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李人稙研究ノート(1)日韓併合前を中心に 咸苔英(韓国近代文学館) 1

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李人稙研究ノート(1)日韓併合前を中心に 咸苔英(韓国近代文学館) 1
李人稙研究ノート(1)日韓併合前を中心に
咸苔英(韓国近代文学館)
1. 問題提起および研究の前提
菊初・李人稙(1896~1916)は韓国近代小説史の最初に位置する人物である。もちろん李人稙より
以前にも多くの作品はあったが、「小説」という様式名をもって実名で作品を発表したのは彼が最初
である。そのために、彼は安子山の『朝鮮文学史』(1922)以来、数多くの文学史家と研究者によっ
て研究されてきた。おそらく彼は 1910 年以前、すなわち近代啓蒙期小説史に限れば、もっとも多く
の論文の対象となった作家であろう。
ところが、これまでの研究成果も形なしと思わせるほど未知の部分が多い作家も、また李人稙なの
である。作品論に比べて作家論はずっと貧弱であり、彼は韓国近現代文学史を通しておそらくもっと
もミステリアスな作家と言っても過言ではない。その理由はいろいろ考えられる。名門出身でないこ
と、貧しい家柄であること、近代的な教育制度が施行される以前に青年期を送ったことなどは、彼の
名前が記録に残ることを妨げたはずである。なによりも彼の強い「親日経歴」が、それにかかわる多
くの痕跡や記録を消したし、我々みずからが廃棄した可能性も高い。
最近、何人かの研究者によって李人稙についての新たな論議が提起されている。1896 年 2 月の露
館播遷による親日内閣崩壊のあと趙重應とともに日本に亡命したこと、『血の涙』を改作した『牡丹
峰』の発掘、1900 年に官費留学生になったのは日本に滞在中であったことなどが、最近提起あるい
は確認された事実である。しかし、1896 年の亡命説が事実だとしても、李人稙についての研究が大
きく進捗したとは言いがたい。李人稙の 54 年の生涯のうち、断片的な事実を通して知りうるのは 20
年に過ぎないからだ。とくに現在まったく知られていない期間が、個人の世界観と人格が形成される
30 代半ば以前であることを考えると、李人稙は解明すべき点がまだきわめて多い作家だといえる。
現在のところ知られている 24 年間(1896~1916)についての事実にも問題が多い。その詳細がはっ
きりしていないからだ。1896 年亡命説が事実だという前提に立って話を進めるとして、1896 年の亡
命のとき李人稙がどんな役割を果たしたのか、彼が通ったという東京政治学校はどんな学校で、彼は
この学校で何を学んだのか、そもそも本当に通ったのか、どうやって官費留学生になったのか、日本
の『都新聞』の見習いはどういうものだったのか、何がきっかけで、どんな過程を踏んで日露戦争に
従軍したのか、また『万歳報』『帝国新聞』『國民新報』『大韓新聞』などの言論人としての具体的
な役割や李完用と趙重應ら親日官僚との関係など、どれ一つ取ってもはっきりしたことは不明で研究
もなされていない。研究のほとんどは、作品に現われた親日的要素を中心に、李完用の秘書として日
韓併合の工作に大きく関与したなど、親日政治家としての姿を強調するのみである。
現在、李人稙という人物の研究において核心をなしていると思われる資料は、1907 年に彼が直接
作成した『大韓帝国官員履歴書』である。李人稙を解明するにあたってほぼ唯一といえるこの履歴書
には、それでも 1900 年以後のことが記録されている。しかし、李人稙自身が作成したこの資料につ
いては大きな問題点がある。作成者本人が書きたいことだけを恣意的に書いた可能性を排除できない
からだ。現在のように履歴書に記載した事項に証拠書類を添付しない状況において、自分に不利な事
項、無理に明らかにしなくてもよい事項は書かない、あるいは事実と違うことを書いても大丈夫であ
る。違うことを故意に記載した場合、違っていることを証明できる客観的資料とか周辺人物らの証言
があればいいが、李人稙は残念ながらそういうものがない。
本研究はまさにこの地点から出発する。未知の領域である 1896 年以前の行動や、李人稙を再評価
しうる決定的な内容に関するものではない。これまで特に疑うことなく論議してきたことを再検討し、
特定期間の李人稙の行動を追跡してみようというのである。具体的には、李人稙が通った唯一の学校
である東京政治学校と日韓併合直前の李人稙の訪日について検討する。
あらかじめお断りしておくが、本稿で提示するのは確認された事実ではなく推論の水準であり、李
人稙の具体的な行動を確認しただけであって、詳しい内容とそれが持つ意味までは進むことはできな
かった。したがって本稿は完成した論文の論議や形式を備えてはいない。また本研究の目的は、あく
までも韓国近代小説史における李人稙とその作品がもつ意味をより客観的に考察することにあり、好
事家的な趣味や関心から個人の行動を調査するようなものではないことを明らかにしておく。
2.東京政治学校について
現在、小説をはじめとする文筆活動および言論人と政治家としての李人稙のすべての活動の起点は、
彼の日本滞在経験であるとされている。とりわけ東京政治学校での修学と『都新聞』における見習い
がその中心である。李人稙はこの二つの場所での経験を通して、文学と社会科学などさまざまな近代
学問を学び、新聞主筆や小説家として活動するために必要とされる知識を習得したのである。『都新
聞』での見習いは、彼がこの新聞に発表したいくつかの文章によって確認されるし、東京政治学校は
彼の履歴書と 1910 年の日韓併合当時に朝鮮統監府の外事局長をつとめた小松緑の回顧録に登場する。
筆者が疑問をもっているのは、東京政治学校についてである。周知のごとく李人稙は 1900 年 9 月
に東京政治学校に入学して 1903 年 7 月 16 日に卒業したことを履歴書で公開している。東京政治学
校は、松本君平が立憲政治家とジャーナリスト(新聞記者)と外交官を養成する目的で、1898 年 10
月 17 日に設立した学校である。修業年限は 3 年(仏語科は 2 年)で、年度は前期(9 月~2 月)と
後期(3 月~6 月)の 2 学期でなる。当時の日本の高等教育機関と同じく 9 月に新学期が始まり、授業
料は年間 15 円で、17 歳以上の男子のみ学生として受け入れた。当時の他の学校と比べて、この学
校のもっとも大きな特徴は、政治学や新聞学などの社会科学の専門知識を身に付けた政治家や新聞記
者を職業養成しようとした点である。この学校が強調したのは、何が現実の政治社会的な問題である
かを認識してその解決策を導き出せるような実質的な能力の涵養であり、なかでも力を注いだのは新
聞記者の養成だったという。
この学校は、李人稙が 1905 年以後に言論人と小説家として活動するさいに必要とした各種の知識
の源泉地だったとみなされている。李人稙が書いた文章と、東京政治学校の設立者であり校長であっ
た松本君平と講師の浮田和民や有賀長雄の著述との比較研究が、これを示している。これらの研究は、
李人稙が『血の涙』や『鬼の声』などの小説を新聞に連載したこと、および彼が在職した新聞の論説
や雑誌に書いた論説は、東京政治学校の講師たちの理論と主張の要約や変容であったと主張している。
しかし、李人稙は本当に東京政治学校に通い、卒業したのだろうか。いや、東京政治学校ははたし
て正常に運営された学校なのだろうか。とりあえず彼が東京政治学校で受講したことは事実と見なす
べきだろう。東京政治学校で講義をした小松緑が、李人稙が自分の授業を聞いたことを二回にわたり、
一貫性をもった回顧をしているからである。とはいえ、この学校が正常な学校であったかについては
綿密な検討が必要だと思われる。とりわけ、李人稙が通ったことになっている開校直後の状況は注意
深く検討せねばならない。東京政治学校は上級学校に進学できる正式の学校ではなかったためか、現
在残っている資料があまり多くなく、李人稙と同じように、明らかにすべきことが多い学校なのであ
る。この学校に在学したか卒業した人たちが当時を回想した記録を見ると、きちんと運営されたとは
言いがたい。資料は多くないが、この学校が正常に運営されていなかったことを証言しており、とく
にそれが李人稙の通った時期であったことが重要である。日本の社会主義運動家である山口孤剣と山
川均は 1898 年から 1903 年にこの学校に通ったことがあるが、彼らによればこの学校は開校直後2~
3 ヵ月間まともに運営されただけで、そのあとは給料の問題のため講師たちが学校に出てこなかった
という。古い校舎を借りて門を開いた東京政治学校は学校というより「講習会」みたいなもので、
「講習会」レベルの講義もまともに行われなかったのである。「新聞の論説で読むような学校」と回
顧しているのは、全体的な文脈から見て、新聞の叱咤をうけるほど運営がいい加減だったことを推測
される。一方では、講師陣の問題もあったとも考えられる。政官界、言論界、学界の著名人で構成さ
れた華麗な講師陣がこの学校の自慢だったが、その華麗な経歴が示すようにどの人も本業をもつ、い
わゆる非常勤講師だった。各界を代表する著名人だっただけに、非常勤講師といっても毎週決まった
時間に講義をするのは難しかったことだろう。結局、1903 年 7 月の第 3 回卒業式のあと、この学校
は廃校となり、残っていた学生のほとんどを東京専門学校に転学させたという。開校直後だけはまと
もな授業を行なって学校の命脈をなんとか維持し、1903 年に廃校となったのである。
小松緑の回顧はどうなっているだろうか。小松は二度にわたって、李人稙が趙重應とともに自分の
講義を聴いたと回顧している。1900 年代後半に小松が韓国にいたときも、過去の因縁で李人稙と親
しかったことを回顧していることから見て、李人稙が東京政治学校で小松の講義を受講したことは間
違いない事実だと思われる。しかし小松が東京政治学校講師をしていたころ、李人稙が「課外生」
(1920)と「聴講生」(1936)として講義に来たと述べていることに注意すべきである。つまり李人
稙が講義を聴いたのは、正規の学生の身分によってではなかった。実際、東京政治学校では正規の学
生のほかに「選科生」や「校外生」という特定科目を選択して受講できる制度があった。このほかに、
小松が東京政治学校に在職していた期間の確認も重要である。現在残っている東京政治学校関連資料
や小松の回顧録と外務省公務員勤務経歴などを勘案すると、小松が講師として在職していた時期は
1898 年 10 月から 1900 年の前半までだと思われる。1900 年の後半に小松は米国のワシントンに行く
よう発令を受け、1905 年まで勤務したからである。
それなら李人稙は 1900 年以前に正規学生ではなく「選科生」か「校外生」の身分で東京政治学校
の講義を受講したことになる。聴きたい講師の講義や、時間が許すときのみ東京政治学校に行って受
講したわけである。履歴書にある 1900 年 9 月東京政治学校入学という記載が事実で、これが正規生
としての入学という意味なら、李人稙はいったん「校外生」になったあと入学したわけである。とこ
ろが、この時期の東京政治学校は授業がいいかげんで、学校の運営はまともとはいえなかった。した
がって李人稙と東京政治学校との関係は、最初から見直さねばならないと考える。つまり東京政治学
校の影響は、正規の学生ではない「校外生」としてのものであったと見なすか、場合によっては東京
政治学校の影響関係を、中核的な次元から付随的な次元に下げるべきかもしれない。現在はどちらが
正しいと確言するのは難しい。ただ、李人稙の思想や知の形成において東京政治学校の影響力は最初
から検討し直すべきであることは確実だと思われる。
3. 日韓併合直前の訪日について
併合直前の 1909 年から 1910 年ころ、李人稙は文人や小説家あるいは言論人というよりは李完用
の秘書として政治人としての姿で登場する。このころ李人稙は大韓新聞の社長でいながら、孔子教の
運動や国是遊説団と国民大演説会の活動、李完用の秘書など、多様な活動をくりひろげる。また、こ
の時期の特徴の一つは日本との頻繁な往来である。李人稙の国内活動に比べると、この時期の彼の日
本での行動のことはあまり知られていない。彼が日本に行くたびに国内言論はその理由について疑い
に満ちた視線を向けたが、実際に日本で何をしたのかについては詳しい報道も記事も存在していない。
本研究では、1909 年 12 月の訪日時の行動について考察したい。このときの李人稙の行動について
は日本側が詳しい記録を残している。「『伊藤公爵薨去後ニ於ケル韓國政局竝ニ總理大臣李完用遭難
一件 單』(1909-1910)というタイトルの資料がそれである。
1909 年 12 月の李人稙の日本訪問は当時一進会が提出した合邦請願書と関連がある。周知のとお
り一進会は 1909 年 12 月 4 日に合邦声明書を発表して、これを純宗と内閣総理大臣、統監に提出する。
これをきっかけに韓国はもちろん日本でも、大きな波紋と激論が起きる。時期尚早論と即時実施論が
それである。国内ですぐさま反対を表明をしたのは李完用内閣だった。李完法は請願書が提出された
翌日の 5 日に合邦反対のための国民大演説会を開催するなど、さまざまな活動を展開する。李人稙の
12 月の中旬の日本訪問は、まさにこのような李完用の合邦反対運動の一環だった。
李人稙は 12 月 17 日ころ出発して約3ヶ月日本に滞在した。日本訪問の目的は、表面的には政治
関係ではなく孔子教の日本支部設置だったが、李完用の密命を受けて日本内で合邦反対運動をするの
が本当の目的だという説が広まっていた。東京の新聞を通して日本の輿論を喚起し、韓国の留学生と
同志会を扇動するのが李人稙の目的だというのが、彼の日本訪問をめぐっての噂であった。これは当
時、国内の言論のみならず、日本当局はもちろん黒龍会までもが疑っていたことである。李人稙は日
本に到着してからも、政治的な理由で来たのではないと口を酸っぱくして否認し、当時の日本の記者
をはじめ会う人ごとに誤解のために仕事ができないと何度も不満をもらしている。
『伊藤公爵薨去後ニ於ケル韓國政局竝ニ總理大臣李完用遭難一件 單』は、当時日本の情報当局が
作った秘密文書のようだが、ここには李人稙の日本での日ごと、時間帯ごとの行動がじつに詳細に記
録されている。当時の国内言論も、李人稙の日本訪問にたいして日本の当局も厳しく注意をしている
と報道はしていたが、李人稙がどこに泊まり、どこに行って誰に会い何をしたかなどの内容が分単位
で記録されていて、甚だしくは李人稙が留守の時に到着した郵便物までひそかに開封して中身を詳し
く報告しており、日本当局の注意と警戒が言論報道以上に厳重であったことが知られる。実際には、
李人稙が宗教問題のために来たのか、それとも噂どおり合邦反対運動のために来たのかについて、こ
の秘密文書が好奇心を満たしてくれることはない。この資料には李人稙の詳細な動きと会った人物な
どが記録されているだけで、李人稙が交わした会話の中身まではないからだ。李人稙が会った人物た
ちを通して、彼の目的を間接的に確認しうるのみである。3ヶ月間、李人稙は東京で韓国人を入れて
何人かの人物に会い、さまざまな活動をしている。この報告書に出てくる人々と李人稙が日本で会っ
た人々を整理すると、以下のようになる。
*韓国人: 陸鐘允, 高元勲, 呉政善, 金基璋, 박종직, 유유근, 김재곤, 윤태진
*일본인 : 中村八太郞, 岡村熊久, 中村久四郞, 須藤正守, 森一瓢, 花田節, 吉田龍郞, 松本君平,
大垣丈夫, 小松綠, 荒浪平次郞, 伊澤巖吉, 竹越興三郎, 板倉中, 中村米作, 伊藤伊吉
具体的にこれらの人物に対して確認できなかったが、韓国人は主として東京で勉強していた留学生
のようである。日本人は東京政治学校関係者たちと、大韓協会関係者、大韓新聞関係者たちの名前だ
と思われる。公式には、李人稙は彼らに会って孔子教日本支部の設置運動をおこなった。しかし、何
の意図で彼らに会い、何をしたかは謎のままである。本研究の進展方向として、まずこれらの人物が
誰であるかの解明を中心に行なう予定である。それにより、当時の李人稙の日本訪問の意味が現われ
てくるであろう。それは韓国近代小説の最初を飾る李人稙という人物の正体と韓末政局での位置、彼
の文筆活動のもつ歴史的位置、ひいては韓国の近代小説史の草創期をめぐる政治現実の背景に関する
より幅広い資格を提供することになろう。
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