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1 理論,認識と真実の間にある関係について プラトンの「国家」の洞窟の

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1 理論,認識と真実の間にある関係について プラトンの「国家」の洞窟の
理論,認識と真実の間にある関係について
プラトンの「国家」の洞窟の比喩より
中田
潤
プラトンの著書「国家」の中に,一般に「洞窟の比喩」として知られている有名な部分があり
ます.ご存じの方もたくさんいらっしゃるかもしれませんが,これからお話することを理解して
頂くために,簡単に内容を紹介したいと思います.
プラトンは,以下のような情景を読者に想像するように語りかけます.人々がある洞窟の中の
住居に住んでいるとする.その人々は,単に洞窟の中に住んでいるだけではなく,その手足頸を
縛られたまま,洞窟の行き止まりとなった壁を見ることしかできない状況になっている.彼らの
後方,もはやその光が人々の所には届かないほどの彼方に洞窟の入り口が開いているが,彼らは
生まれてから一度もその洞窟の入り口に立ったこともなく,またその入り口の方に目を向けたこ
ともないのである.
彼らの後方に,火が灯されている.そして彼らと,灯された火の間を,各種の器具や人形,あ
るいは石や木でつくった動物などが動いている.つまり人々は,こうした事物を直接見ることは
できず,壁に映ったその影のみを見ることができる状況にあるのである.彼らは生まれてこの方
この影以外のものを見たことがないのである(プラトン『国家』第7巻より).
プラトンはこの後,この比喩が,人間が何かを「理解」もしくは「認識」する際に,その精神
の内部で起こっている現象を説明する例であることを語り続けて行きます.私が「理解」や「認
識」という言葉で理解することは,プラトンと若干見解を異にするので,ここでプラトンの説明
にさらに従っていくことはしません.しかしながらこの比喩は,人間が何かを「理解」もしくは
「認識」するという行為を極めてわかりやすく説明した卓越した例ですので,この比喩を使いな
がら,私の見解を説明していきたいと思います.
まず初めに,私がここで伝えたいことを理解して頂くために,この比喩に登場してくる一つの
一つの事物が何を表象しているのか説明しておきたいと思います.この洞窟は,我々をとりまく
世界を示しています.そしてそこに手足を縛られて身動きができない状況にある人々は,まさに
何かを「理解」もしくは「認識」しようとしている我々を示しています.この例で身動きができ
ない状況,つまり自由を奪われた状況として表象されているのは,我々の肉体なのではなく,実
は我々の「精神」なのです.この精神の自由が奪われているという状況は,権力といった何らか
の外からの力の強制によって引き起こされたのではなく,自らが精神的に自由であると信じてい
る「錯覚」の結果なのです.
次に火に照らされて洞窟の壁に映る影は,我々が通常真実であると「考えている・信じている」
ものを表象しています.しかしながら,この比喩から明らかなように,真実は各種の石や木でで
きた人形や動物なのであり,「影」はあくまでも「真実」が火によって投射されたものでしかあ
りません.さらに洞窟の中に灯されている火は,我々が通常「モデル」ないし「仮説」,「理論」
と呼ぶものを表象しています.
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この例において私が第一に説明したい点は,人間というものは,決して真実そのものを直接理
解・把握することはできず,真実から発せられる断片的な情報から推測されるものであるという
ことです.洞窟の中で人間が縛られ,事物を直視することができないという状況が,そのことを
示しているわけです.人々が見ている影は,その真実から発せられる断片的な情報であります.
この影は,事物のある一面を投影しているという意味で,真実の一部を我々に示していますが,
それは真実の「一部」なのであり,決して事物そのものではないのです.洞窟の中の人々(つま
り我々)は,事物ではなく,影しか見た経験がないために,簡単に影を真実と錯覚してしまうの
です.影しか見ることができない我々には,想像力(= 批判的な精神)を働かせ,その背後に
あるものを推測・想像する事によって初めて真実とは何なのか理解・認識できる可能性があるの
です.
この例でもう一つ私が言いたいことは,真実そのものは自発的には我々に語りかけてはこない
という事実です.人間というは,自らが作りあげた「仮説」,
「モデル」を使って真実と向き合っ
た時にのみ,その意味するところを理解できるのです.洞窟の比喩は,実にうまくこの事実を表
しています.洞窟の中の人々は,
真実の推測に必要な影を,
火の灯りによって得ているわけです.
もし仮に,この人々が束縛から解放されて振り返ることができた,つまり事物(=真実)を直接
見ることができたとしても,その時火が消えていたらそこは一面の暗黒であり,人々は事物を見
ることはできません.これは我々は,直接「見たり」「聞いたり」したことによって真実に到達
したと信じていることの多くは,実は我々の頭の中に無意識ないしは意識的につくりあげられた
「仮説」や「モデル」というフィルターを通して理解しているという事実を表明しています.
例えば,アメリカを訪問したある日本人がいるとします.彼(女)が,無意識にアメリカ合衆
国に対して「自由の国」というイメージ(モデル)を持っているとき,彼の目の前に実際には,
貧困にあえぐホームレスの人々と「自由の国」を謳歌する豊かな人々が混在しているにもかかわ
らず,彼(女)の記憶には,自由の国を謳歌する人々のみが残ることになります.そして彼(女)
は,自らの体験した真実として,
「自由の国」アメリカを,友人達に話すことでしょう.彼(女)
が持つ「自由の国アメリカ」のイメージは,無意識なものですから,本人はあるがままの偏見の
ないアメリカの姿を語っていると信じています.この例が示すように,些細な問題おいても,人
間の理解においてモデルや仮説は大きな役割を果たしているのです.
最後に私が強調したいのは,全く一つの真実も,仮説やモデルの立て方によって,全く違った
見え方をするという点です.洞窟の比喩はこの点も巧みに表象しています.洞窟の中では,灯り
の位置を変えることによって,事物の影の形も変わります.
例えばある一人の失業者は,マクロ経済学の視点から見るならば,統計上の「データ」として
理解されるでしょう.社会心理学的な観点から見るならば,それは社会からの疎外観に苦しむネ
オナチ運動の「支持基盤」ということができるかもしれません.またそれは家族の視点から見る
ならば,それは自分を愛してくれる「父親」なのかもしれません.この全ての側面は,全て部分
的に真実であり,
「データ」なのか「支持基盤」なのか「父親」なのかは,仮説やモデルの立て
方の違いによる見え方の違いなのです.
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