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エピソードで綴るパリとフランスの歴史 第3回:パリの城壁の歴史(5 月 14

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エピソードで綴るパリとフランスの歴史 第3回:パリの城壁の歴史(5 月 14
エピソードで綴るパリとフランスの歴史
第3回:パリの城壁の歴史(5 月 14 日)
質 疑 応 答 〔回答は常体で標記〕
1.フン族は戦いに敗れたあと、どうしたのか。大軍が消えてしまうわけではないと
思うが。
4~5世紀ヨーロッパに突然侵入しパニックをまき散らしたフン Hun 族とは何か。
出自は定かではないが、遊牧生活、騎馬民族、風習、遺物の形式、唐朝支配下のシナ
で跳梁跋扈した時代が一致する関係で、中央アジア起源の匈奴ではないかと見られて
いる。その使用言語のぐあい(古代トルコ語)からも、中国の『魏書』に「アッティ
ラ」やその子孫をフンのことを匈奴と言っていることからも、フンと匈奴は同一とま
ではいかなくても、同一系統に属すると見るのが定説となっている。
ギリシャの地理学者プトレマイオスの書(AD 170 年)にも「フン」に関しての記述
があり、彼らがドン川とボルガ川の間にすみ、その後続部族はシルダリア[注 1]に生
息していた、とある。4世紀中ごろから西方へ移動しはじめ、ドン川東岸のアラン族
を併合し、374 年にドン川を渡って東ゴート族を破り、次いでドニエステル川[注 2]
を越えて西ゴート族を破り、これら諸族を併合したが、西ゴートの一部はローマ帝国
からトラキアに逃れここに居住を許された。第一次ゲルマン民族大移動のきっかけと
なったがフン族の動きである。すなわち、獰猛果敢で無敵のフン族の突出によりウク
ライナ付近にいたゲルマン諸族は押し出されるようにして西南方向に移動を開始した
のである。
アッティラがフン王となると(434 年)
、西ローマ帝国へ侵入し、ライン川を渡って
北フランスに軍を進め、451 年カタラウヌム平原で西ローマ軍と激戦がおこなわれた。
勝利できなかったアッティラは一時パンノニア[注 3]に帰り、翌年イタリアに転進し
ローマに迫ったが、教皇レオ一世の説得を容れてふたたびパンノニアに帰り、453 年
に死んだ。
[注 1]中央アジアのキルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、カザフスタンを流れるシルダリア川
の流域。
[注 2]ウクライナとモルドバを貫流する川。
[注 3]現在のオーストリア、ハンガリー、クロアチアに重なる地域。ドナウ川以南から地中海までは
ローマ帝国の支配下にあった。
アッティラの死後は子孫の間に争いが絶えず、カスピ海よりライン川にまたがるフ
ンの大王国は分裂微弱化し、ブルガル族、アバール族に吸収され混血してしまう。現
在のブルガリア人やハンガリー人にフン族の血が混じっているとみてよいだろう。現
代人はゲルマン族やフン族と聞くと、すぐに何百万にも達する巨大な民族を頭に描き
がちだが、当時の諸族の人口は ― 人口統計があるわけでなく、推定に拠らざるをえ
ないが ― せいぜい 1 万程度でしかない。多い西ゴート族やフランク族ですら 1 万 5
千人程度だったといわれる。よって、
「ゲルマン大移動」という名称に惑わされてはい
けない。フン族が他族との接触の間に混融してしまったとしても何ら不思議ではない。
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第二次世界大戦後、現在のポーランド地域に進出していたドイツ人がオーデル=ナイ
セ川以西に強制退去を命じられたとき、その数は 1,500 万人にもなったが、このほう
が「ゲルマン大移動」と言うにふさわしいと皮肉る見方もある。
2.墓地はどのように確保したのか。
これについては第 4 回講義でふれる予定だが、古来、遺骨は教会堂の隣接する墓地
に埋葬するのが習わしだった。教会堂は街中にあるのがふつうで、狭い墓地はすぐに
満杯になってしまう。そこで、墓所を掘り起し、遺骨を掻き集めては教会堂付設の納
骨室に収める。だが、増えつづける遺骨をどうするかの問題は残る。特に、パリのよ
うに人口がつねに増えると、街中が墓地だらけになってしまう。そこでフランス革命
直前(1787 年)に墓地整理の問題が浮上し、従前の墓地 34 か所からすべての遺骨を
掘りだし、ダンフェール=ロシュロー広場の下の石切場跡地に地下墓地を設置し納骨し
たのである。その数は 600~800 万柱と言われる。それでも墓地不足は感じられ、第二
帝政のナポレオン三世はパリから離れた場所に広大な墓地を建造する構想を練ったが、
帝政崩壊とともに沙汰止みになってしまう。今なおパリ郊外の各所に散らばった状態
で墓地があるのはこの都市計画の頓挫のせいと見てよいであろう。
3. パリの水道・下水道施設の歴史をお聞きしたい。汚物はどのように処理していた
のか。
この問題も第 4 回講義でとりあげるつもりだ。大雑把にいうと、昔の上水道は自然
湧水、パリ近郊から水道管を通しての給水、セーヌ川からの汲み上げで賄っていた。
これを抜本的に解決したのがナポレオン三世治下のパリ都市改造である。
昔の下水は街中の道路の中心部分を流れ、自然の勾配に従ってセーヌ川に注ぎ込む
のだ。セーヌ川が季節的に(春の雪解け水のせいで)増水する時、現在の内側のブル
ヴァールに沿って大きく湾曲する部分が自然の下水溝となり、シャイヨー丘の下でセ
ーヌ川本流に合流するのだ。上水と下水が混じりあうのだから、それこそたいへんな
問題であった。管渠を地下に埋設してそこを下水が流れるようになったのは 19 世紀以
降である。
セーヌの川辺に巨大なため池を造り、そこに下肥を一時的に滞留し、そこから川舟
に乗せて運び去り、肥料として利用する方法もあった。じじつ、川舟に運び込んでい
る状態を描いた絵も残っている。肥え樽を車に乗せ下肥を回収のため現れる農民もい
た。また、現在のパリ第 19 区にあるビュット=ショーモンは石切場跡地であったが、
そこに下肥が棄てられ乾燥人糞の工場となっていた。これを撤去してパノラミックな
公園としたのもナポレオン三世である。
とにかく、近代以前のパリは極めて不衛生な都市であった。人間の糞尿の垂れ流し
だけでなく、馬の糞尿も半端な分量ではなかった。ルイ十四世の母后アンヌ・ドート
リッシュ(1601~1666)はハプスブルク家の出自だったが、手紙にこう書いている。
「パリは実にひどいところであって悪臭に満ち満ちています。通りの悪臭は特に
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ひどく、そこにいたたまれぬほどです。というのも、魚肉の腐臭や通りで小便を
しようとする人間でいっぱいなのですから。
」
4.パリ市民の意識が国レベルになっていたのはいつごろ、どのようなきっかけか。
根本的で重要な問題であって答えるのに難しい質問である。パリの場合はカペー、
ヴァロワ、ブルボンの王家を軸とするフランス王国の首都であり、そこの住民(パリ
市民)に市民意識と王国民意識の区別はなかった。フランス王国は封建関係で構成さ
れた国である。したがって、州(Pays)となると、そこにおける住民の意識はそれぞ
れ公国、侯国、伯国に属する民としてのものである。彼らにフランス国民なる意識は
薄かったと思われる。
現代でいう「国家」
「国民」は‘nation’で言い表わすが、これは新しい概念である。
‘nation’の語源はラテン語の‘natio’であり、元々の意味は「生まれ」「出生地」
ほどの意味しかもたない。そうした意味は現在の英語でいう ‘naissance(誕生)’
に残っている。‘nationalisme’に似た用語に‘patriotisme’があるが、両者の原義
はまったく違う。後者‘patriotisme’は自分の生まれ育った地に対する愛着心つまり
「郷土愛」の意味であって、
「愛国心」という意味はない。それが‘nationalisme’と
同じ意味を帯びるには近代国家の誕生を待たねばならない。
国レベルの意識(国民意識)が形成されていくのは絶対王政期(16 世紀後半)から
であり、庶民レベルにおいてもはっきり「国民」意識ができあがるのはフランス革命
以降である。それは、革命・共和政のフランスがヨーロッパ列強の対仏干渉戦争によ
り転覆される危険性が生じた時に芽生えた観念である。この危機を脱し、今度は逆に
ナポレオン大帝を戴いて列強制圧に乗り出したとき、明確に「国民意識」として結実
するのである。しかも、‘patriotisme’段階で自国防衛的な受け身のニュアンスであ
ったものが、
‘nationalisme’となると、征服的な意味あいを帯びはじめる。大概のフ
ランス人は‘nationaliste’と言われことを嫌い、‘patriot’と呼ばれるのを好む。
語彙は特定の時代を背景に生まれ、また時代の移り変わりとともに意味変遷を重ねて
いくことに留意しなければならない。
5.第2回の3番目の質問ですが、分かりにくい質問で申しわけありません。当方の
趣旨は、パリの文化、政治、国の発展の基礎となった経済基盤はどのように築か
れていったのか。パリと周辺地方との関係はどうなのか。
パリが第一次産業を主産業としなかったことは確実である。しかし、シャルル五世
のもとで市壁がバスティーユまで延びた時は壁の内際に畑地が広がっているようすを
描いた地図があることから、牧羊業や野菜づくりも多少はあったことがわかる。18 世
紀に町が徴税請負人の柵まで拡大した時は至る所に畑地が存在した。たとえば、1739
年のテュルゴー図では明瞭に市街地と並んで菜園、ブドウ畑や牧羊地がひろがってい
るのが見える。だが、これを強調しすぎるのは誤解の因となる。
パリの主産業は何といっても商業と製造業である。パリは生産地であると同時に一
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大消費地でもある。後者は重要である。17 世紀に絶対王政が確立して以来、ここに在
郷貴族で資産をもつ者は領地経営を代官に任せ、自らは従者を伴ってパリに居を移し
豪奢な生活を送るようになった。かくてパリは消費の中心地となる。王の直轄地から
上がる産物(小麦、畜産物)がここに集まるだけでなく、全国から特産物(チーズや
ブドウ酒、シャンペン、ブランディ、乾物、海産物、繊維、木材、石炭)がパリに集
まり、ここで売却または交換ないしは消費されるにとどまらず、ここを起点として全
国に流れ出ていく。要するに、パリの商業は小売業と卸売業が並立していたのである。
パリの製造業でパンや食肉業、加工食品など日常必需品が生産されるのは当然だが、
パリの製造業で特筆に値するのは奢侈品産業である。家具製造、化粧板製造、置物、
高級時計、宝石細工、毛織物・絹織物の仕立て、つづれ織物、石鹸製造、特殊香料、
皮革製品、化粧品、室内装飾品、彫刻、壁紙、陶器、大理石研磨、ガラス細工、鏡台、
絵画、高級食器、製本など。また、印刷出版などもパリが独占していたことを忘れて
はならない。
パリの特殊性というとき、こうした伝統的な職人技に依存する産業が中心を占め、
各部門の細分化と専門化、技術の高度化が進んでいる反面、経済不況への対応力を欠
いていた。資本主義が勃興するとともに景気循環は避けがたく起こるものだが、ナポ
レオン戦争後となると、ヨーロッパ全体において十年ごとに好況と不況が相次ぐよう
になる。
「パリもの」は外需に依存しており、不況の波を浴びると消費量がガタ落ちす
る。アメリカの南北戦争の 4 年間は特にひどい状態となった。パリで働く職人は遠隔
地出身の、故郷を捨てた人々であって、彼らはこの不況風を凌ぐために一時的に故郷
に戻るわけにもいかず、失業と生活難を一身に浴びる。19 世紀のパリで暴動が相次ぐ
のはこうしたパリ産業の歪な構造にも因る。
いわゆる産業革命[注]の基幹産業となる繊維、造船、石炭、鉄鋼、機械、レンガ、
化学などの部門はほとんどなかった。つまり、ギルド的伝統をもつ家内工業が主力で
大工場はなかった。この傾向は 19 世紀半ばになっても続く。よって、19 世紀のパリ暴
動の主役を務めるのは工場の労働者ではなく、街中の職人たちである。
[注]フランスの産業革命はいつごろ起きたかについてはしばしば論議されるところだが、これをイギ
リスやドイツと較べてみると、フランスでは急激で顕著な変化は見られない。強いていえば七月王政下
と第二帝政下においてである。北フランスやアルザスなどでその傾向が見られる。ゆっくり農村人口が
減り、それが第二次産業に吸収されていくのである。第二次大戦が終わった当時の就業人口構成を見る
と、このときですら第一次産業が半分以上を占めていたのである。
サービス業において近代に特殊なものといえば金融業であろうが、パリは後にも先
にも欧州で金融取引の中心地となることはなかった。ナポレオン一世治下でようやく
フランス銀行が設立されるが(1800 年)
、銀行券発行を独占するのは 19 世紀半ばを待
たなければならない。ジョン・ロー=システム[注 1]とアッシニャ紙幣[注 2]で酷い思い
をしたフランス人は銀行券に深い疑念を懐くようになった。
[注 1] ジョン・ロー=システムとは以下のとおり。ルイ十五世の摂政に父王ルイ十四世の兄弟オルレ
アン公が就任したとき、スコットランド人ジョン・ローはその財政的手腕を見込まれ、財政官に採用さ
れた。ジョン・ローのフランス経済再建構想は銀行券の発行により金融危機を解消し、一方で植民地貿
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易の拡大により王国経済の繁栄をもたらそうとした。かくて個人銀行の認可し、次いで一般銀行に改組
し、それは王立銀行に発展していく。植民地貿易は「西方会社」と「インド会社」という独占企業をつ
くり収益をあげようとした。これらの構想は「多大な儲けが見込まれる」とばかり、高人気を呼んだ。
しかし、国家財政の破綻を繕うために累積国家債務を銀行券により償還し、他方流出した銀行券をイン
ド会社への株式投資のかたちで吸収しようとしたところに無理があった。インド会社からすぐに利益は
生まれないのだ。財政は直接税の増徴を通じておこなうべきだが、これを貴族やブルジョワジーが応じ
なかったところに原因がある。こうして 1710 年代後半に空前のインフレが生じて株券は紙切れ同然とな
ってしまう。この事件はフランス人の心に信用券に対する根強い不信感を植えつけ銀行制度の成立を遅
らせる一因となった。
[注 2] アッシニャ紙幣とは大革命当時の革命政府が発行した信用証券である。革命政府は深刻な財政
問題を解決するために税制改革(課税平等原則にもとづく地租・動産税・営業税・戸窓税の直接税)と
同時に、国有化された教会財産を競売にする際にこれを担保としてアッシニャを発行した。教会財産の
最たるものは不動産(農園)であるが、すぐに購入希望者が現れるわけもなく、一度に売りさばくと値
崩れを起こすのだ。だから、債券化したのである。これは5分利付きの国庫証券であった、1890 年から
利子が配されて国家紙幣となり、財政所要のため増発されてまもなくインフレーションを招いた。
現代的考え方を 19 世紀に当てはめる際に注意しなければならないことがある。交
通・通信手段において時代的制約がある点がそれだ。今のパリは近隣郊外地区から日々
多数の働き手を集めているが、19 世紀中は鉄道こそ出現していたが、それは遠距離移
動・輸送のためのものであって、労働者や事務員のパリ通勤には適していなかった。
今でこそ、郊外電車(RER)を利用しての往復通勤は当たりまえとなったが、これ
は最近半世紀来の光景である。よって、昔はパリはそれ自体として一個の経済圏をな
し、鉄道と馬車、そして水運がパリの物流を支えていたのである。
だが、ひとつの例外的物流を示しておこう。日々、郊外から野菜売りや牛乳売り、
チーズ売りが未明に自宅を発ち馬車を率いて早朝のパリに出現する。なかには山羊連
れもいて、パリの現場で山羊の乳を搾って売る光景も見られた。それが今日のマルシ
ェ(朝市)につながるのだ。
6.パリの城壁が6度も変化しているのは面白いなと思いました。
同感である。それほどにパリの成長度あいが激しかったこと、そして、いつも外敵
に狙われていたことを意味する。
都市成長との絡みでいうと、ヨーロッパの都市は商工業の中心として河畔に発達す
るのがふつうである。丘地の天辺上に位置すれば防衛面で有利になるはずだが、ほと
んどは河畔に位置する。丘上では水利(交通および引水)面で不利になるのだ。もう
一つの特徴は東西に走る川を挟む都市はたいてい北側が大きく成長し、南側はあまり
発達しない。そのわけは北半球では北岸南斜面のほうが陽光を浴びるからである。南
半球ではこれが逆になる。さらにもう一つの特徴を挙げると、西側が高級地、東側が
下町地区になりやすい。これは偏西風の影響で東側は汚れた空気が流れてくるからだ。
たとえば、パリではセーヌ川が、ロンドンではテムズ川が東西に流れている。この
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ため、パリのセーヌ右岸(北岸)が、ロンドンの左岸(北岸)が栄え、両都市の西方
地域が高級住宅地となり、当方が労働者・職人の居住地となっている。
7.
「パリ」という地名の由来は何でしょうか。
ケルト系の遊牧民「パリジィ」人が居住しており、ローマ人がこのように呼んだこ
とに因む。ローマ人がパリジィ人を追放してここに本拠地を定めたのは紀元前 51 年で
ある。その時ローマ軍に頑強に抵抗したのがヴェルサンジェトリクスであり、パリ人
はこの悲劇の英雄を好む。ちょうど日本人が大和武尊を好むのに似ている。
8.パリの都市計画において建物の高さ制限や広さの制限はおこなわれたのだろうか。
というのも、パリの古い街並は高さが揃っている印象があったため、そのような疑
問をもちました。
細かいところに着目している点を高く評価しておきたい。第二帝政のパリ都市改造
(6 月 25 日の第7回講義で扱う予定)直前までは建物や街路に関する規制はない。そ
の時までは木造であれ、石造であれ、またレンガ造りであれ、建設技術上の制約もあ
って、4階建てが基本であり、[注]建築物の高さも自ずと限度があった。木造建築物
は今のパリでこそ例外的だが、昔の民家は逆に木造が中心で、石造は公共建造物に限
られた。街路とそれに接する建物の高度規制が始まるのは 1840 年代からである。
[注]パリ第4区のパリ市役所に近いところにフランソワ・ミロン通りという小路があるが、そこに例
外的に 7 階建ての木造建築物が建っている。これはパリ最古の木造建築物(15 世紀)でもある。そうで
ありながら、歴史的記念物として特別扱いされずに一般民家として立派に機能している。
7 階建ての木造建築物なんて日本では想像もできないが、地震のないパリにはあるのだ。パリの第 19
区や第 20 区の労働者住宅も安普請でできており、小生はその建替えの様子を見たことがある。建物の断
面は実に粗末で、こんな構造でよくも 4 階も維持できるものだと感心した。
今のパリの建築はいろいろ制約があって建築材料や色彩も細かく定められていて煩
い。たとえば、現在のパリ市内では木造建築物や平屋造りも禁止されている。要する
に高層建築物も低層建築物も禁止である。
規制の主眼は、地区に似つかわしくない装飾や色彩を施した建物をつくってはいけ
ないことにおかれている。とにかくどんな場合でも原色は嫌われる。窓辺にある折畳
み日除けの様式も定まっていて、奇抜なものをつくってはいけないのだ。古ぼけたか
らといって建物を勝手に取り壊すこともできない。必ず当局の許可をとりつけなけれ
ばならない。規制の極めつけは建物を刷新する時には必ず総予算の4%を装飾に充て
ねばならない点だ。とにかくパリは美観、特に歴史的景観に煩い町である。
パリに住んでみたいと思っている人へ常識を紹介しておこう。窓辺に洗濯物を干す
ことはご法度である。たとえ中庭に面して窓辺に洗濯物を干すと、すぐにコンシエル
ジュ(アパート管理人)が警告のために飛んでくる。実は、留学当時、屋根裏部屋に
(c)Michiaki Matsui 2015
住んでいた小生も小言を食らった者の一人だ。
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