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20 世紀の戦争に見る成功と失敗

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20 世紀の戦争に見る成功と失敗
20 世紀の戦争に見る成功と失敗
ロバート・オニール
オックスフォード大学オール・ソウルズ・カレッジ
はじめに
昨今の情勢からして、世紀の変わり目が近づくにつれて、この問題が重要性を増しているこ
とは明らかである。もちろん、戦争は国際体系とそれを構成する人々の暮らしを形作る要素の
1つにすぎず、経済力、政治力、社会の潮流、宗教的信条、エスニシティや文化の存続を保障
するといった他の要素も皆、重要である。しかも、力というものが国民社会や国際社会全体に
広く配分されるようになるにつれて、これら戦争以外の要素の重要性は一段と高まっていると
言えよう。王様が数万の兵を引き連れて国境を越え、隣国を征服できたなどというのは 18 世
紀までの話である。民主主義諸国や革命を志向する国々が世論の支持を背景に大衆動員を盛ん
にした結果、戦争における力学の政治的な面がいっそう顕著になった。また、技術が進歩し、
重要資源、特に石油への依存度が急激に高まったため、政治上の力や社会の力同様、経済力や
工業力、さらには重要資源産出国に対して影響力を行使し得るか否かといったことも、諸国家
が権力をめぐって闘争を繰り広げるうえで重要となっている。
20 世紀の戦争を顧みた場合、その論理的帰結として、時の最強国ではない国が戦争を始めた
としても、戦うことがあまりにも無益であると思われるので、そうした戦争は長続きしないで
あろうと考えられたとしても不思議ではない。しかし、この半世紀に限って言えば、そうした
結論がいかに説得力に欠けるものであるかは明らかである。この 50 年間、朝鮮戦争から中東
戦争、ベトナム戦争、アフリカにおけるさまざまな紛争、湾岸戦争、そして近年のバルカン半
島での紛争に至るまで、我々はたくさんの戦争を見てきたが、これらの戦争を始めた国家指導
者たちは戦略的な力関係の明白な論理を無視した。そのため戦闘は終わりの見えない破滅的な
殺戮となった。たいていは弱い国の方が負けたわけであるが、弱い方の国がかなりの成功を収
めたケースも多々見受けられる。従って、20 世紀における軍事力の効用について考える際には、
軍隊の規模や経済力、工業力だけを見るのではなく、たくさんの要素が複合的に存在していた
ことを忘れてはならない。卓越した指導者というものは、以下に述べる諸要素に基づいて計算
を行い、その結果を分析したのち、大きな賭けに打って出るのである。
20 世紀における軍事力の効用を検討するには、準備、軍事力の質、国内の政治的支持、国際
的な正当性、オーバー・コミットメントの回避、終戦の時局判断――「出口戦略」――、国の
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経済力という7つの要素が極めて重要であると思われる。
1.準備
今世紀、戦争に打って出た指導者たちの多くは、自国が相対的に劣位にあることを自覚し、
強国との差を大々的な準備によって補おうとした。中でも、1904 年の日本、1914 年のドイツ、
1941 年の日本、1950 年の北朝鮮、1967 年のイスラエル、1973 年のアラブ諸国、そして 1990
年から翌年にかけてイラクと対決したアメリカは準備を十分整えたうえで武力を行使した例と
してあげられる。もっとも、1914 年のドイツは思いどおりに事を運べなかったが、それには訳
がある。敵対したのが当時の陸軍強国フランスとロシアであり、かつ、この両国もまた、それ
なりの準備をしていたのである。さらに、ドイツは海軍強国イギリスをも敵にまわしていた。
イギリス陸軍はドイツ陸軍と比べてさしたるものでなかったにしても、イギリス海軍はドイツ
海軍とは比べものにならないほど準備万端整えていた。しかしながら、シュリーフェンはイギ
リス海軍を計算に入れないで、楽観的にもドイツの得意分野である陸戦のことしか考えなかっ
た。1939 年のヒトラーも準備はしていたが、ある程度までであった。1945 年の毛沢東もしか
りである。もっとも、潜在力において優る国々と戦ったにもかかわらず、独中両国とも当時の
指揮官の技量や戦闘技術をもってして想像以上に健闘したと言える。
一方、1904 年のロシア、1930 年代の中国、1939 年から 41 年にかけての連合国、1945 年
のベトナム共産主義勢力、1950 年の韓国、
スエズ動乱の際のイギリス、冷戦初期の東西両陣営、
フォークランド紛争時のイギリス、国連平和維持軍の大半のケース、近年のバルカン紛争にか
かわった NATO や国連側の国々などは、準備を十分に行えないまま戦争に入った好例である。
では、20 世紀において、戦争前の準備とその戦争での勝利との間には、いかなる相関関係を
見出すことができるであろうか。
結論から先に言ってしまえば、両者の相関はそれほど高くはない。両世界大戦や朝鮮戦争の
ように、準備をより整えていた方が負けたというケースがあれば、日露戦争や第三次中東戦争
のように、まさに戦前の準備が勝敗を決した場合もあるからである。いずれの場合にも、先に
武力を行使した方が戦闘技術においても、また、国民が一体となって戦争を支持していたとい
う点においても敵国を圧倒的に凌駕していた。
第一次世界大戦時のドイツ皇帝ウィルヘルム2世やヒトラーが悟り、また、戦後は北朝鮮の
金日成や、フォークランド紛争時のアルゼンチンの将軍ガルティエリ、さらにクウェートに侵
攻したイラクのサダム・フセインが学ばされたように、大胆な攻撃をしてしまってから、その
後で長期的な恩恵に預かろうとしても、それはめったにない話である。従って、攻撃を仕掛け
る準備を相当整えていたからといって、必ずしもそれで戦争に勝てるというわけではないので
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ある。つまり、1866 年と 1870 年の2度にわたってビスマルクに勝利を献上したモルトケのよ
うな成功を収めることのできる将軍には、めったにお目にかかれるものではない。また、長年
にわたった冷戦の場合のように、準備は分別のある敵を効果的に抑止する手段として重要であ
った。
(マジノ線やバー・レブ線は例外であったが)多くの場合、防衛の準備は成果をあげてい
る。概して、責任ある指導者は自国の強さと決意のほどを潜在敵国に示そうと努めるもので、
そのメッセージを読み取るかどうかは後者の意志にかかっている。しかしながら、あまりに準
備を進め過ぎると敵はそれに脅威を感じ、追いつめられた気持ちになる。強国フランスとます
ます強引に圧力を加えてくるロシアとの間に挟まれ、味方は崩壊寸前のオーストリア=ハンガ
リー帝国のみという境遇にあると思い込んでいた 1914 年当時のウィルヘルム2世がそうであ
ったように、結果的に、いちかばちかの攻撃に打って出るほか選択の余地がないと思ってしま
うことにもなりかねない。
それでは、戦争の勝敗を決するさらに重要な要素について見ていこう。
2.軍事力の質
20 世紀に戦争に参加した国の中で、比較的質の高い軍事力を保有していたのはどの国であっ
たろうか。
まず、1904 年から翌年にかけての日本をあげることができる(もっとも、1904 年後半、ロ
シアが適切な動員を実施し、その結果、質の良い部隊を東部へ派遣できるようになったため、
日本側の優位は次第に失われていった。このことは奉天会戦での両軍の死傷者数を比べてみる
とわかる)
。1914 年は陸ではドイツ、海ではイギリスであった。1930 年代、日本は中国を質的
に凌駕していた。エチオピアに対するイタリアも同様であった。第二次世界大戦期、少なくと
も 1943 年までは日独の陸軍が明らかに優っていた。日本海軍の優秀な航空力とドイツ潜水艦
がもたらす効果とが、それぞれの戦略レベルでの航空力の欠如を補っていた。1945 年以降の紛
争において、はじめこそ中国国民党軍が共産党軍に対して質的に優勢であったが、政治力のな
さと内部抗争が原因となって、国民党は次第に優位を失っていった。1950 年の韓国に対する北
朝鮮、スエズ動乱の際の英仏、中東戦争全期間を通じてのアラブ諸国に対するイスラエル、冷
戦、並びにバルカン紛争における NATO、フォークランド紛争の際のイギリス、湾岸戦争時の
アメリカなども軍事力の質といった点では優位を誇っていた。また、国連平和維持軍とその支
援国も多くの場合、質的に優勢である。
では、こうした質において勝る軍事力が、どれほど国を勝利に導いてくれたのであろうか。
今世紀前半に限って言えば、結果はまちまちである。第一次大戦においても、また、第二次大
戦においてもドイツは苦杯を嘗めた。第二次大戦では日本も惨敗した。北朝鮮もアメリカが介
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入した途端に総崩れとなり、中国の支援を必要とした。スエズでは、英仏が(軍事的ではなか
ったにせよ)屈辱を味わった。しかし、それ以降は 1967 年の第三次中東戦争から最近のバル
カン紛争に至るまで、質において優る軍事力を保有する側が勝利を収めている。唯一の例外は
ベトナム戦争でのアメリカであるが、これも議論の余地がある。というのは、アメリカ軍とは
いえ、当時は対ゲリラ戦が得意ではなかったからである。
今世紀初頭から 1960 年代、もしくは 70 年代までの戦争を振り返ってみると、軍事力におけ
る優位を勝利と結びつけるのは難しかったようである。それは戦争が長期化し、かつ、広域化
したためである。また、経済力、政治的な支持、国際的な正当性などといった軍事力以外にも
重要な役割を担う要素が現れ、軍事力だけでは戦争に勝利することができなくなったからでも
ある。しかしながら、1980 年代から 90 年代にかけて発生した短期戦や冷戦そのものでは、ほ
ぼ 100 パーセントの確率で相対的に良質の軍事力を有する側が勝利している。現在、軍事力の
質を決めるものが何なのかが、以前よりはよく理解されている。軍事力の質を、早期に戦略的
な成功を収める能力という観点からのみ考えるのでは、もはや不十分である。想定される敵か
らの攻撃を凌ぎ切り、戦力の立て直しをはかり、そして、ガソリンから無線機用電池に至るま
での消耗品の一切をふんだんに供給できるよう入念に築き上げられた兵站体系に支えられた高
品質の火力でもって戦場での優位を占める能力に重点が置かれているのである。
このように、ここ 30 年間に起こった戦争においては、勝利と軍事力の質との間に高度な相
関が見られるのである。しかし、それにもかかわらず、サダム・フセインやスロボダン・ミロ
セビッチのように、そうした論理に敢然と立ち向かった指導者は数多い。そうした指導者たち
は、明らかに、自らが望んでいるような結果をもたらしてくれるであろう別の要素に目を向け
ていたのである。
3.国内の政治的支持
20 世紀に起こった戦争を眺めてみると、先に武力を行使した国も、また、あとから紛争に介
入した国も共に国内の世論が指導者を支持していることがわかる。例外的なのは、スエズ動乱
時の英仏、ベトナム戦争末期(1968 年以降)のアメリカ、この 40 年間に実施された平和維持
活動のうち成功したとは言いがたいいくつかのケース、それから、これは議論の余地があるか
もしれないが、ユーゴスラビアに対する NATO の空爆(参加国すべてではなく、特に英米仏)
ぐらいであろう。昨今の情勢からすると、紛争開始時に世論の支持がなければ、武力行使は極
めて困難であろうことは間違いない。
しかしながら、世論の支持があるからといって戦争に勝利することができるとも限らないの
である。事実、国民の支持を得ていたにもかかわらず、戦争に負けたという例はいくつもある。
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第一次大戦でのドイツとオーストリア=ハンガリー帝国、第二次大戦でのドイツと日本、冷戦
でのソ連、フォークランド紛争でのアルゼンチン、クロアチアやボスニア、また、これは結論
を下すには時期尚早かもしれないが、
コソボ紛争におけるセルビア人勢力などがそうであろう。
そもそも国民というものは、国の指導者がその国の自由や地位を脅かす明確な脅威が存在す
ることを示せば、かなりの程度、その指導者を信頼して武力行使に関する自由裁量を認めるも
のなのである。そして、かつての中国国民党やベトナム戦争時のジョンソン政権、ニクソン政
権のように、いったん、国民の支持を失ってしまうと、それが政策を推進する際の障害となり、
戦争に勝利することが極めて困難になる。従って、敵対国に分別があるとすれば、国民から支
持されようと努めることによって、勝敗が戦場での戦いのみによって決まっていたような時代
にはあり得なかった選択の余地を、その敵対国に与えることができよう。概して、世論の支持
という要素は自由民主主義諸国にとって、ますます都合の良いものとなりつつある。自由民主
主義諸国が行う宣伝の方がより人心に訴え、かつ、信用できるものであり、対象である国民に
より効果的になされているというのがその理由である。
しかし、湾岸戦争以降発生した最近の紛争について言うと、欧米民主主義諸国では、政府が
戦争を伴うような政策を実施しようとすると、国民はそれに抵抗するという傾向が見られる。
とりわけ、自国の将兵や国民に甚大な損害をもたらす恐れがある場合はなおさらである。国民
のこうした姿勢は、国家指導者たちが国際秩序に対する主たる脅威や大規模な人権侵害とみな
した行為に対処しようとする際、政策決定を極めて困難にしている。冷戦後の紛争は限定戦争
の域にとどまっており、欧米の人々に直接、影響を及ぼすことは少なくなってきている。我々
は新しいパラダイムを持った時代に突入したのである。しかしながら一方では、コソボ紛争の
結果が示しているように、世論の厳しい動向に直面している民主主義諸国であっても、武力を
行使し得る余地をわずかながら保持していることも確かである。そして、ここにおいて重要な
のは、時間をかけずに結果を出し、しかも、武力行使に伴う被害を抑えることなのである。コ
ソボでは、NATO 側は辛うじて逃げ切ったかたちとなった。仮に、ミロセビッチがもう1、2
週間頑張っていたとしたら、地上戦の準備を本格的に進めなければならなくなっていたであろ
うし、そうなれば世論も空爆どころの騒ぎではなかったであろう。ミロセビッチは良いタイミ
ングで降参してくれたと言えよう。
世論は脅威を感じることによってのみ左右されるというわけではない。国民としては、政府
の行動がどこから見ても正当なものであると思いたくもあるのである。次に、この正当性とい
う要素の持つ影響力について見てみることにしよう。
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4.国際的な正当性
今世紀の大半の戦争において、正当性を有することが世論に対するのと同じように国際社会
に対しても大きな影響力を持つことがますます明白になってきている。このことは諸国家間の
関係がより密になり、また、教育が普及し、国民が政治に参加する度合いが強まるにつれて重
要性を増してきた。例えば、1904 年2月8日にロシアに攻撃を仕掛けた時点で、日本はまだ宣
戦布告を行っていなかったが、大きな問題にはならなかったようである。また、1914 年と 1939
年に戦争を開始したドイツの行動も正当性を欠いていたが、アメリカの世論を参戦支持に向か
わせるまでには至らなかった。これらの戦争は厳しい教訓をもたらした。つまり、国際法を尊
重しなかったり、国際秩序を乱したりすると不利になるということが広く認識され始めたのは
第二次大戦後なのである。確かに、1945 年以降、国際的な正当性を認知されないまま戦争に訴
えた場合、その戦争に負ける確率は極めて高くなっている。1950 年の北朝鮮、インドシナ紛争
でのフランス、スエズ動乱の際の英仏、ベトナム戦争でのアメリカ、アフガニスタンに侵攻し
たソ連、カンボジアに侵攻したベトナム、1979 年の中越国境紛争における中国、1979 年には
イランに戦争を仕掛け、1990 年にはクウェートに侵攻したサダム・フセインなどがたどった運
命を考えてみると良い。さらに、3度武力に訴えて、その3回とも敗れたミロセビッチの名を
加えても良かろう。
では、なぜ国際的な正当性がかくも重要になったのであろうか。その理由を簡単に列挙すれ
ば、国際秩序の本質、国連の役割が強化された過程、法的制裁と武力行使との関係の深化、欧
米、とりわけアメリカにおける議会と世論の動向、情報伝達手段の発展、自由な教育の普及、
道徳的な物言いをしたいという国民の意欲の高まりなどであろう。また、国際政治に最も影響
力のある国の国民に紛争が直接的な脅威を与えなくなってきているので、
「正しくても、
間違っ
ていても、祖国のために!」という古くからのスローガンを後生、大事にするよりもむしろ、
長期的、道徳的見地から自国の政府を軽い気持ちで批判できるようになっていることも理由の
1つであろう。
国際秩序が大きく崩れるようなことがない限り、国際社会から正当であるとの認識を得てい
ることが、戦争に勝利するための極めて重要な要素であり続けるであろう。しかも、それは世
界の列強が集団行動に訴える主たる動機の1つであろうし、また、その集団行動を支持するコ
ンセンサス作りを容易にする。さらには、国際法に盾突く国を孤立させるのみならず、それを
やめない場合には、法的な制裁措置の発動をちらつかせることによって、敵国の指導層内部に
意見の対立と相互不信を生じさせる。また、国際法に違反した国家の長期的な選択の幅を狭く
することもできる。
それでは、オーバー・コミットメントの回避に話を移したい。
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5.オーバー・コミットメントの回避
戦争においてオーバー・コミットメントを回避することと戦争全般で事を順調に運ぶことと
の相関は高い。すなわち、緒戦において武力行使に成功した国であっても、戦局が拡大するに
つれて、自らが設定した戦線より戦局が拡大してしまい、終わってみれば惨敗しているという
ケースは多い。こういうときは、最も不利な戦いを強いられている戦線を強化し、余裕の戦い
を繰り広げているところからは戦力を抽出するということをしなければならない。
1905 年の奉天会戦以後、日本軍は戦線の過度の拡大に苦しんだ。ドイツは第一次大戦でシュ
リーフェン計画の実行に失敗してオーバー・コミットメントに陥り、第二次大戦でもロシアが
反撃体制を整えた 1941 年後半以降、再び同じような困難に直面した。日本は 1930 年代末、既
に中国戦線を拡大し過ぎていたうえに、1941 年 12 月には対米戦に訴え、翌年以降、太平洋で
もオーバー・コミットメントに苦しんだ。1950 年以降の北朝鮮、ウェストモーランド将軍のベ
トナムへの増派要請を認めてからのアメリカ、1980 年代の冷戦末期のソ連、同じく 1980 年代
にイランとの戦争を繰り広げたサダム・フセインも同様である。
戦争遂行中の統制は、近年、その重要性を一段と増している。アメリカはベトナム戦争でそ
れに失敗したし、イスラエルと戦ったアラブ諸国もしかりである。国連はボスニアのセルビア
人を統制する手段を欠いていたと言える。そのため、介入はしてみたものの、目的が徐々に変
わり、国際的な支持と介入の効果を共に失う結果となった。NATO はコソボ紛争の長期化をす
んでのところで回避し得たが、もし、紛争が長引いていれば、事態はミロセビッチに有利な方
向へ向かっていたであろう。
従来、武力行使を先に行った側の国家指導者たちは、あとから介入する側の欧米の指導者た
ちよりも自分たちの方がはるかに忍耐強いという考えに固執するきらいがあったが、
今日では、
介入される立場にある指導者もサダム・フセインやミロセビッチの経験から、戦局を過度に拡
大するとどうなるかを悟りつつある。東ティモールの民兵指導部は自分たちを抑え込もうとし
て東ティモールに展開しているオーストラリア軍を中心とする多国籍軍を長期戦に持ち込んで
疲労させようという考えに基づいて計画を立てていることは疑う余地がない。故に、東ティモ
ール国際軍は慎重に行動しなければならないし、武力行使に至ってはよく吟味して適確になさ
れねばならないであろう。さもなければ、敵の術中にはまる恐れがある。
これに関連して、紛争を有利に終結させるタイミングを推し量る能力という要素がある。
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6.終戦の時局判断
最近まであまり広く認識されることはなかったが、戦争での勝利とそれをあざやかに終結に
導く能力との間には高度な相関がある。今日、
「出口戦略」の重要性を否定する者はいない。ど
うやって戦争を成功裏に終結させ、その後、いかにして手を引くかは、戦局が不利に傾き始め
てからではなく、戦争に訴えたり、介入したりする前に考え抜いておかねばならない。戦争を
終わらせるには、外交と軍事の両面からアプローチが可能である。抜け目のない政府であれば、
戦局が優勢に転じた時や、あるいは軍が威信を失わないうちに、早からず遅からず、ちょうど
良いタイミングで政策の力点を軍事から外交へと転換させることができる。
1905 年、日本がロシアとの戦争を終わらせるのにひどく難儀している時にセオドア・ローズ
ベルト大統領がそうしたように、第三者が救いの手を差し伸べることも往々にしてある。ウィ
ルヘルム2世もあれほど強情でなければ、1916 年か 17 年の段階で自分の手で戦争を終結に導
くことができたであろう。また、日本が自らの戦略に枠をはめ、東南アジアにおけるヨーロッ
パ諸国の植民地を転覆させたり、広く太平洋上でアメリカを辱めたりというようなことを優先
していなければ、日本は中国における地歩を固め、1940 年代初頭にはシベリアへ進出していた
かもしれない。
おそらくヒトラーには、緒戦の勝利で得たものを長期的な視点から固め、戦争を交渉によっ
て終結に導いたりしようとしても、チャーチルがあまりに執念深かったのとヒトラー自身が許
容範囲をはるかに越えるほどたくさんの人々の基本的人権を侵害したが故に、そうする機会が
1度もなかった。しかし、それでもなお 1940 年の時点ではヒトラーと交渉を持つ用意のあっ
た指導者はいたし、ヒトラーが人をだますのがもっとうまかったならば、日本が真珠湾攻撃を
行わないうちにヨーロッパでの戦争を終わらせる試みをなし得たのではなかろうか。残念なが
ら、ヒトラーは戦争に関して中庸を欠いており、資源が限られていたにもかかわらず、自国と
は比較にならないほどの強さを誇る国々を敵にまわして戦争を繰り広げ、さらには戦線を過度
に拡大させ、結局、国を滅ぼしてしまったのである。
中国と北朝鮮は 1951 年末の時点で早目に戦争から手を引いて損害を食い止めておけば、北
朝鮮はインフラや建築資材を破壊されずに済んだであろう。イギリスもスエズ動乱が勃発して
すぐ、局外に立つと決めたにもかかわらず、介入して損害を出した。動乱によって、イギリス
より巨額の投資をしていたフランスの利益が大きく損なわれることになるが故に、介入を検討
することすらすべきでなかった。ベトナム戦争に関しても、どうやって戦争を終結させる方向
へ向かったら良いのか、ジョンソン大統領には全く見当がつかなかった。リチャード・ニクソ
ンは大統領になる以前からベトナム戦争を終わらせることが重要であると認識していたが、ニ
クソンがアメリカ軍撤退の条件として受け入れ可能であると考えていたことも、ハノイ政府の
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側からすればとうてい合意できるものではなかった。従って、議会が南ベトナムへの援助を突
然中止するという決議を採択したことによって、ニクソンはさらに多くのものを失った。ソ連
にゴルバチョフ並みの能力と先見性を持った指導者が 10 年早く登場していたら、国際体系は
今でも2極構造のままであったかもしれない。1960 年代や 70 年代の冷戦時代に比べれば直接
的な脅威は小さくなっていたろうが、モラルの低下や政治的腐敗、経済的疲弊などが表面化す
るまで闘争を続けた現実と比べて、ソ連という国自体も、その特異な全体主義体制も、おそら
くははるかにましな状態で存続していたことであろう。
しかし、1991 年の湾岸戦争とその後に起こったいくつかの紛争を見てみると、国家指導者た
ちはあまりにも終戦のタイミングをはかることに神経質になり過ぎて、反対に紛争終結にてこ
ずってしまっているようである。特に敵国の指導者が好戦的である場合、あまりに紛争解決を
急ぎ過ぎると、その指導者を生き長らえさせ、のちには復讐までをも可能にしてしまい、かえ
って、監視と牽制のために莫大な資源を投じなければならなくなる。クリントン政権がボスニ
ア紛争の長期化を懸念していたことは明らかである。だからこそ、デイトンでの交渉を積極的
に推し進め、かなりの成功を収めた。もっとも、いまだアメリカがセルビア人との紛争から完
全に手を引けるわけではないことは付言に値する。
20 世紀に起こった戦争の勝敗を決した7つ目の要素である経済力の役割について考えてみ
よう。
7.経済力
政府や軍の指導層は長い間、傾向として政治的決断力や軍事的勇猛心を重視し、経済力を念
頭に置くことはなかった。経済的に豊かな国々には脂肪太りで腕力の乏しい人々がひしめいて
いると考えがちであった。1904 年、日本は戦線が大陸の奥深くへと拡大しなければ、陸海とも
に1年間は近接地域で十分に戦えるだけの力を備えていたとはいえ、勇敢にも国力においては
るかに及ばないロシアを相手に戦いを挑んだ。日本が技術力でロシアを凌駕していたのも事実
である。ウィルヘルム二世はまとまればドイツが参加していた同盟以上に強力となる国々を向
こうにまわして戦った。1939 年のヒトラーは石油の備蓄が6週間分しかなかったというのに戦
争に訴えた。1941 年から翌年にかけて、日本は西・中部太平洋からアメリカの影響力を排除し
ようとした。これらの国々はいずれも敗北を喫したが、それは戦争をあまりに長く続けたから
である。すなわち、経済力と工業力において優っていた敵国に新たな形態の軍事力を生み出す
時間的余裕を与えてしまったのである。フルシチョフは共産主義体制が西側の体制を葬り去る
ことになろうと豪語したが、それにもかかわらず、ソ連がアメリカとの冷戦に敗れたのも同じ
理由による。
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しかし、1950 年代初めの中国はアメリカよりもはるかに力の劣る国であったが板門店を境と
した膠着状態を生み出すことができた。同じように、ベトナムもはるかに巨大な経済力を有し
ていたアメリカに屈辱を与えた。中越両国は苦しみをものともせず、領土内やその隣接地域で
戦争を継続する力を備えていたのである。中国が将来にわたってアメリカに海軍力で挑戦しな
い限りは、アメリカもあえて陸上戦力を投入してまで中国と軍事的に対峙する気はないという
現在の姿勢を維持するであろう。
冷戦後の世界では、明らかに経済力が技術力と合わせもって、ますますものを言うようにな
っていくであろう。今日、世界は1極体制の様相を呈しているが、超大国アメリカの権威に挑
戦する国は現れないなどということがどうして言えようか。大量破壊兵器を備えた一握りの嫌
われ者国家や一小国が、自国の置かれている困難な状況を生み出し、屈辱的な地位に甘んじさ
せている元凶はアメリカであると考え、復讐の戦いを挑んでこないとも限らないのである。ど
んな敵が現れるのか想像がつかなければ、
それを抑止することは不可能である。
そうした場合、
アメリカ(あるいはヨーロッパ主要国のいずれも)の巨大な経済力や軍事力をもってしても、
安全を保障することはできない。今日の国際社会は大量破壊兵器、なかんずく核兵器によって
均衡が保たれている。従って、この種の紛争が 21 世紀の平和を脅かす可能性は高いと言えよ
う。
結論
本稿の前段で既に結論を2つ述べておいた。まず、入念に検討を重ねて練りあげた軍事計画
も、戦争に入る前の準備も、勝利との間に目立った相関はないということである。よくあるこ
とではあるが、国家を勝ち目のない戦に導くものは、実はこの2つなのである。第2に、ある
戦争当事国の保有する軍事力の質が対戦相手国より優れていたとしても、長期戦となった場合
には、勝利との関係は密接でないということである。確かに、軍事力の質は短期戦の場合には
結果を左右する要素の1つであろうが、長期戦における勝利にはほかにもたくさんの要因があ
るので、これを決定的な理由とすることはできない。
一方、後段で取り上げた国内の政治的支持、国際的な正当性、経済力といった状況的な要素
は、戦争の結果に大きく影響するものとなっており、この傾向は近年とみに顕著になってきて
いる。これら3つの要素は今後もますます特徴的かつ重要なものとなっていくであろうが、軍
隊の戦闘能力や技術、さらに、武力を行使する際の決断力などがそろってはじめて軍事的な効
果を発揮することになるのである。また、これら3つの要素は将来的にますます重要性を帯び
ていくと思われるが、それ自体が軍事力に代わり得るものではない。むしろ、軍事力行使の限
界なのである。
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オニール
20 世紀の戦争に見る成功と失敗
もう2つ判断材料が残されている。それはオーバー・コミットメントの回避と戦争を有利に
終結させるタイミングをはかる能力である。これら2つの要素は極めて重要であるだけでなく、
戦争での勝利とも密接に関連している。しかも、適確な判断や正確な情報、自国と敵国、さら
に国際情勢全般にわたる豊富な基礎知識などを必要とする。政治的・軍事的判断に関係する立
場にある者は、今後、こうした問題に特別の注意を払わなければならないであろう。
必ずしも得することがあるわけではないが、戦争は今後も起こるであろう。しかし、世界大
戦のような大きな戦争になる可能性は低い。というのは、そうした大戦争を引き起こすに足る
力を有している国々の指導者たちは、そんな大戦争が引き合わないことを十分に承知している
と思われるからである。国家指導者が戦争によって政治目的を達成することはますます困難に
なってきている。むしろ、他の手段を用いた方が効果的である。しかし、人間の知恵というの
は驚くほど想像力に富んでいる。今後は、大国以外の国や、国家とは言えないがそれに近いよ
うな集団の中から戦争の効果的な使い方を心得たつもりでいる指導者が何人も現れてくるであ
ろう。その正邪や我々側の損得は、ここで述べた7つの要素をどれだけ理解し、それぞれの要
素が戦争の結果に与える相対的な影響力が歳月の経過とともに、どのように変化するのかによ
って左右される。自国の利益を実現するために戦争が効果的であると考え続ける人は多かろう。
だから、戦争はなくならないのである。しかし、我々が戦争にかかわることによって得るもの
があるのか、あるいは損をするのか、その多くは、来るべき次のミレニアムに少しずつ変化を
遂げていくであろう政治とその軍事的な側面に対する我々の研究姿勢いかんによって決まるの
である。
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