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罪を泣く人 - church.ne.jp

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罪を泣く人 - church.ne.jp
2016/8/28
門戸聖書教会礼拝説教
主イエスと出会った人々20
ルカ 22:31-34、54-62
罪を泣く人
1.ひとりでも滅びることを望まず
先週は、広島の黒瀬福音教会で、その前は講壇交換で武庫之荘めぐみ教会の講壇でメッセージ
の御用をさせていただいておりました。門戸の講壇も、久しぶりで、ようやくホームグラウンドに帰って
きたように思います。
思い返すと、色々なことがあった 2 週間でした。津留幸雄兄を天にお送りし、葬儀を終えて、ほっと
したのも束 の間 、今 度 は、門 戸 聖 書 教 会 の草 創期 のメンバーであられた柴 田 兄 の召 天 の知 らせが
届きました。こちらは、出 席するだけでしたが、改めて、人はやがて必ず死を迎えるという事実に、厳
粛な思いにさせられました。しかし、津留幸雄兄も、柴田兄も、主イエスを信じ、洗礼を受け、神様の
前に立つ備えをしておられた方でしたので、そういう意味では、平安をもってお送りすることができた
ようにも思います。
柴 田 兄 の前 夜 式 では、クライストコミュニティの前 の主 任 牧 師 であられた大 橋 秀 夫 先 生 が、メッセ
ージをしておられました。そのメッセージに私は、心探 られたのですね。大 橋先 生は、柴 田 兄との思
い出に軽く触れられた後で、ここで柴田兄がどんな信仰を持っておられたのか、しばしご紹介したい
と思いますと、ガンガンに伝道メッセージを始められたのです。それは、このような内容でした。
一 般 に、この世では、誰かが亡 くなると、漠 然 と「今 は、あの人 は天 国 にいるでしょう」というようなこ
とが言われますが、それは本当に根拠のある言葉ではないのではないか。その証拠に私たちは死を
恐 れている。聖 書 がむしろ、はっきり示 していることは、罪 ある人 間 は滅 びるということです。しかし、
神 は「ひとりでも滅 びることを望 まず、すべての人が悔 い改 めに進 むことを望 んでおられる」(Ⅱペテ
ロ 3:9)。そのためにひとり子イエスを十字架につけ、よみがえらせたのです、と。
その場におられた未信者の方は、私の見る限り、わずかなご親戚の方だけだったと思います。けれ
ども、そのわずかの未信者の方が、福音を聞く機 会は、これが最後かもしれない。「ひとりでも滅びる
ことを望ま」れていない、ひとりでも罪を悔い改め、救われることを願っておられる神の愛をしっかり受
けとめて、語っておられる伝道者魂というようなものを、感じたのです。
神様 は、私たち、一 人 びとりを取 り扱われるのです。あなたを問 題 にされるのです。あなたという掛
け替えのない一人のことを、主は追い求めておられるのです。羊飼いが 99 匹の羊を残しても、ただ
1 匹の失われた羊を追い求めたように、あなたが罪を悔い改めて、死と滅びから救われることを願っ
ておられるのです。あなたはいかがでしょうか。あなたという一人の人をどこまでも追い求めてくださる
神様に、向き合っておられるでしょうか。
1
2.ペテロの覚悟
さて、第 4 聖日のオープン礼拝では、「イエスと出会った人々」というテーマで語らせていただいて
おりますが、ここ何回かは、12 弟子の筆頭格であるペテロについて取り上げております。
今日、取上げさせていただいたのは、そのペテロの生涯の汚 点ともいうべき出来事です。ペテロが
イエス様を三度、知らないと否定した「ペテロの否認」、その悲しむべき罪についてです。
最初にお読みいただいた、ルカ 22:31 からのところは、「最後の晩餐」の一場面です。実に緊迫し
た場面です。もう十字 架 が翌 日 に迫ってきている。イエス様 はそのことをよくご存じでしたし、弟 子た
ちに、前もって、ご自分が皆の罪を背負って十字架にかかるのだということを予告しておられました。
しかし、弟子たちは、「臭い物には蓋」というか、手を付けていない夏休みの宿題のドリルのページを
開くのを恐れるかのように、とにかく、そのことは考えないようにしてきた。後回しにしてきた。主イエス
の死を直視することを避けてきたわけです。
でも、もう、それができないということを、この最 後の晩 餐の時 、弟子 たちも悟ったでしょう。イエス様
ははっきりと言われるのです。
ルカ 22:21 しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。
22:22 人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわ
いです。
別れの時は来た。定めの時は来た。私は聖書に預言されたとおりに、去っていく。十字架へと向か
って行く。
ルカ 22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願っ
て聞き届けられました。
22:32 しかし、わたしは、あなたの信 仰 がなくならないように、あなたのために祈 りました。だからあ
なたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
イエス様は、ペテロたちが、脱穀された麦が大きくわっさわっさと風の中でふるいにかけられるように、
その信仰が問われる試練の中 に投げ込まれるということを予告されました。
しかし、この時、ペテロは胸を張って、こう豪語したわけです。
ルカ 22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟は
できております。」
素 晴 らしい覚悟 だと思います。人 間 的 に見て、これ以 上 の覚 悟 はないでしょう。主 イエスとごいっ
しょになら、牢であろうと、死であろうと、どんな苦難であっても担う覚悟はできております。
私も、献 身して、これから神学校 に行 こうと言う時 に、母 教会 の浜 田山キリスト教会 の役 員会での
面接を受けたのですね。その時に、母教会の細川勝利先生に、こう尋ねられたのです。
「神様のために、野垂れ死ぬ覚悟はありますか?」
どきっと、しましたね。実際 、正 直 言 うと、そこまでの覚 悟 はなかったように思 います。それでも、あ
たふたしながらも、「あります」なんて答 えました。ですから、本 当 に野 垂 れ死 にしても誰 にも文 句 は
言えませんね。でも、実 際 に、上 司 に辞 表を出 す時 には、少し緊 張しました。これで来 月 から、あの
2
沢山もらっていた給与がなくなるぞ、ボーナスも年金もなくなるぞ、それでもいいのか!そう自問自答
する小 心 者 の自 分 がいました。「命 綱を切 る」というと全 くオーバーですが、ああ、もうここからは主 し
か頼るお方はいないのだ、後ろを振り向くことはできないのだと、改めて問われました。
ペテロは、もちろん、そんなことはとっくの昔 に、クリアしているわけです。「あなたがたこそ、わたし
のさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです」(ルカ 22:28)と言われているわ
けです。そして、さらなる試練が予想されるこの時に、立派な覚悟を示したのです。
「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
しかし、それに対する主イエスの答えは、厳しいものでした。
ルカ 22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あな
たは三度、わたしを知らないと言います。」
3.ペテロの否認
そして、実際にどうなったか。まさに、主イエスの言われたとおりになった。ペテロは 3 度イエス様を
知らないと言った。
その時の、様子をルカは実にリアルに描写していますね。
イエス様が捕えられた時 、ペテロは、イエス様 が裁かれる大 祭 司 の家 へと、そーっと、「遠 く離 れて
ついて行 」きます。恐々と。いつ見 つかっても、すぐに逃 げられるように、及 び腰 でついていくわけで
す。
大 祭 司 公 邸の夜 の中 庭です。真ん中 に焚火 が焚かれ、夜 中 なのにたたき起 こされた使 用 人 たち
が、その周りに腰をおろして火にあたっています。
「すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った」と。
何か、ペテロの顔を、覗き込む女中の様子が目に浮かぶようではありませんか。女中は叫んだ。
「この人も、イエスといっしょにいました!」
ペテロは慌てて否定します。「いいえ、私はあの人を知りません」
また、「ほかの男」が言いました。「あなたも彼らの仲間だ」「いや違います」
さらに一 時 間 後 、また別 の男 が「確 かにこの人 も彼 といっしょだった。ガリラヤ人 だから」と、しくこく
言い張る。ペテロは、あなたが何を言っているのか分からないとしらを切り通す。
すると、「それといっしょに、彼がまだ言い終わらないうちに、鶏が鳴いた」
その時、「主が振り向いてペテロを見つめられた」。それはどのようなまなざしだったのでしょう。深い
悲しみをたたえた眼差し。いつくしみにあふれたまなざし。いや、いつくしみの深さが感じられれば感
じられるほどに、深 く、自 分 の罪 深 さが問 われる、心 抉 るような、まなざしだったのではないでしょう
か。
ペテロは、主イエスのお言葉を思い出しました。
きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」
ペテロは外に出て、人目をはばからず、激しく泣きました。
3
4.罪に泣く人
ペテロはいったい、何 を泣いたのでしょうか。イエス様をキリストと信じ、告白し、ここまでついてきた。
イエス様を心から愛していた。主イエスといっしょになら、どこまでも行けると、この方のためならば、い
のちも惜しくはないと、そう心から思っていた。覚悟は決めていた…はずだった。
でも、実際 の自 分 は、イエス様 が捕まった時、足 がすくんで動 けなかった。どこまでもお供しますと
言ったにもかかわらず、気づかれないように遠く離れて着いていくのが精 一杯だった。そして、あろう
ことか、女中や下僕たちのことばにビビッて、脅されもしていないのに、拷問を受けたわけでもないの
に、言ってしまった。「わたしは、あの人を知りません」。「あの人」ですよ。みなさん。ペテロは、イエス
様のことを、「あの人」呼ばわりしたのです。あれほど愛していただいたのに、共に祈り、交わりをし、あ
れほど恵 みと祝 福 を与 えていただいたのに、そのイエス様 の弟 子 ではないというだけにとどまらず、
そもそも「知らない」と、見たことも会ったこともないと、言ってしまった。
ああ、何ということを自分はしてしまったのか。ペテロは自分自身の罪深さ、弱さ、情けなさに、溢れ
る涙をとどめることができなかったのです。
少し前に、『いのちのことば』という書評 誌 に、OMFの宣 教 師として北 海 道で働いておられる蔡 香
先生の証しが書かれていました。 1
ある時 、大学 生 のB子 さんという姉 妹 が、カウンセラーでもある蔡 先生 のところに相 談 に来 られた。
「B子さんは教会で青年会のリーダーを務め、大学でも聖書研究会の中心的メンバー」として活躍さ
れていた姉 妹 でした。でも、「当 時 、教 会 でも大 学 でも、いろんな責 任 が重 なり、少 し燃 え尽 き気 味
になっているとのことでのご相談」でした。
蔡 先 生 は、お話を聞 かれ、物 事 の優先 順 位 の付け方 などについて、具 体 的にアドバイスをされま
した。そして、一 とおり話し終 わって、B子 さんが帰 られようとした時 、「B子 さんは急 にうつむくと、思
い切ったようにこう言」われた。
「実は、もう一つお話ししなければいけないことがあります」
B子 さんの顔 には、「張 りつめたような緊 張 感 」があった。彼 女 がぽつぽつと語 り始 められたのは、
長年抱えておられた「性的誘惑に対する葛藤」についてでした。
B子 さんは、ある時 、「大 学 の友 人 に誘 われた飲 み会 の帰 りに、そこで出 会 った男 の子 と、性 的 な
関係を持ってしまったことが」あった。また、「自分一人で家にいるときに、インターネットで見るべきで
はないサイトを見てしまうこと」があると、消え入るような声で罪の告白をされた。
それが罪であること、良くないことであることは、分かっていたし、分かっている。「これらについて、
自 分 でも何 度 も祈 り、悔い改 めてきたけれど、どうしてもこの誘 惑 に勝 利 できず、罪 の力 に縛 られて
いる」。その罪 深 い自 分の弱 さ、情 けなさ。こんな自 分 でも、赦 されるのでしょうか-それは、魂 の奥
から絞り出したかのような告白であったのではないでしょうか。
1
『いのちのことば』(2016 年 6 月 号 )p.10 「今 、人 との関 わりの中 で求 められている『傾 聴 』とは」引 用 ・参 考
4
この罪の告白を聞かれた時、蔡香先生が、どう応じられたかというと、こう言われたのですね。
「よくぞ話してくれましたね。どんなにか勇気が必要だったでしょう。」
もちろん、罪 は罪である。そのことは変わりません。けれども、私 たちが、自分 の罪 を直 視し、そん
な罪を犯してしまう自らを嘆き、その罪を神の御前に告白する時、神は真実な方ですから、その罪を
赦してくださる。
Ⅰヨハネ 1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありま
せん。 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真 実で正しい方ですから、その罪を赦し、
すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
私たちをきよめるのは何か。それは、私たちの良い行いでも、私たちの涙でもありません。十字架の
上に、イエス・キリストが流された血潮。それだけが私たちをきよめるのです。
Ⅰヨハネ 1:7 しかし、もし神が光の中 におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たち
は互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
蔡先生が「よく話してくれましたね」と言われた時、B子さんの目から涙が溢れ出ました。蔡先生は
こう記されています。
「祈りの後、顔を上げたB子さんには、安堵の表情が満ちていました。そして『長い間はめられてい
た重 い足 かせが、外 されたような気 持 ちです』と話 されました。もちろん、B子 さんの闘いはこれで終
わったわけではありません。その後も葛藤は続きましたが、立ち返るべきところをはっきりと確認 したB
子さんの歩みには、明らかな変化が現れ始めました。」
ペテロはイエス様を三度拒み、外に出て激しく自分の罪を泣きました。それはペテロの生涯の汚点
でした。しかし、この経験こそが、ペテロの主のしもべとしての働きの真の原点ともなったのです。
ルカ 22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だか
らあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
イエス様は、自分が罪を犯すその前に、そのことを知っておられた。そして、予告されたにもかかわ
らず、その愛を裏切り、期待を裏切り、主を三度も知らないと言ってしまうようなこの私の、信仰がなく
ならないようにと、わたしのために祈ってくださった。その赦しの恵みの大きさ、計り知れなさ。ただ、こ
の方の前に、胸叩きながら、ひれ伏すしかない。ただ、額を地面にこすり付けて額づくしかない。
「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ 18:13)
キリスト教 の信仰 の中 心 が何 かと言えば、やはり、この十字 架 による罪 のゆるしと、復 活です。罪と
死からの解 放です。何度 も主を悲しませてしまう私たちであることを承 知 の上で、なおその罪を赦 す
ために十 字 架 にかかってくださったイエス・キリスト、その愛 の計 り知 れなさを信 じる信 仰です。本 当
に自 分の罪 に泣 き、この十字 架 に留まり続 ける人 、十 字架 にしがみつき、すがりつき生 きて行く人 、
それがキリスト者です。信じますか。
ごいっしょにお祈りいたしましょう。
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