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デューイ『詩と哲学』(1891) 訳:下薗 勇磨 - Soka University Repository

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デューイ『詩と哲学』(1891) 訳:下薗 勇磨 - Soka University Repository
デューイ『詩と哲学』( 8 1)
(翻訳)
デューイ『詩と哲学』(1891)
訳:下薗 勇磨
〈解題・訳者〉
ここに訳出した『詩と哲学』(Poetry and Philosophy) は、デューイが 32 歳
のときの論文で、訳者(下薗)が思うにこの小論には、自らの哲学を出立せ
んとする青年デューイの情熱と問題意識が、初期独特の荒々しい文体で表現
されており、なおかつ、後期に至るデューイ哲学全体に脈打つ生命観と哲学
的発想のエッセンスが粗野なまま現れている。デューイ哲学の出立点には詩
がある。あるいは、デューイ哲学の根底には詩心がある。以下の訳を通じて
そうしたことが紹介できたらと思う。
( 出典:The Early Works of John Dewey 1882-1898, Vol. 3, pp.110-124, Southern
Illinois University Press, 1969)
******
詩の未来は計り知れない。どうしてか。詩のなかでこそ人類は、
自身の基盤 (stay) をますます確かなものにしていくのだから。対して、
信条なんてものは必ず揺れ動き、定説なんてものもいつかは問題視
されるのだし、どんなに素晴らしい伝統であろうと、見直す時期と
いうのが必ずやって来る。
これまで宗教的なものというのは、
現実 (the
fact) の中に息づいていたし、宗教的なものこそ現実だということで
しっかり力を持っていた。つまり、宗教的感情と現実世界との間に
軋轢など無かったのである。しかし今日、科学的事実が宗教を骨抜
(82)
創価大学人文論集 第 28 号
きにしてしまったのである。ところが一方、詩にとっては観念 (the
idea) が全てである。(中略)詩によって感情と観念とは結び付き、観
4
4 4 4
念は事実となる。(中略)だんだん人類が気付かされていくこと。そ
れは、我々は詩へと立ち返らなければならないということ。そうす
ることによってこそ、自分たちのための生命観が獲得でき、自らを
慰め、自らを支えることができる、ということである。詩情を伴わ
ないのなら、科学だって不完全なままだろう。これまで宗教や哲学
が担ってきたもの。そのほとんどの領域が詩へと交代していく。―
4 4 4 4
4 4 4 4 4
―マシュー・アーノルド
「揺れ動かない信条はない」。「問題視されない定説などない。全ての伝統が
見直しを余儀なくされる」。――こうしたマシュー・アーノルドの言葉は、カー
ライルの「我々の全遺産。それはただ、探求と問題提起のみ」という言葉を
補足している。神性 (authority) をも仕分けしようとする知性の時代にあって、
アーノルドが見たもの。それは、詩に傾倒しはじめた人たちの姿。慰めや支え、
ものの見方を詩に求めている姿である。どこにも矛盾がなく社会的にも健全。
そういう信仰というか規範といったものが見当たらない。価値的であると同
時に実証的、すなわち知性的には真理で感情的には価値的。そういう生命論
(theory of life) というのはもはやあり得ないんじゃないか。そうした不安に
苛まれ、神性さや教えを探し回る人々の姿。我々がよく言うのは、科学は実
証的だが思いやりや労りや人間味に欠け、本当に教えてもらいたいこと、す
なわち生命に関する事柄について何も教えてくれない、ということである。
かつて生命について教えてくれていた教義。そういうものは、アーノルドい
わく、真理 (truth) としての足場を失ってしまい、実証的なものとしては我々
にもはや訴えかけてこない。一方で、科学的真理 (the true) は我々を元気に
しないし、救いもしない。しかし、かつて我々の支えや規範だったものは、
もはや真 (true) とは言えない。こういう難しい状況にある。そうしたなか、
詩に人々が発見するもの。それは、広大な生命観 (a wide interpretation of
デューイ『詩と哲学』( 8 3)
life)、生命についての新しい観念、あるいは、生命が色鮮やかで多様な在り
方をすることへの優しい共感である。強烈な感情、広々とした共感性、新し
い観念、深淵な情感。そうしたものが詩の中では発見できる。他に何が必要
だろう。今日において、人が詩へと傾倒していくのはひどく自然なことだ。
我々が確信していくこと。それは、詩がだんだんと宗教や哲学の役割を担っ
ていくということである。ただ、ここで付け加えておきたいのは、各々の詩
が学問的に真かどうかなど不問だということである。「詩にとって、観念が
全てであり、それ以外は幻想にすぎない。詩においては、観念が事実となる」
とアーノルドは言う。
こうしたアーノルドの考えに対して、我々は何を言うべきだろうか。徹底
的に批判すべきだろうか。彼の明晰な洞察、優れた指摘にものともせず、貴
方はもともと視野が狭いのだ、などと言うべきだろうか。彼は、近代思想の
力のごく一部分しか見ていなかった、と言うべきだろうか。
ただ、批評家アーノルドの意見をそのまま鵜呑みにし、我々が神性という
のを頭の中で上手く信用できなくなってしまった現状に対して、あまり捕ら
われすぎる必要もないだろう。しかし、彼の大げさな表現には目をつぶった
としても、我々には近代思想に対する不安や疑念があることは認めてよいし、
そのことを問題提起することには価値がある。我々の自然本性 (nature) が
求めている神性や規範を、いったい我々はどこに見つけるべきなのか。哲学
や科学の領域では諦めるべきなのか。詩の領域に望むべきなのか。
これからも、詩という乗り物が、より深淵な思想、より高貴な感情をもた
らしてくれること。我々に役立つ本物の生命観を運んでくれること。そうし
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たことを望まない人はいないだろう。詩がずっとそうでありますように。た
だ今日の我々というのは、考えることが浅く、立ち振る舞いだけは着飾り、
感受性も安っぽく、物事を表相的にしかイメージできなくなっているので、
詩の喚起する高尚なものについてアーノルドがいくら語っても、我々はなか
なか共感できずにいる。我々はほとんど詩について省みるということがない
ので、人生の価値とは何か、とか、生命の永遠性とは何か、とか、そういう
(84)
創価大学人文論集 第 28 号
ことに対する感覚を深めていくことこそ詩の目的である、なんてことについ
て考えてもみなくなっている。だからこそ、次のような問いがますます真剣
に問われるべきだ。詩は如何にして生命の価値を表現しているのか。あるい
は如何にして生命の価値に力を与えるのか。悪質なもの、あるいは浅はかな
もの、快楽主義的なもの、人為的なものに詩が浸食されないためには、詩は
如何にあるべきか。詩が知的な何かに裏付けられていないとするならば、い
ま述べたような事柄が詩に本当に可能なのだろうか。普遍性にたいする実証
的な説明が詩には免除されるとしても、アーノルドが説く神学、哲学、生命
論といったものの真実味や力というのを、詩はどうやって保持していられる
のだろうか。そうした詩の内容を維持させているものとはいったい何か。私
にはただ一つの答えしかない。真理 (truth)、ただ真理だけがそれを可能に
している。ただ白状すると、イマジネーションや感情にとって真であるもの
が、知的には真と実証できないのはどうしてなのか、ここのところが私には
理解できていない。
学問というのは、「因果関係や有限と無限の存在についてあれこれ推論し
ているにすぎない」といった口調で、科学を貶すのは容易いし、哲学を笑う
のも簡単だ。ただ実際のところ、心や人間関係について我々が抱く身近な関
心事からすれば、両者ともかなり縁遠い存在なのも事実である。正しい生活
とは、いったいどういうものなのか。こうした究極的な問いに人が直面して
いるとき、両者とも滑稽なほど役に立たないように思われる。結局のところ、
科学は単なる知識にすぎないし、哲学も、単なる知への愛、すなわち我々の
知識的経験の意味を追求しているエッセイにすぎない、と言えなくもない。
しかし私は思うのだが、真理を知ろうとすること、経験の意味を掴もうとす
ること、これらが日常とかけ離れているはずがないし、生活や人生の目的と
いったことと無関係なはずがない。この私の確信を次のカーライルの言葉が
後押ししてくれる。「あらゆる精神的活動の出発点というか初期状況という
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のは、はっきり言って想い (belief) なんだ。イマジネーションが信じられて
4 4
いるからこそ、あらゆるものが利用できるのだし、その喜びだってあるんだ」。
デューイ『詩と哲学』( 8 5)
イマジネーションは想いを頼みにし、想いからイマジネーションが発生する。
つまり、イマジネーションが支えや見方や慰めを得るのは、全て想いがきっ
かけ (cue) なのだ。普遍的で高尚で深淵な価値。そこへの想いがあるかぎり、
名声目的によってイマジネーションが動かされることなどありえず、名誉欲
しさに生命を讃嘆することなどもない。経験の意味や価値に対する想い。こ
の想いを知性が見失うとき、詩は単なる嘘の幻想へと転落し、ペテンの作品
にすぎなくなってしまう。しかし本物の詩というのがあって、そういう詩は
真理をもたらし、その真理が人々の情熱を呼び起こし、その情熱の力が、灰
色に灰色を重ねたような世界を突き破ってしまう、ということがありうるは
ずだ。このことを私は十分想像できる。本物の詩というのは心の点火装置な
のであり、その火の向こうには、詩的な真理の世界が広がっている。
天文学者いわく、流れ星というのはもともと冷たい岩石で、凍てつくよう
な宇宙空間を浮遊しているのだが、地球の大気圏に飛び込むことで高熱溶解
し、すると、星屑のように燃え輝くのだという。ここに私は詩を感じる。無
機質で、お堅い感じの、無味乾燥な科学的事実や哲学的事実。そういうものも、
個人という大気圏に触れたり、あるいは各々の希望や恐怖という大気圏にぶ
つかったりと、そういう個々の目前の問題に接触することで光り輝く。科学
的に実証しうる事実。この土台が無いとしたら、我々の目に映るのは、単な
る幻影か灯火でしかない。そこは、沼のように淀んだ感傷的世界である。結
局のところ、科学と哲学は批判と実証でなければならない。であれば詩人は、
見る人 (seer 先見者 )、そして作る人 (maker 創造者 ) である。詩人の作った
ものが、内容を持ち、深さを持ち、彼らの見たものが真実を秘めているのだ
としたら、彼らがはっきりと示さなければならないもの、高みにまで完成さ
せなければならないこと、
それは、
生命の尊厳 (the meaning of the life) である。
彼らの仕事はここにある。無論、詩人とはいえ、周囲の状況から自由という
わけにはいかない。時代というのはあらゆる人の考えに影響を与える。それ
でも、詩人と単なる農夫とが同じ光景を目にしていたとして、詩人にだけ発
見できうることがある。それは、生命の躍動感や豊かさ。そして、そうした
(86)
創価大学人文論集 第 28 号
ものが絶えず神によって更新されているということ。しかもそうした価値が
発見される現場というのは、ごくありふれた人々の日常生活そのものなので
あり、そこ以外に生命の神秘などないということ。この真実以上のことを言
わんとする詩人がいるとしたら、彼の詩は単なる優雅な遊び、無様な仮装パー
ティーにすぎない。あるいは、もし詩人の生活自体がつまらないもので、空
虚で魅力に欠けたものだったのなら、詩も憂鬱で作り物っぽくて、単なる装
飾品でしかないだろうし、逆に、もし詩人の生活が無限の可能性に溢れてい
るのだとしたら、詩もまた快活でのびのびとしているだろう。彼の詩は喜び
であるだろう。彼の詩を通して、日々の生活が尊厳を帯びていく。生命の目
的が満たされていく。人生への情熱が駆り立てられていく。こうした力があ
る詩こそ、高貴な詩であり、我々の支えや癒しであると言えるだろう。
更に述べるのなら、生命が発見される地平というのは、何らかの広大なる
生命論に基づいているということだ。あるいは、何らかの知的な生命観に基
づいて生命は発見されるということだ。詩人が捉えようとする生命内容。そ
れは、もともと自然のままというわけではない。詩人が生命内容に直面した
とき、すでに生命は意味と解釈のかたまりなのであって、それらの既成内容
を無視することなど詩人にもできない。良くも悪くも、思想の歴史とは生命
解釈の歴史だったのであり、その成果が詩人たちの出立点の道具となるので
ある。学者や哲学者の仕事。彼らの学問的成果。それらをシンプルに用いる
のが詩人たちであると言える。したがって、ある時代の哲学が唯物論的で機
械的だった場合、その時代の詩も人為的で詰まらないものになってしまう場
合がある。その時代の生命論を担っているところの思想。それを乗り越える
ことに詩人が成功したとするなら、彼は、彼以前の時代が宿すところの、よ
り壮大で自由な観念群に立ち還り、そこから湧き出てきた本能や欲求に忠実
だったからである。ある時代の観念群において、それらが、何らかの神的秩
序や荘厳な空気を醸し出しているのならば、あるいは、尊厳を帯びた実在を
発見しているのならば、それらの観念群に対し、我々は結果として詩を感じ
るだろう。ホメロス、ダンテ、シェイクスピアの詩がそうである。逆にもし、
デューイ『詩と哲学』( 8 7)
ある時代の哲学が不可知論的であったり、生命を軽蔑的に映すようであれば、
そうした当時の詩情がその哲学に漂っているのだろう。
こうして我々は出発点に帰ってくる。詩人はその時代の考え方から滋養を
汲み上げる。そう考えられるとすれば、今日の詩が感じ取っている雰囲気、
それは、いわゆる不可知論主義 (agnosticism) に違いない。この時代的雰囲
気に突き動かされ、今日の詩人たちは詩を生み出しているように思われる。
実際にそうだろうか。またそうだったとして、この不可知論主義、懐疑主
義、厭世主義に向かわせているものとはいったい何なのか。
ここで私は、近年登場した二人の詩人を取り上げたい。一人は先のアーノ
ルド氏。彼は詩人であると同時に批評家でもある。もう一人はロバート・ブ
ラウニング氏である。両者とも深みのある一流詩人であるが、その彼らが今
日的な哲学からどのような影響を受け、自らの立場をどのように築いている
のか。また我々は、彼らからどのような生命観を学び取ることができるのだ
ろうか。
詩人アーノルドと批評家アーノルド。両者はほぼ同じ内容を持つ。散文的
な彼の物語も、情緒的な彼の詩も、内容的には同じことを言っている。例え
ば次の詩。――
二つの世界。その狭間で僕らは途方に暮れているのだ。一方は死。
もう一方はというと、無力で生まれ来されられたこの現実。
どちらにも腰を落ち着けられそうにない。
他の人たちと同様、僕は地球の上に突っ立って、
ただ死ぬのを待っているだけ。
あるいは次の散文。――
信仰という海は、
昔はそれはそれは雄大で、キラキラと砂浜を取り囲み、
(88)
創価大学人文論集 第 28 号
まるでフリルの帯飾りみたいだった。
それが今、僕に聞こえてくるのは、
ただただ感傷的な、遠い、引き潮の波音。
アーノルド作品の近代的特徴というのは、感傷的な美しさであり、それ
は喪失感覚の嘆きとなって歌われている。彼特有の悲愴的で回想的なきらめ
きは、古き信仰と古き理念への想いから出発している。春のような喜びはど
こかに落っことしてしまい、今はあの頃の思い出だけを抱きしめているのみ。
新しい喜び、新しい信仰の夜明けなんてものは、おぼろげな形すら見当たら
ず、ただただ絶望することしかできない。
アーノルドの詩句から漂う哀惜。その出所はというと、彼の感じ取った
人間内部の二種類の乖離 (isolation)、すなわち自然からの乖離と人間同士
(fellow-man) の乖離に由来するといえる。身近な自然本性 (the dear nature)
による一体感 (oneness)。それを人はもはや信じれなくなっていて、人間を
共同体として結束せしむる共通精神 (a common spirit) の感覚などどこかへ
消え失せてしまったし、人と自然との共通目的 (a common purpose) といっ
た感覚もまたどこかへ失くしてしまったのだ、と彼は言っているのである。
神性さを失った自然 (Nature) は、人間味もまた失ったのだ。懐かしき信仰
はかつて、一つの観念ないし一つの充実感によって人と自然とを結合させて
いたのだが、そんなものはもはやどこにもなく、今やその代わりとして、乖
離の感覚だけが意識されている。とはいえ今もなお、自然とのコンパニオン
シップ (companionship 交流関係 ) という素敵なものがあるにはあるのだが、
その根底には、乗り越えられない壁が認められる。――
君は芸術だった。この世界は芸術だけだったんだ。
かつてはそうだったし、そうあるべきなのに。
そうじゃないと、みんな、
君に触れても物事を一つに結びつけられやしない。
デューイ『詩と哲学』( 8 9)
海と雲、夜と昼とを、
秋の侘びしさと春の喜びを。
自然とのコンパニオンシップ。その実態は根無し草である。そこには人
間側にしか由来がなく、自然側からすれば、人間側の要求に喜んで答えるべ
き理由がどこにもない。人は自然に立ち還ることによって癒され元気になる。
しかし根本的には、自然が自然で我が道を行くように、人も人で我が道を行
くしかない。たとえ自然界に元気をもらい、癒されたとしても、人は自然と
同様、自己完結的 (self-poised) な世界に住み、自己を越えたもの全てに対し
て無頓着、無感覚だろう。自然とのコンパニオンシップというのはもはや、
世界の中核に根差してはいない。もはや、全体としての生命 (a single life)
の現れではないのである。
自然との精神的交流から隔絶された人間。彼は、それならと、人間どうし
のフェローシップ (fellowship 仲間関係 ) に傾倒するかもしれない。しかし
ここでもまた乖離が発見される。――
流木材のように、ぶつかっては離れ、
果てしなき海面に漂う。
人生という海に漂いながら、
人は人と出会い、出会っては別れ、また出会っては別れ。
アーノルドを読むとき気付くこと。それは、彼が自発的に用いる特徴的な
メタファーのほとんどが、海ないし海に関するものだということである。こ
こに引用する彼の詩句は、全て同じインスピレーションを持ち、同じ物語を
語っている。海に点在する島々は、海によって隔離されており、しかもその
海だけが島々の全てで共有されているものなのである。このことに類似して、
人々というのも、生活 ( life 人生 ) によってそれぞれ隔離されつつ、しかも
その生活世界だけをみなで共有しているのである。人々の間を満たすもの。
(90)
創価大学人文論集 第 28 号
それは、
底深き、塩辛い海。
そう。人生の海の上で、僕らはそれぞれ島となり、
島の間を海峡が、波音轟かせ、声を遮る。
数百万人の人間がみな、それぞれ一人ぼっちの島で暮らしている。
ただ私は、これらの詩句のどの行にもそれほど重苦しさを感じない。彼の
歴史読本「オーベルマンよ、再び」(Obermann Once More) から受け取れる
ような、生命乖離に対する福音臭い重苦しさはやってこない。ただ、そこで
の悲しい雰囲気は、キリスト教への信仰心喪失を宣言して頂点に達する。か
つて、人間生命の言葉へと達した大陸。その大陸が、――
ああ、かの静寂神聖だった大陸が、
いまや太陽と不毛な石ころだけとなり、
壁は崩れ、砂地は焼けるように熱く、
今はただ一言、こんな言葉だけが聞こえてくる。
それはダビデの口から漏れてくる言葉で、
「これが真実。生きるということだ。
同胞の心 ( brother’s soul) を誰もが守れなかったのだ。
いまや他人の内面なんて誰が想像できるだろう。
孤独、自己完結、世俗的急進的人類。
彼らは労働者には違いない。
パレスティナ由来の終末論的な言葉が聞こえてくるのは、人類全体の悲
しみと喜びに同化したアーノルド自身からではなく、ダビデからであった。
キリスト教的な人類愛、争い事、運命というものが、個人間の乖離と衝突と
いう、古くからの成り行きを導いてしまったのである。
デューイ『詩と哲学』( 9 1)
兄弟愛の心を誰もが守れなかったのだ。
いまや他人の内面なんて誰が想像できるだろう。
これが私の受け取った、アーノルドの詩からの最終的なメッセージ、生
命観である。むしろ彼の詩全体を貫く基調だと言っていい。この最終的な詩
句が物語るもの。それは、一種の弱さであり絶望である。しかし、これとは
対称的に、彼が我々に託す哲学の方は、一種の企みであり奮闘であり、しか
もこの哲学は、悲観から生じているはずなのにもかかわらず、ほとんど楽天
的とも言える企みなのである。人々がそれぞれに乖離しているのならば、そ
の乖離状態のなかでこそ、彼は彼自身を発見するだろう。この発見において、
彼は彼だけの人生を生きる。そうしたなかで、あらゆる苦悩が消えていく。
自然との本質的交流ができない人間。しかし彼は、なおも自然に随行し、彼
女の道をなぞることはできる。自然が活動し続けるのならば、
人は自己自身によって規律し、作為無くあれ。
神のつくりし他の被造物がそうであるように。
自然が備える自己十全的なエネルギー。これを人は摸倣すべきなのだ。
乖離は自己信頼 (self-dependence) へと変わる。隔離されているということ
が、逆に人を自己自身へと立ち還らせ、彼自身の内的な運命、内的な法則へ
の意識を深めてくれる。
「人間の若さ」( Youth of Man) という詩の言葉たちは、
彼の詩風から最もかけ離れており、私が思うに、彼の哲学的な生命観が要約
されている。――
沈みこめ。君の若さ、魂のなかへ。
求めろ。自然本性 (nature) の深淵を。
善 (the good) を回復せよ。それは君自身の深みに潜んでいる。
(92)
創価大学人文論集 第 28 号
これが、孤独な生命が帰結するところである。悲嘆やメランコリーが最
終的な結論ではない。自然本性に従い、君の道を歩め。最大の関心事は人間
である。君の孤独を慰めるため、自然本性を探求せよ。本当に人は、他人の
心を感じられないほど無能だろうか。彼自身の深みにおいてそう問うとき、
彼の全てが善なるものを徐々に回復させていく。
このメッセージと、詩が哲学や神学に取って代わるというアーノルドの見
解。両者はどのような関係にあるのだろうか。あるいはこのメッセージと、
我々の見解、すなわち、詩的生命観と哲学的記述とは目的において同じ方向
を向いていなければならないという見解とは、いったいどのような関係にあ
るのか。アーノルドの先のメッセージを人が各々どのように理解しうるのか、
私には分からないけれども、その主意ないし趣旨というのは、かの内省的な
哲学的生命観――世界的なモラリスト学派であるストア派によって示された
それ――と同じものであるとは感じない。アーノルドの文体の器用さ、繊細
さ、平易さは、ウェルギリウス、アイスキュロス、ホメロスの影響を物語っ
ていて、同様に、彼の発想や主意が、マルクス・アウレリウス、エピクテトス、
カントから来ているのは間違いない。無論、そうだからと言って、アーノル
ドは『自省録』や『実践理性批判』の内容を詩にしただけだと言っているの
ではないし、彼がものすごくカントを研究し、そこから得たものに引っ張ら
れているとも想像していない。ただ広い意味で言えば、ストア派とカントと
マシュー・アーノルドの発想は同じ土壌から生まれているといえる。三者と
も個人 (the individual ) という概念が共通しており、その個人は自然と人間
同士との共同体 (real communion) から閉ざされているものの、しかし自己
の内面に普遍的な原理 (a universal principle) がはたらいているのである。
君の心、その孤立した心というのは、
良心の声 (remorse 罪悪感 ) なしにありえない。
その声を聞いた瞬間、僻地の壁を突き抜けて、
デューイ『詩と哲学』( 9 3)
情熱たちの国へと到達し、
かと思うと、また元の孤独に帰っていく。
この文章には、エピクテトスの趣旨、カントの傾向と同じものがはっき
り現れている。私が言いたいのは細かな類似ではない。根底に流れる精神、
生命へ向かう姿勢において、みな共通しているということである。世界ない
し社会から抜け出た個人が、自己自身へ向かって自己自身の内へ回帰し、秘
められていた新しい力、新しい慰めの源流を発見する。これが全員に共通す
る生命観である。このような生命観によって、詩は喜びとなり、慰めとなり、
支柱となる。しかし、それは如何にして可能なのだろうか。まだここには理
論的な正当性が存在しない。詩人は生命を観念として抽出し、真実味を持た
せ、彼の詩のなかにおいては、その生命観念は事実となる。こうした蒸留作
業を可能にする詩人の能力とはいったい何なのか。同じ観念が哲学者の手で
扱われると、実証できず、信用に値せず、ドグマとなって信条を揺るがした
り、伝統を破壊したりするのはどうしてなのか。私が確信せざるをえないこ
と。それは、詩人のメッセージが深い人間性を示しているとしたら、彼の観
念がそれ相応の深い人間性を備えているからである、ということ、そして、
そうした観念というのは、必ずや知的に実証できるに違いなく、何らかの学
問的な知識体系において、あるいは哲学的な経験的議論において、それらの
観念は真と実証されるに違いない、ということである。
ここでしかし、アーノルドの生命観が部分的なものだとしたらどうだろう。
経験の本質についてのより十全な説明、あるいは、より深くて大胆な知への
愛、そういったものが、あらゆる乖離の底に何らかの交流を発見したとしら
どうだろう。ある生命の哲学 (the philosophy of life) が、アーノルド氏の生
命観が制限的であることを暴き、彼の詩の限界を明らかにしたらどうだろう。
こうした考えが私の頭に浮かんでくるのは、アーノルド氏の高潔な詩を、ロ
バート・ブラウニングの詩と引き比べてみたときである。
前者が、澄んだ冷たい風のような雰囲気なのに対し、後者は、熱気ある空
(94)
創価大学人文論集 第 28 号
気に満ち、その空気感は、我々の住む世界を丸ごと包み抱え込んでしまうよ
うな雰囲気、まるで、恐怖感なんかどっかへ逃げ去っていってしまいそうな
ほどに愛に満ちた雰囲気がある。あるいは、前者の生命観が青白いのに対し、
後者は、多様な暖かさを持っている。前者が、ほとんど縁遠い学術的な共感
性を語るのに対し、後者は、情熱的で人間的な共感性を表現する。アーノル
ドが憂いのある哀惜を見る箇所で、ブラウニングには意気揚々とした表現が
見られる。アーノルドなら、落ち着いたメランコリーを吐露する場面で、ブ
ラウニングは強烈で爽快な喜びの物語を読み取る。アーノルドが、物静かで
自己完結的な断念と企みを歌うのなら、ブラウニングからは、多勢豊満な生
命のトランペットが聞こえ出す。アーノルドの立つ場所は何もない砂浜で、
広大な海に対峙し、「人間の悲哀が濁りつつ干満している」のをただただ眺
めるのみで、そこから聞こえてくるのは、信仰心が去っていくメランコリー
な波音である。一方、ブラウニングが出立するところは、我々が生まれ住む
大地、日々の我々のここである。――
かがめってかい? キザな気持ちなんてむしり取ってやる。
立ち上がって見てみろって? 全て青いじゃないか。
精力的で多勢豊富で意気揚々とした楽観主義。これがブラウニングである。
――
なんてグッドなんだ。人間の生活、生きているということ、ただそれ
だけのことが。
何をするにも不足なし。
心も魂も感覚も、全て永遠の喜び。
軽快な信仰心。それがブラウニングの態度である。――
デューイ『詩と哲学』( 9 5)
神様は神様の国にいて、
地上は丸ごとオッケー (all’s right)。
こうしたブラウニングの源とは何なのか。彼の態度にはどのような神性
がはたらいているのか。彼が生命に対して用いた観念。彼に生命を論じさせ
たり解釈させたりを可能にした観念。そうした彼の観念を追求してくときに
のみ、我々は、彼の卓越した情熱、喜び、共感性の秘密を獲得することがで
きる。この小論では、ブラウニングの生命概念の意義を十分に表出するとこ
ろまではいけない。ただ、いくら不十分でも指摘できることは、ブラウニン
グが自覚し、物語っていることというのは、人間は自然本性から分断されて
などいないし、人間同士も乖離などしていないということである。さらに詳
述不要なことは、彼の想いについてであり、彼の詩句の豊かさ、強烈さ、鳴
りやまない充実感、情熱の健全さの根底には、世界は人間によって創られ、
人は人によって創られる、というブラウニングの認識がある、ということで
ある。――
僕らからすれば、この世界に汚点なんてない。
空白もない。世界とは強烈なものであり、価値 (good) である。
これがブラウニングの基本的な口調である。
この魂も、
この体も、そしてこの大地も、
内に全体性 (the whole) ってやつを収めてるんだ。
まず地球は材料 (stuff ) であって、
それ以上でもそれ以下でもなく、
人の魂にとって十全な住み家で、他に必要なものなんてない。
(96)
創価大学人文論集 第 28 号
僕らそれぞれが世界を様々に創り上げる。
感じること、知ることは全て世界についてのことで、それで、
何かしらの兆しが現れようとするとき、それは、
魂が姿を現そうとしているときなんだ。
これらの詩句によって、我々はブラウニングの生命観の大要を得る。すな
わち、大地は人に従属しているということ。みなに共通しているところの自
己 (a common self 共通自己 ) に従属しているということである。ここに表
れているものこそ、まさしく、アーノルドには明らかに無かったものであ
り、そして、ブラウニングには思いっきり現れているものであって、それ
が具体的に意味しているものとは、共通理念 (a common idea)、共通目的 (a
common purpose) なのであり、それは、自然の内と人間の内とに共通して
いるものである。世界の在り方に苦悩しつつ、それでも成長していくために
は、ただただ自然本性を見つめているだけとか、自然本性の自己完結的で自
己充足的な強靭さを発見するだけではダメなのだ。自然本性が瞬間瞬間に生
み出していく生命律動 (every pulse of life)。このリズムのなかで自分もまた
生きているということ。自然本性が生み出していくその都度の出来事によっ
て、自分が今取り組んでいる仕事もどこかしら進展するということ。ふと何
かに惹かれたとき、その何かの中には、自分を成長させてくれるものが潜ん
でいるということ。これらのことに気付き、その確信を強めていくことこそ、
人にとって大事なことなのだ。ブラウニングに気付かされること。それは、
彼が「ラビ・ベン・エズラ」(Rabbi Ben Ezra) のなかで歌うように、自然本性、
すなわち大地の生命 (the earthly life)、いわば「形作らんとする世界のダンス」
というのは、まさに有機組織として、魂が形作られていこうとしている状態、
精神が創られていこうとしている状態なのであり、あるいは陶芸家が「究極
的な天上の器」を粘土で陶冶せんとするときの原動力なのだ、ということで
ある。人生の意義とは「この器を使うこと」だと人は気付かされるのである。
デューイ『詩と哲学』( 9 7)
お祝いのテーブル。ランプの明かり。トランペットの曲。
新鮮なワインが泡立ち注がれ、
主人の口はずっと喋っている。――
以上のことに人は気付かされる。そして、なぜブラウニングの歌は一種
の歓喜であり勝利なのかを理解するだろう。人と人とを繋ぐブラウニングの
関係概念。そこから更に考えてみたいことは、彼が生命と対峙するときに、
乖離ではなく、共同関係、社会貢献、愛といったものをどのようにして発見
するのか。とくに共同関係と愛について考えてみたい。
生命と生命とがぶつかり合う世界において、ブラウニングが発見した我々
の人生に関する秘密。その秘密を暴く手掛かり。それについて話すことは、
彼の詩を一つ一つ要約することに繋がるだろう。ブラウニングを少しだけ読
んでも明らかなこと。それは、彼の考える愛というのは、単なるアクシデン
トではないし、人生の旅でふと遭遇するものでもなくて、愛とは、人生とい
う道そのものであると同時にその目的でもある、ということである。全存在
の根底には、
力と美があり、世界中が
強力な愛で絡まっている。
愛はほどけることなく、あちこちに張り巡らされ、
あらゆるものの内と外を満たしている。
我々は再び先の問いヘと戻ってくる。ブラウニングの情熱と感覚はますま
す勢いづき、視野は広がっていき、人間同士の繋がりもますます深まってゆ
く。こうした拡大運動の全てが、彼の観念から生み出されており、それらの
観念は彼の生命観に由来している。そこで問題なのは、それらははたして真
といえるのだろうか、ということである。実証できるのだろうか、というこ
(98)
創価大学人文論集 第 28 号
とである。彼の言っていることは、客観性に根差さない戯言であり、単なる
空想爆発じゃないのだろうか。あるいは、イマジネーションからの啓示、別
言すればインサイトなのだろうか。ブラウニングの詩に中身と形とを与えて
いる諸観念。それらが彼個人の空想による作り話にすぎないのだとしたら、
その世界を客観的に持続させる力が見当たらないはずなのにもかかわらず、
我々にこれほどの注目を強制させるものとはいったい何だというのだろう
か。ブラウニングの観念が真理として健全なものでなく、単なる空想であり
単なる感情なのだとしたら、(乱暴な言い方になるけれど)気狂い脳ミソの
陶酔以外のなにものでもないはずじゃないか。
アーノルド氏のメッセージが我々に対して、何らかの深さと影響力を持っ
ているのであれば、彼のメッセージが何らかのリアリティを持ってこちらに
伝わって来ているわけである。彼のメッセージに我々も共有できる内容があ
るのであれば、アーノルド作品の表面的な青白い学者風の雰囲気はさておき、
彼のメッセージ内容が、彼に意識されている世界をも越えて、彼の考える世
界よりももっと客観的でもっと人間的な世界へと到達しており、そこから
我々に向かって言葉が運ばれて来ているのだ、としか言いようがない。アー
ノルドも他の批評家も全く見落としていることなのだが、詩が人の心にいつ
までも残り、人の心を慰め続けるのであれば、その偉大な詩の力こそが、ま
さに、そうした詩が真理であることの根拠であり、何らかのリアリティを表
現していることを意味しているのである。詩および芸術全般に備わる説得力
(the importance) と持続性 (the endurance)。これが詩のリアリティの在りか
である。我々は至る所でリアリズムという言葉を耳にする。リアリズムは我々
から拒否できるかもしれないが、リアリティーは我々から拒否できるもので
はない。ここでまた我々はロバート・ブラウニングに戻る。――
真理について。真理はいわば黄金 (gold) で、それらの全ては、
まず僕の空想のなかで発見されたあと、定着せんとはたらきはじめる。
この黄金がある場所。そこは一番奥の、煌めくような自由の中だ。
デューイ『詩と哲学』( 9 9)
日常生活における惰性生活と表相的生活の繰り返しのなかにあって、詩の
閃光が我々を我々たる所以 (home) に立ち還らせ、ここは黄金なんだと気付
かせてくれる。つまり黄金というのは、我々が日々に実存しているというこ
と (our every-day existence)、日々の本質 (heart) ないし核心 (core) が黄金
なのである。詩が黄金としての日々に立ち還らせる。この黄金の力が詩を通
して我々を支え、黄金への共感が勇気になるのである。繰り返しになるが、
いまや科学と哲学は、形式と方法において技術的とか遠隔的 (remote 直接的
には非実用的 ) とかの違いはあるけれども、どちらも、たった一つの同一精
神 (the one selfsame spirit) に属する動的作品 (workings) なのであって、同
じ世界の動的コミュニティー (communing) の中に位置しているのである。
確かに役割においてそれぞれ違いはある。ただ、何らかの価値 (advantage)
が直接的で普遍的な性質を持ち、豊かさと情熱を帯びているのなら、そのよ
うな価値は詩の領域に位置づけてよいし、そうすると、方法的で規範的な価
値は、科学や哲学の領域に位置づけられてよい。
すると、今日において学問と芸術とが隔離され、生活が散文的なものと詩
的なものとに分けられているのは、精神にとって不自然な分離だということ
になる。この分離の理由というのは、生命には哲学では捉えられない輝きと
いうのがあるからではなくて、あるいは、詩では導出できない実証的真理が
あるということでもない。学問と芸術とが分離している理由というのは、こ
こ数世紀のうちで生じた、生活ないし経験の急速な進歩に由来する。経験が
方法論的にも分野的にも急速に多様化し、拡大し、遅鈍な反省的思惟を置い
てけぼりにしてしまったのである。この進歩のリズムに、哲学はまだ追い付
けず、解釈が間に合わず、白黒付けられずにいるのである。あるいは、この
進歩の秘密について幾らか解明がなされていたとしても、誰にでも (to the
common consciousness) すっきりと分かるシンプルな言葉では語れずにいる
のである。急速に進歩する世界について理論的に語ると言っても、今日の共
通意識が語ることというのは、ほとんど機械的なものでしかない。急速に進
(100) 創価大学人文論集 第 28 号
歩していく世界。この動きは、慎重で遅鈍な批判的思惟の腕をすり抜け、多
様なダンスを舞いながら、詩の懐へと向かっているのが今世紀なのである。
より深く広がろうとする精神的生命。この動向というのは、ワーズワースや
シェリーの作品によって表現されているし、ブラウニングやアーノルド氏の
作品にも見つかるのだが、今日のイギリス哲学においてはまだ、そういう生
命は把握されていないのである。アーノルド氏は哲学から詩へと移行したよ
うに見えるけれども、実際は、堅苦しくて部分的な哲学から、より自由で十
全な哲学へと飛び立ったのである。彼の詩は学問から分離したわけではない。
学問はアーノルド氏の気質を満足させていたのである。彼は学問から分離し
たのではなく、彼の哲学的本能があまりにも深く、実際的だったので、グレー
ト・ブリテンで見受けられる今日的な専門哲学を受け付けられなくなり、代
わりに、イングランドおよび全時代の優れた詩に発見される、未だ通称のな
い、学問化されていない哲学に拠り所を見つけたというわけなのである。
ここに我々の課題がある。このギャップ、詩と学問とのギャップに我々は、
学問側から橋を掛けなければならない。この不自然な損傷を回復させなけれ
ばならない。冷静で反省的な批判システムの方法。一方、既に詩によって鋭
くも粗野な形で捉えられ報告されている真理。前者でもって後者を正当化し、
体系化しなければならない。人と人との繋がり、人と自然との結合を、ます
ます広大に親密に成し遂げようとする精神運動。この精神運動が、詩では予
感を通じて表現されてきたのだが、この精神の同じ動きが、哲学においては、
古典回帰 (retrospection 回顧 ) を通じて表現されていかなければならない。
かくして、我々は時代に急き立てられている。次世代の子供たちはまるで預
言者のようだ。若い世代はビジョンを先見しているというのに、我ら大人た
ちはいまだ幻想の中にいる。
(しもぞのゆうま・文学研究科博士後期課程)
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