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報告書 - 法政大学

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報告書 - 法政大学
丹波「篠山」の歴史的歩みと街並みの特性
岡義祥(2)尾島愛美(2)黒沢瑞生(2)村上万帆(2)
1.篠山について
篠山市は、兵庫県の中東部に位置する。京都府や大阪府と隣接し、様々な
地方との結びつきがある。
現在の篠山市は 1999 年に多紀郡篠山町、今田町、丹南町、西紀町と合併
し、誕生した。
この合併は、広域市町村園事業を推進させるため、ということが 1 つの大
きな要因であった。広域市町村圏事業というのは、地域の振興を図るため、
人口 10 万を基準として地域指定を行い国の財政援助によって行政面におい
て共通し一本化できる事業を広域行政で推進しようというものである。
当初は 1958 年に持ち上がった話であるが、様々な障害があり、全体の合
併にはなかなか至らず、最終的には 1999 年に全ての地域が合併することに
至った。
図1(1954年以前の旧町村界
図2(1975年3月までの6町)
1町18カ村)
図3(1999年3月までの4町)
そして、合併し新しく生まれた篠山市は観光地化されていった。
篠山市は兵庫県の中東部にあるため、古くから京都と山陰、山陽間の交通
の要衝の地であった。江戸時代には幕府により大坂城の豊臣氏と西日本の大
名を分断する格好の地として軍事上重要な位置づけがされ、慶長 14 年に徳
川家康の命による天下普請によって篠山城が築城された。翌 15 年からは城
下町が計画的に整備され、江戸時代を通じて丹波国篠山藩 5 万石の中心地と
して栄えたとされている。この歴史的背景から、今もなお城下町は保存地区
として、篠山市にとって重要な文化財である。
この歴史的な街並みを中心として、篠山市は観光地を作り上げている。
下図のようなマップをつくり、観光客に興味をもちやすくさせる、また篠山
市の観光情報専用のホームページをつくり観光を促進させる、などをしてい
る。この観光情報のホームページには、観光モデルコースなども挙げられて
おり、観光に力をいれていることが分かる。
図4
2.篠山城
2-1 篠山城の築城
篠山城は慶長 14 年(1609)に丹波国多紀郡(兵庫県篠山市)の「笹山」
という丘陵に築かれた城である。徳川家康が松平康重を常陸国笠間城から丹
波国八上城に移し、さらに新城の築城を命じたことからこの篠山城が築城さ
れるに至った。篠山城築城の理由は、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城
を築くことによって、大阪の豊臣氏をはじめとする西日本の諸大名のおさえ
とすることが目的とされていたためである。
工事は江戸幕府が 20 藩の西国大名に夫役を命じ、天下普請によって実施
された。伊予国今治藩主の藤堂高虎が縄張を担当し、播磨国姫路藩主の池田
輝政が普請総奉行を務めた。しかしながら、この工事は困難を極めたという
記録がある。笹山は小山であるものの、そのほとんどが岩盤でできているた
め、人力で岩盤を切り崩し、整形しなければならなかった。石川正西の「見
聞集」には「本城一枚岩にて夜な夜なは薪をつみかけやきてひるはかねつき
つるはしにて地形引さけ申候」<(篠山市篠山伝統的建造物群保存対策調査
報告書)P77>と記録されており、昼夜の大工事の様子がうかがえる。工事
は慶長 14 年 3 月から始まり、同年 12 月には初代城主として松平康重が入城
したとされており、工事開始から 9 カ月でほぼ完成していたと考えられる。
松平康重入城後、松平氏、青山氏が城主として支配し、明治まで続いた。
図5(篠山城外観)
2-2 篠山城の特徴と構成
篠山城は江戸城、姫路城、熊本城などと同様の平山城である。平山城とい
うのは、平野の中にある山や丘陵の上に築城された城のことをいう。これは
戦国時代末期に出現した築城法で、防御的な機能と政庁を合わせ持ち、領国
支配・経済の中心地として発展した。さらに、室町末期に現れ始めた平城の
特徴である城下町を形成しており、山城と違い平坦な地域での防御機能を十
分に考慮していることがわかる。このような平山城が出現した背景には、中
世・戦国時代までの刀や槍などの個人戦から、戦国末期に普及した鉄砲がよ
り遠距離の攻撃を可能にしたことで集団戦へと変化したことや、大名に従う
兵士の数が従来の山城では維持できなくなったことなどが考えられている。
城の縄張りは主郭を構成する梯郭式(本丸を城郭の片隅に配置し、周囲の
2 方向、あるいは 3 方向を他の曲輪で囲む縄張)に造られた本丸と二の丸を
中心として、内濠、三の丸、外濠、家臣団の居住地、町家が輪郭式に配置さ
れている。本丸は南北 78m、東西 60m の長方形で南東隅に天守台を構築し
ているが、天守閣は建てられていない。二の丸には、北側正面に篠山城最大
の建造物である大書院がある。ここは公式行事の場として使用されていた。
この大書院は、築城時に建てられたと考えられる書院造の建物で、東西の梁
行 28m、南北の梁行き 26m と大きく、北東隅に大きく突き出た主殿造の形
式で建てられ、内部は上段の間、虎の間など 8 室に分かれていた。三の丸は、
本丸と二の丸、内濠を回の字形に取り囲み、外側は外濠が囲む。三の丸の構
造は北側中央に対面所が位置し、他に役所や米蔵、家老級の武家屋敷などが
所在し、外濠に面して前面に土塁が築かれ、その上に屏風折れの塀と隅櫓が
建てられていた。
また、篠山城は城の虎口が状態よく残っており、国指定の史跡として登録
されている。篠山城の虎口の形態は馬出(うまだし)と呼ばれ、東日本を中
心として発展した形態である。堀に面する虎口の外側に、弧状またはコの字
型に土塁や石垣を積んで、出入りできる部分を残したものである。(図7)
図6(篠山城見取り図)
図7虎口(馬出式)
2-3 明治以降の篠山城
篠山城を有する篠山藩は、明治元年(1868)朝廷から派遣された西園寺公望
らにより城を明け渡し、終焉するに至る。明治 2 年(1869)には版籍奉還が行
われ、当時の藩主青山忠敏が篠山藩知事に任命された。その後、篠山城は官
有となるものの、明治 6 年(1873)の城郭取り払い令により城の大半が取り壊
される。競売により、隅櫓、門などの建物が撤去され、周辺寺院、民家など
に再利用された。しかしながら、篠山城最大の建築物である大書院は、解体
に多大な費用が掛かるということもあり、取り壊しを免れた。また、安藤直
紀の努力により大書院は保存されることになり、教育施設、公会堂などの用
途で利用さるようになった。明治 8 年(1875)に篠山小学校の校舎になり、明
治 43 年(1910)まで小学校の校舎として利用され、その後は郡公会堂となる。
昭和 8 年(1933)には多紀実業高等公民学校の校舎として一部利用されるよう
にもなった。このように廃藩後、300 年近く利用され、地域教育の振興に寄
与した。残念ながら昭和 19 年(1944)、大書院を焼失する事件が起き、その
歴史に幕を閉じてしまった。
第二次大戦後は、文化財の価値としての関心が高まり、昭和 31 年(1956)
に大手馬出を除く城郭全域が国史跡指定を受け、これを契機に国の補助金で
保存・修復がなされていくようになった。火災によって焼失した大書院も復
元され、近年では平成 10 年度に策定した「史跡篠山城跡整備基本構想」に
基づき、内濠復元整備等を段階的に実施している。
3.篠山城の城下町について
3-1 城下町の成立
徳川家康は自らの政権の最西端の拠点を構築するため、後に初代篠山城主
となる松平康重に命じて 1609 年、既存集落である黒岡村を移転させる事に
より篠山城を築城させた。篠山城下町は、築城の翌年 1610 年から建設が開
始された。城下の町割りを任された地割奉行の家老岡田内匠重綱の指揮の下、
町人町には八上城下町などから商工業者を移住させる事で、その後 10 年ほ
どの期間で城を中心とした町のインフラや基幹的な町並みの骨格が完成し
た。その後 3 代目城主の松平忠国の時に城下町としての形態や機能が完成し、
更に松平康信の代に成熟していった。
3-2 城下町の整備
当時、一般に畿内や西国の城下町はそれらの成立以前に立地していた村落
や町場、条里制などを新しい町割りの条件に取り入れていた。しかし篠山城
下町は既存集落である黒岡村を移転させ、生まれた更地に建設された。した
がって既存の制約にとらわれる事なく自由で理想的なプランニングを行え
たと考えられる。篠山城は大阪城と西日本の諸大名を分断するために、山陰
道の護りの要として作られた。したがって、理想的なプランニング、つまり
機能主義的な計画で最も重視されたのは防御性である。具体的に言うと、自
然条件や地形特性を利用した河川、濠、街路網計画などの防衛機能の充実に
加え、封建的な政治、経済、社会体制の維持のための階層的なゾーニングの
明解さ、コンパクトでシンプルな空間構成が挙げられる。
これらの構想の下、城下町の整備は東方にあった王地山の南麓を流れてい
た篠山川を南方に付け替える事から始まった。また、この川の支流であった
黒岡川を城の南東で直角に屈曲させ城の南を西方向へ流下するように付け
替え、外濠の機能を持たせた。
さらに武家町は城内に家老屋敷を配置し、外濠の東西南北の濠端に家臣屋
敷が、その外縁には徒士や中間足軽屋敷が配置された。東濠端の東の筋には
餌差町、西濠端の西の筋は御徒士町、そして北濠端と追手、その裏の筋を小
姓町と称し、武士階級によりゾーニング(町割)された居住区域が、藩主が
居住する城本丸を重層的に取り囲むように設計されていた。加えて、京街道
が城下の南東に引き込まれ、何度も屈折しながら武家町を取り囲むように城
下を通っており、この街道沿いに寺院や町屋が配置され商家町が形成された。
こうして、篠山城下町における建物の計画的配置は築城からおよそ 40 年
の間で大まかな輪郭が完成した。なお、城下町の規模については、石高 6 万
石であり人口構成は町方人口約 2700 人、武家人口約 3600 人と推定される。
城下町の成立以降、この町人の人口構成は江戸時代を通してほとんど変化は
見られない。
3-3 城下町の構成
↑篠山城下町の町割図
① 家町
主に城の周囲を囲っている武家町は、内側より順に上級武士の屋敷から下
級武士の屋敷へとなるように重層的に配置されていて、これらの武家屋敷群
は現在もいくつか現存している。その中でも有名なのは御徒士町であり、こ
れに当時の武家住宅のたたずまいを見ることができる。特徴としては、通り
の西側の家屋は道路から約 1mさげて築地塀と棟門を設置し、主屋はそこか
ら更に 4mほど後退して建築されている、また主屋の屋根は茅葺で出来てお
り、またその形から直屋と中門建の 2 つに区別出来る武家住宅の構成などが
挙げ
られる。
②商家町
商家町を構成する町屋は篠山の場合、街道沿いに配置する方式で構成され
た。具体的に言うと、京街道が篠山川を渡る京口から鍵型に南東から北西に
折れ曲がって岡谷口に抜けており、その街道の両側に寺院や町屋が配置され、
それぞれ職業別に町人の住居が居住した。この街道沿いの商業空間は、現在
まで続く商業の発展の推移を振り返れば経済的発展を意図したことの成果
であった事が分かる。町屋街区もまた現存しているものが多く、とりわけ河
原町の商家群が残っている。これは近世に入り、商業の中心が南西の下河原
町から北の二階町や魚屋町に移ったため、河河原町の建て替えが進まなかっ
た事が原因と思われる。
③全体的な空間構成
現在、城下町の一部は篠山重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
これらを構成する町割は、同時期の他の城下町と同様に武家町と町人町を明
確に区別するというコンセプトの下で行われていた。具体的に言うと城下町
形成時、現在の外濠と黒岡川の間の武家屋敷街区を三の丸として城内と意識
していて、黒岡川を境界にして内側を武家町、外側を町人町とみなしていた。
また、城の北側では二行の街区ではあるが、片側が武家屋敷、もう一方が町
屋という特殊な構成となっている。これは篠山城下町の町割の理念に反して
いるように見えるが、実際には両行の間に水路を通すことで地域区分を行っ
たらしい。
4.町並み保存とまちづくりの経緯
4-1 昭和 40~50 年代の町並み保存の取り組み
昭和 31 年に篠山城は史跡指定を受けていたものの石垣の一部は崩れたま
ま放置されていたため、昭和 40 年頃、石垣修理の募金活動が行われ、指定
後初めて石垣修理が行われた。このことにより、歴史的景観は整備を通じて
価値を高めるということが初めて認識された。
昭和 40 年代後半は、兵庫県による町並みの実態調査やそれを受けて伝統
的建造物群保存地区指定に向けての具体的な準備をする等、篠山における町
並み保存の揺籃期であった。
こういった経緯を踏まえて昭和 50 年に「町並み保存協議会」が発足。設
立の趣旨には「古いものを単なる懐古趣味的に残すのでなく、そこに営まれ
る生活と一体のものとして文化財を見直していきたい」とあり、町並み保存
を街づくりに生かすといった考え方のもと取り組みが進められた。
しかし、その後の話し合いで出された意見は、建て替え等が自由にできな
いという私権の制限やプライバシー侵害などの問題があるといったもので
あり、住民間において共通理解と合意形成が進まず昭和 57 年頃には活動が
衰退する。
4-2 平成以降の町並み保存の取り組み
昭和 63 年に、篠山町を一つの会場としたイベントがあり、それに先行し
て町並みの景観の整備をした。これを機に町並み景観という意識が定着し始
める。
平成 11 年に多紀郡4町が合併し篠山市が誕生すると町並み保存の動きが
再熱する。篠山城下町伝統的建造物群保存問題検討委員会の設置や3カ年計
画の調査、また地元説明会の開催等によって住民からは町並み保存に対する
賛意の声が大半に及んだ。ただ、高齢者が多い中、未来にわたって管理し続
けることに不安の声が多く聞かれた。しかし住民と行政が協力し合って取り
組もうという答えで説明に当たった。
以上のように、将来のまちづくりの在り方を説明したりする中で住民間の
保存に向けての気運が高まり、平成 15 年には住民の総意として伝統的建造
物群保存地区制度の早期導入を内容とした要望書の提出があった。市はこの
要望書を受け条例を制定し、町並みの恒久的保存と歴史を生かしたまちづく
りに向けて、住民と行政が一体となって本格的な取り組みを開始。その手法
は伝統的建造物群保存地区制度ということになるが、その取り組みは今始ま
ったばかりである。
参考文献
篠山市篠山伝統的建造物群保存対策調査報告書
編集・発行 篠山市教育委員会 地域文化課
篠山市誕生記録集
http://www.city.sasayama.hyogo.jp/topgapp4.html
篠山市観光情報
http://tourism.sasayama.jp/
城下町篠山の町並み
http://edu.city.sasayama.hyogo.jp/tiikibunka/denken/denken.html
丹後~山陰地方でみられる海岸地形の特徴と形成過程
田村奈菜(2)
西本達也(2) 松良瑞宜(4) 宮崎佳彦(3)
1.はじめに
地形というのは 2 つの力により形成されていく。内的営力と外的営力であ
る。
内的営力とは地球の内部のエネルギーが地球の表面上に起伏をつくると
きに働く力である。この力は内作用とも言われ、地下のマグマの力によって
起きる火成活動と、地殻の変異や変形によって起きる地殻運動とに分かれる。
外的営力とは地球の外部のエネルギーにより地表面の高所を削る、または
低所を埋めて起伏を小さくしようとする力のことである。この外的営力は太
陽の放射エネルギーによってできる。太陽の放射エネルギーによって起きる
天気の変化や、温度変化が風、雨などを引き起こし、それにより風化や侵食
が行われる。
このように内的営力による地球の起伏形成と、外的営力の起伏の平坦化の
作用により、現在の地球上の地形は形成されてきている。
2011 年 11 月 30 日から 3 日間で行われた丹後半島から鳥取砂丘での巡検
では海岸地形を見て回った。現在の丹後半島から鳥取砂丘までの海岸地形は
どのような特徴があるのか。また海岸地形はどのようなものがあり、どのよ
うに形成されてきたのかについて述べていきたい。
2.海岸地形の形成過程
海岸地形には主な要因として海進・海退・堆積の 3 つの要素が存在する。
これらがどのような地形を形成するのか述べていきたい。
i.
海進によって形成される地形
海進とは海面の上昇、陸地の沈降によって海が陸に入ってくる現象のこと
である。海進によって形成される地形にはリアス式海岸、フィヨルドなどが
ある。
海進が起きると、地上であった場所が海に沈む。よって標高の低い場所は
海に沈むことになる。陸上における河川の作用により削られてきたV字谷な
どは、海進が起きると海に沈むこととなる。また尾根であった場所は岬にな
る。すると海岸線は不規則な形となっていく。これがリアス式海岸である。
日本では三陸海岸、若狭湾、紀伊半島西岸などにみられる。
これに似たものでフィヨルドという地形も存在する。フィヨルドも海進に
より形成される地形である。しかしリアス式海岸とは異なる要因により形成
される。フィヨルドとは氷食作用により生じたU字谷が部分的に沈水し生じ
る海岸地形である。特徴としては、リアス式海岸よりも湾入の奥行が深く、
長細い直線状に延びており、両岸は急で絶壁状をなしていることが特徴であ
る。このような絶壁には滝ができることも多い。また氷河の作用によって形
成されるU字谷は海面下に達することもあるため、氷期が終わり、谷氷河が
とけると、土地が沈降することもなく湾を形成することもある。フィヨルド
はノルウェーの西岸やチリ南部、ニュージーランド南島にみられる。
これらのように、海進によって形成される地域は河川と氷河の作用によっ
て形成されるものの 2 つが存在する。どちらにも共通するのは谷の部分に海
が入り込み、海岸線は不規則な形であるということである。
ii.
海退によって形成される地形
海退とは海面の低下、または陸地の隆起によって陸から海が引いていくこ
とである。海退によってできる地形としては海成段丘がある。
海成段丘は岩石海岸で形成される。海岸はつねに海水の影響を受けており、
海水は陸地を破壊していく。このような作用は海食作用と呼ばれる。そのな
かでも海岸の地形を変えていくのは波の作用であり、このような作用は波食
作用ともいう。
海食作用には 2 つの種類が存在し、物理的作用と化学的作用とに分かれる。
物理的作用とは海水の運動エネルギーが動力源となり海岸を削っていく。
波の衝撃による圧力は海岸の岩石を削っていく。このような現象は波砕とよ
ばれる。削られた砂礫は岩石の表面を削り、磨いていく。このような現象は
削磨作用という。岩石の割れ目には海水が浸入し、強い圧力で空気を圧縮し、
岩石を粉砕することもある。
化学的作用とは海水により化学変化を起こす作用のことである。石灰岩か
らなる海岸ではこの作用がみられる。
海に面した山地、台地などの斜面に波が衝突すると、海面の高さには波食
作用によってできたノッチとよばれるくぼみが形成される。このノッチが拡
大していくとその上部は不安定になり崩れ、急崖が形成される。このように
海食作用によってできた崖は海食崖という。海食崖は主に波の作用によって
形成されるため波食崖ともよばれる。海食崖を形成する岩石には侵食に対し
て弱い部分もあり、その部分だけくぼみが深くなることがある。このような
ものは海食洞という。
海食崖は海食作用とともに後退していく。すると崖下の海面すれすれの部
分には基盤岩からなる平坦な地形面が形成されていく。これは波の侵食によ
って形成されたもので、波食棚とよばれる。この波食棚は高潮時の水面高度
と低潮時の水面高度の間にできる。この波食棚は小崖によってさらに沖に存
在する海食台と分けられる。これらによってできる地形は図 1.のようにな
る。
図 1.
岩石海岸の断面と名称
波食棚はノッチから海側にむけて緩やかに傾く平坦な面となっている。海
食台も沖に向かい緩やかに傾斜し、小崖を境に波食棚より沖側に存在する。
常に海面下に存在し波食棚よりも幅が広く、面の上を薄い砂礫がおおってい
る。海食台ができる過程はまだ明らかになっていない。
この海食台が海退によって海面よりも高い場所に現れると、隆起海食台と
よばれる。平坦な台地をつくっているのが特徴である。日本にも多く存在す
る。
隆起海食台が形成され、そこに海食作用が働き続けると隆起海食台の海側
の部分は削りとられ、新たな海食崖が形成される。すると陸側には古い海食
崖から新しい海食崖の間に階段状の地形ができる。このような地形を海岸段
丘という。さらに侵食が進み、再び海退がおきるとさらに段丘面は増えてい
く。これが海退によってできる地形である。
ⅲ. 堆積によって形成される地形
堆積による海岸地形として、砂州や砂嘴、海岸砂丘などといったものがあ
げられる。ここでは波や沿岸流によって形成される砂嘴や砂州と、波や沿岸
流さらに風によって形成される海岸砂丘とで分けて説明する。
① 砂嘴・砂州
河川によって侵食・運搬
された土砂、あるいは岩石
海岸が侵食されてできた砂
礫が、波や沿岸流によって
堆積してできた地形である。
したがって、この地形は比
較的土砂の供給量の多い河
川の河口付近に見られるこ
とが多い。嘴状になったも
のを砂嘴、さらにそれが発
達しほとんど対岸と結び付
くようになったものを砂州 写真 1.ラグーンの衛星写真
という。また、砂州によっ
(サロマ湖、Google map より作成)
て海と隔てられた水域を潟
湖(ラグーン)という。潟湖は
完全に閉じている場合もあるが、一箇所ないし数箇所で外海と繋がっている
場合が多数を占めている。
沿岸流とは、岸へ向かった波が岸と波により行き場をなくしてできた岸に
沿った流れである。これにより基本的には波によって岸沖方向に移動してい
た砂礫が海岸線に沿って運搬される。また、海岸線に対して斜め方向への波
が浸入した場合も砂礫は寄せ波と返し波により海岸線にジグザグに運ばれ
る。こうした海岸線に沿った砂礫の流れを沿岸漂砂といい、この沿岸漂砂に
よって砂嘴や砂州が形成される。
また、砂州の形態にはさまざまなものがあり、湾口砂州、湾央砂州、舌
状砂州、陸繋砂州(トンボロ)、環状砂州、河口砂州などに分類されるが、多
くは用語として確立しているわけではない。
② 海岸砂丘
河川によって侵食・運搬されてできた砂が、沿岸流によって海岸線に運ば
れ、波浪によって陸側に打ち上げられることによって海岸線付近に浜堤と呼
ばれる砂の高まりができる。その砂が海風などの風によって内陸側へ移動、
林などの風をさえぎる障害物によって風速が弱まり、そこに砂が堆積をする
ことによって帯状の砂の高まりが形成される。これが海岸砂丘である。した
がって、この地形も比較的土砂の供給量の多い河川の河口付近に見られるこ
とが多い。また、砂浜海岸の背後にできるのも特徴の一つである。湿潤な気
候で植生の豊かな島国である日本では砂の供給が限られるため、国内で見ら
れる砂丘のほとんどは、この海岸砂丘となっている。
先述のように砂丘の形成には風の存在が大きな要素の一つとなっている。
海風の他にも季節風やその他様々な風の影響を受け、日本国内では冬季に大
陸からの乾いた季節風が卓越する日本海の沿岸部に海岸砂丘がよく発達し
ている。
海岸砂丘の多くは海岸線に対しいくつかの砂丘列をなして形成される。こ
れは縄文以降の海退に応じて徐々に海側に新しい砂丘が形成されたからで
あり、内陸側の砂丘ほど古い時代のものである。
また、砂丘は砂の量や風向きで様々な形態をとる。砂の供給量が多く風向
が一方向の時には、風と垂直方向に峰が並ぶ横列砂丘が、砂の供給量が少な
く風向が一方向の時はバルハンと呼ばれる三日月形の砂丘が、砂の供給量が
少なく風速が強いと風向方向に伸びた縦列砂丘が形成されることが知られ
ている。
3. 丹後~山陰地方でみられる海岸地形とその特徴
i.
天橋立
天橋立は、京都府宮津市の宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる全長 3.6m
の砂嘴である。また、天橋立の北側にある傘松公園から、股から顔をのぞか
せる、
「股のぞき」が有名である。これにより、天地転倒の逆転効果により、
松並木が空中に浮かんだような錯覚を起こし、「天の釣り船とも天にかける
橋」とも言われている。また、ここよりのぞまれる景色を「飛龍観」と呼び、
龍が天に舞い上がる姿を現しているといわれる。天橋立は、日本の渚百選、
日本の道百選、日本の名松百選、美しい日本の歴史的風土百選などに選ばれ、
さらには、日本三景にも選ばれている。しかし、この天橋立も、消滅の危機
にひんしている。天橋立は砂嘴であることから、海流によって堆積すること
や、海食による侵食が起こることから、絶えず形を変えていくものである。
さらに、天橋立付近の河川に戦後にダムが作られ、山地から海への土砂供給
量が減少し、土砂の堆積・侵食バランスが崩れたため、さらに縮小・消滅の
危機に晒されていると考えられる。そこで、侵食による消滅を防ぐため、南
側よりの眺めである飛龍観の右側の鋸状になっている砂浜部分に養浜を行
うために行政は小型の堆積堤を多数設置し、流出する土砂を食い止めている。
また、天橋立自体だけではなく、天橋立に植生している松にも、松喰い虫の
大量発生のため、一時は松の立ち枯れが頻発した。全滅の危機に瀕したが、
害虫の駆除が行われて結果、小康状態を保っている。
写真 2(左).天橋立(天橋立ビューランドより)
写真 3(右).天橋立の鋸状部にある堆積堤
(2011 年 12 月 1 日撮影)
ii.
久美浜
久美浜は京都府京丹後市にあり、山陰海岸ジオパークに登録されている潟
湖である。山陰海岸ジオパークは、2010 年 10 月に世界ジオパークネットワ
ーク(GGN:Global Geoparks Network)に正式加盟された。GGN は、2004
年にユネスコの支援によって設置され、ヨーロッパの各国、中国、日本など
の世界各地のジオパークが加盟している。ジオパークというのは、ユネスコ
が支援する、地球的に見て特別に重要で、貴重な、あるいは美しい地質遺産
を含む自然公園のことである。山陰海岸ジオパークのテーマとして、「日本
海形成に伴う多様な地形・地質・風土と人々の暮らし」が挙げられている。
鳥取県東部から京都府京丹後市の日本海沿岸地域は山陰海岸ジオパークと
なっている。久美浜湾は、小天橋砂州によって隔てられている潟湖である。
小天橋という名前は、日本三景の天橋立に似ていることから名づけられてい
る。久美浜湾と日本海の間はかつて、流砂によって封鎖されて潟湖となるこ
とが多かったが、大正時代以降、人工的に掘削されたミトグチと呼ばれる細
い水路が通じている。久美浜湾の南東部には、
「かぶと山」が位置している。
かぶと山は標高 192m の残丘である。夏の千日会観光祭には、大文字の送り
火が点灯される。また、久美浜湾は海水と川の淡水が混じり合う汽水域で、
牡蠣の養殖が盛んある。内海でミネラルが豊富なので、久美浜湾の牡蠣は身
がとても大きい。湾に浮かぶ牡蠣棚の風景は、府選定の文化的景観となって
いる。また、久美浜湾沿いの街並みとしては、市街中心部は江戸時代に幕府
の直轄地として代官所が、明治時代初期には、久美浜県庁がおかれ、北近畿
の政治・経済の中心地として栄えた町である。「豪商稲葉本家」などのスポッ
トも有名である。
ⅲ.経ヶ岬
経ヶ岬は京都府京丹後市にある、
丹後半島の最北端に位置する岬
である。岬の中腹には京都百景に
選ばれた経ヶ岬灯台があり、眼前
には日本海が広がる。岬の周囲は
火成岩からなる柱状節理に支配
された海食崖が発達しており、こ
れが経巻を立てたように見える
ことから、この名が付いたとされ
る。この岬は山陰海岸ジオパーク
に登録されている。
経ヶ岬灯台は全国に 6 つしかな 写真 4.経ヶ岬周辺の離れ岩
いフランス製の第一等レンズを使 (2011 年 12 月 1 日撮影)
用した、第一等灯台に指定されて
いる。1898 年から稼働しており、現在も若狭湾・日本海を行き交う船舶の安
全を守り続けている。この灯台は日本の灯台 50 選にも選ばれ、映画の舞台
にもなった。
ⅳ.鳥取砂丘
鳥取砂丘は鳥取県鳥取市にあ
る、東西 16km、南北 2km の海岸
砂丘で、日本三大砂丘の一つであ
る。千代川の河口に堆積した砂が
沿岸流によって浅海底に堆積し、
波で海岸に打ち上げられ、北西の
季節風によって移動堆積するこ
とで砂丘が形成される。したがっ
て、鳥取砂丘の砂は川砂であると
いえる。
鳥取砂丘には、砂丘の砂が強い
風で移動させられて大規模なスリ 写真 5. 写真左奥が鳥取砂丘第 2 砂丘列
バチ状の窪んだ地形(追後スリバ (馬の背) (2011 年 12 月 2 日撮影)
チ)や 5m/s 以上の風が吹くこと
によってできる風紋、砂簾、火山
灰露出地、馬の背と呼ばれる第 2 砂丘列、砂丘の地下水が集まる水辺(オア
シス)が見られる。これらは乾燥地域ではなく湿潤地域に存在する海岸砂丘
独特の景観である。この砂丘には、ケカモノハシやハマボウフウ、ハマ二ガ
ナ、コウボウムギなどの植物や、アリジゴク、イソコモリグモなどの動物が
生息しており、激しい飛砂や真夏の砂などの厳しい環境に適応している。し
かし、1970 年頃から外来植物が目立つようになり、砂の移動が減少し、風紋
や砂簾が見られにくくなったり、砂丘本来の美しい景観を損ねたりするなど、
砂丘の草原化が問題視されるようになった。1990 年頃には雑草が繁茂し、砂
面が見えないほどになり、松までも生えていた。1994 年にこの問題を解決す
るために、砂丘の除草活動がはじまり、県民との協働で砂丘を守る取り組み
が行われている。
4.おわりに
海岸地形は以上のように海や川など、主に水の影響を受けて形成されてい
く。また、日本においても若狭湾から鳥取砂丘までの間には特徴的な海岸地
形が形成されていくことも確認できた。これらの地形はこれからも海や川、
風などの要因によって長い年月をかけて、地形は変わっていくと考えられる。
参考文献
岩 崎 雄 一 (2007): 天橋立物語 -その文化と歴史と保全 -, 技報堂出版株式会
社,322pp
太田陽子・成瀬敏郎・田中眞吾・岡田篤正編(2004):日本の地
形 6 近畿・中国・四国,東京大学出版会,383pp
町田貞(1984):地形学,大明堂,404pp
水谷武司(1999):物理地形学概説,大明堂,206pp
経ヶ岬-京都府丹後広域振興局ホームページ
http://www.pref.kyoto.jp/tango/tango-doboku/miryoku_kyougamisaki.ht
ml
山陰海岸ジオパーク 日本海形成に伴う多様な地形・地質・風土と人々の暮
らし
http://sanin-geo.jp/
経ヶ岬灯台-京都府丹後町
http://www.meitenkan.com/spots/tangochou/kyougamisaki/
舟屋集落「伊根」の成立過程とその背景
高山 美咲(2 年)
諸原 慎之介(2 年)
佐伯 香菜子(3 年)
中田 祐太(4 年)
1.はじめに
京都府の丹後半島に伊根町がある。
伊根町
この町の南部・伊根湾沿いに、この地
域独特の住居群「舟屋集落」が存在す
る。
与謝郡伊根町は、京都府北東部の丹
後半島北端に位置する 62.0 平方キロメ
ートル1の町である(図 1)。人口は 2,537
人、972 世帯(2011 年 9 月 30 日現在)
である。
このうち、地域独特の住居群「舟屋
集落」は町の南端部、すなわち丹後半
図 1 伊根町の位置(広域図)
島の南東部の伊根漁港に面している(図
2)。現在舟屋は 230 件ほど存在するとされている。主に高梨地区~西平田地区、立
石地区~亀山地区に分布していて、他では類を見ないような個性的な建築物、街並
みであるといえる。周辺の地形と舟屋を含んだ美しい景観、加えてそれを利用した
ドラマや映画のロケが行われたことなどにより、観光スポットとしても有名である。
さらに、国の重要伝統的建造物群保存地区(選定名:伊根浦)として選定されてい
る。
図 2 伊根町南部・伊根集落周辺の位置
1 東京都世田谷区の面積(約 58km2)ほどである。なお、伊根町の人口は世田谷区の約 340 分
の 1 程度である。
年間平均気温は 14.5℃、年間平均降水量は 1,865mm であり典型的な中部日本・日
本海側の気候である。町の基幹的産業は漁業であり、今回取り上げる舟屋集落の成
立と深く関係している。鉄道の駅は無いが、国道が整備され近畿地方の都市とつな
がっている。
2.先行研究と論文の目的
伊根地区の舟屋集落に関する論文では、河原(1990)が、社会構造の変化に伴う
漁村の家屋の機能変化を研究し、伊根の舟屋集落を取り上げ、これらの成立過程に
ついても触れている。河原(1990)はこの中で、舟屋が出現した時期は歴史的には
解明されていないとしている。なお、舟屋の利用法としては、第二次世界大戦を境
に、それ以前は漁業用に特化した家屋であり、それ以後になって舟屋に居住機能が
備わったとしている。また、集落内における舟屋の建築および構造の変化は漁業の
繁栄・衰退と密接に関係していることがわかる。
今回、我々は実際にこの集落に出向き、適宜現地で生活する人々に聞き取り調査
を交えることで、より深く舟屋集落「伊根」の成立過程とその背景に関して研究を
深めることにする。
3.伊根集落形成の歴史
集落の成立、舟屋の外観の変化などについて説明したい。
伊根町に人が住みつき始めたのは 5~6 世紀ごろと言われている。標高 30m 前後
のところからカルビ古墳、中尾古墳という 2 つの古墳が発見されたことからそのよ
よさのこおりおおにえ
うな推測がなされている。京都の藤原宮跡からは「与射評大贄伊和□」という木簡
いわし
が発見された。訳すると、おおよそ「与謝郡より 鰯 を帝に奉った」という意味に
なる。つまり、8 世紀には鰯漁が伊根で行われていたと推測できる。
舟屋集落がいつごろから形成されたのかという点について、はっきりとした年代
を特定することはできない。しかし、江戸時代には集落が形成されていたようだ。
住民の方の話では、少なくとも 100 年以上昔から存在することは確かであるという。
ぶり
1880 年頃や 1950 年頃などの「鰤景気」、あるいは 1931 年から 10 年間かけて続
いた道路拡張工事により、現在見られる 2 階建ての舟屋が増えていった。
道路に関してであるが、昭和初期までは舟屋と母屋の間は「ニワ」となっており、
それが連続し拡張されたことで現在の道路となった。「ニワ」は非常に狭いもので
あり、人がすれ違うことも傘をさした状態においては容易ではなかったという。
伊根集落は密度が高く、近隣との距離が非常に近いものであり、共同体的性格を
持った集落であるが、かつては「鰤株」の保持者と非保持者が漁業権などをめぐり
対立し、ときには非保持者が府庁まで行き訴えるといったことまで行われていた。
伊根の舟屋は構造そのものに加え、そのように特徴的な建築物が「立ち並んでい
る」ことも特徴的な景観を生み出すことになった。
他にも福井県三方郡美浜町に舟屋があるが、数件ほどで小規模なものである。こ
れほど大規模な舟屋集落は他にみられない。
4.地形条件と舟屋集落
ⅰ.山がちな地形と舟屋集落
舟屋集落の形成には、周辺の地形が少なからず影響していると思われる。漁業の
繁栄とともに、伊根集落では居住空間の拡大が盛んに行われた。
図 3 伊根集落の地形図
(国土地理院『ウォッちず』1:25000「丹後平田」一部修整)
もしこの漁村が平地であったならば、内陸に居住地区が広がっていってもおかし
くないはずである。しかし、伊根湾周辺は、最短で水平距離 300m に対して標高
160m(2の山があるなど、湾を囲うように山がそびえている。つまり、平野部が極め
て少ない地形なのである。それゆえ、大漁により潤沢な資金を得て住居を改築・増
床しようと考えた場合、陸側に大きな家を建てる余裕がなく、結果として海沿いに
建てられた舟屋に居住空間をもたせるように改築されたと考えられる。
2 標高 160m はおよそ 45 階建ての高層ビルの高さに相当する。法政大学市ヶ谷キャンパスのボ
アソナードタワー(最高部 122m)の約 1.3 倍である。
ⅱ.奥まった静かな湾と舟屋集落
海沿いに建築物を建てることは、場合によっては災害と隣合わせということもで
きるのではないか。例えば、津波、高潮、波浪などが挙げられる。まして、舟屋は
1 階に漁船を収容できるよう、部分的に海水が入り込んでいるほどの海岸に建てら
れているのであるからなおさらである。
しかし、地域住民の方によると、何十年も舟屋に住んでいるが、台風が来ても大
波に襲われるなどして浸水被害が起こることは無い、という。
これには、伊根湾の地形が深く関係している。伊根湾は丹後半島の南側にあり、
日本海の内海である。さらに、伊根湾にフタを被せるかのように青島3が存在する。
青島は、「天然の防波堤」と表現されているが、その通り外海からの大波が入って
くるのを防いでいる。また、前述の伊根地区を囲う山であるが、その傾斜がそのま
ま湾内に深く落ち込んでいる。そのため、通常は海岸が近くなるにつれて海底が浅
くなることにより大きくなる波が、海底の深さにより穏やかさを維持していると考
えられる。
図4
伊根港と青島の位置図
(陸上で色が濃いほど標高が高いことを示す。)
3 東西約 480m、南北約 200m、標高 48.3m。伊根の漁民から「聖なる島」として信仰の対象と
なっている。
図 5 改築された舟屋の 1 階部分(左)と未改築の舟屋の 1 階部分(右)
1 階が車庫、納戸に改築されている。
奥が海側だが、傾斜は埋められている。
(2011 年 12 月 1 日撮影)
図 6 現在の漁船と舟屋
船が大きく、舟屋に入らないことがわかる。
(2011 年 12 月 1 日撮影)
5.舟屋集落と漁業の歴史
伊根町と漁業は切っても切れない関係にある。海に近く、田畑の少ない伊根にと
っては漁業で生計を立てていく必要があったのである。
漁業は湾内(お間内と呼ばれた)にいる魚を捕獲することから始まった。湾内は
ぶり
くじら
いるか
い
か
まぐろ
ぼら
いわし
鰤、 鯨 、海豚、烏賊、 鮪 、鰡等が入り込む良好で恵まれた漁場であった。 鰯 の
捕獲がすでに始まっていたとされる江戸時代、伊根湾沿いの各集落は、日出村・平
田村・亀島村に分かれていた。
宮津藩は、他の農村と同様に伊根村に対して重い年貢を取り立てた。これを行う
なや
仕組みとして、魚納屋、追っ掛けを置いた。とらえられた魚は魚納屋に集められて、
たい
せりにかけられた。(当初は鯛、小鯛のみを対象としていたが後に全ての魚介類が
対象となった)。追っ掛けとは魚納屋の下で漁師から直接魚を買い求める役職のこ
とで、藩の許可制であった。買い取ったものがさらにせりにかけられ、さらに魚納
屋やその役人に対しても藩は取り立てを行ったため、漁師は輪をかけた負担が強い
られたことになる。
これに対して村民は他所売りの自由化、追っ掛けの生産方法(米であったがだん
だん質が劣悪なものになっていた)を求めたが、何度も跳ね返されている。1885 年
に魚問屋改正契約書の下で合資会社を設立したこと、1934 年に販売斡旋所(後の京
都府漁業連合会)が設立されたことを通じてようやく漁師自らが出荷・販売を行う
ことができるようになった。ただし、それまでにも歩一制度(追っ掛けは魚を買い
取るのではなく直接問屋へ運び賃金を受け取る制度)が確立されていたり、不漁時
の減免の要求が受け入れられていたりといったことは行われていた。また、かくし
鰤・かくし鯨といった手を村民は使用していた。収穫した鰤・鯨についての報告を
行わないことである。
鯨の捕獲は村を挙げた漁業の一大行事であった。1656-1927 年(271 年間)の間
に、およそ 350 頭が捕獲された。漁の時には主婦が白米七斗を炊き出し、握り飯を
二つずつ配ることが古くからの慣習であった(一斗=十升)。捕獲されたら役人立
会いの下で入札が行われた。最高値を付けた地区が入札するが、直ちに宮津藩へ注
進され、落札金額の十分の一が「鯨運上」として取り立てられた。
鰤の良好な漁場となっていた伊根において、鰤をめぐる争いは激しかった。鰤の
収穫を確保することがまずとても重要なことであった。日本海側では夏季に北上し、
晩秋に南下する鰤は福井、舞鶴側を経て伊根にたどり着く。このため、先に鰤が来
る村が多く捕獲すると、鰤が伊根まで来ないのである。鰤は貴重な魚であるとされ
てきたが、特に「伊根鰤」が宮津藩にとっては重要な産物の一つとなっていた。
「鰤
運上」として重い年貢をかけられてはいたが(鰤運上は他の肴運上に比べて 9-11
倍の額がついていた)、伊根の漁業の中では漁獲高において大きな比重を占めてい
たため、また、田畑が少なかったために伊根にとっては何としても鰤を捕獲するこ
とが重要になっていたのである。
かつて、鰤は誰でも捕獲できるものではなく、「鰤株」を持つ人のみが捕獲する
ことができた。これを有するのとしていないのでは生活の上でも大きな違いがみら
れ、身分差を作り出すものとなっていた。鰤株には他の魚介類の捕獲権や田地、役
員(祭典関係含む)になる権利が含まれていた。このため、鰤株を持たない村民は
釣り、小魚の曳網程度の漁業しか行うことができず、祭典などにおいても雑役を任
される立場にあった。この鰤株制度は江戸時代前半にはすでに成立していたが、根
本的な是正(無株者への権利保障)に向けて動き出したのは明治以降のことである。
1902 年、漁業法に基づき伊根浦漁業組合が結成され、全員が鋤崎漁場定置網漁業
権を得るはずであった。しかし、有株者はこれまで持っていた権利を放棄しなかっ
たどころか、有株者のみの組織(伊根浦鰤大敷網布設組合)を結成し、総水揚高の
およそ 2 割を無条件で自分たちが先取りしてしまった。配当差が発生し、格差の存
在が収益という形で無株者にも明確に見えるようになった。無株者は団結し、1907
年に知事に向けて組合員の権利の平等を求めた陳情書を提出した。当然有株者は、
権利は従来のものである、大敷網を導入したことによる漁業の損害といった内容の
反論の陳情書を提出した。これを始まりとして、無株者の有株者に対する権利要求
は、様々な仲介を経て、有株者が少しずつ譲歩しながら、戦中まで行われた。戦争
中に村民同士が争うことに対する抵抗、という理由ではあったが…。
現在は追っ掛けもおらず、組合自らの運搬船とトラックにより出荷を行っている。
また、集落の密度の高さによる共同体形成や距離の近い近所づきあいなどが行われ
ている。
6.舟屋内部の利用変化
ⅰ.現在に至る舟屋内部の変化
伊根の舟屋は 1 階が漁船の格納庫になっており、海に開かれている。このような
家屋・集落形態は珍しく、2005 年には重要伝統的建造物群保存地区に登録された。
舟屋は非常に長い歴史を持ち、江戸時代から竣工が始められた。特に第二次世界
大戦までは、漁業機能に特化した利用がなされてきた。生活機能については母屋に
委ねられていた。1 階は漁船を引き上げるためのスペースであり、漁船を収納して
いた。漁船を収納するため、1 階部分の海側 3 分の 1 程度は傾斜していて、常に海
水に浸かっていた。漁船を収納する際は、昔は人力であったが、時代を経るにつれ
電動式ウインチを用いるようになる。漁船は木製であったため、腐食を防ぎ耐久性
を維持するためにこのような措置を取る必要があった。2 階はあくまで板を渡した
だけの簡易的なもので、漁具を納めたり、網を干したりするためなどに使われてい
た(当時は、2 階に上がるには“はしご”を用いていた)。そもそも、網を干すため
にそのような構造にした。明治期~昭和期の度重なる自然災害により建て替えが進
められた。
戦後になると、居住空間の拡大が行われた。特に、1951-55 年、1971‐80 年に
かけて急激に広がった。この時期は、旋網漁業の振興に伴う漁獲高、収穫金が急増
した時期と一致する。第 2 次世界大戦後の 1950-51 年、
「鰤景気」と呼ばれる大漁
による好景気も大きく関係している。漁具の変化も居住空間の拡大・変化に影響を
与えた。魚網が綿から化学繊維になったことで網を干す必要がなくなったため、2
階に畳が敷かれることとなった。また、漁業を生業とするところでは漁具の変化に
加えて、母屋が小さかったことから舟屋の居住空間を拡大する必要があった。(地
形の特性上、母屋を拡大することには限界があった。)漁業を生業としていない場
合、そもそも漁業機能の場として使用する必要すらない。いずれにしても、単なる
漁業機能の場としての利用はされなくなってきた。
そのような状況下で、舟屋を住居として利用する世帯もある。住み替えによって
舟屋を利用、管理する手法も取り入れられた。まず、若夫婦は舟屋に住み、ある一
定の年齢を迎えると母屋に移り住む。それまで母屋に住んでいた親が舟屋で隠居す
ることで、漁業機能を失っても舟屋は利用される。
(伊根では 42 歳を初老とみなし、
それより若い夫婦を新婚さんと呼んでいるようである)しかし、若者の移住などに
より、住まい手がいなくなるなどの理由で物置化されている舟屋が数件あるようで
ある。この中には、将来子どもが成長後戻ってくることを見込んで現在開けている、
というケースもある。しかし、空き家が数件出てしまっていることから、住み替え
による手法も限界を迎えつつある。なお、他の地域から転居してきた人が舟屋を譲
ってもらい、上述のように改良した上で完全な『一戸建て住居』として利用する場
合がある。
特徴的であった 1 階の利用も大きく変化している。船が木製から大型の既製船、
繊維強化プラスチックで覆われた船などに変化したので腐敗の心配が少なくなり、
船を乾燥させる必要がなくなったため、現在は傾斜が水平に埋められたり海水侵入
を防止するための壁を設けたりして、倉庫・車庫として利用している。かつては 1t
以上の規模を持つ漁船が圧倒的に多数派であったが、1t 未満の漁船を有する世帯が
1975 年以降急増したため、格納庫として利用される場合でも小さなスペースで済む
ようになっている(参考文献に加え、聞き取り調査でもこのことが確認された)。
母屋を含めて住居内部を細かく分析することで、現在の舟屋の利用のされ方を見
ていきたい。
トイレは主に舟屋に置かれている。舟屋にある場合玄関口に置かれていることが
多いが、母屋と一体であるときは玄関口から離れた所に置かれている。このような
差が出るのは、トイレの利用のために母屋から舟屋への移動を要するとき、なるべ
く母屋から見て近い場所の方が利用しやすいためと考えられる。生活の場である母
屋ではなく仕事の場である舟屋に置かれているのは、漁が朝夕にあり、網干しなど
漁具の管理などで 1 日の多くを舟屋で過ごしていたためと推測される。なお聞き取
り調査によると、冬は大雪が降るため移動が面倒であるとの意見があった。
流しは母屋にメインのものが置かれているが、山側(母屋の奥側)に置かれてい
ることが多い。舟屋には海寄りと玄関口に簡易の流しが置かれており、流しを備え
た仕事場としての色彩が強いようである。現在の道路の前身である「ニワ」では魚
の加工も行われていたため、舟屋にある方がその作業においては有利であったと思
われる。
物干しについては、住宅間の距離よりも排水、ライフラインの中で規定されてお
り、一か所にまとまっていない。なお、洗濯機が舟屋と母屋の両方にあるとき、多
くは漁業を生業とはしていない。生活の場と仕事の場、と分ける必要がないため、
生活において利用される洗濯機が舟屋に置かれている。
作り付けの収納部分については、北東・南東・南西の壁面に存在する割合が高い。
母屋においては、北西部分にも多く存在する。なお、北東・南西は隣家に面する方
位である。壁面に占める収納の割合が最も高い壁面もこの方位にあるものであった。
限られた面積を利用して集落を形成しているため、どうしても隣家との距離が近く
なる。このような状況において私的空間と近隣との結びつきを両立させるため(隣
家との間に程よい距離を作るため)に作り付けの収納部分がこのような形で設置さ
れた。後付けで設置するものではないため、古くからの知恵ということができる。
ⅱ.舟屋に関する現地インタビュー
伊根の舟屋集落を見学し、実際に住んでいる方のお話を聞くことができた。
基本的に家の 1 階部分は舟を収納するためのスペース(船揚場)と漁に必要な用具
などを置くスペースや作業場になっている。2 階は居室や民宿といった生活の場と
なっている。
昔は舟を手で引き込んでいたため、1 階は半分程度が海水に浸かったゆるやかな
斜面となっていた。しかし、現在では舟を自動の滑車で引き込んでいるため斜面の
必要はなくなり、滑車を取り付けるための2段程度の段差と舟を置くスペースがあ
れば十分なのだという。こちらのお宅では、ゆるやかな斜面となっていた場所を舗
装して今は駐車場として利用しているそうだ。また、1階の壁には伊根町の観光 PR
ポスターや、伊根町で実際に撮影が行われた NHK 連続テレビ小説『ええにょぼ』
のポスターなどが貼られ、観光客の休憩所となっていた。
船の引き込みが自動で出来るようになったことは、伊根集落において大きな変化
だったという。漁は早朝と夕方の2回。漁を終える度に舟を自力で引き上げるのは
非常に辛い作業だったそうだ。それが今では楽になり時間も場所もとらないため、
こうして休憩所を作って観光客と接することが出来て楽しい、と仰っていた。
確かにこのような休憩所があることで実際に貴重なお話を聞くことができ、伊根
の舟屋集落についてより詳しく知ることができるため、観光客としても有難いもの
である。
図 7 訪問先の舟屋 1 階部分(左)と船を舟屋に引き上げるための段差(右)
(2011 年 12 月 1 日撮影)
7.観光業としての舟屋集落
伊根の舟屋集落は、舟屋から見る海の景観や海から見る舟屋の景観が美しいため、
伊根町の代表的な観光スポットとして観光客が多く訪れる。特に近年では、『連続
テレビ小説 ええにょぼ』や『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』、『釣りバカ日
誌5』のロケが行われ、伊根の舟屋集落の名をより全国に広めるきっかけとなった。
集落の中を歩いていると『ええにょぼ』のポスターをよく見かけた。ドラマの告知
ポスターだけでなく、これを基にした観光ガイドもあり、ドラマのロケ地として選
ばれたことで集落の観光形態が変化したと言っても過言ではない。 伊根町観光協
会のパンフレットの表紙には「ここにあるのは、ただ優しい時間だけです。」と書
いてある。伊根の舟屋集落は美しい景観を見るだけでなく、ゆったりとした雰囲気
を楽しむことができ、またこの雰囲気も観光の一部なのである。
図 8 舟屋の海側
(2011 年 12 月 1 日撮影)
8.まとめ
美しい自然と独特の住居が立ち並ぶ伊根の舟屋集落は、長い間主に漁業を生業と
する町の人々の生活に応じて変化し、今の姿に至る。急斜面の山に囲まれ陸上では
耕作には限界があるものの、穏やかで魚が多く生息し恵まれたこの地で、人々が昔
から自然とうまく付き合い、そして近隣住民どうしが密接に関わりながら生活し成
立したのが舟屋集落である。今でこそ、漁業は衰退気味で、舟屋といえども船を収
納しなくなりかつての景色が変わりつつあるというが、集落は観光地としての側面
を持ち始め舟屋そのものもそれに応じた新しい変化を遂げているようである。
【参考文献】
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(5)―内部空間の距離分布に関する研究―.日本建築学会大会学術講演梗概集,
pp.453-454.
河原典史(1990):漁村における家屋の機能変化とその要因―丹後・伊根浦の舟屋
集落を例にして―.人文地理,42‐2,pp72-85.
佐藤沢二・縣真之介・佐藤仁美・宮崎隆昌・荻野将志・中村高広(2007):伊根沿
岸域集落における空間構成の特性(1)―立地特性と行動特性に関する研究―.
日本建築学会大会学術講演梗概集,pp.447-448.
佐藤仁美・宮崎隆昌(2007)
:伊根沿岸域集落における空間構成の特性(4)―舟屋
住居の空間構成が住民に与える影響―.日本建築学会大会学術講演梗概集,
pp.451-452.
福井県の歴史散歩編集委員会(2010):『歴史散歩 18 福井県の歴史散歩』.山川出
版,340P.
松本究・宮崎隆昌・縣真之介・荻野将志(2008):沿岸域集落における空間構成に
関する研究(3)―伊根町立石地区における住民をつなぐ維持調整機能について
―.日本建築学会大会学術講演梗概集,pp.601-602.
松本究・宮崎隆昌・縣真之介(2009):沿岸域集落における空間構成に関する研究
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八島健介・宮崎隆昌・縣真之介(2009)
:沿岸域集落の空間に関する研究(2)―伊
根沿岸域集落における緩衝空間の配置特性―.日本建築学会大会学術講演梗概集,
pp.621-622.
山本航一・李東勲・日詰博文・古谷誠章(2009):現代化による建築空間の変容に
関する研究―伊根浦漁村集落の保存事例を元に―.日本建築学会大会学術講演梗
概集,pp.613-614.
和久田幹夫(1989):『舟屋むかしいま』.あまのはしだて出版,90P
【参考ホームページ・資料】
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http:www.town.ine.kyoto.jp/pub_rela/edu/jyudenken/inejudenken_reiki.pdf
伊根町公式ホームページ
http://www.town.ine.kyoto.jp/
町並み・集落 京都伊根
http://homepage2.nifty.com/ninizou/town-ine.html
郷村断層の地形図上での識別とその特性
4 年 中村 宗史
3 年 清水 竣
2 年 安森 直輝
地形概要
若狭湾の西縁を限る丹後半島は断層で囲まれた地塁性の山地であり、その内部に
も活断層やリニアメントが多く認められる。半島の南西付け根を北北西から南南東
方向に走る郷村断層は左ずれの活断層系であり、1927 年の北丹後地震(M7.3)の
際に活動した。この時、半島の南東基部を北東から南西方向に走る山田断層も同時
に活動した。これらは地形的に不明瞭であるにも関わらず、比較的大きな地震を起
こした事で注目に値する。
しかし、郷村断層や山田断層に沿って地震変位の累積を示す変位地形が見られる。
そしてこれらの断層は B 級ないし C 級の活断層である事が指摘されている。地形的
により明瞭で長く延長する後者の一部がわずかに動いただけであるので、山田断層
は別の地震を起こして活動すると推定される。
郷村断層とこれに並走する仲禅寺断層、さらに山田断層は地質調査所によってト
レンチ調査が行われ、断層の性質が詳しく解明された。郷村断層はおおよそ 6100
年程度、山田断層は 4500 年以上の活動間隔を持っていると指摘されている。仲禅
寺断層は約 2 万年前頃までは、かなり高い活動性を持っていたが、12000 年以降で
は活動を休停止したと考えられている。
舞鶴市南方や大江山周辺の山地には、北東方向のリニアメントが発達するが、二、
三のものを除いて大部分は基盤岩石の組織による浸食地形であると思われる。また、
若狭湾には南北方向の断層群がある事が音波探査によって明らかにされている。こ
れらの断層群は、堆積層基底の比高の方が海底面の比高より大きいので、断層変位
は累積しているものと考えられる。
北丹後地震と北丹後断層系
昭和 2 年 3 月 7 日に丹後半島の基部付近を震央とした北丹後地震が発生し、この
地域に大きな被害が生じた。この地震に伴って、郷村断層帯(北北西から南南東方
向)と、山田断層帯(北東から南西ないし東北東から西南西方向)という 2 系統の
北丹後地震断層系が現れた。
郷村断層帯は数本の断層からなり、陸上部での延長距離は明瞭な部分で約 14 ㎞
であり、南東部は徐々に不明瞭となる。この断層帯は左ずれ(最大約 3.7km)で、
概して南西側の隆起(最大約 1m)を伴い、大局的に見て雁行配列をなす。個々の
断層の最大変位量はほぼ中央部に位置し、両端部に向かって徐々に減少する。これ
らの断層帯の変位量、特に左ずれ量の分布は波状に変化しているように見えるが、
郷村断層帯全体としては、網野町郷付近を極大値として両端方向に減少する。郷村
断層帯に沿う余震分布、三角点の水平移動、主要断層の配置、変位量分布などから、
本断層帯は日本海の海底に約 4km ないしそれ以上延長していると考えられる。
一方、山田断層帯での地震断層は延長約 8km と比較的短く、変位量も小さい、
横ずれや上下変位の向きはこの断層に沿ってどこでも同じであるが、野田川町上山
田では右ずれは最大で 0.95m であり、北西側が相対的に最大 0.9m 隆起した。地震
断層の上下変位の向きは断層崖地形と同じであるが、その出現場所は断層崖麓から
数十から 100m 離れている。このように、山田地震断層は既存の活断層帯のごく一
部が北丹後地震により誘発されて動いたものであると考えられている。
活断層としての北丹後断層系
郷村断層帯の活断層は地形の変位を引き起こしている。例えば網野町郷から生野
内付近の西側では、断層鞍部や尾根・河谷の 6-7 本が約 100m 左横ずれした地形が
あり、尾根筋はいずれも北東側が約 50m 低下している。しかし、現在は土地改変
が進み、以前より尾根筋の変異は観察しにくくなっている。郷村断層帯の北部、網
野町高橋や網野駅付近では中位面上に低断層崖(比高約 8m と 3m)があり、地震
時の上下変位量はそれぞれ 50-90cm と 15-30cm であった。この面の構成層上部に
DHP テフラ(約 10.5 万年前)をはさむから、その離水期は 10 万年前頃で、平均
上下変位速度は 0.03~0.08m/ky と見積もられる。
植村(1985)は上下方向の平均変位速度と地震時の上下変位量から、郷村断層の
活動間隔を 6000~7400 年程度としたが、地震時の上下変位量を再検討した結果、
1 万~1 万 2000 年と訂正した。網野町下岡地区での郷村断層のトレンチ調査とボー
リング調査によると、明らかな断層変位は認められていなかったが、やや西側へ下
がる沖積層の撓曲が存在する。地層の年代測定値と変形状態から、活動間隔は 4800
年以上とされた。
地質調査所が 1986 年に実施した網野町郷小学校北西側のトレンチ調査では、断
層破砕質を伴う断層面(走向:N14W、傾斜:76°SW)が認められた。断層面上
の条線は北へ 30°~45°で、地震時の動き(西側隆起:約 0.7m、左ずれ:約 2.8m)
と調和的である。砂礫層上面(腐植層下面)を指標として上下変化量を比較すると、
地震時の変化量と同じであり、活動間隔は腐植層下面の年代値である約 6000 年以
上と見積もられた。
このように、郷村断層の活動間隔は確実に数千年以上、恐らく 1 万年に一回程度
の値を持つ。こうした活断層でも第四期中期以降に北丹後地震時のような活動を繰
り返せば、100m に及ぶ左ずれ変位が生ずるのである。
山田断層帯に沿う変位地形は郷村断層帯より明瞭で、奥丹後半島部と若狭湾とを
境とする地形境界線をなし、断層崖の比高は約 300m に達する。しかし、地震断層
の変位量や長さなどは、郷村断層のそれらに比べて小規模であった。山田断層帯は
地形・地質的には明瞭な活断層であるにもかかわらず、丹後地震時にはその中央部
の一部が動いたに過ぎない。しかも、明瞭な横ずれや縦ずれは山田付近にしか現れ
ず、量的にも最大 1m 以下と少なかった。上山田地区のトレンチ調査では、北丹後
地震時の変位だけしか観察されず、活動間隔は 4500 年以上であると見積もられて
いる。
郷村断層について
郷村断層は、昭和 2 年 3 月 7 日午後 6 時 27 分に北丹後地震を引き起こした断層
である。北丹後地震の推定マグニチュードは 7.3 であり、この地震により、京丹後
市網野から峰山を通り、大宮へ向かって延長 18 キロの郷村断層が出現した。また、
郷村断層と共に与謝野町の四辻から岩滝に向かって延長 7.5 キロの郷村断層と、郷
村断層と直交する走向を持つ山田断層が生じた。
郷村断層は西側隆起を伴う左ずれ断層で、走向は N10゜W である。郷村断層は、
水平方向のズレが顕著であるだけではなく、岩盤の花崗岩を切断し、擦痕や鏡肌を
つくっていることから、昭和 4 年に当時の村名をとり、郷村断層として、天然記念
物に指定された。また、活断層という用語が初めて使われたのは、この郷村断層で
ある。
現在、樋口地区で上下方向のズレ、郷村小学校のある小池地区では水平方向のズ
レ、生野内地区では開口亀裂の様子が観察できる。北丹後地震の際、樋口地区での
垂直転位は 60cm、水平転位は 275cm、小池地区の垂直転位は 60cm、水平転位は
260cm、生野内地区垂直転位は 62cm、水平転位は 185cm、開口亀裂は幅 117cm、
深さ 242cm であった。写真 1 に樋口地区付近、高橋集落(A 地点)に見られる断層に
よる地形変位を示した。通行人の奥の道路の段差状の傾斜部が断層変位と思われる。
生野内地区でみられた開口亀裂の地震直後の状況を記録したものが写真 10、現在の
様子が写真 5、上屋内に保存・展示されている開口亀裂を写真 6 に示した。
ジオパークについて
郷村断層を含む山陰海岸ジオパークは、ユネスコの支援で設立された世界ジオパ
ークネットワーク(Grobal Geoparks Network)に加盟認定されている。山陰海岸
ジオパークは他に玄武洞、鳥取砂丘、小天橋、丹後松島、経ヶ岬などをジオサイト
に指定している。日本国内では他に糸魚川、洞爺湖有珠山、島原半島が世界ジオパ
ークネットワークに認定されている。
参考文献
日本の地形 6 近畿・中国・四国,(2004)太田陽子・成瀬敏郎・田中眞吾・岡田篤正,
東京大学出版会,186-189
日本の活断層(新編)東京大学出版会
京丹後市教育委員会パンフレット
京都新聞(平成 23 年 7 月 24 日 16 面)
図 1 仲禅寺断層のもつリニアメント
国土地理院ホームページより引用・加工済
図 2 断層線及び各地点・地区名
国土地理院ホームページより引用・加工済
図3
断層線及び断層によると考えられる谷の変位
国土地理院ホームページより引用・加工済
写真 1
写真 2
A 地点から断層線方向を望む
2012.1.3
安森撮影
樋口地区の断層を保存する上屋(B 地点)
2011.12.1 安森撮影
写真 3 写真 2 の上屋内の断層線
2011.12.1 安森撮影
写真 4
小池地区の道路のズレ(C 地点)
2012.1.3
安森撮影
写真 5
生野内地区の開口亀裂に設置された上屋(D 地点)
2012.1.3 安森撮影
写真 6
写真 5 の上屋内の開口亀裂
2012.1.3 安森撮影
写真 7 北丹後地震直後の村役場
京丹後市教育委員会パンフレットより引用
写真 8
北丹後地震直後の国鉄網野駅
京丹後市教育委員会パンフレットより引用
写真 9 北丹後地震直後の小池地区
京丹後市教育委員会パンフレットより引用
写真 10 北丹後地震直後の生野内地区
京丹後市教育委員会パンフレットより引用
「豊岡盆地」で多発するフェーン現象への気候学考察
1年
長谷川蘭 宮臺彩柚 荻野久美子 川崎亮祐 清水智葉
<豊岡盆地とフェーン現象>
フェーン現象の概要
フェーン現象とは、山から乾いた暖かい風が吹く現象のことをいう。また、フェ
ーンとはドイツ語でアルプス山脈に吹き渡る乾燥した暖かい風のことを意味する。
フェーン現象のメカニズムについては以下のようにまとめた。
1)湿った空気が山腹を登るとき、雲が出来るまでは 100mにつき約 1.0℃の割合
で気温が上がる。(乾燥断熱減率)
2)空気が冷えて水蒸気が水になり、雲が出来るときには熱を放出するため(凝縮
熱)、気温変化の割合は 100mにつき約 0.5℃となる。(湿潤断熱減率)
3)風下側で雨を降らせ、水分の減った空気が風下側で山を下りるときは 100mに
つき約 1.0℃の割合で気温が上がる。このため、風下側では風上側に比べ、気温が
上がり乾燥する。
豊岡地方の気候
豊岡地方は沿岸部が海洋性気候であるのに対し、豊岡盆地に位置する市街地は熱
しやすく冷えやすい盆地性気候で、年間を通じて霧の発生が顕著である。また、暖
候期には南よりの風によるフェーン現象によって異常な高温地域となる。
豊岡地方におけるフェーン現象のメカニズムとしては、南からの風が近畿地方の
山岳部にあたって上昇し、温度が下がって雲になり、山岳部に雨を降らせた後、下
降気流となり豊岡辺りに達し、雨を降らせて乾燥した空気が下降すると温度が上昇
するため、日本海側は高温になることが挙げられる。また、豊岡市は盆地であり、
前日の熱気がそのまま残り、さらに太陽光が降り注ぐことで高温になりやすいこと
や、京阪神(京都、大阪、兵庫の 3 県の総称)の高温湿潤な空気が山を越え、背後の
山脈がそんなに高くない割に気温が高くなることも挙げられる。
豊岡地方の地形
豊岡市域は丸山川と竹野川の 2 つの水系からな
り、竹野地域は竹野川水系及び須井川水系に属し、
それ以外の地域は丸山川水系に位置する。また、
最高峰である蘇武岳(1074m)をはじめとする 400
~500mの山地に囲まれ、平野は円山川とその支
流(奈佐川、稲葉川、出石川、太田川)及び竹野川
沿いに発達している。豊岡市のほぼ中央を流れ、
日本海に注ぐ丸山川は、河川沿いに広大な平野
(豊岡盆地等)を形成している。丸山川の下流部は
低平地で勾配が 1 万分の 1 程度しかなく、満潮時
には河口から約 16km 上流の出石川合流付近まで
海水が浸入し、洪水時には内水被害が生じやすい
地形になっている。
図2
丸山川流域
鳥取大火災
1952 年 4 月 17 日に鳥取県鳥取市で発生した火災である。火元の原因はいまだに
不明だが、燃え広がった原因としてフェーン現象による強風と乾燥が挙げられる。
当時フェーン現象により気温は 25.3℃、湿度は 28%と乾燥していた。さらに最大
瞬間風速 15m という凄まじい風が吹いていた。火は飛び火しながら北上した。ま
た鳥取市の防災状況も悪く、使用可能な消防車は 1 台、
上水道の水量も水圧も低いというものであった。1943
年におきた鳥取大震災から完全な復興を迎える前に受
けた被害は深い傷跡を残した。震災後であったため家屋
が応急的なものが多かった。木造家屋建蔽の多い地区で
もあり、
燃え広がるのも速かった。火は消えることを知らず 4
月 20 日にようやく消し止められた。この火災により鳥
取市の半分以上が消失する大惨事となった。これらのこ
とを受け、国会で耐火建築促進法が可決され、鳥取市は
全国初の防火建築帯指定をされた。
鳥取大火災で焼け残った商家の土蔵
日本海低気圧の典型的な天気図である。高気圧が南から日本列島を覆い、日本海
に発達した低気圧があり、南から暖かい空気が日本海側に入りやすい状態である。
台風が日本海側に進むと、台風に向かって南よりの風が山を越えて日本海側に吹き
下りるときに気温が上昇し乾燥する。台風の影響でフェーン現象が起きることもあ
る。
鳥取大火災当時の天気図
フェーン現象による農作物被害
フェーン現象による被害でお米などの農作物の品質が落ちる。気温の上昇と気候
に変化をもたらすため農作物の育成に支障をきたすのである。たとえば、福島県が、
フェーン現象の被害を受けた農地と正常な穂を比べたところ、被害を受けた穂では
玄米の品質が悪くなったという報告している。ほかにも、もみの色が黄色くなる、
脱水・乾燥する、枯れ上がるイネも多かった。このため、フェーン現象の被害を受
けた農地では、イネの状況を見て刈り取り時期を判断する必要がある。フェーンの
時期には水稲に白穂病が発生する危険性もある。フェーンが吹き出す谷口・水田で
は良質米生産地が多いので被害が心配される。乾熱風で農作物が被害を受けること
が危ぶまれている。強いフェーン現象が春先に発生すると、早期に融雪が進み水資
源は不足する。
豊岡地方のフェーン現象の実態と検証
前に述べたように、豊岡地方は地形的に見てフェーン現象が発生しやすい地域だが、こ
こではそのフェーンが実際どのようにして起きているかを、風上側の瀬戸内海や風が吹き
上げる中国山地周辺などと豊岡地方を比較しながら検証する。
気象庁のアメダスデータによると、次のような事例が見つかった。
事例 1 2009 年 3 月 19 日
これは、太平洋側に発達した高気圧と日本海側に発生した低気圧によって引き起こされ
たものである。
図 3 に、フェーン現象が起こったことによって豊岡が最高気温となった正午の豊岡(記号 T)
と周辺の気温を示す。
図 4 には、豊岡でフェーン現象が始まったと仮定する午前 10 時から最高気温となった正午
までの豊岡と周辺の昇温率を示す。
図 3 正午の各地の気温
図 4 各地の昇温率
図 3 を見ると分かるように、豊岡地方だけが 24.1℃とずば抜けて高い気温になった。図 4
の昇温率を見ても、豊岡地方は+1.03℃と他の観測地点と比べ高い値を示している。さら
に、瀬戸内海側の観測地点の気温が 19~20℃であるのに対し、中国山地にあたる観測地点
である生野(Ik)が 18.8℃と少し低くなっていることから、先に示したフェーン現象の原則
通り、気流が山へ吹き上げるときは気温が下がり、山から吹き降ろしてくるときは気温が
上がっている。
事例 2 2011 年 5 月 1 日
これも同様に、太平洋高気圧と日本海低気圧によって引き起こされたフェーン現象であ
る。
今回は午前 5 時からフェーン現象とみられる現象が始まっていると仮定し、最高気温に
なったのは午前 11 時であったため、図 5 には午前 11 時の豊岡と周辺の気温を示し、図 6
には午前 5 時から午前 11 時までの各地の昇温率を示す。
図 5 午前 11 時の各地の気温
図 6 各地の昇温率
これも事例 1 と同様、気温、昇温率において豊岡が際立って高い値を示したが、今回の場
合は豊岡よりも北西に位置する香住(記号 Ks)のほうが気温が高かった。また、今回も中国
山地の観測地点生野で気温が 16.4℃と下がっているため、南風の山越えフェーンだと考え
られる。
事例 3 2010 年 8 月 5 日
こちらは夏に発生したフェーン現象であるが、原理は事例 1,
2 と同様である。今回は午前 9 時にフェーン現象が始まったと仮定し、正午に最高気温に
達したため、図 7 には正午の豊岡と周辺地域の気温を、図 8 には午前 9 時から正午までの
昇温率を示した。
図 7 正午の各地の気温
図 8 各地の昇温率
全体として気温は高めではあるが、その中でも豊岡地方は最高 36.2℃と極めて高い値を
示した。前回で豊岡よりも気温の高かった香住は 34.2℃にとどまっている。そしてまた今
回も瀬戸内海側の観測地点に比べ、中国山地にある生野の気温が 29.9℃と下がっているこ
とから南風の山越えフェーンであると考えられる。昇温率でも、豊岡は+1.03℃と他の観
測地点に比べてやはり高い値を示した。
検証の結果
理論上、中国山地と太平洋高気圧、日本海低気圧によって豊岡地方で起きるとされるフ
ェーン現象は実際に起こっていることが確認できた。さらに調査を進めていくと、このよ
うな気圧配置によって引き起こされるフェーン現象は 3 月、5 月、8 月と夏だけではなく、
春、初夏、真夏と 3 つの季節で起こることがわかった。また、ここには風向を示していな
いが豊岡地方でフェーン現象が起こるときは中国山地から吹き降ろしてくるため、主に南
あるいは南南東、南南西の風である。
気象データ・天気図から読み解くフェーン現象
気象庁のデータを用い、近くの地方と比べながら、豊岡地方でフェーン現象が起
こったと考えられる日を挙げていく。
2011 年 5 月 1 日
気圧(hPa)
現地
海面
神戸
姫路
豊岡
気温(℃)
湿度(%)
風向・風速(m/s)
平均
平均
平均
最高
最低
平均
最小
1004
1002.2
1004.6
1007.6
1006.9
1005.3
17.7
17.4
19.2
19.5
20
23.9
16.4
14.6
13.8
81
81
62
60
68
39
平均
風速
2.4
4.2
5.7
最大風速
風速
風向
6.2
東北東
10.4
南南東
12.8
南
最大瞬間風速
風速
風向
7.4
東北東
17.4
南
24.7
南
日本海に前線を伴う低気圧があり、午前 5 時頃から豊岡地方の気温はぐんぐんと
上昇し、最高で 23.9℃に達した。また、湿度も他の地方と比べて大きく下がってお
り、最小で 39%となり、空気が乾燥していることが分かった。最大瞬間風速も
24.7m/s で、フェーン現象にみられる、乾燥した暖かい強風が吹いている。
2010 年 8 月 5 日
先ほどと同じく、低気圧を伴い、他地方と比べて気温が著しく上昇し、湿度も下
がっており、乾燥した風が吹き、フェーン現象が起きたことが読み取れる。季節が
夏なので、もともと全体的に気温が高く、あまり他と差が無いように見えるが、こ
の日の最低気温と最高気温の差は 10.0℃で、2011 年 5 月 1 日の場合は 10.1℃で、
同じくらい上昇していることが分かる。また、南風が強く、中国山地から吹き下ろ
していると推測できる。
参考資料

図 1:
天気予報技術研究会編集(1994)最新天気予報の技術東京堂出版 p.282

図 2:
www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/shaseishin/kasenbunkakai/shouiinkai/kihonho
ushin/070918/pdf/s6-1.pdf

世界の気候気象図鑑 第 1 回:春を呼ぶ風“フェーン”

鳥取市被害概要
http://inpaku.dpri.kyoto-u.ac.jp/jp/think/town/restoration/contents.files/tottori1.html

環境 GOO
http://eco.goo.ne.jp/word/nature/S00303_qa.html

農業復興課研究開発室のホームページ
http://www.pref.fukushima.jp/keieishien/kenkyuukaihatu/seika/17fs-seika/17s-seika/17s-10n.ht
ml

気象庁ホームページ
http://www.jma.go.jp/jma/index.html
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