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CSCE と M BFR - DSpace at Waseda University

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CSCE と M BFR - DSpace at Waseda University
<論 文>
CSCE と M BFR
米ソの密約と西側同盟国の抵抗,1971∼73年
山 本
事態の展開は完全にソ連指導者の想像を超えてい
た」と語っている⑷。では,なぜこれらの人道的
はじめに
要素はヘルシンキ協定に盛り込まれたのだろうか。
その大きな理由のひとつに,CSCE において,
西側,とりわけ西ヨーロッパ諸国が,人道的諸問
1973年7月,NATO 諸国,ワルシャワ条約機
構諸国,そしてヨーロッパの中立・非同盟諸国の
題について,粘り強く2年もの長きにわたって
渉を続けたことが指摘されなければならない。ま
外相がヘルシンキに集った。フィンランドの首都, たその前提として,西側が,CSCE をそのような
フィンランディア・ホールの席に 35カ国からの
長期にわたる 渉の場に変容させたことも重要で
外相たちが座る。ヨーロッパ安全保障協力会議
あった⑸。フランスの提案により,ヨーロッパ安
(CSCE)が幕を開けた。会議は,その後約2年
の歳月をかけた事務レベル協議の末,1975年8
全保障会議は専門家レベルの委員会を設置するこ
月,いわゆるヘルシンキ最終協定を採択する。冷
そこにおいて政府間関係を律する諸原則,信頼醸
戦 における 70年代デタントの頂点であった。
成措置,経済,科学技術,環境問題,そして人道
ととなり,それによって協議の場が制度化され,
よく知られるように,ヨーロッパ安全保障協力
的問題などが長期間にわたって取り扱われたので
会議の提案はワルシャワ条約諸国の側からなされ
ある。その結果,西側はソ連に圧力をかけ続け,
たものであった⑴。しかし結果として,それは西
最終的に人道的問題に関する項目をヘルシンキ協
側にとって極めて重要なものとなる。とりわけ,
定に盛り込ませることができたのである。
そのヘルシンキ最終協定に,人権原則や,
「第三
しかしながら,それに対して米ソ超大国は,当
バスケット」として知られる「人・思想・情報の
初 CSCE を早期に終わらせ,その中身を乏しい
移動の自由」に関する諸規定が含まれていたこと
ものにしようとしていた。そもそもソ連の主要な
が,冷戦の終焉をもたらす上で,ひとつの大きな
目的は戦後ヨーロッパの現状を承認・固定化する
役割を果たしたことは多くの研究者の指摘すると
ころである⑵。とりわけ関係者との多くのインタ
ことにあり,それゆえ,CSCE はその目的を達成
するだけの短い会議となることを望んでいた。
ビューに基づくトーマス(Daniel C. Thomas)
の研究は,ヘルシンキ協定の人道的側面が冷戦の
CSCE を軽視していたアメリカもまた,中欧相互
衡兵力削減(MBFR) 渉の開始をソ連側に
終焉に与えた影響について説得的に論じている⑶。 受け入れさせるために,CSCE を短期間で終わら
さらに元駐米ソ連大 ドブルイニン(Anatoly せようとするソ連側の要求を受け入れようとした。
「確かにソ連の反
Dobrynin)も回顧録において,
体制派の状況は一晩では変わらなかったが,この
ここに,MBFR の開始と引換えに,CSCE を早
期に取りまとめるという米ソの密約が生まれうる
歴 的文書(ヘルシンキ最終協定)によって彼ら
素 地 が あ っ た の で あ る。人 権 原 則 や,
「人・思
は決定的に勇気づけられた。
(中略)それは徐々
想・情報の移動の自由」に対する東側の強い反発
に反体制派と自由運動のマニフェストとなった。
を 慮したとき,そのような短い協議期間の中で
* 名古屋商科大学外国語学部国際教養学科専任講師
山本
:CSCE と M BFR
は,人道的要素は骨抜きにされるおそれがあった。 ることを目的とする⑼。
本稿はまず,米ソが,安保会議を短期間で終わら
本稿では,まずアメリカの政策に焦点を当てつ
せるために,CSCE をいつ終わらせるのかについ
て事前に申し合わせをしようとした密約の存在を
つ,CSCE と MBFR について概観する。次いで,
米ソが,その2つの構想をどのように進めてゆき,
明らかにすることを目的とする。
とりわけ CSCE をいつ終わらせるのかについて
そしてさらに重要な点として,このような米ソ
の密約を わす過程を 析する。そして最後に,
超大国の密約に対する他の NATO 諸国の抵抗に
他の NATO 諸国が超大国間の合意にいかに抵抗
注目する。CSCE を東側にとってのみ利益のある
したのかについて明らかにし,CSCE をめぐる国
際政治過程におけるその意義を 察したい。
ものにするつもりのなかった西ヨーロッパ諸国お
よびカナダは,次第に米ソの合意の存在を疑い始
め,それに強く反発することになる。そしてこれ
らの国々は,CSCE を短期で終わらせようとする
1. M BFR と CSCE の同時開催の模索
米ソの思惑をくじくことによって,安保会議を
設的で中身のあるものにする基盤を確保したので
ある。またこの事例は,アメリカに対してアメリ
米ソの密約の背景を理解するために,まずはア
カの同盟国が一致して異議申し立てをおこなった
メリカ政府の政策に焦点を当てつつ,M BFR と
CSCE について手短に振り返ると共に,同政府が
冷戦 の中でも稀有な事例であったという点でも
注目に値するだろう⑹。
しかし,この問題はこれまであまり関心が払わ
M BFR と CSCE の同時開催を模索する過程を概
観しておこう。
れてこなかった。なぜなら,従来の研究は主に
ヨーロッパにおける通常兵力の軍縮の問題は,
CSCE の会議の議題内容に注目し,ヨーロッパ安
保会議をどのような形式やタイミングで開催する
様々な理由から,1960年代中葉より西側諸国の
のかという側面には表層的にしか取り扱わず,そ
削減(Mutual and Balanced Force Reductions)
構想が,1968年6月,アイスランドの首都レイ
の問題をめぐる多国間外 を十
析してこなか
中で関心を集めていた。そして中欧相互 衡兵力
ったからである。この米ソへの抵抗については,
キャビクにおける NATO 外相理事会において正
ス ペ ン サ ー(Robert Spencer)が カ ナ ダ の 対
CSCE 外 の 研 究 に お い て,ま た ス ポ ー ア
式に提唱される。いわゆるレイキャビク・シグナ
(Kristina Spohr-Readman)が 西 ド イ ツ の 対
CSCE 外 の研究の中で,それぞれ短く言及して
をかわすためにアメリカが提案し,他の NATO
いるのみである⑺。しかしながら,両者ともこの
メリカ議会はヨーロッパの駐留米軍を一方的に削
問題のほんの一側面しか扱っておらず,多国間関
減することを主張していたが ,アメリカ政府は
係の中で問題の全体像を捉えておらず,それゆえ
その圧力をかわすため,MBFR が利用できると
えた。というのも,もし通常兵力の相互削減
CSCE におけるその重要性が十 論じられている
とは言いがたい。また CSCE に関する古典的研
ルである 。それは,実は,とりわけ議会の圧力
諸国に受け入れられた結果であった 。当時,ア
渉が東西間で開始されることになれば,アメリカ
究では,安保会議そのものに焦点が当てられ,本
が一方的な兵力削減を行うことはソ連との 渉上
稿が注目する安保会議開催に至る西側同盟諸国内
不利となるため受け入れられない,との立場を議
の国際政治過程については最低限の事実を述べる
会に対して取ることが出来るからである。こうし
のみで,極めて表層的な記述しかなされていな
た えは,その後も国務省を中心として支持され
い⑻。本稿は,近年
ていく。
開された米・英・仏・西独
の一次 料を用いて,米ソの密約の本質に迫ると
しかし,東側は当初よりこのような軍縮提案に
ともに,それに対して NATO 諸国がどのように
冷淡であった。その理由は,アメリカ政府の 析
抵抗したのかを 析することを通じて,ヨーロッ
によると,軍縮によってヨーロッパの米軍がベト
パ安保会議の構想が実質的で意味のあるものに変
ナム戦争へと回され,またそれによって,ソ連は,
容していく過程を多国間関係 として明らかにす
当時ソ連と激しく対立していた中国から,社会主
早稻田政治經濟學
誌 No.372,2008年7月,55-68
義同盟国である北ベトナムを不利な状況に陥れる
約諸国は,安保会議開催のため積極的に外 を展
ことになると批判されることを恐れていたからで
開し,西側に圧力をかけ続けていた。
あった 。実際,東側は,1970年の前半まで,表
よ く 知 ら れ て い る よ う に,ア メ リ カ 政 府 は
向き MBFR の提案を無視し続けた。1971年春以
CSCE に対して非常に懐疑的であった 。そのよ
降,ソ連共産党書記長ブレジネフ(Leonid Brez- うな会議は,ヨーロッパの現状を承認するなどソ
hnev)は MBFR の開催を口にはするようにはな
ったものの,やはり同年 10月より西側がブロジ
オ(M anlio Brosio)前 NATO 事務 長をモス
クワに派遣して M BFR についての予備折衝を始
連側にのみ利益があり,西側にとって何らメリッ
トはないと えられていた。むしろ,CSCE はヨ
ーロッパに不必要な緊張緩和の 囲気をもたらし,
それは西ヨーロッパ諸国の防衛努力を怠らせ,ま
めようとすると,ソ連はその受入れを頑なに拒否
た駐欧米軍を撤退させようとする米議会の圧力を
し続けた 。さらに,1972年1月 25∼26日にプ
いっそう強めることに繫がりかねないと えられ
ラハで開催された共産党書記長会合で打ち出され
ていた 。またアメリカ政府は,軍縮というデリ
た決議においても,軍縮に関しては何ら新しい要
ケートな問題が 30カ国以上の参加が見込まれて
素は含まれていなかった 。つまり,通常兵力の
いた安保会議の中で取り扱われることを嫌い,
軍縮提案は行詰りを見せていたのである。
M BFR は CSCE が開催される前に,限られた数
の関係国の間で,独立した 渉として始められる
1969年に大統領に就任したニクソン(Richard
Nixon)とキッシンジャー大統領補佐官(Henry
Kissinger)は,1971年 秋 ま で は MBFR に 関 し
べきであると主張していたのである。
しかし,その時までに CSCE が遠からず開催
て必ずしも積極的ではなかった。実際,同年9月, される可能性が非常に高まっていた。東側の安保
キッシンジャーは「議会をなだめるために,ソ連
会議開催提案に対して西側は,1970年より,そ
と(M BFR についての)協議に進むことを好ま
ない」と述べている 。だが,米議会の米軍撤退
の前提条件としてベルリン 渉の決着をその最も
圧力は衰えるどころかむしろ高まっていった。11
重要な要件として挙げていた 。だが既に,その
渉は 1971年9月3日の四大国ベルリン大
級
月のマンスフィールド上院議員(Mike Mans- 協定に結実していた 。つまり,ベルリン問題は
解決を見せ,その一方で M BFR が行詰りを見せ
field)による,6万人の駐欧米軍の削減を要求
する提案は否決されたものの,同年5月に出され
ていた同様の提案の時よりも,米軍の削減に賛成
る中,CSCE が MBFR よりも先に開催される恐
れがあったのである 。自らの思惑に反する事態
する議員の数は増えていた。ホワイトハウスは,
の展開に直 面 し た ア メ リ カ は 政 策 を 転 換 し,
1972年中はともかく,翌 1973年には議会の米軍
撤収要求をより積極的に食い止める必要性が出て
CSCE と MBFR を同時に平行して進めるようソ
連に対して働きかける必要性があると認識するよ
くると予想していた 。それゆえ,1972年までに
うになる 。この2つを同時並行にすることで,
キッシンジャーは,将来の議会からの圧力に対抗
するため,相互に通常兵力を削減するという構想
アメリカ政府は,CSCE の枠組みでは M BFR を
取り扱わないようにするという望みと,ソ連を通
を追及すべきであるとの えを受け入れるように
常兵器削減 渉へと引き込むという狙いを同時に
なっていった。そして,MBFR
渉を実現する
達成しようとしたのである。そして,この目的を
ためにも,東側の要求していたヨーロッパ安全保
達成する上で,1972年5月にモスクワで予定さ
障会議の開催を利用することがアメリカにとって
れていた米ソ首脳会談が決定的に重要な機会であ
有効であると えられるようになるのである 。
ると えられたのであった 。
CSCE のような全ヨーロッパ規模の会議を開催
するという えは 1950年代より存在したが,ソ
ニクソンとブレジネフは戦略兵器制限条約
連陣営は 1960年代中葉よりその構想を再び活発
(SALT)と対弾道ミサイル(ABM )条約に調印
に提唱し始めた 。1969年3月には,いわゆるブ
し,米ソ関係を著しく改善させることに成功し
ダペスト・アピールにおいて汎ヨーロッパ会議の
た 。しかし,CSCE と MBFR に つ い て は,ソ
連側はアメリカの要求を容易には受け入れなかっ
開催を提案していた 。それ以降,ワルシャワ条
この 上初のアメリカ大統領のソ連訪問の際に,
山本
:CSCE と M BFR
た。そもそも初めから,アメリカ側がこの問題に
ついてブレジネフから譲歩を得られる余地は限ら
れていた。ニクソンは,アメリカ政府が CSCE
2. 密
約
を大筋で受け入れる準備があることを示唆するこ
とによってソ連への譲歩を示し,ソ連側からも
M BFR について譲歩を得ようとした。しかしそ
の一方で,CSCE を望んでいなかったアメリカ側
CSCE と M BFR の切り離しには何とか成功し
たものの,1972年夏までに,アメリカは MBFR
は,できる限り安保会議の開催時期を遅らせよう
の予備 渉の開催日を明確にする必要に迫られる
ともしたのである。そのためニクソンは,ブレジ
ネフとの会談で,1972年末に大統領選挙を控え
ようになっていた。第一に,M BFR の日程が依
然としてはっきりしない中,CSCE の日程が具体
ているため,翌年まで安保会議を開くことは不可
化し始めていたからである。7月,フィンランド
能であると強調した 。しかし,そのようなさら
なる会議開催の遅 をソ連側が喜ぶはずもなかっ
政府は,CSCE の多国間予備 渉を 11月 22日よ
り始めることを主要関係各国に提案した 。これ
た。ニクソンが「ヨーロッパ会議についての議論
は,ニクソンが懸念していたアメリカ大統領選挙
を進めるのと同時に,それと平行した軍備削減
の日程(11月7日実施)を十
渉がありえましょう」と提案すると,ブレジネフ
であった。さらに,米ソ首脳会談での合意にもか
は「おそらく,それは平行して進めるべきではな
かわらず,ソ連側が CSCE と M BFR を平行して
い。おそらく,ヨーロッパ会議の問題を解決し,
進めるという えに消極的姿勢を示し始めていた
そして軍備削減へと移るのがよいのではないか」
こともアメリカ側の焦りをさそっていた 。それ
と切り返した。ニクソンが「もし会議が終わるま
ゆえホワイトハウスは,9月半ばにキッシンジャ
で待っていたら,軍備削減までたどり着かないか
ー が モ ス ク ワ を 訪 問 す る 前 に,ソ 連 側 か ら
もしれません」と食い下がると,ブレジネフはよ
「MBFR の模索に〔ソ連が〕参与する何らかのサ
うやく,しかし曖昧に,
「(CSCE と M BFR の)
イン」として予備協議開催の時期に関する合意を
渉は平行して,しかし別々の協議団体で行われ
うる」と答えたのだった 。確かに,ニクソンは
に
慮したもの
得る必要があると えた 。
ブレジネフの一応の同意を得ることに成功したか
MBFR 渉に関してソ連側からの言質を取る
ために,キッシンジャーはその開催日程について
に見えた。だが,アメリカ側は M BFR
渉の開
若干の譲歩をする必要性を感じていた。当時キッ
催日を設定することはできなかった。また首脳会
シンジャーは,国務省を介さない極秘のチャンネ
談のコミュニケにも,CSCE と M BFR が平行し
ルを駐米ソ連大 ドブルイニンとの間で作り上げ
て行われる旨は言及されなかった。そこでは単に, ていた 。9月5日,そのバックチャンネルを通
「この問題〔MBFR〕についての特別な場におけ
る 渉のための手続きについて,関係国間ででき
じてドブルイニンと会談したキッシンジャーは次
のようなプログラムをソ連側に提案する。
る限りすぐに適切な合意がなされるべきである」
もしわれわれ(米ソ)が 11月 22日のヨー
と 述 べ ら れ た だ け で あ っ た 。い つ CSCE と
ロッパ安全保障会議(の準備会合開催)に合
M BFR を始め,具体的にどのように2つの会議
を平行して行うのかについては,後日解決される
意する準備があるのであれば,MBFR の予
備会合は(1973年)1月末までに開催され
べき問題として積み残された。このサミットにお
ます。そして,もしヨーロッパ安保会議(本
いて,アメリカは MBFR に関しては限定的な成
会議)が 1973年夏の間に開催されるのであ
功しか得ることができなかったのである。
れば,MBFR 会議は 1973年の秋に開催され
るでしょう 。
ここで注目すべきは,このキッシンジャーの提案
は,CSCE と MBFR を厳密に平行して開催する
事を要求しておらず,M BFR が CSCE よりも若
干遅れて開催されることになっている点である。
早稻田政治經濟學
誌 No.372,2008年7月,55-68
これは明らかに,CSCE の開催を M BFR に先行
の合意は,同盟国と何ら相談することなく,しか
するように求めていたソ連側への譲歩であった。
も CSCE が開催される前になされたものであっ
キッシンジャーはそのような譲歩をしてでも,
た。
M BFR 渉の開催日程についてソ連側の賛同を
得ようとしたのである。だが,このささやかな譲
ジネフに対して,アメリカではなく,ソ連側が上
歩は,さらに重要な米ソ間の密約へと発展してい
記の CSCE と MBFR の日程表を提示したことに
く。
するよう要求していた 。そして,モスクワから
さらに興味深いことに,キッシンジャーはブレ
その後予定通りに,キッシンジャーは 1972年
の帰路,9月 15日にパリに立ち寄ったキッシン
9月半ばにソ連を訪問する。この米ソ会談の重要
ジャーは,ブレジネフからタイムテーブルを記し
性 は,彼 が ド ブ ル イ ニ ン に 提 示 し た CSCE と
た次のような簡素なメモが手 されたとポンピド
M BFR のタイムテーブルにブレジネフが合意し
たということだけでなく,超大国間である密約が
ゥ仏大統領(George Pompidou)に説明した。
1.ヨーロッパ安全保障会議の準備 渉はヘ
わされたことにあった。その密約とは,いつ
ルシンキで 11月 22日から始められる。
CSCE を終わらせるのかについて米ソが合意した
ことである。この会談でブレジネフは,
「ヨ ー ロ
2.安保会議はヘルシンキにて,1973年6
ッパ安全保障会議が完遂された後で会議が開かれ
3.MBFR の準備 渉は 1973年1月末に始
められる。
るという見通しなら,(MBFR についての)
渉
に入る準備があります」
(傍点筆者)との立場を
示した。それに対して,キッシンジャーもこう応
えたのである。
月末に開始する。
4.MBFR 会議は 1973年9月ある い は 10
月に開始する 。
もし CSCE が(1973年)6月末に開始さ
その際キッシンジャーは,NATO の同盟諸国と
協議をする前にこのメモについてソ連側に返答す
れ る の で あ れ ば,
(MBFR の)本 会 議 は
るようなことはしなかったと強調し,あくまでも
CSCE が 完 結 し た 後 で あ る べ き で あ り,
M BFR 会議は9月末ごろ,9月か 10月のど
西側陣営内でまず協議してからソ連と合意をする
こかで開かれるでしょう。もしこれらの原則
ッシンジャーは,すでに CSCE を MBFR
が合意できるなら,我々は CSCE の準備を
(1972年)11月 22日に開始することに同意
するでしょう 。
つもりであるというポーズをとった 。むろんキ
渉が
開始される前に終わらせることについてソ連と密
約を わしていることなど口にはしなかった。
「同意しましょ
上記のソ連のメモはすぐに他の NATO 諸国に
も提示されるが,当初それは歓迎されることとな
このやりとりから明らかなのは,キッシンジャ
った。なぜならば,それは,NATO 側が長らく
主張してきた通常兵力の軍縮 渉をソ連がようや
ーとブレジネフが CSCE を 1973年6月末に開催
く明確な形で受け入れたことを示していたからで
し,9 月 末 ま で に そ れ を 終 わ ら せ,そ の 後 に
ある 。
M BFR 本会議を開催する事を確認し合ったこと
である。つまり,米ソは CSCE と M BFR をいつ
だがすぐに,NATO 諸国は米ソ間に何らかの
合意があるのではないかと疑い始めた。実際,ソ
開始するかだけでなく,CSCE をいつ終わらせる
連外相グロムイコ(Andrei Gromyko)は,オラ
ンダ外相シュメルツァー(M. W. K. N. Schmel-
ブレジネフもすぐさま応じた
う。 」
のかについても合意していたのである 。ブレジ
ネフは CSCE をたった3カ月で終わらせるとい
うアメリカの合意を引き出すことに成功した。ま
「MBFR の準備
zer)と9月 29日に会談した際,
協議は1月末に始められるが,実質的な問題は
た,CSCE の後に M BFR を開催することによっ
て,前者に関して西側に時間的圧力をかけること
CSCE の後で初めて持ち出されるであろう」と述
べ,安保会議が終わるまでソ連は MBFR の本会
にもなる。それは安保会議がソ連が望む戦後ヨー
議開催に応じない姿勢であることをほのめかして
ロッパの現状を固定化するためだけの会議になる
いた 。フランスは,MBFR の 渉開始以前に
CSCE を終わらせようとすることによって CSCE
ことを意味したのである。そしてこのような米ソ
山本
:CSCE と M BFR
の協議のペースに圧力をかけようとするソ連の意
図を懸念しており,CSCE の開始時期を 1973年
6月に固定することに反対した 。また 10月に
3. 超大国への異議申し立て
モスクワを訪問して戻ってきたばかりの西独外
官も,イギリス外務省との意見 換の中で,ソ連
は CSCE が終わった後で MBFR
渉を開始する
1972年 11月 22日,フィンランドの提案どお
つもりだとの印象を伝えた 。さらにイギリス側
り,CSCE の多国間準備協議が開催された 。米
ソの共謀に対する不信感は当面棚上げにしつつ,
も,ソ連に対してだけでなく,アメリカに対して
も不信感を示し,次のような懸念を西独側に示し
ていた。
NATO 諸国はフィンランドの準備会議への招待
を受け入れた。ソ連側が M BFR 渉の開始を受
(CSCE において)時間をかけた協議をお
こなえる委員会を設置することで真剣な会議
け入れる姿勢を示したため,西側としては,もは
にしようとする我々の構想全体が危険にさら
由はなかったからである。その準備協議は約7カ
されていることを理解すべきです。それは,
月間続き,1973年5月6日,CSCE で取り扱う
短く簡素な会議を望むソ連からだけでなく,
議題と手続きに関する最終勧告をとりまとめ,そ
翌年秋に M BFR
の準備を終えた 。この最終勧告は,西側にとっ
渉を目に見える形で開始
や CSCE 準備協議の開始をこれ以上
期する理
したいと思っているアメリカからの攻撃によ
て極めて幸先のよいスタートであった。そこには,
っても危機にさらされることになるでしょ
CSCE 本会議で取り扱う議題として,人権と基本
的自由を尊重する条項を含む政府間関係を律する
う 。
当時,西ヨーロッパ諸国は,CSCE 本会議を長期
諸原則が盛り込まれた。また西側が主張してきた,
にわたる徹底的な協議の場にしようとしていた 。 「人・思想・情報の移動の自由」に関する諸問題
それゆえ,米ソによって,CSCE での協議が短く
中身の薄いものにされることを他の NATO 諸国
も含まれていた。それゆえ,英外務省高官は多国
は受け入れられなかったのである。
西側は驚くほどうまくやっている」とコメントし
さらに英外務省は,
(おそらく駐英アメリカ大
館筋から)ドブルイニンが米国務長官ロジャー
間準備協議の結果を踏まえ,
「これまでのところ,
ている 。
しかし,この多国間準備協議の最終段階におい
ス(William Rogers)に宛てた機密扱いの文書
を入手していた。そこには「昨年9月モスクワに
て,CSCE と MBFR についての米ソ間の合意が
再び重要な問題として前面に出てきた。なぜなら,
てキッシンジャーとの会談で達した合意」という
第1に,東側陣営が MBFR 本会議の開催日を固
言葉が記されていた 。その「合意」の文字の下
定することに反対し,西ヨーロッパ諸国が不信感
には,イギリス外 官の手によって下線が引かれ
ていた。CSCE と M BFR の日程が書かれた上記
を強めていたからである 。MBFR の予備協議
は前年9月のキッシンジャーの訪ソの際に合意さ
のソ連のメモは合意されたものではないとキッシ
れていたように 1973年1月 31日よりすでにウィ
ンジャーは同盟国に対して説明していたが,イギ
ーンにて開催されていたが,その予備協議の中で
リスは超大国間に密約があることを示唆する証拠
ワルシャワ条約側は MBFR 本会議の開催日を明
を入手していたのだった。それゆえ,イギリス,
確 に す る こ と を 拒 否 し て い た。東 側 の 狙 い は
フランス,そして西ドイツは,ソ連に対して,
CSCE を終わらせてから MBFR を開始すること
にあったのだから,その手順について合意できて
CSCE の後に MBFR を開催するという えを受
け入れることはできないとの立場を伝えた。アメ
おり CSCE を短期で終わらせることを受け入れ
リカは,そのような同盟国の意見に同調を示すも
ていたアメリカとは M BFR を「9月あるいは 10
のの,それを実際にソ連側に伝えることはできな
月」に開始することに同意できても,そのような
かった 。これは,ヨーロッパ側の対米不信の源
手順を確認できていない他の西側諸国とは
泉となったのである。
M BFR の開始日を固定できないのは当然であっ
た。なぜなら,東側としては,そうすることで,
早稻田政治經濟學
誌 No.372,2008年7月,55-68
CSCE を早期に終わらせなければ M BFR は始め
られないという圧力を西側にかけることができる
めたのだった。
からであった。
同様の日程を受け入れるよう迫った。しかし,ブ
また第2に,3月 15日,マンスフィールド上
ソ連もさらに,二国間関係を通じて西ドイツに
における米軍の実質的な撤退を要求する決議を採
ラ ン ト 首 相(Willy Brandt)も 外 相 シ ェ ー ル
(Walter Scheel)も同意することはなかった。
確かに軍縮問題は西ドイツの東方政策にとって重
択 さ せ る こ と に 成 功 し て い た 。そ の 結 果,
要な要素であった 。だが,ヨーロッパ安全保障
M BFR 開催のタイミングの問題は依然としてア
メリカの懸案材料であり続けた。それゆえ,6月
会議もまた,その東方政策を持続的なものにする
院議員が,米議会において,18カ月以内に海外
に予定されていた米ソ首脳会談の事前協議のため
ため重要であった。ソ連は,M BFR 渉開始の
ために西ドイツも CSCE を短期間で終わらせる
5月6日に再びモスクワを訪問した際,キッシン
ことに賛同すると えたかもしれない。というの
ジ ャ ー は,「少 な く と も CSCE の 終 わ り と
も,すでに 1971年9月にブレジネフと会談した
M BFR の開催の間の期間について合意できない
だろうか」とグロムイコに尋ね,CSCE 終了と
際,ブラントは M BFR の重要性をソ連側に熱心
M BFR 開始の間を1カ月とするよう提案した 。
ソ連外相は,
「9月から 10月までに,ヨーロッパ
常に積極的であることをソ連側はよく理解してい
会議の全日程が終わる」ことを前提条件として,
1973年5月 18日にグロムイコと会談した際,上
キッシンジャーに同意した 。米ソは,まず 1973
記のような CSCE と MBFR の日程表を受け入れ
年の9月から 10月までに CSCE を終わらせ,そ
る事をきっぱりと拒否した 。ブラントもまた,
の一月後に MBFR を開催することに改めて合意
同月 21日にブレジネフと会談した際,M BFR が
したのである。MBFR を用いて,ソ連が CSCE
真剣に
を短期間で終わらせようとしているのは明らかで
ばならないとのソ連側の主張に対し,CSCE を
1974年の春までに終わらせることはできないだ
あった。そうすることによって,西側に有利であ
った多国間準備協議の最終勧告の中身を骨抜きに
しようとしたのである。
キッシンジャーも明らかに,M BFR を確実に
開始させるために,安保会議を早期に終わらせた
に説いており,西ドイツが他の国よりも軍縮に非
たはずだからである 。しかし,シェールは,
渉される前に CSCE を終わらせなけれ
ろうと述べた。つまり,CSCE の協議が短期間で
まとまる可能性を否定することによってブラント
は遠まわしに反論したのだった 。このように西
いと えていた。新たに駐米大 となった西ドイ
ドイツは,MBFR 渉を早期に開始するために,
CSCE の 渉を短くすることによって西側にとっ
ツの外
て不利な状況をつくるつもりはなかったのである。
スクワ訪問の成果について報告し,CSCE が完結
また他の NATO 諸国も超大国間の合意に激し
く反発した 。ソ連,あるいは米ソの日程表は,
したその1カ月後に MBFR
官シュタッデン(Bernd von Staden)
と5月 12日に会見した際,キッシンジャーはモ
渉を開始するとい
安保会議が短く中身の薄いものになることを意味
うのがクレムリンの意図であると説明した 。上
した。もしそれが受け入れられたなら,MBFR
記のとおり,そのような日程を提示したのはソ連
渉を開始するため,西側は3カ月以内に CSCE
を 終 わ ら せ な け れ ば な ら な か っ た。し か し,
ではなく,キッシンジャーであったにもかかわら
ずである。また同時に彼は,安保会議はできる限
「CSCE
渉が長ければ長いほど,そして深く掘
り早く終わらせるべきであり,長引かせてならな
り下げれば掘り下げるほど,ソ連にとって戦術的
いとの
にも実質的にもより困ったことになる」とイギリ
えも明らかにした 。つまり,キッシン
ジャーには,CSCE を西側にとって中身のあるも
スは
えていた 。フランスも,安保会議はそれ
のにするために,そこでの 渉を長期間にわたる
独自のリズムで進められなければならないと え,
ものにする意図はまったくなかったのである。そ
して,ソ連の提案だとしつつも,まず CSCE を
M BFR と CSCE が日程的に連関することに反対
であった 。つまり,西ヨーロッパ諸国は CSCE
終わらせ,次いで MBFR を開始するという流れ
渉が時間的圧力にさらされることなく進められ
を西側としても受け入れるよう同盟国に促しはじ
なければならないと えていたのである。それゆ
山本
:CSCE と M BFR
え,M BFR の 早 期 開 催 を 望 む ア メ リ カ か ら
CSCE を早期に決着させるよう圧力がかかること
を避けるためにも,MBFR
渉のカードに うのが西側にとって最も有効であ
ると えていたのである。
渉の開始日を,前
他の NATO 諸国はオランダやカナダよりも穏
もって,CSCE のスケジュールとは独立した形で
設定することが他の NATO 諸国にとって不可欠
多くの NATO 諸国は,多国間準備協議が最終段
であった。
そ の た め の ひ と つ 目 の 手 段 は,CSCE と
ではあったが,基本的な戦略は同じであった。
階にある中で,CSCE 外相会議の開催を遅らせよ
うとするのは戦術的に望ましくないと えてい
M BFR の 渉を実質的に平行して進むようにす
ることであった。CSCE 本会議は3段階で進めら
た 。それゆえ,もしソ連が MBFR
れることが CSCE の準備協議の中で合意されて
を拒否すればよいというベルギーの提案が広い支
いた。第1段階は,CSCE の開催を象徴する外相
会議であり,そこで最終勧告が採択される。第2
持を得た 。にもかかわらず,オランダとカナダ
段階は,その最終勧告に基づいて議題ごとに委員
議の最終日において,アメリカを除くすべての
会を設置し,官僚レベルで実質的な協議を行う。
そして第3段階では,外相あるいは首脳レベルの
NATO 諸国は,1973年7月3日を CSCE 外相会
議の日取りとして暫定的に受け入れるものの,フ
会議を再び開催し,第2段階で取りまとめられた
ィンランドからの会議の招待に対しては性急に
結果を正式に承認することになっていた 。グロ
式の返答を行わないという妥協案で合意した。
ムイコは,その CSCE の第2段階が,第1段階
NATO 内では,アメリカ大 だけが反対した 。
アメリカは孤立したのである。
終了後数日のうち,つまり具体的には7月初頭に
開催され,9月にはそれを終えるつもりでいた
渉の開催
を拒み続けたら,西側は CSCE 第2段階の開催
は強 路線に固執した。その結果,多国間準備協
そして MBFR はその後に開始される算段で
そのため,米ソは最終的に CSCE と M BFR に
ついての合意の変 を迫られた。戦術的観点から
あった。しかし,西ヨーロッパ諸国は,CSCE 第
は意見の相違があったものの,西ヨーロッパ諸国
2段階は早くて,8月の夏期休暇後の9月に開催
およびカナダはすべて強 に米ソの合意に反対し
されると
えていた 。これは戦術的に計算され
ていた。もしソ連が,M BFR は CSCE の終了一
たものでもあった。上記のとおり,ソ連はすでに, 月後に開催されるという立場に固執し続けたら,
M BFR 渉を 1973年9月あるいは 10月に開始
す る と す る メ モ を 提 示 し て い た。そ れ ゆ え,
CSCE も MBFR もどちらも開催されないという
恐れがあった。それゆえ,米ソは計画を再 せざ
CSCE の実質的な 渉である第2段階を同じ9月
に開始し,2つを同時並行して進めるようにする
るをえなかった。6月2日,キッシンジャーはド
ことによって,CSCE が終わってから M BFR を
開始するというソ連(とアメリカ)のシナリオを
わらせることで合意するなら,MBFR の開始日
を固定することを決めた 。そして,1973年6月
潰そうとしたのである。
末にブレジネフがアメリカを訪問した際,彼とニ
米ソの意図に対抗するもうひとつの手段は,
CSCE を開始しないことであった。とりわけオラ
ンダとカナダが強 派であった。もしソ連が,
M BFR の開催日を明確にしようとしないなら,
NATO は CSCE 第1段階の外相会議の開催に賛
ブルイニンと話し合い,1973年中に CSCE を終
クソンは,MBFR 渉を 10月 30日に開始する
ことでついに合意した 。この米ソ首脳会談にお
いて,ブレジネフは,CSCE を終わらせる日付に
ついても合意するようニクソンに迫った。しかし,
同盟国の反対を前にして,ニクソンはもはや安保
同すべきでない,と両国は主張した。1973年5
会議の終了日程について約束することは出来なか
月末,CSCE の多国間準備協議は最終段階に入っ
った 。
「私 が 言 え る こ と は,で き る 限 り 早 く
ており,東側は最初の CSCE 外相会議の日取り
(CSCE の)結論を得るために我々はせきたてる
を決めるよう迫っていた 。そしてそれは6月末
ことが出来る,ということだけです」とブレジネ
か,7月初頭に設定されるであろうとの見通しが
フに応えるのが精一杯であった 。
す で に あ っ た。だ が,カ ナ ダ と オ ラ ン ダ は,
CSCE 渉の進度に関係なく MBFR の日程が
固定化されたことは,米ソが,CSCE 終了後に
CSCE 第1段階の開催を受け入れるかどうかを
早稻田政治經濟學
誌 No.372,2008年7月,55-68
M BFR 渉を開始するという従来の立場を後退
させたことを意味した。より重要なことは,それ
了日を設定することを望まない」と反論してい
によって,東側は,安保会議を早期に終わらせる
実におよそ2年もの長きにわたって続けられるこ
よう圧力をかけるための最も重要な,そしておそ
ととなった。だが,安保会議を実質的なものにす
らく唯一のカードを失ったことであった。もし仮
るには,それだけの時間が必要であった。そのジ
に米ソが 1973年末までに CSCE を終わらせるこ
ュネーヴにおける2年間は,東側から人権原則や
た 。実際,第2段階の作業は予想を遥かに越え,
とで合意したとしても,他の西側諸国は CSCE 「人・思想・情報の移動の自由」に関する諸問題
第2段階の
渉を,独自のペースで,M BFR と
は 独 立 し て,進 め た だ ろ う。そ れ は,「人・思
について,意味のある譲歩を引き出し,安保会議
想・情報の移動の自由」といった西側にとって最
うにするために,極めて重要であった。そしてそ
も重要な議題を,時間をかけて,より実質的に,
そして徹底的に議論することを可能にしたのであ
れは,西ヨーロッパ諸国とカナダが,CSCE をで
きる限り早く終わらせようとする米ソの密約に強
った。
く抵抗したことによって可能となったのである。
おわりに
コントロールできない多国間
デタント
を現状維持を確認するだけの場で終わらせないよ
米ソ超大国は,CSCE のような多国間の枠組み
において,人道的な要素を骨抜きにすることはで
きなかった。キッシンジャーは東西関係の文脈で
人権問題といったイッシューを低く評価してお
り ,むしろソ連との良好な関係を維持するため,
1973年6月の米ソ首脳会談の結果について,
安保会議が早期に決着することを望んだ。しかし,
ケリアー(John G. Keliher)は,
「ブレジネフは
キッシンジャーが,人道的諸問題について態度を
おそらく,ソ連が MBFR を開始することに合意
軟化させるよう同盟国を説得しようとしたのは,
することと
M BFR がすでに 1973年 10月末より開始された
後であり,キッシンジャーはもはや圧力をかける
換に,ニクソンが同盟国を説得して
CSCE を成功させることを望んでいたかもしれな
い」が,
「ブレジネフはこの点について限定的に
成功しただけだった」と
適当な手段を持ち合わせていなかった 。CSCE
析している 。しかし, が完結する以前に,通常兵力削減 渉が始められ
ブレジネフの成功を限定的なものにしたのは,ニ
たことによって,西ヨーロッパ諸国とカナダは,
クソンの成果とはいえない。むしろ本稿の 析は, 同盟国に中身の薄い最終文書を受け入れさせよう
米ソ両超大国の「成功」を阻止したのは,西ヨー
とする術をアメリカから奪っていたのである。
ロッパ諸国とカナダであったことを示している。
さらに,第2段階での長い綱引きの結果,最終
CSCE に対する期待にはヨーロッパ各国で温度差
があったものの,これらの諸国は,CSCE の協議
的に痺れを切らしたのはブレジネフの方であった。
に期限をつけ,時間の圧力にさらされるような
簡を送り,「最高レベルにおける〔ヨーロッパ安
渉を受け入れるつもりはなかった。そのような会
全保障協力〕会議の最終段階」が6月 30日に開
議は,東側に有利になるだけだったからであり,
始されるべきであると提案した 。ソ連側の方が
渉が長いほど西側に有利であると えられてい
デッドラインを設定したことは,ブレジネフが一
たからである。CSCE を軽視し,ソ連に MBFR
貫して要求してきた CSCE の第3段階を首脳レ
を受け入れさせるための手段としか えなかった
ベルの会合にすることを受け入れる代わりに,
アメリカは NATO 内で孤立したのである。
1975年3月初頭,彼は西側の主要各国首脳に書
「人・思想・情報の移動の自由」に関する「第三
CSCE 第2段階は,1973年9月 18日よりジュ
ネーヴで開始された。グロムイコは,
「第2段階
バスケット」の諸問題に関してモスクワに圧力を
が人為的に長引かされることがあってはならな
なった。その結果,5月末に,ワルシャワ条約諸
かける上で西側に大きなチャンスを与えることに
い」と警告していたが,仏外相ジョベール(Mi- 国はついに実質的な譲歩を行い,人の接触と情報
chel Jobert)はそれに対して,「我々が最も重視
している(第2段階における)委員会の作業の終
の移動に関する西側の提案を受け入れたのであっ
た 。
山本
:CSCE と M BFR
1970年代初頭,緊張緩和の試みは二国間ベー
スで進展した。だがそれらは,主に現状を承認・
固定化する形で安定を模索するものであった。例
え ば,米 ソ 間 で 締 結 さ れ た SALT や,西 ド イ
⑷ 括弧内,筆者補足。Dobrynin[24]p. 351.
⑸ この点については,山本[2]。
⑹ 米欧間の対立が冷戦時代に存在したことは以前から
指摘があるとおりである。1970年代前半に関しても,
キッシンジャーの「ヨーロッパの年」演説や,中東問
ツ・ソ連間でのモスクワ条約は,核兵器の 衡や
題に関して,米欧間で意見の相違があった。しかしな
既存の国境を事実上承認するものであった 。特
がら,その際も西ヨーロッパ諸国が必ずしも一枚岩で
に軍備管理やドイツ問題はあまりにセンシティブ
あったわけではない。上記の例でも,オランダや西ド
な問題であり,二国間ベースで慎重に,現状が急
イツはしばしば親米的な態度を示している。だが,本
激に変化するような事態が起こらないようコント
稿が扱う事例は,西ヨーロッパ諸国が一致してアメリ
ロールしながら取り扱われた。逆に,そのような
難しい問題をコントロールするために,二国間で
の取扱いが好まれたのである。1970年3月より
開始されたベルリン 渉についても同様であった。
第二次大戦後,ベルリンについては,米英仏ソ四
大国がその国際法上の責任を共有していたが,ベ
ルリン 渉の本質的な部 は,米ソが極秘でバッ
クチャンネルを通じて行っていた 。そして,そ
カに対して異議申立てをおこなったという点で,例外
的な事例といえよう。米欧関係に関する同時代的な古
典的研究としては,例えば,Wallace [17]
; Hoffmann[34];Grosser[31]。
⑺ Spencer[47]pp. 92-93;Spohr-Readman[16]pp.
1113-1114.
⑻ Ferraris [27]
; Acimovic [18]; M aresca [39];
。これ
Mastny[40]; Ghebali[30];百瀬・植田[7]
らの研究の中では,本稿の主題である,米ソ間の密約
やそれに対する西ヨーロッパ諸国の抵抗については触
のような二国間 渉においては,現状維持・現状
れられていない。M BFR に関する以下の研究も同様
承認を目的とする合意が目指されたのであり,そ
である。Keliher[36];Ruehl[45]
;M uller[41].
⑼ 本稿は西側同盟諸国内の多国間外 に 析の焦点を
こに現状を変革する要素が入り込む余地は乏しか
った。CSCE という多国間ベースでのデタントに
関しても,米ソはそれを二国間でその展開をコン
トロールしようとした。確かに,武力不行 の原
則や国境不可侵の原則など,現状を承認する規定
が CSCE の中で確認された。しかし,それと同
時に,1975年のヘルシンキ最終議定書には,人
権条項や人的接触についての規定を含む有名な第
三バスケットが盛り込まれた。多国間の枠組みに
おいて,ヨーロッパの現状を変革する要素が挿入
当てるものであり,各国の CSCE 政策を詳細に論じ
てはいない。CSCE 開催に至る西側各国の CSCE 政
策については,Yamamoto[51]
。
M uller[41]p. 59;Keliher[36]p. 16.M BFR の起
源については,Bluth[21]。
Akten zur Auswartigen Politik der Bundesrepublik Deutschland (以下 AAPD )1968, Dok. 171,
Botschafter Grewe, Brussel (NATO)
, an das
Auswartige Amt, 25. 5. 1968.
オーバードーファー[3]41-43頁。
Foreign Relations of the United States (以下
されたのである。これは,多国間デタントを米ソ
FRUS), 1964-1968, Vol. XIII, Doc. 273, Paper Pre-
がコントロールすることができなかったことの反
pared in the Department of State, Department of
映でもあったのである。
State Study on M utual Force Reductions in Europe,
25. 10. 1967.
AAPD 1971, Dok. 416, Gesprach des Bundes-
[注]
⑴
⑵
van Oudenaren[42]pp. 319-320.
;吉川
Schlotter[46];Thomas[48]
;Andeani[19]
[4]
;宮脇[6]
。CSCE における「人・思想・情報の
移動の自由」の問題に対するイギリス政府の取組みに
ministers Scheel mit
dem
sowijetischen
Außenminister Gromyko in Moskau, 28. 11. 1971;
AAPD 1972, Dok. 32, Gesandter Boss, Brussel
(NATO), an das Ausartige Amt, 15. 2. 1972;
Haftendorn[32]pp. 554-556.
ついては,齋藤[5]第五章。また,人権条項および
1972年1月 26日のプラハにおけるワルシャワ条約
「人・思想・情報の移動の自由」の起源については,
諸国の首脳会談の決議のテキストは,http://www.
山本[1]。ただし,本稿は CSCE の人道的要素のみ
が冷戦を終わらせる要因であったと主張するものでは
ない。
⑶
Thomas[48]. トーマスの研究を高く評価するもの
として,例えば,Lundestad[38]
。
isn.ethz.ch/php/documents/collection 3/PCC
docs/1972/1972 9.pdf
FRUS, 1969-1975, XXXIX, Doc. 70, M inutes of
Verification Panel Meeting[on M BFR]
, 21.9.1971.
Minutes[Verification Panel M eeting on M BFR],
早稻田政治經濟學
誌 No.372,2008年7月,55-68
KT 00353, 21.9.1971, Kissinger Transcripts(以下
KT), The Digital National Security Archives(以
in cooperation with William Burr and with the
下 DNSA), available HTTP:http://nsarchive.
chadwyck.com/marketing/index.jsp
conference NATO,the Warsaw Pact and the Rise
of Detente, 1965-1972 in Dobiacco, Italy, on 26-28
Thomson to Wiggin, 20. 9. 1972, FCO 41/1002,
The National Archive, London(以下 TNA).
FRUS, European Security, Doc. 90, Editorial
CWIHP s research assisntants for the international
September 2002.
キッシンジャーとドブルイニンの間のバックチャン
Note.
ネルについては,Hanhimaki[33]pp. 34-40。
括弧内,筆者補足。M emorandum of Conversa-
Wolfe[50]pp. 285-286;Haftendorn[32]pp. 416
-417.
tion [with Dobrynin], KT 00551, 5.9.1972, KT,
DNSA; FRUS, 1969-1975, XXXIX, Doc. 108, Edi-
ブダペスト・アピールのテキストは,Palmer[43]
pp. 85-87。
Hanhimaki[13];関場誓子「アメリカの CSCE 政
策」百瀬・植田[7]118頁。
この点については,山本[2]115-116頁。
1970年6月の NATO 理事会のコミュニケは以下
のウエッブサイトで閲覧可能である。http://www.
nato.int/docu/comm/49 -95/c700526a.htm
ベルリン 渉に関しては,Catudal [22]; Keithly
[35];Wilkens[49];Soutou[15]。
FRUS, 1969-1976, USSR, Vol. XIV, Doc. 125,
Attachment, Memorandum From Helmut Sonnenfeldt of the National Security Council Staff to the
President s Assistant for National Security Affairs
(Kissinger), 17.4.1972.
FRUS, 1969-1975, XXXIX, Doc. 89, National
Security Decision M emorandum 162, Presidential
Guidance on Mutual and Balanced Force Reductions and a Conference on Cooperation and Security in Europe, undated (5.4.1972).
MBFR and CSCE,PR 00918, 20.3.1972,Presidential Directives, Part II, The Digital National Security Archives(以 下 DNSA), available HTTP:
http://nsarchive.chadwyck.com/marketing/index.
jsp
Garthoff[28]pp. 335-338.
torial Note.
傍点筆者。括弧内,筆者補足。FRUS, 1969-1975,
XXXIX, Doc. 112, M emorandum of Conversation
[Discussion with Leonid Brezhnev of U.S.Businesses, European Security, and Arms Control],
12.9.1972.
Ibid.
先行研究は,米ソが,CSCE と M BFR をいつ開始
するのかについて合意したことを指摘するのみであり,
CSCE をいつ終わらせるのかという米ソ密約の核心部
に つ い て は 全 く 触 れ て い な い。例 え ば,Dyson
[26]p. 89。
FRUS, 1969-1975, XXXIX, Doc. 112, M emorandum of Conversation[Discussion with Leonid
Brezhnev of U. S. Businesses, European Security,
and Arms Control], 12.9.1972.
Audience de M . Henry Kissinger, Conseiller du
President Nixon,le 15 septembre 1972, 17 h. 30-18
h. 55, 15.9.1972, 5 AG 2/1022,Archives Nationales,
Paris(以下 AN).
Ibid.
UKDEL NATO tel no. 375 to FCO, 15. 9. 1972.
FCO 41/1002, TNA.
傍点筆者。Speaking note Conversation between
the Netherlands and Soviet M inisters of Foreign
Affaires on CSCE , undated, Serie Europe 1971-
European Problems, Memorandum of Conversation[between Nixon and Brezhnev], KT 00495,
24.5.1972, Kissinger Transcripts(以下 KT ),
juin 1976, carton 2924, MAE.
UKDEL NATO tel no. 389 to FCO, 27. 9. 1972.
FCO 41/1003, TNA;UKDEL NATO tel no. 403 to
DNSA.
括弧内,筆者補足。Ibid.
FCO, 5. 10. 1972. FCO 41/1002, TNA.
Anglo/German Talks on M BFR: Bonn Friday,
20. 10. 1972. FCO 41/1005, TNA.
Keliher[36]p. 31.
van Oudenaren[42]p. 321.
Washington tel no. 5756-70 to Paris, 25. 8. 1972,
Europe 1971-juin 1976, carton 2924, M inistere des
Affaires Etrangeres, Paris(以下 M AE); Dujardin
[25]p. 512.
Memorandum for M r. Kissinger. From: Helmut
Sonnenfeldt, Subject: Relaunching MBFR, 25. 8.
1972, CD-ROM The Rise of Detente. by Mircea
Munteanu, Hedi Giusto, and Christian Ostermann
括弧内,筆者補足。Ibid.
山本[2]。
傍点筆者。A secret document, untitled, undated,
FCO 41/1048, TNA.
M eeting of the Foreign M inisters of the Nine
20/21 November in The Hague. Agenda item 1:
Conference on Security and Co-operation in Europe, undated, FCO 41/1055, TNA.
多国間準備協議についての詳細な研究は,Ferraris
山本
:CSCE と M BFR
[27] pp. 9-40; Spencer [47] pp. 84-94; SpohrReadman[16]pp. 1098-1116。
最終勧告のテキストは,Maresca[39]pp. 211-225。
Documents on British Policy Overseas (以下
DBPO), Series III, Volume II: The Conference on
Security and Cooperation in Europe,1972-1975,(以
下 III, II), p. 136, fn. 2.
Thomson to Tickell, 10. 5. 1973, FCO 41/1226,
TNA.
DBPO, Series III, Volume III: Detente in Europe,
1972-76, p. 35.
FRUS, 1969-1975, XXXIX, Doc. 147, M emoran-
[between Kissinger and Douglas-Home],KT 00719,
10.5.1973, KT, DNSA.
Ferraris[27]p. 40.
Vermerk,Betr.:Sowjetische Haltung zum Ergebnis der M V, 25. 5. 1973,B-28,Bd.ZA 111516,PAAA;
UKDEL NATO tel no. 363to FCO, 30. 5. 1973.FCO
41/1226, TNA.
UKDEL NATO tel no. 363 to FCO, 30. 5. 1973.
FCO 41/1226, TNA.
UKDEL NATO tel no.422to FCO,8.6.1973.FCO
41/1226,TNA;FRUS, 1969-1975,XXXIX,Doc. 150,
dum of Conversation [with Gromyko], CSCE,
Editorial Note.
Ibid., Doc. 155, Transcript of Telephone Conver-
MBFR,Nuclear Agreement,U.N.M embership for
FRG and GDR, 6. 5. 1973.
sation Between the President s Assistant for
National Security Affairs (Kissinger) and the
Ibid.
AAPD 1973, Dok. 137, Botschafter von Staden,
Washington,an M inisterialdirektor van Well, 12. 5.
1973; FRUS, 1969-1975, XXXIX,Doc. 149,Memorandum of Conversation[between Kissinger and
von Staden], 12.5.1973.
Ibid.
1960年代後半 の 西 独 政 府 の 東 方 政 策 の「マ ス タ
ー・プラン」には軍縮の要素が盛り込まれていた。
Assistant Secretary of State for European Affairs
(Stoessel), 2.6.1973; Ibid., Doc. 156, M emorandum of Conversation, 4. 6. 1973;Washington tel no.
1745 to FCO, 4. 6. 1973. FCO 41/1226, TNA.
米 ソ 首 脳 会 談 の 共 同 コ ミ ュ ニ ケ の 全 文 は,European NAvigator (ENA)のウエッブ・サイトで閲
覧可能である。http://www.ena.lu/mce.cfm. FRUS,
1969-1975, XXXIX, Doc. 163, Editorial Note.
ブレジネフとの会談前にキッシンジャーによって準
Bange[20]pp. 25-35.
AAPD 1971,Dok. 310,Aufzeichnung des Bundes-
備されたニクソンのためのメモランダムに,同盟国,
kanzlers Brandt, z. Z. Oreanda, 17. 9. 1971.
FRUS, 1969-1975, XXXIX, Doc. 159,Memorandum
Delegationsgesprach zwischen M inister Scheel
und Minister Gromyko, 18. 5. 1973, B-28, Bd. ZA
From the President s Assistant for National Security Affairs (Kissinger) to President Nixon, un-
111516, Politisches Archiv, Auswartiges Amt, Ber-
dated.
括弧内,筆者補足。Ibid., Doc. 162, Memorandum
lin(以下 PAAA);AAPD 1973,Dok. 146,Gesprach
des Bundesministers Scheel mit dem sowijetischen
Außenminister Gromyko, 18. 5. 1973.シェールが党
首を勤める自由民主党は,西ドイツの中では CSCE
実現に最も積極的であった政党であった。Haftendorn[32]p. 428;Patton[44]p. 69.
AAPD 1973,Dok.152,Aufzeichnung des Bundes-
と り わ け 英 仏 の 抵 抗 に つ い て 述 べ ら れ て い る。
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いては,1973年5月 21日に他の NATO 諸国にも伝
M aresca[39]p. 142;DBPO, III, II , Doc. 115, p.
388, footnote 3.
えられた。UKDEL NATO tel no. 334to FCO, 21. 5.
1973. FCO 41/1226, TNA.
Moscow tel no. 615 to FCO, 24. 5. 1973. FCO 41/
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吉川[4]46頁。
UKDEL NATO tel no. 344 to FCO, 24. 5. 1973.
FCO 41/1226, TNA.
FCO tel no. 132 to Vienna, 17. 5. 1973. FCO 41/
1226, TNA; M emorandum of Conversation
Ibid.
DBPO, III, II , Doc. 123, Mr. Hildyard (UKM IS
Geneva)to M r.Burns, 30. 5. 1975;Acimovic[18]p.
133.
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