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20.中国・シルクロード(2005) PDF

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20.中国・シルクロード(2005) PDF
シルクロード紀行
2005年8月18日(木)
成田空港第2ビル、サテライトターミナル行きのモノレール乗り場からさらに階段で下ってい
くとバスによる搭乗口のE70がある。ここにはゲートがいくつかあり、中国東方航空、北京経
由西安行きMU272便はGゲートからの出発となる。定刻の9時20分搭乗開始。1台目は満
員となり2台目のバスに乗車、空港の一番端に止まっている赤いラインの小振りの飛行機の下へ。
機体のペイントの雑な塗り方が気になるところ。機材はA320で座席配置は3−3、座席は窓
側の13Fである。椅子は立派な厚手のもので、その分座席間隔が狭く感じる。ヘッドレストが
大きく張り出し、頭を大きく傾けても隣に当たらないようになっている。安全設備の説明は4席
間隔で頭上にある小さな格納式液晶モニターに映し出す。動きのない漫画によりスチュワーデス
が説明しいくもので、中国語で説明が終わるとモニターは一度収納され、再び繰り出され今度は
英語、さらにもう一度日本語で行われる。この漫画によると東方航空のマークは燕とのことだ。
定刻の10時55分を過ぎて機体は動き出す。一旦停止し、11時に滑走路の方へ進む。滑走路
前に三方から来た飛行機がお見合いしている。そしてANA、マレイシア、ガルーダの順に滑走
路へと進んでいった。こちらもそれに続くと思っていると、急に反対の方に曲がり、クネクネし
た通路を通って別の滑走路に出る。15分もかかって滑走路へ出ると、鋭くターンして離陸した。
ゆっくりとした加速となめらかな上昇はA320独特のものだ。
上昇していくと雲の中に突入するがそれほど揺れない。雨がポツポツと窓に当たっている。中
国時間に合わせるため時計を一時間戻して10時20分とする。なめらかに水平飛行となった。
なかなか操縦がうまいと思っているとグラッと揺れる。あとは厚い雲の絨毯の上を飛び続ける。
ところどころで入道雲がわき上がっているのが見える。
10時50分、飲み物のサービスがあり、ビールを注文すると京燕ビールという青い缶の北京
のビールがでてくる。味はまずます。11時10分には昼食が配られる。ライスとすき焼き、ソ
バ、ゴボウの巻き寿司、山菜の煮物、まんじゅう。なぜかそのあとのコーヒーサービスを飛ばさ
れる。飛行時間は北京まで3時間であることがアナウンスされている。食事のプレートを片づけ
てから、中国入国書類の記入。それでもコーヒーを配ってくれるだろうと、カップだけは返さな
かったのだが、一向にその気配がないので呼び出しランプを押して水だけもらった。
入国カードは漢字面ではなく英文面に書くのはいつものとおり。問題は7月から手続きが変更
になり対応が厳しくなったという関税に関する書類。事前にもらった書き方を見ながら書くのだ
が、項目が微妙に違っていて難しい。時々揺れることがありそのたびことにベルトを締めるよう
放送が中国語、英語そして日本語で入る。日本語が出来るスチュワーデスは1名だけだが、それ
も棒読みに近い。長く乗っていると椅子のクッションが高めなので足が疲れやすい。
12時30分、少しずつ高度が下がっている。あと40分で着陸という放送がある。外を見る
と海があって陸地が半島のように見える。なんで北京に海なんだろうと思いながらも、ずっと海
岸線を飛んでいる。もしかするとこれは河ではないか?そして12時50分降下を開始し、緑の
大地、そして河、遠くには煙を出している円筒が並ぶ原子力発電所、無数に並ぶ規格化された団
地、青い屋根の広々とした工場。上昇もゆっくりなら下降もゆっくりで、中国の大地をなめるよ
うに降下。滑走路のような黒い直線が見えたのでここに着陸するのかと思っていると通過してし
まった。ターンするには低すぎると思ったが、そのまま直進。ようやく窓から滑走路が見えて、
どこに着陸するの、と思った瞬間、もう一本あった滑走路へと着陸する。滑走路が何本か平行に
敷設されているようだ。
13時25分、北京首都国際空港に着地。窓から見えるターミナルは結構大きくたくさんブリ
ッジがあって飛行機が横付けされている。ところがそこには付けずに反対の方向へ向かって、格
納庫前の何もないところに駐機した。西安行きの者も一度ここで降りて入国手続きをしなくては
ならない。タラップを降りていくと、日差しが真っ青な空から強烈に降り注ぐ。湿気のない風は
涼しく感じられる。
駐機場からはバスでの移動となる。バスには冷房はない。バスは広い飛行場を突ききってター
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ミナルに向かい、飛行機の誘導路を横切るだびに一時停止する。その前を大きな飛行機が通過し
ていくのは圧巻だ。ターミナルの建物沿いに進みJALやANAが駐機しているあたりにバスは
到着、降りてそこから狭い階段をのぼって2階の出発ロビー通路に出る。とても身障者にやさし
い施設とは思われないが、これでオリンピックは大丈夫なのだろうか。通路を歩いていくと西安
と叫んでいる係員がいて、そこでトランジットカードをもらいしばらく待機となる。北京までの
人はそのままエスカレーターで3階に昇っていくようだが、行き先の分からない人たちが多く、
あたりは混雑している。西安組が確定すると、そこからさらに通路を進む。搭乗路兼用なので、
混じらないよう連絡を取り合って、我々が通るときは搭乗ゲートを閉じ、搭乗中の場合は我々が
待たされる。そして入国審査場に出ると2人ばかり係員がいて入国手続き。処理の遅い方に並ん
でしまったので時間はかかったが難なくクリアして、トランジット専用待合室と思われるところ
で待つ。ちょうど2時となった。14時20分、係員が西安、西安と呼び、トランジットカード
を見せてから先ほど通った搭乗通路へと出る。また来た通路をずっと横切っていくため、やはり
他の搭乗客と交差することのないようゲートを閉じたり、こちらが待ったりで、先ほどの階段を
下って外へ。狭い階段を上ってくる人もいて、大変な混雑だ。バスに乗る前にトランジットカー
ドの一部をもぎ取る。バスは14時35分に出発し、ターミナル沿いにぐるぐると回ってから誘
導路を横切って、さっきと同じ飛行機へと戻っていく。タラップを上っていくともうすでに北京
からの乗客は座っている。我々トランジット組は同じ席であるが、座席等は清掃されている。飛
行機は45分に動きだし55分に離陸した。
飛行機は飛んでいる間中液晶パネルに映像を映している。内容は映画の予告やメイキングビデ
オ、どっきりカメラ?、ファッションショー、有名人へのインタビュー、中国の歌謡曲、そうい
ったものが流れているが、同時に音も機内に流れている。ヘッドフォンなどないのである。北京
−西安間は国内線扱いのようである。飲み物のサービスを始めたのでビールを注文したところ、
さっきと同じ京燕ビールであった。16時5分にはゆっくりと降下を開始し、20分最終着陸態
勢となって高度を下げていく。厚い雲のためギリギリまで地上は見えなかった。雨の中、着陸。
16時30分、西安国際空港のブリッジに横付けされた。雨の中のバス移動ではなかったのは幸
いである。すでに北京で入国を終わっているので、入国審査場は空のテーブルをそのまま通り抜
け、ターンテーブルで荷物をピックアップし、税関では申告書を係員に渡すだけ。システムが変
わっても実施方法には変わりがないようだ。
現地係員の単さんと合流する。荷物は別に輸送するようでホテルのポーターに預け、人間だけ
ホテルのバスで本日の宿泊ホテルである航空大酒店へと向かう。バスは3分でホテルに到着する。
中国東方航空のマークと同じであり、系列店であると思われる。空港近くのビジネス系のホテル
という感じで、スチュワーデスだとかパイロットなどが使っているようだ。ロビーで単さんが両
替用の中国元を用意してきている。とりあえず1万円分を両替する。部屋は406号室。夕食は
18時ということでいったんホテルの部屋に入ってしばし休憩。部屋はダブルサイズのベッドの
置かれ、ビジネスホテルよりははるかに広い部屋で、淡い色調のおしゃれに仕上がっている。し
かし、バスなどの塗装の剥げた扉など、汚い部分が目立ちかなり老朽化しているように感じる。
テレビもいろいろチャンネルを回してみたが面白そうなものはなかった。食事の時間になって下
に降りるためエレベーターに乗ると、これから出発だろうか男性クルーが乗っていた。
夕食のテーブルは2つに。こちらのテーブルには子供2人を連れた夫婦がいた。子供料金がな
いので大変な出費と思われる。料理の方は、予定表では郷土料理となっており、ゆでピーナッツ、
チンゲンサイ、卵とトマトとインゲンの油炒め、冬瓜を煮たもの、ブロッコリーと豚肉、牛肉の
ハム、ライス。そうめんのようなラーメンが最初と最後に2回出来たが、これはテーブルを間違
えたものと思われ、気がつかれる前に食べてしまう。飲み物は、1杯はサービス。ビールをお願
いする。ラベルが青島ビールのようなデザインだが、これは提携して生産を請け負っている会社
が作っているビールだそうで、味は変わらないという。酒が足りないので5年物の紹興酒を注文。
食べ終わって部屋へ戻る。風呂の水の出、排水は問題なし。フリードリンクとしてミネラルウ
ォーターがあるのはがいいが、2本のうち1本は飲みかけのように半分しか入っていなかった。
危ないので手をつけず放っておく。飛行場近くということで時々聞こえる飛行機が飛び立つ音が
うるさいのが難点だ。たくさんあるテレビ番組のうち、2本は、日本軍人が悪役になっているド
ラマであった。さすが反日の中心地、西安である。
-2-
8月19日(金)
6時にモーニングコール、7時に荷物を出し、そのまま食事に下りる。朝食はバイキング形式
で、インゲン、カッパ巻、焼きそば、ベーコン、胡麻団子、肉まん、蒸しまんじゅう(中にはな
にも入ってない)、粟のお粥。コーヒーはどこにもなかった。
8時にホテルを出発する。こちらの気候は大陸性気候で、気温は高いが湿気が少ないので過ご
しやすいと言われている。気温はかなり高くなるが、こちらの方では天気予報を見ても最高気温
は39度と表示される。それは39度を超えると法律によって農作業や工事の作業をやめなけれ
ばならないからである。今年はあまりにも暑すぎて41度の表示を出したこともあったようだが。
一方、雨は少なく500ミリ程度しか降らない。ところが今日は、今にも雨が降りそうな曇りで、
肌寒い。これも異常気象が原因と思われる。
バスは田園の中を進んで西安の市街へと向かう。この辺では米が取れないようで小麦を栽培し
ており、それが麺や西安名物の餃子の皮となる。畑の向こうに円筒状の原子力発電所のようなも
のが見えるが、これは実は火力発電所とのこと。中国には原子力発電所は海岸部に2機あるだけ
でほとんどは火力発電所とのことだ。中国では石炭が豊富にあるのでわざわざ原子力を使う必要
ないのである。道を進んでいくと皇帝陵が見えてくる。小山のような丘が陵墓で、普通2つが対
になっている。大きい方は皇帝の陵墓で小さい方が后の陵墓である。こうした陵墓は西安郊外に
たくさん残っている。西安は掘れば何かが出てくるとのことであるが、出てきたものはすべて国
の所有となる。バスは橋で黄河の支流、渭川を渡る。歴史上初めて100万人を超えたのが長安、
今の西安である。町の中に入ると人が沢山集まっているところが見られる。これは職安のような
もので、ここに集まっていると建築などに使ってもらえるという。中国は今まさに建築ラッシュ
であり、この手の仕事はたくさんある。肉体労働では1日50元、技術労働の場合には100か
ら200元。物価は日本より安いのだが、日本より高いものもあり、それは電子機器と車だそう
で、そのため彼らは日本へ来ると真っ先に秋葉原へ向かうというわけだ。なお、中国は共産主義
国であるので、土地はすべて国のものであり、マンションを買っても土地自体は買えず、借りて
いるだけとなる。土地が個人所有でないので、国は道路を作ろうと思えばすぐに作ることが可能
である。これが中国が急速に近代化できた理由である。
バスは、中心部へは入らず郊外へと進んでいく。袋をかぶった名物のザクロがたくさん見える。
もうすぐ兵馬俑というところで、8大奇跡を銘打ったいくつかの建物が見える。中にはピラミッ
ドやスフィンクスを象ったものまである。始皇帝陵は8大奇跡の一つとされるが、多くの中国人
は海外に旅行することが難しいので、兵馬俑を見た帰りに残りの7つをこういったアトラクショ
ンで見て欲望を満たすということのようだ。小山のような始皇帝陵の前を通過する。裾の広い円
錐状の小山にすぎない。この道は駐車禁止になっていて車を止めることができないので、車窓か
ら眺めるだけになる。
始皇帝陵から1.5キロ離れた兵馬俑坑博物館へ。この距離だけでも陵墓がいかに巨大かわか
る。我々のバスはVIP待遇で(時間節約のために)入り口の近くまで乗り入れる。普通は徒歩
15分ぐらいのところにある駐車場に車を止めるのだが、何でも金次第の国である。兵馬俑は1
973年、農民が井戸を掘っている時に偶然発見され、それを考古学者に持ち込んだこことから
その存在が明らかになり世界的大発見となった。入り口を入って、まず正面のかまぼこ型の建物、
1号坑へ入る。建物は巨大なドームであり、手前からずらっと陶器製の兵馬俑が並ぶ。数は60
00体という。東西の方向の長方形で、長さ230メートル、幅62メートル。兵馬俑は始皇帝
を永遠に守るための軍隊であり兵士や馬車が並び表情はすべて異なる。先鋒は3列横隊、主体が
38列縦隊という強大な陣容である。手前のものはきちんと整列し、真ん中くらいは倒れかかっ
ており、さらに奥は土が盛ってある。兵馬俑は軍列の上に木材が渡されその上に土が盛られてい
た。この建物の奥では発掘された俑をきちんと組み合わせて復元する作業が行われている。真ん
中ぐらいのものが埋め戻されているのは保存技術がなかったため色彩を守るためそうしたとのこ
と。取り除いた土をどうするかという問題もあったそうだが、瓶詰めして売るという案は却下さ
れ、結局、兵馬俑のミニチュアを作る工房で使われているそうだ。
-3-
巨大なかまぼこ型ドームの1号坑から次に3号坑へ向かう。こちらはさほど大きくはなく十字
状に掘り込まれたトレンチの底に戦車、馬俑、武人俑が並んでいる。ここは秦軍の中枢、統帥機
構を表しているという。まわりの壁には様々なパネル展示がされており、色彩が付いた俑の写真
もあった。この色は発掘されて空気に触れたとたん色が褪せていったという。俑は一体として同
じ者はなく、モデルはいずれも美男だけを抽出して作られた。なおこの展示館には兵馬俑発見者
の農民の写真も飾ってある。
3号坑を通り抜け、売店で休憩。売店では兵馬俑のミニチュア、図書などが売られている。図
録を買うと発見者の農民がサインしてくれるということだが、今日はお休みのようだ。発見者は
高齢で目が悪いので見つけてもフラッシュを焚いて写真をとらないようにとの注意があった。そ
うこうしていると、集合時間間際になってそのおじさんがやってきて、あっという間にサイン責
めに合っていた。中国では有名人なのである。中国の団体がちょうどそのころいたために大変な
騒ぎになった。我々のツアーでもこの混乱の中、日本語の図録を購入し、中国人を掻き分けてサ
インをもらってきた強者がいた。サインはまったく読めない。そして2号坑の方へと向かう。こ
こも1号坑に匹敵するほど大きなドームであるが、ここはまだ発掘中という感じである。トレン
チが掘られ、出土したばかりの俑が倒れ、覆い被さっていた木材が散乱している。発掘は神経を
使う仕事なので観光客がいなくなった夜に行われているようで昼は作業を行わない。回りには有
名な何体かの俑が展示されている。いちばん小さい1メートル20センチのしゃがんだ形の俑は
どこも破損することなく発掘された唯一のものだそうだ。やはり背の低いということは打たれ強
いということか。首にマフラーをし、鎧を着け、お腹が少し出ている将軍の俑があり、その隣の
若者の俑が彼の息子。弓を引いたような形の俑、馬の俑も展示されている。
最後の建物は、一番新しい展示施設で銅馬車坑と呼ばれ、展示は地下で行われている。発見さ
れた馬車は銅製であり、一つは護衛車、もう一つは平たい籠を乗せた始皇帝専用の馬車である。
工芸的レベルも高く、同じものを現代の技術をもってしても作ることはできないという。大きな
ガラスのケースに入れられ、それを中国の観光客が取り囲み、写真を取り合い、ピーチクパーチ
ク大声で喋り大変な騒ぎになっている。まったく迷惑きわまりない人種だが、あっという間にい
なくなるのも不思議だ。
兵馬俑をあとにする。入り口には同じような緑のバスがたくさん並んでいて分かりにくかった。
バスに乗りこんで始皇帝陵の方へと戻っていく。ここでは止まることができないがゆっくりと走
ってもらってバスから写真撮影が可能となった。ただの小山といえばそれだけのもの。山には参
道が付けられているがこれは現代のもののようだ。登ってもなにもない。この陵墓は数々の盗掘
防止策がとられ、今日に至っても正式な発掘調査は行われていない。中国国民にとって始皇帝は
神に匹敵するので、恐れ多く調査などもってのほかなのだそうだ。
次に華清池へ。秦代から続く温泉地である。入っていくと迷惑なことに水着の写真撮影会をや
っているようで、いちばん景色の良いところを占領されている。警官がロープを張り立ち入りを
禁止しているのだ。仕方がないので横から真っ白い楊貴妃の像と池の向こう側に並ぶ建物の写真
を撮る。この楊貴妃の像は現代風の美女に作られており、当時の楊貴妃はもっとふくよかであっ
たということだ。美人の基準は時代によって違う。その先を進んでいくと、毛沢東の筆による玄
宗皇帝と楊貴妃の恋の物語を詩にした碑が刻まれる。玄宗皇帝は優れた皇帝であったが、59歳
の時22歳の楊貴妃を娶ってからは政治が疎かになり、外敵の侵入を受ける。出陣、敗走する羽
目になり、その時部下の武将に楊貴妃を殺害するよう要求され、最後に自殺させてしまう。37
歳という若さで亡くなった楊貴妃の墓は当初盛り土であったが、その土を顔に塗ると美人になる
と言われみんな持っていってしまったことから現在ではコンクリートで固められている。
池の向こうが温泉区であり、皇帝たちが冬場、都を離れてここで静養した場所であった。現在
の建物は清朝末期のあの西太后が築いたもの。楊貴妃の入った小さな風呂、玄宗皇帝の入った大
きな風呂、皇帝を警護する者たちが入った風呂なども残るがこれは1986年に発掘されたもの。
お湯が噴き出している噴水があるが、近くに入るだけで10元かかる。添乗員さんがみんなの分
を負担してくれた。
西安の町へ戻って昼食。栄盛斋という店である。まずビールだが、ニガウリで作られたビール。
ホップの代わりにニガウリを使っているようだ。スープは2つあってトマト入りと春雨入り。チ
ンゲンサイ、タマネギと豚を炒めたもの、麻婆豆腐はチャーハンと混ぜて食べるのが基本。きし
-4-
めんのようなラーメン。酒器に入った紹興酒がサービスで出されこれを飲んでいると、泡盛のよ
うな酒に人参、霊紫、その他いろいろな体に良さそうな薬草がいっぱい入れてある薬草酒がサー
ビスで回ってきた。要するにお土産の売り込みなのだが。この度数が強い酒を飲み過ぎて結構酔
ってしまう。そして給仕の女性たちはこの薬草酒と紹興酒を温める酒器を一生懸命売ろうとして
いる。熱心な子は言葉巧みに売り込み、黙ってる子はただいるだけ。こうして貧富の差が生まれ
ていくのである。食事の後は隣の建物でショッピング。兵馬俑のレプリカを作っている工場も併
設している。
そして西安の中心街へ。高い城壁をめぐらせた城内へは、これも立派な城門、東門をくぐって
入っていく。城壁は明代のもので、かつては北京をはじめ多くの都市に残されていたが、今日ま
で完全な形で残っているのはここだけだ。隋、唐の時代の城壁を基盤にして明代に大規模な改修
を行ったという。人がたくさん乗ったバスが走っている。このバスは一元でどこまでも乗れるそ
うだが、夏は冷房がないので厳しい。このようにぎゅうぎゅうに乗った状態を日本ではすし詰め
と言うが、こちらではイワシの缶詰という言い方をする。かつてたくさん町にあふれかえるよう
に走っていた自転車はかなり減ったそうだ。都市が大きくなりすぎて自転車では通いきれなくな
ったことが原因で、バスや金持ちは車で通勤する。ちなみにこちらの自転車にはライトがなく、
そして盗難も多い。
城壁以外にはここが城内であることがわかる建造物はなく、普通の町と変わらない。唯一、中
心部の鐘楼と鼓楼が名残を留める。鐘楼は鐘で朝を知らせ、鼓楼は夕方を知らせる太鼓を鳴らす。
これらの大きな建造物は城壁と同じく600年前の明朝のものであり、長安当時のものではない。
バスは城内を突き抜け安定門と呼ばれる西の城門に辿り着き、門を取り囲むようにロータリーに
なっている道をぐるりと回って門の中へ。門は二つの建物からなっていてその真ん中が駐車場に
なっているのだ。バスを降り建物の外に付けられている階段で上る。上から見ると、門は真ん中
に広場を持つロの字状になっていることがわかり、城壁の内と外にそれぞれ城門を持つ。内側の
城門の楼閣は色彩豊かであるが、これは新しいもので、外側の重厚な建物の方が古いという。そ
して西安を取り囲む城壁の上は道になっており、ぐるりと歩くことができる。一周すると12キ
ロある。幅は14メートルくらいで車は通行できないが、観光用の電動トラムのようなものが走
っていた。
外側の城門の建物の中へ入ると、そこはお土産屋になっている。書画の部屋を通って階段を上
ると高い天井を利用して絨毯を展示している。絨毯といえば中近東を思い浮かべるが、実は絨毯
の文化・技術は中国から伝えたものという。中国の絨毯といえばシルクの絨毯である。壁に飾ら
れた数畳の大きなものから玄関マット、置物敷きなどまで様々な大きさのものがあるが、値段は
大きさとは関係ない。値段は目の細かさにより決まり、それは段数で表示される。壁に掛けてあ
る4畳半のものは400段で22万円の大特価、小さいものでもきれいに輝くのは1000段も
ある。平山郁夫画伯による昔の西安の様子を描いた原画に基づく玄関マットは1000段で20
万円。シルクの絨毯は見る方向によって色が異なる。
城門の窓からは西に延びる一直線の道が見える。シルクロードの出発点はこの西の城門である。
はるか彼方はローマへと続く。外へ出ると雨がポツポツ、そしてバスに乗るとザーザー降りとな
った。バスはガソリンスタンドで給油するが、中国でもガソリンが急激に値上がりしているとい
う。ガソリン急騰は中国発展の足を引っ張る可能性がある。空港へと向かう途中、雨の中、桃を
並べて売っている人たちが見える。
中国の空港はここ数年で建て替えが進んでいるが、この西安国際空港もモダンな建物の空港に
なっている。国内線の出発階に到着するが、中国東方航空のカウンターが開いていないので、そ
の前にスーツケースを置いて添乗員がその番をし、我々は単さんと一階までエスカレータで降り
ていって食堂へ。夕食である。酢豚、トマトのスープ、そば、辛い冬瓜、牛肉とジャガイモ、鳥
肉とセロリの炒めたもの、苦瓜のビール。食事が終わり搭乗券が渡され、空港の中へと進む。国
内線であってもパスポートが必要であり、これは中国人に求められる身分証明書の代わりとなる
ものである。搭乗券とチケットとパスポートを見せると搭乗券に判を押され、荷物検査を終えて
ターミナルへと進む。いちばん端にある7番ゲートで東方航空MU2183便は6時40分に搭
乗が開始される。飛行機はまたA320だ。7時5分に動き出して12分、雨の中を離陸する。
8時に何と食事が出る。ライスとヌードルが選択できるということでヌードルを選択した。ライ
-5-
スの方はスパイスの効いたカレー、ヌードルは羊のミートソースであり、その香辛料はきつい。
麺も冷麺風の半透明の麺だ。お菓子のパンケーキは甘過ぎで、パンが一番おいしかった。食後の
飲み物は配っていると思ったらあっという間に通り過ぎられてしまった。読書灯も点灯せず、ス
チュワーデスを呼んで何度もトライしてみたが無駄だった。スチュワーデスは英語も全く解せず
身振り手振り。通りがかったときにコーヒーを求め持ってこさせた。こちらから頼まないとだめ
なようだ。やはり国内線のサービスは悪い。ドリンクのワゴンが通ったのでコーラをお願いする。
ビールはないのである。イスラム圏行きということも関係するのであろうか。
9時50分降下を開始し、10時7分にウルムチ(烏魯木斉)空港へ到着する。機体は、ゆっ
くりと進んでターミナルへ到着。ターミナルを降りると想像を超えてなかなか立派な建物である。
ターンテーブルのところまで下りていくとさらにびっくり。たくさんの旅行会社のブースが並び、
女性たちが手に手に観光案内を持って大声で掛け声をかけ、ツアーの呼び込みをやっている。や
はりここは観光都市である。各自スーツケースをもって外へ出ると、これまたネームカードを持
ったたくさんの人たちが待ち構えている。ここでウルムチの観光ガイドのハトリさんと会い、空
港からちょっと離れた駐車場にあるバスのほうへ歩いて向かう。荷物を積み込んで市内へ。しば
らく田舎道を進んでいくと、焚き火をしている人たちが多く見られる。これは先祖のためにお金
を焼く行事だそうで、日本の送り盆にあたるもののようだ。そして高速道路に入って市内へ。高
層ビルが建ち並び、ネオンが輝いて西安よりも大きな街のように感じる。都市の中心部はかなり
賑やかだ。ちょっと違うと感じるのは看板にアラビア語が併記されていることだろうか。
高速道路を下りて市内中心部、ホテルなど大型の建物が並ぶ一角にある、新疆大酒店に入る。
ボーイがカウボーイハットを被っているのが面白い。部屋は1807号室で、ここには2泊する
ことになる。白を基調にしたきれいな部屋で、ベットはダブルタイプ。背もたれや椅子の布張り
がグリーンで統一されていておしゃれである。風呂もなかなか立派で有料のグッズもある。スー
ツケースが届けられる。水もベット脇と洗面台に2つ置かれている。
8月20日(土)
7時30分にモーニングコールで、8時に朝食。1階のレストランは日本人ばかりである。大小
さまざまなツアーが交じっている。食べ物はこれまでになくたくさんあって、選ぶのに迷うくらい
であったが、その中から、ベーコン、ソーセージ、中華風お好み焼き。そしてオムレツは屋台で
作ってもらったが、中に入っているキュウリがどうも合わない。肉まんは羊の肉のような感じが
して香辛料もこちら風。口直しに何も入ってないまんじゅうを食べる。コーヒーはちゃんとドリ
ップ式でいい味だ。ヨーグルトには木苺を入れて食べる。
9時にバスは出発する予定だったが、現地ガイドのハトリさんが30分も遅刻。理由が前日結
婚式で飲み過ぎ、ということで昼にはビールをご馳走してもらうことに。さて、ようやく観光に
出発である。ウルムチ(烏魯木斉)という名は、モンゴル語で「美しい牧場」という意味だそう
だ。人口は220万人で漢民族が70%を占め、その他12の民族が混ざり合っている。90年
代に石油開発で急速に発展した。気候は大陸性で、気温は−20人から+39度と幅が広い。新
疆ウイグル自治区は中国の6分の1を占める広大な面積を持ち、9カ国と接する。国境線が長い
こともあってロシア語が盛んだそうで、外国語といえばロシア語となるという。
新疆の疆の字について説明があった。
「弓」は長大な国境線を意味し、弓の下に付いている「土」
はゴビ砂漠を表している。ゴビ砂漠は土と石からなる荒れ地であるが、砂だけの砂漠と違い水さ
えあれば何でもできるという。そして一番上の「一」がアルタイ山脈、真ん中の「一」が天山山
脈、一番下の「一」がコンロン山脈。アルタイと天山に挟まれた「田」がジュンガル盆地(タリ
ム盆地と言っていたが誤りであろう)、そして天山とコンロンの間の「田」がタクラマカン砂漠
を意味するという。疆の字はこの地域を表す毛沢東が作った字であるというのだが、字の方が毛
沢東より古いと思う。
突然、荒野にプロペラのような三枚羽根の巨大な風車が出現する。その数は増し、林のように
なる。風車が立ち並ぶこの一帯は風力発電所となっている。このあたりは風が強いことで有名で、
この風を利用して電気を起こしている。風車は道の反対側にも続々と作られて行く予定だそうだ。
-6-
その発電所の建物の端にあるドライブイン小草湖SAで休憩と風車の写真タイム。そしてバスは
また走り出す。
これから向かうトルファン(吐魯番)は、「団結」という意味の小さな町で、人口は3万人。
ウイグル族が40%を占める。気温は40度から45度と暑く、50度を超えることもある。ユ
ーラシアのヘソと呼ばれ海からもっとも離れたこの地は海抜も低い。ここには死海に次ぐ世界第
2位の−154メートルのアイディン湖という湖がある。名産品はブドウで、緑と思われるとこ
ろはほとんどがぶどう畑とのこと。
左手に見える白い山脈が天山山脈、右手には塩湖が見える。湖端は湖水が結晶して白くなって
いる。後は一面の荒地である。右手の山々は屏風のように平地から急に立ち上がり、まるで阿蘇
の外輪山のようにも見える。荒れ地のところどころに土まんじゅうが見えるが、これはお墓で、
墓標が立っているものもあれば敷石で装飾されているもの、まったく何もない土盛りと様々だ。
バスは少しずつ下って、トルファン盆地へと入っていく。水の流れた跡があって、それが途中で
終わり大地に吸収されている。山々は遠のき緑が増えてくる。年間降水量はたったの16ミリ。
このあたりの大きな土盛りはお墓ではなくて地下水を汲み上げるためのカレイズと呼ばれる井戸
を掘ったあとだ。このカレイズはイランの土木技術で、100メートル間隔に縦穴の井戸を作っ
て地下で結び、天山山脈からしみ込んだ地下水を確保する。
ブドウ畑がずっと連なり、その中に沢山穴のあいた四角い建物があっちこっちに見える。これ
は摘み取ったブドウを乾燥させるもので、一カ月も乾燥させると干しぶどうができあがる。名産
のブドウはこの地域で26種類を数える。少数民族と呼ばれる人たちは、ほとんどイスラム教徒
で、アラビア文字を読み書きする。そのため看板はすべて中国語・アラビア語併記となっている。
このあたりの勤務時間は9時30分から1時30分、そして昼休みが2時間あって昼寝は必須、
午後は3時30分から始まる。そういうことから、まだ昼食には早いけれども12時30分に食
堂へ。花园大酒店で地方料理である。中国ではすべて北京時間で表現されるが、このあたりは実
質2時間くらい時差があると考えた方がいい。飲み物はビールと地元名産のブドウで作られた有
名な楼蘭ワイン。冷えた赤はなかなかおいしい。ラーメンは中国通の添乗員さんの特別注文で酢
豚のかかったコシのあるおいしい麺である。豚肉と瓜、卵とトマトの炒めもの、ブドウは皮ごと
食べられる。哈密(ハミ)瓜がおいしい。スープは肉と野菜の2種類ある。
食堂を出てバスに乗り込み強い日差しの中を出発する。それでも今日は37度しかなく涼しい
ということだ。年間降水量は16ミリ、一方、蒸発量は3000ミリもあり、かなり乾燥してい
ることから蚊がいない。そのため外で寝る人も多いという。はるか向こうにかなり大きな油田が
見え、櫓から炎が見える。荒野の道を先に急ぐ。
高昌故城に到着。この城は、漢民族が460年に都とした高昌城の遺跡で、唐代に国際商業都
市として栄えるものの、唐により滅亡の一途をたどり消滅する。城を囲む城壁は1.5キロ四方、
土を固めて仕上げたものだ。バスは入り口に頭を突っ込んで停車し我々を降ろす。バスを降りる
と子供たちが寄ってきて取り囲まれる。手にて手にアクセサリー、絵葉書、帽子などを持って入
れ替わり立ち替わり、日本語で話しかけてくる。今、こちらも夏休みということでこうした子供
たちが親の商売を手伝っているのだ。まわりは上の方まで商品が並べられた露天が並んでいる。
ごみごみした入り口付近から城壁の中へ。と言っても城門がそびえるわけでもなく砂漠へ踏み出
したという感じだ。切れ切れになった土塁がところどころ見える。日差しが眩しいばかりに降り
注ぎ、ツアーの人の時計では41度の温度を示している。しかし、それほど暑く感じないのは湿
度が低いからだろう。中国の団体とロバの奪い合いである。ロバは後ろに十数人乗れる屋根付き
の台車を牽く。ここはいかにガイドが強引かが勝負のようで、我々のハトリさんはちょっと押し
が弱いのか、交渉をするものの先に乗られてしまう始末で、「次ですから、次ですから」と言う
ばかり。
やっとロバが捕まって乗るというか、他のグループの空いたところに乗ったと言った方がいい
かもしれない。ロバはなかなか強く、1匹で十何人運ぶ。動きはゆっくりで、凸凹道なので振動
がものすごい。振り落とされないようにしがみつき、台車の下の車輪に足を挟まれないよう気を
付ける必要がある。そして前のロバ車が巻き上げた砂埃が舞い上がりひどい状態だ。速い後ろの
ロバに追いつかれ、後ろ向きに座ってしまった我々は食いつかれるのではないかと冷や冷やもの
であった。わずかに残る土塁は、ここが都市であったことを想像させる。
-7-
ようやく中心部と思われるところに到着し、ここからは徒歩で観光となる。ロバ車は数台に分
かれて乗車したため、全員が揃うまで炎天下で待って、それから寺院跡へと進む。壁がきれいに
残る建物へ入る。天井は崩れ落ちてないが、煉瓦がきれいに積まれている。ここは三蔵法師が講
義し、座禅を組んだ所であると説明を受けた。そしてすぐぞばの仏塔。壁面の仏像彫刻はイスラ
ム教徒に破壊されており、わずかに痕跡が見える。見学を終えて、再び指定された馬車に乗り、
がたがたと揺られ戻る。出口を出ると待ってたとばかりに売り子に取り囲まれる。急いで駐車場
に移動されていたバスへと戻る。ハトリさんに言わせると、ここがこんなに混んでることは普通
はないという。
次にバスは数十分走りベセクリク千仏洞へと向かう。火炎山の麓ムルトク河の西岸の崖にある
ウイグル族の仏教石窟遺跡である。6世紀の唐の時代から700年に渡る長い歳月をかけて掘ら
れた83の石窟のうち40余りの石窟に壁画が見られる。ドイツ探検家ル・コックにより発見さ
れ、数奇な運命をたどる石窟とその失われた壁画の再現については、NHKの新シルクロードで
取り上げられた。バスは山を登り始めるが、砂嵐に遭遇する。谷を吹き抜ける砂は激しさを増し、
視界は失われていく。それでも砂山に整備された舗装路をどんどん進む。駐車場へ到着、目が開
けられないので急いで中へ。売店があるテラスからの眺めも砂嵐でかすかに遠景が見える程度。
この谷のオアシスにベゼクリク千仏洞がある。テラスから階段を下っていくと、よく写真で見ら
れるベセクリクの風景が出現する。張り出したテラスと並ぶ石窟、円形の土屋根、谷から針のよ
うに生える青々としたポプラ。公開されている6つの石窟を見学。17窟、20窟、27窟、3
1窟、33窟、39窟。まず17窟の中へ入る。天上がよく残っていて、緑の縁取りをされた仏
がいっぱい並んで描かれている。そのどれもが目を潰されている。これは目を残しておくと夜に
よみがえると信じているイスラム教徒によるものであるという。そういうことからすると、破壊
を免れるため文化が高い国で保管する必要があるといって壁画を切り取っていった探検家たちの
正当性もわからないわけではない。わずかに足下に着色されている壁画が残っているのが見える。
20窟、これがNHKで復元を試みた洞窟である。ル・コックによって切り取られた誓願図は、
第2次世界大戦でベルリンの博物館とともに破壊され消滅する。各国に残る断片、他の窟の類似
した壁画、ベルリンに残る写真などからコンピュータグラフィックスを利用して復元していた。
この窟は、ぐるりと回廊が回る構造となっているが真っ暗でまったく何も見えない。敦煌見学用
に懐中電灯を持ってきてはいたが、残念ながら今日は持っていない。手探りで回る。27窟、プ
ラスチックの板で壁面が覆われている。なんとなく仏陀を取り囲む人黒人たちの絵が見える。3
1窟もパネルで守られ解説の展示がある。奥には涅槃仏の像があったと思われる穴があいている。
33窟、一番奥の39窟もほとんど構成が同じように描かれており、やはりパネルが張られ奥に
は涅槃仏が置かれていたと思われる。涅槃仏を取り囲む人々は、髭や表情などを見るといろいろ
な国の人たちがいることがわかる。まさにシルクロードは文明の十字路である。像は残っていな
い。天井に泥が塗られているが、これは探検家たちが次にここへ来た探検家に取られないように
わざと塗り隠したものだそうだ。
あまりにも砂嵐がひどいので、すぐに入り口のテラスへ。立ち入り禁止などの看板も倒れ、管
理員たちも引きあげ始めた。ベセクリク千仏洞のさらに奥からどんどんと砂が舞い降りてくる。
普通のカメラならばやられてしまうところだろう。冷房のあまり利いていない売店で時間をつぶ
し、そしてバスに乗り込む。千仏洞入り口近くでは、砂丘をラクダで歩かせる観光があって西洋
人たちが楽しんでいる。バスで山を下りていくと、途中で砂嵐はやんだ。
火炎山が右手に見える。火焔山は、シワシワの山肌で陽炎で炎のようにゆらめくように見える
ことからこのように呼ばれる。西遊記では、孫悟空が鉄扇公主と戦った場所として描かれている。
道路沿いに駐車場があってバスなどが停車している場所があり、モニュメント(たぶん孫悟空だ
と思うが)があるのが見えた。たぶん公園になっていると思われるが、有料なのだろう、そこを
通過してさらに進み、車を止められるところで停車した。ここで、写真タイムである。そしてす
ぐにバスに乗り込み一路ウルムチへと引き返す。一般道を過ぎ、高速道路に入って山を越え始め
た時、これまで次々に抜きまくっていたバスが急に減速し、最後には路肩に停車した。故障のよ
うだ。ドライバーとハトリさんが降りて、後ろのエンジンルームを開けている。こちらのドライ
バーは自分ですべて修理できるといい、工具と交換用のパイプを手にしたドライバーは、がさご
そやって6分ぐらいで修理を完了した。再びスタートし、また何台か抜いたあと減速、そして停
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止。またドライバーが作業。部品を交換していないので、調整しただけのようだ。
バスはウルムチの平原部へと出てきた。高速のインターを出てすぐの土産物屋へ。汚い建物で
本当に土産物屋かと思うようなところである。最初はバスの修理かと思ったぐらいだ。中に入る
とやはり雰囲気が怪しく、トイレも汚い。それにしても売り子はかなりしつこいのである。翡翠
など、値をどんどん下げるし、値段があまりにも安いので本物はないのでは、と言い合っていた。
ショッピングが終わり、隣のガソリンスタンドで給油し、もう一度高速道路へ入って風力発電所
の横を通りウルムチへ。
ウルムチの市内に入り、ホテルへ戻る前に夕食である。翼龍大酒店の2階が会場であるが、こ
こも4つ星ホテルなので砂で真っ白になった靴はいささか恥ずかしい。今日はイスラム料理とな
っていたが、出てきたものはいつもと変わらず中華っぽいものばかりである。そのなかで唯一ジ
ャガイモと肉の料理があり、たぶんこれは羊であろうか、そして香辛料もイスラムっぽいもので
あった。ビールはいつもご馳走になっていたので今日は私の方から追加した。またハトリさんか
ら遅刻のお詫びということでビールの差入れもあったので、飲み放題に近い状態であった。料理
は、干しブドウ、干し杏、ピーナッツといった前菜から、白菜のあんかけ、インゲンと牛肉、チ
ンゲンサイ、ニンニクの芽の油炒め、それにチャーハンでデザートは特産のスイカ、瓜、ブドウ。
食後、新疆大酒店へと戻る。
8月21日(日)
モーニングコールが7時、荷物を出すのが少し早くて7時45分、そのまま食事へと向かう。
荷物は別送で移動し明日の敦煌まで出てこないので、一晩必要なものはリュックに入れておく。
朝食は、ベーコン、ソーセージ、肉まんにまんじゅう。ハンバーグは羊肉のような臭い。ヨーグ
ルトには桃を入れる。デザートにブドウ、グレープフルーツジュース。コーヒーは今日はドリッ
プが故障しているようでインスタントコーヒーを注がれた。バスは8時に出発する。ウルムチ中
心部を走っていくと、商業地区を通る。新疆は国境を9カ国と接しており、そうした国々とも貿
易を行っていることから、様々な言葉が使われている。看板にアラビア語が必ず併記されている
こともそうだし、外国語は英語よりロシア語が通じる。走っている車は新旧のフォルクスワーゲ
ンがほとんどで、高級車は同じくフォルクスワーゲングループのアウディーが占める。たまにプ
ジョーなどフランス車を見ることがあるが、日本車はほとんど見ない。例外はトヨタの大型四輪
駆動車ランドクルーザーで、こちらでは高級車として扱われ、実際700万以上で取引されてい
る。まさに荒野を駆け抜ける現代のラクダだ。広州本田の車はあまり浸透はしていないようだが、
たまに見る。市内は建築クラッシュである。こちらのマンションは1平米あたり2000元、年
々高くなっているという。建築ラッシュのお陰で、古い建物は次々と取り壊され、新しい近代的
な高層建物に生まれ変わっていく。そのサイクルがどんどん早まり街はあっという間に変わって
いくという。
天池まで120キロの距離があるが途中まで高速道路が走る。天池の標高は2000メートル
ある。白い雪を頂いた山と山に抱かれた氷河湖の織りなす風景は中国のスイスと呼ばれるにふさ
わしいところだ。この地区に住むのはカザフ族が大部分を占める。ちなみにハトリさんもカザフ
族出身という。彼ら少数民族は中国の一人っ子政策の例外とされており子供を複数人作ることが
可能である。田舎であれば3人まで、ウルムチ市内でも2人まで許される。新疆には三つの産業
があるといわれている。「白産業」は綿のことで中国の生産の30%を占める。「赤産業」はト
マト、「黒産業」は石油を示す。
高速道を下りてどんどんと山の中へと入って標高を上げていく。ところどころ橋が壊されてお
り、その都度迂回して土手を下り仮設の土橋を渡っていく。10日ぐらい前にこの地区を洪水が
襲ったようだ。久しぶりの雨は洪水となって橋や家が流されたという。ツアーも当然中止になっ
たようで、そういう意味で我々は運がいい。ウイグル族はゲルという仮設テントのようなパオに
住んでいるが、洪水のためか救援と大書された青いテントが数多く張られている。川沿いの山の
道をどんどんと上っていくと10時ごろにゲートに到着をする。ハトリさんが一旦バスを出て、
チケットの係の人とともに戻ってきて、その係員が人数を数えて、またハトリさんと出て行く。
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チケットを買いに行ったようで、結構時間がかかったがようやく通ることができた。
しばらく山道を登って行くと売店の並ぶ駐車場に出る。その売店ではイスラム風の踊りが行わ
れ、ナンを焼いている。ここで小型のバスに乗りかえる。かなりの観光客が順番待ちの列を作っ
ているが、我々は並んでいないゲートへ向かい、すぐに乗車することができた。ここにも料金格
差があるのかもしれない。バスは中国人と混在である。くねくねとした道を進み急速に標高を上
げていく。その上をゴンドラが快適そうに上っていく。中国のグループは、あの発声のせいもあ
って車内はかなりうるさい。バスが到着するとそこからさらに電気カートに乗り換えて天地まで
向かう。中国人たちはこれには乗らず、そのままどんどん歩いて登っていく。それほどの距離が
あるわけではないようだ。電気カートは、そういった人たちをクラクションで掻き分けながら進
んでいく。そして天池へ到着。
氷河湖の向こうに白い雪を頂いた山が見える。真っ白な山と手前の氷河湖という対照的な構図
にもかかわらず逆光ということもあって水の色が濃い色で、思ったほど美しくない。さらにモー
ターボート、観光船などが行き交っていて素晴らしい景色を台無しにしてしまっいる。少し小高
くなったところまで歩いて登ってみたもののその程度の距離で逆光が改善されるわけでもなく、
集合時間になったので帰ることに。来た道を戻る。電気自動車で売店のところまで降りるが、我
々はそこからさらにちょっとだけ下がったゴンドラ乗り場へと行ってもらう。帰りはゴンドラに
乗るようで、これもハトリさんの遅刻の代償だそうだ。ゴンドラは二人乗りで半分がシェル、半
分が籠という構造になっている。しばらく下を走る道、山肌、湖沼、滝を見ながらゆっくりと空
中散歩。下のゴンドラ乗り場にはものすごい列ができている。
バスに乗り込み山道を下って行く。途中、パオを見学させてもらうことになり、カザフ族の小
さな村へ。ここは観光用になっているので、骨組みは竹ではなく鉄。絨毯が壁になっている。乾
燥しているので蚊はいないそうだが、川も近くちょっと蒸しているので本当であろうか。カザフ
族は山の上と下界の間を移動放牧し生活しているとのこと。
バスで少し下ったところで昼食。天池旅游接待中心という行きにトイレ休憩をとった土産物屋
兼レストランである。スープ、トマトの入った麺、そして今日のメインの牛肉麺。これには期待
していたが、単にトマト麺の牛肉バージョンといったもの。それから冷麺みたいなもの。肉はス
パイスが強い。楼蘭ワインがあるようで頼んだら赤も白も冷えていないという。買い物タイムが
あって、その後バスで山を下り、高速道路でウルムチへ2時間。市内に入って、時間調整のため
に途中土産物屋に寄る。博物館は昼やっていないので3時まで待たなければならないとのこと。
土産物屋は例によって絨毯とか翡翠とかが売られているがこの店は少し高級。そしてようやく博
物館へ。
新疆ウイグル自治区博物館は、新館が現在建築中とのことであるが、これも何年がかりのもの
だそうで、途中資金不足で凍結されたりしたものだが、ようやく10月1日にオープンという運
びになったそうだ。博物館に到着すると正面のモスク調の近代的公共建築がそびえるが、その前
の広場は工事現場そのままで、土盛りや資材が散乱しぐちゃぐちゃの状態。正面を通り博物館の
裏へ回って、とてもそこに博物館があるとは思えないような鉄柵をくぐり抜け、倉庫のような建
物に入る。入り口の看板に死体展示となっていて、あまり気味のいいものではない。中に入ると、
なぜこの地区でミイラが多いのかの説明があって、そして最初にあの有名な楼蘭美女が横たわる。
頭に羽根をつけた日本でも展示されたことがある美女のミイラである。睫毛も残る彫りの深い西
洋系の顔立ちで年齢は40歳ぐらいの自然死とみられている。次が子供のミイラ。布にくるまれ
た小さな顔からは歯が見える。そして出産してそのまま死んでしまった女性のミイラ。生き返ら
ないように屈葬されている。独特の化粧を起こされた地位の高い女性のミイラ、さっきまで生き
ていいたような顔立ちの髭はやしたにこやかな男性のミイラ。胸のところに二本の長い飾りがあ
ることで二人の夫がいたということがわかる女性のミイラ。早死にした夫の後に70歳で亡くな
った夫人が合葬された夫婦のミイラ。名前のわかっている漢の武人のミイラは首がとれている。
盗掘にあったようで、首が外されているのは口の中にある金を取るために首を折ったようである。
がに股であるのは馬に乗っていたことによるものだ。そして何も身に付けていないのも盗掘によ
るものである。さすがミイラの宝庫、ウイグル自治区の博物館の素晴らしいミイラの数々である
が、それを見終わってからは、やはり中国流美術品売買のコーナーへ。
次の予定はウルムチのバザール。バザールといってもアーケードの常設店ではなく、露天の並
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んだ一角。まずナベ釜からシシカバブを焼く道具まで、日常品の並ぶところをぐっと回って、食
料品、果物、衣料品と屋台を通って終わり。旅行者や添乗員はここで自由時間を求めるようだが、
ここで自由にすると人がいなくなって困るとハトリさん。目の届く範囲でパンなどを買っていた。
ここは普通の庶民の市場であり、グロテスクな動物がぶら下がり、あまりきれいなものではない。
そしてイスラム教徒は白い帽子を被り、何種類もあるたばこの刻んだ葉っぱをブレンドして売っ
ているたばこ屋の屋台に群がっている。このバザールは交通量の多い道路を挟んで開催されてい
るので、この近辺は大混乱である。
車は夕食へ向かうが、直進のこちらを無視するかのようにどんどん右折していくのは面白い。
敦煌へ向かう列車の都合もあり、早めの食事であまりお腹はすいていないとみんな言っている。
会場の添和美食園は、あまりきれいとは言えない普通の食堂である。店の前の空き地にバスは無
理矢理突っ込む。店に入るとイスラムっぽい独特の香辛料の香り。今日のメインはシシカバブと
聞いている。巨大な串焼きを期待して待っていると焼き鳥のように串に刺さった小さな肉。これ
を火に炙って食べるというものでがっかり。味はテリヤキ風である。その他の料理は普通の中華。
魚の甘露煮はおいしく食べやすくばらされていた。チンゲンサイ、ソーメン、卵.とトマトの炒
め。トイレが厨房の横を通った屋外にあったが、厨房の汚さ、散乱した食材を見ると、きれいに
盛りつけられた中華料理の現実とのギャップを思い知らされる。
頭から突っ込んだバスは出るのに苦労する。3方の車を止めて大渋滞を引き起こしつつようや
く脱出成功。ウルムチ駅へと向かう。まず立派な駅にまず驚かされる。バスはロータリーの横か
ら正面に突っ込む。そしてハトリさんと運転手が喧嘩を始めた。さっきの脱出のイライラがつの
ったのであろうか。入ってはいけないところに入って罰金なのか、駅の管理人と思われる人も加
わってもめているが、ハトリさんはそれを無視して我々を誘導。駅の正面に行って、小さな入り
口から切符を確認して中へ。切符がないと駅舎に入れないようで、そのため入り口が大混乱であ
る。吹き抜けの立派なホールには発車時刻を示す赤い電光掲示板があり、そこをエスカレーター
に乗って3階へ上る。想像を絶するきれいな建物に驚きつつ、グリーン車専用の特別待合室へ入
る。売店で干しブドウを10元で売っていたので買い漁る。ハトリさんがバスの中で売っていた
土産物用の干しブドウは30元であった。さらに、まったく同じドライフルーツの詰め合わせセ
ットもかなり安く売られていたようで、みんな騙されたと不満そうであった。
敦煌行きのN950列車の出発は、19時44分である。その出発の30分前に係の女性の案
内がある。まだ時間があると思ってトイレに行っている人などがいたが、この係員はかなり急か
している。いつの間にかハトリさんはいなくなっていていた。そしてようやく全員揃ったので係
の女性の案内でホームへと向かう。大理石の通路を通ってホームへ。そこは1番ホームなので地
下通路を通って隣のホームに。青と赤のラインの列車と赤いラインの車両が連結されていて、我
々が乗るのは赤いラインの方である。入り口にランクを示す旗が刺さっていてその前に女性係員
が立っている。軟臥と呼ばれる4人でワンボックスの鍵付きの個室に二段ベットが2つ置かれる。
グリーン車に相当する車両で最上級車ということもあって冷房は入っている。添乗員が一人一缶
ビールを配った。駅で買ってクーラーボックスで冷やしておいたようで手回しがいい。時間にな
ると列車は音もなくゆっくりと出発する。滑らかであるが、本当にゆっくりで、これから800
キロもあるのにこれで10時間で着くのか心配になるほどだ。通路はいろいろな人が通る。部屋
を間違えた人から飲み物やヨーグルトなど食べ物を売る人、小さなテレビを貸しているテレビー
ゲーム屋もいた。1時間10元で、ツアーの子供たちが借りていた。通訳に単さんは大忙しであ
る。ビールは瓶で売っているが冷えていない。日が高いのでトルファンまでは窓から外を眺めて
いた。昨日バスで通った道であり、風車や塩湖も車窓を流れていく。線路はインドと違い屈曲す
ることなく、したがって横揺れはない。信号機はないが、ところどころに置かれるポイント切り
換え所の係は、列車の通過を敬礼で迎えている。この路線は複線なのだ。
車両を探検する。青と赤の車両の軟臥は、扉が木調できれいだ。たぶん我々の車両は追加連結
のようなので旧車両かもしれない。普通、庶民は3段ベッドの車両を使う。トイレは木製の洋式
と穴だけの中国式の2つを備え、洗面所もある。担当の掃除おばさんがいて、常にきれいで、イ
ンドの寝台車などとは雲泥の差だ。ちなみに停車中はトイレが封鎖されてしまい使えない。垂れ
流し式なので仕方がないのかもしれないが。途中、日が落ちてすばらしい夕日が。トルファンの
駅へ到着すると、買い出し班が走り出した。別のコンパートメントでは宴会が始まっていて、う
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ちの部屋の若い2人がそちらに転がり込んで酒宴に加わっている。添乗員が冷えたビール瓶を手
に入れてきて配っていた。冷えたビールはなかなかないようで、どこで手に入れたかが不思議で
あったが、冷蔵庫を持っている売り子がいたと言っていた。トルファンから乗ってきた団体は広
東の中国人たちで、スイカを持ち込み、声がうるさく響く。
こちらは、宴会を横目で見ながら二段ベッドの上に横たわる。階段がないので、扉の横にある
突起に足を掛け、手すりを持って上がる。ベッドの長さは十分で、物が置けるスペースと小さな
網棚、読書灯がある。手すりは簡単な低いものがあるだけでカーテンもない。電気を消すしかな
いが消してしまうと宴会から戻ってきた人たちが大変だ。列車はゆっくりと進んでいるが、夜中
になるとものすごい勢いで走ったり停車したりする。手すりから落ちないか心配だし、冷房があ
るはずだが蒸し暑いので眠れない。
8月22日(月)
まもなく終点の敦煌駅へ。到着前30分から蛍の光や寂しげな音楽を次から次へと流している。
車窓の風景は月面のような荒れ地。そして定刻9時30分、駅に到着し列車を降りる。荷物別送
は気楽でいい。
ホームは低く、そのため列車に内蔵されている階段がホームまで伸びる形になっている。ホー
ムに下りるとものすごい臭い。車両は糞尿をかぶっているし、ホームには生ゴミなどが平気で捨
てられている。ホームから線路に下りてまたホームに上がり改札口へ。ここでもう一度キップの
チェックがあるようでまた大混雑している。我々ツアーのように代表者がキップを持ってる場合
も多く、混乱に拍車を掛けている。
駅では黄さんという女性の現地ガイドが迎えにきている。まず朝食会場に徒歩で向かう。歩い
て西順大酒店という一般食堂へ。お粥は米と粟、ゆで卵、肉まんとまんじゅう、現地味のザーサ
イはとても辛い。ここは一般の食堂なのでトイレも現地式。女性たちが一区画に2人入るトイレ
に抵抗があるようで困っていた。食事が終わってバスに乗り込む。とりあえず冷房はついている
ようだがバスはかなり古く、やはり敦煌は世界的な観光地であるが田舎町だと感じる。この車は、
日野自動車の製造である。バスはここから2時間離れている敦煌へと向かう。駅は敦煌という名
前であるがかなり町から離れている。60年代鉄道が敷かれた時には、敦煌には産業もまったく
なく無視されていた。駅名も元々は敦煌柳園という名前であったが、この駅を使う人たちのほと
んどが敦煌観光に向かうということもあって、2000年に「敦煌」に改められた。
この道は中国を横断する5000キロもあるという現代の絹の道であるのだが、にもかかわら
ず道はうねりバスは船のように上下に揺れる。ほとんど雨の降らないこの地域、雨が降ることも
想定されておらず、時に降ると道は川となり各所で埋まってしまう。鉄を多く含んだ黒い山々を
越え、そこを通り過ぎると延々と石と土が続くゴビ砂漠へと出る。そして、ところどころに草が
点々としている荒涼とした風景が続く。
右に山並み、左に地平線という光景の中バスは進んでいくが、次第に右の山並みが遠のいてい
く。そして何やら朽ち果てた城壁のようなものが見えてくる。2100年前、漢代の万里の長城
の一部だそうだ。ここで休憩。駅から敦煌までは休憩する施設がないので、このような原野で仮
の休憩を取る。男性はその辺で、女性は窪み方へ、と。
この漢代の長城は、ゴビの泥によって作られているもので遊牧民族の侵入を抑えるため設置さ
れた。このようなもので侵入を食い止められるものかと思ったが、彼らは家畜が越えられなけれ
ば入ってこないとのこと。長城に沿って5キロ、起伏のある場所によっては2.5キロごとにの
ろし台を置いている。これは敵の侵入に備えたもので、万一攻撃を受けた場合に、その情報を都
に伝達する機能を担う。馬を乗り継いでも10日かかるところをこののろし台で瞬時に伝達する。
砂漠の草の中に紫色の花が咲いているものが見える。そしてだんだん緑が多くなってきて、村
の中へ入り、しばらくシルクロードらしくポプラ並木が続き、トウモロコシや綿畑が広がる。さ
らに進んでいくと町の中心地へ。中央にロータリーがあり、ここに背中で琵琶を弾く菩薩像が置
かれ、ここを中心に、道が東西南北に直行している、それだけの小さな町である。敦煌市は広大
な面積を持つが、そのほとんど3万人がこの町の中心のオアシス部分に暮らす。年間の平均気温
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は−9から25度、ただし最低気温は−25度、夏の最高温度が35度になることもあるという。
降水量は40ミリで逆に蒸発量が2400ミリもある。特産品は綿である。
いったん本日の宿泊ホテルの敦煌賓館へチェックイン。8606号室。といっても8階ではな
く、8号館の6階である。確かに大きなホテルではあるが、8号館があるほど建物が多いわけで
はなく、8号館のいわれはよくわからない。一応離れにあるようで、温室のようなガラス張りの
渡り廊下を歩いていく必要がある。部屋はとてもお洒落で、ベットはダブルタイプ。シャワーを
浴びて12時45分にロビーにある噴水のところに集合、バスで昼食へと向かう。昼食会場はこ
れも高級ホテルである太陽大酒店で敦煌料理。辛い厚揚げ、甘く魚を揚げたもの、ジャージャー
麺、麻婆ナス、その他は定番のチンゲンサイ、卵とナス。少し味付けが変わってきたように感じ
る。
そして午後の観光、敦煌莫高窟へ。きれいに舗装された道を進んでいって、途中で前のバスに
続き路肩を乗り越え無理矢理古い道に入り、しばらくして右折、あとは向こうに見える岩山に向
かって一直線。ところどころに盛土があるがこれはお墓とのこと。土地には所有者がいないので
タダだそうだ。黄さんは、中国には3大石窟があると説明。龍門、雲崗、敦煌の3つでいずれも
世界遺産に登録されているが、敦煌だけが壁画があるとしきりに強調している。
莫高窟は、楽尊という僧侶がインドへ向かう途中ここへ立ち寄ったときに三危山に沈む夕日を
見て、その中にたくさんの菩薩が現れたため、ここを極楽と考えて開いたと言われている。車窓
から右側に断崖が見え、そこに無数の穴があいているのが見える。これが莫高窟の北窟と呼ばれ
ているもので一般には公開されていない。NHKの新シルクロードで取り上げていたのはここ。
そしてバスは駐車場へと入る。バスを降りて炎天下のなか駐車場を突き抜け、売店の横を通って
右に曲がり橋を渡る。緑のオアシスの中に中華風の大牌坊というの門があり、さらに進むと莫高
窟の入り口である小牌坊という門へ。そのまま崖に沿って左へ進んでいくと木造の楼閣が出現す
る。莫高窟の写真でよく出てくるもので、ここでしばらく写真タイム。もう一度戻って先ほどの
小牌坊の門のところから入場する。莫高窟には手荷物やカメラを持ち込めないので預けなければ
ならないが、我々は中に入らない単さんに預ける。グループにはガイドとなる研究員が付くが、
間に合わないようで、とりあえず係の女性に従ってまず北に向かい、寺院にある博物館のような
ところへ。探検家と莫高窟の発見、調査の歴史と外国に持ち出されてしまった壁面や文書のレプ
リカ展示を見学。ようやく案内をしてくれる日本人担当の研究員の女性がやってきて小さなグル
ープとまとめて案内することに。この女性研究員、何となく曽我ひとみさんのような感じだ。各
石窟は、色彩等の保護のため照明はなく、鑑賞には懐中電灯が必須である。説明する研究員も大
型のライトを持っているが、我々も持参しおり、みんなで照らしながら進んでいくことになる。
料金体系は、基本料で一般公開されている10窟程度案内され、さらに一般公開されていない特
別窟を見たい場合、それぞれに決められた値段を払うという仕組みになっているようだ。特別窟
料金は、その価値によって様々な値段が付けられている。
まず右側に進み16・17窟へと入る。16窟の横穴に17窟がある。ここがあの有名な5万
点にものぼる敦煌文書が出てきたところである。薄暗い部屋の真ん中に高僧の塑像があるのが見
える。16窟は大きな大仏が座り、4つの中位の菩薩、そして小さな4つの菩薩。緑の壁に無数
の仏が描かれている部屋の天井は高く、蓮の文様、唐草の文様で彩られている。332窟は初唐
のもの。3組の塑像は、三身仏と呼ばれる3体で構成されており、正面と左右に置かれている。
後世の塗り替えが行われており、裏側には涅槃仏が見える。328窟は仏陀と二人の弟子、二人
の菩薩、四つの菩薩の塑像が置かれているが四つのうち一つはアメリカにある。特に有名なのは、
美男の代名詞、二弟子のひとり阿南の塑像である。249窟は、西魏、1500年前のもので莫
高窟で3番目に古いもの。阿修羅、風神、雷神などが描かれているが、ここを有名にしているの
は狩猟の絵で、ここは別名、狩猟窟とも呼ぶ。237窟は、中唐のころ、1200年前のもので
あるが、置かれている塑像は清の時代の新しいものである。中心に観音菩薩があり、阿弥陀経に
よる絵が描かれる。背中で琵琶を引く菩薩が描かれているのはここ。先ほどの大きな赤い楼閣で
被われている96窟は初唐、695年のもの。巨大大仏は莫高窟最大の35メートル。3回にわ
たって塗り替えが行われ、残念ながらで美術的価値は少ないという。130窟は盛唐の727年。
弥勒仏であるが、26メートルの大きさで莫高窟2番目の大きさである。96窟と違って昔の色
であるが、残念なことに1000年前に右手と腹部を壊されてしまい直している。その直し方が
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下手なので左手と比べて明らかに劣る。特別窟を見るため、暗い狭い通路を上ってきており、こ
の大仏を上部から見ることができる。一般客の場合は下から見る。この大仏の顔が大きく造られ
ているのは、実は下から見上げた時に違和感ないようにされているからだという。特別窟の15
6窟は、さらに階段を登っていく。晩唐の時代の石窟であるが、ここの特徴は歴史絵巻になって
いることだ。仏教とは関係ない歴史絵巻が描かれているのはここだけである。敦煌の長官の夫妻
の行列が描かれている。この部屋にあった塑像は破壊されてしまっている。159窟は中唐のも
の。塑像が特別な材質で作られており、つやつやした肌の菩薩が有名である。148窟は、涅槃
仏である。盛唐のもので776年、李氏という豪族が作ったもの。300年前の清時代に塗り直
しが行われており、長さと形だけは当時のままで15メートル。中国式の棺の中をイメージして
いる。天井に無数の仏が描かれている。涅槃仏を72の塑像が見守っているが、これも修復のと
きに付け加えたものである。最後、57窟は初唐のもの。塑像は後で塗り替えが行われている。
左壁面の側の美しい菩薩が有名で、井上靖、平山郁夫が恋人といっているのはこの菩薩。同じ窟
でも複数の人によって描かれているので、壁画の出来不出来に差がある。美しいのはこの菩薩像
だけである。
外に出て預けたものを受け取ってから、研究員の案内のもと資料展示室へ。展示室といっても
それは単なる売店にすぎない。図録も日本円にするとびっくりするような金額であるが、ここで
しか買えないと言われると買わざるを得ない。印刷も中国のものにしてはいい色彩に出ているし、
ということで購入。図録のほかには、その他参考書や絵はがき、そして研究員たちによって模写
されたものが売られている。写真も模写もだめと言われているので、研究員たちの独占状態なの
だ。売店を出て、橋を渡り駐車場へ向かう途中、敦煌北窟が見えるところがあって、みんな急い
で写真を撮りに向かう。そしてバスに戻り、市内へ。
そして戻る途中で土産物屋へ寄る。ここの売りは敦煌絨毯である。そして名産の玉で作られた
玉杯が有名である。緑色の玉石の原石を切り出して削っていって作るという杯で、たたくと金属
製の音がする。特級品と一級品があって値段もだいぶ違う。ここでも店員がうるさくつきまとう。
店を出てから、鳴砂山へとバスで向かう。バスの正面に砂山が現れて、それが次第に大きくなっ
ていく。正面の駐車場に着いて、瓦屋根の門を入ると真っ正面にピラミッドのような砂山が聳え
る。その形は何千年も変わっていないという。まずラクダに乗る。乗りたくない人はラクダの牽
くラクダ車に。ラクダはふたこぶラクダで、脚を折って地べたに座り込み客を待っている。乗る
ラクダの番号札をもらい、そのラクダのところに連れていかれ、地べたにひれ伏しているラクダ
に跨る。鐙に足をかけるが、背中の幅が妙に広く難しい。ラクダを牽くおばさんに手伝ってもら
う。そして手すりに捕まる。ラクダは後ろ脚から立ち上がるので、大きく前につんのめるので手
すりをきちんと握り、転げ落ちないようにする必要がある。それから前脚が立ち上がり水平にな
る。ラクダは2頭が結ばれ、それをおばさんが牽いていく。ちなみに落ちて怪我をすれば自己責
任で、当然ラクダには保険は掛かっていない。ラクダのこぶの頭頂には硬い毛が生えていてる。
そして視点はかなり高くなって景色がよく見渡せる。ラクダの動き方は前脚と後ろ脚がちぐはぐ
に動き、かなり揺れて乗りごこちが悪い。これで何ヶ月も旅をした人たちは苦労したことであろ
う。股が痛くなりラクではない。
あとで販売するのであろう最初に観光用の写真を撮られ、それからラクダはピラミッド状の砂
山を目指し、そのふもとを歩いていく。15分で月牙泉に到着する。砂丘に囲まれた三日月状の
湧き水を溜めた池であるが、これも何千年と涸れたことがないという。砂丘の形がなぜ変わらな
いかというと、砂山がいくつか組み合わされたこの砂丘は風が下から上に吹き上げるため、稜線
の形が守られ、さらに窪地にある泉にも砂は堆積しないということらしい。月牙泉の周辺にはか
つて寺院が並んでいたようだが、文化大革命によって破壊され、現在ある唯一の寺院も新しいも
のだそうだ。砂丘の上の方まで階段が付けられている。これは登ってソリで下りてくるというも
の。階段を登って下りてくれば10元、ソリを使えばさらに10元とのこと。ツアーの多くの人
がこれを希望したので、フリータイムの時間が延ばされた。登るのも疲れるし、ソリを使えば砂
だらけになるしで、結局、月牙泉のまわりを歩き寺院を見るだけにした。
ラクダ乗り場へ。とても臭い。これだけたくさんラクダが座っているのに、どうして同じラク
ダに乗らなければいけないのかわからないが、群れの中の1頭を探し出し、それに同じように乗
って立ち上がり、夕日の砂丘をバックに戻っていく。入り口では行きに撮られた写真を70元で
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売っている。バスで市内に戻り、昼食と同じホテル太陽大酒店の2階、故郷という名前の日本食
レストランで夕食。中華にうんざりしてきたころなのでタイミングがいい。最初、宿泊の敦煌賓
館にも日本食レストランがあるので、ここかと思っていたらここ太陽大酒店。敦煌賓館の方が支
店とのこと。宿泊のホテルと食事のホテルが微妙にずれているのは何か理由があるのであろうか。
まず飲み物。キリンもアサヒもあるが高いので、青島をライセンス生産している会社のビール。
アルコールは質より量である。基本的に青島と同じ味で安いのだ。食べ物は肉じゃが、サンマ、
茶碗蒸し、ご飯にみそ汁。そして疲れている人も多いのですぐにバスで敦煌賓館へ戻る。かなり
大きな土産物屋街が併設されているが、これは明日にして部屋に戻る。すでに9時半を過ぎてい
る。もう一度風呂に入ってから寝る。壁が薄いのか、排水の音が聞こえるのは残念である。
8月23日(火)
モーニングコールは7時、荷物は8時に出しそのまま食堂へ。牛肉麺の屋台が出ていたので並
んだ。麺も打ちたてで伸びていないのでうまい。スープがしょうゆ味ならばさらにうまいだろう。
卵焼き、ブドウの大きいものが入った蒸しパン、まんじゅう。
まだ時間があったが、ホテルの土産物屋はやめて、ホテルの隣にある市場まで歩いてみる。こ
れはどうも朝市ではないようで閑散としており、衣料品の店ばかり。すぐにホテルへ戻る。玄関
正面にはトヨタのランドクルーザーの最高級仕様4700EFIが何台か止まっている。1台の
ランクルが出て行くときには、赤い制服の女性が並んで手を振っていた。公安と書かれた車も止
まっていたので要人が宿泊していたのではないかと思う。9時、バスは空港へと向かう。莫高窟
へ向かう同じ道を進んでいくが、右折せず直進。しばらく行ったところに空港はある。ガイドの
黄さんは最後にお別れの歌を歌う。平屋の駅舎のような小さな空港で、ホテルの玄関のような入
り口から中へ。売店で土産を物色したあと、搭乗券を受け取って搭乗口へ。国内線ではあるが身
分証明書代わりにパスポートが必要だ。ここで黄さんとはお別れになるのだが、彼女の目が青い
ことに初めて気がついた。荷物の検査で、ビン入りのお酒や飲みかけのお酒を見つけられた人が
いた。ハイジャック防止の観点から中国の空港ではビンの持ち込みはできないので放棄するか飲
み干すしかない。X線検査はビンを中心にチェックしているのだろう。待合室へ入る。それほど
大きな場所ではないが、土産物屋が左右両端に2軒もある。ガラス張りを通して広々とした飛行
場の向こうに東方航空の飛行機が止まっている。10時5分にゲートが開いて搭乗開始となるが、
どっと入口に人々が押し寄せる。当然割り込みが多い。搭乗券をちぎって、広い飛行場を歩いて
飛行機まで行き、タラップで上っていく。便名はMU2153で、機材はA320。座席は、グ
ループのペアをいっしょにするため抽選で窓際の24Fに替わった。
10時25分に動き出し、30分にゆっくり進んでいた滑走路上で突然Uターンして、全速力
で滑走し離陸。ドリンクサービスでは、やはりビールはなくコークをもらう。11時20分、食
事が出てきた。行きと同じでライスとヌードルの二種類あったが、ヌードルの方はすでに無くな
っていた。仕方ないのでライスをもらったが、これはスパイスが独特なカレー。パンがやはり一
番おいしい。飛行機の中で路線図を見ていると東方航空は西安を中心に放射状に伸びている。南
方航空との関係はよくわからない。窓からは延々と続く砂漠と白く雪を頂いた山々が見える。
飛行機は12時前に降下を開始する。雲は厚く下界はまったく見えない。雲を突き抜けたと思
うとすぐ地面で西安国際空港に着地。12時20分である。この飛行機は、この後、上海まで行
くようでブリッジで飛行機を降りると、上海と西安の2つに分かれる。その分岐点には一人係員
が立つだけで分かりづらい。ターミナルへ入って、ターンテーブルで荷物をピックアップし、そ
のまま駐車場まで転がして行ってバスに乗りこむ。バスで市内へ向かう。当初の予定では空港で
昼食の予定であったが、機内食が出たため時間を開けるために西安市内での食事となった。バス
で市内まで1時間である。
単さんがちょっとだけ昔話を。毛沢東時代は人民公社にすべての人が所属、働いても働かなく
ても所得は同じで、皆働かなくなるなど平等主義の悪いところが出ていたそうだ。70年代に入
り鄧小平が下請負制を導入し能率主義に転換する。80年ごろから万元戸という大富豪が出て所
得の格差が大きくなっていった。60年代から70年代の主食は雑穀であり、正月には米が食べ
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られて嬉しかったという。80年代は主食が米になり、現在では雑穀の方が高い状況。お陰で高
血圧や糖尿病が国民のなかに蔓延している、とのことだ。
高速道路は2年前空港と共に出来た。渭水の川を渡って市内へ。西安市内は渋滞が名物である
が、この時間は大丈夫だろうとのこと。昼に2時間の休みがあるので、この時間は昼寝をしてい
て出歩かないからだと。西安の中心部は、北門から入って南門へ抜ける。南門外に合弁ホテルで
あるANAホテルが見える。以前は、全日空ホテルと言ってたそうだが、全日空が「1日中空っ
ぽ」という意味になるそうで、笑われたため名称ANAに変えたという。さて昼飯は4つ星ホテ
ルの西安賓館である。麻婆、餃子、酢豚の豚、お菓子が二種類、ニラと豚肉。今回もウェーター
の販売攻勢があって、食事に出されたお菓子を売っている。まけろまけろの大合唱に、1000
円で12個が16個になったり。食後に脂肪を分解するとかいうお菓子を買った。あまりに数が
多いのでちゃんと入ってるかどうか確認するため数えていると、その中にザーサイが入っている
のを発見。指摘すると間違えましたと。どっちが高いか聞いたところザーサイの方がかなり高い
ということがわかり、そのままでいいと開き直る。
バスは陜西省歴史博物館へと向かう。バスは西安の南地区を進む。この地域には20の大学が
集まり、体育館、図書館、美術館が並ぶ。またこの地区は城内と違い高層ビルが許可されており、
現在近代的な建物への建て替えへラッシュである。
大学の授業料は以前は無料であったが、現在は有料だ。また国立よりも私立の方が授業料は安
い。私立が安いという理由は簡単で、単に人気がないということ。進学率は都市部で60%、農
村でも30%。年間費用としては、理系では15万から20万、美大や音大は30万。就職率は
70%で、30%は職にありつけず、より優位な仕事を求めて大学院へ流れる傾向もあって、そ
の辺の事情は日本に通じるところもある。
陜西省歴史博物館へ到着。またいつもの土産屋に毛が生えたものかと思っていると、とんでも
ない。中国四大博物館に数えられるほどの立派なものなのだ。日本の国立博物館に似たような大
きな瓦屋根を持つ建物は女性建築家による作品とのこと。優秀であれば女性でも採用されるとい
う毛沢東の男女平等思想の象徴になっているそうだ。展示は、まず古代から。藍田人の骨から始
まるが、これは北京原人よりはるかに古い110万年前のもの。次が周、西周で、青銅器が飾ら
れる。西周において西安が初めて都となった。青銅器が並び鼎なども珍しい形のものもある。次
が、秦の始皇帝の時代。度量衡の統一、貨幣の統一など短い期間ではあったが業績が大きく展示
されている。その次が、漢。漢を打ち建てた劉邦の奥さんは三大悪女の一人として有名であるが、
その彼女の印鑑が置かれている。次が魏、晋、南北朝、隋唐。唐時代の有名なものといえば、壁
画、唐三彩、金銀ということでこれを中心にした展示。そして宋、元 新では焼物が展示。これ
で展示は終わりで外へ出る。屋外のトイレに入るが、中国のトイレは男女の区別が分かりづらい
と思った。人型の形がはっきりせず、男も赤かったりするので、よく見ないと間違えたりする。
この博物館の回廊部分、中の鉄骨が錆ているようで赤い水が漏っている。そして売店で時間をつ
ぶす。レプリカや絵葉書などが売られているのは日本の博物館と同じだが、古代の貨幣を本物だ
といって売っているのはいかがか。値をどんどん下げていくので怪しい。
次は大雁塔へ向かう。ここも西安の大観光地で人やバスが多い。バスを降りて大雁塔のある慈
恩寺の中へ入って行くと、お寺の案内がちゃんとつく。寺域の案内をし、お寺でお参りをしてか
ら大雁塔の下へ。大雁塔は、インドから教典を持ち帰った三蔵法師が翻訳した教典を納めるため
建立された塔で当初は5層、後に10層となりその後戦火にあって7層となった。高さは64メ
ートルある。塔は、20元払うと登ることが可能だ。ほとんどの人が20元払って中へ。中は木
造の階段があって、7層の階段ぐるぐると上って、一番上で写真を撮って戻ってくる。登ってい
くと東西南北の感覚が狂ってくる。各階に係の人がいて方角を教えてくれる。階段は全部で24
8段である。大雁塔を出て、有名なお坊さん達の遺骨が納骨されている庭へ。石柱が立ち並び、
これが寺に功績のあった住職たちの納骨堂であるという。その中で一番新しい前の住職の墓をし
きりに説明をするが、その理由はあとでわかる。その後、三蔵法師が翻訳作業をしたといわれて
いる建物へ。ところがこの建物やけに新しい。そして入り口を入った部屋には石仏が展示され、
さらにカーテンをくぐって中へ入ると、さっき説明を受けた前住職の書が展示されている。日本
の海部首相に字を書いたとか云々講釈のあと、これらの作品を売るという。8万のものを7万と
値切って買っていた人もいた。故人の貴重な書のように言っていたが、明日来ると同じものがあ
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るのでは、と言っていた人もいた。その奥が土産物屋になっているようだが、そこには入らずに
そのままバスへ。
最後が、西安海潮音茶葉加工工場である。工場の一角にあって、工場は不景気でお茶屋に貸し
ているそうだ。ちょうど6時のため工員たちがぞろぞろ出ていく中をバスは突き進んでいく。中
に入り接待所でいろいろな7種類のお茶を試飲させてくれる。説明書には各お茶の効能が書かれ
ているので悪いところのお茶を買っている人が多いようだ。ここで苦いが糖を分解するという一
葉茶を購入。
夕食は餃子宴である。これは前菜以外、蒸し餃子しか出てこないというもの。焼き餃子は残り
物を焼いたといわれるので本来客のもてなしには出さないそうだ。西安の餃子を有名にしている
のは、西安特産のおいしい小麦による。バスは市街へと進んでいく。朝、夕には川沿いでは太極
拳が盛んであるが、現在は社交ダンスが流行っているとのこと。町を走るタクシーはグリーンと
シルバーに塗り分けられている。楡の木が街路樹として植わっているが、これは西安の木とのこ
と。その他、街路樹にはプラタナスも使われるが、あの大きな葉っぱが落ちると大変そうだ。シ
ルクロードで植わっていたポプラはこちらではほとんど見られない。バスは、古い団地の間を進
んでいく。ボロボロの窓枠、今にも落ちそうな出窓、錆だらけの格子、崩れ落ちそうな外壁。こ
うした住宅は、昔、国から支給された住宅である。共産主義時代は、住宅も医療もタダだった。
餃子宴の会場へ到着。ここは陜西歌舞大劇院で名のとおり劇場になっている。劇が始まる前に
食事が終わる仕組みだ。餃子宴の他に宮廷料理もあり、これを囲んでいる西洋人たちもたくさん
いるが、我々のは餃子宴である。円卓に前菜が並んでいる。しばらく何も出てこないので、ビー
ルを。ウエートレスはアサヒや青島を進めるが、値段が格段に安い青島ビールをライセンス生産
している会社のビールを注文。アサヒの半額15元である。ようやく蒸し器に入った餃子が出て
くる。みんなで1つずつ。なくなると次のが来る。魚、豚、北京ダックなどは形が名を表す。と
うもろこし、とうもろこしと豚肉、などは素材が名を示す。辛いのもあれば甘いクルミ、カボチ
ャなどの餃子も出てくる。その間に水餃子、焼餃子などが出されるのは日本人を意識してか。い
ずれも味付けが日本のものと異なり、しかもこちらのテーブルは子供がいる方だったので飽きて
しまった子供たちは何処かへ行ってしまい、テーブルには売れ残りが増してくる。最後が真珠餃
子と呼ばれるもので、金色の蓋のある鍋が出てきて、これに真珠に見立てた小さな餃子を投入す
る。それをスープごとすくってくれるのだが、真珠が入っているかどうかはわからない。幸いに
も2つ真珠が入っていた。途中賄い料理のジャージャー麺を出してもらっていて、もう食べ過ぎ
状態である。が、これが最後とばかり次々に残った餃子を口に放り込む。
観劇を申し込んでいないので、8時半に会場を後にする。今回はなんと見ない人の方が少なく
3人だけ。あまりこうした5千円近くするオプションを申し込む人は少ないのだが、今回は逆だ。
3人だけのためにバスはホテルへと向かう。建国飯店というホテルだ。古いホテルであるが格
式がある。中庭の池がライトに照らされすばらしいように見えるが、暗くてよくわからない。部
屋も古い。籐の椅子、ベッドも籐である。
8月24日(水)
モーニングコールは7時30分、荷物は8時30分となっていたが、いきなり8時過ぎに部屋
のベルが鳴る。ホームバーなどのチェックなどがあるホテルもあるので、急いで着替えて扉を開
けると「荷物です」と台車を持ったボーイがいる。荷物を引き取りに来たようだが、まだ時間は
あると思って荷造りはできていない。少し待て、と言って急いでスーツケースに詰め込む。大し
たものは買っていないがお菓子やら干しぶどうやら量が多くしかもかさばるものばかりでかなり
のギュウギュウ詰めになっていた。急いでベルトを掛けて表に出すと、台車が置かれているだけ
で係の人はいない。
そのまま食事へと下りていく。朝食は1階ロビー横のレストランである。西洋人の宿泊客が多
いからかもしれないが、一般的な西洋料理が中心で、まんじゅうやお粥など中国の伝統的な朝食
は一カ所に追いやられている。今回は久しぶりの洋食で済ませる。
9時30分、バスはホテルを出発する。城壁の外側を走る第2環状路を通り北の郊外へと抜け
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る。以前は小麦畑が続く田園地帯であったが、今では高層ビルが建ち並ぶ。この辺の地域はハイ
テク街として知られ、電子機器、製薬、食品の会社が進出してきている。次々と畑が減っていく
ことについて、単さんは非常に憂慮しているそうだ。中国はインドの3倍の人口を抱えているが
農地はインドより小さい。いつか中国に食糧難がくるだろうと予言する。
西安国際空港までは約1時間の予定であるが、途中渋滞に巻き込まれる。高速道路は空港近く
の一部区間しかできていない。渋滞の原因は信号機の故障。空港に行くためには左折しなければ
ならないところ、信号が点灯せず、多くの車は、直進の車を無視して突っ込む。さらに左折した
道の真ん中で道路を掘り返しての工事。そこをすり抜けられるのはたった1台という有り様で当
然大混乱となる。今回の旅行でも信号が点いていないところがいくつか見られた。やはり社会基
盤が弱いように感じる。
ようやく西安国際空港に到着。荷物検査の前で単さんとはお別れ。検査を済ませると中国東方
航空のカウンターでチェックイン。荷物が重くなっていて規定の20キロをオーバーした人が多
く、これは添乗員が交渉して全員をグループ扱いにしてもらうことでトータルで計算してもらい
制限をクリア。出国手続きを終えて手荷物検査を通りターミナルへ。広いスペースに免税店があ
る。残っている元が少ないので、円と元を混ぜて使う。品物を選ぶと店員が伝票を作ってくれる。
これを別のところにあるレジで支払い、戻ってくると商品が渡されるという、中国式の売買がこ
の小さな免税店でも行われている。
MU271便は11時30分に搭乗開始。機材はA320である。国際線ターミナルで待つ人
々、つまり東京まで行く人は少ないのですぐに搭乗は終わる。そのあと北京までの国内線利用者
が国内線ターミナルからバスで移動してきて乗り込む。ようやくいっぱいになって出発の準備が
終わる。11時50分に動きだしたがターミナルから離れるだけ。55分本格的に動き出して1
2時5分に西安を離陸した。すぐに雲の上に出て、12時15分にはすぐに食事となる。食事内
容は西安−ウルムチと同じでヌードル。それに硬いハム、肉、サラダ、水はパックに入っている。
飲み物にビールがあり、青い缶の燕京ビールである。用意しておいた出国カード、税関申告書を
チェックする。12時55分に降下を開始し、1時10分着陸態勢となって25分に北京首都国
際空港に着地した。30分には、行きと同じように駐機場に入る。全員タラップで下り、バスで
ターミナルへ。階段で2階の通路に上がり、北京組と東京組に分かれる。東京組は通路を進み、
行きの時に入国した場所に係官が入ってきて出国手続きが行われる。そして待合室で待っている
と14時20分、呼び出しがあって、またぞろぞろとついて行って1階に下りてバスへ乗る。バ
スはターミナル沿いにぐるっとまわって誘導路を横切って駐機場へ。飛行機に再度乗り込んだの
は14時35分。座席は同じである。結局、税関申告書は使わなかった。手続きが変わったと表
明はしているものの中国の管理体制が固まっていないようだ。旅行社では前に出たツアーの情報
を基にして指示しているとのことだが、このように毎回対応が異なると困るであろう。
飛行機は、最初、前の方にしか人が座っていなかったが、その後、バスが到着し、北京、東京
間を利用する人たちが乗り込んでくる。やはり日本のツアー客が多いようだが、手に持っている
航空券が、南方航空、エアチャイナいろいろあるのが不思議である。
15時ちょうどに動き出すも延々と誘導路を走っていく。あっちこっちで拡張工事中であり、
オリンピックへの意気込みが感じられる。15時20分にようやく北京を離陸し、1時間進めて
16時20分に。すぐにドリンクサービスで燕京ビール。つまみはピーナッツではなくクルミの
スナックだった。配り終えるとすぐに食事である。今度はチキンとフィッシュの選択が可能であ
った。フィッシュを選んだところエビとイカの醤油ダレのライス。一方チキンも同じで醤油ダレ
のライスであった。つまり入っているものが違うだけである。その他、ローストビーフ、豆とた
くわん?、パイナップル、水はカップ入り。コーヒーをもらう。19時10分に降下を開始し2
0分には成田に着陸した。またもバスでターミナルへ。検疫はパスで入国審査は珍しく長蛇の列。
ターンテーブルに荷物が出てくるのも遅い。荷物をバラ積みしている影響だろう。ようやく荷物
が出てきて、ここで添乗員ともお別れ。地下の駅に行くと、JRのエクスプレスも京成のスカイ
ライナーも30分以上ない。京成の特急も20分以上待たねばならず、それも後発のスカイライ
ナーに抜かれる。ということで、20時47分発のスカイライナー38号で帰ることに。市街か
ら空港まで1時間以上かかる空港は世界中いくつもあるので、成田も遠いとは言えないが、不便
であることは確かである。
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