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[2013-10-05]ヒュームにおける一般的観点 再考

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[2013-10-05]ヒュームにおける一般的観点 再考
日本倫理学会 第 64 回大会 於愛媛大学城北キャンパス 2013/10/5
主題別討議「ヒューム」
ヒュームにおける一般的観点 再考
林 誓雄 (立命館大学・日本学術振興会)
はじめに
本報告では、ヒューム道徳哲学における「一般的観点(general points of view)」
について論じる。従来、ヒュームにおける道徳的評価の仕組みには、アダム・
スミスの「公平な観察者(impartial spectator)」の概念が読み込まれることが多
く1、また「理想的な観察者(ideal observer)」理論を唱道していると言われるこ
ともある2。その際に言及されるものこそ「一般的観点」であり、これこそが彼
の道徳哲学を、いや哲学全体を貫く最重要概念の一つであると理解されること
もある3。
なるほど、ヒュームの道徳哲学を読み解く際には、
「一般的観点」に触れず済
ますことなどできるはずもない。とはいえ、ヒュームのテクスト4に立ち返って
検討するとき、例えば、道徳的評価の仕組みに一般的観点は、どこまで必要な
ものだと言えるのだろうか。一般的観点についてはさらに、
「正義論」との関わ
りについても論点になるだろう。すなわち、人々が「コンヴェンション
(convention)」を形成し、正義の諸規則を定める際に、一般的観点は採用され
る(べきな)のか。さらに、正義に関する道徳的評価を下す折りにも、一般的
観点は必要となるのだろうか5。
本報告では、一般的観点とは具体的にはいかなる観点であるのかということ
を考察した上で、これらの問いに答えることを試みる。そして最後に、ヒュー
ムの「一般的観点」論の含意について、若干触れることにしたい。
1
例えば McNaughton [1991]を参照。
例えば Harman [1977]を参照。
3
矢嶋[2012]を参照。
4
『人間本性論』(A Treatise of Human Nature)からの引用・参照の際には、略号として T を
用い、巻、部、節、および段落の番号をアラビア数字で順に付す。『道徳原理の探求』(An
Enquiry concerning the Principles of Morals)からの引用・参照の際には、略号として EPM を
用い、節・段落番号をアラビア数字で順に付す。
5
例えば、伊勢[2005]と矢嶋[2012] はコンヴェンション形成の際に一般的観点が必要にな
ると解釈し、木曾[1985]と奥田[2006]は、正義に関する道徳的評価の際に一般的観点が必要
になると解釈する。
2
1
日本倫理学会 第 64 回大会 於愛媛大学城北キャンパス 2013/10/5
主題別討議「ヒューム」
1 一般的観点とはいかなる観点か
まずはヒュームの提示する「道徳的評価」論について、標準的な解釈を見て
おこう。ヒュームの道徳哲学に特徴的なのは、道徳的評価の対象が人物の性格
である点、および感情が道徳的評価の基礎に置かれる点である。道徳的善悪は、
ある特殊な快苦によって区別される。そして、評価者がこの快苦を受けとると
きには「共感(sympathy)」が働くとされ、ヒュームは共感が、道徳的区別の主
要な源泉であると述べる。
ところがヒュームは、自説に対して次の反論を想定する。共感とは、観念連
合の三原理の影響を多分に受けるので、例えば距離の遠近に応じて、共感の働
きも大きく変動する。仮に道徳的区別が共感に由来するのなら、共感によって
獲得される道徳感情は、場合によって大きく変動することになるが、道徳的評
価とは通常そういった変動がないものと考えられるのだから、自説は間違って
いるのではないか、と。
この反論に対してヒュームが導入する解決策こそが「一般的観点」である。
共感を道徳的区別の主たる源泉としながらも、我々は一般的観点に立つことで、
変動を許さない安定した判断を下すことができるようになる(T 3.3.1.10-15)6。
ところで、道徳的評価における一般的観点とは、具体的には誰のどのような
観点なのだろうか。ヒュームはある箇所で「我々の感情が他の人たちの感情と
一致する唯一の観点」(T 3.3.3.2)、すなわち道徳的評価における一般的観点と
考えられるものについて説明している。そこにおいてヒュームは、
「我々は、あ
る人の道徳的な性格について判断を下すためには、その人が活動する身近な範
囲(narrow circle)しか見ないようにする」と述べる(ibid.)。このことから、
6
「人物と事物の両方に対して、われわれの位置は絶え間なく不安定な状態にある。例え
ば、われわれから遠いところにいる人が、僅かの時間で親しい知り合いになるだろう。さ
らに、すべての個人は他の人々に対して特有の位置にいる。それゆえ、仮にすべての個人
が、性格や人物を、各々に特有の観点から現れるものとしてのみ考察しようとするならば、
、、、、、、、、、、、、、、、、、
理にかなった言葉で一緒に会話をすることなど、われわれには不可能であったろう。それ
ゆえ、そうした絶え間ない不一致(contradictions)を防ぎ、事物についての一層安定した
判断に達するために、われわれはある安定的で一般的な観点(some steady and general points
of view)を定める。そして、われわれが何かを考える際には、自身の目下の位置がどのよ
うなものであろうとも、常に自身をそうした観点に置くのである。」
(傍点は報告者の強調.
下線は原文イタリックを示している. 以下同様.)
2
日本倫理学会 第 64 回大会 於愛媛大学城北キャンパス 2013/10/5
主題別討議「ヒューム」
一般的観点とは「身近な範囲」にいる人びとの観点、すなわち評価対象が活動
する範囲内にいる人々(基本的には、その人の家族、親友や仕事の同僚など)の観点で
あると解釈することができるだろう7。当該の人々(以下「身近な人々」と記す)は、
評価対象と極めて密接で直接的に繋がり、長い時間をかけてその人物を観察し
てきただけでなく、その人物からの影響を最も多く、かつ持続的・恒常的に受
けてもいる。それゆえヒュームは、
「身近な人々」こそが、人物の性格について
の評価を、最も適切に行ないうる存在だと考えているものと思われる8。
2. 一般的観点は「道徳的観点」か?
2.1 道徳的評価の第一の体系 ―個人内部における評価の仕組み―
さて、
「身近な人々」の観点として解釈できる一般的観点は、道徳的評価を下
すための必要不可欠な条件として要請される観点、すなわち「道徳的観点」と
言えるのだろうか。この問いに答えるにあたり本報告は、ヒューム自身が道徳
を、二つの体系に区分けしていることを手がかりにしたい。ヒュームによると、
7
本報告の他にも、一般的観点を「身近な人々の観点」と解釈するものに、Radcliffe [1994];
Cohon [1997]; 奥田 [2006]; Brown [2012] ; Aimatsu [2013]を挙げることができる。もちろん、
ヒューム自身が「身近な人々の観点」を、
「道徳的評価における一般的観点」の定義として
示しているわけではない。しかしながら、他に具体的な説明が見られない以上、ヒューム
のテキストに即すならば、
「身近な人々の観点」=「道徳的評価における一般的観点」と解
釈せざるを得ないのである。
8
「身近な人々」の範囲とは、基本的には家族や友人までの範囲であり、せいぜい拡大し
たとしても、その範囲が自身の祖国を越え出ることはないと言われる(T 3.3.3.2; SBN602)。
ところで、家族から祖国全体にまで、その範囲が変動することを認めてしまうと、結局
「身近な人々」の観点をどこに設定すればよいのかが不明瞭になると思われるかもしれな
い。とはいえ、ヒュームが「身近な人々」の説明として、評価対象と「何らかの結びつき」
をもつ人たちであるとか、その人から「何らかの影響」を及ぼされている人たちと表現し
、、 、、、、 、、、、、、、、 、、、、、、
ている(T 3.3.3.2)ことに鑑みれば、その「結びつき」や「影響関係」は、人に応じて異
、、、、、、、、、、、
なると考えざるを得ないと思われる。というのも、例えば、報告者が「結びつき」をもち、
その「影響関係」があると言えるのは、
「家族や友人、あるいは研究機関の同僚など」であ
る一方で、日本国の首相は、その影響関係が日本国全体に及ぶために、
「身近な人々」とは、
その言葉遣いに違和感を覚えるとしても、
「家族や友人にとどまらず、日本国民全体」にま
で及ぶというように、人によって、あるいは職種や身分に応じて異なるものだと考えられ
るからである。したがって、
「身近な人々」の範囲は変動を許すものであり、そういうもの
としてしか表現しえないものとして特徴づけることができると考えられる。
3
日本倫理学会 第 64 回大会 於愛媛大学城北キャンパス 2013/10/5
主題別討議「ヒューム」
…これらの感情 [=道徳感情] は、[1] 性格や情念の単なる外観や現れから生
じるか、[2] 人類および特定の人々の幸福へと向かう、性格や情念の傾向性
に対する反省から生じるかのどちらかである9。(T 3.3.1.27)
、、、、、
注目すべきは第一の体系において、
「性格や情念の単なる外観」からも道徳感
情が生じるとされる点である。なるほど、
「単なる外観」から即座に獲得される
、、
感情ですら道徳感情であるという主張に対して、即座には首肯し難いところが
、、、、、、
あるかもしれない。しかしヒュームによれば、ウィットなどの「単に眺めただ
、、
、、、、、、、
けで(by mere survey)」快をもたらす特質10は、すべて有徳と呼ばれるのである
(T 3.3.1.27-30)。
「単に眺めただけで」われわれは道徳感情を抱くことがあるの
であり、そのときには「道徳的評価が下されている」と言いうるだろう11。
、、、、
かくして、少なくとも「第一の体系」において下される評価には、
「一般的観
、 、、、、 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
点」はおろか、感情の変動をもたらす要因である「共感」すら要請されること
、、、
はない。それにもかかわらず、
「第一の体系」において下される評価を道徳的評
価と呼びうるのだから、
「一般的観点は、道徳的評価を下すための必要不可欠な
条件として要請されるもの、すなわち道徳的観点ではない」と結論することが
できるだろう。
とはいえ、そもそも道徳的評価とは複数人の間における、いわゆる「客観的
なもの」と考えられるのが一般的であるし、「“ヒューム” と言えば “共感”!」
という観念連合も起こるくらいだから、本報告の結論に対して大きな違和感を
9
このような二分法は、
『人間本性論』第三巻道徳論の第一部の前半部において、すでに述
べられていたことであった。ヒュームによれば「徳とは快によって識別され、悪徳とは苦
によって識別される。そして徳と悪徳とを区別するこの快苦は、何らかの行為・感情・性
、、、、、
、、、、
格を [1] 単に眺めるか [2] 熟慮することによって、われわれにもたらされるものなのであ
る」
(T 3.1.2.11)。前者の「単に眺める」ものが第一の体系に、後者の「熟慮する」ものが
第二の体系に相当すると考えられる。
、、
10
ウィットのようなこの特質は、徳の四つの源泉(T 3.3.1.30)のうち「他者にとって直に
快適な諸特質」に該当する(T 3.3.4.8)。
、、
11
ところで、この「単に眺めただけで」は「直に(immediately)」とも言い換えられてお
、、 、、、、、、、、、、
り、この場合に「共感」の関与は認められない(Cf. T 3.3.1.28-9)。なるほど、ヒュームに
、、、
おいては共感が「道徳的区別の主要な源泉である」
(T 3.3.6.1)ことに間違いはない。しか
、、、、、、
しながら、共感の関与しない「主要ではない源泉」も存在するわけであり、それこそが第
一の体系である、そのように理解することができるだろう。
4
日本倫理学会 第 64 回大会 於愛媛大学城北キャンパス 2013/10/5
主題別討議「ヒューム」
持たれることは間違いなかろう。さらに、ヒューム自身が「第一の体系」につ
いて、道徳においては「あまり重要ではない場合」に相当するものとしており、
むしろ「第二の体系」の方が「はるかに大きな影響力をもち、我々の義務の大
綱すべてを定める」と述べる(T 3.3.1.27)。従って、
「第二の体系」を考察せず
に先の結論を下すことは、性急に過ぎると言われるかもしれない。そこで次に、
第二の体系において一般的観点は、道徳的評価を下すための必要不可欠な条件
として要請されていると言えるのか、検討してみることにしよう。
2.2 道徳的評価の第二の体系 ―社交や会話を通じた評価の仕組み―
第二の体系では「人類や特定の人々の幸福へと向かう、性格や情念の傾向性」
に焦点が当てられ、この場合に評価者は、共感を介して道徳感情を獲得するこ
とによって評価を下すとされていた(T 3.3.1.27)。もちろん、評価者たちがそ
れぞれに固有の観点に留まったまま共感するのであれば、社交や会話の場にお
いて彼らが意見や感情を取り交わす際に、それらを一致させるというのは難し
いことだろう。それゆえ評価者たちは、その対象が12すべての人々から見て同
じように見えるようになるとされる一般的観点に立つことになる(T 3.3.1.30)。
ここで本報告は、一般的観点の採用を評価者たちに促すところの「きっかけ」
に注目したい。評価者たちが一般的観点を採用する前の段階にかんしてヒュー
ムがしきりに述べていることは、
「そのままでは理にかなった言葉で会話するの
が不可能である」ということ、
「そのままでは自分の意見や感情と他人の意見や
感情とが不一致だ」ということである(T 3.3.1.15; T 3.3.1.18; T 3.3.3.2)。
ところで、そもそもなぜ、意見や感情の不一致は、一般的観点の採用へと評
価者たちを導くのか。ヒュームによると、「所感(sentiments)か情念かのどち
らかにおけるいかなる不一致(contradiction)も、それが外から生じるものであ
れ、内から生じるものであれ、外的対象の対立から生じるものであれ、内的原
理の争いから生じるものであれ、気づくことができるほどの心地悪さ(sensible
uneasiness)をもたらす」
(T 1.4.2.37) という。つまり、意見や感情が不一致で
12
ヒュームにおいては、社交や会話の場で評価者たちが道徳的評価を下すにあたり、当該
の評価対象となる人物は、その場に不在であると想定されている。例えばわれわれが、喫
茶店においてマルクス・ブルータスの性格について話していることを想像されたい。
5
日本倫理学会 第 64 回大会 於愛媛大学城北キャンパス 2013/10/5
主題別討議「ヒューム」
あることは、われわれ人間に強烈な心地悪さをもたらすので、それをどうにか
避けようとして、われわれは自分たちの意見・感情が一致するような観点、す
なわち一般的観点を採用しようとするものと考えられる13。
このことを踏まえると、一般的観点とは、道徳的評価を下すために必須な装
、、、、
置として要請されるアダム・スミスの「公平な観察者」とは異なり、われわれ
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
人間が社交や会話における意見や感情の不一致によって生み出される心地悪さ
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
を避けるために導入されるものに過ぎない、そう解釈することはできないだろ
うか。仮にこの解釈の可能性が認められるとするならば、われわれ人間が社交
や会話において、その場にはいない任意の人物について道徳的評価を下すにあ
、、、、、、、、、、、、、、、、、 、、、、、、、、、、、、、、
たり、意見・感情に不一致が起こらないとき、一般的観点が導入されることは
、、
ないことになるだろう。このことはすなわち、
「一般的観点は、道徳的評価を下
すための必要不可欠な条件として要請されるものとしてヒュームによって描か
れてはいない」ということを意味するものと考えられるのである。
注意していただきたいのだが、本報告は、一般的観点が道徳的評価にとって
さほど重要なものではないと主張するものではまったくない。そうではなく、
「ヒュームの一般的観点が、あらかじめどこかにあると想定されるような、評
価者たちが道徳的評価を下すにあたって、必ずそこに立たねばならないような
ものである」とする強い主張を斥けたいだけなのである。
3. 徳の区分と一般的観点の関与
以上のように本報告は、一般的観点が道徳的評価をするための必要条件と解
13
なるほど、
「不一致が心地悪さをもたらす」という話は、
『人間本性論』第一巻知性論に
おけるものに過ぎず、しかもその箇所で「社交や会話」における意見・感情の不一致とい
うことが語られているわけではない。そのため、報告者の解釈は多少強引なものに見える
かもしれない。しかしながら、ヒュームが一般的観点採用のプロセスを描く場面では、意
見・感情が「合わない(disagree)」だとか、それが「衝突する(conflict)」と言われること
は一切なく、只管「不一致(contradiction)」という言葉遣いがなされている。この「不一
致」を、ヒューム哲学におけるテクニカルタームとして捉えることができるのならば、上
述した報告者の理解も許されるのではないかと考えられる。そこで本稿では、
「不一致」が
「強烈な心地悪さ」をもたらすものであるがゆえに、社交や会話の場面でわれわれは一般
的観点を採用するようになると解釈できるとした上で、議論を進めることにしたい。
6
日本倫理学会 第 64 回大会 於愛媛大学城北キャンパス 2013/10/5
主題別討議「ヒューム」
釈することは難しいと考える。そしてこの理解は今のところ、一般的観点が初
めて登場する『人間本性論』第三巻第三部の「自然的徳論」を対象としたもの
である。
ところで、周知のようにヒュームは道徳を、自然的徳と人為的徳とに分けて
いるわけだが(T 3.2.1.1; SBN477)、従来の研究では、第三部の自然的徳論にお
いて初めて登場する一般的観点が、その前の第二部で論じられる人為的徳論に
おいても暗に関与するものだと解釈されることがある。すなわち人為的徳、特
に「正義(justice)」に関して言うと、(1) その起源について論じられた場面
はもとより14、
(2) 正義に関する道徳的評価について論じられる場面において
も、一般的観点が暗にかかわっていると解釈されるのである。それでは、これ
らの解釈はどこまで妥当なものと言えるのか。まずは、(1)正義の起源につい
て論じられた箇所に、一般的観点が関与しうるのかどうか確認してみよう。
3.1 正義の成立場面に一般的観点は関与するか?
、、、、、、、、
「正義」は、それが成立するにあたって、社会の成員すべてが「共通する利
益の感覚(common sense of interest)」、すなわち「コンヴェンション」を表明し
、、、、、、、、、、
合い、この感覚を一致させるということが必要となる(T 3.2.2.10)。ところで、
、、、、、、、、
ヒュームによると、一般的観点を採用するとき、われわれは自分の利益を度外
、、、
視することになる(T 3.3.1.17)。そうすると、コンヴェンションの形成を通じ
て正義を確立する際に仮に一般的観点が関与するのであるならば、一般的観点
、、、、、、、、、
、、、、、
の採用によって自分の利益は度外視されることになり、その結果、自分と他者
、、、、、、、、、、、 、、、、、、、、、 、、、、、、、、、
との間で一致するはずの「共通する利益の感覚」は形成されなくなる。仮に正
義を確立する過程においてある人が一般的観点に立つならば、そのとき形成さ
れる利益の感覚とは、その人の利益を度外視した「他者の利益」でしかなく、
コ
ン
ヴ
ェ
ン
シ
ョ
ン
もはやそれを「共通する利益の感覚」と呼ぶことはできないであろう。コンヴ
、、、、、、、、、、、、、、
ェンションを形成するにあたっては、ある程度自分の利益を考慮に入れること
、、、、、、
、、、、、
が必要となる。それゆえ、コンヴェンションを形成するにあたり、自分の利益
14
伊勢俊彦と矢嶋直規は、正義の確立の場面においてすでに、一般的観点が関与するとす
る解釈を打ち出している(伊勢[2005]p. 212; 矢嶋[2012]第八章)。
7
日本倫理学会 第 64 回大会 於愛媛大学城北キャンパス 2013/10/5
主題別討議「ヒューム」
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
を度外視する一般的観点が採用されることはないはずなのである。
3.2 正義に関する道徳的評価に一般的観点は関与するか?
、、、、
次に、上記の結論を踏まえるのであるならば、
「共通する利益の感覚」を共有
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 、、、、、
している人々の間で、正義に関する道徳的評価が食い違うだとか、一致しない
、、、、、、 、、、、、、、、、
という事態も、招来するはずがないと考えられる。正義に関して道徳的評価が
人によって異なるという事態は、コンヴェンションが共有されている以上、生
じることなどないのである。だからこそヒュームは、異なる評価・意見を擦り
合せる役割を担う「一般的観点」を、人為的徳論(正義論)においては登場さ
せていないものと考えられるのである。
とはいえ、報告者のこうした主張に対しては次のように反論されるかもしれ
ない。すなわち、確かに正義を「確立」する場面においては、一般的観点の関
与を認めにくいとしよう。しかしながら、正義の「道徳的評価」の場面におい
、、
て「公共的な利益への共感 は、正義の徳に伴う道徳的是認の源泉である(T
3.2.2.24)」と言われている。正義の道徳的評価に「共感」が関与するのであれ
ば、やはり「評価の変動」ということを考慮せざるを得ず、その結果やはり、
「一般的観点」が、暗にではあれ、導入されることになるのではないか、と15。
この反論に対して報告者は、正義の道徳的評価についてヒュームが述べてい
る次の箇所を引くことで応答することにしたい。
われわれが、間接的なものであれ直接的なものであれ、他者の不正義によ
、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、
って被る損害に気付かないことはない。なぜなら、そのような場合、われ
、、、 、、、、、、、、、、、、、、、、、、 、、、、、、、、、、
われは、情念によって盲目になることもなければ、何らかの反対の誘惑に
、、、、、、、、、、、、、
よって偏見を抱くこともないからである。それどころか、不正義がわれわ
れから極めて遠いところにあるので、われわれの利益に一切影響を及ぼさ
ない場合でさえ、不正義はわれわれを不愉快にする。なぜなら、われわれ
は不正義を人間の社会に対して有害なものと考え、また不正義の罪を犯す
15
おそらくはこのように考えた木曾好能や奥田太郎は、一般的観点が、正義の確立の場面
には関わらないものの、正義の道徳的評価の場面においては関わっていると解釈するのだ
ろう。(木曾[1985]p. 120; 奥田[2006]p. 90)
8
日本倫理学会 第 64 回大会 於愛媛大学城北キャンパス 2013/10/5
主題別討議「ヒューム」
人物の近くにいる人すべてに害をもたらすと考えるからである。(ibid.)
ヒュームによれば、われわれ人間が不正義を見逃すことは決してなく、それは
自分の利害にまったく影響しないような不正義に関してさえ同じであるという。
つまり、この引用においては、われわれが不正義の行為について異なる評価を
下すことは一切なく、不正義が近くで行なわれようと遠くで行なわれようと、
、、、、、 、、 、、、、、、 、、、
自分に関係しようとしなかろうと、われわれは「正義」ということで、一律に
、、、、、、、、、、、、、、、、、
同じ評価を下すことが述べられているのである。
確かに、正義の道徳的評価に「共感」の関与は認められる。しかし、だから
といって正義の評価において、人々の間に意見の食い違いが生じることは一切
なく、従って「一般的観点」が導入されることにはならないしその必要もない。
その理由は、われわれ人間が皆、社会を支えるために不可欠な「正義」にきち
んと従い、あらゆる場面で正義に関して異なる評価を下すことにならないよう、
幼き頃から親によって、正義の諸規則を叩き込まれてきたからであると考えら
れる(T 3.2.2.26)。
他方で、道徳のもう一つの区分である自然的徳として語られる人間の性格特
性は、基本的にその向かう対象が家族や親戚、そして親友などの「身近な人々」
に限られるという特徴をもつ(T 3.3.3.2)。だからこそ、評価対象との距離の遠
近、および関係の濃淡に応じて、その人物に対して抱く感情や意見が、評価者
によって異なるという事態が発生するのである。ヒュームが、自然的徳論にお
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
いてはじめて、感情や意見の相違を調整する役割を担う一般的観点を登場させ
たのは、こうした理由によるものと思われる。自然的徳と人為的徳という区分
に見られる「感情や意見の相違の有無」によって、我々人間が道徳的評価を行
なう際の一般的観点の関与が決まる、そのように考えられるのである。
おわりに
本報告はまず、ヒュームにおいて一般的観点が、道徳的評価にとって必ずし
も必要ではないという解釈を打ち出すことを試みた。その上で報告者は、一般
的観点とは、道徳的評価に関与はするものの、社交や会話において様々な意見・
9
日本倫理学会 第 64 回大会 於愛媛大学城北キャンパス 2013/10/5
主題別討議「ヒューム」
感情を擦り合せる過程で探求される観点としてのみ捉えることが適切なのでは
ないか、と主張した。さらに、ヒュームの正義論についても検討し、正義が定
められるときのみならず、正義の場面における道徳的評価の際にも、一般的観
点が暗黙裡に、何らかの役割を果たしているとは考えられないと解釈した。
さてそうすると、ヒュームの「一般的観点」論とは結局、補足的な議論の域
を出ないものなのだろうか。否、そうではない。少し視点を変えてみると、ヒ
ュームが「一般的観点」を論じることで何を言わんとしていたのかが、次のよ
うに浮かび上がってくるように思われる。
従来は「一般的観点に立つこと」それ自体に焦点が当てられ、
「一般的観点が
ヒュームの哲学体系においてどのような位置づけを与えられているのか」とい
うことが、主として論じられてきたように思われる。これに対し、
「一般的観点
に立つことで、われわれには何が見えてくるのか」ということについて考えて
みよう。一般的観点に立つことでわれわれに見えてくるものとは何か。それは、
本報告の冒頭でも記していた通り、評価対象の「性格」に他ならない。ヒュー
ムの道徳哲学は、
「ある行為が正しいのか不正なのか」について考察するものと
いうよりもむしろ、
「そもそも、そうした行為をどのような人物がするのか」を、
そして「その行為をする具体的な誰かは有徳なのか悪徳なのか」を論じるもの
なのである。ただ、人間の性格というものは、当該の人と長い時間16を共有し
てきた「身近な人々」の声に耳を傾けない限り、分からぬことが多かろう。だ
からこそ我々は、具体的な誰かのことを道徳的に評価するとき、身近な人々の
観点、すなわち「一般的観点」に立つのである。ヒュームの「一般的観点」論
は、いや彼の道徳哲学は、「人間」を見つめているのである。
[付記] 本槁は、平成 25 年度科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による研
究成果の一部である。
16
倫理や道徳を考える上で「時間(軸)」というものが重要となることについては、水谷
[2008]を参照されたい。
10
日本倫理学会 第 64 回大会 於愛媛大学城北キャンパス 2013/10/5
主題別討議「ヒューム」
参考文献
相松慎也 [2012]「ヒュームにおける道徳的評価と一般的観点」日本イギリス
哲学会関東部会第 90 回例会報告要旨.
Aimatsu, S. [2013] “The Artificiality of Moral Evaluation in Hume’s Ethics,” 『論
集 』、31 号、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部哲学研究室、pp. 101-112
Brown, C. [2001a] “Is the General Point of View the Moral Point of View ?” in
Philosophy and Phenomenological Research, Vol.62, pp. 197-203
Brown, C. [2001b] “Précis of Cognition and Commitment in Hume’s Philosophy,” in
Philosophy and Phenomenological Research, Vol.62 , [2001]pp. 185-215.
Brown, C. & Morris, W. E. [2012] Starting with Hume, Continuum
Garrett, D. [2001] “Replies”, in Philosophy and Phenomenological Research, vol. 62,
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Harman, G. [1977] The nature of morality An introduction to Ethics, New York:
Oxford U. P. (ギルバート・ハーマン『哲学的倫理学叙説―道徳の“本性”の
“自然”主義的解明』大庭健、宇佐美 公生 訳、産業図書、1988 年)
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Oxford Clarendon Press, 1978; eds., by Norton, D. F. & Norton, M. J. 1st Ed, Oxford U.
P., 2000 (ディヴィド・ヒューム『人性論』1-4 巻、大槻春彦 訳、岩波文庫、
1948-1952 年、デイヴィッド・ヒューム『人間本性論 〈第 1 巻〉知性について』
木曾好能 訳、法政大学出版局、1995 年;デイヴィッド・ヒューム『人間本性
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2011 年)
Hume, D. [1751] An Enquiry concerning the Principles of Morals, ed., by
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(D・ヒューム『道徳原理の研究』渡部峻明 訳、晢書房、1993 年)
伊勢俊彦 [2005]「ヒューム、その哲学の視野」、中才敏郎 編『ヒューム読本』
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11
日本倫理学会 第 64 回大会 於愛媛大学城北キャンパス 2013/10/5
主題別討議「ヒューム」
木曾好能 [1985]「第六章 イギリス経験論の倫理思想Ⅰ」小熊勢紀・川島秀一・
深谷昭三編『西洋倫理思想の形成Ⅰ』晃洋書房、所収
McNaughton, D. [1991] Moral Vision: An Introduction to Ethics, Wiley-Blackwell
水谷雅彦 [2008]「だれがどこで会話をするのか — 会話の倫理学へむけて
—」『実践哲学研究』第 31 号、pp. 1-18、実践哲学研究会
奥田太郎 [2006] 『ヒューム哲学における情念と倫理』京都大学 課程博士論
文
Radcliffe, E. S. [1994] “Hume on Motivating Sentiments, the General Point of View,
and Inculcation of Morality,” in Hume Studies, Vol.20, pp.37-58
柘植尚則 [2009]『イギリスのモラリストたち』研究社
矢嶋直規 [2012]『ヒュームの一般的観点』勁草書房
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