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松山由布子 - 名古屋大学 文学研究科 文学部

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松山由布子 - 名古屋大学 文学研究科 文学部
テキストに見る神楽屋敷の民俗文化
―東栄町小林区田ノ口家文献悉皆調査を通して―
松山 由布子 *
Folk cultural context of KAGURA-YASHIKI
―Through the investigation of TANOKUCHI’s old document,
in Kobayashi, Toei-cho―
MATSUYAMA yuko
要旨
花祭は奥三河地域を中心に行われている民俗祭礼行事である。その花祭で神事を行う人
物を“花太夫”という。花太夫は祭の場に神を勧請し、また送り返す重要な役割を担って
おり、その役は「神楽屋敷(禰宜屋敷)」と称される家の戸主によって代々継承されている。
この神楽屋敷には、花祭で詠まれる祭文詞章や、神事の次第・口伝等について記された古
記録、奥三河地域の生活史や文化史等に関わる文献が多数所蔵されている。
名古屋大学は平成二十一年度より、花祭伝承地の一つである北設楽郡東栄町小林区の神
楽屋敷「田ノ口」家で所蔵文献の悉皆調査を行っている。本稿では現在までの調査状況を
報告すると共に、その成果の一部として、当家に所蔵される神事の口伝書や覚え書き、当
家の戸主が昭和年間に記した蔵書目録について紹介する。そしてそこから伺われる、神事
修法の様子やその継承のあり方、神楽屋敷が近年に至るまで継承してきた知的・文化的背
景について記述する。
Abstract
“HANAMATSURI” is a folk festivity in Oku-Mikawa, Central part of Japan. The person who
rules divine service of “HANAMATSURI” is called “HANADAYU”. They play an important role
in this festivity to invite “Kami” during “HANAMATSURI”. Their roles have been succeeded by
some household’s hereditary role. We call the household “KAGURA-YASHIKI”. They inherit
some ritual texts, methods for process of the festivity, records of oral history and documents of life
and cultural history of Oku-Mikawa.
Since 2009, our research team of Nagoya University have been conducting general investigation
in Kobayashi of Toei-cho, especially focus on document of “KAGURA-YASHIKI” of
TANOKUCHI. First, I describe outline of this research. Second, I report the way of inheriting the
dual cultivation of divine service and cultural religious background of HANADAYU. Finally, I
*
名古屋大学大学院文学研究科
Nagoya University, Graduate School of Letters
117
present HANADAYU's oral notes written the way of this service and two owning documents table
that the household of “TANOKUCHI”s record in the year of the Showa era.
キーワード
花祭、花太夫、神事、文献、蔵書目録
はじめに
花祭は、奥三河地域を中心に行われている民俗祭礼行事である。奥三河を含む三信遠(三
河・信濃・遠江)地域は天竜川沿いに多くの民俗芸能を残す場所として知られている。花
祭もこの地域で広く行われている、湯立てを中心とした霜月神楽の一つである。その起源
は中世後期に遡り 1、熊野・伊勢系の湯立て神楽や修験道の影響下にあって安政三年(1856)
を最後に途絶えた大祭「大神楽」より発展したとされている。また諏訪や白山、津島など
周辺地域の民俗宗教や文化の影響も指摘されている 2。
この花祭の伝統や歴史的な変遷を今に伝えるものに、花祭で神事や舞、運営等を担う
家々に残された文献がある。その中には、花祭に関する口伝書や祭文詞章、祭の運営に関
する古文書等のほか、奥三河地域全体の歴史や民俗、文化に関する多彩な記録が含まれて
いる。名古屋大学比較人文学講座では、阿部泰郎教授、佐々木重洋准教授を中心に、花祭
伝承地の一つである北設楽郡東栄町小林区の「田ノ口」家 3に伝来する文献の悉皆調査を
行っている。田ノ口家は花祭で神事をおこなう“花大夫”を輩出する「神楽屋敷(禰宜屋
敷)」と呼ばれる家である。本調査の目的は、小林の中でも歴史的に特別な役割を担ってき
た田ノ口家の所蔵文献を通して、神楽屋敷が有する知的世界の様相や、その歴史的役割に
ついて明らかにすることである。本稿では調査の現在までの状況を報告するとともに、そ
の成果の一部として、花祭の神事に関わる文献や、当家の近現代における文献所蔵の状況
が伺われる蔵書目録について取り上げ、各資料の性格やその意味するところについて考察
する。
Ⅰ.小林の花祭文献と花太夫
1.先行研究と調査状況について
小林の花祭に関する文献研究は、早川孝太郎の『花祭』に『釜の神祭文』
『熊野祭文』
『さ
るごばやし(さんごばやし)』『おきな』詞章の4点が収録されたのをはじめ、これまでに
『修験道史料集(Ⅰ)東日本編』(山岳宗教史研究叢書17) 4や、武井正弘、中村茂子等
の論考 5の中に祭文や経典、面寄進の勧化帳等が取上げられ、翻刻されている。また地元
118
では『東栄町近世古文書目録「園・振草・補遺」編』
(東栄町誌編集委員会編:1999)、
『東
栄町誌「近世文書編」』(同:2001)『東栄町誌 「伝統芸能編」』(同:2006)に各家の所蔵
文献の一覧や一部資料の翻刻が載せられているほか、みょうどの一人である片桐美治氏
が昭和五十七年(1982)に記した『奥三河
6
小林花祭り』に、小林花祭の各次第の詳細と
その中で詠まれる主な祭文詞章についてまとめられている。田ノ口家所蔵の文献では、慶
長十五年(1610)の奥書を持つ『水神祭文』をはじめ、祭文や神歌、翁問答の詞章などが
これら先行の資料集に採録されている。また花祭会館には、31点の田ノ口家文献の複写
資料が収蔵されている。
平成二十一年度より行っている悉皆調査は現在およそ半分まで進行しており、これまで
に約140点の文献が確認された。各文献を内容によって分類すると、おおよそ以下の5
種類に分けられる。
①
花祭の次第や口伝を記した古記録 … 約20点
②
祭文詞章・経典類 … 約40点
③
民間宗教資料 … 約30点
④
花祭以外の民俗資料 … 約10点
⑤
古文書・歴史資料 … 約40点
先行資料集で主に取り上げられてきた文献は、この中では②「祭文詞章・経典類」や⑤
「古文書・歴史資料」に当たる。
本稿ではまず、①「花祭の次第や口伝を記した古記録」に含まれる、神事の記録や口伝
書について取り上げる。これらは花太夫が神事を行う際の実務的な内容の記録であり、小
林の文献はこれまでの先行研究ではあまり取り上げられてこなかった 7。しかし歴代の花
太夫が神事を行う上で必要とした記録類は、当時の神事や、各花太夫の様子を知ることの
出来る貴重な資料である。【表1】にそれらの書誌情報を一覧にした。
【表1】田ノ口家所蔵花太夫関係文書
表題
1
〔表題なし〕
筆録年
寛政十年 (1798)
8
筆録者
*「内藤氏
書誌情報・内容
田ノ口」
とあり
2
〔表題なし〕
江戸時代中期
不明
3
御花祭り事
文化六年 (1809)
伊藤次郎太夫(田ノ口)
119
*横帳
「釜ノ神祭文」
「式さんぐう」の歌ぐら
*横帳
湯立ての唱え句,歌ぐら
*袋綴(仮綴)
花祭の歌ぐら集
4
へんべい供傳覚
天保十年 (1839)
5
御花翁舞謂書
寛政九年 (1797)
不明
*末尾に「冨永庄」と
あり
*袋綴(仮綴)
鎮めの次第
*袋綴(仮綴)
翁舞の記録,翁問答の詞
*袋綴(仮綴)
6
御華本元謂書
天 保 十 三 年
(1842)
伊藤伊織(田ノ口)
「花本元」
*表紙見返しに「翁舞」
の記述あり
7
氏神祭礼敷山宮
明治二十三年
伊藤延太郎(田ノ口)
事
(1890)
*二十歳の時に筆録
*袋綴(仮綴)
「氏神祭礼敷山宮之事」
「湯立之次第」
*折紙
*伊藤柳健氏から伊藤延
太郎氏へ渡されたもの
(ママ)
8
〔表題なし〕
明治二十七年
「 御 身法大事」
伊藤柳健(大屋地)
(1894)
「湯之大事」
*ツレの切紙(明治二十
九年
伊藤柳健筆)に「普
門品読誦ノ法」
「九字ノ大
事」の記述あり
*袋綴(線装)
「ねぎ舞式」
華祭式/ねぎおと
9
/をきな舞式/并
明治三十三年
(1900)
「御神子舞」
田邊照山
「翁舞式」
ニ湯生元
「湯生元」
「花祭之順立」
*袋綴(仮綴)
「御神法大事」
「辻堅十二印之次第」
「天王十二印ノ次第」
10
花祭礼祭文
大 正 十 五 年
伊藤重太郎(田ノ口)
(1926)
*三十一歳の時に筆録
「金山祭文」
「鎮火祭文」
(ママ)
「宝様ひ年号月日祓之覚」
「御華本元謂書」
「田楽順番之次第」
120
(楽カ)
「平山田 学 次第」
「閏祭之次第」
「秘密御波羅以」
*袋綴(仮綴)
*鉛筆で頁番号を記入
「花祭式目順序」
「花祭り御神木」
「花祭十一日宿花式次第」
「花祭式次第」
重太郎氏(田ノ口)の
「榊鬼舞の事 かむる時」
筆か
11
御花祭式順立抄
不明
「榊鬼舞事 あらたむる事」
*「花祭式次第」のみ
「楽ばちの舞」
別筆か
「禰宜舞式」
「御神子舞」
「翁舞式」
「火鎮祝詞」
「花祭十一日宿花式次第」
「花祭式次第」
*袋綴(仮綴)
12
花祭り神歌
昭和二十五年
伊藤信弘(田ノ口)
神歌,
「式さんぐう」の歌ぐ
(1950)
ら
13
花祭り
昭和二十八年
*袋綴(仮綴)
伊藤信弘(田ノ口)
湯立て神事の次第
(1953)
*袋綴(仮綴)
「三種太祓」
14
花祭り祭文
昭和二十八年
「降来要文」
伊藤信弘(田ノ口)
(1953)
「送納要文」
「神酒祝詞」
「釜之神祭文」
「鎮火祭文」
15
花祭り申付
昭和二十八年
*袋綴(仮綴)
伊藤信弘(田ノ口)
「日本海道下り神社事」
(1953)
16
御鎮之事
昭和五十三年
(1978)
*袋綴(仮綴)
伊藤信弘(田ノ口)
121
鎮めの次第
*袋綴(仮綴)
「熊野祭文」
「釜之神祭文」
「釜三柱之祓」
17
〔表題なし〕
不明
不明
「伊勢祭文」
「十種之太祓」
「五穀最成飯成五社大明神
之祓」
「日本海道下り神社事」
早川孝太郎は花太夫の行う修法について、「火伏せ、湯立て、神下し反閇等、多く口伝
秘密に掛るもので、一面体験に俟つ修法であった」としており(早川:1971(1930),329)、
それらの記録については「行事遂行上の次第順序を明かにしたものであるが、一面から言
うと、備忘録に過ぎなかったから、これが保存されぬ土地でも、祭りは支障なく行われて
いたのである」と説明している(早川:1971(1930)392)。また花祭に関する口伝書や覚
え書きには、湯立ての呪符や九字反閇の呪文のような「当事者以外には絶対に披見を許さ
ない禰宜の行なう呪術に関するもの」と、祭文詞章、問答の詞、歌詞等の「かつては他人
の披見をゆるさなかったとしても、現在は秘伝と言うよりはむしろ覚え書に近い記録」の
二種類があるとしている(早川:1971(1930)391-392)。
【表1】に取り上げた文献はこれ
ら早川の挙げた花祭に関する口伝書や覚え書きの性格に概ね当てはまるものである。次節
では各資料の特徴と資料から伺われる筆録者達の様子について考察する。
2.口伝書の特徴と花太夫の修法継承について
【表1】で取り上げた文献資料は、資料1~6が近世、資料7~17が近代以降に成立
したものである。装丁は簡素なものが多く、神事の内容や祭文詞章、祭りの中で繰り返し
唱えられる歌ぐら等について記されている。
資料1~3は神事の中でも重要な「湯立て」や「鎮め」、歌ぐらについての書き付けで、
小型の横帳に内容が一つ書きで記載されている。興味深いことに、資料2の中に「一
きなれは
一
し
みるめこそ」という様に歌ぐらの冒頭のみを記した箇所が見られる<写真
1>。この歌ぐらは、実際には「しきなればしきをば申すいつとても しきをば神のひとえ
たまわな」「見目こそあをめが浦にをりうらめ そら吹きよせよしかの裏風」と唱えるもの
であるが、神事の場では冒頭を唱えれば自然に次の句が浮かぶものであろう。また資料4
では「鎮め」9の神事について、立ち位置の移動を実線で記し、その脇に細かな所作につい
ての書き込みがなされている。資料11や13は神事の内容や各動作を時系列に並べて記
122
している。このような記録の方法は、これらが神事台本として祭りの場で実際に使用され
たことのあらわれであろう<写真2>。
<写真1>資料2
(表題なし)〔江戸時代中期〕
歌ぐらの冒頭部分のみが一つ書
きで記されている。
<写真2>資料11
『御花祭式順立抄』〔昭和二十五年〕
神事の内容や太夫の動作が、時系列に
沿って記されている。
また資料7以降の近代文献のうち、資料7、10、12~15は、筆録者が花太夫とな
るよりも前に記されている。次の【表2】は、小林の歴代の花太夫の一覧である。小林に
は「田ノ口」家の他に「大屋地」家という神楽屋敷があり、両家の戸主が代々花太夫の役
を務めてきた
10
。近年大屋地家が小林を離れて後は、田ノ口家がその役を継承している。
【表2】小林の花太夫一覧
*片桐美治「花祭り奉開年表」11を元に報告者作成
元号
文政十三年
花太夫(屋号)
伊織(田ノ口)
(1830)
天保三年 (1832)
西方:織江・伊織(田ノ口)
東方:勘江門
12
元治元年
(1864)
主計(大屋地)
慶応三年
(1867)
主計(大屋地)
明治九年~明治四十二年
明治四十三年~大正十五年
(1876~1909)
(1910~1926)
伊藤柳健(大屋地)
伊藤延太郎(田ノ口)
123
備考
昭和二年~昭和十五年
昭和十六年
伊藤重太郎(田ノ口)
(1927~1940)
伊藤信市(大屋地)
(1941)
昭和十七年~昭和二十九年
昭和三十年~平成三年
平成四年~現在
伊藤猪三郎(村栗)
(1942~1954)
大 先 が
代理
伊藤信弘(田ノ口)
(1955~1991)
当代(田ノ口)
(1992~)
資料7は、明治の終わりから大正期にかけて花太夫を務めた伊藤延太郎氏が二十歳の時
に記した神事次第であるが、延太郎氏が花太夫となったのは【表2】から算出すると四十
13
歳の頃である
。また延太郎氏ほどの時間的な隔たりはないが、延太郎氏の次代の伊藤重
太郎氏、重太郎氏の子息の伊藤信弘氏も、資料10、12~15を花太夫となる数年前に
記している
14
。こうした記録の作成は筆録者が神事の口伝的内容を覚えるため、また実際
の神事でこれらを台本として使用するために行ったものであろう。特に信弘氏の場合、氏
おおさき
が花太夫になるまでの十三年間は大先(みょうど頭)の伊藤猪三郎氏がその役を代行して
いる。資料11~15からは神楽屋敷に花太夫の役を戻すに当たって必要な知識や技術の
習得に励む信弘氏の様子が伺われる。
これら田ノ口家の神事に関する口伝書や覚え書きは、当家の歴代の花太夫がそれぞれに
記録を残していることや、記述内容に一部重複が見られることから、主に筆録した当人の
使用にかかるものであったと考えられる
15
。こうした特徴は、早川の指摘する口伝書の「備
忘録」的性格に合致する。
しかし一方で、呪文や印、反閇等、早川が「特殊な修法」と称したものについては、花
太夫間で特別なテキストを媒介した修法伝授の形態が見られる。資料8は「護身法大事」
「湯之大事」について記された切紙であり、その末尾には
教導職誠補訓導/伊藤柳健
明治廿七年/旧十二月三日/伊藤延太郎殿□
*□は不読
とある。伊藤柳健氏は、延太郎氏の先代に当たる「大屋地」家の花太夫であり、文面よ
り資料8は柳健氏から延太郎氏に渡されたものであることが分かる。また資料8の他に、
「普門品読誦ノ法」「九字ノ大事」について記された切紙(明治二十九年
伊藤柳健筆)
も残されており、資料8と同様、柳健氏から延太郎氏に渡されたものと思われる
16
。
また田ノ口家には、これらと類似の切紙「火消法火渡り之大事」(包紙外題「火消法」)
も所蔵されており、その奥書には
124
明治三拾三年庚子十一月□(朔カ)日/御顥山/田邊照山
(花押)
とある。
「田邊照山」は資料9の筆録者であり、花祭会館に収蔵される大屋地家文書の複写
資料『仏説即身貧転福徳円満宇賀神相菩薩白蛇示現三日成就経』の末尾には、
・ ・ ・ ・ ・
大越家法印
金剛院照山書之
元治元甲子三月吉日
だいおっけ
とある。
「大越家」は権大僧都に相当する修験者の位であり、この人物が修験の先達であっ
たことが分かる。先に挙げた通り、花祭には修験道の思想や修法が深く関わることが知ら
れている
17
。この資料と、資料7の先代花太夫の切紙による修法の伝授に関係性が見出さ
れるのであれば、花太夫の神事が近代初期の時点においても、修験道の知識や技術に裏打
ちされたものであったことが明確になるだろう。そうした修法を身につけた花太夫は、花
祭全体の思想的背景を体現する存在あったと考えることも出来る。こうした点は今後の調
査の中で明らかにしたいと思う。
Ⅱ.「蔵書目録」に見る神楽屋敷の知識体系
先に述べたように、現在行っている文献調査は、田ノ口家の所蔵する文献の全容把握を
通して、神楽屋敷の歴史的な役割や、そこに内包される知的様相を明らかにすることを目
的としている。そしてこれらの点を明らかにする為には、一点ごとの文献の詳細な分析と
共に、
「花太夫家の蔵書」という存在それ自体の意味を考察する必要があると考える。こう
した文献資料群全体の様相を知るのに有効な資料に、
“蔵書目録”がある。所蔵文献の表題
や書誌情報についてまとめられた目録は、情報が一覧化されているために全体の様相を客
観的に捉えることが容易である。また目録の製作者が何を取り上げ、何を取り上げなかっ
たかということからは、製作者の資料群に対する関心や認識を伺うことが出来るだろう。
田ノ口家には先々代の花太夫である伊藤重太郎氏が、当家の所有する近世の祭文や経典、
近代以降に成立した様々な文献についてまとめた目録が二点現存する。両者を仮に〔目録
Ⅰ〕<写真3>・
〔目録Ⅱ〕<写真4>として、両目録の書誌情報を提示し、内容について
若干の考察を述べる。
<写真3>
〔目録Ⅰ〕
(表題なし)
〔昭和十八年〕
一丁目に近世の祭文・経典について
の記述がある。
125
<写真4>
〔目録Ⅱ〕
(表題なし)〔昭和十八年〕
〔目録Ⅰ〕の二丁目以降に同じ。
これらは二点とも伊藤重太郎氏によって昭和十八年(1943)三月に記された当家の蔵書
目録である。両目録の装丁や法量は等しく、書誌的な体裁はほぼ同じである。文献の書名
や書誌情報は一つ書きで記され、筆や墨の異なる書き入れはない。両者の大きな違いは、
〔目録Ⅰ〕にのみ一丁目に近世に成立した祭文・経典類が採録されている点である。その
ため〔目録Ⅰ〕は、
〔目録Ⅱ〕より紙数が一丁分多くなっている。
〔目録Ⅰ〕の二丁目(〔目
録Ⅱ〕の一丁目)以降は主に近代の書誌についての記述であるが
18
、両方共にほぼ同じ内
容が記載されている。目録中の書誌は、現時点では祭文を中心とした14点のみ現物との
同定作業が完了している
19
。本稿末に両目録の翻刻を載録した
20
。
両目録は冒頭または末尾に「田野口家蔵書」と記されており、ここに記載された文献を
重太郎氏が当家の蔵書と認識していたことが分かる。注目すべき点は、取り上げられた文
献の内容の多様さである。目録には当家の所蔵文献としてよく知られている『水神祭文』
や、
『金山祭文』
『般若心経秘鍵』のような祭文・経典類(〔目録Ⅰ〕のみ)のほか、神道書、
印図、略縁起、御嶽教教典、占術書、易法による民間医術書、文学作品、手習いの書、写
真帳、農家の経営簿などが挙げられている。こうした内容は、また冒頭で筆者が提示した、
現在田ノ口家に所蔵されている文献の内容分類のそれぞれに当てはまる。勿論、作成当時
のすべての所蔵文献が目録に載せられているわけではないが、内容の面から言えば、この
目録は昭和初期段階における田ノ口家の意識的文献所蔵の様子を端的に表すものとなって
いる。
〔目録Ⅰ〕にのみ記載される近世の祭文・経典等は他と明らかに区別されており、特
別な資料として認識されていたと思われる。しかしそうした古い宗教的な文献だけでなく、
〔目録Ⅰ〕の二丁目(〔目録Ⅱ〕の一丁目)以降に挙げられた近代以降の宗教文献、花祭と
は直接関わらない民俗資料、自身や家族に関わる記録についても、重太郎氏は当家の重要
な蔵書と考えていたのであろう。一方で、先に取り上げた花祭の口伝書や覚え書きは目録
に載せられていない。このことからも【表1】で取り上げた口伝書や覚え書きはあくまで
も自身の「控え」であり、蔵書として取り上げ、後代に引き継ごうとする意識の希薄なも
のであったことが推察される。
またこのように、田ノ口家において花祭とは直接関わらない多様な文献が蔵書として管
理・保管されていたということは、神楽屋敷が“花太夫を輩出する”役割だけではなく、
日常生活全般において豊かな知識・教養を有する家であったことを表しているだろう。そ
126
うした背景が、花祭の場においても近年に至るまで花太夫の立場を保持する基盤となって
いたのではないだろうか。
おわりに
本稿は、奥三河の花祭伝承地の一つである小林区の神楽屋敷「田ノ口」家の文献悉皆調
査について、調査状況の報告と成果の一部紹介を行った。内容としては、小林花祭の神事
に関する口伝書や覚え書き、昭和期に作成された田ノ口家の蔵書目録を資料として取り上
げ、花太夫の神事技術の継承について従来言われている口伝等の他に、切紙による修法伝
授の形態が見られること、神楽屋敷が近年に至るまで地域の中でも豊かな知的・文化的背
景を有する家であったこと等を明らかにした。
第二章で提示した通り、田ノ口家に所蔵される文献の内には花祭とは直接関わらない日
常生活に関する民俗資料が多くある。それらの内容は花祭と直接関わるものばかりではな
いが、花太夫の蔵書として、神楽屋敷という空間の中で花祭と多分に関わるものであると
考える。これらの諸文献は一点一点が膨大な内容を有しており、具体的な神事や次第、地
域の歴史・社会・文化との詳細な比較検討によって、初めて明確な位置付けを行うことが
出来るものであろう。本調査が小林区の地域文化史を紐解く一つの契機となれば幸いであ
る。
謝辞
本稿を執筆するに当って、当代花太夫の伊藤知幸氏、小林花祭保存会長の小野田博文氏
に多大な御助力を賜りました。
厚く御礼申し上げます。
127
資料紹介
翻刻「田ノ口所蔵文献目録」
<凡例>
本稿は、北設楽郡東栄町小林区の田野口家に所蔵される蔵書目録(2点)の翻刻凡例で
ある。翻刻に際しては次のような方針で行った。

二点の目録のうち、丁数の多い方を〔目録Ⅰ〕とし、他方を〔目録Ⅱ〕とした。

上下二段組みとし、上段に〔目録Ⅰ〕、下段に〔目録Ⅱ〕の翻刻を載せた。

丁数は右上に〔

内容の異同は太字で示した。

漢字は通常の字体に改めた。

返り点は省き、句点は原文通りとした。

割り書きは<

不読の箇所は□で示した。

文字の配置は極力原体を保持した。ただし一部行取りはその限りではない。

表記出来ない書き込みは直後に*を冒頭に置いた注意書きを付した。
〕で示した。
>で示した。
<書誌情報>

表題:なし

装丁:横帳,仮綴じ

法量:縦

丁数:〔目録Ⅰ〕三丁
12.5 ㎝×横 34.9 ㎝
〔目録Ⅱ〕二丁

料紙:楮紙

識語:〔目録Ⅰ〕(表題)「昭和拾八年参月調」
(尾題)「昭和拾八年参月吉日調
〔目録Ⅱ〕(表題)「昭和十八年三月調

筆録者:伊藤重太郎
128
伊藤田野口蔵書」
田野口蔵書」
〔目録
〕
Ⅰ
〔目録 〕
〔目録 〕
〔目録
〕
Ⅱ
加 禄二年正月 大屋地小野田ノ書
一、御檀式祭文 伊藤主計光定
元禄九年 小
<野田右内 伊藤右内 >
二百三十六年
文化五年正月
百二十一年
持主 吉兵衛
一、天王御檀式祭文
九十九年前
天保十四年 小野田宮太郎
*「一、牛頭天王嶋渡祭文」から「一、天王御檀式
祭文」まで上括弧が付される。
(ママ)
昭和十八年
紀元二千六百〇三年
一、牛頭天王嶋渡祭文
〔一丁ウラ〕
一、五形祭文 全
寛文十一年十二月
一、天王嶌渡祭文
寛文十一年十二月
持主
重太郎
*「一、五方還祭文」から「一、天王嶌渡祭文」
まで上下括弧が付され、下段に「二百七十一年」と
記載。
一、不明
明暦三年六月
二百八十五年
惣太夫
一、祝詞
寛文十三年
二百七十年
七蔵
Ⅰ
〔一丁オモテ〕
( ママ)
昭和拾八年参月調
一、水神祭文
慶長十五年
三百三十三年前
権大僧都阿者梨和尚
一、不詳
慶長十六年五月祥吉日
三百三十二年
鳳来寺権大僧都明王院
一、金山祭文
元和八年
三百十三年
主市蔵
一、天宗ぞろい
寛永十七年四月
三百〇六年
主七蔵
一、守札
慶安三年
二百九十二年
一、万治元年十一月吉日
三百八十五年
十略之図 但判刷
天下一 幡 摩守藤原宗次
一、天土公、牛頭天王嶋渡祭文
万治三年十月
二百八十二年
柏原権蔵家継
一、般若心経秘鍵
万治三年正月
二百八十二年
柏原権蔵
一、五方還祭文海巌溲書之者也
寛文十一年十二月二十一日
持主
重太郎
一、大土公
全
寛文十一年十一月
129
Ⅱ
〔目録
〕
Ⅰ
〔目録 〕
〕
Ⅱ
〔二丁オモテ〕
〔目録
〔二丁オモテ〕
昭和十八年三月調 田野口蔵書
一、五儀略式 全
一冊
解除付(黄表紙、日本綴)
四六判
一、古訓古事記 上中下
三冊
青 表紙 和 本 四 六 判
一、神道五部書 天地人
三冊
青 表紙 和 本 四 六 判
一、手印図 十
< 二合掌 五部秘伝 >
全一冊
一
> 、改正印図 十
< 八道 金剛界 > 一冊
一、改正印図 胎
<蔵界 不動十四根本 >
一冊
但シ右ノ印図三冊ハ和本菊判也
一、参河国官社私考略
一冊
白 表紙 和 本 菊 判
一、善光寺如来略縁起
一冊
平かな絵入ウスキ本
一、官許通語
三冊
水哉館遺編懐堂蔵
青 表紙 和 本 菊 判
(但シコレニハ伊藤延太郎トアリ)
一、日本略史 第壱
一冊
笠間益三編纂 東京
近藤瓶城訂正 中近堂蔵版
(伊藤延太郎ト記シアリ)
黄表紙 菊判 和本
〔目録 〕
一、五儀略式
一冊
解除付 黄表紙 四六判 和本
一、古訓古事記
上中下
三冊
青表紙 四六判 和本
一、神道五部書
天地人
三冊
青表紙 四六判 和本
一、手印図 十
< 二合掌 五部秘伝 >
全一冊
一、改正印図 十
< 八道 金剛界 >
全一冊
一、改正印図 胎
< 蔵界 不動十四根本
全一冊
右ノ印図三冊ハ黄表紙菊判和本
一、参河国官社私考略
一冊
白表紙 菊判 和本
一、善光寺如来略縁起
一冊
平かな絵入ウスキ本
一、官許通語
三冊
水哉館遺編懐堂蔵三丁
青表紙 菊判 和本
伊藤延太郎ト記入
一、日本略史
一冊
笠間益三編纂 東京
近藤瓶城訂正 中近堂蔵版
黄表紙 菊判 和本
伊藤延太郎ト記入
Ⅰ
一、天王三十荒神
延宝四年二月 春山城之
二百六十六年
小林村荒畑
重太郎
一、金山祭文
延宝四年
二百六十六年
柏原 重太良
一、観音経
寛保元年十二月十九日 二百〇二年
小林村 惣太夫
(ママ)
(ママ)
一、御 輪 旨
文政三年 伊織
百二十二年
一、定書 伊
< 藤代 々 覚 エ 副正 義教 法 印 □
(端カ)書 >
文政三年
百二十二年
一、安政三年正月吉日
八十六年
法豊川妙厳寺雪龍敬施所
一、天神京
八十七年
安政二年正月 馬太郎
一、大般若理趣分
万延二年二月吉日
八十二年
御影此大法寺
一、宝覚付
慶応二年正月吉日
七十八年前
伊藤源二郎太夫
一、手本 五 ま
旨覚へ 勢瑓
一、安永九年伊渡宗有よし 百六十三年
130
Ⅱ
〔目録
〕
〔目録 〕
Ⅱ
〔目録 〕
Ⅰ
〔目録
〕
Ⅱ
一、独占易学全書 完
六冊
青表紙 菊判 和本 黒布函入
伊藤延太郎ト記入
一、 増
一冊
<訂 医
> 道便易 全
白表紙 四六判 和本
一、周易講義
一冊
日本紙表紙 講義録綴り
一、御嶽教典 全
一冊
御嶽教大本庁発行菊判
伊藤重太郎ト記入
一、古易占病軌範
乾
二冊
<坤 >
赤茶表紙 菊判 和本
〔二丁ウラ〕
一、神佛秘法大全
一冊
柄澤照覚著 菊判
赤クロス張り 表紙洋綴り
伊藤延太郎ト記入
一、 実
< 地 調法 神
> 術霊妙秘蔵書 乾
<坤
一冊
柄澤照覚著 菊判
赤クロス張り 表紙洋綴り
伊藤延太郎ト記入
一冊
一、独占易学全書 完
六冊 一、梅花心易掌中指南
三冊 一、梅花心易掌中指南
三冊
青表紙 和本 黒布函入 菊判
青表紙 四六判 和本
青表紙 四六判 和本
(ママ)
初
初
<巻ヨリ 五巻マデ >
<巻ヨリ 五巻迄 >
( 伊藤延太郎ノ名記入
伊藤治良太夫ト記入
伊藤治良太夫ノ名記入
一、増訂医道便易 全
一冊
一、 永
一冊 一、永代早操 九星方位指南
一冊
<代 早操 九
> 星方位指南
白表紙 和本 四六判
黄表紙 折本
黄表紙 折本
一 、周 易 講 義
一冊
一、男女一代八卦 全
一冊 一、男女一代八卦 全
一冊
講義録綴リシ日本紙表紙
ウスキ和本
ウスキ和装ノ本
一、易学早指南 全
一冊 一、易学早指南
全
一冊
極メテ古キ和本ニテ 三
極メテ古キ和本ニテ 三
<五 五
>判
<五 >五判
一、図解九星運命考 全
一冊 一、図解九星運命考 全
一冊
〔 一丁 ウ ラ 〕
黄表紙 四六判 和本
黄茶表紙 四六判 和本
伊藤馬太郎ト記入
伊藤馬太郎ノ名記入
一、御嶽教教典 全
一冊
一、 本
一、 本
< 命星 干支命 本
> 命的殺精義
< 命星 干支命 本
> 命的殺精義
御嶽教大本庁発行菊判
乾
上
<坤 >
<中下 合冊 乾坤 >二冊
伊藤重太郎ノ名記入
上中下巻合作
二冊
黄表紙 折本 三六判
一、古易占病軌範 菊判
二冊
黄表紙 折本 三六判
一、易学独判断 全
一冊
赤茶表紙和本 乾坤
一、易学独判断 全
一冊
黒表紙 四六判 和本
一、神佛秘法大全
一冊
黒表紙 四六判 和本
新畑田ノ口ト記入
柄澤照覚著 菊判
新畑田ノ口ト記入
一、訂正祝詞式講義 全
一冊
赤クロス張り表紙 洋本
一、 訂
一冊
青表紙 菊判 和本
<正 祝
> 詞式講義 全
伊藤延太郎ノ名記入
青表紙 菊判 和本
伊藤重太郎ト記入
一、 実
<地 調法 神
> 術霊妙秘蔵書 一冊
伊
藤
重
太
郎
ト
記
入
一
、
易
学
諺解 全
一冊
>
柄澤照覚著 菊判 乾坤
一、易学諺解 全
一冊
佐久間順正著
赤クロス張り表紙 洋本
白表紙 四六判 和本
佐久間順正著
伊藤延太郎ノ名記入
白表紙 四六判 和本
一、鼇頭易学小筌
一冊
〔二丁オモテ〕
新井白蛾先生著
黒表紙 四六判 和本
一、新井白蛾先生著
鼇 頭易 学 小 筌
黒表紙 和本 四六判
131
Ⅰ
〔目録
〕
〔目録
〕
Ⅰ
Ⅱ
〔目録 〕
〔目録
〕
Ⅱ
薄 黒 表紙 和本
(ママ)
一冊
一冊 一、薩球軍記
古キ写本
五冊 一、袖錦岸流嶌 一、 二、三、四 、五 五冊
薄墨色表紙 和本(肉筆)
二冊 一、年中用文章 上
二冊
< 巻 下巻 >
一冊
〔二丁ウラ〕
一、行書千字文
一冊
黄表紙 和本
伊藤治郎吉ノ名記入
〔三丁ウラ〕
一、習字御手本
一冊
黒表紙 和本
一、習字御手本
一冊
内藤屋三郎ノ名記入
黒表紙 和本
一、御手本
内藤屋三郎ト記入
尾崎氏消息
一冊
一、御手本
青表紙 和本
尾崎氏消息
一冊
一、御手本
青表紙 和本
吉野詣
一冊
一、御手本
青表紙 和本
吉野詣
一冊
一、伊勢音頭 油屋のだん
青表紙 和本
五行本 伊藤治良吉ノ名記入
>
一、習字御手本
一冊
一、明治十五年三月廿六日
明治十五年三月廿六日
習字御手本
一冊
小林学校初代校長
久田先生書(父延太郎使用ノ物)
久田先生ノ書(父延太郎使用ノ物)
一、御布令書
一、御布令書
明治四年馬冶郎(祖父)ノ
明治四年祖父馬冶郎ノ書ラシキ物
書キシモノラシイ
一、薩球軍記
肉筆 古キ写本 半紙
一、袖錦岸流嶌 一、二、三、四、五
肉筆 薄墨色表紙 半紙
一、年中用文章
上
< 巻 下巻 >
薄墨色表紙 和本
一、行書千字文
黄表紙 和本
伊藤治郎吉ト記入
Ⅰ
一、家相と恐るべき因縁
一冊 一、家相と恐るべき因縁
一冊
伊藤延太郎ト記入
伊藤延太郎ト記入
一、新選呪咀調法記大全
一冊
三五判 黄表紙 和本 田ノ口ト
アリ
〔三丁オモテ〕
一、 訂
一冊
<正 増補 祝
> 詞全書
青表紙 菊判 和本
一、新選呪咀調法記大全
一冊
一、 校
<正 標
>注神皇正統記 全 一冊
黄表紙 三五判 和本
菊判 白地青模様入表紙 和本
田ノ口ト記入
伊藤重太郎ノ名記入
一、 訂
一冊
<正 増
>補 祝詞全書
青表紙 菊判 和本
古本之部
一、 校正 標注神皇正統記 全 一冊
<
>
一、御家末流近来要用文章
白地青模様入表紙 和本
折
本
一冊
菊判
一、女用文小倉錦
一冊
伊藤重太郎ト記入
青
表
紙
和
本
一、恋の文大和詞
一冊
古本之部
青表紙 和本
一、御家末流近来要用文章
一冊
一 、実 語 教
一冊
折本
黒表紙 和本
一、女用文小倉錦
一冊
一
、
絵
入
百人一首
三冊
青表紙 和本
表紙トレシ古キ本
一、恋の文大和詞
一冊
一 、伊 達 模 様
青表紙 和本
和韓(倭韓)乃染分 一
< 二 三
一、実語教
一冊
古キ和本
三冊
黒表紙 和本
一、絵入小倉百人一首
三冊
表紙トレシ古キ本
一、伊達模様倭韓染分
三冊
肉筆 古キ和本 半紙一、二、三
132
〔目録
〕
Ⅰ
〔目録 〕
一、大正天皇即位大礼記念帖
一、今上天皇御大礼記念写真帖
一、日本国勢調査記念録
(第一面)写真入黄表紙
クロス張り函入(青)横綴
一、皇太子殿下(今上天皇陛下)
御渡欧記念写真帖
一、昭和八年度
農家経営簿
(兄ノ日記)
一、大正十四年
第二回国勢調査
関係書類綴り
一、御嶽教々規
一、 皇
<漢 秘法 救
> 世妙薬
小林大屋地ト記入
Ⅱ
一、大正天皇即位大礼記念帖
一冊
一、今上天皇御大礼記念写真帖 一冊
一、日本国勢調査記念録
三冊
(第一回大正九年)黄表紙
青クロス張函入横綴 一組
一、皇太子殿下(今上天皇陛下)一冊
御渡欧記念写真帖
一、農家経営簿
一冊
昭和八年度 兄ノ日記
一、第二回国勢調査
一冊
関係書類綴り
大正十四年
一、御嶽教々規
一冊
一、 皇
一冊
<漢 秘法 救
> 世妙薬
小林大屋地ト記入
昭和拾八年参月吉日調
伊藤田野口蔵書
一冊
一冊
三冊
一組
一冊
一冊
一冊
一冊
一冊
133
1
小林区のもう一つの神楽屋敷「大屋地」家所蔵の『不動明王法則』には永禄九年(1566)、
『三十番神』には永禄十年(1567)の年号が記されている。これらの複写資料は花祭会館
に所蔵されている。また大神楽の記録として知られる豊根村山内榊原家蔵の『御神楽日記』
は天正九年(1581)、最古の花祭りの次第記録とされる『花祭り次第』は文禄二年(1593)
の成立である。(『東栄町誌「伝統芸能編」』:2006,23)
2 大神楽は曽川や三沢山内、黒川等数ヵ村の神楽組によって隔年に数日数夜行われた共同
祭祀で、安政三年(1856)を最後に行われなくなった。早川孝太郎は、この大神楽が簡略
化し、各地域に広がったものが花祭であるとしている。
(早川:1971(1930),17-18)大神
楽や花祭に関わる宗教民俗については、本田安次(『霜月神楽の研究』,1942 年,明善堂)、
武井正弘「花祭りの世界」(『日本祭祀研究集成』第4巻,1977 年,名著出版)「奧三河の
神楽・花祭考」
(山岳宗教史研究叢書『修験道の美術・芸能・文学Ⅱ』,1980 年,名著出版)、
山本ひろ子「大神楽「浄土入り」―奧三河の霜月神楽をめぐって」(『変成譜』,1993 年,
春秋社)等の研究がある。
3 「田ノ口」は屋号。その表記は文献によって「田野口」や「田乃口」等と記されるが、
本稿では本文引用、翻刻以外はすべて「田ノ口」の表記に統一する。
4 本史料集には、大屋地家蔵『不動明王法則』
『注連おろし祭文』
『五形六根守護祭文』
『御
崎祭文』『湯生元』、田ノ口家蔵の『水神祭文』『花祭天之祭式』の翻刻が掲載されている。
5 武井正弘は「奥三河の説話と伝承―神楽祭文の世界―」
(武井:1981)に田ノ口家蔵『湯
生記』の翻刻を掲載している。また中村茂子は『奥三河の花祭り 明治以後の変遷と継承』
(中村:2003)にて内藤猶富家蔵『御祭礼勧化帳』ほか六種の花宿の覚え帳を翻刻してい
る。なおこの『御祭礼勧化帳』は同様のものが三点あり、うち一点は田ノ口家に所蔵され
ている。
6 片桐氏は小林区のみょうどの一人で、東栄町振草区長や小林花祭保存会長等を歴任した
人物である。
『奥三河 小林花祭』は小林花祭の詳細を記した手引き書・研究書で、現在の
小林花祭の神事等の次第はこの本に依るところが大きい。
7『奥三河
小林花祭り』のみ、参考文献に【表1】の資料8、資料16を挙げている。
8『北設楽 小林花祭り』
(佐々木重洋/小林花祭保存会編,私家版,2009)の筆者担当箇所
にも本一覧と同様のものを掲載した。
9 「鎮め」は「神返し」の後に花太夫が神部屋で行う神事で、小林花祭では、現在も花太
夫以外他見厳禁で行われている。
10 早川孝太郎は、花太夫は通常二人で神事を担当し、一方が大禰宜、他方が副禰宜と称し
たと記している(早川:1930,327)が、片桐氏によれば、小林の花大夫は時代によって二
名の事例も一名の事例もあることが天保年間の御花役割に見られるという。(片桐:
1982,20)。また武井正弘は「明治以降は神職が資格制となり神楽屋敷の世襲制が崩れた上、
役割も著しく縮小したため、一人制となった地域が多い。」
(武井:1980,456-457)として
いる。明治の宗教政策が小林の花太夫に及ぼした影響については現在調査中である。
11 片桐美治『奥三河
小林花祭り』(私家版,1982)所収。
12 小林では天保三年(1833)(但し四年とも(中村:2003,77)
)から 弘化二年(1845)にか
けて自作農家対商人の木材売買をめぐる諍いから家同士が東西に分かれて争い、和解が成
立するまでは花祭も東西に分かれて行われた。中村茂子は、このことが小林花祭の特徴で
ある多くの役鬼面を持つ事や、その時期を中心に活発に行われた「出花」の活動、出花の
成果による広域な信仰圏の獲得に繋がったとしている。(中村:2003,77)
13 花祭会館に所蔵される大屋地家文書(複写)の中にも、延太郎氏が明治二十六年(1893)
に記した『御花祭湯生記』がある。
14 資料10は重太郎氏が花太夫となる前年、資料11は信弘氏が花太夫となる五年前、資
料12~14は信弘氏が花太夫となる二年前に記されている。
134
15
但しこれはあくまでも全体的な傾向であり、先代の資料を次代の花太夫が全く参考にし
なかった訳ではない。実際に当代の花太夫は、湯立ての際に資料13を参照している。
16 こうした点から延太郎氏が柳健氏の時にはすでに神事に深く介入していたとも考えら
れるが、それを明確に証明する資料は未だ見出されていない。
17 花祭は江戸初期に豊根村曽川の修験者、万蔵院とその弟子の林蔵院によって大神楽より
一日一夜の祭礼に再編成されたものと伝承されている。(武井:1980,461-465)
18 このことは10点目の『日本畧史』が「東京」で発行されていることや、延太郎氏・重
太郎氏の蔵書が多く見られることからも伺える。〔目録Ⅰ〕の二丁目(〔目録Ⅱ〕の一丁目)
以降の書誌には刊行年が記されていないが、書誌内容や一丁目の祭文等と区別されている
ことからも明治以降に成立したものとして良いだろう。
19 現時点で現物との同定作業が完了しているのは、
『水神祭文(慶長十五年)』「題未詳護
符集〔不詳〕(慶長十六年)」『金山祭文(元和八年)』「無題祭文集〔天宗ぞろい〕(寛永十
七年)」『般若心経秘鍵(万治三年)』『五方還祭文(寛文十一年)』『大土公(寛文十一年)』
『五行〔形〕祭文(寛文十一年)』『天王嶋〔嶌〕渡祭文(寛文十一年)』『牛頭天王嶋渡祭
(ママ)
文(加禄二年)』
『天王御檀式祭文(天保十四年)』
『天王三十 香 〔荒〕神(延宝四年)』
『金
山祭文(延宝四年)』『観音経(寛保元年)』の14点である。*〔 〕は目録内表記。
20 目録製作の動機、目的等については現在のところ不明であり、重太郎氏の個人史に関わ
る問題と考えられる。昭和十八年(1943)は太平洋戦争の最中であるが、小林の花祭りは
昭和十九年(1944)の時点でも次第を簡素化して従来通り行なわれている。
(『東栄町誌「伝
統芸能編」』:2006,55)
引用文献
早川孝太郎 1971『早川孝太郎全集 第1巻』未來社(1930『花祭』岡書院)pp.327-332.
pp.391-394
片桐美治 1982『奥三河
小林花祭り』私家版 PP.20-21. pp.160-161
東栄町誌編集委員会編 1999『東栄町近世古文書目録「園・振草・補遺」編』北設楽郡東栄
町 pp.228-233
東 栄 町 誌 編 集 委 員 会 編 2001 『 東 栄 町 誌 「 近 世 文 書 編 」』 北 設 楽 郡 東 栄 町 p.194,
pp.201-202,pp330-338,p368.p399,p433.pp540-542,pp545-546,pp561-563,pp590-591,pp613-615
東栄町誌編集委員会編 2006『東栄町誌「伝統芸能編」』北設楽郡東栄町 pp.55-56.
武井正弘 1983「奥三河花祭史料」『修験道史料集(Ⅰ)東日本編
山岳宗教史研究叢書1
7』名著出版 pp710-714.
武井正弘 1981「奥三河の説話と伝承‐神楽祭文の世界‐」
『国文学解釈と観賞』46(8)
号 pp.132-138.
武井正弘 1980『修験道の美術・芸能・文学〔Ⅰ〕』名著出版 pp.461-464.
中村茂子 2003『奥三河の花祭り‐明治以前の変遷と継承‐』岩田書院 pp.75-116.
135
136
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