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質疑応答 - 立命館大学

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質疑応答 - 立命館大学
質疑応答
浜邦彦(早稲田大学) 会場に着いたら美空ひばりの『一本の鉛筆』がかかっていて,はじめは
場所を間違えたかなと思いました。じつは反戦歌の話だったわけですね。
質問は,次のような,歌の文脈についてです。
3 月の原発事故以来,カタストロフィに抗して,いろいろな場面で歌われてきた歌や曲が,ど
ういうものであるのか。まずはそのことを東さんに教えていただきたい。
反原発・脱原発の歌で,みんながともに歌えるものが,実は 3 月当時ありませんでした。事
故の翌月,4 月 10 日に東京・高円寺で「素人の乱」が主催したデモに 1 万 5 千人が集まったの
はご存知でしょう。その場で僕が流したのは,斉藤和義の『ずっと嘘だった』でした。あれは
替え歌なんです。そして,故・忌野清志郎の『Love Me Tender』とか『Summertime Blues』です。
この 2 つも,同じく替え歌です。
オリジナルの歌から自覚的に,その文脈を引き剥がし,別の歌につくりかえる。しかし,そ
ういう型式や過程でしか,反原発・脱原発のメッセージをストレートに歌えなかったんだろうか。
別の可能性の模索もあったのでは,とも考えます。東さんのご意見はいかがでしょう。
西 今の問いかけは東さんと鈴木さん双方につながるものですね。非常にアップツーデートな
話題ですが,お二人に応えていただくのが最良でしょう。
東 まず僕の方からお答えします。ジャンルの時代的文脈もありますが,一つにはファルセッ
トという,アメリカの音楽では主流とは言えない「声の出し方」から受け取ってみるという姿
勢があると思うんですね。
美空ひばりの曲へのご発言から想起したのですが,
『一本の鉛筆』につながる『星の流れに』
という日本の歌謡曲があります。これは戦後すぐに,戦争で恋人やご主人の亡くなった女性た
ちが売春婦になっていく,その手記を元につくられた歌なんです。非常に素直な,しかしけっ
して政治的に露骨ではない歌です。
「こんな私に誰がした」という問いがそこにあり,まさに国
家がその責任者なのですが,その事実を露わにした歌詞でもメロディでもない。
それを考えてみると,美空ひばりの『一本の鉛筆』も,おそらくはそういう時代の流れや雰
囲気を意識してつくられ,本人も『星の流れに』の歌詞を参照しているだろうとは思います。
ただ,問題は替え歌をつうじて批判をしたとしても,やはり超えられない何かがあるという
ことではないでしょうか。そのように思います。絶対この人のまねができないという声を出す
歌い方をする。演奏家でも同様ですが,完全に模倣しようとしても,真似ができない音色,フレー
ジングを出す演奏家がいる。そして,誰も模倣できない,そういう演奏でなければポピュラリ
ティーを獲得できないという,ある種の矛盾があるわけです。
「ポピュラリティーを獲得する」というのは,
「ヒットの秘密」のノウハウとか,緻密なマー
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立命館言語文化研究 24 巻 2 号
ケティングの結果ではありません。本当に地面から湧いてくるように支持を受けてしまう。そ
のような歌,そのような演奏でしかポピュラリティーが存在できないという。これはどういう
ことなのかを,考えなければならないな,と思っています。しかし今のところ,
「これだ!」と
いう答えはありませんし,答えが存在するのかこそが考えられなければならないのかもしれま
せん。
次に,声や音をめぐっては,どうしても超えられない「何らかの物質性」とでも言うべきもの,
今現在なかなか言葉では表現しづらい「何ものか」があるのでしょう。
「原発震災」という言葉自体についても,違和感があります。しかしそれは,3・11 という言
葉とも同じ質のものなんです。言葉になったものへの違和感に比べて,歌の次元で考えると,
たしかに驚くほどに何もののありません。
直接的に原発,反原発を歌った歌がないことより,引っ掛かっているのは,その点です。斉
藤和義だったら自分の歌を替え歌にして反原発をひそやかに重ねてみる。それと同じように,
歌詞では全然違うことを歌っているのだけれど,
「これは原発を批判する歌だ」と多くの人がす
ぐに察知できるものすらないのか。われわれは,そういう想像力を,そこまですでに失ってしまっ
ているのか。これはお応えするには難しい。不毛で不可能な自問かもしれない。
ただ,そのような身体を必要とする表現や表出は,即座に歌であるべきで,さらにみんなが
歌えるべき必要があるのでしょうか。集まり,ざわめく。それだけでもよいのかもしれません。
西 鈴木さんはいかがですか。
鈴木 質問の主旨をきちんと理解していないかもしれません。お許しください。反原発で歌わ
れた歌は,と考えてみると,斉藤和義や忌野清志郎のような,替え歌のものしか思いつかないと,
質問者はおっしゃるわけですね。それは,反原発や脱原発を掲げたデモや集会で一緒に歌う歌
がないということなのか,そのテーマでつくられた歌がないということなのか。どのように理
解すればよろしいのでしょうか。
浜 デモで一緒に歌う歌がないというのは,3.11 後に限ったことでは全然ありません。
ちなみに 4 月 10 日の高円寺には,若い人がほんとうに多数集まったんですけども,そこで演
奏されるものの歌詞が分からなくても,一緒に,♪らららあら,らららあって,皆が歌ってい
るんです。質問させていただいたのは,そのような集合的ハミングで歌が成り立ったという経
験があったからです。
さっき伺ったのは,こういうことです。例えば『Love Me Tender』の原曲を聞いて,あれは
清志郎の替え歌のオリジナル・バージョンなんだということを想像できる人は,たぶん,いな
いですよね。
西 いないと思いますね。
浜 では,何が残るか・残っているかという問題なんです。
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質疑応答(西,東,鈴木)
斉藤和義にしても元の歌からは,指向性を持ちメッセージ性がある替え歌ができるというこ
とを,なかなか想像できないんです。ある意味,
意図的に元の文脈を完全に外したかたちでつくっ
た替え歌でしか,ストレートに読み取れるようなメッセージを込められないのではないか。
今日の美空ひばりの歌も驚きました。こういう歌詞でほんとうに歌ったのかな,と。しかし,
そこに起きている・起こしている脱文脈化,あえて文脈をまったく別にずらして歌う,対抗的
なものにつくり変える,そのような種々のやり方と,鈴木さんがされたお話を組み合わせられ
ないのかなと思ったんです。
鈴木さんが最初にされた,ブリコラージュの話を例にとりましょう。元の文脈から脱文脈化
されて,それでも,ポストモダン状況は,その脱文脈化を何か「創造的なもの」として使うわ
けですよね。けれども,例えば,歌なら,そのもともとの歌が持っていた歴史性とか場所性が,
そこで奪取されてしまうのではないでしょうか。
今の文脈に沿って言葉を加えると,斉藤和義とか忌野清志郎は,いわばポストモダン的に,
確信犯的に,元歌の文脈をまったく違うものに置き換えることによって,出てきているのかも
しれない,ということです。
西 ただ,いわゆる替え歌というのは,基本的に文脈を置き換える遊びであり,それは非常に
民衆的なものだと一般的には言われていますよね。元歌ではなく替え歌であるという意味で。
鈴木 歌,楽曲という言い方が適当なのかどうかも分からないのですけども,その楽曲にその
固有の何か,どの文脈に置いても違和感を発していけるような,そういうものがあると仮に想
定するとしたら,『Love Me Tender』には,もともと,そういうものがあったのではないでしょ
うか。つまり,『Love Me Tender』は,まさしく替え歌でも「何か」が保持されるような歌だっ
たのかもしれません。
西 翻訳が起こっているわけですね。
東 ええ,そうですね。
浜 他方では,高円寺で演奏され歌われた,もともとはラテンアメリカの民衆闘争の歌である『不
屈の民』とか,労働歌とされてきた『平和に生きる権利』とかが,デモに来る人たちの風評を
何かしら獲得することもあるのかもしれない。さらにまたお聞きしたいのですが,怒りの民衆
ドラム・デモというのは,本当にドラムだけですよね。
東 はい。
浜 つまり,声の代わり,シュプレヒコールを上げる代わりにドラムをたたこうということで
すよね。この場合にも,元の文化が明らかに連続・保持されていると思うのですが。
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立命館言語文化研究 24 巻 2 号
崎山 私の身体的な経験からすると,
『不屈の民』はマーチソングですよね。特にチリの左翼学
生バンド「キラパジュン」が左翼候補のアジェンデに投票しよう,と歌ったものです。ところが,
73 年にチリ人民連合政権大統領のアジェンデがピノチェト将軍のクーデターによって殺された
こともあって,歌がはじめからラディカルな抵抗歌であったかのように,極度にロマン化され
ていったんです。それが引き継がれて,後にさまざまな連帯集会,たとえばニカラグアの革命
政権の支援集会で歌われるようになった。でもその過程で増幅されたものがあります。クライ
マックス部分に「そして人民は闘いに起ち,叫びあげる」という個所があるのですが,そこで
聴衆がみんな立ち上がっちゃうんですね。拳を一斉に振り上げてしまう。その光景は,はたか
ら見ているとファシストとどこが違うのかわからない。そういう身体所作になってしまうよう
な動員ソングでもあったような気がするんですよ。歌の力が歴史条件の変容過程にともなって,
変化してきているわけです。
そういう場所というか,音が声の政治を伴って,何らかのロマン化された意味を持って,人
に情緒的に浸透していってしまうような場面というのが,すごく,つくりづらくなってきている。
そのような感情動員不可能のよさ,悪さが新しく起こってきているのではないかと思うのです
が。どうでしょう。
西 今のコメントもあわせて,お二人からいかがですか。
鈴木 さっき東さんに言おうと思っていて,言わなかったことがありました。
近年の日本では蘇生する音というものが,あったとしてもトリビュート盤企画みたいなもの
ばかりです。言い換えてみると,自然発生的な蘇生がないということなんでしょうか。
では,もしわれわれがそのような時代状況のさなかにいるのだとすると,どういう物質的条
件で,そうなってきてしまったかという疑問が湧き起こります。
東さんがこの問題について語ると,ばあっと大きな花火が爆発するようにしゃべるなと思っ
て,私は指摘しなかったのですが。
東 まず,崎山さんに対して。そうなんです。まさにマーチング・スタイルなんですね。でも,
むしろ本当に,よくも悪くも体に染みる時間を与えない,空間も使わないということではない
かと思うんです。それが,新たな形式での蘇生という問題につながるんだと思います。
だから,替え歌もないし,替え歌をつくりたくなるような曲もないし,替え歌をつくる暇も
空間もないということではないのかな。そういう気がするんです。
僕はしばしば「挙動不審者」として見られることがあります(会場爆笑)。というのは,いろ
いろなところをうろうろしているときに,子どもたちについて歩く一種の「調査」をするから
です。結構,子どもたちって替え歌を歌っているんですよね。その替え歌って,アニメ・ソン
グなどが元歌で,意外にいい曲もあるんです。しかし,何と言うのかな,僕はそれがだんだん
嫌になったので,あまり職業評論家をしなくなってきたんです。
というのは職業評論家でジャンルとか対象とかがくっきりと分かたれているにもかかわらず,
結局,音楽も音も歌自体も演奏家もどの批評家も論じていない。音楽評論家自体が評論をして
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質疑応答(西,東,鈴木)
いないわけです。ほとんどのマスメディアも似たりよったりですね。
何を取り扱っているかというと「商品」です。「商品」のプロモーションをしているだけなん
ですね。たとえばトリビュートになるものの場合,あからさまに音楽業界が,「ちょっと眠って
いる音源があって,忘れられているんだけれど,うちに所属している若手のこいつにトリビュー
トさせとくよ,よろしく」みたいなわけで,まさに資本的再生産以外の何ものでもない。
そういう仕組みがどのように出来上がっているのか。これは,浜さんの先ほどの質問である
原発事故,あるいは東北震災全体に関して,どのように体が動かされるのかという問いがそこ
に存在しています。体が「動いていく」というわけでもなくて,自分たちの中から,言葉や歌が,
あるいは,音やメロディーが立ち上がっていくのかをじっくり準備する暇もなく,ばあんと先
にテレビが来ちゃうんですよ。
坂本九の歌を芸能人がみんなで歌って,感傷に浸って,「東北の人を思っている私を見てちょ
うだい,どう? いい人でしょう私って」とブラウン管の向こうで喧伝し,ブラウン管のこち
ら側で思わせられるわけです。「そうじゃない何か」を,どうつくれるのか。それが大切なこと
なのかなという気はします。
しかし…何でしょう。やっぱり,現地を写す次元では,意味自体が完全に流されてしまって
いる。それが視覚中心のいまの文化であり,視覚に関しては,ある程度みんな,ものすごく論
じてきてもいる。しかし聴覚に関しては,あまりにも無防備過ぎるような気がします。やっぱり,
そこをどう考えるかということが必要なんでしょう。
西 そういう意味では,今日もちょっと話題になったけれども,まさにレコード産業が立ち上
がって,それが北米,ヨーロッパから第三世界の方へ広がっていく中で,アメリカの国内で言
えば,いわゆる南部でブルースとかが出来上がって,それがレコード化されていくような中で,
それこそミシシッピ川の大洪水をブルースシンガーが歌うとか。
そういうふうに,それこそカリプソも同様だと思うんだけども,時事ネタで即,受けられる
ような,誰でもできそうなことを,しかし誰でもができないようなかたちで創造していくかた
ちで,アーティストたちがどんどん登用されて,それが,ある意味で一つの資源になり,再生・
再構築されるということが,ずっと重ねられてきたんでしょう。そのように思うんだけど,そ
のサイクルが,きちんと機能しているのかどうかというのは,やっぱり,いまは問われている
んだと思います。
やはり,日本は,そういう意味で,美空ひばりでさえもが,これは別に美空ひばりの個性,
いや,あの歌は本当に彼女でなければ歌えない歌なんだけども,ああいう曲の選択であったり,
詞の選択であったりというのは,美空ひばりの人徳なのかどうか。そこを疑ってしまう部分が,
どこかであったりするんですよね。
だから,出来事をきちんと受け止めて,それを声に変え,歌に変えるような,そういう技術
とか,また,その逆に,その歌を通して新しい出来事をつくり上げていくことを考える意味も
ある。
そういうサイクルが日本で,いままでどれくらい機能してきたのかを考えるときには,アメ
リカ大陸での経験は,一つの重要尺度になるのかなとも思います。まあ,アメリカでさえも,
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立命館言語文化研究 24 巻 2 号
いま,どうなっているのかなと,ちょっと気になるところはあるんですけどね。
時間もあまりありませんが,ほかに,いかがでしょうか。
会場 1 立命館の院生です。最初にご紹介いただいたご本の中に文化史学者のウォルター・ミニョ
ロが書いた『ルネッサンスの暗黒面』というのがありました。
崎山 『The Darker Side of the Renaissance』ですね。
会場 2 今日のお話だと,西半球の話が主だったと思うんですけど,つまり,それが近代の裏,
要するにヨーロッパではない部分で出来上がっているというような話をされたのかなと思った
のですけども,そういう意味で。
東 裏というよりかは侵食している感じでしょうかね。
会場 2 なるほど,分かったような気がします。
東 僕は『ヒロシマ独立論』という本の中にも,ラテン・アメリカ,あるいはラティーノ・ア
メリカみたいなのが,すごく広島にも侵食していて,その中で取り上げているギジェルモ・ゴ
メス=ペーニャ(Guillermo Gómez-Peña)というメキシコのアーティストがいます。
彼が,世界を五つのタイプに分けるんだ,と面白いことを言っている。まずは,いわゆる第
一世界,第二世界,第三世界。
第四世界というのは,その三つの世界全部にまたがっている先住民がいる,資本主義社会や
社会主義系の。ゴメス=ペーニャの提起が 1999 年のものですから。第三世界によく,そういう
先住民の土地や,どこにでもある都市で移民たちが使ったりするのを代用していたりとか。
第五世界という言い方もしていて。ホワイトハウスとディズニーランドとマスメディアがそ
れで,「くそったれ」だとも言ってますね。
ある種,さっきのミニョロの本は,その第三世界までにいくまでを非常にきっちり,いろい
ろな地図とかを出しながら話しています。
それで,今ようやく第四世界じゃないかなと思うんですね。やっぱり僕らが考えないといけ
ないし,明確に意識しなければいけないのは,その第四世界に自分らがいるということです。
その空間をどうつくっていくか,認識していくかという作業のなかで,そのモデルとしては,
僕にとって本当に体に一番合うのは音楽だなと思っています。
ただ,今日ちょっと,そこらがあまり,うまく前半に説明できていないかなというか,何か
むしろ考えない方向でしゃべろうと思ってしまって,考えないままにしゃべっていると,美空
ひばりやマーヴィン・ゲイになってしまって,すみませんという話でした。
西 ありがとうございます。
でも,その第四世界を代表するのが音楽だという気はしますよね。いろいろなアートの中で
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質疑応答(西,東,鈴木)
もね。
ほかには,いかがでしょう。はい。
会場 2 非常に素朴な疑問なんですけども,戦争体験とか震災体験というのは万人共通な体験と
されていますけれども,一人一人違うわけですよね,それぞれ。まったく同じ体験というのは
一つもないわけで,音楽の場合も集団的な共通の記憶とか,体験というのがあり得るのかどう
かというのが,ちょっと疑問に思っているもので,そのことについて。
西 では,簡潔にお願いします。
東 たぶん,その通りだと思います。これをどう考えるかというのは本当に難しいですね。た
だ一つ言えるだろうことは,その一人一人異なる経験を取りあえず,身を寄せるように何らか
の集合的なもののように解釈ができる,受け止めることができるように演奏するとか,歌うと
いうことが可能であるという例は,あるということですけど,これをやっぱり,どう考えるか。
だから,みんなが違う経験だけど,みんなが心を寄せる歌声があったり,曲があったりすると
いうことですね。
ただ,それがもちろん,そうじゃないよという人もいるけど,ある程度の人たちが集合的に
身を寄せることができる音楽というものがあるというのは,僕は確かだと思うんです。 確かに,
おっしゃる通り,それぞれの経験は全部,違うことになると思うんですけども。
西 それはその辺りをはっきりさせるために,共有じゃなくて分有という言葉が,つい最近,
使われるようになっているんだろうと思うんだけども。
それが同じ場所で分有し合うということもあるでしょうし,また,地域や時代を超えて,そ
の分有の可能性が広がっていくということもあるということだろうと思います。
実際,戦争は戦争で,それぞれ違った条件の下で行われるわけだけれども,やはり戦争の中
で人々が経験するということは,いろいろなかたちで共振し合うものであるわけでだから,反
戦というような切り口というのは,それこそ,みんな,さまざまな思いで,たぶん原発も,そ
うでしょうけど,それに関わっていくだろうけれども,しかし,やはり,そこで分有した者同
士が手を取らなければいけないような局面があるということで,議論をしてきたんだと思うん
ですけどね。
会場 3 共有と分有の違いをもう少し。僕は全然,分からないので,詳しい・・・。
西 それぞれのかたちで,それを処理するということじゃないですか,分有というのはね。
会場 3 そうですか。
西 つまり,マーヴィン・ゲイが好きという人はいろいろいるけど,やっぱり俺もマーヴィン・
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立命館言語文化研究 24 巻 2 号
ゲイが好きなんだって言えちゃうということですよね。
東 まさにそういうことです。
西 だから,東さんとは違うマービン・ゲイ好きが世界中にいっぱいいると思うので。でも,
ある一瞬,その間に友情が生まれそうな気はするということなんですけどね。
それでは,東さん,鈴木さん,そして聴衆のみなさん。長い時間ほんとうにありがとうござ
いました。
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