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若者の村 - 新潟大学

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若者の村 - 新潟大学
2013 にいがた 地域映像アーカイブ・クインテット
「若者の村」の肖像 −角田勝之助と村の 60 年 (1) 昭和 27 年〜昭和 32 年
榎本 千賀子(新潟大学)
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角田勝之助は、昭和 3 年に奥会津の村、現在の福島県大沼
田のアルバムは地元の人々にはその存在をよく知られており、
郡金山町に生まれ、これまで地元を離れることなく暮らしてき
一部の写真は、近年では公共施設の壁を飾るなど、地域に活
た。10 代から写真に興味を抱いていた角田は、敗戦後の昭和
かされている。
26 年、長年の念願であったカメラを手に入れる。そして間も
にいがた地域映像アーカイブでは、小さな地域共同体のな
なく角田は、金山町の人々の肖像を撮り始めた。地域、学校、
かでだけ知られていたこうした角田の営みを、今後数年かけて
そして勤務先の地元建設会社で、角田は折に触れては写真を
デジタル化・公開することを目指している。また、デジタルデー
撮影し、自宅の暗室でプリントして被写体となった人々に贈り、
タの一般公開前にも、調査・デジタル化作業と平行して随時写
自分自身のためにアルバムを編集する。角田はこの営みを、現
真の展示を行い、角田による金山町の 60 年間の記録を、時
在にいたるまで 60 年以上の長きにわたって続けている。また
系列に沿って紹介する計画である。金山町が戦後 60 年間のう
この間、角田とともに暮らしてきた地元の人々もまた、撮影に
ちに被った変化。その変化を、角田と金山町の住人はいかに
積極的に応じ、角田の営みに欠かすことのできない協力者と
受け止めたのか。さらに、ひとつの部落という地域共同体に根
なってきた。
を下ろして続けられ、その共同体の内で楽しまれ、暮らしのな
新潟と福島の県境、山深い豪雪地帯に位置し、時に「秘境」
かに活かされてきた角田のアーカイブと、より広域にわたる「地
とも呼ばれる奥会津。只見川の流れが刻む渓谷に沿って、小
域」を対象として、映像を収集、公開することを目指す地域映
さな部落が点在する。この地域は、近世には会津藩とつなが
像アーカイブの活動は、いかに切り結ぶことができるのか。私
りを持ちながらも、
幕府の直轄地「南山御蔵入」の一角を担い、
たちはこれらの課題を、調査、デジタル化と公開の試みによっ
会津平とは異なる独自の文化を誇ってきた。またここは、阿賀
ていわば「走りながら」問うてゆく。今回の展示は、この一連
野川、只見川の水路を利用した越後街道(会津街道 ) や八十
の計画の第一弾というわけである。
里越を通じ、新潟とも古くから交流の盛んであった地域でもあ
さて、今回の展示で紹介するのは、角田が村の人々を撮影し
る。角田の父も、只見川、阿賀野川を用いて福島から新潟の
はじめて間もない昭和 27 年から 32 年の写真である。角田の
揚川へ材木を運搬する、福島と新潟をつなぐ仕事に従事して
アルバムの舞台となった金山町は、現在では過疎が進み、65
いた。
歳以上の高齢者の比率が約 55%と過半数を超える限界自治
60 年分の写真を収めたアルバムが並ぶ角田の自室は、今で
体となっている。また、金山町を含む只見川流域は、平成 23
はさながら金山町の私設写真アーカイブとも呼ぶべき様相を呈
年の新潟・福島豪雨により大きな被害を受けたところでもある。
している。被写体となった人々でさえ、長い年月のうちにどこ
災害の爪痕は 2 年が経過した今なお生々しく、金山町と小出、
へしまい込んだものかわからなくなった写真、時には撮影した
会津若松をつなぐ只見線は、会津川口駅~只見駅間で運転再
ことすら忘れられてしまった数々の写真が、角田のアルバムに
開の見通しがたたずにいる。
は多数収められている。角田のアルバムは、もちろん角田個人
もちろん、奥会津は古くから絶えず厳しい自然条件と戦って
の動機に端を発したものである。だがそれは、地域共同体の
きた地域である。この地域は、急峻な山々に囲まれて狭小な
密接かつ長期にわたる関係性の中でしか、生まれ得ないもので
耕作地しか持てず、雪に閉ざされる冬には他地域との行き来も
あった。それゆえに、角田のアルバムは角田個人の作品である
ままならないところであった。冷害や水害もたびたびこの地域
のみならず、地域の財産ともいうべきものであろう。事実、角
を襲ってきた。しかし、高齢化と急激な人口減少が進むことで、
2013 にいがた 地域映像アーカイブ・クインテット
自然条件や災害に対抗する地域の体力が奪われてゆく。そし
発電ダムが連なる一大電源地となっている。長い冬の間金山
て、厳しい自然条件と災害がさらに人口減に拍車をかける。現
町を閉ざす深い雪は、
「白い石炭」とも呼ばれる水力発電の豊
在の奥会津、そして山を挟んで隣り合う新潟側奥只見の周辺
富なエネルギー源でもある。その豊富な雪解け水と急激な高
自治体は、このような過去に例のない困難に直面している。そ
低差に恵まれた只見川は、水力発電に適した川として明治期か
れはたしかにこの地域の厳しい現実である。だが、外部から見
ら注目されていた。今回取り上げる昭和 27 年から 32 年は、
ちょ
える只見川流域のイメージは、ともすればこうした暗い側面に
うどこの只見川の電力事業が戦後の電力不足に押されて本格
偏りがちである。
的にスタートを切った時期にあたる。
しかし、角田の写真アーカイブには、そうした一面的な奥会
戦前から建設が進められていた宮下発電所が昭和 21 年に
津のイメージとは全く違った村の姿が映し出されている。例え
運転を開始、昭和 25 年には金山町は国土総合開発法の下で
ば、今回紹介する昭和 27 年から 32 年のアルバムを一見して
特定地域開発計画の指定地域に包含される。この法律のもと
気付かされるのは、写し出される人々の大半が、若者か子供だ
で、只見川流域のダム建設は本格的に進められてゆく。角田
ということだ。山、畑、川−そこは彼らの生活と密着した仕
が写真撮影を始めた昭和 27 年にも、東北電力によって沼沢
事場でもある−のなかで、若者たちは肩を寄せ、傍らの友人
沼発電所が建設されていた。そして、その後も発電所の建設
たちと触れ合いながら、嬉々としてポーズをとっている。戦前
は相次ぎ、金山町は実際ダム経済に潤ったのであった。
から続く笠や蓑を身につけての畑仕事姿もあるが、新築家屋
さらに、金山町は鉱山資源も豊富な地であり、今回紹介す
の棟上げや、真新しいミシンや自転車、車といった品々を前に、
る写真が撮影された時期、その資源が地域の期待を集めてい
将来への期待や、満足感を感じさせる表情も見える。この時
た。黒鉱を産出する田代鉱山と横田鉱山は、現在では両者と
期の角田の写真が映し出すのは、戦後の村の復興を担った若
もに採算性の低下のため閉山している。しかし、この二つの鉱
者たちが主人公の、活力に満ちた村の姿なのである。
山は、今回の写真が撮影された時期には地元経済を活性化さ
若者や子供がこの時期の角田の写真に多数登場するのは、
せるものと見込まれて、開発が進められていた。
当時角田自身が 20 代の青年であり、年の近い友人や、彼・彼
もちろん、こうした経済活動、特に只見川の開発は、単純に
女達の子供を被写体にしやすかったという事情がまずは考えら
良い面だけもたらしたのではない。ダム建設によって、長年人々
れる。しかし、この時期の金山町は、実際に現在よりもはるか
がなじんだ景色は大きく変わった。只見川流域ではダム底に沈
に若者の多い町であった。この地域の若者たちが労働力とし
んだ部落もあった。
また、
平成 23 年の水害も、
ダムの存在によっ
て都市へと急激に移動し始めるのは、日本の他の農村地帯と
て拡大した可能性が指摘されており、金山町の被災者はダム放
同じく、昭和 35 年を過ぎてのことである。今回紹介する時期
流のミスが災害の原因であるとして電源開発を相手に裁判を起
の金山町は、むしろ戦争から故郷へと帰ってきた若者たちが
こしている。さらに、只見川の電力事業は、その後福島・新潟
子供を産み育てる人口増加の時期にあたっている。60 年前の
を首都圏の二大電源供給地として開発する足がかりとして、こ
金山町は ま さに「 若者の村」であったのである。過疎地は最
の 2 県に多数の原発を集中させるひとつのきっかけになったと
初から過疎地だったわけではない。当然のことではあるのだが、
も言われている。しかし、首都圏への電源供給地が収入以上
角田の写真はその当然のことを改めて思い出させてくれる。
に多大な負担を負わされていたことは、福島第一原子力発電所
さらに、若者たちの明るい表情もまた、単に写真撮影に際
の原発事故によって、今や明白である。また、只見川が作り出
して発された義理や愛想によるものというだけではないだろう。
した電力は、高度成長期をエネルギー面から支えたが、多くの
彼・彼女たちの表情は、奥会津の豊かな資源を活用した地域
若者たちが奥会津を離れて都市へ向かったのは、彼らの故郷
発展という、当時は説得力のあるものだった地域の明るい見通
が作り出すエネルギーを用い、経済成長を担う労働力となるた
しに裏打ちされた部分が少なからずあったのではないか。只見
めであった。村の発展に期待をかけて行われた開発は、矛盾
川は現在、東北電力と東京へ電力を供給する電源開発の水力
含みのものであり、後に奥会津の村々が抱えることとなる過疎
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2013 にいがた 地域映像アーカイブ・クインテット
化をはじめとして現在の問題とも関係しているのである。
【参考文献】
しかし、こうした開発の問題点は、今回紹介する写真が撮影
•
された当時は、もちろん表面化してはいなかった。角田の写真
•
1972 年
1 月 31 日、1, 3 頁、2 月 1 日、1, 3 頁、2 月 2 日、1, 3 頁、
ト遊びに興じる若者の姿が、屈託なく写し出されている。
あるものとして私の目に映るのは、こうした経済的な背景だけ
「原発危機 双頭の電源地 新潟・福島 背負った宿命」
『新
潟日報』2012 年 1 月 29 日、1, 3 頁、1 月 30 日、1, 3 頁、
には、
真新しいダムの姿、
そしてそのダム湖の光景であろう、
ボー
しかし、若者たちの表情が、ことさら明るい、まぶしくさえ
金山町史出版委員会編『金山町史』金山町史出版委員会、
2 月 3 日、1, 3 頁
•
金 山 町「 町 のプ ロフィール − 金 山 町 ホ ームペ ー ジ」 http://www.town.kaneyama.fukushima.jp/soshiki/19/
profile.html 2013 年 10 月 7 日最終アクセス
によっているわけではない。身体的接触を厭わない距離にやす
らう、人々の間のうちとけた様子、角田の指示によるものと思
われる独特の人物配置−しばしば人々の頭部を極度に密着し
て並べるそれは、少々ユーモラスでもあるのだが、たいへんこ
の写真にふさわしく思われる−に身をゆだね、カメラに向け
胸を張って堂々と視線を送る人々の姿からは、村に築かれた強
固な信頼関係が読み取れる。実際には村の生活にも人間関係
の葛藤はあったことだろう。だが少なくとも、仕事、遊び、学
校、家庭と様々な場面で撮影された写真を張り混ぜた角田のア
ルバムの中で、金山町の住人たちは、生活の多様な側面を共
有し、角田と共にそれを一枚の写真に結実させるべく協同して
いる。彼らはアルバムの中で、家族のように睦み合い、協力し
合う、ひとつの幸せな共同体を生きている。このように、現実
の村を反映しつつも現実以上のものとしてアルバムの中に凝縮
した村の濃密な関係性が、写真に写る若者たちを、あたかも
桃源郷に生きる人々であるかのように感じさせるのだ。
村と村を取り巻く状況の変化によって、そして写真を介した
時間の積み重ねを経て、こうした角田の写真の様相は、その後
いかに変わってゆくのか。地域映像アーカイブの今後の調査と
デジタル化、展示をはじめとする公開の過程では、その個別
具体的な様相を丹念に辿ることを目指してゆく。金山町の地域
共同体に生きる角田と村の人々が自分たちのために編んだアー
カイブを、地域映像アーカイブという位相の異なる「地域」と
公共性においていかに活かすことができるのか。そして、これ
まで金山町を訪れたことも、今後金山町を訪れることもないか
もしれない現在と未来の人々へと、角田と金山町の人々が 60
年という歳月をかけて暮らしのなかで育んだ財産をいかに手渡
すことができるのか。地域映像アーカイブが抱えるこれらの課
題への答えも、そうした調査、デジタル化、公開の具体的な取
り組みを通じて、見えてくるはずである。
15
なお、本稿の執筆に際して、角田勝之助とともに、金山町出身の
舩城俊太郎(元新潟大学人文学部教授)より助言を得た。記して
感謝する。
村の肖像Ⅰ・展
2013 年 12 月 4 日 ( 水 ) 〜 12 月 15 日 ( 日 ) 新潟大学旭町学術資料館
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