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「古代共和政の墓標」から「共和国下剋上の記念碑」

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「古代共和政の墓標」から「共和国下剋上の記念碑」
④
●
①
●
②
●
③
●
写真で語る世界史
「古代共和政の墓標」から
「共和国下剋上の記念碑」へ
−サン・マルコ大聖堂のテトラルキア記念碑−
入された。この改革により、ローマ共和政の伝統はほと
んど消滅した。ほぼ同じ姿で没個性な4皇帝の群像は、
中世の開始を示すものとも評されるが、
「古代共和政の
イタリアのヴェネツィアといえば、あらためて紹介す
墓標」といいうるであろうか。この像は、元来はディオ
るまでもない有名な観光地であるが、本稿では第4回十
クレティアヌス帝の本営都市ニコメディア(トルコのイ
字軍に関するひとつの文物に、焦点をあててみたい。
ズミット)に置かれていたのであろうが、330年にコン
ヴェネツィアは、今も船がおもな交通手段である。鉄
スタンティヌス1世が開都した「第2のローマ」コンス
道か自動車でヴェネツィアを訪れたなら、ローマ広場で
タンティノープルに、移された。「第2のローマ」を都と
水上バスなどに乗り換える。ジュデッカ運河をサン・マ
したビザンツ帝国では、
「市民(デーモス)
」は宮廷官吏
ルコ広場に向かって航行すると、鐘楼とパラッツォ・ド
と化していた。900年弱を経た13世紀初頭、そもそもは
ゥカーレ(総督宮殿)がまず目に入る(写真①)。広場
ビザンツ帝国の宗主下に成立したヴェネツィア共和国が、
と同じ守護聖人の名を冠したサン・マルコ大聖堂は、元
この像を略奪した。
来は総督の私的礼拝堂であり、総督宮殿と棟続きになっ
この後ヴェネツィア共和国は、レパント貿易によって
ている(写真②)。サン・マルコ大聖堂は、ビザンツ様
繁栄を恣にし、
「アドリア海の女王」とも称された。第
式教会建築の代表例とされるが、その正面入口(写真③)
4回十字軍とは、ヴェネツィア共和国のビザンツ帝国に
屋上の4頭の馬の銅像(現在置かれているのはレプリカ)
対する下剋上でもあったといえようか。テトラルキア記
は、第4回十字軍のコンスタンティノープルからの略奪
念像は、その下剋上の記念碑であるかの如く、4頭の馬
品として有名である。さらにこの大聖堂の正面から見て
の銅像とともに、サン・マルコ大聖堂を飾り立てている。
右側面の一角に、やはり第4回十字軍の略奪品のテトラ
ルキア(四分統治)記念像(写真④)がある。
テトラルキアは、3世紀末に、ディオクレティアヌス
帝によって、専制君主政(ドミナートゥス)とともに導
(山形県立山形南高等学校 高橋 徹)
写・真・募・集
このコーナーの「カラー写真」を募集しています。国内・
海外で撮影された社会科の写真を、資料編集部「世界史のし
おり」係までお送りください。
現代アメリカ外交の展開
東京大学大学院総合文化研究科教授
古矢 旬
最大の生産量を誇るまでに発展を遂げる。しかしなが
はじめに──現代アメリカ外交史の「世界性」
らこの急速な産業化の反面、19世紀末の合衆国は、ほ
19世紀のアメリカ合衆国(以下、合衆国と記す)が
ぼ10年ごとの周期的な経済恐慌にみまわれていた。時
欧州中心の国際政治からの孤立を旨として、北アメリ
あたかも、それまで「無限に開かれた機会の地」とい
カ大陸における征服と膨張と開発に専心していたのと
うアメリカ・イメージを支えてきたフロンティアの消
は対照的に、20世紀以降の合衆国は国家としてのさら
滅が宣告されたこともあり、海外市場の開拓はさらな
なる発展の可能性を北アメリカ大陸外の世界にも求め
る経済発展のために急務となっていた。ここに合衆国
ざるをえなくなってゆく。したがって、19世紀末以降
外交も、帝国主義諸列強間の市場獲得競争、植民地争
21世紀初頭にいたる合衆国の対外関係史は、国際社会
奪戦への参入を図り、伝統的な孤立主義から国際介入
全体の動向や世界史的な変動と密接に連関した軌跡を
主義への転換を模索することとなる。
描くことになる。この間合衆国は、他地域の権力政治
1898年の米西戦争は、この転換を劇的に推し進め、
にしだいに深く関与し、圧倒的な経済力と軍事力を背
「海洋帝国アメリカ」の登場を内外に印象づけた事件
景として世界大戦に参入し、その帰趨を決し、ついには
であった。この戦争に勝利した結果、合衆国は自らの
超大国として国際的なヘゲモニーを掌握するにいたる。
伝統的な勢力圏とみなしてきた中米、カリブ海域と、
このように合衆国が国際的なアクターとしての重要
アメリカ資本主義の将来的な市場と見込まれるアジア
性を比較的短期間に著しく高めていった要因の1つが、
との両地域において老帝国スペインの地歩を引き継ぐ
ヒトやモノの運輸速度や情報の伝達速度の飛躍的向上、
ことになる。
科学技術の応用、機械化や合理化による大量生産方式
しかし、合衆国が激しい民族的抵抗と長いゲリラ戦
の導入、といった一連の技術革新にあったことは疑い
を武力制圧して成し遂げたフィリピンの植民地化は、
ない。世紀転換期の世界にあってこうした技術革新の
合衆国の対外政策が国際介入主義へと舵を切ったこと
先頭を切ったのが合衆国であったことを考えるならば、
を象徴するにとどまらない。それは、従来合衆国が共
20世紀のこの国の動向が、顕著な「世界性」を帯び、
和主義、反植民地主義の立場から一貫して批判してき
アメリカ外交史が世界史と連動しつつ変遷してきたこ
たはずの(ヨーロッパ型の)帝国主義的策謀に自ら手
とに不思議はない。
を染めることをも意味していたのである。以後、合衆
こうして世界史的な枠組みを意識しながら、現代ア
国は、フィリピンを橋頭堡として、中国という潜在的
メリカ外交の歴史を概観しようとする際、それはごく
大市場に対し門戸開放原則を掲げつつ、参入の機会を
概括的に以下の4期に区分することができるように思
模索してゆくことになる。
われる。以下、これらの段階に順次考察を加えてみよう。
一方、カリブ海域においては、セオドア=ローズヴェ
ルト大統領のもとモンロー主義の拡大解釈により、合
第Ⅰ期:起源(1880年代〜1917年)
衆国の国際警察権を主張し、実際にしばしば中米諸国
現代アメリカ外交史の第Ⅰ期は、世界史的に見るな
への武力干渉の挙に出た。このいわゆる「棍棒外交」
らば、帝国主義列強による世界分割の時代にあたって
は、中米地峡地帯に太平洋へと通ずる運河建設予定地
いる。この時期、急速に発展する国内市場に恵まれた
を確保するという地政学上の一大目標を背景としてい
合衆国製造業は、先進のヨーロッパ諸国をしのぎ世界
た。ローズヴェルトは、コロンビアから独立させたパ
−−
ナマとの条約により、運河地帯の永久租借権を獲得す
であった。のみならずどちらの場合でも、合衆国は戦
ることに成功した。1914年に開通したパナマ運河を手
後の国際秩序の再建と国際経済の復興に、豊富な物的・
にしたことにより、合衆国は大西洋、太平洋をつなぐ
人的資源と独創的なアイデアとを注ぎ込んでいった。
いわば両洋国家としての出発を果たした。
その結果、国際政治のヘゲモニーは明白にイギリス
こうした対外政策指針の変更を正当化するために、
からアメリカへと移譲され、世界史は「パクス=アメリ
当時の合衆国の外交指導者や好戦的ジャーナリストた
カーナ(アメリカの平和)の時代」を迎えることになる。
ちは、自由とデモクラシーを国是とし、かつ文明の最
こうして到来した「アメリカの世紀」がめざすべき
先端に位置するアングロ・サクソン民族を祖とする合
世界像は、2つの大戦中に提示された
「戦後構想」
──
衆国が対外的影響力を増大させることは、人類社会全
第一次世界大戦時のウィルソンによる「14か条」や第
体にとっての恩恵にほかならないという特殊に人種主
二次世界大戦時の英米共同宣言による「大西洋憲章」
義的な歴史観、国家的イデオロギーを鼓吹する。それ
──によって提示され、現在にいたるまで合衆国の国
は、その後多少の変奏はあっても、長く合衆国の対外
際主義の指導的理念であり続けている。逆に、アメリ
介入を正当化する論理として用いられてゆく。
カ外交の伝統的孤立主義はその歴史的役割をほぼ完全
しかしこの時期、合衆国は欧州国際政治に関しては、
に終える。1945年以降、欧州諸列強が弱体化し、冷戦
モンロー主義によって定式化された相互不干渉原則を
が開始される状況下、合衆国も自国の安全と繁栄を、
なお固持していた。アメリカ外交が、この限界を突破
世界秩序の安定化と結びつけて考えざるをえなくなる。
し、その対外的干与が名実ともに「世界化」するのは、
いうまでもなく2度にわたる世界大戦、さらには冷戦
第Ⅲ期:冷戦期(1945〜1991年)
という戦われざる世界大戦をまたなければならなかっ
全世界で死者総数5,500万人という犠牲を払ったに
た。
もかかわらず、第二次世界大戦の終結は人類社会に普
遍的な平和をもたらしたわけではない。終戦とほとん
第Ⅱ期:世界戦争期(1917〜1945年)
ど同時に開始された冷戦が、
「アメリカの平和」が約
さて2つの大戦に挟まれた時期を世界史的文脈から
束したはずの自由と繁栄を、地域ごとにきわめて不均
見るならば、それは国際的資本主義の急速な発展にと
等に配分する結果となったからである。
もなう世界経済の不均衡の拡大により、帝国主義列強
それらの価値の配分主体としての合衆国にとり、戦
間の覇権争いが加熱し世界戦争を招来した時代であっ
後の世界は、①先進的な自由資本主義諸国群、②それ
た。第一次世界大戦後の世界を包み込んだ永久平和と
に敵対する共産主義国家群、そして③近代化に遅れた
繁栄の夢は、わずか10年後に合衆国から始まった世界
第三世界の途上国群の少なくとも3種に色分けされた。
恐慌の嵐の中で雲散し、次の15年間の世界は、自国の
冷戦期、合衆国外交の主眼は、第一に、
「自由と民主
勢力圏に固執する列強間の対立により、再び戦乱の渦
主義」を価値として共有する①の諸国家の戦後復興を
に飲み込まれてゆく。こうして2度の大戦は結果とし
援助し、国際資本主義体制を整備、安定化させること、
て、旧来の諸帝国を解体し、それらの植民地支配下に
第二にそれらの諸国家との間に同盟網を構築すること
置かれてきた諸民族の解放運動を活性化し、さらには
により、
「全体主義的」
かつ妥協不能な敵としての②の
資本主義の対抗システムとしての社会主義に立脚した
膨張傾向を牽制し、これを現状のうちに封じ込めるこ
新しい国家を生み出した。ここに19世紀以来の西欧列
とに置かれた。その後、この①と②の陣営間対立は、
強優位の国際政治の構図は、決定的に変化することと
それに随伴する核軍拡競争が「恐怖の均衡」に達する
なった。
まで深刻化していった。とはいえ、このチキン・ゲー
2度の世界大戦に直面した当初のアメリカ外交はな
ムが破局に陥るのを避けるため、米ソによる軍備管理
お、孤立の伝統と国際介入への現実的要請との間で逡
の努力は、1980年代後半まで続けられてゆく。
巡する。しかしどちらの場合も、最終的に戦争の帰趨
②との和解不能な長期的対立を経て、戦後アメリカ
を決したのは遅れて参戦した合衆国の軍事力と経済力
外交の基本視角は、しだいに硬直した善悪二元論的様
−−
相を帯びるにいたる。しかし、この視角は、地理的に
移動・伝達は、1990年代に入りIT革命の進展とともに、
も歴史的にも①、②のいずれとも異質な③の諸国に対
ますます活性化、高速化し、本格的なグローバル化の
する合衆国の無理解という盲点を内包していた。すな
時代が到来した。
わち、アングロ・サクソン中心主義的な漠とした人種
他方で、冷戦の終わりは、皮肉なことにそれが1つ
的優越意識以外に、強固な民族的アイデンティティの
の強固な国際秩序であったことを明らかにした。ふり
核を持たぬ合衆国の国民社会は総じて、③の諸国の多
返れば、たしかにそこには2つの超大国による世界の
くが、西欧帝国主義の支配下に長く置かれてきたがゆ
分割統治という様相が含まれていた。その終結は、こ
えに熱烈に追求してきた民族解放ナショナリズムへの
の秩序から一方の超大国が脱落し、分割統治のパター
理解を欠いていた。その結果、第三世界に、西欧近代
ンが解体したことを意味していた。ソ連の解体に踵を
的な「自由と民主主義」の価値観を注入し、その近代
接するようにして起こったイラクのクウェート侵攻は、
化計画にふんだんな援助を与えることによって、③を
合衆国の主導する湾岸戦争を招来する。アメリカ外交
①の陣営内に従属的要素として取り込むことが可能で
はここからソ連という相方抜きで新しい世界秩序の模
あると信じたことに、冷戦期アメリカ外交の失敗の一
索を開始することになる。
因が潜んでいた。このことを、合衆国国民にもっとも
しかしながら冷戦の終結とグローバル化の進展は、
痛切に思い知らせたのが、ヴェトナム戦争であったこ
新たな世界秩序の萌芽よりは、むしろ各地に続々と統
とはいうまでもない。
制困難なアナーキー状態を生み出してきた。すなわち、
この戦争を終息させたニクソン−キッシンジャー外
無謀な隣国への侵犯、内戦、かつての同国人や隣人に
交は、合衆国の「力の限界」を認め、冷戦のイデオロ
対するジェノサイド、民族浄化、宗教紛争、世界的
ギー的な対立を極力抑制し、大国間の勢力均衡による
な経済格差の拡大、通貨危機、適切な国際的規制を欠
安全保障を模索した点で現代アメリカ外交史のうちで
いた自然の乱開発、環境汚染、そして国際テロの横行
異彩を放っている。とはいえ、ニクソン大統領がウォー
等々、無秩序のグローバル化としかいいようのない諸
ターゲイト事件で辞任を余儀なくされた結果、彼の新
現象が、1990年代の世界をつぎつぎと襲ったのである。
しい外交は定着を見ることなく終わった。その後、レ
おそらく9・11事件もより根本的には、こうした「無
ーガン大統領の下で、再び強固な反共主義に立脚した
秩序化」に連なる出来事であったと思われる。
イデオロギー的外交が復活する。そして1989年、冷戦
この事件が引き起こした国際政治秩序の流動化に対
は米ソが1度も直接干戈を交えることなく終結が宣言
し、当時のブッシュ大統領はふたたび「テロか反テロ
され、1991年にはソヴィエト連邦それ自体が解体する。
か」という単純化された二元論的枠組みを適用し、ア
これを全体主義体制の自壊と見るか、合衆国の冷戦外
フガニスタンとイラクでの2つの戦争によって、事態
交──とりわけソ連を「悪の帝国」と呼び、戯画的な
の収束を企図し、それを果たせぬままにオバマ政権に
までの善悪二元論的冷戦認識を呼び戻したレーガン外
道を譲った。
交──の勝利と見るかはいまだに議論の分かれるとこ
一方、冷戦後のアメリカ大統領は(おそらくはオバ
ろではあるが、この結果をもたらしたもっとも根底的
マ現大統領も含めて)共通に、合衆国経済の発展可能
な時代条件の1つが、国境も異質な政治体制の壁も容
性をグローバル化の進展に結びつけて追求してきてい
易に越える、経済と情報通信のグローバル化現象であ
る。しかし、2008年の世界的金融危機の発生までは基
った点は逸することはできない。
本的に維持されてきた、その展望は、この危機を境に
大きく損なわれ、合衆国経済は停滞のサイクルに入り
第Ⅳ期:グローバル化時代(1991〜2010年)
つつある。この年選出されたオバマ大統領は、かくし
冷戦後、新自由主義の旗印の下、合衆国が主導する
てアフガン・イラク戦争の収束とアメリカ経済の危機
市場経済は、国際的にも旧共産圏や中国を含む広範な
克服という巨大な課題に直面しているといわなければ
地域に急速に拡大していった。冷戦末期にすでに各地
ならない。
域で見られたヒトやモノや資本や情報の国境を越えた
−−
物を通して見る世界史
ユリウス暦(太陰暦)
前46年、カエサルはエ
西洋の暦
ジプト暦を取り入れて改暦した。エジプト人はナ
イル川の洪水の周期との一致をもとにシリウス周
埼玉大学名誉教授 岡崎勝世
期(=365.25日)を発見して世界最初の太陽暦を
発明し、4年に1度閏日を設けていた。彼は閏日
太陰暦、太陽暦、太陰太陽暦 天文学上、1朔
を従来閏月が置かれた2月23日と24日の間に入れ
望月は29.530589日、1太陽年は365.2422日である
たほか、当時習慣になっていたJanuariusを年初
から、12朔望月で11日ずれる。農業上の必要から、
に置くことを公式に定めた。また誕生月に自らの
太陰暦を採用したところでは太陽年に近づけるた
名を与えてJuliusとしたが他の月の名称は変えな
めに閏月を置く太陰太陽暦が行われたが、19年間
かったから、その結果、本来の数詞の意味より2
に7回の閏月を置くと、太陽暦と再び一致する。
多い、9月以降の今日の月の呼称が確定された。
これは「メトン周期」
(前432提唱)と呼ばれるが、
アウグストゥスはアクティウムの海戦勝利を記
バビロニアでは前9世紀にすでに採用されていた。
念して8月をAugustusと改称し、31日(大の月)
バビロニア暦と七日週、占星術 今日の「週」
にして代わりに2月を28日に切り詰めた。ティベ
を最初に設けたのはバビロニア人であった。彼ら
リウス帝は11月に皇帝名を与えるとの提案に対し
は太陽、月と五惑星を神々と同一視し、7日の各日
「皇帝が13人になったらどうするのか」と言って
を支配する神を設定した。神の名はローマ人、ゲ
拒否したと伝えられる。それでもネロネウス(4
ルマン人によって同じ権能を持つ神に置き換えら
月)など何人かの皇帝が自分の名を月に与えたが、
れて今日の西欧各国での曜日名となっている。他
すべて死後に否定された。こうしてアウグストゥ
方各日を支配する神々は、また、人間界の支配者
スが決定した月の名称と各月の日数が、今日に伝
でもあった。そこでこれらの天体が人間の運命を
えられることになった。
支配すると考えられ、ここから占星術も生まれた。
グ レ ゴ リ ウ ス 暦 ユ リ ウ ス 暦 は 太 陽 年 よ り
これを導入したのはギリシア人で、アテネ人は
0.0078日長く、128年で1日ずれる。ニケーアの
今日の7月から始まる太陰太陽暦を使用した。ま
公会議(325)で復活祭の日が「春分後の満月の
た60進法や占星術、星座などをローマに伝えた。
あとの最初の日曜日」と定められたが、このため、
ローマの暦と月の名称 「カレンダー」の語源
当時は3月21日だった春分が、16世紀半ばには3
はローマ人の毎月の一日の呼称「カレンダエ」で
月11日となっていた。そこで1582年、教皇グレゴ
あるが、各月の名称もまた、ローマ人に由来する。
リウス13世は、10月4日(木)の翌日を15日(金)
最古のローマ暦(
「ロムルス暦」
、擬似的太陽暦)
として10日のずれを解消し、100で割り切れても
では軍神マルスにちなむMartius(今日の3月)か
400で割りきれない年は閏年とせず、閏日を2月
ら始まり、次いで女神アプロディテ(ヴェヌス)
、
29日とする改暦を実施した。これにより平均日数
マ イ ア、 ユ ー ノ ー に ち な ん でAprilis、Maius、
は365.2425日となり、1年に26秒(1万年で6日
Junius、以後は5から10までのラテン語の数詞を使
間)の誤差しか生じない今日の暦となった。
用してQuintiris、Sextilis、September、October、
この改暦には、カトリック地域は直ちに従った。
November、Decemberと呼んだ。残る2か月には
しかしプロテスタント地域ではローマ教皇が時間
名前がつけられていなかったが、農作業も戦争も
を管理することへの反感が強く、ドイツ・オラン
ない月だったからだといわれる。その後、この2
ダは1700〜01年、イギリスは1752年にやっと受け
か月に名前がつけられ、ヤヌス神からJanuarius、
入れた。ギリシア正教地域はもっと遅れ、ソ連は
ザヴィニ女性略奪事件の和解に際し、贖罪の神に
1918年、ギリシア、ルーマニアは24年であった。
ちなむFebruariusが置かれたと伝えられる。
日本では、1873(明治6)年に採用された。
−−
せん ぎょく
顓頊暦以降、清朝にいたるまで50回近くになる。
中国の暦
おもな理由は、日月の運行の観測データと実際の
早稲田大学教授 近藤一成
天体運行の周期とに差があり、長い年月がたつと、
日月食の予測がはずれるなど暦と天文現象が合わ
時の管理は天子の専権事項 中国は過去3000年、
なくなるために修正が必要となるからである。し
干支による日付を1日も欠かすことなく連続させ、
かし改暦数は、その必要をはるかにうわまわる。
天文現象をほぼ絶やすことなく記録しつづけた世
前漢の太初暦 新たに天命を受けた王朝は、
「受
界に類のない歴史をもつ。中国歴代王朝の天子・
命改制」といって前王朝とは異なる正朔と服色を
皇帝は、天命をうけ天の代理者として世界を統治
採用するという考えがある。各王朝は、独自の暦
するという理念にもとづく存在であり、時の管理
を編纂して受命の事実を広く知らせた。前漢武帝
は天子の専権事項であった。暦の作成は天子のみ
の太初元(前104)年に施行された太初暦は、す
に許された行為であり、
「正朔(暦)を奉ず」と
でに戦国時代から行われていた、1年を365日と
は天子の暦を使用すること、すなわち、その統治
4分の1日、19年間に7閏月を置いて季節を調整
に服することを意味した。明の建文帝が、足利義
していた四分暦を継承し、しかも1年の長さはご
満を日本国王に封じたときに大統暦を賜ったこと
くわずかではあるが先行暦より誤差が大きい。改
は、その一例である。
暦の理由は、五徳説による秦水徳・漢火徳説の確
中国独自の要素をもつ太陰太陽暦 中国の暦は
立にともない、開国の皇帝でもない武帝がここに
太陰太陽暦であるが、中国独自の要素を併せもつ。
いたって「受命改暦」の断行をはかったことにあ
それはまず第1に、早くから太陽と月の動きだけ
ろう。以降、政治的要因による改暦が通例となる。
でなく、五惑星の天球上の位置を示し、日食月食
元の授時暦 郭守敬編纂の授時暦は、一般にイ
の予報、食の状況についても記す天体暦であった
スラーム暦を参考に作成されたと説明されるが、
ことである。これは暦を編纂する術数学が、儒学
中国科学史家の薮内清によれば、中国古来の伝統
の古典である経書を解釈する経学の範疇内にあり、
的な暦である。その特徴は、イスラーム天文学の
その経学による世界認識が陰陽五行の運動から説
影響を受け精妙に作成された観測機器の作成にあ
明される世界生成論を基礎にしたからである。月
り、それを使用した入念な観測結果と計算方法の
と太陽が陰陽に、木火土金水の五惑星が五行に配
改良によって優秀な暦となったのである。次の明
当され、それらの位置関係が記された暦は、紀元
の大統暦も中味は授時暦であり、日本でも江戸時
前後、前漢末の三統暦から始まる。ちなみにヨー
代に貞享暦としてとりいれられた。
ロッパでの天体暦は、17世紀後期のパリ天文台発
清の時憲暦 イエズス会士による西洋の最新の
行が最初といわれる。
天文知識を集大成した明の崇禎暦書にもとづく。
第2に、天文現象を注意深く観測し、異常があ
反キリスト教勢力の讒言によって起こされた暦獄
れば、天子の言動とどう関係するのかを論議する
によって、時憲暦作成の中心にいたアダム=シャ
天人相関説が行われた。すなわち天体暦は占術の
ールは、不敬罪で死刑の判決を受け獄死。しかし
書でもあった。占術書としての暦は、庶民レベル
再度採用された明の大統暦と回回(イスラーム)
になると農事を記載する農暦の性格のみならず、
暦は、すぐにその疎漏さが明らかとなり、シャー
日々の吉凶や禁忌、逆に行うべきことを事細かに
ルを継いだフェルビーストが欽天監に復帰し、時
記す具注暦の姿をとることになった。それは、今
憲暦は清末まで使用された。ただし、その中国暦
日の日本でもカレンダーの先勝・友引・仏滅など
としての特色は最後まで維持された。しかし、清
六曜として形を残している。
朝の滅亡にともない、1912年、中国でもグレゴリ
第3は、改暦数の多さである。その数は秦漢の
ウス暦が採用された。
−−
世界史
A 授業案
大航海時代がはじまる
16世紀 ヨーロッパの食卓をかえた食材─じゃがいも─
名古屋市立名古屋商業高等学校 杉藤真木子
皿の上には山盛りのフライドポテト、色鮮やかな
1 はじめに
ニンジンとインゲン豆。パンを添えて、大人は食
後にコーヒーを一杯。
「大航海時代」は世界史Aという科目の出発点
いかにも「ヨーロッパ風」な感じがするこのデ
となるテーマだといえるだろう。現代の世界を悩
ィナー、さて「大航海時代」がなかったら、一体
ませる地域紛争や富の偏在など、長い歴史の中で
どんなことになっていただろう?
形づくられ、簡単には解決できそうにない諸問題
まず、当時のスパイス類は超高級品。胡椒は同
の原因をたどってゆくと、この時代にたどりつく。
じ重さの「銀」と交換されていたというから貴金
見知らぬ他者への無理解と偏見が不幸な出会いを
属なみの高級品だし、今ではハンバーグなどのひ
生み、西ヨーロッパの覇権に至る不均衡な相互関
き肉料理に欠かせないナツメグなんて、まず手に
係が世界各地で形成されることになった。
入らない「幻のスパイス」。だから肉の味つけは
したがって、この単元を扱う際の最大の目標は、
塩だけ。唐辛子もトマトもないから、チリソース
「異なる文明世界がはじめて本格的に出会ったと
なんて無理。フライドポテトもコーンも、インゲ
き、一体何が起きたのか」について、できるだけ
ン豆もない。コーヒーなんて、もちろんない。考
多面的に理解させることにあると考えている。世
えてみたらずいぶんと味気ない食事だ。塩味の肉
界史Bであれば具体的な固有名詞を時代順に追う
とたまねぎ、にんじん、パン、飲み物は水。これ
ことも必要となるが、世界史Aにおいては個々の
でも、中世ヨーロッパの庶民にしてみたらかなり
事件全体の結果として出現する「現象」を知るこ
のごちそうで、肉はめったに口に入らなかった。
とが必要になるといえるだろう。そのためにいか
ここであげたのは飲食物の例だが、「大航海時
に教材を選び、授業を展開するか、試行錯誤の連
代」は、さまざまな意味でヨーロッパに住む人々、
続ではあるが、以下に一つの実践例を紹介させて
そしてヨーロッパと出会った地域に住む人々の生
いただく。
活を大きく変えた、世界史上の一大事だった。
それでは、「大航海時代」とはどんな時代で、
2 「大航海時代」への導入
どんな変化が起きたのだろう? それをこれから
詳しく見ていこう。
Q:日曜日の晩御飯を家族で外食することになり、
大航海時代とは、15世紀から17世紀に至る時代
近くのレストランに行った。そこで注文したのは
をさす。この時代、ヨーロッパ人たち、とくに最
「ハンバーグステーキ・チリソース添え」
。さて、
初はスペイン人とポルトガル人の船乗りたちは、
出てくるのはどんなお料理?
それまで行ったことのない海域に進出していった。
最初にコーンがたっぷり入ったポタージュスー
現在のような地図などはもちろんなく、不確かな
プ。メインディッシュのハンバーグは、ひき肉と
情報しかない(→「エスカリエ」*p.20③「イドリー
玉ねぎのみじん切りに、胡椒やナツメグなどのス
シーの世界図」、p.23⑥「犬の顔をした人々」を
パイスが加わって良い香り。そこに唐辛子とトマ
見よ。次ページの絵は16世紀に描かれた異境の想
トでつくったチリソースがかかっている。同じお
像図。ヨーロッパの人々が未知の世界を、人間と
*「明解世界史図説 エスカリエ 初訂版」
−−
セバスチャン = ミュンスター画『標準世界地理』
(16 世紀)
の挿絵
(個人蔵)
Ⓒユニフォトプレス
は思えない怖ろしい人間が住む、文字通りの人外
魔境とみなしていたことがわかる)
、前人未到の
海域へ、船乗りたちは最初おそるおそる船を出し
たのだろう。彼らは間もなく、存在の知られてい
なかった大陸(アメリカ大陸)に到達し、言葉の
通じない人々、見たことのない動植物、そして豊
かな富をもたらすことになる資源を目にすること
になった。
しかしその冒険から間もなく、恐るべき変化が
地球上にもたらされた。古い文明が滅び、多くの
プリント(一部)
民族が死に絶え、あるいは人々が理不尽に拉致さ
れて奴隷とされた。現在の世界を悩ませる、目を
の」に対する欲望、とくに香辛料への強い欲望(→
覆うような不平等の種がまかれたのもこの時代
「エスカリエ」 p.115プチコラム「世界の人気商品
だったことを忘れてはならない。
〜香辛料」。市販の香辛料を生徒に回して香りを
体験させている。普通のスーパーで売っている
3 授業の中でおさえたいポイント
ものなら1瓶100円程度。嗅覚への刺激は生徒の
眠気覚ましにも有効)。人々の香
実際の授業では、プリントを全員に配布し、以
辛料に対する欲望の強さに商機を
下の(ア)〜(オ)の流れに沿ってさまざまな作
見出した商人たちの金儲けへの欲
業をさせながら進めている。基本的には、まず生
望。黄金の国ジパングやエルドラ
徒に問い(Q)を投げかけて問題の所在を認識さ
ドに到達して金を手に入れたいと
せ、地図や文中への書き込みといった作業をさせ
いう欲望。さらに、キリスト教を広めたいという、
たり、映像などの視聴覚教材や実物資料を見せた
キリスト教徒ならではの欲望。世界史Bであれば、
りしながらすすめてゆきたい。
ここでポルトガルとスペインの間のライバル関係
(ア)大航海時代の原動力
にもふれるところであるが、世界史Aでは簡単に
Q:未知の世界に対する恐怖心を克服して大海原
とどめる。
(イ)大航海時代の重要人物
へ船出するためには、何が必要だろうか?
技術的な背景(とくに羅針盤の発明)は不可欠
Q:「大航海時代」で知っている人はだれ?
であるが、その一方で「人間の欲望」の重大さに
コロンブス、 ガマ、 マゼランあたりは、中学校の
も目を向けさせたい。まず、人々の 「おいしいも
授業でも名前を聞いた記憶ぐらいはあるようだが、
−−
何をした人なのか、についてはほとんど理解でき
い。しかし同時に、恩恵だけではなく恐るべき災
ていない生徒が多い。ここでは、名前だけではな
厄──致命的な感染症──もまたもたらされたこ
く世界史上の意義をしっかり理解させたい。
とは強調したい。ヨーロッパからもちこまれた疫
「エスカリエ」 p.114 1 の地図や、③サンタマ
病(天然痘、インフルエンザなど)は、アメリカ
リア号の写真、⑤喜望峰の写真なども見ながら、
古代文明の担い手たちを死滅させた。コロンブス
プリントの白地図に彼らの航路と到達した場所の
の一行によってヨーロッパにもたらされたとされ
位置を記入させる。当時の船乗りたちの苦難を想
る梅毒は、その後驚くべき速さでアジアへも伝わ
像するのは簡単ではないが、「エスカリエ」 p.115
った。異文化接触のもたらす負の側面である。貿
プチコラム「苦しかった当時の航海」は是非読ま
易という形で取り引きされる商品ではなく、人と
せたい。
人とが交流する中で伝播してゆくものについて意
(ウ)新たな「モノの流れ」
識させたい。
Q:大航海時代にアメリカ大陸からヨーロッパに
こうした交流とは区別して、貿易の変化にも
もたらされて、
「ヨーロッパの食卓を変えた」と
注意したい。「エスカリエ」p.115掲載の下図をも
いわれる食材は何だろうか?
とに、取り引きされていたおもな商品を確認する。
答えはじゃがいも。教科書p.82〜83を読んでみ
ここでとくに注目させたいのが「銀」の流れと、
よう。現在からは想像もできないが、大航海時代
「奴隷」という商品である。
以前のヨーロッパの食生活は非常に貧しいものだ
ったこと、そこにもたらされたじゃがいもが人々
の生活を大きく変えたことがわかるだろう。
じゃがいもは、
「聖書に書かれていない」などと
いう理由で人々の間に抵抗感が強かったといわれ
るが、生産性が高いうえに栄養バランスが良く、
「エスカリエ」p.115 2 新しい航路の発見 影響
次ページの地図は生徒に資料として配布してい
「じゃがいもさえ食べていれば死なない」食品で
るものである。アフリカ大陸西岸のギニア湾沿岸
ある。現在ではじゃがいもを広めた人々は各国で
に注目してみると、かつてこの地から出荷された
恩人として尊敬されており、教科書p.82に書かれ
おもな商品の名が、現在も海岸の地名となって残
ているフリードリヒ2世はとくに有名。イギリス
されていることがわかる。ここではあえて昭和63
において、安価な魚のフライにフライドポテトを
年発行の現在では絶版になった地図帳を用いてい
添えた「フィッシュ&チップス」は、のちの産業
るが、その意図は人間=「奴隷」が、黄金や象牙、
革命期(18世紀)
、
穀物と同列の「商品」であることに気づかせるこ
貧しい労働者た
とにある。この「奴隷海岸」という地名は、差別
ちの食を支えた。
的であるとして現在の地図帳には記載されていな
じゃがいもを題
いのだが、やはりこの地名には衝撃を受ける生徒
材に、ひとつの
は多い。あわせて、教科書p.101⑤「奴隷船の内
新しいモノが登
部」 も紹介する。「世界史」 を学ぶ意味は、こうし
場することで社会が激変することがある、という
た人類の愚行の歴史を知ることにもあるといえる
事実を認識させたい。
だろう。
未知の世界との接触によって未見の文物が社会
(エ)アメリカ大陸の変貌
に新たにもたらされたとき、そこには良いことも
Q:ワールドカップで活躍したブラジルや、日本
悪いことも起こりうる。まず恩恵として、じゃが
も対戦したパラグアイなどの中南米諸国。選手た
いもに代表される有用な動植物の伝播を確認した
ちは何語を話していただろうか?
−−
わけだ。そして、一
つの革命は次の革命
を呼び、やがて「産
業革命」へとつなが
ってゆくのである。
4 おわりに
奴 隷 海 岸
大学の教養部時代、
西洋史の講義で課題
「新詳高等社会科地図 四訂版」(昭和63年発行)
図書だったのが、E. H. カーの『歴史とは何か』
「エスカリエ」p. 3とp.114 1 を対比させると、
(岩波新書)だった。あまりにも有名な「歴史とは、
ブラジルはポルトガル語、パラグアイはスペイン
現在と過去との対話」という定義は、世界史の授
語が主要言語であることがわかる。
業を組み立てる際に常に念頭を離れない言葉であ
コロンブス以降、スペインはまず中南米に進出
り続けている。
し、この地にあった古代文明を滅ぼし、先住民を
私たちは、今生きている「現在」という立ち位
奴隷化した。何のために? この地の財宝、とく
置からしか過去を見ることができない。過去は完
に銀を奪い、さらには銀鉱山で酷使するために。
結した実体としてどこか遠くに存在するのではな
そして、ヨーロッパの人々が熱中したあたらしい
く、現在からの眼差しによってその相貌を変えて
飲み物、
「お茶」に入れる砂糖をつくらせるために。
ゆく。だからこそ、どんな視点から過去を見、語
一方、アメリカ大陸進出に出遅れたポルトガルは、
るかが大切となってくるわけだが、そのことを世
現在のブラジルの土地を何とか確保することに成
界史の授業にあてはめて考えてみれば、現代の高
功した。
校生の視点で歴史を考えること、つまり現代の高
ヨーロッパの進出によってアメリカの古代文明
校生の生活を出発点に歴史を学ぶ、という姿勢が
は終焉の時を迎えた。他文明へ一片の尊敬の念も
必要になると考えている。
抱くことなくただ富を奪い去るだけだったスペイ
ンの所業から、苛烈な植民地支配の精神的な萌芽
お詫びと訂正
現在ご使用いただいております下記の教科書および副教
を読みとってほしい。
材に誤りがございました。謹んでお詫び申しあげますとと
(オ)ヨーロッパ社会の変貌
Q:「革命」という言葉の意味は何だろうか。世界
史上で「革命」は何回起きているだろう?
ともに、訂正のうえご指導くださいますよう、お願いいた
します。ご迷惑をおかけしましたことを、深くお詫び申し
あげます。
「革命
(Revolution)
」とは、「ものすごく大きな
変化」「従来の制度や価値観がひっくりかえるよう
な大転換」 といった意味で用いられる。とはいえ、
世界史を学んでいると「革命」という言葉は何回
『明解 新世界史A 新訂版』
(平成22年1月20日発行)
p.21 ④写真タイトル
[誤]漢代の墓の壁画に描かれたはし
→[正]唐代の墓の壁画に描かれたはし
『最新世界史図説 タペストリー 八訂版』
か出てくる。「何回」と正確に答えるのは難しいの
(2010年2月25日発行)
だが、大航海時代にはいくつもの「革命」が起こ
p.200 図④「第1次産業革命と第2次産業革命」表中
った。すなわち、
「商業革命」
「価格革命」さらに
「生活革命」である。これだけの革命が起これば
ヨーロッパ世界は大きく変わらざるを得なかった
・「第1次産業革命」の「結果」欄
[誤]独占資本主義の形成 →[正]産業資本主義の確立
・「第2次産業革命」の「結果」欄
[誤]産業資本主義の確立 →[正]独占資本主義の形成
−−
「明解世界史図説 エスカリエ」活用例 時代
を授業の導入部で活用する
の扉
「会議は踊る」
ってどういうこと?
絵筆で、ピアノで表された「革命」
千葉県立鎌ヶ谷高等学校 石井 聡
ルニヒが代表たちの意見対立を緩和し、か
つ無聊をなぐさめるためにしばしば舞踏会
などを催し、長時日を費やしたという。
Try 2 ②の絵から踊ってはしゃぐ君主グ
ループと、それを冷静に見ているイギリス
とフランスの代表とが見てとれる。ちなみ
に、オーストリア皇帝フランツ1世(ナポレ
オンの再婚相手マリ=ルイーズの父)はア
ウステルリッツの戦いでナポレオンに敗れ
「エスカリエ 初訂版」p.132
、神聖ローマ皇帝退位に追い込まれた。ロシア皇帝
1.はじめに
アレクサンドル1世(神聖同盟の提唱者)も同戦い
限られた授業時間のなかで資料を如何に効果的
でナポレオンに敗れたが、ロシア遠征では敗退さ
に提示するかは、教員が常に留意していることで
せている。プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘル
ある。今年6月に発行された『高等学校学習指導
ム3世もイエナの戦いでナポレオンに敗れ、一時
要領解説』の世界史Aにおいても「年表、地図そ
、国土の半ばを失った。彼らはいずれもナポレオン
の他の資料の積極的な活用」を図ることが求めら
に敗れたが、ライプツィヒの戦いに勝ったため、
れ、具体的には文学作品などの文献資料、絵画や
ウィーン会議で新領土を獲得できた。それに対し
地図、写真等の図像資料、映画や録音などの映像・
てフランス外相タレーランは、会議で正統主義(革
音声資料の活用が挙げられている。ここでは、
「エ
命以前の支配者と体制の復活をめざす理念)を提
*
スカリエ」 の“時代の扉”を授業の導入に活用し、
唱することによって敗戦国フランスの旧来の領土
生徒の世界史への興味・関心を高める方法につい
を確保した。イギリス外相のカースルレーは神聖
て提示したい。
同盟には参加しなかったが、実効性のある四国同
2.
「
『会議は踊る』
ってどういうこと?」を読み解く
盟(のちフランスも参加し五国同盟)を提唱した。
Try 1 「エスカリエ」p.132①を見せ、まず、 人々
Try 3 Try 2で踊っている3人の君主の国がい
の服装から彼らがどのような身分かを推測させる
ずれも新領土を得たことを地図「ウィーン体制下
(レースで飾られた服と勲章がヒント。p.129④の
のヨーロッパ」
(「エスカリエ」p.132)で確認させ、
絵「球戯場の誓い」と比較)
。彼らはフランス革
場合によっては簡単な説明を加えたい。
命やナポレオンを否定し、古きヨーロッパを再建
① ロシアは皇帝がポーランド国王を兼ねること
しようとした旧支配者である。会議にはヨーロッ
によってポーランドを事実上ロシア領とした。
パ中の2帝国・90王国・53公国から代表が集まっ
② オーストリアは南ネーデルラントをオランダ
たが、接待役オーストリアのリーニュ将軍は「会
に譲る代わりに北イタリアのロンバルディア・ヴ
議は踊る、されど進まず」と嘆息したと伝えられ
ェネツィアを獲得した。
る。ナポレオン戦争後の体制をめぐってイギリス・
③ プロイセンはザクセン北半部とラインラント
ロシア・オーストリア・プロイセン・フランスの
を獲得した。
間で主張が対立し、妥協点が見出せなかったから
①は次時の、②はイタリア統一の、③はドイツ
である。会議を主宰したオーストリア外相メッテ
の産業革命の伏線となるのでおさえておきたい。
*
「明解世界史図説 エスカリエ 初訂版」
− 10 −
Try 2 「…はこんな人」の説明を読ませ
ることによって、当時のポーランドの状況
について理解させたい。ショパンのマズル
カやポロネーズといった曲の旋律はポーラ
ンドの民謡から主題を得ており、そのなか
には悲運の祖国への熱烈な思いが流れてい
るといわれる。1830年、ショパンが故国か
らウィーンへ旅立った直後の11月、フラン
スの七月革命が波及したポーランドでは、
「エスカリエ 初訂版」p.133
ロシアの支配からの独立をめざすワルシャワ蜂起
3.
「絵筆で、ピアノで表された
『革命』」を読み解く
が起こった。一時は臨時政府も樹立されたが、翌
Try 1 まず、ヒント「p.128を見てみよう」に
年9月にロシア軍によって革命は押し潰された。
沿って、この旗がフランス国旗であることを確認
パリへ向かう途中、それを知ったショパンが怒り
させ、フランス革命の精神である自由・平等・博
と深い悲しみ、そして絶望のなかで書き上げたの
愛のシンボルであることを想起させる。次に、描
がエチュード「革命」であったという。もし時間
かれた人物について説明していく。
「自由」を象徴
に余裕があるならば、「革命」を聴かせるとよい
する女神は右手に三色旗を振り
だろう。この曲は生徒も耳にしたことがあると思
かざし、左手には銃を持ってバ
われるので、興味・関心を持つきっかけになるの
リケードの上を進んで行く。そ
ではないかと思う。さらに時間に余裕があれば、
の左側に①傷ついた青シャツの
彼の手記を紹介することもできる。
労働者が女神を見上げている。
「(前略)僕はここで武器ひとつ手にせず…時に
その隣に②シルクハットをかぶ
ピアノ相手に呻いたり、苦しんだり…悲嘆にく
り銃を手にした市民がいる(こ
れはドラクロワの自画像ともい
①
われている)
。さらにその左に
れたりしているだけだ…いったいそれが何にな
る? 神よ、神よ! 地を揺るがせ、大地は別
の世紀の人間を呑み込め(以下略)」
4 おわりに
は③ベレー帽の労働者、その下
に三角帽の理工科大学の学生も
生徒の主体的な授業参加を実現するには、限
見える。女神の右手には、パリ
られた授業時間をはじめとして多くの制約がある。
の浮浪少年がピストルを両手に
この状況のなか、せめて生徒の視覚・聴覚に訴え
持ち、何か叫んでいる。このよ
て授業への動機づけにできればと考える。本稿は
うに、この絵は七月革命で自由
“時代の扉”を活用することによって生徒の興味・
をめざして蜂起したさまざまな
②
関心を高めるための一つの試みである。この試み
階層の人々の姿を描いたもので
がきっかけとなって、生徒が世界史に少しでも関
ある。
心を持ってもらえるならば幸いである。
ロマン主義の巨匠であったド
参考文献
ラクロワは主題を持つ作品を多
森耕治『西欧絵画の楽しみ方 民衆を導く自由の女神』
く描いているが、自由を勝ち取
(http://www.geocities.jp/kaiga_bxl/seioukaiga_no_tan
った民衆に感動した彼は、あえ
oshimikata/Delacroix.htm)
て当時の事件を取り上げたので
綿引弘『手に取る世界史教材』地歴社 1989年
ある。この革命に対するドラク
廣瀬和義「自由主義・国民主義の進展 1848年−19世紀の
ロワの思いの深さをうかがうこ
とができる。
転換点−ショパンの生涯を軸にして」『世界史のしおり』
③
帝国書院 2005年4月号
− 11 −
「明解世界史図説 エスカリエ」活用例
ウィーン体制〜ウィーン体制の破綻
千葉県立鎌ヶ谷高等学校 石井 聡
④どうして「会議は踊る」ようになったのか
1.はじめに
大国の利害対立で議事はなかなか進捗せず、オー
世界史Aは近現代史を中心に理解させることによ
ストリア政府は各国代表のためにしばしば舞踏会な
って現代の諸課題を歴史的に考察させることを目的
どを催し、その無聊をなぐさめた。このため 「会議
とした科目である。しかし近現代史は取り上げる事
は踊る、されど進まず」といわれたのである。
象や人物が多く、内容が稠密になりがちである。そ
2)ウィーン体制下のヨーロッパ(
「エスカリエ」
れだけに基本的事項を精選し、重点化することが大
p.132 1 の地図「ウィーン体制下のヨーロッパ」
切である。6月に出た『高等学校学習指導要領解
を活用する)
説』の世界史Aにも「基本的な事項・事柄を精選し
まず、今日の地図(
「エスカリエ」p.2②ヨーロッ
て指導内容を構成する」とある。この趣旨に沿って
パ)と言語分布図(
「エスカリエ」p.38 2 のなかの
ウィーン体制の成立から破綻までの扱い方を提示し
ヨーロッパ拡大図)の2枚を比較のために用いる。
たい。
ウィーン体制下の状況と現代との相違点を確認する。
世界史Aの年間の配当時間から勘案してこの単元
①小国に分裂していた国を探そう
を2時間とした授業展開を考えてみた。
ドイツ・イタリアが小国分立の状態であることに
容易に気づく。それぞれ共通の言語を持つ彼らは、
2.ウィーン体制(1時間目)
民族統一をめざし、国民国家建設へ向かっていく。
1)時代の扉を活用する(「エスカリエ」p.132)
②現代にない大帝国が中央に存在する。何か
①ウィーン会議にはどのような人々が集まったか
オーストリアはハプスブルク家の支配のもと大帝
出席した各国の代表団の総数はドイツ諸領邦を含
国を形成し、当時の列強の1つであった。
め、216に達した。彼らはフランス革命以前の旧体
③オーストリアが他の大国と根本的に異なる点は何
制の支配者であり、革命とナポレオン戦争によって
か?
失われた旧体制の復活(正統主義)をめざして集ま
オーストリアの民族分布図(1815年当時の領域の
ったのである。
ものを作成。図Ⅰ)を示す。
②会議の主宰者は誰?
地図に見られるように、帝国内にはドイツ人・マ
絵「①ウィーン会議」の左側に立つオーストリア
ジャール人(ハンガリー人)・スラヴ人(チェック人・
外相メッテルニヒが議長役であった。彼はラインラ
クロアティア人)など多数の民族が存在しており、
ント出身の貴族で、ヨーロッパの体制をフランス革
命以前に戻し、自由主義を抑圧することを企図した。
③会議はどのように進行したのだろうか
主たる会議場にはメッテルニヒの大邸宅などが充
てられた。今日の国際会議のような総会は開かれず、
戦勝国イギリス・プロイセン・オーストリア・ロシ
アに敗戦国フランスを加えた五大国の代表者による
非公式の秘密会談によって進められた(国際会議に
おける大国の優越は、これ以後今日の国連安全保障
理事会に至るまで続いている)。
− 12 −
図Ⅰ ウィーン会議後のオーストリア帝国
メッテルニヒは国内に自由と独立の運動が波及する
った三色旗がノートルダムに翻るのを見て、民衆の
ことを恐れていた。この民族問題は1848年諸革命や
勝利に興奮を覚え、この名画を生んだといわれる。
20世紀の民族自決問題の伏線としたい。
画面に登場する各階層の人物が国王の反動政治に抗
④会議の結果、新しい領土を得た国を挙げよ
し、自由を求めて立ちあがったことの意味を考えさ
ここでは、以後の授業の伏線として、ロシアのポ
せたい。青:自由、白:平等、赤:博愛を表す。
ーランド支配、オーストリアの北イタリア支配の2
②1830年にショパンの祖国で何が起こったのか
点をしっかりと把握させたい。同様の理由で余裕が
ショパンの作曲したエチュード「革命」の成立の
あればプロイセンのラインラント獲得にもふれたい。
背景として、ポーランドの11月蜂起がロシア軍によ
⑤戦勝国イギリスはどこに領土を得たのか
って鎮圧され、悲劇的結末に終わったことを説明す
「19世紀ごろの世界」(「エスカリエ」p.32地図)
る。七月革命がヨーロッパ各地でウィーン体制に対
を示し、イギリスがケープ植民地・セイロンを得た
する反乱の連鎖を引き起こしたことは、
「エスカリ
ことを確認させる。このことからイギリスが会議に
エ」p.133 1 の地図Aによって容易に捉えさせるこ
臨んだ意図も、他の列強とは異なって海上権の確保
とができる。
と世界市場の制覇にあったことがわかる。これによ
2)革命の震源地パリ(
「エスカリエ」p.133)
ってイギリスは大西洋からインド洋にわたる海上に
①p.133 1 の表の左側で七月革命の経過を知ろう
おける優越を得、アメリカ合衆国の独立によってゆ
七月革命は、大資本家が主導した政治的経済的自
らいだ国際政治経済上の地位を安定させ、世界帝国
由を求めた革命であったことをおさえる。
の基礎を確立することができたのである。
②七月革命の影響を受け、革命に成功した国は?
3)ウィーン体制の成立から崩壊へ(「エスカリエ」
地図「七月革命の影響」
(p.133 1 のA)を用い、
p.132年表)
ポーランドと対比させながら、ベルギーの独立に注
①対立する2つの大きな流れの中で勝ったのは?
目させる。なぜベルギーの独立が成功し、ポーラン
まず、年表中の左右の太い矢印に注目させ、巨視
ドが失敗したのかを問うのは生徒には難解だが、後
的に自由主義・ナショナリズムの動きが最終的にウ
時への伏線として列強の利害関係とりわけロシアと
ィーン体制に勝利したことを確認する。
の関係が影響していることを示唆するとよいだろう。
②どうしてウィーン体制は破綻したのだろうか?
③p.133 1 の表の右側で二月革命の経過を知ろう
19世紀前半の歴史は、ウィーン体制下の厳しい弾
二月革命は大資本家の政治独占に反発する中小資
圧にもかかわらず、自由主義や国民主義の運動が
本家・労働者が政治的自由を求めた革命で、労働者
伸び続け、ついにこの反動的な国際政治体制を消滅
(社会主義者)が大きな役割を果たしたことに留意。
させた歴史であった。自由や民族的権利にめざめた
④二月革命の広がりを七月革命と較べよう
人々を抑圧することは難しいということを示したい。
「二月革命の影響」
(p.133 1 のB)から、革命がよ
③ヨーロッパでいち早く独立を達成した国は?
り広汎に飛び火していることがわかる。そのなかか
もし時間に余裕があれば、ドラクロワの絵画「シ
ら次の4点を抑えたい。a.ウィーン三月革命でメッ
オの虐殺」を活用し、ウィーン体制の綻びとしてギ
テルニヒが失脚した(風
リシアの独立を取り上げたい。ギリシアが自由主義・
刺画図Ⅱ)が、保守派の
国民主義のもと独立を達成したことと、その対応を
反撃によってオーストリ
めぐり、オーストリアと他の列強の足並みが乱れた
アでは専制政治が復活し
ことはウィーン体制破綻の前ぶれであった。
た。b.ベルリン三月革
命でも保守派が復活した
3.ウィーン体制の破綻(2時間目)
が、プロイセンでは欽定
1)時代の扉を活用する(「エスカリエ」p.133)
①女神がかざす三色旗は何を象徴しているのか
ドラクロワは、フランス革命以来自由の象徴であ
図Ⅱ ウィーンから逃亡する
メッテルニヒ(個人蔵)
ⓒユニフォトプレス
− 13 −
憲法が残った。c.ドイ
ツ連邦各地からの代表に
よるフランクフルト国民
議会は、ドイツ統一と憲法制定とを論議したが、統
うして世界最初の解放黒人奴隷による国家が建設さ
一は成功しなかった。しかしその過程で小ドイツ主
れたのである。
義による統一への方向性が打ち出された。d.ハン
5)ウィーン体制〜ウィーン体制の破綻を総括して
ガリーとベーメンの独立運動はロシアの介入により
19世紀ごろの世界(
「エスカリエ」p.32)を示し、
成功しなかった。
全体を以下の諸点にまとめたい。
3)ラテンアメリカ諸国の独立(「エスカリエ」
①1815年以後のヨーロッパは、自由主義や国民主義
p.133 2 の地図を活用)
の運動がウィーン体制の厳しい弾圧にもかかわらず
①多くの国が独立したのはいつごろ?
伸び続け、この国際的な反動体制を打破することに
②この地域はどこの国の植民地だったのか?
成功した。②この運動の展開の過程から、新たな政
③なぜ独立運動が起こったのか?
治勢力として社会主義が台頭し、また民族自立・民
ラテンアメリカ諸国が1820年前後に独立した要因
族統一の動きが強まった。③18世紀後半から19世紀
として宗主国スペイン・ポルトガルの衰退、啓蒙思
前半に環大西洋地域で見られた革命運動は特権階級
想・アメリカ合衆国の独立・フランス革命およびナ
の支配に対して自由を求める点で共通しており、ラ
ポレオン戦争の影響を挙げる。
テンアメリカ諸国の独立もその一環として捉えるこ
④革命の中心になったのはどんな階層の人々か?
とができる。④しかしその独立は、ラテンアメリカ
クリオーリョと呼ばれる植民地生まれの白人が中
が近代世界システムにより深く原料供給地として組
心であり、彼らは本国人優位の制度に不満を持ち、
み込まれていくことを意味してもいたのである。
独立運動を惹起した。したがってラテンアメリカの
6)ブラジル音楽〜サンバ〜(
「エスカリエ」p.133
独立戦争はクリオーリョと本国政府の戦いであった。
more)
時間にゆとりがあれば独立後のラテンアメリカの課
①サンバはどのように誕生したのか?
題(イギリス、のちには合衆国に対する政治的経済
ポルトガルが砂糖生産のために多くの黒人奴隷を
的従属)にふれ、現代への展望とする。
ブラジル北東部に導入した結果、ブラジルは白人・
4)トゥサン=ルーヴェルテュール(「エスカリエ」
黒人の混血が進み、文化の混交が起こった。アフリ
p.133②)(p.133 2 の地図も活用する)
カに起源を持つサンバは文化の融合の象徴といえる。
①ハイチはどこから独立したのだろうか?
4.おわりに
②トゥサンは何を成し遂げたのだろうか?
カリブ海に浮かぶエスパニョーラ島西部のフラン
本稿では現代へのつながりを念頭に置いて世界史
ス領サン=ドマング(現ハイチ)は黒人奴隷の砂糖
Aの授業展開を考えてみた。しかしながら充てら
生産によって富をフランスにもたらす「カリブ海の
れる時間は限られており、とくにラテンアメリカの
宝石」であった。人口の約9割を占める黒人奴隷の
独立に多くの時間を配当することは難しいと考える。
生活は悲惨で、奴隷反乱の黒人指導者の1人がトゥ
なお、
「more ブラジル音楽〜サンバ〜」について
サンであった。彼は1794年にポルトープランスを占
は力不足で十分な活用法を提示できなかったことを
領したイギリス軍を1798年に撃退し、また1801年に
お詫びし、あわせて諸賢の教示をいただきたい。
憲法を制定し終身総督となった。これに激怒したナ
ポレオンは1802年に遠征軍を送るが、遠征軍は熱病
参考文献
のため自滅する。しかしトゥサンはこのとき捕えら
矢田俊隆『メッテルニヒ』清水書院 1973年
れ、1803年にフランスで獄死する。だが彼はフラン
スに移送される途中、次のように予言した。「私を
殺しても、君たちは黒人の自由の木の幹だけを切り
倒したにすぎない。自由の根は多く、また深く、そ
こから新しい芽が吹き出すだろう」。その予言どお
り黒人反乱は再発し、翌1804年独立を達成した。こ
ハンス─エーリッヒ=シュティーア他『帝国書院=ウェス
ターマン社 世界歴史地図』帝国書院 1982年
川北稔『砂糖の世界史』岩波ジュニア新書 1996年
谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』
中央公論新社 1999年
E. ウィリアムズ『コロンブスからカストロまで』川北稔
訳 岩波モダンクラシックス 2000年
− 14 −
タペストリー授業実践例
「特集 近世ヨーロッパの
国際関係・植民地戦争まとめ」
京都府立朱雀高等学校 高田法彦
いた地域交易圏内の貿易に「参入」するという方
1.問題意識
式であり、アジアの香辛料を確保してヨーロッパ
「大航海時代」にいち早く乗り出したポルトガ
に供給したことを理解させたい。
ル・スペインに対し、やがて、オランダ・イギリ
②スペイン
ス・フランスがアジア・
「新大陸」に進出し、抗
アジアの物産をヨーロッパに供給したポルトガ
争がくり返された。こうした16世紀から18世紀に
ルに対して、「新大陸」(アメリカ)を勢力圏とし
かけての西欧列強の覇権争いは、ヨーロッパでの
たスペインは、この地で「世界商品」を生産しな
戦いと海外での植民地争奪戦が同時に展開するな
ければならなかった。ペルーのポトシやメキシコ
ど、生徒にとっては「いつ」
「どこで」
「何が」が
の銀、さらにはカリブ海諸島でのさとうきび栽培
つかみにくく、それぞれを関連づけずに覚え込ん
による砂糖がこれにあたる。その生産のための膨
でしまいがちな分野であろう。そこで、
「タペス
大な労働力として、当初は先住民が、やがてはア
トリー」*p.159「特集 近世ヨーロッパの国際関係・
フリカ人奴隷が働かされた。
植民地戦争まとめ」を中心にしてどう整理するか
オランダの独立(1581独立宣言)や無敵艦隊の
を考えてみたい。
敗北(1588)は、スペインの覇権衰退を象徴する
出来事である。スペインの衰退については。「タ
2.アジアの拠点と「新大陸」獲得争い
ペストリー」p.151 Theme「スペインの盛衰とオラ
ヨーロッパ列強の争いは、16世紀にはポルトガ
ンダの独立」でも確認させたい。また、私拿捕船
ル・スペインを軸に展開し、17世紀にはバルト海
による影響もあり銀の輸入量も減少したスペイン
貿易における優位やアジアの香辛料独占で繁栄し
は、1620年代を境にヨーロッパ各地を襲った「17
たオランダが覇権を握った。やがて、イングラン
世紀の危機」でも、深刻な影響を受けたという。
ド銀行が設立されると、安全性の高いイギリス国
③オランダ
債に、豊かなオランダ資金が投資されるようにな
オランダについては、高度に発展していた商工
り、イギリスはこうした資金で軍事支出を増した。
業・漁業・農業の様子が見落とされがちである。
3度にわたる英蘭戦争などでオランダは衰退する
世界金融の中心となったアムステルダムに、世界
が、「タペストリー」p.1591でオランダの発展と
の資金が流れ込んだことから、低利で船の建造費
イギリスに覇権が移った理由を確認しておきたい。
が調達できたことや進んだ造船技術によって、バ
①ポルトガル
ルト海貿易で圧倒的な優位を確立したことなど金
インド航路を開拓し、香辛料などアジアの物産
融や工業の話題も盛り込みながら、「タペストリ
獲得をめざしたポルトガルは、インド西岸の港市
ー」p.1591「オランダはなぜ発展したか」を活
ゴアを拠点とし、1511年にはマレー半島の港市マ
用して、「中継貿易だけの国」オランダというイ
ラッカ
(後にオランダが制圧)
もおさえ、やがてモ
メージを払拭したい。
ルッカ諸島にも商館を建設した。また、広州南方
この時期のポルトガル・スペイン・オランダの
の港マカオを拠点として対明貿易を行った。こう
活動は、「タペストリー」p.30〜31 「16世紀ころの
したポルトガルの活動は、アジア各地に成立して
世界」・p.32〜33の「17世紀ころの世界」などの
*『最新世界史図説 タペストリー 八訂版』
− 15 −
3.第2次英仏百年戦争
1688〜1815年までのイギリス・フランス間の植
民地争奪戦争は第2次英仏百年戦争ともよばれる。
ヨーロッパでの戦局や植民地での争い、講和条約
に盛り込まれた内容が互いに関連づけられるよう
にしていきたい。
①プファルツ継承戦争(1688〜97年)
「タペストリー」p.32〜33
ドイツのプファルツ選帝侯の領土を要求したル
地図を活用してそれぞれの拠点や植民地を整理す
イ14世に対して、神聖ローマ皇帝・オランダなど
ることが有効であろう。
が同盟を結んで対抗した。こうした関係を「タ
④イギリス・フランスの進出
ペストリー」p.1543③で確認したい。名誉革命
アンボイナ事件などインドネシアでオランダに
の結果、1689年にオランダ総督のオラニエ公ウィ
敗れ、インドに拠点を置いたイギリスでは、イン
レムが妻メアリとともにイギリス国王となったた
ド産綿織物キャラコが普及(
「生活革命」
)し、こ
め、イギリスも同盟側に参加した。また、ルイ14
れが産業革命へとつながっていく。イギリスの活
世が先王ジェームズ2世を支持していたことから、
動に関しては、マドラス、ボンベイ、カルカッタ
ウィリアム3世の正統性をめぐる戦いともなった。
などのインドでの拠点や、中国・アフリカ・北米
アメリカの植民地で行われた戦争は、王の名から
を結ぶ貿易ルートと商品の流れを、
「タペストリ
ウィリアム王戦争とよばれ、ライスワイク条約が
ー」p.34〜35の「18世紀ころの世界」を活用して
締結され、英仏ともに決定的な勝利はなかったが、
つかんでおきたい。
ウィリアム3世はイギリス国王として承認された。
やがて、オランダがアジアで独占に成功した香
これらを関連づけることで、当時の国際関係を理
辛料は、急速にヨーロッパでの人気を失い、対照
解させたい。
的に、茶・コーヒー・砂糖などがもてはやされる
②スペイン継承戦争(1701〜13年)
ようになっていく(
「生活革命」
)
。香辛料・銀・
スペイン継承戦争時の対立関係は「タペストリ
キャラコなども含めて、アジア・アメリカの物産
ー」p.1543④も活用したい。
が、ヨーロッパの人びとの生活に欠かせない商品
ルイ14世が孫をスペイン王位につけたことから、
として定着し、それらを求めて各国が植民地獲得
フランス・スペインが連携したこと、オーストリ
をめざしたことを理解させたい。
ア=ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝が反フラン
一方フランスはコルベールのもとで、重商主義
スに立ったことは理解しやすい。ルイ14世がスペ
政策を強力に押し進め、高関税政策によって輸入
イン植民地におけるフランス商人の特権をスペイ
を減らし、国内産業を保護してオランダに対抗し
ンに認めさせたことから、イギリス・オランダが
た。また彼はフランス東インド会社を再建した。
態度を硬化させて、フランス・スペインとの戦い
が始まったことを盛り込むと、列強の関心事の一
つがスペイン植民地の継承であったことが理解し
やすくなる。この時期の北米での戦いがアン女王
戦争である。ステュアート朝最後の国王アン女王
は、グレート=ブリテン王国の成立時(1707年)の
国王でもあり、スペイン継承戦争と年代を一致さ
せたい。ユトレヒト条約で、イギリスは地中海で
の拠点を確保し、カナダ支配を前進させたが、こ
「タペストリー」p.34〜35
うした点も強調したい。「タペストリー」p.34〜
− 16 −
35 「18世紀ころの世界」 でもそれぞれを確認して
④七年戦争(1756〜63年)
おきたい。 長年敵対していたフランスに提携を呼びかけた
(これを外交革命という)マリア=テレジアは、ロ
④スペイン継承戦争(1701∼13)
●
イギリス
スペイン
フランス
(ブルボン家)
オーストリア
(ハプスブルク家)
プロイセン オランダ
シアとも接近し、この陣営には多くのドイツ諸侯
原因 孫のフェリペ5世のス
ペイン王位継承に各国が反対
とスウェーデンも参加した。ドイツのハノーヴァ
結果 ユトレヒト条約(1713)
フェリペ5世のスペイン王位
継承の承認。スペイン領のジ
ブラルタル,ミノルカ島,フ
ランス領のハドソン湾,ニュ
ーファンドランド,アカディ
アをイギリスに割譲 p.34
ーに利害を持つイギリスは、フリードリヒ2世が
この地の保護を約束したことから、プロイセンと
同盟した。マリア=テレジアの外交政策に注目し
「タペストリー」p154 3 ④
ながら「タペストリー」p.1572②で対立関係を
③オーストリア継承戦争(1740〜48年)
把握したい。
マリア=テレジアの即位に際して、バイエルン
アメリカ大陸では、1755年に英仏間で戦争が始
選帝侯・ザクセン選帝侯・スペイン王が王位を要
まっていた。フランスと先住民が連合してイギリ
求した。長年ハプスブルク家に対抗していたフラ
スと戦ったためフレンチ=インディアン戦争とよ
ンスがこれを支持し、オーストリア領のシュレジ
ばれ、海上を制覇したイギリスが勝利した。また、
エンを要求したプロイセンのフリードリヒ2世も
インドでは東南部で第3次のカーナティック戦争
反オーストリアの立場に立った。この関係は「タ
(1758〜61年)が戦われ、イギリスが勝利した。
ペストリー」p.1572①に整理されている。
1757年のプラッシーの戦いもイギリス軍の勝利に
すでにジェンキンズの耳の戦争
(1739年〜)
を戦
終わった。「タペストリー」p.210の年表でインド
っていたイギリスとスペインの対立は、オースト
における英仏の争いについては確認させたい。パ
リア継承戦争に連なっていく。ハノーヴァー朝第
リ条約(1763年)によって、イギリスは北米での
2代のジョージ2世の時期であったことから、北
優位ばかりでなく、インドでもシャンデルナゴル
アメリカに波及した戦いをジョージ王戦争とよび、
とポンディシェリを除く地域での優越権が認めら
イギリス・フランスは北米で植民地争奪を繰り返
れたことを強調したい。
した。ジョージ2世は、ウォルポールが、国王の
⑤ア メリカ独立革命(1775〜83年)とナポレオン
戦争(1796〜1815年)
信任を得ていたにもかかわらず、下院の支持を失
ったために辞職したとされる際の国王である。ア
アメリカ独立革命とナポレオン戦争も英仏の対
ーヘンの和約では、イギリス・フランスが占領地
立関係に位置づけられる。独立革命の際にフラン
を互いに返還することが約されたが、両国の抗争
スはアメリカと同盟を結び、スペイン・オランダ
は終わらなかった。一方、イギリスの外交によっ
もアメリカ側に参戦、ロシアを中心にした武装中
て、シュレジエンを失ったマリア=テレジアはイ
立同盟はイギリスの海上封鎖に対抗した。イギリ
ギリスとの間に政治的な距離を置くこととなり、
スに対して、フランスなどの国々が連携して対抗
したともとらえられる。
①オーストリア継承戦争(1740∼48) ●
●
②七年戦争(1756∼63)
(対フランス)
イギリス
オーストリア
バイエルン
選帝侯
ザクセン
選帝侯
プロイセン
フランス
また、ナポレオンが大陸を制覇して樹立をめざ
(対フランス)
ロシア
フランス
イギリス
オーストリア
した帝国は、各地と海上ルートで結ばれたイギリス
プロイセン
に対抗した動きであったとも理解できるのである。
外交革命
スペイン
スウェーデン
原因
マリア=テレジアのハプスブルク家
の領土の継承をめぐりフランス,プ
ロイセンが異議
原因
マリア=テレジアがシュレジエン奪
回の動きを見せたため,プロイセン
が宣戦
結果 アーヘン和約(1748)
マリア=テレジアの領土継承承認
プロイセンがシュレジエン獲得
結果 フベルトゥスブルクの和約(1763)
プロイセンのシュレジエン領有を再確
認
第2次英仏百年戦争での最終的な勝者はイギリ
スであった。「タペストリー」p.1591の「イギリ
スはなぜフランスに勝ったのか」には、国民に重
税を課して、これを戦争にもちいることができた
「タペストリー」p157 2 ① ②
イギリスと、それができなかったフランスの違い
この後の外交革命につながっていく。こうした内
が示されており、英仏両国の戦費調達能力の違い
容によって七年戦争とのつながりを意識したい。
を知る有効な手掛かりとなるであろう。
− 17 −
世 界 史 芸 術 鑑 定 団 14
世界史のしおり 2010年10月号付録
チンギス=ハンの遺産
―映画『モンゴル』(2007年、ドイツ・ロシア・カザフスタン・モンゴル合作)から
挿絵《チンギス=ハンの即位》はどのような歴史情報
置づけるべきであろう。
を我々に提供してくれるのか、検討してみたい。
1206年の即位のあと、チンギスは西夏や金など東ア
■ 4.
1枚のミニアチュールが物語るもの ■
ジア諸国の動きを牽制したうえで、1219年のオトラル
美しいミニアチュールである。画面右上、天幕横に
事件を契機にホラズムなど中央アジア方面への遠征を
はスウェルデ(軍神)が宿る「トク」と呼ばれる、馬
開始した。このときに占領した都市の一つがサマルカ
の毛を使った飾り旗(画面は切れているが実際は9
ンドで、チンギスはこの町の「ナシジ」と呼ばれる金
本)の白さ―平時には白、戦時には黒の「トク」が当
糸入り高級織物の職人をモンゴル本土に移住させ、そ
のトオリルと同盟関係を結ぶようになってからである。
時用いられていた―と空の青さのコントラストが全体
の技術を提供させた。今回のミニアチュールに登場す
2006年、16年まえに“ソ連のくびき”から解放され
ケレイト部には記録係がいたと考えられている。テム
の画面をキリッとした雰囲気に導いている。この2色
る、チンギスとその臣下が着ている官服=ジスン
たモンゴル国では首都ウランバートルで盛大な800周
ジンのことが東西の諸文献にほぼ一致して描かれるの
の組み合わせでもう一つ注目したいのが、画面手前の
(色)服は、彼らによって作り出されたものである。
年記念式典が行われていた。いうまでもなく、クリル
は1203年秋のケレイト打倒によりモンゴル東半の覇者
テーブルに左右を金属器に挟まれる形で置かれた青花
当然、画面中のチンギスはこの服を着ているはずもな
タイでテムジンがモンゴル諸部族を統合してイエケ・
になってからである。ちなみにケレイトのトオリルと
白磁(染付、ブルー&ホワイト)の中国磁器である。
いが、のちにモンゴル各国では共通の官服とされた。
モンゴル・ウルスすなわち大モンゴル国(モンゴル帝
モンゴルのテムジンの離反の背景には、鉄資源の分配
絵付の図柄には龍らしきものが描かれており、王者チ
金糸によって刺繍されたジスン服はモンゴル官人の存
国)を建設し、自らもチンギス=ハン(当時の発音で
の問題があったことも指摘されている。
ンギスの即位を作者がイメージしたものだろう。しか
在感を際だたせるものであった。
はカン)と改称した1206年を記念してのことである。
■ 3.ラシード=ウッディーン『集史』と挿絵 ■
し、なぜ中国の青花がこのようなところに登場するの
たった1枚のミニアチュールでも、見る側に“史料
翌07年、セルゲイ=ボドロフ監督が、映画『モンゴル』
「豹の年…それはヘジラ暦の602年、ラジャブ月にあ
だろうか。実は『集史』パリ本の挿絵ミニアチュール
批判”を踏まえた地道な資料探索と歴史的追求の努力
を制作した。日本人俳優浅野忠信扮する「テムジン」
たるが…チンギス=ハンは9本の白いトクを立て…盛
にはクリルタイなどで行われたトイ(宴会)の場面に
があれば、我々はそこから様々な歴史情報を引き出す
時代のチンギスは、部族の激しい抗争に身を投じなが
大に大クリルタイをなし、…即位した。
」
(杉山正明氏
たびたびこの中国磁器が描かれているのである。それ
ことができるのではないだろうか。
らも強い意志の下、寛容さと厳しさを併せ持つ指導者
訳)
。今回取り上げたミニアチュールの上部に書かれ
はティムール帝国期の作品と確認できるミニアチュー
■ 5.映画シーンの教材化 ■
として描かれている。映画自体は最後の場面で1206年
た『集史』本文の一節である。東西諸文献は1206年の
ルの同様の場面でも見ることができる。その点でまず
全編「人間」チンギスを描いた英雄叙事詩的作品と
の即位をテロップで流して終わっている。
チンギスの即位をこのような形で一致して伝えている。
押さえておくべきことは、元代後半に景徳鎮で焼成さ
なっており、この映画から史実にまつわる教材ネタを
一方、即位の場面をペルシア語本文とともに絵で描
この即位を画題とする今回の挿絵ミニアチュールの母
れた青花の絵付顔料はイランとその近辺産のコバルト
直接取り上げることは難しい。ここでは映画全体の中
いているのが、今回取り上げるラシード=ウッディー
体となった『集史』は一体どのような背景のもとに著
を使用しているという事実である。これは偶然ではな
からうかがえる注目すべき事柄を2点紹介したい。ま
ン『集史』写本の挿絵ミニアチュールで通称《チンギ
述・編集されたものなのだろうか。授業においてイル=
い。モンゴル帝国はイランの伝統的な絵付技法に中国
ず、映画の進行の中で最初は妻ボルテの婚資として、
ス=ハンの即位》と呼ばれている絵画である。映画
ハン国(フレグ=ウルス)の最盛期を現出し、イスラ
の高度な磁器生産技術を合体させ、東西融合の精華と
後にはテムジンのジャムカへの贈物として登場するの
『モンゴル』からミニアチュール《チンギス=ハンの即
ームに自ら改宗した君主として紹介することの多い第
もいうべき青花白磁を生み出したのである。その具体
がクロテンの毛皮である。モンゴル社会ではクロテン
位》へ。この2作品をとおして「チンギス=ハンは世
7代ガザン=ハンの時代は実は国家の危機の時代であ
的経緯は不明であるが、間違いなくいえることは、モ
の毛皮は絶大なる財貨であった。モンゴル諸民族にお
界に何をもたらしたか」を考えてみたい。
った。国家分裂の危機をいかに乗り越えるか、ガザ
ンゴル帝国のユーラシア・ネットワークの存在なくし
けるクロテンなどの高級毛皮への嗜好とこだわりには、
■ 2.謎の多いチンギス=ハンの前半生 ■
ン=ハンは様々な改革を試みるが、その一環として侍
て、中国における青花白磁の誕生も中東イスラーム地
彼らがもともと“森林の民”であったことの「民族的
歴史上の人物で、よく知られている割にはその生涯
医にして宰相でもあったラシードに命じて行わせたの
域へのその広がりもなかったということである。
記憶」も関係しているのだろうか。
が十分わかっていないという人物は少なくない。チン
が、チンギス家とモンゴル国家の発展をたどる歴史編
王権の象徴といえば、このミニアチュールにはもう
鉄なくしてチンギスの生涯は語れない。もともと敵
ギスの場合、後世に伝説化・神格化されたがためにそ
纂事業であった。ガザンはこの事業に自らも口述者と
一つ、チンギス「王権神授」説を物語ると思われる描
将の名から採ったといわれる「テムジン」はモンゴル
うなったという面もあるが、何といっても遊牧社会と
して加わったが、1304年、激務の末に34歳で亡くなり、
写部分があるが、読者の方はお気づきだろうか。玉座
語の「鍛冶屋」に由来しており、『元朝秘史』の鉄に
いう無文字的社会基盤の中で生まれた指導者だ、とい
事業を引き継いだ第8代オルジェイトゥ=ハンの依頼
の背になっている彫金の最先端には金鳥らしきものが
まつわる伝承的内容をつなぎ合わせていくと、
「大モン
うことを押さえておかなければならないだろう。とく
で「諸民族の歴史」が書き加えられた。
『集史』原本
描かれている。クリルタイでテムジンが即位する前に、
ゴル国」樹立における鉄および鉄資源の重要性が浮か
にモンゴル部の場合、13世紀初めに滅ぼされたナイマ
は残念ながら現存しないので、今日、モンゴル史の基
鳥が飛来して“チンギス、チンギス”と鳴き続けたの
び上がってくる。モンゴル考古学の白石典之氏は鉄資
ン部に仕えていたタタトンガがウイグル文字をモンゴ
本史料として歴史家が取り扱う『集史』はすべて写本
でその名がついたといわれる“鳴鳥伝説”は14〜15世
源に着目したチンギスの戦略が彼と彼に従うモンゴル
ル・ウルスに伝えるまで正確な記録が残っておらず、
しかない。この写本の多くに本文補充も兼ねて挿絵ミ
紀頃生まれ、17世紀の『蒙古源流』では、その鳥は金
部族の成功を導いたと指摘している。映画でもジャム
チンギスの前半生も謎に包まれた状態になっていると
ニアチュールが描かれているのである。
『集史』パリ
の翼を持ち、五色の羽根毛をもつ“五色鳥”というこ
カとの戦いの勝利の後に鉄製武器を鍛錬している鍛冶
いってよいだろう。テムジン時代のチンギスに関して、
本の挿絵ミニアチュールは見る「モンゴル史」であり、
とになっている。シャーマニズムと結びついたチンギ
の場面が登場するが、ボドロフ監督もこの辺のところ
その動きが確実に「レーダー」に捉えられるようにな
そこには作り手のメッセージもこめられているといわ
ス=ハンの伝説化・神格化は早くから始まっていたよ
を意識してシーン設定を行ったのだろうか。生徒にも
るのが1195年頃からで、それはテムジンがケレイト部
れている。このような視点を踏まえながら、パリ写本
うで、このミニアチュールの金鳥もその流れの中に位
歴史を突き動かす“地下動脈”の存在に気づかせたい。
ミニアチュール(細密画)《チンギス=ハンの即位》(パリ国立図書館、14〜16世紀頃)へ―
福岡県立東筑高等学校 今林常美
■ 1.あれから800年・・・ ■
Fly UP