頃の写真を眺めてる好奇だとか、自
1020
分が映ってるのを探す興味とも違う。
講義をしていたあの夏と共通する、真摯な紳士を目の当たりにし
ている。
他人の子どもに向ける気軽な話し方をしているけれども。
思考の速い人は当然動作も速く。比較的新しい高校のアルバムに
までたどり着いていた。﹁きみを初めて見たのは、この夏服だった
ね﹂
﹁はい﹂ポロシャツに、紺と濃緑のチェックのスカートを合わせた
地味なものだ。﹁引っ越してきた頃は、前の学校の制服がすごく気
に入っていて、抵抗あったんですけど、着てると段々、愛着が湧い
てきて﹂
この場から離れる実感が沸かない。
だからといって、片付けの進まない理由にはならないのだが。
大人になるとこんな言い訳が増えてしまいそうな、そんな予感が
ある。
﹁昨日が卒業式だったんだね。おめでとう﹂
﹁ありがとうございます﹂
目を合わせ、微笑み、再びめくる彼の手が︱︱
止まった。
やや目を見開いている。
﹁どうか、なさいましたか﹂
﹁いや。彼氏がいるのかと思ってね﹂
﹁いませんよそんなの﹂
一笑し彼が見ていたものを覗き見る。それは、
安田くんが卒業式の日にプレゼントしてくれたうちの一葉だった。
去年の四月に︱︱三年生に進級したての頃に、卒業アルバムに載
せる部活紹介のページ用に写真を撮って貰った。撮影場所はどこで
も選べるのだが、全員、
﹁パソコンルームで﹂
同じ場所を選んだのが私には嬉しかった。気持ちが通じあってる
1021
みたいで。実際、日々を過ごした思い出の空間だった。
学校に雇われたカメラマンが撮る横で、安田くんも撮ってくれた、
のだが、
端っこに居る私の肩に和貴が腕を回している。
私に触れておらず、いわばエアー抱き寄せみたいなもんだけど、
写真で改めて見ると目を引くし、それにそんなことされてるの、
﹁全然、⋮⋮気づきませんでした﹂
﹁彼、よくきみと映っているよね。いつも左側に立っているから目
を引くんだ。うん⋮⋮左利きだ﹂柏木慎一郎は指紋をつけないよう
手早く捲る。ひと通り見てから、彼は私の目を見、断言した。
﹁僕の見立てでは、彼は、きみに好意を持っている﹂
﹁冗談やめてください﹂
﹁これなんかどうだい。他の三人がピースしてるのにきみたち二人
だけパーを出す。⋮⋮負けることに抵抗が無いのかな。同じポーズ
を取ってばかりだよね。真似る言動に、きみに対する親和的欲求の
ほどがうかがえる﹂
﹁それってあれですか。好意を持つ相手の仕草を無意識に真似る⋮
⋮﹂
﹁試すこともできるのだよ。もし、彼と差し向かいで座る機会など
があったら、飲み物に口をつけてごらん。喉が乾いていなかったと
しても、彼も飲み物に手を伸ばすはずだ﹂
﹁柏木先生。プロファイリングかなにかみたいですね﹂
﹁僕は、きみの先生では無いよ﹂
う。
言葉に詰まる私に、微笑みかけている。
これぞ大人の余裕。
されど首元がきついのか、第一ボタンを留めた襟ぐりに触れる仕
草をした。
真似したくなったが、押しとどめる。
1022
﹁⋮⋮あの﹂
代わりに、
﹁迷惑じゃないんですか。自分の知らないうちに、こんな子が育っ
ていて、しかも突然、あなたの子です、なんて言われて﹂
疑問を口にする。
柏木慎一郎は無言で封筒を段ボールに戻した。
言いなさい、と目で促されている気がした。
﹁母が、私に打ち明けたのは去年の夏でした。⋮⋮偶然、私が、柏
木さんの名前を出したからであって、私が家を出る直前まで、黙秘
を貫くつもりでした﹂
去年の、七月二十四日だった。
和貴の家に案内され、混乱した気持ちがほぐれ、あたためてもら
った︱︱
そんな機会など今度二度と訪れない。
﹁木島の父は、事情を知っていながら母を選びました。お話を伺う
限りでは、祖父母もあなたのことを知っていたのかもしれません﹂
門前払いをされたとさっき彼が語っていた。﹁木島の親族は、私が
木島と血の繋がりのない以外になにも知らなかったようです。私は
親戚のなかで不自然に浮いている感じがありましたが、貰われっ子
だとか連れ子だとかちっとも言われませんでした。⋮⋮子どもであ
れば先ず育ちの問題をからかうものなのに。田舎の出身だから言わ
れる節はありましたが。私の出生を母がひた隠しにしたのは、意志
があってのことだと思います。
もし、私が東京に居る頃に知っていたら、⋮⋮あなたを訪ねてい
た﹂
突発的に動いた夏の日のように。
﹁柏木さんの家庭に要らないさざ波を立てる要因になったかもしれ
ない。特に、⋮⋮母は自分が離婚を経験したからこそ、同じ想いを
あなたにして欲しくなかった。
なんとなく、母の気持ちが見えてきたんです。⋮⋮ですから﹂
1023
決意を告げるとき、
柏木慎一郎が滲んで見えた。
﹁明日から、私のことを忘れてください﹂
それまで落ち着いて聞いていた柏木慎一郎の目の色が変わった。
音を立てて崩れるプリズムのように。
﹁私は、存在を知って頂けただけで十分です。下でうちの家族がな
んて言ったか分かりませんが、柏木さんが巻き込まれる必要は⋮⋮
不幸になって貰う必要なんかありません。母の独断です。育ったの
は私の勝手です。ですから、東京に戻ったら忘れて頂きたいのです。
今後一切、関わらないほうが、柏木さんのためだと、思うんです﹂
膝のうえの拳が震えている。
言うだけ、言った。
ため息までも震える。
﹁︱︱ふ﹂
ふ?
﹁はははは﹂
面食らった。
涙する場面はあれど、大学教授らしい言動を貫いていた、柏木慎
一郎が、高い声で笑っている。
﹁ど、どうしたんですか。私、なにか、変なことでも⋮⋮﹂
﹁ああ、すまない﹂
目尻に溜まる涙を拭うけれど、どこがツボに入ったのだろう。
﹁驚いてしまってね。どんなことを言われるのか想像していたが、
予想外だったよ﹂
1024
お腹を押さえていた柏木慎一郎は、姿勢を正す。
﹁⋮⋮恨まれることがあれど心配されるとは、まったく⋮⋮そうい
うところは美雪さんにそっくりだ﹂
﹁恨む。私が柏木さんをですか﹂
全く理解できない。
﹁十八年間放ったらかしにしていた男がのこのこ父親面をして現わ
れた。きみは、憤りや腹立ちを感じないのかね。⋮⋮美雪さんは言
及を避けたが、美雪さんが木島家を離れたのは、僕が関係している
のだろう。木島義男さんが僕を知っていた時点で、その可能性は、
高い。ならば、僕はきみたちの東京にあるはずの生活を奪った、そ
ういう存在だ。僕はこれまできみたちの存在も苦悩も知らず生きて
きた。きみは、僕が、憎く思えないのかね﹂
﹁憎いだなんて、とんでもない⋮⋮﹂
﹁僕がきみの立場ならば、怒り狂う﹂
﹁私、まだ、⋮⋮信じられないんです。著書でしか知らなかった柏
木慎一郎と、血の繋がりがあるだなんて。父には申し訳ないんです
が、嬉しかったんです﹂
日本では稀有な、フロイト派の臨床心理士。
憧れていた存在と話せているのに、ふわふわとした夢見心地だっ
た。
﹁ひとつ、誤解があるようだから、言っておこう﹂
彼の指を見るたびに似ていると私は認識する。
﹁僕の家庭のことは僕の問題であって、幸か不幸かを決めるのは、
僕自身だ﹂
すとん、と突き放された気がした。
語調は穏やかであれど、
僕ときみとは違う人間なのだと。
﹁︱︱家庭というのは、美雪さんの家庭も含めてだ﹂
私は柏木慎一郎の顔色を窺った。
彼は、瞳で誠実を語れるひとだった。
1025
﹁きみのこともこれから見届けて行きたい。きみにとって迷惑であ
ったとしても、僕は、そうしたい。それが、きみという存在に﹃責
任﹄を持つことだと僕は考えている﹂
﹁柏木さん⋮⋮﹂
クレパスへと落ちかけたこころを、柏木慎一郎は丁寧に拾い上げ
た。
﹁私からも一つ、訊いても構いませんか﹂
手短に頷く。
﹁柏木さんは、母のことを愛していたのですか﹂
﹁きみにはそれを聞く権利があるな﹂
あぐらを崩し正座に座り直す。柏木慎一郎がそうするから私も習
った。
﹁答えるまえに、昔話をしても構わないかい﹂
アイコンタクトで返す。
真似したくなる欲求を私は体現している。
﹁幻滅するかもしれないよ﹂
﹁構いません﹂
﹁僕は、以前に言った通り親も親戚もみな医者でね、比較的裕福な
家庭に育った。買い与えられるものも不自由せず。そこそこの勉強
で成績が取れるから、あんまり努力というものをしたことが無かっ
た。⋮⋮困ったひとがいれば助けに入る。学校でも家のなかでも優
等生を演じている節があったな。貸したものやお金が返ってこなく
てもあんまり、気にしなかった。また親から貰えばいいのだからね。
ただし、同じ相手には二度と貸さないようにした、その程度のプラ
イドを持っていた。一言で纏めれば、世間知らずのぼんぼん、だっ
た﹂
私は正座をこっそり女の子座りに崩した。
﹁医学部を目指すにあたっては流石に家庭教師をつけて準備した。
けども、入ってみれば、その程度のものかな、と思えるくらいで。
両親が僕に外科医になって欲しい望みを持っていた。望みを叶える
1026
のが息子である僕の勤めだと思っていた。⋮⋮けども。こころの問
題を探求したい、という欲求が湧いた。なぜなら、僕自身が、敷か
れたレールをそのまま進むことに抵抗を感じ始めたからだ。兄も叔
父も従兄弟も医者になった。⋮⋮恩を仇で返す言い方になるけれど、
工場で生産される部品に自分が思えてきたんだ。これは自分の人生
なのだろう? とね。⋮⋮読み始めたフロイトの書籍に僕はのめり
こんだ。時代のはるか先をゆく、先駆者である彼に自分を重ねた。
孤独を、重ねた。こんな自分を理解する人間がいなかろうとも、決
めた道を進む強い意志に、勇気を、貰った。⋮⋮ただね﹂
柏木慎一郎は指先を見た。
かつてメスを握ったであろう指を。
﹁すぐには変われなかった。みんながそうしているから。と、自分
と似た人間に囲まれ、安心していたんだ。臨床心理が僕の望む道だ
というのが明白だったが、⋮⋮他方、なにもせずとも僕の人生が決
まっていると諦めてもいた。付属のマスターに進むことも、卒業後
の勤務先に結婚相手までも。一変するのは、ある日、突然だった﹂
私は生唾を飲み込んだ。
いよいよ、彼の道と母の道が交錯する。
﹁大学で行われたシンポジウムに出席した。一般向けに開放されて
いるとはいえ、僕を含めた出席者のかなりがその大学の学部生だっ
た。彼女とは隣の席だった縁で会話をしたのだが、⋮⋮驚いたよ。
きみのお母さんは、高校を卒業してすぐに上京して働き、親に仕送
りをし、仕事の合間を塗って心理学を勉強していた。
⋮⋮頭を鈍器で殴られた気分だった。自分がいかに、なにも考え
てこないで、与えられる人生を過ごしていたかを痛感した﹂
母もかつて、心理学を志していたのだろうか。
﹁僕の方向転換に家中が大騒ぎだった﹂柏木慎一郎は結論を先に言
う。﹁僕は、⋮⋮籠のなかの鳥よりも世間を知らなかった。⋮⋮彼
女が登場したことで僕が変わったのだと、それは事実だったが、ど
うやって自分たちのことと自分の夢を周囲の人間に認めてもらうか
1027
に、頭が働かなかった。⋮⋮外科医以外は医者でないと見なす家系
だからね。反対される程に僕は頑なに貫こうとした。それは同時に、
説得する手段に思い至らない、愚かさだった。だからね、一度は医
者になろうと思った。⋮⋮一旦向こうの要求を叶えてから自分の夢
を叶えればいい、と。つまり。
外科医になる代わりに、結婚相手は好きな女性を選ばせること。
夢は回り道できても、好きな相手を選ぶことに回り道などできな
い﹂
柏木慎一郎の育った環境がどんなものだったか、私には想像もつ
かない。
交換条件を突きつけねば、自分の望みが叶えられないだなんて。
﹁僕の決断を気に病んだのは、美雪さんだった﹂右の障子窓のほう
から照らす日光が、背後から柏木慎一郎の苦渋を暴く。﹁僕が米国
に渡航する前日に、彼女は僕に別れを告げた。⋮⋮東京を離れるこ
とを明かし、自分のぶんも夢を追って欲しいと告げ、僕の前から姿
を消した﹂
薬指に触れるのは無意識にだろうか。
﹁皮肉にもその日に、僕は、指輪を渡すつもりだった。
待っていて欲しい、と。
⋮⋮質問に答えると、ああ、愛していた。
彼女の本心を見抜けず、悲劇の男とばかりに酔いしれていた、過
去の自分を殴り倒してやりたいね﹂
﹁⋮⋮柏木さんが結婚された相手というのは﹂
﹁親が決めた相手だ。⋮⋮僕には勿体無いくらいのひとだ﹂
憤りから対極の情感に満ちる。
その瞳を見て悟る。
柏木慎一郎と母が復縁する可能性が無いことを。
﹁東京に帰ったら、家内に話すつもりだ﹂柏木慎一郎は手首のほう
を見る。袖から覗く、黒い文字盤のロレックスに。
﹁いつ、戻られるんですか﹂
1028
﹁今夜だ﹂
﹁今夜!﹂
大声を出したせいか、曖昧に柏木慎一郎が笑う。﹁すまないね。
⋮⋮急に邪魔したうえに、こんな短時間しかいられなくて﹂
﹁いえ⋮⋮﹂
子どものように拗ねたり甘えたりしてみたかった。
けども、そんな顔をされては、なにも言えなくなる。
﹁真咲。柏木さん。⋮⋮昼食の準備ができましたから﹂
入り口から母が顔を覗かせた。ノックをしていないが﹁はい﹂と
私は答えた。
﹁いえ。僕はこれで失礼を﹂
腰を浮かし、この場を辞しかけた柏木慎一郎の腕を、掴んで引き
留めた。﹁柏木さん。こちらにいらしたのは初めてですか﹂
﹁そうだよ﹂
﹁緑川で食べるお魚は絶品ですよ。向こうで取れるものとは鮮度が
違うんですから﹂
私たちを先導する母の目が真っ赤だった。
どこからか分からないが、聞いていたのだろう。
午後の一時半。
大きいけれども五人ではやや手狭なダイニングテーブルを囲んで
頂く遅めの昼食は、少なめの海鮮丼に、私のちょっと苦手なウニが
豪勢に乗っていて、罪滅ぼしのつもりかハンバーグまで出されて。
寡黙な祖父が柏木慎一郎にしきりに話しかけていて、
答える柏木慎一郎の関節の太い指が優雅に動き、指輪が鈍くひか
り、袖から突き出た手首の骨が覗いて。
どれもが胸をいっぱいにさせ、お腹を鳴らしたはずの私は食事が
ほとんど喉を通らなかった。
1029
︵3︶
﹁すっかり長居してしまい、すみません﹂
玄関先にて、神妙な面持ちで深く頭を下げる。﹁⋮⋮告白します
と、追い返される覚悟もしていました。突然の訪問にも関わらず迎
え入れられ、食事までご馳走になり、恐縮しています﹂
﹁あんたがおらんかったら真咲がこの世におらんかった。⋮⋮わし
は感謝しておる﹂
﹁おじいさんが素直になるたぁめっずらしい。槍でも降るかもしら
んわ﹂
﹁じゃっかあしい﹂
﹁私、柏木さんを駅まで送ってくる﹂
﹁僕はこれで。さようなら﹂
のんびりとした柏木さんの腕を掴み、玄関を出、扉をスライドし
て一息つく。
﹁焦る必要は無いよ﹂
﹁いいえ。祖母に捕まると、長いんです﹂
祖母は柏木慎一郎を相当気に入ったのか、というか好みだったの
か。小学生の廊下のワックスがけみたいにトークが止まらず、遠い
昔の祖父との馴れ初めや母の子どもの頃の話までし出す饒舌ぶりだ
った。
この家ではみんな忙しいから、誰も祖母の長話などを相手しない。
それこそ祖母と似たもの同士の茶飲み友達しか。しかし、偏見も交
えて言うなれば、老女の話は一方通行と言うもので︵ときどき変に
噛み合う︶、それに比べれば自己主張を一切せず、﹁ええ﹂﹁そう
ですね﹂などエレガントに相槌を打つ柏木慎一郎など、お姫様が待
ち望む王子様に等しい。
昼を過ぎていたがこの裏通りには、怖いくらい人がいない。
1030
﹁帰りは飛行機ですよね﹂私は柏木慎一郎を振り仰いだ。﹁何時の
便ですか﹂
﹁午後七時のだ﹂
﹁七時! ぎりぎりじゃないですか﹂陸の孤島の緑川、受験で行き
来していたからバス飛行機の連絡はほぼ記憶している。﹁畑中での
乗り換えがあるから、⋮⋮本当にぎりぎりです。あと二十分でも遅
かったら夜行バスでしたよ﹂
﹁僕は、きみのお祖母さんのお話をもう少し聞いていたかったよ﹂
苦笑いが漏れた。
冷静に言ってのける柏木慎一郎は、焦燥の類とはおそらく無縁の
ひとだ。
東京から飛行機で午前の七時に緑川に到着するのは不可能。車を
運転するか、途中で泊まるかしない限り。
柏木慎一郎は皺の寄らないスーツで、講義のときと同じく薄い皮
のかばんひとつと、身軽だった。
﹁夜行バスで来たんですよね。からだが疲れていませんか。私、初
めて乗ったとき足がすごく浮腫んで、ぱんぱんになっちゃいました﹂
﹁こまめに水分を取ることと、血液の流れを止めないようにするこ
とだね。眠っていると難しいけれども、かかとの上げ下げをするだ
けでも効果がある。深部静脈血栓症といって、座った姿勢を保ち続
けると足の静脈に血の塊ができ、肺に流れついて栓をしてしまう場
合がある。注意が必要なんだ﹂
﹁先生⋮⋮﹂
﹁僕はきみの先生ではないよ﹂
それを分かっていても。
そこまでして、⋮⋮忙しいに違いない時間をやりくりして、来て
くれた。
この想いを、相手に負担のないように伝える手段が、浮かばない。
分かれ道に来た。家の前から続く小道からの分岐点に。ここで右
の国道に出るのが一般的なルートなのだが、柏木慎一郎は左を選ぶ。
1031
民家の間を縫う、道幅は世田谷より断然広いが、それにしても世田
谷の住宅街みたく迷路に迷い込んだかの、分かりづらい路地裏の道
筋を。
学校から図書館まで裏道をたどった自分を重ねる。
﹁行きも、こちらの道から来られたんですか。国道を使わずに﹂こ
れでは私が案内しているのかされているのか果たして分からない。
﹁そうだね﹂
﹁よく、道が分かりましたよね。来たのは初めてなんですよね⋮⋮﹂
﹁方角と途中の景色を覚えていれば難しくはないよ﹂
﹁それができないんです。柏木さんは、頭のなかに地図を描けるん
でしょう?﹂
﹁描いてはいないな。道筋があり、途中で見た景色が写真のように
所々貼りついている﹂
﹁それを、俗に、地図を描く、というんです﹂
隣を見た。
肩の位置が高い。腕を振るたびに彼からは、お香でも焚いたよう
な、不思議な、いい香りがする。
﹁⋮⋮先生﹂
またも分かれ道を迷わずに進む。﹁困り事か相談事?﹂
笑って言う柏木慎一郎は、呼称に触れなかった。
﹁両方です﹂
﹁僕で相談に乗れることならなんでも乗ろう﹂
﹁聞いて貰えるだけで、いいんです﹂
﹁分かった。言ってごらん﹂
﹁気になるひとが、いるんです﹂
言った。
本人にも、母にも言えないことを。
1032
﹁そのひとは、⋮⋮私とは違う。太陽みたいに明るいひとで。人懐
っこい猫みたいなところもあるけれども、たまに、警戒心むき出し
の一面もあるし、他人みたく冷たく振る舞うことも、あったし、あ
あでも彼なりの考えがあって、で、⋮⋮どう言えばいいのか分から
ない、言葉にすると逃げていくような、正体不明の掴めず憎めない、
結局のところ、まぶしいひかりみたいな存在です。
﹁そのひとには、好きなひとがいます。
﹁⋮⋮私に面と向かって言ったので、望み薄です。⋮⋮ゼロです。
﹁私が、彼を想う気持ちが本物だったら、⋮⋮この町に残る、彼の
近くにどんなかたちでも居られることを選ぶと思うんです。ストー
カーみたいですかね。でも、残ろうとは思わないんです。この町は、
私にとっての第二の故郷なのに。大学に行くことしか頭に無かった
んです。彼への気持ちと両立して考えられなかった。⋮⋮だから、
自分の気持ちもその程度だったのかな、と、がっかりもしているん
です。
︱︱きみの思うところの恋や愛とは。
﹁相手の常に傍に居て愛情を慈む。⋮⋮例えば花に水をあげるよう
なものかな﹂
﹁そうです。他のなにもかもを犠牲にできるのが、⋮⋮恥ずかしな
がら、真実の愛だと思っています。
﹁愛情とは幻想だ。思い込みの一種だよ﹂
﹁分かって、います。
本当は分かっていない。
1033
思い込みの因果で自分が生まれてきたとなど考えたくなど無い。
﹁きみは、将来への希望と、現在の執念とを天秤にかけているんだ
ね。⋮⋮どの程度思い入れがあれば願いが叶うかなど、決まっちゃ
いない。このくらい思い込みが強ければ相手にふさわしいなどと、
誰も決められやしない。行動に移すか否かが問題だ、或いは、訪れ
た幸運をものに出来るかがね。
きみの、考えうる最も悪い事態はなんだろう。
彼が、きみ以外の相手にしか眼中が無い事態だろうか。
それとも、仮に︱︱
彼も同じように想っていた場合に、きみが彼を置き去りにする結
末だろうか。
⋮⋮この可能性を加味してみないと、きみの過多な罪悪感に説明
がつかない﹂
﹁いいえ。そんな﹂
﹁悪い結末を先読みし避ける一面があるようだね。それと、自分の
与える影響を過大視する傾向にも。⋮⋮きみの行動に影響された人
間も、きみと同じように、思考する人間だ。もうすこし肩の力を抜
いて、思うがままに、動いてみるのも吉だ﹂
﹁柏木先生﹂
﹁僕は、きみの⋮⋮﹂
﹁お父さん、と呼んでも構わないですか﹂
風が吹く。
1034
バスが到着した。
乱れた髪を、柏木慎一郎が抑える。
﹁有言実行だ﹂
柏木慎一郎が笑った。
私は、初めて告白した少女みたく。
でくのぼうと化し、
ガラスの向こうに入り、乗車券を買う柏木慎一郎を見ているだけ
となった。
彼の動きはシャープで素早い。
私の前で立ち止まり、
﹁僕はこれで﹂
﹁あ、りがとう、ございました﹂
エンジンがかかる。
どうして別れの場面に、言葉がこんなにも無力なのだろう。
もっと、
言いたいことがあった。
伝えたいことがあった。
私の逡巡スピードが現実の速度より劣り、タラップをきびきびと
あがっていく。
バスの、真ん中らへんの、左列の窓際の席を選んだ柏木慎一郎は、
かばんを置き、私を見た。
手を振った。
1035
﹁あ⋮⋮﹂
動き出す。
決して同時に共存しえない、私とは違う、彼だけの世界へとまた
彼は還っていく。
こちらを窺い見る彼は、なにかを、懸念していた、悲しいような
顔をしていた。
その彼に、叫んだ。
﹁お父さん!﹂
手を振った。
例えば、大好きなひとがするように。
例えば、大好きなひとに対してするように。
バスがロータリーを迂回し、あの彼の姿が見えなくなる。
離れても、手を振り返す様子だけは、伝わった。
来てくれてありがとう、とか。
聞いてくれてありがとう、とか。
いろんなことを話したかった。
積もり積もった感情が、私の目に、確かなものとして溢れてくる。
それらを拭い、残った排気ガスに紛れた空気を吸い、顔をあげた。
あまり、泣いてばかりいると、みんなが心配をする。
けども、みんなはきっと家で、泣いている。
さきほどの道を辿らず、国道の分かりやすい道をたどった。何度
も往復したこの道を。目をつぶってでも歩けるかもしれないこの道
1036
を。
この田舎のひとびとの時間の流れはゆったりとしていて、屋台を
引いてお魚を売るおばちゃん。ふとん屋の二階で大きな音を立てて
布団を叩くひと。そこのミシン屋さんからは居間のテレビまで見え
てるし、あの兄弟はいつも下手なキャッチボールをしている⋮⋮。
この道筋を私という実体がたどる。
実父が柏木慎一郎であり、木島義男を養父に持ち、母と共に十七
年間育てられ、いま、祖父母とも過ごすこの町を離れようとしてい
る。
これが、私だった。
柏木慎一郎の、残されたあたたかさを噛み締めつつ、家に続く道
を進む。
出会いと別れが交錯する道筋を、人生と呼ぶなら、
取り残す側に迫る期日も間もなく︱︱十日後に迫っていた。
1037
︵1︶
﹁はあ、一四日!? ⋮⋮急やなあ⋮⋮。あたしなー思うとってん
けど。うちらおんなじクラスやったやん? ずーっといっしょおっ
たやん? ほやのになして、寄り道とかせんかってんろ。数えるく
らいしかしたことないやん? ⋮⋮あんた、小澤と結構寄ったりし
てったんよね。みずもととか。あぁあ⋮⋮なぁなー向こう行く前に
出かける時間ない? ぱぁーっと買い物でもしようよーせっかく二
人とも合格してんし、お祝いでさぁ﹂
三月八日。
誘いに応じて畑中市に来ている。
﹁四階も見てってい?﹂
﹁いーよ﹂
訪れているのは畑中市で最大級のデパート。⋮⋮といっても、新
宿タカシマヤや横浜そごうに比べれば半分以下の規模の。郊外型の
ショッピングセンターや決して城下町畑中を彷彿する雰囲気でもな
く、ワンフロアがそこそこの広さで、平均的な店構えに思う。二階
三階が若い女性向けフロアなのも他と共通だが、地下二三階が駐車
場というのに土地柄を感じる。
遠方から車で買い物に訪れるひとも多いんだとか。
車ではないが私たちもその一人だ。
畑中市と一口に言っても相当広く、駅からやや離れたこちらの周
縁に二つ三つデパートが、それと若者向けの店が集中している。1
09が存在するのには驚かされた⋮⋮紗優は一番に立ち寄った。そ
この攻略に結構なスタミナを消費した。激しい音楽の渦とちかちか
するライトの感じが。
エスカレーターをのぼり現在立ち寄るのは先ほどより上品な、し
かし聞いたことのない名前で、三越や高島屋に近い雰囲気の、一見
1038
すると高年齢層向けのデパートだが、床が白で家電量販店並みに明
るいフロアの感じにそこそこ慣れていたはずがちょっと抵抗を感じ
る⋮⋮どうやら私も、二年足らずの緑川住まいのあいだに感覚が変
わってしまったようだ。
次の階に突入すると、歩き回る言動がご無沙汰だった私はとうと
う休憩を取った。友達に見てきてていいよ、て言うだなんてこれじ
ゃあ休日の子連れのお父さんと同じだ。お母さんと子どもたちのテ
ンションに置いてきぼりを食らう︱︱
自分の子どもの頃はしゃいだりなんか、したんだろうか、
父もこんな感じで家族サービスなんてしてたのだろうか。
家族なのに﹃サービス﹄なんて単語を用いることが不意に、奇妙
に思えた。
家族を養うこと自体が、サービスだ。
ともあれ、
買い物をする際の女の子は、戦士のごとく勇敢だ。片想いに立ち
向かうときよりも強く、そしてたくましい。
飲まず食わずの二時間を終えた成果として、紗優は肩から大きな
ショッピングバッグを三つ下げていた。
出入り口にて紗優は重たいガラス戸を押さえながらこちらを窺い
見る。﹁真咲はなんも買わんで良かったん?﹂
﹁ううん﹂手ぶらの自分、⋮⋮我ながら白けるノリだと思う。ごめ
ん紗優。
実を言うとギャルな店員さんとのハイテンションなトークに腰が
引けた。
﹁あ。入学式用にスーツが居るの。INEDがあるなら、見てきた
いな﹂
﹁したら、姉妹ブランドの路面店があんの、そこ行こか。仕立ては
いいんに、INEDよりかちょっと安いんよ﹂
﹁うん﹂今後も出費がかさむだろうから助かる提案だった。
喋り続けなのに声も枯らさず紗優は率先して歩き出す。
1039
かさばるショッピングバッグをそのままと思いきや、デパートを
出て壁沿いの百円ロッカーに迷わず入れた。小銭無しであたふたす
ることもなく。⋮⋮ファストフード店の店員のように、スピーディ
ーにこなす。
﹁よく、買い物に来るんだ?﹂私は苦笑いしつつ尋ねた。
﹁そやねえ。やーってショッピングつったらここまで来んとなんも
無いもん。通販やと生地の感じとかよう分からんやろ? 季節の変
わり目には必ず行くようにしとる﹂
季節の変わり目といえば、風邪の流行、が思い浮かぶのだが、私
の感覚はやっぱり周りの子とはずれている。
それで緑川に来た当初も、そもそも向こうでも周囲に馴染めなか
ったのだし、⋮⋮先行きが不安だ。
キャンパスライフをうまく過ごせるのかどうか。
といっても、快適で楽しい大学生活を送るのが私の目的ではなく。
もっと、別のところにある。
﹁ちゃんと、ついて来とる? 真咲﹂
ひとのごった返す繁華街を通りざま私に声をかけた。紗優は町で
見かける、子どもを先導するお母さんみたいだ。
﹁うん﹂
紗優は私の肘を掴んだ。喫煙者の煙草臭さ、女の子の香水臭さ、
どこかしらおじさんのドーランぽい臭い⋮⋮雑多な匂いの入り交じ
るなかで紗優の薔薇の香りをひときわ強く感じる。
吉野家、マック、ABCマート⋮⋮あの手の店がいい場所を陣取
るのはどこも同じだ。ファストフード店は二階席もひとで埋まって
いる。渋谷のセンター街を彷彿させたが、あれほど路面が汚くもな
い。先入観もあってか、全体にファッションが田舎っぽい、春休み
中のせいだろうひとのいやに多かった繁華街を抜けると、紗優は私
を離し、髪を後ろに流した。﹁あー、えっらいひとやったねえ﹂
﹁紗優でもそう思うんだ﹂
﹁ひとの多いとこ苦手。汗かくし﹂と舌を出すけど。
1040
いい匂いがするのに。薔薇の。
そして信号を渡り、路地を一本裏に入れば閑散とした道が続く。
左右見回してもひとがぽつぽついる程度で道沿いの店はほとんどが
一般住宅。看板の古いクリーニング屋で老人が店番をしている。
こちらの胸中察したらしく、紗優が私の顔を見て笑った。﹁そぉ
んな心配せんでも大丈夫やて。あたしが何回畑中に来とると思うと
るん﹂
﹁なんか、⋮⋮すごいね﹂私は道筋を全然記憶していない。﹁私一
人じゃこんなとこ来れないよ﹂
﹁東京のほうが道分かりづらいんじゃないの﹂
﹁私が行くのは駅周辺だけだから⋮⋮﹂
町田周辺ならどうにか。行っても小田急線で一本の新宿駅、それ
も紀伊國屋書店くらい。JRの改札を抜けて東口や南口に抜けられ
るのも暫くの間、知らなかった。
﹁ほんなら、あたしが東京行ったとしても、案内頼むの無理そ?﹂
﹁ううん、来て来て。渋谷なら行くの丸井と109でしょ。新宿な
らどっち口も分かるし⋮⋮紗優ならマイシティと伊勢丹には行くだ
ろうね﹂
﹁いっぱいあんねな、買い物できるとこ﹂
﹁新宿だけで丸一日過ごせると思うよ﹂
﹁楽しみになってきた。したら夏くらいに行きたいなあ﹂
﹁うん、おいでおいで﹂
﹁あこの右曲がったとこ。こっから一本道に入んねや﹂
私は紗優との会話に夢中になっていて、周りを見ていなかったの
だが、
既視感を覚えた。
細い路地裏沿いの、住宅街のなかに、所々路面店が入っている。
暇そうなパワーストーンかなんかを売っている店。
1041
どこの国旗だか分からないのを掲げる、でも東京で見かけるたぐ
いの、オープンカフェ。あれは、
和貴と入った店だ。
﹁あお腹空いたん? お店すぐそこやし、空いとんねやったら先食
べても﹂
入口近くの黒板のメニュー書き。ピンストライプのシャツを着た
店員さん、丈の短いエプロン、ケーキ屋さんみたいなショーウィン
ドウに並ぶ料理⋮⋮
間違いない。
このカフェの隣にインド風の雑貨屋さん、直進し角のカメラ屋さ
んの手前で右折し、更に直進、道なりに進んだ突き当たりには、
﹁あった⋮⋮!﹂
隠れ家のような佇まいにて白亜の建物がそびえる。
一見、白、といった印象、だがよく見れば壁のかなりがガラス張
りでなかの様子がよく見える。紺色のスーツに身を包む、品のある
雰囲気の店員が接客している。
店の規模に比べれば客は少ない、がこの繁華街からやや離れた場
Heart﹄やん。こんなところに店出しとんね
所にしては、入っているほう。
﹁﹃Cross
や⋮⋮﹂
紗優の声を聞いて、私は彼女を置いてきぼりにしかけたことに気
づいた。
彼女の息がちょっと切れている。
1042
準備運動もなしで突然に走りだした私はもっとひどい。
﹁知らんかった。デパートだけやと思うとったわ﹂
﹁正確には、⋮⋮デパートの取り扱いが無くなったの。一年、ちょ
っと前に、⋮⋮この路面店がオープンした、から⋮⋮﹂
﹁どーゆーこと?﹂
畑中にうとい私が語るのが意外だったのだろう、
紗優が無意識に胸元に手を添える。
私はその動きを見、続いて、こちらに気づいたろう入り口の店員
を見据えながら、彼女に教えた。
﹁この店に一年前、来たの。紗優のそのペンダントを買いに、和貴
と﹂
1043
︵2︶
目的はお店の最奥の縦長のショーケース。
店内に配置される位置も変わらない。ガラスケースのなかにある
のがブローチとかそのたぐいなのもおんなじ。︱︱なのに、
﹁⋮⋮無い﹂
︱︱肝心のものが見当たらない。
﹁あの﹂焦って通りがかりの店員さんを呼び止めた。﹁前に、こち
らの棚に、リスのブレスレットを置いていませんでしたか? リス
のブローチとかいろんなアイテムを置いていたと思うんですが﹂
﹁ああ、⋮⋮そちらでしたら﹂
その店員さんの顔色が曇ったので、︱︱大体の結果が見えてしま
った。
﹁申し訳ございません。お客様の仰られたお品につきましてはお取
り置きがございましたが、オープン当初の限定品でして、既に、販
売を終了させて頂いております﹂
﹁もう、売っていないんですか﹂
﹁生産も終了しておりまして。申し訳ございません﹂
自分より十以上年上の女性に二度も頭を下げさせては、こちらが
申し訳無い。
﹁いえ。こちらのほうが、変なことを訊きました﹂と私は頭を下げ
た。
すると店員さんの表情が和らぐ。﹁︱︱お客様にお伝えするのが
心苦しくも思うのですが、ご記憶にお留め頂いたことが嬉しくも思
1044
います。⋮⋮実を言いますと私は、実物を見たことがございません。
当時は別の店舗に勤務しておりまして、写真で見たのみです。それ
でも、リスの可愛らしい飾りが印象に残っております。覚えておら
れるお客様がおられることをうちの職人に伝えたら、きっと、喜ぶ
に違いありません⋮⋮﹂
︱︱この店で販売するジュエリーは全て手作りで、ゆえに、ちょ
っとお高めだったりする。
﹁私、こちらのお店に、来たんです﹂私は店員さんに微笑み返す。
﹁一年前、子リスみたいなひとに連れられて⋮⋮﹂
ずっと隣で訝しげな顔をしていた紗優が瞳を輝かせる。
﹁︱︱それって!﹂
* * *
﹁︱︱分かりました。ありがとうございます。⋮⋮はい。失礼しま
す﹂
H
受話器を置くと、和貴は隣で待つ私に、あったよ、と笑ってみせ
た。
﹁︱︱紗優の欲しがってるペンダントトップって﹃Cross
eart﹄のだよね﹂
﹁うん。シルバーで、月の欠けてる部分に透明な石がついてて、星
がくっついてるの。こんな感じで⋮⋮﹂
片手で輪っかを作り、半月の輪に指を入れる動きをする。
それを見て、和貴が頷く。﹁︱︱そのデザインは一種類しかない
んだってさ。だからたぶん確定。︱︱念のため、帰りに紗優んち寄
ってみるよ。雑誌は、紗優に返したんだよね﹂
﹁うんついさっき。百六十五頁に載ってるよ。赤い丸がついてるか
らすぐ分かると思う﹂
﹁そこまで分かってるんなら、心強いな⋮⋮﹂
1045
ふっと目を細めて笑う。
その表情を見て、自分が手のかたちをそのままにしていたことに
気づいた。
慌てて手を引っ込めると、再び、和貴が目を眇めて笑った。
︱︱時は、一九九八年三月二十日。
二年の終業式の帰りに、小澤さんや紗優、タスクたちとカラオケ
ボックスに寄り道した日だ。
和貴と私は、カラオケそっちのけで公衆電話に向かっていた。︱
︱紗優が私に貸した雑誌に載っていたアクセサリーを紗優の誕生日
プレゼントとして渡すため、販売元を調べていたのだった。
番号案内に電話すればお店の番号を教えてくれることなど初めて
知った。
MIZ
調べさえすればひとまずどうにかなる、と高をくくっていた私は、
﹁じゃあ真咲さん、明日八時に駅前集合ね﹂
﹁︱︱へ、えっ?﹂
出し抜けに和貴に言われ驚いた。
大声を出したつもりが、近くの部屋からのMALICE
ELEにかき消される。︱︱その歌声は遠くGacktに及ばない。
﹁畑中にまで行かないと売ってないんだよ。奥能登全滅⋮⋮﹂大音
量の歌に消されぬよう、和貴は声を張る。﹁︱︱念のため、デザイ
ンが本当に合ってるか確認して貰いたいから、真咲さんに、僕とい
っしょに来て欲しいんだけど﹂
両の手をうえに向けて気軽に。
隣近所に出かけるみたく和貴は言うけど。
︱︱車で三時間も離れた町に行くわけ?
1046
それも、二人っきりで!
泡を食う私に比べて、和貴はどうしてだか瞳を曇らせる。﹁大切
なプレゼントだから間違えたくないし、⋮⋮それにね。⋮⋮最近、
僕は、紗優の部屋なんて入らせて貰えない。僕にとっては大切な幼
馴染みなんだけれど、いつからか、僕が異性というだけで距離を置
くようになって⋮⋮。
それでも、僕は、紗優の喜ぶ顔が見たいんだ﹂
からだを反転させ、公衆電話に向かって項垂れる。
﹁幼馴染みどころか、本当の妹みたく思っているんだ、紗優のこと
を。だから、っ﹂言葉を切り、目元を押さえる。﹁⋮⋮駄目かな、
真咲さん⋮⋮﹂
﹁︱︱駄目じゃないっ!﹂
私は彼の肩に手を添えた。
︱︱ところが。
﹁︱︱なら、よかった﹂
振り返る和貴。その口許が笑っている。
︱︱やられた。
︱︱その笑顔があまりに艷やかで色っぽくて、腹が立つくらいだ。
私はその感情をそのまま口に出した。﹁︱︱からかったんだね、
1047
私のこと⋮⋮﹂
﹁なんのことだか﹂と和貴はすっとぼけるけれども。
やられてばかりの私は負けじと言い返す。
﹁そうやっていつもいつもひとのことをからかって。なにが面白い
の﹂
﹁ごめんごめん。だって僕、棒読みだったのに真咲さん、間に受け
ちゃうんだ、だも⋮⋮﹂
みなまで言わずぶくくと彼が噴き出すから、もう二度と和貴の心
配するのなんかよそうと思った。
できなかったけど。
そして翌朝七時半には駅に到着した。
そういう性分なのだ。
︱︱
﹁これで、間違いないかな﹂
私が頷いたのを確かめたうえで、近くの店員さんに呼びかける。
﹁すいません。こちらのペンダントトップを頂きたいんですけど。
⋮⋮大切な彼女に、プレゼントしたいんです﹂
きれいな声のトーンとモデルみたいな微笑の組み合わせに、近く
の女性がまともに和貴を見た。︱︱声をかけられた店員も顔が赤い。
︱︱周囲の女性たちを魅惑して彼はいったいどうするというのか。
口の開き方なんて三日月みたく綺麗なアーチを描いている。︱︱
本当に笑い方が綺麗だ⋮⋮。
呆れと羨望の入り混じった複雑な気持ちで、私は和貴に後を任せ、
1048
すこし、店内を見て回ることとした。
そこで、見つけたのだ。
控えめに佇むあのブレスレットを。
それは、ショーケースの上から二段目に置かれていた。
ちょうど目線の高さだったから先ず目につく。
ショーケースのガラス張りの無機質な感じが、下に敷かれている、
紺色の温かみのあるフェルトで緩和されていると思った。楕円形に
広げられているアンティークのシルバーチェーン。︱︱長さからし
てブレスレット。手首にゆとりを持った長さで、放射状に秋を感じ
させる葉っぱやどんぐりとで飾りつけられ、ハート型の留め具の対
角にちょこんと、赤い実を咥えたリスが存在する。
葉っぱの色は朱や茶や緑で、いろ鮮やか︱︱シルバーチェーンと
のいろの対比が見事だった。
リスさんの咥える赤い実が最も目立つように彩色されている。
﹁わあ⋮⋮﹂
︱︱思わず手が伸びていた。ガラスさえなければ本当に触れてい
たかもしれない。ガラスに付着した指紋を袖口で拭う。︱︱同じ段
と下の段にも同じようなリスさんシリーズのアクセサリーが飾られ
ている。ブローチや、ジャケットに留めるだろうピン。ブレスレッ
トとお揃いの、どんぐりをついばむ子リスの小さなペンダントトッ
プなど⋮⋮
一連のリスのシリーズにしばらくの間、目を奪われた。
あまりに魅了され、鼓動さえ加速しているのを感じていた。
1049
一度、和貴のほうを気にして見てみると、︱︱他の店員さんに愛
想笑いなんかしている。⋮⋮本当に、行く先々で女性を虜にする必
要がどこにあるのだろう。なまじっか見目形がいいだけにたちが悪
い。
ここで和貴が、私に気づいた。
へーき?
と私が口パクで訊くと、大きく頷き左手でマルを作る。
︱︱もうちょっとだけ待ってて。
と言うのが、聞こえなくても、伝わった。
またショーケースを戻り見る。
︱︱リスに似た和貴を見た直後のせいか、魅力が倍増して見えた
︱︱特にあのブレスレットが。手首に巻いたら、鮮やかな葉っぱが
しゃらしゃら揺れる︱︱そんな音まで想像してしまった。自分が身
につけたときのイメージまでも浮かぶ。︱︱それはそれは可愛いこ
とだろう。
大好きな和貴と偶発的にこのお店に来て、リスのブレスレットに
一目惚れ。
なんだか、偶然とは思えない運命的なものを感じた。⋮⋮けれど、
私には手の出ない値段だった。
だったら、もっと手の届くようなブローチとかにすればいいのだ
けれど、どのみち、お高いことには変わりないし、私の欲しいもの
1050
はブレスレット以外にない。
︱︱恋慕の情に近かった。
﹁真咲さんお待たせ﹂
﹁う、わ﹂咄嗟に口許を押さえた。︱︱好きなものに見惚れてだら
しなく緩んでるに違いなかったから。
﹁⋮⋮買えた?﹂と訊くと、和貴は﹁買えた﹂と言って、片手で小
箱を持ち上げて見せた。︱︱紺色の包装紙にシルバーのリボンでラ
ッピングされた小箱を。︱︱思うに、こういうお店のラッピングは
本当に綺麗だ。ただの紺色の包装紙じゃなくて、うっすらとブラン
ドロゴの入った、高そうな紙を使っている。
私は、紗優が驚き喜ぶ様子を想像した。﹁︱︱喜んでくれるとい
いね、紗優﹂
﹁ぜったい喜ぶよ。真咲さんが頑張ってくれたんだからさ﹂
﹁あ。そうだ。お金⋮⋮﹂
﹁あとでいいよ﹂
︱︱よくよく考えれば、一万円の高い買い物だ。
正直に言うと、懐が痛かった。このときは自分の家が極貧だと思
っていたし。
﹁他に、見なくて平気?﹂
﹁平気﹂
和貴が店内を見回しながら言うけれど、これ以上見てしまったら、
心残りが倍加するだけに思えた。
﹁⋮⋮大体は坂田に出されるから安心して。お祝いごとってことで
ひと集めて、そっから出すつもりだから﹂
︱︱顔に出てましたか。
和貴が小さな声で言うから気にしていたことを悟られていたこと
1051
が分かった。
私はそんな気の回る彼を見あげて訊いた。﹁紗優のお祝いパーテ
ィってどこでするの﹂
﹁﹃よしの﹄だよ。昨日のうちに伝えといた。あいつ、任しとけ!
ってゆってた﹂
﹁へえ⋮⋮﹂
︱︱﹃坂田には近づくな﹄︱︱あんなことを言っていたが、和貴
には、ああいう険しい顔など似合わない。
いつも︱︱からかったり、笑ったり、おどけるようにしていて欲
しい。
私は余裕の笑みを浮かべたつもりだったが、何故か和貴が慌てて
見せる。﹁だってさ、仕方ないじゃんよ。あの店があいつんちで、
それで仕方なく⋮⋮﹂
﹁ふぅーん﹂
﹁なんっで真咲さんがにやけんだよ。僕は単に紗優のためを思って
⋮⋮﹂
﹁ありがとうございました﹂
﹁あ。︱︱ありがとうございました﹂
私に続き、和貴が店員さんに挨拶をするけれど︱︱
出口へと進む足が重たく感じる。
後ろ髪を引かれるとはこのことだ。
︱︱後ろに取り残したショーケースに鎮座するあのブレスレット
が目に浮かび、この胸に迫る。
可愛い、可愛い、子リスさん。
欲しかったなぁ⋮⋮。
1052
︱︱ため息が出るのをこらえ、重たいガラス戸を押さえて待って
くれている和貴に続き、店を出た。︱︱店を出るなり和貴は、うぅ
ーん、と猫みたいな伸びをした。からだが柔らかさの分かるしなや
かな動きだった。
両手を挙げたガッツポーズのままで彼は首を後ろに捻った。﹁︱
︱なんか、お腹空かない?﹂
﹁そうだね﹂
十二時を過ぎていたから、確かに空腹を感じた。
﹁途中にカフェがあったじゃん、そこでご飯にしよっか。それとも
別の店がいい?﹂
﹁ううん、私のあの店がいいって思ってた﹂
﹁じゃ決定﹂
︱︱建物から続く白い大理石の段々を降り、路地に出る。
てくてくと一本道を歩いて行く。
︱︱と、突然、あっ、と和貴が声をあげた。﹁やっば。プレゼン
ト用に袋貰うの忘れてた。さき、言ってて﹂
﹁私も行こうか﹂
﹁いいよ真咲さんは。︱︱混んでる時間かもしれないから、悪いん
だけど、席取っといてくれる? このまっすぐ行った角にカメラ屋
があったでしょ、そこの二軒どなり﹂
﹁流石に、⋮⋮お店の場所は覚えているよ﹂
私が頷くと、︱︱彼は、にっこり笑い、走りだした。
てくてくと歩きながら考える。︱︱確かに和貴は、プレゼントの
小箱を裸のままバッグに入れていたけど、⋮⋮
袋なんて最初に貰わなかったのかな。
いくら方向音痴でも一本道なら無事にたどり着く。はずが⋮⋮角
1053
を曲がる際右か左かで迷ってしまった。往復の復路は左右が逆にな
るから、危ない。︱︱内心焦ったものの、右を向けばすぐカフェの
旗が見えたから、安心した。
カフェはガラス張りで、窓から大体の席が見渡せるつくりだけれ
ど、念のため、ウッドデッキのテラス席を選んだ。︱︱気持ちのい
い天気だし、外気を感じながら食べるのもいいかと思った。︱︱思
えば、緑川にオープンテラスの店は存在しない。そういうお洒落な
店が、本当に皆無なのだ。︱︱﹃よしの﹄が私たちのニーズに見合
うなかでハイクラスの店だが、残念なことに、テラスが無い。
そんなことを考えているうちに、息を切らした和貴がやってきた。
︱︱あの俊足の和貴が呼吸を乱すくらいなのだから、相当急いで
Heart﹄を出てからずっと走ってきたのだろうか。
来たのだろう。角をダッシュするのは見たが、まさか、﹃Cros
s
椅子を後ろ手に引いて座る彼に、私はレモネードを差し出した。
﹁はい、これ。喉、乾いてるかなと思って頼んどいた﹂
﹁サンキュ。いまちょーどそういうのが飲みたかった﹂
すぐ手に取ると少年みたくごくごく飲み干し、
﹁ありがと、真咲さん﹂
﹁い、いーえ﹂⋮⋮笑顔が爽やかすぎて照れてしまう。
頬が熱くなるのを感じ、私は視線を下げ、アイスミルクティのス
トローに口をつけた。︱︱目の前の男の子らしい骨ばった手が動く。
シャツの胸の辺りを掴んでぱたぱた風を送る動き。︱︱真夏に男子
がよくする無造作な動作。
彼の動きのひとつひとつに、惹きつけられる自分を、私は感じて
いた。
1054
続いて、彼は、手を挙げ、手の甲で額の汗を拭う。︱︱その様子
を見て、私はポケットからハンカチを差し出した。﹁⋮⋮使う?﹂
﹁︱︱いいの?﹂
﹁二枚持ってるからいいよ﹂
私は席を立ち、渡そうと思ったけど︱︱
私の手が彼に伸びていた。彼のこめかみに、そっと添える。
彼の、色素の薄い瞳が私を捉える。
それは、見開いたと思えば、ふっと和らぎ︱︱
﹁ありがと。真咲さん﹂
︱︱そのまま花ひらくような笑みを浮かべる。︱︱その一瞬が。
あまりにも美しすぎて、私は息が止まった。
動きも止まってしまい︱︱不自然に思われるかもしれない。と思
いつつ、ゆっくりと、ハンカチをテーブルに置き、元の椅子に座っ
た。︱︱どういうわけだか。
いつも、私が照れる言動に対して、からかいで返す彼が、
︱︱黙って、私のことを見つめていた。
私は、彼を見つめ返し︱︱ミルクティのストローに口をつけた。
︱︱互いになにも言わず。
1055
それでも、私は、自分の心拍数があがるのを感じていた。
︱︱思えばこのとき。
ちゃんと意識していたら。
確かに、私はマキに惹かれていた。好きだと自覚した直後だった。
けれども、同時に、すこしずつ和貴に惹かれていたのも事実で。
﹃大好きだったよ﹄
部活の合宿の夜、眠る彼にそう告白した。
でも、口から自然とこぼれ落ちる言葉が、︱︱過去形だった。
1056
︵3︶
﹁そうでしたか。⋮⋮一年前、想いを寄せる方とご来店されたので
すね﹂
︱︱結局、店員さんに洗いざらい話してしまった。
﹁当時は意識していなかったんですが、以降は⋮⋮﹂ずっこりはま
っています。
︱︱聞き上手な店員さんに重い私の口が自然と動いたのだった。
﹁これ買うためにこの店までわざわざ来たんやね﹂紗優はいつもす
るようにペンダントトップを取り出して高くあげた。﹁︱︱二人し
て黙っておって。水臭いなあ﹂
﹁⋮⋮どこで買ったと思ってたの﹂
﹁通販﹂
﹁通販!? そんなわけないでしょう。往復六時間もかけて買いに
きたってのに。あーあ、報われないなあ。坂田くんの﹃Your
Song﹄みたく⋮⋮﹂
﹁クラプトンの歌がどしたん﹂
﹁⋮⋮坂田くんは彼氏なんだからちゃんと言わなきゃ駄目じゃない。
今度、聞いてみてよ坂田くんに﹂
﹁あっあいつ、真咲にケー番教えとらんやろ。あとで教えたげる﹂
﹁い、いいよ。紗優の彼氏なんだし、直接コンタクト取ることなん
て無いから﹂
﹁ほんでも、いちおー﹂
﹁あーそんなことよりもぉ⋮⋮﹂
頭をかき回したくなる私に、
1057
﹁︱︱いらっしゃいませ。都倉様﹂
︱︱飛び退くほどびっくりした。
別の店員さんが現われた。
﹁え。えっと、どうして私の名前⋮⋮﹂
﹁以前にお越しの際、お連れ様がお呼びでしたので﹂
﹁⋮⋮えっと、覚えているんですか、一年も前のことなのに⋮⋮﹂
﹁あの頃はオープンしたてでスタッフも慣れておらず、慌ただしい
思いをさせてしまったかもしれませんね﹂
﹁とんでもないです﹂むしろショーケースにイモリみたく貼り付い
ておりました。
理知的な彼女は微笑する。
スッチーみたいな紺色のスーツに白のスカーフが上品だ。ロング
ヘアーでお団子に纏める店員さんが多いけれども、彼女は顎らへん
に切りそろえられたボブカット。片耳だけ髪をかけているのがまた
似合う。
﹁お連れ様って、⋮⋮和貴のことも覚えているんですか﹂
﹁失礼ながら、少女のような顔立ちの方で、印象に残っております﹂
︱︱そりゃあ残るよ。みんな、見てたもん。店員さんどころか男
の人連れの女性までも。
ただし、彼女に異性としての関心など抱いていないようだ。
﹁それでは、ごゆっくり店内をごらんください﹂
最初に応対してくれた店員さんが離れ、いまの店員さんにバトン
タッチする。
さりげなく胸元に触れたのが、他の客に行けという合図。⋮⋮キ
ャバクラみたいだ。実際、その店員さんが別のショーケースを見て
いた客の女性に声をかける。
指示した彼女は、さっきのひとよりも立場が上、⋮⋮いや。この
店で一番上なのかもしれない。他の店員さんのネームプレートはシ
ルバーだが、彼女のネームプレートだけがゴールド。
1058
金が銀よりも価値を持つのはどこの世界だって同じ。
﹁さきほどのお話をおすこし窺いまして⋮⋮﹂彼女は縦長のショー
ケースの隣に立った。﹁あのシリーズは、他の店舗にも取り扱いが
ございませんで、畑中店限定なのです﹂
︱︱追い打ちをかけられた気がした。
手に入らない。
リスも、和貴も。
他の店舗に尋ねるかもしれないという、⋮⋮先回りした気遣いが
酷でもあった。
﹁あたしも見たかったなあ、和貴そっくりのリスさんシリーズぅ﹂
﹁和貴は関係ないってば﹂
﹁オーナーが、畑中市に縁のある者でして﹂ゆったりと、松田さん
は語り始める。﹁都会の良さを保ちつつもひととの繋がりを残す、
情緒の漂うこの地に店を出すのが、たっての夢でした﹂
﹁全国では他にどちらにお店を出されているのですか﹂
﹁銀座と福岡の、全国で三店舗です。以前は、デパートにも販売を
させて頂いておりましたが、三年前からは路面店でのみ販売をして
おります﹂
﹁あ。そーだ。ブランド名の由来ってなんなんですか﹂
紗優の質問に、松田さんは縦長のショーケースへと視線を流す。
﹁Crossを和訳すると、十字架以外にも、受難や試練を意味し
ますが、ときに、ひとびとの交差する想いや、交錯する運命を表し
ます。⋮⋮単数形にしたのには、お客様お一人お一人の想いを、大
切にして頂きたいという想いを込めてのことです﹂
最上段に、ブランドロゴをシルバーでかたどったものが置かれて
いる。
﹁へー。知らなかったですぅ﹂
﹁私もいつか、欲しいな。このブランドの商品﹂
︱︱私は本音を漏らしたのだが。
1059
﹁或る方の想いが貴女にも届くと良いのですが﹂
松田さんは。
同性である私でもどきりとさせられる、
営業的なものを取り外した表情を見せた。
﹁えっ⋮⋮﹂
私が戸惑っているうちに、﹁松田さぁあん﹂と別の女性から声が
かかった。
︱︱声だけでおおよその年齢が分かる。
後ろから来た女性は予想通り、二十代後半と見た。﹁お元気され
てました?﹂ただし店員ではなくお客様だ。
﹁ありがとうございます吉本様。私はこのとおりにございます。今
日は旦那様もご一緒で⋮⋮﹂
﹁のり子、松田さんは接客中なんだから、邪魔すんなよ﹂
﹁だってえ﹂
﹁松田さん。いろいろと教えてくださり、ありがとうございました。
私たちはこれで﹂
頭を下げ、紗優の腕を引いた。
﹁ちょっと真咲﹂
紗優は不服げに言うけど、彼女は既に山ほど買い物を済ませてい
る。
私は、⋮⋮本当に欲しいものは、無かった。
男性が、私たちに目を向ける。
﹁きみたち、割って入ってごめんね﹂
﹁いえ、私たち、なにも買っていないのにお話だけ伺ってまして。
⋮⋮そろそろ出ようかと思ってた頃です﹂
︱︱それを聞いて苦笑いをする彼。⋮⋮左手に、彼女と揃いのゴ
ールドの結婚指輪をしている。見た感じ、彼女と年が近い。服装の
趣味が似ている。
1060
﹁また、いつでもお越しください﹂松田さんは優美に私たちに微笑
みかけ、﹁⋮⋮吉本様、あちらに新作が入っておりますので、おす
こしの間ご覧頂けますでしょうか﹂
また別の店員さんが待ちの間を接客する。⋮⋮よくできているも
のだ。
松田さんは落ち着いた足取りで、ゆっくりと出入り口へ向かうの
だが、⋮⋮そもそも私たちはなにも買っていない。なのにお見送り
頂き、内心恐縮する。
﹁松田さんて、ああやって声かけられることもあるんですか﹂
︱︱一連の事態を気に留めぬ様子の紗優が質問をする。
﹁ええ、⋮⋮山本様ご夫妻は、ご結婚後、県外に出られたのですが、
帰省の際には、お二人が出会われた場所を巡るそうです。当店もそ
のうちのひとつでして﹂
﹁へーえ、そうなんですかぁ﹂
﹁私どもにとっても、思い出深くあります。⋮⋮結婚指輪は、長き
にわたって身に付けるものですから。お客様の仲睦まじいご様子を
見ておりますと、微力ながらお役に立てて︱︱この仕事をしており
まして、心から良かったと思います﹂
うんうん紗優が頷く。︱︱美容師を目指す彼女は接客業のひとつ
として共感したのか、それか、
﹁物は物でしかないと思えばただの物でしかありませんが、私は作
った者の心が込められていると考えるようにしております。物とは、
︱︱時として人と人の心を繋ぐ存在となり得ますから﹂
︱︱山本夫妻の仲睦まじい雰囲気を、羨ましく思ったのだろう。
﹁お二人は、どちらからいらっしゃいましたか﹂と松田さんが私た
ちに顔を向ける。
﹁緑川からです。えーっと高校卒業したら、ううんもう卒業したん
1061
ですけど、あたしが四月から畑中住まいで、この子が東京です。今
度、二人で来ますね﹂
﹁ええ、お待ちしております﹂
︱︱あの日の和貴も開いてくれた、ガラスの重たいドアを松田さ
んは開き。
私たちを先に出し、両手を重ね、深々と礼をする。
﹁あ、の。いやはや。あ、りがとうございました﹂
お辞儀などされ慣れない私は挙動不審だった。頭を下げたまま松
田さんがちょっとだけ笑った。
﹁松田さん、さようならぁ﹂
今度は紗優が私を引っ張った。
︱︱まだ、大人の女性の余韻がどこか残っている気がする。
店を出てすこし歩いて振り返っても、彼女は頭を下げていた。
︱︱プロだ。
柔らかい物腰にきびきびとした所作。華美なものを身につけない、
優美な綺麗さ。
これまた憧れの対象として私の目に焼きついたのだが。
二度と会うはずがないと思っていた私は彼女と再会する。
︱︱それはまた別の話。
未来の話となる。
1062
︵4︶
﹁あっ、タスク受かったって!﹂
﹁ほんと? よかったぁ⋮⋮﹂
﹁マキのプレッシャーが効いたんやない﹂
﹁和貴のおじいさんが菅原道真公にお願いしたのが効いたんだよ﹂
彼の努力の成果と知りつつも、紗優と顔を見合わせて、笑った。
﹁タスクな。畑中行ったりせなならんから、集まれんの十一日以降
でも大丈夫やろかって。真咲はへーき?﹂
﹁十二日か十三日なら﹂
﹁したら十三にしよっか。︱︱ちょーど和貴んとこじーちゃん出か
けるしその日がいいって言うとった。︱︱待ってな。すぐみんなに
メールする﹂送信して飲み物に口をつける。
飲み物片手に操作できるのだから便利なものだ。
近くに電話がなくとも︱︱互いに離れていても、気軽に連絡が取
れる。
︱︱卒業を機に卒業生のだいたい半数が携帯電話を購入した。カ
ラーは男の子ならシルバーの、女の子ならホワイトをチョイス。ス
トレートタイプよりも、半分に折り畳めるものや、ボタン部分がカ
バーされているものが俄然人気。紗優も後者の、白のd501iを
持っている。私も触ってみて、フタ部分の薄さになかなか感動した。
﹁あっ返事はやっ﹂ぴりぴりと着信音が響く。︱︱聞きなれない私
には、ちょっと耳障りな音だった。
紗優はしきりにボタンを連打し、
﹁おっけー。十三日で決まりぃ。十四時に和貴んちにしゅーごー﹂
﹁了解﹂
1063
二五六便﹄と書き込んである。
私は手帳を広げ、予定を書き足す。
︱︱既に、十四日の欄に﹃十四時
和貴たちと最後に会って二十四時間後に、私は緑川を旅立つ。
︱︱感傷的な気持ちが生まれる前に手帳を閉じ、かばんにしまっ
た。
と、紗優が、俯いた私の顔を覗き込み、
﹁なあな、明日にでも学校行かん? 合格した子いっぱいおるし、
結構みんな来とるみたいやよ﹂
﹁うん。なに着てく。制服?﹂
﹁最後やしそーしよっか。⋮⋮急に私服着てくんもなぁんかおかし
ない﹂
﹁そうだね﹂︱︱最後だろうから。
からからと氷をかき回し、レモネードに口づける。
甘くて酸っぱい、あの日和貴が美味しいと言っていた味が口内に
広がる。
あのときと同じカフェに来て、同じ席に座っている。
﹁引越しの準備てもう終わったん﹂と紗優が二個目のチョコマフィ
ンに手をつける。
プラス、手をつけていないケーキが一つ。
どう見ても頼み過ぎだ。
食べれるのかな、と思いつつ私は頷いた。﹁あとは荷造りした荷
物を業者さんに取りに来て貰うだけ。⋮⋮東京石川間って送料が高
いんだけどね⋮⋮だから、あまり荷物は持ち込まないで、向こうで
1064
家具や電化製品を買うつもり﹂
﹁十四日ってのは、ずらせんの?﹂
﹁ん? 確かに他の子よりも早いけどね⋮⋮﹂︱︱こと国公立合格
の子なら下旬に地元を離れるのも珍しくない。入学式が四月の中旬
に行われる大学もあるから。﹁ずらせないな。予定ぎっちりだし。
︱︱うちのおじいちゃんが仕事休めるのが十三日から三日間。⋮⋮
十五日は柏木さんに母と会いに行くし、十六日は田中さん一家とお
食事会﹂予定を暗記している私はすらすらと答えた。﹁︱︱そ、あ
の不動産屋さんの田中さんね、奥さんと真知子ちゃん戻ってきたん
だよ。で、うちの母だけ十七日に帰るんだけどね。⋮⋮そのまま下
旬に大学の事前合宿があるから、慣れるためにも早めに入っておく
のがちょうどいいんだよ﹂
﹁忙しいんやなあ﹂
﹁⋮⋮入学後も予定ぎっしりだよ。結構スパルタな学校かも。でも、
それがいいみたい。私は臨床心理士になりたいから﹂
紗優のレモンティを混ぜる手が止まる。
その爪に、綺麗なフレンチネイルが施されているのに私は気づい
た。
﹁柏木さんとの出会いも大きかったけど、⋮⋮やっぱり、好きなん
だよね。臨床心理の世界が。私、⋮⋮自分の家でいろいろあったか
ら、一人で悩んでるひとがいたら、力になりたいって思うの。親の
離婚問題で悩む子の立場だけじゃなくて、親の立場も知りたいって
思うし、⋮⋮例年ね、日本の自殺者が二万人を超えてるの。そのう
ちの、中高年の割合がどんどん増えてる。うつ病も珍しい病気じゃ
ないし、⋮⋮いろんな事情でカウンセリングを受けに来るひとがい
る。治せる技術が欲しいなって私は思う。︱︱私自身、田中先生や、
紗優にも、話を聞いて貰うだけで気持ちが随分楽になったから⋮⋮﹂
1065
﹁偉いなあ真咲は﹂
﹁全然。理想ばっかで実践が伴ってないし、ようやくスタートライ
ンに立てたとこだよ。当年の課題は体力をつけること﹂
﹁体力なんか要るん?﹂
﹁要るよ。カウンセリングって毎週決まった時間に行うものだし、
クライエント、︱︱あ、カウンセリングを受けるひとのことね。ク
ライエントがきちんとその時間に遅れずに来ることも治療の一環な
の。カウンセラーも体調を万全にしておかなきゃならない。元々精
神分析を編み出したフロイトが始めたものだし、彼を慕うひとたち
が定期的に水曜に集まる勉強会をしていたの。その影響で、日本で
も、定期的に学会や研究会が催されるけど、休むひとは一人も居な
いらしいよ。風邪を引かず常に体調を整えておくことが、心理学を
志す者の絶対必要条件﹂
﹁あんた風邪ばっか引いとるやん﹂
﹁年明けから引いてないよ。毎日手洗いとうがいしてる。向こうで
ちゃんと自炊して、⋮⋮体力作りにウォーキングかなにか始めよう
かなって思ってる﹂
﹁真咲はいつも心理学の話すっとき目ぇきらきらさせとんなあ﹂
私は口を休め飲み物に手をつける。
﹁⋮⋮なしてそれを恋愛に行かせんかね﹂
と、紗優が語尾を下げ、視線も下げた。
︱︱その行動が私の気に触った。
﹁だから、言ったじゃない﹂強い口調で私は言う。﹁伝えるつもり
はないって。私は進みたい道が見えてるし、和貴は他に好きなひと
がいる﹂
1066
︱︱和貴は、私にきっぱりと言い放った。
﹃応えられないんなら、最初っから変な期待させないほうが、あの
子たちのためだよ﹄
﹁それに、私は緑川を出ていくのに、⋮⋮最後にこれだけは言わせ
てって言うのも、なんだかなあ。ぴんと来ないよ﹂
﹁お互い逃げとるだけやが﹂
﹁逃げてるね。認める﹂
﹁ってあぁああそーやなくってぇ、もぉー、なんつったらいいか分
からんっ﹂
﹁⋮⋮坂田くんとはうまく言ってるの﹂
︱︱露骨な話題転換だったのだが、
意外にも、効果があった。﹁⋮⋮うん﹂
まっすぐ人の目を見据える紗優でも、うつむき、恥じらいがちと
なる。
視線をケーキに落とすのは、単に食べたいから。違う⋮⋮
﹁なにか、︱︱あった?﹂
﹁あのバカ。あたしの住むマンションの隣部屋に越してくることに
なってんよ﹂
﹁あれっ、彼、緑川に残るんじゃ、⋮⋮ついてるよここ。右﹂
ショートケーキのクリームがついているのでそこを指すと、紗優
は紙ナプキンで拭った。それを待って、私は、
﹁︱︱坂田くんてフリーターっていうか。バンド活動続けるんじゃ
なかったっけ﹂
﹁メンバーみんな畑中に住むことにしたんやて。︱︱緑川でぎょう
さんライブやるんは変わらんけど、以外んとこで路上ライブすんね
1067
やったら、結局、畑中のほうが交通の便がええやろ。⋮⋮来栖たち
とも話し合った結果、そーなったみたいやわ﹂
﹁よかったね﹂
﹁よくないっ﹂ぐずぐずとケーキをフォークで突いていた紗優が顔
を起こす。﹁やって、居なくなるってあたし覚悟しとったんに、あ
いっつ、⋮⋮なんやの。隠れて部屋探して、しっかもあたしにも宮
本先生にもずぅっと黙っておって。ひとの気持ちをなんやと思って
おるが⋮⋮﹂
﹁バンドも紗優も、手放したくなかったんだよ。坂田くんは⋮⋮﹂
私にはできない英断だ。
内心で拍手を送りつつ、ストローでレモネードを飲み干す。
照れ隠しだと思うけど、とうにお腹がいっぱいだったろうに、紗
優はショートケーキをがっつき始めた。
私は空を見あげる。
和貴と訪れたときも、空がこんないろをしていた。
真向かいのパワーストーンのお店の店員さんは暇そうで、カウン
ター内で外国雑誌をめくっている。︱︱以前もああいうバンダナを
頭に巻いていた。︱︱足元を見ても周囲を見回しても、この白木の
ウッドデッキと、似た色合いの丸テーブルと椅子のセットも変化が
なく、窓越しに見る光景︱︱女性客が喋っており、店員さんがお向
かいと対照的な多忙さで働くのも変わらず。ピンストライプの外国
っぽい服装も変わらず。
一年前とほぼおんなじ光景。
1068
ただ私の気持ちが変わっただけだ。
表面上には同質に見えても、ここに生きるひとのすべてが、変化
を遂げている。どんなものであっても、程度が違えど。
変わるものもあれば、変わらないものもある。
それが例えばプライドだったり、夢だったり、願いだったり、誰
かに対する想いだったりする。
命はやがては消えてしまうが、その想いこそが永続的に続き、ま
た違う誰かが継承する。
だからこそ私は東京へと向かう。
地元ではできないことを、するために。
︱︱夢に向かって。
決意を新たにし、紗優からケーキの最後の一欠片を頂くことにし
た。
︱︱そして、三月十三日という日は間もなくしてやってきた。
1069
︵1︶
暖かい日差しがからだを包み込むうららかな日和に恵まれた。
﹁いらっしゃーい﹂
︱︱意外にも紗優が顔を出した。﹁来てたんだ。みんなは?﹂
それらしき靴が玄関口には見当たらない。
﹁和貴は買い出し。タスクは夕方かもって。マキやったら⋮⋮﹂
﹁聞かなくても分かるや﹂
﹁いまんところ連絡なし﹂ちょっと不満げに首を傾げる。︱︱彼女
もマキの遅刻ぎりぎりの癖を知っている。
﹁はい﹂紗優が身をかがめ、靴箱の傍にあるスリッパ立てからスリ
ッパを出してくれた。私は留守番を頼まれていたであろう紗優に礼
を言い、
﹁⋮⋮遅くなってごめんね。買い出し行くんならみんなで行ったほ
うがよかったよね﹂
﹁なーんも。チャリでぱーっと行ってくるだけやから一人でも全然
平気やよ。あいつ、いぃつもじいちゃんと二人きりやし、ひと来る
と張り切るんよ。日頃からもーちょっと食事に気ぃつけたらいいと
思うんやねけど﹂
﹁本当にね。⋮⋮うちの親に差し入れするよう言っておこうかな﹂
﹁毎日のことやもん。本人の意識が変わらなどーしようもないわ﹂
﹁これを機に和貴が自炊に目覚めてくれればね。⋮⋮お邪魔します﹂
︱︱桜井家は、なんにも変わっていなかった。
王将の将棋駒が靴箱に立てかけられているのも。
狸の置き物がどっしり構えるのも、お線香を焚いたお家の独特の
1070
匂いも。
しかし、異質の華やかな香りが鼻腔を突く。﹁紗優、香水変えた
?﹂
﹁よぉ分かったね。こないだ買った、CHANELのアリュール﹂
﹁男変えると香水変えるって言うけど、大丈夫?﹂
︱︱漫画で読んだ受け売りを元ににからかってなぞ見ると、
﹁宮沢。もう別れたのか﹂
別人の声がした。
見れば、玄関扉を後ろ手に押さえたマキが、立っていた。
︱︱入り来るひかりが眩しい。彼の黒い服装が、より濃く見えた。
﹁︱︱別れてなんかおらんよ。順調そのもの﹂と紗優はマキに反論
する。﹁香水他に三つ持っておるんやから、気分によって付け替え
とるだけ﹂
﹁玄関に鍵がかかっていなかった。気をつけろ﹂
紗優の言い分を無視して入る。
︱︱因みに彼は鍵をきっちりかけた。
⋮⋮会うのが卒業式以来だ。
扉が閉まると、彼の服装の柄が分かった。黒に見えたシャツは、
よく見ると濃紺と黒のチェック。下に、彼には珍しい白のTシャツ
らしきものを着ている。襟は第三ボタンの辺りまで開いて。下は黒
のダメージジーンズ。
1071
靴を脱ぐために、彼が屈むと、その首元からネックレスが垂れ下
がる。シルバーのごついデザインは夏に見たものと同じ。︱︱自分
に似合うものをよく分かっている。もっとも⋮⋮
マキに似合わないものなど、見つからないが⋮⋮。
﹁どうした。なにか、俺の顔にでもついているか﹂
顔をあげたマキがこちらを見据えた。︱︱鎖骨のうえに鈍くネッ
クレスが光る。
まさか、︱︱言えません。
あなたに見惚れていただなんて。
︱︱マキは、脱いだ靴をきちんと揃える。そういうところで育ち
が分かる。行動は大胆。言葉遣いは時折粗雑なくせに、変に几帳面
なところがある。
紗優の後ろを歩く彼は、いきなり振り返り、
﹁︱︱体調も悪くなさそうなのにな。熱は、どうだ﹂
﹁あがっ﹂
︱︱いきなり頬に触れられた。
つめたくてあたたかいマキの皮膚が頬に染みこむ感覚。
刺激が強すぎる⋮⋮。
1072
﹁︱︱具合悪いんなら無理するなよ﹂そう言いつつも彼は手を離さ
ない。﹁だだ、大丈夫だからっ﹂と私が首を振っても。
﹁大丈夫そうに見えない。顔の赤さが尋常ではない﹂
大きく紗優が咳払いをした。
﹁えぇーっとお二人さん。いちゃつくのも結構ですが、先ずは和貴
の両親とおばあちゃんに挨拶しませんか﹂
﹁い、いちゃついてなんかないってば。マキが、⋮⋮﹂
﹁そうだな﹂
すっと横を通り抜け、和室に入っていく。
言い訳しようとした私は置き去りにされたかたちだ。
そんな私に紗優が近寄り、声を潜めた。﹁︱︱あんたには隙があ
るんよ。やからマキの強引さにつけこまれる。東京行ったらもっと
警戒せんと、駄目やよ﹂
突っ立ったままの私を、紗優は母のように諭した。
︱︱
﹁マキって、和貴んち来たことあるんね﹂
﹁何回かな﹂
︱︱マキが私に場を譲る。
確かに、仏壇のある部屋も、お線香やライターの場所も把握して
いた様子。
勿論私はいつもよりも手短に挨拶を済ませた。︱︱タスクが夕方
に来ると聞いている。蝋燭の火は消しておいて良いだろう。
﹁これ、なか、入れちゃったほうがいいよね﹂
出したままのお供え机を入れるべきか紗優に問いかけたつもりだ
ったが。
﹁︱︱いい。俺がやる﹂
1073
隣に来たマキが、かっさらうように片づけてしまう。
その素早い動きを見て思う。
なんだか、︱︱
マキの優しさに甘えてばかりだと私は駄目人間になっちゃいそう
だ。
﹁にしても、十四時集合って早くねえか。なにすんだ﹂
﹁マキは遅れたじゃない﹂
﹁おまえもだろ﹂
︱︱皆、腰を浮かせ、和室に続く居間に入る。
私はジャケットを脱ぎ、椅子の背もたれに掛け、その椅子を引い
て座るが、マキはソファを選ぶ。
︱︱長い足をもてあます座高の低さだが、彼の足にはおそらく優
しい。
﹁私は、遅れるってちゃんと和貴に電話したんだよ。うち、いまお
ばあちゃんが一人で留守してるの。ちゃんと鍵かけてとか戸締りの
こと言ってたら遅くなっちゃった﹂
﹁じーさんとお袋さんは﹂
﹁東京。といっても埼玉。さき現地入りして引越しの準備してくれ
てる﹂
﹁ひでえ娘だな。親とお年寄り任せか﹂
﹁飛行機が取れなかったんだもん仕方ないじゃない。⋮⋮本当は私
も今日行くつもりだったんだけど、ネットで見たら満席で。明日な
ら空いてるのに。せっかくだしスカイメイトで行きたいじゃない﹂
﹁早割も使えよ﹂
﹁マキはどうやって行くの﹂
﹁スカイメイト﹂
﹁︱︱なにそれ。馬鹿にしてんの﹂
1074
﹁土日外さねえと取れねえ。そういうもんだ﹂
﹁はいはい﹂
︱︱そのとき、紗優がお茶を運んできた。
台所に背を向け、マキのほうを向いて話していた私は、紗優がな
にをしているのかに気づかなかった。私に、︱︱続いてマキに、お
茶を出してくれた。﹁あ。ありがと﹂
﹁真咲やて時間ないなかでこうして都合つけとるんよ。そんな言い
方せんでも︱︱だいたい。あんた、真咲が来てほんとは嬉しいんが
やろ﹂
﹁いいや﹂
熱い茶を一口すする。
彼は私をじっくり見据え、
﹁東京で、二人で会えるほうが俺はいい﹂
﹁げほっ﹂
なにも飲んでいないのに私がむせたところで、︱︱どたどたと玄
関先が騒がしくなる。次々とスーパーの荷物を置くような音まで聞
こえる。
﹁二時つっても、みんなで喋っておったらあっちゅうまやよ。もー
すぐ和貴の料理教室が始まるし⋮⋮﹂
あまり気の進まないことを言うように、紗優が眉間に皺を寄せた。
1075
︵2︶
﹁白菜って、最初に半分とか四分の一に切ってから横に切ったほう
が⋮⋮﹂
﹁え、そお?﹂
﹁うん。横に長いとびらびらーってなっちゃう﹂
﹁あんたいったい何を作ろうとしとるが﹂
和貴は白菜を切る手を止め、
﹁なにって、⋮⋮鍋﹂
﹁鍋ぇ!?﹂言葉に若干の嫌悪感が混ざる。﹁鍋って冬に食べるも
んやん、なしてこの春先に、⋮⋮しっかも、きりたんぼ⋮⋮﹂
﹁うん。変かな﹂
﹁変っつうか、⋮⋮あー﹂
﹁おっまえらさっきからうるせーぞ、⋮⋮っ、くそ。間違えた﹂
部屋の隅で手伝わず一人ゲームをしているマキ。まるで引きこも
りの彼を親指で指し、﹁ひとんち来て手伝わんでゲームしとるって
どうやの﹂
かく言う紗優もバナナを立ち食いしているのだが。
﹁マキぃ、セーブデータ上書きしないでよ﹂
﹁和貴、包丁握ったままよそ見すると危ない﹂
あ、ごめん、と言いつつ慌ててまな板に目を戻す。
﹁ったりめーだ。これ、ティファとデートするように進めてんのか﹂
﹁そーだよ﹂和貴が大きめの声で答える。
﹁ふつーはエアリスだろ﹂
﹁だったらやり直せばいーじゃんよ﹂
﹁んな時間ねえよ。するとあれか。﹃天空の花嫁﹄はビアンカ派か﹂
﹁あったりまえじゃん﹂
﹁普通フローラにすんだろ、⋮⋮おまえ、境遇に同情するタチか﹂
1076
﹁ちっがう。キャラが好みなだけぇ。ぬくぬく恵まれて育ったお嬢
様気質が好みじゃないだけ﹂
﹁あのか弱さがあいつの魅力だろ﹂
﹁僕には分からない﹂
﹁私にも分からないっ!﹂
互いに背を向け交錯する彼らの会話に割って入った。
﹁マキは、ゲームするなら一人でしてて。包丁扱うひとに話しかけ
ないっ。和貴は、集中できないなら相手しなくていい。危なかしっ
くて見てらんないよっ﹂
わかりやすくしゅんと和貴がしょげる。
一方で、彼のほうが動じるはずもなく、
﹁︱︱話し掛ける相手がおまえならいいんだな。俺は、おまえのい
れたコーヒーが飲みたい﹂
知るかよっ。
と思いつつも動いてしまう自分がああ情けない。
ブラック党だからミルクも砂糖も不要。
と気づき、出しかけた瓶を棚に戻す。せっかくだから全員のぶん
を用意しておこう。マグカップを四つ、⋮⋮紗優はどちらかといえ
ば紅茶派だから受け皿もあったほうがいいかな。一応はティースプ
ーンも四つ。王冠のついたデザインが結構可愛らしい。
湯沸かしポットがあるのって便利。さっき水を入れておいたから
ちょうど湧く頃。と思ったら煙が湧いた。ジャストタイミング。テ
ィースプーンの一つをひとまずコーヒー用に。多めに三倍。濃い目
のブラックが好きだから。紗優には、持って行くときに聞こうかな。
バナナそっちのけでマキと画面に見入ってる。私には分からないが
どうやら画面のなかにドラマティカルな展開が巻き起こっている。
1077
︱︱さて。
いざ、マキにブラックを運ぼうとしたときだった。
和貴が、私のことを見ていた。
手を止め、包丁を置き、本当に食い入るようにじっと見ていた。
どうしたのだろう。
﹁よく、⋮⋮分かったよね﹂
指を引っ掛けたマグカップを一旦ダイニングに置いた。指の当た
る部分が結構熱い。
﹁コーヒーの場所にカップの位置とか全部。僕、なんにも説明して
いないのに﹂
冷や汗が吹き出た。
現時点で、私が桜井家に出入りした事実を知られていない。
だが私の気持ちは完全にあの頃に還っていた。
﹁や、なんとなく。⋮⋮分かりやすい場所にあるし﹂
﹁そうかな? 僕、⋮⋮ボランティアで色んなおうちにお邪魔した
けど、どこも使い勝手が違くて戸惑ったよ。引き出し開いたら箸じ
ゃなくて布巾が入ってたりしてさあ﹂
笑えないけど無理に私は笑った。﹁台所の作りがうちとそっくり
なの。和貴もコーヒー、飲む?﹂
﹁じゃ、ココアをお願い。⋮⋮急がなくていいよ﹂
柔らかく言い、和貴がとんとん白菜を切り始めると、私はため息
を押し殺した。
⋮⋮危ない。
そして決めた。
ココアの缶の位置は分からないふりをしようと。
1078
* * *
﹁もーおっそぉいタスクぅー﹂
タスクが桜井家を訪れたのは十七時を過ぎていた。電気が明るく
感じられるので外が暗くなったのが分かる。
ソファに座っていた紗優が居間にやってきたタスクに唯一接近す
る。私と和貴はたかだか鍋の準備に二時間以上を費やしていた。
﹁みなさん、おひさしぶりです。⋮⋮が宮沢さん、どうかなさいま
したか﹂
紗優の目が赤いのを訝しんでタスクが言う。画面のなかのヒロイ
ンが死んだためにだ。
﹁綾波レイが死んだばりに悲しい﹂
﹁それは大変ですっ﹂
制服のブレザーを脱ぎ捨て、マキが操作するゲームに駆け寄る。
後ろ姿のマキは彼を見ず冷静に、
﹁⋮⋮いや、ちげえから。普通にFF7だ﹂
しかしちょっと鼻声だ。
かごに切った野菜を入れる和貴が目ざとく気づいた。﹁うん? マキ泣いてんの?﹂
﹁ちっげえ。てめーら、ちんたらしてねーでとっとと飯にすんぞ﹂
しかし袖口で目許を拭った。
絶対泣いたよ。
男の子なのに、ゲームで泣くなんて意味が分からないし。
失望だか理解不能だか、形容しがたい感情を抱えつつ、ガスコン
ロをテーブルに運んだ。それを見てタスクが、
﹁いい匂いがしますね。今夜は鍋ですか﹂
﹁そーなんよ。きりたんぽ鍋﹂ソファに置きざりにされたブレザー
を紗優がハンガーにかける。和貴は、あちち、と言いながら鍋つか
みを使って鍋をテーブルに運ぶ。
ぶかぶかのエプロンが気になる。雇われの家政婦さんみたいだ。
1079
ところで、マキは急かしておきながら画面に釘付けで、代わる代
わる変わる色に漆黒の髪が照らされる。
なんとなく、笑えた。
﹁どしたの?﹂
よっぽど熱かったのか、左手首を和貴が大きく振る。﹁ううん、
あのね、なんか私たち⋮⋮家族みたいだよね﹂
﹁家族?﹂片方の顔をややしかめ、自分の耳たぶを摘まむ。
彼の動きもコミカルだなと思いつつ彼の疑問に答えた。﹁タスク
がね、仕事から疲れて帰ってくるお父さんで、⋮⋮お母さんが紗優。
さっきの、ブレザーをハンガーにかける仕草が自然だったから。マ
キは、ゲームばっかしてて引きこもりがちな子どもかな。⋮⋮そん
な、家族の光景に見えてきた﹂
﹁僕は?﹂
﹁和貴は、出来た弟っぽい﹂彼が準備するのを感じつつ私はお皿を
探す。迷うそぶりを入れ、人数分のお茶碗と、鍋の取り皿を。サラ
ダも作ったから平坦なお皿も人数分要るだろう。﹁お兄さんがあん
な感じだから頑張ってるしっかり者の。だけど時々抜けてる。で、
家政婦っぽく家事が万能とか。ねえなんか、本でも一本書けそうだ
ね﹂
なぜだか三人の真ん中でコントローラを握らされるタスクを見、
それから和貴に笑いかけたつもりだった。
雷に打たれた衝撃があるとしたらこのことだろう。
和貴の大きな瞳から透明な雫が流れ落ちた。
悪いことをした気がする。
誰がどんな泣き方をしても、自分がきっかけを与えた場合に。
﹁わ、たし⋮⋮ごめん。なんか変なこと言って﹂
﹁それじゃあ、真咲さんはなんだろうね﹂もう一筋伝う雫をそのま
まに訊いてくる。私はあまり見ないようにし、両手に持つ小皿をテ
ーブルに置いた。﹁⋮⋮分かんない。末っ子とか?﹂
1080
﹁みんなの可愛いペットかな⋮⋮タマちゃんの役なんかぴったりだ
よね﹂
食器棚に再び対峙しサラダ用のお皿をカウントする。﹁⋮⋮ちび
まる子ちゃんの方じゃないよね﹂
﹁それっぽく鳴いてみてごらんよ﹂
﹁ちゃあーっ﹂
﹁ちょっ﹂後ろで唐突に和貴が咳き込んだ。﹁なんでイクラちゃん
の真似⋮⋮﹂
腰を折り曲げる和貴を見、私は理解した。
理解する頃にはお互いに噴き出していた。
きょとんと目を丸くするのなんか、子リスにそっくりな彼は、
ひたすらに笑い上戸だった。
﹁真咲さんはなにかとそれだよね。そんなに似てる?﹂
彼が次々よそいだすお茶碗を受け取りつつ私は首肯する。ほかの
三人は、なかなかにゲームに盛り上がっていて、気に留める気配が
無い。
振り向いて大きくなる茶色い無垢な瞳の感じが、森の湖畔に佇む
子リスのまさにそれ。﹁可愛い感じが、そっくり﹂
﹁可愛いって、⋮⋮微妙だね。そいや、真咲さんはなんに似てるっ
て言われる?﹂
炊飯器を閉じ和貴が言う。
﹁⋮⋮笑わないでよ﹂
﹁誓います﹂左手を挙げ、右手を胸に添え宣誓する。
﹁⋮⋮こけし﹂
﹁⋮⋮っ!﹂
和貴が目を剥く。
﹁小さい頃はこけしだとか日本人形だとか言われた。髪型もいけな
いんだろね。かといって、伸ばしてみたら今度は、貞子﹂
1081
﹁⋮⋮﹂
﹁ひどくない?﹂
口を押さえこくこく頷く和貴は、絶対笑うのを堪えている。
﹁笑いたいなら笑えばいいよ。桜井和貴を信じた私が馬鹿でした﹂
人数分のお箸を取りに食器棚のほうに移動する。﹁誓うって言った
のに、守れないなんて、がっかり﹂
音を立てて箸を数える。﹁みんなはさー芸能人に似てるって言わ
れるのに、こけし貞子ってさ。さりげに傷つくというか﹂
灰汁を取り除くお玉に受け皿も用意する。
﹁⋮⋮そんなに、似てるんだ﹂
声を殺し彼を確かめ、本当に傷ついた気がした。
冗談のつもりが、言って後悔した。
雑にテーブルに一旦全てを置いた。
そこへ、別の手が箸を取りあげる。
﹁こけしこけしうるせえな! 俺は、おまえが松たか子に似て見え
てどうしようもない!﹂
とうとう、押さえていた笑いを和貴は爆発させ、﹁盲目ですね⋮
⋮﹂と言いゲームの電源をタスクが切る。紗優が﹁んっほわ、いー
においっ﹂ぱかっと鍋の蓋を開ける。
できれば私は、最後の立場になりたかった。
1082
︵3︶
﹁きりたんぽにご飯。⋮⋮よくよく考えるときつくねえか。米に米
だぞ﹂
﹁あんたいっちゃん食べとるくせによぉゆうわ﹂
﹁私は、⋮⋮紗優が一番食べてると思う﹂
﹁そお?﹂
﹁具材足しますか。残り少ないですし、あけてしまいましょう﹂
﹁案外箸が進むでしょ。僕、料理の腕に自信持っちゃいそうだよ﹂
﹁鍋に上手いも下手もあるかよ﹂
﹁それがあるのよ、マキ﹂
具材を取りに私は立った。﹁かつおだしを取るところから始めて、
⋮⋮料理本片手に、大変だったんだから﹂
﹁へー市販のつゆ使わんかったんや﹂
﹁僕は、やるなら徹底的にやるタイプだから﹂
﹁なんっか、エロくないかぁいまの言い方﹂
﹁どこがだよっ﹂
タスクが具材を各自の皿に分け、マキが着火する。
こういうところで性格が出る。箸を舐め、紗優が和貴をからかい、
和貴が顔を赤くして応戦するのを横目に見つつ、私は鍋に具材を投
入した。
マキが箸で沈め、蓋をした。
﹁ありがと﹂
﹁てめーが食いたいだけだ﹂
﹁それでも、ありがとう﹂
いままでのすべてに対してありがとうと言いたい。
今夜はみんなで集まれる最後の夜だから。
ぶっきらぼうにああと返しつつ、時折蓋を開けて具材をかき回す
1083
様子が、ほんのり、私のこころを暖めた。
* * *
﹁もう⋮⋮八時なんだ。私、帰らないと﹂
﹁時間が経つのは早いですね。そろそろ僕も、おいとまします﹂
﹁真咲は明日の準備があるからね﹂
紗優からジャケットを手渡される。﹁荷物全部送ってあるし、あ
のかばんと財布さえ忘れなければ大丈夫なんだけどね。あとはうち
にあるボストンバッグだけだし﹂
﹁一人で行けんのか﹂手を伸ばしマキが自力でハンガーを取る。先
に、タスクに渡す意外な気遣いも見られる。﹁空港まで送ってやろ
うか?﹂
﹁いいよ別に﹂
﹁これから一人で生きてくんだな。実感が沸かない﹂
﹁私も。まだ制服着て緑高行ける気分だよ﹂
タスクがみんなのぶんのハンガーを回収し、それぞれにかばんを
手渡す。
﹁⋮⋮送るよ﹂
彼の声に全員が注目した。
和貴の表情がなんとなしに強ばって見えた。
﹁大丈夫だよ、みんな道分かってるし﹂
﹁じゃあ玄関まで。⋮⋮忘れ物ないよね﹂
﹁おっけぇでぇす﹂はいっと紗優が挙手する。
幼稚園児みたいな声のトーンに思わず、和貴の表情がほころぶ。
こういう場合のマキは率先して動く。廊下を歩く一群の先頭を行
き、﹁ごちそーさん﹂﹁うんじゃあね﹂一言で終了。
﹁桜井くん、ご馳走様でした﹂タスクの微笑もしばらく見られない
のかと思うと、切ないものがある。﹁⋮⋮畑中にも遊びに来てくだ
1084
さいね。そうだ、松岡さんが桜井くんに会いたがっていましたよ。
なにやら、いたく貴方のことを気に入ったようでして﹂
﹁うっは。勘弁してよ﹂片手で頭を抑えるが、⋮⋮誰のことだろう。
やや狼狽した様子。苦手な相手なのか。
﹁じゃーな﹂﹁うん﹂紗優にもご近所さんだからか、あっさりした
ものだった。
私はみんなに続かなきゃと急ぐも、なかなか靴のストラップが留
まらない。
﹁⋮⋮真咲さん﹂
玄関口に置いていたかばんを、差し出されていた。
﹁和貴﹂私は顔を起こした。
三和土に立つ私は、彼より数段位置が低い。だから、見あげるか
たちとなった。その角度がいつもより、高く、
﹁私、忘れない⋮⋮﹂
これが、正真正銘に最後なのだと。
﹁うちに、和貴が、来てくれたときのこと⋮⋮﹂
怖さを知らない子どものように懐に飛び込んで、
からかい倒す余裕も見られたこと。
﹁運動場で和貴が、私のことを庇ってくれたこと⋮⋮﹂
あのときよりも時間が経過し、歴史を重ねてきた感慨が、胸のう
ちを満たす。
彼の瞳にもそういう、感慨が見られるのは、
﹁公園で、私を見つけてくれた、⋮⋮励ましてくれた、こと﹂
私の色眼鏡で彼を見ているせいだろうか。
﹁いろんなことがあったけれど、絶対に忘れたくない。
だから、和貴も⋮⋮﹂
言いよどんでしまった。
私の気持ちと彼の気持ちとは違う。
1085
同じものを、要求する台詞ではないだろうか、いまのは。
詰まる胸を押さえた。
この気持ちを、
いったいどう形容していいのか。
﹁うん⋮⋮﹂
和貴が一段、降りてくる。靴下でも履ける、サンダルを履き、
その手が私に、近づいてくる。
触れられるまえに、私は、
﹁和貴も、⋮⋮緑川で頑張って。私も頑張るから﹂
自分の決意を口にした。
一瞬、彼の口許がこわばったかに見えたが、すぐにほほ笑みへと
変え、小さく頷いた。﹁僕も、⋮⋮元気でね。真咲さん﹂
挙げていた手を小さく振った。
﹁和貴も﹂
閉じていた玄関戸に私は手をかける。
彼の知らないあいだに何度も触れている。おじいさんはこんな感
じで見送ってくれた。私の知る、すべての桜井家にもさよならする
瞬間だった。
最後に見た和貴の左手。あたたかくすべてを包んでくれる︱ー何
度も苦しいとき、助けてくれた。こころの支えになった。
彼が最後に見せてくれた花のような笑顔。
鼻腔を満たすのは彼のほのかな香水と、記憶している桜井家の匂
1086
い。
﹃笑ってる方が合ってるよ、真咲さんには﹄
だから私も、
笑え。
笑え⋮⋮!
扉を開きかけた途中で、和貴のことを振り向いた。
どうしたのかと瞳孔を開かせた彼のすべてを胸に刻みつつ、自分
の腕を、指す。
﹁ここ、なんて言うか知ってる?﹂
その唇が動いた。﹁ピザ﹂
互いに目を見合わせ、笑った。
もう一度見られて、よかった。
エゴでもなんでも、最後は笑って別れたかった。
﹁バイバイ、和貴﹂
そうして私は、桜井家を辞した。
1087
︵4︶
紺碧のはるか上空を青白い月が飾り付ける。
どこからともなく薫る、花の匂いに春の気配を感じる。
春眠暁を覚えず。
眠らなくても平気な体質だが、徐々に睡眠が深くなっている。
目前には泣いている紗優が立っていた。
﹁どうしたの﹂
﹁⋮⋮真咲はほんとに馬鹿や。なして、和貴に言わんかったん﹂
﹁やだ、盗み聞きしてたのっ﹂
大声が出てしまい見回すも、マキとタスクの姿が見当たらなかっ
た。﹁あれっ、二人は⋮⋮﹂
﹁そっち﹂
﹁わっ﹂
言いながら歩き進み外壁で曲がろうとしたところで、出会い頭に
ぶつかりかけた。
もはや学習しろ、と彼は諭さず、
﹁⋮⋮行くぞ﹂
と口にしたのが実質、一同への号令だった。
人目をはばからず号泣する紗優に、タスクがハンカチを差し出し
た。︱︱こんなところまでジェントルマンだ。マキも実は言動が紳
士的だが、違うかたちでの表し方をする。
彼の足が、宮沢家へと進んでいた。場所を知っているのが少々意
外だったが、以前に和貴の家を訪れたというのなら、それで知って
いるのかもしれない。
歩いて一分足らず。
行き来するには便利な距離だが、気持ちの整理をつけるには不十
分な距離と時間だった。
1088
涙で前髪も横っかみも濡らした紗優は、月夜の淡いひかりを浴び、
かぐや姫のように儚げだった。
﹁マキ、タスク、⋮⋮元気でな。真咲も、からだに、気ぃつけて⋮
⋮﹂
姫君は言葉を出すのもやっと、という感じで、私たちがなにか返
す間もなくふらふらとした足取りでじゃあな、⋮⋮と宅の玄関ドア
に向かった。
﹁宮沢さん⋮⋮!﹂
呼び止めたのがタスクだった。
﹁貴女にバレンタインのお返しをしていませんでしたね。受け取っ
てくれますか﹂
Song﹄です。坂田くん
無言で振り返り、顔に貼りついた髪を分けつつ、紗優がタスクに
Johnの﹃Your
歩み寄る。﹁これ、なぁに﹂
﹁Elton
が貴女の誕生日に歌った曲です﹂
﹁ありがと。あげたもんに対して高すぎる気ぃするげけど⋮⋮﹂
背後でどうしてだかマキが大げさにため息をついた。
﹁それから、都倉さん﹂
真摯で、深刻ななにかを思わせるその眼差しに、からだが震えた。
﹁貴女にも差し上げなければならないものがあります﹂
タスクが学生かばんに手をかけ、なにかを取り出す。
﹁⋮⋮紙?﹂
小さな紙切れだ。四つ折りに折り畳まれていて、授業で友達と回
しあうよりも質素な、⋮⋮わら半紙、いや、羊皮紙っぽいもの。
まさか、紙をプレゼントされるなんて思わなかった。
戸惑う私の反応を、タスクが薄く笑う。
﹁なかを、ご覧頂けますか﹂
1089
その紙切れを開いてみた。
そこには、
﹁これって⋮⋮!﹂
︱︱いろいろな真実がここで結合する。
あの日あのときああだった理由が、この胸に雪崩込んだ。
﹁これを探すのに苦労しました﹂
﹁遅れてきたのって、⋮⋮学校に寄ってきたんだね。だから制服な
の﹂
タスクが無言で首を傾げるのが回答だった。﹁⋮⋮さて﹂
首を鳴らし、部長らしく超然と、
タスクらしく優雅に、
私に問いかける。
﹁素知らぬ振りをするも良し。当人に確かめるのもまた一興。さて
︱︱どうなさいますか﹂
﹁決まってる﹂
私は顔を起こした。
離すことなどできない紙を胸に当て、
﹁直接、確かめる⋮⋮!﹂
涙があふれるのも構わず。
﹁そうおっしゃられると思っていました﹂ふうと息を吐き、とある
誰かに似た仕草で片手をポッケに突っ込んだ。﹁ですが、そんな泣
き顔を晒すのは僕ではなく、どうか彼の前だけにしてください﹂
﹁なあな、取り込んどるとこすまん。さっきからなんの話しとんの﹂
1090
割って入った紗優が、私が胸から離す紙を覗き、﹁わ!﹂と叫ん
だ。
今度は低い位置から私に笑いかけ、
﹁やったやったダンスしてい?﹂と訊いてくる。
﹁⋮⋮どうかな﹂私も笑って応じ、目許を拭う。
タスクが左に視線を投げた。もう一人の存在︱︱遠巻きに立つ彼
のことを視野に捉える。
私は、彼に、接近した。
﹁⋮⋮マキ。私、﹂
﹁分かってる。行け﹂
背中で応じる彼が、きらめく彼の言葉の音波が、私の背を後押し
する。
﹁ごめん、⋮⋮マキ﹂
これを言うのは酷だと思った、でも言わずにおれなかった。
どんなかたちでも、私を支えてくれた。
最後の彼がどんな顔をしているのか、焼きつけたかったけれど、
それは、子どもじみた自分の願望で、あやふやなそんなものに、決
着をつけなくてはならない。
甘えきっていた自分にも決別する。
マキも、同じなのか。
ゆっくりと、歩き出す。
﹁あたし真咲のおばーちゃんとこ電話しとこっか。うち泊まってく
って﹂
﹁いや﹂紗優の言葉にマキが答えた。﹁俺の旅館に、⋮⋮おまえと
学校のやつらで泊まったことにしておけ。宮沢の親と都倉の親は親
1091
しくしてんだろ。俺の親ならバレる心配はねえ。宮沢がちゃんと嘘
つけんなら、⋮⋮都倉が家に帰らねえならな﹂
遠ざかるのに彼の声が近かった。
最後まで思いやりを捨てなかった。その言葉がふさわしいのは、
彼だった。
﹁マキ、⋮⋮ありがとう﹂
白い手が闇をひらひらと揺れる。
挨拶なんかしない、ときに無視する彼の、最後の流儀を見た気が
した。
私が、彼の想いに応えるなら、
選ばなくてはならない。
同情や哀れみなんかじゃなく、︱︱
私は見守るタスクに礼を言い、紗優にはあとで電話する、と伝え
た。
﹁電話なんかいーって﹂
﹁都倉さん! 頑張ってください!﹂
後ろから後押しする声に加速され、たったひとつの気持ちを胸に、
だから私は走った。 本当のこころの求める先へと。
1092
︵1︶
︱︱彼はおそらく、なんの警戒心も持たずに扉を開いた。
﹁どしたの? 一人?﹂
︱︱目を見開くのは、魚眼レンズを覗かなかった証拠。
インターホンを鳴らさずに訪ねた来訪者を不思議がるのも無理は
ない。︱︱私と彼とは、親しく家を行き来する間柄にない。まして
や、さきほど別れを告げたばかりだった。
和貴はもろもろの疑問を表情に滲ませつつも、目を丸くしたまま、
ひょい、と私の後ろを覗きこむ。﹁みんなは?﹂
﹁⋮⋮帰ったよ﹂
玄関扉を支える和貴の腕が、近かった。
私はまだ、彼を見据える力を持たない。
﹁泣いたの? ひっどい顔してるなあ﹂
率直な彼の発言に、私も率直に返した。﹁和貴もだよ﹂
和貴も泣いたのは瞭然だ。みんなとの別れが堪えたのだろうか。
﹁そ。そお?﹂と頬に手を滑らせる。︱︱ゆっくりと、扉が閉まる
動きに沿い、和貴は、私を招き入れた。﹁⋮⋮冷やしたほうがいい
ね。タオルでも取ってこようか。忘れもんがあんだったら、それも
取ってくるけど⋮⋮﹂
言いながら靴箱のうえに常備されているティッシュ箱を差し出す。
それに応じ、ひどいことになっているだろう鼻をかむ。
続いて差し出されるこれまた常備のごみ箱に使用済みティッシュ
を入れ、私は、一歩を、踏み出した。
1093
こんなぐちゃぐちゃの状態で言うなんて、みっともない、けど。
いましないほうが、ずっと、後悔をする。
﹁わ、すれものは、和貴。言ってないことが、⋮⋮あったの﹂
落ち着いた彼の瞳が次を促す。
﹁わ、たし。私⋮⋮!﹂
︱︱ただの一言を告げるだけがどうしてこんな、苦しいんだろう。
呼吸の仕方を忘れてしまう。
息の詰まる喉を押さえた。
怪訝な顔をし、和貴がこちらに近づく。
きっと彼は、誰に対してもこんなふうに接するのだろう。
すごく、︱︱優しいひとだから。
﹁真咲さん、大丈夫だから、落ち着いて、息吸って。すーはー﹂
﹁好き、なの﹂
一瞬、絶句した。
次に、﹁ふえっ?﹂と頓狂な声を出した。
﹁和貴のことが好きなの⋮⋮!﹂
﹁ええっ? だって真咲さん⋮⋮﹂
︱︱なにがそんなに意外なのだろうか。
挫けそうになるけれど、拳をぐっと握り締めた。﹁教えて。⋮⋮
和貴は私のことをどう、思っているの﹂
1094
﹁⋮⋮真咲さん?﹂
﹁私、⋮⋮言わないでおこうか迷ってた。でも、タスクに、紗優に、
マキに、勇気を貰って。⋮⋮これ﹂
瞳孔を開かせた和貴は、手に握っていた、私の差し出す紙を開く
なり、うわあ! と絶叫した。
とんでもないものでも見たみたいに。
実際、私にとんでもなく︱︱勇気を与えてくれた物質だった。
﹁⋮⋮にしても、よっくもまあ、こんなもん取ってあったよね﹂︱
︱すこし落ち着いたように見える和貴は、ぺちんと叩くように額に
手を当てた。﹁ふつー捨てるでしょこんなもん﹂
﹁タスク、⋮⋮安田くんたちと部室の片付けをしていたでしょう。
捨てる直前の箱を整理して、⋮⋮ううん。探してくれていたの。今
日も、ぎりぎりまで⋮⋮﹂
それは、借り物の書かれた用紙だった。
︱︱厳密には、借り﹃人﹄の。
二年のときの体育祭。この用紙を引いた和貴は、何度も叫んで、
私を探しだした。︱︱あのときの光景を思い浮かべつつ、私は言葉
を紡ぐ。
﹁︱︱物は物でしかないと思えばただの物でしかないけど、時とし
て人と人の心を繋ぐ存在となる。
ある人が言っていたの。これを見て、私もそう思った﹂
﹁真咲さん⋮⋮﹂
1095
好きなひと、と書かれたたった一枚の紙切れ。
更にはタスクの達筆な字で和貴と私の相合い傘まで書き足されて
いる。
キングファイルに隠し何食わぬ顔をしつつ、タスクはそんないた
ずらをしていたのだ。タスクがお題をバラしそうになったのを和貴
が制止したのも、いまとなっては理解できる。
でもいまがどうなのか。
ひとの気持ちは変わりうる。⋮⋮かつて私がマキを好きだったみ
たいに。
それは、本人に確かめなくては分からない。
タスクはこのことを言っていたのだ。
﹁これがもし、本当なら⋮⋮和貴は私のこと。いまは、⋮⋮いまは
どう思っているの。教えて﹂
﹁ま。真咲さん。マキは真咲さんのことを⋮⋮﹂
﹁マキは関係ない!﹂
︱︱彼がなにか言いかけたのを遮った。
叫んだ直後、自分の気持ちを確かめるように、私は彼に語りかけ
た。﹁マキの気持ちは知ってる。でもいまは、私と和貴の話をして
いるの。和貴、⋮⋮本当の気持ちを教えて? 嫌いならそう、突き
放してくれて、構わないから﹂
︱︱優しくするほうが酷だとかつて彼は語った。
体育館裏。中庭。彼の元を走り去った女の子たちの残像がくっき
りと蘇る。自分もああなるに違いない。
それでも、後悔なんか、しないと決めた。
1096
︱︱行動に移すか否かが問題だ、或いは、訪れた幸運をものに出
来るかがね。
父がそう、語ったではないか。
靴箱のうえに紙を置き、肩を上下させ、大きく息を吐く。︱︱そ
の言動に、私は、希望がないのを悟った。段を一段降りて、和貴が、
私の前に、立つ。
﹁決まってるじゃないか。真咲さんはホントにぶすぎる﹂
︱︱審判がくだされる。
覚悟をした。実際には固めるよう努力し、⋮⋮あんまり、こわば
った表情にならないよう努め、彼の告げる死刑宣告を待った。
だが、
﹁大好きだ﹂
言葉とともに、あたたかな両腕に包まれていた。
彼の、におい。ほのかなフローラル。筋肉の感じ。骨っぽい指の
感じ。⋮⋮一連がからだに伝わっても、いまだ信じられない。
夢でも見てるんだろうか。
﹁⋮⋮和貴。ほ、ほんとうに?﹂
﹁好きで好きでたまらない。何度言おうとしたかわっかんないよ⋮
⋮﹂
私の首筋に顔を埋める彼の動きにぞくりとする。
1097
かさなる彼のからだから、⋮⋮彼の鼓動の速さが分かる。
私はほっと息を吐いた。
﹁全然、⋮⋮気づかなかった﹂
﹁だーからにぶすぎるって言ったじゃん﹂
強く抱きしめられ、あっと声が出た。﹁その、いまのちょっと、
強すぎる、かも⋮⋮﹂
﹁うわ、ごめん﹂
﹁やだ﹂飛び退いて離れそうになる彼を、引き留めた。﹁離さない
で。⋮⋮駄目かな﹂
一瞬、目を剥いた彼が首を振り、再び私を包んでくれる。
その優しさに、
宝物になった心地がした。
﹁好きだ﹂
﹁私も⋮⋮﹂
﹁真咲さん、折れちゃいそうだよ。ちゃんと食べてる?﹂
﹁折れません。そんなやわにできてないから大丈夫﹂
﹁真咲さん⋮⋮﹂
さっきよりもちょっと力を込める。
恐る恐る、手を挙げ、片手で、彼の背中に触れた。
彼がするように。
耳と耳をぴったりくっつけられていても、彼が微笑んだのが、伝
わった。
どうしても加速する、この甘い鼓動にいつまでも溺れていたい。
﹁︱︱泣いたのって、僕のせい?﹂
︱︱しばらくの間ののち。
和貴が、沈黙を破る。
1098
すごく近くにて私の目を覗き見る。
挙げた手を︱︱手の甲を返し、私の頬にすべらせる。女の子っぽ
い顔に似合わず力強い、彼の関節の感じが、愛おしかった。﹁違う
よ﹂
﹁嘘つくのが下手だよね、真咲さんは﹂ふっと和らぎ、ブレスが私
にかかる。
いまさらながらこの近距離。
素肌も感情も丸裸にされてる。
しかも、相手は桜井和貴だ。
私の感情のなにもかもをも、お見通しだ。
﹁泣いてもいいよ?﹂
﹁泣きません﹂
﹁そっ?﹂笑う和貴の腹筋の震えが、私にも伝わる。﹁じゃあ、キ
スしていい?﹂
﹁やっ⋮⋮﹂
顔を背けたが、
﹁だから、︱︱下手だって言ったんだよ﹂
艶っぽく微笑む残像。
︱︱直後、呼吸を奪われていた。
それはかつて、荒々しくされたかたちではなく。
生理的に理性的に、自分が委ねていた。
薔薇のように香り立つ存在。ほのかに赤い彼の唇が私をとらえ、
︱︱離さない。
ブラックアウトした視界のなかで彼の存在を知る。
次第に私は動かされ、繋ぎあわせた手を使い、和貴が、がちゃり
と、家の鍵を締めた。
1099
冷たい感触。閉ざされるドアとは真逆に自分が開放されていくの
が分かった。
そのときに、私は彼にすがりついていた。
意識が恍惚とし、鮮烈な画像が︱︱淡く散る花弁がまぶたの裏に
再生する。
涙が滲むほどに、求められていた。
︱︱酸素不足のあまり、息があがった。
﹁し、らなかった⋮⋮キスって、心肺機能が高くないとできないん
だね﹂
なにいってんの、と早口で彼は言い、
﹁こうすればできるよ﹂
反応の追いつかない、フレンチキスを落とす。
ぼわっと顔の温度が急上昇する。︱︱いたずらに彼に笑われれば
尚のこと。
﹁なんっか、目ぇあけたままされて、は、恥ずかしいよ⋮⋮﹂
﹁全然いいと思うよ。僕は、されるときの真咲さんの顔を、ずっと
見ていたい。クセでつい、閉じちゃうんだけどね⋮⋮﹂
︱︱なんてことを言うんだ。
﹁ここじゃなんだから、上がって?﹂
私が余韻から抜けられない一方で、彼は毅然と友達の顔に戻して、
言う。
︱︱さっきの彼が、嘘だったみたいだ。形容はなんだが、獣︱︱
だった。激しく、荒ぶり、昂ぶる。好きなひとを求めるときは誰し
もそういった表情に変わるのか。
﹁正確には、真咲さんの。見たことがあるんだけど﹂
1100
私のためのスリッパを出し、ぽつり、和貴が言った。
﹁え、見たって⋮⋮あ、前に言ってたよね。額に、⋮⋮坂田くんに
されたの﹂
﹁いいや、それだけじゃない﹂
﹁じゃあ︱︱﹂
まだ和貴の感触が残る唇を押さえ、息を呑んだ。
振り返る彼は思いの外冷静に、﹁そ。屋上で﹂私に向けた方の肩
をすくめた。平手打ちしたのは見たけど、その後も仲良くしてるか
ら、てっきり僕は⋮⋮﹂
︱︱まさか、そんなことが。
マキにキスされたのを和貴が目撃したなんて、⋮⋮思いもしなか
った。
一旦奥に消えた和貴は、戻ってくると、濡れたタオルとペットボ
トルとを手にしていた。
﹁あがって﹂
さっきみんなで片づけたテーブルは当然片づいている。︱︱みん
なの居たぬくもりがまだ空気中に残っている。
﹁⋮⋮泣くと塩分と水分がからだから逃げていくから、補給したほ
うがいい。麦茶よりか浸透しやすい、スポーツドリンクのがいいん
だ﹂
﹁和貴⋮⋮﹂
﹁それ飲んだら、家まで送る﹂
躊躇いつつも、彼の差し出すペットボトルに口をつけた。
﹁ねえ。和貴。⋮⋮﹂
受け取れば、躊躇なく口に含む。
その和貴に、訊けなかったことを、⋮⋮踏み込めなかった一歩を、
1101
更に踏み込む。
﹁どうして⋮⋮言ってくれないの。明日は、和貴の、誕生日なんで
しょう﹂
飲み物を飲みつつ瞳だけで驚きを示した彼は、口許を拭うと、﹁
紗優か﹂と諦めたように呟いた。
﹁十四日に緑川を離れるって、紗優には早くに伝えていたんだけど、
何回か、﹃ずらせない?﹄って訊かれて、
︱︱今朝、教えてくれたの﹂
黙って視線を伏せて聞いている和貴に、私は、畳み掛けた。
﹁和貴の方こそ、自分の誕生日が好きじゃないんだよね。だから人
に言わないし、騒がれるのも苦手で、プレゼントもあんまり受け付
けないって聞いたよ。⋮⋮一年前、演奏会の日に女の子たちにクッ
キーを配ってたのは、バレンタイン以外にも、誕生日のお返しをし
てたんでしょう?﹂
笑って次々に女の子にばらまく。
軽薄な感じがして正直幻滅したけど、そんな事情があったらしい。
﹁ま、⋮⋮ね﹂指で頬を掻き和貴は肯定する。﹁せっかくくれたか
らさあ、返さないのも悪いなーって思った。ホント、⋮⋮誕生日自
体も、おめでとうって言われるのも苦手なんだけど﹂
﹁誕生日が嫌いだなんて悲しすぎるよ。ね、和貴が誕生日を迎える
瞬間、一緒にいちゃ、駄目?﹂
﹁真咲さんっ﹂
急に席を立った。何故か焦ったように空のペットボトルを掴み、
﹁みょ、明朝にはここを出るんだから。家に帰るとか、することい
っぱいあるでしょ﹂
﹁いま私がしたいことは、和貴と一緒にいることなのっ﹂
勢い込んで私も立ち上がった。
1102
絶叫した私に呆れたのか嘆かわしくなったのか、
和貴が項垂れ、台所のシンクに手をついた。
ため息を聞く。
﹁⋮⋮ごめん。私は、明日緑川を去ることもなにも変えられない。
けど、⋮⋮和貴と居たいの。すこしでも長く﹂
自分勝手な言い分に恥ずかしくなる。けど止められない。
﹁なにするかわっかんないよ﹂和貴の低い声が響く。﹁これでも多
少、⋮⋮理性が吹っ飛びそうなのを抑えてんだ﹂
﹁構わないっ﹂
なぜだか、和貴の背中が揺れ動いた。
曲げていた背中を伸ばし、ゆっくりとこちらを確かめる。
私は、彼の動きを見ながら、自分の真実を、明かした。
﹁和貴にキスされたの、私、⋮⋮全然、⋮⋮嫌じゃなくって﹂
正直な告白、
︱︱それとも欲望。
﹁なんていうか、⋮⋮頭の奥が痺れたの。触れられたところがまだ
痺れててもっと⋮⋮和貴のことが、欲しくなる﹂
﹁真咲さん!﹂唐突に和貴がわめいて頭を抱える。﹁僕の最後の砦
を崩すのは止めてくれ!﹂
その反応に、自分がとんでもない発言をしたのだと、認識した。
﹁変なこと言っちゃって、恥ずかしい⋮⋮ごめん﹂
忘れて、と背を向けたはずが。
︱︱後ろから彼に抱きしめられていた。
﹁手遅れだよ﹂
頭上から声が振る。
つむじに吹きかかる息に、からだの芯がしびれる。
1103
﹁あ、んなこと言っておいて⋮⋮僕も、真咲さんが欲しくて欲しく
てたまらない⋮⋮﹂
和貴も、震えていた。声がかすれていた。
緊張する同じ想いを抱えているのだと知り、彼のことがより近く
感じられた。
和貴は、私のからだを反転させ、腰を屈めて瞳を覗き見る。
﹁もうひとつ言ってなかったね、真咲さん﹂
なんのことだろう?
素朴に疑問だった。
可笑しげに唇を歪める。そして、いたずらっぽく笑い︱︱
﹁うちのじーちゃんの世話をしてくれてありがとう﹂
﹁な、んで、それを⋮⋮!﹂
艶めいた唇が私の驚きを封じる。
﹁仮に、じーちゃんの友達にしても、紗優やおばさんにしても、世
話を焼きすぎだし。どー考えても﹂
寸時のブレス。息継ぎをする間もなく、
﹁ご飯にしてもね、真咲さんの親御さんが運んでるにしても、なん
だか腑に落ちなかった﹂
ましてや、言い分を述べる暇など。
上唇を彼の唇で挟み込まれ、ふるっ、と離される。︱︱なんてこ
とを。
﹁だから、︱︱真咲さんが台所熟知してるのを見て、ぴんと来た﹂
ちゅっと音を立ててまぶたに口づけられる。﹁もしかしたらねー
って期待してた。でも期待する自分が恥ずかしーなーって思ってた。
だから見ない振りしてた﹂
今度は逆のまぶた。
なんだか自分が手玉に取られてる感覚。
耳をぎゅうと包まれ、強く口づけられ、︱︱
1104
最後は鼻を唇で挟みこみ、彼は、笑った。
﹁灰かぶりシンデレラさん。嘘を突き通すおつもりですか﹂
﹁和貴っ、もおっ﹂
こうやって和貴はからかう。
いつも私のことを。
ところが、からかいを消した真顔で彼は述べる。
﹁瞳、閉じないで︱︱僕のことを、見ていて﹂
鼻がくっつき、互いを見れる限界まで迫る。瞳と瞳を認識できな
い接近値。まぶたのふれる距離で、
近くに見ても、西洋的な顔立ちをしている。でも彼は、私の知る
桜井和貴そのものであって。深く、入ってくる。自分を主張するよ
うに。私を、求めている。
甘く切なく胸を焦がされ、︱︱彼のまぶたが降ろされていても、
その想いが、伝わった。潜む舌を柔らかく噛まれ、彼にすがる手が
滑った。歯列をなぞられ、溶けてしまうかと思った。
次に彼が瞳を開いたときには、私は、彼に支えられないと自分が
存在することすら、ままならなかった。
﹁もう、⋮⋮立てない。和貴⋮⋮﹂
﹁じゃあ、こうしよう﹂
和貴の顔が首筋に迫り、なにをされるのかとおもいきや、抱えら
れていた。
履いていたスリッパが順に落ちる。
それでも和貴の歩みは止まらない。
1105
︵2︶
二階の部屋に続く階段を上り始める足音を聞きながら、私は、後
戻りができないことを悟った。
彼は片手でドアに手をかけ、私のことを確かめた。﹁︱︱怖い?﹂
﹁ううん﹂
覚悟ならしていた。それでも私は震えていた。
一度だけ、掃除のために、彼の部屋に入ったことがある。白と黒
を基調とした部屋。奥のパイプベッドにそっと、寝かされる。
﹁⋮⋮和貴の匂いがする﹂
それを聞いてどうやら和貴が笑った。﹁一度部屋に入ったでしょ
う、真咲さん﹂
そこまで分かっていたとは。
電気の消えた暗い室内でも頬を押さえる私が可笑しかったのか、
また彼が笑う。声を立ててけらけらと。
﹁もうっ、いつまでも笑ってばっかいないで﹂
﹁笑うのやめたら、︱︱触れちゃうよ﹂
﹁え、と﹂
掴みかけた手を離してしまった。
﹁⋮⋮ああ、真咲さん﹂その手に彼の手が重なる。﹁大好きだよ、
そういうね、怒りっぽいとことか、からかわれるとまっすぐ反応す
る、わっかりやすいところとか﹂
﹁ねえ、もう﹂
﹁触れられるなんて、⋮⋮夢みたいだ﹂
ベッドに座る彼の、腕のなかにいる。
優しく、髪を梳かれている。
﹁こけしだけどね﹂と舌を出した。
﹁そーゆーこと言わない﹂
1106
﹁ぎゃ﹂鼻を、つままれた。
つまんだまま彼は私に顔を寄せる。﹁あれはね、おんなじことを
言っていたひとを思い出したからで、真咲さんが似ているとかじゃ
あないんだよ﹂
﹁ふぅん。誰?﹂
﹁教えない﹂
私の背を支え、ベッドに倒した。
和貴の重みを感じる。私の知らなかった、和貴の⋮⋮。
﹁真咲さん。僕だけを見ていて。⋮⋮どうしようもないくらいに、
愛してる﹂
﹁和貴。私も、⋮⋮﹂
好き。
言った唇を舐められた。ご褒美を与えるみたいに。
心臓が正直に苦しくなる。
私はまぶたを下ろしかけたが彼の指に制止された。
﹁瞳、閉じないで﹂
まぶたの縁を優しくなぞる手。
﹁どんなに僕が真咲さんのことを愛しているかを見せたげる。僕を
︱︱信じて﹂
ここまで言われて、どんなに幸せなのだろう。
﹁うん﹂
微笑みかけ、微笑みかけられ、
キスの雨が振る。
顔中に、好きだという想いを与えられていく。
首筋を吸われ。胸元へと蠢く和貴を見ていたら、どうしようもな
く沸いてくる、なにかに駆り立てられるような気持ちに満たされて
いた。
1107
﹁︱︱いい?﹂
暗闇でもやがては目が慣れてくる。
厚いカーテンの開いた、レースのカーテンだけに隠された室内。
外光が入り込み、淡いながらも、存在を暴いていく。
背筋のチャックを下げられ、自然と応じる。︱︱きっと、自然と
応じるように人間のからだはできている。本能的な部分で。
ブラを外すときの、手慣れた感じ。
背筋を滑る彼の指先。
彼が、衣服を脱いだときに分かる、腕の筋肉の動き。
あらわとなる精悍な上半身。
そのすべてに魅了しながら、シーツ一枚を隔てて私は和貴に包ま
れた。
﹁は、ずかしいよ⋮⋮﹂
﹁綺麗だよ、真咲さん。恥ずかしくなんかない。僕に、すべてを、
︱︱見せて﹂
﹁あ﹂
最後の砦たるシーツを奪われた。
ためらいもなく生まれたままの姿をさらされ、綺麗な人間に生ま
れたかったと。スタイルのいい女の子になりたかったと心底願う。
それなのに、和貴は、頭のてっぺんから足の爪先まで、私の全身
にくちづけていく。
彼の唇が降りるたびに、自分のなかでなにかが開花する。熱を持
ち、熱病に浮かされる。
﹁我慢しないで。聞かせて、真咲さんの、声﹂
耳元で囁かれ、私は、赤子のようにすべてをぶつけた。
だから、和貴が私のなかに入ってきたとき。︱︱初めて貫かれる
痛みよりも、彼を、受け入れたい。満たしたい、という願望のほう
が強かった。
﹁真咲さん。僕を、見て。⋮⋮顔、見せて﹂
1108
私はいつのまに閉じていたまぶたをあげる。
彼は快楽の手を緩めることなく荒々しく私に口づける。
私は彼を引き寄せた。どうすれば伝わるのか。
﹁さんづけ、なんか、しないで﹂
﹁うん﹂
﹁名前、呼んで⋮⋮﹂
切なくて苦しい想いを。
﹁愛してる。真咲﹂
﹁かず、﹂
吹き荒れる胸の嵐が。
どこか自分を見えないところに投じていく。
頼りない浅瀬を行き交う小舟。頼れるのは和貴の瞳。存在。尊さ
を持って触れる彼のすべて。自分の体感。真実。理性。強欲︱︱
汗にぬるつき、引き締まった背中を掴むという現実。
すべての五感と感情を揺さぶられ、和貴の導く道を全力で走り抜
けると、頭のなかでなにかが弾けた。
打ち震え、流星のごとく舞い降りるそれらを眺め見る。
見たことがないほどに、綺麗だった。
それでも、
﹁真咲、大好きだ⋮⋮﹂
汗を滴らす彼に口づけられるほど綺麗な現実などこの世に存在し
なかった。
1109
︵3︶
﹁お誕生日、おめでとう、和貴﹂
真顔で受け止めたかに見えた和貴が、ぐにゃり、顔を歪め、︱︱
腹筋を震わせる。
﹁なんで笑ってるのよ﹂
﹁だって真咲さんさぁ、ずぅっと時計ちらっちら見てるからさあ﹂
﹁⋮⋮十二時びったしに言いたかったんだもん﹂
拗ねてそっぽを向く。
﹁こら。こっち、おいで﹂
肩をとんとんノックされる。
振り向けばぷに、と頬に指を食い込ませるのが、かつての、常だ
ったが、
﹁来なきゃあこっちから行っちゃう﹂
﹁う、わ﹂
私は顔を覆った。
掛け布団を捲り、ベッドを立ち上がり、私の左側に、回りこんで
くる。
いくらなんでも、和貴は裸だ。
ういしょ、と彼は布団に入り、﹁なんで目ぇ覆ってんの﹂
﹁だ、だって﹂
﹁恥ずかしい? 真咲さんのからだなら全身くまなく見たってのに﹂
引き寄せられ、彼の腕のなか。
私は両手を外した。
一旦、お風呂に入ってからだを洗い流した。勿論別々に入ったけ
れど、それが無意味なほどに、互いを、抱きしめあっている。いま
1110
さらながらに、彼の骨格とか、からだのパーツを素肌で感じ、⋮⋮
俯こうとした顎先を摘まれた。
﹁恥ずかしがってる顔、もっと僕に見せて﹂
赤面しつつ顔を起こす。
私の反応を待つ、彼の真顔に、生まれて初めて、自分からキスを
した。
湯気が立つほど顔を赤くしたのは、和貴だった。
口許を押さえ、俯こうとする彼の顔を下から覗き込む。
笑って彼の胸板に顔を埋めた。
あたたかくって広くって私のことを受け入れてくれる。女の子に
生まれてよかったと、こころの底から思う。
愛しい気持ちが止まらず、気がつけば首筋や鎖骨にキスをしてい
た。
﹁どうして︱︱真咲は僕を焚きつけるかなあ﹂
﹁⋮⋮そんなつもりは﹂
﹁ナチュラルに刺激するくせはやめてもらいたいよ﹂
愛おしくて私は額を擦りつけていた。
その肩を和貴は掴み、︱︱
﹁だっからそういうのがさあ﹂
﹁えっ﹂
乾いた笑いで逃れようとしても逃れられるはずがなく。また和貴
に触れる心地よさを知った私は、日付が変わっても結局、和貴の肌
を貪り続けた。
︱︱だるい。
なにこの倦怠感。重い。腕が、添えられている。
寝ぼけてどかしてしまった。
1111
重いまぶたをあげ、時計の位置を探す。⋮⋮壁掛け時計。あもう
荷物に積み込んじゃった。置き時計を見る。
九と十二のところに針がある。⋮⋮うちにこんな時計あったっけ。
素早く顔を起こし、自分の一糸纏わずの状況を確かめ、
自分の状況を認識した。
こんな眠りこけたの生まれて初めて。ってほど初めてじゃないけ
ど。で私が緑川を出るのは十時。
︱︱現在の時刻は朝の九時!
慌ててベッドから飛び出た。
隣で眠る和貴は、起きる気配が無い。安らかな子どもみたいに、
寝息を立てている。
脱ぎ散らかした衣服を纏い、その彼に近づいた。
その愛しい頬に触れた。彼が私にしてくれたように、滑らかな頬
を包み込んだ。
私を好きだと言ってくれて、
全身全霊で愛してくれて、
﹁ありがとう﹂
眼球が眠る動きをしている。一晩じゅうずっと起きていて、疲れ
たのだろう。
琥珀色の髪を撫で、薔薇色の唇に唇をそっと重ねた。
﹁バイバイ、和貴﹂
せっかくの誕生日の日なのに、一緒に居られない未来を選んで、
ごめんね。
あなたの傍に居られなくって、ごめんね。
音を立てず彼の部屋を出、玄関先に転がっていた自分のかばんを
1112
掴み、正真正銘。最後の桜井家を出た。
いまならば、柏木慎一郎の元を去った母の気持ちが理解できた。
好きだからこそ、愛しているからこそ、自分から離れなければな
らないときがある。
立ち去るときは静かに、とこころに決めていた。
︱︱愛し愛された余韻に浸る、ドラマティックな時間もゆとりも
なく。
帰ったら祖母がおかんむりだった。
﹁何時やと思っておるん。わたし、車も持っておらんで送っていか
れんのさけ、タクシーでも呼ばなと思って、心配したわ。はよ荷物
取ってこんかい﹂
﹁⋮⋮はい﹂
生まれて初めて祖母が怒るのを目撃した。
︱︱こんな広かったけな、この部屋。
ほとんどの荷物を残さずがらんどうだった。
来た当初は荷物に埋もれていた。汚かった。自分なりの城にしよ
うと画策し、そうなった。たった一年半のあいだだけれど、私を育
て、生活を見守ってくれた、思い出の場所だった。
たった一個の家具である、勉強机。そこにはもう花瓶は残ってい
ない。母が、ドライフラワーにしようと屋根裏に干してくれた。し
おりにでもしたら送ったるわ、と言った。
︱︱障子窓を見れば、柏木慎一郎が訪ねた朝を思い出す。
母は、柏木慎一郎の奥さんと電話で話した。常識的に考えれば、
母は許されないことをしでかした、憎むべき相手かもしれないのに、
﹃明石の御方みたいな人ってほんとにおるんやね﹄
︱︱柏木の子を産んでくださり、ありがとうございます。
1113
涙ながらに母に礼を言ったそうだ。
ひととしての格が違う。とそう母は漏らした。
明石の中宮におのれを重ねるのは図々しい気がするから、柏木と
女三の宮の子である薫大将にでも自分を重ねようか。性別も美のス
テータス値も違うけれど、奇遇にも父の名は﹃柏木﹄さんだし。
すると木島の父はさしずめ黒髭の中将といったところか。
醜男で髭が濃いし。
﹁真咲、はよせんかっ﹂
要らぬ妄想をしていると階下から叫ばれた。︱︱そう、時間がな
かったのになにをのんびりしているのか。急いで部屋を出ようとし
たが、一旦立ち止まり、
扉を閉める前に、礼をした。
﹁一年半のあいだ、ありがとうございました﹂
﹁バスんなかで食べたら酔うてしまうかもしらんな。ほんでも空き
っ腹で乗るよりかましやろ。おにぎり。食べておきなさい。駅着い
たらでも構わんさけ。水筒やと荷物重たなるしペットボトル、買っ
ておいたわ。あとな、酔い止め。忘れんと、飲んでおきなさい。ほ
れ﹂
早口で言う祖母から受け取り、口に含む。
ミネラルウォーターを返すと、私は肩をすくめた。﹁なんだか子
どもみたいだね﹂
﹁子どもっちゅうかうちの大切な孫やわ⋮⋮﹂
祖母の目に涙が浮かんでいることに、私は気づいた。
しわだらけの手が、私の髪を撫でる。﹁⋮⋮ちっさい赤ん坊やと
思うとったがに、いつのまにこんな大きなってんろうねえ﹂
1114
﹁背が学年で一番低いし、全然伸びる気配ないよ﹂
﹁あんったは、もう⋮⋮﹂
抱き寄せられ、私は目を閉じた。﹁私ね、⋮⋮この家に来たとき、
お母さんを恨んだ。向こうでの生活が恵まれてたのに、なんでこん
な田舎に連れてきたのか。だいっきらいだと思った。幼い頃数回訪
ねただけの、おじいちゃんおばあちゃんとも住むの、抵抗、あって。
⋮⋮でも﹂
顔を起こし祖母の細腕に触れた。
﹁この手でいつも支えてくれた。こころを開けばみんな、⋮⋮腕を
広げて待ってくれていたのにね。ずっと、気づかなくって、ごめん。
⋮⋮おばあちゃん。離れていても家族であることには変わらない
から。短いあいだだったけれど、ありがとう。お世話になりました﹂
﹁嫁にでも行くんかいや﹂祖母が泣き笑いをする。ぼろぼろの泣き
方に思わず笑いながら、ペットボトルとおにぎりをボストンバッグ
に入れ、そのボストンバッグを手に取り、さっきまで下げていたか
ばんを肩にかける。
﹁駅まで送ってくわ﹂祖母が急いだ様子でつっかけを履く。私は笑
って振り返り、
﹁駅まで一人で歩きたい気分なの。おばあちゃんは留守をよろしく
ね﹂
︱︱まったくこの子はもう。
呆れ声を聞きつつ、立てつけの悪い扉を開いた。
そのまま閉じれば簡単に終わるストーリーだった、のだが。
﹁真咲。︱︱蒔田くんちやのうて泊まったん、桜井さんちやってん
ろ﹂
扉の隙間から顔を覗かせた祖母に反応したのがいけなかった。
どうしてそれをっ、なんてワイドオープンさせれば誰にでも嘘が
バレる。
1115
﹁やぁっぱりそうながね。⋮⋮じいさんたちには内緒にしておくわ﹂
うっしっし、と笑う祖母にちょっと呆れた。﹁流石、⋮⋮長生き
するよおばあちゃん。クロレラと養命酒と青汁とローヤルゼリーを
愛飲してるだけのことはあるね﹂
﹁行ってらっしゃい﹂
﹁行ってきます﹂
扉を私は自分で閉めた。内側から鍵のかかる音をちゃんと聞いた。
同時に、自分の、和貴への想いに鍵をかけた。
︱︱さあ、行こう。
新しい未来へと私は歩き出した。
1116
︵4︶
何度となく往復したこの道を、過ごしてきた日々を噛み締めつつ
たどる。
駅へ学校へ何度となく通った国道には、人っ子一人歩いていやし
ない。
車が時折走り、春風を運んでくる。今日も気温が高くなりそうだ。
昨日は二十度超えだった。桜の開花が間もなくして訪れる。
東京で見る桜は、どんなだろう。
町田だと駅からさほど離れぬ距離に広大で豊かな公園があるけれ
ど、埼玉ならどこに行こう。上野や川越に行ったりするのかな。そ
れか川口か。
国道沿いに住まうひとびとの日々も変わらない。暇そうなミシン
屋さんに呉服屋さん。おせんべい屋さんに立ち寄る小学生。お腹の
大きいお母さんにまとわりつく幼子に飼い猫が︱︱
いろいろなひとびとがそれぞれの人生を生きている。
変わらずあくせく働くひとびとが輝いて見え、私に勇気を与えた。
美空ひばりなんて聴きながら行こうかな。
ボストンバッグのなかのCDプレーヤーの感触を確かめる。
空港行きのバスなんて、時期が早いからきっと無人。
︱︱と、思いきや、
赤いベンチに、人影が一つ。
﹁なんで、⋮⋮どうしてここに﹂
彼は私に気づき、膝の間に組ませていた指を解く。﹁見送りに来
1117
た﹂
﹁バスの時間なんて、言ってない、⋮⋮けど﹂
﹁昼過ぎの便と聞きゃあ十分だ。待つのも案外、悪くない﹂
長身の彼は、私の前に立つと首を傾げ、こき、と鳴らした。
﹁あれから海野に戻ってから、またこっちに来たんだね。疲れてな
い?﹂
乗車券を買い、ベンチの傍に立つ彼に近寄る。
本日の彼は昨日の色違いバージョンかのようだった。全身黒で、
靴だけが赤いスニーカー。
ガラス戸の向こうでも視線を外さず凝視してくるものだから、⋮
⋮自分が変な歩き方をしていないか、密かに不安になる。
﹁俺は、おまえのことで疲れたことなんざ一度もないぞ﹂
﹁だから、⋮⋮なんでそういうことを言うかな﹂
﹁仕方ないだろ。TPOはわきまえてるつもりだ﹂
彼は、バスを見た。
この町から離れ空港へと連れていく。やがては未知の未来へとひ
とびとを誘う、長距離バスを。
運転席にバスの運転手さんが乗り、エンジンをかける。旅立つの
は間もなくだ。
﹁私、行くね﹂
﹁ああ﹂
彼の前を通り、乗車口に向かう。
一歩、二歩。
カウントで五歩を進んだときだった。
﹁︱︱都倉﹂
﹁うん?﹂
﹁こっちじゃねえ。真後ろだ﹂
1118
私は彼を振り返る。
素早くこちらに迫り、その手が、私の頭をいつもするようにぐし
ゃっと押さえつけた。﹁髪が、﹂
ぐちゃぐちゃになっちゃう、と言いかけたのを彼は遮った。﹁わ
きまえてるっつたろ。直ぐに東京行くから、先行って待っとけ﹂
言うだけ言い彼はバスの前方へと回る。
︱︱真後ろ。
バスの後方をなにげなく見た。
そこには、︱︱⋮⋮
﹁だまって行くなんて、ひどいよ﹂
息も、髪も乱していた。
﹁なんで起こしてくれなかったんだよ﹂
顎先を伝う汗を手の甲で拭う。
この小春日和に。
どんなに急いで来たのかを証明している。
﹁ま、さきさんのこと、だから、緑川に居られないことに罪悪感感
じたっていう思考回路でしょう。分かるよ、そのくらい⋮⋮﹂
たまらず、首を振る。
その動きを、制止される。
﹁そんな簡単なもんじゃ、ないんだ﹂
1119
幾度と無く触れ、何度となく求めた。あたたかい彼の︱︱
﹁僕はねえ、真咲さん。そういうところも含めてきみが好きなんだ。
勝手に突っ走っちゃって悩んじゃうとことか︱︱﹂
濡れた頬を包まれていた。
愛しい彼が、笑いかけている。
﹁よければ、僕にもその荷を分けてほしいな。どんなに離れていて
も︱︱﹂
﹁か、ずきっ﹂
なにも、見えない。
和貴の愛しくて柔らかな茶色い髪。そのくせっ毛。ガラス玉の透
き通った瞳の色合い。ほんのり焼けた素肌、薔薇の色をした唇。い
つもおどけたように唇を尖らせる。アンバランスに大きな喉仏。
どれを、とっても、
﹁なんど諦めようとしたか分からない。それでも、諦められなかっ
たんだ。⋮⋮やっと、手に入れたんだ。僕だけの真咲さんを。
︱︱愛してる﹂
止まらない私の涙腺に、﹁あーあ﹂と肩をすくめ、
﹁これで泣き止んでくれないかな、真咲﹂
触れるだけのキスを鼻の頭に落とした。
1120
乾いたこころを満たし、
閉ざそうとした扉をいつも、開くのが、和貴だった。
鍵を握っている。
委ねている、それで楽になれることも、嬉しくてどうしようもな
くなることを、私は、知った。
ずっとこうしていたい。離れてなんかいたくない。なのに、
﹁⋮⋮時間だね﹂
和貴が私の後方を見あげた。おそらく、運転手さんのほうを気に
しているのだろう。既にエンジンがかかり、排気される空気が自然
の空気に混ざる。
﹁か、ずき、ばなれだぐないっ﹂
﹁僕が、入り口まで見送ったげるから。ほぅら、言ってごらん? イカリング、って十回﹂
﹁い、がりんぐ、いがりんぐ⋮⋮﹂
発音が山瀬まみの私の手を支え、和貴が乗車口のほうへと誘導す
る。
開かれているドア。数段のタラップ。
和貴の手がするりと離れる。
のぼりたくない、けど、登りきり、運転手さんにすみませんと断
り、乗車券を、渡した。
頭のなかでイカリングのカウントは続けていた。
﹁首から下げるのは?﹂
努めて明るい和貴の声。
私は振り向きざま、自分の首を指し、
1121
﹁ネックレス﹂
あ、っちゃあー、と項垂れる和貴を私は笑った。
﹁そこさ、分かってても、イヤリング。って言うとこでしょ普通。
⋮⋮ね、僕ね、イカリングでもイヤリングでもないけどきみに﹂
﹁出すよぉー、危ないからどいてな﹂
空気音とともにドアが閉まる。
その向こうに、和貴。
なにかを言ってるけど、﹁なに。聞こえない﹂
ドアを叩きかねないが躊躇し、顔を寄せ、
口を二回開けて最後は﹁ん﹂。
﹁わー、わー、⋮⋮ん?﹂
真顔で大きく二度頷くが違う。絶対違う。
その彼の全身が、顔しか、やがては手しか。ついにはすべてが見
えなくなる。
﹁和貴ぃっ﹂
ロータリーをバスが右折する。私は後方にダッシュした。
側面に沿って和貴が走る。
でも車の速度に人間は勝てないものだから、後方へ回ってしまう。
﹁和貴! ねえ、和貴ってばっ﹂
私は、後部座席にバンと突っ込んだ。
ガラス窓に手を付けて見るのは、バスが通る車道を走り、追いか
ける和貴の姿。
ぶんぶん手を振る愛しい人の姿。
﹁和貴、和貴っ! 私もっ﹂
1122
背もたれを掴んで彼に叫んだ。
﹃真咲、愛してるっ﹄
和貴の声が本当に、聞こえた。
泣き濡れる私に比べて、最後まで和貴は笑顔だった。
明るい髪の栗色、それに全身白のシルエットが消えてなくなるま
で、私は必死に見続けていた。
1123
︵5︶
﹁騒がしくしてすみませんでした﹂
赤信号で停まったところで、運転手さんに声をかけた。中年の、
ちょび髭の運転手さんは振り返るときに迷惑そうな顔をしていた。
﹁運転しとるときに走られると危ないがやですけど、⋮⋮気ぃつけ
てぇな﹂
﹁はい。すみませんでした﹂
おとなしく席に戻る。⋮⋮運転しているときに声をかけるのも本
来はいけないのだろう。
﹁かばん、やろ。彼が言うとったのは。はよ確かめぃや﹂
﹁⋮⋮えっと?﹂
信号を睨みつけ、生真面目に仕事をしてたかに見えた運転手さん
が一瞬、こちらに目を向けた。ミラー越しに。だが、
﹁もうすぐ信号変わるさけ、はよ座りなさい﹂
﹁⋮⋮はい﹂
おとなしく真後ろの席に戻る。
その席に、白のハンドバッグを置いたままだった。
︱︱和貴の言う﹃かばん﹄ならば、桜井家に持っていったこのバ
ッグに違いない。
チャックを開いてみるが、
﹁⋮⋮なんにもない﹂
ハンカチ、財布、手帳、ポーチ。以外になにも入っていない。試
しに、中身を全部取り出して底まで確かめてみた。ひっくり返す。
からっぽ。
1124
⋮⋮失望しつつ、かばんを隣の席に戻す。
そのとき、
かすかに、金属のこすれ合うような音がした。
内ポケットを開いてみたが、実家の鍵が入っているのみ。
それで、外のバックルを外し、手を入れてみると、
ある二つの感触を私は確かめた。
紺色の上品な紙質の、プレゼントらしき薄い包みと、
先に読んで、と茶封筒に走り書きされた、⋮⋮彼の、文字。
右からひかりが入り込み、のどかな田園風景を彩る緑の強さが倍
加される。その眩しさに目を細めながら私は恐る恐る封を開いた。
﹃真咲さんへ﹄
ルーズリーフに書かれているのは、和貴の、字だ。⋮⋮間違いな
い。
左利きの人間がボールペンで書いたゆえ、すこし字がこすれてい
る。
﹃現在夜中の、うんにゃ、朝の七時十分です。隣で爆睡するきみの
ことを見ながらこれを書いています。正直、僕も眠い。泥のように
眠い﹄
⋮⋮和貴ったら。
眠たげにまぶたをこする彼のことが目に浮かぶ。
1125
﹃きみが起きるまで起きていたいんだけれど、念の為、保険をかけ
ます﹄
なんのことだろう。疑問をさておき、先を急ぐ。
﹃直接渡せないチキンでごめんね。松田さん、だっけ。これ買った
ときに世話になったよ。あのひとから言わせると僕らは、日本人形
とフランス人形だってさ。そこまで口割らせた僕ってすごくない?
ま、そんな話はどうでもいっか。
僕がいなくて寂しくても枕を濡らさないように、きみにこれを捧
げます。
真咲。
愛してる。
子リス和貴より。
追伸。
僕のケー番とメルアド書いとく。
なんで聞いてくれなかったんだよ。ちょっと寂しいよ。
それと、きみがピッチか携帯持ったら教えてね﹄
その下には、和貴の連絡先が記されていた。
あまりの眠気のせいか、私の知る和貴の文字よりも、ぐっちゃぐ
ちゃだ。けども、私の眠るあいだにこんなメッセージを残してくれ
ていたなんて⋮⋮胸が熱くなる。
手紙を元のかたちに折りたたみ、膝の上に置き、隣席に置いてい
たプレゼントを広げる。⋮⋮よく見るとこの包装に見覚えがあるよ
うな⋮⋮
1126
見覚えがあるどころではない。
︱︱頬を引っ叩かれたかのような衝撃を感じた。
急いで開こうとするのに、シールを剥がしてから、ぷちぷちに覆
われたそれを取り出すのに、ひどく時間がかかり、もどかしかった。
︱︱はさみでも持ってればすぐに開けたのに。どうにかテープの位
置を探り当てて開き、しゃらん、と金属音を鳴らし現れ出てきたそ
れは、まさか。︱︱
﹁う、そ⋮⋮﹂
欲しくてたまらなかった。
後ろ髪を引かれる思いで諦め、二度の訪問で再び諦めていた。
手に入らないものだと。
和貴のことも、︱︱
⋮⋮触れる手が、震えてしまう。
赤と緑と茶に彩られた葉っぱに、チャーミングな子リスが傍に居
るんだよと微笑みかける。
︱︱いつ、手に入れたのか。
そこで思い出された。
プレゼント用に袋を貰いに戻ったあのとき。
その一年後。松田さんが私にかけた言葉を。
﹃或る方の想いが貴女にも届くと良いのですが﹄
1127
点と点が一本の線となり繋がる。
幾度と無く愛され、幾度と無く求められたからだを抱きしめた。
﹁⋮⋮言ってくれてよかったじゃん。⋮⋮ばか﹂
どうしようもない想いが結晶となり、私のなかからあふれた。
﹁かず、き﹂
その言葉を口にするだけで、強くも弱くもなれる。
凍てついたひとびとのこころをも溶かすかのあたたかい笑顔。冷
たく拒絶したときの威圧的な眼差し。後悔しても知らないよ、余裕
を浮かべたときのあの表情。僕を信じて、と手を差し伸べたあの真
摯な瞳のいろ。
愛していると言った。
どれを、とっても、
﹁和貴ぃ⋮⋮﹂
ブレスレットを持ち上げれば、彼の代わりを務める、おどけたリ
スが私のことを見つめていた。
本物に、会いたい。
いますぐに抱きしめて欲しい。
それなのに、それらの願いは叶わない。
だからこそ、彼はこれを︱︱
想いが伝わり、ブレスレットを包む手を濡らす。
1128
人目をはばからず号泣する私を乗せ、このバスは一路向かう。
私の知らない、未来が。
夢が待つその先へと。
すぐ傍に愛する人が居ない、未来。
けれども︱︱愛に満ちた未来へと。
ラジオからは控えめに美空ひばりの曲が流され、なぜだかすすり
なく人間の声を聞く。一足早い草いきれの匂いがどこかから漂い、
私のこころに新しい春を運んできた。
︱完︱
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n0187q/
碧の青春【改訂版】
2016年10月31日19時29分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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