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B 戦後中国史の展開

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B 戦後中国史の展開
世界史
B
授業実践例 〜戦後世界史はこう教える!〜
戦後中国史の展開
大阪府立狭山高等学校 浅野典夫
●はじめに
●ソ連のスターリン批判から中ソ対立へ
多くの高校において、第二次世界大戦後に割ける授
中国は、1950年に中ソ友好同盟相互援助条約を結び、
業時間は充分とはいえないだろう。私自身、冷戦終結
53年から第1次五か年計画を開始した。これはソ連方
まで終えることを目標としているが、駆け足で教科書
式にならって、重工業の発展を軸に社会主義経済建設
を表面的になぞるのが精一杯という経験が多い。また、
をはかるもので、ソ連の技術者を招き、ソ連の生産設
ほんの2、30年前のことでも、時代の雰囲気を生徒に
備を導入しておこなわれた。このように良好だった中
伝えるのに大きな壁を常に感じている。試行錯誤の現
ソ関係が、56年フルシチョフのスターリン批判・平和
代史だが、昨年度、世界史選択クラスで中国現代史を
共存政策以後ぎくしゃくしてくる。ここでもポイント
教える機会があったので、その折のことを記して参考
は台湾=アメリカである。アメリカと敵対関係にある
に供したい。また、本稿では『最新世界史図説 タペ
中国にとって、ソ連の平和共存政策は受け入れられる
ストリー 十一訂版』(以下、タペストリー)に新設さ
ものではなかったのである。これが中ソ論争(中ソ対
れた現代史の特集ページから「20世紀後半から21世紀
立)に発展していく。
の中国①、②」(p.295〜297)を活用しながら進めて
この際に、1949年の中華人民共和国建国が、ソ連の
いく。
支援(介入)なしにおこなわれたはじめての社会主義
中華人民共和国の歴史は、建国から文革までの毛沢
国成立であることは確認しておきたい。第二次世界大
東時代、改革開放路線の鄧小平時代に二分できるが、
戦後の東欧社会主義諸国の成立は、濃淡の違いはある
これを国際情勢に結びつけて説明することを心がけた。
もののすべてソ連の影響下のできごとであったが、中
そうすることによって中国政治史が理解しやすくなる
国は違った。コミンテルンの指導を排して、独自の戦
と同時に、戦後世界史の大きな枠組みや事件に言及で
略で根拠地を拡大し革命に成功したのである。した
きると考えたからである。
がって、建国後も中国共産党の指導部がその支配の正
●建国と朝鮮戦争
当性をソ連に依拠する必要はなかったし、内政でも外
1950年、朝鮮戦争が勃発すると、中国は北朝鮮を支
交でもソ連に追随せず独自性を主張できたのである。
援して義勇軍を派遣している。建国直後の、国力を国
1980年代末にソ連が指導性を放棄した結果、東欧社会
家建設に集中したいはずのこの時期に、なぜ大きな負
主義諸国が崩壊していくなかで、中国がそれに影響さ
担となる派兵に踏み切ったのだろうか。ソ連の要請な
れなかったのもこのためである。
どさまざまな理由はあるが、私は台湾・アメリカとの
1958年にはじまる大躍進政策(第2次五か年計画)
関係から説明した。
が、鉄鋼と食糧の増産を掲げ重工業だけでなく農業を
アメリカは中華人民共和国を認めず、国共内戦に敗
も重視したこと、工業において土法(在来の技術)を
れ台湾に逃れた国民党政府を支援していた。その台湾
奨励したこと、農業の集団化においてソ連のコルホー
政府はアメリカの支援により大陸奪還を唱えていたの
ズの十倍規模で人民公社を設立していったことなどは、
である。朝鮮戦争で北朝鮮が敗北すれば、その余勢を
経済建設においてソ連方式から離れ、独自性を追求す
駆ってアメリカ軍(国連軍)が国境を越えて中国領内
る意図が見える。こののち中ソの対立は深まり、60年
に侵攻するという可能性は、派兵を強く主張した毛沢
にはソ連は中国に派遣していた技術者をすべて引き上
東にとって現実味を帯びたものではなかったか。少な
げるに至っている。
くとも北朝鮮が消滅し、米軍基地のある韓国と国境を
ところが大躍進政策は失敗に終わる。毛沢東の急進
接して中国封じ込めが強化されることは避けたかった
的で現実を無視した高い目標設定が災いして生産現場
に違いない。
は大混乱し、土法による製鉄は使用できない粗悪製品
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しか生まず、3年続いた凶作もあいまって、2000万人
以上といわれる餓死者を出した。
この失敗で毛沢東は国家主席を退き、代わって劉少
奇が国家主席となった。劉少奇が採った調整政策は、
社会主義経済建設のテンポを現場の実態に即して緩め、
『最新世界史図説 タペストリー 十一訂版』p.296
農業では個人経営や生産請負制を認めて生産の回復を
はかるものだった。この時、党総書記だった鄧小平は、
対関係も続いていたから、この時期、米ソ両国と対立
劉少奇とともに調整政策を進め、「白い猫でも黒い猫
関係に入った中国は、世界の中で孤立感を深めていた
でもネズミを捕るのはよい猫だ」という有名な発言を
と思われる。アメリカはベトナム戦争に本格介入し、
残している。経済は1962年から回復に転じたが、毛沢
1965年には北ベトナムへの爆撃(北爆)がはじまって
東には調整政策は資本主義を復活させる危険な政策と
おり、領土の南北は実際に緊張状態にあったのである。
映った。やがて毛沢東はプロレタリア文化大革命に
66年にはじまるプロレタリア文化大革命は、国際的な
よって劉少奇を失脚させることになる。
孤立とそれにともなう焦燥の表れとして、また政治実
●文化大革命
践(社会主義革命の深化・継続)によるソ連批判とい
毛沢東は、本来的に既存の権威・権力・体制に批判
う面からも説明できるだろう。
的な学生たちを紅衛兵として組織し、プロレタリア文
また授業では、1968年は世界各国で若者が「異議申
化大革命を発動した。毛沢東は紅衛兵にとって絶大な
し立て」をして社会の前面に躍り出た年であることに
カリスマとなり、タペストリー p.296④のように「毛
触れた。アメリカではベトナム反戦運動や公民権運動
沢東語録」を掲げることが流行のスタイルとなった。
の盛り上がりが続いており、フランスで五月革命、日
紅衛兵は教師・学者・芸術家・各級政府指導者など、
本でも学生運動(全共闘運動)が高揚した。チェコス
いわゆる大人への批判・糾弾活動に熱中した。学業は
ロヴァキアのプラハの春でも学生の働きは無視できな
放棄され、1966年8月以降は、学校での授業はおこな
い。当時、紅衛兵をこれらとシンクロする運動として
われなくなった。タペストリー p.296⑤の写真を示せ
受けとめる人びとは多くいた。
ば、紅衛兵運動の異様な興奮と熱狂のようすが生徒に
●国連代表権獲得、ニクソン訪中
伝わるだろう。紅衛兵運動の最終的な標的となったの
ところが1970年代には中国を取りまく国際環境に変
が、
「資本主義の道を歩む実権派(走資派)」として批
化が訪れる。1971年には台湾に代わって国連の代表権
判された劉少奇・鄧小平らである。68年には追い詰め
を獲得し、翌72年にはニクソン大統領が訪中し(ベト
られた「実権派」は失脚、毛沢東・林彪ら文革派が政
ナム戦争後をにらんで対アジア政策の再構築をはかっ
権を掌握する。
た)
、米中関係が改善に向けて動き出した。同年には
ところで、毛沢東は「造反有理(反抗には道理があ
日本の田中首相も訪中し国交が回復された。
る)
」のスローガンを掲げる紅衛兵にお墨付きを与え、
国際環境の改善と軌を一にするように、文化大革命
彼らの暴走を助長してきたのだが、1967年以降、紅衛
も新たな局面を迎える。その象徴が、実権派として批
兵同士が分派闘争で武力衝突するなど、その運動が文
判され文革で失脚していた鄧小平の復活である
革派指導部の統制を越えて暴走しはじめると、これを
(1973)
。一時は毛沢東の後継者とされた林彪が1971年
鎮静化させるために「下放」をおこなった。文革指導
に謎の死を遂げた後は、
毛沢東夫人の江青ら「四人組」
部は、貧しい農村で労働奉仕することが革命の重要な
が文革を主導したが、彼らは観念的な革命論を振りか
任務であるとして、紅衛兵の若者たちを僻遠の地方に
ざすのみで、実務能力に欠けていた。混乱を収拾し停
移動させたのである。
滞した経済を立て直すためには、実務的な行政手腕を
以上は、中国国内の政治過程としての文革の説明だ
もつ鄧小平のような人材が必要とされたのである。同
が、国際関係の文脈に中国を置くと次のように説明で
じように抜群の行政処理能力をもつ周恩来は、毛沢東
きる。
の信任もあり、建国後一貫して首相(国務院総理)の
中ソ論争は、1963年、互いに相手を名指しで批判す
地位にあった。周恩来や鄧小平ら実務官僚は文革派と
るに至り、69年には国境の珍宝(ダマンスキー)島で
対峙していく。
周恩来は1975年には
「四つの現代化」
(農
武力衝突も発生した。台湾を支援するアメリカとの敵
業・工業・国防・科学技術)を提唱し、中国は文革に
− 13 −
よる産業等の遅れを取り戻す態勢に入る。
ず一党独裁体制を転換しそうにない。
●文革の終焉と改革・開放路線
中国共産党にもそれなりの理屈がある。中国共産党
1976年1月、周恩来が死去すると、文革派の巻き返
の理論的支柱となっているマルクス=レーニン主義に
しがあり鄧小平は再び失脚するのだが、同年9月には
よれば、社会主義国家建設段階では一党独裁は必要な
毛沢東の死去により後ろ盾を失った「四人組」が失脚、
政治形態とされているし、中国共産党が政権を握るに
77年には鄧小平が復活し、文革の終結が宣言された。
至った歴史的経緯、すなわち抗日戦と国共内戦を通じ
以後、鄧小平は「四つの現代化」路線を継承し、事実
て人民の支持を獲得し、勝利の結果として政権を獲得
上の最高実力者として、経済特区を設けるなど大胆な
したことは、独裁正当化の根拠とされている(タペス
改革・開放政策を推し進めていった。
トリー p.295)
。この理屈が現在において説得力がある
●ペレストロイカと天安門事件(第二次)
かどうかは別として、世界史の授業としては、中国の
1985年には中国社会主義経済の象徴だった人民公社
現体制への価値判断を一時保留して、生徒が抱きがち
が解体されたが、奇しくも同年ソ連では、ゴルバチョ
な「悪い指導者たちが私利私欲のために独裁をしてい
フが書記長に就任しペレストロイカ(改革)に着手し
る」的な発想は相対化しておきたい。歴史を振り返っ
た。1988年、ソ連が東欧諸国への指導性を否定すると、
てみれば、中国は清朝末期以来、列強の利権争いの草
東欧諸国では民主化要求が高まり89年には東欧各国で
刈り場となり、民国時代も軍閥割拠に苦しんだ。わず
共産党政権が崩壊した(東欧革命)。
か100年前のことである。中国の指導者たちにとって、
改革路線という点でソ連と同調していた中国でも、
国家の統一と強力な中央政府の維持は何にもまして優
学生を中心に民主化要求が空前の高まりをみせたが、
先される事項なのであろう。
中国政府は弾圧という形でこれに応じた(第二次天安
また、鄧小平は「社会主義の本質は、最終的にみん
門事件)。タペストリー p.296には、
「人民日報」(中国
ながゆたかになること」と発言しているが、経済発展
共産党中央機関紙)の社説が載せられている。民主化
を至上命題とし、民主化運動を抑圧する現在の中国の
運動に対する中国政府の見解として、時間があれば生
政治体制は、開発独裁の一種ととらえることもできる。
徒に示したい。要点は民主化運動=「中国共産党の指
開発独裁についてはタペストリー p.293に解説がある
導や社会主義制度を否定」という認識であろう。共産
ので、p.299の韓国の事例もあわせて提示すれば、こ
党の指導(一党独裁)への批判は許さないのである。
れらかつての開発独裁国と比較対照させることもでき
この方針を貫き続けた中国共産党が今も政権を維持し
よう。
ているのとは対照的に、1990年に複数政党制を採用し
●最後に
たソ連が翌年解体したことは生徒に指摘しておきたい。
日中間には、過去の歴史的経緯から現在の尖閣諸島
ソ連解体後、ロシアは経済が混乱し長く停滞した(タ
問題まで、さまざまな政治的課題や複雑な国民感情が
ペストリー p.283)のに対して、中国は1992年に「社
存在している。中国に限ったことではないが、現代史
会主義市場経済」を採択し、めざましい経済発展を遂
を教える際には、時事的な情勢に左右されることなく、
げた。97年の鄧小平死後もその路線は引き継がれ、現
事実にもとづいて冷静に取り扱う姿勢を示すことが大
在に至るのである(経済発展のようすはタペストリー
切だと痛感している。
p.297参照)。
●共産党一党独裁
このようにして中国は、東欧・ソ連圏の改革から一
歩距離を置き、社会主義国として生き残った。しかし
社会主義を標榜しながら、その経済は資本主義となん
ら異なることはないようにみえる。
経済面での改革ぶりとは逆に、中国は一党独裁を堅
持するため、民主化運動の弾圧や、情報統制をおこなっ
ている。タペストリー p.297には民主化活動家やネッ
ト規制に関する記事が載せられているので活用できる
だろう。中国政府は国際社会からの非難にもかかわら
お詫びと訂正
『最新世界史図説タペストリー 八・九・十訂版』
以下のページに誤りがございました。誠に申し訳ございま
せん。この場をお借りしてお詫び申し上げます。なお、十一
訂版(p.275)では次のように訂正いたしました。
(八・九訂版…p.263,十訂版…p.337)
特集「20世紀の文化」
・(誤)フロイト(スイス) → (正)(墺)
・(誤)ユング(独) →(正)(スイス)
・(誤)マイネッケ(ベルギー) →(正)(独)
・(誤)ピレンヌ(仏) →(正)(ベルギー)
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