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原爆市長 よみがえった都市 復興への軌跡
浜井信三
午前八時十五分
(前略)
私 は 当 時 、市 の 配 給 課 長 で 同 時 に 防 空 本 部 の 配 給 班 長 で あ っ た 。
防空本部の内規では、市内のどこかに被害を受けたら、本部員は
直ちに本部に集合して行動を起すことになっていた。私は家の始
末を家族にまかせて、身支度もそこそこに家を出た。外へとび出
してみると、東隣りの家の藁屋根から白い煙が上がっている。隣
組の人たちが出てその消火につとめていた。
私の家は仁保町の山城屋にあった。毎日市役所へ通うのに、自
転車で皆実新開の畑の中を抜け、比治山橋へ出るのであるが、こ
の日は倒れた家や塀、こわれたものが散乱して道を塞いでいて、
自転車は使えないし、他に乗物もないので、歩く以外に方法がな
い。途中、畑の中の肥壷の小屋も燃えていた。ちょっと変だなと
は思ったが、別に深くも考えず、ひたすら道を急いだ。
火の海を市役所へ
比治山橋の近くまで来ると、たくさんの群衆が、あわてふため
いてこちらへ向かって走って来るのに出会った。この人たちは、
私 を 見 る と 、私 が や っ て 来 た 方 を 指 さ し て 、
「あっちには火事は起
っ て い ま せ ん か ァ 」と か 、
「医者のいるところはどのあたりですか
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ァ」などとせっかちに聞くが、私の返事を待たずに、あたふたと
走り去って行くのであった。まるで何ものかに追われているよう
であった。
その人たちは、まるで地獄からとび出して来たような姿であっ
た 。ほ と ん ど が 半 裸 体 で 、頭 か ら 血 を 浴 び て ま っ 赤 に な っ て い る 。
ボロ切れをぶらさげているかと見れば、それは腕や手先の皮がベ
ロリとむけてぶらさがっているのである。
そのような、無残な姿の人の群れが、次から次へと逃げていく
るのである。彼らは誰もが、自分の家に直爆弾が落ちたと口ばし
っ て い る 。一 体 、こ れ は ど う し た こ と な の か 。気 が つ い て み る と 、
町の中へ向かっているものは、私のほかには一人もいなかった。
こ の 人 た ち の 姿 を 見 て 、私 は 、
「 こ れ は 大 へ ん だ 」と 改 め て 考 え
た。とにかく市役所へ―と、いつのまにか私は小走りに走り出し
ていた。
(中略)
庁舎の中はまだ余燼がくすぶっていた。むっとする火気を顔に
感じながら、私の課へ入ってみると、部屋一面を白い灰がうず高
く埋めている。その中に骸骨が二体ころがっていた。二体とも骨
格が小さくてキャシャだったので、おそらく女子であろうと思っ
た。
私は暗澹たる気持で女子課員のあの顔、この顔を思い描いた。
足でもやられて逃げ切れず、そのまま猛火に包まれてしまったの
であろうか。いや、きっと一撃で即死して火に焼かれたに違いな
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い。せめて私はそう思いたかった。私はしばし手を合わせたのち
部屋を出た。
(中略)
“生活”のない市民生活
戦災―ことに火災で全市の水道がこわれ、焼け跡の給水栓がほ
とんど漏水するため、水圧が極度に低下して、末端まで水がとど
かない。市民は水がなくては生活できないから、勝手に給水栓や
消火栓をこじあけて水をとる。水圧は下がりっぱなしで、家庭の
台所までますます水はとどかなくなる。市民は毎日水のあるとこ
ろまで、一日幾度も水を汲みに行くのだが、その苦労はなみたい
ていのものではなかった。
何とかして漏水を止めねばならない。漏水個所は焼け跡の瓦礫
の下になっている。私は水道課員を総動員して、毎日漏水してい
るところを捜し出しては止めてまわらせた。漏水処理班は来る日
も来る日も、瓦礫の下を掘りかえし、漏水している鉛管を見つけ
ては、腰のハンマーをとって口を叩きつぶし、水を止めてまわっ
た。
だが、せっかくそうして水を止めても、市民は背に腹はかえら
れ な い か ら 、止 め て も 止 め て も 、片 っ ぱ し か ら ま た す ぐ 開 く の で 、
ま る で イ タ チ ご っ こ で あ っ た 。 篠 原 (し の は ら )水 道 課 長 は 、 と う
とう、
「 こ れ は と て も 私 の 手 に お え ま せ ん 」と い っ て 悲 鳴 を あ げ た 。
そ こ で 寺 西 (て ら に し )正 雄 (ま さ お )君 ( の ち の 水 道 局 長 ) が 復
員 し て 帰 っ て 来 た の で 、篠 原 ( し の は ら ) 課 長 と か わ っ て も ら っ た 。
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私は若い寺西課長を激励して、
「 こ う な っ た ら 根 く ら べ だ 。ど っ ち
が勝つか、やってみろ!」と尻をひっぱたいた。寒いときではあ
るし、治安の上でも焼け跡はまだいたるところ危険でもあった。
寺西課長は、課員三人か五人で班をこしらえ、夜中市民が寝しず
まったときをねらって、念入りに漏水を止めて歩いた。一カ月ほ
ど漏水との苦闘がつづいたが、ついに処理班に凱歌があがった。
市民の台所の水道から、チョロチョロながら水が出はじめたの
である。正直なもので、こうなると、市民も消火栓などをあける
ものはいなくなった。水圧は次第に上がって、台所の水道栓から
水がドクドクと出るようになっていった。
私はこの給水問題で、人生的な教訓を得た。どんなに不可能に
みえることであっても、不断の努力をつづけていれば、自ら道は
開ける、ということ。物事は、糸口をつけるまでが大へんで、糸
口さえつけば、あとは自然に解決へ向かうものだ、ということで
ある。この戦果をもたらしたのは寺西陸軍歩兵中尉だが、その下
地は前任者の篠原課長がつくっていたかも知れない。あたかも、
長い間苦しんだ病人が、快方に向かって、医者をかえた時のよう
に・・・・・・。
住宅難もまた大へんなものであった。防空壕を住まいとしてい
るものは、まだいい方で、鶏小屋に寝起きしているものさえあっ
た。市では焼け残った地域で、余分な部屋数の家を調べ、住居に
困っている人に貸してくれるようにたのんだが、これは余り効果
がなかった。極度に窮迫した生活の中に、他人が入りこんでくる
煩わしさをきらい、進んで部屋を貸そうというものはなかった。
住宅建築は住宅営団が一手に引き受けていたが、営団が建てる
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だけの住宅ではとても間に合わない。組立住宅というのが、一セ
ット三千五百円で売り出されたが、当時三千五百円というのは大
金であった。またたとえ家が買えても、建てる土地が手にはいら
ないために、余り売れなかった。
こ う い う 住 宅 事 情 を 見 て 、 木 原 (き は ら )市 長 は 市 費 で 応 急 市 民
住宅を建てることを決意した。一戸でも多く建てるために、工費
を節約して、最小限度の家をできるだけ多く建てるようにと命じ
た。
命をうけて復興局の営繕課長が手がけた。いまも基町にある十
軒長屋のバラック二十棟が、二十一年の九月に建ったそのときの
応急住宅である。これができあがったときは、申し込みが殺到し
て、入居者を決めるのに、大へん困ったことを覚えている。
こういうのも、いまや広島の“遺跡”の一つとなったが、何か
の 用 で こ の 辺 り を 通 る と 、私 の 瞼 に あ の こ ろ の こ と が よ み が え る 。
―人間が生きているというだけで生活といえるなら、確かに焼け
跡にも“生活”があった。しかし生活とは、生きている人間に多
少とも幸福をもたらすものであるというのであれば、そこには生
活はなかったのである。
(中略)
精神養子“心の手術”
アメリカの『文学土曜評論』の主宰者で、世界的に有名な平和
主義者でもあるノーマン・カズンズ氏は、ニューヨークに「広島
ピースセンター協会」を設立し、その事業の一つとして、原爆孤
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児の精神養子運動を起した。精神養子というのは、法的な手続き
をふんで養子にすることは、すぐには困難であるから、戦災孤児
をアメリカ人がそれぞれ精神的な養子に選び、その養育費を送ろ
うという運動である。
この運動は、アメリカ人の間に非常な共鳴を呼び、養い親にな
ろうと申し出るものが殺到した。そしてついには、施設にいる孤
児の数より、養い親の方が上回るというありさまになったので、
養 い 親 の 了 解 を 得 て 、原 爆 孤 児 以 外 の 孤 児 に も 及 ぼ す こ と に し た 。
この養育費は、孤児たちが、満十八歳になって施設を出てゆく
までつづけられた。中には、高校や大学へ進学した孤児に学費ま
で送ってくれた養い親もあった。当時の孤児たちも、いまではほ
とんど社会へ出たので、この事業は一応打ちきられたが、今日な
お一、二人は大学の学費を受けている。
昭和二十四年、この運動が始まって以来、養い親から孤児に送
られた養育費は、かなり多額にのぼっているはずである。私がア
メリカに行ったとき、この精神養子についていろいろ事情をきい
てみると、養い親になって毎月養育費を送っている人たちは、必
ずしも裕福な生活をしているものばかりではなかった。余裕もな
い自分のサラリーをさいて、仕送りをしている人が少なくなかっ
た。なかには娘さんたち二、三人がグループになって、一人分の
養育費を出し合って送っているのもあるということを知って、私
は深い感動をうけた。また将来ぜひアメリカへ子供を呼んで、あ
ちらで教育をしたいといっている人もあった。
私はこの国境を越えた人間愛に心から感謝している。こうした
人間関係は、金の問題を別にして、いつまでもつづけてゆきたい
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ものだと思う。ただ孤児たちの多くは、英語に弱く、ややもする
と文通が途絶えがちになって、養い親たちを心配させていること
は残念である。
(後略)
※
この体験記は、一部を抜粋しています。
出 典『 原 爆 市 長 』シ フ ト プ ロ ジ ェ ク ト
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平 成 2 3 年( 2 0 1 1 年 )
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