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茂帥嵯 雌 。や 管。

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茂帥嵯 雌 。や 管。
一一
一
画一凸
一
=
=
当L
茂帥嵯雌。や管。
=
一 一 ヨ
ー ー
ビ 国 語 -
城
目
奥久慈温泉郷∼棚倉町∼白河市
∼甲子有料道路
大子町∼馬頭町∼湯津上村∼黒羽町
∼大田原町∼西那須野塩原I。○
益子町∼茂木町∼烏山町∼小川町
●●
●●
7
75
141
奥久慈温泉郷I棚倉町I
白河市l甲子有料道路
おくくじおんせんきょう
鎌奥久慈温泉郷
ゆいいつ
茨城県内唯一の温泉郷がこの奥久慈温泉郷で、
絹の肌ざわ、ソを作る袋田温泉と、美人を作る湯
きぬはだ
だいごひ
すいぐんせんさいかねえきとほ
といわれる大子温泉、戦国時代に発見された秘
とう
湯、湯沢温泉︵水郡線西金駅下車、徒歩一一十分︶
などが久慈川にそってならんでいます。
ろてんぶろ
最近では露天風呂や、奥久慈産の小ぶりのり
ふろひのきぶろ
とくじ
ソゴを浮かべたリソゴ風呂、桧風呂などが人気
があります。
きたたげとうさてん
樵北田一丸交差点
すずりいしげんせき
北田気交差点を左に入ったところを小久慈L﹄
いいます。その小久慈からは硯石原石が産出さ
れていたところです。
しりゆうおしがわ
だいどじょうあと
参考大子城跡
久慈川の支流押川が左に流れています。押川
たいがんすいぐんせんしろあとゆうきし
かしんはがかわちのかみちくじよう
対岸の水郡線の線路ぞいの山が城跡で、結城氏
の家臣芳賀河内守が築城したと伝えられていま
7
す。
かてつきょう上ろいがぶち
押川に架かる鉄橋の上流が鎧ヶ洲とよばれる
はがしいわきしせ
、ところで、城主の芳賀氏が岩城氏に攻められて
らくじ主うさいあいしようぶぎようだいら
ハダ
落城した際、愛妾を殺して奉行平︵押川上流︶
ヤーろいふちしずじけつ
に埋めて、自分は鎧をこの洲に沈めて自決した
と伝えられています。
繋湯の里大橋
だいご重ち
湯の里大橋を渡ったところが大子町の中心街
ひたちだいごえき
です。JR水郡線の常陸大子駅も奥久慈観光の8
えきとうへん
表玄関としてひかえ駅周辺を中心に、町役場を
さいばんしよほうむきよく
はじめ、裁判所や法務局、保健所、郵便局、温
泉旅館などが建ちならんでいます。
せいりゆうやだ
難大子温泉
久慈川の清流をのぞむ大子温泉は矢田地区に
くば
あり、ここからポンプでくみあげたお湯を、昭
和一二十八年四月から町内の旅館やホテルに配り
かれつ
加熱して利用しています。
づじようれんきやく
ルマ偽正う
家族連れや常連客が多いのが大子温泉の特徴
ぼうしょうせんいちようびようしんけいつう
かとうほう
で、泉質は苦硝泉で自肩腸病や神経痛、リウマチ
き
などに効きめがあります。
だいごじゆうにしよじんじゃ
参考仙大子十一一所神社
そんけいとうえ
この大子町の特産、コンニャクの加工法を開
発し、奥久慈の農民から尊敬された中島藤右衛
もん
門をまつる、コンニャク神社が昭和五十七年、
によしんしようにんしゆうえん
さかいかみかねさわ
︵一九八一一︶に大子十一一所神社境内に建てられ
だいごじゆうにしよじんじゃけいだい
ました。9
側如信上人終駕の地
しんらんしようにん左ごにょしん
国道四六一号線を栃木県境の上金沢地区に向
うと、親驚上人の孫にあたる本願寺二世・如信
はかほうりゆうじけいだい
おうしゆうおおあみむらふるどのちよう
上人のお墓が法竜寺境内にあります。
如信上人は、奥州大網村︵福島県古殿町︶に
すきんりんふきよう
住まいし、近隣の布教につとめていました。
蕊劉獅舗︵一一一九九︲鎌倉時代︶、京都から
たずや童い
の帰り道、この地を訪ねた上人は病にたおれ、
よくねんでしじようぜんぽう
翌年弟子の乗善房らに見ま津Dられてなくなりま
けいだいせきひ
たいぼく
した。法竜寺の境内には如信上人の石碑と上人
てうえ
お手植といわれるカヤの大木や大イチョウがあ
ります。
樵灘如惑の卵撒
右に左に流れる久慈川はアユ釣りのメッカで、
そこに〃観光やな〃が登場しました。
かいきん
久慈川のアユ釣りの解禁は六月一日から九月
さいせいき
のう
ごろまでが最盛期で、その時期には、アユのつ
かみどりや水遊びのほか、アユ料理もたん能で
きます。
さいばい
また、大子町は奥久慈リソゴ栽培の中心地で、
初秋には観光リソゴ園で小ぶりでおいしいリン
が
ゴ狩りができます。近ごろはリソゴ栽培にまじ
って、ブドウづくりも広まっています。
その他、コソーーャクと並ぶ古い特産物に﹃二
○○年近い歴史をもつ﹁奥久慈茶﹂が生産され
10
ています。
鵜川山橋
やみぞさん
すいぐんせん
︵久慈川とJR水郡線を渡ります︶
鵜八溝山
左前方に八溝山が見えています。
とちぎふくし注いばらき
ひょうとう
やみぞさん
栃木、福島、茨城と一二県にまたがる八溝山は
#哩
燕
茨城県では一番高い山で、標高一○一一一一メート
ルあり、久慈川の源です。山の中は植物や野鳥
いちだいぼうと
ぐんらく
の一大宝庫で、とくに杉やダヶヵソ・︿、シャク
やみぞれじんじゃやまとたけるのみことそうけん
ナゲなどの郡落がみられます。
さんちよう
山頂にある八溝嶺神社はpH本武尊の創建した
みなもルヱりともおうしゆうせいばつせんしようき
しやでん
けいだい
¥℃のと伝えられ、源頼朝が奥州征伐の戦勝を祈
がん
なんたいさんしられさんなすだけ
願したことが社伝に残されています。境内の一ニ
角点に立つ.と、日光の男体山、白根山、那須岳
あたたらや童あ・﹃蚤さんつくばさん
遠くには安達太良山、吾妻山、筑波山の山々が
いちぽう
はくほうじだいそうけん
一望の¥℃とにながめられます。
また、八合口ロには白鳳時代の創建と伝えられ
11
てんだいしゆうにちりんじばんどう
る天台宗の日輪寺があり、その昔、坂東一一一十一一一
ふだしよちゆうさいだいなんしよばんどうやみぞし
番札所中、最大の難所で﹁坂東の八溝知らず﹂
といわれた二十一番札所にあたります。今では
ほそうふだしよめぐ
登山道半D舗装され、札所巡りも楽にできるよう
になりました。
参考
へびあなしんでんだんのうら礎かいお誉
登山口に近い蛇穴新田は、壇ノ浦の戦で、扇
在といなすのよいちうぐろ
か
の的を射た那須野与一の愛馬﹁鵜黒﹂の生まれ
たところです。今は馬を飼う家はありませんが、皿
ふもときんさいくつ
かつては馬産地として知られていたところです。
すぎとだちちかつ
この八溝の麓は、古くから金の採掘が行われ
はいとうさんざい
ていましたが、今はその廃坑が各所に散在する
ちかつじんじゃ
だけです。
撫近津神社
国道の右手に見える杉木立の中に近津神社が
あります。
たなくら室ちやつき
近津神社は、福島県棚倉町の棚倉・八槻の両
おうしゆうさんちかつ
近津神社とと¥画に、奥州一一一近津神社といわれる
ものです。
や藍荏:のうとやみぞさんぞくせいばっ
その土日、日本武尊が八溝山に住む賊を征伐す
みとと
るときに、尊に力をかしてくれた神々をこの地
垂つ
に記ったのがはじまりといわれます。
てんねんきれんぶつ
けいだいほこすぎ
境内にある﹁鉾杉﹂は県指定の天然記念物で、
みきしゆうい
たいぼくおうしゆうせいばつお舟とちゅうはち窪ん|
メートル、高さ四三メートルもあります。
樹齢約一一一○○年といわれ、幹の周囲は九・六
じゆれい
参考岨
この杉の大木は、奥州征伐に赴く途中の八幡
たろう設哩のr偶え
太郎源義家が当神社に戦勝の祈願をしたとき、
ほこ
.けいだい
鉾をこの杉に立てかけたとの伝説があり、ここ
ほこすぎ
みき
から﹁鉾杉﹂の名がついています。同じ境内の
しゆうい
やどりぎ
老イチョウは、周囲五メートルで、その幹に桜、
ケヤキ、サソショウの茂る珍しい寄生木です。
じゆれい
そのほか、樹齢八○○年で幹の周囲六メート
つつもすぎ
ルの都々母杉もあります。
また、徳川通跡は逓溌淋叱渉悠泌罫を、嘘侭地
かみのみや
や左つり
区︵中ノ宮︶と上野宮地区︵上ノ宮︶にも移し
てあつほご
て手厚く保護を加えていました。
鎌新宮川橋
鵜新仲野橋
いばらきけんだいご左ち
鵜県境
茨城県大子町より福島県東白川郷矢祭町へと
やまつり在ち
入ります。
くじがわやみぞさんちあぶ
矢祭町は福島県のもっとも南にあって、町の
く主さんちきゅうりよう
中央を久慈川が流れ、西は八溝山地、東は阿武
隈山地の丘陵にかこまれた町なみで、アユ漁や
コソーーャクの特産品があります。
県境を越えると奥久慈県立自然公園のハイラ
やばけいや左つりや戎
イト東北の耶馬渓とよばれる矢祭山が目の前に
ふもと
広がり、麓は矢祭山公園となっています。
や窪つりじんじゃ
繋矢奴示神社
左に矢祭山公園が見えています。この公園の
14
てんき
中に矢祭神社があります。天喜一一年︵一○五四
みなもとぶり王しよしいえおやとおうしゆう
そやほうのう
ⅢⅡ平安時代︶のこし﹂、源頼義・義家父子が奥州
せいばつ
征伐のときこの地を通りかかり、征矢を奉納し
きがん
て戦勝を祈願いたしました。このことから、こ
やまつり
の地を矢祭とよび、今に続く町名となっていま
す。
けいだいさいぎようほうし
矢祭山の秋のけしきを
やまつりや童
心ある人に見せばやみちのくの
境内には、西行法師の
かひ
の歌碑があります。
繋先繊舜雌獄論︵久慈川の右︶
鎌矢祭山︵四○’一メートル︶
奥久慈県立自然公園の一部にふくまれる矢祭
山は
見ぬ人になこそ語らんみちのくの
矢祭山の秋の夕ぐれ
みつぐにこうょこう主う
と、水戸光圏公も歌に詠まれたほど、紅葉の
15
季節はすばらしいところです。
とうがん
花か尚
岩からなる山は、鰍心によって瀞れて評
浄鴎﹃蔵どなり、変化に詠んだ融鋤をつくりあげ
や窪はだろうしよう
ています。その山肌に老松やカエデ、ツッジな
どが自然の美しさを見せるところから、東北の
恥鮮灘とよばれています。
対岸に渡ると”福島の水一一一十選〃にえらばれ
た無慨溌がみられます。
.|
新緑や紅葉のころばかりでなく、山桜やシシ略
ジ、サツキの咲くころも、災難の人が誠がます。|
樵如熟Ⅷ
福島県の最南端にあるのが長さ一一一四キロメ
ートルのこの久慈川です。
概戯賊の聴鴬叩陰繍密発し、北に流れて矢祭
けいこく
そそ
山のあたりで約一一○キロにわたり渓谷をつくり
出し、茨城県側に入り、日立市で太平洋に注い
でいます。江戸時代には猟豊が畿融なところか
おもゆそうろ
ら、主に米の輸送路として利用されていました。
毎年六月一日には、県内のトップを切って久
りょうかいきんふきん
慈川のアユ漁が解禁となり、矢祭山付近にある
つ
﹁ヤナ場﹂とともに、釣り人や家族づれでにぎ
わいます。
樵新矢祭橋
右からの道は国道三四九号線で、昔の茨城街
ひたちおおたし
すいぐんせん
道です。常陸太田市方面に結ばれています。
ひがしだて
鵜東
館
︵新矢祭橋を渡ると久慈川と水郡線は左側にか
ひがしだて
わります。︶
さたけしたてあと
矢祭町の東館に入ってきました。ここは戦国
時代の佐竹氏の館跡があります。
左に水郡線の東館駅がありますが、この東館
は水郡線のちょうど中間点にあたります。ふる
くからコソーーャクの里として知られ、矢祭コソ
ーーャク神社もあり、生産されたものは健康食の
17
おみやげ品として人気を得ています。
たいがんしんけいつう
久慈川の対岸には、神経痛やリューマチによ
くきく滝の沢温泉があり、町営プールの〃スイ
ソピア矢祭”や大自然の中で楽しみましょうと
たてや注
作られた〃館山リフレッシュふるさと一フソド”
しせつ
が町の施設としてあります。
ごてんがわらとうさてん
鵜御殿河原交差点
ざいもくしゆつか
ここは下石井です。昭和三十年ごろまではこ
ちいき
さかいはなわまち
の石井から、ヒノキや杉などの材木が出荷され
ばく
ていた地域です。久慈川を境に左手の方は塙町
となります。
樵瀧耽︵矢祭町から塙町に入る︶
あぶくまさんけい
なごはなわだい
塙町は阿武隈山系の中にあって、むかしは幕
ふ2つかつりす
かんじんや
府の直轄領だったところで、その名残りの塙代
官陣屋があります。
美しい杉林にかこまれた町は、コソニャクイ
モや葉タバコを生産し、町のはずれには大シャ
18
クナゲの溌謎聯が見られます。
鵜酔補職瀞珊漂蹴
げんそうけいじ上うあと
左に見えているのは、田中患蔵刑場跡です。
てんぐとう
慰蔵は幕末水戸藩天狗党のリーダーの一人で
や
みぞさんうさむ
八溝山にたてこもっていましたが、飢えと寒さ
おとら
と不安から仲間は次々に山を降りて捕えられ、
げ
んぞうがんじはなわ重ちとら
恩蔵は元治一元年︵一八六四︶、この塙町で捕え
かわらしよけい
拝つれ久慈川の河原で処刑されました。墓はこの
あんらくじ
むこうがおかとうえん
先の安楽寺にあります。
鎌向ガ丘公園
はなわめいだいかん
このあたりを桜木町といいます。
ここにある向ヶ丘公園は、塙の名代官といわ
てらにしじゆうじろうたかもとかんせい
れた寺西重次郎封元が、寛政五年︵一七九一二︶
しよみんちくぞう・
に庶民のために築造した¥Dのです。桜の公園と
して知られ、県の天然記念物に指定された桜や
寺西神社があります。
参考
19
たかもと
こん
寺西封元は、この公園を造るにあたって、今
おと
畦でいう鈷慧瀧一懲郭謡かような形で行
なったと
いいます。艶醗訓の制定や農村楓感に斯縫をあ
げ、農民から強い目職溌え、また逓臓の大名た
はん
ちの範となりました。
ふろや注とうえん
紫風呂山公園
向ケ丘公園の東にある即酔雌公園は、江戸の
しんどんしゆう
中期まで真一一一一口宗のお寺があったところです。そ
あと
の寺の跡が公園とな、ソ、こちらも全山ツッジに
おおわれています。
ゆじ重たおんせん
繋湯岐垣皿泉
瀞嘘の中心街から如聯雌の議噸川上川をさ
かのぼった、溌離丑○○メートルのところにあ
るのが獄臓獄感です。
ここの温泉の発見は冠誠五年︵一五一一一六Ⅱ室
町時代︶にさかのぼります。一人の溌謎蒜がこ
かとう
の地にのがれ、かくれていたし﹂きに大きな花闇
20
がん
岩のわれロロから、お湯がわき出しているのをみ
つけたのがはじまりといいます。
参考
みとはんし
江戸時代には水戸藩士でにぎわっていたとい
ばく垂つはんせいかいかくふじたとう
い、幕末に水戸藩の藩政改革の指導者、藤田東
ととうじおり
湖が湯治の折にこの名をつけたと伝えられてい
いちようびようどうみやくこうかしようき
ます。胃腸病や動脈硬化症などに効きめがあり、
しんゆじまたしお
関東方面からのお客様が多いそうです。近くに
あんらくじ
は新湯岐、塩︵志保︶の湯、谷川の湯があり、
きんざいのうかんきほよう
こちらは近在の方々が農閑期に保養にみえてい
ます。
参考安楽寺︵右︶
てらにしし
右には水郡線が走っていますが、その右奥に
じようどしゆう
浄土宗の安楽寺があります。この寺には寺西氏
てんぐとうげんぞう
ゆかりの墓や天狗党の田中息蔵の墓があります。
だいかんしよあと
はたわ
粥代官所跡
右手、塙代官所跡です。
21
ばくふちよつかつりよう
この塙町は、かつては幕府の直轄領で、その
どさんごくあ室りねんぐ
織赫の僻齢蹴酵があったところです。この陣屋
きようほう
は享保十四年︵一七一一一九︶に、五万石余の年貢
ごのうそんふつ
の取り立てなどに当るためにおかれました・
てんめいだいききん
てらにしたか
天明の大飢鐘︵一七八一一一1f八八︶後の農村復
とう
興に取り組んだのが、名代官といわれた寺西封
もと
元で す 。
はぐろだてあと
繋卯熟此公園︵羽黒館跡︶
ひょうとう
こうほうしえんお
市街地の東︵右︶にあるのは標高一二六四メー
トルの羽黒山です。
戦国期に佐竹氏が後方支援をするために置い
きよだいや窪じろふもとたてあと
た巨大な山城で、東の麓には住居用の館跡があ
しゆうへんせいび
たな
ります。ただ今では、その周辺はきれいに整備
され、羽黒山公園となっています。
くじがわ
鵜松岡橋;︵流れは久慈川︶
松岡橋を渡ったこちらは、福島県東白川郡棚
ぐら 室 ち
倉町です。
22
紫棚禽・雌
すいぐんせん
棚倉町は、JR水郡線と国道一一八号線が南
とうくじ
北に走り、国道一一八九号線が東西に通る、久慈
がわか.がんだんきゅうじよう
川の河岸段丘上に古くから開けた城下町です。
たなぐら垂ちいの
かって、棚倉町は”伊野〃の地名でよばれて
たねぐら
たな
倉の地名がおきたようです。古い記録によりま
ぐら
がおかれており、この種倉が転じてただ今の棚
てん
いました。その頃からこの地方一帯の﹁種倉﹂
すと別
いのくらもうとくたくわ
﹁伊野に庫を設け穀を蓄え、春、開きわかつ。
どみんいのたねぐら
土民これを伊野の種倉という﹂
しる
と記されています。
んえいがんねん
寛か永
元年︵一六二四︶、部卯慰勤が雛謎撚溶
ちくじよういらいはっけだい
築城して以来、八家十七代の諸大名がこの地を
おさぽしんせんそうせんからくじよう
治め、戊辰戦争の戦火で落城するまで、棚倉藩
ごく
五万石の居城として一一四○年間、一﹂の地方の政
治、経済、文化、交通の中心地として栄えてい
ました。
町中はツッジや松が多く、奥久慈県立公園や
やみぞけいこく
八溝渓谷など緑豊かな自然につつまれた静かな
城下町です。
はっけ
参考八家十七代
にわながしげのぶてる
側丹羽長重︵一六一一四︶側内藤信照︵一六
すけはる
一一七︶⑥太田資晴︵一七○五︶側松平
やすたか
た
けもとながゆき
武元︵一七一一八︶⑤小笠原長恭︵一七四六︶
謹さもと
まざきよ
⑥井上正甫︵一八一七︶例松井康爵︵一型
八一二六︶⑧阿部正静︵一八六六︶
鵜寺山交差点
つつとわけやつきつつとわけ
樵都々古別神社︵八槻都々古別神社︶
八槻神社・ハス停の前にあるのは、江戸時代に
ちかつさんじややつきつつとわけ
﹁近津一二社﹂といわれた八槻都左古別神社です。
おうしゆう
奥州一の宮とよばれており、旧正月六日には
はいでんぶたいみたうえまつり
きゅうれきかぐ
拝殿を舞台に御田植祭りがおこなわれます。
また、旧暦の十一月一日の大祭には七座の神
ら左
楽が舞われ、いずれも県の重要無形民俗文化財
となっています。
とよとみひでよしみつぐに
社宝には、豊臣秀吉︽徳川光閏の文書や国の
どうはつ
重要文化財の銅鉢があります。
あじすきたかひとねのみことや甚淀92を
︵祭神は味籍高彦根命・日本武尊︶
参考
ちかつさんじや
江戸時代に﹁近津一二社﹂とよんでいた神社は
たなぐら淫ちあざばばちかつみようじんかみのみややつき
いばらきだいご垂ちしものみや
棚倉町字馬場の近津明神︵上宮︶と八槻の近津
なかのみや
明神︵中宮︶、それに茨城県大子町下野宮の近
しものみや
つつとわけかいしよう
津明神︵下宮︶をいい、前の一一社は明治時代に
とくへいちゅうしゃれつ
国幣中社に列したとき、都を古別神社と改称い
たしました。
このように三社が久慈川にそっているのは、
かいたく
古代の奥州への経営や開拓が、久慈川をさかの
や雀もとふどうそん
ぽっておこなわれて行ったと考えられます。
樵山本不動尊
︵・ハス停、近津小学校から左に入る︶
25
れいじよう
左に入る道は、強濁流部ゆか、ソの霊場、山本
不動尊へと続いています。
あんぎやどう
山本不動尊は弘法大師が東北行脚の途中、洞
つきたいじ
懲に静鴎厩を鐸き、八溝山に住む悪あ鬼
を退治し
たのがはじまりと伝えられています。
参考
醗順灘筏にそって一三○段の石段を登りつめ
ぼんぞんあんちやくばら
えんむすれいけん
た岩あなに本尊は安置されています。厄払い。
縁結びに霊験あらたかといわれ、年間一一○万ほ
さんばい
どの人が参拝におとずれます。
けい
付近は奥久慈県立公園に指定され、春は山桜
こうよう
シャクナゲ、岩ツッジ、秋は紅葉と見︾﹂とな景
かん
観をみせてくれます。
また、不動尊の途中には﹁山本いこいの村﹂
があり、豊かな自然のなかで、楽しく遊べるう
しせつ
イールドアスレチック施設が置かれています。
恭古新交差点
26
たなぐらじようせき
棚倉の町中へと入ってきました。
鵜棚倉城跡︵左︶
にわながしげきず
棚倉城は、江戸時代に丹羽長重が築いた津Dの
けいおうぼしんせんそうしようしつ
で、慶応四年︵一八六八︶の戊辰戦争で焼失す
はつけだいとうたい
るまで八家十七代の城主が交替いたしました。
棚倉城は別名〃亀ヶ城〃とよばれていました。
お堀に住む大きな亀が姿をみせるときまって
殿様が変わる、と城下の町民たちの間でささや
しろあと
かれ、そこから”亀ヶ城〃といわれるようにな”
ったといいます。
ただ今では、城跡に図書館や公民館、広場が
ってもん
造られ、お堀と追お手
門の手前にある戯縦六○○
おおじおもかげ
年の大ケヤキが往時の面影をとどめています。
堀の内外には桜が約五○○本植えられ、桜の
名所としても親しまれています。
参考大ケヤキ
概織およそ六○○年、樋厩り十三メートル、
地上五メートルのところで三本の大枝にわかれ、
高さ三一一・三メートル。県の天然記念物。
兼懲称争︵左︶
本丸跡のす︿討北にあるのは浄土宗の蓮花寺で
・ぼん在るあとじようどしゆうれんげじ
きしん
す。この蓮花寺には、一一代藩主内藤氏が寄進し
どうしょう唾しんせんそう
た、国の重要文化財の銅鐘が戊.辰戦争の戦火を
ばばつつとわけじんじゃ
まぬがれて残されてあります。
鵜馬場都々古別神社
しろあと
城
跡から西の方に行きますと概灘雌融鰍です・明
にわながしげやしろ
ここにあるのが馬を都を古別神社で、棚倉城
ちくじよう
めいじいしん玄えおうしゆう
を築城したとき、現在地に丹羽長重が社を移築
しました。明治維新前まで奥州一の宮といわれ、
つき
町内八や槻
の同名の神社と飾獄はほぼ同じです。
たがふくりんたちふたふり
社宝には国の重要文化財、長覆輪太刀一一振、
あかいとおどしよろいざんけつこぶぐるいぶつぞう
赤糸威鎧残闘をはじめとする古武具類や仏像な
どを伝えています。
参考
つつとわけ
や龍とたワ色のみこととうごくせいばつ
都々古別神社は、口H本武尊が東国征伐のおり
おもてごうむらたかのみねほこ
この地にきて、西白河郡表郷村高野峰に鉾をた
つつとわけしん
て、みずから都々古別神をまつったことにはじ
まります。
泉のうもだむら室ろ苦しゅうせいとう
平安時代初期には、坂上田村麻呂の奥州征討
いのしようたなぐらじようあと
のとき、伊野庄、今の棚倉城跡に神社を移し、
やf藤易2塁を重つ
同時に日本武尊を記りました。その後、江戸時
にわながしげたなぐらじよう
代に丹羽長重が棚倉城を築城したさい、現在地
せんざ
に遷座したものです。2
たなぐら
参考ルネサソス棚倉
はつしよう
︵JR水郡線より右手奥︶
棚倉町は、オリンピック発祥の地、ギリシア
ほくい
のスパルタ市と同じ北緯一一一七度にあることから、
ス。ハルタ市と友好都市となっています。
これがきっかけとなって、スポーツを中心と
しせつ
して町おこしをしようと、リゾート型のスポー
シ施設、﹁ルネサンス棚倉﹂を造りました。
9
こうだいしきち
一一十四万平方メートルの広大な敷地に、各種
しせつもう
スポ・︲シ施設、レストーフソ、ホテルが設けられ
ています。テニスコートはアウトドァニ一一面、
ばば
イソドア四面、インドアとアウトドア両馬場を
かんびじようばしせつ
完備した乗場施設、温水プールやクワハゥスな
ど〃全天候通年型〃のスポーツ施設です。
撚新町交差点
あかだてじようせき
撚赤館城跡
︵新町交差点を左折、国道二八九号線を白河
市に向う︶
てんしよう
よししげとうりやく
左の高台に赤館公園がありますが、天正一二年
や垂じろ
︵一五七五Ⅱ室町時代︶、佐竹義重に攻略され
ゆうき
るまでは、結城白川氏の山城・赤館城が置かれ
ていたところです。
ふもとしえたな
ぎよくしつそうはくいおりあと
麓には、寛永四年に起きた紫衣事件でこの棚
ぐら雀ち
倉町に流されて来た、大徳寺の玉室宗伯の庵跡
があります。
30
しえ
.●●●●●
※紫衣事件とは︵しいじけんともいう︶
ころもくらいぜんそうちようていちよつきょ
元来、紫の衣は位の高い禅僧に朝廷が勅許し
けいちよういえやす
ていました。慶長十八年︵一六一一二︶徳川家康
しえはつとごみず
は、紫衣着用の法度を出していましたが、後水
の
おだいとくじみよう
尾天皇は、寛永一一一年︵一六一一六︶に大徳寺や妙
しんじ
心寺などの僧に紫衣の着用を許可しました。幕
むこう
府は翌年にこれを無効とし、さらにこれに反対
たくあんでわるざい
した大徳寺の僧・沢庵伊ロを出羽などに流罪とし
ました。これにより後水尾天皇が退位をした事
しえ
ちようていかくしつ
件を﹁紫衣事件﹂といいます。
江戸初期の幕府と朝廷の確執をあらわす事件
さかさがわ
として知られています。
繋逆川交差点
左に道をとり、白河方面へと向います。
ぽしん
このあたり¥b、幕末の戊辰戦争の戦場となっ
たところです。
しもうはら
繋下羽原
31
おもてどうむら
西白河郡表郷村に入りました。
表郷村は白河市と接する純農村地帯で、広い
すいでん
水田が広がります。村の中にはrJRの高速.ハス
はくほう
・白棚専用道路が走っています。
みもり
恭一一一森
みもりちかつのみやつつとわけ
ここ一二森は、その昔・近津宮︵都々古和気神
やなもり
しらかわのせき
大同年中に伊野・現在の棚倉町に移されました。
だいどういのたなぐらまち
社︶がはじめに置かれたところです。近津宮は
繋梁森弛
兼ふるさと村白河関の里
左手、山の中腹にあるのが”ふるさと村白河
関の里〃です。
テニス・プール・アーチェリー・・ハターゴル
じようばしせつ
ととの
フ場6乗馬・などのスポーツ施設のほか、ロッ
えんかい
ジ・貸し別荘・ホテルの宿泊設備半℃整い、スポ
−シのあとは一フドソ温泉にはいり、宴会もでき
るという総合レジャー施設です。
かねやまじせいち
鵜金山のビャッコイ自生地︵右︶|
錨雌瞬同感と螺伴勉には、イ草の一種。ビヤ
じせいち
シコイの自生地があります。ビャッコイはカヤ
へんしゆひょうが
ツリグサ科イグサの変種で、氷河時代の植物と
せいりゆう
いわれ、清流の流れるところでのみ育つといわ
れます。
ちんしゆ
世界中でスウェーデソとここにしかない珍種
まきのとみたろう
といわれ、明治一二十七年、牧野富太郎博士によ
って命名され、県指定の天然記念物です。
おもてどうむらみんぞくしりょうかん
鎌表郷村民俗資料館
表郷村の民俗資料館は一一五○年前の民家を移
ずい
築・改修してつくられたものです。この付近か
じんめんつきやよいしきどき
ら発見された人面付弥生式土器と平安初期の瑞
かそうちようはちりょうきょう
花双鳥八稜鏡が保存され、いづれも県の文化財
です。また、村内の古い生活様式がそのまま残
とくちよう
されているのが特徴です。
33
しらかわせきあと
鎌白河関跡
しらかわしはたじゆく
左の道をまいりますと、白河市旗宿にある国
しらかわのせきあと
の史跡白河関跡へと続いています。
もう
白河の関が設けられた年代は明らかではなく、
景行天皇のころと津D孝徳天皇︵白鳳時代︶のこ
けいとうこうとくはくほう
えぞ
ろと途︺いわれています。この地方に住む蝦夷の
つく
人々の南下をふせ︿、ために造られた¥℃ので、太
なこそせきねず
平洋側の勿来の関︵福島県︶、日本海側の念珠
せき
ケ関
︵山形県︶と並び難評覇醗といわれス灘熱剛蛙
もん
門でした。
えぞへいてい
さび
平安時代に入、ソ、蝦夷が平定されるとこの関
はいしせきもり
所浮ひ廃止となり、関守のいない淋しいところで
のちみな亀ど告りぐもおうしゆう
あったし﹂思われます。その後、源頼朝が奥州の
やすひらう
藤原泰衝を討つとき、この関は関跡しかなかつ
たであろうといわれています。頼朝にしたがっ
かじわらかげすえ
た梶原景季も
秋風に草木の露を払はせて
君が越ゆれば関守もなし
の歌を残しています。
みちのく
もり
現在、ここには銚砿灘 の 森
公園がつくられて
います。
参考①白河の関
はたじゆく
旗宿にあった白河の関は〃道の奥の国〃に通
じるちょうど玄関口にあたっていました。
せ関のき
うたまくら
なくなった後は、もっぱら歌枕の里とし
みやときおく
て都の人の記憶の底に生き続けていましたが、
まつだいらさだのぶとう
江戸時代に入り、白河藩主松平定信公はさまざ
とうしょうけつかせきあと
まな考証の結果、白河の関跡の場所をこの〃関
の森〃と決定いたしました。入口近くには識疏
十一一年︵一八○○︶、定信公によって建てられ
とかんせきひ
た﹁古関蹟﹂の碑があります。
︵昭和三十四年の関の森の揺掘調査で、建物
さくれつあとかじばあと
・住居あ
跡とや
柵列跡、鍛冶場跡などのほか、趣師
器・須恵器Q鉄器・すずりが発見された。︶
きすえきてつき
35
じせいち
森の中央にはカタクリの自生地として知られ
ど
る白河神社があります。ここに墜堂荊灘剤陸奥
のういんほうしかじわらのかげすえかひ
ばしよう
ふじわらのいえたか
守︶・能因法師・梶原景季の歌碑をはじめ、後
とば
じゆにい
鳥羽天皇歌碑・芭蕉文学碑・歌人藤原家隆の手
じゆれい
やしろ
植といわれる樹齢およそ八○○年の従一一位の杉
など数々の歴史にいろどられた社です。
かすみ
つ
能因法師
のういんほうし
都をば霞とと敬︺に立ちしかど
秋風ぞ吹く白河の関
たより
便あPつばいかで都へ告げやらむ
けふ
平兼盛
たいらのかねもり
今日白川の関を越ぬし﹂
つゆはら
秋風に草木の露を払はせて
梶原景季
かじわらのかげすえ
君が越ゆれば関守もなし
ゆめじ
雪にしく袖に夢路もたえぬくし
あらし
また白河の関の嵐に
36
後鳥羽天皇
しらかわせきもり
平成一二年、関跡のとなりに〃白河関の森公園〃
ぶんけんたてあな
がオープソし、文献や資料にもとづいて、堅穴
たかゆかしきそうこけんもんじよしゆくしやふく
式住居、高床式の倉庫、検問所、宿舎などを復
げん
元しています。その他には、江戸時代の関所や
かやぶきさいげん
奥の細道遊歩道、茅葺民家の再現や、ビジュァ
ル。ハウスで立体映像による昔のみちのくの体
験などができます。
いつちようぼとけくようとう
関の近くには、﹁一丁仏﹂と呼ばれる供養塔
ふじわらのきょひらりょう
そとがは注いつちよう
がありますが、これは藤原清衝が奥州六郡を領
ち
地としたとき、白河の関から外ヶ浜まで一丁︾﹂
とんりゆうくようとう
とに建立した供養塔といわれています。
②中野番沢線︵白河の関跡への道︶
せきさん
右奥に見妻える山は標高六一九メートルの関山
です。
表郷村番沢にある、曹洞宗の峰全院︵県道左
おもてどうむらばんさわそうとうしゆうほうぜんいん
うん
側︶には、県の文化財に指定されている銅製雲
37
ばん
せきさんふもとすずりいし
版が寺宝としてあります。
右の道を入ったところ関山の麓にある硯石地
注がいぶついわはだ
区には、江戸中期の作といわれる、硯石三十三
あみださんぞんらいごうぞう
観音磨崖仏があります。これは自然石の岩肌に
きざ
い
刻まれた阿弥陀一二尊来迎像を中心とする観音像
違んりん
で、近隣の人々に古くから信仰されています。
中野地区に入ってきました。この地には﹁和
ずみしきぶいおりあと
あっみち比のうふうしるい一
泉式部の庵跡﹂といわれるところがあります。|
いずみしきぶじよりゆうかじん
8
和泉式部は平安中期の女流歌人として名高か3
ずみしきぶにつき
く、また敦道親王との恋を物語風に記した﹁和
や富いほうちようきゆう
泉式部日記﹂の作者としても知られています。
ふるさと
その和泉式部が父の病の報に接したのが長久
一一年︵一○四一︶のことです。京都から故郷の
石川郡小泉に帰る途中、たまたま戦乱があった
かえかえいおり
ために帰るに帰れず、やむなくこの地に庵を造
へいかしず
り兵火の鎮まるのを待つことにしました。
結局、式部は父とあうことができず
とど
白河の関に一﹂の身は留めども
心は君が里にこそゆけ
の一首を送り、泣く泣く京に戻ったといわれ
もど
いおりわ
ております。庵の近くにこんこんと湧き出る泉
みずかがみけしよう
は、式部が朝な夕な水鏡として化粧をしたので
けしようい
﹁化粧の井﹂と呼ばれるようになったところで
す。
しきぶうち
さき
いまでもこの付近に式部内と呼ぶ地名がのこ
っています。羽
左
しようじもど
間もなく・ハス停の茂ヶ崎入口に出ます。その
れいおうひ
先には﹁霊桜碑﹂という戦︶のがあり、庄司戻し
ゆらい
の桜の由来を伝えています。
じしよう
のぼみな:
治承四年︵一一八○Ⅱ平安後期︶の一﹂と、兄
よりともきよへい
しのぶしょうじ
頼朝の挙兵を知り、平泉から出て鎌倉に上る源
よしつれ
義経に対し、信夫の庄司︵領主の命を受けて、
そうえん
しそくつぐのぶただのぶしたが
その荘園を管理した職・平泉藤原氏の庄司をし
もとはる
ていた︶佐藤基治はその子息継信・忠信を従わ
せ、みずからも義経一行を送りに出て、この地
そうぺつむすこ
で送別するとき、一一人の息子に﹁なんじら忠義
つえ
の武士であるならば、この杖は生きづくである
つえみち
う﹂とさとし、桜の杖を路のかたわらに立てま
した・
れい
桜の杖は霊あってかこれに感じ、根をおろし、
花をさかせたと伝えられています。
さかさざくら
これを一名逆桜とも呼んでいます。︵この先
の道は白河の関跡へと続いています。︶
せき亮護ん閉じ
りかわばし
繋杜も川
橋
恭関山満願寺
おもてどうむら
せきさんめいざん
︵表郷村から白河市に入ります︶
標高六一八メートルの関山はこの地方の名山
として有名で、山頂からながめる日の出は特に
すばらしい、といわれています。
ちょうじようしんどんしゆうてんぴよう
頂上にある真言宗の満願寺は天平一一年︵七一一一
しようむちよくがんぎようきぼさつ
○︶、聖武天皇の勅願によって行基菩薩が開基
40
とさつ
がらんしようしつ
したと伝えられる古剰です。
しようかんぜおんあんち
戦後の山火事で伽藍や寺宝の大部分は焼失い
たしましたが、本堂には聖観世音が安置されて
かんぶんぼんだ
います。
また、寛文五年︵一六六五︶に白河城主本多
忠平が寄進した、寺宝の銅の焚鐘は国の重要美
ただひらきしんぼんしよう
術品に指定されています。
紫2tつれいつぺんしようにん
源義経や一遍上人もこの山に登ったといわれ、
それに松尾箪儲は鱗ぽあたる裁雛桃賊概がらこ虹
こに登り、山を越えて白河の町へと入って行き
ました。
鵜白河市
福島県の一番南の町が、この白河市です。
古くからみちのくの入口として知られ、平安
しようおうしゆう
時代には白河の荘として、奥州藤原一二代の支配
んじ
を受けていました。文ぶ治
五年︵一一八九︶感獣跳
とも
朝
に藤原氏が灘ぽされ、その綴を鎌倉幕府に命
おさ
じられた織雛へ誰獲︾が、領主として治めていまし
た・江戸時代の後期には、獄灘として知られた
まつだいらさだのぶおさ
松平定信によって治められ、奥州街道一一十九番
しゆくば室ち
口口の宿場町として発展したところです。
きゆうせき
市内には数多/、の名所・旧跡が残されており
じようぞう蛍﹄よう
主な産業としては、古くから続く醸造業やガーフ
ほうせいぎようせんたん
スエ業、ゴムエ業、縫製業のほかに、先端産業
とうろう
の電気。精密機械などの工場進出がみられます。一
また、古くから続/、だるま市や、灯篭まつり岨
なども白河市の歴史を物語ます。
なんと
きようわ
紫南湖公園︵右︶
さだ
南湖公園は享和元年︵一八○一︶pH本で最初
に造られた公園です。
ろうじゆう
江戸幕府の老中として名高い︷ロ河藩主松平定
のぶらくおうてんめいききんしつぎょうたいさく
信︵楽翁︶公が、天明の飢謹ののち失業対策を
兼ねて川をせきとめ繊潔用水として造った人造
しんでんひら
湖で、この水を利用して次々と新田が拓かれま
した。
湖の周囲は約二キロメートルあります。その
とはんあらしや重かえで
湖畔に松や吉野桜、嵐山の楓を取り寄せて植雲え
なすれんぽうせきさんしやつけい
那須連峰や関山を借景として取り入れた茶室の
きざ
のそかがみ
共楽亭を建て、湖畔の十七景十六勝を選び、そ
きょうらくていけいしようえら
よ
れを詠んだ歌を石に刻んで湖を臨む鏡の山に立
さだのぶとうしのうとうしょうしみん
てました。定信公はこの場所を士農工商の四民
に開放したので﹁日本最初の公園﹂といわれて
います。4
参考
窪つ
公園の北東には松平定信を紀る南湖神社があ
けいだいらげつあん
り、境内には定信にゆかりの深い茶室謹唾月庵や
い
ひんほうもつかん
遺品などを収蔵・展示している宝物館もありま
。
場などがあります。
示する藤田記念館・博物館へ楽翁会館、南湖球
らくおう
そのほか近くには白河ゆかりの歴史資料を展
す
3
さ
んすいへだ
山水の高きひくき半b隔てなく
松平定信
共に楽しきまとゐすらしも
蓬つだいらさだのぶ
かんせいかいかくだんこう
参考松平定信︵一七五八∼一八一一九︶
ろうじゆう
松平定信は江戸後期、寛政の改革を断行した
ことで知られる老中です。
ごさんきようたやすむねたけ●●
父は御一一一卿の田安宗武、母は山村とやで、八
よしむねあんえい
代将軍徳川吉宗の孫にあたります、安永一二年
むつのくにさだくに
︵一七七四︶陸奥国白河藩主松平定邦の養子と
なり、二十五歳のときに藩主となりました。そ
てんめいだいききんがししや
いえたり
の藩政は、天明の大飢謹にも領内に餓死者を出
たた
さず、名君と讃えられました。
ばくふろうじゆう
一一十九歳で幕府老中となり、十一代将軍家斉
ほ〃さやく、
の補佐役につき、田沼時代の政治の立て直しに
すいしん
しゆくせいかんせい
あたり、財政面の見直しや、農業の推進、米の
びちく
備蓄、風俗粛正や出版の取締など、寛政の改革
を行ないました。
44
じ
寛政五年︵一七九一一一︶老中職を辞し、その後
文化九年︵一八一二︶まで藩政をみるとともに
しゅうとじゆつしゆかげつぞうし
著作活動をおこない、﹁集古十種﹂﹁花Rn草紙﹂
うかじんげん
﹁宇下人一一口﹂などの著書があります。また、和
かいがらくおう
歌・絵画をよくし、楽翁と号しました。
ごさんきよう
繋御一一一卿
おとたやす
八代将軍士口宗のときに興した、田安家︵吉宗
むねたけひとつばしけ
の次男、徳川宗武・一七一一一○︶、一橋家︵吉宗
むれただしみずけ
いえしげしげよしごさん一
の四男、徳川宗詞・一七四○︶、清水家︵九代妬
将軍家斉の次男、徳川重好。一七六一一︶を御三
きよう
卿という。
嫌うラワーワールド
南湖公園の隣にあるのがフラワーワールドで
す。中には二つの庭園があり、第一庭園はチュ
ーリップ園で、四月中頃から六月の初め頃まで
は二○○種類、十万株の花が咲ききそいます。
第二庭園には一○○種類六万株のアヤメとユリ
じよう
が植えられ、アヤメは五月の中頃から七月の上
眺静で、ユリは六月中頃から八月の上旬まで見
ることができます。春から夏にかけては多くの
おいくぼ
花見客が訪れます。
恭老久保交差点
きゅうりくうかいどう
左の道は国道一一九四号、旧陸羽街道です。
︵老久保交差点を右折いたしますと、白河市内
へと向います。
直進いたしますと、東北本線・東北新幹線と
しおじやま
交差し、さらに塩路山交差点︵昭和大橋︶で国
道二八九号線と国道四号線が交差いたします︶
参考
りくう
交差点左右の道は国道二九四号です。江戸時
おうしゆう
代の奥州街道で、陸羽街道とよばれました。
ただ今では、車や新幹線などの乗り物で気軽に
みずさかづき
旅を楽しめますが、むかしは水盃をかわして旅
に出かけたといいます。とくにこの﹁道の奥の
46
たび
国﹂“Ⅱみちの/、に旅だつのは大変なことだった
、ようです。
白河市内の見どころ
こみねじよう
①小峰城・・ハーフ園
なんぼくfう
白河駅の北側、小峰ヶ岡にたつのが小峰城で
とうとく
石垣のみ残った城跡の本丸跡には、築城のと
しろあと
焼き払われました。
はら
四年︵一八六八︶五月、ついに落城し、城郭は
じようかく
戊︽辰の役には、会津・奥州諸藩の拠点となり
さ薩長つ
ち
う
お
など
の官よ
軍の職
恥製け
を雌い
ぎまし
たがう
、慶応
・ぽしん.えきしよはんきよてん
して存在していました。︶
の大名が交替し、奥州と関東を結ぶ重要な城と
だいみようとうたいおうしゆう
って大改修が行なわれ、丹羽氏二代の後は六家
あとろつけ一
です。︵その後、江戸時代の領主丹羽長重によ〃
にわながしげ
時代に、結城親朝によって築かれたのが始まり
ゆうきちかとも
この小峰城は興国元年︵一一一一四○︶の南北朝
す。
諜号
おとめざくら
きんざいあ室てんらん
き人柱となったという伝説にちなむ乙女桜や、
ひ
まわとしぐる
明治天皇が近在の馬、一五○○頭余りを天覧し
わ
た記念碑があります。また、本丸の周りの腰曲
輪は美しい・ハーフ園となり、約一一五○種、六○○
きそ
○本の.ハーフが咲き競い、開花期の六月中は訪れ
る人の目を楽しませてくれます。
さんじゆうやぐらし
平成元年︵一九八九︶は白河市制四十周年の
年にあたり、その記念事業として、一二重櫓と情
みずもんさいけん
水門が再建される運びとなり、平成一一一年に一一一重
ようしき
櫓をかつての建築様式そのままに再現いたしま
した・
ぼしんえきせんじようあと
②戊辰の役戦場跡
ぽしんえき
この九番町の交差点左一帯は、戊辰の役のと
しらかわぐち
きに白河口の激戦地となったところです。
近くの稲荷山のふもとには会津藩士の﹁戦死
こくぞうどう
墓﹂が建っています。
③虚空蔵堂︵金屋町︶
48
ほううんじ
右にある虚空蔵堂はその昔、法雪云寺があった
ときんそうおい
ところで、ここには国の重要文化財鍍金装笈が
けいち上う
安置されており、﹁慶長六年︵一六○一︶﹂の
めい
銘があります。
しようほうじ
じしゆうしようほうじ
④小峰寺︵天神町交差点の左奥︶
どうじよう戎ち
道場町にあるのは時宗の小峰寺です。この寺
さんろく
はかつて白川城藤沢山麓にあったといわれてい
もくそうあみだによらいりゆうぞう
ます。ここにある本尊の木造阿弥陀如来立像は
かんげんめい
鎌倉時代の﹁乾元一一年︵一一一一○一一一︶﹂の銘があ
ぼくしよめい
る大変古い仏像として知られています。また、
ずしえいろく
室町時代後期の厨子は﹁永禄一一年︵一五五九︶﹂
せいきようかいせいどう
の墨書銘があります。
⑤ハリストス正教会聖堂
だいくきち
︵右金屋町、左天神町︶
せいきようかい
大工町にあるのは大正四年︵一九一五︶に建
聖堂です。聖堂の内には日本洋画界の草分けの
てられた、ビザソティ様式のハリストス正教会
せいどうなか
49
一人として知られる、山下りんの作品数点をふ
せいぞうが
くむ、聖像画といわれるイコソがあります。
こうとくじおはらしようすけ
⑥皇徳寺︵小原庄助の墓︶
けいだい
皇徳寺の境内には
あい・つぼんだいさん
べ会津磐梯山は宝の山よ⋮⋮.:..⋮.
しんしよう
小原庄助さんなんで身上つぶした
朝寝朝酒朝湯が大好きで⋮⋮⋮⋮⋮
台石は銚子の袴で、墓は徳利、笠は盃の型を
の歌で名高い、小原庄助の墓があります。
だいいしちょうしはか垂とつくりさかづき
かぶせた大変ユニークなお墓です。
参考小原庄助さんについて
あいづばんだいさん
民謡﹁会津磐梯山﹂の中で唄われている小原
けいれき
庄助さんの経歴は一一つの説があるようです。
いつき戎ちしゆうあんじ
︵その一つは︶
えんぼう
会津若松市一箕町の秀安寺にお墓がある小原
庄助さんは、延宝年間︵一六七一一一魁f八○︶江戸
時代初期に会津に住んだ大きな材木商だった人
50
いえそうどう窪
ですが、思いがけず、藩のお家騒動に巻きこま
れてしまいました。その蹴耐磁職耗脈に磯瀞を
とつぜん
つかした庄助さんは、ある日突然に朝寝・朝酒
いつ
切やめてしまい、湯水のごと/、蓄財をつかいは
ゆみず
・朝湯にあけくれるようになり、働くことを一
さいちくざい
むいちもん
たして、ついに無一文の身になりました。これ
みにくうず
でようやく醜い政争の渦からぬけ出したといわ
れ︾ます。
︵その二つ目は︶副
だいくこうとくじ
うでぬし
白河市大工町の皇徳寺にお墓がある庄助さん
きゆうごろう
は、本名を久五郎という、会津の腕のいい塗師
さいくしつき
︵ウルシ細工・漆器製造をしている人︶でした。
ぶんせい
文政年間︵一八一八∼一一九Ⅱ江戸時代後期︶、
らかんさんじん
ゆえあって白河の画家羅漢山人のもとへ身を寄
せましたが、﹁女房は持たず酒ぴたり﹂という
あんせい
職人かたぎにありがちな生活を送り、安政五年
しようがいお
︵一八五八︶にその生涯を終えました。
らかんさんじん
とつくりがたぼせきほうみようとめ
羅漢山人は久五郎の墓を建てるにあたって、
じるどんりょうしんじ
ばん
その生前をしのんで、徳利形の墓石に法名﹁米
汁呑了信士﹂とし、
めし
朝によし昼になおよし晩によし
飯まえ飯あとそのあいま¥Dよし
きようかきざ
おんし
の狂歌を刻み、墓の笠にはさかずき形を配し
ました・
なお、庄助さんの隣りには、恩師羅漢山人の
りゅうぞうじねんぐ垂ち
墓があります。5
⑦竜蔵寺︵年貢町︶
げんろく
真言宗の竜蔵寺には、元禄四年︵一六九一︶
ただひろ
おうしゆうしらかわ
に藩主の松平忠弘が寄進した、国の重要文化財
どうしよう
ぼしよえんみよう
の銅鐘があります。この銅鐘は奥州白河のいぼ
がね
なし鐘として知られています。
にわながしげびようしよ
⑧丹羽長重の廟所
ひさ垂つ
江戸初期の小峰城主、丹羽長重の墓所が円朝
じちく
寺地区にあります。ここは久松松平家のときに
2
ほつけしゆう
びようぼうきよういんとうきよてる
法華宗の円明寺という寺があったところで、こ
あと
の跡に丹羽長重廟と宝篭印塔、松井清照︵藩主
ただひろや垂とのかみなおのりもとちかおやこ
忠弘の子︶の墓や松平大和守直矩.・基知父子の
にわ求がしげ
墓があります。
丹羽長重で忘れてはならないものに〃白河だ
るま〃があります。三○○年以上も前、当時の
さだのぶいくせい
白河藩主丹羽長重の代に作られるようになり、
江戸時代に入って、松平定信が地域産業育成の
しようれい
ためだるま作りを奨励したといわれます。定信
たにぶんちよう
の絵の先生だった谷文晃が考案したといわれる
このだるまは、まゆは鶴、ひげは亀、口の下に
か
は竹があり、顔の両側には梅と松が描かれてい
るという、大変おめでたい福だるまです。毎年、
二月十一日に市内の目ぬき通りでだるま市が開
かれます。
⑨市内その他の見どころ
あたご雀ちそうとうしゆうかんせんじ
愛宕町には、曹洞宗の関川寺があります。こ
53
ゆうきむねひろいはっおさあこうろうし
こには結城宗広の遺髪を納めた墓や、赤穂浪士
かんすけ
のひと、ソ、中村勘助の妻の墓などがあります。
むかいしんくらやん
また、川をへだてたむかい側、向新蔵の谷津
たがわじようどしんしゆうじょうせんじ
田川ぞいにあるのが浄土真宗の常一旦寺です。こ
けんぼんちやくしよくじゆくのず
の寺には﹁絹本著色受苦図﹂があ、ソ、これは江
まびきぽうし
戸時代の間引の悪いならわしを防止するロロ的で
描かれた¥bので、受苦図は地獄をえがいた絵で
かじゆくのずじごく
す。
そうぎもど
⑩宗祇一戻しのいわれ︵旭町︶
ぶ文明ん
めいじようしゆゆ
十一二年︵一四八一Ⅱ室町時代︶、城主結
うき窪さとも
城政朝のときのことです。
かし窪くれんかしん
白河の鹿島神社で行なわれる一万句連歌の神
ぜんとうぎよう
前興行に参加するため、はるばる京から連歌師
いいおそうぎわた
そう
飯尾宗祇がやってきました。神社の手前で棉つ
祇は出来心から娘をちょっとからかう気になつ
ぎできごとろ
みをおえ、もどってくる美しい娘に出会い、宗
わたそく
て、﹁その棉売るのか﹂とたずねたところ、即
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ざ
座に
あぶくまの川瀬に住める鮎にこそ
うるかといえるわたはありけり
と娘の答えが返ってきました・
ふうりゆうこころえおどる
宗祇は、その娘の風流の心得に驚くとともに、
びと
連歌会でひとつみちのく人の鼻をあかしてやろ
ら都へ引き返したと伝えられています。その跡
う、と思っていた己の慢心を恥じて、その場か
おのれ窪んしんは
みやとあと
そうぎもど
が﹁宗祇戻し﹂と呼ばれるようになり、歌碑が開
らじようきる一
建てられ、芭蕉の句碑とともに白河羅城岐路碑
があります。
しいきしゅうしゅう
また、ちかくには、市域から収集された、歴
史、民俗資料と、白河市出身の作家を中心とし
しゆうぞうひんしら
しよ
た日本画や洋画、書などの収蔵ロ叩を展示した白
かわしれきしみんぞくしりょうかん
河市歴史民俗資料館があります。
しらかわじようせき
、白川城跡
はちりゆうじん
市内の八竜神地区にあるのは、県の史跡に指
しらかわじようごうそくゆう
定された白川城の跡です。鎌倉後期の豪族、結
きすけひろちくじようや産しろ
城祐広が築城した山城です。本丸跡からは白河
ど
の町並を一望の洋ひとにおさめることができ、後
村上天皇行幸碑、徳富蘇峰の文になる城主結城
むらかみてんのうぎようとうひとくとみそほうゆうき
宗広の顕彰碑などがあります。別名、錫ロロ城と
むれひろけんしょうひからめじよう
からめて
もいいます。︵天正十八年に廃城︶また、城の
揚手︵裏門︶があったといわれる集落の入口近
かんちゅうめい室がいひ
くにこれも県の史跡に指定された感忠銘磨崖碑
いしぶみゆうきむね
と呼ばれるものがあります。この碑は、結城宗
垂がいひ
広・親光父子が後醍醐天皇に尽くした功績を讃
ひろちかみつふしごだいごつこうせきたた
きざ
えたもので、自然石にそのまま刻まれた磨崖碑
というめずらしいものです。
かんちゅうめい
題字の﹁感忠銘﹂の一二文字は文化一○年︵一
磨崖碑は高さおよそ八メートル、幅約一ニメート
八一一二︶松平定信公の手になるものです。この
まつだいらさだのぶこう
まがいひはば
ルの大きなものです。
かし塗
⑫鹿島神社
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あぶく雀がわ
阿武隈川にかかる橋を渡ると左手に森が見え
たけみか●つちのみこと窪つ
ますが、武要槌命を記る鹿島神社です。これは
さ
が.みよひたち
嵯峨天皇︵平安時代︶の御代、常陸の鹿島大明
かんじよううじがみ
神を勧請したもので、古/\から白河の氏神とし
りょうしゆすうけい
て、歴代領主の崇敬をあつめていました・
えいとくめい
社宝には永徳一一年︵一一二八一一︶の銘のある鉄
かぎたてなしよろいとんあみかきのもとのひと窪ろぞう
製鍵や楯無の鎧、頓阿弥作の柿本人麻ロロ像が伝
けいだいさいしょうじかんのん
雲えられています。また、境内には最勝寺の観音
どう
堂が残されており、室町時代の作といわれる銅
造十一面観音菩薩立像が安置され、結城義綱・
づくりかんのんぼさつりゆうぞうゆうきよしつな
は
るつなどうしようかね
晴綱父子が寄進した銅鐘かあります。この鐘に
は﹁天文十一一一年︵一五四四“Ⅱ室町時代︶﹂の銘
てんぶんめい
があります。
でんとうほこちょうちん霞つ堂胤き
なお、一二四○年の伝統を誇る提灯祭りは明暦
のとのかみただよし
一二年︵一六五七︶城主本多能登守忠義が、みこ
しを寄進したことに始まり、一年おきの九月十
三日から十五日に盛大におこなわれます。
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せんだち
せんとうたかは
夕方になると先立ちようちんを先頭に、高張り
左ちじるし
ちょうちん、町印のちょうちんと続き、中ほど
ばじよう
に鹿島神社のみこし、馬上ちょうちん、また町
ちよう
印のちょうちんと四○○○丁以上の↑つようちん
ちょうちんぎようれつ・ねあ
がそろい、提灯行列が白河市内を練、ソ歩き、阿
ぶく垂がわとぎよ
武隈川を渡御するみこしに白河っ子の血はさわ
ぎます。
ね
⑬うたた寝の森
すいでん
鹿島神社から東に行ったところの水田のなか
に﹁うたた寝の森﹂といわれる場所があります。
はち霞んたろうよしいえおうしゆうえんせい
ここは、八幡太郎義家が奥州へ遠征した際、こ
きゅうそく
の地で休息をとったとき、この森でおもわずう
たた寝をしてしまったと伝えられるところです。
かとりじんぐう
現在ではカエデの木が一本だけ残り、香取神宮
垂つほこら
を祁った小さな洞があります。
︹白河市内見どころおしまい︺
樵二八九号線
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やんた
︵谷津田川を渡、ソ、
八九号線を白河イソタ
チェンジへと向います。または
子温泉方面
し
謡
鈴関橋・堀川
にしごうむら
東北自動車道をくぐる
西郷村
東北自動車道をくぐると福島県の西郷村へと
にしどうむら
その那須連山の主峰茶臼岳︵一九一七︶は、
ふんえんかっかざん
今も噴煙をあげる活火山です。
しゆほうちやうすだけ
・車は直進して甲子温泉方面へと向います︶
かし
︵・車は左折して白河ICへと向います
山々は那獅蹴峨です。開
左右の道は国道四号線です。西の方に見える
昭和大橋
左に新白河駅があります。
東北本線・東北新幹線
立石交差点左折
へと向います。︶
撚兼号
諜昏
諜号諜号鵜
入ります。
れんぽう
西郷村は那須連峰の一五○○メートル級の山
かとあぶ4がわ
々に囲まれ、阿武隈川上流にある緑豊かな農村
かし
地帯です。村内には、歴史の古い甲子温泉や新
甲子温泉などがあり、その他ゴルフ場やスキー
なすかし
場も整備されており、那須甲子有料道路を利用
すれば那須高原にも近い距離にあります。自然
さかい
豊かな村の中にも栃木県境から白河市に至る国
せいみつきき
道四号線ぞいには、パルプエ場や精密機器など
の工業地帯が続き、緑豊かな観光の町と新しい
商工業の町と二本立てで発展しています。
はやし主うぎよじよう
鵜林養魚場
しせつ
左奥にあるのは、東北地方で有数な施設と生
垂す
産皇塁をほこる鱒の養魚場、林養魚場です。
へいぼうこうだい
四万平方メートルという広大な敷地の中には
ツッジが植えられ、場内では鱒の塩焼き、フラ
さしみ
イ、刺身などの食事ができ、花どきの五月上旬
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から下旬にかけては家族づれでにぎわいます。
にしどうむら
らくおうけい
鎌楽
翁漠
︵西郷村役場の信号を右に入、ソ、四キロメ‘︲
トル程行く︶
すいげん
あぶく垂がわちとせ
右の道を行きますと阿武隈川の支流。千歳川
おだきいしかけ
な渓谷をかたちづくっている、ツッジの名所で
けいとく
が楽翁渓で、約一一一キロメートルにわたって特異
らくおうけいとくい
と出合います。この千歳川の水源近くにあるの
す。Ⅲ
落差三○メートルの牡滝や鉄砲滝へ石釜滝、|
ふどうひのきかえで
こしよう
不動滝など、大小の滝があり、あたりの桧や楓、
こうよう
古松とともに美しい景色をつくり出しています。
なかでも初夏のツッジと紅葉の頃の美しさは格
別です。
紫赤坂ダム
かんがいちよすいち
赤坂ダムは、昭和四十年︵一九六五︶三月に
完成した潅概用の貯水池です。およそ一一億円を
ようそんじようもう
かけて完成したダムには、養鱒場浮b設けられて
います。
しゆちく
参考①国立種畜牧場
もう
農林省によって設けられた国立種畜牧場が赤
坂ダムの反対側にあります。
現在は、牛、豚、めん羊の品種改良を主にし
あぶくま
ていますが、戦前は軍馬などの改良が研究され
にしどうとろ
ていたところです。
②西郷瀞
おうぐ玄
四シ門の・ハス停を右に行きますと、阿武隈川
にしどうとろ
もみ
にかかる逢隈橋に出ます。その橋近くにあるの
じ
が西郷瀞と呼ばれるところで、清流と新緑・紅
葉の名所として知られています。上流の雪割橋
けいりゆう
までのおよそ一一一・六キロメートルの渓流ぞいを
西の郷遊歩道といいます。
はぎわら
③萩原高山植物研究所
世界各地から集められた高山植物、およそ二
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