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肝油の産業技術史的研究( 4

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肝油の産業技術史的研究( 4
論 文
肝油の産業技術史的研究( 4)
肝油工業の発展期(大正から昭和前期)一一
小 野 忠義**
1 はじめに
2 肝油工業の発展期
1)肝油のビタ ミン作用因子の解明
2)日本薬局方にみる肝油工業の発展過程
3)肝油新資源の開発期
4)肝油の濃縮
3 肝油の生産量
1)タラ 漁獲量
2)肝油生産量
4 肝油の貿易
1)肝臓の対米輸出
2)肝油の輸出
5 むすび
1 はじめに
明治初期に北海道開拓使の一事業として導入された肝油工業は北海道という地の利を得て,
原料資源、(タラ肝臓)や気候条件 に恵まれ,明 治末期には定着するに至った。 ノルウェーの
Mollerは 1853 (嘉永 6)年水蒸気法による肝油製造法を開発しているが,それを水産講習所の
菊池健が明治末期 (
1
9
1
1=明治44年)に技術導入したことがそれを決定的にした 。 さらに菊池 は
,
l
干油製造法は煮熱法によっていた)を導入
わが国の国情に合うように水蒸気法(それまでわが国の J
改良したことがわが国の肝油工業の画期とな った。
その後,大正初期に肝油の有効成分がビタミン Aおよび Dであることが解明されるに及び,
*
1
9
98年 6月23日受理,ウナギ,ピタミン A ・D発見,肝油機縮,肝油生産量,肝油貿易
** 財団法人日本きのこ研究所
(1) F
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verOi
landChem
is
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,1
895
(2) 菊池健「水産講習目!?試験報告」, 6i
l
l
]
, 31
6頁
, 1910年。
2
5
1
2巻 l号 (
2
6
)
技術と文明
化学者や製薬業界の注目を浴びて肝油工業は本格化す ることになる 。 1930年代は,各種ビタミ
ンの本体がつぎつ ぎに明らかにされ,化学構造が決定されるとともに合成が実現するに至り,
肝油技術史上まさに革命的な時期を迎えた 。
本編では日本における肝油工業の発展過程を中心にして,大正期から昭和前期までに起きた
肝油の産業技術上の重要項目とな った有効成分の化学構造の決定,新資源の開発,製造技術の
進歩の状況を考察する 。
2 肝油工業の発展期
1)肝油のビタミン存在の解明
(1)
肝泊中のビタミ ン様作用解明 の歴史的発展
J
干油の果たした役割は大きか った。 ここでは両ビタミンの発見
ビタミン AとD発見に際し, j
の経緯を含めて医学 ・薬学・化学的進歩の状況を年代順に追 ってみることにする 。
①ウナ ギのビタミン A様作用 の解明
いしまろ
われものもう
や
日本最古の代表的歌集である「万葉集」に大友家持の詠んだ 「
石麻呂に吾物申す夏痩せによ
む な さ め
むなき
しというものぞ武奈岐捕り喫せ」という歌 (
万葉集 ・巻1
6)がある 。「土用丑の日」に鰻 (
武奈l
岐)
かばやき
を摂る食習慣は江戸中期になってから「滞焼」が出現したといわれている 。夏は 食欲が衰え,
ビタミン Aが欠乏してくるので
ビタミン A含量の高いウナギを生理的 (
全身性の栄養感覚)に
選択利用 する食習慣は千数百年前の万葉時代以来の伝統であることがわかる 。 これは経験医療
に基づくウナギを利用した
みみふ〈ろ
とη め ( 4)
わが国では最も古いビタミン療法 (
雀自の予防 ・治療)の先駆とも
(5)
考えられる,また「耳謹」 1785 (
天明 5)年に執筆された随筆集の中に,「纏魚、は限気の良薬た
る事」のくだりがあり , ウナギ健康効果の指摘がある 。
Angu
i
l
l
aJ
aponicaITemmickj)を摂取すること
このように古くからの経験的療法としてウナギ (
の栄養学的の正しさは,その後,藤巻良知らによって科学的に証明されるに至っている 。すな
昭和 3)年にビタミン A欠乏症の動物試験を行ない,ウナギおよびヤツメウナギ
わち 1928 (
(Entosphenusjaponi
cusIMa
r
t
ons
j)を動物に与えることによって,からだの発育が正常 になるこ
とを示し , ウナギにはビタミン Aが豊富に存在することを明らかにした。 さらに 山川健重らは
1957 (
昭和 3
2)年ビタミン Aの化学的定量法によって,ウナギやヤツメウナギは,あらゆる既
知の魚介類可食部に較べてビタミン Aを驚異的に多く含有する特殊な魚類であることを見出し
た(表一 l。
)
(3)
(4)
(5)
(6)
岡田哲編 『 日 本の味探求事』~』 , 東京出版,
1997 年, 51 頁。
貝原益軒 (
岸田松若 −田中茂穂 ・矢野宗幹注)
「大
手日
本草』,有明書房刊,第二冊
, 80-81頁。
根岸鎮衛著 ・長谷川強校注 『
耳婆 (
中
)』,岩波書店, 1
991
年
, 406-407頁。
藤巻良知・松室秀雄 ・下回吉人「栄養研究所報告書」, 2巻
, 2号
, 1928年
, 3
0頁。
2
6
!
汗
刈l
の産業技術史的研究 (
4) (
小野)
表− 1 ウナギ魚体のビタミン A ・ D分布( I
U/l
O
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)
偽
全魚体
干
重
A
ヤツメウナギ Lampetraj
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ア
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干
皮
D
A
D
25,000 (
5
6
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) 11,700
4,700 (
5
6
0
)
3,640
臓
A
D
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0
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10
)
1
2
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2
3
0
)
(
2
3
0
)
山川健重・松井縦三日
I
I・岩崎喜久子 ・衣巻堂輔 ・東秀雄 rビタミン』
,2
7巻
, 2
6
9頁,1
9
6
3年。
科学技術庁資源調査会編 『日本食品ビタミン D成分表』
,1
9
9
3年
, 1-25頁,によって( )は追加訂正。
科学技術庁資源調査会編 『
四訂日本食品標準成分表ι 1
9
8
5年。
表− 2 ピタミン A供給量のウナギと肝油の比較
年
次
自由来ウナギと肝油
ウナギ由来肝ヒ t
ピタミン A タミン A によるピタミ
(!取
摂 日量) (!取
摂 日量) ンA摂取量
U/
人
U/
人
(
J
U/
人
目
)
ウ獲
ナギ
漁量
*
肝
産油生
量
(t)
(t)
ウナギ由来 J干油由来
ビタミン A ピタミン A
総量(兆~ *
* 量****
U
)
(
兆J
U
)
5.
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0.
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41
9
2 0.00100
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05640
41,
5
5
7
1,
3
5
7
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人口
(千人)
明治 17(
1
884)
年
892
年
2
8(
1
895)
1,
2
0
0
33(1
900)
年
3,970
2.
4
0.
1
8569 0.
00480
43,847
4,
255
年
38(
1
905)
3,047
31
.3
0.
14321 0.06260
46,620
3,072
年
43(
1
910)
2,722
1
.
0
0.
12793 0.
00200
2,601
大正 4(
1
915)
年
9(
1920)
年
年
1
3(
1924)
年
4(
1929)
不詳
4
1,
0
2
4
4,255
3,076
2,601
3,31
3
8
5
0.
15
5
71 0
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7000
4
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8
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57,
5
2
4
2,707
8
2
,7
15
4,312
614
0.
20266 1.22800
52,752
3,842
6
4
3,906
6,329
61
4
0.
29746
1
.22800
58,876
5,052
5
7
51
09
7,375
803
0.34663 1
.60600
64,457
5,295
67
5,362
昭和 9(
1
934)
年
9,261
1
301
0.
43527 2.60200
68,309
3,372
1
0
4
3,476
年
1
4(
1
939)
1
0,584
2
41
0
0.49745 4.82000
71,
3
8
0
6,969
1
8
5
7
,15
4
年
19(
1
944)
1,
3
5
2
1
00
0.
06354 0.
20000
74,433
854
7
8
61
0.
00705
75,750
9
3
。
年
21(
1
946)
1
5
0
E
l本統計協会編 『
日本I
長期統計総覧』、1
3
8-1
4
4頁、 1
9
8
2年
。
。
*大蔵省 r日本貿易月 表』
*
* 科学技術庁資源調査会編 『
囚訂日本標準食品成分表』、1
1
3頁
、 1
9
8
5年。
(ウナギのビタミン A含訟は 4
,7
0
01
U/1
0
0
gを
基礎に算定した。
)
8-49頁
, 1
9
8
2
年。
*** 日本統計協会編 『
日本長期統計総覧』、4
*** 『
漁業養殖生産統計年報』
。
**キ
* 日本人 1人当たりのピタミン A栄養所要註2,
O
C
OJ
U/
人 目 ピタミン D栄養所要企2
0
0J
U/
人 ・日
*日本水産協会編 『
水産主i
l
脂統計年鑑」、 2
8
頁
、 1
9
7
8
年。
****l
l
干池のピタミン A設は r日本薬局方』を基礎にして肝油 lgあたりピタミン A2,000I
Uで算定した。
!
干
油 はいずれも
肝 油 工 業 は 1877 (明治 10)年ごろから 北 海 道 で 起 こ さ れ て い る が , ウ ナ ギ と !
ビタミン A補 給 と い う 共 通 の 役 割 を 担 っ て い た こ と に な る 。 ウ ナ ギ 生 産 量 と 肝 油 生 産 量 か ら ビ
タミン A 供 給 量 を 比 較 し た も の を 表
2に 示 し た 。 わ が 国 の ウ ナ ギ 養 殖 は 1879 (
明治 12)年 に 始
め ら れ て い る が , ウ ナ ギ 消 費 量 は 敗 戦 の 一 時 期 を 除 き 着 実 に 増加 し , 食 習 慣 に 組 み 込 ま れ て い
た こ と も あ っ て , ビ タ ミ ン A供 給 の 補 完 と い う 重 要 な 役 割 を に な っ て い た こ と が わ か る 。 そ の
需 要 量 は 年 々 増加し,ビタ ミン A供 給 源 と し て , お も に 日 本 独 特 の 蒲 焼 を 通 じ て 庶 民 に 需 要 さ
(7) 千葉健治『食の科学』,光淋, 1
7
3号
, 1992年
, 25-35頁。
(8) 農商務省水産局編 r日本水産製品誌」,水産社, 1
91
4年,742-745頁。
2
7
1
2
巻 1号 (
2
8
)
技術と文明
れ,ビタミン Aが不足しがちな日本人の味覚と晴好に適合して今日に至 っている 。
因みにウナギの輸入が始るのは統計のみられる 1894 (明治27)年で,同年のわが国の肝油年生
産量とウ ナギ生産量からピタミン A供給量を計算すると(栄養所用量 ー日本人 1人 1日当たりビタ
ミン A 1
,800J
U)
, それぞれビタミン A所要量の肝油は約 10%, ウナギは 1%が供給されていた
ことになる 。 ことに食生活を通じたウナギの供給は安定的で増加傾向を辿ったといえる 。
ひかん (JO)
②「牌痔」 の治療に初めて肝油を用いた報告
現在でいうところのピタミン A欠乏症に相当する疾病が日本に存在することを 三重県の小児
)
科医 ・森正道が 1904 (明治 37)年に論文発表 した。森は ,牌舟と呼ばれる 小児患者( 2- 5才
1
,400例の疫学調査を世界で始めて行な った ところ ,牌摘は魚食の多い子供に殆ど発症せず,
植物性食品を摂取する児童に多発していることを明らかにし, さらに ,牌府の児童は少量の肝
油投与で特効的に治癒することを指摘した。 このことか らすれば,ビタミン A欠乏症を 主徴と
する疾病は,ピタミン Aが発見された 1904 (明治 37)年以前あるいはその前後に知られていた
ことになる 。
③ 肝油 ・バターに脂溶性 Aの存在を発見
1913 (大正 2)年,オスボーン (
T.B
.Osborne:米国)は無蛋白乳に未知栄養素が含まれるこ
とを ,ま た問機の効果がタラ肝油にもあることによ ってそれを 脂溶性 Aと命名した。
④ビタミン A欠乏症の治療 ・予防 に肝油を利用
1916 (大正 5)年,マッカラム( E.V.McCollum:英国)は, 脂溶性 A欠乏で角膜乾燥症に,躍
ることを証明し,その治療に肝油や卵黄油が有効であることを確認し,その有効因子をビタミ
ンAと命名とした。またタラ肝油に通気すると酸化されてピタミン A効果は分解するが,ピタ
ミン Dは安定であるとして,クル病治癒因子はビタミン A以外の物質であると指摘した 。
Bi
os
t
er
i
n)の存在を証明
⑤肝油不鹸化物にビタミン A濃縮物 (
1923 (
大正 12)年,高橋克巳は理化学研究所(理研)において,油脂に関する栄養価の研究を
シロネズミで研究中 に,月干油やバターの不鹸化物中 にビタミン A有効成分が存在することを世
界で始めて見い出し,これがビタミン A単離の端緒とな っている 。高橋は古い単離法で肝油不
鹸化物の分離を試み,爽雑するコレステロールの除去を くり返して有効物質の化学的究明をお
(9) 「蒲焼」
大串 380g以上,中串 220∼ 250g,小串 llOg程度に区別された
柴田書店, 1977年
, 138頁。
松井魁 rうなぎの本』,
(
1
0) M.M
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7
5,1
90
4。
(
1
1) 牌府 :漢方流の小児病名の呼称、で,消化器官に障害がおき,全身が痩せて腹部が著しく膨れて食
賞揚に進行し,ついには失
欲は不定時に増進する 。毛髪が簿くなり,夜盲症や結膜炎を起こし,角膜j
明する,いわゆるビタ ミン A欠乏症に相当する 。森は肝油投与で治癒すると報告している 。
(
1
2) OsborneT.B
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.5.1922
(
1
4
) McCo!lumE
(
1
5
) McColumE
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m
.5
0
.5
.1
922
4巻
, 49頁
, 1919年。
(
1
6
) 高橋克巳 「日本化学級誌」,幽門垂, 4
(
1
7
) 高田亮平 −
桂英輔編『ビタミン研究五十年』,ビタミン研究,五十年記念事業会, 1942年
, 192
6頁。
28
J
干i
l
iの産業技術史的研究( 4)(
小野
)
図− 1 高橋法による肝¥1
!精製
タラ肝油 1k
g
(10-1
5
肝油単位)
+20%アルコール性カリ 2LJ
J
I
Jえ
, N2気流 9
1
:
で6
0℃,4
0
分鹸化
+冷却後, 30%場カルシウム 2Lを混和
溢別
+-20℃で水酸化カルシウムを炭酸塩にして沈殿,アルコールを
減圧蒸発
櫨別
+エーテルを加えて希塩酸で洗浄し,水洗
l
.で冷却
+エーテルを蒸発させた後,氷と t
不鹸化
+20エーテルを加え、不鹸物に移行
+無水を硝で脱水
+ジギトニン 1%アルコール溶液添加
波別
+エーテル蒸発
i
慮別
ピオステリン
1
9
2
2年に区別された)で,学会か らピ
こなった。当時はまだビタミン Dは発見されてない時期 (
タミン Aには多くの爽雑物が含まれることが指摘されていたに過ぎなかった。
肝油精製法の概略は図− 1に示した。当時, ピタミン Dは発見されておらずビタミン A ・D
は共存し,ビタミン A効果は 5,000-7,
0
0
0肝油単位 l
gであることを得た。 この不鹸化物をシ
1∼ 0
.2mg/日を与えると成長が促進されることを 明 らかにしたが,精製の段階毎
ロネズミに 0.
に動物試験によって有効成分の推移を追跡していたため,多くの時間を要し,研究の進展を遅
らせる要因になったものと考えられる 。生命と密接に関係のある化学上の分画がステリンであ
ることから ,高橋はこれ を,ピオステリン( Biosteri
n) と命名した。 なお高橋は高度真空で超
0.
0
2∼ 0.
03mmHg, -1
5
0一
一 160℃)によって,ビタミン Aが取得できる
低温においての蒸留 (
ことを示し, ビタミン A分子蒸留の可能性をこの時に示唆し
後の肝油分子蒸留によるビタミ
ン油製造法の基礎とな ったのである 。その後,さらに理化学的性質や生理学性質についても広
範な研究を進め,ビタ ミン A製造工業化の基礎を確立することにな った。
これらの一連の研究成果をもとに
高橋はビタミン Aの化学構造式決定までには至らなか っ
(
1
8
) 『
前掲』 (
1
7
)
,1
03-110頁。
2
9
技術と文明
1
2巻 I号 (
3
0
)
たが,無臭肝油の技術開発にのりだした 。 ビタミン Aの精製濃縮は酸化 を受けやすいことから
高水準の技術が要求された。精製濃縮されたビタミン Aは規格化 された製剤 として国民栄養の
改善に大きく貢献した。高橋は肝油からビタミン Aの抽出に成功して理研所内の工場で工業的
製造を開始し ,理研の総合研究機関としての設備能力を遺憾なく発爆できる体制のなかで,研
究を展開することができた 。例 え ば,不鹸化物中のステロールの除去に随時自 由 に液体空気
(1
50- 2
0
0℃)が利用でき ,それにより非結晶性不鹸化物の真空蒸留(後の分子蒸留)が容易
に利用できたといわれる 。
1
923 (大正 1
2)年,高橋は前述の鹸化法による濃縮肝油(ピオステリン)を発明し,これをカ
プセルに詰めて「理研ビタミン A」として発売されることになった 。殆ど無味
, 無臭で服用 で
きることからその製品はヒットした 。高橋はこの成果で(粗製ピオステリンは肝油の O 1%に相当)
(
2
0
)
特許をカナダ( 277000号
) ・スイス( 23451号
) ・フランス( 56669号
) ・日本( 60050号)に請求した。
l.
2%オリーブ溶液),カプセル斉l
j(
0.
3%)を製造し,規格化 した各種ピ
それと 同時に ,注射液 (
オステリン製剤l
も市販されることにな った。肝油特有の臭味は,本法により除去でき,肝油の
普及に大きく貢献することになった 。 また,大正期から昭和初期 にかけては結核特効薬のない
時代で, わが国は結核に悩まされて結核予防は国民保健衛生対策の重要課題とされ,ビタミン
学説の広まりにつれて結核に対する強壮剤として!!干油,八ツ目ウナギが使われ市場にでまわっ
た。「理研ビタミン A」は結核特効薬という宣伝も手伝って爆発的な人気を呼んで、, 1922 (
大正
1
1)年,
ピタミン A入りカプセルとして売り 出 したときは門前市をなし ,生産が追いつかない
ほどの看板商品になったという 。 イギリスから遅れること百年,日清戦争の前後,日本は産業
革命期にあたり全身病の結核は,大きな社会問題とされていた 。当時の日本人の栄養状態から
みればビタミン A補給は
特効的でないにしても予防効果としての役割は十分果たしてきたも
のと考えられる 。
,200I
U)を1
.5%
ピオステリン注射液(ピタミン A含量は 1管中ビタミン A 60,000山、ビタミン Dl
オリーブ油溶液にして殺菌し,動物試験のうえ市販された 。 カプセル剤 1球中にビタミン A
60,000l
U,ピタミン Dは 1
.200J
Uで「理研ビタミン A」の商品名で売り 出 された 。当時, その
販売は,理研の系列企業の「栄養薬品 (
株)」がお こない,理研の得たピオステリンの販売利
益は,特許実施報償金として売上高の 30%を得ることできた 。その額年間 30万 円 といわれ,当
(
1
9
) 理化学研究所編『理化学研究所2
5年』,1
9
2
4年
, 41
頁。
(
2
0
) 結核は明治 ・大正のわが国の産業革命期に蔓延し ,昭和になっても勢いは衰えず,明治 3
8年から
昭和1
2
5年までわが国の死因は先進国のなかでも第]伎で,男女とも青年期に最も高率であ った。
(
2
1
) 『
前掲』 (
2
0
)
' (岩田元兄分担執筆) '1
0
7頁。
(
2
2
) 理化学研究所編 『
理化学研究所25年』,178頁
, 1942年
。
(
2
3
) 道家達将 『
科学と技術の歩み』,日本(近代史)1
4
, 58-63頁。 −既製の官制や大学のわくにと
らわれない自由な研究組織(財団法人)の研究所として 1
91
7
年設立した。 日本の科学 ・技術史上最も
重要事項のーっとして,基礎研究の成果の上に,国際レベルの応用研究も展開し,発明品を製品化す
る子会社を造り,理研コンツ ェルンとして理研経営を支えた。これらコンツェルンの事業は軍事的傾
向の強いものとして満州事変や第 2次大戦まで膨張したが戦後は崩壊し,現在は特殊法人理化学研究
所として存続している 。
3
0
肝r
l
iの産業技術史的研究 (
4) (
小野)
時の理石v
f
の年間経費 60万円にの内政府補助金2
5万円)からすればいかに巨額であったかが伺え,
理研の財政に大きく貢献してきたといえよう 。
現在の「理研ビタ ミン(株)」は当 時の 「栄養薬品(株)」から 引き継がれたものである 。精
製肝油 (
脂溶性ピタミン A・D濃縮物)は,肝油業界ではそのまま,または加工し,製品の剤型
は穆球入札乳剤,糖衣錠,ゼリー,
ドロ ップ,アンプル入り注射液,軟管等として普及した。
大正1
3
)年帝国学士院賞をはじめとして ,日本化学会桜井賞
高橋はこの業績によ って, 1924 (
・帝国発明協会進歩賞等を授与された。
⑤肝油に ガン予防効果があることを証明
1926 (
昭和元)年,内務省栄養研究所 (現国立栄養研究所)の藤巻良知らはシロネズミを試供
しビタミン A欠乏と発ガンの関係について,世界に先駆けて行 った研究を発表した。 ビタミン
A欠乏 シロネズミに胃ガン性変化 (
上皮性!陸揚)を始めて認め
これがガンとビタミン Aの関
係の研究の端緒となり ,画期的な業績と評価され,藤巻は 1929 (
昭和 4)年,癌研究賞を受賞
している 。最近ではビタミン A含量の少ない食品では人体にガン発生率を高めることが国立が
んセンターの平山らの 10年間にわたる 265'1
18名の疫学調査によ って明らかにされている 。
⑦月干油からビタミン Aの化学構造を決定
ピタミン A は脂溶性ビタ ミンのなかで最初に発見された因子で(第一次世界大戦の直前 1914=
大正 3年)
,発見されてから 10年間はその化学構造式は不明であ ったが,多くの研究によって動
物の成長促進,皮膚と粘膜の成長分化,感染症の予防,視覚機能の維持に有効であることが明
らかにされ,本体を単離して化学構造式を明らかにする研究が始 った。
1931(
昭和 6)年,カーラー (
P
.K
a
r
r
e
r:スイス)はビタ ミンA濃度の高いオヒョウ( Hippogl
o
s
s
u
s
h
i
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p
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g
l
os
sus
,j
L
i
n
n
J)肝油を原料にして,高橋とほぼ同様の方法で鹸化し,クロマトグラフイ一
法を活用してビタミン Aを純化 し 化学構造式を決定した(図 − 2・3)
。
8
,0
0
0肝油単位 l
g) の高い原 J
I
!
−
+
を Nz気流中で鹸化後,不鹸化物
カーラーはビタミン A含量 (
からステリンを除くため
ドライアイス・アセトン混液で冷却したり
メタノールに溶解して
冷却し結晶化 して除去した。ついでビタミン A含有 12%メタノ ールを 酸化アルミ ニウム カラム
(
A
l2
03)に流してビタミン Aを吸着させ,黄色バンド部分のビタミン A分画を取り 出し,メタ
ノールで抽出した後,メタノールを蒸発して,ビタミン Aが 8,
0
00-9'000肝油単位 lgのもの
を得た 。 これを繰り返して 10,500肝油単位 lgまで精製し,結晶化はしなか ったが,強力 なビ
タミン Aであることを確認した 。
(
24)
(
2
5
)
(
26)
(
2
7
)
(
2
8
)
吉良爽 ・曽根博『化学と工業』,5
0
巻
, 1
1
3
2∼ 1
13
4頁
, 1
9
9
7年
。
高橋克巳顕彰会編『高橋克巳博士』
,1
9
7
2年。
YF
u
j
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0
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5
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3
6
.1
931
3
1
技術と文明
1
2
巻 I号 (
3
2
)
図− 2 カーラーによる J
/
干油精製
オヒョウ J干i
r
l
i
8,000-9,000単位/g
+ 2 %アルコール性カリ溶液加え, Nz気流中で, 60℃
1 時間鹸化。
ドライアイスで冷脚,
i慮~
櫨液(不鹸物)
+ 2 - 3 %の石油エーテル溶液とする
+メタノールに溶解
0
α
1
1カ
アルミナ 40gを充填した 3
ラムに不鹸化物を溶かしたメタ
ノール溶液を通す
不鹸化物吸着カラムの賞色分画
を切り取り
カラム操作繰 り返す
十メタノール蒸発
ビタミン A
(
1
0
'500肝 i
l
l
!単位 Ig)
図− 3 ピタミン A化学構造決定
H,
C
CH1
\ /
/C'
.
.
H H
H H H
H
H,C
C一 C= C一 C = C一 C = C一 C=C-CH20H
Y吋
−
fv
\
~H,
2
CH
/
\
FU
C
H
~H,
I
I
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.
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h凸pp.K
. H
e
l
v
.Chi
m.A
c
t1
4.1
0
3
6.1
4
3
1
カーラーは,ビタ ミン A精製の段階毎にビタミン Aの三塩化 アンチモン呈色反応でビタミン
Aを確認しながら追及したことが研究の進展を速め
ある (E
i
~ 328nm= 1700とした)。
これは画期的な出来事で,カーラーはこの業績も含め
1937年,ノーベル化学賞に輝いた (
図
ンA関連化合物 の分離法を研究し
ビタミン Aの化学構造式を決定したので
2)
。 カーラーは当時、盛んに各種吸着斉!Jによるビタミ
現在のクロマトグラフィー技術の発展の基礎となった。早
い時期に優れた分離法を駆使していたことが構造決定の成功に結びついたのである 。 この辺の
(
2
9
) Carr P
r
i
ce反応 :三題化アンチモンによるビタミン Aの呈色反応で,
ビタミン Aの定性,定量に
用いた。
(
3
0
) 島薗順雄『ビタミン物語(ビタミン小史)』,ビタミン公報センター, 1
982年
, 20頁。
32
肝油の産業技術史的研究 (
4) (
小野)
事情を鈴木梅太郎はぎ語のなかで,「先ず彼がビタミン Aを純粋に取 りだ し得たのは, クロマ
トグラフ法(chromat
o
g
r
aph)を応用 した事と , ビタミン Aの効力を気の長い動物試験に依らな
いで呈色反応で,簡単迅速に測定した結果である」と評価している 。
(2)ビタミン D様作用の歴史的発達の背景
①クル病治療への肝油の応用
古くから,日光に恵まれないヨーロ ッパ を中 心 にク J
レ病が多く認めら れ,と くに英国病
(
Eng
l
is
hD
is
e
a
s
e)といわ れる ぐらい英国で、多発することが知られていた。肝油が薬用に供され
S Kay:
英国)
た初めての学術報告は, 1782 (天明 2)年ごろマンチェスター診療所医師,ケイ (
らに よるものである 。1752-1784年大規模な臨床試験によ って,タラ肝油が慢性関節 リウマチ
(
ク ル病は慢性関節リウマチと混同されていた)に治癒効果のあ ることを明ら かにした。
② ビタ ミン Dの命名
1922 (
大正 1
1)年,マッカラム( E
.V
.McCol
l
u
m:英国)はタラ肝油に通気しながら加熱してビ
タミン A効果を破壊 しでもクル病治癒効果が認められることから,クル病治癒因子はビタミン
Aと異なる物質であ ることを 明 らにし, ビタミン Cの次に発見された因子ということから,
1925 (
大正 14)年, ビタミン Dと命名した。これで肝油の栄養因子がビタミン A ・Dであるこ
とが決定されたのである 。
欧米諸国の薬局方では,肝油のビタ ミン D含量規定があ って,因みに英国薬局方(B P• 1963
年)では 85IU/gが示 されているが,日本薬局方の現行版においても 規定がない。 これは欧米
と日本のクル病の歴史の違いによるものと考えられる 。
③動物試験に よるクル病試験法の確立
、
(
3
5
)
1921 (大正 1
0
)年,メランピー(E.Mel
l
a
n
ty:
;
英国)は, 実験的に仔犬 をパンと脱脂乳で飼育
することでク ル病を起こさせるのに成功し, それにタ ラ肝油を 与えると治癒することを発見し
た(メランピー自身はこれを Aと考え混同していた)。こ れでクル病研究のための動物実験の基礎が
築かれ, ビタミン D研究史の上で長足の進歩をもたらすことにな った。
④ 日本におけ るビタミン D欠乏症の存在
.Bae
z:
ド イツ,東大内科学教授,滞日期間: 1876-1906 [明治 9-39]年)
わが国 ではベルツ( E
の意見 もあ って,明治初期は日 本に はクル病はない ものと信じられていた。 日本におけるクル
病の研究が欧米に比較してはるかに遅いのは,その影響が一因と思われる。 ところが1906 (
明
9)年,富山県でクル病の集団発生が杉頓廉によって発見されてか ら学会の注目を浴びるよ
治3
うになったのを契機として,北陸,東北地方の風土病と いわれるほどク ル病が多発してい るこ
(
31
)
(
3
2
)
(
3
3
)
(
3
4)
(
3
5
)
(
3
6
)
鈴木梅太郎 『
ビ タミン』,日本評論社, 1939年,33頁
。
T.Perc ival• Me
di
c
alJ
ou
r
na
l(
L
o
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n
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9
3,1
7
8
3。
McCol
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5
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3
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2
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1
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8
.1
9
2
1
杉屯廉『東京医事新誌』, 1467号
, 1
9
0
6。
3
3
妓術と文明
とが初めてわかり,その治療薬として肝油が盛
u
u
Fし
︵
べ \/
んに用いられ始めた。
⑤ビタミン Dの化学構造式の決定および化学合
−−
H C C H UMC
/
/\
d
C ー ーC H C H
H
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2
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c
c
戸
久
一
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c
図− 4 ビタミン D化学構造の決定
成の成功
1927 (
昭和 2)年, ウインダウス (
A
.Windaus
o
,
:ド イツ)は,エルゴステロールに紫外線を照
2
CH2
I
射してビタミン Dを結晶状に得ることに成功し ,
CH,CH,
I
I
化学構造式を決定した。 また同年,ウ インダウ
H'
CH 「CH CH ー CH ー CH - ~H
C I'C
I
CH,
H2
C
C
CH,
H2
C
H
,
I
I
I
一
一CH2
/c,11
/c, /c一
H2
C
C H,C H
/ , 1/ '
-
スはビタミン Dの有機合成にも成功し ,合成原
料の得やすさ ,工程数の少 ない工業的製法とし
||||
H C\ /C
C
/
OHノ
, C 弘
『C
〆
H,
1
2巻 l号 (
3
4
)
て優れていることから, 1928 (昭和 3)年,ビ
タミン D化学構造式決定の業績でノーベル化学
D2
賞を受賞している 。
WindausA
.A
n
n
.C
h
e
m
i
.4
8
9
.9
8
.1
9
3
1
⑤ マ グ ロ肝油からビタ ミン D3の化学構造式の決定
1936 (
昭和 1
1)年,ブロ ックマン( H.Brockmann ・ドイツ)は,ビタミン D 含量の多いマグロ
肝油を 90%エタノール ・ベンジンで抽出するとビタ ミン Dはベンゼン層に移行さ せ,不鹸化物
をクロマトグラフィーで精製し, 3.5-Di
n
it
robenzoa
teとしてビタミン D 3結晶をとり 出す こと
に成功した 。天然由来の肝油でビタミン D3の化学構造式を始めて決定したのである 。
2)
「 日本薬局方」
( PharmacopiaJaponica)にみる肝油工業の発展過程
17世紀に頂点に達した後, 19世紀にかけて動物性生薬の多くは姿を消していったが, きわめ
て稀にタラ肝油のような有用なものだけが現在でも生き残っている 。
1886 (
明治 19)年 6月に公布された日本薬局方初版には選定された品目 468種が収載され,そ
の一つに局方肝油( OleumJecoris)がある。肝油が初版に収載されて以来 1998 (平成 8)年の第
13版改正まで 1
10年を経過したが,医薬品分類の上ではピタミン
A斉j
lで,局方肝 i
1は多少の変
遷はあったが,基本的には大きい変更もなく,その重要性は継続的に認識されてきたものとい
える 。 日本産肝油はタラ科魚類のマダラまたはスケソウダラの肝臓および幽門垂から得られた
脂肪油を精製 ( 0℃に冷却し、 3時間放置し 、析出 した白色阿形分を滅過して除去)したものである。
肝油の理化学性状についての記載を初版から現行版までその変選を表− 3に示した 。
(
3
7
) WindausA.DeppeM.Wunde
r
l
i
c
k
.W.W. Ann.5
5
3
.1
18
.1938
i
j
買
雄 『ビタミン物語 (ビタ ミン小史) 』,ビタミン公報センター ,1982年,26頁 :Wi
ndaus
(
3
8
) 烏菌 J
は1928年,ステリンの研究でノーベル化学賞を受賞した。
(
3
9
) BrockmanH. Z.
Physi
o
l
.Chem.1
7
6
. 96 1937
(
4
0
) ビタミン D3はエルゴステロ ールか ら,Dzは 7 デヒドロコレステロールから紫外線で生成され,
生物活性はほぼ同じである(関− 4a参照) 。
(
41) 日本薬局方百年史編集委員会編 『
日本薬局方百年史』
, 日本公定書協会, 1987年
, 227-230頁。
(
4
2
) 高田亮平 ・勝井五一郎 ・i
kE
E
i年臣 r醸造学雑誌』
,22巻
, 104頁
, 1944年。
町
34
肝1
1
1
1の産業技術史的研究( 4) (
小野)
表 − 3 「日本薬局方」肝油規格の年次変遷
資 料
①日本薬局方初版
原料 伝
公布年次
1
8
8
6(
明1
9)
年 6月 大口魚、属族の肝臓
1
8
9
1(
明2
4)
年 5月 大口魚属族の肝臓
②同上局方 2改正
9
0
6(
明3
3)
年 7月
③同上局方 3改正 1
92
0(
大 9)
年1
2月
④向上局方 4改正 1
9
3
2(
昭 7)
年 6月
⑤同上局方 5改正 1
9
3
2(
昭2
6)
年 3月
@同上局方 6改正 1
9
6
1(
昭3
6)
年 4月
⑦同上局方 7改正 1
9
7
1(
昭4
6)
年 4月
③同上局方 8改正 1
9
7
6(
昭 51
)
年 4月
⑦向上局方 9改正 1
9
81(
昭5
6)
年 4月
⑬同上局方 1
0改正 1
9
8
6(
昭 61
)
年 4月
⑪同上局方 1
1改正 1
9
9
1(
平 6)
年 4月
⑫向上局方 1
2改正 1
9
9
6(
平 9)
年 4月
⑬同上局方 1
3改正 1
①②③④⑤⑥⑦③①⑬⑪⑫⑬
臭
気
透明藁黄色一金黄色
大口魚属族の肝臓
透明葉黄色一金黄色
干I
J
蔵
マダラ ・スケトウダラの H
透明議黄色一金黄色
マダラ・スケトウダラの H
干l
減
透明築黄色一金黄色
マダラ ・スケトウダラの目干i
隙
透明薬黄色一金黄色
マダラ、スケソウダラの肝臓・幽門垂
透明黄色ーだいだい色
マダラ、スケソウダラの肝臓 ・幽門垂
透明黄色ーだいだい色
マダラ、スケソウダラの肝 臓 ・幽門垂
透明黄色ーだいだい色
マダラ、スケソウダラの肝 臓 ・幽門垂
透明黄色ーだいだい色
マダラ、スケソウダラの肝臓 ・幽門垂
透明黄色ーだいだい色
マダラ、スケソウダラの肝臓・幽門垂
透明黄色ーだいだい色
酸
田
古
ケン化価
不ケン化価
ヨウ素価
微に特異の臭気
0
.
9
2
5
微に特異の臭気
微に特異の臭気
9
3
1
0
.
9
2
4∼ 0.
0.924-0.
93
1
0.923-0.
931
3以下
3以下
163-190
微に特異の臭気
1
74-1
9
5
2%以下
1
4
0-1
7
5
微に特異の臭気
0.
9
18-0.
92
8
1
.7
以下
1
80-1
9
2
3%以下
1
30-170
特異の臭気
0.918-0.
92
8
0.
918-0.928
l
.7
以ド
1
80-1
9
2
3%以下
130-170
1
.7以下
3%以下
1
.7
以下
1
80-192
1
80-1
9
2
1
30-170
1
30-1
70
l
.7以下
l.
7
以下
1
80-1
9
2
9
2
1
8
0∼ 1
3%以下
3%以下
わずかに魚、臭帯びた特異の臭気
140-1
8
0
わずかに魚、臭帯びた特異の臭気
0.918-0.928
0.
9
1
8-0.
9
2
8
9
2
8
0.
9
1
8∼ 0.
わずかに魚臭帯びた特異の臭気
0.
918-0.
9
2
8
l
.7
以下
1
80-1
9
2
3%以下
1
3
0-1
7
0
130-170
130-1
7
0
わずかに魚、臭帯びた特異の臭気
9
2
8
0.
9
1
8∼ 0.
1
.7
以下
180-1
9
2
3%以下
130-170
わずかに魚、臭帯びた特異の臭気
わずかに魚、臭帯びた特異の臭気
エライジン試験
①
②
①
④
⑤
⑥
透明菜黄色一金黄色
大口魚、属族の肝臓
密 度
0.925-0.930
魚性の微臭
色 調
透明藁黄色一金黄色
ビタミン A
i
1
長度
硫酸呈色反応
陰性
i
f
i
l
f紫色一紫紅色
陰性
陰性
藍紫色一紫紅色
廃止
⑦
③
廃止
@
廃止
⑮
⑪
廃止
⑫
⑬
廃止
廃止
廃止
廃止
三塩化アンチモン呈色反応
援紫色∼紫紅色
陰性
陰性
3%以下
y
J
.紫色∼紫紅色
標準品の呈色度以上( 2.000IU/g)
標準品の呈色度以上( 2,000!
U/
g
)
2,
0
0
0I
U以上 lg以上
2,000-5、0
0
0I
U/g以上
2.
000-5,0
0
0I
U/
g以上
2
,
0
0
0∼ 5
,
0
0
0J
U/
g以上
2,000-5,000I
U/g以上
2
,
0
0
0∼ 5
,
0
0
0山 lg以上
2
,
0
0
0∼ 5
,0
0
0I
U/
g以上
i
主 丸数字は局方改正版数
3
5
紫色
紫色
比色定量
比色定量
比色定量
比色定量
比色定量
比色定量
比色定量
技術と文明
①
①
1
2巻 I号 (
3
6
)
1 .酸価が1
.
7以下と規定されたのは,酸度の高い肝j
由原料は不良製品に基づくもので,ビタミン Aが不安定である 。
2 .肝油の特性反応として古くから知られている硫酸呈色試験は,肝油 57
商に硫酸 11
商を混和すると紫色を呈する 。
Aが発見されるまでポリクロームの存在が考えられたが, Aが主反応であることが判明した (
Drummond.J
.
C
.W
a
t
s
o
n
.
。Rosenhei
m らは肝 i
r
uの特性反応は Aであるとを主張し,硫酸の呈色反応は変色が早く,
A
.F
. Anal
y
s
t
.4
7.3
41
.1
9
2
2)
硲認試験には使えるが,定最は図餓で AsCl
3法を 開発 した。 (
Ro
s
e
nh
ei
m0.
.Drummond.J
.C
.L
a
n
c
e
t
.1
98
,[
1
9
2
)).0
)
しかし AsCl
3は毒性が高いので,C
a
r
rらは S
b
C
l3を用いた Car
rP
r
i
c
e法を開発し, A比色定量を可能にした (
C
a
r
r
.F
H。P
r
i
c
e
,E
.A
.B
i
o
c
h
e
m
.J
.2
0.4
9
7
,[
1
6
2
6]
)
。
① − 3 肝油の原料にマダラ ・スケソウタラを限定したの は,脂肪i
r
t
lの性格を明徳にするためである 。
①− 4 エライジン試験 1
8
1
9年 P
o
u
e
t (高橋栄治 :r
水産化学』,265-266頁,丸善, 1
9
1
8年)によって発明されたもの
で,肝油の贋造 (
異種油脂の雑)の有無を調べる方法である 。l
J
干池に更硝酸を I
mえ O℃
, 3時間しても透明に留るもの
由はオレイン酸が少ないからエライジン試験は陰性である 。
でなければならないとしている 。肝r
⑤− l R
干t
的A濃度が2
,
0
0
0I
U/
g以上と下限が規定された
① 2 強肝r
由A1
0
,0
0
0I
U/
g
⑤− 3 ビタミン油 A33,000I
U/
g
③− 1 A濃度が2,
000-5.000I
U/
gと範凶が規定された。
③− 2 肝油基原にタラ・スケソウダラの幽門垂の使用が追加されたため。
肝油の色調が少し赤味を帯びるようになり赤
色ーだいだい色とされた。
③− 3 ケン化価 ・ヨウ素価 ・不フケ化物価が規定された。
3)肝 油 新 資 源 の 開 発 期
1933 (昭和 8) 年 ご ろ か ら タ ラ ・サ メ 以 外 の 魚 種の ビ タ ミ ン A ・D 原 料 資 源 と し て の 利 用 開
発 調 査 が 行 わ れ 始 め た。
(1)幽 門垂 ( Pyrori
cc
a
e
cum)
昭和 18) 年 , 勝 井 五一 郎 ら は , 肝 油 の 資 源 調 査 に よ っ て ス ケ ソ ウ ダ ラ ( Theragrachal
o
g
1943 (
ramma [
P
a
l
a
u
s])の幽門垂( A
l
t
h
e
r
t
h
e
severmnn)が 肝 臓 に 匹 敵 す る ビ タ ミ ン A 濃 度 を も っ と い う
重 大 な 事 実 を 発 見 し た。 そ れ は 魚 類 特 有 の 器 官 で , 胃 に 付 属 し た 臓 器 で あ る 。 幽 門 垂 は 肝 臓 と
と も に 利 用 さ れ , 業 界 を 風 廃 す る に 至 っ た。 当 時 , 日 本 で は 分 子 蒸 留 技 術 は 確 立 さ れ て い な か
っ た が, 幽 門 垂 の 利 用 に よ っ て ビ タ ミ ン A30万 IU/gの 高 濃 度 ピ タ ミ ン の 製 造 が 達 成 す る こ と
が で き た 。 例 え ば 肝 油 の 場合 ド ラ ム 缶 1本 ( 187kg) が 10-30万 円 の と き , 幽 門 垂 か ら 得 た 高
単 位 ビ タ ミ ン A 含有製品は, 50-100万 円 と い う 法 外 な 値 段 で 取 り 引 き さ れ た 。 幽 門 垂 は 肝 臓
に つ ぐ 重 要 な ビ タ ミ ン A原 料 資 源 と な り , 本 研 究 の 成 果 が わ が 国 の ビ タ ミ ン 工 業 の 発 展 に 大 き
く寄与した業績であった。
(2)高単位 ビ タ ミ ン 肝 油 魚 種 の 探 索
昭和 4)年 に 魚 種 ・産 地 ・魚 齢 ・採 取
高 単 位 肝 油 ( ビ タ ミ ン A10万 IU/g) の 製 造 に は , 1929 (
時 期 等 に つ い て 代 表 的 な 魚 種 の そ れ を 調 査 さ れ , 10-20万 単 位 l
g以 上 の も は 濃 縮 し な く て も
(
4
3
) 幽門垂は硬骨魚の独特の胃と腸の問に位置する盲獲で軟体動物の肝臓に相当するもので,消化酵
素のみではなく養分の吸収を営み肝臓および胃腸の補助器官と考えられている 。器官で,スケソウダ
ラは 5- 6g,マダラで 50-lOOgで肝臓に優るビタミン A含量がある 。
(
4
4
) 河合亀太郎 『
薬学雑誌』, 50巻
, 249頁
, 1930年。
(
4
5
) 東秀雄 『日本水産学雑誌」, 28巻
, 6
9
5
, 1962年。
(
4
6
) 食品衛生法 4条 2項で,昭和 43年 6月に肝臓の発売が禁止された。
36
肝油の産業技術史的研究( 4) (
小野)
n
g/
g
)
表− 4 幽門垂のビタミン A含量( r
使用で きるこ とにな った。表− 5に
学
ビタ ミン A濃度を示している 。肝油
含量と A濃度の関係は ,種々の要因
に 影 響 さ れ る が, 肝 油 含量が低く
なると A濃度は著しく高くなるとい
Gadus r
n
ac
r
o
c
ephal
us
スケソウダラ
The
r
a
gr
ac
ha
l
o
g
r
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r
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m
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カ ツ オ
Katuwonu
sp
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l
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i
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豊含
油 の
︵
川偽⋮
A白
A ︵大
ン老
ミ は
タに
官田
な
ビる
はす
に集
的採
業を
工臓
平’
H
n
なり,
油量の少ない肝臓から採集すればよ
い。一般に深海ものほどビタ ミン A
は高濃度であ った。 このころから高
単位肝油が製造されはじめ, ピタミ
ン油とも日乎ばれるようになった 。 な
タ含
ピを
の︶
ハUV
肌
高山司
,
自
液
で 人ハU
類叩
魚 一
棲削
底引
る却
す ︵
息州A
生 ︵ン
有し,古くからイシナギを摂取すれ
ば中毒にかかるといわ れ,そ の原因
はイシナギの肝臓を摂取するとピタ
肝臓
5
0
.
6
6
9.
3
4
6.
2
表− 5 各魚種ビタミン油のビタミン A含量
魚種
学
名
イシナギ
S
t
e
r
e
ol
e
p
isi
s
hi
na
g
i
ホンマグロ
Thynnust
h
y
n
n
u
s
メカジキ
Me
kar
i
1ar
n
i
t
us
ukur
i
カツオ
K
a
tuwon
usp
e
l
a
m
i
s
アプラザメ
Er
il
e
pi
sz
o
ni
f
er
スケスウダラ
The
r
a
g
r
ac
ha
l
c
o
g
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r
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クジラ
P
hy
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カジキ
Me
k
a
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n
it
us
u
r
i
ri
ピタミン A(
J
U/
l
O
O
g
)
2
0
0,
0
0
0-700,000
30,000-200,000
5
0
,
00
0-1
2
0
,
0
0
0
1
0,
000-30,
0
0
0
3,000-500
0
0
2
,0
0
0∼ 3
0
,
0
0
0
5
0
,000-200,0
0
0
2,
0
0
0∼ 2
5
,
0
0
0
守
出典桜井芳人 ・斎藤道雄 ・東秀雄編 (東秀雄分担執筆)『食料工業』
,
恒星社厚生附,1
9
6
2年
, 3
5
6頁。
かでもイシナギ( S
t
e
ol
o
p
si
si
s
h
i
n
agi
)
はハタ科の魚、属で北海道以南の深海
幽門垂
45
.6
6
5.
2
1
9
.0
出典勝井五一郎 rビタミン』
,1
5
巻
, 1頁
, 1
9
5
8
年
。
う関係がある 。 また大魚、肝油は小魚、
肝油に比較してビタミン Aは濃厚と
名
タ ラ
表− 6 肝油ビタミン Dの含量
種類
学 名
D含量( IU/g)
5
0-200
3
52-840
マ グロ
Thunusor
ie
nt
al
is
1
6,000,-,60,000
オヒョウ
Hyppgl
o
s
s
u
sh
i
po
gl
o
ss
us
1
,0
0
0-4
,0
0
0
ウナギ
An
g
ul
iaj
a
p
on
ic
a
2,
0
0
0
カツオ
Kat
uwonu
sp
el
ami
s
2
5,
0
0
0
出典。藤田秋治 rビタミン定量法』
,南江堂,1
9
5
6年,4
6
9頁。
タラ
Goudusma
c
r
o
c
e
p
h
al
us
サパ
S
c
or
n
be
1j
a
p
on
ic
us
ミン A過剰 症 になるとことが明かに
なり ,食品衛生法で販売禁止されたほどであった。
他方, ビタミン Dも1935 (
I
昭和 1
0)年ごろから関心がもたれ, ビタミン D資源としての調査
がなされ, その成績を表− 6に示している 。東による魚類のビタミン D調査 はマ グロ.10,000
-6
0
,000IU/g
, カ ツ オ :1
0,000-6
0
,000IU/g, カ ジ キ :2,000-2
5
,000I
U
/
g
, イシナギ:
U/gで,米国がわが国のビタミン D原 料資源を 嘱望 し た 理由はここにあ った の
2,
000-25,
000I
である 。 ビタミン D原料資源として米国に輸出 されるようになったが,そのころのピタミン D
定量については , わが国では信頼できるものはなく,米国における動物試験によって判 定し取
り引きされていた。米国でビタ ミン Dが終戦直前に安価 に合成される ようになってから , わが
固からの輸出は減少してい った 。
(
4
7
) 東秀雄 『日本農芸化学雑誌』
, 1
6
巻
, 1
8
1頁
, 1
9
4
0年。
(
4
8
) 鈴木雄二『 ビタミン』, 5巻,269-274頁
, 1
9
5
5年。
(
4
9
) 東秀雄 『日本農芸化学雑誌』,1
6巻,1
141
頁
, 1
9
4
0年。
3
7
技術 と文明
1
2巻 1号 (
3
8
)
産卵期は含油量が低下するが,ビタミン A含量は高くな(
5
%こと ,ま た海域によりビタミン A
含量に差があることを鈴木が討議している 。例えば日本列島の日本海沿岸で漁獲されたスケソ
,000IU/gがあるのに対して,太平洋沿岸では 1,000∼
ソウタラはビタミン A含量が3,000∼ 8
2,
0
0
0I
U/gとなり, 一般にわが国の肝油のビタミン含量は諸外国に比較して高いことが明らか
になった。その理由は餌料のプランクトンの種類に相違するものといわれてし足。
4)肝油の濃縮
肝油はいかに精製しでも魚臭が除去できず,とくに医薬品とした場合,あるいは食品添加物
としても風味を損なうという欠点があ った。それを克服するために,肝油を濃縮して臭 I
床の原
因である脂肪酸を除く目的で肝油濃縮物を造ることは重要な意義をもつようになった 。 また合
専ら天然の肝油か
成ピタミン A ・Dが技術的に成功しでも,初期の段階では採算化があわず、
らの濃縮化に依存せ ざるを得なか ったのである 。
(1)全鹸化法
肝油の油脂成分を鹸化して完全に除き,ピタミン Aを取り出す方法で,肝油の臭味はほとん
ど除くことができる 。 しかし,多量の肝油をすべて鹸化することは数千トンに及ぶ油脂原料資
源を失うことになるため,当時のわが国の油脂事情からみて適当ではなかった。従 って鹸化法
に代って,後述の分子蒸留法の技術開発が待望されていた。それに応えたのが高橋克巳であ っ
た。
大正 1
3
)年 ・特許60050号
①高橋法(その 1):高橋克巳 ・1924 (
肝油にアルコールを混入し,石灰乳 (
またはバリウム ,ストロ ンチウム塩)の適量を加え,撹枠
しつつ低温に加熱し,アルコール可溶物を抽出し,可溶物をエーテル,石油エーテルの有機溶
媒で処理し, これにビタミン Aを移行させ,グリセリンと無機成分を除いた後,溶媒を蒸発し
て脂溶性粗製ビタミンを抽出する 。
②高橋法(その 2):高橋克巳 ・1924 (
大正 1
4)年 ・特許6285号。
肝油をアルコール性アルカリで、
加水分解し,遊離脂肪酸を鹸化して不純物を吸着させた上,
夜で
アセトンを加え,アルカリ塩をアセトン .アルコ一ル混 1
卜ンおよび、アルコ一ルで‘
抽出する 。
(2)部分鹸化法
部分鹸化法とは肝油の遊離脂肪酸を部分鹸化し石鹸として除去し,臭気を軽減する方法であ
る。この方法の利点は,同時に爽雑物を石鹸に吸着させて除去できることである 。 このような
アルカリ処理法は肝臓の鹸化によ って有効成分を破壊するが,ビタミン A・Dは安定で,簡単
(
5
0
) 木村金太郎 ・天野慶之 『
海洋漁業』, 6巻,( 2号)
,大日本水産会, 2
3頁
, 1940年。
(
5
1) 東秀雄 『
日本農芸化学雑誌」
,日農化, 1
6
,1
94
0年
, 11
41
頁。
(
5
2) K
.C
.D
.H
ic
kmann:I
nd
.Eng.Che
m.3
9
,9
6
8
,1
9
3
7
3
8
)}刊J
l
の産業技術史的研究( 4) (
小野
)
な装置で効率 よく採取できるので,後年日本で広く普及する方法となった。
, 1932 (
昭和 7)年
③河合法 河 合亀太郎 ・1932 (大正 7)年 ・特許 95759号
肝臓を細切した後,肝臓に対して 1-3%苛性ソーダまたは石灰乳を加え加熱しながら,肝
臓組織を溶解する 。つぎに ,このエマルジョンに適量の水を 加えて遠心分離すると油分を得る
ことができる 。不鹸化部分の合油量の少ない場合,採油歩合が非常に低いため,誘導泊 (
P
i
c
k
up01!
)を適量加 えるのが一般的である 。アルカリ法で濃厚にビタミン
A ・Dを含む原料 に応
用される 。普通,誘導油にタラ ・スケソウダラ肝油が用いられていた。
(3)分子蒸留法
1
939 (
昭和 1
4)年,ヒ ックマン( K C.D.1
l
i
c
k
m
ann)は肝油 の分子蒸留法を発明し,ピ タミン
A および D を分離濃縮することに成功した。米国では第 2次世界大戦以前 (
1
9
3
4年)に,すで
に分子蒸留法の研究が進み, 肝油分子蒸留の工業化が一部行なわれ, 1940 (昭和 15)年にはビ
タミン A ・D分子蒸留が行なわれていた。わが国では戦時のため分子蒸留工業化研究は遅れ,
i
故後になってようやく始った。
3 肝油の生産量
1)タ ラ漁獲量
わが国は明治末期に 1905 (
明治 3
8)年の「 日韓併合」や1
906 (
明治3
9)年の南樺太の領有で
,
タラ科魚類の漁獲が豊富になり
昭和 7)年ピークに
世界有数の肝油生産国となった 。 1932 (
昭和1
6)年,大平洋戦争を迎
達した。日本経済はその後,「日中戦争」を契機に悪化 し
, 1941 (
えるに至って,いわゆる戦時統制が強化 され,輸出貿易が困難になった。国内事情は生産費が
暴騰し,漁船 ・燃料 ・漁網等の生産資材は大部分を輸入に依存していたため,これら資材の輸
謄と相侠って ,肝油生産の継続は 困難 と
入制限は価格の暴騰を来し,労働不足による賃金の高l
なったのである 。 タラ漁獲量には豊凶を伴うが,大正期より漸増し,敗戦前の 1943 (
昭和1
8
)
年ごろかから激減している (
表一 7)
。
2)肝油生産量
大正期一昭和前期( 1
9
1
2∼ 1
9
4
5年)のタラ肝油生産量を(表− 8)に示した 。肝油は「薬用肝油」
と特記されない場合は ,統計によ ってはタラ油と肝油は混同されて処理されていたようである 。
タラ肝臓は油脂を多 く含有しているのことから,油脂を採取した鮮度の高いものをタラ肝油と
臓油と肝油の混合したもの)はタラ 油 と称して工業用にさ
称して主に薬用に供され,劣等油(内l
れていた。 しかし統計の種類よっては 明確に 区別 されておらず,戦時のため混同された部分も
あったとみられる 。表− 8に示すように肝油生産量は太平洋戦争勃発 まで漸増するが,戦時の
(
5
3
) 木村金太郎 ・天野康之 『
海洋漁業』
, 6巻,(2号
) ,2
3頁,1
9
4
0年。
(
5
4
) 鷲見瑞穂 ・川上行蔵 『
粗食研究』1
2
0
号,大 日本水産会, 403-410頁
, 1
9
3
6年。
3
9
1
2
巻 1号 (
4
0)
技術 と文明
表
寸
,
,
大正期・昭和前期 タラ類漁獲量( 1
9
1
2
∼1
9
4
8
年)
年 次
大正元 (
1
9
12
)
年
年
2(
1
9
13)
3(
1
91
4)
年
4(
1
9
15
)
年
5(
1
91
6)
年
6(
1
91
7)
年
7(
1
9
1
8)
年
8(
1
91
9
)年
9(
1
9
20)
年
1
0(
1
9
21
)
年
1
1(
1
9
2
2)
年
1
2(
1
9
23)
年
年
1
3(
1
9
24)
1
4(
1
9
2
5)年
昭和元 (
1
9
2
6)年
出典
合計
漁獲量
(
万 ト)
ン
6.
5
6.
6
6.
3
6.
4
7.
1
5.
8
5.
9
タラ
スケソウダラ
4.
4
3.
8
4.
8
2.
1
2.
8
1
.5
4.
0
2.
4
4.
7
2.
4
2.
1
3.
7
表− 8 タラ油 ・タラ肝油生産量の推移 (トン)
年 次
大正 1
1(
1
9
2
2)年
1
2((
1
9
2
3)年
1
3((
1
92
4)年
1
4(
1
92
5)年
昭和元 (
1
9
2
6)年
2(
1
9
2
7)
年
3(
1
9
2
8)年
4(
1
9
2
9)年
6(
1
93
0)
年
7(
1
9
3
1)
年
8(
1
9
3
2)
年
年
9(
1
9
3
3)
1
0(
1
9
3
4)年
1
1(
1
9
3
5)
年
1
2(
19
3
6)年
1
3(
1
9
3
7)
年
1
4(
1
9
3
8)
年
1
5(
1
9
3
9)
年
1
6(
1
9
4
0)
年
1
7(
1
9
41
)年
1
8(
1
9
4
2)年
1
9(
1
9
4
3)年
年
2
0(
1
9
4
4)
3.
1
2.
8
7.
5 3.
5
4.
0
9
2
0年以降はタラ ・
1
0.
l 1
1
0
.6 スケソウダラの区別
なし
1
0.
5
8.
9
1
0.
8
9.
7
2(
1
9
2
7)
年
3(
1
9
2
8)
年
4(
1
92
9)
年
年
5(
1
93
0)
6(
1
9
31
)
年
7(
1
9
3
2)年
8(
1
9
3
3)年
9(
1
9
3
4)
年
1
0(
1
9
3
5)年
1
1(
1
9
3
6)
年
1
2(
1
9
3
7)年
1
3(
1
93
8)年
年
1
4(
1
9
3
9)
年
1
5(
1
9
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1
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1
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年
1
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年
2
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1
94
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1
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1
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7
1
0
0
1
2
0
*通商産業省産業大臣官房統計部編 r
工業統計5
0
年史』
。
水産物流通統計年報』,昭和 5
4年、 1
10頁
** 農林省 r
農林省統計調査部編 『
漁獲物累年統計表』, 1
96
0年。
経 過 と と も に 肝油 原 料 魚 漁獲 量 も 減 少 し , 肝 油 生 産 も 殆 ど み ら れ な く な る 。 サ メ 肝 油 は 1935
(
H
併日 1
0) 年 か ら 朝 鮮 で の 製 造 は 中 止 と な り ,
さ ら に 1937 (
昭和 1
2) 年 に 樺 太 で も サ メ 肝 油 の
生産は全く 中止さ れ た 。 恐らく軍事用燃料(液体燃料,潤滑油)に供するためサメ肝油 は 生 産 で
き な く な っ た も の と 考 え ら れ る 。薬 用 肝 油 は 機 密 資 料 扱 い に さ れ , 主 産 地 は 内 地 の 北 海 道 ・青
4
0
肝油の産業技術史的研究 (
4
)(
小野)
表− 9 邦肝 i
r
l
1生産量(トン)
森・宮城であったようである 。各
種統計資料の入手は軍事機密のた
年次
内地
め困難となり,信想性に欠けるも
のもみられたと考えられる 。
1
93
5
(n
前日 1
0
)
年 朝
様
鮮
太
前述の通り,戦局の進展に伴 っ
合計
内地
て,漁船や船員の不足は甚だしく
なり,戦前の漁獲量に較べて原料
1
93
6(
昭和 1
1)
年 朝
樺
鮮
太
魚、は半減する打撃をうけ乍ら,当
合計
内地
初は薬用肝油は薬用原料配給組合
を通じて配給されてはいたが,
昭和 1
2)
年 朝
樺
鮮
太
1
9
3
7(
合計
内地
1939 (
昭和 1
5)年 の 好 況 時 に 較 べ
れば見る影もなく,その生産は終
息への一途を 辿 ったのである 。
1
9
3
8(
昭和 1
3)
年 朝
樺
鮮
太
合計
内地
4 肝油の貿易
1)肝臓の対米輸出
魚肝臓の輸出はビタミン A含量
に比例して価格がきまるので,そ
・
の価格から類推してビタミン A
タラ i
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*
2
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1
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9
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昭和 1
4)
年 朝
様
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合計
2
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2
農林統計、拓務統計、 『
本
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1
由
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工業綜覧』
(1
9
4
2年 2月 8日 (
当
l
時は機密資料扱い))による。
*タ
ラ ・スケ ソウタラ肝t
d
lおよ びタラ r
曲、スケソウタラ油の合計。
本
* 南氷洋の生産を含まず。
出
」)
1
1
-
Dの原料ではないかと推定されて
いた 。 第 二次 世 界 大 戦 前 の 1938 (
昭和 1
3)年 ご ろ か ら 日 本 油 肥 輸 出 業 工 業 組 合 を 通 じ て 多 量
の魚肝臓が輸出され,ピタ ミン Dブームが起きた ことと相侠 って有力な輸出商品となり,魚肝
臓の争奪がおき始めた。米国ではビタミン Dの需要が多く,ピタミン D含量の高い日本産マグ
ロ ・カツオ肝臓を相当量高価に買い入れ,開戦に備えて無税で自国に輸入し,肝油を採取して
ビタミン A ・Dの原料確保に務め,
Hi
由を備蓄していたのである 。肝臓のビタミン D含 量 検 定
は米国に輸入後,動物試験によ って行なわれていたので,日本の輸出価格は米国の検定評価で
決まるので,米国側の価格支配を受けていたことになる 。肝臓の輸出額は 1杜 で 600万 円 以 上
0),なかには 1千 万円近いものもあ った という 。
にも達し(表− 1
米国では 1938 (
昭和 1
3)年ア ルカリ消化法の移行油法を用いて抽出していたが,当時の日本
の製油技術では採算に合わなか った ようである 。
1940 (
昭和 1
5)年度の水産貿易 (大蔵省発表) は同年 1
0月の肝臓輸出額63万 9千円を最後に大
(
5
5
) 東秀雄「海洋漁業」 , 5巻
, 2
3頁,大 日本水産会, 1
9
4
0年。
(
5
6
) 東秀雄 『
海洋漁業』, 6巻
, (2号
) ,大日本水産会,1
9
4
0年
, 2
3頁
。
(
57
) 『
前掲』
(1
7)
' (東秀雄分担執筆) '1
28-137頁。
4
1
1
2巻 1号 (
4
2)
技術と文明
表−1
0 冷凍肝臓の対米輸出量
年次
*
1
934(昭和 9)
年
**1936(昭和 11)年
*
*
1
937(昭和 1
2)
年
**1938(昭和 13)年
*
*
*
肝蔵(トン)
蔵省統計ーから掲載が禁止 された 。米国では,
金額(千円)
戦争終結直前に合成ビタミン Dの工業化に成
369
300
功し, 1946 (
昭和 21)年にはビタミン D油の
500
日本からの輸入は停止されている 。
500
1
939(
昭和 14)
年
2,
5
0
1
4,641
1
940(
昭和 15)
年
3
,51
1
1
0
,1
41
2)肝油の輸出
1
9
41(
昭和 16)
年
3
,1
11
*『
日本水産年報』
,第 5輯
, 374-375頁
, 1
9
4
1年。
** 高田亮平 桂英輔 ー
東秀雄編 (
東秀雄分担執筆) rピ
タミン研究五十年』
,1
28-1
3
7頁
, 1
9
6
1年。
注1 1
9
4
0
年 9月以降は貿易統計ーの発表は停止。
2 昭和 6-10年の 5カ年間 4
,
4
2
0トンの肝蔵を生産し,
その内 1
3
4トンを米国へ輸出した。
戦前,欧州各国は肝油産油国から肝油を輸
入しており ,当時ビタミン A ・Dの合成は工
業化されておらず,肝油資源国の天然、肝油に
依存せざるを得す\わが国からも輸入してい
た。従って ,戦前から欧州向 けにタラ肝油,
サ メ肝油が相当量輸出 されていたわけである 。鈴木の調査した結果によれば,ノルウェーはヨ
ー ロッパの 肝油産 油 国でありながら,ビタミン A はノルウェー産肝油は 500~ l,
500I
U/gにと
どまり , 日本産肝 油 は2,000-3,000I U /g と高く ,
、
日本から肝油 を~!命入して自国産肝油と混ぜ
て
貿易の特殊事例としてであるが,太平洋戦争中には肝油貿易は一時中止されたが,戦争末期
になって肝油 を潜水 艦及び、シベ リヤ鉄道経由で同盟国ドイツに送られていたという 。恐らく逼
迫 した軍需物資と して送 られたものであろう 。
5 むすび
わが 国の肝油工 業 発展期(大正期から昭和前期)は, タラ漁獲域の拡大と 肝油製造法の技術移
転 で世界有 数の肝油供給固となっていた。
わが国 は万葉時代から , ウナギは栄養に富む食品として常民の 問 に定着を続け,有力なビタ
ミンA補給 源 と して体験的に役立ててきた。 1928 (昭和 3)年,藤巻良知は動物 試験に よって
ウナギ に多量の ビタミ ンAが含まれることを 明 ら か に し ウ ナ ギ の 栄 養 学 的 意 義 を 解 明 し た 。
また , 1904 (明治 37)年,森正道はビタミン A発見以前に 世界で最初に牌清(ビタミン A欠乏
症に相当する疾病)の治療に肝油が有効であることを始めて明らかにしている 。
1913年,オスボーン( T
.B
.Osbo
r
n
e)は動物試験で, 肝油 中に脂溶性ビタミン Aの存在 を明
らかにし, 1915年,マッカラム( E
.V
.McCollom)は肝油のこの因子をビタミン A と命名し,さ
らに 1922年,マッカラム (
E
.V
.McCollom)は肝油の抗クル病因子をビタミン Dと命名して肝油
ビタミンの全貌を 明 らかにした 。
(
5
8
)
(
59)
(
6
0
)
(
61
)
『
前掲』 (
1
7)' (
鈴木雄二分担執筆) '119-127真。
『
前掲』 (
17)' (
鈴木雄二分担執筆) '1
19-12
7頁。
『
前掲』 (
1
7)' (鈴木雄二分担執筆) '119-1
2
7頁。
『
前掲』 (
1
7)' (鈴木雄二分担執筆) '119-127頁。
42
肝油の産業技術史的研究 (4) (
小野)
1
92
3(
大正1
2)年,高橋克巳はタラ肝油不鹸化物の濃縮法を開発してビオステリンと命名し,
無臭肝油製剤を開発普及して国民保健に大きく貢献することとなった 。
0年後,カーラー( PK
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e
r)
1
931(
昭和 6)年,肝泊中にビタ ミン Aの存在が発見されてから 1
によってオヒョウ 肝油を素材 に精製して化学構造を決定し画期的な業績をあげ,ビタミン A関
連化合物の化学構造式決定にも貢献した。
局方肝油は日本薬局方初版(1
8
8
6年発行)に収載されており, l
lO年後に当たる最新版(1
99
6
年発行)においても基本的には大きな変更もなく
ー貰 して収載されている数少ない医薬品で
あり ,わが国民の健康生活に大きく関わってきたといえる 。
1
9
4
3 (昭和1
8
)年,勝井五一郎はスケソウダラ幽門垂にビタミン Aが濃厚に含有されている
ことを発見して,肝油工業の発展に大きく貢献した。
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