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モンゴル帝国の北西イラン支配とオルベリヤン家の台頭

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モンゴル帝国の北西イラン支配とオルベリヤン家の台頭
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モンゴル帝国の北西イラン支配とオルベリヤン家の台頭
北川, 誠一
北海道大學文學部紀要 = The annual reports on cultural
science, 26(2): 49-112
1978-03-30
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/33422
Right
Type
bulletin
Additional
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26(2)_P49-112.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
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モンゴル帝国の北西イラン支配と
オルベリヤン家の台頭
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第一節モンゴル軍のスィウニク征服とオルベリヤγ家の所領支配権
第二節一四│一五世紀初頭の所領支配権継承と一族の系譜
第一節新所領の境界
第二章所領の形成と分布
第二節オルベリヤγ家領の帰属
第三章近隣諸侯との関係と婚姻政策
結論
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誠
モンゴル帝国の北西イラン支配と
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第四章グルジア王とオルベリヤン家
北大文学部紀要
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次
第一章スィウニク!オルベリヤン家の動向
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険があるので、軍使を派遣して玉を召撫する以外に策はないことを上奏した(回583HWEN-830イル
ディミトリ二世、 ダヴィティ六世等歴代諸王の反乱にもかかわらず、
パグラト
ト朝と同様にグルジア王国についても国境防備上の重要性を理解し、敵国に対する障壁とするよう試みたのである。
ダヴィティ四世、 ダヴィティ五世、
(切白唱阻止。巳)家の主統が廃されることなく続いたのは、モンゴル人政権にグルジア主国の組織とバグラト家の王権を
存続させる政策が採られていたとみなしてよいであろう。しかし、グルジア国内の政情は安定せず、主権の衰退と有
H ハン国は各地方に州
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力諸侯の動揺がみられたのも知られるとうりである(﹀
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た租税を中央官庁に送付したり、使者のもたらす支払命令書の額を支払っていた。ガザン日ハンの宰相を勤めた歴史
H ハン国の地方統治、徴税制度と在地勢力との
家ラシードウッディ i ンは、従来この職務にあたっていた地方の名家が徴税請負制の弊害で次第に没落し、彼等に替
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って素姓の卑しい人々がその地位を得るようになった、と言(
関係が示唆されると共に、地域社会内部に支配構造の変動が生じ、 旧支配者の没落と新しい支配者の台頭が起フた事
包ロロ﹀同仲間口己)に譲与せざるを得なかったなどの事情より
情が語られている o グ ル ジ ア 王 ダ ヴ ィ テ ィ 五 世 反 乱 の 理 由 が 重 税 に 対 す る 不 満 で あ り 、 デ ィ ミ ト リ 二 世 が 滞 納 し た 税
額支払の為に王領地の一部をアルツルニ家のサドゥン
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(がイラン各地で目にしたような原因によって、 旧来の支配機
判断すると、 グルジアにおいてもラシlドウッディIン
構の混乱が生じていたのである。
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アルツルニ家の台頭を例に取ろう。グルジア王の諸侯ザカリヤン家のアヴァグ(﹀d
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北大文学部紀要
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H ハン国の初期に上昇し、
モンゴル帝国の北西イラ γ支配とオルベリヤ γ家の台頭
サドゥンの政治的地位はイル
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グルジア主国の国制とは無関係にイルリハンから直接所領を
H ハンの支持のもとに、主家ザカリヤン家を凌いでグルジア王の摂政官
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の領主オルベリヤン(。
一三世紀グルジア主国の政治史において、アルツルニ家と競合する関係にあり、併せて論ずべきであるのは
(同宮町凹宮田弘田同日)の栄職を獲得し、国政の実権を掌握したのである。
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におけるオルベリヤン一族の所領は
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の独立公園に境を接し、北
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東ではカヘティ(州内向日与え伊) とへレティ (
2 ・匂・ 8)﹂のである。この一族の当
主は王国最大の諸侯として最高司令官たるスパサラリ
対する抵抗においても、 セルジュク朝の遺産たる諸君主国に対する再征服の戦争においても指導的な役割を果した。
しかし、 主権に匹敵したオルベリヤン家の勢力は、一一七七年一挙に崩壊する o この年イヴァネ・オルベリ QS5
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。同ゲ巾ロ)は先王ダヴィティ三世(在位一一五回i 一一五六年)の遺児デムナ (Umg
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また、特にこの東部をスィウニ夕、西部をヴァヨツヅォルと
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紀要﹄一 O 号、九三頁。
( 6 )本 田 寅 信 ﹁ ガ ザ
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ωEl串吋∞参照。
(2) 愛宕松男﹁李壇の叛乱とその政治的意義﹂(﹃東洋史研究﹄
第六巻第四号)。愛宕松男﹁蒙古人政権治下の漢地における
版籍の問題﹂(﹃羽田記念論叢﹄昭和二五年﹀。井の崎隆興﹁蒙
E ロ田口問﹀は、伝統的に一一一
の地区(間同若田円﹃)から成るとされ、それらはペ2 5曲目円(現
分けて呼ぶ場合もある。この州ハ
正二﹁元代社会の中心的諸問題﹂﹁社会経済史学﹄第一二一巻一
古朝治下における漢人世侯﹂(﹃史林﹄第三七巻六号﹀。村上
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(3) 木 田 質 信 ﹁ へ ラ l トのFルド政権の成立﹂(﹃東洋史研究﹄
第二一巻四号﹀一八六頁。
ルジア王パグラティ(回国間H2C 五世(在位一二一六Ol 一
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( 4 )パグラト家はダピデの子孫であることを主張していた。グ
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(5) 拙 稿 ﹁ オ ル ジ タ イ H ハトヲン降嫁の事情付﹂(﹃史朋﹄第二
号
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テ パ ノ ス ( 二 二O 四 年 没 ) は 、 一 族 と 出 身 地 の 歴 史 ﹃ オ ル ベ
九年﹀のむすこで、スィウニク大ハ府)主教の位に登ったス
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誌、六五章までは古代より一三世紀までのスィウニグの王侯
山
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マミコニヤ γ家 起 源 に 関 す る 一 連 の 文 献 リ ス ト を 揚 げ る 。 な
九時旬。尋問
お、マミコニヤン家のチェナスタン起源説とアルメニア語史
に当てられている。この九章中、特にモンゴル人支配期に関
と 教 会 の 歴 史 、 六 六 章 よ り 後 の 九 章 が オ ル ベ リ ヤ γ家 の 歴 史
(
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書に見えるチェン人については、榎一雄﹁初期アルメニア史
(﹃封建グルジアの階級内闘争│一二世
柄引ミミ。さと刷、司令弘明日明恒国巴ロ・?の
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0hogHNOhN、注尚昆円R
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γの刊本とパトカノフの露訳
所 収 ) を 用 い 、 ジ ャ ブ ナ ザ リ ヤω
(EHSER-巧ロ OFm-2ロえ)﹄
してサンマルタンの仏対訳テキスト﹃オルベリヤン家史
わっていて、史料として一次的価値を有する。ここでは主と
する記述は著者と近親が目撃した、及び彼等自身の活動に係
書 に 見 え る エ フ タ ル と ク シ ヤ γ﹂(﹃東洋学報﹄第四七巻四号)
がある。
( 日 ) 首 都 ト ピ リ ス ィ ( チ フ リ ス ) の 西 南 約 八0 キ ロ メ ー ト ル に
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次にステパノスの年代記に記されたより以降の時代は碑文
回申
と写本奥付によらなければならない。一九世紀に様々な機会
の事柄に触れ、歴史的諸事件の目撃を談る。ハチキヤンは、
と呼ばれる写本奥付は、その写本作製がなされた時の種々
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こ の 収 集 出 版 を 続 行 中 で あ る が ( ﹁ ω ・ 州 内 ﹃ 仰r
同
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に集録されたアルメニア各地のアルメニア語碑文は、コスタ
的価値の高いと思うものを抜き出し、英訳した。本稿に用い
へ
20d P38l-cg、 サ ン ジ ヤ ン は 、 こ の 中 か ら 特 に 史 料
第六号﹀参照。
なお拙稿﹁十三│十五世紀のアルメニア語史料﹀(﹃史朋﹄
たものはこの英訳史料集に収録されている。
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不アンツによって集成刊行されている。また、近年の科学的
網置的収集の成果は、
ω・ 0・凶Rrrc仏国ミ白pbN・一屯ミ同
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(JEm}ggr 開 門 田 口 )
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同
日 HSsahwdHh凡さおお司、知(﹃アルメニア碑文集成﹄)HlH︿
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スィウニクi オ ル ベ リ ャ シ 家 の 動 向
で、記憶、記念を意味するヒシヤタカラン
第一章
モンゴル軍のスィウニク征服とオルベリャン家の所領支配権
ZoE) の割
ステパノスは、一族が
Hノヤン(﹀乙山口
Hノ ヤ ン 磨 下 の モ ン ゴ ル 軍 は 、 大 ア ル メ ニ ア 各 地 に 侵 入 を 開 始 し た o
オルベリャン家の当主が、 リパリトのむすこエリグムであった時、 オ ゴ タ イ に よ っ て 西 ア ジ ア に 派 遣
第一節
二三六年、
されていたチョルマグン
呂
田EPPES。
モンゴル寧に降服するに至った経緯を次のように述べる(皆吉伸 l
モンゴル(、叶民えが同)人が世界のこの地方に最初に来た時、我々の諸地方はアスラン
当であった。 エ リ ク ム は 難 攻 不 落 の 場 所 で あ る ブ ラ シ カ ベ ル ド (
出 HSYW
同宮丘) に立龍った。 ア ス ラ ン は こ の 城
北大文学部紀要
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った。この
と知った。
いものと
カザやふ
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その日よ
にモンゴル人に
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までの諸地方な
﹁スニト認の
のブルメニアを
アスランは彼を昆て強い
ころ
の⋮族の破滅を招くこの場所から出
来て我々に
の正面に下馬し、彼門エリクふ︺
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コ pvo そ
ょ。汝は、汝
のよに儲る方を好むのでなければ、我々
門局密︺を一巡じ、占領は不
そγゴル帝国の北西イラソ究配とオルベ歩ヤソ絞め台頭
遣わして、
ことは
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に加えた。
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誌
円集史﹄
いでこの地よりアニに
デリグム降患の年次は、 そ ジ ゴ ル 人 が 最 初
知ロ円山町 H一可ク向子
ゴル(の氏 m
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と、多くの欝物を持って殺のもとに行つ
の案内者の
望ましい。 ぶヲグムにはこの
権を与え揺ったこの
るこ
較の安全を保証する︺
を機き、
の諸部将の中に
一一一人のモンゴル
アス一ブンすなわちプルザハランハ﹀吋即日向ロ﹀の名はアクネルのグ
分割した
ルマグン
Hノ ヤ ソ は ブ ラ シ カ ベ ル ド 淡 左 陥 れ る と 、
々の一所有はナルベリャ γ 一
一
族
ンゴル
ブスランが
ザカリ
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た後、
ツヅォルとエグギス宏被に降って部下となっていたエリクムに与えた。 ステパノスは、
二一一一六年である。 ブルスラン
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数年後、そのモンゴル人将軍は、 アヴァグ、 シャハソシャフ (
一年数ヶ月の間包囲を解かずに城壁の下に宿営した。この包囲の聞に、
ユリクムは激痛を伴う
ES 印 ) の町、すなわちネベルケルト (ZAUmHF目立) に進んだ。壕を設けて町を完
開始した。彼等は殉教者(呂田
全に包囲した後、
病に自国された。これはアヴァグの命令によって彼の医師が毒を盛ったとさえ言われる。彼の遺体はノラヴアンク
(20548FJ に運ばれた。
﹁ 殉 教 者 の 町 ﹂ す な わ ち マ ル テ ィ ロ ポ リ ス (宮戸丘町S
o
6 とは、 中 世 の マ ヤ l フ ァ l リ キ I ン
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5-
と述べる。
子、白ロ)である。この町はフラ
Hノ ヤ ン の 軍 隊 が 数 次 に わ た っ て こ の 地 方 に 遠 征
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q仰向阻止ρ門口)、今日のトルコ領のディヤルパキル (DqREE岳 地 方 ス ィ ル ヴ ア ン
グの西征によってモンゴル人に聞かれたが、それ以前チョルマグン
ロ
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目 l﹀ 岳 町 ) は 一 三 一 二 年 モ ン ゴ ル 寧 が こ の 地 方 を 掠 奪 し た こ と を 述 べ ♀w
していた oイブヌルアスィ l ル Qゲ
ormop
HHHWO吋)、
(即日)-仏
Brr桃山可田口)
(UHMR
同
丘三 l冨白神宮LFEG) が
、 アマガ(﹀ヨ向m
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Hノ ヤ ン の 軍 隊 中 に は エ リ グ ム が 加 わ っ て お り 、 こ の 会 戦 の
一九世紀の歴史家チャミチャン 争
入
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-wC- ーωM)
(日})日仏
マクリ lズィ l ( lypρHHNH) は一一一四一年モンゴル皇帝のイラン総督がこの町に使者を遣わして降服を勧
目
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、 またヌワイリ l (Zロ毛色]守山) は一二五二年に行われたモンゴル人のディヤルバク
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告したことを記し
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亡 は ア ヴ ァ グ が 死 亡 し た 一 二 五O 年以前のことである。 また、
一二四三年ル l ム
北大文学部紀要
エリグムにむすこブルテルがあったことはステパノスも述べる
後モンゴル軍はネペルケルトを包囲したが攻略には失敗した、 と記す(切円。
aFロuEClso
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モンゴル帝国の北西イラン支配とオルベリヤ γ家の台頭
ステパノスがマミコニャン家のグリゴル・マルツネアツィ
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(OH-mOH 富田江田口町三岳)
一一一六一年の碑文(関SSロ
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下欠文)
とある。ブルテルの母タムカは、
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丘三 l富田EPF 巳$、
冨atpF= 日 ) であろう。 エリクムにはむすこブルテル、兄弟スムバト、 イヴァネ、パ
の娘としている者(営百円 l
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フラダウラ(司ぶw
)
、 タルサイチがあったが、 ステパノスは彼の後継者について
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エリクムの兄弟スムパトは敬度と徳とによって推薦に価したので、兄弟の死後、その支配権公団F Eロミヨロ﹀を
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彼に高価な
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エリグムの死後アヴアグの一族特に彼の妻ゴンツァはオルベリャン家に対して秘かな敵意を懐き、
巳
ロTyr-rrF-MO)。
と記す。 スムパトは賢明、慎重で弁舌に秀いで、 アルメニア、 グルジア、 ウィグル、ペルシャ、 モンゴルの五語を難
なく話した
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ステバノス
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(回目白}円四回忌明,
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彼等一一族を滅して所領を奪うことを計画し、 スムパトに反乱を捜した (
r日仏-w-M
∞
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二四九年実際にモンゴル人に対して反乱を企てている
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(H,
己) に馬}い、
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、
QROFJP官者。るダヴィト(り213 は
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いがことさらスムパトを陥れるために仕組まれたものであるとは考えられな
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さて、遇さセのころ、モンゴル人の捕虜となっていたスィウニクの小主
Hノ ヤ シ の も と か ら 脱 出 し 、 逃 亡 の 途 中 ス ム バ ト の 家 臣 タ ン ク レ グ ル
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宝石を与えた。 スムパトはこれをバイジュに賜ろうとしたが、バイジュはこれをモンケに献上するように勧め、
フ
コルムまで部下を道案内につけた。 スムパトはモンケに拝謁すると、 アルメニアにおける教会堂の荒廃、 オルベリャ
Hベキ
E
n
Fど す な わ ち 廷 臣
35品宮民国BZごという名の自分の母親に与え、彼を委ねて彼女に語った。﹁こ
ン家が失った所領、 アルスランに対するエリクムの忠誠等について申し述べた。 モンケは上奏が終ると、
スムバトをソルコクタニ
の者は我々が保護し、 我 々 の 何 人 に も 委 ね な い 我 々 の キ リ ス ト 教 徒 で す 。 ﹂ 彼 等 は 彼 に
公司﹀の称号を与えた。
スムパトは三年間オルドに滞在した。帰国に当っては牌子と詔勅を与えられ、念願の所領問題については、
ボ戸トン城をそこで殺された彼の父リパリトの血の代償として租税をつけ
彼はパイジュと彼の部将によって占領された国々の隣で、 ア ス ラ ン の 剣 に よ っ て 占 領 さ れ た 総 て の 地 方 す な わ ち
ヴォロト γ とその領域を与えた。
て、それに加えた。 スムパトをグルジアと他のあらゆる租税台帳(
E
Jえがるから除いた。 スムバトは再び世襲地
Hノヤンの権力のもとに奴僕のごとく
それはそンケに与えた高価な宝石の代価以外の何物でもなかった
当初彼はそれを剣によって取ったが、 アスラン
二度目は君主の下賜によったが、
-Hm出 回 目 } へ ) を回復した o
(}阿国
であった。
同
ロ
寸 ly向田HJ
江口 wHHW-∞
∞) 0
M lHω
Hベキの死亡は一二五二年二月のことであった。
スムバトはソルコクタニ日ベキの﹁イ
ω
(
ス
テパノスはスムパト入朝の年次を一二五一年としている窃包ロ?呂田邑ロLPESo モンケの即位は二一五一年一
月或いは七月、 ソルコクタニ
ンジュ l﹂ (PFEE) となったが、 ステパノスはそれを﹁テル﹂(仲間同)と言い換える。すなわち王侯に従属する延
臣或いは家臣としてこの身分を理解したのである。これによって、 ス ム パ ト の 所 領 は ソ ル コ ク タ ニ の 私 領 に 属 す こ と
となり、公課の台帳から除かれたのである。
北大文学部紀要
-6
7-
モンゴル帝国の北西イラ γ支配とオルベリヤン家の台頭
スムパトは帰国すると、安堵された世襲地の接収を容易にするため、パイジュ
Hノヤンの援助を求めた。
モンゴル
軍の武力を背景とした接収を終了させると、 ただちにその領内で教会と修道院の修復と新設に着手した。バパヤンは
(切問。白出国
w
円、﹃℃・戸ω
∞lHω 吋)0 しかし、近隣諸侯領の併合は、既にアルスランがエリクムに自己の占領地
この時スムパトがアヴァグ家、 プロシャン家、バチュ l ティヤン家に属したいくつかの村落を併合したので、紛争が
生じたとする
を与えた時に生じていたはずである。 モンケの安堵はアルス一フンの採った方針の追認となっている。 ステパノスが自
家に対するアヴァグとゴンツァの敵意の理由について全く触れていないのは、 か え っ て そ の 聞 の 事 情 を 熟 知 し て い た
からであろう。
スムパトの所領は、 モンケによって安堵されたものであるにもかかわらず、 オルベリャン家の敵は、新たな攻撃を
Hアカのもとに赴き、
オルベリャン家攻撃の許可を求め匂攻撃までは許されなかったが、
計画した。 ステパノスは、 スムバトに敵意を持つ諸侯が一二五四年トピリスィに集合し、おりから人口調査のために
ここに来ていたアルグン
日
4白山口同¥切OU刊3
ωMHlmωω)0
ステパノスはスムパトの今回の
(
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l ン日ハ I スハ lジェブ(同同日間 7LI
H
W
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H
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回
目
El冨RHE--FEOWES。
この請願は幾分効を奏し、 スムパトは少なからぬ所領を失った。彼は再度入朝を決意し、 アルスラン日ノヤンの援助
Hアカは、ジャマ
を求めた。こうして第二回目のカラコルム旅行が行われる
偶然時同じくして、アルグン
白山口同i
ロ
宮山三宮wFES、ジュヴァイニ・
lは一二五六年三l 四月アルグンがホラサンの
筆頭とする反対者の議訴を被り、宮廷に召還された (
一
﹁
ロ
旅行の年次を一二五六年とし
ω
(
マルヴを通過したと記す (
ES吉山¥回ouLP戸 巴 ω)。 スムパトがカラコルムについた時、 アルグンは裁判をひかえて
ω
z
s
t注目口一一FFωESHmp-ーロ古)とセグ
拘留されていた。 ステパノスはアルグン攻撃の主謀者がシャラバディンハ
6
8-
インチ
Hベク
ω
(
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∞m-乙であり、
叩E
セヴインチ
(
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2
1宮田EPF
Hベ ク は ス ム パ ト に と っ て も 敵 で あ っ た と 記 す
が
、 ジュヴァイニーはこの二名については触れない。
zhN)
モンケはスムパトに所領と現地のモンゴル軍の状態について尋ね、次にアルグ γが諸国を荒廃させ、僧侶を殺害し
セヴインチ
Hベクの有罪、が確定し、疑惑の晴れたアルグンは放免された。
一方、 スムバトの用件につ
たか否かを質問した。 スムパトはアルグンが全く正しいことを証言した。その翌日裁判が行われたが、謹告者シャラ
、
フ y ︺アィ I ン
いてモンケは、
彼をアルグンに紹介し、最初のものよりも一層確実にスムパトの財産の所有権を保証する新しい勅書を発行する
ように命じた。
lypH片
白山口同
山
P F E S。 アルグンは一二五八年九月ホラサンに帰任している
H ハンとオルベリャソ家
向山口同¥回。
19 口wuuω)
(HE4
ので告の
このようにしてオルベリャン家の所領は先回の勅書どおりに安渚された。 ス ム バ ト は ア ル グ ン と 共 に 帰 国 の 途 に つ い
た
イル
(
るω
か
ら、 スムバトもこのころ領地に帰ったであろう。
第二節
ω
(
田山口同17角田H江 口
w
口
"
日
十
串
)
、
スムバトが二度目のカラコルム旅行から帰国したころ、 フラグはイスマ lイ l ル派とアッパース朝に対する作戦を
成功一一長に終了させていた。 ステパノスは
彼はフラグにも恩寵を被ること厚く、栄誉を授けられた。また彼自身の用事を命じられた。
と記す。 スムパトに寄せるフラグの信頼は絶大で、彼は望む者の生死を決することができる程であったので、万人が
μ
北 一人文学部紀要
-6
9
ツ
ヤ γ淡の台頭
MP-γゴル帝閣の北西イラン支配とオルベ η
援を恐れ、彼に注目していた、という公玄仏・
スムパトはアラタ iグに
の多くと同じくこれに加わ
フラグの一自誌の
グルジプ
α
α 吋)、かえって、ア
戸旬。。i
uv
{刊
テレグ
ω
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Iほえ片山口LF530 これに緩い
て一一一六
その地で
したのである
ステパノスハステパノス・オルベリャンとは部人﹀の
タ予フリーズに
でのスムパトの活動は知れない。ブルグン百一/カと
スムバトの務ブルテルは
ていたゴンツァをブラグの命令によって処刑したハ
結ったが、他の
いた木材を大アルメエアのアイララトハ﹀ス己主)郊バセンハ切草取るで伐掠したハ手E4ECo
ヴィティ五世の
ヴァグの
ベルケとの間に
(
F
E
w エ九日﹀。このころよ
て
、 フラグとやプチャク討ハン
持付近で戦死している
その年次については
ozsLFhS﹀に、
﹀年の項(民間w
、
偉大で高名なスムバトが死亡し
ay
込nNHr
,刃日
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F
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七二年ディミト望会
え
い
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山
﹀
、
70 -
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HF-mM ﹀
一(西暦二一七
J
に プィミトレ
タルサイチ、がスムパトの死亡L た後、
ステパノスが
した。
の残る
ア
と
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け
グルジア
MmvC)
。 一一一七
とあり、 ステパノス・オルベリャンーも‘
saHH?宮島吋仲山口
J H Y 戸。)にも
の翌年二一七
門アルメニア
碑文(問。∞S
HMg支
出
のために聖グヲゴルハの片山 mGH)
一一一七
我々は
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こ
w
タルサイチは
と述べ、 ノラヴァンク (202
宝(部吋}円ぶ可)スムパトはこの墓所に
ツヅォルに
共
七
主
スムパトの遺体はタブリ iズよりヴァ
たのである。
れ
ノ
レ
メ
ず
こ
スムパトは
は、アルグン
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(即日}町内ザ
また、
タルサイ
、ゴシャグ
ハンより勝利
ホ一プサン、
め承認されていたハVZ寸話2ZHrF
一番下の弟タルサイチ合養子としており、授が兄より統治権止を出引き継ぐこと
1 ンによって、あら
って、 度々山門川舗な栄援を授けられ
教会堂
︼品
盛んであっ
23E丘三、大
タルサイ少の地位が上昇し
直ちにグルジア悶政において
八一一年三
ブの諸畏タルサイチ
イル・ハン持アフマドについて、
すると
ArH品m
r
に合せて九震出征し、武勇の程を示したので、
50﹀設はスムパトと陪じく多くの
ハ一%、ダルメ γド
ブバガの
Hアカとシャムス γディ
チもまたイル日ハンの
ァ、小アジア、 アマスイア、
た
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ぜる偉大なアルメ
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を記念する
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ったようであるが、それにもかか
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w
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修道院
修道院、 タテフ
の寄進を行った
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司
一
タルサイチが一所領を継滋したイル H ハンのブバガ統治年時間は、 サドヮン・アルツルニの
Z
ハ
しかし、 アパガ、 サドゥンが
戸)
1
ン
タ
つの地位を与えられている。この内、
7
1
サイチ誌、ディミトリノの却泣
地位を占めなかっ
テパノスの
w
m
H
出
moH 同剖e
彼 は ス ム パ ト 王 (田町内伸之の弟で、王
総督
ナ鍔者共に
O
タルサイチは、グルジア主共んベブルグシ側
L、
r
、
、
ルツァカルの
久
、
メヴノれれ
る議名で
f
ヘ
とある。タルサイチ辻、 アブマドよれノブヅマンタル、
の墓碑銘ハ同ま窓口g
H
H 仲間JH)'-詰﹀に
のクーデターが
栄誉を与えられ
包丘 l冨出片付日夕
テ パ ノ ス に よ る と ︿ω
アブ叩ドに対するアルグン
に付いており、
アルグン
北ふ人文学部紀要
時
ィミトりからは、
そンゴル帝国の北西イラン支配とオルベリヤ
のである。タルサイチはグルジア
畿を得るが、数年後死亡する。
について 3 臼山口?認支払タ
、ヵルス、 トピ口ジスィの聞の諸地方の
(HHH
アタベギ
した。
月七日)の
ハ宮古ろと
oFg富山﹀、勇敢で
和
仲
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月人目i 一
一
一
の譲りに達し、 アルパハ﹀同}礼同)の
八年ハ一二
同吋{))、
ルサイチは
一年であろう。
パノス、
w H T H 品m
w
w
ヴプネのむずとリパリトの
ω問山口47γム門担吋片山口
った ハ
ろ死亡した
EN﹀との関にエリグムとス
ブルズ (
﹀
合わせて閉山名の
ヂヲグムと一一一
、
芝
ステパノスはタルサイチの
ムヤジスト紀元二⋮九む年敬度なる誇品獄中の
している。またプルメニプ
(由同町陪一吉川認可 w
omggzc、
年次を刻む慕砕に︿問。∞窓口幸克明JMY33、
度結婚し、最初
墓所建立が
SF﹀日夕ルサイチの休み所である。
るアタパクハ丸山
タルサイヰノは
ぜ
wrgふO山内心とジャラル
(HU
円、吋 M・
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プルグジ
譲歩]父の地伎に
Qmrgと と し
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全︹兄弟︺の
の問問に生じたので
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ステパノス
7
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これについて、思リグムの弟であるステパノス拭 丘三{宗主神宮LPHさ
,
、
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こ達は領地︿仲間234者同乙と統治権令部y
つ︺た。彼等は
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ババヤンハ
問問に一所領相続の
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されていない。継承権の争いはタルサイチのむすこ
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の
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は続けて、
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た
。
こうして
クの府ハ或いは大)
偉大九
所有
厳粛な統治
いた多くの
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。
であるカト
に叙任された。 ステパノスはカトリ
ヴノルメニブ
ムヤリムヤプ
二一人O年父タルサイチの
し、全体の統治権は保持したのである。
H
(省出合路島﹀の問問に分記し、 しかる後に、 正義に従って一部会兄弟ジャラル
しかしながらぷロクムは父の全世襲地を受け継いだにもかかわらず、兄恰仰に対して
全部の物を、主教、
部を父方の従兄弟リパヲトに
ャラル、従兄弟リパヲトと
d
d司同じによって、この閉闘の領地︿仲間言誤認とを治め
ry戸口5
ハ
山
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と記す。 ぷリクムは
L、
土、僧侶の緩劫によってノラグアンクで
の内、 スィウニグ地方史を著したステパノスは、
の
一ニ入入i 一ニ九む年﹀によって、 ヴア認ツヅォル
品リグムの
しJ
いてカ
に対する
ハ
︿ OHOSH凶2 5
て支持を求め
一一一一八六年没。)、
アルグ
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の
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ステパノ
は位にあるJ 、
聖俗一間一部でこの地方の支配権を把怒し
ク地方の統治権交有するオルベリャン
'Fリコスの
してスィウ
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ハイラベットハ z a H 8 2
﹀とホヴノハネスハペ 04ZHMHMm
与はこの人事
の上位者であるスィウ
に叙された。後に、
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ホヴハネス・グォ日夕ネッィ
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リコスのコスタンディン 一世︿州内 O出窓口門出口出回νHCHMmOH
含F
地方とタテブ地方の多くの
コスの叙⋮託状をもって締思したが、 タテツの
H ハンのもと
領域宮島宮崎ゲ﹀、
に強く反対した。ステパノスはアルグン
ンはステバノスに
は位にある。﹀、
グハネスハ夜位
に対する裁治権を有する府主教位に却き、これによって
に帰したハ切広三17PEPFEPM伐さ。これ
が管器内の
ハ一一一一二一
たにとを意味する。彼は死後この地位は兄弟の
吋ハテパノス
北大文学部結要
十
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モンゴル帝国の北西イラン支配とオルベリヤ γ家の台頭
H
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一一一一一七年へルヘル
ス ・ イ ヴ ァ ネ ( 一 四 一 七 年 に は 位 に あ る o﹀ に 受 け 継 が れ 、 事 実 上 オ ル ベ リ ャ γ 家 の 私 有 す る と こ ろ と な っ た 。
エリグムの従兄弟リパリトには長子スムバト以下五子があった
ZRcm) との聞にタンツ
H ハンのシリア遠征軍に加わっていたのであろう。彼には妻ヴオフトグ(︿。F
(
ジプト軍の捕虜となったが後に解放されたと記さ
∞﹀には、 ス ム バ ト が エω
Z
H
) の寄進碑文(烈g窓口BE 印J
(
回
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れている。イル
) の碑文に
一三二六年のヴァガディン (
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O回窓口
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ωtEl富山HHELF-δ
一三O 四 年 に は ス ィ ウ ニ ク 大 主 教 の 位 に 登 っ た (
ア夕、グ(叶出口雷同ぺ出m
r
) の領主(仲間同﹀ であったむすこベナ︿回目白るがあった。リパリトの次子ホヴハネスはステパノ
スの力によって聖職に入って高い地位を得、
、
Oω)
ンI3 5
'
同
エリグム
の}?
7
4
エリクムの異母弟ジャラルの家族については、
同)・︼
ジャラルのむすこである私ステパノス・オルベリャン、 ス ィ サ カ ン 地 方 の 大 主 教 は 、 自 分 の 家 で あ る ヴ ァ ガ デ ィ
ンヴァンクに行き:::。
とある。このステパノスがホヴァネスを継いでスィウニク大主教に就任した者である。
ブグダおよび一女をもうけた
ト
ワ 〆
ヘ
マ Uコ
バ バ ヤ ン は エ リ ク ム の 没 年 を 二 ニO O年とした(切問。SF580 この年のノラヴァンク碑文(間
ggロ
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H
H
H
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1
) と聞にブルテル、
(叶民国
グ
は追悼のためのものであろう。彼は妻タムタ
yF3ELF-2)0 ババヤン(切忠一白出向・2
H
V・53 は彼がグルジア王国のアミルスパサラリ、
ィ
タルサイチ(一二七二l 一二九O 年
)
、
gaurwEロ)、大グラフ(唱え﹀を称した、とする。
支 配 者 で あ り 、 諸 侯 中 の 諸 侯 宇 田F Eロ
(?l一二七二年)の後、
ウ
ハ一二九0 1 一三O O年)の順に継承された。彼等の相続に際して、 イル日ハン側の承認、選任が行われた。 タルサ
オルベリャン家の所領支配はスムバト
ス
イチはアフマド
H ハンにフラマンタル、
メツ
Hゴルツァカルの二官職を与えられ、
ステパノスはアルグン日ハンに大
H ハン或い
H ハン国に通常に見られる土着君主
主教就任の保証を得た。オルベリャン家は自己の保有する支配権の最も根本にかかわる問題についてイル
JH)
、
・55に
一四│一五世紀初頭の所領支配権の継承の系譜
H ハンとの関係に同じものが観察されるのである。
はその最高級官人と密接に関係し、他の在地的権力の介在を許していない。イル
とイル
第二節
HUHHH
ぺm
u と彼のむすこベシュケン(司r
r
r
a
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)、 イヴァネの統治年聞に・::・。
一三四五年ヘルヘルの碑文(同
ggロ25 印
Hブルテル(司氏。ロ
﹂
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口
骨SPH)・包 O﹀0
八六年)は、 イヴァネのむすこである 35S F 匂
w5hごの・明 冨 山
チム l
530 イヴァネにはブ
)0
-75
大パロン
とあり、
、
(F25PH)-g) に
Hブ ル テ ル の む す こ 達 、 諸 侯 中 の 諸 侯 ベ シ ュ ケ ン と 兄 弟 イ ヴ プ ネ の 君 臨 と 統 治
-三四八年ヴずヨツヅォルのへルモシハ国250ロ)修道院で筆写された写本奥付
スィウニク州の (中略)故パロン
の期間。
、
北ム人文学部紀要
こ=二五 i 一
一
三
(
スムバト、 グルゲン (CCH-mm
ロ
﹀
、 ホヴハネスω
の諸子があった 32SFH)・EMu- 品
吋
吋
ωuZP4mwH)・
包括閃どがあった(欠S窓口
gロ史"℃・
とある。支配権を得ていたブルテルは、一三四五1 一三四八年の聞に死亡し、支配権はむすこベシュケン(切grwd
る
ア
が継承した。ブルテルにはこの両者の他に男子サメグ
ノ
レ
ルの遠征軍にタテフを追われ、避難の途中死亡したスィウニク大主教ホヴハネス・ヴォロタネツィ
ノ
レ
モγゴル帝国の北西イラ γ支配とオルベリヤ γ家の台頭
H スムパトのむすこバロン
、ヴア
Hイ
に替わられ
ステパノス
Hベ シ ュ ケ ン の 兄 弟 で あ る テ ル Hス テ パ ノ ス 日 イ ヴ ァ ネ の 在 位 期 間 に
一四一九年へルモン修道院で記された奥付に(営旦EPH)・エω
、
﹀
この州のバロン
・
・
。
とある。イヴァネのむすこ達の中でスムパトが所領支配権を継ぎ、 彼にはベシュケシ (二世)、
((urnm
回
目
円
)
一三四九年シャティヴァンク 3E去 さ 斥 ) の 碑 文 ( 同
ggロ22 印J H ・
}
イヴァネの父ベシュケン(一世)の地位は後にオルベリャン一族のチェサル
ネの二子があって夫々聖俗の各権を把握したのである。
ハパヤンは、
た、と述べる(切問。S
F2HU・530 早くも、
口
山
g
aむなる者は、
53 にティリ・カングネツィ(叶片江阿国ロ mm
Hチェサルの統治年聞に
一方周年エレラン(何百円白ロ)修道院で筆写された写本奥付 3
grpH)・∞吋)に、
チェサ
'76=-
二
一
ハロン
と記しており、
勇敢なるアルメニアの部将、敬神敬度なる諸侯中の諸侯ベシュケンとイヴァネの統治年聞に・:
(﹀自宅)
とある。ベシュケン一世とチェサルの交替はこの一一一一四九年に行われたものであろうか。このチェサルについて、
H ハンの世界支配の時。諸侯中の諸侯スムパトと母アマ
、
三三二年のセリム(伊ロヨ)の隊商宿(同22552ロ)の碑文(問。∞窓口町田三回 J H ・
V 53 に
(西暦一一三三一)年。 アブ l サイド
3 は、﹃アルメニア碑文集成﹄収集の同一碑文に拠って、
(CEFEu-由 ♂ ℃ S
むすこ、 イヴァネの孫、 オルベリャン一族の私チェサルと我が兄弟、獅子の如き諸侯達ブルテル、 スムパト、
リグム:::
とある。ところがウルパパヤン
の
こ乙
七
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ルをイヴァネの
のである c さて、
こであると記す。
時ノパリトを
同
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﹄ワォフト
占めるとしている
では、 スムバトの
の寸スムバト﹂はっジパヲト﹂の
タルサイチの
hdH門
の諸民﹂の
H H W H吋 AF﹀
0
4山 旬 、
ν
亡、
エリクムを
はリパリノトのむずこの
ブルデル、︿スムパト﹀、
他の史料に
mU015HH) 家のふMPシ ャ フ
の語震 L、 な
サル
Z
でいる。しかし、 ステパノ
はエリクムであって、
る父懇か}
ぷりグム
世の子供遣は、
れるのである。このような関係はりノパヲトの家族のみに繰られる
と称している。
たのではない。、次に、 チ
MV グプルダン
サルは妻ドピヤン
サルと続く
るチェサル、
∞
ないの次に、﹀
セリムの碑文ではチェサルの交のみ
へルヘルの碑文ハヌ2
4窓口窓口同盟¥日ド
ここに引汚したものとは
た一一二⋮
リパリトの
こはベナで告のる
ホヴノハネスにここに
不自然である。ステパノス
に述べたスムバト、
ならず先弟にもスムパトの名が
"MY
HrF
H応
兄弟を
従って、このような称号にもかかわらず全所領の
と呼ぶの
の存ずるこ
の
を五名とするが、
イヴ γネ i ス ム パ ト ! チ
スムバトでなくヲパ p トであろう。
加えると丁度五名になるの また、
チェサルの
︿国内幸窓口町田口史
ちて、 セリムの
﹁諸侯い
は父を﹁藷侯中の
リトではなかっ
w 支i
認
申
こ ろ に 拠 る と ハ m氏
おいてチェサルは
山
部
ぴ
向
日﹀
ω良区∞﹀、 ホヴハネス、 グルド(州内
(
同
ハ
ゲ CH
M との認にサルギスハ
ノ
(問。印窓口S
H
M 件関J M Y口ω﹀に、
スィサタハ向山町田国}内﹀の
二
柵
す
亨
J
ムパトの兄弟タルサイチのむずこエリクムのむずこ
一一一二五年のヴァガディγ
我々、ブルテレとブグ夕、
語侯達
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ノ、
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初
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ス
の
、
また、
エリクムのむすこブルテルの家族についても、
モンゴル帝国の北西イラ γ支配とオルベリヤン家の台頭
と記す。
。
(ZE吉田)の碑文(同
g窓口gE由民唱力・ 53 に、
アヴァグなる者が記した一三四四年ノラトゥス
ブルテルと申子達である諸侯達ベシケン、 イヴァネ、 サメガの統治(宮
4 ロ)の時に
gロロペ H﹃
﹁統治いにかかっている。このように父子、
兄弟からなる複数者の名を同時に支配者として記すことは、一
とある o 兄弟達が同時に諸侯 (
UFEロ) と呼ばれているのである。後者の場合、三人の兄弟の文法上の格は属格で
あって、
院の写本奥付 3EEP ℃
・
∞
。
)
、
一三O 六年エゲギスの写本奥付 3
2rpH)・2) に、
一三四九年のエレラン修道院の写本奥付 QZpwHY∞
3 に昆えるとおりである。こ
o
S、 一三四八年へルモン修道
窓口町田ロえ予℃・ 四世紀の写本奥付と碑文に広く見られる。先述のヘルヘルの碑文(関c
m
のよちな例は他にも管見の限り、
((UF
ぶ若田 H Hの円22)の支配年間。
一
一
一
二 O 年 ヴ ァ ヨ ツ ヅ ォ ル の ヤ ラ テ ス 修 道 院 で 記 さ れ た 写 本 奥 付32TロwHV
・旬。)にも、
この州における敬度かっ最も祝福された諸候達プルテルとブグダの統治年間。
とあり、
Hブルテル、パロン日ブグダ兄弟、及びパロン Hチャサイル
一回世紀にオルベリャン家では所領の一族共治、 或 い は 分 割 統 治 の 傾 向 が 現 わ れ て い る の で あ
この地方におけるバロン
とある。すなわち、
一族の名が単独で見えるか、複数となるかは、碑文の文書或い
Hト フ タ ミ シ ュ の イ ラ ン 侵 入 が あ っ て ス ィ ウ ニ グ 地 方 は 多 大 の 損 害 を 被
る。チェサルは所領全体の統治権を得たのではない。
は記念碑としての性格によろう o
一三入四l 一三八五年にキプチャク・ハン
一三八六年僧ハ立ブ
(J
ω
(
町
長03 は
・
℃
印
旦EP
58
エルンジャクにおいて、
ったが、ブルテルの孫、 イヴァネのむすこ達、 ヴォロトンのスムバト、 ヴアヨツヅォルのグルゲンの支配権に変動は
なかった(国 -NFWH
ゼ -MMlM30 しかし、
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:
8
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∞
∞
)
、
口
、
﹃
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一方、
我々の数多くの罪によって、異教徒の一団がキリスト教徒、特にブルテルの領地に︹現れた︺ o 彼等は来志して、
(﹁白旬口、吋出国
Hカヒク(穴白阿国民)はツァル(口毛)に逃げた。
ヴ ォ ロ ト ン 城 を 占 領 し ナ ニ ク ハZ山口F イヴァネ)の干スムパトから父祖の領地を奪った。
と記し、ある無名の年代記作者は
Hグルゲンは心痛から死亡した。
トルコ人がヴォロタンの要塞を占領した o 大ヴァルダベト
ハロン
とある。トルコマン人はヅグク地方を占領した。グルゲソは死亡したがこの時ヴァヨツヅォルは安泰であった。
、大アルメニアの諸侯にも深刻な衝激を与えた。トマ・メツォペツイ
-MNωlωM)
ゃフルテルの
- 79-
この同年、 チム l ルの軍隊が北西イランに到着し、 ジャライル朝、 グルジア王国、 シルヴァン、 トルコマン諸部族
に対する作戦を実施し ハ
出
・ Nr
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H﹀ は (ZP49H)-U13、
(
叶 0項目 bγPSRO
宮g
棄教を強いた。 彼等︹の一人は︺ オルベリャン家に属し、
統治の最初の年、 オマル(占自己富山H
b
) は荒れた葡萄園の葡萄夏の最後の葡萄の一房のように、全民族に残され
ていた我が種族の三人の諸侯を虐待し、
孫、イヴァネのむすこで、 スィウニク地方ヴォロト γ の 領 主 ブ ル テ ル で あ っ た 。 彼 の 兄 弟 ス ン パ ド は 家 族 と 共 に
サマルカンドに連行されたが、神の憐欄と彼等の祈りに対する思恵によって、後に生国に帰された。同じく、
Hミ ル ザ の 統 治 の 最 初 の 年 と は へ ジ ラ 暦 八
O 七年、西暦一四O 四/五年である。この
ロ)或いはゴルゴンのむすこでエゲゲアツの領主タルサイチに改宗を強いた。
ルコン(関 OHWO
と述べる o チム l ルの孫オマル
年までスムパトと兄弟ブルテルとがヴォロトンに、 グ ル ゲ ン の 子 タ ル サ イ チ が ヴ ア ヨ ツ ヅ ォ ル に 健 在 で あ っ た の で あ
る。チム l ル朝は、 マク (
FHJZ剖冨)の領主ヌlルッディlン、 グルジア・カルトリ(同三岳)地方のジャニベグ
北大文学部紀要
コ
サムツへ
Iア夕、ヘキ領
白
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m。)のプグブカ(﹀ρ 回EMC 等の場合と同じく、 オル
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モンゴル帝国の北西イラ γ支配とオルベリヤソ家の台頭
﹁削ロ円回以内﹀、
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(ZPA9
・
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エゲゲアツのタルサイチ、
一四一一一年の
チム l ルの遠征がオリベリャン家のスィウニグ支
アグツフ(い﹀m
ENFF) のアギタン(﹀mE窓口) は再び信仰に帰った。
53 の見解とは異って、
マクのソルガ
(安堵したが、彼等にムスリムになるよう強制したのである。ところが、
ベリ晶子ン一一族を従え、その所領を安領ω
を
てチム I ル朝の威光が陰り、 アルメニプの国力が回復すると、 トマは
(ωOHmr同昨日円台ゲ)、
チャガタイ久の時代に棄教を強いられた人々、 ヴォロトンのブルテル、
トミチ
と 記 す 。 従 っ て メ バ ヤ ン 宙 忠 告F S
・
勺
配の終震をもたらしたのではなかった。
・
℃
E
58 には、
同 UP
スィウニグ地方とオルベリャン家じとって最大のしかも決定的な災厄は一五世紀一 0 年代に起った。
(KFFZ-EFr巾)で記された写本奥付
ω
(
H スムパトと彼のむすこパロン Hベ シ ュ ケ ン の 統 治 す る 聞 に 。 彼 等 は 悪 し き 者 ︹ サ タ ン ︺ の
日付のあるグルジア・アハルツィへ
我々の地域のパロン
一四一七年の奥付に、
差金に拠って父祖伝来の所領から追放された。
とあり、
ブルテル家の子孫スムパトはグルジアに追げ、そこで客死した。命を存えている彼のむすこ達は父祖伝来の所領
に帰ったが、彼等は自己の領邦の主人ではなく、むしろ無法な者どもの従者であった。
とある。グォロトンの城主であったスふバトは一四一一一年以前に所領を追われグルジアに亡命してその地で客死し、
位旦芯P
H)・エω) には、
彼のむすこ達は故国に帰ったが、従前の所領支配権は認められなかったのである。また、 ヴアヨツヅォルのタルサイ
ω
(
チの支配権について一四一九年エゲゲツのへルモン修道院で記された奥付
8
.
0-
ヵ
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や
我々の
のブルテルの
こイナニクの
こグルゲンの
ハタルサイチi サンジャ γ︺ は 多 く の 管 悩 直 窮 を 味 わ っ
こパ口ン行行タルサイチの円支寵する時︺、
した披が、
蕗ろまでと、
片の農
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一回一 0 年 代 に オ ル ベ 翌 十 ン
ので告のる。ォ
吋タのヌ;ルヅディンの予捺等、多くのアル
い は ザ カ ブ カ i ス政治史の
に他ならぬ。かくして、
ったのである。
の栄光と権威とな
地 、 た だ の 一 倍 村 も 統 治 し て い な い の で あ る c 筒放ならば彼等は、彼の村々、町々、修道院、
る持が彼に
ぃ、北西イラン
ンル部のトルコマン
ヴァヨツヅホルのタルサイチ
ぎ取ったのぐある。設は逃げて、
る
。
Pトンの
、アンベルトのバチュチャン
8
1-
とは、 カ一ブコ
家はヴァヨツヅォんとグォ
のみならず、
に、ブルテルハ
ベシケンの後、
イシハン、
ルゲン、その
分割注れ、ヅグクを援の
った。北西イランのトルコ化が器始されたので去のる。
世)の没後、
が継承し
碑文、
が継承し、 ヴ ア 沼 ツ ヅ ォ ん を イ ヴ ァ ネ の
の額向が生じ
れる
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ルベ円ツャン
の地位はエヲクム
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分割或いは
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るが、スヴアネチアの五とは呼ばれない。更にグルクア況に
は、〆ヴィティ間出品弘ナリンマあれ、五蛍ラジャであふ Aeここに
記されているような察後にあったことは沿い。従ウてこのダ
グィティはグルジア蕊では沿い。古代のスィウエク王家の子
孫であろう。
8) 刊ツパヲトはポ口ト γ 峠棋に潔した山上で時相殺遂の放った矢
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とはこれを指ずものであろう。
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る。従ってテルiチ品iy︿仲間司三ι唱回一)はインジ品iたる
M﹀九時アパノスは、イ
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身分を言うものであるかもしれない司。
のトヮヴ γ女形成したという体制絡は一本されていない。
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北大文学部紀要
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新所領の境界
所領の形成と分布
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第二章
第一節
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ー
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門司、昌吉ヨミな同)同ミミ同時三
吋Ul--M一
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正しいであろう。
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エリクムが寵城した要塞はブラシカベルド城であったが、彼の父リパリト
の碑文(烈
ggロ22∞J H )・8) に、
-84 -
第一章
Hノヤシの攻撃に抵抗して、
モンゴル人支配下におけるオルベリャン家の所領形成は、 モ ン ゴ ル 人 の 北 西 イ ラ ン 征 服 支 配 の 方 法 と 直 接 の 関 係 を
有する。
アルスラン
が ヴ ア ヨ ツ ヅ ォ ル の ノ ラ ヴ ァ ン グ 修 道 院 に 建 て た 二 ゴ 二 年 の 石 碑 ( 冨 EOHmwuJH
︼・句。)に、
彼 ︹ エ リ ク ム ︺ の む す こ り パ リ ト は 非 常 に 齢 若 く し て 聖 グ レ ゴ リ ウ ス の 教 条 に 復 帰 し 、 アタベグ
(U82持EHS
とに出頭した。彼は私に世襲地の代償としてブラシカベルドとその付属地を与えた。
HHD-u
(中略﹀私
えがゲ同-CHイヴァネは、 リパリトに世襲領地の代わりとして、 ブラシカベルドとその地方、
とあり、翌一二二二年のヅォルトハルブ
アタパグ(﹀
たヴァヨツヅォル、ゲガルグニ、 コタスン(開。g
u可凹ロ﹀、 カイェン(関38) に多くの村々を与えた。
ま
この収入
るステパメスの
の域々
四
地誌を受領し
山
由
片
付
山
口
︿
∞
白
山
口
付 17
ク州東部占領の
にを命され
w
ロ
i 日目。)
及びカイ濡アン
五円グルジ
戦功によっ
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グガルグ
して、 フ一フシカベルドを
ハ
欠c
m752r即日﹀に在命した。
}ブシャ
彼が第一番にスィウニグと他の域々に入ったの
ゲガルグ一一のハムサ空と他の多く
ァミツヅォルの多くの地域宮、
はここに留り、 トハルブハ吋WY25 を全付議柏崎と共に、 またハムサリ︿広三塁出片山﹀村の
と他の
てブラシカベルドとその地域を、
ている。次に、これらの碑文を史料として判利用した
に、イヴァネはりパヲトに対して、
のアガスデブ
︿﹀主凶器片品 44﹀
主の勅命によって、世襲地の
WM1gHHU
ヨタスジのエラルン
ハ
以
内
クとヴォロトシとパルクシャト
自軍のスィウ
ゲガルグ一一のハムサヲと飽の村々、
のオルベりヤジ家領辻、世築地ゆだルベト地方の
一ブシャ︺とアタパグ日イヴァネは 9 パ9 ト を こ の 地 方 の
MTMU
モンゴル
コタスンの品ラルンと伎の村々、
なり、後にグルケジ
何回︹}﹀、
たヴァサク・ハチ
'
8
5-
で、彼にスィウ
ア玉ギオル
とある。
グァヨツヅォルの
刊
誌WV 州、ヵイ zγ 地 方 の ア ガ ス テ ブ
MMMm
向
由
吋
片
山
にハ山山戸山口同iy
の父で、方人
ツヅォルは附加の
されたのである。アタベギハブタパグ、 ア タ ベ グ ﹀ 日 イ ヴ ァ ネ は 瀦 倹 領 分 散 政 策 を 採 っ て い
本拠フ一アシカベルド裁のあったヴブ
HHW
スヰウニ夕、 グ ォ ロ ト ン 、 パ ル ク シ 十 ト 三 撲 を 加 え ら れ 、 吏 に こ の 地 域 の
しかし、 イヴザノネは、 9 パ リ ト の 知 事 在 命 と
L、
グ州の東諸問
判
ソ
ザ
, f一割グツグォル凋における知事に、
h
ネツヰ︹ぐ 沼田山内州内向耐震ゲゲ三宮ぷ)
位決一グァサグの
のである。リパ 9 トの所領一はス-ィウ
ハハ
め
北大交学部紀要
ロ
シ
始
モンゴル帝国の北間イラ
たので
ハ
の
オルベザヤ
﹁アスラン
た国々の
戸おさに拠ると、 アルスランは、
オルベヲャ
或いはアザト ハ
﹀ 向
N 。河に歪
って手に入れた物と問じく適法な財践で
たエレロン ハ
出2
8
H
M﹀までのエゲギグハ開札同待相向山各地方会絞殺し、全
汝の一族の
い誌エゲギクからガル
﹁創部によって征削減したものは、
HWH己
Y ﹀に
w
山
口
同 l守内 mFHaMMW
のであるが、 ステパノス︿ m戸
一二三六年、アルスラン日ノヤンは征服地をエ翌グムに
族に定まっ
ヴァ設ツヅォルとガル
リグムに与えて、
ある。我が剣が詫えたこれらの
プルスランはアルパチャイ ハ﹀与さ }MEW
﹀河流域のエゲギス
た所領の安緩ではなく、 アルスヰノン
レていたハ切
問
。
﹀
。
のは、この
って、 品りグムがこの
アルバチャイよれノガルニ測に受る地域には、
のであるが、明らかにこれは現に
ザカ翌ャン等の
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w凡仙川波紋州場内叫 aMM-
は
- 86 -
G
の権利は鎮われる。プルスランが武力征問燃の正当性を
探知同州
タデブが
FPF53
の領有を認めるもので
仲
3
a
H
Hi
征
ヤ
エロツグムに
γミコニャン、
リグムに与えたのマある。 モンゴル人の
。フ門戸シャン、
ン ii
地域全領有することになれば、こ
あったから
=
f
- の
L
次に、 モンケの勅書は、 ア ル ス ラ ン が 与 え た 地 域 の 中 に は 挙 げ ら れ て い な い グ ォ ロ ト γ
ステパノス
ノ
、
つ
あった。 スムパトは滞日出後バイジ品の武力を借りて、この地方を接収し
スムバトが、
その中にはス 4ウ
l
J
w
一ハポマゐヴォ戸トンの領域全体を領有し
は荒廃してい
ボ開トンとブゲンの
あり、その
の
ン
服
地
よ
)
、
(開 HmHロ
C
(FE453、
コタイク、 ゲガルクニに至るまで接収した。彼はこの他にも多くの城々、
白
﹁
向
}
出
口
)
、 ウルッ、 ヴェテ(︿白仲間)の全域をそれが付属
エゲギス、 ヴアヨツヅォル、 ポシャハン︿司 hC
と述べる。続いてヴアヨツヅォル方面については
彼は更に、
する谷と共に、 エレルン
村々を取った。
スムバトが与えられたのは、
﹁バイジュと彼の部将によって占領された国々の隣﹂の地域
とある。これは、 アルスランによって与えられた地域に一致する。
モンケの勅書によると、
丘三 l富良江口LF 巳∞)は、
であると限定されている o パ イ ジ ュ が 征 服 し た 地 域 は 含 ま れ な い 。 バ イ ジ ュ 自 身 の 占 領 地 に つ い て 言 及 す る と こ ろ の
ものはないが、彼の遊牧地について、 ステパノス
(
彼はハバンド(出国宮ロ円。地方のツアゲヅォルω
(叶gmENOH) の入口に野営した。
、
と述べる。 ツァゲヅォルはヴォロトン河中流左岸の谷である。また、 ドミニコ会修道士アンセルム (
B
m
)は
﹀
ロ
白
白-
一二四七年六月パイジュの軍営に赴き、 七月二五日に面会合-許されたが、その時パイジュが駐屯していたのはスイス
2丘町 HWH・
(ω22ロ)に滞在していた(ロロ)会
O)0
またル
ィアン (
ω
E向ロ)又はスィティアン 3ES) 城の近くであった。次にキリキア王へトヲム(国主己目)一世がモンゴリ
アからの帰途バイジュのものを訪れた折も、彼はスイスヤン
白骨岡山凸可 OCAC
白﹀もそンゴリアからの帰途二一五四年一一月クル河とアラス河の合流点を渡ってア
ブルク(の巳ロ O B
ラス河左岸に沿って進み、バイジュの宿営地を訪れてその家で供応を受け勺バイジュの遊牧一地は、アラス河支流の
ヴォロトン河流域で、夏にはツァグ谷を経てスイスィアン城付近にあり、冬にはアラス河本流沿いの低地であった。
ザ カ フ カ l スを征服したモンゴル軍は、先ず遊牧地を割り当て、部将銘々が自己の遊牧地内の在地勢力を制圧したの
北大文学部紀要
8
7 -
モンゴル帝国の北西イラン支配とオルベリヤ γ家の台頭
であるから、 ヴォロトン河流域付近がパイジュの征服地とされた地域であろう。ここより東はドピヤン、
タルサイチは自ら、
JH)
ハサンジ
g
=fF-gl宮田同氏ロ
・
B
H﹀由吉田宮古)の碑文(問。∞窓口 ロ
仲
間
一二七二年のエゲルヅ・カルミル・アストゥァツイン(開mZEE関山H
ャラリヤ γ家の所領となるのである。
さて、
Hv-E﹀に、
一二七四年タテフの碑文或いはこれを引用するステパノスの年代記(問。印窓口
仲
田
gロ
バルクシャト(回同H
FEEH) とドヴィン(巴 4山口)の平原の聞の全州を統治する者。
と称し、
u
u 'uq
、
戸E
O) こ
・キミ タルサイチが、
バルグシャトからブジニ (旦巳)の境界に至る諸地方を支配する o
(4)
w
J
とある。バルクシャトはスィウニグ地方東南バグク地方にあって、リパリトがイヴァネに与えられた諸城に数えられ
ている。また、バルクシャトに対比して挙げられるやフジニの存するアイララト州一一グ (Zぽ) 地 方 は セ ヴ ァ ン 湖 西 岸
でスィウニク州ゲガルグニ一地方と接する。ドヴィンはガルニ (アザ下)河左岸に存する。同河左岸のガルニに面した
エレルン或いはエレロンまでがスムバトに与えられたが、 この河の流域がコタイクである。すなわち、 オルベリャン
家の所領はスィウニグ州南東端のパグク地方より、同州北西端ゲガルクニ地方、 アララト州東南コタイグ地方に及ぶ
Jaェレ
わけである。ォルベリャン一族が行った所領の寄進と贈与、教会堂修道院の新設改築等の行為を記した碑文、年代記
に見える関連の地名を捜すと概ねこの間に見出される。
更にうアパノスの年代記に 3
5rENRgロUHF-03
我々はアザト (
問。村をクラカハガツ (
町
民
}
岡
田}
﹀ N
SFEmF2 印J と呼ばれる高く見わたしの良い頂から、
-'
8
'
8-
ヴァン
(J
へ
22司自ロ)、
ホゴツモツ、(出。m
r。えB22)、 チャヴアヅォル
阿
国
毛
田
弘
((U}
田
門
目
刷
。
m
r
}向
(
叶g
H)
の葡萄園
、 アコリ(﹀}向。円古) の頂に
NOH)
至る全周、付近の山と原とを共に与えた。これに加えて、私の手植のツアガカヅォル
を私の甥プルテルの養育のために与えた。
(国片山
NEる 河 岸 に 存 す る 。
アコリ
とある。 ス ム パ ト が 甥 で あ る ブ ル テ ル に 対 し 、 彼 等 の 兄 で あ り 父 で あ る エ リ グ ム か ら 継 承 し た 所 領 の 一 部 を 分 与 し た
のである。イェレヴァンはコタイク地方には属するが、 ガ ル ニ 河 の 西 フ ラ ズ ダ ン
はアラス河右岸に位置するアララト州アルノヨトン或いはマセスィヨトン(﹀百。U
S
E
-富山840E) 地方の地名であ
る。ここよりフラグの夏の宮殿の置かれたアラタグまでは、百粁程隔たるに過ぎない。このようにして、同家所領は
一三O 六 年 エ ゲ ギ ス で 写 さ れ た 写 本 奥 付 3
2TPH)-E) に、
パシキャンド
L
ヴェルナシェン
(
︿m
ロ
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ボロラベルド
(︿白色口三日へ﹀、
gZロ
)
、
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F己
H
H
g
H由
民
)
、 ヴァラジュニク
(
回
田
町
凶
}
回
日
向
山
刊
由
ロ
円
山
)
、
'
-'
8
9
更に西及び西南に拡張される。
かくして、
この州における諸侯ブルテルの統治問。
SRFど)の統治年間・
NOH)
村 で 筆 写 さ れ た 写 本 奥 付 ︹F
EJHU・勾)に、
とある。これはスィウニク州全体が同家領に含まれることを言うものであろうか。これに反証する一例を掲げれば、
一一一二三年グァヨ yヅォルのグラヅォル(の︼包
この地方におけるババク宙与同町)とエアチュ
とある如く、リバリトがスィウニグ州東部で知事に任命された時、ヴァヨツヅォル知事に任命されたハグパキャンi プロ
(ωRmロ
ロ
]
凶
)
、
ヘルヘル、 シャフル 不ツ
シャン家ヴァサグの子孫が健在である o同家はモ γゴ ル 人 侵 入 前 チ ャ フ ク 合
EE5 地方のシ?ハポング3EZ 匂OFJ
セルグンク
城を中心としてヴァヨツヅ茸ル南部、
タイグ、
北大文学部妃要
コ
・
仏
﹀
、
H
戸})叩
エ ゲ ゲ ア ツ ヅ ォ ル に 所 領 を 有 し た 。 オ ル ベ リ ャ ン 家 と 同 じ く モ ン ゴ ル 人 に 仕 え 、 ルーム・セルジュグ
モγゴル帝国の北西イラ γ支配とオルベリヤシ家の台頭
o
H
m
(
回o
Hノヤンに征服された全地域をスムバトに与える、というそンケの勅書にもかかわらず、また、バルグシ
朝 と の 戦 闘 、 バ グ ダ l ト作戦、 マヤファルーキーン包囲戦で功績を上げた。
アルスラン
ャトからブジニ、 ドヴィンまでを統治するというタルサイチの碑文にもかかわらず、 オルベリャン家の所領を東西に
オルベリャン家領の帰属
一回世紀後半所領がヴァヨツヅォルとヴォロトンに二分されることと関係があると察せられる。
分断する形でハグバキャン│プロシャン家領が存続し、 オ ル ベ リ ャ ン 家 は 所 領 の 一 円 的 集 積 を な す に は 至 ら な か っ た
のである。これは、
第二節
スムバト・オルベリャンの所領がグルジアや他の地方の課税台帳から除かれていたことは既に述べた。 アバガ即位
後の官職授受の記事(﹀h
HEUE5R同叫・∞Eロク2 53 に拠ると、グルジスターンはダヴィティ五世と諸侯サドゥ
・
℃
ン・アルツルニに与えられ、 インジュ l の管理はアルタジュ Hアカ(﹀r
go ﹀自問)に命じられた。これは、インジュ
H ハン国の地方区分に照らして見ると、大略﹁アブハ
lズ及びグルジスタ
H ハン国の行政上或いは徴税上の地方区分とオルベリャン家領及びスィウニク州との関係を論じよう。
ーであるオルベリャン家領が税制上、或いは所領統治権の面で、 グルジスターンには属さないことを意味しよう。
次にイル
バグラト朝グルジア王国の領土は、 イル
FEN4印。日TSロ)﹂に一致する(冨gg正日L ・580 ムスタウフィ19pfEE包 冨gg
丘
工
ーン州(︿口問百円 l山﹀
ρ自 己 巳 ﹀ は 、 こ の 境 界 に つ い て 公 立 子 58、
、 アルメニア(﹀口出h
E
)、 ルームと接する。
その境界はアルラ I ン
9
0
と あ る 。 次 に 大 ア ル メ ニ ア ( ﹀HBEq白血-ー次回宮るについて
J
グル アイスターン、 アIザルバ I イジ十 1
QEpu 叩・ニ吋)、
lp企 品 、 デ ィ ヤ l ルバグル、
そ の 境 界 は 小 ア ル メ ニ ア ( ﹀H
EEM昌 弘
アルラ l ンに接している。
(
F
E
- 剖・∞印)、
とある。また、 アルラ l ン及、ひムガ I ン 州 に つ い て o
z
p
w 咽・呂ω
、
﹀
、 アlザルパ l イジャ l ン
、 カスピ海に接する。
そ の 境 界 は ア ル メ ニ ア 、 シールヴァ l ン
とある。 アーザルパ lイジャ I ン 州 に つ い て は
その境界は、 イラ l ク・アジャ l ム、ム I ガ l ン 、 グ ル ジ ス タ ー ン 、 ア ル メ ニ ア 、 グ ル デ ィ ス タ ー ン 州 に 接 す る 。
とある o こ れ ら の 記 事 に 適 合 す る 境 界 線 を 引 く こ と は 不 可 能 で あ り 、 こ れ ら 四 州 の ほ ぼ 中 央 に 位 置 す る ス ィ ウ ニ グ 州
(ロ向宮口也、が含まれる州は以上の記事からは明らかにならない。
Hハ ン 国 の 区 分 は ア I ザルパ
l イジャ!ン
品rnE4白ロ)、ゴグトン(のomEロ)
さて、 スィウニグ州は南西にヴアスプラカン(︿虫℃日長田ロ)州のナフチャヴァン (Z
両地方と接する。 ア ル メ ニ ア 人 の 一 言 う ナ フ チ ャ ヴ ァ ン 、 ゴ グ ト ン に 当 る イ ル
目
岳
ロE4似 る で あ る 。 こ の ト ゥ マ ン は ナ フ チ ヴ ァ i ン、アジナ l ン(﹀官同ロ﹀
ロ
!
日 Z回
州 ナ フ チ ヴ ァ l ン ・ ト ク マ ン (58伽
w
r
m
H
H
g﹀、ァ Iザ Iド(﹀N
m仏)、ォルドヮ 1バ Iド(口止口問ゲ似仏)、マ l ク l (富山 WOMS)の五シャ
又はカ I ルハ l ネ(問問同-
(FmE
Hチ ャ イ 河 上 流 の 有 名 な 山 塞 で 、
カールハ Iネ は ア ル ツ ァ フ
(﹀刊誌件}凶)州すな
H
M
フル 宮町)からなり、 ナフチヴァ I ン・シャフルには、 アリンジャ l グ(﹀ロ旦同ρ)、 スI ルマ I リ l(ω 口同日間
、
﹀
ω
(
ロ)の如き堅固な要塞が存する (
FE4 580 ア リ ン ジ ャ グ 或 い は エ ル
タグ
マル(叶同m
)
、 ファガ I ン
rBh肖
・
叩
エリクムがエルディグズ朝のアタベグに与えられた領地
ンジャグは、 ア リ ン ジ ャ グ
の 一 つ で あ っ た 。 オ ル ド ク lパ lドは、 スィウニク州コサカン地方、
北大文学部紀要
9
1
、
ン
モγゴル帝国の北西イラ γ支配とオルベリヤソ家の台頭
H ハンの元帥
n
r田口 EFHNU 包ロ・) の岸辺におい
(
関
口
一w
一二二九年アブ l サイド
わちカラパグのずィザグ(口町田]同)、 でアジナ lγ に は 銅 山 が あ っ た の で カ ー ル ハ l ネと呼ばれる。 マークlはアラメ
河 右 岸 の ヴ ァ ス プ ラ カ ン 州 ア ル タ ズ (﹀同仲間岳地方の中心地である。
r
Hノ ヤ ン と 反 乱 軍 が 戦 っ た セ ヴ ァ ン 湖 に 近 い 戦 場 に つ い て
ところで、 イル札川 γ国の歴史書﹃ヴァッサlフ史﹄(︿怠も ・
23 には、
チョパン
ナ フ チ ヴ ァ l ン の 付 属 地 ( 或 い は 近 郊 ロ ミ 同E
)、 ギ ョ ク チ ェ ・ デ ン ギ ズ
て::・
Hウヴアイス史﹄に、
ジャラハル朝のシャイフリハサンは、
イランの統治権を掌握し、
Hベグ
一三三八年
と記す。ギョクチェ・デンギズすなわちセヴァン湖がナフチェヴァlンの付属地とされているのである。次にアフリ
wH
︼
・
戸
市
区
)
、
﹃シャ 4 フ
田口戸。。ロ
(4
シャル l ル (
ωrR口るとドヴィン(口三ロ)をナフチヴァ l ンに至るまでアグジ l (﹀E凶﹀のむすこハサン
(
E
E
]
円)
のむすこシャイフ日チョパン
﹁向日}内}戸
0
、
﹂
γ
H
ω H
国m
r間口)に、
(国富田口即日r﹀に、 カ ラ パ グ の 入 口 か ら グ ル ジ ス タ ー ン の 入 口 ま で を ア ミ I ル H スルガン (B
出 凶
(
u
r
ο
u凶 ロ ) ー ムl ガ I ンと
シャルヴァlンと前線をイキンジ
ω
(
S に︹与えた︺
バールlン(切削吋口口)の千戸を自分のむすこユ I スフシャl(Jへ口由民ωE
とある。 アラス河中流左岸は、①シャルlル、 ドヴィン、 ナフチ、ヴァ I ン 、 ② カ ラ パ グ の 入 口 よ り グ ル ジ ス タ ー ン の
同国)、
ウルッ、
'
:
:
1
.
入 口 ま で 、 す な わ ち カ ラ バ グ 地 方 、 ③ ム I ガI ンの三地域に区分されている。ドヴィン、 シャルlル、 ナフチ、ヴァl
ンが合せて統治上の一単位とみたされている。 スィウニグ州とアララト州シャルル、 アラツ (﹀E
イタがこの地域に属する。オルベリャン家のほぼ全所領はこの中に含まれる。
タ
9
2
の
次に、 ス一プパノス
い山
る必湾が
ステパメス
グ制刈の地翠を述べ
m
w
ペウノニク
A
吋 2
(切出︹山知山詞
のほぼ大部分もまたナ
ヴァヨツヅォ
ノラヴァンクの
の主教盛山ヤタテブとノラ
号
吋 i芯円﹀。オルベリャン家の
の特定家系による強占が進み、
の寄還をおこなったが、
によって独占したことぬ既に述べ
Yルベリャン
一
i 一一出世紀にスィウニグ地方は、 グルジス
スィウ
アルメニアに
、各地の
この地位はオルベリャン
とみなされてい
めている。このよう応、
っ。
由民間三塁H
オルベ手令ンハ川柳川 Hm甘
w口
印 ﹀は、
rpω 1ω
φ
た
。
アルメニアではなくナフチヴァ i ン
スィウニク燃をナアチャグァ γ
岱 J ナフチャヴァン
首都 (
8hqEWRm
同r
ターソ
ブチヴァ l ン地方に
広就任して
の蛮か
の諮係が強かっ
生じていたの勺ある
に留まった。
の縫代当主は、 タテッ、 ノラ﹄ワアング
スィウニグ
クはオルベリセン
vd
の
ステパ/ス、がスィウ
た
。
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グプ
﹀
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(山山}grHM
町
民
・
叩 mMM戸W H F - { )
m
出u
との聖なる
たテル日ステパノスか
ト ヲ コ ス マ あ る テ ル 日 コ ス タ ン デ 4ンのもと広赴き、
教テル誌サルギスハ仲間同日出血時間な与の死後、
プルメニアの
~t.
器
。
iHHH)
は
、
九O 年 ご ろ オ ル ベ ヲ ャ γ家 と ハ グ バ ル イ ャ ン ブ
Pシャン
、グァヨヅヅォルの大部分、 チャフ夕、 ナフチャヴァソの一一一地方からなっていた
MH阿倍NEH125w
凶知山
んの大部分、 ナブチャヴァン、 チ ャ フ ク 地 方 か ら な
ω
}
ハ
と記す。 ノラグァングの
のぜあお。
また、 ステバノス
設喜一
~;::
グ
い誌大主教一也そのものが私領魂される
の
モンゴル帝国の北西イラ γ支配とオルベリヤン家の台頭
家との聞に生じた一事件について次のように述べる。
ヴァサグのむすこで、自分の領地と村々をヴァヨッヅォルに持つプロシという名のある諸侯は、他の教会を横領
しようと欲した。
エルンジャクを与えられ、
オルベリャン家側にあるノラヴァング
コスタ γデ ィ ン に 替 っ た カ ト リ コ ス 日 ス テ パ ノ ス
これに対して、
彼 は カ ト リ コ ス 日 コ ス タ γデ ィ ン 二 世 の も と に 使 者 を つ か わ し て 偽 り の 申 告 を 行 い 、
ンゴル人の千戸長の力を借りて実力でこの地方を接収した。
の第六代主教サルギスと第五二代のタテフ主教ホヴハネスは、
エルンジ
エルンジャグ両地方を掌握することがで
F
A
F
3
はこれであろう。トマ・メツォベツィ
u
u・エA
・によると一五世紀初頭この地域には六千家族の人口があっ
た
。
(3﹀護雅夫訳﹁カルピ一一、ルブル夕、中央アジア蒙古旅行記﹂
一九六五年、三O 二│三O 六頁。
田
口
目
ブジェはアヴアグ・ザカリヤンの本拠であった。ペ O﹃
A﹁
(4)
9
4-
3355田FZE吉 田 ぷ 在 位 一 二 九O l 一 二 九 四 年 ) か ら プ ロ シ の 行 為 を 批 難 す る 教 書 を 得 て 勝 利 し 、
ナクチャ、ヴァン、
ヤ グ 地 方 は タ テ フ 主 教 座 に 属 す る こ と に な っ た 。 オ ル ベ リ ャ ン 家 は ノ ラ ヴ ア ン グ 、 タテフ両主教を通して、 ま た ス テ
パノスの大主教就任後は代々一族出身の大主教を通じて、
HS'ho田
町
、
お
町
、
ご
とNhoSF
現 在 も ω宮山田口と呼ばれる(ヘ曲、ミミh
きたのである。
註
VRF
串・︼
(
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三 O市
民
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国"58・
2
H
U・ωccu﹀叶勺国内﹀円)田昌・ののヲロ O回口5huo。
リパリトがイヴアネ・ザカリヤンに与えられたスィウニク城
︿
r白山、 Hロ
F;、封地に対して食日目へ3
( 1 )世襲地を指して a
O
a
v・
Z
H
w の語が用いられる。個々の諸侯(片手rr白 古田同 Oロ)
P
2rrE524P 沼田円。ロE
R
F司ロと呼
(2)可
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、同 04}
異称であり 325E一玄白ユ山口、ア印
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号、。三室内
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f 戸内間宮 Oロ問。roHHU32界 各 国 ? 戸 ︿ 居 室 内
ばれる。
の持つ支配権の総体は
モ
Hwmmgp ヲ品目品目参照。
のほぼ中間に存する名高い要塞であろう
司司・∞旬。 1∞Mωv。
(J
へO︿﹃田口口問団巾田口
(9) ガジャ I ル 朝 の 支 配 下 に こ の 地 方 は 、 ① ウ ル ツ ア ヅ オ ル 以
白 岡
田
口rmrJRENFww 一一一種の税の廃止に
a
z
- r}
関する一二九一年のガルニの碑文に拠ると、ここはアヴアグ
カ ラ パ グ H ハ γ領 、 ③ 両 ハ ン 領 に 挟 ま れ る ナ フ チ ヤ ヴ ア γ H
西 の イ エ レ ヴ ア ン H ハ ン 領 、 ② ハ ガ ル ( 国m
mmHロ ) 河 以 東 の
(5﹀E F R EぺJ ‘
・ ザ カ リ ヤ ン の 娘 ホ シ ヤ ク ( 同rgrとへ)の所領であった(国・
アン湖とアラス河の分水嶺であって、スィウニク州はゲガル
ハ ン 領 に 三 分 さ れ る 。 ナ フ チ ャ ヴ ア ン H ハン領、の北界はセヴ
目。E ・0門﹁﹀・同25開ozw可J(UDSHミh
N
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H品目・ミミ急増円、。ロ門日opおお・ 58。
凹uご同コ向
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H
(
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M印
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クニとソトクを除いた外は、ここに含まれる。サフアヴィl
朝 下 の 境 界 も ほ ぼ こ れ に 同 じ で あ る が 、 ナ フ チ ヤ ヴ ア γはチ
い
n6) 切急回出官
F-v-M-印一足払ロ臥ユg--v・Mglu呂 、 同 家 に 関 す る
へOJ可印刷司イ田口w閥
、N
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モノグラフにの・ J
白hpb白f
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S芯遺町内町(﹃アルメニア史に於ける
ミ ミ ミR
ミミヘF
ユ
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一 l レ・サナド (
(W}grF同吋lFω 竺 仏 ) ベ グ レ ル ベ ギ 領 に 属 す
悼
ハグパキヤ γ或F
いはプロシャン一族﹂})、臼 4
G-mJ o--FJN白r
ぐ
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]・ロwVH50-OBWH由主一 4
mrω同∞EロmFSM∞一 4
0
-・ロア
(
ω
)
ナタチヴアン・トヮマ γの 一 部 で あ る マ l p l 近 郊 の 聖 F
デオス 3 5 r 、
HdEmoC に は 一 三 世 紀 中 菜 、 主 教 座 が 設 置
γ のエルディグズー朝に仕
えていたエリグム一世は、カライスラ、チヤフ夕、エルンジ
された。この設立にはステパノス・オルベリヤンの力があっ
Z叩司 J
へ2rushpN!日記ω一河内出γ ﹀口付胤出回目印w 3 8 がある。
ヤ ク 及 び 示 フ チ ヤ ヴ ア ン 市 の 三 勺 の 門 尖 ロmruω5 を 与 え ら
関 係 が 予 想 さ れ よ う 。 ﹁ 阿S E E r苫口、﹀円gNF回目可﹁ω﹁ωロ
た 。 従 っ て 、 政 治 的 に も オ ル ベ リ ヤ γ家 と マ i p l 地 方 と の
( 7 )グルジアを逃れてアゼルバイジャ
口WHOMu 呂田)。これらに対する所
れ て い た (ω 丘三目玄白円片山口w
叶 参照。
ω
gsq
メニア人諾侯領とツォルツオル学派﹂﹀凶
内
ミ ミwZ0・ uF
S
ミ由市町ミミ品目
kfrZE巳)地
(日)一一二二一一年ヴアスグラカン州アルベルニ一n
︼同
号yrr田口ロペ山口口加。耳、吋由ロユ目。H U百
円ozhm(﹁アル F ズのアル
有権がその後どうなったかは不明である。
M55
S
ω 参照。スルマリは恐らくヲラス河右岸、現在
円以い山山口市町L
ミ
G4E白口町
γω 品
開 忠一司・呂田昌巾泊
(8UJ円
0
9
2
0
2
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回
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58﹀とイ ウずィル‘ Q凶仏印刷﹀
の地名でカウ千ズマン爪関節即日国
北六文学部組要
9
5
毛ソゴル帝国の北西イラソ支配とオルベリヤソ家の台頭
られる。
リl(回町四国ユ)が、オルベリヤン家領であったことが考え
ω
(
すな
わちイル日ハン国の地方区画では大アルメニア州ピルグ
同
三 SFHY ∞吋﹀とある。ヴアン湖北東岸のベルFリ、
に
﹂
将 達 、 敬 度 篤 信 の 諸 侯 中 の 諮 侯 ベ シ ケ γと イ ヴ ア ネ の 治 下
い
32SFHV¥吋C) に、﹁弓矢の民のス
ルFン H アプ I サ イ ド 、 諸 侯 中 の 諸 侯 ブ ル テ ル 及 び 我 等 ア ル
で記された写本奥付
近隣諸侯との関係と婚姻政策
メニア人のレヴォ γ(戸σ
d
q
oロ)王の治下に﹂とあり、一三四
Z ロ)村に近いイェレラン(開
九 年 同 地 方 イ ェ レ リ ン ( H Wユ
5・
2ロ)修道院で記された奥付に﹁勇敢なるアルメニプ人の武
一第三章
エリグムがモンゴル人の武力を背景に所領を拡張したことは、近隣の諸侯との乳牒の原因となった。オルベリャ γ
家はこれをどのように処理したかを、近隣諸侯家との通婚関係と合わせて論じよう。
アヴァグ・ザカリャンと妻ゴンツァがエリクムとスムバトに対して抱いた敵意は、 オルベリャン家の人々の良く知
Hアカに対するオルベ
るところであった(第一章参照)。 最初のカラコルム旅行から帰ったスムパトが、 勅書によって保証された地域を接
収したことは、 アヴァグの一族郎党とグルジアの貴顕の嫉妬をいっそうかきたてた。 アルグン
リャン家攻撃許可の請願は、その最も露骨なあらわれであった。彼等の請願は少からず効を奏した。 モンケに安堵さ
れた所領の一部が失われたので、 スムパトは再びカラコルムに赴いたのであった。
白日ロ同17向mHHAL
ロUHF-品中)、
ババヤン(切由。EF2 53 は、二度目のカラコルム旅行から帰ったスムパトが敵対派諸侯に報復し、それが一
・
℃
三五九l 一二六一年のグルジア反乱の原因となった、 と述べる。しかし、 ステパノスに拠ると、帰国したスムパトは
ω
(
- 96
伎は改めて自分に属する諾地方と諸城を統治した
D
しかし、彼等門敵対者︺との間に平和と友好を持とうとした
結果、彼は自分の意志によって、残余に対する家族と子孫の世襲地所有権を保証するために、諸城、諸地域の内
のいくつかを放棄した。
のである。 ステパノスはスムバトの敵対者について、 アヴアグとゴンツァ以外には氏名を記さないが、彼等はオルベ
リャン家の所領拡大の被害をこうむった諸侯、領主であるとみなして大過ないであろう o スムバトはモンケの勅書の
みを頼みとはせず、所領について近隣の諸侯に譲歩し、彼等の宥和を試みたのである。グルジアの反乱の時、 アヴア
札口付I
冨間三
、
ELF-g) は
グの未亡人で、 グ ル ジ ア 王 ダ ヴ ィ テ ィ 五 世 ラ シ ャ と 再 婚 し て い た ゴ ン ツ ァ は 、 嬰 児 デ ィ ミ ト リ と 共 に ブ ジ ニ 城 に 残 さ
uHF-HNh
向山口同ly向田片山江口
印J
。
目
同
ggロ22
ω
) 二人のむすこブルテルは所領支配権を与えられなかった
-9
7
れていた。母子は捕えられてオルドに連行された(回583Fado ステパノス
ω
(
を採り、また、 フラグの命令によ
スムパトはアヴァグ家の後見人(宮可EEH) であったので、他の諸侯達の勧め
って、 アヴァグの妻ゴンツァを海で殺し、彼自身、がアヴアグの所領を治めた。
は、反乱の原因
ヘレティ(国民主)の諾侯であった。他の多くの諸侯、特にアル
と述べる。すなわち、 ゴンツァの処分とアヴアグ遺領の統治を巡る重要問題が、他の諾侯と協議されている。主に従
(
切
HogFHugo-E30 グルジア年代記(回580fF88
って反乱に加わった者の中心はカルトリ(同信岳﹀、
メニア人諸侯はモンゴル軍に加わった
と結婚した
北大文学部紀要
ω
(
エリグム一世は、 モンゴル人の侵入前、 ウルツの領主マミコニヤン家のグリゴル・マンツネツィの娘タムカ
を王に課された重税のためであるとする。 スムパトの報復が二一五九年の反乱の原因となったとするのは妥当ではな
O
さて、
し
、
ぶ為、,
申込
スムパトの
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パノスは、
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問
530
彼女の名は多くの碑文の中に
ク州東岨揮で
﹀
につ
で
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れち細部い
アタパグの議談、号、ナ
︿
2
ロヤジ一家額と
ザアルメ
いだされるハ問。伯仲印・
γ合領有する諸倹で、 グ ル ジ ア
その一所領はスィウ
F
人の婦人と一結婚し
て、ウルツ法ここに含まれる。
応弟、タルサイチ
の妻について、すなわち自分の
r
には、
エリタム、 ステパノス、。ハ一ヅ
公司)の娘 ア ル ズ 日 ハ ト デ ソ
タルサイチの
ス dウ ニ タ の
みなして良いで
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z。⋮﹀は、
ムスヲムの開か
w
にもかか
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きな内はじの語霞ハサン
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グィ一プィ五
)はアルスを襲っ
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H ハト タ ン 公
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ラフの簿文︽州内omg
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と結婚したり ステパノスは下、
門
戸
この仔為に反対
の一娘を得た。
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京
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ったにもかかわらず%設は妻を自分
つた 折 、 そ の 時 ア ん ズ
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の娘であるアルス
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六年の年次の入つ
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内
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んだ。次に、
ていない。後の
ヲ ヨ ツ ヅ ォ ル よ り イ ェ レ ヴ ァ γ、 ア コ ザ に 至 る 地 域 で あ
るγゴル帝国の北関イラソ支配とオルベワヤ
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スムパト
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と 述一ベ、
彼女はやはノスト教義となっ
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と述べる。
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(
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ハ チ エ ン の 今 一 つ 有 力 な 諸 侯 で オ ル ベ リ ャ ン 一 家 領 の 北 東 に そ の 所 領 の 接 す る ド ピ ヤ γ家のグリゴ
彼は長女をハチエンの光輝ある諸侯、大グリゴルのむすこハサンのむすこグリゴルに嫁がせた。
と記す。すなわち、
ル に 長 女 を 与 え た o ハタグプシグ(同ES可 ︿S F J、の寄進碑文に、
H ハトゥンの娘、強大な諸侯グリゴルの妻であるアスパ
J 匂・ェヨ、彼女の名はアスパである。また次女についてステパノス
大諸侯タルサイチとミナ
守とあって(問。印窓口町田三回
d
ー詰9
の年代記には、
他 の 一 人 は 父 の 死 ︹ 一 二 九O 年 U 後 、 兄 弟 達 に よ っ て グ ル ジ ア 王 の 一 族 と 婚 約 が 行 わ れ 、 デ ィ ミ ト リ 主 の む す こ
)0
タルサイチのむすこ、すなわち自分の兄エリグムにはブルデル.、
(ωzrE、
gpF 自30
思
吋
ダザィティ王の弟マヌエル(呂田口53 のもとに嫁いだ。
向
お
ぬ
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gq口同じである (Fcm∞
H ハトヲン(宮間目白一同
ζ エァチュに嫁がせた。
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門戸ロ・同一円増-吋 #U
ハ 包ロH Y mWHi
と あ る 。 彼 女 の 名 は マ ム カ ン QFBWぜ る で あ っ た
主た、 ステパノス
ブグダの二子と一女があり、彼女を彼は、
北大文学部紀要
クを巡るグラツォル、 タ テ フ 両 主 教 座 聞 の 紛 争 が 終った数年後の己と引にある。
ス テ パ ノ ス が 年 代 記 を 脱 稿L た一一一九0 年 代 末 ま で に ハ グ バ キ ャ ン │ プ ロ シ ャ ン 家 と の 通 婚 が な さ れ た 。 エルンジャ
さ記す。ハグバト(出回m
r
r向。の碑文によると彼女の名ぬ“アマ
大諸侯。フロシのむずこハサンのむず
t
主
H サドヲン家と通婚した。
ω
(
エリクムの従兄弟リパリトの長子スムパトは
モンゴル帝国の北西イラソ支配とオルベリヤ γ家の台頭
また、
アタベグ
巳ロ寸冨RtpF 目
立
)
、
(ぐ田正田口) の 娘 で あ っ た
(問。由窓口何回耳目
・
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J
スムパト
HOU
g ロぇ・日以・ 53、役女の名はヴオフトグであった。
一一一二七年のへルヘルの寄進碑文によると (
問
。
由
同
国
ロ
の弟チェサルの妻ホリシャフはドピヤン家のヴァルダン
家と婚姻を取り結んだのである。
ハサン・ジャラリヤン、
ハグパキャン
Iプ ロ シ ャ ン
、またアタベギ(アタパク)職、 ア ヴ ァ グ 領 の 支 配 権 を 巡 っ て 競 争 す る 立 場 に あ っ た ア ル ツ ル ニ 家 、 更 に グ ル ジ ア 主
は明らかであろう。同家は所領の境界を接する諸侯家ドピヤン、
・
℃
こ れ ら の 実 例 は 一 三 世 紀 と 一 回 世 紀 初 頭 に 行 わ れ た 一 族 の 婚 姻 の 一 部 に 過 ぎ な い が 、 オルベリャ γ家 の 意 図 す る 所
。
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( 2 )彼女について、﹁・。回口巾口出国
2 0 1﹃白℃口同恒例由同
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g出国国国三国民間火号可回目、旬、ミミミ尽回
送
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き
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ニ噌。ーロα"55 があるが未見である。
オルベリャン家は所領に関して近隣諸侯に多少の譲歩を行うとともに、彼等の子女と通婚する政策を採ったのであ
る
。
註
ω
=
グ ル ジ ア 王 と オ ル ベ リ ヤ γ家
(1﹀パパヤン(切同月日白出国也市 4-v・ ﹀はアルズがモンゴル人で
あったとするが、その根拠は不明である。
第四章
-1
0
0-
句
カl
研﹀﹂
のよ毅領主権か
れる領主の
﹀に、
J ヲ 00
っても、組の初
にあったのであろ
ぃ。またステパノスはエ予グムが
(2)
の称
の弟タルサイチのグル
に見えるオルベリャン
スムバトの
スムパトが次第に自主祭舟を深めてザカヲヤン
たものとみなした。しか
は碑文、
の検討を行おう。
の矛盾する間関係は説明しない。この
w
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H
2
s
z一﹀、パパヤン
エレミヤン︿m
らも離脱し、自ら
ジア宝のアタベギ
の鍛々の政治的交渉に基いて、この
一ゴ一年のヅォルトハルブの碑文ハ同凶器窓口
g耳切
(22
ニ忠、
H H片岡H W H F
﹁一アルい
殺の子孫がヲパヲトの名に触れる
私ヲパ 2 トは神の御望みによって。
の数は少いが、
リパリトはイグァネ・ザカリヤンの家肢として、 スィウニタ郊における政治的経霊を歩み始め♂
手パリト自身が建立し
プルメニア暦六七
FZマ玄釦
とを述べてハ
ってどのような称号も冠せず、
を世襲した
ではなく単に
していたスムバト-オルベりャ
-1
0
1
とあって、どのような称号も付されていない。のみ
先の場合と
ヲパリトの
344ロ﹀を治めた。
父"の領地ハお2
﹂
WQG
?
と
二
ナフチェヴァンにあったフラグのオルドよりアブハズィアに
﹁パロ γ
のことが
や
W
Z務会 FEg、
が 、 グ ル ジ ア 年 代 記 に は ハM
と述べる。リパリトは、﹁イシュハン
一五八年グルジブ
エヲグムについてもその
さて、
ンに
北大文学部紀要
ペ
〉
ダヴィド・みノp ンが簡素な島角形で一/タベグ立アヴァグの領地に蒼くと、
オルベヲャン
と
?
の
う
、モリyd
コル帝国め北西イラン支配とオルベリヤ γ家の台頭
とある。当時グルジア宮廷からはオルベリャン家の所領、が、 ア ヴ ァ グ ・ ザ カ リ ヤ ン の 領 地 に 含 ま れ る も の と み な さ れ
r
65pに
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匂
J
ていたのであろう。メムバドがザカ H ヤ γ一家ゐ上級領主権から脱したのは、ゴシップを-殺し、それまマ彼女、が治めて
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一 7グの遺領を統治するよ白うに なe
?に以後であろう﹁(第)マ一一一 章参照 u。
いた7ず
v
さてこれら より一 O 年程早い一一二五一一年のヨシ予グナシグ(の
gEU可︿由口町民﹀、の碑、文'(民ggロ自己田
ζメムパト一壬ハ陰性 WRav ぬコ兄弟、諸侯中の諸侯タルサイチは:::。
g 口)﹂、
﹁諸侯(山田rwEロ)﹂、﹁大
r
一二主一年の年ー次が正しい γかどうかは'検討を一周するが、 スムパトのためにつアルカ午の'称号が用いられ てい
大リパリドのむす
ト
よ
﹂
あ
一
る
。
れらはスムパト生前のもの,ではないから、勿論自称で件以怠い。
一二七三年
スムバトが回分自身の行為応関して刻んだ碑文中-に
"i
o
:
i
ニ
るこ之比注意しな4 てはならない。 ヌムバトの名に冠されている称号は、﹁諸侯(宮
印 r
rEU ﹁諸侯中の諸侯会阻rFEE件丸山田町ESE、 ﹁王の如き諸侯(白井ぽ吉田﹃己ぺ UFrg﹀
﹂
、
諸俣︿B2 曲 目r
、
﹂
﹁主︿院長havL の六種である。彼を王主称する最も年次の早い一二五今一年のゴシヂヴテングドとノラヴテジクの碑文
に上るものを時ない。次花、
一
、
凪
品 、 前 者 は 先 に 引 用L た如く弟タルザイチが刻んだも-のであり、後若('間宮窓口B
E
EJ
W
H
Y
E
Sは
Hア ル カ の 弟 タ ル サ イ チ は i
s
-。
τ、両者共にスムバド白身
ζれ も タ ル サ イ チ の 土 地 寄 進 碑 文 で あ っ
-スムバト
ム﹂おる。
び
長﹂刻ませた。また主教一ス一アパノスの年代記門(出品。広田♂一同・ t
v 一でもト﹁スムパド主 の弟タルザイチ﹂と呼ばれる。 ζ
私、諸侯中の諸侯タルサイチは自分の兄"ヌ公パト玉の墓堂を建主した。
記させ、 一一ニセ五牛花見のために建立した墓堂 QZ?=gk、
窓
口 口
の年次が入る〆ラヴァンークのえムバドの棺、(牛肉 O印
、
同
子
方
・ 2 。)隠は、 タルサイヂが一﹁ヌムバド王 ιの名主称号ーを
g
及
、
﹀
O
ω
問。田仲間口町田口Z J H )
・
﹁諸侯
Q5rEロ﹀﹂(一二六五年ダティヴア
ミ V と称、するのみ-である。 ステパノスゐ牙、ルベリ十ンも伯父スムバトを ﹁一王の如き﹂
EP--
へい︾仲
は、汁諸⋮侯中の諸侯 三二六ナ年ノヲグァング
H
]
ンク何回︾伊丹戸︿R
田R
ω町r
形容するハ
asp-FHU・53 が一王とは呼んでい γない。
(3)
L
主呼ばれたのに対し、 彼 等 の 後 継 者 に は こ の よ う な 尊 厳 な 称 号 は 用
スー山バドの地位を一継いだ・タルザイずはも﹁王﹂を除き、 スムバトと同じ称号で呼ばれたが、﹁王の如き﹂については
自称していない。
久ムパトが、﹁王﹂ー、 タルザ千チが﹁主の如き
Hアルメニア王の王号と問、巳タガグォ
し
-t
O
S-
いちれなかった。 スムパドに対して用いられた至号、が、グルジア玉、 キリキア
、 主主呼ばれたことは、所領の内外に示 Lた実力と権威を表すものであろう。
﹀で怯鉱山い巳 L ろ
ル(令国的担当 OH
l
p
vロ同 冨日ppHHUES は、
では、実際巳両者、どのぷうな関係があったのであろうか。 ステパノス︿
ストムパトは彼に忠実院従い、 フラグ白川 γと他の高位の人々、更には皇帝の宮廷与において大い-に彼に奉仕した。
と記す。王は久ムバトの奉仕を喜び、
ダザキド、(
s
pB
内w 匂担当XRW の方でも彼を自分と同輩視し、実子同様に育てるように自分の年若いむすこディミト
。
リを彼の両腕に託Lた
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口
同 ly向田H
、
スハω包
己♂ロW5hr-mo) は
のである会広島4 5 $。すなおち、ゴ γツァの生んだグルジア王子、で、後にダヴィティを継いで王位に登るディミド
リの師待たる地位を得たのである。また、 ステバ
一フラグのスムパトに対一する信頼は、 スムバトの望みの者の生死を決することができる程であったので、ダヴィト
を廃位させようん﹂する多くの野心ある貴族門B2852 田U を滅Lた。万人が彼を恐れ、彼に注目した。
北大文学部犯要
と
モンゴル帝国の北西イラン支配とオルベリヤ γ家の台頭
ハ
5)
と述べる。このようなスムパトの奉仕に対し、 主 は 莫 大 な 下 賜 品 を 与 え て 彼 の 意 に 報 お う と 、 彼 を ト ピ リ ス ィ の 宮 廷
に召喚した。望みの口聞を述べよとの主の言葉に、
スムバトは彼の足下にひれ伏し、彼の前に身をかがめ、
ギオルギ三世によって発布されていた同家一族に対する呪逐状の廃棄を求めた。主はこれを許してその勅書を火中に
富良吾rF-E1580 両者の間
投じ、 スムパトには莫大な栄誉の品々を与え、 王家の栄服を手づから着せた(即日三 l
に君臣関係の存したことは明らかであろう。
(
ω 白山口付lyA[mHHt
ロ w口
wH
。。)は、
さて、 スムバトはグルジア王子ディミトリの師停の地位にあった。ダヴィティ王とスムパトは共に一二七二年に死
亡し、スムパトの所領支配権を得たのはタルサイチであった。 ステパノス
一二七二年グルジアの王位に即けるに至った。
ダヴィト主の死後、 タルサイチは自分の家から彼のむすこディミトリを去らせた。彼を彼の父の命令によって育
て上げ、多くの労苦の末、
と記し、ディミトリの即位にはタルサイチの功績が大であったことを主張する。しかし、新王のアタベギ職、 アミル
印丘町ど口・
lγ4[
回目ロ同
肝一)、
HOK
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﹀にタル
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スパサラリ職に就いたのはサドクン・アルツルニであって、 タルサイチは全く官職を得ていない。しかし、 サドゥン
ω
(
死後の一二八四年、 王はアルグン日ハンのオルドからの帰途、 アラス河中流左岸のシャルル
サイチを召喚し
名誉をもって彼をもてなし、栄服を与えた。多くの懇願の後、彼をアヴァグに割当ててあったアララット地方に
連れて行き、彼を主国のトピリスィとアニとカルスの聞の地域のアタパクになした。また、 むすこ達ダヴィティ
とマヌエルを彼の養育の世話に委ねた。
-1
0
4-
タルサイチは、 旧アヴァグ領の統治権、二王子の師停職、 ア タ ベ ギ ( ア タ パ グ ﹀ の 地 位 を 得 た の で あ る 。 ア ヴ ァ グ 遣
。CM) ので、この地域の統治権獲得は、師団侍就任とかかわるも
EaZロgrr出岳山田出回可OZR)0
は、﹁トピリスィとアニとカルの聞の地域のアタバク﹂を
(
国H082uF
札口同l呂田片F
付H
r 国W53
領は王子ダヴィティの采色とされていた
のである。 ステパノス
(6)
(
ア ル メ ニ ア の 国 のω
アタベク職(え与件
と言いかえる。タルサイチがグルジア王の家臣であったことも疑うことができない。
(︿同町﹃仲間口
m
c
二世の即位、
一二九O年 の タ ル サ イ チ の 死 亡 に よ
この時、再びオルベリャン家のグルジア国政における権力は強化されたが、 や が て 一 二 八 九 年 の デ ィ ミ ト リ の 刑 死
とフトルブカ・アルツルニの擁立したヴアブタンギ
り、その権力は再びアルツルニ家のものとなった。
スムパトとタルサイチはグルジア王に臣従したが、その関係にはこの時代に特殊な事情があった。 スムパトはイル
日ハンのオルドで王に奉仕したのであって、 グルジアの王宮においてではなかった。しかも所領支配権の継承、 ステ
パノスの大主教就任を巡る紛争等がグルジア主ではなく、 イ ル 日 ハ ン に よ っ て 裁 定 さ れ て い る の で あ る 。 オ ル ベ リ ヤ
ン家は王とイル日ハン両方に直属したのである。オルベリャン家の自立傾向とは、彼等が王権とイル日ハンの支配権
のどちらにより近いかの問題であった。これは、彼等が王権を介してモンゴル人支配を受け入れたのではなく、
三六年以降は独自に所領統治権を保全したことによるのであろう。
一二世紀以降、大アルメニアの領主層は、グルジア軍の援助によってムスリム政権を打倒し、グルジア王国の領土内
で事実上の自治を享受したが、 グルジア王とアルメニア人諸侯との連帯は政治面に限られた。 一三世紀初頭ザカリヤ
ン家とよって両教会の合同が企てられたが、聖職者層の反対にあって失敗した。ザカフカズに居住するアルメニア人
北大文学部紀要
-1
0
5-
モU
Y一ゴル一帝国り北西イラン支配とオルベリヤン家の台頭
は精神的にキリキ⋮ア日アルメニア王と結ばれ、その関係は写本奥付の記載にも影響じている。 ア ル メ ニ ア 語 写 本 奥 付
Hアルメ二ア王の名を記す全一
他の二点は、
﹁キリキ
O点を選ぶ主、その内八点は
(7)
は、写本筆写完成の一時の当該地域の聖俗の支配者の名を記すことが多い。 サ ン ジ ャ ン の 史 料 集 か ら 一 四 世 紀 久 ィ ウ ニ
グ地方芳一記された奥付の内、グルジア一王一或いはキリキア
Hアルメニア王の名のみを記し、
m君。ロ) 壬 、 グ ル ジ ア と 大 ア ル メ ニ ア の ギ オ ル ギ 王 の 統 治 年 間 ﹂ の 如 く
ハ
のr
﹁ ア ル メ ニ ア 人 の 主 で h'Pム の 統 治 年 間 ﹂ の よ う に キ リ キ ア
ア日アルメニアの一王座を取マった Vヴ オ ン
両 国 王 の 名 を 記 す 。 ま た 、 こ の 内 入 点 時 イ ル 日 ハ γ の 名 を 記 す 。 ま た 入 点 時 、 諸 侯 オ ル ベ リ ャ γ或 い は ハ グ バ キ ャ γ
J
処刑されたことが記される。
Hアカを通じ
これはスムバトの通報によって王の知る所となり、ジタルは
てフラグ日ハンにダヴィティの王の富と叛意を密告したが、
に敵意を持つ廷臣、シクル QFロるは、アルグン
(5) ﹃グルジア年代記﹄口回 E Z 2 w F 8 3ーにほ、ゴンツア王妃
自民同夕、さまお旬 QぬE R R ロミミ悼む送、 shN 志向、認。弐。2・
O
A
F
。
町
、
帆H
也
一
山
ゲ
ロ
寸
℃
・ M
H
M叫岨寸-HU?"
辺町出国国可唱曲 hw ︼
日。フロシャンの名を記す oeす な わ ち 、 之 れ ら の 奥 付 を 記 し た 一 四 世 紀 の 写 学 生 の 限 に は 、 ス ィ ウ ニ グ 地 方 応 対 す る グ
ルジア主の支配権は映一っていたいのである。
註
(hrH)
内
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︿l
﹀戸日目 (
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(1﹀の・、HJ何日umW5HHYO占
旬
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岡
田 p s g w 2 -go山町田晋一回国 "2]U・5
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9) グ ル ジ ア 玉 の 支 配 権 を 明 記 す る 典 型 的 な 例 は サ ナ ヒ ン
世﹀の治下に複写された﹂、とある色白EZPニ
ヂニヴ。
常勝、にしで強大、なバグラト王ハ五世﹀のむすこゲオルギ(七
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グルジア女王一ル九ダニがアブハジプに避難して国家機構が壊乱した
将に割りあて、各部将は担当一の地域の征服に当った。占領地の掌握は各部将の判断に委ねられ、彼等は或る諸侯から
状態で各地の諸侯が現地停戦をしてモンゴル軍一に降服守る形でおこなわれた。チョルマグンは予め占領地を塵下の部
チョル τグン
ア王権主の関係について簡単た分析を試みた。
述ぺた。また同家所領の範囲、 イル日ハン国の地方区画一であるヴヰラ l ヤト、 トヮマ一ン 伐の帰属、近隣諸侯、 グルジ
本稿では‘ オルベリャン家のスィウニク地方領有の経緯と所領、支配権を巡る動向を、 モ ン ゴ ル 人 と の 関 係 を 中 心 に
論
スィウエク州におけるオルベリ乍ン家とハグバキヤン
北大文学部組票
lプロシャン家の一一重支配体制、就中オルベリャン家の所領
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結
奪った所領を他の諸侯に与えた。ぷグラト朝の地方統治体制は、 モ ン ゴ ル 軍 の 占 領 政 策 に よ っ て 再 編 成 さ れ た の で あ
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エリグムがアルスラン日ノヤンに降服し、 ヴ ァ ヨ ツ ヅ ォ ル か ら ガ ル ニ 河 に 至 る 全 地 域 を 与 え ら れ た こ と で 大
モンゴル帝国の北西イラ γ支配とオルベリヤ γ家の台頭
支配は、
き く 変 更 さ れ た o これが同家隆盛の最初の契機となった。 ス ム パ ト の 二 度 に わ た る カ ラ コ ル ム 入 朝 は 、 最 初 の 機 会 に
H ハンとの密接な関係をもたらした。
得たものを一層拡大し、確実とした。 一二五一年の入朝の折、 ス ム パ ト は イ ン ジ ュ ー に 叙 さ れ た が 、 こ れ は 彼 に 不 輸
租街ピ、後にイル
ハサン・ジャラリヤン等の近隣諸侯と通婚し、彼等
一回世紀に
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ベシケン ハ
エリグムの後、 スムパト(一二四三?│一二七二)、 タルサイ
ドピヤン、
iプ ロ シ ャ ン 家 の 所 領 が 存 続 し た 。 オ ル ベ リ
彼 等 の 所 領 は 、 東 は ス ィ ウ ニ グ 州 ヴ ォ ロ ト ン 河 流 域 の バ グ ラ シ ャ パ ト よ り 、 西 は ア ラ ラ ト 州 フ ラ ス ダ γ河流域のイ
lプロシャン家を始め、
ェレヴァン、 カラス I河 流 域 の ア コ リ に 達 し た 。 こ の 間 に ハ グ パ キ ャ ン
ャン家の一一族はハグパキャン
との関係は概ね平穏を保った。 当主の地位の継承は、
チ(一二七二│一二九01 エリクム (一二九O l一三001 ブルテル(二ニOOl四0 年代末)、
年 代 末l 入0 年代ごろ﹀の順であった。碑文と写本奥付において一族の人々に与えられた称号に拠ると、
ば、所領の共同統治観が現われた。ベシケシの後、所領はヴォロトンとヴァヨツヅォルに分割された。ヴォロトンを
ベシケンの兄弟イヴァネの子スムパト、 ついでその子ベシケンが、 ヴアヨツヅォルをイヴァネの子グルゲン、 ついで
lトゥマンに
その子タルサイチが継承した。同家はタルサイチとスムパトの時カラコユンル部のために所領を追われ、 スィウ〆ニグ
の諸侯としては滅亡した。
オ ル ベ リ ャ ン 領 と ス ィ ウ ニ グ 州 は 、 恐 ら く イ ル 日 ハ ン 国 の ア lザルバ 1イジャ I ン州ナフチグァ I ン
属 し 、 パ グ ラ ト 朝 の 領 土 か ら 成 る グ ル ジ ス タ ー ン 州 か ら は 分 離 さ れ て い た 。 所 領 支 配 権 の 承 認 は 、 グルジア壬ではな
く、イル H ハンによって行われた。しかし、 スムバトとタルサイチの在位期間中には、 グ ル ジ ア 王 と の 関 係 は 密 で あ
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った。 スムパトは王子ディミトリ(後のディミトリ二世王)の師停となり、 タ ル サ イ チ は デ ィ ミ ト リ の 王 子 ダ グ ィ テ
一回世紀にはかかる密接な交渉は見出され
(後のダヴィティ六世王)とマヌエルの師停たるに加え、 アタベギの称号を得、 アララト地方を受封した。官職と
所領を通じて、 オルベリャン家はパグラト朝に結びついていたのである。
ず
、 アタベギの地位とアララト州は、 ジャケリ家に与えられた。当時オルベリャン家領で記された写本奥付は、
日ハンとキリキア王の名を記しながらグルジア王に触れず、 オ ル ベ リ ャ ン 家 が グ ル ジ ア 王 に 従 属 し て い な か っ た こ と
を示す。
一三世紀末より勢力を挽回し、
一回世紀初頭には一時的に両職を回復するに至った。また同世紀中葉ザカリ
さて、 オルベリャン家、 アルツルニ家の台頭のもとに、 アタベギ、 ア ミ ル ス パ サ ラ ル の 官 職 を 失 っ て い た ザ カ リ ヤ
ン家は、
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一三二四年ギオルギ光輝王の即位以後、最も権勢ある諸侯は、
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ヤ ン 家 の 封 臣 ア ム ベ ル ド の 領 主 、 パ チ ュ チ ャ ン 家 の グ ル ド (内日仏国間口r
た。更にグルジア王国全体に視野を拡大するならば、
王の外戚でアタベギ、 アミルスパサラリの二官職を併せて受領した、 西南グルジアのサムツへ
リ家であった。 モンゴル人政権下のグルジア王国諸俣の急激な台頭の政治史的意義の解明には、 オルベリャン家、
は、一一一一世紀に土地寄進
ある、と説明する。ステパノス・オルベリヤンによると、彼
会、修道院の運営は一族出身の高僧に委ねようとしたためで
侯の横領から安全な教会、修道院の名儀に書き換え、その教
が盛んであった理由を、諸侯が自己の領地を外来者や他の王
ルツルニ家に留まらずジャケリ家の動向を示す必要があるのであ勺
註
(1﹀ここでは税制、およびそれと深いつながりが見られる教会、
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修道院に対する土地寄進の問題には触れなかった。
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ルキ﹂は、税一般を表すが、﹁ディヴアニー﹂は国税としてヴ
モンゴル帝菌一の北西イラソ支配とオルベリヤソ家の台頭
れると王国の首都トピリスィに赴き、明君主の官街(丘唱曲ロ
国では一般的に聖職者は賦課を免除されていたが、イル H ハ
H ハン国の西南グルジ
白﹃日へロロ片山に行って総ての帳簿宇田君ぺ問。を読み、帳簿から
(2﹀ ジ ヤ ケ リ 家 に つ い て は 、 拙 稿 ﹁ イ ル
μ国 で ぬ キ リ 九 ト 教 の 僧 倍 巴 課 税 さ れ る 例 を 見 る 。
E43口国内平
EHE 守宅全若田口。
アルメニアの全修道院の名を削り、税 (
ア支配とサムツへ・アタベギ領(サアタパゴ﹀の成立﹂﹃史
の賦課から除いた。しかる後に大官街(国垣内凶間
朋﹄七号、がある。
のである。﹁ハ
23dgy に赴き帳簿一の記一載 をω 改変一し、百五十以上の修道マ
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