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横断し、越境する文化 - 早稲田大学エクステンションセンター

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横断し、越境する文化 - 早稲田大学エクステンションセンター
早 稲田校・八丁堀 校特別連 続講演 講 義 録 「横断し、越境する文化」
2011年11月19日㈯ 13:00 〜 14:30 /於 早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校308教室
演劇を通して、
時代の変容を読み解く
早稲田大学
文学学術院 教授
劇作家
演劇の中に登場する言葉や身体、
表現の方法は、時代を経るなかで変
宮沢 章夫
化してきました。なぜ変化するのか。
それは、過去の文体や方法では描け
プロフィール
80年代より舞台活動を行う。第37
回岸田國士戯曲賞、第21回伊藤整
文 学 賞を受賞。著 書に『東 京大 学
[80年代地下文化論]講義』など多
数。エッセイ、評論、小説など幅広く
活動
ない“現実”が出現するからです。つま
り「なぜこんな言葉や、人のからだの
動きになったのか」と、演劇を通してそ
の表現が存在した時代を見ることが
できるといえます。
「演劇とは何か」と
いう問いは長い間続いてきたもので
すが、ある時代─主に「近代」とい
産業構造の変化と
演劇の変化
とは、
劇団の専門的な訓練を受けるこ
り、言葉が演劇の要素の大部分を占
演劇や文化の変化は、
さまざまな側
プの俳優」として出現します。こうして、
めていました。それが変化し、言葉よ
面から見ることができますが、
ここで
「アルバイト」が演劇の一つの潮流を
り身体が重要だという考えにシフトし
は都市という切り口で見ていきます。
生み出したのです。その後、
2000年代
ていったのが、大雑把にまとめれば、
ある評論家が戦後の演劇史につい
に入って、小泉政権時代、
「構造改革」
60年代以降の演劇になるでしょう。し
て書いた文章に、
ぼくは大変興味を覚
という、
また異なる産業の構造を変化
かし実際は、こういう身体があるから
えました。
1960年代にアンダーグラウン
させる政策によって、
フリーターという
こういう言葉がある、こういう言葉が
ド演劇が出現した理由は、産業構造
大きな層が生まれました。不安定な雇
あるからこういう身体があるというよ
が変わり「アルバイト」ができたからだ
用・労働状況にある非正規雇用者た
うに、身体と言語が循環しながら変
というのです。それまで、
演劇をするの
ちです。彼らの社会における立ち位置
化していると考えたほうが妥当でしょ
は「職業的な俳優」であり、俳優は新
は非常に不安定です。
60年代の「アル
う。どちらが重要か。この問いも長い
劇団といわれる、
例えば俳優座や文学
バイトによって出現した俳優」
とも異な
歴史を持っています。けれど、身体を
座などに所属していなければ俳優と
る、
また「新しいタイプの俳優」の登場
上に置くのでもなく、言語を上に置く
して認められませんでした。それが60
の背景になったといえるでしょう。そん
のでもないという考え方もあるはず
年代、
新劇団に所属せず、
アルバイトで
な時代の演劇はどんなものになるので
です。
生計を立てながら演劇をする人たち
しょうか。
が現れます。それまで俳優になること
さて、
そのことを「都市の変容」とい
う時代区分のことになります─、演
劇とは主に、
「戯曲」のことでした。
〈書
かれたもの〉を読むことが演劇であ
とでもあったのですが、
そうした枠組
みにとらわれない者らが「新しいタイ
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う観点から考えたいと思います。とい
その盛り場の中心として考えられるの
品は、
72年に初演されました。戯曲の
うのも、
人がどのような空間に立ってい
が、
60年代の新宿です。
背景にあるのは、
その年の2月に全貌
るかが重要だからです。演劇は、
人が
ぼくは1975年に大学入学を機に東
が明らかになった連合赤軍事件でし
どのように立っているかについての芸
京に出てきました。そのころ、
地方の人
た。櫻社やそれ以前の現代人劇場の
術だともいえます。だから語るべき「空
間が上京するというのは、
新宿に出てく
時代から、
清水さんや蜷川さんは政治
間」として、
ここでは「都市」を取り上げ
ることだったといっていいでしょう。
60
的なメッセージを背景にした作品を発
たいと思います。時代ごとに、
社会を牽
年代から70年代にかけて、
新宿は若者
表していましたが、
これもまた、
60年代
引した「街」
、
あるいは「街区」がある。
文化の中心でした。花園神社に唐十郎
の「政治の季節」を色濃く反映したも
だからこそ、
その「空間」に浮かぶ身体
の赤テントが立ち、
新宿伊勢丹本館の
のでしょう。だから、
『ぼくらが非情の大
も変容し、
そこに、
文化や政治性が反
はす向かいにあったアートシアター新
河をくだる時』には60年代の新宿の街
映するのでしょう。
宿文化では、
昼間はゴダールなど芸術
の空気感が深く滲んでいます。そのラ
映画を上映し、
夜は同じ舞台を使って
スト、
兄役の石橋蓮司が、
死んでしまっ
演劇が上演されました。新宿の紀伊國
た弟役の蟹江敬三を背負って劇場の
屋書店もかつては特別な書店でした。
外へ出ていく。つまり、役者が路上へ
よく知られているように、
大正時代ま
もちろんアマゾンのようなネットのサー
出て行くことによって、
観客は劇場の外
で東京の中心は、
俗に言う「下町」
、
つ
ビスなどありません。何か読みたい本
に新宿という街があり、
その空間に何
まり東京の東側に当たる地域でした。
は新宿の紀伊國屋書店にしかなかっ
かがうごめいていることを肌で感じ、
しかし二つの大きな歴史的な出来事
たという時代です。
1968年10月21日、
国
ひりひりするような演劇体験をしたの
によってその姿が変化します。一つが
際反戦デーのデモに端を発する騒乱
です。
74年に清水さんと蜷川さんたち
関東大震災でした。下町は壊滅的な
事件の舞台もまた新宿でした。その時
の集団は解散します。おそらく彼らは、
被害を受け、
人々は西に、
今の世田谷
の写真を見ると、
新宿駅東口が数万人
新宿という街がかつて持っていた、
い
方面に移動するのですが、
それに追い
の人々で埋め尽くされています。政治的
わば60年代的なエネルギーが消えつ
打ちをかけるように、
太平洋戦争時の
にも、文化的にも、
さまざまな意味で、
つあることを感じていたのではないで
米軍の空襲によって東京の東は焼土
60年代の新宿は特別な場所でした。
しょうか。
60年代の新宿には、
サブカル
と化しました。こうして人は西の方に行
アートシアター新宿文化で上演され
チャー、
ヒッピーカルチャーといった、
かざるをえなくなります。こうした都市
た演劇作品の一つに、
櫻社の『ぼくら
新しいタイプの文化が渦巻き、
特別な
の変遷の歴史を背景に、
いくつかの街
が非情の大河をくだる時』があります。
熱を持っていました。
70年代の後半に
区が新しい盛り場として繁栄しました。
清水邦夫作、
蜷川幸夫演出のその作
なってそうした雑多な文化の熱気は新
1960年代の新宿
L ecture
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早 稲田校・八丁堀 校特別連 続講演 講 義 録 「横断し、越境する文化」
宿から消えます。ではそうした文化は
いたのは、
80年代的な文化を象徴した
縁ではないからです。そこに土地とい
どこにもなくなってしまうのでしょうか。
一つの側面として、
西武セゾングルー
う足下の空間があり、
人はその空間に
しかし、
スタイルは変えつつ、
若者に代
プによる渋谷の「広告都市化」です。
否応なく立たされるからです。
表されるこうした文化的な潮流は、
70
西武百貨店の堤清二社長と彼の部下
では、
『三月の5日間』とはどんな作
年代後半から80年代にかけて明治通
である増田通二の二人が、当時は区
品でしょう。戯曲に書かれた言葉は、
り沿いを移動し、
原宿を経由して渋谷
役所やNHKしかなかった渋谷の区役
まさに今の若者が口にするごく自然な
へと移ってゆきます。
所通り(現在の公園通り)を発見する
口語体で書かれます。俳優たちは、言
原宿、そして渋谷へ
のです。そして通り沿いにパルコを建
葉を発しつつ、頻繁に手を動かし、あ
てたことで渋谷が大きく変わりました。
るいは、
からだ全体をくねらせるように
新宿が自然発生的に、
ある意味、
悪場
動いて発話します。たしかに私たちは
原 宿は、江 戸 時 代には宿 場 町が
所に花が咲くように盛り場が形成され
話ながらよく動きます。手で何かを表
あった場所です。現在、
代々木公園が
たのに対し、
渋谷はまったく異なるつく
現しようとしています。では、
岡田君の
ある場所は戦前には陸軍の練兵所が
られ方をしたわけです。渋谷パルコが
演出が自然なのかというと、
言葉や動
ありました。戦後、
そこを米軍が接収し
オープンした時のキャッチコピー「す
作もデフォルメされ、きわめて不自然
て「ワシントンハイツ」という米軍居留
れちがう人が美しい 渋谷=公園通
です。
90年代半ばに平田オリザが、従
地となり、
原宿には兵士やその家族向
り」が象徴するように、
渋谷は西武セゾ
来の演劇の言葉への問いを、
『現代口
けの店ができました。玩具店のキディ
ングループという一企業の文化戦略を
語演劇のために』という本にまとめま
ランドもその一つです。こうしてアメリ
中心に形成された街です。こうして、
か
した。それはごく当たり前の「問い」で
カ文化が否応なく入っていき、
どこか
つて新宿にあった「盛り場」
としての魅
あったにも関わらず、それまでの演劇
ほかとは異なる街の雰囲気が形成さ
力は、
渋谷に移りました。さらに、
90年
言語に変革をもたらす方法論でした。
れた原宿は、新宿とは異なる、若者に
代には「渋谷系」
という言葉が流布し、
平田君の考えを簡単にまとめるなら、
とって魅力的な街に成長していきます。
その土地は、
新たな展開のなかで若者
60年代の半ばには「原宿族」と呼ば
文化を牽引する街区になりました。
れる若者たちが集まる土地になってい
ました。さらに、
80年代になって原宿
が 話題になったのは、たとえば、
日本
で最初のクラブ「ピテカントロプス・エ
「三月の5日間」の
言葉と身体
「主観から客観へ」
ということです。
「こ
れはコップです」は戯曲の言葉として
可能である。けれど、
「私は歯が痛い」
という言葉は書けない。なぜなら、前
者は客観的な事実だが、後者はきわ
めて「主観的な言葉(=私は歯が痛
レクトス」
(1982-86)があったことから
2004年、
岡田利規の『三月の5日間』
い)
」だからです。過去の俳優は、
この
も分かります。ピテカンが80年代の音
が 初演されました。
1972年の『ぼくら
「歯が痛い」という主観的な事実を、
い
楽シーンに果たした役割は非常に大き
が 非情の大 河をくだる時』から32年
かにもそれらしく演じ、
うまく演じられ
なものでした。ぼく自身も80年代にラ
が過ぎています。演劇の「言葉」が、
あ
た者が「うまい俳優」と呼ばれていま
フォーレ原宿で演劇を始めました。そ
るいは、
「身体」がどのように変化した
した。今そんなことはありません。いく
れまでの演劇の中心であった新宿の
か。それを考えるために、この32年と
らうまい演技で「私は悲しい」と言わ
紀伊国屋ホールなどではなく、
この場
いう時間の流れを、
街の変容から読み
れても、見る側は「ああ、そうですか」
所で舞台をやりたかった。過去の演劇
取る作業をしてみたい思います。という
としか言いようがないというのが平田
的な場所からできるだけ遠ざかりたい
のも、
ここまで話したように、
「街区」や
オリザの主張です。ぼくも含め、
多くの
「都市」が盛り場としての魅力を持つ背
劇作家が、それはまさに共時的に、こ
景には、
文化の蠢動のようなものと無
うした問いを持った戯曲を書き始めま
という気持ちがあったからです。
北田暁大が『広告都市・東京』に書
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した。あるいは、
その後の若い演劇人
たちに、
平田オリザの考え方は大きな
影響力を持ちました。
そうした文脈のなかに岡田利規も
いたでしょうが、
ややもすると、
「自然な
ふりをすること」がこうした演劇のスタ
イルのようになりかねない危険性を回
避し、
岡田君はまた異なる方法を対置
したのでしょう。自然なものばかりが
いいわけではないのは当然です。演劇
とは、そもそも不自然です。それを前
提としつつ、では、現在的な劇言語と
はどのような姿をしているか。あるい
は、現在をどのような方法で表現でき
るかを考えたとき、
『三月の5日間』に見
デモとは性格が異なるものですし、
時
でも、劇場の外に広がる新宿の街の
ることのできる、いかにも今どきの若
代もまた、
あの60年代の政治の季節と
特別さが漂ってくるようです。けれど、
者言葉や、
奇妙な身体技法が生まれた
は違います。そして、
『三月の5日間』の
そうした劇的な空気を持った新宿は
といっていいでしょう。
登場人物の男女は、
そうした状況のな
もうどこにも存在しません。
60年代の
72年、
清水さん、
蜷川さんらが『ぼく
か、まったく無関係に、六本木のスー
新宿を背景に成立した『ぼくらが非情
らが非情の大河をくだる時』を上演し
パーデラックスで知り合い、それから
の大河をくだる時』の言葉では、今の
ているとき、
アートシアターという劇場
六本木通りを歩いて渋谷のラブホ街
時代を表現することはできないでしょ
の外に、
「新宿」という特別な街があ
まで行きます。
こうして、
その年の、
三月
う。そして、
かつてのように明確な主体
り、
舞台を上演している側も、
観客もま
の5日間、
ラブホテルにずっといるとい
性を持って堂々と立っていられないか
た、
新宿の熱気のようなものが劇場の
う話です。
らこそ、
では、
そこでどのような身体の
扉の外にあることを感じていたことは
何も起らないかのように話は進行し
技法があるかと問うことが、
『三月の5
先にも述べました。演劇とは常に、
〈今、
ます。しかし、だからこそ、描かれるべ
日間』の、
あの特別な、
からだの使い方
ここ〉で上演しているという一回性が
き「現在」があったのです。
『ぼくらが
です。
『三月の5日間』のだらだらと続い
重要な表現領域です。そして、
こうして
非情の大河をくだる時』が60年代か
ていくこの言葉と身体。この演技法で
「都市の変容」
、
あるいは文化の変容と
ら70年代の新宿の渦中から、その時
なければ現在を生きている私、
私が生
ともに演劇を語るなら、
ではその一回
代の軋みを受けて成立したものなら、
きているこの場所の空気、
立っている
性が、
どんな空間で出現したかは作品
「六本木のクラブから渋谷のラブホ
空間、
もっというなら都市を描けない。
そのものに大きな意味をもたらします。
街」という、
あの「60年代の新宿」とは
だから、
劇的とはまったく無縁な、
これ
『三月の5日間』の背景はイラク戦争が
異なる都市に、
どのような身体が存在
までは劇の舞台にはならなかったよう
始まったという時代性です。街にはイ
するかという問いが『三月の5日間』に
な渋谷や六本木、
いや、
もしかしたら、
ラク戦争に反対するデモの隊列の姿
はあります。だから、
二つの戯曲はその
さらに違う街に、現在を語ることので
がある。しかしそれは、かつて68年の
街の性格を反映するように、
異質な劇
きる劇が存在するのかもしれません。
10月、ベトナム戦争に反対し、新宿に
言語を持ったのです。
清水邦夫が書く
劇の言葉が生まれる街はどこに見つ
集結した何万という学生や労働者の
言葉はとても美しく、
熱を持ち、
今読ん
けることができるでしょうか。
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