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月賦百貨店の創始者 田坂善四郎

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月賦百貨店の創始者 田坂善四郎
四国開発の先覚者とその偉業
四 国 学
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1
7 月賦百貨店の創始者
我が国の経済成長,国民の生活水準の向上と
ともに,広く浸透・活用されている月賦販売だ
田坂善四郎
には日本における「月賦販売発祥記念の碑」が
建っている。
が,その発祥の地が,愛媛県今治市桜井である
わんぶね
こと,また,その起源がけんど舟や椀舟を操っ
2.けんど舟と椀舟
た半農半漁の行商人の販売促進策から発祥して
けんど舟
いることを知る人は極めて少ない。
かずら
※けんど:!などで編んだ“ふるい”の一種。そら
豆などの穀類の皮と身を分けるのに使われる。
豊臣秀吉の時代に伊予の領主であった加藤嘉
明は,海防と交易の重要性に着眼し,老臣堀部
主膳に命じ,山間にあった城を海岸の小田浜(現
在の今治市拝志)へ移した。ここは瀬戸内海を
1.月賦販売のはじまり
望む海岸線が1
0km 程度続く入江となっており,
世界の月賦販売の起源は,イギリスの土地代
の支払やアメリカの家具代金など諸説あるが,
たの も
白砂青松が広がる風光明媚な地である。
小田浜城が出来ると,拝志村の住民は堀部氏
し こう
我が国では,室町時代に始まった頼母子講(金
を城主とあがめて仕えた。この一帯は耕地が少
銭の融通を目的とする民間互助組織。無尽講。
)
なく,山裾が海に迫っているために漁業もあま
だと言われ,その歴史は古い。
りふるわないことから,半農半漁の住民の生活
しかし,月賦という販売方法が今日のような
は決して楽ではなかった。そこで堀部氏は,住
形で実際に日本で行なわれるようになったのは,
民に「けんど(ふるい)
」を作ることを教え,
明治2
8年(18
9
5年)である。
これを作って生活の足しにするように指導した。
徳川家の時代になると,加藤嘉明は伊予から
会津へ国替えとなり,代わって藤堂高虎が来て
今治城を築いた。近くにあった小田浜城は不要
となったため取り潰され,さらに徳川二代将軍
秀忠の頃(1615∼1
620年)には,越智郡一帯が
府中,道後に連なる要所であったことから,そ
の一帯は幕府の天領(直轄地)となった。
田畑を取り上げられた農民の生活は困窮し,
老人の中には,世をはかなみ自殺する者も現れ
た。毎晩のように寄り合いを開いては,これか
月賦販売発祥記念の碑(網敷天満宮)
らの暮らしをどうするかを相談した。
彼らは,堀部氏から教わったけんど作りで生
愛媛県越智郡桜井村(現在の今治市桜井)に
計を立てることを決意し,全村をあげての生産
あった「丸善」という呉服店の若主人である田
体制を築き,製品を周辺の農家に売り歩いた。
坂善四郎が,販売促進の手段として,従来から
製品は,行く先々で珍重されたが,やがて生産
の頼母子講式販売を一歩進めた「月掛け売り」
過剰となり,販路を瀬戸内海の島々や,遠く中
という割賦販売を行なったのが草分けで,当地
国,九州方面まで広げていった。これがけんど
2
0
0
8.
2 四経連
13
四 国 学
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舟のはじまりである。
桜井村は,拝志村の隣村で,同じように海岸
線に沿った半農半漁の村であった。ほとんどが
狭い農地しかもたない零細農家で,生活は苦し
く,簑や笠などを作って周辺の村や遠い島々ま
で行商していた。また同じ頃,山ひとつ越えた
しゅうそう
に ゅ う がわ
周桑郡の壬生川,国安村などでは,奉書や障子
紙を作り,舟を操って中国,九州地方まで行商
していた。
こうして拝志,桜井および壬生川,国安の各
村は,いずれ劣らず海の行商に励んだが,次第
椀舟の模型
に販路を紀州や肥後方面にまで広げて行った。
も舟に積んで行商するようになり,その舟の名
紀州へ出かけるようになったのは,紀州の杉や
も椀舟に変わった。漆器の行商に出ることを「椀
檜をけんどの枠の材料に使用するためであった。
舟にゆく」
,または「舟に働く」と言い,行商
紀州で寄港した港が,漆器の産地として有名
人のことを「椀屋さん」,「舟ゆきさん」と呼ぶ
な黒江(現在の和歌山県海南市)だったので,
椀や重箱などを持ち帰って研究し,ついには桜
井の地元生産にまで発展させた。
ようになった。
椀舟の全盛期には,舟に乗る売り子が5
0
0人,
椀舟も小舟ではあるが当時3
00隻もあり,海岸
の入江には,白壁に家紋の入った数十棟の漆器
桜井漆器の起源と椀舟
を入れる倉庫が立ち並んでいた。売り子は全て
農閑期を利用した農家の人たちであったことか
ら,労賃も安く,行商先に着いてからも宿屋に
は泊まらず,食事も質素で舟に寝泊りするなど
していた。
こうして行商に要する経費を抑えることで利
潤を増やしたことが,後の繁栄を導く原動力に
なった。
当時は,顧客もほとんどが農民で,冠婚葬祭
で使う会席膳や吸い物椀,花見や村芝居見物で
桜井漆器
14
使う重箱などが主な商品であった。
桜井漆器の起源についてはっきりした文献は
目的地に着くと,売り子は越中富山の薬屋の
残っていないが,本格的に企業化したのは天保
ように各農家に荷主から預かった品物を置いて
6∼7年(1
8
3
5∼1
83
6年)頃である。隣藩の西
回り,お盆と年末に集金して歩いた。
条藩から蒔絵師茂平を招いて教えを受けたのが
また,売り子は村を訪れた時に,弁当のお茶
そもそものはじまりで,その後,紀州や能登の
をもらったり,時には野良仕事を手伝ったりし
輪島,
会津から沈金・蒔絵,
越前山中から下地・
ていた。こうした売り手,買い手の間の親しみ
塗り,宮島からろくろ師を招き,最盛期には業
は,相互の信用となって節季販売(盆と年末の
者数が7
0軒にも及んだ。こうして漆器が大量生
2回払い)となり,やがては月賦販売の基盤を
産されるようになると,けんどだけでなく漆器
築きあげていった。
四経連 2
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0
8.
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椀舟の人たちは,近畿,九州方面に出かける
かと考えた。
ようになると,その帰り舟を利用することを考
さらに,現金売りと併用していた節季販売に
えるようになった。帰り舟にその地域の特産品
加え,10人が1組になって連判(連帯債務を負
を仕入れて持ち帰って販売し,片道行商の不利
うこと)する「購売式販売」を創案したところ,
を補おうとしたのである。中でも肥前唐津の陶
大変好評であったため,これを基礎に,20回掛
器,紀州黒江の漆器が特に需要が高かった。春
けの20回払いの月賦販売をはじめた。これが,
ののぼり舟には唐津で仕入れた陶器をもち帰り,
我が国における月賦販売の基盤となった。
中国,近畿方面に売り歩き,秋のくだり舟には
月賦販売の対象となった顧客は,今までのよ
黒江から漆器を仕入れ,中国から九州方面へと
うな農民主体から,北九州の炭鉱労働者や八幡
行商した。愛媛の民謡に
「春は唐津,秋は漆器」
製鉄所の従業員などへと広がっていった。彼ら
というのがあるが,伊予の行商人は,自分たち
のような月給生活者にとって,月賦販売は従来
の商品を売るだけでなく,商圏が異なる集荷先
の節季販売より便利であったことから,商売は
の商品も取り扱うことで確固たる地盤を築いて
大いに繁盛した。月賦販売には多くの資金が必
いった。
要なことから,真似ることは難しく,当初は,
資金に恵まれていた田坂の独占状態であった。
3.
田坂善四郎という人
我が国の月賦販売の創始者である田坂善四郎
は,明治9年(1
8
7
6年)8月5日,文蔵の六男
また,日露戦争後の景気反動で不景気となった
が,「月賦販売は不景気な年ほど良い」と言わ
れるように,不況が月賦利用に拍車をかけ,さ
らに発展した。
として愛媛県越智郡桜井村(現在の今治市桜
だが,積極的な田坂はこの程度の成功では満
井)に生まれた。父の文蔵は,桜井漆器がよう
足していなかった。研究の結果,椀舟時代から
やく緒につきはじめた頃から漆器の製造を始め,
行なわれていた,売り子が見本を持って歩く販
椀舟に乗って九州方面へ行商していた。善四郎
売方法の一大刷新を試みた。それは,各地方に
が生まれた時には,かなりの資産も持ち,
「丸
出張して7日間程度商品を陳列する販売方法で
善」という呉服店も営んでいた。
ある。現在ではありふれたことだが,当時はま
善四郎もまた1
5歳の頃から椀舟に乗って行商
だ誰も試みたことのない画期的な方法であった。
に出かけた。彼は性格が非常に円満であったこ
この出張陳列販売は,企業家としての彼の真
とから周囲に可愛がられ,またその商才は高く
価をよく発揮したものであり,同業者たちは彼
評価されていた。彼は,頼母子講式の呉服販売
の創造的な商才に驚嘆し,各地で盛んに行われ
を父に勧めるなど,新たな販売方法について知
るようになった。
恵を絞っていた。北九州方面の将来性に目を付
け,明治3
7年(19
0
4年)には,父から若干の資
本を分けてもらい,
分家して福岡市上土居町
(現
在の福岡市博多区店屋町)に本拠をかまえ,弟
と移り住んだ。
当時主流であった椀舟による商業活動は,海
4.
月賦販売の歩んだ道
出張陳列販売
田坂善四郎の「丸善」によって始められた出
張陳列販売の出現は,かつて伊予の「椀屋さん」
岸を起点に売り歩ける範囲に留まっていたが,
で大衆に親しまれてきた行商体制を強化しなが
彼は,現地に拠点を設けることで,地方の各都
ら,次第に組織化し,有望と思われる都市にお
市にまで販路を広げることができるのではない
いて,大掛かりな移動販売を行なうまでに発展
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0
0
8.
2 四経連
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時の正装で,多くの家では冠婚葬祭に無くては
した。
まず,あらかじめ中心となる都市の倉庫など
ならない物であった。その頃の男子にとっては
を借り,そこへ大量の商品を送り込んで適当な
必要不可欠であり,徴兵検査に合格して入営す
会場を選定する。そして,膳椀などの漆器や陶
る時には,「なにはなくとも紋付,袴だけは」と
器を陳列して会場を設営する。出張販売は,1
いうのが親の念願であった。しかし,これらを
組が8人とすると,半分が会場係で,残り半分
まとめて揃えることは,普通の家では容易では
は案内状や招待状の準備をして戸別宣伝に出か
なかった。月賦で揃えられるのであればこんな
ける。後には新聞折り込みのチラシなども使う
に便利なことはないと,町家をはじめ多くの者
ようになったが,当時は足で徹底的に稼ぎ回る
が飛びつくように申し込んできた。
宣伝方法であった。開場となると,お客がやっ
さらに,田坂は大量仕入れと大量販売を既に
て来るが,その頃の会場は履物を脱いで上がる
この頃から始めるなど,その商才は群を抜いて
ことから,下足番をしながら客の応対もしてい
いた。
た。月賦販売の要は集金であり,販売したお客
こうして漆器や陶器の販売だけだったものが,
の住所を確認するために,配送は運送屋に頼ま
やがては衣装箱,鏡台,仏壇など家具の分野と
ず,自前で行った。配達には必ず店員が付き添
あわせて,紋付,袴まで幅広く取り扱われるよ
い,荷車を使った。会期が済むと売れた商品と
うになるなど,これこそ欧米各国には無い,我
在庫品とを照合し,最終日の夜には陳列会場を
が国独特の月賦百貨店の礎である。
片づけ,商品を荷造りし,翌朝に次の会場へ移
田坂は,惜しくも脳溢血のため50歳前後でこ
動し,準備をするという忙しさであった。いつ
の世を去るが,関西で活躍していた業者のうち,
は
し
の頃からか,
「桜井男に波止女」と言われるよ
その指導を受けた人々によって月賦販売は関東
うになったそうだが,その昔波止浜(現在の今
にまで広がって行った。
治市波止浜)にあった塩田では,女の人たちが
以後,時代と共に出張販売から,常設店舗へ
身を粉にして塩づくりに励んでいたので,桜井
と形態は変化した。月賦百貨店は,取り扱い商
男と共に働き者の象徴のように言われた。桜井
品も次第に範囲を広げ,遂にはあらゆるものを
出身の売り子たちは,年中絶えまなく働き,彼
販売するまでに発展した。
らにとっての一番の楽しみは,盆と正月の年二
回,小遣い銭をもらい故郷の四国へ帰省するこ
とであった。
田坂の「丸善」は後継者がいなかったことか
ら彼の代だけで閉店したとはいえ,その創案と
こうして出張陳列販売や月賦販売は,九州は
計画が,月賦販売の今日の繁栄をもたらした。
もちろん,山陽,山陰から,関西方面にまで商
田坂善四郎が灯した松明は,新しい世代に引き
圏を広げ,大衆に親しまれていった。中でも田
継がれ,いまなお輝いている。まさに偉大な開
坂善四郎が経営する「丸善」で,彼の指導を受
拓者と言える。
(担当:山崎)
けた人々は,相前後して独立し,業界の俊才と
言われた。
※
月賦百貨店のはじまり
田坂は,販売する商品を漆器や陶器だけに留
めず,当時の人々にとって欠くことのできない
紋付,羽織,袴を加えた。紋付,羽織,袴は当
16
四経連 2
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0
8.
2
本編は,渡辺茂雄氏著「四国開発の先
覚者とその偉業 」( 昭和3
9年∼4
2年, 四国
電力!発行)を原典に編集しています。
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