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教えと学びの認識論 - 日本大学リポジトリ

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教えと学びの認識論 - 日本大学リポジトリ
博士学位論文
教えと学びの認識論
―理知的な探求者となるための条件
についての認識論的考察―
日本大学大学院文学研究科
哲学専攻
佐藤
邦政
2
3
まえがき
本研究は、教えと学びを中心とする教育についての認識論的探求の末の小さな成果で
ある。
「認識論」という言葉は、大まかには、知識の哲学分野のことを指すもので、教育
の認識論とは、たとえば、大人から子どもへの知識伝達の仕組み、赤ん坊や子どもの知
識獲得の在り方、あるいは、教えや学びの目的など、教えと学びという事象に関わる範
囲の中での知識に関する問題について哲学的に検討する分野のこととなる。
本研究の中で主に焦点の当てられる子どもは、通常、
「学童期」や「青年期(とくに前
期)
」と呼ばれる、小学生から中学生ぐらいまでの子どもたちである。このような年齢の
子どもは、親や教師から多くのことを教わり、やがて、教わった知識について疑問を抱
いたり、自分の体験から問いを抱き、その疑問や問いについてみずから探求するように
なると考えられる。たとえば、夜空に光る月は豆粒のように小さく見えるのに、学校で
先生から「月はとても大きい」ことが教えられる。子どもは「どうして月は小さく見え
るのだろう」とか、
「本当の大きさってどうやって測るのだろう」という問いをもつよう
になるかもしれない。
このように、とくに小学生から中学生の子どもはみずから疑問を抱き、そして、本を
調べるなどしてその答をみずから見出そうとし始める時期であるだろう。これが、
「学童
期」や「青年期」と呼ばれる子どもが、理知的な探求者の育成という課題を扱う本研究
において想定される理由である。ただし、教えと学びに関する幾つかの個所に関しては、
必ずしも子どもの年齢を限定する必要はなく、実年齢に関わらず、みずから探求を始め、
探求に従事する人一般に当てはまる議論となっている。
さて、教育の認識論がどのようなものなのかについての詳しい説明は第一章に譲るこ
とにして、ここでは、教育の認識論研究に従事する私の動機を簡単に述べよう。そうす
ることで教育の認識論の研究内容がどのようなものなのかについてのイメージを掴んで
もらえると思われること、そして、そのイメージを掴んでもらうことは、第一章以降で
展開される、教育についての哲学的議論に関心を持ってもらううえで重要と思われるか
らである。
本研究は、教育の文脈における知識の在り方を知りたいという気持ちを動機として行
われている。たとえば、他者との批判的対話を通じて新しくて重要なことを学ぶために、
どのような構えをとることが合理的なのだろうか。他者の批判を受容する態度は必要か
もしれない。けれども、批判をすべて受け入れてしまえば、自分の考えや理論を放棄し
なくてはならなくなってしまうだろう。納得いくと思われる理由に基づく自分の考えや
理論を大事にすることと、他者の意見や批判を受容することとの関係はどのようなもの
であるべきなのだろうか。
日本大学において優れた哲学者に出逢えたことで私は、うえのような、教えと学びに
4
まえがき
ついての自分の疑問や問いについて哲学していいのだと少しずつ思えるようになった。
それからは、自分の関心に基づきながら、教育の認識論がどのようなものなのかを、一
つ一つの小さいテーマに関する議論を通して示そうとしてきた。
さらに、興味深いことに、研究発表や非公式のやり取りを通じて私は、このような探
求が、研究者とだけでなく、日常、教育の現場で教えや学びに従事なさっており、私と
似たような問題意識を持っていらっしゃる方と共有し合えるものであることに気がつい
た。一例を示すなら、合理性の育成における情動の役割について、研究発表の場で、教
育の実践に従事している方からさまざまな意見や質問を頂けたことが挙げられる。たと
えば、小学校の先生方から、驚きが一種の反応であるということについて「本当にそう
いうことがある」といった感想をもらえた。そして、そのような方からは、理科の実験
で子どもが驚く場面など、より具体的な教室の場面の報告をして頂けた。
このような体験は個人的なものに過ぎないけれども、少なくとも、教えと学びにおけ
る知識の在り方を知りたいという気持ちは、哲学者と現場で教えや学びに従事する方と
の間で共有しえるのではないかと思う。そうであるなら、私は哲学者として、事柄を表
現するための言い得て妙な表現を探し、できるだけ明確な言葉で筋道の通った議論を通
じて、教えと学びについての哲学的探求を提示したい。これが、教えと学びについての
探求を、哲学という形で完遂しようとする私の動機である。
最後に、本研究は、教育の認識論の全体を提示するにはまだ十分とは言えず、今後、
本研究の中で扱われる、情動、動機、および、徳それぞれの意義について、より深くて、
新しい議論が必要になるだろう。それでも、本研究において教育の認識論のおおよその
全体像を提示することは、他者によってその議論が批判され、各自の考えや理論を洗練
させるための下敷きとして利用されうるという点で意義がある。ここまでで、教育につ
いての認識論の漠然としたイメージを掴んでもらい、第一章以降の議論に対して関心を
持ってもらえたなら、この「まえがき」の役割は十分に果たされたことになる。
5
目次
第 1 章 教育の認識論の現状と本研究の位置づけ・・・・・・・・・・・・・7
1.1 目的と背景
7
1.1.1 教えと学びについての認識論的問題
7
1.1.2 本研究における認識論的研究の方法論の特徴
15
1.2 教育に関連する範囲での探求に関する問題設定
1.3 第 2 章以降の構成と概要
23
27
1.3.1 探求のパラドックスの議論の目的
27
1.3.2 理知的な探求者となるため学ぶべきこと:情動、動機、および、徳
31
第 2 章 探求のパラドックスを再考する・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 35
2.1 目的と背景
35
2.2 探求のパラドックスの議論の理解のために必要な前提
2.3 探求のパラドックスの議論の構成
2.4 探求のパラドックスの定式化
38
39
2.5 教えという観点の導入による回答
2.6 学びの想起説の検討
45
47
2.7 教育に関係する探求の問題
2.8 結語
36
49
52
第 3 章 教えと学びにおける認知的情動としての驚きの意義
:シェフラーによる情動の議論を批判的に再考する・・・・・・・ 53
3.1 目的と背景
53
3.2 合理性の育成を重視する教えと学び
3.3 認知的情動
55
59
3.4 学びにおける認知的情動としての驚きの役割
3.5 教えと認知的情動としての驚き
64
3.6 理知的な探求者となる条件としての情動的徳
3.7 結語
60
66
67
第 4 章 手本を見習うことで理由に対する感受性を養う
:シーゲルの感覚される理由という概念を批判的に応用する・・・69
4.1 目的と背景
69
6
目次
4.2 合理性の教育理念の中心としての批判精神
70
4.3 批判的思考者に関するシーゲルの考えとその評価
71
4.4 クリティカル・シンキング研究における理由と行為の動機との関係の問題
4.5 批判的思考者の動機の側面に関する問題
79
4.6 感覚される理由という概念の特徴と利点
80
4.7 手本を慕うという情動
4.8 結語
74
83
86
第 5 章 知的徳は良い問いを立てることにどのように貢献するか・・・・・87
5.1 目的と背景
87
5.2 ハイグレードな正当化された信念、ハイグレードな知識、および、探求
5.3 新しさと重要性という基準
5.4 良い問いを立てること
90
93
5.5 良い問いを立てることと、知的徳との関係
5.6 結語
96
99
第 6 章 教育の認識論についての今後の課題・・・・・・・・・・・・・101
6.1 これまでの議論のまとめ
6.2 今後の研究課題
101
103
註・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・107
参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 119
89
7
第1章
教育の認識論の現状と本研究の位
置づけ
教えと学びを中心とする教育の認識論は、大人から子どもへの知識伝達の仕組みや、
赤ん坊や子どもに特有な知識獲得の在り方、あるいは、創造的知識を生み出す担い手の
育成などについて研究する。本章では、まず、教育の認識論のこれまでの研究状況と現
在の認識論との関係について概観する。次に、本研究で探求を中心とする教育の認識論
が主題とされる理由を説明する。最後に、本研究の議論の構成と概要を提示する。
1.1
目的と背景
教育には、子どもの成長、親の養育、あるいは、
「生涯学習(lifelong learning)」と呼ば
れる生涯を通じた学びなどを含む、教えと学びという現象が含まれる。本章では、まず、
教えと学びとは、おおよそどのようなものなのか、および、教えと学びについての認識
論的議論の背景とはどのようなものなのかを概観する。次に、本研究における認識論的
研究の方法論の特徴を明らかにする。
1.1.1 教えと学びについての認識論的問題
教えや学びは、歴史的文脈などにより、その目的や在り方がさまざまに異なる。たと
えば、日本では江戸時代、
「寺子屋」と呼ばれる施設で、子どもが読み書きや算数を習う
という風習があった。現代では子どもは通常、学校の授業の中で、そのような技能や、
「紫式部は平安時代に『源氏物語』を執筆した」など命題の形をした知識など、さまざ
まな種類の知識を学ぶ1。他方、教えと学びの中には、時代や場所を超えて見られるもの
がある。たとえば、親は子どもにしつけを教え、子どもは父親や母親の背中を見て育つ
と言われる。しつけを教えることや、親や教師を見習うということは、さまざまな国や
8
第1章
教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
地域でも見られる現象だろう。
教えと学びについての哲学的関心は、西洋ではソクラテスやプラトンまで遡って見ら
れ、その後、何人かの哲学者たちの間で、いくらかの注目を集めてきた。2 教えと学び
についての広く知られる哲学的議論の一例は、プラトンの著述に見られる「エレンコス
(Elenchos)」と呼ばれる問答法に関する議論である(cf. Siegel, 2014)。3
このような、教えと学びを中心とする教育についての哲学的議論には、少なくとも、
教えと学びに関する倫理的側面、政治的側面、および、認識論的側面についての議論が
ある。4 教えと学びを中心とする教育の哲学的議論がどのようなものなのかを大まかに
把握できるよう、教育の倫理的側面を簡単に取り上げよう。教育の目的の一つは道徳を
身につけさせることであると言われる。5 いま、このことを認めると、道徳を教えるこ
とや学ぶことについてのいくつかの問題が生じる。たとえば、「子どもに対する倫理は、
大人や動物に対して成り立つ倫理と同じものなのだろうか」、「道徳はどのようにして学
ばれうるのだろうか。たとえば、他者との関係なしに、道徳は一人で学びうるのだろう
か」
、
「道徳は、言明の形をした知識、すなわち、命題的知識6 の伝達の場合のように、
異なる世代間で伝えうるものなのだろうか」、あるいは、「親や兄弟を含めた親しい者に
対する愛着、敬慕、あるいは、憎しみなどの情動は、道徳的行為とどのような関係にあ
るのだろうか」などがある。これらの問題の中のいくつかは、これまでも、そして、現
在も活発に議論が行われている。7
以下では、教えと学びを中心とする教育の認識論的側面に関する議論に焦点を絞ろう。
教育の認識論の主題には、たとえば、大人から子どもへの知識伝達の仕組み、赤ん坊や
子どもに特有な知識獲得の在り方、認識論的自律性(epistemic autonomy)、あるいは、教
育の理念などがある。
ここで、教えと学びの認識論の中の具体的な問題を提示することで、うえのような認
識論的側面に対する哲学的議論がどのようなものなのかみてみよう。そのために、以下
では、まず、
「信念(belief)」と「証言(testimony)」という認識論の中で用いられる用語を
導入する。次に、証言に関する認識論の議論を二つ紹介する。最後に、それら二つの認
識論の議論と関連させながら、教えと学びの文脈における証言に関する認識論の議論を
二つ提示する。
はじめに、認識論の議論の中で広く用いられる擁護を導入する。一つ目は「信念」と
いう用語である。この語に関しては、戸田山 (2002, p. 3) の説明を参照しながら、事例
を示すことで説明しよう。たとえば、私が A さんとの会話を通じて、
「ブラジルでワー
ルドカップが始まった」という A さんの証言から、「ブラジルでワールドカップが始ま
った」と思うとする。認識論の議論の中では、私の抱いた思いについて、私は「『ブラジ
ルでワールドカップが始まった』という信念をもつ」や「『ブラジルでワールドカップが
始まった』と私は信じている」と表現する。日本語で「信念」という言葉は、
「信念をも
って臨む」という句に見られるように、心に強く抱く思いや考えがある場合に使われる
9
ことが多いと思われるが、以下の議論では断りのない限り、認識論における用語法で用
いることとする。
二つ目は「証言」という用語である。
「証言」という日本語は通常、裁判所での証人尋
問など、或る事柄の証明を明示的に行う場面で用いられることが多い。証言に関する先
駆的な研究である Coady (1992) では、
「証言」という概念を明確にするため、はじめに、
英語の「testimony」が司法の場面で使用されるものであることが確認される。そのうえ
で、司法の場面での証言と、レポートや会話の中で用いられる伝聞や報告などを表す証
言が区別され、それぞれ「公式的証言(formal testimony)」と「自然的証言(natural testimony)」
と呼ばれる(pp. 25–7)。近年の認識論の議論の中では、「証言」と言えば、たとえば今朝
の食事の話から科学的発見に関する話題に至るまで、他者から得られる伝聞や報告のこ
とが想定される。証言を通じて知ることについての具体的事例を出そう。たとえば、タ
バコは健康に悪いことを会社や学校での同僚との会話を通じて知ることが挙げられよう。
さらに、排気ガスが原因でオゾン層が減少していることをオンラインの新聞やテレビの
ニュースを通じて知ることも身近な事例であろう。あるいは、教育の文脈に即した事例
として、第二次世界大戦において日本は、1945 年、ポツダム宣言を受諾し降伏したこと
を、教科書を通読して知ることが挙げられよう。
この証言に関する議論は Coady (ibid.) に始まり8、ごく最近の認識論において活発に論
じられるようになっている。9 そこで次に、証言に関する議論の中から二つの主要な問
題を紹介しよう。これらの問題背景を知ることにより、この後提示される教えと学びの
文脈における証言の問題が、そもそもどうして問題とされるのかという理由が理解しや
すくなると考えられるからである。
一つ目の問題は、
「他者の証言を通じて獲得される信念は、正当化されている、あるい
は、知識10 であると言えるだろうか。そう言えるとすると、どのような条件のときに正
当化された信念や知識であると言えるのだろうか」というものである。この問題が重要
である理由は次の通りである。われわれは、日常的出来事から政治経済のことまで大量
の信念を、インターネットなど、さまざまなメディアを介して証言によって獲得してい
る。加えて、法律、医療、あるいは、科学などの高度な専門知識に関しては、医師や科
学者など、専門家が述べることや提示する証拠を、われわれ自身では理解することなく
受け入れていることも多い。たとえば、
「タバコは健康に悪い」という信念に関して、私
はその信念が真であることを立証する証拠を実験で確かめてはいないし、たばこが健康
に及ぼすメカニズムについて理解できる知識を持ち合わせているわけでもない。にもか
かわらず、新聞やニュースを通じて私は、タバコは健康に悪影響を及ぼすことがあるこ
とが正しいと思っている。Hardwig (1985) は、現代において、専門分野の異なる科学者
同士の間など、専門家同士の間に生じていることを指摘している。だが、このようなこ
とは、一般市民と専門家との間でも生じていると言えるだろう。
このようなことから、現代生活では、インターネットなど、われわれが知識を容易に
10
第1章
教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
入手できる手段が増え、その結果、われわれが現代生活の中で受け入れている信念、お
よび、われわれのもつ各々の信念に関連する理由ないし証拠の量は膨大となっているよ
うに見える。さらに、専門的知識に関しては、その理由ないし証拠をみずから理解する
ことがますます難しくなってきている。したがって、われわれ一般市民は、みずからの
信念の証拠を獲得するとき、通常、書物や専門家の忠告などを含む他者の証言に依存せ
ざるをえなくなっていると考えられる。Hardwig (ibid.) は、このように他者の証言に依
存することを「認識論的依存(epistemic dependence)」と呼ぶ。
では、他者に認識論的に依存することは、知識を獲得するうえでの非合理的な態度な
のだろうか。必ずしもそうとは言えないと私は考える。たとえば、次の場合、他者に認
識論的に依存することは合理的であろう。
例1
太郎くんは、名医として知られる医者を探し出し、その診断を傾聴し、その医者の述
べることを信じる。だが、太郎くん自身は証拠や理由をもっていないし、その証拠を
見せられても、それが良い証拠となるのかどうか理解できる十分な知識をもっていな
い。
この事例での太郎くんの場合のように、信頼できる他者の証言に依拠して信念を受け入
れることが合理的であると考えられる場面は多くあるだろう。この事例のポイントは、
専門家の証言から得られる信念が正当化されていると考えられる理由には、証言そのも
ののほか、証言者として専門家が信用できるということが含まれている、ということに
ある。太郎くんが専門家に認識論的に依存したほうが合理的であると言えるとすると、
その理由は、太郎くん自身で理由や証拠を獲得することとは別に、信用できる専門家を
識別する十分な証拠を入手することや、信用できる専門家の証言のみを信じる態度をも
っていることなどにある。
このように、われわれは多くの信念獲得に際して認識論的に依存せざるをえないこと
を考えると、
「証言を通じて獲得された信念は正当化されていることや知識であると言え
るかどうか。そう言えるとすると、どのような条件のときに正当化されていることや知
識であると言えるのか」という問題は認識論における重要な問題となる。これが、現代
の知識獲得状況を鑑みたときに、この問題が重要とみなされる理由である。以下では、
この問題を「第一の問題」と呼ぼう。
この第一の問題を明確にしておこう。そのために必要な限りで記号を導入する。また、
問題を単純にするため、ここでは正当化という主題のみを扱う。いま、
「p」は具体的信
念、
「e」は具体的理由、
「A」は信念 p の専門家以外の者、
「B」は信念 p に関する専門家
を表すこととする。ここで、B には信念 p を信じる認識論的に良い理由 e があるとする、
すなわち、B のもつ信念 p は正当化されているとする。他方で、A 自身は理由 e をもっ
11
ていないとする。このとき、
(1-1) A が信念 p に関して B に認識論的に依存している、すなわち、A は、B の証言の
みに基づいて信念 p を信じるとすると、A のもつ信念 p は正当化されていると言え
るだろうか。
(1-2) A は、B に関して次の証拠をもっているとする。それは、B は信念 p に関する理
由 e をもち、それゆえ、B が証言者として信用できるという証拠である。ここで、A
が、B の証言のみに基づいて信念 p を信じるとする。この場合、A のもつ信念 p は
正当化されていると言えるだろうか。
このような問題が、第一の問題である。
二つ目の問題は、第一の問題に関連するものであり、
「認識論的に依存すること、すな
わち、他者の証言を受け入れることと、認識論的に自律していることとの関係はどのよ
うなものだろうか」というものである。第一の問題が、証言によって得られる信念の認
識論的身分に関わるのに対して、この問題は、信念を受け入れる者の認識論的身分に関
わるものである。ここでも、まず、この問題が重要である理由を考えよう。
歴史上、自分自身で物事を考えること(thinking for oneself)の重要性は広く信じられてき
たが、このことは現代でも当てはまるだろう。いま、自分のもつ信念に対する理由を自
分自身で考えることを「認識論的に自律している(epistemically autonomous)」と呼ぼう(e.g.,
Fricker, 2006, Section 1 & 5; Zagzebski, 2009, Chapter 4)。すると、理想的な認識論的自律者
とは、自分のもつ信念すべてに対する理由を自分で考える者のこととなる。
ここで、現代では多くの信念に関して、われわれは認識論的に依存せざるをえないだ
ろうと述べたことを思い出そう。このことと、うえの認識論的自律性の概念規定に基づ
くなら、認識論的に依存する者とは、定義上、他者の証言から獲得した信念が真である
とされる理由を自分自身で考えることのない者のことである。そのような者は、みずか
ら正当化することなく信念を受け入れることがあるため、認識論的に自律していないと
いうことが帰結してしまう。
しかしながら、多くの信念に関して認識論的に依存せざるをえないと思われる現代に
おいて、うえの認識論的自律性の概念は狭すぎではないだろうか。たとえば、次のよう
な例を考えよう。
例2
花子さんは、街中でスコットランドの独立運動を推進する政治家の演説を聞く。花子
さんはその後、独立のメリットについて詳しく説明する政治学者の意見を聞く一方で、
スコットランドの政治経済の状況をみずから調べ、現時点で独立しないメリットのほ
12
第1章
教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
うが大きいと思われる証拠や理由を見つける。
おそらく、街中の街頭演説によって得られる信念を安易に受け入れないことは、認識論
的自律性の条件であることは、認められよう。だが、事例 2 における花子さんはその後、
独立のメリットを説明する専門家の意見を聞く一方、それと反対の考えを支持する証拠
や理由をみずから見つける。このように、信頼できると考えられる証言者の証言に基づ
く信念と、自分で考える理由に基づく信念が食い違う場合、いずれの信念を信じること
が合理的なのだろうか。あるいは、このような場合でも、自分自身で考える理由に基づ
く信念のほうを信じるべきとしたら、その理由は何だろうか。
例 2 の場合のように、他者の証言から獲得される信念と、自分自身で考える理由に基
づく信念との関係は簡単に決着のつく問題ではないだろう。それゆえ、
「理由や証拠を自
分自身で考える者は認識論的に自律しているが、証言に基づく信念を受け入れる者はそ
うではない」と結論づけるのは早計である。このことは、次のことを示唆する。それは、
先ほどの認識論的自律性という概念の規定は、現代の認識論的状況を考えると議論の余
地がある、ということである。認識論的依存が合理的である場合があることが認められ
るなら、先ほどの認識論的自律性という概念を見直す必要があると言えよう。
以上の理由から、
「認識論的に依存すること、すなわち、他者の証言を受け入れること
と、認識論的に自律していることとの関係はどのようなものだろうか」という問題、簡
単に言えば、認識論的依存と認識論的自律性との関係の問題は、現代の認識論的状況を
勘案しながら詳細に検討すべきものである。このような問題を「第二の問題」と呼ぼう。
第二の問題も明確にしておこう。先ほどと同様、「p」は具体的信念、「e」は具体的理
由、
「A」は p に関する専門家以外の者、
「B」は p に関する専門家を表すこととする。こ
こで、B には p を信じる認識論的に良い理由 e があるとする、すなわち、B のもつ信念 p
は正当化されているとする。このとき、
(1-3) A は、B の証言のみに基づいて信念 p を獲得するとする。いま、
「B の述べること
は信用できない」など、B の述べることに対する否定的証拠を入手しない限り、A
が p を信じるとする。この場合、A は認識論的に自律した者であると言えるだろ
うか。
(1-4) A は、B の証言だけでなく、
「B が信念 p に関して信用できる」という理由をもつ
とする。ここで、A が信念 p を信じる場合、A は認識論的に自律した者であると
言えるだろうか。
さて、ここまで、証言に関する二つの認識論的問題を提示してきた。次に、それら第
一の問題と第二の問題に関連する、教えと学びの認識論の文脈の中での証言の問題を二
13
つ提示しよう。
まず、第一の問題に関連する次の問題である。それは、
「親や教師の証言を通じて獲得
された子どもの信念は、正当化されている、あるいは、知識と言えるのだろうか」、そし
て、
「それらが正当化された信念あるいは知識であると言える理由は何だろうか」という
ものである。
子どもは、教科書を通じて、あるいは、親や教師との会話を通じてさまざまな信念を
獲得する。このような信念獲得は、多くの子どもが大量の信念を教わるという意味で信
念獲得のための基本的プロセスだろう。11 他方で、まだ理由を自分自身で考えることの
できない子どもは、親や教師の証言から多くの信念を、みずから正当化することなく受
け入れざるをえない。すなわち、われわれには、多くの信念に関して他者に認識論的に
依存せざるをえない幼少の時期がある。
では、親や教師の証言から獲得した子どもの信念の身分について、われわれはどのよ
うに考えるべきだろうか。ここで、近代認識論の代表人物であるデカルトは『方法序説』
において、親や教師は最善のことを教えてくれるわけではないという理由から、彼らの
証言を知識の源泉とすることを拒否する。
われわれはみな、大人になる前は子供だったのであり、いろいろな欲求や教師たち
に長いこと引き回されねばならなかった。しかもそれらの欲求や教師は、しばしば
互いに矛盾し、またどちらもおそらく、つねに最善のことを教えてくれたのではな
い。したがって、われわれの判断力が、生まれた瞬間から理性を完全に働かせ、理
性のみによって導かれていた場合ほどに純粋で堅固なものであることは不可能に近
い、と。
(後略)
わたしは次のように確信した。
(中略)わたしがその時までに受け入れ信じてきた諸
見解すべてにたいしては、自分の信念から一度きっぱりと取り除いてみることが最
善だ、と。(デカルト, trans. 1997, pp. 22–3)
しかしながら、デカルトに反して、信頼できる者から教わったことも、そうでない者
に教わったことも無差別に信じることをやめ、代わりにわれわれ自身の理性を働かせて
得られることのみを信じることは、知識を獲得するための最善な方法論とは思われない。
たしかに、親や教師の証言から獲得された信念の中にしばしば誤りがあるということは
認められよう。だが、そのことから、他者から教えられる信念すべてを受け入れること
をやめ、代わりに、自分の理性のみに基づいて知識を求めようとすることが最善の方法
論である、ということは出てこない。
ここで、現代の認識論的状況における困難、すなわち、すべての信念を自分自身だけ
で正当化することは著しく困難であることを考えると、親や教師から教わった信念の多
くは正当化されている、あるいは、知識であると考える選択肢があるだろう。加えて、
14
第1章
教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
知識を獲得する探求者として未熟な時期に絞って考えるなら、信頼できる者の証言に認
識論的に依存することは、後にみずから自発的に探求することができるために必要なこ
とであると思われる。というのも、子どもが自発的な探求ができるようになるためには、
当の探求において扱われる概念を習得し、関連する知識をすでに獲得していなければな
らないからである。
以上の理由から、すでに獲得された信念の多くは正当化されている、あるいは、知識
であると考える可能性を模索するほうが、現代では知識獲得のためのより善い方法論で
あると言えるのではないかと思われる。そうすると、次の問題が生じることになるだろ
う。それは、
「親や教師に認識論的に依存した小さい子どもの信念のいくつかは正当化さ
れている、あるいは、知識であると言える理由は何か」というものである。
いま、複雑さを避けるため、証言の正当化に関する問題に焦点を絞ろう。この問題に
対する回答の仕方はさまざま考えられるが、一つの回答は、親や教師に認識論的に依存
した子どもの信念について、それがどのような場合に正当化されていると言えるのかに
ついての条件を分析し、
「特定の条件を満たす場合に限り、証言を通じて得られた信念は
正当化されていると言える」と主張することである。たとえば、教師は、担当する授業
科目の内容に関して信用できるだろう。すると、信用できる教師の証言に限って、その
ような教師から獲得される信念は正当化されている、と考えることができるだろう。同
様に、小さい子どもでも通常、信用できる人のみの証言を信じるような感受性をもち、
それにより、信頼できる証言を非反省的に識別していることはありそうなことである。
このことを、関連する心理学研究を証拠として立証できるなら、子どもは任意の証言を
盲目的に信じているわけではないと考えることができるだろう(cf. Goldberg, 2008)。12
このように、子どもの成長過程において、子どもは比較的早い時期から、みずから理
由を考えるという仕方とは異なる仕方で、受け入れる信念を選別しているように見える。
このようなことが論証されるなら、理由について考える能力がまだ十分に発達していな
い子どもでも、親や教師に認識論的に依存しながら、子どもは正当化された信念を選別
していると主張する可能性は残されている。
次に、教えと学びの文脈における証言に関する二つ目の問題を取り上げよう。小さい
子どもは親や教師などの証言に依拠して多くのことを学ぶが、その一方で、自分で理由
や証拠を挙げながら考えることができるようにも教えられることだろう。Goldberg は、
両者の関係に関して次の問題を提示している。
教育のプロセス、とくに、小さな子どもに対する教育のプロセスでは、多くの事柄
について、子どもが教師の言葉を受け入れるということがしばしば見られる。同時
に、どのようなレベルであれ、良い教育は、子どもに自分で考える能力を教え、発
達させ、サポートするものでなければならない。それでは、いかにして、この二点
を整合的に取り込んだ教育方法を考えることができるだろうか。(中略)この問い
15
に 答 え よ う と 挑 む こ と を 「 認 識 論 的 依 存 に つ い て の チ ャ レ ン ジ (Epistemic
Dependence challenge)」と呼ぶことにしよう。(Goldberg, 2013, p. 165)
この引用で問題とされているのは、子どもが、親や教師とのコミュニケーションを通じ
て、あるいは、教科書を読むことを通じて大量の信念を得るという意味で認識論的に依
存することと、クリティカル・シンキング教育において典型的に見られるように、子ど
もがみずから理由を考えるようになることとの関係である。教育者だけでなく、多くの
親や教師も、証言を通じて子どもに社会で必要となる技能や知識を教えたいと思うと同
時に、子どもに自律的に考えることができるようになってもらいたいと思っているだろ
う。教育は、どちらの学びにも重要な意味で関わることになる。Goldberg の結論は、自
分のもつ信念すべてに対して、みずから理由を考えることを「認識論的に完全な自律性」
と規定した後、この認識論的に完全な自律性を教育理念とすることを疑問視する、とい
うものである。ここでは、Goldberg の考えについて論評するのは避けよう。いま確認し
ておきたいことは、次の二点である。一点目は、
「認識論的依存とクリティカル・シンキ
ングとの関係を明確にし、どのような関係が適切なのか」という問題は、教育の文脈で
の証言の重要な問題である点である。二点目は、この問題は、
「子どもの認識論的自律性
とはどのようなものであるべきなのか」という問題に通じている点である。
ここまで、教育の文脈における証言に関する認識論的問題を詳しく取り上げてきた。
Robertson (2009, pp. 28-9) は、ほかにも、教育の認識論的問題の主題として、好奇心や探
究心(inquisitiveness)などの認知に関わる徳や、教えや学びの認知的活動に関わる情動など
を挙げている。そのほか、
「現代の認識論的状況における教師に特有の役割とは何か」と
いう問題もあるだろう。知識の専門化が進んだ社会で教師の一つの重要な役割は、専門
的知識を伝達することより、子どもに、専門的知識につながる内容に興味を抱かせ、子
どもがそれを理解できる程度に咀嚼した形で学ばせ、将来、その子どもが必要な折に、
高度な専門的知識を獲得しうる準備をさせることにあると思われる。13
このように、教えと学びを中心とする教育の認識論では、教えや学びのさまざまな認
識論的側面が扱われ、そのような諸側面に関する多様な問題が論じられる。このような
問題に取り組むことは、
「教えや学びとは何か」という問題に認識論的観点からアプロー
チすることであると言えるだろう。
1.1.2 本研究における認識論的研究の方法論の特徴
本節では、本研究が、教育に関係する現代認識論の議論だけでなく、過去の教育哲学
者の残した教育の認識論研究を踏まえる理由について詳説する。
前節では、証言という概念を中心に、教えと学びを中心とする教育の認識論的側面と、
それに関連する具体的な問題をみてきた。ところで、教育に関する哲学研究の歴史を顧
16
第1章
教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
みると、教育の認識論は、それほど主題的に研究されてこなかった。このような状況は、
認識論が倫理学や政治哲学と、同程度かそれ以上に広く研究されていることを考えると、
やや不思議である。また、証言の問題などこれまで述べてきたような認識論的問題が、
教育に関する倫理や政治哲学の問題と比べて検討の価値がないということは考えにくい。
では、教育の認識論の研究がこれまで、それほど焦点を当てられてこなかった理由は
何だろうか。この歴史的事実についての理由を正確に同定することは哲学史研究に譲る
が、以下では、教育の認識論の意義を明確にするために、二つの理由を簡単に推定して
みる。
一つ目の理由は、教育に関わる哲学的議論では、倫理的側面や認識論的側面などが一
緒に論じられることも多いということにある。たとえば、著名な教育哲学者の一人であ
るイズラエル・シェフラー(Israel Scheffler)の議論をみてみよう。14 シェフラーは、合理
性の育成を教育の理念として重視する。シェフラーによれば、合理性の育成において子
どもが習得するべきものには、理由を公平かつ批判的に評価する能力のほかに、他者の
議論の向かうところに付いていき、その良い点と問題点を見極めようとする態度などが
含まれる(Scheffler, 1973, p. 64)。いま、シェフラーの主張内容の是非は措こう。この一例
からわかるのは、合理性という認識論的概念が主題として扱われる議論の中でも、教育
の文脈では倫理的側面が検討されている、ということである。15
このように、教えと学びを中心とする教育の認識論的問題では、倫理的側面がしばし
ば検討される。このような傾向は現代の認識論でも見られる。たとえば、真理を獲得し
ようとする動機づけ、証言の信用などに関する認識論的権威(epistemic authority)、あるい
は、合理的な思考に関わる性格特性といった主題が扱われるようになってきている。具
体的な事例を一つ挙げよう。Hardwig (1991) は、科学者共同体における認識論的依存に
関する考察では、共同体のメンバーを証言者として、証言者の信用を考慮する必要があ
り、それゆえ、この考察は、証言者の性格特性にまで関わるという意味で従来の認識論
や科学哲学を超えて倫理や政治哲学とも関係すると述べる(p. 708)。
このような傾向を考えると、これからの認識論の議論でも、伝統的には倫理学や政治
哲学の議論の中で論じられていた概念が導入され、認識論の主題との関係の観点から論
じられていくだろうと予想される。ここで、はじめの話題に戻ろう。うえで述べた認識
論の現状と、教育の認識論がもともと、教えと学びに関係する知識獲得だけでなく、道
徳や政治的な主題について論じなければならない分野であるということから、教育の認
識論は、認識論、倫理学、あるいは、社会科学の哲学などとの間にある伝統的な学問的
区別のもとでは扱いがたい分野であったと推察することができよう。16
二つ目の理由は、デカルトから始まったとされる「近代認識論」と呼ばれる認識論の
枠組みが、教えや学びを中心とする教育の認識論的問題を同定し論じること、すなわち、
教育の認識論研究にあまり適していなかった、というものである。ここでは、教えと学
びの認識論に強く関係する、近代認識論の特徴を一つだけ挙げよう。17 その特徴とは、
17
信念の帰属される各個人の正当化を知識の構成要件とする、というものである。
まず、伝統的な正当化の概念をみてみよう。Kornblith は伝統的な意味での正当化につ
いて次のように説明する。
伝統的説明によると、部分的には、正当化が知識の本質的要素であるということを
理由に、認識論の中心的仕事は、正当化の本質の在り処を説明することとなる。そ
、、
して、伝統によると、或る人が信念をもつことが正当化されているために必要なこ
、、、、、
とは、その人がその信念に対して何らかの正当化をもっていることである。ここで、
正当化をもっているとは、典型的には当の信念について適切な議論を提示する用意
がある(be in a position to)ことと同じことである。(強調原著, Kornblith, 2001, p. 2)
この意味での正当化が知識に必要なのかどうかは現代認識論の中で活発に議論されてい
る。たとえば、Goldman (1979) によれば、信念が知識であるためには、うえの意味で正
当化されている必要はない。その代わりに、
「信頼性主義(reliablism)」と呼ばれる、別の
意味での正当化が提案される。18
ここでは、正当化に関する議論を教えと学びの文脈に限定して考える。この文脈で、
うえの伝統的意味での正当化に対する最も重要な批判は「正当化が信念の帰属される各
個人によってなされる」という前提に向けられるものだろう。たとえば、信念 p が正当
化されているとは、その信念が帰属される者 A が、信念 p に対して何らかの正当化をも
っていることである、とする。A がまだ理由を自分で考えることのできない者である場
合、たとえ A が信念 p を信頼できる証言者から得たとしても、A のもつ信念 p は正当化
されることにはならず、それゆえ、知識ではないことになる。しかし、前節における証
言の議論から、
「特定の条件を満たす場合に限りで、証言を通じて得られた小さい子ども
の信念は正当化されていると言える」と考えることはそれほど不合理な発想ではない。
いま、正当化に関する条件として、その信念が帰属される個人による正当化が必ず必
要であるという主張を「正当化の個人主義」と呼ぼう。これは、先のデカルトの『方法
序説』の引用に見られると思われる立場である。そうして、この正当化の個人主義を否
定する立場、すなわち、その信念が帰属される個人による正当化は必ずしも必要ではな
いとしたうえで、別のルートの正当化、ここでは、自分以外の者によって、何らかの仕
方で自分の信念が正当化されうると主張する立場を「正当化の社会性」と呼ぼう。いま、
B のもつ信念 p は正当化されているとする。このとき、正当化の社会性とは、A のもつ
信念 p に対して、
「B の証言によって獲得されることで、
A のもつ信念 p が正当化される」
という可能性があることを主張するものである。
正当化の社会性のポイントは、信念が帰属される A 自身による正当化が、認識論的正
当化のすべての場面で必要であるわけではないと考える点にある。この点で、正当化の
社会性は、正当化の個人主義だけでなく、「A のもつ信念 p は、A 以外の B によって必
18
第1章
教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
ず正当化されなければならない」という正当化の社会主義的な考えとも異なる。
正当化の社会性の批判は、
「そもそも伝統的意味での正当化は知識のために必要ではな
い」という、正当化の内容そのものに対する批判とは異なる。うえの正当化の社会性が
どのようなものなのかを詳述するために、両者の違いを必要な限りで説明しよう。
現代の認識論では、伝統的なものとは異なる正当化の概念を提案する立場が見られる。
この背景には、現代科学の成果により、人間以外に高度な知的生活を送る生物がいるこ
と、そして、そのような生物の中には人間に無い知覚能力を備え、その知覚に依拠した
特有の知識をもつことを自然に受け入れるようになってきている、ということがあると
思われる。知覚や記憶など、人間も動物も共有する知覚機能に基づいて知識獲得につい
て考えることはそれほど不合理な発想ではないと思われ、それゆえ、そのような知識観
に沿う正当化の概念が提唱されるようになる。理由や議論による正当化は知識の構成要
件ではないと考える立場は「外在主義(externalism)」と呼ばれる。この外在主義の具体的
内容や強度は哲学者によってまちまちであるため(cf. Kornblith (ed.), 2001)、ここでは、知
識と言えるために伝統的意味での正当化が必要であるのかどうかなどの問題に関して、
認識論の中で議論がなされていることを確認できれば十分としよう。
このような外在主義に対して、正当化の社会性を主張する立場は、信念が帰属される
者以外の誰かによる正当化を認めるものの、通常は、他者による理由や証拠に基づいた
正当化が必要であると考える。それゆえ、伝統的意味での正当化の概念を捨てているわ
けではない。このように、正当化の社会性を特徴づけるものは、信念をもつ本人だけで
なく他者の正当化の可能性を認める点である。この意味で正当化の社会性は、認識論に
おける民主主義的な立場であると言える。
この正当化の社会性の観点を取り込んだ、認識論的民主主義的な立場を考えることで、
認識論において検討される価値のある次のような問題を考えることができるようになる。
第一に、小さい子どもや赤ん坊の信念の正当化や知識の伝達の問題がある。動物の場合
と異なり、人間の子どもは後に高度な知識を発見し、前例のない知的技術を創造する担
い手となるために重要なことであると考えられる。このように、通時的な観点から見る
知識獲得の在り方や知識の担い手の合理性の問題について検討できるようになる。
第二に、認識論的依存と自分自身での正当化(あるいは、認識論的非依存)との関係
の問題がある。現代の認識論的状況においては、知識を獲得するために適切な場面で適
切な仕方で認識論的に依存しつつ、自分の考えや理論に対して理由や証拠に基づいて擁
護することが重要であると思われる。では、他者の証言に適当な仕方で認識論的に依存
することと、自分の理由や証拠の証明力を信用することとの間のバランスはどのような
ものなのだろうか。真理獲得を目的とした文脈での、このような自己と他者との関係の
問題について検討できるようになる。また、このような問題は、知的生活における人間
の認識の在り方に関わるものであるため、人間の合理性や自律性の概念に対する再検討
にもつながるだろう。
19
以上の理由から、近代認識論が正当化の個人主義という特徴をもつなら、その認識論
では、教えと学びを中心とする教育の認識論的側面にそれほど強い関心が向かないかも
しれない、と結論づけられる。教えと学びの文脈は、信念の正当化についての社会的性
格や、認識論的文脈における自己と他者との関係などの問題が先鋭化する文脈である。
このような主題は、これからの認識論の中で重要な課題となるだろう。
ここで、教育の認識論に関するこれまでの研究状況に対して、以下の二つの留保が必
要である。第一に、教えと学びについての認識論が主題的に研究されなくなったのは、
近代認識論が確立し勢いを得て以降のことかもしれないということである。たとえば、
教育の認識論に含まれる研究として、冒頭に挙げられたエレンコスという問答法に関す
るプラトンの議論や、徳の育成に関するアリストテレスの議論がある。
第二に、近代認識論が勢いを得た以降も、数は少ないものの、現在の教育思想に影響
を与えている教育の認識論的研究はあるということである(cf. Robertson, 2009; Siegel,
2004)。先に言及されたシェフラーによる教育の認識論研究を一例として挙げよう。シェ
フラーは、教育の文脈において知識の概念について次のように述べる。
、、
教育的文脈において、知識という用語は、しばしば次の二つのことを含むとされる。
一つ目は、環境を技術的に制御することに関連する蓄積された技術や伝承であり、
二つ目は、それ自身、内在的な価値をもつ知的技芸や経験である。このような文脈
、、
では、知識はわれわれの知的財産すべての内容に関わるものであり、教育は、それ
を次の世代に伝達することに関与している。(強調原著, Scheffler, 1965, p. 2)
教育は、証言による命題知だけでなく、技術や伝承を含めて、さまざまなことを大人か
ら子供に伝えることに関わるとされる。ここで、教育は必ずしも過去の知識の継承だけ
ではなく、創造的な知識の産出にも関わることに留意しよう。なぜなら、教育は、優れ
た探求の仕方を教えることなど、新たな知識を生み出すことや、技術を創り出すことに
も関わり、この点から見ると、教育は、創造的知識を産出する担い手を育てることだか
らである。このようなシェフラーの研究を典型例として、教育の認識論的研究では、近
代認識論における議論の諸前提に批判的でありながら、応用しうる考察内容を踏まえて、
教えや学びについて検討するという姿勢が見受けられる。19
他方で、これまで説明してきたように、現代の認識論ではさまざまな認識論的側面が
議論されており、それに応じて、教育の認識論に対して少しずつ関心が持たれ始めてい
る。20 そのような代表的分野として、社会認識論と徳認識論の分野が挙げられる。社会
認識論に関しては、すでに論じたように、証言についての認識論的問題が教育の文脈で
も重要であると言える。その中でも問題の焦点にあるのは、批判的思考力を発達させて
いく途上にある子どもに対して、そのような子どもが他者の証言を受け入れることと、
批判的思考力を身につけることとの関係の問題である。これに関連する問題に対しては、
20
第1章
教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
Goldberg (2013) のほか、Fricker (1994)、Goldman (1999, pp. 362–3)、あるいは、Siegel (2005c)
など多くの認識論者が論じている。
次に、徳認識論をみてみよう。はじめに、徳認識論が教育とどのように関連するよう
になるのかについての経緯を概観するために、必要な限りで徳認識論が展開してきた歴
史的経緯を説明しよう。徳認識論は、Sosa (1980) が知識の理論の考察のために、知的徳
(intellectual virtues)という概念を導入したことに端を発する。Sosa によれば、知的徳は、
目の良さなど、しかるべき環境で安定して正常に働く認知的機能のことであり、それは、
真理の獲得に貢献するものである(ibid., p. 23)。その後、Montmarquet (1993) や Zagzebski
(1999) などにおいて、知的徳が、オープン・マインドなど、性格特性のことを表すこと
を前提とする議論が現れる。このような議論で扱われる徳の概念は、現代の「徳」とい
う語の日常的用法から連想されるものであるだろう。
現在の徳認識論では、知的徳に対する捉え方の相違に応じて、二つのアプローチが見
られる。一つ目は、Sosa を代表論客とする、知覚、記憶、推論能力などを知的徳とみな
す「信頼主義的(reliabilist)」アプローチである。二つ目は、Zagzebski などを代表論客と
する、オープン・マインドなど、性格特性を知的徳とみなす「責任主義的(responsibilist)」
アプローチである。
近年、責任主義的アプローチの徳認識論では、知識の本質の問題など伝統的問題だけ
でなく、動機の問題など、知識獲得に関する多様な問題が扱われるようになってきてい
る。たとえば、Monmarquet (1993) は、性格特性を基礎にして獲得された信念や知識に対
する認識論的責任(epistemic responsibility)という主題を論じている。Montmarquet によれ
ば、公平性(impartiality)、知的冷静さ(intellectual sobriety)、あるいは、知的勇気(intellectual
courage)といった性格特性は、必要な場面でみずから行使することもしないこともできる
という。たとえば、関連する証拠を徹底して調査するかどうかは、われわれの性格特性
に関係し、そして、その性格特性をその場で十分に行使するかどうかは当人の責任であ
ろう。このような理由から、Montmarquet は、うえに挙げたような性格特性を適切に行
使することで獲得される信念や知識に対し、われわれは認識論的責任があると主張する
(pp. 23–32)。
このように、徳認識論の議論は現在、さまざまな方向に分派してきている。この現状
に関して、Baehr (2011, p. 12) は次のように整理している。徳認識論は、二つの立場に区
別できる。一つ目は、知的徳に関するアイディアが伝統的問題を解決することに何らか
の仕方で貢献すると考える立場であり、これは「保守派(Conservative)」と呼ばれる。二
つ目は、知的徳に関するアイディアは、伝統的問題とは独立の、これまであまり論じら
れてこなかった認識論的側面を明らかにする助けとなると考える立場であり、これは「独
立派(Autonomous)」と呼ばれる。21
以上のような徳認識論の歴史的経緯の中から、知的徳の育成についての議論も見られ
るようになってきた。このような議論は、徳認識論における「独立派」に属すと言える。
21
知的徳の育成の問題は伝統的な認識論的問題と同程度に重要であると考えられる。ま
ず、第一節における認識論的依存についての説明の中で、現代では、インターネットな
どメディアが普及したことにより、われわれが受け入れている信念、および、われわれ
のもつ各々の信念に関連する理由ないし証拠の量は膨大であることが確認された。加え
て、科学や医療に関する証拠を理解することはますます難しくなってきている。このよ
うな認識論的状況で知識を獲得するために必要なことの中には、自分自身で信念を正当
化することだけでなく、たとえば、適当な仕方で認識論的に依存することや、自分の理
由や証拠に対する批判的な眼差しをもつと同時に、自分のこだわる信念の真理性を理由
や証拠に基づいて粘り強く証明することなどが含まれるだろう。
そうだとすると、現代において良い知識の探求者とは、みずからの理性にのみ恃む者
のことではなく、適切な場面で適切な仕方で認識論的に依存しながら、自分の考えや理
論に対して理由や証拠に基づいて擁護する態度をもつ者のことである、と言える。もち
ろん、真理を獲得するためにこのような態度が重要であることは今も昔もそれほど変わ
らないと言われるかもしれない。しかしながら、そうであるとしても、適切な場面で適
切な仕方で認識論的に依存しつつ自分の考えや理論に対して理由や証拠に基づいて擁護
する態度が、探求において重要な態度であることは、医療や科学の専門化など現代の認
識論的状況において一層、強く認識されてきていると思われる。
このようなことから、知的徳の育成に関わる問題は、認識論においてますます重要な
課題となってきていると結論づけられる。ところで、徳認識論者の Kvanvig (1992, pp.
172–5)は、知識を探求する成熟した認識者(full-fledged cognizers)となるための条件を考察
する認識論を「発生的認識論(genetic epistemology)」と呼び、成熟した認識者への成長と
いう通時的視点から知識獲得について検討する認識論が、伝統的認識論に取って替わる
べきであるという強い主張をする。だが、Kvanvig ほど極端な立場を取らなくとも、次
のように主張するだけで十分であるだろう。すなわち、第一に、認識論の課題には、懐
疑論の論駁など伝統的問題も、成熟した認識者となるための条件の問題も両方含まれる
ことである。第二に、どちらも検討の価値ある認識論的問題であると評価されることで
ある。この二点によって、知的徳の育成という主題の認識論における意義は十分に確保
されよう。
では、これまでの徳認識論研究において、教育に関連する議論にはどのようなものが
あるだろうか。教育哲学者の Siegel (2014a) は、クリティカル・シンキングについての概
念と、徳認識論における概念との関係について検討している。22 他方で、徳認識論者で
ある Baehr (2013) は、
徳を育成することが教育の目的であることを論じ、さらに、
Pritchard
(2013) は、知識を与えることより、子どもを難しい状況でも知識を得ることができるよ
うに育てることが教育の目的であると論じる。
このように見ると、教育と関係する徳認識論の議論は、知識を獲得する者の性格特性
に問題の焦点があることがわかる。さらに現在、このような徳認識論者の問題関心は、
22
第1章
教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
知識を獲得する者の性格特性だけでなく、それに関わる情動や動機などに広がってきて
いる(e.g., Zagzebski, 1999)。このような研究動向を踏まえて本研究で私は、教えと学びの
文脈における情動と動機の問題についてそれぞれ、第三章と第四章で論じる。この詳細
については第三節で説明しよう。
以上の研究動向を勘案するなら、現代は、認識論の議論を踏まえた教育についての検
討だけでなく、過去の教育哲学者の残した、教えと学びに関する考察の再検討を通じて、
教えと学びについての認識論的研究に取り組む好機ではないか、と私は思う。このこと
は、本研究において教えと学びを中心とする教育の認識論的側面について検討した哲学
者の考察を取り上げる動機となっている。
これまでのことから、本研究の方法論の特徴をまとめておくと、次のようになる。
(1) 教育の認識論的側面と関係する、他分野の議論を取り入れる
(2) 過去の教育哲学における認識論の研究を踏まえる
(3) 現在の認識論の研究動向を踏まえる
最後に、第三節でより詳しく説明することになるが、本研究は、シェフラーやシーゲ
ルなどの教育哲学者の基本的主張を紹介したうえで、その議論を踏まえてオリジナルの
問題を提示し、私の回答を擁護する論文と、はじめから私の主張を論証する論文と、二
種類の議論から成る章立てで構成されるが、このことには別の意味もある。
現在の日本の教育哲学の論文のスタイルは、ほとんどの論文が有名な哲学者の主張を
解釈するものとなっている。哲学が自分に固有の問題を論じることに重要な意義がある
こと、および、他の哲学分野と関係しながら行われる海外の教育哲学の研究もそのよう
になってきていることを考えると、教育に関係する論文の中にも、過去の哲学者の解釈
だけでなく、関連する先行研究に基づきながら、著者に固有の問題が提示され、その回
答が与えられる論文もやがて現れるだろう。私の診断では、現在は、教育哲学の論文の
スタイルが移行する過渡期にあると思われるため、本研究をうえの二種類のスタイルか
ら成る論文で構成することにした。ただし、シェフラーやシーゲルの議論を中心に取り
上げた論文でも、彼らの哲学における新しい論点を取り出すに留まらず、関連する先行
研究に基づいて、各論文の主題に関係するオリジナルの問題を提示し、論証によって私
なりの回答を与えるよう努めている。それゆえ、それらの研究では、テキストの正確な
解釈は前提されているものの、研究論文の性格は、狙い通りにうまくいっているなら、
オリジナルの哲学的考察である。
ここまで、教育の認識論の概要を歴史的な研究背景とともに概観してきた。次節では、
本研究における具体的主題と問題設定を明らかにする。
23
1.2
教育に関連する範囲での探求に関する問題設
定
本研究が中心とする主題は、教育に関連する範囲の中での探求である。ここで、探求
とはおおよそどのようなことなのかを明確にしておこう。教えや学びの議論の中で想定
されることの多い探求は、少なくとも以下の特徴を有する活動のことであると考えられ
る。
(1-5) 或る問題に対して、問うことと答えることを通じて答えが見出される。
(1-6) 問答は主に、疑問文という形をした問いと、文の形をした答えから成る。
(1-7) 良い探求であるためには、答えとともに、それを支持する証拠として、文の形をし
た理由が必要である。
(1-8) 一人でも、他者と共同でも行われうる。
まず、(1-5) について説明しよう。探求という活動には、さまざまな種類の活動―たとえ
ば、信頼のできる情報など、良い証拠を探すこと、議論の説得力を評価すること、問題
の隠れた前提を見つけること、あるいは、批判の妥当性を判定することなど―が含まれ
る。探求の中で、このような認知的活動は、目標の問いに答えるプロセスの一環として
行われる。23
次に、(1-6) について説明しよう。探求の種類の中には、疑問文の形をした問いを提示
することや、文の形をした仮説を立てることなく、行われるものがある。たとえば、探
検家が新しい土地に着いたとき、疑問文の形をした問いや、文の形をした仮説や答えを
求めることなく、その土地の様子を眺めることで土地の情報を獲得することがあるが、
このような活動も探求に含まれると言えるだろう。しかし、教えや学びの文脈において
想定される探求は、基本的には、たとえば「空は青いの?それとも、人間には青く見え
るの?あるいは、私にだけ青く見えるの?」という疑問など、文の形をした問いや答え
から成るものである。
さらに、(1-7) について説明しよう。探求のプロセスの中ではときに、問いに対して思
い付きや直感で答えることがある。たしかに、お告げなどの思いつきや直感が信念獲得
の源泉であるかもしれないとしても、探求が良いものであるためには、獲得された答え
を支持する証拠として、文の形をした理由が必要である。そして、教育の認識論的文脈
において、通常、想定されるのはこのような良い探求であると言える。24
最後に、(1-8) について説明しよう。探求は他者とともに行われることも多い。とくに、
教えや学びの文脈では、同僚だけでなく、親や教師とともに行う探求が想定されること
24
第1章
教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
があることは認められよう。25
では、このような特徴を持つ探求が教育の認識論において焦点を当てて論じられる理
由は何だろうか。その理由は、現代の認識論的状況において、子どもが必要な知識を獲
得するためにみずから探求できるようになるための準備をすることは、教育の主要な目
的の一つであると考えられる、ということにある。教育の主要な目的には、いくつかの
候補が主張されている(Robertson, 2009)。たとえば、批判的に思考できるようにすること
(Siegel, 2005c)、真理を獲得できるようにすること(Goldman, 1999, Chapter 11)、あるいは、
たとえば、計算方法を理解するなど、実際に知識を運用できるようになることなどが挙
げられる(Elgin, 2007)。以下では、教育の理念の一つとして、子どもを必要な知識をみず
から獲得することのできる探求者に育成することが挙げられる理由について説明しよう。
まず、たとえば「目の前に机がある」ことなど、単純な知覚的知識に比べて、探求を
通じて獲得しうる知識には、政治や経済などを含む社会生活に必要な知識など高度な知
識が含まれる。さらに、たとえば、
「昨日の夕食でお寿司を食べた」など、すでに知られ
て蓄積されている過去の記憶による知識に比べて、探求を通じて獲得しうる知識には、
人類史上、これまで発見されたことのない新たな科学的知識など、創造的な知識も含ま
れる。このように、探求を通じて獲得されうる知識には、われわれに価値のある高度な
知識が含まれることがわかる。
このように高度な知識を獲得するための探求過程では、医師や科学者など、信用でき
る証言者から教わることや、専門論文など、信頼できる情報源を見つけなければならな
い場面が多くある。それゆえ、たとえ探求を一人で行う場合でさえ、目標の知識を獲得
する過程では、適当な仕方で他者に認識論的に依存せざるをえないと考えられる。この
ように、高度で新しい知識を求めて、みずから理由を考えると同時に他者に認識論的に
依存しながら行われる探求は、子どもがやがて成長し、他者とともに社会の構成員とし
て生活する中で、さまざまな場面で必要となるだろう。
では、子どもはこのような探求の仕方をどのように学びうるのだろうか。子どもが探
求のための基礎となる知識や、探求を遂行する助けとなる性格特性などを習得する良い
方法は、良い探求者の範例としての教師から教わることであると思われる。第一節で述
べたように、教師の重要な役割には、子どもに専門的知識につながる基礎的な学習内容
に興味や関心を抱かせることや、子どもがそれを理解できる程度に咀嚼した形で学ばせ
ることなどが含まれるだろう。教師から教わることで、子どもがやがてみずから高度な
専門的知識を獲得できるようになると思われる。
以上の理由から、教育を通じて、子どもに必要な知識の獲得を目的とした探求に従事
できる準備をさせることは、認識論的観点から見た教育の主要な目的の一つであると結
論づけられる。26
子どもをみずから探求できるように育てることが教育理念の一つであるとしよう。そ
うすると、教育の認識論的研究には、探求に関わる教えと学びの諸側面に関する考察が
25
含まれることになる。27 たとえば、探求に関する教えと学びの目的は何だろうか。その
目的は、子どもが今まで認識していなかった真理を、より良い証拠とともに獲得できる
ようになることであるかもしれない。いま、探求を通じて子どもの獲得する真理が、専
門家にはすでに知られたものであったとしよう。このとき、子どもがその真理を、本を
見て知ることと、子ども自身による説得力のある論証によって知ることは、教育の文脈
では同じ価値があるとは限らない。このほか、教えと学びに関連する探求の問題には、
たとえば、
「自律した探求者とはどのような者のことだろうか。他者の証言をまったく信
じない人、あるいは逆に、ある分野の権威として知られる者の証言はすべて正しいもの
と受け入れる者は、自律した探求者と言えるだろうか」、あるいは、「良い探求者を育て
るために何を、いかにして教えたら良いのだろうか」などの問題がある。
以上のことから、探求は、教育の認識論において焦点を当てて考察される主題の一つ
であると言える。これが、本研究が探求を中心にして教えと学びについて検討する理由
である。
次に、本研究における、探求についての具体的な問題設定を提示しよう。問題設定は
二つある。一つ目は、教育に関連する範囲で、探求の問題がどのようなものなのかを明
らかにするというものである。具体的には、本研究において私は、
「探求のパラドックス」
として知られる議論を分析し定式化した後、教育というオリジナルの観点を導入するこ
とでパラドックスに答えようと試みることを通じて、教育に関係する探求の問題を同定
する。この考察は、第二章で行われる。
二つ目は、第二章で明らかにされる探求の問題について回答するというものである。
この詳細な考察は、本論の第三章から第五章にかけて行われる。各章の考察目的と研究
背景の概要は、次節、「構成と概要」において説明する。
次に、関連する先行研究の状況、および、その状況における本研究の意義を明確にし
よう。
教育についての現代の哲学研究では、探求という主題はしばしば議論されている。た
とえば、クリティカル・シンキングの先行研究において、探求と合理性の育成との関係
が取り上げられる(Bailin & Siegel, 2003, pp. 191–2)。Bailin and Battersby (2009, pp. 8-9) は、
クリティカル・シンキング教育を、単に理由や論証の妥当性を検討するだけでなく、対
立し合う立場を含むさまざまな主張を支える論証を批判的に吟味し合うプロセスと捉え
る。そう捉えられることでクリティカル・シンキング教育は、子どもが自分の考えに不
必要に固執することなく、相手の批判によってみずからの意見や主張を訂正できる柔軟
な態度や思考習慣を身に付けることを目的とする教育とみなすことができるからである。
このような教育で行われるクリティカル・シンキングは、子どもがみずからの考えを変
更しうるという意味での動的な思考のプロセスと捉え直すことができよう。
ここで、(1-5)から(1-8)によって特徴づけられた探求が、目標の知識を獲得するために、
理由や証拠を批判的に吟味すると同時に適切な仕方で他者に認識論的に依存しながら行
26
第1章
教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
われるものであることを考えると、探求は、うえで規定されたクリティカル・シンキン
グと密接に関係するものであると言える。
さらに、探求についての別の先行研究として、
「プラグマティズム」と呼ばれる伝統に
関連する議論が挙げられる。その中でも教育の文脈で広く知られるのは、ジョン・デュ
ーイ(John Dewey)の哲学であり、彼の哲学的考察は、現在の教育思想にも強い影響を与え
ている。たとえば、デューイは、クリティカル・シンキング教育の先駆と言える、反省
的思考の教育とその意義について論じている。あるいは、彼の探求理論では、探求を問
題解決活動という観点から捉えるというアイディアも見られる(cf. Hare, 1992)。このよう
な考え方は、現代の哲学研究28や、教育学研究29 の中で換骨奪胎されながら応用されて
いる。
このような先行研究状況の中で、本研究は、これまで関心は持たれてきたが、哲学的
議論によって吟味されてこなかった、教育に関係する探求の問題を明らかにし、その問
題に私なりのいくつかの回答を与える。探求の問題に回答する中で焦点が当てられるの
は、情動、動機、および、知的徳という主題である。これらの議論の要旨は、第三節で
述べよう。
以上の主題について、第二章以下では、前節において説明された、次の方法論に基づ
いて検討される。その方法論とは、
・ 教えと学びの認識と関係する、他分野の議論を取り入れる
・ 過去の教育哲学における認識論の研究を踏まえる
・ 現在の認識論の研究動向を踏まえる
というものである。この方法論が、情動、動機、および、知的徳という主題を扱う本研
究にとって有益であるのは、次の二つの理由にある。
一つ目の理由は、現代の認識論の動向を踏まえつつ、過去の教育哲学者の残した考察
を再検討することで、今でも重要と考えられる、探求を中心とする教育の主題について
の、より有意義な発見が期待できるはずである、ということにある。たとえば、第一節
と第二節で述べたように、現代の認識論では、かつて倫理学や政治哲学など別の哲学分
野で論じられていた、さまざまな概念が認識との関係の観点から論じられ始めている。
教育の主題に必要な限りで、それらの議論を参照することは、概念の明確化などに役立
つだろう。
二つ目の理由は、心理学や認知科学の研究成果を踏まえることで、探求を中心とする
教えや学びについての経験的主張を、関連する証拠を挙げながら論証することができる、
ということにある。たとえば、現在、情動や動機に関する研究は心理学や認知科学分野
において盛んに行われており、情動の哲学者、心理学者、あるいは、認知科学者は議論
を共有するような研究も見られるようになってきた。教育に関する議論の中では経験的
27
主張が多く見られることを考えると、そのような経験的主張を擁護するために、関連す
る経験的証拠を挙げることは、論証の説得力を幾分、高めることにつながるだろう。
以上の理由から、本研究は、探求の問題に取り組むことを通じて、探求に関係する教
えと学びの本質に迫る試みと捉えることができる。第一節で私は、教育の認識論に含ま
れる諸問題に取り組むことを通じて、認識論的観点から見る「教えや学びとは何か」と
いう問題に接近することができるだろうと述べた。このことを考えると、本研究は、認
識論的観点から見る「探求に関わる範囲での、教えや学びとは何か」を明らかにするこ
とにつながると言えるだろう。
次節では、第二章以降の構成、具体的な問題設定、および、議論の概要について説明
する。
1.3
第 2 章以降の構成と概要
本節では、本研究の第二章以降の議論の見通しを得るため、その議論の構成と概要を
簡単に示す。
前節で述べたように、探求についての問題設定は二つあり、第二章において、その一
つ目に焦点を当て、教えと学びに関連する範囲での探求の問題がどのようなものなのか
を明らかにする。次に、第三章から第五章にかけて、二つ目の問題設定として、第二章
で提示された探求の問題に対して私の回答を与える。具体的構成と各章の題目名は以下
の通りである。
第二章 探求のパラドックスを再考する
第三章 教えと学びにおける認知的情動としての驚きの意義:シェフラーによる情動の議
論を批判的に再考する
第四章 手本を見習うことで理由に対する感受性を養う:シーゲルの感覚される理由とい
う概念を批判的に応用する
第五章 知的徳は良い問いを立てることにどのように貢献するか
1.3.1 探求のパラドックスの議論の目的
はじめに、一つ目の問題設定を扱う第二章についてみてみる。第二章では、プラトン
の『メノン』において提示されている探求のパラドックスに対して、教育という観点を
考慮に入れたオリジナルの定式を与えた後、教えという観点を導入して、この探求のパ
ラドックスを解決しようと試みる。ただし、結論として、パラドックスを解決する有力
な方法と思われた教えという観点の導入によっても、パラドックスを解決することはで
28
第1章
教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
きないということについて言及しておく必要がある。
それでも、その経過の考察の中に教えと学びについての重要な発見がある。これらの
発見は、教えと学びについての認識論的研究にとって意義のある成果であり、この発見
の意義はパラドックスの解決とは独立に評価することができると考えられる。
この意義がどのようなものなのかを類比的な事例を用いて説明しよう。たとえば、
「ゼ
ノンのパラドックス」として広く知られる議論は、ゼノンやアリストテレスの述べたこ
との解釈に関する研究だけでなく、パラドックスを再定式化し、それに回答を与えよう
と試みることを通して、時間や空間の分割などについて哲学する研究としても扱われる。
いま、ゼノンのパラドックスについての考察の中で、時間や空間の分割についての新た
な洞察があるとする。すると、それは、時間や空間の分割についての新しい発見であり、
哲学研究の文脈では意義のある成果とみなすことができよう。もちろん、ゼノンのパラ
ドックスが解決され、かつ、時間や空間の分割についての新たな発見が得られることが
理想であるけれども、後者の意義は、パラドックスが解決されたかどうかという基準と
別に評価されうると考えられる。同様に、本研究も、教育というオリジナルの観点を導
入することで探求のパラドックスが解決され、かつ、教育についての新たな発見が得ら
れることは理想であるけれども、探求のパラドックスの議論の解決を試みる考察の中で
教育についての新たな発見があるなら、その意義はパラドックスの解決とは別に評価さ
れうるだろう。
このようなことから、第二章は次の二つの議論から成る。一つ目は、探求のパラドッ
クスの解決を試みるまでの議論である。二つ目は、パラドックスの解決を目指した考察
についての検討から分かる、教えと学びに関する発見についての評価についての議論で
ある。それぞれについて説明しよう。
(1) 探求のパラドックスの解決を試みる議論
まず、探求のパラドックスの解決を試みるまでの議論を簡単にみておこう。探求のパ
ラドックスが問題となるのは、探求の目標となる知識がまだ知られていない場合にある。
さらに、探求の中で扱われる問題に着目して、この場合において、探求の開始時に立て
られる問題(第二章の議論の中で「最初の問題」と呼ばれる)と探求の過程中の各ステ
ップにおいて立てられる諸問題(第二章の議論の中で「中間の問題」と呼ばれる)とが
区別される。
次に、
『メノン』の問題設定では、学習者は探求される問題に関連する内容を学習して
いないという意味で初心者であることが明確にされる。探求のパラドックスの提示する
中心的問題とは、初心者の学習者は、探求の端緒において、最初の問題をどのように立
てれば良いのか分からないし、探求の過程において、中間の問題をどのように立てれば
良いのかも分からないため、みずから探求を始めることも進めることもできないことに
29
ある、と論じられる。
このような探求のパラドックスを解決する方法として私は、初心者の学習者が探求さ
れる問題に関連する内容を親や教師から教わる、ということを考える。というのも、親
や教師から教わることにより、学習者は初心者ではなくなり、まだ知られていない目標
の知識を獲得するために、最初の問題や中間の問題をみずから立てうると考えられるか
らである。
しかしながら、ここで問題が生じる。それは、
「親や教師は、その内容をどのように知
ったのだろうか」と言う問題である。先ほど導入した、教えという観点から考えると、
ほかの誰かに教わるしかない。だが、そうすると今度は、その者はいかにして知るのか
という問題が生じる。
このようなことから、教えという観点を導入しうるためには、教える人が知識をもっ
ていることが必要であることがわかる。それゆえ、教えという観点を導入すると、
「教え
る人はその知識をいかにして知りえたのか」という問題が、繰り返し残ってしまうこと
になる。
以上の理由から、教えの観点の導入は、探求のパラドックスに対して十分な回答とは
言えないと結論づけられることになる。ここまでが、探求のパラドックスの議論を教育
というオリジナルの観点を導入することで解決しようとした結果までの議論である。
(2) 教えと学びに関する発見についての評価の議論
次に、教えと学びに関する発見についての評価の議論について簡単にみてみよう。探
求のパラドックスについての検討から、探求に関係する「教え」と「学び」という概念
に関して、教わることと学ぶことはそれぞれ、探求される問題に関連する内容を知る異
なる方法である点は認められる。
他方で、教えと学びと知ることとの関係に関して、教えと学びの場合それぞれに特有
の問題があることがわかる。
それぞれの問題を説明しよう。学びに関する問題は、われわれが新しく始める探求に
おいて、初心者は、目標の知識獲得につながる内容をあらかじめ意図的に選んで知ろう
とすることはできない、ということである。われわれは、新しい知識を獲得するための
探求に従事する場合には、われわれはいつでも初心者の立場となりうる。
次に教えの問題について説明しよう。教えは、意図的に、探求される問題に関連する
内容を、教える者の意図したとおり伝えることができる。だが、問題は、そのように意
図的に選択して伝えられうる内容は、教える者にその解答がすでに知られた問題に限ら
れる、ということにある。
それでも、子どもがみずから問題を立てて探求を始めるようになるために、多くの知
識を親や教師の証言を通じて教わることは必要であるだろう。というのも、初心者は多
30
第1章
教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
くの知識を教わる中で、後にみずから行うかもしれない探求に関連する内容をも意図せ
ず教わっていると考えられるからである(第二章において、この段階は「初期の(認識
論的)段階」と呼ばれる)
。
さらに、やがて子どもは、知識獲得につながる内容かどうか判断のつかないまま、さ
まざまな内容を自発的にも学ぼうとするようになる(このような学びは「手探りの学び」
と呼ばれ、この学びの段階は「自発的学びの(認識論的)段階」と呼ばれる)。このよう
な学びを通じて子どもは、結果的に探求される問題に関連していたと後から分かる内容
を、そうとは気付かないうちに学ぶ。
以上のことから次のことが言える。たしかに、教わることや手探りで学ぶことを通じ
て子どもは、探求の目標の知識に至るプロセスをあらかじめ見通すことはできない。そ
れでも、子どもは親や教師の教えを通じて、結果的に探求される問題に関連していたと
後から分かる内容を、そうとは知らないうちに学んでいる。探求を始めることができる
ようになるため、
「学童期」や「青年期」と呼ばれる小学生から中学生にかけての子ども
たちには、このような学びが不可欠であると思われる。
いま、子どもがこのような学びを経て、みずから探求できるようになるとする。子ど
もたちは、未知の知識を獲得するため、その知識獲得につながる内容を手探りで学ばな
ければならない。それでも、そのような学びは、必ずしもまったく当てずっぽうである
ばかりではない。たとえば、理知的な探求者(intellectual inquirers)であるなら、目標の知
識を獲得するために知らなければならない内容について、あらかじめ大方の予測をする
ことができるだろう。
ここで、「intellectual」の邦訳について簡単に説明しておきたい。以下の議論では、
「intellectual」を、徳の種類を表すために用いるとき「知的」と訳し、人の性質ないしあ
りさまを表すために用いるとき「理知的」と訳すこととする。このように訳し分ける最
も大きな理由は、
「intellectual」が徳を修飾する形容詞として用いられるとき、知的徳と
いう概念は、道徳的徳と対比され、知識獲得に関係する徳を表すのに対して、
「intellectual」
が人を修飾する形容詞として用いられるとき、「intellectual」は、より広く探求者の知性
的ないしは理性的なあり方を表している、ということにある。
もちろん、理知的な探求者でも、必ずしも知識の獲得に成功するとは限らない。それ
でも、目標の知識を獲得するために知らなければならない内容の範囲に見当を付けられ
るかどうかは重要なことであるだろう。そうすると、学習の初心者の中にも、より理知
的な探求者とそうではない探求者という区別があることになる。
では、両者を区別するものは何だろうか。多くの者を理知的な探求者とするものは、
教育により後天的に習得されることである、と考えられる。学習の初心者を理知的な探
求者とするものには、その人の生まれ持った才能も含まれるかもしれないが、才能の問
題は、通常の環境において正常な発育をする子どもが、社会生活をするうえでより理知
的な探求をするための要因とは別に考える必要があるだろう。
31
では、子どもがより理知的な探求者となるため、教育を通じて後天的に習得されるべ
きことは何だろうか。言い換えるなら、子どもが、理知的な仕方で探求を行えるように
なるため、教育を通じて学ぶべきことは何か。これは、自発的に学び始めた子どもを良
い探求者に育てる教育に関する重要な問題だろう。
本研究の第三章以降において私は、この問題について回答する。次に、第三章以降の
構成について説明しよう。
1.3.2 理知的な探求者となるため学ぶべきこと:情動、動機、および、
徳
第三章から第五章にかけて、第二章で提示された「学習者がより理知的な仕方で探求
を行えるようになるため、教育を通じて学ぶ必要のあることは何か」という問題が扱わ
れる。具体的には、第三章から第五章で私は、探求をより理知的に行えるようになるた
めに学ぶ必要のあることについて一つずつ挙げたうえで、各条件に関連する内容につい
ての議論を提示する。30
まず、第三章では、探求を理知的な仕方で行えるようになるために学ぶ必要のある一
つ目として、適当な情動が、教えと学びのしかるべき状況で繰り返し生じるようになる
ことを挙げる。
情動についてのこのような傾向性は「情動的徳(emotional virtues)」と呼ばれる。この条
件が必要な理由は、情動の種類の中には教えや学びを促進しうるものがある、というこ
とにある。第三章では、教えと学びに役立つような情動の一例を示し、情動がどのよう
に学びや教えに貢献しうるのかを具体的に検討する。
情動的徳が理知的な探求に貢献することを論証するために私は、イズラエル・シェフ
ラーの「認知的情動(cognitive emotion)」と呼ばれる情動の議論を取り上げる。具体的に
は、認知的情動についてのシェフラーの議論を批判的に検討することで、次の三つのこ
とを論証する。すなわち、一つ目は、驚きは、当の教えや学びの内容に関連のある質問
や批判に意識的な注意を向けさせてくれるセンサーの役割を果たしうる、ということで
ある。二つ目は、この点で驚きが合理的生活における教えや学びに貢献しうる、という
ことである。三つ目は、驚きを含む、適切な情動が生じることで、適切な状況で関連の
ある認知内容を当人に気付かせうる情動的徳は、子どもがより理知的な仕方で探求を行
えるようになるため、教育を通じて学ぶ必要がある、ということである。
次に、第四章では、子どもが理知的な仕方で探求を行えるようになるために学ぶ必要
のある二つ目として、批判的に思考しようと動機付けられるようになることが取り上げ
られる。ここで想定される子どもは、まだ理由や証拠に対して敏感ではなく、必要な場
面でも理由に導かれることのない者である。31 このような子どもが理知的な探求者へと
成長するうえで、しかるべき場面で理由を評価するなど、批判的に考えるよう動機づけ
32
第1章
教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
られるようになることは必要なことだろう。
批判的に思考しようとする動機の問題を扱うために私は、現代の教育哲学者であるハ
ーヴィ・シーゲル(Harvey Siegel)の議論を分析および敷衍する。そして、次の三点を論証
する。32 一点目は、教師や親、あるいは、小説や映画などのメディアにおける虚構の登
場人物は、合理性を示す手本(exemplars)と見なされうる、ということである。二点目は、
子どもは手本を示されることで、批判的に思考するとはおおそよどのようなことなのか
を学ぶ、ということである。三点目は、手本に対する敬慕という情動(the emotion of
admiration)は子どもが批判的に思考しようとする動機要因としての役割を果たすだろう、
ということである。
第五章では、学習者がより理知的な探求者になるために、教育を通じて学ぶ必要のあ
る三つ目として、問いをみずから同定し、修正し、洗練させるなど、良い問いを立てる
ことができるようになることが取り上げられる。第一節で言及した、エレンコスと呼ば
れる問答法を基礎にした教育など、教育の文脈ではしばしば、与えられた問題の答えを
出すだけでなく、みずから問いを立てて問題を解決することは重要であると想定されて
きた。
では、問いをみずから同定し、修正し、洗練させるなど、子どもが良い問いを立てる
ようになるために、どのようなことを身につける必要があるだろうか。本章では、知的
徳と呼ばれる、探求者の性格特性の種類の中には、それを持つ探求者が、焦点の定まっ
た、的を射た問いを立てることができるという意味で「良い」問いを立てることに貢献
するものがあることを明らかにする。これにより、次のことが言える。すなわち、関連
する知的徳を身につけ、良い問いを立てることは子どもが探求を通じて新しくて重要な
信念を獲得することに貢献する。このような意味で、子どもが良い問いを立てることが
できるようになることは、教育を通じて学ぶべき重要なことである。
以上のことをまとめると、理知的な仕方で探求を行えるようになるため、子どもは適
切な情動的徳を身に付け、批判的に思考しようと動機づけられようになり、良い問いを
立てられるようになる必要があると結論づけられる。
ここで学ぶ必要があると想定された三つ、すなわち、情動、動機、あるいは、知的徳
はすべて、主にわれわれの性格特性に関係するものである。これらは、たとえば、大量
の知識を得ることなどとは異なり、子どもが教育機会において大人との関わりを通じて
ゆっくり身についていくものであると考えられる。他方で、情動、動機、あるいは、知
的徳は、教育を受ける時期を終えた後、大人になっても理知的な探求者であり続けるた
めの助けとなるものであるだろう。というのも、探求は、われわれが生涯、何かを学ぼ
うとする限り、従事するものであるからである。
したがって、子どもが必要な情動的徳を身につけ、しかるべき動機づけられるように
なり、そして、知的徳を習得することは、その子どもが理知的な探求者となるうえで、
とくに学ぶべき重要なことであると言えよう。
33
第六章では、本研究の議論を整理した後、教えと学びの認識論的文脈における自己と
他者の問題などの探求を中心とする教育の認識論の今後の課題を挙げる。
35
第2章
探求のパラドックスを再考する
教育哲学の歴史の中で『メノン』における探求のパラドックスは、学びの想起説と
ともに注目されてきた。本章では、まず、探求のパラドックスに教育の観点を考慮し
たオリジナルの定式を与える。次に、定式化されたパラドックスを、教えという観点
を導入することで解決しようとする。このような検討を通じて、探求に関係する教え
や学びと知識との関係について改めて考える。
2.1
目的と背景
『メノン』において「探求のパラドックス」と呼ばれる議論が提示されていることは
広く知られている。探求のパラドックスとは簡単に言えば、われわれは新しい知識を探
求することができない、というものである。ここで「パラドックス」とは、われわれの
一般的通念に反することを意味するものであり、それゆえ、探求のパラドックスは、わ
れわれの実際の探求活動を考えると奇妙に聞こえる、探求についての一般的通念に反す
ることを述べるものである。
探求のパラドックスについての議論はこれまで、新しい知識を獲得するための探求に
関する問題、および、プラトン哲学における解釈の問題として論じられてきた。1 また、
この議論は探求ができるようになるためには学習者は何ができるようになる必要がある
のかなど、教育における学びの問題として関心を持たれてきた (e.g., Curren, 1998;
Scheffler, 1965)。
本章では、この探求のパラドックスを『メノン』の議論に沿って再定式化した後、教
育というオリジナルの観点を考えることで解決することを試みる。
この研究の狙いは次のことにある。まず、探求のパラドックスに対して、教育の観点
を考慮したオリジナルの定式を与える。次に、教えというオリジナルの観点を導入する
ことで、探求のパラドックスに回答しようと試みる。しかし、最終的な帰結として、一
見するとパラドックスを解決する有力な方法と思われた教えという観点の導入によって
36
第2章
探求のパラドックスを再考する
も、パラドックスを解決することはできないことを、あらかじめ断っておかなければな
らない。
それでも、その結論に至る過程の中での考察の中には、教えという観点を導入するだ
けでは探求のパラドックスの解決になぜ失敗するのかを含む、教えと学びについての重
要な発見がある。これらの発見は、探求に関係する教えと学びについての認識論的研究
にとって意義のある成果となるだろう。
そこで、本章は、次の二つの議論から構成される。一つ目は、探求のパラドックスを
定式化した後、そのパラドックスを教育というオリジナルの観点を導入することで解決
しようとするが、結果的には解決に失敗するまでの議論である。二つ目は、パラドック
スの解決を目指した考察についての検討から分かる、探求に関係する教えと学びに関す
る発見についての評価である。この教えと学びについての評価から、教育に関係する探
求の問題を同定する。すなわち、その問題とは、
「子どもが、より理知的な仕方で探求を
行えるようになるため、教育を通じて学ぶべきことは何か」というものである。
本章の議論の構成は、以下の通りである。第二節で、探求のパラドックスの議論の理
解に必要な前提がどのようなものなのかを明らかにする。第三節で、探求のパラドック
スの論証の構成を明らかにする。第四節で、その論証構造の分析を通じて、探求のパラ
ドックスにオリジナルの定式を与える。第五節では、教えという観点の導入による探求
のパラドックスの回答を試みる。結果的にはうまくいかないことが判明する。第六節で
は、学びの想起説の内容を検討する。第七節では、パラドックスの解決を目指した考察
についての検討から分かる、探求に関係する教えと学びに関する発見について評価する。
そのうえで、教えと学びについての評価から、教育に関係する探求の問題を同定する。
2.2
探求のパラドックスの議論の理解のために必要
な前提
本節では、探求のパラドックスの議論内容を詳細に考察する前に、その議論を理解す
るために必要な前提を明らかにする。その理由は、先行研究で、この探求のパラドック
スの論証構造がとても難解であることが指摘されているため(Scott, 2006; Ryle, 1976)、は
じめにその構造を明らかにするために必要な議論の諸前提を明確化しておく必要がある
と考えられる、ということにある。
まず、メノンがソクラテスに探求について疑問を切り出す「メノンの挑戦(Meno’s
challenge)」(Scott, 2006, p. 75)と呼ばれる場面の一部を挙げて、議論の前提を確認してみ
よう。
37
おや、ソクラテス、いったいあなたは、それが何であるかがあなたにぜんぜんわ
かっていないとしたら、どうやってそれを探求するおつもりですか。というのは、
あなたが知らないもののなかで、どのようなものとしてそれを目標に立てたうえ
で、探求なさろうというのですか。あるいは、幸いにしてあなたがそれをさぐり
当てたとしても、それだということがどうしてわかるのでしょうか―もともとあ
なたはそれを知らなかったはずなのに。(Meno, 80d5–8)
2
まず確認できるのは、ここで「知らないもの」とは、探求の目標とされるものであるこ
とである。次に、ここで「探求」とは、問うこととそれに答えること、すなわち、問答
から成るものである。3 このような探求は、第一章第二節で挙げられた、四つの特徴の
中で、(1-5) 「或る問題に対して、問うことと答えることを通じて答えが見出される」も
のであり、また、(1-6) 「問答は主に、疑問文という形をした問いと、文の形をした答え
から成る」ものである。4
5
このことは、うえの引用の後で描かれるソクラテスとメノンの召使いのやり取りをす
る次の場面において見られる。それは、ソクラテスがメノンの召使いに「面積が 8 とな
る正方形の一辺を求めよ(図示せよ)
」という幾何学の問題を与え、その召使いがソクラ
テスによって与えられる諸問題に答えることで、やがて正答を導き出す場面である(ibid.,
82c-85b)。この事例では、幾何学の問題の解答が召使いに知られていないことであり、召
使いはその学習者として、ソクラテスとの問答から成る探求を通じてその答えを獲得す
る。以下では、
「学習者」とは、目標となる知識を獲得するために探求する者のこととす
る。
これらのことから、
『メノン』の問題設定では、知識は探求の結果として獲得されるも
のに限定されていると言える。より具体的には、ここで知識は、諸々の問題を答え、そ
こで別の新たな問題が提示され、そうして、その問題に答える、という一連のプロセス
を経た結果として獲得される、ということである。知識を獲得する方法は、知覚や記憶、
直観、あるいは、信頼のできる人からの証言など、さまざま考えられるが、
『メノン』の
問題設定では、その方法が探求に限定されている(cf. 田中, 2004)。
さらに、ここで探求の末に得られる知識は、感覚経験によって直接、獲得されること
ができないものである(cf. Vlastos, 1994, p. 100)。そのような知識の範例として、幾何学の
問題の正答が挙げられている。『メノン』の別の個所では、「徳は教えられうるのか」な
ど、倫理の問題も扱われている。しかし、このような倫理の問題と探求一般の問題との
関係がどのようなものなのかは明確ではない(Ryle, 1976, p. 3)。そのため、ここでの議論
では、幾何学の問題の正答を、探求を通じて入手される知識の範例としよう。6
以上のような前提のもとで、学習者の探求に関する問題が提起される。次節では、こ
の問題について考察しよう。
38
第2章
2.3
探求のパラドックスを再考する
探求のパラドックスの議論の構成
本節では、探求のパラドックスの議論の構成を確認し、その議論の問題がどこにある
のかを明らかにする。まず、ソクラテスがメノンの議論を確認する部分をみてみよう。
前節で扱ったメノンの挑戦の部分との混同を避けるため、以下の議論では、探求のパラ
ドックスとは、下記の内容のことを表すこととする(cf. Scott, 2006, p. 75)。7
わかったよ、メノン、君がどんなことを言おうとしているのかが。君の持ち出し
たその議論が、どのように論争家ごのみの議論であるかということに気づいてい
るかね?いわく、
「人間は、自分の知っているものも知らないものも、これを探求
することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということ
はありえないだろう。なぜなら、知っているのだし、ひいてはその人には探求の
必要がまったくないわけだから。また、知らないものを探求するということもあ
りえないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らない
はずだから。(Meno, 80e1–5)
論証のポイントは、次のように書くことでより明確になる。8
(1) 探求の目標となる内容は、学習者にすでに知られているか、知られていないかい
ずれかである。
(2) 学習者に知られている内容について、その学習者は探求することはできない。
(3) 学習者に知られていない内容について、その学習者は探求することはできない。
(4) それゆえ、探求の目標となる内容について、学習者は探求することはできない。
うえの三つの仮定の中で、仮定(1)は非明示的な前提であるが、これが真であることは認
められるだろう。なぜなら、幾何学の問題の解答など、探求の目標となる内容は知られ
ているか、知られていないかのいずれかであるからである。さらに、仮定(2)が真である
ことも認められるだろう。というのも、学習者に知られていることについては、探求さ
れるべきものは何も残っていないのだから。もし仮定(3)が真であるなら、結論(4)が、三
つの正しい前提と演繹的推論によって、正しいことになる。そうすると、探求のパラド
ックスの論証が成り立つかどうかは、仮定(3)、すなわち、「学習者に知られていない内
容について、その学習者は探求することはできない」ことが真かどうか、言い換えるな
ら、学習者は自分が知らないものを探求できないということが正しいのかどうかによる。
そこで、次節では、仮定(3)に考察の焦点を絞ろう。
39
2.4
探求のパラドックスの定式化
本節では、仮定(3)と仮定(3)を支える理由に焦点を絞って考察することで、探求のパラ
ドックスの論証を一つの形に定式化する。
前節の引用から、仮定(3)、すなわち、「学習者に知られていない内容について、その
学習者は探求することはできない」である理由は、「何を探求すべきなのかを知らない」
ことである、と言われている。しかし、この仮定(3)を支える理由と仮定(3)が正確にはど
のようなことなのかは明確ではない。
『メノン』の中では、この点は詳しく説明されてい
ないので9、以下では、メノンの挑戦、および、ソクラテスとメノンの召使いとの問答を
参考にしながら、まず、仮定を支える理由と仮定(3)がどのようなことなのかについて考
察し、その後、仮定(3)を支える理由と仮定(3)の議論がどのようなものなのかを考察しよ
う。
まず、仮定(3)を支える理由がどのようなことなのかを明確にしよう。幾何学の問題に
ついて探求するソクラテスとメノンの召使いとのやり取りを考えると、仮定(3)を支える
理由の文における「何を探求すべきなのか」は、学習者が探求中に取り組む諸問題のこ
とを表しているだろう。探求における問題は、少なくとも次の二つのタイプに区別され
る。一つ目は、探求の開始時に立てられる問題であり、二つ目は、探求の過程における
各ステップにおいて立てられる諸問題である。以下、場合に応じて、それぞれを「最初
の問題」
、
「中間の問題」と略記する。例えば、幾何学の問題を事例とすると、最初の問
題は「面積が 8 となる正方形の一辺を求めよ」であると考えられ、中間の問題とは、そ
れを探求の目標として立てるとき、その探求の過程における各ステップにおいて立てら
れる諸問題のことである。
うえの二つの問題のタイプの区別に従うと、仮定(3)を支える理由である「何を探求す
べきなのかを知らない」の内容は、探求中に取り組まれる問題が最初の問題の場合と中
間の問題の場合により、次のように区別される。すなわち、最初の問題の場合、
「何を探
求すべきなのかを知らない」は、
「学習者が最初の問題をどのような問題を立てれば良い
のか分からない」ことを述べている、すなわち、
(5) 学習者は最初の問題として、どのような問題を立てれば良いのか分からない。
となる。中間の問題の場合、
「中間の問題をどのような問題を立てれば良いのか分からな
い」ことを述べている、すなわち、
(6) 学習者は探求の目標を達成するために必要な中間の問題として、どのような問題
を立てれば良いのか分からない。
40
第2章
探求のパラドックスを再考する
となる。これら命題(5)および命題(6)が、仮定(3)を支える理由の内容である。10
次に、仮定(3)、
「学習者に知られていない内容について、その学習者は探求すること
はできない」とはどのようなことなのかを明確にしよう。まず、前節の引用から、
「学習
者に知られていない内容」とは、例えば幾何学の問題の解答など、問題の正答である。
次に、
「探求することはできない」の意味は、探求における最初の問題と中間の問題とい
う、問題のタイプによって次のように場合分けされる。最初の問題を「探求することは
できない」とは、
(7) 探求を始めることができない。
ということである。次に、中間の問題を「探求することはできない」とは、
(8) 探求を進めることができない。
ということである。
次に、仮定(3)とそれを支える理由との関係を詳しくみてみよう。これまでの考察から、
探求中に取り組まれる問題の種類の区別により、仮定(3)は命題(7)あるいは命題(8)を意味
し、仮定(3)を支える理由は、命題(5)あるいは命題(6)を意味する。仮定(3)とそれを支え
る理由との間には、次の二つの関係が成り立っていると考えられる。一つ目は、命題(5)、
「学習者は最初の問題として、どのような問題を立てれば良いのか分からない」ことが
理由となり、命題(7)、
「探求を始めることができない」が導かれる議論である。二つ目
は、命題(6)、「学習者は探求の目標を達成するために必要な中間の問題として、どのよ
うな問題を立てれば良いのか分からない」ことが理由となり、命題(8)、「探求を進める
ことができない」が導かれる議論である。以下、それぞれの議論をみていこう。
議論に入る前に、今後の論証がやや煩瑣になることを鑑み、命題同士の接続関係を表
すいくつかの記号を導入することで、議論の論証構造を図示できるようにし、議論の論
証構造を視覚的にも確認できるようにする。現在の議論の中で現れる命題同士の接続関
係は次の四つである。すなわち、第一に、複数の命題が同時に成り立っていることを述
べる「A かつ B」のような連言、第二に、複数の命題の中でどれかが成立していること
を述べる「A または B」のような選言、第三に、ある命題が別の命題の理由であること
を述べる「A ゆえに B」のような理由(関係)
、そして第四に、或る命題が別の命題の言
い換えであることを述べる「A すなわち B」のような言い換えである。連言、選言、理
由、および、言い換えを図式の中ではそれぞれ、
「∧」、
「∨」、
「→」、
「=」で表すことと
する。たとえば、仮定(3)、「学習者に知られていない内容について、その学習者は探求
することはできない」とは、言い換えるなら、命題(7)、
「探求を始めることができない」
、
41
あるいは、命題(8)、
「探求を進めることができない」のいずれかであった。この命題(7)
と(8)のいずれかが成り立つということは、命題(3)が成り立つことである、すなわち、探
求ができないことになる。このことを図示すると、次のようになる。
(3)
∥
(7) ∨ (8)
図 2.1
では、はじめに、命題(5)、「学習者は最初の問題として、どのような問題を立てれば
良いのか分からない」ことから仮定(7)、「探求を始めることができない」に至る議論を
みてみよう。この議論は、メノンの挑戦における議論を踏まえたものである。メノンの
挑戦では「知らないもののなかで、どのようなものとしてそれを目標に立てたうえで、
探求なさろうというのですか」と言われている。この疑問は、
「学習者は探求を始めるこ
とができるのだろうか。というのも、探求の目標としてどのような問題を立てれば良い
のか分からないのであるから」と解釈できると思われる。この議論は次のように定式で
きる。すなわち、
(5) 学習者は最初の問題として、どのような問題を立てれば良いのか分からない。
それゆえ、
(7) 探求を始めることができない。
というものである。この命題同士の関係を図示するなら、
(5)
↓
(7)
図 2.2
となる。
この論証で問題となるのは、『メノン』の問題設定では、なぜ命題(5)が真であると考
えられるのか、というものである。というのも、例えば、私たちの多くは学習者として、
「面積が 1000 となる正方形の一辺の長さは何か」という幾何学の問題を探求の目標とし
42
第2章
探求のパラドックスを再考する
て立てることができるように、学習者が最初の問題として、どのような問題を立てれば
良いのか知っており、探求の目標として最初の問題を立てることができる場合がある、
と考えられるからである。
仮定(5)が真であると見なされる理由を考えよう。『メノン』の問題設定では、学習者
には特定の条件が付けられている、と考えられる。例えば、
「面積が 8 となる正方形の一
辺を求めよ」という幾何学の問題を解くメノンの召使いは、誰からも幾何学を教わって
いないとされている(ibid., 85d)。ソクラテスとの問答をする前、この召使いは、例えば「正
方形」
、
「面積」
、あるいは「対角線」などの概念を理解していないし、正方形の一辺の長
さと面積との関係など、諸概念の間の関係を理解していない。加えて、召使いはそれら
の概念と関連する諸々の公式の中から問題を解くために適切なものを選択できないし、
公式や解法を具体的問題に有効に用いることもできないだろう。今、このようなことを
学習することを一括りにして、
「問題に関連する内容を学習する」と呼び、また、問題に
関連する内容を学んでいない者を「問題の初心者」と呼ぼう。11 そうすると、メノンの
召使いは幾何学の問題に関連する内容を学習していない、すなわち、問題の初心者であ
る。
メノンの召使いの事例のように、
『メノン』の問題設定では、学習者は探求される問題
の初心者であることが非明示的に前提されていると考えられる。すなわち、
(9) 学習者が問題の初心者である
ということが議論の前提として含まれる。学習者が問題に関連する内容を学んでいない
場合は教育の文脈では多くある。例えば、これから算数を学習する小学生達は通常、幾
何学の問題に関連する内容をまだ学習していないだろう。
学習者が初心者であると、その学習者は最初の問題として、どのような問題を立てれ
ば良いのか分からない、と言えるだろう。すなわち、
(10) 学習者が最初の問題として、どのような問題を立てれば良いのか分かるのは、問
題に関連する内容を学習しているときに限られる、
と考えられる。
『メノン』の問題設定では、学習者が初心者であること、すなわち、命題(9)が前提と
されていた。この前提のもとでは、命題(10)より、その学習者は最初の問題として、ど
のような問題を立てれば良いのか分からない、すなわち、命題(5)が成り立つことになる。
それゆえ、その学習者は探求を始めることができないことになる、すなわち、命題(7)が
成り立つ。
43
(9) ∧ (10)
↓
(5)
↓
(7)
図 2.3
次に、命題(6)、「学習者は探求の目標を達成するために必要な中間の問題として、ど
のような問題を立てれば良いのか分からない」ことから命題(8)、「探求を進めることが
できない」ことに至る議論をみてみよう。この議論は、ソクラテスとメノンの召使いと
の問答を踏まえたものである。探求の開始時に立てられる問題、すなわち、最初の問題
は必ずしも学習者自らによって立てられる必要があるわけではなく、教育者に与えられ
たり、教科書を見ていたら偶然発見されることもある。例えば、
『メノン』では、ソクラ
テスが幾何学の問題を召使いに与えている。
何らかの仕方で、学習者に最初の問題が与えられるなら、その学習者は探求を進める
ことができるように見える。しかし、ここで、
『メノン』の問題設定ではおそらく、学習
者が探求を進めることができるために必要な別の条件が必要とされている。それは、学
習者は、探求の過程中の各ステップにおいて立てられる諸問題、すなわち、中間の問題
として、どのような問題を立てれば良いのか分かっていなければならない、というもの
である。この議論は以下のように定式化できる。すなわち、
(6) 学習者は探求の目標を達成するために必要な中間の問題として、どのような問題
を立てれば良いのか分からない、
それゆえ、
(8) 探求を進めることができない。
『メノン』の議論では、幾何学の問題の初心者である召使いに、ソクラテスが「面積
が 8 となる正方形の一辺を求めよ」という幾何学の問題の正解を得るために必要な諸々
の問題を与え、一つずつ、それを答えさせている。ソクラテスは「問題を与えること」
と「答えを教える」ことを区別し、召使いに問題を与えているだけであることを何度も
強調している(Scott, 2006, p. 101)。おそらく、このようなソクラテスによる補助のおかげ
で、召使いは探求の途中で、幾何学の問題に誤った回答を与えながらも12、最終的には、
幾何学の問題の正解を得ることができたのだろう(cf. Moravcsik, 1994, p. 124)。
この召使いの事例から、おそらく次のことが言える。すなわち、幾何学の問題に関連
44
第2章
探求のパラドックスを再考する
する内容を学習していない、すなわち、問題の初心者であるなら、その学習者は中間の
問題として、どのような問題を立てれば良いのか分からない。言い換えるなら、
(11) 学習者が探求の過程中の各ステップにおいて、中間の問題として、どのような問
題を立てれば良いのか分かるのは、問題に関連する内容を学習しているときに限
られる
ということである。
『メノン』の問題設定では、召使いは幾何学の問題に関連する内容を学習していない
ことが前提とされていた、すなわち、命題(9)が成り立っていることが前提とされている
ことを思い出そう。この前提と命題(11)が合わせて成り立つことを理由として、学習者は
中間の問題として、どのような問題を立てれば良いのか分からない、すなわち、命題(6)
が成り立つことになる。そして、この命題(6)が成り立つことから、たとえ何らかの仕方
で学習者に最初の問題が与えられたとしても、学習者は自分で探求を進めることができ
ないことになる、すなわち、命題(8)が成り立つことになる。
(9) ∧ (11)
↓
(6)
↓
(8)
図 2.4
こうして、この場合にも、探求の目標に到達しないことになる。
これまでの議論をまとめよう。はじめに、探求における問題に着目し、探求の開始時
に立てられる問題と探求の過程中の各ステップにおいて立てられる諸問題とに区別した。
次に、『メノン』の問題設定では、学習者は探求される問題の初心者である、すなわち、
命題(9)が成り立つことが前提とされていることを明らかにした。この前提のもとでは、
命題(10)および命題(11)それぞれを理由に、初心者の学習者は最初の問題として、どのよ
うな問題を立てれば良いのか分からない、すなわち、命題(5)が成り立ち、また、中間の
問題として、どのような問題を立てれば良いのかも分からない、すなわち、命題(6)が成
り立つ。そうすると、その学習者は、みずから探求を始めることも進めることもできな
いことになる、すなわち、命題(7)と命題(8)がそれぞれの場合に成り立つ。以上の論証が、
仮定(3)を支える理由と仮定(3)が述べていることであると考えられる。この論証構造を図
示すると、次のようになる。ただし、各論証の単位を明示するため下線を引くこととす
る。
45
(9) ∧ (10) (9) ∧ (11)
↓
↓
(5)
(6)
↓
↓
(7)
∨
(8)
∥
(3)
図 2.5
ここで、探求のパラドックス全体の論証に戻ろう。これまでの仮定(3)についての考察
から、仮定(3)が真であると言える。そうすると、探求のパラドックスの仮定(1)および仮
定(2)は真であると認められていたから、結論(4)、すなわち、「われわれは新しい知識を
探求することはできない」ことは真になる。すなわち、探求のパラドックスが成り立つ。
以上の論証は、メノンの挑戦およびソクラテスとメノンの召使いとの問答を参考にしな
がら、命題(5)から命題(11)までの説明や補足を加えて成るものである。
こうして、
『メノン』に見られる教育の観点を重視したオリジナルの探求のパラドック
スを定式化した。次節では、この探求のパラドックスに対して教えという観点を導入す
ることで回答を試みる。
2.5
教えという観点の導入による回答
本節では、教えというオリジナルの観点を導入することで、探求のパラドックスに
回答しようと試みる。しかし、第一節で断っておいたように、最終的な帰結として、
一見するとパラドックスを解決する有力な方法と思われた教えという観点の導入によ
っても、パラドックスを解決することはできないことが明らかになる。本節では、そ
の過程と理由を明確にする。
前節の議論から、探求のパラドックスの提示する問題の焦点は、探求の目標となる
知識がまだ知られていない場合、すなわち、(3)「学習者に知られていない内容につい
て、その学習者は探求することはできない」という場合にある。前節の論証図 2.5 か
ら分かるように、探求のパラドックスの論証が成り立つために不可欠なことは、学習
者が、問題に関連する内容を学んでいない者、すなわち、(9)「学習者が問題の初心者
である」ことが前提される、ということである。この前提と、命題(10)あるいは命題(11)
がそれぞれ合わさることで、初心者の学習者は、最初の問題としてどのような問題を
立てれば良いのか分からないし、中間の問題としてどのような問題を立てれば良いの
46
第2章
探求のパラドックスを再考する
かも分からないことになり、その学習者はみずから探求を始めることも進めることも
できないこと、すなわち、命題(7)および(8)が帰結し、それゆえ、探求ができないこと
になる。命題(10)や命題(11)の内容、すなわち、学習者が問題に関連する内容を学習し
ていない限り、探求中にどのような問題を立てれば良いのか分からないということが
正しいことは認められると考えられる。
このように定式化される探求のパラドックスを解決させるためには、学習者が探求
に先立って、探求の中の問題に関連する内容を知っていることがあるということを証
明する必要がある。ここで、現在の議論の文脈は、たとえば前節で扱われた、幾何学
の問題の正答を探求するメノンの召使いが幾何学の問題に関連する内容をいまだ学ん
でいない場合のように、教育の文脈であることを思い出そう。このことを考えると、
この探求のパラドックスを解決するために説明される必要があるのは、
「初心者の学習
者が、探求に先立って問題に関連する内容をいかに知りうるのか」という問いに対す
る答えである。
ここで、探求のパラドックスを解決する一つの方法として、私は、初心者の学習者が
探求される問題に関連する内容を親や教師から教わることを考える。というのも、教わ
ることで、学習者は初心者ではなくなり、目標の知識を獲得するために、最初の問題や
中間の問題をみずから立てうると考えられるからである。
ところが、ここで問題が生じる。親や教師は、その内容をどのように知ったのだろう
か。先ほど導入した、教えという観点から考えると、ほかの誰かに教わるしかない。だ
が今度は、その者はいかにして知るのかという問題が生じる。このように、教えという
観点を導入しうるためには、教える人が知識をもっていることが必要であり、教える人
はその知識をどうやって知りえたのかという問題は何度も繰り返されてしまう。
この問題を定式化すると次のようになる。いま、
「S」、
「T」は任意の人を表す記号、
「P」
は探求される問題に関連する具体的内容を表す記号、
「≠」を同一人物ではないという関
係を表す記号とする。教えという観点の導入とは、
(12) S は内容 P を、S≠T であるような T から教わる。
ということを考えることである。いま、一郎、二郎、三郎を事例に考える。初心者の三
郎は、二郎から内容 P を教わることで、最初の問題や中間の問題をみずから立てうる。
しかし、二郎が内容 P を三郎に教えうるためには、すでに内容 P を知っているのではな
ければならない。すると今度は、二郎が P を知っていることを教えの観点で説明しなけ
ればならない。
この具体例から、教えの観点、すなわち、(12)を導入することが意味をなすためには
別の一般的条件、すなわち、
47
(13) S が内容 P を T(≠S)から教わりうるためには、T は P を知っているのでなけれ
ばならない。
という条件が必要であることがわかる。たとえば、二郎もまた内容 P を一郎から教わる
とすると、今度は、一郎が内容 P を知っていなければならないことになるが、そうする
と、一郎が内容 P を知っている理由を教えという観点によって説明しなければならない。
そうすると、一郎は、三郎と二郎以外の誰か、たとえば、花子から教わるのだが、もう
明らかなように、再び、花子に(13)が適用され、結局、
「花子は内容 P をいかにして知り
えたのか」という問題が残る。
このような理由から、教えの観点を導入しても、教える者は探求される問題に関連す
る内容をどうやって知りえたのかという問題が繰り返し残ることになる。したがって、
教えの観点は、探求のパラドックスに対して十分な回答とはみなすことができない。
ところで、探求のパラドックスの議論が提示された後、ソクラテスがメノンの召使い
に「探求とは想起である」(Meno, 81d4–5)ことを説得させる場面が続く。では、教えとい
う観点を導入する代わりに、『メノン』で説明される、学びの想起説を導入することで、
「学習の初心者が探求される問題に関連する内容をどうやって知りえるのか」という問
題を解決されるだろうか。次節では、この問題に対する回答として学びの想起説が成功
しているかどうかという問題を考えてみよう。
2.6
学びの想起説の検討
探求のパラドックスの議論の後、ソクラテスが幾何学の問題をメノンの召使いに答
えさせることで、探求とは想起であることを説得させる場面が始まる。そのため、こ
の場面は、ソクラテスが想起説を通じて、探求のパラドックスの議論に対処している
と見なしうる。しかし、探求のパラドックスと想起説との間にどのような関係がある
のかという解釈に関しては、論争がある(Fine, 1992, pp. 213–5; Scott, 2006)。そこで、こ
こでは、前節における「初心者の学習者が、探求に先立って問題に関連する内容をい
かに知りうるのか」という問題の回答に関係すると思われる限りで、想起説の解釈を
藤沢(1994)の解説に依拠して検討する。
ソクラテスは「探求ないし学びとは想起である」というテーゼを次のように提示す
る。
魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから、もし人が勇気をもち、
探求に倦むことがなければ、ある一つのことを想い起したこと―このことを人間
たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだが―その想起がきっかけとなって、おのずか
48
第2章
探求のパラドックスを再考する
ら他のすべてのものを発見するということも、充分にありうるのだ。それはつま
り、探求するとか学ぶとかいうことは、じつは全体として、想起することにほか
ならないからだ。だから、われわれはさっきの論争家ごのみの議論を信じてはな
らない。(Meno, 81d1–5)
ここでは、メノンの提示した「論争家ごのみの議論」に対してソクラテスは、われわ
れの魂は過去にあらゆる知識を学習しており、われわれが普段、
「学ぶ」と呼んでいる
行為は、魂が知っていることを想起することにほかならないと述べる。13 以下では、
この部分を「学びの想起説」と呼ぼう。
では、学びの想起説の重要点は何だろうか。『メノン』に対する解説の中で藤沢は、
この想起説の一種の実験的証明について次のように説明する。
「質問するだけで教えなかった」ことがそこで幾度も強調されているにもかかわ
らず、召使いの子が問題の正しい解を発見するに至るのは、ソクラテスの誘導的
な質問と、画かれる図形の助けによるところが大きいことは疑いない。けれども、
(中略)誘導的な質問と図形の助けがあったとしても、大切な点は、まったく幾
何を教えられたことのない者が、各段階においてソクラテスの質問が指示すると
ころを理解して答えることができること、彼自身のそのような理解にもとづいて
正しい解へ導かれることが可能であったということであろう。(プラトン, 1994, p.
148)
第四節で言及したように、
『メノン』では、「問題を与えること」と「答えを教える」
ことの区別が重要とされるが、ここでも、ソクラテスが問題を与えるという仕方でメ
ノンの召使いを補助していることが確認される。想起説は、探求について次の点を示
していると言われる。それは、幾何学をまったく教わったことがないにもかかわらず、
召使いは与えられた諸問題を理解し、その正解を与えることができるという点である。
この藤沢の解釈に従って、想起説の核心は、問題に関連する内容を教わったことがな
くても、この文脈での「学び」、すなわち、生前の魂が知っている内容を想起するなら、
探求が可能である点にあるとしよう。
この学びの想起説の論点をまとめると以下のようになる。いま、「S」は任意の人を
表す記号、
「P」は探求される問題に関連する具体的内容を表す記号とする。すると、
学びの想起説とは、
(14) S の魂は、内容 P をすでに知っている。
および、
49
(15) S は内容 P を想起する。
という二つの命題から成る主張として定式化される。
この意味での学びの想起説は、探求の行われる現世のほかに生前の世界を導入する
こと、および、学びを想起と同一視することにより、(12)の教えという観点を導入す
ることなく、
「問題に関連する内容をどうやって知りえるのか」に対する回答とみなせ
るように見えるかもしれない。そうだとするならば、学びの想起説は、四節で提示さ
れた探求のパラドックスの一つの回答とみなしうるかもしれない。
しかしながら、学びの想起説には問題点が二つ含まれる。一つ目の問題は、生前世
界での既習を主張する命題(14)に関するものである。問題は、
「魂はいかにして問題に
関連する内容を知りえたのか」というものである。命題(14)のように、魂を持ち出し、
その内容は魂にすでに知られていると述べることは、
「初心者の学習者が、探求に先立
って問題に関連する内容をいかに知りうるのか」という問題に対して、学習者の魂が
すでに学んでいたというに過ぎない。そのため、
「魂がその内容をいかに知りうるのか」
という問題が提起される。これは、第五節で問題とされた「学習者に内容を教える者
はいかに知りうるのか」という問題と同型の問題であることがわかる。それゆえ、学
びの想起説はこの肝心な問題に答えていない、ということになる。
二つ目の問題は、命題(15)、すなわち、学びは想起にほかならないと述べる命題に
関わるものである。学びを、必要な概念など関連する内容の想起と同一視するという
考えは、探求が可能となるために必要な学びを矮小化している。というのも、探求の
文脈で「学ぶ」という概念は、通常、過去に蓄積された知識を思い出すことに限定さ
れるものではないからである。たとえば、証拠や理由の妥当性を適切に評価できるよ
うになることなどが含まれるだろう。
以上の二つの理由により、学びの想起説は、探求のパラドックスの解決として失敗
していると結論づけられる。
2.7
教育に関係する探求の問題
本節では、探求のパラドックスの解決を目指したこれまでの考察についての検討から
分かる、探求に関係する教えと学びに関する発見について評価し、そのうえで、教育に
関係する探求の問題を同定する。
これまでの考察から、探求に関係する教えと学びについてどのようなことがわかった
だろうか。それは、教わることと学ぶことはそれぞれ、探求される問題に関連する内容
を知る異なる方法であるものの、教えと学びそれぞれに固有の問題がある、ということ
50
第2章
探求のパラドックスを再考する
である。
それぞれの問題について説明しよう。まず、これまで発見されたことのない新たな知
識を獲得するための探求に従事する場合、われわれはみな学習の初心者であらざるをえ
ない。学びに関する問題とは、われわれが初心者として臨む新たな探求において、初心
者は、目標の知識獲得につながる内容をあらかじめ意図的に選んで知ろうとすることは
できない、ということである。そのような奇跡的なことをなしうるのは、まだ知られて
いない探求の目標に至るプロセスをあらかじめ見通しうる超越的な力をもつ者だけだろ
う。他方、教えは、探求される問題に関連する内容を、教える者の意図したとおりに伝
えることができる。しかし、教えの問題は、そのように意図的に選択して伝達できる内
容は、その教える者によってすでに探求されたことのある問題に関するものに限られる、
ということにある。
まとめるなら、学びは、探求される問題に関連する内容を、学習の初心者が知る方法
ではあるが、探求の目標の知識獲得につながる内容のみを、あらかじめ意図的に選んで
知ろうとすることはできない。他方で教えは、目標の知識が教える者にすでに知られて
いなければならない。そのため、新しい問題に対する探求の場合、教える立場にある者
は存在せず、われわれはみな学習の初心者である。
ここからは、このような教えと学びについての発見から言える、実際の探求と、教え
と学びとの関係について考えよう。
まず言えることは、親や教師が子どもに命題知を教えることそのものは、学習の初心
者が、多くのことを知るために役に立つ、ということである。探求の初心者としての子
どもは、さまざまなことを無作為に大量に教わる中で、後にみずから行うかもしれない
探求に関連する内容をも、意図せずに教わることになる。この段階を「初期の(認識論
的)段階」と呼ぼう。おそらく、幼少期から学童期の多くの子どもがこのような段階に
いるだろう。
この段階で子どもは、関連する知識を他者の証言から教わることで、探求の端緒にお
かれる最初の問題を立てることができる準備をする。言い換えるなら、初期段階は、子
どもがみずから探求を始めることを可能にする段階であると考えられる。
次に、初期の認識論的段階が終わると、われわれはそれが知識獲得につながる内容か
どうか判断のつかないままに、さまざまな内容を自発的にも学ぼうとするようになる。
この段階を「自発的学びの(認識論的)段階」と呼ぼう。この段階での学びを通じてわ
れわれは、結果的に探求される問題に関連していたと後から分かる内容を、そうとは気
付かぬうちに学ぶ。そして、このような仕方で知ることによって、探求の端緒において
最初の問題を立てたり、探求の過程で中間の問題を立てたりできるようになり、目標の
知識に辿り着くかどうかは分からないものの、とにかく探求を始め、進めるようになる。
自発的に学び始めたばかりの子どもは、まだ探求の目標の知識をいかにして知りうる
のかについて見通すことができるような力はないだろう。この段階での探求は手探りの
51
状態である。たとえば、月が小さく見える理由は何かを調べるために、科学図鑑などを
調べるとヒントが得られるかもしれないということに思い至らないかもしれない。電車
が止まるとき体に感じる力が何かと疑問を抱いても、重力や遠心力などの概念を知らな
いため、その疑問をどのように解消すれば良いのか分からないかもしれない。それでも、
このような疑問や問いをもつことと並行して、理科の授業の中で物理や地学に関する内
容を学び、うえの疑問や問いと関連するような知識を学んでいくことになるだろう。こ
のようなことから、自発的に学び始めた子どもは、みずから探求をとにかく始め、進め
ようとする一方で、結果的に後から探求される問題に関連していたと後から分かる内容
を、そうとは気付かないうちに知ることになると言える。
次の学びの段階は、子どもができるだけ理知的な仕方で探求を進めることに関わるも
のである。子どもを含めてわれわれは、未知の知識を獲得するため、その知識獲得につ
ながる内容を手探りで学ばなければならないものの、この手探りの学びは、必ずしもま
ったく当てずっぽうであるばかりではない。たとえば、目標の知識を獲得するために知
らなければならない内容について、あらかじめ大方の予測をすることができる。電車が
止まるときに体に感じる力が何かという疑問を解消したいと思うとき、親に尋ねても答
えが得られなかったら理科の先生に尋ねようとすることができる。あるいは、近くの科
学館に足を運ぶこともできるだろう。
このように、理知的な探求者は、必要な場面で探求の目標の知識を、できるだけ信頼
できる仕方で、また、合理的なプロセスを通じて、獲得しようと振る舞う傾向性を備え
ているだろう。もちろん、このような予測によって必ずしも知識を獲得することに成功
するとは限らない。だからといって、優れた探求者は、探求のきっかけや突破口を得る
ために、目標の知識に対する見当もないまま探求するのではなく、目標の知識に至るた
めに知らなければならない内容の範囲にあらかじめの見当を付けるし、探求の経過とと
もに、その予測を変えていくだろう。
そうすると、自発的に学ぶ者には、より理知的な探求者とそうではない探求者という
区別があることになる。では、両者を区別するものは何だろうか。
多くの者を理知的な探求者とするものは、教育により後天的に習得されることである、
と考えられる。理知的な探求者とするものは、探求の目標の知識に関連する認知的内容
をあらかじめ意図的に選択できる力ではない。というのも、そのようなミラクルな力を
もつと想定できるのは、超越者だけであったからである。さらに、学習の初心者を理知
的な探求者とするものには、その人の生まれ持った才能も含まれるかもしれないが、才
能の問題は、通常の環境において正常な発育をする子どもが、社会生活をするうえでよ
り理知的な探求をするための要因とは別に考える必要があるだろう。
このようなことから、教育は、自発的に学び始めた子どもがより理知的な仕方で探求
するようになるための最も大きな要因であると考えられる。それゆえ、理知的な探求者
の育成の理念は、自発的に学び始めた子どもが理知的な探求者になることに関わると言
52
第2章
探求のパラドックスを再考する
えよう。言い換えるなら、理知的な探求者の育成の目標は、自発的学びの段階から理知
的な探求の段階への移行をサポートすることにある。おそらく、実際の年齢では学童期
から青年期にかけての子どもが、このような教育の中心として想定されることになるこ
とだろう。
ここで、理知的な探求者の育成という理念に関して、一つの疑問が生じる。それは、
子どもがより理知的な探求者となるために、教育を通じて習得されるべきこととは何だ
ろうか、というものである。あるいは、自発的に学び始めた子どもを理知的な探求者に
育成することに関わる親や教師が、教えるべきことは何だろうか。この問題は、言い換
えるなら「子どもが、より理知的な仕方で探求を行えるようになるため、教育を通じて
学ぶべきことは何か」というものである。これは、理知的な探求者の育成に関わる、も
っとも重要な問題の一つであると言えよう。
2.8
結語
本章の重要な点を確認しよう。まず、探求のパラドックスの核心は、初心者の学習者
は、探求の端緒において、最初の問題をどのように立てれば良いのか分からないし、探
求の過程において、中間の問題をどのように立てれば良いのかも分からないため、みず
から探求を始めることも進めることもできないことにあることが明確にされた。このよ
うに定式化される探求のパラドックスを解決する方法として私は、初心者の学習者が探
求される問題に関連する内容を親や教師から教わることを考えた。だが、教えの観点を
導入しても、教える者は探求される問題に関連する内容をどうやって知りえたのかとい
う問題が繰り返し残るため、探求のパラドックスに対して十分な回答とは言えないこと
が明らかにされた。
それでも、
「教える人はどうやって知りえたのか」という教えの問題に答えることを保
留にするならば、探求のパラドックスの解決とは別に、教えることは、学習の初心者が、
多くのことを知るためには役に立つことが論じられた。そのうえで、理知的な探求者の
育成の目標は、このような、大量の知識を教わる初期の認識論的段階での学びを経て、
自発的に学び始めた子どもが理知的な探求者になる移行をサポートする、ということに
あると結論づけられた。
以上のことから、理知的な探求者の育成に関わる重要な問題として、
「子どもがより理
知的な仕方で探求を行えるようになるため、教育を通じて学ぶべきことは何か」という
問題が同定された。
次章以降では、この教育に関係する探求の問題に回答することを試みよう。
53
第3章
教えと学びにおける認知的情動とし
ての驚きの意義:シェフラーによる情
動の議論を批判的に再考する
子どもが理知的な仕方で探求を行えるようになるため、教育を通じて学ぶ必要のある
ことは何か。本章では、その一つ目として、探求を通じた学びのプロセスの中で情動が
適切な状況で繰り返し生じるようになることを挙げる。このことが教育を通じて学ぶ必
要があると考えられる理由は、情動の種類の中には教えや学びを促進しうるものがある、
ということにある。ここでは驚きという情動に焦点を絞るが、その理由は次のことにあ
る。驚きが知的探求の始まりと関係していることは、プラトンやアリストテレス以来、
言及されてきた。それゆえ、驚きが具体的にどのように探求に関係する教えや学びに貢
献しうるのかを哲学的に明らかにすることは、探求に関わる教えや学びにおける情動の
意義を明らかにすることにつながるだろう。本章では、驚きを中心とした情動の役割を
明確にした後、理知的な探求に貢献する情動的徳の可能性を提示する。
3.1
目的と背景
情動と探求などの認知的活動との関係は、これまで多くの哲学者の注目を集めてきた。
1
「認知的情動を称賛して」(1977 年) という論文2において、教育および科学の分析哲学
者として知られるイズラエル・シェフラー3は、情動とわれわれの認知的活動の一つであ
る、教えと学びにおける情動の役割を詳細に論じている。以下で扱われる教えと学びは
合理性の発達と育成に限定されるが、そのことについては後に詳しく説明する。
本章の目的は、
「認知的情動」と呼ばれる情動についてのシェフラーの議論を批判的に
検討することで、4
教えや学びの文脈において驚きという情動がどのような役割を果た
しているのかを明らかにすることである。シェフラーの考えに沿う形で私は、驚きに対
する開かれた受容性をもつことで、驚きは、従事している教えや学びの内容に関連する
54
第3章
教えと学びにおける認知的情動としての驚きの意義
質問や批判に意識的な注意を向けさせること、また、驚きという情動は、熟慮の前に生
じる反応であることから、後に質問や批判について反省的に検討するきっかけを与えう
る、と論じる。この点で驚きは、合理的生活における教えや学びに貢献するものである。
本研究の背景を概観することで、この探求の意義を明確にしよう。シェフラーは、近
年のクリティカル・シンキング教育につながる合理性を育むことを支持する一方で(cf.
Bailin & Siegel, 2003)、教えと学びにおける情動の重要性を認め、教えと学びに役立ちう
る情動について検討している。それにもかかわらず、シェフラーの情動の議論のオリジ
ナリティーがどこにあるのかは完全には理解されていない。5 そのひとつの理由は、情
動についてのシェフラーの議論が自身のプラグマティズムの研究(Scheffler, 1974) を基
礎にした、短い一本の論文に集約されており、情動に関するオリジナルの考えが正確に
どのようなものなのかを把握することがかなり難しい、ということにあるだろう。別の
理由は、シェフラーの論文は、主に学びにおける情動の役割に焦点を当てるもので、も
ともと教育哲学の文脈で執筆されたものであるため、6 情動についてのシェフラーのア
イディアを研究するためには、教えと学びについての彼の見解についてのいくらかの背
景的知識が必要になる、ということにあるだろう。このような先行研究の状況を考える
と、情動についてのシェフラーの議論を詳細に検討することは、情動と教育との関係に
関する研究に貢献するだろう。
さらに、Rorty’s (ed.) (1980) の情動についての論文集を皮切りに、情動の哲学研究は精
力的に展開されており、7 情動と認知との関連性はその中で「認知主義(cognitivism)」と
いう表題のもとで検討されている(e.g., Deigh, 1994; De Sousa, 2014, Section 5; Goldie,
2007; Greenspan, 2004a; 2004b)。認知主義には、情動は一種の判断であるという強い主張
なども含まれるが(Solomon, 1976)、8 より最近になって、情動が合理的評価とどのように
関わっているのかという問題に対してより洗練されたアプローチが提示されるようにな
ってきている。たとえば、Greenspan は「パースペクティブ的説明(perspectival account)」
と呼ばれる考えを提示し、それによれば、情動は熟慮の結果ではなく、特定の状況で利
用できる部分的証拠に依拠して形成されたパースペクティブに基づいて、その状況に当
座の反応を示す機能を果たす、と言われる(1988, Chapter 4; 2004a, pp. 128–30; 2004b, pp.
210–1)。以下で示すように、シェフラーの議論における驚きは、受容性9やヴァルネラビ
リティ(vulnerability)という性格特性と関係するものとされ、また、特定の認知的内容を
われわれに顕著に示すという役割を担うと解釈できる。この点で、シェフラーによる情
動の議論は現代の認知主義の基本的方向性に沿うものと見なすことができる。以上の研
究背景を考えると、認知的情動としての驚きというシェフラーの議論を批判的に再構成
することは、教えと学びにおける情動の役割についての哲学研究を推進する良い出発点
となるだろう。
以下の議論の構成は次の通りである。第二節では、認知的領域と道徳的領域における
合理性についてのシェフラーの考えを明らかにしたうえで、合理性の育成とはどのよう
55
なものなのかを明らかにする。その後、合理性の育成に対する、一見すると妥当に見え
る批判を取り上げる。第三節では、第二節での批判が誤解に基づくことを示すため、認
知的活動に関係する情動についてのシェフラーの議論を説明する。次に、認知的情動、
とくに認知的情動としての驚きがおおよそどのようなものなのかを明確にする。第四節
では、認知的情動としての驚きが、当の教えや学びの内容に関連する質問や批判に注意
を向ける働きをすると論じる。さらに、このような情動は熟慮の前に生じるという意味
で、驚きは、情動的反応であると論じる。第五節では、教えと認知的情動としての驚き
との関係について論じる。第六節では、情動的徳(emotional virtues)という概念の可能性に
ついて考える。第七節では、まとめと今後の研究における課題について述べる。
3.2
合理性の育成を重視する教えと学び
教えと学びにはさまざまな文脈がある。本節では、シェフラーが擁護し、現代のクリ
ティカル・シンキング教育の理念と強く関係する、合理性の育成という考えについて、
主にシェフラーの議論を中心に明らかにする。そうすることで、第一節で言及された、
合理性の教えと学びとはどのようなものなのかについて明らかにし、驚きという情動が
組み込まれる教えや学びの文脈を明確にすることができるからである。10
はじめに、合理性について、シェフラーがどのようなことを述べているのかをみてみ
よう。
認知的領域においても道徳的領域においても、reason は、reasons を等しく検討し、
自分たちの遵守する一般的原則の観点から問題についての判断を下す、ということ
に関わるものである。(RT 76)11
まず、この引用で見られるように、シェフラーの議論における不可算名詞で用いられる
「reason」は合理性を意味し、シェフラーの議論において複数形で用いられる「reasons」
は「
(具体的な判断および行為に対する特定の)諸々の理由」を意味する(RT 3; 62)。12 こ
こでは、合理性についてのシェフラーの考えに関する二つの重要な点が見られる。第一
に、合理性は、諸々の理由を批判的に検討し、自分たちが従う原則に照らして判断を下
す、ということである。第二に、このような合理性は、認知的領域だけでなく、道徳的
領域においても適用される、ということである。
二点目をもう少し詳しくみてみよう。うえで規定された意味で合理的な者は、たとえ
ば、学会での討論や教室でのディベートなどで、すすんで諸々の理由を等しく扱い、議
論の利点や問題点を批判的に評価することや、自分と対立する主張や異なる経験を背景
とする相手の立場に対しても敬意をもって対応することだろう(RT 63)。あるいは、利用
56
第3章
教えと学びにおける認知的情動としての驚きの意義
できる証拠に基づいて何をすべきか考えて行為し、自分の下した判断や行為の責任を引
き受けようとすることだろう(RT 29)。このように、シェフラーの考える合理性は、認知
と道徳の両方に関わる具体的な文脈において発揮されうるものである。
このように規定される合理性は、われわれの具体的な探求や生活に関係するという意
、、、、、、、
味で実践的なものである。たとえば、シェフラーによれば、合理性は「発展しつつある
、、、、、
、、、、、
多数の伝統の中で具体化され、そこでは、問題は諸々の理由を参照することで解決が図
られるという基礎的な条件が成り立っている。そして諸々の理由それ自体が今度は、公
、、、、、
平で普遍的であるよう意図される諸々の原則によって定義される」(強調原著, RT 79)。合
理性は、理由を批判的に検討し合う話し合いや議論の中で発揮されるものと見なされ、
それゆえ、或る共同体における伝統の中で具体化される、と言われる。
このような実践的な合理性という概念を提示することで、シェフラーは、合理性を教
えや学びと関連させる。では、この合理性は、具体的には、教えと学びとどのように関
係しているのだろうか。
シェフラーは、現代のクリティカル・シンキング教育に影響を与えている、合理性の
育成を重視する教えと学びについての考えを提示している。シェフラーによれば、合理
性を育成することは、教育の一つの基礎的理念である。
、、、、、
私の考えでは、合理性とは諸々の理由に関わることであり、合理性を基本的な教育
理念とするということは、あらゆる研究領域において、諸々の理由についてできる
限り広い範囲で、自由かつ批判的に探求する、ということである。(強調原著, RT 62)
すでに見たように、合理性とは諸々の理由についての批判的検討に関わることであり、
それゆえ、合理性を教育理念とすることは、教育を、合理的な判断や行為を身に付けさ
せることを目標とする活動とみなす、ということである。そして理念的には、このよう
な教育によって、学生が理由についてできるだけ広く自由に、かつ、批判的に探求でき
るようになることが目指される。この目標が理念であると言われる理由は、この教育的
目標は満たされることがないかもしれないが、それでも教育的活動の指針としての役割
を果たす、と考えられていることにある(Siegel, 2001, p. 144)。
以上のような教育理念を達成するための手段の一つとして、教えは、信念が獲得され、
伝達されるいくつかの方法と区別される。
信念は、何も考えないまま受け入れることや、プロパガンダ、教え込み(indoctrination)、
あるいは、洗脳によっても獲得されるし、伝えられる。それに対して、教えるとい
うことは、どのような内容を教える場合でも、学習者の判断する心(the mind)に関わ
、、、、
る。具体的には、教師は説明する用意がある、すなわち、教師は、生徒の理由を求
める権利、および、それに伴う比較考量し自ら判断する権利を承認する準備をして
57
いる。この標準的な意味で教えるとは、開かれた合理的な議論へのイニシエーショ
ンである(initiation into open rational discussion)13。(強調原著, RT 62)
ここで教えることは、教え込みや洗脳と次の点で区別される。それは、教えることにお
いて学習者は、特定の意見や主張に対して、それらが正しいことや理に適っているとさ
れる理由を問う権利が認められ、さらに、推論や結論が妥当かどうかについて自分で判
断する権利が認められている、という点である。14 ここで教えにとって重要とされるの
は、子どもが信念を獲得する仕方についてである。具体的には、教えることの重要な点
は、教わることで獲得した信念に対して、子どもが理由を尋ねることや、疑問を提示す
ることを認めるという点である(Siegel, 2001, pp. 143–4)。
合理性の育成では、このような教え方が必要になると考えられる。まず、合理的判断
ができるようになるために、親や教師から合理的に考える技能などを教わらなければな
らない。次に、合理的な判断ができるようになるということは、親や教師の証言から教
わる信念に対しても、子どもは適当な場面で疑問を抱き、その理由を尋ねたり、証拠を
求めるということを含む。そうすると、教える場面でも、子どもが理由や証拠を求める
権利は認められなければならないことになる。他方で、子どもに対して、合理的に考え
るよう教える親や教師もまた、質問されることに対する用意をしておく必要があると言
える。
しかしながら、教えるということを、うえのような実践と規定する考え方は、教えの
概念に対して狭すぎではないだろうか。というのも、教えには他の形態もある、と考え
られるからである。たとえば、歴史や政治など、多様な分野に関する基本的な情報を大
量に伝えることは、現代の情報社会における教師の重要な役割の一つであると考えられ
る。15 具体的には、政治経済や現代社会の授業を通じて、海外と日本の貿易について学
び、輸出と輸入についての日本の現状を知ることは重要なことであろう。
シェフラーは別の論文で、このような情報の伝達などを含めて、さまざまな種類の教
えについて包括的な検討をしている(e.g., LE 60–75; RT 67–81)。このことを考えると、シ
ェフラーが教えについて主張していることは、教えについての目的の一つに学生に合理
性を身に付けさせることが挙げられる、ということであると考えられる。16
このように、合理性の育成が諸々の教育目標の中の一つであるとすると、このような
教育は、信念の伝達などを目的とする教育とともに行うことができる。具体例として、
先ほどの日本と海外諸国との貿易についての現状について学ぶ例を考えよう。たとえば、
教師は、日本の貿易の特徴や関税の仕組みについての基本的知識を教えた後、
「どうして
関税が必要なのだろう」といった問題を取り上げることができるだろう。このような問
題を提示することで、子どもは学んだ知識を支える理由について疑問をもち、各自の考
えを思案するだろう。子どもは教師とともに、各自の意見を出し合い、なぜそう考える
のかについて他の子どもと考えることもできるだろう。この事例が示唆するように、子
58
第3章
教えと学びにおける認知的情動としての驚きの意義
どもの合理性の育成は、子どもに知識を伝える教育と並行して行うことができると思わ
れる。
次に、合理性を習得について考えてみよう。子どもの合理性を伸ばす教育とはどのよ
うなものだろうか。シェフラーは、必要と考えられる学びについて次の説明を与えてい
る。
議論の中で自分の相手に敬意を払いつつ批判的であることを学ぶこと、自分の信念
が誤りうることを認識できるようになること、議論の向かうところに付いていき、
その良い点と問題点を見極めその結果の責任を負うこと、自分と対立する主張や異
なる経験を背景とする相手の立場に敏感であること、公平に判断できるようになり、
自分自身の判断に責任をもつこと、こういったことは認知的徳だけではなく、道徳
性や性格に関する学びである。(RT 64)
合理的生活を他者とともに営むために必要な学びとは、子どもが認知的だけでなく道徳
的にも徳を身に付けることである、と言われる。すでに述べたように、たとえば、子ど
もは、理由を批判的に検討できるようになるだけでなく、相手の議論についていき、異
なる考えをもつ他者の立場に敏感にならなければならない。しかし、このようなことは、
学校や教師が前にいる間だけでなく、実生活や社会の必要な場面で適切な仕方で発揮で
きることが理想であろう。そのような理念の達成のためには、合理性の育成において子
どもが学ぶものには、合理的に考えるテクニックや技法だけでなく、そのような技法を
適切な場面で適切な仕方で発揮しようとする子どもの傾向性や性格も含まれている必要
がある。なぜなら、子どもが合理的に考えるテクニックや技法を習得するだけでは、そ
れを用いる適切な場面を見極めることができないことや、適切な場面において用いるよ
う動機づけられないことなどがありえるからである。17
しかしながら、シェフラーやそのほかの哲学者の支持する、このような合理性の育成
という考えに対して、いくつかの批判が考えられる(cf. Bailin & Siegel, 2003)。その中で
も重要な批判の一つは、合理性という能力を育むことを重視することで、その教えや学
びのプロセスで果たす情動の役割が軽視されてしまうのではないか、というものである。
18
しかし、
「教えることについての哲学的モデル」(1964 年) という論文においてシェフ
ラーは、そこで論じられる合理性の教育を経験や情動と対立させる意図はないと述べ(RT
78)、
「認知的情動を称賛して」(1977 年) という論文の中で、認知的活動に関係すると考
えられる、さまざまな情動の役割を検討している。そこで次節では、合理性を養うよう
な教えと学びと、情動との関係について考えよう。
59
3.3
認知的情動
本節では、シェフラーの説明に沿って、はじめに認知的活動に関係する情動を説明し、
次に、合理的生活における認知的情動の概念を定式化する。
シェフラーが情動について論じる目的は「認知が働く際に、さまざまな情動的要素が
どのように用いられており、どのようにわれわれの認知に取り込まれているのかを示し、
そうすることで情動的要因が認知的意義を獲得するプロセスを示す、ということにある」
(PCE 3)。哲学の歴史において、合理性と情動が対立しあう関係にあるとみなされてきた
ことはよく知られている(De Sousa, 2014)。シェフラーもまた、認知と情動について、
「認
知は冷静な探求、すなわち、科学者が真理を追究しようと事実を次々に冷静に理解する
ことであり、他方で情動は心のざわつき、すなわち、自分ではどうにもならない心の動
揺であり、真理の追究にとって致命的なものである」(PCE 3)という考え方が広く見られ
ることを指摘したうえで、この疑わしい主張の真偽を検討しようとする。
さまざまな情動の区分の仕方は多様にあるが、19 ここではシェフラーの議論に沿って
進めよう。認知的活動に関係する情動は、その役割に応じて二種類に区別される。一つ
目は、認知が一般的に行われる際に見られる情動であり、これには「合理的情念(rational
passions) 」、「 知 覚 に 伴 う 感 覚 (perceptive feeling) 」、 そ し て 「 理 論 的 想 像 (theoretical
imagination)」という三つが挙げられる。例えば合理的情念とは、真理に対する愛、虚偽
に対する侮蔑、観察や推論における正確さに対する配慮、および、論理や事実における
誤りに対する嫌悪感などである。
二つ目は、信念、予期、予測などの認知内容に依拠して生じる情動であり、これが「認
知的情動」と呼ばれる。この情動は、次のように規定される。
何らかの情動について、それが認知内容に関する前提、つまり、主体が行う諸々の
認知(信念、予測、予期)内容に関係する前提に依拠して生じるものであるとき、
またわれわれに特別関心のあるケースとして、信念内容などに関する認識論的地位
、、、、、、、
に影響を及ぼす前提に依拠して生じるものであるとき、その情動はとりわけ認知的
、、、、、、
なものである(specifically cognitive)、と考えることにする。(強調原著, PCE 9)
とりわけ認知的な情動とは、必要な認知内容に関する前提がある限りで、生じたと言え
るような情動のことである。認知的情動の事例として、確証の喜び(joy of verification)と
驚きの感覚が挙げられている。いま、確証の喜びを例にして認知的情動がどのようなも
のなのかを考えてみよう。確証の喜びとは、実験の実施やデータの収集の前に予測して
いた内容と実験やデータから得られた結果が一致していることが確証された際に、人々
が感じる喜びのことである(PCE 10)。この喜びが認知内容に関する前提に依拠すると言
60
第3章
教えと学びにおける認知的情動としての驚きの意義
われる理由は、確証の喜びが生じたと言えるためには、事前に予測される認知内容があ
り、かつ、予測されていたことが実際に生じたという前提が必要である、ということに
ある。このことから、確証の喜びは、たとえば購入した宝くじが偶然当たったときに感
じる喜びとは異なることになる。
もう一つの認知的情動の候補は驚きの感覚である。この驚きが認知的情動であるのは、
「実際に生じたことと事前の予測が食い違う」(PCE 12)という前提があるときである。
より詳しく見ると、
(3-1) 驚きが認知的情動であるのは、ある主体が事前の信念をもち、その信念が認知的活
動により得られる新しい信念と食い違っているときに限られる、
となる。この認知的情動としての驚きは、例えば前例のない出来事に遭遇したとき、そ
の状況の目新しさに起因して生じる驚きと区別されることになる。目新しさに起因する
驚きの感覚は、事前の予期がない場合や、予期された内容と実際に生じたこととの間に
食い違いがない場合にも生じうるからである。驚きは通常、背後で物音がして驚く場合
のように、シンプルな情動の一例と見なされることが多いが、ここでシェフラーが同定
しようとしているのは、より複雑な認知的活動に関係する驚きである。以下では、曖昧
さを避けるため、(3-1)で規定される驚きを「認知的情動としての驚き」と呼ぼう。
ここで、認知的情動と合理的生活との関係を考えよう。確証の喜びが生じるのは、例
えば実験や観察による確証の文脈など、主に科学的探求の文脈においてであると思われ
る。それに対して、驚きは、うえで言及されている予期の場合のほか、合理的生活の中
でも頻繁に生じうると考えられる。たとえば、或る人が諸々の理由を検討したうえで信
念をもち、合理的議論の中で受けた他者からの質問や批判から新しい信念を得て、その
信念と事前の信念内容が食い違っていることに気付く、としよう。この人は、この他者
から示唆された新しい信念が重要であるにもかかわらず、それ以前には認識されていな
かったことに驚くことがありえる。ここで合理的議論は合理的生活の一部であったから、
認知的情動としての驚きは合理的生活においても生じうる情動であることになる。
以上の議論から、前節で明確にされた、合理性の育成を含めた、合理的生活における
教えや学びにおいても認知的情動としての驚きは生じうる、と言える。しかしながら、
この認知的情動としての驚きが教えや学びに対してどのような重要な役割を具体的に果
たすのかについては、まだ明らかにされていない。次節ではこのことに焦点を当てよう。
3.4
学びにおける認知的情動としての驚きの役割
シェフラーの考察は、主に学びの文脈における認知的情動としての驚きの果たす役割
61
に焦点が当てられている。そこで本節では、まず認知的情動としての驚きと学びとの関
係を明確にする。
認知的情動としての驚きと学びとの関係に関してシェフラーは次のように述べる。
[認知的情動としての]驚きに対して受容的である(receptive to surprise)からこそ、
われわれが初めにもっていた信念が適切なものではなかったことを認め、さらに改
善する必要性があることを認識することができる、すなわち、われわれは経験から
学ぶことができる。それゆえ諸理論の真偽を確かめることは、理論を生み出すこと
と同様、適切な情動的傾向性(emotional dispositions)が要求される。(カッコ内筆者,
PCE 12)
ここで「経験から学べる」とは、初めにもっていた信念の誤りを認め、さらに改善する
必要性を認識することであり、この学びの文脈として合理的生活が想定されている、と
言える。この引用では、経験から学べるために、認知的情動としての驚きに対する受容
性が必要である、と主張される。ここで次の二つの疑問が生じる。第一に、驚きに対す
る受容性とは何か、第二に、受容性は学びをどのように促進するのだろうか。以下でそ
れぞれの問題を考えよう。
まず、受容性について明らかにしよう。シェフラーの議論において、受容性とは、認
知的情動に対する開かれた態度のことである。たとえば、或る人が質問や批判を受けて、
事前にもっていた信念の正しさが不確実なものとなり、その人が不安な気分になる、と
する。「不確実性」は、真偽が問われている信念状態のことであり、「不安な気分」はそ
の不確実な状態を起因とする気分のことである(PCE 13–4)。この事例から、ここでの受
容性は、信念状態のことでも気分のことでもなく、重要な認知内容が変化することによ
り生じる自分の情動を受け入れる態度のことである、と言える。言い換えるならば、
(3-2) 受容性とは、認知的情動に対する開かれた態度のことである、
となり、現在の議論は驚きに焦点を当てるものであるから、
(3-3) 受容性とは、認知的情動としての驚きに対する開かれた態度のことである、
となる。いま、受容性について詳しく論じている Slote(2013b)の議論を参照するなら、こ
のような態度は、たとえばオープン・マインドのように、認知に関わる性格特性と見な
すことができるだろう。
ところで、ここでの受容性によって認められる情動は、認知的情動であることが重要
である、ということに留意しよう。たとえば、ある人が、任意の情動に対して開かれた
62
第3章
教えと学びにおける認知的情動としての驚きの意義
態度をもっているとし、合理的生活における任意の質問や批判に対して驚きうるとしよ
う。この場合、この人は些細な問題や重要ではない批判に対しても驚きうることになり、
それは、あまりに多くの驚きに圧倒されてしまうことで、自分の主張や理論を放棄する
ことにつながってしまうかもしれない。だが、そこで与えられた質問や批判はすべて瑣
末なものであり、その人の主張や理論は後に重要なものであることがわかるようなもの
であった、ということはありうる。この事例は、任意の驚きに対してただ受動的である
ことは学びにとって問題とさえなりうることを示唆している。
しかしながら、シェフラーの議論においては、(3-1)の規定より、受容性によって認め
られるものは認知的情動に限定されているため、受容される驚きによって生じるものは、
当の特定の状況に関連のある認知内容に限られる。学ぶという現在の文脈を考えると、
ここでシェフラーの想定する受容性は、ただ驚きを受動的に受け入れるのでなく、当の
教えや学びに関連のある事柄に対してのみ驚くという仕方で驚きを選択する働きがある、
と言える。より一般的には、受容性とともに生じる情動は、当の学びに関連する特徴を
顕著なものとする。そうして、情動は、当人にその特徴に注意を向ける役割を果たすこ
とがあると言える。
さらに、認知内容に対する気付きとともに生じる情動は、多くの場合、当人が無意識
のうちになされる反応である。たとえば、驚きは、学びに重要な事柄について、はっと
気付かせてくれることがある。これは、熟慮の末に見つける発見と異なり、気付きとと
もに生じる情動的反応である。気付かれた問題点は、当人によって意識的な注意が向け
られることで、後に熟考されることになるだろう。同様に、批判に対しても注意が向け
られることで反省的に思考されるようになる。たとえば、事前に持っていた主張や理論
が何らかの仕方で修正する必要があるかもしれないことが自覚されるかもしれない。こ
のように、問題点の正確な同定や、理論の修正や補強などの認知的仕事には熟慮が必要
であるだろうが、驚きは、そのような仕事をするきっかけを与えうると言えよう。
このことから、次のように言える。驚きは、学ぶ者が認知内容に気付くときの情動的
反応であり、そのような情動的反応を示すことは、その認知内容に注意を向けさせる役
割を果たす。驚きを感じた当人は、みずから驚くという反応を示すことで、当の学びに
とって非常に重要かもしれない認知内容に注意を向けることができる。これは、学ぶ者
に反省的に思考する契機を与えることにつながるだろう。この点で、驚きは、合理的な
探求をするうえで重要であると言える。以上のことから、
(3-4) 驚きは、従事している学びに関連する認知内容に対して、驚きを感じる当人に意識
的な注意を向けさせるセンサーの役割を果たしうる、
と言えるだろう。
このような驚きの役割は、第二節で明らかにした、認知的領域や道徳的領域で発揮さ
63
れる合理性に沿うものである。この点で驚きは、合理的生活における学びに貢献すると
言える。そして、驚きに対する受容性は、学びに意義のある驚きを認めるという点で、
このような学びに貢献する、と言えるだろう。シェフラーの言葉を借りるなら、
「承認そ
れ自体は、可能な、そして重要な態度であり、そこで認められる状況を超えていく道を
開くものである」(PCE 14)。20
しかしながら、諸々の理由や予測に基づく信念をもったうえで、事前に予想していな
かった重要な疑問や説得的な批判を受けると、われわれは驚きを感じるほか、自分の考
えが受け入れられなかったことに対して落ち込むことがあるし、ときには批判を受けて
頭に血がのぼることさえあるだろう。21 このような困難があることを認めたうえで、驚
きへの受容性には、次のヴァルネラビリティが伴う、とシェフラーは述べる。
驚きへの受容性には、或るヴァルネラビリティが伴う。それは、自分の信念が不安
定になってしまう―それには痛みが伴いうる―というリスクを受け入れることであ
り、そのうえで自分の予期を手直しし、自分の行為を別の方向に向ける必要がある
ことを受け入れることである。(PCE 12)
諸々の理由や予測に基づく事前の信念を修正したり、これまでの議論や探求の方向性を
変えざるをえないような状況は「認識論的苦境(epistemic distress)」と呼ばれる(ibid)。認
識論的苦境においてわれわれは、たとえ他者の意見が説得的なものであることや、探求
や批判的対話の末に到達した結論が妥当なものであるとしても、即座にそのことを認識
することは容易ではないし、そのことを認識したうえで自分の信念を修正することはな
おさら難しいだろう。ヴァルネラビリティとは、この認識論的苦境において自分の信念
が不安定になるリスクを受け入れることである、と言える。このヴァルネラビリティを
示すことは、認識論的苦境における自分の信念の不安定な状態から、自分の判断や行為
を手直ししようと再び学ぶ、すなわち、学び直す(relearn)ことができるために必要なこと
である、と考えられる(PCE 14)。
もちろん、このような認識論的苦境をはじめから回避する方法もある。たとえば、諸々
の理由を検討することや、事前に証拠に基づいて予測することなどをやめてしまうとい
う態度である。これは、正しい信念や妥当な結論を得るための好奇心や関心をもたない
ということであるため、
「認識論的無関心(epistemic apathy)」と呼ばれる(PCE 13)。ある
いは、自分の信念と相容れない意見や考えを頑なに拒否することや、自分の信念の正し
さや、理由や論証の妥当性を調べることを避ける態度―「独断主義(dogmatism)」と呼ば
れる―もありえるだろう(PCE 14)。
しかしながら、認識論的無関心という態度や独断的態度を決め込むことで認識論的苦
境を避けることは合理的生活を放棄することになる。というのも、第二節における議論
から、合理的生活を営むためには、認知的にも道徳的にも合理的である必要があるから
64
第3章
教えと学びにおける認知的情動としての驚きの意義
である。たとえば、諸々の理由を公平に批判的に検討するだけではなく、それらを批判
的に吟味する態度をもつ必要がある。あるいは、必要な場合に自分の信念が誤っている
ことを認識し、学び直すことができる必要がある。しかし、合理的生活において学ぶた
めに必要なこれらの条件が認識論的無関心や独断的態度では満たされないのである。こ
のような理由から、合理性の可能性を放棄せずに学び続けるためには、事前にもってい
た信念が不安定になることに備えておく必要がある、と考えられる。この準備を可能に
するという点でヴァルネラビリティは学びを促進しうる、と言える。
これまでの議論から、第一に、受容性を伴うことで驚きが、当の教えや学びの内容に
関連のある質問や批判に意識的な関心を向けさせるセンサーの役割を果たしうるという
こと、第二に、その結果として、驚きは、事前の信念の誤りを認め、問題点を明確に把
握し、自分の主張や理論を修正したり、補強しようとする良いきっかけを与えるもので
ある、と結論づけることができる。言い換えるならば、認知的情動としての驚きに開か
れた態度をもつことで、驚きは、経験から学ぶ良い機会を与えてくれる。
興味深いことに、認知的情動としての驚きと学びとの関係についての以上の議論が認
められるなら、合理的に考える者は、学び続ける限り、驚きを経験し続けることになる
だろう。この驚きと継続的な学びとの関係について、シェフラーは次のように述べる。
問いに答えることは、最初の信念を生み出すことであり、それによって前には説明
できなかったことは信念の中へと整合的に取り込まれることになるだろう。これは、
諸前提の枠組みを改良することであり、そのような枠組みの中では、それまでの驚
くべき出来事も予測されたものかもしれず、同様の出来事が驚くべきものではなく
なることになる。
説明を追求するための批判的探求とは、驚きの構成的結果であり、はじめの行き詰
まりを、意欲的に取り組まれる探求へと変えていくものである。(PCE 15)
学生のときだけでなく、われわれが正しい信念や妥当な判断を追究する、すなわち、学
び続ける限り、驚きの経験をし続けることになるだろう。この意味では、合理的生活の
さまざまなところで見られる、経験からの学びのプロセスとは驚きの連続の歴史である、
と言えるだろう。
3.5
教えと認知的情動としての驚き
本節では、教えることと認知的情動としての驚きとの関係をみてみよう。ヴァルネラ
ビリティを伴う驚きに対する受容性は、教師が教えることができるためにも必要である
だろう。第二節において、合理性の育成において教師の役割の中には、学生が諸々の理
65
由―教師自身の理由を含めて―を公平に扱い、それらを批判的に検討し、自分で判断を
下すことに対して認めることが含まれる、とされていたことを思い出そう。このことは、
教師もまた、自分で述べたことに対する重要な質問や説得的な批判を受けることに準備
しておく必要がある、と言える。このような理由から、シェフラーによれば、教師は以
下のようなことを求められる。
そのため教師は、他者を教えるプロセスにおいて、自分自身の判断と知的誠実さを
示すように求められ、それゆえ、自分の判断と知的誠実さに対するリスクを負うよ
うに求められる。このようなリスクを受け入れるとき、教師自身、高い自己認識や、
自分が仮定していることに対するより反省的な態度を強いられることになる。(RT
87)
ただし、うえで述べられていることが正しいとしても、教師がどの程度、求められるの
かは異なる、と考えられる。たとえば、大学教員であれば、うえで言われていることは
強く求められると思われる。他方で、小学校の教員であれば、学びのプロセスの中で、
子どもの好奇心や感嘆の念に共に共感し、子どもとともに疑問を整理することで、子ど
もがその疑問をさらに考え続けるために、どのように考えれていけば良いのか見取り図
を与えるほうが重要かもしれない。
重要なことは、認知的情動としての驚きに対する受容性をもつことは、子どものもつ
さまざまな疑問や批判、および、好奇心や感嘆の念に対して柔軟に対応できるという点
で、教師が教える内容を豊かにすることにつながりうる、ということだろう。また、教
師がヴァルネラビリティを示すことも、学生からの質問や批判が説得的と考えられる場
合、それらを認め、事前の信念を改訂する心構えをするという意味で、豊かな教えに貢
献するものである、と言えよう。
さらに、教師は学生に理由を尋ね、学生の議論における問題点を指摘し、ときには学
生に修正を求めることがある一方で、教師は、事前の信念の誤りを認め、学び直し、学
び続けようとする学生に対して敬意をもって接する必要がある、と思われる。もし教師
自身が学びのプロセスにおいて驚きに受容的であり、説得的な質問や批判に対するヴァ
ルネラビリティをもっており、このような態度の意義を十分に了解できる者であるなら、
そのような教師は、質問や批判を受けて感情的に落ち込んだ子どもの情動的状態を慮り、
子どもに自律して学び直し、学び続けるよう手助けをすることができるだろうと思われ
る。
以上の議論から、認知的情動としての驚きに関するシェフラーの議論は主に学びの文
脈に焦点が当てられているものの、シェフラーの教えに関する考察内容を踏まえること
で、認知的情動としての驚きは、われわれの情動に対する受容性や、学び直し、学び続
ける準備のためのヴァルネラビリティと連関することで、教えることにおいても重要な
66
第3章
教えと学びにおける認知的情動としての驚きの意義
役割を果たしうることが示された、と考えられる。
3.6
理知的な探求者となる条件としての情動的徳
本節では、認知的情動としての驚きについてこれまで明らかにされたことに基づいて、
情動的徳という概念について検討し、情動的徳を習得することが、子どもがより理知的
な探求者になるために必要であると論じる。
第四節で私は、シェフラーの考えに沿う形で、驚きが合理的生活における学びや教え
の助けとなることを論証した。加えて、われわれが正しい信念や妥当な判断を追究する、
すなわち、学び続ける限り、子どものときに限らず、驚きの経験をし続けることになり、
その意味では、経験からの学びのプロセスとは驚きの連続の歴史である、と述べた。こ
のことから、認知的情動としての驚きは、われわれにおいて適切な場面で繰り返し生じ
ることが望ましいと言える。
真理獲得を目指す探求など、認知的活動に対して助けとなる情動が、不必要に過剰で
も過度に不足することもなく生じること、また、そのような情動が、しかるべき状況で
繰り返し生じる傾向性を「情動的徳」と呼ぼう。このように特徴づけられる情動的徳は、
たとえば、情動に対するアリストテレスの理論に近いものであると思われる(cf. De Sousa,
2014; Sherman & White, 2003, Section 1)。だが、アリストテレスによる情動の関心は主に、
道徳的に行為するための契機としての情動の役割にある。それに対して、ここで私が考
える情動的徳は、われわれの道徳の行為に関わるものではなく、理知的な探求の推進に
関わるものである。
子どもの探求活動を進めるうえで、適当な状況で認知的情動が繰り返し生じるように
なることは、子どもが理知的な仕方で探求することに貢献するだろう。第四節で、些細
な問題や重要ではない批判に対しても情動的反応を示し驚いてしまうなら、過剰な量の
驚きに圧倒されてしまうことがあると述べた。子どもは驚きに圧倒されてしまうことに
よって、自分の主張や理論を放棄してしまうかもしれない。同様に、子どもは、疑問や
批判にびっくりして自分の考えを言わないようになることもあるだろう。他方で、重要
な問題や関連の或る批判を提示されても驚かないなら、子ども自身がそれらの問題や批
判を考慮し、熟慮した結果、自分の主張や理論を良い方向へ修正することができたかも
しれないチャンスを逃すことになるかもしれない。
以上のことから、情動的徳をもつことは、情動が不必要に過剰でも過度に不足するこ
ともなく、当の教えや学びに関連する事柄に対して情動的反応を示すことができる、と
いうことであり、子どもがこのような徳をもつことになると、関連する疑問や批判に気
付くとともに適度に驚き、意識的な注意を向けることができるようになる、と言える。
そうして、このようなことは、子どもが後に、自分の考えを補強する良いきっかけとな
67
ることもあるだろう。このような意味で、情動的徳は、子どもが理知的な探求をするよ
うになるうえで助けとなると言える。
では、いかにして学びの適切な状況で適切な情動的反応を繰り返し示すことができる
ようになるのだろうか。私の答えは、単純な訓練の繰り返しによってではなく、本や議
論を通じて獲得される他者の証言を通じて、他者と自分との間の批判的対話に繰り返し
従事することによって培われる、というものである。たとえば、短気の性格を矯正する
ことは、心理カウンセラーなど専門家の指示に従った習慣づけや訓練などだけで十分に
可能であるかもしれない。それに対して、驚きを含む、認知的活動に関わる情動は、他
者の証言と自分の考え、あるいは、過去と現在の自分の考えとの間での複雑な認知的状
況において生じる。たとえば、情動は、他者の証言、疑問、あるいは、批判によって触
発される。われわれが、従事している教えや学びに関連する認知内容に気付くことに伴
って、適切な情動を繰り返し示すようになるためには、批判的対話に繰り返し参加し、
そのような機会にじかに晒されることによるしかないと思われる。
最後に、本章の議論により示唆された、情動的徳の役割についてまとめておこう。情
動的徳とは、驚きを含めた情動が、適当な強度で、当の教えや学びに関連のある事柄に
対して繰り返し生じるという情動的反応を示すことである。子どもはこのような情動的
徳をもつことで、学びに関連する認知内容に注意を向けるようになり、後に、問題点を
明確に把握し、自分の理論を補強することにつながるだろう。もちろん、注意を向けら
れた問題や批判について熟考した結果、実はそれほど重要な問題や批判ではないことが
後で判明することはある。それでも、このような情動による認知内容に対する注意は、
本人が反省的思考を働かせる前に注意を向けることを助けるという点で、教えや学びを
進めるうえで重要な役割を果たすと言えるだろう。
以上のことから、情動的徳は、子どもがより理知的な仕方で探求を行えるようになる
ため、教育を通じて学ぶ必要があると結論づけることができる。
3.7
結語
本章ではシェフラーの議論に即して、教えと学びにおける認知的情動としての驚きの
意義について明らかにした。これまでの議論を三点、要約する。第一に、合理性とは簡
単に言えば、認知的領域および道徳的領域においても公平に批判的に理由を扱うことで
ある。合理性の育成において子どもが身につけるものは、合理性に関係するスキルや技
術だけでなく、そのようなスキルや技術を適切な場面で適当な仕方で発揮しようとする
傾向性も含まれる。第二に、たとえば、驚きなど、適切な認知的状況において生じる情
動が、合理的生活における教えと学びに対して重要な貢献をなしうる。第三に、驚きに
対する開かれた受容性をもつことで、驚きは、当の学びの内容に関連のある質問や批判
68
第3章
教えと学びにおける認知的情動としての驚きの意義
に意識的な注意を向けさせ、後に、それらの質問や批判に焦点を当てて探求しようとす
るきっかけを与える。また、ヴァルネラビリティは、説得的な質問や批判によって自分
の信念が不安定になるリスクを受け入れ、そこから学び直そうとする準備に役立つとい
う意味で、学びに貢献する。さらには、驚きに対する受容性やヴァルネラビリティをも
つことは、学習者のもつさまざまな疑問や批判、および、好奇心や感嘆の念に対して柔
軟に対応できるという意味で、教師の教えを豊かなものにしうる。これらの点に基づい
て、しかるべき状況で適当な情動が繰り返し生じる傾向性としての情動的徳は、子ども
がより理知的な仕方で探求を行えるようになるため、教育を通じて学ぶ必要があると結
論づけられる。
以上の議論は、情動、および、それと教えと学びとの関係に関する更なる研究の端緒
となるだろう。たとえば、現代の感情心理学や認知科学の成果を参照することで、情動
が合理的評価とどのように関わるのかを、性格や徳との関係の観点から、さらに詳しく
探求することができよう。また、第六節で論じた情動的徳の認知的側面が、正確にはど
のようなものであるのか、および、いかにして習得されうるのかについて、現代の議論
を踏まえてより詳細に探求することで、現代の徳認識論とは異なる観点から、理知的な
探求に対する情動的徳の意義をさらに明らかにすることができるはずである。さらに、
情動と動機の関係という古典的主題に関しても、哲学だけでなく心理学や認知科学の成
果に基づいて、現代において再考することができるだろう。
69
第4章
手本を見習うことで理由に対する感
受性を養う:シーゲルの感覚される
理由という概念を批判的に応用する
第三章で扱われた情動と密接に関係する概念に動機がある。子どもが理知的な仕方で
探求を行えるようになるために教育を通じて学ぶ必要のあることとして、しかるべき状
況で適切な仕方で批判的に考えるよう動機づけられるようになることが挙げられよう。
では、小さい子どもにとって、批判的に思考しようとする動機要因となるものは何か、
また、そのような動機づけはいかにして養われうるのか。本章では、この二つの問題を
合理性の育成に関する哲学的議論の文脈に位置づけた後、私の回答を与える。
4.1
目的と背景
合理性を育むことは一つの教育的理念として長い間、何人かの哲学者の間で支持され
てきた。最近では特にクリティカル・シンキング研究に関連する議論において、この理
1
念を支持する哲学者がいる一方、この理念に異議を唱える哲学者もいる。
合理性の教
2
育理論を詳述したハーヴィ・シーゲル は、そのような批判から自身の理論を擁護する
一方で、いかにして合理性は育まれうるのかについての考えを深めている。
3
本章の目的は、「感覚される理由(felt reasons)」と呼ばれる考えに関するシーゲルの議
論を批判的に検討および拡大することを通じて、合理性の育成における批判的に思考し
ようとする動機づけの育成に焦点を当てることである。感覚される理由という考えを明
確にしたうえで、私は以下の三点を主張する。感覚される理由という考えを明確にした
うえで、私は以下の三点を主張する。一点目は、教師や親、あるいは、小説や映画など
のメディアにおける虚構の登場人物は、合理性を示す手本と見なされうる、ということ
である。二点目は、子どもは手本を示されることで実践的に、批判的に思考するとはど
70
第4章
手本を見習うことで理由に対する感受性を養う
のようなことなのかを学ぶことである。三点目は、手本を慕うという情動(the emotion of
admiring exemplars)は子ども4 ―理由に対する感受性がまだ十分に発達しておらず、理由
に導かれることのない子どもを含めて―が批判的に思考しようとする動機要因としての
役割を果たすだろう、ということである。5
本研究の背景を概観することで、この探求の意義を明確にしよう。クリティカル・シ
ンキング研究はこれまで、理由への愛など、合理性の育成に関連すると考えられるいく
つかの情動に関心を抱いてきたが(cf. Robertson, 2009, p. 21)、敬慕など、学びに関係する
他の種類の情動の役割については、まだ探求の余地がある。6 また、真理を目指そうと
する動機の役割(e.g., Zagzebski, 1996)、あるいは、道徳理論や教育理論における手本の役
割に注目し始めている哲学者が見られる(e.g., Elgin, 1991; Olberding, 2012; Warnick, 2008)。
以上の先行研究を勘案すると、本議論の目的は、シーゲルの提示する感覚される理由が、
批判的思考者になるという動機要因を説明するうえで鍵となりうることを示す、という
ことになる。
以下の議論は次の通りである。第二節では、クリティカル・シンキングの概念を明確
にし、続けて、合理性の教育での教育理念の中心には批判精神(the critical spirit)の育成が
あると論じる。第三節では、批判的思考者の概念についてのシーゲルの説明を批判的に
検討し、批判的思考者の概念を明確にする。第四節では、クリティカル・シンキング研
究の文脈における、理由と行為の動機との問題に関する私の立場を明らかにする。第五
節では、批判的に思考しようとする動機要因に関する問題とは何かを明確にする。第六
節では、感覚される理由という概念の特徴と利点を明らかにする。第七節では、手本を
慕うというオリジナルの考えを導入することで、批判的に思考しようとする動機要因に
関する問題に対して私の回答を与える。第八節では、以上の要点と今後の研究を提示す
る。
4.2
合理性の教育理念の中心としての批判精神
はじめに、クリティカル・シンキングの概念とその教育について、一般的に受け入れ
られている考えを、後の議論に必要な限りで説明しよう。まず、クリティカル・シンキ
ングの概念は、理由評価の構成素(the reason assessment component)と批判精神の構成素
(the critical spirit component)7から成る、ということは広く受け入れられている(e.g., Bailin
& Siegel, 2003, p. 183)。第一に、理由評価の構成素は、理由のもつ説得力を見積もる諸々
の能力に関わる。たとえば、批判的思考者は、或る主張を支える理由の説得力を適切に
評価することができるだろう。あるいは、いくつか考えられる理由の中でより良いもの
を選ぶことができるだろう。第二に、批判精神の構成素は、批判的に思考しようとする
傾向に関わるものである。たとえば、批判的思考者は、必要な場面で、自分の記憶や他
71
者の証言により獲得された信念を理由によって基礎づけようとする傾向性を有するだろ
う。あるいは、理由に基づいて自分の考え、理論、ないしは、行為をしようと動機づけ
られるだろう。このように、批判精神とは、心の習慣、傾向性、動機、あるいは、性格
特性などに関わるものとされる。8
このようなクリティカル・シンキングの重要性を認める多くの学者が、合理性の育成
を教育の理念と見なしている(cf. Bailin, 1998; Bailin et al., 1999)。9
10
その中でも、批判精
神を養うことは、合理性の育成の中で基礎的なものである。その理由は、説得的な理由
に導かれるためには、当人に批判精神がなければならないこと、そして、その批判精神
は、批判的思考者の品性(personal qualities)に関連するものである、ということにある。
たとえば、批判精神を備えている人は、道理(reasonableness) (Burbules, 1995, p. 97; Siegel,
2008, p. 462)、探求心(inquisitiveness) (Baehr, 2013, p. 249)、あるいは、フェア精神
(fair-mindedness) (Bailin et al., 1999, pp. 294–5)、
などを全部あるいは部分的に持っているこ
とだろう。そして、道理、探求心、あるいはフェア精神など、このような性格特性を育
、、
成することは、子どもが「特定の人格(person)」(傍点強調著者)(Siegel, 1988, p. 10)、す
なわち、良き思考者となることにつながる、と言える。このことから、批判精神の育成
は子どもがより知的に優れた思考者となることにつながるものであると考えられ、その
ため、とくに小さい子どもに対する教育において重要であると言える。11
ここまで、クリティカル・シンキングの一般的説明と合理性の育成の中心的理念に批
判精神の育成があることについて確認してきた。次節では、批判的思考者についてのシ
ーゲルの説明を明確にする。
4.3
批判的思考者に関するシーゲルの考えとその評
価
本節では、批判的思考者の概念についてのシーゲルの説明を批判的に検討し、自発的
傾向と受動的傾向という区別を導入することで、批判的思考者の概念を明確にする。
まず、理由に関する特徴付けについて確認しよう。シーゲルによれば、批判的思考者
が敏感でなければならない理由に関する特徴には、証拠力(probative force)と規範的効力
(normative impact)がある。理由のもつ証拠力に含まれるものには、たとえば、
「A ゆえに
B」を考えるとき、A と B の間の(理由)関係において見られる、主張 B を支える理由
A の説得力がある。ほかにも証拠力には、演繹や帰納の関係の場合なども含まれるだろ
う。他方で、理由のもつ規範的効力には、たとえば、主張 B を支える理由 A の説得力を
評価しようと促す力や、理由 A に基づいて行為をするよう導く力が含まれる。以上の、
証拠力と批判的効力を事例で確認してみよう。
72
第4章
手本を見習うことで理由に対する感受性を養う
例1
太郎くんが、排気ガスがオゾン層を破壊していること、オゾン層の破壊は地球温暖
化につながること、そして、従来型の車から排気ガスが出ていることを知り、しば
しば巷で言われる、従来型の車の運転は地球温暖化の原因というのは正しいのだと
考え、電気自動車に買い替える。
この事例 1 では、証拠力に関しては、たとえば、
「排気ガスがオゾン層を破壊しているこ
と、オゾン層の破壊は地球温暖化につながること、そして、従来型の車から排気ガスが
出ていること」ことを理由として、この理由が「従来型の車の運転は地球温暖化の原因」
という考えを支持する説得力が挙げられる。規範的効力に関しては、得られた理由が説
得的かどうかを評価しようと太郎くんを促す力や、
「従来型の車の運転は地球温暖化の原
因」ということを理由として、太郎くんに「電気自動車に買い替える」行為をするよう
動機づける力が挙げられるだろう。
理由に関するこのような特徴と批判的思考者との関係について、シーゲルは、次のよ
うな説明を与えている。
、、、
、、、
第一に、理由には証拠力ないし証明力があり、批判的思考者は、この理由の証拠力
の評価に卓越していなければならない。このことは、批判的思考者が理由に導かれ
、、、、、、、、
、、、、、
る仕方が適切であるために必要なことである。第二に、理由には、批判的効力と呼
べるようなものがある。これは、合理的信念、判断、あるいは、行為を導くもので
、、、、
あり、批判的思考者が適切に理由に導かれる(moved by reasons)ことができるために
必要なことである。(強調原著, Siegel, 1997, p. 3)
簡潔に言えば、ここで批判的思考者とは、理由のもつ証拠力を評価することに卓越し、
かつ、その理由に導かれる者のことである(Siegel, 1988, p. 2; 1997, p. 3)。すなわち、
(4-1) 理念的な批判的思考者とは、理由に適切に導かれる者のことである。
というものである。
批判的思考者についての以上のシーゲルの規定について、私はおおよそ正しいと考え
る。ただし、
「理由に導かれる」という表現は、与えられた理由に条件づけられて判断や
行為をする傾向性や動機のことのみを意味すると誤解される危険がある。だが、批判的
思考者の傾向性や動機には、理由に条件づけられるのとは別に、獲得された信念に対し
て、しかるべき状況で自発的に、理由を考えようとすることや証拠を探そうとする傾向
性も含まれるはずである。いま、与えられた理由に条件づけられて、批判的に思考しよ
73
うとする傾向を「受動的傾向(passive tendency)」、しかるべき状況で無条件的に批判的に
思考しようとする傾向を「自発的傾向(spontaneous tendency)」と呼ぼう。もう一度、例 1
の事例における太郎くんを思い出そう。太郎くんが批判精神をもっているなら、従来型
の車の運転は地球温暖化の原因とされるいくつかの理由が与えられ、それらの理由に条
件づけられて判断や行為をする、すなわち、受動的に批判的に思考しようとするだけで
なく、
「従来型の車の運転は地球温暖化の原因」という信念が与えられた時点で、それが
正しいとされる理由を考えようとすることや、その証拠を探そうと動機づけられる、す
なわち、しかるべき状況では自発的に批判的に思考しようとするはずである。ところで、
受動的傾向と自発的傾向の区別に基づくと、シーゲルの説明によれば、規範的効力は理
由の特徴であり、理由が与えられたときに発揮される力であるため、受動的傾向に関わ
るものであると考えられる。他方、批判精神は、理由に条件づけられて批判的に思考し
ようとする傾向だけでなく、自発的にも批判的に思考しようとする傾向のことであると
言える。それゆえ、或る人が批判精神をもっていると言えるためには、その人が理由の
もつ規範的効力に導かれるだけでなく、しかるべき状況で無条件的にも批判的に考える
よう促される必要がある。
ただし、以上の点は、批判的思考者についてのシーゲルの考えを根本から論駁するも
のではなく、シーゲルの考えを基本にして取り込むことのできるものである。たとえば、
(4-1)を次のように修正することができよう。
(4-2) 理念的な批判的思考者とは、自発的にも受動的にも、理由を考えるよう適切に導か
れる者のことである。
このような変更に関しては、シーゲルは別のところで、しかるべき状況で信念に対する
理由を考えることや証拠を探すことも批判的思考者のとる具体的な行為に含めて説明し
ていることから(Siegel, 2003)、シーゲルもそれほど抵抗なく、受け入れると予想される。
このような批判的思考者が理念的であると考えられる理由は、第一に、理由のもつ証
拠力を評価する能力や、批判的に考えようとする傾向をどれほど持っているのかは、程
度の違いがある、ということにある。第二に、次のような場合が考えられることにある。
たとえば、証拠力の評価に秀でている者でも、そもそも理由を評価しようと促されない
場合がある。同様に、ある理由を説得的なものとして評価したにもかかわらず、その理
由に基づいて行為しようと動機づけられない場合や、逆に、証拠力の評価に未熟な者が、
しばしば適切とは言えない理由に基づいて行為する場合も考えられる。
しかしながら、この批判的思考者のシーゲルの説明に対する考えには批判が見られる。
次節では、批判的に思考しようとする動機に関する批判と、その批判に対するシーゲル
の応答を評価する。
74
第4章
4.4
手本を見習うことで理由に対する感受性を養う
クリティカル・シンキング研究における理由と行為
の動機との関係の問題
本節では、批判的思考者の概念についてのシーゲルの説明に対する、カイパーの批判
を取り上げる。
カイパーは、
「ヒューム的な道具的合理性(Humean instrumental rationality)」と呼ぶ合理
性と類比しながら、シーゲルの二つの構成素がどのようなものなのかを確認することか
ら批判を始める。12
理由に適切に導かれるためには、理由には証明力のほかに規範的効力がなければな
らない。この論理―認識論的次元(logico-epistemic dimension)と動機の次元との区別
は、
「理性(reason)」と「情念(the passions)」という領域(domain)の区別と並行的であ
る。(中略)それゆえ、理由に適切に導かれるためには「理性」だけでは足りない。
そのためにはまた、
「情念」という批判精神を必要とする。(Cuypers, 2004, p. 85)
カイパーの批判がどのようなものなのかを明確にする前に、確認しておきたいことが二
点ある。まず、カイパーはここで、クリティカル・シンキングは理由評価と批判精神と
いう構成素から成るという、クリティカル・シンキングについての一般的説明を認めて
いるものの、うえの引用における「理性」や「情念」という用語は、カイパーだけが用
いているものであり、現在のクリティカル・シンキング理論は、理性と情念という領域
の区別に依拠していない点である。現在のクリティカル・シンキング研究において、理
性という概念が使われない理由は、そのような哲学的な論争を招く可能性のある概念を
用いなくても、クリティカル・シンキングについて十分に説明や議論がなされうること
にある。
「理性」と「情念」という二つの領域の区別に基づくカイパーの議論は、クリテ
ィカル・シンキングに関する問題を不必要に複雑にしてしまう。
第二に、カイパーはうえの引用で、理性と情念という区別を、証拠力(ないし証明力)
と規範的効力との区別と並行するものと考えているが、これは誤りである。第二節の説
明より、批判精神はクリティカル・シンキングの概念の構成素であり、たとえば、理由
の証拠力を評価しようとする傾向性など、批判的に考えようとする傾向に関わるもので
あった。しかし、この批判精神は、批判的に考えようとする傾向をわれわれに与える原
因が何かについて特定するものではない。批判精神に関与する傾向性や動機の要因は、
たとえば、理由、情念、情動、あるいは、感覚など、さまざまな可能性があるだろう。
ところで、うえの説明でカイパーは、
「理性」と「情念」という区別を導入し、批判精神
を情念と同一視してしまっているが、これは問題である。というのも、批判精神そのも
75
のが、理由に導かれる要因を特定しているわけではないからである。批判精神とは、理
由の強さの評価に関わる理由評価という構成素とは対照的に、理由を考えようとする傾
向性や動機に関わるものであるとされていただけである。そうすると、たとえば、理由
を考えようとする動機の要因は情念ばかりとは限らないだろう。批判的に思考する傾向
性や動機の要因が何かは、別に考えなければならない問題であろう。それゆえ、批判精
神が情念と同一視されることを、あらかじめ想定することはできない。
このようなことから、以下の議論では、現在のクリティカル・シンキング理論で広く
見られる、理由評価と批判精神という構成素という区別を踏襲することにし、理性の領
域と情念の領域というカイパーの区別には従わないこととする。
以上を確認したうえで、シーゲルのクリティカル・シンキング理論に対するカイパー
の批判をみてみよう。カイパーは、理性と情念と呼ばれる伝統的な区別に基づいて、シ
ーゲルのクリティカル・シンキングの理論に対して、理性はわれわれの行為の動機に関
与しない、と主張する。
クリティカル・シンキングにおける理性の適切な役割は、論理―認識論的基準(普
遍性、公平性など)にしたがって理由を評価することであるため、理性だけでは、
われわれの動機や行為に影響を与えることはできない。たとえば、道徳的理由に従
って行為しようという動機はつねに、批判精神によるサポートを必要とする。(Ibid.,
p. 86)
まず、幾つかの前提を整理しよう。第一に、第二節の議論から、動機は、理由評価では
なく、批判精神の構成素の中に含まれるものである。第二に、理由に従って行為しよう
とする動機は、批判的に思考しようとする受動的傾向に関わるものである。第三に、そ
れゆえ、理由によって行為するよう動機づけられることは批判精神をもつために必要で
ある。うえの引用でカイパーが指摘しているのは、彼が「理性」と呼ぶものは、批判的
思考者であるために必要と考えられる、以上のような動機に関与しない、ということで
ある。
この指摘は、カイパーが「理性」ということで何を意味しているのかによって、その
解釈が変わる。第一に、「理性」は、理由評価の構成素のことである、と解釈されうる。
この場合、カイパーがうえの引用で指摘しているのは、理由評価の構成素は、批判的思
考者の動機の側面と無関係である、ということになるが(ibid., p. 87)、このことは、前節
の議論から、現在のクリティカル・シンキング理論が述べていたことである。
この解釈のもとでのカイパーの批判は、理由評価の構成素は、批判的に思考しようと
、、、
いう動機に対して不活性であるため、
「理由評価と批判精神の構成素の間に内在的関係を
、、、
打ち立てるような、クリティカル・シンキングに関する単一の理由概念」(強調原著, ibid.,
p. 88)が必要である、というものである。この批判は、
「内在的関係」という語の意味は、
76
第4章
手本を見習うことで理由に対する感受性を養う
おそらく、
「理由評価と批判精神が、一方が機能するときには、かならず他方も機能しな
ければならない」というものである。簡単に言えば、両要素はつねに連関し合わってい
なければならない。
しかしながら、このように解釈されたカイパーの批判は、シーゲルの議論だけに対す
る批判とは言えないだろう。すでに述べたように、子どもを理由評価と批判精神の両方
を連関させるような批判的思考者に育てることは、クリティカル・シンキング教育が目
指すべき一般的な理念である。(4-1) や (4-2) において規定されていたように、理念的な
批判的思考者とは、理由のもつ証拠力を評価することに卓越し、かつ、その理由に導か
れる者のことであった。シーゲルが、このような理念があることを認めながらも、それ
があくまでも理念に過ぎないと付け加えていた理由は、クリティカル・シンキングの理
由評価と批判精神の二つの構成素はかならずしも両方が一緒に機能するとは限らないと
いうことを認めざるをえないだろう、ということにある。たとえば、理由の評価に卓越
した能力をもつ者でも、その能力を必要とするときに批判的に思考しようとしないこと
がある。
それゆえ、カイパーの批判を、
「理由評価と批判精神は、一方が機能するときには、か
ならず他方も機能しなければならない」というものと解釈したとき、カイパーの述べる
ことは、シーゲルの議論に対する特有の批判ではなく、いかにして理由評価と批判精神
が連関するように子どもを育成することができるのかという、クリティカル・シンキン
グ教育全体に対する一般的課題である、と言えよう。
再び、シーゲルのクリティカル・シンキング理論に対するカイパーの批判に戻ろう。
カイパーの批判についての第二の解釈は、
「理性」は信念、判断、ないしは行為を基礎づ
ける特定の理由を指示している、というものである。この解釈によれば、カイパーの批
判は、
「シーゲルのクリティカル・シンキング理論の中で解釈されるように、理性は動機
に対してだけでなく、規範に対しても不活性である」(ibid., p. 86)というものとなる。以
下の議論では、規範に関しては扱わず、動機に議論の的を絞って検討しよう。カイパー
の批判を言い換えるなら、理由は行為の動機要因となりえない、ということになる。
この批判に対して、シーゲルは、理由は行為の動機要因となりうるものであるが、必
然的にそうであるわけではない、と返答する。より具体的には、
対照的に私の考えでは、理由は動機づけうるものであり、それゆえ、必ずしも動機
に対して不活性であるわけではない。私はただ、そうする理由にのみ基づいて行為
するかもしれない(たとえば、そのように行為するのが私の義務であると認識して
いるということを理由に、そのように行為するなど)。(Siegel, 2005b, p. 538)
他方で、シーゲルは次のように続ける。
77
カイパーが説明するカントの考えとは異なり、私の考えでは、行為することに対す
る良い理由は、そのように行為しようとする動機づけとならないかもしれない。
(中
略)私の考えは、ヒュームの考えと異なり、理由は動機要因となりうることを認め
る点で、ヒュームが想定したような「動機に対して不活性である」のではない、と
いうことになる。また私の考えは、カントの考えとも異なり、理由が動機づけとな
らないことがあり、そのため、適切な評価に従って行為をすることを保証するもの
ではない、ということを認める点で、カントが想定したような「動機に対して強固
な力がある」のでもない。(Ibid., p. 539)
じつは、第三節で、理由は証拠力のほかに規範的効力をもっていることが説明されてい
たことを思い出すなら、シーゲルが、理由は行為を動機づける要因となると考えるだろ
うことは自然に予測されることであるが、そのうえで、上の引用では、そのことを新た
に確認したうえで、適切な理由が必ずしも行為するよう動機づけるわけではないと付け
加えられている。13
そうすると、上の引用からまず確認できることは、シーゲルの合理性に対する考えを
「ヒューム的な道具的合理性」と同型と解釈したうえでのカイパーの批判は、シーゲル
の考えを誤解していることである。次に、そうは言いながらも、カイパーの批判が正鵠
を射ていないとしたとしても、理由と行為の動機との関係に関するシーゲルの立場が正
しいということにはならないことである。その理由は、シーゲルはなぜ理由が、行為を
動機づける規範的効力という特徴をもつのかを説明していないことにある。
うえのシーゲルの考えが正しいかどうかの検討は保留にせざるをえないが、このよう
な説明がないことは、ある意味では理解される。というのも、シーゲルがカイパーの批
判に応答して自身の立場を明確にしている理由は、批判精神は、理由評価とともにクリ
ティカル・シンキングの概念の構成素である一方、規範的効力は証拠力とともに理由の
もつ特徴であるということを明確にすることにあるからである。これまでの議論の中で
シーゲルが、理由と行為の動機との関係について独自の理論を打ち立てることを意図し
ているわけではない。
では、理由と行為の動機との関係の問題は、クリティカル・シンキングの研究という
文脈において、いかに扱うべきなのだろうか。私の考えは次の通りである。まず、批判
精神に関する問題を扱う文脈では、理由そのものが行為を動機づけることがあるという
考えは自然な想定であるだろう。たとえば、次の事例を考えてみよう。
例2
花子さんは、スコットランドの独立の是非を問う国民投票を前に、スコットランドの
政治経済の状況をみずから調べ、現時点では独立しないメリットが大きいと思われる
証拠や理由を見つけ、独立反対に票を投じる。
78
第4章
手本を見習うことで理由に対する感受性を養う
この事例 2 で花子さんは、スコットランドの独立反対を支持する証拠や理由を自発的に
見つけようとしていることから、自発的傾向をもっている。また、証拠や理由に基づい
て独立反対に票を投じていることから、花子さんは受動的にも批判的に思考しようとす
る傾向をもっている。このことから、花子さんは批判精神をもっていると言える。ここ
で、花子さんが批判精神をもっているかどうかを問題とするとき、花子さん自身の理由
が彼女の行為の原因となっていることは自然に受け入れられていることに注目したい。
批判精神に関わる問題を扱う文脈では、批判精神をもつ者の行為は、理由によっても動
機づけられうると考えることは自然な想定であると見える。
もちろん、理由と行為の動機との関係の問題は道徳哲学の文脈で議論され、動機を動
機づける要因は理由ではありえないということが論じられるかもしれない。しかし、例
2 の花子さんの事例を考えると、理由と行為の動機との関係の問題は、クリティカル・
シンキング研究では中心となる問題ではないというのが私の診断である。
第二に、たとえ行為が理由に動機づけられることを前提したとしても、行為が理由に
動機づけられていることは、その人が批判精神をもつことの十分条件ではないことであ
る。次の事例で考えてみよう。
例3
二郎くんは、大好きなアイドルの宣伝する車の CM を観て、従来型の車は地球温暖
化の原因という信念を得て、それを信じてさっそく電気自動車に買い替える。
従来型の車は地球温暖化の原因であることを理由に電気自動車に買い替える二郎くんは、
理由そのものに動機づけられていると言える。しかし、二郎くんは批判精神をもつと言
えないだろう。たしかに、二郎くんは、従来型の車は地球温暖化の原因という信念を理
由として行為するよう動機づけられている。だが、大好きなアイドルのでている CM を
観て獲得した、従来型の車は地球温暖化の原因という信念が正しいのかどうかと考える
こと、あるいは、それが正しいという証拠を探そうと動機づけられてはいない。ここで、
批判精神には、与えられた理由に条件づけられて批判的に思考しようとする受動的傾向
と、しかるべき状況で無条件的に批判的に思考しようとする自発的傾向があることを思
い出そう。例 3 のような状況で二郎くんが批判精神をもつ者であるなら、従来型の車が
地球温暖化の原因となっているという信念の証拠を自発的に探そうする傾向をもってい
なければならないだろう。
以上のことから、クリティカル・シンキングに関する動機の問題という文脈では、理
由が行為を動機づけることがあるということは自然な想定であること、また、行為が理
由に動機づけられるだけでは批判精神をもっていることにはならない、と結論づけられ
る。
79
では、クリティカル・シンキングに関する動機について重要な問題とはどのようなも
のだろうか。次節では、批判的に思考しようとする動機づけに関する問題を同定する。
4.5
批判的思考者の動機の側面に関する問題
本節では、クリティカル・シンキングの文脈における、批判的思考者の動機の側面に
関する次の二つの問題を同定する。すなわち、一つ目の問題は、
「理由に対する感受性が
まだ発達していない子どもを含めて、子どもにとっての、批判的に思考しようとする動
機要因は何でありうるのか」であり、二つ目の問題は、
「その動機要因はどのように育成
されうるのか」である。
カイパーは Cuypers and Haji (2006) において、シーゲルのクリティカル・シンキング
理論に対する批判だけでなく、批判的思考者の動機の側面に関して更なる研究を行って
いる。そこでの議論内容から、カイパーの関心は、理由評価と批判精神から成るクリテ
ィカル・シンキングの概念や、証拠力と規範的効力から成る理由の特徴よりも、子ども
を批判的思考者に育てる教育にあるように見える。カイパーはそこで、シーゲルの議論
に対する批判とは別に、子どもを批判的思考者に育てる教育における動機に関する問題
がどのようなものなのかを描き出そうとしている。そうだとすると、カイパーが同定し
ようとしている動機の問題とは、正確には、どのようなものだろうか。
批判的思考者の動機の育成に関する問題として、以下の二つの問題が指摘できる。一
つ目の問題は、
「理由に対する感受性がまだ発達していない子どもにとっての、批判的に
思考しようという動機要因は何でありうるのか」である。二つ目の問題は、
「その動機要
因はどのように育成されうるのか」である。以下では、便宜上、これら二つの問題を、
「動機に関する問題」と呼ぼう。
これらの動機に関する問題設定には、次の二つの前提がある。第一に、小さい子ども
はまだ、みずから批判的に思考しようと動機づけられることがないという前提である。
カイパーによれば、動機要因は、子どもが動機の諸要素の一群に関して自律的であるぐ
らい強固なものでなければならない(ibid., p. 727)。言い換えるならば、受動的にも自発的
にも批判的に思考しようとする動機づけは、たとえば親など誰かに指示されることなく
生じるものであることは、批判精神をもつための必要条件である。14
第二の前提は、小さい子どもにとっては、理由そのものは、まだ批判的に思考しよう
とする動機要因とはなりえない、というものである。15 第三節と第四節の議論から、理
由は規範的効力をもち、批判精神をもつ者なら規範的効力に従って批判的に思考するよ
う導かれることがあることは認められる。しかし、理由のもつ規範的効力が動機要因で
ありうるのは、すでに批判精神をもつ者に対してだけであり、これから批判精神を身に
付ける子どもに対してではありえない。それゆえ、小さい子どもにとっての批判的に思
80
第4章
手本を見習うことで理由に対する感受性を養う
考しようとする動機要因は、理由以外のものでなければならない。
シーゲルが、動機要因は理由だけでなく、さまざまな要因に依存しており、批判的思
考者の動機について考える余地があることを認めていることを考えると(Siegel, 2005, p.
545)、動機に関する問題はカイパーとシーゲルの間で共有されている、と言えるだろう。
他方、
「理性」と「情念」という二つの領域の区別に基づくカイパーの議論には問題点が
多くあることから、以下では、カイパーと異なるアプローチによって動機に関する問題
を扱うことは理に適っていると考えられる。16
幸いにも、動機に関する問題を解決するための手がかりとなりうる概念は、シーゲル
の別の議論において提示されている。すなわち、それは「感覚される理由」という概念
である(Siegel, 1997, Chapter 3)。次節では、まず、感覚される理由という概念を明らかに
したうえで、合理性の育成における、感覚される理由の役割について検討する。
4.6
感覚される理由という概念の特徴と利点
本節では、感覚される理由という概念を明らかにすることで、小説や映画などのメデ
ィアの中の登場人物が批判的に思考する描写やその物語は、われわれの情動や感覚を喚
起しうること、および、そのような情動や感覚は子どもに批判的に思考するよう促す役
割を果たしうることを明らかにする。
感覚される理由の特徴をみてみよう。まず、理由は、感性的特性(visceral quality)を持
ちうる、と言われる。ドストエフスキー(F. Dostoevsky)の『カラマーゾフの兄弟』を事例
にしながら、シーゲルは感性的性質について次のように説明する。
哲学の歴史を通じて、悪の問題は、神の存在に関する諸議論の中で中心的な役割を
果たしている。では、ドストエフスキーによる、悪の問題の提示があれほど影響力
を与える理由は何だろうか。私の考えでは、その答えは、理由がときに持つ感性的
特性と関係している。すなわち、理由がしばしば、感覚する主体としてのわれわれ
に対して与える効力と関係している、と考えられる。(Siegel, 1997, p. 48)
『カラマーゾフの兄弟』は、イヴァンとアリョーシャという二人の主人公が神と悪の問
題を真剣に考え合う姿を見事に描写する中で、自由意志の問題など、存在や倫理の問題
を扱っている。その描写を通じて主人公たちの思考過程が提示されることで、読者の中
には、主人公たちの理由を一緒になって考え、その理由に説得力を感じたり、あるいは、
その理由はおかしいと思ったりするように、主人公たちの議論に誘われる者がいるだろ
う。一般に小説は、われわれの情動や感覚に訴えるような仕方で理由を提示する仕掛け
として機能しうると言え、この特徴は、映画や対話編のテキストにも当てはまるだろう。
81
ここで、
「理由は感性的特性をもつ」というシーゲルの言明をより明確にしなければな
らない。一見すると、
「理由が感性的特性をもつ」という言明は、理由の存在論的身分に
関わるものであるように聞こえる。そのように解釈するなら、シーゲルはここで、理由
そのものがわれわれの感覚に訴えるという感性的特性をもつという主張をしていること
になろう。しかしながら、このような主張を擁護するためには、理由と感性的性質につ
いての詳細な説明が必要である。
加えて、第三節と第四節でシーゲルは、理由は規範的効力をもち、それは批判的に思
考しようと動機づけうるものであるという考えを支持していたことを思い出そう。そこ
では、規範的効力が感性的性質をもつとは説明されていなかった。それに対して、もし
ここでシーゲルが、感性的性質は理由の存在論的身分に関わるものであると考えている
なら、ここでのシーゲルの主張は、理由には証拠力と規範的効力のほか、感覚に訴える
特徴としての感性的特性をもっている、というものとなる。しかし、このように考える
と、たとえば、理由における証拠力、規範的効力、および、感性的特性との関係などが
理解し難いものとなる。それゆえ、
「理由が感性的特性をもつ」という言明で、もしシー
ゲルが理由の存在論的身分について論じているならば、その主張を支持するために説明
が必要である。だが、ここではそのような説明がなされていないため、おそらく、シー
ゲルの述べることは認めがたいと評価されるだろう。
しかしながら、
「理由は感性的特性をもつ」という言明によってシーゲルは、理由の存
在論的身分ではなく、理由の提示のされ方について論じていると解釈するほうが理に適
っていると考えられる理由がある。私の解釈では、
「理由は感性的特性をもつ」とは、
「理
由が提示される仕方は、われわれの情動や感覚を触発することがある」ということを意
味する。
このように解釈できると私が考える理由には次の二つがある。一つ目の理由は、感覚
される理由に関するシーゲルの引用において強調されているのは、理由の存在論的身分
でなく、理由が提示される仕方である、ということにある。ここで「理由の提示の仕方」
とは、たとえば、登場人物が理由について思考する思考過程や、その際の振る舞いや態
度などの描写や、そのような描写を含む全体の物語のことである。理由の提示の仕方は、
小説や映画の中だけでなく、たとえば、子どもと大人の間での理由についてのやり取り
など、われわれの実際の対話の中でも見ることができる。一般的に言えば、
「理由の提示
の仕方」とは次のように表現することができる。
(4-3) 理由の提示の仕方とは、理由について思考する思考過程や、その理由がやり取りさ
れる際の振る舞いや態度などを含む、理由についてのやり取りが織り込まれている
文脈のことである。
小説や映画は、理由の提示の仕方を描写することで、われわれに何度も理由の提示の仕
82
第4章
手本を見習うことで理由に対する感受性を養う
方を示してくれる。また、対話の中では実際の理由のやり取りが行われるため、理由が
交わされる文脈の中に入り込むことになる。
シーゲルによれば、感覚される理由という概念は、理由の提示の仕方の重要性をわれ
われに認識させてくれる。
感覚される理由とは、日常的理由のことであるが、そのような日常的理由の中で、
理由や、理由が向けられる人に対する描写の仕方によって、読み手の心を動かす力
が明らかにされたり、明確にされるような理由のことである。感覚される理由は、
、、
、
理由についての異なる種類なのではない。それは、理由についての特定の種類の提
、
示なのである。(強調原著, Ibid., p. 52)
このようなことから、感覚される理由という概念を持ち出してシーゲルが説明しようと
しているのは、理由の中には感性的特性をもつものがあるという、理由についての存在
論的身分ではなく、理由の提示の仕方であることがわかる。
二つ目の理由は、理由はわれわれの感情に訴えるような仕方で提示されうること、そ
して、同一の理由に対して、理由の提示のされ方に応じて感性的特性の強さが異なりう
ると言われていることにある。いま、感性的特性が理由のもつ性質であるとする。する
と、理由の提示の仕方に関わらず、各理由のもつ感性的特性は不変になるはずである。
だが、シーゲルは、理由の提示の仕方に応じて感性的特性の強さが変わりうるとはっき
り述べている(ibid., pp. 49–50)。このことから、シーゲルが、感性的特性が理由のもつ性
質であるとは考えていないことが推察される。
他方で、うえで説明したように、理由の提示の仕方は、われわれに感覚的に訴える、
言い換えるなら、情動の感覚を喚起させることがあることは認められよう。たとえば、
理由について真剣に意見を交わす登場人物たちを感情移入できるような仕方で描く文学
や映画には、純粋に理由を提示する学術書などを読むのに比べ、子どもに理由を考える
よう誘う強い効果があるだろう(ibid., p. 51)。
以上の理由から、
「理由は感性的特性をもつ」ということで、シーゲルは理由の存在論
的身分についてではなく、理由が提示される仕方について論じていると考えるほうが理
に適っている。感性的性質についての議論を通じてシーゲルが明らかにしている重要な
点は、次のことにある。すなわち、
(4-4) 理由の提示の仕方は、その提示の仕方に応じて異なる強度の情動や感覚をわれわれ
において喚起することがある。
ここで、この(4-3) および(4-4) が、第五節で提示された動機に関する問題に答えるた
めにどのように役に立ち、次に、何が明らかにされなければならないのかを確認しよう。
83
まず、第五節で提示された動機に関する問題とは、
「理由に対する感受性がまだ発達して
いない子どもにとっての、批判的に思考しようという動機要因は何でありうるのか」と
いうものであった。この問題の回答は次の二つの条件を満たすものではなければならな
い。すなわち、一つ目の条件は、子どもがしかるべき状況で、親に指示されることなく
批判的に考えるよう動機づけられる必要がある、というものである。二つ目の条件は、
小さい子どもにとっての批判的に思考しようとする動機要因は、理由以外のものでなけ
ればならないというものである。(4-3) および(4-4) から言えることは、次のことである。
メディアを用いて理由を魅力的な仕方で提示することや、子どもを理由が交わされる対
話に参加させることで、子どもに十分な強さの情動や感覚を喚起することができる。さ
らに、そのような仕方で生じる情動や感覚は、理由に対する感受性の発達していない子
どもを含めて、みずから批判的に考えようとする動機要因の候補となりうる。
その一方で、感覚される理由についてのシーゲルの議論では扱われていない重要な問
題が残っている。それは「子どもが批判的に考えようと促しうる情動や感覚が具体的に
は何か」という問題である。それゆえ、(4-3) および(4-4) を認めたうえで、情動や感覚
が、子どもにとっての批判的に考えようとする動機要因となることを論証するためには、
批判的に考えようとする動機要因となりうる具体的な情動や感覚を特定すること、およ
び、その情動や感覚が批判的に思考しようとする動機要因となると言える根拠を示すこ
とが必要となる。
私は、そのような情動や感覚として、合理性を示す手本に対する敬慕という情動を考
える。次節では、この考えを明確にして、動機に関する問題に対する私の回答を与えよ
う。
4.7
手本を慕うという情動
本節では、理由がやり取りされる場面を見ることによって喚起される情動や感覚とし
て、合理性を示す手本を慕うという情動を考える。この考えを説明するため、第一に、
合理性を示す手本とは何かを説明し、第二に、手本に対する敬慕という情動が、理由の
提示の仕方によって喚起されることを説明する。
まず、合理性を示す手本とはどのようなものなのかを説明しよう。ここで合理性を示
すとは、批判的に考える思考過程やそれに伴う振る舞いや態度を見せることであり、手
本とは模範的モデルのことである。いま、「S」は任意の人物を表す記号とすると、
(4-5) S が合理性を示す手本であるとは、S が批判的に思考するとはいかなることなのか
を示す模範的モデルである。
84
第4章
手本を見習うことで理由に対する感受性を養う
ということである。ここで「批判的に思考するとはいかなることなのかを示す」とは、
批判的に考える思考過程や、それに伴う振る舞いや態度を示すことである。批判的思考
に、推論や理由の証拠力の評価に関わる思考過程だけでなく、振る舞いや態度も含まれ
る理由は次の通りである。第一章第二節の(1-8)の探求の特徴で述べたように 、探求は共
同でも行われる。それゆえ、批判精神をもつためには、批判的対話において他者と共に
理由について考えようとする姿勢も必要となるだろう。たとえば、Burbules (1995, pp.
88–90)は、道理(reasonableness)には、議論の中でうまく意見を交わし合う能力が含まれる
ことを指摘している。同様に、自分と対立する主張や異なる経験を背景とする相手の立
場に敬意を払う態度も挙げられよう(cf. Scheffler, 1973, p. 64)。17
手本を示されることで、子どもは批判的に思考するとは、おおよそどのようなことな
のかを了解することができる。Elgin (1991, p. 199) によれば、具体例は、それによって例
化される特徴に対する「認識論的アクセス(epistemic access)」を与える。このことに基づ
くなら、理由の提示の仕方を描く小説や映画を通じて、あるいは、理由が交わされる実
際の対話によって、子どもは合理性という特徴に対して認識論的にアクセスすることが
できるようになる、と言える。
ここで、合理性の手本を示すという学習方法は、推論能力など、理由の証拠力を適切
に評価する能力を培うためには不十分ではないかと思われるかもしれない。たしかに、
妥当な推論に習熟することなど、クリティカル・シンキングに精通するためには、子ど
もの成長に応じて、より複雑な問題を回答させるなどの教育が求められよう。それでも、
理由の提示の仕方を描く小説や映画を見ることや、理由の交わされる対話の中に参加す
ることは、小さい子どもに、批判的に思考しようとするとはおよそどのようなことなの
かを了解することにつながるだろう。ここで「批判的に思考しようとするとはおよそど
のようなことなのかを了解する」とは、理由のもつ証拠力を了解し、規範的効力を感じ
るようになる、ということである。子どもが小説などの事例を通じて学びに従事するこ
とは、やがて理由の証拠力をより精確に評価できるようになることや、より多くの適当
な状況において理由の規範的効力に導かれるようになるための準備になる、と思われる。
以上のことから次の二つのことが言える。一つ目は、小さい子どもにとって、メディ
アの中の登場人物は、批判的に思考する思考過程や態度など、それぞれ異なる点で合理
性を示す手本でありえる、というものである。小説や映画などのメディアの中の登場人
物が理由をやり取りし合う過程やその振る舞いや様子についての描写や物語は、子ども
に、批判的に思考するとはおおよそどのようなことなのかを提示する適当な材料となり
うる。そのようなメディアの中の登場人物は、まだ理由について考えることに慣れてい
ない子どもにとって、合理性を示す手本とみなされうる。
二点目は、教師や親もまた、理由についての対話を通じて、子どもにとっての合理性
の手本となりうる、ということである。たとえば、子どもに小説や映画が与えられるだ
けでは、その子どもは、登場人物が合理性の見本という認識論的役割を担っていること
85
に気付かないかもしれない。このようなとき、小説や映画のようなメディアにおける登
場人物が合理性の手本であることは強調されなければならない(Warnick, 2008, pp. 37–40)。
たとえば、教師や親は、子どもと一緒に、小説や映画の中の理由を明確にし、それらの
理由が説得的かどうかを検討し、より適切な別の理由がないかどうかを考えようとする
ことができよう。さらに、親や教師がみずから批判的に考える良い振る舞いや態度を示
すこともできるだろう。このことは、親や教師も子どもにとっての合理性の手本となり
うることを意味する。このような仕方で、子どもに批判的に思考しようとするとはどの
ようなことなのかを了解させる手助けをすることができる。
では、合理性を示す手本は、いかにして子どもに手本を見習うように促すことができ
るだろうか。現在の文脈において「手本を見習う」とは「子どもが批判的に思考する」
ということであるから、この問題は「合理性の手本を示された子どもに批判的に思考し
ようと動機づける要因は何か」という問題に等しい。この問題に回答するために、第六
節の考察から明らかになった(4-4)、すなわち、
「理由の提示の仕方がわれわれにおいて情
動や感覚を喚起することがある」ということを利用しよう。もし小説や映画、あるいは、
実際のやり取りを通じて理由が提示される場面で、合理性の手本がわれわれに情動や感
覚を喚起するなら、それは、子どもに批判的に思考するよう動機づける要因と考えるこ
とができるはずである。
手本としての登場人物や教師や親は、子どもに彼らや彼女たちを慕う情動を子どもに
呼び起こすことができ、そのような情動は手本を見習いたいという欲求の原因とみなせ
ると考えられる。まず、この敬慕という情動と手本を見習いたいという欲求との関係に
関して、道徳学習との類比を用いて説明しよう。Olberding (2012) は「敬慕は、概念的に、
われわれを動機づける情動のことであり、慕う対象のようになりたいと思う欲望をあら
かじめ含めて、われわれを惹きつけるものである」(p. 64) と述べている。たとえば、道
徳的な人を慕うということで、その人を手本として、その人の道徳的振る舞いや態度を
見習いたいという欲求を喚起させることができる。
うえのようなことは、合理性の育成における、敬慕という情動の役割にも当てはまる
だろう。子どもは合理性の手本を示す登場人物や、教師や親を慕うことで、彼らや彼女
たちを見習いたいという気持ちを抱くことがある。現在の文脈では「見習う」とは「批
判的に思考する」ということであるから、見習いたいと思うとは、批判的に思考したい
と誘われることである。
ここで、いくつかの心理学研究によれば、手本に対して慕うという情動は、われわれ
を更に学ぶよう動機づけることができる(e.g., Algoe & Haidt, 2009; Haidt & Seder, 2009)。
このことから、理由をうまく提示することで、子どもに手本に対する敬慕という情動が
生じうると言えよう。それゆえ、手本を慕うという情動によって、子どもは批判的に考
えるよう動機づけられることがあると言える。言い換えるなら、合理性を示す手本に対
する敬慕の情動は、子どもが批判的に思考しようとする動機要因となりうる。
86
第4章
手本を見習うことで理由に対する感受性を養う
理由のもち規範的効力と異なり、この合理性を慕うという情動は、まだ理由に対する
感受性が十分に発達していないため、理由に導かれることのない子どもにおいても生じ
うる。18 以上のことから、合理性の手本を慕うという情動は、理由に対する感受性の発
達していない子どもを含めて、みずから批判的に思考しようとする動機要因となりうる
と結論づけることができる。
したがって、手本に対する敬慕の情動は、理由に対する感受性がまだ十分に発達して
いない子どもを含め、子どもにとっての、批判的に考えようという動機要因となりうる
と結論づけることができる。これが、
「理由に対する感受性がまだ十分に発達していない
子どもにとっての、批判的に思考しようとする動機要因は何でありうるのか」という動
機に関する第一の問題に対する私の回答である。
そのうえで、
「その動機要因はどのように育成されうるのか」という第二の動機に関す
る問題に関しては、まず、うえのような動機要因を呼び起こす方法は、小説や映画など
を通じて、あるいは、理由についての実際のやり取りを通じて、子どもに理由を感情に
訴える仕方で提示することであった。それゆえ、合理性の手本となるような小説を読む
ことや映画を観ること、そして、理由について考える対話を何度も繰り返す過程の中で、
子どもが批判的に思考しようとする動機は形成されていくだろう。
4.8
結語
本章で私は、次の三点を論証した。第一に、教師、親、あるいは、小説や映画などの
メディアにおける虚構の登場人物は、合理性を示す手本と見なされうる、ということで
ある。第二に、メディアの中の登場人物や、教師や親は、彼らや彼女たちを見習いたい
という敬慕の情動を子どもに呼び起こしうる、ということである。最後に、手本を慕う
という情動は、理由に対する感受性がまだ十分に発達していない子どもを含めた、子ど
もにとっての、批判的に考えようとする動機要因として機能しうる、ということである。
87
第5章
知的徳は良い問いを立てることにど
のように貢献するか
子どもがより理知的な探求者になるために、教育を通じて学ぶ必要のある三つ目とし
て、問いをみずから同定し、修正し、洗練させるなど、良い問いを立てることができる
ようになることを取り上げる。教えや学びに関する議論の文脈の中ではしばしば、子ど
もが自ら問いを立てることができるようになることは教育的に重要であると想定されて
きた。しかし、与えられた問題の答えを出すだけでなく、良い問いを立てるようになる
ことが重要である理由は何だろうか。本章では、知的徳の観点からこの問題について検
討する。
5.1
目的と背景
第一章第一節で言及された、エレンコスと呼ばれる問答法を基礎にした教育や、探求
を共同して行う教育の文脈の中で、学生がみずから問いを立てることは重要である、と
いうことは想定されてきた。しかし、学生が与えられた問題の答えを出すだけでなく、
問いをみずから同定し、修正し、洗練させるなど、良い問いを立てることが、なぜ重要
なのだろうか。教育において探求を重視する先行研究では、この重要性は議論の前提と
して想定しているものの、この重要性の理由を問題として取り上げ、何らかの明確な答
えを出してはいないように見える。そこで、本章では、エレンコスの問答法を基礎にす
る教育などで見られる、学生がみずから問いを立て、他者とともに問いを吟味し洗練さ
せることが重要である一つの理由を明らかにする。この議論の基礎として、近年の認識
論における、徳認識論の議論を取り上げる。
近年の認識論の議論において、たとえばオープン・マインドや注意深さなどの、知的
徳という概念1が注目され、知識に関わる問題と知的徳との関係が議論されている。その
中で、知的徳と探求との関係も注目され始めている。とくに、問いを立てることに関し
88
第5章
知的徳は良い問いを立てることにどのように貢献するか
ては、これまで何人かの哲学者の注目を集めてきた。2 ここで「探求」とは、第一章第
二節で明確にしたように、(1-5) 或る問題に対して、問うことと答えることを通じて答え
を見出す活動であり、(1-6) 問答は主に、疑問文という形をした問いと、文の形をした答
えから成る、というものである。
本章の主題は、知的徳が良い問いを立てることに対して、どのように貢献しうるのか
を考察することである。以下で私は、知的徳の観点から問いを立てることについて説明
することで、知的徳の種類の中には、それを持つ探求者が、焦点の定まった、的を射た
問いを立てることができるという意味で「良い」問いを立てることに貢献する、と主張
する。また、この主張を支持するための補助として、先行研究に基づいて以下の二つの
点を明らかにする。一点目は、徳認識論の中でしばしば「ハイグレードな知識(high-grade
knowledge)」と呼ばれる3、探求の結果得られる信念の質を評価するための認識論的基準
には、新しさと重要性が含まれる、ということである。ここでの文脈における、新しさ
と重要性がどのようなものなのかは後に明らかにする。二点目は、良い問いを立てるこ
とは、われわれが探求の結果として、新しくて重要な信念を獲得することにつながりう
る、ということである。
本研究の背景を概観することで、この探求の意義を明確にしよう。まず、ハイグレー
ドな知識は、しばしば徳認識論の中で「グレードの低い知識(low-grade knowledge)」と呼
ばれる、知覚や記憶を通じて獲得される知識と対比されているが、ハイグレードな知識
を評価する基準は、それほど明瞭ではない。Goldman (1986) が述べるように、認識論の
中で取り上げられることの多い、真なる信念の割合の高さを表す信頼性(reliability)という
概念が、唯一の認識論的基準であるわけではない(p. 122)。たとえば、「(知的)産出力
(power)」と呼ばれる、より多くの真なる信念を生み出すかどうかが、問題解決能力の評
価のために求められる基準の一つかもしれない(ibid., pp. 122–3)。次に、探求において問
いを立てることに関しては、探求者の知的徳と問いを立てることとの関係に関して、い
くらかの考察がなされているものの(Hookway, 2003; 2006b)4、知的徳が問いを立てること
を説明するうえで、どのような利点をもつのかについては、それほど明確ではない。以
上の先行研究状況を鑑み、本章では、後に提示するような、知的徳の中には、探求者が
良い問いを立てることに貢献し、それゆえ、探求の結果として、新しくて重要な信念の
獲得に役に立つものがある、ということを論証することを目指す。
以下の議論は次の通りである。第二節では、ハイグレードな知識、ハイグレードな正
当化された信念、および、探求という概念を明確にする。
「ハイグレードな正当化された
信念」と呼ばれる、良い探求の結果獲得される信念に的を絞り、探求の産物(product of
inquiry)として見られる、ハイグレードな正当化された信念の質を評価するために必要な
基準には、新しさと重要性が含まれる、ということを明らかにする。第三節では、焦点
の定まった、的を射た問いを立てることは、探求の結果として、新しくて重要な信念を
獲得することに役立つものであり、このことから、問いが焦点の定まったものであるこ
89
とと、的を射たものであることは、問いが良いものであるために必要な特徴である、と
いうことを明らかにする。第四節では、まず、知的徳とはどのようなものなのかを明確
にする。次に、知的徳の中の、思慮深さ(contemplativeness)と、関連性に対する鋭敏さに
注目し、知的徳の種類の中には、良い問いを立てることを可能にするものがある、とい
うことを論じる。第五節では、以上の要点と今後の研究を提示する。
5.2
ハイグレードな正当化された信念、ハイグレード
な知識、および、探求
本節では、徳認識論の議論に基づいて、ハイグレードな知識、ハイグレードな正当化
された信念、および、探求という概念を明確にする。この考察の目的は、ハイグレード
な正当化された信念という概念を明確にすることで、次節で、探求の結果として得られ
た信念を評価する認識論的基準について検討する準備をする、ということにある。
徳認識論の中で議論されているハイグレードな知識という概念は、二通りの仕方で解
釈されうる。第一に、ハイグレードな知識とは、知恵(wisdom)や理解など、知識や正当
化とは異なる諸々の認識論的概念のことを指示し、他方で、グレードの低い知識とは、
知覚や記憶などの、サブパーソナルな機能5を通じて獲得される知識のことを意味する(cf.
Greco, 2002, p. 298; Zagzebski, 1996, pp. 273–4)。第二に、ハイグレードな知識とは、探求
の結果としてのみ獲得されるだろうと考えられる知識のことであり、たとえば、山中伸
弥氏による iPS 細胞の生成方法に関する発見6 などが挙げられる。他方で、グレードの
低い知識とは、探求なしで獲得されうる知識のことであり、
「テーブルのうえにリンゴが
ある」など、主に知覚や記憶などを通じた知識が含まれる(cf. Baehr, 2011, Chapter 3 & 4;
Battaly, 2008, pp. 651–9)。7 知恵や理解など、さまざまな認識論的概念は注目に値するも
のであるが、以下では、探求の結果として獲得される知識に焦点を当てるため、第二の
解釈に的を絞る。
この解釈におけるハイグレードな知識とグレードの低い知識との区別に関して、
Battaly (2008) は次のような説明を与えている。
グレードの低い知識の範例は、知覚的知識であるが、そのような知識は受動的に獲
得される。議論の余地はあるかもしれないが、たとえば、目を開けて、脳が機能し、
十分な明るさのもとにおり、その他の条件にも適切であるなら、視覚的知識はすぐ
さま得られる。
(中略)対照的に、ハイグレードな知識は意図的な探求の結果として、
受動的というより、能動的に獲得されるもののことである。このハイグレードな知
識の範例として、科学的知識(中略)
、哲学的知識、あるいは、価値的および道徳的
90
第5章
知的徳は良い問いを立てることにどのように貢献するか
知識が挙げられる。(Battaly, 2008, pp. 651–2)
ここで「探求」は、科学などを典型とする、真理を目指す能動的活動と見なされている。
このような探求の中で探求者は、良質の論文など、より良い証拠を探すこと、自分の考
えや理論に対する説得的な理由を提示すること、議論の説得力を適切に評価すること、
問題の隠れた前提を見つけること、批判の妥当性を判定すること、あるいは、別の結論
の可能性を検討すること、などに従事する。このような理由から、ハイグレードな知識
の獲得のためには、このような活動に自ら関わる必要があるという意味で、ハイグレー
ドな知識は「積極的に」獲得される。
しかし、探求の結果として獲得される全ての信念が知識とみなせるわけではない。そ
の理由は、知識には信念が真であるという条件が必要とされるが、探求の結果獲得され
る信念は必ずしも真であるわけではないことにある。他方で、正当化と探求との関係に
関しては、良い探求の結果として獲得される信念は、何らかの仕方で正当化された信念
であると言える、と思われる。8 というのも、第一章第二節の(1-7)で規定されていたよ
うに、良い探求であるためには、探求の中で得られる信念を正当化する証拠も与えられ
る必要がある、と考えられるからである。この議論が認められるなら、探求の文脈にお
いて、次のような、ハイグレードな正当化された信念という概念を導入することは理に
適っている、と考えられる。すなわち、
(5-1)
信念は、真理を目指す良い探求の結果として獲得されたものであるとき、そのと
きに限り、それは、ハイグレードな正当化された信念である。9
この時点で、以下での議論で扱う対象は、探求の結果得られる信念に議論の的を絞る
ためにより適していると考えられる、ハイグレードな正当化された信念に限定する。ハ
イグレードな正当化された信念は、良い探求の結果獲得される信念として理解されてい
るので、それはまた、探求の産物として捉えることができよう。探求の産物として信念
を捉えるとき、信念を評価するためには、その質を考慮に入れなければならない、と思
われる。では、信念の質を評価する基準とはどのようなものだろうか。次節で考えよう。
5.3
新しさと重要性という基準
本節では、探求の産物として捉えられる信念の評価に関しては、信念の質が考慮され
る必要があること、および、以下で説明される新しさと重要性は、ハイグレードな正当
化された信念の質を評価するために必要な基準である、ということを論じる。これらの
認識論的基準を明らかにすることは、次節で、探求において問いを立てることの意義を
91
明らかにするために重要なステップとなる。
Zagzebski (1996, p. 274) は、
「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミは一つ
しか知らなくても大事なことを知っている(The fox knows many things, but the hedgehog
knows one big thing)」という格言を引いて、良い探求の末に獲得される信念や知識を評価
する場合、その質を考慮する必要があることを示唆している。質の評価という観点から
見て、正当化された信念も知識も探求者によって生み出される産物と見なされうる。で
は、探求の産物として見られるハイグレードな正当化された信念を評価するために、ど
のような基準が適用されるのだろうか。
この考察の出発点として、はじめに、「産物の認識論(product epistemology)」と呼ばれ
る Goldman (1986, p. 138) のアイディアを参照しよう。Goldman によれば、認知的プロセ
スのほか、認識論的評価の対象には、出版された作品や論説などの産物が含まれる。
知的評価は、内的状態や操作に対してより、私が産物と呼ぶものに対して頻繁に関
わっている。日々の知的および文化的交流において、評価の主要な対象となるのは、
心的な行為ではなく、論説や出版された作品である。(p. 137)
ここで Goldman が関心をもっている対象は、集団によって生み出された産物であるが、
評価の対象には、個人によって創造された産物を含めることもできよう。産物を評価す
るという考えは、(5-1)で規定された、ハイグレードな正当化された信念に対しても適用
できる。その理由は、探求に関しては、探求のプロセスだけでなく、探求の産物もまた
評価の対象と見なされうること、また、探求の産物は個人の探求か集団による探求かど
うかに関わらず、評価されうる、ということにある。
それでは、ハイグレードな正当化された信念の質を評価する具体的な基準はどのよう
なものだろうか。しばしば挙げられる基準の一つが、新しさである(e.g., Goldman, ibid., p.
138; Hausman, 1979, pp. 239–40; Kronfeldner, 2009, pp. 578–9)。10 ここで新しさとは、具体
的には、産物(の内容)が歴史的に初めて生み出されたとき、そのときに限り、その産
物は新しい、というものである(e.g., Hausman, 1979, p. 239)。11 たとえば、前節で挙げた、
山中氏による iPS 細胞を生成する方法は、生理学の歴史において新しい産物と認識され
る。
しかし、よく指摘されるように、新しさは、産物として捉えられるハイグレードな正
当化された信念の質を評価するための十分な基準ではない(e.g., Gaut, 2010, p. 1039)。とい
うのも、新しい産物は自明なものに過ぎないことがあるからである。たとえば、証明さ
れた数学的定理が歴史的に新しい結果であっても、それはあまりに自明であったため、
数学者の関心を惹かないものかもしれない。
議論で取り上げられることのある別の基準は、オリジナリティである。Goldman は、
新しさに加えて、オリジナリティあるいは創造性が産物を評価するための基準となるこ
92
第5章
知的徳は良い問いを立てることにどのように貢献するか
とを提案している。
産物の評価のための別の決定要素は、心的な要因(mental factors)に遡るものであるか
もしれない。概して、産物に対する評価度数は、オリジナリティ、あるいは創造性
に対する問いに関わる。たとえば、いったい、この産物はどの程度、或る分野にお
けるこれまでの作品を超えるのだろうか。この作品を生み出すのは、分野における、
広く知られる知識と道具のことを考えると、どれほど難しいものだったのだろうか。
(中略)知的功績の尺度は、部分的には、それを生み出すことの難しさに比例する。
(Goldman, 1986, p. 138)
しかしながら、ここで Goldman は、オリジナリティに関して異なる二つの点を指摘して
いることに注意しよう。一つ目は、オリジナリティは、功績がどれほど困難だったかに
応じて測られる、というものである。この場合、産物を生みだす認知的プロセスの複雑
さが、オリジナリティの基準となるかもしれない。二つ目は、産物は、
「或る分野におけ
るこれまでの作品を超える」限りで、オリジナルである、というものである。この場合、
評価される対象は産物そのものの質であり、オリジナリティは、産物を生みだすプロセ
スの難しさとは独立に測られる。
実際、オリジナリティを評価される対象が何であるのかに関しては論争がある。 12こ
のことを勘案し、現在の主題に従って、ここでの議論の焦点を、上で挙げたケースの中
の二つ目の場合、すなわち、評価の対象が産物の質である場合に絞ることにする。ここ
で私は、或る産物がどの程度、
「或る分野におけるこれまでの作品を超える」のかを見積
もるために、重要性という基準を提案したい。ここでの文脈において重要性とは、或る
産物が特定の分野に関連性のある貢献をするなら、その産物は特定の分野において重要
である、というものである。13 もちろん、この重要性は、程度を許すものである。たと
えば、産物 P が科学に意義のある貢献をするなら、P は科学において重要な産物と見な
される。Goldman が指摘していたような、「或る分野におけるこれまでの作品を超える」
産物とは、このような意味で新しい産物のことであるだろう。
ここで、今規定された、新しさと重要性という基準は、探求の産物として捉えられる
ハイグレードな正当化された信念を評価するために完全なものではない、と言われるか
もしれない。ほかにも必要な基準があるかもしれない、というのはその通りだろう。し
かし、現在の文脈では、産物の質を評価するいくつかの基準がどのようなものなのかを
示すこと、および、そのような基準の中に、新しさと重要性が、おそらく重要なものと
して含まれるということを説明することで十分である。この二点に基づいて、新しさと
重要性が、探求の産物として捉えられるハイグレードな正当化された信念を評価するた
めの基準であることが認められるだろう。
ここまで明確にしたことは、探求のプロセスの中での、良い問いを立てることの意義
93
を明確にするために重要なものである。次節では、この意義について考えよう。
5.4
良い問いを立てること
本節では、問いを立てることと、その意義を明確にしたうえで、問いが焦点の定まっ
たものであることと、的を射たものであることは、良い問いに必要だけでなく、重要な
特徴でもある、ということを明らかにする。
まず、問いを立てることを明確にすることから始めよう。探求は、問いに答える活動
と等しいものと見なされる傾向があるが、このことは必ずしも正しいわけではない。第
一に、探求を開始するために立てられる問い、すなわち、最初の問いがいつも探求に先
立って与えられているわけではない。たしかに、或る分野の専門家などの、第三者によ
って問いが与えられることもあるものの、多くの場合、探求者はみずから、自分の探求
を適切な方向に導くために必要な問いが何かを検討しなければならない。加えて、最初
の問いは、探求のプロセスの中で、より明確なものへと変化することも多い。このよう
なことから、探求の多くには、問いに答えるだけでなく、問いを設定し、より明確なも
のにするという活動が含まれる、と言える。
さらに、探求には、問いを同定し、修正し、そして、洗練させる活動が含まれる。Scheffler
は、科学的探求において、科学者は「問題を発見すること(problem-finding)」にも従事す
る、と主張する。
科学の営みは、労力なしに与えられた問題を解決することに尽きるわけではない。
科学者の思考は、自分の問題が解決されたときに、鎮まるのではない。問題を発見
することは、問題を解決することと同じく重要であり、優れた科学者の科学的思考
は、それまでの実践の中で扱われていない問いを探し、定式化し、そして、洗練さ
せるということに使われる。(Scheffler, 1974, p. 252)
科学者の仕事を含めて、探求者の行うことの中には、問題を解決することだけでなく、
問題を発見することも含まれるという主張に対しては、それを支持するいくつかの経験
的研究がある。創造性についての心理学的研究を行っている Runco は次のように述べる。
問題それ自体が同定されなければならないときがある。これはばかげて聞こえるか
もしれないが、
(中略)われわれはときどき、ただ「何かが間違っている」というも
やもやした気持ちになるだけで、しかし、それが何なのかわからない、ということ
がある。
(中略)そういうとき「問題」があまりにも大まかに、あるいは、あまりに
も細かく定義されたゆえに、われわれは本当のところ、問題を同定していなかった
94
第5章
知的徳は良い問いを立てることにどのように貢献するか
かもしれないのである。(Runco, 2007, p. 16)
問題点に気付き、それを明確にすることなどを含む、問題を発見するという活動は、探
求者に、問題が大まか過ぎず、細かすぎもしないという意味で「適切に焦点の定まった」
問題を同定することを可能にしてくれるだろう(ibid.)。問題に答えることも発見すること
も探求のプロセスにおける一連の作業の中で行われるものであるが、両者は、探求のプ
ロセスにおける役割の観点から区別される。
ここで、これまでの議論では問いを立てることを強調してきたものの、問いを立てる
ことは必ず探求の中で行われる、というわけではないことに留意しよう。というのも、
第一に、問いを立てることは、第 2 節で言及したような、探求におけるさまざまな活動
の中の一部に過ぎないからである。また、第二に、探求には、文の形をした問いを立て
ることなく、探りのモードがあるかもしれない。たとえば、科学者は、文の形をした問
いや仮説を見つけようと能動的になることなく、関連のある手掛かりをじっと眺めるこ
とで、データを探索するかもしれない。
それでも以上の二点を認めても、問いを立てることは重要であり、それゆえ、注目す
る意義がある、と考えられる。Runco (ed.) (1994) に見られるような、心理学的研究の中
には、良い問いを立てることと、探求の結果として成し遂げられる仕事の質の高さとの
間には相関関係があることを示唆するものがある。また、Hintikka (2007, Chapter 2)や
Hookway (2008)は、正当化と異なり、問いを立てることには、探求者が新しくて重要な
信念や知識を獲得するように促す役割がある、と考えている。14 このような理由から、
良い問いを立てることは、新しくて重要なハイグレードな正当化された信念の獲得に役
立つという意味で、探求において重要である、と言えるだろう。15
では、良い問いとはどのようなものなのだろうか。このことを考えるために、良い問
いを獲得する仕方について考えてみよう。おそらく、二つの獲得方法があると思われる。
一つ目は、良い問いは、熟慮の末に獲得される、というものである。問いを同定し、修
正し、そして洗練させることで、探求者は、もとの問いを、焦点の定まった問いにし、
関連性の高いという意味で的を射た問いを見出すことができるだろう。二つ目の獲得方
法は、良い問いが探求者におのずと浮かんでくる、というものである。Hookway は、こ
の獲得方法に関して、簡潔な説明を与えている。
持続的な反省と探究の結果、事実が顕著となる(salient)、というときもあるだろう。
他方で、即座に顕著となるときもある。具体的には、探求の中での或るステップで、
、、、、、、、、、、、、、
われわれのもとに生じてくる(occurring to us)特定の事実や問いに依拠することがあ
るだろう。もちろん、顕著さだけでは十分とは言えない。たとえば、関連のない考
察がわれわれに顕著となるなら、われわれの推論と探求は失敗してしまう公算が高
い。顕著さが関連性をトラッキングしているということは、推論や探求が成功する
95
ための必要な条件である。 (強調原著, Hookway, 2006b, p. 59)
この引用で Hookway は、
「問い」だけでなく、
「事実」についても言及しているが、ここ
での関心の対象を、問いに絞ろう。問いの中には、顕著なものとして「われわれのもと
に生じてくるものがある」と指摘している。ここで、顕著な問いとは、探求者の注意が
向けられる問いのことであると理解できる、と考えられる。また、
「われわれのもとに生
じてくる」問いは、反省の結果として注意が向けられる問いと対比されていることから、
そのような問いとはおのずと生じる問いのことである、と考えられる。以下では、探求
者におのずと生じる問いを
「自発的な問い(spontaneous questions)」と呼ぼう。
そうすると、
自発的な問いの中には、探求者の注意を引くものがある。
しかし、Hookway が述べるように、自発的な問いが顕著であることはから、その問い
が探求者の従事する探求内容に関連するものである、ということは出てこない。実際、
無関係な問いが生じてくることはある。それでも、探求者が探求内容に関連する自発的
な問いに鋭敏であるならば、より多くの的を射た問いに注意を向けることができるだろ
う、と思われる。たとえば、ある惑星の形成について研究している天文学者が、研究内
容との関連性に鋭敏であるなら、そうでない研究者よりも、自分に生じてくる問いの中
で、的を射た問いに注意を向けることができる。このことは、関連事項に対する鋭敏さ
など、探求者の性格特性が自発的問いに気付くことに役立つことを示唆している。この
点に関しては、次節で、性格特性という概念を明確にすることで、より詳しくみてみる
ことにしよう。
これまで、良い問いは、いつも反省や熟慮の末に得られるというわけでなく、われわ
れにおのずと生じてきて気付かれるものがある、ということをみてきた。熟慮の末に獲
得される問いと、おのずと生じてくる問いに関する、問いの獲得の仕方の違いは、熟慮
の末に得られる問いの獲得は、探求者が意識的にコントロールできるのに対して、自発
的な問いの獲得は、そうではないということにある。すなわち、
(5-2)
良い問いは熟慮の末に獲得されることがあり、その場合には、探求者が意識的に
コントロールできる。
(5-3)
良い問いはおのずと生じてくることがあり、探求者に注意が向けられることがあ
るが、その場合には、探求者が意識的にコントロールすることはできない。
ここまで明らかにしたことから、(5-2)と(5-3)のどちらの場合でも、問いが良いもので
あるためには、問いが焦点の定まったものであることと、的を射たものである必要があ
る、と言える。だが、このことは、この二つの条件が、良い問いであるための十分な条
件である、というわけではない。良い問いのための別の必要条件の候補として、たとえ
ば、科学の文脈では、問いが、一定の期間で一定の科学的方法に基づき、答えが出る見
96
第5章
知的徳は良い問いを立てることにどのように貢献するか
込みが高いという意味で、回答可能なものである、というものが挙げられるかもしれな
い。というのも、科学の方法で一定の期間内に回答できない問いは、科学者の探求を滞
らせることがある、という意味で良いとは言えない、と考えられるからである。この事
例から、問いが焦点の定まったものであることと、的を射たものであることという条件
は、良い問いを完全に特徴づけるには不十分であることが示唆されよう。それでも、こ
の二つの条件は、焦点の定まった、的を射た問いを立てることは、探求者が良い探求の
末に、新しくて重要な信念の獲得に役立つという意味で、重要な条件である、と考えら
れるだろう。
ここで、焦点の定まった、的を射た問いを立てることと、問いと探求内容との間の関
連性に対する鋭敏さなど、探求者の性格との関係に関する問いを保留にしていたことを
思い出そう。次節では、この問いについて考えよう。
5.5
良い問いを立てることと、知的徳との関係
本節では、探求者の知的徳が問いを立てることを説明するうえで、どのような利点が
あるのかを明らかにする。そのために、第一に、知的徳の概念を明確にし、第二に、思
慮深さと、関連性に対する鋭敏さを事例に上げて、知的徳の中には、探求者が良い問い
を立てることに貢献するものがある、と論じる。
まず、知的徳の概念を明確にしよう。16「徳」という用語は日常的には、たとえば、
慈悲深さなど、道徳に関連するものと見なされるだろうが、この語は、目の良さなどの
認知に関係するサブ・パーソナルな特徴や、探究心などの、知性に関係する性格特性を
表すために使われることもある。17 徳認識論では、これらは「知的徳」と呼ばれ、この
知的徳は二種類に大別される。一つ目は、目の良さや記憶力の良さなど、生まれつきか
どうかに関わらず、サブ・パーソナルな機能のことであり、二つ目は、注意深さや探究
心など、知的に優れた性格のことである。18 以下では、探求者の性格特性と、良い問い
を立てることとの間の関係を検討するために、後者の種類の知的徳に議論の的を絞る。
Baehr は、探求者の知的徳と探求との関係について、以下のような説明を与えている。
ここで、知識の獲得のためには大概、探求が必要となる。そのようなものとしての
、、、
探求の中で、われわれは認知的行為者(agents)になることが求められる。たとえば、
さまざまな仕方で考える、理由付けをする、判断する、評価する、読む、解釈する、
判定を下す、検索する、あるいは、反省的に考えることが要求される。もちろん、
、、
このことはまた、人の性格に関わる事柄、とくに知的性格に関わる事柄でもある。
知的に徳のある人とは、知的に適切な仕方で、あるいは、合理的な仕方で考え、理
由付けし、判断し、評価などを行う者のことである。(強調原著, Baehr, 2011, p. 18)
97
第 1 節で述べたように、探求を通じて知識を獲得するためには、上で述べられるような
さまざまな活動に従事する必要があり、良い探求者とは、このような活動を適切な仕方
で行う者のことであろう。
Baehr は、引用の中で、
上記の活動を適切に成し遂げることと、
探求者の知的徳との間に、何らかの関係があると主張している。たとえば、心理学研究
の中では、前例のない経験に対する柔軟性など、科学者の特定の性格と、そのような科
学者の優れた功績との間に何らかの相関関係があることが示唆されている(Feist, 1999, p.
290)。ここで科学者の優れた功績とは、これまでの議論の文脈における、新しくて重要
なハイグレードな正当化された信念とみなすことができよう。知的徳と探求により高度
な産物を生みだすこととの関係が因果関係なのかどうかという重要な問いが残るものの、
これは、知的徳と高度な産物を生みだすこととの関係に関する一般的問題であるため、
ここでは、良い問いを立てることに関連すると考えられる知的徳に、議論を絞る。19
以下の議論で私は、思慮深さと、関連性に対する鋭敏さを知的徳の事例として、知的
徳の種類の中には、それを持つ探求者が、焦点の定まった、的を射た問いを立てること
ができるようにするものがあることを論じる。まず、良い問いを獲得する仕方には二種
類あったことを思い出そう。(5-2)では、良い問いは、熟慮の末に獲得されるもので、(5-3)
では、良い問いが探求者におのずと生じる、というものであった。次に、知的徳に関し
て、知性に関係する性格特性は傾向性(dispositions)とみなされることが多い(Henderson &
Hogan, 2009, p. 297)。20 そして、議論の余地があるものの、傾向性は、反事実的な性質
と捉えられうる。21 現在の考察の意図は、知的徳という概念を明確にすることなので、
知的徳に関しても、傾向性についての基本的な考えに依拠することとする。22
はじめに、思慮深さを知的徳の一つと考えて、良い問いを獲得する(2)のケースを考え
てみよう。現在の文脈で、思慮深さとは、探求者が熟慮の要求される仕事に従事したな
らば、その仕事について熟考したことだろう、という内容の反事実的性質として捉える
ことができる、と思われる。問いを立てるという文脈では、思慮深さをもつことで、探
求者は、適切な状況において、問いを同定し、修正し、そして、洗練するということに
熟慮する傾向性をもつ、と言えよう。それゆえ、熟慮する探求者は、必要な場面で問い
を立てることに集中することができ、そうして、問いを焦点の絞られた、的を射たもの
へと洗練させることができる可能性が高い、と言えるだろう。
次に、(5-3)のケースにおいても、おのずと生じてきた問いと、当の探求内容との関連
性に対する鋭敏さをもつことで、良い問いをたてることができるようになる、と考えら
れる。ここで、関連性に対する鋭敏さとは、何らかの関連性が探求者に示されたならば、
それに気付くことができただろう、という反事実的性質とみなすことができる。この鋭
敏さは、以下の二通りの仕方で、重要な自発的な問いを得ることに貢献する。第一に、
この鋭敏さが著しいほど、探求者は従事している探求に関連する自発的問いに気付くこ
とができるようになる。23 第二に、この鋭敏さが機能するために、探求者は熟慮する必
98
第5章
知的徳は良い問いを立てることにどのように貢献するか
要がない。(3)で述べられていたように、おのずと生じてくる問いを得るプロセスは、探
求者が意識的にコントロールすることはできないものの、関連性に対する鋭敏さが機能
するために意識的な努力は要求されない。このことから、たとえば、惑星の形成につい
て研究している天文学者が、自発的な問いと、研究内容との関連性にとても鋭敏な者で
あるなら、たとえ、仕事がオフのときでも、おのずと生じてきた、惑星の形成の研究に
とって重要な問いを逃すことなく、それに気付くことができるだろう。24 また、熟慮の
末に獲得された問いの場合でも、このような、関連性に対する鋭敏さは、良い問いを得
るために役立つかもしれない。このような仕方で、関連性に対する鋭敏さは、探求者が
良い問いを得ることに貢献する。
これまでの議論を勘案すると、思慮深さや、関連性に対する鋭敏さを発揮することは、
焦点の定まった、的を射た問いを立てることに貢献する、と言えるだろう。それゆえ、
(5-4)
知的徳の種類の中には、探求者がそれらを発揮することで、焦点の定まった、的
を射た問いを立てることができるようにするものがある、
ことになる。
最後に、知的徳が良い問いを立てることを説明するうえで、どのような利点があるの
かを説明しよう。良い問いを立てることについて説明する、いくつかの考えられるアプ
ローチの中で、知的徳を基礎にした説明の利点はどのような点にあるだろうか。これま
での議論を踏まえると、以下の二点を挙げることができる。一点目は、知的徳には、適
切な状況で問いを立てることに従事するよう、探求者を動かすものがある、というもの
である。たとえば、思慮深さは、探求者を、適切な状況において、問いを同定し、修正
し、そして、洗練することに集中するよう動かすだろう。このように、知的徳の中には、
探求者が適切な状況で問いを立てようとする傾向性を与えるものがある。二点目は、知
的徳には、問いを立てる作業を良い方向に導くものがある、というものである。たとえ
ば、関連性に対する鋭敏さが発揮されることで、探求者は、自発的な問いの中から、焦
点の定まった、的を射た問いに注意を向けることができるだろう。
以上の二点は、知的徳の観点から、良い問いを立てることについて説明する利点であ
る、と考えられる。たしかに、優れた成果を生み出すためには、探求者が、当の探求内
容に関する十分な背景知識を持っていなければならないかもしれない。実際、このこと
を示唆する心理学研究がある(Weisberg, 1999)。たとえば、iPS 細胞の生成方法に関する発
見につながるような問題設定は、山中氏が当の専門分野に関する十分な見識がなければ、
なされえなかっただろう、ということは考えられよう。しかしながら、このことを認め
ることから、探求内容に関する十分な背景知識を持っていることは、良い問いを立てる
ことができるために十分な条件である、ということは出てこない。たとえば、自分の研
究分野に関する十分な知識を有している探求者が、これまで説明したような思慮深さと、
99
関連性に対する鋭敏さという知識徳をもっていないとする。そうすると、この探求者は、
必要な場面で、問いを同定し、修正し、そして、洗練することに集中することがなく、
その結果、適切に焦点の定まった問いを見出すことができないかもしれない。同様に、
関連性に対する鋭敏さが全く欠けている探求者は、自分の研究に関連のある問いが生じ
てきても、注意を向けることがないだろう。このような思考実験から、先ほど挙げた二
点、すなわち、知的徳が探求者に適切な状況で問いを立てようとする傾向性を与える点
と、問いを立てる作業を良い方向に導く点は、背景的知識の所持という観点からでは、
説明できない点である、と言える。
以上のことから、知的徳が探求者に適切な状況で問いを立てようとする傾向性を与え
る点と、問いを立てる作業を良い方向に導く点は、探求者の知的徳に注目して良い問い
を立てることについて説明する利点である、と言えると考えられる。25
5.6
結語
本章で私は、知的徳と問いを立てることとの関係を明らかにしてきた。最後に、本議
論を要約しておこう。第一に、良い探求の結果獲得される信念、すなわち、ハイグレー
ドな正当化された信念を評価するために必要な基準には、新しさと重要性が含まれる。
第二に、問いが焦点の定まったものであることと、的を射たものであることは、問いが
良いものであるために必要な特徴であるだけでなく、新しくて重要なハイグレードな正
当化された信念の獲得に役立つという点で、重要な特徴である。第三に、知的徳の種類
の中には、思慮深さや、関連性に対する鋭敏さなど、探求者がそれらを発揮することで、
焦点の定まった、的を射た問いを立てることができるようにするものがある。以上のこ
とから、子どもがみずから問いを立て、他者とともに問いを吟味し、洗練させる教育が
重要である理由は、子どもがみずからの関心に応じて良い問いを立てることができるよ
うになることで、新しくて重要な信念を獲得できるようになるだろう、ということにあ
る。
100
第6章
教育の認識論についての今後の課題
101
第6章
教育の認識論についての今後の課
題
これまで、探求を中心とする教育の認識論について論じてきた。具体的には、第一に、
教えと学びに関係する範囲での探求の問題として「学習者がより理知的な探求者となる
ため、教育を通じて学ぶ必要のあることは何か」という問題を提示し、第二に、この問
題に対して、情動、動機、そして、徳という主題の観点から私の回答を示してきた。本
章では、まず、本研究で明らかにされたことを確認する。次に、探求を中心とする教育
の認識論についての今後の課題を提示する。
6.1
これまでの議論のまとめ
これまでの議論を簡潔に要約しよう。本研究では、探求を中心とする教育の認識論を
提示してきた。本研究の主題が、教育に関わる範囲での探求に焦点が絞られる理由は、
子どもが理知的な探求者となるために必要かつ基礎的なことを、教育を通じて学ぶこと
は重要と考えられる、ということにある。
とくに、現代生活ではインターネットなどのマス・メディアの普及とともに、われわ
れは大量の信念に対して容易にアクセスすることが可能になた一方で、信念に関連する
理由ないし証拠の量は膨大となり、それゆえ、自分の獲得した信念すべてを自分自身で
正当化することは難しくなってきた。それゆえ、たとえば、われわれは必要な場合には、
より信頼できる情報源を見つけることができなければならない。さらに、医療や科学分
野は進歩し、分野に関する知識はますます複雑になってきているため、医療や科学に関
係する信念に対する証拠をわれわれが理解することは難しくなっている。
このようなことから、知的に高度な知識を獲得するために、医者や科学者など信用で
きる証言者から教わることなど、他者の証言に認識論的に依存することは合理的な場合
が多くあると言える。このような認識論的状況では、子どもがしかるべき状況で批判的
に思考するよう動機づけられるようになる一方で、他者に適切な仕方で認識論的に依存
102
第6章
教育の認識論についての今後の課題
しながら探求できるようになることは、教育の目的の一つであるだろう。
したがって、理知的な探求者の育成は教育の一つの理念であると言えるだろう。これ
が、教えと学びの認識論を扱う本研究が探求に焦点を当てる理由である。
はじめに、理知的な探求の育成という教育理念に関係する議論として、探求のパラド
ックスを取り上げ、教育というオリジナルの観点を考えることでパラドックスを解決す
ることを試みた。このパラドックスの解決を目指した考察についての検討から、次のよ
うな探求に関係する教えと学びについての発見があった。
まず、子どもが理知的な探求者になるための認識論的段階を三つに区別した。第一に、
子どもはみずから問題を立てて探求を始めるようになるために、多くの知識を親や教師
の証言を通じて教わる段階である。この認識論的段階は「初期の認識論的段階」と呼ば
れた。第二に、初期の認識論的段階の後、子どもが知識獲得につながる内容かどうか判
断のつかないままに、さまざまな内容を自発的にも学ぼうとするようになる段階である。
このような学びは「手探りの学び」と呼ばれ、この学びの段階は「自発的学びの認識論
的段階」と呼ばれた。第三に、子どもが手探りの学びから、より理知的な仕方で探求を
するようになる段階である。
理知的な探求者を育成する教育が関わるのは、子どもが自発的に学び始める段階から、
より理知的な仕方で探求できるようになる段階への移行である。なぜなら、われわれを
理知的な探求者とする大きな要因は、教育により後天的に習得されることであると考え
られること、それゆえ、理知的な探求者の育成の目標は、子どもがより理知的に探求で
きるようになるために必要なことを習得することをサポートすることにある、と考えら
れるからである。
そうすると、探求に関する重要な一つの問題が生じる。それは「学習者がより理知的
な仕方で探求を行えるようになるため、教育を通じて学ぶべきことは何か」という問題
である。
理知的な探求者の育成に関わる、このような問題を同定することにより、第三章から
第五章にかけて、子どもがより理知的な仕方で探求に従事できるようになるために学ぶ
必要のあることについて検討されることになった。
各章では、それぞれ情動、動機、および、知的徳の観点から考察されている。
第三章では、探求をより理知的に行えるようになるために学ぶ必要のある一つ目とし
て、適当な情動が、教えと学びのしかるべき状況で繰り返し生じるようになることが取
り上げられた。情動に関するこのような傾向性は「情動的徳」と呼ばれた。情動につい
ての議論の中で私が論じたおもな点は以下の三つである。一つ目は、驚きは、学ぶ者や
教える者の注意を、従事している教えや学びに関連する質問や批判に向けさせるセンサ
ーの役割を果たすことがあるという点である。二つ目は、このような役割を果たすこと
で、驚きが合理的生活における教えや学びに貢献しうることである。三つ目は、適切な
状況で適当な量の、驚きを含む情動が生じることで、学ぶ者や教える者の注意を関連す
103
る認知内容に向けさせる情動的徳は、子どもがより理知的な仕方で探求を行えるように
なるため、教育を通じて学ぶ必要のあることである。
第四章で、子どもがより理知的な仕方で探求を行えるようになるために学ぶ必要のあ
る二つ目として取り上げたのは、批判的に思考しようとする動機づけの習得である。子
どもが理知的な探求者へと成長していくうえで、理由の説得力を適切に評価し、適切に
批判的に考えるよう動機づけられるようになることは必要なことであろう。本章で私は、
いかにして批判的思考の動機づけは育成されうるのかについて検討し、次の三点を論証
した。一つ目は、教師や親、あるいは、小説や映画などのメディアにおける虚構の登場
人物は、合理性を示す手本と見なされうることである。二つ目は、子どもは手本を示さ
れることで、批判的に思考するとはおおよそどのようなことなのかを学ぶことである。
この学びは、子どもがやがて理由を適切に評価する能力を獲得し、しかるべきときに理
由を考える性格特性を身につけることにつながるだろう。三つ目は、手本を慕うという
情動は、子どもが批判的に思考しようとする動機要因としての役割を果たすだろうとい
うことである。
第五章では、子どもがより理知的な探求者になるために教育を通じて学ぶ必要のある
三つ目として、問いをみずから同定し、修正し、洗練させるなど、良い問いを立てるこ
とができるようになることが取り上げられた。ここでは、良い問いを立てることができ
るようになることについて、学ぶ者の性格特性の観点から検討した結果、私は次のよう
に論証した。熟慮と問いに対する感受性は、そのような性格特性をもつ者が、焦点の定
まった、的を射た問いを立てることができるという意味で「良い」問いを立てることに
貢献する、ということである。この主張を支持するために、まず、良い探求の結果、得
られる信念を評価するための認識論的基準には、新しさと重要性が含まれることを明ら
かにし、次に、良い問いを立てることは、われわれが探求の結果として、新しくて重要
な信念を獲得することに役立つ、ということを明らかにした。結論として私は、良い問
いを立てることは子どもが探求を通じて新しくて重要な信念を獲得することに貢献する
と論じ、それゆえ、子どもがみずから良い問いを立てることができるようになることは、
教育を通じて学ぶべき重要なことであると主張した。
まとめると、理知的な仕方で探求を行えるようになるため、子どもは適切な情動的徳
を身に付け、批判的に思考しようと動機づけられようになり、良い問いを立てられるよ
うになる必要がある。ここで学ぶ必要があると想定された三つ、すなわち、情動、動機、
あるいは、感受性はすべて子どもの性格特性に関わるものである。これらは、将来にか
けて子どもを良い探求者とするために大いに役立つものであるだろう。
6.2
今後の研究課題
104
第6章
教育の認識論についての今後の課題
最後に、探求を中心とする教育の認識論の今後の課題について述べる。まず、教育の
認識論についての現代の動向を簡単に整理したうえで、今後の研究課題を挙げる。
第一章で述べたように、教えと学びを中心とする教育の認識論は、これまで認識論に
おいて主題的に研究されてこなかった。その大きな理由は、デカルトから始まったとさ
れる近代認識論における、信念が帰属される個人による正当化が必ず必要であるという
意味での「正当化の個人主義」の前提が、教育の認識論研究にあまり適していなかった
だろう、というものである。たとえば、小さい子どもの信念の正当化や知識伝達の主題
は、個人主義的な認識論の枠組みでは考慮される余地がない。しかし、現代認識論では、
個人主義の前提はすでに批判的に検討されている。このような現代の認識論的研究の動
向の中で、それまで注目されていなかった教育の認識論の問題が、ようやく、認識論に
おいて認知されるようになってきた。その主題には、たとえば、大人から子どもへの知
識伝達の仕組み、教えと学びの文脈における情動の役割、赤ん坊や子どもに特有な知識
獲得の在り方、あるいは、教えや学びの目的などが含まれる。今後は一層、教育に関わ
る主題も認識論の中で扱われると予想される。加えて、近代認識論の諸前提に批判的で
ありつつ、教えや学びの考察に応用しうる内容を踏まえた過去の教育の認識論研究があ
る。
このような研究背景を鑑みると、これからの教育の認識論は、過去の教育の哲学研究
における成果と、現代認識論の議論から新たに蓄積されている成果を、両方取り入れる
ことになると考えられる。本研究は、現代の認識論と過去の教育の認識論という二つの
支流を合わせて、新たな教育の認識論を打ち立てようとする試みであった、と評価する
ことができよう。
しかしながら、この教育の認識論についての以上の動向には問題点もある。大きな問
題点の一つは、認識論と教育哲学の中では、議論をするにあたり暗黙に想定される諸前
提が異なるということがよくあることだろう。徳認識論の分野で著名な研究者であり、
教育についての認識論にも強い関心を寄せる Pritchard は註の中で次のように述べる。
もちろん私は、徳認識論の現代の仕事が教育についての認識論にどのように派生す
るのかを最初に考えた者ではないが、しばしばこの点で多くの議論が両者の論争を
平等な仕方で「噛み合わせる」のに失敗し、議論の焦点が現代認識論の視点か、あ
るいは、教育の哲学の視点に偏ってしまいがちであるということは、言っておかな
ければならない。
(中略)私の貢献も、現代認識論に焦点を当てすぎて、うえの伝統
を引き継いでしまっているという不安はある。それでも、この論争を進めるために
は、どこかでスタートを切らなければならない。だから、うえのような欠点がある
かもしれないにもかかわらず、この仲裁は役に立ってくれるだろうと私は期待して
いる。(Pritchard, 2005b, p. 243)
105
Pritchard はここで、実際、具体的にはどのような違いがあるのかを説明していない。私
の実感ではあるが、教育学と哲学どちらにおいても発表をしてきた私には、次のような
違いがある。それは、哲学は基本的に、自分の疑問を明確にし、それにオリジナルの回
答を与え、その回答を擁護するために論文が書かれている、という点である。それに対
して、第一章で簡単に論じたが、現在の日本の教育哲学の論文の多くは、著名な哲学者
の主張を解釈するものである。もちろん、これは従来の教育哲学研究を批判するもので
はなく、別の種類の哲学が教育についての哲学にもありえることを指摘しているに過ぎ
ない。以上のような実感はおそらく、哲学科から教育に興味をもち、教育の哲学を研究
する研究者にも共有してもらえるかもしれないと思われる一方で、本研究で示したよう
な研究スタイルに理解を示してくれる教育学における哲学研究者もいる。教育の哲学と
ともに現代の認識論などを研究する Siegel (2009) は、教育の哲学が他の哲学分野と繋が
ることにより、今後、教育の哲学はさらに実りある分野となると考えている。そうであ
るとしても、理想に近づくためには、異なる分野の間で暗黙に了解されている前提など
を共有し合う必要があるかもしれない。
最後に、探求を中心とする教育の認識論の今後の課題を三つ挙げよう。一つ目は、教
えと学びの認識論的文脈における自己と他者の問題である。二つ目は、情動的徳という
概念の明確化の問題である。三つ目は、手本を見習うことと創造性の習得との関係の問
題である。
はじめに、一つ目の教えと学びの認識論的文脈における自己と他者の問題について簡
単に説明しよう。携帯電話やインターネットなどのマス・メディアが普及した現在の認
識論的状況では、われわれは大量の信念を容易に入手できるようになったが、それに応
じて、自分のもつすべての信念を自分自身で正当化することは非現実的なこととなって
いる。また、法律、医療、あるいは、科学分野が発達する中でますます細分化し、それ
らの分野に従事していない一般市民としてのわれわれには、法律、医療あるいは科学に
関わる信念に対する証拠は理解できないものとなっている。このようなことから、われ
われは日常において多くの信念の獲得を他者の証言に依存せざるをえないだろう。
さらに、われわれの知的生活では、他者とともに議論をするなど、他者に関わりなが
ら探求がなされることが多い。他者との議論では、他者から疑問や批判を受け入れるこ
とで、自分が事前に持っていた信念を修正することも多い。あるいは、探求が進んでい
くにつれて、過去に正しいと思われた信念について疑問を抱き始め、最終的に当初の信
念を改訂することもある。このように、知的生活における探求においては、これまでの
議論や探求の方向性を変えざるをえないような状況に遭遇する。
このような状況を考えると、知的に高度な知識を獲得するためには、他者の証言に対
する信用と慎重さのバランスを保つことなど、適当な場面で適当な仕方で認知的に依存
すること、あるいは、みずからの理由や証拠に対する批判的な眼差しをもつことと同時
に、しかるべき状況では現在の自分のもつ信念にこだわり、それが真である理由や証拠
106
第6章
教育の認識論についての今後の課題
を一層、精緻にすることなどを通して、自分の考えや理論を粘り強く論証しようとする
態度こそが合理的な態度であるだろう。
では、他者の証言を通じて獲得される信念と自分自身の理由に基づく信念のどちらを
信じることが合理的なのだろうか。あるいは、いかなる場合に、他者の批判を受け入れ
て自分の考えや主張を修正することが合理的であり、いかなる場合に、自分の考えや理
論を粘り強く論証しようとすることが合理的なのだろうか。今後の課題の一つは、教え
と学びの認識論的文脈において自己と他者との関係について検討することである。これ
は、教育理念として目指されるべき理知的な探求者とはいかなる者のことなのかについ
ての概念を明確にする研究となる。
次に、情動的徳という概念についての明確化の問題を説明しよう。情動的徳とは、適
度な量の情動が、しかるべき状況においては繰り返し生じるようになる傾向性である。
現代の情動の哲学の中では、情動の働きには、認知的側面に対する貢献と動機的側面に
対する貢献という二つの側面がある。本研究で焦点を当ててきた情動的徳の働きとは、
従事している教えや学びに関連する疑問や批判に気付くときに情動的反応を示すもので
あり、それによって教える者や学ぶ者の意識的注意を向けさせることに役立つ、という
ものであった。この点で、これまであまり焦点に当てられてこなかった情動の認知的側
面に関する新しい事柄がいくらか明確にされたと言える。
今後の課題は、このような情動的徳の認知的側面をさらに明確にすることで、情動的
徳の本質を明らかにすることである。このような研究は、教えと学びの認識論的文脈に
おける情動の役割や情動的徳の習得について明らかにすることにつながる。たとえば、
誕生と喜びとの関係は、私がぜひとも考えてみたい主題である。
「生まれてきた」と「い
る」という誕生と存在との関係の問題はそれ自体でも哲学的に興味深い問題であると思
われるが、喜びという情動との関係の観点から考えることで、親と子に関わる教育の問
題とつながるだろう。
最後に、手本を見習うことと創造性の習得の問題を説明しよう。子どもはさまざまな
知的徳を、手本を見習うことで学ぶと考えられる。このような手本を見習うことで、子
どもは将来的に、新たな知識や技術を生みだすようになるだろう。では、手本を見習う
ことで身につける徳と、新しい知識や技術を生み出す創造性との関係はどのようなもの
だろうか。今後の課題は、手本を見習うことと創造性を身につける教育との関係を明ら
かにすることだろう。
107
註
第 1 章 教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
1
「知識を学ぶ」という表現はこの文脈では、日本語として自然であるだろう。しかし、
「知識」という言葉の意味を厳密に考えると、ここでの「知識」には、読み書きなど
の技能など、さまざまな種類の知識が区別なしに含まれており、曖昧である。「知識」
という語に関しては、後に、必要に応じて詳しく説明される。
2
西洋の教育哲学史についての概説に関しては、Curren (1998a) および Sigel (2014b) を
参照できる。また、Rorty (ed.) (1998) において、著名な西洋哲学者たちの、教育の哲
学的諸議論の概要を知ることができる。一方で、村井 (1993, pp. 12–3)において中国等
を含む東洋の教育史が簡単に言及されている。
3
エレンコスに関する議論は、主に二種類ある。一つは、その教育的な意義についての
哲学的議論であり(cf. Brickhouse & Smith, 2009)、もう一つは、プラトンの著作におけ
る、エレンコスに関する解釈の議論である(e.g., Benson, 2011)。Brickhouse and Smith
(2009, Section 6) は、エレンコスを、その形態の違いに従って三種類に区別する。本研
究では第二章で、
『メノン』において見られるエレンコスを詳しく扱う。
4
そのほか、教えと学びには美学的側面や宗教的側面に関する哲学的議論があるだろう。
たとえば、芸術についての、命題的知識の獲得とは異なる、芸術の理解力や、想像性
や創造性に関する能力やその育成に関する問題がある。
「命題的知識」の説明について
は、註 6 を参照のこと。
5
教育の目的に関する議論では、しばしば、教育の目的はただ一つであることが暗黙の
前提とされてきた。しかし私は、教育の目的は複数あって良く、また、複数の諸目的
は両立するだろうと思っている。ここでは、この考えを論証はしないが、このような
主張を含めた、教育の目的に関する現代の哲学的議論に関しては、Marples (ed.) (1999)
における諸論考を参照できる。
6
言明の形をした知識は一般に「命題的知識(propositional knowledge)」と呼ばれる。以下
の議論では、この知識に焦点が当てられる。本研究では、他の形態の知識との混同を
避ける必要があると考えられる場合のみ、この形をした知識を「命題的知識」と呼び、
その他の場合には「知識」と呼ぶ。
7
たとえば、
「ケア倫理」や「徳倫理」と呼ばれる立場など、倫理学の各立場に従って、
道徳教育や学習に関する哲学的立場はたくさんあり、それに関する先行文献も枚挙に
暇がないため、ここでは具体的な先行文献を挙げることは避ける。
8
Coady (1992, Chapter 1 & 2)では、証言という概念を明確化するため、日常の用語法に基
づく議論や、他者の述べる分野言葉の意味に関する言語哲学との関係に基づく議論も
見られる。この点で、証言に関する近年の認識論では見られない論点を窺い知ること
ができる。
9
証言に関する哲学的議論の数は非常に多く、また、多様な主題が論じられているため、
ここで、その議論の全体像を提示することはできない。証言に関する現代認識論の議
論についての見通しの良い全体像を得るためには、たとえば、Lackey (2006) を参照で
きる。
10
「知識」という語の意味は、たとえば日常使用の文脈や認識論的議論の文脈など、語
の使用される文脈によって異なるかもしれない。Goldman (2002, p. 183) は、以下のよ
108
註
うに「知識」という語の四つの代表的な意味を提示している。
(1) 知識は、信念である。
(2) 知識は、制度に組み込まれた信念(institutionalized belief)である。
(3) 知識は、真なる信念である。
(4) 知識は、正当化された信念プラス α である。
認識論における知識の定義には論争があるものの、知識が(3)以上のもの、すなわち、
すくなくとも、真なる信念である必要がある、ということは広く認められている。現
在の議論を理解するためには、
「知識」ということで、真であるほかの条件を特定する
必要はないため、ここでは、知識に関する詳細な議論は控える。
11
証言に関する議論の中では、証言が、知覚や記憶のような、正当化された信念や知識
を獲得するための基礎的な源泉であるかどうかに関して論争がある。一方で、証言が
それら信念や知識を伝達する役割を果たす、ということは広く認められている。たと
えば、Lackey (2006) 参照のこと。
12
このように、子どもに伝達される信念の正当性を考えるためには、信念を伝える相手
に対して子どもが信用しているかどうかという観点も検討の対象となるように思われ
る。信念の正当性を考えるうえで、信念を受け入れる人に対する信用まで考える必要
があることに関しては、Hardwig (1991) が、科学的共同体の中での知識の伝達に関す
る問題の中で主張している。親や教師と子どもとのやり取りも知識の伝達に関する一
つの形態であることから、親や教師の証言を通じて伝えられる子どもの信念獲得に関
しても、うえの考えは重要となるだろう。
13
Goldman (2002, Chapter 7) において、専門的な知識に精通しているという意味での専
門家と、一般的な知識をもっているとしても、専門的知識はもたず、それを見知る機
会があっても内容を理解できないという意味での素人との間とのギャップがあること
が指摘されている。これは市民と専門家の間だけでなく、専門の違いによる専門家同
士の間にありうる。
14
イズラエル・シェフラーは、1950 年代から 60 年代頃にかけて興った、たとえば、
「成
長」という言葉など、教育の実践において用いられる概念や言語を分析することを通
じて教育の目的などを明らかにしようとする動向の中で、多くの研究を残した教育の
分析哲学者である。彼が、教育哲学の分野において主にどのような仕事をした哲学者
であるのかについては、第三章の第一節の註において簡単に説明される。
15
Siegel (2001) によれば、シェフラーの教えや学びについての考え方の一つの功績は、
このような倫理的側面を強調したことにある(pp. 142–3)。同様に、Rice (2011) は、ア
リストテレスによる徳の議論に関する解釈を基礎にして、他者の議論に付いていくた
めに必要とされるものに「話を傾聴する性格(the listening character)」(p. 151)を挙げて、
このような性格を育成することが重要であることを論じている。
16
本研究の第二章以降で行われる認識論的議論の中でも、主題に関連する限りで、倫理
的側面などが取り上げられる。
17
現代認識論では、正当化と知識との関係に関しては、多くの議論と立場がある。以下
の議論は、主に Bonjour (2010)、Goldman (1999)、Kornblith (2001)、および、戸田山 (2002)
を参照した。
18
Goldman の信頼性主義とその変遷に関しては、伊勢田(2004)第三章第二節を参照でき
る。
19
たとえばシェフラーは、合理性の育成について論じる際に、理性(reason)という概念を
用いることを避けている(e.g., Scheffler, 1973, p. 62)。一方で、
「know」という英語の日
常の使用法を分析し、それと比較することで、
「learn」という語の使用法の特徴を明確
にしている(Scheffler, 1965, Chapter 1)。この点でシェフラーは、
「理性」などの概念に
109
20
21
22
23
24
25
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27
28
29
30
31
32
対して批判的でありながら、
「know」の分析に関するこれまでの認識論の議論を手が
かりにしている、と言えるだろう。
現在の、このような研究動向のおおよその見通しを得るためには、Kotzee (2013) を参
照することができる。
Baehr (2011, p. 12) は、
「保守派」と「独立派」のそれぞれの立場の中に、さらに異な
る二つの考えがあることを指摘して、合計で四つの立場を区別している。だが、ここ
では、現在の議論の説明にとって必要な、
「保守派」と「独立派」という二つの区別の
みを取り上げることとする。
Siegel (2014a) は、2013 年 6 月に開催された教育と認識論を結び付ける Educating for
Intellectual Virtues 会議において発表した原稿を修正したものである。これは、Siegel
氏との非公式でのやり取りで得られた原稿であり、この原稿は 2014 年 9 月 1 日時点で
まだ出版されていないが、近いうちに出版されるそうである。
はじめに設定された目標の問いそれ自体が探求のプロセスの中で変化する、というこ
ともある。それでも、目標の問いを設定し、その問いに答えるという活動を繰り返す
ことが探求の基本的なプロセスである、とは言えるだろう。問いを立てることに関し
ては、本論の第五章で詳しく検討される。
探求が良いものであるためには、理由が提示されるだけでなく、その理由が適切であ
り、説得的であることなど、理由の質に関する条件も必要となると考えられる。ただ
し、ここでの議論では、良い探求とは何かという問題についての踏み込んだ考察を必
要としないため、この問題は扱わない。
他者と共同で探求するという在り方は、現代の科学的探求についても言えることだろ
う。そこで、共同探求に関する一つの興味深い問いは、教えと学びの文脈における探
求と科学的探求における共同性の違いである。
以上で述べたことは、探求できる準備をすることが教育理念の一つであると考えられ
る理由であり、この主張をさらに擁護するためには、さらに、他の教育理念との関係
を明らかにする必要がある。それは別の機会に譲ろう。
探求に関する研究には、たとえば、探求と真理との関係など、教えや学びに直接的に
は関係のない主題も含まれる。
探求を基礎とするデューイの認識論の概要と問題点は、 Hare (1992, p. 98) や Misak
(2013, Chapter 7) などで知ることができる。
たとえば、上野(2010) など。また、探求理論など、プラグマティズムの伝統の中での
デューイの哲学に関する信頼できる哲学研究として、たとえば、Misak (2013)を挙げる
ことができる。
子どもが理知的な仕方で探求ができるようになるための必要条件はたくさんあると
考えられるが、本研究では、これまでの研究で明確に論じられていないが、重要であ
ると考えられる三つの条件に絞って考察する。
ここで、理由に導かれることのない小さな子どもが、具体的には何歳ぐらいの子ども
であるのかについて明確にするためには、心理学研究などを参照する必要がある。だ
が、本研究では、そのような先行研究にまで目を通す余裕がなかった。この点に関し
ては、今後、さらに詳細な研究を継続したいと思う。
ハーヴィ・シーゲルは、現代のクリティカル・シンキング教育と関連する、合理性の
育成についての研究を中心に、教育の哲学から認識論まで、幅広い分野で活躍してい
る哲学者である。彼が、教育哲学の分野において主にどのような仕事をした哲学者で
あるのかについては、第四章の第一節の註 2 で簡単に説明される。
第 2 章 探求のパラドックスを再考する
110
註
1
探求のパラドックスの議論の部分の解釈は多様である(e.g., Scott, 2006; 田中, 2004)。例
えば、スコットは次のように述べる。「第一に、『パラドックス』の背景にある問題が
実際にどのようなものであるのかを学者間で了解を得ることは非常に難しいことが分
かっている。第二に、メノンの[ソクラテスに対する]挑戦は、それ以前の徳とは何
かの探求を更に行うことを避ける口実として用いられているのか、それともメノンが
真剣な哲学的関心に動機づけられて提示したものなのかに関して疑問がある」([]内
引用者補足)(ibid., p. 75)。探求のパラドックスの議論の導入としては Day (1994) を参
照できる。
2
以下、
『メノン』の引用は、藤沢令夫訳(1994, 岩波書店)に依拠し、その表記の凡例は
「Meno」とする。
3
Fine (1992, p. 205) は、メノンのパラドックスで提示される問題を三つ区別している。
4 『メノン』において想定される探求は、第一章(1-7)の規定、
「良い探求であるためには、
答えとともに、それを支持する証拠として、文の形をした理由が必要である」におけ
る、良い探求の条件を満たしていると考えられる。また、特徴(1-8)、すなわち、
「一人
でも、他者と共同でも行われうる」に関しては、
『メノン』では、召使いとソクラテス
が共同で行う探求が想定されている。
5
問いと返答を繰り返すことによる探求を「探求の問答モデル(interrogative model of
inquiry)」と呼ばれて考察されている(cf. Hintikka, 2007)。
6
Sorensen (2006) において、辞書を用いてアルファベットを徐々に学んでいく例が挙げ
られて、
「一挙に」ではなく、
「徐々に」学んでいくことが探求のパラドックスの解決
であると見なされている。しかし、メノンは感覚経験によって獲得できない命題的知
識の範例として数学的知識を挙げていることなど、パラドックスを解決するためには、
探求のパラドックスの議論における諸前提を考慮して解決を見つける必要がある。
7
「メノンの挑戦」と「メノンのパラドックス」との議論との関係に関しては、その解
釈に関して論争があると言われる(Scott, 2006, p. 75)。本稿では、両者の関係を扱わず、
前者の部分は、探求のパラドックスの議論の前提を明確にするために用い、後者の部
分は、その議論の検討のために用いる。
8
この定式化は Scott (2006, p. 78) を参照している。
9
ソクラテスはメノンの議論には問題があると述べているものの、
「どのような点が誤っ
ていると考えているのか」というメノンの質問に直接、答えていない(Meno, 81a1–2)。
詳細は Scott (2006, pp. 81–2) を参照。
10
命題に関して、これ以降の議論においてさらに命題が追加されることになるが、これ
らの命題は『メノン』の議論の中から取り出すことができると考えられるものであり、
決して恣意的な追加ではない、という点に留意して頂きたい。もし命題が恣意的に追
加されたのなら、本章の議論は、探求のパラドックスの議論の内容を無視したものに
なってしまうだろう。命題(11)まで明確にすることは、『メノン』に見られる議論の中
から隠された前提を明らかにすることであり、それを明示的に取り出すことである。
このことが、第一節で述べた、
『メノン』の議論に沿う形で論証の分析と再構成をする
ことである。
11
ただし、
「問題に関連する内容を学習する」ということについては幾つか曖昧な点が
あることに留意してほしい。例えば、
「問題に関連する内容」とは、より具体的にはど
のようなものなのか。あるいは、学習者が自ら探求できるようになるためにどの程度、
問題に関連する内容を学習している必要があるのかなど。
12
『メノン』の「解説」において藤沢は、ソクラテスと召使いとの問答について、
「ソク
ラテスと召使いとの問答は、その進行の経過がちょうどそのまま、
『知』の思い込み―
アポリアーと無知の自覚―探求の再出発―発見(想起)という、ソクラテス的な対話・
111
13
問答の在り方の典型的な過程を示していて興味深い」(プラトン, 1994, p. 149) と述べ
ている。
スコットによれば、ソクラテスは、知識とは既存の知識に由来するものでなければな
らないという仮定を共有している(Scott, 2006, pp. 84–5)。大草は、しばしば誤った答え
を与えることを含めて、召使いが諸々の問題に答えるプロセスは、おそらく想起であ
ると言えると述べる(大草, 2003, pp. 52–5)。
第 3 章 教えと学びにおける認知的情動としての驚きの意義
:シェフラーによる情動の議論を批判的に再考する
1
2
3
4
5
6
7
例えば、Solomon (ed.)(2003) を参照。さらに、心理学、脳科学、および、認知科学な
どを含む他分野の研究において、情動は 1990 年代から注目されるようになっている
(Evans, 2004, p. xi)。
この論文は Scheffler (1991) に含まれている。
シェフラーの教育哲学の特徴について簡単に説明しておこう(cf. Curren, Robertson, &
Hager, 2003; Siegel 1997a; 2001)。シェフラーは、イギリスの R. S. Peters とともに 20 世
紀後半の教育哲学において教育の分析哲学を始めたことで知られる。シェフラーにと
って、教育の分析哲学とは、基本的には、厳密な議論と記号論理学の使用を、教育に
関わる用語や概念、あるいは、諸問題の明確化のために応用することである、とされ
る(e.g., Scheffler, 1973)。そうすると、シェフラーにとって分析的手法は、その中での
議論の明確化のための前提であるに過ぎない。では、シェフラーが分析哲学を強調す
る意図はどこにあったのだろうか。それは、シェフラー以前の当時の教育哲学におい
て分析哲学を一つの主義として主張することよりは、むしろ、或る主張を擁護するた
めに必要な概念や用語の明確化や論証の筋道の明確化のために、分析的手法を前提と
する必要があることを述べることにあったように思われる。
ここでの「批判的に検討する」の意味は、シェフラーの議論の中で必ずしも明示的で
はないが、現代においても重要と考えられる点を、合理性の育成についての現代哲学
の議論を背景に踏まえながら詳細に分析すること、および、適宜、シェフラーの考察
全体を勘案しながら議論に補足を加えることで、明確な形で示す、ということとする。
それゆえ、ここではシェフラーの議論の問題点を指摘し、それを批判的な議論を展開
することではない。
情動についてのシェフラーの議論はいくつかの論文で研究されているものの、それら
は教えと学びと情動との関係についての批判的論証というより、主にシェフラーのア
イディアを応用した、情動に関する独自の議論となっている。たとえば、Yob (1997) で
は、
「認知的情動」という概念の意味が簡単に確認された後、
「情動的認知(emotional
cognition)」と呼ばれる認知の特徴が論じられている。Steutel and Spiecker (1997) では、
シェフラーの議論において認知的情動と区別されて「合理的情念(rational passions)」と
呼ばれる情念に焦点が当てられ、この合理的情念と認知的徳との関係が論じられてい
る。
シェフラーの教育哲学は分析哲学に属するとされる。当時の教育の分析哲学の動向に
ついては、Curren, Robertson, and Hager (2003) を参照できる。
今日の情動の哲学はさまざまな観点から研究されている。情動の先行研究に関する概
要に関しては、Deigh (2010)、De Sousa (2014)、および、Goldie (2007) を参照できる。
その中のいくつかの仕事においてシェフラーの認知的情動は簡単に言及されており
112
註
(e.g., Brun & Kuenzle, 2008, p. 24)、シェフラーと同様な関心に基づく情動に関する議論
として Stocker (1980; 2004) が挙げられる。
8
Solomon (1976)は、実存主義の研究に基づく情動についての研究で、情動の現代哲学の
先駆的研究の一つと見なされている。彼はそれ以降、最初の考えを修正している(Goldie,
2007, pp. 934–5)。最近の見解に関しては、Solomon (1980; 2003) を参照のこと。
9
受容性を認知に関係する徳として捉え、われわれの知的生活における役割を明らかに
する議論に関しては、Slote (2013b) を参照できる。
10
この目的のため、本節の内容は、シェフラーの議論に対する批判的な論証というより、
主にその議論の骨子を提示するものとなっている。
11
シェフラーの文献の引用の際には、以下の略記号を用いることにする。
LE: (1960). The Language of Education. Springfield, Illinois: Charles C. Thomas.
CK: (1965). Conditions of Knowledge: an Introduction to Epistemology and Education.
Glenview, Illinois: Scott, Foresman.
RT: (1973). Reason and Teaching. London: Routledge and Kegan Paul.
FP: (1974). Four Pragmatists: a Ciritical Introduction to Peirce, James, Mead, and Dewey.
N.Y; Humanities Press.
PCE: (1991). In Praise of the Cognitive Emotions and Other Essays in the Philosophy of
Education. New York: Routledge.
12
シェフラーは、この意味での「reasons」が、何人かの近代哲学者たちが想定したよう
な、しばしば「理性」と言われる普遍的な心の認識能力(universal faculty of the mind)の
ことではないことを強調する。なお、「reason」もまた合理性を指すのであって、理性
などの心の認識能力を指すのではないこと、さらに、シェフラーが独自の合理性概念
を描き出すために、合理性に関するカントの理論の意義を論じていることがあるもの
の、理性という認識能力に対しては一貫して批判的であることに留意する必要がある。
誤解を防ぐためにシェフラーは「普遍的な心の認識能力」を表す理性について言及
する必要があるときには、
「Reason」という、
「R」を大文字にする表記法を用いている
(e.g., RT 62)。
ここで、翻訳について注意をしておきたい。シェフラーの Reason and Teaching は『理
性と教授』と邦訳されることがある(たとえば、Palmer (ed.) (2001) の邦訳である、 パ
ーマー(2012)における「イズラエル・シェフラー」の項目(pp. 243–52)を参照)
。しかし
ながら、理性が近代哲学者の想定するような、心の認識能力を意味するなら、シェフ
ラーはそれに対して批判的であったことを勘案すると、
「reason」を「理性」と邦訳す
るのはミスリーディングであることになる。以下で論じるように、合理性の教育にお
いてシェフラーが強調するのは、学生が具体的判断や行為に対する諸々の理由を公平
に批判的に検討すること、にある。
13
教育哲学分野において「イニシエーション」という概念は、ピーターズによる「イニ
シエーションとしての教育」という論文(Peters, 1973) において用いられて以降、頻繁
に用いられているだけでなく、さまざまな意味で用いられている。ここでは、合理的
議論への参加も含めて、子どもが他者と合理的生活を営むことに習熟するための準備
のことが想定されている(cf. RT 62)。
14
同様な論点は LE において見られ、また、CK 第一章においても簡単に言及される。
15
第一章第一節で簡単に説明したように、現代認識論では、たとえば今朝の食事の話か
ら科学的発見に関する話題に至るまで、会話を通じて他者から得られる伝聞や報告の
ことは「証言」と呼ばれる。教育の場面での証言に関する議論としては、Goldberg(2008;
2013)を参照できる。
16
教育の目標が複数でありうることに関する議論は、たとえば Marples (ed.) (1999) にお
ける諸論考を参照できる。
17
このように合理性の教育においては、能力やスキルだけでなく、学生の性格特性や傾
113
18
19
20
21
向性などの発達まで含めて考慮される必要があるという考え方は、現代のクリティカ
ル・シンキング教育や徳認識論においても広く認められている。たとえば、Bailin and
Siegel (2003)、Battaly (2006)、Paul (1982; 2000)、Siegel(2008) を参照できる。また、合
理性の教育がこのようなものであるなら、Hare (1997, p. 95) が述べるように、その教
育は、時間をかけて、徐々に行われるものとなると思われる。シェフラーは、合理的
な性格に関して次のように述べている。
「合理的性格と批判的判断は、大人との経験や
批判に参加していくことを通して、そして、教師だけでなく学ぶ者に対する威厳も尊
重する対応を通してのみ、育つ」(RT 77)。
過度に合理性に依拠することで、情動などの側面が軽視されると主張する、影響力の
ある批判の一つは、Code (1991; 1993) である。
情動にはさまざまな側面がある(Goldie, 2007, pp. 928–9)。たとえば、情動がどれほど持
続するのか、どれほど焦点のはっきりしたものなのか、それとも、ぼんやりしたもの
なのか、身体的な表出を伴うかどうか、どれほど本人に自覚されているのか、心身の
発達と関係があるかどうか、あるいは、行為と関係するものかどうかなどが挙げられ
る。
このような情動の役割について考えは、
Greenspan (1988; 2004a)や Hookway(2000; 2008)
の考えに沿うものである。
もちろん、的を射た質問や説得的な批判に直面するときにいつも感情的な痛みを伴う
とは限らない。むしろ、たとえば専門家や教師にとって、それは喜びを感じるもので
さえありうるだろう。
第 4 章 手本を見習うことで理由に対する感受性を養う
:シーゲルの感覚される理由という概念を批判的に応用する
1
2
クリティカル・シンキング研究についての概要を知るためには、Bailin et al. (1999) お
よび Bailin and Siegel (2003) を参照できる。
シーゲルの教育哲学の立場について簡単に説明しよう。シーゲルは、現在のクリティ
カル・シンキング教育につながる、合理性の育成を教育の理念とする立場である。こ
の立場は、シェフラーの考えを基本的に踏襲したうえで、本章第二節で述べるような、
合理的に考えるための傾向性や性格特性の重視など、合理性の育成の議論においてそ
れまで軽視されていた部分に焦点を当て、発展させている。
教育の哲学におけるシーゲルの議論に特徴的なこととして少なくとも二つ挙げるこ
とができるように見える。一つ目は、或る主張を擁護するための、説得的な理由を提
示する能力という意味での合理性は、さまざまな文化や社会を超えるという意味での
超越的な概念であることを主張している、ということである。このような主張の背景
には、近年、多文化教育が強調されるようになり、合理性の育成との関係が問われて
いるということにある。その中には、合理性を強調する教育は西洋中心の考えに基づ
いたものに過ぎないこと、それゆえ、合理性の育成は多文化の教育の中の一つ過ぎな
い、という批判も含まれる。問題は、この批判が妥当なら、その帰結として、合理性
の育成を教育の理念とすることは或る文化の中で正しいが、別の文化の中ではそうで
はないと思われることにある。このような多文化教育の主張に対してシーゲルは、あ
る点に同意し、別の点に反対する(Siegel, 1999a; 2007)。この細やかな論証から成るシー
ゲルの立場をきちんと理解し、批判的に検討することは、これからの教育の哲学の課
題となるだろう。
二つ目は、議論を明確にするために必要な限りで、関連する他分野の哲学の議論を
114
註
積極的に参照しようとすることである(Siegel, 2009)。関連する概念について他の分野
の哲学で明確にされているなら、教育に適用できる範囲でそれを参照することは、用
いられる概念や議論の筋道をより明確にするために役立つだろう。
3
シーゲルのクリティカル・シンキング理論に関しては、Siegel (1988) を参照。また、
いくつかの批判から擁護する議論に関しては、Siegel (1997, 1999, 2001, 2005a, 2005c)
を、合理性の育成における情動の役割など、いくつかの側面に関する、その後の理論
の発展に関しては、Siegel (1997, 2012) を参照できる。
4
本稿で「子ども」というのは、中学生ぐらいまでの子どもが想定されている。本稿の
議論がどのような年齢の子どもに適用されうるのかを詳しく規定するためには、発達
心理学など関連する研究の参照が必要となるだろう。
5
以下で示すように、敬慕の情動に関する主張を論証するために私は、関連する心理学
研究を踏まえる。
6
近年、合理性と情動との関連性について論じる哲学研究がいくつか見られる(cf.
Greenspan, 2004)。また、敬慕の情動など、社会関係に関係する情動が与える動機への
影響についての研究が心理学研究において始まりつつある(e.g., Algoe & Haidt, 2009;
Haidt & Seder 2009)。
7
Passmore (1967, pp. 195–7) において、
「批判精神」という語は、良い思考者であるため
の性格特性を指すために用いられている。批判精神の構成素に関する名称や説明は、
研究者によってさまざまである(cf. Bailin et al., 1999)。本稿では、シーゲルの用語法に
従う。
8
批判精神という構成素の重要性に関する別の議論として、Ennis (1986) および Paul
(1982)を参照できる。たとえば、Ennis は、オープン・マインドや、結論を出す前に別
の帰結があるかチェックしようとする傾向性など、13 種類の傾向性を挙げ、批判的思
考者であるために、正しい推論など必要な能力やスキルのほか、これらの傾向性が必
要であると主張する(1986, p. 16; p. 24)。後で私は、批判精神の構成素は、批判的思考
者の品性に関係するものである、ということを説明する。
9
この詳細な分析や正当化に関しては、たとえば、Scheffler (1973)、Siegel (1988, Chapter
3)、あるいは、Bailin and Siegel (2003, p. 189) を参照のこと。
10
クリティカル・シンキング、真理、および、教育の間の関係に関する、重要な認識論
的問題の一つに、
「クリティカル・シンキング教育は、学習者が真理を得るという目的
のための手段にすぎないのだろうか」というものがある。この論点に関して、たとえ
ば、この考えを支持する Goldman (1999, Chapter 11) と、その考えに批判的な Siegel
(2005c) との間で立場が異なる。Goldman (1999) は次のような明快な立場を取る。
「(シ
ーゲルのような)多くのクリティカル・シンキング擁護者と異なり、私はクリティカ
ル・シンキングをそれ自体で認識論的目的とはみなさない。クリティカル・シンキン
、
グないし合理的推論は真なる信念獲得という基礎的な認識論的目的のための有用な手
、
段である」(p. 363)。Siegel (2005c, p. 348) は、クリティカル・シンキングは、真理獲得
のための手段としての価値があることを認めたうえで、それだけでなく、真理獲得の
手段とは別の点で教育的に基礎的なものであることを主張している。
11
このパラグラフにおける議論が示唆するのは、批判精神は、クリティカル・シンキン
グに関係する、良い性格特性に関連するものである、ということである(Siegel, 2008)。
クリティカル・シンキングに関係する、良い性格特性の育成に関する議論については、
Battaly (2006) を参照できる。
12
カイパー(2004) は、クリティカル・シンキングに関するシーゲルの考えにおける、別
の点も批判しているように見える。しかし、以下の議論では、批判精神の中の動機の
側面に関する批判に議論の的を絞ることにする。
115
13
14
15
16
動機と道徳的判断との関係の議論と類比するなら、シーゲルの立場は、「動機的外在
主義(motivational externalism)」と呼ばれる立場に近い。その立場は、「道徳判断と動機
との関係はいかなるものであれ偶然的なものである」というものである(cf. Rosati,
2006, Section 3)。
Hank (2008) によれば、
「カイパーとハジは、クリティカル・シンキングの動機に関す
る構成素について問題を立てている。彼らは、クリティカル・シンキングの動機の要
素、理由をやり取りし合う習慣、および、良い理由に基づく行為などもまた、教え込
み(indoctrination)とは別の方法で養われる必要がある、と主張している」(p. 196)。ただ
し、ここで言及されている教え込みに関する問題は、本稿の主題と異なるため、扱わ
ないこととする。
カイパーは、
「批判的思考者の予備軍(a proto critical thinker)」から批判的思考者になる
ための教育について議論している。批判的思考者の予備軍とは、動機に関する必要な
構成素に関しての自律性が欠けている者と定義される(Cuypers & Haji 2006, p. 724; p.
727)。いま仮に、カイパーが考えるように、理由が動機要因になりえないということ
が正しかったとする。そうすると、ここでカイパーは、理由以外の動機要因となるも
のについて問題を立てていると解釈することができるように見える。
すでに論じたように、理由のもつ規範的効力によるわれわれへの影響により、理由
はわれわれを更なる理由を考えるよう動かしうる、という想定はクリティカル・シン
キングの文脈では自然なものである。この想定のもとで、動機に関する問題は次のよ
うに定式化できる。すなわち、批判的思考者の予備軍である小さい子どもはまだ規範
的効力に敏感ではないが、そのような子どもはいかにして理由のもつ規範的効力に気
付き、批判的に考えるよう動機づけられうるようになるのだろうか、という問題であ
る。
カイパーとは異なるアプローチに基づいて動機に関する問題を扱う別の理由がある。
カイパーは、シーゲルが提示する、感覚される理由に関して、それは動機要因の補強
にはつながらない、と主張する。感覚される理由が動機要因とならないというカイパ
ーの主張は、クリティカル・シンキングについてのシーゲルの考えに対する批判を展
開する中での、註においてなされていることを考えると、この主張は、カイパー自身
の動機に対する理論の陳述ではなく、シーゲルのクリティカル・シンキング理論に対
する批判と見なすことが理に適っている。
しかしながら、私は次節で、感覚される理由という概念が動機の問題を論じるため
の鍵となる、ということを論証する。そこで以下では、うえのカイパーの主張は、シ
ーゲルの議論に対する批判としては失敗していることを確認したい。
感覚される理由についてのカイパーの論証をみてみよう。
、、、、
理性だけでは、内在的な動機の力は備わっていない。純粋な、道具的理性は動機的
に不活性である。シーゲルは、実践理性に情(affect)や感覚を組み合わせることで、
この困難に対処しようとしている。しかし、情動理性(affective reason)や感覚される
理由を持ち出して、純粋ではない実践理性へ向かおうとするシーゲルの方向性は、
、、
二つの構成素から成る理論の中では、純粋理性の評価構成素に関する、内在的動機
の力を補強することに役に立たない。(強調原著, Cuypers, 2004, p. 89)
ここでカイパーは、シーゲルの提示する感覚される理由が、理由を批判的に考えよう
とする動機要因とならないと主張するものの、そのように言える理由を示していない。
うえのカイパーの述べる内容が、自分の理論の陳述ではなく、シーゲルのクリティカ
ル・シンキング理論に対する批判であるなら、シーゲルのクリティカル・シンキング
理論では、感覚される理由が批判的に考えようとする動機要因とならないと言える説
116
註
得的な理由が必要である。その理由を説明しよう。
まず、シーゲルは、感覚される理由が、批判的に理由を考えようとする動機に対し
て不活性であるかどうか言及していない。より精確に言えば、そもそも、動機に関す
る問題は、シーゲルのクリティカル・シンキング理論において、焦点を当てて議論さ
れていない。実際、感覚される理由というシーゲルの概念は、クリティカル・シンキ
ング理論そのものに対する考察でなく、合理性の育成に対する考察の中で登場する。
たしかに、この概念を、クリティカル・シンキング理論の中での動機に関連する概
念として扱うことはできるだろう。しかし、いま重要な点は、どのような内容であれ、
感覚される理由という概念をクリティカル・シンキング理論における動機の問題に答
えるために応用しようとする考察は、シーゲルの考えについての解釈者や批判者によ
る解釈である、ということである。それゆえ、もしカイパーが、シーゲルのクリティ
カル・シンキング理論に対する批判として、感覚される理由が批判的に考えようとす
る動機要因とならないことを主張するためには、カイパーはなぜそのように言えるの
かについての納得のいく説明を提示する必要があるはずである。
先ほど述べたように、次節で私は、感覚される理由という概念が動機の問題を論じ
るための鍵となることを明らかにする。そのために行うことはまず、感覚される理由
という概念がどのようなものなのかを明確にすることである。
17
「探求の共同体」と呼ばれる、共同体の文脈におけるクリティカル・シンキングと教
育との詳細な検討に関しては、Lipman (1991) を参照のこと。
18
敬慕という情動は、道徳学習の理論においても簡単に言及されている(e.g., Zagzebski,
2010, p. 54)。学習理論や道徳理論における敬慕という情動の役割についての哲学探求
は始まったばかりである。
第 5 章 知的徳は良い問いを立てることにどのように貢献するか
1
2
3
4
5
6
7
8
「知的徳」という概念は、後に詳しく説明される。
たとえば、Hintikka (1999; 2007) は、問いを立てることに注目して、
「探求の問答モデ
ル(interrogative model of inquiry)」と呼ばれる、知識の発見に関する論理を構築しよう
としている。
ハイグレードな知識に関する議論は主に、Baehr (2011, Chapter 4)、Battaly (2008, pp.
651–659)、Greco (2002, Part I)、Zagzebski (1996, pp. 273–83)などの議論で見られる。
ごく最近になって、Hookway は「探求理論としての認識論」という考えを主張してい
る(Hookway, 2006a, p. 98)。探求理論としての認識論は、正当化や知識の本質を分析す
ることを目的とする「伝統的な認識論」と呼ばれる認識論と対比されている。しかし
本稿では、以上のような Hookway の考えに中立である一方で、探求という概念は、正
当化や知識という概念との関連の中で検討される。
「サブパーソナルな機能」という用語は、その機能が、人間を含めた、生物がもつも
のであることを強調するために用いられている。
山中伸弥氏は日本の医学・生理学研究者であり、iPS と略記される、人工多能性幹細胞
を生成する技術を発見したことで、2012 年ノーベル生理学賞を受賞した(Rogers, 2014)。
この場合には、知識のグレードは、程度の違いを許す。たとえば、探求の結果として
得られる知識はシンプルなものでも高度なものでもありうる。ここでのハイグレード
な知識とは、いずれでも、探求の結果として獲得される知識に限定されている。
もちろん、良い探求は、探求の結果として獲得される信念が真であることをかならず
しも保証するわけではない。というのも、どれほど良い探求であるとしても、良い探
117
求の結果として獲得される信念が誤りであることはありえるからである。
証拠に基づくことは良い探求のために必要であるが、十分ではない、と思う人がいる
ことだろう。たとえば、占い師がタロットカードを使って犯罪者を特定するとする。
この占い師の行為も犯人を特定することを目的にした一種の探求であり、タロットカ
ードは、占い師が獲得する信念を支持する証拠とみなされるかもしれない。そうだと
しても、おそらく、この占い師の探求が良いものとは認められないだろう。この事例
は、証拠を挙げることは、探求が良いものであるために十分な条件ではない、という
ことを強く示唆している。
しかし、本章では、良い探求の十分条件に関する問題をこれ以上、追究することは
しないこととする。その理由は、現在の議論では、知識という概念と比較して、正当
化された信念という概念の方が、探求の結果として獲得される対象として適切と考え
られること、および、良い探求においては、獲得される信念が何らかの仕方で正当化
されている必要がある、ということを示すことで十分である、ということにある。
10
Goldman (1986, p.138) は新しい産物の価値についても言及し、
「新しい真理、すなわち、
公共の場においてすでに出回っているのではない真理を提示する産物に価値が置かれ
る」と主張している。本稿では、産物の価値評価の問題には踏み込まないこととする。
11
Boden (1990, p.32) は、人類史上での新しさと、新しいアイディアを見つけた個人史上
での新しさとを区別している。通常の文脈では、前者の新しさが想定されるだろうが、
たとえば、教育のような文脈では、探求を通じて、学生が初めて発見した結果など、
後者の新しさの概念も使われることがあるだろう。
12
オリジナリティの問題は、創造性の哲学の中で論じられている。この問題の議論に関
しては、たとえば、Bailin (1988, Chapter 1)、Briskman (1980, pp. 90–3)、および、Kronfeldner
(2009, pp. 584–8)を参照できる。たとえば、Briskman は、プロセスではなく、産物が創
造性に関する評価の適切な対象である、と主張している。
13
この定式化では、特定の分野における関連性の高い貢献とは異なる観点から、産物が
重要と見なされる可能性が残されている。たとえば、或る産物は、新しい分野を開拓
し、その分野の先駆的作品であることを理由に、重要なものである、という場合があ
りえよう。産物の重要性についての評価と、既存の関連分野との関係は、興味深いテ
ーマであるが、本章で立ち入ることはできない。たとえば、Bailin (1988, p.31) は、既
存の分野を背景にして初めて作品の意義が判断されうるのだという、やや強い立場を
取っている。
14
Hookway (2008, p.2) は、良い問いを立てることの意義を、関連のある情報を引き出す
こととの関係の中で説明している。
15
ここで私が行っているのは、先行文献を参照することで、いくつかの議論の中で、問
いを立てることと、探求の結果としての新しくて重要な信念の獲得との間の関係が示
唆されていることを指摘していることだけである。両者の関係については、経験的探
求が必要になるのだろう。
16
私はここで、良い問いを立てることと、知的徳との関係に関する議論に関連する限り
で、知的徳について説明する。知的徳に関する概要は、Axtell (1997)、Baehr (2011, Chapter
2)、Battaly (2008)、Greco (2002; 2011)、Kvanvig (2010)、および、Zagzebski (1996, Chapter
3)を参照できる。
17
知的徳と道徳的徳(moral virtue)との関係に関しては、たとえば、Zagzebski (1996, Chapter
3)の考察を参照できる。
18
この区別に関する詳細は、Axtell (1997; 2000)および Battaly (2008)を参照のこと。また、
Baehr (2011, Chapter 2)では、性格とサブパーソナルな機能との区別だけでなく、才能
(talents)、気質、あるいは、技能(skills)などとの関係も論じられている。
19
知的徳と、ハイグレードな正当化された信念との関係に関しては、別の一般的な問題
9
118
註
20
21
22
23
24
25
がある。それは、必ずしもすべての知的徳が、新しくて重要なハイグレードな正当化
された信念の獲得につながるわけではない、ということである。それどころか、たと
えば科学的発見の文脈では、批判をまともに受け合わず、自分の理論にこだわり続け
た探求者が最終的に、優れた理論を生み出すことがあることを考えると、オープン・
マインドのような知的徳は、探求者が創造的な仕事をすることを妨げるという可能性
もあるように見える。実際、或る心理学的研究によれば、創造的な科学者とは「他者
との付き合いに比較的、非社会的なほうで、いくらか傲慢であり、自分に自信に満ち、
敵意を表す傾向がある」(Feist, 1999, pp. 202–3)。
Brendel (2009, Section 4) は、傾向性に関する典型的な特徴を明確にし、さらに、知的
徳がある種の傾向性とみなしうることを論じている。
傾向性は、反事実的な性質と捉えられる理由は、傾向性を持っていることは、現実に
その傾向性を表出しているかどうかに無関係である、ということにある(Brendel, 2009,
p. 327; Mumford, 1998, Chapter 3)。Siegel (1999) は、傾向性を反事実的性質と捉えたう
えで、良い思考をしようという傾向性を持つ者は、適切な状況において任意の主題に
批判的に考えるよう導かれる者のことである、と論じている。
傾向性という概念に関する詳細な議論は、Armstrong (eds.) (1996)、Mumford (1998)、
および、Tuomela (ed.) (1978)に見られる諸論文を参照できる。
鋭敏さは程度を許す概念であることから、関連性に対して、より鋭敏な探求者である
ほど、より良い問いを獲得することができるかもしれない。同様な点は、Hookway (2003,
p. 200) も参照できる。
この分析は、心理学における「アイデア孵化期(incubation)」という現象を説明するう
えで有益かもしれない。
「アイデア孵化期」とは、研究者が無関係な活動に従事してい
るときでも、無意識的に自分の研究に注意を払うプロセスのことである。Smith and
Blankenship (1991)は、この期間が探求を推進するうえで有意義な閃きを得るために
重要である、と主張している。
もちろん、これまでの議論では、探求者が十分な背景知識をもっていることは、以上
の二点とは別の点で、探求者が良い問いを立てることに貢献する、という可能性が残
されている。探求者が優れた知的徳をもち、探求される分野に造詣が深いことは、良
い問いを立てることに補完的な役割を果たすとも考えられよう。
119
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