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人の尊厳の在り処としての魂について - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ

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人の尊厳の在り処としての魂について - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
人の尊厳の在り処としての魂について
Author(s)
篠原, 駿一郎
Citation
長崎大学教育学部社会科学論叢, 57, pp.25-38; 1999
Issue Date
1999-03
URL
http://hdl.handle.net/10069/6233
Right
This document is downloaded at: 2017-03-28T19:27:46Z
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
長崎大学教育学部 一社会科学論叢 - 第 5
7号
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)
人の尊厳の在 り処 としての魂について
篠
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駿一郎
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目
次
は じめに
ヒ トと人格
人格の発生 と消滅
・・
・
--・
・
・--- 2
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-
-
人格 と脳
人格の存立
死者 との交流
自分の死の受容
指示 と存在
魂 の存在
魂 と科 学
・
-・ - --・ - 3
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-
-
-
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人の尊厳の在 り処としての魂について
はじめに
そ もそ も魂 は存在す るので しょうか。私 た ち現代人 は 「魂」 と聞いただけで, それ は何
か前近代 的な (つ ま り科学 が発達 す る以 前 の)素朴 な人 た ちの素朴 な妄想 が生 み出 した も
の, であ ると思 って しまい ます。 現代 の よ うな合理 的理性 的な科学 的知識 のネ ッ トワー ク
には 「魂 」 の よ うな言葉 は存在 しない し, また科学的な知識 こそが世界理解 のための本 当
の知識 ですか ら, したが って,魂 その もの も存在 しない, と言 いた くな ります。 その よ う
な魂 に, いか な る仕方 にせ よ何 らかの属性 を付与 す ることで, どの よ うな有意義 な議論 が
可能 なのか,怪 しい思 い に と らわれ た と して も無理 か らぬ ことです。 しか しなが ら, よ く
よ く考 えてみ ます と, これ ほ どの伝統 を持 つ魂 はそ う簡単 に消え去 って しま う ものではあ
りません。私 た ちが忘 れてい るかの よ うに見 え る 「魂 」概念 を私 た ちの心 の奥 か ら引 き出
し. それ が本来持 ってい る横極 的 な意 味 を発見 してみたい, とい うのが この小論 で私 の意
図す るところです。
ヒ トと人格
確 か に私 た ち人 間 は身体 を持 った存在 です。 しか しそれだけで,つ ま りその身体 だけで
それを 「人」 とは呼 びません 。 その身体 に宿 る (「宿 る」 とい うのは唆味 な言葉 ですが と
りあえず はそ う言 ってお きます)精神 的な ものの存在 を倹 って始 めてそ こに人 と しての存
在 を認 め ます。 そ こで,今後 の議論 のため に, この生物学 的身体 と しての人 を 「ヒ ト」,
そ してその人 の精神 的な部 分,す なわ ち考 えた り想像 した り愛 した りとい った意識作用 を
遂行す る心 の主体 , を 「人格 」 と呼ぶ ことに してお きま しょう。 そ う して, 「人, あ るい
は人間, は ヒ トと人格 か らな る」 とい った簡単 な分 けかたを前提 に して議論 を進 めてい き
ます。
ここで.現代 の よ うな科学 時代 に生 きる私 た ちは,本 当に存在す るの は脳 を含 め た身体
だけであ って.人格 を構成 す る意識 の よ うな もの は存在 しない,脳 の物理 的 な働 き, ある
いは状態, を 「
意識」などと呼んでいるに過 ぎない, と言 いた くな ります。 しか しなが ら,
物理的に存在 しない もの (あま り精確 ではあ りませんが,感覚的に捉え られない もの と言 っ
て もいいで しょう) は本 当 は存在 しない, とい った俗流唯物論 は私 た ちに何 の情報 も伝 え
る もので はあ りません 。 なぜ な ら.物理学 (ここでは生理学 やその他 の 自然 科学 も含 めて
おきます) は, ま さに定義 によ って,物理 的 に捕 らえ られ る ものを研究対象 とす るのです
か ら,意識 の ような ものが物理 的存在者 ではない と言 うのは定義 的 に当た り前 の ことだか
らです。 そ うい うわ けで 「意識 とか心 ,つ ま りは人格, とかい った ものは物理 的 に存在 し
ない」 とい うことは, あえ て真実 とか呼ぶ ほ どの ことではあ りません。 それ は,体重計 で
身長 が計 れ ないのが定義 的 (あ るい は原理 的) に明 らかであ るの と同 じよ うに,定義 的 に
当然 な ことなのです。
人間の,精神や意識,あるいは心 の主体 たる人格 は確かに存在 します。 なぜで しょうか。
それ はい ま言 いま した よ うに,感覚 的 に捕 らえ ることはで きません。 それが存在 す ると言
う根拠 は, それを表 わす 「精神 」 「意識 」 「心 」 「人格」 とい った用語 が,私 た ちの人生
で, あ るいは 日々の生活 で意 味 あ る用語 と して有効 に使 われているとい うことです。 これ
以外 のあるいはこれ以上 のいかな る根拠 が必要 なのか私 には考え ることがで きません。 「彼
女 はあの よ うに言 ってい たけ ど本 当 はそ うは思 っていないのだ」 とか, 「私 の気持 ちを彼
篠 原 故一郎
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女 に告 白すべ きか ど うか迷 ってい る」 とか い った表現 にあ る 「彼女 の思 い」 や 「私 の気持
ち」 を,物理 的 な用語 だ けで表現 し直す ことはで きませ ん 。 人 が愛 情 を感 じる とき どの よ
うな フェロモ ンが分泌 されていよ うと,中枢神経 にどのようなパ ル スが伝 わ っていよ うと,
そ して それ らの物 理 的現 象 が愛す る気持 ち と並行 的 に存在 しよ うと も, その物理 的現 象 自
身 が愛 す る気持 ちな の で はあ りません。依 然 と してそ こには,物 質 的 で ない 「愛 す る気持
ち」 が存在 す る と言 え るのです。
さて, ヒ トと人格 との存在 を認 めた ところで, その両者 の関係 に話 を進 め ま しょう。 こ
の関係 を考 え る とき に格好 の手掛 か りにな るのか いわゆ る 「妊娠 中絶 」 や 「脳死 」 とい っ
た生命倫理 に関す る問題 です。 それ らの問題 の細部 につ いて は こ こで言 及 しませんが, 当
面 の議論 に資す る範 囲 内で, この間題 を考 えてい きま しょう。
まず,定義 に よ って ヒ トは物質 です か ら知覚 的 に捕 らえ られ る もの と して存在 します。
始 め は二 つ の生殖単 細 胞 と して出発 します が受精卵 とな り自己増殖 を繰 り返 して誰 に も明
らか な ヒ トとな って胎外 に出 ます。 やがて数十年 の活動 を継続 して終 幕 に向か い,つ い に
は心臓 が鼓動 を停止 し死 を迎 え ます。 まれ に植物常態 や脳死状 態 にな り, その ヒ トの活動
は顕著 に衰 えてい るけれ どまだ生 きてい るよ うに見 え る, とい う場合 もあ ります。 しか し
いず れ に して も心 停 止 - と進 み血流 が途 絶 え ます と引 き続 いて全身 の細 胞 の壊死 へ と進 行
します。 そ して死 後 火葬 に付 されれ ば身体 を構成 していたす べ て の物質 は大地 にあ るい は
大 気 に帰 ってい きます。
さて,間等 は こ うです。私 た ちは, この生物学 的 ヒ トの発 生 か ら消滅 までの プ ロセ スの
どの時点 で人格 の発 生 を認 め, そ して どの時点 で人格 の消滅 を了解 す るので しょうか。一
昔前 まで は これ は特 に問題 に もな らない ほ ど簡単 な ことで した。 人 は母 の胎 内か ら出た と
きに人格 を持 ち始 め,息 を引 き取 った ときに人格 は消滅 す る と考 え られ ま した。 この こと
は赤 ん坊 に名前 をつ け死 者 に戒名 をつ ける とい った ことに象徴 的 に示 されてい ます。子 宮
内の胎児 の動 きや死 者 の髭 の成長 とい った ことはあ りま したが, それ らはあ くまで も人格
の気配 であ り,人格 の 同定 に特 に影響 を与 え る もので はあ りませ ん で した。
この よ うな ヒ トと人格 との不可分 の関係 は,上 で 「一昔前 まで」 と言 い ま したが, お そ
ら く人 が人 であ った数万年 の間の ほとん どの期 間がその よ うな もので あ った と思 われ ます。
と ころが近年 の医療 技 術 の発達 が,概念 的 に, あ るいは哲学 的 に,興 味深 い事 態 を生 じさ
せ ま した。人格 の発 生 と消滅 が は っき り しな くな りま した。 あ るい はその人格 の継続 期 間
につ いて人 々の意 見 が分 かれ るとい うよ うな事態 が生 じま した。
人 格 の発生 と消滅
まず人格 の発 生 につ いて考 えてみ ま しょう。 近 頃では,胎児 は胎 内 にあ る ときか ら詳 し
く検 査 され, また間接 的 なが ら映像 によ って も捉 え られ るよ うにな りま した。胎児 の性 別
か ら先天 的な病 気 や障書 の有無 まで もが分 か るよ うにな りつ つ あ ります。早産 によ って生
まれ る胎児 につ いて も, その未熟 さを医者 た ちが競 うほ どに医学 は進 歩 して い ます。 出産
日を妊婦 や主 治 医 の都 合 に合 わせ て決 め ること も可能 にな りま した。胎児 の性別 が出生前
に分 かれ ば名前 をつ け る こ と も可能 です。 この名づ けは人格 を認 め ることの非常 に重要 な
要件 です。 この よ うに して胎児 に関す る医学 的知 見が増 え 出産 の制 御技 術 が進 めば進 む ほ
ど,胎児 は胎 内 にあ りなが ら,次 第 に, この世 にす でに生 を受 けた者 , つ ま り嬰児 で あ る
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人の尊厳の在 り処としての魂について
かの よ うに考 え られ て きます。 なぜ な ら胎児 に関す る情報量 の増加 によ って 自然 に,胎児
は意識 あ るいは心 を持 った存在者 ,す なわ ち人格 を持 った存在者 , とみな され るよ うにな
るか らです。
ところで, この よ うな情報 を通 じて胎児 に重度 の障書 が あ る ことが分か る場合 があ りま
す。 その ような ときには, これ も医療技術 の発達 のおか げですが,妊娠 を中絶す ること も
で きます。 それ は私 た ちが,産 むべ きか否 か とい う倫理 的決断 を迫 られ るとい うことであ
ります。 その とき, も し私 た ちが中絶 を選 ぶ な らば この胎児 に人格 を認 め るわ けには行 き
ません 。 その胎児 に人格 を認 め るな らば,妊娠 を中絶 す る ことは殺人 を犯す ことにな るか
らです。私 た ちは胎児 が障書 を持 って い ることや望 まれ ない妊娠 であ ること. あ るいは母
体 の保護 と言 った理 由で,胎児 とい う弱者 をあえて切 り捨 て ることを選ぶか もしれ ません。
もちろんその よ うな中絶 を認 め るべ き時期 や中絶 その ものの是 非 に関 して種 々の意見 があ
ります。 そ して それ ぞれの立場 を正 当化 す るため には人格 の 出発 点 をいつにす るか とい う
間が答え られ な けれ ばな らないで しょう。
かつて妊娠 や出産 を制御 で きず 自然 の分娩 が普通 であ った時代 には,当然 なが ら, 出産
の時点 で嬰児 に名前 をつ け, そ こか らその人格 が始 ま ったので しょう。 また, その ような
時代 には,嬰児 は場合 によ っては名前 がつ け られ ること もない まま, そ してそれか殺人 と
い うほ どの こと も意識 もされ ない まま, 間引かれた りも した こと もあ ったはずです。現代
社会 では間 引 きは明 らか な殺人 です。 しか し現代社会 で は, さ らに,妊娠 の どうい う時点
でそ して どうい う理 由で中絶 を認 め るか,言 い換 えれ ば,何時 か らどうい う根拠 で人格 を
認 めるかか問われ る時代 にな っているのです。 それは社会 的な合意 で も問題 にな りますが,
個人的 な問題 とな る こと もあ ります。 た とえば障書 を もつ胎児 (あ るいは嬰児) を廃棄 す
ることに抵抗 の あ る社会 や個人 もい ますが, その よ うな ことに比較 的平気 な社会 や個人 も
あ るで しょう。
次 に人 の終幕 ,つ ま り人格 の消滅 の方 を見 てみ ま しょう。 かつ ては人 の死 は明 々白々な
事態 で した。 い ったい人 々が人 の 「生 」や 「死」 の意 味 につ いて迷 うよ うな ことかあ った
で しょうか。確 か に仮死状態 を本 当の死 と判断 して埋葬 して しま った とい うことはあ った
よ うです。 しか しそれ は 「死」 の意 味が唆味 だ ったわ けで はな く 「死」概念 の適 用 を誤 っ
ただ けの ことで しょう。 現代社会 では医者 がその死 を確認 します。 これ は法律 によ って も
医者 の専権事項 と して保証 されています。医者 の 中には 「死 ん でい るか どうかは医者 が診
れ ば分か る」 と言 う人 もい ますが, しか し, これ は医者 に死 の定義 が まか されてい る, あ
るいは臨終 の ときに医者 が死 を決 め ることがで きる, とい うこ とを決 して意 味 しません。
つ ま り,医者 は,確 か に, 目の前 に横 たわ ってい る身体 に正 しく 「死」概念 を適用 で きる
で しょう机
それ は,私 た ちの誰 もが納得 し了解 してい る 「死 」 の意 味 に したがい,人 の
死 を判断 してい るに過 ぎないのです。 だか らこそ,私 た ちは誰 も医者 の死亡診断 に異論 を
唱えないのです。 も し 「死 」 の意 味が もと もと唆 味 な ものな らは,家族 の死 の よ うな重大
な場 面 にあ って は,私 た ちと医者 の意 見 がいつ も簡単 に一致 す る とは考 え られ ません 。 要
す るに,何万年 とい う人類 の歴史 の中で.人 の死 の了解 は,簡単 明瞭 な 日常的行為 だ った
わ けです。
ところが周知 の よ うに,人工 呼吸器 の よ うな医療器械 の出現 で,医療現場 に,植物状態
にある人 あ るいは脳死状 態 にあ る人 が 出現 したわ けです。 この よ うな状態 の人 は果 た して
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生 きて い るのか死 ん で い るのか, とい う こ とが盛 ん に議論 され るよ うにな りま した 。 脳死
者 を人 の死 と認 定 す るの は世 界 の大 きな流 れ にな りつつ あ ります が 日本 は遅 れ て い る よ う
です。従来 の私 た ちの何万年 とい う歴史 に裏 打 ち され た 「
死 」 の直 感 的理解 か ら します と,
この状 態 にあ る人 は重病 人 で はあ ります が生 きて い る と考 え た方 が 自然 で しょう。 心 臓 は
樽 勤 し呼 吸 は継続 し血 色 は保 たれ て い るか らです。
と ころが, こ こで医者 た ちは私 た ち に驚 くべ き こ と, この驚 きを私 た ちは最近 忘 れ て し
ま って い るよ うです が, を言 い出 します 。 この人 は生 きて い るよ うに見 え ます が本 当 は死
ん で い るの です。 その理 由 は,脳 が不 可逆 的 に破 壊 され て い るか らです, と。 この時 ,先
の医者 が 「死 ん で い るか ど うか は医者 が診 れ ば分 か る」 と言 った の で あれ ば, これ に は簡
単 に承 服 す るわ け にはい きませ ん 。 この医者 は 「死 」 の意 味 を決 め る, あ るい は意 味 を変
更 す る, の は医者 で あ る, と主張 して い るか らです。脳 は単 な る- 臓器 で あ り物 質 で あ る
はず です が, なぜ その脳 が機能 しな けれ ば人 は死 ん だ ことにな るの で しょうか。 これ に対
して医者 は, ここでの文脈 に沿 った言 い方 を します と,次 の よ うに説 明せ ざるを得 ませ ん 。
そ もそ も死 とい うの は人格 が失 われ た とき に 「死 」 と呼べ るので あ って, その人 格 が失 わ
れ た こ との証拠 は脳 が破 壊 され た とい う事 実 です。脳 は精 神 の座 , そ して その精 神 作 用無
く して は人格 もあ りませ ん, と。
人 格 と脳
さて, この よ うに 「ヒ ト」 と 「人格 」 との 区別 , そ して 出生 と死 の場 面 にお け る この両
者 のず れ を通 じて私 た ちは次 の よ うな ことに気 が つ きます。 人 が生 まれ る とい うこ とは ヒ
トとい う生物 学 的物 質 に人格 が付与 され る とい うこ と, そ して人 が死 ぬ とい う こ とは ヒ ト
か ら人格 が失 われ る こ とを意 味 して い たの だ, と。 これ まで 自然 状 態 にあ った人 間 の 出生
は,誕 生 によ る身 体 の 出現 と人格 の付与 が 同時 で あ ったた め に ヒ トと人格 のず れ に気 付 か
せ なか ったの です 。死 に関 して も,従 来 の 自然 な死 (
心 臓 死 ) は,身体 がす べ ての活 動 を
止 め る と同時 に そ こに宿 って いた人格 が消 滅 した と思 われ た た め に,私 た ちに ヒ トと人格
の違 い を気 づ かせ なか ったの です。
さて, これ まで の分析 には唆味 なか ら一 つ の前 提 があ り した。 それ は,脳 の働 き無 くし
て は精神 (ひいて は人格 ) は存在 し得 ない, また逆 に,脳 の働 きがあれ ば精神 が存在 す る,
とい う こ とです。 果 た して この前 提 は正 しい の で しょうか, あ るい は この前 提 は どの よ う
な こ とを意 味 して い るの で しょうか。
もちろん精神 は物 質 で はあ りませ ん か ら触 る こ と も観察 す る こ と もで きませ ん。 その よ
うな非 物 質 と脳 の よ うな物質 との関係 を私 た ちは どの よ うに して知 るの で しょうか。 脳 の
部 分 的 な破 損 が もた らす精神 の部 分 的 な障害 につ い て は医学 的知 見 が豊 富 にあ ります し,
さ らに増 え続 けて い ます。 あ るい は脳 へ の物 理 的刺 激 にた いす る精神 的 な反 応 の証 言 もた
くさん あ るで しょう。 しか しその よ うな デ ー タは,脳 が精 神 作 用 を生 じるため の満足 の い
く必 要 十 分条件 で あ る こ とを示す こ とは で きませ ん。 なぜ な らば私 た ちに観 察 可能 なの は
物 質 で あ る脳 だ けで あ って, 当然 の こ とです が ,精 神作 用 を直 接観 察 で きな いか らです。
一 般 に,二 つ の事 態 の 間 の因果 関係 につ いて必 要 十 分条件 が満 た され るか ど うか を確 認 す
るた め に は両者 が全 面 的 に明 らか にな る こ とが少 な くと も原 理 的 に可能 で な けれ ば な りま
せ ん。 と ころが, 脳 の生理 学 的性 質 につ い て は, 当然 なが ら生理 学 的 に, い くらで もその
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人の尊厳の在 り処としての魂について
知見 を増 やす ことか可能 です が,精神 の方 の性質 については直接観察 す るこ とはで きず,
被験者 の証言 や脳 を含 めた身体 の現 われ を通 して しか知 ることはで きません。 です か ら,
物質 と精神 とい う二 つの異 な るカテ ゴ リーに属す る存在者 の間の相関関係 を十 全 に知 る と
い う期待 その ものが間違 って い る と言 わ ざるを得 ません 。
また,私 た ちの精神作 用 に関係 してい るの は脳 ばか りではあ りません。 そ こに送 り込 ま
れ る血流 や脳 と繋 が ってい る感覚 諸 器官 , そ して何 よ りも世界 その ものが必要 です。脳髄
.
だ けで,他 の身体 の諸器官 や もちろん世 界 もな しで,何 らかの精神的活動 が で きるなん て
どの よ うに想像 力 を働 かせ て も考 え る ことはで きません。 あ る意 味 での脳 の際立 った重要
性 はあ るので しょうが,精神作 用 とは,結 局 は,脳 も含 めた身体 とその身体 を含 む世界 に
関 わ る もので しょう。 その よ うな考 え方 の方 が, 「脳 こそが精神 の座 であ る」 とい うよ り
もはるか に私 た ちの 自然 な考 え方 にか な ってい ると思 われ ます。初夏 の若葉青葉 の美 しさ
は もちろん世界 その ものの美 しさで あ り脳 にその美 しさがあ るのではあ りません 。 確 か に
目を限 ればあ るいは脳 が損傷 を受 けれ ばその美 しさを感 じることはで きませ ん。 しか し晩
秋 にな って葉 か落 ちて しまえ ばその初夏 の美 しさを感 じる ことがで きな くな るの もまた当
然 の ことなのです。
話 を人格 の問題 に戻 しま しょう。身体 的 な ヒ トの生成発展衰退 のプ ロセスの どこに人格
の発生 と消滅 を見 るか, つ ま り人 の生 と死 を認 め るか, とい うことは,結局 は, 何 かの観
察 な どに基 づいて発見 す るよ うな事 柄 ではない, とい うことで はないで しょうか。 た とえ
脳 の観察 であ って も人格 の存在 と非 存在 を確定 す る役 には立 ちません。 これ は科学 の間尊
ではないか らです。近年 は確 か に脳 の生理学 的研究 が盛 ん でその重要性 が強調 され てい ま
す。 その ことが 「脳 =精神 」 とい う風 潮 を生ん でい ます. そ こか ら 「脳 の機能 の発 生 -人
格 の発 生」 あ るい は 「脳死 -人格 の死 」 と進 ん で きます。 しか しこれ らの主 張 は科学 とい
う学問が主張す る ことがで き る範 囲を逸脱 してい ます。 つ ま り科学 的 に答え得 るよ うな こ
とではない間者 を,科学 的 な体裁 で論 ず る とい う誤 りを犯 しているのです。
私 たちは歴史 的 に常 に脳 に精 神 の座 を認 めて きたわ けではあ りません。 ヒポ クラテスや
プ ラ トンそ して デカル トは精神 は脳 に存在 す ると考 え たそ うですが, ア リス トテ レスは心
臓 に心 の座 を求 めたのだそ うです 。 これ は, 「心鹿 」 や 「
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ar
t
」が 「こころ」 を意 味 して
いるように,私 たち一般人の長 い間の常識 で もあ りま した。 また孔子 は脳の ことを考 えず,
漢方 に も五臓六肺 のみで脳 はないそ うです。 これ らの ことは,近年 の 自然科学の発達 によ っ
て,脳 こそが心 の座 であ るこ とが判 明 しそれ までの蒙昧 に光 が当て られ た, とい うことを
意 味す るので しょうか。私 にはそ うとは思 われ ません。
それでは.人格 を構成 す る心 とい う もの は どこにあ るので しょうか。心 は どこに発生 し
そ して どこに去 って しま うの で しょうか。心, あ るいは精神作 用, は身体 の生成 と共 に脳
全体 か ら徐 々に誘 き出 し. そ して身体 の死 とと もに脳 にあ った精神 は霧 が晴れ るよ うに霧
散 して しまうので しょうか。私 た ちは どう して もどこか に心 の所在 を特定 した い思 い に駆
られ ますがそ うい う欲求 は正 当な もの なので しょうか。
人格の存立
しか しなが ら,人格 を構 成 す る心 とか精神 とか い った もの につ いては, もと もと, どこ
か特定 の場所 にあ る ものであ る と考 え て よい とい う根拠 はあ りません。 どこか特定 の空 間
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を 占有 す るよ うな もの で はな いの で はないで しょうか。 ただ私 た ちは, (自分 自身 の心 は
ここで は別 に して お きます が)他 人 の心 を, その人 の物理 的 に観察 可能 な姿 か ら想 定 して
い るの です。 あ るい は もう少 し正 確 に言 い ます と,私 た ちは人 の心 や意識 を そ の人 の身体
の付近 に存在 す る もの と して立 て て い る とい うこと,つ ま り存立 させ てい るのです。 この
他 者 の観察 可 能 な姿 とい うの は, その人 の 目つ き表情, そ して仕種 や振 る舞 い とい った も
の です。 もち ろん その人 の言 語 的表 現 , つ ま り発話 や記述 した もの, はその心 の存立 に大
変 重要 な働 きを します。 この よ うな もの の観 察 を通 じて私 た ちは何万年 も人 の心 とい うも
の を存 立 させ て きま した。
そ して,私 は この こ とを強 調 した いの です が,近 代科学 もその精微 な理論 と技術 を用 い
て脳 を分析 観察 し, そ こに人 の精 神 の存 在 を見 るよ うにな った とい うことです。 そ して現
荏 , 科 学者 た ちは脳死 状 態 に対 して人格 の不在 を言 お うと して います。将 来 は植 物 人 間 に
も人格 を認 め な くな るか も しれ ませ ん 。 脳 の生理 学 的分析 は身休 の一部 で あ る脳 の振 る舞
いの観 察 です。 その振 る舞 いを見 て, その特定 の振 る舞 い方 に死 を認 め よ うと して い るの
です。 もと もと,身 体 の外 見 的表 情 や興 奮 した ときの心臓 の高 鳴 りや緊張 も,複雑 織 細 な
言 語 表 現 も, そ して脳 の生理 学 的反 応 も,人 の振 る舞 い とい う意 味 で は同列 の ことなので
す。脳 の振 る舞 いだ けが,心 の特 定 の問題 に関 して,特別 な もの とい うことはあ りません。
いず れ に して も, そ う した さま ざまな振 る舞 い を通 して私 た ちは人 の心 を存立 させ て い る
わ けです。
しか しなが ら,科 学者 た ちが行 う脳 の観察 を通 しての心 の存立 は,科学 の現 場 にいない
私 た ちに は理 解 しが た く,素 直 な気持 ちで はなかなか受 け入れ られ るよ うな もの で はあ り
ませ ん。 脳 の振 る舞 い, す なわ ち脳 の物理 化学 的 な反応 , とい った もの はそ う簡単 に観察
で き るよ うな もの で はな いか らです。 そ こで科学者 は一 般 の人 た ちに盛 ん に科 学教 育 を し
ます。脳 の重 要性 を強調す るのです.
。その 目論見 はかな り成功 しています.私 の意 見 で は,
それ は成 功 しす ぎて い ます。 なぜ な ら,科学者 自身 もそ うですが, その教育 を受 けた私 た
ち も,脳 の振 る舞 い こそが唯一 の, あ るい は比類 ない,精神 の振 る舞 いで あ る とい うとこ
ろ まで思 い込 ま され て い るか らです。
しか し, もと もと精神 と肉体 は独立 した存在 です 。 この両者 を どの よ うに繋 ぐか は科学
の問題 で はあ りません。 いや科学者 もい ま述べた よ うに両者 の関係 を論 じよ うと します し,
彼 らに も,一 人 の人 間 と して生活 者 と して, その権 利が あ ります。 しか しそれ は科学 者 が
そ う しよ うとす る とい うことで あ って科学 とい う学問がその よ うな関係 を論 じる資格 を持 っ
て い る とい うわ けで はあ りませ ん 。 その よ うな心 身 問題 はあえて言 え ば哲学 的 問題 で しょ
う。 しか し 「哲 学 的」 と言 え ば また誤 解 が生 じます。哲学 とい う専 門的学 問 の認 識 の間額
と捉 え られ て しま うか らです 。 しか し哲学 は科学 の よ うに特定 の方法論 を前 提 と しない思
索 です か ら, あ る意 味 で は哲 学 は 日常 的 な思 索 と基本 的 には変 わ る もので は あ りませ ん。
そ うい う意 味 で心 身 問題 は哲 学 的 問題 と言 え るとい うことです。つ まる ところ,心 身 問題
は科 学 の問題 で はな く私 た ちの この平 凡 な 日常 の人生 の問題 なのです0
この 日常性 に立 ち返 って再 び ヒ トと人格 の関係 を考 えてみ ま しょう。 私 た ちは,生物 と
して の ヒ トに対 して, いつ か らいつ まで人格 を存立 させ ることがで きるので しょうか。基
本 的 に は その期 間 は 自由 に決 め る こ とが で きます。 どの よ うに決 め よ うと も, それ は事 実
問題 と して正 しい とか 間違 って い るか とい う閉篭 で はないか らです。 したが って,特 に科
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人の尊厳の在 り処としての魂について
学 的 な心 の存立 に縛 られ る必 要 もあ りません 。 で は人格 の期 間 の決定 は何 に重 きを置 くべ
きで しょうか。 それ は私 た ちの人 生 で あ り文化 で あ り社会 的 な合 意 です。私 たちの 日常的
な言 語 使 用 も文化 の重 要 な部 分 です か らそれ も考 慮 に入 れ られ な けれ ばな りません 。 繰 り
返 しますが,人格 を ヒ トとい う生物 学的対象の中 に事実 と して発見す ることはできません。
人格 の存立 は事実 問題 で は な いか らです。人格 の存立 は,私 た ちが ど う納得 す るか とい う
問題 で あ り社 会 的合 意 を ど う形成 す るか とい う問題 なの であ ります。
死 者 との交流
ところで人格 の発 生 と消 滅 には明 らか な非対称 姓 が あ ります 。 まず,私 た ち人 間 は受精
卵 が胎 児 とな りあ るい は嬰 児 とな って名前 がつ け られ る ころにな って, そ こで始 めて人格
の有無 が 問題 にな る段 階 に遷 します。 しか し少 な くと も受精 して発 生 を始 め る以前 に は人
格 と して存在 しない こ とは明 らか です。 ヒ トを構 成 す る物質 は この世 界 の どこか にあ った
ので しょうが それ はい か な る意 味 で も統合 され て はい ません か ら人格 の片鱗 を も認 め るこ
とはで きな いで しょう。 そ うい うわ けで私 た ちは生 れ る以前 の 自分 には ほ とん ど関心 が あ
りませ ん 。 それ に対 して人格 の消滅 の方 は ど うで しょうか。 ボケ の状 態 や昏 睡状 態, そ し
て昨今 問題 にな って い る植 物 状 態 や脳死状態 とい うよ うに,私 た ちは生物学 的 ヒ トと して
の質 的低下 を経 て臨終 へ と移行 していきます。 この プ ロセスの ど こかの時点 で,私 た ちは,
この身体 を,不 可逆 的 に回復 で きない もの, す なわ ち人格 が失 われ た死体 と して認 め な け
れ ば な りません 。 しか も, この死 の時点が どこか とい うことだ けで はな く,死後 この人格
が どの よ うにな るの か とい うことに多大 の関心 を抱 きます。死 後 の世 界 の こと,来 世 の こ
とにです。 この人格 の発 生 と消滅 の非対称性 は, さま ざまな宗教 が生前 よ りも死後 の世界
の説 明 には るか に多 くの言 葉 を費 やす こ とか らも窺 うことが で き ます。 小論 もこの死 後 の
存在 の方 に関心 を シフ トして話 を展 開 して い きたい と思 い ます。魂 は ま さに死 後 の存在 と
大 き く関 わ る と思 うか らです。
まず, 「人 の死 」 につ いて社 会 的 な合意 がで きた とい うことに しま しょう。 それ は心臓
死 で も脳 死 で もか まい ませ ん。私 た ちはそ うい う合意無 しには社 会 を運 営 してい くことは
で きませ ん 。 そ こで,次 の よ うな問 い を発 してみ ま しょう。 あ る人 の死 はそれ によ ってそ
の人 のす べてが失 われ るの で しょうか。 つ ま りそ こに死 体 と して残 され てい るの は単 な る
席 放 しやす い何 の役 に も立 た ない物質 なの で しょうか。 それ に答 え るため に, まず愛 す る
人 の死 に臨み私 た ちが ど う振 る舞 うのか を見 てみ ま しょう。 仕事 を そ して生 活 をを中断 し
別 れ の場 に参集 します。 で き得 る ことな ら最後 に一 言声 を交 わ したい, そ して手 を取 り別
れ を告 げたい と思 い ます。 これ は涙 な しにで き る こ とで はあ りませ ん 0
さて, この とき私 た ちは, その愛 す る人 が ま った く存在 しな くな るな どと思 ってい るの
で しょうか。 そ うで はな く彼 は黄泉路 へ旅 立 つ の です。 これ は別 れ の悲 しみ なの です。別
れ の場 は葬儀 や お別 れ の会 とい った形 で引 き継 がれ ます。 た くさん の友人 や知人 が別 れの
言 葉 で死 者 を送 ります。 そ して遺 骸 は火葬 に付 され ます が その遺 骨 の一部 は大切 に守 られ
保 管 され ます。 また彼 を追 悼 す る手掛 か りとな るよ うに位牌 が作 られ家族 の身近 に安 置 さ
れ ます。 この遺 骨 や位 牌 は もはや人格 で はあ りませんか ら社会 的 な諸 権利 を享受 した り義
務 を遂 行 す る こ とはあ りませ ん 。 しか しなが らその遺物 に対 して私 た ちは敬意 を払 い度 々
の法事 を行 い故人 を しの び ます。
篠 原 敦一郎
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3
これ は そ もそ も何 を意 味 して い るので しょうか。故 人 は故 人 と して なお も存在 し続 けて
い る とい う こ とで は な い で しょうか。 しか も故 人 は黙 って存在 す るだ けで はあ りませ ん 。
私 た ちを見 守 り時 に話 し掛 けまた夢 枕 に も立 ち現 れ ます。 そ の こ とは,私 た ちが しば しば
口にす る 「死 ん だお父 さんが見守 ってい る」とか 「
夢 の中で あの世 の友 人 と話 した」 とい っ
た表 現 に示 され て い る とお りです。
確 か に故 人 の ヒ トと しての 肉体 は,保 管 され て い る僅 か ば か りの遺 骨 を除 い て は 自然 に
帰 り大地 に そ して大 気 の 中 に雲散 霧 消 して しま って い ます 。 しか しなが ら彼 は存在 し続 け
ます。 そ うで な けれ ば ど う して私 た ちは彼 を祭 り彼 を思 い 出 し彼 に語 り掛 け るので しょう
か。彼 を愛 し続 け尊 敬 します。 もちろん憎 しみ を感 じる こ と もあ りま しょうが, もはや あ
か らさま な力 を私 た ちに振 る うこ とが で きな い ことを思 え ば彼 に対 して寛大 な気持 ちに も
な るで しょう。 いず れ に して も死 者 との この よ うな交流 は, 彼 が あ る意 味 で存在 す るか ら
こそ可 能 な の で は な いで しょうか。 それ と も私 た ちの死 者 に対 す る この よ うな行 為 は,錯
覚 や妄 想 に基 づ く嘘偽 りの行 為 とで もい うので しょうか。 もちろん, その よ うな行 為 はそ
の遺族 に対 して哀悼 の意 を表 す るため で もあ りま しょう。 あ るい は 自分 の気 持 ちの問題 で
もあ りま しょう。 しか しその よ うな表敬 や気 持 ち も, あ る意 味 で存在 し続 け る死 者 に対 す
る遺 族 や 自分 の惜 別 の情 が前 提 にな って い るこ とを思 え ば, や は り彼 の存在 を認 めて い る
か らで は な い で しょうか。 いず れ に しろ, この よ うな 日常 的卑近 な行 為 をす べ て虚偽 や錯
覚 と して しま うことは私 た ち人 間社会 の文化 の根幹 を否定 す るに等 しい ことではないで しょ
うか。
自分 の 死 の 受容
実 は,他 人 の死 の み な らず,私 た ちは 自分 の死 後 の存在 も信 じて い ます。 自分 自身 の死
とい うの は 自分 に起 り得 る最 悪 の事 態 で しょうが, それ は いつ か は受 け入 れ な けれ ば な ら
な い事 態 だ とい う ことを誰 もが承 知 して い ます。 で も誰 が その事 態 を受 け入 れ るので しょ
うか。 もちろん私 自身 です。 で も, その ときには もう存在 して い な い はず の私 が ど う して
その よ うな事 態 を受 け入 れ る ことが で き るので しょうか。私 た ちは病 気 や貧 困 とい った不
幸 に見 舞 わ れ る こ とを恐 れ ます。 これ らは現 実 に経験 しうる事 態 だか らです。 しか し自分
自身 の死 は それ らと同様 には経験 で きませ ん。 それ なの に ど う して死 を恐 れ るの で しょう
か。 これ は錯 覚 や思 い違 い とい う もの で しょうか。 そ うで は あ りませ ん。私 た ちは 自分 の
身 体 が そ して人格 が滅 ん だ後 もあ る意 味 で存在 し続 け る と思 って い るか らです。年老 いて
い くこ とに寂 参 を感 じるの も,老 化 に よ る気 力 や体 力 の衰 え よ り もこの世 で の残 り時間 の
少 な さ, そ して この世 を去 って しまえ ば再 び戻 る ことが で きな い とい う自分 の寂 しさを思
えば こそ で はな い で しょうか。 つ ま りあ の世 での 自分 の不 幸 を想 定 して い るの で はな いで
しょうか。 ち ょう ど, この人 生 の あ る週 末 ,楽 しい ひ と ときが終 わ って仕事 に戻 らな けれ
ば な らな いの を残 念 に思 うよ うに,私 た ちはいず れ この人 生 その もの に別 れ を告 げて去 っ
て いか な けれ ば な らな いの か残念 なの で はないで しょうか。 自分 の死 後 に も愛 す る家族 が
生活 に困 らな い よ うに生 命保 険 を掛 け彼 らの生 活 を守 ろ う と します 。 自分 の死 後 の評価 が
気 にな るな らば生 きて い る うちに手 を打 って おかね ば な りませ ん。 これ らの行 為 は明 らか
に私 た ちが死 後 の存在 を信 じてい ることを示 して い ます 。 その よ うな 自分 の死 へ の配慮 や
その配 慮 に基 づ く行 為 な く して は,私 た ちの この世 の人 生 が あ り得 な い とい うこ とは明 ら
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人の尊厳の在 り処 としての魂について
か な こ とです。
また, あ る特 殊 な状 況 の 中では,大 義 の ため に命 を懸 けた り, また辛 い現 実 を逃 れ て 自
殺 を した り します 。 この よ うに 自分 の生命 を賭 して行 う行 為 とい う もの は,私 た ちの過 ち
や錯 覚 や妄 想 に よる無 意 味 な価 値 の な い行 為 で あ る, とい うわ けで はあ りませ ん。 この よ
うな 自己犠 牲 は, 自分 の死 に よ って もた らされ る望 ま しい事 態 を期 待 しての行 為 で あ る,
と考 え な いの な らば と うて い理 解 で きな い行 為 な の で は な いで しょうか。 自分 の死 を 自 ら
進 ん で受 け入 れ るとい うのは, ま さに人 間 のみが行 う正 当 な人 間文化 ではないで しょうか。
私 た ちの生 活 はそ して歴 史 は, その よ うな 自己犠 牲 を そ の文 化 の一 部 と して しっか りと保
持 して き ま した。 そ して, その よ うな文 化 が な か った な らば,私 た ちは もっと違 った歴史
を経 て現 にあ る もの とは大 き く異 な った社 会 に生 きて い るで しょう。
で は, この よ うな死 者 た ちは, その死 後 , 自分 た ちが去 った あ との この世 界 の様子 を窺
うこ とが で きたの で しょうか。 あ るい は死 後 の 自分 た ちを受 け入 れ て くれ る新 しい世 界 を
見 出す こ とが で きたで しょうか。 その答 え は,現 に生 きて い る私 た ちには原理 的 に知 り得
な い こ とです。 死後 の世 界 の存否 は生 きてい る私 た ちが知 り得 る よ うな事 実 で は ま った く
あ りませ ん 。 これ まで述 べ て きま した よ うに, 私 た ちが い ろん な形 で死後 の存在 を信 じて
い る とい うこ とが, 生 きてい る私 た ちに と って, 私 た ちの死 後 の世 界 の存在 証 明 です。私
た ちの 自分 の死 後 に対 す る配慮 は, その よ うな死 後 の世 界 が存在 す る とい うこ との信 念 の
現 わ れ で が, その よ うな信念 を持 って い る とい う こ とが死 後 の世 界 の存在 に関 して意 味 あ
る こ とか らのす べ て です 。私 た ちに と って意 味 あ る重 要 な問題 は,本 当 に死 後 も自己が存
続 す るか ど うか知 る こ とで はな く,私 た ちが死 後 の存在 を信 じて この世 を生 きて い る とい
う事 実 だ けです。私 た ちは,科 学 の偏 向教育 に よ って, 「死 後 は一 切 が無 に帰 す 」 とい う
あ ま りに も不 自然 な そ して誤 った考え に汚 染 され て い ます。 しか しこの汚染 は表 面 的 な も
の で それ ほ ど深 い もの で は あ りませ ん 。 私 た ちの平 凡 な 日常 感 覚 を反省 してみ ます と.死
に対 して それ とは違 う 「永遠 の 自己 」- の思 い を しっか りと抱 い て い る とい うことに気 が
つ くで しょう。
緒 示 と存 在
さて,死後 の 自己の存在 に関 す る私 た ちの信 念 につ い て少 し違 った視 点 か ら考 え てみ ま
しょう。 それ は私 た ちの 日常 の言葉 づか い に現 れ て くる死者 の存在証 明です。 た とえ ば 「彼
s dead」 とい う表現 を見 て み ま しょう。 ここには, 「い る」 や
は死 ん で い る」 や 「He i
「i
s」 とい った存在 を表 わす言 葉 が含 まれ て い ます 。 さ らに. これ らの表 現 は, 「彼 は生
s al
i
ve」 , あ るい は 「彼 は喜 ん で い る」 や 「He i
s del
i
ght
ed」 と
きて い る」 や 「He i
同 じ形 式 を持 って い ます。 これ らの例 を見 て も. 死 とい うの は,常 に存在 し続 け る彼 の在
り方 の一 つ の様 態 に過 ぎない とい うこ とが分 か るで しょう。 つ ま り同一 不 変 の彼 が,死 ん
で い た り生 きて い た りまた喜 ん で いた りす る とい うの です 。
この こ とは, 哲 学者 た ちが いわ ゆ る 「指 示 の問題 」 で頭 を悩 ませ た こ とを思 い出 させ ま
す。 ち ょっと敷 延 してみ ま しょう。私 た ちは,普 通 の意 味 で現 実 には存在 しない もの につ
い て語 ります。 た とえ ば 「桃 太郎 は鬼退 治 をす る」 の よ うに 。 これ は ま った くの ナ ンセ ン
スな文 で はあ りませ ん 。 この文 の意 味 が理 解 で き ます し, あ る条件 の下 で は真 と言 って も
い い で しょう。 そ して, これ を理 解 して上 で,場 合 に よ って は,私 た ちは この発 言 者 に,
篠 原 壊一郎
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「桃 太 郎 は存在 しな い」 とい う理 由 で, この文 の不適 切 さを指摘 します。 しか しその指摘
の時 に述 べ た 「桃 太 郎 は存在 しな い 」 とい う文 は, いか な る意 味 で もナ ンセ ンスで はあ り
ませ ん し適 切 で確 か な真 理 です。 で は, これ らの二文, 「桃太 郎 は鬼退治 をす る」 (鬼退
治 文 ) と 「桃 太 郎 は存在 しな い 」 (存在 文 ) は何 につい て語 って い るので しょうか。 もち
ろん桃 太郎 につ いて です。 しか し. こ こに挙 げた鬼退治文 で あれ存在 文 であれ, どう して
存在 も しない もの につ いて語 る こ とが で きるの で しょうか。
これ に対 して哲 学 者 た ちが与 え た一 つ の答 え は, 「何 につ いてであれ,それ につ い て語
る こ とが で き る以 上 は,何 らか の意 味 で その もの は存在 しな けれ ばな らな い」 とい う もの
で した。 した が って,桃 太 郎 は何 らか の意 味 で存在 す る, それ は鬼退 治 を した り しなか っ
た り, また存在 した り存在 しなか った りす る, とい うことにな ります。 そ う します と, 「桃
太 郎 は存在 しな い」 とい う文 の 「桃 太郎 」 は, 「桃太郎 は鬼退 治 をす る」 の 「桃 太 郎 」 と
同様 に,何 か の存在 者 を指 示 して い る とい うこ とにな ります。 そ して, その指 示対 象 とな
る存在 者 の 「存在 」 の意 味 は,
この存在 文 の 「存在 しない 」とい う表現 が含 む 「存在 」 の意
味 とは異 な る ことにな ります。 つ ま り 「存在 」には二重の意味があるのだ と考 えたのです。
しか し, この, 「存 在」 を多義 的 に扱 うことに よる存在文 の指示 問題 の解決 は,特 に論
理 学 を専 門 とす る哲 学者 た ちには人 気 が ない もので した。 そ して彼 らは, 「桃 太 郎 」 の よ
うな存在 しない もの を指示 す る語 を主語 に持 つ文 を, 自然言語 の不 完全 さに帰 して無 視 す
るか あ るい は論理 学 の精級 な テ クニ ックで排 除 して しまお うと しま した。 こ う して指 示 問
等 の ア ポ リアを解 決 した と見 な し, 「存在 しない ものについて ど う して語 る ことが で き る
のか」 とい う哲 学 的魅 力 に満 ちた問 い には無 関心 にな って しまい ま した。 これ は大 変残 念
な こ とだ と思 い ます。私 た ちの 自然 な感性 と自然 な言語 使 用 に したがえ ば, お よそ,意 味
あ る文 と して語 られ得 る限 り, その文 が言 及 して い る対象 は何 らかの存在者 です。世 界 か
ら個 体 を切 り取 り, それ に固有 名詞 あ るいは確 定記述 (固有名詞 ではないが個体 を指 示 す
る表 現 ) の よ うな表現 で言 及 し, そ して それ につ いて語 るこ とは意 味 を もつ, とい う構造
は, い か な る言語 も共 有す る言語 の本 性 で はないで しょうか。 この ことを踏 まえ て. 当面
の もっと 日常 的 な場 面 に戻 る こ とに しま しょう。
魂 の存 在
私 た ちは,子 供 が生 まれ た ときに まず 名前 をつ けます が, これ は決定 的 に重要 な行 為 で
す。 この固有名詞 は.身体 的な ヒ トに人格 が発生 した ことを宣言 す ることにな るか らです。
しか しその身 体 的 な ヒ トが活動 を止 めて も, つ ま り死 んで も,私 た ちはその名前 を使 い続
け ます。 つ ま りその名前 で死 者 を言 及 し続 け るの です。 これ は先 に指摘 した出生前 と死 後
の存在 の非対 称性 です。 そ して, この よ うな名前 こそ, ま さに,上 で述 べ た私 た ちの身 体
的 な死 後 の 自己の存続 を支 え る もの で はないで しょうか。 そ して この死 後 も存在 し続 け る
もの こそ 「魂 」 と呼ぶ にふ さわ しい もの で はないで しょうか。 名前 はその人 が生 きて い る
間 , そ して死 後 も使 われ続 けます 。 その名前 が使 われ る限 り,つ ま り名前 によ って, あ る
い は それ に代 わ る確 定 記述 に よ って,指示言 及 され る限 りその指 示対象 はあ る意 味 で存在
し続 け るの で はな い で しょうか。 それ が魂 の存続 とい うことで あ り名前 は魂 を象徴 す る も
の です 。
私 た ち人 類 は,人 間 にな って以 来 ,常 に魂 の存在 , そ して その不滅 , を信 じて きたので
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人の尊厳の在 り処としての魂について
鎮
はないで しょうか。確 か に この 「魂」 とい う言葉 は古 ぼけてい ます 。 私 た ちは,時 々, 「
魂 」 や 「魂 祭 」 の よ うな表 現 を使 うこ とは あ ります が, あか らさまに魂 その ものを論 じた
りす る ことはあ ま りな いで しょう。 これ は専 横 を極 め る現代 の科学 的知 見 に対 す る遠慮 か
らで しょうか。 しか し科 学 的 な認識 は私 た ちの人 間 と しての認識 に全 面 的 に関 わ る権利 は
持 た な い はず です。私 た ちの生活 や人生 の場 には っき りと市民権 を持 つ概念 「魂 」 を もっ
と堂 々 と使 うべ きです。 「は じめ に」 で述 べ ま した よ うに,人 類 の歴史 を通 じて,私 た ち
の心 の奥 には しっか りと魂 へ の思 いが鏡 座 して きたはず です。私 は,現 代人 の心 に もその
思 いが依 然 と して あ る, と言 いた いのです。 その証拠 は,上 に述 べ ま した よ うに,死者 に
対 す る私 た ちの 自然 な思 いや死者 へ の敬意 を表 す行為 , そ して私 た ち 自身 の死 に対す る配
慮 です。魂 の存在 への思 いな くしては私 た ちの生活 や文化 は根底か ら崩壊 して しま うで しょ
う 。
確 か に この魂 の存在 の仕 方 は, それ に対 す る私 た ちの感性 に大 い に依 存 します。死者 と
の魂 の交流 を捗 い もの詮 無 い もの と してす ぐにその人 の存在 を忘 れ て しま う人 もい ます。
常 に 自分 の死 を見据 え て, とい うことは 自分 の魂 の処遇 を考 えて,生活 をす る人 も, また,
当面 は その よ うな こ とに無 頓着 な人 もい ます。 しか しこの ことは不 思議 な ことではあ りま
せ ん 。 生者 に対 して も私 た ちの感性 は さま ざまです。人 との 出会 いを大 切 に し愛 す る人 を
思 い続 け る人 もいれ ば人 との関 わ りに疎 い人 もい ます。 また,状況 に流 され るままに生 き
る人 もいれ ば 自分 の人生 を常 に省 み てその生 き ざまを確認 しつつ生 き る人 もい ます。
しか しなが ら, この魂 に対 す る感性 の強 弱 や多彩 さは さま ざまであ ると して も, この魂
の核 とな る もの,魂 を魂 た ら しめ てい る もの, は何 で しょうか。私 は人 の尊 厳 こそ魂 が そ
の本 質 と して深 く抱 いて い る もの だ と思 い ます。魂 とは身体 的 な生 か ら死 へ の変移 を越 え
て存在 し続 け る存在 者 です 。 だか らこそ私 た ちは,魂 に対 して, とい うことは,生 きてい
よ うが死 んで い よ うが その人 に対 して,尊厳 あ る もの と して敬意 を払 い続 け るので はない
で しょうか。 もちろん生 者 に対 す る尊 厳 と死 者 に対 す る尊 厳 はその様 態 を異 にす るで しょ
う。 生者 は生 きて い るが ゆえ にその生物 学 的 な ヒ トと しての生命 は尊 重 され な けれ ばな り
ませ ん し, その生活 者 と して の諸権 利 も保 障 され な けれ ば な りません 。 それが その生者 の
魂 の尊 厳 を守 る ことで あ ります。他 方,死者 の魂 の尊厳 を認 め る こ とは, その魂 がかつ て
は宿 って い た遺 骸 を手 厚 く葬 る ことで あ り, その魂 を祭 り, その名誉 を穀 損 しない こと,
な どで あ りま しょう。 死 者 を祭 る ことはその魂 の力 を恐 れ その鎮魂 の ためで あ ると も考 え
られ ま しょうが, 「畏敬 」 とい う言 葉 もあ ります よ うに,畏 れ と敬 いは近縁 の間柄 ですか
ら明確 に区別 はで きないで しょう。 その魂 の存在 を認 め る とい うこ とで は同 じことです。
人 は縁 あ って胎 内 に発 生 しそ して大 切 に守 られ期待 され慈 しまれ, そ して名前 を与 え ら
れ ます。 これ が魂 の始 ま りです。 そ して人 生 を太 く細 く長 く短 く生 きた後,死 を迎 えて土
に帰 り,祭 らゎ,機 会 あ る毎 にその名前 とと もに思 い出 され語 られ続 けます。 その限 り魂
は存在 し続 ける とい って い い で しょう。 そ して, やがて年 月 を経 て誰 に もその名が言及 さ
れ な くな ります。 この時 に初 めて その魂 も消滅 す る と言 え るので しょう。 た とえ ば,考古
学者 た ちに よ って発 掘 され た名 も知 られ ない遺骸 は魂 を持 った人 と して よ りもほ とん ど研
究 資料 とい う物 と して扱 わ れ ます。 これ は, そ こにその人 の魂 を 同定 す るいか な る手 かか
りもな いか らです。 も しこの遺 骸 の名前 が あ るい は社会 的 な地 位 が 同定 され, そ して私 た
ちの歴史 とい う文 化 の 中 に位 置 づ け られ るよ うな こ とにな ったな ら,再 びそれ は魂 を持 っ
篠 原 駿一郎
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た存 在 と して祭 られ , それ な りの敬 意 を払 わ れ る こ とに な るの で しょう。 人 は, か くか く
の者 と して 同定 され 名前 あ るい は それ に代 わ る もの に よ って言 及 され る限 り,魂 を持 った
存 在 者 と して存 在 し続 け るの です 。
実 は,魂 の存 在 が認 め られ るの は人 間 だ けで は あ りませ ん 。 一 寸 の虫 か ら身 近 なペ ッ ト
や そ の他 の動 物 まで私 た ちは ご く自然 に心 , した が って魂 , を存立 させ ます 。 植 物 に まで
心 を認 め る人 もい ます 。 これ らは なん の偽 善 で もな けれ ば錯 覚 で もあ りませ ん。 そ こに魂
を認 め る人 に と って その魂 は本 当 に存在 す るの で す。 た だ これ らの魂 の存 立 は社 会 的 に 同
意 を得 られ て い るい るわ けで は な く,個 人 的 な思 い や行 為 に と どま って い る とい うこ とに
過 ぎ ませ ん。一方 で,鉄腕 ア トムの よ うなほ とん ど人 の よ うに振 る舞 うロボ ッ トや コ ンピュー
タが現 れ るか も しれ ませ ん 。 あ るい は生 命 科 学 技 術 に よ って人 間 と も見 紛 う よ うな さま ざ
ま な個 体 が 出現 す る可 能性 もあ ります。 この よ うな もの に対 して私 た ちは, そ の人格 を さ
らに は そ の尊 厳 の在 り処 と して の魂 の存在 を認 め るべ きな の で しょうか。 そ の答 え を一 般
的 に こ こで論 じる こ とは で きませ ん 。 それ は, それ に直 面 した時 の社 会 の合 意 の形 成 に委
ね られ る ほか はあ りませ ん 。
魂 と科 学
さて , これ まで, 魂 の存在 を認 め る こ とが い か に私 た ちの 自然 な思 い で あ るか, そ して
日常 性 に裏 打 ち され た その 自然 さこそが魂 の存在 証 明 で あ る とい うこ とを述 べ て きま した。
しか しな が ら,近 年 の科 学 的 な知 見 は,魂 の存 続 や不死 とい う 自然性 を た び た び歪 め て き
ま した。 魂 な ど とい う もの は存在 しな い, とい う現 代 人 の無 反 省 な信 念 は, そ の よ うな科
学 的 偏 見 の もた ら した もの です。 これ まで述 べ て き ま した よ うに私 た ちは常 に魂 の存 在 を
信 じて き ま した。 もち ろん私 た ちの魂 の捉 え方 は時 代 に よ って ま た それ ぞれ の社 会 の文 化
の在 り方 に よ って さま ざまで した。 現 代 の私 た ち は死 者 の魂 が それ ほ ど強 い力 で も って私
た ちに働 きか ける とは思 って い ませ ん。 これ は何 か根拠 が あ って そ うなの で はあ りません 。
これ は科 学 の 問題 で は あ りません か ら肯 定 的 で あれ 否 定 的 で あ れ その科 学 的証 拠 が提 出 で
き るわ け で は あ りませ ん。 た だ,科 学 こそが本 当 に確 か な知 識 で あ る とい う偏 見 , あ るい
は科 学 偏 重 , が現 代 人 に魂 の力 を軽 ん じさせ て い るだ けです 。 しか し私 た ちが これ まで の
時代 を通 じて どの よ うに魂 を捉 え て きた に しろ, 人 に対 す る尊 厳 の核 こそが魂 で あ った と
い う こ とは確 か な こ との よ うに思 われ るの です 。
も う少 し具 体 的 な例 を考 え て み ま しょう。 その一 つ は脳 死 者 に対 す る考 え方 です 。脳 死
を人 の死 とす る こ とは世 界 の趨勢 です 。 これ は科 学 的 な真 理 で は あ りませ ん が社 会 的 な合
意 が で きれ ば それ は それ で受 け入 れ な けれ ば な りませ ん 。 その合 意 とは,次 の よ うな もの
に な るで し ょう。 人 が生 きて い る とい うこ とは そ こ に人 格 が認 め られ る こ とで あ る。 脳 が
破 壊 され れ ば人格 が失 わ れ た こ とに決 め よ う。 つ ま り 「死 」 の意 味 を変 え よ う とい う こ と
で す 。 そ うす る と脳 死 者 は死 体 に な ります。 この よ うな合 意 に従 え ば,人格 を失 った死 体
は単 な る物 と して考 え られ て しまい ます 。 な ぜ な らば, そ こで問題 にな るの は人 格 だ けで
あ って, 特 に魂 の よ うな非 科 学 的 な もの は想 定 され て い な いか らです 。
この よ うに して単 な る物 とみ な され た脳 死体 には,臓 器 移 植 を始 め とす る医療 資源 と し
て の管 理 と再 利 用 - の道 が開 か れ る こ とにな ります 。 そ して それ らの資源 の資本 主 義 的商
品 と して の流 通 が拡 大 して い くこ とは明 らか で しょ う。 もち ろん この こ とは脳 死 体 が敬 意
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人の尊厳の在 り処としての魂について
を払 われ る こ とな く粗末 に扱 われ る とい うことを必 ず しも意 味 しません。遺 族 の気持 ちを
汲 んで その資源 は丁 重 に扱 われ るで しょう し, よ り有効 に利 用す ることこそ遺 族 の気持 ち
に報 い る ことだ と考 え られ るで しょう。 それ に資本 主義経済 の下 では経済 的価 値 の高 い も
の は当然 の ご と く丁 重 に扱 われ る もの です。 しか しなが ら, この ように,人 間 は身体 と人
格 とか らな るの みで魂 な どは は存 在 しな い, とい う風潮 にあ っては,貴重 な商 品 と しての
敬意 が払 われ る こ とはあ って も人 と しての尊厳 が考慮 され ることは少 な くな ってい くので
はない で しょうか。
死体 と して残 され た身 体 は単 な る物 で はあ りません 。 適 当 に処分 して よい ゴ ミの よ うな
もので はあ りませ ん 。 それ は その身 体 に宿 っていた魂 の遺骸 です。言葉 の上 で も 「これ は
彼 ) はその身体 の活性 が消滅 し人格 が失 われ た後 (
つ
彼 の遺 骸 だ」 と言 うよ うに, その魂 (
ま り死 後 ) も もちろん存在 し続 けて い ます。 したが って その遺 骸 は尊厳 を もって取 り扱 わ
れ なけれ ば な りませ ん . 確 か に, その遺 骸 を鹿器 移植 な どの再利用 に供 して よいか ど うか
を その魂 に問 う ことはで き ませ ん。 その決定 は当人 の遺 言 や家族 や医者 の意 見 , あ るいは
法 の規定, とい った もの に頼 らな けれ ばな りません。 とい うことは,魂 の存否 は場合 によっ
て は臓 器 移植 等 の可 否 に実質 的 な影 等 はな い とい うことにな るか も しれ ませ ん。 しか し,
人格 の消滅 とと もにその身体 は物 へ格 下 げ され る とい う考 え は,人への尊厳 の気持 ちをそ
の人 の生死 を越 え て持 ち続 け る とい う私 た ちの 自然 に抱 いてい る気持 ち と矛 盾 す るのでは
ないで しょうか。
繰 り返 し強調 して お き ま しょう。 魂 は身体 的 な死 によ って も失 われ る ことはあ りません
し, その魂 を宿 す人 の名 に言 及 す る限 り魂 は私 た ちに立 ち現 れ る ものです。 その よ うに考
え ることは,人 の尊厳 の継続性 を考 え る上 ではるか に一貫性が あ りまた 自然 な ことであ る,
とは言 え な いで しょうか。 その よ うな魂 こそ人 の尊 厳 の在 り処 だか らです。
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