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生徒は対象外です。 - タテ書き小説ネット

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生徒は対象外です。 - タテ書き小説ネット
生徒は対象外です。
東方博
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
生徒は対象外です。
︻Nコード︼
N5941I
︻作者名︼
東方博
︻あらすじ︼
教師である佐久間の女子生徒との禁断の恋⋮⋮を不幸にも目撃し
てしまった渡辺涼。同僚として、そして教師として仕方なく黙認し
たが、それから間もなくして二人の関係が何者かに密告された。窮
地に立たされた佐久間は二人の恋を守るために大嘘を吐く。︱︱私
は渡辺先生と交際しています、と。
1
SHR︵その一︶ 寄り道はいけません 渡辺涼が二人を見たのは偶然以外の何物でもなかった。
生徒達が部活に勤しむ放課後。明日の授業プリントを作成しよう
とした折にふと、ピアノの鍵が気にかかったのだ。本日五限目の授
業で使用したのは記憶に新しい。はてさてその後しっかり鍵を掛け
ただろうか。
鑑賞室の鍵を閉めた以上、中にあるピアノを勝手に弾くことはで
きない。が、スタンウェイのピアノを放置する、というのは教師と
して││いや、音楽を愛する者としては許し難いことだ。なんてっ
たってスタンウェイ。数百万もする代物だ。
涼は鍵を片手に鑑賞室へと向かった。扉に鍵を差し込もうとして
気付く。すでに開いている。
五限終了後に鍵はしっかり閉めた。それは間違いない。今日はど
の部活も鑑賞室は使っていないはず。鑑賞室使用の届け出もなかっ
た。
では、一体誰が。
涼が小首を傾げたその時だった。
﹁先生ぇ⋮⋮﹂
甘ったるい声。思わず扉の隙間から覗き込み、涼は我が目を疑っ
た。
広い鑑賞室には二人がいた。ピアノの椅子に腰掛けるのは、世界
史教師の佐久間秀夫。涼の二、三歳上の、まだ若い部類に入る教師
だ。その膝の上に女子生徒が座り、佐久間の首に腕を伸ばしている。
名前は知らないが、見覚えのある子だった。たぶん、二年生だろう。
授業を受け持った気がする。
それにしてもこの甘ったるい雰囲気は何だ。ここは鑑賞室のはず
だ。
2
﹁ねえ先生、何か弾いてよ﹂
薄い化粧をした女子生徒はピアノに触れた。
﹁勘弁してくれ﹂
佐久間は苦笑した。少年のように無防備な顔だった。
﹁リョウ先生に弾いてもらいな﹂
﹁だって外国語の歌ばっかり。つまんないだもん﹂
悪かったな。涼はこめかみをひくつかせた。残念ながら文部科学
省の決めたことだ。文句ならばそちらへどうぞ。
﹁弾いてよ、あたしのために﹂
雰囲気に流される形で佐久間の手が、チョークの粉が微かに残る
指が鍵盤に伸びる。
そこまでだった。涼は扉を勢いよく開け放った。
﹁ちょっと待てあんたら﹂
女性とは思えない。ましてや教師の口調ではないのは重々承知。
しかし涼には耐えられなかった。
生徒と教師の禁断の恋。教室での逢い引き││そんなものはどう
でもよろしい。
﹁わ、渡辺リョウ先生⋮⋮﹂
鳩が豆鉄砲をくらったかのような二人の顔が、みるみるうちに青
くなる。何かを言いかけた佐久間を涼は鋭く制した。
﹁二人とも離れなさい﹂
女子生徒の瞳が潤む。
﹁違うんです! これは、その⋮⋮っ﹂
﹁私は離れろと言ったんですけど?﹂
﹁リョウ先生、落ち着いてください。まずは話を﹂
立ち上がろうとした佐久間の手が鍵盤に触れる。もう限界だった。
﹁汚い手で﹂
涼は渾身の力とスピードを持って佐久間を突き飛ばした。女子生
徒ごと。
﹁ピアノに触るなぁっ!﹂
3
椅子から転げ落ちた二人は、今度こそ目を丸くした。
4
SHR︵その二︶ 寄り道はいけません とりあえず不届き者二人を床に正座させ、スタンウェイの無事を
確認した。外傷はない。ただ、白い粉と手の脂で少々、汚されてい
た。清潔な布で丁寧に拭き取り、今度こそ鍵をしっかり閉める。つ
いでに椅子も拭いてから、涼は二人の前に立ちはだかった。
﹁どういうことだか説明していただきましょうか、佐久間先生﹂
半眼で見下ろす。ちょうど佐久間の目の位置に涼の太ももがくる
が、構いはしない。動きやすいスラックスを穿いている。
﹁先生は悪くありません!﹂
女子生徒││矢沢遙香が立ち上がった。
﹁私たち、真剣なんです。教師とか生徒とかなんて関係ないんです﹂
﹁あのね、矢沢さん。私が聞きたいのはそういう未成年の主張じゃ
なくて﹂
﹁だいたい、教師と生徒が恋愛して何がいけないんですか? 誰に
も迷惑かけてないじゃないですか﹂
思いっきり迷惑かけられているんですけど、私。
朱が差した頬をひっぱたきたい衝動を抑えて、涼は口を開いた。
﹁校長、理事長、PTA会長││私にどれを呼んでほしい? 同じ
ことをお三方の前で言いなさい﹂
突き放したように言えば、佐久間は血相を変えた。
﹁り⋮⋮渡辺先生、このことはどうか内密に、していただけないで
しょうか。矢沢はまだ高二ですし⋮⋮﹂
その十六歳の女子高生と見境もなく恋愛した教師の言う台詞では
なかった。涼は深くため息をついた。身勝手カップルにも程がある。
﹁お二人とも勘違いしているようだけど、私は教師が生徒と恋愛し
ようがこっそり煙草吸おうが個人の自由だと思ってる﹂
鑑賞室の床一面に敷かれた絨毯。毛足の長いそれを涼は軽く足で
5
払った。
﹁ただね、世間様はそうは思っていない。未成年は煙草を吸っては
いけないし、教師と生徒の恋愛は望ましくないと考えている。それ
は、二人とも重々わかっているはずだ﹂
﹁でも好きなんです!﹂
遙香は眉をつり上げた。
﹁この恋を捨てることなんて出来ません﹂
好き。その二文字が全てを正当化する大義名分かのように振りか
ざす遙香に、涼は冷たい視線を送った。禁断の恋だの聞こえのいい
言葉に酔っている女子高生に通じるとは思えなかったが。
﹁矢沢さん、君は佐久間先生との恋を大切にしたいわけだ﹂
﹁そうです。遊び半分じゃありません﹂
﹁愛を育むためにバレる危険を冒してまで校内で二人きりになる必
要があるのかな? 私には矛盾しているように思えるよ。二人っき
りになりたいのなら、地元を少し離れた駅で落ち合えばいい。相応
しい場所が他にもあるだろう。少なくともここはカップルがいちゃ
つく部屋でもなければ、このピアノは恋愛の小道具でもない﹂
押し黙った佐久間に厳しく言い放つ。
﹁佐久間先生、鑑賞室のスペアキーを勝手に使わないでください。
それは緊急用です。あなたたちの恋愛用ではありません﹂
﹁だって、どうしても会いたかったんです。教室で顔を合わせても
ただの教師と生徒のふり⋮⋮その辛さが先生にわかりますか?﹂
涙ぐみながら遙香は言う。悲壮感溢れさせているつもりなのだろ
うが全くお門違いの責めをしている。それを承知で二人は交際して
いるのではないのか。
﹁二人っきりになりたいからなる。スペアキーがあったから鑑賞室
を使う。それは恋愛ごっこと言われても仕方ない。あなたたちがや
っていることは、煙草が吸いたいから学校で吸って、バレたら﹃禁
煙の苦しさがわかりますか﹄と訴えているようなものだ﹂
とうとう遙香は手で顔を覆った。これ見よがしに泣き出した教え
6
子に、佐久間は戸惑いを隠せない模様。しかし涼を見る目には責め
の色がある。何もそこまで言わなくても。完全に自分のことを棚に
上げた態度だ。
関わるのも阿呆らしくなった涼は鍵を上着のポケットに入れた。
﹁見なかったことにします。後はご自分で決めてください﹂
それなりに尊敬してたのになあ。落胆を振り切るように涼は鑑賞
室を後にした。
学校では一番歳が近い先生だ。一年半前の新任時には何かと良く
してもらった。
︵でもまあ、これで借りは返したってことで︶
一人納得し、涼は忘れることにした。
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一限目︵その一︶火のないところに煙はたちません
渡辺涼が音楽教師になったのは、音楽を通して生徒たちに自分を
見つめ、自分を育ててほしかったから││ではない。ましてや教師
が天職だなんて思ったことなど一度もなかった。﹁自分が好きなも
の=職業﹂とできるのはよほど恵まれている人間だけだ。
しかし、やるからにはとことんやろう、と思うのも人情だ。世の
中には音楽を通して少年少女の健やかな育成を促そうと熱意に溢れ
るものの、涙を呑んで諦めた人だっているかもしれない。
さすがに五時起きが毎日続くのは勘弁してほしいけど。
ほのかな煙草の匂いが鼻を掠めたのは、そんなことを考えながら
涼が瞼をこすっていた時だった。振り向き遠ざかる背中に声をかけ
る。
﹁煙草﹂
学ランが歩みを止めた。学生には不釣り合いな鋭い双眸がこちら
を見据える。見覚えのある顔だ。二年生。この前も煙草の匂いをさ
せて堂々とやってきた。
﹁運動部かなんかで消臭剤借りなさい。校内は禁煙です﹂
むっつりと押し黙ったまま、男子学生は制服を鼻まで寄せた。愁
眉をしかめる。どうやら自分ではわからないらしい。
﹁早めの証拠隠滅を推奨しておくよ﹂
ひらひら手を振って咎める意思はないことを涼は示した。
﹁渡辺先生﹂
やや低めの声が呼び止める。テノールだろうな、と涼は見当付け
た。よく通る、悪くない声だ。
男子学生は躊躇いながらも口を開いた。
﹁おはようございます﹂
不機嫌ともとれるむっつり顔で挨拶。涼は内心首を捻った。
8
﹁⋮⋮おはよう﹂
何故ここで挨拶? 時間帯を考えれば間違ってはいないが、状況
的には少々変だ。しかしそれを追及する間はなかった。
﹁リョウ先生、校長がお呼びです﹂
英語教師の渡辺民子に呼ばれる。年は三十半ばだと聞いている。
緩くカールのかかった髪。厚めにグロスを塗った唇には同性でさえ
感じるほどの色気があった。同じ女性で同じ﹃渡辺﹄でこうも違う
ものか。渡辺涼が﹁リョウ先生﹂と呼ばれる理由がこの先生にあっ
た。担当教科も学年も雰囲気も違う二人だが、苗字は全く同じ﹃渡
辺﹄。紛らわしいのだ。
﹁ああ、はい。今行きます﹂
じゃ、と軽く片手を挙げて男子学生に別れを告げた。職員室へ向
かう民子に早足で追い付く。朝の職員会議にはまだ早い。
﹁何かあったんですか?﹂
﹁ゆゆしき事態です﹂
民子は声を潜めた。
﹁私も学年主任に聞いただけなのですが、佐久間先生が、二年三組
の女子生徒と││﹂
早いな。一週間でバレたよ。
もっとも、お互いしか見ていない二人だから例の一件のようなこ
とを今まで何度もしていたのだろう。もはや同情の余地はない。完
全に他人事だと思って涼は欠伸を噛み殺した。
職員全員の前で事実関係の確認と説明が行われると思いきや、涼
が通されたのは校長室だった。一年半前に採用された時以来かもし
れない。革張りのソファーも少ない賞状も相変わらずだ。違うのは
机に座る校長の眉間に深い皺が寄っていることと、佐久間がいるこ
とだ。
﹁失礼いたします﹂
縋るような眼差しを送る佐久間を無視して、涼は校長に一礼した。
﹁何かご用で?﹂
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白髪混じりの頭を困ったようにかいて、校長は紙を差し出してき
た。
﹃佐久間先生ハ、二年の女子と交際シてイル﹄
脅迫状よろしく新聞の切り抜きを貼り合わせ、さらにコピーした
手紙だ。差出人の名はない。
﹁これは、どこで﹂
﹁今朝机の上に置いてありました。教頭先生と学年主任の机にも同
じものが置かれていたそうです﹂
﹁一体誰が、何のために﹂
﹁わかりません。それに今は犯人探しをする前に確かめなければな
らないことがあります﹂
校長は深いため息をついた。
﹁渡辺リョウ先生﹂
フルネームで呼ばれた時点で嫌な予感はしていた。校長は手紙を
指差した。
﹁ここに書いてあることは本当ですか?﹂
ええ。真っ黒ですよ、校長。
頷く代わりに、違う言葉が口から飛び出した。
﹁何故私にそんなことを訊くのですか?﹂
﹁佐久間先生がおっしゃるには、あなたは彼と交際しているとか﹂
数秒。涼はその意味を真剣に考えた。
交際:人と人とが互いに付き合うこと。まじわり。
ちょっと待て。思わず隣に立つ佐久間に射抜かんばかりの視線を
やったとて涼に何の非があるだろうか。こちとら彼氏イナイ歴が四
年を迎えようとしている独身女だ。鑑賞室で密会したこともなけれ
ば、スタンウェイのピアノの前で抱きついたこともない。ましてや
佐久間と交際した覚えなんか微塵もなかった。
︵野郎⋮⋮っ!︶
歯軋りしたいのを涼はこらえた。よりにもよって隠蔽のために他
人を巻き込むなんて。身勝手恋愛にも限度がある。
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こちらを見る佐久間の目は祈るようなもので、哀れみよりも情け
なさを誘った。
﹁お二人は交際しているんですね?﹂
確認する口調だ。ここで涼が洗いざらいぶちまけようものなら、
佐久間だけでなく校長までもが卒倒しかねない。
涼は顔の筋力を総動員して表情を取り繕った。でなければ、激情
に任せて喚きそうだった。
﹁⋮⋮ええ、まあ⋮⋮そう、ですね﹂
歯切れが悪いのは仕方ない。むしろ、ここまで理性的でいた自分
を涼は誉めてやりたかった。
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︵その二︶嘘吐きは泥棒の始まりです
校長室から出るなり、佐久間は安堵の表情を浮かべた。
﹁ありがとうございます。リョウせ⋮⋮いっ!﹂
皆までは言わせなかった。足の甲を思いっきり踏みつける。悲鳴
こそ上げなかったものの佐久間の顔は盛大にひきつった。
感謝する前に詫びるべきだ。名誉毀損で訴えてやろうか。
声もなく痛みをこらえる佐久間を置いて職員室へ。既に教師達は
校長から説明されていた。
すなわち、例の怪聞はデマである。何故ならば佐久間秀夫先生は
渡辺涼先生と交際しているからだ。
﹁そうだったんですか? 知りませんでした﹂
﹁意外ですね﹂
﹁まあ、歳近いですから﹂
﹁でも驚いたなあ﹂
︵私もビックリだよ︶
涼は曖昧な笑みで野次馬教師達に応対する他なかった。職場に夢
なんぞ抱いちゃいないが、さすがにこれはない。ありえなさ過ぎる。
﹁リョウ先生﹂
不意に肩を叩かれた。民子だ。
﹁本当なんですか?﹂
冗談です、と言えたらどんなにいいだろう。涼は力無く頷いた。
﹁ええ、まあ⋮⋮﹂
それでも授業はしっかりこなさなければならない。今となれば、
佐久間と担当科目が違うのが幸いした。顔を見ようものならはっ倒
したくなる。
あまりにも涼を馬鹿にした策だ。もし自分に彼氏がいたらどうし
てくれるんだ。
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︵⋮⋮いなくてよかった︶
これから出来る可能性もゼロに等しくなったわけだが。あ、もと
もとないようなものか。考えてて虚しくなったので、涼は思考を停
止した。
﹁せんせーい﹂
珍しく生徒が質問してきたのは二限目の時だった。授業中の質問
は珍しい。涼は鍵盤に置いた手を離した。
﹁何ですか?﹂
﹁佐久間先生と付き合っているってマジですか?﹂
学校って、噂広がるの早いのね。
軽い鈍痛を頭に覚えつつも涼は答えた。
﹁ノーコメントです﹂
不満げな生徒の声。面白がっているのは明白だ。質問ラッシュに
突入。
﹁どっちが告ったんですか?﹂
佐久間秀夫です。校長づてに聞きました。
﹁ぶっちゃけどこが好きなんですか?﹂
矢沢遙香に訊け。私もわからん。
言いたいのをこらえて涼はピアノを弾き始めた。
﹁じゃあ、ソプラノから﹂
演奏に入れば無駄口を叩く暇はない。渋々歌い出した女子生徒達
に、涼は安堵した。が、それは甘かった。
涼の背筋に悪寒がはしった。恐る恐る不穏な視線を辿り、危うく
伴奏を止めてしまいそうになった。
殺気に近い眼差しを注いでいたのは、矢沢遙香だった。よくよく
考えてみれば、選択科目である音楽は三クラス合同だった。それは
ともかく理不尽過ぎる。誰のせいでこんな目に逢っていると思って
いるんだ。
︵私は被害者だぁああっ!︶
むしろ加害者は奴らだ。しかし訴えようにも、何もかもが遅かっ
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た。
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︵その三︶相互理解は大切です
拷問に近い授業を終えるなり、遥香は詰め寄ってきた。表面上は
休み時間に質問をしようとする生徒を装っているが、目が笑ってい
ない。涼は後ずさり、スタンウェイの反対側に回り込んだ。
最後の生徒が鑑賞室の扉を閉めるなり、辛うじて張り付いていた遙
香の笑顔が消えた。
﹁どういうことですか?﹂
﹁待て落ち着こう、話せばわかる﹂
諸手をあげて涼は無条件降伏した。恋に我を忘れた娘ほど恐ろし
いものはない。控え目だが施された化粧がまた凄みを引き立てる。
﹁その様子だと、佐久間先生からの説明は無し、ってことですか﹂
﹁何がですか﹂
﹁バレそうになった﹂
遙香の目が大きく見開かれ︱︱なかった。不機嫌そうに﹁何が?﹂
と訊ねてくる始末。涼は額に手を当てた。察してくれ、頼むから。
﹁校長含む一部の先生宛てに怪文書が送られてきた。佐久間先生と
生徒が交際している、って﹂
ようやく理解したのか遙香の顔が強張った。
﹁でも⋮⋮どうして?﹂
﹁どうしても、こうしても﹂
涼は深くため息をついた。所構わず愛を育んでいれば当然だ。
﹁担当科目の違う私でも知っていることを考えれば、誰かが気付い
たとて不思議じゃない﹂
﹁だからって、どうして先生が付き合っていることになるんですか
?﹂
﹁文句なら佐久間先生に言ってください。私だって迷惑しています。
君との恋を隠すために私の名前を勝手に出したんだ﹂
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苛立ちのままに言葉を重ねる。
﹁君がどうしても嫌なら、後で校長に﹃さっきのは嘘です﹄と言っ
てもいい。ただし、その時は何故そんな嘘をついたのかを説明しな
くちゃいけない。うまい言い訳を考えてくれる?﹂
﹁嫌です。佐久間先生があなたと交際しているなんて﹂
遙香は即答した。
﹁嫌に決まっているじゃないですか。一限でその話を聞いた時、私
がどんな気持ちだったか、先生にわかりますか﹂
自分の心情を察しろと言うくせに、こちらの心情は察してくれな
い。面倒な娘だ。勝手に彼女にされた気持がお前にわかるか。
﹁でもうまい言い訳も思いつきません﹂
﹁二人で知恵を絞ってくれ。なるべく早く﹂
他人事のように涼は投げた。実際他人事だった。
﹁一応弁明しておくけど、私は佐久間先生が同僚で、君が私の教え
子じゃなかったら、絶対にこんな面倒な役は引き受けなかった﹂
説得が功を奏したのか、遙香の目から剣呑さが薄れた。
﹁先生は、好きな人はいないんですか?﹂
よくもそんな嘘が吐けますね。
軽蔑混じりの眼差しを、涼は鼻で笑った。本当に、恩知らずな生
徒だ。涼に嘘を吐かせる自分に非があるとは微塵も考えてはいない。
﹁好きな人はいるよ﹂
教え子に対抗する涼も涼で幼いのかもしれないが。
﹁プラシド=ドミンコ。三大テノールの一人だ。彼の歌を聴いて私
は音楽を志した。今でも彼の声に首ったけ。今度生まれ変わるなら、
テノールがいいな﹂
わけがわからない。眉をしかめる遙香に内心満足しながら、涼は
笑って付け足した。
﹁でも残念ながら、彼はホモらしい﹂
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︵その三︶相互理解は大切です︵後書き︶
チャイコフスキーも同じく。
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︵その四︶人の名前はちゃんと覚えましょう
その後も好奇に満ちた視線を注がれ続けて、長い長一日が終わっ
た。安息の地である音楽科準備室の椅子に腰掛け、背もたれにぐっ
たりとのけぞる。一週間もすれば興味も薄れるだろう。世の中には
教師の恋愛事情なんかよりも大切なことはたくさんある。
︵⋮⋮一週間︶
土曜日がいつになく遠く思えた。ともすれば落ちこむ気分をなん
とかしようと専用ティーカップに紅茶を注ぐ。この学校に就任時、
歓迎の意をこめて音楽科教師達からいただいたカップで、なんでも
有名ブランドのウェッジウッドらしい。真偽は定かではない。調べ
ようとも思わなかった。
アールグレイの香りを堪能している折に、控え目なノック。﹁ど
ーぞ﹂と気のない返事をすると、意外な人物が顔を出した。
﹁失礼します﹂
今朝の生徒だ。煙草の匂いはもうしない。
﹁ファブリーズしたようだね﹂
相も変わらずむっつり顔。年頃の男子高校生なんて皆そんなもの
だ。そう思えば硬く引き結んだ唇にも可愛げがある。彫りが深く、
野性的な容貌だが、どことなく少年の名残があった。一度も染めた
ことがないであろう黒髪が少々日に焼けた顔に映える。顔はよく知
っている。忘れるにはもったいないほど整っている。だが、肝心要
の名前が思い出せなかった。
﹁鑑賞室に忘れ物をしたんですが、鍵を貸していただけませんか?﹂
﹁煙草?﹂
﹁違います﹂
ややむきになって否定する男子生徒。
﹁俺、煙草なんて吸いません﹂
18
﹁制服が燻製になるほど煙草の側にはいたわけだ。ゲーセンか、カ
ラオケか、それともヘビースモーカーのお友達か。可能性はいろい
ろあるけど、煙草の匂いをさせて学校に来たら教師が下す判断はた
った一つ︱︱﹃未成年らしからぬ行動を取った﹄﹂
涼はカップをソーサーに置いた。
﹁煙草が大好きで匂いを四六時中纏うことに生きがいを感じている
のなら止めはしないが、誤解されるのは覚悟しておくべきだね﹂
﹁勝手に解釈する側に問題があるとは思わないんですか﹂
彼の眼差しは鋭く、それでいて真摯だった。
﹁なら、放課後人気のない教室で生徒と教師が二人っきりでいるの
を、付き合っていると判断してもなんら不思議じゃない。悪いのは
紛らわしいことをしている二人、ということになりますよね﹂
動悸が速くなる。たとえを持ち出すのならもう少し別のものにし
てほしかった。そんなホットな話題はやめてくれ。風刺が効き過ぎ
だ。
﹁そうなり、ますね。たぶん﹂
つられて丁寧語で答えてしまう始末。探るようにこちらを見る彼
の視線が痛かった。細身だが引き締まった身体が一歩近づくのと、
準備室の扉が開くのはほぼ同時だった。
﹁おや珍しい。久しぶりだね、鬼島君﹂
音楽科主任が彼の顔を見るなり言った。彼も彼で、さきほどまで
の不穏な気配を消し、わずかに目を見開いた。驚いたのは涼も同じ
だ。
﹁お知り合いですか?﹂
﹁ええ、選択科目で音楽の授業を。彼が一年の時ですね﹂
音楽科主任は抱えていた楽譜の山を専用机の上に置いた。
﹁今は渡辺先生の受け持ちでは? 二年一組の鬼島天下君ですよ﹂
あ、なるほど。二限目にいたような気がする。矢沢遙香に気を取
られていてそれどころではなかったが。
﹁彼がどうかしましたか?﹂
19
﹁いいえ、別に何も﹂
涼は鬼島天下に目をやり、硬直した。ただでさえ切れ長の目が、
剣呑さと鋭さを増して恐ろしいまでになっている。
﹁⋮⋮失礼しました﹂
底冷えするような声音で告げると天下は準備室から出て行った。
﹁普通科でも成績優秀生徒だそうです。いい声してますよね﹂
呑気な音楽科主任の言葉に、涼はぎこちなく相槌を打った。たし
かに、若々しく張りのある声をしている。あと数年もすれば重みと
深みを増して、さらに魅力的な声になるだろう。将来が楽しみな生
徒ではある。
だが、その声が紡ぐのはアリアでもゴスペルでもなく、恐怖と不
安を煽る言葉なのだ。
結局彼は何をしに来たのだろうか。涼は紅茶を一口飲んだ。忘れ
物とか言っていたが、もういいのだろうか。
︵忘れ物が目的ではなかったとしたら?︶
カップを持った涼の脳裏に最悪な可能性がよぎる。
涼に会うことが目的だったとすれば、その理由として考えられる
のは佐久間との件だ。校長らに怪文を送りつけた犯人は未だ判明し
ていない。そして涼と佐久間の交際が真っ赤な嘘であることを知っ
ているのもまた、犯人だ。
20
︵その五︶完璧は、なるものではなく目指すものです
鬼島天下。
家族構成は父と母、弟が二人。
住所を確認すると自転車で通える距離だった。羨ましい。こっち
は朝から満員電車に押しつぶされながらも通勤しているというのに。
それはともかく、入学時からのデータを見て涼はため息をついた。
未知の生物に遭遇した感動に似たようなものがこみ上げてくる。
鬼島天下は一年次の成績がオール五だったのだ。
芸術選択の音楽は勿論、五教科、保健体育、総合学習まで全部。
コメントを読む限り教師の覚えも良いらしい。煙草については全く
触れられていない。化け物か、こいつは。
品性良好、成績優秀、文武両道。おまけにあの容姿だ。神様、ち
ょっと贔屓じゃないですかと問いかけたくなる恵まれっぷりだ。
優等生の鏡みたいな生徒と言えるだろう。その優等生が何故。
悪いのは紛らわしいことをしている二人、ということになります
よね。
︱︱とかなんとか恐ろしいことをのたまうのか。空耳か。優等生
なりの冗談か。全く笑えない。センスの欄があればゼロと記入して
やるものを。
﹁リョウ先生﹂
遠慮がちに佐久間が肩を叩いてきた。
﹁あまり長時間ご覧になるのは⋮⋮個人情報ですし﹂
時間切れ。住所と電話番号だけ覚えて涼はパソコンから離れた。
佐久間が普通科担当で良かったと心から思う。必要以上に顔を合わ
せることもないし、こうして情報も引き出せる。
21
﹁しかし、どうして鬼島を?﹂
まさか職員室で言うわけにはいかずに、涼は言葉を濁した。
﹁音楽で担当しておりまして。少々取っつきにくい生徒なので、何
かわかればと思ったのですが﹂
﹁彼が、ですか?﹂
心底驚いたように佐久間は訊き返した。
﹁信じられませんね。授業にも積極的に参加しますし、クラスでも
中心的存在ですよ﹂
人望も厚いわけか。涼は眉をひそめた。
﹁欠点とか、苦手なものとかは無いのですか?﹂
佐久間は顎に手を当てて考える仕草をした。数拍後、眉間にしわ
を寄せて﹁ない、ですね﹂と呟く。
﹁一つも?﹂
﹁少なくとも僕は思いつきません﹂
﹁完全無欠な優等生?﹂
﹁ええ、完璧です﹂
驚きを通り越して呆れた。機械だってそこまで完璧にはなれない。
ますます涼はわからなくなった。煙草の匂いをさせていたのは誰だ。
音楽準備室に来て睨みつけてきたのは誰だ。双子の記述はなかった
はず。
﹁それよりもリョウ先生﹂
心なしか大きな声で佐久間は言う。
﹁今日はもう仕事は終わりですか?﹂
周囲の視線が集まるのを涼はひしひしと感じた。何もそこまで印
象付けなくとも。いささかうんざりしながらも肯定した。
﹁どうでしょう、久しぶりに二人で食事でも﹂
お前と一緒に食事するのは初めてだ。勝手に過去を捏造するな。
罵倒の言葉が浮かんだが、涼としてもこれからのことを話す必要が
あった。
だが、ここだけはハッキリ言っておかねばならない。
22
﹁先生の奢りなら﹂
涼は努めて笑顔で言ってやった。
23
︵その六︶食事は味より相手が肝心です。
てっきり居酒屋にでも行くのかと思いきや、佐久間が選んだのは
表参道のレストランだった。メニューに料金が書かれていない時点
で場所を間違えたのではないかと不安に駆られる。巡回するソムリ
エを見た瞬間には席を立って逃げ出したくなった。
学生時代、小洒落たレストランでピアノ演奏のアルバイトをした
ことがある。が、そこにはワインカーヴはなかったし、料金はしっ
かり書いてあった。焼きたてパンの食べ放題が売りの庶民派レスト
ラン。それが涼の限界だった。
しかし、涼を一番悩ませたのは高級過ぎる店の雰囲気でも味でも
なかった。隣に座る矢沢遙香の存在だ。
﹁なんで先生がここにいるんですか?﹂
こっちの台詞です。反論の言葉はワインと一緒に喉の奥に流し込
んだ。涼も場違いだと自覚しているが制服姿の女子高生はもっとこ
の場にそぐわない。
﹁これからのことを相談に乗ってもらうためだよ﹂
向かいに座る佐久間が宥めた。遙香は唇を尖らせながらもそれ以
上は言ってこなかった。態度は十分に不満の意を示していたが。こ
の状況に関しては涼も同感だ。
佐久間にしてみれば、当事者を全員揃えて相談したいだけなのだ
ろうが。涼にしてみれば二人のデートに付き合わされているような
ものだ。
﹁それで、お二人はこれからどうするつもりなのかな﹂
﹁どうすると言われても⋮⋮﹂
佐久間は途方に暮れた顔で口ごもった。
﹁リョウ先生には申し訳ないですが、ほとぼりが冷めるまでは、そ
の、僕と付き合っているふりをしていただけないかと﹂
24
高級レストランでの食事は随分高くついたものだ。
﹁人前で濃厚な接吻でもすれば皆さん納得しますかね?﹂
﹁な⋮⋮っ、嫌よ! 冗談じゃない!﹂
血相を変えて遙香が席を立つ。周囲の視線に気づいた佐久間が慌
てて座らせて、取り繕った。落ち着いたのを確認してから非難を多
分に含んで囁いた。
﹁ふざけている場合じゃないんですよ、先生﹂
﹁十分ふざけた真似をあなた達はしています。それに加担する私も
同じくらい馬鹿げてますけどね﹂
テーブルの上に肘を置く。行儀の悪さはこの際気にしない。
﹁佐久間先生、一つ忘れてませんか? いくら他の先生方を上手く
騙せたとしても、絶対に騙せない人がいます﹂
間抜け面をする二人に涼は突きつけてやった。
﹁校長達にチクった奴です。そいつがどこの誰だか、心当たりは?﹂
﹁あるわけないじゃないですか﹂
﹁じゃあ、そいつが今後お二人の交際事実をバラしてまわろうとし
ても、止めようがないわけだ﹂
最初は容疑者の一人として鬼島天下の名を挙げようと思っていた
が、やめておいた。確証がない。おまけにこの二人に話してもこじ
れるだけで無駄だ。
﹁付き合っているのか、と訊ねられたら否定はしません。しかし私
にそれ以上を求めないでください。試練だと思ってお二人で乗り越
えてください﹂
食事と会話の終わりを示すように、涼は立ち上がった。つられる
ように佐久間と遙香の二人も席を立つ。会計は勿論佐久間が支払っ
た。伝票を確認すらせずカードを渡したところを見ると、金持ちな
のだろう。涼の中にわずかながら残っていた同情心が失せた。
店を出るなり遙香は佐久間の腕に自分のそれを絡めた。
﹁送ってくれるんでしょう?﹂
甘くねだる。あっさりと佐久間は応じてタクシーを呼んだ。
25
﹁では先生、また明日﹂
窓から手を振る遙香。仕草は無邪気だが、その笑顔は優越感に満
ちたものだった。女から交際中の彼氏を奪い取った親友が、こんな
表情を浮かべていたのを涼は思い出した。
一人表参道に取り残された涼は時間を確認した。午後の九時過ぎ。
電車がなくなる前に帰ろう。帰って全てを忘れようと心に決めた。
高級レストランの味なんて、もう口には残っていなかった。
26
︵その六︶食事は味より相手が肝心です。︵後書き︶
これで一章は終了です。お付き合いくださり、ありがとうござい
ます。
今更なのですが︹15歳未満の方の閲覧にふさわしくない表現︺
が欠片もなく、恋愛どころか殺伐とした展開になっております。
二章からは善処されるかと⋮⋮たぶん。おそらく。きっと。
27
二限目︵その一︶人は見かけにはよりません
授業終了五分前。四十人近くいる生徒の中で意識を保っているの
は半数。他は睡魔に負けて夢の中。舟を漕いでいるのはまだマシな
方だ。机に突っ伏して熟睡している輩もいる。辛うじて画面を眺め
ている生徒達も一様につまらなさそうな顔をしていた。
︵⋮⋮やってしまった︶
いきなり﹃魔笛﹄はまずかったようだ。涼は己の選択を呪った。
かの天才音楽家モーツァルトが生涯最後に作ったオペラ。夜の女王
のアリアが有名なので、クラシックにたいして興味のない生徒でも
多少は楽しめると思ったのだが。
いかんせん、話が荒唐無稽だった。
おまけにドイツ語だ。音楽科の生徒でもあるまいし、何を歌って
いるのか理解できないのも当然。字幕の文字を読むのにだって集中
力を要する。
﹁せめて﹃カルメン﹄にしとけばよかった﹂
いきなり自分の趣味に走るのはどうかと思って自重したのだが、
それがいけなかったようだ。次は﹃カルメン﹄にしよう。わかりや
すいあらすじも作成して配ろう。教科書二ページだけでは明らかに
説明不足だ。
涼はプレイヤーを止めた。消していた部屋の電気も付ける。心持
ち強めに鍵盤を叩いて、生徒たちを現実世界へ引き戻した。
﹁来週は新しい曲やります。試験で歌ってもらうかもしれないので、
そのつもりで﹂
何人かの生徒が返事をする。それで授業終了。まばらに退室しよ
うとする生徒たちの中から目的の生徒を見つけ出して声をかけた。
﹁鬼島君﹂
小脇にノートをはさんだ背中が振り返る。次々と生徒が脱落して
28
いく中で一人、挑むように画面を睨みつけていた目が、今は怪訝の
色を濃くしていた。
﹁忘れ物の件でちょっといいですか?﹂
ちょいちょいと教卓まで手招きする。意外に素直なのか鬼島天下
は口をつぐんだままやってきた。
﹁あれから探してみたらいくつか発掘できました。この中にありま
すかね?﹂
一ヶ月前の日付が入った科学のプリント。鉛筆。万年筆のキャッ
プ。紙袋から一つ一つを取り出して教卓の上に置く。能面に近い天
下が目を見開くほど、次々と﹁忘れ物﹂は登場した。水色のハンカ
チ。﹁第十七回全国高等学校オーケストラフェスティバル﹂と印字
された記念シャーペン。楽譜の二十九ページ目。埃を被っているも
のもあればゴミとしか思えないようなものもあった。
﹁どれ?﹂
山積みになった忘れ物を前に天下は呆然。
﹁⋮⋮本当に、忘れ物なんかしたと思ったんですか﹂
﹁やっぱり口実だったんだ﹂
真面目に探して損をした。涼は肩を竦めた。
﹁でもまあ、生徒の嘘に付き合うのも教師の仕事だ﹂
﹁嫌味ですか﹂
﹁別に君を責めてはいないよ。忘れ物があると聞いた身としては、
一通り探さなきゃいけない。少なくとも、教師として格好がつく程
度には努力をするべきだ﹂
実際は半分以上、意地だったが。とことん付き合ってやって、天
下がどこまで嘘をつき続けられるか喧嘩を売ったようなものだ。そ
して軍配は涼に上がった。
﹁で、ここまで頑張ったわけだし、努力賞ということで教えてくれ
ないかな。私に何の用だったんだ﹂
沈黙すること数秒。天下は一つ息を吐くと、鑑賞室の机に腰を下
ろした。
29
﹁机の上に座るな﹂
﹁忘れ物をしたのは本当ですよ。一昨日ではなくて二週間ほど前で
すけど﹂
﹁聞こえなかったのかな。私は、机の上に座るな、って⋮⋮待った。
二週間前?﹂
返答の代わりに天下は片頬を歪めて笑った。今までの優等生イメ
ージが一変。それでいて、すらりと伸びた足を組む格好は非常に様
になっていた。
﹁あんたが二人をど突き倒した時はせいせいした。よっぽどそのピ
アノ気に入ってんだな﹂
30
︵その二︶だから見かけで判断してはいけません
﹁当然だ。スタンウェイだぞ? 洗ってもいない手で触るなんて︱
︱﹂
言いかけて涼は気付いた。認めているようなものではないか。
﹁つまり、一部始終を見た、と﹂
﹁何を﹂
﹁誰かにそのことを言ったり喋ったり書いたり伝えたりはした?﹂
﹁だから、何をだよ﹂
わかっているくせに。意地悪く訊ねてくるその楽しげな顔に、拳
を叩きこんでやりたいのを堪えて、涼は慎重に言葉を選んだ。
﹁だから⋮⋮佐久間先生が、その⋮⋮生徒と、二人きりでいたこと
とか﹂
﹁安心しろよ。佐久間と矢沢が付き合ってることなんて誰にも言っ
てねえ﹂
やっぱり知っているじゃないか。
﹁まあ、見たものは仕方がない。確かに目撃したのは不運だが、こ
こは黒猫に目の前を横切られたと思って諦めることをお勧めする。
大丈夫。私も正直関わってしまったことを一日十回は後悔してるけ
ど、君ならまだ傷は浅い﹂
涼の言葉を反復するように天下は数回首を捻った。
﹁何言ってんだかよくわかんねえけど、要するに﹃忘れろ﹄ってこ
とか?﹂
﹁直訳するとそうなる﹂
﹁嫌だって言ったら?﹂
三白眼が細まる。面白がっているのは明白だ。
﹁あれを青春の一ページに入れるなんてお世辞にも趣味がいいとは
言えない。せめて自分の恋愛体験を入れたらどうだ?﹂
31
文武両道。容姿端麗。彼なら引く手数多だ。優等生面に隠された
不良の一面も年頃の女子には魅力として映るだろう。
﹁そう言うあんたも趣味悪ぃよな。佐久間のどこがいいんだか﹂
﹁人聞きの悪いことを言うな。仮に奴が秋川雅史並の歌唱力を持っ
て目の前で愛の賛歌を熱唱しようとも、私はCDに録音されたプラ
シド=ドミンゴの美声を選ぶ﹂
我ながら意味不明な例え方だ。しかしどういうわけか鬼島天下は
目を輝かせた。
﹁つまり嫌いってことか﹂
﹁嫌悪を抱くほど付き合っちゃいない。できれば今後も関わりたく
ない﹂
﹁でも、交際宣言はしたんだろ?﹂
﹁奴が校長にな。私も驚いたよ。まあ一応礼は受け取ったから、ほ
とぼりが冷めるまでは彼女のふりをしてやるさ﹂
涼はほんの少し憐れみを込めて告げた。
﹁だから君は脅す相手を間違えている﹂
天下の口元の笑みが消えた。図星にせよ、そうでないにせよ、触
れるべき話題ではなかったのだろう。が、涼は構わず続けた。
﹁二人の間がバラされようと私はたいして困らない。情報を盾に交
渉したいんだったら、校長でも教頭でも私でもなく、真っ先に佐久
間先生の所に行くべきだ。それが一番効果的だし手間もない﹂
機嫌を著しく損ねてしまったらしい。天下の眉間に皺が寄った。
﹁あんたまさか、俺がそんなことのために準備室まで来たと思って
んのかよ﹂
﹁好意的に解釈しても応援してくれてるようには見えないね﹂
﹁当たり前だろ。俺は、﹂
言いかけて天下は口をつぐんだ。言葉の代わりに溜息を吐き出す。
﹁⋮⋮もういい。面倒くせえ﹂
拗ねたようにそっぽを向いた横顔は年相応に幼かった。
32
︵その三︶暴力はいけません
思春期の少年は扱い辛い。ところで十七は青年だろうか、それと
も少年だろうか。 少年と青年の狭間を彷徨う学生は、少しだけ首をこちらに曲げて、
やけに真剣な顔で確認してきた。
﹁佐久間とは何でもないんだな?﹂
﹁あるように見せかけなきゃいけないけどね﹂
﹁真面目に答えろ。彼女のふりだからってまさか、本当にヤるわけ
じゃないんだろ?﹂
﹁何を﹂
﹁セッ︱︱﹂
涼は手にしていた教科書で天下の頭を叩いた。音楽の教科書の薄
さを忌々しく思う。大したダメージを受けなかった天下は恨めしげ
な視線をよこしてきた。
﹁暴力教師﹂
﹁当然の措置だ。そもそも﹃付き合う=身体を重ねる﹄という考え
に問題がある﹂
身体を重ねるって方がいやらしいよな、と天下は全く反省してい
ない様子で呟いた。
﹁先生は手を繋ぐところから始めるタイプか﹂
﹁いや、まずは一緒に演奏会に行く。全てはそこからだ﹂
﹁でも結局は身体を重ねるところまで行きつくんだろ。コウノトリ
が運んでくるわけでもあるめえし、子孫繁栄のために必要なことだ﹂
﹁人類の未来を心配する暇があったら教室に戻れ。次の授業、もう
すぐ始まるよ﹂
壁に設置された時計を指差す。五分の余裕があったはずの時間は
既になくなっていた。天下は肩を竦めると机から立ち上がった。
33
﹁あんた、やっぱり面白い奴だよ﹂
﹁君は理解に苦しむ生徒だ﹂
天下は二、三回目を瞬いた。
﹁そうか?﹂
﹁成績オール五。教師の覚えも良く、顔もそれほど悪くはない優等
生︱︱かと思えば、口も態度も悪い。上手く化けているものだと感
心してしまうよ﹂
﹁先生も意外と失礼なことを言うよな。どっちも俺だぜ?﹂
似非優等生は酷薄そうな笑みを浮かべた。
﹁また来ますね、先生﹂
口調が優等生モードに戻った。さっきまでの彼を知る涼にしてみ
れば胡散臭いだけだ。
﹁授業以外で来るな。そして今日話したことは忘れろ﹂
﹁もちろん。教師と生徒が付き合っているなんて誰にも言いません
から﹂
﹁忘れろ﹂
﹁では、また﹂
﹁まず人の話に耳を︱︱﹂
絶妙のタイミングで授業開始のチャイム。が、慌てる様子もなく
天下は出て行った。
なんてこったい。涼は天井を仰いだ。間接的とはいえ、弱みを握
られた。よりにもよって外面だけはいい普通科きっての優等生に。
怪文を送りつけた犯人すら特定できていないというのに。いっそも
う何もかも洗いざらいぶちまけてしまった方が楽ではないか。そも
そも、自分は無関係であって、巻き込まれただけであって、迷惑を
被っている被害者なのであって︱︱なのにどうしてこんな疲れる目
に逢っているのだろう。
チャイムが鳴り終わっても涼は本気で悩み続けた。
34
︵その四︶話し合いで解決しましょう
涼の危惧をよそに日々は穏やかに過ぎた。怪文が送られてくるこ
とがなければ、教師と生徒が付き合っている噂が流れることもない。
そして、恋に盲目カップルが自分たちの立場をわきまえることもな
かった。
が、多少なりとも変化はある。
一つは音楽科教師でも新任にあたる涼に新たなる雑用が押し付け
られたことだ。器楽室で楽譜整理。千を超す膨大な楽譜を演奏形態
と使用楽器で分別し、作曲家順に並べ直し、目録を作成するという
気が遠くなるような作業だ。しかし、涼はクラスを受け持っていな
いので、これは致し方ないと自分を納得させた。
問題は別にあった。
﹁センセー、もう昼休みですよ﹂
涼は背中にかかる声に構わず楽譜の分別を続けた。ヨハン=パッ
ヘルベル作曲弦楽四重奏﹃カノン﹄。いくらポピュラーな曲とはい
えコピーし過ぎだ。全パート合わせて三十枚以上楽譜が存在してい
る。ファイルに入れて﹁量産︵大量コピー︶禁止﹂と記入しておい
た。
﹁まだそれやっているんですか? 昨日も同じ曲発見してましたよ
ね﹂
ああ、そうだよ。どこぞの整理能力に欠けた奴が﹃カノン﹄の楽
譜ファイルを三つも作っていたおかげで。全部まとめ直しだ。
八つ当たりだとわかっているので、涼は黙って﹃カノン﹄のファ
イルを一つにした。大して長い曲でもないのに随分と分厚くなった
ものだ。
﹁とろくせえな﹂
ぼそりと呟かれた言葉は、涼の耳にしっかり届いていた。明確な
35
怒りを込めて来訪者を睨みつける。
﹁生徒の無断入室は禁止だと昨日も一昨日も言ったと思うんだけど﹂
﹁じゃあ鍵締めておけよ、って俺は昨日も一昨日も言ったぜ?﹂
涼しい顔で鬼島天下は言ってのけた。
こいつが曲者だったのだ。本性を現してからというもの、天下は
どういうわけか涼に構うようになった。廊下ですれ違う時でも授業
中でも。性質が悪いのは、傍から見たら普通科きっての優等生が教
師と談笑しているようにしか思えないことだ。鬼島天下の猫かぶり
は完璧だった。
そして、涼が空き時間に器楽室で一人楽譜整理に負われているこ
とを知ってからは、好都合とばかりに足繁く通ってくるようになっ
た。
﹁⋮⋮内鍵が壊れたんだよ﹂
﹁直せば?﹂
﹁外から鍵がかけられるのなら問題ないってさ﹂
大アリだ。この侵入者をどうにかしてくれ、とは言えなかった。
あえなく涼の案は却下され、予算は新しいホルンの購入と弦楽器の
メンテナンス費に充てられることになった。
﹁貧乏学科は辛いよな。ただでさえ音楽ってのはやたら金がかかる
のに﹂
﹁そうだ。貧困が諸悪の根源だ。わかったら安定した収入が得られ
る職に就けるように教室に戻って勉強しろ﹂
﹁だから今は昼休みだって﹂
断りもなくコントラバス用椅子に座る天下。完全に居座るつもり
だ。
36
︵その五︶話すだけで解決するとは限りません
﹁最近の高校生は暇なのか﹂
﹁後先考えずに教師と恋愛するくらいは暇なんじゃねえ?﹂
﹁困ったものだ﹂
﹁全くだな﹂
天下は腕を組み頷いた。その様子だと﹃困ったもの﹄の中に自分
が含まれている事には気づいていないらしい。本当に困ったものだ。
﹁先生﹂
思っていたより近くに低音の声。振り返れば天下が﹃カノン﹄の
楽譜を手に持っていた。
﹁楽譜、落ちてますよ﹂
いきなり改まった口調に戸惑いながらも涼は差し出された楽譜を
受け取る。反射的に礼を口にしようとしたその折、音楽準備室に通
じる扉が開いた。
﹁渡辺先生、フォーレの楽譜まだあります?﹂
声楽担当の百瀬恵理が顔を出す。涼の六つ上の先輩にあたる音楽
教師だ。その差を感じさせないのは 気さくな恵理の性格と、小柄
な身体と幼げな顔のせいだろう。
恵理は天下の姿を認めると小首をかしげた。
﹁通りかかったもので、少し手伝おうかと﹂
よくもまあ、そんな言い訳を臆面もなく言えるものだ。半ば感心
しながらも涼は追随するように小さく頷いた。
﹁あら、悪いわね﹂
﹁どうせ暇ですから、お気遣いなく﹂
笑みさえ浮かべつつ如才なく応じる。そんな天下に違和感を抱く
こともなく、恵理は頬を緩めた。
﹁よかったですね、先生。優しい生徒に好かれて﹂
37
優しい? 好かれてる? 誰が?
どれ一つも訊き返せなかった。恐ろしい答えが返ってきそうで。
﹁フォーレのレクイエムですよね? 先日お渡ししたので全部です﹂
﹁じゃあコピーするしかないか﹂
﹁必要以上にしないでくださいね﹂
恵理は了承のつもりかひらひらと手を振って準備室に引っ込む。
扉の前から気配が消えるのを確認してから、涼は皮肉を込めて呟い
た。
﹁似非優等生お疲れ様﹂
﹁いえいえ。たやすいことですよ﹂
天下は悪びれることもなく口端をつり上げた。
﹁なんなら、先生にも教えて差し上げましょうか﹂
﹁役に立つかな﹂
﹁佐久間先生と付き合っているように見せかけたいんですよね。役
に立つと思いますよ﹂
やたらと食い下がる天下を涼は改めて見た。自分より少し高い位
置に彼の頭がある。
成績優秀生徒と聞くと眼鏡をかけたがり勉君を想像してしまうの
だが、天下は健康そうだった。手足がバランスよく長くて、細くは
あったがしっかり筋肉がついていた。ざんばらの黒髪といい、少し
日に焼けた肌といい、いかにも運動部に向いている。
そんな生徒が、貴重な昼休みを用もない器楽室で過ごす意味を涼
ははかりかねた。
38
︵その六︶ややこしくなることもあります
鬼島天下の行動の意味を涼なりに見出したのは、五限の授業が終
わりに迫った頃だった。
ないと思われていたフォーレのレクイエム。その楽譜が新たに発
掘されたのだ。しかも大量に。調べてみれば四年前の音楽祭で歌っ
たらしい。人数を考えずに大量コピーされ、結局使わなかったのだ
ろう。鉛筆の入っていないものばかりだった。
パート別に分けて急ぎ鑑賞室へ。たしか合唱の授業は六限だった
はず。涼が器楽室の扉を背中で押そうとしたら、通りすがりの佐久
間が開けてくれた。
﹁これはどうも﹂
﹁先生っ!﹂
甲高い声が乱入。なんというタイミング。体操着姿の遙香が外の
渡り廊下からこちらを睨みつけていた。女子は今テニスをしている
らしい。ラケットを持ったまま、ついでに靴も履いたまま廊下に上
がり込む。
﹁どうしたんだ、矢沢﹂
気圧され気味の佐久間。お前それでも教師か。
﹁どうしたもこうしたも、二人で何やっているんですか!﹂
﹁何って、僕はただ⋮⋮﹂
助けを求めるようにこちらを見る。涼は溜息と共に言葉を吐き出
した。
﹁付き合っているふり﹂
﹁誰に見せるためですか。二人っきりになる必要がどこにあるんで
す?﹂
﹁まずは靴を脱げ。土足で校舎に上がるな﹂
さすがに楽譜を抱えているのも辛くなった。一旦どこかに置こう
39
と視線を走らせていたら、急に重みが消えた。佐久間が気を利かせ
て持ったのだ。しかし、この状況では賢い行動とは言えなかった。
遙香の目がさらに険しくなった。
﹁先生、どういうことです?﹂
﹁矢沢さん、外に戻って靴を脱ぎなさい﹂
﹁説明してください﹂
﹁四度目はないと思え。私は、土足で上がるなと言っている﹂
唇を噛みしめて遙香は渡り廊下に戻った。ラケットを置いて靴を
脱いでいる。その隙に涼は佐久間の手から楽譜を奪還した。
﹁後はご自分でどうぞ﹂
﹁え、ちょ、待ってください。リョウ先生っ﹂
佐久間の悲鳴を背に角を曲がる。その際にふと渡り廊下を振り向
けば、そこには再び校舎に上がり込む遙香の姿と︱︱それを数歩離
れた場所から見つめる天下の姿があった。普通科の三クラスは体育
も合同だ。通りかかったとてなんら不思議ではない。
しかし天下は何故、途方に暮れたような、複雑な顔しているのだ
ろうか。涼は首をかしげ、唐突に思い至った。
︵あ⋮⋮なるほど︶
今時珍しくもないことだ。三角関係なんて。
天下が遙香と佐久間の関係に気づいたのも、元は彼女を見ていた
からなのだろう。思えば彼は涼にやたらと佐久間のことを訊いてい
た。気になって当然だ。恋敵なのだから。
そう考えれば、情報収集のためにわざわざ器楽室に通う熱心さに
も可愛げがある。恋愛に協力してやる義理はないが、邪険に扱うこ
ともない。むしろ遙香が同学年の男子生徒に興味を持てば、問題は
一気に解決するのではないだろうか。
ありとあらゆる打算の結果、放課後再び器楽室に訪れた天下を、
涼はおざなりにだが歓迎した。
﹁よう、毎日毎日御苦労さん﹂
天下は軽く目を見開いた。
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﹁あ、ああ⋮⋮あんたも、お疲れ様﹂
よほど意外だったのか口調が素に戻っている。鞄を窓の傍に置い
て、手元を覗き込んできた。
﹁何かあったんですか?﹂
涼の手には楽譜と目録しかないことを確認して天下は訊ねてきた。
さすがにあからさま過ぎたか。涼はひときわ分厚い交響曲の袋を取
り出した。
﹁解決策を見出した﹂
オーケストラの楽譜は量が半端ではない。一つ一つパートを確認
して記入していく。
﹁そもそも、教師と生徒の恋愛が諸悪の根源だ。この不毛な状態を
乗り切るためには、そこを改善するのが一番である私は思う﹂
天下の眉間に皺が寄る。やけに深刻な顔で考え込んだかと思えば、
重々しく口を開いた。
﹁まさか、先生が佐久間先生と本当に交際するんですか?﹂
41
︵その七︶それでも話すことをやめてはいけません
﹁何故そういう発想が生まれる。逆だ。矢沢が別の男に乗り換えれ
ばいい。幸いなことにここは学校だ。同年代の男子がよりどりみど
りだ。私から見ても優良物件なのもいる﹂
﹁例えば誰ですか?﹂
思わぬ質問に、涼は楽譜を整理する手を止めた。
﹁誰?﹂
﹁先生が、優良物件だと思う生徒﹂
涼は目を見張った。そう訊ねる天下の顔が五限目に見たようなも
のだったからだ。傲慢さは鳴りを潜め、不安を帯びている。
﹁例えば︱︱﹂
目の前にいるこいつとか。顔はいいし、誰もが認める優等生だ。
涼からしてみれば大人を小馬鹿にした生意気生徒だが、同年代から
見れば頼りがいのある男の子だ。激しい二面性も魅力として映るだ
ろう。
﹁例えば?﹂
﹁まあ、君も悪くないと思う﹂
﹁⋮⋮俺?﹂
呆けたように天下は自身を指差した。みるみる内に頬が紅潮する。
﹁本当ですか?﹂
﹁君に世辞を言ってどうする﹂
﹁先生から見て、俺が? 佐久間よりも?﹂
﹁仮にも教師を呼び捨てにするな。生徒に手を出す教師に比べれば
誰でも少しはマシだ﹂
言いつつ、涼は己の失態を呪った。天下をたきつけて、もし遙香
が彼を振ったりなどしたら、非常に後味が悪くなる。まさかこんな
に喜ぶとは思わなかったのだ。
42
︵青春だな︶
若さゆえの特権だ。両肩を掴まれながら涼はそう思った。
﹁でも早まるなよ。世の中タイミングが肝心だ。いきなりの告白は
マズい。だから、まずは器楽室にいる時間を全て二年三組に行く時
間に変えるのが得策だ。少しづつ、その、親しくしていけばいいじ
ゃないのか? そんなに焦ることはない﹂
精一杯のアドバイス。が、天下は肩を落とした。さっきまでの高
揚はどこへやら、眉を寄せて不快を露わにする。
﹁あんた、なんか勘違いしてないか?﹂
﹁⋮⋮矢沢が好きなんじゃないのか﹂
﹁なんでそうなるんだよ﹂
天下は心底呆れた顔をした。
﹁あいつは佐久間とデキてんだろうが。どこがいいのか、全然理解
できねえけどな。佐久間も矢沢も﹂
酷い言いようだ。照れ隠しとは思えないくらい。
﹁つーかあいつら隠す気あんのか? 今日も五限の終わりに二人で
会ってるしよ。外から丸見えだし、節操のねえ奴らだ﹂
思いの他天下の口は悪かった。これが普通科が誇る優等生か。涼
は疲労感を覚え、しかしどこかで安心している自分に気づいた。
﹁じゃあ﹂
どうしてあんな顔をした。言いかけて涼は口をつぐんだ。
﹁こんな所で油を売っていないで、真実の恋でも愛でも探しに行け﹂
﹁先生も一緒にどうですか?﹂
﹁楽譜整理があるんで遠慮します﹂
作業を再開。天下が訪れるようになってから、明らかにペースが
落ちている。遅れを取り戻すように速度を上げた。
﹁センセー﹂
天下はコントラバス用の椅子に腰かける。既にそこは彼の指定席
と化していた。
﹁センセーは、どうしていつもネクタイ締めているんですか?﹂
43
﹁就職祝いに大量にもらったからです﹂
﹁スカートは穿かないんですか?﹂
﹁正直に言おう。伝線する度にストッキングを買うより楽だと思っ
たんだ。歩きやすいし﹂
さすがにこういう作業中はネクタイが邪魔になる。涼は首元を緩
めた。
﹁先生は﹂
打って変わってやや遠慮がちな声。
﹁教師と生徒の恋愛には反対なんですか?﹂
44
︵その八︶でないと、手遅れになります。
﹁賛成はできない﹂
涼は即答した。自分の中でその答えは変わらないと確信している。
﹁恋愛は個人の自由だ。でも公私はわけるべきだと思う。その点、
教師と生徒は最悪だ。試験の際、成績を付ける際、普段の授業の時
でさえ、可能な限り公平でなければならないのが教師だ。教師は一
人の生徒を特別扱いすることは許されないし、特別扱いしていると
思われてもいけない。それができないのなら辞めるしかない﹂
変われるはずがなかった。教師になって一年経過しようと。
﹁犯罪じゃあるまいし、絶対に駄目ではないんだ。でも、ものすご
く面倒なんだよ。本人も周囲も。その面倒さを全部背負って最後ま
で通し切れるのなら構わない。できない奴がほとんどなのに、絶対
に駄目なことではないから火遊びに走る馬鹿は後を絶たないんだ﹂
﹁そんな軽い気持ちで好きになる奴ばかりじゃないと思いますけど﹂
﹁人の気持ちの重さや軽さなんて私にはわからない。どれだけ本人
たちが真剣でも周囲は理解できないし、理解してやる筋合もない。
個人的なことだからな﹂
そう、今でも涼は理解できなかった。佐久間も遙香も。そして、
父も母も。
﹁でも私は思うよ。本当に好きなら、たかだか数年どうして待って
やれないんだってね﹂
そんなことが言えるのは、きっとまともに恋愛をしていないから
だろう。矢沢遙香の言っていたことは正解だった。彼女のふりなん
て馬鹿げた真似ができるのは、恋愛に対して冷めた感情を持ってい
るからだ。
﹁卒業してしまえば後ろ指さされることはない。心おきなく会うこ
とだってできる。今でなくてはならない必要なんかないはずだ。ど
45
うしてわざわざ自分と、相手にリスクを負わせようとするのかが理
解できない﹂
﹁好きだからこそ、待ち切れないことだってあります﹂
﹁二、三年待ったら消えてしまうような想いなんて、そもそも恋と
呼ぶに値しない﹂
天下は顔を強張らせて足を組んだ。
﹁要するに、生徒は対象外ですか﹂
﹁対象にするには相応以上の覚悟が必要だと言っている﹂
佐久間と遙香にその覚悟があるとは思えないが。
﹁⋮⋮あんたは、立派な先生だよ﹂
褒め言葉にしては、天下は憮然としていた。その後に﹁でも﹂が
続くのだろう。後先を考え、体面を重んじ、危ない橋は絶対に渡ら
ない。立派な先生。
でも、人間味には欠けている。
﹁そろそろ時間だな﹂
キリのいいところで涼は作業を中断した。
﹁もう? まだ四時だぜ﹂
﹁用事があるんだよ﹂
﹁⋮⋮佐久間先生とデートですか﹂
揶揄にしては苦々しさを帯びた、責めるような口調。涼はネクタ
イを締め直した。
﹁試験問題だったらサンカクだな。半分は合ってるけど、それじゃ
あマルはやれない﹂
﹁半分?﹂
﹁デートは正解。でも行くのは佐久間先生じゃなくて百瀬先生だ。
チケットが手に入ってね。これから管弦楽部の三役を引き連れてコ
ンサートへ行くんだ﹂
﹁先生も行くんですか?﹂
﹁最初は、そのつもりだった﹂
涼は苦笑した。
46
﹁残念ながらチケットは四枚しかない。醜い争いが勃発する前に潔
く引いたよ。どうしても聴きたい演目でもなかったし、合唱部の指
導も代行しなきゃならない﹂
後半はやせ我慢だ。聴きたかった。サンサーンスの﹃交響曲第三
番﹄。しかし、三役の一人を除け者にするわけにもいかず、先輩で
ある百瀬を差し置いて引率するわけにもいかなかった。泣く泣く留
守番役を引き受けたのだ。
﹁ほれ、閉めるぞ﹂
﹁先生って嘘吐くの下手ですね﹂
何やら考え込んでいた天下は顔を上げた。仕方ない、と言わんば
かりに少し困ったように微笑み、涼の胸元を指差した。
﹁似合ってますよ、そのネクタイ﹂
当然だ。今朝まで演奏会に行けると思っていたんだ。多少、服に
気合が入っていたとて誰が責められよう。
言い訳がましい反論は喉の奥に消えた。涼を見つめる天下の眼差
しが、かつてないほど優しく穏やかで、それでいて熱っぽかったか
らだ。微かに潤んだ黒目。例えるなら、埋み火が熾っているような。
涼は自分の手がじっとりと汗ばむのを感じた。何故だ。天下の顔
が正視できない。何故だ。おまけに心拍数が跳ね上がっているよう
な気がする。何故だ。一体なんだというのだ。
わからないことだらけだが、一つだけ確かなことがある。
彼の眼は間違っても、生徒が教師を見るものではない。
47
︵その八︶でないと、手遅れになります。︵後書き︶
これで二章は終了です。恋愛要素の要素の要素がようやく入って
きたかと思います。現在、当小説における恋愛偏差値は小学生レベ
ルとなっております。十五禁はどこへ行ったのでしょう。
読んでくださった方、お気に入り登録してくださった方、本当に
ありがとうございます。執筆の糧です。
三章では教師と生徒の︵お馬鹿な︶攻防が繰り広げられる予定で
す。なんとか恋愛偏差値を中学生レベルにまで上げたい所存です。
48
三限目︵その一︶性格はなかなか治りません
﹁あんたなんか大っ嫌い﹂
頭上から声が降ってきて、涼は顔を上げた。晴天の昼下がり。食
事をしつつ会話に花を咲かせる大学生達とは少し離れたベンチで、
焼きそばパンをかじっていた時だった。
目の前に仁王立ちする女性。育ちのいい猫のような顔をしていた。
水色のワンピースをこれまた上品に着こなしている点から、お嬢様
であることは間違いない。涼からすれば音大に通う学生は皆お嬢様
だ。
﹁断ったんだってね? カルメン。ありがとう。おかげで私が代役
を引き受けることになったわ﹂
礼しては声に棘があった。納得がいかないのだろう。自分がおこ
ぼれに預かったという事実に。涼は咀嚼していたパンを嚥下した。
﹁どういたしまして﹂
大きな目を吊り上げる様にはそれなりの迫力がある。平手か、そ
れとも引っ掻いてくるのか、涼は身構えた。内心では馬鹿正直に第
二候補であることを本人に教えた教授を罵倒する。いかにもプライ
ドの高そうな顔をしているじゃないか。少しは気を使え。
﹁本当、腹が立つ﹂
彼女は腕を組んだ。
﹁一人で何でもできますって顔ですまして、クールに格好つけて、
あんた何が楽しくて音楽やってんの? 自分の世界に閉じこもって
悦に浸ってんじゃないわよ。気色悪い﹂
面と向かってそこまで言われたのは初めてだ。それも、初対面の
人に。呆然としていたら、彼女は鞄からペットボトルを取り出し、
蓋を外すと中身をぶっかけてきた。次に鞄から出たのは真白のタオ
ル。それを涼に投げつける。
49
﹁ほら、少しは怒りなさいよ。片手間だなんて冗談じゃない。必死
こいてやりなさいよ﹂
言うだけ言って、彼女は背を向けた。そして二度と振り返らなか
った。
華奢な背中が図書館に消えるまで、涼はしばし呆気にとられてい
た。ふと我に返り、膝元に転がったそれをつまみあげる。スポーツ
タオル。これで拭けということか。わけがわからない。だいたい、
大して濡れてはいない。おまけにミネラルウォーターだ。まさか涼
にかけるためだけに買ってきたのだろうか。
ありがたくスポーツタオルで顔を拭う。ところでこれ、返すべき
なのだろうか。また厄介なことになりそうだと予感しつつも、返さ
なくてはと心のどこかで思った。
向けられるものが負の感情であれ、何であれ、ぶつけられると応
じてしまう。押されたら押し返す。引かれたら引き返す。単純だと
自分でも思うが、性分は変えられない。昔も今も、無視して流す、
ということが涼にはできなかった。
だから、鬼島天下のように曖昧なものを向けられることが、一番
対応に困るのだ。
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︵その二︶変わろうと努力することは大切です
授業はおおむね順調だった。
発声の練習もつつがなく終了。本日のメインであるオペラ鑑賞も
涼の下準備が生きた。前回の失敗から学んで﹃カルメン﹄を導入。
手作りの概要。そしてダイジェストよろしく説明を交えて主要シー
ンのみをピックアップして観せる。初心者向けの作戦が功を奏して、
生徒の気を引いた。食い付きがまるで違う。ありがとう、ビゼー。
ありがとう、カルメン。おめでとう、私。
次は﹃タンホイザー﹄でもやろうか、と内心上機嫌で教室全体に
目をやって、後悔した。窓際の後ろから二番目に座る学生と目が合
ったからだ。鍵盤に置いた手が一瞬硬直。すぐさま視線をそらして
涼はピアノを鳴らした。
﹁来週は器楽をやります。教科書とリコーダーを忘れないように﹂
﹁忘れたらどうなりますかー?﹂
笑い混じりの質問。涼は律儀にも答えてやった。
﹁皆の前でぴーぴー歌ってもらいます﹂
授業時間もしっかり守って解散。満足の出来だ。涼は余った資料
を揃えた。つまり、油断していた。
﹁先生﹂
耳に心地よい低音。顔を上げれば、授業中に一人涼を睨み続けて
いた男子生徒がいた。鬼島天下だ。一度意識してしまえば、どうし
て今まで気づかなかったのか、不思議にさえ思えてくる。天下の眼
差しは始終涼に注がれていたのだ。鋭い双眸が、睨んでいるかのよ
うな錯覚を与えた。整い過ぎた顔というのも考えものである。
﹁何か用ですか、鬼島君﹂
﹁いや、別に、そうじゃなくて﹂
天下の歯切れが悪い。涼は平静を装ったつもりだったが、違和感
51
を覚えてしまったようだ。戸惑っている。この隙を逃さず涼はたた
み掛けた。
﹁次の授業がありますから、質問ならまた今度にしてください﹂
天下はいつも通り仏頂面だ。が、まがりなりにも数日彼を観察し
てきた涼にはわかった。納得していないが、明確に何が変なのかも
口にできない。そもそも、天下が自分の想いに気づいているのかす
ら怪しかった。
違和感なんて、極力目を合わせないようにしているのだから当然
だ。天下の困惑を知りつつも、涼は話を振るような真似はしなかっ
た。
天下が自覚していないのならそれでいい。自分の勘違いならなお
いい。とにかく、これ以上変な方向に話が進む前に引き返せ。今な
らまだ間に合う。健全な学校生活をエンジョイしてくれ。頼むから。
良心の痛みを堪えて、涼は天下を追い出した。思えば、ずいぶん
と絆されてしまったものだ。自分の甘さを涼は自覚した。﹁他人に
はとことん冷たいが、一度でも関わると情がわいて流される﹂と涼
を評した友人の言葉を思い出す。
あれは確か、馬鹿正直にスポーツタオルを洗って返しに行った時
だっただろうか。彼女はただでさえ大きな瞳を見開いて、次に腹を
抱えて笑った。それはもう豪快に。しばらく経って落ち着いてから
彼女は言った。
﹁あんたって、他人に流されないつもりで結局流されるタイプね﹂
その言葉に反論するすべを、いまだに涼は持たなかった。佐久間
や遙香のことを軽蔑しつつも結局手を差し伸べてしまうのも、己の
性分が全く改善されていない証拠だ。
︵だが、それも昨日までのこと︶
四限目終了後、涼は器楽室に立てこもった。廊下に面した扉の前
にイスを置き、さらに紐で縛って固定する。中庭に面した窓も全て
鍵を閉める。これで難攻不落の牙城が完成。涼は胸を撫で下ろした。
どんなに厳しく律しても、どれだけ他人を拒絶しても、流されて
52
しまいそうになる。そんな自分が恐ろしかった。母親と同じ間違い
を犯しそうで、怖かった。
﹁自分の世界に閉じこもるな﹂と友人は言った。しかし無理な相談
だ。自分で責任が取れる範囲でしか涼は動けない。
二十三年経っても、涼は自分の居場所から一歩も出られずにいた。
53
︵その三︶でも大概は失敗します
遠慮のないノック音が聞こえたのは、涼が楽譜整理に取り掛かろ
うとネクタイを緩めた瞬間だった。廊下に面した扉、その小窓越し
に天下のむっつり顔が見えた。いつも通り入ろうとしたら開けられ
なくてノックしたらしい。
オイなんで閉めてんだよ、開けやがれ。目を見ただけで彼が何を
訴えているのか、わかってしまう自分に涼は絶望しかけた。
いや、諦めるにはまだ早い。今ならまだ間に合うはずだ。決意を
固めて黒の太ペンを手に取る。コピーし損じの裏紙に﹃作業中につ
き、立ち入り禁止﹄と書いて、セロテープで小窓に貼ってやった。
やるからには徹底的にやる。甘ったるい情はバッサリと切り捨てて
涼は楽譜整理に取り掛かった。
再びノック音。
乱暴ではないが、執拗に。何度も。しばし迷ったが、涼はついさ
っき貼ったばかりの紙を剥がした。
﹃何を今更﹄
ルーズリーフのノートに、やや癖があるものの綺麗な字でそう書
いてあった。涼は再びペンを取った。﹃いいから帰りなさい﹄と掲
げる。小窓の向こうで天下は口元をヘの字にしてボールペンで何や
ら綴った。
﹃理由を三十文字以内で述べよ﹄
お前は教師か。これは試験問題か。呆れながらも涼はもっともら
しい理由を書いた。
﹃君がいると作業がはかどらない﹄
﹃他人のせいにしないでください﹄
﹃だから検証します。これで作業がはかどったら、原因の所在が明
確になる﹄
54
﹃邪魔した覚えがありません﹄
﹃気が散る﹄
﹃先生に集中力がないだけです﹄
﹃いいから帰れ﹄
﹃バラしますよ﹄
何を、だなんて訊くまでもない。恋に盲目バカップルの件だ。
﹃やれば?﹄
﹃あっさり見捨てましたね。それでも教師ですか﹄
脅している奴に言われたか︱︱間違った、書かれたくはなかった。
反撃の言葉を書き連ねている間に、ふと涼は我に返った。足もとに
散乱する裏紙。手には太ペン。
なんでガラス越しに天下と文通なんぞしているのだろうか。
︵意味がない。全くもって意味がない⋮⋮っ!︶
結局、相手をしているではないか。
﹃ところで先生、作業しないのですか?﹄
挙句の果てには、本人にまで指摘されて涼は非常にいたたまれな
くなった。極太ペンのキャップを外して書き殴る。
﹃帰れ!!﹄
小窓に叩きつけて、今度こそ整理作業に取り掛かった。
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︵その四︶諦めが肝心です
すかさずノック音。涼は楽譜を少々乱暴に机の上に置くと、勢い
よく扉を開け放つ。
﹁いい加減にし、ろ⋮⋮?﹂
尻すぼみになる声。扉の前に立っていたのは矢沢遙香だった。気
圧されたようにつぶらな瞳を見開いている。
﹁私、何かしました?﹂
﹁すまない。人違いだ﹂
謝ってから、涼は今が五限目の授業中であることを思い出した。
しかも遥香の手には鞄。
﹁授業は?﹂
﹁今週は三者面談で、午前中までですよ﹂
それでも先生ですか。避難の眼差しを注ぐ遙香から目を逸らす。
クラスを受け持っていないとはいえ、教師として把握しておくべき
ことだった。いや、ついさっきまでは覚えていたのだ。
﹁それで、どうしてここに?﹂
放課後が空いていたとしても、わざわざ器楽室にまで足を運ぶほ
ど涼と遙香は親しくない。むしろ、二人の関係を隠すためとはいえ、
佐久間と交際しているふりをする涼を、彼女は快く思っていない。
理不尽だと思う。だが、恋とはそういうものだ。冷静さを失わせ、
周囲に迷惑をまき散らす。
﹁もう三日も佐久間先生と会っていないんです﹂
その原因がさも涼にあるかのように遥香は唇を尖らせた。
﹁世界史で君のクラスを担当していなかったっけ?﹂
﹁二人きりでってことです! 教室でいちゃつけるわけないじゃな
いですか﹂
鑑賞室では思いっきりいちゃついていたけどな。涼は周囲を見回
56
した。幸いなことに人気はない。天下も諦めて部活に行ったのだろ
う。仕方なく遥香を器楽室に招き入れる。
﹁言っておくが、ここで密会しようなどと考えないように。音楽科
準備室と扉がつながっているから、いつ誰が入ってきてもおかしく
ない﹂
鬼島天下のように猫を被れるのならば話は別だが、遥香にそんな
機転は利かないことは百も承知だ。求める方が間違っている。
﹁わかっています。だから先生に協力してほしいんです﹂
﹁先生だって誰も来ない教室なんて準備できません。学年主任に頼
んでください﹂
﹁ふざけないでください。誰も学校で会おうなんて考えてません﹂
強い口調で遥香は否定した。
﹁外で会いたいんです。隣町の、ファミレスとかで﹂
﹁名案だ。最初からそうしてくれれば、私も彼女のふりなんてふざ
けた真似をせずに済んだのに﹂
﹁先生は、佐久間先生とは何でもないんですよね?﹂
探るようにこちらを見つめる遙香。いっぱしに嫉妬しているらし
い。微笑ましいことかもしれないが、的外れだ。
﹁何度も言わせないでくれ。私が好きなのはプラシド=ドミンゴで
す﹂
﹁じゃあ協力してください。ムカつきますけど、先生が佐久間先生
と二人で学校を出れば誰も疑わないと思います。お二人は付き合っ
ているということになっていますから﹂
何故そうなる。極力関わりたくない涼は顔をしかめた。
﹁二人で別々に学校を出れば十分だと思うけど?﹂
﹁先生の方から人前で佐久間先生を誘ってください。そうすれば効
果は倍増です﹂
﹁理解に苦しむ﹂
涼は腕を組んだ。
﹁君は表面上とはいえ、私と佐久間先生が交際しているのは不満な
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はずだ。なのに仲良く振る舞えと言う。どういう心境の変化だ?﹂
﹁今でも嫌ですよ。でも背に腹は代えられません﹂
遥香は断りもなく机の上に鞄を置いた。要するに、涼と佐久間が
付き合っているようにはとても見えないのだそうだ。さすがに誰か
の隠れ蓑であることまでは気付かれていないようだが、不思議には
思われているらしい。
﹁話はわかった。でも私が協力する義理はない﹂
﹁外で会え、と言ったのは先生です﹂
遥香は薄くリップを塗った唇をつり上げた。
﹁大人なら自分の発言に責任を持ってください﹂
へ理屈だ。涼は一度だって二人の恋愛を推奨したことなんかない。
むしろ反対した。隠ぺいに加担しているのも半分以上教師としての
義務だ。
涼は遥香の顔を眺めた。校則ギリギリに染めた茶髪に薄いメイク
を施した可愛らしい顔立ち。長髪の手入れも大変だろう。それが何
のためと問われれば、一概には答えられない。しかし、自分自身の
ためだけではないことは確かだ。
目の前の遥香は情熱で突っ走る生意気盛りの女子高生だ。ただの、
女子高生だ。
涼はため息をついた。やっぱり自分の性分は変わっていない。
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︵その五︶安請け合いは控えましょう
職員室へ顔を出したが、佐久間の姿は見当たらなかった。三者面
談だろう。そろそろ終わる時間のはずだ。涼は二年一組の教室へと
向かった。
遙香は人目のつく場所で佐久間と約束を取り付けてほしいようだ
ったが、涼にその気は全くなかった。何が悲しゅうてこれみよがし
にデートの相談なんぞをしなければならないのだ。
教室前の廊下に置かれたイス二つは空席。本日最後の生徒の三者
面談が中で行われているのだろう。涼は壁に背中を預けた。
三者面談。授業参観。保護者会。体育祭。文化祭。親が子の通う
学校に行く機会は多くもないが少なくもない。その度に不貞腐れた
幼い自分を思い出し、涼は苦笑した。今思えば可愛げのない子供だ
った。
ほどなくして教室の前方の扉が開く。涼は無意識に背を壁から離
し︱︱息を呑んだ。
歳は四十を過ぎているだろうか。鋭い双眸に苦み走った顔といい、
真一文字に引き締まった口元といい、鬼島天下がそのまま歳を重ね
たようだった。その心象を裏付けるように天下本人が後から続く。
﹁失礼いたします﹂
親子二人揃って教室内の佐久間に向って一礼。天下より低くて渋
みのある声だ。扉を閉めて振り返る。そこでようやく天下は涼に気
づいたようで、軽く目を見開いた。が、動揺はすぐさま打ち消され
た。代わりに優等生の笑みが浮かぶ。
﹁奇遇ですね、先生﹂
﹁本当に﹂
つられるように涼もまた口端をつり上げた。父親の前でさえ優等
生の仮面を被る天下に対する皮肉を込めて。
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﹁鬼島君のお父様でいらっしゃいますか? 似てますね﹂
軽く会釈して涼は教室に入った。天下の視線を遮るように扉を締
め切る。資料を片づけていた佐久間が顔を上げた。
﹁どうなされたんですか?﹂
﹁今日の放課後、お時間ありますか﹂
﹁職員会議が終われば、後は特に﹂
それは好都合。いや、涼にとっては不都合だ。
﹁ちょっとお茶でもいかがですか。学校関係者がいない隣町あたり
で﹂
何もそこまで驚かなくてもと涼が思うくらいに、佐久間は面食ら
った。まるで信じられないものを見るような目だ。
涼は声を発さずに口だけで紡いだ。
や・ざ・わ。
意図を察した佐久間は慌てて何度も頷いた。
﹁はい、喜んで﹂
﹁用はそれだけです。では﹂
そそくさと涼は退室した。今度は器楽室へ。いつから自分は佐久
間と遙香の伝書鳩になったのだろうか。釈然としない涼が中央廊下
を曲がろうとしたその折、背後から張りのある声で﹁先生﹂と呼ば
れた。
﹁お父上殿はどうした﹂
﹁帰った﹂
﹁一緒に帰ったらどうだ? 貴重なコミュニケーションの機会じゃ
ないか﹂
天下は苦虫を噛み潰したような顔になった。
﹁必要ねえよ﹂
冷たい以前の態度だ。感情を切り捨てたように天下は素っ気なか
った。
﹁そんなことよりも、あれは一体どういうことだ﹂
﹁あれって?﹂
60
﹁デートの約束を職場でするもんなのか、先生って﹂
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︵その六︶一般論は一般論でしかありません
不機嫌よりも侮蔑と呼ぶのが相応しい。六つも年下の高校生に蔑
まれる自分って一体何だろう、と涼はため息を漏らしそうになった。
﹁普通はしないな﹂
天下の眉間の皺が深くなる。
﹁やっぱり好きなんじゃねえか﹂
﹁だから、どうしてそうなる。一緒なのは学校を出るまで。その後
は二人で勝手にやるさ。私の知ったことじゃない﹂
ひらひらと手を振って会話の終了を示す。しかし︱︱踵を返した
涼の腕が掴まれた。さすが若者。力の加減を知らないようだ。
﹁おかしいじゃねえか。あんたは生徒と教師の恋愛には反対なんだ
ろ? なんで協力してんだよ。慣れねえことまでして﹂
天下の目には責める色があった。まるで詰問だ。質問の内容自体
は至極もっともなので性質が悪い。
﹁私が教師だから︱︱じゃ、納得しないんだな? わかった。睨む
なって。ただでさえ君は目つきが悪いんだから﹂
天下は根本的に勘違いをしている。佐久間は正直言ってどうでも
いいのだ。先輩だが恩はこの数日で十分以上返したつもりだ。生徒
との恋愛が表沙汰になれば懲戒免職は免れない。それを知った上で
遥香を受け入れたのだ。責任ぐらい自分で取れるはずだ。
しかし、矢沢遙香は違う。
﹁他人の恋愛を応援するほど、私は悪趣味じゃない。さっさと別れ
てくれればいいと思ってるよ。でも、表沙汰になるのはどうしても
避けたい。佐久間先生のためではなく、矢沢さんのために﹂
﹁先生とあいつ、それほど仲が良かったか?﹂
﹁全然。名前だって覚えちゃいなかった﹂
﹁じゃあ、なんで﹂
62
知っているからだ。高校生の無知と脆さを。そうでなければ、涼
が母親に捨てられることはなかった。そもそも生まれなかった。
今となっては推し量るしかないが、母もまた、どうにかなると最
初は思っていたのだろう。しかし、できなかった。その挫折の結果
が身籠った子供を養護施設に預けることだ。
﹁生徒はみんな可愛いものだ﹂
﹁見え透いた嘘吐くな。ンなわけがねえ﹂
おそらくそのことを一番よく理解しているであろう優等生が吐き
捨てた。教師達の覚えがいい天下だからこそ、十分過ぎるほどにわ
かっていた。
好かれるためには条件がある。人によって程度の差はあっても満
たすべき基準は必ず存在した。鬼島天下という生徒が慕われている
のも単に、周囲の人間の持つ﹁良い生徒﹂もしくは﹁良い友人﹂の
条件を満たしているからに過ぎない。
逆を言えば、条件を満たさなければ受け入れられない、というこ
とだ。
﹁そうだよ。嘘だ。高校生だからってみんな無条件で愛せるはずが
ない。どうしても気に食わない生徒だっているし、どうしても可愛
く思えてしまう生徒だっている。教師にできることはそれを公的な
場には持ち込まないことだけだ。そして私の場合は、矢沢遙香がえ
こ贔屓したくなる生徒に当たる﹂
63
︵その七︶応用次第です
﹁俺にはわかんねえ。優秀で愛想の良い生徒ならともかく、あんな
可愛げのない女のどこがいいんだか﹂
﹁顔が整っていて、頭が良くて、スポーツ万能で、愛想も良くて、
教師が押し付ける雑用にも嫌な顔一つしない生徒なら、きっと好か
れるだろうね﹂
鬼島天下のように。暗に言えば本人はそれを察したらしく愁眉を
寄せた。
﹁でも、それは生徒じゃない。不自然だ。苦手教科は多少手を抜い
て、夜更かしして授業中に寝る。嫌いな教師はなるべく避けようと
する。窮屈な校則はこっそり破って、服装検査の前に慌てて髪を黒
染めする。多かれ少なかれ、そういう馬鹿な事を一生懸命やってこ
その高校生だ﹂
天下言う通り、矢沢遙香は我儘で、傲慢で、気に入らないことが
あればすぐキレるような可愛げのない女子高生だ。協力している涼
にだって礼の一つも言わない恩知らずだ。
しかし、我儘で傲慢なのが高校生であり、そういう子供に分別を
教えるために学校はあるのだと涼は思う。
おかしいのは天下の方だ。父親の前でも優等生の顔を崩さない。
そのくせ﹁必要ない﹂の一言で父親を切り捨てる。それを反抗期と
呼ぶには熱がなく、無関心のせいにするには優等生ぶりが徹底して
いた。
﹁我儘で、傲慢で、可愛げがない。そんな矢沢さんだからこそ、救
われた気になるよ。私も頑固で可愛げのない子供だったから﹂
天下に感じていた違和感の正体に、涼はようやく気づいた。彼に
は、人形のような可愛げがあっても、子供らしさが欠片もなかった。
自分とは真逆の存在だったのだ。
64
人形が熱を持つのは涼と二人きりでいる時だけだ。それが何を意
味しているのかがわからないほど、涼は鈍感ではなかった。だが、
その熱を受け入れることはできない。
﹁今もそうじゃねえか﹂
天下は掴んでいた涼の腕を放した。
﹁全然可愛くねえ。むしろ憎ったらしい﹂
﹁君とは対照的だ。昔から私はこうだったよ。変わるつもりもない﹂
天下は口をつぐんだ。唇を引き結んで前を向く様は凛々しくもあ
り、どこか痛々しくもあった。何故、と問いかけたくなる。
何が楽しくて学校に来ている。何のためにそこまで優等生であろ
うとする。家族の前でさえ優秀な息子でいるのか。ならばどうして
今まで完璧に演じていた優等生面を涼の前ではしない。何故。どう
して。
どうして、自分はこの青年に手を伸ばしたくなるのだろう。
憐れみに似た感情が湧き上がるのを涼は感じた。思わず手を伸ば
して抱きしめてやりたくなる。幾重もの包帯に巻かれたまま放置さ
れた彼の傷を曝け出して、触れてみたくなる。
それが母性なのか、それとも他のものなのかは涼にはわからない。
ただ、鬼島天下が求めているのは同情や慰めではないことはわかっ
た。そして涼は、自分が憐憫以上のものを与えてやれないことも悟
っていた。
癒せない以上、天下の傷に触れることは許されなかった。そんな
涼にできることは結局、一つでしかない。
﹁だから私は、優等生の考えていることなんて一生理解できないと
思う﹂
垣間見た傷から目をそむけて、突き放すだけ、だ。傷が深くなる
前に。
天下の顔から感情が抜け落ちていくのを涼はただ見ていた。
﹁同感です。俺も先生の考えていることなんてわかりたくもありま
せん﹂
65
平坦な口調で言う天下には、傷ついた少年の面影などどこにも見
当たらなかった。行儀悪く机の上に座る姿も、人の悪い笑みを浮か
べる唇も、憮然とした顔も、今の天下からは想像ができなかった。
今後、そんな彼を目にすることは二度とないのだろう。そう仕向け
たのは涼自身だ。
つまるところ、鬼島天下はどうしようもないくらい優秀生徒で、
そして渡辺涼はどうしようもないくらい教師だった。
それ以外にはなれなかった。
66
︵その八︶あてはまらない人もいます。
宣言通り、校門を出たところで涼は佐久間と別れた。その際﹁く
れぐれもご注意なさってください﹂と釘を刺しておくのを忘れない。
佐久間は呑気な顔で首肯したが、おそらく涼の真意は悟っていない
だろう。
周囲の目はもちろんだが、矢沢遙香に流されないことが重要なの
だ。子供の我儘をたしなめるのも大人の恋人の役目のはず。でなけ
れば本当にただの恋愛ごっこだ。バス停に向かう佐久間の背中を眺
めつつ、涼は密かにため息をついた。
最寄駅まではバスで十分、徒歩で二十五分。佐久間はバス、涼は
徒歩を選ぶ。生活スタイルがまるっきり違う二人が交際するふりを
すること自体がそもそも間違っていた。
見覚えのある男性が目の前を横切ったのは、涼が何度目かもわか
らない後悔をしていた時だった。見間違えるはずがない。鬼島天下
の父親、だ。平均的なサラリーマンのスーツだというのに、彼だと
垢抜けて見えた。どことなく華があり、それでいて厳しさを孕んで
いた。なるほど目つきの鋭さは父親譲りのようだ。
涼がひそかに尾行兼観察をしている間に、鬼島氏は閑静な住宅街
に踏み込んだ。二階建ての一軒家の前で止まる。涼は慌てて電柱の
陰に隠れた。
﹁あら、早いわね。おかえりなさい﹂
垣根から顔を出す女性。この家の住人のようだ。鬼島氏は表情を
変えずに応じた。
﹁今日は仕事が早く終わったんだ﹂
﹁一言連絡してくれれば良かったのに。晩御飯はまだかかるわよ﹂
女性は泥のついた手袋を外して、鬼島氏を招き入れた。綺麗な人
だった。鬼島氏と並ぶと絵になる。たとえ﹁草むしりをしています﹂
67
と力説するような野暮ったい服を着ていようとも、その魅力は損な
われることはなかった。
家の扉が閉まったのを確認してから、涼は表札を確認した。﹁鬼
島﹂と彫ってある。学校のデータとも一致している。ここが鬼島宅
なのだろう。
涼は二、三回頭を振った。
何もおかしな点はない。予定より早く帰ってきた旦那を奥さんが
迎え入れた。急な帰宅なので準備がまだだと苦笑しながら。二人の
会話も様子も自然そのものだった。装っている風は全くなかった。
では︱︱涼は眉根を寄せた。
鬼島天下はどこへ消えたのだろう。
三者面談に母の代わりに父が行くことは珍しいが、ないことでは
ない。家事は夫婦共同が叫ばれている時代だ。別段不自然ではない。
しかし、三者面談があったことすら知らないとはどういうことだ。
そして鬼島氏は何故、仕事だと嘘を吐くのだろうか。
考えても納得のいく説明がつかなかった。迎え入れた鬼島夫人。
帰宅した鬼島氏。その二人の様子が自然であればあるほど、違和感
が際立つ。
それはまるで、鬼島天下など存在していないかのようだった。
68
︵その八︶あてはまらない人もいます。︵後書き︶
これで三章は終了です。お付き合いくださいまして本当にありが
とうございます。
二章で豪語したにもかかわらず、恋愛偏差値が一向に上昇してお
りません。すみません。四章では似非優等生の逆襲を予定しており
ます。遥か彼方に位置する十五禁を目指して進む所存です。これか
らもよろしくお願いいたします。
69
四限目︵その一︶油断は禁物です
鬼島家の不審な点を目撃しても涼のすることに変わりはなかった。
存在意義のわからない会議に参加し、音楽科の生徒に声楽を教え、
普通科の生徒には音楽の触りを教え、そして空いた時間には器楽室
の楽譜整理に明け暮れる。
変わった点といえば、鬼島天下の対応だ。無視、とまではいかな
いが、他の生徒となんら変わりのない接し方︱︱むしろ素っ気ない
対応をした。間違っても二人きりにはならない。近づいて来ても半
径三十センチメートルには入れない。そういったさり気ない変化に
も敏い天下は涼の意思を汲み取った。時折、物言いたげな視線を送
るものの、深くは追及してこなかった。涼がそうさせる隙を与えな
かったのもあるが。
ともかく、天下と涼はただの生徒と教師に戻った。以前よりも関
わりのない存在になったのだ。二週間が経過したところで何も起こ
らなかったので、このまま薄れていくのだと涼は安心していた。
当初は永遠に続くとさえ思えた楽譜整理もだいぶ目処がついてき
たのもあって、涼の関心は佐久間と遙香の二人に移行していた。こ
れからどうするつもりなのだろうか。それだけが悩みの種だった。
つまり、涼は完全に油断しきっていたのである。
﹁渡辺センセーイ、お呼びですよー﹂
音楽科準備室と通じる扉から恵理が声をかける。涼は手が塞がっ
ていたので﹁どなたですか?﹂と大きめの声で訊いた。が、返事が
ない。聞こえなかったようだ。
﹁通しちゃいますねー﹂
と、恵理の声。涼は棚の一番上にある楽譜ファイルを引っ張り出
した。音楽準備室からは背を向けたまま。後先考えずにぎっちぎち
に詰め込まれていた楽譜が一斉に崩れ落ちるのを、片手で止める。
70
とりあえず、全部出してしまおうかと涼がもう片方の手を伸ばした
時だった。
横から落ちかけた楽譜を支えるように腕が伸びた。なんと親切な
学生だろう。涼は﹁あ、悪い﹂と反射的に口にしようとして、止ま
った。
︱︱学生。
﹁大丈夫ですか、先生﹂
油の切れたブリキよろしくぎこちなく首を動かせば、真横には鬼
島天下がいた。
﹁一度、全部出した方がいいですね﹂
涼の返事も待たずに楽譜を取り出し、傍にあった机の上に山積み
にする。あまりにも自然な動作に口を挟む間すらなかった。唖然と
する涼に、天下はいつもの優等生面で言う。
﹁俺が出しますから、先生は整理をお願いします﹂
﹁あ、ああ⋮⋮どうも﹂
涼は分別を始め︱︱かけて手を止めた。
﹁ちょっと待て﹂
71
︵その二︶隙を見せてはいけません
﹁待ちません。早く終わらせましょう﹂
歯牙にもかけず天下は作業を続ける。事務的な対応で流されそう
になるが、涼は首を横に振った。おかしい。絶対にこれはおかしい。
さりげなく好意を示してきた天下を、さりげなく拒絶したのはつ
い二週間前。彼はしっかり悟って諦めたのではなかったのか。だか
ら近づかなくなったのではないか。
﹁どういうつもりだ﹂
手を止めて、天下は怪訝な顔をした。涼は中央廊下側の扉を指差
した。
﹁張り紙が見えなかったのか﹂
﹁見ました。毎日貼ってありますから﹂
﹁じゃあ、どうして入って来る?﹂
﹁廊下側の扉には生徒入室禁止とありましたが、準備室側にはそん
なことは一言も書かれていません﹂
涼しい顔でへ理屈をこねる。ふてぶてしい限りだ。
﹁だからって、無理に入ってくる必要がどこに﹂
﹁押し入ったつもりはありません。俺は渡辺先生に用があると言っ
ただけです﹂
百瀬先生。あんた私に何の恨みがあるんだ。面倒くさい楽譜整理
を引き受けてやった礼がこれか。
涼は壁一枚隔てた先にいる百瀬を睨んだ。残念ながら防音設備の
整った部屋の壁は、視線などで貫けるほどやわではなかったが。
﹁作業は、はかどりましたか?﹂
唐突に天下が訊ねてくる。
﹁ものすごく順調だ。邪魔がないからな﹂
暗に出て行けと言っているのだが、天下は我が意を得たりとばか
72
りに頷いた。
﹁じゃあ、なおさら手伝わなくてはいけませんね。数日とはいえ先
生の作業の邪魔をしたわけですから﹂
背を向けて作業再開。涼は言葉もなかった。なんて食えない生徒
だ。整理がはかどらないと追い出されて、いったんは引き下がって
おき、今度はそれを逆手に取って攻めてくるとは。作業を手伝うの
ならば、楽譜整理の効率を理由に追い出した涼に断る理由はない。
作業の邪魔をした詫び、という大義名分が成り立つのだ。
﹁部活はどうした﹂
﹁今日は自主練です。終えました﹂
﹁別に手を貸してもらうほどの﹂
﹁結構な量ですね。邪魔がなくても二週間以上かかっていますし、
猫の手も借りたいとぼやいていたそうですね。百瀬先生が言ってま
した﹂
天下は口端をつり上げた。
﹁手伝ってくれるのならありがたい、とも言ってましたよ﹂
トドメの一撃だった。涼は自分の分が悪いことを悟った。
鬼島天下が優等生と呼ばれる所以がわかったような気がした。彼
は周到に計画を練るのだ。あからさまに好意を示さないのも、涼に
断らせないための策だ。善意の中に少しずつ好意を混ぜて懐柔する。
傍目から見れば親切心にしか受け取れないので、涼もおいそれと拒
むことができない。
押せば引き、引けば押す。涼は流されやすい自分を知っていた。
だからこそ、隙を見せないよう振舞っていた。面と向かって﹁好き
です﹂と言われれば迷わず断る。微塵の容赦なく。躊躇うこともな
く。それが流されやすい自分を守る手段だ。
そんな涼にとって、天下は一番厄介なタイプだった。なんとなく
で、ずるずると関係が続き、気づいた時には情が移って後戻りがで
きなくなる。
涼が、一番流されやすいタイプでもあったのだ。
73
︵その三︶つけ込まれます
毎日毎日欠かさず警戒したが、天下は拍子抜けするほど真面目に
手伝った。まさか本当にこれまで邪魔をした詫びのつもりなのかと
涼があやうく信じかけたくらいだ。
仮に今、誰かが器楽室に突然入ってきても、涼は胸を張って何事
もないと言い切れる。触れてくるわけでもなく、好意を口にするわ
けでもない。実に微妙な状態だ。天下の思惑が読めない。
一週間が経つ頃には、天下が器楽室に入ってきても咎める気さえ
起きなくなっていた。それくらい天下は内心はどうであれ、好青年
らしい行動を続けていた。他愛のない会話も、慣れれば心地よいも
のだ。
ともすればうっかり絆されそうになっている自身に気づき、涼が
気を引き締め直した時だった。不意に、天下が訊ねてきた。
﹁先生ってオペラ好きですよね﹂
何を企んでいる。警戒モードに移行しつつ涼は教卓の上に置いた
楽譜を手に取った。動揺を悟られてはならない。平静を装わねば。
﹁まあ、好きな方だね。どちらかと言えば﹂
﹁よく授業でも流しますし⋮⋮﹃魔笛﹄とか﹃タンホイザー﹄とか﹂
﹁音楽の授業ですから﹂
生徒たちが少しでもオペラに興味を持ってくれれば御の字だ。時
間の都合上、全幕を観せるわけにはいかないが、有名な部分を抜粋
して紹介している。オリジナルのあらすじプリントも作成して配っ
ていることを考えれば、なるほどオペラに力を入れていることも否
めない。
﹁授業のために、わざわざレーザーディスクまで買ったりするんで
すか?﹂
﹁⋮⋮多少、趣味も兼ねていることは認めよう。でも全部私のポケ
74
ットマネーです。そこを誤解しないように﹂
﹁別に責めているわけじゃないんです。実はここにオペラの招待券
があるんですけど﹂
楽譜から顔を上げれば﹁優待券﹂と印字されたオペラのチケット。
﹁﹃カルメン﹄だそうです﹂
涼しい顔で天下は言う。ビゼーの最高傑作ではないか。
﹁いつ?﹂
﹁明日。新国立劇場で七時開演です﹂
学校の最寄駅から新宿までは電車で一本。金曜とはいえ、早めに
仕事を終えれば間に合う時間だ。
﹁もしかして、くれるの?﹂
﹁差し上げたいのは山々ですが、他人への譲渡は駄目だそうです﹂
こいつ最悪だ。涼の機嫌は急降下した。
﹁ほーう、わざわざ自慢しに来てくださったわけですか。どうもあ
りがとう﹂
再び楽譜に視線を戻す。天下の評定を﹁一﹂にしたろうか、と職
権乱用も甚だしい復讐が頭をよぎった。
﹁でも同伴者なら良いそうですよ﹂
人の悪い笑みを浮かべて天下は指をずらした。チケットは二枚あ
ったのだ。﹁優待﹂なだけあってS席だ。通常ならば二、三万はす
る。
75
︵その四︶攻めてきます
S席。カルメン。ビゼー。オペラ。頭の中でくるくる回る単語た
ち。しかし︱︱涼は天下の幼さの残る頬と、大人びた顎から首筋の
あたりを盗み見た。
生徒と二人でオペラ鑑賞。音楽科の生徒と教師ではよくあること
とはいえ、普通科の、それも音楽に大して興味もなさそうな天下と
一緒というのは、非常に危険な気がする。
︵ああ、でも︱︱︶
涼は内心頭を抱えた。
︵行きたい超観たい⋮⋮っ!︶
生のオペラなんて二回観た程度。友人の好意で譲ってもらった際
だけだ。タダである代わりに演目なんて選べやしない。チケットが
高額な上に会員以外はなかなか手に入らないのだ。
﹁一緒に行きませんか?﹂
﹁⋮⋮あー、一人でオペラ観てもつまらないだろうし⋮⋮な。ここ
は一つ、先生が行ってあげてもいいかなあ、と思いますハイ﹂
﹁素直に行きたいって言えよ﹂
天下がぼそりと呟く。
﹁何か言いましたか? 鬼島君﹂
﹁いいえ、別に何も﹂
﹁ではそろそろ解散しよう。ここ、閉めます﹂
天下はチケットを封筒に戻して鞄を脇に抱えた。一緒に出ていく
必要も見送る義理もない。涼は軽薄にも五線に浮かぶオタマジャク
シを視線で追った。珍しく食い下がらないと思いきや、天下はドア
ノブに手をかけて振り返る。
﹁先生、明日の放課後ですからね﹂
﹁はーい﹂
76
﹁行き違いにならないように、準備室まで迎えに行きますから﹂
﹁はいはい﹂
﹁⋮⋮忘れて帰るなよ﹂
耳に心地よい低音。もしかしなくともこれが彼の地声なのだろう。
﹁大丈夫だ。カルメンは忘れない。君もこんなところで油を売って
ないで、早く家に帰って青春でも何でもエンジョイしなさい﹂
﹁今してるから、いいんだよ﹂
さらっと言うものだから、涼は虚を突かれた。
完全に油断していた。言葉が喉の手前でつっかえたように出てこ
ない。
﹁⋮⋮あ、そう﹂
と呟くのが精一杯だった。天下の顔を見ることなどできない。し
がみつくように楽譜に意識を集中させた。
﹁先生﹂
﹁今度は何だ。早く帰りなさい﹂
﹁楽譜、逆さまですよ﹂
笑みを含んだ声音で指摘し、天下は退室した。残された涼はとい
うと、恥ずかしいやら悔しいやらで上下逆の楽譜を握りしめた。
食えない生徒どころじゃない。
こっちが食われそうだ。
77
︵その五︶計画はしっかり立てましょう
しかし同伴者がどうであれ、オペラを観に行く、というのは心が
躍るものである。機械的に選ぶスーツもネクタイも今朝に限っては
出かける直前まで悩んだ。普段は全くと言っていいほどしない化粧
もちょっとしてみたりして︱︱肌が荒れるのでクリームとリップ程
度で終わったが。とにかく、涼は数年ぶりのオペラ鑑賞を楽しみに
していた。
﹁渡辺先生、今日は何かあったんですか?﹂
しかしよもや、音楽準備室で同僚に訊ねられるほど浮かれていた
とは思わなかった。涼はとっさに誤魔化そうとして不意に思い至っ
た。何を隠す必要がある。変に体裁を取り繕うとするから、邪推さ
れるのだ。
﹁実は今日、放課後にオペラを観に行くんですよ﹂
口調が弾んでいるのはまあ仕方がない。予想通り、音楽教師達は
食いついてきた。
﹁オペラですと⋮⋮﹂
﹁﹃カルメン﹄です。お恥ずかしい話ですが、生で観るのは初めて
なもので﹂
いいですねえ、と頷いたのは音楽科主任。その後もやれ誰がカル
メン役なのか、指揮者は誰だ、などといかにも音楽教師らしい話題
で盛り上がった。
﹁しかしよくチケットが手に入りましたね。誰と︱︱あ、愚問でし
たか?﹂
﹁佐久間先生じゃありません﹂
涼は努めて事もなげに答えた。
﹁生徒ですよ。おこぼれに預かったんです﹂
音楽科の生徒と後学のために演奏会に行く教師は多い。担当科目
78
上、その手のチケットが送られてくるからだ。別段不思議なことで
はない。そう、相手が音楽科の生徒ならば。
都合よく解釈してくれた教師達はそれ以上突っ込んではこなかっ
た。助かったのは事実。しかし涼はこうも思う。もし、名前を訊ね
られたら、自分は﹁鬼島天下﹂と答えたのだろうか。
六限目も無事に終了。充実しているせいか、それとも周囲の音楽
科教師達が気を使ってくれているせいか、残業もすぐに片付いた。
迎えに来る天下を待つ間に、涼は鑑賞ガイド本をぱらぱらめくった。
﹁やっぱりアリアと言えば﹃セギディーリャ﹄ですね。﹃ハバネラ﹄
は言うまでもありませんが﹂
ガイドブックの一ページを指差したのは音楽科主任だった。
どちらも第一幕でカルメンが歌うアリアだ。男を次々と誘惑する
魔性の女役だけあって、歌の正確さよりも色気が重要となってくる。
﹁エスカミーリョの﹃トレアドール﹄を忘れちゃいけませんよ、渡
辺先生﹂
コピー機を使用していた百瀬恵理までもが参戦。それぞれお気に
入りのアリアを挙げ出す。音楽科教師だけあって思い入れは人一倍
あった。話し出すと止まらない。
﹁バリトンの響き⋮⋮たまりませんねえ﹂
恍惚とした表情で語る恵理。気持ちはわかるが、仮にも職場で恋
する乙女みたいに目を輝かせるのは遠慮してほしいところだ。
﹁バリトンのアリアでこんなに派手なのは﹃トレアドール﹄くらい
ですからね。いつもテノールが独占してますから﹂
﹁あ、渡辺先生はテノール派ですか?﹂
﹁どちらかと言えば、そうです﹂
﹁好きそうですよね。三大テノールとか⋮⋮ちなみに、お気に入り
は? パヴァロッティ? それともカレーラスですか?﹂
同類の匂いを感じ取ったらしい。恵理は嬉しそうに質問してくる。
仮にも音楽教師。涼もそういう話は嫌いではない。正直にプラシド
=ドミンゴだと答えた。それを皮切りに﹃カルメン﹄から三大テノ
79
ールの一番は誰かという話題に移行した。
﹁あの⋮⋮リョウ先生﹂
蚊の鳴くような小さな声が和気藹々とした空気に入り込んだのは、
涼が陰鬱をたたえたドミンゴの美声について力説している真っ最中
だった。
音楽科準備室に訪れるとは珍しい。世界史担当の佐久間だ。
﹁何か用ですか?﹂
﹁今日、これからお時間いただけませんか﹂
お食事でも、と控えめにだがその場にいた全員の耳に入るくらい
の音量で言う。
80
︵その六︶予期せぬ事態に陥ることもあります
迷うことなどなかった。
﹁すみません。今日は先約が﹂
﹁私が代わりに行きましょうか? カ・ル・メ・ン﹂
余計な提案をしてきた恵理をひと睨みで黙らせる。冗談ではない。
﹁カルメン?﹂
﹁生徒と観に行く約束をしまして。せっかくのお誘いですが、また
の機会ということで﹂
訳:矢沢遙香でも誘って行けよ。
丁重にお断りしたが、佐久間は傍目でもわかるくらいに困った表
情になる。
﹁生徒と一緒に? これからですか? そんなことをして問題に﹂
﹁後学のためです﹂
さすがに見かねた主任がぴしゃりと言い放つ。
﹁私も生徒とよく演奏会に行きます。招待されて、それを聴きたい
と思う生徒がいる以上、同行するのは当然のことです。失礼なこと
を言わないでください﹂
一変して険悪な雰囲気。涼は佐久間の腕を取った。主任に軽く会
釈して退室。渡り廊下の手前でようやく足を止めた。人気がないの
を確認して口を開く。
﹁何のつもりかは聞きません。恋愛相談でしたら余所でお願いしま
す﹂
﹁いいえ、僕は、ただ⋮⋮今後のことも含めて﹂
﹁今後も何もありません。ほとぼりが冷めたら適当な理由をつけて
別れるだけです。それとも、矢沢遥香が卒業するまで私を隠れ蓑に
するおつもりですか?﹂
半眼で見やれば、佐久間は狼狽した。
81
﹁リョウ先生にはご迷惑をかけして申し訳ないと思っています。で
すから、お詫びも兼ねて食事に﹂
﹁それで矢沢さんも呼べばさぞかし楽しい食事になるでしょうね、
お二人にとって﹂
﹁ち、違います! 僕はそんな⋮⋮﹂
﹁いずれにせよ、結構です。茶番は学校だけで十分。私のプライベ
ートにまで彼氏面して関知しないでください。それと音楽準備室に
まで押し掛けるのもご遠慮ください﹂
話している時間さえ惜しくなった涼は切り上げた。
﹁約束がありますので失礼します。では、よい週末を﹂
馬鹿にしている。靴音も荒く涼は音楽準備室に戻った。
生徒に手を出したお前と一緒にするな。カルメンだ。初めての生
鑑賞。それを、こちらの都合も察せずに妨害するとは一体何の嫌が
らせだ。二言目には食事食事食事︱︱自分をデートに誘いたければ
クラシック演奏会のS席チケットでも用意しやがれ。
怒り納まらぬまま準備室に入れば、好奇の視線が注がれる。
﹁修羅場でしたか?﹂
﹁百瀬先生、ノーコメントです﹂
自分の机に腰掛けて一息︱︱と、そこで涼は机の上に置かれた音
楽の教科書に気づいた。
﹁入れ違いでしたね。普通科の生徒が授業の忘れものだとかで届け
に来たんですよ。渡辺先生に渡せばわかる、って言ってましたけど﹂
教科書からわずかに覗く白い封筒。見覚えがある。案の定、中は
﹃カルメン﹄のS席招待券。それも二枚ある。どういうことだ。
まさか。
涼の額の汗が冷えた。
もしかして、もしかすると、さっきの見ちゃったりしてますかね
? 人気のないところで二人っきりで密談。頑張って解釈すれば仲
が良く見えたりしますかね?
そんでもって⋮⋮変な気を回したりしちゃったりして。
82
︵まさか、そんなベタな︶
首を横に振ったが、その考えは振り落とせなかった。
﹁すみません。お先に失礼いたします﹂
涼は鞄を引っさげて準備室を飛び出した。
83
︵その七︶機転を利かせて対応しましょう
昇降口まで早歩き。廊下を走れない教師の身分が恨めしかった。
ようやく辿り着いた下駄箱で確認したら、天下の靴は既になかった。
舌打ちして、教員用の玄関にまわり、今度は駐輪場へ。
二年一組の所で談笑していた男子生徒数名を呼びとめた。天下の
行方を訊ねれば彼らは一様に不思議そうな顔をした。
﹁あいつ、チャリ乗ってませんよ﹂
﹁歩いて学校まで来てるってこと?﹂
﹁いや、そうじゃなくて﹂
顔を見合わせる男子生徒達。
﹁電車通学だよな? 俺、雨の日に見たもん﹂
今度は涼が眉を顰める番だった。佐久間から引き出した天下の住
所、そして先日目撃した鬼島宅は間違いなく一致していた。学校ま
では徒歩で十五分程度の距離。駅まで行けば遠回りだ。
つい最近、引っ越しでもしたのだろうか。しかし彼らが言うには
入学当初から電車通学をしていたらしい。ますますわけがわからな
い。
﹁天下がどうかしたんスか?﹂
﹁忘れ物をしたんだ。結構大事なものだから、渡そうと思って﹂
涼は肩を竦めた。
﹁あ、俺、あいつの番号知ってます﹂
思わぬ収穫だ。男子生徒達に礼を言って涼は学校を後にした。道
すがら教えてもらった番号にかけてみる。が、留守番電話が応対。
こうなれば直接乗り込むしかない。涼が知っている方の鬼島宅へ向
かった。
到着した頃には六時を回っていた。改めて表札を確認したが、や
はり﹃鬼島﹄とある。そうそうある苗字でもないし、涼は天下の父
84
がこの家に入るのを確かに見た。
玄関の前でもう一度電話をかける。願いは通じたのか、硬い声が
﹃はい﹄と応じた。
﹁今どこにいる﹂
﹃は? せ、先生、なんで﹄
﹁クラスメイトに聞いた。どこにいるんだ?﹂
﹃どこって⋮⋮﹄
声には困惑の色が濃かった。
﹃自宅ですよ﹄
涼は目の前にそびえ立つ家を見上げた。二階の明かりは点いてい
なかった。ポストには今日の夕刊が入っている。
﹃ですから、俺を気にせず、お二人でどうぞ﹄
あ、やっぱり見てたのね。タイミングの悪い奴だ。
﹁違う。ガキのくせに変な気を回すな﹂
﹃どうだかな﹄
天下の口調ががらりと変わった。
﹃よくよく考えてみりゃあ、めんどくさがりやのあんたが好きでも
ねえ野郎のために彼女のふりをするってのも、おかしな話だ﹄
嘲笑混じりの声はとことん意地が悪い。涼は言葉を失った。
﹃良かったじゃねーか、ふりとはいえ、彼女にしてもらえてよ﹄
思考が回復すると共に、何かがふつふつと湧き上がってきた。
良かった? 誰が?
昨日から指折り数えていたオペラの邪魔をされ、職場の雰囲気を
ぶち壊され、挙句勝手に誤解して拗ねた生徒を探し回って自宅にま
で押し掛ける羽目になっている。
これの、どこが、良かった?
﹁おい﹂
怒りを押し殺し︱︱たつもりだったが、低い声が口から出た。
﹁私が今、どこにいると思う?﹂
﹃知るかよ。切るぞ﹄
85
﹁お前の家の前だ﹂
電話口の向こうで、天下が息を呑んだのが聞こえた。
﹁もちろん、お前が今いる﹃自宅﹄じゃあないだろうが。表札には
﹃鬼島﹄って書いてあるな﹂
﹃⋮⋮おい、冗談だろ?﹄
﹁授業でも言わないのに、今言うと思うか? 出来の悪い生徒にも
わかるように懇切丁寧に教えてやりたいところだが、あいにく時間
がない。インターホン押して証明してやる。誰か在宅しているみた
いだし丁度いい。ついでにどういう事情なのかも聞いておこう﹂
﹃馬鹿やめろっ!﹄
怒声というよりは、悲鳴に近かった。尋常でない様子に、インタ
ーホンに乗せた涼の指が止まった。こんなにも切羽詰まった天下の
声を聞くのは初めてだ。
﹁電話越しとはいえ教師を馬鹿呼ばわりするとはいい度胸だ﹂
﹃悪い。謝る。だからやめてくれ﹄
珍しく殊勝だ。弱々しい声に責める気も失せていく。
﹃頼む﹄
反比例して好奇心だけが膨れ上がる。何を隠している。そこまで
して何を守ろうとしている。しかし、追究するには時間も場所も最
悪だ。
﹁新宿駅でいいか? そこで待ってる﹂
しばし黙してから、天下は﹃一時間くらいかかるかもしんねえ﹄
と了承した。
86
︵その八︶お酒は二十歳になってから飲みましょう
駅のホームで天下を見つけ、涼は目を瞬いた。彼は制服ではなく
私服姿だった。灰色のカットソーに青系のジーンズ。それに薄手の
ミリタリージャケットを羽織っただけのカジュアルファッションだ
が、それもまた実に様になっていた。新鮮さもあって、つま先から
頭までつい凝視してしまった。
﹁招待券、見なかったのかよ﹂
拗ねるように天下はポケットに手を突っ込んだ。
﹁譲渡禁止なんて書いてねえ﹂
知ってるよ、それくらい。
プレミアつきのライブチケットじゃあるまいし、席が空くことの
方が問題とされるオペラでは入場の際にいちいち本人確認なんてし
ていない。涼は無理に天下と行く必要なんかなかった。逆を言えば、
天下もまた無理に涼と行く必要もなかったのだ。
﹁ああ、本当だ﹂
涼は封筒からチケットを取り出した。
﹁そういうことは早く言ってくれ。捜し回って損した﹂
苦笑すれば天下はつられたように顔をほころばせた。
﹁先生って、嘘吐きですね﹂
騙されたくもなる。
涼は内心、誰に対してでもなく言い訳をした。だってそうだろう
? 偶然手に入れた物とはいえ、涼がオペラを、中でも特に﹃カル
メン﹄が好きであることを知って、誘ってきたのだ。嘘を吐いてま
で。
今朝、服選びに迷った涼と同じように心待ちにしていた天下が、
あの現場を目撃し一人落胆して帰ったことを思うと︱︱流されてや
りたくなるじゃないか。
87
昔から、涼はそういうものに弱かった。
当然ながら劇場に到着したのは七時半。開演時間はとっくに過ぎ
ていた。おまけに途中入室は認められていない。第一部と第二部の
間にある休憩まで外で待つ羽目になった。ちなみにかの有名なアリ
ア、﹃ハバネラ﹄が歌われるのは第一幕。﹃セギディーリャ﹄も同
じく。﹃トレアドール﹄は二幕。一部で有名どころはほとんど歌わ
れてしまうのだ。涼は涙を飲んで諦めた。
﹁悪かったな﹂
天下が小さく呟いた。伏目姿には哀愁が漂う。涼でなければ、気
にするなと水に流すところだろう。しかし、残念ながら涼にはそん
な真似はできなかった。
﹁まったくだ﹂
何しろ生まれて初めてのカルメンだ。逃したアリアは大き過ぎた。
ますます気落ちした天下は恨めしげに反論した。
﹁やっぱり、佐久間と行けば良かったじゃねえか﹂
それで拗ねて帰ったのはどこのどいつだ。涼は頭を掻き毟りそう
になった手で、天下の腕を掴んだ。軽食やワイン等を販売するブッ
フェを通り過ぎて自販機へ。
﹁気分を味わえ。オペラの幕間に飲むワインは格別だ﹂
イタリアのオペラ座には必ずと言っていいほどワインを飲むため
の場所が用意されている。オペラが社交場とされていた時代の名残
でもあるが、今も昔もオペラとワインは密接な関係にある。オペラ
歌手の美声に酔い、そしてワインに酔う。何百年経っても人間と言
うものは大して変わらないのだ。
﹁飲まないんですか?﹂
﹁未成年は茶で十分だ﹂
五百円玉を投入し、生茶を選んだ。天下にも買うよう促す。ほん
の少し逡巡した後に、天下は﹁御馳走になります﹂と折り目正しく
礼を言って、コーヒーを選んだ。生意気にもブラックだ。
中では﹃カルメン﹄。外のブッフェで教え子と二人、茶を飲んで
88
いる。ずいぶんとおかしなことになったものだ。
﹁⋮⋮デートはどうしたんですか?﹂
躊躇いがちに天下が訊ねる。
﹁断わったよ。今頃、二人で仲良くやっているだろうな﹂
﹁可愛くない生徒のためにわざわざ断るなんて、先生はご立派です
ね﹂
皮肉混じりの言葉。三者面談の日のことをまだ引きずっているら
しい。意外に根に持つタイプのようだ。
89
︵その九︶脱線は教師の特権です
そもそも、矢沢遙香と鬼島天下を比べること自体、間違っている。
﹁誰も可愛くないとは言っていない。よくわからない生徒だとは言
ったけど﹂
﹁俺は先生がよくわかりません﹂
﹁わかりたいとも思わない、って言ったのは君だ。わからないまま
でいい。私もその方が気が楽だ﹂
﹁それは⋮⋮あんたが、﹂
言いかけて天下は口を噤んだ。
﹁気にならないんですか?﹂
何が、と訊ね返す必要はなかった。学校に提出した住所とは違う
場所に住む天下。それも、家族と離れて一人暮らし。三者面談には
父親が出席し、母親はそのことを知らない模様。これで疑いを持た
ない人間は聖職者になるべきだ。
﹁家庭の事情に首を突っ込むほど面倒見はよくないよ、私は﹂
﹁でも、あんたは俺を探し回った。佐久間とのデートを断って。オ
ペラだって、一人で行っても良かったはずだ。俺を探す必要なんて
なかった。あんたにとって俺は、理解に苦しむ出来の悪い生徒で、
面倒なガキなんだろ? なんで電話なんかしてくるんだよ﹂
﹁可愛い教え子だから﹂
天下は狐につままれたような顔になり、次に頬を紅潮させた。
﹁生徒をからかって楽しいか? 冗談もたいがいにしろ﹂
﹁何度も言わせるな。授業でも言わない冗談をどうして今言うんだ﹂
普通科が誇る優等生は思いの外間が抜けているようだ。涼は腕時
計を見た。休憩まで悲しくなるくらい時間があった。
﹁特別授業をしてやる。ビゼー、ベルリオーズ、サン=サーンス。
音楽家であること以外でこの三人の共通点を述べよ﹂
90
﹁はぐらかすなよ﹂
﹁音楽科の生徒だと十個ぐらい挙げるよ﹂
観念したように天下は顔をしかめながらも考えた。
﹁フランス人﹂
﹁正解。三人の中でもシャルル=カミーユ=サン=サーンスは音楽
家として活躍しただけでなく、数学や天文学、詩や絵画の分野にお
いても才能を発揮させた。もちろん、本人の努力があってこそ、で
きたことだろうがね。彼の作風は知的で穏健的。よく頭で考えて練
った感じの曲が多い。仮に、彼がうちの高校に入学したとすれば、
どの学科に入ってもまず間違いなくオール五の最優秀生徒だ。特例
で授業料免除にもなるかもしれない﹂
サン=サーンスには及ばないものの、鬼島天下もまたオール五の
最優秀生徒だ。欠点の見当たらない完璧な生徒。
﹁そんなサン=サーンスが、だ。交響曲第三番を完成した時にテン
ションが最高潮になって﹃我が楽曲には一点の過ちなし﹄と高らか
に宣言したそうだ。すかさずベルリオーズが突っ込んだ﹂
涼は茶を一口飲んだ。
﹁﹃確かに。しかし一点の過ちもないことが、君の作品の唯一の弱
点だ﹄﹂
一点の曇りもない。完璧。完全。ゆえに欠点となる。鬼島天下が
まさにそれだった。歩み寄る隙がないのだ。美しい絵画を見て感動
を覚えても、親しみを覚えないとの一緒だ。
﹁だから、君が机の上に腰かけた時、正直安心した。こうやって悪
いこともできる普通の生徒なんだって。ほんの少し可愛く思えたよ﹂
天下は複雑な表情になった。年頃の男子学生は﹃可愛い﹄と言わ
れると非常に戸惑うようだ。確かに、嬉しくはないかもしれない。
しかしそれ以外に表現のしようがなかった。
しばらく無言で茶を飲んだりしていたら、劇場の扉が開いた。よ
うやく一部が終わったらしい。休憩時間にブッフェは混雑する。涼
は空き缶をゴミ箱に捨てた。
91
席の確認をしなくてはならない。いつまでも寄り掛かったままの
天下を促す。緩慢な動作で彼はコーヒーを飲み干し、壁から背を離
した。
﹁俺は、先生に可愛いなんて思われたくはありません﹂
どんなに小さくても天下の声は耳に通る。喧噪の中であってもだ。
涼は聞こえないふりをして席を探した。
92
︵その十︶人の名前を間違えてはいけません
主要な部分を逃したとはいえ、生のオペラは格別だった。閉ざさ
れた空間を一瞬で支配下におさめる大音声。天井までも震わせる合
唱。隣に天下がいることすら忘れて、涼は聴き入った。
カーテンコールには万雷の拍手。周囲の熱気に天下が気圧されて
いるのに、涼の頬は緩んだ。オペラは初めてだったようだ。他の客
が席を立ってもなお、放心したように天下は虚空を眺めていた。圧
巻。そういえば初めての生オペラ鑑賞の時は、なかなか席を立つこ
とができなかったな、と涼は大学生時代の自身を思い出した。
﹁⋮⋮なんか、すげえ﹂
天下が零す。本場イタリアのオペラを見せたらこの青年はどれだ
け驚くだろう。今後そんな機会に恵まれたとしても、彼の隣に座る
のは自分ではないことに涼は少しだけ残念に思った。しかし、生徒
を見送るのは教師の義務だ。
﹁ほら、帰るぞ﹂
天下の肩を叩いた時だった。
﹁スズ?﹂
振り向けば、女性が小首をかしげてこちらを見ていた。大きいが
ややつり気味の目は勝気な印象を与える。身にまとうグレーのスー
ツは小柄な彼女にぴったりだった。
﹁珍しいじゃない。あんたがオペラに来るなんて﹂
﹁君はオペラに来過ぎだ。少しは譲れ﹂
ひがんでしまうのも仕方がない。同じ音大の声楽科だったが、榊
琴音は資産家の娘。渡辺涼は奨学生。﹃カルメン﹄の一件がなけれ
ば、おそらく関わることなど一生なかっただろう。
﹁あんたが私に主役を譲ってくれたみたいに?﹂
意地悪く訊ね返してくる。やはり琴音も同じことを思い出してい
93
たらしい。
﹁その口の軽い教授は元気?﹂
﹁海外に出張中。今年もビゼーやるんですって。すずもエキストラ
で参加したら?﹂
半年振りということもあって大学のことに話を咲かせる。院に進
んだ琴音は大学生の雰囲気がそのまま残っていた。そのせいか、懐
かしさがこみあげてくる。
﹁一人?﹂
﹁いや、今日は︱︱﹂
涼は言葉を濁した。除けものにされていた天下はパンフレットを
読んでいた。視線に気づいて目礼。
﹁へえ⋮⋮意外﹂
﹁何が?﹂
﹁すずって年上趣味だと思ってた﹂
涼は顔を強張らせた。教師と生徒には見えないのか。歳が離れす
ぎているだろうが。誤解を放置しておくわけにはいかなかった。が、
涼が口を開く前に天下が訊ねた。
﹁スズ?﹂
まずい。涼は誤魔化そうとしたが遅かった。琴音が悪びれもなく
こちらを指差した。
﹁渡辺涼。よく﹃リョウ﹄って読み間違えられるけど︱︱あら? 知らなかった?﹂
天下は頷いた。
﹁知りませんでした﹂
横目で涼を見やる。その視線は如実に﹁何で今まで教えなかった
んだよ﹂と責めていた。
言えるわけがない。新任時に﹁これからよろしくお願いしますね、
リョウ先生﹂と教職員を代表した校長に笑顔で握手を求められて﹁
すみません。リョウじゃなくてスズです﹂なんて。歓迎ムードをぶ
ち壊すような真似を。
94
﹁お付き合いしてるんじゃないの?﹂
﹁してない。するつもりもない﹂
キッパリ言って話を終わらせた。天下の前だからこそ手加減はで
きなかった。
﹁今日はもう遅いから。またメールする﹂
﹁う、うん﹂
思い出したように琴音は付け足した。
﹁たまにはうちにも遊びに来てね﹂
涼は頷き、天下を引き連れて会場を後にした。これ以上深く関わ
らせるのは危険だ。何がどう危ないのかは涼にもわからなかったが、
脳内に鳴り響く警告音は無視できなかった。
95
︵その十一︶名前は大切です
﹁先生﹂
引きずられる天下の呼びかけは黙殺して駅まで直行。
﹁おい、先生﹂
券売機には数人の列ができていた。仕方なく足を止めて、天下の
袖を離す。
﹁⋮⋮すず﹂
﹁呼び捨てにするな﹂
﹁どうして言わないんですか?﹂
必要性を感じなかったからだ。こだわるほど気に入っている名前
でもない。自分を捨てた母が付けた名だ。感慨すら覚えなかった。
憎むには、母の記憶が少な過ぎた。
﹁深い意味はない。気づいたら定着していた﹂
﹁定着する前に訂正しませんか、普通﹂
涼は新宿までの切符を購入した。二人分買ったのは、行きの借り
を返すためだ。遅刻の侘びと称されてもたとえ数百円であろうとも、
年下の、それも生徒に奢られるわけにはいかなかった。
﹁君が訂正するのは勝手だけど、今更っていうのもある﹂
﹁言いませんよ﹂
やけにハッキリと天下は断言し、冷笑にも似た笑みを浮かべた。
﹁俺と先生だけの秘密ですね﹂
にやり。あえて擬音語を付けるなら、それだ。悪戯が成功した子
供のような笑顔だ。月曜の職員会議で本名を明かすべきではないか
と涼は本気で考えた。
﹁よし。どんどんクラスで広めてくれ﹂
﹁言いませんから、安心してください﹂
だから安心できないんだ。二人だけの秘密ってなんだ。たかが名
96
前とはいえ、露骨に怪しいだろうが。
﹁学校で知ってるのは俺だけですよね?﹂
期待に満ちた眼差しで訊ねる天下に、答えることはできなかった。
よくよく考えてみればそうだったのだ。大学時代の友人は皆知って
いるが、職場では皆無︱︱だったのだ。今までは。
﹁どうだろう﹂
﹁聞いたことがありません﹂
﹁私の知ったことじゃない﹂
﹁重要な事です﹂
﹁どこが? たかが名前だ﹂
天下は俯き、口を引き締めた。逡巡の色が見え隠れする様に、涼
はえも知れない危機感が増していくのを察知した。これはマズい。
とにかくマズい。
﹁帰るぞ﹂
切符を天下の手に押し付けた。その際、当然ながら指が彼の手に
触れる。天下は弾かれたように顔を上げた。
﹁先生﹂
切符を持った手が握られる。力加減を知らないのか痛いくらいだ。
﹁なんだ。どうした﹂
﹁好きです﹂
97
︵その十二︶やるからには徹底的にやりましょう。
掠れていても通りの良い声が涼の耳に飛び込んだ。
﹁は?﹂
思わず天下の顔を凝視する。ぶしつけな視線に怯むことなく、そ
れどころか逆に切り込んでくるかのような気迫があった。小細工な
しの真っ向勝負。ゆえに危うかった。
﹁ずっと好きでした﹂
﹁ちょ⋮⋮待て。どうしてそうなるんだ﹂
﹁先生だって気づいていたんだろ? だから俺を避けてた。でも好
きなんだ。今日、探してくれたことが嬉しくって、駅であんたを見
つけた時は抱きしめたくなったし、たかが名前でも俺だけが知って
るってことが重要なんだ﹂
熱を孕んだ視線は存外真摯で、だからこそ涼は逃げ出したい衝動
に駆られた。それを知ってか天下は両手で涼の右手を包み込んだ。
﹁⋮⋮オペラに酔ったか?﹂
﹁酔ってません。俺は正気です﹂
﹁正気の沙汰とは思えないから言っているんだ。さっきから君はず
いぶんナメた態度を取っているけど、私は、教師だぞ﹂
一語一語区切って言い聞かせたら、天下は真顔で頷いた。
﹁知ってます﹂
﹁そうか。もちろん自分が生徒であることもわかっているよな? どこぞの盲目バカップルの一件でどれだけ私が迷惑を被っているの
かも知っているはずだ。それらを踏まえてよーく考えよう。何がど
うしたんだって?﹂
一縷の希望を込めて天下を見やる。
﹁俺が、先生のことを、好きなんです﹂
何の真似か一語一語区切って言い聞かせるように断言。涼は頭に
98
鈍痛を覚えた。
﹁やっぱり酔ってるな。あ、いいから。何も言わなくていい。酔っ
てる奴に限って認めたがらないものなんだ。とりあえず今日のとこ
ろは、大人しく家に帰ってだな。興奮を冷ましなさい﹂
天下の顔が曇る。眉根を寄せて焦ったように口を開いた。
﹁違います。俺は、本気で﹂
﹁良かったな。ここが学校じゃなくて。君の株が大暴落するところ
だった﹂
﹁そんなこと、﹂
言い募ろうとする天下を制して、その手をゆっくりと剥がさせる。
﹁よくあることだ。私の大学でも、オペラ鑑賞に行った男女は高確
率でその日のうちに交際を始めていた。恋愛したくなる雰囲気にな
るんだ。オペラって大概悲劇だけど﹂
﹁先生っ﹂
﹁今度は同年代の女子を誘って行きなさい。きっと同じ気分になる。
でもあえて一つ忠告するなら交際を申し込む場所は選んだ方がいい。
劇場前の噴水なんかはオススメだ。とにかく地下鉄の券売機前はや
めておけ。情緒がなさ過ぎる﹂
﹁他の女なんて、﹂
﹁電車がなくなる。その前に帰りなさい﹂
天下は明らかに傷ついた顔をしていた。だが、受け入れるわけに
はいかなかった。自分のためにも、彼自身のためにも。一時的な感
情ならまだいい。本気だから困るんだ。取り返しのつかないことに
なる前に、止めなくては。
﹁それとも君は私にこう言わせたいのか? 生徒は対象外だって﹂
99
︵その十二︶やるからには徹底的にやりましょう。︵後書
き︶
こんなんで四章は終了です。なんといいますか、発展速度が非常
に遅いことに罪悪感を覚える今日この頃です。お付き合いしてくだ
さる方々には感謝にたえません。
五章では無節操にばら撒いた優等生君のフラグを回収したいと思
います。恋愛? 何それ美味いんですか? な展開です。
100
五限目︵その一︶振り振られは恋愛の常です
自分が不幸だと思ったことはなかった。
そもそも何が幸福なのかがわからない。親に捨てられる子供なん
てよくいるし、親の記憶どころか顔すら覚えていないのは、むしろ
幸せな部類に入るのではないかと思う。絶対的な信頼を寄せる者に
裏切られる痛みを味わわずに済んだ。信頼も何も最初から何もない
のだから失いようもなかった。
不幸なのは中途半端に愛情を知ってしまった方だ。朝起きて﹁お
はよう﹂と言ってくれる肉親。自分だけを見てくれる存在。失った
時の絶望は想像を絶するものだろう。光満ちた世界からいきなり真
っ暗闇に放り投げだされるようなものだ。なまじ明るさを知ってい
るだけに闇の深さに耐えられなくなる。
そういった哀れな子供が施設に仲間入りする様を涼は何人も見て
きた。自分の境遇を恨んだことはない。他の子が何故悲んでいるの
か理解できなかったぐらいだ。
だから、小学校の授業参観に誰も来なくても、運動会で応援して
くれる人がいなくても、当然だと受け止めていた。要するに、長い
こと闇の中にいたので慣れてしまったのだ。
しかし、すぐ隣にいるクラスメイトが親の悪口に花を咲かせてい
る時、手作り弁当を当然のように食べている時、どうしても胸がぽ
っかりと空いたような気になってしまう。
どうして。
失ったものなど何一つとしてないはずなのに、喪失感が込み上げ
てくる。
どうして、自分には親がいないのだろう。
101
結局、傷つけてしまった。
恋愛の常だとはいえ、涼の気分は重かった。天下の好意に気づい
ていたから、それとなく拒んでいた。彼も自分の想いが受け入れら
れないことを察していた。だから、諦めてくれるだろうと高を括っ
ていたのだ。有耶無耶にできると。
だが、天下は予想以上に思い詰めていた。結果、優秀な彼にして
は余裕も策略もなく直球勝負に出て、涼はバットで打ち返してホー
ムラン。試合終了だ。
悄然と去って行った天下の後ろ姿が忘れられない。
オペラの礼すら言えなかった。
恋愛に限らず、懸けていた想いが大きければ大きいほど、失った
際の傷は深くなる。しかし、拒絶する側にだって︱︱捨てる側にだ
って痛みはある。
そうでなければ、不公平だ。
102
︵その二︶だからめげてはいけません
︱︱とかなんとか思っていた自分の甘さを、涼がこれ以上ないく
らい後悔したのは、月曜の朝になってからだった。
観賞室を貸し切りにして、本日の授業内容の最終確認。軽くピア
ノの練習。発声訓練も忘れない。何度やっても授業は緊張する。何
が起こるのかもわからない。万全の準備を持って取り組まなければ
ならなかった。
本日のメニューを一通り終えたところで職員会議の時間が迫って
きた。涼はスタンウェイを拭いて鍵をしっかりかけた。緩みかけて
いたネクタイを締め直して、鑑賞室の扉を開けて︱︱即座に閉めよ
うとした扉の隙間に片手片足が割り込んだ。
﹁お早うございます、涼先生﹂
至極真面目な顔で挨拶されても凄んでいるようにしか見えなかっ
た。この状況だと、特に。涼は引きつった笑顔を浮かべた。
﹁音楽は二限目じゃなかったか? 気が早いぞ﹂
仏頂面の鬼島天下は切れ長の目をさらに細めた。
﹁あんたに用がある﹂
﹁私にはない﹂
﹁俺にはあるんだよ﹂
﹁しかし私にはない﹂
ドアノブを引っ張るがびくともしない。男子高校生の力、恐るべ
し。体勢はこちらの方が有利のはずなのに、戦局は拮抗状態だった。
﹁チケット代なら給料日まで待ってくれ﹂
﹁ンなケチくせえことじゃねえ﹂
三万︵推定︶のチケットは十分高価だと思うが。
﹁⋮⋮いろいろ考えた﹂
何をとは訊くまでもなかった。一昨日の告白がどれほど常軌を逸
103
していたのかをようやく理解したらしい。
﹁あんたは教師で俺は生徒だ。世間一般では教師と生徒の恋愛はご
法度。好きだから、じゃ周りは納得しない﹂
よしよし。涼はドアノブを持つ手をゆるめた。さすがは優等生。
ちゃんと冷静に考え、反省している。どこぞのバカップルの二の舞
にはならずに済みそうだ。
﹁歳の差だってあるしな﹂
﹁うん。こればかりはどうしようもない﹂
﹁好きだから仕方ねーだろ、なんて無責任なことは言えねえ。立場
なんて関係ねえ、とも言えねえな。どうあがいても俺は十七の高校
生だし、あんたは二十過ぎの教師だ。それ以外にはなれねえ﹂
﹁正確には二十三だがな。まあ、わかればいいんだ。わかれば﹂
﹁六年差か﹂
噛みしめるように天下は呟いた。眉間にしわが寄っている。
﹁面倒だな﹂
その通り。涼は大きく頷いた。情熱だけで突っ走るには問題が多
過ぎる。
﹁先生、悪ィ﹂
﹁気にすることはない。思春期にありがちな一時的感情だ﹂
﹁やっぱりあんたのことが好きだ﹂
﹁そうかそうか。それは良かっ︱︱﹂
言いかけて涼は言葉を止めた。非常に不適切な発言が耳を通り過
ぎたような気がした。
104
︵その三︶根競べです
﹁なんだって?﹂
﹁先生が好きです﹂
顔色一つ変えずに天下は言った。いっそ清々しいまでの潔さだっ
た。あまりの堂々っぷりに涼は眩暈を覚えた。
﹁君は二日間何を考えていたんだ﹂
﹁先生のこと﹂
﹁それはどうも。ついでに自分が生徒であることも、歳の差も、教
師と生徒の恋愛がマズいことも考えたわけだ。で、それがどう化学
反応を起こしたら結論が一昨日とまるっきり同じものになるんだ?﹂
﹁一昨日とは違う。教師と生徒の恋愛がどれだけ大変なのかを考え
た。払うリスクがどれだけデカいのかも考えた。考えて考えて、そ
れでも先生が好きだなあ、って結論に達した﹂
だから諦めてください、と天下は諭すように涼の肩に手を置いた。
危うく頷きかけて涼は首を横に振った。おかしい。絶対におかしい。
何でこちらが改めなければならないのだ。
﹁馬鹿か君は﹂
﹁学年首席ですから、それはないと思います﹂
﹁天才と馬鹿は紙一重とも言うけどな﹂
肩に置かれた手をどかす。時計を見れば職員会議の始まる時間だ。
﹁教室に戻りなさい。そして頭を冷やせ﹂
﹁俺は冷静です。二日も経っていますから﹂
余計悪い。涼は深くため息をついた。
﹁君はもう少し賢い生徒だと思っていた﹂
天下は不機嫌そうに鼻を鳴らした。拗ねているようにも見えるそ
の様子に、似非優等生の面影はどこにもない。
﹁いくら良い成績取っても、いくら親切にして良い奴ぶっても、ご
105
多忙な先生は俺なんか気にも留めませんからね﹂
その点を突かれては涼としても心苦しい。事実だ。同じ音楽科な
らばともかく、普通科の、それも週に二回教えるだけの生徒を全て
把握することはできなかった。音楽科主任が言うまで自分が受け持
っていた生徒であることにすら気付かなかったのだ。
顔は覚えていた。普通科の生徒であるということも。が、それだ
けだった。普通科切っての優等生であることまでは知りもしなかっ
た。それくらい、渡辺涼にとって鬼島天下という生徒は遠い存在だ
ったのだ。
﹁⋮⋮ようやく近づけたと思ったら、全然進展しねえし﹂
進むわけないだろ。一生このままだ、と力の限りに思ったが、涼
はあえて口にはしなかった。刺激してはいけないような気がした。
﹁リョウ先生﹂
天の助けか、そこで佐久間が現れた。わざわざ迎えに来てくれた
らしい。この時ばかりは涼は佐久間に感謝した。たまにはいいこと
をする。
﹁鬼島? なんでここに﹂
﹁いや、なに。授業のことでちょっと相談がありまして﹂
涼はそそくさと鑑賞室の鍵を締めて天下から離れた。
﹁そういうわけで鬼島君、君もそろそろ教室に戻った方がいい﹂
﹁先生﹂
背中に不快感丸出しの声がかかる。案の定、笑顔を装う天下の頬
はひきつっていた。
﹁二限目の授業、よろしくお願いします﹂
直訳すれば﹃後で覚えてろよてめえ﹄だ。怖くて目を合わせられ
ない。涼はなんだか泣きたくなった。どうして自分の周りにはまと
もな人間が一人もいないのだろう。神様、私は何かしましたっけ?
と問いかけたくなる。
しかし、いくら問いかけても誰も答えてはくれなかった。
106
︵その四︶粘り強くいきましょう
何やら物言いたげにしていた佐久間が口を開いたのは、二階の渡
り廊下に差し掛かった頃だった。静かな特別棟とは打って変わった
喧騒が近づいてくる。
﹁先日は失礼しました﹂
何が、と訊ねかけて涼は口を閉ざした。先日とは金曜日のことだ
ろうか。
よりにもよって一日の終わりに告白されるとは思わなかった。オ
ペラの最中は大人しかったので油断しきっていた。その前に、だ。
よもや改札口前で告白されるなんて誰が予想しえよう。
︵変なところで抜けてるよな、あいつ︶
文武両道の優等生のくせに。
﹁リョウ先生?﹂
怪訝そうな顔で覗き込む佐久間に、涼の意識は現実に戻された。
﹁あ⋮⋮何でしたっけ?﹂
﹁先日の件です。不快な思いをさせてしまったようで、本当にすみ
ませんでした﹂
そこまで言われてようやく涼は思い出した。ああ、オペラに行く
前にひと悶着あったっけ。誤解した天下が拗ねて帰った一件。大人
ぶっていても結局子供なのだ。
﹁お気になさらないでください。私も少々大人げなかったです﹂
その子供に振り回される自分って一体何だろう。
﹁それにしても意外です﹂
職員室が見えてきたところで佐久間が呟いた。
﹁鬼島と何かあったんですか。前にもお気になさってましたよね﹂
涼はひきつった笑みを浮かべて誤魔化した。元はと言えば、佐久
間と遙香の逢引現場を天下に目撃されたことが原因だ。そうでなけ
107
れば、もっと強気の態度に出られるというのに。
﹁まあいろいろありまして。なんとか仲良くといいますか、それな
りの関係を築けたわけでして﹂
向こうはさらに関係を進めたいようですけどね。後半は呑み込ん
でおく。応じられるはずがなかった。相手は六歳も年下の生徒で、
自分は教師だ。天下はそれでも構わないと言っていたが、戯言にし
か聞こえなかった。彼は世の中というものをまだ知らないのだ。
世間は冷酷なのではない。ただ、無情なのだ。どれだけ当人が本
気だろうと、どれだけ心を砕いても、世間の目にそんなものは映ら
ない。重要なのは生徒と教師が恋愛してはならないという公然の決
まりだ。
ふと、涼は我に返った。
何故自分はさっきから鬼島天下のことばかり考えているのだろう。
﹁⋮⋮鬼島とは親しいんですか?﹂
交際申し込まれました。断りました。でも諦めないそうです。
﹁いいえ、それほどでも。顔を合わせたら雑談をする程度です﹂
﹁珍しいですよ。彼は愛想がないわけではありませんが、これと言
って親しい教師もいませんし。なんと言いましょうか⋮⋮どうも一
線ひいている節がありまして﹂
やはり佐久間も教師だった。天下の似非優等生に気付くまでには
至っていないが、かすかな違和感は抱いているらしい。
﹁できればリョウ先生のお力を拝借したいのですが﹂
遠慮がちだったが断れる雰囲気ではなかった。逆に怪しまれる。
﹁そんなに親しいわけでもありませんよ﹂
念を押したがどこまで聞いているのか。佐久間は頷きつつも結局
は﹁お願いします﹂と頭を下げた。
108
︵その五︶話は簡潔にしましょう
全ての授業が好き、という人間は滅多にいないだろう。
涼の場合、数学はそれなりに好きだったが、科学は正直苦手だっ
た。原子記号は呪文にしか聞こえなかったし、化学式に至っては理
解しようとする気力すら湧いてこなかった。授業中もひたすら時間
が過ぎることを待っていた。高校生までは。
音大に入ってしまえば科学からは解放された。必修科目でなけれ
ば嫌いな講義を取る必要もなくなり、ずいぶんと自由にやってきた。
つまり︱︱
大学を卒業し、教師になってから再び同じ気分を味わう羽目にな
るとは夢にも思っていなかったのだ。
それも、涼が一番好きな科目で。
︵⋮⋮帰りたい︶
伴奏をしつつ、涼は心底願った。チャイムは。授業はまだ終わら
ないのか。
試験で歌うかもしれないと言っておいただけあって、生徒たちは
真面目に歌っている。もともと音楽が好きで選択した生徒達だ。授
業にも積極的に参加してくれるし、やりやすかった。ただ、一人を
除いては。
唯一の例外、鬼島天下は始終鋭い視線をこちらに投げかけている。
その威力たるや、蛇を遙かに凌ぐ。肉食獣だ。隙があろうがなかろ
うが、とにかく獲物を喰らうつもりだ。
致死量に近い殺気を受けつつも、涼は平静を装い授業を続けなけ
ればならなかった。これを拷問以外になんと呼ぶ。
チャイムが鳴った瞬間に、涼は安堵のため息を漏らしそうになっ
た。が、すぐさま危機が去っていないことを悟った。皆、足早に鑑
賞室を出ていく。当然だ。彼らの教室は向こうの棟、それも三階だ。
109
早く戻らなければ授業に遅刻する。
にもかかわらず、悠然と着席している生徒が約一名。
︵あれ? 事態が悪化してないか?︶
天下は頬杖をついてじっとこちらを見ている。ただでさえ切れ長
の目はさらに細まり、凶眼と化していた。最後の生徒が扉を閉める
音が、死刑執行の合図に聞こえた。
﹁⋮⋮授業のことで相談、ですか﹂
底冷えするほどドスの利いた声。丁寧語なのがまた恐ろしい。
﹁挙句、あんな野郎にホイホイついていきやがって﹂
﹁仮にも教師だ。言葉には注意しなさい﹂
﹁見境もなく鑑賞室で生徒相手に盛った佐久間先生が、よほどお好
きなようで﹂
嫉妬深い。彼と付き合う女性は苦労するだろう。涼は顔も知らな
い未来の交際相手に同情した。ため息が出る。
﹁生徒に告白されました。私は断りましたが懲りもせずにまた告白
してきやがりました。今度は私に﹃諦めろ﹄とまで言ってきました、
って馬鹿正直に言った方が良かったか?﹂
言葉に棘があるのは自覚していた。しかし躊躇するわけにはいか
ない。天下の片眉が跳ね上がった。
﹁そう言われた方がまだマシだったな。少なくとも野郎が邪魔して
くることはなくなる﹂
﹁だから先生と呼びなさいと何度言っ﹂
﹁教師扱いしてほしかったら、教師らしい振る舞いをしやがれ﹂
吐き捨てるように天下が言い放つ。
﹁どうせまた頼み事でもしに来たんだろ? 矢沢とのデートでアリ
バイ作りにでも協力しろだのなんだの、他人を何だと思ってんだ﹂
涼は少々意外だった。想像以上に天下は聡い。佐久間を嫌うのも
子供染みた嫉妬だけではなく、彼の卑怯な点を見抜いていたからだ。
いや、卑怯というほど酷くはない。少々ずるいだけだ。大人はそれ
を﹃世渡りが上手い﹄と言う。そんな些細な処世術も許せないとこ
110
ろは、いかにも青年らしい潔癖さだが。
前置きをいくらしても無意味であることを涼は悟った。直球でい
くしかない。
﹁半分正解だ。佐久間先生に頼まれごとはされた﹂
ほれ見ろ、と言わんばかりに天下は鼻を鳴らした。涼はファイル
からプリントを取り出した。佐久間から預かったものだ。
﹁それでも彼は教師だ。そして君の担任でもある﹂
天下の眼前、机の上にそれを叩きつけた。
111
︵その六︶詮索にも限度があります
いろいろ小難しいことが書かれているが、内容は単純だ。ご子息
ご息女の修学旅行参加の承諾。保護者のサインを貰えばいい。形式
的な書類だった。
﹁二年一組では君だけだそうだ﹂
天下は憮然とした顔で承諾書を一瞥した。
﹁明日持ってくる、って俺は言った。ンなことをあんたに頼んだの
かよ﹂
口調には呆れの色が濃い。確かにそれだけだったら大したことで
はない。形式的なものだし立場上推奨するわけにはいかないが、誰
かに代筆してもらうことだってできる。担任でも普通科教師でもな
い涼の出る幕はなかった。
﹁誰からサインを貰ってくるつもりだ﹂
﹁保護者なら誰でもいいんだろ? 適当に﹂
﹁電話したってさ、君の家に﹂
承諾書に片手を置いたままの状態で、天下が硬まった。
﹁掛けた先は鬼島なのに、君のことを聞いてもわからなかったそう
だ﹂
名前すら知らなかった。始終﹁どなたですか﹂の一点張り。嘘を
ついているようにも聞こえず、しかし間違いなく﹃鬼島﹄家なのだ。
佐久間が頭を抱えても無理はない。おいそれと本人に訊けることで
もなかった。
三者面談の日が思い起こされた。天下のことを一切匂わせずに帰
宅した父親。聞こうともしない母。自然であればあるほど違和感は
大きくなった。
鬼島天下はどこにいる。
﹁佐久間先生も驚いたってさ。事情を聴くにも、君はどうも家庭に
112
関しては口を閉ざしがちになる。それとなく聞いてみてほしいと頼
まれた﹂
﹁それとなく?﹂
天下は薄く笑った。
﹁直球じゃねえか﹂
﹁あいにく変化球は得意じゃないんだ﹂
自分ほど説得や交渉事に向いていない人間はいないと涼は思う。
変な理屈をこねまわすし熱意がないし、何よりも短気だ。佐久間の
人選ミス。同じ渡辺でも英語教師の渡辺民子に頼めばもっと上手く
やっただろうに。
﹁先日、君の自宅前まで行った時も様子がおかしかったな﹂
天下は顔を上げた。高校生とは思えないほど怜悧な美貌に酷薄な
笑みが張り付いていた。
﹁だから?﹂
紡ぐ言葉は突き放すかのように冷たい。が、もっともだ。鬼島天
下の家庭事情なんぞ渡辺涼には関係がない。仮に天下が修学旅行に
行けなくなったとしても涼には何の関わりもない。ただの教師と生
徒とは、そういうことだ。
﹁このままだと皆で楽しく修学旅行じゃなくなる。少なくとも佐久
間先生の気は晴れないだろう。どうして君の家に電話したのに、相
手は君の存在すら知らないのか。正直に話すか、佐久間先生の掛け
間違いで通すか、もしくは︱︱﹂
涼は天井を仰いだ。
﹁佐久間先生の納得する言い訳を適当に考えるかのどれかだ。好き
に選べばいい﹂
言ってから、もっと踏み込むべきなのだろうかと考えた。涼自身、
詮索されるのは好きじゃない。だから他人の詮索もしない。どんな
に疑惑が頭をもたげても、だ。それが自分で決めたスタンスだとは
いえ、教師としてはお節介の方がいいのかもしれない。
﹁実は母親が違うんです﹂
113
唐突に天下が言った。
﹁父には愛人がいまして俺はその子供なんです。だから暮らしてい
る場所も違いますし、三者面談にも母は来ません。父は俺のことを
必死に隠して四人家族の平和な暮らしを守っているんです﹂
恐ろしいほどに淡々とした口調だった。他人のことを話す時でさ
え、ここまで平坦にはならないだろう。
114
︵その七︶無関心過ぎるのも問題です
﹁︱︱というので、どうでしょうか?﹂
澄ました顔で天下が訊ねてくる。涼は肩の力が抜けた。
﹁昼ドラならありえる展開だな﹂
﹁現実味には欠けるか﹂
﹁私が家族に内緒で隠し子を育てるんだったら、学校側に提出する
電話番号も住所も隠し子が現在住んでいる場所にするね。間が抜け
ている﹂
天下は口元に手を当てた。しばし思案に暮れて、指を鳴らした。
﹁じゃあ、こういうのは? 母親は俺を忌み嫌っていて、憎しみが
募るあまり存在そのものを抹消してしまった﹂
﹁逆に覚えていそうなものだがな。それに、憎むには相応の理由が
必要だ﹂
﹁興味がないだけだ﹂
﹁他人のふりをするのも結構大変じゃないのか? どんなに仲が悪
くても興味が欠片もなくても学校側には何事もないように振舞うの
が普通だ。大人には体面ってものがあるし現に、君とお父さんはそ
うしている。でも君の、﹂
﹁行かないっていう選択肢もあるよな﹂
涼の言葉を遮り、天下は承諾書を突き返した。
﹁そうすりゃ保護者のサインも必要なくなる﹂
﹁一人登校して課題プリントをひたすらこなすだけだぞ。もちろん、
今まで積み立てた分の返金はない﹂
﹁別に構わねえよ。あんたが監督ならな﹂
二年生を担当する教師はほぼ全員修学旅行に駆り出される。逆を
言えば担当以外はほとんど残る羽目になるということだ。どちらに
しても面倒だ。
115
﹁残念でした。先生は一緒に行きます。君の監督はできません﹂
虚を突かれたのか天下の顔が間の抜けたものになる。一瞬の出来
事にしかし、涼は少なからず優越感を抱いた。喰えない生徒に一矢
報いたような気分になる。
﹁サイン一つのために断念するなんて、もったいないとは思わない
のか。私としては君が何食わぬ顔で修学旅行に参加してくれれば文
句はない。佐久間先生には私から言っておく。とにかく、サインを
貰ってくるなり偽造するなり上手くやれ。得意だろ? そういうの﹂
どうしても言いたくないのならそれもいい。適当に誤魔化してサ
インを貰って承諾書を提出すれば済む話だ。天下が何を隠している
のかはわからないが、はぐらかそうとしていることだけは理解でき
た。なら、これ以上詮索する必要はない。教師といえど複雑な家庭
事情に首を突っ込む権利も義務もありはしないのだ。
天下は承諾書の一点を凝視し、やがておもむろに口を開いた。
﹁先生が抱かせてくれるならいいですよ﹂
三限の授業開始を告げるチャイムが鳴った。間延びした、いささ
か力の抜ける音は相変わらず。これで五十分間真面目に勉強しろと
いうのだから、学校も無茶を言う。せめて曲でも流せばモチベーシ
ョンも変わるだろうに。
つらつらと取りとめのないことを一通り考えてから、涼は改めて
訊ねた。
﹁何だって?﹂
﹁抱かせてください。そしたら承諾書のサインもちゃんと貰って来
ますし、なんならどうしてそんな奇妙なことになるのか、説明して
もいい﹂
116
︵その八︶可愛げのある冗談にしましょう︵前書き︶
︻警告︼
今回、教育上不適切な発言がございます。人によりけりですが、
苦手な方は戻ることをお勧めいたします。程度で言えば﹁電車の中
で耳にしたら吹き出す﹂レベルです。間違っても以下のようなこと
を公共の場で口にしないでください。モテなくなります。
117
︵その八︶可愛げのある冗談にしましょう
抱く︱︱ああ、そうか。天下があまりにも真面目な顔で言うもの
だから、涼は自分の発想が飛躍しているのだと解釈した。
﹁ウチになら肉球クッションがあるけど、今はない。明日でよけれ
ば持ってくる﹂
﹁先生を、だよ。直接的表現を使うなら﹃ヤらせてください﹄﹂
眉一つ動かさずに平然と天下は言う。
﹁別の言い方をすれば、情交、密事、セックス、契る、まぐわう、
手折る︱︱まあ、どう言葉を繕っても結局は一緒だけどな。要する
に﹃突っ込ませてください﹄ということです﹂
涼は果てしない眩暈に襲われた。悪夢だ。早く醒めろ。醒めてく
ださいお願いします今すぐに。いや、むしろ意識を飛ばして無かっ
たことにしたい。
本能的に危険を察知した身体は天下から大きく離れた。
﹁落ち着け。とにかく待っ、ちょっ⋮⋮れ、冷静になろう﹂
自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。額に片手を
当て、もう片方の手で天下を宥めた。本当に目の前にいる生徒は普
通科が誇る優等生か。至極真面目な顔をしておきながら口からは教
育上不適切な単語が飛び出てくる。
一概に端整といっても、天下は硬派な顔立ちをしていた。鴉の濡
れ羽のような黒髪に映える白皙の肌。少々日に焼けてはいるものの、
なめらかな頬を持つ彼は色男である反面、ストイックさを持ってい
た。交際相手と仕事を秤にかけるとすれば、間違いなく仕事に傾く。
そして﹁冷たい﹂と非難されて別れる羽目になるようなタイプでも
あった。
そんな彼の印象を遙かに裏切る発言。これで冷静になれと言う方
に無理がある。
118
﹁早まるな。まだ若いんだからやり直しはいくらでも︱︱﹂
途端、天下が大きく吹き出した。肩を震わせ笑いを洩らす。切れ
長の目尻には薄らと涙が浮かんでいた。
﹁本気にしました?﹂
涼の頭は一瞬にして沸騰した。怒りのあまり耳鳴りがするなんて
初めてだ。握り締めた拳が小刻みに震えた。少しでも本気にした自
分の愚かさを露呈されたようで、いたたまれなかった。
﹁⋮⋮授業時間はもうとっくに過ぎてる。早く帰れ﹂
押し殺したつもりでも怒気は漏れていたのだろう。天下は笑みを
引っ込めた。
﹁何だ。怒っているんですか?﹂
﹁怒ってない。だから出ていけ﹂
﹁先生が言ったんだろ。生徒は対象外だって﹂
その通りだ。だからこの怒りは天下に対するものではない。彼を
責めるのはお門違いだ。わかっている。そんなことは。
﹁何度も言わせるな。教室に戻りなさい﹂
半ば強引に天下を追い出して、涼は鑑賞室の鍵を閉めた。息をす
るのも苦しい。崩れ落ちるように絨毯の上にへたり込んだ。止まら
ない。手の震えも嗚咽も。
恥ずかしい。情けない。いたたまれない。涼の胸を占めるのはそ
んなものではなかった。ただただ怖かった。母と同じ轍は踏まない
と自ら厳しく律してきたつもりだった。だが、現にこうして揺らい
でいる。どうして、何故、流されればどうなるか骨身に染みて理解
しているはずなのに。
自分自身が恐ろしかった。身体の中に流れる血は、涼にとって恐
怖以外の何物でもなかった。自分を捨てた母と同じ血。つまりそれ
は。
すなわち、同じ過ちを犯す可能性を秘めていることだった。
119
︵その九︶お節介は教師の性です
﹁落ちましたよ﹂
優しげな声。ハンカチを拾い上げる仕草は優雅でさえあった。く
っきりとした一重の瞼。影を落とす長い睫毛。品のよいバランスで
保たれている唇と鼻。しみ一つない肌。やはり親子だ。どことなく
繊細な所が天下に似ていた。
涼は可能な限り友好的な笑顔を取り繕って、ハンカチを受け取っ
た。
﹁ありがとうございます﹂
天下の母︱︱鬼島美加子は如才なく応じた。人見知りするタイプ
ではなさそうだ。これ幸いに涼は買い物カゴを覗き込んだ。
﹁ずいぶん買われるんですね﹂
﹁育ち盛りが二人いるもので﹂
二人。鬼島家は三兄弟のはずだ。
﹁へえ⋮⋮高校生ですか? それとも中学生?﹂
﹁上の子は来年高校です。今は受験で大騒ぎ。希望のところに入れ
ればいいんだけど﹂
難しいものですね、と微笑む。嘘をついている様子はなかった。
ますますわからない。天下愛人の子説が涼の脳裏をよぎった。それ
とも本当にすっとぼけているだけなのだろうか。
天下の父︱︱鬼島弘之が現れたのはスーパーを出た後、涼がこの
近くの高校で教師をやっていることを明かした時だった。
﹁あら、あなた、早いわね﹂
呑気なのは美加子一人だ。弘之は相も変わらず険しい顔をしてい
たが、その目は如実に涼の存在を望んでいないことを示していた。
負けじと涼も睨み返す。眼光の鋭さでは及ばないかもしれないが、
状況的には涼の方が優位に立っていた。
120
弘之には、他人に知られては困ることがある。その秘密の近くに
涼は寄ってきたのだ。スーパーで美加子と会ったのは偶然などでは
ない。そして、弘之が現れるのも計算の内だ。さらに︱︱
﹁先生っ﹂
どこからともなく天下が駆け付け、涼の腕を取った。これも予想
の範囲内。
﹁やあ鬼島君、奇遇だな﹂
﹁冗談はやめろ﹂
腕を掴んだまま、天下は力づくで涼をその場から離れさせた。そ
の際、ほんの一瞬だが弘之と目で会話したのを涼は見逃さなかった。
心配するな。あとで連絡する。言葉にすればそうだろう。涼は抵抗
もせず天下に引きずられてやることにした。
﹁連れが現れたので、この辺で失礼いたします。ご主人とご子息に
よろしくお伝えくださいませ﹂
一人蚊帳の外に置かれた美加子は戸惑いながらも﹁え、ええ⋮⋮﹂
と返答した。天下の姿を見て動揺、なんて様子はなかった。
121
︵その十︶毒を食らわば皿まで、です
スーパーから離れ、商店街の外れにある公園まで来てようやく天
下は足を止めた。
﹁あんた、何してんだよ!?﹂
怒気に満ちた形相で詰め寄ってきた。しかし、胸倉掴んで問い詰
めたいのはこちらの方だ。涼は悪びれもなく答えた。
﹁夕飯の買い物。さっきの女性とは偶然会った。話が弾んでな。い
ろいろ聞いた。来年高校受験を控えた長男と、サッカーに燃える二
男の四人家族だそうだ﹂
天下は盛大に舌打ちした。
﹁嫌がらせかよ。手の込んだことしやがって⋮⋮っ!﹂
﹁何度も言わせるな。変化球は苦手なんだ。君に聞いたけどまとも
に答えてくれなかった。なら本人に聞くしかないだろ﹂
﹁だから、どうして、他人の家庭事情に首突っ込んでくるんだ。た
だのお節介じゃねーか。迷惑なんだよ﹂
心外だ。涼は腕を組んだ。
﹁私には首突っ込んでほしそうに見えた﹂
あんな出来事があっても、六限が終わる頃には涼は冷静さを取り
戻していた。ついでに考える時間も十分にあった。結局、鬼島家が
何を隠しているのかはいくら考えてもわからなかったが、一つだけ
気付いたことがある。天下のことだ。
彼には、他人の心を試したがる癖がある。
それが意識的になのか無意識なのかはわからない。が、天下は少
なくとも涼に対しては恋慕と同時に疑念を抱いている。だから試み
るのだ。
例えば先日のオペラの一件。あれは佐久間と涼が二人で会ってい
るのを見て気を利かせたというよりは、涼がどちらを選ぶのかを確
122
かめた、と取れる。今朝の一件にしてもそうだ。挑発的なことを言
って涼の神経を故意に逆撫でした。まるで、どこまでなら赦される
のかを量るかのように。
鬼島天下は普通科が誇る優秀生徒だ。故に教師たちの覚えも良く、
生徒らの人望も厚い。だから思ってしまう。もしも、優秀生徒でな
かったら。自由奔放に、我儘に生きていたら、果たして自分は認め
られるのだろうか、と。
好かれたいと願っていながら涼にさえ試みてしまうほどに、彼は
猜疑心を抱いている。
裏を返せば、天下は今まで無条件に愛されたことがほとんどない、
ということだ。
﹁まだるっこしいのは嫌いなんだ。ほれ、さっさと吐いてしまえ﹂
眉間に皺を寄せる天下に低く耳打ちしてやる。
﹁戻ってお母様とお父様に訊いてこようか?﹂
彼の急所だ。それを知っていながら突く自分の鬼畜ぶりに自分で
呆れた。
﹁てめえ⋮⋮それでも教師か﹂
天下が目を眇めた。高校生とは思えない凄みがある。気圧されそ
うになる己を叱咤して涼は不敵に微笑んだ。睨み合うことしばし、
先に折れたのは天下の方だった。
﹁お袋に訊いたって、わかりゃしねえよ﹂
﹁じゃあ、父上殿ならわかるのか﹂
﹁お袋以外ならな。親父も統も一も知ってる。お袋だけなんだ﹂
﹁何をだ﹂
天下は短く息を吐いた。
﹁俺が中学の時にお袋が交通事故に逢ってな。まあ、見ての通りち
ゃんと回復したんだが、一つだけ戻らなかったものがあった﹂
何だと思う?
視線で問われても涼は答えることができなかった。美加子が何か
を失っているようには見えなかった。良い家族に囲まれて充実した
123
生活を送っているようにさえ思えた。
﹁俺の記憶。どういうわけか俺のことだけ覚えていなかった。旦那
は鬼島弘之。長男は統で、その下は一。そう思い込んでた﹂
124
︵その十一︶毒だけで十分な場合もあります
天下は薄く笑った。何かが抜け落ちた笑みだった。
﹁病院行った時はさすがに驚いた。お袋さ、俺を見て﹃お見舞いで
すか?﹄とか笑顔で聞いてくるんだ。同室の誰かの親類だと思い込
んで疑ってもいなかった。最初は、事故のショックで記憶が混乱し
てんだろ、とか軽く考えてたけど、全然変わんねーんだ。何度会っ
ても俺は余所の子で、自分は四人家族だと思ってる﹂
﹁カウンセラーは? 専門医に診せたのか﹂
﹁退院する前に二、三回。原因は事故で間違いはないらしい。一種
の記憶喪失だってよ。明日戻るかもしれないし、一生戻らないかも
しれない。でも、俺のこと以外はいつも通りなんだ。普通に起きて、
うるさく勉強のこととかに口を挟んで、入院してる自分のことより
も家族の飯のことを心配して︱︱何も変わってなかった﹂
そう語る天下の口調は淡々としていた。相反するように目は遠く
を見ている。涼はその眼差しに既視感を抱いた。養護施設にいた皆
が時折、こんな目をしていた。仕方ない。どうしようもない。遙か
遠くを望み見ながらも諦めてしまった眼差しだ。
涼は胸が焦がれるような痛みを覚えた。
﹁それで、家を出たのか?﹂
﹁家に他人が上がり込んでたらマズいだろ。ちょうど受験も終わっ
た頃だったし、お袋が落ち着くまで一人暮らしすることにした。親
父は反対したけど、結局は︱︱﹂
そこで天下のケータイが鳴った。﹁悪い﹂と一言断ってから耳に
当てる。
﹁こっちは大丈夫だ。お袋は?﹂
察するに父親殿だろう。天下は落ちついた様子で通話していた。
﹁⋮⋮そうか。悪かった。仕事あるのに﹂
125
おいおい。何を謝っている。涼は自分の不快指数が増していくの
を感じた。どんな会話が繰り広げられているのかが察せるだけに、
その上昇率は半端ない。
﹁俺は平気だよ﹂
どこがだ。
﹁心配すんな﹂
ちょっと待て。なんで強がっているんだ。
﹁必要ねえよ。こっちでなんとかする﹂
︵これが、高校生が親とする会話か?︶
涼は頭痛に近い憤りを覚えた。冗談じゃない。全然平気でも大丈
夫でもないだろうが。
天下からケータイを奪い取り、相手に罵声の一つでも浴びせてや
りたかった。が、当人が納得している以上、涼に口出しできること
ではなかった。自分は、天下の担任でもない。ただの音楽教師だ。
﹁⋮⋮わかった﹂
苦々しい顔で天下は頷くと、通話を切った。
﹁親父が、あんたと話がしたいとさ﹂
﹁私は話すことがない﹂
涼は素っ気なく言い放つと踵を返した。所詮、自分は天下とは何
のかかわりのない教師だ。口止めなどする必要はない。
﹁悪かったな。余計なお節介をして﹂
捨て台詞を残して公園を後にする。明日、佐久間には無理だった
ことを伝えよう。佐久間が引き下がるのならばそれでいい。納得せ
ずに自ら調べ出しても別に構わない。勝手にすればいい。
離れれば離れるほど焼けつくような焦燥感はむしろ激しさを増し
ていた。だが、どうでもよかった。関係ない。鬼島家の事情など。
天下など、涼の知ったことではなかった。
126
︵その十二︶無責任と無関心は同罪です
女性誌は何故こんなにも分厚いのか。﹃キュンキュン﹄の表紙を
めくると涼が生まれ変わったってなれないような美女が新作のジャ
ケットを着てポーズを決めていた。信じられない。これで歳下か。
そして日本人か。
﹁やっぱりピンクよね﹂
遙香が﹃ネネ﹄の一ページを指差す。必要以上に開いた胸元とリ
ボンが特徴のワンピースをこれまた高校生とは思えない女性が完璧
に着こなしていた。
﹁⋮⋮まさかとは思うが、修学旅行に着てくるんじゃないだろうな﹂
京都を闊歩するワンピース姿の遙香を思い浮かべ、涼は恐ろしく
なった。場違いにも程がある。古の都を一体何だと思っているのだ
ろうか。
﹁これくらい普通ですよ﹂
﹁君達と教師陣の価値観には相違がある。別にこっちに合わせろと
までは言わないが、服装指導をされることは覚悟しといた方がいい﹂
﹁着るものにまで口出すんですか?﹂
遙香は思いっきり不快気な顔をした。
﹁京都に行ってまで﹂
﹁外に出るからこそ、周囲の目に気を配るんだ。学校のイメージに
関わる。修学旅行だからって羽目を外されるわけにはいかない﹂
涼は﹃キュンキュン﹄を閉じた。音楽科準備室には現在、他の教
師はいない。皆部活の指導やら出張やらで席を外している。それを
幸いに遙香は恵理の机に雑誌を広げ、本人曰く﹁勝負服﹂を選んで
いる。
服選びなら教室で同級生達と盛り上がればいい、と涼は思うのだ
が、遙香にはそれができない理由があった。
127
﹁佐久間先生はどんなのが好きだと思います?﹂
意見を求められても涼はファッションに明るくない。佐久間の好
みを知るほど親しくもない。が、わざわざ訪ねてきた遙香の手間に
少しでも報いてやろうと、無い知恵を絞った。
﹁可愛い系、だと思う﹂
高校生と交際するくらいだ。少なくとも知的美人ではないだろう。
﹁じゃあピンクね﹂
遙香は機嫌良く雑誌をめくった。ころころと変わる表情は見てい
て飽きない。我儘な妹を持った気分にさせた。
一応、佐久間との関係は秘めているため、遙香は涼の前でしか佐
久間の話ができない。音楽科準備室にまで押し掛ける理由がここに
あった。涼の都合などお構いなしの所は自分勝手でもあるが、同時
に健気でもあった。それでも彼女は佐久間との関係を投げ出さずに
いる。
比べて自分はどうだろう、と涼は思った。
危ない橋は渡らない。必要以上に首を突っ込もうとしない。拒ま
れたら身を引く。何かが間違っていると気づいていても。途中で投
げ出すような無責任にはなりたくはないから。
しかしそれは無関心だ。
天下が傷ついているのも見ないふり。鬼島家が歪んでいるのも見
ないふり。無責任にならないかわりに、涼は非常に無関心になった。
傷口を目の当たりにしながら医者ではないことを理由に逃げ出すの
と同じだ。それは、途中で放り投げることよりも冷酷な仕打ちでは
ないか。
﹁今日は佐久間先生とデートじゃないのか?﹂
﹁なんか修学旅行のことで打ち合わせがあるらしいですよ﹂
時計を見る。午後五時。会議なんて聞いていないとすれば、心当
たりは一つしかない。鬼島天下だ。佐久間は彼の扱いに困っていた。
承諾書のサインもまだなのだろう。個別に呼び出して、事情を問い
ただしているのだろう。必死に平静を装い、はぐらかす天下の姿が
128
脳裏に浮かんだ。
︵またあいつ一人が責められるのか︶
ああ畜生。涼は胸の内で誰にともなく罵倒した。どうして消えて
くれない。どうして彼は自分の前で傷を曝け出した。どうして︱︱
涼は席を立った。
どうして放っておけないのだろう。
129
︵その十三︶突き進むしかありません
担任から天下の父親のケータイ番号を聞き出した。当然佐久間は
怪訝な顔をしたが、遙香の件を持ち出せば逆らうことなどできない。
それを見越して涼は佐久間に訊いたのだ。
仕事中らしく鬼島氏のケータイは留守番電話に切り替わった。怯
むことなく涼はメッセージを残す。自棄に近い勢いが涼にはあった。
一度我に返れば立ち止まって、進めなくなる。ならば迷う暇もない
くらい突き進めばいい。
鞄を取り、ネクタイを締め直し、学校を後にし、そして涼は駅前
の喫茶店にいる。運ばれてきた紅茶には手もつけずに、店内を流れ
る旋律にひたすら意識を集中させた。二つのヴァイオリンで編み込
むように作りだされる厳格なバッハのドッペル・コンチェルト︱︱
繊細で、そして荘厳でありながらどこか物悲しかった。
レパートリーを一周して二度目のバッハを聴いている時に、待ち
人は現れた。
﹁お待たせしました﹂
スーツ姿。会社から直接来たのだろう。さしずめ飲んで帰ってく
るだの言い訳して。鬼島氏がウェイトレスに注文を終え、コーヒー
が運ばれてくるまで涼は一言も喋らなかった。
﹁驚かれたことでしょう﹂
鬼島氏は言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
﹁息子から説明があったかもしれませんが、家内は記憶を失ってお
りまして。事故以来ずっとあの調子なのです﹂
﹁二年前、ですよね。記憶が戻る兆しもないと伺っておりますが﹂
﹁綺麗さっぱり抜け落ちているんです。本人の前ではとても言えま
せんが、こちらまで四人家族だったのではとふとした瞬間に思って
しまうほど、自然なんです﹂
130
沈痛な面持ちで鬼島氏はため息をついた。
﹁息子が家を出るのも当然です。耐えられないでしょう﹂
涼の中で悪魔が囁いた。本当にそうか? 逃げ出したのは本当に
天下なのだろうか。
鬼島氏は嘘をついてはいない。鬼島美加子は事故で記憶を失った。
天下の存在だけを。記憶が戻る気配もないので仕方なく天下は一人
暮らしをしている。鬼島氏は細君の記憶が戻ることを願って日々を
過ごしている。間違いはないだろう。そう、偽っているわけではな
いのだ。
ただ、一番重要な部分を隠している。目を逸らしているだけだ。
涼は冷め切った紅茶を一口飲んだ。
﹁どなたにも喋るつもりはありません。ご心配なく﹂
﹁ありがとうございます﹂
別に、あなたのためではありません。
深々と頭を下げる鬼島氏に言ってやろうかと思ったが、涼は口を
閉ざした。鬼島氏のためではないのならば、一体誰のためだろう。
佐久間と遙香の時とは全く事情が異なっている。天下のため、とは
言い難かった。
仮に秘密を守り続けたとして、それが天下にとって良いことなの
かがわからない。
﹁どうするおつもりですか﹂
鬼島氏が眉をしかめた。
﹁これからもずっと奥様の勘違いに家族全員が付き合うんですか?﹂
131
︵その十四︶限度は守りましょう
背後で人が座る気配がした。声を忍ばせるべきだろうかと涼は一
瞬考え、結局やめた。聞かれても困るのは鬼島氏だ。落ち着かせる
意味も込めて涼はティーカップに触れた。ひんやりとした感触は苛
立った気持ちを幾分静めた。が、怒りが収まったわけではない。
﹁記憶を失った奥様に非はない。貴方のせいでもない。誰も悪くは
ない。では、どうして彼一人が全部負っているんですか。おかしい
ですよ。昨日あなたがタイミング良くスーパーに現れたのも、天下
君から連絡があったからでしょう? 学校の教師に疑いを持たれた
から注意しろとか。そんな連絡をどうして高校生にさせるんですか﹂
最初に一人暮らしをすると言い出したのは天下だ。鬼島氏は一応
反対した。反対を押し切って貫いた以上、それは天下自身が選んだ
ことであり、彼が責任を負うべきことである︱︱はずがなかった。
本当に天下の父親でありたいのならば、鬼島氏は何があっても天
下一人を追い出すような真似をしてはいけなかった。最後まで向き
合うべきだったのだ。天下自身が諦めても、鬼島氏だけは諦めては
ならなかった。
陰険だと思いつつも涼は目を細めた。
﹁鬼島さん、卑怯ですよ。あなたは天下一人を切り捨てて、自分の
周りを完璧に囲ってから白々しく﹃すまない﹄と形だけ謝ってる。
実際は悪いなんて思ってませんよ﹂
﹁息子には、申し訳ないことをしていると思ってます﹂
コーヒーを持ったウェイトレスが両者の傍を通る。﹁お待たせい
たしました﹂という愛想の良い声を背中で聞き、足音が離れてから
涼は口を開いた。
﹁嘘です﹂
﹁本当です。私は彼の父親です﹂
132
﹁あなたの息子だという理由だけで、天下は抱えなくてもいい秘密
を抱えて生きています。自分を犠牲にしてまでも、あなた方の生活
を壊さないために、必死に何の問題もない優等生を演じているんで
す。そんな彼に、あなたは今まで何をしましたか?﹂
﹁どうにかしようとは思っています。今のままで良いはずがありま
せん﹂
今が最善ではないことは確かだ。しかし、最善である必要もない。
それなりに折り合いをつけて生活を送ることはできる。そして鬼島
家は無理に折り合いをつけてしまった。そのひずみが全て天下に押
し寄せてきたのだ。
鬼島氏の言っていることは詭弁に過ぎなかった。
﹁心にもない事を口にしないでください。あなたは本気で奥様の記
憶を戻そうとは思っていない。今の生活を捨ててまでどうにかしよ
うとは思っていない。ただ、天下の前では格好がつく程度に努力し
ているふりをしているだけです。転倒を避けて近くにあったものを
踏みつけて﹃ごめんなさい。でも転ぶところだったんだ﹄と言い訳
してるのと同じです。故意であろうとなかろうと、踏みつけられた
側が痛みを負うことに変わりはありません。踏みつけた側の事情な
んて関係ないんですよ﹂
故意ではない。だから仕方ない、で済む域を超えていた。悪意が
なくても人は傷つけられる。そこに加害者の意思が関与する余地は
僅かでしかない。
今となってはもうわからないが、母も手放したくて涼を手放した
のではないのかもしれない。しかし、そうであろうとなかろうと涼
が親に捨てられた事実に変わりはなかった。
鬼島氏はもう否定しなかった。
﹁何事もないかのように平穏無事に過ごしたい。でも天下には恨ま
れたくはない。それはズルいですよ、鬼島さん。天下に苦渋を飲ま
せてでも今の生活を守るのなら、彼に恨まれる覚悟を決めるべきで
す﹂
133
閉ざした口の代わりに目は雄弁に物語っていた。たかが教師だと
いうだけで、何故そこまで責めるのか。関係のないことでしょう。
まさにその通りだ。涼は薄く笑った。一体何がしたくて説教じみ
たことを言ったのだろう。やはり自分は説得には向いていないと再
認識する。相手を懐柔し軌道修正させるのではなく、弱い点を衝い
て徹底的に叩き潰してしまう。再起不能なまでに。
適当に詫びて席を立ちあがろうとした時に、背後の気配が動いた。
﹁先生﹂
低いが通りのいい声。反射的に涼は振り向いて言葉を失った。
134
︵その十五︶勢いに乗るのもたまにはいいでしょう
いつからいたのか。学生服のまま、天下は混迷の色を濃くした目
で涼を見つめていた。引き結んだ唇がかすかに震えている。開けば
溢れだしてしまうのを恐れているかのように、天下はひたすら口を
閉ざしていた。触れれば壊れてしまうのではと錯覚するほど、目の
前の少年は脆く、危うかった。
﹁よくわかったな﹂
﹁準備室に行ったら矢沢が﹂
彼女の前で電話したんだった。迂闊だった。雑誌に夢中だったか
ら大丈夫だろうと思っていたがしっかり聞いていたのか。
﹁首突っ込むなって、言ったじゃねえか﹂
責める口調は弱々しかった。いつもの覇気がない。涼は周囲に気
を配らなかったことを悔やんだ。天下に聞かせるような話ではなか
った。
﹁天下﹂
鬼島氏が呼ぶ声は無視。天下は二百円をテーブルに置いて背を向
けた。出入り口まで来たところで立ち止まり、首だけをこちらに向
けた。
﹁みんなによろしくな﹂
皮肉ともつかない言葉だが、それを告げる天下はひきつったよう
な、ぎこちない笑みをしていた。子供が親を安心させるようと浮か
べる微笑み。涼は胸が苦しくなった。
五百円玉を一枚置いて鬼島氏に一礼した。店を出て、帰宅を急ぐ
サラリーマンや学生の間をぬうように進む。時折見失いそうになる
背中にひやりとしながらもなんとか後をついていく。いつぞやの公
園にまで差し掛かったところで涼は声をかけた。
﹁鬼島﹂
135
背中が止まった。
﹁⋮⋮やけに積極的ですね﹂
優等生スイッチが入ってしまったようだ。これ以上干渉するなと
いう警告を理解していながら、涼はあえて踏み込むことにした。
﹁今日だけだ。もともと私はお節介するのもされるのも好きじゃな
い﹂
好き嫌いの問題ではなかった。怖いのだ。相手の領域に上がり込
んで傷つけてしまうことも、逆に上がり込まれて自分が傷つくのも。
だからこんな﹁お節介﹂ができるのは勢いに乗っている時だけだ。
止まってしまえば、また動けなくなる。
﹁だから、言うなら今だぞ。全部聞いてやる。君が嫌だというなら
忘れる。でも私から動くのは今だけだ﹂
﹁今までの鬱憤を、ですか?﹂
﹁言って何かが解決するわけじゃない。けど折り合いはなんとかつ
けられる。少なくとも、気分は晴れるはずだ﹂
天下は観念したように肩を竦めた。大木の陰に隠れているベンチ
に座り、その隣に手を置く。座れということらしい。いつもの涼な
ら応じなかっただろうが、乗りかかった船だ。鞄を間に置いて座っ
た。
﹁ガキじゃねえんだ。一人暮らしが寂しいなんて思ったことは一度
もない。毎日好き勝手にできるから、むしろ親父には感謝してる。
俺の我儘に文句も言わず、すまなそうに毎月金払ってくれてるし、
必要な時だけ親父面して現れてくれるし﹂
不満なんかねえよ、と天下は呟いた。涼から見れば恵まれている
方でさえあった。しかし、それはあくまでも今の状況が、だ。
﹁悪い事だとは言っていない。君自身が納得しているなら、他人の
私がとやかく口出しするべきじゃない。世界は広いんだ。そういう
家族の形があってもいい。でも、﹂
そう、どんなに合理的で物質的に恵まれているとしても﹃でも﹄
が付いてしまう。
136
﹁でも変だよな。おかしいよな﹂
涼の言葉に天下は小さく頷いた。
137
︵その十六︶それでも責任はしっかりとりましょう
﹁どうして﹃俺﹄なんだろうな。親父でも統でも一でもなくて、ど
うして俺だけをお袋は忘れちまったんだろう﹂
一人離れて住む。天下の孤独はそういう物理的なものからくるも
のではなかった。もっと奥深く、彼の存在そのものからくる孤独だ
ったのだ。
﹁前に言ったこと、あれ半分本気だった。俺はお袋に嫌われていた
んじゃないか。余所のガキなんじゃないか︱︱いろいろ考えて、戸
籍まで調べたんだぜ?﹂
自嘲気味に弧を描く天下の口元。しかし涼は何も言えなかった。
出生など関係ない、というのは恵まれた側の言い分に過ぎない。
人は誰しも自ら望んで生まれたわけではない。有無を言わさずこの
世界に産み落とされた。だからこそ願うのだ。せめて望まれて生ま
れたい、自分の親にだけは。涼の場合、その願いは叶わなかった。
天下は空を仰いだ。
﹁でも何にも出てこなかった。俺は鬼島弘之と鬼島美加子の長男、
鬼島天下以外の何者でもなかった﹂
思考は巡り巡って結局、元に戻ってしまう。どうして自分なのだ
ろう、と。
好きで記憶を失ったわけではない。だからこそ、天下は余計に傷
ついた。意味もなく、理由もなく天下という存在は母親の中から抹
殺された。悪意がないのがより一層残酷だった。彼には責めること
すら許されなかった。誰も悪くないのなら。誰にも非がないのなら、
何故、どうして︱︱
どうして、自分は忘れ去られたのだろう。
天下は悲壮めいた顔をしているわけではなかった。憎悪も怨嗟も
軽蔑すらなかった。ただ、冷めていた。見慣れた表情に涼はたまら
138
なくなった。胸に占める空虚感の名は知っている。これは、絶望だ。
つい伸ばしかけた腕を、涼はかろうじて押し止めた。
駄目だやめろ。手を差し出すな。頭の中で警鐘が鳴り響く。情に
流されればどうなるか、誰よりも涼が知っている。育てられないの
なら、どうして生んだ。無責任じゃないか。放り出すくらいなら最
初から関わらなければいい。顔も見ない母に向かって何度そう罵倒
したか。
だから天下を突き放した。彼の想いを受け入れたら、その先はど
うなる? 涼にはとても責任が持てるとは思えなかった。後先考え
ずに行動した結果、振り回される周囲の迷惑を涼は十分過ぎるほど
理解している。
だから、傷つき途方に暮れた天下に手を差し出すことはできない。
満たされるのは涼の自己満足だけだ。わかっている。そんなことく
らい。だが、だが︱︱
もう限界だった。涼は天下の頭を抱え込んで、きつく目を閉じた。
顔なんか見れやしない。抱きしめられる格好になった天下の身体が
強張ったのを腕に感じた。
﹁先生?﹂
﹁うるさい﹂
﹁誰かに見られたらどうすんだよ。最悪、クビだぞ﹂
小さく身じろぐ。涼は抱きしめる腕に力を込めた。
﹁私の知ったことじゃない﹂
宥める意味を込めて艶やかな黒髪を梳く。やがて天下は観念した
ように肩の力を抜いた。自嘲混じりに呟く。
﹁同情か?﹂
﹁そうだよ。憐れんでやっているんだ。感謝しろ﹂
天下の境遇に同情した。それだけだ。そうでなければこんな真似
はできない。だって自分は教師で、彼は生徒だ。
﹁私の教師生命を懸けて同情してる﹂
天下を抱擁することなどできやしない。憐憫だと思わなければ。
139
無責任によって何がもたらされるのかはわかっている。しかし、そ
れと同じくらい涼は孤独を知っていた。
躊躇いがちに涼の背中に手が回った。より密着できるよう、天下
が腕に力を入れる。その仕草は抱き寄せるというよりも縋っている
ようだった。
長く、感嘆にも似た吐息を皮切りに、肩が小刻みに震える。押し
殺すような嗚咽。その一つさえも取りこぼすことのないように、涼
は殊更丁寧に天下を抱きしめた。
せんせい。
低く掠れた声が空気を震わせた。頭の中で鳴り響いていた警鐘は
もう聞こえない。
140
︵その十六︶それでも責任はしっかりとりましょう︵後書
き︶
恋愛と分類すること自体間違っている拙作をお読みいただきまし
て、まことにありがとうございます。今年度は明日の更新を持って
終わりとさせていただきます。再開は1月10日を予定しておりま
す︵予定は未定︶。
本編は上記の通りなのですが、31日に番外編なるものを期間限
定で公開しようかと画策しております。あまりにも本編に甘みがな
いのでその救済策になれば幸いです︱︱が、今更ながら私め、小説
はそれなりに書いて参りましたがこと恋愛になると完全なる若葉マ
ークですので、恋愛要素入りの小説を書いた日にはいたたまれなく
なること間違いありません。ですので、10日までの限定公開とさ
せていただきます。だったら最初から書くなと言いたいところなの
ですが、いつまでも恋愛から逃げていたら何一つ成せないのでここ
は一つ恥をかき捨てて挑む所存です。
長々と失礼いたしました。
141
︵その十七︶万全を期しましょう。︵前書き︶
︻警告︼冒頭からとんでもない展開になっております。十五禁の意
味をよく噛みしめて、冷静になってから視線を下ろしてください。
不快な思いをなされても残念ながら当方は一切責任をとることはで
きません。
142
︵その十七︶万全を期しましょう。
その後はもう急転直下だ。どちらともなく見つめ合い、接吻を一
つ。唇に触れるだけのキスはやがて深くなり、互いの舌を絡め合う
ほどの濃厚なものになる。
二人手をつないだまま、天下の自宅へ行き、雪崩れ込むようにベ
ッドに倒れ込んだ。理性も倫理も吹っ飛ばしてただ快楽に身を委ね、
互いの体温だけを感じる。文明が発達しても変わらない原始的で野
蛮な行為、だからこそ気持ちが良かった。余計なものが何一つつい
ていないのが、たまらなく心地よかった。しがらみからの解放感。
後に残るのは愛しさだけだ。
︱︱とまあ、ここまでは三流フランス映画ならありうる展開だ。
しかし残念ながらここはフランスではなく日本で、これは映画で
はなく小説だった。
実際は天下が落ち着いたところで離れた。駅まで言葉を交わすこ
となくただ並んで歩いて、同じ電車に乗って、涼は先に降りた。そ
143
の際に何か声をかけてやるべきかと考えたが、気の利いたセリフが
浮かんでこなかったので結局無言で別れることと相成った。アパー
トに着く頃には、先ほどまでの自分の行いが脳裏でエンドレスでリ
ピート再生され、様々な意味で涼はぶっ倒れそうになった。
天下の母が奇跡的に記憶を取り戻すこともなかったし、鬼島氏が
心を入れ替えて天下を追いかけてくることもなかった。涼一人が動
いただけで劇的に変わるくらいなら、最初からそうしている。涼が
本腰を入れて向き合っても、天下を取り巻く状況は大して変わらな
かった。
しかし、変わったものはあった。
翌々日に天下が修学旅行の承諾書を提出した旨を涼は佐久間から
聞いた。鬼島氏のサイン入り。修学旅行にもちゃんと参加するとの
こと。一体どういう心境の変化か、涼が興味に駆られて訊いてみれ
ば、天下はいつもの優等生顔で答えた。
﹁約束しましたから﹂
意味をはかりかねて涼は眉を寄せる。天下は人の悪い笑みを浮か
べた。
﹁抱かせてくれましたよね?﹂
十秒ほど。涼の思考は停止状態に陥った。機能回復と同時に頬が
紅潮していくのが自分でもわかる。あれは冗談にもならない戯言だ
ったはず。
﹁いや、違うだろ﹂
﹁確かに俺が期待してたものではありませんでしたが、今回は譲歩
します﹂
﹁次なんてない。進展もありえないからな。だいたい、忘れると言
ったじゃないか﹂
﹁先生が忘れるのは自由です。でも俺は忘れませんよ﹂
忘れろ今すぐ。涼は一昨日の自分をぶん殴りたくなった。安易な
同情は身を滅ぼすということを失念し、うっかり天下を衝動のまま
に抱きしめてしまった。これでは佐久間達と同レベルではないか。
144
﹁三泊四日ですよね﹂
﹁あ、ああ﹂
﹁しおりによれば、自由時間がたくさんあるそうですね﹂
﹁羨ましいよ。教師に自由な時間なんてない﹂
﹁でも就寝時間後は空いてますよね? 夜は長いんですし﹂
不穏な気配を感じ取った涼がドアノブをひねる前に、天下は扉に
手を置いた。逃がすつもりはないらしい。恐る恐る顔を上げて涼は
激しく後悔した。
凄みを帯びる笑顔で天下は低く告げた。
﹁逃げんなよ﹂
肉食獣に睨まれた獲物の気持ちが良くわかる。わかりたくもない
が。
恐怖に駆られた涼が手にしていた教本で天下を張り倒し、音楽準
備室に逃げ込んだとて一体誰が責められようか。
︵く、喰われる⋮⋮っ!︶
机の引き出しから取り出したしおりを開く。赤ペンでマークし、
何度も確認した事項だ。修学旅行当日まで絶対に、天下にだけは知
られてはならない。バレたら最後。どんな暴挙に出るか涼には想像
もできなかった。
普通科と音楽科は宿泊する場所が完全に違うのだ。見学場所も違
う。同じなのは往復の新幹線の中。そして︱︱
三日目に泊まるホテルだけだ。
﹁百瀬先生﹂
涼はコピー機を使用している恵理の肩に手を置いた。
﹁後生ですから相部屋でお願いします﹂
145
︵その十七︶万全を期しましょう。︵後書き︶
これで長い長い五章は終了です。お付き合いいただきまして、本
当にありがとうございます。できれば次の六章で一区切りをつけた
いと思っております。
予告通り明日は番外編⋮⋮を公開できますよう、全力を尽くしま
す。
146
︻番外編︼恋せよ少年、ほどほどに︵前編︶
朝練終了。手早く着替えて道場を後にする。呼び止める同級生に
は手を軽く振って﹁お疲れ。放課後な﹂とあしらい、教室の方へ。
SHRの時刻が迫っているからではない。
足は最短ルートを外れ、中庭に向かった。一階奥の鑑賞室。日差
しを遮るカーテンの隙間から窓を覗き込む。天下は小さくガッツポ
ーズを決めた。
ビンゴ。
鑑賞室では演奏会が開かれている。
校舎の最南端に普通科六クラス。最北端に音楽科一クラス。つま
り、普通科と音楽科は一番接点の少ない科だった。合同授業でも一
緒にはならない。聞けば、修学旅行も別行動を取るらしい。音楽を
極めようとするだけあって、集まる生徒も一癖も二癖もありそうな
連中だ。黒塗りの高級車で送迎される生徒などというドラマのよう
な光景を、天下は高校生になって初めて見た。
世界が違う。言われるまでもなく、誰もが感じ取っていた。
こちらが七百円の教科書片手に授業を受けている間、連中は何十
万円もの楽器を片手に非常勤講師のレッスンを受けている。比べる
方が間違っていた。芸術科目で音楽を選択しても、その考えは変わ
らなかった。普通科はあくまでも教養として音楽を学ぶだけだ。
つまり、天下の入学と同時に鑑賞室にピアノブランドの最高峰と
呼ばれるスタンウェイがやってこようと、彼には全く関係のないこ
とだったのだ。一ヶ月前までは。
天下が演奏会の存在を知ったのは偶然だった。夏の到来を誇示す
るかのように蒸し暑い六月の下旬。朝練を終えて教室に戻る途中で、
147
不意に足を止めた。いつもは締め切っているはずの鑑賞室のカーテ
ンがほんの少し、開いていたのだ。
東に位置する特別教室は音楽科の領域だ。中でも鑑賞室はスタン
ウェイのピアノを始めとする高級な音楽設備が整えられているため、
常に鍵がかけられ、教師の許可なく入室することは禁じられていた。
防音もばっちり。中庭に面した窓からの日差しを遮るためにカーテ
ンで閉ざされた部屋。年頃の生徒達の間で噂が飛び交うには十分過
ぎるほど怪しい部屋だった。
真偽はどうであれ、天下もその手の噂はいくつか耳にしていた。
曰わく、絶好の逢い引きスポットで、毎日のように教師達が使用
している。
曰わく、音楽科の連中もまた、そこで盛っている。
曰わく、作曲家志望の教師が人目を阻んではそこで聴くに耐えな
い作曲活動に勤しんでいる。
どれも信憑性に欠けていたし、よくある噂だった。しかし、積極
的に調べようとは思わないが、興味がないと言えば嘘になる。これ
見よがしに隙間が開いていたら覗いてみたくもなる。
何の気なしに天下は中を伺った。
最初に目に付いたのは黒塗りのグランドピアノ。蓋を全開にする
と迫力も桁違いだった。人の背丈程もある楽器というのも、鍵盤楽
器ぐらいだ。
その、強大な楽器に挑むかのように向かって座る背広。体の線が
細い。女性だ。演奏を終えたところで時間が来たのだろう。立ち上
がった背は高かった。少なくとも、自分よりも高い。
楽譜を閉まってピアノの手入れをし、しっかり鍵を閉めた。その
間一度も後ろを振り返ることはなかった。背中を見せたまま、鑑賞
室を出て行った。
顔、見てえな。
148
それが最初に思ったことだった。
天下の願いはすぐに叶えられた。翌日も覗いて見れば、彼女は腹
筋をしていたのだ。発声練習の一環だろう。
おかげで顔を拝むことができた。全体的に色素が薄い。ともすれ
ば儚げな印象を受けるが、真っ直ぐ前を向く目には意思の強さを感
じた。眉を寄せながらも黙々と腹筋運動を続ける姿は、試合前のア
スリートのようでもあった。心は遥か先を見据えているが、足元を
疎かにしない。確実に一歩一歩進もうとしている。
腹筋を終えるとすぐに発声を始めた。残念ながら防音が施されて
いた部屋では何を言っているのかはわからなかった。が、背筋を伸
ばし、何者かに立ち向かうかのように真っ直ぐ前を見据える横顔に
は凛とした美しさがあった。
以来、朝練の後に鑑賞室を覗くのが天下の日課になった。毎日会
えるわけではない。だいたい週に一、二回、それも不定期だ。会え
た日はラッキー程度のゲン担ぎに近かった。
しかし、ゆっくりではあったが胸の内では確実に育っていくもの
があった。
蕾が僅かに開きかけたのは夏も過ぎた秋頃だった。
声を聞きたい。名前を知りたい。
湧き上がる好奇心は止めようがなかった。
担当は音楽に間違いない。それも声楽だろう。ピアノ以外の楽器
を演奏しているのを見たことがない。
ある程度情報は持っているのに、未だに名前すらわからなかった。
音楽科は外部から講師を雇っている。専任ならともかく、非常勤講
師となれば普通科との共通は皆無だ。朝礼や学校行事の際には注意
深く音楽科の方を見たが、姿を現さない。
やはり講師か。天下は肩を落とした。直接訊くしかない。しかし、
どの面下げて? 向こうは天下の存在にすら気づいていない。
149
音楽科の入学案内も確認したが、それらしき人物は見かけなかっ
た。主だった講師は写真付きで紹介されているのに。
悶々としたまま日々を過ごし、ついに三学期にまで持ち越した。
相変わらず声どころか名前すらわからない。転機が訪れたのは、話
しかけるしかない、と天下が腹を括った時だった。
英語の課題プリントを集める役を押し付けられた。大した量では
ない、が四階の教室から二階の職員室まで行くことには変わりない。
渡辺民子も面倒な仕事をさせるものだ。手早く回収し、職員室へ急
ぐ。次の授業は家庭科││移動教室だ。幸運なことに職員室前で民
子を発見。佐久間と何やら談笑していた。
﹁渡辺先生﹂
民子がこちらを向いた。
﹁はい﹂
一瞬、全身が強張った。張りのある声。職員室から無防備に顔を
出したのは、あのスタンウェイ先生だった。周囲を見回し、小首を
傾げる。
﹁お呼びになりました?﹂
佐久間と民子は顔を見合わせた。
﹁││あ﹂
民子が声を漏らした。
﹁違いますよ。リョウ先生、彼は私に⋮⋮﹂
皆まで聞く前に、リョウ先生と呼ばれた彼女は頭を下げた。
﹁失礼しました﹂
﹁同じですからね﹂
佐久間が苦笑混じりに言う。そこでようやく天下は我に返った。
﹁あの、渡辺先生⋮⋮?﹂
﹁気にしないで。同じ苗字なの﹂
課題プリントを受け取り、民子はリョウ先生を示す。
﹁声楽の渡辺リョウ先生。普通科の方にはあんまり顔を出さないけ
ど、あなた達と一緒にこの学校に来たの。もうすぐ一年になるわね﹂
150
新任。それは盲点だった。今年のパンフレットに載っているはず
がない。作成した時にはいなかったのだ。
軽く会釈する渡辺リョウを天下はまじまじと眺めた。思えば、ガ
ラス越しで見ていただけだった。生で、ましてや面と向き合うのも
初めて。
ネクタイにスーツ。間近に見ると中性的な雰囲気は強くなった。
やはり長身だ。が、天下の方がわずかばかり高い。おそらくこの半
年の間に抜いたのだろう。そんな些細なことが嬉しかった。
﹁渡辺先生、ちょっとよろしいですか?﹂
天下が口を開くよりも先に職員室から声。リョウは肩を竦めて﹁
どちらの渡辺ですか﹂と聞き返した。で、話す間もなく職員室に戻
ってしまった。取り残される格好になった天下は思わず職員室を覗
き込む。
﹁鬼島、授業始まるぞ﹂
うるせえ。何の権利があって生徒の恋路の邪魔すんだ。
佐久間に向かって吠えたかったが、残念ながら天下は優等生で通
っていた。佐久間に追随するかのようにチャイムが鳴る。後ろ髪を
引かれる思いで、天下は職員室を後にした。
151
︻番外編︼恋せよ少年、ほどほどに︵前編︶︵後書き︶
後編に続く、かもしれません。
⋮⋮すみません。予定枚数を遥かに超えてしまい、とりあえず前
編のみを公開させていただきます。今日中になんとか後編も完成さ
せます。書かねば。書く時。書けば。書こう!
宣言通り、来年最初の本編更新と同時に消します。
152
︻番外編︼恋せよ少年、ほどほどに︵後編︶
名前が判明したのは大きな収穫だった。渡辺涼。男みたいな名前
も、キッチリと着込んだスーツも、惚れてしまえばあばたもえくぼ
だ。むしろ惜しげもなく太ももを晒すクラスの女子よりも、ガード
の堅い先生の方がなんというか色気がある。隠されたものを見たい、
という欲求がわいてくるのだ。
普段は音楽科準備室にこもっているらしい。外へ出るのは合唱の
授業の時か個人レッスンの時くらい。受け持ちのクラスもないので、
職員室にいること自体少ない。運がないから見かけなかったのでは
なく、会えたことが幸運だったのだ。
意識して見れば、渡辺涼の軌跡は至る所にあった。合唱部の副顧
問。担当の学生がどこぞのコンクールで入賞。掲示板の隅で名前を
見つける度に天下の胸は高鳴った。
そして迎えた四月。天下は入学当初の選択を心から感謝した。
芸術選択の音楽、担当者に渡辺涼とあったのだ。クラスメイトで
も彼女を知っている人はいなかった。皆一様に﹁渡辺って英語じゃ
なかったっけ。女だったよな﹂と首を傾げていた。
﹁また男かよ。かったりぃ﹂
肩を落とす級友にやや呆れつつも天下は何も言わなかった。いず
れわかることだし、しばらくは自分の胸の中に留めておきたかった
のだ。
一年次と変わらず授業は鑑賞室にて行われた。面子も同じ。違う
のは教師だけだ。
﹃渡辺涼﹄とホワイトボードに書き、涼は生徒一同を見回した。
﹁渡辺です。一年間よろしくお願いします﹂
153
折り目正しく一礼。ホワイトボードに書いたばかりの名前を消し
た。
﹁では、発声練習から始めます﹂
なんという事務的挨拶。生徒一同呆気にとられる。天下も例外で
はなかった。自動販売機にだって彼女よりはまだ愛想がある。授業
の進め方とか予定とか、その前にちゃんと自己紹介しろよ、せめて
専攻くらい教えてくれ。天下の願いも虚しく、音楽の授業は粛々と
進行した。
﹁あれで一年やるのかよ﹂
鑑賞室を出るなり、誰からともなく不満が飛び出た。
決して教えるのが下手なわけではなかった。むしろ新任であるこ
とが信じられないくらい要領よく進めていた。とにかく耳がいい。
合唱中も一人一人の声を聞き分け、的確な指示を出す。担当してい
る学生がコンクール入賞するのも頷ける。が、いかんせん相手は音
楽科ではなく普通科の生徒だ。上達よりも楽しむことを優先する連
中なのだ。
受験に音楽が必要な学生は極一部だ。普通科に至っては皆無と言
ってもいい。適当に楽しめばいいんじゃね? などといい加減な態
度で臨む生徒にいくら素晴らしいレッスンをしても、温度差が違う
のだからどうしようもない。
唯一の救いは涼が始終淡々としていた点だ。熱意を持ってやった
日にはいたたまれないだろう。彼女も自分たちも。
所詮、涼は音楽科で、自分は普通科なのだ。スタンウェイの価値
すらわからない。それで当然だと、劣等感を抱いたことなど一度だ
ってなかった。が、今は釈然としなかった。情熱を持って教えるに
値しない生徒。そう思われているようで。
二回目以降も涼の態度は変わらなかった。冷淡で事務的。しかし
154
妙な威圧感があり、授業中に談笑する生徒はいなかった。慣れれば
悪くはない。不満を口にする生徒はやがていなくなった。違和感も
不快感も時の経過と共に薄れていくことを天下は知っていた。人は
それを諦めと言う。
﹁巻き舌を無理に習得する必要はありません﹂
普通科の生徒だから。言葉に含まれた意味を邪推し、天下は眉を
寄せた。音楽科の生徒ならば、何が何でも習得させただろう。
涼はホワイトボードに何やら書き込んだ。
﹃札幌ラーメン﹄
飲食禁止の部屋にそぐわない単語。ざわめきが起きる。涼は動じ
ることなく﹃札幌ラーメン﹄の下に二重線を引いた。
﹁毎日毎日繰り返し唱えることが重要です﹂
いや、真面目くさった顔で札幌ラーメンを推奨されても。虚を突
かれた生徒達の中、天下は首をひねった。既視感。どこかで見たよ
うな気がした。
﹁札幌ラーメン?﹂
読み上げた生徒に、涼は一つ頷いた。
﹁札幌ラーメンです﹂
おもむろに何度も何度も札幌ラーメンを唱え続け││確かに巻き
舌になっていた。しかし天下の興味は別にあった。
ホワイトボードの前に立ち、線を引く。その仕草。どこかで。
﹁あ﹂
今朝だ。
月曜日、朝練終了後に天下は中庭へとすっ飛んだ。鑑賞室を覗き
込む。やはりそうだ。
涼はまた一人演奏会を繰り広げていた。いや、演奏会ではない。
最初はそうだったかもしれないが、今は違う。
教卓の前に立ち、部屋全体を見回す。ピアノを演奏している時も、
155
視線は生徒の席。ホワイトボードに何やら書き込み、消す。ノート
を見ながら一つ一つ動作を確認していた。
授業の練習だったのだ。それも普通科の。涼が鑑賞室で担当する
授業はそれしかない。
案の定、二限目に行われた授業で涼は全く同じ動作をしていた。
﹁最後のツェー⋮⋮じゃなくて、ドは少し強めに﹂
え、まさか。マジ?
天下はリコーダーを構えたまま固まった。
あれだけすました顔して﹁普通科の凡人に興味はありません﹂と
言わんばかりの厳しい授業しておいて、内心冷や汗? ガッチガチ
に緊張して。だから表情も強張って事務的対応?
︵⋮⋮マズい︶
勘弁してくれ。天下はもうなんだか堪らなくなった。授業中でな
ければ机を叩いていたところだ。
そこまでやる必要はねえだろうが。たかが普通科の音楽だぞ、と
は思うものの、同時に嬉しくてわくわくした。ああ可愛いな畜生っ!
身も蓋もないことを言えば、涼は天下の好みのド真ん中を突いて
いたのだ。
努力を惜しまない人間には好感が持てる。隠しているのなら、な
おさらいじらしい。人知れず、匂わせず、しかしそれを自分は知っ
ている。自分だけは。
健気な努力に報いてやろうと授業にも積極的に参加してやった。
そのせいもあって一学期の音楽の評価は五だった。
思えば、渡辺涼は非常に律儀なのだ。だからピアノ一つにも敬意
を払う。スタンウェイだろうと中古の安物ピアノだろうと手を洗っ
てから丁寧に使う。普通科の生徒相手だろうと全力で授業をする。
どこまでも真っ直ぐで不器用。だからこそ惹かれるのだ。
二学期に入っても涼のリハーサルは続いた。それに伴い、授業に
も柔らかさが生まれた。皆は﹁ようやく普通科レベルに妥協した﹂
と解釈したが、天下には余裕が生まれたのだとわかった。涼を慕う
156
生徒も出てきて、確実に良い方へと向かっていた。相変わらず、真
っ直ぐ前を見過ぎていて生徒の顔を見ていなかったが、天下として
はそれでも構わなかった。ぴんと張った背中と横顔に惚れたのだ。
いつまでも真っ直ぐ前を向いていたらいい。
そんな穏やかな気持ちで見守っていた。少なくとも天下はそのつ
もりだった。
劇的に変わったのはとある金曜の放課後だった。シャーペンが一
本ないことに気がついた。最後に使った記憶は︱︱五限目の音楽の
授業。おそらく鑑賞室に忘れたのだろう。
百円のシャーペン。次の音楽は月曜の二限。わざわざ音楽準備室
に足を運んで、鍵を開けてもらってシャーペンを取りに行く。面倒
ではあったが、天下は準備室へ向かった。あわよくば涼に開けても
らおうと思ってのことだ。
渡り廊下を歩いている際、ふと鑑賞室の方を見ればいつも通りカ
ーテンが少しだけ空いていた。覗いたのは習慣だ。そして、天下は
目を見開いた。
鑑賞室にいたのは涼ではなかった。世界史の教師の佐久間と矢沢
だ。睦まじげに見つめ合っている。鑑賞室の噂は本当だったのか。
しかし、次の瞬間にはそんな噂など天下の頭からは消し飛んだ。
イスに腰掛ける佐久間の膝に座る矢沢。仲がよろしいのは結構な
ことだが、どうしてよりにもよって鑑賞室でいちゃつくのだ。佐久
間の手が、おそらく大して洗っていないであろう手がスタンウェイ
に伸びた時は、思わず天下は叫び出しそうになった。
やめろ触るな。それは先生の︱︱
が、突如涼が乱入。完全に瞳孔が開いた目で二人をど突き倒し、
まずはスタンウェイの無事を確認し、手入れを開始した。それが終
わると二人を正座させて、その前に仁王立ちになった。その間、天
下は一歩も動けなかった。涼の剣幕に気圧されていたのだ。
157
そして迎えた月曜、佐久間と涼が付き合っているという話を聞い
た時、天下は椅子から転げ落ちそうになった。矢沢は一体どうなっ
たんだ。その前になんで、佐久間なんかと。
天下にはそれが納得できなかった。汚い手でスタンウェイに触ろ
うとした男だ。天下含む普通科の生徒にはスタンウェイの価値はわ
からない。しかし、知識はなくとも敬意は払える。美しいと感じる
ことはできる。尊敬に値する音楽科教師達が大切にしているものだ
からこそ、天下達もまたあのピアノを重んじた。そんな最低限の礼
儀ですら、あの男は踏み躙ったのだ。
どうして、と思うことは今まで何度もあった。が、これは母の時
とは違う。鎮めようと、押し止めようとすればするほど、より一層
激しさを増した。
矢沢の様子を見ていておおよその事情は察したが、それでも熱は
燻ったままだった。何よりも気に食わないのは授業中、涼がちらち
らと矢沢の方ばかり見ていたことだ。動きもぎこちない。矢沢を意
識していることは明白だった。
ふざけんな。
嫉妬だとわかっていても抑えようがなかった。一年前からずっと
そうだった。涼は天下のことなど見てやしない。真摯な眼に映るの
はいつも音楽のことばかり。
それならまだ許せた。
だがどうして、ぽっと出のバカップルの方にはあっさり目を向け
るんだ。不公平じゃないか。自分はもうずっと前から見ていたとい
うのに。
︱︱こっち見ろよ。少しでいい、俺のことを見ろよ。
母の時は仕方ないと無理やり納得させたが、こればかりは譲れな
かった。教師と生徒。音楽科と普通科。歳の差︱︱知ったことか。
邪魔者のいない放課後に迷わず音楽準備室へ。戦略も何もあった
158
ものではない。ただ、こちらに目を向けさせるだけだ。
天下は意を決して扉をノックした。
159
︻番外編︼恋せよ少年、ほどほどに︵後編︶︵後書き︶
1000ポイント御礼アンケート三位﹁復活せよ﹃恋せよ少年、
ほどほどに︵後編︶﹄﹂
番外編を更新するまでの限定公開ですが、こんな若い時期もあっ
たのだな程度の生温かい目で見てくだされば幸いです。
160
冬休み︵その一︶帰るまでが遠足です
修学旅行から帰ってすぐ、荷物整理よりも先に涼は琴音へ電話を
かけた。
﹃あ、留守電聞いてくれたんだ﹄
﹁四件も入れられたらね。とりあえず応じてやろうとは思うよ﹂
こちらの皮肉にも怯むことなく琴音は﹃だって涼が冷たいんだも
ーん﹄と甘ったるい声で責任転嫁。手強い奴だ。こいつも、そして
︱︱不意に頭に浮かんだ人物を、涼は即座に追い払った。
待て。どうして奴がそこに出てくる。
﹃京都だよね? いいなあ﹄
﹁代わってやりたかったよ﹂
どこがいいものか。一日中生徒の面倒を見なければならなかった。
こっちは五十分の授業ですら精一杯だというのに。京都の観光どこ
ろではなかった。その上、三日目の晩ときたら、もう⋮⋮待て。落
ち着け。
再び脳裏をよぎった生徒を即座に打ち消す。
﹃︱︱で、どう?﹄
琴音の声に涼は我に返った。
﹁え?﹂
﹃年末年始は涼も暇でしょ。良かったら二人で年越ししない?﹄
それで涼はおおよその事情を察した。琴音は実家に帰りたくない
のだ。
﹁愛しのお兄様は?﹂
意地悪く訊いてみれば案の定、琴音は電話越しでもわかるくらい
不機嫌そうに。
﹃演奏旅行。二人っきりで﹄
﹁いい加減兄離れしろよ﹂
161
﹃別に、お義姉様が気に入らないわけじゃないの。むしろ好きよ。
でもね⋮⋮いえ、だからこそお正月くらいは帰ってきてくれてもい
いと思わない? 六年近く会ってないのよ?﹄
このブラコンぶりには涼も苦笑する他なかった。琴音には八年歳
の離れた兄がいる。世界的に有名なピアニストで、最近では多忙に
かまけて実家にはほとんど顔を出さない。そのことを寂しがる可愛
い妹︱︱と言えば聞こえはいい。が、結婚して家庭を築いている兄
に仕事も何もかも放り出して傍にいてほしいと願う二十歳過ぎの妹、
というのはあまりにも大人げがない。
﹃とにかく、予定は空けておいてね﹄
﹁善処はするよ﹂
﹃オペラで年越ししましょう﹄
不覚にも涼の胸は高鳴った。琴音は金持ちだけあって、貴重なC
Dや絶版になったレーザーディスクをいくつも持っている。
﹁マリア=カラスの﹃トゥーランドット﹄用意しといて﹂
﹃妙なのが好きね、涼ちゃんって﹄
やや呆れた口調。
﹃普通マリア=カラスと言えば﹁カルメン﹂とかじゃない?﹄
彼女の当たり役だ。故に大量に世に出回っている。涼でさえ持っ
ている程だ。
﹁普通じゃつまらない。あとおせち。餅はこっちで用意する﹂
﹃はいはい。もれなくドミンゴ様も揃えておくわよ﹄
涼は十二月のカレンダーに﹁オールナイト・オペラ﹂と書き込ん
だ。終業式以外何一つ予定が入ってなかった月に、とんだ楽しみが
生まれた。一人大晦日に一人正月。毎年のことなので当然と受け止
めていたが︱︱
︵あいつはどうするんだろうな︶
家に彼の居場所はない。親しい友人がいるとはいえ高校生が大晦
日を家族以外の人間と一緒に過ごすとは考えにくい。親が許さない
だろう。やはり一人なのだろうか。クリスマスも、大晦日も、お正
162
月も︱︱って。
待て。だから、どうしてそこで奴が出てくるんだ。
涼は頭を振った。修学旅行の間にずいぶんと毒されてしまったよ
うだ。これはゆゆしき事態だ。
﹃ところで涼ちゃん﹄
電話口からは呑気な琴音の声。
﹃修学旅行、どうだった?﹄
﹁聞くな﹂
163
冬休み︵その一︶帰るまでが遠足です︵後書き︶
本編が進まないので修学旅行をすっ飛ばしました。
何があったのかは、本編︵一部︶完結後に気が向いたら書く予定
です︵予定は未定︶。こんなしょうもない作者ですが、今年もよろ
しくお願いいたします。
164
︵その二︶いつまでも遠足気分ではいけません
今学期最後の授業は終了。長ったらしい終業式も先ほど終わった。
残るは要綱を見ただけでもつまらなそうな研修会が二日。それが終
われば晴れて自由の身だ。ともすれば鼻歌混じりで机整理をしそう
になる自分に涼は苦笑した。
同じ﹃お泊り﹄でも修学旅行の時とはえらい違いだ。それも当然。
自由奔放に動き回る生徒の面倒を見る必要もないし、後先考えずに
生徒と盛る教師の存在を誤魔化す必要もないし、ましてや相部屋に
されることもない。それに、鬼島天下も︱︱
︵だ、か、ら、待てって︶
思わず手中の領収書を握り潰す。これは病かそれとも故障か。ヴ
ァイオリンの弓と一緒にメンテナンスしてもらいたいものだ。誰か
診断してくれ。
帰り支度をしている涼の手元を恵理が覗き込む。
﹁渡辺先生はご実家に帰るんですか?﹂
ない実家にどう帰ればいいのだろう。想像さえしていない恵理に
わざわざ訂正してやる必要性を涼は感じなかった。こういう性格だ
からいまだに﹁リョウ先生﹂と呼ばれているのだろう。学校で涼の
本名を知ってるのは現時点でだた一人︱︱
﹁どうしたんですか⋮⋮わ、渡辺先生﹂
机に勢いよく突っ伏し、涼は沈黙した。肩を揺する恵理の声も耳
に入らない。駄目だ。ありとあらゆる意味で末期だ。
﹁渡辺先生?﹂
︵いや、そんなはずはない︶
涼は起き上がって頭を振った。
ありえない。プラシド=ドミンゴならばまだしも、何故アリアの
一つも歌えない六歳下の生徒なんぞに心奪われねばならんのだ。自
165
分はどうやら何かが不足しているようだ。そう、リリコ・スピント
とか。テノールにしては太く強靭な美声とか。
つまり圧倒的にプラシド=ドミンゴが不足しているのだ。間違い
ない。
﹁修学旅行から帰ってからなんか変ですよ﹂
﹁心配には及びません。原因は判明しました﹂
すっくと立ち上がり、涼は帰り支度を終えた。何も大晦日まで待
つことはない。一人上映会をしよう。ドミンゴを補給せねば。
﹁それでは、良いお年を﹂
足早に退散。すれ違う音楽科の生徒と挨拶を交わしつつ職員用の
玄関へ向かう。頭の中では既に選目に入っていた。﹃トスカ﹄もい
いが、やはりここは﹃オテロ﹄だ。陰鬱を湛えた重厚な美声が際限
なく発揮されるのはオテロを演じている時だ。
早くも心躍らせていた涼だが、角を曲がるなりテンションは下落
した。
﹁これは佐久間先生、奇遇ですな。それでは良いお年を﹂
﹁あ、はい、良いお年を⋮⋮って待って下さい、リョウ先生﹂
仕方なく涼は振り返る。この学校で二番目に逢いたくない人物だ。
一か月前、京都での恨みはまだ根強く残っている。
﹁今度は高級ホテルで二泊三日ですか? 止めませんが協力もしま
せんよ﹂
﹁そのことに関しては、あの、本当に、すみません⋮⋮﹂
委縮した佐久間の謝罪にも涼の気は晴れなかった。むしろ苛立ち
が募る。思えば佐久間はいつもこうだった。謝りながら涼を彼女に
仕立て上げ、謝りながら禁断の恋愛とやらの片棒を担がせ、謝りな
がら面倒事を押しつけてきた。今までも、これからもきっとそうな
のだろう。
﹁初めに言っておきますが、冬休みは予定が一杯でお二人のために
割ける時間はありませんよ﹂
佐久間が口を開く前に釘を刺す。途端、佐久間の顔が気まずそう
166
に曇るのを涼は見逃さなかった。ほれ見ろ。全く反省していないじ
ゃないか。本当に悪いと思っているのなら二度と頼み事などしない
はずだ。
﹁今度こそ良いお年を﹂
トドメとばかりに台詞を吐いて、涼は靴を履いた。さすがに佐久
間も追ってはこなかった。自分の危機には敏感な男だ。涼の怒気も
しっかり感知したのだろう。
167
︵その三︶切り替えましょう
学校で一番会いたくなかった奴が現れたのは、涼が佐久間に対す
る罵詈雑言を一通り胸中で言い終えた頃だった。
﹁今度は君か﹂
言葉の意味を察した鬼島天下は片頬を歪めて笑った。
﹁また佐久間に何か押しつけられたんですか?﹂
﹁その敬語口調、腹が立つからやめてくれないか﹂
いつになく機嫌が悪い涼に天下は神妙な顔になる。
﹁どうかしたのか、先生。授業でも弾き間違いが多いし、終業式の
時も上の空だったし、なんつーか⋮⋮最近変だよな? 何かあった
のか﹂
原因に心配されたくはなかった。元はと言えば、お前が︱︱激情
に任せて口を開きかけ、涼は我に返った。これでは八つあたりだ。
﹁別に、何も﹂
天下の追究が入る前に涼は話題を変えた。
﹁校門前で待ち伏せして、何のつもりだ﹂
天下は意外そうに目を見開いた。
﹁へえ、先生のことを待ち伏せしてたって思ってくれんのか﹂
﹁⋮⋮どういう意味だ﹂
﹁あんた、俺があんたのこと好きだって認めようとしなかったじゃ
ねえか。やれ思春期によくある一時的な迷いだの、大人に対する憧
れだの、まともに取りあっちゃくれなかった﹂
﹁君が本気かどうかについては疑問を差し挟む余地が多々ある。で
も重要なのはその点じゃない。どっちにしても私は応えられない、
ということだ﹂
﹁でもその様子だと、少しは意識してくれてんだろ?﹂
少しどころか、授業に支障をきたす程だ。しかしそれを認めるわ
168
けにはいかなかった。特に本人の前では。
﹁話がそれだけなら私は帰るぞ﹂
﹁先生は実家に帰るんですか?﹂
帰る実家がない。言い放ってやろうとして、天下も大して変わら
ない状況にあることを思い出した。
﹁いーや、友人と二人で過ごす﹂
﹁男ですか﹂
﹁残念ながら女だ。国立劇場で会っただろ? 琴音とオペラで年越
し﹂
天下は﹁そうですか﹂と小さく呟いた。落胆しているわけでもま
してや不満を抱いているわけでもなかった。寂しげだが穏やかな笑
み︱︱彼が父親に見せたのと同じものだった。
俺のことは気にすんな。大丈夫。あんたが悪いわけじゃない。
軽く突き放すことで赦そうとしている顔だ。罪悪感に囚われるこ
とがないように。
そこまでしてやる義理があるだろうかと、涼は不思議に思った。
恨み事は踏みつけられた者にのみ許される特権だ。涼が自分を捨て
た母をなじる権利があるように、天下もまた自分を忘れた母とそれ
に追随する家族を責める権利がある。恨み事の一つぐらいは言って
もいいはずだ。でなければ不公平だ。
そんな風に考えるのは、涼と母親との距離があまりにも遠いせい
か。それとも天下の心が非常に広いせいか。どちらだろう。
︵仮に母が目の前にいて、家族と幸せに暮らしていたとしたら︱︱︶
母を赦せるだろうか。故意に自分を切り捨てて得た幸せに浸る母
を。
﹁部活はいつまでだ?﹂
不毛な考えを振り払うように涼は訊ねた。
﹁二十八日までです。新年は四日から﹂
それまで鬼島天下は一人で過ごすことになる。今さらだ。もう二
年以上、彼は一人で暮らしている。さすがに慣れているだろう。寂
169
しがるなんて、天下らしくもない。
︵⋮⋮阿呆らしい︶
他人の正月を気にしている場合か。そう思うものの、涼はついに
﹁良いお年を﹂と天下に言うことができなかった。
170
︵その四︶相手の陣地です
﹁で、結局何があったの?﹂
予想はしていたが、琴音の興味は始終修学旅行にあった。都内有
数のマンションに涼を招き入れ、茶をすすって一息。明日に向けて
おせちの準備を始めてもしつこく追究してきた。涼としては触れた
くない話題。しかし三日間世話になる以上、譲歩はするべきだ。適
当に琴音の興味を満たすことにした。
﹁まあ、なんというか、喰われそうになったんだ﹂
﹁肉食獣?﹂
﹁とびきり獰猛な﹂
頷いてから、涼は小首を傾げた。時折見せる眼差しは明らかに獲
物を狩る肉食獣のものだ。しかし六歳上の、それも教師を相手とな
ると、守備範囲の広さを考えさせられる。
﹁雑食、かもしれない﹂
重箱に黒豆を詰めていた琴音の手が止まった。
﹁所構わず?﹂
﹁いや、本人の面がいいからな。毎日眺めてる自分の顔を基準にし
たらかなりの面食いになると思う。文武両道だし、その気になれば
美女がよりどりみどりだろうな﹂
﹁その面食いさんに食べられそうになったんだ。よかったね。お眼
鏡に適ったってことじゃない﹂
作業を再開。あくまでも琴音は呑気だ。
﹁だから雑食なんだって﹂
冷静に考えれば単純なことなのだ。
﹁毎日豪華料理食べていたらさすがに飽きるだろ? なんか粗末な
もの食べたいなーとか考えていたら、ふと目についたカップラーメ
ンだって美味しそうに思えるものさ﹂
171
﹁私、カップラーメン好きよ﹂
﹁奇遇だね。私もだ。しかしカップラーメンと高級フカヒレスープ
が並んでいたら、やっぱりフカヒレスープに手を伸ばすわけだ、結
局は﹂
琴音は複雑な顔で冷蔵庫からカマボコを取りだした。
﹁でもその雑食さんはカップラーメンがいいんでしょ?﹂
﹁興味本位で喰われかけたこっちは、堪ったものじゃない﹂
ふーん、と気のない返事をして琴音は再び冷蔵庫を開ける。
﹁で、逃げてきたんだ﹂
﹁当然だ。相手にできるか﹂
﹁それなら大丈夫よ﹂
他人事だと思っているのか琴音は軽く言う。
﹁まあ、喰われたいと思っちゃったら諦めるしかないけどね﹂
涼は昆布巻きを詰める手を止めた。
﹁⋮⋮﹃喰われたい﹄と思わなければ大丈夫?﹂
﹁嫌なんでしょ。じゃあ、食べられる心配はないよ。相手は生徒。
あんたは教師。明らかに有利じゃない。こっちは成績握ってんのよ
?﹂
なるほど。全ては自分次第なのだ。涼は目から鱗が落ちるようだ
った。天下の動向ばかり気にしていたが、こちらが山のように揺る
がない態度で毅然と応じれば、雑食獣の一頭や二頭、どうというこ
とはない。流されないことが肝心だ。安易な同情、余計な世話焼き
は極力控えよう。
時が経てば情熱も冷める。カップラーメンよりもフカヒレスープ
の方が断然良いことに天下も気づくだろう。
来年の目標﹃風林火山﹄。書き初めよろしく方針を固めたところ
で、コタツの上に放置していたケータイが鳴った。ディスプレイを
見たら知らない番号。警戒しつつも通話ボタンを押す。
﹃⋮⋮先生?﹄
172
︵その五︶どこであれ、鴨は鴨以外にはなれません
其の疾きことは風のごとく。涼はすぐさま戦術的撤退に努めた。
﹁間違いです﹂
﹃いや、思いっきりあんたじゃねえか﹄
﹁おかけになった電話は現在電波の届かない場所にいるか、電源が
入っていないため、かかりません﹂
﹃ンな愛想のねえオペレーターがいるか﹄
愛想をふりまく必要性を感じないのだから当然だ。むしろふりま
いたら危険だ。鴨がネギを持って人前で踊るようなものではないか。
間違いなくステップを踏むことなく鍋行きだ。そしてご馳走様。鴨
さん、さようなら︱︱なんて展開はご免こうむる。
﹁機械ですから事務的に﹂
﹃ずいぶん応用が利くメッセージだな﹄
電話越しに天下の低い笑い声が聞こえた。プラシド=ドミンゴと
は全く違う声音にしかし、涼は抵抗する気力が削がれていくのを感
じた。
﹁どこで番号を入手した。佐久間先生か、百瀬先生か﹂
﹃最初にかけてきたのは先生の方ですよ﹄
記憶を辿る。思い出すのに時間はかからなかった。﹃カルメン﹄
の時だ。失踪した天下を捜すべくクラスメイトから番号を聞いてか
けたのだ。
﹁消しておけ﹂
﹃冗談だろ。あんたの番号だぜ?﹄
なおさら消せ。今すぐ。こっちが番号を変えてやろうかと涼が密
かに画策していたら、天下が言った。
﹃変えんなよ、番号。そんなに嫌ならもうかけねえから﹄
見透かされた屈辱よりも、天下の物わかりの良さに情けなくなっ
173
た。これでは自分が我儘を言っているみたいではないか。
﹁で、何の用だ﹂
沈黙。
﹁鬼島?﹂
﹃良いお年を﹄
次の言葉を待ったが、それきり天下は何も言わなかった。まさか、
それだけのために電話してきたのだろうか。ともすれば無下にする
こともできず、涼はケータイを持ったまま立ち尽くした。
﹁涼ぅ⋮⋮﹂
背後から情けない声。振り向けば琴音が悲痛な表情でうなだれて
いた。
﹁ごめん﹂
﹁何が?﹂
﹁初めに私は謝ったからね? だから怒らないでね。ねちねち嫌味
を言うのもナシ。冷静に。誰だって失敗というものはあるものよ﹂
﹃先生? どうしたんですか﹄
涼は耳からケータイを離した。
﹁本題に入れ。何がどうしたんだ﹂
﹁端的に言えば﹂
琴音は重箱の空いた一角を重々しく指で示した。
﹁⋮⋮伊達巻、忘れちゃった﹂
174
︵その六︶だから鴨であることを忘れてはいけません
ごーん。除夜よろしく重厚な鐘の音が一つ、涼の頭の中で響いた。
昨日、デパートで必ず買っておくように厳命しておいたのに。
﹁買えばすむ話だ﹂
﹁九時過ぎよ? デパートなんて閉まってるし⋮⋮﹂
﹁コンビニ﹂
﹁仮にあったとして涼、あなた市販の甘ったるい伊達巻で満足でき
る?﹂
﹁う⋮⋮っ﹂
涼は小さく呻いた。無理だ。でなければ、口を酸っぱくしてデパ
ートで買っておくように言ったりしない。
﹃伊達巻?﹄
いくら貧乏教師とはいえ、年始早々コンビニの伊達巻なんて悲し
過ぎる。この状況を打破すべく涼は思考を巡らした。考えて考えて
考えて︱︱導き出された結論はただ一つ。
﹁⋮⋮忘れるか普通?﹂
﹁だから最初に謝ったじゃない﹂
琴音は口をとがらせる。涼は額に手を当てた。
﹁なんたることだ。我々に新年の夜明けはないというのか﹂
﹃いや自分で作れよ、伊達巻ぐらい﹄
そういえば、まだ繋がっていたのだ。涼はため息をついた。
﹁重大な問題が発生した。切るぞ。良いお年を﹂
﹃なあ︱︱﹄
電源ボタンにのせた涼の指が止まった。
﹃俺、作ってやろうか?﹄
175
︵私は反対した︶
誰に言うともなく涼はコタツの中で主張した。
︵たかが伊達巻⋮⋮いや、伊達巻は重要だ。正月を迎えるにあたっ
て欠かせないキーアイテムであることは私も認めよう。だが、しか
し︱︱︶
涼は台所へ目をやった。黒エプロンに青のバンダナ。格好も、そ
して簾を扱う仕草も非常に様になっている。実に結構なことだ。
彼が鬼島天下でなければ。
﹁呼びつけるか? 九時過ぎに﹂
﹁だって来てくれるって言ったんだもん﹂
ねー、と隣に立つ琴音に同意を求められ、天下は如才のない笑顔
で応じた。
﹁押し掛けてきてすみません﹂
﹁まったくだ﹂
﹁涼、なんてことを言うの!﹂
﹁気になさらないでください。いつものことですから﹂
人の良いフォローを入れる天下。琴音の中で鰻登りの如く天下へ
の好感度が上昇していくのが、リビングからでもわかった。反比例
して涼の株が下落していくのも。
176
︵その七︶狼を招くなんてもってのほかです
﹁少しは見習いなさいよ﹂
冗談ではない。涼はミカンに手を伸ばした。台所の二人は伊達巻
に没頭していて、涼のことなど放置状態だ。鼻を鳴らしたところで、
天下と目が合う。
反射的に身構える涼に対し、天下は小首を傾げた。そして︱︱
にやりと。琴音の前で見せた好青年の笑顔とはまるで違う、不敵
な笑みを浮かべたのであった。皮を剥いていた涼の手が止まった。
おい、ちょっと待て。オーブンの卵に夢中の琴音に涼は内心呼び
かける。気付け。そいつは似非優等生だ。獰猛な雑食獣だ。無害な
山羊のふりをしているが実は狼で牙を剥いているんだ。
﹁ちょっと焦げましたね﹂
﹁わあ、いい匂い⋮⋮﹂
とか平和な会話を交わしつつ、伊達巻作り続行。ほのかに甘い匂
いがこちらにまで漂ってくる。天下は手際良く巻き簾で形を整え、
輪ゴムで固定した。
﹁冷まして切れば出来上がりです﹂
子供のように琴音は目を輝かした。
﹁涼も見なよ。凄いよ、本物よ!﹂
﹁はいはい良かったな﹂
涼はミカン一切れを口の中に放り込んだ。コタツの上は消費した
ミカンの皮で山が出来上がっている。ふと手を見れば指先は黄色く
変色。
そのことに気を取られていると、傍らに天下。いそいそとエプロ
ンを外してスポーツバッグにしまい込む。バンダナを外した髪はと
ころどころ癖がついてはねていた。
﹁用が済んだらさっさと帰れ。電車がなくなるぞ﹂
177
涼としては精一杯の優しさを込めた台詞。が、琴音は我が耳を疑
うとばかりに非難に満ちた視線を投げかけるてくる。
﹁あなたそれでも人間? 作ってもらって﹃ハイさようなら﹄はな
いでしょう﹂
打って変わって愛想良く。
﹁狭いけど我が家だと思ってくつろいでね﹂
今度は涼が耳を疑う番だった。天下も天下で﹁すみません﹂とか
口では言いながらコタツの中に根を張る始末。遠慮しろ。
﹁いや、でも電車が﹂
﹁泊まればいいじゃない﹂
事もなげに言ってから琴音は﹁あ、でも着替えとかはどうしよう﹂
と今さらなことを口にした。問題にすべき点はそこではなかったが、
これ幸いに涼は便乗することにした。
﹁さすがに、服を貸すわけにはいかないよな。やっぱり﹂
﹁でもお兄様のが何着かあったと思うわ﹂
なんで妹が兄の服を一人暮らしの自宅に置いておくんだ。絶対お
前実家から持ってきただろう。何着か失敬してきただろう! とか、
そういう突っ込みはさておき。愛しの愛しのお兄様の服をあっさり
貸すほど、天下に懐柔された琴音が信じられなかった。伊達巻を作
っている間に一体何があった。
﹁お、おかまいなく﹂
さすがの天下も琴音の勢いに気圧され気味。良い傾向だ。
﹁そうだ。借りる側の気持ちも汲んでやれ。無理に押し付けるのは
よくない﹂
﹁合宿用の着替え一式持ってきてますから。大丈夫です﹂
涼は積み上げてきたミカン皮の山に突っ伏した。
﹁⋮⋮着替え?﹂
﹁合宿セットです﹂
澄ました顔で天下はスポーツバッグを脇に置く。簾を持ってくる
にしては大きい荷物だとは思っていたが、まさか。
178
︵最初から泊まり込むつもりだったのか⋮⋮っ!︶
天下の用意周到さに涼は戦慄した。
179
︵その八︶他人の失敗は末代まで語り伝えましょう
﹁じゃあ問題ナシね﹂
大アリだ。
﹁二人とも一体何を考えているんだ。仮にも一人暮らしの女性の家
に﹂
﹁出たよ化石思考。教師の鑑というか、相変わらずというか⋮⋮あ
んたさあ、世の中の男は全部危険だと思ってない?﹂
呆れの混じった眼差しを注ぐ琴音。涼は口を噤んだ。別に、全人
類の半分を警戒しているわけではない。そんなことをしていたら気
が滅入る。天下だから危険なんだ。いつの間にか隣に陣取った似非
優等生を涼は指差した。
﹁私は教師、こいつは生徒っ!﹂
﹁あんたは客人、私はこの家の主。決定権は私にあるわ﹂
一切の反論を許さず琴音は背を向けた。足取りも軽く寝室の方へ。
予備の布団を出すつもりだ。涼は空いた口が塞がらなかった。
﹁先生がやり込められているところ、初めて見ました﹂
﹁そうか良かったな。じゃあ帰れ。ここは私の憩いの場だ﹂
﹁ミカン食べ過ぎです。伊達巻の分は空けておいてくださいよ﹂
全くかみ合わない会話。一年が終わろうとしているこの時も、天
下と涼は大して変わらなかった。
﹁言っておくが、ここで紅白が観れると思うなよ﹂
﹁観ねえよ﹂
﹁第九も駄目だからな﹂
﹁興味ねえって﹂
﹁オペラで年越し。プラシド=ドミンゴ万歳だからな﹂
﹁お好きにどうぞ﹂
横顔からも天下が上機嫌なのはわかった。いきなり呼び出されて
180
伊達巻を作らされて、何故そこまで喜べるのか理解し難い。
﹁観ないんですか?﹂
天下に指摘されて涼はレーザーディスクを再生した。琴音お秘蔵
のオペラコレクション。全てはピアニストの兄から引き継いだもの
だ。単調とも言えるアリアを独特の声で歌い上げるマリア=カラス。
その声はまさに魔性だ。
﹁はーい、お待たせ﹂
別に待っていたわけでもないが。琴音がコタツに入ったのは、マ
リア=カラス演じるカルメンが衛兵を誘惑しているシーンだった。
余裕かつ大胆なアプローチ。艶然と微笑む姿は粗忽な衛兵の十人や
二十人くらいならば簡単に虜できるほど魅惑的だった。
﹁懐かしいね、カルメン﹂
琴音は赤ワインを注いだグラスを涼の前に置いた。さらに天下の
前にも同じものを置こうとするのを涼は阻止した。未成年飲酒を見
過ごすわけにはいかない。
﹁お二人は大学の同期ですよね?﹂
﹁同じ声楽科でおまけに同じソプラノ﹂
﹁腐れ縁だよ﹂
その始まりがこの﹃カルメン﹄だ。
﹁最初は涼がカルメンやるはずだったのに降りたのよ。その代役が
めでたく私にまわってきて︱︱﹂
﹁感謝の気持ちとしてミネラルウォーターをぶっかけてくれたわけ
だ﹂
﹁まだそれを言うのね﹂
琴音は不貞腐れたようにワインを一気に飲み干した。
﹁理由もなく降りられたら屈辱と感じて当然よ﹂
﹁何度も言わせるな。私の声音はカルメンに向かなかったんだ。ア
ルトにすればいいものを﹃ソプラノから出したい﹄とか意地を張る
教授が悪い﹂
﹁声音というより、性格が向かなかったんじゃないの?﹂
181
琴音は意地悪く七十インチの大画面で歌うカルメンもといマリア
=カラスを指差した。お色気でまんまと衛兵を骨抜きにし、脱走を
果たした悪女。
十秒ずつ、テレビのカルメンと涼を交互に見た後に天下が呟く。
﹁⋮⋮先生が演じる姿が想像できません﹂
そんなこと、言われなくても自分が一番良くわかっている。だか
ら降りたんじゃないか。涼は赤ワインを二杯立て続けに飲んだ。
182
︵その九︶自分の失敗は笑ってごまかしましょう
﹁もともと私は﹃トゥーランドット﹄をやりたかったんだ﹂
負け惜しみにしかならなかった。自分は途中で投げ出したのだ。
違う。投げ出す以前に、手を伸ばそうともしなかった。定期公演の
主役。誰もが憧れる晴れ舞台の中心。届く場所にいながら諦めたの
だ。
﹁どーせプラシド=ドミンゴのを観て相手役がしたくなっただけで
しょ﹂
﹁そんなに凄い人なんですか?﹂
無知は時に罪となりうる。今の天下がまさにそれだ。
﹁世界三大テノールの一人。元バリトンの声質を生かした厚みのあ
る歌唱をする。音域も広いからレパートリーも豊富。オールマイテ
ィーな歌手だ﹂
﹁そんでもって顔もスタイルいいのよ。オペラ歌手にしては﹂
琴音が断りもなく上映途中の﹃カルメン﹄を消してDVDを挿入。
﹃トゥーランドット﹄だ。もちろんカラフ王子役はかの三大テノー
ル、プラシド=ドミンゴ。
﹁だからこの子、昔から面食いで年上趣味だったってわけ﹂
天下は平然を装っていたが、涼にはわかった。少なからず動揺し
ている。しかしまさか、涼が今まで色恋には目もくれずにひたすら
音楽街道まっしぐらだと思っていたのだろうか。失礼な話だ。ブラ
ウン管越しとはいえ、人並みに恋心だって抱く。
聞き逃してしまうほど小さな声で天下が呟いたのが聞こえた。
﹁⋮⋮年上趣味﹂
そこかよ。突っ込もうとして涼は舌が回らないことに気がついた。
飲み過ぎたようだ。中和したいところだが、こたつからは離れ難か
った。天下と目がかち合う。不安の入り混じった表情はまるで子犬
183
のようで、なんだか可愛らしかった。ふてぶてしい似非優等生の面
影などどこにもない。
涼は天下に手を伸ばした。跳ねている髪を直すつもりで撫でる。
指の隙間から零れ落ちる艶やかな黒髪。感触が気持ちいい。何度か
梳くと天下が大きく目を見開いた。
﹁せ、先生?﹂
ああ、瞼が重い。重力には逆らえず、涼は突っ伏した。
﹁そういえば、意外にお酒弱いのよね﹂
﹁これだけ飲めば普通、酔いつぶれると思いますけど﹂
肩に柔らかくて温かいものがかかった。毛布か何かをかけてくれ
たらしい。どちらだか知らないが、どうもありがとう。つんと鼻に
くる煙草の香りが珠に傷だけど。
﹁本当はね﹂
遠巻きに琴音の声。
﹁周囲に反対されたの﹂
﹁どうして? 誰に?﹂
﹁あんまり練習にも顔を出さなかったし、二年生のくせに先輩を差
し置いて主役でしょう? やっかみよ、要するに。おまけに涼は昔
からこういう性格だから﹂
﹁わかります。可愛い後輩っていうタイプじゃないですよね﹂
大きなお世話だ。
﹁しおらしく涙の一つでも見せればいいのに意地張るし⋮⋮生徒に
もあんまり好かれてないでしょ﹂
﹁そうですね﹂
あっさり言いやがったな。嘘でもいいからそこは否定しておけ。
顔を上げる気力もわかなかった。耳元にはトゥーランドットの美し
さに心奪われたカラフ王子の情熱的な歌声が響いていたが、それも
やがて遠のいていく。
﹁でも嫌われてもいませんよ。生徒だって馬鹿じゃありませんから、
一生懸命やってることぐらいわかります﹂
184
末期だと涼は思った。プラシド=ドミンゴの声よりも天下の声が
心地よく感じるなんて。
185
︵その十︶ごまかせないこともあります
トゥーランドットが駄々をこねる声で涼は目が覚めた。時計を見
れば既に年は明けている。
馬鹿デカいテレビではちょうど、カラフ王子もといプラシド=ド
ミンゴが見事トゥーランドットの個人的極まりない謎かけを解き明
かし、民から賛歌を浴びていた。約束では、トゥーランドット姫は
謎を解いた者の妻になるはずだった。が、彼女はいざカラフ王子が
全ての謎に答えると﹁私は誰のものにもならぬ﹂と我儘を言いだす
のだ。
なら最初からそんな条件出すなよ、と涼はトゥーランドットの必
要以上に長い髪を掴んで説教をかましてやりたかった。謎に答えら
れなかった求婚者は次々と斬首しておきながら自分は破るんかい。
﹁ん?﹂
そこでようやく、涼は自身の肩にジャケットが掛けられているこ
とに気がついた。ほのかな煙草の匂い︱︱未成年喫煙だ。
﹁まだ帰ってなかったのか﹂
﹁泊まっていけと言われましたから﹂
悪びれもなく天下は涼の隣に腰掛ける。その手には缶コーヒーと
緑茶。近所のコンビニで買ってきたのだろう。
﹁喉渇いてんだろ?﹂
妙に気の利く奴だ。コタツに放置しておいたワイングラスも山積
みだったミカンの皮も跡形もなく片付けてある。一人暮らしのせい
か、それとも長男気質と言うべきか。
涼は財布から百二十円を取り出して天下に渡した。
﹁別にこれくらい﹂
﹁生徒に奢られてたまるか﹂
天下は愁眉を顰めた。
186
﹁学校じゃあるまいし﹂
﹁残念ながら教師は二十四時間年中無休なんだよ﹂
渇いた喉に冷たい緑茶が沁みる。天下もプルタブを開けてコーヒ
ーを一口。約束は守るべき、と周囲に諭されるトゥーランドットに、
カラフ王子が優しく手を差し伸べる様をぼんやりと観ていた。
﹁琴音は?﹂
﹁ついさっき寝室に﹂
﹁客を放置して、さっさと寝床に入ったのか﹂
薄情な奴め。風邪をひいたらどうしてくれる。
﹁俺がこのままでいいって言ったからな﹂
まあ、なんと心の広いこと。天下の下心を知っていながらも涼は
半ば感心した。男に限らず、人間というものは結構単純にできてい
る。相手の気を惹きたいと思ったら大抵の無茶は平気でするものだ。
﹃私は何としても拒む﹄
我を通そうとするトゥーランドット。反対する周囲の中で唯一彼
女の味方になったのは当の本人であるカラフ王子だった。
﹃あなたは三つの謎を出し、私はそれを解いた。私は一つだけ謎を
出そう。あなたは私の名前を知らない。その名を当てていただこう﹄
おいおいプラシド=ドミンゴよ、いくら惚れているとはいえ、そ
こまでやるか。無茶にも程があるだろう。命を賭けた誓いがある以
上大義名分はカラフ王子にあるというのに。彼が譲歩する必要も義
理もない。
﹃私の名を夜明けまでに。そしたら私の命を差し上げよう﹄
優しく包み込むようなテノール。私がトゥーランドットならば、
と涼は不意に思った。まず間違いなく惚れている。たとえそれが舞
台にいる間の夢だと知っていても。
﹁先生﹂
﹁今いいところなんだ。黙って観てろ﹂
﹁明けましておめでとうございます﹂
涼は思わず天下の顔を見た。ふざけている様子はない。プラシド
187
=ドミンゴの張りのある歌声。﹃トゥーランドット﹄で一番の聞か
せどころのアリアが涼の耳を通り過ぎた。
﹁⋮⋮あ、明けましておめでとうございます﹂
﹁今年もよろしくお願いします﹂
折り目正しく一礼。何がどうよろしくなのかは突っ込めなかった。
プラシド=ドミンゴが歌う﹃誰も寝てはならぬ﹄。テレビではカ
ラフ王子が高らかに勝利を宣言していた。
188
︵その十一︶先手必勝です
琴音が起きてきたところで、お雑煮を作った。贅沢にも鶏肉でだ
しを取ったものだ。費用と手間を考えれば正月でなければできなか
っただろう。おせちには伊達巻が収まり、人並みの新年を迎えた。
﹁︱︱で﹂
涼は弾力のある伊達巻を嚥下した。
﹁どうして君はさも当然のようにここにいるんだ﹂
﹁食べていけと誘われましたから﹂
遠慮なく天下はお雑煮をすする。おせちにも箸を伸ばしカマボコ
を一口。箸の持ち方に妙な癖があった。
﹁社交辞令って言葉を知っているか﹂
﹁涼、新年早々生徒を苛めないの。だから嫌われるのよ﹂
いっそ憎まれた方がマシだ。涼は新年早々ため息をついた。
﹁生徒と年越しすることは問題だと思わないのか﹂
﹁不可抗力よ。それに二人っきりじゃないんだから大丈夫﹂
年が明けても琴音は呑気だ。たった一晩で何かが劇的に変わると
は期待していない。が、もう少し一般常識を身につけるべきだ。こ
れだから温室育ちは︱︱ため息二つ目。
﹁だいたい、なんでタイミング良く電話なんかしてくるんだ﹂
天下は端整な外見を裏切ってかなりの健啖家だった。餅三個をあ
っという間に平らげて、おせちから具を少しずつ自身の皿に移す。
一応遠慮はしているらしい。
﹁聞いてるのか﹂
数の子を頬張りながら天下はちらりと涼に目を向けた。
﹁ンなもん、あんたの声が聞きたかったらに決まってんじゃねーか﹂
嚥下して今度は伊達巻をよそう。あっさりと告げられた言葉を涼
が理解するのに数秒の時を要した。
189
﹁⋮⋮はい?﹂
﹁あー今年も終わっちまうんだなあ、って思ったら最後に声聞きた
くなって、そしたらなんか伊達巻作れなくて困ってるようだし、こ
の時間帯に押し掛けたらきっとなし崩しに一緒に年越せんだろーな、
って思ったんだよ。幸い榊さんは先生とは違って親切にしてくれた
しな。飯まで誘われて退けるかよ。願ったり叶ったりじゃねえか﹂
天下の視線はあくまでも豪華盛り合わせのおせちにある。
﹁俺はガキですから、利用できるもんは何でも利用します﹂
それが何か? と言わんばかりに天下は堂々と言ってのけた。完
全に開き直った態度だ。涼は新年早々卒倒しそうになった。
いやいやいや気づいていたとも。天下の下心くらい。ここまであ
からさまにやられて気づかない方がおかしい。しかし︱︱涼は向か
いに座る教え子をまじまじと見た。
天下は何事も無かったかのようにお雑煮を食べている。
﹁涼、顔赤いよ﹂
﹁飲み過ぎました﹂
﹁⋮⋮なんで敬語なの?﹂
動揺しているからです。涼は内心頭を抱えた。
︵さらりと小っ恥ずかしいことを⋮⋮っ!︶
しかも︵琴音とはいえ︶人前で。最近の高校生はみんなこうなの
か。恥知らずなのか。オペラ並に直接的な台詞。舞台の上ならばと
もかく、何故日常生活で平然と言えるのだ。
案の定、琴音は﹁もう諦めなよ﹂と言わんばかりの視線をよこし
てくる。面白がっているのは明白だ。なんと薄情な友人だろう。も
しくはこの状況に対する危機察知能力が欠如しているとしか思えな
い。これはゆゆしき事態なのだ。鬼島天下は生徒で六歳下で、自分
は六歳上の教師なのだ。
新年早々、涼は先行きに不安を覚えた。
190
︵その十二︶年中無休なのです
何はともあれ、おせちを平らげ正月の特番を目的もなくだらだら
と観て︱︱そこまでは良かったのだ。今年もこんな感じに平穏無事
に過ぎればいいなあ、と涼が呑気に思った時にケータイが鳴った。
メールならば後回しにするところだが、あいにく電話だった。
﹁佐久間先生?﹂
液晶画面に表示された名前に涼は目を見開いた。天下もまた過敏
に反応。怪訝な顔をする。
﹁何の用だよ﹂
﹁私が知るわけないだろ﹂
とりあえず通話ボタンを押す。
﹁明けましておめでとうございます。何か御用ですか﹂
﹃あの、今⋮⋮どこにいるんですか?﹄
間違いなく佐久間の声。が、涼は違和感を覚えた。いつになく声
が堅い。
﹁どうかなさったんですか?﹂
佐久間は言葉を選ぶように控え目に言った。
﹃今、たまたま矢沢さんと渡辺先生に逢いまして⋮⋮﹄
すぐさま涼は状況を察した。佐久間の言う﹃渡辺先生﹄とは英語
の渡辺民子。そして、一人ならばともかく学校関係者二人と偶然会
うことはまずありえない。
﹁矢沢さんと会っている現場を渡辺先生に捉えられた、ということ
ですか﹂
﹃⋮⋮はい﹄
﹁そんでもって咄嗟に私と一緒に来ていることにした、とか?﹂
﹃その通りです﹄
﹁今もそこに渡辺先生がいらっしゃる、と﹂
191
蚊の鳴くような声で肯定する佐久間。涼は頬がひきつるのを感じ
た。新年早々とんでもない事態を引き起こしやがったよ、この迷惑
カップル。
﹃大変申し訳ないのですが⋮⋮﹄
駅構内にあるファミレスの名を挙げる。十五分もあれば行ける場
所だ。涼は目を閉じた。行きたくない。面倒に巻き込まれる。誤魔
化せる自信もない。
しかし、投げ出したくはなかった。関わると最終的に決めたのは
自分自身なのだから。
﹁二十分時間を稼いでください﹂
これから為すべきことが次々に浮かぶ。涼は一息ついて目を開け
た。
﹁いい大人がはぐれた、というのも信憑性がありませんから、私が
待ち合わせに遅刻したことにしましょう。そこをたまたま教え子の
矢沢さんが見かけて、待ちぼうけを食っている先生の暇つぶしに付
き合ってあげていた。まあ、立ち話もなんですから、とりあえずそ
このファミレスに入って︱︱それで矛盾しませんね?﹂
﹃はい。大丈夫です﹄
﹁では、それで話を合わせます。ぶっつけ本番ですがやれるだけや
りましょう﹂
一つだけ意地悪く付け足しておく。
﹁あと、失敗した時のために辞表を出す覚悟を決めておいてくださ
い﹂
﹃え、先生⋮⋮待っ﹄
皆まで言わせず通話を切った。ハンガーに掛けておいたコートを
手に取り、床に置いた鞄を持つ。財布を始めとする最低限の支度は
もうできている。
﹁琴音ごめん﹂
﹁いってらっしゃーい﹂
物わかりのいい琴音は苦笑しつつも承諾した。
192
﹁でも私に謝るより、彼に謝った方がいいんじゃないの?﹂
琴音が指差す先には不貞腐れた顔でこたつに肘をつく天下。この
件に関しては非常に物わかりの悪い奴の存在を失念していた。
﹁あー、えー、つまりだな﹂
言葉を濁したところで無意味だ。そもそも何故弁明しなければな
らないのだ。正月にどこで誰と会おうが涼の自由のはずだ。
﹁ちょっと行ってくる。君もそろそろお暇しなさい﹂
﹁なんで年明け早々連中に振り回されなきゃなんねーんだよ﹂
﹁教師は二十四時間年中無休だと何回言わせるつもりだ﹂
天下は不機嫌そうに押し黙った。何も口にしなくても言いたいこ
とはすぐにわかる。ものすごく不快、だ。ため息つきたいのをこら
えて涼は玄関へ向かった。
﹁⋮⋮伊達巻、ご馳走様﹂
もう少しでいい。まともなことを言えたら何かが変わっただろう
か。駅まで歩きながら涼はそんなことを考えた。意地っ張りだと琴
音は言った。しかし涼は別に嘘をついているつもりはない。素直に
なれと言われても、本心を隠している自覚がないのだからどうしよ
うもなかった。
193
︵その十三︶教師とはそういうものです
電車一本とはいえ、年末年始の特別ダイヤ。思いのほかホームで
待たされ、目的地についたのは三十分が過ぎた頃だった。駅構内に
店舗を構えているチェーン店。見慣れた看板を目にしたところで立
ち止まり、深呼吸を一つ。涼は腹を括って乗り込んだ。
﹁遅くなってすみません﹂
禁煙席に座っていた佐久間が振り返る。地獄で仏を見たような顔
に涼は情けなさを覚えた。芝居とはいえこんな男と付き合う自分の
感性を疑う。
﹁明けましておめでとうございます。新年早々奇遇ですね、渡辺先
生﹂
佐久間と向かい合うように座っていた渡辺民子は眉を神経質そう
に顰める。涼が現れても疑惑は拭えないらしい。
﹁お二人は、お付き合いをなっていると伺いましたが﹂
懐疑的な眼差しで隣に座る遙香と佐久間の両名を見る。遙香にい
つもの勝気な様子はない。当然だ。高校生が受け止めるには重すぎ
る現実だ。こういう時にこそ、大人である教師が責任を持つべきだ
というのに。
職を賭けるくらい好きなら盾になってやれ。それぐらいできなく
てどうする。
﹁明けましておめでとう、矢沢さん﹂
民子の言葉は受け流して、思っていたよりも小さな肩に手を置く。
遙香は微かに震えていた。見上げる瞳に不安と怯えの混じるのを涼
は見逃さなかった。事の重大さをようやく理解したのだろう。最悪
な状況に追い込まれて。
﹁なんか大事になって悪いね。せっかくの正月だというのに﹂
遙香は唇を噛んでいた。強がりで必死に覆った弱さは抱きしめて
194
やりたくなるほど愛しいものだ。守らねばと思う。こんなだから、
自分は余計なお節介が止められないのだろう。
途中で買っておいたチョコレートの詰め合わせを遙香の手に握ら
せる。
﹁おっさんの相手をありがとう。これから友達と遊ぶんだろ? 時
間は大丈夫か?﹂
無言で頷く。口を開けば溢れてしまうものを押し止めるように。
﹁渡辺先生﹂
咎めるように民子が呼ぶ。が、涼は無視して遙香を立たせた。
﹁まだ終わっていません。事情を︱︱﹂
﹁説明なら私がします。年明け早々、生徒を理不尽に拘束するわけ
にはいきません﹂
背中を控え目に押す。﹁先生﹂と縋るような呟きを耳にしたのは、
おそらく涼だけだ。努めて明るく微笑んでやる。
﹁大丈夫だ。それよりも君は音楽の心配をするべきだ。遊ぶのも結
構だが、リコーダーの練習を忘れないように﹂
遙香の顔が歪んだ。言葉にならないが、何を言いたいのかはわか
る。
ごめんなさい。こんなつもりじゃなかった。
泣くことを堪えている姿は、まともに顔を合わせたことのない母
を彷彿とさせた。きっと彼女もそうだったのだろう。誰だって、破
局を知りながら突き進んだりはしない。無知で愚かで、盲目的だっ
た。しかし無知で愚かなりに本気だったのだ。
気にしなくていい。大丈夫だから。
そう言ってやれば良かった。迷惑をかけてきた遙香を赦せたよう
に、母も赦せれば良かったのに。解放してやれば良かった。
195
︵その十四︶一年の計は元旦にあります
﹁じゃあ、始業式に﹂
遙香が店を出るのを見送り、涼は佐久間の隣に腰掛けた。真正面
から民子と向かい合う。
﹁どういうことですか﹂
少しも追及の手を緩めることなく、民子は問いただす。
﹁お二人は交際していると、私だけではなく教員皆が思っておりま
す。だから例の怪文もデマだと⋮⋮しかし、現に生徒と二人きりで
会っている﹂
﹁偶然会っただけだと私は伺っておりますが?﹂
ここは苦しかろうが白を切り通すしかない。民子にだって確たる
証拠があるわけではないのだ。わざとらしく民子は紅茶を一口すす
った。
﹁失礼ながら、以前からお二人はどうも、お付き合いなさるほど親
しいようには傍から見て思えません﹂
だろうな、と涼は内心苦笑する。生徒一人庇えない教師なんぞこ
ちらから願い下げだ。守れなんて無理は言わない。しかし隠し通せ
ないのなら、せめて自分一人で責任を被る度量を見せてもいいだろ
う。
﹁オペラならば愛の賛歌の一つでも熱唱しますが、生憎私はそれほ
ど歌唱力に自信はありません﹂
﹁渡辺先生、ふざけている場合ではありませんよ﹂
﹁人の気持ちを言葉で説明して納得させろ、とおっしゃる方が無茶
だと私は思います。渡辺先生が私と佐久間先生のことをどうご覧に
なろうと自由です。しかし﹃交際しているように見えないからそれ
らしくしろ﹄というのはいささか横暴ではありませんか?﹂
民子に見えない位置で佐久間を肘で小突く。すぐさま意図を察し
196
た佐久間はとりなすように頭を下げた。
﹁たしかに、今回は私が軽率でした。その点は謝ります。私の至ら
ないせいで誤解を招き、矢沢さんにも嫌な思いをさせてしまいまし
た﹂
彼女には後日、改めて詫びます、と佐久間は付け足した。
﹁ですから、渡辺先生も矢沢さんに謝ってください﹂
民子は目を見開いた。何故自分が詫びるのかを理解していない表
情だ。正義は自分にあると信じて疑っていない。そのことに涼は呆
れた。仮にも教師ならば、自分の体面だけではなく生徒の分も考え
るべきだ。
﹁人前であらぬ疑いを掛けられて、さぞかし辛い思いをしたと思い
ます。新学期になったらで結構です。一言謝っておいてください﹂
不本意であることを露わにしながらも民子は頷いた。
﹁話がそれだけならば失礼いたします﹂
千円札を置いて席を立つ。自分の瞳孔が開いているのを自覚しつ
つ、佐久間の方を向いた。
﹁これからデートなもので﹂
佐久間の頬が盛大に引きつった。蛇に睨まれた蛙だってまだマシ
な顔をするだろう。
197
︵その十五︶最初が肝心ということです
民子を置いて店を出る。その場で怒鳴りつけてやりたいのを堪え
て、改札口へ向かった。人気のないところは生憎見当たらない。い
っそどこぞの喫茶店にでも行って根性を入れたろうか、と自棄にな
ったところで呼び止められた。
低くて、少し掠れた声。このややこしい時に︱︱涼は苛立った。
﹁まあ奇遇だな、鬼島君﹂
後をつけてきたのなら、大したものだ。ストーカーの才能がある
かもしれない。佐久間の前でもなんのその。天下は優等生をとりつ
くろうこともなく現れた。
﹁あれで誤魔化せたと本気で思ってんのかよ﹂
天下の薄い唇に嘲笑混じりの笑みが浮かぶ。が、それも一瞬で打
ち消して真剣な表情で佐久間を見据える。
﹁あんた、いつまでこんなくだらねえ小芝居続ける気なんだ﹂
﹁鬼島﹂
たしなめるように呼べば、天下は鼻を鳴らした。
﹁佐久間先生はいつまで渡辺先生に頼られるおつもりなんでしょう
か﹂
言葉遣いこそ丁寧だが、その口調は皮肉以外の何でもない。完全
に気圧された佐久間は目を丸くした。
﹁どうして⋮⋮﹂
﹁あれだけ派手にいちゃついてたらバレるに決まってんだろ? 俺
でさえ気づいたんだ。英語の渡辺だって納得しているかどうか怪し
いもんだ﹂
いや、むしろあれは全く納得していない様子だ。涼は確信してい
たが、口にはしなかった。嫌疑がかけられようと佐久間と遙香の関
係がバレようと、天下には関係のないことなのだ。
198
﹁君が心配することじゃない﹂
途端、鋭い眼光がこちらへ向けられる。
﹁あんたもあんただ。先輩への義理だが教師としての義務だかなん
だか知らねえが、大概にしろよ。あんたが甘やかすから、こいつら
は増長すんじゃねーか﹂
﹁否定はしないよ。でも私が誰に手を貸そうと私の自由だ。それと
言葉遣いに気をつけなさい﹂
言ってから涼は後悔した。思いっきり地雷を踏んだ。天下の前で
︵涼にそのつもりがなくても︶佐久間の味方をすれば何を引き起こ
すか、火を見るより明らかだ。
﹁そうやって迷惑面しながら結局流されてんじゃねーか。反対なら
協力すんじゃねえ。中途半端なんだよ、あんた﹂
不覚にも涼は言葉を失った。天下は的を射ていた。後先考えない
佐久間を軽蔑しながらも彼女のふりを承諾した。それが全ての始ま
りだ。今もこうして助けてしまった。これから先のことは面倒見ら
れない、と丸投げして。それこそ中途半端で無責任だ。
﹁そんなに教師面したいのか? 生徒の味方の、良い教師でいたい
のかよ﹂
違う。そんなんじゃない。良い教師でいようと思ったことなんて
一度だってない。全ては自分のためだ。周りがどう思おうと関係な
い。ただ、
︵ただ、赦したかったんだ︶
199
︵その十六︶だから間違えると取り返しがつきません。
矢沢遙香を助けることで、同じ過ちを犯した母を助けたつもりに
なっていたのだ。
母への贖罪とは違う。むしろ被害者は涼の方だ。望まないのに生
み出されて、捨てられた。母の無責任さのせいで、今までどれだけ
惨めな思いをしてきたことか。どれだけ憎んだことか。
でも、一番惨めなのは捨てられたという事実じゃない。母の行為
が赦せない事だ。母の行いが過ちだと断じることはつまり、涼の誕
生もまた過ちだということになる。一生、母を責め、自分の存在を
呪いながら生きていけるほど涼は強くはない。自分で自分の存在を
否定しながら生きるなんて苦痛以外の何でもない。だから推奨はで
きなくてもせめて認めたい。自分の生誕は失敗でも間違いでもなか
ったと。
結局は、自己満足以外の何物でもなかったのだ。
︵でも無理だ︶
ふとした瞬間に怒りが込み上げてくる。どうして、と責めてしま
う。心の奥深くに根付いた恨みはそう簡単に消せるものではなかっ
た。
後先考えない無責任さを責めずにはいられなかった。
﹁私に言わせれば、お前も佐久間も一緒だよ﹂
言葉が口を衝いて出た。
﹁勝手に一人で盛り上がって周囲に迷惑まき散らして、いざ問題に
なったら﹃仕方ない﹄の一言で済まそうとしている﹂
﹁俺はそんな⋮⋮っ!﹂
﹁自分は悪くない。仕方なかった。どうしようもなかった。そんな
言い訳なんか聞き飽きたよ。巻き込まれた側にとって﹃仕方ない﹄
で済ませられる事なんて何一つとしてないんだ﹂
200
明らかに傷ついた表情を見せる天下。しかし涼の胸は全く痛まな
かった。痛まなかったことに涼は完膚なきまでに傷ついた。
二十年以上も経っているのに、どうして赦せないのだろう。責め
ずにはいられないのだろう。
﹁⋮⋮そうかよ﹂
嘲りにも似た歪んだ笑み。天下は突き放すように言い捨てた。
﹁じゃあ勝手にしろ﹂
天下は踵を返す。涼は一歩も動けなかった。見送るのはこれが初
めてだな、と場違いなこともぼんやりと思った。
いつだって離れるのは涼の方だ。引き止めようとするのは彼。歩
み寄るのも彼だ。自分は何もしていない。
勝手な話だ。涼はなんだか可笑しくなった。今まで散々帰れだの
天下を冷たく突き放していたのに、いざ背を向けられると言い知れ
ない寂しさに襲われる。見放されたとさえ思う。そのくせ足は縫い
止められたように動かない。
追うことも、呼び止めることもできなかった。人はそれを未練と
呼ぶのだろう。
﹁リョウ先生⋮⋮? 鬼島がどうして、私には何が何だか﹂
﹁忘れてください。終わったことですから﹂
始まってすらいなかった。最初から終わりは見えていたから。
201
︵その十六︶だから間違えると取り返しがつきません。︵
後書き︶
前哨戦終了です。予想外に長引いてしまい申し訳ないです。
しかしこれでようやく六章︵一部の最終章︶に突入できます。こ
れ一応恋愛小説ですからね、なんとか一区切りつけたい⋮⋮っ!
ここまで読んでくださり本当にありがとうございます。六章では
﹁公衆の面前でキスシーン!﹂を予定しております︵予定は未定︶。
今度はマジです。五章のようにフランス映画で逃げたりしないこと
をここに誓います。
202
六限目︵その一︶偽善でもやらないよりはマシです
三学期が始まってから涼は慈善活動に勤しむようになった。
具体的にはこうだ。朝は最寄駅で佐久間と合流。二人で校門をく
ぐり、職員室まで向かう。これを週に二回。時間的余裕があれば人
目のつく学生食堂などで一緒に昼食を取ったりもする。無論、佐久
間の奢りである。
深く考え過ぎたのだ。涼は自身に言い聞かせた。彼女のふりなど
大したことではない。オペラだと思えばいい。舞台は学校、観客は
噂好きの教師達と生徒諸君。上演時間は午前七時から午後の六時ま
で。途中休憩あり。
しかし肝心の上演期間は決まっていない。次の演目に移るのはい
つなのか、いまだに目処が立っていなかった。
﹁睨まれるんです﹂
と、放課後廊下でばったり出くわした佐久間は泣きついてきた。
﹁蛇にですか?﹂
﹁私は蛙ですか。違いますよ﹂
同じようなものだろ。お前が動けなくなる度に誰が助けてやって
いると思っているのだ。いっそひと思いに呑み込まれてしまえ。涼
は佐久間から手渡されたプリントを眺めた。
話の発端は一月下旬に行われる全国模試にあった。来年の受験生
である高校二年生を対象としたもので、全学科の生徒が強制的に受
験させられることになっている。全国平均等も当然ながら出てくる
わけで、学校としては一つでも高い順位、得点が欲しい。
で、そうなると必然的に名前が挙がるのが、去年の模試での成績
優秀生徒達︱︱その中に鬼島天下はいた。学内トップ。全国でも五
百位以内。やはり奴は化け物だ。担任の佐久間もさぞかし鼻が高い
だろう、と思いきやそうでもなかったらしい。
203
﹁今年に入ってから射殺さんばかりに睨んでくるんです﹂
﹁授業中もですか?﹂
﹁さすがに、ずっとというわけではありませんが⋮⋮﹂
佐久間は言葉を濁した。
﹁黒板に文字を書いている時に悪寒が走るんです。思わず振り返る
と鬼島が私を親の仇とばかりに睨んでいるわけでして﹂
仇は仇でも恋仇だがな。天下本人に言わせるなら。
﹁授業妨害をするわけでもボイコットするわけでもないのでしょう
?﹂
﹁まあ、そうですが﹂
﹁もともと眉間に皺寄せる癖がありますからね。寝不足とかで目つ
きが悪くなっているだけではありませんか?﹂
佐久間は得心がいかないようだ。訝しげに首をかしげる。
﹁リョウ先生は、鬼島と親しいんですね﹂
ようやく涼は佐久間が何故こんな話題を持ち出してきたのかを悟
った。正月での天下の豹変ぶり。優等生面をかなぐり捨てた態度を
怪しむなと言う方に無理がある。
﹁ご自分と一緒にしないでください﹂
一段階低い声音で制しておく。
﹁そんなことよりも、どうするおつもりですか? 渡辺先生はまだ
疑ってますよ﹂
強気な渡辺民子の姿勢を思い出し、涼は気が滅入った。知らない
の一点張りで窮地は脱したものの、根本的な解決にはなっていなか
った。
﹁疑いを差し挟む余地のない証拠を突きつけられればいいのですが
⋮⋮﹂
思案にふける佐久間の横顔。涼はきっかり三秒眺めて無理だと断
じた。絶対無理嫌だ。だいたい、そんなことをしようものなら遙香
に抹殺される。
204
︵その二︶逃げてはいけません
不意に涼は足を止めた。なるほど、これが殺気というものか。思
わず振り向いてしまう気持ちもわからなくもない。しかし涼は全く
逆の衝動に駆られた。
︵⋮⋮嗚呼逃げ出したい︶
どうしてこうもタイミングが悪いのだ。注意深く避けていたとい
うのに。
﹁リョウ先生?﹂
鈍感な佐久間は呑気なものだ。
﹁どうかなさ、﹂
﹁いいえ何でもありません﹂
涼は競歩に近い速さで職員室へ向かった。逃げ込んだと言った方
が的確だ。卑怯だと言いたければ言うがいい。これは正当防衛だ。
色々な意味で涼は身の危険を感じたのだ。教師の領域に逃げ込んで
何が悪い。
安堵のため息をついたところで佐久間に肩を叩かれた。
﹁あの、呼んでますよ﹂
﹁いないと言って下さい﹂
﹁こっちを見てますから、さすがにそれは︱︱﹂
職員室の入り口に立つ生徒を盗み見て、涼は絶望的な気分に陥っ
た。教師達の手前、頭をかきむしりたいのを堪えて、入口へ出頭す
る。
﹁何か御用で﹂
﹁お時間よろしいですか? 相談したいことがあるんです﹂
事務的口調。だが、油断は欠片もできなかった。優等生面をして
いるが相手は鬼島天下だ。
﹁勉強の相談だったら、担任の先生の方がいいと思うけど﹂
205
﹁佐久間先生は忙しそうですし、俺としては先生の方が都合がいい
んです﹂
微笑さえ浮かべて天下は言ってのける。この似非優等生め。職員
室でも不審に思うのは彼の本性を垣間見た佐久間だけだ。その佐久
間も触らぬ神に祟りなし対応で見て見ぬふり。涼は完全に孤立無援
だった。
﹁ここじゃできない話か?﹂
せめてもの悪あがき。が、天下は爽やかな笑顔で退路を断った。
﹁場所を変えた方が、お互いのためだと思います﹂
206
︵その三︶反抗期です
いつから自分はお悩み相談員になったのだろう。進路指導室の椅
子に腰かけながら涼はそんなことを思った。
会議があるとかで進路相談室は貸し切り状態だ。給湯室を挟んで
隣は職員室。場所が吉と出るかどうかはわからない。が、さすがの
天下もすぐそばに教師がたむろしている職員室があるのに無茶はし
ないだろうと見越しての選択だった。
﹁それで、相談というのは何だ﹂
涼はぞんざいに口火を切った。
﹁受験に音楽が必要になったのなら忠告しておくよ。無理だ。せめ
て一年延ばしな﹂
﹁あんたって結構、裏表激しいよな﹂
﹁君にだけは言われたくない﹂
人目がないのは涼にとっても好都合だ。生徒だろうが遠慮なく叩
き潰せる。気概を感じ取ったのか、天下は薄い笑みを消した。
﹁つまるところは勉強の相談です﹂
﹁いくら担当科目でも﹃六﹄にはできないからな。評価制度への抗
議なら、もっと偉い奴にやってくれ﹂
﹁成績じゃねえ。勉強だって言ってんだろ﹂
違いがよくわからない。全てとまではいかないが、大方、勉強の
度合いは試験に反映され、試験の点数は成績に反映される。残る授
業態度の要素も天下は十分以上に満たしていたはずだ。何を相談す
る必要がある。
天下がスポーツバッグから取り出したプリントを突きつけた。涼
は腕組みしたまま一瞥する。
﹁何だこれ。自分がいかに優秀かというアピール?﹂
思わず皮肉が口を衝いて出るほど、天下の成績は抜群だった。二
207
学期末試験も中間も、そして一学期も学年一位。一年次となんら変
わらない優等生ぶりだった。
しかし本人は渋い顔をした。
﹁落ちているんですよ﹂
﹁どこが。ずっと一位じゃないか﹂
﹁偏差値﹂
天下が指差す先には偏差値グラフがあった。相も変わらず高水準
を維持しているものの、かすかに下降の傾向がある。
﹁あのなあ⋮⋮﹂
涼は額を片手で押さえた。
﹁君は変わらず九十点台を維持している。皆はその下の方で頑張っ
ている。で、頑張った結果、学年の平均点が上がる。しかし君が取
れる点数の上限はあくまでも一教科百点。それ以上は無理。よって、
上がった平均点の分、君の偏差値は多少下がらざるを得ない。つま
り︱︱ものすごく当たり前のことじゃないか﹂
理路整然と言ってやれば天下は口をヘの字にした。
﹁今度、模試があるのは知ってますよね。さっき佐久間と話してま
したから﹂
﹁佐久間先生、です﹂
﹁その佐久間に次の模試では前回以上の結果を出すように言われた
んです﹂
﹁だから﹃先生﹄をつけなさい﹂
蛇に怯えながらも蛙は蛙なりに職務を果たしたらしい。
﹁それで?﹂
﹁いくら教師としても男としても、それ以前に人間としても尊敬で
きないし、むしろいいところを探す方が難しい野郎でも、教育委員
会が教師と認めた以上、教師だ。だから俺も優等生らしく、先生の
言うことに従って善処はしようと思います。思いますが、俺自身問
題を抱えていますので解決するまでは、無理です﹂
﹁へえ﹂
208
天下の成績表を手に取り、涼は気のない返事をした。音楽科教師
には縁のない試験結果表。平均から前回との差まであらゆる分析が
なされている。
﹁︱︱と、言ったんです﹂
﹁なるほど﹂
よくもまあここまで点数が取れるものだ。どんな勉強法なのだろ
う。ノウハウを教えていただきたいものだ。そこまできてようやく、
涼は成績表から顔を上げた。
﹁⋮⋮誰に?﹂
209
︵その四︶広い心で受け止めましょう
﹁佐久間﹂
﹃先生﹄をつけろ、と押し問答を繰り返している場合ではなかった。
﹁まさか、さっきの全部?﹂
﹁あいつ間抜け面さらして固まってたぜ﹂
涼は開いた口が塞がらなかった。どんなに天下の事を取り繕って
も煮え切らない態度だった佐久間を思う。てっきり元旦の件を引き
ずっていたのかと思いきや、とんでもない。佐久間が立ち直るより
も早く天下は追撃のストレートを食らわしていたのだ。
﹁どうしてまた事をややこしくするんだ﹂
周囲には優等生と信じられ疑われていない。そんな天下の暴言を
相談できるのは涼しかいなかったのだろう。ほんの少し佐久間が哀
れに思えた。
﹁ややこしくしているのは先生です﹂
持っていた成績表を取り上げられる。目の前には思い詰めた顔の
天下。
﹁好きです﹂
彼から告白されたのは一度や二度じゃない。が、今回は特に真情
を吐露しているかのように真剣そのもので、誤魔化すのは不可能の
ように思えた。
﹁私、断ったよな?﹂
﹁でも好きなんです。このままじゃ勉強も手につきません﹂
それは大問題だ。
しかし残酷なことを言えば、好きになってくれと頼んだ覚えはな
い。恋に現を抜かすのは自由だが責任は自分で取ってもらわなくて
は。
﹁君は私に自分の職を賭けて、恋心とやらに応じろと要求している。
210
少し、身勝手過ぎやしないか?﹂
天下は反論しなかった。佐久間と遙香の件を間近で見てきたので
リスクは十分理解している。
﹁確かに、君は本気かもしれない。真剣に考えているかもしれない。
でもそんなことは周囲の人間には見えないんだ。ただの高校生と教
師の火遊びにしか思われない﹂
﹁他の奴らなんか﹂
﹁周囲を顧みない言動。それでは佐久間先生と一緒じゃないか﹂
もともと、聡い生徒だ。もし天下が大人だったら自分の想いに折
り合いをつけることもできただろう。そして子供だったなら、もっ
と駄々をこねることもできた。佐久間と遙香の関係を盾に交渉する
ことだってできたし、優等生であることを利用して白紙答案を出す
などリスクは高いが効果的に迫ることだってできた。
そのどれもできないのは、天下が大人と子供の狭間にいるからだ
ろう。彼は卑怯な手を使うには若過ぎて、なりふり構わず動くには
大人になり過ぎていた。情熱だけで解決できると信じられるほど、
天下は子供ではなかったのだ。
﹁⋮⋮不公平だ﹂
押し殺すような呻き声が漏れた。
﹁なんで、あんたなんだよ。彼女のふりなんて生徒じゃなきゃ誰で
もいいじゃねえか。俺は、あんただけだと思ってるのに、どうして
っ﹂
苦しげな表情で天下は吐露した。お門違いだと知りつつも責めず
にはいられない。
﹁あんたが佐久間と付き合ってんなら、俺もここまではしなかった。
でもな、自分にとって一番だと思ってる奴を代用品扱いされて黙っ
てられるかよ!﹂
唐突に、涼は既視感を抱いた。幼い頃の苦い記憶が蘇る。
両親なんてウザいだけ、と公言してはばからなかったクラスメイ
ト。悪口を黙って聞いているだけの自分。口を開かなかったのは、
211
気を緩めたらすぐにでも言葉が出てきそうだったからだ。そんなに
嫌なら。
そんなにいらないのなら、私にちょうだい。
自分が一生かかっても手に入らないものを手にしていながら粗雑
に扱う級友。当然と受け止める周囲。一番忌々しいのは﹁そんな事﹂
をいちいち気にする卑屈な自分だ。親がいないから何だ。級友の言
葉尻を捉えて八つ当たりするなんて。それでも、思わずにはいられ
なかった。どうして、と。
それだけに、涼は天下を無下にすることはできなかった。
﹁⋮⋮わかった﹂
ため息と一緒に言葉は出た。
212
︵その五︶盗み聞きはいけません
限界なのだろう。天下だけではなく、この状況も。半年前に後先
考えずに始めてしまった嘘は、色々なものを巻き込んでしまった。
学年の節目を迎えようとしている今が、潮時なのかもしれない。
すなわち、嘘を吐き続けるか、それとも終わりにするか。
﹁前回の全国模試、何位だった﹂
うつむきがちだった天下が探るように見てきた。質問の意図をは
かりかねているようだ。
﹁去年の五月にやったんだろ? 学内ではトップだったそうじゃな
いか﹂
﹁全国相手じゃそうもいかねえよ。確か、四百五十⋮⋮六十くらい
だったか? あんま覚えてねえ﹂
意外に素っ気ない反応だった。多少なりとも胸を張れば、可愛げ
があったものを。全国で四百位台とくれば国立大だって十分合格圏
内だ。しかも天下は成績を維持している。当然、学力も上がってい
る。天下が模試当日に急病で倒れるか、突然変異とかで天才が異常
発生しない限り五百位以内は確実と見て間違いない。
﹁百位以内﹂
それを考慮して条件を設定する。実際には不可能だが、そうは思
えない︱︱手が届くように錯覚してしまうような順位を。
﹁今度の全国模試で百位以内に入ったら、君の言う﹃ふざけた小芝
居﹄をやめてもいい﹂
途端、天下の目が輝いた。
﹁本当ですか?﹂
﹁これでも教師だ。生徒に嘘は言わないよ﹂
﹁別れるんですよね?﹂
あまりの天下の喜び様に涼の良心が痛んだ。仕組んだこととはい
213
え、ここまで期待させてしまうと後の落胆が怖い。
﹁百位以内だからな。百一位じゃ駄目だからな。それと付き合うふ
りをやめるだけで、君と⋮⋮どうこうなるつもりはない。勘違いし
ないように﹂
念を押しても天下の笑顔が曇ることはなかった。
﹁わかってます﹂
結果を楽しみにしてください、とまで断言する始末。話が終わる
が否や鞄を背負って指導室を後にする。この変わり身の早さ。涼は
茫然と見ている他なかった。
﹁百位以内になったら、先生も信じてくれますよね﹂
﹁何を?﹂
扉の取っ手に手を掛けた状態で、天下は振り返った。
﹁俺が本気だってこと﹂
喰えない優等生スマイルで付け足す。
﹁あと、別れるついでにもう一度よく考えてくださいね。俺、結構
いい物件だと思うけど?﹂
その自信の根拠はなんだ。問う間も与えず天下は退室した。まる
で勝利が決まっているかのような態度に、涼の不安は掻き立てられ
た。まさか。いや、いくら学年トップでも全国百位以内は無茶だ。
この学校始まって以来の快挙だぞ。無理無理⋮⋮とは思うものの、
懸念は消えなかった。
しかし、賽は投げられたのだ。後戻りはできない。
︵それに付き合うと約束したわけではないんだし︶
万が一、もしも奇跡が起きて天下が百位以内に入ったら、自分も
潔く手を引こう。結論付けたところで涼は給湯室へ繋がっている方
へと向かった。可能な限り足を忍ばせて、だ。扉にはガラスの小窓
がついており、中を覗けるようになっている。無論、こちら側から
も。
涼は慎重に扉に足を引っ掛け、一気に蹴り開いた。見下ろし、艶
然と微笑む。
214
﹁奇遇ですね、渡辺先生﹂
中途半端に屈んだ状態で渡辺民子は目を剥いていた。
215
︵その六︶開き直ります
同じ苗字。同じ高校の教師。同じ性別︱︱共通点をいくら挙げて
も所詮、涼と民子は他人だ。双子のように相手の考えが手に取るよ
うにわかることもなければ、同じ痛みを分かち合うこともできない。
しかし、目の前の女性が何を思い、ここで盗み聞きをしていたのか
は察することができた。
﹁どういうことですか?﹂
民子は悪びれも無く立ち上がった。質問というよりは詰問だ。
﹁渡辺先生は、佐久間先生とお付き合いなさっているのでは?﹂
口ぶりはあくまでも教師に相応しからぬ涼の言動を咎めている。
が、その目は優越感に満ちていた。決定的証拠を掴んだことに。
﹁どうして鬼島君と二人っきりで指導室に?﹂
民子は執拗に食い下がる。蛇を彷彿とさせる執念に、涼はなんだ
か面倒になった。
﹁お聞きの通りです﹂
﹁では、生徒と︱︱﹂
﹁今の会話で私が鬼島と交際していると断じるのなら、渡辺先生の
見識を疑わざるをえませんね﹂
涼は大げさに肩を竦めてみせた。
﹁彼が私に好意を寄せているんです。毎回毎回しっかり断っている
んですけどね。最近の高校生はずいぶん粘り強いようで﹂
﹁では、あなたの方にその気はない、と言うのですね?﹂
民子は陰湿に笑みを浮かべた。
﹁校長先生の前でも、同じことが言えますか﹂
どうしてそこで校長が出てくる。いちいち上の権威を借りなきゃ
同僚の教師一人さえも咎めることができないのか。
﹁わざわざ自分からは言えませんね﹂
216
認めれば民子の笑みが深くなる。それで涼は確信した。民子を突
き動かしているのは教師としての義務感でも何でもない。
﹁ですから、渡辺先生の方から口添えしていただけると嬉しいです﹂
一転して民子は呆けたような顔になる。涼の言った意味を理解し
かねるようだ。
﹁一般常識に欠けているとはいえ、普通科の優等生です。学科の違
う私が咎めるわけにも、かと言って応じるわけには勿論いきません。
正直、どうしたものかと扱いに困っていたんです。渡辺先生の方か
らそれとなく諭していただけると助かります。ついでに校長先生に
も説明して下さるともっと嬉しいです。ありがとうございます﹂
勝手に協力者にされた民子は、しばし呆然としていた。が、やが
て盛大に眉をしかめる。
﹁何を言っているんです?﹂
﹁私に後ろめたい事は何一つとしてない、と申し上げているんです﹂
経験上、民子のような相手には強気な姿勢が一番効果的だと涼は
知っていた。
﹁ですから、どうぞご自由になさってください﹂
そして突き放すように言ってしまえば、民子はどうすることもで
きなくなることも。そもそも彼女の目的は涼と天下の関係を公にす
ることではないのだ。
217
︵その七︶盗人は猛々しいのです
案の定、民子は唇を強く引き結んだ。涼の強情さを不快に思って
いるのを隠そうともしない。世の中自分と同じ考えを持つ人間が多
数で、少数派の人間は異常だと断じて疑ってすらいない表情だった。
﹁佐久間先生とのご関係は、どう説明なさるつもりですか?﹂
強引な話題転換。本人は急所を突いたつもりなのだろう。
﹁リョウ先生のおっしゃる通りだとしても、実際は交際していない
二人がさも付き合っているかのようにふるまう︱︱何か理由がある
と考えるのが普通ではありませんか? 人には言えない理由がある
のではないかと﹂
勝ち誇るように他人のプライバシーに踏み込んでくる。民子の無
神経さに涼はげんなりした。他人の色恋に首突っ込もうなど物好き
がいたものだ。
﹁知っての通りですよ﹂
誤魔化そうと考えなかったわけではない。例えば、天下があまり
にもしつこく交際を申し込んでくるから、口実として佐久間に協力
してもらった、とか。それが今になってバレてややこしくなった、
だの。自分でも呆れるくらい嘘の言葉は浮かんだ。
しかし、疑っている相手ならまだしも、確証を得ている相手にど
う言葉を取り繕っても無駄だ。
﹁佐久間先生に関しては、渡辺先生がご覧になった通りです﹂
涼が含めた意味を民子は察しなかった。言葉面をそのまま呑み込
んで、注視しなければそれとわからないくらい微かな笑みを漏らし
た。が、気の緩みも一瞬で引き締め、冷静を取り繕う。
﹁では、校長に報告しなければなりません﹂
白々しい義務口調。さらに民子は咎めるように目を眇めた。
﹁しかしリョウ先生までもがどうしてそんな軽率な真似を? 教師
218
と生徒ですよ。常識的に考えれば止めるのが普通ではありませんか。
何故、協力なんかしたんです?﹂
土足で踏み込んできた挙句、説明を要求する。この身勝手さによ
って涼のただでさえ長くない気が限界を迎えた。
﹁もういい加減にしてくださいませんか﹂
鈍痛がする頭を抑えて、半ば自棄気味に言い放つ。
﹁何故私がこんな馬鹿げた隠ぺい工作に付き合ったか。お知りにな
りたいですか? 端的に理由を申し上げれば、あなたのような方が
いらっしゃるからですよ﹂
民子は鼻白んだ。
﹁どういう意味です?﹂
﹁教師と生徒の恋愛なんて正気の沙汰じゃない。そんなこと、わざ
わざ言われなくてもわかっています。そのわかりきったことを、配
慮もなく人目のつく場所で責め立てるような無神経な方がいらっし
ゃるから、私は内々に事を収めようとしたんです﹂
涼の苛立ちの原因は民子の言動にあった。
生徒と教師の密会現場を捉えたのなら、まず周囲の目の届かない
場所に移動し、事情を問い質すのが普通だ。駅構内のあんな大勢の
人前で、晒しものにする必要はなかった。そこに涼は民子の悪意を
感じ取ったのだ。
吊るし上げになった側がどれほど傷つくか。そこまで思い至らな
いくせに干渉してくる民子が涼には赦せなかった。
﹁馬鹿の一つ覚えみたいに正論を何度も振りかざさないでください。
おっしゃる通り、生徒と教師の恋愛は大問題です。分別すれば﹃悪
い事﹄になるのでしょう。しかし、佐久間先生が間違っているから、
あなたが正しい、ということにはならないんですよ﹂
佐久間と遙香は軽率だった。しかし、その非を責め立てる権利は
民子にはないのだ。それを、まるで鬼の首でも取ったかのように、
これ見よがしにかざし、いやしく貶め踏み躙る。涼に言わせれば民
子の心ない言動にもまた、非があった。
219
﹁渡辺先生﹂
色を失うほど唇を噛みしめる民子に、涼は剣呑な視線を向けた。
﹁大義名分が自分にあるからといって、他人のデートの後をつけた
り、ましてや職場に脅迫文紛いのものを送りつけるのは、いかがな
ものでしょうかね﹂
220
︵その八︶居直ると恐ろしいことになります
﹁一体何の⋮⋮﹂
民子が取り繕うように笑う。
﹁どうして矢沢さんと佐久間先生が交際していると知っているんで
す?﹂
笑顔は無視して涼はたたみかけた。
﹁二人で会っているところを見た。おまけに親しげでただならぬ雰
囲気だった。たしかに、怪しいと思える状況であることは認めます。
しかし確信がないのなら、平然を装って話しかけるか、後日事情を
聞いてみるのが普通でしょう。怪文騒ぎがあったのならなおさら慎
重に行動するものです。いきなり喧嘩腰で当人に問い詰めたりなど
しません。もし誤解なら赤っ恥ではありませんか﹂
﹁見ればわかります。だいたい、新年早々二人きりで会っているな
んて不自然ではありませんか﹂
﹁不自然な状況ではありますが、決定打には欠けます。あなたは二
人の様子を見て疑惑を抱いたんじゃない。最初から疑っていたんで
す。状況がその疑惑を裏付けただけです。いや、確信していたと言
った方が的確ですね。でなければ、いくら匿名とはいえ、お三方に
告発文を送りつけるような大胆な真似はできないはずです﹂
民子は一瞬、虚を突かれたかのように涼を見つめ、それから唇を
震わせた。
﹁それではまるで、私が二人を陥れようとしたみたいではありませ
んか﹂
﹁みたい、ではなく明確な悪意を持ってなさったと私は推察いたし
ます﹂
他人の色恋を職場で暴露。正気の沙汰ではない。我を失っていな
ければできないことだ。
221
﹁一体、何の証拠があってそんなことを⋮⋮っ! 無礼にも程があ
ります。私を侮辱なさるおつもりですか﹂
顔面蒼白で民子がわなないた。
﹁では、矢沢さんが佐久間先生と会っているのを見かけただけで、
例の怪文と結びつけたのですか?﹂
﹁当然皆そう思うでしょう? 匿名とはいえ、怪文の通り矢沢遙香
は二年三組の女子生徒です。ここまで重なっていたら疑うなと言う
方に無理があります﹂
民子は濃い目の口紅を施した唇を挑発的につり上げた。
﹁誰が見ても二人は怪しいです。なんでしたら、他の先生方のご意
見を伺ってもかまいませんよ﹂
どこまでも強気な姿勢。それは過信に近かった。
他の先生方も味方してくれるはず。だから自信を持って言える。
逆を言えば、誰かの後ろ盾がなければ動けないということだ。その
証拠が、先ほどからやたらと民子の口から出てくる﹃校長﹄だの﹃
皆﹄だの、直接関わりのない第三者の名だ。﹃皆﹄の支持がなけれ
ば自分の考え一つ言えやしないのだ。
﹁その必要はありません。もう十分です﹂
涼はため息を吐きたいのを堪えて言った。
﹁渡辺先生、あなたは何故あの怪文にあった佐久間先生の交際相手
が矢沢遙香を指していると知っているんですか?﹂
﹁前にも言いました。学年主任から聞いたんです﹂
質問の意図を探るように民子は睨みつけてきた。だからというわ
けではないが、涼は早々に結論を言った。
﹁怪文には﹃二年の女子﹄とありましたが﹃二年三組﹄とは一言も
記されていません﹂
民子は二の句が継げなかった。目を見開き、驚愕とも憤怒ともつ
かない歪んだ表情のまま硬直する。それは、言葉よりも雄弁な返答
だった。
222
︵その八︶居直ると恐ろしいことになります︵後書き︶
かなり昔の話を出してすみません。
﹃一限目︵その一︶火のないところに煙はたちません﹄では一応、
そうなっていました。
223
︵その九︶責任転嫁は見苦しいだけです
﹁⋮⋮私の言い間違いです﹂
﹁言い間違いで済ませるのはどうでしょう。校長の使いで私を呼び
に来た時すでにあなたは﹃二年三組の女子﹄だと言っていました。
あの時点で佐久間先生の交際相手が﹃二年三組の女子﹄だと知って
いるのは、当事者でなければ怪文を送りつけてきた人だけです﹂
決定打。確かな手ごたえを涼は感じた。民子の視線が行き場を求
めて彷徨う。やがて逃げ場のないことを悟ったのか、真っ直ぐに涼
を見据える。見ているこっちが危うくなるほど直情的な眼差しだっ
た。
﹁私は嘘など書いていません﹂
堰を切ったように民子は饒舌に語り出した。
﹁全て本当の事です。リョウ先生だってご存知でしょう。あの人は
教師でありながら、よりにもよって生徒と関係を持ったのです。十
も歳下の小娘にですよ? 相手は火遊び程度にしか思っていないの
に、恥も外聞もなく女子高校生の気まぐれに付き合って⋮⋮っ!﹂
佐久間達を貶めれば自らの正当性が証明されるかのようにまくし
たてる。しかし、そんなことはなかった。生徒と教師の恋愛がいか
に常識外れだろうと、騙しうちのように怪文を送りつけるのは卑怯
な行為であって、それ以外の何物でもないのだ。
﹁私は、間違ってはいません﹂
民子は断言した。が、根拠がなかった。
﹁そのお言葉、あなたの好きなお三方の前で言ったらどうです?﹂
容赦なく涼が突けば、民子は脆くも崩れ落ちた。言えるはずがな
い。でなければ校長、教頭、学年主任のお三方に匿名で怪文を送り
つけ、騒ぎを引き起こしたりなどしない。
生徒と教師の恋愛はご法度。しかし不用意な行動で騒ぎを起こし
224
た事とはまた別問題だ。涼に指摘されてようやく民子はそれを悟っ
たらしい。事が公になれば佐久間と遙香はもちろん糾弾されるが、
民子もまたただでは済まないことを。
︵まだるっこしいことなんてせずに、学年主任にでも相談すれば良
かったのに︶
そうすれば、生徒と教師の恋愛問題で話は済んだ。一方的に責め
ることだってできたのに。民子の行動は理解に苦しむ。
民子は力無く顔を上げた。
﹁佐久間先生に言うんですか?﹂
どうあっても他人の目が気になるらしい。涼は心底呆れた。
﹁私は生徒が平穏無事に卒業できれば満足です。それ以上は望みま
せん。波風さえ起らなければ何も申し上げる必要もないでしょう﹂
暗にこっちも目を瞑るから、あんたも黙っていろと言ったのだが、
民子は縋るような目をした。この変わり身の早さ。呆れを通り越し
て感心さえしてしまう。
﹁私は、どうすれば⋮⋮﹂
﹁ご自分で考えてください﹂
佐久間といい民子といい、先輩教師の不甲斐なさに涼は軽い眩暈
を覚えた。他人依存にも程がある。これがいい歳した大人か。
しかし涼も他人のことを言えた義理ではなかった。清算はしなく
てはならない。模試の結果を待つまでもなかった。涼の中で結論は
もう出ていたのだ。
225
︵その十︶八つ当たりも同じくらい醜いです
小芝居から降りる旨を伝えると、佐久間は呆けた顔になり、数拍
後にようやく意味を理解して狼狽した。
﹁ちょっと待って下さい、リョウ先生﹂
﹁ええ、待ちますよ。あと何日ですか? 別れる理由も考えなくて
はなりませんね﹂
適当にあしらって、涼はスタンウェイの鍵を開けた。昼休み。次
の五限は普通科の音楽の授業。鑑賞室は涼の貸し切り状態だ。密談
を行うには丁度いい。
﹁それは、鬼島のせいですか?﹂
涼とて佐久間が素直に引き下がるとは思ってはいなかった。が、
食い下がる部分が予想と違った。何故いちいち天下が出てくるのだ。
﹁彼は関係ありません﹂
﹁失礼ながら彼とあなたは、ただの生徒と教師には見えませんよ。
元旦の時だってそうですし、先日職員室で呼び出されましたよね?﹂
﹁佐久間先生には関係のないことです﹂
﹁それでは納得できません。おかしいではありませんか。どうして
そんな急に⋮⋮﹂
急ではない。限界は来ると最初からわかっていたことだ。きっか
けは元旦の一件だが、前々から感じていたことだ。小芝居がいつま
で続くはずがない、と。
﹁鬼島が言ったんですか? だから止めるんですね?﹂
佐久間は決めつける。原因が自分にあるとは微塵も思っていない
口ぶりだ。勝手に三文芝居の舞台上に引きずり出しておいて、降り
ることすら許さない。なんともいい御身分だ。
﹁何度も言わせないでください。鬼島君は関係ありません﹂
﹁しかし、彼はあなたに好意を寄せていますよ?﹂
226
そんなこと、お前に言われなくてもわかってる。涼は怒鳴りそう
になった。他人の色恋を案じる暇があったら自分の事をどうにかし
ろ。
﹁ご安心ください。私はどこぞの後先考えない教師とは違って、生
徒に応じたりはしません﹂
怒鳴りこそはしなかったものの、口調は完全に喧嘩腰。苛立ちの
ままに涼は言葉を紡いだ。何もかもが厭わしかった。
﹁まだわからないんですか? 迷惑なんですよ。頼んでもいないの
に踏み込んできて、振り回して、どうにもならなくなったら私に押
しつける。鬼島も勝手ですが、あなたはそれ以上に勝手です﹂
﹁私は⋮⋮﹂
﹁﹃私は﹄﹃私は﹄って自分のことしか考えてらっしゃらない。隠
すのには一生懸命なようですけど、万が一バレた時のことを考えて
いるんですか。最終責任は教師が取るしかないんですよ? なのに
渡辺先生に問い詰められた時だって、黙ってらっしゃるだけで自分
からは何一つしようとしない。隣で矢沢さんが責められていても助
け舟すら出してやらない。本気で生徒と恋愛するんだったら︱︱同
僚を巻き込んで恋愛するくらいなら、自分の職を懸けて庇ったらど
うなんですか﹂
半分以上八つ当たりだ。わかってはいたが止められなかった。弁
明をするなら、これまでの鬱憤が募っていたのだ。天下といい、佐
久間といい、自分の想いを貫くと言えば聞こえはいいが、結局は周
囲を全く顧みてないだけだ。
﹁覚悟もないくせに他人を巻き込まないでください﹂
仮に、天下とそういう関係になったとしても、発覚した際に咎め
られるのは教師である涼の方だ。間違いなく免職。それだけならま
だいい。無責任な教師を雇った学校はどうなる。学校を信頼して預
けた天下の父は? 何よりも、教師とデキていたと一生後ろ指差さ
れる天下は一体どうなる。彼がこれから歩むであろう未来は。
考えて、考えて、堪らなくなるのだ。どうしようもなく惨めにな
227
る。
︵⋮⋮どうして、私ばっかり︶
遙香も佐久間も天下も、涼には理解できなかった。涼があれほど
望んでも、願っても手に入らなかったものを掴んでおきながら、ど
うして簡単に投げ出そうとする。
︱︱必死に護ろうとしている自分が馬鹿みたいではないか。
228
︵その十一︶教師たるもの、嘘はつきません
﹁話はそれだけです﹂
絶句した佐久間を余所に涼は鍵盤へ手を伸ばした。いつもなら授
業の伴奏を練習するのだが精神的にそんな状態ではなかった。
薄氷を割ったような一打目。そのまま叩きつけるようにエチュー
ドを描いた。繊細とは程遠い荒々しい旋律。左手の激しいアルペッ
ジオに乗せて和音を奏でる。
観念して佐久間が立ち去っても涼は弾き続けた。
さすがはピアノブランド最高峰スタンウェイ。指先の意思が鍵盤
に、弦を叩くハンマーに、そして空気へと伝わり響く。ひたすらに
指を滑らせることだけに集中した。
重要なのは情熱ではなく冷静さであることを知ったのはいつだろ
う。無論、情熱が不要というわけではない。毎日毎日ひたすらに練
習を続けるには情熱が必要不可欠。が、演奏面においては情熱的で
ある必要はあっても、情熱は必要ない。むしろ邪魔だ。
では何が音楽家たらしめるのかというと、情熱をコントロールす
る技術と冷静さだ。情熱的に弾いていながらも、心の一部は冷めて
いなければならない。人はそれを余裕とも言う。
だから駄目なのだろうな。涼は自嘲した。余裕を残せない。自分
のことで精一杯で。それは音楽でも日常生活でも言えることだ。
﹁先生﹂
演奏終了の余韻を低めの声が打ち砕いた。金曜の五限目は普通科
の音楽だ。天下なら早めに来るだろう。教科書を携えた状態で、ゆ
っくりと口を開いた。
﹁俺は迷惑ですか﹂
聞いていたのか。いつもいつもタイミングの悪い奴だ。笑おうと
したができなかった。こちらを見つめる天下の眼差しは壊れそうな
229
ほど儚くて、必死だった。見ている方の息が詰まる。
不意に涼の中でこれまでのことが思い起こされた。
やめろ。目を覚ませ。諭すように拒んではいたが、迷惑だとは言
っていなかった。寄ってくるのは自由だ。でも自分は応じられない。
傍にいることだけは許していた。
﹁迷惑だよ﹂
本心だった。このところ、天下に振り回されてばかりだ。おかげ
で自分にまで疑いがかかっている。これを迷惑と言わずして何と言
う。
﹁君は情熱だけで突っ走れるからいい。でも私はどうなる? 君の
将来とか、世間体とか、自分の職とかを考えなきゃならない私はど
うなるんだ﹂
庇わなくてはならない。護らなければならない。天下が蔑ろにす
るものを、本人の代わりに︱︱でも、そんなのは惨めだ。
﹁大変なんだよ、君が傍にいると﹂
﹁そんなもん︱︱﹂
﹁私にとっては、そんなものじゃない。今まで積み重ねてきたもの
が崩れてしまうかもしれないんだ。同じだけのものを君は懸けられ
るのか? 大人に護られているだけの高校生に、そんな真似はでき
ない。してはいけないんだ﹂
激昂するかと思いきや、天下は冷静だった。表面上は。込み上げ
てくる何かを堪えるように﹁そうですか﹂とだけ呟いて席に着いた。
﹁ご迷惑かけて、すみませんでした﹂
学生の席から深々と頭を下げる。机に置いた教科書。その上に模
試の参考書が重ねられているのを発見し、涼は目ざとい自分を恨ん
だ。知らなければ良かった。高校生なりに努力していることなんて、
知りたくはなかった。
大変だと言った言葉に嘘はない。天下が傍にいると辛い。輝かし
い将来とか、夢とか、あっさりと捨ててしまう天下が憎らしくさえ
思えてくる。傍にいると苦しいのだ。
230
でも、離れてしまうと寂しいのもまた、事実だった。
231
︵その十二︶説教は親と教師だけの特権ではありません
﹁あんたが悲しいのはよくわかったわ﹂
とりあえず最初の一時間は黙っていた琴音だが、ついに堪忍袋の
緒が切れたらしい。音楽雑誌を閉じて、半眼でこちらを見る。
﹁だからって私の家に来ないで﹂
涼は指先に力が入らないことに気が付いた。普段あまりピアノを
弾かないせいだ。授業での伴奏はともかく激しいタッチの曲を弾き
続けられるほど鍛えられてはいない。
﹁疲れただけだ。悲しくはない。むしろ安堵しているね。これで私
の平穏が戻ってくる﹂
﹁じゃあウチに上がり込んで延々ピアノ弾き続けないでよ。しかも
何? さっきから﹃革命﹄ばっかり。ショパンになんか恨みでもあ
るの?﹂
﹁今、エチュードでまともに弾けるのこれだけなんだよ﹂
専攻はあくまでも声楽。ピアノは副科だ。自宅にピアノを置ける
ほど裕福でもなければ必要性も感じなかった。が、衝動的に演奏を
したくなると不便だ。琴音の家へ行くしかない。兄から受け継いだ
スタンウェイのグランドピアノ︱︱は絶対に触らせない琴音だが、
隣に置いてある電子ピアノは自由に弾かせてくれる。今のように多
少乱暴に扱っても、目を瞑っていてくれる。
﹁面倒な子ね、涼ちゃんって﹂
琴音は深々とため息を吐いた。
﹁自分で振っておいて傷ついていちゃ世話ないわよ﹂
﹁少しセンチメンタルになっているのは認める。けど、決して傷つ
いているわけじゃない﹂
﹁それを世間では傷心って言うの﹂
涼は鼻を鳴らし、鍵盤を軽く拭いた。電子ピアノとはいえ立派な
232
楽器だ。扱いが変わるわけではない。スタンウェイだろうと中古の
ピアノだろうと楽器だという一点で尊重すべきものになる。それは
琴音も一緒だ。
しかし、彼女にとってスタンウェイだけは別だった。高級ブラン
ドであるのも理由の一つだが、一番は兄が愛用しているものだから
だ。帰国の際は必ず弾いているという。敬愛する兄が使うピアノ︱
︱それだけでグランドピアノは琴音にとって特別な価値を持つ。
﹁成長ないわよね。﹃カルメン﹄の時だってそう。自分が犠牲にな
ればいいとか、格好いいこと考えて勝手に諦めるの。そのくせ、い
ちいち傷ついて﹂
黒光りするグランドピアノが視界に入る。どうしてだろう、と涼
は思った。同じピアノなのにどうして差が出てしまうのだろう。
﹁価値がわからないんだ﹂
涼は呟いた。選ばれた理由がわからない、と。
﹁きっかけはたしかに先輩に反対されたことだけど、理由は別だ。
私がカルメンをやることで波紋を呼んでいる。それでもなお私がカ
ルメンをやることに意味を見い出せなかった。私がやろうと他の誰
かがやろうと変わらないと思った。私じゃなければいけない理由が
見当たらなかった。だから降りた。それだけ﹂
偽善でもなんでもない。いつも最善の方法を考えてきただけだ。
﹃カルメン﹄だって琴音が主役を全うしてくれたおかげで成功を収
めた。間違ってはいなかった。誰も傷ついていない。
﹁でも本当はやりたかったんでしょ? カルメン。一生懸命練習し
てたじゃない﹂
口調は責めるものだったが、それを言う琴音は苦しげだった。
﹁鬼島君は別にあんたが嘘を吐き続けているから責めているわけじ
ゃないのよ? 自分を蔑ろにしてるから怒ってんの。正直、私も呆
れてる。クビになるからだか何だか知らないけどね、普通同僚に﹃
僕はあなたのことは好きでも何でもないですが、僕らの都合上彼女
のふりをしてください。好き合っているふりをしていてください﹄
233
なんて頼まないわ。どんだけ他人のこと馬鹿にしてんのよ﹂
愛しのお兄様が表紙を飾る音楽雑誌。それの上に琴音は音が出る
ほど乱暴に手を置いた。
﹁でね、普通は頼まれてもそんな馬鹿げた頼みは引き受けないの。
プライドってもんがあるじゃない。たとえ生徒の一生に関わること
でも断るの。身勝手極まりない小芝居に休日返上で付き合ったりは
しないの、普通は﹂
一気に言って肩を落とす。琴音は興奮と息を落ち着かせた。が、
苛立ちは消えていない。兄に似て整った眉は寄せられたままだった。
﹁そうじゃなきゃ惨めじゃない。涼は一体何なのよ? 散々利用さ
れて、悩まされて、好きでも何でもない男のために苦労する涼は一
体何なの?﹂
234
︵その十三︶価値観の押し売りは控えましょう
その程度の人間だということですよ、榊琴音さん。
口にしたら最後、烈火のごとく怒り狂うのは目に見えていたので、
涼は黙りこくった。人類皆平等なんて嘘だ。琴音のように理解ある
両親と兄弟、何不自由ない生活を生まれながらに持っている人もい
れば、生まれて息をしただけで不必要と捨てられた人だっている。
無価値な人間などいない。しかし人それぞれの価値に差はあるの
だ。誰が否定しようと厳然と存在する差が。
﹁人には分ってものがあるんだよ﹂
﹁あんたが勝手に作った分がね。自分を卑下するのも大概にしなさ
いよ。傍から見てて苛々する。涼は昔っからそうだった﹂
変わる要素がないのだから当然だ。何年経とうと涼の生まれが変
わるわけでもない。
﹁勝手に分を決めて、そこから出ようとしない。欲しいものがあっ
ても指をくわえて見ているだけ。手を伸ばす前に諦めている。それ
も全部、自分の分のせいにして﹂
誰も決めてくれなかったから、自分で身の程を決めただけだ。
生まれて最初に覚えたのは、諦めるということだった。自分が力
を尽くしても決して手に入らないものがある。それを涼は幼い時か
ら知っていた。同時に、そんな努力をしなくても手に入れられる人
もいることも。世の中は、そんな人が大半を占めることも。
﹁欲しいものがあるなら力を振り絞って掴んでみなさいよ。努力し
ている人に失礼だと思わないの?﹂
正論だ。しかし涼には詭弁にしか聞こえなかった。努力さえすれ
ば手に入るものしか欲しがったことのない琴音だからこそ言えるこ
とだ。最初から用意されていた側の言い分に過ぎない。
﹁じゃあ、どんな努力をしたら﹂
235
琴音の言う通りだ。自分は昔から何一つ変わっていない。二十年
以上経つのに自分の決めた分から一歩も踏み出せずにいる。涼は悪
意を込めて琴音に訊ねた。
﹁どんな努力をしていたら、私は捨てられなかったんだろうね?﹂
自分の失言に気がついたのか、琴音は気まずげな顔をした。
﹁ごめん。言い過ぎた﹂
﹁私も、急に押し掛けてきて悪かったよ﹂
会話の終了を示すつもりで涼は立ち上がった。ここにいても琴音
も自分も不愉快になるだけだ。鞄を手に取り、コートを羽織った。
﹁涼﹂
途方に暮れたように琴音が名を呼ぶ。
﹁本当にごめん。私、そういうつもりじゃ﹂
﹁知ってるよ﹂
﹁でもね、今のままがいいとは思えないの。もっと自信を持ってほ
しいの。やっぱりおかしいよ﹂
﹁わかってる﹂
涙を湛えた琴音の瞳は潤んでいて、涼は綺麗だと思った。
見目の美しさだけない。他人を思いやることのできる心が、だ。
残念ながらそのどちらも自分にはなかった。泣くことすら虚しくて
できやしない。見ているのも苦しくなって涼は玄関へ向かった。
︵なあ、どうしたら君みたいになれる?︶
つい訊ねてみたくなる。榊家に生まれていたら、せめて親に不要
もの扱いされなかったら、琴音のようになれたのだろうか。
﹁大丈夫だよ。君が悪いわけじゃない﹂
むしろ原因は自分にある。何でもかんでも生まれのせいにしてし
まう卑屈さが涼の全てだった。
﹁でもな、わからないんだ﹂
ドアノブに手を掛けた中途半端な状態で、涼は振り返った。
琴音は怒って当然だと言う。彼女のふりだなんて、同僚を馬鹿に
した行為だと。二年生だという理由だけで主役を降ろされるなんて
236
不当な扱いだと。しかし、当の涼自身は怒りを覚えなかった。
代用品扱いに天下は激怒した。全国模試百位以内という無謀な試
みに挑んでも、自分の将来をふいにしても構わない、とさえ言った。
しかし涼はそうは思えなかったのだ。天下が寸暇を惜しんでまでし
なくてもいい勉強に励み、待ち構えているであろう輝かしい未来を
捨てる。そんなことをする理由が見当たらない。
﹁自分にそれだけの価値があるとはどうしても思えないんだ﹂
スタンウェイのピアノが最高級のものであると価値付けられるの
は、生み出した﹃スタインウェイ&サンズ﹄が最高の価値を付け、
世の音楽家達がその評価を支持したからだ。人間ならば親がそれに
相当する。どんな人間であろうと、親にとっては無条件で愛すべき
存在であり、最高の価値を付けられる。
ではその親に不要なものと︱︱無価値であると断じられた自分の
価値は、一体誰が決めるのだろう
237
︵その十四︶口論をする際は周囲に気を配りましょう
積み上げたものを崩すのは簡単だ。たった一週間の間に民子とは
半ば敵対関係になり、佐久間とは絶交し、琴音とは気まずくなり、
天下に至っては目すら合わせないようになった。自分がいかに脆い
関係で繋がっていたかを涼は改めて実感した。
周囲は相変わらず涼と佐久間が交際していると思い込んでいる。
涼もあえて否定はしなかった。佐久間にはああ言ったが、遙香が三
年になるまでは小芝居を続けてやるつもりだ。
表向きは職場恋愛だ。浮ついていると先輩教師から嫌味を言われ
ることもある。生徒にからかわれることもある。天下には軽蔑され
ただろう。しかし全て、涼が我慢すればそれで済むことだった。
大したことではなかった。もっと酷い扱いだって受けてきた。悔
しくて眠れなかった時だってあった。でも涼はしぶとく生きている。
ピアノだって弾くし、授業だってできた。心労で倒れることもない。
だから、大したことではない。
そうして折り合いをつけて数週間。模試も終わった月曜日の朝、
涼が寝ぼけ眼を擦り職員室へ向かっている際に、その匂いは鼻を掠
めた。学校にはそぐわない微かな香り。
﹁煙草﹂
反射的に口に出すと、見覚えのある背中が振り返った。高校生に
しては鋭い双眸。授業以外でまともに顔を合わせるのは久しぶりだ。
﹁匂い、また残ってる﹂
内心の動揺を悟られる前に涼は踵を返した。職員室とは反対方向。
それでもこの場から逃げ出すことの方が重要だった。
背後で舌打ち。
﹁相変わらず細けえ﹂
﹁学校は禁煙ですから﹂
238
﹁煙草も駄目。恋愛も駄目。だから不登校が増えるんじゃねえの?
窮屈過ぎんだよ﹂
何故ついてくる。意地でも振り向くまい、止まるまいと涼は足を
速めた。
﹁望ましくないんだ。やるならバレないようにこっそりと。バレた
際はペナルティを甘んじて受けましょう、自己責任で﹂
﹁じゃあ俺が責任取るから付き合って下さい﹂
﹁再就職先の斡旋でもしてくれるわけだ。どうもありがとう﹂
﹁待てって﹂
中央廊下に差し掛かったところで天下が痺れを切らした。肩を掴
まれて、涼は仕方なく立ち止まった。
﹁頭は冷えたのかよ?﹂
神妙な顔でそんなことを訊ねてくる。
﹁冷やすのは君の頭の方だ﹂
いっそ氷水にでも頭を突っ込んでくれ。そうすれば教師に交際を
申し込むなどという馬鹿げた考えも吹っ飛ぶだろう。そうだと全力
で期待したい。
﹁一人で勝手に盛り上がって。迷惑だって何回言えば理解するんだ﹂
感情を乗せずに、静かに、取り付く島を与えない。涼は極めて冷
静に対処した。目論見通り天下の神経を逆撫でることに成功。眉間
に皺が生まれる。
﹁責任なんか取れるわけないじゃないか。自分の面倒すら自分でみ
れない高校生が偉そうに口を利くな﹂
﹁伊達巻一つ作れない先生に言われたくはありません﹂
﹁卵焼き作れる程度で調子に乗るんじゃない。料理ができようと全
国模試で百位だろうとあくまで君は高校生で、生徒で、子供なんだ﹂
天下は眉根を寄せた。
﹁⋮⋮またそれかよ﹂
239
︵その十五︶大人には大人の事情があります
﹁二言目には教師だ生徒だ。ていのいい言葉並べて逃げやがって、
結局あんたはどうなんだよ﹂
不貞腐れているような、不機嫌そうな、なんとも表現しがたい険
しい面持ちで訊ねた。
﹁俺が、嫌か?﹂
﹁対象外なんだよ。好きも嫌いもない。興味がないんだから﹂
﹁嫌かどうか聞いてんだ﹂
返答に窮していたら、やたらと得意げに天下が顔を覗き込んでき
た。期待に満ちた眼差しが気に障る。
﹁じゃあ好きか?﹂
﹁いや、それはない﹂
即答。しかし天下は怒るわけでもなく鼻を鳴らした。
﹁好きでもない、興味もない生徒を自宅に上げたりするのかよ。だ
としたら、とんだ悪女だぜ? あれだけ思わせぶりな事しておいて、
期待させて、カルメンだってそこまでしねえよ﹂
﹁気を遣っているんだ。これでも教師だからな。繊細な少年少女の
心を傷つけないように、何事も穏便に済ませようと思っていたんだ﹂
﹁にしては、上手くいってねえのな﹂
何の事を指しているのかは明白だ。佐久間達の件も破綻寸前。ど
んなに上手く取り繕ってもどこか綻びはある。民子には半ば脅迫ま
がいの手段で口止めをしたが、いつまで続くかはわからない。それ
に危機感のないバカップルのことだ。二人の軽率な行動を気に留め
ている者が他にいないとは限らない。
﹁先生、またあの二人のことを考えてますね﹂
天下の口調は怒りを通り越して呆れていた。
﹁君に責められる筋合いはない﹂
240
﹁責めてませんよ。でも、約束は守ってくださいね﹂
実際に模試を受けてもまだ自信を喪失していない。その図太さに
涼は開いた口が塞がらなかった。百なんて生ぬるい。五十位以内に
しておくべきだったか。
﹁わかってる﹂
﹁俺のこともですよ﹂
﹁何回考えても答えは一緒だけどな。迷惑で面倒なだけだ。お互い
に﹂
﹁またそうやって立場を持ち出す。卑怯ですよ、先生﹂
卑怯とは心外だ。こっちはどう事を収めようかといつも考えてい
るというのに。苦労も知らないで好き勝手やりやがって。天下も、
佐久間も、遙香も、みんな勝手だ。
﹁立場をわきまえずに動ける君がうらやましいよ﹂
﹁あんたが教師の職にしがみついてるだけだろ﹂
元旦にも同じことを言われた。教師面するな。そんなに良い教師
でいたいのか。耳の痛い言葉だ。生徒と教師の交際に反対していな
がらも手を貸している中途半端さを、天下は軽蔑している。
生徒に嫌われても間違いを正すのが教師の役目だ。その点、涼が
やっていることはただ佐久間と遙香を甘やかしているだけなのかも
しれない。
では、どうしたらいい。引き離すこともできず、かといって校長
に報告することもできない。仮にも生徒だ。見捨てられない。
﹁仕方がないだろ。私から教職を取ったら、何も残らない﹂
﹁なんでそんなにネガティブになるんだよ﹂
天下が苛立たしげに頭を掻きむしったその折だった。
﹁渡辺先生﹂
酷く慌てた様子で恵理が呼ぶ。
﹁こんなところにいたんですか﹂
涼は努めてさり気なく天下から離れた。天下が不快に思うのも知
っての上だ。誤解を招く行動はできるだけ控えたかった。
241
﹁何かあったんですか?﹂
﹁至急、職員室まで来て下さい﹂
それだけで何の説明もない。つまり生徒の前では言えないことな
のだろう。涼の胸に嫌な予感がひしめいた。
﹁わかりました。すぐ参ります﹂
しかし逃げる選択肢などあるはずがない。涼はどうしようもなく
教師だった。それ以外にはなれなかった。
242
︵その十六︶後には引けません
朝の会議等で職員室には毎日訪れるが、音楽科準備室に机がある
ため、長居はしない。ゆっくり紅茶を飲むのも、授業の準備するの
も全て準備室でだ。改めて入室すると、意外に職員室は広く感じた。
教師の数が少ないせいかもしれない。その十数名の視線が一斉に
向けられ、涼は面食らった。場所を間違えたのかと一瞬思う。が、
その考えはすぐさま消えた。
教師に囲まれている女子生徒がこちらを振り返った。途方に暮れ
たような眼差し。いつもの小生意気さは鳴りを潜めていた。その隣
に立ち尽くしているのは佐久間。それだけで涼が全てを察するには
十分だった。
ついに破綻したのだ。
﹁何事ですか﹂
白々しいと思いつつも涼は何食わぬ顔で近寄った。
対峙する形で立つ学年主任は無言で写真を突きつけてきた。画像
が荒い点からしてケータイで撮ったものだろう。それをわざわざ現
像する辺りに悪意が伺えた。しかし、重要なのは誰がどう撮ったか
ではなく、何が映っているかだ。
どこぞの教室内︵空き教室だろう︶で抱き合う二人。
もはや言い訳のしようもない。状況が許すなら涼は笑い出すとこ
ろだ。よりにもよって学校で。電車の中なら﹁よろけたのを咄嗟に
支えました﹂で誤魔化せたものを。
人気のない校内で制服姿の教え子を抱きしめる教師︱︱適当な説明
などできるわけがなかった。
︵終わったな︶
幕引きだ。古今東西、秘密事が明るみにならないケースは極僅か
だ。﹃ローエングリン﹄の白鳥の騎士の名だって明らかになるし、
243
トゥーランドットに挑んだカラフ王子だって最終的には自分の名を
自ら明かす。オペラの役者たるもの、潔く幕を引くべきだ。涼の小
芝居は終わった。
しかし、これはオペラでも小芝居でもない現実だった。﹃悲劇﹄
の一言で幕が下りるわけじゃない。どれほど悲劇的で苦痛に満ちた
ものであってもその先を続けなければならないのだ。ならば精一杯
足掻くしかない。
﹁何ですか、これは﹂
﹁私が聞きたいくらいです。佐久間先生と矢沢さんが抱き合ってい
るように見えますが、一体どういうことです?﹂
見ての通りです、学年主任。
ぶちまけたいのを涼は堪えた。許されるものなら逃げ出したかっ
た。遠慮なく注がれる軽蔑と胡乱の眼差し。耐えがたい屈辱だ。そ
れでも涼は折れるわけにはいかなかった。
﹁お二人は何と?﹂
学年主任は無言で顎をしゃくった。本人から弁明しろと言わんば
かりの態度だ。佐久間は唇を引き結んだまま、何も言おうとはしな
い。その隣にいる遙香が逡巡の後に口を開いた。
﹁⋮⋮先生は、悪くありません﹂
と、一言。それ以上は何も言おうとしない。本人は佐久間を庇っ
ているつもりなのだろうが、逆効果だ。意味深な態度にますます疑
惑は深まる。
﹁渡辺リョウ先生、あなたはこのことをご存知だったんですか?﹂
ここで何も知らなかった、と言えば、涼が咎められることはない。
交際相手に浮気されたという大恥はかくことになるが、責任を問わ
れることはない。半年近くも隠ぺいに協力した教師も共犯だ。教師
ではいられなくなる。
涼から教職を取って後に残るのは、幼いままの渡辺涼だ。母親が
秤にかけて捨て去った。その程度の価値しかないものだ。
遙香が切羽詰まった声で弁明した。
244
﹁渡辺先生は、関係⋮⋮﹂
﹁存じ上げていました﹂
涼がそれを遮った。呆れかえる学年主任を正面から見据える。
﹁九月頃でしたか、彼女から相談されました﹂
245
︵その十七︶覚悟と諦めは全く違います
慎重に言葉を選ぶ。決定的な発言は避け、突破口を探った。何か、
適当な言い訳はないか。もっともらしい正当な事情を言おうと涼は
頭を捻った。
教室内で熱い抱擁を交わす生徒と教師の事情︱︱どんな事情だ。
再就職先を探した方が有益のような気がする。そうだ。そうしよう。
﹁何を相談されたんですか?﹂
﹁元旦にも、お二人は会ってましたよね?﹂
追随するように民子が訊ねる。質問よりも確認に近かった。わざ
わざ声に出して訊くことでこちらに認めさせたいのだろう。周囲の
教師達の困惑がますます深くなるのを涼は肌で感じ取った。
﹁どういうことですか?﹂
﹁ご説明いたします﹂
涼は学年主任に頭を下げた。
﹁しかしここは人が多過ぎます。別室でお願いいたします﹂
﹁これだけ騒ぎが大きくなっているのです。今更、﹂
外野は黙っていろ。騒がしい民子は無視して訴えた。
﹁騒ぎが大きくなっているからこそ、配慮していただきたい。その
後の処遇をどうなさるかは主任の判断にお任せいたします。ですか
ら、まずはこれ以上話がややこしくならないよう、別室で話をさせ
てください﹂
この時点で涼は腹を括っていた。佐久間の免職は間違いない。関
与を認めた以上、自分も罪に問われるだろう。かくなる上は、でき
るだけ内々に事を収め、これからも学校生活を送らねばならない遙
香の立場を少しでも回復させておく。
覚悟なんて格好いいものじゃない。これは諦めだ。それでも涼は
間違っているとは思えなかった。巻き込まれたとはいえ、最初に関
246
わると決めたのは自分。諦めたのも自分だ。非難されようと職を追
われようと全て自己責任の範疇に入る。琴音に叱られる筋合いはな
かった。
︵所詮、私はその程度の人間だってことだ︶
渡辺涼という人間が浅はかだったのだ。だから報いを受ける。そ
れだけのことだった。
︵これでも努力はしたんだよ︶
この場にいない琴音に胸中で言い訳する。処分を受けたと知れば
彼女はさぞかし怒り狂うだろう。言わんこっちゃない。自分のこと
のように憤慨し、そしてあっさり諦めた涼を叱るのだ。
︵私にしては上出来じゃないか︶
生徒は護る。教師としての最低限の義務だ。だから怒るな。琴音
が思うほど渡辺涼は大層な人間じゃない。頼むから怒らないでくれ。
自分はこれでいいと思っているんだ。誰かを巻き込んだわけでも迷
惑をかけてもいない。それでいいじゃないか。
学年主任は悩む素振りを見せた後、涼の提案を呑んだ。
﹁では、会議室の方で︱︱﹂
﹁もういいですよ、渡辺先生﹂
涼は顔を上げた。まさかの乱入。不用意にも開けっ放しの扉から
現れたのは、先ほど中央廊下に放置したはずの天下だった。
247
︵その十七︶覚悟と諦めは全く違います︵後書き︶
拙作をお読みくださりありがとうございます。
今後について﹃活動報告﹄で報告させていただいております。お
時間がよろしければご覧くださいませ。
248
︵その十八︶どうでもいい、なんて嘘です
﹁十分です。もう、嘘なんか吐かなくていいんです﹂
断りも無く職員室に入り、天下は涼の隣で足を止めた。これは一
体どういうことだ。何故天下が現れる。涼は喉でつっかえる言葉を
無理やり押しだした。
﹁鬼島、どうして﹂
天下は少し困ったように目を細めた。酷く優しげで、それでいて
寂しさが混じった微笑だった。諦めとは違う。自らの手で突き放す
ことで終わりにする静謐な決意︱︱それはいつぞや、鬼島氏に見せ
たものと酷似していた。
﹁鬼島君、どういうことですか?﹂
硬い声で訊ねる学年主任。天下は向き直った。
﹁渡辺先生は庇っているだけです。さすがに校内で色恋沙汰はマズ
いと思われたんでしょう。だから必死になって隠そうとしたんです﹂
何を言っている。
涼は握り締めた自分の手がじっとりと汗ばむのを感じた。まさか、
この場で全てをぶちまけようというのか。振られた腹いせに佐久間
達の件を暴露しようと。
口を塞がねば。涼は咄嗟にそう思ったが、どうしようもできなか
った。混乱しているためだ。目の前にいる青年が理解できない。彼
は今、民子と同じように佐久間達を吊るし上げようとしている。涼
の中では卑怯と分類されることだ。
なのにどうして、天下から目が離せないのだろう。
前を見据える天下の横顔には凛々しさがあった。何ものかに挑も
うとする強さがあった。
﹁それは、一体︱︱﹂
﹁こういうことです﹂
249
天下は腕を取るとおもむろに唇を重ねた。反射的に引こうとした
顎に手を当て、これ見よがしにキスを深くする。
当人は勿論、周囲をも﹁茫然﹂の一色で染め上げてようやく天下
は唇を解放した。悪びれる様子は全くない。
﹁な⋮⋮っ﹂
学年主任の顔がみるみる内に紅潮する。
﹁何をしているんです!?﹂
涼は言葉も無かった。打ちひしがれる思いだった。天下の意図を
察したからだ。同時に自分の矮小さが思い知らされる。覚悟と口に
しておきながら、結局自分は何も懸けてはいなかったのだ。
﹁見ての通りです﹂
賢い方法とは言えなかった。天下の取った手段は最善とは程遠い。
優等生が出した結論にしてはお粗末なものだ。愚かで。本当に愚か
で、でも間違いなく必死だった。彼は文字通り捨て身で護ろうとし
ている。涼自身でさえ捨て去ろうとしたものを、だ。
﹁俺が、彼女と付き合っているんです﹂
教職員の前で天下は宣言した。微塵の迷いもない。嘘を吐いてい
るようにはとても見えなかった。とんだ似非優等生だ。涼は泣きた
いような笑いたいような自分でもわからない衝動に駆られた。
やめろ。そこまでしてもらう理由がない。そんな価値は自分には
ない。
叫び出したいのに声にならなかった。生徒に庇ってもらう自分が
情けなくて、苦しくて、恥ずかしくて、いたたまれなくて、でも嬉
しいのだ。天下に申し訳ないと思う一方で、見捨てられなかったこ
とを例えようもなく喜ぶ自分がいる。
︵あー、でも⋮⋮︶
憐れみを込めて涼は遙香を見た。自業自得とはいえ可哀想に、顔
を真っ赤にしながらも必死で涙を堪えている。
︵セクハラだよな、これ︶
教師陣数名の前で天下にキスされた遙香は、ある意味被害者とも
250
言えなくもなかった。
251
︵その十九︶後始末はしっかりしましょう
とりあえず、天下は厳重注意で済んだ。日ごろの行いの賜物であ
る。
騒然となった職員室から場所を移し、会議室へ。天下も加えた四
人で口裏を合わせて言うにはこうだ。
天下と交際している遙香が涼に恋愛相談。涼と交際中である佐久
間の耳にも入り、相談に乗っているところ感極まって泣き出した遙
香を佐久間が宥めていた図︵写真参照︶。
﹁彼、悪い人じゃないんですけど⋮⋮その、ちょっと強引な所があ
って、だから、私⋮⋮﹂
涙ぐみながら嘘八百を並べたてる遙香に涼は戦慄した。五教科も
音楽の成績も冴えない遙香だが、意外な才能があるものだ。
ついさっき目の前で繰り広げられた天下の﹃強引な所﹄も幸いし、
学年主任は無理のある説明にもなんとか納得した。
﹁それならそうと早く言ってくれればいいものを﹂
大袈裟に騒いだ手前、学年主任も気まずげだった。
﹁あまりにも騒ぎが大きくなってしまったもので、今さら﹃生徒の
色恋沙汰です﹄とはどうも申し上げにくくて⋮⋮﹂
佐久間が弁明。及第点だ。補うように天下が頭を下げる。
﹁元はと言えば俺のせいです。すみませんでした﹂
普通科きっての優等生にそこまでされてしまえば、学年主任とて
強くは出られない。
﹁くれぐれも行動は慎重になさってください。そのつもりがなくて
も、今回のように誤解を招いてしまうこともありますから﹂
申し訳ございませんでした。四人仲良く頭を下げてその場は収ま
った。
帰りは当然、天下と遙香、佐久間と涼の二組に分かれる。
252
演技派の生徒二人は自然な高校生カップルの雰囲気そのままに教
室へ戻った。
対する教師二人は形容しがたい重苦しさを纏い、無言でひた歩く。
不愉快の塊と一緒に歩く自分を褒めてやりたかった。教室付近で周
囲に人がいないことを確認してから、涼は拳を握った。
﹁え、あの⋮⋮リョウせん、﹂
﹁歯は食いしばらなくていいですから。遠慮なく舌でも唇でも思い
っきり噛んでください﹂
と言ったにもかかわらず、佐久間は食いしばりやがった。
それでも拳には確かな手応えがあった。よろめく佐久間を放置し
て涼は中央廊下を渡った。慣れないことをしたせいで手が痛い。
音楽科準備室に戻ると緊張感が解けて崩れ落ちそうになった。鞄
からケータイを取り出し、電話しようかと考える。しかし、理由が
思い浮かばなかった。助けてもらった礼、迷惑を掛けた謝罪。どれ
も天下は求めていないような気がする。そうして理由を探している
自分に気が付いて涼はため息を吐いた。
これはマズい。
253
︵その二十︶タダほど高いものはありません
見覚えのある背中と遭遇したのは昼休みだった。購買のパンを無
造作に持ち、行く先はおそらく教室だろう。人気のない渡り廊下を
歩いていた。
﹁鬼島君﹂
咄嗟に涼が声を掛けると、天下は足を止めた。
﹁今朝は⋮⋮え?﹂
涼は言葉を失った。
振り向いた天下の白皙の頬。その片側には腫れがあった。定番の
手形ではなかったが、その赤さは衝撃を物語るには十分な色合いを
持っていた。
﹁振られたのか﹂
﹁こっちから願い下げだ﹂
殴られてやったんだ、と天下は顔を顰めた。
﹁矢沢だって佐久間との関係がバレるのは困る。利害が一致してた
んだよ。あいつもそれを理解した。だから、一発殴るだけで水に流
すってさ﹂
それはまた、なんとも遙香らしい言い草だ。容赦なく引っ叩いた
遙香を思い、甘んじて受けた天下を思い、涼の口元には自然と笑み
が浮かんだ。
﹁君が汚れ役を引き受けることはなかった。あの二人の関係がバレ
たら加担してた私も多少叱責は受けるだろうが、それだけだ。下手
に処罰すると騒ぎが大きくなってしまう。学校側としても内々に終
わらすつもりだったろうに﹂
﹁でも、確実に佐久間と矢沢は引き離される。それだけなら別に構
わねえが、噂は確実に広まるだろうな。好奇の視線にさらされて︱
︱二人だけの問題じゃなくなる﹂
254
それこそ、涼が一番懸念していたことだった。矢沢遙香の両親は
どうなる。娘が教師とデキてたなんて知ったら。大人には世間体と
いうものがある。何よりも、これからも学校に通い続けなければな
らない遙香本人は。彼女がこれから送るであろう学校生活は一体ど
うなる。
﹁同情したのか?﹂
﹁まさか﹂
天下は薄く笑った。
﹁俺は連中が周囲から白い目で見られようが、二人で思いあまって
掛け落ちでも心中でもしようが、どうでもいい。自業自得じゃねえ
か。それを承知で付き合ってたんだろ? なら、リスクも負うべき
だ﹂
淡々と言う天下の口調に迷いはなかった。
﹁でも、あんたは違う。どうしようもねえ奴らだが護ろうと必死に
なってた。だから俺も陥れるような真似だけは絶対にしたくはなか
った。あの程度の汚れ役だってやるさ﹂
馬鹿だな。今まで優等生として教師達の信頼を築き上げていたじ
ゃないか。こんなことのために捨てることはなかった。口を開きか
けて涼はすぐさま閉ざした。
こちらを見る天下の目がいつになく穏やかなものだったからだ。
﹁あんたが大切にしてたもんじゃねえか。護りたいと思って何が悪
い﹂
涼は目を逸らした。いたたまれない。必死で護ってなんかいなか
った。逢引現場を目撃したから叱った。巻き込まれたから手を貸し
た。その場しのぎの言い訳を繰り返し、破綻しそうになったら一番
最初に投げ出した。天下の言う通り、涼は中途半端なのだ。
でも天下は違った。無関係なはずのこの青年だけが、最後まで諦
めなかったのだ。
﹁私は、結局君のために何一つできなかった。家庭の事情に首を突
っ込んで、かき回しただけだ。手を差し出しておきながら、いざ危
255
うくなったら無責任に放り出した﹂
﹁でも勝手に帰った俺を探してくれた。俺の話を聞いてくれた。一
緒に年越ししてくれた﹂
﹁君の事を迷惑だと言った。それも一回じゃない。関係を聞かれる
度に、何度も、何度も﹂
﹁俺だって、あんたがお袋のことで首を突っ込んできた時、迷惑だ
って言った。本当は、すごく嬉しかったんだぜ? でも、あんたは
公園まで追いかけてくれた。自分の職懸けて抱きしめてくれた。挙
げれば沢山ある﹂
もういいじゃねえか。天下は肩を竦めた。
﹁キリがねえよ。俺は借りとか考えてやったわけじゃねえ。あんた
だから、勝手にやっただけだ。迷惑で面倒だって? 上等じゃねえ
か。それでもあんたがいいんだよ﹂
自惚れてもいいのだろうか。自分にそれだけの価値があると。涼
が口を開こうとした丁度その時に﹁きじまあ﹂と間延びした声が降
ってきた。見上げると、三階から手を振る男子生徒数人。
﹁早くしろよ。もう食ってんぞ﹂
天下は肩を落とし﹁うるせえ。今行く﹂と怒鳴り返した。
﹁先生、俺︱︱﹂
﹁さっさと行け。君はもう少し歳の近い子と仲良くした方がいい﹂
ひらひらと軽く手を振って涼は送り出した。天下は不満げに眉を
寄せ、それでも教室の方へと足を進めた。が、校舎内に上がるか上
がらないかの場所で振り返った。唇を引き結んでいるものの、目は
物言いたげで。溢れてくる何かを必死に押し止めているようだった。
様々なものが織り混じった焦燥感。見ているこっちの息が詰まる。
﹁天下?﹂
﹁本気なんだ﹂
天下は少し顔を横に逸らした。
﹁⋮⋮本気で、好きなんだ﹂
256
︵その二十一︶好きになるのに理由はいりません
来年度から校内で教師の﹃渡辺﹄が一人になると涼が知ったのは、
例の騒ぎが収まって間もない頃だった。情報源は当然、同じ普通科
担当教師の佐久間だ。
﹁東京の有名私立高校です。ヘッドハンティングですね﹂などと呑
気な発言をする佐久間は、自分が原因であるとは微塵も、想像さえ
していないようだ。ここにきて涼はようやく悟った。どうして佐久
間と遙香の恋愛が成り立つのか。二人とも自分の都合の良い方にし
か解釈しないからだ。普段は遙香の我儘ぶりばかりが目立つが、佐
久間も負けず劣らずマイペースだ。
ここまで我を通されてしまえばいっそ小気味いいくらいだった。
とにかく涼はこれ以上関わりにならないように可能な限り音楽準備
室へ籠ることにした。
なので、突然押し掛けられてきても答えようがなかった。
﹁聞かないんですか?﹂
音楽準備室に入るなり、民子は前置きもなく訊ねてきた。放課後、
明日の準備も終えてそろそろ帰ろうかと涼が思っていた矢先にだ。
他の教師が出払っているので話しやすいのはわかる。が、どいつも
こいつも他人の事情というものを考えていない。
﹁何をですか﹂
涼は半眼で訊ね返した。早々の帰宅は諦めてコートを椅子に掛け
る。
﹁考えなしで優柔不断で面倒なことになったら他人に押し付ける情
けない教師がどうして好きかなんて、それこそ余計なお世話という
ものでしょう﹂
﹁随分はっきり言いますね﹂
民子は気を悪くする様子もなく俯いた。
257
﹁自分でもわかりません。歳下で、頼りにならないからでしょうか。
私がいなきゃ駄目だと思っておりましたの﹂
一方的に、だ。佐久間の方は気付いてすらいなかっただろう。
﹁いつお気付きに? 私、そんなにあからさまでしたか?﹂
﹁残念ながら私は色恋に関しては疎いと友人のお墨付きでして。正
直、お二人の普段の様子ではただの友人程度にしか見えませんでし
たね﹂
﹁実際、ただの先輩と後輩ですから﹂
自嘲混じりに民子は呟く。沈みかけた空気を振り払うように涼は
話題を変えた。
﹁いくらあの二人がずぼらだとしても、逢引現場を二回も三回も偶
然目撃させるのは至難の業です。どちらかが故意でない限りは﹂
最初の一回はおそらく偶然だろう。しかしその後も民子は二人の
交際現場を何度も目撃している。二人の関係を知って注視するよう
になったからだ。そしてストーカー紛いな行動もした。同僚の教師
と教え子のスキャンダルであることを差し引いても、その情熱は明
らかに歪んでいた。
﹁で、普通は一回そんな現場を目撃したらすぐに咎めるなり上司に
報告するなりします。脅迫文を送るとしても当人に送りますよ。お
三方に怪文を送りつけるからには、それだけの理由があって然るべ
きです。学校に送りつけたのは騒ぎを大きくして二人を引き離した
かったから。匿名なのは追い込んだのが自分だとバレてほしくなか
ったから﹂
身勝手とも言うべき願いは、民子が佐久間に慕情を抱いていたと
仮定すれば成り立つのだ。あんな男のどこがいいのかは未だに理解
しかねるが。
民子には純然たる悪意があった。とにかく傷つけ、打ちのめした
いという昏い衝動があった。ただ、それが向けられていたのは佐久
間ではなく、もっぱら遙香の方だったのだ。
﹁しかしそう考えると、先日の件は少々腑に落ちません。写真を送
258
りつけたのは渡辺先生であるとすぐにバレます。怪文の件を私が言
ってしまえば疑いの目は向けられたでしょう。それでも強硬にあな
たは写真を送りつけた。二人を引き離すためとはいえ、捨て身過ぎ
やしませんか?﹂
民子は微笑んだ。これまで見た中で一番不気味な笑みだった。
﹁心中ですよ﹂
259
︵その二十二︶嫌いになるには理由がいります。
唇から発せられた不穏な言葉に涼は眉を寄せた。
﹁心中?﹂
﹁死なば諸共、道連れにしてやろうと思ったんです﹂
その意味を咀嚼する。涼が民子を告発するとでも思っていたのだ
ろうか。だとすれば杞憂だ。怪文の件を涼が言おうものなら、民子
だって佐久間と遙香の件を黙っているとは思えない。お互いに弱み
を握り合っていて拮抗状態だったはずだ。
﹁私は、誰にも言うつもりはありませんでしたよ?﹂
﹁違います。職を追われることではありません﹂
ややむきになって民子は言い返した。
﹁愛の反対は何だとお思いですか?﹂
突然そんな哲学的な質問をされても答えようがない。そもそも愛
の解釈は人それぞれであって、何世紀もの間数多の哲学者が研究に
研究を重ねたが未だ明確な答えを導き出せていない。そんなものを
音楽教師が論じる方がどうかしている。
﹁無関心ですよ﹂
最初から涼の答えは期待していなかったのか、民子はあっさりと
言った。
﹁憎まれた方がまだマシです。私は気にかけてすらもらえませんで
した。彼にとって私は、路傍の石同然です。食事に誘っても、こっ
そりチョコレートを机の上に置いても、彼は全く相手にしてくださ
いませんでした。いつも困ったように苦笑するだけ。はっきりと断
ってもくださいませんでした。無視に等しいですよ﹂
そんな軽薄な無神経野郎を好きになったのは民子本人だ。たしか
に、佐久間の曖昧な態度は褒められたものではないが、それを咎め
る権利はないはずだ。民子だって正々堂々としていなかったのだか
260
ら。
﹁だから、いっそ憎まれてやろうと? 社会的心中を図ったわけで
すか﹂
﹁彼が最初に私を踏み躙ったのですよ﹂
燃えるような瞳で民子は断言した。
﹁私だって苦しかったのです。よりにもよって教え子と交際するな
んて⋮⋮眠れない夜が何度続いたことか。校長に報告するべきか、
佐久間先生に忠告するべきか、別れるよう諭すべきか、考えて、悩
んで︱︱その間も彼は教え子と一緒にいると思ったら気が狂いそう
になりました。どうして、私ばかり⋮⋮﹂
嫉妬だ。それが歪んで逆恨みに発展した。涼は冷めた目で自分の
正当性を訴える民子を見た。全く同情できなかった。
﹁佐久間先生を好きになったのは渡辺先生。二人の関係を知って気
にしたのも渡辺先生。全てあなたが勝手に思い描いただけですよ。
頭の中で何を考えようと咎めはしませんが、他人に押し付けるのは
間違っています﹂
その前に恨みがあるなら本人に言え。他人を巻き込むな。涼の心
を悟ったのかどうかはわからないが、民子は目を眇めた。
﹁私、やっぱりあなたの事を好きにはなれませんね。澄ました顔で
他人の急所を掴んで握り潰す方なんてごめんです﹂
﹁奇遇ですね。私もです﹂
﹁でもあなたがどうして、他人を見抜くことに長けているのかは、
想像つきますよ﹂
民子は満足そうな笑みを浮かべた。
﹁自分が秘密を抱いているからですよ。だから暴かれる前に他人の
を暴こうとするんです﹂
可哀想に、と民子は呟いた。
﹁自分を守るために他人を攻撃せずにはいられない。これから先、
あなたはずっとそうやって生きていくんですね﹂
可哀想に。静かに発せられたその一言は粘質の毒の如く涼の中に
261
染み込み、いつまで経っても薄れる気配を見せなかった。
262
︵その二十二︶嫌いになるには理由がいります。︵後書き
︶
お読みいただいてありがとうございます。これで六章も終了。終
章へ突入いたします。
で、似非優等生の試験結果も出てくるわけですが⋮⋮活動報告の
通りにいたしますので、とんでもない順位になります。これはフィ
クションですので。実在の人物、団体とは関係ありませんなので、
その点はどうかご容赦ください。
263
放課後︵その一︶何事も諦めが肝心です
考えてみれば大したことではない。
断っても断ってもしつこくしつこく粘りに粘ってくる将来有望な
優等生くんに、ちょっくら世の中の厳しさでも教授してやろうと無
理難題を出した。全国模試百位以内。我ながら名案だと︵その時は︶
思った。
優等生くんの高い鼻を折ることができる。何でもかんでも思い通
りにならないことを若い内に知っておくのも、彼のためである。言
わば親切心だ。いくらなんでもこれで諦めるだろう平和な学校生活
が戻るだろうわっはっはおめでとう私︱︱などというやましい思い
なんて、抱いていなかった。少ししか。
しかし結果は涼の予想を斜め四十五度超えていたのだ。これは大
問題である。描いていたプロセスは一瞬で吹き飛び、ついでに自分
も崖っぷちへと追いやられた。残された時間はあとわずか。それま
でに涼は選択をしなければならない。
崖から飛び降りるか、それとも別の方法を模索するか。
﹁︱︱というわけで、どうすればいいと思う?﹂
﹃諦めればいいと思うよ﹄
電話の向こうにいる琴音は辛辣だった。喧嘩に近い別れをしてお
きながらも数日経てば何事もなかったかのように接してくれる。こ
のあっさりとした琴音の性格は涼も好きだ。だが、こういう非常事
態にもいつも通りでいるのは遠慮していただきたいものだ。ふりで
もいいから焦ってくれ、頼むから。
﹁諦めるというのは⋮⋮﹂
﹃交際してあげれば? って言ってんの﹄
﹁冗談じゃない。相手は六歳下の生徒だぞ。その前に交際してやる
なんて約束を交わした覚えはない﹂
264
﹃じゃあ本人にそう言えばいいじゃない﹄
それができれば苦労はしない。
二ヶ月前に天下とかわした約束は﹃百位以内ならば佐久間と付き
合うふりを止める﹄だ。それだけならば涼とて悩まない。佐久間と
はもう切れていた。向こうも渋々だが承知している。問題は、その
後につけたオプションだ。
天下の事も真面目に考える。
一体何をどう考えろというのか。何回考えても天下は生徒であっ
て、涼は教師だった。交際なんて論外だ。しかし約束を果たした天
下に対し、涼のすることと言えば、
一、佐久間と別れる︵もう別れている︶
一、天下との交際の件︵考えたけどやっぱり無理︶
︵どう納得させろと?︶
あきらかに不釣り合いだった。涼でさえそう思うのだ。天下が黙
っているわけがない。
﹃でも凄いね。全国で百位以内なんて、愛の力以外の何物でもない
わね﹄
いいえ、陰謀です。陰謀以外の何物でもありません。涼は拳を震
わせた。
﹁前回四百位とか言ったのは誰だ⋮⋮っ!﹂
﹃往生際が悪いわよ、涼ちゃん。幕引きは美しくなきゃ﹄
涼は力なく呻いた。他人事だからそこまで軽く言えるのだ。
﹁これが戯曲なら書いた奴に文句を言いたい﹂
﹃最初に話を出したのは涼ちゃん。条件を決めたのも涼ちゃん。文
句なら鏡の前で好きなだけ言いなさい﹄
完全に突き放したもの言い。涼は肩の力が抜けていくのを感じた。
味方はどこにもいなかった。自分自身でどうにかせねば。
﹃涼ちゃん﹄
265
思考を遮ったのは、一段低い琴音の声。
﹃間違ってもどこぞの姫君みたいに自分で出した条件を翻すような
真似はしないでね。みっともないから﹄
味方どころじゃない︱︱涼は戦慄した。こいつも敵だ。
266
︵その二︶足掻くだけ無駄です
涼は机に突っ伏した。気分は死刑執行を待つ囚人。いっそのこと
トドメをさしてくれ。苦しむ自分を見て嘲笑っているのか。他人を
弄んでそんなに楽しいかチクショウ。
不意に顔を上げると、一ヶ月近く放置されたままの消毒液が目の
前にあった。
インフルエンザ対策で支給されたものだ。何故かラベルにはアラ
イグマがプリントされている。手を洗ってから使えと言いたいらし
い。
アライグマの円らな瞳と睨み合うことしばし。涼は忠告を無視し
て一押しした。やや粘着性のある消毒液を手にすりこんでみる。冷
たいが手に馴染んでいく感触が何とも言えない。意外に楽しいでは
ないか。
﹁先生もこれ使うんですね﹂
横から伸びた手が消毒液を持ちあげる。涼は手を止めた。
﹁準備室に入る際はノックをしなさい﹂
物音どころか気配一つ悟らせずに侵入を果たした天下は、悪びれ
もなく言い返した。
﹁何度叩いても返事がありませんでした﹂
﹁じゃあ出直せ﹂
﹁でも先生いるみたいだし﹂
﹁それでも出直せ。見てわからないのか取り込み中だ﹂
天下は半眼で消毒液を見た。
﹁ネチャネチャ消毒液をすり込むのが?﹂
﹁インフルエンザ対策です﹂
最初は似非優等生対策を考えていたのだ。が、いつの間にかイン
フルエンザ対策に移行し、気づいたら何の打開策も見い出せぬまま
267
本人と対峙する羽目に陥っている。おのれアライグマ。涼は恨みが
ましくラベルのアライグマを睨みつけた。可愛い顔をしてなんと狡
猾な!
﹁各教室にも配られていなかったっけ?﹂
﹁そーいや、置いてあったな﹂
﹁少しは使いなさい﹂
二年生故の呑気さか、受験生ほどは意識していないようだ。
﹁この前使いました﹂
天下は消毒液を机の上に戻した。
﹁矢沢とキスした後﹂
名目し難い沈黙。涼は内心頭を抱えた。さらりととんでもない事
を言うこの癖は、どうにかならないものか。好きでもない女子生徒
と公衆面前でキス。天下自身も嫌な思いをしただろう。彼自身が選
んだこととはいえ、涼の至らないせいでもあった。
﹁その件に関しましては⋮⋮﹂
﹁悪かったな﹂
謝るつもりが逆に謝られ、涼は拍子抜けた。
﹁アレ以外思いつかなかったんだ。口と口をくっつけるだけの行為
じゃねえか。人工呼吸だと思えば大したことじゃねえ。それに、そ
の⋮⋮消毒もしたし、問題はないはずだ﹂
﹁は?﹂
﹁浮気じゃねえからな﹂
深刻な顔で念を押されても、涼としては硬直する他なかった。
268
︵その二︶足掻くだけ無駄です︵後書き︶
次回、似非優等生の試験結果が出ます。
269
︵その三︶疲れるだけです
﹁ちょっと待て。なんでそこで浮気だの﹂
﹁俺は先生一筋ですから﹂
大真面目な顔で断言しないでほしい。後生だから。涼はとにかく
全国の真面目な高校生諸君に頭を下げたい気分だった。
こんなのが我が校きっての優等生でごめんなさい。文武両道の眉
目秀麗ですみません。全国模試三十五位以下の皆さん、三十四位は
常識というものを兼ね揃えていなんですごめんなさい。
﹁そんなことを言いにわざわざ準備室まで?﹂
﹁いや、模試の結果を報告しに﹂
天下は折りたたんだ紙を机の上に広げた。学内では一位。県内で
は二位。そして肝心の全国では、三十四位だ。カンニングしたって
こんな成績は出せない。
﹁約束通り、彼女のふりはやめてくださいね﹂
涼は頷くしかなかった。もう別れてます、とは口が裂けても言え
ない。
﹁君との事も考えた﹂
﹁でも駄目なんだろ?﹂
察しがいい。涼は思わず﹁ごめん﹂と呟いた。天下と自分のため
とはいえ、断るには罪悪感を伴う。天下の右手が肩に置かれた、
﹁気にすんなよ。あと一年あるし﹂
涼は顔を上げた。一瞬、本気で空耳かと思った。とてつもなく不
吉な一言が耳を通り過ぎたような気がする。期待を裏切るように天
下は不敵な笑みを浮かべた。
﹁俺の事、嫌いじゃねえんだろ?﹂
﹁いや、それは﹂
﹁じゃあ諦めねえ﹂
270
﹁なんでそうポジティブに﹂
﹁一年間、全力で口説いてやるよ。返事は卒業した後で聞く﹂
歳にそぐわない悪そうな顔をして、天下は確認した。
﹁生徒は対象外なんだろ?﹂
﹁確かにそうだけど、だからといって生徒じゃなきゃいいってわけ、
じゃ⋮⋮﹂
ぎらり、と音が聞こえるほど、天下の眼光は鋭かった。完全に何
かのスイッチが入った目だった。
﹁一年待ちますから、ゆっくり考えてくださいよ﹂
直訳すれば﹁一年猶予やるから腹括れ﹂だ。涼は呆気に取られて
口を開けていることしかできなかった。小さく笑って天下は涼の顎
に手を掛けた。
﹁口、閉じとけ。キスしたくなるじゃねえか﹂
いやいやいや、早速口説き出さないでください。まだ承諾した覚
えはない。口を閉じさせられた状態でまた涼は固まった。
﹁じゃあ、五限目もよろしくお願いします﹂
嵐が、去った。
それでも涼は動けずにいた。
271
︵その四︶お得な優良物件です
だがしかし、涼の苦悩はこれだけでは終わらなかった。
全国模試で三十四位。学校始まって以来の快挙に職員室の話題は
もちきりだ。おまけに生徒も自分の事のように触れまわる。科が違
かろうとそんなことは関係ない。
つまり、涼の担当する音楽の授業でもその話が浮上したのだ。
﹁全国三十四位ですよ﹂
もう既に本人から見せられましたとは言えずに、涼は生徒が掲げ
る結果を眺めた。何度見ても順位が変わることなく、天下は全国で
三十四位だった。
自身の模試の結果をクラスメイトに奪われた天下はというと、鑑
賞室の一番後ろの机で気のない素振りをしていた。おそらく五限以
前もずっとこんな調子だったのだろう。周囲とは反比例して盛り下
がっていた。
とりあえず、涼は社交辞令を述べた。
﹁おめでとう﹂
﹁どうもありがとうございます﹂
頬杖をついた状態でおざなりな返事。天下の醒めた態度に不満の
声を上げたのは同級生達だった。
﹁ノリ悪ぃよなあ、もっと喜べよー﹂
﹁賞金でもくれんだったら、もっとテンション高くなるんだがな﹂
﹁ひっでえセリフ。これで優等生かよ﹂
涼はため息をついて授業を始めた。先週観た﹃トゥーランドット﹄
の感想を集めて、発表と解説。それで今学期の授業は終了。あとは
実技試験を行うだけだった。
﹁﹃なんでイタリア人はやたらとキスをするのでしょうか?﹄とい
う質問ですが、それは先生にもわかりません。イタリア人に聞いて
272
ください。それに﹃トゥーランドット﹄の舞台はイタリアじゃなく
て中国です﹂
﹁でもみんなイタリア語で歌ってます﹂
﹁作ったのがプッチーニだからです﹂
投げやりに答えてから、涼は﹃トゥーランドット﹄に思いを巡ら
した。それほど接吻をするシーンはなかったような気がした。
﹁そんなにしてましたか?﹂
﹁人と会う度にしてました。頬とか、手とか、いろいろ﹂
大人しめな女子生徒が答えた。イタリアでは挨拶程度のものだが、
日本人からすれば刺激的だったのか。
﹁キスする場所によって意味は違います。手の甲は尊敬。頬は厚意。
額は友情。イタリアでは別れる時には普通に互いの頬にキスをしま
す﹂
そういう国の文化も作品に影響するのだ。いくら﹃トゥーランド
ット﹄の舞台が中国に設定されていても、風習が出てしまう。そこ
がまたオペラの面白みだった。
そこでチャイムが鳴ったので、涼は試験内容の説明だけして授業
を終了した。まばらに退室する生徒達。試験の細かい確認を求める
生徒に応じて、一段落したところで、まだ鑑賞室に残る生徒に気付
いた。天下だ。
﹁閉めるぞ﹂
暗に出ろと促したのだが、天下はスタンウェイのピアノに近づい
てきた。つまりは涼の元へ。
﹁どうした?﹂
273
︵その四︶お得な優良物件です︵後書き︶
お読みくださってありがとうございます。拙作はあと四話で第一
部が終了する予定です︵予定は未定︶。
その後、とある脇役の番外編を載せる予定です︵予定は未定︶。
最後までお付き合いいただけたら幸いと存じます。
274
︵その五︶今が旬です
﹁三年になったらまた担当変わりますよね? 先生の授業、これで
終わりだな、って﹂
余韻を味わっていたらしい。なんとも趣深い奴だ。天下はカーテ
ンで閉ざされた窓に目をやった。
﹁日差しを遮るためだよな、あれ﹂
﹁正解。日に焼けないようにずっと閉ざしたままだ﹂
黒カーテンの向こうには中庭がある。その中庭を挟んで教室棟︱
︱天下達が通常授業を受ける棟が見えるはずだ。涼は一度もこの鑑
賞室から見たことはなかった。
完璧に整備され、視界も音も隔絶された部屋。それが涼のいる鑑
賞室だった。
﹁隙間があるの、知ってたか?﹂
天下が指差した先には微かに光が差し込んでいた。楽器に当たる
ほどではないので、大した隙間ではなかったが涼は初めて知った。
﹁気付かなかった﹂
﹁だろうな。あんた、いつもピアノの方ばっか向いてたから﹂
﹁⋮⋮何のことだ?﹂
さあ、と天下はわざとらしく肩を竦めた。生意気なガキだ。涼が
胡乱な眼差しを送ると天下は口元に手を当てた。
﹁別れる時は頬に、でしたっけ?﹂
脱線話もしっかり耳に入れていたようだ。さすが優等生、授業態
度も良い。ついでに休み時間も優等生らしく振舞ってほしかった。
﹁ここは日本です﹂
﹁国際化に乗り遅れますよ﹂
﹁自国の文化を守るのも大切です。何でもかんでも海外のものに飛
びつくのは感心しないな。その前にここは日本であり教室です。授
275
業をする場所です﹂
﹁佐久間は?﹂
﹁﹃先生﹄を付けなさい。あれはイレギュラーです﹂
納得がいかないらしく、天下は首を捻った。時計を見れば六限が
五分後に迫っている。こんなところで無駄話をしている場合じゃな
い。
﹁早く教室に帰りなさい﹂
﹁模試で高位になろうと、授業は免除されねえのな﹂
戯けたことをぬかす頭をプリントの束ではたいた。天下は恨みが
ましげな視線を寄こす。
﹁⋮⋮外野に騒がれても嬉しくねえよ﹂
そう言われてしまうと涼は強く出られなかった。天下をたきつけ
たのは自分だった。だから天下は努力を重ね、全国三十四位なると
んでもない結果を弾き出したのだ。彼を一番ねぎらうべきなのは誰
なのか。指摘されるまでもなく、わかっていた。
︵どうしろって言うんだ︶
276
︵その六︶流されるのも一つの手です
どれだけ天下が努力に努力を重ねようと、涼は彼の想いには応じ
られない。天下が問題なのではない。涼が問題なのだ。教師と生徒
との恋愛のリスクを思う。それを差し引いても、自分を考える。不
釣り合いだ。天下に応じるだけの価値が、自分にあるとは思えなか
った。カップラーメンは所詮、カップラーメンなのだ。
でも︱︱涼は不意に、琴音の声を聞いたような気がした。
私は好きよ、カップラーメン。
価値は人それぞれだ。故に芸術が成り立つ。たとえ自分が価値を
見い出せなくても、他人が価値あるものと見ているものを否定する
ことはできない。それは、ただの独断だ。
だから、涼自身が価値を見い出せなくても、天下にとっては違う
のかもしれない。
渋々去ろうとした天下の右腕を涼は掴んだ。怪訝そうな顔をする
天下。無視して涼は手を取った。歳下とはいえ男だ。筋張った手は
涼のものより大きかった。
﹁先生?﹂
ボランティアだと思え。そう、大した意味はない。意味とか考え
るな。事務的に。借りを返すだけだ。
﹁⋮⋮どうした﹂
天下だって言っていたではないか﹁大したことじゃない﹂と。彼
がしたことに比べればこれくらいどうというものではない。社交界
では挨拶だ。
﹁俺の手に何かついてんのか?﹂
イタリア人よ、プッチーニよ、プラシド=ドミンゴよ、今だけ私
に力を。
﹁おい、せんせ︱︱﹂
277
涼は手の甲に唇を押しつけた。暖房の利いた部屋にいるにもかか
わらず、触れた彼の手は冷たかった。つまり、自分はそれなりに熱
いということだろう。
口を離して見上げれば、間の抜けた顔をしている天下と目がかち
合う。
﹁⋮⋮え⋮⋮⋮⋮あ、﹂
大きく見開かれた切れ長の眼。掠れた声が薄い唇から出る。
﹁先生、今︱︱﹂
そこまでが限界だった。涼は教卓の上に置いたアライグマ印の消
毒液を三回押して、天下の手にすりつけた。
﹁ちょっ、待て! どういうこったあっ!﹂
慌てて引こうとする天下だが、涼は逃さなかった。しっかり掴ん
で消毒完了。用済みとなった手を解放する。
消毒液まみれになった自身の右手を穴が開くほど凝視して、天下
は悲痛な声を上げた。
﹁何だ今の⋮⋮っ!﹂
﹁消毒です。雑菌がつくといけませんから﹂
﹁どこの世界にキスした直後に丹念に消毒する奴がいんだよっ!﹂
﹁二週間前に同じようなことをした馬鹿を私は知っているが?﹂
冷静に切り返せば天下は拳を震わせて項垂れた。
﹁⋮⋮天国から一気に地獄に突き落とされた気分だ﹂
お気に召さなかったようだ。が、残り時間はあと三分。涼は天下
の背中を押した。
﹁さあ満足したろう。帰れ﹂
﹁むしろ不満しか残らねえよ﹂
未練がましげに天下は右手をじーっと見つめていた。しかし消毒
液の匂いしかない。幸いなことに涼は基本的にリップクリームで、
口紅をしていなかった。
﹁全国模試で一位でも、もうやらない。二度とやらない﹂
全ての希望を断ち切るように涼は言ってのけた。
278
﹁先生﹂
それでもまだ諦めがつかないのか、扉をくぐっても天下は振り返
った。眉間に皺を寄せ、自身の唇を指差す。
﹁後生ですから、こっちにしてくださいませんか?﹂
﹁帰れ﹂
涼は思いっきり扉を閉めた。
279
︵その七︶生徒も悪くはないかもしれません
ガキめ。調子付きおって。涼は早くも己の軽率な行動を後悔した。
天下の譲歩ぶりに呆れを通り越して憐れみを抱いたのがそもそもの
間違いだったのだ。
数分も経たないうちにノック音。扉ではなく、窓の方だ。この時
点で犯人は誰だか予想はついたが、涼は仕方なく応じてやることに
した。早々に追っ払わねば。
勢いよくカーテンを開く。
窓の向こうには仏頂面をした天下がいた。中庭まで回り込んでき
たようだ。上履きのままで外に出たことはこの際指摘しないでおこ
う。
とりあえず、涼は手で追い払う仕草をした。
ますます天下の眉間の皺が深くなる。睨んでいるようにも見えな
くもない。が、その目元が急に緩んだ。口端をつり上げ、目を輝か
せる。悪戯を思いついた子供のような仕草に、涼が小首を傾げたそ
の時だった。
天下は右手の甲に口付けた。
緩慢な動作にしかし、涼は成すすべもなく立ち竦んだ。挑発的な
笑みを残して天下は身を翻した。渡り廊下に上がり、そのまま教室
棟へ。その間も涼は微動だにできなかった。
天下の背が見えなくなってようやく息を吐く。息が止まっていた
ことにすら気付かなかったのだ。
﹁⋮⋮なんてベタな﹂
口元を抑えて呟く。触れた顔は熱かった。
鑑賞室から初めて見る学校は、平穏そのものだった。二階の廊下
280
を足早で歩く教師や生徒。廊下の窓際にもたれかかって談笑するカ
ップルと思しき姿も見えた。遠目に見えるグラウンドではサッカー
の試合が行われていた。
中にいては気付かなかったであろう眩しい光景がそこに広がって
いた。二年近くいるのに、一度もカーテンを開けなかったことを涼
は今更ながら悔やんだ。馬鹿げていて、平凡で、単調で、でも悪く
ないじゃないか。
涼の上で六限の始まりを告げるチャイムが鳴った。
281
︵その七︶生徒も悪くはないかもしれません︵後書き︶
明日の更新で第一部完結です。お時間ございましたら最後までお
付き合いいただければ幸いです。
その後ですが、番外編を一つ挙げて長期休止となります。ご了承
くださいませ。詳しい釈明、休止期間、言い訳等は明日申し上げま
す。
282
︵その八︶でもやっぱり生徒は対象外です。
﹃それで、結局どうしたのよ﹄
素っ気ない態度を取っておきながらも気にはしていたらしい。琴
音の方から電話がかかってきた。心配を掛けた手前、涼としても言
わないわけにはいかない。五限と六限の間にやらかした失敗は除い
て一部始終を報告した。
﹃心広いわね﹄
それが琴音の第一声だった。
﹁心が広い?﹂
﹃だって涼ちゃんの駄々にもにっこり笑顔で応じたんでしょ?﹄
﹁駄々?﹂
不適切な単語に自身の頬がひきつるのがわかった。どんな解釈を
したらそうなる。
﹃危機を救って、無理難題も見事叶えて、それでも待ちます。あな
たが私を好きになってくれるまで、でしょ?﹄
まあ素敵﹃トゥーランドット﹄みたい。琴音は完全に小馬鹿にし
た口調で言ってのけた。あまつさえカラフ王子のアリア﹃誰も眠っ
てはならぬ﹄のサビを熱唱するものだから︵しかもやたらと上手か
った。プラシド=ドミンゴには遠く及ばないが︶涼は受話器を放り
投げそうになった。
﹁からかわないでくれ﹂
﹃トゥーランドット姫はおかんむり∼﹄
﹁琴音っ!﹂
一括してもどこ吹く風、琴音は陽気に笑った。
﹃でも気を付けなさいよ。うっかり絆されてキスとかして気付いた
ら食われている危険性が無きにしも非ず。あんた、流されやすいか
ら尚更心配だわ﹄
283
冗談混じりに琴音は続けた。
﹃なんか可哀想だからキスしてあげて、なんか哀れだから喰われて
やろう、って事にだけはならなようにね。前にも言ったけど﹁喰わ
れたい﹂って思ったらオシマイなんだから﹄
﹁まさか︱︱﹂
言いかけて涼は絶句した。公園で人目もはばからず天下を抱きし
めた時、彼︵の手の甲︶にキスした時、自分は一体何を思った。自
身はそっちのけで他人を甘やかす天下に、憐憫に似たものを抱いて
﹁仕方なく﹂我儘を叶えてやったのだ。
﹃涼?﹄
琴音の声が遠く聞こえる。涼は受話器を耳にあてたまま茫然とし
た。
氷の姫トゥーランドット。﹁わたしは誰のものにもならぬ﹂と求
婚を突っぱね続けた我儘姫。彼女は結局どうなっただろうか。寛大
なるカラフ王子に甘やかされて、執拗なる求愛に絆されて︱︱
カラフ王子の名を突き止めたトゥーランドットには王子の求婚を
撥ね退けることができた。約束通り、その命を奪うことも。名前さ
え言ってしまえば彼と結婚することは回避できた。
しかし、トゥーランドットは彼の名を言わなかったのだ。
284
︵その八︶でもやっぱり生徒は対象外です。︵後書き︶
これにて﹃生徒は対象外です。﹄第一部完結です。長々だらだら
と続く拙作をお読み下さった方に心から感謝を申し上げます。私め
初めての恋愛小説にございます。至らぬ点多々あったかと思われま
す。それでも最後までお付き合いくださいまして、本当にありがと
うございます。
さて、今後について申し上げます。
以前活動報告でも書かせていただきましたが、私め、分不相応に
も作家デビューへ向けて執筆を開始しております。上手くいけばデ
ビューできるかもしれない程度なので、どうなるかはわかりません
が、全力を尽くします。奇跡が起きて出版化された暁には、活動報
告で発表させていただきます。三月末まではそちらに専念いたしま
すので、﹃生徒は対象外です。﹄第二部の更新は三月末以降となる
予定でございます。予定は未定ですので、早くなるかもしれません
し、遅くなるかもしれません。目安として考えていただけると幸い
です。
しかしながら、こちらもちょこちょこと覗かせていただきます。
たまには活動報告もさせていただきたいなあ、とも思っております。
あくまで﹃執筆はしない﹄ということです。ご感想、ご批評、ご連
絡等も受け付けております。大歓迎です。
そして置き土産として、明日からは番外編を挙げさせていただき
ます。現在執筆中の拙作の一部でも公開できればと思ったのですが、
万が一出版された際に面ど⋮⋮じゃなくて問題になったりしてはよ
ろしくないので、控えさせていただきます。
その代わりといたしまして﹃生徒は対象外です。﹄と、とある拙
285
作のコラボで番外編を書かせていただきます。長くなりますのでど
ういう拙作かの説明は活動報告にて。二月いっぱいで一区切りを付
ける予定です。
では長々と失礼いたしました。
286
︻番外編︼恋せよ妹、密やかに︵起︶︵前書き︶
︻いきなり警告︼この番外編には少々怪しい展開が予想されます。
近親⋮⋮の後に続く単語が代表するような雰囲気です。あくまで雰
囲気ですが、そういうのは受け付けない、という方はお願いです。
健全な精神育成のため、どうかお読みにならないでください。読む
と後悔なさるでしょう。
そんなものに臆せぬわっ! という勇猛果敢な方は自己責任で視
線を下にやってくださいませ。
287
︻番外編︼恋せよ妹、密やかに︵起︶
﹃鬼才ピアニスト、吉良醒時帰国﹄
新聞の芸能欄を独占する記事を琴音は丁寧に切り取った。聞けば
スクラップを作っているらしい。もはや彼女のブラコンぶりを咎め
る者など、この部屋にはいなかった。少なくとも、涼は完全に諦め
ているように見えた。琴音そっちのけでプラシド=ドミンゴのDV
Dを鑑賞している。非常に不愉快なことだ。
カラー写真の兄を眺める琴音の目はもう蕩けるばかりで、至福の
二文字を体現していると言っても過言ではない。天下はなんだか危
険な匂いを嗅ぎ取ったが、あえて指摘しないことにした。
しかし、琴音の気持ちも理解できなくもなかった。
新聞の写真を見て天下はきっかり十秒固まった。吉良醒時は格好
いいだのそんな次元ではなかった。同じ世界にいることが不思議に
思えるほどの美貌の持ち主だったのだ。白皙で鋭角的な顔立ちは日
本人にしては彫りが深く、栗色の髪に百八十を優に超えた長身痩躯
ということもあり、外国人かと思える。男色の気など微塵もない天
下でさえも、息を呑むほどの秀麗な容姿だった。
琴音には大変失礼だが、血の繋がりを疑った。いや、彼女の容姿
も十分魅力的なのだが、吉良醒時があまりにも人間離れしていて、
兄妹とは思えないのだ。
﹁吉良?﹂
見出しを読んで、天下は呟いた。琴音の苗字は﹁榊﹂だったはず。
﹁母が違うの﹂
察しがいい琴音は的確に答えた。
﹁ついでに言うと父もね。再婚同士で、私は母の連れ子﹂
半分でもいいから同じ血が欲しかったわ、と冗談混じりで琴音は
言った。意外に複雑な家庭らしい。
288
﹁結婚しているんですよね?﹂
﹁高校時代の後輩とね﹂
普通に高校生活を送っている吉良醒時を思い描こうとして、天下
は断念した。無理だ。こんなのが教室にいる状態で、どうやって気
にせずに授業をしたのだろうか。
﹁なんか、想像できません﹂
﹁みんなそう言うんだけどね。慣れれば平気よ。証拠見せてあげる﹂
琴音の手招きに応じて寝室に入れば、彼女は引き出しから何かを
取り出そうとしていた。ベッドに机にタンス。意外に必要最低限な
ものしかない部屋だった。何の気なしに天下は整理された机の上に
目をやり、立てかけてある写真を発見した。
吉良醒時のブロマイド。どこぞのコンクールで優勝した時のもの
だろう。名前の通り醒めた表情でトロフィーを持っている。顔が整
っているからこそ、より一層冷たい印象を受けた。
天下は眉を寄せた。
写真のアングルがズレているように思えた。吉良醒時の左手が不
自然に途切れている。撮影ミスだとも推察できるし、通常の写真よ
りも半分のサイズなので何かの切り抜きとも思えた。が、こんな失
敗写真を妹である琴音が飾っておくことが不自然に思われた。琴音
自身とのツーショットでもいい。あれだけ兄に関するものを集めて
いるのなら、もっと出来のいい写真だって持っているはずだ。
﹁あ、これこれ﹂
琴音の弾んだ声に天下の思考は途切れた。高校の卒業写真集を開
き、その一ページ︱︱各クラスの写真を示す。今よりもいくぶん若
い吉良醒時がやはり無表情で映っていた。たしかに、制服を着てい
た。
﹁お義姉さまは一つ下だから個別写真はないんだけど⋮⋮﹂
琴音はページをめくった。様々な写真を集めて貼った中で、音楽
祭のものがあった。オーケストラの演奏写真。ピアノコンチェルト
を行った時のものらしい。もちろん、ソリストを務めたのは吉良醒
289
時。彼の演奏姿にピントは当てられているが、その傍らで演奏して
いた第一ヴァイオリンも少しだけ枠内に収められていた。
﹁これがお義姉さま﹂
吉良醒時の後ろでヴァイオリンを構えている少年︱︱だと最初は
思った。高校生にしては小柄で目も大きい。中性的な顔立ちも相ま
って可愛らしく見えた。
﹁可愛い人ですね。俺の弟と少し似てます﹂
今でこそ生意気だが、小学校の頃はこれくらいの可愛げがあった
と思う。忌憚のない感想を言うと、琴音は顔を曇らせた。
﹁あ⋮⋮すみません﹂
女性と弟を比べる失礼を天下は詫びた。
﹁え? あ⋮⋮あの、違うの。ごめんね。ただ、懐かしくて⋮⋮﹂
琴音は取り繕うように笑みを浮かべた。
﹁そうそう天下君、来週の火曜日は時間ある?﹂
平日だが授業さえ終えれば問題はなかった。部活は既に引退して
いる。
﹁放課後なら大丈夫ですよ﹂
﹁二人が来るのよ。一緒に食事しないかって﹂
高級マンションを惜しげもなく妹に与え、おまけに高校時代はス
タンウェイのピアノを弾きこなしていた世界的ピアニストとの食事
︱︱天下はあらゆる意味で気圧された。
﹁いや、俺は面識ありませんし、家族水入らずのところを邪魔する
のも﹂
﹁でも涼も来るわよ﹂
﹁行きますぜひお願いします﹂
相変わらずねえ、と琴音は笑った。気恥ずかしかったが背に腹は
代えられない。こうして琴音の家ならば一緒にいても許してくれる
が、自宅に上げてもらったのは数えるくらい。学校なんて論外だ。
ますます涼は素っ気なくもとい用心深くなっていた。
最近、天下は媒体が何であれ教師と生徒の恋愛ものは全て虚偽で
290
塗り固めてあることを悟った。禁断の恋だの背徳感だのに悩むなん
て嘘だ。そこまで進めるだけ感謝しろ。
不本意極まることだが、天下と涼に後ろめたいことは全くと言っ
ていいほどなかった。
かれこれ一年以上が経過しているというのに、まともに手を繋い
だことすらないとは一体どういうことだろう。手の甲にキスしてく
れたことなんて今では夢のよう。それもすぐに消毒されたが。
︵向こうが歩み寄らねえなら、こっちが動くしかねえよな︶
というわけで、天下は燃えていたのであった。だから琴音の笑顔
に陰があることにも気付かなかった。
291
︻番外編︼恋せよ妹、密やかに︵起︶︵後書き︶
全七話、二月中に挙げます。時間が飛んでますが、だいたい天下
の三年秋頃です。最後までお付き合いいただけたら恐悦至極に存じ
ます。
292
︻番外編︼恋せよ妹、密やかに︵承1︶
眉の一つでも寄せるかと思いきや、涼は﹁ふーん﹂の一言で特に
反対も賛成もしなかった。自分に興味がなくなったのかと一瞬不安
に駆られたが天下は深く考えないことにした。
そうして迎えた火曜日の放課後、カジュアルでいいとのお言葉に
甘えてタートルネックのシャツに黒のシャープのパンツ。ショート
ブーツを履けば体裁は整うと天下は判断した。涼や自分を誘った手
前、よもや高級レストランになんぞ行ったりしないだろう。
待ち合わせ場所は都内の駅構内。指定はそれだけだった。琴音曰
く﹁駅の改札口を通ればすぐにわかる﹂。やたらと自信たっぷりに
断言するのでとりあえず言う通りにした。
本当に一目でわかった。
実物で見る吉良醒時の迫力は段違いだったのだ。
百八十を優に超えた背にすらりと伸びた手足。人通りの激しい駅
構内であっても頭一つ分は出ている上に、彼の周囲は水を引いたか
のように誰もいなかった。あまりにも美しいものを前にすると人は
敬遠してしまうのだと天下は学んだ。
道行く人々の十人に八人は振り向いている。残りの二人は目を閉
じているに違いない。視界の端にでも入れば嫌でも目をやってしま
う。周囲の視線をくぎ付けにする張本人は、もう慣れているらしく
平然と堂々と腕を組んでいた。
しばし惚けていると吉良醒時の傍らにいた涼がこちらに気づき、
手招きした。
﹁迷わなかったか?﹂
﹁無理だろ﹂
天下は醒時を盗み見た。硬く引き結んだ唇も絶妙なバランスを描
いている。無造作に立っているだけで絵になる男は、確かに絶好の
293
目印になった。
顔が売れているのだから話しかけてくる者がいてもおかしくはな
いが、吉良醒時に限っては孤高である方が自然に思えた。おいそれ
と傍に寄れば切られてしまうかのような張りつめた空気が彼にはあ
った。相も変わらず視線は感じるものの、近づいてくる者は皆無。
ケータイを向ける猛者を時折見かけたが、醒時が一瞥しただけで委
縮し、写メを諦める。
自分よりも頭三つ分は低い小柄な女性、もしかしなくとも妻だろ
う︱︱と言葉を交わしていた醒時は視線に気づいたのか、天下の方
を向いた。無意識のうちに天下は顔が強張るのを感じた。彼の眼光
は心の奥底を射抜くほど鋭かった。
﹁彼が、さっき話してた鬼島君かい?﹂
助け船を出したのは隣にいた奥様、つまり琴音の義理の姉だった。
女性にしてはやや低めの声で、口調も相まって少年のようだと思っ
た。三十過ぎにはとても見えない。高校生、どんなに頑張っても大
学生だ。
涼に背を軽く叩かれ、天下は慌てて頭を下げた。
﹁鬼島天下です﹂
﹁吉良零だ。学校きっての優等生なんだって?﹂
零の言葉に嫌味な響きはしなかった。天下は頬が緩んだ。涼が自
分のことを他人の前で褒めたことが気恥ずかしくも嬉しかった。
﹁忙しいのにごめんな。あ、これが琴音ちゃんの兄でオレの︱︱﹂
言いかけて零は口をつぐんだ。伺うように醒時を見上げる。彼は
諦めたように半眼になった。目は口ほどにものを言うとはよくぞ言
ったものだ。
﹁ワタクシの旦那の吉良醒時でございます﹂
﹁無理に直さなくても﹂
涼がフォローを入れた。
どうやらこの小さな奥様はずいぶんと勇ましい方らしい。一人称
がオレ。それを旦那様はお気に召していない模様。たったこれだけ
294
のやりとりで天下はおおよそを察した。
醒時は切れ長の目を眇めた。
﹁琴音がいつも世話になっている﹂
と、これまた低いが玲瓏たる声音で言ったのであった。
その隣でにこやかに微笑む奥様、零は涼やかで中性的な顔をして
いた。しかし間近で見るとやはり女性だ。どことなく女性特有の儚
さがあった。自分とは十五も年上だというのに可愛いと天下は思っ
た。弟が二人いるせいか、天下は小さいものを見ると庇護欲を掻き
立てられる。
しかし﹁きらせいじ﹂に﹁きらぜろ﹂︱︱夫婦揃ってなんとも威
圧感のある名前だ。口にこそ出さなかったが、天下は自分の名前は
棚に上げてそんなことを考えた。
﹁おまたせしました﹂
小走りに寄ってきた琴音を、零は満面の笑顔で迎えた。
﹁久しぶり、琴音ちゃん。大きくなったなあ﹂
﹁お久しぶりです。お変わりないですね﹂
如才なく応じる琴音。が、どことなくぎこちなさを感じた。部外
者に等しい天下が感じたのだから気付かないはずがないのだが、零
も醒時も、涼でさえも何も言わなかった。
295
︻番外編︼恋せよ妹、密やかに︵承1︶︵後書き︶
長くなりましたので、本日の昼頃にもう一話挙げます。
296
︻番外編︼恋せよ妹、密やかに︵承2︶
無事集合してどこのレストランに入るのかと思いきや、いきなり
三十分近く歩く羽目になった。行き先も説明されず、延々と。
吉良醒時は寡黙だった。天下もまた饒舌な方ではないので、最初
に挨拶をした程度で終わった。それを補うかのように零は気さくだ
った。義理の妹である琴音にも積極的に話しかけている。身長とい
い、態度といい。この二人は足して二で割ったら丁度良くなるので
はないかと天下は失礼なことを考えた。
前を歩く三人をしり目に、天下は涼に訊ねた。
﹁穴場の店ですか?﹂
﹁ラーメンだよ、毎週火曜日公園に来るんだってさ﹂
天下は数秒、その意味を考えた。屋台のラーメン。世界的ピアニ
ストと財閥のお嬢様の兄妹が六年ぶりに再会し、親睦を深めるため
に選んだ店が、寒風吹きすさぶ中公園に鎮座する屋台の、ラーメン。
﹁まさか三ツ星レストランで優雅に食事でもすると思ったのか? なら、まずは服装をなんとかするべきだね。ドレスコードに引っか
かる﹂
﹁いや、でも、六年ぶりの再会ですよね?﹂
そんなにラーメンが好きなのか。だとしても屋台はない。もっと
相応しい店があるはずだ。しかし、涼は興味無さそうに後ろ首を掻
いた。
﹁最後に会ったのは、うちの大学の創立記念演奏会で吉良氏がゲス
トとして招かれた時だから⋮⋮まあ、だいたい六年になるね﹂
﹁ゲスト?﹂
﹁一曲演奏してくれって。日本人初のショパンコンクール優勝者が
来ればそりゃあ盛り上がるものだ。吉良氏も本当は大学主催の演奏
297
会なんてチマっこいものに出たかなかったろうけど、愛しの妹が世
話になっている以上、無下にも出来ない﹂
﹁それじゃあまるで、私のせいでお兄様が客寄せパンダになったみ
たいじゃない﹂
一行の真ん中を歩いていた琴音が振り返る。
﹁そこまでは言ってない。麗しい兄妹愛に感動しただけだ﹂
﹁嫌味にしか聞こえないんですけど﹂
神経質そうに琴音は細い眉を跳ね上げた。いつになく不機嫌だ。
普段の琴音ならば冗談で済ますはずのことに噛みついている。ブラ
コンだとしてもいき過ぎだ。
﹁だいたい、私が頼んだわけじゃ︱︱﹂
言いかけて琴音は口をつぐんだ。明らかにそれは失言だった。仮
に優秀過ぎる兄にコンプレックスを抱いていたとしても、本人の前
で言うべき言葉ではなかった。琴音もそれに気づいたので皆まで言
わなかったが、既に遅かった。
怒気こそ感じないものの、醒時からは威圧感が漂っており、肝心
の表情からは内心が伺えなかった。なんとも名目し難い気まずさが
後に残る。
醒時の視線に耐えかねたように琴音は俯き、
﹁⋮⋮ごめ﹂
﹁そうだ。こんなデカいくせに可愛くない奴が客寄せになるもんか。
パンダを呼んだ方がまだマシだ﹂
なんという喧嘩腰。これはにはさすがの醒時も絶句した。
﹁どういう意味だ、零﹂
﹁笹の葉でも食ってろという意味だ﹂
剣呑な眼差しもなんのその。自分よりも三十センチ以上は高い醒
時に対して零は一歩も退かなかった。
﹁まさか貴様、今朝のことをまだ根に持っているのか﹂
﹁子供扱いも大概にしろよ。名前を書いておいたゴディバの最後の
一粒を食べられようが、留守録しておいた特番をまだ観てもいない
298
のに消されようが、まあお前だから仕方ないかな、とか思ったりも
する。オレ、じゃなくてワタクシはそこまでみみっちくはない﹂
拳を振り上げ零は力説した。
﹁でもな、漬物樽からタッパーに移したばかりのタクアンを一つ残
らず腹の中に納めておいて﹃漬かりが足りん。未熟者めが﹄はない
だろ。オレだって食べたかったんだ! でももう一晩待った方がき
っと美味しくなると思って⋮⋮だから、我慢したのに⋮⋮うぅ、あ
んまりだ﹂
なにやら込み上げてくるものがあるらしく目頭を抑える。意外に
庶民派らしい。
﹁お兄様、さすがにそれは酷いんじゃありません? ちゃんと謝っ
たの?﹂
よしよし、と頭と背中を撫でさする琴音。どちらが義姉かわかっ
たものではない。零は大きく鼻をすすった。
﹁今度やったら離婚してやる﹂
高級チョコレートとテレビ番組とタクアンで離婚する夫婦ってど
んなだ。天下は半開きにした口が塞がらなかった。
﹁わかった。何が望みだ。言え﹂
呆れ返った口調で醒時は腕を組んだ。完全に諦めモードである。
﹁誠意ある謝罪を要求する﹂
﹁タクアン一つのために頭を下げろと言うのか﹂
﹁跪いて靴を舐めろと言いたいところだが、ここは日本だ。勘弁し
てやる﹂
この男にこの妻あり、と言うべきか。世界的ピアニストと連れ添
うだけあって零もなかなかの大物だった。醒時の愁眉が寄せられる。
﹁大して漬かってもいないタクアンを処理してやって悪かった﹂
これほど尊大な謝罪も珍しかった。無論納得のいかない零が抗議
しようと口を開く。が、声を発するよりも先に醒時は零の首根っこ
を掴んで引きずった。
﹁あれで、夫婦ですか﹂
299
﹁昔からあんな調子よ。傍から見たら男友達みたいでしょ?﹂
琴音は苦笑した。剣呑な雰囲気はもうない。慌てて吉良夫妻を追
いかける。それについて行こうとして天下は、不意に足を止めた。
涼が小さくため息をついたからだ。
﹁どうかしたんですか?﹂
﹁いや﹂
言いかけて、涼は困ったように微笑んだ。
﹁いい人だなって﹂
誰を指しているのかは天下にはわからなかった。
300
︻番外編︼恋せよ妹、密やかに︵転1︶
珍道中ではあったが当初の堅苦しさは抜けて、それなりに心地よ
いものだった。目的の公園では既に屋台が到着しており提灯が赤々
と灯っていた。小走りで駆け寄った零が屋台の親父と何やら話をし、
次にこちらを手招きした。
﹁貸し切りだってさ﹂
五人がけの席なのだから当然だ。それをさも嬉しそうに報告する
ものだから指摘する者はいなかった。冬も近い夕暮れは風もそれな
りに冷たい。さり気なく醒時が右端の席についたので、天下は左端
に腰かけた。せめてもの風除けだ。醒時の隣には当然の如く零が座
り、天下の隣には涼︱︱ではなく、何故か琴音が座った。
﹁ごめんね﹂
﹁いいや、別に⋮⋮﹂
てっきり共通の知人である琴音が真ん中に座るものだと思ってい
たが、涼がその座についた。不満を抱くほど幼くはないが、不思議
ではあった。六年ぶりの兄妹再会ではなかったのか。
口に出したらマズいような気がして天下は指摘せず、品書きを見
た。よくよく考えれば、誰かと外食なんて久しぶりだった。
﹁ここ、二人でよく来た店なんだって。私は初めてだけど﹂
何気ない風を装ってはいるが琴音は寂しげだった。
﹁羨ましいですよ、俺なんか二人で食事に行ったことすらありませ
んから﹂
琴音の隣に座る涼はどこまでも素っ気なかった。品書きを睨みつ
けて何をしているのかと思いきや、零に激辛ラーメン﹃くれない﹄
を勧められて悩んでいる模様。端にいる醒時は既に注文を終えてお
り、カウンターに左肘を立てている。その視線の先は︱︱琴音だ。
301
天下は目を瞬いた。
醒時の眼差しに気づかないはずがない。現に琴音は時折、物言い
たげに右側を伺っていた。二人の目が合うことも何回か。その度に
琴音は弾かれたように視線をそらす。
︵なんだこの兄妹︶
アイコンタクトか。それにしてはぎこちなかった。
そうこうしているうちに、天下は涼と視線がかち合った。不審な
兄妹の様子なんぞ気づいていないかのように涼はいつも通りだった。
﹁注文、決まったか﹂
﹁あ⋮⋮はい﹂
とりあえず天下は﹃くれない﹄を注文した。手持無沙汰になり醒
時を盗み見ることにした。ピアニストらしく、すらりと整った指を
している。手入れが行き届いているのだろう。
﹁指輪してませんね﹂
独り言だったのだが、琴音は耳聡かった。
﹁二人ともあんな感じでしょ? 指輪とか大仰なものはあんまり好
きじゃないのよ。お兄様なんてほら、ピアノ弾く時に指に何かつけ
ていたら楽器を傷つける恐れもあるわけだし﹂
もしかして結婚式もしていないのか。天下が呟くと琴音は数拍の
ちに﹁そうなの﹂と肯定した。六年ぶりの兄との再会に緊張してい
ることを差し引いても、琴音の態度はおかしかった。今日は、ずっ
とそうだ。
醒時達の方を物言いたげに見てはそらすの繰り返し。その視線が
また必死そのもので、見ているこちらの胸が詰まるほどだ。琴音の
頬が紅潮しているのは、寒さのせいだけではないと天下は思った。
︵まさか⋮⋮︶
好きなのか。
自分の思いつきに天下は愕然とした。しかし、そう仮定すると琴
音の行動すべてに説明が付くのだ。血の繋がりのない兄妹。兄を溺
愛していながらも六年間も会わなかった妹。それは、自分の恋心を
302
抑えるためだったのでは? そして再会した今日、消えかけていた
恋心が再び燻り出しているのでは︱︱おいおい。
︵だから俺や先生を呼んだのか︶
琴音は距離を置こうとしているのだ。が、どうしても目は想い人
の方へ向いてしまう。
﹁ほれ﹂
零が自分の味付き卵を琴音に差し出した。無論、涼を通してだ。
きょとんとする琴音。零は頬を緩めて笑った。
﹁好きだったろ? 温泉卵﹂
しばし味付き卵と零の顔を交互に見た琴音だが、やがて泣き出し
そうな顔で受け取った。
﹁ありがとうございます⋮⋮お義姉さま﹂
﹁初めてだな、そう呼んでもらえるの﹂
零の声は弾んでいた。ラーメンの湯気に紛れて彼女には見えなか
ったのか。だが、すぐ隣にいた天下も涼も琴音が涙ぐんでいるのに
は気づいた。それでも見て見ぬふりをした。気づくべきではなかっ
たと天下は後悔した。
六年ぶりの再会。仲睦まじい二人。思い出の屋台で食べるラーメ
ン。その一つ一つが琴音の胸をしめつけるのだ。
箸を割り、麺をすする。ほどよく辛みのあるラーメンは、確かに
美味しかった。
303
︻番外編︼恋せよ妹、密やかに︵転1︶︵後書き︶
本日も二回更新です。十四時過ぎを予定しております。
304
︻番外編︼恋せよ妹、密やかに︵転2︶
ラーメン食べて談笑もしたし、さてそろそろお開きだ。駅構内の
時計を見ると時刻は七時前を指していた。それぞれの内情はどうで
あれ琴音達は家族で積もる話もあるだろうし、必然的に涼と天下は
二人で帰ることになる。二人きり、というシチュエーションに心が
躍らなかったと言えば嘘になる。が、琴音の事が危惧されるのも事
実だった。
﹁なあ醒時、今日は琴音ちゃんの部屋に泊めてもらったらどうだ?﹂
のほほんとした声で零が提案した。
﹁兄妹水入らずで一晩過ごすのも悪くないと思うんだが﹂
とんでもない発言に天下は顔が引きつるのを感じた。やめろ焼け
ボックイに火がつくぞ。その前に琴音の気持ちを十分の一でもいい、
汲んでやれ。
首を横に振るかと思いきや、醒時は何も言わずに自分の妹を一瞥
した。特に異論はないらしい。判断を委ねられた琴音は勢いよく手
を横に振って後ずさった。
﹁いえ、それよりもお兄様は久しぶりの帰国でしょう? 夫婦水入
らずでどうぞ﹂
﹁いやいやここは六年ぶりに兄妹の親睦を深めるべきだ。正直言う
とこいつの顔は一晩見れば飽きる。もういい﹂
酷い言われようだ。しかし、醒時は微かに眉を寄せただけで言及
はしなかった。
﹁いいえ、お気遣いなく。部屋も散らかっていますし、とてもお兄
様をお迎えできるような﹂
﹁そう言えば今日、部屋の掃除してて遅れたんだっけ?﹂
さぞかし散らかっているだろうなあ、と涼が独り言を装って言っ
た。余計なひと言に琴音は涼を恨みがましげに睨んだ。
305
﹁課題もありますし﹂
﹁忙しいみたいですよ、昨日も寝ていた私を電話で叩き起こした後、
二時間も延々と明日はどうしようかと相談してくるくらいですから﹂
目元を抑えて涼は寝不足を主張した。後押しされるように零は満
面の笑顔で確認した。
﹁じゃあいいよな﹂
﹁よくありません。いくら兄妹とはいえ、一つ屋根の下に殿方と女
性が二人っきりなんて﹂
﹁その言い方、醒時にそっくりだ。やっぱり兄妹なんだな﹂
嬉しそうに言われて、琴音は口ごもった。途方に暮れた顔で俯く。
何の苛めかと天下は思った。これでは琴音があまりにも可哀想だ。
部外者だが助け舟でも出そうかと口を開きかけた天下を、涼が手
で止めた。
﹁いい加減にしろ﹂
黙って様子を見ていた醒時がため息をついた。
﹁オレの妹を困らせて何が面白い﹂
そして琴音の方を向いて﹁嫌か﹂と一言訊ねた。
﹁え?﹂
﹁オレと一晩過ごすのは嫌か﹂
﹁だ、だから嫌とかではなくて、あまりよろしくないかと⋮⋮﹂
﹁嫌かどうかを訊いている﹂
責める口調ではなかった。しかし琴音は委縮して視線を彷徨わせ
た。
﹁だって、兄妹と言っても血も繋がっていませんし、ほとんど、絶
縁状態⋮⋮です、し﹂
言葉が尻すぼみになる。堪え切れなくなった琴音は両の手を握っ
た。前髪に隠れて表情は伺えなかったが、細い肩は震えていた。
﹁⋮⋮私、お兄様の妹なんかじゃありません﹂
絞り出すかのように発せられた声は、すぐさま喧騒に消えてしま
うほど頼りなく、儚かった。こんなに弱い琴音を見たのは初めてだ
306
った。
﹁こんな、私⋮⋮どうして、﹂
﹁姓が違う血も繋がっていない。それでもお前はオレのことを兄と
呼ぶ。だからオレも真実お前の兄になりたいと願った﹂
嗚咽でまともに喋ることができない琴音の頭に、醒時は手を置い
た。
﹁オレは、お前に呼ばれるに相応しい兄になれたか?﹂
身を屈めて覗き込む。その仕草は殊更丁寧で優しかった。絵画の
ような美しさとは無縁ではあったが、穏やかなものだった。立ち姿、
演奏姿、これ以上ないくらい吉良醒時の玲瓏たる美貌を見てきたが、
この時に比べれば全てが色褪せて見えた。
﹁そん、なこと⋮⋮っ﹂
しゃくりあげる琴音。躊躇いがちに醒時の胸元に顔を埋める光景
を見ていたら、肩を叩かれた。涼だ。
﹁帰ろう﹂
その隣では零が肩を竦めていた。手間のかかる子供に向けるよう
な微笑を湛えた顔で。
307
︻番外編︼恋せよ妹、密やかに︵転2︶︵後書き︶
遅れてすみません⋮⋮。
308
︻番外編︼恋せよ妹、密やかに︵結1︶
﹁今日はありがとう。こんなことを言ったら怒るかもしれないけど﹂
前置きをしてから零は軽く頭を下げた。
﹁これからも琴音ちゃんをよろしくお願いします﹂
﹁今度うちの学校でヴァイオリン弾いてくれるなら、いいですよ﹂
涼には珍しく冗談めかした返答だった。悪戯を思いつた子供のよ
うに零は目を輝かす。
﹁みんなでクインテットでもやるか?﹂
﹁俺は楽器できませんよ﹂
﹁歌え。それくらいは教えた﹂
冗談ではない。授業中、涼の前で歌うことすら恥ずかしかったと
いうのに。天下が口をヘの字にすると零が爽やかに笑った。
﹁じゃあお二人さん、仲良くなー﹂
﹁え、いや、そうではなくて⋮⋮﹂
涼が否定するよりも早く、零は手を振って電車に飛び乗った。行
動的で活発。幼い子供を彷彿とさせるが、悪い気はしなかった。零
自身には。問題は、彼女達の関係だ。
﹁いいんですか﹂
駅のホームで電車を待つ間に天下は訊ねた。もう人目を憚ること
もない。今さらなのだが、それでも醒時と琴音を置いて行ったこと
が気にかかった。
﹁何が?﹂
﹁あの二人。ただの兄妹に見えんのか﹂
﹁まあ、あんなのがうじゃうじゃ街中を平然と歩かれたら困った世
の中になりそうだが﹂
﹁そうじゃねえよ。だから、﹂
309
言いかけて天下は言葉を探した。安易に口に出してはいけないよ
うな気がした。
﹁⋮⋮琴音さん、なんか様子おかしかったし、兄貴なのに態度もよ
そよそしかったのに﹂
﹁六年ぶりの上に、あの兄だ。気圧されもするさ﹂
﹁ラーメン食ってる時、泣いてた﹂
擦り合わせていた涼の手が止まった。
﹁ずっと兄貴の方を見てた。なんか、すげえ必死そうに﹂
捨てられた子犬のようだった。待って、行かないでと願っている
のに、鳴くことすらできない。縋りつくように切羽詰まった眼差し。
引き留めたいのに、引き留める術を持たず途方に暮れている。
﹁結婚式な﹂
涼の吐いた息が白く映えた。
﹁本当は挙げる予定だったらしい。親族だけでこじんまりと﹂
主語が欠けていたが誰の事を指しているのかは明白だった。屋台
で琴音と天下が交わした会話を涼は聞いていたようだ。
﹁なんで、やめたんですか﹂
﹁琴音が反対したから﹂
一番賛成しそうな人なのに。天下には意外に思えた。
﹁式を行うのを?﹂
﹁二人の結婚そのものに猛反対﹂
天下は二の句を繋げられなかった。溺愛しているとは思っていた
が、まさかそこまで。なおさら醒時と琴音を二人きりにしては問題
ではないか。
﹁君、絶対勘違いしてるだろ﹂
軽く笑みを含んで涼は言った。
﹁琴音はたしかにブラコンだよ。でも意味もなく人の幸せぶち壊す
ほど、自分勝手じゃない。あの二人はあくまでも兄妹だ﹂
吉良氏じゃない、と涼は首を横に振った。
﹁琴音は、零さんが好きだったんだ﹂
310
今度こそ、天下は言葉を失った。想像だにしていなかった。だっ
て、口調こそ男性のようだが零は間違いなく女性で、琴音もそのは
ずだ。
﹁最初に零さんを見た印象は?﹂
﹁ちっせえ﹂
﹁その次﹂
﹁可愛い﹂
﹁男にしては、が前に付くだろ?﹂
涼の指摘通りだった。写真で見た時、目も大きく中性的な容姿を
しているとは思った。吉良醒時と並ぶと余計に童顔と小柄さが際立
って可愛いとも思った。が、全て男性を基準にしてのことだった。
﹁まさか︱︱﹂
﹁そのまさかだよ﹂
琴音も同じことを思ったらしい。
﹁ああ見えても吉良氏と琴音は八年離れてるからな。初めて会った
のは琴音が小学生の時、愛しのお兄様とよく一緒にいる同性の友人
だと信じて疑ってなかった。もともと吉良氏は滅多に実家には顔を
出さなかったから、会う機会も少なかったんだ。琴音は勘違いをし
たまま、お兄様のマンションに行く度に会える零さんに恋をした。
吉良氏もまさか自分の妹がずっと勘違いをしているとは思わなくて
数年過ぎた﹂
他人が見れば幸せな光景だったろう。当人にしてもそうだ。琴音
からすれば愛するお兄様と密かに慕う人。醒時にしては自分の想い
人を妹が慕っている。零にしてみれば好きな人の妹が自分を受け入
れてくれている。それぞれに幸福な絵図を描いていた。
しかし、琴音の描くものだけが違っていたのだ。
311
︻番外編︼恋せよ妹、密やかに︵結1︶︵後書き︶
次回の更新で休止となります。本日の昼頃︵もう時間指定は控えま
す︶を予定しております。夕方までには⋮⋮なんとか。
312
︻番外編︼恋せよ妹、密やかに︵結2︶
﹁吉良氏の大学卒業も決まった頃に結婚する旨を実家に報告しに行
ったんだ。そこで中学生で恋する乙女だった琴音は家族全員の前で
猛反対。ふざけているだの、お兄様は正気なのだの、罵詈雑言を浴
びせたそうだ﹂
天下には想像ができなかった。あれだけお兄様お兄様と慕ってい
る琴音が、愛しのお兄様を責め立てる姿︱︱無理だ。それだけに琴
音の動揺が伺えた。
﹁最終的には泣き喚いて暴れた琴音に一同は茫然。途方に暮れた中、
零さんは琴音を別室に連れて行って自分が女性であることを証明し
たらしい。まあ、それで誤解は解けたんだが⋮⋮﹂
涼は口ごもった。
その先は天下にも察せられた。五年も勘違いを続けていたのもあ
るが、家族とはいえ大勢の前で兄と好きな人を面罵。いたたまれな
いだろう。恥ずかしくて、申し訳なくて、消えてしまいたくなって
もおかしくはない。
﹁部屋に閉じこもって、数日後に家出﹂
警察沙汰にこそならなかったが、一歩手前ではあったらしい、と
涼は言う。
﹁で、吉良氏が琴音を捜し出して、自分が住んでいたマンションの
一部屋をまるごと譲ったんだってさ。あれだけ騒いだ手前、琴音が
家族に会わす顔がないのを察して。吉良氏はすぐに海外へ演奏旅行。
琴音はそこから高校と大学に通ったってわけだ﹂
おしまい。涼は両の手を軽く合わせた。
﹁笑えるだろ?﹂
﹁全然、笑えねえ﹂
﹁私も笑えなかった。でも奴は笑えと言った。笑い話にでもしなき
313
ゃ惨めなんだってさ﹂
以来、琴音は実家へ帰るのはおろか、醒時とも零とも会っていな
い。六年前の創立記念演奏会だって醒時と顔を合わせたけで琴音が
耐えきれなくなって逃げ出したのだ。
何よりも不幸だったのは、醒時と琴音の間に血縁がないことだ。
二人を繋ぐのはお互いが﹁兄妹﹂だと思う意識だけ。認識が途切れ
てしまえばどうすることもできない。一方が家族ではないと断じて
しまえば、それでおしまい。二人を繋ぐ絆とはそれくらい脆いもの
だったのだ。
琴音は謝りたいと願っていながらも言いだせずにいた。万一拒絶
されては彼女には縋る血の繋がりがない。電話でのやりとりも去年
ぐらいまではぎこちなかった。が、いつまでもしこりを残しておく
わけにはいかない。
今日のラーメンの会を企画したのは零だと、涼は言った。無論、
琴音の心情も察して部外者とも言うべき涼と天下の参加も快く受け
入れた︱︱どころか、そもそも零が友人を誘うよう勧めたらしい。
﹁な? いい人だろ?﹂
同感だ。勘違いをした琴音が惚れるのも無理はない。
思えば零は始終琴音と醒時の間に立っていた。場の空気が澱む度
に明るく振舞っていた。全ては義理の妹と旦那ためだ。壊れてしま
ったものをもう一度、築き上げようとしたのだろう。
生まれた時から家族が完成しているわけではないのだと天下は思
う。血の繋がりがあっても何かのきっかけでたやすく離れてしまう。
所詮は思考も違う他人なのだ。何もかもわかるはずがない。それで
も積み重ねていく。理解しようとする。互いに歩み寄る。手探りで、
少しずつ、ゆっくりと。家族になろうとする。その想いにこそ意義
があるのだと信じたかった。
︵連絡するか︶
ここのところご無沙汰だった兄弟の顔を思い浮かべ、天下は苦笑
した。
314
電車の到着予定時間を告げるアナウンスが流れた。涼が首を少し
傾けた。
﹁琴音の机に吉良氏の写真があるの、見たか?﹂
天下は頷いた。あまり出来のよくない肖像写真をフォトフレーム
に入れて飾っていた。
﹁あれ、隣に零さんが映っているんだ﹂
余計に天下は笑えなくなった。写真を手折って隠して後生大事に
していた琴音を思うと、どうしてもくだらないと断じることができ
なかった。傍から聞けば間の抜けた話かもしれない。だが本人は真
剣だったのだ。最初に勘違いをしたまま純粋に、想いを募らせてい
たのだ。
﹁本気で、好きだったんだな﹂
﹁だろうね﹂
ホームに滑り込む電車に気を取られた涼の手を天下は掴んだ。擦
り合わせたり、息を吹きかけたりの努力も虚しく彼女の手は冷たか
った。
﹁冷えてんな﹂
涼は答えなかった。振り払うこともしなかった。
﹁付き合ってくれてありがとう﹂
﹁大して役に立ってねえけどな﹂
﹁クッション役だよ。いきなり当人と真っ向からぶつかったら琴音
だって逃げ出す。何も知らない部外者がいてくれたおかげて、あい
つもいつも通りに振舞えたんだ﹂
涼は薄く笑った。
﹁それに、カイロ代わりにもなる﹂
繋いだままの手はその礼か。理由がなければ手を繋ぐことすら許
さない涼の不器用さが天下には歯痒かった。もどかしい。でも、悪
くはなかった。厳しく律する涼だから、甘やかしたくなるのだ。
指を絡ませてやろうかと思ったが、恋人繋ぎはさすがにできなか
った。やらかしたら最後、振り払われるのは目に見えていた。涼は
315
慌てて掛け違えることを恐れている。間違ったまま進むことを恐れ
ている。臆病に近いそれが悪いとは一概には言いきれない。
まだ、なのだ。涼と自分もきっと。ゆっくりと慎重に積み重ねて
いくしかない。
﹁そういうことにしておきますよ、今日は﹂
その夜、兄妹の間でどのような会話がなされたのかは結局わから
なかった。
ただ琴音のスクラップ集めはますます熱の入ったものになり、フ
ァイルの数が二ケタに達しようとしていた。本棚に納められた膨大
な﹁お兄様コレクション﹂に苦笑したその折、天下は琴音の机の上
に立てかけてある写真を目に留めた。
折り目の入った写真には、吉良醒時の他に朗らかに笑う零がいた。
そして二人の間には、照れたようにはにかむ少女の姿があった。
316
︻番外編︼恋せよ妹、密やかに︵結2︶︵後書き︶
これにて番外編も終了です。最後までお読みくださり、ありがと
うございます。
大変申し訳ないのですが、拙作の次回更新は三月末を予定してお
ります︵予定は未定です︶。いわゆる休止というものでございます。
変更の可能性は大いにございますのでその都度活動報告などでご報
告させていただきます。
それでは皆様、︵私めが一方的に︶名残惜しいのですが、しばし
のお別れでございます。
このような拙作に根気よくお付き合いくださったことに感謝申し
上げます。
317
︻期間終了︼課外授業跡地
皆様、大っっ変長らくお待たせいたしました。
忘れ去られている可能性大の錨晋太朗です。
おかげ様で入稿が完了いたしました。当初の予定を遥かにぶっち
ぎって延長した執筆期間⋮⋮断言できます、あれは地獄です。私め
風情では踏み込めない超人の領域です。世の作家様はこんなプレッ
シャーに耐えながらも素晴らしい作品を送り出しているのだと思う
と、ブックオフにおいてある本も書店で買ってしまうわけです。印
税入りませんからね。
話がそれました。書き終えたとはいえ、まだまだこれからです。
道のりは長く険しいのです。あまり考えたくないのですが、出版化
を逃した場合はなろう様で掲載させていただきます。お蔵入りする
には労力をかけ過ぎているもので。
何はともあれ、やはり執筆は楽しくなければ、と初心に返ってよ
り一層精進していく所存です。
さて、ではこれから再開させていただきます﹃生徒は対象外です。
﹄の第二部について少々。ちなみに︵勝手につけた︶第二部のタイ
トルは﹃いいえ、生徒は対象内です。﹄となっております。
全くもって進展しない二人をどうくっつけるのかを課題に話を進
めさせていただきます。プロットを読んだ友人の感想が﹁昼ドラっ
ぽい﹂なので、それを踏まえてお読みくださいませ。リアリティも
へったくれもない完全に私めの自己満足です。
そして一番重要なことを、
318
毎日更新はおそらく無理です。
拙作唯一の取り得がなくなったんですね、わかります。
毎日楽しみにしてますとお優しい励ましに対する態度がこれかよ、
と自分でも呆れておりますが、諸事情により無理だという結論に達
しました。この点に関しましては深くお詫び申し上げます。
それでもいいよ、と仰ってくださる慈悲深い方、どうかこれから
もよろしくお願いいたします。
では、乱文失礼いたしました。
319
入学式︵その一︶基本はてるてる坊主です
三月になると普段以上に天気予報を注視する。雨降って地固まる
とか適当に言葉を取り繕ってもやはり、一生に一度の日には晴天で
あってほしいと願うのが人情というものだ。
せめて桜はもってほしい。散るな雨よ降るな後生ですから。
教職員一同の願いが天に届いたのかどうかはわからないが、今年
の入学式は満開の桜の中で執り行われることになった。
目玉である管弦学部の演奏と合唱部による校歌合唱︱︱斉唱でな
いところが音楽科のプライドと言うべきか。見事な三部合唱を披露
して早くも新入生勧誘の一役を担った。
その合唱部の副顧問である渡辺涼はというと、去年と同じく裏方
の仕事に専念していた。音楽教師とはいえ、体育館の舞台に上がっ
たことなど数えるほどしかなかった。ましてや、合唱部の指揮など
練習代理の時しかやったことがない。
不満に思ったことはない。それが自分の分だと思っている。
﹁リョウ先生、今後の進行ですが⋮⋮﹂
呼び止めてきた同僚の教師と確認。予想の範疇だが、十分ほど遅
れが生じている。一年生の教科書は書店に出張販売してもらうこと
になっている。体操着も上履きも同様だ。他の業者への連絡は密に
行う︱︱今後のためにも。
﹁それと校門付近に新入部員勧誘のために生徒がたむろしてます﹂
﹁入学式当日は関係者以外立ち入り禁止のはずでは?﹂
連絡不足を責めると、教師は気まり悪げに言った。
﹁それが﹃体育館の立ち入り禁止﹄とありますけど、校内とは書い
ていないもので﹂
涼は額に手を当てた。誰だ、そんな小賢しい理屈をこねまわした
320
のは。
﹁どこの部ですか?﹂
﹁柔道部と剣道部、サッカーにバスケ、テニス、陸上、野球、バレ
ー、バトミントン、﹂
﹁つまり、運動部全般ですか﹂
﹁あ⋮⋮でも、弓道部はいませんでしたね﹂
この時点で涼は黒幕に察しがついた。先日﹁入学式大変でしょう
けど頑張ってください﹂などと言っておきながら白々しい。なんか
変だとは思っていたのだ。
﹁私が行ってきます。遅れが生じた際、各業者への連絡だけはしっ
かり行ってください。毎年のことですから、向こうも多少遅れるこ
とぐらいわかっているはずです﹂
後を任せると涼は昇降口へ向かった。
もう雨でも何でも降ってしまえ。
321
︵その二︶権利の主張だけでは押し通せません
﹁不公平です﹂
運動部一同を代表する形で、石川香織は涼と対峙した。女子バス
ケット部の部長なだけあって引き締まった身体をしている。少し日
に焼けた肌も健康的だ。
﹁合唱部、管弦楽部は入学式参加が許されているのに他の部は出入
り禁止なんて横暴です﹂
後押しするように背後では運動部一同が﹁おーぼー﹂だの﹁音楽
科のいんぼー﹂だの不平不満を大合唱。無論、揃っていない騒音だ。
せめて斉唱にしてほしかった。何を言っているのか聞き取れない。
﹁音楽関係の部を優遇しているわけではありません。現に放送部だ
って体育館に出入りしてますし式にも参加しています。あくまでも
入学式の手伝いのために駆り出されているんです﹂
﹁でもまたとない部のアピールの場ですよね。機会は平等に設けら
れるべきではありませんか? いくらこの学校に音楽科があるとし
ても、普通科だってあるんです。私たちだって真面目に活動をして
います。なのに勧誘さえ満足にさせてもらえないなんて、えこ贔屓
だと言われても仕方ないと思います﹂
四月下旬から勧誘期間があるだろうが。それまで待てよ、と涼は
言ってやりたかったが、連中が聞く耳を持つとは思えなかった。
入学式は口実に過ぎないのだ。彼らの不満はもっと根深い。何し
ろこの学校、他校に比べて、音楽系の部は優遇されている。全ては
一学年に四十人しかいない音楽科生徒のためだ。
身も蓋もない言い方をすれば、甲子園地区予選一回戦で敗退する
ような野球部に金を費やすくらいなら、合唱コンクール全国大会で
銀賞を取る合唱部に予算を投じた方が有意義。そういうことだ。炎
322
天下で汗水たらして練習に励んでいる運動部にしてみれば、冷房の
利いた音楽室で練習している連中なんぞ苦労知らずのお嬢様にしか
映らないのだろう。気持ちはわからなくもない。
しかし、管弦楽部も合唱部も投じた分の成果は果たしている。そ
れもまた事実だった。
運動部の生徒達が訴えていることは的外れと言わざるを得ない。
待遇を良くしてほしいのなら、それに見合う成果をまず提示するべ
きだ。もしくは、もっと運動部を優遇する学校に入ればいい。少な
くとも、学校行事の際に騒ぎを起こすよりは現実的な手段だ。
﹁皆さんがマイクその他音響の準備をしたり、体育館にビニールを
敷いたり、五百以上のパイプいすを並べて下さるんですか? 入退
場曲を演奏して下さるんですか? 校歌の合唱をしたり、伴奏をし
て下さるんですか? 合唱部も管弦楽部も放送部も生徒会も本来の
活動時間を割いて入学式に協力してくれているんです。入学式終了
後も後片付けをやります。他の部が学校のためにボランティアして
いる間に、あなた達は新入生を自分達の部に勧誘するんですか?﹂
口々に喚き立てていた連中がぴたりと押し黙る。涼はこれみよが
しにため息をついた。
﹁だとすれば、他の部から非難されても甘んじて受けるしかありま
せんね。自分達は何一つ協力もせずに、いいとこ取りをするわけで
すから。運動部なのにスポーツマンシップの欠片もない卑怯者だと
言われても仕方ありませんね﹂
涼は時計を確認した。入学式終了予定時刻は既に過ぎている。今
頃、新入生達はそれぞれの教室へ向かって最初のHRを受けている
はずだ。
﹁早ければ三十分後には新入生達がここを通るはずです。それまで
にどうするか決めなさい。くれぐれも帰宅の妨害をしないように﹂
言いたいことだけを言って踵を返す。背後から﹁何アレ﹂﹁ムカ
つく﹂﹁だから音楽科って嫌なんだ﹂だの文句の言葉はよく聞こえ
たが﹁卑怯上等! 新入生を勧誘しようぜ﹂という威勢のいい発言
323
は一つも出なかった。五分もすれば解散するだろう。
生徒に嫌われようが涼にはどうでもよかった。もともと文化部と
運動部は相容れない存在なのだ。
324
︵その三︶権利には義務が伴います
職員用玄関で靴を履き替えようとして、涼は顔を上げた。
﹁関係者以外立ち入り禁止です﹂
﹁体育館は、な﹂
鬼島天下は細かい点を指摘した。
﹁やはり君か﹂
去年まで教職員が誰も気づかなかった文章の欠けを突くなど、よ
ほど注意力のある奴しかできない芸当だ。
﹁人聞きの悪ぃこと言うんじゃねえ。俺はただ﹃体育館以外なら立
ち入ってもいいんじゃねえのか? 入試じゃあるめえし﹄ってぼや
いただけだ。それを運動部の連中が盛り上がりやがって⋮⋮おかげ
で練習になりゃしねえよ﹂
そう吐き捨てる天下は制服姿だった。彼は弓道部副部長だ。せめ
て自分の部だけは馬鹿騒ぎに参加しないよう戒めたのだろう。その
統率力は大したものだが、周囲がこれだけ騒がしくなれば練習どこ
ろではなくなる。練習を諦めて解散。制服に着替えた後で様子を見
に来た︱︱といったところだろう。
﹁どうせバレー部とかバスケット部の連中が喚いてんだろ?﹂
たしかに中心となっているのはその部だった。
﹁よくわかったな﹂
﹁あいつら、体育館分けて練習してるからな。他の運動部だって満
足な練習場があるわけじゃねえ。グラウンドだって曜日ごとに使用
する部が変わるし、雨降ったらどうしようもねえし。そういう運動
部から見たら、文化部は恵まれてんだよ﹂
﹁特に、音楽科が?﹂
天下は小さく頷いた。
音楽科があるだけに音楽設備は半端ではない。必然的に合唱部、
325
管弦楽部は冷暖房完備の部屋で練習。それを不公平と言われてはど
うしようもない。しかしあくまでも楽器のためだ。そんなことを言
っていたら家庭科部は調理室を占拠して冷蔵庫もガスもオーブンも
全て使いたい放題ではないか。
﹁やっかみだ。あんたが気にすることじゃねえよ﹂
﹁そもそも、君が妙な入れ知恵をしなければこんな事にはならなか
った﹂
﹁﹃体育館立ち入り禁止﹄なんて書いた奴が悪い﹂
天下は悪びれる様子もなかった。三年になろうと、身長ばかりが
伸びて中身に変化は見受けられない。涼は自分のよりもやや上に位
置する天下の頭を見上げ、ため息をついた。
﹁言葉尻を捕らえてないで、さっさと帰れ﹂
﹁でも俺は﹂
﹁関係者以外立ち入り禁止だと何回言わせるつもりだ﹂
﹁いや、だから俺も関係者だって﹂
弓道部に手伝いを頼んだ記憶はない。涼は胡乱な眼差しを送った。
﹁弟の晴れ姿を一目見ておこうかと思って﹂
そう言えば、今年の新入生名簿に鬼島統の名があった。
326
︵その四︶劇的な変化を期待してはいけません
四百を超える新入生の中で涼がその名を見つけたことに深い意味
はない。単に、鬼島統が芸術選択科目で音楽を選んでいたからだ。
今年の普通科一年の音楽を担当するのは涼だ。だから知っていた。
それだけのこと。決して鬼島という苗字に気を取られたわけではな
い。
﹁じゃあ会いに行け。こんなところで油を売るな﹂
﹁そのつもりだったんだがな﹂
天下は薄く微笑んだ。困ったように肩を竦める。
﹁お袋も来てた﹂
その一言で察するには十分だった。鬼島家の複雑な家庭事情。自
分のことを覚えていない母親の前に顔を出すのはさぞかし辛いこと
だろう。間に挟まれることになるであろう弟の心情も察して、天下
は身を引いたのだ。
家庭に関して天下が異様に物わかりが良いのも、相変わらずだっ
た。だからだろう、彼を突き放すことができないのは。
憐憫でも同情でもない。涼の中で天下にある種の同族意識が芽生
えていた。後ろめたいことなんて自分にはないのに、家族に対して
二歩も三歩も引いてしまう。複雑な家庭事情を抱えているのは涼も
同じだった。
だからこそ、今の天下を見ているとたまらなくなる。一生、こん
な生き方を通すつもりなのか。やめろ。碌なものじゃない。人生の
先輩として忠告してやりたかった。しかし、身を引く以外にどうす
れば良いのかは、涼にもわからなかった。自分のことでさえわから
ないのだ。天下に進言などできるはずもなかった。
﹁なあ先生、今度の土曜は暇か?﹂
沈んだ空気を払拭するつもりなのだろう。天下は明るく言った。
327
﹁先生のい﹂
﹁君は新学期早々私を懲戒免職にしたいのか﹂
﹁バレやしねえって﹂
﹁バレるバレないの問題じゃない。男子生徒を自宅に上げた時点で
教師失格だ﹂
変なことに対して諦めが悪いのも、相変わらずと言えば相変わら
ずだった。
不満顔の天下はさておき、涼には仕事が山のようにある。順調に
進んでいることをひたすらに願った。
328
︵その五︶親の心子知らずなのです。
祈りが届いたのか体育館では保護者説明会が行われていた。新入
生の姿はない。教室でHRを受けているのだろう。
説明会も終わりに近づいていた。最後の質問受付けで母親の一人
が挙手。校則に文句を言っていた。質問の形式をとってはいるが、
涼に言わせればいちゃもんだ。笑わせてくれる。校則ではローファ
は黒のみを認めるとあるが、うちは先日茶色の革靴を購入してしま
った。どうしても黒でなくては駄目なのか。
駄目なんですよ、お母さん。
不条理だろうと何だろうと、それを知って入学したはずだ。校則
に意味を求める方がおかしい。だいたい座っている位置からしてあ
んた音楽科生徒の母親だろ。革靴一つで愚痴っていたら、これから
先どうやって進学費用をまかなうというのだ。半端じゃないぞ。音
楽って特に。
学校側はやや呆れつつも決然と﹁校則ですから。例外を認めるわ
けにはいきません﹂と譲らなかった。渋々顔で母親も引き下がる。
︵ああいうものなのか︶
母親って。
教師という職業柄、保護者︵最近はそう呼ばないと差別と受け止
められる︶に遭遇する機会は結構ある。理不尽な要求を突き付けて
くる母親もいたし、進学のことで思いつめた顔して相談してくる母
親もいた。時折父親もあるが。
しかしそのどれも共通していたのは、子供の状況を自分のことの
ように怒り、もしくは不安になり、あるいは喜ぶことだ。放任主義
を貫く家庭でもその傾向はあった。
その様子を傍で目にする度に涼は不思議な気持ちになる。羨まし
いわけでも、哀しいわけでもない。ただ、珍しいものを見たような
329
感覚。時には感心さえ覚える。よくもそこまで。
娘、息子といえども違う意思を持った他者に過ぎない。よくもそ
こまで思いを込めることができるものだ。
そんなことを考える自分は、おそらく何かが欠けているのだろう。
質問が終わり、保護者達はまばらに立ち上がる。そろそろHRも
終わっている頃だ。丁度いい。生徒と合流すべく保護者らは体育館
の出口へと。涼は廊下の端に寄って道を譲った。
目の前を通り過ぎていく方々は同じ保護者とのお喋りに熱心だ。
去年と何ら変わりない光景だった。涼は壁と同化しているつもりに
なって、この行列が過ぎ去るのをひたすらに待った。
特に意識を向けていたわけではなかった。ただ、この大群の中に
天下の母親がいるのかとなんとなく、眺めていただけだ。この大人
数では見過ごすだろうと諦めてもいたし、見つけたところで挨拶を
交わすほどの間柄でもない。
その折だった。
視界の端に、女性が入った。グレーのスーツを品良く着こなした
保護者︱︱いや、母親だ。誰の母かなどとは訊ねるまでもない。こ
の場にいる以上、わかりきったことだ。
しかし、涼の思考は一瞬にして止まった。
保護者の一団が通り過ぎて、その騒ぎ声すらも遠くなってなお、
涼は動くことができなかった。半開きのまま閉じることを忘れた口
に手を当てる。唇に触れた指は微かに震えていた。
﹁⋮⋮まさか﹂
涼は鼻で笑った。最近、いろいろあり過ぎて意識過剰になってい
るのだろう。それにしても性質の悪い幻を見たものだ。
︱︱自分を生んだ女性がこの学校に来ているなんて。
悪夢としか言いようがない。
330
︵その五︶親の心子知らずなのです。︵後書き︶
これにて導入は終了です。お付き合いありがとうございます。
まあ⋮⋮この時点で今後の展開の予想がつく方はいらっしゃると
は思いますが、ひたすら王道に突っ走ろうかと思う次第です。
331
一限目︵その一︶前途多難です
予想通りではあったが期待外れだ。
天下は配られた時間割表を睨んだ。三年ともなると大学受験を視
野に入れた科目の割合が増える。当然、削られる科目というものも
あるわけだ。週に一度に減らされた総合学習はテストの成績順でク
ラス分けされる英語強化訓練の時間と化していた。もはや総合では
ない。学習ですらない。洗脳だ。
たった一人でいい、とにかく有名大学に生徒を入れよう、という
普通科教師陣の魂胆が見え見えだった。
何しろこの学校の進学実績で誇れるのは、毎年二、三名が芸大へ
の切符を手に入れていることぐらいだった。それも音楽科の優秀性
を示すものであって、普通科はハッキリ言って関係ない。
特に普通科の偏差値が低いわけではない。むしろ高い方だ。ただ、
のんびりした校風が、良くも悪くも学生達に余裕を持たせていた。
有名大学に進学するよりも、それなりの大学で収まろうとする生徒
が圧倒的多数を占める。やる気があるのは教師達、それもごく一部
だけだ。
﹁Sクラス?﹂
後ろに座るクラスメートが手元の時間割を覗き込んできた。
﹁ぜってえスパルタだな。頑張れよ﹂
ご愁傷様、と言わんばかりの軽々しさだった。天下は早くも実力
試験に真面目に取り組んだことを後悔した。学年一位なんて取るも
のじゃない。Sクラス。英語のエリートが集うクラス。嬉々として
英語を教えるであろう、お受験命の熱血教師。想像しただけで帰り
たくなる。
天下は深々とため息をついた。
﹁おいおい、そんなにSクラス嫌かよ﹂
332
違う。Sクラスは確かに嫌だ。しかし、たかが週に一回だ。五十
分適当に過ごせばいい。
問題なのは、そのたかが五十分すらないことだ。天下は時間割表
を握り締めた。
︵なんで音楽ねえんだよ⋮⋮っ!︶
不満はこの一点に尽きる。普通科の教室棟に向かい合うように位
置する特別棟は、音楽科の領域だ。よっぽどのことがない限り、普
通科生徒は立ち入らない。例えば、音楽の授業を鑑賞室で行うとか
だ。
つまり、唯一特別棟に立ち入る正当な理由が奪われたのだ。あま
りの理不尽さに天下は言葉もなかった。
﹁あ、鬼島くんもSなんだ﹂
よし、落ち着け。まずは状況を把握しよう。
﹁私もSクラス。他にはいないみたいね﹂
タイムリミットは来年の三月。卒業式までだ。それまでに自分は
ベルリンの壁よりも強固な意志を持ち、キリマンジャロの吹雪より
も容赦がない渡辺涼をなんとか懐柔せねばならない。敵は強大かつ
狡猾だ。
そのためには、まず綻びを見つける必要がある。鉄壁かと思われ
たベルリンの壁だって崩壊したのだ。渡辺涼にも隙があるはずだ。
︵⋮⋮で、どうやって探すんだ?︶
思考は巡り巡って結局、最初の問題に行き着く。すなわち、普通
科と音楽科、いかにして垣根を越えて接触するか。
﹁なんか難しそうだけど、よろしく﹂
そうだ。難解にも程がある。しかしやらねばならない││
﹁あ?﹂
そこにきてようやく、天下は顔を上げた。覗き込んでいた勝ち気
な瞳と遭遇する。クラス替えをしたばかりで顔と名前が一致しない
クラスメートが多い中、見覚えのある女子だった。たしか、バレー
だかバスケットだかの部長だったような気がする。
333
天下は胸元の名札を一瞥した。石川。同じ運動部とはいえ、全て
の部長副部長を知っているわけではない。しかし、予算会議等の折
に何度か言葉を交わした記憶が微かに。同じクラスになったのはこ
れが初めてだ。
﹁⋮⋮まあ、よろしく﹂
言葉を濁した天下だったが、彼女はそれで満足したらしい。黒板
前でたむろしていた女子数名が﹁かおりー、英語何クラスだった?﹂
と呼びかける声に応じてそちらへ向かう。
天下は目を眇めた。石川香織。思い出した。女子バスケットの部
長だ。
記憶が一致した時点で天下は満足した。すぐさま思考は失った機
会へと戻る。音楽の授業があるなら英語特訓コースが毎日あっても
構わなかった。
334
︵その二︶それでも少しは進歩したいものです
新学期早々、渡辺涼は頭を抱えたくなった。
一年の合同クラス。今年度、普通科で音楽を選んだ生徒は四十人
余り。例年通りだ。
ホワイトボードに﹁渡辺涼﹂と書き、生徒に向かっておざなりに
﹁渡辺です。一年間よろしく﹂とだけ挨拶。去年と同じだ。
早速発声の練習を始めた涼に生徒達が不満の声を上げたのも、無
視して進めたら渋々口を開いたのも、いつものことだった。
しかし、ここでかつてない問題が浮上した。
歌わない生徒がいたのだ。
自分で選択しておきながら真面目にやろうとしない生徒は別段珍
しくもない。口パクで誤魔化せると本気で思っている生徒だってい
る。教師としてできることはさり気なくバレている旨を告知し、授
業態度の欄にゼロをつけるくらいだ。やる気のない生徒にやる気を
出させる程、涼は意欲のある教師ではなかった。
しかし、だ。最前列で真剣な顔して口を閉ざされでもしたら、さ
すがに戸惑いもする。
初日から恨まれるようなことをしただろうか。素知らぬ顔で授業
を進めつつ、涼は記憶を探った。特に覚えはない。しかし︱︱唇を
真一文字に引き結んだむっつり顔を盗み見る。ざんばらだが艶やか
な黒髪、鋭い双眸、面影は嫌という程あった。名簿を確認するまで
もない。
この生徒が、鬼島統だ。
兄弟そろって何とも面倒な。涼は己の自意識過剰であることを祈
りつつ、今回は目を瞑った。初日だ。喉を痛めたりしたとかで、調
子が悪いのかもしれない。可能な限り好意的に解釈することにした。
335
さすがに次も同じことをされたら黙っているわけにもいかないが。
やたらと長く感じる五十分を終えると、次の授業に向けて生徒達
は足早に鑑賞室を去っていく。スタンウェイのピアノを丁寧に拭い
ていた涼ははたと手を止めた。
一人だけ、席から離れない生徒がいた。
訴えかけるかのように真摯な眼差しをこちらに向け、そのくせ口
は固く閉ざしている。
生徒の一団が扉を閉める音がどこか遠くのことのように聞こえた。
人気のない鑑賞室で二人っきり。涼は天井を仰いだ。
この状況、前にもなかったっけ?
336
︵その三︶前を向くのは悪くありません
﹁私に何か?﹂
やや高圧的な物言いになってしまったのは、あの鬼島天下の弟で
あるからだ。理不尽かもしれないがこればかりは諦めてもらうしか
ない。恨むなら見境のない兄を恨め。
鬼島統は首を捻って、涼を視界に入れる。凝視とは違う目つきだ
った。感情がこもっていない。何かが動く気配を感じ取った。だか
ら目をやった。それだけ。眺めている、と言った方が適切だ。
これはまた、天下とは対照的なだんまりだった。
拗ねている時であれ機嫌がいい時であれ、天下は黙る代わりに視
線で主張する。故に、何らかの意思が彼の眼差しから感じ取れた。
しかし統にはそれが全くと言っていいほどなかった。涼に対して不
快な感情を抱いているのかも、戸惑っているのかもわからない。
﹁⋮⋮そろそろ、この教室を閉めたいんだけど?﹂
聞こえないわけではなさそうだ。統はあっさりと教科書を手に、
涼の後に続いた。明りを消して、鍵をかける。一連の作業も傍らで
静観。観察されているような居心地の悪さに、涼はこめかみを指で
掻いた。
﹁あのね、鬼島︱︱﹂
﹁統﹂
弾かれたように能面少年は顔を上げた。声こそ出さなかったもの
の、目を二、三瞬いて自分を呼んだ人物を見る様は、実に人間らし
い反応だった。
﹁よう、奇遇だな。授業終わったのか?﹂
突如現れた兄︱︱天下の問いに統は小さく頷いた。
﹁少しは慣れたか?﹂
337
こっくり。
﹁そりゃあ良かった。クラスの連中とは?﹂
可否では答えようのない質問にどうするのかと、涼が様子を見れ
ば、統は口を開いた。
﹁⋮⋮隣﹂
無機質な声音。初めて耳にした統の声は、天下の声に似て低かっ
た。
﹁多少は我慢しろよ。皆が皆おめえみたいに無口なわけじゃねえ﹂
﹁図書﹂
﹁適当にやっとけ。どうせ月に一回程度しか集まらねえよ。それよ
り部活はどうすんだ﹂
口を閉ざす統。天下は呆れたようにため息をついた。
﹁俺のこと気にしてどーすんだよ。来週から勧誘期間だから、一回
くらいは顔出せ﹂
俯きがちな統は少し顔を上げた。心なしか、表情が晴れている、
ように見えなくもない、涼の見間違いでなければ。
﹁あの⋮⋮兄弟の談笑中に申し訳ないんですが﹂
遠慮がちに口を挟む。天下は完璧なまでの優等生スマイルで頭を
下げた。
﹁渡辺先生、弟をこれからよろしくお願いします﹂
﹁いえいえこちらこそ︱︱じゃなくてだな。今の会話は一体何だ。
キャッチボールが交わされているようにはとても見えない﹂
天下と統は揃って首を傾げた。その表情は兄弟らしく非常に酷似
していた。
338
︵その四︶しかし、前だけ向けばいいものではありません
涼はため息混じりに訊ねた。
﹁隣というのは?﹂
﹁ああ、それか﹂
そこでようやく天下は合点のいった顔になる。
﹁隣に座る奴がうるさいんだってさ。音楽の時もなんか落ち着かな
かったらしい﹂
﹁図書?﹂
﹁委員決めで押し付けられたんだよな?﹂
統は首肯した。
﹁じゃあ部活っていうのは︱︱﹂
﹁こいつ、弓道に興味があるくせに俺が副部長やってるからって、
見学にも行かねえつもりだったんだよ﹂
あの単語のどこにそこまでの意味が込められる。涼は額に手を当
てた。一卵性双生児だってここまで心通わせたりはしない。テレパ
シーか。
その前に、だ。鬼島統は一体どんな妙技を用いてこの学校に入学
したのだろうか。面接は必須だったはず。通訳がいなくては会話一
つ成立させられない生徒が、面接試験で饒舌に自己紹介と志望動機
を語る姿を思い浮かべようとして︱︱涼は無理だと断じた。想像で
きない。
涼があれこれ考えている間に、天下は統を教室へ帰していた。先
ほどよりも状況が悪化していることに気付いた時は既に遅かった。
﹁では私はこの辺で﹂
﹁逃げんな﹂
全力で回避したいところだ。しかし相手は聞きわけが悪かった。
﹁よし、落ち着いて状況を冷静に分析しようじゃないか﹂
339
涼は腹を括って、天下に向き直った。
﹁ここは特別棟だ。鑑賞室前だ。音楽科の陣地だ。普通科の、今は
勉学に勤しんでいるはず生徒である君が何故ここにいる﹂
﹁渡り廊下を歩いていたら弟が見えたもので、何か揉めているのか
と思いまして﹂
﹁それはどうもありがとう。通訳お疲れ様﹂
﹁いえいえ﹂
如才のない受け答え。丁寧な口調も礼儀正しい態度も何もかも、
全てがとにかく白々しかった。今度は一体何を企んでいるのかと腹
の内を探ってしまう。
﹁今は用済みだ。教室に帰れ﹂
﹁それはないでしょう。助けてもらっておいて﹂
﹁助けてくれと頼んだ覚えはない。それしきの度量では先が思いや
られるぞ﹂
﹁恩知らずなのもどうかと思いますが﹂
涼は頭一つ分上にある天下の澄まし顔を睨みつけた。
﹁⋮⋮何かあったのか﹂
340
︵その五︶見落としてしまいます
﹁何がですか?﹂
﹁ここ最近の君はいつになく、しつこいような気がする﹂
入学式の辺りからだ。積極的と表現するべきかどうかはわからな
いが、押しが強くなった。しかも、涼が冷たく突っぱねても、めげ
ない拗ねない怒らない。不安混じりに、しかし図々しく。機嫌がい
いとはまた違う、落ち着かない感じだ。
﹁あー⋮⋮﹂
天下は言葉を濁して明後日の方を向いた。自覚はあるようだ。
﹁色々あるんです、それなりに﹂
似非優等生にしては珍しく、適当な誤魔化し方だった。もう少し
踏み込めば白状しそうな気さえした。危うく追及しかけた口を閉じ、
代わりに天下の背中を押した。
﹁なら、こんな所で油を売っている場合じゃないだろ。さっさと教
室に戻りなさい﹂
﹁訊けよ、理由くらい﹂
地の声で天下が呟く。どうやら構ってほしかったらしい。なんと
も面倒な奴だ。
﹁進路相談なら職員室の隣だ。君の名前で予約しておこう﹂
﹁先生が相談相手なら行きますけど?﹂
﹁いや、今日はたしか佐久間先生だ。良かったな前の担任だぞ﹂
棒読みになってしまうのは仕方ない。涼とて頭痛の種に相談する
なんて願い下げだ。
案の定、天下は心の底から嫌そうに顔を顰めた。歪めたと言って
もいい。思わず佐久間を憐れんでしまう程、あからさまな嫌悪の表
情だった。
﹁⋮⋮生徒にうだうだ言う前にてめえの面倒をてめえで見ろ﹂
341
ごもっとも。しかし相手は教師だ。歳甲斐もなく生徒と恋愛ごっ
こをし、散々他人を巻き込み、それでもなお全く改善する気配がな
く、現在進行形で恋愛を続けている︱︱救いようがない馬鹿野郎だ
としても、佐久間は、教師だった。
﹁言葉を慎みなさい﹂
﹁担任が変わって恐悦至極に存じます﹂
言葉とは裏腹に天下は非常に不機嫌そうだった。チャイムの音に
背を押される形で去る際も、口を尖らせ捨て台詞。
﹁あんた、いつまであいつの肩持ってんだよ﹂
342
︵その六︶周囲にも気を配りましょう
愛用しているかはともかく、赴任時から使用しているティーカッ
プに涼は紅茶を淹れた。
うららかな放課後の一時。教師は涼一人しかいない音楽科職員室。
喉を潤すアールグレイ。それは静かで平和で穏やか││とは言い難
かった。
﹁ちょっとアンタ、言いたいことがあるならハッキリ言ったら?﹂
﹁⋮⋮ない﹂
﹁あ、そう。じゃ出てってよ。用はないんでしょ?﹂
来客用の椅子に我が物顔で座る矢沢遙香。女性にしてはややつり
気味の目は剣呑さを帯びていた。
そんな敵意剥き出しの眼差しを、真っ向から受けとめているのか
気付いてないのか、はたまた受け流しているのか、鬼島統はものと
もしない。だんまりを決め込んで、涼の方を凝視もとい観察してい
る。
﹁なにコイツ? リョウ先生も何か言ってやってよ﹂
﹁二人とも出て行きなさい。こんなところで時間を潰すな﹂
遙香は不満顔だ。統と同じ扱いであることが癪に障ったのだろう。
しかし、涼に言わせればどちらも招かれざる客だ。本日の授業を終
えて一息ついている真っ最中にずかずかと入り込んできた迷惑二人。
自覚がないので余計に性質が悪い。
涼はカップを二つ取り出し、紅茶を淹れた。自分もずいぶん甘く
なったと思いつつも二人の前に置く。
﹁飲んだら帰りなさい﹂
﹁ちょっと聞いてよ先生﹂
まずお前が他人の話を聞け。涼の心中を余所に遙香は不満をぶち
343
まける。やれ佐久間が最近つれないだの、クラスの顔ぶれが最悪だ
の、ありがちな愚痴だ。
﹁だいたい英語だけなんで成績でクラス分けしてんの? 差別じゃ
ん﹂
今年もやるのか英語選抜。懲りずにまた。意気込んでいた去年は
結局、一人として名門大学に入ることができなかった。
ちなみに同年、音楽科では例年通り三名の学生が芸大に現役合格
した。公立校にしてはなかなかの成績だ。無論、芸大だけが音楽家
の目指す道ではないことは重々承知している。
だが、音楽科ばかり優遇されるにはされるだけの理由がある。
﹁Sクラスの連中は偉そうだし、マジムカつく﹂
﹁至って平凡な悩みで先生は安心したよ﹂
﹁他人事みたいに言わないでよ。ホント腹立つんだから。特にあの
バスケ女! 自分はスポーツも勉強もできまーす。人望もあってみ
んなに好かれてまーす。凡人とは違うんでーす、みたいな顔して!﹂
遙香は一気に紅茶を飲み干した。精神の安定。涼としては紅茶の
効能が至急現れることを願うばかりだ。
﹁あーあ、あたし音楽科に入れば良かった﹂
﹁まず楽譜を読めるようになってから、そういう発言をするといい﹂
それでも遙香の音楽の成績に、涼は﹁五﹂を入れた。授業態度と
歌の試験から公正に判断した結果だ。才能があるのか遙香は、二年
の三学期に巻き舌を習得したのだ。クラスではただ一人。さらに最
終試験課題はイタリアの恋歌だった。恋愛の前に分別を無くし、と
にかく情熱的に暴走する歌。天はあくまでも遙香の味方だった。
344
︵その七︶気を配り過ぎてもいけません
しかし、いくら巻き舌ができて多少歌唱力があっても、本格的に
音楽の道に入るのには到底及ばない。
﹁どうしても入りたいと言うのなら、まず親御さんに相談しなさい。
言っておくが、ものすごく金かかるぞ。金を掛けたところで成功す
る保証はどこにもない。才能があっても一生埋もれたままの音楽家
だって珍しくない業界だ﹂
﹁それって反対ってこと?﹂
﹁私は止めやしないよ。君の人生だ。私には責任もなければ金を出
してやる義務もない。君が説得すべきなのは親御さんだ。﹃数百万
円をドブに捨てる覚悟で私に投資してください﹄と頭を下げるんだ
ね﹂
突き放した物言いに遙香は眉を寄せた。
﹁⋮⋮先生だって、どーせ親から金出してもらったんでしょ﹂
音楽科に限らず世の大半の大学生は親の金で大学に通っている。
それが普通なのだ。投資者がいなければ諦めて就職するしかない。
﹁いや、私は︱︱﹂
反射的に言いかけて涼は我に返った。生徒相手に何を言うつもり
なのだろうか自分は。
﹁何よ?﹂
﹁無利息で借金して通ったよ。就職したら分割払いで返す約束で﹂
﹁えー、じゃあ毎月親に金払ってんの?﹂
親じゃないけどな。涼はあえて訂正しなかった。わざわざ不幸自
慢をする必要はない。
﹁借りたものを返さなければ、ただの泥棒です﹂
﹁娘から金取るの? うっわ、ケチだねー﹂
遙香はそう言うが、太っ腹な方だと涼は思う。いきなり現れた娘
345
の手に三百万円を押しつける父親だ。しかも向こうは、返さなくて
いい、とにかく懐に納めて帰ってくれ、とまで言ってくれた。
涼は顔を顰めた。我ながら嫌なことを思い出したものだ。
﹁そろそろ面談の時間も終わるよ。帰りなさい﹂
﹁あ、ほんとだ﹂
時計を確認するなり、遙香はあっさりと席を立った。おざなりに
﹁ご馳走様﹂とだけ言って退室。相も変わらず台風のような女だ。
涼は一人分のカップを片付けた。
﹁︱︱で、君は何の用だ。暇潰しじゃないんだろ?﹂
紅茶と睨めっこしていた統が顔を上げる。感情の読めない表情だ
が、さすがに涼は察した。彼は、最初から二人きりになるのを待っ
ていたのだ。
346
︵その七︶気を配り過ぎてもいけません︵後書き︶
拙作をお読みくださりありがとうございます。
おかげ様でどういうわけか総合評価が1000ポイントを突破いた
しました。その記念にただ今アンケートを実施しております。よろ
しければワンクリック。よろしくなくてもワンクリックしていただ
けると大変嬉しいです。
何はともあれ、今後ともよろしくお願いいたします。
347
︵その八︶自分が動けなくなります
﹁たしかに私は君の兄上殿と面識はある。仮にも一年間担当した生
徒だからね。でもそれだけだ﹂
言い訳めいている。涼は我ながら不思議に思った。何故統に弁解
しているのだろうか。後ろめたいことなど、何一つとしてないはず
なのに。
統はおもむろに口を開いた。
﹁来週、誕生日﹂
﹁君の?﹂
返答は首を横に振る動作だった。涼は卓上カレンダーに目をやっ
た。
﹁来週のいつに誰が誕生日を迎えるんだって?﹂
﹁土曜、兄貴、十八になる﹂
なんだ。ちゃんと意志疎通ができるじゃないか。
妙な達成感が過ぎ去れば、後に残るのはその意味。統の兄が来週
の土曜に十八歳の誕生日を迎える。鬼島統の兄が。彼は三兄弟の次
男。つまり長男││
﹁さようでございますか﹂
涼はそう言う他なかった。鬼島天下が誕生日を迎えようと、十八
になろうと一介の音楽教師に過ぎない涼には関係がない。
﹁親父、呼んだ。五人で、誕生日。でも兄貴、断った﹂
涼は軽く目を見開いた。天下の父││鬼島氏は事なかれ主義だと
思っていた。記憶を失った妻にこれから先も付き合い続けるものだ
とばかり。現に彼は二年以上も現状維持を貫いていた。それが一体
どういう風の吹き回しだろう。
五人で誕生日を祝うからには、細君に天下のことを話さなければ
ならない。全く記憶にない息子のことを。天下の性格なら断るのも
348
当然だ。内情はどうであれ、平穏な家庭に余計な波風を立てること
になる。
しかし逆を言えば、一波乱起こるのを知りつつも鬼島氏は天下を
呼んだということだ。そこに以前とは違う鬼島氏の決意を涼は感じ
た。
﹁おおよその事情はわかった。でも、そこでどうして私が出てくる
んだ?﹂
統は首を小さく傾けた。
﹁親父、言ってた。兄貴、先生、好き﹂
涼は危うくマグカップを落としそうになった。動揺を悟られまい
と強く握る。潤したばかりの喉が急速に渇いていくのを感じた。
﹁⋮⋮君の兄上が、私のことを?﹂
やっとの思いで絞り出した声はかすれていた。心臓が一際大きく
鼓動を刻んでいる。統は平然と頷いた。
﹁いい先生、だって﹂
冷水を浴びせられた気分だ。一気に冷えて、反動で熱くなる。何
を勘違いしていたのだろう。自分が恥ずかしかった。
自分は教師で六歳年上なのだ。
高校生が恋情を抱く対象であるなんて夢にも思われない。
現実に立ち返った瞬間、涼は冷静になった。微笑さえ浮かべて肩
を竦めて見せる。
﹁なるほど。他力本願なところは相変わらずみたいだね﹂
こちらを伺う統に紅茶のお代わりを訊ねた。それが相談に乗ると
いう了承の意を示していることを、彼は的確に察したようだ。能面
のような顔に僅かだが安堵の色が浮かんだ。
その表情に天下の面影を見い出し、涼は目を逸らした。
349
︵その八︶自分が動けなくなります︵後書き︶
ただ今やらせていただいております1000ポイント御礼アンケ
ートですが、六月で〆切らせていただきます。一位は無論、二位⋮
⋮できれば三位までは、なんとか書かせていただこうかと思ってお
ります。
350
︵その九︶白ヤギさんからお届けものです
久しぶりに教師らしく生徒の話を聞き、教師風アドバイスを伝授
し、最後は教師っぽく鬼島統を見送った翌日。
出勤早々、涼は卒倒しそうになった。
音楽科準備室の一角にある渡辺涼専用机。洗った後、伏せておい
た涼専用カップ││その隣にあるマグカップを穴が開くほど凝視す
る。黒一色の飾り気皆無なマグカップは、涼のものではなかった。
来客用の予備カップとも違う。見覚えすらない。
しかし、こんな馬鹿げた真似をする人物に心辺りはあった。つい
でに、その意図も。
︵最近は大人しくしてると思ってたら⋮⋮っ!︶
マグカップを掴む手が小刻みに震える。油断大敵とはこのことだ。
奴は、鬼島統の兄だ。よもや誕生日の件は口には出すまいが、統
なら昨日紅茶をご馳走になったことぐらいなら言うだろう。もしく
は遙香から聞いたのかもしれない。
いずれにせよ、鬼島天下は自分が一度も出されたことのない紅茶
を、他の生徒が飲んだことを知って、黙っているような奴ではなか
った。それはこの半年で身に染みてわかっている。
だからといってここまでやるか、普通。
涼は黒のマグカップを前に頭を抱え込んだ。
久しぶりに兄貴らしく弟と下校し、兄貴風を吹かして学校生活の
アドバイスを授け、最後は兄貴っぽく爽やかに別れた翌日。
登校早々、天下は朝練の前に音楽科職員室に立ち寄った。
午前七時前。しかし音楽科の生徒は既に限りあるレッスンルーム
を予約し、練習に励んでいる。そのため、監督する立場にある音楽
351
科教師も学校に来ている。もしかしなくとも登校時刻が一番早いの
は音楽科だ。
一昨年普通科の音楽を担当していた音楽科主任に挨拶。当たり障
りのない話をし、目が離れた隙に涼の机にコップを置く。
ささやかな達成感に浸りながら弓道場へ足を運ぶ。七時十五分を
過ぎた時点で練習を始めていたのは天下ただ一人︱︱それが部活動
と専攻生の差だった。
八時二十分に練習を終えて弓道場を後にする。
中庭を通る際に鑑賞室を覗き込んだが、涼はいなかった。職員会
議にでも出ているのだろう。階段を上り三年一組の教室へ。クラス
メートには軽く手を上げて挨拶。廊下側一番後ろの机に鞄を置こう
として気付く。
今朝、準備室に置いてきたばかりのマグカップが返却されていた
のだ。早々にバレたようだ。涼の性格ならば容赦なく突っ返してく
ることも、天下が受け取らないことを見越していない間に机に置く
ことも、予想の範囲内だった。それで天下には十分だったのだ。
机に置かれた黒のマグカップは、音楽科教師の涼がわざわざ普通
科の教室に立ち寄り、天下の机を探してくれた証だった。
子供染みているのは重々承知だ。それでも、天下は嬉しかった。
母親に構ってほしいがためにわざと困らせる子供の心境に似ている。
マグカップを持ち上げ、その下に挟んであった紙を手に取る。青
いメモには滑らかな文字が書かれていた。間違いなく涼の筆跡で﹁
sciocco﹂と。
英語ではない。では何語だろう。クラシック音楽に関わる外国語
は多過ぎる。大まかに分類するだけでも三つ︱︱クラシック演奏家
の本場はドイツ。歌劇ならイタリア。理論ならフランス。こんな具
合だ。
しかし、どんなに難解であろうとも涼からの課題だ。それと、初
めてもらった手紙でもある。天下は機嫌よくポケットに入れた。
﹁おはよう鬼島君﹂
352
挨拶を返そうと口を開き、天下はふと香織の手にある電子辞書に
目を留めた。今日は一限目から英語講読だ。クラス全員の前で読ま
される可能性を考えれば予習は当然。最低でも辞書で発音を確認し
ておくのが学生というものだ。
そして英語Sクラスの香織ならば当日に慌てて予習をする必要は
あまりない。
﹁なあ、それ借りてもいいか?﹂
香織が差し出した電子辞書を受け取り、開く。やはり最新式電子
辞書。一般高校生には必要のない機能まで備わっている。その余計
な機能に天下は感謝した。
ドイツ、イタリア、スペイン、フランス。よりどりみどりではな
いか。手早く調べれば意外にあっさりと解読できた。解答はともか
く、涼らしい言葉に天下は苦笑した。
﹁どうしたの?﹂
﹁ちょっとな。ありがとな。助かった﹂
礼を言って返す。香織は小首を傾げながらも深くは追及してこな
かった。その前に担任が教室に入ってきたからだ。生徒達は慌てて
着席。日直が号令をする。
HRの真っ最中、天下はこの手紙になんと返すべきか、それは幸
せな気分で考えていた。
353
︵その十︶黒ヤギさんはしっかりいただきました
﹁生徒に向かって﹃馬鹿﹄はないと思います﹂
と書かれたノートの切れ端を、涼は手の中で握り潰した。
今朝返却したはずのマグカップは涼の机に舞い戻っていた。無論、
この状況を予測できなかったわけではない。そもそも天下が一、二
度冷たくあしらう程度で追い払えるような奴なら話は早いのだ。
しかし実際は、マグカップを突っ返されてもめげないどころか、
嬉々として返信してくる始末。こうなってしまうと涼も退けなくな
る。何が何でもマグカップを返却し、天下の淡い期待を打ち砕かな
くては。
涼は机に置いたメモの束から一枚引き抜き、ボールペンを手に取
った。イタリア語では甘かったか。
﹁新しいコップですね。買ったんですか?﹂
﹁いいえ﹂
手元を覗き込んできた同僚に即答。
﹁忘れ物です﹂
﹁Narr﹂
と書かれたメモを天下は摘んだ。あまりにも予想通りで頬が緩む。
嫌なら無視すればいいのに。律儀に返信してくるのはもはや性根
と言っていい。天下は涼の性格を理解していた。
押せば押し返す。引けば引き返す。無かったことにして流すこと
ができないのだ。そのくせ、酷く臆病で自分から動くこともできな
い。
残念ながら生徒と恋愛する程後先考えない人ではないが、こちら
がアプローチする度に毎回突っぱねてくる。毅然と拒むのだから意
354
思は強い方と言っていい。しかし恋愛の場合は、無関心であること
が一番効果的に拒む手段なのだ。こうしてマグカップを返したりせ
ずに捨ててしまえばいい。涼にはそれができなかった。
拒絶であれ一々反応を示すからかえって天下は煽られるのだ。少
しでも関心を引きたくて、こっちを見てほしくて、んでもって思惑
通り向いてくれたら嬉しくて。
馬鹿だなあ。まさに涼の言う通りだ。子供染みて、馬鹿みたいだ。
涼も、自分も。
でも、悪くはなかった。
﹁何それ。課題?﹂
﹁いや﹂
手元を覗き込む香織。咄嗟に天下は青いメモを裏返した。
﹁手紙、みたいなもん﹂
355
︵その十一︶エンドレスなのです
不毛さに気付いたのは土曜の朝になってからだった。
いつもの通りいつの間にか専用机に鎮座していたマグカップと﹁
palle!﹂と書きなぐった時にふと涼
減るわけでもないし、置いとけよ﹂と綴られた手紙。怒りにまかせ
てメモを取り﹁Che
は我に返った。
おかしくないか。
何故音楽科教師である自分が他学科の六歳下の生徒相手に、イタ
リア語で﹁いい加減にしろ﹂などと書かねばならないのだ。そもそ
も、だ。
︵これじゃあまるで文通⋮⋮っ!︶
素っ気なく突き放すつもりが、手紙のやり取りをしているではな
いか。まったくもって意味がなかった。
涼は書きかけのメモをゴミ箱に放った。今考えるべき事はこのマ
グカップを返却する術ではない。いかにして天下に実家へ帰らせる
か、だ。彼の誕生日は今日だ。本人にアプローチをかけることなく
当日を迎える羽目になっている。この件に関して逃げ腰になってい
るのは否めなかった。涼は深々とため息をついた。
苦手意識を持っているのは、何も鬼島天下という生徒に対してだ
けではない。
︵だから嫌なんだ︶
涼は卓上カレンダーを睨み、楽譜を手に取った。弓道部の練習は
今日の午前中。合唱部も同じく。終わるのはたぶん、合唱部の方が
先だ。
︵なんで私がこんなことを︶
内心では愚痴のオンパレード。それでも頭は冷静に、嫌になるく
らい計算高く策を練っている。簡単なことだ。帰らざるを得ない状
356
況を作り出せばいいのだ。突き放している振りをしつつも家族想い
彼なら、つけいる隙はいくらでもあった︱︱正確には、涼には思い
つくことができた。現に天下を帰らせる案は既に出来上がっていた。
そんな自分が、どうしても好きになれなかった。
︱︱可哀想に。
春の訪れと共に去った教師の声が耳に残る。仮にあれを勝負とし
て考えるのならば、敗者は彼女であったはず。しかし、彼女は満足
そうに微笑んだ。微塵の悔しさも感じさせずに言って、無責任に去
った。憐れむように、どこか優越感も含んで。
可哀想に。自分を守るために他人を攻撃せずにはいられない。こ
れから先、あなたはずっとそうやって生きていくんですね。
数ヶ月が経過した今なお、涼はその言葉を否定することも認める
ことも出来なかった。
357
︵その十二︶際限がないのです
待ち伏せする必要はなかった。招かれざる客は練習が終わるなり
当然の如く音楽科準備室に来訪し、紅茶をせびってきたのだ。いつ
にない図々しさは今日が誕生日であるが故のものだろう。特別な日
だから多少の我儘も通るのではないかとどこか期待している。その
気持ちは理解できなくもなかった。
わからなくもない。しかし、だ。
許可なく入室するなり﹁おい俺のカップはどこだよ﹂は許容でき
るものではなかった。涼は読みかけの音楽理論書を閉じた。
﹁色々言いたいことはあるけど、とりあえず敬語を使いなさい用も
ないのに入ってくるな帰りなさい﹂
﹁俺のマグカップはどちらにございますか?﹂
とりあえず最初の項目だけは従ったらしい。天下は残りの勧告を
無視して、来客用の椅子に腰かけた。制服を程良く着崩した様相は
三年生なればこそのものだ。涼は時の経過を感じずにはいられなか
った。
もう十八なのだ。
自分の行く末を考え始め、漠然とだが方角を決めて歩むべき道を
選ぶ。後ろを振り返る暇もなく、ただひたすらに進む。そんな歳に
彼はなった。
いつの間にか大人びてきた天下の横顔から涼は目を逸らした。
﹁捨てたよ。一週間経っても持ち主が現れなかったから仕方ない﹂
余所に追いやられたマグカップ。どこにも行く宛てのないもの。
同じなのかもしれない。結局、自分は引き取り手のつかないまま十
八を迎えた。置いてかれて、そのままだ。
﹁減るもんでもねえのに﹂
さほど気落ちした素振りも見せず、天下は不満を口にした。
358
﹁まさかそれ、本気で言ってないよね?﹂
教師の個人机に生徒のマイカップ。そんなものを目にした人間が
何を思うか。想像できないのなら佐久間と同レベルだ。
﹁先生って結構神経質だよな﹂
﹁用心深いんだ。特に君に対しては﹂
﹁なるほど俺は特別か。光栄だな﹂
涼は鈍痛のする額に右手を当てた。いかん。生徒に振り回されて
どうする。
﹁用がそれだけなら帰りなさい。学校から徒歩十分のご実家に﹂
ああまたストレートに言ってしまった。後悔しても遅かった。だ
らしなく背もたれに寄り掛かっていた天下が身を起こした。
﹁⋮⋮統が言ったのか?﹂
流石に全国模試三十四位は鋭かった。涼は誤魔化すという選択肢
を捨てた。捻りを利かすなど、そもそも自分には無理な話だったの
だ。
﹁年に一回の誕生日くらい家に帰ったらどうだ﹂
﹁あんたじゃなかったら﹃余計な世話だ﹄の一言で済ますところだ
な﹂
天下は首の関節を鳴らした。不機嫌な時にする癖だ。それも、い
つになく不快に思っている時に。佐久間の話が出ると大概この癖が
現れるのを涼は知っていた。つまり、家族のことは天下にとって他
人においそれと触れられて許せるものではない、ということだ。
359
︵その十三︶どこかで区切りはつけましょう
﹁今更帰ってどうすんだよ。お互い気まずいだけだろ﹂
彼の母の記憶は戻っていない。鬼島氏が細君にどんな説得をした
のかは分からないが、彼女にしてみれば天下は突如として現れた自
分の息子だ。戸惑うのは必至。だからこそ、三年近くも鬼島家では
天下の存在は抹消されていたのだ。
﹁家族サービスだと思え。年に一度の誕生日じゃないか﹂
﹁年に一度の誕生日くらい好き勝手にやらせろよ﹂
普段から好き勝手にやってる奴が投げやりに言い放った。だが、
三年近くも放置されていたのは天下だ。今更という気持ちは理解で
きなくもない。歩み寄るのなら、最初からそうするべきだったのだ。
なまじ瘡蓋が出来始めている頃になって、抉り返そうとするから傷
も悪化する。中途半端。涼が最も嫌うものだ。
﹁そうはいかない。鬼島統君は君の帰りを今や遅しと待ちわびてい
る﹂
﹁知るかよ﹂
﹁自宅傍の公園で﹂
髪を掻きあげた状態のまま、天下は硬直した。外は雨。時計を見
やれば昼の一時を回ろうとしていた。
﹁いつから?﹂
﹁十一時。ちなみに傘は差さないように言っておいた﹂
天下は顔を顰めてケータイを取り出した。
﹁電源は切っておけとアドバイスもした﹂
涼の言葉に盛大な舌打ちをしてケータイをしまう。怒りを通り越
して呆れ声で﹁そこまでやるか﹂と呟いた。統の性格を天下は熟知
している。頭は悪くはないが愚直なほど素直。雨が降ろうと風が吹
こうと兄が来ると信じて一日くらいなら平然と待ち続ける。それは
360
まるで忠犬ハチ公の如く。
﹁いいのか。君が行かないと弟君はあの公園の銅像になりかねない
ぞ﹂
天下の反応はない。涼は深々とため息をついた。
﹁別に今日から一緒に住めとまでは言っていない。たったの数時間
だ。一緒に食事して優等生面してご機嫌を取ればいい。それくらい
できるだろ?﹂
自分で言っておきながら理不尽な話だと涼は思った。似非優等生
の天下ならばできないことではない。だが、この上もなく面倒だ。
鬼島氏が三年前に生まれた歪みから目を背けた代償の大半を、天下
が担おうとしている。
﹁俺はこのままでも困らねえよ﹂
﹁高校に通わせてもらっている。一人暮らしの費用も、月々の小遣
いも貰っている。それでも自分は鬼島家とは関係ないと?﹂
天下はやや恨みがましげな眼差しを返してきた。大人の庇護を受
けずに学校に通い生活を成り立たせるなんて未成年である以上、難
しいことだ。
﹁十八だろ? 大人になれ﹂
﹁散々ガキ扱いしてきたあんたに言われてもな﹂
﹁そうやっていちいち拗ねる所が子供なんだ﹂
﹁じゃあ俺が大人になったら、先生も少しは変えろよ﹂
361
︵その十四︶時には譲歩も必要です。
何故そうなる。涼に反論の余地を与える間もなく、天下は言い募
った。
﹁俺がガキで生徒だから相手にしないんだろ? 俺は十八になる。
自動車免許だって取れるし、結婚だってできる歳だ﹂
﹁相変わらず学生だけどね﹂
﹁でもセミ・アダルトではあるわけだ。それなりの対応があるんじ
ゃねえのか?﹂
転んでもタダでは起きないその精神、尊敬に値する。が、当事者
としては迷惑なだけだ。そもそも鬼島家の問題なのに何故自分が改
善を求められているのだろうか。
﹁具体的には?﹂
﹁先生の家に行きたい﹂
論外だ。黙りこくった涼の心情を察したのか、天下は肩を竦めた。
﹁琴音さんも一緒でいい。俺としては二人っきりで会いたいけど、
いきなりそれはマズイだろ。少しずつ手順を踏んでだな。とりあえ
ず最初は控えめにするべきだ﹂
手順も何もねえよ。生徒と教師で終わりだ。喉まで出かかった言
葉を涼は辛うじて飲み込んだ。琴音は天下のことを気に入っている
ようだし、仮に誰かに見られても﹁琴音という共通の友人がいる﹂
で言い訳は立つ。
なんか最近危機察知能力が低下しているような気もしなくもない
が、問題は見当たらなかった。あくまでも、交換条件ということに
しておけばいい。
﹁まあ、考えておくよ﹂
﹁約束だからな﹂
目を輝かせる天下の顔が直視できなかった。なけなしの良心を痛
362
ませている涼を余所に天下は重い腰を上げた。
﹁じゃ、言ってくらあ﹂
立ち上がって何を思ったのか、涼に視線を寄こす。期待に満ちた
その眼差しに耐えきれず、涼は﹁今度は何だ﹂と訊ねた。
﹁今日、俺の誕生日なんだけど﹂
﹁私からプレゼントなんて期待する方が間違ってる﹂
﹁ンなことはわかってる﹂
それでも天下は涼をじっと見つめている。涼は最大限の譲歩をし
た。厄日か今日は。
﹁⋮⋮お誕生日おめでとう﹂
おざなりな、社交辞令にもなりえない言葉にしかし、天下は頬を
緩ませた。涼の思惑通りに動いている事を知りながら、部屋を出て
いく足取りも軽かった。
逆に、一人準備室に取り残された涼の胸は重かった。誕生日すな
らち喜ぶべきものと信じて疑わない呑気さが少し、腹立たしい。
ほれみろ。涼は優越感とも劣等感ともどちらともとれない感情を
抱いた。全国模試三十四位でさえ知らないことだってあるのだ。思
い至らないのだろう。天下にとって十八歳になるということは新し
い世界が広がることなのだ。しかし涼は違った。
涼にとっての十八は、児童養護施設を出ていく歳だ。たった一人
で社会に放り出される歳だった。
363
︵その十四︶時には譲歩も必要です。︵後書き︶
ようやく一章終了です。このペースだと完結するのいつなのでし
ょう? 当人にもわかりません。
またまた長期︵約一ヶ月︶更新停止の後、リクエストいただきま
した番外編を公開。そして二章突入⋮⋮する予定です︵予定は未定︶
。カタツムリ更新ですみません。
364
︻番外編︼恋せよ大人、それなりに︵そのいち︶︵前書き︶
アンケート一位﹃そういえば修学旅行はどうなった?﹄
大変大変大変遅くなりましたが、更新を開始致します。とはいえ、
カタツムリ更新ですので気長にお待ちくださいませ。
365
︻番外編︼恋せよ大人、それなりに︵そのいち︶
二日目までは良かったのだ。
初日は他学科とは別行動で異人館の見学。西洋文化を掠めただけ
で音楽にどう影響を及ぼすことができるのかは甚だ疑問だが、普通
科と別行動という点に於いては万々歳だった。二日目の有名テーマ
パークの見学だって、まあ悪くはなかった。学校行事特有の制約を
かいくぐり、生徒たちは思い思いに︵班行動など無視して︶楽しん
でいるように見えた。
そして迎えた三日目は、古の都を班別に見学。涼は緊急要因とし
て宿泊先のホテルに待機していた。はぐれたとしても日本語圏内、
高校生ならばケータイで連絡を取り合うなり、道行く人に訊ねるな
り対処の仕様はいくらでもあった。普通科の女子生徒が一人、気分
が悪くなったとかでホテルで休んだ件以外特にトラブルもなく、つ
つがなく終了。ホテルで食事を取り、班ごとに割り振った部屋の鍵
を渡せば、あとは十時に点呼を取るだけだった。そう、ここまでは
良かったのだ。
不穏な空気を感じ取ったのは食事中だった。普通科の教師陣がど
うもよそよそしい、というより怪しかった。始終こちらを伺っては
忍び笑いを漏らす。
涼は箸を揃えて戻した。隣で茶をすすっていた百瀬恵理に何の気
なしに訊ねる。
﹁百瀬先生、何かあったんですかね?﹂
﹁え!?﹂
大仰なリアクション。恵理は激しく首を横に振った。
﹁いえ何でもありません何にもありません! ええ本当にっ!﹂
涼は目を眇めた。絶対何かある。が、生徒たちもいる手前、事を
366
荒立てるのは好ましくない。
﹁先に部屋行きます。二〇九号室ですよね?﹂
﹁え、あ⋮⋮はい﹂
追及は後にしよう。涼は席を立って部屋に向かった。
しかし、この時既に手遅れだったのだ。
涼はだだっ広い部屋の玄関で立ち尽くした。部屋番号を確認。二
〇九号室。渡された鍵と同じだ。だからここは、涼と恵理が泊まる
部屋のはずである。
﹁なんで?﹂
と、ベッドの上でくつろいでいた矢沢遥香が呆然と呟く。
﹁なんで先生がここにくるんですか?﹂
同感だ。涼は遥香の隣に腰掛けている佐久間に冷たい一瞥を寄越
した。食事中に見かけないと思いきや、性懲りもなく。
﹁わ、私は、ここに泊まるようにと言われたんですけど﹂
佐久間はしどろもどろで弁明。スペアキーを証拠として提出して
きた。二〇九。逆さまにしても裏返しても二〇九。この部屋で間違
いはない。
どういうことだろう。
涼は腕を組んで天井を仰いだ。
何故迷惑カップルが自分の泊まるべき部屋を占拠しているのだろ
うか。だいたいどうして京都に来てまでこの連中に振り回されなけ
ればならんのだ。やっぱり神社かなんかでお祓いでもしてもらおう
か。よく考えたらここ本場だしな。
﹁あの⋮⋮リョウ先生?﹂
あーでも、明日は帰るだけだ。お祓いどころか神社仏閣に参拝す
る時間的余裕さえ、あるかどうか怪しい。
367
﹁先生は、どうしてここに?﹂
困惑を露わにする佐久間。その呑気な面に拳を叩き込んでやりた
い衝動を涼は辛うじて押し止めた。何故こんな展開になったのかが
判明しただけに苛立ちはひとしおだった。
︵⋮⋮ハメられた︶
つまりは、そういうことだった。おそらく教師陣に悪意はない。
面白がってはいただろうが、あくまでも善意でやったことなのだろ
う。職場恋愛にもかかわらず担当する教科が全く違うために普段接
点を持たないカップル︱︱誰と誰のことだかはあえて言いたくはな
かった。屈辱的にも程がある︱︱に、修学旅行先でのちょっとした
サプライズ。題をつけるならさしずめ﹁あらびっくり、最終日にら
ぶらぶ同室大作戦﹂といったところだろう。
﹁あの⋮⋮﹂
まだ何事かをほざこうとする佐久間の顔面に涼は枕を投げつけた。
﹁すみませんが、しばらく口を開かないでいただけませんか? 今、
あなたの声ほど私を不快にさせるものはないので﹂
﹁ちょっと何よ、それ!﹂
﹁うるさいやかましいとにかく喋るな﹂
いきり立った遙香をも黙らせてから涼は部屋を見渡し︱︱ツイン
のベッドが完全にくっついているのが視界に入るなり、とてつもな
い脱力感に襲われた。
小さな親切、大きな迷惑。
︵最悪だ︶
涼は深々と、三日間で一番大きくため息を吐いた。
368
︻番外編︼恋せよ大人、それなりに︵そのに︶
普段の職場である学校を離れ、生徒達や一部の教師陣が羽目を外
していても、あの人は全く変わらない。黒のスーツにネクタイ。い
つもの教師スタイル。そういや私服姿を見たことねえな、と今更な
がら気づく。スカートもだ。惜しいと思うのと同時に実にあの人ら
しいとも思った。
渡辺リョウ先生もとい渡辺涼の第一印象を端的に表すのなら﹁性
を感じさせない﹂だ。
男性的な乱暴さがなく、かといって女性的な感受性にも乏しい。
化粧っ気のない顔。おそらく一度も染めたことのないであろう黒髪。
当たり前のように毎日身にまとうパンツスーツ。事務的に、ひたす
らに淡々と授業を行う様は、やる気がないと言うよりも、機械的と
言った方が適当かもしれない。
券売機の音声ガイドに愛想がないのと同じことだ。悪意があるわ
けでも怠惰なわけでもなく、ただそういう風にできているだけのこ
と。悪いことではない。社会という共同体の中では生きにくい性格
だとは思うが。
音楽科の一教師に意識を向けた発端は、そんな程度の興味からだ
ろう。
しかし、注視すればおのずと見えてくるものがある。早朝から授
業のリハーサルを行う丁寧さだとか。それでも本番にはあんちょこ
ノートに目をやってしまう自信の無さだとか。厳重に管理している
はずのスタンウェイのピアノを使っての練習中、不意に人差し指だ
けで適当に曲︵しかも、なんのオペラかと思ってよくよく聴いてみ
れば﹃刑事コロンボ﹄のテーマだ。気づいた時には吹き出しそうに
なった︶を弾く遊び心とか。
鉄面皮から時折零れ落ちる﹁女性らしさ﹂の一つ一つが、たまら
369
なかった。
渡辺涼自身が自分の女性性に気づいていないことが、さらなる拍
車をかけた。悪く言えば油断しているのだ。自分が異性にそういう
対象として見られることはないと決めつけている。
だから生徒から好かれるなんて夢にも思っていない。実際に告白
されても本気だと思わない。同情だけで、告白した生徒を慰めるよ
うな真似ができるのだ。
︵甘いんだよ、先生︶
知らないだろうが、あんたは自分が思っている以上に女で、子供
としか思っていない﹁可愛い生徒﹂は、それでも男なんだ。六年上
の教師にだって一丁前に想いを寄せる男なんだ。頼むから気づけよ、
いい加減。
人気のないロビーで、置き去りにされたガキみたいにソファーに
座るな。取り繕っているつもりだろうが、気落ちしているのが顔に
出てる。いかにも何かありましたってのがバレバレだ。隙を見せる
な。
︵俺はちゃんと言ったからな︶
警告はした。覚悟しろとの意味合いも込めて﹁逃げんなよ﹂とも
言った。なのにたった二日間、普通科と音楽科で全く行動が違った
からといって油断するなんて、不注意にも程がある。ちゃんと警戒
しろよ。こっちはずっと隙を伺ってんだ。付け込まれるぞ。
︵あんたが悪い︶
責任転嫁をしつつ、元﹁可愛い生徒﹂もとい鬼島天下は渡辺涼の
隣に腰を下ろした。
370
︻番外編︼恋せよ大人、それなりに︵そのさん︶
怒りを通り越してしまえば胸を占めるのは、空虚ともつかない疲
労感だった。とにかく、疲れた。涼はロビーにあるソファーの一つ
に腰を下ろした。落とすようにボストンバッグを足元に置く。修学
旅行の引率でさえなければ人目をはばからず舌打ちの一つでもした
いところだった。
まさかの最終日前日で宿なし。笑ってしまうような展開だった。
オペラに負けるとも劣らない奇想天外な状況に、涼は考えることを
放棄した。
とりあえず、読み終わっていない音楽雑誌を開いた。現実逃避だ。
わかっていても、現実と向き合う気力が今の涼にはなかった。教師
が敵前逃亡して何が悪い。
不穏な気配を感じ取ったのは、今月号の目玉である鬼才ピアニス
ト吉良醒時のインタビュー記事にさしかかった時だった。
﹁誰がいつそこに座っていいと許可した﹂
涼は﹃オーディオ芸術﹄にかじりついたまま言った。すかさず返
ってくる低めの声。
﹁誰がいつここは先生の専用椅子だと決めたんですか?﹂
顔を覆っていた雑誌から僅かに盗み見れば案の定、鬼島天下が隣
を陣取っていた。私服姿を見るのは﹃カルメン﹄以来だ。しかしど
うしてロビーなんぞに、と眉を寄せ、自由行動の時間だったと思い
出す。
﹁土産でも物色しなさい﹂
﹁誰に買うんだよ。親父か、弟か? まさかお袋とか言うんじゃね
えだろうな﹂
ごもっとも。高校生が買う土産は大半が家族へのものだ。つまり、
一人暮らしでしかも存在そのものがないかのごとく扱われている天
371
下は、買っても渡す相手がいない。
自分と同じように︱︱浮かんだ考えに涼は吐き気を覚えた。どう
してそんな発想ができるのだろう、我ながら不思議だ。
﹁⋮⋮最悪だ﹂
﹁そうでもねえよ。少なくとも俺にとってはな﹂
涼が最悪だと言ったのは、この状況ではなく自分の性根なのだが、
天下は前者と解釈したようだ。訂正する必要性は感じなかった。勝
手に迷惑がられてると思えばいい。ついでにこんな性悪教師のこと
なんか嫌いになればいい。
自虐的な考えになってしまうのは、たぶんこの状況のせいだろう。
生徒と恋したわけでもなく、ただ毎日それなりに一生懸命教師の仕
事をしている自分が、部屋を出る羽目になっている。今晩泊まる場
所がない。何かを怠ったわけでも、過ちを犯したわけでもないのに。
誰もが当たり前に持っているはずのものがない。今に始まった理
不尽さではなかった。だからこそ余計に思う。どうして自分が、と。
悶々とした思いを抱えて黙ること数分。天下は涼の顔を覗き込ん
できた。
﹁何かあったのか?﹂
彼が指差したのは足元に置いた涼のボストンバッグだった。本来
は自室に置いておくはずのものだ。否応なく突きつけられた自分の
状況に、涼は頭に血が上るのを感じた。気恥ずかしさだとか、悔し
さだとかが混ざり合い一気に押し寄せてくる。
﹁君には関係ない﹂
自分でも驚くほど険のある声が口をついて出た。
﹁生憎だけど、私は君の境遇に同情し続けていられるほど優しくも
なければ暇でもない。他に用がないのなら自分の部屋に戻りなさい﹂
372
︻番外編︼恋せよ大人、それなりに︵そのよん︶
やつあたりだ。涼はもう天下を直視する気概すら持てなくなった。
高校生相手にムキになるなんて、佐久間と大して変わらないではな
いか。
苛立つか、傷つくか、それとも呆れるか。涼の予想を裏切って、
天下は冷静に訊いてきた。
﹁またあいつらがなんかしたのか?﹂
したとも。修学旅行先で教師と生徒が二人きりで個室で逢引。そ
のせいで自分はこうしてロビーで今夜の寝る場所の心配をしている。
くだらなさ過ぎて笑い出しそうになった。
﹁あんたさ、﹂
﹁君には関係ない。さっさと土産屋でも部屋でも行け﹂
音楽誌を再び開いて、会話の終了を示す。天下の大きなため息が
耳についた。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮阿呆か﹂
捨て台詞を最後に天下は去った。
残された涼は一人になった。先ほどまでと同じように。ただ、苛
立ちと虚しさは募るばかりだった。
天下の言う通り、阿呆なのだ。あの馬鹿ップルも、そして自分も。
︵くだらない︶
いっそ何もかも投げ出して帰ってしまおうか。自暴自棄に陥りな
がら、かといって実行に移す度量もなく、涼はひたすら音楽誌を読
み進めた。
誰かに指摘されるまでもなく、涼自身が一番理解していた。これ
は、間違いなく現実逃避だった。
一通りの記事を読み終えて企業広告のページの隅まで読み込んで
も涼はその場から立ち上がることができなかった。
373
﹁先生﹂
顔を上げなくてもわかる。この声は天下だった。諦めたと思った
らまた性懲りもなく。
﹁まだここにいたんですか?﹂
余計なお世話だ。
﹁土産物屋はどうした﹂
﹁もう行ってきました﹂
天下はスマホを取り出した。結えてある黒い御守りが揺れる。﹁
学業﹂かと思いきや予想を外れて﹁芸術才智﹂の御守り。天下のイ
メージにそぐわないご利益だった。しかし涼には関係のないことだ
った。
﹁じゃあ部屋に戻りなさい﹂
﹁その言葉、そっくりそのまま先生にお返しします﹂
ベッドが二つしかない上に、馬鹿ップル一組が占拠している部屋
に帰れとのたまう天下に、涼の怒りの臨界点が超えた。
﹁だから⋮⋮っ!﹂
いきり立つ涼の前に天下は鍵を突きつけた。部屋番号入りの鍵だ
った。
﹁な、なんで﹂
﹁部屋まで送りますから﹂
有無を言わせず天下は涼のボストンバッグを掴むと軽々と持ち上
げた。すたすたとエレベーターへと向かう。
﹁ちょっと待て、なんで﹂
涼は雑誌を閉じて慌てて天下の後を追った。既に天下は二階行き
のボタン押していた。
﹁鬼島﹂
促すように名を呼べば、剣呑な眼差しを向けられた︱︱違う。天
下に刺々しさはなかった。呆れているような、それでいて仕方ない
と許しているような目だった。
﹁何ですか?﹂
374
﹁いや、だからどうして君が部屋の鍵を持っているんだ﹂
﹁預かりました﹂
問い詰める前に二階に到着。天下は涼に先を促し、ボストンバッ
グを片手に部屋へと足を運んだ。懐かしの二〇九号室。鍵を開けて、
中に荷物を運ぶ。部屋を見回しても二人の姿はなかった。佐久間の
バッグがベッドの脇に鎮座しているだけ。
﹁ここで押し倒したら、送り狼になるんですかね?﹂
﹁ふざけてないで、説明しなさい。これは一体どういうことだ﹂
天下はもう片方のベッドの脇にしゃがみ込み、ゆっくりと涼のボ
ストンバッグを床に下ろした。その姿勢のまま動かない。
﹁佐久間先生は?﹂
深々と、これ見よがしに天下はため息をついた。
﹁そんなに気になりますか?﹂
﹁何が﹂
﹁佐久間﹂
﹁先生を付けろ。あれでも教師だ﹂
不意に天下は立ち上がった。涼は自分の身体が一瞬、硬直したの
がわかった。竦み上がったのだ。個室に男子生徒と二人きり。馬鹿
ップルと大して変わらない状況だ。警戒度を上昇させた涼に対し、
天下は肩を竦めた。
﹁今夜の見回りの件で指示を仰ぐため、学年主任の所にいますよ﹂
﹁見回り?﹂
﹁抜き打ちの部屋チェック﹂
涼は首をひねった。そんな話は聞いていない。普通科だけ実施す
るのだろうか。
﹁その話はどこから?﹂
﹁四組の連中が噂していた﹂天下は片頬を歪めた﹁って俺はクラス
の女子に言った﹂
天下は笑っていた。悪戯を成功させた子供のようだった。
﹁まさか、デマを流したのか?﹂
375
﹁俺は﹃最終日だから気が緩んでいる時に抜き打ちチェックをやっ
てもおかしくない﹄と言っただけだ。女子がロクに確認もしないで
クラス中に一斉メールしようが、学年中に広まろうが、矢沢まで噂
が届いて慌てて自分の部屋に戻ろうが、佐久間が噂の真偽を確かめ
に部屋を出ようが、俺には関係ねえ﹂
よくもぬけぬけと。そうなると見越して行動した結果がこの状況
ではないか。
﹁部屋の鍵は?﹂
﹁矢沢から預かった。佐久間の名前を出せばあっさり渡したな﹂
涼は脱力のあまりその場に崩れ落ちそうになった。もはや﹁佐久
間﹃先生﹄と呼びなさい﹂と天下を諭す気にもならない。今回の場
合、騙された方にも責任がある。
﹁先生﹂いつの間にか天下は涼の目の前に立っていた﹁これで二人
っきりですね﹂
涼は持っていた音楽誌で天下の頭をはたいた。
﹁あの二人と同じ轍を踏む気か﹂
﹁それはさすがに俺も勘弁だな﹂
あっさりと天下は引き下がった。涼が拍子抜けするほど、簡単に。
猛獣を彷彿とさせるあの凶悪な笑顔はどこかへ行ってしまったよう
だ。喜ぶべきことだ。しかし安堵よりも違和感が先行した。
﹁先生、おせっかいついでに一つだけ言わせてくれ﹂
天下は佐久間のカバンを持ち上げた。
﹁俺を拒む気概があるなら、あの二人にだって強く出られるはずだ
ろ。教師と生徒の恋愛に反対ならなおさらだ。自分が部屋を出るく
らいならあの二人を追い出せばいい。簡単に折れるなよ﹂
なんでそこまで君に言われなければならない。平時ならすぐに出
てくるであろう反論は、涼の喉の奥に押し込まれたままだった。非
常に不本意だが、自分は今日、この男子生徒に助けられたのだ。い
ささか強引な手段だが、天下のおかげで宿を確保できたのだ。その
程度の自覚はあった。
376
﹁俺は部屋に戻る。ここに居座ったりはしねえ︱︱今日のところは、
な﹂
最後に付け足された言葉の意味を理解することを涼は放棄した。
非常に危険な予感がしたからだ。
﹁だから先生も、誰も部屋に入れんな。つけ込む隙を作るな﹂
佐久間の荷物一式を部屋の外に放り出し、天下は扉から顔を出し
た。
﹁戸締りはちゃんとしてくださいね﹂
似非優等生顔でそう言い残し退室。予告通りだ。居座ることはお
ろかこれ幸いに迫ってくることもなかった。
しかし最後の言葉が解せない。戸締りも何もホテルの個室は基本
的にオートロック。それがわからない天下ではあるまいし︱︱涼は
考えた。拒む。追い出す。佐久間のバッグをわざわざ部屋の外へと
持っていった天下。鍵。戸締り。
︵あ、そうか︶
涼は扉のチェーンキーを掛けた。
確証はないが、つまりこういうことなのだろう。
一つ伸びをしてベッドに倒れ込む。スプリングのきいたふかふか
ベッド。修学旅行最終夜なだけあって今までで一番豪華な部屋だっ
た。それを一人で独占。悪い気はしなかった。
部屋に備え付けのバスタブにお湯を張り、ゆっくり浸かって、疲
れを癒した。まったりとTVを見たり、音楽を聴きつつ柿の種をか
じり、溜めていた本の消化につとめた。
時折、控えめなノックの音だとか鍵を開けようとする音だとか、
ケータイに着信が入っていたりとか、些細な妨害があったが、全て
黙殺。
ひとしきり一人部屋を堪能し、涼はベッドに潜り込んだ。
︵⋮⋮あ︶
睡魔に身をまかせる間際に思い出した。とても大切なこと。
︵天下に礼を言ってない︶
377
︻番外編︼恋せよ大人、それなりに︵そのご︶
帰りの新幹線は至って平和だった。普通科と音楽科で車輌が明確
に分かれているため天下はおろか佐久間と顔を合わせることもなか
った。
﹁私はこれでも反対したんですよ?﹂
言い訳と共に差し出したのは、旅行定番のお菓子︱︱ポッキーだ
った。
﹁佐久間先生は知りませんけど、渡辺先生は真面目な方なのでそう
いうのは嫌いです、って。でも学年主任が賛成したらどうしようも
ないじゃないですか﹂
賛成したのか、学年主任。生徒には節度ある行動を求めておきな
がら、教師がはっちゃけていては話にならない。涼は日本の未来に
絶望した。
﹁せめて音楽科主任がいらっしゃれば押し切られたりはしなかった
でしょうが﹂
あいにく主任は学校で留守番だ。しかし仮に音楽科主任がいたと
してもあの事態が防げたかどうかはわからない。学年主任の意図を
既に涼は察していた。印象付けさせたかったのだろう。佐久間が交
際しているのは渡辺だと。身勝手さもここまでくればいっそ清々し
い。
﹁迷惑な話ですよねえ。渡辺先生にしてみれば巻き込まれただけで
すもの﹂
まったくだ。どこぞの馬鹿ップルが自重しないせいで︱︱ポッキ
ーをかじり、涼は固まった。
﹁⋮⋮え?﹂
涼は隣に座る同僚の顔を見た。
﹁どうして﹂
378
﹁そりゃあわかりますよ。佐久間先生が音楽科準備室に来るたびに
渡辺先生、すっごく嫌そうな顔してますもの。大方、佐久間先生の
都合で仕方なく付き合っているだけなんでしょう?﹂
大正解。さすがに矢沢遙香のことまでは突き止めていないようだ
が。
﹁それに仕事とはいえ、京都まで来てお揃いの御守り一つも買わな
いなんて﹂
﹁怪しいですか﹂
﹁怪しさ爆発ですね﹂
涼は座席シートに身を沈めた。三ヶ月の自分の努力は一体なんだ
ったんだろう。
﹁難しいですね﹂
﹁というより、渡辺先生には向いてませんよ。御守りを買うってい
う発想自体なかったでしょう?﹂
二本目のポッキーをかじった状態で、頷く。神様なんて信じては
いないが、参拝した神社でもひたすらこの縁が切れることだけを祈
った。縁結びの御守りなんて考えつくはずもない。
﹁渡辺先生は﹃芸術才智﹄がぴったりです。あんな阿呆な方々に付
き合あって﹃縁結﹄を付けることなんてありません﹂
科が違うとはいえ上司と同僚を阿呆呼ばわり。よほど嫌いなのだ
ろう。恵理の笑顔に悪意を見い出してしまった涼は、とりあえずポ
ッキーをかじることに専念した。
﹁芸術才智?﹂
﹁行きには付いてなかっですよね?﹂
恵理が指差した先は涼の足元にあるボストンバッグ。持ち手部分
の金具にそれはぶら下がっていた。
﹁気づいていなかったんですか?﹂
ええ、全く。小指サイズの小さな御守りを涼はつまんだ。桜色の
生地に金糸で﹁芸術才智守護﹂と刺繍が施されていた。模様の白桜
といい、明らかに女性向けの御守りだ。
379
﹁え⋮⋮いつの間にかついてたんですか?﹂
﹁いや、覚えは、なくも、ない、です﹂
心当たりは、あった。
同じデザインの色違いを持っていた。部屋に荷物を運んだ時、し
ばらくしゃがみ込んでいた。その後はやけにあっさりと引き下がっ
たと思いきや、こんなことをしていたのか。
︵縁結びじゃないだけマシか︶
たぶん天下も涼の性格を見越して﹃芸術才智守護﹄を選んだのだ
ろう。
涼は再びシートに背中を預けた。そういえば、まだ礼を言ってい
ていない。いつ言おう。新幹線から降りて解散した後か。その際に
断りもなく付けられていた御守りの礼も言うべきなのだろうかと疑
問が浮かぶ。
幸いなことに帰りの新幹線内もすこぶる快適で、考える時間的余
裕はたっぷりとあった。
380
二限目︵その一︶お久しぶりなのです
只今電話に出ることができません。ピーという音が鳴りましたら、
お名前とご用件をお話しください。
﹃やっほー。涼ちゃん元気?﹄
うららかな日曜日の昼下がりをぶち壊す声に、涼は皿をゆすいで
いた手を止めた。着歴を見るまでもない。この底無しに明るい声の
心当たりはたった一人。
﹃いるんでしょ? 電話出てよ﹄
三月に電話して以来だから、かれこれ二ヶ月近く会話していない。
特に用もなかったから。
﹃すーずーちゃん﹄
間延びした呼び方をするな。文句は内心に留めて涼は洗い物を再
開した。
﹃居留守はないでしょー﹄
正確に言えば居留守ではない。只今電話に出ることができないだ
けだ。
﹃リョウちゃーん、渡辺リョウせん、﹄
ブツッ。
小馬鹿にした呼称を言っている真っ最中に容赦なく録音は終了し
た。余韻代わりにプー、プー、プー、となんとも間の抜けた音││
を、打ち消すかのように間髪入れず再びコール音。無視を決め込ん
でいたら、これもまた留守電に切り替わる。
﹃ちょっと! 録音時間が短いじゃないっ!﹄
381
﹁いや私に言われても﹂
すすいだ皿は他の食器と一緒に自然乾燥を待つ。ついでに布巾も
洗っておこうかとのんきに考えていると、琴音の方も何か企んだよ
うだ。
﹃いーわよ。涼がそのつもりならこっちだって考えってもんがある
わ﹄
﹁あーはいはい﹂
﹃歌ってやるわ。熱唱してやる。院生の実力ナメないでよ。教授に
だってこの前﹁感情表現が豊かだ﹂って誉められたんだから﹄
﹁ふーん﹂
﹃聞いて驚きなさい。﹁魔笛﹂よ、しかも夜の女王﹄
﹁げ⋮⋮っ!﹂
涼は思わず喉を潰したような声を上げた。
モーツァルト作曲﹃魔笛﹄、しかも夜の女王。甲高い声が紡ぐド
イツ語のアリアはあまりにも有名で、それはもう⋮⋮ホールで聴く
なら魅力的だが、近くで聞いたら耳を塞ぎたくなるようなシロモノ
だ。なにぶん高音域のアリアなのだ。
手早く洗い物を終えて渋々受話器を持ち上げる。
﹁やめてそれだけは﹂
﹃あ、やっぱりいた﹄
榊琴音は責め口調だった。
﹃なんで出なかったのよ﹄
﹁どうして電話してくるんだ﹂
電話の向こうで琴音が鼻白んだのが、気配でわかった。
﹃どうしてって⋮⋮涼に用があるからに決まってるじゃない﹄
﹁しかし私は君に用はなかった。だから出なかった﹂
﹃冷たいわね。それが親友に言う台詞?﹄
﹁私の薄情さを責める前に、用件を切り出すべきだと思うよ﹂
否定するのも億劫なので、涼は話を促した。
﹃用件は単純明快。今から遊びに行ってもいいかなってこと﹄
382
別に、急いでやらなければならない仕事があるわけではない。合
唱部の練習だってない。月曜からの授業の準備も終わっている。特
に予定のない、久しぶりの休日││とくれば涼の返答は決まってい
る。
﹁よくない﹂
﹃なんでよ。どうせ暇なんでしょ﹄
﹁煩わしいのは平日だけで十分だ﹂
﹃あら涼ちゃん、良かったわねー、相手が私で。普通の人だったら
今の発言で友人やめるわよ﹄
言外に邪魔だと告げられてもめげない辺り、琴音もふてぶてしい。
どうして自分の周りはこういう人間ばっかりなのだろう、と内心呟
いてから、涼は気づいた。なんのことはない。琴音のように図太い
人間でなければ、自分とは付き合えないからだ。
﹃それにね、涼ちゃん﹄
タイミングを見計らったかのように軽やかなインターホンが鳴っ
た。
﹁悪い、﹂
来客を理由に切電しようとした涼の耳に、わざとらしく甘えた声
が囁いた。
﹃もう来ちゃった﹄
涼は何も言わずに受話器を叩きつけた。少しでもいい、電話の向
こう側にいる││いや、今は扉の向こう側にいる琴音に一矢報いる
ことができればそれでよかった。耳に悪いだの知ったことか。
執拗に鳴り続けるインターホンに、涼は頭を抱えたくなった。
そして諦めて開けた扉の外で待っていたのが琴音一人ではなかっ
たことに、本当に頭を抱える羽目になった。
383
二限目︵その一︶お久しぶりなのです︵後書き︶
大変お久しぶりでございます。色々諸事情が重なりまして約三ヶ
月半放置。いやはや申し訳ないの一言につきます。
更新頻度は相変わらずではありますが、何はともあれまずは本編。
次に本編。とにかく本編を進めよう、ということで、とりあえず二
章です。
番外編は章終了毎に更新予定です。
384
︵その二︶でも変わってないのです
﹁お久しぶりです、先生﹂
鬼島天下は優等生スマイルを炸裂させて挨拶した。いや、昨日会
ったばっかりだし、ここは学校じゃないし私の家だし、その前に実
家はどうした君は昨日強制的に里帰りさせたはずだろ弟はどこいっ
た。指摘すべき点が頭の中を右から左へとよぎった。
﹁まあまあ積もる話は中でね﹂
硬直していた涼の脇を至極自然な動作で琴音が横切る。
﹁狭くてピアノ一つない部屋だけど、くつろいでちょうだい。来客
もないからスリッパもないのよ。ごめんなさいね。友達少ないから﹂
勝手知ったる我が家のごとく琴音は中へ踏み込み、天下に勧めた。
天下も天下で﹁あ、お邪魔します﹂とか行儀良く言いながらも上が
り込む。
﹁先生、扉閉めますよ﹂
涼は腕を引かれるまま自宅へ戻った。パタンと扉が閉まり、靴を
脱いだ天下がリビングまでずかずかと進み、ちゃぶ台の前に座る。
﹁ほら涼も突っ立ってないで座って座って﹂
いつの間にか台所で茶を淹れた琴音が、三人分の湯呑みをちゃぶ
台に置いた。涼は促されるまま天下の隣に腰を下ろし、茶を一すす
り。
﹁ちょっと待て﹂
涼は湯呑みを置いた。
﹁なんで休日に二人揃って我が家に押し掛けてくるんだ﹂
﹁暇だから﹂
﹁約束しましたから﹂
すかさず琴音と天下が返答。二人揃って茶をすすり、まったりと
くつろいだ。平穏な空気がこちらにまで漂ってきて流される。とも
385
すれば、お茶請けのせんべいをかじりそうになって、涼は我に返っ
た。
﹁だからって昨日の今日で来るか普通? 相手の都合ってものを考
えろ﹂
﹁先生の都合に付き合ってたら百年経っても家には行けません﹂
天下は見透かしたように目を眇めた。
﹁どうせ教師としての立場だの体面だの、いろいろ理屈こねあわせ
て断るに決まってますから﹂
傍らの琴音がしきりに頷く。
﹁涼ちゃん、生徒との約束は守らなきゃ駄目よ﹂
﹁誰も守らないとは言ってない。私は﹃考える﹄と言ったんだ﹂
﹁やっぱりそうじゃねーか。どうせ明日俺が話を切り出したら﹃考
えた結果やっぱ無理﹄とか言って断んだろ。見え見えなんだよ﹂
早々に優等生口調をかなぐり捨てて天下は悪態をついた。
﹁ほら見なさい。涼ちゃんのせいで、生徒が人間不信に陥った﹂
﹁なんで最終的に私が悪いことになるんだ﹂
涼は呟き、不意に手元の湯呑みを覗き込んだ。薄緑の鮮やかな色
合い、豊潤な薫り。間違いない。戸棚の奥にしまっておいた銘茶だ。
修学旅行の際に奮発して買った、百グラム千円の。
﹁へえ、涼にしてはまあまあ良いお茶持ってるじゃない﹂
勝手に淹れた上、神経を逆撫でする発言をかました張本人に、涼
はとりあえず拳骨を一発喰らわせた。
﹁あんたらは一体何しに来たんだっ!?﹂
386
︵その三︶お構いなく、は社交辞令です
涙目で頭を押さえる琴音と、せんべいをかじっている天下は一様
にキョトンとした。
﹁﹁何って⋮⋮﹂﹂
これまた二人揃って困惑気味に顔を見合わせる。
﹁初めてのお宅訪問﹂
﹁その付き添い﹂
涼は怒る気さえ湧かなくなった。堂々巡りだ。元より、一対二で
は分が悪い。
﹁先生、大丈夫か?﹂
頭痛の種に心配され、あまつさえ肩を軽く叩かれる。いつになく
馴れ馴れしい仕草に対しても、曲がりなりにも一度約束してしまっ
た手前、涼は文句を言えなかった。
﹁で、結局昨日はどうしたんだ﹂
﹁約束通り帰った。いたのは二、三時間くらいだが食事もしたし、
思い出話もした。それなりに親睦は深めたんじゃねえのか?﹂
やや投げやりに言ってから、天下は何気なく付け足した。
﹁毎週日曜は向こうに泊まることになった。月曜の朝は自主練して
っから﹂
涼は軽く目を見張った。学校に徒歩で通える距離に位置する実家
から通った方が便利なのは間違いない。合理的で非常に天下らしい
﹃名目﹄と言えた。全く交流のなかった三年を思えば、画期的な進
歩であることに変わりはない。
﹁それは、﹂
良かったな。
反射的に口にしかけた言葉が止まった。果たしてこれは天下にと
って良いことなのか、涼には判断がつかなかった。天下は気ままな
387
一人暮らしをそれなりに楽しんでいるようにも見えた。もともと自
立心のある学生だ。ある程度ならば自分の面倒を自分でみることの
できる人間ならば、家族との同棲なんて煩わしいだけなのかも知れ
ない。
﹁⋮⋮お疲れ様﹂
﹁大したことねえよ﹂
天下はせんべいのかけらを口の中に放り込んだ。咀嚼すること僅
か。不意に、思いついたように言った。
﹁一年の音楽の授業は月曜だったよな?﹂
﹁月曜の三、四限だ﹂
﹁ん。ならいい﹂
天下はこくんと頷いた。どことなく満足げな表情だった。
﹁それがどうかしたか?﹂
﹁いや、別に﹂
明らかに何かありそうな様子を感じ取っていても、本人に否定さ
れてしまえばそれ以上の追及はできなかった。傍から生温かい視線
を送ってくる琴音に不快感を覚えていても、だ。
﹁どうせなら今日も家族団欒すればいいものを﹂
﹁冗談だろ。息が詰まる﹂
煩わしそうに首の後ろに手をやる天下。その態度も涼の気に障っ
た。
﹁猫かぶりはお得意だろ? 似非優等生﹂
言ってしまってから険があると思った。いきなり押し掛けられた
ことを差し引いても今のは失言だった。天下が軽く目を見張り、勝
手に音楽雑誌を読んでいた琴音も顔を上げる。涼は二人と顔を合わ
せることができなかった。
いつになく神経質になっている自分を涼は自覚した。その原因が
本当にしょうもないことであることも。我ながら理不尽だ。よりに
もよって何も知らない、無関係な天下に八つ当たりするなんて。
﹁得意ですよ﹂
388
軽く笑みさえ含んで天下は涼の顔を覗き込んできた。
﹁でも落ち着かねえんだ。先生と一緒の時とは違って﹂
大人顔負けの穏やかな表情を浮かべる天下に、涼は途方に暮れた。
これではまるで自分が駄々をこねているみたいではないか。事実、
子供なのは涼の方なのだが。
﹁はい、涼の負けー﹂
﹁だからなんで勝負になっているんだ﹂
琴音の手から音楽雑誌を取り上げて、涼は立ち上がった。
﹁昼飯、もう食べた?﹂
半ば自棄気味に訊ねれば、目に見えて天下は顔を輝かせた。どこ
が大人だ。まだまだ子供じゃないか。
﹁私、鯖寿司がいいな﹂
﹁一人で銀座でも行ってなさい﹂
唇を尖らせる琴音は無視して、台所へ立つ。スパゲッティなら茹
でるだけでいい。軽食程度で十分だと判断し、鍋に水を入れた。
やけに︱︱そう、非常に嬉しそうに待つ天下の方はなるべく見な
いようにした。
389
︵その四︶三人だとよくこうなります
適当に作った昼食を三人でつついて、とりとめのない話を少々︱
︱もっぱら近況報告だ。
天下は元よりお喋り好きというわけではないので、言葉少なでは
あったが、話を振れば英語強化クラスの件や、今月末に行う予定の
球技大会のことをぽつぽつと語った。琴音はしきりに羨ましがり、
高校時代を懐かしがってはいたが、涼はいまいち共感が出来なかっ
た。高校時代の思い出が涼にはあまりなかった。普通に学校に通っ
て、授業を受けて、放課後は音楽室でピアノを弾いたり、一人歌の
練習していた。単調な生活の繰り返しだ。修学旅行も体育祭も文化
祭も、涼にとってはただの面倒なイベントだった。記憶になんぞ残
るわけがない。
︵何考えてたっけ︶
当時の自分が思い出せない。そもそも覚えていないのだから当然
と言えば当然ではあったが。同じように高校生という時代を過ごし
たはずなのに涼だけ希薄だった。そこに言いようのない隔たりを感
じずにはいられなかった。
琴音の話題は主に教授の供として一ヶ月近くイタリアに滞在して
いたこと。土産のパルメザンチーズの塊を涼に渡しつつ、スカラ座
の素晴らしさについて力説した。どうやら帰国の報告ついでに、わ
ざわざ天下にメールを寄こして誘ったらしい。無論、渡りに船の状
況に乗らない天下ではない。
﹁いつの間にそんな仲良くなっていたんだ﹂
呆れ口調で呟けば、琴音は意地悪く微笑んだ。
﹁あら、焼きもち? 涼も意地張らないでメルアド交換すればいい
じゃない﹂
﹁仲が良いのはいいことだ。どうかそのまま続けてください、二人
390
で勝手に﹂
実際、天下と琴音は友好な関係を築いているように見えた。二人
で連絡を取り合って計画を立てて、最寄駅で待ち合わせして、涼の
家に押し掛けてきた。茶を飲みながら、高校生活という共通の話題
で盛り上がる。傍から見て仲が良いのはどちらか。考えるまでもな
かった。きっかけは共通の知人︱︱涼かもしれないが、今は天下と
琴音だけで十分成り立っていた。
そう、仮に今ここで、自分が席を立って離れたとしても、なんら
支障のないくらい。
︵馬鹿馬鹿しい︶
涼は脳裏に浮かんだ負の感情を一蹴した。二人が仲良くしている
からなんだというのだ。今日のように共謀されるのは正直困るが、
それ以外の点においては自分が関知することではなかった。
気を取り直すつもりで食べ終わった皿を重ねた。当然の如く手を
貸そうとする天下にそのまま座っているように促す。
﹁食うだけ食って放置、ってわけにもいかねえだろ﹂
﹁だからって私が出したものを片付けさせるわけにもいかないでし
ょうが。客らしく寛いでなさい﹂
やんわりと断わって、台所へ食器を運ぶ。なおも釈然としない天
下に、涼は台布巾を絞って渡した。急に押し掛けてきた上にご馳走
になった負い目を拭う程度の手伝いは、させてやる。何よりも、こ
ちらの個人的事情により、天下を台所に立ち入らせたくはなかった。
涼の思惑通り、手持無沙汰にならずに済んだ天下はちゃぶ台を拭
き始めた。琴音も空になったせんべいの袋を捨てたりとささやかに
手伝う。
不意に、涼はスポンジを泡立てる手を止めた。﹁この雑誌は⋮⋮﹂
﹁あ、それ、このラックに入れとけばいいから﹂﹁そうですか﹂他
愛のない会話を交わしつつ片付けをする二人がいるリビングと台所
が酷く遠く感じた。
391
︵その五︶思い描けることなら叶えられます
﹁あんまり褒められた態度じゃないわね﹂
と、琴音が柔らかく苦言を口にしたのは、天下が帰った後だった。
解説書に目をやったまま涼は﹁何が﹂と気のない返事をした。
﹁突如襲撃してきた連中に茶を出してスパゲッティをご馳走してや
ったこと?﹂
﹁違うわよ﹂
﹁調子に乗った生徒が帰り際に﹃また来ます﹄なんて言うのを容認
しろってことか。残念ながら立場上、それはできない﹂
﹁違うって﹂
﹁君のおかげで私の居住所がバレた。もしかしたら、もう一度引っ
越しをしなければならないかもしれないね。人目を避けて、こそこ
そと﹂
﹁鬼島君はそんな馬鹿なことはしないわよ﹂
薄く浮かべた笑みを琴音はすぐさま引っ込めた。涼が解説書をち
ゃぶ台に叩きつけたからだ。無造作に、しかし明確な意思を込めて。
﹁教師に向かって好きだと言ったり交際迫ったり、休日に家まで押
し掛けてくるのは馬鹿げてないのか﹂
打って変わって神妙な顔になる琴音を、涼は睥睨した。苛立って
いるのは何も天下にだけではない。琴音が、子どもの暴走を止める
立場にあるはずの大人が、一緒になって調子に乗っていることが許
せなかった。
﹁⋮⋮ちょっとはしゃいだのは認めるわ。ごめん﹂
琴音は素直に頭を下げた︱︱が﹁でも﹂と言葉をつづけた。
﹁涼の態度もいけなかったと思うよ﹂
﹁だから私は﹂
﹁立場はわかってるよ。涼が自分の職に対して真剣に向き合ってい
392
ることも、鬼島君のアプローチにほいほい応じられないことも、わ
かってるよ。でも、それにしても酷いと思う。期待させるだけさせ
ておいて、いざとなったら一線を引くなんて﹂
﹁私はちゃんと断っているつもりだけど?﹂
どこぞの身勝手バカップルと同じ轍を踏む気はなかった。だから
天下に何度も何度も、それこそ言っている涼の耳にもタコができる
くらい言った。自分は教師で、彼は生徒。そして生徒は対象外だと。
﹁今日だってあいつを家に上げるつもりなんてなかった。それを邪
魔した張本人がどうして私を責めるんだ﹂
﹁そうね。私が間に入りさえしなければ、今日は絶対に鬼島君を入
れなかったでしょうね﹂
琴音は伏目がちだった顔を上げて真っ直ぐにこちらを見た。
﹁でも来年だったら、どうしてた?﹂
咄嗟に涼は答えることができなかった。それが唐突な質問だった
からか、答えにくい質問だったからか︱︱おそらく両方だ。一ヶ月
先のことすら思いやられるのに、一年先のことなんて、気の遠くな
る遙か彼方。涼にできたことは馬鹿みたいに訊ね返すだけだ。
﹁来年?﹂
﹁今、高校三年生なんですってね。来年の今頃は立派な大学生よ。
もう高校生でもなければ庇護すべき生徒でもなくなる。それで同じ
ようにここにやってきたら、涼はどうするの? もう対象外じゃな
くなるのよ﹂
教師と生徒ではなくなる。考えたこともなかった。いや、あまり
にも当然の結末だと涼が思い込んでいた為に、その先にまで考えが
至らなかった。天下が卒業したら、もう高校に来なくなる。顔を合
わせることもなくなる。自然にこの関係も断ち切られて終わると思
って疑っていなかった。
﹁私が酷いって言ってるのはそういうことよ。自分の立場を盾にし
て、ていよくあしらうことが残酷以外の何だって言うの? 涼がそ
うだから、鬼島君は期待しちゃうんじゃない。実際に生徒と教師じ
393
ゃなくなった時、あなたなんて言うの?﹂
無論、涼の中に応じるという選択肢はなかった。仮に、天下が涼
と同い年で同じ教職に就く者だったとしても変わらないだろう。天
下に落ち度がなくとも、涼にはどうしようもないくらいの負い目が
あるからだ。
仕方のないことだった。天下には曲がりなりにも家族がいて、帰
りを待つ人がいることも、対する涼には何もないことも。仕方のな
いことだと知っていても、虚無感や劣等感は広がるばかりだ。無理
だった。どう考えても。
誰かの唯一になる自分が涼には思い描けなかった。
﹁さあね﹂
涼に限らず教師にとって、卒業は生徒との別れと終わりを意味す
る。だが、天下にとっては違ったのだ。近頃彼の態度が変わってい
たのは受験生になったからでも自分の誕生日が近づいていたからで
もない、短期決戦から長期戦へと切り替えたからだ。
涼は二月の出来事を思い出した。改めて交際の申し込みを断った
時の天下。不敵で少しあくどい笑み︱︱これから勝負を挑むかのよ
うに﹁諦めねえ﹂と言った時の表情を。
あの時から彼は腹を括っていたのかもしれない。
394
︵その六︶つまり、思い描けないことは叶えられないので
す
どれだけ気分が最低でも月曜の朝は平等にやってくる。涼はいつ
も通り五時に起床し、身支度を整えて学校へ向かった。音楽室は既
に朝の練習に励む音楽科の生徒達が占領。涼は教師の特権を最大限
に活用して鑑賞室を貸し切りにした。
ピアノの練習も兼ねて、今日の三、四限で教える予定の歌の予行
を少々。音楽科ならいざ知らず、普通科の生徒に教えるためにわざ
わざ練習までしているのは、涼くらいのものだった。
普通科にとっての音楽は、生活に彩りを添える教養程度に過ぎな
い。適当に、肩の力を抜いてやればいい、と新任の際に音楽科主任
に言われたことが脳裏をよぎった。なるほど音楽科にしてみれば普
通科の授業など﹁お遊び﹂に過ぎないのだろう。一つの見解ではあ
ると涼も思う。
練習を終えたら朝の職員会議に出席。部活勧誘期間の終了等の連
絡事項が少々。中間試験とその後に行う三年生の三者面談。六月の
中旬に行う球技大会。関係あるものからそうでないものまで議題は
多かった。
﹁あの⋮⋮渡辺先生﹂
ようやく解放されて音楽科準備室に戻ろうとしたところで涼は呼
び止められた。
﹁先生のご専門は声楽ですよね?﹂
と、確認するのは体育教師の桜井美幸だった。今年は一年のクラ
スを受け持っていると記憶している。歳は涼より少し上だが、まだ
若手と呼べる部類には入るだろう。女子バスケット部の顧問だけは
あって、すらりと背は高く、引き締まった身体つきをしていた。
﹁ええ、声楽のソプラノですが。それが何か?﹂
﹁ちょっとご相談がありまして⋮⋮﹂
395
美幸は人目を憚るように言葉を濁した。職員室では言いにくい話。
まさかこの人まで生徒と恋愛してんじゃないだろうな、と涼はとん
でもなく失礼な事を一瞬想像した。
﹁今日の二限なら担当授業はありませんが﹂
﹁じゃあ、すみませんが体育準備室まで来てくださいます?﹂
おざなりに﹁すみません﹂と付け足してはいるが、美幸の口ぶり
は相談に乗る側の涼が棟の違う体育館まで足を運ぶのが当然と言わ
んばかりだった。些細なことではあるが、それだけでも涼のやる気
は削がれていた。
﹁わかりました。では、また後で﹂
自分のことですら面倒を見切れないのに、なにゆえ他人の相談に
まで乗らなければならないのか。どいつもこいつも他力本願だ。
音楽科準備室に戻る間に、面倒事のない平穏無事な教師生活を思
い描こうとして︱︱やはりできなかった。夢想することさえ、涼に
はできなかった。
396
︵その七︶多感なお年頃なのです
体育館の隅に位置する準備室に足を踏み入れた瞬間、涼は来る場
所を間違えたことを悟った。
準備室はその科を如実に表す。バスケットボールにテニスラケッ
ト、剥き出しのスコア表にホワイトボード。器具倉庫に近い部屋の
中央には、申し訳程度にテーブルとパイプいすが設置されている。
その、ろくに拭いてもいないテーブルを挟むようにして桜井美幸と
向き合っていた生徒が、振り返った。
勝ち気な瞳とぶつかる。顧問と練習メニューか何かで相談してい
たのだろう。ちょうど桜井美幸と話していたバスケット部部長の石
川香織は、突如乱入してきた涼に対して不快感を露わにしていた。
﹁何かご用ですか?﹂
この様子だと今年はあまり新入部員を獲得できなかったようだ。
もっとも、入学式の後に勧誘活動ができたかできなかったかで部員
数に変動が起きるかは甚だ怪しいところではあるが。
いずれにせよ、涼には関係のないことだった。
﹁お取り込み中でしたら出直しますが?﹂
香織の剣呑な質問は流して、涼は美幸に訊ねた。
﹁大丈夫です。ちょっと待っていただけますか?﹂
何も知らない美幸は快活に答える。そして香織からプリントを受
け取り、
﹁確認しておくわ。ありがとう﹂
と、会話の終了を示した。役目もといこの場に居座る理由を失っ
た香織は、心中はともかく││表面上は大人しく引き下がる。そう
する他ない。
﹁では部活の時に﹂
﹁ええ、よろしく﹂
397
気分を害した部長に気づくこともなく、顧問は見送った。傍から
見れば何の変哲もない日常の一コマ。事情を知っていなければ。
涼は入学式の一件以来、自分が普通科︱︱特に、運動部の生徒に
嫌われていることを知っていた。そもそも普通科にとって、接点が
あまりない上に何をやっているのかよくわからないお坊ちゃんお嬢
様連中がたむろする音楽科は、なんとなく敬遠する科ではあった。
なまじ実情を知らないが故に、外部から講師を呼び、高価な楽器を
使用する音楽科に比べ、普通科の扱いは不当なものであると不満は
溜まる。それが露呈したのがあの勧誘騒動だと涼は考えている。
自分たちよりも優遇されている科を担当する鼻持ちならない教師。
渡辺涼という教師に対する心証はさしずめそんな感じだろう。変に
根深いため、連中の勘違いを正してやる気にもならない。勝手に誤
解したまま卒業してくれ。どうせあと一年もない。
︵頼まれたんだよ︶
桜井先生だって、別に部長の君を軽んじたわけじゃない。ただ面
倒事を後輩教師に押し付けるところを生徒に見られたくないわけで
あって。責めるべきは桜井美幸顧問であって、自分じゃない。私は
呼ばれたから来ただけだ。感謝されても疎まれる筋合いはない。
やたらと恨みがましげな視線に対して、山ほど弁明したいことは
あったが、全て声にはならなかった。あまりにも億劫で。
398
︵その八︶意外に繊細なのです
美幸の言う﹁ご相談﹂とは、つまるところ生徒の進路相談だった。
彼女の担当クラス││一年三組の上原直樹。名前に覚えがあるの
は芸術科目で音楽を選択していたからだ。少なくとも音楽の授業は、
真面目に受けていたと記憶している。特筆すべきことのない、良く
も悪くも普通の男子生徒だ。
﹁その上原がどうかしたのですか?﹂
返答の代わりに美幸は涼の前にプリントを差し出した。進路希望
アンケート。高校入学早々に志望大学を決めろという、なんとも理
不尽なプリントだった。とはいえ、学校側もさほどこの回答に期待
はしていない。所詮、高校生になって浮かれ気分最高潮の学生の世
迷い言だ。ゴールデンウイーク明けに行う三者面談の参考になれば
儲けもの。その程度のアンケートだったはずだ。深く受け止める必
要はない。
たとえ、希望職種の欄に﹁ボーカル﹂と記入されていようと。
﹁どう思われますか?﹂
﹁男子高校生にしては綺麗ですね﹂
﹁そうですね﹂
美幸はにこりともせずに同意した。
﹁しかし字の達筆さはこの際関係ありません。書道ではないので。
上原直樹が渡辺先生と似た癖を持っていようがさしたる意味を持た
ないのです﹂
なるほど。言われてみれば、字が全体的に固く、几帳面な印象を
受ける。自分と同じだ。ああ見えて実はかなり気難しい学生なのだ
ろうか。
399
﹁問題は内容です﹂
﹁悪魔と書くよりはまともな回答かと﹂
﹁茶化さないでください﹂
美幸はため息をついた。早くも涼に頼んだことを後悔している顔
だった。
﹁担任としては諸手を上げて応援できる進路ではない、ということ
です﹂
﹁応援できなくとも、邪魔をしなければそれで良いのでは? 夢を
語るのは勝手です。高校に入ったばかりなのですし、何でもできそ
うな気になることだってあります。情熱だけで突っ走る、賢くない
期間を経て知恵と分別を身に付けるものだと私は考えますが﹂
﹁入学早々の実力試験を白紙で出されてもですか?﹂
三年も教師をやっていれば白紙回答なんて何度かは遭遇する。珍
しいことではない。が、厄介なことではあった。特に、学校生活や
将来になんらかの不満を抱き始める二、三年生ならまだしも、入学
早々というのは前例がない。
﹁なかなか大胆な生徒ですね﹂
他人事のように呑気なコメントをすれば、美幸は唇を尖らせた。
が、話が進まないと判断したのかあえて咎めはしなかった。
﹁要するに意趣返しなんです。ボーカルの夢を理解してくれない親
へのあてつけで﹂
﹁なら話は簡単です﹂
涼は進路希望アンケートを美幸に差し戻した。
﹁彼の親に報告すれば桜井先生の仕事は終わり││﹂
途端、美幸はまるで異星人を見るかのような眼差しを涼に向けた。
我が耳を疑うと言いたいのだろう。目は口ほどにものを言った。
﹁上原直樹は別に、学校に対して不満を持っているのではないんで
すよね? 彼はあくまでも親の無理解を責めたいのであって、桜井
先生を困らせたいわけではない。これは親子間で解決すべき問題か
と﹂
400
﹁問題を抱えた生徒を導いてこそ、教師だと思いますが?﹂
ご立派なことだ。言い訳めいた自分の台詞とは雲泥の差がある。
その理想論をご自分一人で成し遂げてくだされば、文句はないのに。
﹁それで渡辺先生にお願いがあるのです﹂
ああやっぱりそうなるのね。涼は内心で力無く笑う他なかった。
401
︵その九︶当事者でないとわからないのです
体育準備室を出る頃には涼の気分は最低に落ち込んでいた。さら
に深刻なのは特別棟││音楽科の領域に戻った後もその状態が続い
たことだった。
三、四限で行われた普通科の音楽の授業ではまあ、何事もないよ
うに振る舞えたと思う。伴奏ではややミスタッチが多かったり、諸
悪の根源である上原直樹を睨みつけたりしないよう、不自然ではな
い程度に極力女子側を見て進めたりもしたが問題はない、はずだ。
授業後に、おそらく先日の礼を言いたいのであろう、涼に頭を下げ
た鬼島統に﹁わかった何も言うな今日はこれ以上厄介事を持ち込む
な頼むから﹂と一息にまくし立てて早々に追い出したりもしたが、
たぶん問題はない、と涼は信じたかった。
昼休みは音楽科準備室で弁当をつつきつつ音楽科主任らと校内演
奏会の打ち合わせ。最近、聴衆が減っていることに音楽科教師一同
が頭を悩ませている間も、涼の中では放課後に控える面談が重くの
しかかり、テンションは下がる一方。
﹁特に問題なのは校外から訪れる方が減っていることですよね﹂
﹁魅力的なエキストラでも呼べればいいのですが⋮⋮﹂
﹁この予算で?﹂
音楽科教師一同のため息が合わさる。意味合いは全く違うが涼も
同じく。
﹁出身音大のツテか何かで探してみますか? ちょっと値が張るか
もしれませんけど。ね、渡辺先生?﹂
﹁ええ、まあ。当たってはみますが﹂
﹁頑張りましょうよ。ドミンゴは無理でも、それなりの人は呼べる
かも﹂
ツテだけで来てくれるような﹃それなりの音楽家﹄をダシに人集
402
め。蛯で鯛を釣る方がまだ現実的だ。早々にやる気を失った涼に、
百瀬理恵は微笑みかけた。
﹁そういえば、どうでした? 桜井先生の件は﹂
大変面倒なことになりました、と答えそうになって涼は首を捻っ
た。
﹁何故そのことを?﹂
﹁歌に詳しい先生はいないかって訊かれたので、つい渡辺先生を﹂
﹁百瀬先生ご自身は?﹂
﹁私あんまり桜井先生好きじゃないので﹂
と、悪意の欠片もない笑顔でのたまう理恵は間違いなく大物だっ
た。科は違うけどたしかアンタ桜井先生と同期だったよな。文句を
言う気すら起こらない。同期でありながら理恵が声楽専攻で、しか
も合唱部の顧問であることすら知らない美幸にも非はある。
﹁だって部活の話になる度に嫌味言うんですもん﹂
その気持ちはわからなくもなかった。
交流が無いに等しいので当然だが、音楽科に対して偏見を持つ人
は多い。
美幸にしても同じことだった。こともあろうにあの教師は上原直
樹との面談会場に個別練習室を指定してきやがったのだ。曰わく﹁
音楽の話をするのだから、それに相応しい場を﹂なのだが、涼から
してみれば言語道断だった。
個別練習室、別名レッスンルームはピアノが設置された冷暖房完
備の個室だ。この学校の特別棟にはそのレッスンルームが計十八あ
る。そこで、十八の内一つくらい普通科に提供してもいいのではな
いか。普段は音楽科が独占しているのだから、という主張ができる
のは実情を知らない連中だけだ。
三学年合わせて音楽科生徒数は約百二十人。それに対し、ピアノ
が使用できる個室は十八しかないのだ。専科にせよ副科にせよピア
ノは必須科目にもかかわらず、だ。笑ってしまうくらいの待遇だ。
故に、一人の生徒が一日にレッスンルームが使用できる時間は二
403
時間と定められている。数少ない練習室の予約を取りたいがために
朝六時に登校する生徒も珍しくはない。
争奪戦に敗れた生徒、もっと練習がしたい生徒は音楽室で各自好
きな場所を陣取って練習。当然ながら皆、自主練習だ。ヴァイオリ
ン専科が優雅に﹃愛の挨拶﹄を弾いている傍らで、ピアノ専科が陰
鬱な﹃葬送行進曲﹄を奏でていることなんてざらにある風景。帰宅
してから練習しようにも近所迷惑を考えたら七時、遅くとも八時に
はもう楽器の演奏はできなくなる。音を小さくしにくい金管、木管
楽器に至っては自宅では練習できない者もいる。隣がどんなにやか
ましかろうと不快な和音を奏でていようと音楽室で練習するしかな
いのだ。
音楽科生徒からの文句は絶えないが音楽室から楽器の音が絶える
こともなかった。不平不満を言いつつも彼らは腹を括って練習に励
む。
そんな現状で、だ。入学早々に試験を放棄した普通科学生一人の
ために、朝六時から並んでようやく予約できたレッスンルームを快
く提供してくれる聖母のような学生が果たして存在するのか。少な
くとも音楽科にはいなかった。
練習環境が恵まれていると思い込むのは勝手だが、それで音楽科
を嫉むのはお門違いだ。安請け合いをした自分の軽率さを涼は恨ん
だ。
404
︵その十︶なので説得には根気を要します
互いの思惑とか生徒のプライバシーとか諸々の事情を考慮した結
果、放課後の一年三組の教室が、三者面談の会場として選ばれた。
運悪くその日は合唱部の選曲を兼ねた部活会議があるので、涼は難
色を示したのだが﹁上原君の所属している部活は水曜日しか休みじ
ゃないので﹂の一言で引き下がらざるを得なかった。学校において
は生徒が優先だった。
そのこと自体に不満はない。それで教師は給料を貰っているのだ
から。
︵問題は︶
涼は資料を手元に引き寄せた。机と椅子の三セットをとりあえず
合わせただけの簡易面談場所。美幸が上原直樹を連行してくるまで、
涼は完全に待ちぼうけだった。
︵なんでそこで音楽科の私が駆り出されるのか、ということだ︶
上原直樹の最近の動向は︱︱親から聞いたのだろう、結構詳細に
書かれていた。
将来の夢はバンドのボーカル。その為、運動部から帰宅した後は
勉強もせずにひたすらギターの練習やら作詞作曲活動に勤しんでい
る。当然、成績は落ちるが本人は大学に進学するつもりはないので
気にしない。気にしているのは親と教師だけ。
数日前にひと悶着あったようだ。両親に叱られても彼は自分の意
思を曲げず、むしろ息子の夢を認めようとしない親に対して反発を
強めた。貧乏でもいい、大変でもいいから自分の思う通りの道を進
みたい、らしい。
美幸は大学に通いながらバンド活動をすることも勧めたようだが、
本人は聞く耳持たず。大學なんぞに通っている暇があったら練習し
て腕を磨かなければチャンスを逃す、とのご立派なお言葉。
405
ここまでくると交渉の余地はなかった。自分が出る幕でもないと
改めて思う。
﹁お待たせしてすみません﹂
前黒板側の扉を引いて、美幸が現れる。続くように上原直樹も。
いきなり連れて来られたことへの不満をあらわにする様は年相応の
子供っぽさを感じだせた。
涼はおざなりに﹁いいえ﹂と手を軽く挙げて応じた。向かいに直
樹。隣に美幸。かくして奇妙な三者面談は始まった。
自己紹介は無用。互いに知った顔だし、時間が惜しかった。美幸
は﹁専門家としてのご意見、アドバイス﹂を求めて会わせたようだ
が、涼の専門は声楽科︱︱クラシック音楽の歌手だ。畑がまるで違
う。何を言っても﹁ロックのことなんて何も知らないくせに﹂と反
論されて終わりだ。
そんな涼の心中も知らずに美幸は直樹本人に確認しつつ、事情を
改めて説明した。先ほど待っている間に読んだものと内容は変わら
なかった。
﹁先生だって応援したいとは思ってるのよ﹂
と、先日﹁応援できる進路ではない﹂と涼の前で言い放った口が
猫撫で声を出す。
﹁でもそんなに焦らなくても、いいんじゃないかしら? せっかく
高校に入学したんだから、通って勉強しながら練習をしたって、﹂
﹁それじゃあ遅いんですよ﹂
にべもなく直樹は美幸の提案を突っぱねた。
﹁学校に通うだけならまだしも、帰ってから勉強なんかしてたら練
習なんてできない。プロを目指す人は一日に四時間、五時間も練習
してるのに﹂
﹁四、五時間?﹂
美幸は複唱し、確認するように涼を見た。
﹁音楽科の生徒の練習時間も大体そのくらいですね﹂
﹁ですよね? 本当ならボーカル教室とか専門学校に通いたいくら
406
いなのに﹂
彼なりに譲歩しているつもりらしい。これでも。
﹁なんで反対するんですか? この学校は音楽科だってあるじゃな
いですか。クラシックは良くてロックは駄目なんですか?﹂
407
︵その十一︶生半可な覚悟ではいけないということです
オペラを語るならせめて﹃ニュルンベルクのマイスタージンガー﹄
を観てからにしろ。歌手の若者だって、靴を作りながら詩を作る。
皮をなめしながら母音と子音を覚え、糸を紡ぎながら韻の踏み方を
理解する。ニュルンベルグの職人皆がそうやって仕事しながらマイ
スタージンガー︿職匠歌手﹀を虎視眈々と狙ってるんだその忍耐力
と覚悟がお前にあるかこんちくしょう。
あーオペラ観たい。﹃ニュルンベルクのマイスタージンガー﹄な
んて贅沢は言わない。あれ長いし。短いオペラでいい。プラシド=
ドミンゴならばもっといい。
﹁︱︱辺先生、渡辺リョウ先生﹂
﹁はい?﹂
気の抜けた返答をしてしまった涼を、美幸は軽く睨んだ。何のた
めにあんたを呼んだと思っているんだ。さっさと諭せ。言葉にすれ
ばさしずめそんな感じだろう。
︵阿呆らしい︶
涼は向かいに座る上原直樹を改めて見た。やや長い前髪はコンサ
ートの際に映えるからか。ボーカル︵志望︶なだけはあって美男子
の部類には入るかもしれない。天下と比べればとっつきやすそうな
生徒だ。だが全て、この場の第一印象でしかない。
﹁渡辺先生はどう思いますか?﹂
と訊ねられても涼には答えようがなかった。顔を見ただけで歌唱
力がわかるのなら音楽科の入学試験は半分の時間で終わる。まして
や、この男子生徒の将来性などわかるはずもなかった。涼も美幸も
母親も、本人でさえも。
ただ一つだけ、今までのやりとりでわかったことがある。
︵仮にこの場で歌えと言ったら︶
408
賭けてもいい、この生徒は絶対に歌わないと涼には確信ができた。
両親の理解、今後の学生生活、専門学校、全て環境の話ばかり。裏
を返せば、環境が整っていなければ歌えないということだ。靴を作
りながら詩を作る並みの根性はあるまい。
﹁少々分野は違いますが、同じ歌を専門とする方として、どうです
かね?﹂
無理だよ諦めて勉学に励め。どう言葉を取り繕っても結論はそこ
へ行きつく。ニュルンベルクが誇る詩人ハンス=ザックスだって彼
を育てることはできまい。
﹁正直に申し上げて、彼の才能有無に関しては判断がつきません。
聴いたことすらありませんし、仮に聴かせていただけたとしても私
では難しいでしょう。オペラならばともかく彼が歌うのはポップス
ですよね?﹂
﹁ポップスじゃなくてロックです﹂
本人が訂正。違いがよくわからなかったが、涼は﹁ロック﹂と言
い直した。既に気分はベックメッサーだ。歌試合にてライバルのヴ
ァルターを乏す不公正な判定人。だがベックメッサーとは違い、涼
には彼に恨みも何もなかった。ロックでもバンドでも好きにやれば
いい。
﹁そもそも今話すべき事は才能有無ではないかと思います﹂
ザックスじゃあるまいし、歌手の才能なんてどうせわからないの
だから。
﹁つまるところ上原君はボーカリストになりたい。そのためには専
門的に学びたい。専門学校に行きたい。勉強をするくらいなら歌っ
ていたい、というわけだ﹂
﹁まあ⋮⋮そうです﹂
言い方が不服のようだが、直樹は僅かに頷いた。
﹁なるほど﹂
涼は額に片手を当てた。もっと良い言葉はないかと考える。適当
な。はぐらかすだけでもいい、この場を上手く収めてとっとと逃げ
409
出してしまえるような、耳触りのいい言葉。そんなものはいくら探
してもなかった。
﹁︱︱それで?﹂
410
︵その十二︶腹を括りましょう。
質問を投げかけておいて、涼は面倒になった。上手くまとめよう
とした数秒前の自分が馬鹿馬鹿しい。夢見がちな小僧と音楽科の生
徒を一緒にするのが間違っている。
額から離した手で自身の左腕を掴む。座り心地の悪い椅子に座り
直す。涼が一連の動作を終えてもボーカリスト志望学生は何も言わ
なかった。不愉快げに眉根を寄せるだけ。
﹁君は要望を言った。勉強はしない。専門学校へ行きたい。貧乏で
もいいからボーカリストになりたい。それは全て君の希望だ。しか
し君の大切な将来を決めるには、もっと具体的に話をしなければな
らないと思う﹂
﹁具体的?﹂
﹁希望を言うだけなら小学生にだってできる。具体的な案を提示し
て初めて交渉になる。養育費と生活費、専門学校の学費︱︱後から
返すにしても親には大金を出させるわけだから、それ相応の努力を
する義務がある。君はそのボーカリストになるためにどれだけのこ
とをし、どれだけのものを差し出すつもりなんだ?﹂
返答は最初から期待していなかったので、涼はたたみかけた。
﹁私はロックバンドについては良く知らないが、声楽科では毎日発
声から初めて練習を重ねている。試験期間中だろうと夏休みだろう
と年末年始だろうと練習は続ける。場所がなければ朝の五時から学
校にやってきて音楽室で練習する生徒だっている。君は勉強する時
間なんてないと言うが、部活動をしたりテレビを観たり友人と遊ぶ
時間はあるはずだ。どうしてそれらの時間を減らさないで真っ先に
勉強する時間をなくそうとするんだ? 今の君は学生としてやるべ
きことは放り投げて、やりたいことをやりたいだけやっているだけ
だ。遊び呆けているのと変わりない﹂
411
﹁バンドを馬鹿にすんなよ!﹂
いきり立つ直樹。涼の言葉は彼のプライドをいたく傷つけたよう
だ。涼は腕を組んだ。
﹁オーディションを受けたことは?﹂
直樹は不貞腐れたように口をつぐんだ。呆れた奴だ。一体何を根
拠に﹁今を逃したらボーカルになれなくなる﹂だの主張していたの
か。
しきりに肩を叩く美幸の手を振り払い、涼は質問を重ねた。
﹁何回受けたんだ?﹂
﹁⋮⋮まだ、受けてねえよ﹂
﹁どうして受けない? 少し都心へ足を運べばオーディションをし
ている所なんていくらでもある﹂
﹁あ、あのー、渡辺せん、﹂
﹁まだ、だって言ってるだろ? まずちゃんと実力をつけてから﹂
﹁でも君がデビューするためにはまず、オーディションに合格する
かレコード会社に売り込むしかないんじゃないのか? ボーカリス
トの登竜門に一度も行かないで、とりあえず専門学校に行こうなん
て軽率過ぎやしないか。視察もしないで未知の世界に飛び込むのは、
ただの身投げだ﹂
そしてまた直樹はだんまりを決め込んだ。涼は呆れて、呆れて︱
︱心底馬鹿馬鹿しくなった。こんなことに割いている時間が惜しく
なる。決めた。﹃ニュルンベルクのマイスタージンガー﹄を観よう。
長大だろうと知ったことか。今のこのくだらないにも程がある時間
よりも遥かにマシだ。
﹁君の一生を賭けるものなのに、どうして吟味しようとしないんだ。
それでは短慮と言われても当然。親の無理解を責めることはできな
い。君自身が自分の将来について真面目に考えようとしていないの
だから﹂
涼は席を立った。
﹁部活の練習がありますので失礼します。参考にならなくてすみま
412
せん﹂
捨て台詞よろしく美幸に告げて退室。中央廊下を通って特別棟︱
︱音楽科の領域に入ってしまえば疲れがどっと押し寄せてきた。
琴音の言う通りだ。やはり自分は教師に向いていない。
413
︵その十二︶腹を括りましょう。︵後書き︶
今回でようやく二章は終了です。だらだら更新&展開にお付き合
いくださって本当にありがとうございます。
次は長らく放置されている番外編の更新⋮⋮を考えておりますが、
諸事情により次回更新は最短でも7月9日以降を予定しております。
414
球技大会︵選手選抜︶好き嫌いが分かれやすいのです
バスケか、サッカーか。
天下にとっては球技で団体競技という時点で双方同じようなもの
だった。下手ではないが飛び抜けて上手いわけでもない。どちらで
も構わなかった。所詮学校の球技大会。適当に楽しめればそれでい
い。
そう考えている男子は意外と多いようで、盛り上がる女子をしり
目につつがなく種目決めは終わった。希望を聞いて、人数に偏りが
あったらジャンケンしておしまい。
﹁ウノだろ、やっぱ﹂
と、早くも敗戦後の暇潰し方法を提案したのは、真山亮介だった。
その一言でサッカー組はポジション決めもそっちのけで、カードゲ
ームの話で盛り上がる。
﹁おい﹂
天下は出場者名簿に記入していた手を止めた。
﹁トランプも忘れんなよ﹂
﹁お。優等生君はまさかのポーカー派か?﹂
﹁いや、七並べ﹂
子供向けゲームの名を挙げれば周囲は笑う。追随するように天下
も微笑した。実際、天下は七並べに限らず、トランプゲームは得意
だった。それを知っている数少ない同級生︱︱亮介は意地の悪い笑
みを浮かべて、こちらを見る。
﹁屋上の階段でいいよな?﹂
﹁だな。あそこなら見つかりにくい﹂
行事とはいえ仮にも授業。負けたチームは応援と観戦に回り、気
分だけでも球技大会に参加し続けるのが、学校側が定めた規定だ。
しかし学生側にしてみれば、自分達が心血を注いだわけでもない、
415
にわかチームの応援するくらいだったら適当に遊んでた方がまだ生
産性があった。少なくとも同じゲームを楽しむことで団結力は強く
なるだろう。
﹁優勝したってなんか貰えるわけでもねえし、かったりいよなー﹂
亮介のぼやきに異論を唱える者はいなかった。普段は受験に向け
て勉強勉強また勉強。それが球技大会になった途端、掌を返したよ
うに﹁学校行事です。真剣にやりましょう﹂だ。盛り上がるのは勝
手だが、それを他人にまで押し付けるな。
﹁サッカーの名簿、できた?﹂
体育委員の香織が催促にやってきた。﹁かったりー﹂だの﹁めん
どくせー﹂だのとぐだぐだ言っていた男子は口を噤む。バスケット
部の部長だけあって香織は球技大会に真面目に取り組んでいる。そ
の彼女の前では無神経な発言を控える程度の分別は、やる気皆無の
サッカー組とて持ち合わせていた。
天下は﹁悪い﹂と断ってから残り数人分の名を書いて渡した。
﹁たかが学校行事だけど高校生最後の球技大会なんだから、真面目
にやりなさいよ﹂
先ほどまでの会話を見透かしたような香織の言葉に、一同は肩を
竦めた。
416
︵作戦会議︶嫌いな人だっているのです
﹁コンクールが近いんです﹂
今週では三人目。例の学校行事が本格的に近づいてから七人目と
なる﹃相談﹄は、音楽科職員室の応接スペースにて行われていた。
﹁バスケなんかして、突き指でもしたらどうするんですか? 一日
でもピアノ練習をサボったら、遅れを取り戻すのに何週間もかかる
っていうのに﹂
またしても一年十組︱︱音楽科の女子生徒だ。本人は正当で深刻
な悩みを打ち明けているつもりなのだろうが、毎年毎年同じ﹃相談﹄
を受けている教師側としては苦笑を禁じ得ない。それは百瀬理恵も
同じらしく、
﹁じゃあ、サッカーにしたらどう? キーパー以外なら手を使わな
いし﹂
と、にっこり笑顔で適当なアドバイスを授けた。途端、不機嫌に
なる悩める女子生徒。
﹁そういう問題じゃないんです﹂
じゃあどういう問題なんだ。
指摘する代わりに涼は布の切れ端に綿を詰めた。自身の机で応接
スペースに背を向けてひたすら内職。糸で結ぶ手つきもだいぶ様に
なってきた。
﹁ここは音楽科のある学校ですよね? だったらコンクール前の生
徒は免除にするとかの配慮があってもいいと思うんですけど﹂
﹁球技大会はちょっと難しいわねえ﹂
﹁おかしいですよ。コンクールで結果、残せなくてもいいんですか
? 球技大会なんて三回もあるんですから、一回くらい休んだって
いいじゃないですか﹂
ショパンコンクールじゃあるまいし、大概の国内コンクールは年
417
に一回だ。高校生の間に三回チャンスがある。球技大会と条件は同
じだ。
いくら説明しても納得はしない。どの生徒でも同じことだ。同様
に、教師側の返答も変わることがない。
﹁私に何を言っても無駄よ。学校全体で決めたことだから、音楽科
だけ不参加なんて認められません﹂
恵理が穏やかにだがはっきりと突っぱねたのと、涼が目を書き終
えたのはほぼ同時だった。可愛いとは形容できないが、まあ悪くな
い出来だ。糸を結んでぶら下げるとますますそれらしくなる。効能
は全く期待できないだろうが。
反論を与える暇を与えず、恵理は合唱部のパートリーダーに呼ば
れて退室。
取り残される格好となった音楽科一年の女子生徒は何を思ったの
か、我関せずを決め込んでいた涼に救いを求めるような視線を寄こ
してきた。
﹁渡辺先生はどう思います。球技大会って、なんか横暴じゃありま
せん?﹂
﹁反対賛成以前に、私には馴染みの薄い行事だよ。団体競技はあま
り得意じゃないし、担当クラスもないから応援しようと思うチーム
もない﹂
少し、突き放し過ぎたか。涼はイスを回して、身体ごと女子生徒
の方へ向けた。
﹁好きか嫌いかを問われたら、好きではないと答えるね。でも、一
教師や生徒の好き嫌いで左右されるような行事じゃないと思うよ。
こんな音楽科準備室の隅っこで不満たらたら言っている暇があるな
ら、もっと生産性のあることをするべきだ﹂
﹁学校に脅迫文を送りつけてやるとか、ですか?﹂
﹁個性的なアイディアだね。でもバレた時のリスクが大きい。もっ
と未成年らしく、穏やかで笑って済ませられる程度の事にしておい
た方がいい。いざとなったら体育の成績を捨てるつもりで休めば解
418
決することなのだから﹂
完成した手のひらサイズの人形を譲る。
﹁個人的にオススメなのは、これ﹂
突如渡された﹃それ﹄の扱いに困る女子生徒に涼は説明した。
﹁当日雨が降ればサッカーは卓球に変更だ。本格的にやっているな
らまだしも、大抵の女子生徒は温泉卓球レベルだ。怪我する可能性
は格段に低くなる﹂
﹁⋮⋮で、これを逆さまに吊るすわけですか﹂
胡乱な眼差しを注いで一言。子供騙しもいいところではあるが、
安っぽい造りの人形を見ている内に女子生徒も思うところがあった
のだろう。ムキになっていたのが馬鹿馬鹿しいと思ったのかも知れ
ない。何にせよ、先ほどよりも余裕が生まれたのは事実だ。
﹁変なてるてる坊主﹂
妙にキリッとした顔つきのてるてる坊主は頼りなく揺れていた。
﹁ただ、一つ忠告するのなら﹂
どんなに生意気でも生徒は可愛かった。特に、同じ音楽という分
野に足を踏み入れた生徒となれば、説教臭くもなる。
﹁見学も休むのも君の自由だ。でも、君の無関心を周りに撒き散ら
すのはやめておいた方がいい。たかが球技大会でもそれなりに真剣
に、それなりに楽しくやろうとしている子だっている。それに水を
差すような真似はしちゃ駄目だ﹂
﹁マナーを守れってことですか?﹂
﹁平和な学校生活を送るための知恵だよ。君だってピアノコンクー
ルを馬鹿にされたら腹立たしいし、他の出場者にやる気なかったら
頑張っている自分が阿呆らしくなるだろ?﹂
﹁いいえ、むしろ嬉しいです﹂
女子生徒は悪戯っぽく微笑んだ。
﹁だって、皆やる気がなかったら優勝は私だもの﹂
419
︵練習開始︶強要はいけません
中間試験明けに一年生が退部するのは弓道部に限らず珍しいこと
ではなかった。誰でも部活三昧の日々から一時離れてしまうとふと、
それまでの勢いが止まり、冷静になる。これからの高校生活の放課
後をずっとこの部活に費やしていいのかを考えて面倒になったり、
あるいは他のものを見つけたりして辞めていく。よくあることだっ
た。
﹁上原?﹂
天下は靴紐を結ぶ手を止めて訊ね返した。
﹁一年三組の上原直樹ですよ﹂
二年の後輩から聞かされた退部者の名に小生意気な顔が浮かんだ。
夏の大会に向けての練習に忙しい三年からすれば新入部員なんて皆
礼儀知らずなガキだ。自分たちも二年前はこんなもんだったのかと
感慨にふけりつつも、面倒は全て二年生に任せている。この場合、
特に関わりのない一年の顔を覚えている方が珍しかった。
﹁昨日で辞めたらしいです﹂
と、朝練終了後に後輩から報告されても天下としては﹁そうか﹂
としか言いようがなかった。
上原直樹││平凡を絵に描いたような学生だった。中肉中背。特
徴と言えば男にしてはやや長めの前髪程度。休憩中に同級生と騒ぐ
のが好きそうな、どこにでもいる男子学生だ。
どうしてそんな平凡な後輩の顔と名前を覚えているのか、天下自
身も不思議だった。会話なんてした記憶もないし、挨拶だって数回
交わした程度だろう。
﹁道具はまだ買ってなかったよな?﹂
弓道は高校から始める者がほとんどだ。一から揃えるとなると結
構な値になる。
420
﹁今週、注文する予定です﹂
なら問題はない。天下は靴紐を結び、立ち上がりついでに鞄を肩
に掛けた。弓道場の戸締まりは最早天下の仕事ではなくなっていた。
まだ着替えすら終わっていない一年に﹁HR、遅刻すんなよ﹂とだ
け注意し、道場を後にした。二年生が慌てて続く。まだ話は終わっ
ていなかったらしい。
﹁部内でなんかあったのか﹂
﹁いえ、特には⋮⋮﹂
﹁練習サボってたわけでもなかったよな?﹂
﹁退部の話は俺にしてきたんです。他にやりたいことがあるって﹂
幽霊部員がいるくらいだ。退部の申し出をしてきただけでもまと
もな部類に入る。しかも、誰にまず言うべきかもわきまえている。
顧問や部長に言う前に指導役である二年生に申し出たことといい、
良識のある一年だったようだ。
﹁わかんねえ。何が問題なんだ?﹂
カーテンで締め切られた窓の前で止めそうになった足を内心慌て
て早める。慣れというのは恐ろしい。何も考えてなくても中庭を│
│鑑賞室の前を通って戻ろうとしてしまう。
我ながら不思議な習慣だった。一年の時とは違ってもう、会うど
ころか声を聞くわけでも姿が見られるわけでもないのに、相変わら
ず鑑賞室に注意を向けてしまうのは。中で人知れず練習しているの
ではないかと、思い描いてしまうのは。
﹁なんも問題はないんです。ただ、ウチの部辞めて違う部に入ると
か││﹂
二年が言葉を濁したところで、昇降口にたどり着いた。げた箱は
学年毎に並んでいるため、必然的にここで別れることになる。例に
漏れず天下も自分のクラスへ向かおうとした。その背に、
﹁あいつ、合唱部入るって言うんです﹂
天下は足を止めた。合唱部。思わず振り返った。何しろ合唱部だ。
﹁合唱部?﹂
421
﹁俺も止めたんですけど、あいつ聞かなくて。弓道辞めて歌うらし
いっすよ﹂
軽口混じりの言葉は天下の耳を呆気なく通り過ぎた。
﹁ぜってーすぐ辞めますよ﹂
二年の言わんとしていることはわかる。
他校ならいざ知らず、この学校の合唱部は音楽科の専売特許のよ
うなもの。﹁部﹂と名がついているものの、実際は音楽科選択履修
科目﹃合唱﹄の延長でしかない。管弦楽部にしてもそうだ。部員は
ほぼ全員、選択履修科目で﹃合奏﹄を選んだ学生ばかりだ。
つまり、上原直樹は音楽科の巣窟に単身乗り込むつもりなのだ。
音楽科のぶっ飛び具合を知らない故の無謀な行動としか周囲の目に
は映らない。
だが、天下にとっては違った。
そんなわけない。たかが副顧問を勤めている部だ。関連性は全く
││ないとは言い切れないが、きっとない。ただ上原直樹は歌に興
味があるだけだ。副顧問がどうとかなんて二の次だ。そうに違いな
い。
否定しても一度よぎった馬鹿げた考えは頭から離れなかった。
﹁⋮⋮放っておけ﹂
天下は努めて素っ気なく言った。
﹁すぐに後悔するさ﹂
自らに言い聞かせる意味も込めて呟く。しかし根拠は全くなかっ
た。
422
︵強化訓練︶気になる人は気にするものです
﹁お前のところの一年、合唱部に入ったんだって?﹂
亮太の問いに天下は﹁らしいな﹂と曖昧に答えた。
渡辺涼と上原直樹。二つの点が直結する可能性はない。仮にあっ
たとしても部員と副顧問。何を思って合唱部なんぞに入部したのか
は知らないが、涼との関連はないだろう。上原直樹が芸術科目で音
楽を選択していたとしても、あの授業がきっかけで合唱部に飛び込
むとは思えなかった。
渡辺涼は良くも悪くも好意を表に出さない教師だ。自ら﹁贔屓し
ている﹂と言う矢沢遙香に対してさえ、他の生徒と変わらず接する。
公正な教師ではあるが、とっつきにくくもある。生徒に好かれるタ
イプではなかった。
結論、やはり関連性は低い。
﹁また物好きな奴がいるもんだな。で、理由は訊いたのか?﹂
﹁興味ねえ﹂
全くないと言えば嘘になる。関連性が限りなく低くてもゼロでは
ないのだ。しかし、去るものは追わずを信条とする天下としてはそ
う言う他なかった。
﹁ンなことよりも、ノート返せ﹂
手を差し出して催促すれば、亮太は鞄を漁り始めた。一週間前に
出された古典の宿題は、今日の二限目に回収される予定だ。
﹁あれ? たしか昨日入れたはずなんだがな﹂
﹁忘れたとか言うなよ﹂
古典の三橋は学年主任を務めるだけあって締め切りには厳しい。
宿題は授業開始時に集め、その後の提出は一切認めない方針だ。
423
﹁話聞いたよ。音楽科に部員取られたんだって?﹂
突如として乱入してきたのは石川香織だった。けしからんことに
亮太は手を止めて応じる。
﹁耳早いな。どっから聞いたんだ?﹂
﹁うちの顧問が一年三組の担任だからね。以前から声楽に興味があ
ったとかで、とりあえずお試しで入部したんだってさ﹂
不参加を装いつつも二人の会話をしっかり聞いていた天下は密か
に安堵した。夢見るのは勝手だ。とっとと現実を見て、ついでに副
顧問に厳しいこと言われて打ちのめされて辞めてしまえばいい。﹃
お試し﹄がまかり通る程専門学科は甘くない。
﹁じゃあ仮入部か﹂
他人事である亮太は呑気に言った。
﹁期間は過ぎてるけど、事実上はそうだね﹂
﹁だとしても無謀だなあ﹂
﹁まあ練習場所には困らないから﹂
弓道部だって弓道場がある。運動部がどこもかしこも練習場所確
保に苦労してると思うな。指摘しても怒りを買うだけなので天下は
黙っていた。
先日も体育館の使用日程決めで運動部同士で揉めたのを知ってい
る。三年にとって最後となる夏の大会。五分でも長く練習していた
いと思う心情は理解できた。やっかみはどうかと思うが。
天下は教室の時計を見た。担任はまだ来ていないがSHRの時間
は過ぎている。一限が始まるのもすぐだ。にもかかわらず、亮太は
香織と談笑している。
﹁転科するわけじゃないから桜井先生も特に反対はしなかったみた
い﹂香織は意地悪く付け足した﹁それに、また渡辺がしゃしゃり出
たらしいよ﹂
﹁おい﹂
いい加減に古典ノート返せ、と言いかけた言葉が宙に浮いた。香
織は今、何と言った?
424
﹁⋮⋮ワタナベ?﹂
思わず呟いた天下に香織はすかさず補足した。
﹁音楽の方のね﹂
知ってる。英語の渡辺民子は4月に異動した。そんなことはどう
でもいい。
﹁なんで渡辺?﹂
﹁音楽の専門だからじゃないの? 放課後に桜井先生と三人で話し
てるのを見たって、後輩の子が言ってた﹂
﹁お、あった﹂
そこでようやく亮太がノートを探し当てた。
﹁助かった。サンキュ﹂
天下は差し出されたノートを機械的に受け取った。
点と点が、繋がった。
放課後に三人で相談。直樹の希望に対して声楽の専門家、すなわ
ち声楽専攻の音楽科教師の意見を参考にしたと考えれば自然なこと
だ。しかし果たして、涼が﹁まあとりあえずお試しで⋮⋮﹂なんて
当たり障りのない言葉で誤魔化したりするだろうか。ましてや生徒
の進路に関することだというのに。
﹁鬼島君?﹂
香織が訝しげに呼んだその折に、担任教師が教室にやってきた。
慌てて生徒達は着席。遅ればせながら始まるSHR。告げられる今
朝の連絡事項は天下の頭を素通りした。
425
︵編成確認︶でも大概は取り越し苦労です
︵どうかしてる︶
上原直樹が、ではなく自分が。たかが部員と副顧問ではないか。
何故いちいち気にしなければならない。
︵身がもたねえよ︶
だいたい、音楽科の生徒はどうなる。彼らの方が涼と関わる時間
は長い。音楽という共通事項があるだけ他学科の生徒と教師よりも
結びつきは強いと言える。話だって合うはずだ。
今さら、普通科の一年のガキが現れたところで何が変わる、とは
思うものの、足は特別棟に向かうのだから救いようがなかった。
中央廊下を渡った頃になってふと、ここにわざわざ足を運ぶ言い
訳を考えていなかったことに気づく。音楽の授業でもないのに普通
科が音楽科準備室に訪れる理由││新入生じゃあるまいし迷ったと
は言えない。どこまで余裕を失っているのだろうか。
特に上手い言い訳を思いつく前に目的の場所へ到着した。音楽科
準備室。タイミング良く開かれた扉から現れたのは涼だった。楽譜
と思しき薄い製本をぱらぱらとめくって、天下には気づいていない。
﹁合唱曲か?﹂
ページをめくる手が止まった。警戒に満ちた視線とかち合う。何
もそんなあからさまに苦い顔をしなくても、と思った。これでは普
通の生徒以下だ。
﹁何の用だ﹂
﹁用がなかったら来ちゃなんねえのかよ﹂
口にしてから天下は内心舌打ちした。これでは拗ねているみたい
ではないか。何事も無い風を装って楽譜を覗き込む。
﹁部活で使うのか?﹂
﹁違うよ。これは⋮⋮﹂
426
言いかけて涼は口を噤んだ。次いで楽譜を自分の背に隠す。
﹁何だよ﹂
﹁生徒が見る必要はないものです。気にせず教室に帰りなさい﹂
﹁見られちゃマズいもんなんか?﹂
たかが楽譜が。しかし頑として涼は見せようとしなかった。﹁見
せる必要がない﹂のではなく﹁見られては困る﹂ものであるのは明
白だ。本人に全く自覚がないようだが、涼は誤魔化す時、急に丁寧
語になる。
身を固くしている涼はともすれば怯えているようにも見えて、天
下はなんだか楽しくなった。獲物を追いつめる高揚感に似ていて非
なるものだ。
この前、自宅にまで押し掛けた時もそうだった。教師という体裁。
普段は完璧に取り繕っているものを、少しずつ剥がしていく。琴音
にたしなめられて拗ねる顔も、フォークを置く際に利き腕を気にす
るマメさだとか。僅かな綻びから零れ落ちる涼らしさの一つ一つが
愛しかった。
隠そうとするなよ、頼むから。天下は一歩踏み込んだ。
﹁なあ、先生﹂
取り繕うとするのもいけない。非常にいただけない。そんなこと
をされたら、暴きたくなる。
﹁また行ってもいい?﹂
﹁どこに?﹂
﹁先生の家﹂
一瞬浮かんだ動揺はすぐさま覆い隠される。小さくため息を吐き、
冷やかな一言。
﹁冗談も大概に、﹂
﹁生憎本気だ。今度は一人で行きてえな﹂
返答の代わりに手にしていた楽譜で叩かれた。隠さなくていいの
かよ、という指摘は心の中に止めておく。曲名まではわからなかっ
たが、混声四部と記載してあるのが見えた。
427
﹁授業が始まる。行きなさい﹂
きっぱりと涼が言ったところで、音楽科準備室から理恵が顔を出
した。
﹁渡辺先生、お電話ですよ︱︱あら鬼島君、お久しぶり﹂
天下は軽く会釈した。引き際は心得ているつもりだ。﹁授業があ
るので失礼します﹂と断り、お望み通り自分の教室に戻ることにし
た。
﹁何の話をしていたんですか?﹂
﹁いえ、別に、大したことでは﹂
﹁へーえ? その割には込み入った様子でしたけどね﹂
﹁ただ擦れ違い際に挨拶と雑談をしていただけです﹂
理恵の追及と、それを誤魔化している涼の会話を背後で聞きなが
ら天下はその場を離れた。笑い出しそうになるのを堪える。
肝心のことは聞き出せないままだったが、天下の不安は払拭され
ていた。あの鉄仮面がそう簡単に破れるものか。大丈夫。教師面か
ら不意に零れ落ちる女性の顔なんて、きっと誰も気づかない。自分
以外は。
428
︵編成変更︶ごくたまに的中する場合もあります
空は快晴。風は穏やか。
﹁かったりい﹂
絶好の球技大会日和に早くも亮太は文句を垂れた。ジャージを着、
グラウンドに出て、準備体操を始めたこの期に及んで何を、と思わ
なくもないが、天下は黙ってサッカーボールを蹴り上げた。見よう
見まねのリフティング。サッカー部員とは比べようもない出来だが、
素人にしてはまずまずだ。テンポ良く跳ねるボールを亮太はふてく
された顔で睨みつける。
﹁こんな炎天下の中で白黒の玉を追いかけて、蹴って何が楽しいん
だよ。マジありえねえ﹂
﹁じゃあキーパーやるか?﹂
天下は脇に置いていた手袋を差し出した。所詮ジャンケンで決め
たポジションだ。当人達の同意があれば勝手に変更したとしても問
題はない。
﹁駆けずり回る必要はなくなるぞ﹂
﹁その代わりボールがドカスカ飛んでくんじゃねーか。一体誰がサ
ッカーなんて原始的で野蛮な競技を考えたんだ。信じられん。高校
生に推奨するものか、これが﹂
﹁ワールドカップを徹夜でテレビ観戦してた野郎にだけは言われた
くねえな﹂
天下はなおも不満を言う亮太を余所に、校庭を見渡した。
初戦の相手は一年三組。弟のクラスと対戦ということにやや気ま
ずさを覚えながらも、天下の意識はパス練習をする上原直樹へ向か
う。
グラウンドの中央でクラスメートと談笑しながらボールを蹴る姿
は無邪気なものだ。良く言えば年相応。悪く言えばガキだ。他人の
429
気も知らないで。
﹁⋮⋮敵じゃねえ﹂
﹁そりゃあ、相手は一年だしな﹂
独り言に追随したのは亮太だった。おまけに﹁ウノは三回戦まで
お預けだな﹂などと残念そうに付け足す。
思惑はたがえども、その点に関しては天下も同感だ。負ける気は
ない。相手はたかが一年のガキだ。
敵を見据える天下の袖を亮太が引っ張った。
﹁女バスは勝ったみたいだな﹂
顎でしゃくる先は体育館入口前。クラスメートの女子が歓声を上
げて跳ねたり、抱き合ったりしている。一回戦の対戦相手は一年十
組だったはず。一年でしかも音楽科││バスケット部員なんぞ一人
もいないであろうクラスに勝ったところで何が凄いのかはわからな
かったが、当の本人達は観客共々喜んでいた。
と、その輪の中にいた香織が天下達の方を向いた。はにかみ、親
指を立てる。
亮太は軽く手を振って香織に応じた。
﹁罪な奴め﹂
﹁何がだ﹂
小突いてくる肘を天下は押し返した。
﹁気付いてるくせに何言ってやがる﹂
意地の悪い笑みを浮かべる亮太。面白がっているのは明白だ。最
近香織に対してやたらと愛想が良いと思っていたら、案の定。
天下は投げやりに言った。足下に転がるボールの上に片足を置く。
﹁どうしろっつーんだよ﹂
人に比べて聡い方であると自負している。確証はなくとも思い当
たる節はいくらでもあった。そもそも傍にいる亮太が気付いて当の
本人である自分が気付かないわけがない。
だが、決定的なものがなかった。だから天下としては何事もない
ように無関心を貫くしかない。白黒はっきりしろと、香織に促すこ
430
ともできない。
何故なら、天下には応じることができないからだ。理不尽と言わ
ば言え。こればかりはどうしようもなかった。
﹁お? 例の元・弓道部員じゃんか﹂
ようやく直樹の存在に気づいた亮太が声を上げる。体育館の方を
向いたまま。
︵⋮⋮体育館?︶
校庭のど真ん中を陣取っていた奴が何故。天下は顔を上げた。
直樹は統と一緒にいた。そこまでは良かった。弟の交友関係にま
で口を出すつもりはない。問題はなかった。二人して仲良く歩く先
に、体育館││の入り口付近で音楽科と思しき女子生徒と話す涼が
いなければ。
まさか。天下の危惧は的中した。直樹と統は躊躇うこともなく涼
の元へ向かうと何やら話しかけた。他の生徒や教師らが見ている前
で、堂々と、談笑し始めたのだ。
しかも、それだけでは終わらなかった。体育館から出てきた矢沢
遙香がこれまた涼に寄ってきて、こともあろうに二人っきりで校舎
へ。体育館に阻まれ姿が見えなくなる。
天下は舌打ちした。遙香が人目をはばかって涼に相談することと
いえば思い当たる節は一つしかない。
︵あんのバカップルが⋮⋮っ!︶
今度は一体どんな厄介事を持ってきたのか。悪びれもせず涼に頼
る遙香に対しても、また性懲りもなくのこのこついていく涼に対し
ても天下は腹を立てた。
﹁これ、頼む﹂
ボールと手袋を亮太に押し付け、天下は駆け出した。
﹁は? なに、鬼島? おい!﹂
﹁試合前には戻る﹂
本当にしょうもない連中だ。そこでいちいち首を突っ込んでしま
う自分も、また。
431
︵最終調整︶何事にも予想外の事態はあります
るてるて坊主もむなしく空は快晴。球技大会は滞りなく行われた。
授業もないので暇を持て余していた涼は一年十組の様子を伺いに
体育館へ。例の、参加を嫌がっていた女子生徒は涼の姿を認めると、
コートの反対側からVサインをよこしてきた。なんだ、結構楽しん
でいるではないか。拍子抜けしつつも涼は軽く手を振って応じた。
女子生徒は涼の方までわざわざ駆け寄り、小さく耳打ちした。
﹁終わりましたよ﹂
﹁何が?﹂
﹁危険で野蛮な大会が、です﹂
女子生徒が指差したスコアボード。それはもう見事なストレート
負けだった。
﹁⋮⋮へえ、初戦で負けたんだ﹂
﹁三年で現役バレー部員が三人もいるんじゃ仕方ないですよね﹂
にっこりと無邪気な笑顔でのたまう女子生徒。涼は苦笑するしか
なかった。
﹁指も手も無事で良かったね﹂
﹁ええ、とっても﹂
対戦相手が聞いたら怒りかねない会話を交わしていたその折に﹁
先生﹂と低い声に呼ばれた。
何故事あるごとに現れるのかな。音楽科の領分にまで入ってくる
なよ。内心ため息を吐きつつ振り返って、涼は軽く目を見開いた。
そこにいたのは天下ではなかったのだ。
﹁鬼島君﹂
同じ鬼島でも彼は弟の統だった。兄弟ならば声が似ているのも当
然だ。疑いもせずに天下だと思った自分が恥ずかしかった。
鬼島統は小さく会釈した。相変わらずの無表情だ。何を考えてい
432
るのかがわからない。
﹁︱︱と、上原君。二人揃ってどうした?﹂
鬼島統と上原直樹。二人とも芸術選択は音楽で、よく一緒に話し
ていたと、今さら涼は思い出した。
﹁先生を見かけたので。まだ試合まで時間もあるし﹂
と愛想よく言った直樹とは先日口論したばかりだ。正確には、こ
ちらが一方的に叱責して放置したのだが︱︱嫌われる理由はあって
も親しく話しかけられる心当たりが全くなかった。小首を傾げる涼
に、直樹は﹁あ、そっか﹂と呟いた。
﹁先生、昨日部活に顔出さなかったから知らないんですね﹂
﹁何を?﹂
﹁俺、合唱部入ったんです﹂
合唱部。つまり、自分が副顧問を務める合唱部に。
﹁君は他に⋮⋮運動部に入っていなかったっけ? かけもちは結構
大変だと思うが﹂
﹁弓道部は辞めました。お試しとはいえ、やるからには本腰入れて
やらないと﹂
涼は納得した。思いの他上原直樹という少年は素直な性格らしい。
﹁いや、でもなんで合唱部?﹂
﹁ロックとオペラは分野が違うけど、結局は声だろ? まずは発声
から学ぼうかと﹂
ゆくゆくはボーカル育成のためのレッスンにも通うつもりらしい。
無論、高校にも通いつつ、だ。以前に比べたらかなり建設的な案と
言えた。
﹁身体作りもあるって聞いたので、基本を抑えながら色々模索しよ
うと思ってます。よろしくお願いします﹂
折り目正しく一礼されてしまうと、涼としても断る理由はなかっ
た。音楽科に転科するわけでもないので、深く考える必要もない。
﹁⋮⋮まあ、これからよろしく﹂
おざなりな返礼に対しても直樹は気を悪くしなかった。むしろ嬉
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しそうに﹁はい﹂と答えた。犬に喩えるなら尻尾を振っている状態
だ。
先日偉そうに批判した教師に、ここまで好意的になれるものなの
か。涼はただ戸惑うばかりだった。
突き放したつもりだった。現実を見ないで、自分の都合のよい幻
想にしがみついて、まるでそれが正義であるかのような態度には嫌
悪しか抱けない。勝手にやればいい。そして後悔しろ。あとは自己
責任だ。
直樹が悟らずにボーカルへの道を突き進んで悩もうが傷つこうが、
涼にはどうでもよかったのだ。まして彼に嫌われようと構わなかっ
た。自分は、教師として生徒に諭すべきことをしただけだ。
嫌われるのを覚悟できついことを言っただけに、この展開は予想
外だった。
涼は首の後ろに右手を当てた。不快感とはまた違う、居心地の悪
さを感じる。おかしい。何故こちらを真っ直ぐに見つめる直樹の顔
を正視することができないのだろうか。天下にだって感じたことの
ない気恥ずかしさだった。
﹁リョウ先生﹂
涼は顔を上げた。いつの間に現れたのか、矢沢遙香が浮かない顔
で傍らに立っていた。一年十組の対戦相手は三年一組だから彼女が
いたとしてもなんら不思議ではない。しかし、ただならぬ様子に涼
はかける言葉を失った。
﹁今、ちょっといいですか?﹂
疑問形でありながらも実際は決定事項だ。遙香は涼の袖を引くと
体育館の裏側へ。
﹁あ、渡辺先生﹂
﹁上原君、ごめん。詳しい話は放課後に聞く﹂
踏み出しかけた足を直樹は止めた。遙香に引きずられながらも涼
は副顧問として釘を刺しておく。
﹁仮にも入部したのなら、練習はサボらないように﹂
434
女子生徒に有無を言わせず連れて行かれるようでは、教師として
の威厳は全くなかったが。
435
︵選手宣誓︶加害者と被害者に分かれるとは限りません
体育館の角を曲がって校舎の裏へ。今日は球技大会の為、校舎内
には誰もいない。体育館の喧騒が遠くなってようやく、遙香は涼を
解放した。
﹁別れました﹂
誰と、と訊ねそうになって涼は口を閉ざした。わざわざ人気のな
い場所で、涼一人に報告する﹁別れ﹂とくれば、一つしかない。
﹁言っておきますけど、私から別れを切り出したんですよ?﹂
だろうな。遙香がこの期に及んで嘘を吐くとは思えない。あの優
柔不断野郎に自分でこの不毛な関係に終止符を打てる程の決断力が
あるとも思えなかった。きっと始まった時からそうだったのだろう。
好きになって告白したのも遙香。交際を始めたのも遙香から。だか
ら終わりにするのも、彼女以外ではあり得ない。
﹁﹃どうして?﹄と訊くべきなんだろうね、私は﹂
﹁ええ、教師なら最後まで生徒に付き合って下さい﹂
茶目っ気たっぷりに言いながらも、遙香の表情は硬かった。
﹁他に、もっといい男でも?﹂
﹁違います﹂
﹁あいつに嫌気がさした﹂
﹁いいえ﹂
﹁親御さんにバレた﹂
﹁惜しいですね。半分正解です﹂遙香は非常口前の段差に座り込ん
だ﹁バレかけたんです﹂
よくあることだ。娘と今日遊んでいるはずの友人が、ショッピン
グモールで他の友人と楽しくお喋りしている所に母親が遭遇。互い
に顔見知りならば挨拶ぐらいはするだろう。その同級生の輪の中に
自分の娘がいないことにだってすぐ気付く。では、自分の娘は何処
436
へ?
﹁しつこくて誤魔化すの大変でしたよ﹂
﹁お疲れ様﹂
適当に労いの言葉を掛ければ、遙香はほんの少し非難するように
目を細めた。が、やがて力無く苦笑した。高校生には相応しくない、
諦観を滲ませた笑みだった。
﹁そうですね。私、疲れちゃったのかもしれない﹂
こてんと、立てた膝の上で組んだ腕に頭を乗せる仕草は幼かった。
だからこそ余計に不安定で儚かった。
﹁わからなくなりました﹂
言っていることに一貫性がないが、なんとなく涼は理解できた。
その日、遙香が帰宅したのは夕方の五時過ぎだという。常識の範
囲内の時間と言える。
たしかに友達と遊びに行っていたわけではないが、佐久間と都内
の水族館に行っただけだ。ラブホテルに行ったわけでも、夜遊びを
したわけでもない。ごく普通の健全なデートコース。しかしそれも、
相手が高校生ではなく高校教師であるだけで、隠し通さなければい
けないものになる。
問い詰める両親をはぐらかし、なんとか誤魔化したところで、遙
香は不意に我に返った。
何のためにこんなに必死に隠そうとしているのか。どうして嘘を
重ねなければいけないのか。いつまで続くのか︱︱続けることがで
きるのか。
﹁なんか色々考えたら⋮⋮もう、駄目だなあって思ったの。好きだ
けど、これ以上は無理だって﹂
卒業したら、教師と生徒でなくなれば︱︱それは夢想だ。卒業し
ようが高校生でなくなろうが﹁元・教師と教え子﹂という肩書は一
生ついて回る。一生、だ。中休みもなければ、終わりもない。事あ
るごとに寄せられる偏見や軽蔑、あるいは無邪気で残酷な好奇の視
線に耐えなければない。弁明し続けなければならない。理解を求め
437
て、説明しなければならない。それができないのなら、ひたすら身
を縮めて生きる他ない。
普通の、世間的によくある同年代のカップルならば、全て必要の
ない努力だ。それだけに虚しさがある。他は許されて、どうして、
と。
﹁私は、何も言わないよ﹂
涼は遙香の隣に腰を下ろした。
﹁君の望むことは何一つ言えない。もともと生徒と教師の恋愛には
反対派だし、別れたと聞いて正直安心しているような薄情者だから﹂
向かいにそびえ立つ校舎。その壁の一点を涼は見つめた。すぐ傍
らにいる遙香の顔を見ることはできなかった。
遙香の泣き顔を見たら最後、きっと憐れんでしまう。慰めてしま
う。傷つかないよう、耳触りのいい言葉を並べ立てて誤魔化してし
まう。そんな﹁優しい﹂自分がありありと想像できた。
ただの青春の一ページ。ほろ苦い恋の思い出として片付ける。さ
しずめ﹁周囲の理解を得られなかったがために成就しなかった儚い
恋﹂とでも題して悦に浸ればいい。悪いのは理解を示さない周囲で
あって、自分達は被害者だと。そうすれば傷つかない。
しかし、それだけはできなかった。自分のためにも、遙香本人の
ためにも。
438
︵試合開始︶色恋に首を突っ込むのは野暮です
﹁でも、君はすごいと思うよ﹂
他人との関係を断ち切る時に一番簡単なのは、相手を嫌うことだ。
あるいは理解を示さない周囲を恨むこと。そのどれだって遙香には
できたはずだ。傍から見れば逆恨みかもしれないが、責任を他人に
押し付けるのが楽な方法なのだ。
﹁すごい?﹂
﹁私だったら腹いせに全部暴露してやるかもしれない。校舎の屋上
から恨みつらみを叫んでもいい。自分まで飛び火するのが嫌なら匿
名で学校に密告するね﹂
しかし、遙香は何もしようとしない佐久間を憎んだり嫌ったりし
なかった。責めた両親を恨みもしなかった。ただ、一人でこの関係
に限界を感じ、一人で終わりにする決意をした。
﹁そんなことするわけないじゃない﹂
遙香は呆れたように息を吐いて、少し笑った。
﹁⋮⋮これでも好きだもん﹂
涼は腰を上げた。体育館の方から靴音荒く迫ってくる天下の姿が
視界に入ったからだ。塞ぐように遙香の前に立つ。
﹁リョウ先生?﹂
﹁気にすることはないよ。外野が目くじら立てているだけだ﹂
﹁随分な言い草ですね﹂
会話に割って入ったのは﹃外野﹄もとい天下だった。
﹁俺はこれでもバカップルの尻拭いに一役以上は買ったつもりです
が?﹂
﹁鬼島、﹂
﹁まあ、さすがに渡辺先生には到底及びませんが。それなりに被害
は被っていますし、一体どんな厄介事を押し付けようとしているの
439
かを聞く権利ぐらいは、あると思います﹂
軽く笑みさえ滲ませる表情は酷く獰猛だった。
背後の遙香が唇を噛む気配がした。たぶん、俯いている。振り向
かなくても、遙香がどういう表情を浮かべているのか涼にはたやす
く想像することができた。
﹁体調が芳しくないから休んでいるだけだ﹂
﹁本気で言っているんですか?﹂
﹁冗談も本気も何もそれが事実だ。矢沢さんには休息が必要だと私
は判断する。君の嫌味は彼女の体調を悪化させかねないから、そっ
としておいてほしい﹂
﹁そんな言い分﹂天下は呆れたように肩を落とした﹁通ると思って
んのか? ましてや俺が信じるとでも?﹂
疑いもなく信じるには前科が多過ぎた。当初巻き込んできた時だ
って身勝手だったし、二人でこっそりデートするにも涼を隠れ蓑と
して使っていた。天下の懸念はもっともだった。
﹁君が信じるか信じないかは関係ない。とにかく構うな﹂
﹁矢沢、今度は何があったんだ﹂
埒が明かないと判断した天下は涼を介さずに直接遙香に問い質し
た。遙香は唇を噛んで俯いたまま、答えなかった。涼は無理やり二
人の間に割って入る。
﹁あんたもいい加減にしろよ。何回苦汁舐めたら懲りんだ。自分で
始めたことぐらい自分で責任取らせろ。過保護にも限度があんだよ﹂
正論だ。だが正論を振りかざす天下に涼は苛立った。他人なら許
せたろうに、彼だとどうしても許せなかった。
﹁四度目があると思うな。私は、首を突っ込むな、と言った﹂
ことさら低い声で言ってやれば天下は眉根を寄せた。もはや睥睨
に近い。涼は小さく付け足した。
﹁頼むから﹂
天下は観念したようにため息を吐いた。
﹁変なことに巻き込まれてんじゃねえよな?﹂
440
﹁大丈夫だよ﹂
言ってから返答になっていないことに気付く。案の定、天下は胡
乱な眼差しを強くした。
﹁君が心配するようなことは何もない。ただ残りの話を聞くだけ。
私がするべきことも、できることもない﹂
逡巡すること数秒。天下は首の後ろに手を回して関節を鳴らした。
不満な時にする癖だ。
﹁⋮⋮事情を聞いても?﹂
﹁後でよければ﹂
天下は小さく頷いた。渋々といった風情ではあるが、とりあえず
は引き下がるつもりらしい。時計を確認して呟いた。
﹁試合あるから、先行ってる﹂
ついでに﹁後で見に来て下さいね﹂と優等生口調で付け足すのも
忘れない。転んでもタダでは起きない男だったと、涼は今更ながら
思い出した。譲歩してやるからそっちも譲歩しろ、と言いたいのだ
ろう。
﹁時間が空いてたら﹂
涼は言葉を濁して天下を負い返した。そうとしか言いようがなか
った。
441
︵前半終了︶誰にも干渉されないのも辛いものです
﹁いいんですか?﹂
からかうように訊く遙香だが、そんな弱々しい微笑を浮かべられ
てしまうと涼の反論する気も失せた。
﹁いいよ﹂
﹁あーあ鬼島君、可哀想﹂
﹁放っておけ。勝手に球蹴りでも何でもしていればいい﹂
﹁よく知ってますね﹂遙香は目を伏せた。﹁鬼島君がサッカーやる
の、同じクラスの私ですら知りませんでしたよ?﹂
﹁深い意味はない。校庭の方から来たからそう思っただけだよ﹂
﹁でも、体育館も同じ方向ですよね﹂
変な所で聡い。涼は黙って遙香の隣に腰を下ろした。別に、鬼島
天下が出場する種目をわざわざ調べたわけではなかった。ただ、職
員室から体育館へ足を運ぶ際に、リフティングをする天下を見かけ
ただけだ。積極的に関わろうとしているわけではないが、大勢の生
徒の中で鬼島天下を人一倍意識しているのは否めない。それが、弁
明しようとする口を閉ざさせた。遙香とてそんな事情説明を望んで
はいまい。
遙香はそれ以上追及しなかった。辛うじて浮かべていた笑みを消
して、小さく呟いた。
﹁⋮⋮私、好きだったの﹂
﹁うん﹂
﹁火遊びだとか、そんなつもりじゃなかった。本当に、好きだった
の﹂
﹁知ってるよ﹂
﹁毎日顔見れるだけで幸せだった。話せたらその日、あとのことは
どうでもいいくらい満足してたのに。告白して、OKされた時なん
442
かみっともなく泣いちゃった。ばっちりメイクも決めてきたのに落
ちちゃって、酷い顔になって、それでも嬉しかったのに﹂
嬉しかったろう。幸せだったろう。片想いの人間にとって、相手
が同じように自分を想ってくれることは、考えうる中で最高の結末
だ。そこで終わればきっと、めでたしめでたしで済んだのだろう。
でも現実は違った。
﹁今でも好きなの。ずっと、好き、なのに﹂
嗚咽混じりの声は震えていた。
好きなだけではどうにもならないことがある。恋愛に限らず世の
中のほとんど全てのものに当てはまることを、実際に理解し納得す
るのは難しい。多く心を懸けていれば、なおさらだ。
﹁わかってる﹂涼は俯く遙香の頭に右手を乗せた﹁間違いなく君は
恋をしていた。生半可な気持ちじゃなかった。本気で、彼のことが
好きだったんだ﹂
誰も知らなくても、遙香が情熱をもって恋をしたのは紛れもない
事実だ。だからあとは、誰にも知られないまま、終わらせるだけだ。
遙香は小さく頷くと、膝小僧の上で組んだ腕の中に顔を埋めて泣
いた。普段の彼女からは想像もつかない程、静かに泣いた。
不意に、涼は切なさを覚えた。人目を憚って涙する生徒。不規則
にしゃくりあげる声。安堵とも落胆ともつかない感情が胸を締める。
今、遙香という少女の中で何かが確実に終わりを告げたのだと涼は
悟った。
443
︵選手交代︶ルール上は問題ありません
亮太は半眼で訊ねた。
﹁お前さ、やる気あんのか?﹂
あるに決まってんだろ。こちとら三十分走り通しだ。ゴールを決
めたのは三回。放ったシュートは数知れず。間違いなくチームの勝
利に貢献した功労者だ。少しは称えやがれ。
反論の言葉は声にならなかった。
﹁圧勝してどうすんだよ。次の試合でゆるーく負けてウノする予定
だったのに、満身創痍になりやがって、だっせえ﹂
うるせえ。年下に負ける方がよっぽど屈辱じゃねえか。それも、
あの上原直樹率いる連中なんぞに。
開いた口からは﹁ひゅう﹂という掠れた吐息が漏れる。天下は校
庭の隅でぐったりと座り込んだ。額に張り付いた前髪を払う余裕も
ない。﹁おい、大丈夫かよ﹂と肩を叩くクラスメートに応じる気力
もない。
﹁一年相手に大人げねえなあ﹂
亮太の辛辣な言葉に反論する余地もなかった。たしかに大人げな
かったし、ダサかったし、今現在自分は満身創痍だ。だが、それで
も負けたくはなかったのだ。どうしても。
先ほどのサッカーの試合、前半はナメてかかっていたので結構苦
戦を強いられた。思いの外一年三組にはサッカー経験者が多かった
のもあり、ほとんど攻められっ放し。辛うじて天下がゴールを守っ
ていたものの、放たれたシュートの数は相当なものだった。
負けるかもしれない、と天下は思った。多少悔しい気持ちもあっ
たが、所詮球技大会だしウノかトランプやって残りの時間潰せばい
いや、と高を括ってもいた。
が、後半開始直後に事件は起きた。
444
果敢に攻めていた一年三組の上原直樹が放ったシュートを、あわ
やのところで天下が受け止めたのだ。本日何度目かのファインプレ
ー。そのおかげで散々攻められていながら、決定打を打たせない。
対戦相手である直樹らが疎ましく思うのも無理はない。しかし、だ。
︱︱しつこいなあ。
という言葉は許せるものではなかった。ぼやきと舌打ちを耳にし
た途端、天下の中で何かが弾けた。
その後はもう、自棄だ。
自軍のゴールを捨てて特攻をかまし、皆が呆気に取られている間
にあっさりゴールを決めた。その後も相手のボールを止めたらその
ままドリブルでひたすら攻め込んだ。
突如豹変したゴールキーパにチームメイトはもとより、一年三組
は浮足立つ。その間も天下は捨て身の特攻を繰り返し、アシスト含
めて四点をもぎ取って、勝った。戦略も技術もない、実にみっとも
ない試合だった。まず次は通用しない。
敗因が﹃相手のキーパーが職務放棄して攻めてきたから﹄では消
化不良なのも当然だ。上原直樹も納得がいかない顔をしていた。
﹁⋮⋮まあ次の試合は軽くいこうぜ﹂
気を取り直すように亮太は言った。
﹁で、次はどこだ?﹂
﹁三年二組。さっき勝ってた﹂
天下は腕の中に顔を埋めて﹁あー﹂と呻いた。何故ここで三年二
組。よりにもよって佐久間が担任のクラス。あの、諸悪の根元野郎
が率いる連中。各人に恨みはなくとも叩きのめす動機としてはそれ
だけで十分だ。
もはや腹を括るしかなかった。ここで負けたら男が廃る。天下は
立ち上がった。
﹁勝つぞ、次﹂
﹁ウノは!?﹂
悲鳴に似た声を上げる亮太を余所に、にわかサッカーチームは作
445
戦会議を始めた。
446
︵後半終了︶不意打ちは有効な手段です
傷心の遙香は球技大会を途中退場するのかと思いきや、意外にも
次の試合には出場すると宣言した。
﹁だって最後だもん﹂
当然のように遙香が口にした﹁最後﹂の一言に、涼は彼女が三年
生であることを思い出した。選ぶ道がどうであれ、来年の今頃には、
もう学校にいないのだ。廊下ですれ違うこともなければ、言葉を交
わすこともなくなる。
﹁先生、応援してくれるよね?﹂
﹁相手が音楽科でなければ﹂
来た時と同じく遙香に引きずられるように体育館へ戻る。正直、
悪い気はしなかった。声援を送ることはできないだろうが、一試合
見て結果がどうであれ﹁お疲れ様﹂と労うのもいい。
そんな気持ちで体育館に足を踏み入れた涼を待っていたのは、バ
スケット部部長の石川香織だった。正確には、彼女が待っていたの
は涼ではなく遙香だったが。
﹁矢沢さん、一体どこに行っていたの? みんな探していたのよ﹂
﹁ごめん﹂遙香は素直に頭を下げた﹁ちょっと渡辺先生に相談して
たの﹂
﹃ムカつくバスケ女﹄に詫びる遙香は以前よりもずっと成長したと
言えよう。しかし、おかげで香織の非難の矛先は涼に向けられるこ
とになった。
﹁そう、わかったわ﹂
詮索をしない割に香織の顔は不満げだった。
﹁じゃあ早速だけど、あと五分で試合だから身体あっためておいて﹂
遙香は頷き、足元に転がっていたボールを拾い上げた。既にシュ
ート練習を始めているクラスメートに合流。大丈夫そうだ。
447
﹁学校行事の最中でも生徒の相談に乗るものなんですか?﹂
﹁事と次第によっては、そうかもしれない﹂
香織は胡乱な眼差しを寄こした。
﹁どんな相談ですか?﹂
﹁それは私の口からは言えないよ。矢沢さん本人に訊くべきだ﹂
﹁例えば、です。どんな相談だったら学校行事よりも優先されるん
ですか?﹂
涼は内心辟易しながらも﹁一概には言えない。結局は個人的な判
断だから﹂と答えた。
何のことはない。香織が不快に思っているのは遙香に対してでは
ない。球技大会の真っ最中に生徒を連れ出した涼が気に食わないの
だ。
﹁仮に深刻な悩みを抱えていたとして、普通科の生徒がどうして音
楽科の先生に相談するんです? 大して接点もないのに﹂
﹁去年、普通科芸術選択科目の音楽を担当した際に、矢沢さんとは
何度か話をした。だからじゃないかな﹂
﹁わざわざ科の違う教師に相談する理由がわからないんです。さっ
きの一年生だってそうですし、聞くところによれば音楽科準備室に
は普通科の生徒が頻繁に訪れるそうですね﹂
﹁石川さん﹂
興奮冷めやらぬ勝ち気な瞳とかち合う。涼は自身を落ち着ける意
味も含めて、努めてゆっくりと言った。
﹁何を言っているのかがわからない。つまるところ、君は私にどう
してほしいんだ?﹂
香織は複雑な困惑とも胡乱ともつかない表情を浮かべた。
﹁矢沢さんには親身になるんですね。なら、私の相談にも乗ってく
ださいますか?﹂
﹁音楽科の連中の愚痴を聞くことならできるけど、改善は約束でき
ない。それでも良ければ﹂
﹁渡辺先生でなければ意味がありません﹂
448
冷やかしも何のその。試合を目前に控えた選手のような真剣さで
香織は踏み込んで来た。
﹁私でなければ意味がない?﹂
﹁ええ。簡単に言えば、恋愛相談です﹂
またかよ恋愛。やっと一つ解決したと思ったのに。涼の内心の悪
態に気付くはずもない香織は、真っ直ぐに││危うささえ覚えるく
らいに真っ直ぐに、涼を見据えた。
﹁私、鬼島君が好きなんです﹂
449
︵試合終了︶善悪をわきまえましょう。
あの日のことは、きっと一生忘れない。
高校三年の夏だった。周囲は進学に向けて受験勉強をしている中
で、就職を考える生徒は僅かだ。その少数派の内に入る涼は、学校
に寄せられる数少ない求人情報を吟味する日々を送っていた。
﹁何これ﹂
病院に通うために有給休暇を取っていた彼女と遭遇したのは偶然
か運命か。いずれにせよ、涼のただならぬ気配を察した彼女は自宅
に招き入れて問い質した。
﹁渡された﹂
﹁誰に?﹂
細く整った指が白い封筒を指差す。一万円札が三百枚。生まれて
初めて見る大金だった。
﹁知らない人﹂
﹁見ず知らずの他人がいきなりあんたの手に三百万握らせたわけ?﹂
彼女は鼻で笑った﹁拾ったって言った方がよっぽど説得力あるね﹂
﹁でも向こうは、私のことを知ってた﹂
抑揚のない一言に、彼女は笑みを消した。
﹁⋮⋮ご両親?﹂
﹁私の、父方の祖父は大地主なんだって。会社も経営していて、父
さんもその会社に勤めてて、結構偉い地位で、いわゆる役職なんだ
って。海外に転勤してたんだけど、帰国が決定したらしくて﹂
あとは言うまでもない。ドラマでもお決まりのパターンだ。息子
が凱旋帰国する前に周囲を整えておく。見苦しい過去を清算し、息
450
子の身なりを整えておく。十数年前の﹃不祥事﹄も含めて、全て。
困るんですよね、とその秘書だが弁護士だかは言った。十八年間
バレなかったといってもこれから先もそうあるとは限らない。もち
ろん、過去は消すことはできないし、完全に覆い隠すこともできな
い。でも、限りなくバレる可能性を低くすることはできる。
例えば︱︱遠くの、互いに全く関係のない場所で生きるとか。
﹁それで、三百万ねえ⋮⋮﹂
彼女は懐からタバコを取り出して火を点けた。目を細めてこちら
を見やる。涼は俯いた。顔を上げることができなかった。
他人を馬鹿にした話だ。十八年近くも放置しておいて、いきなり
現れたかと思えば今度は﹁消えてくれ﹂だ。金まで渡して恥ずかし
くないのか。
罵倒の言葉はいくらでも吐けたが、涼がその金を受け取ったのも
事実だった。三百万円。どこまでも相手は狡猾だった。三百万あれ
ば大学へ行ける。都会の音大に通える。棚から牡丹餅の如く降って
きたお金を受け止めるだけ。ただ、それだけで。
何がいけない、と涼は胸中で反論した。最初から選択肢のなかっ
た人生で唯一手にした機会だった。音大に行きたい。他の、何不自
由なく生きる人たちと同じものを手にするためにどうして、自分は
ここまで苦労しなければならない。少しくらい幸運にすがってもい
いじゃないか。
﹁いけない?﹂挑発的に涼は言い放った﹁向こうは私にいなくなっ
てほしい。私は大学に行きたい。利害は一致しているよ﹂
﹁涼﹂
﹁当人同士が納得しているのにどうして責められなきゃいけないの
?﹂
﹁そうだね、あんたの言う通りだ。あんたの親でも家族でもないあ
たしが口を挟めることじゃない﹂
あっさりと彼女は肯定した。勢いを削がれた涼に睨みつけられて
も、彼女は臆することなく真正面から受け止めた。
451
﹁でもね涼、あたしは最初から一言もあんたを責めてないよ﹂
452
三限目︵その一︶断固たる態度で臨みましょう
その後の行動は早かった。彼女は立ち上がったかと思うと洗面所
へ直行。洗顔後に一通りのメイクを施してスーツに袖を通し、いつ
もの営業スタイルになって戻ってきた。
﹁どっちがいいと思う?﹂
両手に持ったネクタイを上げて涼に訊ねる。黒のストライプの入
った赤いか、青を基調とした模様入りか。
﹁早く﹂
急かされるまま、涼は自分から見て左を指差した。正直、赤でも
青でもどちらでもよかった。ネクタイ一つに左右されるほど彼女は
凡庸ではない。
﹁よし﹂
彼女は美しかった。立ちはだかるもの全てに挑むような、不敵そ
のものの面構えさえしていなければ、あるいは今頃家庭に入ってい
たかもしれない。
メモに﹁旅に出ます。探さないでください﹂と書き、その裏に﹁
夜には帰ります﹂と付け足してテーブルに置く。宛名のないメモ書
きは一人息子への伝言だ。ネクタイをきっちりと結び、パンプスを
履いて準備完了。
﹁⋮⋮今から仕事?﹂
﹁メモ見なかったの?﹂
完全武装をした彼女は呆れ顔で言った。
﹁旅に出るのよ。あんたも早く。金、忘れないでね﹂
涼は慌てて学校指定鞄に三百万円を押し込んで、擦り切れた靴を
履いた。スーツを着こなした大人に制服姿の女子高生。散財の旅行
にしては奇妙な格好だった。
﹁どこ行くの?﹂
453
最寄り駅から電車に乗って、三駅程先で降りて改札を抜けても、
彼女は行き先を教えてくれなかった。
駅周辺の繁華街の一角にオフィスを構える会社。ビルの入り口に
記された社名を見てようやく、涼は彼女の目的地を察した。
﹁い、いいよ。無駄だって﹂
スーツの袖を掴むが、彼女は足を止めなかった。むしろ涼を引き
ずるようにしてビルに突入。自動ドア前に控える守衛に軽く会釈し
て、受付へと進んだ。
﹁代表をお願いできますか?﹂
﹁ねえ、やめよう﹂
制止する涼は片手であしらい、彼女は受付嬢に再度取次を頼んだ。
﹁あの、失礼ですが、アポイントは⋮⋮﹂
﹁ありません﹂
受付嬢は顔を曇らせた。その目にはアポイントもなく代表を出せ
と言う得体の知れない輩に対する警戒さえ浮かぶ。
﹁⋮⋮もういいよ﹂
惨めだった。訝しむような目で見られる自分が。たった三百万円
のお金で身を引くと思われたことが。たかが三百万。そのたかが三
百万円の前に萎縮してしまう自分が、たまらなく惨めだった。
彼女は煙草を取り出しくわえた。慣れた仕草でライターを取り出
す。
﹁私どもはただ、これをお返しに上がっただけです﹂
断りもなく涼の鞄から封筒を取り出し、中に詰められた三百万円
をカウンターに置く。
﹁代表はどうやら渡す相手を間違えていらっしゃるようですね。お
返しします﹂
受付嬢は目の前に積まれた大金と彼女の顔を交互に見る。
﹁これは一体、﹂
﹁あ、もう必要ないものですか。では致し方ありません﹂
彼女はおもむろにライターの火を札束に押し付けた。音もなく煙
454
がたなびき、やがて一万円札自体が燃え上がった。突然の暴挙に一
瞬、涼と同じく周囲は呆気に取られる。
﹁な、何を⋮⋮っ!﹂
ようやく事態を飲み込み慌てふためく受付嬢に向かって、彼女は
艶然と微笑んだ。
﹁代表にお伝え願えますか?﹂
言うが否や、右腕の一振りが燃えかけの札束を払った。纏められ
ていたはずの札束は床に散乱。張本人はカウンターに片膝を乗せて、
至って平然と、先ほどの笑みを維持したままで一言告げた。
﹁くたばれ、カスが﹂
ドスの利いた、底冷えするような声だった。表情と声が全く伴っ
ていない。
青ざめる周囲を余所に彼女は来たときと同様に礼儀正しく﹁お忙
しい折に大変失礼致しました﹂と挨拶して颯爽と去った。その際、
立ち竦む涼の手を引くのを忘れない。
﹁帰ろう﹂
されるがままついていくので精一杯だった当時は気づかなかった
か、彼女はきっと微笑んでいたと思う。今まで一番優しい声だった
から想像に難くない。見なくなってわかる。ずっと一緒だったから。
だから余計に、あの時涙で滲んだ自分の視界が恨めしかった。
もう一生、その笑顔を見ることができないのを知っている、今は。
455
︵その二︶でないと流されてしまいます
熱しやすく冷めやすい。若者特有の傾向は三年一組の生徒達にも
当てはまった。翌日になれば球技大会など話題にも登らない。興味
は引退試合、そして受験や進路へと戻る。
︵あ、やべ︶
教室の掲示板に貼られた予定表を確認し、天下は眉を寄せた。
三年生全員が対象の三者面談。鬼島天下の名は火曜日の15時か
らの時間枠に記入されていた。その日、父は出張のはずだ。面談に
は出席できない。母なら││考えるだけ無駄だ。安易な思いつきに
天下は自嘲の笑みを浮かべた。
﹁亮太、おまえ火曜日空いてっか?﹂
﹁その日は部活。無理﹂
英単語帳をぱらぱらめくっていた亮太は首を傾げた。
﹁火曜にやってねえ部活ってあったか? 帰宅部の連中に当たれよ﹂
たしかに、その方が効率的だ。天下は廊下側で談笑している男子
生徒達に目を向けた。さっさと代わってもらおう。足を踏み出しか
けた天下の前に香織が現れる。
﹁私、代わろうか?﹂
願ってもない申し出は非常に魅力的ではあった。ともすれば頷き
そうになるのを天下は辛うじて堪えた。どうしても警戒心が先行す
る。同級生で貸し借りもないが、こと香織に対しては厚意に甘える
ことはできなかった。
﹁天下﹂
返答に窮した折に割り込む声。天下は弾かれたように振り返った。
普段の三割増しの笑顔の矢沢遙香がそこにいた。三年になってから
456
彼女が話しかけてきたのは初めてかもしれない。例のキス事件以来、
気まずさが残って互いに避けていた。
そんな経緯などさっぱり水に流したかのように、あるいは最初か
らなかったかのように遙香は胡散臭い程親しげに訊ねてきた。
﹁大切な話があるの。ちょっといい?﹂
何故呼び捨て? しかも下の名前。違和感を覚えたのは天下一人
だけではなかった。割り込まれた側の香織も目を瞬く。
﹁⋮⋮え?﹂
亮太はポカンと口を開けた。遙香を指差し天下に向かって、
﹁お前まさか﹂
﹁ンなわけねえ﹂
﹁そうよ。邪魔しないでね﹂
天下の声を遮って遙香は堂々と宣言した。
﹁行きましょう﹂
﹁ちょ、ちょっと矢沢さん﹂
﹁ごめんね。こっち優先事項。後にして﹂
香織は適当にあしらい、有無を言わせず天下の腕を取る。それで
もなお止めようとする香織に向かって、遙香は高圧的に言い放った。
﹁三度目はないと思って、私は、邪魔しないでと言ったの﹂
どこかで聞いた台詞だった。そういえば今週はまだ声すら聞いて
ないな。今日は月曜だから当然と言えば当然だが。会えるあてもな
い。
色々思案に暮れている間に天下は連行されて教室の外へ。廊下で
は好奇の眼差しを注がれながら角を曲がり、屋上に続く階段を上ら
される。完全に遙香のペースに乗せられる中、天下は考えを改めた。
勘違いしていた。涼が意志薄弱なのではない。
︵こいつに勢いがあり過ぎるんだ︶
457
︵その三︶恋を知った女性は強いのです
﹁何の用だ﹂
人の気配がなくなるなり、天下はぶっきらぼうに言った。
﹁恩人に対する態度がそれ?﹂遙香は肩を竦めた﹁渡辺先生が苦労
するわけね﹂
﹁お前にだけは言われたくねえ﹂
天下は壁に体を預けた。教室の喧騒がここからは遠い。
﹁で、何かあったのか﹂
遙香がわざわざ人気のない場所に連れ出してまでする話とくれば、
佐久間︵先生は付けない、絶対に︶とのことしか心当たりはない。
一昨々日の金曜は涼を煩わせ、今日は自分だ。その図々しさにはい
っそ感心さえ覚える。
﹁あったはあったけど、それは渡辺先生の方﹂
遙香は尊大に腕を組んだ。
﹁あんた、言動には注意しなさいよ。先生にまで迷惑がかかるじゃ
ない﹂
﹁は?﹂
騒動の元凶に言われる筋合いはなかった。それよりも遙香の口か
ら涼を養護する発言が出てきたことが天下には意外だった。佐久間
はどうなった。
﹁球技大会の時に、あのバスケ女がまた渡辺先生に突っかかってき
たの。﹃どうして石川が?﹄なんて訊かないでね。気付いてないと
は言わせないから﹂
﹁いや、ちょっと待て﹂
長々と続きそうな小言を天下は遮った。
﹁なんで石川が先生にちょっかい出すんだよ﹂
﹁憎き恋敵だからに決まってるじゃない。いくらアプローチしても
458
なびいてくれないあんたが、よりにもよって年上の、音楽教師にぞ
っこんだなんて知ったら、喧嘩の一つでもふっかけたくなるものよ﹂
遙香は鼻を鳴らした。
﹁自覚はあったんでしょ?﹂
質問というより確認。やや責めるような言い方だった。天下は口
を噤んだ。
自覚は、あった。度々向けられる笑顔。物言いたげな眼差し。直
接的な行動はなくとも滲み出るものでわかる。
が、まさか天下の視線の先にまで気づくとは思わなかった。元々、
普通科と音楽科では接点もないに等しいから油断もあったかもしれ
ない。
﹁そんなにわかりやすかったか?﹂
﹁しのぶれど色に出でにけりって言うからね﹂
﹁マジか﹂
﹁冗談よ。私とあの女くらいだって。まず渡辺先生を知ってる人が
少ないし。あんたと先生の二人を知らなきゃまず無理ね﹂
慰めにもなりはしない。天下は前髪をかき上げた。厄介なことに
なった。
﹁石川は何を言った﹂
﹁さあね。まあ想像はつくわ﹂
何のつもりか遙香は胸の前で手を組んで、瞳をきらめかせた。
﹁私、鬼島くんのことが好きなんです。もちろん先生は協力してく
れますよね?﹂
芝居掛かった口調に天下の背筋に寒気が走った。
﹁あとはそうね。教師のくせに生徒を誘惑しないでください! そ
んなんだから鬼島くんは私の方を向いてくれないんじゃない! ⋮
⋮も、ありうるわね﹂
どちらにしても最悪だ。天下は目眩を覚えた。
﹁あんたがバスケ女に対して曖昧な態度を取り続ける限り、報われ
ない恋心が醜ーい嫉妬になって渡辺先生に向かうってわけよ。女の
459
逆恨みは恐いからねー﹂
じゃあどうしろと。天下は半眼で遙香を見た。﹃俺には渡辺涼と
いう惚れた女がいますので、諦めてください﹄とでも言ったら納得
するのか。
遙香は沈んだ空気を振り払うように明るく言った。
﹁ま、とりあえず、次の授業を二人揃ってバックレたら体裁は整う
でしょ﹂
その言葉の意味を察するまでにしばしの時間を要した。
﹁まさかとは思うが、今度は俺とお付き合いごっこしようってんじ
ゃねえだろうな﹂
﹁名案でしょ?﹂
﹁阿呆か﹂
本命とは手すらまともに繋げていないのに、何が哀しくて他の女
と腕組んだり親しげにしなければならないのだ。それに、香織がわ
ざわざ涼本人に突っかかったということは確信しているということ
だ。今さら天下と遙香二人で猿芝居しようと無駄でしかない。
﹁だいたい、なんでお前が俺に協力すんだよ﹂
﹁あんたじゃなくて先生のため。だから、あんたの恋路がどうなろ
うと私の知ったことじゃないから、そのつもりでいてね﹂
遙香の目に面白がる色が浮かぶ。
﹁むしろ邪魔するかも。生徒と教師の恋愛なんて碌なものじゃない
し﹂
﹁てめえが言うか﹂
﹁私だから、よ。経験者の言葉はありがたく受け取った方がいいと
思うけど?﹂
天下は深くため息を吐いた。壁から背を離して階段を降る。後ろ
手にひらひらと振って会話の終了を示した。
﹁ご忠告どーも﹂
﹁ちょっと、どこ行くの?﹂
﹁授業。日本史は一階の移動教室だからな。早めに行かねえと﹂
460
﹁それはつまり、私じゃ駄目だってこと?﹂
﹁別に駄目とかそういう問題じゃねえ﹂
天下は足を止めて振り返った。遙香を見上げて、半ば自棄になっ
て言い放つ。
﹁⋮⋮教室が鑑賞室に近いんだよ﹂
遙香の呆れたような﹁あっそ﹂という声を背に、再び階段を降り
始めた。面倒なことになったと憂う気持ちとは別に、疑心が強くな
る。遙香の言う通り、香織が涼に向かって天下への恋心を告白した
のなら。自分の恋路に協力しろと頼んだのなら││涼は何と答えた
のだろうか。
461
︵その四︶面と向かっては言えないのです
﹁旅に出ます。探さないでください﹂
テーブルの置き手紙に涼は苦笑した。案の定手紙の裏には﹁土曜
の昼には帰ります。お土産は期待しないように﹂との追伸。
どうやら彼女は金曜の定期公演には来られないらしい。寂しさを
覚えるのは事実だが、仕方のないことだった。大学の定期公演会で
一曲歌うことを彼女に何気なく話したのは数日前。その時既に今回
の出張は決まっていたのだ。来てほしいと、言えるはずもなかった。
母親でも家族でもないのに、それでも大学に通わせてくれる彼女に。
涼は置き手紙をカレンダーに留めた。土曜には奮発してマカデミ
アナッツでも買っておこうか。二人でお酒を飲んで、出張と定期公
演の慰労会をするのも悪くない。
そのためにはまず練習だ。定期公演の報告を笑顔でできるように。
涼は鞄を肩に掛けて、大学へ向かった。
涼は壁の時計を盗み見た。十一時四十二分。そろそろ到着してい
る頃だ。
焦燥感をなだめるために深く息を吸って吐く。大丈夫。最寄り駅
からはバスを乗るように伝えたし、バス停までの地図だって渡して
おいた。何かあったら連絡が来るはず││果たして、有事の際に自
分まで連絡は届くのだろうか。
﹁先生?﹂
462
涼は我に返った。いかん。今は授業中だ。怪訝な顔をする生徒達
に向かって﹁すみません。ちょっと考え事してました﹂と詫びて再
開した。
とはいえ、残り時間は僅か。区切りもいいので涼は連絡事項を伝
えて締めることにした。来週に歌の小テストを行うので今まで習っ
た曲の中から好きなのを選んでおくこと。再来週以降は音楽作品鑑
賞をする予定であること。それと、授業とは関係ない宣伝が一つ。
﹁今日の放課後、第二音楽室で校内演奏会を行います。興味がある
方はどなたでもご来場ください﹂
一応返事はするものの、実際に聴きに来る生徒は皆無と言ってい
い。仕方のないことだと涼は思っている。所詮、音楽科生徒の発表
会だし、当然流行りの曲ではなくクラシックが演奏される。ショパ
ンやラフマニノフを好む普通科高校生というのは滅多にいない。目
玉ゲストうんぬんの問題ではないのだ。会の目的は客寄せではない
のだから、いくら音楽科教師が考えようと意味がなかった。
しかし、今回に限っては興味を持った生徒が若干名。
﹁渡辺先生は歌わないんですか?﹂
チャイムも鳴って解散後に教卓へ寄ってきたのは直樹だった。質
問の意図がわからず首を傾げる涼に﹁校内演奏会で﹂と言葉を付け
足す。
﹁音楽科生徒主催の演奏会ですから﹂
﹁あれ? 百瀬先生が今日は歌うって言ってましたけど﹂
直樹の後ろで、一人いそいそと帰り支度をしていた統が足を止め
た。何故そこで反応する? 二人分の視線を浴びた涼は何だかいた
たまれなくなった。
﹁頭数が足りない場合は、たまに歌いますけど。基本的には生徒と
ゲストしか出演はしません。教師はあくまでも裏方です﹂
﹁でも今回は歌うんですよね?﹂
目を輝かせる直樹。嘘をついてまで隠すようなことでもないので、
涼はおざなりに肯定した。妙な気恥ずかしさが胸を占める。
463
﹁合唱部の練習も休みだし、聴きにいこうかな﹂
無邪気な直樹は懐かしい記憶を呼び覚ませた。数年前のことのは
ずなのに、ずいぶん昔のことのように思える。
︵そういえば︶
涼は上着のポケットに手を突っ込んだ。授業中、うんともすんと
も言わなかったケータイ。着信履歴もなかった。
︵どこをほっつき歩いているんだか︶
涼が一抹の不安を覚えた頃、見計らったかのようにケータイが震
えた。
464
︵その五︶臆面もなく言える人もいます
次のバスが来るのは十五分後。時計と時刻表を何回見ても結論は
変わらなかった。
駅までは歩いた方が早い。ちょうど昼休みだし、幸いにも五限目
は校内演奏会の準備時間で受け持ちの授業もない。昼休み中に学校
に戻ればいい。算段をつけると、涼は駅への歩みを開始した。
梅雨は早々に明けて夏を迎えようとしていた。暑さの中では、五
分もしない内に冷静さは取り戻される。鞄を引っさげ飛び出すよう
に学校を離れてしまった失態が、周囲にはどう映るか。直樹や統は
かなり不審に思っただろう。だが、一度染み付いた焦燥感はたやす
く拭い去れるものではなかった。ともすれば駅へ駆け出してしまい
そうな自分を諫める。
今日のように快晴の日は特にいただけなかった。青々とした空は
嫌でも大学在学中最後の定期演奏会のことを思い起こさせる。
交差点で信号待ちをしていた折、背後で引きつるようなブレーキ
音。歩行者用道路で生意気な、とは思うものの、習慣で涼は脇によ
けた。信号が青になったら先に行かせるつもりだ。
進路を空けてやると、自転車は涼の隣へ滑り込んできた。ペダル
を漕ぐ足は黒の学生服を纏っている。
︵││学生服?︶
視線を下に向けたまま、涼は固まった。
﹁こんにちは、先生﹂
ぎこちなく顔を上げた先には、似非優等生がいた。これまた素敵
な笑顔で胡散臭い。
﹁学校はどうした﹂
﹁その言葉、そっくり先生にお返しします﹂
天下は自転車から降りた。サドルの後ろに荷台がある、いわゆる
465
ママチャリだ。
﹁いつから自転車通学になったんだ君は﹂
﹁俺のじゃねえよ。統のだ。借りた﹂
期せずして情報源まで察しのついた涼は空を仰いだ。天下は悪び
れる風もない。
﹁音楽の授業がなくなった時はどうしようかと思ったけど、意外に
繋がりはあるもんだな﹂
涼にしてみれば伏兵だ。関わらなければやがて薄れていくと高を
くくっていただけに、余計。
﹁⋮⋮まさかとは思うが、弟君に音楽を選択するように薦めたりな
んてことは﹂
﹁だとしたら、先生は嬉しいですか?﹂端整な顔に酷薄な笑みが張
り付く﹁俺がなりふり構わず先生との繋がりを持とうとしたら、弟
を利用してまで口説きにかかったとしたら﹂
顔に熱が集中する。見透かしたような口振り。事実、自分が喜ぶ
かはともかくてして、天下ならばやりかねない││そのくらい自分
を好いているのだと涼は思っていた。自意識過剰は否めなかった。
﹁教師をからかうな﹂
﹁本気だって言っただろ﹂
駆け引きだと、天下は言った。
﹁押すばかりじゃアンタは逃げる。多少の駆け引きは必要だろ。そ
して駆け引きは常に選択を迫る﹂
自転車のサドルを軽く小突く。
﹁さて問題です。ここに自転車が一台あります。駅まで徒歩で二十
分。自転車なら十分。どうしますか?﹂
楽しんでいるのは明白だった。子供染みたことを言って、こちら
の反応を見て面白がる。これが﹃からかい﹄ではなくてなんだとい
うのか。
涼は押し黙って横断歩道を渡った。
﹁意地張ってないで乗ったらどうですか﹂
466
﹁二人乗りなんてできるか﹂
﹁その断り文句﹃道路交通法に引っかからなければいい﹄とも聞こ
えますね﹂
自転車を押しつつ天下はついてきた。走りこそしないが競歩並の
スピードで進む涼と同じなのだから彼も相当なものだった。
467
︵その六︶勝手と言いながらも縛られています
﹁いつまでついてくるつもりだ﹂
﹁駅までお供します﹂
﹁結構です﹂
﹁まあ遠慮なさらずに﹂
してねえよ。迷惑がってんだよ、と内心で毒づく。
﹁言っておくが帰りはバスに乗るよ。君が自転車だろうが私には関
係ないからな﹂
突き放した物言いにしかし、天下は目を輝かせた。
﹁心配してんのか?﹂
﹁違う﹂
﹁大した距離じゃねえ。昼休みが終わるまでには帰れる﹂
﹁だから違うって﹂
めげない懲りない反省しないの三拍子。涼の苛立ちは募る。
﹁無意味だと思わないか? 二人乗りなんて論外だし、駅についた
ら私は君を置いてさっさと学校に戻る。君がいようといまいが変わ
らないんだ﹂
天下は神妙な顔をした。首の後ろに手を当てて捻る。
﹁⋮⋮石川が、何か言ったか?﹂
﹁彼女は関係ない﹂
﹁球技大会の時、先生に詰め寄ってたらしいな﹂
﹁ちょっと相談を受けただけだ﹂追及される前に釘をさしておく﹁
内容は言えない。個人的なことだから﹂
﹁俺に関係あることでもか?﹂
関係あるから言えないのだ。涼は言葉を飲み込んだ。同時にやは
りとも思う。香織の想いに天下は気づいていた。そして黙殺してい
たのだと。
468
天下を責めるつもりはない。好きになったのは香織の勝手。天下
が想いに応えられなくて傷つくのもまた香織の勝手だ。
同じように香織が誰に恋愛相談をしようが勝手だし、その結果涼
が傷つこうが天下に責任はない。
﹁なるほど。君は石川さんの相談内容が知りたくてわざわざ追いか
けてきたわけか﹂
涼はわざとらしく腕を組み、何度か頷いてみせた。反論しようと
する天下に捨て台詞よろしく低い声音で言い放つ。
﹁どうしても気になるのなら、本人に直接訊きなさい﹂
足早に駅へ向かう。昼間の微妙な時間のためか人通りは少なかっ
た。
ああ畜生、と胸中でぼやく。地面に唾でも吐きたい気分だった。
どうして自分が。
﹁もういい加減にしてください﹂
先週の金曜、天下への恋心を告白した後に香織は言った。
﹁先生が曖昧な態度を取るから、彼も思い切れないんですよ? 教
師のくせに生徒に思わせぶりな態度を取って振り回して、恥ずかし
くないんですか?﹂
言い方こそ過激ではあったが、前にも指摘されたことだった。や
はり琴音は正しかったのか。悪いのは自分で、反省すべきは自分、
改めるべきは自分なのか。涼は深くため息を吐いた。
どうしてだろう。いつも最善を選んできたはずなのに、どこで誤
ってしまったのだろう。涼にはわからなかった。しかし現実、自分
は天下に淡い期待を抱かせ、香織を悩ませている。
﹁悪かった﹂
天下が筋違いな謝りの文言を口にする。素直に頭を下げる潔さは
嫌いではなかった。そうやって不用意に抱いた好感が積み重なって、
結局天下に期待させてしまったのだろうか。
﹁君が詫びることはないよ﹂
﹁じゃあ駅まで一緒に行っても?﹂
469
﹁よくない。学校に帰りなさい。だいたい駅に何の用があるんだ﹂
﹁駅にはねえよ﹂
天下は苦笑した。
﹁歩いて二十分だろ?﹂
二十分。その通りだ。涼は肯定し、ようやく天下の意図に気がつ
いた。これは自意識過剰にはなるまい。
﹁⋮⋮そこまでやるかね普通﹂
﹁こっちも結構、切羽詰まってんだよ。全然靡いてくれねえもんだ
から﹂
いけしゃあしゃあと言ってのけて、天下は自転車を押した。二人
乗りなど最初からするつもりはなかった。自転車は天下が帰路に使
うために持ってきたのだと、涼は今さら気づいた。
﹁先生が石川とどんな話をしようと二人の勝手。ということは、俺
が駅までチャリ転がしていこうと俺の勝手ってことだよな﹂
正論だ。反論の余地はなかった。押し寄せる敗北感に首を傾げな
がらも涼は諦めることにした。天下が横についていようと構わず駅
へ向かう。
思えば、とりとめのない話をするのは久しぶりだった。天下が涼
の自宅にやってきた時以来だろう。
﹁統は真面目にやってっか?﹂
真面目だとも。相変わらず何考えているのかわからない能面のよ
うな顔をしているけど。間違っても机に腰掛けたり、教師に迫った
りはしない。でも、顔と声はそっくりだ。やっぱり兄弟なんだな。
羨ましいよ。
とっさに浮かんだ言葉は飲み込んで、涼は素っ気なく﹁真面目だ
よ﹂とだけ言った。
﹁ところで、駅まで何しに行くんだ?﹂
﹁エキストラを迎えに﹂
天下は眉を潜めた。当然だ。ただのエキストラならば、涼とて駅
まで迎えになど行かない。学校前まで行くバスの停留所を教えれば
470
済むことだ。それができないのは、そいつの性癖を熟知しているか
らでもあるが、涼にとって普通の生徒や友人とは一線を引いた存在
でもあるからだ。
︵特別な人なんだ︶
昔から、ずっと。きっとこれからも特別であり続ける。彼にとっ
ての自分がそうであるように。
天下が追及しないのをいいことに涼はそれ以上の説明をしなかっ
た。事務的に淡々と、必要最低限のことだけ答える。突き放してい
るという自覚はあった。だが、間違っているとは思わない。
たぶん、これでいいのだろう。
471
︵その七︶沈黙よりも価値のあることを言いましょう
思ったよりも早く駅には到着した。それなりに賑わうロータリー
で周囲を見渡す。目印になるようなものはない。だが、それでも探
し出す自信はあった。
﹁尋ね人は見つかったか?﹂
涼は向かって右手側││学校とは反対方向に向かうバスの停留所
に目を留めた。
﹁うん。いた﹂
﹁早いな﹂
﹁予想通りだけど期待外れな場所だ。まったく世話が焼ける﹂
道路を挟んで向かい側にいる当人はこちらの心情など露とも察せ
ず、ベンチに腰掛けていた。涼やかな顔立ち。綺麗に整えられた髪
は舞台に立つことを常に意識しているから︱︱と言えば聞こえはい
いが、要するに自意識過剰なのだ。すらりと伸びた足を組む様は優
雅でさえある。腹立たしいことに。
﹁じゃ、俺はこの辺で﹂
食い下がるかと思いきや、天下はやけにあっさりと引き下がった。
役目は果たしたと言わんばかりに自転車を反転させて学校へ。
﹁鬼島﹂
いざ天下が振り返ると、涼は言葉に詰まった。何を言おうとして
いたのかがわからない。
もう私には構うな。学生は学生らしく、昼休みは教室でクラスメ
ートと楽しく喋ってなさい。教師に付き合って駅まで歩く必要も意
味もない。石川さんをお勧めするわけじゃないが、やっぱり同年代
の方が話も合うし良いに決まっている。
浮かぶ言葉はどれも呼び止めてまで告げるものではなかった。
﹁どうした?﹂
472
﹁何でもない。気をつけて戻りなさい﹂
天下は一瞬怪訝な顔をしたが﹁先生も、お気をつけて﹂と如才な
く挨拶した。
去られる寂しさは、やがて薄れていくことを涼は知っていた。大
したことじゃない。これが当たり前なのだと涼は自分を納得させた。
左右を確認して道路を渡る。そこでようやくこちらに気付いた彼
は、ベンチに腰掛けたまま片手を上げた。自然と涼の足は早まる。
﹁やあご苦労さん﹂
朗らかな笑顔は最後に見た記憶のそれと全く一緒だった。柔和な
のにどことなく不敵な印象を受けるのは自分が彼の中に彼女の面影
を探しているせいだろう。涼は苦笑した。
﹁久しぶり。相変わらずで何よりだよ﹂
皮肉もなんのその、彼は﹁お腹すいちゃった。何か食べない?﹂
と悪びれもせずに誘った。この神経の図太さもまた親譲りか。
﹁もう昼過ぎだ。こんなに腹が減っていては歌えるものも歌えやし
ない﹂
﹁その点に関しては同感だね﹂
涼は腕を組んだ。ついでに意地悪く右目を細める。
﹁足代として御馳走してくれても罰は当たらないと思うけど、どう
かな?﹂
473
︵その八︶黙っていても察します
本日のエキストラ﹁神崎恭一郎﹂
音大の声楽科出身。元はバリトンだったが、大学生時代にテノー
ルへ転向。その判断は正しかったようだ。ここ数年は国内外問わず
いくつかのコンクールで入賞している。何人か高名と思しき師事し
た音楽家の名が挙げられているが、三大テノールの名前を知ってい
る程度の天下では、その凄さは全くわからなかった。とりあえず、
涼と同じ大学出身の先輩だと結論付けた。だからわざわざ迎えに行
ったのだろう。それで納得︱︱は、できなかった。残念ながら。
天下は略歴の書かれたパンフレットを閉じた。問題なのは神崎恭
一郎ではなく、涼だ。
︵何か、変だ︶
具体的には挙げられないが、涼の態度に煮え切らないものを覚え
た。逡巡、と言うべきか。適切な距離感を計っている。生徒と教師
のあるべき距離を保とうとしているような気がした。それも、さり
気なく。
最初は石川香織が余計なことを言ったせいかと思ったが、一概に
それだけとも言えなかった。涼ならば、生徒の恋路に協力するかは
ともかくとして、アプローチに対しては明確に断わりの意思表示を
する。誤解を招くことがないようにはっきりと。
うやむやにするというのは、一番涼らしからぬ行動だった。
一曲終わり、観客から拍手。その際に天下は会場である音楽室へ
入室した。部活が終わってからでは最後のエキストラの演目しか聴
けないことはわかっていた。だが、涼が歌うと耳にするなりあっさ
りと校内演奏会に行ってしまう自分が恨めしかった。
音楽室は珍しく満席だった。統と直樹が前方の席に座っているの
を視界の端で確認しつつ、天下は立ち見よろしく壁に背中を預けた。
474
舞台上ではピアノを伴奏に本日のエキストラが美声を披露。間近
で見る神崎恭一郎は一言でいえば優男だった。美形ではあるが、一
体あの細身のどこから大音声が出るのか不思議になるような男だっ
た。
だが、そこはやはり涼の先輩なだけはあって、選曲センスは良か
った。オペラでは﹃トゥーランドット﹄より﹃誰も寝てはならぬ﹄
を歌い、その後は﹃ふるさと﹄等の民謡から数曲を選んで歌い上げ
た。これならば声楽に明るくない一般人でも楽しめるだろう。観客
の拍手も盛大なものだった。
﹁ではアンコールとして合唱曲を﹂
プログラムには記載されない曲。恭一郎は﹃さびしいカシの木﹄
だと紹介した。ご丁寧に作詞者と作曲者まで。作詞者の名前に聞き
覚えがあって天下は眉を寄せた。
舞台上に涼と理恵、そして音楽科主任が現れたのは、作詞者が某
絵本の作者であることを天下が思い出した時とほぼ同時だった。な
るほど四部合唱ならば涼とて断れなかったろう。その涼の立ち位置
は恭一郎の隣︱︱アルトだった。それが天下には意外だった。ソプ
ラノではなかったのか。
先陣を切って歌い出したのは当然ながら、エキストラの恭一郎だっ
た。
のびのびと通るテノールの独唱。折り重なるように加わった理恵
のソプラノが旋律を引き継ぎ、澄んだ歌声を響かせる。支えるのは
重厚なバス。そして肝心要の涼は、完全に脇役だった。ソプラノを
支え、奔放なテノールとの間に立ち調和を成していた。ともすれば
一つのハーモニーの中に溶けて消え入りそうな、引き立て役だった。
カシの木の歌。童謡に分類されるのだろうか、作詞がやなせたか
しであるだけに歌詞自体は単純で明快な言葉ばかりだった。
独りにならない居場所。一緒にいてくれるもの。寂しいカシの木
は雲や風に求め、探し続ける。しかし何一つとして果たされない。
どれだけ悩み苦しみ切実に求めても、結局は山の上でたったひとり。
475
哀愁漂うソプラノの旋律を他パートの声が彩る。穏やかで、丁寧に
織り込むような和声なだけに胸に染み入るものがあった。
︱︱さびしいことになれてしまった
結びの歌詞に天下は目を眇めた。
慣れる。一緒に暮らしてほしいと願った風がどこかへ消えてしま
ったことも。母親に忘れ去られて、最初からいなかったことにされ
たことも、ただの﹁さびしさ﹂で片付けられることなのだろうか。
慣れてしまえば、どうということではないのか。月日の経過で解決
するのか。とてもそうは思えなかった。
舞台上の涼が、何故か天下には遠く感じた。
476
︵その九︶沈黙は時に苦痛にもなります
﹁あれ? 鬼島先輩⋮⋮﹂
音楽室を出たところで直樹が声をあげた。僅か一ヶ月いただけの
部活の先輩を覚えているのはさすがというべきか。あるいは統の兄
だからか、もしくは球技大会で大人気ない行動を起こした三年だか
らか。直樹の中での鬼島天下の認識がどうなっているのかはわから
なかった。
﹁先輩も演奏会に?﹂
いちゃ悪いか。場違いはお互い様だ。
天下は直樹の顔を改めて見た。どことなく色素が薄く、やや神経
質そうな顔立ちをしていた。現に天下を見つめる眼差しには訝しむ
色が濃い。
ともすれば睨み返しそうになる幼い自分を抑え、天下は直樹から
目を逸らした。
﹁統、いいか?﹂
少ない言葉からも統は的確に兄の意図を汲み取って頷いた。彼な
りの別れの挨拶のつもりか直樹の肩を軽く叩いて、天下の元へ。
﹁⋮⋮じゃあ、また明日﹂
取り残される格好となった直樹は首を傾げながらも大人しく引き
下がる。帰路につく観客の流れを避けるように、天下と統は渡り廊
下の端に身を寄せた。人が大分少なくなくなったのを確認してから、
天下は﹁親父はいつ帰るって?﹂と口火を切った。
﹁金曜﹂
﹁今週もずっと出張か。ご苦労なこって﹂
相談するならメールが早い。しかし、たかが三者面談のために仕
事の予定をずらせるとは思えなかった。合わせるべきなのは、天下
の方だ。
477
﹁面倒だな﹂
クラスメートに片っ端から当たれば、日程を交換してくれる人く
らい多少はいるだろう。難しいことではない。ただ、普通の一般家
庭││母親が三者面談に出席するならば、そもそも浮上しない問題
だった。少なくとも選択肢はもっとあるはずだ。
︵⋮⋮やめだ。無意味過ぎる︶
今更境遇を嘆いたとしても状況が変わるわけじゃない。天下は気
を取り直して、明日何人かに打診することを考えた。
﹁わかった。みんなによろしくな。来週の日曜にはまた帰る﹂
統は物言いたげな顔をしていた。元々無口な弟だ。天下は大して
気に留めずに早く帰るよう促した。
﹁兄貴、好き?﹂
唐突な上に目的語がない。天下は統の視線の先を手繰った。第二
音楽室。さっきまで校内演奏会が行われていた場所。たしかに受験
を控えた普通科生徒が行くには不自然な場所ではあった。普段の天
下を知る弟ならば、なおさら。
﹁それなりには﹂
下心はあった。当然だ。好いている涼が惚れ込んでいるからこそ、
天下もまた音楽に興味を持ったのだ。それを不純な動機だと責めら
れる謂われはなかった。
しかし、それ以上追及してこない統に助けられたのも事実。﹃そ
れなり﹄に好きなだけの音楽のため部活帰りにわざわざ足を運ぶの
か。普通ならば浮かぶであろう疑問を統は訊かずに去った。
後ろめたいことなどないはずなのに、秘密は増えていく。弟に対
してさえも、だ。不条理さを覚えずにはいられなかった。理由なん
て単純だ。惚れた人が歌うと聞いてやってきた。それだけのことが、
どうして言えないのだろう。
﹁どうかしたのかい?﹂
耳元で声。酷く近い。天下は弾かれるように顔をあげた。ついで
に身を引いた。
478
︵その十︶第一印象が九割を占めます
﹁ああ、ごめん。深刻な顔で見ているから、何かあったのかと思っ
たんだ﹂
悪びれることなく微笑んだ男の顔には見覚えがあった。ついさっ
き舞台上で、だ。テノール。エキストラとして呼ばれていた神崎恭
一郎だった。同じ正装姿でも本番時とは違ってどことなくおっとり
とした雰囲気だった。おそらく、これが素なのだろう。
﹁元々、こういう顔です﹂
﹁そうみたいだね﹂
柔らかい微笑に、天下は警戒心を強くした。普段自身がやってい
るだけに、こういう胡散臭い笑顔には敏感だった。一見人畜無害そ
うでいて隙がない。
﹁もしかして君、涼の教え子?﹂
渡辺涼の名前を正確に知っている。天下の中で警鐘が鳴った。か
なり親しい間柄と見て間違いない。警戒心をおくびにも出さずに天
下はそつなく答えた。
﹁普通科の三年です。芸術選択で、渡辺先生には一年教わりました﹂
﹁へえ、音楽に興味があるのかい?﹂
﹁⋮⋮多少は﹂
的確に言うならば、涼があれほどの情熱を注ぐものに興味がある
のだ。しかしそんなこと、初対面の恭一郎に言えるはずもない。深
く追及される前に天下は話題を逸らすことにした。
﹁渡辺先生は、てっきりソプラノだと思ってました。ソプラノとア
ルトってそんなに変わらないものなんですか?﹂
﹁いいや、全然違うよ。そもそも涼はアルトじゃなくてもメゾソプ
ラノ﹂
恭一郎は襟を緩めた。無造作な仕草に手慣れたものを感じた。
479
﹁ただ、ソプラノとアルトみたいに音域が明確にわかれているわけ
じゃないから、一般の人には判別つかないかもしれない。要するに
音質だよ。声が華やかだとソプラノ。陰りがあればメゾ。より厚く
て深みがあればアルト﹂
﹁声楽では重要なことですよね﹂
﹁形が似ていてもヴァイオリンはヴィオラにはなれないのと同じく
らい﹂
﹁腹立ちますよね、間違えられていたら﹂
﹁少なくともいい気分はしないだろうね﹂
﹁普通、訂正しませんか?﹂
ほんの少しだけ考える素振りを見せつつも、あっさりと恭一郎は
言った。
﹁面倒だったんじゃないかな﹂
﹁め、面倒って⋮⋮﹂
天下は言葉を失った。だがしかし、自分の名前すらも﹁リョウ﹂
のまま通しているような女だ。ソプラノと称される度にいちいち﹁
いえ、メゾソプラノです﹂と訂正するとは思えなかった。
﹁別にみんなで合唱するわけじゃないんだ。自分の声音を多少間違
って覚えられようとなんの支障もない。音楽科の教師はメゾだって
ことを知っているだろうし、それで十分だよ﹂
そう、渡辺涼はある一点において実に諦めの早い人間と言えた。
他人の理解を必要以上に求めない。遙香や琴音のことならいざ知ら
ず、自分に関しては誤解されても弁明しようともしない。自分の立
場、状態、思考を理解してもらおうなどとは最初から考えてもいな
いようでもあった。故に他者と一線を引いているように感じさせる
のだろう。
天下に対してさえも、その態度は変わることがなかった。
480
︵その十一︶意外に複雑なのです
﹁神崎﹂
噂をすればなんとやら。第二音楽室から現れた涼は天下の姿を認
めて一瞬、怪訝な顔をした。
﹁やあ涼、お疲れ様﹂
朗らかに応じた恭一郎に対し、涼は素っ気なく﹁お疲れ様﹂と返
す。
﹁お疲れのところを申し訳ないけど、改めて主任に挨拶して。音楽
科準備室にいるから﹂
言葉の割には涼の口調には遠慮が全くなかった。気の置けない仲。
大袈裟に肩を竦める恭一郎もまんざらではなさそうだ。
﹁これだから教職は⋮⋮人使いが荒いねえ﹂
﹁黙れ迷子。ただでさえ忙しいのに駅まで迎えに来させやがって﹂
﹁そう、それだ﹂
恭一郎はしきりに頷いた。
﹁言いそびれたけど、さっきはどうもありがとう。僕の危機を察し
てわざわざ迎えに来てくれる君の愛には感動したよ。舞台の上だっ
たらアリアの一つでも熱唱しただろう﹂
﹁社会人になっても一人じゃ学校にたどり着けないあんたに私は失
望したよ。最寄り駅にまで着いたのになんでバス停を間違うのかな
?﹂
﹁不思議だねえ﹂
﹁まったく不可解だね﹂
皮肉をもろともせずに恭一郎は涼の肩を軽く叩いた。琴音と同等
││いや、それ以上の気安さに天下は眉を顰めた。
﹁あの、お二人は同大なんですか?﹂
﹁そうだよ。同じ声楽科でこの人は二つ上の先輩﹂
481
それにしても親し過ぎやしないか。涼が嘘をついているとは思え
なかったが、全てを話しているとも思えなかった。
﹁物心つく頃からの縁なんだ。小学校も、中学校も一緒だったし﹂
恭一郎が補足する。それでようやく天下は納得した。琴音よりも
気兼ねないわけだ。
﹁幼なじみなんですね﹂
天下にしてみれば他意のない一言にしかし、涼の顔が強張った。
﹁あー⋮⋮まあ、そういうことになりますかね﹂
歯切れが悪くおまけに敬語口調だ。これで不審に思わない方がお
かしい。追及しようと天下が口を開きかけたその折││
﹁兄妹だよ﹂
はっきりと、言った。
弾かれたように涼は恭一郎の方を向く。隣のあからさまな動揺に
も恭一郎は頓着せず、天下を真っ直ぐに見据えた。挑むような眼差
しだった。見られているこちらがたじろぐ。
﹁え、でも⋮⋮﹂
﹁音楽科準備室は下だったよね。先行っとく﹂
何事もなかったかのように恭一郎は言った。朗らかな笑顔が向け
られるのは涼に対してだけだ。天下のことなどもはや眼中にない。
疑問を差し挟む余地すら与えずに恭一郎はきびすを返す。
気に食わなかった。その背に向かって﹁階段下りて右だよ﹂と念
を押す涼も、また。
﹁納得できないって顔しているね﹂
涼は少し困ったように微笑んだ。聞き分けのない子供に対するの
と同じ態度に天下の不快感は増した。
﹁理由を訊いていいか?﹂
﹁どうぞ。君が思うほど大したことじゃない。口にしてしまえば至
極簡単だ﹂
と前置きしてから、涼は淡々と語り出した。
﹁私も神崎も養護施設で育った。あいつは親戚に引き取られて施設
482
からは出ていったけど、その後も家が近かったからずっと一緒だっ
たよ。私は親も兄弟もいないから、ああやって﹃兄妹﹄だと言って
くれてる。だから幼なじみと言うよりは兄﹃みたいな人﹄と言った
方が的確だね。もちろん血は一滴も繋がっていないし戸籍上も赤の
他人だ。同じ大学で同じ声楽科に入れたのは幸運だったけど、私は
育英会からもらった奨学金返済が免除になるという不届きな理由で
教師を目指して、あいつは逆に金にものを言わせてイタリアへ留学
したから会うのは年に数回になりました。はい、おしまい﹂
あらすじを語るかのごとく一気に語られてから﹁な? 単純だろ
?﹂と言われても天下は答えることができなかった。
養護施設。親がいない。一般的とは言い難い単語に言葉を失う。
想像だにしていなかった。﹃そういう人もいる﹄と知識はあって
も、実際に知っていたわけではない。家族のいない子供がどう生き
て教職の道を歩んだのか。今でも天下には想像することさえできな
いのだ。あまりにも自分とはかけ離れていて。
知らないことは多くあった。しかし天下はそれ以上、涼に訊ねら
れなかった。当然のことのように語る涼だから、なおさらだった。
﹁そうか﹂
平然を装って呟いた。聞いてはいけないことを聞いたような気が
した。安易に踏み込んでしまった罪悪感が胸を占める。
﹁悪かったな﹂
﹁どうして?﹂涼は首を傾げた。﹁君が謝る理由はどこにもないよ﹂
稚さの残る無防備な仕草だった。皮肉でもなく、心からそう思っ
ているのがわかる。天下には責任のないことだと。涼の意思を正確
に汲み取ったが故に天下は苦しくなった。
責任がない。つまりそれは、関係もないということだ。
483
︵その十二︶慣れというのは恐ろしいものです
音楽科主任に挨拶して早々に恭一郎は解放された。対する涼とい
えば、録音のチェックも終われば本日の業務は終了。一緒に帰ろう
という恭一郎の誘いを断る理由はない。
﹁お腹すいたねえ﹂
校門を出るなり恭一郎が呟く。涼も同感だった。歌に限らず演奏
は体力を消耗する。駅近辺の牛丼チェーン店に入り、それぞれ注文
してから一息ついた。
涼は上着を脱いでネクタイを緩めた。同じく上着を椅子に掛けた
恭一郎が首元を指す。
﹁ネクタイ、まだ捨ててないの?﹂
﹁おかげ様で毎朝着替えには苦労しないよ﹂
数えたことはないが、涼のクローゼットには、毎日替えても一ヵ
月は優に過ごせる程の大量のネクタイが収められている。その大半
が彼女から貰ったものだ。
ネクタイは形見だった。彼女の、ではない。彼女と自分が一緒に
いた形見だった。
有言実行を信条とする彼女だったが、最後に一つだけ果たせなか
ったものがあった。手紙に書いた土曜日に彼女は帰って来なかった。
金曜の夕方、出張先から戻る途中に駅で倒れて、病院に運ばれてす
ぐに亡くなったらしい。元々、身体はあまり丈夫な方ではなかった
から、不思議なことではなかった。
夏だったので葬儀は翌日。彼女が勤めていた会社でしめやかに行
われ、遺品や身辺整理は訃報を受けて急遽帰国した恭一郎に一任さ
れた。何の問題もなく、つつがなく彼女は弔われた。涼を置き去り
にして。
484
恭一郎はお冷を口にしつつ、しみじみと呟いた。
﹁もう三年かぁ⋮⋮﹂
三年だ。涼の預かり知らない時に彼女が勝手に死んでから、三年
の月日が経った。それでもなお彼女の死は涼の中に暗い陰を落とし
ている。
﹁あの日も牛丼食べたよね﹂
﹁鳥丼﹂涼は目の前に置かれた丼に箸を伸ばして訂正した﹁私は牛
丼なんて食べてない﹂
弁当は用意されていなかった。渡辺涼は頭数に入っていなかった
のだから、当然のことだった。一人あぶれた涼を連れ出して牛丼屋
で昼飯を食べたのは、他ならない喪主であるはずの恭一郎だった。
﹁相変わらず君は細かいね。変なところで気を遣うし﹂
﹁変なところ?﹂
恭一郎は行儀悪くも箸の先を涼の丼に向けた。
﹁牛丼屋に入って牛丼以外の物を頼むところ。せいぜい百円くらい
しか金額は変わらないってのに﹂
﹁牛肉はあんまり好きじゃない﹂
﹁あんまり食べなかったから慣れてないと言うべきじゃないかな﹂
恭一郎はこれ見よがしに大きく口を開けて牛肉を口に入れた。
涼には不味そうには見えなかったが、積極的に食べようとも思わ
なかった。自分にとってどうでもいいことならば安い方を選ぶ。そ
れが普通だ。﹃他人﹄に奢られる場合ならば尚更。
あの時も安い鳥丼を機械的に選んで口に入れただけだ。味なんか
覚えていない︱︱そもそも味がわからなかった。彼女が死んだとい
う事実だけが頭の中をぐるぐる巡って、収拾がつかなかった。
﹁そこまで困窮していた覚えはない。裕福でもなかったけどね﹂
悲しかったのは彼女を喪ったこと。絶望したのは、失うような
ものなど自分には最初からなかったことだ。
彼女と涼は他人だった。一緒に住んでいようと、親同然に慕って
いたとしても、どれだけ愛していようとも、二人は、他人だった。
485
吹聴するようなことでもないので、彼女は同居人のことを誰にも
言っていなかった。結果、涼が訃報を知ったのは彼女が火葬場に運
ばれた時だった。知らなかった。彼女が金曜に死んだことも。その
財布に大学の定期公演のチケットが入っていたことも、恭一郎から
連絡が入るまで涼は全く知らなかったのだ。
﹁つまりは習慣だろう?﹂恭一郎は紙ナプキンで口元をぬぐった﹁
貧乏根性が染みついているんだよ。カシの木と一緒さ。寂しいこと
にも慣れてしまった﹂
三年前を思い起こす仕草に涼は薄く笑った。
音楽家は親の死に目には逢えないと言うが、葬式にすら出席でき
ないとは。笑ってしまうような話だった。
﹁ついてるよ﹂
涼が自身の右頬を指すと、恭一郎は左頬を拭った。逆だ。涼はナ
プキンを恭一郎の右頬に当てて、拭いてやった。
﹁あんたは相変わらず抜けてるね﹂
﹁涼みたいに四六時中気を張っていないからね。肩凝らない? リ
ラックスこそが舞台で成功する鍵だよ﹂
﹁貴重なアドバイスどーも﹂
涼はなげやりに言った。変わる要素がなければそうそう人間はか
わらない。彼女が死んだ時でさえそうだったのだ。
﹃他人﹄が死んでも涼の生活が変わるわけではなかった。バイトに
大学の講義、論文の提出とに忙殺され、それでもなんとか教員免許
を取って、県立高校の音楽教師として就職が決まって、周囲にも気
づかれない程、今まで通りに過ごしたのだ。
まるで二人で暮らした日々など最初からなかったかのような平常
振りだった。
倒れそうな程苦しくても口は課題曲を高らかに歌い、泣きそうな
くらい悲しくても涙は流せなかった。
喪失感があるはずがない。彼女は﹃他人﹄だ。﹃他人﹄の死を悲
しむのはおかしい。最初から、何もなかったのだから。
486
︵その十三︶否定しなければ呑まれてしまいます。
﹁あーあ、さっきの札束から二、三枚くらい諭吉抜いとけばよかっ
た﹂
冗談とも本気ともつかない口調で、彼女はぼやいた。
再び駅へ向かう途中で立ち寄った公園。帰路につく子供を遠目に
ブランコに座った。いい歳した大人と泣きはらした目をした高校生
が並んで遊具に座る様は、周囲からすれば奇妙に映っただろう。涼
は始終、足元を見ていた。
縦長に伸びる二つの影。隣の影は鞄から煙草を取り出しくわえた。
カチッという火打ちの音がやけに耳に響く。
﹁涼、あんた大学行きな。金ならあたしが出すから﹂
しばし煙草をくゆらせていた彼女が、唐突に言った。
﹁ただし、貸すだけだからね。あんたが社会人になったらきっちり
返済すること。一文だって負けないから﹂
思い出したようにネクタイを緩める。本業は営業とはいえ、女性
にしては珍しいネクタイにスーツは彼女曰く﹁戦闘服﹂だそうだ。
言い得て妙な表現だった。
﹁返事は?﹂
涼は答えることができなかった。完全武装の相手に対しこちらは
完全無防備だ。戦う気力すらなかった。先ほどからずっとそうだ。
彼女が啖呵を切るのを当の涼は茫然と見ていただけ。
﹁涼、私はね、世の中には受け取っていいものと受け取っちゃいけ
ないものがあると思ってる。私からの援助は前者。さっき突っ返し
た金は後者﹂
彼女は煙と一緒にため息をついた。
487
﹁あんたもわかってんでしょ? あのお金は決して謝罪のつもりで
渡したんじゃない。連中は十八年前のことを謝る気なんかこれっぽ
っちもない。それどころか悪いとさえ思っていないかもしれない。
あれは、言い訳のために用意した金だよ。自分を正当化して身を守
るためだけに用意したんだ﹂
ややつり気味の瞳が意地悪く眇められる。彼女は鼻を鳴らした。
﹁もし、あのまま代表のところにまで押し掛けて問い質したら、き
っとぺらぺら言い訳を並べ立てるだろうね。あの時息子は若かった。
何も知らなかった。そんなつもりじゃなかった。自分もこの十八年
間苦しんできた。秘密を抱えることになった自分達こそ被害者だと﹂
短くなった煙草を苛立ちに任せて地面に捨て︱︱ようとして、懐
から携帯灰皿を取り出して入れる。こなれた仕草だった。
﹁その際限のない言い訳の塊があの金だ。たとえあんたが欲しがっ
ても、受け取らせるわけにはいかない。何度でも連中に突っ返す。
絶対に、決して、断じて、あたしは受け入れない。あいつらの言い
分なんか死んでも認めない。それは︱︱﹂
彼女は涼に人差し指を突きつけた。
﹁それは、あんたを貶めることに等しい﹂
淡々とした口調には、先ほど会社で見せた啖呵とは打って変わっ
て冷静さがあった。涼は唐突に悟った。彼女が金を渡して事なきを
得ようとした連中に対して抱いたのは、生理的な嫌悪ではなかった。
感情的な激怒とも違う。揺るぎない意思が生み出す憎悪だった。
間違ってもこんな連中と同種の人間にはなるまいという意志だ。
﹁⋮⋮正直、あたしは音楽に関してはさっぱりだし、音大行かせる
くらいだったら専門学校にでも行かせたいんだけど﹂
そういえば恭一郎が音大に進学する際も彼女は反対していた。費
用がかかる割に音大の就職率は一般大学のそれに比べて低い。将来
のことを考えているのかと恭一郎にしつこく問い、諭そうともした。
育ちがそうさせるのだろう。世間の厳しさを彼女は十分知ってい
る。夢だけで食べていけるほどこの世の中は甘くない。それでも夢
488
を追うのなら相応以上のものを賭けなくてはならない。何も持って
いないところからスタートする者なら尚更だ。
だが最終的には、彼女は苦笑した。
﹁あんたに投資するよ。少なくとも三百万ごときで買えるような人
間じゃないってことは、あたしが知ってる﹂
彼女の困ったような微笑みは、以前恭一郎に向けたものと全く同
じだった。何故だろう。涼の目頭が再び熱を持ちはじめた。甥なら
ばまだしも、どうして血の繋がりもない他人をそこまで信じられる
のだろう。
感傷的な雰囲気を振り払うように彼女は突然明るく訊ねた。
﹁ねえ涼、大学卒業して就職して全部返し終わったら、あたしのお
願いきいてくれる?﹂
﹁今でもいいよ﹂
﹁いや、今はちょっと⋮⋮﹂彼女にしては珍しく口ごもる﹁たぶん、
あんたが稼げる頃になればハッキリすることだと思うから、ね?﹂
何が﹁ね?﹂なのかはよくわからなかったが、とりあえず涼は頷
いた。
﹁そういえば恭一郎、今日はバイト休みだっけ?﹂
﹁夕方には練習も終わるって言ってた﹂
そっか、と彼女は小さく呟いた。勢いよくブランコから立ち上が
り、涼の方を向く。
﹁じゃあ三人でどっか行こう。何食べたい?﹂
何でも良かった。
嘘なんかじゃなく、本当に涼は何でも良かったのだ。彼女と、一
緒なら。
489
四限目︵その一︶霹靂とは雷のことです
﹁大学の先輩?﹂
直樹は椅子を並べる手を止めて複唱した。
合唱部の練習も終わった放課後のことだった。鑑賞室に残るのは
後片付けに勤しむ一年生と、練習予定を組む三役他パートリーダー
達、そして責任者である涼。手を動かしながらの雑談中に、昨日の
校内演奏会が話題に上った。すなわち、ゲストである神崎恭一郎が。
﹁大学の先輩です﹂
楽譜を揃えつつ、涼は肯定した。
﹁ただの?﹂
﹁普通の先輩後輩よりは親しい、とは思う。幼馴染でもあるわけだ
し、音楽の趣味も合う﹂
﹁てっきり彼氏かと思いましたよ﹂
あっけらかんと会話に乱入したのは声楽部部長だった。ミーティ
ングは早くも終わり、解散したらしい。
﹁それはない。だいたいあいつ、彼女いるから﹂
部長は残念そうに肩を竦めた。
﹁なんだあ。お似合いだと思ったのに﹂
お似合い。初めて言われる言葉だった。物珍しい気持ちも相まっ
て涼は部長の顔をまじまじと眺めた。嘘を吐いている様子はない
﹁知らないんですか。音楽科じゃあ噂になってますよ﹂
﹁昨日だけで?﹂
﹁二人で仲良く食事したら十分です。女子高生の恋愛レーダーをな
めちゃいけません。感度すっごくいいんですから﹂
﹁その様子だと、違うものにも反応しているようだけどね﹂
﹁まあ、多少そういう話題に飢えているせいもあります。受験生で
すから、一応﹂
490
それにしても意外だった。大学生の時も涼と恭一郎の仲を男女の
恋愛と勘違いする者は大勢いたが、大抵は﹃不釣合い﹄と断じてい
た。自分は昔からこんな性格だし、対する恭一郎は表向き温厚な性
格だし、顔も悪くない。何よりも彼は将来有望な大学生だった。合
唱部引退前の定期公演会でプリモ・ウォーモに選ばれるくらい。
﹁でも本当にいいなって思ったんですよ? 同じ声楽なら話も合う
し、一緒に歌うことだってできるじゃないですか。音楽科なら憧れ
ますよ、そういうの﹂
﹁二人で愛のハーモニーでも奏でろと?﹂
涼の皮肉にしかし、部長は﹁そうそう﹂と嬉しそうに同意した。
﹁あー、でも俺もなんとなくわかりますよ、それ﹂
直樹までもが話に乗ってくる。
﹁専門的にやっている人じゃないとわからない、っていう雰囲気が
ありますよね。特にクラシックとか。俺もお袋が昔ヴァイオリンや
ってて、今でもクラシック以外は音楽じゃないみたいな感じなんで
すよ。だからつい反発して﹂
その気持ちは涼も多少理解できた。母親の心情も直樹の反発も。
ちまたのアイドルグループはなにゆえ十分以上に頭数が揃っている
のに始終全員で同じ旋律を歌い続けているのだろうか、と今でも時
々思う。かといって自分の専門であるクラシックが音楽ではないと
否定されれば反発もするだろう。それで試験の答案用紙を白紙で提
出するかはまた別の問題だが。
﹁音大生時代はどっかのコンクールで入賞したこともあるって本人
は自慢してましたけど、玉木千夏なんてヴァイオリニスト、聞いた
ことないでしょう?﹂
﹃百年に一度の逸材﹄と呼ばれる者が三年に一人の頻度で現れるよ
うな業界だ。生き残るにはそれこそ百年に一度の才能と強運がなけ
れば。
現に玉木千夏というヴァイオリニストなんて、名は、聞いた、こ
と、も︱︱
491
たまき ちなつ
どこかで、聞いたことがあるような。首を捻った直後、涼は愕然
とした。玉木千夏。いつの間にか落ちていたボールペンを拾う自分
の手には感覚がなく、まるで遠い出来事のように思えた。身体の芯
が冷える。そのくせ心臓の鼓動はやけに大きく聞こえた。
今となっては、すぐに気付かなかったことが不思議でならなかっ
た。忘れるはずがない。七年前、三百万と一緒に押し付けられた事
実。二人は高校の同級生で、故に十七で子供を生むなどという無責
任なことをしでかした。その挙句、丸投げした女の名。
﹁うーん、聞いたことはないねえ﹂
﹁でしょ? どーせ地元のちっこいコンクールですよ﹂
部長と直樹によるのどかな会話は頭を素通りする。涼は楽譜を掴
むと挨拶もそこそこに、おぼつかない足取りでなんとか準備室へと
逃げ込んだ。
幸か不幸か、音楽科準備室には誰もいなかった。主任は出張。他
の教師達も今日はそれぞれの用で既に学校から出ている︱︱いや、
そんなことはどうでもいい。
玉木千夏と、直樹は言った。
自分の母だと。
結婚して性が変わったのだろう。だから今までも気づかなかった。
考えさえ、しなかった。そもそも誰が想像し得ただろう。まさか二
十四年前に自分を捨てた女が、一方的に涼との縁を断ち切った母親
が、こんなに近くにいたなんて。その息子が同じ高校に生徒として
入ってくるなんて。玉木千夏の息子が、上原直樹だったなんて。
ということは、直樹は︱︱掠れた声が漏れる。
﹁⋮⋮おとうと?﹂
﹃彼女﹄や恭一郎のような﹁家族みたいなもの﹂ではなく、血の繋
がった肉親。
492
涼の手から楽譜が滑り落ちた。
身体が、熱いのに、寒い。鉛のように重くて腕一つ動かせないの
に浮遊感を覚える。足元がおぼつかないのに踏みしめた床は明確に
感じられる。矛盾する感覚は思考のせいか、それすら判断がつかな
かった。
わからない。どうして玉木千夏が。なんで直樹が。今になって。
一体何故、何故。疑問ばかりが際限なく浮かび収拾がつかない。
下校時間が過ぎ、日が落ちてもなお、涼はただ、立ち尽くした。
493
四限目︵その一︶霹靂とは雷のことです︵後書き︶
都合により、次回の更新は7月1日以降を予定しております。
494
︵その二︶腰を抜かす暇もありません
涼がようやく正常な思考を取り戻したのは﹃ニュルンベルクのマ
イスタージンガー﹄の三幕も終盤︱︱歌合戦が始まった時だった。
恋路を邪魔するベックメッサーは笑い物にされ、見事勝利を収めた
ヴァルターは愛するエヴァと結ばれる。そして主役のハンス=ザッ
クスは二人を祝福してめでたしめでたし。
残念ながらプラシド=ドミンゴは出演していないが、主役のテオ
=アダムがそれを補って余りある。腹に響くバリトンがいい。何故
死んだテオ=アダム︱︱ってそうじゃなくて。
﹁先生って大変ですね。こんな遅くまでオペラ鑑賞ですか﹂
言葉の割には嫌味な響きの伴う声に、涼は反射的に振り向いた。
少し日に焼けた健康的な肌。制服のスカートから覗く、すらりと伸
びた足。勝気な瞳。
﹁⋮⋮いし、川⋮⋮さん﹂
石川香織は眉を顰めた。何をわかりきったことを、と言わんばか
りの表情。途端、全てが現実味を帯びて涼の前に飛び込んできた。
ここはドイツでも歌合戦の場でもなく、日本の公立高校だ。
﹁どうかしたんですか?﹂
涼は自分の額に手を当てて、二、三回深く呼吸した。
﹁心配には及ばない。少し、考え事をしてただけ﹂
﹁そうですか﹂
﹁石川さんこそ、こんな時間まで練習を?﹂
﹁部活の後に図書室で勉強してました。一応、受験生ですから﹂
断りもなく香織は来客用のイスに腰掛けた。涼のデスクのすぐ傍、
天下がよく座るイスだった。
495
﹁鬼島君もよく図書室で勉強してますね。ご存知かと思いますけど﹂
﹁初耳だよ﹂
涼はテレビの電源を切った。十中八九そうだと思っていたが、や
はり天下絡みのようだ。
﹁先週も言ったと思うけど、君は喧嘩を売る相手を間違えている。
鬼島君が好きならば、彼に戦いを挑めばいい。私は邪魔をするつも
りはない﹂
﹁協力もしてくださいませんけどね﹂
﹁学科が違う上に、唯一の接点だった音楽の授業は三年にはない。
この状況で私ができる協力といえば縁結びのお守りを買ってくるぐ
らいだ﹂
香織は軽蔑を隠そうともせずに睨みつけてきた。
﹁邪魔はしないけど応援もしない。好きだと言わないけど嫌いだと
も言わない。そういう優柔不断な態度が一番卑怯です﹂
いや、ちゃんと毎回断っているのですが。反論の言葉は胸中に止
めておいた。何を言っても恋する乙女には通用するまい。遙香だっ
て佐久間と恋愛をしていた頃は、涼が宥めても諭しても聞く耳を持
ってくれなかった。恋はどこまでも盲目だった。
なおも物言いたげな香織を音楽科準備室から追い出し、しっかり
と施錠。そのまま昇降口へ二人で仲良く向かい、これまた一緒に校
門まで歩く羽目になる。聞けば何の因果か香織も電車通学。駅まで
の道のりが酷く遠いもののように感じた。
﹁ところで、鬼島君がその⋮⋮私に気があるなんて発想は一体どこ
から﹂
﹁今度はとぼけるおつもりですか? 見ていればわかります﹂
と、香織は邪推するが、実のところそれは涼の純然とした疑問だ
った。
二人っきりの時はハッキリと想いを告げたり迫ったりする直情的
な一面もあるが、普段の天下は場の空気に敏感な方だった。察しも
よく、周囲の目もはばかる。だからこそ絵に描いたような優等生と
496
してまかり通っているのだ。
そんな似非優等生がどんな隙を見せたのかは、興味があった。
﹁近くを通る度に鑑賞室の方を見てます﹂
﹁防音とはいえ多少音も漏れているからね。気になるのかもしれな
い﹂
﹁物想いにふけったり、ため息吐いたり﹂
﹁高校生の中で一番悩む時期。それが受験生﹂
﹁音符が右下に描かれた青いメモを眺めている時もあります。同じ
ものを、さっき先生の机の上で見つけました﹂
正確には音符ではなくト音記号なのだが、涼は指摘しなかった。
いつメモを天下に渡したのか︱︱すぐに思い起こされた。天下の誕
生日直前まで競り合ったマイカップ。返す度にメモを残したせいで
文通紛いなやりとりをする羽目になった。
あのメモをまだ持っていたのか。
﹁確かに、青いメモなら私の机の上にある。それだけじゃない。音
楽科の生徒も教師もみんな同じメモを持ってるのを私は知ってる。
あれ、先月の全国高校生音楽祭の時に配られたものだから﹂
﹁そんなメモをどうして普通科の鬼島君が持っているんですか﹂
﹁さあ。本人はなんて?﹂
香織は答えなかった。口を引き結ぶその様は、悔しがっているよ
うに見えなくもない。
﹁まさかとは思うけど﹂
涼は自分の頬がひきつるのを感じた。
﹁石川さん、あなたまさか確証もないのに自分の主観だけで鬼島君
の想い人は私だと判断したのか?﹂
497
︵その三︶最初の対応が肝心です
香織は唇を尖らせた。
﹁鬼島君にそんなこと、訊けません。仮に訊いたとして、正直に答
えてくれると思います?﹂
裏を返せば、渡辺涼が相手なら﹃そんなこと﹄が訊けて、正直な
返答がもらえると思っているということか。ずいぶんと信頼されて
いるものだ。いや、この場合は軽視と言うべきか。涼にはどんな失
礼な質問も気にせずにできるということなのだから。
﹁先生は鬼島君のことをどう思っているんですか?﹂
涼はしばし考える素振りを見せてから﹁考えたことがない﹂と返
答した。
﹁あえて言うなら﹃普通科の優等生﹄かな。好きとか嫌いとか、そ
ういう目線で見ることができないんだ。年下だし、何より彼は生徒
だ﹂
半分嘘だ。考えたことはあった。いつも真っ先に浮かぶのは﹃無
理﹄という一言。天下は生徒だ。生徒は教師の恋愛対象にはならな
い︱︱なってはならない。
最初から許されないと知っている感情を、わざわざ自分の中に探
す気にはならなかった。
﹁じゃあ、彼が生徒じゃなかったらどうです?﹂
どこかで以前にも訊かれた質問だった。仮定の話をいくらしても
無意味であることを知らない人が世の中多過ぎる。天下が生徒でな
くなったら、涼と会うこともなくなるのだ。
どう説明したものかと涼がバスの時刻表を見上げた時、鞄の中で
ケータイが動いた。
液晶画面には﹃神崎恭一郎﹄。涼は一瞥するなり着信を断った。
が、間髪入れずにケータイは再び震え出す。
498
涼は生徒の前であることも忘れて小さく舌打ちした。
﹁⋮⋮あの馬鹿﹂
いっそ電源を切ってしまおうか。涼が意向を固めている間も恭一
郎は執拗に鳴らし続ける。ぶ然としながらも香織はケータイを指差
した。
﹁いいですよ、出て﹂
﹁ごめん﹂
涼は振動を続けるケータイの通話ボタンを押した。声を潜め早口
で﹁今電車の中。後でかけ直す﹂と一方的に告げて切る。
さて、これで邪魔は入らない。改めて香織に向き直ったところで
またまたバイブ機能発動。涼はこめかみに手を当てた。
﹁本当にごめん﹂
呆れの混じった眼差しが痛い。半ばやけ気味に電話に出た。
﹁だから、電車の中だって﹂
﹃日本の電車はいつからバス停前に停まるようになったのかな﹄
涼は耳にケータイを当てたまま、顔を上げた。
道路を挟んで反対側に声の主はいた。昨日とは違ってポロシャツ
にジーンズというラフな格好。街灯の下で手を振る恭一郎に、涼の
肩の力が抜けた。
﹁察しろ。今取り込み中﹂
﹃生死に関わることじゃないのなら後日にすることをオススメする
よ。今何時だと思ってるのかな﹄
涼は腕時計に目を落とした。7時過ぎ。塾に行っているならばま
だしも、高校生が学校を出る時間にしては遅かった。しかもその理
由が、恋路。進路ではなく、ただの恋愛沙汰。たしかにこんな時間
に道のど真ん中でするほどの緊急性も重要性もなかった。
﹁帰ろう、涼﹂
いつの間にか道路を横断した恭一郎が、にっこり微笑んだ。
﹁お腹減ったよ﹂
﹁あのな、﹂
499
文句を言いかけた涼を手で制し、恭一郎は唖然とする香織に向か
って丁寧に挨拶した。
﹁はじめまして。神崎恭一郎と申します。いつも渡辺がお世話にな
っております﹂
さらには折り目正しく一礼。これにはさすがの香織も気勢が削が
れる。戸惑う香織に恭一郎はやや崩した口調でたたみかけた。
﹁お取り込み中に悪いけど僕のお腹も正直限界なんだ。今日はこの
くらいにしてくれないかな?﹂
﹁え、あ⋮⋮はい﹂
気圧された香織が了承の返事をしたその折、駅前行きのバスが停
留所に停車した。
500
︵その四︶兄の心、妹知らずなのです
﹁気をつけてお帰り﹂
穏やかだが有無を言わせない口調で恭一郎は香織をバスへと押し
込んだ。
﹁ずいぶん強引だね﹂
バスを見送ってから涼が抗議しようとも後の祭り。恭一郎は悪び
れることなく次のバスの発車時刻を調べた。ついでに周囲に人気が
ないことも確認してから、咳払いを一つ。
﹁突然なのは謝るよ。自分でも変なのはわかってる﹂
前置きをしてから本題に入るのかと思いきや、恭一郎は﹁あー﹂
だの﹁えー﹂だの唸るばかりで一向に始まらない。
﹁何? プラシド=ドミンゴ来日が決定した?﹂
﹁それはないね﹂
キッパリと否定し、恭一郎は意を決したように真っ直ぐに涼を見
据えた。
﹁驚くなとは言わない。でも、なるべく早く冷静になってほしい﹂
﹁は?﹂
﹁僕だって動揺しているんだ。しかし二人で仲良く取り乱していて
は事態を解決に導くことは到底できないだろう。とにかく落ち着い
て、冷静に対処することが大切なんだ﹂
﹁前置きが長い。オペラじゃないんだから早く本題に入って﹂
﹁端的に言えば、だ﹂
恭一郎の眉間に皺が寄る。天下を彷彿とさせる仕草に場違いだと
わかってはいたが涼は吹き出しそうになった。
﹁君の弟が、﹂
﹁よりにもよって私が勤めている高校の普通科に入学してたって?﹂
501
恭一郎は口を半開きの状態で固まった。
﹁⋮⋮知っていたのか﹂
﹁今日だよ。本人から聞いた。同姓同名も考えたけどそうでもない
みたいだね。ちなみあんたは興信所?﹂
﹁いや、手間暇かけただけだよ。結構簡単だったな。運が良かった
のもあると思うけど﹂
﹁狭い業界だからね﹂
インターネットで名を検索すれば個人情報などあっさり手に入る
時代だ。さらに玉木千夏はコンクールでの入賞経験がある。進学し
た大学はコンクールの入賞者経歴を読めば一目瞭然。大学が割れれ
ば進路だって教授や講師伝でたやすくわかるだろう。
家庭に入って姓が変わっても音楽家は音楽家だ。アマチュアオケ
の参加、音楽教室の先生、足跡は至る所に残る。音楽にしがみつい
ている限り。
調べようと思えばすぐにわかる場所に玉木千夏はいた。にもかか
わらず、関心を示さなかったのは涼自身だ。会いたいとも恋しいと
も思わなかった。ただ、遠くて。
﹁本人に会ったこともある。同じ舞台に立ったこともあったよ。僕
はソリスト、彼女は伴奏オケ﹂
へえ、と涼は曖昧な相槌を打った。いつ、どうやって、といった
疑問が遅れて浮上する。恭一郎があまりにもあっさりと告げたせい
もあって、いまだに実感がわかなかった。
﹁向こうも僕のことは知ってる。でもまさか﹃息子の高校の演奏会
でエキストラをなさるそうですね﹄なんてメールが来るとは思わな
かったよ﹂
それはこっちも同じことだ。教え子が弟だの、一体誰が想像しえ
ただろうか。
﹁向こうだってまさか捨てた娘が高校で音楽教師やってるとは夢に
も思わないだろうさ﹂
涼の脳裏に直樹の顔が浮かんだ。感情的ではあるが、自分の非を
502
認めて改める素直さを持った少年││あれが、自分の弟なのだ。
﹁⋮⋮で、どうするんだい﹂
﹁どうもしないよ。彼は生徒、私は教師。ただそれだけ﹂
涼は目を眇めた。
﹁それとも私に名乗り出て感動の姉弟再会にでもやれと? オペラ
と現実の区別はつけておいた方がいい﹂
﹁僕だって直樹君に名乗り出るのはどうかと思うよ。でも、いずれ
は千夏さんだって君に気づくんじゃないかな。直樹君は合唱部なん
だろ?﹂
千夏さん、直樹君、という呼び方が涼には意外だった。苗字で呼
べば二人共﹁上原﹂なのだから、恭一郎に他意はない。それをわか
っていながらも、下の名前で呼ばれる千夏や直樹が恭一郎にとって
近しい存在であるような気がした。直樹だけならばまだしも、自分
を捨てた女までもが。
﹁だから﹂
涼は棘を意識しつつも険のある声音で言った。
﹁あちらのご家庭に波風が立たないよう、私に努力しろと?﹂
怒気を感じ取ったのか恭一郎は口を噤んだ。その目に悲しげな色
が浮かぶのを見て、涼は苦いものが込み上げてきた。
﹁心配しなくても、今更二十四年前のことを蒸し返す気はない﹂
﹁違う。僕が言いたいのはそういうことじゃない。君が恨みに任せ
て他人の家庭をめちゃくちゃにするような子じゃないってことは、
僕が一番良く知っている。ましてや何も知らない弟を動揺させるこ
とを、君がするはずがない。僕が言いたいのは、いずれ知られるの
なら先に意思表示をしておいたらどうだ、ってことだよ﹂
﹁意志表示?﹂
﹁君が二十四年前のことを言うつもりはないこと、上原家に関わる
つもりもないことを、あらかじめ千夏さんに言っておくんだ﹂
と、提案する恭一郎の顔はいつぞやの﹃彼女﹄の面影を色濃く残
していた。あの時の﹃彼女﹄もまた、一方的な要求を押し付けてき
503
た連中に決然と立ち向かった。
﹁君の存在を知ったら、千夏さんは動揺する。そして必ず君と接触
しようするはずだ。彼女の都合で、彼女なりの方法で﹂
﹁今度はいくら積んでくるだろうね。せめて三百万以上であること
を願うよ﹂
﹁涼﹂
﹁大丈夫だよ﹂
仮に今、千夏が口止め料として三百万円を差し出してきたとして
も、涼は突き返せる自信があった。六年前とは違う。もう自分を守
ってくれる﹃彼女﹄はいないが、涼はもはや無力な子供でもない。
尊厳を金で売るような真似は二度とすまい。﹃彼女﹄とそう約束した
﹁帰ろう、神崎﹂
バスのヘッドライトが視界に入る。涼は苦笑した。仕事終わりに
深刻な話などするものではない。疲れが溜まる一方だし、何よりも。
﹁お腹すいたよ﹂
504
︵その五︶妹の心、兄は結構知ってます
恭一郎はバスに乗ると千夏と直樹には一切触れず、自分のことを
話した。
今日は母校に顔を出して恩師に挨拶。ついでに琴音にも会って軽
くお茶したらしい。他愛もないことばかりだった。もしかしなくて
も涼の心情をおもんばかったのだろう。
昔から恭一郎は察しが良かった。そうならざるを得なかった、と
言った方が正確か。
幼い時に両親を失った恭一郎は親戚中をたらい回しにされて、施
設に預けられた。彼にとっては血の繋がった家族も養護施設の職員
も、自分を﹃養ってくれる﹄人で、同列だ。だから無神経に振る舞
うことができない。たとえそれが家族であろうとも。
どことなく天下に似ているかもしれない。猫かぶりな点も含めて。
﹁そういえば昨日の演奏会だけどさ。君の教え子も来てたね。鬼島
君だっけ?﹂
以心伝心かはたまた偶然か。恭一郎も同じようなことを考えてい
たらしい。突然降ってきた天下の話題にも涼は無難に応じた。
﹁我が校きっての優等生だよ。弟も音楽を選択してるから、何かと
接点があってね﹂
へえ、と恭一郎は呟いた。
﹁彼、似てるよね﹂
﹁うん﹂
﹁涼に﹂
これにはさすがに意表をつかれた。むしろ、似ているのは恭一郎
ではないのか。
﹁私に?﹂
505
﹁僕に似てるとでも思った?﹂
恭一郎は軽く笑みさえ含んで付け足した。
﹁もしそうなら彼はやめておいた方がいい﹂
バスがロータリーを大きく旋回。涼は支え棒を掴んで遠心力に逆
らった。やめるも何も、天下は生徒で自分は教師だ。何度となく口
にした言い訳はしかし、恭一郎の前では意味を成さなかった。
﹁今度は琴音から?﹂
﹁彼女が僕に教えるものか﹂恭一郎は苦笑した﹁僕に先越されたか
らってイタリア留学を断固拒否するような娘だよ﹂
恭一郎が大学生最後に出演したオペラ﹃カルメン﹄のプリマドン
ナは琴音だ。どうしたことかそれ以来、両者の仲は悪いとまではい
かないもののお互いに対抗意識がある。
﹁今日はわざわざ二人で近況報告ならぬ近況自慢をしたわけか﹂
﹁僕の勝ちだな﹂
賭けてもいい、琴音も自分の完全勝利だと思っているに違いない。
﹁話が逸れたけど、僕はシスコンじゃあるまいし妹の恋愛に関して
は寛容だ。﹃カルメン﹄然り﹃トスカ﹄然り、古今東西のオペラが
示すように他人の説得ごときで愛をあきらめる人は滅多にいない。
障害なんぞを用意しようものなら、破滅しようと愛を貫く起爆剤に
なるのがオチだ﹂
﹁あっさりあきらめられたら盛り上がりにも欠けるしね﹂
﹁⋮⋮まあ、着眼点の相違はこの際置いておこう。とにかく僕を妹
の恋路をいちいち邪魔するような狭量な男と思わないでくれたまえ。
君の家族として喜んでお赤飯を炊いてあげよう││もしそれが、本
当に愛や恋だというのなら﹂
バスが止まった。乗客の波に流されるように涼は降車。それに恭
一郎も続いた。
﹁君は、生徒は恋愛対象外だと思っている。なのに鬼島君は突き放
し切れていない﹂
やはり琴音だ。あのおしゃべり。それとも恭一郎が上手なのか。
506
たとえ琴音に教える気がなくとも、恭一郎ならば探りを入れて情報
をかすめ取るくらい平気でやる。簡単なことだ。事情を知っている
ふりをして、話を振ればいい。琴音も不自然には思うまい。何しろ
恭一郎は涼にとって兄同然なのだから。
﹁探偵か、あんたは﹂
﹁隠されると暴きたくなる質であることは否定しない﹂
駅の改札機が見えてきたところで、涼は立ち止まった。ああそう
言えば彼女もそうだった。とにかく人の機微には聡くて、鋭かった。
﹁詳しくは知らないけど察するに、君は何らかの拍子に鬼島君に自
分との共通点を見出した。だから引き離すことができなくなった﹂
﹁同情したんだよ﹂
﹁それはどうだろう? 憐憫と同族意識は違う。ほんの僅かな、で
も君にとって重大な点が一緒だから、全部同じだと思い込んだんじ
ゃないのかな﹂
涼は苦笑した。そのつもりだった。が、ひきつって歪なものにし
かならなかった。何もここまで似なくても。彼女の息子││正確に
は甥だが、と娘﹃のような者﹄との決定的な違いを見せつけられた
気がした。
急速に距離が縮まったのはいつだろう。今となって考えれば、や
はり天下の家庭事情に関わってしまった時かもしれない。彼の抱え
る疎外感は幾度となく涼も味わったものだ。だから同情した。天下
の心情を涼は理解できたから。
その裏にあるのは、自分が理解できる悩みを持つ天下ならば、逆
に自分の孤独やジレンマを理解してくれるのではないか、という身
勝手な期待だ。
﹁自分と同じだと思っているから君はついすがってしまう。同じな
ら、わざわざ説明や弁明をしなくても理解してもらえると思ってる。
でも涼、残念だけど同じ﹃ような﹄人はいても同じ人は存在しない
んだよ。無理に当てはめようとすれば歪みが生じる﹂
そんなことは知っている。恭一郎がいくら涼と似た境遇でも、彼
507
には彼女という本当の家族がいたのと同じことだ。天下にだって家
族がいる。盲目的にまで慕ってくれる実の弟がいる。
﹁仮に鬼島君と交際しても、いつかは失望する。彼が自分とは違う
ことに気づき、君はきっと落胆し傷つく﹂
だから賛成できない、と恭一郎は言った。
﹁涼、自分と同じ部分しか受け入れられないのなら、それはただの
固執だよ﹂
帰宅途中の会社員と肩がぶつかる。説教するなら、せめて場所を
考えてほしかった。人の行き交い激しい改札口でわざわざ足を止め
てする必要性がどこにある。
︵⋮⋮天下もそうだったな︶
初めて面と向かって﹃好きだ﹄と言われたのは地下鉄駅の改札機
前だった。情緒がないとたしなめた記憶は今でも鮮明だ。その時自
分の手を掴んだ強さも、必死な形相も、真っ直ぐな眼差しも││ど
こが同じなのか。
︵前言撤回。やっぱり違う︶
全て、自分の思い込みに過ぎなかったのだ。
508
︵その六︶先輩の心、後輩知らずなのです
面談時刻まであと一時間。
天下はケータイを鞄に戻した。時間潰しを兼ねての受験勉強も、
内容が頭に入らなければ意味がない。平常よりも少し早い放課後の
図書館は、三者面談を待つ生徒の姿がちらほらと見受けられた。
︵涼の時はどうしたんだろう︶
校内演奏会以来、顔を見ていない。彼女が養護施設出身だと明か
された時から。
おそらくこうした三者面談一つにかけても、親のいない孤独感を
味わっていたのだろう。悲壮感の欠片も見せずに語る涼を、天下は
強いと思った。そして納得した。苦労して生きてきたからこそ、彼
女はあんなにも慄然としているのだと。生活に困ったこともなく、
将来に悩んだこともない高校生には到底得られない強さだった。
︵大したことじゃねえ︶
母親一人に忘れ去られたことぐらい。故意に天下を記憶から抹殺
したわけでもないし、現に自分の母親は歩み寄ろうとしてくれてい
る。家族に戻ろうとしている。生まれた時から一方的に断ち切られ
た涼の不幸や苦悩に比べれば、今から自分がやることなど子供騙し
だ。
本人が聞いたら怒るかもしれないが、天下は涼に劣等感を覚えて
いた。苦労を知らないが故の劣等感︱︱年齢差以上の、人間として
の差を感じていた。
﹁鬼島先輩﹂
突如呼ばれ、思考が中断される。
﹁先輩も面談待ちですか?﹂
上原直樹は天下の隣の席に座った。﹁今日は部活もなくて、手持
509
無沙汰で﹂と人懐っこく話しかける。
﹁統も今日面談だし⋮⋮ま、親にしてみれば一日で終わりにしたい
ですよね﹂
直樹の勘違いを訂正する気にはならない。今日、統の面談に出席
するのは母の美加子であり、自分は父の弘之︱︱になるはずだった。
少なくとも、昨日まではその予定だった。
﹁そういえば統から聞いたんですけど、先輩も音楽を履修してたと
か﹂
話題、と言っても直樹が一方的に喋っているだけなのだが︱︱は
選択授業の音楽へと移行する。相も変わらず涼はきっちり授業をし
ているらしい。つい数ヶ月前まで当然のように受けていた音楽の授
業が、今では懐かしかった。
﹁ところで、渡辺先生って、下の名前はリョウなんですよね?﹂
何気なさを装ってはいたが念押しするような物言いに天下は違和
感を覚えた。そもそも質問の意図がわからない。ただの副顧問の名
をどうして確認するのか。過剰反応と断じるには直樹の質問はあま
りにも唐突だった。
天下は無言で直樹を見返した。
﹁いや、深い意味はないんですけど、男みたいな名前だなーって﹂
沈黙と視線に耐えきれなくなったのか、しどろもどろに弁明する
直樹。疑わしさは増すばかりだった。
﹁他に、呼び方あんのか?﹂
ようやく得られた反応に直樹はあからさまに安堵の表情を浮かべ
る。意外に小心者らしい。
﹁たとえば⋮⋮スズとか﹂
﹁本人に訊いた方が早いんじゃねえのか﹂
動揺を悟られないよう、素っ気なく答えた。深い意味がないのな
ら副顧問の名前に興味を示すな。不可解な質問は天下の不快感を煽
った。
直樹の思惑が読めない。何故涼の名を確かめたがるのか。そして
510
何故自分に訊くのか。ただの偶然とは思えなかった。合唱部の先輩
にでも訊くのが自然だし確実だ。
胡乱な眼差しを注がれても、直樹はあっけらかんと言った。
﹁あ、鬼島先輩でも知らないんですか?﹂
知らないわけねえだろうが。怒気を誤魔化し、天下は席を立った。
﹁先輩?﹂
﹁科も違うし今は担当でもねえからな﹂
ありもしない急用を言い訳に天下は図書館を出た。後輩相手にこ
の余裕のなさ。自分の未熟さを痛感させられる。だから涼には相手
にもされないのだろう。
直樹に悪意はない。それが余計に腹立たしかった。誰が本当の名
を教えてやるものか。自分でさえ二年の秋頃にようやく、しかも偶
然知ったというのに。
ああやって素直に、周囲の目を気にせず涼について訊ねられる直
樹が、天下には妬ましかった。
名前どころか、住んでいる場所も知ってる。伊達巻が好きなこと
も、肉球クッションの置き場所も、プラシド=ドミンゴのDVDを
集めていることも、寝ぼけて他人の頭を意味もなく撫でる変な癖が
あることも、長く関わっている内に天下自身が見つけた﹃涼﹄だっ
た。パッと出のガキが気安く触れていいものではなかった。それを
労さずに手に入れようとする直樹が天下には許し難かった。まるで
一つ一つ丁寧に拾い集めた石を無造作にわしづかみされたような不
快感。
不意に、天下は涼に会いたくなった。言葉を交わせなくてもいい。
ただ顔が見たかった。
この時間ならばおそらく音楽科準備室にいることも知っていた。
しかし、天下の足は動かなかった。直樹や石川らが気になるのもあ
ったし、何よりこの状態では会えない。つまらない意地とは知りつ
つも譲れない。察しのいい涼に、今日の面談のことを知らせるわけ
にはいかなかった。
511
︵⋮⋮遠くなっちまったな︶
いつからこうなったのだろう。天下は涼との距離を感じていた。
元々生徒と教師という隔たりがあったのだが、それでも度々会いに
いき、他愛もないやり取りを楽しんでいた。苦しいと思うことなど
一度もなかった。でも、今は︱︱天下には不思議でならなかった。
ただ好きなだけだったのに、どうしてか言えないことが増えてい
く。
512
︵その七︶教師の心、生徒知らずなのです
もうそんな季節か。
薄い水色の封筒を目にして、涼は夏の到来を感じた。裏に書かれ
た送り主は大学のオペラ研究会。学校宛に送られてきたそれは定期
公演の案内だった。今年も﹃カルメン﹄をやるらしい。またか。好
きだな﹃カルメン﹄。自分のことは棚に上げて涼は思った。
三者面談のため、今週は部活も早目に終わっている。音楽科の同
僚は各担当クラスの面談中。音楽科準備室にはコピー機を使う生徒
が何人か出入りする以外、涼一人だった。
﹁マジかったるい。今更親と教師が相談したって意味ないと思うん
ですけど?﹂
訂正、もう一人いた。来客用のイスを陣取る遙香は、盛大に悪態
を吐いた。
﹁ね、先生もそう思うでしょ?﹂
﹁先生は音楽科準備室で時間を潰すのはご遠慮いただきたいと思い
ます﹂
﹁ここ涼しいんだもん﹂
﹁快適さを求めるのなら図書室にでも行きなさい﹂
存外に出ていけと言われても遙香は動じる様子もない。
﹁だって図書室はケータイ使用禁止なんだもん﹂
﹁校内はどこでも基本的にケータイ使用禁止です﹂
遙香の手からケータイを取り上げ、即座に電源を切る。文句を言
われるよりも先にケータイを返し、涼は仕事を再開した。
﹁今日、鬼島君も三者面談ですよ﹂
どっちの鬼島だ、と涼は内心突っ込んだ。三年の遙香が言ってい
513
るのだから同じクラスの天下︵兄︶の方だとわかっているが、口に
は出せなかった。
思い出すのは去年の三者面談。天下とその父親にばったりと出く
わしたのが、鬼島家に違和感を持ちはじめたきっかけだった。完璧
な優等生を取り繕う天下に、涼は自分と同種の匂いを嗅ぎ取った︱
︱間違いはそこからだったのかもしれない。
﹁そろそろ行かなくちゃ﹂
好き勝手お喋りして満足したのか、遙香はおもむろに立ち上がっ
た。見計らったかのようなタイミングでドアがノックされる。
﹁どうぞ﹂
失礼します、と断ってから入室したのは上原直樹だった。見かけ
ない一年生の登場に遙香は小首を傾げ、涼はあやうくパンフレット
を落としそうになった。
﹁先日お借りしたCDを返しに来たんですけど⋮⋮﹂
なんだ。涼は密かに胸を撫で下ろした。
秋の文化祭で歌う曲決めの日は来週に迫っている。それまで声楽
には興味を持っていなかった直樹に少しでも知識を増やしていただ
くために、主だった合唱曲を聴くよう貸したのが先週のことだった。
﹁気に入る曲はあった?﹂
直樹は快活に肯定し、いくつか曲名を挙げた。﹃大地讃頌﹄のよ
うな有名どころから﹃ブナの森にて﹄といったマイナーなものまで。
中には涼の好きな曲もあった。
﹁﹃カルメン﹄とかはないんですね﹂
﹁あれはオペラだ。全国高校合唱コンクールでは歌わない﹂
﹁でも文化祭ならオペラをやっても、別にいいんじゃないんですか
?﹂
僅かな類似点にさえ意味を見い出そうとする自分を律する意味も
込めて、涼は素っ気なく言った。
﹁フランス語の歌を喜んで聴いてくれる一般客がたくさんいると思
うなら、どうぞ﹂
514
﹁でも大学ではオペラやってるじゃないですか﹂パフレットを目ざ
とく見つけた遙香が横やりを入れた﹁しかも﹃カルメン﹄﹂
﹁仮にも音大ですから﹂
﹁これ、みんなで行くんですか?﹂
﹁貴重な夏休みの一日をオペラに費やしたい方だけで、行くつもり
です﹂
遙香は何度か頷き、パンフレットを鞄にしまった。
﹁一部、貰っていきますね﹂
涼の了承も待たずに退室。その足取りは何故か軽やかで、不穏な
ものを涼は感じ取った。まかり間違ってそのパンフレットが天下の
手に渡った日には︱︱想像するだに恐ろしい。
﹁いや、待ちなさい。一体それをどうす﹂
無論、遙香は待ってはくれなかった。無情にも閉まる扉。慌てて
追いかけるのも傍らにいる直樹の存在が涼を躊躇させた。
﹁カルメン?﹂
何も知らない直樹は呑気にパンフレットを手に取る。涼は半ばな
げやりに言った。
﹁良かったら持っていくといい﹂
﹁音楽科で行くんですか?﹂
﹁限定はしてない。参加は自由だ﹂涼は自分用に取っておいたパン
フレットを広げた﹁まあ、ほとんどは音楽科生徒だけど﹂
出演者の名前︱︱自分の後輩にあたる面々をざっと眺めても覚え
のあるものはなかった。年月の経過を感じずにはいられない。もと
もと面倒見のいい先輩ではなかったのもあるが。
︵三年、か︶
﹁普通科の学生はあんまりこういうのには興味持たないですよね。
この前の校内演奏会も、﹂
言いかけた直樹が口を噤んだ。打って変わって顔を曇らせて物思
いにふける。
﹁どうかしたか?﹂
515
訊ねてから、涼は自分が置かれた状況に気付いた。
放課後人気のない音楽科準備室で男子生徒と二人っきり。しかも
当人は気付いていないが弟と。今更ながら芽生えた危機感は急速に
際限なく成長した。
嫌な予感を裏付けるように直樹は顔を上げた。
﹁あの、先生は││﹂
真剣味を帯びた眼差しに涼は不安を覚えた。まさか、もう。いや
そんなはずは。
516
︵その八︶姉の心、弟知らずなのです
﹁鬼島先輩と仲いいんですね﹂
何故天下が出てくるのか。そんな至極当然の疑問よりも安堵が先
立った。正直、天下が話題に上ってここまで安心したことはなかっ
た。
﹁突然だね﹂
﹁俺、今更だけど思い出したんです。入学式の時に先生を見かけた
こと。鬼島先輩と話していました。休み時間でも時々、二人でいま
すよね﹂
遙香のみならず直樹までもがそう思うということは、あながち香
織の思い込みとは言えないのかもしれない。端から見たら天下と自
分は親密な、少なくとも一般的な科を隔てた生徒と教師よりは親し
いようだ。音楽科準備室に足繁く通う天下のせい、ではもちろんあ
るが、なんだかんだ言って許容してしまう涼自身にも責任の一端は
あるように思えた。
﹁すれ違ったら挨拶ついでに雑談を交わす程度には親しい。でもそ
んなに仲がいいとは⋮⋮﹂
言い訳めいているとは思いつつ、涼は言葉を濁した。
﹁鬼島君は元々、教師陣に好評の優等生だから﹂
﹁すっごい先輩だとは聞いてます。なんでも全国模試四十何位だと
か﹂
三十三位だ。涼は敢えて指摘しなかった。
﹁でも渡辺先生は、あまりそういうのは気にしない人だと﹂
﹁成績で判断しない、と?﹂
直樹は臆面もなく頷いた。涼は苦笑した。
﹁買い被るねえ﹂
﹁音楽以外には興味がなさそうで﹂
517
﹁何か含みを感じるけど、誉め言葉として受け取っておこう﹂
涼はパンフレットを閉じた。
﹁鬼島先輩もそうです﹂
似ている、と恭一郎も言っていた。具体的にどこがどう似ている
のかは聞けなかったが。
﹁俺、短い間でしたけど同じ部活入ってたからわかります。後輩が
困ってたら助けてくれますけど、自分から積極的に近づくタイプじ
ゃないですよ﹂
だから気になるんです、と直樹は呟いた。
﹁この前の校内演奏会にも先輩来てたし、普段は来てませんよね?﹂
おいおい似非優等生よ、猫はしっかり被っておくれ。天下の軽率
な行動の言い訳を自分がすることに、涼は釈然としないものを覚え
た。
﹁それは私がどうこうというよりも、弟に用があったんじゃないか
な﹂
口にしてから失言に気づいた。が、既に遅い。
﹁統に?﹂
直樹は目を瞬かせた。
﹁兄弟ですよね? 興味のない演奏会にわざわざ足を運ばなくても﹂
﹁私よりも本人に訊くのが一番手っ取り早いと思うよ﹂
強引に会話を終了させて、涼は封筒をゴミ箱へ投入した。スケジ
ュール帳の8月の欄に﹁オペラ定期公演﹂と記入。入学案内パンフ
レットと共に音楽科クラスへ宣伝するつもりだった。例年通りなら
ば、何名かは行くだろう。
﹁気を悪くしたのなら謝ります﹂直樹は慌てて言った﹁ただ、俺の
知ってる鬼島先輩とはイメージが違うというか、違和感があるとい
うか﹂
しどろもどろに弁明する直樹を微笑ましく思うと同時に、ひねた
考えが涼の中に浮かぶ。意図こそ違えども直樹は香織と同じことを
言っていた。イメージが違う。違和感がある。つまり渡辺涼と親し
518
くする鬼島天下は本来のあるべき姿ではない、という意味ではない
のか。
﹁謝る必要はないよ﹂
とはいえ、素直に頭を下げられてしまえば、涼とて厳しくは言え
なかった。
﹁でも、二つ上の先輩をどうしてそこまで意識しているのか、とは
思う﹂
直樹は眉を寄せて考え込んだ。幼さの残る顔に浮かぶ深刻な表情。
何もそんなに一生懸命考えなくても、と涼は思った。
﹁対抗心、かもしれません。なんか先輩って、スポーツ万能で成績
もよくてカッコイイから、なんでも持っているような気がして﹂
そんなことはないよ。声には出さずに呟いた。天下には﹃母﹄が
いない。それは涼とて同じことだ。実の親に育てられた直樹には一
生わからないことだった。
﹁当人の苦労は当人にしかわからないからね﹂
とりあえず当たり障りのないことを言って取り繕う。壁の時計を
見れば結構な時間が経過していた。
﹁あ、俺もそろそろ行かないと﹂直樹は鞄を背負い直した。﹁統の
次に面談なんです﹂
三者面談。つまり、直樹の親が来るのだ。
﹁そうか﹂
感慨もなく涼は呟いた。自分でも驚くほどに心は動かなかった。
519
︵その九︶息子の心、親知らずなのです
涼が準備室を後にしたのはそれからしばらく経ってのことだった。
今日やるべき仕事は終わった。だらだらと準備室で暇を持て余すく
らいならば、さっさと帰った方がいい。こんな日は、特に。
特別棟から職員室のある一般棟へ渡る廊下。真ん中へ差し掛かっ
たところで、涼は足を止めた。向かい側から男子生徒とその保護者
と思しき女性がやってきたからだ。
互いに相手を認識するなり硬直。先に動き出したのは相手︱︱鬼
島美加子の方だった。
﹁渡辺先生、ですよね? いつぞやは大変お世話になりました﹂
折り目正しく一礼。どういうわけか統までもが揃って頭を下げた。
そういえば、直樹が統の次に面談だと言っていた。兄弟で同時に
面談は普通の親にしてみれば手間が省けるので願ってもないことだ
が、鬼島家の場合は別だ。同日だろうが美加子が天下の面談に出る
ことはできない。
﹁いいえ。そんな、大してお力には⋮⋮﹂
涼は言葉を濁した。力になったどころか、怒りに任せて天下の父
を責め立てただけだ。今思い出せば恥ずかしい。
﹁そんなご謙遜を﹂
﹁いや、本当にお役には立てなかったかと﹂
弁明する涼を見て何を思ったのか、美加子は優雅に微笑んだ。
﹁失礼。一番上の息子の話を思い出して、つい﹂
﹁鬼島天下君の?﹂
天下を君付けで呼ぶことに違和感を覚えつつ訊ねれば、美加子は
頷いた。
﹁先生はご存知かと思いますが、私のせいで息子は実家とは疎遠に
なってしまいまして。最近ようやく一緒に食事したりするようには
520
なったのですが⋮⋮息子相手にお恥ずかしながら、何を話せばよい
のか途方に暮れておりましたの﹂
だろうな、と涼は思った。血が繋がっているだけで三年の溝が埋
まるのなら苦労はない。そもそも美加子の記憶は戻っていないのだ。
突然現れた息子に戸惑う心情は察することができた。しかし、だ。
いくら親子間の話題がないとはいえ、他人を話のタネにするのは
遠慮してほしかった。
﹁まさか息子がオペラの案内状に興味を示すとは思いませんでした
わ。ドミンゴがお好きなんですってね?﹂
美加子に悪びれる様子はなかった。皮肉っている様子もなかった。
純粋に息子との他愛もない会話を喜んでいるようだ。
こんなものか。涼は正直、拍子抜けした。三年の確執はこんなに
あっさりと消えてしまうものなのか。それとも家族の﹃絆﹄が成せ
る奇跡なのか。要因が他人である涼にわかるはずもないが、とりあ
えず解決の方向には進んでいるようだ。このぶんだと天下が卒業を
迎える前に、一人暮らしをやめて実家に戻ることになるかもしれな
い。
︵結構なことだ︶
家族皆様で末永くお幸せに。母親に存在を忘れ去られるという不
幸がなければ、天下が六つも年上の教師に惹かれることはなかった
だろう。自分とて同じことだ。ごく一般的な家庭に育つ生徒だった
ならば、情を移すこともなかった。
不幸によって生まれる感情は、不幸と共に消えるべきだ。
﹁ご主人によろしくお伝えください﹂
﹁ありがとうございます。今は出張中ですが、戻りましたら伝えま
すね﹂
社交辞令の返事に涼は首を捻った。鬼島氏が不在。では今日、天
下の三者面談に出席するのは誰だろうか。
既に一階にまで降りている美加子が再び階段を上って教室に行く
とは考えにくい。それに実の母親とはいえ美加子には天下の母親と
521
して三年のブランクがある。記憶が戻っていないのだから、ゼロと
言ってもいい。事情を知らない担任相手に進路の相談とはハードル
が高過ぎやしないか。
﹁出張?﹂
﹁ええ、急に﹂
呑気に答える美加子に反して、涼は茫然とした。
たかが三者面談とはいえ、同じ日に母親が学校に来ているのに延
期など担任教師に頼めるはずがない。どんな説明をすれば納得する
のか︱︱容易に答えは導き出された。天下と﹃同じ﹄である涼だか
らこそわかったことだ。その事実が余計に涼を打ちのめした。
他人に過ぎない自分がわかることを、どうして血の繋がった母親
がわからないのか。
父親に、仕事よりも自分を優先してくれと、頼めない子供の気持
ちを考えたことがあるのか。一人来るはずもない親を素知らぬ顔で
待たなくてはならない天下の心情を一度でも考えたことがあるか。
筋違いであることを知りながらも、涼は憤りに近いものを覚えた。
そして思い至る。恭一郎が言っていたのはこのことだったのだと。
故意ではないとはいえ、息子の存在を抹消して生きる母、それを
黙認する父。そんな鬼島夫妻を内心で無責任だと責めることによっ
て、涼は自分の両親をもなじり蔑んでいた。
︵なあ天下、知ってたか︶
そうとも知らずに自分を慕う高校生に、涼は内心語りかけた。面
と向かってはきっと言えない。口に出すにはあまりにも卑屈で陳腐
で最低な心情だった。
︵私はお前の不幸を喜んでいた。母親の記憶なんか一生戻らなけれ
ばいい。鬼島家で一人忘れ去られたままでいいと思い続けてたよ︶
天下が、修学旅行で土産を買って帰る相手がいないと知った時、
年末年始を過ごす人がいない時、どれほど嬉しかったか。その孤独
と苦悩を涼はよく知っている││知っていたが故に、喜んだ。自分
と同じだと思ったから。
522
今だってそうだ。何も知ろうとせずにのうのうと次男と二人で帰
ろうとする美加子を蔑みながらも、涼は安堵していた。不条理を押
し付けられているのは自分一人ではないと実感できるから。
しかし、同じくらい虚しかった。
523
︵その十︶この心、君知らずでいいのです。
﹁お帰りになる前に、三年二組に寄っていただけませんか?﹂
怪訝な顔をする美加子に、涼はさらに言った。
﹁ご子息はもう一人いらっしゃるはずです。私の記憶違いでなけれ
ば、彼の三者面談も今日行う予定ですよ﹂
﹁いえ、天下の面談は延期になったと主人が、﹂
﹁延期にするつもりなんでしょう、今日﹂
え、と美加子の声が漏れた。ようやく事態を察したのだろう。
別日ならばまだ良かった。
しかし不運にも天下と統は同じ日に面談となってしまった︱︱い
や、もしかしたら、美加子に自分の面談に来させないためにわざと
同日にしたのかもしれない。いずれにせよ、肝心要の父親が面談に
出られなくなってしまえば水の泡だ。
一方は母親が出席し、もう一方は父親が出席できないため延期とな
れば不審に思われるのは必至。天下に残されたのは﹃弟の面談に出
席した母親が帰宅した後に、自分の面談に出席する予定だった父親
に急遽仕事で面談に参加できなくなった﹄と言い訳することだけだ。
抜かりのない天下のことだから、統と美加子の面談時間も把握し
ているのだろう。二人が帰るのを確認してから担任に謝罪する姿が
容易に想像できて、涼はますますいたたまれなくなった。
父親の代わりに詫び、母親のために取り繕う。そつなくこなせる
天下が哀れだった。
﹁でも、私が行っても﹂
言いかけ、美加子は口を噤んだ。
﹁⋮⋮許されるのでしょうか。文字通り三年も放っておいて、今さ
ら母親面でしゃしゃり出て﹂
他ならぬ美加子自身が許されたいと望んでいるように見えた。だ
524
から大丈夫。後もうひと押しさえあれば。涼は自分が何をすべきな
のかを理解していた。
﹁三年かけて他人の振りをしたのなら、三年かけて家族の振りをし
たらいかがでしょうか﹂
言葉の意味を探るようにこちらを見る美加子。涼は肩を竦めた。
﹁全く覚えのない息子の存在を知った時、あなたはどう思いました
? 戸惑いましたか。疑いましたか。気味が悪いと思いましたか。
とっさに浮かんだ感情を責めることは誰にもできません。それが当
然だと思います﹂
淡々と告げる口調に責める色はない。涼は言葉を探すように目を
伏せて、やがて顔を上げて小さく微笑んだ。
﹁でも、ほんの少しでも嬉しいと思ったのなら、家族になるべきで
す。歩み寄る努力をするべきです。たとえ本物にはなれないとして
も、家族同然にはなれるはずです﹂
少なくとも、と涼は付け足した。確信には程遠かった。そう言っ
ている自分自身、彼女や恭一郎と家族同然になれたのかは定かでは
ない。今でも断言ではきなかった。頼りない説得だった。その代わ
り、それ以上に、切実な願いを込めて涼は言った。
﹁私はそう信じています﹂
公園で人目をはばからずに抱擁した時から涼は天下に縋っていた。
今ならわかる。天下を突き放し解放する時がきてようやく涼は気
がついた。中途半端な関係を誰よりも望んでいたのは自分で、だか
ら天下の想いには応じなかったのだ。涼が彼に寄せるのは憐憫でも、
ましては愛情でもなかった。同族意識だ。親に恵まれなかった者同
士という連帯感を、涼が一方的に持っていた。天下が統と親しげに
話す度に、家族との絆を取り戻しつつあるのを知る度に、裏切られ
た気分になるのはそのせいだ。
︵同じになりかった︶
でも違う。天下が前に進もうとする限り、彼と自分はどんどん違
えていく││いや、最初から全く違ったのだ。涼がそれに気づこう
525
としなかっただけで。
自分が世界で一番不幸な人間とまで悲観するつもりはないが、少
なくとも鬼島天下と渡辺涼は同じにはなれない。
﹁統君、三年一組の教室は知ってますよね?﹂
質問の意図を正確に汲み取った統は、むっつり押し黙ったまま頷
き、美加子の腕を引いた。引きずられる格好で美加子は先ほど降り
てきたばかりの階段へ足を進める。
﹁あ、あの渡辺せん、﹂
﹁お気遣いなく。いってらっしゃいませ﹂
涼は軽い口調で手を振った。
︵もっと早く、こうするべきだった︶
縋ってきた天下の背中に腕を回すのではなく、突き放すべきだっ
たのだ。彼のためにも、自分のためにも。躊躇いがちに、だが確実
に遠ざかる美加子の背中に涼は語りかけた。その向こう側にいる天
下へ。
涼は自分の中で何かが終わったのを感じた。
︵ごめんな︶
526
夏休み︵その一︶世間体を気にするのは悪いことではありません
自宅アパートのポストに投函されていた郵便物を見て、天下は珍
しいと思った。正確にはその宛名││﹁鬼島天下様﹂を、だ。
事情が事情なだけに天下がここに住んでいることを知っているの
は僅か。故にたまに送られてくるダイレクトメールも名義人である
父親宛が大半だった。この時期に急増する鬼島天下宛の大学案内も
アパートではなく実家に届いていた。
おまけに封筒を裏返すと、差出人には﹁渡辺涼﹂とある。明らか
に女性が書いたと思われる可愛らしい字で。
︵榊さんか︶
早々に犯人は特定される。涼本人が送ったという発想は最初から
なかった。住所もケータイの番号もメールアドレスも、互いに知っ
ていながら活用するのは天下だけだった。
部屋に入り、鞄を放り投げて一息。封を破って取り出したそれは、
涼の母校で行われる定期演奏会のチケットだった。演目は﹃カルメ
ン﹄。もしも良かったら、という前書き付きでお誘いの手紙が添え
られていた。無論、差出人は榊琴音だった。
さて、どうしたものか。
天下はケータイでスケジュールを確認した。当日は夏休み真っ只
中。補講があるが午前中で終了する。開演には十分に間に合う時間
だ。
しかし、天下の危惧するのはそこではなかった。
まず間違いなく、涼も行くのだろう。でなければ琴音がわざわざ
自分宛てに招待状を送るはずがない。琴音にしてみればお節介混じ
りの親切。去年の天下であればその厚意をありがたく受け取っての
527
このこと行った。しかし今は。
普通科の生徒が、音楽科色丸出しのイベントに顔を出す。
︵あからさま過ぎだろ、それは︶
先日の校内演奏会だって、統含む普通科の生徒も数名参加したか
ら、大して目立たずに済んだというのに。夏休みの一日にオペラを
嗜む普通科高校生が、果たしてこの日本に存在するのか︱︱答えは
否だ。限りなくゼロに近い。
天下はチラシをゴミ箱に放り込んだ。
悪いとは思わない。今も昔も。たまたま惚れた相手が教師だった。
それだけのことなのに、今は、堂々と好きだと言うことに対して躊
躇いがあった。周囲を顧みずに猪突猛進できるほど天下は恋に我を
忘れることができなくなった。
大学受験という進路における明確な岐路に立たされていることも、
その一因を担っているのだろう。自分達が当然のように通おうとす
る大学が、涼にとっては当たり前のことではなかったのだ。天下の
知らない︱︱そして一生知らずにいるであろう苦労と努力を経て、
涼は教師になった。だからこそ、おいそれと触れることを躊躇させ
る。彼女が必死に掴んだものを踏み躙る真似はしたくない。
何よりも涼に疎まれるのが天下には耐え難かった。
528
︵その二︶用心と杞憂は紙一重です
⋮⋮という天下の内情を知る由もない同級生、矢沢遙香は補講が
終わるなり、チラシをひらひら見せびらかした。
﹁今日、行かないの?﹂
行けるか馬鹿。天下は押し黙ってノートを鞄にしまった。
﹁ん、お前オペラ観んのか?﹂隣に座る亮太が覗き込む﹁﹃カルメ
ン﹄ってどんなのだっけ﹂
題を知っていても、あらすじやモチーフまではわからない。亮太
の反応は一般的な高校生のものだった。自分の判断の正しさを天下
は再認識した。普通の高校生は夏休みにオペラ鑑賞はしない。
﹁オペラ?﹂
耳聡く香織までもが首を突っ込んでくる。チラシを見、次いで天
下の方を。探るような眼差しから天下は目を逸らした。誰に対する
ともなく苛立ちが募る。
﹁行かねえ﹂
席を立っておざなりに別れを告げる。が、天下が教室を出てもな
お、遙香は食い下がった。不機嫌さを隠そうともしない天下にも臆
せず、むしろ楽しそうに。
﹁意地張ってないで行きなさいよ﹂
﹁暇じゃねえんだよ、こっちは﹂
﹁またそんな粋がって。後生大事に持ってるチケットが泣くわよー﹂
下駄箱前で天下は足を止めた。何故それを。反射的に遙香の方を
向いて、激しく後悔した。そう言った遙香自身が、目を見開いてい
たからだ。
﹁⋮⋮え、まさか図星だったの?﹂
今の反応はあまりにも正直過ぎた。遙香の指摘違わず、天下の財
布には今日のオペラの招待券が入ったままだった。案内チラシを捨
529
てた後も未練たらしく残るチケットは、さながら天下の心情を現し
ているようだ。
自身の失態に天下は舌打ちしたくなった。しかし時既に遅し。遙
香は我が意を得たりとばかりに口角をつり上げた。
﹁素直になりなさいよ﹂
﹁余計な世話焼く暇があったら、てめえの心配しろ﹂
﹁深く考え過ぎだって。みんな普通に行ってるんだから﹂
﹁音楽科がな﹂
靴に履き替えて裏門へ向かう。
今更ながら、天下は遙香と佐久間の交際が一年以上も続けられた
理由の一つを発見した。根拠のない自信に基づく楽観視。そして馬
鹿正直さ。世間体に気を取られていては、とても生徒と教師で恋愛
する愚行なんてできはしない。
社会的自殺に等しい恋愛をする二人を、天下は端で蔑んでいた。
そんなことに骨を折る涼に対しても。俺ならば、という思いがいつ
もあった。自分だったら、迷惑バカップルの二の舞にはなるまい。
もっと慎重かつ上手く立ち回る。周囲に迷惑を撒き散らすようなこ
とは絶対にすまい。
しかし、どんなに取り繕ろうとも結局は生徒と教師の恋愛なのだ。
差異はあっても根底は﹃高校生に相応しからざる行為﹄に他ならな
い。他人の目には、遙香も天下も同じに映る。
﹁普通科だって行くよ。ほら、元弓道部の﹂
﹁今は合唱部だ﹂
と言いつつも、天下には釈然としない思いが残った。上原直樹が
やたらと涼に対して馴れ馴れしく見えるのは、気のせいではないは
ず。あいつも行くのか、涼の母校へ、涼と一緒に。しかも﹃カルメ
ン﹄を観に。﹃トスカ﹄でも﹃ラ・ボエーム﹄でも﹃魔笛﹄でもな
く、よりにもよって﹃カルメン﹄を。
︵俺ですら全部観てねえ⋮⋮っ!︶
あの時、涼と一緒に観たのは二部からだった。﹃ハバネラ﹄も﹃
530
トレアドール﹄も既に終わった後││涼が見逃した残念さを全く隠
そうともしなかったのが、今でも心に残る。涼の自分に対する配慮
の無さに呆れ、たかが歌劇にそこまで一喜一憂できる情熱に感心し、
そんなに好きなアリアを逃させてしまったことを申し訳なく思い、
﹃カルメン﹄よりも一生徒に過ぎない自分を探しにきてくれたこと
が嬉しかった。
﹁あ、やっぱり行くの?﹂
無視を決め込むのはせめてもの意地だ。敗北感を覚えつつも天下
は鞄を背負い直した。
531
︵その三︶もう腹は括っているのです
キャンパスの敷地内、掲示板裏の古いベンチの背もたれに、涼は
手を伸ばした。やや塗装が剥げかかっているものの、在学中と変わ
らない様相に懐かしさを覚える。日当たりの良さと図書館が近いと
いう利便性もあり、涼はよくお世話になった。天気のいい日はここ
で読書をした。昼食もここ。恭一郎と待ち合わせをしたのも大体こ
こ。そんでもって││
﹁あんたなんか大嫌い﹂
振り向くと、琴音か咎めるように軽く睨んでいた。
﹁過ぎたことをいつまで経っても黙って覚えてるところが特に﹂
﹁いつまでも申し訳なく思うのは君の勝手だけど、当の本人にあた
るのはやめていただきたいね﹂
﹁私は悪いなんて思ってないわ﹂
初めてまともに言葉を交わした思い出の場所で、琴音は胸を張っ
た。
﹁むしろ感謝してほしいくらいよ。あんたが受けるはずだったやっ
かみを、代わりに私が味わったんだから﹂
先輩を差し置いてプリマ・ドンナの座を手にした琴音は羨望と嫉
妬を一身に浴びた。裏を返せばそれだけの栄誉を手にしたというこ
とだ。自分が、手放したものを。
﹁それはどうもありがとう﹂
﹁いえいえ、礼には及びません﹂
軽口の応酬をしている間に、掲示板前には生徒達が揃ったようだ。
琴音の後輩と思しき女子大生が﹁舞台裏、案内してきますねー﹂と
快活に告げて、生徒達を引き連れていく。
532
﹁去年より増えてない?﹂
﹁好評だったみたいだよ、バックステージツアー。あんまり見れる
ものでもないからね﹂
案内役の手配を頼んで正解だった。さすがに校外で十数名の生徒
の面倒は見切れない。
﹁涼も大変ねえ﹂
他人事のように呟く琴音の視線が引率される生徒達の中をさ迷う。
﹁何か?﹂
﹁いや、ちょっと⋮⋮﹂
琴音は言葉を濁した。
﹁そういえば、鬼島君は元気?﹂
仮にも役者志望ならばもう少し台詞を選ぶべきだった。涼は半眼
で琴音を見た。
﹁鬼島を呼んだのか﹂
﹁招待状を送ったことは認めるわ﹂
琴音は大仰に腕を組んだ。完全に居直った態度︱︱むしろ非難は
覚悟の上と言わんばかりだった。
﹁怒らないの?﹂
﹁私が怒るのは筋違いだよ。誰を招待しようが主催者側の自由だ﹂
あらそうですか、と言う琴音の唇は尖っていた。責めても責めな
くても不機嫌になる彼女に涼は理不尽さを覚える。一体どうしろと
いうのだ。
涼の内心を見透かしたように琴音は言った。
﹁そうやって一般論振りかざして逃げるのって、卑怯だと思う﹂
感情的になるわけにもいかず、事務的になれば不誠実だと非難さ
れる。天下の件になると涼の分はとことん悪くなる。それは琴音に
限ったことではなかった。香織にしても恭一郎にしても、見解は違
えど批判的だった。それも、教師と生徒の恋愛をではなく、涼の態
度を咎めていた。つまり、優柔不断さを。
︵立ち向かうしかないってことか︶
533
そのつもりはなかったが、口に出していたらしい。琴音は訝しげ
な顔をした。
534
︵その四︶戦闘開始です
涼の危惧を余所に歌劇﹃カルメン﹄はつつがなく終演。なかなか
いい出来だと思う。先輩としての贔屓目を差し引いたとしても。
四年前に同じ場所で主役のカルメンを演じた琴音はというと﹁及
第点ってところかしら﹂と批評家よろしく偉そうにコメントした。
無論、その需要のない個人的主観に満ちた評価は隣に腰かけていた
涼の耳にしか入らなかった。
公演が終われば後は解散だ。念のため会場出口から少し外れた掲
示板前で再集合し、人数確認をしておく。一同をぐるりと見渡して
いた涼の目に、嫌という程見覚えのある奴の顔があった。
正確には、顔写真だ。生徒一人一人を数えていた指が止まる。声
楽科の掲示板に貼られた海外コンクールの結果は﹁二位 榊琴音﹂
とあり、余所行きの柔らかな笑みを浮かべる琴音の写真が隣にあっ
た。
﹁これって⋮⋮﹂
﹁先日のコンクールですよ。一位なしの二位だから、事実上は先輩
が一番﹂
大学の後輩の説明に、生徒達が色めき立つ。声楽部門では結構有
名なコンクールであることも助長した。掲示板の前に一斉に集まり、
顔写真と本人を交互に見る。
﹁コンクール、受けたんだ﹂
結果よりも涼にはそちらの方が驚きだった。教授に煽てられても
宥められても頑として拒否し続けた声楽科期待の星。琴音のコンク
ール嫌いは当時の声楽科で知らない者はいないくらい有名だった。
﹁ちょっと試しに、ね﹂
535
素っ気なく言うが、琴音は照れたようにはにかんでいた。一体ど
ういう心境の変化かはわからないが、素晴らしいことだ。涼は素直
に賛辞を贈った。
﹁流石だね。おめでとう﹂
﹁どうも﹂
﹁そりゃそうですよ。なんてったって、スタンウェイの貴公子の妹
ですから﹂
自らのことのように得意気に話す後輩。悪意はないのだろうが、
配慮もなかった。和やかな場は一瞬にして硬直する。
﹁⋮⋮え?﹂
琴音もとい﹃スタンウェイの貴公子の妹﹄を不躾に見、やや間の
抜けた声を皮切りに一同騒然。
﹁え、まさか、あの吉良醒時の?﹂
﹁マジ? どおりで││﹂
驚愕はすぐさま羨望へと転化する。つい先ほどまで琴音の歌唱力
を羨んでいたはずの生徒達はあの鬼才ピアニストの妹であることを
羨んだ。
不用意な発言を涼は疎んだ。吉良醒時と同じ遺伝とするには、彼
女の実力は凡庸だ。本人が一番良く理解している。何より、琴音は
吉良醒時とは一切血が繋がっていない。
﹁まあ、兄をご存知なんですか?﹂
日本人初のショパンコンクール優勝者。知らない音楽家を探す方
が大変だ。わからない琴音ではないだろうに、すっとぼけて無邪気
な笑みを浮かべた。
﹁嬉しいわ。今後とも兄をよろしくお願いします﹂
あ、こいつ今、舞台上に立ってる。
愛想良く応じる琴音の笑顔は一点の曇りもなく、それでいてどこ
となく品があり、彼女の育ちを伺わせた。そしてこういう天然お嬢
様ぶりは、彼女の演技に過ぎないことを涼は知っていた。太陽には
必ず影がある。見せないだけだ。
536
なおも食い下がろうとする生徒達に涼は解散を宣言した。教師の
体面として﹁寄り道せずに帰るように﹂とおざなりな注意を添えて
帰路につかせる。
﹁悪かったね﹂
﹁元はと言えばこっちのせいよ﹂
琴音は片付けに勤しむ後輩達││先ほど吉良醒時の妹だと紹介し
た女子大生へと目を向けた。
﹁悪い子じゃないんだけどねえ⋮⋮﹂
たしかに。ただ考えが及ばないのだ。吉良醒時に限らず鬼才は多
大な影響を家族に与える。それが必ずしも良い影響だけではないこ
とを。
琴音の場合は特に複雑だ。彼女が愛しのお兄様に抱く感情は過度
な愛情だけではない。音楽の才に対する劣等感、焦燥。そして、過
失からの罪悪感と恐怖。
涼は恭一郎のことを思った。血の繋がりもなく、戸籍上もただの
他人に過ぎない﹃兄﹄もどき。出国するまで、もしかしたらイタリ
アに着いても、心配していた。
537
︵その五︶悪意がないことが一番酷いのです
正直に言えば、電車に乗る前くらいは明るい話題を提供してほし
かった。笑顔とまではいかなくても、いつも通り穏やかに別れられ
るように。
﹁僕が口を挟むのもお門違いかもしれないけど﹂
遠慮を見せつつも、恭一郎は踏み込んできた。
﹁本当に、このままずっと無関心を貫くつもりかい?﹂
何を、とシラを切るつもりはなかった。嫌がるのを知っていてあ
えてその話題を蒸し返してきたのだから、そう簡単に引き下がると
は思えない。返答如何では飛行機の一便や二便くらいは平気で見逃
す。だから涼は正直に答えた。
﹁少なくとも、積極的に関わるつもりはない﹂
﹁弟でも?﹂
﹁同じ腹から出てきたってだけじゃないか。教師としての愛着はあ
っても姉としての実感はわかない。おまけに半分は他人だよ﹂
﹁でも半分は肉親だ﹂恭一郎の声は切実でさえあった﹁とても大切
なことだと思う﹂
もはや一人も血の繋がった肉親を持たない恭一郎だからこそ、こ
だわるのだろう。本人には口が裂けても言えないが、代わってやれ
るのならいっそ代わりたかった。二十四年も放置しておきながら、
ただ血が繋がっているという理由だけで振り回す連中が、涼には煩
わしかった。
﹁上原家が崩壊しようが僕は自業自得だと思うけど、それで君が後
悔しないか心配だ。親になることを放棄した人だけど、君を産んだ
人だよ﹂
538
﹁育てるどころか、産む気もおそらくなかったと思うよ﹂
千夏さん、と涼は補足した。さん付で呼ぶことに違和感はなかっ
た。
﹁⋮⋮で、たぶん堕ろす気もなかったんだと思う﹂
恭一郎は首を傾げた。
﹁じゃあ、どうするつもりだったんだ?﹂
﹁どうもするつもりがなかったんだよ。考えてない││考えること
を放棄したら結果的に私が出てきてしまった。ただそれだけ﹂
悩んだ末にやむなく捨てたのだと、思っていた。しかしそれは涼
の勝手な解釈に過ぎなかった。悩み疎む対象にすら涼はなり得なか
ったのだ。
涼を捨てたのは、世間体を気にした千夏の母だった。高校生の時
に釘を差してきたのは父の父だった。当の本人達は何もしていない。
都合の悪い過去を忘れたというのも語弊がある。忘れたも何も、覚
えていないのだから忘れようがないのだ。
高校生同士で恋をして身体を重ねた。身体を重ねたら身ごもった。
身ごもったら子が生まれた。育てられないから育てられる人に預け
た。
一連の流れの中で、原因となる本人達の意思が介在する余地は見
当たらなかった。
﹁賭けてもいい、悪いとは思ってないよ。ましてや赦してほしいな
んて微塵も思ってない。無かったことにしたがっているだけだ﹂
しかしどんなに忌まわしい過去であろうとも、消し去ることはで
きなかった。母や父、そして周囲の人間、数え切れない後悔を伴う
過失の上に涼の存在は成り立つ。
﹁赦してほしくもない人を私は一体どうすればいい?﹂
恭一郎は微かに苦笑した。聞き分けのない子供に対するように。
諦めた時に見せる表情だった。
﹁そうだね﹂独り言のように小さく呟く﹁難しいね﹂
肉親に捨てられたが故に、涼は﹃彼女﹄と恭一郎に出会った。そ
539
れは少なくとも自分にとっては幸運なことだった。曲りなりにも家
族らしいものを得た。
しかしその﹃兄﹄もどきは﹃妹﹄同然を諌めるのにも﹁お門違い
かもしれない﹂と一言添えなくてはならないのだ。肉親ならばあり
得るはずのない遠慮が常につきまとう、歪でぎこちない関係しか築
けなかった。
540
︵その六︶犬猿の仲なのです
涼は部活仲間と談笑する直樹を盗み見た︱︱つもりだったのだが、
視線に気づいた直樹が、一瞬だけ怪訝な顔をし、次に無邪気に手を
振った。思わず上げかけた腕を涼は慌てて下ろした。軽く会釈し、
やり過ごす。
たったそれだけの動作にも目ざとい琴音は反応した。
﹁担当の生徒?﹂
﹁いや、合唱部の生徒﹂
それだけでは逆に不自然かと思い、涼は適当に親しげな理由を付
け足した。
﹁普通科だけど歌に興味があって、合唱部に。﹃カルメン﹄が好き
みたいなんだ﹂
他意は全くなかったのだが、失言だったようだ。つり上がる眉に
反比例して琴音の機嫌が急降下。
﹁男で﹃カルメン﹄? それは趣味が悪いことで﹂
心当たりがあるだけにあえて触れずにいたのだが、避けては通れ
ないようだ。わざわざ自分からその話題を持ち出した琴音の心情を、
涼は正確に汲み取った。
﹁⋮⋮先日、そっちにお邪魔したんだって?﹂
﹁ええ。呼ばれてもいないくせにいらっしゃいましたよ、お宅のお
兄さん﹂
卒業生だからな。帰国ついでに顔を出したりはするだろう、普通。
そしてちょうどオペラ研究会が練習していると耳にすれば、OBで
ある恭一郎が足を運ぶのも至極当然のことのように思えた。
﹁先週、またイタリアに戻ったよ﹂
541
﹁日本と海外の往復頻度が多過ぎない? 金があるからって生半可
な覚悟で留学するんじゃないわよ﹂
毒づく琴音の実家は大層な金持ちだ。恭一郎とは比べものになら
ないくらいの。しかし、同じ金持ちだからこそ腹立たしいのかもし
れない。
﹁行くからには向こうに骨をうずめるくらいの気概を持つべきね。
失敗したら日本に戻ればいい、なんて甘いのよ。そう思うでしょ?﹂
金持ちドングリで背比べされても答えようがなかった。涼に言わ
せれば、留学したり大学院に進めた時点でどちらも親のスネに感謝
しろ、だ。
この様子だと秋にまた帰国することは教えない方が良さそうだ。
﹁あれ? 鬼島くん﹂
明後日の方向に行きかけていた思考が引き戻される。涼は血の気
が引いた。
会場から出て行く人の流れの中に、天下の姿を認める。学生服は
ともかく、男子高校生が一人。明らかに不自然だった。
最悪なことに、その浮いた学生も涼の姿を認めて立ち止まった。
いきなり歩み寄ってこないだけの分別はあるらしい。こちらの様子
を伺い、琴音に軽く会釈。
軽々しく手を振り返した琴音の頭を、涼はパンフレットではたい
た。
﹁なによ、嫉妬?﹂
﹁一人で言ってなさい。あと、よろしく﹂
解散宣言はした。それぞれ家路につく生徒達を見送り、涼は図書
館を天下に指し示した。察しがいいのはこういう時にありがたい。
天下は人の流れから外れて、遠回りに図書館の方へと向かった。
542
︵その七︶間違ってはいません。
図書館の裏手には記念樹がひっそりと佇んでいる。その存在を知
る学生はあまりにも少ない。何年前の卒業生が贈ったものだかは知
らないが、もう少し場所を考えるべきだった。
おかげ様で記念樹のふもとは絶好の密談場所になり、涼も利用さ
せていただいていた。卒業してからもお世話になるとはさすがに思
わなかったが。
﹁入場制限があるとは知りませんでした﹂
あるかそんなもの。わかりきったことを言う天下の口調は皮肉め
いていた。
﹁何故来た﹂
﹁そりゃあ来るさ。﹃カルメン﹄じゃねえか﹂
﹁初耳だ。君がそんなに﹃カルメン﹄が好きだったとは﹂
﹁好きになったんだよ﹂
その言葉が示す意味を涼ははかりかねた。
自分は断固として認めないが、天下曰く﹃初めてのデート﹄で観
に行ったオペラ。見損ねた第一部。帰り道、駅の改札口前で突然告
白された。天下の中ではあの時既に始まっていたのだ。対する涼は
というと、天下の恋心に薄々感付いていたものの、ほとんど取り合
っていなかった。所詮、思春期の少年の考える一時的な感情だし、
そもそも彼は教え子だ。生徒は完全に対象外だった。
﹁私は、好きじゃない﹂
そもそも、だ。重要なのはいつ始まったかではない。手遅れにな
る前に終わらせることだ。今、ここで。
﹁カルメンが?﹂
﹁君が﹂
天下は虚を突かれたように目を瞬き、やがて呆れたように呟いた。
543
﹁何を今更﹂
﹁今更じゃない。ずっとそう思ってた。これからもそうだ﹂
天下は胡乱な眼差しをこちらに向けた。いつもの軽口を叩ける状
態ではないことを察したようだった。
﹁俺の何が駄目なんだ﹂
﹁年下だから﹂
﹁男女の平均寿命の差を考えろ。ちょうどいいじゃねえか﹂
﹁似非優等生だから﹂
﹁俺が体面を気にしなくなったら、困るの先生の方だろ﹂
﹁生徒だから﹂
﹁来年卒業する。生徒じゃなくなる﹂
打てば響くように返してくる天下に涼の苛立ちは募る。千夏とい
い、直樹といい、目の前のこいつといい、どいつもこいつも自分を
煩わせる。いい加減にしろと怒鳴り出したい衝動を堪えて、低く言
った。
﹁面倒だから﹂
﹁お互い様だ﹂
涼は反発を覚えた。一体自分がいつ天下に面倒を掛けた。遙香と
佐久間の件では確かに助けてもらったりもしたが、それだって天下
が勝手に首を突っ込んできたのだ。自分が頼んだわけじゃない。
一度ついた火は急激に勢いを増した。
﹁私がいつ、好きになってくれと頼んだ?﹂
この数日間でたまりにたまったものがせきを切ったかのごとく溢
れだした。
﹁君が現れてから、面倒ばかりだ。神崎にはたしなめられるし琴音
には責められるし、挙句の果てには詮索されて生徒にまでなじられ
る。どうして私が毎回毎回君のことで弁明しなきゃならないんだ。
おかしいとは思わないか? 私が、君のことを好きならそれも仕方
ないだろうけど、そうじゃないにもかかわらず、だ。明らかに不公
平じゃないか﹂
544
天下の件にせよ、直樹の件にせよ、それが自らの行いに対する報
いだというのなら、涼とて甘んじて受け入れただろう。しかし、原
因は他にあった。しかも、過ちを犯した当の本人たちは平然として
いるのだ。他人に非難されることも肩身の狭い思いをすることも、
惨めに思うこともなく生きている。それどころか、別の男性と結婚
して息子まで産んでいた。何一つ損なうこともなく、幸せに、平穏
に暮らしている。
こんな理不尽な話があるか。涼は怒りで目が眩みそうだった。
﹁間違ったことをしていないのに、どうして私が?﹂
言いたいことを言いたいだけ言って気分は晴れやか︱︱になるは
ずもなかった。むしろ虚しさは増すばかりだ。年下の生徒相手に何
を大人げなくなっているのだろう。こんなのはただの八つ当たりだ。
いたたまれなくなって涼はその場から離れようとした。
﹁待てって﹂
肩を掴まれ、やむなく止まる。涼は挑むように天下を見据えた。
﹁俺の顔見て、ハッキリ言え。嫌いなのか?﹂
﹁あのな、﹂
﹁そしたら諦める。顔も見たくねえって言うなら、もう見せねえ﹂
そう言う天下は、一縷の希望に縋っているようにも、一思いに斬
られる覚悟を決めているようにも見えた。いずれにせよ涼の答えは
最初から決まっている。
涼は断ち切るように告げた。
﹁大嫌い﹂
自分の声が、やたらと明瞭に聞こえた。意識して声を張ったわけ
でもないのに、舞台の台詞を言うようにハッキリと、そして真実味
があるように。これでも涼は元声楽家志望だ。感極まって喋れなく
なるような失態は犯さない。成すべき役目を果たすだけ。
目の前の天下は真剣な表情のまま動かなかった。衝撃のあまり硬
直したのか││いや、緩慢にだが天下の片頬がつり上がる。
﹁⋮⋮﹃大﹄まで付ける必要、あったか?﹂
545
天下は薄く笑った。自嘲混じりの笑みだった。
﹁先生は容赦ないですね、相変わらず﹂
他人行儀な優等生口調に、涼は安堵を覚えた。これでいいのだ。
天下にとっても自分にとっても。
自分は違えない。あの女と同じ道は歩まない。
546
文化祭︵その一︶でも正しくもありません
長いようで終わってしまえばあっさりと短い。恋愛と夏休みは似
ていた。うだるような暑さが続く毎日はすぐに冷えて秋になり、や
がて冬が来る。
﹁頑張りますよねえ﹂
文化祭の準備も佳境にさしかかった頃、恵理がしみじみと言った。
﹁夏休みを迎える前には辞めちゃうと思っていたけど﹂
誰のことを示しているのかは訊くまでもなかった。涼は渡り廊下
を陣取る合唱部員達に目をやった。文化祭で使用する看板作り。絵
筆を片手に先輩と談笑する上原直樹は、音楽科生徒と遜色がなかっ
た。
﹁物怖じしないからでしょうね。自己主張の激しい連中に囲まれて
も平気なようです﹂
﹁歌も上手い方ですよ。巻き舌もすぐに習得したし﹂恵理は小さく
笑った﹁まあ、渡辺先生が一番ご存知でしょうけど﹂
意味ありげな台詞を追求する気にはならなかった。合唱で巻き舌
はほとんど使わない。だから理恵も敢えて教えなかったのだが、部
員同士の雑談の話題に上ったらしい。興味を示した直樹に声楽科の
生徒が巻き舌習得法を伝授したのは当然の成り行きだし、たゆみな
い努力の結果巻き舌を体得したのは見事ではあった。しかし、だ。
その見事で素晴らしい結果を真っ先に涼へ報告してくるのはいか
がなものか。たかが副顧問に。
﹁生徒に好かれるのはいいことよ﹂
好意を素直に表しても疑われないのは直樹の人徳だった。入部理
由に涼との進路相談を挙げる堂々さや、未知であるはずのクラシッ
547
クに対する積極性もまた、周囲に好感を抱かせた。
現に、目を輝かせて﹁できました!﹂と報告する直樹は、まるで
芸を成功させた飼い犬のようで、さすがの涼も素っ気なく扱うこと
ができなかった。まさか姉だとは夢にも思わず、純粋に慕ってくれ
ているらしい。
﹁冗談はさておき、彼はものになると思いますか?﹂
﹁将来の夢の方はわからないけど、筋は悪くないわ。骨があります
よ、上原君。真面目に練習してるし、この調子なら冬の定演から乗
れるでしょうね﹂
﹁俺がどうかしましたか?﹂
ちょうど作業が一区切りついたのか、当の本人が寄ってきた。恵
理はにこやかに応じて﹁あ﹂と声をあげた。
﹁そういえば、渡辺先生と声が似ているわ﹂
﹁え?﹂
﹁声質が、と言うべきかしら。一緒に歌えばいい感じにハモりそう﹂
具体性のない説明はいつものこと。しかし百瀬恵理は三十代とい
う若さで音楽科の副主任を勤めるほどの人物だ。学生時代は国内コ
ンクールでも何度か入賞経験がある。つまり、聞く耳はたしかだと
いうことだ。
﹁上原君のお母様も音大生だったのよね? 渡辺先生と三人で歌っ
たら案外楽しいかも﹂
涼は表面上﹁そうですね﹂と軽く受け流したが、内心は穏やかで
はなかった。
﹁俺、姉がいるんですよ﹂
涼は弾かれたように顔を上げた。上原家の家族構成は進路相談の
際に確認している。彼は一人っ子のはずだ。
﹁⋮⋮姉、が?﹂
﹁はい。正確には﹃いた﹄って、母が﹂
やや決まり悪げに直樹は付け足した。
﹁流産だとかで﹂
548
あら、と惜しむ恵理の声が遠のく。ほんの僅か浮かんだ自分の考
えが滑稽に思えた。言うはずがないじゃないか。千夏にとっては消
し去りたい過ちなのだ。
﹁それは残念ね﹂
残念だろう、千夏にとっては。流産し損なったせいで﹃娘﹄は今
も存在している。高校で、大事な大事な息子に音楽を教えている。
残酷な考えが頭を占めた。この場で洗いざらいぶちまけてしまおう
か。直樹が慕う﹃先生﹄が何者で、あの女が直樹を生む前に一体何
をしたのか。
﹁渡辺先生?﹂
涼は首を横に振った。
﹁ちょっと、体育館の様子を見てきますね﹂
当日はミスコンの前に合唱部が数曲披露する予定だった。リハー
サルがあるとはいえ、会場の様子を見ておくに越したことはない。
が、実のところこの場を離れるための言い訳に過ぎなかった。頭
を落ち着かせる時間が欲しかったのだ。一瞬とはいえ、暴露するな
どと考えた自分が恐ろしかった。
冗談ではない。千夏と顔を合わせようものならどうなるのか、涼
には全く想像がつかなかった。少なくとも平常ではいられまい。向
こうも涼に気づいたら取り乱すだろう。
そんな二人を見た直樹はどう思うか││まさか異父姉弟であるこ
とにまでは思い至らないだろうが、不審には思うはずだ。疑惑が積
み重なって、秘密が明るみになることを涼は恐れた。
︵駄目だ︶
直樹の母には絶対に会うわけにはいかない。姉として名乗り出る
という選択肢は最初からなかった。
︵⋮⋮厄介なことになった︶
涼は胸に締め付けるような痛みを覚えた。考えるとたまらなくな
った。突如現れた自分を生んで捨てた母の対処に困る今の自分と同
じように││いやそれ以上に、二十数年前の千夏とその周囲も、生
549
まれてしまった子供を疎ましく思ったのだろう、と。
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︵その二︶関わらないのが一番です
﹁先生﹂
聞き覚えのある声に呼び止められたのは、体育館の前にさしかか
った時だった。
二度と姿を現さないんじゃなかったのか。約束を守らないのは犬
猫以下だぞ話し掛けんじゃねえ。苛立ちを露わに振り返り、涼は固
まった。
鬼島統だった。誰と間違えたなんて思い出したくもない。カラフ
ルな厚紙を抱えている点から察するに、宣伝ポスター張りに勤しん
でいるようだ。
﹁⋮⋮やあ﹂
ぎこちなく挨拶すると、統は無言で頭を軽く下げた。
﹁私に何か?﹂
弟だから当たり前だが、統は天下より少し背が低かった。硬い表
情を浮かべる顔もどこか幼く、あどけなかった。天下に似てはいる
が、まだまだ少年だ。
﹁⋮⋮鬼島君?﹂
統の豊かではない表情にしかし、涼は微かな動揺を見いだした。
そして気づく。
﹁もしかして、ただ挨拶した、だけ?﹂
見知った教師を見かけたから挨拶した。普通の生徒ならばそれだ
けで済むことが、統だと重大な用件の前触れかのような印象を受け
る。
案の定、統は頷いた。難儀な奴だ。兄とはまるで違││いや、兄
は関係ない。全く。
﹁文化祭準備、お疲れ様。間に合いそう?﹂
﹁わたあめ、以外は﹂
551
一年三組は縁日をやるのか。去年は音楽科の二年生だか一年生だ
かが同じく縁日をやっていたことを涼は思い出した。生徒に勧めら
れて涼も参加した。わたあめも買ったし、せんべいに水あめで絵を
描いてザラメを振りまいたのは、なかなか楽しめたと記憶している。
﹁わたあめの機械が借りられなかったとか?﹂
統は首を横に振った。
﹁衛生問題﹂
統の背後││視聴覚室の中を覗けば、生徒二人と学年主任が口論
している真っ最中だった。生徒の一人は顔に見覚えがあった。音楽
を選択している一年三組の女子生徒。たしか名は杉本だったか。
ポスター片手に統は何を突っ立っているのかと思えば、学年主任
への抗議を傍観もとい見守っていたらしい。
﹁つまり、わたあめを教室で作って抜き身のまま販売するのは衛生
的によろしくない、と?﹂
こっくり。頷く統はどことなく深刻そうだった。
しかし大義名分があるとはいえ、文化祭三日前になって振りかざ
すことでもなかった。企画書を出した時点で止めろ。
﹁ちょっと失礼﹂
涼と統の間をすりぬけ、別の教師が口論に割って入った。主任宛
てに来客があったことを伝える。時間切れのようだ。
主任はなおをも食い下がろうとする杉本達に﹁とにかく、わたあ
めは許可できません﹂と一方的に告げて会話を強制終了。涼は統の
袖を掴んで扉から離れさせた。
主任は言伝の教師を引き連れて視聴覚室を出る。すぐ脇にいた涼
と統には見向きもせずに足早に職員室の方へ。その後ろ姿をしばら
く涼は眺めた。
﹁⋮⋮あんまりだよ﹂
視聴覚室から泣き言。気持ちはわからなくもないが、嘆いている
時間があるなら次の手を打つべきだ。
︵さて、どうしたものか︶
552
生徒の味方面をして主任に抗議するのは担任である桜井美幸の仕
事だ。涼は一年三組の担任でもなければ科も違う。部外者がしゃし
ゃり出れば、それこそ話がこじれる恐れがあった。
﹁杉本さん﹂
﹁あ、渡辺先生⋮⋮﹂
色々問われる前に、涼は﹁たまたま通りかかって﹂と簡単に説明
した。時間が惜しい。今日中に反撃に出なければ、わたあめの話は
完全に流れる。学年主任は一クラスにいつまでも関わっていられる
ほど暇ではないのだ。
﹁わたあめ禁止令が出たんだって?﹂
﹁酷いですよね。今になって﹂
延々と続きそうな泣き言を制し、涼は助言した。
﹁去年、音楽科のクラスでわたあめやってた。何年生だかは覚えて
ないけど、百瀬先生なら知ってると思う。たぶん、企画書も残って
る﹂
途端、杉本の目が輝く。
﹁じゃあ、それを主任に突きつければ﹂
﹁去年は去年、今年は今年、って言われたらおしまいだよ﹂
もう一人の生徒が浮かない顔で呟く。
﹁だろうな。年々食品衛生は厳しくなってるから﹂
以前にやって問題がなかったからといって、今年も同じとは限ら
ない。
﹁去年の実例を持ち出しつつ、妥協案を提示するのがいいと思うよ。
しっかり衛生管理がされていれば、問題はないはずだ﹂
﹁先生から、主任に話してはくれないんですか?﹂
﹁私が言うくらいで納得する主任ならそうするけど、かえって反感
を買いかねない。所詮、私は部外者だ﹂
最初から頼られても困る。そもそも文化祭は生徒が主体となって
運営することに意義があるのだ。
﹁担任の桜井先生に相談して、それからもう一度主任に掛け合うと
553
いい。何かと多忙な主任だから話途中で打ち切ろうとするだろうけ
ど、引き下がらないことだ。わたあめをやるにせよ、やらないにせ
よ、今日中にはっきりさせとかないと間に合わなくなる﹂
﹁でも、﹂
杉本は困惑を露わにした。教師は生徒の味方であるべき。そう信
じて疑っていない彼女にとって、涼の態度は冷たく感じるのだろう。
たしかに、あったかくはなかった。
﹁通りすがりの教師に丸投げして駄目になるのと、自分達で知恵を
絞って玉砕するのと、どっちがより納得できる? もちろん、でき
る限り力にはなる。私だって縁日のわたあめは好きだ。でもわたあ
めを作るのも売るのも、私ではなく君達だろ?﹂
言うべきことは言った。あとは理恵に頼んで去年の企画書のコピ
ーをもらうくらいしか、涼が彼女達にできることはなかった。きび
すを返し、涼は眉を寄せた。
統がいなかった。
宣伝ポスターが机の上に放置されていた。つい先ほどまで、たし
かにいたのに。一体いずこへ?
涼が首を傾げたのと、統が視聴覚室に駆け込んできたのはほぼ同
時だった。A4の用紙三枚を掲げる。やや息を弾ませながらも相変
わらず抑揚のない声で一言。
﹁企画書﹂
仕事の速さは兄に似ていた。
554
︵その三︶隣の芝生は青く見えるのです
武器を手にしたらあとはいかに攻めるか、だ。涼は二、三入れ知
恵をして杉本らクラス代表を職員室へと出陣させた。おまけの統に
は可能な限り入り口を封鎖し、学年主任に逃げる口実を与えないよ
うに指示しておいた。当初の計画通りにはできないだろうが、たぶ
ん、大丈夫だろう。
ほのかな達成感に浸りつつ三人を見送っていたら、入れ違いに直
樹がやってきた。
﹁こんなとこにいたんですか?﹂
﹁君のクラスに少しおせっかいを﹂
サボりの言い訳にしてはお粗末だ。涼は話を逸らすことにした。
﹁何かあったのか﹂
﹁いえ、特に何もないんですが⋮⋮﹂直樹は困ったように頭に手を
やった﹁先生がちょっと気になって﹂
﹁私が?﹂
﹁俺、調子に乗ってべらべら喋ったから、気を悪くしたのかと﹂
考えてみれば話の輿を折るように退いたのだから、そう思われて
も仕方なかった。かといって、馬鹿正直に﹁母親の話が出たので退
場しました﹂と言うわけにもいかず、涼は返答に窮した。
﹁君のご家族の話を聴いて、私が不機嫌になる道理はないよ。音楽
家族は羨ましいと思うけど﹂
﹁先生のご家族は、音楽にあまり興味がないんですか?﹂
まず家族がいないのだが、それはさておき。最初に思い浮かぶの
はいつも彼女のことだ。音楽に限らず芸術を嗜むような人ではなか
った。
﹁協奏曲と交響曲の区別もできない人だったよ。入学して初めての
555
演奏会に呼んだら、開演前から寝てた﹂
その日の犠牲者は、眠ってしまった彼女を連日の仕事の疲れの故
だと労って起こさなかった恭一郎だった。客が何を求めているのか
もわからないようでは大成しない、と理不尽な説教をされていたの
を覚えている。
しかし、今になっても彼女が何を求めていたのかは涼にもわから
なかった。
前置きが長い、とオペラに文句を言っていた。チケット代に含ま
れているはずのアンコールに拍手を求められることに納得しなかっ
た。開店記念でもあるまいし、直接渡せもしない花束をたかが演奏
会の度に贈ることを無意味と断じた。どんなに熱く語ってもドミン
ゴの素晴らしさを理解してくれなかった。ほとんどの歌詞がイタリ
ア語││日本語でないことが不満で、隠そうともしなかった。結局、
演奏会に足を運んだのだって、その寝てしまったのが最初で最後だ。
今思えば、音楽に対する理解も歩み寄ろうとする気概もない、酷い
人だった。
﹁音大によく行かせてくれましたね。反対はされなかったんですか﹂
﹁されたよ。音大通うくらいなら、専門学校行って手に職を持てと
言われた﹂
︵でも、くだらないとは一度も言わなかった︶
やめてしまえとも言わなかった。学費に困ることは一度たりとも
なかった。汗水たらして働いて得た金を、自分は好きでもない音楽
の道に進もうとする甥と赤の他人のために使った彼女は、一体何を
望んでいたのだろう。
﹁⋮⋮でも結局は、賛成してくれたんですよね﹂
理解のある親。直樹の眼差しに羨望の色が混じる。
﹁そういうことに、なるかな﹂
賛成してくれたのかは今でもわからない。でも涼の話を聞いてく
れた。応援してくれた。
﹁いいなあ﹂
556
直樹は無邪気に羨んだ。
﹁うちのお袋もそれくらい理解があればいいのに﹂
直樹の親に対する遠慮のない物言いこそ、涼は羨ましいと思った。
大学に通わせてもらっていた立場では、そこまでふてぶてしくはな
れない。
557
︵その四︶順風満帆なのです
わたあめの販売が曲がりなりにも許可された翌々日、文化祭は予
定通り行われた。多少の混乱は毎年のこと。特に大きなトラブルも
なく、一般公開日を迎える。
その昼過ぎ、担当クラスもない涼はもともと少ない仕事の大半を
終え、残すは合唱部のステージ発表と後片付けのみとなっていた。
つまり、時間を持て余していた。とりあえず図書委員会主催の古本
市に顔を出し、中庭の吹奏楽が盛り上がっているのを二階窓から眺
め、恵理に店番を押し付けられたりと適当に過ごす。そして昼頃に
なってようやく、涼は一年三組の﹃縁日﹄を思い出した。わたあめ。
折衷案が通ったと聞いたが、その後はいかに。
焚き付けた手前、涼は様子を見に行くことにした。パンフレット
を片手にたどり着いた教室棟の三階。笛と太鼓の音をBGMに、は
たして一年三組は盛況していた。
お客の大半は近隣の親子だろう。スーパーボールすくいは特に小
学生以下の男の子には人気だった。昔懐かしのラムネに駄菓子の販
売。接客をする女子生徒の中には浴衣を着ている者もいて、本格的
だった。
そして肝心のわたあめは教室の窓際で売られていた。衛生問題な
ぞなんのその。色鮮やかなビニールの中に手を突っ込み、わたあめ
を食べる子供の姿もあった。一学年主任が目撃したら、わたあめ自
体が来年から禁止されそうな、のどかな光景だった。
﹁先生﹂
教室の奥からラムネを片手に直樹が寄ってきた。
﹁なんかホント、色々ありがとうございました﹂
﹁礼なら、責任を持つ桜井先生に言うといい。私は口を挟んだだけ
だ﹂
558
できたてと思しきわたあめ数袋を抱えた男子生徒が横切る。さす
がに教室でのわたあめ製造は認められなかった。その代わりに調理
室の使用許可が下りたのだ。運搬に人数を割かれるというデメリッ
トはあるものの、衛生管理の行き届いた家庭科調理室ならば主任の
言う衛生問題はクリアできる。
﹁でも先生が助言してくださったから、わたあめも││あの、音源
まで貸してくださって、ありがとうございます﹂
丁寧に頭を下げたのは文化祭実行委員の杉本だった。
﹁それは、こっちの主任に伝えておくよ﹂
校内で祭囃子のCDなんぞを持っているのは、音楽科主任ぐらい
だった。普通科とは違って良くも悪くも大らかな主任は二つ返事で
貸してくれた。聞けば、去年も縁日をやる際に使用したらしい。
﹁もしこれ、良かったら、どうぞ﹂
礼のつもりなのか直樹はラムネを涼に差し出した。氷水につけて
いたのだろう。水も滴る冷えたラムネにはどこか懐かしさを覚える。
涼は素直に受け取って、財布を取り出した。
﹁気持ちはありがたく受け取っておく﹂
二百円を直樹の手に乗せる。ご馳走になるわけにはいかなかった。
年上の大人として、教師として︱︱そして、姉として。
559
︵その五︶敵前逃亡ではなく戦術的撤退です
﹁お袋も来るとか言ってたんです﹂照れくささを誤魔化すように直
樹は頬をかいた﹁まあ、どうせ管弦楽部目当ですけど﹂
微笑ましい親子の和解情報にしかし、涼は一抹の不安を抱いた。
﹁管弦楽部に?﹂
﹁ええ。一応、合唱部の演目も見せたんですけど、ヴァイオリンや
ってるから管弦楽部の方に興味があるみたいで﹂
合唱部のプログラムに副顧問の名は載っていなかった。が、油断
はできない。直樹の口から千夏に伝わる可能性は十分にあった。親
しくなればなおさらだった。
涼は深く息を吐いた。
落ち着け。仮に知られたとして、向こうだって騒ぎ立てるのは本
意ではないはず。むしろ過去が明るみになって困るのは千夏の方だ。
しかし、不安とも恐怖ともつかない感情は膨れ上がるばかりで、
留まることを知らなかった。管弦楽鑑賞ついでに息子の教室に顔を
出したら? 可能性は高かった。そもそも管弦楽部目当てというの
も、直樹の様子を見に来るための口実かもしれない。
ざわめきが遠のき、足音が明瞭に聞こえた││今、この瞬間にも
千夏はこの教室に近づいているのかもしれない。際限なく高まる緊
張感は、本番前の舞台袖で待つ時のものとは全く違った。得体の知
れない恐怖に、涼の後ずさりした。
﹁あ﹂
教室入り口を見た直樹が声を上げた。
﹁きじ││﹂
そこまでだった。涼は身を翻して教室を出た。
︵どうして私が︶
行き交う人の波を縫いながら早足で特別棟へ向かう。
560
︵やましいことはない︶
逃げなくてはならないのは千夏の方だ。冷静な部分が指摘するが、
一度逃げの態勢に入った足は止まらなかった。
﹁先生﹂
背後から声が追いかける。
﹁おい、さすがにそれはねえだろ﹂
無言で加速。ややじれたように再び呼ばれる。
﹁涼﹂
﹁名前で呼ぶな﹂
音楽室前で涼は立ち止まり、振り返った。顔を合わせるのは夏休
み以来。天下は呆れ顔でこちらを見下ろしていた。
﹁気まずいのはわかるが、あからさまに避けるこたぁねえだろ﹂
﹁え?﹂
﹁だから、俺を見るなり﹂
言いかけて、天下は半眼になった。髪をかきあげ、頭に片手を当
てた状態で呟く。
﹁⋮⋮俺を避けたわけじゃないのか?﹂
さっき、教室にやってきたのは千夏ではなかったのか。ようやく
涼は思い至った。そういえば、直樹は﹁鬼島﹂と言っていたような
気がする。そもそも、思春期の男子学生が人前で母親を呼んだりす
るものか。
考えれば考えるほど逃げ出した自分が間抜けに思えてくる。
押し黙っているのを肯定と受け止めた天下は、安堵を見せつつも
首を捻った。
﹁じゃあ、なんでいきなり逃げ出した﹂
﹁色々事情があるんだよ、こっちも﹂
﹁上原が関係することか﹂
天下の勘の良さが恨めしかった。
﹁どうして上原君が出てくるのか、理解に苦しむ﹂
﹁否定しねえのな。図星か﹂
561
﹁ノーコメント﹂
天下の視線が下へと向けられる。涼が握っていながらも冷たさは
健在のラムネ。不用心だったかもしれない。ちゃんとお金は払った
とはいえ、直樹に愛想よく応じてしまった。普段の渡辺涼を知る者
が見れば不自然だ。
﹁俺は、珍しいと思った。普通科の野郎が合唱部に入るのも、あん
たが生徒と親しげにしていることも﹂
ああそうだよ。もとはと言えば、直樹が合唱部に入るからいけな
い。その前に実力試験で白紙解答を提出しなければ、この学校に入
学してこなければ。千夏と自分をこんなにも近づけたあらゆる偶然
を涼は恨んだ。
562
︵その六︶兄の直感は海をも越えるのです
﹁はい、ここまで﹂
一触即発の状況を呑気な声が打ち破る。
﹁思ったより広いね、この学校。地図をもらって大正解だったよ﹂
入口でもらったと思しき文化祭のパンフレット。突然の乱入もそ
うだが、方向音痴な恭一郎がこの学校まで辿りつけたのが驚きだっ
た。
﹁どうしてここに?﹂
﹁一般公開日に僕が来てはいけないのなら、まず名称を改めるべき
だ。誤解をした多数の一般人が現在、この学校の至るところを闊歩
しているよ﹂
﹁そうじゃなくて、帰国は来週じゃなかったのか﹂
一昨日のメールではたしか、そうなっていたはずだ。指摘すれば、
恭一郎は悪びれもなく﹁当初の予定はね﹂と認めた。
﹁でもそのあと考えたんだ。僕の方向感覚はたまに、そう、ごく稀
にだが狂うことがある。この前の校内演奏会ではそのせいで君にご
足労をかけてしまった。非常に低いとはいえ、今回も同様の事態を
引き起こす可能性はないとは言い切れない。余裕を持って来るのが
得策かと﹂
一通りの言い訳に耳を傾けてから、涼は腕を組んだ。胡乱な眼差
しを注ぐ。
﹁要するに?﹂
﹁いきなり顔を出して驚かせようと思った﹂
子供染みた発言に、ラムネを取り落としそうになった。
﹁驚かされました﹂
﹁それは良かった﹂恭一郎はにっこり微笑んだ﹁でも僕も驚いたよ。
まさか学校で堂々と逢引しているなんて﹂
563
﹁してない﹂
﹁俺はしたいけどな﹂
余計な口をはさんだのは天下だった。不機嫌丸出し。挑発的に恭
一郎を見据える様は、まるで宿敵と相対しているかのようだった。
﹁邪魔してごめん。次からは気をつけるよ。次なんてないと思うけ
ど﹂
天下のこめかみが引きつる。対照的に爽やかな笑顔を浮かべる恭
一郎はトドメの如く別れを告げた。にこやかに。
﹁じゃあ、僕たちはこれで﹂
右手に涼の腕を、左手に鞄を取り、有無を言わせず恭一郎は連れ
て離れた。普通科と思しきの生徒の集団を横切り、階段を下りる。
すれ違う人の視線が微妙に痛い。珍獣を見かけたかのように足を止
め、目を見開く者までいる始末。
﹁どこに行くつもり?﹂
﹁僕は人気のあるところに行くつもりで歩いてる﹂
歩みは止めずに恭一郎は答えた。
﹁だから人気のないところに辿り着くと思う﹂
宣言通り、ようやく足を止めた場所は中庭の、人の気配が全くな
い特別棟の陰だった。方向音痴の意外な使い道に、場違いだとは思
いつつも涼は感心した。
564
︵その七︶でも妹限定なのです。
﹁だから言ったじゃないか。立ち位置を決めておけと﹂
恭一郎は呆れた口調で言った。
﹁直樹君がこの学校に通う以上、こうなることだって予想できたは
ずだ。いくら高校生とはいえ未成年なんだから親が干渉する余地は
多分にある﹂
涼は無言で校舎に身を預けた。事前に忠告されていた手前、面目
次第もない。結局、恭一郎の危惧した通りになった。
﹁予想はしてたよ﹂
公立高校では珍しい管弦楽団。音楽に携わる者なら興味を示して
当然だった。ましてや、息子の通う高校だ。行かない理由はなかっ
た。ばったり顔を合わせてしまう可能性だって考えなかったわけじ
ゃない。
﹁来るんじゃないか、とは思ってた。直樹から私のことを聞いて、
真偽を確かめに来るかもしれない。あるいは、何も知らずにやって
来るかもしれない。色々、考えてたよ。それでも私は大丈夫だとも
思っていた﹂
涼は額に手を当てた。えもいわれない敗北感が胸を占める。
﹁予想外だったのは、自分の方だった﹂
千夏と顔を合わせても自分は揺るがないという考えが、そもそも
大きく外れていたのだ。顔を合わせるどころか、いざ訪れるかもし
れない状況になったら脱兎の如く逃げ出した。
覚悟が足らなかった。つまりは、そういうことなのだろう。千夏
と向き合い、素知らぬ顔をして挨拶をする。直樹には何も気付かせ
ないように。簡単だと思っていたことの、なんと困難なことか。
﹁私が、甘かった﹂
嫌悪を抱きながらも笑みを湛えて受付嬢に挨拶した﹃彼女﹄には
565
遠く及ばない。涼はラムネの瓶を花壇の角に置き、その隣に腰かけ
た。見上げた恭一郎は物言いたげにしながらも口を噤んでいた。
﹁渡辺涼と上原直樹は、どんなふうに見えた?﹂
﹁いくら親しげでも、事情を知らなければ教師と生徒で通る程度の
距離は保っていると思う。でも僕の目には君が彼の姉に映った﹂
﹁鬼島天下とは?﹂
﹁教師に迫る血迷った生徒と、迷惑顔な教師、とでも言ってほしい
のかい? 君が彼に追いつめられていなかったら、さすがの僕でも
口を挟まなかったよ。できればこれっきりにしてほしいね。妹の色
恋沙汰にまで干渉する格好悪い兄にはなりたくない﹂
﹁じゃあ﹂涼は顔を伏せた﹁渡辺涼と、神崎恭一郎だったら?﹂
恭一郎の顔なんか見れやしない。くだらない質問だった。もしも
仮に涼が同じようなことを訊かれたら、幼稚と断じていただろう。
しかし、幼稚でくだらない質問に、恭一郎は真面目に答えた。
﹁どうだろう。先輩と後輩、幼馴染、友人、どれでも間違いじゃな
い﹂
﹁でも、兄妹には見えないだろうね﹂
﹁そうだね﹂
自虐的な台詞を恭一郎はあっさり肯定した。
別段、涼は傷ついたりしなかった。恭一郎が冷たいわけではない。
世間一般的に、違う血を引いて戸籍上の繋がりのない男女は、友人
か恋人にしかなりえない。ただ、それだけのことだった。
不意に、恭一郎の手が涼の肩に置かれた。宥めるように軽く二、
三叩く。
﹁不思議だねえ﹂
しみじみと呟く恭一郎の傍らで、涼は目を細めた。本物の家族に
なれなくても、と思った。世間一般的におかしな部類に入ってもい
い。恭一郎が自分のことを妹として見、家族だと思ってくれている
のなら、それで良かった。
大切に思う人がいる。大切に思ってくれる人がいる。周囲に理解
566
されなくても確かにいる。ぬるま湯のような曖昧な関係だとしても、
それだけで涼には十分だった。
他のものなんか、きっと必要ない。
567
五限目︵その一︶人の噂も四十九日です
結局、千夏とは遭遇することもなく文化祭はつつがなく終わった。
一週間も経てばどことなく浮足立っていた生徒も落ち着きを取り戻
す。三年生のほとんどは部活を引退し、受験モードへ一斉切り替え。
それでも涼は変わらなかった。
声楽専攻生に歌を教え、普通科の一年生には音楽の触りを教える。
放課後は合唱部の指導に訪れる生徒達の対応︱︱どういうわけか、
担当科以外の生徒の相手がやたらと多いのも相変わらずだった。
﹁先生、鬼島のこと振ったの?﹂
﹃担当科以外の生徒﹄筆頭の訪問者、矢沢遙香は突然準備室に押し
掛けるなり、開口一番訊ねてきた。
﹁あ、勘違いしないでください。私は先生が鬼島を振ろうが付き合
おうが先生の自由だと思っています。ただ、事実確認をしておきた
いだけです﹂
﹁付き合ってない﹂
母校でのアレを振ったと分類するのなら、最初の質問は﹁応﹂な
のだが、そこまで詳細に報告する必要性を、涼は感じなかった。ま
だ日はあるとはいえ、冬の定期演奏会の準備も本格的に始めなくて
はならない。遙香を片手間にあしらいつつ、練習日程表を作成する。
﹁君は一体何をしに来たんだ﹂
﹁ちょっとお耳に入れといた方がよろしいかと思いまして。今、う
ちのクラスでも耳にするんですよね﹂
眉を寄せる涼の前で遙香は指折り挙げた。
﹁えーと、まずは佐久間先生でしょ? それからこの前うちに来た
大学の先輩、んでもって今度は普通科の一年生﹂
﹁何が?﹂
568
﹁先生の恋愛変遷。さすがに一年のガキンチョ相手にどーこーなる
とはみんな思わないみたいだけど﹃男好きでお気に入りには特別待
遇﹄とは言ってるみたい﹂
涼は天井を仰いだ。遙香の台詞を頭の中で反復する。
﹁つまり、私に対するよからぬ噂が横行していると?﹂
﹁そうですね﹂
遙香は涼の様子を伺うように首を傾けた。
﹁気づいてました?﹂
﹁どうしてそう思う﹂
﹁あんまり驚いていないみたいだから﹂
﹁すごく驚いてます﹂
時々忘れそうになるが遙香は三年生、すなわち受験生ではなかっ
たか。
﹁噂になるほど生徒達に興味関心を持たれていたとは思わなかった﹂
他に興味関心を示すべきものがあるはずだ。大丈夫なのか今年の
三年生。他人事ながら涼は心配になってきた。
﹁文化祭がきっかけみたいですよ。先生、手繋いでたんだって?﹂
心当たりは一つしかない。原因は今頃、合わせ練習中。しばらく
日本に滞在すると先日言っていた。前科があるのでどこまで信用で
きるかわかったものではないが。
﹁大学の先輩で幼馴染だよ﹂
﹁周りにはそう見えないってことですよ。高校生は妄想たくましい
から﹂
そうですか、と涼は気のない返事をした。
突き放したことを言えば、受け持ちでもない他学科の生徒がいく
ら騒ごうと涼には大して影響がなかった。おまけに遙香達は三年生。
半年後には学科からいなくなる連中だ。
﹁ご忠告ありがとう。気をつけるよ﹂
と言うのも、わざわざ教えてくれた遙香に対する社交辞令だった。
遙香は半目になる。
569
﹁それだけ?﹂
﹁あいにく勝てない喧嘩を買うほど情熱家ではないもので﹂
古今東西の歴史が示す通り、数の力には敵わない。いずれ関係が
なくなるとわかっている相手にわざわざ弁明をする必要も、効果も
期待できない。それを涼は経験上、知っていた。
﹃カルメン﹄の時が最たる例だ。自分と恭一郎の関係は、世間一般
では﹃異常﹄に分類されることだった。我を通さずに、黙って引き
下がれば丸く収まる。ただ、自分が耐えれば。
他人に理解を求めるよりは、ずっと簡単なことだった。
570
︵その二︶四十九日に根拠はありません
自分と恭一郎の噂など、四十九日を待たずして消えると思ってい
た。世の中、教師の恋愛事情よりも大切なことはたくさんある。受
験生ともなればなおさらだ。
しかし、一週間が経過しようと話の折に﹁神崎﹂があがる度に、
涼は考えることになる。すなわち、世の中、大切なものは案外少な
いのかもしれない、と。
︵暇人どもめが︶
涼は額に手を当てた。授業を早めに終えての休憩時間。生徒達か
ら次の課題となる歌唱曲に関する質問を受け付ける││そこまでは
良かったのだ。
発端は思い出せないが、歌う際の注意点から原曲のオペラの話に
なり、やがて大学、サークル活動と変遷を遂げて話題は恭一郎につ
いてになった。
﹁お兄さん、じゃないんですか?﹂
﹁苗字が違うでしょ﹂杉本が指摘する﹁大学の先輩、ですよね?﹂
涼は頷いた。少なくとも、世間一般でいう﹁兄﹂ではないことは
確かだった。かといって的確な表現方法も思い浮かばない。説明す
るには、涼の過去は複雑過ぎた。聞くにも語るにも楽しい話でもな
かった。
結局﹃大学の親しい先輩﹄の線で通すしかないのだ。様々な違和
感や矛盾点には目をつぶって。
﹁そんなに、変なことかな﹂
疑問が口を衝いて出る。小さなぼやきは誰の耳にも入らなかった
ようだが、釈然としなかった。
悩みは恭一郎のことだけに尽きなかった。よりにもよって直樹ま
571
でもが噂に上っているのだ。無論、恭一郎に比べたら微々たるもの
だが﹁渡辺涼がえこひいきする生徒﹂の一人になっている。最悪だ
った。
おまけに噂になった理由を突き詰めれば、休み時間に話をして頻
繁に物の貸し借りをしているから、だそうだ。なお、涼は直樹に何
かを借りた覚えはない。心当たりといえば、合唱曲集のCDやらオ
ペラのDVDを直樹に貸したことぐらいだった。音楽科で管理して
いるのを、正式な貸出手続きを踏んで││もはやどこから弁解すれ
ばいいのかもわからなかった。
涼はしばし、イタリア語の歌曲を難しいだの発音わからないだの
口々に言う杉本達を眺めた。そろそろ次の授業が始まる時間だ。退
室を促す。
﹁原曲のCD、貸せるけど聴いてみる?﹂
念のために訊くが、杉本と他の普通科生徒も少し考えて、辞退し
た。これが音楽科の生徒なら二つ返事で借りただろう。つまり、仮
に直樹が音楽科に所属していたなら、CDの貸し借りは別段親しい
とは認識されない行為なのだ。
音楽科教師達もそれはわかっているらしく、この件に関して口を
挟んでくる者はいなかった。せいぜいが﹁何を今更言ってるんです
かねえ﹂と他人事のように首を傾げる程度。音楽科では当たり前過
ぎて説明する気にもならないのだ。
︵くだらない︶
音楽であれ何であれ、生徒の興味関心を深めて広めるのは教師と
して当然のことではないのか。自分が好きなものであるなら熱が入
るのもなおさらだ。
自分に限らず音楽科教師は音楽が好きだ。オペラが好きだオーケ
ストラが好きだ。だから、興味を持ってくれる生徒が好きだ。もっ
と好きになってほしいと思う。ただ、それだけだ。
至極単純で明快なことにさえも、いちいち理由をつけたがる。誰
だか知らないが無責任に噂を広めた奴にも、それを鵜呑みにして踊
572
らされる連中にも、涼は煩わしさを覚えた。
573
︵その三︶気になる人は気になるのです
文化祭も終わり、あとは大学受験に向けてひたすら勉強。教師達
の希望を余所に、生徒達に際立った変化はなかった。単語帳を広げ
る割合が増えてきた程度で、いつもと大して変わらない光景だった。
授業の合間に、雑談に興じる同級生の女子達も珍しくない。進路の
こと、家庭のこと、彼氏のこと、話題には事欠かない。が、普段な
らば聞き逃すような雑音をしかし、天下の耳はとらえた。
﹁ねえ、あれ⋮⋮例の先生じゃない?﹂
単語帳から視線を外して見やれば、女子数人が窓の外を指差して
いた。
﹁誰だっけ? 音楽科の﹂
﹁リョウ先生﹂
スズだ、馬鹿。天下は胸中で訂正した。口にすればそれこそ﹁何
故知っている﹂だの痛い腹を探られかねない。
﹁へえー、なんか怖そう﹂
怖いかどうかはわからないが、容赦ないのは確かだ。
﹁いかにも音楽科って感じだよね。授業も難しかったって、みんな
言ってた。普通科なんかじゃ、音楽はわかりませんよねって言わん
ばかりだったみたい﹂
その﹃みんな﹄って、どこのどいつらだ。言ってみろ。どれだけ
苦労して授業の準備しているかも知らないで。
﹁えー、やっぱ嫌な先生だね﹂
評価する前に音楽の授業受けてみろ。てめえで授業やってみろ。
何も知らないくせに好き勝手言ってんじゃねえ。罵倒と化した悪態
は辛うじて、天下の胸中に止まる。
︵今時いるかよ、授業のリハーサルまでしてる教師︶
574
視線は再び単語帳へ。危惧した通り、内容は全く頭に入らない。
文化祭以来、渡辺涼の噂が時折耳に入るようになった。曰く、気
に入った男には甘い教師。文化祭に彼氏を連れていた。
その﹁彼氏﹂が神崎恭一郎を指しているのは明白だ。だから余計
に天下は気に入らなかった。そして一年の上原直樹はお気に入りの
生徒、らしい。香織が同級生とそんな話をしていたのも聞いたこと
があった。実に不愉快だった。
こっちの気も知らないで他の男とよろしくやる涼にも、懐いてい
る直樹にも、なんか上手いポジションを獲得している恭一郎にも、
それにいちいち反応してしまう自分にも。
︵いい加減にしろ⋮⋮っ!︶
男がそんな簡単に惚れた女を忘れられるか。そりゃあ一度﹁顔も
見せない﹂と約束した以上、可能な限り努力はする所存だが。涙を
呑んで全力で渡辺涼を避ける所存ですが! 世の中には不慮の事故
というものが少なからず存在するもので、会いたくなくても顔を合
わせてしまう場合だってあるわけで。始末が悪いことに、久しぶり
なので余計に可愛く見えたりするのだ。
︵⋮⋮で、なんでよりにもよって他の男といちゃこらしてる所ばっ
か見せつけられなきゃなんねーんだよ︶
そしてこの噂だ。自分への嫌がらせとしか思えなかった。忘れよ
うとしても忘れられない。むしろ逆をいく。
﹁誰か俺を埋めてくれ﹂
﹁は?﹂
独り言を聞きつけた亮介が、顔を覗き込んでくる。
﹁大丈夫か、お前。勉強のし過ぎじゃねえのか?﹂
天下は首を横に振った。勉強のし過ぎでも大丈夫でもなかった。
575
︵その四︶誰にでも間違いはあります
一日で学生が自由にできる時間帯は限られている。朝のHR前、
昼休み、そして放課後。その中から適当な時間を選んでやってきた、
と考えれば常識の範囲内と言える。しかし、だ。
遅い昼食をとろうと弁当を広げた所に前触れもなく現れ、そのま
ま話をおっ始めるのはいかがなものか。
︵ここはいつから避難所になった︶
音楽科準備室の専用机。その上に置かれた弁当には目もくれない
来訪者を涼は半眼で見た。
﹁一体どういうつもりなんです?﹂
人目がないのをいいことに詰問口調。まずお前がどういうつもり
なのかを涼は訊ねたかった。
﹁どういうつもり、とは?﹂
﹁後輩から聞きました。神崎さんとは交際しているんですよね?﹂
杉本はバスケ部だったことを思い出す。伝えるのは結構だがせめ
て正しく伝えてほしかった。
﹁しておりません﹂
﹁学校に迎えに来て、一緒にご飯を食べて、頬についた汚れを拭い
てあげて、人前で手をつないで歩いているのに?﹂石川香織は鼻で
笑った﹁嘘をつくにも、﹂
﹁嘘じゃない﹂
涼は強い口調で否定した。
﹁神崎は大学の先輩で友人だ。そんな押し問答をしに君は押し掛け
てきたのか?﹂
気圧されたのか、香織は一瞬口を噤んだ。が、すぐさまくってか
かる。
﹁では先生は、好きでもない男性と手を繋いだり親しげにするんで
576
すか? 誰が見たって彼氏ですよ。鬼島君の気持ちを知っていなが
ら、そうやってハッキリしない態度を取るなんて、不誠実です﹂
誠実にハッキリと振ってやったとも。大嫌いとまで言った。それ
でも香織は満足しないのか。こちらを睨む挑戦的な眼差しには一分
の恥も見受けられなかった。
そして何の因果か、このタイミングで直樹が入室。すぐさま異様
な雰囲気を察知し、困惑を露わにする。
﹁え⋮⋮と、お取り込み中ですか?﹂
﹁石川さん、すまないが先約だ。日を改めてくれないか? 今日の
放課後は難しいけど、明日以降なら時間は取れる﹂
香織は心外と言わんばかりに顔をしかめた。
﹁昼休みに資料室を閲覧させる約束なんだ﹂
そこまで言ってようやく引き下がる。ものすごく不満げに渋々と。
生徒を理由に逃げるなと言いたいようだ。仕方なく涼は時間を作る
ことにした。
﹁で、明日以降のご都合は?﹂
﹁結構です﹂
言い捨て、香織は準備室を去った。残された直樹は頬をかく。
﹁⋮⋮俺、邪魔でしたか?﹂
﹁そんなことはない﹂
涼は涙を呑んで、一口も食べていない弁当を鞄にしまった。昼休
みは残りあと三十分。五限目は合唱の授業が待っている。昼飯は諦
めなくてはならなかった。
個人的な昼飯事情はおくびにも出さないで資料室を開けてやる。
直樹はそれとわかるくらい嬉しそうにCDの棚を探し始めた。備え
付けのイスに腰掛け、涼は傍にあった楽譜をぱらぱらめくった。フ
ォーレのレクイエム。去年、合唱の授業で使ったものだ。
﹁神崎さんって、先生の先輩ですよね?﹂
﹁大学の先輩で友人ですが交際はしていません幼馴染のようなもの
とご理解下さい﹂
577
一息で言ってのければ、直樹は小さく笑った。
﹁俺も聞きましたよ、その噂。校内演奏会の時からちらほら出てま
したけど﹂
﹁高校生は暇で困る。しかしまあ人の噂も四十九日だ﹂
涼は苦笑して楽譜をめくった。
﹁七十五日ですよ﹂
﹁え?﹂
﹁四十九日は納骨。噂は七十五﹂
直樹の頬が引きつる。
﹁まさか先生、間違えて⋮⋮﹂
涼は譜面に額を押し付けた。名目し難い沈黙。一般的に﹁気まず
い﹂と題する微妙な空気の中で、先に立ち直ったのは直樹の方だっ
た。
﹁ま、まあ﹂
直樹は咳払いした。
﹁神崎さんが校内演奏会で学校に来たのは一ヶ月くらい前だし、噂
はその後に出はじめたわけだし。そう考えれば、つじつは合い、ま
すね⋮⋮うん﹂
涼は楽譜ごと机に突っ伏した。勢い余って額を打つが、精神的ダ
メージが肉体的衝撃を遥かに上回る。
︵ななじゅうご︶
そうだった。四十九は仏教の法要であり、噂とは全く関係がなか
った。
﹁大丈夫ですよ。七十五の数字に根拠はないんだし﹂
しかし四十九にはあったような気がする。七の二乗。仏教には詳
しくないので詳細な由来はわからないが。
しかし、いくらなんでも四十九と七十五は間違えない。直樹の慰
めも意味を成さなかった。涼は間違えたのだ。大学を出て、教員免
許を取得し、いつも澄まし顔で生徒に教えている先生が、間違えた
のだ。しかもこんな初歩的なことを。
578
﹁よくある間違いですから﹂
そんな頻繁にあってたまるか。むしろ直樹に慰められる程、いた
たまれなさは増した。
﹁四十九と、七十五くらい⋮⋮っ!﹂
そこで直樹は耐え切れなくなった。吹き出したのをきっかけに腹
を押さえて笑う。遠慮なく。涼が楽譜から顔を上げて、恨ましげに
睨もうとお構いなしに、直樹は肩を震わせて笑った。
﹁すみませんすみません、先生でも間違えるんだと思ったら、つい﹂
﹁笑い過ぎだ﹂
涼は楽譜で直樹の頭をはたいた。そうやって直樹を責めておきな
がら、なんだかおかしくなってきて、自分でも笑ってしまった。
教師としての面目は丸つぶれだが、悪い気はしなかった。
579
︵その五︶直感は往々にして理屈に勝ります
悶々としていながらも、天下は身の程を知っていた。自分は、認
めたくはないが、涼に振られたのだ。顔も見せないと約束した以上、
関わるのは筋ではない。
たとえ涼のよからぬ噂が横行しようと、昼休みに香織が特別棟の
方へ行こうが、天下には全く関係のないことだった。
︵嫌な予感しかしねえ︶
気を揉もうが、それは天下の勝手であり、手を出すべきではなか
った。よくわかっていた。
しかし、天下は身の程を知っていたが、わきまえてはいなかった
のだ。
約束を守らない奴は犬猫以下だと思いながら音楽科準備室へ向か
い、未練がましい男ほど格好悪いものはないと断じつつ入室してし
まうのだから、もはや手遅れだった。医者に診断してもらうまでも
ない。判断力の欠如。これは末期だ。
﹁失礼します﹂
と声を掛けるものの、返答はなかった。入室した音楽科準備室は
もぬけのから。鍵が開いたままなので、少し席を外した程度とは思
うが、不用心であることにかわりはない。
主のいない、専用机。きれいに整頓されているが故に、中央に置
かれたメモが目についた。
﹃上原直樹さんのお母様よりお電話ありました。明日またご連絡く
ださるとのこと﹄
やや丸っこい字は涼の筆跡とは違った。明確に書いてはいないが、
涼宛てにあった電話を受けた教師が残したのだろう。先方の連絡先
も下に書かれていた。書きかけの市外局番を二重線で訂正して、携
帯の番号を。
580
天下はつまみ上げていたメモを戻した。問題は誰が電話を受けた
か、ではない。何故、普通科の生徒の母親が音楽科教師に電話する
のか。
︵転科の相談、か?︶
上原直樹でわざわざ親が連絡してくるとすれば、進路に関するこ
とが真っ先に浮かぶ。しかし、それにしては不自然だった。文化祭
の涼の態度もさることながら、この状況も。
違和感が少しずつだが確実に募る。
まずはこのメモ、だ。折り返しの連絡を断っておきながら携帯の
番号を教える。固定電話を言いかけて、わざわざ個人の携帯を指定
する。万が一、余計な気をまわされて電話してきた場合を想定して
いるように思えた。
隠し事をしてきた天下だからこその嗅覚だった。仮に自分がやむ
を得ず学校に連絡し、折り返しの連絡先を訊ねられたら個人携帯を
指定するだろう。自宅の固定電話は言わない。母親が出るおそれが
ある。秘密がバレる危険性がある。
無論、これだけで疑うには根拠が足りない。理屈ではなく直感が、
天下に怪しいと告げていた。
﹁おや、鬼島くん﹂
鑑賞室側の扉から音楽科主任が顔を出す。天下は軽く会釈した。
﹁ご無沙汰しております﹂
﹁久しぶりだね。もう受験生か﹂
しみじみと呟く主任。この大らかさは、天下は嫌いではなかった。
﹁渡辺先生なら資料室ですよ。上原くんの閲覧の立会で﹂
﹁いいえ、俺は⋮⋮﹂
言い淀む。なんと説明すればいいものか。適当な理由はいつくか
浮かんだが、誤魔化さなくてはならないことに嫌気が差した。
﹁ありがとうございます。行ってみます﹂
考えてみれば、涼とどうこうなる可能性は皆無となったのだから、
自分が素直に好意を示したとしても問題はないはずだ。
581
︵その六︶世の中の半分は理不尽でできています
お目当てのCDを見つけた直樹は早々に資料室を出ていった。や
けにあっさりと引き下がる潔さに内心首を捻っていると﹁お時間取
らせてすみません。昼飯、ちゃんと食べて下さいよ﹂と本人から釘
を刺された。
知っていたのか。香織は全く気付かなかったというのに。
﹁ありがとう。お言葉に甘えていただくよ﹂
年下である直樹に気遣われたことに対する恥ずかしさと、ほんの
少しの嬉しさが入り混じり、涼は口を綻ばせた。教室棟へ戻る直樹
を見送り、資料室を整理してしっかりと施錠。せっかく思いやって
くれたのだから一口くらいは弁当を食べておこうと、音楽科準備室
へ足を向けた。
が、進行方向からやってくる人物に涼の顔が強張る。
﹁顔を見せないんじゃなかったのか﹂
﹁あんたが見たくねえ、って言うならな﹂
正直言うと今はあまり見たくはない人物︱︱鬼島天下はふてぶて
しく訊ねた。
﹁顔も見たくねえか?﹂
涼は脱力した。自分の努力は一体何だったのだ。﹃大嫌い﹄とま
で言わせておきながら変わる素振りもない天下に腹が立つ。どこま
で自分を悪者にすれば気が済むのだろうか。
﹁上原は? 一緒じゃないのか﹂
﹁用が済んだから教室に戻った。そんなことを訊きにわざわざ資料
室まで足を運んだのか﹂
こいつもか。涼はやるせなくなった。天下でさえもそういう目で
自分と直樹を見ている。信じていたわけでもないのに、裏切られた
582
ような気になった。
﹁いや、厄介者が消えて、さぞかし面倒ごとが減ったろうと思って
様子見に来ただけだ﹂
天下はこれ見よがしにため息をついた。
﹁結局面倒なことになってんじゃねえか。ふらっふらしてっから、
そんなことになんだ﹂
﹁私は、これ以上ないくらい明確に意思表示したつもりだが?﹂苛
立ち紛れに余計な一言を添えた﹁少なくとも君に関しては﹂
﹁どうだか。俺だって消化不良だ﹂
天下は首に片手を当てた。関節が鳴る。不機嫌な時に見せる仕草
だった。
﹁あんた、以前に生徒は対象外だって言ったよな? だから俺がい
くら言ってもまともに取り合ってはくれなかった﹂
涼は沈黙し、渋々肯定した。天下の言わんとしていることを察し
たからだ。生徒であるのを理由に天下を特別扱いしなかったのは涼
だった。それどころか、彼には資料室に入ることすら許さなかった。
そして実のところ、天下が音楽科準備室までやってきた回数は大し
てない。涼が、嫌がったからだ。
﹁おかしいじゃねえか。なんで奴だけ特別待遇なんだよ。そんなだ
から贔屓だって陰口叩かれんだ。あんたも成長しねえな﹂
遙香と佐久間のことを持ち出されてしまっては、反論できなかっ
た。軽率さは自覚している。上原直樹は生徒で、自分は教師なのだ
から。天下の言うことはもっともだった。だが、押さえ込もうとす
る理性になおも抗うものがあった。
そんなに責められることなのか、と。
﹁人前で手繋いだり、教師と生徒が二人でこそこそ話してたら、周
りがどう思うかくらいわかんだろ。ガキじゃあるまいし││﹂
﹁恥ずかしい?﹂
天下の言葉を遮り、涼は訊ねた。自分でも驚くくらいに冷静な声
だった。
583
﹁私が、八つも年の離れた生徒と話すのは、そんなに恥ずかしいこ
と? 付き合ってもない二つ年上の男性と仲良くするのは、責めら
れること?﹂
584
︵その七︶挑むか従うかは選べます
思いもよらない反論に天下は口を閉ざした。が、納得はしていな
い。それどころか剣呑さが増した。
﹁まさか佐久間と同じ轍踏む気じゃねえだろうな﹂
﹁君がそれを言うか﹂
﹁俺は立場をわきまえろって言ってんだ﹂
馬鹿か、と一笑に伏そうとしたが、涼は深くため息をつくことし
かできなかった。
天下の誤解を訂正する気も起きない。
彼の胡乱な眼差しは大学生時代を思い起こさせた。あの時もそう
だった。﹃カルメン﹄のドン・ホセ役に恭一郎が、そしてカルメン
役に自分が選ばれた時も。
適性で選ばれたはずだった。涼と恭一郎が非常に親しい間柄だか
ら揃って主役に選ばれたわけじゃない。だが、周りはそうは思わな
かった。
一度持たれた疑惑は拭いようがない。いくら説明しても返ってく
るのは奇異か蔑視の目だけ。それが当然なのだ。
何故なら、当人達がどういうつもりなのかは、他人の知ったこと
ではないからだ。
﹁私は、少なくとも佐久間先生よりはわきまえているつもりだけど
?﹂
﹁俺はそうは思えねえ﹂
すかさず天下は否定した。
﹁石川だってそうだ。あんたが上原や神崎さんを特別視してること
に文句言ってる﹂
﹁私は聞いた覚えはない﹂
香織は直樹に関しては触れていなかった。
585
﹁直接言うわけねえだろ。クラスで陰口叩いてんだ。だが問題はそ
こじゃねえ。あんたの二人に対する態度は、少なくとも端から見た
俺と石川には特別待遇に見えんだ。他の連中だってそう思うだろう
な﹂
そもそも誤解ではないのかもしれない。
ある時は外部の男性、ある時は生徒と親しくする。自分のやって
いることは、他人から見たら││天下に言わせれば、誰が見ても教
師にあるまじき態度なのだ。非があるのは誤解を招くような態度を
取った涼自身であって、誤解をして責め立てる他人に非はない。そ
れが涼の知るこの社会の常識だった。家族でもない男性と親密な関
係を築いた自分が悪いのだ。
﹁なあ、説明しろよ。何があったんだ﹂
釈明の間違いじゃないのか。
涼は笑い出しそうになった。言いたい放題言った挙げ句に説明を
要求する天下がおかしくて、腹立たしかった。
説明したら理解してくれるのか。黙って好きにさせてくれるのか。
謂われのない誹謗中傷を受けずに済むのか。
そんなことは、これまで一度たりともなかった。
﹁君には関係ない﹂
﹁⋮⋮何、言ってんだ﹂
﹁関係ないよ﹂
明らかに動揺を示した天下に、涼は真っ正面から相対した。溢れ
そうになる悔しさだとか胸を締めつけるような切なさは無理やり押
し込んだ。
気を緩めたら、きっと立っていられなくなる。教師としての対面
すら忘れて、何もかも喋ってしまう。
恭一郎に対してはともかく、間違いなく自分は、上原直樹に目を
かけている。だが、授業中は他の生徒と平等に扱った。特別褒めた
り、優遇した覚えはない。ただ休み時間に準備室に訪れる直樹の相
手をしているだけだ。無碍にはできない。どうしても。
586
一生徒である前に、彼は涼の弟だった。
半分しか血の繋がりのない上に、自分は流産したはずの姉だ。生
まれなかったことにされた姉が、何も知らない弟に名乗れるはずも
ない。
正体を明かさないかわりに、涼は直樹を邪険にしなかった。それ
が﹃特別扱い﹄というのなら認めよう。否定はしない。
だが、天下が統に優しくするのとどれほどの差があるのか。何故
自分は責められ、弁明しなければならないのか。姉が弟と休憩時間
に二人で話をした。ただ、それだけの理由で。
︵馬鹿馬鹿しい︶
望むべくもない理解を求める程、涼は幼くなかった。絶対とまで
はいかないが、わかり合えないことだって世の中にはたくさんある。
今回もまた、その一つに過ぎないのだ。
︵大したことじゃない︶
587
︵その八︶嫌な予感は大概当たります
だから言ったじゃないか。
恭一郎の声が耳元で囁いたような気がした。拒絶するなり受け入
れるなりの意思表示をさっさとしていれば、こんなことにはならな
かった。天下に当たることも、たかが紙切れ一枚に、こんなに心乱
されることもなかっただろう。
涼は青いメモを手にため息をついた。
︵⋮⋮どうしよう︶
まったく迂闊なのだが、涼は向こうから接触をはかってきた場合
にどう対処するのかを考えていなかった。考える暇も与えずに、千
夏が攻めてきたと言っていい。意外に敵は手ごわかった。
﹁進路の話ですかね?﹂
直樹の母からの電話を受けた理恵が言う。
﹁相談に乗る程度なら別に問題ないかと思いますが、万が一転科と
かを考えているなら、担任を通していただかないと、ねえ⋮⋮﹂
そもそも転科なんて聞いたことがなかった。音楽科と普通科では
入試の倍率が違えば試験方法も違う。たとえばピアノ専攻の生徒が
チェロに目覚めて専攻を変えることはあっても、転科は不可能のは
ず。
︵いや、この際そんなことは問題じゃない︶
逸れかけた思考を元に戻す。問題は千夏がどういうつもりで自分
を指名したのか、ということだ。
恭一郎からとは考えにくい。二人の関係を知っているのは当時の
大学生、それもごく一部だ。今もなお続く親交も個人的なものであ
り、公の場ではただの大学の先輩と後輩で通っている。そして幸か
不幸か。他人がプライベートにまで興味を示すほど恭一郎は有名な
音楽家ではなかった。もちろん、涼も。
588
では、直樹から話を聞いて電話したのか。それで名前から、かつ
て自分が産んで捨てた娘であることを知ったのか。しかし向こうは
おそらく、捨てた娘の姓までは知らないだろう。関係を断ち切りた
い一心で施設に預けたのだから、その子供がどこでどう育とうが関
知するわけがない。
ただの進路相談。そうに違いない。仮に向こうが疑っていたとし
ても確証にまでは至っていないはず。ならばこちらは素知らぬ顔で
対応してやればいい。
自分ならできるはずだ。親が生死を彷徨っていようと舞台では何
食わぬ顔で演奏をする。それが音楽家なのだから。
﹁ああ、そういえば﹂
理恵が声をあげた。
﹁渡辺先生って、下の名前は﹃スズ﹄って言うんですね。私てっき
り﹃リョウ﹄だと思っていました﹂
﹁え、ええ、まあ⋮⋮﹂
曖昧な返事をする涼の胸に嫌な予感が広がった。何故、ここにき
て自分の名が。
﹁神崎から⋮⋮聞いたのです、か?﹂
﹁いいえ。ついさっき﹂
一縷の希望を、あっさりと理恵は打ち砕いた。
﹁上原さんが仰ってましたよ﹂
涼の手から、メモが滑り落ちた。
589
︵その九︶坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのです
本日の授業は終了。SHRも終了、となればいつまでも教室にい
る必要はない。天下は鞄を片手にさっさと帰ることにした。
図書館で勉強も捨て難いが、今日は早々に学校を離れたかった。
﹁鬼島くん﹂
階段の途中で香織に声を掛けられる。
﹁もう帰るの?﹂
天下は無言で頷いた。何故わざわざそんなことを訊くのかと内心
訝しみ、気づく。一階の下駄箱へ降りる際に使うこの階段は、特別
棟へ行く時にも通る場所だった。煩わしかった。すぐにその発想に
至ってしまう自分が。
﹁俺に、なんか用でもあんのか﹂
﹁あ⋮⋮うん、ちょっと、いいかな?﹂
断る理由もないので、天下は香織の後についていった。普段は創
作文芸部だかが部室として使っている空き教室に入る。そういやこ
こで佐久間と遙香が抱き合って、写真を撮られたんだっけ、などと
いう必要性のない記憶力を発揮した。あれから、もう半年が経って
いる。
﹁鬼島くん、渡辺先生のこと好きでしょ?﹂
香織が口火を切った。質問形式でありながらも確信している口調
だった。
﹁だったら、どうなんだ﹂
﹁好きなんだ﹂
﹁違うって言ったら信じるのか?﹂
﹁しないと思う﹂
じゃあ無意味だ。天下は薄く笑った。
590
﹁渡辺先生には好きな人がいるのは知っているんでしょう﹂
﹁大学の先輩だろ。知ってる﹂
﹁一緒にご飯食べてた。その人のほっぺを拭いてたよ﹂
﹁それはそれは仲がよろしいことで﹂
﹁鬼島くん﹂焦れたように香織は名を呼んだ。﹁冷静になって。い
くら鬼島くんが好きでも、相手にされてないんだから﹂
そこまでハッキリ言うか普通。少なからず傷つきながらも天下は
﹁だから?﹂と動じてない風を装った。優等生の猫を被るよりも難
しかった。
﹁そんなことをわざわざ言うために、俺を呼び止めたのか﹂
﹁おせっかいなのはわかってる。でも、見てられないよ。あんまり
悪く言いたくないけど、渡辺先生は酷いと思う。鬼島くんの気持ち
を知ってて、学校でいちゃつくことないじゃない﹂
言いたいだけ言って、香織は俯いた。制服のスカートを握り締め、
小さな声で呟いた。
﹁私じゃ駄目?﹂慎重に、天下の様子を窺うように香織は続けた﹁
渡辺先生みたいに大人じゃないし、その⋮⋮満足させられないかも
しれないけど﹂
やおら顔を上げた香織は挑むような眼差しを向けた。
﹁でも、私はちゃんと鬼島くんのことが好きよ。いい加減な態度は
取らない。他の男の人と所構わずいちゃついたりしない﹂
強い断言の裏にある侮蔑を、天下は正確に汲み取った。
傍から見れば、ここ一年の涼の行動は男好きと思われても仕方の
ないものだった。職場の同僚である佐久間秀夫を皮切りに、大学の
先輩だという神崎恭一郎、挙句の果てには教え子である上原直樹に
鬼島天下。男の影が絶えない女。その恋愛に対する奔放さはカルメ
ンを彷彿とさせる。
事情あってのことだと知っていても、天下にはその誤解を解くこ
とができなかった。仮に説明しても香織は納得しないだろう。神崎
恭一郎は兄だと涼本人の口から聞いたにもかかわらず、天下でさえ
591
疑心を捨てられない。
いくら幼馴染で似た境遇とはいえ、妙齢の男女があんなに寄り添
っていながら、何もなかっただなんて信じ難い。少なくとも恭一郎
が涼に注ぐ眼差しは、兄が妹に対して抱く肉親への愛情によるもの
とは思えなかった。
﹁どうして?﹂
何も言わない天下の態度を否定と受け取った香織の顔が悲痛に歪
む。
﹁ねえ教えて。何が違うの? あの人の何がいいの? 私の何がい
けないの?﹂
奇しくも涼にしたのと同じ疑問をぶつけられ、天下は返答に窮し
た。
そんなの、自分が知りたい。
音楽教師だから好きになったわけでも、生真面目だから好きにな
ったわけでもなかった。そもそも、言葉を交わす前から、ガラス越
しに見ていた時既に恋していた。
自分にとって都合のいい条件が揃っているから好きになったので
はない。無論、涼の容姿とか人間性だとかに惹かれたのは確かだ。
しかし、全ては好きになってからの後付けに過ぎない。
強いて言えば、存在そのものだ。﹃渡辺涼﹄であることが唯一に
して絶対の条件。
逆を言えば、涼でなければいくら好ましい要素が揃っていても意
味がないということだった。ゼロにいくら数をかけてもゼロ以外に
はならないのと同じように。
︵そうか︶
天下は唐突に理解した。きっと、同じことなのだ。神崎恭一郎に
涼がああも心を許しているのは、長年培ってきた信頼関係のなせる
ものではないのだ。もちろん積み重ねた年月は絆をより深めたのだ
ろう。しかし決定的なのは時ではなく、その存在だ。
神崎恭一郎が涼にとって﹃家族﹄という役柄にぴったり収まるか
592
らこそ、彼は特別になれた。唯一無二の兄になったのだ。
では││鬼島天下は?
どんなに足掻いても﹃生徒﹄という役柄にはまったまま抜け出せ
ない自分は、一体何なのだろう。﹃役ではなかった﹄では到底諦め
てくれない心はどうすればいい。それでもなお唯一無二になりたい
と叫ぶ想いはどこへいけばいい。
﹁⋮⋮わかんねえ﹂
曖昧な返答に香織は唇を噛んだ。
593
︵その十︶恋とはすなわち愚かになることです
﹁駄目だよ、そんなの﹂
香織は必死にこちらを見ていた。触れれば切られるかと錯覚する
くらい思い詰めた表情だった。天下にはそれが酷く不思議だった。
血相変えて止められる理由がわからない。
﹁何が﹂
﹁だって、先生でしょう?﹂
至極当然の事のように香織は言い募った。
﹁歳だって五年か十年くらい離れてるじゃない﹂
六年だ。正確には。
涼が社会に放り出された時、天下は初めての学生服に心を弾ませ
ていた。涼が一人で体育祭や卒業式を迎えていた時、天下はランド
セルを弟達と奪い合っていた。涼が親を失った時、天下はまだ生ま
れてすらいなかった。
﹁知ってる﹂
﹁じゃあどうして﹂
たまりかねて天下は顔を上げた。今にも怒鳴り散らそうとする衝
動を辛うじて呑み込む。代わりに口をついて出たのは、険のある言
葉だった。
﹁なんで人を好きになるのに許可を求めなきゃなんねえんだよ。俺
はあいつを抱いたこともなけりゃキスしたことだってねえ。非難さ
れる理由がどこにあんだ﹂
一度タガの外れた激情はとどまることを知らなかった。
﹁なあ、駄目だって言うなら教えろよ。教師に好きだと言ったらど
うして駄目なんだ? 六歳年下はよくて六歳年上の女に惚れたら悪
いのか? どうなんだ﹂
八つ当たりだ。天下は自分自身の格好悪さに死にたくなった。自
594
分の剣幕にたじろぐ香織の顔が正視できない。
わかっていたことだ。涼が教師で、生徒は恋愛対象外なのも、自
分より六つも年上の大人であることも。理解していながら天下は焼
けつくような焦燥感に苛まれる。涼と対等でいられる全てが羨まし
くて妬ましかった。
しかし、激しい嫉妬の次に胸を占めるのは途方もない無力感だ。親
の庇護のない少女が孤独にひたすら耐えていた時に、自分は行くこ
とができない。一人ではないのだと手を差し出すことができない。
何しろ天下は涼の六年後に生まれたのだから。
所詮自分は涼にしてみれば物分かりの悪いガキで、いつまで経っ
ても六歳年下なのだ。
上に立ちたいわけじゃない。せめて今││過去に遡れないのならこ
れから、共に歩んでいけたらと願う。しかしそれさえも天下にはで
きなかった。
﹁⋮⋮上手くいくわけないよ﹂
香織の言葉を否定するすべを天下はもたなかった。
﹁男子ってさ、年上の女性に憧れる時期があるってよく言うじゃな
い。確かに渡辺先生は肩で風切る感じでカッコいいけどさ、やっぱ
り無理があるよ﹂
諭すような物言いに、ますます打ちひしがれる。他ならぬ天下自
身が一番そうであって欲しいと願っていた。ただの憧れや甘えなら、
こんなに苦しいはずがない。
例えば、優しく見守ること、神崎恭一郎のように窮地にすかさず
手を差し伸べてやること。どれも自分にはできない。だから苦しい
のだ。
天下は力無くうなだれた。
﹁そうだな﹂
昔だけでもなく今も。自分は大人に守られるだけの子供だった。
﹁してやれることが少な過ぎて、もどかしい﹂
595
︵その十一︶自分でも触ることができないのです
課題プリントを配布して五十分後に回収。相手は受験を控えた分
別のある三年生達。平時ならば二つ返事で受けるであろう自習の監
視役にしかし、涼は内心ため息をついた。
風邪だかなんだか知らないが急遽休むことになった英語教師への
恨みを募らせながら教室の前に立つ。三年一組。よりにもよって天
下と香織と遙香のクラス。嫌がらせとしか思えない展開だった。
チャイムが鳴り終わるのを待ってから入室。見慣れない教師の登
場に生徒達は一瞬、呆気にとられる。窓際の席にいた天下とてそれ
は同じらしく、手に乗せていた顎を離した。
﹁小峰先生は本日体調不良のためお休みです。課題を預かってます
ので、六限目は各自それに取り組んで下さい。授業の終わりに回収
します﹂
挨拶もそこそこに課題を配布。あとは勝手にやるだろう。生徒の
自主性を重んじるという名目の元、涼は本来の目的である音楽史の
小テストの採点を始めた。
辞書をめくったり、シャーペンで書く音だけが聞こえる静かなひ
と時。一、二年生にはない落ち着いた雰囲気は好感が持てた。この
分だと自分の採点作業も六限が終わることには完了しているかもし
れない。
﹁渡辺先生、質問があるのですが﹂
涼は採点する手を止めた。いつの間に教壇前にやってきたのか、
香織が真正面から対峙する。その様は楽観的に見ても穏やかとは言
い難かった。
﹁申し訳ないけど、英語はあまり得意じゃない﹂
﹁課題のことではありません。終わりました﹂
課題を提出。たしかに解答欄は一通り埋まっていた。
596
﹁立ち入ったことを訊いてしまうのですが、先生は佐久間先生とお
付き合いされているんですよね?﹂
﹁今はしていません﹂
﹁昔はしていたんですね﹂
涼は赤ペンを教卓に置いた。あんな野郎、土下座されても交際す
る気はない。しかし遙香が在学中である以上、不用意な発言はでき
なかった。
﹁否定はしない﹂
耳を傾けていた生徒達は﹁おおーっ﹂と、どよめいた。音楽教師
の渡辺涼は知らなくとも、国語教師の佐久間秀夫を知る生徒は多い。
﹁なんで別れたんですかー?﹂
﹁馬っ鹿、面と向かって訊かない。失礼じゃないの﹂
おい、課題はどうした。終わったのか。涼の内心のツッコミを余
所に生徒達は勝手に盛り上がる。最高学年といえどもまだまだ子供
だった。こちらの心情なぞお構いなしに、傷口に触れ、塩を塗りた
くる。
教室の中央の席に座る遙香が俯くのを、涼は目に留めた。
﹁授業中ですよ﹂
﹁すみません。文化祭で先生が神崎さんと親しげになさっていたも
のだから、佐久間先生と交際している噂はガゼだったのかと﹂
口では謝罪の言葉を紡ぐもののその実、クラスメートの前でこち
らの内情を容赦なく暴いていく。﹁ええー! まさかの二股?﹂と
いう喚声を皮切りにやれ﹁文化祭で手を繋いでいるところを見た﹂
だの﹁大学生の頃からの付き合いで、校内演奏会での再会をきっか
けに付き合いだしたって音楽科のが言っていた﹂だの、挙句の果て
には﹁鑑賞室で抱き合ってた﹂などと口々に喋り出すので堪ったも
のではなかった。微妙に真実が含まれているからなおさら厄介だ。
﹁石川さん、せめて勉強に関係ある質問にしてほしかったな﹂
﹁重要なことです。こうでもしないと、先生は真面目に答えてくだ
さらないでしょう? いつもはぐらかして、ちゃんと向き合おうと
597
しない。先生はそれでいいかもしれませんが、当事者は堪ったもの
ではありませんよ﹂香織は冗談めかして付け足した﹁受験勉強もま
まならないくらいです﹂
三年一組の生徒を巻き込んで振り回した覚えは全くないのだが。
﹁一般受験の試験問題については明るくないが、さすがに私の交友
関係については出題されないと思うよ﹂
﹁そういう逃げ方が卑怯だと言っているんです﹂
﹁授業時間に三十数名の前で他人にプライベート公開を迫るのは、
正々堂々としているわけか﹂
﹁認めるんですね、あれはプライベートだって﹂
香織の目が意地悪く細まる。獲物を見つけた猫を彷彿とさせる表
情だった。
﹁神崎についてなら、そうだね﹂
涼は追及が入る前に釘を刺した。
﹁詳しくは言わないよ。それこそプライベートだから﹂
三年一組の生徒達から不満の声があがる。白か黒か。灰色では到
底納得できないと、当然の権利の如く説明を要求する。自分達を納
得させるが涼の義務であると言わんばかりに。
クラスメートの後押しを受けた香織は失笑した。呆れとも嘲りと
もつかない︱︱おそらく両方を滲ませた笑みは、涼の神経を逆なで
した。
﹁そんな態度だからみんなの誤解を招くんじゃないですか﹂
﹁みんな? 誤解?﹂涼はクラス全体を一瞥した﹁この中で実際に
神崎恭一郎を見たことのある人が一体何人いるんだか﹂
水を打ったかのような沈黙。香織をはじめとする生徒達が一斉に
口を噤む。
それは奇妙な光景だった。先ほどまで正義は我にありと言わんば
かりに責め立て、はやしていた生徒達は決まり悪げに俯き、目を逸
らす。
唯一、窓側最後尾に座る天下だけが顔を上げていた。気遣うよう
598
な眼差しはともすれば憐憫にも取れて、涼は天下を視界から追い出
した。
﹁会ったどころか見てもいない他人について、よくもまあそこまで
無責任に騒ぎ立てられますね﹂
一度芽生えた衝動は抑えようがなかった。怒りに似て非なるそれ
は、制止する理性を飲み込んで口を突いて出た。
﹁石川さん、それは誤解とは言いません。曲解と言うんです。そし
て曲解を無責任に騒ぎ立てることを一般的には誹謗中傷と言います﹂
公衆の面前でつるし上げられる格好となった香織は、色を失った
唇を戦慄かせた。あからさまに浮かぶ傷ついた表情にすら、涼の怒
りは煽られた。何故さも自分が被害者のような顔をする。他人の領
域に土足で踏み込んだのだから当然の報いだ。
様々な感情が入り混じり、収拾がつかなくなる。それが香織に対
して向けられたものであるのかすら、涼にはわからなくなった。訳
知り顔で安易な同情を寄せる天下に対してか、あるいは理解する気
など欠片もないくせに説明を求める連中に対してか。もしくは、発
端となった母と父に対してかなのか││もはやわからない。
ただ、混乱の中で真っ先に浮かんだのは、途方もない寂しさだっ
た。
家族だよ。
その一言で丸く収まる話だ。おそらく誰もが納得する理由になる
だろう。これまでずっと一緒にいたとしても、これから先も同じこ
とを望んでいたとしても││それが真実であるならば。
他ならない涼自身が、それが妄想に過ぎないことを知っていた。
渡辺涼の戸籍に他の名は載らない。生まれた時からそうだった。こ
れからも、きっとそうなのだろう。関係を問われる度に曖昧な返答
をして、誤魔化して、必死に取り繕う。兄妹の絆を捨て去ることも、
かといって堂々とさらけ出すこともできずに。
﹁質問はそれだけですか?﹂
生徒達からの返答はない。涼は事務的に、自分でも嫌になるくら
599
い冷静に指示を出した。
﹁では各自課題に取り組んでください﹂
それでも似非優等生の折り紙付きの清廉潔白な教師面を、外すこ
とはできない。自分を理由に恭一郎が後ろ指さされるなど、涼には
耐えられなかった。
600
︵その十二︶だから誰にも触れてほしくないのです。
チャイムと同時に課題プリントを回収。はやる心を抑えてとにか
く表面上は冷静に、提出されたプリントの数を確認し、一通りの号
令を済ませた。教室を出て、職員室とは反対方向である特別棟への
渡り廊下を歩く。
人気のない第二音楽室前に来た途端、涼は立ち止った。職員室に
戻らなくては。課題のプリントを英語の教師に託さなければ自分の
仕事は終わらない。
わかってはいたが、再び三年生の教室前を通ることを考えると、
足が動かなくなる。馬鹿みたいだ。たかが生徒相手に何を大人げな
く責めていたのだろう。羞恥と嫌悪が入り混じり、涼は小テストの
入った封筒を握り締めた。
﹁大丈夫か﹂
涼の肩が跳ね上がった。弾かれたように振り返ると、そこには顔
も見せないはずの天下がいた。帰りのSHRはどうした。そう訊ね
るつもりが、別の疑問が先に浮上する。
﹁何が?﹂
天下は一瞬言葉に詰まる素振りを見せた。そして傷に触れるかの
ように慎重に口を開く。
﹁神崎のこと﹂
なんだ。そんなこと。涼は口角をつり上げた。恭一郎が聞いても
﹁そんなこと﹂で済ませるだろう。後ろ指を差されても構わない。
気にしないと笑う姿は容易に想像することができた。きっと、彼は
大丈夫だ。
︵でも私が駄目なんだ︶
いつまでも変われないのは自分の方だった。確固たる信頼を築い
たつもりでも、他人を前にすると力無く委縮する程度の関係しか結
601
べない。
﹁慣れてる。自分でも変だと思うし﹂
﹁んなこと、﹂
﹁おかしいよ、どう考えても﹂
被せるように涼は言った。詫びも慰めも、天下から受け取るべき
ものは何一つとしてなかった。
﹁それくらい誰かに言われなくたって、わかってる。今さらどうこ
うしようとは思わない﹂
奇妙なのは重々承知。他人の理解なんて最初から諦めている。だ
からこそ、涼は香織が許せなかった。香織だけではない。遙香もあ
の教室にいた生徒達も、天下でさえも許し難かった。
香織の言っていることはある意味、正鵠を射ていた。恭一郎にせ
よ、直樹にせよ涼は﹁はぐらかして﹂いた。それは真剣に向き合お
うとする者にしてみれば不誠実なことだろう。
でも香織達は想像したことすらあるまい。
はぐらかすことでしか保てない関係を。
それがどれだけ涼にとって尊く、惨めなことかを。
﹁だから、放っておいて﹂
天下の顔が強張る。傷付けた自覚はあったが、言葉を取り下げる
気にはならなかった。涼は口を固く閉ざした。開けばもっと酷いこ
とを吐き出しそうで恐かった。
出口を失った鬱屈は胸の中で暴れまわる。どうして、と。
周りに理解されないこともおかしいこともわかっている。それで
も構わないと思っているのにどうして全く関係のない他人がとやか
く言うのか。受け入れられないのなら、最初から手を出さなければ
いい。
﹁あんたな﹂
天下は苛立ったように舌打ちした。
﹁俺に関わんなだの放っておけだの好き勝手に言うが、てめえはど
うなんだ。放っておかれたきゃ隠居でもしろ。無責任に言い立てら
602
れたくなきゃ弁明ぐらいしろ。誤解が広まるのを黙ってる方も悪い
んじゃねえのか? 俺に口出しさせるような真似すんじゃねえ﹂
怒りを露わにする天下が、涼には理解できなかった。非常に単純
なことのはずだった。理解できないのならば関わらなければいい。
不快ならば最初から見なければいい。都合の悪い部分から目を逸ら
して生きることぐらいできる。千夏がそうであったように。
﹁前々からずっと疑問に思っていたんだけど﹂
涼は小さく首を傾けた。
﹁君は一体私の何が良くて好きだの言っているんだ?﹂
気概を削がれた天下は不快を露わにした。が、一蹴することもで
きずに渋々ながらも口にした。
﹁⋮⋮知るかよ。とにかく全部だ﹂
﹁それは嘘だよ﹂
﹁なんで、﹂
﹁少なくとも、私の諦めの早いところは、好きじゃないはずだ﹂
当らずも遠からず。天下は眉間に皺を寄せて考え込む。
﹁それが悪ぃか? 俺は確かにあんたのそういう妙な劣等感が気に
食わねえ。勝手に諦めるのも正直腹が立つ。親のいない奴は全員、
普通の人間よりも下なのかよ?﹂
吐き捨てるように天下は言い放った。
﹁何でもかんでも自分の育ちのせいにすんじゃねえよ﹂
603
六限目︵その一︶舅よりも厄介なのです
﹁さあ飲みたまえ。遠慮することはない﹂
一杯五百円のカプチーノをすすめる神崎恭一郎を、天下は半眼で
見た。
帰宅途中のバス停前で恭一郎に遭遇したのは、つい三十分程前の
ことだった。学生に混じってバス停で並んでいた恭一郎は、天下の
姿を認めるなりにこやかに近寄ってきて﹁ちょっといいかな?﹂と
訊ねてきた。自分は受験生だ。それに恭一郎とは互いに顔を知って
いる程度で交流はほとんどない。本来であるならば、こんな胡散臭
い男は放って、家に帰って勉強するべきだった。
理性はそう告げるが、涼の一応﹃兄﹄であることが、天下の動き
を封じた。ここまでくるともう笑うしかなかった。あれだけ拒絶さ
れておきながらまだ繋がりを見つけようとする自分が滑稽だった。
様々な感情が混ざり合い結局、天下は恭一郎とカウンター席に並
んで座ることになった。そして、何の因果かカプチーノを御馳走さ
れていた。
﹁神崎さんは、テノールでしたっけ?﹂
訊きたいことはたくさんあるはずなのに、一番どうでもいい質問
が最初に出た。自分が動揺していることを天下は遅ればせながらも
気づいた。
﹁うん。バリトンから転向したんだ﹂
﹁そういうことって、よくあることなんですか?﹂
﹁まあ珍しいことでもないよ。プラシド=ドミンゴだって元はバリ
トンだ。テノールは華やかだからね。﹃カルメン﹄のドン=ホセ、
﹃トゥーランドット﹄のカラフ、﹃トスカ﹄のカヴァラドッシ、オ
ペラのプリモ・ウォーモは大半がテノールだ。それにほら、三大テ
ノールはあっても三大バリトンはないだろ? ことオペラに関して
604
は最初から主役と脇役が明確に決まっているんだ。女性で言えばソ
プラノが主役。メゾソプラノやアルトは脇役だよ﹂
冗談だか本気だかわからない説明をしてから、恭一郎は涼の様子
を訊いてきた。
﹁俺よりも本人に訊いた方が早いと思いますが﹂
﹁それが教えてくれないんだよ。あの子の悪い癖だ。助けを必要と
している時ほど貝になる。こっちは心配してるんだから、少しは情
報寄こしてほしいよ。助けられないじゃないか﹂
恭一郎はおどけたように肩をすくめた。
﹁まあ僕としては、彼女が元気で、不倫とかしてなきゃ別にいいん
だけど﹂
天下は呆れて言葉もなかった。潔癖な涼には似つかわしくない単
語だ。それ以前に、自称﹁兄﹂がする発言ではなかった。
﹁だってやりかねないんだもの。一番じゃなくてもいい、二番目で
もいい、とかさ。酷い男に捕まりやしないかと心配なわけだよ﹂
そう語る恭一郎は自然で、だからこそ違和感は強くなった。血の
繋がりのない、ただの幼なじみに対してそこまで親身になれるもの
か。
﹁仲いいんですね﹂
﹁うん﹂
恭一郎は意地の悪い笑みを浮かべた。
﹁少なくとも、君よりは﹂
意趣返しだ。こちらが言外に含めた皮肉を恭一郎は察している。
だからこんなにも挑発的なのだ。
﹁端から見たら奇妙だとは思うよ。戸籍上も血縁関係もないのに兄
だの妹だの、おままごと言われても仕方ない。本当は名実共に﹃兄﹄
になるはずだったんだけどね。僕の母が、その前に亡くなって﹂
取り繕うように恭一郎は苦笑した。
﹁養子にするつもりだったみたいなんだ。涼が高校卒業したら。書
類も用意してた﹂
605
﹁その前に、亡くなったんですか?﹂
﹁いや、涼が社会人として一人立ちするまで待つことにした。あれ
がいけなかった。いらない気をまわしたんだよ﹂恭一郎の目が意地
悪く輝く﹁兄妹じゃ、結婚できないからね﹂
障害物どころではなかった。天下は認識を改めた。この男は、敵
だ。隙あらば涼をかっさらう恋敵だ。
﹁それを、先生は知ってんのか﹂
﹁知らないよ。君も言ってくれるな﹂
﹁なんでだ﹂
故人の遺志を伝えるという意義もさることながら、天涯孤独の涼
と家族になろうとした人がいた事実は、喜ぶべきことに思われた。
﹁自分で気づくべきなんだ。母の遺品をあさればすぐにわかること
だよ。でも涼はいまだに気づかない。探そうとしないからだ﹂
微かに苛立ちを含んだ口調で恭一郎は言った。
﹁あの子の一番悪いところだ。探さない、ねだらない、求めない。
手を出そうともしない。だからこんな簡単なことも見つけられない﹂
天下は俯いた。二十年以上も共に寄り添って生きてきた兄妹の絆
を見せつけられているような気がした。お前の入る余地はないと言
わんばかりに。
606
六限目︵その一︶舅よりも厄介なのです︵後書き︶
作者の読みが甘かったので、本日より一日二話更新です。
607
︵その二︶敵に塩を送ったりします
唐突に、恭一郎は訊ねた。
﹁君、カルメンを観たことは?﹂
質問の意図をはかるように天下は恭一郎を見た。睨眼に近い眼差
しにしかし、恭一郎は臆する様子もなく再度訊いた。
﹁一度もないのかい?﹂
﹁授業で少し﹂
とだけ天下は答えた。
本当は、生で観たことだってある。第二部からではあったが。め
ぼしいアリアはほとんど一部で歌われると知ったのは、その時涼が
落胆していたからだ。聞けば涼は一度もカルメンを生で観たことは
ないという。そんな、彼女にとっては一大事とも言えるカルメンを
すっぽかしてまで、自分を探してくれたと思うと嬉しかった。だか
ら舞い上がって、改札口前なんていうムードの欠片もない場所で告
白してしまったのだ。
﹁﹃カルメン﹄が他のオペラと一線を隔している要素の一つに、プ
リマ・ドンナの声域がある。結構低いんだ。それでもソプラノがや
る場合もあるけど声に陰りのあるメゾソプラノがやる場合もたくさ
んある。メゾソプラノにしてみれば数ある有名オペラで唯一、主役
を張れるのが﹃カルメン﹄だ﹂
決まっているんだよ、最初から。微かにやるせなさを滲ませなが
ら、恭一郎は呟いた。
﹁そんな状況下で得たプリマ・ドンナの座を、たかが先輩に睨まれ
た程度で降りる音大生がいると思うかい?﹂
天下は一瞬、返答に窮した。カルメンのチケット一つで目を輝か
せた涼の姿が、一年近く経った今でも鮮明に思い起こされた。言わ
れなくたってわかる。好きなのだ。どうしようもないくらいに、音
608
楽が好きなのだろう。
だが、他人と争ってまでほしいものではなかったのだ。
﹁⋮⋮あいつに、戦う気がなかったんだろ。要するに﹂
あっさりと切り捨てた涼は、天下には甘えとしか思えなかった。
親がいないという境遇を言い訳にした甘えだ。
﹁本当に好きなら、身体張って掴めばいい。簡単に諦めねえよ﹂
他人の理解を得るには困難さが伴うかもしれない。しかし決して
不可能はことではないはずだ。それをはじめから無理だと諦めるの
は努力が足りないのだ。
自らの﹁努力﹂で大抵のことを切り抜けてきた天下だけに、涼の
怠惰が許せなかった。
﹁君の言う通りだ。本当に好きなら努力すればいい。涼も努力した
さ。﹃カルメン﹄の時も、今だって。親に捨てられたあの子でも、
親と死別した僕でも、努力すれば人並みに生きることはできる。で
も、そんな努力をしなくても人並みに生きる連中だっているんだ﹂
恭一郎の瞳がやや剣呑さを帯びる。
﹁どうにもならないことがあるのは仕方のないことだ。世の中はそ
こまで公平にできてやしない。不平等を責めるのはお門違いだって
ことぐらい、わかっているとも。問題なのは、その不平等さを理解
しない連中だよ﹂
恭一郎は笑った。先ほどまでの穏やかなものとは一変して禍々し
ささえ覚える、歪んだ笑みだった。
﹁親がいないくらいで不幸ぶるな。努力さえすれば進学することは
できる。普通の人と同じように生きることはできる。自分達は安全
地帯にいながら、そうでない他人を各個人の怠惰を理由にして責め
る。笑わせてくれるよ。じゃあ君達は努力したから今、金の心配は
まったくしないで大学に行っているのか、努力したから両親に恵ま
れているのかってんだ。生まれた時から歴然と存在する差を本人の
﹃努力﹄という曖昧なものだけで埋めさせようとするのは、押し付
け以外の何物でもない﹂
609
天下は悟った。ここにきてようやく。恭一郎は自分を非難してい
るのだと。
﹁そんな理不尽な責めを受け続けてきた子に、自尊心が育つわけが
ない。ましてや他の人を傷つけてでも、自分のやりたいことを通せ
ると思うか?﹂
みっともなくも涼に暴言を吐いてからまだ三日しか経っていない。
涼の性格からして恭一郎に相談することはないだろうが、察しの良
い兄は妹の異変を見逃さなかったのだ。その、原因にも。
天下は、涼と恭一郎の噂の中に﹁二人は大学時代に舞台で公衆の
面前でキスした﹂というのもあったことを思い出した。その真偽は
定かではないが、おそらく同じたぐいの誹謗中傷が、当時もあった
のだろう。
だから涼はプリマ・ドンナの座を辞したのだ。あれほど好きなカ
ルメンの役を諦めた。恭一郎にしてみれば腹立たしいことだったろ
う。自分が理由ならばなおさらだ。しかし、それでも恭一郎は今も
なお、根気よく涼を待っている。急かすことも、苛立ちあたること
もなく、どれも鬼島天下にはできなかったことだ。
﹁あんたは、立派な﹃兄﹄だよ﹂
どうして﹃兄﹄という枠で納まってしまったのかが不思議だった。
いっそ恋人だと言ってもらえれば、天下とて諦めることができたか
もしれない。
﹁大変なんだよ、これでも。君は僕がなんでも涼から話してもらっ
ていると思っているかもしれないけど、あの子は何も言ってはくれ
ないんだ。だから察してやるしかない。本当に面倒な妹だよ﹂
恭一郎は自嘲気味に呟いた。
﹁それでも僕はね、涼と一緒にいると赦されている気になるんだ。
背伸びなんかしなくてもいい、今のままの自分でいいと思えて、心
が安らぐ。だからも僕も、彼女にとって安心できる存在でありたい
と思ってる﹂
だから駄目なんだろうね、と恭一郎は断じた。脆くて、儚くて、
610
優しい兄妹の絆を尊みながらも、その欠点を指摘した。
﹁他人に恋をするってどういうことだと思う?﹂
ため息をついて、恭一郎はチラシとチケットを天下の前に差し出
しだ。
﹁僕は﹃この人に相応しい自分になりたい﹄と願うことだと思う﹂
土曜日の昼に行われる演奏会。曲目と宣伝文句からして、オーケ
ストラを伴奏に有名オペラの名曲を気軽に楽しむ、というのがコン
セプトのようだ。出演者の中に神崎恭一郎の名があった。そしてチ
ケットは一人分、指定席。まさか宣伝のために自分を呼び止めたわ
けではあるまい。
﹁涼も来るよ。先に言っておくが君は一階席、彼女は二階席だ。君
の隣に座らせはしない。むしろ一番遠い席にしておいたから、その
つもりで﹂
了見が狭いとしか言いようのない台詞の後で、恭一郎はさり気な
さを装いつつ付け足した。
﹁君の席の前列には、上原直樹くんの母親が座る﹂
﹁上原が?﹂
﹁それ以上説明する気はない。そのチケットも好きにしていい。誰
かに譲ろうが捨てようが売ろうが、君の自由だ。一応忠告しておく
けど、涼はたぶん一生あのままだよ。ネガティブで卑屈で陰険で根
に持つ奴とこの先も付き合い続ける根性がないなら、今すぐチケッ
トと一緒に恋心もゴミ箱に捨てて、忘れた方がいい﹂
わけがわからない。恭一郎を見るも彼は真っ直ぐ前︱︱窓の外、
道行く人々をただ、眺めていた。その横顔からは何の感情も読み取
れなかった。
611
︵その三︶差はあれど、絶対に痛みはあるのです
涼は目の前に置かれたチケットを憂鬱な思いで眺めた。来週の土
曜に行われる演奏会。恭一郎も出演となれば一、二もなく食いつい
ていただろうチケットに、今はやるせなさしか覚えない。
電話にばかり警戒していたのが間違いだった。敵は戦法を変えて
攻めてきた。学校の住所へ渡辺涼宛てに手紙と一緒に郵送してきた
のだ。恐る恐る封を切って、中のものに一通り目を通した涼は酷い
眩暈に襲われた。
よりにもよって恭一郎の演奏会後に二人っきりで会おうとのたま
うのだ!
︵一体どの面さげて︶
いくら家族に知られたくないからってここまで無神経なことがで
きる千夏に、涼は呆れてものが言えなかった。手紙の文面もまた丁
寧でありながら﹁ご都合がよろしくないようでしたら、また機会を
作ります﹂などと完全に会うのが前提で話が進められている。涼は
一言も、言っていないにもかからわず、だ。
どうしたものかと頭を抱えていると、テーブルの上に置いていた
ケータイが鳴った。着信は恭一郎から。来週の土曜日のチケットは
いるかどうかの確認だった。
残念ながら、チケットを恭一郎からもらう必要はなかった。二階
席が用意されていた。千夏は一階席。離れているのがせめてもの救
いだ。鑑賞どころではなくなる。
用件が済めば、とりとめのない雑談。近況を報告し合い、涼は恭
一郎が今月中にまたイタリアへ戻ることを知った。遠く離れてしま
う。これ以上、頼ることはできない。
﹃⋮⋮涼、僕に何か言いたいこと、ある?﹄
それはもう、たくさんあった。なあ恭一郎、あんたの言っていた
612
通りだったよ。さっさと関わる気がないことを示しておくべきだっ
た。向こうは私の都合も聞かずに会う気でいる。会って、きっとま
た自分の都合を押し付ける気でいる。
正直に言えば、会いたくなどなかった。一生関わらずにいたかっ
た。でも逃げるわけにもいかないのだ。だって、自分は何も悪くな
いのだから。
﹁花束は期待するなよ。今月ちょっとキツいんだ﹂
﹃いらないよ﹄
笑みを含んでいるものの、恭一郎の声にはどこか陰りがあった。
﹃涼﹄
﹁なに?﹂
﹃カルメン、演りたかった?﹄
﹁唐突だね﹂
涼は苦笑した。忘れもしない大学時代のことだ。
﹁私の声はカルメンには向かないよ﹂
しかし、今となっては胸の痛みも僅かだ。ほんの少しの疼きでし
かない。挫折感も時が過ぎればやがて薄れることを涼は知っていた。
カシの木がさびしいことに慣れるのと同じように。
﹃僕は演りたかったよ﹄
うん、と涼は小さく相槌を打った。
﹃向いていなくても構わない。贔屓だと周りから陰口叩かれてもい
い。僕は君と歌いたかった﹄
﹁知ってるよ﹂
﹃君が心無い誹謗中傷に傷ついても、カルメンの座をあんな七光り
ソプラノに譲ってほしくはなかったよ﹄
﹁酷いこと言うね﹂
﹃本音だ﹄
﹁それは嘘だよ﹂
反論する暇を与えず、言い放った。やや恨みがましい響きが伴う
のは隠しようがない。
613
﹁だってあんなに楽しそうだったじゃないか﹂
琴音を相手に切々と求愛のアリアを歌う恭一郎。主役が変更にな
っても順調に進む練習。熱意に比例して完成度は増していった。そ
の結果、行われた本舞台では拍手喝采を浴びた。舞台の中心から離
れた場所で、寂しさが募る程に確信は強くなる。自分である必要は
なかったのだと。
﹃楽しかったよ﹄
天気の話をするかのようにあっさりと恭一郎は肯定した。
﹃当たり前じゃないか。最初で最後の大舞台だ。選ばれなかった連
中の分も僕は努力する義務があった。君のおこぼれに預かった榊だ
って同じだ﹄
期待と責任を真摯に受け止める琴音だからこそ、涼は推薦したの
だ。
音楽は演じる時が全てだ。その刹那に等しい本舞台のために、ど
れだけの情熱と才能を注げるかが音楽家の優劣を決める。あの時の
自分にそこまで知る由もないが、当時の琴音には音楽以外何もなか
った。故に危うい程の熱意を持って練習に打ち込んだ。
涼の直感は見事的中し、ハマリ役を得た琴音による﹃カルメン﹄
は大成功をおさめた。恭一郎達四年は有終の美を飾って大学を巣立
った。涼の判断は間違っていなかったのだ。自分がもしカルメンに
固執していたら、摩擦が生じてオペラどころではなかっただろう。
今でも後悔はしていない。
﹁だから、琴音で良かったじゃん﹂
﹃でも君がいなかった﹄
いたよ、舞台の端に。反論は心の中に留めておいた。名もない民
衆の一人では納得するまい。それでも涼はたしかに恭一郎と同じ舞
台の上に立ったのだ。
﹃芸術としての完成度や評価を問うわけじゃないんだ。例えマリア
=カラスがカルメンだったとしても僕は不満に思うよ。とどのつま
りは僕の自己満足だから。ところで涼、最後の舞台くらい妹と共演
614
したいと思うのは、そんなに許されないことなのかな?﹄
涼は口を噤んだ。慣れてしまえば、苦みや痛みは薄れる。やがて、
何も感じなくなるのだろう。
﹁いや、悪いことじゃないよ﹂
寂しさだってそうだ。一人でも構わない。世間的に奇妙な関係だ
って気にしない。舞台の中心に立てなくてもいい。自分は端役なの
だと最初から決まっていれば。しかし一度、手にしてしまったら話
は別だ。
﹁でもすごく難しいことなんだと思う、きっと﹂
ずっと一緒にいたい。﹃みたいなもの﹄ではなく、本物の兄妹に
なりたい。舞台の中心にいたい。多くを望んで、そして失うのは耐
えられなかった。春の暖かさを知った身には冬の寒さが堪えるのと
同じことだ。でも、知らなければ耐えられる。これからも、ずっと。
つまるところ、自分はあの舞台の端から一歩も動けていないのだ。
615
︵その四︶暴力的なまでの引力を伴います
そして土曜日、鬼島天下は実家を訪れていた。当初はぎこちなさ
があったが、やはり生まれ育った家。交流が復活して一ヵ月も経て
ば、段々と過ごしやすくもなる。今週の土曜から月曜まで、実家に
滞在するつもりだった。
パズルゲームを黙々とこなす統の傍ら、天下は漢訳に勤しんでい
た。が、全くと言っていいほど頭には入ってこない。当然勉強も遅
々として進まない。原因は明白だった。
わかっている。恭一郎より半ば押し付けられた招待券は財布の中。
今日が演奏会の日であることぐらい覚えている。
︵俺が行ってどうすんだ︶
出演するのだから恭一郎も当然、会場にいるはずだ。涼のことを
誰よりもよく知る﹃兄﹄がいるなら天下の出る幕はない。
なにせ自分は﹃大嫌い﹄な生徒に過ぎないのだから。
天下は額に手を当てた。自分で思い出して傷ついているのでは世
話がなかった。顔も見せないと約束した以上、今度こそ︱︱もう何
回も破っているので有効なのかどうかはわからないが、守る努力は
するべきだった。
しかし、その﹃大嫌い﹄発言も涼の本意とは思えなかった。自分
を諦めさせるためにあえて憎まれ役を買って出たのかもしれない。
前科があるだけに否定できない。大好きなカルメン役ですら、興味
がないふりして手放す女だ。いや、それも振られた男の現実逃避か
もしれない。
︵⋮⋮思い出すな︶
全ては都合の良い解釈の産物に過ぎないのだ。あいつは最初から
自分を相手にしていなかった。明らかに普通科の生徒を見下してい
た。本格的に音楽を教えたところで無意味だと。だから巻き舌も教
616
えなかった。オペラだって、いつもさわりしかやってくれなかった。
非常に失礼な話だ。
最初から理解できるはずがないと決めつけて、諦めて。
真っ直ぐに、哀しいほどに張り詰めた背中に天下はいつも焦燥感
を覚えていた。傷つけてでも認めさせたい衝動に駆られる。そんな
生き方をしているから。
だからあんたは孤独なんだ。弱味を見せたっていいじゃねえか。
少しは頼れよ。高校生のガキにだって背負えるものはあるんだ。
︵駄目だ。考えるな︶
天下が差し出した手を拒んだのは当の涼だ。あの女は自分なんか
よりずっと大人で、強い。一人でも平然と生きている。ああして大
勢に責められようとも立ち向かっていく。誰かの支えなどいらない。
大切にしている﹃兄﹄との絆さえあれば、他のものなど必要ないの
だ。
本人にも言われたではないか。
﹃放っておいて﹄
それが涼の本音なのだ。彼女の中に他のものが入り込む余地はな
い。
与えたい、慈しみたい、守りたい、というのは全て、天下の独り
善がりに過ぎなかった。
︵ちくしょう︶
天下は呻いた。
︵ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう、どちくしょう!︶
可愛さ余って憎さ百倍とはよくも言ったものだ。天下は涼が疎ま
しくて、憎くてたまらなかった。
今に始まった感情でもない。好きである以上に天下は涼を忌々し
く思っていた。一人で生きているかのように肩で風切る姿も、澄ま
した顔で他人に高説垂れるのも、嫌いだった。他人の家庭事情には
首を突っ込むくせに自らのことには立ち入らせない。他人の心を捕
らえて離さないくせに拒絶しやがって。自分だけで抱え込んで悲劇
617
のヒロインぶって悦に入って。ふざけんな。お前なんか、てめえな
んか││天下の奥歯が鳴る。焦燥感は増すばかりでとどまることを
知らなかった。
ああ全くもう! 天下は衝動に任せて起き上がった。
放っておけるのなら、どれだけいいのだろう!!
﹁⋮⋮ちょっと、出てくる﹂
返事の代わりに統は鍵を突き出した。鈴のついた鍵。統が通学に
使っている自転車を貸してくれるらしい。行き先は、言っていない
はずだが。天下は素直に鍵を受けとった。
﹁たぶん、夕飯までには帰る、と思う。もしかしたら早々に追い出
されるかもしんねえ﹂
﹁ん﹂
﹁メールする﹂
統は頷いた。その頭を軽く小突く。世間一般の人よりも言葉足ら
ずで表情豊かでもないこの弟を知るには、僅かな変化をも見落とさ
ずに感情と意思を読み取るしかない。理解するには根気を要する。
そのせいか統は非常に察しが良かった。
﹁俺、お前が弟で良かったわ﹂
相手の全てを受け入れるなんてのは初めから無理だったのだ。気
に食わないものは気に食わないし、腹が立つのは事実。理解するに
も受け入れるにも面倒で困難で、長い時間を必要とする。しかし、
そんな奴に惚れてしまったのは他ならぬ自分だった。
618
︵その五︶感動の再会には程遠いのです
行きたくない。行かなくては。行くべき。行こう。行け。やっぱ
行かない。
脳内で活用形をもじったところで現状は変わらなかった。重い足
取りで会場へ赴き、憂鬱な気持ちでチケットを出して、嫌々ながら
指定席へ座る。二階席。眼下には一階席と舞台。身を乗り出せばも
しかすると千夏の姿も見えるかもしれない。
︵帰ろう︶
涼は後ろ向きに決意を固めた。無理。絶対、無理。終わったらい
の一番に会場を出て帰ろう。逃げと言いたければ言え。今更会った
ところで一体何を話せというのだ。千夏は一体何をしたいのか。過
去の過ちを詫び、清算するためなどといった殊勝な理由ではないこ
とは確かだった。短い、用件だけを述べた手紙一通で、涼は千夏の
意図を正確に汲み取った。
あの女には、仮にも自分が産んだ娘の事情を知る気など微塵もな
い。話をしたがるのは涼を息子の周辺から排除するため、こっそり
会うのは平穏な家庭に波風を立てないためだ。会ったら申し訳なさ
そうな顔をして、自分の都合を押し付けてくるに違いない。
過去のことはもう忘れてほしい。もう二十年以上も前のことじゃ
ないか。私だって捨てたくはなかった。家族に言われて仕方なく手
放したのだ。際限のない言い訳を聞くのはたくさんだった。
何よりも怖いのは、侘びと称して金を渡されることだった。無論、
受け取る気はさらさらないし、実際に札束を渡されようものなら突
っ返すつもりでいる。しかし、六年前と同様に自分は思うのだろう。
実の親にこんな金を差し出される自分は。
この人にとって、自分は一体何なのだろう。
619
大金を払ってまで排除したい存在なのか。では自分がまだ胎内に
いた頃、千夏や父、そして周囲の家族はどんな思いでいたのだろう。
周りの苦悩を余所にすくすくと成長する腹の子を疎み、あるいは呪
ったのだろうか。ふてぶてしいと思ったのだろうか。いっそ、直樹
に言ったように、いっそのこと本当に流れることを望んだのか。考
えただけで堪らなくなった。
そんなに、赦されない存在なのだろうか。
︵︱︱やめよう︶
千夏には会えない。どんな言葉を交わしても、致命傷を負うよう
な気がしてならない。詫びられようが、金を渡されようが、いずれ
にせよ自分の人生は初めから間違っていたと、言われているようで、
涼には耐え難かった。
恭一郎には申し訳ないが、どの曲も頭を素通りした。アンコール
も終わり、最後の大拍手も止んで、本日のプログラムは全て終了し
たことを告げるアナウンスが流れる。それぞれ帰り支度を始める観
客より一足先に、涼はホールを出た。
そのまま会場を後にしようとして、ふと足を止める。
踵を返して、ロビーの隅に腰かけた。ちょうど鑑賞植物の陰にな
る所で、パッと見には気づかれないであろう場所。自分でもわけが
わからなかった。帰る前に千夏の顔を一目だけでも拝んでおこうと
いう、この好奇心。自分を捨てた女がどんな面をさげてここまでの
このこやってきたのかを見てみたかった。
ほどなくして、ホール一階右手側の出口から、グレーのスーツを
着た女性が現れた。髪を後ろで一つに結んでいた。どこにでもいる
音楽愛好者だったが、見間違えようもなかった。あれが、自分を産
んだ女だった。
涼は息をするのも忘れて、上原千夏を見つめた。自らが指定した
待ち合わせ場所である掲示板の脇に立ち、周囲を見回している︱︱
渡辺涼を、探しているのだ。
涼は身が竦んだ。手が震え、動くことすらままならない。人が多
620
い内に立ち去るべきなのだが、身体が動かなかった。
どれくらい硬直していたのかはわからないが、ようやく涼が大き
く息を吐いた時に、上原千夏の元へ青年が近づいてきた。
︵⋮⋮天下?︶
私服姿の鬼島天下だった。遠慮がちに千夏に声をかけ、何やら話
した後に二人して喫茶コーナーへ移動。ちょっと待て。心の声が届
くはずもなく天下と千夏の姿は角を曲がって消える。
︵なんで?︶
一人残された涼は茫然とした。
621
︵その六︶もう一度拾い上げてほしいのです
コーナーと言うものの、それなりの席数はあった。演奏会を終え
てくつろぐ人々の中に混ざって、窓際のテーブル席で向かい合う天
下と千夏。会話の内容は全くわからない。なんで天下が脈絡もなく
現れたのかもわからない。なんで二人で仲良く喫茶コーナーなんぞ
で茶をしばいているかもわからない。わからないことだらけだ。
涼は喫茶コーナーの前を二、三回行き来し、覚悟を決めて入店し
た。無論、こっそりと。二人が座るテーブル席を大周りで避けて通
り、天下の死角となる斜め後ろのカウンター席に座る。二人の表情
も見えるし、意識を集中させれば会話の内容もつつぬけだった。
千夏と話す天下は高校とは思えないくらい丁寧な物腰だった。そ
れを事務的と涼が感じてしまうのは、きっと彼の素を知っているか
らだ。敬語も普段の似非優等生面も全ては相手と一線を引くための
ものであって、それ以上の意味を持たない。
﹁︱︱それは、どういう意味でしょうか?﹂
千夏が訝しげに訊ねる。
﹁二十数年前のことを蒸し返すつもりなんて、先生にはありません。
誰もあなたの過去を暴いて責めたりはしない。安心して帰ってくだ
さい。そして二度と、あなたからは先生に関わらないでほしいんで
す﹂
天下は言葉を選んでいるようだった。しかしそんなことよりも、
衝撃のあまり涼は声が出なかった。何故天下が自分と千夏の関係を
知っている。まさか、恭一郎が喋ったのだろうか。涼の動揺を余所
に千夏は顔を歪めた。
﹁私は、そんなつもりでここに来たわけでは⋮⋮っ﹂
じゃあどういうつもりだ。涼は冷ややかな目で千夏を見た。存在
しないはずの娘に今更会って親睦を深めるつもりとは到底思えなか
622
った。
﹁どういうつもりでここにいらっしゃったのかは存じませんが、こ
んなやり方はフェアではないと思います。会いたいのなら面と向か
ってそう言えばいい。人目を避けてこそこそと会うのはお互いに気
詰まりでしょう﹂
涼の心情を代弁したかのような台詞だった。が、天下の口調はや
はり柔らかい。そのことにさえ涼は腹が立った。人の気も知らない
で、何を偉そうに。その女は最初から無責任で卑怯だ。自分の都合
で捨てておきながら、今更勝手に現れて、これまで必死に積み上げ
てきたものをかき乱している。
俯き加減の千夏は探るように天下を見た。
﹁涼さんが、あなたにここに来るよう頼んだのですか?﹂
一瞬、何を言っているのか涼は理解できなかった。天下も同じだ
ったらしく、軽く目を見開く。それを図星を突かれた動揺と受け取
ったのか、千夏は責めるように言葉を重ねた。
﹁私に、そう伝えるように言われたんですね。だから、こんな⋮⋮﹂
千夏が天下に向ける眼差しに非難と軽蔑が含まれているのを見て
ようやく、先ほどの言葉の意味することが頭に染み入る。瞬間、涼
は場所を忘れて席を立ちそうになった。目も眩む怒りに色が白くな
るほど手を握り締める。
違う。激怒なんて一時的な感情ではない。これは、憎悪だ。悪意
もなく、無造作に他人を踏みにじる千夏の存在が赦せなかった。
この女は、天下を侮辱したのだ。
生徒を盾に使う教師と、その言い分を押し付ける生徒として見て
いる。二対一で責める卑怯者として。生徒と教師でありながら深い
関係にあると。自分のみならず、天下まで。まるで穢らわしいもの
を見るかのように││ふざけるな。ふざけるな。二十四年前、お前
は私に何をした!? 高校生で無責任に子供を生んだ自分には、非
がないとでも言いたいのか。
﹁違います﹂
623
いきり立った涼とは対照的に、当の本人は穏やかだった。
﹁最初に申し上げた通り、先生は、俺がここにいることすら知りま
せん。全て、俺が、勝手にやったことです﹂
﹁ますます、おかしいではありませんか。ただの教師の個人的な問
題に生徒が、その⋮⋮口を出すなんて﹂
﹁無関係なのはお互い様でしょう? あなたは直樹に真実を知られ
るのが恐くて先生を呼び出したのですから。でも何を知り、何に目
を瞑るのかを決めるのは本人であるべきです。あなたが決めること
ではないと思います﹂
﹁ずいぶん酷いことを言いますね﹂
関係ないくせに。天下を非難しつつも千夏の薄い唇は震えていた。
﹁酷い女だとお思いでしょうけど、これでも私は母親です。腹を痛
めて生んだ我が子を捨てて、素知らぬ顔で生きてきたわけではあり
ません。いずれは、息子にも涼さんのことは言うつもりです。しか
し今は、複雑な年頃の息子にショックを与えたくはないのです﹂
涼は前髪を握り潰した。顔を上げたくない。そんなことを平然と
言う千夏を見たくなかった。見たら最後、一生赦せなくなる。それ
が怖かった。
ショック。二十四年前に生まれた姉の存在は弟に悪影響を及ぼす
のか。はからずも千夏は﹁渡辺涼は疎ましい存在である﹂と明言し
たのだ。自分で生んでおきながら、今更。
﹁正直に申し上げます。二十四年前、あなたがどんなつもりで涼を
捨てたのかなんて、どうでもいいことなんです。その後罪の意識に
苛まれ、どれほど苦しんできてきたのか、これからの上原一家はど
うなるのかも、申し訳ないのですが、俺には全く興味がありません﹂
涼は指の間から窺った。視界の中の天下は、首の後ろに手を当て
て関節を鳴らしていた。優等生には似つかわしくない、粗暴な仕草
だった。
﹁俺にとって重要なのは、二十四年前にあなたは生んだばかりの子
供を手放したという事実。そして今また、その過去を消し去りたい
624
がために先生を巻き込もうとしていること。ただ、それだけです﹂
千夏の顔が強張った。その前に先ほどのウェイトレスがコーヒー
を置く。横やりが入ったためか、厳しかった天下の双眸が緩む。軽
く笑みさえ含めて天下は言った。
﹁先ほどの質問にお答えしますよ。どうして俺が││関係のない俺
が、首を突っ込むのか﹂
湯気立つコーヒーに目を落としたまま、天下は﹁好きなんです﹂
と、小さく呟いた。
﹁ご心配なく。俺と先生はあなたが思うような関係ではありません。
俺が、勝手に、慕っているだけです。非常に残念なことですが、先
生は俺なんか相手にもしませんよ。真面目な人ですから﹂
本当に、腹が立つくらい生真面目だと、天下は苦笑混じりに言っ
た。
﹁立派な先生です。ひたむきで、厳しくて、優しい人です﹂
真っ直ぐに千夏を見据えて断言。それはいつぞや、遙香と佐久間
の件で涼までもが窮地に陥った時に見せた表情と酷似していた。一
分の迷いもない。毅然とした態度だった。
﹁あなたに大切な家族がいるように、渡辺涼にも二十四年間で築い
た大切なものがあります。だから、そんな簡単に隠されたり、否定
されたくないんです。ましてやあなたの都合で無かったことにされ
るなんて真っ平です﹂
ああそうか。涼はようやく気付いた。どうして天下を意識するよ
うになってしまったのか。ただの憐憫や同情だけを抱いていたなら、
きっと直樹に接する時と同じように穏やかな気持ちでいられただろ
うに。
﹁だから、帰ってください。あなたがバッグの中に入れているもの
を、先生に見せないでください。それはおそらく、彼女にとって一
番の侮辱です﹂
答えは簡単だった。三百万円で売ろうとした尊厳、教師としての
矜持。涼自身が諦めて捨てようとしたものをすくいあげて、もう一
625
度手に握らせる様が、彼女と同じだったからだ。
626
︵その七︶焦る必要はありません
長い沈黙の後、千夏がどう答えたのかはわからなかった。涼が聞
いたのは椅子を引く音。そして立ち去る千夏の後ろ姿を見ただけだ。
思っていたほど大きな背ではなかった。そもそも、何を根拠に大き
いと思っていたのだろう。
千夏がいなくなってしばらく経っても、涼はぼんやりとしていた。
自分を置き去りにして解決してしまったような気がした。いや、実
際に何かが改善されたわけではない。今でも千夏に対する軽蔑は消
えないし、和解する気にもならない。でも、恨むことはもうないだ
ろう。
自分の弱い部分を掴まれている以上、恐怖はある。どうしても。
しかし、きっと向き合えると涼は思った。尻尾を巻いて逃げ出すこ
とはなくなるだろう。自分にだって、譲れないものがある。
二十四年も経ってようやく、涼はただの被害者でなくなることが
できた。
﹁隣、いいか﹂
涼の返答を待たずして、天下は椅子に腰掛けた。
﹁いつから﹂
﹁こっちの台詞だ。すっげー驚いた。まさか全部聞いてたのか?﹂
﹁違う﹂
訊ね方が悪かったと涼は反省した。
﹁いつから知ってた﹂
何を、とまで言う必要はなかった。天下は持ってきたコーヒーを
一口飲んだ。
﹁ついさっき﹂
﹁神崎から聞いたんじゃないのか﹂
﹁半分はな。パズルみてえなもんだ。あれこれ組み合わせれば輪郭
627
ぐらいはわかる﹂
天下は指折り挙げた。
﹁文化祭の時は明らかに挙動不審だったし、神崎さんのことは一応
説明したのに、直樹に関しては全く触れようとしないのも違和感が
ある。考えれば、家族でもなけりゃあんたが黙っているはずないも
んな。親戚だとか、友人の息子だとか適当に親しい理由はつけられ
るのにそうしなかったのは、嘘でも言えなかったからだろ?﹂
口裏を合わせようにも直樹が知らなければ、頼めるはずもない。
何よりも、涼ができなかった。彼は弟だった。﹃ような﹄とか﹃み
たいなもの﹄が後ろにつかない、正真正銘の弟だ。半分だけど血の
繋がった姉弟だ。
﹁君の出る幕じゃなかったよ﹂
﹁先生が出る幕でもなかったと思うがな﹂
だから引っ込むつもりだった。天下が現れなければ、涼はきっと
千夏を置いて逃げ帰っただろう。
﹁俺がしゃしゃり出たくらいで解決するもんじゃねえ。仕切り直し
だ。気が向いた時に電話でもしてやれよ﹂
それこそ余計なお世話だ。口を開きかけた涼の前に、天下は名刺
を差し出した。個人ケータイの番号とアドレス。
﹁ヴァイオリン教えてるらしい。好きにしろよ。気に入らねえなら、
くずかごに捨てるなり焼くなりすりゃあいい。とりあえず持ってて
も損はしねえだろ﹂
涼は﹃上原千夏﹄と書かれた名刺を穴が開くほど凝視した。断ち
切られて二度と繋がらないと思っていたが、案外簡単なのかもしれ
ない。明日か一週間後か、それとも何年後か。いつかけられるのか
もわからない電話を待つ千夏はさぞかし気を揉むことだろう。自分
がそうだっただけに、涼は笑うことができた。
﹁そういえば、今日のチケットはどこで?﹂
質問に他意はなかった。しかし天下は眉をしかめた。
﹁もらった﹂
628
﹁誰に﹂
天下は観念したように肩を竦ませた。
﹁⋮⋮あんたの兄さん﹂
涼は脱力した。あのお節介。心配はさせまいと抱え込んでいた自
分が馬鹿みたいじゃないか。本番目前に他人を心配する暇があった
ら舞台に集中しろ。だから大成できないんだ。
﹁心配性なんだから。昔と全然変わってない﹂
﹁昔から、そうなんか﹂
涼は頷いた。
﹁中学生の時なんか、私の試験勉強に付き合って、自分は英語で赤
点取ったくらいだ。二人揃って怒られたから覚えてる﹂
﹁へえ、先生まで?﹂
﹁神崎は私を言い訳に勉強しなかったから。私は神崎に勉強をさせ
なかった監督不行き届きとやらで。無茶を言う人だよ﹂
思えば、あれは恭一郎を懲らしめるために涼を叱ったのだろう。
ただ恭一郎本人を責めるだけでは、自己犠牲という綺麗な言葉で片
付ける恐れがあった。卑怯な言い訳をさせないために彼女はあえて
二人同時に説教した。曲がったことを許さない人だった。
﹁仲、いいんだな﹂
何気ない天下の一言に涼は我に返った。
﹁⋮⋮まあ、幼なじみだから﹂
﹁兄妹だろ﹂
﹁正確には、兄妹﹃みたいなもの﹄だ﹂
言い訳めいていたが、涼は弁明せずにはいられなかった。
﹁血も繋がっていないのに、家族だなんて。変だってわかってる﹂
629
︵その八︶屋烏でさえも愛しいのです。
﹁なあ﹂
躊躇いがちに天下は口を開いた。
﹁それ、やめにしねえか?﹂
何を。涼は目をしばたいた。それすらも気に障るのか、天下は眉
を顰めた。
﹁あんた、俺じゃ絶対わかんねえって思ってんだろ。両親がいて、
兄弟もいて、今まで不自由なく生きてきたような奴には、自分のこ
となんか理解できるはずがないって、突き放してる﹂
﹁そんなこと﹂
﹁思ってるよ。別に責める気はねえ。パッと出の俺が、したり顔で
首突っ込んできたら堪んねえよな。ふざけんな。てめえなんかに何
がわかるって思うのも当然だ﹂
ゆらゆらと揺れるコーヒーの面に涼は視線を落とした。突き放し
ている自覚はないが、境界線を引いているのは否めない。諦めライ
ンとも言えるものが自分の中には確かにあった。
多くを求めることができない。人の理解というのもその一つだ。
他人の厚意に委ねることが涼にはどうしても難しかった。
﹁でも理解してえんだ﹂
天下は呟いた。ため息混じりの掠れた声だった。
﹁神崎さんやあんたを育ててくれた人みたいに、時間を掛けてでも
積み重ねたいんだ。できないかもしれないってだけで諦めたくねえ
んだ﹂
不意に、涼は彼女と話したことを思い出した。
彼女はたしか出張前夜、そして自分は定期演奏会を数日後に控え
ていた。お酒を片手にほろ酔い気分。取り立てて変化のない、いつ
も通りの会話だった。大学のことを訊ねられ、少しずつ語っている
630
内に熱が入る。そして途中でようやく、彼女が置いてきぼりになっ
ていることに涼は気付く。ゲネプロだのリリコ・ソプラノだの、彼
女にわかるはずがなかった。
気まずくなり謝った。彼女は苦笑して﹁やっぱり難しいわ、オペ
ラって﹂と言った。いつもと変わらなかった。彼女は音楽に関して
は無知で興味もないと涼は諦めていた。押し付けることはできない。
どんなに涼が寂しさを覚えていても、彼女に理解を求めることはで
きなかった。
しかし、匙を投げたような言葉の裏で、彼女の出張鞄の中には定
期演奏会のチケットがあったのだ。
││彼女は諦めてなどいなかった。
数え切れないほどの後悔の中で、たった一つだけ取り戻せるとし
たら。
あの日、彼女が演奏会にこっそりやってこようとするのを止める
││のではなく、涼自ら彼女を招きたかった。たとえ果たされない
としても、彼女が当たり前のように差し出してくれた手を握りたか
った。もっと知ってほしいとワガママを言いたかった。ただ与えら
れるものを受け止めるだけではなく、自分から手を伸ばして求めた
かった。
﹁名前、教えてくれないか﹂
天下は緩やかに微笑んだ。
﹁大切な人なんだろ?﹂
頷いた顔が上げられない。視界が揺らぐ。胸の奥底にあるものが
じわじわと滲み出てくる感覚に、涼は目を閉じた。
﹁すごく﹂
大切だった。今も、これからも。
血の繋がりが全くなくて、葬式にも呼んでくれなくて、嘘つきで、
勝手に死んだ彼女が好きだった。本当に好きだった。
﹁⋮⋮はるか﹂
絞り出した声は自分でもわかるくらい掠れた声だった。
631
﹁神崎遙香﹂
涼は目を開いた。ほんの少し驚いた表情を浮かべる天下が映る。
それもそうだ。あれだけ振り回されても見捨てなかった理由にして
は、あまりにもお粗末だ。
﹁馬鹿だよなあ。同じ名前なんていくらでもあるのに﹂
でも捨て切れなかった。思い出す度に痛みを伴うとしても、どれ
だけ傷つこうとも、誰にも理解されないとしても。
赤の他人である自分を信じ、最後まで投げ出さなかった彼女を捨
て去ることだけは、どうしてもできなかった。
632
放課後︵その一︶けっこう単純なんです
国際電話だろうとなんのその。時差は考え費用は全く考慮せずに
恭一郎は、涼に電話してきた。一体どんな急用かと思いきや、なん
のことはない、涼の近況を探るためだった。どうやら礼の一件での
恩を盾に天下が涼につきまとっていやしないかと、気が気でないら
しい。
﹁あんたは私の父親か﹂
﹃心配だ。君はころっと流されるから﹄
コンクールを来週に控えているはずの神崎恭一郎は深刻そうに呻
いた。
﹃やっぱり七光の方に頼むべきだったか⋮⋮いや、あいつは壊滅的
に気が利かなさ過ぎる﹄
﹁事と次第では琴音にまで言うつもりだったあんたの気の利かなさ
を、どうにかするべきだと私は思うけどね﹂
﹃ああ駄目だ。果てしなく不安だ﹄
﹁受かるか落ちるかのどっちかしかないから、大丈夫だよ﹂
﹃コンクールのことじゃない。君のことだ﹄
振りでもいいから心配しろよ、コンクール。自信があるのか単な
る阿呆なのか、涼には判別がつかなかった。
﹃僕だって、いい歳して妹の恋愛に口出しするようなシスコンには
なりたくない。しかし、だ。久しぶりに訪れた妹の部屋で見知らぬ、
しかも明らかに男物のマグカップを発見してしまえば心配になるの
も仕方ないと思わないか?﹄
﹁⋮⋮マグカップ?﹂
涼は自分の声が一段と低くなるのを感じた。
﹃とぼけても無駄だよ。いくら巧妙に戸棚の奥に隠されていようと、
あの黒いマグカップは一昨年帰国した時にはなかった。まさか部屋
633
にマイカップを置くほどの関係に発展していたなんて﹄
あれか。涼は台所の戸棚を見上げた。本人よりも厄介な奴に見つ
けられてしまったものだ。運が悪い。学校に置いておくわけにはい
かなかったので、やむなく持ち帰っただけだというのに。
﹁大丈夫だよ。顔も会わせなくなったし﹂
最後に会ったのは二学期の終わり頃、それも挨拶程度で終わった。
三学期に入ったら、三年生はほとんど学校へは来なくなる。天下
も例に漏れず、大学受験に向けて猛勉強中。たかが音楽教師に構っ
ている暇などない。
それでいいと、涼は思った。
誰かと特別な関係を築くのは、不可能ではなかった。でもすごく
難しいことだった。自分にとっても、そして相手にとってもそうだ
ろう。努力を強いることはできなかった。だって、望んでいる自分
自身が耐えられないかもしれないのに。
﹁関わらなければ薄れていくだけだよ。すごく楽で簡単だ﹂
﹃カルメン﹄の時もそうだった。謂われのない誹謗中傷にも恭一郎
はきっと黙って耐えただろう。傷を押し隠して、涼には何も言わず
に。
﹃あのねえ、涼﹄
恭一郎は呆れ口調だった。
﹃彼に関してはともかくとして、君は僕の妹じゃないか。お兄さん
に向かって﹁私と一緒に傷ついてください﹂くらい言ってみたらど
うなんだ﹄
言えたら苦労しない。自分のことを棚に上げて踏み込んでくるよ
うに要求する恭一郎が理不尽に思えた。どうして自分ばかりが。
﹁うるさい。余計なお世話だ﹂
﹃そうやって子供みたいなことを言うから、僕の保護者気分が抜け
ないんだよ﹄
﹁兄さんなんか大嫌い﹂
歩み寄るのならば、片方だけでなく互いにするべきだ。
634
﹃⋮⋮え﹄
向こうの電話口で恭一郎が息を呑んだのが、聞こえた。
﹃涼、今⋮⋮あの、もう一度言ってくれないか﹄
﹁大嫌い﹂
﹃いや、そこじゃなくて、その前﹄
覚えていられるか、そこまで。涼は記憶を探った。兄貴風を吹か
せて無茶を言う恭一郎に反発を覚えた。しかし反論の言葉に詰まっ
た自分は癇癪に近い反撃に出た。いつものことだった。歳に似合わ
ない幼い駄々は涼なりの甘えだ。恭一郎ならば笑って赦して、流し
てくれることを知っていた。
﹁にい││⋮⋮⋮⋮﹂
口にしかけて、涼は我に返った。何故今更。二十歳も過ぎて、国
をも隔てたこの状況で。気の緩みとしか言いようがなかった。
﹁⋮⋮にい、さん﹂
天下一人のせいにはすまい。しかし一因を担っているのは否めな
かった。彼に逢ってから自分はどこかがおかしくなった。少しずつ、
積み重なるように。だから自分でも気づかなかった。
相変わらず独唱は好きだが、合唱がもっと好きになった。親がい
ないことを素直に悲しいと思うようになった。他人の想いをはねの
けるのではなく、受け止めたくなった。他人の目よりも自分がどう
したいかと考えるようになった。つまりは弱くて身勝手で馬鹿にな
った。
﹃なんだい妹よ﹄
冗談めいた返答の後、電話の先が沈黙した。涼が﹁神崎?﹂と呼
びかけても応答がない。大丈夫か、本当に。一抹の不安を覚えた頃
にようやく、恭一郎は﹃駄目かもしれない﹄と言い出した。
﹃どうしよう﹄恭一郎はくぐもった、蚊の鳴くような小さな声で言
った﹃彼女にプロポーズOKされた時よりも嬉しい﹄
いや、それはさすがにマズいだろ。涼は声に出して笑った。
﹃今度の休暇は二人で帰るよ。改めて挨拶したいって﹄
635
﹁私に?﹂
﹃君の義理の姉になるからには当然だってさ。姪だか甥を生んだあ
かつきには、ぜひ面倒を見てほしいって﹄
家族増えるよ。
嬉しそうに言ってくれる恭一郎が、涼には嬉しかった。
636
︵その二︶生徒は対象外です。
春はまだか二月の中旬。受験シーズン真っただ中に、涼は学校で
鬼島天下を見かけた。一階の中央廊下の途中で立ち止まり、ぼんや
りと中庭を眺めていた。
﹁久しぶり﹂
涼から声を掛けると、天下は珍しいものを見たかのように軽く目
を見開いた。が、すぐさま折り目正しく一礼。
﹁お久しぶりです﹂
﹁今日は登校日か?﹂
﹁はい。午前だけですが﹂
似非優等生口調は健在だった。たった一ヶ月くらいなのに、涼は
懐かしさを覚えた。そして三月の卒業式を迎えたら、二度と聞けな
くなるのだと実感した。胡散臭い笑顔とも、打って変わって乱暴な
素の口調とも、低い声とも、別れなくてはならない。それは寂しい
ことだった。しかし、毎年迎えていたことでもあった。
﹁こんなところで一体何をしていたんだ﹂
﹁隙間があるのは前に言ったよな? あそこから、中覗けんだ﹂
天下の指が中庭を隔てた向こう側に建つ特別棟︱︱鑑賞室の窓を
示す。遮光カーテンには隙間があった。あれは去年だったか、天下
が指摘していたのを涼は思い出した。
﹁朝練の帰りに通ってたな、と感傷に浸ってた﹂
へえ、と気のない返事をして、涼は首を捻った。朝練の帰りとは
つまりSHRが始まる直前であって、その時間で鑑賞室といえば。
﹁まさか、見てたのか﹂
﹁一昨年からずっと。あんた、全然気づかなかったな﹂
当たり前だ。こっちは迫り来る授業の準備に忙しいのだ。精神的
余裕もなかった。今ではだいぶ慣れたが、新任当時は毎朝胃が痛く
637
なっていたくらいだ。
﹁でも、そういうとこが、好きだった﹂
何気なく付け足された言葉に、涼は固まった。天下は苦笑した。
﹁なんにも知らねえから、だろうな。勝手に立派な先生を思い描い
て、そうじゃなかったらガキみてえに癇癪を起こしてた。あんたに
とっては迷惑以外の何でもなかったろうに﹂
切れ長の目が伏せられる。しばしの逡巡の後、天下は静かに声を
絞り出した。
﹁⋮⋮好きになって、悪かった﹂
堪えた声と一緒に鬼島天下は離れた。次の瞬間には、ただの優等
生の顔で、小さく笑みさえ湛えて別れの挨拶をする。そつなく、余
韻もなく。
﹁では渡辺先生、また﹂
社交辞令のように付け足された言葉は、頼りなく消えた。
638
︵その二︶生徒は対象外です。︵後書き︶
ここまでお読みくださり、誠にありがとうございます。
本日の23時以降に後書きなるものを付け足す予定です。
639
︵その三︶いいえ、生徒は対象内です。
踵を返した背中は、広かった。千夏とはまるで違う。彼女は一度
も振り返ってはくれなかった。恭一郎とも、もちろん違った。
五限目の予鈴が鳴る。昼休みが終わった。さあ楽器庫に行こう。
数が合わないと言われているホルンの行方を探さなければ。一体ど
こに隠れているのやら。第一音楽室にも立ち寄って、譜面台を準備
しておかなくては。明日の個人レッスンの課題曲もさらっておきた
い。それから、それから︱︱思考は巡り巡って、離れていく天下に
戻る。この背中を見送った後のことを思う。
きっと自分は変わらない。小生意気な似非優等生のことを事ある
ごとに思い出し、懐かしさだとか、寂しさだとかを覚えるのだろう。
彼が大学に行って、やがて社会人となって、高校とは遠く離れたと
ころへ進もうと、自分だけはここにいて、何も変わらないままで。
どうしよう、と涼は思った。思い出したかのように胸が痛くなる。
こっちの気も知らないで、天下は厳しかった。でもいつだってこ
の青年は優しかった。佐久間が涼を代用品扱いした時、自分のこと
のように怒った。そのくせ、連中が追い込まれたら汚れ役を買って
出た。散々思わせぶりな態度を取っておきながら突き放した涼がい
ざ千夏を前にして途方に暮れていたら、当たり前のように手を差し
だした。羨望による八つ当たりにも黙って耳を傾けた。恭一郎と彼
女のことも真摯に聞いてくれた。その後は一切触れずにいてくれた。
今だって。
天下が足を止めて振り返った。
ああ、どうしよう。学生服の袖を掴んだまま、涼は途方に暮れた。
音大に入るために必死で声楽とピアノを練習した。奨学金が欲しか
ったからそれこそ死に物狂いで勉強もした。人並みの生活を送るた
めに努力は惜しまなかった。自分は違えない。親なんかいなくたっ
640
て平気だと胸を張っていたいから。でもこんな時にどうすればいい
のかは誰も教えてはくれなかったのだ。
﹁先生?﹂
どうしよう、どうしよう、どうしよう。我慢することには慣れて
いるのに。慣れていた、はずなのに。手を伸ばしてしまった。掴ん
でしまったこの手はどうすればいい。
﹁⋮⋮どうした﹂
どうすればいい、って馬鹿か。簡単なことではないか。離せばい
いんだ。少し手の力を抜いて。硬直した指を開いて。全速力で音楽
科準備室に逃げ込めばいい。自分の生息地に帰って、自分の決めた
分に戻って。そこから出ないように気をつければもう、こんなこと
にはならない。そしたら傷つくこともないし、面倒事に巻き込まれ
ることもない。誰かに後ろ指差されることだってない。でも︱︱で
も、
傷ついてもいい。間違っていても構わない。それでも欲しい時は
どうすればいい。
﹁涼?﹂
学生服の袖を握る手が解かされた。慎重に解いた手を取る、筋張
った大きな手。慈しむように名を呼ぶ低くて少し掠れた声。そんな
些細なことに涼は堪らなくなった。
﹁⋮⋮君に、不足があると思ったことなんか一度もない﹂
生徒であることも、年下であることも、天下を損ねる理由にはな
らなかった。
﹁ただ、負い目が消えなかった。これから先、もっと素敵な人が現
れるんじゃないか。もっと色々な選択肢や可能性があるだろうに、
私が妨げることになるんじゃないか﹂
天下が学生としても人間としても成長するにつれてその思いは強
くなった。彼はやがて学校を巣立ち、大人への階段を上る。そして
自分は、この場所に取り残されて、何一つ変わらないまま。他人の
目を恐れて、手を繋ぐことすら許せない。天下が生徒であることを
641
理由にして。
際限のない不安や後ろめたさは﹃彼女﹄に抱いていたものと同じ
だった。妙な娘もどきが家に転がり込んでいなければ、彼女には社
会人として、そして女性として大きく飛躍できたのではないか。少
なくとも出張先から無理に帰って倒れることはなかったはずだ。
お荷物でしかない、自分はいつだって。
﹁私は、君を妬んでた。君が恵まれていればいるほど。これからも
ずっと、妬むと思う。その度に君は傷つきながらも私を気遣って何
も言わない。そんな自分が想像できて、惨めで、嫌だった。周りか
ら後ろ指さされるかもしれない。逆に体面を気にして君を拒絶する
かもしれない。君だけを見て生きることなんてきっとできない﹂
重荷になってごめんなさい。でも一緒にいたかった。考えもなし
にお金を受け取ってごめんなさい。でも大学に行きたかった。血の
繋がりもないくせに、義理もないくせに甘えてごめんなさい。でも、
もどきでもいいから家族になりたかった。
負い目の裏には、赦されたいという願いがいつもあった。
嗚咽を堪え、涼は喉の奥から声を絞り出した。
﹁⋮⋮それでもいい?﹂
手を強く握り返された。腕を引かれ、天下の歩く早さに足がもつ
れそうになりながら、外の渡り廊下から校舎を出た。人気のない裏
門と特別棟の陰に入り込んで、ようやく天下は足を止めた。
﹁上履き﹂
﹁あとで拭く﹂
不意に、強く抱き込まれた。見上げた天下の顔は真剣そのもので、
涼はとっさに振り払うことが出来なかった。
﹁わかってんだ。ここが学校で、俺は生徒であんたは教師で、相応
しくない状況だってことは。馬鹿げてるって自分でも思う。あんた
の信条に反することだって、もう、ほんとにわかってんだ﹂
言うことばかりに夢中になっていた時は気付かなかったが、彼は
彼で切迫していたようだ。肩口を掴む手は痛いほど力が込められて
642
いた。
﹁でも、頼む。後生だから。これっきりでいい。もう二度とここで
は言わねえし、やらねえ。約束する。だから、﹂
眉根を寄せて天下は屈んだ。黒い目が泣きそうに潤んでいたが、
どこか幼く期待に輝いていた。
﹁キス、させてくれ﹂
涼は激しく首を横に振った。
﹁駄目、無理﹂
﹁一回だけ﹂
﹁許可できない﹂
﹁お願いします﹂
﹁教師として、絶対に認めるわけにはいきません﹂
押しのけようと肩に触れた手に力が入らなかった。対する天下は
離れる気もないが無理にことを進める気もないらしく、こう着状態
となる。互いに固まったまま数秒、先に折れたのは涼の方だった。
天下の視線から逃れるように顔を逸らして、涼は呟いた。
﹁⋮⋮今、だけは、目、瞑っておく﹂
言葉通り目を瞑った。物理的にも、精神的にも。
だから彼がどんな顔をして唇をくっつけてきたのかは涼にはわか
らなかった。ただ、耳元で﹁涼﹂と囁かれて恐る恐る目を開けた時、
天下は目を細めて笑っていた。
それが限界だった。せきを切ったように色々なものが溢れて、収
拾がつかなくなる。怖くて、嬉しくて、苦しかった。息もできない
くらい。
﹁⋮⋮ごめん。本当に、ごめん﹂
﹁あんたが謝ることじゃねえ﹂
いや、謝ることだった。謝って済むことでもなかったが、涼はひ
たすら謝罪の言葉を繰り返した。こんなに必死になって謝ったのは
生まれて初めてだった。そのくせ、天下の袖を掴んだまま離せずに
いる。
643
無責任の仲間入り。自分が軽蔑していた連中と同じことをしてい
る。間違ったことをしている自覚はあった。途方もない罪悪感が胸
を占める。
それでいて、赦されたいと涼は痛切に願った。
天下に、その両親に、兄弟に、友人に、想いを寄せていた香織に、
育てた教師に、彼の周囲に生きる人たちに、赦されたかった。後先
考えなかった母を、厄介とばかりに放り投げた父を、若い二人の﹃
過失﹄を黙殺した家族を︱︱それら全てを言い訳にしていた自分を
赦してほしかった。
﹁私は教師だけど、高校生じゃないけど、﹂
﹁知ってる﹂
額と額が合わさる程近くで、天下の双眸が優しく緩んだ。
﹁俺は、高校生のくせにあんたを好きになった﹂
644
あとがきなるもの
本編完結に際し、本来ならばここで作品に込めた熱くたぎる想い
を延々と語るはずだったのですが、そんなもんよりも三点、申し上
げなくてはならないことがございます。
一、本日12時から23時の間に拙作をご覧になって﹁え? これ
で終わりなの?﹂と思われた方、ありがとうございます。
エイプリルフールではありませんが、それは悪戯です。見間違い
でも私めの投稿ミスでもございません。悪戯です。大事なことなの
で三回申し上げます。あれは、悪戯です。驚いていただけたのなら
私めはニヤリとほくそ笑みます。
本日23時以降にご覧になった方はなんのことだかわからないか
と思います。本編最終話の一つ前の話、﹃放課後︵その二︶生徒は
対象外です。﹄を完結話として更新したのです。ネットならではの
幼稚な悪戯です。どうか広いお心でお赦しください。悪気はないの
です︵でも大人げもないのです︶
二、第二部の﹃五限目︵その一︶人の噂も四十九日です﹄にて﹁い
や、七十五日ですよね?﹂と至極真っ当なご指摘をくださった方、
ありがとうございます。
感想欄やメッセージにてご指摘いただいた際は、さも﹁予定通り
です﹂と言わんばかりに受け答えし、普通にその後も更新しており
645
ますが││もうお気づきの方もいらっしゃるかとは思いますが、あ
えて私めの口から申し上げます。つまり、やっぱり突然毎日更新っ
て無理があったようで、注意力も散漫していたようでして、ええ、
結局のところを申し上げますと、
本当に四十九日と間違えていたのです。
⋮⋮二日間も。読み返して卒倒しそうになりました。
ご指摘くださった方々のお一人に﹁何らかの意図がおありなんで
しょうか?﹂とご質問をいただき、急遽何らかの意図を無理やり入
れました。﹃五限目︵その四︶誰にでも間違いはあります﹄にて、
それっぽく取り繕っておりますが、実際に間違えたのは涼ではなく、
私めです。誰にでも間違いはあります。どうかこれもまた広いお心
でお赦しください。悪気はないのです︵でも見栄はあったのです︶
三、ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
曲がりなりにも完結までこぎつけることができたのは、読んでく
ださる皆様││に素敵な小説を提供した私めの実力なんてことはあ
りません。前触れもなく更新停止するわ、懲りもせず﹃今年完結﹄
を二回以上挙げるわ。こんな酷いにも限度がある作者に気長にお付
き合いくださった方々がいらっしゃったからです。改めて感謝申し
上げます。
とりあえず本編は完結致しましたので、あとは完全に放置してい
た番外編を気が向いた時に更新しようかと企んでおります。適当で
すみません。悪気はないのです︵でも計画性もないのです︶
646
では、長々と失礼致しました。
647
︻番外編︼恋せよ長男、したたかに︵起︶︵前書き︶
活動報告にて予告させていただきました通り﹁はじめてのデート﹂
の話です。主人公が誰だろうと舞台がどこだろうと、これはデート
の日の話なんだと主張致します。どんなに酷い出来でも許せるお心
の広い方のみ自己責任でお読みくださいませ。
648
︻番外編︼恋せよ長男、したたかに︵起︶
鬼島一にとって兄の天下は家族で最も遠い存在だった。
そもそも三兄弟の長男と三男で歳も四つ離れているし、親に叱ら
れる度に出てくる﹁お兄ちゃんを見習いなさい﹂はもはやトラウマ
以外の何物でもない。幼い頃から三男は鬼島家の問題児だった。そ
して長男は自慢の息子だった。そのせいか一は器用すぎる天下より
も不器用で無口な統を慕っていた。
それぞれ性格の違う三兄弟の思い出で唯一鮮明なのは、一が小学
生四年生の時の﹁一斉パンク事件﹂だ。
当時、小学六年生だった次男・統の自転車が塾へ乗っていく度に
釘を打たれたりと嫌がらせを受けていたことから端を発した事件だ
った。本人は今と同じように大人しい、というより考えを表に出さ
ないので、嫌がらせはますますエスカレート。筆記用具を隠された
り鞄に落書きだの、金を払ってまで嫌がらせに来てんのかと問い質
したくなるような陰湿で悪質な悪戯が繰り返された。
同じ塾に通う一はいち早く兄の異変に気付いた。無論、その原因
も。まわりは見て見ぬふりをしているが、統は間違いなく﹁いじめ﹂
を受けていた。鬼島統の自転車だけが毎回空気が抜けているなんて
偶然があるか。馬鹿でもわかることを、塾のクラスメイトは誰一人
として認めようとはしなかった。講師ですらも、だ。
そうくれば短絡的な小学生だ。目には目を、歯には歯を。嫌がら
せには嫌がらせを。相手は年上で複数いる。腕力では実行犯連中に
は敵わないかもしれないが、陰でこっそり復讐をすればいい。誰も
助けてくれないのなら自分が兄の味方をするしかない。
ほんの少し遅刻して、一はいじめの主犯格連中が勉強に勤しんで
649
いる間にそいつらの自転車に釘を打ち込んでやった。三台分。思い
の外力を入れなくてはならないので手が真っ黒になったが、その汚
れもまた小学生には誇らしかったのを今でも覚えている。
そして授業が終わって帰路につこうとした時、誰もかれも︱︱一
ですら、驚いた。
駐輪場に留めていた六年生の自転車が軒並み同じ釘で打たれてパ
ンクしていたのだ。統のも、そして何故か一のも。駐輪場は学年ご
とにスペースが決められていたので、奥から次々と刺していったの
だと考えられるが、四年生である一の自転車までもがパンクさせら
れている理由がわからなった。一は六年生以外では唯一のパンク被
害者だった。
結局、悪質な悪戯と判断されて﹁一斉パンク事件﹂は迷宮入りと
なった。誰も内部犯だとは思わなかった。被害台数が三十近くあっ
たこともあり、複数犯という説さえ浮上する始末。まさか内三台は
自分ですと言い出せるはずもなく、一は黙っていた。
疑われこそしなかったが、統も一も空気の抜けた自転車を押して
帰る羽目になった。両親に言われたのだろう、帰路の途中で迎えに
来た長男の天下と合流した。姑息に自分のやった三台は隠して今日
の奇妙な出来事を報告した一にしかし、天下は﹁そうか﹂とあまり
興味がなさそうに言った。
他人事な長男に腹を立てた一が噛みつこうとしたその時だった。
視界に飛び込んだ天下の左手。利き手ではない方の手の指が黒く
汚れていたのを一は目撃した。たった三台とはいえ自転車をパンク
させた一だからわかることだった。鍵がかかっていても、多少は回
ってしまうタイヤを押さえないと釘は打てない。釘を刺すのは利き
手。ならばタイヤを押さえるのはもう片方の手。そして街中を所構
わず走りまわるタイヤに触れた手は︱︱
思わず兄の顔と指をまじまじと凝視する弟に、天下は片頬を歪め
て笑ってみせた。見透かしたように不敵に。共犯者であることを示
すかのように皮肉げに。
650
その数ヶ月後だった。母が交通事故に遭ったのは。
母の記憶喪失をきっかけに天下は鬼島家を出て一人暮らしを始め
ている。当時小学生だった一は母と入れ違いにいなくなった兄を寂
しく思うと同時に、投げ出した身勝手さを恨んでもいた。
しかし、それも月日の経過と共に薄れていった。
何しろ母の中では鬼島家は四人家族。天下の存在はどこにもない。
当然話題にのぼるはずもなく、おまけに天下は家を離れる際に自分
の痕跡というものを全く残さなかった。見事な手際だった。見切り
をつけた兄も、何事もなかったように取り繕う父も。
一にとって天下が年に一度会う従兄弟よりも遠い存在になるのは
必然と言えよう。
長男が全国模試で三十四位だろうと国立大学に進学しようと誰と
色恋沙汰になろうと三男には関係ないし、興味もない。たとえ別居
から三年後にひょっこり兄が実家に帰ってきて住み着いたとしても、
だ。
651
︻番外編︼恋せよ長男、したたかに︵承︶
よく晴れた土曜の昼だった。
父は出勤、母は友人と外出、次男の統は部活。家にいるのは期末
試験を控えた中三の自分と、今年大学生になった兄︱︱天下だけだ
った。今日はバイトもなく、夕方に友人と会う約束らしい。朝から
気配を感じながらも顔を合わせていない。口も利いていなかった。
にもかかわらず居心地の悪さを覚えるのはどういうことか。
一は先ほどから全く進んでいない英語の問題集を閉じた。
三兄弟で一人部屋なのは末っ子の自分だけ。次男である統の部屋
は、春から長男の天下との相部屋になった。元は天下の部屋だった
のを統が使っていたのだから流れとしてはそう不自然ではない︱︱
はずなのだが、末っ子だけが一人部屋というのは順当ではないよう
な気がした。
自分に遠慮でもしているつもりなのか、それとも一人部屋なんぞ
どうでもいいのか。
不平不満を言うわけでもなく、あっさりと相部屋に収まった天下
の物分りの良さが、一は気に食わなかった。
三年の間に忘れていたが、兄はいつもこうだった。
なんでもそつなくこなす。手のかからない、絵に描いたような優
等生。ご近所でも評判だった。国立大学の法学部合格が決まった時
も﹁やっぱり天下君ね﹂と感心されていた。
しかし、当の本人は涼しい顔で少年漫画を読んだり普通にゲーム
したりしているのだ。まるで﹃自分は平凡な高校生です﹄とアピー
ルするかのように。いけ好かない。
両親自慢の長男の弱味でも握ってやろうと留守の間に部屋を漁っ
てもみたこともあった。が、大した収穫はなかった。机の上にある
のは参考書。何故か初心者向けのオペラガイドブック︱︱大学で欧
652
米文化でも学んでいるのだろう。勉強熱心なことで。
期待高まるベッドの下にあったのは赤本と音楽雑誌。どういうわ
けか三大テノールの特集ページが折り曲げられていた。
なんでこんなもんを天下が持っていてしかも隠しているのか、一
には全く理解できなかった。グラビア誌でもあればまだ親近感を抱
けるというのに。
さて、そんな対長男限定絶賛反抗期中の鬼島一が麦茶でも飲もう
かと足を運んだ台所で、見覚えのあるスマホが放置されているのを
発見した。
透明カバーで本体は黒一色。シンプルなスマホは持ち主の気質を
如実に表しているようだった。近所のコンビニでも行っているのか、
天下はいない。
良心が咎めることもなく一はスマホを手に取った。
さしあたってはメールの送信履歴を見てみる。大学関係のものが
大半だった。LINEも起動させたが﹁真山亮介﹂といった友人と
のやり取り。内容はごくごく普通のものだった。つまらない。盗み
見ておいてふてぶてしいが、危険を冒した甲斐のある極秘情報の一
つくらいはあってほしかった。
早々に一は興味を失い、スマホをカウンターに戻そうとした。
今朝送ったばかりのメールに目が止まったのは、その時だった。
内容は今日の待ち合わせの確認。﹁予定通り新宿で四時﹂と簡潔
なものだった。変哲のないメールに意識が向いたのは宛先に﹁リョ
ウ﹂とだけ表示されていたからだ。家族だろうと友人だろうとアド
レス帳には全てフルネームで登録されている中、一つだけカタカナ
のあだ名は目を引いた。
だが、送受信履歴を見ても大したやりとりはしていない。非常に
事務的で必要最低限の連絡しか取り合っていないようだ。大学関係
とみた。とにかくドライだった。しかしそのドライな関係の相手と
653
会うために兄は今日、わざわざ時間を作ったのだ。
︵誰だよリョウって︶
一の疑問に答えてくれる者はないまま時間切れ。玄関のドアが開
く音に、慌ててスマホを元の場所に戻した。
コンビニにかと思いきや、天下が行っていたのはスーパーだった。
用済みになった特売のチラシを丸めてゴミ箱に捨て、エコバッグか
ら卵やら白菜やら色々出しては冷蔵庫にしまった。一には目もくれ
ずに。
一はソファーに寝そべり自分のスマホをいじくりつつ、密かに長
男の動向を探った。次に天下が向かったのはソファー︱︱を横切り、
庭。今朝、母が干した洗濯物を片っ端から取り込んでいく。
嫌な顔を一つせずに淡々と家事をこなす兄。土曜の昼に寝そべっ
ている弟。誰がどう見ても優等生な天下の姿に、一は吐き気を覚え
た。
﹁なあ﹂
自分から兄に声を掛けたのは三年ぶりかもしれない。天下は洗濯
バサミをカゴに放り投げてから振り返った。
﹁お前さあ、何しに戻ってきたんだ﹂
苛立ちに任せて一は悪態をついた。
﹁空気読めよ。今さら家族面して帰ってきて⋮⋮ウザがられてんの
がわかんねえのかよ?﹂
654
︻番外編︼恋せよ長男、したたかに︵転︶
天下はしばらく無言で一の顔を見つめていた。張り合うかのよう
に一は睨み返す。うららかな土曜の昼下がり。庭先で洗濯物を取り
込む兄と受験生の弟が拮抗状態。なんとも間の抜けた図式に気づい
たのは、天下に自分の体操着を差し出された時だった。
﹁ん﹂
戸惑う一に洗濯物を押し付ける天下。一が受け取ると、何事もな
かったかのように背を向けた。取り込みを再開した兄に一はますま
す苛立ちを募らせた。
三年経とうと兄は変わらない。無関心で無神経だ。出来の悪い弟
が何を考えようがどうでもいいと思っている。今だって馬鹿な弟の
癇癪に付き合う暇はない、と言わんばかりの態度だった。
ソファーに体操着を放り投げて、部屋に戻ろうとする一に﹁おい﹂
と声が掛けられる。
﹁まだ途中だろうが﹂
胡座をかいてそばに座るよう促す。手伝えと言いたいらしい。一
は足音を響かせて戻り、どっかりと床に腰をおろした。洗濯物の山
からバスタオルを引き抜いて適当に四つ折りにする。すかさず頭を
小突かれた。
﹁洗面所行って見て来い。三つ折り、だ﹂
盛大な舌打ちをしてたたみ直す一に、天下は次々と洗濯物を寄越
した。
Tシャツのたたみ方一つでも天下の指導が入る。やれ﹁お前それ
でも中学生か﹂だの﹁毎日タンス開ける時何見てんだ﹂等々ありが
たい小言付きで。おまけに制服のシャツを手にどうしたものかと首
を捻っていたら﹁お前が伸ばした程度で皺が取れるわけねえだろ。
アイロンだ。あとでまとめてかける﹂と取り上げられた。
655
﹁なんで俺が﹂
﹁てめえの服ぐらいてめえで片付けろ﹂
ごもっとも。結局、一が自分の洗濯物と格闘している間に天下は
他四人分のを手際良く片付けた。母とはいえ女性の下着でさえさっ
さとたたんで分別してしまう天下に﹁お前本当に男か﹂と非常に失
礼な質問が飛び出そうになる。一は押し黙ってひたすら手を動かし
た。
﹁大の男が一人増えたんだ。窮屈になるのは当たり前だろ﹂
突然なんだ、と口を開きかけて一は﹁ウザい﹂と言ったついさっ
きの自分を思い出した。
﹁部屋の契約、今年の三月までだったんだよ。更新する手もあった
んだが、大学はこっちからの方が近いし、これからのことを考えた
ら無駄に金を使うわけにもいかねえからなー⋮⋮﹂
﹁なんだよ、それ﹂一は眉を吊り上げた﹁まるで俺達のせいみたい
じゃねーか﹂
﹁いや、家の金じゃなくて俺の金の話だから﹂
大学を卒業したら家を出てく、と天下は今晩の献立かのごとくあ
っさりと言った。
﹁今度は親父の金じゃなくて、自分でどーにかやるつもりだ。資金
を貯めるために下宿させていただいているってわけだ﹂
つまり、家事を率先してやっているのはご機嫌取りではなく、せ
めてもの宿代のつもりだったのか。一人部屋を固辞しなかったのも
﹁住まわせてもらっている﹂という認識からくるものか。
一は頬に熱が集まるのを感じた。自分が考えていたことの方がよ
っぽど陳腐だった。
去年から急に始まった土曜のみの実家帰宅、連休の泊まりとずる
ずると元の鞘に収まるつもりだと決めつけていた。そのお手軽さを
憎んでいた。三年も気ままな一人暮らしをしておきながら︱︱俺を
置いて出て行ったくせに、何事もなかったかのように戻ってきた兄
が許せなかった。
656
﹁それ、親父は知ってんのか?﹂
﹁大学受験前に二人には話して許可はもらった。四年は相部屋にな
るから統にも一応﹂
なんだそりゃ。一は言葉もなかった。自分の知らない所で決めら
れているのもそうだが、何よりも目の前の男が兄であることが信じ
難かった。
住まわせてもらっている。許可は得ている。それではまるで︱︱
他人みたいではないか。
突然戻ってきた長男が疎ましかった。親に文句一つ言わない偽善
者ぶりが腹立たしかった。変わらず優等生で﹃いい息子﹄でいるの
が妬ましかった。自分が出来の悪い弟のようで、ますます惨めで。
天下に、少しでも悪い点があればまだ良かったのに。
家族面して戻ってきたのを許せないくせに、いざ突き放されると
寂しさを覚える。矛盾した感情が自己主張を始めてわけがわからな
くなった。
﹁⋮⋮俺、は?﹂
ようやく絞り出した声は情けないくらい掠れていた。
きっと三年前に天下が家を出て行った時から、変わっていないの
だろう。勝手に決めて消えてしまった兄を関係ないと割り切った、
そのつもりでいた弟。しかし本当は、家族の縁に一番縋っていたの
は一自身だった。
だから、何も言わない兄や、その兄にばかり頼る両親を見ている
と疎外感を覚えるのだろう。置いてきぼりにされた子供のように。
﹁お前は最後だ、最後﹂残酷なくらいあっさりと天下は答えた﹁当
たり前だろ。俺、お前が中学卒業した後どうするつもりなのかすら
知らねえんだから﹂
一は目を見開いた。全国三十四位でも、いくら考えてもわからな
いことはあるらしい。たかが四つ下の弟が思っていること。優等生
の兄が、たかが愚弟の進路を気にしていたのか。
﹁勉強してるということは、進学するつもりではあるんだよな?﹂
657
﹁まあ、一応﹂
素っ気ない返答にも天下は気を悪くした様子もなく﹁どこの高校
だ?﹂と興味津々で訊ねてきた。弟の性か兄の質問に素直に答えか
けて︱︱一は口を噤んだ。子供染みた意趣返し。出来の悪い弟にだ
ってプライドはある。何でもかんでもぺらぺら喋ると思ったら大間
違いだ。優秀な兄よ、せいぜい考えるといい!
一は肩を竦めて、わざとらしく首を傾げた。
﹁⋮⋮さあ?﹂
自分でもわかるくらい意地の悪い笑みを浮かべて。
家の掃除も終えて、一息ついたところで天下は外出すると言った。
﹁早くねえか。四時だろ?﹂
現在時刻は午後の二時。新宿駅には三十分もあれば余裕で着く。
一の指摘に、天下は小さめのショルダーバッグを持ち上げる腕を止
めて、振り返った。
﹁⋮⋮なんだよ?﹂
﹁いや﹂
天下は肩にバッグの手ひもを掛けた。
﹁デートに遅刻するわけにはいかねえだろ﹂
﹁は?﹂
﹁付き合ってから初めてなんだよ。お互い新学期で忙しかったから。
以前、俺がドタキャンしかけたせいで観損ねたやつのリベンジで、
向こうも楽しみにしてる⋮⋮と、思う。そう信じたい﹂
一は絶句した。兄が交際している。大学生なのだから当然と言え
ば当然なのだが、こんなに子供っぽいことを言い出すとは思わなん
だ。女性と付き合うにしても、もっと余裕を持って付き合うとばか
り思っていた。学業の片手間に習い事をするのと同じように。
それが実際はどうだろう。淡々というよりは半ば自棄気味に暴露
する天下は、歳相応に見えた。しかも微妙に卑屈で、必死だ。何で
658
もそつなくこなす優秀な兄に似つかわしくない。
﹁だ、誰? 高校の同級生? それとも大学?﹂
天下は少し考えてから、底意地の悪い笑みを浮かべた。
﹁⋮⋮さあ?﹂
茫然と立ち竦む一を置き去りにして、天下は家を出て行った。思
いついたかのように振り返り﹁風呂、掃除しとけよ﹂と指令を下す
のも忘れなかった。優等生はどこまでも優等生だった。
659
︻番外編︼恋せよ長男、したたかに︵結︶
長男と父抜きでの夕食は珍しくもない。三年の間に何度もあった
光景だ。
ただ違うのは、不在を主張するように空いた席が二つ残されてい
ることだ。風呂掃除した三男に母はえらく驚き、喜んだ。
おかげで天下の外出はますます違和感なく受け入れられる。
食事中に母は今日観たミュージカルについて力説。やれ音楽監督
がどうとかいっぱしの批評家気取りで熱弁を振るった。
適当に相槌を打つ一。隣の統はひたすら激辛麻婆豆腐を口に運ん
でいる。ご飯も、水もなしで。顔を赤くすることもなく激辛麻婆豆
腐を消費に精を出していた次男が、不意に呟いた。
﹁カルメン﹂
なんだそれ。今は﹃キャッツ﹄の話だろ。統の視線の先を見れば、
本日のパンフレットについてきた現在公演中の演目紹介のチラシ。
その一つに真っ赤なドレスを身に纏う女性が真ん中にある派手な劇
があった。ビゼー作オペラ﹃カルメン﹄。
なんで統がそんなものに興味を示したかを訊けば﹁授業﹂と簡潔
な答えが帰ってきた。
﹁渡辺先生の授業で?﹂
母の問いに統は無言で頷いた。
﹁渡辺先生﹂は時折、食卓の会話に出てくる名だった。高校の音楽
教師で専攻は声楽。以前は天下が、今は統が授業でお世話になって
いる。父と母も面識があり、話題についていけないのは一だけだっ
た。ここでもぷち疎外感。気にせずに箸を進めた。
﹁その先生は﹃カルメン﹄が好きなのか?﹂
﹁観に行く﹂
﹁まだなら、ご一緒しようかしら﹂
660
冗談めかして言う母。一はチラシを裏返した。
公演の日程表はびっしりと埋まっていた。今日も五時から行われ
る予定だ。
︵︱︱五時︶
新宿から劇場まで地下鉄で十分。そして天下の机の上にあったオ
ペラガイド。ベッドの下に隠されていた音楽雑誌。パズルのピース
が組み合わさる。
﹁渡辺先生って、下の名前は⋮⋮?﹂
﹁すず﹂
なんだ。一は安堵とも落胆もつかないため息を密かに吐いた。い
くらなんでもその発想は飛躍し過ぎていた。音楽科のある高校だか
ら、彼女もオペラが好きなのだろう。そうに違いない。
﹁漢字は?﹂
統はケータイを取り出して入力した。三兄弟で唯一のガラケー。
その液晶画面には﹃涼﹄とあった。決定打だった。
︵マジか⋮⋮っ!︶
渡辺涼を﹁ワタナベスズ﹂と読む者はそうそういない。リョウだ。
メールアドレスの名前をそれで登録したのは、カモフラージュであ
り遊び心なのだろう。
一は眩暈を覚え︱︱次いで、日中の失言に気づいた。
出かけ間際に天下が一瞬固まったのは、一が﹁待ち合わせは四時﹂
と口にしたからだ。きっとメールを盗み見たことを天下はすぐさま
察したのだろう。兄は今日の﹃夕方﹄に﹃友人﹄と会うとしか言っ
ていない。家族の誰もそれを不審がらなかった。大学生にもなる長
男が友人と会う程度でわざわざ親に断りを入れる不自然さは、普段
の優等生振りで覆い隠されていた。
完璧に取り繕ったにもかかわらず、天下は色々なヒントを随所に
落として行った。朝からやたらと家事を機嫌良くこなしていたり、
基本的に放置している愚弟に手伝わせて改善を図ったり。極めつけ
は﹁デート﹂発言だ。
661
メールや母の情報と合わせれば、やがて交際相手にまでたどり着
くことを知っていながら︱︱いや、わかっているからこそ、天下は
一に言ったのだ。
あの﹁一斉パンク事件﹂の時、黒ずんだ手を見せたように。
完璧な物は人間の分を超える。だからわざと一本だけ逆向き装飾
彫りをした日光東照宮の陽明門のごとく、わざとらしく。神の怒り
に触れるのを恐れているのかどうかはわからないが、天下にはそう
いう癖があった。普段は完璧な優等生の裏に隠してる悪の部分を、
わざと垣間見せる。
そして、両親自慢の長男のわずかな綻びを見つけるのは末の弟で
ある自分の役目だった。一だけが知っていた。天下の左手が黒く汚
れている意味を、いつにもまして﹃いい息子﹄でいた理由を。
︵どんな人なんだろう︶
渡辺涼もといリョウ先生︱︱まあ受験に合格すればわかることだ。
一は机に置きっ放しの英語のテキストをやらねばと思った。
662
︻蛇足︼恋せよ音楽家、熱烈に︵その一︶︵前書き︶
当番外編は﹃恋せよ妹、密やかに﹄の続編にあたります。
・天下は登場しません︵予定︶
・コメディ︵予定︶
・主人公は琴音の愛しのお兄様︵予定︶
以上のことを広いお心でお許しくださる方はお読みください。
663
︻蛇足︼恋せよ音楽家、熱烈に︵その一︶
それは、紙のように軽い思いつきから始まった。
﹁ショパンコンクール優勝者の出演料っていくらなんですかね?﹂
うららかな昼休み。
音楽科準備室で弁当をつつきつつ校内演奏会の打ち合わせ中のこ
とだった。
毎月第一水曜日に行われる校内演奏会は、いわば音楽科の発表会
だった。学年ごとに数名が専攻楽器の課題曲を聴衆の前で発表する。
最後には毎回、卒業生などを中心にエキストラを一人呼んで一曲か
二曲演奏してもらう︱︱という、恒例の行事。それだけに、ここ数
回の聴衆の減少は音楽科として憂慮すべきものだった。
﹁少しだけ盛り上がった時、ありましたよね? 渡辺先生の先輩が
いらっしゃった時﹂
﹁神崎さんの時ですね﹂
あれは企画勝ちの面が否めない。
コンクール優勝経験はあるものの、神崎恭一郎自身はさほど高名
な歌手ではなかった。彼が優れていたのは、選曲だ。とにかく有名
なもの。自分が歌いたい曲ではなく、聴衆が喜ぶ﹁どこかで聴いた
あの曲﹂をテーマに曲目を組み立てた。そのかいあって、普段の倍
近い観客が集まり、アンケートもおおむね好評だった。
﹁またテーマを決めてやっては?﹂
﹁音楽科生に新しい曲を練習する時間的余裕はありません﹂
文化祭も視野に入れなければならないこの時期。新しい曲を演奏
するにはそれだけの練習時間を捻出する必要がある。練習を必要と
しない簡単な曲を選べばいい、という考えもあるが、では練習を必
664
要としない演奏を聴くためにわざわざ足を運ぶ観客がいるのかどう
か、という問題が浮上する。
早くもミーティングが暗礁に乗り上げたその時、百瀬理恵が呟い
たのが冒頭の台詞だった。
音楽科主任含む教師一同が沈黙。代表する形で渡辺涼が見解を述
べた。
﹁少なくとも公立高校が払えるような可愛い額ではないかと存じま
す﹂
﹁でも、縁故とか﹁無理です﹂
﹁渡辺先生はたしか、妹さんと﹁無理です﹂
﹁昨日TVでやっていましたよ。一時帰国﹁絶対無理です!﹂
頑として突っぱねると、不満げに理恵は唇を尖らせた。
﹁訊くだけ訊いてみてくださいよ。噂によれば、妹さんには甘いみ
たいですし﹂
その妹が一番問題なのだと言ってやりたかった。
665
︻蛇足︼恋せよ音楽家、熱烈に︵その二︶
﹁オレは構わん﹂
﹁そうですよね。愚問でした。本当にすみませんでした。連中には
私の方からきつく言っておきますので、なにとぞご容、赦⋮⋮を⋮
⋮?﹂
涼は下げかけの頭を、逆に弾かれたように上げた。珍妙な動作に
も吉良醒時は大して反応せず、素っ気なく言った。
﹁当日特に予定はない。断る理由もない﹂
いやあんたショパンコンクール優勝者だろ。そんなあっさり引き
受けるなよ。涼は声を潜めた。
﹁あの、謝礼⋮⋮雀の涙レベルですよ? うち、公立なので﹂
﹁放課後に一曲、それも特別出演。拘束時間が少なく選曲も自由な
らオレの好きに弾かせてもらう﹂
﹁一応スタンウェイではありますけど、そんなにいいピアノじゃ﹂
﹁公立高校ならばそれで十分だ。期待などしておらんわ﹂
マジか。涼は開いた口が塞がらなかった。残念ながら醒時は冗談
を言う性格ではない。それは、大して交流のない涼ですら知ってい
ることだった。
そもそも、こうして時間を割いてもらえたことがまず奇跡的だっ
たのだ。
以前に吉良醒時の奥様︱︱吉良零とメルアドを交換していたこと
が幸いした。テレビで報じられている通り、ちょうど帰国していた
醒時が過密スケジュールを調整し喫茶店で会ってくれるという。そ
の時点で涼は使命以上の成果を出した気になっていた。
いくら妹と親交があるとはいえ、吉良醒時と直接会ったのはこれ
が三度目だ。しかも一度目は六年前、涼が通っていた大学の創立音
楽祭のゲストとして醒時が招かれた時。醒時にとって涼は大勢いる
666
聴衆の一人に過ぎなかっただろう。
﹁理由を訊いてもよろしいですか?﹂
意味をはかりかねるかのように、醒時は切れ長の眼を僅かに細め
た。六年前に涼が質問をした時もたしか、こんな表情をしていた。
﹁愛する妹の友人の勤める学校の出演依頼︱︱縁故にしては遠過ぎ
やしませんか?﹂
﹁その縁だけを頼りに出演依頼してきた人間の台詞ではないな﹂
﹁駄目元ですよ。一応頼んだ、という既成事実さえあればそれで良
かったんです。私は全然期待していなかった。むしろ絶対に断るだ
ろうと思っていました﹂
﹁オレもだ﹂
唐突にかつ傲然と言い放つ醒時。六年という時が経過しても何百
人という聴衆を前にしてもその態度は覆ることがなかった。
六年前の吉良醒時も鮮烈な印象を音大生に残した。舞台の上で挑
むようにピアノに立ち向かう彼からは威厳を越えてカリスマ性すら
感じさせた。日本人史上初のショパンコンクール優勝者。斬れる刃
物を彷彿とさせる鋭い美貌。世界に名を轟かすピアニストは、本来
ならば一大学がおいそれと呼べる存在ではなかったが、妹が通って
いる大学ならば話は別だった。
大学の創立記念演奏会で、特別出演として一曲弾いた。それだけ
で十分︱︱いや、やり過ぎだった。長身痩躯から放たれるエネルギ
ーと紡がれる旋律は数百名の音大生を悠に圧倒し、なけなしの自尊
心を叩き潰した。
格が違う。夢想することさえ愚かしい。努力では到底埋められな
い差があることを突きつけられた音楽家の卵達は孵る前に自ら身を
砕いた。
﹁創立記念演奏会で演奏家個人のインタビュー。本末の目的を著し
く見失った行為に正直舞台から降りたくなった。ましてや時間が余
っているからと聴衆に質問を求めるなんぞ愚の骨頂だ。突然質問し
ろと言われても名乗りを挙げる者はいなかろうと、そう思っていた﹂
667
何か質問したい人はいませんか。
司会者は救いを求めるように学生たちに言った。世界的有名なピ
アニストとの対面なんてもう二度とない。千載一遇のチャンスを生
かそうとする気概は素晴らしいが、いかんせん打ちひしがれていた
音大生達には手を挙げる気力はなかった。あの眼差しを向けられた
だけで委縮してしまう他ない。あまりにも惨めで。自分が途方もな
く小さな存在に思えて。
しかし、そんな惨めさにも慣れていた涼は構わず手を挙げた。
︱︱努力は才能を凌駕するのでしょうか?
演奏直後の質問にしては挑発的だったと今では思う。
︱︱音楽に限らず芸術は感性が重視されます。歴代の音楽家達は
口をそろえて技術だけでは不十分だと言います。では、その技術以
外のものを得るためには才能や感性に頼る他ないのでしょうか。
場内が白けたのを肌で感じた。おまえ、今の演奏を聴いていなか
ったのか。何も感じていなかったのか。周りから嘲笑すら漏れた。
あれだけ圧倒的な差を見せつけられて、なおも努力だのと謳う学生
の無知さに呆れていた。
︱︱仮に、技術以外のものを才能と呼ぶのなら、
インタビューにも必要最低限のことしか答えなかった吉良醒時が、
至極真面目な顔で口を開いた。
︱︱欧米では生まれつきの才能を﹃賜物﹄と呼ぶ。己の力で得た
のではなく、神から与えられたものとして扱う。故に彼らは神を信
じ、敬い、感謝し、祈り、神から恵まれた才能を生かして報いよう
とする。彼らの努力とはつまり、神によって賜ったものをいかに増
やすかに始終する。
神。祈り。自他共に認める現実主義者にして実力主義者の吉良醒
時には似つかわしくない単語に、聴衆の笑い声は止んだ。
︱︱オレの演奏は才能によるものなのか、それとも努力によるも
のなのかは、オレにもわからん。ただ、これだけは言える。努力を
惜しむ者は音楽家に相応しくない。才能に過信する者もまた、音楽
668
家には相応しくない。祈りや神、人知を超えた存在を笑う者に音楽
家は務まらない。
大胆な発言の返答は痛いくらいの沈黙だった。しかし、吉良醒時
は臆することもなく聴衆に向かって語った。
︱︱技術や努力でまかなえる範囲は人間の領域だ。人間が持ちう
る情熱と力の全てを尽くした先にこそ、人間の英知を越えた領域が
ある。才能の領域がある。故に、全てが己の力によるものだと過信
する者はそれ以上の発展は望めない。そして努力を惜しむ者は才能
について心配する必要はない。その域に達することがないのだから
な。
唖然とした音大生を放置して、吉良醒時は悠然と舞台から降りた。
涼が教師資格課程に進んだのはその直後だった。
﹁オレが引導を渡したのか?﹂
涼は首を横に振った。音楽家になれるとは最初から思っていなか
った。借りた奨学金の返済義務が免除されるのは教師職だ。涼には
初めから教師になる道しかなかった。
﹁逆に安心しましたよ。私は努力でどうにかなる範囲で生きていけ
ばいいと思いましたから。人間の力の及ばない領域なんて、怖くて
踏み込めやしない﹂
そうか。醒時は安堵とも諦観ともつかない呟きを漏らした。仮に
涼が自分の言動のせいで音楽を極める道を諦めたとしても、このピ
アニストは悔いたりはしないのだろう。他人の助言や命令など選択
肢の一つに過ぎない。諦めるのも才能を信じて突き進むのも、決め
るのは自分だ。
﹁貴様が踏み留まりたい領域は﹃人間の力﹄ではなく﹃自分の力﹄
ではないのか?﹂
涼には言葉の違いがわからなかった。無難に﹁どうでしょうね﹂
とはぐらかし、紅茶を一口飲んだ。
﹁吉良さんは、怖くなったりしたことはないんですか?﹂
﹁ない﹂
669
即答だ。さすが鬼才ピアニスト。自分の力を信じ続けることもま
た一つの才能だと涼は思った。自分には到底持ちえないものだ。
﹁人間の英知を越えた領域と言ったがな。オレにもその境界線がど
こにあるのかは今でもわからん。そもそもどこまでが努力で、どこ
からが才能の域なのか、見極める必要はない。音楽家はただ、己の
持ちうる情熱と力をたった一瞬の表舞台に注ぐだけだ﹂
670
︻蛇足︼恋せよ音楽家、熱烈に︵その三︶
二つ返事でご了承をいただいた翌日、出勤途中の涼の前に黒塗り
の高級車が現れた。助手席から現れた、これまた黒服&サングラス
の男性に後部座席へと促される。
後部座席で待ち構えていた人物は、こちらの姿を認めるなり形の
良い眉を吊り上げた。
﹁どういうこと?﹂
状況的に考えてその台詞はこちらが言うべきものだと思ったが、
涼は逆らわないことにした。無駄な抵抗はしない主義なのだ。
﹁耳、早いな﹂
﹁なんでお兄様が高校の校内演奏会なんかに出るのよ?﹂
﹁知らないよ。本人に聞け﹂
涼は鞄からパンフレットを取り出して琴音に手渡した。以前に開
催した校内演奏会の概要だ。いくつかあったパンフレットからわざ
わざ神崎恭一郎がゲストの回を避けたのは、これ以上琴音が不機嫌
になる要素を排除したかったからだ。
﹁お義姉様を介して演奏依頼したの?﹂
心なしか責めている口調だった。
﹁結果的にはそういうことになったけど﹂
涼は言葉を濁した。
吉良醒時氏のメルアドすら知らないので零に連絡したら、事情を
訊きかれた。事情を説明したら向こうから吉良醒時と会えるようセ
ッティングしてくれたのだ。無論、気さくな零ならば、醒時氏と会
わせてくれるのではないかと密かに期待もしていた。が、あくまで
も零の善意だ。涼の内心を見透かしたように琴音はやや剣呑な眼差
しになる。
﹁私、あんたのこと買い被ってたわ﹂
671
﹁同僚と上司にねだられてみなよ。駄目元でも最低限の努力をせざ
るを得なくなるから﹂
﹁そういう意味じゃなくてねー⋮⋮﹂
琴音は深々とため息をついた。
﹁まあ、いいわ。済んだことだし﹂
﹁一曲演奏することがそんなに大変なのか?﹂
琴音はパンフレットを広げた。胡乱な眼差しで一通り目を通す。
﹁知らないからそんな呑気なこと言えるのよ。お兄様もお兄様だわ、
入場自由なんてやったら
ほいほいと請け負って⋮⋮スケジュール調整だって大変でしょうに。
しかもこれ、無料の演奏会でしょう?
学校に人が溢れかえるわよ﹂
一通り文句を言った後、観念したように琴音は深くため息をつい
た。
﹁演奏会の責任者は誰?﹂
﹁音楽科主任﹂
﹁取り次いで﹂
涼の返答を待たずして琴音は運転手に高校まで行くよう指示した。
制止する間もなかった。登校中の生徒たちの間を悠然と進む黒塗り
の高級車。穴があったら入りたかった。根っからのお嬢様は他人の
視線など物ともせずに車から降りると来客用玄関へと向かった。
﹁会場ってまさかあの狭い音楽室じゃないでしょうね?﹂
そのまさかだ。体育館も検討しているが、運動部が既に使用予約
をしているので実現は難しい。涼がそう答えると﹁話にならないわ﹂
と琴音は空を仰いだ。
かと思いきや、バッグから手帳を取り出し猛然と音楽科準備室へ
突撃した。
音楽科主任をとっ捕まえたその後は、琴音の独壇場だった。
当日までにすべきこと、必要人員、告知方法などこちらが考えも
しなかったことを次々と提案し、曖昧な点は即座に指摘して明確化。
その間、涼はただ突っ立っているだけだった。必要事項を手帳に書
672
き留めてはいるが、どこまで把握しているのか自分でも怪しい。
とりあえず、音楽室は即、却下された。
﹁吉良醒時が出演することを公表しないのならば、音楽室でも大丈
夫かと思いますが﹂
琴音曰く、公表した瞬間に問い合わせが文字通り殺到するので体
育館でも狭いくらいらしい。さらに生徒含む学校関係者用の席の他、
一般用に席を用意し電話での事前予約制にするよう求めた。その電
話予約も専門回線を使って、受付時間を設定し数日に分けて予約受
付するように、と言うのだから音楽科主任も驚いた。
﹁そこまで?﹂思わず口を挟んだ涼に、琴音は至極当然のごとく﹁
もちろん﹂と答えた。
﹁車での来場は禁止。開場時間前に観客が来ないよう、一般用は全
席指定にした方がいいでしょう﹂
琴音の要求はそこまでに留まらなかった。
﹁ご存知かと思いますが、吉良醒時はスタンウェイ以外のピアノは
弾きません。あと必ず本番会場での事前練習をする主義です。当日
のゲネプロはスケジュール上不可能ですから、事前に最低一度は会
場でのピアノ練習をさせてください。日程は調節し追って希望日を
ご連絡します﹂
マネージャーだ。兄の厚意にさえ口出しするブラコンがここにい
る。軽口を叩くには琴音は真剣過ぎた。
﹁当日の舞台設営、音響設備、ピアノに関しましては吉良醒時出演
時だけ関与させていただきます。終了次第片付けもこちらが責任を
持って行います。最後の演目ですから、そちらにもさほど不都合は
ないかと﹂
呆気に取られた涼と学年主任は頷くだけだ。そんな二人に﹁そし
てこれが一番重要なのですが﹂と前置きしてから琴音は言った。
﹁事前練習日の情報は絶対に外部に漏らさないでください。吉良醒
時出演情報も、告知のタイミングが決まるまでは極秘に願います﹂
学校ホームページに載せる告知文などの細かいやりとりはメール
673
で行うということで打ち合わせは終了。万全以上に期した琴音だが、
それでも帰り際で﹁ああ不安だわ﹂とぼやいた。
﹁ツイッターで呟いたら即アウトよ﹂
﹁アウト、とおっしゃいますと⋮⋮?﹂
琴音は明後日の方向を向いて黄昏れた。
﹁去年、お兄様のCDを発売した時に、昔からお世話になっている
楽器屋の店頭販売分の五枚だけ直筆サインしたの。で、事務所が良
かれと思ってツイートしたら﹂
琴音は首を切る真似をした。
﹁電話回線がパンクして三日間くらい繋がらなかった﹂
﹁問い合わせ電話で?﹂
﹁お店のホームページに問い合わせも殺到してサーバーダウン。慌
ててツイッターで予約終了を告知したんだけど、それでも熱烈なフ
ァンからの問い合わせは続いたわ。営業妨害も甚だしくて、あやう
く訴えられるところだったんだから﹂
想像以上に壮大な話だ。涼は言葉を失った。
﹁ま、向こうの店長さんがすごく良い人だったから、損害賠償請求
とまではいかなかったけど。それでも追加でCD数十枚にサインし
たり、店頭ポスターに直筆サイン入れたりとかフォローはしたわ﹂
琴音は至極真面目な顔で締めくくった﹁ツイッターもインスタもフ
ェイスブックもダメよ。全部態勢が整ってからじゃないと﹂
涼は琴音の顔をまじまじと見た。ただの苦労知らずのお嬢様で手
の施しようのないブラコンかと思いきや、抜かりなく計画を立てて
進める手際の良さ。意外な一面を垣間見た。
﹁今、失礼なこと考えていない?﹂
﹁素直にあんたを見直している﹂
嘘偽りなく述べるが、琴音は釈然としないようだ。
﹁なんか引っかかるのよね、涼に言われると﹂
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︻蛇足︼恋せよ音楽家、熱烈に︵その四︶
そんなささやかな尊敬を抱いてから約一週間後。
吉良醒時のリハーサルを一ヶ月後に控えたある日の放課後に来客
があった。
琴音から事前に聞いていたので涼はさほど驚かなかったが、受付
の事務員は微妙な顔をしていた。
それもそのはず、来客者は柔道でもやっていそうな引き締まった
体格をスーツに包んだ青年だった。警察官を彷彿とさせる男は涼が
やってくると一礼。名刺を差し出し、吉良醒時の護衛だと名乗った。
本日ご来校の目的は下見をするためだ。
﹁緊急時の避難経路も確認させていただきたいのですが﹂
丁寧な物腰だった。既に校長の許可も得ているので、涼は会場か
ら非常口まで案内した。特に問題もなく校内案内は終了。これまた
丁重なお礼を述べて護衛の男性は去った。
︵⋮⋮護衛︶
そして会場の下見。激しく湧き上がる違和感は胸の中に押さえ込
んだ。
きっと自分が知らないだけでこれが普通なのだろう。
︵最近は変質者も多いらしいし︶
ショパンコンクール優勝者とはいえ、一ピアニストが襲撃される
確率はいかほどなのか疑問を差し挟む余地はかなりあるが、用心す
るに越したことはない。
涼は深く考えないようにした。
その二週間後、いよいよ情報解禁にして予約受付開始日。
事務所が用意した専用回線のみで予約を受け付け︱︱しているに
もかかわらず、学校にも問い合わせの電話が入った。
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﹁電話が全然繋がらないんですけど﹂
開口一番に喧嘩腰。声から察するに若い女性だろう。涼は手元の
メモの正の字に一画を足した。
﹁申し訳ございませんが、演奏会に関する問い合わせはご案内の電
話回線のみで受付しておりますので⋮⋮﹂
言外に他を当たれと告げても、相手は怯まない。
﹁それが繋がらないからこっちに掛けてんじゃない。まさか、もう
席が埋まったなんて言いませんよね?﹂
涼は壁の時計を見上げた。予約開始から三十分経過。まず間違い
なく埋まっているだろう。
﹁あいにく私どもの方では存じあげません﹂
あーあ怒るだろうな。手元の正の字は既に二つ目に突入している。
怒り出すファンにも慣れた涼は心持ち受話器を耳から離した。が、
今回の相手は今までとは一味違っていた。
﹁でもリハーサルの日なら知ってますよね?﹂
﹁存じあげません﹂
﹁そちらの体育館を使うのに知らないなんて、そんなはずないでし
ょう。いつなんです?﹂
﹁お答えしかねます﹂
﹁やっぱり知っているんですね﹂
優越感の滲んだ声。涼の不快指数は急上昇した。
﹁演奏会に関してのお話はいたしかねますので、ご用件がそれだけ
ならば失礼いたします﹂と一方的に通話を終了させたのと、ケータ
イに連絡が入ったのは同時だった。
琴音からのメールだった。予想通り、席は開始十分後に埋まった
らしい。
早速ツイッター、事務所の公式サイトでも予約終了の告知。念押
し程度に学校ホームページにも受付終了の告知文を掲載。
ひと段落ついたところで涼はふと思う。
︵一般用の席ってたしか五百はあったよな?︶
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さらにその二週間後。涼は裏門の前で待っていた。吉良醒時を、
ではない。彼が来るのは明後日だ。
﹁すごいですよねー﹂同じく出迎えの役を仰せつかった理恵が呟く
﹁専用ピアノなんて⋮⋮ほんと一流は違いますね﹂
不相応であることにまず気づいてほしかった。涼はおざなりに﹁
そうですね﹂とだけ呟いて遠い目をした。音響効果など全く期待で
きないただの箱もとい体育館で演奏するなんて、向こうにしてみれ
ば前代未聞だろう。本人が来る明後日が恐ろしかった。
﹁あ、来ましたよ﹂
理恵が指差した先にトラックの姿。大型楽器の搬入は何度か立ち
会ったことがあるのでここまでは許容範囲だった。そう、ここまで
は。
﹁なんで先導車があるんですかね?﹂
﹁バイクもついてますよ。箱根駅伝みたいですね﹂
理恵はスマホを取り出し撮影を開始した。たしかに珍しい光景だ
った。あとでデータをもらおうと心に決めつつ、涼はバイク二台と
車一台、そしてトラックを駐車場へと誘導した。
﹁本日はよろしくお願いいたします﹂
車から降りた代表者と思しき方が折り目正しく一礼。これまた先
日ご来校された護衛の人を彷彿とさせる体格のいい男性だった。
﹁こちらこそよろしくお願いいたします﹂
よろしくも何もただピアノを設置する場所︱︱体育館のステージ
まで案内するだけなのだが。涼は居心地の悪さを覚えながらもピア
ノ設置チームを先導した。油断なく周囲を見回す男性は、どこぞの
SPのようでもあった。
箱根駅伝だってここまで警戒しないだろう。極秘ミッションを遂
行するかのごとく速やかかつ厳重な警備態勢で吉良醒時のピアノは
搬入された。
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﹁ピアノ様のおなーりー﹂
理恵の冗談に反応する気力も涼には残されていなかった。
無事に搬入を終えたピアノは体育館ステージの脇に。防護カバー
を掛け、さらに防犯用のケース︱︱と言えば大したことのないよう
に聞こえるが、高さ約百センチ、間口約百五十センチ、奥行き約百
八十センチのピアノをすっぽり包み込むケースだ。その大きさは規
格外だった。そもそもピアノを丸ごと包むケースなんぞ涼は生まれ
て初めて目