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スタンダール讃歌 : 『パルムの僧院』について
小泉, 隆雄
Editor(s)
Citation
Issue Date
URL
大阪府立大学紀要(人文・社会科学). 1967, 15, p.95-103
1967-03-30
http://hdl.handle.net/10466/12066
Rights
http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/
タ
ン ダ ー
ル 讃歌
﹃パルムの僧院﹄について
へ
隆
られぬ物語が記録されていて、その物語の激しい情熱と恋の冒険が、
ところがアレクサンドルはあるローマの若い娘を誘拐した罪で、なが
で、その上、特異な美しさに輝く甥に、彼女は夢中だったのである。
も枢機獅になる。にも拘らず、あいかわらず放縦と快楽の生活を送っ
十六・七世紀の部厚い写本を発見した。この写本には、殆んど世に知
ていたが、クレリアと呼ばれる貴族の娘を亘るに及んで、二人の子供
ッタの力を借りて脱出に成功し、ヴァンノッツァの保護のもとに自分
取材されたものである。これらの物語のうち、特に彼を熱狂させた物
までもうける仲となった。その後もクレリアとの愛はながく続いた
い間サン・タンジュ城の牢獄に閉じ込められる。やがて枢機卿ロドリ
語があった。即ちそれは、当時パルムの支配者であったファルネーズ
いたくスタンダールの好奇心を刺戟した。 ﹃イタリア年代記﹄という
家一門、殊に後に法王ポール三世となったアレクサンドル・ファルネ
さなかったということである。
が、二人の恋は極秘にされていたので、いかなるスキャンダルをも残
スタンダールの﹃パルムの僧院﹄が、まず何よりもこの年代記に負
生涯となった。ヴァンノッツァはサンセヴェリナと呼ばれる。ロドリ
ックはモスヵ伯爵である。宰相の恋人サンセヴェリナの勢望が、いと
レクサンドル・ファルネーズの生涯は、ファブリス・デル・ドンゴの
うている点を、ピエール・マルチノは次のように指摘している。 ﹁ア
しい甥の幸運を築くのである。アレクサンドルに誘拐された娘は、可
この年代記に拠れば、アレクサンドル・ファルネーズの伯母に、素
がいた。 ﹁ローマの女王﹂とうたわれた彼女は、当時法王の甥として
晴らしい美貌と聡明とで知られていたヴァンノッツァ・ファルネーズ
九五
愛い女優マリエッタとなって登場する。サン・タンジュ城は架空のフ
スタンダール讃歌
勢力を振るっていた、有能果敢な、加うるに魅力に富んだ枢機卿ロド
のことである。
記である。スタンダールが﹃パルムの僧院﹄の序文のなかで言及して
︵1︶
いる、パドゥアの司教会員の年鑑というのは、ほかならぬこの年代記
σq﹁碧畠①自①匹亀蝉貯罠。q臨帥聞輿器ω。︶という十六世紀イタリアの年代
ーズの私生活を写した﹃フアルネーズ家隆盛の原因﹄︵〇二〇qざ。畠亀。
標題のもとに集められた数々の情熱的な物語は、大部分この写本から
た。ギリシャ語やラテン語を忽ちにして憶えてしまい、情熱的な性格
雄
リック.ランツォリーの愛人であった。ヴァンノッツァは甥を愛し
泉
ダールはある記録保管所で、俗語体のナポリ語とロマン語で書かれた
4
チヴィタ・ヴェキアで領事をしていた一八三二・三年の頃、スタン
ス
,
スタンダール讃歌
アルネーズ塔となった。城塞脱出の状況も変えられなかった。ファブ
リスは副司教となり、アレクサンドルのように枢機卿となる。アレク
サンドルとクレリアとの秘かな恋のエピソードが・ファブリスのクレ
リア.コンテに対する恋を思いつかせた。スタンダールは・この恋愛
よ監蟻唯難麟攣嬉防筋雛鰻ボ
に、パルムの大公ラヌ・チオ・フ・ル季ズに対する陰謀の故に二
六一二年斬首の刑にあったサンセヴェリナ公爵夫人を発見している。
また別に、ラ.ジィナと呼ばれたノラ伯爵夫人のサンセヴェリナも見
な兄のもとへ蒔隠遁し、やがてナポリの宮廷に現われて・大公の寵
られる。彼女は幸福な結婚をしたが、良人に死なれ、やむなく意地悪
愛をつけたとりつ。その他さまざまなデテルを・スタンダ ルは+
六世紀の年代記に仰いでいる。歌姫ファウスタのエピソードもそうで
ある。尤もテキストでは、陰惨な悲劇物語であ・たものを・滑稽な風
情のあるファルスにつくりかえたのであるが。医者で詩人で恋人で泥
棒の・、ランチ・パラそっくりの人物もいた・官憲に追われてヴェニ
スにかくれ、謁刺詩を密かに印刷していたフェランチ・パラヴィチノ
である。他のイタリア年代記のうちには、 泥棒として・ 暗殺者とし
て首を括られたフェランチ・ポレットとかいう人物の名前も見出され
るという。ファブリスの幽閉は、スピールベルグに捕虜の身となった
アンドリァーヌ伯爵のそれを思い出させるであろう。スタンダールは
﹃僧院﹄を書いていた時のでトのなかで、この人の﹃回想録﹄を引
用して、﹁短篇小説のように面白く、タキッゥスのように後世に残る
たろう。﹂と言っている。シルヴィオ・ペリ・の﹃生母記﹄も同様に﹃
僧院﹄の作者によ・て利響れた。そしてまたチ・リニの自伝・晶ベ
ンヴェ予ト.チ・リニの生涯﹄及び彼のサン・タンジ・城脱出をス
タンダールが知らなかった筈はない。 その他モスヵ伯爵のイメージ
九六
アの宰相メッテルニッヒを写したものであるとか、或はワーテルロー
が、当時神聖同盟の立役者として、縦横に疎腕を振るったオーストリ
の描写が、スタンダール自身従軍したロシア戦役やイタリア戦役の想
い出から生れたものであるなどの、 ﹃僧院﹄とそれに利用された素材
のデテールに関するこのような類推を、われわれは果しなく続けるこ
とができるであろう。 しかしこのような類推をどこまで進めようと
も、われわれは所詮、 ﹃パルムの僧院﹄という壮麗な大建築物の鉄骨
のみを眺めているにすぎない。
事実それは単なる略図にすぎなかったので、興味深くはあるが、しか
スタンダールは、アレクサンドルの物語をスケッチと言っている。
しそれだけでは何の価値も持たぬ、秩序のない、さまざまなエピソー
ドを変形しながら、彼は人物の性格・行動・心理など、 ﹃僧院﹄のあ
らゆる本質的な要素を創造したのであった。何故なら、彼がヒントを
得た物語と、出来上った小説との類似は、ただ外的な与件以上には出
い。ただそのイデーを発展させるためには、彼にはいつも具体的な事
ていないからである。スタンダールに創造力が欠けていた訳ではな
実が必要であった。いわば思想の踏切板である。こうしたスタンダー
ルの創造のメカニズムを、ジュール・マルサンは、アンドレ・ジイド
︵4︶
の﹃ドストイェフスキー論﹄の一節を引用して、説明に替えている。
﹁ドストイェフスキーは決して観察のための観察をしない。彼の作品
は現実の観察からのみ生れるのではない。それはまた予め頭のなかに
あるイデーから生れるのでもない。だから彼の作品は少しも理論的で
なく、しかも深く現実に沈潜しているのである。彼の作品はイデーと
事実の濯遁から、前者と後者の混清から生れ、しかもその混渚が極め
て完全なので、その二つの要素のうちのどちらが優っているとも言い
当てられないほどである。一それ故、彼の小説の最も現実的な場面
は、また最も心理的・道徳的な意味を担っている。一もっと正確に
言えば、ドストイェフスキーの作品の各々は、イデーによって事実が
を用いれば、ザルツブルグの塩山が、投げすてられた枯枝を結晶で飾
いうことが出来﹂う。この枯枝がやがて、比類稀な輝かしい宝石をつ
るように、面子与えられた枯枝の周囲に美しく花開いた結晶であると
︵7︶
年前からあるのです︾と、彼は一八七〇年に、それから九年後に制作
けて、われわれの眼の前に再び現われたのである。
受胎した結果生れたものである。︽この小説のイデーは、私の裡に三
する﹃カラマーゾフの兄弟﹄について書いている。⋮⋮しかしこのイ
﹃僧院﹄や﹃赤と黒﹄の根本的なイデーが青春と幸福であることは
前述したが、それは更にスタンダールの生涯を支えている最も重大な
デーは、それを受胎させた雑報︵この場合は有名な訴訟事件、刑事裁
判事件︶に遭遇するまでながい間、彼の脳裡に浮動していたのであ
問題であった。幸福はスタンダールにとって、恰もプラトンにおける
︵5︶
この事件の外的な与件をそっくりそのまま利用したのであった。従っ
の青春と幸福︶という彼一流のイデーの発展しうる素材を発見して、
時に、ベルテと同じ年令の青年たちースタンダールをも含めた一
ードこそ、コンディヤック、エルヴェシゥスより学んだところであっ
たのが、あのベイリスムというメトードであるが、この中略理的なメト
姿を認めるのである。ところが他方、彼はコンディヤック、エルヴェ
る幸福観のなかに、われわれはありありと、ルソーの血を享けた彼の
寵であり、何か愛情と夢想の激しい痙攣のようなものであった。かか
ってみれば、彼の求める幸福とは、天からの授かり物であり、神の恩
更に現実のあらゆる平凡さが消えはてる精神の胱惚状態であった。言
ジーの振動であり、全的な自己忘却と完全な自己認識の瞬間であり、
の喜びでも、魂の絶対の平静でもなく、むしろ魂の奥底の深いエネル
猟﹂に出かけて行った。しかし彼が考えていた幸福とは、単なる官能
︵8︶
ベイリスムという武器に身を固め、毎朝毎朝、颯爽として﹁幸福の狩
べて彼にとって何の価値をも持ちえなかった。かくてスタンダールは
る最終目的であり、それがなければ立身出世も、財産も、快楽も、す
ように、幸福もまた、スタンダールのベイリスム︵じJO網一一ω︻昌①︶におけ
る終局目的であり、それがなければ一切の存在者がその実在性を失う
善のイデアの如きものである。善のイデアがプラトンの倫理学におけ
る。﹂事実がなければ、イデーも抽象的思索の域を出なかったであろ
うし、またイデーがなければ、事実も単なる逸話たるにとどまり、或
はせいぜいメロドラマの主題となったにすぎないであろう。生ける作
品を創るためには、生ける人間を創るように、肉体と魂が必要だった
のである。
しかしスタンダール的創造のメカニズムは、このようなドストイェ
フスキー的創造のメカニズムのなかに、あらわに自己自身の姿を投げ
入れる。そしてアレクサンドル・ファルネーズの青春と幸福という主
題を、スタンダール自身の青春と幸福という問題にすりかえる。こう
して出来上ったのが、小説化されたスタンダール自身の伝記である。
﹃赤と黒﹄の場合も事情は同様であった。われわれは﹃赤と黒﹄の全
素材が、 ﹃法延新聞﹄より借用されたことを知っている。スタンダー
て﹃赤と黒﹄の出版された時、女友達から、ジュリアン・ソレルはス
︵6︶
タンダール自身の肖像だと言われて、それを否定したにも拘らず、
た。けれども彼のメトードが如何に論理的に整然とした、完壁な体系
ルは﹁ベルテ事件﹂を読み、やはりそこにべルテの青春と幸福︵と同
﹃赤と黒﹄は、フロベールが、 ﹁ボヴアリー夫人、それは私だ﹂と言
九七 ・
であっても、その目的を達することは到底できない。彼の幸福とは、
シゥスの徒でもある。このような幸福追求の手段として、彼の発明し
った以上に、スタンダールの直接的な告臼を含んでいる。
いずれにしてもスタンダールの小説はすべて、彼自身の好みの比喩
スタンダール讃歌
スタンダール讃歌
九八
所詮、論理を逸脱した非論理的な世界なのである。知性や意志の働き
の世界を築きあげる。 いわば過去の自らの人間的波瀾を再びよりょ
らゆる欲望をも高めて、彼は崇高が火花を散らすような壮大な可能性
かったのである。こうしたジュリアンの不幸を、スタンダールは最後
すら幸福にはなりえなかった。彼には片時も鎧を脱ぐことが許されな
よう。これに反しジュリアンは、レナール夫人と二人きりでいる時で
豊かで、乏しい幸福の歓喜に溢れているのは、この事からも説明され
する必要がなかった。 ﹃僧院﹄が﹃赤と黒﹄に比較して、より人間味
件に遙かに恵まれている。従ってジュリアンほど鎧のなかで身を硬く
福をわが物とする。ファブリスはジュリアンに比べて、幸福の外的条
リスは、こうしてスタンダールが現実に、十分に享受しえなかった幸
寛ぐことが許されたのである。彼の小説の主人公ジュリアンやファブ
つけることにほかならない。彼は小説の世界においてのみ鎧を脱いで
言葉が見出される。けれども現実に鎧を脱ぐということはわが身を傷
か。青春時代の手紙に、﹁私は幸福の世界のエトランジェだ﹂という
こうした自分の性格の悲劇にはやくから気付いていたのではなかろう
ルの性格の悲劇があったと考えることができよう。スタンダールは、
は、ほかならぬこの鎧の重さであった。われわれはここにスタンダー
ンダールが現実において、自由に幸福の世界へ飛翔するのを妨げたの
防禦の鎧として、おのが身より離すことができなかった。しかもスタ
の攻撃的武器であったベイリスム層、また逆に、必要欠くべからざる
つき易く、彼の素朴さはあまりにも欺かれ易かった。ために幸福追求
人間であったのかも知れない。しかし彼の優しい心情はあまりにも傷
情と偉大な素朴さをもっていた彼は、おそらく最も多く幸福たりうる
実に、そのまま享受しえた訳ではない。その本性において、優しい心
において生き直してみようとして、想像的現在の世界を創り出す。
づ
可能性の世界におけるファブリスの幸福は、勿論スタンダールが現
く、というよりむしろ最高度に、更に言うなら人間の存在条件の極限
と、魂の詩的な、殆んど神秘的と言ってよいこの襲業状態との間には
ことはできないし、如何なる知性の働きもこの幸福を掻き乱すことは
些かの関係も存在しない。如何なる意志の努力もこの幸福を創造する
できない。感動とか情熱は、人間にあって、最も把握し難い自然発生
的な現象であって、論理的な方法がこれらの現象を生み出すとは限ら
ないし、否むしろ、冷やかな論理に愚かれた人間においては、これら
の現象の発生は往々にして不可能なのである。スタンダールが結合さ
せようとしたこの二つの要素は、人間の機能のうちで全く相反する働
きであって、人が﹁幸福のメトード﹂或は﹁幸福のメカニック﹂とい
う時、矛盾はすでにこの言葉のなかに現われている。確かに非論理的
なものを論理的に追求しなければならないという、甚だ矛盾した理論
をたてたところにスタンダールの悲劇があった。この意味でスタンダ
ールは所謂普通の思想家ではなかったと言えよう。しかしわれわれが
スタンダールのなかに求めるのは思想家ではなく、 ﹃パルムの僧院﹄
の作者としての芸術家である。そして芸術家スタンダールは思想家ス
タンダールのこの欠点を見事に彼の芸術の魅力に変え、思想家として
の欠点を崇高な観喜の詩に変えている。
﹃僧院﹄を読んで、何よりも胸打たれるのは、そこに溢れるばかり
に輝いている豊かな幸福感である。この幸福感は奔流と化し、読者を
︼気に押し流し、陶酔と感動の渦巻のなかに搦れきせる。けれどもこ
の幸福感に誰よりも深く溺れているのは、作者たるスタンダール出身
に他ならない。彼はファブリスのなかに、おのが青春の姿を、或はお
のが青春のあり得たかも知れない姿を、想い出を辿りつつ追いかけ
る。俺がファブリスであったなら⋮⋮と。かくて数々の甘美な想い出
際恵まれない訳ではなかったが、それでも十分には酬われなかったお
のが青春の擾嘘の上に、その生涯の甘美な想い出、あらゆる苦悩、あ
するレナール夫人に抱かれて、おのが生涯の不幸を償うに足る、輝か
の牢獄で救っている。牢獄におけるジュリアンは、もはや護るべき何
に、不幸にも短かく切りとられたこの小説の最後の部分は別にして
れ、味読されるであろう。たとえ、けちな出版者を満足させるため
えてみるなら、この作品の波瀾に富んだ異常な筋が、一層よく理解さ
も、 ﹃僧院﹄では、光と香気に輝く部分にも大きな影が射している。
物も持たない。攻撃すべき何物も持たない。はじめて鎧を脱いで、愛
しい幸福感に身をゆだねる。スタンダールの小説における牢獄の意味
ダールを苦しめる。彼はあまりにも多くを望むので、何事もなしえな
老いゆく苦悩、かってありし自己の姿を忘れまいとする怖れがスタン
は、遙かの彼方に沈み去り、将来の幸福も最早望み薄い。かくして彼
て想像の世界において、再び生きることに激しい喜びを感じたことは
︵9︶
よく理解される。 ﹁ただ気晴らしのために本を書いた﹂という彼の怖
しい言葉も、この意味において真実であろう。華麗なるべき青春の日
の生涯を回顧して、痛惜の情を禁じえなかったスタンダールが、せめ
しながら、しかも現実においては、むしろ不遇であったおのが五十年
特権を最高度に行使する。この点サンセヴェリナ公爵夫人もモスカ伯
流れ出る力である。この小説のスタンダール的人物はすべて、青春の
る特性である。 ﹃僧院﹄を貫いている幸福感は、青春の熱い息吹より
えていたような幸福を享受するためには、何よりも激しい情熱とエネ
を失わない者のみが幸福を要求しうるのであろう。スタンダールが考
義語であった。青春を誇りうる者のみが、、或はおのが魂のなかに青春
スタンダールにとって青春とは幸福の象徴であり、むしろそれの同
た讃歌であった﹂と。
︵10︶
あげた。そしてそれは、何よりもおのが生涯に、更に人生に捧げられ
い。しかし遂に彼の書いた最も素晴らしい書物、即ち彼の書物を書き
は極めて大きい。それは世間との隔離を意味する。鎧など不必要だと
フアルネーズ塔において、クレリアの夢想に耽りながら一生の永遠の
いう意味である。真の幸福の可能性の象徴である。ファブリスもまた
幸福を思う。
は昂奮せる想像力に身をまかせ、激しい冒険を描くことに熱情を感じ
爵も例外ではない。 ﹁もう四十五の声も聞いてしまったのに、少尉で
人生に対する熾烈な欲求と希望に燃えて、飽くことなぐ幸福を追求
ながら、 ﹃パルムの僧院﹄のなかに強烈な生命を溶し込む。 ﹃僧院﹄
は、かかる甘美な、子供じみたことがもうできないのを言うのではな
さえ赤面しかねない狂気の沙汰に耽ろうとは!﹂﹁要するに老年と
︵11︶
ルジー、敏感な感受性と素朴さが必要であった。青春のみが提供しう
がいわばスタンダールの全体験の所産であると言われる事情を、ピエ
ール・マルチノは力強く次のように述べている。 ﹁﹃僧院﹄はスタン
々しさと率直さの故に、われわれをまごつかせるであろう。時の劫掠
かろうか。﹂四十五才の宰相の、この狂気じみた独白は、あまりの若
︵12︶
わず、あらゆる彼の体験を投げ込む。死が身近に迫っていた。それで
ダールの五十年の生涯を表わした書物である。彼は以前と最近とを問
彼は一切の過去を、 精神と知性のパノラマを、彼が最も愛した事物
て、享楽しうる能力と並んで苦悩しうる能力が挙げられよう。スタン
ダール的人物は、十全に幸福を享受すると共に、また怖しい苦悩にも
より護られた青春のみがなしうる奇蹟である。更に青春の特性とし
引き裂かれる。彼らの苦悩の深さは、幸福の高さに匹敵する。幸福を
より多くの実現もせずに消えて行った夢想、更に、はっきりと意識に
さえのぼらなかった夢想など、それらのすべてを情熱的に再び捉えよ
を、懐しい光景と風景を、偉大な感動を、おのが実現した夢想、或は
うとしたのである。熱に態かれたように思しい幻想に溺れながら、し
享楽しうる感受性が苦悩を深め、苦悩しうる感受性が幸福の享受を可
九九
かもその幻想を捉えようとする心の焦燥。こうした事情を少しでも考
スタンダール讃歌
一〇〇
ある。旧事に彼の文体は観念を直裁に伝えるところに、その特質があ
スタンダール讃歌
能にする。かくて﹃僧院﹄に濃りわたる眩ゆいばかりの幸福感・歓喜
るのだが、こうした文体の特質はコルネイユに負う所が多いのであっ
い苦悩、われわれはその苦悩の率直な崇高さを忘れえないであろう。
れのある時は、あっさりとその描写を諦めた。しかもこうした方法
特異なスティルで、エネルジーに充ちた幸福な瞬間を力強く描破した
が、しかしまた自分の筆力の及びえない時、或は読者を退屈ざせる怖
高貴な率直さをよく自分の物としたからである。スタンダールはその
て、彼の筆先がしぼしば崇高の火花を散らすのは、コルネイユのもつ
は、そこに彫り込まれた苦悩の激しさによって婦負するのである。所
詮苦悩する力とは享楽する力であり、苦悩とは幸福の約束、或は幸福
の顔の裏側にすぎない。苦悩しうる点においても、モスヵ伯爵はやは
しかも小説の人物のこのような青春の姿は、スタンダール自身がいつ
が、より効果的に、その時の情景なり実感を、われわれに伝えるのに
り青春に恵られた人物である。ファブリスに対する嫉妬からくる怖し
二+五才の青年のように騙されるとい¥つ幸福を味・島或は﹁それ
までも失うことのなかった要素であ乃。 ﹁こと女に関する限り、私は
どれほどの狂気に襲われたか、それをすっかり書きつければ、あまり
成功している場合がある。 ﹁この日、ファブリスとクレリアの心が、
つ不思議な魅力である。
に長きにすぎよう。﹂驚くべき作家の誠実さ。 そして誠実さのみがも
︵17︶
は一つの言葉の抑揚や、眼にもとまらぬ身振りからでも、幸福の絶頂
許%登れば、絶望のどん底にも落ち込むほどの私の繊細さのためであ
る。﹂是に永遠の青年スタンダールの尽きることのない人間的魅力があ
スタンダールの最初の文学的野心は、パリに出て、モリエールのよ
かってヴ、ルジあ森で経験盛楽しい時の記憶がいちどきに、擁
スタンダールがその人物たちの幸福、愛情と歓喜のための深い魂の
戦守の瞬間を描写する時、丁度断頭台に登ったジュリアンの頭脳に、
のさまざまの愚劣さ、卑俗さを直ちに捉える課題をもっていた。しか
に彼は鋭い人間心理への洞察力と軽妙な機智にも恵まれていた。人間
の野心はその後も長く彼の頭から離れなかったように思われる。幸い
うな喜劇を書きたいということであった。彼はこの野心にもとづいて
︵18︶
な力強さをもって描かれたように、自分の楽しかった想い出を激しく
る。彼の小説の主人公が例外なく若い人である事情が肯かれよう。彼
の小説が何よりも幸福と青春の書たる所以である。
追いかけながら、強い感動を抑えることのできなかったことは察する
か。 ﹃アンリ・ブリュラールの生涯﹄のなかに注目すべき言葉があ
も彼が遂に偉大な喜劇作品を書くに至らなかったのは、何故であろう
瞬間をこまごまとした、誇張きれた文体で描写することに非常な嫌悪
ありふれたスペインの物語でも、もしそこに高遭なものがあれば、私
る。 ﹁エスパリョリスムが喜劇的天才をもつことを妨げた。⋮⋮ごく
喜劇を本格的に研究もし、また自分で幾多の喜劇をも書いていた。こ
に難くない。しかし彼は世の浪漫主義的作家のするように、こうした
を感じていた。描写したり分析したりすることによって、この幸福な
の眼に涙を浮かばしめた。これに反し、私はモリエールのクリザール
見ることを妨げたが故に、遂にモリエールのような喜劇を書きえなか
リザベから伝えられた闊達にして高等なスペイン魂が、卑俗なものを
︵20︶
はいつも、 ﹁ル.シッドのように美しい﹂と言っていた彼の大伯母エ
の性格から眼をそむけた。﹂この言葉によれば、何かに感嘆した時に
︵19︶
瞬鯛歩止肥せたものになりはしないかと、何よりもそれを恐れたので
ある。瞬間の幸福は瞬間に伝えられねばならない。放たれた鉄砲弾の
ように、﹁瞬にして読者の胸を射抜かねばならない。是にスタンダー
ルのスティルの苦心があった。彼がぶつ切れた文章を書いたのも無理
はない。何よりも速度をもつこと、明快であることが必要だったので
つたというのである。更に彼のこの言葉を裏書きするもののように、
日記のなかに次のノートが見うけられる。 ﹁モリエールは、われわれ
を笑わせようとして使う各人物を、卑しくする術を心得ていた。﹂スタ
ンダールは人間の卑俗さから眼をそむけた訳ではない。けれども人間
の卑俗さを誇張して、殊更に人間を卑しくみせようとはしなかった。
そうするには彼はあまりにも人間を愛していたし、人生を肯定してい
ることができなかったのであろう。同じくブルジョワの卑俗さを鋭く
た。人間の愚かさをいわば唯一の素材とする、喜劇の約束に彼は堪え
悪に近いものを抱いていたフロベールの態度とは著しい相違である。
衝きながらも、人間と人生に対する冷い軽侮を示し、或は時として憎
フロベールの傑作が、喜劇﹃マダム・ボヴァリー﹄であることは、決
して理由のないことではない。更に人生の長旅を続けるに従って、お
のが青春を哀惜する情のひとしお激しいスタンダールは、喜劇よりも
むしろ、その青春の喜びと幸福を再現し、更に自由に生き直してみる
ことのできる小説形式を選んだに違いない。小説の世界では、あれほ
ど望んで得られなかった幸福も、愛する女性も、すべてを自由にでき
るではないか。自分のあらゆる体験、あらゆる夢想を投げ入れること
もできる。人間の愚かしさ、卑しさを遙かの彼方に見下して、崇高の
生を生き直すことができるのではないか。このような楽しさが、喜劇
世界に飛び立つこともできる。つまり思いのままに、最も充実した人
を書く・とのなかにど・つして求められよ・つ。スタンダ魁はかくして
ルパゴンの、﹁持参金なしだよ!﹂ ﹁持参金なしだよ/﹂の科白の繰り
︵23︶
返しの滑稽味を思い出させる。フォンタナ将軍の驚鎖しきった姿は、
︵24︶
黒﹄において、妻がジュリアンと不義をしていると云う匿名の密告書
毒にも薬にもならぬ宮廷人の鮮やかな戯画と言えよう。更に﹃赤と
あろう。﹁︽どいつもこいつも、みんなおれの醜態をみれば、手を叩
を受けとった時の、レナール氏の懊悩と混乱ぶりを指摘すれば十分で
の愚かな自惚れ、フランス喜劇の伝統的な場面である。しかもスタン
いて喜ぶやつばかりだ。︾まだしも仕合せなことには、彼は、自分は
︵25︶
皆に羨望されていると、そう自信をもつていたことだ。﹂ コキュウ男
に挿入することによって、著しい対照の効果を獲得している。
ダールはこうした喜劇的要素を、小説の筋の最も切迫した劇的な場面
この世から立ち去らせる。彼らはさまざまの事件に醗弄された結果、
スタンダールは小説の終りにおいて、その主人公たちを必ず駈足で
恰も享楽し苦悩する力が尽きはてて、あとはただこの世から消え去り
みた。ある人は、作者が、その愛する人物たちをいつまでもこの汚れ
さえずればよいかの如く、なんの気取りも後悔もなく、極めて静かに
あっさりと死んでゆく。私はこうした主人公たちの死の意味を考えて
た世の中に残しておくに堪えなかったので、彼らを死なせたのである
と言う。或はそうであろう。しかし同じ死なせるにしても、他にいろ
いろと死なせ方があるであろう。もっと賑やかに、派手に、ロマンチ
ックに死なせてもよいではないか。けれども私は、かかる小説の結び
方が、感動と印象の深さにおいて最も効果的な方法であるというこ
のなかには、喜劇的効果をあげている場面がいくつかある。 ﹃僧院﹄
﹄においては、クレリアの死の故にファブリスが死に、ファブリスの
黒﹄においては、ジュリアンの死の故にレナール夫人が死ぬ。 ﹃僧院
と、しかも最も劇的な死なせ方であるということを理解した。 ﹃赤と
において、サンセヴェリナ公爵夫人がファブリスの恩赦状を要求する
死の故にサンセヴェリナが死んでゆく。彼らは一人として自殺はしな
かったが、レナール夫人はジュリアンの死後三日しか生きていなかっ
喜劇を書きたいという野心を捨てたのではなかろうか。
けれども、彼の喜劇研究は決して無駄には終っていない。彼の小説
ときのエルネスト四世の困惑した態度、そして彼のとぎれとぎれに繰
り返す﹁なんだって/なんだって/﹂という言葉は、﹃守銭奴﹄のア
一〇一
︵22︶
スタンダール讃歌
辱
スタンダール讃歌
たし、 ファブリスはクレリアの死後、 その僧院に僅か一年しか過さ
ず、サンセヴェリナもファブリスの後を直ぐに追う。これらの描写は
たいへん短く、淡々としている。恰も死亡告知版を読む思いである。
けれども、 スタンダ;ルがかかる簡潔な死の描写において狙ったの
は、愛情に深く結ばれ允主人公たちの魂のうちの劇であった。いわば
魂の激烈.深刻なパントマイムであった。生前彼らがどのような愛情
を生きてきたかは、すでに作者の示したところである。そうした彼ら
が、おのが愛した人物の死を前にして、いかなる苦悩と絶望に陥ち入
ったかは、おのずから想像されよう。おそらく苦悩・絶望とても、も
はや長続きはしなかったであろう。愛人の死と同時に彼らの生命の火
も消えてしまったに違いない。強い真の愛情に生きた魂のみが包んで
スタンダールは描かずに、ただそれと暗示する。かくて読者は、一瞬
いる、こうした神秘な作用は、所詮描きうるところではない。そこで
こに隠された神秘な愛情の意味を悟り、はじめて崇高な感動に揺り動
彼らが生きた生涯を思い起し、再び最後の死の描写に眼を留めて、そ
かされるのである。最も感動的な事件を最も簡潔に語る、怖るべきほ
どの無技巧の技巧なのである。
ロダンの素描に、裸体の女性が両腕をあげて頭に組み、胸を張り、
両足を膝から後に曲げて跳躍している図がある。甚だ簡略なスケッチ
であるが、幾重にも線を加えて、女性の肉体の自然な躍動を力強く捉
えようと努力している。こうした肉体の最も自由な、最も自然な動き
が表現する内的変化、歓喜或は悲哀を、熱狂或は絶望を、静安或は憤
激など、即ちあらゆる生命の美しい現われを、その身体のあらゆる表
情から不断に判読しようとして、彼は大勢の男女のモデルを裸体で、
勝手気儘に歩かせたり、休ませたりして眺めていたということであ
る。ロダンの彫刻が、その激しい生命感でもってわれわれを圧倒する
のはこのためである。スタンダールの人物描写は、こうして得られた
一〇二
ロダンの彫刻を思わせる。スタンダールはその人物たちをさまざまな
境遇に置いてみて、彼らの示すその時の表情、動きから、彼らの心
理、気分、性格などを唯一の言葉に力強く要約する。彼があらゆる機
会に、自然な人間の心の姿を観察したことが、彼の人物描写に迫真姓
い、垂直に切れこんだようなスティルを忘れることはできないだろ
を与えたのである。われわれは、彼が人物の本性を遜り出す時の、鋭
る。﹁美術における素描は、文学における文体のごときものである。
う。しかもかかるスティルの特色は、またロダンの素描の特質でもあ
衆目を引こうとして気取り、勿体振る文体はよくない。読者のあらゆ
る注意を取扱われた主題に、到達された感動の上に集中するために、
︵26︶
忘れきせるもののみが良き文体である。﹂﹁そして或は真実が、或は深
いイデーが、或は辛しい感情が文学或は芸術作品のなかに光輝を放つ
る。﹂ ﹁貴方はかって一つの絵を眺め、 一頁を読んだ。貴方はその素
銚聴、それが文体.色彩、或は素描の傑れていることの全証明であ
る。もし貴方に誤りを犯す怖れがなければ、その素描・賦彩・文体は
描にも、文体にも気付かなかったが、貴方は心の底から感動してい
︵お︶
一個の完壁な技巧なのだ。﹂
。 ︵29︶
人は、スタンダールの言葉と思うだろう。しかしこれは、ポール・
クゼルの集録した﹃ロダンの言葉﹄のなかに見いだされる文章であ
る。素描を見せびらかす美術家や、文体に賞讃を集めようと願う作家
たちを軽蔑して、真の生命の単純且つ感動的な姿にのみ惹きつけら
れ、細密な描写を捨てて、大胆な省略を敢えてした偉大な二人の芸術
家の聖なる一致と言えよう。スタンダールの人物は、彼の振るった鋭
いのみ︵スティル︶によって、ロダンの彫刻と共に永遠を呼吸する。
︵1︶︽碧雲巴①ω︾響い四 〇3﹃貯ΦロωΦ 亀Φ ℃鉾日①.国&訟§ O母国Φ周・
註
︾︿Φ洋凶器Φ日Φ昌ρ戸一・
︵2︶ま達こ一暮﹃o匹ロ。臨。昌●や.目・
附いていたこと。
る者は、その描こうとするものの実感を再現しえないという危険に気
︵20︶一び達●唱.日お
︵19︶一げ乙・唱・卜。置
︵18︶<8αo国①旨壇自切﹃立浮血●国・勺●眉’麿
︵17︶い90げ錠ぽ①ロω①αΦ勺窪目Φ・国・ρやミ心
︵3︶ま箪層噴・宅・
︵4︶臼巳Φω竃程ωき“ωけΦ巳げ巴も・H鵡
︵5︶02<①器ωO。ヨ覧黛Φω島.︾巳審O達9臣三8客図。司﹂Φ郭
︵21︶スタンダールは性格喜劇を最も優れた喜劇と考えていた。そして性格
目。日①賊 も・N旨IN一◎Q
︵6︶9塁Φω℃。巳琶8●臣一自8∪貯き●↓。日。≦・℃・﹃ρ唱﹂O・。.
は﹃フランス文学研究︵一九五七︶﹄所載の鈴木昭一郎氏の論文﹁ス
本質的に小説家の手法であって、劇作家のものではなかった。詳しく
く合致しない作品となった。即ちスタンダールの人物描写の方法は、
平板な羅列に終って、芝居の山場がなく、また三一致の法則にもうま
み重ねてゆけば、自然と戯曲ができると考えていたが、実際は場面の
喜劇を性格の展開と考え、その性格の特徴を一つ一つ表わす場面を積
︵7︶UΦ一、︾日。霞.国.∪・↓。日Φ◎H’唱’。。。。・
︵8︶大阪府立大学紀要︵人文・社会科学︶第八眸中の拙稿﹁スタンダール
の歴史論﹂の七〇頁参照。
︵9︶≦ΦユΦ口Φ昌崎醇与国a.臣三。づコ血9。αρ︵02<﹃Φω葺巨①ωα①
︵10︶目四〇﹃耳垂ΦロωΦ畠Φ℃鎚筥Φ.国’O●冒霞&ロ。口。旨●b.図図・
タンダールの演劇についての二、三の考察﹂︵9頁116頁︶を参照。
ωけ①昌Ωげ曵︶。喝.心q
︵12︶ぎ達.
︵29︶スタンダールは文体について、次のように述.べている。﹁情熱の文体
︵銘︶同右、七七頁
︵27︶同右
︵26︶冒ダンの言葉﹄ポール・グセル著︵古川達雄訳︶角川文庫、七四頁。
︵25︶いΦ閃。βαqΦΦけ﹁oZo騨.国.ρ噴.μ誤
︵24︶い国Oゴ9。詳話降ωΦα①℃母日ρ国.ρサbのQoH
︵23︶目﹃σ鋤鐸①Oげ。凶忽阜Φ]≦o属①器・国島怠。昌O母巳Φ民・サ●Q心①山ミ
︵22︶い曽Oず帥再訂ΦロωΦ匹Φ℃鎚日Φ・国・ρも●No◎b。
︵11︶一げ乙甲喝●⑩α.
︵13︶ωoロ<Φ巳屋匹雨oqo鉱ω目ρ国・勺・︵O①ロく器の営出目ΦωαΦoり富昌αぽ巴︶●
冒﹂望◎。
︵15︶HΦ図。ロoq①①けδ20畔・国.ρ唱.α8
︵14︶匂。離吋昌巴・国.勺.や・O謹
︵16︶ωoロくΦ巳手量国αqo自ω日ρ国・勺.℃.鼠bδ◎Q
﹁私が心配していたのは、私のめぐり合わせたいくつかの幸福な瞬間
を、描いたり分析したりして、色裾せたものにするのではないかと云
について。情熱の文体とは、自分の描く性格劇は事物を、それにふさ
うことだった。ところで、これこそ私の決してすまいと思っているこ
となのである。 幸福な時はとび越してしまおう。﹂
↓o目ΦH・唱﹂。。●。︶﹁最上の文体とは、文体のことを忘れさせ、その
語の語句を作る技術である。﹂︵℃魯ω①Φω−国δの。富客。く餌−.国.∪・
述べる思想をできるだけ明瞭に浮きあがらせる文体である。﹂
わしいニスをあたえて、できる限り正確・明晰に示すようなフランス
抽象的なものであり、描こうとするものの実感を所詮捉え得ない。そ
スタンダールが、彼の小説の主人公たちの幸福や悲嘆の極限状況を描
うした言葉自体のもつ表現力の限界を意識していたこと。⇔、分析的
やQ。b。α︶
︵]≦ひ日。マΦω島、ロ昌↓oロユωけ。・↓o日ρ自.国定鉱。昌O全日9。昌守い①<団
写するのを省略した理由として、次のことが考えられる。e、言葉は
描写は常に全体を解体するものであり、解体することによって、その
一〇三
実体の何物かを失う。従ってスタンダールのような分析的な描写をす
スタンダール讃歌
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