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表紙の解説 「伝統の継承と一新 トップ交代に伴う組織改革と重圧について」

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表紙の解説 「伝統の継承と一新 トップ交代に伴う組織改革と重圧について」
Vol. 55. No. 2. 2013.
表紙の解説 「伝統の継承と一新 トップ交代に伴う組織改革と重圧について」
谷 原 秀 信
(一新会「石原忍先生の生涯」から転載)
(石津 寛編「石原先生」から転載)
図 1 ア クセンフェルト博士来日のと
きの記念写真(東京大学にて)
図 2 陸軍軍医学校教官時代の石原 忍
左から,河本重次郎,アクセンフェルト
博士,石原 忍
表紙の写真
「愛すべき頑固者」が青天の霹靂で教授となる
今回,表紙に掲載したのは,高名な眼科医ア
石原の人柄について,文献史料を読んだうえ
クセンフェルト(Axenfeld)教授が来日した際
での私の個人的印象は,ひと言で言うと「愛す
に,河本重次郎と石原 忍が並んで記念撮影し
べき頑固者」です。写真を見ても窺えるように,
た写真です(図 1)
。東京大学初代眼科教授とし
丸刈り頭で一徹な視線を正面に向けています。
て尊敬された河本教授の退官後に,教室を継承
彼の丸刈り頭は筋金入りで,生涯を通じて,こ
したのが二代目眼科教授となった石原 忍です。
の髪型を好んだと言われます。当時としても珍
今回は,教授の交代に伴う石原 忍の奮闘につ
しいようで,同僚が「君の頭はドイツにいた時
いて,当時の世相を交えて,解説させていただ
にも,今と同じだったな,日本人仲間でガリガ
きます。
リ頭で通したのは君だけだった」と評したとい
う記録があります。床屋で待たされる時間のム
ダと散髪代の倹約の一挙両得という,身も蓋も
─ 107 ─
ない石原自身の説明だったそうですが,やはり
「私がやる気になれば,河本先生のやり方とは
軍人としての自覚に由来するのだろうと推察さ
相当ちがうから,自然,可なり大きな変革をし
れます(一新会「石原忍先生の生涯」
)
。石原の
なければらなない。自分の思う通りやってみて,
軍人時代は,「サーベルの柄を左手で握って,
どうしてもいけないようならば,また軍医学校
十メートルぐらい先の地面をにらんで大股でス
へ引きあげることにしよう」という決心で転任
タスタ歩くというクセ」があり,軍人時代は,
したと書いております。ここから,伝統の「一
ほとんどあらゆる会合に詰め襟の軍服姿で通し
新」を志した彼の奮闘が始まることになります。
たといわれています(図 2)
。
このように絵に描いたような軍人であり,
「一生軍医で暮らすつもりであった」石原が,
東京大学に教授として招かれたのは,
「私に
「勉強好き」を標榜する若手時代の逸話
そもそも石原 忍と河本重次郎の師弟関係は,
とっては,全く予想もしていなかった事なので, 当初外科志望であった石原が,眼科医を必要と
はじめ,東大の秋谷講師から電話があったとき
した陸軍からの要請で,眼科に転向して,大学
は,意外な気がした」と自らが述べています。
院に入学したことに始まります。石原の大学院
彼は,旧知の病理学の長與又郎教授に相談した
時代は,当時の医局長がボス然として新参医局
ところ,彼の人柄を踏まえてでしょうが,
「大
員を率いて,毎日のようにトランプ遊びなどに
学で君にお願いした以上どうでも君の思うよう
興じていたとのことです。その中で,遊興には
にやってくれゝばいい。たゞ,河本先生だけは
見向きもせず,
「勉強好き」を標榜する石原は,
尊敬しなければいけないが」と助言されたとい
病院に泊まり込んで研究三昧の日々を過ごした
われます(以下,鉤括弧内は,特に断りがない
ので,随分とつきあいの悪い仲間だったと思わ
場合,石原 忍「回顧八十年」からの引用)
。実
れます。しかも,研究に専念するあまり,「病
際,当時の医局員たちの噂話にも,石原が教授
院は勉強をするには誠に都合がよくて,晩くな
になるとは誰も想定しておらず,
「恩師河本先
ると泊った方が便利でしたから,自然自宅へは
生が停年に達せられたので,その後任として下
三日置きぐらゐにしか帰らないようになってし
馬評に上った人は随分澤山あった。昨年四月一
まひました」という生活でした(石原 忍「舊い
新會の席上で先生が言はれた如く,先生は下馬
思出ばなし」
)。家に帰ってこないために「新婚
評にも上らなかったのであります」という状況
間もなかった妻は,一人で田ン圃の中の一軒家
だったそうです(瀬戸 糾「大学教授に推薦され
に留守をしていて,電話もなかったので,とう
る話」)。石原の河本に対する姿勢は,きわめて
とう強度の神経衰弱になってしまった」という
礼儀正しいものであり,軍医時代に,河本病院
始末でした。もっとも,それでも生活態度を改
(河本重次郎の私設病院)
から軍医学校の眼科へ
めず,家庭を顧みないで勉強ばかりの石原に,
転じて来た場合,「いつでも河本先生の学識を
終には,
「妻は次第に孤独になれてしまったよ
賞賛し,「河本先生は私の先生で日本一の偉い
うであった」とのことなのですが,自らそれを
お方ですから,心配しないで癒して貰ひない。
回顧録に書いてしまう態度自体を含めて,融通
こゝへ来ても河本先生以上のことは出来ません
の利かない一徹者で,家庭人としては,やはり
から」と云って,必ずまた河本病院へ患者を帰
少々問題のある家長であったと言わざるを得ま
してしまひました(原文ママ)
」と言われていま
せん。もっとも,妻の琴は,陸軍少将井口五郎
す(明渡侃治「栗羊羹」
)
。しかし石原自身は,
の長女でしたから(石原 忍「舊い思出ばなし」
)
,
─ 108 ─
Vol. 55. No. 2. 2013.
当時の家長とはそういうものと覚悟していたの
かもしれません。
さらに当時の逸話をもうひとつ引用すれば,
「変人」と自認する石原に,医局の同僚が小説
でも読むように勧めたのだが,これも試しにと
思って,流行していた徳富蘆花の「ほととぎ
す」などを読んだものの,
「私にはどうも面白
くないので,じきにねむくなってしまう」とい
う惨憺たる結果で,結局はこのようなことを繰
り返して,以後は小説を読むことを放棄してし
まったとのことです。大学院当時から,色覚異
図 3 石原 忍自筆による人生訓「偶感一束」
常の研究を始めており,彼のライフワークのひ
とつとなっています。その後,大正元年に陸軍
で植えつけられ,更に陸軍で奉仕の精神と規律
の命を受けて,ドイツ留学して,表紙の写真に
を守ることを学んだ」と自ら回顧録に記載して
写っているフライブルグ大学アクセンフェルト
います。また,彼の人生訓は,「偶感一束」と
教授らに師事しました。帰国後,学位を授与さ
してまとめられていますが,本当に真面目一辺
れています。この時にも逸話があって,東京日
倒で,己を戒め,勤勉を説く内容となっていま
日新聞(現在の毎日新聞)
に記事が載ったのです
す(図 3)
。軍出身者の矜持として,教室を采配
が,ここでも「子供が父親の顔を知らない」く
するにあたって,
「世界のどこにも負けないよ
らいの勉強ぶりと書かれる始末でした。このよ
うに」
「学術的に先進国を凌駕する」ことを目
うに石原の修業時代に関連した史料を読むと,
指しました。石原が教授着任にあたって,「大
生粋の体育会系で,軍人意識の強い石原は,謹
学の使命は研究にある。アルバイトをしない教
厳実直を具現したような人柄で,友人や家族と
室は大学の名を恥かしめるものである。日常患
しては閉口してしまいそうな逸話ばかりです。
者の診療も研究的態度を以てせねばならぬ」
実際,軍医時代の教え子曰く,
「先生は常に温
(
“アルバイト”とは研究論文・学術活動の意)
容を以て人に接せられたので,あまり怖い教官
と宣言し,この宣言後,
「朝から晩まで私が教
といふ感じはありませんでした。けれどもお口
室にいて仕事をするので,医局員は,河本先生
数が少く,ご冗談一つ云われないので,何とな
時代のようにのんびり出来なくなって,随分
く親しみ易く馴れ難いといふ感じでした。御勉
弱ったものもあったようだった」と石原自身が
強はよくなされましたが,ほかに御趣味はない
述懐している状況となりました
(図 4)。
やうに見受けられ」とその印象を述べられてい
ます(池田 清「謹厳そのもの」
)
。
教授着任後に第一に行った改革は,研究環境
の一新でした。大病室を研究室に改造し,大暗
室を設置して精密検査機器を整備し,図書室に
教授就任に伴う諸改革
石原 忍が自ら誇りとする精神は,学生時代
は自ら歩き回って膨大な書籍や辞書を揃えたと
記録されています。
第二に,公私の峻別を明確にしたことがあり
のボート部活動と軍生活で鍛えられたと思われ, ます。河本重次郎を含めて当時の東京大学医学
「人に負けない努力をすることはボートの練習
部教授は,私的な病院を開業し,医療を広く実
─ 109 ─
「一,診療は,すべて学術的に行うこと。
」と明
記したのが,いかにも石原哲学という感じです。
その後,患者の人格を尊重すること,なるべく
待たせないようにすること,診療には常に親切
を第一とすることなど,こまやかな配慮が列記
されています。
(増田寛次郎編「東京大学医学部眼科百年史」から転載)
図 4 教授着任当日の記念写真
前列左から宮下忠雄,広田敏夫,中泉行徳,林 勝三,中
列左から中島 實,石原 忍教授,秋谷博愛,後列左から黒
沢潤三,中島 奨,原田永之助,田川資造,中泉行正とい
う錚々たる教室のメンバーでした。
新任教授石原の「神経衰弱」
石原 忍が行った教室改革は,現代の視点か
らは,非常に合理的で,当然のことばかりのよ
うに思われます。また軍出身者である石原が,
堂々とトップダウン型の強いリーダーシップを
践し,多数の内弟子を育成する一方で,経済的
発揮したとみえます。後年,大教授として尊敬
にも恵まれた環境にありました。実際,臨床系
された石原を知っている我々にとっては,自信
の教授たちは,当時の基準からはかなり高額の
満々で危なげのない言動に思われるのですが,
はずの給料も,ろくに受け取りに来なかったと
当事者の心労はどうもそんな簡単なものではな
事務担当者が愚痴をこぼすほどであったといわ
かったようです。実は,教室改革に奮闘してい
れます(増田寛次郎編「東京大学医学部眼科学
たはずの石原が「神経衰弱」に陥ったという記
教室百年史」)。軍出身であった石原は,旧弊を
録が残っているのです。教室改革による心労が
一新すべく,合理的なシステムを導入しようと
たたったのか,石原が後日自らの歴史を振り
心がけました。教授帰宅の際に,医局員・看護
返って「心身の過労から一時は神経衰弱のよう
婦がいっせいにお見送りするという習慣も廃さ
になり,手が震えて手術に困ったこともありま
れたとのことです。
した」(在職 10 周年記念祝賀会での謝辞)と述
第三に医局費の明瞭化があります。当時の大
べているのです。実際,それは教室員にとって
学では,「医局費が足りないと,病院を収める
も明白なことであったようです。東京大学眼科
べき金を医局費に使ってしまったり,商人と結
に所属していた桐沢長徳
(後の東北大学教授)
は,
託して不純の利を得て,それを医局費にくり入
「石原のノイローゼは赴任後しばらくしてから
れたりする」という状況でした。陸軍出身の石
徐々に起こり,満 1 年経った大正 12 年夏頃に,
原にとっては,この杜撰な会計のありようが我
最もひどかったらしい」という話を当時の教室
慢できなかったようです。そこで一計を講じて,
員の先輩から聞いたことがあるとして,このノ
教科書を書くことで財源を確保しようと考え,
イローゼは,大震災をきっかけにしてすっかり
金原商店(現在の金原出版)
から出版されたのが
治ってしまったと解釈しているのです(桐沢長
「小眼科学」でした。これによって,潤沢な財
源を得て,学会への出張旅費,医局員の送迎会,
徳「石原忍先生とその時代」
「銀海」
)
。
そもそも河本時代の大学医局は随分と鷹揚な
春秋の医局旅行などの費用を,その財源から充
体制であったと思われ,教授であった河本重次
当するようになりました。
郎の日常は,午前のゆっくりした時間にお抱え
第四に,教室の診療内規を定め,その冒頭に
─ 110 ─
の人力車にて羽織袴姿で出勤して,数名の患者
Vol. 55. No. 2. 2013.
を診察し,午前中には講義や手術なども済ませ
眼科教授としても,強いリーダーシップを十全
て,正午には,医局員や看護婦が整列して見送
に発揮して,
「大変事のとき,人間はその真価
る中で,人力車に乗って悠々と帰宅するという
を発揮させることができる」と医局員が述懐す
大時代的なものであったと描写されています。
るほどであったといわれます
(
「東京大学医学部
石原自身が,彼の回顧録中の大学院生活の記載
眼科百年史」
)
。これによって,学内の高い評価
において,河本先生が「午後は自宅で開業して
を確立することができ,石原は自信を回復して,
いたため,研究指導などはしてもらえなかっ
これ以降は,大教授としての強い存在感を示す
た」と証言しています。そこから急転直下,石
逸話ばかりが続きます。
原 忍という刻苦勉励スタイルの教授を迎えた
のですから,その環境変化は劇的であったと思
われます。窮屈を感じた医局員からは,石原が
権威者に媚びず,迎合しない医学部長
何か新しい試みをするたびに,
「石原先生の伝
石原の面目躍如ともいうべき逸話は,彼が医
統破り」と陰口を言われたと記録されています
学部長を務めた時代にもあります。昭和 12 年
から,必ずしも好意的な視線だけではなかった
に石原は医学部長となるのですが,
「医事公論」
はずです。さらに,
“国手無双”とまで讃えら
には「石原は学問は相当やるが,行政的手腕は
れた河本の手術を見て尊敬してきた医局員たち
落第だ」
「石原は子供を大きくしたような男だ」
から,先代と比較されることはプライドの高い
などと評されたとのことです。この頃,陸軍内
石原にとって,辛い状況であったであろうと思
には皇道派が勃興してきており,そのリーダー
います。軍人としての矜持を誇り,家庭をも犠
のひとりと目されたのが荒木貞夫陸軍大将でし
牲にするほどの研究者としての尊厳を抱いてい
た(後日,二・二六事件に連座して予備役に編
たに違いない石原にとっては,周囲に愚痴をこ
入されています)。当時,流行しつつあった共
ぼすことすら許されず,ひたすら心労を内心に
産主義の影響を大学から廃し,皇道教育を推進
蓄積する苦闘の日々であったのかもしれません。 すべく,陸軍大将の荒木が文部大臣となってい
ちなみに石原自身の筆による回顧録には,この
ましたが,総長と石原を含めた 7 学部長が文部
「神経衰弱」については,いっさい記述されて
省会議室に呼びつけられて,荒木大臣から訓話
いません。
があり,
「大学はもっと国家のために尽くさね
大正 12 年 9 月 1 日,突如として,関東大震
ばならぬ」と申しつけられたという出来事があ
災が発生いたしました。国を揺るがすこの危機
りました。しかし,石原は,荒木大将を陸軍の
的状況は,石原のリーダーシップが教室に浸透
同僚として知っていたこともあって,大臣の考
した大きな契機になったと言われています。実
え方が間違えていることを力説して,大臣の意
際,八面六臂の活躍であったようで,臨時病院
見を撤回させたのでした。さらに,もうひとつ
長を命ぜられ,同時に食糧部長となって,委員
逸話を引用すると,戦争へと世相が険悪化して
たちに現金を持たせるとともに,トラックを徴
いく中で,非常時の動員計画として,大学に臨
発して買い出しに行かせました。さらに非難の
時医専を附属設置するという計画が持ち上がり
多かった病院の請負賄を解約し,評判の悪い事
ました。その際,総長と意見が賛成しないで案
務長から権限を剝奪して,事務を掌握したと記
件が紛糾したところ,憤慨した石原が「これは
録されていますから,危難の際に,かねてより
国家の一大事です。これをやらなければ戦争に
の懸案事項を一挙に解決してしまったようです。
負ける,というのに,こういう事になってし
─ 111 ─
まったのは全く私が悪かったのですから,私は
後年,四女の美禰子は,父の思い出を述懐して
責任をとって医学部長をやめる事にします」と
おり,父のドイツ留学中,母琴がドイツに行く
言い出してしまいました。これに困惑した総長
という知人に託して,羊羹などを父に届けた逸
が,
「石原君はあゝいう人だから,そんなメ
話を記します
(
「父・石原忍の厳しい生涯」文藝
チャクチャをやってもやむを得ないが,ほかの
春秋)
。母が「受け取って嬉しかった」という
諸君のような方がついていて,どうして石原君
返事を期待していたのに,父忍は「僕は遊びに
にそんな事をさせたのか」と周囲の補佐役の教
来ているのではない。勉強に来ているのだ。遊
授連を叱りながらも,ようやく折れて,石原の
び気分でいられては困る」と返事してしまい,
主張が通ったのとことです。これらの逸話には, 母は,後年になって悲しそうにこの思い出を娘
どれほどの権威者であっても,自らが正しいと
に語ったのだそうです。美禰子曰く,
「父は理
信じた言論については,けっして引き下がらな
の人,母は情の人」
。実際,娘美禰子の思い出
いという石原の一徹者としての気性がよくあら
にある石原 忍は,「私は父が何をしているのか
われているように思います。
知りもしなかったし,また考えてもみなかった。
テレビのホームドラマに見られるような家庭は
温厚で篤実な眼科医としての晩年の隠棲と最期
想像もつかなかった。顔を合わせれば,厳格で
必ず何か注意を受けた。私たちきょうだい,父
東京大学を辞職してからの石原は,前橋医専
の姿を見かけるとクモの子を散らすように逃げ
の校長を務めた後,南伊豆の別荘「一新荘」に
たものだ」(一新会「石原忍先生の生涯」)とい
隠棲して,「河津眼科病院」の看板を掲げて開
うことでした。愛情表現の不器用な人ではあっ
業しました。「先生,三十銭の注射をして三十
たのでしょうが,ただ,家族への愛情は深く
銭しか取って戴かないんじゃ,食べてゆけなく
持っていたようです。「奥さんを大切になさっ
なりますよ」と患者から心配された逸話が残っ
たことは見ていてうらやましいほどでした。と
ているのが,この頃の話です(一新会「石原忍
くに軽い脳いっ血で奥さんが倒れて,身体が不
先生の生涯」)
。石原は,老年期に入って,恩給
自由になってからは,いつもそばに置いて患者
と年金を除いたすべての財産を寄贈して財団法
さんの呼び出し係をさせたり,ちょっと表へ出
人一新会を創設しました。寄贈した財産の中に
ても,帰ってくると必ず,ただいま,おかえり
は,別荘の「一新荘」や色盲表(現在の「石原
なさい,と,あいさつを交して安心させるよう
式色覚異常検査表」)の版権なども含まれていま
にしたり,食べすぎないようにホオズキをふく
す。一新会は現在も継続しており,石原の遺志
ませてあげたり,細かい所まで気をつけてあげ
を継いで「眼科学の研究および国字改良に関す
ていましたね」と近所の住人が語ったという挿
る研究,調査,啓蒙およびその助成」を行って
話があります。このように現役時代は,家庭を
います
(公益財団法人一新会)
。また河津の元の
顧みずに研究一筋の石原でしたが,家族や門弟
村役場を購入して,東京の自宅を売って工面し
への深い愛情がふとした折に窺われます。彼の
たお金で,図書館「河津文化の家」を設立し,
回顧録の最後には,脳溢血で倒れ,その後徐々
これも現在に河津町立図書館「文化の家」とし
に記憶を失っていった妻琴の闘病期の思い出や
て存続しているようです。
内助の功への感謝が記されています。また,病
石原は,昭和 38 年に逝去しましたが,家族
弱ながらも家事にあたり,晩年の活動を支えた
や門弟に囲まれて,穏やかに死を迎えました。
四女美禰子へのいたわりの一文もありました。
─ 112 ─
Vol. 55. No. 2. 2013.
(一新会「石原忍先生の生涯」から転載)
(一新会「石原忍先生の生涯」から転載)
図 5 息子,娘,孫たちにかこまれた晩年の石原 忍
図 6 妻,母と一緒にいる晩年の石原 忍
晩年,息子や娘,孫に囲まれて微笑む石原の穏
を俯瞰すれば,家族や門弟から理解され,畏敬
やかなまなざしを見ると,融通の利かない謹厳
され,愛された幸福な頑固者の人生であったと
な研究者が到達できた幸福な余生であったこと
思われます。
にほっとするものを感じます(図 5)。また家庭
を顧みない石原のために若い頃に強度の神経衰
〔谷原秀信:熊本大学大学院生命科学研究部
眼科学分野〕
弱を患ったといわれる老妻琴も,写真の中で,
幸せそうに微笑んで,老いた石原を見守ってい
ます(図 6)。
(本企画では,歴史上の事柄を,できるだけ
一次史料を引用して記載したいと思いますので,
いろいろな重圧に晒され,時には不本意な処
遇を受けたこともあったようですが,その生涯
*
原則として敬称略とさせていただきますことを
お断りしておきます。
)
*
─ 113 ─
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