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日本の南極観測船の歩み

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日本の南極観測船の歩み
日本の南極観測船の歩み
平成 26 年 8 月 2 日土曜日
情報・システム研究機構
国立極地研究所
情報図書室
そうや
宗谷
に ほ ん はつ
なんきょくかんそくせん
とうじ み ち
たいりく
日本初の 南 極 観測船として、当時未知の大陸と
よ
む
くなん
すえ
呼ばれていた南極へ向かい、苦難の末、南極観測
せいこう
みちび
ふね
し
を成功に 導 いた船として知られている。しかし、
砕氷船「宗谷」(艦番号 PL107)
けんぞう
南極観測船のために建造された船ではなかった。
すうき
うんめい
きせき
「宗谷」は、数奇な運命をたどり、
「奇跡の船」と呼ばれていた。
い
か
へんれき
しょうかい
以下、その遍歴とエピソードを 紹 介 する。
 ソ連船・商船
れんぽう げん
たいひょうがた か も つ せん
ながさき
こうやぎじま
1938 年、ソビエト連邦(現ロシア)が耐 氷 型 貨物船として長崎の香焼島の
ぞうせんじょ
はっちゅう
なまえ
しんすいしき
おこな
造船所に 発 注 をし、
「ボロチャエベツ」という名前で進水式が 行 われたが、
こくさいじょうせい あ っ か
ひ
わた
ご
ちりょうまる
国際 情 勢 悪化によりソビエト連邦に引き渡されなかった。その後、
「地領丸」
なまえ
どうねんしゅんこう
しょうせん
という名前で同年 竣 工 し、 商 船 としてスタートする。
 特務艦
かいぐん
しょぞく
そくりょう ぎょうむ
じゅうじ
と く む かん
た
かんてい
1940 年、日本海軍 に所属 する 測 量 業務 に従事 する特務 艦 (他 の艦艇 の
かつどう
しえん
ちょくせつせんとう
さんか
活動を支援する艦で、 直 接 戦闘に参加しない)となる。
せんめい
こうぞう
ほっかいどうさいほくたん
みさき
かいきょう
船名も、耐氷構造であることから北海道最北端の宗谷 岬 の宗谷 海 峡 にち
なんで「宗谷」と命名される。
しょとう
ちい
1943 年、ソロモン諸島の小 さな島の測量をしていたとき、アメリカの
せんすいかん
よんはつ
ぎょらい
はっしゃ
いっぱつ
う げ ん こうほう
めいちゅう
潜水艦が「宗谷」に向けて四発の魚雷を発射し、一発が右舷後方に 命 中 し
ふはつだん
たす
たが、奇跡的に不発弾で助かる。
とう
だいくうしゅう
1944 年、トラック島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)で大 空 襲 があり、
とま
かんせん
げきちん
ひがい
う
泊まっていた艦船のほとんどは撃沈されるが、
「宗谷」だけ被害を受けない
か い ひ こうどうちゅう
ざしょう
うご
つぎ
ひ
ですむ。しかし、回避 行 動 中 に座礁し、動くことができなくなり、次の日、
ふたた
じょういん
りくじょう
たいひ
よくあさ
しぜん
あさせ
再 び空襲を受け、乗 員 たちは 陸 上 に退避する。翌朝、
「宗谷」は自然に浅瀬
はな
おお
ひがい
だっしゅつ
から離れていて、大きな被害を受けず 脱 出 に成功する。
こ う づ まる
えいかんまる
せんだん
く
まんしゅう
ゆそうにんむ
1945 年、「神津丸」
・「氷観丸」と船団を組み、 満 洲 へ向け輸送任務にあ
せき
なん
だっ
ぶ
じ
たっていたとき、2隻は魚雷が命中したが、「宗谷」だけが難を脱し無事に
にんむ
は
任務を果たす。
しゅうせん ま ぢ か
よ こ す か
とき
ぐんかん
ながと
とも
終 戦 間近、横須賀でドック入りしている時、軍艦「長門」と共に空襲を
き じゅうだん
あと
のこ
ていど
受けるが、機 銃 弾 の痕が残る程度で大きな被害を受けなかった。
ていはくちゅう
さんりくかいがん
おながわこう
そかい
てき
その後、停 泊 中 のすべての艦船は三陸海岸の女川港に疎開する。敵の潜
こうどうちゅう
む せ ん れんらく
はい
さ
水艦数隻が行 動 中 という無線連絡が入り、「宗谷」は敵潜水艦を避けなが
ほくじょう
しかい
のうむ
さいわ
はちのへこう
にゅうこう
らさらに 北 上 し、視界ゼロという濃霧が 幸 いし、無事八戸港に 入 港 する。
たいへいようせんそう
いくた
せんか
くぐり
ぬ
い
のこ
太平洋戦争で幾多の戦火を 潜 り抜けた「宗谷」は奇跡的にも生き残り、
しゅうせん
むろらんこう
むか
1945 年 8 月 15 日の 終 戦 を室蘭港で迎える。
 引揚げ船
ま
せんち
たいりく
きかんしゃ
はこ
ひきあ
終戦後間もなく、戦地や大陸からの帰還者を運ぶため、引揚げ船として
かいそう
めい
おく
とど
改装され、19,000名もの引揚げ者を日本に送り届ける。
 灯台補給船
かいじょうほあんちょう
とうだいほきゅうぎょうむよう
とうじ
ぜんこく か く ち
1950 年、海 上 保安庁の灯台補給業務用の船となる。この当時、全国各地
もう
もり
しょくいん
かぞく
す
こ
に設けられた灯台では、灯台守として灯台部の 職 員 が家族とともに住み込
とうか
ばん
せいかつ
こどく
ふべん
ぎょうむ
ひつよう
みで灯火の番をしていた。生活は孤独で不便だったため、灯台業務に必要な
ぶっし
しょくいん
はこ
ま
のぞ
いちねん
いちど
物資、 職 員 の生活物資など運んでくる日を待ち望んでいた。一年に一度、
ほきゅう
うみ
物資を補給する「宗谷」は、「海のサンタクロース」と呼ばれていた。
 南極観測船
こくさいちきゅうかんそくねん
けいかく
さんか
1955 年、「国際地球観測年」での南極計画に日本も参加することになり、
かいぞう よ さ ん
もんだい
こうぞう
せんてい
改造予算の問題や耐氷構造から「宗谷」が南極観測船に選定される。
しょだい
1956 年 11 月 8 日、初代南極観測船(海上保安
しょぞく
とうきょうすいさんだいがく
かいようだい
庁所属)として、東 京 水産大学(現東京海洋大
がく
れんしゅう せん
うみ たか まる
ずいはん せん
したが
学 )の 練 習 船 「海 鷹 丸 」を随伴 船 に 従 え、
のりくみいん
とう
乗組員77 名、第 1 次観測隊員53 名、22頭のカ
大群衆に見送られる「宗谷」
けん
だいいち じ かんそくたいいん
ねこ
わ
の
たび た
ラフト犬、1匹の猫、2羽のカナリヤを乗せ、南極へと旅発つ。
しゅっこう
せいほうようじょう
たいふう
そうぐう
せんたい
はげ
どう
出 港 してすぐフィリピン西方 洋 上 で台風に遭遇する。船体が激しく動
よう
よこゆ
ど
たっ
揺し、ローリング (横揺れ) が 38度に達した。これをきっかけに、
「宗谷は、
ひょうばん
ぼうふうけん
さいこう
えらく揺れる船」 という 評 判 になる。ちなみに、
「暴風圏」では、最高62
せきどうちょっか
つうか
度までローリングした。またクーラーはなかったため、赤道直下を通過す
さい
あつ
ようしゃ
おそ
る際は「暑さ」も容赦なく乗組員を襲った。
かいぎ
しょうにん
かいがん
じんせき み と う
「南極会議」で日本が 承 認 されたプリンス・ハラルド海岸は人跡未踏の
ち
せつがん ふ の う
くうはく ち た い
地で、
接岸不能とまでいわれた南極の空白地帯だったが、
1957 年 1 月 29 日、
しょうわ き
ち
かいせつ
第1次南極観測隊は、南極大陸のオングル島に上陸し、昭和基地の開設に
せいこう
き
ろ
あつ
こおり
と
こ
さいひょうせん
成功する。帰路に厚い 氷 に閉じ込められるが、ソビエト連邦の 砕 氷 船「オ
きゅうえん
の
こ
ビ」の 救 援 により、脱出に成功する。第 1 次観測は、幾多の苦難を乗り越
え、奇跡的に大成功をおさめる。
えっとうけいかく
だんねん
第 2 次南極観測では越冬計画を断念し、カラ
きこく
ひはん
こえ
フト犬 15 頭を残して帰国したことに批判の声
あ
ふたた
おとず
を浴びる。しかし、1 年後、再 び昭和基地を 訪
はじ
すうとう
い
の
れると、タロとジロを初めとする数頭が生き延
しら
おどろ
「タロ」(左)と「ジロ」(右)と再会を喜ぶ
北村隊員
かんどう
びていた。この報せに日本中が 驚 き、大きな感動をもたらす。「宗谷」は、
かつやく
1962 年まで 6 回にわたる南極観測で活躍した。
 巡視船
じゅんしせん
はいび
かいなんきゅうじょ
1962 年、海上保安庁の巡視船として北海道に配備される。海難 救 助 や
とうき
ほくよう
いりょうかつどう
きゅうじょせん
にんずう
冬期の北洋における医療活動に従事し、 救 助 船125 隻、救助人数は 1,000
およ
きた
うみ
まも
がみ
かつやく
名にも及び、
「北の海の守り神」と呼ばれるほどの活躍をする。
 退役
けいか
とえき
1978 年 7 月、
竣工から 40 年を経過し、解役(船
やくわり
お
いんたい
けってい
としての役割を終え引退すること)が決定する。
か
すがた
き
解役した後、スクラップ化され、その 姿 は消え
鮮やかなオレンジ色の船体が美しい「宗谷」
き
てしまうことが決まっていた。しかし、
「宗谷
ほぞん
かくち
わ
お
かがくかん
を保存したい。」 という声が各地で沸き起こり、東京の「船の科学館」が
けってい
たいえき
だいば
保存先に決定された。同年 10 月 2 日 退役し、現在、お台場にある同科学
いっぱんこうかい
館で一般公開されている。
[参考文献]
『南極観測船 宗谷』日本海事科学振興財団 船の科学館編. (日本海事科学振興財団 船の科学館, 2003)
『奇跡の船・宗谷物語』川嶋康男著. (あすなろ書房, 1994)
『奇跡の船「宗谷」: 昭和を走り続けた海の守り神』桜林美佐著. (並木書房, 2011)
[WEB サイト]
船の科学館 http://www.funenokagakukan.or.jp
日本財団 図書館 船の科学館 資料ガイド 3 南極観測船 宗谷
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00032/mokuji.htm
がいよう
「ふじ」概要
かんれき
艦歴
きこう
起工 1964 年 8 月 28 日
進水 1965 年 3 月 18 日
しゅう え き
就 役1965 年 7 月 15 日
たい
退役 1984 年 4 月 11 日
従事隊 第 7 次~第 24 次(1965-1983)
砕氷艦ふじ 日本鋼管 1965
せいのうしょげん
性能諸元
まんさいはいすいりょう
満載 排 水 量 9,120t
すいしん
推進方式 ディーゼル電気推進
全長 100.0m
プロペラ 固定ピッチ×2
全幅 22.0m
最大速力 17.2kt(ノット)
さいひょう
深さ 11.8m
連続 砕 氷 能力 0.8m
きっすい
せんしゅさんすい
喫水 8.3m
輸送物資量 約 400t
船首散水能力 なし
乗組員 200 名
さいひょうかん
たんじょう
砕 氷 艦「ふじ」 誕 生
た も く て き さいひょうせん
多目的 砕 氷 船
ぼうえいちょう
しょう
もんぶ
そうや
だいせんけんぞう
かがく
1962 年 8 月 21 日、防 衛 庁 (防衛 省 )は文部省(文部科学省)から
ひこうしき
ようせい
う
かん
ちょうさ
かいし
非公式に要請を受け、「宗谷」の代船建造に関する調査を開始した。
き ほ ん ほうしん
つぎ
基本方針は次のとおりである。
かんそくたいいんやく
ぶ っ し やく
きょくち
ゆそう
●観測隊員約35 名、物資約400t を極地へ輸送する。輸送はヘリコプ
きかん
こうのうりつ
たいけい
かくりつ
ターを基幹とする高能率な輸送体系を確立する。
ひょうかい
こうどうりょく
きょくりょくおお
● 氷 海 での行 動 力 を 極 力 大きくする。
かんじょう
せつび
かのう
はんい
こ こ
ようきゅう
まんぞく
こうりょ
● 艦 上 観測設備は可能な範囲で個々の 要 求 を満足するよう考慮す
る。
きょじゅうせい
えいせいかんきょう
こうじょう
はか
●居 住 性 、衛生 環 境 の 向 上 を図る。
あんぜんせい
かくほ
しんらいせい
●安全性の確保、信頼性の向上。
せいしき
なんきょく
さいかい
たんとう
けってい
1963 年正式に 南 極 観測の再開と輸送担当が防衛庁(防衛省)に決定し
ぶんかかい
ひら
ほんかくてきせっけい
すす
けっかおうろ
ふくろ
た。分科会が開かれ本格的設計が進められた。その結果往路、復路で
おこな
かいよう
はじ
きしょう
でんりそう
うちゅうせん
きょくこう
やこう
かいよう
行 う海洋観測設備を始め、気象・電離層・宇宙線・極 光・夜光・海洋・
せいぶつ
ちけい
ち じ き
じしん
じゅうりょくかんそく
かんそくしつ
しつ
やく
生物・地形・地磁気・地震・ 重 力 観測の観測室13室(約210 ㎡)が
もう
しんせん
どうじ
設けられることとなり、新船は砕氷船であると同時に輸送や観測船と
きのう
そな
う
か
しての機能を備えた多目的砕氷船に生まれ変わった。
かんめい こ う ぼ
き
艦名公募「ふじ」に決まる
おこな
おう ぼ すう
まんつう
なか
えら
艦名は公募によって 行 われ、応募数44万通の中から「ふじ」が選ば
にほん
さいこうほう
ふ じさん
ちな
な づ
れた。日本の最高峰の「富士山」に因み名付けられたものである。
かいじょう
じえいたい
たんとう
海 上 輸送は海上自衛隊が担当することになったため、
「ふじ」は自衛
さいひょうかん
よ
艦となり、 砕 氷 艦「ふじ」(AGB-5001)とも呼ばれるようになる。
しんすいしき
かんせい
進水式・完成
に ほ ん こうかん つ る み ぞうせんしょ
けんぞう
とうじ
日本鋼管鶴見造船所で建造された「ふじ」は 1965 年 3 月 18 日、 当時
こうたいし ご ふ さ い
てんのうこうごうりょうへいか
ごりんせき
しんすいしき
むか
こうど
の皇太子御夫妻(天皇皇后両陛下)の御臨席のもと進水式を迎え、高度
せいちょうき
こくみん
きたい
せ お
かんせい
成長期における国民の期待を背負い、7 月 15 日に完成をみた。
せんたい
さいひょうのうりょく
船体と砕 氷 能 力
たて
わ
ふと
みじか
おうだんめん
はんえん
ちか
船体はドングリを縦に割ったように太く 短 く、横断面が半円に近い
かたち
よこはば
ひろ
わんがた
きかん
はつ で ん き
まわ
形 をしていて、横幅が広いお椀型。ディーゼル機関で発電機を回し、
でんりょく
ちょっけつ
で ん き すいしん ほうしき
その 電 力 でスクリューに 直 結 するモーターをまわす電気推進方式
さいよう
しゅんじ
かいてん
き
か
かのう
を採用したため、瞬時のプロペラ回転の切り替えが可能となり、砕氷
かくだん
こうじょう
れんぞく
こおり
あつ
能力が格段に向 上 した。連続砕氷可能な 氷 の厚さは 80cm。氷が厚
ぜんしんりょく
こおり
たいあ
くなると 前 進 力 で 氷 に体当 た
かん
さゆう
ゆ
りしながら砕氷し、艦を左右に揺
こうたい
ふたた
さぶって後退、 再 び氷に体当た
ほうほう
く
りする方法(チャージング)を繰
かえ
すす
り返しながら進む。
おおがた
ま た 輸 送 能 力 が 大 き く 、 大型
せつじょうしゃ
がた
など
はんにゅう
雪 上 車 (KD60型)等も 搬 入 で
『世界の砕氷船』赤井謙一著 成山堂書店 2010
かん こ う ぶ
p8
か く の う こ およ
きるようになった。艦後部にはヘリコプター格納庫及びヘリコプター
かんぱん
ていさつおよ
よう
き とうさい
甲板になっており、偵察及び輸送用に S-61A-1 を3機搭載している。
輸送ヘリコプター S-61A-1
http://island.geocities.jp/torakyojin88/s61.html
KD601 雪上車と観測船「ふじ」
『日本の雪上車の歩み』 細谷昌
之著 国立極地研究所 2001
『砕氷艦ふじ内規』防衛庁,砕氷艦ふじ 198-
【航路】「ふじ」
くら
は「宗谷」に比べ
こうぞく き ょ り
なが
航続 距離 が 長 い
ほきゅう
た め、 補給 の た
めケープタウン
よ
ひつよう
に寄 る 必要 が な
く、オーストラ
せいがん
リ ア西岸 の フリ
きこう
ー マン トル 寄港
あと
『南極観測船ものがたり』小島敏男著 成山堂書店 2005
ちょくせつしょうわ き
ち
p138
む
の後は 直 接 昭和基地へ向かうことができる。このため、
「宗谷」より
こうてい
にしゅうかん
たんしゅく
ゆう り
てん
も行程が二週間の 短 縮 となる。さらに有利な点はフリーマントルか
なんか
ぼうふういき
さいたん
つうか
ひがし
お
かぜ
の
ら南下して暴風域を最短で通過し、 東 の追い風に乗ってリュツォ・
わん
せいしん
げんざい
いた
フォルム湾へと西進できる。このコースのパターンが現在に至るまで
とうしゅう
踏 襲 されている。
き
き
せいか
「ふじ」の危機と成果
みっこうしゃ
密航者!?
はるみふとう
しゅっこうしき
お
の
1965 年 11 月 18 日晴海埠頭での出 航 式 が終わり、第 7 次隊を乗せ
とうきょうわん
な ん か とちゅう
ほんだかんちょう
ほうこく
う
た「ふじ」が 東 京 湾を南下途中、本多艦長は密航者の報告を受ける。
ぎ ふ け ん う
は た ち
おとこ
か
したぎ
ふく
ふなよ
ぐすり
岐阜県生まれの二十歳 の 男 が替えの下着、服、船酔い 薬 を持って
し ぶ つ こ
かく
おとこ
い
なんきょく
じぶん
私物庫に隠れていたのである。男 は「みんなが行く 南 極 だから自分
い
かま
おも
み
ざんねん
ことば
も行っても構わないと思った。見つかって残念」という言葉を残し、
げせん
下船させられた。
きび
せつがん
厳しい接岸
しゅうえき
「ふじ」が 就 役 の 18 年間のうち接岸できたのは、6 回である。第 7
いこう
次から第 11 次までと、第 19 次だけだった。第 12 次以降は全てヘリ
くうゆ
コプターによる空輸となった。
ひょうばん
へいそく
みうご
ふのう
3 度のビセット( 氷 盤 に閉塞され身動き不能)
すいしんよくせっそん
「ふじ」は 18 年間のうち 3 度ビセットされた。うち推進翼折損は 2
き と
う すいしんよく
ぜんぶ
度。第 11 次では、1970 年 2 月 25 日の帰途に右推進翼4 枚全部折損。
ひょうじょう
ひょうこう
さいひょうのうりょく
こ
当時の 氷 状 は 氷 厚3~8m にも及び、「ふじ」の 砕 氷 能 力 を超え
るものであった。ソ連(ロシア)の「オビ」、アメリカの「エディス
きゅうしゅつ
ようせい
きゅうしゅつ ふ の う
はんだん
ト」へ 救 出 を要請したが、いずれも 救 出 不能と判断された。しか
せんないえっとう
かくご
しゅうかんご
く
ひら
じりき
し、船内越冬を覚悟した三週間後に奇しくも氷が開き、自力でビセッ
だっしゅつ
トから 脱 出 できたのである。第 12 次では、1971 年 1 月 10 日の往
はげ
み
ま
ちょうき
路に右推進翼を 1 枚折損。激しいブリザードに見舞われ、長期のビ
じょうたい
おちい
こうろばくは
じっし
セット 状 態 に 陥 った。
氷厚は7~8m にも及び、
航路爆破を 2 回実施。
こうこう
しんざいしつ
ようやく砕氷航行を開始した。
このことから、第 13 次航からは新材質
かんそう
ひょうかい
の推進翼に換装したのだが、1972 年 3 月 13 日、第 13 次隊も 氷 海
りだつちゅう
離脱中にビセット。28 日に自力で脱出をした。
きょくてん り ょ こ う
き
ち かいせつ
極点旅行・みずほ基地開設
おおがたせつじょうしゃ
はんにゅう
「ふじ」は輸送能力が大きく、大型 雪 上 車 等も 搬 入 できるようにな
ないりくふか
ちょうさ
ったため、内陸深くへの調査が可能となった。1968 年 9 月から翌 69
えっとうたいちょうむらやま ま さ み い か
なんきょくてんおう
年 2 月までの第 9 次越冬隊 長 村山雅美以下11 名の隊員が、南 極 点 往
ふく ちょうさ りょこう
さっぽろ
な は
復 調査 旅行 5,180km(およそ札幌 ~那覇 往復距離)に成功し、1970
きょてん
き ち
りつ
年には、みずほ観測拠点(みずほ基地)が設立された。
国立極地研究所提供
環境省なんきょくキッズ
みずほ基地
http://www.env.go.jp/nature/nankyoku/kankyohog
o/nankyoku_kids/encyclopedia/ma/mizuho.html
せいちょうき
観測の成長期を支えた「ふじ」
さんみゃく
1969 年に、第 10 次隊がやまと 山 脈 周辺で
いんせき
はっけん
隕石9 個を発見した。以降、日本隊の見つ
せかい
けた隕石はおよそ 16,800 個と世界の中で
ひじょう
も非常に多い。1970 年には、オーロラ観測
う
せいこう
用ロケットの打ち上げに成功。後のロケッ
きしょうちょう
ト観測の道を開いた。1982 年には、気 象 庁
さんか
ちゅうばちしげる
そう
げん
から参加した 忠 鉢 繁 隊員がオゾン層の減
極地研ライブラリー『南極観測隊の
しごと』成山堂書店 2014 p13
しょう
はっぴょう
少 を発見し、1984 年に 発 表 。オゾンホー
たんちょ
ル発見の端緒となる。このように観測の成
いく
めだませいか
そくせき
長期を支えた「ふじ」は、幾つもの目玉成果の足跡を残した。
たいえきご
ふじ退役後
しえん
こうかい
と
南極観測支援のため 18 度の航海をやり遂げた「ふじ」は、1985 年
な ご や
しんこうざいだん
おく
まん
かいと
に退役した後、名古屋みなと振興財団により 5億8,000万で買取られ
げんざい
な ご や こ う
えいきゅうけいりゅう
た。現在、名古屋港ガーデン埠頭に 永 久 係 留 され、南極観測に関す
はくぶつかん
いっぱんこうかい
る博物館として一般公開されている。
名古屋海洋博物館
〒455-0033
名古屋市港区港町 1 番 9 号
TEL:(052)652-1111
ホームページ
http://www.nagoyaaqua.jp/
南極観測船ふじ 2013.07.07 名古屋港
http://www.geocities.jp/hggcm317/m_4367.
<参考文献>
『砕氷船について』日本鋼管 1963-86
『砕氷艦ふじ』 海上自衛隊 1969
『砕氷艦ふじ内規』防衛庁,砕氷艦ふじ 198『南極観測船ものがたり』小島敏男著 成山堂書店 2005
『南極・北極の百科事典』丸善 2006
『世界の砕氷船』赤井謙一著 成山堂書店 2010
『南極大図鑑』小学館 2006
『南極観測二十五年史』文部省 1982
『南極観測隊のしごと』国立極地研究所南極観測センター編
成山堂書店 2014
『南極で隕石をさがす』小島秀康著 成山堂書店 2011
『南極観測隊』南極 OB 会・観測五十周年記念事業委員会編
技報堂書店 2006
『日本の雪上車の歩み』細谷昌之著 国立極地研究所 2001
しょだい
初代しらせ
たんじょう
 しらせの 誕 生
なんきょく ち い き かんそくとうごうすいしん ほ ん ぶ
じ む き ょ く きゅうもんぶしょう
1976 年、南 極 地域観測統合推進本部(事務局:旧 文 部 省 )が、
「南極地域観
しょうらい けいかく き ほ ん ほうしん
こんご
かくだい
しょうわ き
ち
かつどう けいかく
測 将 来 計画基本方針」において、今後、拡大する昭和基地の活動計画に「ふ
ゆ そ う のうりょく
す
ろうきゅうか
すす
し げ ん ちょうさ
じ」の輸送 能 力 は小さ過ぎること、また老朽化も進んでおり、資源調査活動
ぞ う か など
りゆう
さいひょうせんけんぞう
ひつようせい
うった
こうけいせん
けんぞう
ていあん
の増加等を理由に新 砕 氷 船建造の必要性を 訴 え、後継船の建造が提案された。
に ほ ん こうかん つ る み せいさくしょ
げん
ぞうせんけいひん じ む し ょ
きこう
1981 年 3 月に日本鋼管鶴見製作所(NKK:現ユニバーサル造船京浜事務所)で起工さ
しんすい
かんこう
かいじょう じ え い た い
ひ
わた
かん
れ、12 月に進水、1982 年 11 月に完工し、 海 上 自衛隊に引き渡されて、砕氷艦
「しらせ」が誕生した。
けいけん
そうてい
ていちゃくひょう
れんぞく
「ふじ」の経験をふまえ、昭和基地付近で想定される 定 着 氷 を連続砕氷す
じゅうてん
お
はいすいりょう
ばりき
けってい
やく
る能力に 重 点 が置かれ、排 水 量 ・馬力が決定された。
(排水量は「ふじ」の約
ばい
すいしんりょく
こうかいせいのう
たいこう
こうぞうきょうど
2倍、推 進 力 は約 3 倍)また航海性能、氷に対抗する構造強度、推進プラントシステ
さいしん
ぎじゅつ
と
なまえ
いっぱん こ う ぼ
まんつう
ム、輸送システム面で最新の技術を取り入れていた。名前は、一般公募のあった 6万通
いじょう
さいしゅうてき
しぼ
あん
えら
以上のうち、最 終 的 に絞られた 3案の中から選ばれた。
はじ
こうかい
 初めての南極への航海
だい
たい
じょういん
1983 年 11 月 14 日、第25 次南極観測隊( 乗 員 174 名, 観測隊 47 名, その
ほうどうかんけいしゃ
ふく
の
せいだい
みおく
はるみふとう
他 報道関係者等を含む計 231 名)を乗せ、盛大な見送りの中、晴海埠頭を出
ねんりょう
ぶっし
き
発した。 燃 料 等の物資輸送能力も 300 トン以上も増加し、それまで乗り切るこ
ひょうかい
かくじつ
とができなかった 氷 海 も確実に進み、1984 年
せつがん
1 月 5 日、昭和基地定着氷に接岸した。この初
航海において、約 800 トンの物資と観測隊員の
かくしゅ し え ん
かんすい
こうくう き う ん よ う
輸送、各種支援を完遂し、砕氷、航空機運用、
にえき
かん
どお
そな
荷役や輸送に関して計画通りの能力を備えて
とく
せかいくっし
おり、特に砕氷能力は世界屈指であることを
『初代しらせ 25 年の航跡』より
しょうめい
証 明 した。
初めての南極で昭和基地沖に接岸するしらせ
おも
で き ご と
 25 年間の主な活動や出来事
しゅうえき
はじ
「しらせ」が 就 役 してからの 25 年間は、昭和基地やみずほ基地を始めとす
じゅうじつ
はってん
かくだい
れきし
る観測基地の 充 実 ・発展、そして観測エリア拡大の歴史とも言える。
じたい
え
・第 25~33次隊:第 25 次で新基地建設の足がかりを得て、第 26~33 次観
きょうりょく
測 協 力 では、3 番目のあすか基地の建設(セール・ロンダーネ
さ ん ち しゅうへん
きょてん
えっとう
山地 周 辺 の観測拠点)、そこでの越冬観測を支援するプ
わん
じんいん
くうゆ
きゅうじょかんれん
ライド湾における人員、物資の空輸を行った。救 助 関連で
み や け じま ふ ん か
は、第 25 次隊の南極出発前に三宅島噴火があり、8 日
さいがい は け ん
じゅうじ
間、航空機を使用してその災害派遣に従事した。第 27
ようす
氷上でのスリング作業の様子
『初代しらせ 25 年の航跡』より
と
次隊では氷に閉じこめられたオーストラリアの観測船「ネラ・ダン」
きゅうえん
じょうかん
わだい
を 救 援 し、第 29 次隊では、初の女性観測隊員が 乗 艦 して話題になった。第
てんらく
いんせきちょうさたい
きゅうしゅつ
30 次隊ではクレバスに転落したセール・ロンダーネ隕石調査隊を航空機で 救 出 した。
じ き
りよう
・第 32~39 次隊:この時期は、
「しらせ」の大きな輸送能力を利用して、昭
おおがたけんちくぶつ
けんせつ
つづ
和基地で大型建築物の建設ラッシュが続いた。しかし、リュツォ・
ひょうじょう
きび
かさ
ホルム湾の 氷 状 がとても厳しい時期と重なっており、昭和
おき
だんねん
基地沖の接岸を断念せざるを得なかった第 35 次隊では、
しざい
きょり
せつじょうしゃ
建築資材等の物資は、約 10 マイルの距離を雪 上 車 とそりで
ゆそう
ねんりょう
昭和基地まで輸送し、燃 料 はパイプライン輸送から航空機に
かん
ふせつ
「しらせ」から昭和基地へ敷設されたパイ
『初代しらせ 25 年の航跡』より
プライン
か
よるドラム缶輸送に切り替えた。その後、ドームふじ基地(4
ひょうしょう
しんそうくっさく
ほっそく
番目の日本の基地)を建設し、 氷 床 の深層掘削プロジェクトが発足した。
きかん
だ い き ぼ ちがく
・第 38~42 次隊:この期間は、アムンゼン湾周辺で大規模地学調査等が行われ
かんじゃ
た。第 39 次隊では、越冬中の観測隊員に患者が発生したため、昭和基地沖で
に
あ
物資荷揚げ後、ケープタウンへの患者を輸
き
ろ
送し、帰路ではアムンゼン湾に地学調査
おく
隊を送り、昭和基地周辺で基地作業
やがい
ふくろ
や野外観測の支援、復路でアムンゼン湾
しゅうよう
ふくざつ
の地学調査隊を 収 容 する等、複雑な
さぎょう
オペレーション作業も行った。
いこう
・第 40 次隊以降:第 40 次隊では、
すいしんじくこしょう
お
プリッツ湾で推進軸故障を起こしたオース
き こ う ち
「しらせ」の航路と寄港地
『初代しらせ 25 年の航跡』より
のりくみいん
トラリアの観測船「オーロラ・オーストラリス」を救援し、第 44 次隊では、オーストラリアのヨットの乗組員
にちどくきょうどう
を救助した。また第 47 次隊では、日独 共 同 の航空機観測のため、大陸の観測
ぎょせん
しょうびょうしゃ
拠点に物資を輸送し、
建設支援を行ったり、
第 48 次隊ではスペイン漁船に 傷 病 者
はっせい
りゅうひょういき
い
し
いかん
が発生したので、リュツォ・ホルム湾 流 氷 域内で観測隊医師や「しらせ」の医官らを
はけん
いりょう
たてやま
くんれん
ちょうりゅう
派遣して医療支援も行った。また第 49 次隊の館山湾での訓練中、 潮 流 によ
きし
もど
さぎょうてい
り岸に戻れなくなった高校生を作業艇で救助したこともあった。
 昭和基地の拡充
むね
第 1 次隊の越冬時には、わずか 4棟だった昭和基地は、
「ふじ」就役の際には
物資輸送量も増し、現在の原型というべき姿になっていた。
その後、
「しらせ」が就役して、建築資材物資等の輸送量が更に増大したこと
ひつよう
ろうりょく
ていきょう
かい だ
かんりとう
と乗組員の建設作業に必要な 労 力 の 提 供 により、施設が一新された。第 32
次隊から第 34 次の間に初の 3階建て管理棟が建設された。それからは、管理棟
を中心に通路棟、倉庫棟、居住棟、汚物処理棟、観測研究施設等が次々に建設
かくじゅう
されて、
「しらせ」最後の第 49 次隊の時には 56 棟にもなっており、その 拡 充
こうけん
そうび
こうほう
つうしん
きしょう
かんれん
に貢献した。また「しらせ」内の装備についても、航法、通信、気象データ関連、
かんきょう ほ ぜ ん
きゅうしょく
どうにゅう
かつよう
環 境 保全関連、 給 食 関連等の新しい装置が 導 入 、活用された。
 オーストラリア砕氷船救出
ぜんじゅつ
とく
前 述 したように、就役中の出来事のうち、特にオー
ひょうかい
ストラリアの砕氷船を 2 度にわたり 氷 海 から救出したこ
とは、「しらせ」の氷海での高い能力を示した。
一度目は、1985 年 10 月 28 日、砕氷船「ネラ・ダン」
ほくとう
と
ようせい
こ
が昭和基地北東でビセット(氷に閉じ込められる)後、要請
う
「ネラ・ダン」を救出するするしらせ(手前)
『初代しらせ 25 年の航跡』より
はや
せんそく
じょそう
ひょうばん
を受けて第 27 次隊を乗せた「しらせ」が救出に向か
ほうほう
つうじょう
った。
「しらせ」
が 115 回もラミング(砕氷方法の一つで、通 常
かさ
とつにゅう
さいご
より速い船速で助走し、 氷 盤 に 突 入 して砕氷する。チャージングともいう)を重ね、最後の氷
くだ
くろう
盤を砕いた後も航行に苦労した「ネラ・ダン」は、ようやく
ぬ
12 月 16 日に氷海を抜け出ることができた。
二回目は 1998 年 12 月、
第 40 次隊を乗せた「しらせ」
ようせい
う
えいこう
は、
「オーロラ・オーストラリス」から救助要請を受け、ラミングや曳航
くろう
かさ
すえ
ぶ じ
ゆうどう
よう
等に苦労を重ねた末、16 日後、無事に誘導してインド洋に
最 密 氷域における「オーロラ・オーストラリス」の曳航
抜け出させることができた。(「オーロラ・オーストラリス」編 参照)
さいみつ
『初代しらせ 25 年の航跡』より
だんねん
 昭和基地接岸断念
ていじょうてき
は
毎年「しらせ」は、ほぼ 定 常 的 に昭和基地沖接岸を果たしてはいたが、25
年間で一度だけ、第 35 次隊の時は、接岸を断念しなければならなかった。
かくにん
たねん
1994 年 1 月 4 日、昭和基地が確認できる所まで進んでいた。しかし、多年氷
きょり
きょくたん
にぶつかった後、砕氷距離が 極 端 に
お
落ちた。6 日は、その日だけでもラミン
こ
ク ゙ 回数が 2,000 回を超 え てい た。
おうろ
さいた
ふく
(往路では最多の 2,921 回。復路を含め
ると第 33 次隊が 4,441 回で最多。)11
ら ひょういき
こうりつ
日、裸 氷 域 に入っても砕氷効率は更
ていか
せんたい
しょうげき
に低下し、船体への 衝 撃 も大きくな
ひょうあつちょうさ
っていたため、氷 厚調査とそれまで
かいすう す い い
『初代しらせ 25 年の航跡』より
チャージング(ラミング)航行回数推移
じっせき
けいぞく
の実績から、このままラミングを継続し
こんなん
はんだん
じっし
ても接岸は困難と判断、19 日、昭和基地接岸は断念し、空輸を実施することに
しんしゅつ
ほど
はな
なった。ラミングで 進 出 できたのは 4 キロ程で、まだ基地から約 10 キロも離れてお
うんぱん
そう
たっ
り、航空・氷上運搬で輸送した総物資量は 927 トンに達した。
ふなで
 「SHIRASE」として…第二の船出
かつやく
ぜんたい
1983 年の初航海から 25 年間活躍してきた「しらせ」も艦全体の老朽化がか
かのう
なり進んでおり、航行可能な船としてはこれ
以上利用できない状況となり、2008 年 4 月、
しゅうりょう
25 回で最後の南極航海を 終 了 する「しらせ」
も ん ぶ かがくしょう
の後利用について、文部科学省 が一般公募を
かいし
ひようめん
じょうけん
開始した。しかし、費用面や 条 件 面でなかな
よ
ひ
さき
か良い引き取り先が見つからず、10 月には、
ゆうし
はっぴょう
最後の南極への航海往路(リュツォ・ホルム湾沖流氷域での雄姿)
スクラップになる事が 発 表 された。
『初代しらせ 25 年の航跡』より
か
だが、それでも買い取り先がなかったため、
さいど
かん
りかい
ぞうしん
とも
2009 年 6 月に再度公募を行った。そして、
“南極観測に関する理解の増進と共
りよう
ぜんてい
こうえきせい
はいりょ
に、一般に開かれた利用を前提とした公益性にも配慮したものであること”の
もくてき
利用目的で、その他の条件と利用計画等から南極本部が検討し、11 月にウェザー
さいよう
ニューズ社の利用計画を採用すると発表した。ウェザーニューズ社が発表した利用計画
がいよう
い
か
概要は以下のとおりである。
い ぎ
ふか
そくしん
○南極観測の歴史と意義についての人々の理解を、広くかつ深く促進するた
せんだい
ちきゅう き
ぼ
きしょうかいしょう
しょうちょう
め、先代「しらせ」を「SHIRASE」として、地球規模の気象海 象 観測の 象 徴
い
として生かす。
げんしょう
かんきょうもんだい
こくみん
○海洋気象 現 象 、 環 境 問題等への理解を深め、南極観測に関する国民の理
はいりょ
解の増進、広く一般に開かれた利用にも十分配慮する。
ちな
2010 年 2 月 10 日に「しらせ」の引渡式、5 月 2 日(艦番号 5002 に因む)グラ
しきてん
かいさい
かんちょう
ふくしゃちょう
ンドオープン式典が開催され、KANTYOU( 艦 長 )は、ウェザーニューズ社副 社 長 宮部二
ぼうけんか
にんめい
郎氏、副 KANTYOU は、三浦雄一郎氏(プロスキーヤーで冒険家)が任命された。なお
こんご
進水式では、今後の「SHIRASE」の利用について、地球の今をモニタリング・観測す
る拠点「SHIRASE」として、世界中の氷をモニタリングする「グローバルアイスセンター」、世
ゆ
ちしょうかんせい
界の揺れをモニタリングする「地象管制セ
うちゅう
ンター」、宇宙から地球をモニタリングする
えいせい
しゅとけん
ごうう
「WNI衛星センター」、首都圏のゲリラ豪雨
とっぷう
ほそく
さわ
や突風を捕捉する「WITH レーダー」、触
かんが
ふ
りながら地球環境を 考 える「触 れ
る地球」等を進めていくという説明
があった。
南極への航行については、
「しらせ」
いんたい
つ
は引退し、新「しらせ」へ引き継が
れたが、
「SHIRASE」としては、今後
ゆめ
SHIRASE のこれからの夢
『しらせ南極観測船と白瀬矗』より
きたい
も新たな活躍が期待されている。
しょゆうけん
かぶしきがいしゃ
いっぱんざいだん
2013 年 9 月 2 日、
「SHIRASE」の所有権が株式会社ウェザーニューズから、
一般財団
ほうじん
きしょう ぶ ん か そうぞう
かんれんだんたい
うつ
ふなばしこう
けいりゅう
法人WNI気象文化創造センター(ウェザーニューズの関連団体)に移り、船橋港に 係 留
されている。
<参考文献>
『初代しらせ二十五年の航跡』砕氷艦しらせ編集, 2008
『しらせ 南極観測船と白瀬矗』小島敏男著, 成山堂書店, 2011
『南極観測船ものがたり』小島敏男著, 成山堂書店, 2005
『世界の砕氷船』交通研究協会発行, 赤井謙一著, 成山堂書店, 2010
Web サイト:『http://shirase.info』
新しらせ
なんきょくかんそくせん
さいひょうかん
かんせい
だい
4 代目の南 極 観 測船(砕 氷 艦 )。2009 年 5 月に完成し、同年 11 月の第
じたい
なんきょくこうどう
しゅうこう
51次隊の 南 極 行動から 就 航 している。
 名前
も ん ぶ か が く しょう
せっち
2007 年 7 月、文部科学 省 内に設置
なんきょく ち い き かんそく とうごう すいしん ほ ん ぶ
された 南 極 地域観測統合推進本部に
こうぼ
おこな
お う ぼ そうすう
よって公募が 行 われた。応募総数は
めいしょう
18878 件。応募時の 名 称 のルールは
い
か
以下のとおりである。
せんめい
めいしょきゅうせき
やま
ひょうが
①船名は、名所 旧 跡(例えば山や氷河)
つ
の名称を、「ひらがな」で付ける。な
『しらせ:南極観測船と白瀬矗』小島敏男.成山堂書店,2011
かんじ
きごう
のぞ
お、漢字・カタカナ・アルファベット・記号などは除く。
ぜんご
②名称の前後に、
「だいに(第二)○○」
、
「しん(新)○○」、
「○○ごう(号)」、
「○○まる(丸)」などを付けない。
ぼうえいしょうかいじょう じ え い た い しょぞく
げんざいつか
③防 衛 省 海 上 自衛隊所属の砕氷艦になることから、防衛省で現在使われ
かんていめい
ている艦艇名は付けられない。
したが
つの
たいしょうがい
このルールに 従 って名称を募ったが、応募された船名の中に対 象 外 の
かずおお
ふく
あら
ふね
「しらせ」が数多く含まれていたこと、新たな船
うんこう
かいし
が運航を開始するまでに旧「しらせ(AGB-5002)」
じょせき
こんどう
おそ
は除籍されており混同の恐れはないことなどか
な
せんこう
ふく
ら、
「しらせ」の名も選考に含めることとなった。
だんかい
もっと
ひょう
あつ
なお、公募の段階で 最 も多く 票 を集めたのは
や ま と ゆきはら
大和雪原にちなむ「ゆきはら」である。しかし、
「ゆきはら」の応募者からも「『しらせ』に応募
けいぞく
のぞ
よ
したかった」と名前の継続を望む声が数多く寄
せられていた。
「新砕氷艦の艦名募集について」
http://www.mod.go.jp/j/press/news/2007/07/13.pdf
けっか
にほん
そ の 結果 、 日本 の 南 極 観 測 が 旧 「 し ら せ
かつやく
せかい
し
あたら
(AGB-5002)」の活躍により世界によく知られていることや、船が 新 しく
だいだいおな
しよう
れい
りゆう
なっても代々同じ船名が使用されている例はたくさんあることなどの理由
さいひょうせん
けいしょう
かんばんごう
により、新しい 砕 氷 船は「しらせ」を 継 承 することになった。艦番号は
AGB-5003。
特徴

れきだい
けいけん
さいしん
ぎじゅつ
と
い
けんぞう
新「しらせ」は、歴代の砕氷船の経験と最新の技術を取り入れて建造さ
ゆうせつよう さんすい そ う ち
せんしゅ
みず
れた。まず、新たに融雪用 散水 装置 が設置された。船首 から水 をまいて
ひょうじょう
ゆき
しめ
ていこう
へ
こおり
わ
氷 上 の雪を湿らせ砕氷抵抗を減らすことで、 氷 を割りやすくすることが
かのう
可能になった。
つぎ
かんきょう
まも
きのう
どうにゅう
おすい
じょうか し ょ り
うみ
はいすい
次に、 環 境 を守る機能も 導 入 された。汚水は浄化処理して海へ排水。
しょうきゃく ろ
かん
あっしゅく
き き
ていようりょうか
船には 焼 却 炉やビン・缶を 圧 縮 する機器などもあり、ごみを低容量化し
も
かえ
せんてい
にじゅうせんかくこうぞう
て持ち帰るようにした。また、船底を二重船殻構造(ダブルハル)にする
まん
いち
しょうとつ
ざしょう
お
あぶら
も
ことで、万が一、 衝 突 や座礁などが起こっても、 油 が海に漏れにくくし
がいそう
しんそざい
こう
さいよう
とそうはくり
かいよう
た。さらに、外装には新素材のステンレス鋼を採用し、塗装剥離による海洋
おせん
ふせ
はいりょ
汚染を防ぐなど、環境に配慮した「エコシップ」になっている。
ゆ そ う こうりつ
こうじょう
にもつ
はこ
そのほか、輸送効率も大きく 向 上 した。荷物のほとんどがコンテナで運
つ
お
ようい
ぶっし
ゆそうりょう
ふ
べるようになり、積み下ろしが容易になった。物資の輸送量は 100 トン増え
かんそくたいいん
しゅうようすう
1100 トンに、また、観測隊員の収 容 数 も 60 名から 80 名に増えた。
これら 砕氷船として
たか
せいのう
たいさく
の 高 い 性能 と 環 境 対策
じつげん
を実現した「エコシップ」
ひょうか
であることが評価 され、
まんぴょう
2009 年に 満 票 で「シッ
プ・オブ・ザ・イヤー
に ほ ん せんぱく かいよう こうがっかい
(日本 船舶 海洋 工学会 )」
じゅしょう
を 受 賞 した。
「新『しらせ』はエコシップ」朝日小学生新聞(2008 年 4 月 29 日付)
[参考文献及び Web サイト]
『しらせ:南極観測船と白瀬矗』小島敏男.成山堂書店,2011
「新『しらせ』はエコシップ」朝日小学生新聞.2008 年 4 月 29 日
「新『しらせ』はこんな船」朝日小学生新聞.2009 年 6 月 4 日
『極』国立極地研究所,2009 秋号
「新砕氷艦の艦名募集について」防衛省・自衛隊.
http://www.mod.go.jp/j/press/news/2007/07/13.pdf
「新南極観測船の船名募集に応募していただいた皆様へ」文部科学省.
http://www.mext.go.jp/a_menu/shinkou/nankyoku/07111411.htm
「Ship of the Year 2009」日本船舶海洋工学会.
http://www.jasnaoe.or.jp/commendation/soy_2009.html
うみたかまる
海鷹丸
うみたかまる
とうきょう す い さん だ い がく
げん
とうきょう か い よう だ い がく
じっしゅう せ ん
海鷹丸は東 京 水産大学(現・東 京 海洋大学)の実 習 船である。
げ ん ざい
だい
4
せい
だい 2 せい
か つ やく
なんきょく か ん そく せ ん
そ う や
ず い はん せ ん
現在は第IV世が活躍しているが、第II世が南 極 観測船「宗谷」の随伴船
なんきょく か い ち ょ うさ
む
ご
だい
3
せい
なんきょく か い ち ょ うさ
として南 極 海調査に向かい、その後も第III世が南 極 海調査を行った。
うみたかまるだい 2 せい
海鷹丸第II世
しゅんこう
1955 年 8 月 15 日竣 工
ぜんちょう
さ い だい そくりょく
全 長 73 メートル、1,452.9 トン、最大 速 力 15 ノット
うみたかまるだい 2 せい
図1
海 鷹 丸 第 II 世 (『海鷹丸南極調査及び練習航海 I』より)
なんきょく ほ ん ぶ
そ う や
かいじょう ほ あ ん ちょ う じ ゅ んし せ ん
なんきょく か ん そく せ ん
1955 年、南 極 本部にて「宗谷」
(海 上 保安庁巡視船)を南 極 観測船
あ
け っ てい
ず い はん せ ん
う み た か ま る だい 2 せ い
に ん む
に充てることが決定され、その随伴船として「海鷹丸第II世」に任務の
い こ う
む
とうきょう す い さん だ い がく
う み た か ま る だい 2 せ い
し ん ぞう
ともな
意向 が向 けられた。 東 京 水産 大学 では「海 鷹 丸第 II 世 」新造 に 伴 い
あ な ん きょ く いき
よう
ち ょ うさ
け い かく
が く ない
じ
き しょうそう
亜南極域やインド洋の調査を計画していたが、学内でも時期 尚 早 とい
い け ん
ご う い
いた
とき
そ う や
こ う どう け い かく け っ てい
う意見 もあり合意 に至 らなかった時 である。「宗谷 」の行動 計画 決定
せ い しき はっぴょう
か
あ
に ん む
い ら い
じ ゅ んび
な い ない
正式 発 表 とのスケジュールの兼ね合いで、任務の依頼や準備は内々に
すす
進められた。
1
う み た か ま る だい 2 せ い
ず い はん せ ん
け い か くし ょ
れんしゅう が く せい
じょうせん
「海鷹丸第II世」の随伴船としての計画書は、1)練 習 学生を乗 船 さ
ず い はん に ん む
し し ょう
は ん い
なんきょくよう
よう
か い よう
せること、2)随伴任務に支障のない範囲で南極洋 、インド洋の海洋な
せいぶつ
ちょう さ
おこな
ぜんてい
さ く せい
れんしゅう が く せい
らびに生物の 調 査を 行 うことが前提として作成された。練 習 学生の
じょう せ ん
かん
き ょ くち
き け ん す い いき
こ う こう
か
ひ
乗 船 に関 しては極地 の危険 水域 を航行 するためその可否 について
し ゅ しゅ ぎ ろ ん
か
さ い しゅう て き
だいがくがわ
つよ
い こう
じつげん
種々議論が交わされたのだが、最 終 的に大学側の強い意向で実現する
ことになったのである。
う み た か ま る だい 1 せ い
しゅんこう
せん ご はじ
ちなみに「海鷹丸第I世」は 1949 年 4 月竣 工 で、戦後初めて約 14
が い よう こ う かい
しゅっこう
じっしゅう せ ん
そ う び
せ ん ご
に ほ ん
年ぶりに外洋 航海 へ 出 航 した 実 習 船 であり、装備 は戦後 の日本 の
じっしゅう せ ん
さ い こう すいじゅん
ほこ
は い けい
う み た か ま る だい
実 習 船として最高 水 準 を誇っていた。このような背景から「海鷹丸第
2 せい
ず い はん せ ん
しら は
や
た
II世」に随伴船として白羽の矢が立ったのである。
な ん きょく か い ちょう さ
しょう さ い
い
か
とお
南 極 海 調 査の 詳 細は以下の通りである。
だ い 1 じ なんきょく か い ち ょ う さ
第 1 次 南 極 海調査
1956 年 10 月 25 日~
1957 年 4 月 24 日
だ い 1 じ なんきょく ち い き か ん そ く
さい
かんそく せん
第 1 次 南 極 地域観測に際し、観測船
そ う や
ずいはんせん
さ ん か
「宗谷」の随伴船として参加
せんちょう
く ま ごり た け は る
船 長 :熊凝武晴
も く てき
なんきょく
か い よう な ら び
ち ょ うさ
とうきょう す い さん だ い がく
せ い ぶつ
目的 : 南 極 の海洋 並び に生物 の
れんしゅう こ う かい
調査 。東 京 水産 大学 の練 習 航海
か
を兼ねる。
ち ょ うさ か い いき
そ う や
ず い はん せ ん
調査海域:宗谷の随伴船としての
こ う どう は ん い
じ っ し
行動 範囲 で 実施 さ れ て い た た め
わ ん ほ っ ぽう
うみたかまるだい 2 せい こ う ろ ず
図2
海 鷹 丸 第 II 世 航路図
げ ん てい
リュツォ・ホルム湾 北方 に限定 。
とうきょう
(『南極観測二十五年史』より)
こう
東 京 からケープタウンまでは、航
か い じっしゅう
かいようちょうさ
おこな
ご
そ う や
ごうりゅう
なんきょく
む
海 実 習 や海洋調査を 行 い、その後、宗谷と合 流 して南 極 に向かった。
2
だ い 2 じ なんきょく か い ち ょ う さ
第 2 次 南 極 海調査
1961 年 10 月 28 日~1962 年 3 月 16 日
ち ょ うさ だんちょう
く ま ごり た け は る
せんちょう
お ざ わ けい じ ろ う
調査 団 長 :熊凝武晴、船 長 :小沢敬二郎
も く てき
かいじょう き し ょう
か い よう か ん そく
ひょうざん
りゅうひょう か ん そく
ふ
く
目的:海 上 気象、海洋観測、氷 山 ・ 流 氷 観測、オキアミを含むプ
ぎ ょ るい
ぶ ん ぷ ち ょ うさ
ちょうるい
るい
も く し
ぶ ん ぷ ち ょ うさ
ランクトン・魚類の分布調査、鳥 類・クジラ類の目視による分布調査
とう
き そ て き か ん そく
か く しゅ ぎょぎょう し け ん
すいちゅう し ょ うど そ く てい
ち ょ う おん ぱ ぎ て い ぞ う
か ん さつ
等の基礎的観測、各種 漁 業 試験、水 中 照度測定、超音波偽底像の観察、
なんきょくよう
せ い ぶつ
ぎ ょ るい
か い よう
かん
がくじゅつてき き ほ ん ち ょ うさ
南極洋 における生物・魚類・海洋に関する学術的 基本調査
ち ょ うさ か い いき
なんきょく か い
よう く
調査海域:南 極 海のインド洋区からサウスジョージア
せんちょう
こうかいき
~船 長 による航海記より~
ち ょ うさ も く てき ち い き
と う けい
ど
せ い けい
ど
あいだ
なんきょくよう
調査目的地域は東経20度から西経50度までの 間 の南極洋(ウェッ
かい ふ き ん
も く てき
ぶ ん ぷ
じ り ょう
う お ぞく
じょうきょう
あたら
デル海付近)で、目的はクジラの分布とその餌料、魚族の 状 況 や 新
ぎょしゅ
り ょ うば か い たく
とうきょう す い さん だ い がく
れんしゅう こ う かい
か
しい魚種の漁場開拓で、東 京 水産大学の練 習 航海を兼ねる。
よう
は え なわ ぎょぎょう
じっしゅう
え ん がん
インド洋ではマグロ延縄 漁 業 の実 習 が、オーストラリア沿岸では
ぎょぎょう
じっしゅう
おこな
りょう
トロール漁 業 の実 習 が 行 われた。 漁 であがったキハダマグロやマ
れ い とう
なんきょく
しょくりょう
ダイは冷凍して南 極 での 食 糧 とするのである。
お ん き ょう そ くた んき
ぎていぞう
そう
ほ げ い ば し ょ
音響測探機の偽底像でのプランクトン層の計測による捕鯨場所の
か い たく
しものせき す い ぞ くか ん
い ら い
せ い たい ち ょ うさ
ほ か く
開拓、下 関 水族館の依頼によるペンギンの生態調査と捕獲、トロー
りょう
ぎ ょ か くぶ つ
か い せき
あら
りょうじょう
か い たく
ル 漁 での漁獲物の解析による新な 漁 場 の開拓を行った。
げ じ ゅん
しょう わ
き
ち
とお
な ん い
ど
と う けい
12 月下旬には 昭 和基地にほど遠くないところ(南緯64度、東経35
ど ふ き ん
し ゅ うい
あつ
かこ
う ん こう
ひ じ ょう
こ ん なん
かん
度付近)で周囲を厚いアイスパックに囲まれ、運航に非常な困難を感
せ つ がん
だ ん ねん
じついに接岸を断念。
ほか
た い せ いよ う な ん ぶ
こおり
うみ
かい
しゅりょく
そそ
その他、大西洋南部の 氷 の海であるウェッデル海に主 力 を注いで
ち ょ うさ
か い よう か ん そく
調査を行った。119 のステーションをつくり、海洋観測とプランク
さいしゅう
き し ょう か ん そく
で ん じ かいりゅうけい
トン採 集 を行い、1,284 回の気象観測、86 点の電磁 海流計 による
かいりゅう そ く てい
みなみ
とう ふ き ん
ぎ ょ るい ち ょ うさ
ぜ ん こ うて い
海 流 測定、 南 ジョージア島付近における 13 回の魚類調査、全航程
い ち まん か い り
い っ しゅ
一万海里にわたってのクジラとユウファウジア(オキアミの一種)
ち ょ うさ
す い しん ち ょ うさ
の調査と 2,568 点の水深調査を行った。
3
だ い 3 じ なんきょく か い ち ょ う さ
第 3 次 南 極 海調査
1964 年 10 月 22 日~1965 年昭 3 月 10 日
ち ょ うさ だんちょう
さ
さ
き ゆきやす
せんちょう
お ざ わ けい じ ろ う
調査 団 長 :佐々木幸康、船 長 :小沢敬二郎
も く てき
だ い 2 じ ち ょ うさ こ う もく
くわ
ち
じ
き
かいじょうじゅうりょく
か ん そく
て い しつ ち ょ うさ
目的:第 2 次調査項目に加え地磁気・海 上 重 力 の観測、底質調査
ち ょ うさ か い いき
な ん ぽう
し ょ とう
いた
な ん きょく か い た い へ い よ う く
調査海域:タスマニア南方からバレニー諸島に至る南 極 海太平洋区
に し は んぶ ん
の西半分
だ い 4 じ なんきょく か い ち ょ う さ
第 4 次 南 極 海調査
1966 年 10 月 15 日~1967 年 3 月 11 日
ち ょ うさ だんちょう
せんちょう
お ざ わ けい じ ろ う
調査 団 長 ・船 長 :小沢敬二郎
も く てき
だ い 3 じ ち ょ うさ こ う もく
おな
ないよう
し ん えい
か ん そく き
き
ほ う ほう
と
目的:第 3 次調査項目とほぼ同じ内容を、新鋭の観測機器、方法を取
い
ちょう さ
り入れて 調 査
ち ょ うさ か い いき
ぜ ん かい
みちょうさ
のこ
た い へ い よ う く ひがしはんぶん
調査海域:前回までに未調査のまま残されていた太平洋区 東半分 を
ふく
たいせいようく
よう く にしはんぶん
含め、大西洋区、インド洋区西半分
うみたかまるだい
3
せい
海鷹丸第III世
しゅんこう
1972 年 6 月竣 工
1,828.66 トン
うみたかまるだい 3 せい
図3
海 鷹 丸 第 III 世 (『南極観測二十五年史』より)
4
だ い 5 じ なんきょく か い ち ょ う さ
第 5 次 南 極 海調査
1977 年 11 月 2 日
~1978 年 2 月 27 日
とうきょう す い さ ん だいがくちょう さ
さ
き ただよし
だいひょう
東 京 水産 大学長 佐々木 忠義 を 代 表 と
とくてい けんきゅう
さいしゅ
かこう
かん
する特定 研 究「オキアミの採取・加工に関す
そうごう けんきゅう
けいかく
る総合 研 究 」にあたり計画された。
ち ょ う さ だんちょう
か ん だ け ん じ
せんちょう
ほうたに ひ で お
調査 団 長 :神田献二、船 長 :宝谷英生
もくてき
なんきょく か い
かん
目的 : 南 極 海 の オ キ ア ミ に 関 す る
そうごうてきちょうさ
けんきゅう
しげんりょうすいてい
総合的調査・研 究(オキアミ資源量推定
ていりょう さいしゅう
うみたかまるだい 3 せい こ う ろ ず
ぶ ん ぷ
図4
のための定 量 採 集 、オキアミの分布 ・
い ど う
しゅうぐん
りょうば けいせい
(『南極観測二十五年史』より)
かいよう
移動 ・ 集 群 ・ 漁場 形成 に 関 す る 海洋
ぶ つ り
か が く かんきょう
せ ん ざ い せいさんりょく
海 鷹 丸 第 III 世 航路図
りょうぐ
き
ぼ
ぎょかくりつ
物理・科学 環 境 、潜在 生産力 、オキアミ漁具の規模と漁獲率、フィッシュ
れ ん ぞ く さいしゅう
いけ
し い く
しゅうぐん
けいたい
ポンプによる連続 採 集 、活オキアミの飼育、オキアミの集 群(パッチ)の形態、
しょくりょうか
せいぞう
か こ う が く て き けんきゅう
オキアミ食糧化 のための製造・加工学的 研 究 )
ちょうさかいいき
なんぽう
おきあい
せいかいがん
調査海域:オーストラリア南方(ウェルクスランド沖合、ジョージ 5世海岸
ほくとうかいいき
北東海域)
だ い 6 じ なんきょく か い ち ょ う さ
第 6 次 南 極 海調査
1980 年 11 月 11 日~1981 年 3 月 11 日
た す う
か ん そく
First International BIOMASS Experiment(FIBEX)(多数の観測
せん
こ く さ いて き
と く てい か い いき
い っ てい ち ょ うさ
い っ かん
じ っ し
船による国際的な特定海域の一定調査)の一環として実施
ち ょ うさ だんちょう
む ら の ま さ あき
せんちょう
い の うえ
調査 団 長 :村野正昭、船 長 :井上
も く てき
か い よう かんきょうじょうけん
そ く てい
きよし
清
しょくぶつ
そ せ い
ち ょ うさ
目的:海洋 環 境 条 件 の測定、植 物 プランクトン組成の調査、クロロ
りょう
き
そ せいさんりょう
そ く てい
ど う ぶつ
しゅ そ せ い およ
フィル 量 ・基礎 生産量 の測定 、動物 プランクトンの種 組成 及 び
げんぞんりょう
ぶ ん ぷ
ぐ ん しゅうだん
か い せき
し い く
現存量 の分布 、オキアミ群 集 団 の解析 、飼育 によるオキアミの
せいちょう
さ い せ いさ ん
お せ ん
けんきゅう
け ん きゅう
ぎ ょ るい
るい
さ い しゅ
うみどり
かいじゅう
も く し
か い よう
成 長・再生産の研 究 、魚類・イカ類の採取、海鳥・海 獣 の目視、海洋
汚染の研 究
ち ょ うさ か い いき
な ん ぽう
調査海域:オーストラリア南方
5
うみたかまるだい
4
せい
海鷹丸第IV世
しゅんこう
2000 年 6 月竣 工
全長 93 メートル、1,886 トン、最大速力 17.4 ノット
うみたかまるだい 4 せい
図5
海 鷹 丸 第 IV 世 (『東京海洋大学海洋学部ホームページ』より)
とうきょう か い よう だ い がく
じっしゅう せ ん
か く しゅ か い よう じっしゅう
ま い とし
東 京 海洋大学にて実 習 船として各種海洋 実 習 を行っている。毎年
よ く とし
え ん よう こ う かい
な ん た いよ う ち ょ うさ
11 月から翌年3 月までの遠洋航海では、
南大洋調査を行っている。2014
う ち ゅう こ う くう けんきゅう か い はつ き こ う
だ い い っ き み ず じゅんかん へ ん どう か ん そく
年 12 月より、宇宙航空 研 究 開発機構
(JAXA)
の第一期水 循 環 変動観測
え い せい
か ん そく
か い ひょうじょうほう
ていきょう
はじ
衛星「しずく」から観測データ(海 氷 情 報 )の提 供 が始まった。
参考文献
『南極観測二十五年史』文部省(1982)
『南極の海 海鷹丸南極海洋航行記』熊凝武晴(東洋経済新報社、1963)
『海鷹丸周航記』日下実男(現代思潮社、1953)
『海鷹丸南極調査及び練習航海 I』東京水産大学(1957)
『東京海洋大学海洋学部ホームページ』
http://www.s.kaiyodai.ac.jp/ship/umitaka/summary.html
http://www.s.kaiyodai.ac.jp/ship/umitaka/index.html
6
オーロラ・オーストラリス
オーロラ・オーストラリス (Aurora Australis)
キ ャ リ ン ト ン
スリップウェイズ
は、1989 年にCarrington Slipways 社によって
けんぞう
さいひょう せん
建造 されたオーストラリアの 砕 氷 船 である。
なまえ
ゆらい
きしょう げんしょう
名前の由来は、気象 現 象 である「オーロラ」に
なんきょくかんそくせん
ちなむ。オーストラリアの 南 極 観測船としては、
オ ー ロ ラ
1876 年に建造された“Aurora”、1961 年に建造
ネ
ラ
ダ ン
ひ
つづ
だいめ
ふね
された“Nella Dan”に引き続き 3代目となる。船
せんぱくかいしゃピーアンドオー
しょゆう
はイギリスの船舶会社 P & O の所有であり、オー
しんすいしき
ようす
進水式の様子
なんきょくきょく
ストラリア 南 極 局 がチャーターしているもので
なんきょくかんそく い が い
あるため、 南 極 観測以外に使われることもある。
しょだい
かか
 「しらせ」(初代)との関わり
1998 年 11 月、オーロラ・オーストラリ
なんきょくひょうかいいき
こしょう
お
スは 南 極 氷 海域でスクリュー故障を起こ
じりき
こうこう
こおり
と
こ
し、自力での航行ができず 氷 に閉じ込めら
せいふ
しえん
れていた。オーストラリア政府 より支援
ようせい
う
だい
じたい
かつどうちゅう
要請を受け、第40次隊として 活 動 中 であ
きゅうえん
む
った「しらせ」
が 救 援 に向かうこととなる。
きんえい
オーロラ・オーストラリス近影
かいごう
どうせん
12 月 13 日にはオーロラ・オーストラリス
きゅうしゅつ
あんぜん
かいいき
と会合、同船を 救 出 するとともに、安全な海域
えいこう
とき
えん
まで曳航した。この時の縁もあってか、2008 年
むか
うんこう
くうはく き か ん
度に迎えた南極観測船運航の空白期間(※)に
だいたい ゆ そ う
は、オーロラ・オーストラリスによる代替輸送が
しょうにん
にほん
オーストラリア政府に 承 認 され、日本の南極観
ちゅうだん
ひじょう じ た い
かいひ
測の 中 断 という非常事態が回避された。
しゅうへん
さいひょう
オーロラ・オーストラリス 周 辺 を 砕 氷 するしらせ
じ
き さいひょうせん
 次期 砕 氷 船
こうはん
め
ど
めいしょう
オーストラリア政府によって、2019 年後半を目途に、次期砕氷船( 名 称
みてい
じゅんび
げんざいすす
どうとう
い
未定)の準備が現在進められている。
「ふじ」と同等とも言われていたオー
さいひょうのうりょく
くら
やく
ばい
とうさい
ロラ・オーストラリスの 砕 氷 能 力 に比べ、約1.5倍の砕氷能力を搭載し、
せきさいりょう
おな
ていど
よてい
ぞくほう
ま
積 載 量 も同じく約 1.5 倍程度になる予定とのこと。続報が待たれる。
かんばんごう
かんそくこうどう
さいご
たいえき
※初代の「しらせ」
(艦番号AGB-5002)が 2007 年~2008 年の第 49 次観測行動を最後に退役
こうけいせん
よ さ ん しょうにん
おく
しゅうえき
することになっていたものの、後継船の建造予算 承 認 が遅れ、後継船の 就 役 が 2009 年まで
こ
けいい
ずれ込んだ経緯がある。
<参考文献>
・『極地研ニュース』 国立極地研究所編, 147 号 (1999.2), 187 号 (2008.9)
・『初代しらせ二十五年の航跡』砕氷艦しらせ編, 2008
・『ANARE News』 Australian Antarctic Division, No. 59 (Sept. 1989)
・『Australian Antarctic magazine』 Australian Antarctic Division,
issue 22 (2012), issue 26 (2014)
・オーストラリア南極局ホームページ:http://www.antarctica.gov.au/
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