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「翻訳先中心、翻訳元中心、翻訳しない」 絶対的な基準は存在する

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「翻訳先中心、翻訳元中心、翻訳しない」 絶対的な基準は存在する
自分でキソクを決めてしまうのは、おもしろくない。
通常、いちいち個別的に判断するかわりに規則をキャッシュしておくことが多い。例えば「日本
人は悪い」という規則をキャッシュしておいて、ある個別の事例について個別に判断する代わり
に「相手は日本人だから悪い」と判断する。当然、考えは浅くなるが、脳のリソースを節約でき
るので、リソースが不足気味のかたがフリーズしないためには、やむを得ないことだろう。
しかし、たまにはキャッシュをクリアして、違うやり方を試してみるのもいい。人間中心の見方
でも情報の価値を否定するわけじゃないように、情報中心な観点でも、人間を中心に語ることが
できる――人間を中心にした語り口というのも、ひとつの情報因子だからだ。
「翻訳先中心、翻訳元中心、翻訳しない」
翻訳者は、基本的には相手の文化圏のロジックへの写像を試みる――「わたし」を主語にしたほ
うが相手がすとんと分かりそうなら、それが正しいわけで、変てこな書き方をするのは正しくな
いとも言える。あえて相手のロジックと違う「自分の文化圏」のロジックを説明しないで放置す
ることで差分から思考を「挑発」する、という行き方もある。さらに第三の立場として、あまり
相手と自分の差にこだわらず、とりあえず「自分ネイティブ」に思いつくまま、自分のいちばん
自然なストリームを直接、書き下してしまう、という方法もある。「理解」されるかどうかは、相
手にゆだねる。理解してもらうことが第一優先じゃないという立場で、自分固有の自分にとって
いちばん自然な発想をありのままに書いておいて、多少なりともおもしろいと(共感できる部分
もあると)思ってくれるかただけがそう思ってくれればいい、と。
この態度は傲慢(ごうまん)だが、この傲慢さは虚栄ではない――ゴーギャンふうに言えば。単
にこころに浮かんだことを、高ぶることなく低ぶることなく、自分にとっていちばん自然な表現
で表現するだけだ。
ウェブサイトは多数決でないという主張もこれだ。あなた固有の観点が、たまたま「あなたの社
会」の多数派が支持する内容のこともあるだろうが、そうでなくてもかまわないし、そうでない
場合――つまり少数の者しかおもしろがらないことであっても――、むしろそのままのほうがい
いという考え方。もちろん、「個性的」ということは、人と違うということでは、ない。
絶対的な基準は存在する
脳リソースが不足気味の人は、
「それは○○だから間違っている」というすりきれたキャッシュを
何度も何度も使う。○○に入るコトバは、その者の属する社会によって異なるが、例えば「異端」
「反キリスト」
「反体制」などが象徴的な代表例と言えよう。もっとリソースが不足している場合、
事例(あるマシンのなかのファイルと思ってほしい)についてキャッシュを適用するパワーさえ
なく、
「あいつは○○だから間違っている」と相手のマシンを見ただけで、全部のファイルがすべ
て間違っているという、あほくさい判断をする。
充分にリソースに余裕があれば、当然のことながら、個々の事例について個別の感覚が働くので
あって、
「某国は絶対正義で某国のすることは全部好ましく、某々国は絶対悪魔で某々国のするこ
とは全部悪い」などと前もって請けあえるわけない。上記の「リソース不足」のたとえは、むし
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ろ一部の者で、後者の観点のほうが当たり前だろう――とりわけ、ありとあらゆる情報がまぜこ
ぜになっているネット空間の住民にとっては、
(ネタとして遊ぶときは別として、まじめに考える
ときは)ひとつひとつの情報について、セカンドオピニオンを参照しつつ、個別に吟味し、最終
的には自分の直感に照らして判断する、というのは常識的なことで、
「どこどこのサイトに書いて
ある」というだけでそれを信じる人は、いるかもしれないが、あまりいないだろう。
同様に、新聞や雑誌や本に書いてあることであれ、
「偉い」学者の説であれ、聖典であれ、国連決
議であれ、W3C の勧告であれ、それは「情報」にすぎない。そこにキャッシュされている推論図
が正しいか、正しいとして個別的な事例にどこまで適用できるかは、不明。――ひるがえって、
「あやしげ」な団体の主張、奇人変人のたわごとのように見えることでも、それを個別的に吟味す
ることなく否定することは好ましくない。あなたの考えていることですら多少は正しいかもし
れない。さらには、ここに書かれていることですら、時には正しいのかもしれない。
それを見きわめる絶対的な基準は、あなた自身だ。「情報論的時空」のある特定の一点にいる観測
者の局部座標で測っているのだから、空間的に異なる位置にいる観測者、つまり他人(それが多
数派であれ)からみて違うとか、あとから考えたらやっぱり自分が間違ってた(時間的に異なる
視座にいるあなたの観測)、なんて可能性は問題にならない(原理的に回避不能な可能性なので)。
その場その場で、とりあえずこうだろうと決めるしかない。あなたの人生は、あなたのものなの
だから――。哲学者は、これを車椅子の理論と呼ぶ。自分が立てないと思っていつまでも立たな
ければ、永遠に立てない、という意味であり、よろけながらでも、こけながらでも、それで赤っ
恥をかきながらでもリハビリをしなければ永遠に自立歩行ができない、という趣意。――もちろ
ん象徴的な意味であって、足が不自由な人をからかうたとえでないことは、明らかだ。――
なお、ここで、車椅子の理論というのが本当に存在する哲学用語だと信じたかたは、だまされや
すい性格なので気をつけてほしい。そんな用語は存在しない。勝手にでっちあげた用語だ。
――もっとも、わたしが決めた用語は、わたしにとっては存在する。わたしが良いと思えば、そ
れは良い。正しさに関する法則というのは、わたしがするようになっているのだ。わたしにとっ
ては。――なんて書いてあるのをみて誇大妄想とか短絡するかたも、リソース不足に気をつけて
ほしい。ベートーベンの日記の有名な一節を引用しただけで、わたしのコトバではない。(ホン
トかな?)
二枚の羽根
右翼とは「保守的(あまり急激な変革には反対すること)で自分たちの固有の文化や独自性を尊
重する考え方の者」だ、と定義してみよう。――日本地域で「右翼」というと、君が代がどーた
ら、街宣車に乗って音割れスピーカーで「天皇陛下は偉い人」、日の丸をたかだかと、政府与党ば
んざい、なんていう皮相のイメージもあるかもしれないが(そういうハンパな右翼も実際いるか
もしれないが)、きっすいの右翼は、もし仮にそうすることが文化的多様性を守り、世界を単一色
の退屈な世界にしてしまうことを防ぐのに役立つと思えば、与党だろうが野党だろうが大統領だ
ろうがミルクチャンだろうが批判すべき相手は批判するだろう。
当たり前だが、右翼というのは「思想」。昔の人のコトバを借りれば、ノンポリ(ポリシーがない
こと)じゃない。しっかりとした自分の考えを持ち、国や世界、一般的にいえば、今後の社会の
あり方を考えるにあたって、
「改革、改革、古いのはダメ」ばかりじゃなく、現状や過去の良いと
ころもくみとる姿勢が「右」なのだ。
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自分の考えを持つからには、必然性がある限りにおいて、天皇であろうが日の丸であろうが、そ
れがおかしな利用のされ方をしていれば、批判する。天皇賛美だからいけない、復古的だからい
けない、日の丸だからいけない、なんていう思考停止も、当然、疑問視する。天皇だから批判し
てはいけない、日の丸だから馬鹿にしてはいけない、といった「公理の密輸」も疑問視する。だ
いいち天皇制がどうこう自衛隊が憲法が、なんていうのは、表面的なオブジェクトの話で、右と
か左とかいうのは、オブジェクトを操作するときのメソッドの話だ。
「まとも」な右翼のかたには一目瞭然のように、このサイトも少し「右寄り」だ――「自主憲法」
とかを(押しつけだから気にくわない、自主的が良い、とかいった表面的な意味でなく、もっと
深い意味で)考えているかたなら、このサイトを左翼っぽいとか勘違いすることは、まずあり得
ないと思う。まして旧ソ連・アメリカの行動について疑問を指摘したからといって、
「反米」だと
かそこからさらに飛躍して「左翼」だとか言うのは、考えなおしたほうがいい――あなたが失笑
を買うからだ。日本の、そして世界各地の固有の文化を、西洋キリスト教的規範と異なるからと
いうだけで否定せず、独自の文化がいろいろあったほうが良いという立場で一貫しているのは、
多文化的な浮動視点の「ナショナリズム」であることを別にすれば、むしろ日本の国粋主義者に
近い(当然のことながら「いろいろな文化があるのは間違いで、ある文化だけが優位なのだ」と
いう考え方の文化圏があるとしても、それもひとつの情報因子(考え方)として尊重する(現に
そういう考え方がある以上、あってはならない考えだ、などと目をそらしたりしない))。
プライベートなレイヤでは「まとも」な人間にはついていけない先走った感覚を持ちつつも(例
えば、いまだに性別制度を廃止していないあなたがたが、男女差別だの男女同権だのといった枠
組みに執着しているのは見ていておかしいし、性別を記入しないと商品の購入ができないに至っ
ては苦笑を禁じ得ない)、現実的には「急激で強引な変革は好ましくない、その社会の内部での自
然な意識の変化に裏打ちされなければならない」と繰り返している。つまりは保守派というか、
現実に何かを変えたいという思いは少ない。電波っぽっく言うなら、人間さんの社会に直接、関
与する気は、ない。「今後数万年に人間精神の革命が7回くらい起きればともかくも」
二枚の羽根 -- 続き
人間の観点が物理世界を中心とし、国籍のアイデンティティがまだ残っている社会の段階におい
ては、日本地域の多くのかたが日本のことをたくさん考えているのは当然のことだろう。が、右
翼というのは、べつに日本に固有の視点では、ない。このサイトの多文化的な見方が具体的にど
ういうしくみになってるのか、分かりにくいかもしれない。「西欧かぶれ」とか「アラブ好き」と
か「アフリカ愛好家」のほうが、まだ理解しやすいだろう。
べつの観点からいえば、文化的アイデンティティを見失った者が、とくに「自分の文化」として
尊重するものもなく、また「異なる文化」として違和感を覚えるものもない、といった無重力状
態を、肯定的に見るとき「マルチカルチャラル」ということになるのかもしれない。――そして、
結局、文化的価値観が混乱していて、自分の個別的感覚に頼るしかない。
どうしても納得のいく説明がほしければ、そういうことにしても良い。べつに書き手の舞台裏な
ど理解しなくても、書き手が媒介する書き物だけでたくさんだと思うが。
ともあれ、国体を「世界」すなわち「国際社会」の構成要素と見るとき、
「日本は日本で独自のス
タンスを持つべきだ」というのは、ある社会における個人のあり方と同様の主張にすぎない。台
風のうずまきと銀河のうずまきのようなもの。日本の文化的、社会的価値観の独自性に立脚する
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とき、たまたま日本が「正しい」と考える結論が五大国などの意向と一致することもあるだろう
し、一致しないこともあるだろう。いずれにせよ、大国が命令するからへいこら従うばかりが能
じゃない、というのがここで言う「国粋主義」だ。強大な国の意向も踏まえて判断するにしても、
それがすべてでは、ない。大国が言うことだからただちに賛成するのでも、大国が言うことだか
らただちに反対するのでもない。そんなのは、どっちにせよ独自性のない考え方だ。
多くの人々のコンプレックスにそくして言えば、反米的とか親米的とかいうのは、右翼とか左翼
とかのくくりとは異なる。個々の事例について「独自」の立場から考えて、アメリカと同意見に
達することもあれば、別の意見を持つこともある、というだけの話。――反 EU 的か、親 EU 的か?
というのが、いわゆる右翼、左翼などと独立の問題であるのと同様で、そもそも、ある事例(例
えば公害車のごり押し輸出)に関しては EU を悪く思っても、べつの事例(例えば CO2 排出規制)
に関しては EU を好ましく思う、ということは、少しもふしぎでない。「反○○」ないし「○○支
持」というポリシーが先にあるのでなく、個々の事例について感想があるにすぎない。思考のリ
ソースが充分にある限りにおいて。
「○○党支持者」のたぐいには、情報の実体を吟味することなく、発信者の名前を見ただけで情報
を無条件支持する、という古代人の世界観が反映されている。
二枚の羽根 -- そんなものはない
ここで、左翼というのは、改革志向、
「革命的」な考え方の思想傾向である、と定義してみよう。
当たり前のことだが、社会の変化に対応して変えたほうがいい制度は変えたほうがいいと誰でも
思う。その意味では、だれでも「左翼」的な部分を持つ。あらゆる改革に反対するほうが奇妙だ。
そして改革の方向が復古的に見えると、右翼とか原理主義と言われ、あるいはルネサンスとかア
ルカイックと言われたりする。どのコトバも単なる言い換えの記述概念にすぎない。そこにテ
レビ洗脳映像にもとづくてきとーなイメージで価値を付与するのは人間さんの勝手。コトバは
コトバで無色透明だ。
左翼の特徴づけが改革志向なら、右翼というのも、復古的であれ国粋主義的であれ、なんらかの
変革を望んでいるという意味では、左翼なのかもしれない。みんなと同じじゃなきゃイヤだ、で
もちょっとだけお金で買える部分でコセイを主張しよう(笑)といった我々のメッキ社会におい
て、右翼とか左翼というのは、実質において「おまえのかあちゃんでべそ」とかと同じ無意味な
ののしり語っぽいので、あんまり概念を追求しても仕方ない。「みんな」と同じでないものは悪と
いうあなたがたの信仰による限り、障害者だけが「公認エスパー」なのだ。もっとも、それをす
ら「ノーマライズ」しようという余計なお世話があるけれど。
国立特殊教育研究所について何がいちばん好きかというと、略語が NISE だということ。
とりわけ、
「まとも」な右翼であれば、国民の精神の変革を求めているに違いない。ことさら「右
翼的」な言葉遣いをすると――
「われわれヤマト民族は、礼節を重んじる高潔で誇り高き民族である。
利己に走らず、諸国民の気持ちも考えようとできる繊細な民族である。
自分だけ良ければ良いなどと身勝手なことを言わず、公正、仁義をむ
ねとし、困っているときは助け合うという融和の精神を持っている。自分
と異なる見解だからといって言下に否定したりしない雅量を持っている。
過去におかしたあやまちについては、いさぎよく非を認め、これを省みて
将来の糧とする勇気を持っている。我々は小国であるが、たとえ相手が
強大な国であろうと、悪いことは悪いと指摘する魂を持っている。みずか
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らが犯したことを犯していないなどと言を左右にするような卑劣な態度
は決してとらない――そのような態度を恥と思うのが、我々日本人であ
る。以上のような日本人としての誇りある姿勢をもとに、新しい歴史教科
書を作りなさい。」
これがきっすい右翼の主張であって、一般のイメージに照らせば、むしろ「左翼的」かもしれな
い。
繰り返すが、なにやら過去の蛮行をみだりに正当化したり、直視する勇気を持てずに「学校でも
教えないことにしよう」などとうじうじ言っているようなのは、ハンパなエセ右翼だ。そのよう
な自称ウヨクちゃんは、
「日本文化」
「日本人の魂」うんぬんを語る資格なし、と言われても致し
方ないであろう。逆に、なにやら大国やら自国の政府がやることには全部、反対しないと気が済
まないような連中がもしいるとしたら、そんなのは右翼でも左翼でもへちまでもない、ただのア
ホウ。そもそもまともな思想家なら――政府が何やら言っていることを後追いして賛否を論じ
るのもいいけれど――、だれも何も言っていないうちから、独自の視点を提示するであろう。だ
れかが言ったことを後追いして、かっさいしたりケチをつけるのでなく。
○○の言うことだから絶対に正しい/正しくない、という見方が不適切なことは明白だが、これ
を逆向きに考えると、あなたは部分的には「右翼的」であり部分的には「左翼的」であり、資本
主義的であり社会主義的であり、まぜこぜであってかまわない、ということになる。なんであれ
「正しさの絶対的基準」を言語化してしまうと、たちまち逆手にとられる――民主主義が絶対だと
思えば「これは民主主義的に多数決で決めたことだから、あなたも従いなさい」などと変なこと
を押しつけられるであろう。そして「見せかけの民主主義」だの「真の」民主主義とは、といっ
た、レトリックのラビリンスに迷い込むハメになる。絶対があるとしたら絶対的不可知論だけ
で、本当の本当のことなんて分からないので、自分で判断するしかない。あなたが採用すべきは、
しいていえば「あなた自身主義」だが、言語化すると「それは個人主義ということだろうが、公
共の福祉が」とか「自分主義もいいが、自分が常に絶対に正しいわけでもあるまい。人の助言に
も耳を」とか、からまれて、同じことを何度も説明するのにうんざりするので、むやみに言語化
しては、いけない。ひみつひみつ。
人間語訳で「左翼的」なのは、人間語訳で「感覚が急進的」だからだ。しかし最も進歩的な「健
常者」にも「原文」は理解できないだろう。
それは、ヒトに犬の嗅覚の世界が理解できないようなもの、ライチョウに「仮定法現在」の意味
が理解できないようなもので、改革できるできないのギャップでないので、わたしがあなたの世
界を変えたいという意味での革命志向などあり得ない。しかし、かなり多くの人間は(表現の仕
方はともあれ)有肉のヒトであると同時に無肉の妖精でもある。妖精というのは少し変な訳語だ
が、人間語には対応するコトバがないので仕方ない。
最終更新時間:2006 年 09 月 20 日 19 時 56 分 46 秒
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