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2009年春号 - Sidenetトップへ
目次
映研とは?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
最近の活動・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
「嗚呼、あんな漢になりたい」
(新川泰平) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
「BALLAD 名もなき恋のうた」(一柳雅邦)・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
「紀子の食卓」
(松田潤)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7
「この監督がすごい」
(渡辺登志樹)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
「忘れたくない想い、ありますか―ef-a fairy of the two」(ペンネーム:Lily)
・・・11
「エレファント」(奥間勝也) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13
「Interview with 真喜屋力氏」
(畑山良太)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
「I love movie」(匿名希望) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
映研とは?
映画を撮ったり見たりしているサークルです。映画に詳しい
人も、詳しくない人も、映画が好きな人も、実はそうでもない
人もいます。みんながわいわいと集いあって、アットホームな
楽しい時間をすごしています。
部会を毎週水曜日 18:30 から、プレハブ 1 次棟共通 11 号室で行っています。部会では、
これまでの内容の報告をしたり、今後の計画を立てたりします。時には、誰かが書いてき
た脚本にケチをつけたり、みんなで話し合って脚本を書いたりもしています。また、レン
タルしてきた DVD なんかをみんなで見て、ああだこうだと好き勝手いったりもしています。
みんなでわいわい好きなことを楽しみます。
鑑賞会も行っています。スクリーンとプロジェクターを使って、最新のハリウッド映画
も邦画も、マニアックなアニメさえ臨場感たっぷりに見ることができます。
映画製作も行っています。脚本・監督・プロデュース・セット・役者・・・すべてを自
分たちで探したり、担当したりして、自分が表現したい何かを具体的な映像にしていきま
す。大変な作業ですが、その分やりがいもあり、完成時には大きな達成感があります。入
ったときはみんな素人ですが、たくさん撮れば撮るほど、その腕は徐々に上達していきま
す。こんな面白いことを知らないまますごすなんて絶対に損、そう言いきることができま
す。また、初めて映画を作る人たちのために、不定期ですが編集ソフトの使い方などのレ
クチャーを行っています。
部員大募集中です!!!
気軽に部会を尋ねてきてくださいね☆
「嗚呼、あんな漢になりたい」
第二回
書いた人
新川 泰平
『THE ビッグオー』より、ロジャー・スミス(以下ロジャー)
まさかまさかの第二回!
けども、すまん!
前回の終わりにドラマや洋画ネタをやるみたいな事を書いたんだ
無理やっぱりアニメが一番書きやすかった。というわけで、今回もアニメで
書かさせていただきます。
前回と同じくあらすじを書かさせて頂きますよ、舞台は 40 年前に起きた「何か」によって記
憶を失った街「パラダイムシティ」、主人公はネゴシエイターのロジャー・スミス、交渉に応じ
ず暴力に訴えてくる輩にはメガデウス・ビッグオーという巨大ロボで立ち向かう!
という話で
ございますよ。そのほかには謎が謎がを呼ぶといった話の展開や、昭和のいくつかの名作へのオ
マージュなどが話題になります。とまぁこんな所だ。
この作品のメカのデザインが凄く俺のツボに入ってたんだ。なんたって高3の頃、本編を見る
前に、この作品が出ている某スーパーなんとか大戦を攻略本とゲームボーイアドバンスとを一緒
に買って大学受験前までかなりやったなぁ、10週ぐらいはクリアしたはず、ただシナリオに全
く絡まない空気参戦だったから話が全く分からなくて泣いた。結局本編を見たのは大学入ってか
らなんだけど、主人公のロジャーが格好良いの何の、この場合の俺の格好良いはロジャー自分の
美学や確固たる考えを持ってる所に惹かれたなぁ。例えば服はいつでも全身黒尽くめというこだ
わり、女性に優しい所とか、そしてロジャー・スミスの法則なんていったりとか、なんかこう格
好良かったんだけども、実際は交渉相手には「このカラス野郎!」と呼ばれ、女性からは「アナ
タって最低ねロジャー」と言われロジャーも「そのセリフはいわれなれている。
」っていつもの
事なの?
とかロジャー・スミスの法則とかすっげぇクサイセリフを言って恥ずかしい、みたい
な感じなんだ。だけども彼はそれでも自分を変えない、それはなぜかと考えると劇中でこんなセ
リフがあった。「雨の中、傘を差さず踊る人間がいてもいい。自由とは・・・そういうことだ」
このセリフから自由の形は人にとって違うということは、自由とは自分が自由だと思うことをや
ればいいのだと、だからロジャーは自分の生き方を変えないそれが彼にとって自由だからと俺は
勝手に解釈しましたよ。これは惚れ直しますねだってアンタ世の中こんな自信ある人中々いませ
んよ、そして自由に生きている。これは憧れますね嗚呼、あんな漢になりたい。
監督/片山一良
製作/サンライズ バンダイビジュアル
放送開始年 1999 年
話数 全 26 話
バンダイビジュアル内作品紹介ページ
http://www.b-ch.com/cgi-bin/contents/ttl/det.cgi?ttl_c=145
主演・草彅剛、ヒロイン・新垣結衣、監督・山崎貴。超大型ラブ・ストーリーの製作が決定いたしました。
舞台は戦国時代。名もなき小国の戦国武将と美しい姫の恋物語を軸に、その時代にタイムスリップしてしまっ
た 10 歳の少年とその家族との心の交流を交えて、人間の愛・絆の大切さを壮大なスケールで描きます。
誰もが共感できるその娯楽性あふれる世界観をもとに、『ALWAYS 三丁目の夕日』『ALWAYS 続・三丁目
の夕日』で立て続けに日本中を笑いと涙の感動でつつんだ、日本映画界のトップクリエイター・山崎貴監督。
『ジュブナイル』『リターナー』では未来に向けられ、『ALWAYS』シリーズでは昭和に向けられた視線が次に
向かったのは、「戦国時代」でした。しかも、そのきっかけを与えたのはご存知嵐を呼ぶ5歳児・クレヨンしんち
ゃん。
映画「クレヨンしんちゃん」シリーズは子供のみならず幅広い世代に絶大な人気を誇っており、そんな中でも緻
密な時代考証と優れた脚本、心を揺さぶる感動的なストーリーで「アニメの枠を越えた映画史に残る傑作名
画!」と多くの映画評論家からも大絶賛されたシリーズ 10 作目の記念碑的作品『映画クレヨンしんちゃん 嵐
を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』(監督:原恵一)。山崎監督はこの作品に深く心を動かされ、それまでの「名作
はリメイクしない」というモットーをかなぐり捨てて、敢えて今回のチャレンジングな映画化に挑むことにしまし
た。
そして、そんな本作の主人公・戦国時代の名もなき小国の武将「井尻又兵衛」を演じるのは、草彅剛。国民的
グループSMAPで活躍しながら『黄泉がえり』『日本沈没』などいずれの出演作でも常に大きな感動を提供し
続けてきている草彅は、本作できっと更なる感動を届けてくれることでしょう。また、又兵衛が守り続ける小国
の美しき姫「廉姫」を演じるのは、『恋空』で同世代の女性の涙を涸れさせた今最も輝いている女優、新垣結
衣。まさに涙の最強タッグが誕生しています。また、大沢たかお、香川京子、中村敦夫、筒井道隆、夏川結衣、
武井証(子役)により、重層的な物語が紡ぎだされます。
本作は戦国時代を舞台とした武将と姫の<悲恋>を描いた壮大なエピック・ラブ・ストーリーであり、さらにそ
の時代にタイムスリップしてしまい、二人の恋路に深く関わることになる少年とその家族の<絆の再生>を描
く感動のヒューマンドラマでもあります。武士道や家族愛を通じて、今の時代にも必要な“人としての生き方”を
エンタテインメント性に富む完成度の高いストーリーにより描き出すと同時に、『ALWAYS』シリーズで昭和を
蘇らせた最新のVFX技術を駆使して、今度は戦国時代の合戦のディテールを、日本映画史上かつてないレ
ベルで忠実に表現することで、壮大な戦国絵巻もスクリーンに蘇らせます。
時代を超えた荘厳な涙の物語が今、奏で始められます。
ピックアップ:一柳 雅邦
『紀子の食卓』
●綻びの前線、円の縺れ
人間関係は円(サークル)に例えられる。人は自分を中心に半径の異なる同心円を幾重に
もはりめぐらせている。他者をどの円の、どの円周上に位置させるかで、その関係の度合い
を測ることができる。自分の正面に位置しながらも大きな円に立つ者、半径の小さな円に立
ちながらも視野の 180℃を越えて位置している者など他者との関係は半径と角度で示すこと
ができる。それは固定的では有り得ず、意識下、無意識下で常に流動している。また一旦計
測地点の中心を他者に移してみたなら、自分の位置は必ずしも他者からも同距離、同位置に
あるとは限らない。人間関係はこのように円を用いて理解し流動的なものとして捉えること
ができる。では、この認識付図のなかで流動的なのは関係だけなのだろうか。言い換えると、
円の中心にいる(と思い込んでいる)自らの立ち位置は常に安定的に定位置を確保し得るの
だろうか。流動的な人間関係において他者との距離を上手く掴めずにいる現代人は少なくな
い。自分自身との距離を測りかねている者に他者の位置取りを把握することは叶わないから
だ。自らを理解しているなら自身との距離は0なはずである。つまり半径0に位置する。こ
の半径0の自己を映画『紀子の食卓』は捏造する。
主人公の紀子は自分が何を思考し志向/嗜好したいのか曖昧なまま 17 年間生きてきた。紀
子はネット上の掲示板「廃墟ドットコム」で〈ミツコ〉と名乗りそこの住人の同年代の少女
(と紀子は思い込んでいた)たちと今までにはない「分かり合える」友達関係を築いていく。
なかでも掲示板の長であるらしい〈上野駅 54 さん〉には一目置いていて、彼女に会いたい一
心で紀子は家出し上京する。無事〈上野駅 54 さん〉=〈クミコ〉と面会を果たすのだが、
〈ク
ミコ〉は「レンタル家族」を派遣する会社(サークル)を主催しており、紀子は〈ミツコ〉
として作り上げた自己を疑似家族のなかで演じていくことになる。サークルではこの自己像
の捏造が「自分に関係する」ことになっている。サークルの男は語る。
「あなた(「娘」を探し続ける「父」鉄三)はあなたに関係していますか。今やあなた以外の
ひとはみな役割に目覚めつつあります。現実の社会はあまりにも過酷で、父や、母や、子供
や、妻や、夫を演じるには人々は疲れはてて、表裏は複雑でしっくりといきません。ここで
はすべてが嘘で、表も裏もありません。むしろ、全面的に虚構を突き進むこと、それではじ
めて自分と出会えるのです。砂漠を感じるのです。孤独を感じるのです。実感するのです。
確固たる砂漠で生き抜くこと、それが役割です」
この言葉は役割を生きる人間の本質を上手く言い当てていると思う。自己とはそもそもが虚
構の産物であると言えやしないか。
他者が認識している自分というものと、主体である自分が認識している自分というものは
必ずしも同一ではないし、自己認識が完全にできている人もいない。他者が知っている自分
を自分は知らないし、自分が考えている自己の姿がそのまま他者に伝わっていることもない
(これが人間関係の円において自己と他者の間で距離や位置にズレが生じる理由である)
。だ
から他者が知っているのは環境が要請する自己像と自身が想定した理想的自己像とが一致し
たところに妥協的に形成される〈わたし〉という仮面でしかないのだ。その仮面は、もしか
したら仮面を被っている俳優の素顔を模したものなのかもしれないし、あるいは別人に成り
すますための別人の面なのかもしれない。けれどもどれだけ素顔を精巧に模した仮面であっ
ても面は面、それは素顔とは違うものだし、なんらかの演出がされていたのだしても、演出
する者の計算通りに観客に作用しているとは限らない。俳優自身が仮面こそ素顔と思い込ん
でることもある。ならば仮面の下に抑圧されている俳優の素顔は俳優自身にも知り得ない、
ということになるし、そういうことは往々にして多いのではないか。どうであれ観客として
の他者が知り得るのはワタシという仮面を被って演じられるキャラクターの舞台演技でしか
ないのであり、それこそがヒトの個性である。個性というものは個人が作り上げるものでは
なく、社会の中で不可抗力的に出来上がってしまう仮面のことをいう。その仮面を我々は自
己像だと勘違いしながら日々を暮らしている。この勘違いに基づく虚構を自覚的に生き直し、
役割にコミットしていくことで「自分に関係」していこうと〈クミコ〉は考えたのだ。幾重
もの同心円にそもそも中心は存在せず、在るのは半径を限りなく0に近づけたもっとも小さ
な円に立つ虚構の自己である。没中心的な人間関係を造ることで〈クミコ〉が目指したこと
とは円(サークル)の曲線を太くすること。それは役割に埋没し、虚構の関係を突き進み、
あぶれることのないより強固な「関係」を築くことであった。この目論見の綻びは、作中何
度も出てくる袖口の糸の縺れに象徴的だ。
映画の終盤、紀子と妹の由香の選び取る自己像についての異なる選択は印象的である。
「自
分に関係」し続けること選ぶ紀子と役割を捨てて生きることを決める由香。現代においてよ
り困難なのは後者であろう。仮面を脱ぎ捨て素顔を晒したつもりでもその顔こそ素顔を模し
た仮面かもしれないのだから。けれども、そのような払拭できない疑念を抱えたまま自己像
を固定化させずに改め続けていく試みこそ重要だと思う。
「自分に関係する」ことを止めるこ
とは、虚構の中心を脱しリアルの中心に位置することではない。それは、自己とは没中心な
存在であるという認識のもと、虚構の中心を捏造することを止め、意図的に中心からズレて
いく脱中心的な試みである。由香の生き方は人間関係を円に見立てた認識付図を自由に飛び
越えていく力を持つ一方で、現代においてはある種の生き難さをも引き寄せてしまう。しか
しこのような生き方こそ本来的な意味で「自分に関係する」ことと言えるのではないだろう
か。
監督 園子温
出演 吹石一恵、つぐみ、吉高由里子、光石研
2006/日本/159 分
松田潤
この監督がすごい
第2回
原一男
第1回は知る人ぞ知る存在だった今村昌平だった。しかし今回は、読んでいる人はもとよ
り部員でさえ誰も知らないであろうドキュメンタリー監督である。
来歴
原一男は 1945 年山口県生まれ。
東京綜合写真専門学校を中退し田原総一郎のドキュメンタリーに影響を受け撮影現場に
出入りするようになる。そして、後に妻となる小林佐智子と共に疾走プロを立ち上げ、脳性
麻痺の障害者自立運動家、横塚晃一を追ったドキュメンタリー「さようなら CP」を発表。
その後、自分の元同棲相手を追った「極私的エロス 恋歌1974」と異色のドキュメンタ
リーを発表。その後、1987年に撮った、アナーキスト奥崎健三を追ったドキュメンタリ
ー「ゆきゆきて神軍」で大きな社会現象を起こす。この作品は海外でも高い評価を受けベル
リン国際映画祭にてカリガリ映画賞、パリ国際ドキュメンタリー映画際グランプリ受賞する。
その後も作家井上光晴を追ううちに次第に彼の経歴詐称が明らかになっていく「全身小説
家」など社会性の高いドキュメンタリーを撮る。
作風
ドキュメンタリーとはウィキペディアによると「取材対象に演出を加えることなくあ
りのままに記録された素材映像を編集してまとめた映像作品」と定義される。その定義に従
うとすれば原一男の作品はドキュメンタリーとは言えないかもしれない。
彼の取材対象は常
に自分で自分を演出しカメラを意識して行動する。それゆえ彼の作品は常に「やらせ」とい
うきわどい問題に直面する。それは彼が取材対象の演出をそのまま写し劇映画とドキュメン
タリーの境をあいまいにしているからである。そして「やらせ」を乗り越えた先に新たなド
キュメンタリーの境地があると信じているようでもある。
そして彼の作品は隠れることを許
さない。彼のカメラは時に非情で残酷に見えるほど執拗に取材対象に、そして真実に迫る。
そしてそれは、
「極私的エロス 恋歌1974」で、泣き、もがく自分にまでも及ぶ。その
姿勢はまさに「全身映画監督」である。
作品紹介
ゆきゆきて神軍
1987 年の日本映画界を震撼させた驚愕の作品。天皇の戦争責任に迫
る過激なアナーキスト・奥崎謙三を追った衝撃のドキュメンタリー。
神戸市で妻とバッテリー商を営む奥崎謙三は、たったひとりの「神
軍平等兵」として、
・神軍・の旗たなびく車に乗り、今日も日本列
島を疾駆する。
生き残った元兵士たちの口から戦後 36 年目にしてはじめて、驚く
べき事件の真実と戦争の実態が明かされる…。
さようなら CP
CP(脳性麻痺)者の急進的な団体「青い芝」の人々の生活と思
想をカメラに収めた、原一男監督の第一作。
障害者だからといって自ら片隅でこっそりする生き方は、
障害者
差別を容認することになると考え、
その不自由な体を積極的に人
前にさらしていく
その他
1974年 「極私的エロス
恋歌1974」
1994年
「全身小説家」
2004年
「またの日の知華」(劇映画)
渡辺登志樹
忘れたくない想い、ありますか―――
ef - a fairy tale of the two.
前回はサッカー映画を取り上げましたが、今回はTVアニメの紹介をしたいと思います。え
え、趣味全開でいきますよ?異議は認めませんのであしからず。
この ef という作品は 18 歳未満が買ってはいけないゲーム(未成年は検索しちゃダメ。ゼッ
タイ。
)が原作で、後に漫画・アニメ・ドラマCDとメディアミックス展開していきました。
最近はこういった場合、アニメ制作会社に丸投げすることが多いのですが、ef はゲームを制作
した minori が製作委員会に参加しているので原作を十分に踏まえていて、完成度の高い作品
になったのです。
何より特筆すべき点は演出(人によっては七尾さんのキャラかもしれんが)!!アニメを制
作したシャフトは「さよなら絶望先生」や「ひだまりスケッチ」等、演出には定評がありまし
たが、この作品で一気に開花しました。
ストーリーは幾人もの青春を生きる少年少女たちの恋愛に関す
る群像劇ですが、揺れ動く心情、鬱屈した感情、崩壊する意思…
複雑な感情を独特に表現している。アニメーションではタブーと
されている静止画を使用したり、文字での表現、鮮やかなコント
ラストにカメラワーク。こういった表現がとても効果的に使用さ
れ、パンチ効いている。またオープニングやエンディングもその
時々の登場人物を反映するように変化しており、回を重ねるごとに色が増えたり、人物が付け
加えられたりしている。こういった細かい所にも工夫が重ねられ、一度では見飽きない作品に
仕上がっている。
アニメは実写とは違う表現や手法で表現できるのが特徴だと思うが、今までのアニメでもあ
まり使用されていなかったように思う。エヴァに近いといえば近いかな。つまりアニメであっ
ても従来のアニメとは一味違う感覚を味わえると思う。 七尾奈留(代表作:D.C.~ダ・カー
ポ~、sola など)がキャラクターデザインなので、一目見ただけでは「最近流行の萌えアニメ
かよ∼」と敬遠するかもしれないが、観る価値はある!
ホントはそれぞれのキャラクターやPC版との比較についても書きたかったが、原稿が何枚に
なるか分からないので今回はこれでおしまい!…ってか卒業予定なんで、永遠におわりかもか
も?「映画研究会」なのにTVアニメが最後の原稿でいいのか俺!?
ef – a fairy of the two.
原作 minori/制作 シャフト/監督 大沼心/日本/各 12 話完結
ef – a tale of memories. (第 1 期) 2007 年
公式 HP http://www.ef-memo.com/
ef – a tale of melodies. (第 2 期)
2008 年
公式 HP http://www.ef-melo.com/
Written by Lily
琉球大学4年次/北海道出身/
映画が好きだったはずなのに2年前くらいから二次元しか興味
の無くなった男
…次の部誌でも『もし』私が原稿を書いていたら、
「あぁ、卒業できなかったんだ…」と思
い、温かい目で見守ってやって下さい。
「エレファント」
2003/アメリカ/81 分
監督/ガス・ヴァン・サント
出演/ジョン・ロビンソン、アレックス・フロスト、エリック・デューレン、ティモシー・ボトムズ
むかし観た映画などを時間がたってからもう一度見てみると、初めて観たときよりも面
白かったりすることがよくある。その逆もまた然りだが、それは初めてのときには見落と
していたことを発見できたり、自分自身が変化したことによって映画に対するアプローチ
が変わっていたり、単にその時の気分がまえとは違うから、といった様々な原因があるよ
うに思う。その原因の一つとしてこうも言えないだろうか。そもそも「何かを見る」とい
うことは「何かを見ない」ことでもあるからなのだ、と。そんなことと、今回紹介する「エ
レファント」は関係なさそで関係ありそなことなのだ。
「エレファント」は 1999 年にアメリカのコロンバイン高校で起こった銃乱射事件を題材
にした作品である。学校に送ってくれた父が酒に酔っていることに気がつき、兄に迎えに
来るよう電話するジョン。公園を散歩するパンキッシュなカップルを撮影する写真部員の
イーライ。噂話や母親への愚痴に花を咲かせる三人の女の子。アメフトをしたあとに恋人
と会うネイサン。周りの女の子からダサいと言われているミシェル。そして、学校でいじ
めにあっていたアレックスは、親友のエリックと銃をもって学校のなかへ入って行く。あ
る高校での一日を、登場人物それぞれの視点から描いた作品である。
監督のガス・ヴァン・サントはこの作品に関するインタビューのなかで、アラン・クラ
ークがアイルランドの民族対立をテーマにして制作した「エレファント」を観て、彼と同
じ問題意識を持っていることから映画のタイトルを決めたと言っている。よく言われてい
ることではあるが、サントやクラークのその真意とは、
「群盲象を撫でる」という諺にある。
多くの盲人が象を撫でて、それぞれ自分の手に触れた部分(耳、鼻、牙など)だけで巨大
な象を評すると失敗し、象という全体を捉えることはできないことから、転じて、大きい
事柄を一部分の考察にとどまって全体を見渡すことができないということをこの諺は意味
している。
このような問題意識が作品全体を覆っているわけだが、それは作品の何気ないところで
も垣間見ることができる。映画のなかで、学校の廊下でイーライがジョンの写真を撮ろう
とした時に、ミシェルがその側を走って通りすぎる場面がある。これはジョン、イーライ、
ミシェルの三者それぞれの事象で起こるので、このシーンは映画のなかで合計すると三回
あるということになる。ここに重要なことがあるように思う。この映画は被写界深度を浅
くして(対象となっている人物にピントを合わせて背景がぼけている状態)撮影している
ことによって、同じ内容を映していても、ピントが合っていた人物が別の場面では背景に
なっていたりして見え方が異なっているということである。例えばジョンが中心に映され
ているときはイーライとミシェルは背景だけれども、ミシェルが中心になった時、今度は
ジョンが背景となっているのだ。ここではルビンの壺(教科書とかに載ってる、一枚の絵
のなかに壺と向かい合った二人が見えるあの絵こと!)のような地と図の関係性が見てと
れる。一方の図柄を見ようとすると、もう一方は必然的に背景(地)の方へ押しやられて
隠れてしまう。見ることは見ないことでもあるのだ。
また観客は、この三者が交差するとき(すなわち廊下と垂直方向に三者が一直線を成す
とき)にイーライのカメラのシャッター音を聞くだろう。このシャッター音は「記録」ま
たは「事件の瞬間」の比喩になっている。三者が交差するという「事件」をイーライのカ
メラが記録しているのだ。もし出来上がった写真を想像するなら、そこにはカメラに向か
ってポーズを決めたジョンが写っているに違いない。しかしそれは言うまでもなく「三者
の交差」という「事件の瞬間」の全体をとらえたものではなく「事件の瞬間」の一部分を
表した「記録」にすぎない。写真からは撮影者のイーライの存在はかろうじて推測できて
も、イーライのすぐ後ろにいるミシェルの存在は(すぐ傍にいるにもかかわらず)もはや
削除されている。イーサンが、もしくはカメラが嘘をついているのではない。撮影者の主
観が「事件の瞬間」を切り取って「記録」しており、そこには裏(ミシェル)と表(ジョ
ン)、地と図が常に付きまとうということである。そして重要なのは、この一連の「事件の
瞬間」の全体をガス・ヴァン・サントのカメラがジョン、イーライ、ミシェルというそれ
ぞれの立場から合計三回映し出すことによって、メタ的な位置においてそれらを捉えてい
るということである。つまり、
「記録」するという出来事を映し出すことによって、それの
限界や、それにつきまとう表裏や地と図の関係を見事に捉えているのだ。
ガス・ヴァン・サントは作品全体のマクロな点から、または、例で挙げた三者の交差と
いう作品のなかのミクロな点に至るまで、安易に答えを提示するのではなく、様々な角度
から粘り強く対象を追い、あからさまに主張しないことによって(しかし矛盾するようで
はあるが、まさに主張しないことを主張しているようにも感じられる)観客それぞれの解
釈を促すことを徹底して行っている。そして、彼の声なき主張を聞き取る観客の存在を信
じてこの作品にとりかかったガス・ヴァン・サントのその志に、僕はやはり感服してしま
うのだ。
奥間勝也
Interview with 真喜屋力氏
畑山良太
沖縄唯一のミニシアター系映画館、
「桜坂劇場」のプログラム・ディレクターである真喜屋力
氏に、琉球大学映画研究会を代表してインタビューをしてきました。
1、何故この職業を選んだのですか?
—何となく、としか言いようがないですね(笑)桜坂という場所には、以前は十以上の映画
館があったんですけど。時代の流れと共にみるみる減っていって、ついには桜坂劇場の前身
の映画館まで撤退せざるを得なくなってしまう状況になっちゃったんですよ。その時に、当
時の映画仲間たちから「この劇場を存立させよう。
」と誘われて。それで僕がこの地位に至っ
たんです。
2、沖縄でミニシアター系の映画館を営業するにあたって、短所と感じる点はありますか?
—いっぱいありすぎるよ(笑)マイナーな映画(主にサブカルチャー、と分類されるもの)
の上映に関しては、動員率が極端に少ないからね、沖縄は。マイナーな映画が好まれるのは、
主に東京なんだよ。何故かっていうと、内地とか、地続きの場所だと、変わった価値観・世
界観に対してリアリティがあるんだよね。沖縄のように離れた場所だと、人々がサブカル的
な世界に関してリアリティを感じにくいはずだから。沖縄でそういったミニシアター系の上
映を続けていくには、日々観客の反応を確かめながら、上映のラインナップを模索していく
という努力は避けられないですね。
3、アーティストを呼んだり、ワークショップを開いたり、原画展を開いたり、カフェを設
置してみたり。桜坂劇場を、どのような空間にしようと考えているのですか?
—何でもありの、市場みたいな感じかな。誰でも、新しい発見が出来るような。映画だけ、
だとつまらないし。映画監督だって、映画だけやってきました、って人が作ったやつはつま
らないものが多いでしょ。映画ファンだけが来るような場所じゃなくて、桜坂劇場のスタッ
フたち自身も色んな出会いが出来るような場所が良いね。
4、映画をセレクトする際に心がけていることはありますか?
—様々なジャンルのものを混ぜること。この映画を観せたい!というよりは、全客層を狙え
るようなラインナップが理想です。監督なんかよりも、やっぱり神様はお客様だからね。ヒ
ットする映画って、中高年が足を運ぶかにかかっているんだよ。若い人は映画を良く観るっ
て印象があるけど、案外若者の動員率ってたかが知れてるからね。最近の映画は若者向けの
作品が多いから、特にホラー映画だね、全国的に収入が低迷しているんだよ。
5、映画に関する職業に就きたいと考えている若い人たちに、何かアドバイスがあればよろ
しくお願いします。
—若いうちから作品をたくさん作って、観てもらう努力を惜しまず、依頼された仕事は何で
も引き受けていくのが良いはずだよ。映画が好き、ってだけだと、どこに行っても採用され
ないし。映画を作るということを学生時代の一つのステータスとして、それ以外のことにた
くさん手を出した方が良いね。そして、自分が携わった作品を評価してくれる、たくさんの
人に出会うことが本当に大事だから。常に客に作品を観せることを考え続けていれば、自然
とこの業界への道は開けてくると思いますよ。
Fly UP